| 宇治川先陣 河原合戦 ――文学と想像力 |
木曽最期 ――義仲、西行、芭蕉 |
六ケ度軍 三草合戦 ――在家の難 |
老馬 坂落他 ――裏をかく |
忠度最期他 小宰相身投 ――蓮の花 |
宇治川先陣 河原合戦――文学と想像力 P.325~331
『平家』巻八の閉じ目「法住寺合戦」のおおわりには、暮れ行く寿永二年のことが簡略にしるされている。法住寺御所の焼亡以後、五条内裏に仮住まいの法皇は、十二月十日、六条西洞院の大膳大夫成忠の邸に移られた。成忠は清盛の近臣だった平信業の子。その邸は七月の末、京入りした木曽義仲が宿所として法皇より賜わっていた。木曽はこれを法皇に明け渡したものとみえる。十二月十三日、歳末の御修法。その序に木曽の勝手な考えどおりに叙位除目がおこなわれた。「平家は西国に、兵衛佐は東国に、木曽は都に張りおこなふ。前漢後漢の間、王莽が世を打ち取つて、十八年をさめたりしがごとし。四方の関々みな閉じたれば、公の御調物をも奉らず。私の年貢ものぼらねば、京中の上下の諸人ただ少水の魚にことならず。あぶなながら年暮れて、寿永三年になりにけり。」 ここに王莽を喩えに用いて、事柄に古格をほどこし、構えを大きくしてみせるのは、見馴れた『平家』の修辞である。喩はいうまでもなく平家にかかっている。『平家』そもそもの語りだし、「祇園精舎」の鐘の声、諸行無常のひびくと聞けば、早くも王莽の名が耳にとどいていた――「おごれる人も久しからず。只春の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ。偏へに風の前の塵に同じ。遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱异、唐の碌山、是等は皆旧主先皇の政にもしたがはず、云々。」言葉の宇宙に巣食う文学のデモンは、このような前後照応を機に、ちらと言の葉隠れに姿をあらわす。 巻九に移って「生ずきの沙汰」のはじめには、宮廷年始に儀礼慣習が全くおこなわれなかったことを物語る――「寿永三年正月一日、院の御所は大膳大夫成忠が宿所、六条西洞院なれば、御所の体然るべからずとて、礼儀おこなはるべきにあらねば、拝礼もなし。院の拝礼なかりければ、内裏の小朝拝もおこなはれず。平家は讃岐国八嶋の磯に送り迎へて、元日元三の儀式事宜しらず。主上渡らせ給へども、節会もおこなはれず、四方拝もなし。鰚魚も奏せず。吉野の国栖も参らせず。」 三年前の治承五年の正月にも、朝廷の儀式はすたれた。そのことは巻六のはじめ「新院(高倉上皇)崩御」のくだりに語られていた。覚一本『平家』は吉野の国栖不参を報じるのみであったが『源平盛衰記』の対応するくだりには、加えて「鰚魚の奏」もなかったことが出ていた。この儀式とハラカという魚については、伴信友の考証を引いて、すでにしるした。 これは巻八のおわりに出ていたことながら木曽は西国の平家に和議を申し入れ、ともに頼朝を攻める考えを示したのに対して、平家は詮議のすえ、この提案を容れなかった。一方、かねて法皇はひそかに鎌倉との連携を密にして木曽を攻める機をうかがっていた。正月十一日、木曽は院参し、平家追討のため西国に発向するむねを奏上。十三日、いよいよ門出の用意をととのったとき、頼朝の軍兵数万騎、木曽を攻めに京をめざし、すでに美濃国、伊勢国に到着の知らせが木曽を打ちのめした。あわてて宇治橋、瀬田橋の橋板を取払い、兵をさし向けたが軍勢ととのわず、今井四郎兼平は八百余騎して勢田へ、仁科、高梨、山田次郎は五百余騎して宇治橋へ、淀一口には木曽の伯父、志太三郎先生義教が三百余騎してむかった。東国の軍勢は、大手の大将軍に蒲御曹司範頼、搦手の大将軍には九郎御曹司義経、その他大名三十余人、都合その勢六万余騎と聞えたと、『平家』は木曽の無残な劣勢を強調したのち、生ずき、する墨という名馬をめぐる高綱、景季のせり合いを語る段取りとなる。 こうして宇治川先陣争いの場につながる「生きずきの沙汰」の本筋に乗りかかるに先立って、『平家』は和漢混合の文体にひときわ冴えを利かせた一くだりをさし挟んでいる――「青陽の春も来り、浦吹く風もやはらかに、日影ものどかになりゆけど、ただ平家の人々は、いつも氷にとぢこめられたる心地して、寒苦鳥にことならず。東岸西岸の柳遅速をまじへ、南枝北枝の梅開落すでに異にして、花の朝、月の夜、詩歌、管弦、鞠、小弓、扇合、絵合、草づくし、虫づくし、さまざま興ありし事ども、おもひいで、語りつづけて、永日を暮しかね給ふぞあはれなる。」思い出される正月の遊びごと、蹴まりを別にすればすべて室内遊戯。さんざめく公卿殿上人と女房たちの思い出の夢のとばりをあらあらしく切り裂き踏みにじる人馬の動きが、やがて二段かけて充満し横溢するだろう。平安王朝の世の終末を継げるのに、昔の『平家』の作り手たちは物の形、色、音、匂いをともに一つに収める情景をふたつ、並べつらねて、胸に応えるコントラストによって「もののあはれ」に感じやすい心の状態をととのえる。コントラストの設けもまた、物語のデモンのなさせる業だろう。 物語を聞く人、読む人に、こうして感動の素地をあたえておけば、頼朝の秘蔵していた二頭の名馬をめぐるふたりの東国武士のせり合いを追う目には、つばさの生えた想像力が加勢する。言葉の映像喚起力は、こういうときにもっとも高まる。人は手に汗をにぎって宇治川先陣争いのいきさつに聞き惚れ、読み惚れる。現実は作り変えられて跡形もなく、ただフィクションが一切をつらぬいているのに、八百年の昔にあったことが胸に迫る。このときに私たちを捉えているのは、上首尾な小説のなかに生捕りにされた物の姿のそなえる力と、少しも違ったものではない。 本を閉じ、目も閉じて、たとえば次の場面を思い出してみる。おのれが真先に所望して生ずきを、あとから所望した佐々木高綱に事もなげにあたえ、おのれには一段劣ったする墨を下賜された鎌倉殿には、相討ちして果て、損をさせてやろうと待ち構えている梶原源太景季のまえに、佐々木が生けずきを歩ませて通りかかる場面を、そらで思い出してみる。説明的な描写がしばらくつづいていたように思える。 詞に腹がゐて〔腹がおさまり〕、『ねつたい、さらば景季も盗むべかりけるものを』とて、どつと笑つて退きにけり。」これだけしかしるされていない。また、「宇治川先陣」の場にいたって、生きずきに乗った佐々木高綱の渡河のありさまも、本を閉じてあたまのなかでたどり返すと、高綱の動きを追ってあれもこれも描写してあったように思い出されるのに、「佐々木太刀を抜き、馬の足にかかりける大綱どもををばふつうつと打ち切り打ち切り、いけずきという世一の馬には乗つたりけり、宇治川早しといへども、一文字にざつと渡いて向かへへの岸に打ちあがる。」ただこれだけ。 つばさの生えた想像力が、想像力がそうあらしめた原文を離れて、ひとりふわふわと漂うと、想像力は余計なぴらぴら飾りを付け足している。創造力のこのあまりにかけ離れたニ態からすれば、想像力を矯め直し、きたえ上げる文学があること、そして『平家』の合戦記がそういう文学に属していることがわかってくる。一所懸命に小さな開墾領地を守り、所領の増大を生き甲斐とする東国武士が先陣を争う物語は、底深くに穴があり、穴は不思議なことにスタンダール、トルストイの小説の底深くの穴につながっている。 いまわたしが書いた想像力に関する理屈は、いま名を挙げた二人の作家を読みに読んだアランから、わたしがまなんだ理屈であることを告白する。小林秀雄は『無常という事』のなかで『平家』を論じたとき、わたしとおなじ筋から多くをまなんでいる――そんなことは少しも書かれていないが。小林さんには、ニーチェのいう「病者の光学」があった。一閃のもとに『平家』という「自然」の母体を照射し、うかび出た起伏の影に反現代を読み取る方法が、その掌中ににぎられていた。「病者の光学」はアランが完全に排除するところだったんで、小林秀雄には思想のアマルガム、方法の混用が、病める意志の結果として避けがたくあらわれている。宇治川橋先陣のもうひとつのエピソード、畠山重忠によって岸に上げられた大串次郎重親という少年が歩立の先陣を名乗り、これを聞いて敵も味方も「一度にどつとぞ笑ひける」というくだりを評して、小林さんは「勇気と意志、健康と無邪気とが光り輝く」という、自分の持っていないものは光り輝いてみえる。健康と無邪気。なんという逆説だろう。
木曽はどうなったか。宇治川の守りは破られx、勢田の守りもまた東国軍勢の渡河を許した。木曽は六条西洞院まで、法皇にさいごのいとまを申しに馳せた。御所の内では「世は只今失せなんず。いかがせん」とて、法皇をはじめとして皆おろおろしている。 門前にきた木曽に、悪い知らせがとどけられた。東国の勢はすでに鴨河原まで攻め入っているという。引き返した木曽は六条高倉に「はじめて見染めたる女房のおはしければ、それへ打ち入り最後の名ごり惜しまんとて、とみに出でもやらざりけり」とは、あからさまな話りようである。家来に越後中太という者あり。かけつけてみると主はこのありさま。「御敵はすでに河原まで攻め入りて候に、犬死にさせ給ひなんず」と申しても、主は、「なほ出でもやらざりければ」、さようならば、まずは先立ち、死出の山でお待ちいたすと言い残し、腹かき切って死んだとは、極端なことをする。これもまた先陣争いの一種だろうか。木曽はこの振舞を知ってようやく女房から離れて家をあとにした。その勢わずかに百騎ばかり、六条河原に、東国の軍平は木曽を討ち取ろうといきり立った。 大将軍九郎義経は、いくさは軍平にまかせて置き、法皇の警護に当ろうと六条の御所へ五、六騎して馳せ向かった。いまは御所となった邸の所有者、大膳大夫成忠、築垣によじのぼり、東のほうをながめわたしていると、白旗がこちらに近づいてくる。また木曽がやってきたとさわいだので、御所の内はふたたび騒然となった。しかし旗印が木曽とはちがう。すでに門外に大音声して名乗るを聞けば、九郎義経、大膳大夫はあまりのうれしさに築垣よりいそぎおどりおりるとき、腰を地面に付き損じたけれども「痛さはうれしさにまぎれておぼえず、這ふ這ふ参つてこの由奏しければ、云々」というくだりひとつを見ても、この「河原合戦」の段は、先の「宇治川先陣」にくらべて見劣りすること甚だしい。「猫間」も「鼓判官」も、これも、都の木曽にかかわる段には悪ふざけが過ぎる、。これもまた語りの一つの技法だろうか。西洋音楽にいう burlesque (おどけ)の間奏曲、和朝の音楽にいう馬鹿囃しのたぐいだろうか。 木曽は法皇を取りこめて西国へ落ち、平家と合体しようとたくらんだが、御所は義経がしっかり守っている。鴨河原の六条と三条のあいだで雲霞のような敵軍におそわれること数度、からくものがれ、勢田を目あした。勢田の守りにむかった今井四郎兼平のことが気がかりであった。「幼少竹馬の昔より、死なば一所で死なんとこそ契りしに、ところどころで討たれん事こそかなしけれ。」粟田口、松阪越えて山科の四の宮をすぎたのは主従わずかに七人。七人どころか、たった独りの死後「中有の旅の空、思ひやられて哀れなり。」 2026.02.11 記す。 木曽最期――義仲、西行、芭蕉 P.352~339
「木曽最期」の出来栄えは憑依ということを考えさせる。義仲の身になって語ることをした人があった。死神が馬上の義仲のうしろに相乗りして胴まわりをかかえている。そのありさまをさながら尺余の距離から見聞きしたかのように、語っている人があった。いや、その人はもっと近く、義仲、死神をふたり諸共、さらにうしろから抱き締め、義仲の胸にかかった指の先でとどろにひびく胸の鼓動をたいしかめている。死に取り憑かれた義仲が語り手にタマ(霊)を託しているので、語り手はそのタマの動きにしたがって物語っている。梅原猛によれば、物語とはモノ=タマが語ることなのである、と(「ものがたりのおもしろさ」『世界と人間』文藝春秋、一九九頁)。つねづね文末の措辞にあきれるばかりに無頓着なこの人にしてこの指摘があった。つねづね文末にこだわる身の、豈励まざるべけんや、といわなくてはならない。義仲のタマ」が語るところを伝えようとする『平家物語』のこの段の語り手は、語りのひびきが同音同字反復の単調に陥ることをおそれる心をゆめにも失わなかった。古来、タマ=モノは、そういう心に好んで取り憑き、祝詞をとなえさせ、神語の片歌を発せしめ、和歌のしらべをととのえてきた。 憑依には、きっかけがある。ふとしたきっかけからずぶりと奥へ入ってゆく。「木曽最期」の段に先立つ「河原合戦」のおわりのくだりももう一度引用すれば、敗残の義仲、勢田の守りに就かせた今井四郎兼平を案じて、「かかるべしとだに知りたりせば、今井を勢田へはやざrかまし。幼少竹馬の昔より、死なば一所で死なんとこそ契りしに、ところどころで討たれん事こそかなしけれ。今井がゆくへを聞かばや」と独りごちたのち、鴨河原を北に駆けるほどに「六条河原と三条河原の間に敵おそつてかかれば、とつて返しとつて返し、わずかなる小勢にて、雲霞の如くなら敵の大勢を、五六度までぞ追つかへす。鴨河ざつと打ちわたし、粟田口、松坂にもかかりけり。去年信濃を出しには五万余騎と聞えしに、けふ四の宮河原をすぐるには、主従七騎になりにけり。まして中有の旅のそら、思ひやられて哀れなり。」今井四郎を案じての独りごとの発明に、まずひとつのきっかけがある。そしてみずからの「中有の旅の空(四十九日にわたる死出の旅路)を思いやる木曽の心をわれながら哀れなりと言い切ったとき、物語る人は憑依にきっかけをしっかり物にしたと考えていいだろう。 この第二次のきっかけは、どこか遠い空の一角からにわかに投げこまれたように唐突な、思いがけない介入を果している。その他面い、「まして中有の空の旅」という一句が取って付けたように聞こえることは否めない。 ここには西行の歌一首がかげに隠れてひそんでいる。そう思わせるひびきが聞える。『山家集』とは別に、『聞書集』として世に伝わる西行の歌集に、「中有の心」を詞書して、 いかばかりあはれなるらむゆふまぐれただ一人ゆく旅のなかぞらこの心を心としておのが身を木曽の身に引きつけてみれば、あるべき木曽の振舞も、心の鏡におのずと映し出された。木曽の乳母子であり、おそらくは男色によって強く結ばれている今井四郎の振舞、言辞は、木曽の分身のなすこと言うこととして、おのずと呼吸してあらわれた。ふたりは相補い合って一筋の死出の旅路にさしかかり、さいごは別れ別れに、ひとりひとりに、殺生を事とした武者の生れ変る畜生道のほうへ、あわれにもさびしい中有の旅の空をさまようだろう。そういう義仲、今井四郎に寄り添って、繰り返し木曽の最期を物語れば、物語は次第に熟して、かたちをととのえ、完熟に達したのち、物語る人の手から離れた。「木曽最期」は、こうして私たちの読んでいる物語となって残った。かように考えてこの段を読みたどると、この世の浅ましさも、はかなさも、人の「あはれ」も、ひとしお身に沁みて言葉もない。 『聞書集』にみえる西行の和歌の二、三を思い合わせると、西行の見た源平の世のありさまは、いま私たちが生きて見ている世のありさまと少しも異ならない。武者というものは姿を変えて、この人界を掩う無間地獄にうかび消える人影として、いまも生きつづけている。 世のなかに武者おこりて、西東北南いくさならぬところなし。うちつづき人の死ぬる数、きくおびただし。まこととも覚えぬ程なり。こは何事のあらそひぞや。あはれなることのさまかなと覚えて木曽の山びと義仲は海の怒りを取り鎮める法を知らず、死出の山にまで入ってしまったわい。寿永二年閏十月一日、水嶋の船いくさに敗れて以来、木曽の運は尽きた。海、山の対比を軸に、碇の沈め方も知らぬ、処世につたない義仲を哀れと見た歌いぶりか(参考、渡部保『西行山家集』風間書房、昭和四十六年刊、九二八頁)。 ずっとのちの世の元禄七年、芭蕉は大津の義仲寺の木曽塚と背中合わせの墓に葬られた。芭蕉の父松尾与左衛門は伊賀国拓植の農だったが、先祖のうちに平宗清をかぞえる系図が伝わることは早くより知られていた。宗清というのは、平治の乱に源義朝が敗走したとき、その子頼朝を捉えた弥平兵衛宗清のこと。『吾妻鏡』巻三によれば、頼朝が平家を西海に走らせたのち、頼朝は旧恩に報ぜんがために宗清を鎌倉へ招引したが、宗清はふり切って屋嶋へ下った、と。平家没落後、宗清は肥後早尾村に住し、伊賀十兵衛宗清と称し、その地に没しちゃと『肥後文献』のうちの「古城考」、草場古城の条にしるされていることもあり、宗清が伊賀国阿拝郡拓植庄に隠れ忍んだとする口碑と相容れぬところが生じるという(菊山当年男『はせを』宝雲舎、昭和十五年刊、二〇頁二一頁)。芭蕉当人は先祖が頼朝の生死に係わったこと、頼朝の招引を拒み、平家とともに西海に落ちたこと、その末孫の家に生まれた身であることを信じていたか、いなかったか。私はこういう岐路があることを恥かしながら今まで知らなかった。ただ、芭蕉が頼朝を好まず義仲を好んだことはたしかなことと思っていたばかりである。 今におよんで振り返れば、落魄の立場を愛し、しかも時として非情の振舞も見せる芭蕉には、没落平家の一端につながっているという「あはれ」と誇り、今どきめく者をきらう気概が一つ身に同居しているところに気づく。関東勢に敗れ、死出の山に入ってゆく義仲、今井四郎両人の男気も、気に入りの男弟子をつねにしたがえて旅をした芭蕉に好ましく映じていただろう。 「木曽最期」には、もう一つの、憑依にもとづく物語がかさなりまじり合っている。巴の物語である。『平家』はいきなり巴を登場させて、こんな風に紹介する。「木曽殿は信濃より、巴、山吹とて、二人の便女を見せられたり、山吹は労りあって都にとどまりぬ。なかにも巴は色白く髪長く、容顔まことにすぐれたり。ありがたき強弓、精兵、馬のうへ、かちだち、打物もつては鬼にも神にも逢はうどといふ一人当千の兵なり。究境の荒馬のり、悪所おとし、いくさといえば、札より鎧着せ、大太刀、強弓もたせて、まず一方の大将に向けられけり。度々の高名、肩をならぶるものなし。されば今度も、多くのものども落ちゆき討たれけるなかに、七騎が内まで巴は討たれざり。」打出浜の乱戦に主従は五騎まで減じたが、巴はまだ討たれていない。木曽殿gはいう、「おのれは疾う疾う、をんななればいづちへもゆけ。我は討死にせんと思ふなり。もし人手にかからば自害をせんずれば、木曽殿の最後のいくさに、女を具せられたりけりなんどいはれんは事も然るべからず。」なお踏みとどまって、巴は大力の恩田八郎と組打ちして、「むずと取って引きおとし、わが乗つたる鞍の前輪に押しつけて、ちともはたらか」さず、頸ねぢきつて捨ててんげり。その後物具脱ぎすて、東国の方へ落ちぞゆく。」このあとに巴は二度とあらわれない。 いま本文引用に使っている覚一本(日本古典文学大系)には、「巴、山吹とて、二人の便女」とあるところ、「便女」には「「美女」という字を当てる諸本もあれば、「非上」の字を当てる諸本もある。「便女」は武家にて調理、給仕にあたった女のこと。「非上」は、天保の世に刊本となった伊勢貞丈の有識故実覚え『貞丈雑記』には「いま中居といふに同じ」とある。巴を説得して落ちのびさせようとする木曽の言い分にも、落ちのびて「義仲の後世をとぶらひなんや」とみえる百二十句本『平家』の例あり。同様の文言を木曽に言わせる『源平盛衰記』(巻三十五「巴関東下向事」)の例もある。またそこには、巴は小袖装束して信濃へ下り、義仲の妻子に主の最期を語ったとしるし、その後の行跡にちても巴説話というべきものをまとめしるしている。供には『平家』語り本系の「木曽最期」に見る巴よりもさらに勇にしてさらに美しく、罪障もさらに深く、末は尼となり九十一歳で往生をとげる。『源平盛衰記』は巴を名乗る巫女あるいは聱女が物語るうちに成長した説話までしるし、『平家』語り本系はそこまで含めず、木曽義仲の最期に巴という美女の花を添えるのみしても、巴の物語は木曽の物語に付随し並行して、詳細にすぎることなく、粗略に堕することなく、うまい程度に抑えを利かせた語り口を示している。 一月二十一日の夕まぐれ、義仲は粟津松原の薄氷の張った深田のなかで首を討たれ、今井四郎は自害、残る木曽勢の大将は、今井の兄樋口次郎兼光ひとり。義仲のことを後白河法皇に讒訴して味方割れを招いた十郎蔵人行家の立てこもる河内長野の城にむかっていた樋口次郎、行家を討ちもらして京へとって返す道すがら、淀八幡の大渡りで今井の下人に行き合って、義仲、今井の敗死を知った。五百余騎をしたがえていたが、「これを聞き給へ殿原、君に御志思ひ参らせ給はん人々は、これよりいづちへも落ちゆき、出家入道して乞食頭陀の行をも立て、後世をとぶらひ参らせ給へ。兼光は都へのぼり討死にして、冥途に手も君の見参に入り、今井四郎をいま一度見んと思ふぞ。」五百余騎は鳥羽をすぎる頃、わずか二十余騎になっていた。 樋口次郎兼光のこの下知のうちには、落ちのびて主なる木曽殿の後世をとぶらふがよいぞ、という一言がある。先に触れたように、『源平盛衰記』あるいは百二十句本『平家』には、同じ言葉が巴にむかっての義仲の命令のうちに見られた。『平家』語り本系は、あそこでこれを義仲に言わさず、ここで樋口次郎に言わせている。由々しい言葉を用いる機会をしぼりこみ、いっそうその言葉が重みを増す局面にそなえている。周到というほかはない。 樋口は生捕りにされ、一月二十四日、木曽とその余党五人の首が都大路を渡されるにあたって、頸の供を願い出て藍摺りの水干、立烏帽子で供をした。翌二十五日、樋口斬首。ここに木曽の一味は亡びた。 2026.02.13 記す。 |