大和勇三『戦国武将人間関係学』 いまを生きぬく勇気と知恵 (PHP文庫)1984年4月15日 第1版第1刷 まえがき 世相の激変をのり切る心構え 高度成長から安定成長へ変わる、ということは、成長率の高低の量的変化のように表面は見えるけれども、ただそうみていては認識ではない。量の変化は大きな質の変化をともなうのである。変化は、行動の基準を変え、かつ行動の倫理にも及んでいく。今の場合は、政府も、自治体も、公共企業体も、民間企業も、労働組合も、消費者も、揃って行動基準と倫理を変えていかなければならない。高度成長と安定成長とは、まったく違った断層のようなもので、やがて新しい地質層の上ではそれに適応した新世相が展開する。ここ一、二年のうちは、一部には「夢よもう一度」とばかり高度成長がいずれかえるものと見て、現在を一過性不況期と見なす向きもあって、新しい行動基準や、倫理への真剣な検討を、まだ、怠っている向きもある。そのため、世の中の動きはいったりきたりのマンボムードが、ほんのしばしの間は続くかもしれない。だが、今度の不況は構造的な変化の始まりと見る向きは、着々と新しい態勢を整えていくだろう。政府は、大きな歳入欠陥のため余儀なく、新しい行動基準と倫理をかんがえねばならぬし、自治体もむろん同様である。安上がりで効率の高い行政をやってもらわなければならぬ。企業は、インフレマインドを捨て去り、水ぶくれ体質を改め、経営努力の正道に返らなければならず、労組も、いたずらに赤旗ふって、ハチマキをしてパイの分け前を争うだけの姿勢から脱却していかなければならない。消費者は質実勤勉の徳をとり戻し量の消費を負いかける上っ調子なくらしをやめ、精神の豊かさを誇りとする行動の基準、倫理を確立しなければならないときだ。ある意味では、この新しい変化は、日本全体が、高度成長という悪酒の二日酔をさまして、地に足のついたまっとうな姿に立ち返るいいチャンスだ、ともいえる。 こういう時期に企業は、長期に安定した経営をやりとげるため、一口でいえば内外の人間関係を温かくしていく、という必要を再認識するだろう。内にあっては労使関係の有機化を強め、相互信頼を深くし、外にあっても同様、企業と関連のある機関や協力企業、出入り業者を始めとし、顧客には無論のこと、しっくりした人間関係の絆を強化していかなくてはなるまい。もっと平たくいえば、内にも外にも相互信頼の網を広げ、切れば血の出るような、押せばジュースがにじむような、温かい人間関係の深化拡大を日常怠ってはならん、といことである。その網の上にこそ、創意と工夫のこもった商品やサービスが生きる。このまっとうな道を無視しては、乱世に似た現代を生き抜くことはむずかしい。 歴史の中に対処法がある ところで、目前に大きな問題が起って危機意識が高まるとき、まず過去に立ち返ってみる、つまり、歴史の中にかつて現れた相似の時代の推移から、学ぶものを探し求めるのはひとつの方法である。今の時代の歴史ブームは、そんな背景から起こっているものと思われる。断層にも似たいまの経済基調の大きな変化は、やがて世相を変えていく。それに似た時代といえば、「拡大政策をとりつづけ、高マージン、高賃金、高能率を目指した」豊臣秀吉の政権が倒れて、やがて徳川家康の「安定成長、安定マージン、安定賃金、そして高能率を目指した経営」の確立プロセスのなどに似ている。今の時代に引き直していえば、当時の十年の変化は、昭和五十年以後の二、三年の間に現れるに違いない。 また、高成長会社豊臣氏の重役、従業員のローヤリティが、案外にもろく、家康の安定成長会社のローヤリティの前に、完全に負けていくさまなどは、興味をそそる焦点でもある。 ここで、特別に戦国武将の経営を取上げたのは、やはり日本の風土には、日本の心が育つ、これを踏まえてのことである。ヨーロッパのビジネス人間像は、ホモ・エコノミックス、つまり計算と、合理主義の上に立ったビジネスライクの経済人だ。これがイギリス流のビジネスマン像である。アメリカ流のビジネスマンは、契約人間であって、権利と義務の上に近代化された人間像である。ところが日本流のビジネスマンは、多分に運命共同体人間像である。ここでは同族会社は七〇%におよび、終身雇用や、年功序列制が、根づいている。扇谷正造氏が日本の会社は利益社会的共同社会(ゲゼルシャフトリッヒ・ゲマインシャフト)であり、あるいは共同社会的利益社会(ゲマインシャフトリッヒ・ゲゼルシャフト)でもあるといっているのは、それをついている。それぞれの風土に基づいて生まれてきたビジネス思想や。人間像の上にまとめられた海外経営学が、戦後あれだけ流行したにかからず、日本に根づいたものが非常に浅いということは、やはり、風土と人間の結びつきの深さを無視できないことを思わせる。だからこそ、戦国の名将たちの展開してきた人間模様の方が、我々の心にしみ込みやすい要素を持っていると 考える。 早い話、ブルターク英雄伝に出てくる英雄よりも、日本の名将言行録に出てくる英雄豪傑の言行の方がはるかに身近である。その思考法も、消化し易い。この意味で昔の武将たちの言行、思考法、思考の体系などは多分に豊かな思考法を養う栄養源だといっていい。「徳川家康なんか」という人は、吸収に怠りがある。徳のないオタンコナスであったら何で日本みたいに小うるさい人間のむらがる国の天下が取れようぞ。経営現象があるところ、その現象を凝視してみれば啓発を引き出せるはず。あるいは昔の人の経営的手法や、思考の中に、現代に生かせる糧をつかむこともできる。封建時代のしっぽがなお濃く尾を引いている日本の産業社会秩序を考え、そこから革新への道を歩く考えからは、封建時代を欠如しているアメリカから生まれた思考法をナマに導入するよりも、むしろ日本的思考法の方が役に立つ場合もある。 今ごろビジネスマンが木下藤吉郎の生き方を参考にするなどといっても、そのままそっくりでいいなんていうことはむろんありえない。だが、ダイジェストしてみると、いろんな砂金を発見する。藤吉郎を軽蔑しながら、花の都のりュウとした背広のビジネスマンが、何のことはない、藤吉郎そっくりの行動をしていることだってある。 しかも、多くの人が、過去の名将の事跡の中から、意外に新しいことを先行してやっていたことさえも発見できる。たとえば、武田信玄は、今から四百五十年も昔に、武田家中にコアタイム(core time)なしの完全自由出勤制度を採用していた。今、「ヨーロッパの若者たちのお気に召した」、ということで日本にも取り入れた会社が若干ある新しいフレックスタイム(Flextime)制を、日本人が四百五十年前にやっていたのである。 情報化社会時代といわれるけれど、徳川家康には情報化社会を生き抜く経営行動の、原型がある。豊かな、かつ、質のいい情報を集めて冷徹な洞察力を加え、来るべき時代と起こるべき事態に備える、という点では、家康はみごとなサンプルを示しているし、情報化社会を生き抜く目的がまた、人と人、人と社会、社会と社会を強く暖かく結ぶことにあり、と見ている。 名将は、古い言葉で新しいことを語り、古いやり方で最もアップ・ツー・デイトな仕事をしている。 「事実」よりも「真実」、「啓発」を 小説にはたとえ事実がなくても真実がある。真実というのは「なるほど」と思う啓発である。ある事件を設定して、その展開をみる。そこに「なるほど」が生まれてくれば、それが真理であり、そして事実である。だから小説をよむ人がその面白さを楽しむうちに啓発をもまた発見できるというわけだ。 実録や、実伝のたぐいは、たとえ事実は正しくてもかならずしもそこに「なるほど」や、啓発がないことがある。自分の目でよく調べ、かつ、事実と事実を組み合わせ、比較検討し、素材の生のままからは一見してはわからないものを自分で掘り出さなければ「真実」にならないことがある。 その意味で小説を読み、また実伝実録ものを読むときファクツ(事実)ばかりを興味の対象としないで、トルースの探求の姿勢をもって向かう方がよろしかろう。 しかも小説の筆は、あえていうならば「感じて更にまた感じて、いわば感じこむ」筆である。それは人の心の動きの微妙さをかみしめ、心のヒダを奥底まで開いてみせるという筆である。小説を読む効用は、この面から、人物の心の裏、心の底、心の動き、をくまなく知るために大いに役に立つ。 これに反して、実伝実録のたぐいは、その事実をよく調べてあったにしても、その時の人物がどう考え、どう感じたか、はすぐには出てこない。実伝実録の筆は、調べて記述する筆である。そこには感情のかげりはない。 その意味で、近ごろ流行の名将ものを愛好する読者がふえていることは興味が深い。名将ものを読む人たちにはビジネスマンからオフィスガールに及び、それらの人びとの多くは自覚をしないままに、オフィス人生の中で何かプラスになるものをさがしているという潜在心理がある。ある識者が、小説を経営学的なサイドでしか読めない目をあわれんでいたが、僕はビジネスの世界にいる人たちが、これまでの経営学本やハウツーものの世界から、小説へ転向してきたとすれば、それだけでもプラスが加わったと考える。これまでの勉強は、論理と知識の見えない枠を出られなかった。ところがそれでは本当の人間のことがわからない。頭で理解したつもりでも、ハートの鼓動の理解は不十分であった。やはり論理と知識だけではなく、情感と感性の世界まで入ってゆかなくては人のうらおもてを一体として理解しがたい。これを言い換えればこれまでの勉強はいわば、タテマエといってもよかろうし、これからはホンネ――頭での理解と全く反対の動きを見せることの多い心の鼓動を読みとらなければ、もはや気がすまなくなったしるしであろうと思う。この点から本書の資料は多く小説を取り入れ、実伝実録書や研究書と相半ばしているが、一方より真実、一方より事実をとってないあわせたところを狙ったものである。 近ごろ何となく経営書といわれるものを気遠く考えるふんいきが出てきた。これはタテマエよりホンネへ、あるいはビジネスマンがこれまでの経済成長への信仰が動揺して、自分自身の人間回復を志向するようなかたむきと、平行して現われている現象と思う。今の名将物語の読者の増加は、その中に今までの経営書にはないホンネの展開が随所にあるということの発見の結果であろう。 近ごろいろんなチャンスにビジネスマンの研修ぶりを横から見ているとこれまでのタテマエ論の講義には人気がなく、逆にどこかでホンネがひらめく講義に人が集まるようだ。社内報の類を見ても、タテマエ一辺倒のそれは紙くずかごへひそかに捨てられ、ホンネの吐露のあるものが読み廻されている感がある。頭のひらけた企業では、会社が先に立って「文化の島」に遊ばせるような研修内容を積極的にとりあげ出している。そんな例がふえた。たとえばある公共企業体の幹部研修会は万葉集講義から美術論まで取り入れているようだ。経営の内部の精神姿勢も、だんだん変わりつつある。そうでなくてはならないような客観条件があるからでsるが、ビジネスマンの名将物語の読み方も五年前と今では全くちがう。五年前は高度成長経営の資を探した。今はそうではない。今までの経営を批判的に見直すホンネを探している。このニュアンスの違いを注意深くみつめたい。 本書が、読者の方の心に爽やかな風のそよぎを起こすことがあれば幸いである。
一部 武将に見るリーダーシップ 信長の「甘えの構造」と光秀
青春の挫折なき信長 P.18 青春期に挫折したり苦労を重ねたりしたことがない人は、他人の苦しみや、悲しみや、怒りや、喜びや、悩みにうとくなる。人の痛みがよくわからない人になるおそれがある。人の痛みがわかる人は、人の喜怒哀楽をからで感じることができる。人の心をつかめる人は、そういう人である。人の上に立って、事を成そうとするとき、内外の人心をつかめずして何事を成し得ようぞ。だから人は、"若い時の苦労は金を出して買ってもしてみろ"といわれるゆえんである。明治の代表的な財界の指導者も、倒れかけた会社を立て直す能力のある人は、その条件としてかつて挫折の経験をもった人がいいといいと言いきっている。 源氏物語の主人公・光源氏も、あらゆる条件に恵まれて栄達に一途を何の苦労もなしに驀進していたときは、庶民の心も何もわからぬハード・ボイルドの心をもったエリート官僚であった。だが事あって、政治的に失脚し、二年間の失意の生活を、須磨明石の裏で送ったという経験を経て、初めてもののあわれを知る大物の政治家として生れ変わる。こんな例は、いくらあげてもきりはないが、本題のヒーロー、織田信長と、豊臣秀吉と、徳川家康と、それぞれの時代をリードした人々を並べてみると、ここでもかっこうな、いい例がある。信長には、若い日に挫折の経験がない。失意の苦悩を体験していない。これが結局、信長の人間観の上に大きなかげりをもちこむ一因になる。彼は統一政権を目指さてその途上で倒れるという悲劇の運命を背負うことになった。少年期、青年期の経験というものは、いわば原体験である。それはその人の生涯を明るく支えもし、逆に暗いかげりを与えもする。信長は前時代人に比べても、後継者たちに比べても、なお秀れた天才的資質者であったにもかかわらず、途中で倒れる必然を背負っていたのは人間観の欠点だった。 信長と秀吉と家康の三人の大ざっぱな生涯と、その少、青年期に体験した経験の差と、そこから生まれてくる感受性の差と、その経営行動の差をわかりやすい表にしてみれば、次ようになるだろうの。
① 信長は天才であった、というのは、ファストハンドの創意工夫、技術開発ができた人物であり、秀吉はその天才的先駆者の開発したものを応用活用し、いわばセカンドハンドの応用能力に長(た)けた人物であったと思われ、家康もまた、秀吉と似た応用開発の人であったと思われる。資質の上からいうと、信長は秀吉や家康より先を歩いた。だが、その「天才」ぶりは、周囲の家来たちがやることに比べて、誰が見てもすぐれているという結果、自他共に許した「大きな自負」につながっていく。したがって、信長にはコンサルタントが不要だった。軍師役や相談役を必要とはしなかった。その点は、秀吉の場合は竹中半兵衛とか、黒田官兵衛とかいった相談役がついており、家康にも天海、嵩伝などといわれる学僧の相談役や、その他側近の相談役が彼を採りまいていた。家康は自分だけでなく、自分の子供たちにも、お守り役として家康の腹心の付家老をつけたところにも、信長流とは違うところがうかがわれる ところが天才信長は、自ら発明発案し、果断に実行する。言い方によってはワンマンで"一人決め"をするというタイプ。事実、家臣団のやることより、信長のやることの方がすぐれている、という事例が重なれば、信長の自負はいよいよ育ち、家臣は自分の天才的決定をまちがいなく、そつなく、怠らず実行する機械ないし道具、と見る感覚が育つのも必然だろう。切れ味のいい器具、便利重宝な多能の工具、変った性能を持つ道具は、信長の好みに合うこと、あたかも今の知識人が、そのデスクの引出しに最古級の小道具を秘めて愛用するようなものである。 ところが彼はその裏返しとして、駄物を嫌い、さえない道具を憎むことがつよく、その好悪が激しいのも、彼の特徴である。彼は、自分が何もかも明快であるが故に、不明快な家来とのコミュニケーションはおろそかにする。天才が呑み込んでいればいいのだ。誰にはかる必要もない。信長の下からの報告に対する答が、「デアルカ」という最小のコミュニケーションですませていたと信長公記にいうのは、天才的人物の陥りがちなひとつの癖であったろう。そして、その性癖がコミュニケーション軽視に発展するとき、トラブルのもとを知らぬうちにつくり出すことになる。 ② もうひとつは、彼が挫折を知らぬ少、青年期を経た二世経営者であったことは、信長の感受性をあらっぽくしたもうひとつの理由である。あらっぽいというのは当らないかもしれない。その現れ方が、濃淡厚薄、時により対する人により、まるで別人のような違いがあることである。たとえば秀吉をはじめて長浜城主に登用したとき、秀吉の女房寧子が信長のもとにお礼の挨拶に行っているが、その寧子あてにやった信長の手紙は、心の行き届いた名書簡である。ことばは一見荒っぽくして、その心は極めて温かく、この手紙を見れば秀吉夫婦が「この社長のためならば」と感じ込んだであろうと思われるまことにいい手紙である。残念ながら、ここでは内容hを紹介している余裕はないが、こんな行き届いた手紙を書ける信長が、その一方では、コミュニケーションの粗い所業をやっている事例はいっぱいあって、信長のコミュニケーションに大変なムラがあることがわかる。たとえばある日、信長が根来の里を通ったとき、寺僧が信長に大きな折詰を進上した。そのとき彼は馬上で折の蓋をあけ、かんざしで中の餅を二つ三つ差し貫いてぱくぱくとやり、家来たちに「それ、食え」と、残りを、馬糞の散らかる土の上に放り出した。それを拾って食べる家来たちを見ていた寺僧」は「これは大変な大将」とびっくりした、というエピソードがある。こんな態度表現がその一方にある。 こういう坊ちゃん的な荒っぽさは、やはり彼がうまれながらにして、いつもハイハイと従う家臣の中に育ち、しかも、例の挫折も失意も経なかったという、いつも、日向の青春期を歩んできたため、側面に生じたものだ。今でも、こういう環境条件から固くゆでた卵のよなハートが、えてして育つ事例がよくある。余談だが若い日には苦労がいいクスリなのである。 この信長の大きな自負と、厚薄のムランおはなはだしい感受性とは、信長の心の中にやがて家来に対する甘えの構造を作る。そして、この甘えをぶちかけていい種類の家来と、それを上手に受け止めかねる家来と二種類があるのに、信長が十分気がついていなかったところに、彼の挫折への危険性の芽があったといえよう。つまり、安心して何をいっても、何をしてもさしつかえのない家臣類と、そうでない家臣類とに信長はもう一段の配慮を及ぼすべきであった。ここで、、この二種類の家来を考えてみると、安心できるのは秀吉、あるいは森蘭丸のようなサンプルがあり、甘えの構造を持ちかけてはまずい種類の家来が明智光秀であったといえよう。 2024.03.18 記す 愛臣と能臣 P.23 なぜ信長と光秀が悲劇的関係に落ちていったか。家来の側を分析してみると、その必然がわかる。
この表の中のA型愛臣とAB型能臣兼愛臣の部類は、信長は安心しきって何をしても、何を言っても、さしつかえのない家来群であった。が、一番下の能臣光秀の部類にまではそれを及ぼすことはひかえた方がよかったといえる。 十分な実力があって、仕事のできる者を能臣とすると、その一方に主君が気に入るかわい家来というものがある。能臣は主君もその実力をよく知っているが、何となく肌の合わない家来である。一方、愛臣は多少能力では、弱いところがあり、たいした業績が見られずとも、主君のお気に入りのタイプである。ウマが合うというわけだ。信長の場合も、やはりこの愛臣と能臣があった。能臣としては、明智光秀が代表的人物である。愛臣には森蘭丸などが典型的な存在で、羽柴秀吉は能臣兼愛臣の両相をそなえていたといってよく、主君と呼吸の合った能臣である。蘭丸のごときは、父と信長が懇ろな仲であったということもあるが、弱冠十八歳で、美濃の国(岐阜県)に五万石をもらうなどという異例の厚遇を受けている。なるほど蘭丸にも、おとなっぽい才覚があったとはいえ、まだたいした手柄を立てていないし、その能力の証明は十分ではない。愛臣のサンプルといってよかろう。 光秀は能臣の典型である。能臣は、一般的にいって、できるという実力で主君の知遇を受けるが、さてその半面に、とかく不運の影が伴いがちだ。人間はやはり、常道の生きものだから、主君と肌の合わぬところが表面に出るときに、そこに悲劇の芽が生える。主君は才能を認めて、それを使う。4その限りでは、順調であるが、能臣の側にはとかく、ゴマなどすれぬという自負がある。主君は天才で、功の多くはその手に帰するかもしれぬが、その下働きにその身をすりへらした自分たちもウデについては自負を持っている。この自負と主君の大きな自負とが、時によると火花を散らすことがある。 一方、主君の側には時によると、大きな錯覚を起こすことがある。信長もまた、そういう錯覚を持っていた。その錯覚とは愛臣をかわいがり、そして、愛臣には心を許して振舞い、時には子供っぽい行動に出ることである。家来の人格侮辱をやっても、悪いことをしたなどとは思わないのだ。 愛臣には主君を十二分に観察して、長年の宮仕えの間に、主君との応接法のコツを飲みこむのに敏である。そこで、主君には「愛臣ども」がそうであるから、他の家来どもにも「何を言っても安心、何をするにも遠慮なんかいらぬもの」という甘えの構造が、意識せずにできあがる。 その主君の「家来への甘え」は、愛臣に関する限りは適用する。しかし、能臣の場合には、その甘えの構造がが適用しにくい時がある。特に、人格侮辱を伴う主君の言動をさらりと受け流すには、インテリ、教養人に抵抗がつよい。あるいは気が小さくて、大げさにおどけて振舞うことのできないタチの家来には、トゲとなってささる。いくら叱っても絶対に人格侮辱をやってはならない。 愛臣には適用した事柄も、彼らには通じないことがある。信長の晩年の大きな失敗は、どうやらこの辺に芽があった。 2024.03.18 記す 信長の家来多重活用 P.26 信長にあっては、「家来というものは、決してオレにはそむかぬもの」そういう確信である。家来は、できるヤツほど便利重宝な道具である。道具である以上、道具がものを考えるはずがない、道具はあくまで天下の計を成すための武器である、と信長は信じている。だから、彼の人使いはまことに荒っぽい。光秀に、坂本築城工事を命じ、その指揮に当っている最中に、同時に戦場での奔走をも合わせて命じる。徳川家康が安土を訪れたとき、光秀は、接待役を命じられ、その指図で夜も眠れぬ多忙の折に、信長は毛利攻めの援軍として戦場に行けという重複命令を出している。 光秀にとっては、やはり心外でもあったろう。一説では、せっかく接待準備の品々を悉く城の堀に投げ込んだというが、気の小さい光秀は、そんなことは正面きってやれはしなかったろう。 こんな重複命令を今の職場で下役にくだすと、今どきの若い人はたちまちハナを鳴らして、「ソンナことやれるケエ」とシリをまくるところだ。だが、信長は、断固として家臣の多重活用を命じつづける。 2024.02.05 記す 信長と光秀のハネムーン期 P.27 二人のハネムーン期は、その出会いから、信長が光秀の才幹を発見し、一方光秀は、信長の目に応えて、その能力を発揮し続ける過程である。また光秀は、信長を遠くから見ていたときの評価が誤りであったことに気づき、天才的手腕に驚きを感じ続けるその時期である。 2024.02.06 記す <光秀を見る信長の目> 光秀が信長に召しかかえられた時、もともと信長の家来には「野戦攻城の荒武者はいても、無教養者が多く、他家へ使いにも出せない連中ばかりだった」。信長は光秀の経歴を聞く。光秀は室町時代の典礼故実に詳しい。信長は天下を治めるには、形式的にも足利将軍家を擁立しなければならない。その足利家との橋渡し役、あるいは宮廷に関係を持つ場合、貴族の慣習に明るい外交官、文官能吏として、まず値ぶみをした。そして光秀の将としての才能、軍事能力を使ってみて評価しようと考える。 光秀と会った信長は彼にほれ込む。光秀の典雅な立居は、織田家の外交官としては最適であると思う。 それに「光秀は諸国をくまなく歩いており、人物、城郭、人情に明るく天下の情勢判断が明晰そのもの」であった。 今でいえば、あたかも会社人事録や会社年鑑などが頭に入っていて、消化し切っている情報通である。しかも、光秀には刀槍鉄砲の術に長じているだけではなく、大軍のかけひきをさせる大将の才能があった。光秀を使い始めてからの最初の信長の抜擢は、京都への進攻軍の先手としての一番乗りの栄誉を与えた時である。「光秀は将としてもやる」とみた信長の評価の現われであった。 2024.02.06 記す <信長を見る光秀の目> 一方光秀は「(信長の)行動力はすさまじく、しかも粗ごうではなく、その行動力には緻密な計算と準備がほどかされている。(光秀は信長を)天下をとるべき男だと思う」。そして彼は、信長のやり方に驚きつづける。 足利義昭を奉じて京に上り、軍政をしたとき、信長の軍律は峻烈をきわめた。たとえば、織田家の小者が京都で物売りに乱暴を働いたとき、信長の親衛隊員が群衆の面前で、小者をなぐりつけ、ひっくくって信長の屋敷に連行した。信長は独特の率直さと政治的配慮で、この男を門前の立木にしばってさらしものにする。これが占領軍の陥りがちなあやまりを戒め、被占領地庶民の素朴な正義感を満足させ、人気を得たことうあいうまでもなかった。「それだけ手厳しい秩序感覚を持っていなければならない」と光秀も感じたりする。 信長は、上洛軍をひきいて出陣、圧倒的勢いで六角承禎入道の十八城をニ、三日で将棋倒しに壊滅させたとき、まず、この進攻を始める前に信長が、「外交の手段をつくして、近隣の諸豪を静まらせ、美濃、伊勢、三河、近江で同盟軍をふやし、大軍団を調えてからやっと腰をあげる」のを見ていた。光秀は「あの男は、勝てるまで準備する。しかも、自分の前例をまねない。桶狭間の戦いのように、小部隊で奇襲をした成功を、みずから過小評価して、骨の髄まで合理的な新戦闘法をやっている」と、舌をまく。そして寡兵をもって大軍を破るという芸術的、名人的、精神主義的室町流の戦術をよしとしていた光秀は、自身の戦術思想さえ動揺するのを覚えるというわけだ。 ※参考:会田雄次『決断の条件』27 勝を見ること素人の知るところに過ぎざるは、善の善なるものにあらず。戦い勝ちて天下善というも善の善たるものにあらず。よく戦うものは、勝ち易きに勝つものなり。 孫子 P.181~186を参考。 2024.03.18 記す 小面憎い「肌が合わない」能臣 P.29 ここまでのところは二人のハネムーン期であるが、ハネムーン期の末に二人の肌合いの差が表面に出てくるところは「結婚」とよく似ている。 信長と光秀の性格を大ざっぱに比べてみると肌合いの違いが、どうやらわかる。光秀が、信長との長いつきあいの間に、この地肌をかくして変身できるためには、成長してきた過去があまりにも深く身につきすぎていたと思える。光秀は足利義昭という存在をかつぎながら、伸びてきたいわば幕臣であり、それをテコにして織田家の重臣になったが、光秀が引きついでいたものは過去の室町時代の教養のしっぽであった。しかもその過去の教養が逆にアダとなった。 光秀の目からみれば、古参の同僚木下藤吉郎のような性格は、とても真似られない。光秀も無論彼の軍才機略は卓抜と知ってはいるが、藤吉郎の「いつも顔一杯で笑い」「大声で気さくに闊達に声をかけてくる」「ひょうきんなアケスケさ」は、むしろ無知無教養のせいだと思われる。 光秀には秀吉の変転自在な庶民性が好ましいものとはみえず、「信長の意を迎えることの機敏さ、抜けめなさ、ぬけぬけとしたお世辞は、無教養の者だけが持つ強さ」などと思う。光秀は、古典的インテリらしく陰気で神経が細かかった。「光秀の陣屋の前を通ると、あそこにはいくさには強いがどことなく暗いものがある」といわれていた。からっとはしゃぐところがない。主人が謹直で、まじめにすぎるから、彼の家来もまた冗談やカイギャクに弱く、ケンカさえも真剣にやった。だから「足軽同士の小さな争いで血をみるにいたるのは、決まって光秀の陣屋衆であった」。光秀は女を買うなどということはまるでなかった」潔ぺきさを一生もちつづけていた。 藤吉郎は光秀と違ってからっとはしゃぎながら、威厳を保持した。彼は平気で、どんな相手にもこっけいな話や、市井の女話など持ちだして、かるがると笑わせたり、そのまた一方では、両眼から火を出すような面持ちで、相手をどなりつけて、ふるえあがらせるという芸もする。 信長が光秀の能力を認めながら、体質的にだんだん小憎くなる事件がやがて重なって現われてくる。信長が「憎み、ぶっこわそうとしたものは、中世の権威である。南都北嶺の仏教などもその一つである。伝統芸術は過去に続く約束ごとでできあがっている」「和歌の場合のような伝統芸術は、歌枕とか、本歌どりなどという約束ごとや、豊富な記憶が都ぶりの教養とされていた。信長はそんなものは何も知らない」。信長の光秀への反発はトゲある皮肉で始まる。光秀が、将軍義昭の前で歌を詠んだなどといううわさが耳にはいると、信長はいかにも不快そうに、お前は「歌坊主か」とばかりハッキリくらわす。 甲州の武田勢を滅ぼしたとき、信長は諏訪に出陣し、帰順の士たちのあいさつをうけた。その陣中、織田勢の盛んなさまをみながら、光秀はついひとりごとをいう。そのひとりごとに能臣の持前のの自負が、うっかり現れた。「われらも多年山野に起き伏し、智恵をしぼり、勇を振った骨折りのかい、いまこそあったというものよ」。それを、折悪しく信長が聞きとめた。「おのれが、いつどこにて骨を折り、武辺を働いたか。骨を折ったのはだれあろう、このおれのことぞ」と信長の大自負が光秀の自負と衝突した。 そのあと、信長の、家来への甘えの構造が爆発する。信長は光秀の頭をつかんで欄干にぶつけ続けるという、乱暴をする。能臣の自負と大将の自負の救われぬ衝突だ。こういうことが次々と忘れたころに繰り返される。しかも公衆の面前で「家来の人格侮辱」という形で。この屈辱にたえるには、やはり、「オノレ、いつかおぼえていろ」になる。 信長は光秀に向かうとき、ことばの上でもだんだんとげを帯びてくる。秀吉の」ことを、「へげねずみ」と呼び、光秀のことを「きんか」「きんかん頭」とあだ名したのはいいが、時々、光秀に向って、「そちのもっともらしい面が役に立つときがきたな」などという。信長は「何がきらいといっても、この種の面ほどきらいなものはない」となれば、もはや、消し難い感性的不快であり、憎しみである。 2024.0318 記す 「出世を守る知恵」ははかない P.32 羽柴秀吉は総司令官となって、毛利氏を中国に攻め、彼はそれにてこずったが、四年の歳月を経て、戦局に目鼻をつけた上で、さて援軍と信長の出馬を求めてくる。信長は、時に、徳川家康を安土に招待をし、その接待役をさせていた光秀に重複命令をくだして、山陰攻略の軍を進発させる。 その出陣の命とともにやったのが「出雲、石見、ニ国をやるが、近江、丹波の二国を召し上げる」というムゴイ辞令である。融通のきかない古典的インテリの小心な能臣をついに謀反へと引き出したのは、この辞令である。この二つの新領地は、敵国毛利の治下にあって、これを切りとらなければないに等しい。しかも、先に近江と丹波は光秀が念には念を入れみがきをかけて統治していた国であり、これなしでは光秀をはじめ、一万数千の家来は糧道を断たれることになる。この辞令を現代的に書き直してみれば、「中国地方に出張を命ず、山陰攻略指揮官とす。常務取締役故の如し。但し無給とす」というにひとしい。 毛利攻めに手こずる秀吉と並べて、光秀を背水の境地に追おうとするのかと、光秀は考えこんだ。先には信長の妹お市の方をめとっていた同盟会社の社長の浅井長政も反旗をひるがえたし、自分と同じ中途採用の摂津の領主、いわば平取締役摂津支店長挌の荒木村重が、根拠薄弱の謀反を起して滅んだことが光秀の脳裏にひらめく。このとき、信長はこの二つの謀反について考えるところがもう少し深ければ、光秀の第三の反乱軍を本能寺の暁にみないですんだかもしれないのに、彼の信念、「家来は、おれには絶対にそむかぬ」ものというのが災いしたに違いない。中国形勢は秀吉の情報で、毛利が五ヵ国を割譲して講話する考えに傾いているのを十分承知の信長は、この際、光秀を進発させるとき、十分のコミュニケーションを試み、「中国へ進発すれば、すぐに、お前の能力なら片づけられる状況だ」と教えてやるだけで、事態は大いに違っただろう。 この人事の背景には、やはり勃興期、苦難期から脱して、安定期にさしかかった信長の天下平定事業の進展による心境の複雑さがうかがわれる。苦難期には、主君も家臣もともに苦労するが、しかし、めぼしい敵がいなくなれば、もはや大道具はいらなくなる。しかも大功臣には恩賞を大きく授けなければならない。主君たるものは、ここが泣きどころで分け与える領地が大きくなればなるほど、さらにやる領地がなくなる。それだけではなく、大功臣の力が大きくなればそれだけ警戒もいるし、また与えた領地が惜しくなることもある。 たとえば、家康は信長に同盟して武田勢と戦い、苦難期を通じてまったく健康な同盟軍として、当時最強の敵をさせえてきた。それにもかかわらず、信長から与えられた恩賞は、小さな駿河一国であった。しかし、家康はその小さな恩賞に対して、「大喜びをしてみせる」という深慮遠謀があった。そうすれば、「信長は家康を案外気の小さなやつ」と思って「安心」するだろう。そこが家康の上手なところである。秀吉も信長に心腹しているかっこうだが、このころになって、領土問題では、ちゃんと信長の心境の変化を感じとっていた。彼は、信長の子於次丸(おつぎ/おつぎまる)を養子にして、自分の後継ときめ、どんなに大領主になっても結局は信長のもとにかえす形とすることで、信長の安心をかちとる手を打っている。 光秀はそういう点では、信長を警戒しているくせに、しかも、深慮遠謀がたりなかったのかもしれない。秀吉は毛利攻めに司令官として出かけたときも、自分は中国に領地などをいただかず、その先の九州を攻めて、これを一年間治めさせてもらったら、直ちに朝鮮に攻め入って、そこを治めさせていただこうなどと調子のいいことを言っている。大領を求めないことをアケスケにPRして、信長にそれとなく安心させるように心がけていたわけだ。 ところが、光秀は、近江と丹波の二国を一片の辞令で簡単に召し上げられた。社長のごきげんひとつでとり上げられる「出世」のはかなさである。 光秀はとうとう謀反を決意する。脱管理ではなく、挑戦である。小心翼々のインテリ羊に大それたことを思い立たすにいたったのはコミュニケーション不足の悲劇ともいえる。すくなくとも、それは引き金になった。 2024.02.? 記す 信長と藤吉郎の人間模様
会社をえらぶときは、社長をえらべという経営学者がいるが、植木が鉢の大きさと土壌をえらぶのと同じといってもよかろう。信長と藤吉郎の出会いは、まさにその好例である。 人材を発見するのは人材 P.35 人材が埋もれないようにするためには、その人材を発見する人材が上にいる必要があるということは、信長と秀吉の関係で、最初に目に」つくポイントである。マスの大きい人物が上にいてくれないと困る。人材は人材を知る。ひとたび目のある」大きな人物が上に立てば、その下には人材がたくさん集まり、成長を遂げて行く。ところが反対に凡庸のトップが会社の支配権を握る時には、その凡庸のトップが気に入るボンクラが、その周囲をとりまくということになる。 人材は人材を呼び、ボンクラはボンクラを集める。そのゆえに、企業のトップに凡庸の人が現われるとき、そこに企業の不幸が始まることは申すまでもない。よくも似たような類型人物が親亀、子亀、孫亀と亀の子の重なりのごとく現れるものである。そして、親亀こければ子亀ももみなこける。 むろん、こんな状況が続くときは、四年のうちに社運は必ず衰兆をみおせる。四年かかるというのは、やはり企業と個人の違いである。企業には多数の人がいるから、どこかですぐれた能臣が残っていて企業という名のボートをこいでいるから、すぐにはボートは沈まないのである。 さて、信長と秀吉の関係についてみれば、もし信長なかりせば、秀吉は頭角を現わせなかったかもしれない。信長は人材を発見しかつそれを育成する点でも卓抜な人材だった。発見していくだけでなく、育成しにくことが大切である。 藤吉郎はさきに遠江の土豪武士、松下嘉兵衛というさむらいの家で働いた。 そのとき、もって生まれた藤吉郎の想像力は、嘉兵衛もわからぬわけはなく、藤吉郎はこの松下家でも生き生きとした仕事をする。倉庫番になった藤吉郎は、まず自分の食事から食べ物を捻出し、その残飯で猛犬を飼う。そして明るいうちは、むろん目をらんらんと輝かして見張りをし、夜は猛犬で備えたために、それまでの前任者の倉庫番がしょっちゅう品物を盗まれていたようなことは皆無となった。そこで嘉兵衛は藤吉郎を経理担当に登用する。藤吉郎の経理部員としての手腕もまた見事なもので、家中の仲間たちは、小さな不正ひとつもできなくなった。 ところが、この藤吉郎の俊敏がかえってわざわいとなって、ボンクラ仲間たちの反感をかい、家中全員は嘉兵衛にせまって藤吉郎をクビにさせる。嘉兵衛も藤吉郎の俊敏さと正しさは、よく承知していたのだが、大衆団交の結果、大衆に負けてしまう。むしろ嘉兵衛は藤吉郎が同僚にいじめられるのをかわいそうに思ったのであろう。「人材とわかってもその人材の成長の条件をつくってやれぬ」ケースである。こうして藤吉郎は、松下の下を去って再び流転をする。最後に球がミットにパンとはいったように、適切な場所を信長のもとで発見することになる。 当時の信長の人事、人材採用の方針は、前時代に比べるとまことに進歩的、革新的なものだった。室町時代は、人の採用に当っては、家柄、門地、血統などばかりを重視し、たとえ実力があっても、家柄、門地、血統などが悪ければ不採用、というだらしのない採用ぶりに明け暮れていた。家柄、門地、血統を重んずれば、実力は二次三次のものとなり、たとえ百歩譲って、そこに良き人材を発見したとしても、その数はすこぶる少ないに違いない。 信長はこのばかげた室町時代の古い人事採用方式を木ッ葉微塵に吹き飛ばした。信長の採用方針は、現代企業の中途半端な実力主義に比べれば、ロマンチックなくらい徹底している。「信長は、その出身、階層、性質、容貌、挙措動作にこだわらず、能力にしたがって採用以後も、どんどん、とり立てていった。 藤吉郎や明智光秀や、その他織田家の武将は皆、この方針で選ばれている人材であって、人材を発見する大人材の信長が上にいてこそ、ロマンチックな実力主義が、文字どおり行われたといっていいだろう。 「人材を発見し彫り出して育てるものは、やはり人材である」という原則を、藤吉郎と信長の関係は典型的に示している。 2024.02.10 記す 藤吉郎のフォロアーシップ・社長の人間把握が第一 P.38 藤吉郎のフォロアーシップの発揮ぶりは、フォロアーシップを論じる人にとって大事な材料である。一部の人は軽く「いまさら、藤吉郎などとかつぎ出すのは、時代錯誤もはなはだしい」と、軽蔑の口調で一蹴する。しかしこういう口調に遠慮することは少しもない。藤吉郎のフォロアーシップの発揮には、現代に通じるか、あるいは十二分に焼き直しの効く要素がたくさんあって、これを軽く一蹴する目は、あたかもテレビなどとるに足らぬもののようにいって、見もしないでアレコレいうのと非常によく似ている。 無論、封建時代の主従関係と、近代的労使関係との間にある大きな違いについて、まったくそれを飛び越えて物を考えようとするのではない。古き事柄の中に、現代に通じる新しいものを発見しようとする試みがあっていいはずである。こういうことをくどくどいわずともよかろう。藤吉郎のフォロアーシップ物語を読む今の人が、「なるほど」とか「おもしろい」とかいうものを発見することがあれば、それは、温故知新を無意識のうちに実践している人である。不快なのは、いつもたやすく「時代がちがうァ」というあらっぽくかつ柔軟性を欠く態度で読みもしないでいることである。 さて藤吉郎のフォロアーシップの発揮の特色はというと、彼は十分の生活の知恵があって、人間の観察力が鋭く、社長、信長の人間像をも深く把握していたことである。残念ながら、光秀は士を養うリーダーシップはよく身につけていたが、フォロアーシップを発揮するための前提の、上の人間の観察と正しい理解を持つことを軽視したか、怠った。藤吉郎は、フォロアーシップでは誠に創造的であったという点で、光秀をはるかにうしろに追いやったといえる。 藤吉郎のフォロアーシップは、まず社長、信長の人間像の完全な把握と、それに対応する生活の知恵の全力発揮であった。むろん、人間信長をいつまでも固定的に見ていたのではなく、流動的にとらえた点でも、藤吉郎は、ユニークそのものである。 たとえば信長も勢力上昇期と中間安定期とでは、その見方も変わる。そういう内部の変化にも藤吉郎はきわめて敏感であった。 次に具体的なエピソードをあげておこう。 『国盗り物語』に現れている信長が、社長として求めた社員人間像の条件をしぼってみると彼にとって家臣というものは感情をもってはならない道具であった」「その道具も機能が良くて多角的な性能があり、それを自分が使って使いぬく」「撲直で道具になりきれるやつ」「しかもツー7といえばカー、自分のいう一を聞いて十をさとれるやつ」そして「またカラッとして行動がキビキビしてかげひなたなく、横着とまやかしをやらないやつ」、これが信長好みのさむらい像であったとある。藤吉郎はこの好みを十分に研究しきって、それに対応しつづけたといえよう。 2024.02.11 記す 信長の人間観・光と影 P.40 信長はまた、技術観においても当時最も卓抜な経営者であった。信長は、ハードウェアでは新兵器の開発に革新的で鉄砲の大量採用や鉄でよろった大鑑の建造に金をかけ旧兵器の改良(短槍をすべて三間半の長槍にかえる)、新軍装の開発(そろいの活動的軍装をさせる)などを始めとして、ソフトウェアでは、その戦術も個人を排して集団主義へと創造的な要素を取りいれている。 鉄砲隊の組織とそれをさせる手工業職人集団、いわば今日のエンジニア群の確保、あるいは長槍隊の創設とその戦闘法の改良、あるいはまた戦略では寡兵をもって大軍を討つ、といった芸術的戦法を排除し、それに代わる現代のアメリカ軍隊のような物量主義と「大軍団の準備を完了してから、弱敵を軽くやっつける」という常識的、科学的戦略を採用し、そのうえ、大軍団の組織のために外交的戦略を重視し、友好同盟軍のつながりを広めるなど、新しい技術と経営革新を成しとげている。 信長は技術観では、当時最高の武将であったが、遺憾ながら、せっかくの進歩的人間観の底のほうに、大きな穴があった。信長の成功と発展は、この技術観と進歩的人間観とにささえられ、信長の失敗はこの人間観の底にひそんでいた穴によっておこる。 信長は、朝倉義景を攻めて北陸に入ったとき、友好軍と思っていた近江の浅井長政に裏切られて挟撃の危険にさらされ、ほうほうの態で逃げ帰っている。続いて旧臣荒木村重の謀反に会っているのだけれど、この二つの謀反によって信長は自分の人間観の穴に気づくべきであったと思う。それがなかったので、三度目の謀反者、光秀に討ちとられる。 のちに藤吉郎の家来となった軍略家、竹中半兵衛は、初め織田家に仕官を勧められいたがこれを拒み、藤吉郎ならば「力が発揮できる」と言って藤吉郎の手につく。半兵衛が「信長の幕下につくのは肩がこると拒否したのは、人間観の穴を知っていたのである。 秀吉は名将言行録の中で「もし信長に光秀の士を養う心があったならば、失敗をしなかったろうし、光秀にまた明智光春の篤実無比の心があれば、謀反をおこさなkじゃったろう」と言い、光秀の謀反をあわれんでいるが、この中で秀吉も、思わず信長批判をもらしている。秀吉もまた、信長の人間観の卓抜さにもかかわらず、そこにつきまとっていた欠陥を知っていたというわけである。 さて、信長の人間観が革新的であったにもかかわらず、その底に大きな穴があるといったが、それはどんなことか、信長は、家来の実力を買った。その家来の信賞必罰を明快にした。経営とは、冷酷、非情のものと割り切っていた趣がある。しかも、すべて自分と同じようなものの考え方に家来はついてくるという確信があった。「頭のいいオレがそう思う以上、人もそうだろう」と思うのは頭のいい人のクセであろう。信長ばかりではない。これは頭のいい人ほど陥る「確信」である。頭のいい人が「そんなことはわかりきったこと」と思うことを、実は、わからない連中がいることに気がつかぬ。信長は、経営には冷酷な面ありと考えていたから、こわれかけた機械や、もはや摩耗した道具のような連中を整理して、ポンコツにするにいささかのためらいも示さない。片づけ好きの工場長のようなものである。だから父信秀以来の家来として働き、織田家の宿老となっていた林通勝および佐久間信盛父子などを、いとも冷たく追放している。 彼は先代の父の使った「古道具」などは気にいらず、非能率とみれば工場から追放するのにいささかの感傷もない。林、佐久間ら宿老の追放は峻厳をjきわめた。彼は宿老どもの無能率ぶりを糾弾し、合戦もへたなら戦略もめぐらせず、しかも、オレに相談にも来ず、モタモタして、私財を惜しんで、士も養わないなどという罪状を数え上げ、今でいうなら、退職金をやるどころか社内預金も持株も没収して、無一物にして追放している。 だが、こんな目にあわせても、それがどんな思惑や感情をその他の家来におよぼすか、については考慮しなかったきらいがある。 一日、信長は安土の城を出て、秀吉の城を観察し、さて城に帰ると城内には、侍女たちの姿がなかった。信長の留守に寺参りに出かけていると聞いて、信長は烈火のごとく怒った。「横着」と「ごまかし」は許せぬといばかり、帰ってきた侍女たちを打ち首にした。他の寺へ詣でていた侍女たちは帰らず、その寺の住職がわびを入れに飛んで来た。ところが信長は「本当に責任をとるのか、それなれば」と言って、わびに来た僧をばっさり切り捨て、やがて戻って来た侍女たちすべて死罪にするという酷烈な裁きをやった。この知らせが、光秀の許に届いた。「光秀はちょうどその時、細川幽斎の城に遊び、蓮歌を楽しんでいたが、その知らせを聞くと顔色を変えて自分の居城の丹波にかけ戻った」という。横着をきらうことはいいが、寺参りの侍女たちを切って捨て、規律を保とうとするやり方は」、これは一種の恐怖経営であって、信長の若社長的なやりすぎの一例と言っていい。 その結果竹中半兵衛が信長を拒んで、秀吉についてといういきさつにも、それが出ていて、信長の下にいては気が張り、秀吉の陽気な経営のほうがオレの肌にあうと、その選択の理由をはっきりさせているのも、信長の人間機械論、あるいは道具論への一つの抵抗であろう。 2024.02.12 記す。 秀吉の軽妙さの背景 P.44 信長にはもう一つ自分では気のつかない家来への甘えの構造があったと前章で書いたが、その甘えの構造は、秀吉のような自分の気心を十分のみ込んだ家来に、安心をして人格侮辱的扱いでも平気でやり、陽気な藤吉郎的フォロアーシップにとり囲まれているうち、いつか信長は家来ならだれにも同じように、何を言っても、してもおこるまい、という錯覚を持ち始めたといえるふしがある。いろいろ性格が違うのがいるのに、すべての家来を藤吉郎なみに見る。藤吉郎は信長の乱暴な言葉の中に、自分に対し安心しきった姿と、信頼を感じとりながら、信長の言動に合わせて、ひょうきんに、陽気に、大げさに、かつ何のこだわりもないかのように軽妙な振舞いで信長に向っている。幸い藤吉郎は子飼いの家来で信長との接触期間が長く、しかも行動を縛りつける古典的インテリ風の教養と縁がなく、過去の放浪期には、さんざんいためられてきながら、それを凌ぎぬいてきたことが彼の行動を一層軽妙にする。ちっとやそっとの人格軽侮をされても、かえるのつらに小便というタフさがあった。信長が「サル、帰って来たか」と言えば「サルめ、ここに控えております」と応じ、たとえ信長が本心から秀吉の失敗を叱りつけても、藤吉郎は言いわけをせぬ。「サルめ、誠に大失敗をいたし、申しわけなくどんな罪にもお当てくだせれても止むを得ません。しかし……」と言えば、信長「何がしかしだ、言い分とてあるまい」と怒る。こんなケースでは、他の余人ならば青くなるだけでどうしようもないが、その後が藤吉郎の知恵の見事さである。「今一度、最後のサルの考えた対策をサルめにおおせつけられたし、そのあとで切腹でも打ち首でも……」などと言い、どんな失敗にも、必ず打開の名策を用意して叱られるところである。 この最後の一策を、いつも信長は聞き届けてやる。それには日ごろの藤吉郎の卓抜な着想や、実行の成果の積み重ねの実績があるからである。 光秀ならば理屈で言いわけをする。藤吉郎にはにはそれがない。信長と藤吉郎の呼吸の合い方は、どんな乱暴なかとばを上から投げても、ケロリと下がそれを受け、叱られればピエロのようにあわてふためいてあやまり、しかも明快な対策をいつも持っている、というところにおもしろさがある。信長はこの秀吉のフォロアーシップにむしろ軽くのせられている時もある。 ※参考:私黒崎は「いいわけをするな!」と厳しくしつけられた。 秀吉は、功をたてる時の心得をじょうずに実践している。同じ功績でも、大功績をたてる時は特にたてたあとがめんどうだ。先輩、朋輩のねたみを受けるだけではない。主君の自負をそこなわず、その大功績の中に包みこまなければならない。 羽柴筑前守秀吉となって、毛利攻めの最高司令官を命じられた時の、彼のやり方が周到である。当時の毛利家は、内政に力をそそいで内部を固め、一族家中の団結が堅く、領内はよく治まって、軍事力も強大であった。ローヤリティの高い十万の軍団が控え、しかもその軍団は、当時の最高の新兵器であった大砲まで持っていたといわれる。 秀吉はこれを攻め、四年の歳月を費やす。その結果、やっと中国攻めの収束のチャンスを目の前にする。その時秀吉は、信長の前線出馬を懇請し、自分がつくった戦局の有利な展開を、形の上では、「社長の迫力ある指導があって初めて成し遂げられたもの」とするような手段を講ずる。 いわば、社長の自負に社長が気がつかないようにして、じょうずに花を持たす。ところが、普通の人ならこんな場合とかく自負が先に立って、つい「オレが」「オレが」と言いたくなるものである。秀吉はこれを見事に回避した。社長を立てて実をとる。しかも社長は内心それを知っている。それで十分じゃないかというわけだ。 これに反し、明智光秀のフォロアーシップは、秀吉と対照的なマイナスがいくつか数えられる。その一つに光秀は能臣の持前の自負をうっかり露骨に出すというエラーをやるクセがある。 前回の記事にやや重なるが、光秀はこの自負をうっかりもらした結果、信長の自負と正面衝突し、そのため信長から「小ざかしいやつ」とこづきまわされる恥辱にあう。これを秀吉は中国攻めの最期のしめくりのやり方と比べてみると、その両極がよくわかる。 2024.03.19 記す 「社長の変化」を警戒する秀吉 P.47 信長と秀吉の人間関係は、きわめて呼吸の合った形で、信長の生涯の終わるまで続くが、秀吉の心中には信長の技術観の卓抜さや、革新性の高さにかかわらず、この名社長の心底に起こりつつある経営拡大に伴う変化を読みとるにも鋭敏であった。 信長の経営は上昇期からやがて安定期に入り、信長の四隣の敵はあらかた片がつく。武田、朝倉、浅井、三好、松永、あるいは比叡山延暦寺などの敵勢力は影を潜めたそのころから、信長の心境の変化はきざし始める。 安定期には多数の功臣たちにも、 秀吉は、信長のこのような心境の変化をひそかに感じとって、 さて、光秀もまた、信長の甥を自分の三女の婿にもらい受けているが、光秀には秀吉のようなはっきりした自覚がなかったかにみえる。 (本章は岡谷繁實氏「名将言行録」、吉川英治氏「新書太閤記」、読売新聞社「人物・日本の歴史」、司馬遼太郎氏「国盗り物語」などに拠るところが多いことを付記します) 2024.03.19 記す 信長と家康の人間関係
「離れて結んでまた離れ」 P.49 戦国の武将の間の同盟というものも、権謀術数がタテ糸ヨコ糸になって織りなされ、互に利害と計算と状況判断にとって、ついたり離れたりしている。一見水も漏らさず、鉾先をそろえての同盟であろうと、内には心を許すべからざるものがあった。 今でも同じだ。国際政治をみても、企業同士のつきあい方をみても、「同盟」の裏側には、単純でないものがある。企業のけーすでは、同じ会社の系統の会社なら、一見、その関係は親密が当然とみられるが、実は中にはそうでないケースもある。 たとえば、親会社から子会社に出ていった出向幹部が、親会社では傍流の、「疎外された人物」であることがよくある。むろんそうだからといって、すぐそれが、本社への忠誠をうすめるということにはならないが、対抗意識をもやすケースも多い。「よし、ここで手柄を立てて見返してやろう」という姿勢である。ましてや、出向の人が、社内闘争のために、本社からはじき出されていった人だとすると、本社に対して斜めにかまえた姿勢でいることがあってもおかしくない。時に、傍系会社のほうが本流のほうより成長してゆく場合では、傍系会社が人事権の自立を本社に迫る事例もある。また近ごろ、よくみる合併会社の内部闘争の例をみるとと同盟の難事たることがわかる。組織と人間というのは複雑である。 信長と家康の関係も今流にいえば、やはり兄弟会社というわけだが、そのハネムーン関係もはじめからでき上がって甘いものではない。その同盟を維持するためのかけひきや姿勢の構え方は、ひととりの苦心ではすまぬ面があった。いわば水面下の下のあひるの足のようにこぜわしい動きがあった。 十六世紀前半にかけて、家康会社の前身、松平氏一族は、土豪たちの反撃をおさえつつ、東海の大企業、今川と、西に興りつつあった尾張の織田との両氏の侵入を避けつつ、一進一退しながら、やっと三河一国の領国化過程を推進中だったが、前社長、広忠の死とともに今川義元会社に併呑された。しかし桶狭間の戦で今川会社がダメになるとともに、家康は独立をし、その独立後は親会社の旧地盤を蚕食した。おりから、隣り合わせの織田会社は隆々たる中堅企業として成長しつつあった。家康はやがてこれまでの敵、織田会社の協力会社となるという複雑な動き方をしつつ、その中で、そのシェアを広げたたわけである。織田会社の協力会社になったプロセスにも屈折がある。織田は西進、徳川は東進を志向していて、互いに隣り合わせ、互いに背をぴたり寄せ会う格好で、西と東にシェアの拡大をしていく形になるなら、両方とも利害一致するわけだが、さりとて、織田の下風に立つことになっては……という反発が、徳川の社内に初めからあった。たとえ表面は対等の合併でも、走法ともなお相手の下風に立つような形が出来ることを嫌って、しのぎをけずるようなものだ。 2024.02.12 記す 織田・徳川合名会社 P.51 信長と家康の同盟は、いわば織田・徳川合名会社(山路愛山のことば)ができたみたいなもので、家康は東に向かって信長の事業の代表、前衛会社となったかたちである。この間、徳川会社は、独立を失わず、自己保存を成就したわけ。東海道の形勢が東の方が重みがあって、今川会社のシェアが織田会社を圧倒していたときは、徳川会社は今川会社の前衛販売会社、逆に形勢が一変して、西にはかりが重くなると、徳川会社はその織田のシェアの増大についてその傘下に入っていく。一言でいうと風の吹くままの風見鶏、社運隆々としてきた方に向きを変えてその系列参加をしていくという格好によく似ている。だが、シェアの小さい系列会社が、シェアの大きい親会社についていく形は、大きい方にとってもけっして味が悪いものではない。 現に親会社が子の優良会社に背を向けられるということでにわかに衰運を濃くする事例はいっぱいある。毛利輝元の系列にいた宇喜多直家が、新興会社の信長方に系列換えをして、毛利の運命を決定したり、あるいは、はじめ柴田勝家の与力であった前田利家が、柴田を去って羽柴秀吉につくことによって、柴田の運命を決定したように、家康のこの期における系列換えは、親会社の滅亡と興隆に直結している。そむかれて今川会社は滅び、系列下に招いたゆえに、織田会社は急速に大会社に成長する。徳川会社自身は、系列換えをするたびに、内部に反対と犠牲を出すという悲劇をともなうが、長期計画の上ではこの合名会社は双方に大きなプラスとなったことはいうまでもない。 信長は、東に備えていたたくさんの城々の兵を西に向けて集中使用ができ、家康は西に備えた兵を東に集中使用することができ、徳川は東進、織田は西進の態勢が整ったわけ。むろん織田方は、自社と徳川型の力の差を十分知り尽し、永禄三年、今川義元が戦死して今川方の勢力は東に後退したとき、岡崎城にいた家康など眼中になく、いずれ降参してくるものと、あなどっていた。だが、「茅ぶき櫓に掻き上げた土塁がめぐっているだけ」の岡崎という小城主のくせに、平気で大敵の前に頭をさらして、信長方の諸将を攻め悩ませ続ける武者振りを見て、信長はその評価を改めた。同盟を結ぶとか、系列下に入れるとかいっても、強い相手側にその気を起こさせるのは、やはり最後に小さい方が持っている実力がものをいう。この実力があってこそ、同盟という外交的政策も可能になるわけである。こうして合名会社が出来ると東進を志す家康の前に立って境を接する東方の大名達は、また、家康会社が小さいといっても、その背後に成長し続けるの信長の光を感じ、家康はいわばその威を借りて圧力を増すことができた。永禄八年、家康会社のシェアは三河全国に広がった。これは合名会社ができ上がった永禄四年からわずか四年間の実績である。以後、織田・徳川合名会社の連携は信長が死ぬまで、二十余年におよぶことになる。 2024.02.13 記す。 長篠の役・よくある信任社長の焦り P.53 「信長の京都進出以来、天下の耳目は彼の行動にばかり気を取られていたが、その陰で家康は抜け目がなかった。彼は同盟国の織田が自分に背後を守らせ、中原へ進出している間を、ただ甘んじていなかった」「むしろ、好機措くべからずとして、活発な外交と、兵力を用いて、今川義元のあとをうけた今川氏真の勢力を、駿河・遠江の二国からまったく駆逐してしまったのである。――之よりそれは独力ではなく、織田家とむすぶ一方、彼もまた甲府の武田信玄とよしみを通じて、駿・遠の二国を分け取りにという盟約の下になされた事であった。こういう状況を見て"家康もやりおるな"とひそかにその抜け目のなさに舌を巻かずにいられないのが信長であった」(吉川英治氏「新太閤記」)。これは、取引の行儀がよく、営業成績もいい子会社へ、親会社がよせる好意に似ている。 この間の家康の地歩固めには、信長は「抜け目ないやつ」とみていたがやがて、それは先へいって、信長の家康に対する態度に、警戒を加えることにもなる。 それはさておき、武田信玄が没してあとの二代目社長、武田勝頼の行動は好戦的であった。短時間のうちに長篠、遠江、東美濃へ、またさらに遠江と各地で再三兵を動かし、父信玄に劣らぬ「勇猛」ぶりを見せようとしていた。宿老、重臣たちが、勝頼のすることを何かにつけ先代に比較して、批判的にみるその目にぶつかるごとに加わる。若い社長のあせりの現われだった。この時期の二世社長、勝頼の行動に似たことは、現代でもよく現れる。新旧社長更迭の折など、新社長は何か、新プロジェクトをやりたくなる。そして、就任の新社長が、先代と違ったプロジェクトを計画し、次々と新業務の手を広げてみせることがよくあるのだ。 信長は、この勝頼の好戦主義にみるあせりが、武田会社の内部に問題を引き起こし、強い批判があるのを知っていた。そしてやがて武田のような大企業にも、落ち目がくる。 その勝頼が、最終のしめくくりみたいな決戦を西に向かっていどんできたのが、天正三年の長篠の役である。落日のきざしありといっても、大企業のその矢面に立つ家康にとっては、一家の浮沈の分かれ目の戦いである。知将勇将の多い老舗の大軍、武田勢二万五千は山野を埋めて寄せてきた。 家康は信長のもとに再三の援兵をたのみ込む。ところが、同盟もなかなか微妙である。ことに当っては同盟社長間の状況の見方の差もある。おもわくもある。やっぱり信長はオイソレとは援兵を出さなかった。「天下の武田といっても、昔の力はあるまい。名社長の信玄が死んだあと、ボンボンの二代目社長の勝頼があとを引き受けている限り、いずれ自滅するのにたいした日はかかるまい」というのが信長の申し条であった。そこで家康は重ねて使者として小栗大六を出すとき、秘策をさずけた。 「吾、先年、信長と交わを調え、互いに援助すべしと約せしより、佐々木善賢退治以来、数が度之を救い、信長に大功を遂げさしむ。信長、今更違約して加勢なくんば、吾勝頼と和融して先鋒と成り、尾張を攻め取って、遠江を勝頼に授け、我は尾張を領すべし、汝、密に矢部善七郎(信長の家臣)にこのよしを告ぐべし」(「名将言行録」)と。 心得た小栗大六は、すぐ信長のいる岐阜にかけつけて、重ねて「援兵を乞いしかども」予想通り「信長許容なし」。そこで、いいつけられたとおりに、右の密旨を矢部に語った。矢部はひっかかった。ひょうとして、本当にそんなことになってはと信長にご注進、そこで、信長は大いに驚き、援兵を出すことにふみ切った。 織田勢三千七百挺、家康勢八百挺、あわせて、新兵器の鉄砲四千五百挺をそろへ、一斉射撃の新兵法をもって、当時の第一級の大企業ながら技術革新のおくれた武田方を討ち破った長篠の役の舞台裏にも、そうなるまでの、同盟軍の内部調整の複雑さがわかる。信長も食えぬ男だが、家康もまた、一筋ナワではいかぬカケヒキぶりである。戦勝のしかたと戦後への影響に信長と家康のそれぞれの計算があった。家康は援軍を求めた、その結果は徳川対武田戦の様相が変わって、織田対武田戦となる。その勝利は「織田の勝利」となれば、勝ったあとで、信長は徳川内部の事にも口出しをしてくるかも……という恐れがあり、援軍を迎えるにも慎重な用意をもってせねばならなかったのが家康である。信長の本陣で会見した家康に向って、信長は、「今度の合戦ではお見は仏像になった気で、万事この信長に任されたい。武田の士卒どもを練りひばりのようにあしらってお目にかける(山岡荘八氏「徳川家康」颶風の巻)といいながら、「ご加勢にやって来た……」といって、自分の立場を明らかにする。 信長も家康が援軍を求めながらいだいている不安をちゃんとみている。しかも実際は、果せるかな「長篠の合戦は、やっぱり家康よりも信長の地位と盤石の位置へおし進めた」結果となる。 信長の鉄砲保有量にみる通り技術革新第一等の鉄砲隊と、その新戦術の一斉射撃と、革新的集団主義戦闘の勝利である。長篠の合戦以後の信長の覇業への前進は急速になった。 2024.02.14 記す。 弟分の会社は地力を養え P.56 逆に家康社長には、勝っても不満と重い気分が残った。信長は着々と地歩を固め、そのシェアを広げ、安土に築城を始めた。岐阜と安土の間の道を三間幅に広げ、領内の表街道を全部改修中という。北陸もおさえ、伊勢もおさえた。天下をにらみ得る地歩も固まりつつある。それにつけても長篠の役は、徳川単独では勝てなかった。家康軍の鉄砲わずかまだ八百挺。織田勢に比べては、まったくの劣勢である。技術革新がおくれている。 しかも長篠戦に勝った翌日、長篠城の守りを固めていた家康家臣、奥平九八郎を引見したきの信長は、「褒美にわが名をつかわす」といい、家康をはばかる気配は消えていた。いつか、実力で家康をおさえてくる。一人の命令者として君臨してきそうな気がする。家康の表情がきびしくなるのも自然であった。その不安を軽くするには、「地力を養わねば」が、新しい決心となった。 だが、織徳同盟の維持には、この間立場の弱い家康は社内の反織田ムードのタカ派を押えて、犠牲を払わねばならなかった。 家康の子、信康は、家康と正妻の築山殿(今川義元の姪)との間に生れた長子であるが、この信康と信長の娘の徳姫の婚儀とを結んだまではよかったのだが、やがて夫婦仲違いになり、徳姫は信康と築山殿とが、どうやら敵、武田頼勝方へ通謀していると父信長に密報した。 びっくりした信長は、さっそく、家康の老臣、酒井忠次を呼びつけて事情を匡した。家康もむろん弁解大いにつとめたに違いないが、信長のてにある情報をくゆがえすことができず、ようとう、信長の要求に応じて、築山殿と息子信康の処分を余儀なくされる。信康は切腹、母築山殿も家康の諒承のもとに、消された。この悲劇をみると、「味方も敵」かも知れぬという思いがわく。 甲州に逃げ帰った武田勝頼を追って、織田・徳川連合軍は完全に武田氏を滅ぼす。討ちとられた勝頼の首を見て信長は、「お前のおやじが悪かったから、天罰で今、こんなざまになった。信玄は一度京都に攻め上ろうと志したと聞いているが、代わりにお前の首を京都に送ってやるから女わらべに見られたらよかろう」といって家康軍に回してよこした。ところが家康は腰掛に腰をかけていたところへ、勝頼の首が到着したと聞いて、腰掛を取り去り、「先ず供養してから勝頼の首をそこへ据えよ」といい、首に向っていんぎんな様子で「こんなことになられたのも、ひとへに若気のいありでござった」と礼を正してとむらったという。 これを伝聞して、旧武田の家臣たち、徳川家に心を寄せること(「名将言行録」)になった。信長は武田の残党を根堀り葉掘りして全部やっつけようとしたが、家康は信長に隠して、甲州のさむらいを遠州にたくさん引き入れ、ひそかに給料をやっておいた。あとでこの連中は、三河以来の譜代の家来と同じく、徳川方のためにローヤリティを発揮する。 ※参考:「名将言行録(下)原本現代訳」(教育者新書)P.194参照。 ここにも信長と家康の性格の差というより、家康に将来を見る目があって、その目の後ろには、将来を期し、東に地力を養っておこうとする態度がうかがえる。やはり内への警戒心をひそかにいだいていたからだといえそうだ。 一方、信長も家康を警戒して、家康勢力圏の強大化を避けたふしがある。同じ同盟軍でもあり、また長いあいだ、織田家のために東の防壁となって、東から西に進もうとする勢力をおさえ続け、そしてまた危機に際しても裏切ることはなかった家康にも、大きな領土を与えてはいない。 2024.02.15 記す。 「ずるさ」は「強さ」でもある P.59 家康は、信長を「奔流」のようだと見、自分を「じわじわとしみていく水」にたとえている(山岡氏「徳川家康」)が、信長の大きさについては、やはり一目をおいていたということがいえる。 信長が北陸の雄、朝倉義景を討つ準備を進めた時、家康を招いて京都見物をさせた。この時の家康の滞在は長期間にわたったが、信長の招待の目的は、一つには自分がやっている天下統一の布陣としての京都の建設ぶりや、自分の領内の建設プロジェクトの進行のめざましさを、家康に直接見せて、まず家康をびっくりさせ、織徳同盟のくさびをさらに堅くしめることにあった。 二つには北陸進軍のために家康の協力を要請するのが目的であった。信長は京都見物案内に贅を尽し、至れり尽くせりのもてなしをする。やがて春三月、北陸の雪どけのニュースを手にいれるや否や、信長は進軍を始め、家康もこれに従って、衆をひきつれて北陸に出陣をする。 もっともこのいくさは信長生涯の最大の危機となった。背後の近江の浅井長政が反旗をひるがえしたため、信長勢は背後からはさみ討ちという最悪の状況になったからである。信長は一番先に、浅井の裏切りのニュースを知るや、自分の部隊も同盟軍も危地に置いたまま、単騎で京都へ脱出してしまう。戦場の前線でこれを聞いたとき、家康はただひとこと「ほ、織田どのはもうここにおわさぬか」(吉川氏「新書太閤記)と言ったきり、不平も言わずに全軍の危機打開の責を背負いこみ、秀吉やちと協力してやっと逃げ帰った。やむなく、ここで「実直無比」のフォロアーシップを家康は発揮したことになるが、一方、信長は、感情ぬきの非情の一面を露呈したわけだ。「ズルイのもまた、強い」という言い方もできるだろう。 家康のズルさは信長の死の直後に現れる。本能寺の変以後、彼は時を移さず、信長の家臣、川尻清隆を打ちとり、森長可を追放して甲斐、信濃を手に入れる。 2024.03.19 記す 人を見かぎるとき P.60 本能寺の変で、信長なきあと、秀吉の勢力が昇天の勢いで拡大したが、これに対して、信長の子信雄が秀吉にひそかに対抗すべく、援助を家康に求めた。信雄はまず家康を招待してもてなす。その時、家康は信長と信雄のやり方を心のうちに比べて、改めて信長のスケールの大きさと、正反対に信雄の至らなさを見てとる。信雄は何でも豪華で、派手に金をかけてやればいいと思っていたようで、なるほど、やることは豪華だが、急所が皆抜けていると家康は見てとった(前掲、「新書太閤記」)。宴会のやり方でさえこの通り、あとは万事知れているというわけだ。 たとえば、宴席では次々とアトラクションを盛りだくさんに催すが、肝心かなめの客、家康がどんなコンディションで観ているかに気がつかない。家康はひそかにあくびをかみ殺している気配なのに、信雄は注意不足でサービス心がかえってあだになっているのに気がつかぬ。その翌朝、同じやかたに泊まった信雄が、自分では思いきって早起きをしたつもりで起きだしてみると、家康はとっくの昔に起きて朝めしもすませ、家臣たちと談笑をしている。信雄は主人役として誠に不行き届きな顔を下げて、家康に挨拶をすることになる。金をかけ、気を遣い、人を使い、それでいてぬけている。こんな信雄の様子を見ながら家康は内心、信雄の将来を見限ることになる。 その一方で家康が思いだすのは、信長の豪快、かつけんらんたるサービスと、あわせて、一分のすきもなく、TPOの要点をつかんだもてなし振りであった。人物の内容は、こんな接遇の端々にも現れる。今時の会社にも、接遇接客の上手下手の差がずいぶんと見られるものだ。接客の接遇の一つで見限られることもある。 2024.03.19 記す スマートな親分にはやぼで使える P.61 もう一つのエピソードがある。家康は信長からある日、時節はずれの珍しい桃を一籠贈られる。家康の側近の者たちは、「りっぱな桃」にびっくりするが、家康は見ただけでこれに手もつけず、家臣にやってしまう。 その心は、「こいうぜいたくなデラックスなものはオレもきらいじゃない。しかし、オレと信長とは、身上に格別の違いがある。小身代のオレがこんな珍物好みをするのは、害があって益がない。つい、無益のことに財を使い、結局は士を葦なう資力もないようになる。志があるならば好まぬほうがいいのが珍物である」というわけ。「信長の分限にてこそ、種々珍物を玩ばるべし」と」いったところが、家康らしい。「自分は自分の方針」を貫いているが、その陰で、どこかで信長に一目を置いている。 信長は多分に自由な商業と貿易主義に傾斜したところがあった。派手好きで自分の軍装も親衛隊の衣装にもだてをこらしたし、舶来物や最高級品好みであった。南蛮笠(今のソフト)をかぶって、安土で将兵の閲兵をやったりしているし、上杉謙信の歓を買おうとして贈ったいろいろのプレゼントの中には、当時第一級のビロード製コートなどの舶来品がたくさんある。 これに反して家康は農協の大将みたいだ。司馬遼太郎氏は言う。 ここで信長の資本観を家康のそれに比べると対照的である。 その反証の一つに、明智光秀の側近の軍兵の軍装もけんらん豪華で、水ぎわ立っていたのが、同じく、伊達とシックとデラックスが好きな信長のカンにさわったというエピソードもある。卑俗ながら、戦場ぐらしの知恵は、社長の服装を真似、その質は二段ぐらいおちたところを着用しておくというのが「いい味」だろう。 2023.03.19 記す 秀吉の同僚関係 P.64
用意がないと起こる社長の後継者争い 一つの会社の最高トップは、必ず自分の後継者を考えて準備しておかないと、彼のなきあと会社の社内秩序が乱れるおそれがある。今の企業の中でも見えない水面下の闘争は、上のレベルにいくほどはげしく汚ない。社長は健在のうちに、自分のめがねにかなう後継者の発見、育成、客観的条件作りを深く考慮しておかなければならないことは、今も昔も変わらない。 あとつぎに本物の立派な人材があって、その人材の「敵」を徐々に排除し続け、組織その他の客観的条件をととのえてその人材の活躍を容易にするような状況を作っておけば、一応天下は安泰である。 むろん、おかいこぐるみのオボロ後継者やゴマスリ後継ぎではだめということは言うまでもない。 ところで、織田信長の突然の死は、後継者決定のための客観的情勢混沌ということを意味した。織田を同族会社とすれば、四十九歳で不慮の死にあった超ワンマン社長が信長、そして子供や同族の者にはめぼしい実力と器量のあるものがいなかった。 信長には、異母兄や実弟が十一人いたが凡庸の人材ばかり、信長がピカ一の感があり、しかもそればかりか、逆に異母兄の信広は宿敵たる美濃の斎藤義竜に通じて信長を討とうとしたり、実弟の信行は、謀反を企て逆に信長に討たれるという始末。おじの織田信安、遠縁の織田信友など油断もすきもない連中ばかりで、信長は同族を平定するに数年を費やしている。 信長の子供は二十三人いた。そのうち、男が十三人。長子の信忠はややましな人物だったが、本能寺の変の時に、同じく光秀に二条城で討ちとられている。信長の子には、秀吉の養子となった秀勝のような少しはマシな実子もいたようだが、子供があっても子供運に恵まれていない。 さて、こんな具合でピカ一の総大将信長の急死は、織田会社の血で血を洗う跡目争いということになった。 信長は父信秀が使っていた老臣林通勝、佐久間信盛などを追放して無能重役の一掃をしたが、本能寺の変後の織田の重臣メンバーを、今の会社の組織になぞらえて考えてみると、下記のようになろう。今流にいうと、一部不同というところである。多少、気らくにつくった役員名簿として、ご了承を乞う。
このリストでみれば、社長(信長)、筆頭専務(織田信忠、信長嫡男)の二人がいっぺんに空席になり、常務明智光秀の空席を入れると、俄かにガタガタという格好。こんな事態はめったに起こるまい。今なら飛行機事故みたいなもの。
さて、織田家の後継者をいかに決めるかという宿老会議が、織田家の発祥の地、清州城で行なわれることになったのは、天正十年六月二日の本能寺の変後、一月もたたぬ二十七日のことである。 この重要会議の出席メンバーは、信雄、信孝、勝家、長秀、信輝、秀吉の六人。ところが、信雄と信孝は兄弟といってもおない年、母が夫々ちがう。信雄は親しみを持たれ易い性格だが凡庸、信孝には覇気があるが心足らず、両方並べて比べれば、いずれも六十点クラスの人材。そろって、実力はたいしたことはないのに、そのどちらかにしようとすれば、必ず紛糾が生じる形勢であった。 さて、その他の出席者の顔ぶれを順々に紹介すると、勝家は同族以外では一番の古参宿老だが、年すでに五十二とも、一説には六十をこえたともいう。しかも、越前に在任して、越中の上杉勢と対峙していたために、光秀攻撃には手が回らず、事変処理に何の貢献もない。 中国攻め司令官の秀吉は光秀を討ちとり、坂本、安土、長浜を奪還してから、美濃の岐阜城にはいり、信長の嫡孫三法師(信忠の子)や、その側近の間に自分への好意を十分につちかってから清州に来る。丹羽長秀は信孝をを主将として四国攻めにしたがっていたが、本能寺の変直後、士卒統率にさえ混乱を生じ、大阪にあって、秀吉の光秀攻撃には立ちおくれ、秀吉の手について本能寺の変の後始末の手伝いで終わる。 しかもこの席へ出られるもう一人の宿老、滝川一益は、関東からの撤退中のところで、途中、北條氏直の軍勢に悩まされて手間どり、会議参加に間に合わない。池田信輝は、中国から秀吉と行動を共にして、もはや秀吉のいうがままの位置にある。 2024.02.16 記す。 会議は情報の戦争だ P.67 清州会議の重要問題は、織田家の後継者の決定、ならびに信長、光秀の遺領の配分の二つである。今でも「会議は戦場」などという言い方が俗にされているけれど、この清州会議こそ、歴史的に最も火花の散るような、天下の形勢を決定する運命を託された緊迫した戦いの会議であった。 さて、この会議が始まる前に益川一益の出席不能が勝家がそれを無視したことは、秀吉にとってはプラスであったろう。秀吉はその計算をちゃんとあしていたに違いない。 信雄と信孝は異母兄弟で、その仲はしっくりしない。後継者の決定会議のふれこみで、まずこの二人が利害関係者としてはずされた。今の役員会議でもその中の役員の利益になる議案の場合には、座をはずされ、審議に加わらないのと同じ手だ。 勝家は後継者に三男信孝を推す。この推し方には事前の根まわしもなければ、支持を主張する情報の用意もなかった。ところが秀吉の」ほうでは十二分の根まわしと、情報の整理ができていた。秀吉は丹羽長秀、池田信輝との間に後継者問題の根まわしをしてあった。 勝家の主張は秀吉にかるく一蹴された。「織田家の家督は嫡男信忠と信長が決めていた以上、信忠の子三法師(三歳)に譲るのが当然」という秀吉の主張にまず信輝が同調して、さらに大勢順応的で、すでに秀吉から根まわしを受けていた長秀もこれに賛同した。 勝家の不覚は明らかだった。 「信孝を立てれば信雄が収まらない。信雄を立てれば信孝が不快になる」そこで二人を差しおいて織田家の後継者は信長の嫡孫とすれば、織田家の乱れを招かずにすむ。信輝と長秀はこの論理で、秀吉に同調して無理をしたともみえない。 清州会議の教訓は、会議にのぞむためには十分のねまわしが必要ということが一つ。しかしやりとりを有利にするには、豊かで質のいい情報の用意がまた重要である。秀吉はこの点で勝家に勝つ準備があった。しかももっとも決定的なことは、秀吉の仕事の実績とそれに並行した実力の急速な充実である。明智光秀を討ちとったのは、なんといっても彼の実績。しかもそれに伴って、秀吉は俄然、社内での実力を蓄積した。 勝家七十五万石の所領とすれば、秀吉は五十六万石、それに光秀の旧領五十四万石を掌中に収め、さらに毛利方から奪った新領地を加えると、勝家の実力の倍にも及ぶものがある。所領に平行して考えていい軍事力も、勝家の倍とみていい状況にあった。これが秀吉の発言力を強大にし、清州会議は秀吉の思うままの結論を出すことになった。 もっとあざやかなのがそれにつづく第二議案、所領の配分である。この点でも秀吉には十分に練った腹案があった。今でいえば、常務会のメンバーの都合のいい再編までに及ぶ原案である。 秀吉はまず先輩常務、滝川一益を蹴落とした。彼は関東の所領を失い、かつ、この会議にも出られぬ弱点を言い立てられて、換地は伊勢長島だけにとどめられ、しかも常務の宿老会議には、以後出席させないという欠席裁判をされた。秀吉の実績と実力主義の強引な勝利の一つである。 丹羽長秀、池田輝信には戦功を考えて所領をわけ、最後に勝家にも、将来、三法師が住む安土の近くの長浜城を」さっさと譲ることを提案した。長浜六万石は秀吉の旧領である。しkさし、天下の形勢にさとい秀吉からみれば、もはや要衝ではないが、一見いかにも勝家に譲歩したようだし、しかも三法師が住む安土の近くに秀吉が所領を持たないということで、秀吉には天下に野心なしを裏書きしてみせた形を作ったわけ。 だが秀吉の本当の腹は長浜の戦略的価値は自分にとって小さいばかりか、勝家にとっては、むしろ弱点となることを計算していたフシがある。 清州会議は勝家の司会で始まり、秀吉の名演技でひっかき回され、しかも、最後の幕切れでは秀吉の示威で終わった。 会議が終るとすぐ、新社長「三法師」のおひろめとなった。そのおひろめの仕方がニクイのは、「上さまお成り」とかけ声の下から、秀吉自分で三法師を抱いて現われ、宿老どもに拝礼をさせるという大芝居を打つ。 2024.03.19 記す 社内の激烈な闘争 P.70 秀吉の次の作戦は、社内の外交戦である。その外交戦のほこ先は、織田会社の取締役クラス、部課長族に対する勢力拡大であった。同族に、相容れないことが明瞭にわかっている先輩たちには実力による決戦の挑発である。いわば派閥固めと、自分をおびやかす競争者の排除である。これは、露骨で、酷薄な場面を次々と展開していく。 まず、自分に対抗的な先輩や、あるいは同期の連中の一掃である。今の会社でも実力主義などといって、適当なところを抜てきするとあとが大変だ。それよりも入社年次の古い先輩たちや、あるいは置きざりにされた同輩たちは大半納得しないか、不快をひそこに抱く。抜てきされた本人は後ろだてがいなくなる前に、早く目の上のコブや、態度のなれなれしいアブクみたいな「旧友」人の一掃を考えなくてはならなくなる。 そしてトップのほうに近づくにつれて、ニ、三年の年次差しかない後続人材をなるべく外に出して、そのあとへ自分の思う通りになる若手をずらりと並べて、わが身の安泰をはかる。十年、十五年の入社歴の差のある後輩にも、実をいうと油断はならない白ねずみもまじるが、概して自分がとりたてておけば、感謝のしっぽをふる層である。つまり「アゴで使いやすい人材」で回りを固める。友だち顔をしたり、対等の言葉づかいをしたり、過去を十二分に知っていて、仇名などでこちらをよぶような「扱いづらい層」よりも、この「かわいい層」を旗本にする必要をからだで感じる。 一将功なれば万骨、じゃないが三、四十人の同輩は、どこかにいつの間にカ片付けられ、消されてゆく。自分の作った、ちんまりした旗本団はトップが権力の座にある限り忠節である。いずれにせよ、信長も秀吉の場合も似たようなことはやっぱりやっている。 信長は父信秀がとりたてた老臣を無残に追放している。林通勝、佐久間信盛は信秀以来の老臣で、信長もこれらの老番頭を長いこと使ったが、突如として無能をとがめ立てしたり、二十年も前のトガを言い立てて、にわかに追っ払ったりしている。先代の社長が残した古取締役は、事あれば若社長がそれに罪をおっかぶせのに、都合のよい存在でもある。 秀吉もまた先代社長、信長の息のかかった武将や、自分が入社以来のすでに大先輩であった連中を、ためらわず大掃除をするという酷薄さがあった。 秀吉は賤ケ岳で勝家を打ち破り、越前北ノ庄で自滅させる。秀吉の羽柴という性は、老臣柴田勝家と、同じく老臣丹羽長秀の苗字から一字ずつ貰い受けた姓で、二人の老臣にあやかろうという趣旨であった。そのときのよき先輩であった丹羽長秀は、信長の家臣中では温厚堅実、いくさも強く、「木綿藤吉、米五郎佐、かかれ柴田に退き佐久間」と当時俗謡に謳われたが、その中の米五郎佐は、長秀のことである。長秀は、上にも下にもいいこと、だれでも食べる※に似ているということで、うたわれた文句である。しかも、秀吉の大先輩であった。 その長秀さえ、憂憤の情を抱きながら自刃した。そのわけは秀吉に本能寺の変以来、いいようにおだてられて使われ、長秀もまた長い間、秀吉に協力をつづけた形であったのに、実はその本音はそうではなかった。成り上がりの後輩、秀吉のやり方に深い怒りを内蔵して、機会あれば秀吉を討ちたいと思ったのに、我の実力を彼に比べれば、勝ち目がないことを認めざるを得なかった結果の憤死である。 清州の会議で、秀吉に欠席裁判されて、常務陣から追い落とされた滝川一益も、むろん秀吉よりもはるかに先輩の社歴のある宿老だった。関東から帰った彼が、きのうに変わる今日の織田会社の内情に憤懣やるかたなかったのは自然で、清州以後、これも不幸のかたまりであった織田信孝と通じて、秀吉に反対して挙兵にふみ切った。 賤ケ岳に勝家破れ(天正十一年)、長秀自刃(天正十三年)のあと、一益も敗れてその生涯を終わる(天正十四年)。清州会議以後、四年で秀吉の宿老先輩一掃は完了する。 柴田勝家の組下大名、いわば柴田局長の下の有力部長であった佐々成政も、むろん秀吉の先輩であった。成政も、勝家と秀吉の対立のときは勝家の味方となったが、勝家もろくも敗れて成政は越中に孤立した。 彼は尾張の土豪の出身で、かつての下っ端の秀吉に対し降伏するのは心外千万だったが、天正十一年とうとう白旗をかかげた。秀吉はこれを許して越中の国を与えたが、成政は一向に時勢の激変をさとらず、十二年、家康が秀吉と小牧、長久手に戦ったとき、家康応援に出発した。だが、家康は秀吉とすぐに手を結び、まったくの無駄骨の形となったのも、不敏のそしりをまぬがれぬ。 その後十五年、成政は再び秀吉に降参、秀吉の先手として島津征伐にあたった。成政は肥後の国を貰って着任したが、それがワナであった。肥後の国は一揆の盛んなところで成政を手こずらす。秀吉はそれを口実にして、成政に責任をとらせ切腹を命じる。今なら自発退社への追い込みである。 秀吉の敵対者一掃は、敵対者の子分筋まで及んでいる。 2024.03.19 記す 珍しい同期の桜の友情 P.74 今の職場でも、思いがけない時に思いがけない好意を発見する。たとえば家族に不幸があった時など、思いがけない人から、平生つき合いがなかったのに、ていねいな弔問を受けたりする。職場が社内競争、あるいは闘争の場であったにしても、一方では好意を発見できる場でもある。 ペイペイの新入社員、木下藤吉郎(秀吉)と前田犬千代(利家)の関係はその一例のようだ。秀吉が入社したとき、すでに利家は信長の小姓として(一五五一年、十四歳で信長に仕う)いわば秘書課員として働いていた。だが、利家は大変なエラーをやってのけ、一時退職をして、二年おいてやっと二十四歳のとき、かえり新参の社員として復帰が叶う。 秀吉このとき二十六歳、似たりよったりの同年代である。秀吉は仕えて二年目、足軽からとりたてxられられて足軽頭、台所頭などをつとめる。今でいうと総務の厚生課員といったところだから、社長室付の秘書課員などとは、社内安全衛生管理などとヨコンお連絡会議ンあどやるチャンスも、いろいろあるようなものであろう。 しかも秀吉は下っ端でも、信長との接触度合いが多い。いくら実力主義社会でも、素性の知れた下っ端社員のコンプレックスと、落ち度をやった返り新参の若い社員のコンプレックスとは、何か通じ合う心の基礎があったようだ。 その後の、この二人の社員コースを眺めてみると、ほぼ平行して昇進をつづけている。利家は桶狭間合戦後に帰参してから九年目、前田家の世帯主になり、天正三年越前の国府中の城主となる。この府中城主の重みは、取締役柴田勝家を局長とすれば、その下の一部長城主といったところであろう。 一方、秀吉は頭角を現わして、永禄九年(一五六六)墨俣に築城してその城を預かり、その後天正二年(一五七四)春、長浜に築城してその城主にされているが、そのとき秀吉は筑前守に任ぜられ、年三十九歳。前田利家が府中の城主となったのは、一年遅れて一五七五年、三十八歳である。いわば変則的な同期の桜といったところで、この二人の間には今の同期生意識みたいな感情があったにしても不思議ではなかろう。 賤ケ岳の戦いで利家は大いに困惑した。社の職制上、利家は勝家局長の下に立って陣を張ったが、むろん戦意はなくて、義理たての陣。戦い開始と共にサッサと撤退している。府中城に帰ってからは、秀吉軍へ備えての戦備をかためていたのも筋は立っている。秀吉への友誼を果たし、職制上の上役には義理を立てるというニ筋を上手にやったところは「立派」だった。 同じ勝家局長の下の部長、佐々成政とは利家はもともとソリが合わず、天正十二年、旗色鮮明に秀吉方の部隊長として成政と合戦に及んでいる。秀吉が出世コースをばく進中、利家くらいが素直に祝い酒を酌んでやったひとであろう。若いときに、互いにキズをなめてやった仲間同士の友情は永続きする。秀吉、利家の友情は晩年に至るまで変わらず、秀吉が自分の亡きあと本当に統一政権を委託したかったのは利家だったろう。 2024.03.20 記す 社長が死ぬのも亦たのし P.76 織田会社の姿を、今の会社に比べてみれば、若いエネルギーでトップが組織された企業であった。本能寺の変直前では、信長四十九歳、秀吉は四十七歳、宿老柴田勝家は六十一歳(五十二歳ともいわれる)、丹羽長秀(四十八歳)、光秀はこのとき五十五歳(織田会社入社のときは中途入社で三十九歳)、宿老滝川一益は五十八歳、前田利家も四十五歳といった次第。 桶狭間の戦いの昔をふり返ってみると、信長は二十七歳、秀吉は二十五歳、勝家三十歳、長秀ニ十六歳、一益三十六歳というわけである。 本能寺の変のととき、協力会社の社長、徳川家康は四十一歳、変後の動きを見ると、四十代の分別ざかり、悪くいうと権謀術数まっさかりの年代であるという感じもする。 たとえば―― 協力会社の社長徳川家康の動きは、今でいうならば、どさくさまぎれの火事ドロ的な、シェアの拡大にまず現れた。本能寺の変の直前、家康は信長から協力感謝のしるしとして駿河一国をもらい、そのお礼の挨拶としてわざわざ信長の本拠安土の城を訪れている。 前にも書いたように、織田会社のもっとも忠実な協力会社の社長hえの協力の恩賜としては、駿河一国が少な過ぎたことは、家康といえども自分でしっているが、それをやおくびにも出さず、わざわざ答礼にかけつけたのは、いかに恩賜を多としているかを大げさに示し、信長に「家康は思いのほかに気の小さい奴」と安心させるためであった。(司馬氏「国盗り物語」) ところが、これを裏書きするかのように、本能寺の変から数ヵ月出ないうちに、彼は東にあった信長の旧所領をごっそり切りとることになる。信長の家来、甲斐にいた川尻秀隆を斬り、海津城主、森長可を追って、甲州と信州をたちまちその支配下においた。 この家康の行動を草葉の蔭の信長は、「やっぱりあいつ、思いのhぼかに油断ならぬ奴」と感じたに違いない。百八十度のヘンシンぶりである。かねて家康は、信長の武田攻めにあたっては、武田ンお旧臣を信長に秘してひそかに扶養を与え、東への進出の布石としていた。その結論が、甲州、信州のktyっかりした占領である。滝川一益が関東撤退のその途上で北条軍と難戦し助勢を求めて来ても、もはや家康は援助の手をさしのべていない。こわい社長がいなくなれば、協力会社ナンバーワンの社長も、こんなに冷たくなるのかと一益は嘆いたに違いない。他社の「こわい」のがいなくなるのも、またたのしということが一方ではいえそうである。 (本章は小瀬南庵「太閤記」、山路愛山「徳川家康」、岡谷繁實氏「名将之戦略上・下」「名将言行禄」、山岡荘八氏「徳川家康」、吉川英治「新書太閤記」などによるところが多いことを付記します) 2024.03.20 記す 秀吉と家臣との人間模様
同族会社の泣きどころ P.79 織田会社の社長、信長の死後、その残存同族の専務、織田信孝(神戸信孝)に自害させ、また織田信雄をとうとう関東の北、下野に二万石の小名で追っぱらった豊臣秀吉は、さて自分が大会社を作りあげた時には、やはり信長以上の同族中心の会社を作っていた。 同族色は意外なくらい徹底している。今の日本の会社も、その七割は同族会社であるが、同族会社のメリットとデメリットを一般的に考えるとき、それは明暗相半ばしているといってもよかろう。 デメリットのほうを考えてみると、たとえその会社が実力主義を看板にしても、「同族だけは別枠」という不徹底さを生じる。時によると、実力主義が、この別枠の大きな広がりのために、ねじ曲がってくるおそれもないではない。秀吉の同族会社はそうした一般的デメリットよりも、同族そのものの弱勢に大いに悩んだようだ。秀吉は「実力専務」の地位にすえるような能力のある実子を持たなかった。晩年になってやっと秀頼が生れたが、その器量は海のものと山のものともつかぬうちに、秀吉の死没で、秀吉会社は思いのほかに急速な没落を遂げることになる。 こうみると、逆に子供がたくさんいて、その中から三、四人の優秀なのが育つような同族のケースは非常な「幸運家族」でもあり、また協力でもあるといえる。話は飛ぶが、美濃の」まむしといわれた斎藤道三もまた、子運に恵まれず、同時に経営運にも見放された一例といえよう。 秀吉の場合には晩年に至って初めて実子が生まれるまでは、血縁をたどっての同族の男の子のかき集めにあせった感さえある。 たとえば、異父弟から妻の姉の子、あるいは、妻の叔父の子、妻の弟の子、あるいは妻の妹の夫などと、親族中をにらみまわしかきまわし、そして男の子で使えそうなやつ、あるいは海のものとも山のもにともわからぬなりに、男の子と聞けば連れてきて、秀吉会社の重要メンバーにすえてみるということをやり続けた。 たとえば、大和大納言秀長(豊臣秀長)は、微賤のころの義父筑阿弥と実母の間に生れた義弟である。武将、杉原家次は、妻の叔父、杉原定行の長男であり、妻にとってはいとこ筋に当たる。姉夫婦の子がのちの関白秀次。妻の弟の子がのちの小早川秀秋。妻の妹の亭主」、これが浅野長政である。このうち武将らしく成長した一級の人物は、秀長と長政である。 中くらいのが家次で、秀吉が自分で落第点をつけ、ケリをつけねばならなかったのが秀次。また、成長するにつれて愚鈍であることがはっきりわかってきて、処置に困って養子に出したのが秀秋である。しかも豊臣会社の中で人望もあり、秀吉もたよりにできそうな異父弟秀長は、働きざかりの五十一歳で秀吉に先立って政治的に大事な、天正十九年、文禄の役の前年に没してしまう。杉原定次なども若死して、戦国時代の歴史の一ページの数行にチラリとその名が見えるに終わっている。 そこで秀吉は、血はつながらずとも、閨閥につながる係累者を、さらに重用せざるを得なくなる。秀吉の養子には、比較的に優秀で、かつ養父母思いの武将に成長した信長の四男、於次丸がいた。これが羽柴於次秀勝である。この秀勝は、信長の子ではあったが終始秀吉に信頼をよせた養子である。だが、これも残念ながら天正十三年十八歳の若さで死ぬ。同じく、羽柴秀勝を名乗らせた武将がいるが、これは姉夫婦の第三子小吉である。しかしこの小吉秀勝も生命運のもろい人で、二十四歳で若死。そのあとを継いだ同じく姉夫婦の第三子秀保も十三歳で事故死をするというわけで、それぞれ生命力のタフさを欠いていた。 こういう状況をみていると、豊臣会社の同族会社としての弱点は大きい。だから、秀吉が猶子として宇喜多秀家と、前記の妻の妹の夫で、秀吉が子供のころに一つ屋根の下で義兄弟のようにまじわりを深めていた浅野長政などを、同族内の有力外郭者として重用したのもうなずけることである。秀家の父直家は元毛利の与力大名だったのが、秀吉に接近して寝返った人。権謀家だったが、妻が美人であった。秀吉はその後家を内妻に加え、その子秀家を猶子とした。比較的縁は深い。 2024.03.20 記す 秀吉会社の重役陣 P.82 秀吉会社の重役陣の顔ぶれを今様にしてみると、次のような表になろう。(天正十九年、カッコ内年齢)。
このリストでみても、秀吉の無理とあせりがわかる。家臣団には、実力主義、実績主義をうたいながら、そのそとで「別ワク同族主義」がsつないくらいに「寸たらずの手」を精いっぱいに広げている。トップ陣に並んでいる同族の年齢を、他の人々のそれと比べてみてもすぐわかる。秀次二十三歳、秀秋十歳、秀家二十一歳。みんな未熟。未完成のもろい素材を持って、高楼をささえる「巨柱」においているわけだ。このリスト外では北政所の兄、木下家定が大阪城留守居役になっており、秀吉の愛妾、松の丸殿の兄、京極高次は大津六万石の大名になっている。高次は本能寺の変では、光秀に味方をして一時追放された人だが、その後、妹が妾となってこの縁で許されたもの。よくいえば秀吉は、肉親愛、親戚おもい、わるくいえば、血縁、縁故や自分の「女の性」の価値に大きな傾斜を示していたというわけである。
2024.03.20 記す 同情できる閨閥起用 P.84 秀吉は三十八歳で小谷(長浜)城主、次いで播磨の領主になって五十二万石の大名となり、そのあと中国攻略司令官に任じられたが、そのころから秀吉は、初めて同族の起用を表面に立てだしている。 松原家次と浅野長政は鳥取城攻めに、羽柴秀長は因幡、但馬攻めに協力している。このころの秀吉の立場としては、織田に仕えて微輩からのしあがって、中国攻めの指令官という大任を与えられ、その与力大名を使い、あるいは応援大名の協力を求めるに当って、かなりの苦心をしたのは明らかだ。秀吉を局長とすれば、秀吉の組下の大名は、部長ないし課長クラスの連中だから、これはむろん、扱いやすかったが、先輩、同僚クラスの応援諸将となると、さすがの秀吉も扱いづらかった。信長の命によって、先輩大名クラスも応援部隊長として、来援してもそれをまとめるのが難事だったばかりか、むしろ秀吉作戦の批判者として邪魔になることもあったろう。 正面の敵である毛利との戦いよりも、むしろ別の意味の陰気な社内闘争に似た面倒さを感じただろう。そんな折には、同族、杉原定次、浅野長政、羽柴秀長などは、手足として指揮しやすかったことは自明のことである。手足のような同族たちの活躍は、秀吉のもっとも苦しかった中国攻めの時に、秀吉のこころにしみ、同族人間関係のメリットを、彼はよくよく、かみしめたのであろう。 秀吉が自分の時代を決定的に作りあげた天正十三年には、早くも養子於次秀勝を丹波の領主としてるが、秀勝は、この時、わずかに十八歳であった。明智光秀との対決の時は、明智方の攻撃をよくさせた若手である。 2024.03.01 記す "支店長時代"の下役たちの重用 P.85 秀吉には、放浪時代、小谷(長浜)の城主時代、それに中国攻略の四年間に集めた人材があるが、放浪時代に拾った人材は宿老挌、小谷・長浜時代は子飼い人材が多い。 小谷・長浜時代の人材は天正元年前後でみると、中村一氏、このとき長浜で二百石取りの近侍、石田三成が秀吉に仕えた時が、やはり天正三年、十三歳の少年ぼ時である。増田長盛もこのころ、秀吉との関係ができ、賤ケ岳七本槍のうちの一人、脇坂安治、片桐且元、加藤嘉明、それに田中吉政もこのころの採用の若手社員である。 一氏、三成、長盛、安治、且元、それに藤堂高虎と、いずれも皆近江の国の出身か、在任者で、秀吉はその領内から、子飼いの人材を集めたわけである。今でいえば、「長浜の支店長」になった時、その土地っ子の現地採用をやったようなものであろう。近江の国出身関係の秀吉の家臣は、その後も長く秀吉の協力者として働き、秀吉の在世中、重きを成す者が多い。 こういうことは、今の会社でもよくあることである。現社長の社歴を各段階でみると、たとえば部課長時代、その下にいてウマの合った部員、あるいは課員というのを自分の派閥の一員としてとりたてている、ということもよくある。 よくいえば、こういう連中は気心が知れているという関係であるが、ハタからみれば人脈である。他の部局にもっとすぐれた人材がいても、知らぬがゆえに目がとどかないとう欠点が伴うものだ。秀吉もやはり人の子だ。小谷・長浜時代の採用者を第一次の子飼いとした傾きがある。 秀吉は少年期から放浪時代の知己としての、また、その生涯にわたっての協力者としての、旧知の家臣団がいた。それは、秀吉放浪時代の仲間であった野武士の一団である。その代表が>蜂須賀小六正勝だ。彼はいわば、秀吉の家中では、相談役格の宿老だ。小六は長浜時代に正式に秀吉の幕下にはいるが、そのとき小六は五十歳。せがれの家政十七歳。親子そろって秀吉に仕えることとなる。小六はその終生を、秀吉と運命をともにした協力者の一人で、「出世太閤記」の前半、秀吉が長浜の城主となるまでの、野性的で、陽気な機略のある活動をさせた力であった。小六は秀吉の中国攻めめ折には、秀吉軍の部隊長として従軍し天保九年の本能寺の変が起こるとともに秀吉が京都にかけ戻ったその後を引き受けて、彼は、大敵、毛利との交渉の大任に当たった。ただの野武士ではない。だが、秀吉は手足となる生命運に恵まれなかった。 天正十四年、秀吉が豊臣とその姓を変えて、豊臣時代の幕開きをみるとともに、小六はポックリと他界している。そのとき六十一歳。その子家政二十四歳。ここで小六のことを詳しく述べたのは、もし小六がここで死んでいなかったら、秀吉の家臣団の中核、宿老としてかなりニラミの効いた存在になったはずであるということだ。人望あった秀長と並んで人心をまとめる人材だった。 そうならば、秀吉の家臣団、若手同士の間に対立が生じても、それを緩和する解毒役として、重要な役割を果していたに違いないと思われる。 つまり、やがてきざしてくる十年後の文治派(石田三成、小西行長、増田長盛など)と、武断派(加藤清正、福島正則など)との対立も、小六という「宿老」の力で表面にたたせぬうちに、再び結合させるような努力はできたであろう。とういう意味でここにも豊臣会社が重要な人物の生命運に恵まれなかったというしるしがある。 今の会社でもこんな例がよくあって、社長が虎の子として大切にし、その才能を買い、かつ運命共同体の寿命を、次代に引き継いでゆく存在とみなしている人がポックリと死ぬ。そのことが遠因となって、社運のおとろえがきざす会社がある。具体的例示をといわれれば、口がモグモグするくらいあげたい会社がいっぱいある。 秀吉の家臣団をみるとき、こういう小六のような人物が他にいない。下世話にいう通り、どの会社でも若い連中をまとめていく兄貴、ないし経験の深い、ちゃんとした「古老」の存在が必要なのである。若者の多い社ほどそうだといっていい。 2024.03.21 記す 秀吉と信長の人事管理の違い P.88 秀吉と信長の採用人事を比べてみると、基本的には秀吉は信長と同じことをやっている。つまり、門地、家柄、血筋、そういうものに一切こだわらず、力ある者を、何ものにもとらわれず広く採用した点では、彼は信長の後継ぎである。 たとえば、寺小姓(石田三成)、かじやのせがれ(加藤清正)、堺の豪商だが薬屋のせがれ(小西行長)、桶屋のせがれ(福島正則)、馬方もやった男(加藤嘉明)などといったメンバーをみていてもそれがわかる。 もう一つ秀吉の人事では、信長よりも前進しているところが一つある。信長は実力主義の採用をやったとしても、いわば自分の所にとまりにくる実力ある者を採用した様子は、あたかも天井につるしたハエ取り紙にとまったやつを、よしとみれば取るに似ている。 秀吉はもっと積極的だ。「ソレ赤とんぼが出た」といえばそっちへモチをつけたサオをもって走る子供に似ている。たとえば敵の領内の山中といえども、ほしい人材ありときけば訪ねて入社を勧誘する積極性があった。美濃、菩提山城にいた軍略家、竹中半兵衛重治に軍師就任を頼みに行ったエピソードにみる通りである。 卑近な例だが、他社の優秀社員を引き抜いたり、あるいは辺地に労務担当重役を派して金の卵を集めたり、などという採用よりも、もっとロマンチックな積極人事である。 秀吉はいつも豪語した。「おれがいい大将だから、おれにそむくやつはいないはず」と。事実秀吉は生涯かけて重臣の大きな謀反にあってはいない。 彼の労務管理は、からっとして陽気であった。彼の戦法も、一人でも兵を傷つけることを避けるという方針で、水攻めのようなジワジワと時間をかける安全戦法が好きだったことにもそれがうかがわれる。 信長は、彼もまた「家来はおれにそむかぬもの」と信じていたが、有力な同盟会社社長、浅井長政の裏切りや、平取締役格の重臣荒木村重、常務格の明智光秀の謀反にあっている。 この理由は信長の人間観が実力主義・合理主義によって貫かれていた新しいものであったとしても、その人間観に非情の側面があった事実によってである。前述したとおり、秀吉は卑賎の出で、苦労の連続をしてきたが、信長はたとえ小なりといえども、二世経営者であった。生れながらにして、彼の下には家来がいた。この差が二人の人間管理に基本的差をつけた要素であろう。 信長は敵を攻めるにも、惨烈をきわめた。徹底的にやっつけた。そうせねばならない古い勢力に対する必要悪の破壊でもあったが、しかし、社内の人心把握の点では、「恐怖による支配」におちた時期もある。これが信長の政権が短命であった理由の最大のものである。 秀吉の家臣との人間関係は、コミュニケーションの幅がひろく、しかも、そのコミュニケーションは温度が高かったといえるし、濃密でもあったといえる。 今の会社の中にも非常に用心深い社長がある。ある社長は会社の専務、常務陣、あるいは兄弟会社の最高首脳部は、学生時代の一番気心知れた親友たちでかためている。 逆に、ある社長は後ろ盾に大物財界人を控えているものの、自分の会社の専務、常務陣には、あまり心を許していない。大先輩が譲ってくれた社長席の自分を自覚すると、回りの重役にまかせきっていいと思う存在は意外に少ないらしい。 秀吉の人材採用の第三期は、中国攻略中だ。毛利攻めに際して、自分のまわりに、にわかにつきはじめた多数の人材がいたが、そのころの秀吉の年は、四十代の初めである。 本能寺の変まで秀吉は、四年の苦労を中国司令官としてつぶさになめる。そのとき、新しくまわりに集まった人材に、竹中半兵衛に似た黒田官兵衛(如水)、それに宇喜多直家(秀家の父)などがいるが、このとき黒田官兵衛、三十三歳、竹中半兵衛、三十五歳といった年齢である。互いに苦労を共にし、協力を乞い得た仲ではあるが、やはり、中年以後の知己であり、新しい側近である、という点で放浪時代、長浜時代の家臣とちがう。 中年からのつき合いというものは、一般的にいって「才能」でつき合いをして、裸身でつき合わない。十代からのつき合いは、才能や計算でよりも、情や、似たような環境や裸でつき合うことができるときだ。こうみると分別盛り以後の新主従は、手放しの透明な関係よりも、知恵と知恵のからみ合いの関係であって、秀吉は、早く死んだ半兵衛は別として、官兵衛のように、自分によく似た大物の人材には、最後まで大封を与えず、豊前中州の城主十二万石の中級大名にとどめたのも、警戒心のさせたわざであろう。 (本章の参考書は渡辺世祐氏「秀吉の生涯)「豊太閤とその家族」、林屋辰三郎氏「日本の歴史12――天下統一」=中央公論社版、吉川英治氏「新書太閤記」 2024.03.02 記す 秀吉の軍師・官兵衛と半兵衛
出世に仕えず仕事に仕えるタイプ P.92 自分の全力をあげて取り組むプロジェクトがあって、それが成しとげられた時の満足感は、生き甲斐の一つである。組織の中にいる人物でも同じだ。しかし、仕事そのものに自己を託さずに立身出世の中にだけ生き甲斐を求めるのは、逆立ちした出世主義である。本来の組織人間は仕事に仕えて出世には仕えず、創造的な自分の金字塔を打ち立て続ける爽快さの中に、まず自分を活かそうとする。そしてその結果として、立身栄達がやって来ても、自然である。それは心と才幹才能のある人間の自由裁量範囲の拡大のため歓迎してもいいが別に追い求めない。こうしたタイプのサバサバしたサムライビジネスマンは、もうめずらしいものになった。 竹中半兵衛は、黒田官兵衛と共にこの種の戦国ビジネスマンであcつた。半兵衛の方が官兵衛よりも、この点ではさらに徹していた。官兵衛は大領地を与えられるなら、出世してもいいという俗な面が残っていたが、半兵衛にはそういう俗臭は影も形もない。官兵衛よりも、名人的で純粋に透徹していたかもしれない。半兵衛の場合は、秀吉から引っぱり出され、官兵衛は自分から秀吉に接近をはかった。そこにも両者の違いはある。いずれにせよ二人の生き方は、出世に仕えず、自分の仕事や自分の戦略に仕えたという点では全く共通であった。 彼らは立身栄達の対して第一義の意味を置かず、自分の仕事の中に第一義の意味をおく、無欲とみえ、淡泊とみえるが、創造的仕事には熾んな意欲をもやす。 半兵衛も、官兵衛も、自分の機略を縦横に発揮し、思い切って筆を振るえる場を求めた。 播州御着の小豪族小寺藤兵衛家の家老として周囲をみ回した限りでは、官兵衛の対象となる場は、そこには全くなかった。そして彼は、近世合理主義へ強く傾斜した新興、織田信長会社の息吹に触れ、その組織内に羽柴秀吉を発見し、そして、秀吉という名の画布にに向って、自分の思うままの機略の絵を描いてみよいうと試みる。官兵衛の願いは、ある程度描き出される。その限りでは、官兵衛は所を得た時があった。秀吉という画布が、ピンピンと張っていて、官兵衛の筆を心よく受けとめた時である。しかし官兵衛はその時ですらそのプラニングとデザインを生き甲斐とするためには、一方で組織内人間としての二重、三重のくびきをつけたまま四苦八苦せねばならなかった。 直属の小豪族の主家の小社長小寺藤兵衛と、羽柴秀吉と、織田信長とを縦に並べて一つの組織の人として考えてみると、今でいえば、藤兵衛は直属の課長、秀吉はその上の部長、信長が社長という系列に仕立て直せようか。官兵衛はそういう二重、三重のくびきの中でいかに忠誠のフォロアーシップを貫くか――について、四苦八苦する。 その様子はじれったい位である。課長の顔を立てれば部長に悪い。社長とはしっくり肌が合わないが、でも部長とはうまくいきそうだ。課長はグズで見通しが悪い。老いてはその心のひからびた油断のならぬ人柄に代ってしまっていても、官兵衛はなお、その課長を立て、気がねしながら、部長の提供する画布に向かう。課長ごと、揃っていい絵を描かこうとする。ところが思いがけぬ面倒臭さや、足引きや、反撃が官兵衛の足もとをさらう。官兵衛の才幹が、組織の中でのたうちまわっているようなじれったさやりきれきれなさもうかがえる。しかも脱サラにふみ切れなかった戦国ビジネスマン、官兵衛は、曲がりなりにも自分の絵を描き通してゆく。 私的欲望をもたぬが故にこそ、官兵衛はすがすがしい。しかし、組織はすがすがしい才幹の発達の場であるだけではなく、逆にそれを抑えこむ面倒臭さや気づまりがある。官兵衛の生涯は花火のような鮮烈さがあるが、組織という名の画布の上では、すぐにその色彩は移ろう。そんな悲しみもある。創造的人間が描こうとして向かう画布は、ミイラの包み布のように朽ち果てる時があるのだ。晩年の朝鮮侵入時代の秀吉などはそうだ。 文禄の役を始めた秀吉の真意は、単なる拡大主義の」海外進出を計ったというのではなく、外様諸将をはじめ群雄の戦力の消耗をはかるにあったという説(「日本の歴史15・織田豊臣政権」藤木久志氏)もあるが、諸将の多くは、朝鮮進攻の開始とともに内心に怒りを発し、会津の名将、蒲生氏郷などは、「サルめ、気が狂いおったか!」とののしったと伝えられ、黒田官兵衛もまた、無益無用の出兵に強い批判と憂悶を抱いていた。つまり晩年の官兵衛は描くべき画布を、完全に失った時期である。官兵衛の生涯の最深の疎外感は、この時期に現れる。だが、それはそれとして、出世亡者がウヨウヨしている環境や、ギスギスと他人を傷つける人間が満ちている状況の中から望めば、官兵衛が自分の仕事に仕える生き方の熾烈さは、晩の金星のように光る。 竹中半兵衛もドロドロした立身栄達の世界の生ぐささに背を向けた。しかし、半兵衛も官兵衛も自分自身で自分の腕をふるうべき場をセルフメイドで作ることはしなかった。セルメイドの場を作ったのは斎藤道三である。齋藤道三は油売りの境涯から身を起して、とうとう自分の世界を自分でこしらえた。だが作り上げた時には道三はすでに老いていた。彼の仕事は、結局、美濃の国を我が手に収めることで終わった。おそらく半兵衛も官兵衛も今でいえば脱サラをして自由な自分の世界を作るにはいい時世、というチャンスを得られなかったのだろう。スピーディに自分の芸術を展開しようとすれば、レディーメイドの画布を見つけ出す方がよかったというわけ。 竹中半兵衛の父の重元は北美濃の菩提山城主として斎藤竜興(道三の孫で、岐阜稲葉山の城主)に所属していた。父が死んで跡取りとなったのが十九歳。半兵衛の風貌は女のようにやさしく、態度も大様でおとなしげであった。戦国殺伐の気風みなぎる当時とて、いわば規格外の風貌だった。そのため、社長の竜興も、半兵衛のおっとりしているのを侮って、ちょくちょく無礼な仕打ちをした。 ある日、竜興の近臣どもいが、やはり半兵衛を侮って、矢倉の上から小便をひっかけた。半兵衛はとうとう怒った。たまたま弟の久作が人質として稲葉城にいたが、この弟の病気の看護に名を借りて家来六人を予め送り込み、続いて長持に武器武具を入れ、家来十人を連れて登城した。長持には見舞客のために酒、肴が入っているというふれ込みで城門を突破した。夜を待って総勢十七人、にわかに武装して、メッタヤタラに城中の連中を切りまくり、大混乱に陥れて、とうとう社長の竜興を追っ払って城を乗っ取った。一年も占領を続けた後、舅の安藤伊賀守(美濃三人衆といわれ、後、信長につかえた)が仲に立って城を社長に返してやった。半兵衛の「沈勇温毅」で知恵のかたまりという資質がそのころから天下に知られるようになる。信長も半兵衛がいるうちは美濃を攻めなかった。(「名将言行禄」) ここで半兵衛が道三なみに自分の踊りをみせる場を自分で作れば、今でいう脱サラしてベンチャービジネス会社をおっぱじめるに似ているが、半兵衛はやっぱり菩提山の城に隠棲して、小豪族をきめこんでいたところに、一種の文化人的気質を感じる。彼にとっては戦術を練り、経営体を借りてそれを展開し、むしろ乱世を楽しむの概があった利では動かず、義で働き、俗世間のあsたり前の組織人間には思いもつかぬ文化的エスプリを発揮するのを楽しむ。こんなタイプの男だから、今の時代の@「長と名の付くポスト好み」や、「役職あこがれ病患者」にとっては、半兵衛はおそらく理解しがたいところがあろう。 2024.03.22 記す 真剣勝負の男と男の出会い P.97 播州情勢の情報とその経略のプランとデザインを携えて、新興会社の社長に面接が出来た黒田官兵衛は次いで、播州地方担当役員としての羽柴秀吉を知る。官兵衛と信長、秀吉の出会いは、やはり「男と男の出会い」として、真剣勝負をみるような、爽快な緊張がある。 織田名秘書、武井夕庵にアドバイスされて信長と会う日に官兵衛は、早起きして衣装をととのえる。月代を剃ってもらい、顔も剃った。官兵衛は不精者で、これまではそんなことに心をつくさず、くらしていたのに、彼は、「こんなにしても信長に気に入られたいのか」とふと自己嫌悪にかすめられるが、俺は信長という人間に会うのではなく新時世に自分の小企業ぐるみ入っていくのだ(「播摩灘物語・上」司馬遼太郎氏)などと思い返す。 官兵衛のフォロアーシップにはこんな、組織外人間、自由人、自由職業者的感覚がつきまとっている。今の若い人にも、よくある、ヒゲなんかなんだ、自分の」好きで生やそうが、剃ろうが、じゆうだろうという感覚だ。中には、うすら汚いのが妙に伊達……と思う感覚さえある。 だが――ひげ剃りなどにこだわるのは、組織外のにんげんでなくても、おかしい話だ。サッパリしていれば自分も気持ちよく、人にも悪い印象を与えない。やる方がいいことを自然にやるのに、何故、こだわる! それはさておき男と男の出会いは会った瞬間、全身全霊をあげて相手を見抜く観察の火花が散る。秀吉と官兵衛の出会いもそうであった。第一印象のこわさというのがここにある。 官兵衛は、信長に会ったあと長浜城内で、秀吉に会う。 「秀吉と対座して官兵衛の心は鼓がとどろくような躍動をおぼえていたかとおもうと、息を詰めて池心(ちしん)を見つめるような瞬間もあり、かと思うと、秀吉の無邪気さに心の底から声をあげて笑ってしまうときもあった。 ともかくも秀吉は相手をこころよく変化させた」「秀吉は最初『藤吉郎』でござると着座するなりいった。その瞬間の印象は鉄のように黒い面貌から両眼がするどく光って精悍というような表現がなおなまぬるく、膝に触れただけでも手が砕けそうなほどの凄味を感じさせた」(司馬氏、前掲書) 直感力は、その人の世界観が血肉になって消化された上に発する力である。第一印象の見合いは、直観――世界観の切りむすびといっていい。秀吉は、天下の太閤となるまでの中年期、壮年期には、人蕩らしといわれるくらい、合う人間たちお魅了する力を発揮した。 陽気であけひろげ、人みしりせず、物惜しみせず、自分の好意善意は他人の心の底にも映えるものという信念と……秀吉はそんな風に、人間への愛情を広げたときがある。 秀吉の人を治むる術は「自己の心胸を以て直に人の心胸に触れんと試みたり」「彼は人たらしの名人なり」「其善く人をたらし得たる所以のものは無巧無技にして直ちに真性情を流露し来りし為なり」(山路愛山) しかし秀吉が、信長に対する情報の細大漏らさぬ機敏な報告、連絡ぶりなどのマメマメしさ、用心深さ、情報解釈力の深さ、ものの見透しの明快さが、官兵衛をとらえてしまう。 秀吉もまた官兵衛が気にいった。自分に似た者の発見である。 「天下構想にいきつかまで、大小の芸を生涯かけてしてみたいのが目的である。天下がころがりこんでくれば拾ってもよし、来なくても、自分の人生は充足している」(司馬氏、前掲書)という行動基準は半兵衛、官兵衛をひっくるめて言えるところである。 2024.03.22 記す "心友"半兵衛のアドバイス P.99 他人の手がらも自分の手がらにしてしまうとか、あるいは先輩の残した立派な仕事の遺産や余光で、なんとか仕事をやっているのに、それを忘れて、自分がひとりで立派な仕事をしていると誤認している連中もいっぱいいる今の世の中だ。だから、功を立てたらすぐケロりと忘れてみせろなどというととんでもないことと思う人もいようが、実は、そこが思案のしどころである。というのは一つ功を立てると、自分でもその手がらが誇りになり、満足感をおぼえる。ここまではいいが、それにもたれかかるような意識が生まれると、こんどは組織人としてのデメリットがでてくるおそれがある。「かつて、オレはこんなに働いたのに」という甘ったれ気分である。 官兵衛が「本当の友人」として信じあえた竹中半兵衛は、こういう点で官兵衛よりも徹していた。彼は社長の秀吉からもったねんごろな書簡を捨ててしまい、こんなのがあると、あとあと、何かいやなことがあると自分に不平が起こる。子孫は自分らの至らさを思いもせず、わが父にこれほどねんごろであったのに、などと恨みがましく思うことものだ」と考えた。利を捨てて「武道を楽しむ」の気魄のさせるわざである。 ところが、官兵衛は、秀吉から功をほめられ、他日大封を与える」と書いた誓書を大切にしていたところに官兵衛の不徹底さがあった。ところが半兵衛はある日、官兵衛のもっている誓書をみせてもらい、それをパッと火中にくべてしまった。 驚く官兵衛はかれにいった。「こんなもんがあるから心が濁る。結局君のためによくない。だから焼いたのだ」とさとした。官兵衛もさるもの、翻然とさとって、それからは以前の官兵衛に立ち戻ってメキメキと活躍したという話がる。 ビジネスマンも「オレは会社の中に記念碑を立ててもいいような仕事をした」と思ったら、すぐに忘れ、第二、第三、第四の記念碑を立てる方に関心を向ける方が前向きである。 2024.03.22 記す 下から見ると人はよく見える P.101 人は下から見るとよく見えるもので下役になればなるほど上の人の美点欠点双方がよく眼に映るものと考えておいていい。 「秀吉は世所上、大度量人とされ、また人間に対して観察の辛い信長自身でさえそう信じて、秀吉を指して、『大気者』などと呼んだりしているが、しかし秀吉のように他人に対して神経のこまかい観察と配慮する男が、芯からの大気者であるはずがなく、多分に計算と演出の組あわされたものであり、秀吉の人間としての面白さはむしろそのあたりにあるといっていい。秀吉は、とくに官兵衛にたいして大気者ではなかった。終生、そうであった。後年、かれが天下をとったとき、かれは官兵衛が自分の創業の最大の功労者であるということを知っていながら、むしろそうであればこそ官兵衛にに対して薄く酬いた。官兵衛に大領を与えれば自分のつぎの天下をとられてしまうという恐怖感があったように思えるが、それといまひとつは、嫉妬であったにちがいない」(司馬遼太郎「播磨灘物語・中」) 長浜城で「初めて見た秀吉」から、十年へだてて、下役となった官兵衛が「見上げみたべつの秀吉」像がここにうかがえる。これだから人は、下からみようといういい方もできるわけだ。 官兵衛は後年秀吉のことを批判してこんなことを言っている。太閤の天下を治めるやり方をみていると、二代は続かないと思う。そのわけは、下の層から成り上がり、昔の同僚、あるいは上役、あるいは社長の縁故者を従えているため、"打上がり威高うしては、人親しまず"というわけで、気軽身軽に諸大名の屋敷や町家などにもちょこちょこでかけてゆく。何事につけても親しみ、なつくようにして暑さ寒さに応じて各々に言葉をかけ、ごちそうなどをもし、金銀寶ものなどもぽんぽんやってしまう。人は秀吉の処に集まる。 さて天下をとりしきる時になっても給料はどんどん加増する。そのため大ていの者は、命令にそむかないが、欲が先に立ってしまって、本当の真実をもって仕えているかどうかは疑わしい。だが、太閤一代は、その人の見についた果報といい、武勇の誉といい、申分ないから、どんな風にやっても治まるだろう。処が、二代目になると太閤のようにやっていると乱がおこる。二代目は武功「もなく、威厳もないから、人はこれを軽くみる。 そこで威張ったことをしてみせると太閤さえあんな気軽な風だったのに、なんだあんな威張りやがってと不満を言う者もでる。おまけに給料も宝も、太閤のように分かち与えることもできないだろうから、なんにつけても親しむことなく、背心がおこってくることは明らかである。だから天下をとっての上は、太閤は行儀を正しく、威厳を高め、「信直」をもって治め直すということにされなければ二代は続くまい」(「名将言行録」)と官兵衛は観測している。 2024.03.02 記す 上役の「ホンネ」をほじくるな P.103 半兵衛も官兵衛も出来すぎた。出来過ぎるということは、上役のネタミさえ引き出す。上役は自分にないものを、下役がもち、それが大きな評価と名を広く得る因になっていたりすれば、なおさらである。だが、出来すぎる人には、上役の立て前とホンネが見えすぎることにもなり、そこで、うっかり、上役のホンネを白日の下に引出して失敗することもある。官兵衛にはこれがあったらしい。 上役の心の動きはもとより人事の意図も、するどく体感し、掌をさすように、起ってくることを予見してしまう。「ハラを見ぬいて」しまうというのがそれである。 「名将言行録」によると、信長の本能寺の変を秀吉が聞いたのは天正十年六月三日。京都の長谷川宗仁から備中の陣中まで飛脚がきた。そのとき秀吉は社長が急死とはと、おどろき、「愁傷浅からず」というテイであったが、ややあって、「その飛脚を切ってしまえ。敵毛利に万一もれたらことがめんどうだ」と命じた。 ところが官兵衛は「とんでもない。この飛脚は一日半で六十里を飛んできた天の使いである。手柄こそあれ、切るなどはもってのほか」と自分の陣においたという。 このとき「秀吉変を聞き、いまだに何にもと詞を出されざれし中に、官兵衛するすると進み寄り、秀吉の膝をほとほとと打ちて、莞爾として、君の御運開かせ給うべき始めぞ、能くさせ給へと申ししとぞ、是より秀吉、官兵衛に心を許さざりとなり」とある。 ここで秀吉の心境は、ありていに申せば、「社長が死ぬのはまた楽し」というホンネがのどまで出かかっているのをおさえて、愁嘆場を人に見せるという「演出」をやっていたのを、側近の官兵衛が、「建て前の皮」をひきはいでしまったかたち。「大将、ナニ、涙など流しているんですか。チャンス到来。おやりなさい。今こそ、あなたの天下が来たんじゃありませんか」と、社長の急死のしらせを前に、ニコニコしていわれては、秀吉も困る。バカメ、何いうかと怒ってみせる位のことしか出来ない。川角三郎兵衛「太閤記」では、この場面を姫路城にかえて、官兵衛が、殿の「本心を推しはかればめでたいことが出来たものよ」といったと述べている。下役は、上役のホンネにふれた冗談だけは、忘れてもいう勿れ。 2024.03.02 記す 石田三成と加藤清正
ウズ巻く戦国の競争社会 P.105 管理社会の中の人間は、いつの時代でも競争原理の中にかりたてられるものの哀れがある。 豪快、豪勇、剛直をほこるはずの戦国の武将たちも例外でない。この競争原理の中でかき回されると、じめじめした嫉妬をわかす。しかし、その妬心が昂じると宿怨にもなる。そういう例がいっぱいある。序列に敏感であり、小さな差別に、存外神経質である。オレがオレがと先陣を争う。公明正大、単刀直入、ハラを打ちわれば納得することもあるが、少しでも他人よりぬきんでようとする。先陣意識のかげから、かげ口、中傷、落としあなの仕掛けの毒花も咲く。 今みたいな「同期のさくら意識」などは、元来入社のいきさつからしてないはずだが、朋輩意識はある。立身出世の順、不順は、やはり武将たちの胸にもトゲとなってつきささった。 加藤清正が秀吉に仕えて以来、彼の出世コースを眺めてみよう。秀吉が長浜城主であったとき、台所五石で使われたと伝えられているが、十五歳、天正九年(一五八一)鳥取城攻めの功で、二百二十石のさむらいとなり、天正十一年の賤ケ岳合戦では「七本槍」と称せられる手柄をたて、この戦功で、清正は三千石を与えられ、地位も物頭に特進、鉄砲五十挺、与力二十八人を召し抱える身分となる。しかし、一国一城の主として、急成長を遂げたのは、その後のことである。 天正十五年(一五八七)の九州平定のあと、秀吉は肥後の国に佐々成政を封じ、やがてその失政を難じて切腹を命じたが、そのあと天正十六年、肥後の国を二つに分けて、清正と小西行長をとりたてて大名とした。 2024.03.22 記す "肥後支店長"清正と"社長室長"三成 P.106 このとき初めて、今でいうと「営業の一係長」を抜擢して「取締役肥後支店長」としたような大特進だ。 この抜擢人事を行なう前に秀吉は、清正の意向を打診した。讃岐の国守となるか、肥後の国で二十五万石の所領を得るか、どちらにするか返答せよ、という打診である。このとき、浅野長政がこっそり清正に情報を告げた。秀吉は朝鮮進攻を決意し、清正をその先手にするのが望みなのだと教えてくれたわけ。清正は、その内意を受けて、「是非朝鮮進出の先手に出たいと思うゆえ、肥後の国に行かせてくれ」と返事した。 これは困難を予想される大任である。困難を予想される大任である。しかも当時の肥後は一揆が盛んで、佐々成政も手こずったところである。今でいうと年俸約四千五百万円の侍から、年俸三十二億円以上の大出世でhああるが、内外の難問をしょりせねばならぬ苦難の出世コースであった。ところがそれにもかかわらず、当時の人はこの表面だけをみて、「あまりにもできすぎた望みを抱くやつ」と清正をそしった。 清正、時に二十八歳。同じくこのとき、肥後の国へ封じられたのが、小西行長。行長は二十四万石、これも異例の大出世である。この時点でみると、清正もまた、ロマンチックな立身出世をしたわけだが、それまでの清正は、かれの朋輩たちに出世は遅れ気味だった。 天正十一年(一五八三)の賤ケ岳で七本槍と称せられた仲間をみると福島正則は伊予国の領主、片桐且元は、摂津茨木の城主、一万二千石、脇坂安治は、淡路国三万石の領主というわけ。 加藤嘉明も淡路志知(しち)郷一万五千石、水軍の指揮官というわけだ。清正としても、大出世をする前には、こういう仲間の状況をみるとあせりもあったに違いない。同じ七本槍」でも、平野長泰槽屋武則と清正が、出おくれ株といった形だった。そのころ、石田三成は近江水口城主二万石(天正十三年)、二十三歳で五奉行の一人となり、十四年には、もっとも重要なポストの一つ堺奉行をも兼任している。
清正は一挙にその出おくれを回復するわけだが、それまでは、とくに三成のように、君側にいていつも恩寵を受けていた存在には心よからぬものがあったろうし、同じロマンチックな出世組の文治派の官僚的な小西行長とはあらたにその両国がとなり合わせとあって、深層心理での対立は深まったといっていい。ちなみに、関ケ原合戦前の、豊臣家臣ん給料一覧表をみると、上のようになっている。清正はもはや、給料表でみる限りでは、出世頭の一人である。こんどは、清正は反対派から、嫉妬心を抱かれる立場であった。 2024.03.22 記す 分裂を助長する個人の性格 P.109 文吏派と武断派の豊臣会社内での不幸な併立については「日本の歴史」林辰三郎氏の分析では、次のようにいっている。 「秀吉は関白に直結する政治機関としてご奉行制度を確立したが、五奉行任命は、秀吉の立場が征服のために、七本槍のような武勇の士を必要とした臨戦体制から、支配のために算数才能の士を必要とする平時体制に推移するためには、必然な出来事であったといえる。しかし問題は、そのような体制の転換がかならずしもいっきょに可能ではなく、なお九州に関東に制服が必要である以上、七本槍の時代は決して、終わってはいなかったことである。ここに五奉行の体制とのあいだに矛盾や対立が起こる。そのことは、五奉行の人々が臨戦体制のもとで役に立たなかったとか、七本槍の連中が領国支配に無能であったという意味ではない。三成のごときは、賤ケ岳の合戦で七本槍につぐ働きを見せたくらいである。しかし、のちのちまで対立をのこす。いわゆる武断派、文吏派の対立は早くもここに宿り、豊臣政権のもっとも大きな矛盾となったのである。 しかし、三成は伝えられるように、人間関係に大切な表現力――態度、ことば遣い、文書力――などに欠点のあった男らしく、エリート意識のカミシモがとれず、人のことばを味わってみる知恵を欠き、他人の落ち度捜しに性急といった思いやりのなさなどにみるような欠点があったようだ。秀吉の恩寵とその側近意識が、それを増幅したのであった。三成がその才能にあわせて、もしこの人間的な生活の知恵があれば、彼が社内闘争の中心となることは避けられたと思うのだが、遺憾ながら彼の性格が武断派との協調どころか、亀裂をふかめた大因であることは否めない。しかも両者のあいだに立つことの出来る宿老小六、ないし中立派の最後の五大老の一人前田利家の死去は、この対立を中和する可能性を消失した。 とかく「人にきらわれるヤツ」というのが権力の中軸に立てばその会社は四年を出ないで衰える。 内部分裂の出来上がる二次的要素になったのは朝鮮侵入である。 文吏派の小西行長の体質は、その出身が堺商人であったように、国際貿易の利に目を開いた通商拡大派。一方、武断派を代表する加藤清正、鍋島直茂らは、封建農業経済的領土拡張主義者である。商業的傾斜を強くした武将と、農本的傾斜を強く保つ武将が雁行して朝鮮征伐の先手として出発する以上、戦いの経過の中で、¥講和の重視派と、徹底的強硬派のかみ合いが起こることは必然であった。 しかも、戦場からの情報をコントロールできるルートを握っている中央の文吏派と前線の武断派のすれちがいに発展する危うさ初めからあった。さらに田中巌氏(「歪められた歴史」)によると、とくに前線司令官の清正と小西行長の二人が仲が悪かったのは、宗教の違いもあるという。清正は法華宗、行長はキリスト教のそれぞれ熱烈な信者であった。もう一つは二人の隣合わせの領国の国境には小トラブルがよく起こっていたこと。さらに三つには行長が中央の文吏派三成と近く、外征では清正に疑心を抱かせるような条件を持っていたことなどがあげられる。この二人に第一線指揮官を命じ競争させて効果を上げようとした秀吉は、外征に先だって一日交替で先手を務めろと命じた。これがのちのちまでたたった。 しかもこういう分裂をゆ着させ直すことの出来る重臣勢力が秀吉子飼いの中にすでにいなくなっていた点も、この亀裂の拡大をどうしようもないものにしていく。それは両者にニラミのきく宿老挌の蜂須賀小六の死などにみるとおりだ。しかも、こういう状態を心ひそかに喜んでいる勢力もある。豊臣会社のシェアを、そつくりいただけるチャンスを待つ実力がある徳川会社がそのひとつ。 2024.03.23 記す 他人の対立はしゃもの味 P.112 秀吉死して、文吏派と武断派の亀裂はにわかに深刻化した。朝鮮進攻から帰還してきた武断派が最初にもちだした問題は、出征部隊の監軍だった福原長高、垣見一直、熊谷直盛、太田一吉が、諸将の戦功を直接秀吉に報告しようとしたのを、石田三成がさえぎってさせなかったという情報に基づく前線出動の武将たちの怒り、「爆発」である。福原は三成の婿、他の二人も三成の腹心の士だから、三成の不都合な指図によってそうなったと思われるが、もしそうでないというのなら、三人を武断派に引き渡せというかけ合いが始まった。加藤清正、福島正明、黒田長政、細川忠興、池田輝政、浅野幸長(長政の子)、加藤嘉明の七将が、その武断派の代表だ。かけ合い不調は目にみえているから、石田を切れというところまで激化していた。 ところが七将の攻撃の的となった三成を、家康は「保護」して温存する。対立があれば、その対立の一極を切ってしまえば、対立そのものが解決するわけだが、老かいな家康は、あえて、その対立の温存を図ったフシがある。 豊臣家の勢力をそぐには、石田を残しておいて、対立を続けさせ、その上で石田が仕かけてくるのを待つ。この方針から家康は、七将に追われて逃げてきた三成をかばい、七将に強硬仲裁を申し出た。そして対立の一極を弱めて残すという処置をとった。家康は三成の五奉行を辞任させ、佐和山に隠居をさせ、将来、三成の子隼人の五奉行登用を約して、三成を引き込ます。三成も、上杉景勝、佐竹義宣と密謀して後日を期すことになる。うるさい三成は退隠させ、豊臣諸将の宿怨の的として温存した上、家康は、三成の反対勢力の中に、着々と力を植えつけていく。そのために七将の訴えをとり上げて、福原、垣見ら、監軍としての在鮮中の非事を裁判にかけた。もともと、秀吉の朝鮮侵入の功賞がタイミングわるく、清正らの股肱の武将の功績はあとまわしにしたのだが、家康とてもこれくらいの実情は知っての上で、この裁判を曲げて断行していく。 被告ら四人は、証拠書類を見て、申し開きをしたのに対して、「一応の証は認めるが、石田三成の日ごろの所業がよくないのに、それに懇意な諸君の陳述は信じがたい」と認定裁判をして、四人をきつく処分してしまう。(「関ケ原大戦の真相」尾池義雄氏による) むろん、こういう三成一派排除運動のかげで、三成派がやられっぱなしということはない。かげでの三成派の策謀か、前田利長の反家康説や、利長と細川忠興通謀説、浅野長政らの反家康陰謀など、次々と反家康情報が流されて、問題が起ってくるが、家康はそのつど、予想外の寛大処置をとって、家康専横の声を起させない。 2024.03.23 全部写し終えた。 名社長を誤断する P.114 仕事は「喧嘩しながらやる方が、うまくいくもの」などという経営者がいる。秀吉もそんな考えから、わざと、ニラミ合いの行長、清正を利用して競い合わすため二人を先鋒としたのであろう。 が、思えばこれは秀吉の知恵が、浅かったともいえる。なるほど、ニラミ合いの競争で、戦局の進展はみえるかもしれないが、大局的にみれば、日本軍が内部対立対立をはらんでいるわけである。仲のいい同士の社員ならば競争心を小休止して、ナレ合うこともあっても、結局は相互に協調、団結をし、そして難局には励まし合う。そのメリットのほうが喧嘩させながら競争させるメリットよりもはるかに大きい。仲が悪い同士でも仕事が順調、つまり連戦連勝のときは、デメリットというものがないが、受け身の苦難が起ると、デメリットが出てくる。不手ぎわが重なると、ニラミ合いの同僚の失笑を招き、その情報は中央へ増幅して伝わり、面目を傷つけられることになる。「はげまし合い」のメリットは見られない。 そうなると、前衛司令官はとかくの風評や、かげ口さえ気にかかることになる。 文禄の役で、清正は、細心かつ綿密に「後方心理」に気をつかいぬいたしるしがある。 清正ほどの豪傑が、熊本の留守を守る家来に向って、「秀吉、北政所、大政所、淀君、家康、利家に念入りに贈り物をとどけ、清正の評判によく耳を傾けておくように」命じている。(「人物日本歴史・信長と秀吉」岡田章夫氏)とし、秀吉の秘書にあてた手紙でも「よいことは、秀吉様の耳にははいらないので、非常に心もとない」と書いたりしている。ここに外聞を気にし、社内情報に心をくさらせている清正の姿がみえる。敵は明軍ばかりではない。 2024.02.25 記す
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