| 紺搔之沙汰他 判官都落・物語も下降する | 灌頂巻・なだめの文学 | 結びに代えて・ひとりの読者 | あとがき |
紺搔之沙汰他 判官都落――物語も下降する P.435~442
これより『平家』は巻十二。元暦二年七月九日の「大地震」にはじまり「六代被斬ろくだいきられ」まで、世のさま人のさまは無常の風また一しきり吹きすさぶにつれて変り果てる。 巻首の「大地震」は、今年一月十七日の阪神大震災より数週間後、あえて『平家』編年体の順序を乱し、巻十一にさしかかるところで先まわりして取りあげた。いま冒頭hば国司にしたがひ、庄は領家のままなり。上下安堵しておぼえし程に、同じ木七月九日の午刻ばかりに、大地おびただしくうごいてやや久し。」あとには災害の様子が語られる。壇の浦合戦より三箇月と少々のあいだに、諸国みな国司の統治に服し、荘園は領主の意のままにおさまる律令体制は旧に復した。内乱しずまり「上下安堵しておぼえし程に」というのは、ひとまずその通りかも知れない。とにかくその矢先の大地震。平忠盛の建立した得長寿院の三十三間の御堂が倒壊したのを『平家』には、こわれたのは十七間とわざわざ断わっている。差引き十六間はこわれなかったことになる。この念の入れようが、何のためrなのか分らぬながらにおかしい。大地震は安徳幼帝の怨霊、平家の人々の怨霊のなせるわざとして「心ある人の歎きかなしまぬはなかりけり。」また別に、清盛が龍となって大地をゆさぶったという異説が『愚管抄』にしるされている。たたりをなしたのは平家方ばかりではない、源氏方で非業の死をとげた人々の怨霊も、ともにたたったとする風説もまたながれた。 つづく「紺描之沙汰」は、話がまるで別のところにとんでいて、興を殺がれる。平治の乱に敗死した源義朝のまことのしゃれこうべと称するものを彫り出した文覚が鎌倉に届ける話。巻五の「福原院宣」の段には、おなじく文覚が義朝のにせのしゃれこうべを頼朝に示して平家討伐を決心させる話が出ていた。義朝に召使われいた紺掻きの男(藍染めの職人)ひそかに埋めて守ってきた主君の首。こんどこそはほんもの。頼朝はこれを丁重に迎え、勝長寿院を建立供養。朝廷はその志に感じて「故佐馬頭義朝の墓へ内大臣正二位を贈せらる。勅使は左大弁兼忠とぞ聞えし。頼朝卿、武勇の名誉長ぜるによって、身を立て家をおこすのみならず、亡父聖霊贈官贈位に及びけるこそ目出たけれ」と、この鎌倉向いてのおべんちゃらがいとわしい。「紺搔之沙汰」は『平家』のきずとしか言いようのない一段である。もっとも、遠く巻五段よりここにいたるまで、うわさも聞かなかった文覚が不意に再登場するのは、いずれ平維盛の遺子六代の行く末を物語る段々に文覚が一役買って出て前触れと受けとれば、「紺搔之沙汰」挿入の言訳は立つのだろう。 正直いって。『平家』はもうここまできてしまうと、さほどおもしろくはない。巻十二に残っている話題は、平大納言時忠の始末、そして平家嫡々の生き残り六代の始末、これだけで、いずれの話題にも頼朝ののっぺりした大きな顔が関与している。 「平大納言被流」には、平大納言時忠の能登流罪のことが語られる。この人、妹滋子は後白河法皇の後宮の女房、高倉天皇の生母建春門院、姉時子は清盛の北の方二位の尼、そして時子の妹たちは重盛、宗盛の北の方にも押さ⒨あっていた。「兼官兼職、思ひのごとく心のごとし。されば程なくあがって正二位の大納言にいたれり。」さらには娘のひとりを九郎判官義経にめあわせて、源氏の世にも備えを怠りなかった抜け目なさ。しかし義経が頼朝によって終われることになるまでの予想は立たなかった。後白河法皇がひそかに鎌倉と合意して、亡き義朝に追贈までする手筈をととのえ、鎌倉のあたまを撫でていたことも計算外であった。 朝廷に対して鎌倉より「平家の余党の都にあるを、国々へつかはさるべきよし」強い申し入れがきたとき、法皇にもこの流罪要請を引きのばす策はなかった。時忠は能登国へ、時忠の子時実は上総国へ、その他、あるいは隠岐、阿波、安芸、備後へ、あるいは武蔵国へ、平家残党は配流された。『平家』は聞きなれた名調子を取りもどす……「或は西海の波の上、或は東関の雲のhあて、先途いづくを期せず、後会其期を知らず、別れの涙を抑へて面々におもむかれけん心のうち、おしはかcられて哀なり。」 時忠は吉田山のふもとにひっそりとお住まいの建礼門院にも別れを述べにいった。そのときの口上として覚一本『平家』のしるすことばには、女院の隠遁の道が吉田から大原の里へとつづくことを見越したように聞こえる節がある。すなわち「灌頂巻」はすでに予定の物語という事になる。時忠は涙ながらにいう、「時忠こそ責め重うして、けふすでに配所へおもむき候へ。おなじ都の内に候ひて、御あたりの御事共、うけ給はらまほしう候ひつるに〔お身まわりのことを何かとお世話申し上げたく思っておりましたのに〕、つひにいかなる御有様にてわたらせ給ひ候はんずらむと思ひ置き参らせ候うにこそ、ゆく空もおぼゆ」まじう候へ〔この先、どのようなお暮しをなさることになるのだろうと、気もそぞろ、都を去りがたく〕。建礼門院も「御涙せきあへさせ給はず」、古くからのお近づきとてはもうそなた一人だけなのに、これから先、わたしのことを気にかけて訪ねてくれる人がありましょうか。 こうして能登へ配流の道すがら、志賀唐崎、真野、堅田を打ちすぎるにつれ、いよいよかなしく、大納言の詠じた一首として、
かへりこむことはかたたに引くあみの目にもたまらぬわがなみだかな
『平家』巻十二には、引歌とてただこの一首あるにみなのに、じつはこの歌、『月詣和歌集』秋、恵円法師の歌にそっくりとは、いささかわびしい。「平大納言被流」の段は、常套の対句でおわる……「昨日は西海の波の上に漂ひて怨憎懐苦の恨みを篇舟の内に積み、けふは北国の雪の下に埋もれて、愛別離苦のかなしみを故郷の雲にかさねたり。」 舞台は暗転して「土佐房被斬」の段。「被斬」とあれば平家のたれかれの話ばかりつづいたのちに、斬られる相手ががらりと変って、頼朝配下の土佐房昌俊が義経に斬られた話。これまた対照の妙をねらった語り方で」ある。「さる程に、九郎判官には、鎌倉殿より大名十人つけられたりけれども、内々(義経が鎌倉殿の)御不審を蒙り給ふよし聞えしかば、心をあはせて〔しめし合わせて〕一人づつ皆(鎌倉へ)下り果てにけり。(義経、鎌倉殿と)兄弟なるうへ、殊に父子の契りをして、去年の正月、木曽義仲を追討せしよりこのかた、度々平家を攻めおとし、ことしの春ほろぼし果てて、一天をしづめ、四海を澄ます。勧賞おこなはるべき処に、いかなる仔細あつてかかる聞えあるらむと、かみ一人をはじめ奉り、しも万人にいたるまで、不審をなす。」 このくだりの「かみ一人」は後白河法皇を指している。ずいぶんしらじらしい話である。法皇は何もかもご承知のはず。兄弟のいのちがけの仲互いこそ法皇の思う壺であった。梶原景時の讒言もあったにせよ、義経が頼朝の意に反することをくり返したのは、法皇の庇護が身におよんでいるのを信じていたからである。しかし「日本一の大天狗」は、義経はそう思わせておいただけのこと。『平家』は法皇の裏取引には目をつぶったうえで物語をこさえる。 頼朝は土佐房昌俊を刺客として京へさし向けた。寺参りのていを装って滞在し、義経をだまし討ちにせよ。計略は見破られて、土佐房は義経に問詰される。面前で起請文を七枚書き、焼いてのみ下したりなどして他意ないことの証しを立てて退去した夜、昌俊は奇襲をかけた。しかし、これも事前に察知され、待ち構える弁慶らに蹴散らされ、射られ、昌俊は所もあろうに牛若と縁の深い鞍馬に逃げこみ生捕られ、六条河原で斬首される。ここにいたるまでの合戦のさま、問答のさまは、張りのある口調で語られてはいるが、影絵芝居でも見ているような物足りなさをおぼえるのはなぜだろう。平家の亡びたあとの『平家物語』は、いわば見応えのある祭礼のおわったあとの気持に似た気分から、ふたたび気分を守り立ててくれるほどの感興を伴わない。武蔵房弁慶の姿がちらちらし、「磯禅師という白拍子のむすめ、しずかといふ女」も、ここにはじめて登場して、しずかを最愛している義経中心の物語のそばを離れず、機転の振舞に主の危機を救うのだが、それはそれとしてももっぱら義経中心の物語のほうにながれてゆけばそれでよく、『平家』のおわり近くにあらわれ出ても付け足しのようで、影がうすい。気の毒である。毎年四月の末つ方、京都の壬生寺で催されるパントマイムの念仏狂言のうち、「堀河夜討」でお目にかかる青白い義経、まっ赤な弁慶、ねじれひんまがった土気色の昌俊、それぞれのお面のほうに目が走る。困ったことである。 つづいて「判官都落」の段。土佐房を斬り捨てたうえは、もう義経の謀反隠れもない。おかげで足立新三郎という雑色が後世に名をとどめる。小ざかしいのを見込んだ頼朝がスパイとして義経の身辺にひそましていたこの男、夜を日についで馳せくだり、鎌倉に委細を報じた。義経を討ってこいと命じられたのは頼朝の弟、義経の兄、範頼。しぶしぶこの役を承り、物具していとま乞いにあらわれた範頼に、頼朝はいう、「わとのも九郎がまねし給ふなよ。」ぞっとしてその場に物具を脱ぎ、京上りをとりやんめ代わりには、不忠の心なき証しに「一日に十枚づついの起請を、昼は書き、夜は御坪の内にて読みあげ読みあげ、百日に千枚の起請を書きてまゐられせられりけれども、かなはずして終に討たれ給ひけり。」起請文というのは、一枚書くさえ心身の損耗いちじるしいだろう。千枚は拷問である。血族同胞を邪魔者と考える頼朝は、あsと義経を亡ぼせば安堵に手がとどく。もう一押しであった。 北条四郎時政を大将とする討手の軍兵が都へ上ると知った義経は、鎮西へのがれる方途に、緒方三郎維義を味方に確保した。維義はあの大蛇婚姻譚を持つ豊後の土族の末につながり、大豪の者として聞えたこと、巻八の「緒環」の段に詳しく出ていた。むかし、紀州の山奥に土蜘蛛を祖とする土倉という豪族があり、その家すじはいまも京都につづいている。日本という国は、人間の怨霊、生霊にも、生きものの怨霊、生霊にも、出会いたければ出会えることでは十二世紀も二十世紀も異なるところのない、気色の悪い、またそれだけにおもしろい国である。 義経は鎮西下向を決意したのち、これを正当づけるべき公文書の交付を院庁に求めた。法皇は鎌倉を気にかけて思案に暮れたが、義経がこのまま都にいてはまたここが戦場となるのを怖れる近臣たちの意見を容れ、「臼杵、戸次、松浦党、惣じて鎮西のもの、義経を大将としちぇその下知にしたがふべきよし、庁の御下文を」義経にあたえた。 元暦は大地震より一箇月余りして八月十四日に改元、文治元年となっていた。その十一月三日、義経は五百余騎して「京都にいささかの煩ひもなさず、浪風も立てずして下りにけり。」しかし、そのあとがいけなかった。摂津大物の浦より船出したが、西風吹き荒れ、義経は住吉の浦に打ちあげられ、そのまま吉野へのがれた。ともに船出した信太三郎先生義憲、十郎蔵人行家、緒方三郎維義、みな離ればななれになって「互ひにその行方を知らず。忽ちに西の風吹きける事も、平家の怨霊のゆゑとぞおぼえける。」 十一月七日、北条時政は頼朝の代官として六万四余騎して都に入った。法皇は時政に義経ら一味を追討の院宣をあたえた。「去る二日は義経が申し請くる旨にまかせて、頼朝をそむくべきよし庁の御下文をなされ、同き八日は頼朝卿申状によって、義経追討の院宣を下さる。朝にかはり夕に変ずる世のなかの不定こそ哀れなれ。」もっともの感慨、これまたあわれに聞こえる。 02026.02.23 写す。
「灌頂巻」は平曲二流(八坂、一方)のうち、一方流『平家』諸本にだけ、さいごに置かれて大秘事の思いを受けてきた。その一種、覚一本『平家』を手にとり、読みすすみ、ここにいたると、「灌頂巻」がひとmつの罠のように思えてくる。心をtヴぉらえ、ひしひしと食いこみ、あがけばあがくほど深く食い入って、のがれるすべもない罠。建礼門院臨終のありさまを物語どおりに、つゆうたがいなく受け容れなければ、罠は外れてくれない気配を見せつける。「南無西方極楽世界教主弥陀如来、かならず引摂し給へ」と、女院の念仏に唱和してみよ、それでこそ『平家』をここまでたどった甲斐があろう、という声がする。「灌頂巻」は懲罰の文芸からなだめの文芸に一変する――さいごのところで。 建礼門院の一身に集中する懲罰を語るのに、『平家』は良質の和文を血に敷いて引き歌くさぐさをまじえ、漢文脈の対句、隻語を『和漢朗詠集』『白氏文集』を主たる典故に随所にちりばめ、緩急、濃淡、強弱に自在の節度をたもちながら物語をすすめる。よく見れば、節度は自然界の節度、つまりは季ンおめぐりに対応しているが、幽寂の山里という大原寂光院の在所がこの対応を自明のものに思わせる。「もののあわれ」を知る心が、よく懲罰に耐え、運命を受け容れる。建礼門院の心のうちには、無残なさいごをとげた一門の公達、忠度も、経正、敦盛、通盛、重衡も生きている。入水した二位尼も小宰相も生きている。「もののあはれ」をよく知っていたこの人たちが生きのびていたとすれば、女院と同じ流儀で懲罰に耐えただろう、いずれは山深い孤村にひそみ、仏を拝みながら。けれども、どの人もとっても、女院はどの境遇の転変を見た人はいない。来し方をたどり返せば、それはそのまま平家の盛衰にかさなる。六道輪廻はまたそのまま懲罰の諸相である。 「女院出家」の段によれば、壇の浦で捕らわれて都に連れ戻された建礼門院の住処は、吉田山麗、もと奈良法師慶恵というものの荒れ果てた持房であった。この段の文例として一節を引用すれば――「:うかりし〔漂泊した〕浪の上、船の中の御すまゐも、今は恋しうぞおぼしめす。蒼浪路遠し、思ひを西海千里の雲に寄せ、白屋苔ふかくして、涙東山一庭の月に落つ。かなしともいふはかり〔計り〕なし。」 文治元年五月一日、女院出家。そもそもこの女院は平清盛の次女とkして生まれた。名は徳子。母は二位尼時子。十六にして高倉天皇に入内。二十三のとき皇子誕生、即位して安徳天皇。徳子は建礼門院の院号を授かる。いま、三十にして尼の姿となった。折しも頃は五月、花たちばなの咲く軒ばにほととぎすが鳴いたとて、さっそく女院の詠に擬した引き歌に、ほととぎす花たちばなの香をとめて鳴くはむかしの人や恋しき。これも『平家』に見なれた芸のうち。季はめぐって、その年の九月に話の穂を継いだのはs、作者が次のくだりに心の丈をこめたかったからである……「夜もやうやう長くなれば、いとど御寝覚めがちにて明しかねさせ給ひけり。つきせぬ御もの思ひに、秋のあはれさへ打ちそひて、しのびがたくぞおぼしめされける。何ごとも変り果てぬる浮世なれば、おのづからあはれをかけ奉るべき草のたよりさへかれ果てて、誰育くみ奉るべしとも見え給はず。」 さる女房のすすめにしたがって「大原山の奥、寂光院」へ引きこもろうと思い立たれる心を説くのに、『平家』は『古今集』巻十八の読人しらずの一首を活用する。山里は物のわびしきことこそあれ世の憂さよりは住みよかりけり。「大原入」の段もこのあたりから、和文は一きわしめりをおびて、細く、かぼそく、道行文の趣に似かよう。長月(九月)の末だから、さびしくさびた心を写すには好適の季。援用して然るべき文芸の綾にも事欠かない。寂光院のかたわらに方丈の庵室を結び、念仏三昧の日常にその年は暮れてゆく。「岩根ふみたれかはとはむならの葉のそよぐは鹿のわたるなりけり」の引き歌のくだりは、型通りではあっても、いや、型通りなればこそ、読む者、聞く者の心の池に波紋をひろげる。 閑居の暮らしがこうしてつづくうち、翌文治二年卯月(四月)二十日すぎ、後白河法皇がひそかに大原へ臨幸になった。作者としては、洛北初夏の風土を文芸の綾に織りなす好機が到来したことになる。「甍破れては霧不断の香をたき、枢落ちては月常住の燈をかかぐ」……「大原行幸」のトレード・マークのようなこの引用句(出典は不詳)のあらわれるくだりが、さっそく目に入る。 西の山のふもとに一宇の御堂あり。即ち寂光院是なり。古う作りなせる前水木だち、よしあるさまの所なり。「甍破れては霧不断の香をたき、枢落ちては月常住の燈をかかぐ」とも、かやうの所をや申すべき。庭の若草しげりあひ、青柳の糸をみだりつつ、池の蘋浪にただよひ、錦をさらすかとあやまたる。中嶋の松にかかれる藤なみの、うら紫に咲ける色、青葉まじりの遅ざくら、初花よりもめづらしく、岸の山吹咲きみだれ、八重立つ雲のたえ間より、山ほととぎすの一声も、君の御幸を待ちがほなり。法皇これを叡覧あつて、かうぞおぼしめしつづける。池水にみぎはのさくら散りしきて波の花こそさかりなりけれ
歌は『千載集』巻二、春歌下に所収の一首、たしかに作者は後白河ではあるが、詞書によれば、いまだ皇子の頃、鳥羽殿での「池上の花」の題詠による一首と知れる。先のくだりは歌物語の作文を 含んだものと知れる。以下、ちらちらと漢文調を挟んだのち、庵室の留守をしていんた老尼、阿波の内侍が、いきなり法皇にむかって仏法を説くくだりから、仏道者の使う語彙がにわかに乱入している。女院不在の庵室にみちびかれた法皇の目に、いかにも仏に仕えまつる人の住いらしく映じる調度、設らえを並び立てる好都合な手順である。法皇は女院の寝所までのぞき、あまりの粗末さに落涙におよんだ。『源平盛衰記』には、お忍びの大原御幸にさいして、好色の法皇の胸には魂胆が秘められていたのを匂わせるくだりがあったのを思い出すと、『平家』のこのあたりの筆使いそのものも、おこない澄ましたものに見える。 一体に『平家』は後白河法皇をもっぱら院政に君臨する雲外の王者として扱うばかりで、法皇の気まぐれも天意なら、思うことあっての振舞も天意、人間の仕業と大概は別として扱っている。竹の園生のうちから洩れた秘事も憚りなくしるす『盛衰記』とは大きなちがいがある。『盛衰記』のしるすような法皇ならば、のぞき見た女院の庵室、寝所のありさまに、冷水をあびせられる思いがあっただろう。おこない澄ましたような筆によって『平家』の法皇は、おこない澄ました法皇である。建礼門院の往昔の栄華を知る供奉の公卿殿上人とともに、法皇もまたただ袖をしぼって悲しんでいらっしゃる。 「さる程に、うへの山より、濃き墨染の衣きたる尼二人、岩のかけ路をつたひつつ、おりわずらひ給ひけり。」法皇、「あれは何ものぞ。」花筐を肘にかけ、岩つつじの花を手にお持ちのお方は女院、薪の柴、わらびを持つのは大納言佐(重衡北の方)、と老尼が涙をおさえて答える。女院は法皇の一行に気づき、「消えもうせばや」と思いつつ、「山へも帰らせ給はず、御庵室hえもいらせ給はず、御涙にむせばせ給ひ、あきれて立たせましたる所に、内侍の尼まゐりつつ、花がたみうをば給はりけり。」このくだり、下方より見上げたる位置に女院の姿を長くとどめ置くべく配置した書きようが見どころ(参考、富倉徳次郎『平家物語全注釈』下巻(二)、一九四頁)。美しい女人は、見上げるとき、いっそう美しく見える。階段をおりてくるとき、階段を上ってゆくよりもずっとなまめかしい。齢三十、﨟たけた女性の尼姿は、たださえ男の憧憬をかき立てる。法皇はいかがであったか。朝ごと夕ごと、聖衆の来迎を待っているところへ、人もあろうに法皇さまが、供奉をぞろりとしたがえて、あさましいこと、と女院はおぼしめされなかっただろうか。しかし、それは私の空想である。『平家』は、、聖衆をしたがえて山越しにあらわれ給うた阿弥陀如来の神々しいお姿を女院にかさね見させたかったのかも知れない。 「六道之沙汰」の段がこの場面につづく。法皇には、三界に通じた天台智者の相貌そなわり、誘導者として女院より欲界六道めぐりの懺悔を巧みに引き出す役がつく。女院のほうは、迷界の構造、輪廻の仕組みを把握し、おのが生涯を仏道者の目で俯瞰し、六道の区分を立てつつ回想する役がつく。こうしてくりひろげられる六道懺悔の物語は、仏道者の立場から『平家』全体をあらためて縮約したもの。天人界、人間界、餓鬼道、修羅道、地獄道、畜生道の巡歴のうち、気になるのは畜生道のこと。女院におとずれた竜宮城の夢が畜生道とどのように対応するするのか定かではない。『源平盛衰記』の「女院六道廻物語の事」に出ている話が覚一本『平家』には出ていない。屋島を追われておち、海上、船中に暮らすうち、「兄の宗盛に名を立つという聞きにくき事」があったほか、九郎判官に生捕られて「心ならぬ仇名を立て候へば」、これは畜生道に喩えられましょうと、女房が懺悔するくだりである。さらに『盛衰記』の「法皇大原入御の事」冒頭には、後白河法皇の建礼門院に対する愛執をほのめかす条々がつらなる。「一つ御所」に住まわせたいとまで執心であったのだから、徒事ではない。けれども『平家』はここでも法皇の好色を掩い隠す。代りに「畜生経」という架空の経典が女院の夢にあらわれる。龍宮の夢は、平家一門の厳島信仰につながりがつくように思える。「六道之沙汰」に後白河法皇も女院も、うつし身に深い仏心を蔵する姿を示しているが、読む者の心を打つかというと、そうはならない。作り事が過ぎるからである。 これに対して「女院死去」の段には、真に迫った文体の一節がs不意にあらわれる。そのくだりが、「大原御幸」から「六道之沙汰」を経て、つい先ほどまでつらなっていた物語のまことしやかなもっともらしさを、はっきり見せつける。 抑々壇の浦にて生きながらとられし人々は、大路を渡して、かうべをはねられ、妻子ににはなれて遠流せらる。池の大納言の外は一人も命を生けられず、都に置かれず。されども四十余人の女房達の御事、沙汰にも及ばざりしかば、親類にしたがひ、所縁についてぞおはしける。上は玉の簾の内までも、風しづかなる家もなく、下は柴の枢のもとまでも、塵をさまれる宿もなし。枕をならべし妹背も、雲居のよそにぞなりはつる。養ひ立てし親子も、行き方知らず別れけり。しのぶ思ひは尽きせねども、歎きながらさてこそすごされけれ。これはただ入道相国、一天四海をたなごころににぎつて、上は一人をもおそれず、下は万民をも顧ず、死罪流罪、思ふさまに行なひ、世をも人をも憚からざりしがいたす所なり。父祖の罪業は子孫に報ふという事疑ひなしとぞ見えたりける。じつはこのくだりこそ、生きながらえた建礼門院の一身に集中する懲罰の発端である。このあとに「灌頂巻」冒頭の「女院出家」のはじまりをつづけてみれば、そのことはよく分る――「建礼門院は、東山の麓、吉田の篇なる所にぞ立ちいらせ給ひける。」これよりして文芸の綾に仏典経文の綴れ錦を加えて「灌頂巻」の仕立てとなった。おわりに女院臨終のありさまがくる。「建久二年きさらぎの中旬に、一期遂にをはらせ給ひぬ。」はじめに述べたように、ここにはなだめがある。『平家物語』は称名念仏の声一心を限りにおわり、またしたがって、おわることがない。 2026.02.24 写す。
今し方、読みおえたところなのに、ふたたび一からあらためて読みたい気持に駆られる。よく読まんがために書くという手段を私はえらんだ。おなじ手順をふむなら、また一からあらためて書くほかはない。これでは果て志願あい。もっとも、最初の経験がある以上、もう同じ経験にはなりようがない。私とて少しくらいかしこくなっているだろうと思いたい。しかし、繰り返せばそれだけかしこくなるかどうか、それだけ阿呆になってゆくかも知れない。おなじ手順はもう踏まないで、読まんがために読むという方向へ逸れる。私がかしこくンあっているか、阿呆になっているか、人にはわからないところへ身を隠す。そして、しばらくは『平家物語』を読み返すことを慎しみ、いっぺん忘れてしまったのちに、また、うぶな気持で読めるまで『平家』を身辺から遠ざけることにしょう、と私はいう独りごとをつぶやく。 未練気もなく、というわけではない。ただ一介の、当たり前の読者として『平家』をk読み、順次に、段々をかさねて『平家』についてしるしてきた身にしては、未練が残りすぎているようである。たとえば、源三位頼政という人が今も気になっている。『平家物語』のなかでこの人の占めている位置と働きが、という意味である。以仁王を担いで清盛に叛いたとき、頼政は舞台回しの道化という自覚を抱いていなかっただろうか。その自覚は宮廷歌人頼政の歌口とつながっているので、負けるとわかっている謀反のいくさを仕掛けた頼政の胸のうちは、宮廷の歌びとたちにすぐ通じたのではなかったか。『平家』に見る限り、頼政は平家没落の傾きにはずみをあたえるという大役を道化となって引受けた人に見える。もう少し頼政のことは書きたかったが、今更なんともならない。 またたとえば、木曽義仲の右筆だった大夫房覚明という人物も、大いに気がかりである。こういえば、おまえは花田清輝に味方するのかとて、憮然たる人があるだろう。隠し立をしてもはじまらないから打明けると、花田の『小説平家』を私はこの連載のおわりに近い今年の夏、はじめて読んだ。そして覚明こそ『平家物語』の作者とする花田説に、固唾をのんで見入っら。大夫房覚明のことが覚一本『平家』にあらわれるのは巻七の「木曽義仲」の段であった。覚明が義仲の命に応じて、埴生八幡の社前にぬかずき、畳紙をひろげ、筆を走らせて一気呵成にしたためた願書の文章のみごとなこと、また、この願書の書き手を覚明と打明けて、「かの覚明はもと儒家の者なり」とはじめる覚明紹介のくだりに教えられ、巻四の「南都返牒」、また同人の、当時は最乗房信救と名乗っている覚明の筆と知って見返せば、その文辞の切れ味のあざやかなこと、この二例を手がかりに、覚明の才学、文才に見とれた次第については、すでにしるした。花田説の閃光に照らし出された地平に、巻九の「木曽最期」、「海道下」、そして巻一冒頭の「祇園精舎」があらたによみがえって、私を感動させずにはいなかった。こういう経験は『平家』の研究書を開いているときには決してめぐまれない。だからこそこれを文学的経験と名づけてもいい。 太夫房覚明は、はじめの名を海野小太郎幸長と称し、長い生涯の晩年は西仏と号したが、この幸長こそ兼好が『徒然草』第二百二十六段で「行長」と書き誤った人物であり、また同じく兼好が盲目の「生仏と書き誤ったのは西仏のことであり、行長すなわち幸長と生仏すなわち西仏は、兼好のいうごとく別人ではなく、じつはいずれも覚明である――このように証明してみせる花田清輝の説の詳細は『小説平家』第一章「冠者伝」をごらんになればいい。花田説は覚明の書いた『平家物語』が『平家』諸本のどれにも当るのか、あるいはいずれに近いのかという大問題には触れていない。また花田説は覚明ひとりをその『平家』の作者に擬しているがごとくであって、共作者についてはいっさい触れない。おそらくこの二点のみをもってしても、『平家物語』の専門家、研究者には笑止千万な妄説にみえるのではあるまいか。快刀乱麻を断つがごとき花田説が一蹴されたままであるとしたら、私は花田説を惜しみたい。『平家』の作者の研究に野心を燃やすような段階は克服され、作者の詮索は近ごろすっかり棚上げされているようだから、惜しんでみてもはじまらないのだろうか。岩波新日本古典文学」大系『平家物語』(梶原正昭、山下宏明校注)下巻の「付録」のうち「諸本異同解説」に「木曽願書」の覚明経歴のくだりに触れて、覚明の経歴を語り、かれが平家を罵倒し清盛を怒らせたことを回想する。その意味で覚明なりの物語への参加が一層濃い」とあるのが、たまたま目に」とまった。このおわりのくだりは花田説の反映か、あるいは反照か、いずれとも弁別しかねながら、私は気になる。 しかし、まあ、そんなことはどうでもいいのだ、と花田清輝の口癖を借りて、他に話題を転じたい。 一九八九年一月号から九五年十二月号まで七年間の連載。あけくれ『平家』にかまけていたとは、とても言えないほどの分量である。けれども、この連載のはじめの二年余りのあいだ、私はただ『平家物語』ひとつで文芸とつながり、いわば内面生活とつながっていて、そとは有為転変の波の上、私の操る小舟が沈没しなかったのが不思議なくらいのあらしに翻弄される歳月をかぞえた。八九年四月の父の死と前後して、相続問題と住む古家の保存問題に直面して、私は日夜、胸の轟きを聴いていた。思えば、『平家物語』を読むのにもっとも良い状況であった。最初の一歩、連載第一回を踏み出すときに、切迫した予感がげんに私のなかにあったから、行く手に控える栄枯盛衰の人界がひしと身に迫って感じられた。私当人にしてみれば、内外の難渋を切り抜けたのは『平家』連載のおかげと思っていい節がある。しかし、こんなことこそ、どうでもいいことかも知れない。 いつか、どの月にか書いたように、ねんごろに、気永に、気まぐれに、『平家』と付き合いながら、私の心身を場にして生起する事物の偶合、背反、並走、逆行、感情の肥痩、気分の晴雨を、要するに、ゆれ定まらぬもの、常ならざるものを、『平家』に仮託して私はしるしてきた。 うつり行はじめも果もしらくものあやしきものは心なりけり
いま、太田垣蓮月のこの一首が、名残の空にうっすらとうかんでくる。 2026.02.25 写す。
あなたは剣戟のひびき、人馬の土けむり、かちどきの声、流れる血、はためく軍旗、すべて好きではなさそうなのに、『平家物語』のどこがそんなにおもしろかったのですか、と問う人があった。何事があったかというよりも、何がいかように陳述され、歌われ、えがき出されていたかということのほうに関心が傾いていたので、『平家物語』はおもしろかったのです、とこたえて言いのがれた。 ほんとうは、そうとばかりは言いきれない。何事があったかに興味がなければ、この歴史離れし足りない物語に、毒を食らわば皿までと腹をきめて付き合ういわれもない。毒にはあまい味がまじっていた。しかし、この素焼きの皿に染みついた毒は、舐めると、にがくひりつき、その味は毒よりも薬のようであった。「おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし、たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。」冒頭に聞こえていたこの声がさいごに残る声とはうすうすわかっていたなどと言ってみても、何を言ったことにもならないほど、さいごに残ったこの声は坩堝の底の煮えたぎる金くずのようにごうごうとひびいて仕方がない。そして一念称名南無阿弥陀仏の声が、夢よりのちの夢の浮橋をわたる人の声とも、松のこずえをわたる風の声とも、聞き分けがたい。わたしはいま何をしようという野心もおぼえず、いずれと聞き分けがたいその声をぼおっとしながら聞いている。 こんなことを書くつもりはなかったのだが、妙なあとがきになった。 一九八八年初秋の一日、講談社の月刊誌「本」の編集長だった鷲尾賢也さんが『平家物語』の連載をわたしに申し入れてきたのは安野光雅さんの入れ知恵によっていたことをここにしるしておきたい。連載の七年間「本」の表紙をかざった安野さんの『平家物語』の作品も、講談社より画集となって刊行される。長きにわたって月ごとの催促、校正にたずさわってくれたのは鷲尾さん、堀越雅晴さん、木村妙子さんであった。また、こうして一巻の書物になるにあたって講談社校閲局においておこなわれた綿密この上ない作業に対し、格別の敬意を表したいと思う。
一九九六年一月二十一日 杉本秀太朗 2026.02.25 記す。 |