杉本 秀太郎『平家物語』巻 六
 

目 次

新院崩御――朝廷の正月、腹赤のこと 新院崩御(続)紅葉――和歌と漢詩 葵前 小督――心の色深くして 廻文 飛脚到来――義仲の登場
入道死去 築嶋――あっち死に 祇園女御――洲の俣合戦の知盛 慈心坊 祇園女御(続)――ふたつの抜け穴 嗄声 横田河原合戦――改元二度の世


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新院崩御――朝廷の正月、腹赤のこと P.217~221

 奈良炎上から四日後に年は明けて、治承五年。これより『平家』は巻六。冒頭、正月節会(せちえ)の記事がめでたかるはずはない。「正月一日の日、内裏には、東国の兵革、南都の火災によって、朝拝(とど)められ、主上出御もなし。物の音も吹き鳴らさず、舞楽も奏せず、吉野の国栖(くず)も参らず。(とう)(藤原)氏の公卿一人も参ぜられず。氏寺(興福寺)消失によつてなり。二日の日、殿上の宴酔(えんすい)もなし。男女うちひそめて、禁中いまいましうぞ見えける。」振り返ると、去年の正月三箇日も、朝廷の儀典はなおざりにされた。後白河法皇の幽閉先、鳥羽殿には、清盛の勢威をおそれて、だれひとり参賀する者もなかったことは巻四の巻首にしるされていた。奈良炎上の惨禍の直後、清涼殿東の庭に大臣以下殿上人らが参集する()朝拝の儀が、まず取りやめとなった。龍笛(りようてき)(しよう)篳篥(ひちりき)も聞こえず、舞楽もなかった。古くから元日に参賀して、ひなびた笛を吹き、古俗の舞を見せる吉野の山深い国栖の里の翁も、あらわれなかった。

 このくだりを長門本『平家』また『源平盛衰記』で見ると、吉野の国栖不参につづけて、「(はらか)の奏」もなかった、とある。ハラカという魚については、伴信友、『比古婆衣(ひこばえ)』巻二の「腹赤」の項に長文の考証が見える(この随筆集巻十六の「小松内府育王山金渡しの事」には、「金渡 法印問答」で触れた)。信友は『源平盛衰記』に鰚とある魚が一体どのような魚なのか、多年にわたって気にかけていた。「腹赤」の記事から、信友の考証をいくつか拾うことにする。

 『(しよく)日本紀』に引用されている『肥後風土記』に照らして鰚、景行天皇の熊襲討伐のとき、肥前玉名郡長渚浜(ながすばま)で釣られ、天皇の(にえ)に供せられた「爾倍(にべ)」という魚が鰚(腹赤)である。この故事にしたがって、聖武天皇の天平十五年正月四日に、筑前から京へ鰚を鱒とした一条兼良『江次第抄(ごうしだいしよう)』に見える説は二条関白良基の説をそのまま引いた誤りである。貝原益軒『大和本草』に出ている鰚の別名グチ、イシモチは、李時珍『本草綱目』に載せる石首魚(信友はニぺウラと振仮名する)の別名あれこれに引き寄せたもの。西行『山家集』雑部の一首、はらか釣るおほわたざきのうけ縄に心かけつつ過ぎむとぞおもふ。これに詞書して西行は、ハラカ漁は毎年十月一日、沖はるかに釣縄を引き渡して、師走になって引き上げ、京へ献上するが、この釣縄の船が当ると、土地の猟師から面倒な争いを仕かけられる、その心を詠む、としるす。貞治五年の『年中行事歌合』に見える二条関白良基の詞書によって、正月の朝廷の宴に鰚を相伴にあずかる殿上人たちは、大きな鰚(良基は鱒だと思っている)の食いさしを取り渡して突っつかねばならず、内心辟易していたのがわかる。『百錬抄』寿永三年正月一日の記事に「節会アリ、腹赤ノ贄ヲ進ゼズ、西国ノ賊乱ニヨツテ也」と見えるのは、前年七月、平家が安徳天皇を擁して西国へ落ち、肥後あたりにまで乱がおよび、ついに鰚献上はこの頃に廃れたことを示唆する。西行の腹からの歌は、廃れる寸前の詠であろう。

 かような記事が綿々と、子細に、しかも冗漫に陥ることなく書きしるされている。読みたどるうちに、てのひらが汗ばむ。

 さて信友は考証のさいごに館の写生図を掲げ、図の由来を説く。「腹赤」の稿を仕上げてのち、讃岐高松の殿中勤め寺井肇に稿を示したところ、讃岐ではこの魚の小さいものをニべ、大きいものを底ニべといっている。底ニベにはまれに八、九尺、一丈にも及ぶ大魚があり、海底に沈んでいいぇ、浮くことをしない。ニベとは別のものだ。そういって国もとへ帰ると、寺井肇は「ものの(かたち)よくかき写す人にあつらへて、其底ニベの形状を、書かせておこせたる」のがこの図である。図には「藤為恭写之」とある。絵師は岡田為恭(ためちか)。道理で精細にな、上乗りの写生である。その後、「紀伊国君の御内人(ごないじん)」、歌人または有識として知られる長沢伴男(ともお)が薄命を帯びて江戸にいたあいだ、よく信友のところへあそびにきたが、あるとき稿本を手にとり、ふとこの図を見て「此は鱒の魚なるにか」とつぶやいた。『肥後風土記』に、吉備の朝勝がこれを釣って鱒に似ているといって土地の者に聞くと、ニベと答えたあったのを信友は思い出し、微笑を禁じ得ず信友に原文を示した。「おもしろかりつれば、そのことをもかきそえつ」としたあとに、信友は戯れに一首を詠じて、長大な腹赤考証を閉じる。

仁倍(にべ)の魚をいまもにべさにきみが世の長渚(ながす)海人(あま)のたてまつらなむ
「にべさに」は、親密に、の意。「さ」は恋しき、憎さと同じ接尾語。「にべ」はニべの(うきぶくろ)から製するニべ(にかわ)のことから転じて、寄り添う気分をいう。否定して「にべもなく」なら、いまも日常に用いている。

 信友に長く係わりすぎたが、もうひとつ、大事な記事を拾い忘れていた。さて源平盛衰記に、筑紫よりはらからの使いの上るこそ、(どう)十五日とは聞えしか、といへること見えたり。」遠く筑紫より進上するのだから、「塩漬にて奉りしなるべし。」十五日という行程のことは『平家』にもすでに巻ニの「阿古屋之松」おわり近くに遠路の目安として「筑紫の大宰府より都へ鰚の使いののぼるこそ、かた路十五日とは定めたれ」とあり、『源平盛衰記』には巻七「笠島道祖神」の段に同様のことがしるされている。

 語り本、並の『平家』に戻って読み継ぐと、例年の御斎会(ごさいえ)には、南都の僧を召さねばならないのに、正月五日に宣下があって、南都の僧¥たちは高職を解かれ、朝廷による法会(ほうえ)、講論に召さる資格を失っていた。御斎会は、正月八日より十四日まで清涼殿で金光明最勝王経を講説し、国家の安泰を祈願する法会。仕方なく山科の勸修寺に隠れ忍んでいた東大寺の成宝(じようほう)という学僧を引っぱりだして、型どおりの御斎会をおこなうような有様であった。

 高倉上皇、かねて病篤かったが、一月十四日、六波羅池殿にて崩御。二十一歳。「末代の賢王にてましましければ、世の惜しみたてまつること、月日の光をうしなへるがごとし。」その賢王ぶりについて、『平家』はこのあとに「紅葉」「葵前(あおいまえ)」「小督(こごう)の三段をつらねて物語ることになる。

2026.02.02 記す。

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