杉本 秀太郎『平家物語』1996年2月25日 第1刷発行 講談社
 

目 次

01巻一祇園精舎(P.9) 02巻ニ座主流(P.63) 03巻三赦文(P.95) 04巻四厳島御幸(P.139) 05巻五都遷(P.181)
06巻六新院崩御(P.215) 07巻七清水冠者(P.253) 08巻八山門御幸他(P.305) 09巻宇治川先陣(P.323) 10巻十首渡(P.361)
11巻十一大地震(P.393) 12巻十二紺描之沙汰他(P.433)

    補足:『平家物語』そのものの順序に構成されている。

    巻一:祇園精舎/殿上闇討・すがめの瓶子 唐瓶子/鱸・海と平氏の因縁/吾身栄花・六波羅と桜町/祇王・本地垂迹
    /二代后・世の乱れ/清水寺炎上・音と火/殿下乗合・はだれ雪/鹿谷・戯言と歌占/鵜川軍・白妙/神輿振・文が武に勝った話
    /内裏炎上・猿の松明


杉本 秀太郎(国際日本文化研究センター教授) (1931~2015年) sugimoto.bmp
『平家物語』(講談社)

 祇園精舎(ぎおんしょうじゃ) P.11~14

 『平家』を読む。それはいつでも物の気配に聴き入ることからはじまる。身じろぎして、おもむろに動き出すものがある。それにつれて耳に聞こえはじめるのは、胸の動悸と紛らわしいほどの、ひそかな音である。『平家』が語っている一切はとっくの昔、遠い世におわっているのに、何かのはじまる予感が、胸さわぎを誘うのだろうか。それとも、何かのおわる予感から、胸がざわめきはじめるのだろうか。
 あることのことのはじまりは、あることのおわりであり、逆にまた然りとするなら、私が予感とともに待ち受けているのは、まさしくこの世の無常の姿、いのちを享(う)けたものすべてがたどる一栄一落の有様以外のものではない。『平家』を読む。このとき、かすかな胸さわぎが絶えないのは物怪(もつけ)の幸である。
 『平家』冒頭の誰でも知っているくだりは、これから語り出されるものをよく聴き給えということを、ああいう喩(たとえ)で語り出したのである。天竺というおそろしく遠い國の、奥も知れない林のなかに埋もれてしまって、たしかめようもなくなった祇園精舎から、どこからともなく吹く世外の風に乗り、はるばる鳴りわたってくる鐘の声。どんなものよりも近い自分の肉体という場にたしかめることのできる胸のざわめき。相隔たること最も甚だしいこのふたつが、時として、ひとつにかさなるのは、念仏を唱える人の両のてのひらが合わされるのと同じくらいに自然なことではないだろうか。いま、耳の底にかすかに鳴っているのを「祇園精舎の声」と思うなら、たしかにそれは「諸行無常の響きあり」である。私の胸のなかにあって瞬時も鼓動しやめないものも、いずれは停止する。これほどたしかなことはない。胸の動悸が諸行無常の音となって聞こえはじめたにしても、わが耳を咎め立てるにはおよばない。いずれ、ほどなく、諸行無常の音という唱え言よりも、もっと耳をそばだてて聴かずにいられないものが、琵琶の響きとともに次から次にとあらわれてくるだろう。耳をせいぜい敏感な状態に保っておくこと。この用心を忘れぬことにしよう。
 だが聞こえてくるものに聴き入る用意をととのえていると、もう一方では、見えてくるものに目をとめよという声もまた耳に入る。動くものはいうまでもない。動ふ動にかかわらず、色、彩りあるものの彩りに目をとめるべし、とその声は告げている。冒頭のくだりを念のために引き写すと、

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹(しゃらそうじゅ)の花の色、盛者必衰(じょうしゃひつすい)のことわりをあらわす。おごれる人も久しからず、只春の夜(よ)の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ。偏(ひと)へに風の前の塵に同じ。

 はじめに音を言い、諸行無常を言ったあとで、色を言い、盛者必衰を言うのは、勿論、対句の形式にもとずいてのことである。仏教説話によれば、釈迦がクシナガラで二本の娑羅の木のあいだに横臥して涅槃(ねはん)に入ったとき、単黄色の娑羅の花が白変した。そこで釈迦入滅の地を白鶴に喩えて鶴林と称する。いのちの果てで白く色あせたものも、もとはそれぞれのいのちの色に燃えていたのに、と対句後半は言いたいらしい。
 白が地の色として布(し)かれたことが大事なことである。この白地は、のちの物語に、あでやかな色、きらびやかな色、猛々しい色、しっとりと落ちついた色、物さびた色、重く沈んだ闇の色が、それぞれに映え出す用意なのだと納得される。のちの物語を絵巻物のように楽しむつもりなら、霧にとざされた冬の朝のように白いだけの世界を、つとめて思いえがくに限るだろう。しかし『平家』が昔の絵師たちを誘惑し、近代の画家たちに恰好の画題を提供し、えがかれた絵が人を魅了するのも、あるいは白変した娑羅の花の色が、われわれの眼底に染みとおっているのからなのかも知れない。自然界が人界の異変に感応した一瞬裡の白変は、いつしかわれわれに無常を悟らせる色となり、すべて色あるものの示す色はやがて無常の白変を蒙り、ただ追懐のなかに再生する限りにおいて、もとのいのちの色を回復する。この経緯に注目すれば、『平家』が絵巻物あるいは大小の画面よりも能舞台に、もっと多くの主題を提供し、あんなに多くの主人公たちを幽明の境に出没させるにいたったことに、何ら不思議はないように思われる。
 『平家』巻頭の「祇園精舎」は、ほどなく調子をあらためて、天下の乱れを招き、「久しからずして、亡じにし」高位高官の例をまずは「遠く異朝」にたずねて中国の諸例を挙げ、次いで「近く本朝をうかがふに、承平の将門(まさかど)天慶(てんぎょう)の純友(すみとも)、康和の義親(ぎしん)、平治の信頼(しんらい)」と並べ立てたあとに、「まぢかくは、六波羅の入道前太政(さきのだいじょう)大臣朝臣(あそん)清盛公と申しし人のありさま、伝え承るこそ心も詞もおよばれね」と、話題を清盛のことに絞る。この人、桓武天皇の第五皇子を祖とし、それより九代の後胤になるという。祖父は讃岐守正守、父は刑部卿忠守。「かの親王の御子高見の王、無官無位にして失せ給ひぬ。その御子高望(たかもち)の王の時、始めて平の姓をたまはって、上総介(かずさのすけ)になり給ひしより、忽ちに王氏を出でて人臣につらなる。高望の王の子よりのち、清盛の祖父正盛にいたるまで「六代は諸国の受領たりしかども、殿上の仙籍をばいまだ許されず。しかるを」と一転した物語は、これより清盛の父忠盛が昇殿を許された次第に移る。撥(ばち)の音にわかに高く、息使い切迫して、せわせわしい。(以下略)

平成二十二年十二十九日


 殿上闇討(でんじょうのやみうち)――すがのの瓶子 唐瓶子

 しかるを忠盛備前守たりし時、鳥羽院の御願(ごがん)得長寿院を造進して、三十三間の()堂をたて、一千一躰の(おん)仏をすゑ奉る。供養は天承元年三月十三日なり。勧賞(げんじよう)には闕国(けつこく)を給ふべき由仰せ下される。境節(おりふし)但馬国のあきたりけるを(たび)にけり。上皇御感のあまりに内の昇殿をゆるさる。忠盛三十六にて始めて昇殿す。雲の上人是を猜み、同じき年の十二月二十三日、五節豊明(とよのあかり)節会(せちえ)の夜、忠盛を闇打ちにせんとぞ()(議)せられける。
 平家興隆の第一歩で忠盛は、「殿上闇討」の試練に直面した。これを語りはじめるくだりは、かつて石母田正が「簡潔な文体」を称賛し「物語のうちでもっともすぐれた箇所の一つ」にかぞえたことがある(岩波新書『平家物語』六九頁)(黒崎同書で確認)。いかにも、と思われる。 「しかるを忠盛」という冒頭の語勢は、どのような口語文に移しあらためても消え失せてしまう。われわれがいま、お互いにつねづね使っている日本語に「しかるを忠盛」を取り返す器量が」ないのは、言葉という場にも無常の風はあやまたず吹いているからである。

「しかるを忠盛」とはじまる「殿上闇討」の段は、冒頭のくだりのみならず、全段かけて緊迫した語勢でつらぬかれている。こういう文章を要約するのはまことに味気ないことだが、要するにこの段は、忠盛がただの人ではないという話である。機略あり、胆力あり、また、いざ評定の場に臨んでは、ぼろを出さぬ舌先三寸の芸もあり、さすがは一代の成上り者、当節の政商そっくりなところがある。しかし、その忠盛には別に見るべき文才もあったのは、「殿上闇討」に続く「(すずき)の段が語るところである。

 忠盛を刺そうとした公卿たちの計画は、忠盛の耳に入っていた。のちの面倒を考えた忠盛は、豊明の節会の夜の昇殿にあたっては、準備した。殿上の小庭には、忠盛の郎等、「薄青の狩衣のしたに萌黄威の腹巻」を着た左兵衛尉家貞が、かしこまって控えている。上下呼応するふたりの装束、色彩の対応、是絶妙とう」ほかない。

「五節豊明の節会の夜」というのは、四日にわたる新嘗祭の最後の日の夜。五節の舞姫が加わって酒宴となり、朗詠、今様、乱舞の催しがある。一座の空気がにぎやかに、ほんなりと保たれているのはしばらくのあいだで、やがて猥雑に落ちていく。忠盛が名ざしを受けて御前で一さし舞を披露し、無事に舞い収めると、人々は突然、拍子を変えて、「伊勢平氏(へいじ)はすがめなりけり」と囃し立てた。一頃(ひところ)の平氏が都にも住みにくくなり、伊勢の国に長く住みついていたことと、忠盛が片方の目だけ細く「すが目」だったことを酢瓶(すがめ)瓶子(へいじ)に言いかけたのだった。

 大覚寺殿、すなわち後宇多天皇の御所に集まっていた公卿たちは、琵琶法師の語る「伊勢平氏」のくだりを聞きおぼえていて、忠盛ではない忠守に対して悪ふざけをしてみたかったのだろう。

2025.12.12 記す。


 (すずき)――海と平氏の因縁 P.19~22

「鱸」の段の眼目は、清盛が位人臣を極めたあとを簡潔に素描することにある。清盛、安芸守のときに保元の乱が起こり、主上の味方として勲功あり播摩守に任ぜられ、やがて大宰大弐になる。次いで平治の乱あり、これにも勲功なだならず正三位に叙せられ、あとは宰相、衛府督(えいふのかみ)検非違使別当(けんびいしのべつとう)、中納言、大納言と昇進をかさぬたすえは、左大臣、右大臣をとぼこえて内大臣」より太政大臣従一位に経あがった。「大将にあらねども、兵仗(ひょうじいよう)をたまはつて随身を召し具す。牛車輦車(れんじゃ)宣旨(せんじ)を蒙つて、乗儀刑せり〔天子の師範であり、天下の模範たるもの〕。国を治め、道を論じ、陰陽をやはらげをさむ。その人にあらずば即ち欠けよ〔適任者がないなら欠官のままがよろしい〕というほどの要職だと説明を加えたのちに、語り手は「その人ならではけがすべき官ならねども、一天四海を(たなごころ)の内ににぎられしうへは子細に及ばず」と、清盛栄達の次第を結んでいる。

 清盛がまだ安芸守の時代、熊野参詣のために伊勢の海から船に乗っていったときのこと、大きな鱸が一尾、船中におどりこんだ。案内の山伏が「これは権現の御利承生ですぞ、さっそくお食べばさるがよい」を言われたのに、清盛が「昔、周の武帝の船に泊魚(ゝはくぎょ)がおどり入ったという故事があったわい。まさに、「吉兆」と応じて、十戒を守って精進潔斎すべきときなのに、鱸を料理させて自分も食べ家の子侍どもにも食わせた。「その故にや、吉事のみうちつづいて、太政大臣まできはめ給へり。子孫の官途も(りょう)の雲に上るよりは猶すみやかなり、九代の先蹤(せんじょう)〔平氏先祖から九代の先例〕をこえ給ふこそ目出たけれ。

「鱸」の段には、清盛栄達を語るくだりに先立って、前段「殿上闇討」に語り残された忠守の逸事が、はじめに置かれている。

 忠盛の子どもが次々に諸衛の(すけ)になり、殿上人も彼らと付合わざるを得なくなった頃(とは少々あいまいだが)、備前国かた都へのぼった忠盛に、鳥羽院が「明石の浦は『源氏物語』以来、名高い名所(などころ)だが、どのようなところかな」とおたずねになったので、

  あり明けの月もあかしの浦風に浪ばかりこそよるとみえしか

と感心なさった(かけことばの多い謡。大意は、明石の浦に有明の月はあかるく照っても、波立つ磯べの夜は暗くて、まことにわびしいところです)。この歌はのちに『全葉集』の撰に入った。

 また、忠盛は上皇の御所に仕える女房を恋人に持っていたが、あるとき、端に月を描いた扇をその女房のつぼねに忘れて帰った。仲間の女房たちが、「これはどこの月影かしら、出どころがよくわからないわねえ」などと冷やかすので、その女房が、

  雲居よりただもりきたる月なればおぼろけにてはいはじと思ふ

と詠んだ(歌には「ただもり」の名がよみこまれている。「pぼろけにては」は、並大抵のことでは、の意)。これを伝え聞いた忠盛は、一そう思いが増した。ふたりのあいだに生れたのが、のちに歌人として聞えた忠野(ただのり)である。「似るを友とかやの風情に忠盛も好いたりければ、かの女房も優なりけり。」

 この逸事にみえる月は、明石の浦の月も、扇絵の月も、言葉の技芸によってさやかに照っている。ここには磯の風もなまぐさく匂っていないのがうれしい。

2025.12.13 記す。


 吾身栄花(わがみのえい が)――六波羅と桜町 P.23~27

 清盛が太政大臣にまで経あがり、子孫も男はそれぞれ官途に就いて昇進し、女は徳子が高倉帝の后となったのをはじめとして、いずれも高位貴顕のもとに嫁し、平家一門の栄花は絶頂をきわめた。 

 承安元年(一一七一)の徳子入内に先立つこと、三年、清盛太政大臣となって一年後の仁安三年(一一六八)十一月、五十一歳の清盛は「病にをかされ、存命のために忽ちに出家入道す」と「禿髪(かぶろ)」(『平家物語 上』角川文庫では「鱸の事」付 禿髪の事になっている)の段は語り出して、「法名は淨海には静海の字を当てるテキストもある。例の吉事にはじまる海との縁は、ここまで深いことになった。

『平家』はこれよりのち、清盛を入道相国あるいは単に入道と呼び改める。この入道が法体(ほつたい)のかげに、いかばかりなまぐさい身を包み隠したか、いや、包み隠そうともしなかったか。物語は「禿髪」および「吾身栄花」という二つの短い段のあいだに、入道相国という大きな石を山の頂にまで一気に押し上げ、あとは大石の転落する有様をえがくだろう。ずり落ちる間ぎわの入道石の下敷きになった可憐なニ、三輪の花が「祇王」の長くかなしい物語につれて、無常の風のまにまにゆれ傾き、花びらを散らしてゆく。

「禿髪」は、つづけていう、

六波羅殿の御一家の公達といひてしかば、花族(かしょく)も英雄も(おもて)をむかへ肩をならぶる人なし。されば入道相国の小じうと、(へい)大納言時忠卿ののたまひけるは「この一門にあらざらむ人は皆人非人()なるべし」とぞのたまひける。かかりしかば、いかなる人も相構へてそのゆかりにむすばほれんとぞしける。衣文(えもん)のかきよう、烏帽子(えぼし)のためやうよりはじめて、何事も六波羅(よう)といひてんげれば、一天四海の人みな是を学ぶ。

「花族」「英雄」はいずれも清華(せいが)の別称、摂家に次ぎ、大臣大将を兼ね、太政大臣にまで昇進できる家柄のこと(岩波『日本古典文学大系』本の注)。時忠は入道相国の妻ならびに建春門院の兄。「人非人」とは、よほどの悪罵である。明治時代には、旧士族が人をあなどって「車夫馬丁」などと呼び捨てることがあったが、それに類する思いあがった物言いである。

 さて、その六波羅の当世ふうを、いかに人が真似したくとも、真似のできない風俗というものが、ここに一つかぞえられる。それが禿髪であった。

入道相国のはかりごとに、十四五六の童部(わらわべ)を三百人揃へて髪を禿(かぶろ)にきりまわし、赤き直垂(ひたたれ)を着せて、召しつかはれけるが、京中にみちみちて往反(おうへん)しけり。

 頭髪をおかっぱのように切りそろえ、直垂というざんぐり(ゝゝゝゝ)した布服の幟と同じ赤に染めたのをお仕着せにした少年たち、これが入道のいわば紅衛兵として立ち働いた。門口の立ち話、戸のかげのひそひそ話に、うっかり平家のことを悪しざまに言ったりしたのが彼らの耳に入りでもしようものなら、仲間じゅう触れまわって、その家に乱入し、家財道具を没収し、そやつをからめ取って六波羅に引っぱってゆく――「されば目に見、心に知るといへども、ことばにあらはれて申す者なし。六波羅殿の禿といひてんしかば、道をすぐる馬、車もよぎてぞ〔避けて〕とほりける。禁門を出入りするといへども、姓名を尋ねらっるに及ばず、京師(けいし)の長吏これがために目を(そば)む〔目をそらせる〕とみえたり」と、いうまでにいたった。

「禿髪」の話はこれでぶつりと切れる。

 段あらたまって「吾見栄花」は、栄花の極みは入道相国にとどまらず、「一門共に繫昌して、嫡子重盛、内大臣の左大将、次男宗盛、中納言の右大将、三男知盛、三位中将、嫡孫維盛、四位少将、惣じて一門の公卿十六人、殿上人三十余人、諸国の受領、衛府、諸司、都合六十余人なり。世には、また人なくぞみえられける」と語ったのちに、古いところでは聖武天皇の世に兄弟ならんで左右の大将に列せられた例を挙げ、それより以降の史実をかぞえても、これまでに、三、四度の前例あるにすぎないうえ、いずれも摂禄の臣の血すじの話であり、入道の父、忠盛は「殿上の交りをだにきらはれし人」だったが、その「子孫にて、禁色雑袍(きんじきぞうほう)をゆり〔許され〕、綾羅錦繍(りようらきんしゅう)を見にまとひ、大臣の大将になって兄弟左右(けいていさう)に相並ぶこと、末代とはいひながら不思議なりし事どもなり」と、ここも隙のない、張りつめた語調が快いが、出てくる名はすべて男ばかりで花がない。

 と思っていると、話題は一転して、「そのほか御娘八人おはしき。皆とりどりに(さいわい)給へり」となり、にわかに空気がなごんでくる(ここで「幸」というのは、女が男の愛を享けることだと語注にみえる)。八人のうち、一人は桜町の中納言成範(しげのり)の北の方にという約束が、平治の乱のために果されず、花山院の左大臣、藤原兼雅に嫁して、男の子を幾人もなしたと告げたのち、しばらく話題は破談になった相手のことに移るところが妙である。

そもそもこの成範卿を桜町の中納言と申しけることは、すぐれて心数寄給へる人にて、つねは吉野山を恋ひ、町に桜を植ゑならべ、その内に屋を建てて住み給ひしかば、来る年の春ごとに見る人、桜町とぞ申しける。櫻は咲いて七箇目に散るを、なごりを惜しみ、天照御神に祈り申さければ、二十日の(よわい)をたもちけり。

 ここに桜の花を二十日のあいだ咲かせたのは、成範卿の人柄と神徳も」さることながら、ほかならぬ「平家」の語り手の心に、花があったからである。つづけては、のちに建礼門院となった娘のことから、すべて合わせて八人の娘の栄花というにふさわしい「幸」を語ったすえは、漢文のお手本いくつかを柳に桜とこきまぜて、美文の景色は、まさに陽春の趣を呈している。

 次いで「祇王」の段があらわれる。対照の妙、ふたたび耳をも目をも驚かせるに足りるというべきか。

2025.12.14 記す。


祇王(ぎ おう)――本地垂迹 .27~31 

『平家』を第一巻から読みすすんでいると、何ほどの時も経たぬうちに「祇王」のkくだりに行きつく。そこまでは忠盛、清盛、平氏一門の出世を語るが、十二世紀の政治世界の話であるから、普段はいっこうに耳馴れず、耳馴れもしない官位官職名がしきりに出没する。「祇王」の直前、「吾身栄花」のおわりの一節は、和漢混交文の一頂点を極めている……

 日本秋津嶋はわづかに六十六箇国、平家知行の国三十余箇国、すでに半国にこえたり。そのほか荘園田畠(でんぱく)いくらという数を知らず。綺羅充満して、堂上花のごとし。軒騎群集(けんきくんじゅ)して、門前市をなす。楊州の(こがね)、荊州の(たま)呉郡(ごきん)の綾、蜀江(しよつこう)の錦、七珍万宝一つとして欠けたる事なし。歌堂舞閣ンお()ゐ、魚龍癪馬の翫物(もてあそびもの)、恐らくは帝闕(ちぇいけつ)仙洞(せんとう)も是にはすぎじと見えし。

 つづく「祇王」は、賢明にも一転して、平易な和文調の語りになる。

「祇王」の物語は『平家』全体のなかで、とび抜けて長いが、幾百年にわたり、聞く人、読む人の目がしらを熱くさせ、涙をさそってきたし、それはいまも変りがない。

 あらすじだけを言うなら、次のようなことになる。

 その頃、都に聞こえた白拍子(しらびょうし)の上手、祇王は清盛の愛妾だった。おかげで母親も、妹の祇女も、豊かにたのしく日をすごしていた。三年すぎたとき、(ほとけ)という名のは白拍子が、加賀から都にやってきて評判になった(祇王祇女は近江国野洲の出身という言伝えがある)。仏御前は思い立って、西八条の屋敷に出かけると、いきなり清盛に面会を乞う。無礼を怒った清盛が追い返すのを押しとどめたのは祇王であった。仏はめでたい今様(いまよう)を歌い、ほめにあずかり、次に舞を所望される。「仏御前は髪、姿よりはじめて、みめ形うつくしく、声よく、節も上手でありければ」清盛は忽ち心を仏にうつし、祇王をしりぞけるが、やがて新しい愛妾の無聊をなぐさめよと言って祇王を召し出す。断われば都のそとへ追放されるか、あるいは殺されるのを覚悟で召しに応じぬ祇王は、母親にかきくどからて西八条の屋敷に行き、仏御前のまえで舞う。往時を思い、いまの身の上を思い、自害しようとするのを再び母親にかきくどかれて思いとどまり、姿を変えて尼となり、「嵯峨の奥なる山里に柴の(いおり)を引き結び、念仏してこそ居たいけれ。」やがて妹の祇女も母親も尼となり、「ひとへに後世(ごせ)をぞ願ひける。」その年の秋の夕暮、庵の竹の編戸をほとおとと叩くものがある。仏御前であった。「かづきたる(きぬ)を打ちのけたるを見れば、尼になつてぞ(いで)きたる。」そして「日ごろの(とが)をば許し給へ。許さんと仰せられば、もろともに念仏して、一つ(はちす)の身とならん」と仏は祇王にいう。仏は齢わずかに十七歳。のちに四人の女たちは皆、往生の素懐を遂げたと伝える。「あはれなりし事どもなり」と物語はおわる。

 要約では涙ばかりか鼻汁も出ない。だが「祇王」本文は和漢混交文ではなくて、嫋々(じようじよう)とした和文のつらなるなか、随所に物のあはれ(ゝゝゝゝゝ)深かまさる章句が挟まり、人の世の移ろいが季の移ろいとかさなり、溶け合い、加えて清盛の仕打ちを嘆く祇王の声、仏御前の清盛への訴え声、祇王の母が娘いじめの理屈声、そういうものが次々に自然界の物音にまじって聞こえるので、読むにつれて心がしめりうるおって、夜露に濡れしおたれた秋草のように身の置き所もない気分に陥る。

 祇王と仏御前、名前がまことにいぶかしい。祇とは国の神のこと、神と仏が、ここに深い縁を結んでいる。本地衰弱(ほんじすいじゃく)が、物語のあみ目のなかで実感に彩られ、人びとの腑に落ちるのである。『徒然草』第二二五段にいう(日本古典文学大系『方丈記 徒然草』P.二七一:黒崎記)。

 多久資(おおいのひさすけ)(宮廷雅楽の楽人。一二九五年没、八十二歳)が申しけるは、通典(みちのり)入道、舞の手の中に興ある事どもをえらびて、いその禅師といひける女に教へてまはせり。白き水干(すいかん)に、鞘巻(さやまき)を差させ、烏帽子をひき入れたりければ、男舞とぞいひける。禅師がむすめ、静(義経の愛妾)と云ひける、この芸を継げり。これ白拍子の根元なり。仏神の本縁をうたふ。その後、源光行、多くの事を作れり。後鳥羽院の御作もあり、亀菊にをしへさせ給ひけるとぞ。

 してみれば、白拍子の歌う歌謡は、そもそも本地衰弱を離れることがなかったのだろう。片や祇王、片や仏御前という名乗りは、白拍子そのものの「根元」に発していることにもなるだろう。

 けれど、祇王の取りなしを得た仏御前が清盛の目のまえで歌った尾は「仏神の本縁えおうたふ」文句ではなく、松に千年の長寿があれば、それは「君」のおかげと予祝し、蓬莱島の景を思いうかべた、めであたい賀の今様であった。

  君をはじめて見るをりは、千代も経ぬべし娘小松

  御前(おんまえ)の池なる亀岡に、鶴こそ群れ居て遊ぶめれ

 この今様は『古今和歌集』の最末尾に置かれて、勅撰第一の和歌集をめでたく締めくくる藤原敏行朝臣の歌を思い出させる。

  ちはやぶる買物のやしろの姫小松万世経(よろずよふ)とも色は変らじ

「祇王」物語は、『古今集』というものが人びとに極めてよく親しまれていた時代でなければ、いまわれわれが読むような形にまで、ふくらみ育つことはなかった。寄りつどって和歌を作り、漢詩を賦することをたのしんだ人びとはなた、白拍子の歌謡をよろこび、白拍子の舞にどよめいた人bいとでもあったし、殻らはまた一様に、のがれるすべもない無常を身に染みて知っていた。守護し給えと祈っても、国の神々に歯、平氏をも源氏を救う力はなかった。

2025.12.15 記す。


二代后(にだいきさき)――世の乱れ P.32~36 

「祇王」の段が綿々たる語りに乗せて、色におぼれる清盛の姿を漆絵(うるしえ)のように()ぎ出したあと「二代后」の段は、満月のほこりを吹き払いながら宮廷の乱れをあばき出す。

 そもそも源氏と平氏は、ともに朝廷に仕えて、「王化に従はず、おのずから朝権を軽むずる者には、互いに戒めを加へしかば、代の乱れもなかりしに」、保元の乱には源為義が子の義朝に斬られ、平治の乱には義朝が誅せられ、これより源氏の勢威はおとろえるばかりで、「今は平家の一類のみ繁昌して」、源平の均衡は完全に敗れた。

 一方、朝廷内には、「主上上皇、父子の御あひだ」、すなわち後白河上皇と二条天皇のあいだに疎隔が生じて、互いに相手の側近を警戒するということがたびたびあった。「是も世澆季(ぎょうき)に及んで、人、梟悪(きよあく)を先とする故なり。」世も末となり、悪だくみが道理に先立つようになった結果である。そして、ここに前代未聞のことが起きた。

 わずか三歳で帝位に就いた後白河の先代、近衛帝の后は、帝(院)が十七歳の若さで没したのちは、禁裏を出て近衛河原の御所にひっそりと暮しておいでだったが、盛りも少しすぎた二十二、三歳とはいえ、天下第一の美人の聞こえが高かった。後白河の第一の宮、帝位を継いだ二条天皇は当時十七、八歳だったが、この太后に恋慕し、艶書を届けさせるまでに執着が嵩じていた。「大宮(太后)敢へて聞こし召しも入れず。さればひたすらはやほにあらはれて〔ただもう露骨に紅色の心をそとに出して〕、后御入内(ごじゆだい)あるべき由、右大臣家に宣旨を下さる。」いそぎ公卿僉議(くぎょうせんぎ)が開かれた。異朝すなわち中国には、唐の太宗の后、則天武后は高宗の継母だったが、太宗没後に高宗の后に立った例がある。これは異朝での先規、しかも特例である。吾朝には神武以来、人皇七十余代におよぶも「いまだ二代の后に立たせ給へる例を聞かず」と諸卿異口同音に言い立てた。

 本当にこんな僉議があったかどうかは別として、先例をまず中国に求めて詮索し、物語のあらたな展開をはかるのは『平家』の常套である。その語りに聞き惚れるうちに、異朝の歴史が人々の常識になってゆく。また、二条帝が太后に艶書を出すくだりには、玄宗の命に服して外宮(がいきゅう)に美女を求め、、楊貴妃を得た高力士のことが、さも自然な喩えとして使っている。よく知っていることを聞いてうなずくうちに、聞き手はおのずと話に釣りこまれる。『平家』の語り手は、そのあたりの呼吸を見計らうのが巧である。

 二条帝は上皇の反対に会うが、「天子に父母(ぶも)なし」云々と言い放って、太后再入内を敢行する。「二代后」の段は、これよりあとの話の運びを見ると、先の「祇王」と表裏一体をなしているのがよくわかる。入道相国が祇王につらく悲しい日々を強いたように、二条帝は二代の后という前代未聞の汚名を強いられたひとに、涙の日々をあたえる。片や、(くらい)人臣を極めた老漁色家と身分の卑しい白拍子。片や人皇として『徒然草』の言い方を借りるなら「竹の園生(そのう)の末葉」に生れて「みかど」の位にのぼった若い漁色家と年上の美しい太后。祇王が世を捨てて柴の庵を引き結ぶ嵯峨野の奥は、あらしの山かげ、野分の頃ともなれば、ものすごいまでにきびしいところであり、片や、二大の后が涙ながらに入内した後の住居は、内裏の後宮、名も麗景殿という。祇王には、入道相国の愛が仏御前に移ったのち、自殺しようとする祇王をかきくどいて思いとどませる母親があった。二代の后となったひとには、再入内決定ののち、「先帝に送れまゐらせし久寿(きゆうじゅ)(近衛帝没年の年号)の秋のはじめ、同じ野の露とも消え、家をもいで、世をものがれたりせば、かかるうき耳をば聞かざらましとぞ、御歎きありける」さなかに、すみやかに入内して皇子を生めば、そなたも国母と言われ、おのれも外祖を仰がれる、とわが娘をかきくどく父親が設定されている。

 こうして「祇王」「二代后」の相次ぐ二段のあいだにもまた、対照によって物語の興をいっそうかき立てる手法のあと歴然たるものがある。

 対照ということなら、両段それぞれに引かれている歌の相違も見のがせない。「祇王」には、和歌は一首を用いるのみ、西八条の屋敷を追い出される間際に、祇王が衝立に泣く泣くかきつけたのは、

  もえ(いず)るも枯るるもおなじ野辺の草いづれか秋に」あはではつべき

「秋」を「飽き」にかけて、心の乱れをそのまま見せた即興という次第であれば、歌の巧拙を言ってみてもはじまらない。「二代后」には、この不幸な后の和歌二首が、物語のなかに挟まっている。

  大宮そのころ、なにとなき御手習の(つい)でに、

   うきふしにしづみもやらで河竹の世にためしなき名をやながさむ

  世にはいかにして洩れけるやらむ、あはれにやさしきためしにぞ、人々申しあへりける。

 再入内して麗景殿に住まう身になれば、かつて近衛帝の后だったときに紫宸殿に参内するごとに見なれた衝立にも、目にとまらないでは済まなかった。中国の聖賢七人を描いたその衝立を前にして、一々の肖像の主を説明してくださった近衛帝のなつかしい面影のみが偲ばれる。そして清涼殿には、巨勢(こせ)金岡えがくところの「遠山の有明の月」の衝立もあった。近衛帝が幼少のみぎり、その絵の月を、

  なにとなく御手まさぐりの(つい)でに、かきくもらせ給ひしが、ありしながらにすごしもたがはぬを御覧じて、先帝の昔もや御恋しくおぼし召されけん、

   思ひきやうき身ながらにめぐりきておなじ雲居の月を見むとは

『平家』には人口に膾炙した歌が幾つも含まれているが、これはあはれ(ゝゝゝ)も深く心に残る一首である。

2025.12.16 記す。


清水寺炎上(きよみずでらえんじよう)――音と火 P.36~40 

 皇太后だったひとをわが后として再入内させた二条天皇は、永万元年(一一六五)の春ごろから不快がつのっていった。六月二十五日、にわかに第二皇子順仁に親王の宣旨がくだり、その夜のうちに二条帝は親王に位を譲った。六条天皇、わずかに二歳。「天下、何となうあわてるさまなり……先例なし。物あわがしともおろかなり」と『平家』は語る。

1931年1月21日 - 2015年5月27日)

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