杉本 秀太郎『平家物語』巻 三
 

目 次

赦文――たたりのなかの政治 足摺――脚色また脚色 御産――馬、甑、 公卿揃 大塔建立――呪術師清盛
少将都帰・苔をうるほす涙 有王・高野山と熊野 辻風 医師問答・重盛の死 無文・重盛像
金渡 法印問答・伴信友のこと 大臣流罪 城南之離宮・罪なくして配所の月


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 赦文(ゆるしぶみ)――たたりのなかの政治 P.97~101

 これより『平家』は巻き第三。治承二年正月七日、「彗星東方に出づ。蚩尤気(しゆうき)とも申す。また赤気(せつき)とも申す。十八日、光を増す。蚩尤気は赤い尾を引くほうき星、その尾が、湾曲してなびく旗のようなので、正しくは蚩尤旗と書く。『史記』に、五帝の第一、黄帝が逆賊蚩尤を討ったとき、この彗星があらわれた。後代、この出現あれば天子は四方を征伐あいた、と。『玉葉』のこの年一月十八日の記事に「今年彗星あらはる、乱代の至り、これをもつて察すべし」と。森安太郎『黄帝伝説――古代中国神話の研究』(京都女子大学人文学会刊)所収「黄帝伝説」の周到な考証の結論だけを取り出せば、黄帝はもと雷神、蚩尤は(まむし)だった。いかずちが火玉となって毒蛇を撃った。そのとき赤い尾を引く彗星が空にあったかどうかは詳らかでない。

 世が平和であっても気味の悪い彗星が正月早々、空にあらわれたとき、下界に変事が起きた。「入道相国の御むすめ建礼門院、そのころはまだ中宮と聞えさせ給ひしが、御悩(ごのう)とて、雲のうえへ天が下の歎きにてぞありける。」寺々に平癒祈願の読経はじまり、諸社には官幣使(かんぺいし)がつかわされ、陰陽師が方術の限りをつくし、医師は薬方を尽したが、効果はない。中宮徳子の御悩は、ただの病気ではなくて懐妊らしい。高倉帝十八歳、中宮二十二歳、いまだ皇子皇女はなかった。平家は一門あげて、もう皇子誕生がきままったように勇みよろこぶ。懐妊うたがいなしとなって、仁和寺からは、高倉帝の実弟の法親王が参内の上、孔雀経を誦しして加持あり、天台座主も参内、変成男子(へんじようなんし)の法を修した。どうあっても皇子を生んでもらわねばならぬ。

 中宮は月かさなるにつれて、やつれが目立った。夏の寝苦しい夜な夜、物の()がとりついて離れない。呪師が正体をあぶり出すと、讃岐院の霊、宇治の悪左府(あくさふ)(藤原頼原)の怨霊、新大納言成親の死霊、西光法師の悪霊、そして鬼界が島の流人どもの生霊(しょうりょう)が、ぞくぞくあらわれた。すべて保元の乱この方、平家にうらみを抱いて死んだ人、なお死にきれぬ人ばかり、まずは死霊をなだめにかsかり、讃岐院には崇徳天皇の追号、宇治悪左府には贈官大臣正一位をおくった上、墓に勅使を立ててこれを報告した。

2026.01.10 記す。

足摺――脚色また脚色 P.101~105

 成経、康頼の赦文が清盛入道から下りて、使者が都を発つ。治承二年(一一七八)七月下旬のことであった。心にまかせぬ海路、浪風をしのいでゆく使者は丹左衛門尉(たんざえもんのじよう)基康。ようやく九月二十日の頃、鬼界が島に上陸した。名を呼ばわり、尋ねるが、二人は「例の熊野詣してなかりけり。」俊寛ひとり、都からの使いを知って、「あわてふためき、走るともなく、倒るるともなく、いそぎ御使の前に走りむかひ」、名乗りをあげた。雑色(ぞうしき)が首にかけた文袋(ふぶくろ)より入道相国の赦文を取り出して奉った。

 俊寛の絶望。成経、康頼の歓喜、のちの成行きは、ここでおさらいするに及ばないだろう。

『源平盛衰記』の『康頼熊野詣附祝言事』には、流人成経は(あま)の女と契りを結び、子をひとり儲けたという話が出ている。『平家』にはついに見られぬ艶話(つやばなしである。近松門左衛門の享保四年(一七一九)の作『平家女護島』二段目の切りは、『平家』にも『俊寛』にも見当らぬこの艶話をたねに、謡曲『俊寛』にはあるが『平家』にはない「菊水」の故事を巧みに活用し、鬼界が島の人間絵図を織り出している。成経の契った蜑の女を千鳥と名づけた上、俊寛にも重盛からひそかな特赦があって薩摩までの帰還の許しが出ていることに改め、俊寛が使者の一人、いたぶり役の妹尾なにがしを浜辺で刺し殺し、千鳥を成経ともども船にのせて、みずからは島に残るというものすごい脚色を、近松はほどこしている。伏線には、俊寛の妻あづまやに清盛が横恋慕、仲立ちの教経が主君の望み叶わぬとさとってあづまやの首を斬り、生首を清盛に差し出すという設定がある。俊寛は愛妻の非業の死を聞き知り、絶望して島にとどまる。この近松浄瑠璃のさわりを凝縮した歌舞伎『俊寛』にいたって、脚色はさらに脚色を招き、大正の世におよんで初代中村吉右衛門の当り役は俊寛。足摺りする幕切れの場面が、ついに極めつきの俊寛。『平家』の「足摺」という題目がさいごまで生きのびたのは、めでたいというべきか、あまりといえばあまりにも当たり前の、見せ場の勝利であった。

 謡曲『俊寛』に不老不死の霊水「菊水」の中国故事があらわれるくだりは、次のように話が運ぶ。熊野詣でをしている成経、康頼が、島の谷かげにいる俊寛に気づき、怪しんでいると、熊野詣でのお帰り道に出迎えて、酒を参らせるつもりおであったと俊寛がいう。

2026.01.11 記す。

御産――馬、(こしき) P.105~107

 妊婦の着帯、いわゆる帯祝いを妊娠五月目に行なう習俗は」、身分の上下に係わらなかったようである。のちの建礼門院、中宮徳子の着帯bは治承二年六月一日、しして皇子、のちの安徳天皇誕生は十一月十二日であった。宮中の着帯ンいは、また相応に事ごとしい行事が付いてまわったと思われるが、『平家』「赦文」には仁和寺の法親王にゆおる孔雀経の修法、天台座主による変成男子(へんじよなんし)の修法のほかはしるされていない。

 それに対して、中宮御産がいよいよ成就しようという日の有様は詳細を極めている。「さるほどに、同じき年の十一月十二日寅刻より、中宮御産の気ましますとて、京中六波羅ひしめきあへり。」御産所には清盛の弟、頼盛の邸、六波羅池殿が当てられた。法皇行幸、関白以下「世に人とかぞへられ」何らかの官位官職に就いている人は皆、六波羅にあつまった。大赦が発表される(俊寛だけはまた洩れた)。名のある社寺すべて安産祈願の誦経をすることになり、一つ、一つの社寺に使者が立った。経巻、剣、御衣を奉持する使いが、はなやかな狩衣に帯剣して、ぞくぞくと池殿の(たい)の屋から何庭を通過して中門から出てゆくのは見ごたえのある光景だった。

 さわぎが一段落した頃を見計らって、重盛は子息たちの車を動員すると、いろいろの(きぬ)四十領、銀剣七つ広蓋にのせ、馬十二匹を引かせて池殿へ参上した。ここに馬を献上したのは、一条天皇の中宮彰子の父藤原道長の馬献上の例にならったのだという。「このおとど(重盛)は、中宮の御(しようと)にておはしけるうへ、父子の御契なれば、御馬まゐらせ給ふもことわりなり。」徳子入内のとき、父清盛はすでに出家して入道だったので、兄の重盛が代って父になったのである。『平家』の作者は、馬を十二匹も献上したのはよほどのことだが、こういうつながりがあるなら納得できると言いたいのである。重盛の例につづいて、五条大納言邦綱gさ馬二匹を進上したのを知って、人びとは「志の至りなのか、それともよほど財力があるからか」と噂した。

 引出物というのは、庭に引出して客人に贈る馬のことをいうのがそもそもの語義である。やがて馬代(うましろ)と称して金品を引出物とするようになった。ずっとのち、江戸時代も末にいたると、志ばかりの引出物や旅する人への些少のはなむけを鼻紙代(はながみしろ)などと自嘲気味にいうことにもなった。

「御産」の段には、なお引出物のことがつづく。

2026.01.13 記す。

公卿揃 大塔建立――呪術師清盛 P.109~113

 先に胞衣(えな)に少し触れたのち、旬日を経た頃、奈良西大寺近傍の竪穴式住居跡の発掘であらわれた胞衣壺のことが、新聞紙上に報じられていた(京都新聞一九九〇年六月二十四日朝刊)。紀元四世紀、古墳時代前期の土師器(はじき)壺三つ、いずれにも胞衣の証跡があった。中野益男(帯広畜産大学)による残存脂肪酸分析法がこの証跡を突きとめたという。壺の発見場所は住居跡の南側および住居内に設けられた穴のなか。

 奈良時代に胞衣壺が存在するのは確認済みのことなのだが、それよりも四百年以前、すでに胞衣を壺中に収めて屋内、屋外いずれにせよ、特定の地点に埋める風習のあったことが、これで判明した。同じ風習がユーラシア大陸の諸民族、東南アジアの諸民族にもあるのかどうか。『平家』の(こしき)落しの話から気になっていた出産に係わる習俗が、この報道によってまた一しきり、私の夢見をさそった。

「御産」にとづく「公卿揃」には甑落しの手違いのほか、ひとりの老陰陽師の失態をしるしているくだりが、あとに尾を曳いて落ちつかぬ気分をあたえる。中宮徳子の産後の無事、皇子の無事をねがって「千度御祓い」ということをするのに、七人の陰陽師が六波羅に呼びつけられた。祝詞(のりと)を千遍となえるのが役割なのだが、七人のなかに老人がひとりまじっていた。従者も少ない。六波羅の門前に来て、群衆をかき分けているうちに、老陰陽師は「右の沓を踏み抜かれ」うろたえて立ちどまると、今度は「冠をさえ突き落され」、もとどりもあらわな姿のまま、しずしずとお祓いの場にすすみ出たものだから「若き公卿殿上人こらへずして、一同にはつと笑ひ合へり。陰陽師なんどといふは、反陪(半ばい)とて足をもあだに踏まずとこそ承れ。」角川文庫『平家物語』(校注佐藤謙三)の「反閉(はんばい)(反陪)」語注に「貴人外出又は神拝の時、陰陽師に行わせて邪気を払う呪法。呪文を唱えて千鳥足に歩む」とある。沓の方方がつぶれているのはよっぱらいのまねに好都合かもしれないが、老人の身でわざわざ千鳥足をふむには方沓は不都合dさろう。要するに、なかに一人、老人がいたがために、大事の儀式に際して、陰陽師の足並みが乱された。こういう変事のことは、その時はなにとも覚えざりしかども、後にこそ思ひあはする事ども多かりけれ」というのgsこの挿話につづく『平家』作者のいい分である。思わぬ手順の狂いや足並みの不揃いは、こののち平家一門にいくらでも起こるはず。そのとき思い当る節として、昔の読者のうちには、この陰陽師の一件を思い出せる人があったのだろうか。

「公卿揃」は「御産によって六波羅へ参らせ給ふ人々」として関白松殿以下三十三人の名をすべて官職名付きでつらね、三十三人のうち三十二までは直衣、即ち平服と断る。また、不参の人々十余人が後日、西八条邸へ祝いを述べにいった服装は、布衣(ほうい)、即ち無紋の狩衣だったと断る。後世、有識の目にこの断り書きが値打と映るか映らないか、私には判じのつかないことである。

2026.01.14 記す。

少将都帰――苔をうるほす涙 P.113~117

「少将都帰」は哀れをさそう物語として格段によく出来ている。「祇王」「二代后」が同種の物語として涙をさそうことは先に触れたが、主人公は言うまでもなく女性であったが、ここでは、身に十分の教養を帯びた公卿」が主人公である。鬼界が島に流刑二年ののち、都へ帰る途次、少将成経は平判官康頼とともに、備前児嶋に非業の死をとげた父成親の謫居(たつきよ)あとをたずね、かりそめの墓に新たな壇を作り、七日七夜菩提をとむらったのち、連れ立って都へむかう。

『古今和歌集』以来の部立でいえば、離別、羇旅(きりよ)、哀傷のテーマ」を一手に収め、粛々とした歩みにしたがう物語の裏地には、初春から晩春にかけての季ンお移ろいが、物語の影の力となって働き、月と花が、さながら俳句連句の定座(じよざ)にかかったように、照るべくして照り、咲くべくして咲き、散り残っている。そして物語の一区切りあるごとに、万事が涙という一字に凝っては成経、康頼の頬を伝い落ち。涙を受けるのは苔である。涙にしめった苔からしめゆやあかに立つ匂い。しめりにしめった苔のいえを吹きすぎるい松風の音。これがまたしても涙をさそい、成経も康頼もひたすら泣きの涙に呉れる。

 治承二年(一一七八)年の暮れ、赦免されて鬼界が島を船出したふたりは、成経のしゅうと平宰相教盛の領地、肥前国鹿瀬庄に一先ず身を寄せた。京の宰相から使いが来て「年の内は波風烈しう,道の間もおぼつかなう候に、それにてよくよく身をいたはつて上りたまへ」と言ってよこした。これだけのことは「御産」の冒頭頭に、本題と無関係に出ている。「足摺」のさいごにあってもよさそうな一節である。これのつづきが「少将都帰」であって、「御産」からかぞえて都合四段が、あいだを距てている。この四段を引受けているのは俊寛、成経ンい係わる物語の作り手とは別の人と思われる。文体もあきらかに」ちがっている。殊に「少将都帰」の段は、優にやさしく、高く低く語る声が物語に付きまとっているところ、あるいはこの段には文才の関与が考えられるかもしれない。「明れば治承三年正月下旬に、丹波少将成経、肥前国鹿瀬をたって、都へといそがれけれ共、余寒猶はげしく、海上もいたく荒れければ、浦づたひ嶋づたひして、きさらぎ十日ごろにぞ備前児嶋に着き給ふ。」

2026.01.15 記す。

有王――高野山と熊野 P.117~121

 有王の物語は、簡単にいえば、遠島での主従再会と主従死別の物語である。この二本の幹にたくさんの枝葉がしげっている。

 俊寛捕縛後の法勝寺では、僧都のひとり息子に次いで妻も死に、残るはひとり娘のみ。その「姫御前」の手紙を元結いのなかに隠して、有王は鬼界が島まで主人俊寛をたずねてゆく。痩せおとろえた俊寛僧都は、有王によってもたらされた現世の有様に、ようやく仏にすがる心となり、かつては「不信心第一の人」だったのが食を断ち、ひちゃぶるに弥陀の名号を唱えつつ息絶える。

 こういう筋書きにそって物語られる節々は、俊寛と有王の応答を巧みに操って哀れをさそい、涙を催させて、話じょずの真骨頂を見せつける。話し手はいそがず、しかもゆるやかにすぎずに、規則的な淡々たるリズムにしたがって、時には目立たぬシンコペーションを挟みながら物語を展延させる。効果のほどによほどの自信を抱いていなくては、こうはいおkぁない。物語の背後にはつねに海の音が控えていて効果に加勢することまで、この話し手は心得ている。いつ、どこで聞かされても聞く人は、さながら鬼界が島の浜辺の岩かげに潮風をさけながら話を聞いちぇいるように思ってしまう。

 有王旅立ちのくだりから少し引用すれば、

いとまを乞ふとも、よも許さじとて、父にも母にも知らせず、もろこし船のともづな」、卯月皐月(さつき)に解くなれば夏衣立つを遅くや思ひけむ〔夏立つ日、四月一日ではおそいと思ったのか〕、やよひの末に都出でて、多くの浪賂をしのぎ過ぎ、薩摩潟へぞ下りけるい。薩摩よりかの嶋へわたる船津にて、人あやしみ、着たる物を剥ぎとりなどしけれども、すこしも後悔せず、姫御前の御文ばかりぞ人に見せじと、基結のなに隠したりける。さて商人舩(あきんどぶね)に乗つて、くだんの嶋へわたつてみるに、都にてかすかに伝え聞くし事のかずにもあらず。田もなし、畠もなし。村もなし、里もなし。
 また、有王が持参の娘の手紙に「この有王御供にて、いそぎのぼらせ給へ」とあるのを読んで俊寛の嘆くくだり――「これ見よ、有王、この子が文の書きやうのはかなかさよ。おのれを供にて、いそぎのぼれりと書きたる年こそうらましけれ。心にまかせたる俊寛が身なれば、何とてか三とせの春秋をば送るべき。今年」は十二になるととこそ思ふに、これほどはかなくては、人にも見え、宮仕へをもして、身をも助くべきか」とて泣かるにぞ、人の親の心は闇にあらねども、子を思ふ道にまよふほども知られける。」

「有王」につづく「僧都死去」の段は、俊寛死後のことに言い及んでいる。

2026.01.16 記す。

辻風 医師問答――重盛の死 P.121~125

 辻風には飃あるいは飈という難しい字もある。つむじ風である。辻は言うまでもなく道路が十文字にまじわるところを指すが、辻のことを古くはつむじといって、頭という字を当てている。あたまの頭上には毛の辻、毛のつむじがある。四方から吹き寄せた毛が渦をなしている。

『平家』によれば、大きな辻風が治承三年(一一七九)五月十二日の真昼、京に発生した。一条大路から六筋南の中御門大路と平安京の東を限る京極大路のまじわるあたりに吹き起こり、西南方に吹き移り「棟門平門()を吹き抜けて、四、五町十町吹きおもてゆき、桁、長押(なげし)、柱などは虚空に散在す。檜皮()葺板(ふきいた)の類、冬の木の葉に乱るるが如し。夥しう鳴りどよむ音は、かの地獄の業風なりとも、これには過ぎじとぞ見えし、只舎屋の破損ずるのみならず、命を失ふ者も多し。牛馬の類、数も尽して打殺さる。」

『平家』巻一のおわり「内裏炎上」には安元三年(一一七七)四月二十八日の大火が語られていた。内裏も京の町々も焼き尽したこの大火のことは『方丈記』に書き残されいた。二年後の辻風についても『方丈記』は安元の大火にすぐつづけて書きしるしている。

 ところがこの辻風は、『平家』の言う治承三年五月十二日ではなく、その翌年、治承四年四月二十九日の出来事であった。『玉葉』『百錬抄』『明月記』の記録によって、これははっきりしている。『平家』は先の引用につづけて言う。

別 これ只事にあらず。御占(みうら)あるべしとて、神祇官にして御占あり。「今百日の中に、縁を重んずる大臣(おとど)の慎しみ、別して天下の大事、ならびに仏法王法共に傾きて、兵革相続(へいがくそうぞく)すべし」とぞ、神祇官、陰陽寮(おんようりょう)ともに占ひ申しける。
「辻風」の次の段「医師問答」は重盛の病中、治承三年七月二十八日の出家の次第を語り、同年八月一日の死を報じる。四十三歳。辻風を一年繰り上げて吹かせることで、『平家』は神祇官、陰陽師の占いの的中率を百パーセントに高め、末世の呪術的風土を手っ取り早く素描している。治承三年には、十一月七日に大地震があった(「法印問答」)。陰陽師安倍泰親が金匱経(こんきぎょう)に照らして、天下の大事が一年、いや一箇月、いや一日ンおうちにある。もってのほかの火急と、内裏に馳せ参じて言上する。たしかに「天下の大事」はこの年のうちにも相次ぐのである。

「辻風」の叙述が『方丈記』に依拠していることは、両方の文章をくらべればあきらかである。『平家』のほうはいかにも復社、筆に伸びがない。手本を引用しよう(大福光寺本による)。

2026.01.17 記す。

無文――重盛像 P.125~129

 神護寺に伝わる重盛の画像は、頼朝像、藤原光能(みつよし)像とともに、古今の肖像画中の傑作として殊に名高い。『神護寺略記』仙洞院の条には、後白河法皇の肖像がまず挙げられているが、いつの世にか失われてしまった。

 神護寺の起こりは遠く延暦の世にさかのぼる。久安五年(一一四九)の出火以後、荒廃していたのを文覚が再興を志し、元暦二年(一一八五)、後白河法皇に四十五箇条起請文(きしょうもん)を呈したことから、諸堂の再建がすいすんだ。頼朝は率先寄進に応じた人のうちである。光能は法皇の近臣、例の鹿の谷陰謀にも加わったが難をのがれた。治承四年(一一八〇)七月、福原の新都に文覚があらわれたとき、頼朝への平家追討の院宣を文覚にお手わたしたのが光能であった。

 いま高雄山に現存の三画像も、失われた法皇像も、筆者はすべて藤原隆信とされる。しかし、頼朝像と重盛像は、描法、表現力いずれから見ても、同じ隆信の筆とは思えない。各段に保存状態が良いのは頼朝像である。重盛像は殊に願面にすり切れあり、しみ(ゝゝ)ありで残念至極ながら、頼朝像が堂々覇者の威風あたりを払っているとはいえ、まことにととのいすぎているのに対して、重盛像には頼朝像に見あたらない画面構成の機微にも、形式化されていない描線にも、各段の冴えがある。ここに描き出されたのは、重盛の風景である。(中略)

「無文」の段は「天性この大臣は不思議の人にて、未来の事をもかねて悟り給ひけrにや。去んぬる四月七日の夢に、見給ひけるこそ不思議なれ」と語りはじめる。重盛の夢というのは……はてしない浜道を歩いているうちに、傍らに大鳥居がある。聞けば春日大明神の鳥居と人が答える。鳥居の前に群れる人々のなかから、清盛の首が太刀の先に刺しつらぬかれて高く差し上げられたというのである。夢からさめて涙を流していると妻戸を叩く者が」ある。瀬尾太郎兼康であった。兼康は人払いを願い出て、おのれが当夜見た夢を重盛に語った。ふたつの夢は寸分たがわなかった。重盛は夢の符合を知って「さてこそ妹尾太郎兼康をば「(しん)にも通じたる者にてありけり」と感じ入ったという。夢解きをするまでもない夢なのが、このさいいっそう不思議である。

 夢の翌日、重盛は嫡子維盛を呼び、赤地の錦の袋に入れた太刀を贈る。さては平氏伝来の名刀小烏(こがらす)かとうれしげに取り出せば、ただ黒漆一色の無文の太刀。大臣葬に()いて亡骸の供をするときの用にと言われて、維盛は返事もできなかった。その日は出仕を取りやめ、引被(ひきかつ)いで臥しているばかり。

2026.01.18 記す。

金渡 法印問答――伴信友のこと P.129~133

 重盛から維盛へ無文の太刀贈与があったのは四月、重盛の熊野参詣は五月のことである。熊野権現にわが生命をうばい給えと祈る重盛の身から燈籠の火のようなものがぱっと出てかき消えたことはすでに語られていた。

 ここに燈籠の話がもう一つかさなる。重盛は東山のふもとに四十八間の精舎を建て、一間ごとに燈籠をかかげ、毎月十四、十五日にかけて来迎引接(らいごういんじょう)の悲願を立てた。弥陀の第十八願、臨終にさいして仏があらわれ、浄土にみちびき給うようにとねがう慈悲の願。この行事が知れわたって、人は重盛を「燈籠の大臣」と綽名した(「燈籠の沙汰」)。

 つづいて「金渡」の段。治承の前、安元(一一七五ー七七)の春の頃、重盛は船頭妙典なる者を鎮西より召し出し、ひそかに体面あって、黄金三千五百両を妙典の前につみ、「五百両をば汝にたぶ。二千両を宋朝へ渡し、育王山へまゐらせて、千両を僧侶に引き、二千両をば御門へ参らせ、田代(たしろ)を育王山へ申し寄せて、わが後世弔はせよ」と仰せあった。「我が朝にはいかなる大善根をし置いたりとも、子孫相ついで弔はう事ありがたし」というのが、この大寄進の理由だったと『平家』は語る。それならむしろ、「国の恥」を異国の宋にまでさらけ出す行為は、宋医の診察を仰ぐ行為よりもこの「大善根」のほうではないかと慷慨これ久しゅうした人が江戸も末期にあった。伴信友(ばんのぶとも)(一七七三ー一八四六)である。

という一行  信友の書き残した随筆集『比古婆衣』(ひこばえ)二十巻は国書刊行会『百家説林』続編中巻に収められている。その巻十六に「小松内府育王山金渡しの事」という一項がみえる。信友は「育王山過去帳」と表記された古写本を入手した経緯にふれたのちに重盛の育王山あての書状、それに対する育王山からの返牒をいずれも全文かかげて長々と考証を施している。(中略)

 重盛が宋医の診察を拒んだのは『平家』の語る通りだったとすれば、同じ人が宋の大寺ならびに宋朝に多額の寄進をしたのはどういう理屈だろうか。重盛は清盛の嫡男としての宋貿易の利益を十分に蒙っていたが、その利はいわば魔王に魂を売り渡した代金であった。身体はもうどうでもよかった。魂を魔王から買い戻すことが重盛の大問題であった、と解するほかあるまい。(中略) 

「金渡」につづく「法印問答」は、治承三年十一月七日の大地震を告げる。陰陽師がまたいそがしいことである。安倍晴明を祖先とする安倍泰親が天下に片時迫るむねを内裏に奏上しつつ涙を流した。何を大袈裟な、若い公卿殿上人は嘲笑したが、泰親という人、占いはすべてあたるので、「指すの神子」と呼ばれていた。かつて落雷を身に受けながら狩衣の袖を焼いただけで命に別状はなかったという。「上代にも末代にも有り難かりし泰親なり。」天文博士、陰陽師に極上の形容をあたえるのは、仏門すじとは別の語り口も『平家』にまじっているからであろう。

 十一月十四日、清盛は数千騎の軍兵とともに、にわかに福原から都へ上った。関白藤原基房を討ち、朝廷をこらしめるという噂が広がった。後白河法皇は真意をたしかめようと、信西の子息、静憲法印を西八条へ使いに立てた。開き直った清盛は法皇に対する憤懣をかぞえ立てた。重盛の中陰というのに八幡へ行幸あり、歌舞を奉じられたのは何事か。重盛ほどの功臣を失いながら、お歎きの色が全く見えぬ。これ一つ。重盛の知行地だった越前国を嫡子維盛から召し上げられたのは、かねての約束に反する、これ一つ。中納言の欠員に入道女婿藤原基通を取りなしたのに用いず、関白基房の子を取り立てられた、これ一つ。鹿谷の謀反は法皇御承知のことであった、これ一つ。静憲法印は鹿谷に加わっていたから、おわりの一条にぞっとなったが、ひるまず押し返し、入道の官位栄達、俸禄、すべて功績に報いての君意のたまもの、それでもまだ御不満なりや、鹿谷の謀略を法皇御許容ありとはデマにすぎぬ。「耳を信じて目を疑ふは俗のつねの弊なり」と打ち返した。この法印問答は並み居る人々を感服させたそうである。

2026.01.19記す。

大臣流罪 城南之離宮――罪なくして配所の月 P.133~137

 治承三年の十一月は、事おびただしく、あさましい世のさまであった。「大臣流罪」「行隆之沙汰」「法皇被流(ながされ)そして巻三のおわり「城南之離宮(せいなんのりきゅう)まで、少し足ばやに見て過ぎようと思う。

 十一月十六日。清盛は思いどおりの復讐に着手した。関白、太政大臣以下公卿殿上人四十三人の官職を停止して追放。関白藤原基房は鎮西へ流罪と決定。基房は「かからむ世には、とてもかくてもありなん」とて鳥羽のあたりで出家。年三十五。遠流(おんる)の人が途中で出家すれば約束の国までは流されぬ定めにもとづき、基房は備前国府(こふ)のあたりに留め置かれた。関白の座には清盛の女婿基通が二位中将から大中納言を経ずしての昇進は前代未聞。人々はあきれ果てた。

 太政大臣藤原師長(もろなが)は尾張の国へ配流。この人は、詩歌管弦にすぐれ、殊に琵琶に長じていた。「罪なくして配所の月を見むといふ事は、心あるきはの人の願ふ事なれば」師長はいっこうに動ずる気配もなかった。この師長の上には源顕基(あきもと)の影が射している。顕基、後一条天皇の寵を受けて権中納言となったが、長元九年(一〇三六)、帝の崩御を機に出家して大原に住み、ひたすら仏に仕えた。『発心集』によれば、顕基は「いといみじき好き人にて、朝夕、琵琶をひきつつ、罪なくして、罪をかうぶりて、配所の月を見ばやとなん願はれける。」師長は顕基の願いをそのまま身に体現したことになる。

 ある日、師長、熱田明神に参詣し、琵琶をひき、『和漢朗詠集』の「願ハクハ今生世俗文字ノ(ゴウ)狂言綺語(キヨウゲンキゴ)ノ誤りヲモツテ」云々という詩をうたい、この狂言綺語(詩歌)に巧みな才を転じて仏礼讃の歌を」なしたとつづけつつ、秘曲を引くと、熱田の宝殿が振動した。「平家の悪業なかりせば、今この瑞相をいかでか拝むべき」とて、師長は感涙をながしたという。心に染みる佳話である。

「行隆之沙汰」は遠成(とおなり)家成(いえなり)なる親子、関白基房の侍というのでかねて清盛ににらまれていたが、六波羅の軍勢が迫るとみるや館に火をかけ、腹かき切って果てたという話を前段に、前左少弁(さきのさしようべん)行隆というはぐれ者が、にわかに清盛に取り立てられ、知行地をたまわったうえ、出仕の仕度までの配慮に浴し「手の舞ひ足の踏むところをもおぼえず。『是はされば夢かや、夢か』と狂気する話を後段にしるす。もとの左少弁になりかえった行隆は「今年五十一、今更わかやぎ給ひけり。ただ片時(へんじ)の栄花〔一時の仇花〕とぞ見えし。」

 十一月二十日、後白河法皇の御所、法住寺殿の四方を軍兵が取り巻いた。御所に火をかけ、人みな焼き亡す計画と聞えた。(つぼね)ンお女房、怪しの女rp>()のわれわにいたるまで、あたまに着物をひきかずきもせず、われ先にと逃げ出す。宗盛があらわれ、法皇に「早くお出ましを」とういながす。「成親、俊寛と同じ遠国(おんごく)流しにしようとkぁ、身におぼえのないことよ」と法皇。「いまはしばらく世を鎮めんがために鳥羽の北殿へお移りありたいと、父入道の申しておりますことゆえ」と宗盛。「しからば汝が供をせよ」。宗盛は入道の権幕に恐れをなして供しようとはせぬ。「これにつけても兄の内府、重盛には、殊のほか見劣りのする男かな。先年も重盛が身を挺して制止したればこそ無事であったが、もはや入道をいさめる人だれひとり供奉(ぐぶ)する者もない。七条を西へ、朱雀を南へ車が行けば、「あはや法皇の流されせましますぞや」とて、鳥羽殿のあまりのあさましさを静憲法印は清盛に訴え、存外な許しを得ると、法皇のもとにかけつける。法皇の寂寞、悲愁はきわまっていた。平家の悪業もこれがどんづまり、亡びる日は近いでしょう、神仏の守護はこちらにこそとなぐさめ参らせ法印の言葉も法皇をなぐさめない。内裏では、高倉天皇、「臨時の御神事とて、主上夜ごとに清涼殿の石灰(いしばい)壇にて、異世代神宮をぞ御拝(ごはい)ありける。これはただ一向法皇の御祈りなり。」

「城南之離宮」は「孝経」を枕に用いて高倉帝と後白河法皇、父子の思いやりに、まず一節をついやす。天皇は宇多帝、花山帝の出家を例に引いて、「山村流浪の行者ともなりぬべうこそ候へ」と法皇に書き送れば、法皇はそれを押しとどめ、「只愚老がともかうも、ならむやうを聞こしめしはてさせ給ふべし」と返書あった。『平家』()の文は『孔子家語』を引いていう、「君は船、臣は水、水よく船を浮べ、水また船をくつがへす。臣よく君を保ち、臣また君をくつがへす。保元平治の頃は、入道相国、君を保ち奉るといへども、安元治承の今はまた君をなめしたてまつる。史書ンお(もん)にたがはず」と。教養とは、折良い時に然るべき古典から然るべき喩えを引く人と、ただちにそれを解する人とが、呼応する場とすれば、『平家』は幾重にもかさなった物語作者たちと物語の受容者たちに、ひとしく教養があったことをよく伝えている。

 院生に重きをなした大臣、大中納言、相次いで世を去り、残るは出家遁世をとげた。「げに心あらむほどの人の、跡を留むべき世にもみえず。」清盛は散々にしたい放題をしたのち、娘は中宮に収まっているわ、女婿藤原基通は関白になったわ、もう安心とばかり福原へ引き上げ、政務は主上に一任すると言い置いた。

 十一月二十三日、宗盛はいそぎ参内してこの由を奏上におよんだが、高倉天皇は「法皇の譲りましましたる世ならばこそ。ただとうとう執柄(しつぺい)(関白)に言ひ合はせて、宗盛ともかう計らへ」とて、つめたく宗盛をあしらわれるばかりであった。

「城南之離宮」は一つらなりの名調子をもっておわる……「法皇は城南の離宮にして冬もなかば過させ給へば、野山(やさん)(流布本は射山(しやざん))。それならば仙洞すなわち法皇の居所)の風の音のみ烈しくて、寒庭の月の光ぞさやけき……夜霜の寒き(きぬた)のひびき、かすかに御枕につたひ、暁氷をきしる車のあと、遥かに門前に横たはれrし。巷を過ぐる行人征馬(こうじんせいば)の忙がはしげなる気色、うき世をわたる有様も、思し召し知られて哀れなり……さるままには、あの折々の御遊覧、処々(ところどころ)の御参詣、御賀(おんが)(五十の賀、安元三年三月)のめでたかりかりし事ども、おぼし召しつづけて、懐旧の御涙抑へがたし。年去り年来たつて、治承も四年になりにけり。

2026.01.20 記す。

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