紺搔之沙汰他 判官都落――物語も下降する P.435~442
これより『平家』は巻十二。元暦二年七月九日の「大地震」にはじまり「六代被斬ろくだいきられ」まで、世のさま人のさまは無常の風また一しきり吹きすさぶにつれて変り果てる。
姜首の「大地震」は、今年一月十七日の阪神大震災より数週間後、あえて『平家』編年体の順序を乱し、巻十一にさしかかるところで先まわりして取りあげた。いま冒頭hば国司にしたがひ、庄は領家のままなり。上下安堵しておぼえし程に、同じ木七月九日の午刻ばかりに、大地おびただしくうごいてやや久し。」あとには災害の様子が語られる。壇の浦合戦より三箇月と少々のあいだに、諸国みな国司の統治に服し、荘園は領主の意のままにおさまる律令体制は旧に復した。内乱しずまり「上下安堵しておぼえし程に」というのは、ひとまずその通りかも知れない。とにかくその矢先の大地震。平忠盛の建立した得長寿院の三十三間の御堂が倒壊したのを『平家』には、こわれたのは十七間とわざわざ断わっている。差引き十六間はこわれなかったことになる。この念の入れようが、何のためrなのか分らぬながらにおかしい。大地震は安徳幼帝の怨霊、平家の人々の怨霊のなせるわざとmして「心ある人の歎きかなしまぬはなかりけり。」まsた別に、清盛が龍となって大地をゆさぶったという異説が『愚管抄』にしるされている。たたりをなしたのは平家方ばかりではない、源氏方で非業の死をとげた人々の怨霊も、ともにたたったとする風説もまたながれた。
つづく「紺描之沙汰」は、話がまるで別のところにとんでいて、興を殺がれる。平治の乱に敗死した源義朝のまことのしゃれこうべと称するものを彫り出した文覚が鎌倉に届ける話。巻五の「福原院宣」の段には、おなじく文覚が義朝のにせのしゃれこうべを頼朝に示して平家討伐を決心させる話が出ていた。義朝に召使われいた紺掻きの男(藍染めの職人)がhいそかに埋めて守ってきた主君の首。こんどこそはほんもの。頼朝はこれを丁重に迎え、勝長寿院を建立供養。朝廷はその志に感じて「故佐馬頭義朝の墓へ内大臣正二位を贈せらる。勅使は左大弁兼忠とぞ聞えし。頼朝卿、武勇の名誉長ぜるによって、身を立て家をおこすのみならず、亡父聖霊贈官贈位に及びけるこそ目出たけれ」と、この鎌倉向いてのおべんちゃらがいとわしい。「紺搔之沙汰」は『平家』のきずとしか言いようのない一段である。もっとも、遠く巻五段よりここにいたるまで、うわさも聞かなかった文覚が不意に再登場するのは、いずれ平維盛の遺子六代の行く末を物語る段々に文覚が一役買って出て前触れと受けとれば、「紺搔之沙汰」挿入の言訳は立つのだろう。
正直いって。『平家』はもうここまできてしまうと、さほどおもしろくはない。巻十二に残っている話題は、平大納言時忠の始末、そして平家嫡々の生き残り六代の始末、これだけで、いずれの話題にも頼朝ののっぺりした大きな顔が関与している。
「平大納言被流」には、平大納言時忠の能登流罪のことが語られる。この人、妹滋子は後白河法皇の後宮の女房、高倉天皇の生母建春門院、姉時子は清盛の北の方二位の尼、そして時子の妹たちは重盛、宗盛の北の方にも押さ⒨あっていた。「兼官兼職、思ひのごとく心のごとし。されば程なくあがって正二位の大納言にいたれり。」さらには娘のひとりを九郎判官義経にめあわせて、源氏の世にも備えを怠りなかった抜け目なさ。しかし義経が頼朝によって終われることになるまでの予想は立たなかった。後白河法皇がひそかに鎌倉と合意して、亡き義朝に追贈までする手筈をととのえ、鎌倉のあたまを撫でていたことも計算外であった。
朝廷に対して鎌倉より「平家の余党の都にあるを、国々へつかはさるべきよし」強い申し入れがきたとき、法皇にもこの流罪要請を引きのばす策はなかった。時忠は能登国へ、時忠の子時実は上総国へ、その他、あるいは隠岐、阿波、安芸、備後へ、あるいは武蔵国へ、平家残党は配流された。『平家』は聞きなれた名調子を取りもどす……「或は西海の波の上、或は東関の雲のhあて、先途いづくを期せず、後会其期を知らず、別れの涙を抑へて面々におもむかれけん心のうち、おしはかcられて哀なり。」
時忠は吉田山のふもとにひっそりとお住まいの建礼門院にも別れを述べにいった。そのときの口上として覚一本『平家』のしるすことばには、女院の隠遁の道が吉田から大原の里へとつづくことを見越したように聞こえる節がある。すなわち「灌頂巻」はすでに予定の物語という事になる。時忠は涙ながらにいう、「時忠こそ責め重うして、けふすでに配所へおもむき候へ。おなじ都の内に候ひて、御あたりの御事共、うけ給はらまほしう候ひつるに〔お身まわりのことを何かとお世話申し上げたく思っておりましたのに〕、つひにいかなる御有様にてわたらせ給ひ候はんずらむと思ひ置き参らせ候hうにこそ、ゆく空もおぼゆ」まじう候へ〔この先、どのようなお暮しをなさることになるのだろうと、気もそぞろ、都を去りがたく〕。建礼門院も「御涙せきあへさせ給はず」、古くからのお近づきとてはもうそなた一人だけなのに、これから先、わたしのことを気にかけて訪ねてくれる人がありましょうか。
こうして能登へ配流の道すがら、志賀唐崎、真野、堅田を打ちすぎるにつれ、いよいよかなしく、大納言の詠じた一首として、
かへりこむことはかたたに引くあみの目にもたまらぬわがなみだかな
『平家』巻十二には、引歌とてただこの一首あるにみなのに、じつはこの歌、『月詣和歌集』秋、恵円法師の歌にそっくりとは、いささかわびしい。「平大納言被流」の段は、常套の対句でおわる……「昨日は西海の波の上に漂ひて怨憎懐苦の恨みを篇舟の内に積み、けふは北国の雪の下に埋もれて、愛別離苦のかなしみを故郷の雲にかさねたり。」
舞台は暗転して「土佐房被斬」の段。「被斬」とあれば平家のたれかれの話ばかりつづいたのちに、斬られる相手ががらりと変って、頼朝配下の土佐房昌俊が義経に斬られた話。これまた対照の妙をねらった語り方で」ある。「さる程に、九郎判官には、鎌倉殿より大名十人つけられたりけれども、内々(義経が鎌倉殿の)御不審を蒙り給ふよし聞えしかば、心をあはせて〔しめし合わせて〕一人づつ皆(鎌倉へ)下り果てにけり。(義経、鎌倉殿と)兄弟なるうへ、殊に父子の契りをして、去年の正月、木曽義仲を追討せしよりこのかた、度々平家を攻めおとし、ことしの春ほろぼし果てて、一天をしづめ、四海を澄ます。勧賞おこなはるべき処に、いかなる仔細あつてかかる聞えあるらむと、かみ一人をうあじめ奉り、しも万人にいたるまで、不審をなす。」
灌頂巻――宥めの文藝
「灌頂巻」は平曲二流(八坂、一方)のうち、一方流『平家』諸本にだけ、さいごに置かれて大秘事の扱いを受けてきた。
結びに代えて――ひとりの読者
今し方、読みおえたところなのに、ふたたび一からあらためて読みたい気持に駆られる。
あとがき
あなたは剣戟のひびき、名前
2026.02.22 記す。
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