(のことで梶原景時とあらそって同士討ちにおよばんとした摂津神崎は、まさに瀬戸の水ぎわ。追風とはいえ水夫船頭もおびえる強風のなか、主従わずかに五艘、三日の船路をただ三時、六時間ばかりの瀬戸内をわたり、着いたところが勝浦。幸先よろしき浦の名に
(浦はは占に通じる。占に勝つと出て)勇躍した義経ではあったが、奇襲また奇襲に敗退をかさねる平家を追って瀬戸の海を西へ西へ、深追いするほどに、義経は蟻地獄のような運命の穴に落ちていた。穴の底には頼朝が待ち構えている。穴のふちには後白河法皇が、あわれな一匹の蟻武者のあがきを冷然と見おろしている。勝利の契機がまた滅亡の契機というこの人生の急斜面を、そうとはつゆ知らずに踏みしめて、義経は勝利に酔った。
壇の浦決戦よりおよそ三箇月、また頼朝に忠節を誓うべく鎌倉下向の義経がすげなく追い返されて、足許のゆらぐ思いをした日から二箇月、生捕りの宗盛父子が鎌倉から京へ引きもどされる途次で斬られ、生捕りの重衡が木津川原に刑死してよりおよそ半月、元暦二年七月九日という日に、未曽有の大地震が畿内一帯を襲った。地下世界また地上世界の惨劇の筋書きに協力を惜しまなかったようにみえる。
『平家物語』の書きようは全十二巻を通じて年次、月、日を追う編年体を採っている。それを尊重して前後の順序を乱さずに、まだ起きてことまで先取りに見透かすように真似はしないことを私はひそかに心がけてきた。しかし、もうこのあたりまできてしまえば、巻立て段組みの順序から逸脱することがあっても、私当人の目には見ぐるしからぬ振舞としては黙認したい気持が動く。
覚一本をはじめ諸本多くは「重衡(」で巻十一を閉じたあと、巻十二を元暦二年の大地震からはじめている。平成七年一月十七日の阪神大地震からまだ二箇月と隔っていないいま、巻十一を」いったんとびこえて、「大地震」の段を先に読みたい。長文ながら前半を引き写す。このくだりには鴨長明が『方丈記』にしるした同じこの大地震のくだりといちじるしく似かうようなものがあるのは、古くから人の気づいていたことである。
平家みな亡び果てて、西国もしずまりぬ、国は国司にしたがひ、庄は領家のままなり。上下安堵しておぼえしほどに、同じ木七月九日午の刻ばかりに、大地おびただしく動いてやyが久し。赤県(京都)のうち、白河のほとり、六勝寺みな破れ崩る。九重の塔も上六重振り落す。得長寿院も三十三間の御堂を十七間まで振り倒す。皇居をはじめて人々の家々、すべて在々所々の神社仏閣、あやしの民屋、さながら破れ崩る。崩るる音は雷のごとく、あがる塵は煙のごとし。天暗うして日の光も見えず。老少ともに魂を消し、朝衆(廷臣も一般も)悉く心を尽くす。また遠国近国もかくのごとし。大地裂けて水湧き出で、盤石割れて谷へ転ぶ。山崩れて河を埋み、海漂ひて浜をひたす。汀漕ぐ舟は浪にゆられ、陸ゆく駒は足の立て所を失へり。洪水みなぎり(らば丘にのぼつてもなどか助からざむ。猛火もえ来らば、河を隔てても暫しも去んぬべし[避けられるだろう]。ただ悲しけるは大地震なり。鳥にあらざれば空をかけりがたく、龍にあらざれば雲にもまたのぼりがたし。白河、六波羅、京中に打埋まれて死ぬる者、いくらといふ数を知らず。四大種(地、水、火、風)のなかに水火風はつねに害をなせども、大地に於いては[大地に限って]、異なる変をなさず。こはいかにしつる事ぞやとて、上下遣戸障子を立て、天の鳴り地の動くたびごとには、只今ぞ死ぬるとて、声々に念仏申し、喚き叫ぶことおびただし。
この地震については『玉葉』『吉記』『山槐記』『百錬抄』、みなそれぞれに詳しい記事を残した。『吉記』七月九日の記事には「去月二十日以後、すでにもつて連々として、今日の大動以外数十度。万人魂を消すものなり」と頻りに前触れの揺れがあったことがしるされている。『山槐記』には「午の刻地震。五十年以来未だ覚えず。家中の上下男女みな竹原の下に衆居す」とあり、難を避けて竹やぶにのがれたありさまを伝え、「およそ未曽有の振動なり。終日終夜なほ小動あり。」「のちに聞く、宇治橋みなもつて顛倒す。時に渡れる人十余人、橋に乗りて水に入り、その中の一人溺死すと云々。また聞く、近所の湖水北に流れ、水は岸より減ずること或は四五段、或は三四段。後日に元の如く岸に満つと云々。同国の田三丁、地裂け、淵となると云々、(中略)また後日に聞く、京中の築垣、東西殊に壊る。南木の面は頗る残ると云々。」この日以降『山槐記』には、八月までほとんど毎日余震のあったことが見え、八月三日および六日にまた大きな余震があったことまでしるされている。
『平家』の「大地震」のくだりは、「十善帝王(安徳)都を出でさせ給ひて、御身を海底に沈め、大臣公卿大路を私天その頸を獄門にかけられる。昔より今にいたるまで、怨霊はおそろしき事なれば、世もいかがあらずらむとて、心ある人の歎き悲しまねえばなかりけり」
とおわっている。『源平盛衰記』には死霊の祟りのほか、生霊のことにも触れて、もっとなまなましい記事が見える。「昔も今⒨お怨霊は怖しき事なり。蚤ンおk息天に上るという事もあるぞかし。況や万乗の聖主玉体を西海の波底に沈め、三公の忠臣、死骸を北闕の獄門に懸けたり。その外、卿相雲客、衛府諸司、有官、無官、軍平士卒、男女、生霊死霊おそろし。」(巻第四十五)
巻十一の巻首「まで引き返して「逆櫓」。正月十日の院宣を賜った義経は、ただちに配下の東国の軍兵どもに進軍を下知した。摂津の渡辺(難波堀江のあたり)に結集して兵舩を調達、二百艘の船団を組んで八嶋へ渡ろうとする。二月十六日、渡辺、神崎二つの入り江に用意した船をいよいよ出すときになって、春のあらし吹いて船のいたみ多く、船出を断念して大名小名寄りあつまって、舩いくさのやり方につき評議を持った。逆櫓のあらそいはその場のこととして、『平家』はこれを一つの聞き飽きない語りに仕立てている。義経と梶原、互いの言い分にそれぞれの気質、人柄を活かした応酬のありさま、まるでその場に居合わせ人の語りを聞くようである。梶原は、こんどの船いくさには逆櫓を立ててはどうかという。判官「サカロとは何ぞ。」梶原「馬は駆けんと思へば弓手へも馬手へも回しやすし。舟はきつと[すばやく]押し戻すが大事に候。艫舳に櫓を立てちがへ、脇梶を入れて、どなたへもやすう押すやうに候yばや。」判官「いくさといふものは一引きも引かじと思ふだにも間ひ悪しければ引くはつねの習ひなり。もとより[初めから]逃げ設けしてはなんのよかろうぞ。まづ門出の悪しさよ。逆櫓を立てうとも、返様櫓を立てうとも、殿原の舟には百梴千梴も立て給へ。義経はもとの[当りまえな]櫓で候はん。」梶原「よき大将軍と申すは、駈くべきところをば駈け、引くべきところをば引いて、身を全うして敵を亡ぼすをもつて、よき大将軍とはする候。片趣きなるをば、猪武者とて、よきにはせず。」判官「猪鹿のししは知らず、いくさはただ平攻めに攻めて勝つたるぞ心地はよき。」
この応酬に、侍どもは梶原に遠慮あって高く笑わなかった。「目ひき鼻ひき、きらめきあへり。」この「きらめき」の語、諸本には「きらめき」あるいは「ぎぎめき」とある。おそらく擬音語、き、き、ぎ、ぎ、ぎ、とのどを引きつらせて笑う擬音音なのかと思える。猪武者とののしられた義経、とげのある返し言葉を浴びた梶原、双方かっとなっている。同士討ちがあってもふしぎはないその場のなりゆきであった。
『平家』はこうして源氏軍のただならぬ気配を巧みに作り立てる一方で、八嶋の平家の心細いありさまには、「あはれ」をさそう和文の綾を、例によってくりひろげる。「さる程に、八嶋には隙ゆく駒の足早くして、正月もたち、二月にもなりぬ。春の草暮れて、秋の風におどろき、秋の風やんで、春の草になれり。送り迎へてすでに三年(足かけ三年)になりにけり。都には東国より新手の軍兵数万騎着いて攻め下るとも聞こゆ。鎮西より臼杵、戸次、松浦塔同心して押しわたるtふぉも申しあへり。かれを聞き、これを聞くにも、ただ耳を驚かし、さも魂を消すよりほかのことぞなき。」勇をもって聞こえる知盛さえ、弱々しい愚痴を洩らして、平家に重恩ある東国、北陸のやつらも頼朝、義仲に寝返った。まして西国の連中など当てにできるものかと思っていたから、都にふみとどまって、どうなってもいいと内心思っていたのに、わが身ひとつのことではない。女院、二位の尼の身の上も考えねばならず、心弱く都をあとにしたばかりに、浮草のような暮しに陥り、かような憂き目を見て、ああ口惜しいと。
さて、二月十六日の夜半、五艘だけで船出し、あっという間に阿波に渡った義経主従がその後の相次ぐ奇襲の早業 については、「勝浦」の段に見える。八嶋の平家は僅かかに千騎と聞けば、阿波の勝浦から讃岐へ一気に大坂越えを夜駆けして高松へ。またここでも義経お得意の「大松明」、すなわち高松の在家に火をかけ、対岸の八嶋へ攻め入った。
大坂越えのあいだに、京の女房が八嶋の宗盛にさし向けた手紙をm預っている男に出会った義経、それをうばって開けば、九郎はすすどきおのこ、油断も隙もないゆえ、大風大浪を物ともせず、攻め寄せることと思います。軍勢をあちこちに散らさずにご用心なさいませ。これこそ天のあたえ給う文、いずれ鎌倉殿にお見せしよう。義経はこの手紙を大事に収めて秘め持っていたという。手紙の使者の男を斬らずに、山中の木にしばりつけておいたのは、まあ無用の殺生をしなかっただけ殊勝なことであった。
不意を襲われた八嶋では、仮の内裏から汀の船へ、安徳帝、女院、北の政所、二位殿はじめ女房どもをいそぎ避難させて、沖へと船を漕ぎ出す。
汀のいくさは「嗣信最期」の段に描かれる。佐藤継(嗣)信、忠信の兄弟は、義経の忠臣のうちである。ここでまた汀を血に染める一場二場の景がある。平家きっての強弓、能登守教経は、義経を射落すことを心に誓って、矢つぎ早に射かける。佐藤兄弟はじめ武蔵坊弁慶、伊勢三郎義盛、江田源三ら一人当千の兵ども、大将軍の矢おもてに馬のかしらを立てて並べて、楯となって防ぐ。継信、射られて落馬、やがて絶命。義経はその遺骸をねんごろに葬り、一僧に菩提をとぶらいを頼み、布施に太夫黒と呼ばれる秘蔵の名馬を当てたと。
いま京都国立博物館の入口正面の庭に、二基の十三重の大石塔が並び立っている。もと東山馬町、渋谷街道横(北側)、鈎の手折れた抜け路地の奥、民家にかこまれた六坪ばかりの高塚の上に、南北に並んでいた石塔である。すでに江戸時代より、北の塔は下部五層、南の塔は下部三層を残すのみで、落下した上部はすべて塚の土留めの石材に用いられていた。昭和十五年、解体改築されて十三重石塔に復したが、古くから民間ではこの二基の石塔を佐藤継信忠信の墓と称して祀っていた。昭和四十年の頃(私の記憶)、あたりの私有地の人家みな取りこわされて更地となるにおよんで、ここのみ公有地だった高塚に立つ瀬石塔は現在地に移された。南搭基礎石正面には「永仁三年(一二九五)二月二十日立之 施主法西」の刻銘がある。無銘の北塔は南搭よりもさらに古式をとどめるという。いずれも高さはおよそ六メートル。華蔵式十三重石塔のすっきりとした美しい姿には、四季、朝夕、晴雨を問わず、見飽きぬものがある。
2026.02.22 記す。
那須与一 弓流――小兵ふたり P.402~409
八嶋の浜いくさに佐藤嗣信は主君義経の矢楯となって、ふたつとないいのちをおとした。嗣信忠信兄弟は、もと奥州の藤原秀衡の家臣ながら、義経に臣従して上京、西国のいくさに加わっていたのであった。
『平家』諸本のうち屋代本は、嗣信、臨終にさいして、この世に思い残すことの第一は奥州にとどめ置いた老母にいま一度会うべくもないこと、第二には主君の行く末を見ぬまま先立つことと、苦しい息の下より洩らしたとしるす。覚一本『平家』には、第一に老母の身を案じる嗣信のことばがすっかり消えて見あたらない。主君のいのちに代って讃岐八嶋の磯で射られた次第を末代までも語り伝えられるならば「弓矢をとる身は今生の面目、冥途の思ひ出にて候へ」と言い置いて、弱りに弱っていったとあるばかり。もののふの尽忠の物語が、母を恋う子のこころを食い尽してしまったのだろう。
那須与一もまた「弓矢とる身は今生の面目」と胸を張ってほこるに足りる勲功を立てた。しかも嗣信とはちがって、身に些少の傷も負わずに生きながらえたうえ、「那須系図」によれば、扇の的を空に舞わせた賞には丹波国五箇庄その他の庄を諸国にたまわる果報に浴し、のち山城国で死去したという。同「系図」によれば、与一は藤原北家の末につながる武者所宗資の孫で、那須太郎資高の第十一子、十に余る一とて余一と呼ばれた字が変って与一になったらしい。覚一本に宗高とあるほか、『平家』諸本には宗隆、惟宗、助高、助孝、資宗とさまざまな名が動いていて、いずれが与一のまことの名か定めにくい。じつのところ与一は生没年不明、後半生についても「那須系図」の記事を傍証するものがないようである。
それはとにかくとして、覚一本の「那須与一」の段は、弓矢のほまれを語るべく練りに練った物語。起承転結の結構よくととのって、少しのむだもない出来栄えのほどを見せつける。
まず色調のあざやかさ、平家の方から漕ぎ出した小舟一艘、磯より七、八段まで近づいて横ざまに停まる(八段はおよそ二十メートルの距離)。小舟には若くあでやかな女房が「柳の五つ衣に紅の色をした襲、くれないの袴は、白い肌をさらに白く見せて男の目を幻惑する。与一は赤地の錦を首、袖にあしらった直垂に鎧は萌黄おどし、太刀、矢羽それぞれの色が互いに映えあう出立ちに、馬は黒馬、真紅の地に金泥をもって日輪をえがいた扇に夕日があたっている。
頃は二月なかば、いま青の深まる夕暮れの海に、彩り美しい斑点が浮かび、たゆたっている。その斑点をめがけて、萌黄に赤、黒を一塊りにしたもう一つの斑点が近づく。静と動、しじまとざわめき、受動と能動が、リズミカルに入りまじる。鏑矢が放たれ、長いうなりが浦の空気を切り裂く。矢はあやまたず扇のかなめ上一寸ばかりに適中。
鏑は海へ入りければ、扇は空へぞあがりける。しばしは虚空にひらめきけるが、春風に一もみニもみもまれて、海へさつとぞ散つたりける。夕日のかかやいたるに、みな紅の扇の日(を描き)出したるが、白波のうへにただよひ、浮きぬ沈みぬゆられければ、奥には平家舷をたたいて感じたり。陸には源氏箙をたたいてどよめきけり。
この一場の景には動きがあるだけ、それは絵よりもまさっている。のちの世に、絵がこの景に追いすがる。そのとき夕やみは深い夜やみに変り、白銀の十日月が空にかかつている。見つめる日に、やみは白昼と現じて、まぼろしの空には金色の日輪が浮かび出る。下方には、宇治橋、水車、蛇かご。橋のたもとには柳の糸が風にもつれている。橋の下には宇治の川浪がざわめく。動きは水車と川波、そして風になぶられる糸柳に、仮現の姿をあらわす。聚楽百双のうち「柳橋水車図」の大屏風が、この追及の究極の結果となって、桃山の世に作り出されるだろう。宗達がさらに工夫を加える。琳派のもとの姿は、少なくともその姿の一つは、『平家』の扇の的の場面に見届けることができると私は思っているのだが。
ともかくにも「那須与一」の段は、『平家』を物語る人に「今生の面目」をほどこす。
ひとつ、気づいたことを付け加える。
那須与一は小兵であった。『平家』諸本、多くはこの小兵ということにこだわる。覚一本には、「小兵という定、十二束三伏、弓は強し、浦ひびくほど長鳴りして、云々」とある。小兵にふさわしく、このときつがえる鏑矢は十二束三伏の長さにすぎないが、引く弓は強いので、鏑矢は浦一帯にひびくほどに長鳴りして、という意味である。
このときの矢が征矢ではなく鏑矢であること、鏑矢の十二束三伏は長い矢ではなく短いことについて、富倉徳次郎『平家物語全注釈』に、たしかな見解が見える(下巻(一)、四六一頁以下)、そこに引用されxた『武家名目抄』第六(弓箭部五、上)に、「高忠聞書」とうものを引いて鏑矢の特徴を次のように説くくだりは、「小兵といふぢたう(定)」という表現をめぐって、逆接か順接かの語法の論議に決着をつけるに内容であった。これよりすれば「小兵といふぢやう」は順接表現、「小兵というにたがわず」の意となる。富倉氏『全注釈』より、引用の引用をそのまま(語を多少補って)引き写すと、
矢束の事、例式の我が矢束〔通常私の用いている征矢の矢束〕より、ニ伏置きて矢束巻とて、堅手糸にて巻きて赤うるしに塗るなり。巻く広さ三分たるべし。ニ伏長くして矢束巻きする事、鏑の(根の)きはに根太巻すべし。雁股の根太巻(は鏑のきわの根太巻の)半分たるべし。鏑矢に限りて、二伏矢束を長くして矢束巻とて巻くいはれは、鏑にては化粧の物(たとえば鵺)その他大事の物をならでは射ぬことなり。(鏑矢を射るには)わが矢束をば弓の木中へひつかくるほどにするが本儀なり。ひつかくれば矢筋もちがひ、鏑にささへて〔つつかって〕矢束も引けぬなり。さるあひだ、わが矢束のきはを矢束巻とて、水中へひつかけて鏑には当らで矢束をよく引き、心安く射べきために、昔より二伏長く仕きたるなり。当流の秘説なり。
この秘説に従えば、那須与一の用いた鏑矢が十ニ束三伏の長さといっても、鏑矢だから矢束がニ伏長く作られていたのであって、与一が征矢を用いるときには十二束一伏の矢をつがえていたことになる。束、伏という尺度には、きまった準尺があるわけではなく、弓矢の使い手各人が自分の手で矢束をにぎって、こぶしの幅一つを一束、指の幅一つを一伏として矢束の長さを計るのだから、大兵、骨格たくましい大男の十二束と、小兵、背の低い小男の十二束では、はじめから矢の長さが多少ちがっている。常人の矢束は十二束といわれる。小兵の与一の矢は常人のものとほとんど変りがない。ただ、弓は強く張った。弓とて長大な弓ではあり得ない。引きは強くて短い弓。与一は征矢をもって人の胸板を射抜く力はなくても、鏑矢で扇の骨を切る力量には、なんの不足もなかった。、
「小兵といふ定、十二束三伏」という一項は、かように見てくると、なななか意味が重い。小兵の与一の弓矢のほまれの物語は、もうひとりの小兵の名のほまれの物語と一対をなして、ふたりの小兵が並び立つように、『平家』の物語の順序はかねて考案されていた。私にはそう思える。私の気づいたのはそのことである。またしても私は覚一本『平家』の文学的真実について思いをめぐらせ、感心することになる。
「那須与一」につづく「弓流」は、もうひとりの小兵、すなわち義経の、名のほまれを物語る段である。扇の的も弓流しも、このとおりにあったことかどうか。ただ、このふたつの小兵物語が一組をなして、しっかりと『平家』に収まったとき、物語はいずれも文学のまことに化してしまう。扇の的の物語だけでは、また、弓流しの物語だけでは、そうはゆかないのに、ふたつが並び立つと、のどにつばきが鳴る。くどいが、これが文学というもの。
「弓流」には、しなくてもよい殺生の話がある。与一の美挙を見て感に堪えず、扇の立っていたところに出て舞いはじめた男まで与一は射おとす。それをしおに陸へ攻めきた平家と渚で殺し合い。悪七兵衛景清のしころ引きあってのち、判官の八十騎ばかりに追いまくられた平家は船にもどった。源氏は馬の太腹つかるほどに海へ入って攻める。船中よりは判官のかぶとのしころに熊手をひっかけて討ち取ろうとする判官。「弓などをそのままお捨てあれ」と味方はさわぐが、ついにわが弓を拾いあげた判官は笑って陸に引きあげた。
おとなども(老武者たち)はにがりきって、弓といのちは代えられまいに、ばかな真似をなさるよ、というのに対して判官「弓の惜しさに取らばこそ、義経が弓といえば、二人しても張り
若しは三人しても張り、叔父の為朝が弓のやうならば、わざとも落して取らすべし。」ひょろひょろ弓を敵が拾って、これが源氏の大将九郎義経の弓ぞと嘲弄されては口惜しいから、いのちに代えて広い取ったのではないか。
この理屈、ひっきょその場の負け惜しみに聞こえる。覚一本は義経の名誉を重んじてのことか、弓は熊手ひっかけられて手を離れたするが、『源平盛衰記』には、脇にたばさんでいた取りおとしたとする。いくさのさなかに、これはなんともならない不名誉なこと。イエーナの戦いに、紅白粉にまみれたハンカチをナポレオンが馬上より取りおとしたのとは、わけがちがっている。背低く、反っ歯で色白を目じるしにされた義経は、また存外に無器用なたちだったのかも知れない。弓矢の不面目を名のほまれによって掩蔽した才覚は見上げたもの、とはいいながら、小兵、非力の義経の弓流しのおかげで、小兵与一の弓矢のほまれが一段と冴える。
与一を味方のうちに見出し得た義経は、小兵、非力の一面、また強運の人であった。たとえばこの夜にしても、牟礼、高松の山すそに源氏は野宿をしたのだったが、前々日、渡辺、福嶋の入江を出て大風のなかを阿波へ渡ったために一睡もせず、勝浦に着けばさっそくいくさをしたのち、夜もすがら大坂越をして不眠。この日も一日いくさに明け暮れた源氏の八十余騎、三日の不眠のあと、前後も知らずに臥し眠った。平家はこの夜、能登守教経を大将に夜討ちをたくらんだのに、先陣をあらそう者あって、もめているうちに、その夜はむなしく明けにけり。夜討にだにもしたらば、源氏なにかあらまし。寄せざるにけるこそ、せめての運の極めなれ。」
あくれば平家は、ついになすところなく八嶋を遠ざかって志度の浦へ漕ぎ退き、次いでは源氏のまぼろしの大軍におびえ、「汐に引かれ、風にしたがって、いづくを指すこともなく落ち行きンう。四国はみな大夫判官に追ひおとされぬ。九国へは入れず。ただ中有の衆生とぞ見えし。」
伊勢三郎義盛がじょうずにうそを伝えて、阿波民部重能の息子教能の三千余騎も無血降伏させて源氏の意気大いにあがった次第については木下順二の戯曲『子午線の祀り』に巧みに採り込みがある。
壇の浦合戦近し。
2026.03.11 記す。
壇浦合戦他 内侍所都入――運命愛
『平家』(覚一本)の語るところによれば、壇の浦合戦は奇瑞あるいは前兆をいくつか伴っていた。すべて源氏にうれしい前兆である。その一、住吉神社の第三殿(上筒男之命)を祀る)より鏑矢の放たれる音が起こり、矢は西をさしてとび去ったという三月十六日夜ふけの奇瑞。住吉の神主、都に上ってこれを法皇に奏進したことは『百錬抄』『玉葉』ともに記録している。海神も源氏を守護する。法皇は感動のあまり住吉神社に剣そのほか神宝くさぐさを奉納。三種の神器がうばい返せるものならば、山とつみあげた財貨とてなんの惜しくあるものか。その二は熊野別当湛増のころみた鶏合せ。平家重恩の身にありながら湛増は去就にまよった。紀伊の田辺の新熊野権現に参篭し、神前で白い鶴、赤い鶴それぞれ七羽をたたかわせたが、勝ったのは白ばかり。そこで兵舩を漕ぎわたして壇の浦の源氏に就いた。その三には、三月二十四日の朝、壇の浦で矢合せあって、いくさはぃまってしばらくは源氏やや不利とみえたそのとき、虚空に白旗がひと流れ、雲のようにかかって舞いさがると、源氏の船の舳に触れんばかりにみえた。前兆の第四には、いるかの大軍が突然あらわれ、平家の船にむかって泳いできた。宗盛はこれを兆しとみて小博士安倍晴信に解けと迫る。いるかが方向を転じて源氏にむかえば源氏は敗れ、このまま味方の船の下を泳ぎとおればこちらが危うい、と解いているあいだにも、いるかは平家の下をひたすら泳ぎすぎた。「『世の中は今はかう』とぞ申したる」と『平家』は付け足す。
当らなかった前兆がひろめられ、語り伝えられためしはない。当らぬ前兆には前兆の値打がない。あとでやっぱりそうだったかと膝を叩かせ、あごを解かせ、あるいは暗然としてうなだれさせるものだけが前兆として生きのびる。四つの前兆はまさに「『世の中は今はかう』とぞ申したる」ということであった。のちにそのように言いひろめられ、語り伝えられたということであった。
「壇浦合戦」のくだりは次の一節ではじまる。
さる程に、九郎大夫判官義経、周防の地に押しわたって兄の参河守とひとつになる。平家は長門国引嶋にぞ着きにける。源氏阿波国勝浦に着いて、八嶋のいくさに勝ちぬ。平家引嶋に着くと聞えしかば、源氏は同国のうち、追津に着くこそ不思議なれ。
引嶋は彦島。長門国豊浦郡に属し、下関の西のはずれ。平家は八嶋より引いて引嶋に、源氏は勝浦(勝つ占に音通)より勝ちつづけ、引き退くものを追いつつ追津に就いたとは、「不思議」はこの地名にに係わり、また期せずして源平別々に同じ豊浦郡のふたつの島に着いたことに係わっている。追津は奥津という字を当てるほうが普通である。豊浦郡の東の海上にうかぶ満珠島のこと。下関の長府沖にはニ島あり、陸に近いほうを干珠または平津という。満珠島または奥津は陸から遠いほうの島。
源氏には湛増の兵舩が新たに加わったほか、八嶋合戦以来、源氏勢に合流していた伊予の河野四郎通信が百五十艘を漕ぎつれて満珠島に着いていたので「源氏の船は三千四余艘、平家の船は千余艘、唐船少々あひまじれり。源氏の勢はかさなれば、平家の勢は落ちぞゆく。元暦二年三月二十四日の卯の剋に、門司赤間の関にて源平矢合とぞ定めける。ここにしるされた兵舩の数には多少の誇張がほどこされている。『吾妻鏡』元暦二年四月十一日の条に記載された義経の壇浦合戦報告書に「去る三月二十四日、長門赤間関の海上に於て、八百四十余艘の兵船をうかべ、平氏また五百余艘を漕ぎ向け合戦す」とあるのが実情に近かろうとされる。
その前日、義経と梶原景時はまた衝突した。あすの先陣を承りたいと梶原が申し出たのに端を発して、梶原が義経には大将たるの器がそなわっていないとうそぶけば、義経は日本一のばか者めと梶原をののしる。互いの郎等が主を制止して流血を見ずに収まったが、逆櫓の争いにまたこたびは先陣の争い。これがうらみとなり、梶原は頼朝に讒言して義経のいのちを失わせるにいたったと人はいう、と『平家』はのちの話をさし挟んでいる。序にいうなら、武蔵坊弁慶の名は、この日の争いの場で義経の郎等のうちに見える。弁慶の名が『平家』にあらわれる数少ない事例のうち。のちの『義経記』にみえるような義経との濃密な主従関係をスーパーマンのような『平家』には全くあらわれない。
「さる程に、源平の陣のあはい、海のおもて三十余町をぞへだてたる。門司、赤間、壇の浦はたぎつておつる塩なれば、源氏の舟は汐にむかうて心ならず押し落さる。平家の船は汐に逢うてぞ出て来る。沖は汐の早ければ、渚について梶原、敵の舟のゆきちがふところに熊手をうちかけ、親子主従十四五人乗り移り、打物抜いて、艫舳にさんざんに薙いでまわる。分捕りあまたして、その日汚高名の一の筆にぞつきにける。」しかしいくさは新中納言知盛の大音声の下知徹底して、はじめ平家に利あるごとく進んだ。悪七兵衛景清は殊のほか感奮し、船に乗った坂東武者ごときは木にのぼった魚も同然、船いくさはわれら平家のものよと武者ぶるいしている。
そのさなかに、知盛だけには気がかりなことが見えていた。阿波民部重能は平家が四国勢のうち最も頼りにしていた阿波の豪族、功名また少なからぬ武士だが、志度合戦に息子の田内左衛門教能が生捕りになったのを知ってより、心変わりを来している。一刻も早く重能の首をはねたい。しかし大将軍宗盛の許しが出ない。知盛は切歯扼腕しつつ重能を見のがす。
遠矢の応酬あり、源氏の和田小太郎義盛の十三束ニ伏の矢に対して平家の仁井紀四郎親清が十四束三伏の矢で返せば、また甲斐源氏の阿佐里(浅利)与一が十五束の矢を射返し、四町余りむこうの船上に立つ親清の胸を射抜く。いのちがけのこの弓術コンクールは扇の的の景にもまして、今は知らず、昔は読む者、聞く者の興をそそったくだりである。
阿波民部重能は知盛の察知したとおり源氏に同心し、この日の平家の秘策もたちまち敵に知れた。平家の謀にごとには、高い身分の人を兵船に、雑人どもをりっぱな唐船にのせてまわりを固め、源氏が唐船を攻めれば取りこめて討つ手筈がととのっていたのに、源氏は唐船には目もくれず、大将軍宗盛のいる兵船にねらいをつけてきた。重能につづいて四国九州の軍勢もみな平家にそむいて、源氏の兵どもは次々に平家の船に乗りうつり、水夫楫取をまず射kおろし斬りころしたために、船の向きもままならず、平家水軍の統率はくずれ去った。元来、傭用人にしぎない水夫は殺さぬのが船いくさの約束事だったのに、源氏はこれをふみにじった。
知盛は小舟で御座船に乗りつけ、味方の敗北を告げて人々に覚悟をうながす。二位の尼は神璽(勾玉)の小箱を脇に挟み、宝剣を腰に差し、八歳の安徳天皇を抱いて海に沈んだ。天皇の生母建礼門院もあとを追うて入水になったが、源氏の兵が長い髪を熊手にかけて引き上げた。大納言の佐(平重衡の妻)は内侍所すなわち神鏡を収めた唐びつを持って入水しようとするところを袴ンおすそを舟ばたに射付けられ、「蹴まとひて倒れ給ひたりけるを、兵ども取りとどめ奉る。」神璽の小箱は波間にうかんでいたのを拾ったので、三種の神器のうち剣だけは失われた。
平家の公達のうち、経盛教盛兄弟(清盛の弟)、資盛有盛兄弟(重盛の子)、それぞれに相擁して入水。大将軍宗盛、その息清宗は海に入ろうとはせず、舟ばたに立って茫然と四方を見わたしている。侍ども、あまりに情けなくて宗盛を海に突きおとした。清宗ははおどろいて海にとびこむ。この親子は鎧を着けもせず、ふところに温石、硯などのおもしを入れておく用意もなかったうえ、なまじ水泳じょうずだったため海上を泳ぎまわって生捕られた。
能登守教経は捨て身の反撃に出て太刀、長刀を左右に持って斬り薙ぎに敵を倒す。「能登殿、いたう罪な作りそ、さりとてよき敵か」と、知盛より無用の殺生をとどめる伝言が使者から発せられる。判官と組打ちせよというのだな、これを解した教経、ついに判官の船に乗りあたり、判官めがけて打ってかかる。判官は身をひるがえして、やや離れた味方の船にゆらりととび移る。教経はあえて追わずに立ちはだかり、太刀長刀を海に捨て、鎧かぶとを脱ぎ捨て、胴着ばかりを着て、「われとおもはん物どもは、よつて教経に組んでいけ取りにせよ。鎌倉へくだって頼朝にあうて、物ひとこと言はんと思ふぞ。よれやよれ。」かかってきた安芸太郎、次郎という大力の兄弟を左右の脇にかかえ、一締めしてのち、「いざうれ、さらば死出の山のともとせよ」とて海に沈んだ。
いくさ果てた。「海上には赤旗赤じるし投げ捨て、かなぐり捨てたりければ、龍田川の紅葉ばを嵐の吹きちらしたるごとし。渚に寄する白波もうすぐれなゐにぞなりにける。主もなきむなしき船は、塩(潮)に引かれ風にしたがって、いづくをさすともなくゆられゆくこそ悲しけれ。」この期におよんで龍田川のもみじ喩が出るのはいっそ滑稽、頂きかねる趣味というほかない。しかい、この美文調は、このあとに生捕られた人々の名を前内大臣宗盛、平大納言時忠よりはじめて書きつらね、その他都合三十八人、女房の生捕りは女院以下、名を」つらねて都合四十三人と数をしるしたあとに、波をくぐったもみじ葉のようにまたあらわれる。さらには、都へ連れ戻される生捕りの一行が明石の浦に着いたときのありさまに触れるくだりに、和歌三種をこきまぜて美文調はさらに増幅されている。平大納言時忠の妻、帥典侍の歌として(じつは源仲綱の作)
ながむればぬるるたもとにやどりけり月よ雲居のものがたりせよ
これに大納言の佐、先に内侍所を持って入水を果せなかった女房の歌として(じつは『金葉集』中の藤原公実の歌の改作)、
わが身こそあかしの浦に旅ねせめおなじ浪にもやどる月かな
と並べたあと、この応酬を聞いていた「判官もののふなれどなさけあるをのこなれば、身にしみてあはれにぞ思はれける」とつづくくだりには、のちの世に文武両道かけてすぐれた優男に成育してゆく義経像が見えている。複数の作り手になる『平家』のよく言えば重層性、批評して言えばしどけなさが、こういうところに感じられる。
木下順二の『子午線の祀り』に、少しでも触れなくてはならない。私は戯曲を読むのが好きではない。殊にリアリズムの戯曲はすぐ退屈する。この戯曲はさにあらず。詩は真実を越えてはみ出ているが、真実を裏切っている詩は、ここに含まれていない。作者は赤間関の張り潮から落ち潮への変り目に勝敗の分かれ目ありという冷静な認識を義経と知盛ふたりに同等に振り分けた。そして勝った義経には、潮の干満の時間経過の知識において知盛に立ちまさるものを作者はみとめた。一方、知盛には、運命相をもって万象を見収める知恵の眼力を作者はみとめた。影身という女を発明したのは作者の洞察である。そしてこの洞察が『子午線の祀り』の詩を支えている。ここで詩というのは、結晶体の構造である。分明ならざるものはないような透明なこの劇を掩う夜空の美しいことみょ。きらめく星の矢の下に立つ影身のおもかげが、私にはヴァレリーの「若きパルク」に似かよって映じる。
20260.03.12 記す。