杉本 秀太郎『平家物語』巻 八
 

目 次

山門御幸他 大宰府落
――後白河法皇
征夷将軍院宣 猫間他
――法皇と頼朝と義仲


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山門御幸他 大宰府落――後白河法皇 P.308~313

 これより『平家』は巻八。物語のむこうに後白河法皇の動静が、しばらくはよく透けてみえる。大治二年(一一二七)誕生の法皇は、いま寿永二年(一一八三)には五十七歳。すこぶる壮健だったから、狡知もまた熟しきった年齢にある。むかし、後白河が近衛天皇のあとを継いで即位し、保元の乱の因をなしたときは三十歳であった。九条兼実『玉葉』寿永三年三月十六日の条にしるすところによれば、かつて近臣の藤原信西(しんせい)は、帝位にあった頃の法皇を評して「和漢の間に比類少なきの暗王。謀反の臣傍らにあれども一切覚悟の御心無し。人これを悟らせしめ奉るといへども、猶もつて悟らず。古今未見未聞の者なり、云々」といったという。おなじその人ながら、院政をたもって二十数年、やがて源頼朝が評して「日本国第一の大天狗、さらに他者あらざる者に候か」と憤慨するところまで、この人にはこの人として崩れぬ姿勢が固まっていた。

 寿永二年七月二十四日の夜半、法皇が御所をひそかに抜け出して鞍馬へのがれ、平家の裏をかいたことは巻七の「主上都落」にすでに語られていた。そのあと、物語は平家一門の都落ちに数段をついやす。巻八の冒頭「山門御幸」は、もとへ返して法皇の都脱出をまず繰り返し語ったのち、法皇が鞍馬かれ叡山横河へ、さらに東坂本の円融房へとのがれ、わずか二、三日のことにせよ、院庁が天台山(叡山)に設けられたことを告げる。「平家は落ちぬれど、源氏はいまだ入り代らず、すでにこの京はぬしなき里にぞなりにける。開闢よりこのかた、かかる事あるべしともおぼえず。聖徳太子の名とともに未来記というものがあらわれるのでびっくりする。その未来記には、きょうのことがどう書かれているか知りたい、と諸注よって、さような予言の書きものが太子にあったとする巷説をここに使っているにすぎぬと知ってしまえば他愛もない。しかし、なかなか手がこんでいる。

 法皇は円融房と聞いて、二十六日に東坂本へかけつけた人々、藤原基房(全関白松殿)をはじめ、法皇の寵臣基通(近衛殿)以下「すべて世に人とかぞへられ、官加階に望みをかけ、所帯、所職(所領、官職)を帯するほどの人、一人ももるるはなかりけり」とは、語るも語りたりなどというほかない。公卿殿上人とは当時の政界の要職者たちのことである。くびをつなぎ、併せて栄達をのぞむ人の動きには、古今いささかも変わるところがない。

 七月二十八日、早くも法皇は都へ還御、「木曽、五万余騎にて守護し奉る」と『平家』はいう。じつは、法皇の還御は二十七日、木曽義仲の院初見参は翌二十八日のこと。ここで『平家』は『玉葉』『吉記』に記録されているとおりにはせず、義仲の動静をきわ立たせるつもりで、義仲が五万余騎して(誇張あり)坂本より京まで法皇を守護したことにあらためたと、現代の諸注釈本は注意をうながす。とにかく「この二十余年見えざりつる白旗の、けふはじめて都へ入る、めずらしかりし事どもなり。」平家の乱よりたしかに二十四年、都には平家の赤旗しか見えなかった。

 行家また義仲とは別途、宇治橋をわたって都入りすれば、摂津、河内の源氏も都へはせつどってきた。法皇は蓮華王院の御所に義仲、行家を召し、さっそくに平家追討の院宣をくだした。都のぬしは、いまや後白河である。この大天狗は、源氏勢が都に滞留するのをうるさいとみた。さっさと西海へ、平家のあとを追いかけて、消えてしまえ。

 当面の大事として、三種の神器とともに平家に拉致された安徳天皇のあとを埋める皇位の問題を片付けなければならなかった。高倉上皇の皇子は、安徳天皇となった一の宮のほかになお三人をかぞえた。二の宮は、平家が皇太子にするつもりで安徳天皇とともに連れ去っていた。都に残された三の宮、四の宮のうち四の宮のほうが法皇の御意にかなって、即位ときまり、ここに後白河天皇の出現をみるいきさつにちて『平家』はにわかに語りの調子をやわらげ、あまく、おもしろおかしく、一場の景をつくり立てている。当時五歳の三の宮は法皇を見てひどくむずかるのに、当年四歳の四の宮はいっこうにこわがらず、法皇のふざにすわって「よにもなつかしげにてぞしましける。」なつかしげるは懐旧情をいうのではなく、()れ付きたという原義にもとづく用語、「いつまでも抱かれていたそうな」の意味と解く説が岩波古典文学大系本『平家』下巻の補注にわざわざ引いてある。なつかしげに人の足もと、手もとに寄りつくい犬を私たちはよくななつく犬を私たちはよくなつく犬だという。はじめて会ったのに旧知のように対応を示すのを「なつかしげ」という言い方であらわすことなら、いまも私たちは普段使いなれているのに、いぶかしいことである。

 四の宮の皇位継承決定には、『平家』の伝えるように占を立てて佳しと出たということもあったのは『愚管抄』の記事に一致する。このあと『平家』は、四の宮の生母、藤原信隆の娘、殖子(ますこ)のこと、四の宮の生い立ちのことを詳しく語る。清盛の北の方二位の尼は殖子がつぎつぎに産んだ高倉天皇の皇子たちにみな乳母をつけて養い育てた。信隆の妻、つまり殖子の母が清盛の六女であることを教えられば、二位の尼の振舞もわかり、文脈もわかりやすくなる。富倉徳次郎『全注釈』は、そういう教示に富んでいる。『平家』はさらに加えて四の宮に好運が働いていることを一くさり、説話ふうに語って、この『山門御幸』の段をしめくくる。そのくだりの中心人物、紀伊守範光のこと、また四の宮を養君としていた法勝寺能円法印(二位の尼の兄)の妻範子が、範光の妹であることに触れて、『全注釈』は範光、範子と村上源氏の婚姻関係、琵琶法師団に対する村上源氏の支配関係、範光と八坂流域の血縁関係に論がおよび、興味尽きざるものありとはいえ、ここでは引用する余裕がない。

 つづく「名虎(なとら)の段には、なかほどに、大昔、文徳天皇の代の相撲の話が出てくる。能雄(よしお)という小男、名虎という大男が占相撲をとる。勝負に密教の呪法が介入、坊主の脳みそをつきまぜた護摩の煙濛々として、読んでいても胸がえずく(ゝゝゝ)。京ことばでいえば「えずくろしい」話をここにたどり返す気にはならない。『平家』にといどき顔を出す悪趣味な語り手の受持った部分にちがいない。おそらくなつかしげに護摩をたく、目の赤い人の書いた得意の一節だろう。

「名虎」の段からは、史実として見のがせない事柄だけを取り出すことにする。

 八月十日、院の殿上の間で除目(じもく)がおこなわれ、義仲は佐馬頭(さまかみ)になって越後国をたまわり、かつ朝日将軍という呼称をたわわるむねの院宣あり、行家は備後守となった。ただし義仲は越後をきらったために伊予国を、行家は備後をきらったために備後国をたまわる。その他源氏十余人は受領、検非違使、靫負尉(ゆぎえのじよう)、兵衛尉に、同月十六にち、前内大臣宗盛以下、平家一門百六十人は官職を停められ、殿上の御簿(みふだ)を削られた。ただし平大納言時忠、内蔵頭(くらのかみ)信基、讃岐中将時実の三人は削られず。そのわけは安徳天皇と三種の神器を無事に都へ返し入れるよう、再三にわたり時忠に院宣を下されていたからである。

 同月十七日、平家は筑前大宰府に着いた。ずっこけが出る。九州、壱岐、対馬の者たちも参上と答えながら、たれも集まってこない。平家は菅原道真を祀る安楽寺(いまは大宰府神社)に参詣して、歌を詠み連歌をして神をなぐさめる。

 同月二十日、四の宮即位して後鳥羽天皇。

 九月二日、伊勢へ公卿の勅使。法皇が出家後以後に伊勢に勅使の立った例はこれが初め。

 つづく「苧環(おだまき)の段は、後半に、緒方三郎維義(これよし)という豊後の土豪の出自について、またひとつの説話を語り出す。それは蛇との婚姻譚であり、三輪湯山型として分類されている異類婚姻説話の一例に属している。いまや蛇の子孫も源氏に味方する。大和の国は挙げて、平家に未来なく、光なく、落ちる果てにはただ水屑の沈む闇しかないことを予告する。この緒だまきの説話を除けば、この段もまた史実のみを裸にして列記すれば足りる。あとは取りつくろったこさえ話が引用の和歌にまつわり付いている。『平家』も巻八にいたって、いくらか魅力をうしなってきたという実感をさしとどめるちからにとぼしい。

 史実を取り出せば、筑紫に内裏を正式に設ける計画が言い出されはしたが、そうは行かず、きぬた打つ音も聞こえぬ九州の山中に天皇の宿所を置いて、いよいよわびしい。宇佐八幡の行幸をこころみたが、人々は社殿に寝るしかなく、七日参篭して効なし。即ちこの神も平家に味方をしてくれぬとわかって大宰府に還御。九月十日余りの、ふけゆく秋、十三夜の月にかこつけて、薩摩守忠度、皇后宮亮(こうごうぐうのすけ)経正、例の都落ちの二例に抜き出されたふたりの和歌旧作などをこきまぜ、美文をつらねてみても、『平家』に平家を助けるちからとてないのはいうまでもない。

 豊後国を所領地とする刑部卿三位頼輔は、京より息子の頼経に、平家に従うな、平家を追い出せと下知したので、頼経はそのまま「当国の住人、緒方三郎維義に下知す。」この維義は「怖ろしき者の末なるける。」そこで大蛇と人の娘との婚姻譚が語られる段取りである。話のすじは『肥前風土記』に松浦郡の褶振峯(ひれぶりのみね)のこととしるされている大伴狭手彦連(おおとものさでひこのむらじ)の妻、弟日姫子(おとひひめこ)の話とおなじである。通婚する男の正体をたしかめようと、男の着物の襟に針をつけ、針には緒だまきの糸をとおして糸をたどれば、沼のほとりの大蛇の寝所に行き着いた。やがて生まれた子は見に「あかがり」隙もなく、鱗に掩われた大力無双の男子となり、家は子孫にいたるまで栄えた、と。かような出自の者を祖とする緒方(尾形)三郎維義を敵にまわした平家に分はなかった。

「大宰府落」の段は、維義との交渉に失敗し、篠つく大雨のさなかに大宰府を落ちゆく平家が、長門に源氏の軍勢ありといううわさにおびえ、ついに豊後の柳が浦より海上に海人の小舟を浮かべる仕儀に立ちいたった次第を物語る。「新羅(しんら)百斎(はくさい)高麗(こうらい)荊旦(けいたん)、雲の果て、海の果てまでも落ち行かばやとは思しけれども、波風向こうてかなはねば、云々。」

 不意に、清経入水のみじかいくだりが挟まる。重盛の三男、左中将清経は月の夜、「長らへ果つべき身にもあらずとて、(中略)しずかに経読み念仏して、海にぞ沈み給ひける。男女泣き悲しめども甲斐ぞ無き。」

 長門は新中納言知盛の所領地であった。紀州刑部大夫道資という者が目代(もくだい)を仰せつかっていたが、平家一門、海人小舟(あまおぶね)に乗ったと知り、大船百余艘を調達、進上した。これに乗り移った一門は四国へわたった。阿波民部重能のはからいで人夫を集め、讃岐の八嶋に板屋の内裏、御所をいそぎ造りはじめた。それをまつあいだは船がそのまま御所。「大宰府落」のおわりは、「福原落」のおわりに対応し、またよく均衡するような和漢混合の美文をもって、平家の公卿、女房たちの海上生活をつづっている。富倉徳次郎によれば、このくだりには『六代勝記事』から海路の旅を叙した一節および海辺の流謫生活を叙した一節がえらばれ、語りの調子の基調をなし、字句の素材として活用されている、と。『六代勝記事』の当該箇所は『全注釈』中巻五〇六頁に引かれている。

2026.02.06 記す。

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