杉本 秀太郎『平家物語』巻 四
 

目 次

厳島御幸 還御・なごりの遊楽 源氏揃・王と道化 鼬之沙汰・女装の落人 信連・名こそ惜しう候へ
・馬また馬 競(続)・太郎冠者 山門牒状他 橋合戦・窮鳥と函谷関 橋合戦(続)・敵も味方も見物す
橋合戦(続々)・馬筏 宮御最期 若宮出家・浮藻のかげ


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厳島御幸 還御(いつくしまごこう かんぎょ)――なごりの遊楽 P.141~145

 『平家』はこれより巻第四。いよいよ合戦相次ぎ、政調、乱調、急拍子、軍記の面目をあらわしはじめる。

 今より見返せば、巻三までは序の段にすぎなかった。しかし、序の段そのものにも、巻ごとにも、序、破、急の構えが仕組まれていた。序はすでに破を孕み、破は急を招き、ふたたび序に戻ると、いえても、巻二の序は巻一の序よりも、巻三の序三の序は巻二の序よりも、一段と緊迫の気配みなぎり、それに応じて破、急またいっそう荒々しく、おぞましく、悲しく、呪わしく、今さら取返しのつかぬ局面を討ちかさね、つづく序の口に迫っていた。

 火の記憶がよみがえる。二条帝の葬いに諸寺額打ちのことより端を発した山門と南都興福寺の争いから、まずは清水寺炎上。山門の僧兵どももが猛火に照らし出されていた。次いでは越前鵜川の白山末寺に火が放たれた。北面上りの加賀目代が寺を荒掠して合戦となり、寺は焼討ち。白山から比叡山にかつぎ渡された神輿が日吉の神輿もろとも内裏めがけて振りおろされた同じ月のうちに、京の町に火の手があがり、燃えひろがって内裏炎上。その昔、幽王が寵姫褒娰(ほうじ)の笑みを買う烽火(のろし)に遠い海彼(かいひ)の夜空があかいとみるうちに、比叡山は山門大衆ならびに徒党一味と清盛配下の官軍の攻守の修羅場と化して、堂塔堂宇荒れは……あがら、不思議や放火なしと思っていると、信濃の善光寺失火焼亡。破をうながし、急を告げて火が猛り狂うたびごとに、後白河法皇、入道相国、山門の三つ巴いよいよくるめき、世の乱れはさらに 甚だしくなっていた。山門の神輿振りの騒動再三におよぶうちに、野望と妬みに片時も心やすからぬ公卿、北面上りらの流罪、斬罪、横死、病死。彗星、辻風、大地震。小松内府病死していくばくも経ぬうちに、入道相国は政変をくわだて、関白太政大臣以下、公卿殿上人の解職追放四十三名。法皇は離宮に押込め。巻三がここでおわった。、

 巻四にいたれば直ちに合戦というわけではない。まずは破を孕んだ序として、治承四年一月二十日、東宮の袴着魚味(はかまぎまな)はじめの儀から話題を起こす。東宮、父は高倉帝、母は入道の娘徳子、二十歳。東宮の即位にあたって安徳天皇、三歳。これは入道相国よろず思ふさまなるが致すところなり。」三種の神器は直ちに高倉帝の御所閑院殿から新帝の御所五条内裏へ移された。「入道諸国夫婦どもに外祖父外祖母とて准三后(じゅんさんごう)の宣旨をかうぶり、年元年爵(ねんがんねんじゃく)を給はつて」六波羅は上皇、宮家の御所も同然、時運の華やかさ尽きぬ趣を呈した。

 三月上旬、高倉上皇が厳島に御幸と聞えた。「諸社の御幸のはじめには、八幡、賀茂、春日などへこそならせ給ふに、安芸国までの御幸はいかにと、人不審をなす。」平家のあがめる厳島ゆえ、入道の謀反心をやわらげようとの配慮か、山門の大衆またこれをたねに一騒動起こそうとした。八幡、賀茂、春日でなければ山門にこそ御幸あるべきに何事か、神輿を振りおろして阻止せよ。御幸はしばし見合わせとなった。入道のなだめで山門はしずまった。

 高倉上皇は厳島へ旅立ちの機に、鳥羽殿に幽閉中の父なる法皇に一目会いたしと宗盛に申し入れあり、親子の情にいたく感じた宗盛、この由を鳥羽殿に知らせる。三月十九日、上皇はまず西八条にあいさつあったのち、ひそかに夜明けまえの鳥羽殿へ。父子体面あり、人をまじえず密談あり。翌日、日も高くなってから高倉院は出立、淀川下りの船へ。

 三月二十六日、厳島着、入道相国の最愛の内侍(ないし)の館が宿所となった。この内侍のことは巻一「吾身栄花」に「安芸国厳島の内侍が腹に一人おはせしは、後白河法皇へまゐらせ給ふて、女御のやうでぞましましける」としるす。またこのことは少し先の巻六「廻文(めぐらしぶみ)」に、高倉上皇の死(治承五年一月十四日)より二七日(にしちにち)を経たぬうちに、驚くべきことに、入道は高倉上皇危篤のとき、娘なる女御徳子を法皇の后に入れようとして徳子の激しい拒否に合って果さず、代って内侍の娘を献上におよんだという。この事情は『平家』は触れず、内侍の娘の入内は「ひとへに女御参りの如くにてぞありけり」というのみ。『源平盛衰記』によれば、色好みの法皇ながら、さすがにこの生きた献上物に寵を垂れ給うことは全くなかった。

 厳島は、巻二の「徳大寺厳島詣」がすでに示していたように、女護が島のようなところである。内侍と呼ばれる巫女(みこ)のうちには、遠来の貴人をねんごろに歓待する役柄が設けられていた。高倉上皇は法華経を手写して奉献し、かねて入道が厳島に奨励していた舞楽を見、本社、摂社、末社、残りなく詣でたのち、神主、国司には加階、座主には法印の位を許した。このとき陪従した新宰相中納言通親の『高倉院厳島御幸記』によれば、この御幸には入道相国も随行していた。

 二十九日、還御の船出。いったん沖に出てはげしいとて漕ぎ戻し、(あり)の浦にとどまる。厳島大明神とのお名残り惜しみに歌を詠めと上皇の仰せあり、隆房少将、「たちかへるなごりもありの浦なれば神もめぐみをかくる白波。」さながら遊宴の趣である。やがて風おさまって船出、東の」ほうへと戻るにつれ、「けふは卯月一日、衣がへ」の日といって歌あそびをし、藤の花を岸に見てはまた歌を詠みあい、厳島の内侍の品評を歌のかけ合いにしてたのしんだり。こうして明石の浜で上陸。福原のあちこちを遊覧、池中納言頼モ盛の山荘に宿泊あって、また入道に縁のある公卿たちへ昇進の賞。四月八日、都へ帰着。

 やがて源平の合戦起これば、平家の公達は同じ道を西へ落ちるだろう。厳島のはるか沖合を平家の軍船が西をさして遁走する日も」遠くはない。高倉上皇一行の厳島往還は、動乱に先立つさいごの遊楽の旅であった。歌をちりばめて、いささかのどかすぎる段は、四月二十二日の安徳新帝の即位式を語っておわる。大極殿は安元の大火に焼けて無く、紫宸殿に高御座(たかみくら)が設けられた。宗盛以下、重盛の子息は父の裳中とて不参、籠居したというが、以仁王(もちひとおう)謀反のひそかな情報が、彼らの許に届いていたのかも知れない。

2026.01.22 記す。

源氏揃(げんじぞろえ)――王と道化 P.145~1459

 治承四年四月、以仁(もちひと)王を振り立てて平家に反旗をひるがえした源三位頼政の挙兵は、一箇月余りであっけなく潰え、頼政は自害、以仁王は殺害された。たしかにこの烽火は束の間、夜空をこがしたにすぎなかったが、計り知れぬ効果をもたらした。あきらかに平家はこれより没落にむかう。現実の効果とは別に、以仁王、頼政の謀反に伴う一連の出来事を活写する段におyぼんで『平家』は、そうでしかあり得ぬ場面、状況について、的確に想像する力量を発揮し、これによって『平家』の読者は興に入ること一通りではなくなる。なまの現実ではなく、歴史の必然性でもなく、現実を生き写しにしてあばき出す文芸の働きそのものが、私たちの関心をみごとに呼びさますからである。綾も彩りも、それが決して付け足しではなく、綾あり彩りあればこそ目に映じる物の姿が、物語の織布に浮かびあがる。織り出す手の助けもなく消え去った現実には、『平家』にあとを留めるすべはなかった。なまのままの現実はまことにはかない。

 以仁王、後白河天皇の第二皇子。母は藤原季成の女成子。この母の出自が高貴ではなかったがために宮は親王宣旨を得ないまま十五歳のとき、近衛河原の大宮御所で「忍びつつ」元服。文雅の才あり、殊に笛をよくしたが、後白河の第四皇子、のちの高倉天皇の生母建春門院のそねみを受けて押籠められ、治承四年にはむなしく三十の齢を迎えていた。

「その頃」と『平家』は語る、「近衛河原に候らひける源三位入道頼政、或夜ひそかにこの宮の御所に参つて、申しける事こそ怖ろしけれ」として、頼政が宮に謀反をすすめた言草には、「君は天照大神(てんしようだいじん)四十八世の御末、神武天皇より七十八代に当らせ給ふ。太子にも立ち、位にも即かせ給ふ」べきに、三十まで宮にて渡らせ給ふ御事をば、心憂(こころう)しとは思し召さずや。(中略)御謀反おこさせ給ひて、平家をほろぼし、法皇のいつとなく鳥羽殿におしこめられてわたらせ給ふ御心をもやすめまゐらせ、君も位に即かせ給ふべし。」これこそ孝行の至りではございませぬかと、皇位の正統と孝道を()り合わせての進言。令旨(りようじ)さえ下されば、諸国の源氏、悦びをなして馳せ参じましょうと言って「源氏揃」の一くさり。まず京よりはじめ摂津、大和、近江、美濃尾張、甲斐、信濃、伊豆、常陸、陸奥に散らばっている源氏一族および五十名を並べ立てた。なかに義仲、義経が挙がっているのは言うまでもない。

 さて列挙ののちに頼政は時局批判を加えていう――朝敵を平らげ宿望を遂げるには、源平いずれ勝劣無かりしかども、今は雲泥交りを隔てて、源氏に対する平家の態度は主従の礼にも猶劣るありさま。諸国いずれに住していて⒨お、平家のさし向けた目代(もくだい)の言いなりになるしかなく、荘園を有していても、中央より派遣された預所(あずかりどころ)の小役人に使われ、公事雑事(くじぞうじ)にかり立てられ、内心安からではござらぬ。君が御決意あって令旨を下される事になれば、国々の源氏どもは夜を日についで馳せ上り、平家を亡ぼすに多くのの日数を要することはありますまい。私も老体ながら、子どもも引き具して加わりましよう、と。

 頼政という人、清和源氏の「嫡々の正統」と巻一の「御輿振」に出ていた。その頼政に言わせれば、以仁王は皇位の嫡々の正統である。ここに両者の契合点が設定されている。そしてもっと重要なことは、以仁王が若いながらに風流の隠者であり、現実にはなんの力も持たないゼロのこの存在が、月の夜には笛の雅音(がいん)を操り、詠歌をしたためる手跡には人を恍惚たらしめるものがあったことである。頼政はこういう宮にみずからはひとりの道化となって仕え、宮の才覚を照り渡らせ、礼節ととのったまつりごとを再興して、放縦(ほうじゅう)きわまり横暴いたらざるなき平家から、うつし世を奪い返そうと夢見たのではなかったか。

 頼政はもとより武芸者ながら、そもそも歌人として聞こえ、いたれる数寄者(すきもの)として宮廷に一きわ光彩を放っていた。宮中歌合の場に馴れた頼政には、衆目を一身に集める場での当意即妙の応答くらい何でもなかったことを語り伝えるべく、『平家』は謀反の顛末から切り離して「(ぬえ)」の段を設けた。頼政はみずからも栄達の道から外された失意の身として滑稽化してみせる和歌を披露し、そのことで主上のおぼえめでたく昇進を果たすこと再度におよんだ。

 この数寄者のあざうやかな道化振りには、少しのいやみもない。「鵺」には、こう語られている。

保元の合戦の時、御方(みかた)にて先をかけたりしかども、させる賞にもあずからず。又平治の逆乱(げきらん)にも、親類を捨てて参じたりしかども、恩賞これおろそかなりき。大内(おおうち)守護にて久しゅうありしかども、昇殿をば赦されず。年たけ(よわい)傾きて後、述懐の和歌一首()うでこそ、昇殿をばゆるされけれ。

  人知れず大内山の山守(やまもり)()がくれてのみ月を見るかな

この歌によって昇殿ゆるされ、正下(したげ)四位にてしばらくありしが、三位を心にかけつつ、

()のもとにしひ(椎=四位)を拾ひて世を渡るかな

  のぼるべきたよりなき身は

さてこそ三位はしたりけれ。やがて出家して、源三位入道とて、今年は七十五にぞなられける。

 頼政には、以仁王が謀反の首魁としていかにも頼りない人であることはよくわかっていた。宮が謀反にふみ切ったのは相人(人相人)の見立てに「位に即かせ給ふべき相(まし)ます」とあったからだと『平家』はいう、謀反のいくさ、すでに敗色濃くなって三井寺から宇治へ逃げのびようという馬上で、宮は居眠りをして落馬六たびにおよび、果ては宇治川の合戦に頼政自害したのち、南都にむけて落ちゆく途上、流れ矢を脇腹に受けて転落、首を掻かれる。池中に投げ捨てられた首なき胴の腰には、愛しやまなかった小枝(こえだ)という笛が差してあった。こういう最期をとげる人でなければ、頼政が祭りあげて主上に奉り、道化の果てを飾るには足りなかったということが、大事な見どころである。

2026.04.26 写す。

鼬之沙汰(いたちのさた)――女装の落人 P.149~152

『平家』の物語る順をたどるつもりが前後して、以仁王の最期に触れた(ついで)にいえば、頼政が平等院で自害するときに唱えたというかねて用意の辞世一首は頼政の道化振りをよく伝えているところが、また妙といわねばならない。

  埋木(うもれぎ)の花さくこともなかりしに身(=実)のなる(はて)ぞかなしかりける

 思えば、舞台回しという役割ほど、道化にふさわしいものはない。以仁王の謀反は、頼政という道化あって令旨という最も強力な火箭(ひや)につながった。この火箭を東国の源氏のもとに送り届ける役目には、新宮十郎義盛という者が選ばれた。蔵人の位をたまわり名を行綱と改めたにち、四月二十八日に都を発って近江、美濃尾張よりはじめ東へ下り、五月十日には伊豆の北条()が小島に着き、流人前右兵衛佐(るにんさきのひようえのすけ)源頼朝に「令旨たてまつり」、頼朝これを拝しおわって信太(しのだ)三郎義教(よしのり)は「兄なれば」とて信太(霞ヶ浦)の浮島へ、木曽冠者義仲は「甥なれば」とて中山道へ、令旨をたずさえた行綱を走らせる。

 ここに湛増(たんぞう)という者がある。代々にわたって熊野の別当織をつとめる家筋の生れで、紀伊の田辺にいて熊野水軍を統率していたようである。新宮十郎義盛の謀反のことが逸早く湛増の耳に入った。平家に重恩ある身、捨ててはおけぬ、「矢一射かけて、平家へ仔細を申さん」とて、、直甲(ひたかぶと)一千余人を船に乗せ、新宮の港へさし向けた。対する新宮、那智の水軍は一千五百余。合戦三日におよんだすえ、湛増は敗退し、以仁王謀反の報を飛脚に託した。

 いまだこの飛脚の到着していない五月十三日のこと、清盛入道は宗盛の懇請をようやく容れ、鳥羽殿に押込めていた後白河法皇を八条烏丸なる美福門院の御所へ解放し奉った。もっとも『山槐記』によれば、法皇に所労あり、入道はやむなく幽閉を解いたということらしい。

 その前日すなわち五月十二日、「午の刻許り、御所中には(いたち)おびただしう走り騒ぐ」ということがあった。このこと『源平盛衰記』には、法皇の目にもとまった鼬を「赤く大きなる鼬の、いづくより来り参りたりとも御覧ぜざりけるに」としるす。鼬が群れをなして鳴けば必ず事が起こり、吉でなければ凶、ただちに「いたら眉目佳(みめよ)し」という唱え言をするならば凶なるべきものが4,一転して吉になると人は信じていた。鼬は群居することが決してなく、つねに単独行動をする。雌のほうが雄のおよそ半分の体長にしかないのも変っている。目にもとまらぬ速さで一直線に走り、獲物にとびかかって喉を食い裂く。鼠、(てん)は鼬を強敵とする(俚諺にいう「鼬の無き間の貂誇り」)。屠殺した獲物をくわえた鼬は、直線後退という特技を発揮し、暗所に運び入れた獲物を跡形もなく食い尽くす。もしも襲われてその身危うしとみれば最後屁を放ち、辟易する敵を尻目に逃走する。かような特徴、習性を有する鼬は、魔界に通じる小動物として古くから畏怖されていた。しかも普段は単独行動をしているのに、時として一箇所に群らがり、互いに追いつ追われつ、くるくると(ともえ)の渦を現出し、甲高い奇声を発する。これを鼬の火柱と称し、火柱の消え尽きるところから怪火が発生するそうな。

 後白河法皇は鳥羽殿でこの火柱を目撃におよぶや、さっそく陰陽師安倍泰親に吉凶を占わせた(この人、巻二「座主流」では明雲座主の名に凶兆をよみ取り、巻三「法印問答」では治承三年十一月七日の地震を火急の変事近しと占った)。使者近江守仲兼、泰親を宿所にたずねたが不在。白川にといわれてそちらに勅諚(ちょくじよう)を伝えて返事を受け取り、鳥羽殿へいそぎ戻るが、警固の武士ども立入りを許さず。勝手知った仲兼は築地をこえ、大床の下を這うて御座所の切板を押し上げて返事を参らせた、と。仲兼は鼬のするようなことをしてお役目を果したのである。ここには『平家』の諧謔・ふざけ(ゝゝゝ)が仕組まれている。さて、泰親の占いには「今日三日がうちに御悦びならびに御歎き」と出ていた。

 果して翌五月十三日、入道相国が法皇を鳥羽殿から解放したことはすでにしるした。占いから三日後の五月十五日には、、湛増の急使が六波羅に到着、高倉の宮以仁の謀反発覚となるはずである。鼬の占は大当たりというお話として承けた割っておくことにしよう。

 後白河法皇の第二皇子以仁の謀反に入道は逆上した。「その儀ならば高倉の宮を(から)め取って土佐の畑(幡多(はた))へ移すべし。」ただちに宮捕縛の一隊が編まれた。

 折しも宮は高倉三条の御所で「五月(さつき)十五夜の雲間の月をながめさせ給ひ何の行方も思し召しよらざりけるに」、頼政の使者が文を届けた。「発覚いたしました。迎えの官人どもが御所に向かっております。急ぎ三井寺へ()らせおわしませ。頼政もすぐに参りましょう」とある。うろたえておられると、長谷部信連(のぶつら)という宮の侍が「致し方もございませぬゆえ、女房装束に市女(いちめ)笠という出立(いでた)ちをととのえ、傘持つ侍者一人、物入れた袋をたずさえる童一人をしたがえ、青侍(あおざむらい)が女を迎えて歩いてゆく態に見せ、高倉通りを北にむかって落ちて行かれたが、……「溝のありけるを、いと物軽う越えさせ給へば、道行き(びと)が立ちとどまって、『はしたなの女房の溝の越えやうや』とて怪しげに見参らせければ、いとど足早に過ぎさせ給ふ。」

 このくだり、もとより『平家』の作りごとながら、ひたいに髪をさげ、女装に市女笠のこの人が、ひらりと溝をとびわたる姿のよろしさよ。五月十五日夜の月が照りかげりする夜の高倉通り、二条をすぎ、中御門(なかみかど)大路もすぎればやがて近衛通り。あたりに人家もまばらとなれば、さぞかし宮は、腰にさした一管の笛を吹きすさびつつ落人のうつし身を洛外へ運びたかっただろう。腰の笛は秘蔵の小枝(こえだ)。御所を出るとき、枕もとについに忘れたのを、留守を言いつけおいた信連が気づき、いそぎ五町のうちに追いついて、手渡してくれた。

2026.03.01 写す。

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