![]() 目次
第一章 デンマーク
あとがき 解 説 主要参考資料・取材等協力
第一章 デンマーク P.5
1 コペンハーゲンは小さいが美しい街である。 英世が訪れた明治三十六年(一九〇三)は、その国の世界的童話作家アンデルセンの死の三十年あとで、街には彼の存命当時そのままに、尖塔をいただいた教会やレンガ造りの建物が緑のなかに静まりかえっていた。丘にたてば澄みきった空の下、海図を見るようにいくつもの岬が突き出て、まわりを白い波がとり囲んでいる。家は赤、青、白と、童話の国そのままに色とりどりの屋根が並び、家と家は花壇で結ばれている。 「夢のようで、仕事が手につきません」 コペンハーゲン到着後、守之助への第一報に英世はこのように書いている。
この年十月、満二十六歳の野口英世はニューヨークを発ってデンマーク留学の途についた。 大西洋を横断し、途中まずパリに着く。ここで英世は欧州スタイルのアフタヌーン・コートとシルクハットを新調して、写真館で記念撮影をした。小柄な英世が、黒のコートとシルクハットをかぶった姿は、少し滑稽で不似合いであったが、英世は大真面目でカメラの前に立った。 そこで休息のあとデンマークへ向かった。 コペンハーゲンの国立血清研究所長のマドセン博士は、まだ三十二歳の少壮学者であった。彼は「ノグチ」という男が、フレキスナー教授の下からくることは知っていたが、それがこんな若く、しかも日本人だとは知らなかった。このあたりがアメリカ人の人物紹介の面白さで、日本なら当然、国籍を先に書くところを、フレキスナーは英世の研究業績だけを詳しく書いてよこしたのである。学問の世界に重要なのは、その男がやってきた業績で人種や年齢は関係ないとはいえ、徹底している。 マドセン博士は英世を快く迎えたあと、「自分をいくつだとおもうか」と尋ねた。英世は少し考えて、「わたしは年齢を当てるのは苦手ですが、六十五歳くらいでしょうか」と答えた。 マドセン博士は、この日本人は本気か冗談か、と呆れ顔で、実は三十二歳だと答えた。アメリカにおいて大分、外人の顔は見馴れてたが、英世はさすがに驚いた。外人は年齢より老けて見えるが、倍近い年齢をいってしまった。 「日本では年上の人に敬意を表す場合、できるだけ年齢を多くいうのが礼儀です。本当は百歳くらいでもいおうかと思ったのですが、六十五歳ぐらいがよろしいかと思ったものですから」 ウィットをまぜながら英世はいいつくろう。アメリカへ来て、右も左もわからなかった当時ならうろたえたが、いまは軽いジョークをいう程度の余裕と自信ができていた。 血清研究所は意外に小さかった。マドセン博士らの数多い論文を読んでいただけに、かなり大きな研究所かと思って来てみたが、所長以下所員は四人しかいない。 このマドセン博士の仕事のやり方は、少し変っていて、朝、出勤してくると、所員が前回やった実験結果を、暢んびりききながら一時間か二時間を過ごす。それから自分の部屋へ行き、またしばらくお茶を飲んだり雑談をしている。ちょっと見ると、仕事はなにもしていないようにみえる。 北里研究所からフレキスナー研究室と、馬車馬のように走り続けてきた英世には信じられない悠長さだが、ここでは科学の経済的応用などということは一切考えなくてよかった。各自が思いどおり好きなことをやり、好きなときに休む。お金や生活のことなど心配する必要はない。死にもの狂いだったフィラデルフィア時代からみたら、まさに別世界の暢気さである。 だが、こうした暢んびりした環境から次の仕事へのアイデアを探っていくというのが、マドセン博士のやり方だった。充分頭を休めて休養し、そのあいだに次の研究へのエネルギーが燃えあがってくるのを待つ。 かって仁科博士が仁科研究所をつくったときも、これと似た状態だったといわれている。所員を高給でかかえながら、とくになにをしろと指示はしない。所員の自由に任せておく。初めのうちこそ、所員達はなんの負担もないので、勝手気儘に遊んでいるが、そのうち遊ぶにも飽いてなにか仕事をしたくなってくる。そのエネルギーが充満してくる機会をとらえて、一気に仕事をさせる。いいかえると無理に仕事に追い込まず、やる気が醗酵してくるのを待つ。 「いまほど、自由で幸せな時間を過したことはありません」 英世は手紙にそんなふうに書いているが、まさしくこの研究所は天国であった。とくに贅沢をしなければ、研究所からの給料で生活は充分やっていける。しかも博士以下、研究所員、さらにはコペンハーゲンの人達はみな親切であった。 アメリカ人も気さくで陽気だが、デンマーク人は、それにくわえておっとりしている。人を軽蔑したり、疑うということがない。小柄な英世が街を行くと、名も知らぬ人が帽子をとって「おはよう」と、微笑みながら声をかけてくれるし、道をきけば目的の場所までわざわざ従いてきてくれる。こんな平和で静かな街が、この世にあるとは夢のようである。 「学者というのは、こういうところで、じっくり腰を落ち着けて研究すべきなのかもしれません」マドセン博士につぶやきながら、英世はようやく一生を研究者として過ごす決心がついた。 この研究所で、英世はマドセン博士とともに、蛇毒の免疫についての研究をはじめた。アメリカからくるとき、英世はガラガラ蛇の毒液を乾燥させた粉末を百グラムほど持ってきていた。これを山羊に注射し、山羊の血液中にこの毒に対する抗毒素を産生させる。その上で血清ををとり、蛇に咬まれた動物に注射してやると、血清中の抗毒素が働き大事に至らず助かる。 実験がうまくいっっとき英世ははしゃぎ、誰彼となく口をきき、冗談をいう。だが失敗すると途端に頭を抱えこみ、無口になる。 「まるで世界が終ったかのような気のふさぎようだ」ファミュルナーは、その感情の起伏の激しさに呆れたが、英世にはこういうエキセントリックなところがあった。仕事に熱中しだすと、食事も忘れて打ち込むが、逆に気がのらないと、研究室も論文も乱雑に放りなげたまま遊び出す。英世への毀誉褒貶は、この性格のいずれの面を見たか、そしてそれを許せるか否かによって、ずいぶん異なってくる。 この国立研究所に、デンマーク王家のインゲボルグ内親王と英国のアレキサンドラ皇后が連れ立って見学に訪れた。小さな、しかし民主的な国だけに、皇族の訪問といっても形式ぶらない。四、五人のお付きの人だけを連れて、マドセン博士の案内で見て廻られた。 内親王は特異な風態の英世に目をとめられて、どこからきたのか、ときかれたあと、「デンマークに一人できて、淋しくはありませんか」と声をかけられた。 英世は硬くなって辛うじて、「いいえ」とだけ答える。 このあと内親王は国王に、日本人が国立研究所にきて勉強をしていることを告げたらしい。その後マドセンが国王陛下に会ったとき、「研究所にいる日本人は元気か」と尋ねられた。それをアメリカへ帰ってから、マドセンの手紙で知った英世は感激し、「もったいない」と手紙に頭を下げた。 「国王陛下がわたしのようなもののことまで御存知とか、これほどの感激はございません。いまはひたすらコペンハーゲン時代の、楽しく幸せだった日々を、思いおこすばかりです。インゲボルデ内親王には、幸運にもお会いすることができお姿はいまも胸にやきついています。わたしは先生を通して、陛下の御健勝と輝かしき御統治、さらに多くの芸術家および科学者の輩出することを、ひたすらお祈りするばかりです」 帰米後マドセン博士に宛てた手紙だが、明治時代、日本の貧農に育った英世にとって、王室というのはまさしく神に近い存在であった。 研究所に来て、二か月ほど経って一九〇四年一月、英世はマドセン博士とともに英国へ行った。オックスフォードでの血清学会の出席のためである。このとき、英世は英国と英国人とについて遠慮のない批判をした。一部は好意であったが、ほとんどは批判的なものであった。アメリカのように開かれた国しか知らなかった英世にとって、イギリスの古色蒼然とした権威主義と東洋人を見下すイギリス人態度に我慢ができなかったのである。 これをきいたマドセンは、「君はイギリスに来たら、たちまちいろいろ感想をのべるが、デンマークではいくらきいてもなにもいわなかった。それはどいうわけかね」 「デンマークでは、わたしは先生に教えを受けている一介の学生です。そんな若造が、御国のことに、いろいろ批判がましいことをいっては罰が当ります。とくいに先生のお父様は陸軍大臣という要職にある方ですから、失礼のないように控えていたのです」 「そんなことは遠慮せず、感じるところあれば、なんでもどんどんいってくれたまえ」 「いえ、ダンマークに関しては、わたしが批判する余地など、まったくない平和で明るいこの世の天国です」 デンマーク人の鷹揚な優しさにくらべ、英国人はみな無愛想で貧相な東洋人などに目をくれる者もいない。 2 この年、二月四日、日本はロシヤに対して宣戦布告をした。 北欧圏にあって,ロシヤと密接な関係にあったデンマークでも、このニュースはいち早く知らされ、人々は戦いの進展について論じ合った。外国生活が長くなるにつれナショナリストになっていった英世は当然無関心ではいられない。このとき、英世が血脇守之助に送った手紙には、当時のヨーロッパの様子がよく出ている。 「(前略)今回の日露戦争は、先の日清戦争の復讐をかね、わが国の積年の怒りをはらす戦争であれば、全国民一致団結して対処していることと思います。 一月八日からの度々旅順海戦はすべてわが軍の勝利に帰し、欧米各地は電撃にでも触れたように驚き、疑い、嫉妬と、さまざまな感情が混り、重なっています。ロシヤは欧州で最強国と思われ、全ヨーロッパはロシヤの動きには口出しするのを避けているほどですから、今回の日本軍の勝利をきいて、みな予想外の感を抱いています。 小生は英・独・仏はじめ当所の新聞など、あらゆる新聞を買いこみ、戦争の情勢を求めています。戦地の報道は、どの新聞も大同小異ですが、各新聞の社説はまちまちで、その都度、各国の考え方が推測されます。 フランスの新聞は大半がロシヤ贔屓で、政府党新聞などは公然と、ロシヤに加担すべきであると唱え、日本を半未開の野蛮国呼ばわりしています。一部ではロシヤ軍の勝利を故意に捏造し、国民全体をけしかけているありさまです。ドイツははもう少し狡猾で、表面は中立と見せていながら、陰でロシヤに情報を通じ、最終的勝利をおさめるように画策しているかのようです。ドイツの新聞の日本に関した記事は、フランスに劣らず悪口罵言をきわめています。これに反してイギリスの新聞は、陰に陽に、日本を援け、国民の同情を向けるようにしているようです。最近、チベット問題でロシヤと危機一髪の状態であり、くわえてフランスとの国交も切迫しているなどききますが、それらが日本に好意的な理由なのかもしれません。 またロシヤ黒海艦隊大小合わせて十五隻、東洋に向けて進航中、スエズ海峡で引戻しの命令にあったとの説もありますが真偽はよくわかりません。もっともこの艦隊は実戦には、あまり役に立たないとの評判もあり、若し東洋に廻航すれば、日本艦隊の餌食になるだけだろうといわれています。バルチック艦隊も、しきりに東航をくわだてているようですが、ジブラルタ海峡を通過し難いとか。陸上の戦闘はまだないようです。 あるフランスの新聞は、日本軍二個連隊が、コサック兵のため旅順付近で全滅させられたと伝えていますが、嘘ではないかと思っています。 概してヨーロッパは人種的親近感から、ロシヤの勝利を祈っているようですが、多数の新聞は、陸上の戦闘がどうなるかということに、関心を抱いているようです。彼等は日本軍にくらべて、ロシヤ軍の優勢を信じ、ロシヤの必勝を予言しています。これは海軍はともかく、日本陸軍がいかに勇敢かを知らぬからで、もしさらに日本陸軍の強力なのを知ったら、なんというか。彼等は野蛮な日本人は戦いに適している、というかもしれません。 彼等はしばしば我国を蔑視し、道義的文明が遅れていることをあざ笑っています。たしかに表面的にはそうかもしれませんが、日本国民はどんな場合にも、道義に背いたようなこととなるわけがありません。日本軍人は戦時平時において、まだ彼等のような泥棒、殺人、強姦なさどをせず、日本人はまだ白人のように隠密に悪事を働いたりはしません。また彼等はしばしば日本男女間の乱れを公言しますが、では彼等ははたしてどんな生活をしているのか。妾、間男、私通、売春、いたるところで目撃します。 彼等は日本人はまだ自分達の内情を知っていないと思いこんでいるようです。しかし余程愚鈍でもないかぎり、彼等の内情を探ることぐらいたやすく、白人の特長はは外面はよく装い、綿密な観察力(これは猜疑心と併行します)を有する点にあります。しかしいつか、世界の物質的文明が同程度に達したときには、彼等の特長は黄色人種にもゆき渡り、白人だけの特性でなくなることは間違いありません。小生、近頃、日本より新聞を受け取らず心細い次第です。この手紙と同時に時事新報社へ送金したので、遅くとも四月末には新しい新聞を見ることができるかと期待しています。 斎藤氏からは、九月以来文通がなく、わたしも手紙を出していません。一体、どんなことなっているのか不明です。わたしの留学中は約束の娘を教育すべきだと思うのですが、……少し情けない話です。猪苗代からは毎度、破談を希望してきますが、三か年間、待ちに待っている娘の気持を思うと、心も痛み、おおいに返答に困っています。義母よりは三、四度同じような手紙を送ってよこしており、このさいどうしたものか、判断しかねています。 ついては大変恐縮ですが、恩師の御意見、および斎藤氏の方の始末などにつき、御教え下されば幸いです。 この手紙がそちらに着くころいは、陸戦の様子もわかるころからと思います。ひたすら我軍の全勝を祈り、あわせて皆々様の健康をお祈りいたしています。当地はかなり厳しい寒さですが、雪はほとんど積りません。 御奥様はじめ、皆々様によろしくお伝え下さい。まずは御無沙汰をお詫びし、近況報告まで」
日露戦争と許嫁者のことと、英世の頭はそれらのあいだを目まぐるしく動く。しかし戦争がはじまって、英世は落ち着いて仕事をしていられなくなった。 学問的には、人材主義の定着していない母国に愛想をつかしながら、いざ戦争となると話は別である。東洋の未開国の黄色人種として、欧米人のなかにいた英世が、ナショナリストになるのは無理もなかった。日本へ大金十四円を送って新聞を求めたのも、戦争の様子を知りたい一心であったが、四月になっても送ってこない。英世は苛々しながら、横文字の新聞と、人々の噂で戦争の様子を探っては、守之助への手紙に次のように書く。
「日露戦争開始以来、日夜戦争のことばかり心にかかり、研究も手につかぬ状態です。二月四日の仁川および旅順の海戦は、全世界を驚かし、東郷提督の名は小さな子供でさえ知っています。その他、その折々の海戦の結果は、即刻、欧州に響き渡ってきます。 ロシア提督アレクセーエフの名は、不名誉な軍人の代名詞となり、東軍の司令クロパトキンの動向が注目されています。(中略)昨夜の来電では、ロシヤ艦ぺテロポールスキ号沈没、マカロフ提督戦死のことでしたが、今朝はそのことについてはなにも触れていません。陸戦のほうも第一戦は日本の勝利を報じていあしたが、昨日は我軍の斥侯五十名が鴨緑江でロシヤ兵のために全滅させられたとか、牛荘でも新たな戦闘準備の気配があるとかきいています。 新聞のニュースソースは、主として、モスクワ、ロンドン、ベルリン、パリなどのもので、英米派は日本軍の勝利を知らせ(ときどき誤報もありますが)、独仏系の新聞はロシヤの勇気を称え、敗報に反論し、時には日本軍の名誉棄損を企てています。 社説は英米は日本の味方(アメリカのヘラルドトリビューンだけはロシヤ贔屓)、独仏はロシヤ派です。したがって独仏の新聞社説には、黄人禍という言葉がしばしば現われます。ことに癪にさわるのはドイツ人です。彼等は狡猾で面憎く、フランス人は丁度スペタ女郎の肌合いで、無闇にロシヤ人に入れ込んでいます。まったくフランスのやり方は見下げはてたものです。癪なのはこの二国です。 デンマークは掌大の小国ですから、世界に対する政治的勢力はほとんどゼロにちかいのですが、ここも人間の集まりですから黙ってはいません。いろいろな意見の人はいますが、大体は日本に同情的です。しかし、ロシヤの目を恐れて、比較的こそこそと論じるだけ。御存知のとおり、王室は親類仲です。しかし国民は王室とは別で(ヨーロッパにおいては、これが当たり前のことになっています)、先日、当時の皇太子(すなわち英・露二国の皇后の兄)が研究所に御訪問され、その翌日は、所員一同と小生は皇居に招かれ、夕食の御馳走になりました。まったく平民的な感覚で、皇室一同われわれ臣民と同席で、面白く対談され、二時間ほどで退出されました。 この手紙を書いている最中に号外あり、"ロシヤ旗艦ペテロポールスキ号、水雷に触れて沈没。六百余名溺死。二十二名救助。新任アドミラル・マカロフ以下参謀部全滅。大公ウラジミロヴィッチ親王重傷、目下プリンス・ウチトムスキー替って指令中"との情報あり、旅順の陥落も目前ときいています。かさねがさね、日本軍の活躍は目覚ましいかぎりです。本便にて欧文の日露戦争記を差上げます故、なにとぞご覧下さい。かわりに戦争雑誌をぜひお送り下さいますようお願いします」
この手紙、英世のナショナリストの真髄がよく現れているが、同時に、当時のヨーロッパの趨勢を知るには、きわめて貴重な資料ともいえる。 この手紙の日付は明治三十七年四月十四日、そしてこの八か月後に、難攻不落を誇った旅順の要塞は陥落する。勝利とともに日本の力が認められ、それを背景にマドセン所長の好意も手伝って、英世はコペンハーゲンで急に人気者になる。 学界はじめ財界などの会合に招かれ、感想などきかれ、饗応を受ける。 英世は日本の皇室と臣民の礼儀正しさ、一致団結などを話し、自国のPRにこれ努める。まさに民間大使ともいえる活躍であった。 一方この間に、ニューヨークのロックフェラー医学研究所は着々と準備を重ね、十月より開設の運びとなった。 「十月一日までに、ニューヨークに到着するよう、帰国されたし」 フレキスナー所長からの手紙を受けとり、九月の半ば、英世は心を残しながらデンマークをあとにする。 この間、ほぼ一年、初めは戸惑い、やがてロシヤとの戦争に一喜一憂しながら、十篇の論文をまとめ、マドセン、ファミュルナーという貴重な医学徒を友達として得ることができた。
第ニ章 ニューヨーク(Ⅰ) P.19
1 一九〇五年十月、英世はニューヨークへ戻ると、ただちに新設のロックフェラー研究所の首席助手に任命された。五年前、日本から一人でフレキスナー教授のもとにおしかけてきたときは、月八ドルの小遣銭を与えられただけだったが、いまは月給百八十ドルである。 新設のロックフェラー研究所は、ニューヨーク東部のイースト川に近い五十番街にあった。研究所はまだ建築中で、フレキスナー所長以下六名のスタッフは出来上がったばかりの煉瓦建てのビルの一画に陣どった。六名のスタッフのうち、二名は三十代の教授で英世より上席だったが専門は違う。あとの三人は英世より下だから、実質的には彼の思うままに研究ができる。しかも年齢は英世が一番若い。 デンマークからフィラデルフィアに戻ったのが九月二十二日、十月にはすぐニューヨークへ引越し、十一月一日からは早くも実験に着手するという張切りようであった。 研究テーマは依然として蛇毒であった。血清反応というのは入り込んだら果てしない、見方によっては泥沼のような部門であるが、英世は蛇毒に関する著書を一冊書きあげるまでは続けるつもりであった。 「俺のうしろにはロックフェラーがついている」このころ、英世はニューヨークで会った日本人に誰彼となくいった。 たしかにロックフェラーが、この研究所のために投じようとしていた金は膨大で、すでにつくられた財団の資金だけで百万ドル、さらにそれの数倍の資金が投下される予定になっていた。かつてモルモット一匹さえもらえなかった英世が、いまは実験動物も施設もつかい放題、仕事のためなら誰も文句をいわないし、邪魔する者もいない。 ニューヨークへ移るとともに、英世は下宿を研究所に近いレキシントン街に見つけた。ワンルームで、他に簡単な炊事ができる流しがついているだけである。フィラデルフィアのときもそうだったが、英世は住居にあまり関心がなかった。一日の大半を研究室で過すわけだから、部屋はベッドがあって眠れればよかった。それでも今度の部屋は現代風にいうとマンションの一室で、フィラデルフィア時代よりは広い。もっとも研究所のサラリーからみると、まだまだ粗末なものではあった。 幼時からボロ家に育った英世には、住居に金をかけるという発想がなかった。部屋の調度といえば、ベッドと書棚、あとは中央に大きなテーブルが一つあるだけだった。このテーブルは簡単な読み書きと食事兼用であったが、中央にはいつも一枚の写真立てが置かれ、そのなかで一人の女性が笑っていた。デンマーク留学中、コペンハーゲンで知り合った女性で丸顔の笑顔が優しい。英世はこの女性に好意を抱いていて、帰りがけにようやく写真を一枚だけもらったのである。 「あなたの恋人か?」 来客が尋ねると、英世少し照れたように首を振って、「そうではないが、日本人はこういう、優しい丸顔の女性を好むのです」と答えた。 顔の輪郭だけは山内ヨネ子に似ているともいえるが、このころ、英世の脳裏からはすでにヨネ子のことは遠ざかってた。かわって異国で三年半、ひたすら生きるためにのみ頑張ってきた男が、このごろになってようやく、女性への恋情を覚える心のゆとりがでてきたことはたしかであった。 このアメリカ第一の都市ニューヨークで、英世は新しく何人かの日本人と知り合いになったが、そのなかの一人に有機化学研究の第一人者高峰譲吉がいた。高峰は英世より二十二歳年上で過燐酸カリの研究のためアメリカに渡り、一九〇二年にはニューヨークに自分の研究所を創設していた。彼の名をとった消化酵素タカジァスターゼは、一九〇九年の発見であるが、英世と会った一九〇五年には、高峰の名は既にアメリカでも広く知られていた。だが英世はこの科学界の先達と日本人会などで数度会っただけで、それ以上の親交はなかった。それは英世にその気がなかったというより、高峰のほうで英世を避けていたといったほうが当っていた。 身なりにかまわず礼儀知らずで、一度自分のことを喋りだすと止まるところを知らない、そんな独善的で破調感のある英世が、日本のエリートである高峰にはうさんくさい存在に思えたのである。だが運命の悪戯とでもいうべきか、この二人はニューヨークのウッドローン墓地の比較的近い位置に葬られている。高峰の墓は大きな石室に囲まれ、なかに日本の旗や桜を映したガラス絵などが置かれているのに、英世のはただ、土盛りの上に石碑が立っているにすぎないが、死後二人はきわめて近いところにいるともいえる。 ともかく英世はニューヨークでは、あまり人付き合いのいい方ではなく、親しくなった日本人もあまりいなかった。フィラデルフィアでは淋しさと貧しさが、いやでも英世の足を日本人に向かわせたが、渡米後四年を経て、もはや無理に日本人を求めなくても自活していける。なまじっか、嫉妬と中傷の日本人と付き合うより、陽気なアメリカ人と付き合ったほうが気が楽だった。 こんな状況のなかで、二人の日本人客が訪れた。一人は奥村鶴吉という歯科医で、英世が守之助の家に世話になったとき同居していた男である。 英世は奥村がフィラデルフィアに着いたと連絡を受けると、すぐニューヨークから駆けつけ、元の下宿に一緒に泊り、一日中奥村を案内して歩いた。ずぼらなようで、こういうところ英世はよく尽す。奥村はのちに英世の伝記としては最も秀れた『野口英世』を著したが、このときの出会いが一つのきっかけともなっている。 もう一人、英世を訪れてきたのに宮原林太郎という男がいた。宮原は星一の紹介できたのだが、背が高く眼が異様に大きい男だった。本来医師で医学の勉強ににきたのだが、とくにレントゲン撮影に関心をもっていた。彼はのち帰国して、日本で初めてレンゲン写真を撮る。 どういうわけか、英世はこの宮原と気が合った。どちらも少し偏屈で一人よがりのところがあったが、なにごともやり出すと止まらない一途なところもよく似ていた。二人は連れ立って食べたり、飲んで歩いた。 だがロックフェラー研究所の首席助手で、百八十ドルのサラリーをもらいながら、英世の生活は一向に楽にならなかった。ニューヨークにきてすでに一年経った一九〇五年のクリスマスにさえ、冬服がなく、外套は薄いレインコートで間に合わせる始末である。百八十ドルもの金をどこへ費っていたのか、英世はその理由を友人に、「先年の世界漫遊のため借金を生じ、未だに返済に追われているため」と答えていた。 しかしデンマーク国立研究所への往復旅費は、ロックフェラー研究所で負担したものだし、血清研究所でも一応生活に不足しない程度の給料は出ていた。普通の生活をしていれば借金する必要などない。この留学で英世個人が負担したのは、帰途ドイツやフランスに立ち寄ったときの費用くらいのものだが、アメリカへ戻った時点で英世には事実かなりの借金があった。その内訳は、まずデンマーク留学中に、所長のマドセンやファミュルナー等から借りた金である。それとロンドン、パリなどで遊んで日本人からも借りたものだが、こちらの方は主に女につかった。 アメリカに渡って以来、多少おさえていたとはいえ、英世は相変らず精力旺盛であった。それが学問に向けられてているときは、偉大な研究のエネルギー源になるが、女に向けられたとき無分別な浪費につながる。二十代後半の独身としては無理のないところもあったが、英世の遊び方はあまりにも計画性がなさすぎた。女が欲しいとなると見境がつかなくなる。まっすぐ娼婦の館に駆けつけて、初めに出てきたのを抱く。値切ったり、馴染みになって安くあげてもらうといったこともしない。そういうことはすべきでないと思いこんでいる。学問にはうるさいのに、こと女にかけては相手のいいなりだった。 みかねた知人が、「女に余計な金を使うのは止せ」と忠告しても、笑ってうなずくだけで、また同じことをくり返す。「あんな勉強家が、女のことになるとどうして馬鹿になるのか」知人は溜息をつく。 だが英世の立場にたってみると、女への浪費もある程度無理のないところもあった。 なによりも英世の最大の不幸は、フィラデルフィアでもコペンハーゲンでも、これと決まった恋人がいなかったことだった。恋人がいれば、その女性と欲望を処理することもできるが、英世にはいくら努力をしてもそんな相手はできない。黒い髪がやや縮れ、子供ほどの背丈しかない指の不具な東洋人に近づいてくる白人女性などまずいなかった。あるいは熱心に誘えば一人くらいできたかもしれないが、それをつくるだけの余裕も勇気もなかった。それでも欲望は人一倍ある。そうなると金で抱ける娼婦のところへ行くより仕方がない。すべての欲望を娼婦で癒すとしたら、莫大な出費になることは当然であった。 女性だけでなく一般の買物にも、英世には計画性がなく衝動買いするところがあった。デンマークに行くときも、パリに立寄り写真を撮ったが、その折わざわざシャンゼリゼの高級洋服店へ行って、黒のコートとシルクハットを買い込んだ。ロックフェラー研究所に移っても、高給をいいことに、一本五十セントもする高級煙草を一度に何ケースも買いこんで吸ってみる。しかも金の足りない分は、つけにする。生活の必需品でもない煙草を、借金までして買い入れる必要もないと思うが、そういうところの歯止めがきかない。また友達がきて嬉しくなると、レストランへ行って一度に十人分も頼んで結局食べきれず、半分以上残してしまう。 英世にはほどほどということがなかった。極端に多いか少なすぎる。いってみれば平衡感覚がない。生活人としては一種の失格者であった。 この借金にくわえて、デンマークからの帰途、船でカードをしてかなりの額を奪られてしまった。英世は賭けごとの上手なほうではなかった。相手の心理を読んだり、自分の気持を隠したりすることができない。いい手がくると気色満面となるし、悪くなると急に沈み込む。相手に手のうちがすべて読まれてしまう。それなのに誘われると、いやともいわない。船中で負けて、カードで知った船客からまた借りる。 日本人ならいざ知らず、外人に借りた金は払わないわけにはいかない。とくにマドセンやファミュナーは学問上の師であり、友である。「漫遊の借金」というのは内容はともかく、事実ではあった。 だが借金に慣れていた英世も、さすがにこの年の冬には、自分の金銭への計画性のなさに自分であきれ、これでは駄目だと改めようとした。 そのきっかけになったのは、この年の秋から冬にかけて悩まされた痔疾である。もともと英世には痔の気があったが、長年の椅子への坐りづめと、この冬の寒さによって一気に悪化してきた。下宿から研究所へ十分とかからぬところからの道を歩くのさえ辛く、そろそろと歩幅を縮めながら行くので倍以上の時間がかかる。 医師に診てもらうと即座に入院して手術を受けねばならないという。迷った末、痛みに耐えかねて決心したとき、初めて金がないのに気がついた。保険制度のまだ完備していなかった当時のアメリカでは、手術を受けるとなるとかなりの出費になる。 「どこを向いても知らぬ人ばかりのアメリカにいて、一旦病気になるときの薬料も貯えておかないとは、その日暮しの労働者がやむなくやること、独立した人間のなすべきことではありません」英世は自からの反省を、こんな風に守之助に述べたあと、 「今年からはじめて独立して、自分一人で会計をやりくりすることになりましたが、万事に経験なく、失敗など多く、いまだに一文の余裕もありません、この不愉快さは渡米以来のどの不愉快さにも、優るとも劣りません。節約はしようと努めてはいるのですけれど、長年の依頼的生活の習慣が天性となり、まことに苦しい実状です。しかし小生も今年は三十歳、一人前の紳士の待遇を受けていては、しかるべき体面を保たたなければなりません。もはや無思慮な少壮時代ではないことゆえ、おおいに心を改めて血路を開く決心です」と神妙である。 フィラデルフィア時代は、フレキスナー教授が、英世の性格を見こして、生活費だけを渡し、あとは貯金をさせて必要なときだけ衣類を買って渡すというやり方だった。いわばお仕着せに従っていたようなものである。だがニューヨークに来てからは、さすがにそうもできない。すでに三十に近く、研究所の首席助手である。自分でやりくりせよ、給料全額を与えられる。大抵の者は喜ぶのを、英世はそれで行き詰ってしまった。もらっただけ費う浪費癖は一向に改まっていない。 結局、英世はいつも誰か人がついて、生活面を管理してもらう必要があった。春になったからこの背広、冬になったからこのコート、下宿はここで、食事はこれ、というようにしかるべき人がついて決めてやる。その分では贅沢はいわないし、黙々と食べている。なまじっかな金をもらうより、生活面では管理されたほうが余程楽である。そのほうが頭をすべて学問に向けられる。 「多年の依頼的生活が天性となり」と、知ってはいても改められない。その馬鹿さ加減を非難することは容易だが、だからこそ異様なまでの学問への集中力が生まれてきたといえなくもない。 2 新設のロックフェラー研究所で、英世が取組んだ蛇毒の研究はフィラデルフィア以来の継続研究であった。この領域では、英世の仕事はすでに一応の評価を受け、オスラー博士編集の『医学体系』の「蛇毒」の項を執筆することになっていた。またこれとともに、フレキスナー教授と梅毒の第一期、第二期患者の病巣から、スピロヘータ―パリダの存在をたしかめる仕事をはじめ、さらに四月からはトラコーマの研究にとりかかった。 このトラコーマの研究は英世が手をつけたなかでも難関中の難関で、最後まで解決できなかったものの一つである。この年の暮のマドセン博士への手紙には、「トラコーマ患者の結膜の炎症部には、多数の細菌が存在しているため、まずこれらの細菌から片付けていかなければなりません」と述べている。 たしかにトラコーマ患者の結膜には種々の細菌が認められる。だがこれらはトラコーマになったあとの二次感染で、トラコーマの原因そのものではない。それはのちにウィルスの仕業とわかるが、当時はまだウィールスを確認する顕微鏡はなかった。いわば永遠にに見付からぬものを追っていたわけでのちに英世はこの研究を放棄する結果になるが、この失敗が、そのあとの黄熱病の研究にも尾を引くことになる。 このころ、東京では斎藤家との縁談の話が、いよいよ大詰めを迎えていた。 斎藤家では約束をしてから、すでに五年近く待たされ、独身の娘を、これ以上家においておくわけにいかなくなっていた。一体、どういうつもりなのか、いままでじっと待っていた斎藤家も我慢がならず、英世の真意をききたいと血脇守之助に迫ってきた。 守之助は何度か、英世に問い質したが、さっぱり要領をえない。最後には「自分はまだ当分帰る気はないから、どこか嫁にでも行くなら、それでもかまわない」と、無責任な返事である。いっそ女性のほうからアメリカへ押しかけたらとも考えたが、英世の真意もよくわからないのに、太平洋をこえて外国まで行くなど、当時の子女として出来ることではない。 追いつめられた守之助は、ついに独断でこの縁談を破棄することに決心した。 「ようやく、世界的に業績が認められようとしている学者を、いま引戻すのは忍びないことですから」守之助はそういったあと、契約の条件として、英世が受け取った渡航費二百円を返す条件で納得してくれるように頼んだ。 斎藤家では不満だったが、守之助に文句をいってみたところで仕方がない。本来なら、婚約不履行で訴えたいところだが、相手が外国にいるのではそうもいかない。やむなく二百円を受け取ることで了承した。 結局、娘は青春を五年間、無為に過したことになる。守之助が、極力、怒りをおさえて、解決したことを英世に告げると、折返し次のような簡単な返事がきただけだった。 「ありがとうございました。わたしもこれでようやく自由の身となり、研究に没頭できます。返済にお立替えいただいたお金は、早急にお返しするつもりです」 だがこの借金はそのままとなり、十年後、英世が帝国学士院恩賜賞を受けたその賞金の一部から返済されるまで放置されたままだった。 この婚約解消を見こしたように、英世はアメリカへ持ち帰ってテーブルの上に飾っておいた写真の主との縁談を強力にすすめていた。マドセン博士にも依頼し、その縁者がアメリカへ来た機会をとらえてわざわざ会いにも行ったが、結局この女性は、コペンハーゲンの名流の出だということで、英世が思っていたほど、相手は積極的でなかった。ただ家族が親日的といことで、英世に好意的だったに過ぎなかった。この話が破談になると、英世ただちにテ―ブルから写真をはずして抽斗の奥にしまい込んでしまった。 こういうところの、気分の転換は早い。 「そうか、それならいい」振られて英世は再び学問に熱中する。、 このころ、奥村がよく英世を訪れたが、英世はほとんど研究室に泊まり込みで、週に一度くらいしか下宿に帰ってこなかった。研究室の同僚が、「帰らないのか」と誘っても、「ここは俺の家」だといって頑張っている。 もっとも研究室に寝泊まりするとはいえ、朝から晩まで研究しているわけではない。大酒は飲むし、煙草もヘビイスモーカーである。そのうえ、徹夜、夜更かしなど平気でやる。滅茶苦茶というか、自由きまままな生活である。 ニューヨークに来て一年も経つと、英世は一風変った男として、研究室のなかでも有名になっていた。 たとえば英世は実験室ではほとんど白衣で通すが、その白衣がいつも汚れていて、裾のほうに頭大の穴があいている。それを一向に気にする気配もなく着て、おまけに一旦、仕事のことを話し出すと止まる所を知らない、相手が疲れて逃げ出そうとしても追ってくる。しかもその話が絶えずつまづき、言葉を探しながら、ときに意味不明のところもある。他の者が、英世の意見に納得し相槌を打つまで離してくれない。 しかし、話題が食物や街の流行などの話になると、たちまち黙りこんでしまう。そちらのほうは、まったくといっていいほど知識がな。それでも、仲間が、「あそこの洋服はいい」などいうと、給料日の翌日すぐ三〇ドルも四十ドルも出して買ってくる。しかも帽子から靴まで一緒に揃える、買った翌日には、それを着込んで得意然としてやってくる。 だが、こんな服装も三日ともたない。四日目には、もう前のよれよれのワイシャツと、型のくずれた背広に戻って、ネクタイを少し緩めてくる。「あの服は高くてもったいないから、もっと着たほうがいい」と、同僚がすすめると、面白くなさそうに眉をひそめる。 今度は少しでも計画的にと大きな金銭出納簿を買ってきて、一セントの出し入れでもつけると宣言するが、それも三日坊主で、一週間もすると帳簿は本棚の奥にしまい込まれてしまう。 四月二十三日付、守之助への手紙に、英世は次のように書いている。「わたしはまだ、他人を扶助するほどの力はありませんが、自分一人だけ生きていくには、なんとか心配なくなってきました。不意の出来ごとのため、二十年満期で六千円手に入る保険に加入することに決めました」 一見、殊勝そうにみえるが、これも決意だけで実行に移つされなかった。これでは駄目だと自分では思いながら、抑制のきかぬ衝動的な性格がつい計画を打ちこわしてしまう。 3 このころ、三城潟の英世の実家は相変らず貧窮のどん底にあった。 リウマチで長いあいだ寝たきりだった祖母のみさは、この前年二月に亡くなり、葬儀でもの費りが重なったうえに、父の佐代助の酒びたりは深まるばかりであった。あちこちの店に行っては借り倒し、家からは金をくすねていく。さらに他家に忍び込んで盗み酒さえする。 佐代助はすでに完全なアル中だった。酒が入らないと頭がぼうとして手足が震えてくる。舌ももつれてきて、話すこともわからなくなる。酒のためになら善悪の見さかいがつかなくなる。酒が入って機嫌のいいときは柔和でおとなしく素直で、働こうという気力もある。だが切れてくると別人のように変り、暴れ出す。どこか住み込みで働こうとしても「佐代助のほうで酒代として月々十円もってくれるなら」といわれる始末である。 この義父を見らなかったのか、イヌの夫の善五も酒好きで、他の店に借金こそしないが、働いた分はすべて酒に消えていた。イヌは三人の子供があるうえ、最後の子の産後の無理がたたって、いまだに畑の荒仕事はできない。すべてが五十すぎたシカ一人の肩にかかっていた。 さらに東北地方は前年から冷害で凶作が続いていた。おかげで最低の税金も納められず、税務署から田畑の強制転売の指示を受ける羽目になった。幸い、転売は野口家の遠縁に当る渡辺忠作の援助で免れたが、農家のくせに米を食べられず、稗と粟ばかりだった。 見かねた小林栄がときどき※を送ったが、それもいっとき息をつくだえで、すぐなくなる。 一日生きていくのがようやくのところへ、長年、応急手当で支えてきた家が朽ち、雨漏りがひどく土壁もくずれて外から家のなかが丸見えになっていた。 シカは家を建て直したかったが、そこまで手がまわるわけもない。せめて夫の佐代助でもいなければ少しは楽になる。しかもまわりの人もそう思うが、アル中では誰も雇ってくれる人はいない。行きつくところ、今度も小林栄に相談することになる。小林もいろいろ考えたが、うまい方法はない。だが、このまま佐代助を野口の家においていたのでは、ますます世間の顰蹙をかい本人も自堕落になるばかりである。それに英世の名声にも傷がつく。 「それじゃ、わたしが預かろう。毎日一升酒というわけにはいかないが、二合程度で我慢させて、家の仕事を少し手伝ってもらおう」 「先生から厳しくいうて下さったら、あの人も少しは心をいれかえるとおもいますが」 シカには願ってもないことである。佐代助は酒を飲むが、普段はおとなしい男だった。いわれたとおり使い走りや、草とり、雑巾がけなど真面目にやる。小手先も結構器用だった。ただ酒が欲しくなると我慢ができなくなる。中毒だから体内の血のほうが騒ぎだす。小林は佐代助に、一日二合までは飲ませる。そのかわり真面目に仕事をすること、という条件で身柄を引取ることにした。 一方、英世の弟の清三は、小学校を出たあと、小林栄の世話で若松の新城という酒造店に勤めていた。清三は英世からみると気が弱く、奉公が辛いと逃げ帰ってきたことがあるが、シカは「男は首でも刎ねられるとき以外、泣くものではない」と叱りつけ、その夜のうちに若松へ追い返した。戻った清三は真面目に勤め、二十歳の徴兵検査で甲種合格となって、この年の十二月に仙台の歩兵連隊に入隊した。 この清三は、二年後除隊して新城家に戻り、同家の主人に認められて娘との結婚の話がすすめられた。だが同じ若松市内の餅屋の娘を好きになり、妊娠させていたことが知れて小林栄の怒りをかった。 仕方なく清三は会津を離れ、屯田兵として北海道北見に近い野付牛に入植し、数年後同じ町の郵便局員の娘と結婚し、養子婿入りした。その後一時鉄道に入ったが、事故に遭って肢を傷め、のち妻と二人で「ニコニコ屋」という料理店を開いた。 大正四年、英世が帰国したとき、親戚縁者が集まり盛大な会が催されたが、そのときも清三は北海道に残ったまま生涯英世と会うことはなかった。女のことで故郷を追われた者として、いまをきらめく兄に会う気にはなれなかったのであろうか。 英世、父佐代助、清三、そしてシカと、ことあるごとに、野口家では小林栄の世話になり、それだけに小林の発言力は大きかった。 これら次々と続く実家の苦境を、英世は知らなかったわけではない。これは片仮名まじりの文を辛うじて書けるだけで、自分から英世に手紙を出すことはできなかったが、かわって小林が逐一報告していた。家がぼろぼろで、外から丸見えであることも、父が飲み歩き、不義理を重ねていることも知っていた。月々十円も送れば、ずいぶん楽になることも承知である。 だが英世がアメリカにいたあいだ、家に送ったのは百円にも満たない。送るとは書きながら、現実にはほとんど送らなかった。 月給百八十ドルもとっている身分で、月々ニ、三十円の金を送るくらい簡単なはずだったが、例の浪費癖が英世を苦しめていた。それに金を送っても、どうせ父の酒代になるといいわけもあった。 そのかわり英世はアメリカからシカに高価な産科用器具を送った。器具は難産のとき嬰児をとり出すための最新のもので、いったん血脇守之助宛に送り、そこから小林栄に転送され、シカに届けられた。父や姉弟には冷淡でも母のシカにだけは尽す。その英世の気持だけは終生変わることがなかった。 だが折角の器械も医師用で産婆の使用は許されず、家に飾っておくだけであった。しかしのちに、会津の歯科医が懇望し譲り渡したので、見かえりに金をえて、多少の助けにはなった。 4 ロックフェラー医学研究所が正式に完成したのは一九〇六年三月である。英世が一九〇四年十月に着任してから一年半あとである。建物は茶褐色で煉瓦状に積み上げたもので、イースト川に面した高台に、ひときわ目立っていた。英世はこの三階の東南の一室を与えられたが、、そこの正面からはブラックウェル島から大西洋まで望まれた。 フレキスナー所長の室も、英世と同じ階にあった。 この完成と前後して、英世はアパートをレキシントン・アベニューから東六十五番街に変えた。今度の家賃は一週五ドルと安いうえに、研究所にも近い。いまでいう5DKで、そのなかの一室を研究専用につかえる部屋にした。ここには奥村がきて、さらに宮原も出入りした。 一度、奥村は英世に連れられてユ―ヨークの下町を飲み歩いたが、一晩に十八軒もの店を連れていかれて驚いた。しかも新しい店に行くたびに、英世はビールを飲み、ニドルくらいずつチップを払っていく。奥村があきれて勘定してみると、一晩で三十八ドルもつかっていた。 新しいアパートに移ったのは、自炊をして倹約しようという目的でもあったが、これでは意味がない。 「少し、気をつけたら」奥村が忠告すると、英世は「心配するな」と逆に奥村の肩を叩く。 「人間は飲むときには、愉快に楽しく飲まなければいかん」 たしかに英世の飲み方は豪快だし、行く先々の店でも、みな英世をよく知っていた。酔うと陽気になり、多額のチップをおくせいか好かれてもいた。だが翌日になると、前夜の浪費に気がつき、しょんぼりしている。 「東京にいるときと少しも変っていない」奥村は溜息をつくが、この浪費癖は佐代助のアル中と同様もはや治しようもなかった。 この年の暮、奥村が日本へ帰ると入れ替りに、宮原が同居しはじめた。もっとも英世は帰ってこない日が多かったので、実質的には宮原のアパートのようになってしまった。 たまに英世が帰ってきても奥の部屋に入りこんで原稿ばかり書いている。炊事をする気など初めから、いつも宮原がつくる破目になる。 だが食事のときや、仕事に疲れたときなど、英世は宮原のところにきて例の自分だけいいたいことを一方的に喋った。気が合っただけに宮原には研究所での面白くなかったことや、女のことまで隠さず話した。 珍しく、英世は宮原とだけ金銭の貸借関係がなかった。英世が借りたいと思っても、もともと宮原は金を持っていないし、彼も英世と同じく持っているとすぐ費ってしまう性格である。うっかりすると、逆に英世の方が借りられる怖れさえある。 金の貸し借りがないことが、二人の気持をかえってすつきりさせていたともいえる。 二人はよく女を買いにもいった。宮原もそちらのほうは旺盛だったが、一度英世は女性と泊ったホテルで手帳入れを落とした。服を脱ぐときにポケットから落ちたのか、なかには手帳ととともに、自分の名刺も入っている。 「俺の名前がばれたりしないかな」 女を買いにいくときの元気さからは想像もできない悄気ようである。 「そんなもの、女か掃除婦が見つけたって捨てるだけですよ」 宮原がいっても、「いかん、いかん」と頭を抱え込む。 英世はとてつもなく無頓着なようで、自分の噂話とか醜聞に対して極端に神経質なところがあった。絶えず他人がどう見ているかということを気にする。やることは大胆なのに、一旦、気にしだすと信じられないほど小心になる。 かつて北里研究所や検疫時代に人の噂にさんんざん苦労させられた。その苦労があとを引いていうともいえるが、同時に独特のナルシスティゥクな性格が他人の眼を必要以上に意識させているともいえる。 反面、小心ということは細心ということにもつながり、この資質は科学者としても必ずしもマイナスではなかった。なにごとにも注意深く対処する性格は、実験に関しては有効な武器でもあったが、手帳を失ったことより、名刺をなくしたことを気にするところが、英世の英世らしいところでもあった。この手帳入れは結局出てこなかったし、もちろんそれでとくに不祥事もおきなかった。 この年が明けた三月、宮原はニューヨークでの留学を終えて帰国することになったが、発つとき英世は羨ましそうにいった。 「お前は運のいい男だ。いつまでも外国に留まらず、日本に帰ることができる。帰ったら開業という目的もある。だが俺は帰るわけにいかん。この指の曲った手では日本に帰っても開業するわけにいかないし、飛び出してきた以上、順天度へも北里研究所へも戻れられない。細菌学をやる以上、俺は一生ここにいなければならない。日本へはもう帰れられないかもしれない」 「そんことはないさ、日本だっていつか受け入れてくれるよ」 そのことは俺はもうあきらめている。とにかく、ここで頑張って努力する、もし成功しなければ自殺するだけだ」 外国でいかに栄光を得ても、帝大万能の日本では、開業試験あがりの英世が受け入れられる余地はない。どう日本を恋しても日本に戻りきれない自分を、英世ははっきり自覚していた。 「自殺なんて、怖ろしいことをいうなよ」 「でも、俺は白人達に東洋人の力を見せてやるんだ。頑張れば俺達だってこれだけできる。お前らには負けはしない、それをはっきり教えてやる」 「頼むよ、お前ならきっとそれができる」 最後の夜、二人は徹夜して語り合った。
宮原が去ったあと、英世は戻らず、空家同然になっていたアパートに、一人の日本人がころがりこんできた。歯科技工師で技工学習のため留学してきた荒木紀男である。荒木は歯科医学院へ通学中、守之助の家に寝泊りしたことから、英世の噂をきいていただけに、初対面ではあっても、他人のようには思えない。だが英世のほうは荒木を見て戸惑った。荒木はまだ二十そこそこの眉目秀麗な男だった。 大体、英世はハンサムな男は好きではない。自分の不具で小柄というコンプレックスが増幅されるからだが、荒木は初めから英世を崇拝していた。高山歯科医学院では、英世の評価は天才と狂人と、両極端にわかれていたが、荒木は天才と思いこんでいるほうの男である。当然のように、英世を「先生」と丁重に呼ぶ。英世はたちまちこのハンサムだが自分を尊敬しているらしい男が気に入った。 「君さえよければ、ここに住みたまえ」 どうせ部屋はあまっているのだし、炊事もやってくれそうだ。荒木のほうは、尊敬する英世の側にいられるのだから、異存はない。 だがこの同居は金銭的には荒木の一方的な損になった。というのも、英世は例によって荒木から金を借り続け、荒木は家庭がが比較的裕福ですぐ送ってもらえたからである。 「君、十ドル持っていないかね」英世にいわれると、つい出してしまう。「ちょっと借りる」とはいうが、それきり返してくれない。それが積もり積もって半年も経っと五百ドルをこした。 「先生の金銭への感覚は変っています。困っているときは一銭の金にさえ神経質になるのに、あるときはあきれるほど大雑把に使います。結局、先生は大金を手許に持っているのが不安のようです」 荒木は英世の性格を的確に見抜いて、東京の友人への手紙に、そんなふうに書いている。 だが、荒木は英世い貸した金をふみ倒されるのを怖れていたわけではなかった。むしろ尊敬する先生の役に立つのなら、それでいいと割り切っていた。実際、荒木は金で買う以上の助言と教育を、英世から受けていた。彼から得たものは五百ドルではとても買えないと思う。たとえば新しい研究をはじめるとき、英世はその研究について発表されている人の文献を読み返し、それからその実験を実際に一つずつやってみる。一通りやってから、研究方針の第一案、第二案、第三案と定め、それから仕事にとりかかる。英世のテーマの取り上げ方の巧みさは、この基本研究のたしかさに原因があった。 一度、荒木がロックフェラー研究所へ遊びに行ってみると、英世が試験管を洗っていた。 「そんなことは子使いにたらせたらいいじゃありませんか」荒木がいうと、英世は怒った顔で、 「たしかに小使いにいえばやってくれる。だがもし彼にやらせて滅菌が不完全で失敗でもしたらどうする。試験管に雑菌が入って折角の仕事が無駄になる。自分で滅菌してやれば自分の仕事に自信をもてる。俺は自分で試験管を洗わないような男の仕事は信じない。手間がかかって時間の浪費のようだが、自分でやるほうが正確で間違いがないんだ」こうした骨身惜しまぬ態度は生涯変らなかった。 またスピロヘータ―の研究に入ったころ、英世は研究所だけでは足りず、アパートに帰ってきても、ほとんど眠らず仕事を続けていた。ある夜、荒木が深夜起きてみると、研究室のほうで、臼でもひくような音がする。不審に思って覗いてみると、英世がワイシャツをたくし上げ、煙草をくわえたまま乳鉢を摩っていた。 「それなら僕がします。乳鉢摩るくらいなら日本でも何度かやっていますから」 「折角だが断わる。君を疑うわけではないが、俺は自分のやった仕事しか信用できないんだ」 自分の手でやり自分の目でたしかめたものしか信じない。この依怙地なまでの完全主義は、英世の仕事の評価を高くし、ノグチがやったことなら間違いない、という神話さえ生むに至った。だが、そのあまりの自己中心的な仕事のすすめ方が、英世から共同研究者を奪い、孤独で唯我独尊的な仕事に走らさせる結果ともなった。 それはともかく、当時、ロックフェラー研究所の首席助手でありながら、これほど自らの体を酷使して仕事をする研究者はいなかった。 「ノグチは一体いつ眠るのか」誰もが驚嘆し、感心するとおり、これほど徹底して、自分一人ですべてをやっていたら、眠る間がなくなるのは当然であった。 「先生はよく体が続きますね」呆れる荒木に、英世は怒ったように、 「人間というのは、四十までになんとかしなければ駄目だ。創造力も体力も若いうちのほうが秀れている。一応の仕事をする人は、みな四十まである程度のとこまではやっている。俺はいま三十一だが、四十まえあと九年しかない。時間なぞはすぐ経ってしまう。俺達が話しているいまの時間も、世界のどこかで誰かが新しい研究をして発表しているかもしれない。休んでいるとすぐ追い抜かれてしまう。それを思ったら眠ってなどいられられない。ぼんやりなにも考えず、手足も動かさず寝ているなんてもったいないことだ」 荒木が英世と一緒に暮らした三年間、英世は寝巻というものをつかわなかった。本を読み、実験をして疲れたら、靴を履いたままベッドに横になる。横になったら途端もう眠っている。そしてニ、三時間で眼が覚めると、そのまま顔も洗わず研究室の机に向かう。下着など何日も替えない。あまり長く着ていて臭いので、「買えたらいかがですか」というと、不機嫌そうに文句をいいながら替える。それも一度変え出すと、上から下まで、さらにワイシャツからズボンまで全部替える。そして新しいのを着るとまた三日も四日も替えない。 すべて研究優先の生活ではあったが、といって英世がまわりの者に不親切だったわけではない。気の合う相手にはよく尽し、よく教えた。ただし多少押しつけがあましいところもあったがそこには英世一流の哲学もあった。たとえばニューヨークにきて一年ほど経ったころ、荒木は英世に論文を書くようにすすめられた。 「折角アメリカまで来て、人のやっていることばかり見て感心していても仕方がない。君も歯科をやりだして十年以上経ったのだから、そろそろ君独自の考え方もあるだろう。それを論文にして発表してみてはどうだ。この国では大学を出て知識がある、といっても誰も認めてくれない。もしあるなら、じぶんからこれだけあると、はっきり文章に表して見せなければ駄目だ。黙っているのはないと同じで、仲間からおいていかれるのだ」 はっぱをかけれらて、荒木はおそるおそる考えていたことをいってみた。英世はうなずくと、 「初めは大きなテーマでなく、小さくて手っとりはやいのでいいから、まず手をつけることだ。デンタルコスモス誌の編集責任者のエドワード・シー・カークは俺の友人だから紹介してやる。
|