杉本 秀太郎『平家物語』巻 十
 

目 次

首渡 内裏女房――三種の神機のかけ引き 戒文 海道下 千手前――法然、まことの色 横笛他 維盛入水――異説のやぶ 三日平氏 藤戸――国の費へ、民のわずらひ
少将都帰・苔をうるほす涙 有王・高野山と熊野 辻風 医師問答・重盛の死 無文・重盛像
金渡 法印問答・伴信友のこと 大臣流罪 城南之離宮・罪なくして配所の月


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首渡 内裏女房――三種の神機のかけ引き P.363~370

 これより『平家』は巻十。寿永三年二月七日に一の谷で討たれた平氏一門の首は、十ニ日に都に入ってきた。『吾妻鏡』二月九日の条によれば「戊辰(ぼしん)(夜明け前)源九郎の主入絡す。相具する()幾ばくならず。従軍迫って参洛すべきか。これ平氏一族の首、大路を渡さるべきの旨奏聞のために、先ずもつて鞭を揚ぐと云々。」範頼、義経は奏聞して、十三日に検非違使(けんびし)たちに六条河原で平氏の首どもをまとめて受け取らせ、それより東洞院(ひがしのとういん)を北へと首渡しをおこなったのち、獄門(獄舎の門)の木にかけたいと願い出た。後白河法皇はこれを知って煩悶し、摂政藤原基通以下、左右の大臣、内大臣(いずれも藤原氏)に堀河大納言忠親(『山槐記』の著者)を加えた公卿五人に協議させた。「昔より卿相(けいしょう)の位にのぼる者の首、大路を渡さるる事先例なし。」それにこの人びとは先帝(安徳天皇)の世には外戚として久しく朝家に仕えていた。範頼、義経の申し状をけっしてお許しあってはなりませんぬ。しかし相手はかさねて奏上し「平氏は保元の世には祖父為義の仇、平治の世には父義朝の(かたき)。いま朝敵を破り、父祖の恥をそそぐべく命を捨てて戦ったわれら。平氏の首渡しをお許しあらずとなれば、今後、何を励みに凶徒を退治すればよいのか」と強く訴えたので「法皇力及ばず給はで、遂に渡されけり。見る人幾千万といふ数を知らず。」『玉葉』には義経、範頼らの言い分として「義仲の首を渡され、平氏の首を渡されざるの条、(はなは)だ其(いわ)れなし」としるす。

 思えば木曽義仲、今井四郎兼平の首が都大路を渡されたすえ、梟首(きょうしゆ)されたのは一月二十六日のこと、」わずかに半月後の二月十三日、通盛以下平家十人の首が獄門のほとりの(おうち)の木にかけられた。この獄門は近衛通りと西洞院(にしのとういん)通りのまじわる南西に設けられた左獄(さごく)の門だったらしい(『平家』に東洞院を北上して首を渡すとあるのは西洞院の誤りか、と新日本古典文学大系本『平家物語』下巻一九五頁の注にみえる)。

 敵の首を斬り落し、首桶に収めて運び、首実験をする。次には槍、長刀の先に首を突き刺し、隊伍をなして道をすすみ、見世物にしたのち、木にかけて(さら)す、あるいは板にのせて曝す。中国をまねたこういう習俗は、ずっとのちの世までつづいた。梟首が我国のいつの世に始まり、いつの世に絶えたか、確かなことを私は知らないままながら、明治の直前の京都にこれがまだおこなわれていたことについては、次ぎのような記録が残っている。

 上京区北鞍馬口通り寺町、天寧寺の北隣り、上善寺の墓地に「長州人首塚」というものがあって、石碑の右側面に「元治元年甲子(一八六四)七月十九日於堺町御門持場討取者也」と刻む。堺町御門の変にさいして越前範士桑山十蔵が長州人の首級八つをここに埋めた。傍らに建つ記念碑のしるすところによれば、この首塚のことは年を経るにつれて知る人も少なくなっていたが、明治三十八年(一九〇五)福井県人田辺政之助という人、たまたまこの塚を見て毛利家に報じた。首級八のうち七までの姓名がその後判明したという(寺田貞次『京都名家墳墓録』大正十一年、村田書店刊、四七、四八頁)。

 また、獄門そばのあふち(ゝゝゝ)の木に首をかけるという習わしについて、次のような記述がたまたま目にとまった。「梟首の事を、ななち(ゝゝゝ)の木にかくるといふは(図略)コノトコロヲ()ト云。」まことに残念なことに図が印刷されていないので「チ」がいかなるものなのか察しがつかない。あるいはいちょう(ゝゝゝゝ)の樹幹、大枝に生じて「()と呼ばれる突起に類するものがあふち(ゝゝゝ)の木にも生じるのだろうか。文意よりすればあふち(ゝゝゝ)のことをななち(ゝゝゝ)という俗名あるいは方言があったと考えるほかはないが、あふち(ゝゝゝ)ななち(ゝゝゝ)と別称することの傍証は、今のところ見あたらない。言うまでもなくあふち(ゝゝゝ)とはせんだん(ゝゝゝゝ)の古名である。このななち(ゝゝゝ)の「ち」説は、森銑三さんの粒粒辛苦のすえになった「浦上玉堂の研究」(『森銑三著作集』第三巻所収)の最終章、立原翠軒『此君堂(しくんどう)漫筆』から、玉堂の談話筆録の条々の森さんによる引用中にみえる。玉堂による図解が印刷から省かれてしまったのは返すがえす勿体ない。ななち(ゝゝゝ)は、あるいは浦上玉堂の古里岡山におけるあふち(ゝゝゝ)の方言なのだろうか。

 「首渡(くびわたし)の段は、血なまぐさい風の吹く都のありさまを伝える一方で、この風のにおいにおびえて不安のどん底に落ちこんでいる一組の女子供のありさまを巧みな語り物にまとめてくりひろげる。

 小松三位中将維盛の北の方は、幼い子女とともに大覚寺に隠れて夫の身を案じている。三位中将という公卿のひとりだけが生捕りにされて上ると聞いて悶えこがれていると、大覚寺にやってきたさる女房が、それはこなたのことにはあらず、本三位(ほんざんみ)中将殿(重衡)のこと、と言えば言ったで、あおれなら首のなかに夫はまじっているのかと「猶心安うも思ひ給はず。」北の方のほかにも同じ思いにせかれている者があった。都落ちする維盛から、都にとどまってわが子六代丸を守ってくれと頼まれた斎藤五、斎藤六の兄弟。首渡しの情景を『平家』はこの兄弟の目を借りて映し出す。また維盛が病を理由に、一の谷の合戦に先立って八嶋へ渡っていたという情報が、京大の口を借りて北の方に、つまりは語りを聞いているわれわれに、伝えられるので、北の方の嘆きの声はわれわれの耳のそとよりも耳の内がわから洩れるように聞こえてくる。こういうよく練られた移植の手法が効果を示せばそのあとは、大覚寺と八嶋のあいだにさも作り事くさい手紙のやりとりのあった話がつづいても、それを作り事として見とがめる気にはならない。

 妻子の便りをよんだ維盛は心をきめる、「もう今となっては穢土(えど)の現世を捨てる気になれない。愛連の絆がこんなに強くては、浄土に生まれ変わろうという願いにも本腰が入らない。いっそう今から紀伊へ渡り、山伝いに都へしのび戻って、恋しい妻子と再会を果たし、そのあとで自害しよう。それしかない」と。いずれ維盛は弥陀の本願を信じ、一心に念仏を唱えて入水することになるが、それはまだ少し先のこと。今は維盛のめめしい悲嘆の声のむこうに『歎異抄』の一節を聞き取るのが大事なことに思われる。親鸞はいう、「久遠劫(くおんごう)よりいままで流転せる苦悩の旧里は捨てがたく、いまだ生まれざる安養の浄土はこひしからず候ふこと、まことによくよく煩悩の興盛(こうじょう)に候ふにこそ。なごり惜しくおもへども娑婆の縁尽きて、ちからなくして終るときに、かの土へまゐるべきなり。いそぎまゐりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。」

 ここにまたひとり、穢土に執着している人がある。「首渡」につづく「内裏女房」はもっぱらその人のことを物語る。「同じき十四日、生捕り本三位中将重衡卿、六条を東へわたさりけり。小八葉(こはちよう)の車(御代(みじろ)車の立板に八弁の蓮華文を小さくえがいた牛車(ぎつしや))に、前後の簾を揚げ、左右(さう)の物見(の窓)を開く。」土肥次郎実平が三十余騎して車の前後を守護している。京中の貴賤上下を問わず、これを見て、平家の公達のうち、この人だけがかようになったのは奈良の伽藍を焼き亡ぼした罪、と言い合った。六条河原まで見せしめの渡しをおこなったのち、八畳堀川の故中納言家成の邸内の御堂に、重衡は押しこめられ、きびしい守護監視のもとに置かれた。

 法皇の御所から使いがやってきた。蔵人左衛門権佐定長(くらうどさえもんごんのすけさだなが)という、赤衣(せきい)に剣と(しゃく)を帯した五位の正装。重衡のほうは紺村濃(こむらご)(藍染めに濃淡のむら(ゝゝ)のある)の直垂に立絵帽子の装い。「日頃は何ともおもはざれし定長を、今は冥途にて罪人どもが冥官に逢へる心地ぞせられける」とは、定長の赤衣を閻魔庁の役人の装いに見立てた揶揄。いささか度の過ぎた軽口に類する。院の仰せによれば「八嶋へ帰りたくは、一門の中へ言ひ送つて、三種の神器を都へ返し入れ奉れ。しからば八嶋へ帰さるべし」と。重衡は、さような話に宗盛以下の者どもが乗ってくるとは思えぬが、院宣うぇお放置しては恐れ多いから申し送るだけはしてみようと答えた。重衡の使者には平三左衛門重国とう者が立ち、院のほうからは召次所(めしつぎしよ)の小役人で職名を花方(はながた)と呼ばれる者が立つことになった。重衡は母なる二位の尼(時子)にこまごまと文をしたためたが、わたしの手紙は許されぬとあって、八嶋に残っている北の方には、尽きぬ名ごりのことばを重国に言い含めた。

 ところが重衡には、内裏に仕える女房のうちに、年来、語り交わしていたひとがいた。恋の内通には重衡の近侍、木工允右馬知時(たくみのうまじようともとき)という者が立ちまわっていた。その知時、情けを知る土肥実平に謀って、重衡と面談する許しを得た。昔今のことを涙ながらに語り合ううちに重衡、「あのひとはまだ内裏にいると聞いているが。」「さようでございます。」「西国へ下ったときは文もやらず、言い置くこともしなかった。後世までも、と逢う夜ごとに言い交した契りもみな偽りになったと思うているにちがいない。文をやろうと思うが、会うて手渡してはくれぬか。」知時はお安いことと承知した。と、こういう次第で重衡は内裏の女房と文を取り交わし、歌に心をかよわせ合ったと聞けば、われわれとても夢の不思議を見ているようである。男よりの一首、「涙川うき名をながす身なりともいま一たびの逢ふせともがな。」女の返し、「君ゆゑにわれもうき名をながすとも底の水屑(みくず)とともになりなん。」まあ歌ともぬた(ゝゝ)とも付かぬ歌である。生捕りの中将のところへ、女房がたずねてくる。土肥実平は情けある者ゆえ、体面を許す。車寄せまで出迎えた中将は「車の簾を打ちかづき(ひっかぶって、上半身を車のなかに傾け)手に手を取組み、顔に顔を押当てて、しばしは物ものたまはず、ただ泣くよりほかの事ぞなき」というありさま。小夜ふけては仕方なく、ふたりはこうして別れた。その後は守護の武士は許さなくなり、ただ文ばかりかよったそうな。「この女房と申すは民部卿入道親範(しんぱん)(むすめ)なり。みめかたち世にすぐれ、なさけ深き人なり。されば中将、南都へ渡されて斬られ給ひぬと聞こえしかば、やがてさまを変へ、濃き墨染にやつれはて、かの後世菩提をとぶらはれけるこそ哀れなれ。」

 つづく「八嶋院宣」は先に見たような内容をこちたき漢文調でしるすのみ。つづく「請文(うけぶみ)は、院宣をめぐって八嶋の平家一門がいかに反応したかを物語る。重衡は母なる二位の尼にあてた手紙に、いま一度この世で母子の体面をと思し召すなら、内侍所(ないじどころ)八咫鏡(やたのかがみ))だけでも都へお返しあれと迫っていた。二位の尼の懇願に、宗盛は冷ややかに答えて、「それは出来ないこと。頼朝に伝わればどういうことになるか。それに安徳帝が帝位を維持されているのは内侍所がここに来ているゆえのこと。子は重衡」ひとりではありません。われら他の子のことを重衡ひとりに移して内侍所と引替えにしようとは。子供かわいさも事によりけりですよ。叶わぬ話です。」二位の尼は「二度こんなつらい思いをさせぬうちに、殺しておくれ」とおめき叫ぶ。僉議の人びとはみな伏し目になっている。

 新中納言知盛が意見していうには「三種の神器を返したとて、重衡をこちらに返すなどはあり得ぬこと。書状をよんだ証拠の返書には、率直にそうお書きください。」二位の尼は泣く泣くその由を重衡あてにしたためた。

 宗盛の名による院あての請文(うけぶみ)(返書)には、居丈高な調子が露骨に出ている。源氏の頼朝、何する者ぞ。朝恩に報いてきた平氏の業績のかずかずを思し召すならば、院こそ四国へお渡りあれ。しかるのち、院宣をもって頼朝追討の命を下されば、われら都にもどり、会稽の恥をそそぐことであろう。もしもしからざれば、鬼界、高麗、天竺、震旦にまで、三種の神器を持って逃亡するであろう。

 院のお使いをした花方がこの請文を持ち帰ったとき、二位の尼の兄なる平大納言時忠は、「おまえは御使として多くの波路を凌いで往復したから、そのしるしに一生の思い出を一つあたえようかい」とて、花方の頬に波形(なみがた)の焼印を押した。そのつらを見て、法皇は大笑いなさった、と。公卿というものは(しも)じもに対して、こういう思いやりのない、いじけたわるさ(ゝゝゝ)(ふざけ)をすることがある。

2026.02.15 記す。

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