杉本 秀太郎『平家物語』巻一
 

目 次

祇園精舎 殿上闇討・すがめの瓶子 唐瓶子 鱸・海と平氏の因縁 吾身栄花・六波羅と桜町
祇王・本地垂迹 二代后・世の乱れ 清水寺炎上・音と火 殿下乗合・はだれ雪
鹿谷・戯言と歌占 鵜川軍・白妙 御輿振・文が武に勝った話 内裏炎上・猿の松明


杉本 秀太郎(国際日本文化研究センター教授) (1931~2015年) sugimoto.bmp
『平家物語』(講談社)

 祇園精舎(ぎおんしょうじゃ) P.11~14

 『平家』を読む。それはいつでも物の気配に聴き入ることからはじまる。身じろぎして、おもむろに動き出すものがある。それにつれて耳に聞こえはじめるのは、胸の動悸と紛らわしいほどの、ひそかな音である。『平家』が語っている一切はとっくの昔、遠い世におわっているのに、何かのはじまる予感が、胸さわぎを誘うのだろうか。それとも、何かのおわる予感から、胸がざわめきはじめるのだろうか。
 あることのことのはじまりは、あることのおわりであり、逆にまた然りとするなら、私が予感とともに待ち受けているのは、まさしくこの世の無常の姿、いのちを享(う)けたものすべてがたどる一栄一落の有様以外のものではない。『平家』を読む。このとき、かすかな胸さわぎが絶えないのは物怪(もつけ)の幸である。
 『平家』冒頭の誰でも知っているくだりは、これから語り出されるものをよく聴き給えということを、ああいう喩(たとえ)で語り出したのである。天竺というおそろしく遠い國の、奥も知れない林のなかに埋もれてしまって、たしかめようもなくなった祇園精舎から、どこからともなく吹く世外の風に乗り、はるばる鳴りわたってくる鐘の声。どんなものよりも近い自分の肉体という場にたしかめることのできる胸のざわめき。相隔たること最も甚だしいこのふたつが、時として、ひとつにかさなるのは、念仏を唱える人の両のてのひらが合わされるのと同じくらいに自然なことではないだろうか。いま、耳の底にかすかに鳴っているのを「祇園精舎の声」と思うなら、たしかにそれは「諸行無常の響きあり」である。私の胸のなかにあって瞬時も鼓動しやめないものも、いずれは停止する。これほどたしかなことはない。胸の動悸が諸行無常の音となって聞こえはじめたにしても、わが耳を咎め立てるにはおよばない。いずれ、ほどなく、諸行無常の音という唱え言よりも、もっと耳をそばだてて聴かずにいられないものが、琵琶の響きとともに次から次にとあらわれてくるだろう。耳をせいぜい敏感な状態に保っておくこと。この用心を忘れぬことにしよう。
 だが聞こえてくるものに聴き入る用意をととのえていると、もう一方では、見えてくるものに目をとめよという声もまた耳に入る。動くものはいうまでもない。動ふ動にかかわらず、色、彩りあるものの彩りに目をとめるべし、とその声は告げている。冒頭のくだりを念のために引き写すと、

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹(しゃらそうじゅ)の花の色、盛者必衰(じょうしゃひつすい)のことわりをあらわす。おごれる人も久しからず、只春の夜(よ)の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ。偏(ひと)へに風の前の塵に同じ。

 はじめに音を言い、諸行無常を言ったあとで、色を言い、盛者必衰を言うのは、勿論、対句の形式にもとずいてのことである。仏教説話によれば、釈迦がクシナガラで二本の娑羅の木のあいだに横臥して涅槃(ねはん)に入ったとき、単黄色の娑羅の花が白変した。そこで釈迦入滅の地を白鶴に喩えて鶴林と称する。いのちの果てで白く色あせたものも、もとはそれぞれのいのちの色に燃えていたのに、と対句後半は言いたいらしい。
 白が地の色として布(し)かれたことが大事なことである。この白地は、のちの物語に、あでやかな色、きらびやかな色、猛々しい色、しっとりと落ちついた色、物さびた色、重く沈んだ闇の色が、それぞれに映え出す用意なのだと納得される。のちの物語を絵巻物のように楽しむつもりなら、霧にとざされた冬の朝のように白いだけの世界を、つとめて思いえがくに限るだろう。しかし『平家』が昔の絵師たちを誘惑し、近代の画家たちに恰好の画題を提供し、えがかれた絵が人を魅了するのも、あるいは白変した娑羅の花の色が、われわれの眼底に染みとおっているのからなのかも知れない。自然界が人界の異変に感応した一瞬裡の白変は、いつしかわれわれに無常を悟らせる色となり、すべて色あるものの示す色はやがて無常の白変を蒙り、ただ追懐のなかに再生する限りにおいて、もとのいのちの色を回復する。この経緯に注目すれば、『平家』が絵巻物あるいは大小の画面よりも能舞台に、もっと多くの主題を提供し、あんなに多くの主人公たちを幽明の境に出没させるにいたったことに、何ら不思議はないように思われる。
 『平家』巻頭の「祇園精舎」は、ほどなく調子をあらためて、天下の乱れを招き、「久しからずして、亡じにし」高位高官の例をまずは「遠く異朝」にたずねて中国の諸例を挙げ、次いで「近く本朝をうかがふに、承平の将門(まさかど)天慶(てんぎょう)の純友(すみとも)、康和の義親(ぎしん)、平治の信頼(しんらい)」と並べ立てたあとに、「まぢかくは、六波羅の入道前太政(さきのだいじょう)大臣朝臣(あそん)清盛公と申しし人のありさま、伝え承るこそ心も詞もおよばれね」と、話題を清盛のことに絞る。この人、桓武天皇の第五皇子を祖とし、それより九代の後胤になるという。祖父は讃岐守正守、父は刑部卿忠守。「かの親王の御子高見の王、無官無位にして失せ給ひぬ。その御子高望(たかもち)の王の時、始めて平の姓をたまはって、上総介(かずさのすけ)になり給ひしより、忽ちに王氏を出でて人臣につらなる。高望の王の子よりのち、清盛の祖父正盛にいたるまで「六代は諸国の受領たりしかども、殿上の仙籍をばいまだ許されず。しかるを」と一転した物語は、これより清盛の父忠盛が昇殿を許された次第に移る。撥(ばち)の音にわかに高く、息使い切迫して、せわせわしい。(以下略)

平成二十二年十二十九日


 殿上闇討(でんじょうのやみうち)――すがのの瓶子 唐瓶子

 しかるを忠盛備前守たりし時、鳥羽院の御願(ごがん)得長寿院を造進して、三十三間の()堂をたて、一千一躰の(おん)仏をすゑ奉る。供養は天承元年三月十三日なり。勧賞(げんじよう)には闕国(けつこく)を給ふべき由仰せ下される。境節(おりふし)但馬国のあきたりけるを(たび)にけり。上皇御感のあまりに内の昇殿をゆるさる。忠盛三十六にて始めて昇殿す。雲の上人是を猜み、同じき年の十二月二十三日、五節豊明(とよのあかり)節会(せちえ)の夜、忠盛を闇打ちにせんとぞ()(議)せられける。
 平家興隆の第一歩で忠盛は、「殿上闇討」の試練に直面した。これを語りはじめるくだりは、かつて石母田正が「簡潔な文体」を称賛し「物語のうちでもっともすぐれた箇所の一つ」にかぞえたことがある(岩波新書『平家物語』六九頁)(黒崎同書で確認)。いかにも、と思われる。 「しかるを忠盛」という冒頭の語勢は、どのような口語文に移しあらためても消え失せてしまう。われわれがいま、お互いにつねづね使っている日本語に「しかるを忠盛」を取り返す器量が」ないのは、言葉という場にも無常の風はあやまたず吹いているからである。

「しかるを忠盛」とはじまる「殿上闇討」の段は、冒頭のくだりのみならず、全段かけて緊迫した語勢でつらぬかれている。こういう文章を要約するのはまことに味気ないことだが、要するにこの段は、忠盛がただの人ではないという話である。機略あり、胆力あり、また、いざ評定の場に臨んでは、ぼろを出さぬ舌先三寸の芸もあり、さすがは一代の成上り者、当節の政商そっくりなところがある。しかし、その忠盛には別に見るべき文才もあったのは、「殿上闇討」に続く「(すずき)の段が語るところである。

 忠盛を刺そうとした公卿たちの計画は、忠盛の耳に入っていた。のちの面倒を考えた忠盛は、豊明の節会の夜の昇殿にあたっては、準備した。殿上の小庭には、忠盛の郎等、「薄青の狩衣のしたに萌黄威の腹巻」を着た左兵衛尉家貞が、かしこまって控えている。上下呼応するふたりの装束、色彩の対応、是絶妙とう」ほかない。

「五節豊明の節会の夜」というのは、四日にわたる新嘗祭の最後の日の夜。五節の舞姫が加わって酒宴となり、朗詠、今様、乱舞の催しがある。一座の空気がにぎやかに、ほんなりと保たれているのはしばらくのあいだで、やがて猥雑に落ちていく。忠盛が名ざしを受けて御前で一さし舞を披露し、無事に舞い収めると、人々は突然、拍子を変えて、「伊勢平氏(へいじ)はすがめなりけり」と囃し立てた。一頃(ひところ)の平氏が都にも住みにくくなり、伊勢の国に長く住みついていたことと、忠盛が片方の目だけ細く「すが目」だったことを酢瓶(すがめ)瓶子(へいじ)に言いかけたのだった。

 大覚寺殿、すなわち後宇多天皇の御所に集まっていた公卿たちは、琵琶法師の語る「伊勢平氏」のくだりを聞きおぼえていて、忠盛ではない忠守に対して悪ふざけをしてみたかったのだろう。

2025.12.12 記す。


 (すずき)――海と平氏の因縁 P.19~22

「鱸」の段の眼目は、清盛が位人臣を極めたあとを簡潔に素描することにある。清盛、安芸守のときに保元の乱が起こり、主上の味方として勲功あり播摩守に任ぜられ、やがて大宰大弐になる。次いで平治の乱あり、これにも勲功なだならず正三位に叙せられ、あとは宰相、衛府督(えいふのかみ)検非違使別当(けんびいしのべつとう)、中納言、大納言と昇進をかさぬたすえは、左大臣、右大臣をとぼこえて内大臣」より太政大臣従一位に経あがった。「大将にあらねども、兵仗(ひょうじいよう)をたまはつて随身を召し具す。牛車輦車(れんじゃ)宣旨(せんじ)を蒙つて、乗儀刑せり〔天子の師範であり、天下の模範たるもの〕。国を治め、道を論じ、陰陽をやはらげをさむ。その人にあらずば即ち欠けよ〔適任者がないなら欠官のままがよろしい〕というほどの要職だと説明を加えたのちに、語り手は「その人ならではけがすべき官ならねども、一天四海を(たなごころ)の内ににぎられしうへは子細に及ばず」と、清盛栄達の次第を結んでいる。

 清盛がまだ安芸守の時代、熊野参詣のために伊勢の海から船に乗っていったときのこと、大きな鱸が一尾、船中におどりこんだ。案内の山伏が「これは権現の御利承生ですぞ、さっそくお食べばさるがよい」を言われたのに、清盛が「昔、周の武帝の船に泊魚(ゝはくぎょ)がおどり入ったという故事があったわい。まさに、「吉兆」と応じて、十戒を守って精進潔斎すべきときなのに、鱸を料理させて自分も食べ家の子侍どもにも食わせた。「その故にや、吉事のみうちつづいて、太政大臣まできはめ給へり。子孫の官途も(りょう)の雲に上るよりは猶すみやかなり、九代の先蹤(せんじょう)〔平氏先祖から九代の先例〕をこえ給ふこそ目出たけれ。

「鱸」の段には、清盛栄達を語るくだりに先立って、前段「殿上闇討」に語り残された忠守の逸事が、はじめに置かれている。

 忠盛の子どもが次々に諸衛の(すけ)になり、殿上人も彼らと付合わざるを得なくなった頃(とは少々あいまいだが)、備前国かた都へのぼった忠盛に、鳥羽院が「明石の浦は『源氏物語』以来、名高い名所(などころ)だが、どのようなところかな」とおたずねになったので、

  あり明けの月もあかしの浦風に浪ばかりこそよるとみえしか

と感心なさった(かけことばの多い謡。大意は、明石の浦に有明の月はあかるく照っても、波立つ磯べの夜は暗くて、まことにわびしいところです)。この歌はのちに『全葉集』の撰に入った。

 また、忠盛は上皇の御所に仕える女房を恋人に持っていたが、あるとき、端に月を描いた扇をその女房のつぼねに忘れて帰った。仲間の女房たちが、「これはどこの月影かしら、出どころがよくわからないわねえ」などと冷やかすので、その女房が、

  雲居よりただもりきたる月なればおぼろけにてはいはじと思ふ

と詠んだ(歌には「ただもり」の名がよみこまれている。「pぼろけにては」は、並大抵のことでは、の意)。これを伝え聞いた忠盛は、一そう思いが増した。ふたりのあいだに生れたのが、のちに歌人として聞えた忠野(ただのり)である。「似るを友とかやの風情に忠盛も好いたりければ、かの女房も優なりけり。」

 この逸事にみえる月は、明石の浦の月も、扇絵の月も、言葉の技芸によってさやかに照っている。ここには磯の風もなまぐさく匂っていないのがうれしい。

2025.12.13 記す。


 吾身栄花(わがみのえい が)――六波羅と桜町 P.23~27

 清盛が太政大臣にまで経あがり、子孫も男はそれぞれ官途に就いて昇進し、女は徳子が高倉帝の后となったのをはじめとして、いずれも高位貴顕のもとに嫁し、平家一門の栄花は絶頂をきわめた。 

 承安元年(一一七一)の徳子入内に先立つこと、三年、清盛太政大臣となって一年後の仁安三年(一一六八)十一月、五十一歳の清盛は「病にをかされ、存命のために忽ちに出家入道す」と「禿髪(かぶろ)」(『平家物語 上』角川文庫では「鱸の事」付 禿髪の事になっている)の段は語り出して、「法名は淨海には静海の字を当てるテキストもある。例の吉事にはじまる海との縁は、ここまで深いことになった。

『平家』はこれよりのち、清盛を入道相国あるいは単に入道と呼び改める。この入道が法体(ほつたい)のかげに、いかばかりなまぐさい身を包み隠したか、いや、包み隠そうともしなかったか。物語は「禿髪」および「吾身栄花」という二つの短い段のあいだに、入道相国という大きな石を山の頂にまで一気に押し上げ、あとは大石の転落する有様をえがくだろう。ずり落ちる間ぎわの入道石の下敷きになった可憐なニ、三輪の花が「祇王」の長くかなしい物語につれて、無常の風のまにまにゆれ傾き、花びらを散らしてゆく。

「禿髪」は、つづけていう、

六波羅殿の御一家の公達といひてしかば、花族(かしょく)も英雄も(おもて)をむかへ肩をならぶる人なし。されば入道相国の小じうと、(へい)大納言時忠卿ののたまひけるは「この一門にあらざらむ人は皆人非人()なるべし」とぞのたまひける。かかりしかば、いかなる人も相構へてそのゆかりにむすばほれんとぞしける。衣文(えもん)のかきよう、烏帽子(えぼし)のためやうよりはじめて、何事も六波羅(よう)といひてんげれば、一天四海の人みな是を学ぶ。

「花族」「英雄」はいずれも清華(せいが)の別称、摂家に次ぎ、大臣大将を兼ね、太政大臣にまで昇進できる家柄のこと(岩波『日本古典文学大系』本の注)。時忠は入道相国の妻ならびに建春門院の兄。「人非人」とは、よほどの悪罵である。明治時代には、旧士族が人をあなどって「車夫馬丁」などと呼び捨てることがあったが、それに類する思いあがった物言いである。

 さて、その六波羅の当世ふうを、いかに人が真似したくとも、真似のできない風俗というものが、ここに一つかぞえられる。それが禿髪であった。

入道相国のはかりごとに、十四五六の童部(わらわべ)を三百人揃へて髪を禿(かぶろ)にきりまわし、赤き直垂(ひたたれ)を着せて、召しつかはれけるが、京中にみちみちて往反(おうへん)しけり。

 頭髪をおかっぱのように切りそろえ、直垂というざんぐり(ゝゝゝゝ)した布服の幟と同じ赤に染めたのをお仕着せにした少年たち、これが入道のいわば紅衛兵として立ち働いた。門口の立ち話、戸のかげのひそひそ話に、うっかり平家のことを悪しざまに言ったりしたのが彼らの耳に入りでもしようものなら、仲間じゅう触れまわって、その家に乱入し、家財道具を没収し、そやつをからめ取って六波羅に引っぱってゆく――「されば目に見、心に知るといへども、ことばにあらはれて申す者なし。六波羅殿の禿といひてんしかば、道をすぐる馬、車もよぎてぞ〔避けて〕とほりける。禁門を出入りするといへども、姓名を尋ねらっるに及ばず、京師(けいし)の長吏これがために目を(そば)む〔目をそらせる〕とみえたり」と、いうまでにいたった。

「禿髪」の話はこれでぶつりと切れる。

 段あらたまって「吾見栄花」は、栄花の極みは入道相国にとどまらず、「一門共に繫昌して、嫡子重盛、内大臣の左大将、次男宗盛、中納言の右大将、三男知盛、三位中将、嫡孫維盛、四位少将、惣じて一門の公卿十六人、殿上人三十余人、諸国の受領、衛府、諸司、都合六十余人なり。世には、また人なくぞみえられける」と語ったのちに、古いところでは聖武天皇の世に兄弟ならんで左右の大将に列せられた例を挙げ、それより以降の史実をかぞえても、これまでに、三、四度の前例あるにすぎないうえ、いずれも摂禄の臣の血すじの話であり、入道の父、忠盛は「殿上の交りをだにきらはれし人」だったが、その「子孫にて、禁色雑袍(きんじきぞうほう)をゆり〔許され〕、綾羅錦繍(りようらきんしゅう)を見にまとひ、大臣の大将になって兄弟左右(けいていさう)に相並ぶこと、末代とはいひながら不思議なりし事どもなり」と、ここも隙のない、張りつめた語調が快いが、出てくる名はすべて男ばかりで花がない。

 と思っていると、話題は一転して、「そのほか御娘八人おはしき。皆とりどりに(さいわい)給へり」となり、にわかに空気がなごんでくる(ここで「幸」というのは、女が男の愛を享けることだと語注にみえる)。八人のうち、一人は桜町の中納言成範(しげのり)の北の方にという約束が、平治の乱のために果されず、花山院の左大臣、藤原兼雅に嫁して、男の子を幾人もなしたと告げたのち、しばらく話題は破談になった相手のことに移るところが妙である。

そもそもこの成範卿を桜町の中納言と申しけることは、すぐれて心数寄給へる人にて、つねは吉野山を恋ひ、町に桜を植ゑならべ、その内に屋を建てて住み給ひしかば、来る年の春ごとに見る人、桜町とぞ申しける。櫻は咲いて七箇目に散るを、なごりを惜しみ、天照御神に祈り申さければ、二十日の(よわい)をたもちけり。

 ここに桜の花を二十日のあいだ咲かせたのは、成範卿の人柄と神徳も」さることながら、ほかならぬ「平家」の語り手の心に、花があったからである。つづけては、のちに建礼門院となった娘のことから、すべて合わせて八人の娘の栄花というにふさわしい「幸」を語ったすえは、漢文のお手本いくつかを柳に桜とこきまぜて、美文の景色は、まさに陽春の趣を呈している。

 次いで「祇王」の段があらわれる。対照の妙、ふたたび耳をも目をも驚かせるに足りるというべきか。

2025.12.14 記す。


祇王(ぎ おう)――本地垂迹 .27~31 

『平家』を第一巻から読みすすんでいると、何ほどの時も経たぬうちに「祇王」のkくだりに行きつく。そこまでは忠盛、清盛、平氏一門の出世を語るが、十二世紀の政治世界の話であるから、普段はいっこうに耳馴れず、耳馴れもしない官位官職名がしきりに出没する。「祇王」の直前、「吾身栄花」のおわりの一節は、和漢混交文の一頂点を極めている……

 日本秋津嶋はわづかに六十六箇国、平家知行の国三十余箇国、すでに半国にこえたり。そのほか荘園田畠(でんぱく)いくらという数を知らず。綺羅充満して、堂上花のごとし。軒騎群集(けんきくんじゅ)して、門前市をなす。楊州の(こがね)、荊州の(たま)呉郡(ごきん)の綾、蜀江(しよつこう)の錦、七珍万宝一つとして欠けたる事なし。歌堂舞閣ンお()ゐ、魚龍癪馬の翫物(もてあそびもの)、恐らくは帝闕(ちぇいけつ)仙洞(せんとう)も是にはすぎじと見えし。

 つづく「祇王」は、賢明にも一転して、平易な和文調の語りになる。

「祇王」の物語は『平家』全体のなかで、とび抜けて長いが、幾百年にわたり、聞く人、読む人の目がしらを熱くさせ、涙をさそってきたし、それはいまも変りがない。

 あらすじだけを言うなら、次のようなことになる。

 その頃、都に聞こえた白拍子(しらびょうし)の上手、祇王は清盛の愛妾だった。おかげで母親も、妹の祇女も、豊かにたのしく日をすごしていた。三年すぎたとき、(ほとけ)という名のは白拍子が、加賀から都にやってきて評判になった(祇王祇女は近江国野洲の出身という言伝えがある)。仏御前は思い立って、西八条の屋敷に出かけると、いきなり清盛に面会を乞う。無礼を怒った清盛が追い返すのを押しとどめたのは祇王であった。仏はめでたい今様(いまよう)を歌い、ほめにあずかり、次に舞を所望される。「仏御前は髪、姿よりはじめて、みめ形うつくしく、声よく、節も上手でありければ」清盛は忽ち心を仏にうつし、祇王をしりぞけるが、やがて新しい愛妾の無聊をなぐさめよと言って祇王を召し出す。断われば都のそとへ追放されるか、あるいは殺されるのを覚悟で召しに応じぬ祇王は、母親にかきくどからて西八条の屋敷に行き、仏御前のまえで舞う。往時を思い、いまの身の上を思い、自害しようとするのを再び母親にかきくどかれて思いとどまり、姿を変えて尼となり、「嵯峨の奥なる山里に柴の(いおり)を引き結び、念仏してこそ居たいけれ。」やがて妹の祇女も母親も尼となり、「ひとへに後世(ごせ)をぞ願ひける。」その年の秋の夕暮、庵の竹の編戸をほとおとと叩くものがある。仏御前であった。「かづきたる(きぬ)を打ちのけたるを見れば、尼になつてぞ(いで)きたる。」そして「日ごろの(とが)をば許し給へ。許さんと仰せられば、もろともに念仏して、一つ(はちす)の身とならん」と仏は祇王にいう。仏は齢わずかに十七歳。のちに四人の女たちは皆、往生の素懐を遂げたと伝える。「あはれなりし事どもなり」と物語はおわる。

 要約では涙ばかりか鼻汁も出ない。だが「祇王」本文は和漢混交文ではなくて、嫋々(じようじよう)とした和文のつらなるなか、随所に物のあはれ(ゝゝゝゝゝ)深かまさる章句が挟まり、人の世の移ろいが季の移ろいとかさなり、溶け合い、加えて清盛の仕打ちを嘆く祇王の声、仏御前の清盛への訴え声、祇王の母が娘いじめの理屈声、そういうものが次々に自然界の物音にまじって聞こえるので、読むにつれて心がしめりうるおって、夜露に濡れしおたれた秋草のように身の置き所もない気分に陥る。

 祇王と仏御前、名前がまことにいぶかしい。祇とは国の神のこと、神と仏が、ここに深い縁を結んでいる。本地衰弱(ほんじすいじゃく)が、物語のあみ目のなかで実感に彩られ、人びとの腑に落ちるのである。『徒然草』第二二五段にいう(日本古典文学大系『方丈記 徒然草』P.二七一:黒崎記)。

 多久資(おおいのひさすけ)(宮廷雅楽の楽人。一二九五年没、八十二歳)が申しけるは、通典(みちのり)入道、舞の手の中に興ある事どもをえらびて、いその禅師といひける女に教へてまはせり。白き水干(すいかん)に、鞘巻(さやまき)を差させ、烏帽子をひき入れたりければ、男舞とぞいひける。禅師がむすめ、静(義経の愛妾)と云ひける、この芸を継げり。これ白拍子の根元なり。仏神の本縁をうたふ。その後、源光行、多くの事を作れり。後鳥羽院の御作もあり、亀菊にをしへさせ給ひけるとぞ。

 してみれば、白拍子の歌う歌謡は、そもそも本地衰弱を離れることがなかったのだろう。片や祇王、片や仏御前という名乗りは、白拍子そのものの「根元」に発していることにもなるだろう。

 けれど、祇王の取りなしを得た仏御前が清盛の目のまえで歌った尾は「仏神の本縁えおうたふ」文句ではなく、松に千年の長寿があれば、それは「君」のおかげと予祝し、蓬莱島の景を思いうかべた、めであたい賀の今様であった。

  君をはじめて見るをりは、千代も経ぬべし娘小松

  御前(おんまえ)の池なる亀岡に、鶴こそ群れ居て遊ぶめれ

 この今様は『古今和歌集』の最末尾に置かれて、勅撰第一の和歌集をめでたく締めくくる藤原敏行朝臣の歌を思い出させる。

  ちはやぶる買物のやしろの姫小松万世経(よろずよふ)とも色は変らじ

「祇王」物語は、『古今集』というものが人びとに極めてよく親しまれていた時代でなければ、いまわれわれが読むような形にまで、ふくらみ育つことはなかった。寄りつどって和歌を作り、漢詩を賦することをたのしんだ人びとはなた、白拍子の歌謡をよろこび、白拍子の舞にどよめいた人bいとでもあったし、殻らはまた一様に、のがれるすべもない無常を身に染みて知っていた。守護し給えと祈っても、国の神々に歯、平氏をも源氏を救う力はなかった。

2025.12.15 記す。


二代后(にだいきさき)――世の乱れ P.32~36 

「祇王」の段が綿々たる語りに乗せて、色におぼれる清盛の姿を漆絵(うるしえ)のように()ぎ出したあと「二代后」の段は、満月のほこりを吹き払いながら宮廷の乱れをあばき出す。

 そもそも源氏と平氏は、ともに朝廷に仕えて、「王化に従はず、おのずから朝権を軽むずる者には、互いに戒めを加へしかば、代の乱れもなかりしに」、保元の乱には源為義が子の義朝に斬られ、平治の乱には義朝が誅せられ、これより源氏の勢威はおとろえるばかりで、「今は平家の一類のみ繁昌して」、源平の均衡は完全に敗れた。

 一方、朝廷内には、「主上上皇、父子の御あひだ」、すなわち後白河上皇と二条天皇のあいだに疎隔が生じて、互いに相手の側近を警戒するということがたびたびあった。「是も世澆季(ぎょうき)に及んで、人、梟悪(きよあく)を先とする故なり。」世も末となり、悪だくみが道理に先立つようになった結果である。そして、ここに前代未聞のことが起きた。

 わずか三歳で帝位に就いた後白河の先代、近衛帝の后は、帝(院)が十七歳の若さで没したのちは、禁裏を出て近衛河原の御所にひっそりと暮しておいでだったが、盛りも少しすぎた二十二、三歳とはいえ、天下第一の美人の聞こえが高かった。後白河の第一の宮、帝位を継いだ二条天皇は当時十七、八歳だったが、この太后に恋慕し、艶書を届けさせるまでに執着が嵩じていた。「大宮(太后)敢へて聞こし召しも入れず。さればひたすらはやほにあらはれて〔ただもう露骨に紅色の心をそとに出して〕、后御入内(ごじゆだい)あるべき由、右大臣家に宣旨を下さる。」いそぎ公卿僉議(くぎょうせんぎ)が開かれた。異朝すなわち中国には、唐の太宗の后、則天武后は高宗の継母だったが、太宗没後に高宗の后に立った例がある。これは異朝での先規、しかも特例である。吾朝には神武以来、人皇七十余代におよぶも「いまだ二代の后に立たせ給へる例を聞かず」と諸卿異口同音に言い立てた。

 本当にこんな僉議があったかどうかは別として、先例をまず中国に求めて詮索し、物語のあらたな展開をはかるのは『平家』の常套である。その語りに聞き惚れるうちに、異朝の歴史が人々の常識になってゆく。また、二条帝が太后に艶書を出すくだりには、玄宗の命に服して外宮(がいきゅう)に美女を求め、、楊貴妃を得た高力士のことが、さも自然な喩えとして使っている。よく知っていることを聞いてうなずくうちに、聞き手はおのずと話に釣りこまれる。『平家』の語り手は、そのあたりの呼吸を見計らうのが巧である。

 二条帝は上皇の反対に会うが、「天子に父母(ぶも)なし」云々と言い放って、太后再入内を敢行する。「二代后」の段は、これよりあとの話の運びを見ると、先の「祇王」と表裏一体をなしているのがよくわかる。入道相国が祇王につらく悲しい日々を強いたように、二条帝は二代の后という前代未聞の汚名を強いられたひとに、涙の日々をあたえる。片や、(くらい)人臣を極めた老漁色家と身分の卑しい白拍子。片や人皇として『徒然草』の言い方を借りるなら「竹の園生(そのう)の末葉」に生れて「みかど」の位にのぼった若い漁色家と年上の美しい太后。祇王が世を捨てて柴の庵を引き結ぶ嵯峨野の奥は、あらしの山かげ、野分の頃ともなれば、ものすごいまでにきびしいところであり、片や、二大の后が涙ながらに入内した後の住居は、内裏の後宮、名も麗景殿という。祇王には、入道相国の愛が仏御前に移ったのち、自殺しようとする祇王をかきくどいて思いとどませる母親があった。二代の后となったひとには、再入内決定ののち、「先帝に送れまゐらせし久寿(きゆうじゅ)(近衛帝没年の年号)の秋のはじめ、同じ野の露とも消え、家をもいで、世をものがれたりせば、かかるうき耳をば聞かざらましとぞ、御歎きありける」さなかに、すみやかに入内して皇子を生めば、そなたも国母と言われ、おのれも外祖を仰がれる、とわが娘をかきくどく父親が設定されている。

 こうして「祇王」「二代后」の相次ぐ二段のあいだにもまた、対照によって物語の興をいっそうかき立てる手法のあと歴然たるものがある。

 対照ということなら、両段それぞれに引かれている歌の相違も見のがせない。「祇王」には、和歌は一首を用いるのみ、西八条の屋敷を追い出される間際に、祇王が衝立に泣く泣くかきつけたのは、

  もえ(いず)るも枯るるもおなじ野辺の草いづれか秋に」あはではつべき

「秋」を「飽き」にかけて、心の乱れをそのまま見せた即興という次第であれば、歌の巧拙を言ってみてもはじまらない。「二代后」には、この不幸な后の和歌二首が、物語のなかに挟まっている。

  大宮そのころ、なにとなき御手習の(つい)でに、

   うきふしにしづみもやらで河竹の世にためしなき名をやながさむ

  世にはいかにして洩れけるやらむ、あはれにやさしきためしにぞ、人々申しあへりける。

 再入内して麗景殿に住まう身になれば、かつて近衛帝の后だったときに紫宸殿に参内するごとに見なれた衝立にも、目にとまらないでは済まなかった。中国の聖賢七人を描いたその衝立を前にして、一々の肖像の主を説明してくださった近衛帝のなつかしい面影のみが偲ばれる。そして清涼殿には、巨勢(こせ)金岡えがくところの「遠山の有明の月」の衝立もあった。近衛帝が幼少のみぎり、その絵の月を、

  なにとなく御手まさぐりの(つい)でに、かきくもらせ給ひしが、ありしながらにすごしもたがはぬを御覧じて、先帝の昔もや御恋しくおぼし召されけん、

   思ひきやうき身ながらにめぐりきておなじ雲居の月を見むとは

『平家』には人口に膾炙した歌が幾つも含まれているが、これはあはれ(ゝゝゝ)も深く心に残る一首である。

2025.12.16 記す。


清水寺炎上(きよみずでらえんじよう)――音と火 P.36~40 

 皇太后だったひとをわが后として再入内させた二条天皇は、永万元年(一一六五)の春ごろから不快がつのっていった。六月二十五日、にわかに第二皇子順仁に親王の宣旨がくだり、その夜のうちに二条帝は親王に位を譲った。六条天皇、わずかに二歳。「天下、何となうあわてるさまなり……先例なし。物あわがしともおろかなり」と『平家』は語る。

 さるほどに、おなじき七月二十七、上皇(二条)つひに崩御なりぬ。御歳二十三歳、つぼめる花の散れるがごとし。玉の簾、錦の帳のうち、皆涙にむせばせ給ふ。やがてその夜、香隆寺のうしとら、蓮台野の奥、船岡にをさめ奉る。
「二代后」という汚名を蒙るほかなかったひとがはじめに入内して后になった近衛天皇は、十七歳で崩じている。この若死には異母兄の崇徳天皇の呪いがかかっていたという。近衛帝を脅かし、御脳(ごのう)の因となった()を退治したのは源三位(げんざんみ)頼政だったが、頼政は二条帝のためにもまた鵼を射落した。『平家』も巻四のおわりに近く挟まっている「鵼」の段は、そのことに触れて、
 (さんぬ)る応保の(ころ)ほひ、二条院御在位の時、鵼という化鳥、禁中に鳴いて、しばしば宸襟をなやますことありき。先例をもて、頼政を召されけり。ころ)五月(さつき)二十日あまりのまだ宵のことなるに、鵼ただ一声おとづれて、二声とも鳴かざりけり。目ざすとも知らぬ闇ではあり、姿かたちも見えざれば、矢つぼをいづくとも定めがたし。頼政謀りごとに、まず大(かぶら)をとつて(つが)ひ、鵼の声しつる内裏の上へ射上げたる。鵼、鏑の音に驚いて虚空に暫しひひめいたり。二の矢に小鏑とつて番ひ、ひふつと射切つて、鵼と鏑とならべて前に落したる。
 怪鳥の声、矢叫(やたけ)び。大鏑矢の闇を切る音。怪鳥の落ちる音。人びとのさんざめき。帝は御感のあまり、頼政にかけ合い歌で呼びかける……「五月闇(さつきやみ)名をあらはせる今宵かな」、頼政は、「たそがれどきも過ぎぬと思ふに」、と応答したそうだ。

 しかし、この二条院の葬送とときには、鵼退治のときに聞こえらのとは全く違った荒々しい音が響いて、死の静寂を破り、南都北嶺の争いを引き起こし、清水寺が忽ち炎に包まれる。

 帝王の柩を墓所に埋めるにあたっては、南都北嶺からはせ参じた僧衆が大挙して柩に供養したうえ、墓所のまわりに、それぞれの寺の額を懸けるという行事があった。これを額懸けとはいわずに「額打ち」と僧衆はおおげさに言い慣わしている。額打ちは、寺格にしたがって東大寺、次いで興福寺、そのあと延暦寺、園城寺とつづく手筈である。しかるに山門、即ち延暦寺が先例に背いて、東大寺の次に額を懸けた。出し抜かれた興福寺の衆徒のうちに観音坊、勢至坊というあばれ者で聞えた「大悪僧二人ありけり。」

観音房は黒糸(おどし)の腹巻に、白柄(しらえ)長刀(なぎなた)、茎短かにとり、勢至房は萌黄威の腹巻に、黒質漆(こくしつ)の大太刀をもつて、二人つと走り出で、延暦寺の額を切っておとし、散々に打ちわり、「うれしや水、鳴るは滝の水、日は照るとも絶えずとうたへ」とはやしつつ、南都の衆徒のなかへぞ入りにける。

 あらくれ法師がはやしたこの文句は、暗に清水の音羽の滝を指しているのだろう。二条院には父、幼い六条帝には祖父にあたる後白河上皇が好まれた今様には、『梁塵秘抄』巻二に収める神歌の部にほぼ同じ文句のものがみえる。

  滝は多かれど、うれしやとぞ思ふ、鳴る滝の水、日は照るとも、絶えずとふたえ、やれことつとう

「絶えずとふたへ」は「絶えず(とう)たへ」という唱え言葉と受取ることもできる(古典大系本、語註)とすれば、「とうとうたらり、とうとうたらり」と同じめでたいはやし文句ということになる。

 額打騒動のとき、延暦寺の大衆(だいしゅ)には、興福寺方の狼藉に対して、鳴りをひそめて一語も発する者はなかった。「みかどかくれさせ給ひては、心なき草木までも愁ひたる色にてこそあるべきに、この騒動のあさましさに、高きも賤しきも、肝たましひを失って、四方へ皆退散す」というありさまだった。

 そして二日後、七月二十九日の昼頃、比叡山から、おびただしい僧衆が、雲母(きらら)坂の尾根道をかけおりて、京の町に殺到した。一院、即ち後白河上皇が平家追討を山門の大衆に命ぜられたのだ。そういう噂がぱっとひろがった。。六波羅には平家の一類みな集合し、一方、内裏には軍兵がはせ参じて、上皇を警固するさわぎとなった。上皇は難を避け、且つは、巷間の噂を否定するために六波羅へ、いそぎ行幸になった。だが、山門の大衆は六波羅に向かわず、清水寺に押し寄せ仏閣僧坊、一宇ものこさず焼き払ふ。是はさんぬる御葬送の夜の会稽の恥を(きよ)めむがためぞと聞えし、清水寺(せいすいじ)は興福寺の末寺になるによつてなり。」

 このあと、山門と清水寺とのあいだに、法華経普門品の偈句(げく)を用いての立札の応酬があった、と『平家』ば語っている。一方が「観音火坑変成池(かきようへんじようち)はいかに」としるせば、他方は「歴劫(りやつこう)不思議、力及ばず」と返しの札を打ち立てたという。

 清盛以下、平家一門が厳島神社に法華経の写経三十三巻を納めたのは、まさに永万元年の前年、長寛二年(一一六四)九月のことである。立札の向うに、この時代の栄華のかげに累々層をなして横たわっている心の世界が、ちらとあらわれ、音と火にかき消される。

2025.12.18 記す。


殿下乗合(てんがのりあい)――はだれ雪 P.40~44 

 わずか二歳で即位した六条天皇は、三年後の仁安三年(一一六八)、高倉天皇に位を譲った。「いまだ御元服もなくして、大上天皇の尊号あり、漢家本朝、これや始めならむ。」新帝もまた八歳にすぎなかった。母は後白河上皇の女御、平滋子、のちの建春門院である。滋子の父は平時信、兄は今を時めく平大納言時忠。したがって時忠は高倉帝の外戚となった。「内外(ないげ)につけたる執権の臣」、禁中にも清盛にも権力を思いのままにふるう臣下となった。楊貴妃のおかげで楊国忠が栄えたようなもの、「世のおぼえ、時のきら、めでたかりき。」平家一門に属さぬような人はみな人非人、と時忠が放言した話は、すでに「禿髪」の段に出ていた。仁安三年、五十一歳の清盛が、「病に冒され、存命のために忽に出家入道」したことも「禿髪」のはじめに出ていたが、これは高倉天皇即位の年に一致している。

 その翌年、嘉応元年(一一六九)には、後白河上皇出家、四十三歳、以後は法王と称される。「御出家の後も、万機の(まつりごと)をきこし召されしあひだ」、院中、禁中の区別は立たなかった。

「清水寺炎上」の段の語るところでは、先に触れたように、延暦寺の大衆が清水寺に火を放つべく京に攻めくだったにつて、巷には後白河上皇が平家追討を命ぜられたという噂がひろがり、清盛は、上皇の六波羅への急ぎの行幸にもかかわらず、決して上皇に気を許すな、と重盛をいましめた。上皇、いまや法皇のほうでも、平家の専横に対して、かねて憤りを隠さなかった。しかし、両者が対決の場に臨むような事態の発生は、これまでのところ見られなかったと告げたのち、『平家』の語り手は、「世の乱れそめける根本は、(いん)じ嘉応二年(一一七〇)十月十六日、小松殿(重盛)の次男、新三位中将資盛卿(すけもりきよう)、その時はいまだ越前守とて十三になられけるが」と、重大な局面を招来した一つの偶発事件に及んでゆく。その十月十六日、

  雪ははだれに降つたりけり、

 不意に、どこからか降ってきたこの短くて美しい表現は、どんな声調に乗せて語られたものか、知りたい。「はだれ」は「はだら」というのと異ならず、「ホドロ」の母音交替系と『岩波古語辞典』にはしるす。それによれば、「ホドロ」の「ホド」は「ホドキ」「ホドコン の「ホド」と同じで、散りゆるむの意。「ロ」は状態をあらわす接尾語。「雪のはらはらと散るさま」。また「はだれ雪」「はだら雪」は「はらはらとまだらに降りつもる雪」と同辞典は語釈する。

雪ははだれに降つたりけり、枯野の景色まことに面白かりければ、わかき侍ども三十騎ばかりめし具して、蓮台野や、紫野、右近馬場に打出でて、鷹どもあまたすゑさせ、(うずら)、雲雀をおつたておつたて、ひねもす狩りくらし、薄暮に及びて、六波羅へこそ帰られけれ。
 資盛は、女流歌人として聞える建礼門院右京大夫をやがて思いびとにすることが示すように、文雅を解する人柄だった。そういう資盛十三歳の洛外鷹狩をここに挿し挟んだのは『平家』の語り手の思い入れというべきである。九条兼実の日記『玉藻』によれば、この鷹狩りの帰途に生じたと『平家』の語る摂政殿下藤原基房の一行と資盛一行の洛中路面での「乗合」すなわち衝突は、七月三日のことであった。それなら「雪ははだらに降つたりけり」ということはあり得ない。

「乗合」の次第は、その日、夕やみ迫る頃、摂政基房は、牛車で邸を出て御所に参内の途上だった。資盛にsじたがう騎馬の若者たちは二十歳にならない無作法者ばかり。「殿下の御出(ぎよしゅつ)ともいわず、一切下馬の礼儀にも及ばず、かけやぶつて通らむとする」ありさま。基房を警固する随身たちは、「くらさは暗し、つやつや入道の孫とも知らず、また少々は知りたれども、そは知らずして、資盛朝臣をはじめとして、侍ども皆馬より取つて引きおとし、頗る狼藉に及びけり。」

 資盛は六波羅に逃げ帰り、清盛に訴えた。入道相国は烈火のごとく怒り、基房に対する復讐を指図したと『平家』は語っている。ところが慈円の『愚管抄』によれば、復讐をたくらんだのは資盛の父重盛であった。清盛は一向に存知あいなかったという。慈円は、重盛がつねずねの言行にも似合わず「不思議の事を一つ」したと断じて、基房への復讐を挙げている。しかし『平家』の語るところによれば、

 その後、入道相国、小松殿には仰せられもあはせず、片田舎の侍どものこはからにて、入道殿の仰せより外は、また恐ろしき事なしと思ふ者ども、難波瀬尾を始めとして、都合六十余人召し寄せ、「来る二十一日、主上御元服の定めのために殿下御出あるべかんなり。いづくにても待ちうけ奉り、前駈御随身(みずいじん)(もとどり)切つて、資盛が恥(すす)げ」とぞのたまひける。
 基房はこれを夢にも知らず、年明けて高倉天皇が元服のさいの加冠拝官(位階昇進)の会議に出るため、その夜は禁中に泊るつもりで一段とあらたまった美服をととのえ、待賢門へと車をすすめた。甲冑鎧で固めた兵三百余騎、これを猪熊堀川あたりで待ち伏せ、行列に襲いかかり、随身ひとり残らず馬から引きおろし、髻を切りおとした。供奉(ぐぶ)のうちには「これはきさまの髻と思うな。主人の髻と思っておけ」と言い含めて乱暴された者もあった。基房の車には、弓の先を突っこみ、すだれを落し、牛の胸懸(むながい)(しりがい)を切り放ち、狼藉の限りを尽くした。摂政関白がこんな目に遭った例は聞いたためしがない。平家悪行のはじまりである。清盛はこの復讐の首尾を知って大いに喜んだが、重盛はこの所業に加わった侍すべて勘当し、資盛を伊勢の国に追いやった。「さればこの大将をば、君も臣も御感(ぎょかん)ありけるとぞきこえし。」

『平家』の語り手は、清盛に薄く、重盛に厚い。父と子と同じことをしていてはおもしろくない。同じように激情家であっても、あるいは冷徹であっても、話は盛りあがらない。父子対立は、物語というものの古くて新しい骨法である。

2025.12.22 記す。


鹿谷(ししのたに)――戯言(ざれごと)歌占(うたうら) P.40~44 

 古来の歌によって知られる名所(などころ)は歌枕と呼ばれる。例えば舞子の浜、勿来の関、小野の古郷、吉野山、名所を詠みこめば、彼の品格はまず保証される。歌枕はその数おびただしく、佐々木弘綱、信綱父子の編『名所便覧』(『歌のしおり』明治二十五年、博文館刊、所収)を見ると、三千に余る地名が並んでいる。そのうちの一つを枕に一息入れ、心のゆとりを得れば、あとに才覚の働く余地が残される。これが歌枕の効能であった。

 鹿谷、いまは「ししがたに」と言い慣わしているが、『平家』では「ししのたに」と読ませている。専ら『平家』のおかげで、密議陰謀の地として名高いものになった。そいう土地は何の枕か、かげ枕とでも言うのか、じつは知らない。

 洛東鹿谷の奥は、せめぎ合う大岩のあいだを縫う険阻な山道をたどらなくては行き着けない。洛中bからながめる東山三十六峰の山容は、いつも春眠さそうがごとくなだらかに、鷹揚に、また、時として愁いをおびた佳人の眉のようにはかなく悲しげ見える。まさかあの山が天然の要塞たる「ゆゆしき城郭」とは、なかなか思案の外であ©る。東山の尾根のかなた、天然の要塞のその奥には、如意ケ岳や瓜生山の木がくれに、室町時代に築かれたとおぼしい山城の名ごりはいまも点在しているが、それよりずっと昔の源平の世にも、鹿谷の奥山に山城が設けられていたかどうかはわからない。『平家』から察する限り、俊寛の山荘に砦の構えがあったとは見えない。

 鹿谷の密議のあとの酒宴の場面は、いつしか私のあたまのなかでは、にぎやかな饒舌、あくどいもどき(ゝゝゝ)がとめどもなくつづく歌舞伎の舞台のように変っている。しかし、あらためて『平家』を読むと、出来事はわずか四百字ばかいのうちに、すばやく、いきいきと描かれていて、(いたずら)な空想を添加すればするほど、場面のまことらしさ、」あるいは趣は、失せることが納得される。漢字仮名の配分を考慮し、多少の補いを括弧内に付け加えて引き写せば、

 東山のふもと、鹿の谷というところは、うしろは三井寺につづいて、ゆゆしき城郭にてぞありける。俊寛僧都の山荘(さんぞう)あり。かれに〔そこに〕常は寄りあひ寄りあひ、平家滅ばさむずる謀り事をぞめぐらしける。あるとき、法王の御幸なる。故少納言入道信西(しんぜい)が子息、浄憲法印、御供つかまつる。その夜の酒宴に、この由〔謀略のこと〕を浄憲法印に仰せ合わせられければ〔相談なさつたところ〕、「あなあさまし、人あまた承り候ひぬ。唯今洩れ聞こえて、天下の大事に及び候ひなむず〔なんと仰せせられる。幾人もこの場に同席しておりますぞ。すぐにも世間に洩れて、天下の一大事になる恐れ十分です〕」と大きに騒ぎ申しければ、、新大納言(成親)けしき変りて〔顔色を変えて〕さつと立たれけるが、(法皇)御前に候ひける瓶子(へいじ)を狩衣の袖にかけて引倒(ひきとう)されたりけるを、法王「あれはいかに〔おや、どうした〕」と仰せければ、大納言立ちかへりて、平氏倒れ候ひぬ」と申されける。法皇、笑壺(えつぼ)に入られおはして〔思わずご機嫌になられて〕「者ども参つて猿楽(さるがく)つかまつれ」と仰せければ、平判官康頼参りて「ああ、あまりにへいじ(ゝゝゝ)の多う候に、もて()ひて候」と申す。俊寛僧都「さてそれをば、いかがつかまつらむずる」と申されければ、西光法師「頸をとるにはしかず」とて、瓶子のくびをとつてぞ入りにける〔退場した〕。浄憲法印、あまりのあさましさに、つやつや物を申されず。返す返すもおそろかりし事どもなり。与力の(ともがら)、誰々ぞ、云々。
 瓶子に平氏をかける冗談は、すでに「殿下闇討」の段に使われていた。鹿谷の宴会場面もこのざれ言(ゝゝごと)一つのうえに成り立っているにすぎない。それなのに、たしかな手応えがあるのは不思議なこと。

 じつのところ、いま引いた密議、酒宴のことは、おわりに短く語たれていrのみで、「鹿谷」の段は藤原成親の逸事に大半をついやしている。後白河法皇がまだ上皇の頃、左大小が空位ンいなり、徳大寺の大納言実定(じつてい)、花山院の中納言兼雅、そして新大納言成親が左大将の候補と目されたときのこと、成親は「院の御気色よかりければ」神頼みの願をさまざまにかけた。まず、石清水八幡に百人の僧こめ、大般若経六百巻を七日かかって真読させていると、そのさなかに、「男山の方より山鳩三つ飛びきたつて、食ひ合ひてぞ死にける。鳩は八万大菩薩の第一の仕者(ししゃ)なり。宮寺にかかるふしぎなしとて、時の検校、匡清(きようせい)法印奏聞す。」これを受けて真祇を司る役所で占いを立てると「天下の騒ぎをうらなひ申す。但し君のつつしみに非ず、臣下のつつしみ」と出た。

 成親はこの占を無視して、次は夜な夜な、中御門烏丸(なかみかどからすま)の宿所から上賀茂の社まで、七夜つづいて参った。 しゃけ>おしひらき、ゆゆしくかだかげなる御声にて、

  さくら花かもの河風うらむなよ散るをばこそとどめざりけれ  賀茂の神にも、桜の散るのをとどめる力はない、左大将のことはあきらめよという歌占(うたうら)。だが、成親はいっこうにあきらめない。こんどは、ひとりの(ひじり)を上賀茂の社に籠らせ、宝殿うらの大杉の(ほら)に祭壇を立て、拏吉尼(だぎに)の法というものを百日おこなわせた。その大杉に雷が落ちて炎が立ち、社に燃え移ろうとする。ようやく消しとめ、外道(げどう)の行方をしている聖を追い出そうとするが、百日までは動かぬ。いま七十五日と言い張る。社家(しゃけ)より内裏へ伺いを立てると「そちらのきまりに従って追い出せ」と宣旨がくだった。神官たちの杖に首すじを打たれながら、かの聖は一条の大路から南へ追放されたという。

 成親の願いは立たず、右大将」だった重盛が左大将に昇進し、空いた右大将には重盛の弟宗盛が「数輩の上臈を超越して」就いた。成親はもともと平家一門と重々の婚姻関係を結んでいる。妹が重盛の北の方、娘は維盛の北の方、嫡子成経(なりつね)の北の方は教盛(のりもり)の娘。それなのに成親が平家に謀反気を抱いたのは、あれほど欲しがった位を宗盛に奪われたがためであった。

2025.12.23 記す。


鵜川軍(うかわいくさ)――白妙 P.49~53 

『平家』格段の区切り名は、かならずしも段の内容を掩うものではない。よく知られているように、『平家』には幾系統にもわたる異本があって、われわれがいま手にする各種の版本はそれぞれに底本を異にしている。版本それぞれの特色は、要するに底本の特色である。「鹿谷」につづく段の名は普通「鵜川軍(うかわいくさ)」とあるが、龍谷大学蔵本を底本に採った『日本古典文学大系』本は「俊寛沙汰 鵜川軍」としているのが普通の扱い方とちがう。たしかに「鵜川軍」の段のあたまには、俊寛の話が置かれていて、「鹿谷」の段がここまではみ出た格好になっている。平曲正節を伝えたという荻野検校の本文校訂を経た梅沢和軒『平家物語評釈』(大正十二年、共益社出版部刊行)は、この俊寛に係わる部分を特に「(あい)の物」と名づけ、鵜川の合戦を語る以下の本文と区別している。これも普通は見かけぬ扱い方である。

「鹿谷」の段は、おわりに、「与力(よりき)(ともがら)、誰々ぞ」として八人の名をつらねる。そのうちで、のちに鬼界が島流されるのは法勝寺執行(ほつしようじのしゆぎよう)俊寛僧都と平判官(へいはんがん)康頼である。俊寛、康頼が肩書付きで登場し、聞く人の耳をそば立たせる。行綱の名につづけて、「北面の輩多く与力したりけり」とあって「鹿谷」の段は打切られる。

 もとは北面から出て昇進した西光(さいこう)の子に、師高(もろたか)というものがあり、これも切れ者で、加賀の国司に任ぜられるまでになった。師高とその弟師経の横暴な所業に端を発した合戦、それを語るのが「鹿谷」につづく「鵜川軍」の段である。しかも、俊寛のことをまず語り出すのも、次いで北面のことを詳しく語るのも、前段からの流れにしたがっているわけで、『平家』が、聞く人、読む人に対して語るのも、前段からの流れにしたがっているわけで、『平家』が、聞く人、読む人に対してつねに親切な語り方を忘れないことの一例になるだろう。

 さて、俊寛とは何者か。「この法勝寺の執行と申すは、京極の源大納言雅俊の卿の孫、木寺(ゝこでら)の法印容雅には子なりけり。祖父大納言、させる弓箭(きゆせん)をとる家にはあらねども、余りに腹あしき人にて、三条坊門京極の宿所のまへをば、人もやすく通さず、つねは中門にたたずみ、歯を食ひしばり、いかつてぞおはしける。かかる人の孫なればにや、この俊寛も僧なれども、心たけく、おごれる人にて、よしなき謀反にもくみしけるこそ。」「腹あしき人」はすぐ腹を立てる人のこと、「中門」というのは寝殿造りに見られる回廊の中途に設けられた出入り口のこと、「俊寛沙汰」といっても、ただこれだけの短いエピソードにすぎない。これを一読して、すぐに思い出される短いエピソードがある。

 公世(きんよ)の二位のせうと〔兄弟〕に、良覚僧正と聞えしは、極めて腹あしき人なりけり。

 坊の(かたわら)に、大きな()の木4のありければ、人、「榎木僧正」とぞ言ひけるこの名然るべからざるとて、かの木を伐られけい。その根のありければ、「きりくひ〔切株〕の僧正」言ひけり。いよいよ腹立ちて、きりくひを掘り捨てたりければ、その跡大きなる堀にてありければ、「堀池僧正」とぞ言ひける。(『徒然草』第十五段)

 兼好は、平家が壇の浦にほろびておよそ百二、三十年を経た頃の平曲をわが耳で聞くことのできた人である。平忠盛が「伊勢平氏はすがめ」と嘲弄された例の一件(「殿下闇討」)をたねに、大覚寺殿に集まっていた公卿たちが帰化人を先祖とする典薬頭(てんやくのかみ)丹波忠守を「唐瓶子」とからかう戯言(ざれごと)も『徒然草』に書きとめられていた(第百三段)。兼好は、俊寛の祖父雅俊のエピソードに対応する「腹あしき人」のもう一つの例として、良覚僧正の話を書きとめたのではなかったが、もっとも、このときの兼好には綽名(あだな)の生れた方に対する興味も働いていたのは、つづく第四十六段に「強盗法印」と自称する坊さんの話をしるしていることから察せられる。自分が強盗を働いたのではなく「たびたび強盗にあひたるゆゑに、この名をつけるけにとぞ。」

 加賀の国は温泉の湧き出る地であるが、鵜川というところに(いま小松市の東北端)、その名も湧泉(ゆせん)寺という寺があった(但し、この寺名は『平家』には出ず『源平盛衰記』に出ている)。加賀守となって任地にきた師高いという役人は「非法非礼を張行(ちよぎよう)し、神社仏寺、権門勢家の庄領を没倒し、散々の事どもにてぞありける。」安元二年(一一七六)、弟の師経を加賀の目代(もくだい)(代官)に引き立てたのちに、兄弟して鵜川の寺に乱入し、入湯中の僧を追い出して、みずから湯を浴び、馬を洗わせるなどの乱暴を働いた。寺側の反抗を制するために一千余騎、鵜川に押し寄せ、寺に火を放つ。ところが鵜川は白山の末寺であったため、「白山三社八院の大衆(だいしゅう)悉く(おこ)りあひ、都合その勢二千余人」、目代師経の館を襲った。

『平家』は、だれが読んでも、合戦の場面に魅せられる。「鵜川軍」の段もおわり近く、合戦を叙するくだりにさしかかると突然、文体一変し、『平家』の軍記物たる本領があらわれる。「……白山三社八院の大衆悉く起りあひ、都合その勢二千余人、七月九日の暮方に、目代師経が(たち)ちかいうこそ押し寄せたれ、。けふは日暮れぬ、あすのいくさとさだめて、その日は寄せでゆらへたり。露ふきむすぶ秋風は、射向けの袖〔鎧の左袖〕えお翻し、雲居を照らすいなずまは、(かぶと)の星をかがやかす。目代はかなhじとや思ひけむ。夜逃げして京へのぼる。あくる卯剋(うのこく)に押寄せて、時をどつとつくる。城のうちには音もせず、人を入れてみせければ、『皆落ちて候』と申す。大衆力及ばで引退(しりぞ)く。」

 tうづく数行は、さらにすばらしい。こういう情景を描いたのと同じ目と手は、およそ三百年の歳月を距てた室町時代の末にいたって、洛中洛外図屏風を描く画家たちの目と手のうちにみごと再生を遂げるだろう。

 さらば山門へ訴へんとて、白山中宮の神輿(ゝしんよ)をかざり奉り、比叡山へふりあげ奉る。同じき八月十二日の午剋(うまのこく)ばかり、白山の神輿すでに比叡山東坂本につかせ給ふと云ふはどこそこありけれ、北国の方より(いかずち)おびただしう鳴って、都をさして鳴りのぼる。白雪くだりて地をうづみ、山上洛中おしなべて、常葉(ときわ)の山の梢まで皆白妙(しらたえ)になりにけり。

2025.12.25 記す。


御輿振(みこしぶり)――文が武に勝った輪 P.53~57 

 御輿というのは、夜が陰々として暗かった時代には、殊のほか恐れられた。人界のそとに位置する強力な霊域、神ともなれば、また仏ともなるような大きな力が御輿に乗り移って、旅をはじめるのは日の呉れ方ときまっていたが、大勢の屈強の男たちも、御輿とともに、塵芥においては移動をはじめる。御輿は異常に重いばかりではない。重い角型の御座所は、男たちの腕力で振り上げ、振りおろし、思うさま遊佐bうられれる。前後に突き出た長い舁棒(かきぼう)<

 さて、山門、白山の衆徒は一体となって、白山の御輿を東坂本から比叡山に、時ならぬ雪を物ともせずに振り上げ、比叡山王七社の一つ、客人(まろうど)の宮というお社に据えつけると、加賀湧泉寺の清らかな温泉をけがし、寺僧を殺害した加賀国司師高(西光法師の嫡男)の流罪、目代(もくだい)師経(同じく次男)の禁獄を朝廷に強訴(ごうそ)し、すみやかな祭壇を要求した。もしもこの訴えが通らなければ、御輿が都へ振りおろされることは、これまでもたびたびの山門強訴からも予想された。

 ちょうど百年前の承暦三年(一〇七九)、白河天皇の時代にあった山門強訴のありさまが『百錬抄』同年六月二日の条に記録されている――「三僧千余人、或ㇵ経巻ヲ捧ゲ、或ㇵ甲冑ヲ帯ビ、感神院ニ群参ス。祇園別当懐定譲補ノ事ニ依ツテ也、仍テ武士ヲ以テ之ヲ防ガシム。社ニ於テ転経ノ後、故無ク山ニ帰ル。喚叫ノ声天ニ満ツ。」感神院は、いまの八坂神社に当るが、この頃は延暦寺の別院。また感神院とかさなって並存した祇園社は日吉の末社であった。山門強訴の衆僧が感神院に群参したのはそのためである。右の記録に御輿のことは見えないが、これよりのちの強訴に、日吉の御輿が叡山を越えて感神院まで運ばれ、洛中を御所にむかってあばれ出ること数度におよんだ。「賀茂川の水、双六(すごろく)の賽、山法師、これぞわが心にかなはぬもの」という白河院も天下三不如意の嘆きのもとには、こういう事情が控えていた。

 白河天皇に次ぐ堀河天皇の嘉保二年(一〇九五)に起きた山門強訴のありさまを語るのが「鵜川軍(うかわいくさ)につづく「願立(がんだて)の段である。日吉の御輿を根本中堂に振り上げ、時の関白に威圧を加え、呪詛の鏑矢(かぶらや)を放ち、ついに関白を重病に陥らせた経緯が詳しく語られる。『平家』には「山門のことを、ことに由々しく書けり」と、兼好が『徒然草』にしるしているのは(第二百二十六段)、まさにそのとおりで、「鵜川軍」から「癌立」を経て「御輿振」、さらに次の「大離炎上」、つづく「座主流(ざすながし)(巻き二)にいたる間の山門の動静は、山門筋からの知識、情報が語り手に伝わっていなくては、こうまで「御輿振」次のようにはじまる。

 さるほどに、山門の大衆(だいしゅう)、国司加賀守師高を流罪に処せられ、目代近藤判官師経を禁獄せらるべき由、奏聞度々(どど)に及ぶといへども、御裁許なかりければ、日吉の祭礼をうちとどめ、て安元三年四月十三日、辰の一点に、十禅師(じゆぜんじ)客人(まろうど)、八王子三社の神輿(しんよ)(三基)かざり奉つて、陣頭へ振り奉る。(中略)神輿は一条を西へいらせ給ふ。御神宝天にかがやいて、日月地に落ち給ふかとおどろかる。
 頼政は馬より降り、冑をぬいで、まず神輿を拝する。従う兵ども皆これにならった。渡辺(となう)という者が、凛々しい出立ちで衆徒のなかへ使いに立ち、頼政の代弁をすることになった。唱のとなえた理屈は次のようなものだ――山門の訟訴はご尤もにて、朝廷のご成敗のおそいには、われらもいらいらしている。御輿を門内にお入れになって一向に異存はありませぬ。しかし、頼政はごらんのごとき無勢、そこをねらってお通りなると、山門汚大衆はにこにこ顔で、難なく通過したことなど京童(きょうわらべ)のうわさになり、あとがかえっていけません。一方、御輿をむざと通しては頼政、神罰を蒙っては、弓矢の道から別れねばなりましょう。どちらにせよ、難儀な話です。ところで、東の御門はどうかといえば、平重盛さんが、大勢で固めていらっしゃいますから、あちらからお入りになるがよろしかろうと存じますよ。

 何、構うもんか、北を破って入れといきまく若大衆もいる。すると、老僧のなかに叡山の僉議(せんぎ)者と聞えた豪運というものがすすみ出て、「いかにもお説ご尤も。御輿を陣頭に振っての強訴なのだから、大勢の守りを破ってこそ、後代の聞えもよかろうはず。それに、頼政という御仁は清和源氏の正統につながり、いくさで不覚をとったという話も聞かぬ。そればかりか、歌の道にもすぐれたお人だ。近衛院のとき、『深山花(しんざんのはな)』という題が出ての即興に、

  深山木(みやまぎ)のそのこずゑともみえざりしさくらは花にあらはれにけり

という名歌がある。これほどのやさ男に、いまこの場で恥をかかせるのはいかがなものか。御輿はここから撤退させようぞ。」こう言ったのに、皆同感した。

 重盛こそ、いい面よごしである。待賢門院を破って入ろうとする神輿に、配下の武士どもはさんざんに矢を射かけた。十禅師の御輿には矢が幾本も立った。神輿を射るなどというのは前代未聞である。

神人宮仕(じんにんみや じ)射ころされ、衆徒多く疵を蒙る。をめきさけぶ声、梵天までもきこえ、堅牢地神も驚くらむとぞおぼえける。大衆神輿をば陣頭にふりすて奉り、泣く泣く本山へかへりのぼる。
 京都市中京区麩屋町押小路下ルにいまもある白山神社は、このとき捨てられた神輿を祀ったのが起こりという。

※余談:広島県竹原市忠海の「忠海祇園祭(忠海八幡神社祇園祭)」は、毎年7月14日頃に開催される、地域に根ざした勇壮な祭りです。20歳になる若衆が神輿を豪快に回し、神輿の猿のお守り(おさるさん)を授かると1年間無病息災と言われ、内堀公園での模擬演技と猿のお守り配布がハイライト。広島県無形民俗文化財にも指定されており、竹原の夏の風物詩として親しまれています。

 京都の祇園祭のような華やかさとは異なり、地域に密着し、若者たちが中心となって力強く盛り上がるのが特徴で、地域の伝統と活気が感じられるお祭りです。

2025.12.31 記す。


内裏炎上(だいりえんじょう)――猿の松明 P.58~62 

 比叡山の西のふもと、八瀬と京都を結ぶ一本のが街道は、八瀬から4さらに北に進めば、大原をすぎて比良山系西側の谷間(たにあい)をたどったすえは若狭に達している。

1931年1月21日 - 2015年5月27日)

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