杉本 秀太郎『平家物語』巻 二
 

目 次

座主流・次郎焼亡その後 西光被斬・応酬の果て 大納言死去・成親の扱い方 徳大寺之沙汰・厳島は女護の島
山門滅亡 堂衆合戦・治承の世 康頼祝言 卒塔婆流・見立て熊野 蘇武・翻訳について


杉本 秀太郎(国際日本文化研究センター教授) (1931~2015年) sugimoto.bmp
『平家物語』(講談社)

 座主流(ざすながし)――次郎焼亡その後 P.65~69

 これより『平家』巻二に入る。巻一のおわりの「内裏炎上」の段が語っていたように、安元三年(一一七七)四月二十八日の京都の大火は辰巳の風の吹きすさぶなか、忽ち燃えひろがって大内裏にも及び、まず朱雀門が燃え、大極殿をはじめ諸司八省、朝所(あいたんどころ)、「一時がうちに灰燼の地とぞなりにける。」このとき、京の町はおよそ三分の一が焼亡したと後世の史家は算定している。

 それからまさに一年が過ぎようとする治承二年(一一七八)四月二十四日、京はまた大火に見舞われる。七条東洞院(ひがしのとういん)から出た火は、東風にあふられて西に西にと燃えひろがり、京の南のすそを幅広く帯状に焼き払った。一年前の大火を「太郎焼亡」、このたびの大火を「次郎焼亡」と名づけて、京わらべは、のちのちまでの語り草にした。親しみやすい喩えとして太郎、次郎を一組で用いるのは、遠い昔にはじまったことである。そして昭和のはじめ、三好達治がこれを活用した新例はよく知られている。詩集『測量船』(昭和五年刊)所収の二行詩。題名は「雪」。

  太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。

  次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。

 西光被斬(さいこうきられ)――応酬の果て P.69~73

 鹿谷の密議陰謀に後白河法皇も参加の一夜、酒宴となって座がどよめくうちに倒れた瓶子(へいじ)=平氏のくびをへし折ったのは西光法師だっちゃ。この法師、もとは阿波邦の在庁官人の出身で師光(もろみつ)tヴぉいった。信西(しんせい)入道に召使われている素性もない男だったが、あたまが切れるために出世し、信西が平治の乱で殺されたときに出家して西光法師となりながら、出家後も後白河法皇の「御倉(みくら)預り」をつとめ、鹿谷謀議にもこの格で加わっていたのだった。

 この西光には、もう一つの裏役があった。平家に対して謀反を企てる一方、やがては山門衰徴にいたる一連の出来事にも、二人の息子、師高、師経ともに工作をかさねた。これまでに見たように、そもそも師高師経が鵜川合戦を引き起したのが事の怒りだったが、山門の大衆が内裏の神輿を振り立てて師高兄弟の断罪を強訴におよび、次いでは天台座主明雲が西光父子の讒訴によって後白河法皇の逆鱗に触れ、明雲が伊豆へ流罪と決定して都を追立られたのを、決起した山門大衆が奪還するにいたって、事はいよいよ面倒になった。なおも西光は法皇に迫って、山門のこのたびの行動にきびしい裁可を求める。『平家』の年代記的の叙述のくだりに頻々とあらわれる教養満載の漢文脈の典型が、ここでまた目にとまる。――「身の只今亡びんずるをもかへりみず、山王大詞の神慮にもhじゃばからず、かやうに申して宸襟を悩まし奉る。讒臣(ざんしん)は国を乱るといへり。(まこと)なる哉。叢蘭(そうらん)茂からむとすれども、秋風是をやぶり、王者明らかならむとすれば、讒臣是を暗うすとも、かやうの事をや申すべき。」

2026.01.06 記す。

 大納言死去(だいなごんしきよ)――成親の扱い方 P.73~77

 西光法師は五条西朱雀で斬られた。後白河法皇のもう一人の側近、大納言成親は、法皇より下賜された「御最愛ならびなき御おもひ人」を北の方にしたほどの寵臣だったが、西光よりも一足早くに、無警戒な、のんきな出立ちのまま捕えられ、清盛入道の辱めを受けた。その有様が「小教訓(こぎょうくん)の段にながながと語られる。

 他人の栄達への嫉妬と傲慢が謀略を思いつかせるような小心な野心家は、院政が次々にうみ落した新しいタイプの貴族であり、摂関政治のもとには見られなかった。成親がそういう貴族の典型として描き出されていること、語り手あるいは書き手は、清盛に翻弄された重盛の除名嘆願にとってようやく一時の命拾いをする成親の姿に、揶揄と批判をこめていること、いずれも石母田の指摘どおりだろう(岩波新書『平家物語』第二章)。西光の白状書を突きつけられた成親は言逃れのすべをうしなうが、「入道、なほ腹にすゑかねて」妹尾太郎、難波次郎に命じ、狩衣姿の成親を庭に引き落し、ねじ伏せて、悲鳴を挙げさせよと命ずる。「二人の者共、大納言の左右の耳に口をあてて、『いかさまにも御声のいづべう候』とさやいて引き伏せ奉れば、二こゑ三声ぞをめかれける」などというくだりは、後世歌舞伎のまがい(ゝゝゝ)責めの一場を見るようである。

 いまはあすのいのちも知れぬ大納言のあわれこそは野心家の謀反の報いよ、とつめたく見ているうち、舞台は暗転して中御門烏丸の大納言邸となる。西八条から走り帰った供の侍から、あるじの身に起こったことを知らされた「北の方以下の女房たち、声も惜しまず泣き叫ぶ。」子供たちのうち、十歳の女子、八歳のふたりを車に乗せて船岡山の雲林院まで運び出し、僧坊に預けると、お供はにげ去る。邸に残された北の方には、ことばをかけてくれる人もない。「今はいとけなきをさななき人々ばかり残りゐて、また事とふ人もなくしておはしけん北の方の心のうち、おしはかられて哀れなり。暮れ行くかげを見給ふにつけては、大納言の露の命、この夕べをかぎりなりと思ひやるにも、きえぬべし。」無常の歌の一ふしというべき和文が目に触れるのは第一巻の「祇王」、つづく「二代后」の段が人の涙をさそって以来、ひさすぶりのことである。効果的な間隔を挟みながら、『平家』のつづくあいだ、のちのちまで、こういう和文が見え隠れを繰返す。

2026.01.05 記す。

 徳大寺之沙汰(とくだいじのさた)――厳島は女護の島 P.77~81

 しばらくのあいだ処刑の話がつづいた。大納言成親のただ無残というしかないような死、それより前には西光法師の一種凄惨な美しさを伴う豪傑ふうの死。このあとにくる「徳大寺沙汰」の段は気分がすっかりちがって、おもしろおかしく軽快に、ひとりの公卿の栄達の裏話を語り流している。西光、成親、実定は三題噺のような組揃えであり、互いに対照の妙をそなえる。

 徳大寺の大納言実定卿(シッテイノキョウと音読)は、宮廷に幾重にもつながる名門なのに、清盛の次男宗盛に大将をこされ、籠居していたが、出家するとまで言い出したので、まわりの者はみな困り切っていた。仕えるなかに藤蔵人重兼(とうくらしげかね)という「諸事に心得たる人があった。

 ある月の夜のこと、実定卿は南面の格子をあげさせ、ただひとり月をながめて詩歌を口ずさんでいた(実定はなかなかの歌人として知られている)。すると重兼がそばにきた。このところの二人の応答は、のちに巻四の「(きおう)の段で、もっとあざやかな例に出会うが、切迫した息使いと間合いをわずかな応答のうちに感じさせておもしろい。

「たそ」

「重兼候」

「いかに何事ぞ」

「今夜は殊に月さえて、よろづ心のすみ候ままに参つて候」

「神妙にまゐつたりたり。余に〔全く〕何とやらん心ぼそうて徒然(とぜん)なるに」

 実定卿が平家の世をはかなんで出家したいとぼやくのを、重兼は一計を案じて「喩へば安芸の厳島をば平家なのめならずあがめ敬はれ候に、何かは苦しう候べき、かの社へ御まゐりあつて御祈誓候へかし」と切り出す。

2026.01.05 記す。

 山門滅亡 堂衆合戦(さんもんめつぼうどうしゅうかつせん)――治承の世 P.82~85

 徳大寺実定のことで書き忘れていたことがあった。それは私の発見でも何でもないこと。ただ読書ノートのおさらいを仕忘れたがために書き忘れていたことである。

 日野龍夫『宣長と秋成』(筑摩書房、昭和五十九年十月刊)所収「読本前史」は、江戸時代の儒者たちのこころみた歴史叙述が、おもしろく読める歴史を心掛けていたことに触れ、新井白石、頼山陽の史書とは別に、論、伝、記事、擬文に属する漢文集のなかに、時として人間観察の着眼に見るべきものがまじっている例として、秋山玉山という人が『平家』の「徳大寺之沙汰」を典拠とした文章を取り上げている。日野氏によれば、玉山は服部南廓(なんかく)と親交のあった熊本藩儒、学統は朱子学ながら、詩文には古文辞派の影響があったという。

 徳大寺実定が月の夜にひとりぼんやりしていると、家臣の重兼という「諸事に心得たる人」がそばに来てご機嫌をうかがうときの応答は先に引用したが、実定が手持ち無沙汰をかこつと、重兼は「何とない事ども申してなぐさめ奉る」と『平家』本文はしるしている。玉山の漢文はここを改変して「問うて曰く、牀笫(しようし)安からざるか、そもそも姣麗(こうれい)(かたわ) らに待するなきかなきか〔御寝(ぎよしん)なさるのに何かうまくないことがおありですか。お相手する御婦人がいないのですか〕という問いかけを創作したと日野氏は指摘し、「重兼の世故にたけた老臣ぶりと、実定と重兼の気のおけない主従関係が彷彿とするため、それに続く実定の愚痴と重兼の入れ知恵の問答に親密な雰囲気があたえられている」と。たしかにこれで、美しい内侍目あての厳島参篭の伏線は補強される。

『平家』によくあることだが、読みやすい話のすぐあとには、読みやすくない話がしばらくつづく。長大な物語、というよりも近代の長編小説には、この二通りの話柄が交互に表てに立ち、埋め合せを仕合うことがある(たとえば『アンナ・カレーニナ』)。一方をロマネスクと呼ぶなら、もう一方は地上的というべきか。ロマネスクな物語は地上的な物語によって我に返り、地上的な物語はロマネスクな物語によってけじめを食らわせられる。どちらがなくても、全体は輪郭に確たるところを失うだろう。「徳大寺之沙汰」につづく「山門滅亡 堂衆合戦」の段は、地上的な物語である。王法と密接につながる延暦寺が内外の闘争にあけくれて流血を繰返す魔界に堕し、人心から離れ、さびれゆく有様を見せつける。

2026.01.07 記す。

 康頼祝言 卒塔婆流(やすよりのつと そとばながし)――見立て熊野 P.86~90

 俊寛、康頼、成経が三人もろとも鬼界が島に流されたことは、これだけが前にとび離れて「大納言死去」冒頭に出ている。それは成経の父、大納言成親の配流生活を語るあいだに挟まれた、短いが由々しい一節であり、暗い物語のなかに、もっと暗い物語が入子(いれこ)のように取りこまれている。島の有様にもおよんで、地獄絵図に見られる牛頭(ごず)のような、色黒くて牛のようで、からだは毛だらけ、ことばも全く通じぬ異様な人間がうろつきまわり、食べるものも着るものもなく、殺生によって食いつなぐしかない異土として、島はえがき出されている。なかに高い山あり、永劫の火が燃え、どこもかしこも硫黄ばかり。別名硫黄が島。その名のとおりの島には「いかづちつねに鳴りあがり、鳴りくだり、ふもとには雨しげし。一日片時(へんじ)、人の命堪へてあるべきやうもなしき。」

 物語はその後しばらくこの島の流入のことには全く触れず、大納言の死、徳大寺実定の厳島詣で、山門の争いと衰微、信濃の善光寺炎上を語ってのち、「康頼祝言(のつと)」いたってに忽然、流人たちの身の上に立ち戻る。

 硫黄の島で、牛頭たちのまっ只中、三人の流人はどのようにして生きたのか。「大納言死去」冒頭の語るとおりとすれば、とても生きてはいられない。ところが「康頼祝言」には、成経のしゅうとに当る門脇の宰相教盛の領地、肥前国鹿瀬庄(かせのしよう)から島へ「衣食を常に送られければ、それにてぞ俊寛僧都も康頼も、命を生きて過しける」と。それなら安心だが、いささか拍子抜けもする。当時、日宋貿易船のうちには、硫黄が島の沖合を通るものも少なくなかったらしいから、都からら見れば気も遠くなる遥かな海上の小島とはいえ、この島は船便も絶えるほどの孤島ではなかった。そして幸いにも、肥前鹿瀬庄のように都から遠くへだたった地にまで、六波羅の監視は行きとどかなかった。 

2026.01.07記す。

 蘇武(そぶ)――翻訳について P.90~94

 康頼の卒塔婆流しから思い出されるのは、だれでも知っている唱歌「椰子の実」(作曲は大中寅二)のこと。

 明治三十年の夏、三河の伊良湖岬の突端に滞在してひとりの大学生が、風の強かった翌朝、砂浜に打ち寄せられている椰子の実を一つ見つけた。別の朝にまた一つ。これが三度におよんだという。大学生は松岡國男、のちに柳田と名のったが、東京に帰った青年は、当時親しくしていた島崎藤村にこの「寄り物」のことを語った。詩人はその年のうちに「椰子の実」の詩を作り、のちに「あれをもらいましたよ」と素材の提供者に打ちあけたことがある(柳田國男「海上の道」第七章)。しかし、提供者のほうでは、ずっとはるか後年、このエピソードに触れて、「実をとりて胸にあつぶれば、新なり流離の憂い」などという詩中の章句は「もとより私の挙動でも感懐でもなかった」と、詩人=遊子と自分は同属ではないと言いたげなのは一興である。

 柳田國男がわが目でたしかめた椰子の実は、のちにこの人がアユと呼ばれる風のこと、太平洋ではなくて日本海側の荒波に打寄せられる漂流物のことを考え、晩年にいたつて「海上の道」をたどる契機となった。遠い日の経験が学問のたねを宿していた。「流離の憂」などというあまい話ではありません。柳田國男には、こういう辛辣な一面がある。一方、「椰子の実」の藤村が『平家』の語る康頼卒塔婆の前例を思い合わせていたのは、うたがいもないことである。

 あの一本の卒塔婆の奇蹟は『平家』作者の作り話だといってしまえばそれまでの話。その作り話が、熊野の信仰、厳島信仰のみならず言霊(ことだま)信仰迄、りっぱにふところに収めているのは見のがせない。「卒塔婆」段末尾には、柿本人麻呂、山部赤人、住吉明神、三輪明神、素戔鳴尊(すさのうのみこと)が歌の神々として名をつらね、卒塔婆が「(もろこし)の方へもゆられて()かで」瀬戸内海に漂着し、ついに法皇にも入道にも涙を流させた次第が、むだのない文章で語られている。

 そのことに見惚れて感心していると、次いでは「蘇武」と来る。まさに卒塔婆が流れては行かなかった「唐の方」から引き抜かれて、天から湧いたような話である。ここに『平家』のもう一つの対照の妙味がある。同じ日本の国土のなか、同じ帝王、寵姫のなかに、あるいは宮廷人、侍のなかに対照の妙を求めた取合せには、これまで幾つか出会った。また、天台座主明雲を唐の学僧一行阿闍梨になぞらえる話の運び方などには、あまりに大げさなのがいっそう取合せもあり、それもまた対照の妙味と言えないことはなかった。

 鬼界が島の流人を蘇武になぞれたのも大げさなのには変りはない(成経、康頼の流人生活は一年余り、俊寛は二年で死没)。しかし先の「一行阿闍梨」のくだりとは全くちがって、ここに言うに言えない語りの楽しさが感じられる。語り手は、蘇武の苦節十九年を語りつつ、漢文を和語に置きかえ、移しかえる操作そのものを大いに楽しんでいる。胡の国の荒涼無残たるべき風景は、いつしか日本の風景に一変し、鳥獣虫魚、山川草木、すべて筆に慣れた身辺のものに、いつしか姿を変えてゆく。そして、まさにそのことに無上の快をおぼえている人の心のときめきが、こちらに伝わってくる。この語り手は、『古今和歌集』の「仮名序」にいう「やまとうた」の湧き出る源泉に筆をうるおし、『和漢朗詠集』を開いては、同じ部立てのもとにならぶ漢詩文と和歌のズレに興じている人だった。蘇武の物語の原典は『漢書』にあった。こころみた和訳分は和訳文として、原文は原文として、いずれをも等分にたのしんでいる遊び心が、『平家』の「蘇武」を物語る人の器量を大きくしている。

 漢の武帝、胡国を攻め、はじめは李少卿(李陵)を大将軍に三十万騎をさし向けたがや敗れ、李将軍は捕えられた。次に蘇武を大将軍に五十万騎を向けたが、再び敗れ、大将以下捕虜六千余人。蘇武は主たる部下ども六百三十余人とともに片脚を切り取られて荒野に追放された。このあとのくだりを余白の許すところまで漢字仮名の配分、句読点をよみやすくして。引用しておきたい。

則ち死する者もあり、ほどへて死ぬる者もあり。そのなかに、され(ども)蘇武は死なざりけり。かた足なき身となって、山にのぼつては木の実をひろひ、春は沢の根芹を摘み、秋は田dぅらのおち穂拾ひなどしてぞ、露の命をすごしける。田にいくらもありける(かり)ども、蘇武に見なれておそれざりければ、これはみなわが故郷へかよふものぞかしとなつかしさに、おもふ事を一(ふで)かいて、「相かまへて(これ)、漢王に奉れ」と云ひふくめ、雁の(つばさ)にむすび付けてぞはなちける。かひいがひしくもたのむの雁、秋はかならず越路場(こしじ)より都へきたるものなれば、漢の昭帝、上林苑(しようりんえん)御遊(ぎよゆう)ありしに、夕ざれの空うすぐもり、何となう物あはれなりけるをりふし、(ひと)つらの雁とびわたる。そのなかに雁一つとびさがって、おのが翅を結びつけたる玉章(たまずさ)を食ひ切つて落しける。官人、これをとつて御門(みかど)に奉る。(ひら)いて叡覧あれば、「昔は巌崛(がんくつ)(ほら)にこめられて、三春の愁嘆を送り、今は曠田(こうでん)()に捨てられて、胡敵の一(そく)となれり。たとひ(かべね)は胡の地にさらすといふとも、魂は二たたび君辺(くんぺん)に仕へん」と書いたりける。それにしてぞ、ふみをば雁書(がんしょともいひ、雁札(がんさつ))とも名付けたり。「あな無残や、蘇武がほまれの筆跡(あと)なりけり。いまだ胡国にあるにこそ」とて、今度は李広という将軍に仰せて、百万騎をさしつかわす。今度は漢の(たたか)(ゝこわ)くして、胡国のいくさ破れにけり。御方(みかた)たたかひ勝ちぬと聞えしかば、蘇武は曠野のなかより()ひ出でて、「是こそ、いにしへの蘇武よ」とぞ名乗る。十九年の星霜を送りて、片足は切られながら、輿(こし)にかかれて古郷へぞ帰りける(中略して末尾へ)。
 漢家の蘇武は書を雁の翅に付けて旧里へ送り、本朝の康頼は浪のたよりに歌を伝ふ。かれは一(ふで)のすさみ、これは二首の歌、かれは上代、これは末代、胡国鬼界が島、さかひをへだて、世々はかはれども、風情はおなじふぜい、ありがたかりし事どもなり。

※参考:李陵について、中島敦『李陵・山月記』(新潮文庫)

2026.01.09 記す。

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