殿下乗合――はだれ雪 P.40~44
わずか二歳で即位した六条天皇は、三年後の仁安三年(一一六八)、高倉天皇に位を譲った。「いまだ御元服もなくして、大上天皇の尊号あり、漢家本朝、これや始めならむ。」新帝もまた八歳にすぎなかった。母は後白河上皇の女御、平滋子、のちの建春門院である。滋子の父は平時信、兄は今を時めく平大納言時忠。したがって時忠は高倉帝の外戚となった。「内外につけたる執権の臣」、禁中にも清盛にも権力を思いのままにふるう臣下となった。楊貴妃のおかげで楊国忠が栄えたようなもの、「世のおぼえ、時のきら、めでたかりき。」平家一門に属さぬような人はみな人非人、と時忠が放言した話は、すでに「禿髪」の段に出ていた。仁安三年、五十一歳の清盛が、「病に冒され、存命のために忽に出家入道」したことも「禿髪」のはじめに出ていたが、これは高倉天皇即位の年に一致している。
その翌年、嘉応元年(一一六九)には、後白河上皇出家、四十三歳、以後は法王と称される。「御出家の後も、万機の政をきこし召されしあひだ」、院中、禁中の区別は立たなかった。
「清水寺炎上」の段の語るところでは、先に触れたように、延暦寺の大衆が清水寺に火を放つべく京に攻めくだったにつて、巷には後白河上皇が平家追討を命ぜられたという噂がひろがり、清盛は、上皇の六波羅への急ぎの行幸にもかかわらず、決して上皇に気を許すな、と重盛をいましめた。上皇、いまや法皇のほうでも、平家の専横に対して、かねて憤りを隠さなかった。しかし、両者が対決の場に臨むような事態の発生は、これまでのところ見られなかったと告げたのち、『平家』の語り手は、「世の乱れそめける根本は、去じ嘉応二年(一一七〇)十月十六日、小松殿(重盛)の次男、新三位中将資盛卿、その時はいまだ越前守とて十三になられけるが」と、重大な局面を招来した一つの偶発事件に及んでゆく。その十月十六日、
雪ははだれに降つたりけり、
不意に、どこからか降ってきたこの短くて美しい表現は、どんな声調に乗せて語られたものか、知りたい。「はだれ」は「はだら」というのと異ならず、「ホドロ」の母音交替系と『岩波古語辞典』にはしるす。それによれば、「ホドロ」の「ホド」は「ホドキ」「ホドコン
の「ホド」と同じで、散りゆるむの意。「ロ」は状態をあらわす接尾語。「雪のはらはらと散るさま」。また「はだれ雪」「はだら雪」は「はらはらとまだらに降りつもる雪」と同辞典は語釈する。
雪ははだれに降つたりけり、枯野の景色まことに面白かりければ、わかき侍ども三十騎ばかりめし具して、蓮台野や、紫野、右近馬場に打出でて、鷹どもあまたすゑさせ、鶉、雲雀をおつたておつたて、ひねもす狩りくらし、薄暮に及びて、六波羅へこそ帰られけれ。
資盛は、女流歌人として聞える建礼門院右京大夫をやがて思いびとにすることが示すように、文雅を解する人柄だった。そういう資盛十三歳の洛外鷹狩をここに挿し挟んだのは『平家』の語り手の思い入れというべきである。九条兼実の日記『玉藻』によれば、この鷹狩りの帰途に生じたと『平家』の語る摂政殿下藤原基房の一行と資盛一行の洛中路面での「乗合」すなわち衝突は、七月三日のことであった。それなら「雪ははだらに降つたりけり」ということはあり得ない。
「乗合」の次第は、その日、夕やみ迫る頃、摂政基房は、牛車で邸を出て御所に参内の途上だった。資盛にsじたがう騎馬の若者たちは二十歳にならない無作法者ばかり。「殿下の御出ともいわず、一切下馬の礼儀にも及ばず、かけやぶつて通らむとする」ありさま。基房を警固する随身たちは、「くらさは暗し、つやつや入道の孫とも知らず、また少々は知りたれども、そは知らずして、資盛朝臣をはじめとして、侍ども皆馬より取つて引きおとし、頗る狼藉に及びけり。」
資盛は六波羅に逃げ帰り、清盛に訴えた。入道相国は烈火のごとく怒り、基房に対する復讐を指図したと『平家』は語っている。ところが慈円の『愚管抄』によれば、復讐をたくらんだのは資盛の父重盛であった。清盛は一向に存知あいなかったという。慈円は、重盛がつねずねの言行にも似合わず「不思議の事を一つ」したと断じて、基房への復讐を挙げている。しかし『平家』の語るところによれば、
その後、入道相国、小松殿には仰せられもあはせず、片田舎の侍どものこはからにて、入道殿の仰せより外は、また恐ろしき事なしと思ふ者ども、難波瀬尾を始めとして、都合六十余人召し寄せ、「来る二十一日、主上御元服の定めのために殿下御出あるべかんなり。いづくにても待ちうけ奉り、前駈御随身が髻切つて、資盛が恥雪げ」とぞのたまひける。
基房はこれを夢にも知らず、年明けて高倉天皇が元服のさいの加冠拝官(位階昇進)の会議に出るため、その夜は禁中に泊るつもりで一段とあらたまった美服をととのえ、待賢門へと車をすすめた。甲冑鎧で固めた兵三百余騎、これを猪熊堀川あたりで待ち伏せ、行列に襲いかかり、随身ひとり残らず馬から引きおろし、髻を切りおとした。供奉のうちには「これはきさまの髻と思うな。主人の髻と思っておけ」と言い含めて乱暴された者もあった。基房の車には、弓の先を突っこみ、すだれを落し、牛の胸懸、鞦を切り放ち、狼藉の限りを尽くした。摂政関白がこんな目に遭った例は聞いたためしがない。平家悪行のはじまりである。清盛はこの復讐の首尾を知って大いに喜んだが、重盛はこの所業に加わった侍すべて勘当し、資盛を伊勢の国に追いやった。「さればこの大将をば、君も臣も御感ありけるとぞきこえし。」
『平家』の語り手は、清盛に薄く、重盛に厚い。父と子と同じことをしていてはおもしろくない。同じように激情家であっても、あるいは冷徹であっても、話は盛りあがらない。父子対立は、物語というものの古くて新しい骨法である。
2025.12.22 記す。
鹿谷――戯言と歌占 P.40~44
古来の歌によって知られる名所は歌枕と呼ばれる。例えば舞子の浜、勿来の関、小野の古郷、吉野山、名所を詠みこめば、彼の品格はまず保証される。歌枕はその数おびただしく、佐々木弘綱、信綱父子の編『名所便覧』(『歌のしおり』明治二十五年、博文館刊、所収)を見ると、三千に余る地名が並んでいる。そのうちの一つを枕に一息入れ、心のゆとりを得れば、あとに才覚の働く余地が残される。これが歌枕の効能であった。
鹿谷、いまは「ししがたに」と言い慣わしているが、『平家』では「ししのたに」と読ませている。専ら『平家』のおかげで、密議陰謀の地として名高いものになった。そいう土地は何の枕か、かげ枕とでも言うのか、じつは知らない。
洛東鹿谷の奥は、せめぎ合う大岩のあいだを縫う険阻な山道をたどらなくては行き着けない。洛中bからながめる東山三十六峰の山容は、いつも春眠さそうがごとくなだらかに、鷹揚に、また、時として愁いをおびた佳人の眉のようにはかなく悲しげ見える。まさかあの山が天然の要塞たる「ゆゆしき城郭」とは、なかなか思案の外であ©る。東山の尾根のかなた、天然の要塞のその奥には、如意ケ岳や瓜生山の木がくれに、室町時代に築かれたとおぼしい山城の名ごりはいまも点在しているが、それよりずっと昔の源平の世にも、鹿谷の奥山に山城が設けられていたかどうかはわからない。『平家』から察する限り、俊寛の山荘に砦の構えがあったとは見えない。
鹿谷の密議のあとの酒宴の場面は、いつしか私のあたまのなかでは、にぎやかな饒舌、あくどいもどきがとめどもなくつづく歌舞伎の舞台のように変っている。しかし、あらためて『平家』を読むと、出来事はわずか四百字ばかいのうちに、すばやく、いきいきと描かれていて、徒な空想を添加すればするほど、場面のまことらしさ、」あるいは趣は、失せることが納得される。漢字仮名の配分を考慮し、多少の補いを括弧内に付け加えて引き写せば、
東山のふもと、鹿の谷というところは、うしろは三井寺につづいて、ゆゆしき城郭にてぞありける。俊寛僧都の山荘あり。かれに〔そこに〕常は寄りあひ寄りあひ、平家滅ばさむずる謀り事をぞめぐらしける。あるとき、法王の御幸なる。故少納言入道信西が子息、浄憲法印、御供つかまつる。その夜の酒宴に、この由〔謀略のこと〕を浄憲法印に仰せ合わせられければ〔相談なさつたところ〕、「あなあさまし、人あまた承り候ひぬ。唯今洩れ聞こえて、天下の大事に及び候ひなむず〔なんと仰せせられる。幾人もこの場に同席しておりますぞ。すぐにも世間に洩れて、天下の一大事になる恐れ十分です〕」と大きに騒ぎ申しければ、、新大納言(成親)けしき変りて〔顔色を変えて〕さつと立たれけるが、(法皇)御前に候ひける瓶子を狩衣の袖にかけて引倒されたりけるを、法王「あれはいかに〔おや、どうした〕」と仰せければ、大納言立ちかへりて、平氏倒れ候ひぬ」と申されける。法皇、笑壺に入られおはして〔思わずご機嫌になられて〕「者ども参つて猿楽つかまつれ」と仰せければ、平判官康頼参りて「ああ、あまりにへいじの多う候に、もて酔ひて候」と申す。俊寛僧都「さてそれをば、いかがつかまつらむずる」と申されければ、西光法師「頸をとるにはしかず」とて、瓶子のくびをとつてぞ入りにける〔退場した〕。浄憲法印、あまりのあさましさに、つやつや物を申されず。返す返すもおそろかりし事どもなり。与力の輩、誰々ぞ、云々。
瓶子に平氏をかける冗談は、すでに「殿下闇討」の段に使われていた。鹿谷の宴会場面もこのざれ言一つのうえに成り立っているにすぎない。それなのに、たしかな手応えがあるのは不思議なこと。
じつのところ、いま引いた密議、酒宴のことは、おわりに短く語たれていrのみで、「鹿谷」の段は藤原成親の逸事に大半をついやしている。後白河法皇がまだ上皇の頃、左大小が空位ンいなり、徳大寺の大納言実定、花山院の中納言兼雅、そして新大納言成親が左大将の候補と目されたときのこと、成親は「院の御気色よかりければ」神頼みの願をさまざまにかけた。まず、石清水八幡に百人の僧こめ、大般若経六百巻を七日かかって真読させていると、そのさなかに、「男山の方より山鳩三つ飛びきたつて、食ひ合ひてぞ死にける。鳩は八万大菩薩の第一の仕者なり。宮寺にかかるふしぎなしとて、時の検校、匡清法印奏聞す。」これを受けて真祇を司る役所で占いを立てると「天下の騒ぎをうらなひ申す。但し君のつつしみに非ず、臣下のつつしみ」と出た。
成親はこの占を無視して、次は夜な夜な、中御門烏丸の宿所から上賀茂の社まで、七夜つづいて参った。
しゃけ>おしひらき、ゆゆしくかだかげなる御声にて、
さくら花かもの河風うらむなよ散るをばこそとどめざりけれ
賀茂の神にも、桜の散るのをとどめる力はない、左大将のことはあきらめよという歌占。だが、成親はいっこうにあきらめない。こんどは、ひとりの聖を上賀茂の社に籠らせ、宝殿うらの大杉の洞に祭壇を立て、拏吉尼の法というものを百日おこなわせた。その大杉に雷が落ちて炎が立ち、社に燃え移ろうとする。ようやく消しとめ、外道の行方をしている聖を追い出そうとするが、百日までは動かぬ。いま七十五日と言い張る。社家より内裏へ伺いを立てると「そちらのきまりに従って追い出せ」と宣旨がくだった。神官たちの杖に首すじを打たれながら、かの聖は一条の大路から南へ追放されたという。
成親の願いは立たず、右大将」だった重盛が左大将に昇進し、空いた右大将には重盛の弟宗盛が「数輩の上臈を超越して」就いた。成親はもともと平家一門と重々の婚姻関係を結んでいる。妹が重盛の北の方、娘は維盛の北の方、嫡子成経の北の方は教盛の娘。それなのに成親が平家に謀反気を抱いたのは、あれほど欲しがった位を宗盛に奪われたがためであった。
2025.12.23 記す。
鵜川軍――白妙 P.49~53
『平家』格段の区切り名は、かならずしも段の内容を掩うものではない。よく知られているように、『平家』には幾系統にもわたる異本があって、われわれがいま手にする各種の版本はそれぞれに底本を異にしている。版本それぞれの特色は、要するに底本の特色である。「鹿谷」につづく段の名は普通「鵜川軍」とあるが、龍谷大学蔵本を底本に採った『日本古典文学大系』本は「俊寛沙汰 鵜川軍」としているのが普通の扱い方とちがう。たしかに「鵜川軍」の段のあたまには、俊寛の話が置かれていて、「鹿谷」の段がここまではみ出た格好になっている。平曲正節を伝えたという荻野検校の本文校訂を経た梅沢和軒『平家物語評釈』(大正十二年、共益社出版部刊行)は、この俊寛に係わる部分を特に「間の物」と名づけ、鵜川の合戦を語る以下の本文と区別している。これも普通は見かけぬ扱い方である。
「鹿谷」の段は、おわりに、「与力の輩、誰々ぞ」として八人の名をつらねる。そのうちで、のちに鬼界が島流されるのは法勝寺執行俊寛僧都と平判官康頼である。俊寛、康頼が肩書付きで登場し、聞く人の耳をそば立たせる。行綱の名につづけて、「北面の輩多く与力したりけり」とあって「鹿谷」の段は打切られる。
もとは北面から出て昇進した西光の子に、師高というものがあり、これも切れ者で、加賀の国司に任ぜられるまでになった。師高とその弟師経の横暴な所業に端を発した合戦、それを語るのが「鹿谷」につづく「鵜川軍」の段である。しかも、俊寛のことをまず語り出すのも、次いで北面のことを詳しく語るのも、前段からの流れにしたがっているわけで、『平家』が、聞く人、読む人に対して語るのも、前段からの流れにしたがっているわけで、『平家』が、聞く人、読む人に対してつねに親切な語り方を忘れないことの一例になるだろう。
さて、俊寛とは何者か。「この法勝寺の執行と申すは、京極の源大納言雅俊の卿の孫、木寺の法印容雅には子なりけり。祖父大納言、させる弓箭をとる家にはあらねども、余りに腹あしき人にて、三条坊門京極の宿所のまへをば、人もやすく通さず、つねは中門にたたずみ、歯を食ひしばり、いかつてぞおはしける。かかる人の孫なればにや、この俊寛も僧なれども、心たけく、おごれる人にて、よしなき謀反にもくみしけるこそ。」「腹あしき人」はすぐ腹を立てる人のこと、「中門」というのは寝殿造りに見られる回廊の中途に設けられた出入り口のこと、「俊寛沙汰」といっても、ただこれだけの短いエピソードにすぎない。これを一読して、すぐに思い出される短いエピソードがある。
公世の二位のせうと〔兄弟〕に、良覚僧正と聞えしは、極めて腹あしき人なりけり。
坊の傍に、大きな榎の木4のありければ、人、「榎木僧正」とぞ言ひけるこの名然るべからざるとて、かの木を伐られけい。その根のありければ、「きりくひ〔切株〕の僧正」言ひけり。いよいよ腹立ちて、きりくひを掘り捨てたりければ、その跡大きなる堀にてありければ、「堀池僧正」とぞ言ひける。(『徒然草』第十五段)
兼好は、平家が壇の浦にほろびておよそ百二、三十年を経た頃の平曲をわが耳で聞くことのできた人である。平忠盛が「伊勢平氏はすがめ」と嘲弄された例の一件(「殿下闇討」)をたねに、大覚寺殿に集まっていた公卿たちが帰化人を先祖とする典薬頭丹波忠守を「唐瓶子」とからかう戯言も『徒然草』に書きとめられていた(第百三段)。兼好は、俊寛の祖父雅俊のエピソードに対応する「腹あしき人」のもう一つの例として、良覚僧正の話を書きとめたのではなかったが、もっとも、このときの兼好には綽名の生れた方に対する興味も働いていたのは、つづく第四十六段に「強盗法印」と自称する坊さんの話をしるしていることから察せられる。自分が強盗を働いたのではなく「たびたび強盗にあひたるゆゑに、この名をつけるけにとぞ。」
加賀の国は温泉の湧き出る地であるが、鵜川というところに(いま小松市の東北端)、その名も湧泉寺という寺があった(但し、この寺名は『平家』には出ず『源平盛衰記』に出ている)。加賀守となって任地にきた師高いという役人は「非法非礼を張行し、神社仏寺、権門勢家の庄領を没倒し、散々の事どもにてぞありける。」安元二年(一一七六)、弟の師経を加賀の目代(代官)に引き立てたのちに、兄弟して鵜川の寺に乱入し、入湯中の僧を追い出して、みずから湯を浴び、馬を洗わせるなどの乱暴を働いた。寺側の反抗を制するために一千余騎、鵜川に押し寄せ、寺に火を放つ。ところが鵜川は白山の末寺であったため、「白山三社八院の大衆悉く起りあひ、都合その勢二千余人」、目代師経の館を襲った。
『平家』は、だれが読んでも、合戦の場面に魅せられる。「鵜川軍」の段もおわり近く、合戦を叙するくだりにさしかかると突然、文体一変し、『平家』の軍記物たる本領があらわれる。「……白山三社八院の大衆悉く起りあひ、都合その勢二千余人、七月九日の暮方に、目代師経が館ちかいうこそ押し寄せたれ、。けふは日暮れぬ、あすのいくさとさだめて、その日は寄せでゆらへたり。露ふきむすぶ秋風は、射向けの袖〔鎧の左袖〕えお翻し、雲居を照らすいなずまは、甲の星をかがやかす。目代はかなhじとや思ひけむ。夜逃げして京へのぼる。あくる卯剋に押寄せて、時をどつとつくる。城のうちには音もせず、人を入れてみせければ、『皆落ちて候』と申す。大衆力及ばで引退く。」
tうづく数行は、さらにすばらしい。こういう情景を描いたのと同じ目と手は、およそ三百年の歳月を距てた室町時代の末にいたって、洛中洛外図屏風を描く画家たちの目と手のうちにみごと再生を遂げるだろう。
さらば山門へ訴へんとて、白山中宮の神輿をかざり奉り、比叡山へふりあげ奉る。同じき八月十二日の午剋ばかり、白山の神輿すでに比叡山東坂本につかせ給ふと云ふはどこそこありけれ、北国の方より雷おびただしう鳴って、都をさして鳴りのぼる。白雪くだりて地をうづみ、山上洛中おしなべて、常葉の山の梢まで皆白妙になりにけり。
2025.12.25 記す。
御輿振――文が武に勝った輪 P.53~57
御輿というのは、夜が陰々として暗かった時代には、殊のほか恐れられた。人界のそとに位置する強力な霊域、神ともなれば、また仏ともなるような大きな力が御輿に乗り移って、旅をはじめるのは日の呉れ方ときまっていたが、大勢の屈強の男たちも、御輿とともに、塵芥においては移動をはじめる。御輿は異常に重いばかりではない。重い角型の御座所は、男たちの腕力で振り上げ、振りおろし、思うさま遊佐bうられれる。前後に突き出た長い舁棒