杉本 秀太郎『平家物語』巻 十
 

目 次

首渡 内裏女房・三種の神器のかけ引き 戒文 海道下 千手前・法然、まことの色 横笛他 維盛入水・異説のやぶ 三日平氏 藤戸・国の費へ、民のわずらひ
少将都帰・苔をうるほす涙 有王・高野山と熊野 辻風 医師問答・重盛の死 無文・重盛像
金渡 法印問答・伴信友のこと 大臣流罪 城南之離宮・罪なくして配所の月


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首渡 内裏女房――三種の神器のかけ引き P.363~370

 これより『平家』は巻十。寿永三年二月七日に一の谷で討たれた平氏一門の首は、十ニ日に都に入ってきた。『吾妻鏡』二月九日の条によれば「戊辰(ぼしん)(夜明け前)源九郎の主入絡す。相具する()幾ばくならず。従軍迫って参洛すべきか。これ平氏一族の首、大路を渡さるべきの旨奏聞のために、先ずもつて鞭を揚ぐと云々。」範頼、義経は奏聞して、十三日に検非違使(けんびし)たちに六条河原で平氏の首どもをまとめて受け取らせ、それより東洞院(ひがしのとういん)を北へと首渡しをおこなったのち、獄門(獄舎の門)の木にかけたいと願い出た。後白河法皇はこれを知って煩悶し、摂政藤原基通以下、左右の大臣、内大臣(いずれも藤原氏)に堀河大納言忠親(『山槐記』の著者)を加えた公卿五人に協議させた。「昔より卿相(けいしょう)の位にのぼる者の首、大路を渡さるる事先例なし。」それにこの人びとは先帝(安徳天皇)の世には外戚として久しく朝家に仕えていた。範頼、義経の申し状をけっしてお許しあってはなりませんぬ。しかし相手はかさねて奏上し「平氏は保元の世には祖父為義の仇、平治の世には父義朝の(かたき)。いま朝敵を破り、父祖の恥をそそぐべく命を捨てて戦ったわれら。平氏の首渡しをお許しあらずとなれば、今後、何を励みに凶徒を退治すればよいのか」と強く訴えたので「法皇力及ばず給はで、遂に渡されけり。見る人幾千万といふ数を知らず。」『玉葉』には義経、範頼らの言い分として「義仲の首を渡され、平氏の首を渡されざるの条、(はなは)だ其(いわ)れなし」としるす。

 思えば木曽義仲、今井四郎兼平の首が都大路を渡されたすえ、梟首(きょうしゆ)されたのは一月二十六日のこと、」わずかに半月後の二月十三日、通盛以下平家十人の首が獄門のほとりの(おうち)の木にかけられた。この獄門は近衛通りと西洞院(にしのとういん)通りのまじわる南西に設けられた左獄(さごく)の門だったらしい(『平家』に東洞院を北上して首を渡すとあるのは西洞院の誤りか、と新日本古典文学大系本『平家物語』下巻一九五頁の注にみえる)。

 敵の首を斬り落し、首桶に収めて運び、首実験をする。次には槍、長刀の先に首を突き刺し、隊伍をなして道をすすみ、見世物にしたのち、木にかけて(さら)す、あるいは板にのせて曝す。中国をまねたこういう習俗は、ずっとのちの世までつづいた。梟首が我国のいつの世に始まり、いつの世に絶えたか、確かなことを私は知らないままながら、明治の直前の京都にこれがまだおこなわれていたことについては、次ぎのような記録が残っている。

 上京区北鞍馬口通り寺町、天寧寺の北隣り、上善寺の墓地に「長州人首塚」というものがあって、石碑の右側面に「元治元年甲子(一八六四)七月十九日於堺町御門持場討取者也」と刻む。堺町御門の変にさいして越前範士桑山十蔵が長州人の首級八つをここに埋めた。傍らに建つ記念碑のしるすところによれば、この首塚のことは年を経るにつれて知る人も少なくなっていたが、明治三十八年(一九〇五)福井県人田辺政之助という人、たまたまこの塚を見て毛利家に報じた。首級八のうち七までの姓名がその後判明したという(寺田貞次『京都名家墳墓録』大正十一年、村田書店刊、四七、四八頁)。

 また、獄門そばのあふち(ゝゝゝ)の木に首をかけるという習わしについて、次のような記述がたまたま目にとまった。「梟首の事を、ななち(ゝゝゝ)の木にかくるといふは(図略)コノトコロヲ()ト云。」まことに残念なことに図が印刷されていないので「チ」がいかなるものなのか察しがつかない。あるいはいちょう(ゝゝゝゝ)の樹幹、大枝に生じて「()と呼ばれる突起に類するものがあふち(ゝゝゝ)の木にも生じるのだろうか。文意よりすればあふち(ゝゝゝ)のことをななち(ゝゝゝ)という俗名あるいは方言があったと考えるほかはないが、あふち(ゝゝゝ)ななち(ゝゝゝ)と別称することの傍証は、今のところ見あたらない。言うまでもなくあふち(ゝゝゝ)とはせんだん(ゝゝゝゝ)の古名である。このななち(ゝゝゝ)の「ち」説は、森銑三さんの粒粒辛苦のすえになった「浦上玉堂の研究」(『森銑三著作集』第三巻所収)の最終章、立原翠軒『此君堂(しくんどう)漫筆』から、玉堂の談話筆録の条々の森さんによる引用中にみえる。玉堂による図解が印刷から省かれてしまったのは返すがえす勿体ない。ななち(ゝゝゝ)は、あるいは浦上玉堂の古里岡山におけるあふち(ゝゝゝ)の方言なのだろうか。

 「首渡(くびわたし)の段は、血なまぐさい風の吹く都のありさまを伝える一方で、この風のにおいにおびえて不安のどん底に落ちこんでいる一組の女子供のありさまを巧みな語り物にまとめてくりひろげる。

 小松三位中将維盛の北の方は、幼い子女とともに大覚寺に隠れて夫の身を案じている。三位中将という公卿のひとりだけが生捕りにされて上ると聞いて悶えこがれていると、大覚寺にやってきたさる女房が、それはこなたのことにはあらず、本三位(ほんざんみ)中将殿(重衡)のこと、と言えば言ったで、あおれなら首のなかに夫はまじっているのかと「猶心安うも思ひ給はず。」北の方のほかにも同じ思いにせかれている者があった。都落ちする維盛から、都にとどまってわが子六代丸を守ってくれと頼まれた斎藤五、斎藤六の兄弟。首渡しの情景を『平家』はこの兄弟の目を借りて映し出す。また維盛が病を理由に、一の谷の合戦に先立って八嶋へ渡っていたという情報が、京大の口を借りて北の方に、つまりは語りを聞いているわれわれに、伝えられるので、北の方の嘆きの声はわれわれの耳のそとよりも耳の内がわから洩れるように聞こえてくる。こういうよく練られた移植の手法が効果を示せばそのあとは、大覚寺と八嶋のあいだにさも作り事くさい手紙のやりとりのあった話がつづいても、それを作り事として見とがめる気にはならない。

 妻子の便りをよんだ維盛は心をきめる、「もう今となっては穢土(えど)の現世を捨てる気になれない。愛連の絆がこんなに強くては、浄土に生まれ変わろうという願いにも本腰が入らない。いっそう今から紀伊へ渡り、山伝いに都へしのび戻って、恋しい妻子と再会を果たし、そのあとで自害しよう。それしかない」と。いずれ維盛は弥陀の本願を信じ、一心に念仏を唱えて入水することになるが、それはまだ少し先のこと。今は維盛のめめしい悲嘆の声のむこうに『歎異抄』の一節を聞き取るのが大事なことに思われる。親鸞はいう、「久遠劫(くおんごう)よりいままで流転せる苦悩の旧里は捨てがたく、いまだ生まれざる安養の浄土はこひしからず候ふこと、まことによくよく煩悩の興盛(こうじょう)に候ふにこそ。なごり惜しくおもへども娑婆の縁尽きて、ちからなくして終るときに、かの土へまゐるべきなり。いそぎまゐりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。」

 ここにまたひとり、穢土に執着している人がある。「首渡」につづく「内裏女房」はもっぱらその人のことを物語る。「同じき十四日、生捕り本三位中将重衡卿、六条を東へわたさりけり。小八葉(こはちよう)の車(御代(みじろ)車の立板に八弁の蓮華文を小さくえがいた牛車(ぎつしや))に、前後の簾を揚げ、左右(さう)の物見(の窓)を開く。」土肥次郎実平が三十余騎して車の前後を守護している。京中の貴賤上下を問わず、これを見て、平家の公達のうち、この人だけがかようになったのは奈良の伽藍を焼き亡ぼした罪、と言い合った。六条河原まで見せしめの渡しをおこなったのち、八畳堀川の故中納言家成の邸内の御堂に、重衡は押しこめられ、きびしい守護監視のもとに置かれた。

 法皇の御所から使いがやってきた。蔵人左衛門権佐定長(くらうどさえもんごんのすけさだなが)という、赤衣(せきい)に剣と(しゃく)を帯した五位の正装。重衡のほうは紺村濃(こむらご)(藍染めに濃淡のむら(ゝゝ)のある)の直垂に立絵帽子の装い。「日頃は何ともおもはざれし定長を、今は冥途にて罪人どもが冥官に逢へる心地ぞせられける」とは、定長の赤衣を閻魔庁の役人の装いに見立てた揶揄。いささか度の過ぎた軽口に類する。院の仰せによれば「八嶋へ帰りたくは、一門の中へ言ひ送つて、三種の神器を都へ返し入れ奉れ。しからば八嶋へ帰さるべし」と。重衡は、さような話に宗盛以下の者どもが乗ってくるとは思えぬが、院宣うぇお放置しては恐れ多いから申し送るだけはしてみようと答えた。重衡の使者には平三左衛門重国とう者が立ち、院のほうからは召次所(めしつぎしよ)の小役人で職名を花方(はながた)と呼ばれる者が立つことになった。重衡は母なる二位の尼(時子)にこまごまと文をしたためたが、わたしの手紙は許されぬとあって、八嶋に残っている北の方には、尽きぬ名ごりのことばを重国に言い含めた。

 ところが重衡には、内裏に仕える女房のうちに、年来、語り交わしていたひとがいた。恋の内通には重衡の近侍、木工允右馬知時(たくみのうまじようともとき)という者が立ちまわっていた。その知時、情けを知る土肥実平に謀って、重衡と面談する許しを得た。昔今のことを涙ながらに語り合ううちに重衡、「あのひとはまだ内裏にいると聞いているが。」「さようでございます。」「西国へ下ったときは文もやらず、言い置くこともしなかった。後世までも、と逢う夜ごとに言い交した契りもみな偽りになったと思うているにちがいない。文をやろうと思うが、会うて手渡してはくれぬか。」知時はお安いことと承知した。と、こういう次第で重衡は内裏の女房と文を取り交わし、歌に心をかよわせ合ったと聞けば、われわれとても夢の不思議を見ているようである。男よりの一首、「涙川うき名をながす身なりともいま一たびの逢ふせともがな。」女の返し、「君ゆゑにわれもうき名をながすとも底の水屑(みくず)とともになりなん。」まあ歌ともぬた(ゝゝ)とも付かぬ歌である。生捕りの中将のところへ、女房がたずねてくる。土肥実平は情けある者ゆえ、体面を許す。車寄せまで出迎えた中将は「車の簾を打ちかづき(ひっかぶって、上半身を車のなかに傾け)手に手を取組み、顔に顔を押当てて、しばしは物ものたまはず、ただ泣くよりほかの事ぞなき」というありさま。小夜ふけては仕方なく、ふたりはこうして別れた。その後は守護の武士は許さなくなり、ただ文ばかりかよったそうな。「この女房と申すは民部卿入道親範(しんぱん)(むすめ)なり。みめかたち世にすぐれ、なさけ深き人なり。されば中将、南都へ渡されて斬られ給ひぬと聞こえしかば、やがてさまを変へ、濃き墨染にやつれはて、かの後世菩提をとぶらはれけるこそ哀れなれ。」

 つづく「八嶋院宣」は先に見たような内容をこちたき漢文調でしるすのみ。つづく「請文(うけぶみ)は、院宣をめぐって八嶋の平家一門がいかに反応したかを物語る。重衡は母なる二位の尼にあてた手紙に、いま一度この世で母子の体面をと思し召すなら、内侍所(ないじどころ)八咫鏡(やたのかがみ))だけでも都へお返しあれと迫っていた。二位の尼の懇願に、宗盛は冷ややかに答えて、「それは出来ないこと。頼朝に伝わればどういうことになるか。それに安徳帝が帝位を維持されているのは内侍所がここに来ているゆえのこと。子は重衡」ひとりではありません。われら他の子のことを重衡ひとりに移して内侍所と引替えにしようとは。子供かわいさも事によりけりですよ。叶わぬ話です。」二位の尼は「二度こんなつらい思いをさせぬうちに、殺しておくれ」とおめき叫ぶ。僉議の人びとはみな伏し目になっている。

 新中納言知盛が意見していうには「三種の神器を返したとて、重衡をこちらに返すなどはあり得ぬこと。書状をよんだ証拠の返書には、率直にそうお書きください。」二位の尼は泣く泣くその由を重衡あてにしたためた。

 宗盛の名による院あての請文(うけぶみ)(返書)には、居丈高な調子が露骨に出ている。源氏の頼朝、何する者ぞ。朝恩に報いてきた平氏の業績のかずかずを思し召すならば、院こそ四国へお渡りあれ。しかるのち、院宣をもって頼朝追討の命を下されば、われら都にもどり、会稽の恥をそそぐことであろう。もしもしからざれば、鬼界、高麗、天竺、震旦にまで、三種の神器を持って逃亡するであろう。

 院のお使いをした花方がこの請文を持ち帰ったとき、二位の尼の兄なる平大納言時忠は、「おまえは御使として多くの波路を凌いで往復したから、そのしるしに一生の思い出を一つあたえようかい」とて、花方の頬に波形(なみがた)の焼印を押した。そのつらを見て、法皇は大笑いなさった、と。公卿というものは(しも)じもに対して、こういう思いやりのない、いじけたわるさ(ゝゝゝ)(ふざけ)をすることがある。

2026.02.15 記す。

戒文 海道下 千手前――法然、まことの色 P.370~377

 生捕りの重衡の身柄と引換に三種の神器を返せという法皇側の申し出は、屋嶋の平家一門に拒否された。三位中将重衡はこれを当然と受けとめながらも、いよいよ関東に送られる運命あきらかになってみると、「都の名残りも、今さら惜しう思はれける。」出家の意向を義経につたえた。奏聞に接した法皇は「頼朝に見せてのちこそ、ともかうも計らはめ。只今はいかでか許すべき」と仰せあった。重衡「さらば年ごろ契りたりし(ひじり)に、いま一度対面して、後生(ごしよう)のことを申し談ぜばやと思ふはいかがすべき。」「聖をば誰と申し候やらん。」「黒谷の法然房と申す人なり。」「さては苦しう候まじ」とて、これには許しが下りた。

 法然(1133~1212)と重衡は果して旧知であり、このときかように対面したのか、のちの作り事ではないかという疑いに行く手を遮られるなら、霧はそのまま晴れないだろう。このあと『平家』は「戒門(かいもん)」の語るふたりの対面の有様は、かくあって然るべし、重衡は法然に会ってよかった、法然は重衡に語る祈りを得てほんとうによかった、と読む者、聞く者に思わせれる。ふたりの対面をかように、かくあるべきように語った『平家』を疑ってはおしまいである。

 もっとも、このに姿を見せて重衡を教化する法然の説くところには、阿弥陀仏の本願であるがゆえに六字の名号(みようごう)を称える他力本願の称名一行ということが、まさに法然を法然たらしめる思想なのに、あらわれていないから、法然らしさは十全に法然たる人の教えに歯は届いていない。そのことを論証的に強く指摘した人がある(渡辺貞麿『平家物語の思想』法蔵館。特に第三部、第二ー三章)。

 そのことを忘れずに、しかしいまは『平家』覚一本にしたがって、法然が涙ながらに語る専称名号の教えに耳を傾ければ、本願の人の臨終に来迎阿弥陀仏からながれ出る五色の糸は、六字の称名念仏一心の天地に溶けこみ遍満するものとなり、殺生を事とし十善五逆(ごぎゃく)のうちに身を沈めて積善の功徳の蓄え何ひとつなく、斬死を間近に控えた重衡のような武士もまた欣求浄土の道に立って、光を浴びている。重衡は、黒谷の法然房との対面を許されたとき、法然以前の浄土教には重んじられている受戒の儀式だけをひそかに当てにしていたのだが、それよりもずっと向うのほうへ、はからずも法然房源空によってみちびかれた。

 はじめに見たとおり「戒文」冒頭のくだりは平板な応答によって、都離れがたさに出家をのぞむだけの重衡のあさはかな姿を印象づける。いわば悠久の霧となり、読む者、聞く者の衿もとに触れる。語り口にこういうさりげない配慮があって、『平家』の文学が冴えてくる。そして「戒文」から「海道下(かいどうくだり)」、「千手前(せんじゆのまえ)」にたどりすすむとき、仏教という思想の大樹に熟した文学の果実が、あかね差す枝を離れて、しばらくは空中を落ちつづけ、私たちの思わず差し出す両のてのひらに、たしかな手応えとともに収まる。

 さて、法然を請じ迎えた重衡は、生捕りになったそのおかげでこうしてふたたび見参に浴したと、まず機縁に対して感動を示したのち、「さても重衡が後生、いかがし候ふべき」と問いつつ、生涯を振り返って語り出す。以下、引用は重衡の告白である。語注を補って引き落とすと、

身の身にて候ひしほどは〔捕われの身になるまでは〕、出仕にまぎれ、政務にほだされ、驕慢の心のみ深くして、かつて到来の昇沈を顧みず〔後生のわが身の浮き沈みまで考えたことはなかった〕。況んや運尽き、世乱れてよりこのかたは、ここにたたかひ、かしこにあらそひ、人をほろぼし、身を助からんと思ふ悪心のみ遮りて、善心はかつて(おこ)らず。就中(なかんずく)に南都炎上の事、王命といひ、武命といひ、君に仕へ、世にしたがふ法逃れがたくして、衆徒の悪行をしずめがために(まか)りむかつて候ひしほどに、不慮に伽藍の滅亡におよび候ひしきこと、力及ばぬ次第にて候へども、時の大将軍にて候ひし上は、責一人(せめいちにん)に帰すtヴぉかや申し候なれば、重衡一人が罪業(ざいごう)にこそなり候らひぬらめと覚え候。かつうはかやうに人知れずかれこれ恥をさらし候も〔いまかようにあれこれと生き恥をさらすことになりましたものも〕。しかしながら(すべてこれ)その報ひとンおみこそ思ひ知られ候へ。いまはかしらを剃り、戒を保ちなんとして、(ひと)へに仏道修行したう候へども、、かかる身にまかりなつて候へば、心に心をも任せ候はず。けふあすとも知らぬ身のゆくへにて候へば、いかなる行を(じゆ)して、一業(いちごう)助かるべしとともおぼえぬこそくち惜しう候へ。つらつら一生の化行(けぎょう)をおもふに(「化行」は所業の意。「加行(かぎょう)」)の字を当てる諸本もある。「加行」ならば、修行の功を積み加えること)、罪業は須弥(しゆみ)よりも高く、善業は微塵ばかりも蓄へなし。かくてむなしく命終りなば、火穴湯(かけつとう)の苦果(地獄、畜生、餓鬼の三途(さんず)に行きまどうという苦しい報い)、あへて疑ひなし。願はくは、上人慈悲を(おこ)しあはれみを垂れて、かかる悪人の助かりぬべき方法(ほうぼう)候はば、示し給へ。
 上人は涙にむせび、しばらくは物も言われず、やや久しゅうあって、次のようにおっしゃった。そのくだりもまた同様に引き写せば、
まことに受けがたき人身(にんじん)を受けながら、むなしう三途に帰り給はんこと、かなしんでも猶あまりあり。しかるをいま穢土をいとひ、浄土を願はんに、悪心を捨てて善心を(おこ)しまさんこと、三世の(過、現、未の)諸仏もさだめて随喜し給ふべし。それについて、出離の道区々(まちまち)なりといへども、末法濁乱(じよくらん)の機には、称名をもつてすぐれたりとす。志を九品(くほん)に分ち〔衆生の志に応じて西方浄土を上品上生(じようほんじしょう)から下品下生(げほんげしょう)まで九階級に分け〕、(ぎよう)を六字につづめて〔一切の修行を南無阿弥陀仏という六字の称名に含ませているので、いかなる愚智闇鈍の者も唱ふるに便(たより)あり〔愚か者でも容易に唱えることができる〕。罪深ければとて、卑下し給ふべからず、十悪五逆(の罪びとも)廻心(えしん)すれば、往生をとぐ。功徳少なければとて〔仏の果報に値する行が身にとぼしいとて〕望みを絶つべからず。念十念の心をいたせば来迎す。「専称名号至西方(せんしようみようごうしさいほう)」と(しやく)シして〔唱えて〕専ら名号を称すれば、西方にいたる。「念々称名常懺悔(ねんねんしょうみようじようざんげ)をのべて、念々に弥陀を唱ふれば、懺悔するなりと(唐僧善導は)教へたり。「利剣即是弥陀号(りけんそくぜみだごう)」をたのべば、魔閻(まえん)近づかず。「一声称念罪皆除(いつしようねんざいかいじよ)」と念ずれば、罪みな除けりと(善導の「般舟讃」に)見えたり、浄土宗の至極、おのおのの略を存じて、大略これを肝心とす〔いま引いた四つの句には浄土宗の精髄が要約されているが、これによって大づかみにすることが大事なこと〕。ただし、往年の得否(とくひ)は信心の有無によるべし。行住坐臥、時処、諸縁をきらはず、三業(さんごう)(身・口・意の働き)四威儀(行住坐臥に同じ)において、心念口称(しんねんくしょう)(心に念仏し、口に称名を唱えること)を忘れ給はずは、畢命(ひつみよう)()として、この苦域(くいき)の界を出て、かの不退の()(極楽浄土)に往生し給はんこと、何の疑ひかあらんや。
 うれし泣きをした重衡が、この機に受戒したという。それには出家が必要でしょうか。法然「出家せぬ人も戒をもつことは世のつねの習ひなり」とて、「額にかうぞり(かみそり)を当てて、そるまねをして、十戒を授けられければ、中将随喜の涙を流いて、これを受け保ち給ふ。」このくだり、受戒という行いに重きを置いていない法然をよく示しているように見える。

「戒文」はおわりに、このとき三位中将重衡がお布施tふぉして法然に差し出した硯のことを付け加える。その硯の大げさな由来から「松蔭(まつかげ)」という意味ありげな、「死を待つ木かげ」に通じる硯の名まで持ち出しているのは語るに落ちたという気がして、にわかに興ざめしてしまうのはくち惜しい。

 つづく「海道下(かいどうくだり)」は道行き文として名高い。先の「戒文」の作者とは別口の語り。しかし、京より鎌倉へ護送されて東海道をくだる重衡には、法然との語らいによって死あるいは後生に対するこだわりから脱した心がたもたれていると考えてこの道行きに同伴するのと、そうは考えずに、「戒文」を無視して同伴するのとでは、読みようが変って当然である。

 称名念仏ということの尊さに目ざめ、授かった戒を保ちながら、輿(こし)に閉じ込められた身を運ばれてゆく重衡は、あえて兼好の言い方を用いれば、「ゆれづらなるままに」。輿の御簾(みす)越し、そとに移りゆく気色をながめ暮らす人となっている。これは「つれづれ侘ぶる人(物を退屈しているだけの人)」と同じではない。死を待つ覚悟のできている人は、「つれづれなるままに」という心の状態にたやすく身を置くことができる。輿の揺れにつれて、しずかにしずかに心がざわめく。一種快い興奮とともに、そとの景色がしずかにざわめいて目に映じる。歌枕、名所(などころ)が古歌を従えて、歌のリズムとことばのひびきを伴って、次から次に目のまえを移ってゆく。それを見ている心のさまを文字に写せば、「海道下」のような道行き文があらわれる。

 乗り物のなかに「つれづれなるままに」すごして幾日、三河の八橋(やつはし)をすぎる頃、重衡の心が言霊(ことだま)のおのずと促す色好みの色にほのかに染まっていて、なんの不思議があるだろう。池田の宿の長者、熊野(ゆや)の娘と歌を取り交わしたのは枕を交したということである。女犯の戒は破られた。歌の神も、足利の明神も、それをめで給うだろう。「(よろず)にいみじくとも、色このまざらん男は、いとさうざうしく、玉の(さかずき)(そこ)なきここちぞすべき。」(『『徒然草』第三段)

 重衡には子が一人もなかった(じつはあったらしいが)。そのことを母の二位の尼も北の方も本意ないこととして、神仏に祈っていたがむなしかった。海道下りの道も半ばをすぎ、遠山の桜も残り少なになった日、重衡は「こし方行く末のことども思ひつづけ給ふ」うちに、子のないことについて、「かしこうぞなかりける。子だにあらましかば、いかに心苦しからん」という。『徒然草』第六段に「わが身のやんごとなからんにも、まして数ならざらんにも、子といふものなくてありなん」と、

千手前(せんじゆまえ)」の談、頼朝の面前に引出された重衡は、度胸のすわった受け答えをして、並みいる鎌倉勢に強い感銘をあたえた。頼朝のその後の重衡の遇し方は賓客(ひんきゃく)扱いに近い。湯殿も設けさせ、おのが寵愛の美女、千手前に重衡をもてなし役を命じる。『平家』諸本いずれも、千手前が姿を見せると語り口もつやをおび、一方ならず念を入れて千手前の容姿、立居振舞、諸芸のたしなみをたたえる。項羽とその愛姫()氏まで『和漢朗詠集』にもとづいてこの場に加わり、日本の鎌倉のこととも思えない。諸本のうち、とりわけ『源平盛衰記』は重衡、千手前のひめやかな、しかも頼朝に許された情誼を詳述している。いま覚一本『平家』を読む限り、物語の奥のほうには、いろは歌が聞えてくる。(いろ)はにほへど(ちり)ぬるを、わが() たれそつねならむ、有為(うい)奥山(おくやま)けふ()えて、あさき夢見(ゆめみ第六弾し、()ひもせず。

2026.03.07 写す。

横笛他 維盛入水――異説のやぶ P.377~385

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『平家』に維盛のことは何かにつけて重衡と対照をなすように語られている。重衡のほうから維盛の行く末を案じている気配は少しもないが、維盛のほうでは生捕になった重衡のことを少なからず気にしている。あのように生き恥をさらしたくないという思いが維盛に出家、入水の道を採らせる、そう読めるように『平家』は語っている。おさらいをすれば、本三位中将重衡は清盛の五男、維盛は「横笛」冒頭、「さる程に、小松の三位中将維盛卿は」とあるように、これは小松内府と呼ばれる重盛の長男として生れた人。重盛は、いうまでもなく清盛の長男であったから、入道相国の嫡々の筋からすれば維盛はまっすぐに平家の正統になるべきところ。しかし、重盛の息子たちには祖父の素質に反するものがそなわっていた。維盛もその弟たち、資盛、清経、有盛、師盛、忠房、宗実、みな柔弱であり、叔父の宗盛、知盛、重衡らは小松のこの一族に不信を抱いていた。清盛の弟、頼盛が事につけて責任をのがれ、果ては鎌倉と内通している行状を見抜かれて、清盛の息子たちにきらわれていたのと相通じるものがある。平家一門といっても、主たる人々が結束して同じ方向をめざしていたわけではなかった。

 維盛はめめしい振舞を見せることにかけては一方の雄である。平家の都落ち、福原遷都のときにも、この人だけは妻子同伴しなかった。異郷に憂き目を見させるよりも都にとどめ、信頼する配下に守らせておき、時いたれば自分のほうから都へ、一門に離反してでものがれ帰って再会を果たそう。この未練がましさに由来する一部始終を『平家』は「横笛」あら「維盛入水」にいたる段々の物語に仕立てることになった。

『源平盛衰記』は巻三十九から巻四十にかけて、維盛の八嶋脱出より那智の裏入水にいたる間のことを覚一本『平家』に十倍するほどの長い記事にしるしている。紆余曲折の次第については、大方『平家』と異ならないが、さいごにあっと驚かせる異説を二つ並べる。これを読み知ってしまうと、覚一本『平家』の維盛出家、入水の物語が、高野の勧進聖(かんじんひじり)と熊野権現(本地は阿弥陀如来)の信仰教団がそれぞれに伝搬した説話群の統一化として、いかにもよく出来た物語とは思っても、香煙にむせびつつ見学するディオラマのように、そとに出て息をつくときに心に生色がよみがえるように、閉ざされた物語の限界を見せつけられたという感慨をいかんともしがたい。

 さて『源平盛衰記』の異説の第一(引用は水原考定『新定源平盛衰記』第五巻、二〇四ー二〇五頁による)、

 或説に曰く、三山(熊野)の参詣を遂げたれば、高野へ下向ありけるが、さてしも逃れはつべき身ならべとて都へ上り、院の御所へ参り、身謀首(ぼうしゅ)にも得られねば罪深かるべきにあらず。命をバ助けらるべき由をぞ申し入れける。事の体不便(ていふびん)に思し召されて、関東へ仰せ(つか)はされけり。頼朝御返事に、「かの卿を下し給ひて、(てい)に随って申し入るbえし」と申したりければ、罷り下るべき由、法皇より仰せ下されける後は、飲食(おんじき)を断ちたりけるが、二十一日といひけるに、関東へも下着せず、相模国湯下(ゆもと)の宿にて入滅ともいへり。禅中記に見えたり(「禅中記」は水原一の語注によれば藤原長方の日記、現存せず。長方は葉室家の人。光頼、成頼らの従弟。八条中納言と通称し、後白河院の賢臣と呼ばれた一人)。
 また、異説の第二、
 或説には、那智の客僧等これを憐みて、滝の奥の山中に庵室を造りて隠し置きたり。その所、今は広き畑となりて、かの人の子孫繁昌しておはし、毎年に香を一()、那智へ備ふる外は別に公事(くじ)なし、故にここを香疁(こうばた)といふ。入海(じゆかい)偽事(いつわりごと)と云々。

 これにつづけて底本の割注があって、『太平記』巻五の「大塔宮熊野落」の段の記事に触れる。いま手許の『参考太平記』(続群書類従完成会、太洋社刊)巻五の当該箇所(一三六頁)を見ると、大塔宮、十津川の戸野兵衛(とのへい)の家に隠れひそむくだりに、「平家ノ嫡孫維盛ト申シケル人モ、我等ガ先祖ヲ(タノ)ミテ、此処ニ隠レ、遂ニ源氏ノ世ニ(ツツガナ)ク候ヒケルトコソ、承リ候へト語リケレバ」とあって、ここの割注には次のようにある。「天正本ニ云フ、維盛子孫マデ(ワズラ)ヒナシト伝ヘ承ル、云々。熊野人ノ口碑ニ曰ク、紀州牟婁(ムレ)郡ニ藤縄(フジナワ)ノ要塞ト名ズクル処アリ。コレ維盛(イツ゚ワ)入海(ジユカイ)ヲナシテ逃ゲ(カク)レノ地也(下略)。」

『源平盛衰記』の異説はこの『太平記』の「口碑」に類似する。都に残した妻子に恋々たる維盛のありさまを思うにつけても、異説二つながら、あながちに否定はできない。殊に、維盛が遂に都にあらわれて自首したのち、鎌倉へ送られるときまって飲食を断ち、衰死という藤原長方の記録は、これがまことかと思える。異説第二のほうは平家落人説話の一種にすぎないかもしれないが、いわば想像上の真実としてながめれば、この説にもとづく新作狂言があらわれたとて、無下(むげ)にとがめることはないだろう。

 それは一九八八年十月二十九日のことだったが、大坂上町の大槻能楽堂まで出かけたのは、ポール・クローデルの短い劇作品『女と影』(木村太郎訳)が泉嘉夫によって作能上演されると知ったからであった。この新作能『女と影』は」私の深いところに届き、眠っていた共鳴版を打った。『千載和歌集』巻十七、「雑歌中」の円位法師(西行)、

  あかつきのあらしにたぐふ鐘の音を心の底にこたへてぞ聞く

という一首の趣が、そのときの私のなかに聞こえたものを言い表わしているといってもよかった。

 当日、もうひとつの新作ものを見た。帆足(ほあし)正規作、茂山千之丞演出の狂言『維盛』。へなへなした、くらげのように骨無しの維盛である。都をはるかに望みながら、どんな人から(さげす)まれようと生きのびて、妻にもう一度逢いたいと泣く。いまから高野山に入り、滝口入道という聖にみちびかれて世を捨てようなどと覚悟している維盛とは月とすっぽんほどにかけ離れていた。志操堅固な人から見ればあさましいだろう。しかし、この維盛には、野たれ死んでも悔いぬというところがある。あの世がどうした、そんなものよりも、夢まぼろしのこの世に、夢まぼろしを求めつづけて朽ち果てるのもまた身の定めならば、と繰り言をいう男の、思い切ったあの世への無執心。これこそまさに狂言綺語。ただし、維盛の霊をなだめ、なぐさめるために作られたのが『平家』維盛の諸段とすれば、新作狂言「維盛」でかき立てられた主人公の、この世への執着をなだめ、あの世に送るものとして、すでに『平家』の備えがある。謡曲『維盛』とて同じ。落ちつき場所は用意されている。新作狂言『維盛』は、安んじて狂態に終始すればいい、という理屈が成り立つ。

「横笛」の段については、維盛教化の大役をつとめる滝口入道の出家由来譚に絡んだ横笛の身元詮索が、むかしからやかましい。覚一本『平家』はいう、「高野に(維盛の)年頃知り給へる(ひじり)あり。三条の斎藤左衛門大夫茂頼が子に、斎藤滝口時頼といひしものなり。もとは小松殿の侍なり。十三の年本所へまゐりたりけるが、(本所は滝口の本陣。滝口は御所清涼殿の御溝水(おんかわみず)の落ち口のこと。近くに禁中警固の侍詰所があったため、この侍を滝口という)、建礼門院の雑仕(ぞうし)(雑役にしたがう下仕えの女)横笛といふ女あり、滝口はこれを最愛す」と、『源平盛衰記』はもっと詳しげにしるして、「横笛といふは、(もと)は神崎の遊君、長者の娘なり。大方も無双の能者(のうしゃ)、今様朗詠は所の風俗なれば言ふに及ばず、琴、琵琶の上手、歌道の(かた)にも(すぐ)れたり。太政入道、福原下向の時召し具したりけるを、女院いまだ中宮にて渡らせ給ひけるとき(まい)らせたり。小松内府いかが思しけん、横笛と名を付けられたり。時頼人知れぬ見参して、白地(あからさま)〔かりそめのこと〕と思ひけれども、松羅(しようら)(ちぎり)色深く、蘭菊(らんぎく)(なさけ)匂ひこまやかにして(こころざし)切にぞ思ひける。」おわりに使われている二つの喩えはいずれも男女相擁して情の尽きぬ中をいう。

 時頼はこの女を妻にと父に打明けて激怒を買い、不幸をなじられたとたんに出家の意志を固める。すこぶる性急である。女にも告げやらず世を捨て、嵯峨の往生院(二条院の北にある。法然の弟子、念仏房の創建という)にこもっているところへ、男恋しさのあまりに横笛がたずねてくる。顔を見れば未練が湧くとて情容赦なく女を追い返した滝口は、行方をくらませて高野山の清浄心院に入る。横笛また尼となり、奈良の法華寺に入り、いうばくも経ずしてはかなくなった。

 往生院、清浄心院は『平家』諸本によってまちまちの寺名に変っている。説教僧、勧進聖が滝口発心譚を持ち歩くにつれて、時と場の都合に合わせて差し替えられたためと考えられる。

 横笛についてもまた『源平盛衰記』は異説をかかげる。女は桂川の上流、大井川の早瀬に身を投じた。滝口は水練(泳ぎ達者)に頼んで屍を淵から引き上げ、火葬して灰をくびにかけ、山々寺々に修行してここかしこに収め、やがて高野山に登り、奥の院に卒塔婆を立て、女の骨を埋めたのち、宝䡴(ほうとう)院の梨坊(なしぼう)に入った、と。また別の異説に、横笛は髪をおろして京都東山の双林寺にいたが、その後、高野山の西北麓の天野(あまの)に行き、滝口入道の袈裟、衣をすすいだ、と。水原一の語注によれば、天野には高野僧の身」よりの女たちの在所があり、僧たちは下山してここで女と会った。『源平盛衰記』は、あとにこう付け足す、「異説まちまちなり。いずれも哀れにこそ。」

 高山樗牛(ちょぎゆう)(一八七一ー一九〇二)に『滝口入道』という小説がある。明治二十六年(一八九三)、東京帝国大学哲学科に在籍中の高山林次郎は学資に窮し、「読売新聞」の歴史小説の懸賞に応募するべくこれを書き、翌年当選、同紙に二十三回にわたって作者匿名で連載され、次の年、春陽堂より作者名なしの短行本として発行され、大いに読まれた。樗牛は生前、『滝口入道』の作者であることをついに公言しなかった。

 この人、少年時代より『平家』ならびに『源平盛衰記』を愛読していた。『滝口入道』は両署をもとにして、自由勝手に滝口入道の行状を作り変えた小説である。『平家』調の美文綾羅錦繍(りょうらんきんしゅう)をまとわせたこの小説、いま読み返してみると、おそろしい道徳小説とわかって、興味索然たるものをおぼえる。樗牛は『源氏物語』をきらっていたそうである。

 小説の発端は清盛全盛の治承の春、小松内府に仕える斎藤滝口時頼は、遠目に見た横笛の舞姿がまぶたに焼きついて、その日から恋のとりこになる。千束(ちづか)なす恋文をとどかせる。梨のつぶて。『平家』も『源平盛衰記』も、時頼と横笛は睦言を交わし、交情は(にかわ)のようであったと言っているものも、一指も触れぬ女に朝となく夕となく懸想文(けそうぶみ)を書き、ある日、鞘を払った刀に映るおのが顔のやつれ加減にびっくりしたとは、この男、むなしいエロトマニー(英: Erotomania)に耽っていたとしか思えない。だが樗牛はこの男の片思いの独り角力(ずもう)を、新しい時代の人倫の手本として敬仰しつつ描いている。あなたも私も、野暮がこんなに綺羅でかざられ明治の日清戦争の時代に生まれ合わさなくてよかった。樗牛と時代をともにした斎藤緑雨(りよくう)(一八六七ー一九〇四)は、樗牛によって無残な改造を蒙った滝口入道を見て捧腹絶倒しただろう。そしてこんなばかばかしい小説にうつつを抜かし袖を涙にぬらしている世の中に、さそがしいやけがさしただろう。入道がk雄松内府の息子維盛に尽くす忠心も、ファナティックな様相を呈している。おわりに滝口は維盛の入水した和歌の浦で(那智の浦ではなく)切腹自殺をとげるという樗牛考案の筋書きも、浄土信仰のかげにひそんでいた武士の魂を一挙に表沙汰にして称揚することをねらっている。ファンアティックとロマンティックの野合は道徳家という蛇を生みおとす。樗牛が見習ったつもりの西洋のロマンティークたちはみな、緑雨くらいには覚めた人たちである。

2026.03.09 写す。

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