杉本 秀太郎『平家物語』巻 七
 

目 次

清水冠者 北国下向 竹生嶋詣
――馬の草飼
火打合戦 願書 倶利伽羅落
――斎明と覚明
篠原合戦
――無残
実盛
――変化三態
還亡 牒状 主上都落
――都の内と外
維盛都落 忠度都落
――非力の系統
経正都落 一門都落 福原落
――下弦の月


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清水冠者 北国下向 竹生嶋詣――馬の草飼 P.255~261

 『平家』は巻七にさしかかると同時に、いやなことを語りはじめる――「寿永二年三月上旬に、兵衛左(ひようえのすけ)と木曽冠者義仲不快の事ありけり。兵衛左木曽追討のために、その勢十万余騎で信濃国へ発向」すと。義仲が横田河原合戦で平家に味方する城四郎に深手を負わせたのは六箇月前のことである。鎌倉の兵衛佐頼朝には、従弟義仲の勝いくさが気に入らない。平家に代って天下の覇権をうかがう頼朝には、思いどうりになるはずの手中の駒が大将になりあがっては厄介である。早いうちにまず義仲をやっつけ、その支配下にある国々をうばい取れば一挙に領国を拡げることができる。敵を倒すよりも先にまず味方の、もっとも身近な相手を切り捨てる独裁者の常道に頼朝は就こうとする。謀反のうたがいを晴らすべく嫡男を人質として差し出してしまうような愚直、一本気の義仲があわれで、かわいそうでならないだけ、鎌倉の御仁はかわいげなく憎らしい。せっかく『平家』を半ばまで読みすすんで峠をひとつ越えたとおもっている眼下の眺めに、いやな男の影となって地上を動いている北国。にわかに気落ちをおぼえ、疲れが出てきた。

 巻七のはじめ「清水冠者」はみじかい一段である。元和九年刊の流布本(講談社文庫)はこれを別立てにせず、「北国下向」を巻首に、清水冠者のことはその冒頭に収めている。頼朝と義仲の「不快」(仲たがい)の原因は、すでに信濃の善光寺まで押し寄せた頼朝のところへ使者に立った義仲の乳母子(めのとご)、今井四郎兼平の口上という体裁で語られる。兼平の姿は、影が形に添うように義仲のいるところにつねに見られるだろう。「そもそも御辺(ごへん)(とう)八箇国を討ちしたがえ、東海道より攻めのぼり、平家を討とうとなさっている。義仲も東山(とうせん)北陸両道を討ちしたがえて、東海道より攻めのぼり、平家を亡ぼす覚悟であるのに、いかなる子細あって、御辺と義仲、仲たがいして平家に笑われようとは思いも寄らぬこと。もっとも、叔父の十郎蔵人行家殿は、御辺に恨みがあるとて義仲のもとにござったが、義仲までがすげrなくあしらうのは思えばこそ、これまで打連れて参りました。しかし義仲に」おいては御辺に対して少しの意趣もふくんでおりませぬ。」頼朝はひややかに答える、「いまにおよんでさようなことを申しても、頼朝を討つ謀反のくわだてありと告げ知らせた者がある。聞えぬ。」いよいよいくさの気配だといううわさを聞いた義仲は、生年十一歳になったばかりの嫡男、清水冠者義重を人質に差し出し、手勢の信濃の勇士数人を義重に添えて、意趣なき証しとした。頼朝は、成人した男の子をまだ持たないからわが子にしようといって、清水冠者を鎌倉に連れ帰る。

 『平家』は諸本いずれにも、この十一歳の人質の末路についjて、なんら語るところがない。『吾妻鏡』によれば、義重は、父義仲が討死した寿永三年一月二十一日より三箇月後の元暦元年四月二十一日、頼朝の配下の手にかかり入間川原で斬首される。義重に思いを寄せる頼朝の娘大姫のみちびきによって、女装していったんは頼朝の手よりのがれたが、叶わなかったいう。『平家』は、仇敵の血脈断絶を墓って罪なき遺子を殺害する話には、維盛の嫡男六代御前の物語にまとをしぼって、十二巻本『平家』の巻十二の結尾に「六代」「初瀬六代」「六代被斬」と三段をかさね、消しがたい印象をあたえるべく予定しているようである。義仲の遺子義重をめぐる物語は、『平家』のそとで、室町時代の御伽草子(おとぎぞうし)『清水冠者物語』となって読み継がれることになる。

 頼朝義仲の「不快」の原因について、ここで底本としている覚一本をはじめ、語り本系『平家』は、行家に対する両人の態度のちがいに触れ、また頼朝に讒言する者があったことをほのめかすにとどめている。だが『平家』も延慶本、長門本および『源平盛衰記』の読本系には、対照的に「不快」の事情詳細にしるされていて、甚だ読みごたえがある。いま長門本(国書刊行会、明治三十九年刊)にしたがって、あらましをたどれば、頼朝の叔父十郎蔵人行家は、頼朝が先祖の土地というので相模国鎌倉に住したのにたいして、これは相模国松田にいた。大庭三郎がかつて清盛入道の鹿島詣ある由にかこつけて松田に設けた入道御所に身を寄せていた。「所領一所もなければ、近隣の在家を追補し、夜討強盗をして世をすごしけり。」あるとき、このならず者の行家、手紙を頼朝に送っていうには、美濃国の洲俣にはおぬしの代官としておもむくこと十一度、八度は勝ち、三度は負け、子息ならびに家の子郎等を多く失い、その嘆きは計り知れない。国一箇国を行家に預けたまえば、孝養を果すことができる、と。頼朝は返事して、木曽冠者は信濃、上野の軍勢を率いて北陸道七箇国を討取り、いまや九箇国の主になっているが、頼朝はわずかに六箇国を従えるのみ、自分でいくらの国を討とうがご勝手。頼朝は院、内より国庄を人に分けあたえる権限を授かってはおらぬ、とつっぱねた。そこで行家は千騎を引きつれて信濃へ越え、木曽義仲をたよった。これを知った頼朝は、木曽は行家に同心して鎌倉を攻めるとかんがえ、先手を打って信濃に攻め寄せた。またその頃、甲斐源氏武田五郎信光が頼朝にいうことに、「信濃の木曽次郎は城四郎を討ち落して以来、其勢雲霞のごとし、梟悪(きょうあく)の心をさし挟みて、平家のむこになりて、佐殿(すけどの)を討ち奉らんとはかる由承る。平家を攻めるとて京へ打ち上る由聞ゆれども、まことは平家の亡き小松内大臣(重盛)の女子の十八に成り候なるを、伯父内大臣(宗盛)の養子にして、木曽をむこに取らんとて、内々文ども遺し候なるぞ、御用意あるべしと密かに告げ申したりければ、佐大いに怒りて、云々。」

 信光の讒言は、たしかめようのないところに話のすじを結びつけておいて、聞かされた相手が「あまりの意外さに冷静を忘れるように作られている。讒言のひとつの見本のような上出来の虚言である。これを聞いて怒りにわれを忘れた頼朝は、怒ったというそのことで讒言を信じたことを自他に示している。あさはかな人である。人の長たる器量ではない。しかし信道讒言というものが読み本系『平家』に共通の作り話としたら、このくだりを信じることは讒言を信じた頼朝を信じることになるからややこしい。覚一本その他語り本系『平家』には、猜疑心強くて讒言に容易に左右される人物として頼朝を印象付けることを避けようとする傾きがあって、信光の一件は削られたのかもしれない。

 それにしても信光はなぜ、かような手の込んだ作りごとによって義仲をおとしいれたのか。長門本は、清水冠者の人質一件をしるしたのちに、もとに戻って、そのわけを説いている。「武田五郎信光、木曽をねたみて兵衛佐に讒言しける意趣は、かの清水冠者を信光婿に取らんと云けるを木曽請引(うけひ)かで返事に申しけるは、同じ源氏とてかくは宜ふか、娘持たらば参らせよ、清水冠者につがはせんといひけるぞ荒かりける。信光是を聞きて安からず思ひて、いかにしても木曽を失はんと思ひて、兵衛佐に讒言したりける、と後には聞こえけり。」

 義仲は嫡男を人質にして、ひとまずは鎌倉との仲間割れを回避した。木曽に戻ると、宗徒(むねと)の郎等三十余人の妻どもを呼び集めていうには、「清水冠者はおのおのが夫の身代りに鎌倉へつかはしたるなり。いkぁにというに、冠者をつかはさぬものならば、鎌倉殿(信濃より木曽へ)打越えて、いくさあるべし。いくさあらば義仲も恥をおもへば手を引くまじ。そちどもの夫々(おつと)も討死すべし。されば世の中を鎮めんとて、清水冠者を嫡子なれども引放ちてやりつるぞ、と宣ひて、猛き心なれども涙をぞ流されける。三十余人の女房ども是を聞きて、あなかたじけなやの御事や。かやうに思し召されたる主を打ち捨て参らせて、妻子どもが恋しければとて、いづくの浦よりも落ち来たらん夫どもをば、相見候」はじ、照月の(もと)にすまじ、社々の前を通らじと、おのおの起請を書てぞ立たりける。夫どもは是を見て手を合わせて悦びけり」と長門本『平家』は義仲をたたえている。これも覚一本など語り本系『平家』には跡形もない。

 一つの段に、問答あるいは応酬、総じて人の(なま)の声の聞こえる場面を二箇所とは設けず、一つに絞ることで、語り方の工夫をそこに集中し、その場面をきわ立たせること。これが語り本系『平家』に一貫する特色であり、『平家』の叙事詩の性格をこの特色が支えている。そういう指摘が、早くに石母田正によって示されていたはずである(岩波新書『平家物語』)。覚一本の「清水冠者」の段に問答応答の場面としては、今井四郎兼光と頼朝のやりとりただひとつがあるのみ。延慶本、長門本、『源平盛衰記』に見られる義仲とその郎等の妻たちのあいだの応答は見当らない。情報の豊富を求めるなら、読み本系『平家』が期待にこたえてくれる。だが、ある人物について知りすぎて、同情または反感が過分にながれ(例えば、いまの私のように)、そのために、時の駒足の粛々たるn歩みに耳を傾ける余裕を失うこともある。語り本系『平家』には、石母田のいうとおりに節度があり、そのために、叙事詩と称するに足りる性格もそなわることである。

 そこで「北国下向」の段に移れば、義仲は五万余騎してすでに都に急迫する形勢にある。都の平家のほうでは、前年(寿永元年)から「明年は、馬の草飼(くさかい)について、いくさあるべし」と予告していたので、「山陰」、山陽、南海、西海の(つわもの)ども、雲霞のごとく(都へ)馳せ参る。」馬の草飼は四月、青草のよく伸びて馬に草()ますべき時候をいう。ちょうどその頃にいくさになるだろうと、平家方は見込んでいた。馬の草飼という(こな)れた言回しをこの場に用いていることに、私は感心する。短く簡潔にまとまった「北国下向」の段にひびく肉声は、ただこれあるのみだから。

 まずは木曽を追討し、その後に鎌倉を討つという方針のもとに、平家は北陸道へ軍勢を発行させる。大将軍には維盛、通盛、経正、忠度、清房の六人、然るべき侍三百四十人余り、都合その勢十万余騎。「寿永二年四月十七日、辰一点に都を立ちて、北国へこそおもむきけれ。」

 だが、十万余騎の遠征の軍費、兵糧はどうしたか。「片道を賜はつてんげれば」、すなわち片道の費用は沿道諸国から徴発するのを許されていたので、逢坂の関よりはじめて、往く道にある権門勢家に正税として残してある米も、田租の金子もすべて手当り次第に召し上げらていった。琵琶湖に西畔の村里、漁村は、志賀、唐崎、三河尻、真野(まの)、高嶋、貝津、また北畔の塩津などを片っぱしから劫掠していったので、「人民こらへずして、山野にみな逃散(ちよさん)す」と言う有様。人心も平家から離れてゆくだろう。

「竹生嶋詣」の段が、次の「火打ち合戦」までのあいだにさし挟まれる。北西の大将軍に名をつらねる但馬守平経正は、琵琶の名手の聞え高かった。蓬莱島(ほうらいじま)さながらの竹生嶋に舟を寄せ、島に祀られる弁才天女の前で秘曲を弾ずると、奇瑞あらわれて平家一門の前途を祝したいう。先にしるした藤原師長の芸能譚と同工異曲の結構ゆえ、いまはただ読みすぎて、遠く湖上にうかぶ竹生嶋の島影を世にも美しいもののうちにかぞえているわが心にも名残りを惜しみつつ、先をいそぐことにする。

2026.02.04 記す。

火打合戦 願書 倶利伽羅落――斎明と覚明 P.262~268

 義仲を討つべく北陸道にむかった平家の大軍がまず突きあたったのは、敵の軍勢が六千の立てこもる今庄(いまじよう)の要塞、火打城であった。義仲は「身がらは信濃にありながら」この城を構え、平泉寺(へいせんじ)の僧斎明(さいめい)を城主に起用し、加賀、越中の豪族、斎藤一族らとその配下を城中に立てこもらせた。平泉寺は白山の越前側の登り口にあった白それは能美(のうみ)川、新道(しんどう)川の落ち合って流れくだる先を大石でふさぎ、大木を伐って逆茂木(さかもぎ)に引き、(しがらみ)をうずたかく()きあげて流れをせきとめ、にわかに作った湖なのであった。北陸道はこの人口湖によって遮断され、平家の軍勢はたちまち方途を見失った。『源平盛衰記』には、水は「かなたこなたの岡を浸し、今庄、柚尾(ゆのお)の大道を平押しにこそ堪へたれ」としるしている。水原一の百二十句本『平家』の脚注には、火打城下にあたる(かえる)の里の古老の伝えるところとして、牛の皮千枚、馬の皮千枚で川をせいたとある(新潮日本古典集成『平家物語』中巻、一八二頁)、また水原は水位百八十メートルと仮定して作った今庄一帯の水没地図をさし添えている。

『平家』は語り本系も読み本系も、この人造湖の大きさをいうのに『白氏文集』巻三、新楽府(しんがふ)「昆明春水滴」に「影ハ南山ヲ浸シテ青クシテ滉漾(こうよう)タリ、波ハ西日ヲ沈メテ紅ニシテ奫淪(いんりん)タリ」とあるのを引用して、誇張の綾を添えている。漢の武帝が水軍を鍛える目的で長安に造った昆明池(こんめいち)は方四十里、これを和朝の尺度に直せばおよそ四里。火打ちの湖はその四分の一ほどかと思われる。文辞の綾hあ対句を呼び起して、昆明池の渚には、徳政の船を浮べたり、この火打が(じよう)築池(つきいけ)には、堤をつき、水を濁して、人の心を(たぶらか)す。」

 だが城は意外なことから簡単に平家に攻め破られた。城主斎明は、かねて「平家に志深かりければ、山の根を廻って、消息を書き、蟇目(ひきめ)(の矢)のなかに入れ、忍びやカニ平家の陣へぞ射入れたる。」斎明の教示にしたがって堰を切りくずし、水を落して攻め入った平家は楽勝し、加賀の富樫(とがし)の城を破り、進撃をつづけた。このとき平家に返り忠をした斎明が倶利伽羅(くりから)のいくさで捕えられ、まっ先に斬られる次第は追って語られる段取りであるが、斎明の返り忠について長門本『平家』および『源平盛衰記』には、源平の軍勢の多寡を見くらべた斎明が源氏方に勝ち目なしと踏み、平家に生捕られてうき目を見るよりは平家に力を添える気になったと説明している。平泉寺という白山信徒の修行道場を預かっているこの僧は、加賀越中かけてのおのれの土地勘を平家に売りこめば、出世の糸口がつかめると踏んだのだろうか。

 火打落城よりおよそ十日後の五月八日には、平家は加賀国篠原に着いていた。ここで軍勢を大手、搦手(からめて)の二手に分かった。

大手の大将軍は小松三位中将維盛、越前三位通盛、侍大将には越中前司盛俊をはじめとして都合その勢七万余騎、加賀と越中の境なる砥浪山(となみやま)へぞ向かはれける。搦手の大将軍は薩摩守忠度、参河守知度(とものり)、侍大将には武蔵三郎左衛門を先として、都合その勢三万余騎、能登越中の境なる志保の山へぞかかられける。
 合戦の場あるごとに、『平家』はこうして大将の名を一々に肩書もろともに並べつらねることを欠かさない。その人名を『平家』そのままに引き写していると、かならずそこは軍記物の文体になって、琵琶を弾き語りの法師の影法師が仄暗いなかにゆらめき、さらに先まで、もっと先まで引き写しながら、いつまでも影法師をながめていたい心地にさそわれる。『平家』をあわてずゆっくりと読む人なら、この不思議な夢心地をご存じのはずである。

 さて、義仲のほうは、平家の動静を聞くと、ただちに五万余騎して越後の国府(こふ)から加賀国へ馳せむかった。前々年の養和元年(一一八一)九月、横田河原の合戦に七手に分かって大勝した先例にならって、義仲は「我が(いくさ)の吉例なればと七手につくる。まず伯父の十郎蔵人行家、一万騎で志保の手へぞ向ひける。仁科、高梨、山田次郎、七千余騎で北黒坂へ搦手にさし遣わす。樋口次郎兼光、落合五郎兼行、七千余騎で南黒坂へ遣はしけり。一万余騎をば砥浪山(となみやま)の口、黒坂の裾、松長の柳原、ぐみの木林(きんばやし)に引き隠す。今井四郎兼平六千余騎で鷲の瀬をうち渡し、日宮林(ひのみやばやし)に陣をとる。木曽我が身は一万余騎で小矢部(おやべ)の渡りをして、砥浪山の北のはづれ、埴生(はにゅう)に陣をぞとつたりける。」

願書(がんじょ)」の段にみる義仲の戦略によれば、平家十万の大軍が砥浪山を越えて東の平地に出てしまえば、かけ合いのいくさのつねとして軍勢のまさる平家に利があるから、そうはさせずに夜を待ち、砥浪山中の倶利伽羅が谷へ追い落とすというものであった。横田河原の合戦には、平家の赤旗を差しあげて味方と思わせ、安堵のすきを突く機略が効を奏した。こんどはその逆に、白旗を見せびらかせて平家をおどす戦法に出て、山から降りさせない。志保山、砥浪山の一帯は低い丘陵地なのに起伏に富む岩山である。源氏が搦手にまわって攻めこむ心配はあるまいと予想した平家は、倶利伽羅の峠道に切りひらかれた白山修行者の道場広場「猿の馬場」に主陣を置いて小憩した。あたりは「馬の草飼ひ、水便ともによげなり。」昼のあいだ、義仲軍は三町ばかりの隔てを守りながら矢合わせばかりを仕掛け、それ以後のいくさを控えて敵の注意を前方に引きつけておいた。夕やみ迫るとともに、倶利伽羅の峠の真上、白山権化を勧請(かんじょう)した不動明王堂のまわりに、北と南からしのび寄った搦手が「(えびら)方立(ほうだて)打ちたたき」、白旗を差しあげるのに時を合わせて、七手の軍より(とき)の声を作った。「猿の馬場」の南には、倶利伽羅が谷が深く険しく落ちこんでいる。

(源氏)四万騎がをめく声、山も河もただ一度に崩るるとこそ聞えけれ。案のごとく、平家、次第に暗うはなる。前後より敵は攻めてくる。「きたなしや、返せ返せ」というやから多かりけれども大勢(おおぜい)の傾きたちぬるは、左右(さう)なうとつて返す事かたければ、倶利伽羅が谷へ我先にとぞ落しける。まつ先に進んだる者が見えねば、「この谷の底に道のあるにこそ」とて、親落せば子も落し、兄落せば弟も続く。主落せば家の子郎等落しけり。馬には人、人には馬が、落ちかさなり落ちかさなり、さばかり深き谷一つを平家の勢七万余騎でぞ埋めたりける。巖泉血をながし、死骸(おか)をなせり。さればその谷ほとりには、矢の穴、刀の疵、残りて今にありとぞ承はる。
 有名なこの一節の誇張をとがめ立ててみてもはじまらない。平家のほうに肩入れしてこの語りを聞けば悲壮にひびく。源氏のほうに肩入れしていると、おもしろおかしく聞こえる。いずれにしても、語りのじょうずの喉と琵琶の撥音(ばちおん)の協同を前提とする語り物の修辞がこの一節をみちびいているのは、いつに変らぬ『平家』の趣である……同じ語音の反復と語順の転置、類縁語にもとづく対句、そして引用される漢文の熟字。

 このいくさに義仲の用いた奇策、牛の角に松明をゆわえて敵陣に追い込んだ話は、だれでも知っている。倶利伽羅旧蹟の登り口、北陸本線の津幡駅に降り立てば、醜怪見るに耐えない牛の彫刻の出迎えを受けなければならないのも、あの話のおかげである(と書いて、いかなるアナロジーの魔の仕業か、わたしは不意に、一九八七年の二月、中国吉林省の旅の途次、長春駅のプラットフォームで見た一基の彫像を思い出した。それはカノーヴァ作になる「狩りの女神ディアナ」のきれいな大理石彫像なのだった。どうしてカノーヴァが、所もあろうに旧満州の首府新京の駅に据えつけられ、いまにおよんでいるのか、わたしは事情を審らかにしないのだが)。「猿の馬場」跡にいってもまた動かぬ牛がこちらをにらみつける。ところがあの話は『平家』諸本には見えず、ただ『源平盛衰記』に、大手を指揮する義仲が「牛四五百匹取り集めて、角にたいまつを結び付けて」夜の更けるのを待ち、搦手の合図とともに鬨を作る味方諸軍の太鼓、法螺貝、蟇目(ひきめ)鏑矢(かぶらや)の音どもするとき、四五百頭の牛の角にたいまつをとぼして、平家の陣へ追ひ入れ」たとしるす。一方、長門本『平家』によれば、この火牛作戦は、平家の砥浪山まで押し寄せる前、富樫の城を攻め落すにさいして、斎明威儀師の考えた謀りごととして、詳しく戦況がしるしてある。その一節、「夜に入りて斎明威儀師の(はかりごと)に、野にいくらも放ちたる牛共を取集めて、松明に火をともして牛の角に結付けて、五千余騎城の木戸口の上の坂へ向けて追上げたり、後にはどつと鬨を作りたりければ、牛は陣の上へ走り向ふ、敵すでに夜討に寄せたりと心得て、急ぎ石弓を切り放ちければ、下り坂になじかはたまるべき、転ぶ間、牛共頭の火のあつきといひ、石弓転ぶに驚きて走り廻る、或は城に向ひて角をかたぶけて走り入り、或は深田の落ひたりてをめき狂ふもあり、又打殺さるるもあり、牛のためこそ不祥なれ」(巻十三)。これによれば、斎明威儀師もまたひとりの智謀家である。しかし、覚一本『平家』を見る限り、斎明にその面影はない。

 同じく僧侶のこととして『平家』が力をこめて語るのは、「願書」の段の中心人物、大夫房覚明のことである。

 倶利伽羅のいくさに先立って義仲が主陣を構えたのは、砥浪の平野が尽きんとする砥浪山の東北ふもと、埴生の荘であった。石清水八幡の社領のしるしとして八幡を祀る片すぎのお社が、山すその森に建っていた。これに気付いた義仲が感動したのも無理はない。思えば義仲十三歳の春の元服は、四代の祖父八幡太郎義家の先例にならって、石清水八幡の御宝前でおこない、木曽次郎義仲と名のった(巻六「廻文」による)。わが守護の神仏八幡大菩薩に勝利の願文(がんもん) を奉るべく、義仲は右筆(ゆうひつ)として身近に侍している大夫房覚明の願文作りを命じた。覚明その日の出立ちは「(かちん)直垂(ひたたれ)黒革威(くろかわおどし)の鎧着て、黒漆(こくしつ)の太刀をはき、二十四差いたる黒母呂(くろぼろ)の矢負ひ、塗籠籐(ぬりごめどう)の弓脇に挟み、(かぶと)をば脱ぎ高紐にかけ、箙より小硯(こすずり)畳紙(たたみがみ)取出し、木曽殿の御前(おんまえ)に畏つて願書を書く。あっぱれ文武二道の達者かなとぞ見えたりける。」黒ずくめの武者ひとり、さっとばかり開く畳紙の白が、森の木洩れ日に照って、目に染みるようである。

2026.02.28 写す。

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