| 01 | 巻一祇園精舎(P.9) | 02 | 巻ニ座主流(P.63) | 03 | 巻三赦文(P.95) | 04 | 巻四厳島御幸(P.139) | 05 | 巻五都遷(P.181) |
| 06 | 巻六新院崩御(P.215) | 07 | 巻七清水冠者(P.253) | 08 | 巻八山門御幸他(P.305) | 09 | 巻宇治川先陣(P.323) | 10 | 巻十首渡(P.361) |
| 11 | 巻十一大地震(P.393) | 12 | 巻十二紺描之沙汰他(P.433) |
巻一:祇園精舎/殿上闇討・すがめの瓶子 唐瓶子/鱸・海と平氏の因縁/吾身栄花・六波羅と桜町/祇王・本地垂迹
/二代后・世の乱れ/清水寺炎上・音と火/殿下乗合・はだれ雪/鹿谷・戯言と歌占/鵜川軍・白妙/神輿振・文が武に勝った話
/内裏炎上・猿の松明
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杉本 秀太郎(国際日本文化研究センター教授) (1931~2015年)
『平家物語』(講談社) 祇園精舎(ぎおんしょうじゃ) P.11~14
『平家』を読む。それはいつでも物の気配に聴き入ることからはじまる。身じろぎして、おもむろに動き出すものがある。それにつれて耳に聞こえはじめるのは、胸の動悸と紛らわしいほどの、ひそかな音である。『平家』が語っている一切はとっくの昔、遠い世におわっているのに、何かのはじまる予感が、胸さわぎを誘うのだろうか。それとも、何かのおわる予感から、胸がざわめきはじめるのだろうか。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹(しゃらそうじゅ)の花の色、盛者必衰(じょうしゃひつすい)のことわりをあらわす。おごれる人も久しからず、只春の夜(よ)の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ。偏(ひと)へに風の前の塵に同じ。
はじめに音を言い、諸行無常を言ったあとで、色を言い、盛者必衰を言うのは、勿論、対句の形式にもとずいてのことである。仏教説話によれば、釈迦がクシナガラで二本の娑羅の木のあいだに横臥して涅槃(ねはん)に入ったとき、単黄色の娑羅の花が白変した。そこで釈迦入滅の地を白鶴に喩えて鶴林と称する。いのちの果てで白く色あせたものも、もとはそれぞれのいのちの色に燃えていたのに、と対句後半は言いたいらしい。
平成二十二年十二十九日
殿上闇討――すがのの瓶子 唐瓶子
「しかるを忠盛」とはじまる「殿上闇討」の段は、冒頭のくだりのみならず、全段かけて緊迫した語勢でつらぬかれている。こういう文章を要約するのはまことに味気ないことだが、要するにこの段は、忠盛がただの人ではないという話である。機略あり、胆力あり、また、いざ評定の場に臨んでは、ぼろを出さぬ舌先三寸の芸もあり、さすがは一代の成上り者、当節の政商そっくりなところがある。しかし、その忠盛には別に見るべき文才もあったのは、「殿上闇討」に続く「鱸の段が語るところである。
忠盛を刺そうとした公卿たちの計画は、忠盛の耳に入っていた。のちの面倒を考えた忠盛は、豊明の節会の夜の昇殿にあたっては、準備した。殿上の小庭には、忠盛の郎等、「薄青の狩衣のしたに萌黄威の腹巻」を着た左兵衛尉家貞が、かしこまって控えている。上下呼応するふたりの装束、色彩の対応、是絶妙とう」ほかない。
「五節豊明の節会の夜」というのは、四日にわたる新嘗祭の最後の日の夜。五節の舞姫が加わって酒宴となり、朗詠、今様、乱舞の催しがある。一座の空気がにぎやかに、ほんなりと保たれているのはしばらくのあいだで、やがて猥雑に落ちていく。忠盛が名ざしを受けて御前で一さし舞を披露し、無事に舞い収めると、人々は突然、拍子を変えて、「伊勢平氏はすがめなりけり」と囃し立てた。一頃の平氏が都にも住みにくくなり、伊勢の国に長く住みついていたことと、忠盛が片方の目だけ細く「すが目」だったことを酢瓶の瓶子に言いかけたのだった。
大覚寺殿、すなわち後宇多天皇の御所に集まっていた公卿たちは、琵琶法師の語る「伊勢平氏」のくだりを聞きおぼえていて、忠盛ではない忠守に対して悪ふざけをしてみたかったのだろう。
2025.12.12 記す。
鱸――海と平氏の因縁 P.19~22
「鱸」の段の眼目は、清盛が位人臣を極めたあとを簡潔に素描することにある。清盛、安芸守のときに保元の乱が起こり、主上の味方として勲功あり播摩守に任ぜられ、やがて大宰大弐になる。次いで平治の乱あり、これにも勲功なだならず正三位に叙せられ、あとは宰相、衛府督、検非違使別当、中納言、大納言と昇進をかさぬたすえは、左大臣、右大臣をとぼこえて内大臣」より太政大臣従一位に経あがった。「大将にあらねども、兵仗をたまはつて随身を召し具す。牛車輦車の宣旨を蒙つて、乗儀刑せり〔天子の師範であり、天下の模範たるもの〕。国を治め、道を論じ、陰陽をやはらげをさむ。その人にあらずば即ち欠けよ〔適任者がないなら欠官のままがよろしい〕というほどの要職だと説明を加えたのちに、語り手は「その人ならではけがすべき官ならねども、一天四海を掌の内ににぎられしうへは子細に及ばず」と、清盛栄達の次第を結んでいる。
清盛がまだ安芸守の時代、熊野参詣のために伊勢の海から船に乗っていったときのこと、大きな鱸が一尾、船中におどりこんだ。案内の山伏が「これは権現の御利承生ですぞ、さっそくお食べばさるがよい」を言われたのに、清盛が「昔、周の武帝の船に泊魚がおどり入ったという故事があったわい。まさに、「吉兆」と応じて、十戒を守って精進潔斎すべきときなのに、鱸を料理させて自分も食べ家の子侍どもにも食わせた。「その故にや、吉事のみうちつづいて、太政大臣まできはめ給へり。子孫の官途も龍の雲に上るよりは猶すみやかなり、九代の先蹤〔平氏先祖から九代の先例〕をこえ給ふこそ目出たけれ。
「鱸」の段には、清盛栄達を語るくだりに先立って、前段「殿上闇討」に語り残された忠守の逸事が、はじめに置かれている。
忠盛の子どもが次々に諸衛の佐になり、殿上人も彼らと付合わざるを得なくなった頃(とは少々あいまいだが)、備前国かた都へのぼった忠盛に、鳥羽院が「明石の浦は『源氏物語』以来、名高い名所だが、どのようなところかな」とおたずねになったので、
あり明けの月もあかしの浦風に浪ばかりこそよるとみえしか
と感心なさった(かけことばの多い謡。大意は、明石の浦に有明の月はあかるく照っても、波立つ磯べの夜は暗くて、まことにわびしいところです)。この歌はのちに『全葉集』の撰に入った。
また、忠盛は上皇の御所に仕える女房を恋人に持っていたが、あるとき、端に月を描いた扇をその女房のつぼねに忘れて帰った。仲間の女房たちが、「これはどこの月影かしら、出どころがよくわからないわねえ」などと冷やかすので、その女房が、
雲居よりただもりきたる月なればおぼろけにてはいはじと思ふ
と詠んだ(歌には「ただもり」の名がよみこまれている。「pぼろけにては」は、並大抵のことでは、の意)。これを伝え聞いた忠盛は、一そう思いが増した。ふたりのあいだに生れたのが、のちに歌人として聞えた忠野である。「似るを友とかやの風情に忠盛も好いたりければ、かの女房も優なりけり。」
この逸事にみえる月は、明石の浦の月も、扇絵の月も、言葉の技芸によってさやかに照っている。ここには磯の風もなまぐさく匂っていないのがうれしい。
2025.12.13 記す。
吾身栄花――六波羅と桜町 P.23~27
清盛が太政大臣にまで経あがり、子孫も男はそれぞれ官途に就いて昇進し、女は徳子が高倉帝の后となったのをはじめとして、いずれも高位貴顕のもとに嫁し、平家一門の栄花は絶頂をきわめた。
承安元年(一一七一)の徳子入内に先立つこと、三年、清盛太政大臣となって一年後の仁安三年(一一六八)十一月、五十一歳の清盛は「病にをかされ、存命のために忽ちに出家入道す」と「禿髪」(『平家物語 上』角川文庫では「鱸の事」付 禿髪の事になっている)の段は語り出して、「法名は淨海には静海の字を当てるテキストもある。例の吉事にはじまる海との縁は、ここまで深いことになった。
『平家』はこれよりのち、清盛を入道相国あるいは単に入道と呼び改める。この入道が法体のかげに、いかばかりなまぐさい身を包み隠したか、いや、包み隠そうともしなかったか。物語は「禿髪」および「吾身栄花」という二つの短い段のあいだに、入道相国という大きな石を山の頂にまで一気に押し上げ、あとは大石の転落する有様をえがくだろう。ずり落ちる間ぎわの入道石の下敷きになった可憐なニ、三輪の花が「祇王」の長くかなしい物語につれて、無常の風のまにまにゆれ傾き、花びらを散らしてゆく。
「禿髪」は、つづけていう、
「花族」「英雄」はいずれも清華の別称、摂家に次ぎ、大臣大将を兼ね、太政大臣にまで昇進できる家柄のこと(岩波『日本古典文学大系』本の注)。時忠は入道相国の妻ならびに建春門院の兄。「人非人」とは、よほどの悪罵である。明治時代には、旧士族が人をあなどって「車夫馬丁」などと呼び捨てることがあったが、それに類する思いあがった物言いである。
さて、その六波羅の当世ふうを、いかに人が真似したくとも、真似のできない風俗というものが、ここに一つかぞえられる。それが禿髪であった。
頭髪をおかっぱのように切りそろえ、直垂というざんぐりした布服の幟と同じ赤に染めたのをお仕着せにした少年たち、これが入道のいわば紅衛兵として立ち働いた。門口の立ち話、戸のかげのひそひそ話に、うっかり平家のことを悪しざまに言ったりしたのが彼らの耳に入りでもしようものなら、仲間じゅう触れまわって、その家に乱入し、家財道具を没収し、そやつをからめ取って六波羅に引っぱってゆく――「されば目に見、心に知るといへども、ことばにあらはれて申す者なし。六波羅殿の禿といひてんしかば、道をすぐる馬、車もよぎてぞ〔避けて〕とほりける。禁門を出入りするといへども、姓名を尋ねらっるに及ばず、京師の長吏これがために目を側む〔目をそらせる〕とみえたり」と、いうまでにいたった。
「禿髪」の話はこれでぶつりと切れる。
段あらたまって「吾見栄花」は、栄花の極みは入道相国にとどまらず、「一門共に繫昌して、嫡子重盛、内大臣の左大将、次男宗盛、中納言の右大将、三男知盛、三位中将、嫡孫維盛、四位少将、惣じて一門の公卿十六人、殿上人三十余人、諸国の受領、衛府、諸司、都合六十余人なり。世には、また人なくぞみえられける」と語ったのちに、古いところでは聖武天皇の世に兄弟ならんで左右の大将に列せられた例を挙げ、それより以降の史実をかぞえても、これまでに、三、四度の前例あるにすぎないうえ、いずれも摂禄の臣の血すじの話であり、入道の父、忠盛は「殿上の交りをだにきらはれし人」だったが、その「子孫にて、禁色雑袍
と思っていると、話題は一転して、「そのほか御娘八人おはしき。皆とりどりに幸
ここに桜の花を二十日のあいだ咲かせたのは、成範卿の人柄と神徳も」さることながら、ほかならぬ「平家」の語り手の心に、花があったからである。つづけては、のちに建礼門院となった娘のことから、すべて合わせて八人の娘の栄花というにふさわしい「幸」を語ったすえは、漢文のお手本いくつかを柳に桜とこきまぜて、美文の景色は、まさに陽春の趣を呈している。
次いで「祇王」の段があらわれる。対照の妙、ふたたび耳をも目をも驚かせるに足りるというべきか。
2025.12.14 記す。
祇王
『平家』を第一巻から読みすすんでいると、何ほどの時も経たぬうちに「祇王」のkくだりに行きつく。そこまでは忠盛、清盛、平氏一門の出世を語るが、十二世紀の政治世界の話であるから、普段はいっこうに耳馴れず、耳馴れもしない官位官職名がしきりに出没する。「祇王」の直前、「吾身栄花」のおわりの一節は、和漢混交文の一頂点を極めている……
つづく「祇王」は、賢明にも一転して、平易な和文調の語りになる。
「祇王」の物語は『平家』全体のなかで、とび抜けて長いが、幾百年にわたり、聞く人、読む人の目がしらを熱くさせ、涙をさそってきたし、それはいまも変りがない。
あらすじだけを言うなら、次のようなことになる。
その頃、都に聞こえた白拍子
要約では涙ばかりか鼻汁も出ない。だが「祇王」本文は和漢混交文ではなくて、嫋々
祇王と仏御前、名前がまことにいぶかしい。祇とは国の神のこと、神と仏が、ここに深い縁を結んでいる。本地衰弱
してみれば、白拍子の歌う歌謡は、そもそも本地衰弱を離れることがなかったのだろう。片や祇王、片や仏御前という名乗りは、白拍子そのものの「根元」に発していることにもなるだろう。
けれど、祇王の取りなしを得た仏御前が清盛の目のまえで歌った尾は「仏神の本縁えおうたふ」文句ではなく、松に千年の長寿があれば、それは「君」のおかげと予祝し、蓬莱島の景を思いうかべた、めであたい賀の今様であった。
君をはじめて見るをりは、千代も経ぬべし娘小松
御前
この今様は『古今和歌集』の最末尾に置かれて、勅撰第一の和歌集をめでたく締めくくる藤原敏行朝臣の歌を思い出させる。
ちはやぶる買物のやしろの姫小松万世経
「祇王」物語は、『古今集』というものが人びとに極めてよく親しまれていた時代でなければ、いまわれわれが読むような形にまで、ふくらみ育つことはなかった。寄りつどって和歌を作り、漢詩を賦することをたのしんだ人びとはなた、白拍子の歌謡をよろこび、白拍子の舞にどよめいた人bいとでもあったし、殻らはまた一様に、のがれるすべもない無常を身に染みて知っていた。守護し給えと祈っても、国の神々に歯、平氏をも源氏を救う力はなかった。
2025.12.15 記す。
二代后
「祇王」の段が綿々たる語りに乗せて、色におぼれる清盛の姿を漆絵
そもそも源氏と平氏は、ともに朝廷に仕えて、「王化に従はず、おのずから朝権を軽むずる者には、互いに戒めを加へしかば、代の乱れもなかりしに」、保元の乱には源為義が子の義朝に斬られ、平治の乱には義朝が誅せられ、これより源氏の勢威はおとろえるばかりで、「今は平家の一類のみ繁昌して」、源平の均衡は完全に敗れた。
一方、朝廷内には、「主上上皇、父子の御あひだ」、すなわち後白河上皇と二条天皇のあいだに疎隔が生じて、互いに相手の側近を警戒するということがたびたびあった。「是も世澆季
わずか三歳で帝位に就いた後白河の先代、近衛帝の后は、帝(院)が十七歳の若さで没したのちは、禁裏を出て近衛河原の御所にひっそりと暮しておいでだったが、盛りも少しすぎた二十二、三歳とはいえ、天下第一の美人の聞こえが高かった。後白河の第一の宮、帝位を継いだ二条天皇は当時十七、八歳だったが、この太后に恋慕し、艶書を届けさせるまでに執着が嵩じていた。「大宮(太后)敢へて聞こし召しも入れず。さればひたすらはやほにあらはれて〔ただもう露骨に紅色の心をそとに出して〕、后御入内
本当にこんな僉議があったかどうかは別として、先例をまず中国に求めて詮索し、物語のあらたな展開をはかるのは『平家』の常套である。その語りに聞き惚れるうちに、異朝の歴史が人々の常識になってゆく。また、二条帝が太后に艶書を出すくだりには、玄宗の命に服して外宮
二条帝は上皇の反対に会うが、「天子に父母
こうして「祇王」「二代后」の相次ぐ二段のあいだにもまた、対照によって物語の興をいっそうかき立てる手法のあと歴然たるものがある。
対照ということなら、両段それぞれに引かれている歌の相違も見のがせない。「祇王」には、和歌は一首を用いるのみ、西八条の屋敷を追い出される間際に、祇王が衝立に泣く泣くかきつけたのは、
もえ出
「秋」を「飽き」にかけて、心の乱れをそのまま見せた即興という次第であれば、歌の巧拙を言ってみてもはじまらない。「二代后」には、この不幸な后の和歌二首が、物語のなかに挟まっている。
大宮そのころ、なにとなき御手習の次
うきふしにしづみもやらで河竹の世にためしなき名をやながさむ
世にはいかにして洩れけるやらむ、あはれにやさしきためしにぞ、人々申しあへりける。
再入内して麗景殿に住まう身になれば、かつて近衛帝の后だったときに紫宸殿に参内するごとに見なれた衝立にも、目にとまらないでは済まなかった。中国の聖賢七人を描いたその衝立を前にして、一々の肖像の主を説明してくださった近衛帝のなつかしい面影のみが偲ばれる。そして清涼殿には、巨勢
なにとなく御手まさぐりの次
思ひきやうき身ながらにめぐりきておなじ雲居の月を見むとは
『平家』には人口に膾炙した歌が幾つも含まれているが、これはあはれ
2025.12.16 記す。
清水寺炎上
皇太后だったひとをわが后として再入内させた二条天皇は、永万元年(一一六五)の春ごろから不快がつのっていった。六月二十五日、にわかに第二皇子順仁に親王の宣旨がくだり、その夜のうちに二条帝は親王に位を譲った。六条天皇、わずかに二歳。「天下、何となうあわてるさまなり……先例なし。物あわがしともおろかなり」と『平家』は語る。
1931年1月21日 - 2015年5月27日)
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