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第一章 デンマーク
あとがき 解 説 郷 原 宏 主要参考資料・取材等協力
第一章 デンマーク P.5
1 コペンハーゲンは小さいが美しい街である。 英世が訪れた明治三十六年(一九〇三)は、この国の世界的童話作家アンデルセンの死の三十年あとで、街には彼の存命当時そのままに、尖塔をいただいた教会やレンガ造りの建物が緑のなかに静まりかえっていた。丘に立てば澄みきった空の下、海図をみるようにいくつもの岬が突き出て、まわりを白い波がとり囲んでいる。家は赤、青、白と、童話の国そのままに色とりどりの屋根が並び、家と家は花壇で結ばれている。 「夢のようで、仕事が手につきません」 コペンハーゲン到着後、守之助への第一報に英世はこのように書いている。
この年十月、満二十六歳の野口英世はニューヨークを発って、デンマーク留学の途についた。 大西洋を横断し、途中まずパリに着く、ここで英世は欧州スタイルのアフタヌーン・コートとシルクハットを新調して、写真館で記念撮影をした、小柄な英世が、黒のコートとシルクハットをかぶった姿は、少し滑稽で不似合いであったが、英世は大真面目でカメラの前に立った。 そこで休息のあとデンマークへ向かった。 コペンハーゲンの国立血清研究所長のマドセン博士は、まだ三十二歳の少壮学者であった。彼は「ノグチ」という男が、フレキスナー教授の下からくることを知っていたが、それがこんな若く、しかも日本人だとは知らなかった。このあたりがアメリカ人の人物紹介の面白さで、日本なら当然、国籍を先に書くところを、フレキスナーは英世の研究実績だけを詳しく書いてよこしたのである。学問の世界に重要なのは、その男がやってきた業績で人種や年齢は関係ないとはいえ、徹底している。 マドセン博士は英世を快く迎えたあと、「自分をいくつだと思うか」と尋ねた。英世は少し考えて、「わたしは年齢を当てるのは苦手ですが、六十五歳くらいでしょうか」と答えた。 マドセン博士は、この日本人は本気か冗談か、と呆れ顔で、実は三十二歳だと答えた。アメリカにいて大分、外人の顔は見馴れていたが、英世はさすがに驚いた。外人は年齢より老けて見えるが、倍近い年齢をいってしまった。 「日本では年上の人に敬意を表す場合、できるだけ年齢を多くいうのが礼儀です。本当は百歳ぐらいとでもいおうかと思ったのですが、六十五歳ぐらいがよろしいかとおもったものですから」 ウイットをまぜながら英世はいいつくろう。アメリカへ来て、右も左もわからなかった当時ならうろたえたが、いまは軽いジョ―クをいう程度の余裕と自信ができていた。 血清研究所は意外に小さかった。マドセン博士らの数多い論文を読んでいただけに、かなり大きな研究所かと思って来てみたが、所長以下所員は四人しかいなかった。 このマドセン博士の仕事のやり方は、少し変っていて、朝、出勤してくると、所員が前回やった結果を、暢んびりききながら一時間か二時間を過ごす。それから自分の部屋へ行き、またしばらくお茶を飲んだり雑談をしているようにみえる。 北里研究所からフレキスナー研究所のように走り続けてきた英世には信じられない悠長さだが、ここでは科学の経済的応用などということは一切考えなくてよかった。各自が思いどおり好きなことをやり、好きなときに休む。お金や生活のことなどを心配する必要はない。死にもの狂いだったフィラデルフィア時代からみたら、まさに、別世界の暢気さである。 だがこうした暢んびりした環境から次の仕事へのアイデアを探っていくというのが、マドセン博士のやり方だった。充分頭を休め休養し、そのあいだに次の研究へのエネルギーが燃えあがってくるのを待つ。 かって仁科博士が研究所をつくったときも、これに似た状態だったといわれている。所員を高給でかかえながら、とくになにをしろと指示はしない。所員の自由に任せておく。初めのうちこそ、所員達はなんの負担もないので、勝手気儘に遊んでいるが、そのうち遊ぶのにも飽いてなにか仕事をしたくなってくる。そのエネルギーが充満してくる機会をとらえて、一気に仕事をさせる。いいかえると無理に仕事に追い込まず、やる気が醗酵してくるのを待つ。 「いまほど、自由で幸せな時間を過したことはありません」 英世は手紙にそんなことを書いているが、まさしくこの研究所は天国であった。とくに贅沢をしなければ、研究所からの給料で生活は充分やっていける。しかも博士以下、研究所員、さらにコペンハーゲンの人達はみな親切であった。 アメリカ人も気さくで陽気だが、デンマーク人は、それに加えておっとりしている。人を軽蔑したり、疑うということがない。小柄な英世が街を行くと、名も知らぬ人が帽子をとって、「おはよう」と、微笑みながら声をかけてくれるし、道をきけば目的の場所までわざわざ従いてきてくれる。こんな平和で静かな街が、この世にあるとは夢のようである。 「学者というものは、こういうところで、じつくり腰を落ち着けて研究すべきものかもしれません」マドセン博士につぶやきながら、英世はようやく一生を研究者として過ごす決心がついた。 この研究所で、英世はファミュルナーという学生と研究室をともにした。研究室は二十坪はあり、床は石で壁はタイル張り、水道管留具はいずれも真鍮でよく磨かれている。研究所には掃除夫が何人もいて、いつもきれいに整頓されていた。マドセン博士も綺麗好きで、テーブルやソファなどに北欧風の凝ったものを置くのが趣味だった。 英世は極力気をつけるようにしたが生来のだらしなさがつい出る。研究所にきて三か月目に、論文を一つ紛失したが、マドセン博士はとくに非難することもなかった。「場所が変ったせいか、わたしはまだ浮ついているようです」自省をこめて、英世は守之助への手紙に書く。 この研究所で、英世はマドセン博士とともに、蛇毒の免疫についての研究をはじめた。アメリカからくるとき、英世はガラガラ蛇の毒液を乾燥させた粉末を百グラムほど持ってきていた。これを山羊に注射し、山羊の血液中にこの毒に対する抗毒素を発生させる。そのうえで血清をとり、蛇に噛まれた動物に注射してやると、血清中の抗毒素が働き大事に至らず助かる。 実験がうまくいったとき英世は異様にはしゃぎ、誰彼となく口をきき、冗談をいう。だが失敗すると途端に頭を抱えこみ、無口になる。 「まるで世界が終ったかのような気のふさぎようだ」ファミュルナーは、その感情の起伏の激しさに呆れるが、英世にはこういうエキセントリックなところがあった。仕事に熱中しだすと、食事も忘れて打ち込むが、逆に気がのらないと、研究室も論文も乱雑に放りなげたまま遊び出す。英世の毀誉褒貶は、この性格のいずれの面を見たか、そしてそれを許せるか否かによって、ずいぶん異なってくる。 この国立研究所に、デンマーク王家のインゲボルグ内親王と英国のアレキサンドラ皇后が連れ立って見学に訪れた。小さな、しかし民主的な国だけに、皇族の訪問といっても格式ぶらない。四、五人のお付の人だけ連れて、マドセン博士の案内で廻られた。 内親王は特異な風態の英世に目をとめられて、どこからきたのか、ときかれたあと、「デンマークに一人できて、淋しくありませんか」と声をかけられた。 英世は硬くなって辛うじて、「いいえ」とだけ答えた。 このあと内親王は国王に、日本人が国立研究所にきて勉強していることを告げたらしい。その後マドセンが国王陛下に会ったとき、「研究所にいる日本人は元気か」と尋ねられた。それをアメリカへ帰ってから、マドセンの手紙で知った英世は感激し、「もったいない」と手紙に頭を下げた。 「国王陛下がわたしのようなことまで御存知とか、これほどの感激はございません。いまはひたすらコペンハーゲン時代の、楽しく幸せだった日々を、思いおこすばかりです。インゲボルグ内親王には、幸運にもお会いすることができ、お姿はいまも胸にやきついています。あのような高貴な方の思し召しに、いかにしてこたえるべきか、方法とてわかりません。わたしは先生を通して、陛下の御健勝と輝かしき御統治、さらに多くの芸術家および科学者の輩出することを、ひたすらお祈りするばかりです」 帰国後マドセン博士に宛てた手紙だが、明治時代に、日本の貧農に育った英世にとって、王室というのはまさに神に近い存在であった。 研究所に来て二か月ほど経って一九〇四年一月、英世はマドセン博士とともに英国へ行った。オックスフォードでの血清学会に出席のためである。このとき、英世は英国と英国人について遠慮のない批判をした。一部は好意的であったが、ほとんどは批判的なものであった。アメリカのように開かれた国しか知らなかった英世にとって、イギリスの古色蒼然とした権威主義と東洋人を見下すイギリス人の態度に我慢がならなかったのである。 これをきいたマドセンは、「君はイギリスに来たら、たちまちいろいろ感想をのべるが、デンマークではいくらきいてもなにもいわなかった。それはどういうわけかね」 「デンマークでは、わたしは先生に教えを受けてている一介の学生です。こんな若造が、御国のことに、いろいろ批判がましいことをいっては罰が当たります。とくに先生のお父様は陸軍大臣という要職にある方ですから、失礼のないように控えていたのです」 「そんなことは遠慮せず、感じるところがあれば、どんどnいってくれたまえ」 「いえ、デンマークに関しては、わたしが批判する余地など、まったくない平和で明るいこの世の天国です」 デンマーク人の鷹揚な優しさにくらべ、英国人はみな無愛想で貧相な東洋人などに目をくれる者もいない。 2 この年、二月四日、日本はロシヤに対して宣戦を布告した。 北欧圏にあって、ロシヤと密接な関係にあったデンマークでも、このニュースはいち早く知らされ、人々は戦いの進展について論じ合った。外国生活が長くなるにつれナショナリストになっていた英世は当然無関心でいられない。このとき、英世が血脇守之助に送った手紙には、当時のヨーロッパの様子がよくでている。 「(前略)今回の日露戦争は、先の日清戦争の復讐をかね、わが国の積年の怒りをはらす戦争であれば、全国民一致団結して対処していることと思います。 二月八日からの度々の旅順海戦はすべてわが軍の勝利に帰し、欧州各地は電撃にでも触れたように驚き、疑い、嫉妬と、さまざまな感情が混り、重なっています。ロシヤは欧州で最強国と思われ、全ヨーロッパはロシヤの動きに口出しするのを避けているほどですから、今回の日本軍の勝利をきいて、みな予想外の感を抱いています。 小生は英・独・仏はじめ当所の新聞など、あらゆる新聞を買いこみ、戦争の情報を求めています。戦地の報道は、どの新聞も大同小異ですが、各新聞の社説はまちまちで、その都度、各国の考え方が推測されます。 フランスの新聞は大半がロシヤ贔屓で、政府与党などは公然と、ロシヤに加担すべきであると唱え、日本を半未開の野蛮国呼ばわりしています。ドイツはもう少し狡猾で、表面は中立と見せていながら、陰でロシヤに情報を通じ、最終的勝利をおさめるように画策しているかのようです。ドイツの新聞の日本に関した記事は、フランスに劣らず悪口罵言をきわめています。これに反しイギリスの新聞は、陰に陽に、日本を援け、国民の同情を向けるようにしているようです。最近、チベット問題でロシヤと危機一髪の状態であり、フランスとの国交も切迫していることなどききますが、それらが日本に好意的な理由なのかもしれません。 またロシヤの黒海艦隊大小合わせて十五隻東洋に向けて進航中、スエズ海峡で引戻しの命令にあったとの説もありますが真偽はよくわかりません。もっともこの艦隊は実戦にはあまり役に立たないとの評判もあり、若し東洋に廻航すれば、日本艦隊の餌食になるだけだろうといわれています。バルチック艦隊も、しきりに東航をくわだてているようですが、ジブラルタ海峡を通過し難いとか。陸上の戦闘はまだないようです。 あるフランスの新聞は、日本軍二個連隊が、コサック兵のため旅順付近で全滅させられたと伝えていますが、嘘ではないかと思っています。 概してヨーロッパは人種的親近感から、ロシヤの勝利を祈っているようですが、多数の新聞は、陸上の戦闘がどうなるかということに、関心を抱いているようです。彼等は日本軍にくらべて、ロシヤ軍の優勢を信じ、ロシヤの必勝を予言しています。これは海軍はともかく、日本力郡がいかに勇敢かを知らぬからで、あい。すでに30の強力なのを知ったら、なんというか、彼等は野蛮な日本人は戦いに適している、というかもしれません。 彼等はしばしば我国を蔑視し、道義的文明が遅れていることをあざ笑っています。たしかに表面的にはそうかもしれませんが、日本国民はどんな場合にも、道義に背いたようなことはするわけがありません。日本軍人は戦時平時において、まだ彼等のような泥棒、殺人、強姦などをせず、日本人はまだ白人のように隠密に悪事を働いたりはしません。また彼等はしばしば日本男女間の乱れを公言しますが、では彼等ははたしてどんな生活をしているのか。妾、間男、私通、売春、いたるところで目撃します。 彼等は日本人はまだ自分達の内容を知っていないと思いこんでいるようです。しかし余程愚鈍でもないかぎり、彼等の内情を探ることぐらたやすく、白人の特長は外面はよく装い、綿密な観察力(これは猜疑心と併行します)を有する点にあります。しかしいつか、世界の物質文明が同程度に達したときには、彼等の特長は黄色人種にもゆき渡り、白人だけの特長でなくなることは間違いありません。小生、近頃、日本より新聞を受け取らず心細い次第です。この手紙と同時に時事新報社へ送金したので、遅くとも四月末には新しい新聞を見ることかと期待しています。 斎藤氏からは、九月以来文通がなく、わたしも手紙を出していません。一体、どんなことになっているのか不明です。わたしの留学中は約束の娘を教育すべきだと思うのですが、……少し情けない話しです。猪苗代からは毎度、破談を希望してきますが、三か年間、待ちに待っている娘の気持を思うと、心も痛み、大いに返答に困っています。愚母よりは三、四度同じような手紙をよこしており、このさいどうしたものか、判断しかねています。 ついては大変恐縮ですが、恩師の御意見、および斎藤氏の方の始末などにつき、御教え下されば幸いです。 この手紙がそちらに着くころには、陸戦の様子もわかるころかと思います。ひたすら我軍の全勝を祈り、あわせて皆々様の健康をお祈りいたしています。当地はかなり厳しい寒さですが、雪はほとんど積もりません 御奥様はじめ、皆々様によろしくお伝え下さい。まずは御無沙汰をお詫びし、近況報告まで」
日露戦争と許婚者のことと、英世の頭はそれらのあいだを目まぐるしく動く。しかし戦争がはじまって、英世は落ち着いて仕事をしていられなくなった。 学問的には、人材主義の定着していない母国に愛想をつかしながら、いざ戦争となると話は別である。東洋の未開国の黄色人種として、欧米人のなかにいた英世が、ナショナリストになるのは無理もなかった。日本へ大金十四円を送って新聞を求めたのも、戦争の様子を知りたい一心であったが、四月になっても送ってこない。英世は苛々しながら、横文字の新聞と、人々の噂で戦争の様子を探っては、守之助への手紙に次のように書く。
「日露戦争開始以来、日夜戦争のことばかり心にかかり、研究も手につかぬ状態です。二月四日の仁川および旅順の海戦は、全世界を驚かし、東郷提督の名は小さな子供でさえ知っています。その他、その折々の海戦の結果は、即刻、欧州に響き渡ってきます。 ロシア提督アレクセーエフの名は、不名誉な軍人の代名詞となり、東軍の司令クロパトキンの動向が注目されています。(中略)昨夜の来電では、ロシヤ艦ぺテロポールスキ号沈没、マカロフ提督戦死のことでしたが、今朝はそのことについてはなにも触れていません。陸戦のほうも第一戦は日本の勝利を報じていあしたが、昨日は我軍の斥侯五十名が鴨緑江でロシヤ兵のために全滅させられたとか、牛荘でも新たな戦闘準備の気配があるとかきいています。 新聞のニュースソースは、主として、モスクワ、ロンドン、ベルリン、パリなどのもので、英米派は日本軍の勝利を知らせ(ときどき誤報もありますが)、独仏系の新聞はロシヤの勇気を称え、敗報に反論し、時には日本軍の名誉棄損を企てています。 社説は英米は日本の味方(アメリカのヘラルドトリビューンだけはロシヤ贔屓)、独仏はロシヤ派です。したがって独仏の新聞社説には、黄人禍という言葉がしばしば現われます。ことに癪にさわるのはドイツ人です。彼等は狡猾で面憎く、フランス人は丁度スペタ女郎の肌合いで、無闇にロシヤ人に入れ込んでいます。まったくフランスのやり方は見下げはてたものです。癪なのはこの二国です。 デンマークは掌大の小国ですから、世界に対する政治的勢力はほとんどゼロにちかいのですが、ここも人間の集まりですから黙ってはいません。いろいろな意見の人はいますが、大体は日本に同情的です。しかし、ロシヤの目を恐れて、比較的こそこそと論じるだけ。御存知のとおり、王室は親類仲です。しかし国民は王室とは別で(ヨーロッパにおいては、これが当たり前のことになっています)、先日、当時の皇太子(すなわち英・露二国の皇后の兄)が研究所に御訪問され、その翌日は、所員一同と小生は皇居に招かれ、夕食の御馳走になりました。まったく平民的な感覚で、皇室一同われわれ臣民と同席で、面白く対談され、二時間ほどで退出されました。 この手紙を書いている最中に号外あり、"ロシヤ旗艦ペテロポールスキ号、水雷に触れて沈没。六百余名溺死。二十二名救助。新任アドミラル・マカロフ以下参謀部全滅。大公ウラジミロヴィッチ親王重傷、目下プリンス・ウチトムスキー替って指令中"との情報あり、旅順の陥落も目前ときいています。かさねがさね、日本軍の活躍は目覚ましいかぎりです。本便にて欧文の日露戦争記を差上げます故、なにとぞご覧下さい。かわりに戦争雑誌をぜひお送り下さいますようお願いします」
この手紙、英世のナショナリストの真髄がよく現れているが、同時に、当時のヨーロッパの趨勢を知るには、きわめて貴重な資料ともいえる。 この手紙の日付は明治三十七年四月十四日、そしてこの八か月後に、難攻不落を誇った旅順の要塞は陥落する。勝利とともに日本の力が認められ、それを背景にマドセン所長の好意も手伝って、英世はコペンハーゲンで急に人気者になる。 学界はじめ財界などの会合に招かれ、感想などきかれ、饗応を受ける。 英世は日本の皇室と臣民の礼儀正しさ、一致団結などを話し、自国のPRにこれ努める。まさに民間大使ともいえる活躍であった。 一方この間に、ニューヨークのロックフェラー医学研究所は着々と準備を重ね、十月より開設の運びとなった。 「十月一日までに、ニューヨークに到着するよう、帰国されたし」 フレキスナー所長からの手紙を受けとり、九月の半ば、英世は心を残しながらデンマークをあとにする。 この間、ほぼ一年、初めは戸惑い、やがてロシヤとの戦争に一喜一憂しながら、十篇の論文をまとめ、マドセン、ファミュルナーという貴重な医学徒を友達として得ることができた。
第ニ章 ニューヨーク(Ⅰ) P.19
1 一九〇五年十月、英世はニューヨークへ戻ると、ただちに新設のロックフェラー研究所の首席助手に任命された。五年前、日本から一人でフレキスナー教授のもとにおしかけてきたときは、月八ドルの小遣銭を与えられただけだったが、いまは月給百八十ドルである。 新設のロックフェラー研究所は、ニューヨーク東部のイースト川に近い五十番街にあった。研究所はまだ建築中で、フレキスナー所長以下六名のスタッフは出来上がったばかりの煉瓦建てのビルの一画に陣どった。六名のスタッフのうち、二名は三十代の教授で英世より上席だったが専門は違う。あとの三人は英世より下だから、実質的には彼の思うままに研究ができる。しかも年齢は英世が一番若い。 デンマークからフィラデルフィアに戻ったのが九月二十二日、十月にはすぐニューヨークへ引越し、十一月一日からは早くも実験に着手するという張切りようであった。 研究テーマは依然として蛇毒であった。血清反応というのは入り込んだら果てしない、見方によっては泥沼のような部門であるが、英世は蛇毒に関する著書を一冊書きあげるまでは続けるつもりであった。 「俺のうしろにはロックフェラーがついている」このころ、英世はニューヨークで会った日本人に誰彼となくいった。 たしかにロックフェラーが、この研究所のために投じようとしていた金は膨大で、すでにつくられた財団の資金だけで百万ドル、さらにそれの数倍の資金が投下される予定になっていた。かつてモルモット一匹さえもらえなかった英世が、いまは実験動物も施設もつかい放題、仕事のためなら誰も文句をいわないし、邪魔する者もいない。 ニューヨークへ移るとともに、英世は下宿を研究所に近いレキシントン街に見つけた。ワンルームで、他に簡単な炊事ができる流しがついているだけである。フィラデルフィアのときもそうだったが、英世は住居にあまり関心がなかった。一日の大半を研究室で過すわけだから、部屋はベッドがあって眠れればよかった。それでも今度の部屋は現代風にいうとマンションの一室で、フィラデルフィア時代よりは広い。もっとも研究所のサラリーからみると、まだまだ粗末なものではあった。 幼時からボロ家に育った英世には、住居に金をかけるという発想がなかった。部屋の調度といえば、ベッドと書棚、あとは中央に大きなテーブルが一つあるだけだった。このテーブルは簡単な読み書きと食事兼用であったが、中央にはいつも一枚の写真立てが置かれ、そのなかで一人の女性が笑っていた。デンマーク留学中、コペンハーゲンで知り合った女性で丸顔の笑顔が優しい。英世はこの女性に好意を抱いていて、帰りがけにようやく写真を一枚だけもらったのである。 「あなたの恋人か?」 来客が尋ねると、英世少し照れたように首を振って、「そうではないが、日本人はこういう、優しい丸顔の女性を好むのです」と答えた。 顔の輪郭だけは山内ヨネ子に似ているともいえるが、このころ、英世の脳裏からはすでにヨネ子のことは遠ざかってた。かわって異国で三年半、ひたすら生きるためにのみ頑張ってきた男が、このごろになってようやく、女性への恋情を覚える心のゆとりがでてきたことはたしかであった。 このアメリカ第一の都市ニューヨークで、英世は新しく何人かの日本人と知り合いになったが、そのなかの一人に有機化学研究の第一人者高峰譲吉がいた。高峰は英世より二十二歳年上で過燐酸カリの研究のためアメリカに渡り、一九〇二年にはニューヨークに自分の研究所を創設していた。彼の名をとった消化酵素タカジァスターゼは、一九〇九年の発見であるが、英世と会った一九〇五年には、高峰の名は既にアメリカでも広く知られていた。だが英世はこの科学界の先達と日本人会などで数度会っただけで、それ以上の親交はなかった。それは英世にその気がなかったというより、高峰のほうで英世を避けていたといったほうが当っていた。 身なりにかまわず礼儀知らずで、一度自分のことを喋りだすと止まるところを知らない、そんな独善的で破調感のある英世が、日本のエリートである高峰にはうさんくさい存在に思えたのである。だが運命の悪戯とでもいうべきか、この二人はニューヨークのウッドローン墓地の比較的近い位置に葬られている。高峰の墓は大きな石室に囲まれ、なかに日本の旗や桜を映したガラス絵などが置かれているのに、英世のはただ、土盛りの上に石碑が立っているにすぎないが、死後二人はきわめて近いところにいるともいえる。 ともかく英世はニューヨークでは、あまり人付き合いのいい方ではなく、親しくなった日本人もあまりいなかった。フィラデルフィアでは淋しさと貧しさが、いやでも英世の足を日本人に向かわせたが、渡米後四年を経て、もはや無理に日本人を求めなくても自活していける。なまじっか、嫉妬と中傷の日本人と付き合うより、陽気なアメリカ人と付き合ったほうが気が楽だった。 こんな状況のなかで、二人の日本人客が訪れた。一人は奥村鶴吉という歯科医で、英世が守之助の家に世話になったとき同居していた男である。 英世は奥村がフィラデルフィアに着いたと連絡を受けると、すぐニューヨークから駆けつけ、元の下宿に一緒に泊り、一日中奥村を案内して歩いた。ずぼらなようで、こういうところ英世はよく尽す。奥村はのちに英世の伝記としては最も秀れた『野口英世』を著したが、このときの出会いが一つのきっかけともなっている。 もう一人、英世を訪れてきたのに宮原林太郎という男がいた。宮原は星一の紹介できたのだが、背が高く眼が異様に大きい男だった。本来医師で医学の勉強ににきたのだが、とくにレントゲン撮影に関心をもっていた。彼はのち帰国して、日本で初めてレンゲン写真を撮る。 どういうわけか、英世はこの宮原と気が合った。どちらも少し偏屈で一人よがりのところがあったが、なにごともやり出すと止まらない一途なところもよく似ていた。二人は連れ立って食べたり、飲んで歩いた。 だがロックフェラー研究所の首席助手で、百八十ドルのサラリーをもらいながら、英世の生活は一向に楽にならなかった。ニューヨークにきてすでに一年経った一九〇五年のクリスマスにさえ、冬服がなく、外套は薄いレインコートで間に合わせる始末である。百八十ドルもの金をどこへ費っていたのか、英世はその理由を友人に、「先年の世界漫遊のため借金を生じ、未だに返済に追われているため」と答えていた。 しかしデンマーク国立研究所への往復旅費は、ロックフェラー研究所で負担したものだし、血清研究所でも一応生活に不足しない程度の給料は出ていた。普通の生活をしていれば借金する必要などない。この留学で英世個人が負担したのは、帰途ドイツやフランスに立ち寄ったときの費用くらいのものだが、アメリカへ戻った時点で英世には事実かなりの借金があった。その内訳は、まずデンマーク留学中に、所長のマドセンやファミュルナー等から借りた金である。それとロンドン、パリなどで遊んで日本人からも借りたものだが、こちらの方は主に女につかった。 アメリカに渡って以来、多少おさえていたとはいえ、英世は相変らず精力旺盛であった。それが学問に向けられてているときは、偉大な研究のエネルギー源になるが、女に向けられたとき無分別な浪費につながる。二十代後半の独身としては無理のないところもあったが、英世の遊び方はあまりにも計画性がなさすぎた。女が欲しいとなると見境がつかなくなる。まっすぐ娼婦の館に駆けつけて、初めに出てきたのを抱く。値切ったり、馴染みになって安くあげてもらうといったこともしない。そういうことはすべきでないと思いこんでいる。学問にはうるさいのに、こと女にかけては相手のいいなりだった。 みかねた知人が、「女に余計な金を使うのは止せ」と忠告しても、笑ってうなずくだけで、また同じことをくり返す。「あんな勉強家が、女のことになるとどうして馬鹿になるのか」知人は溜息をつく。 だが英世の立場にたってみると、女への浪費もある程度無理のないところもあった。 なによりも英世の最大の不幸は、フィラデルフィアでもコペンハーゲンでも、これと決まった恋人がいなかったことだった。恋人がいれば、その女性と欲望を処理することもできるが、英世にはいくら努力をしてもそんな相手はできない。黒い髪がやや縮れ、子供ほどの背丈しかない指の不具な東洋人に近づいてくる白人女性などまずいなかった。あるいは熱心に誘えば一人くらいできたかもしれないが、それをつくるだけの余裕も勇気もなかった。それでも欲望は人一倍ある。そうなると金で抱ける娼婦のところへ行くより仕方がない。すべての欲望を娼婦で癒すとしたら、莫大な出費になることは当然であった。 女性だけでなく一般の買物にも、英世には計画性がなく衝動買いするところがあった。デンマークに行くときもパリに立寄り写真を撮ったが、その折りわざわざシャンゼリゼの高級洋服店へ行って、黒のコートとシルクハットを買い込んだ。ロックフェラー研究所府に移っても、高給をいいことに、一本五十セントもする高級煙草を一度に何ケースも買いこんで吸ってみる。しかも金の足りない分は、つけにする。生活の必需品でもない煙草を、借金までして買い入れる必要もないと思うが、そういうところの歯止めがきかない。また友達がきて嬉しくなると、レストランにへ行って一度に十人分も頼んで結局食べきれず、半分以上残してしまう。 英世にはほどほどということがなかった。極端に多いか少なすぎる。いってみれば平衡感覚がない、生活人としては一種の失格者であった。 この借金にくわえて、デンマークからの帰途、船でカードをしてかなりの額を奪られてしまった。大体、英世は賭けごとの上手なほうではなかった。相手の心理を読んだり、自分の気持を隠したりすることができない。いい手がくると気色満面になるし、悪くなると急に沈み込み、相手に手のうちがすべて読まれてしまう。それなのに誘われると、いやといわない。船中で負けて、カードで知った船客からまた借りる。 日本人ならいざ知らず、外人に借りた金は払わないわけにはいかない。とくにマドセンやファミュルナーは学問の師であり、友でもある。「漫遊の借金」というのは内容はともかく、事実ではあった。 だが借金に慣れていた英世も、さすがにこの年の冬には、自分の金銭への計画性のなさに自分であきれ、これでは駄目だと改めようとした。 そのきっかけになったのは、この年の秋から冬にかけて悩まされた痔疾である。もともと英世には痔の気があったが、長年の椅子への坐りづめと、この冬の寒さによって一気に悪化してきた。下宿から研究所へ十分とかからぬ道を歩くのさえ辛く、そろそろと歩幅を縮めながら行くので倍以上の時間がかかる。 医師に診てもらうと即座に入院して手術を受けなければならないという。迷った末、痛みに耐えかねて決心したとき、初めて金がないのに気がついた。保険制度のまだ完備していなかった当時のアメリかでは、手術を受けるとなるとかなりの出費になる。 「どこを向いても知らぬ人ばかりのアメリカにいて、一旦病気になったときの薬料を貯えておかないとは、その日暮しの労働者がやむなくやること、独立した人間のなすべきことではりません」英世は自らの反省を、こんなふうに守之助に述べたあと、 「今年からはじめて独立して、自分一人で会計をやりくりすることになりましたが、万事に経験なく、失敗など多く、いまだに一文の余裕もありません。この不愉快さは渡米以来のどの不愉快さにも、優ることもありません。節約はしようと努めてはいるのですけれども、長年の依頼的生活の習慣が天性となり、まことに苦しい実状です。しかし小生も今年は三十歳、一人前の紳士の待遇を受けていては、しかるべき体面も保たなければなりません。もはや無思慮な少壮時代ではないことゆえ、おおいに心を改めて血路を開く決心です」と神妙である。 フィラデルフィア時代には、フレキスナー教授が、英世の性格を見こして、生活費だけを渡しあとは貯金をさせて必要なときだけ衣類を買って渡すというやり方だった。いわばお仕着せに従っていたようなものである。だがニューヨークに来てからは、さすがにそうもできない。すでに三十に近く、研究所の首席助手である。自分でやりくりせよ、と給料全額を与えられる。大抵の者は喜ぶのを、英世はそれで行き詰まってしまった。もらっただけ費う浪費癖は一向に改まっていない。 結局、英世にはいつも誰か人がついて、生活面を管理してもらう必要があった。春になったからこの背広、冬になったからこのコート、下宿はここで、食事はこれ、というようにしかるべき人がついて決めてやる。その分では贅沢をいわないし、黙々と食べている。なまじっかな金をもらうより、生活面では管理された方が余程楽である。その方が頭をすべて学問に向けられる。 「多年の依頼的生活が天性となり」と、知ってはいても改められない。その馬鹿さ加減を非難することは容易だが、だからこそ異様なまでの学問への集中力が生まれてきたといえなくもない。 2 新設のロックフェラー研究所で、英世が取組んだ蛇毒の研究はフィラデルフィア以来の継続研究であった。この領域では、英世の仕事はすでに一応の評価を受け、オスラー博士編集の『医学大系』の「蛇毒」の項を執筆することになっていた。またこれとともに、フレキスナー博士と梅毒の第一期、第二期患者の病巣から、スピロヘ-ターパリダの存在をたしかめる仕事をはじめ、さらに四月からトラコーマの研究にとりかかった。 このトラコーマの研究は英世が手をつけたなかでも難問中の難問で、最後まで解決できなかったものの一つである。この年の暮のマドセン博士への手紙には、「トラコーマ患者の結膜の炎症部には、多数の細菌が存在しているため、まずこれらの細菌から片付けていかなければなりません」と述べている。 たしかにトラコーマ患者の結膜には種々の細菌が認められる。だがこれらはトラコーマになったあとの二次感染で、トラコーマの原因そのものではない。それはのちにウィールスの仕業とわかるが、当時はまだウィールスを確認する顕微鏡はなかった。いわば永遠に見付からぬものを追っていたわけでのちに英世はこの研究をを放棄する結果になるが、この失敗が、そのあとの黄熱病の研究にも尾を引くことになる。 このころ、東京では斎藤家との縁談の話が、いよいよ大詰めを迎えていた。 斎藤家では結婚の約束をしてから、すでに五年近く待たされ、独身の娘を、これ以上家においていくわけにはいかなくなっていた。一体、どういうつもりなのか、いままでじっと待っていた斎藤家も我慢ならず、英世の真意をききたいと血脇守之助に迫ってきた。 守之助は何度か、英世に問い質したが、さっぱり要領をえない。最後には「自分はまだ当分帰る気はないから、どこか嫁にでも行くなら、それでもかまわない」と、無責任な返事である。いっそ女性のほうからアメリカへ押しかけたらとも考えたが、英世の真意もよくわからないのに、太平洋をこえて外国へ行くなど、当時の子女として出来ることではない。 追いつめられた守之助は、ついに独断で縁談を破壊することに決心した。 「ようやく、世界的に業績を認められようとしている学者を、いま引き戻すのは忍びないことですから」守之助はそういったあと、婚約の条件として、英世が受け取った渡航費二百円を返す条件で解消を納得してくれるよう頼んだ。 結局、娘は青春を五年間、無為に過ごしたことになる。守之助が極力、怒りをおさえて、解決したことを英世に告げると、折返し次のような簡単な返事がきただけだった。 「ありがとうございました。わたしもこれでようやく自由の身になり、研究に没頭できます。返済にお立替えいただいたお金は、早急にお返しするつもりです」 だがこの借金はそのままとなり、十年後、英世が帝国学士院恩賜賞を受けたその賞金の一部から返済されるまで放置されるままだった。 この婚約解消を見こしたように、英世はアメリカへ持ち帰ってテーブルの上に飾っておいた写真の主との縁談を強力にすすめていた。マドセン博士にも依頼し、その縁者がアメリカへ来た機会をとらえてわざわざ会いに行ったが、結局この女性は、コペンハーゲンの名流の出だということで、英世が思っていたほど、相手は積極的でなかった。ただ家族が親日的ということで、英世に好意的だったにすぎなかった。この話が破談になると、英世はただちにテーブルから写真をはずして抽斗の奥にしまい込んでしまった。 こういうところの、気分の転換は早い。 「そうか、それならいい」振られて英世は再び学問に熱中する。 このころ、奥村がよく英世を訪れたが、英世はほとんど研究室に泊りこみで、週に一度くらいしか下宿に帰ってこなかった。研究室の同僚が、「帰らないのか」と誘っても、「ここは俺の家だ」といって頑張っている。 もっとも研究室に寝泊まりするとはいえ、朝から晩まで研究していたわけではない。大酒は飲むし、煙草もヘビイスモーカーである。そのうえ、徹夜、夜更かしなど平気でやる。滅茶苦茶というか、自由気ままな生活である。 ニューヨークに来て一年も経つと、英世は一風変った男として、研究所のなかでも有名になっていた。 たとえば英世は実験室ではほとんど白衣で通すが、その白衣がいつも汚れていて、裾のほうに頭大ほどの穴があいている。それを一向に気にする気配もなく着て、おまけに一旦、仕事のことを話し出すと止まるところを知らない、相手が疲れて逃げ出そうとしても追ってくる。しかもその話が絶えずつまずき、言葉を探しながら、ときに意味不明のところもある。他の者が、英世の意見に納得し相槌を打つまで離してくれない。 しかし話題が食物や街の流行などの話になると、たちまち黙りこんでしまう。そちらのほうは、まっあくといいほど知識がない。それでも、仲間が、「あそこの洋服はいい」などというと、給料日の翌日はすぐ三十ドルも四十ドルも出して買ってくる。しかも帽子から靴まで一緒に揃える、買った翌日には、それを着込んで得意然としてやってくる。 だが、そんな服装は三日ももたない四日目には、もう前のよれよれのワイシャツと、型のくずれた背広に戻って、ネクタイを少し緩めてくる。「あの服は高くてもったいないから、もっと着たほうがいい」と、同僚がすすめると、面白くなさそうに眉をひそめる。 今度はすこしでも計画的にと大きなな金銭出納簿を買ってきて、一セントの出し入れでもうけると宣言するが、それは三日坊主で、一週間すると帳簿は本棚の奥にしまい込んでしまう。 四月二十三日付、守之助への手紙に、英世は次のように書いている。「わたしはまだ、他人を扶助する力はありませんが、自分一人だけ生きて行くには、なんとか心配なくなってきました。不意の出来ごとのため、二十年満期で六千円手に入る保険に加入することに決めました」 一見、殊勝そうにみえるが、これも決意だけで実行に移されなかった。これでは駄目だと自分では思いながら、抑止のきかぬ衝動的な性格がつい計画を打ちこわしてしまう。 3 このころ、三城潟の英世の実家は相変らず貧窮のどん底にあった。 リュウマチで長いあいだ寝たきりだった祖母のみさは、この前年二月に亡くなり葬儀でもの費りが重なったうえ、父の佐代助の酒びたりは深まるばかりであった。あちこちの店に行っては借り倒し、家からは金をくすねていく。さらに他家に忍びこんで盗み酒さえする。 佐代助はすでに完全なアル中だった。酒が入らないと頭がぼうとして手足が震えてくる。舌ももつれてきて、話すこともわからなくなる。酒のためになら善悪の見さかいがつかなくなる。酒が入って機嫌のいいときは柔和でおとなしく素直で、働こうという気力もある。だが切れてくると別人のように変り、暴れ出す。どこか住み込みで働こうとしても、「佐代助のほうで月々十円もってきてくれるなら」といわれる始末である。 この義父を見ならったのか、イヌの夫の善五も酒好きで、他の店に借金こそしないが、働いた分はすべて酒に消えていた。イヌは二人の子供があるうえ、最後の子の産後の無理がたたって、いまだに畑の荒仕事はできない。すべてが五十すぎたシカ一人の肩にかかっていた。 さらに東北地方は前年から冷害で凶作が続いていた。おかげで最低の税金も納めれず、税務署から田畑の強制転売の指示を受ける羽目になった。幸い、転売は野口家の遠縁に当る渡辺忠作の援助で免れたが、農家のくせに米を食べられず、稗と粟ばかりだった。 見かねた小林栄がときどき米を送ったが、それもいっとき息をつくだけで、すぐなくなる。一日生きていくのがようやくのところへ、長年、応急手当てで支えてきた家が朽ち、雨漏りがひどく土壁もくずれて外から家のなかが丸見えになっていた。 シカは家を建て直したかったが、そこまで手がまわるわけもない。せめて夫の佐代助でもいなければ少しは楽になる。シカもまわりの人もそう思うが、アル中では誰も雇ってくれる人はいない。行きつくところ、小林栄に相談することになる。小林もいろいろ考えたが、うまい方法はない。だが、このまま佐代助を野口の家においたのでは、ますます世間の顰蹙をかい本人も自堕落になるばかりである。それに英世の名声にも傷がつく。 「それじゃ、わたしが預かろう。毎日一升酒というわけにはいかないが、二合程度で我慢させて、家の仕事を少し手伝ってもらおう」 「先生から厳しくいうて下さったら、あの人も少しは心をいれかえると思いますが」 シカには願ってもないことである。佐代助は酒は飲むが、普段はおとなしい男だった。いわれたとおり使い走りや、草とり、雑巾がけなども真面目にやる。小手先も結構器用だった。ただ酒が欲しくなると我慢ができなくなる。中毒だから体内の血のほうが騒ぎだす。小林は佐代助に二合までは飲ませる。そのかわり真面目に仕事をすること、という条件で身柄を引取ることにした。 一方、英世の弟の清三は、小学校を出たあと、小林栄の世話で若松の新城という酒造店に勤めていた。清三は英世からみると気が弱く、奉公が辛いと逃げっ帰ってきたことがあるが、シカは「男は首でも刎ねられるとき以外、泣くものではない」と叱りつけ、その夜のうちに若松へ追い返した。戻った清三は真面目に勤め、二十歳の徴兵検査では甲種合格にとなってこの年の十二月に仙台の歩兵連隊に入隊した。 この清三は、二年後除隊して新城家に戻り、同家の主人に認められ娘との結婚の話がすすめられた。だが同じ若松市内の餅屋の娘を好きになり、妊娠させていたことが知れて小林栄の怒りをかった。 仕方なく清三は会津を離れ、屯田兵として北海道北見に近い野付牛に入植し、数年後同じ町の郵便局員の娘と結婚し、養子婿入りした。その後一時鉄道に入ったが、事故に遭って肢を傷め、のち妻と二人で「ニコ二コ屋」という料理店を開いた。 大正四年、英世が帰国したとき、親戚縁者が集まり盛大な会が催されたが、そのときも清三は北海道に残ったまま生涯英世と会うことはなかった。女のことで故郷を追われた者として、いまをときめく兄に会う気になれなかったのであろうか。、 英世、父佐代助、清三、そしてシカと、ことあるごとに、野口家では小林栄の世話になり、それだけに小林の発言力は大きかった。 これら次々と続く実家の苦境を、英世は知らなかったわけではない。シカは仮名まじりの文を辛うじて書けるだけで、自分から英世に手紙を出すことはできなかったが、かわって小林が逐一報告していた。家がぼろぼろで、外から丸見えであることも、父が飲み歩き、不義理を重ねていることも知っていた。月々十円も送れば、ずいぶん楽になることも承知である。 だが英世がアメリカにいたあいだ、家に送ったのは百円にも満たない。送るとは書きながら、現実にはほとんど送らなかった。 月給百八十ドルもとっている身分で、月々ニ、三十円の金を送るくらい簡単なはずだが、例の浪費癖が英世を苦しめていた。それに金を送っても、どうせ父の酒代になるといういいわけもあった。 そのかわり英世はアメリカからシカに高価な産科用器具を送った。器具は難産のとき嬰児をとり出すための最新のもので、いったん血脇守之助に送り、そこから小林栄に転送され、シカに届けられた。父や姉弟には冷淡でも母のシカにだけは尽す。その英世の気持だけは終生変わることはなかった。 だが折角の器械も医師用で産婆の使用は許されず、家に飾っておくだけであった。しかしのちに、会津の産科医が懇望して譲り渡したので、見かえりに金をえて、多少の助けにはなった。 4 ロックフェラー医学研究所が正式に完成したのは一九〇六年三月である。英世が一九〇四年十月に着任してから一年半あとである。建物は茶褐色で煉瓦状に積み上げたもので、イースト川に面した高台に、ひときわ目立っていた。英世はこの二階の東南の一室を与えられたが、そこの正面からはブラックウェル島から大西洋まで望まれた。 フレキスナー所長の室も、英世と同じ階にあった。 この完成と前後して、英世はアパートをレキシントン・アベニューから東六十五番街に変えた。今度の家賃は、一週五ドルと安いうえに、研究所にも近い。いまでいう5DKで、そのなかの一室を研究専用につかえる部屋にした。ここには奥村がきて、さらに宮崎も出入りした。 一度、奥村は英世に連れられてニューヨークの下町を飲み歩いたが、一晩に十八軒もの店を連れていかれて驚いた。しかも新しい店に行くたびに、英世はビールを飲み、ニドルくらいずつチップを払っていく、奥村があきれて勘定してみると、一晩で三十八ドルも使っていた。 新しいアパートに移ったのは、自炊をして倹約しようという目的でもあったが、これでは意味がない。
************************************* p.141 この夜、当地の医師会、歯科医師会主催の歓迎会に出席しようとした矢先、東京から「勲四等賞旭日小授賞」叙勲の電報を受けた。 そして翌九日、一行は大阪に入った。まず大阪高等医学校(現大阪大学医学部)校長佐多愛彦博士の案内で市内を見物したあと、十日は大阪西部の景勝の地箕面に向かった。> この箕面行きは、翌十一日から、またぎっしりつまったスケジュールに追い廻される英世に、母や親しい者だけで水いらずに、のんびり過ごしてもらおうという佐多博士らの配慮から計画されたものである。 当日、佐多博士は一行の宿舎の大阪ホテルに二台の車を廻し、案内役に細菌学の福原義梅教授が同行した。一行はまず大阪城を見たあと、箕面に向かった。いまでこそ箕面は阪急沿線のひらけた住宅地になっているが、当時は訪れる人はほとんどない。初夏の新緑と秋の紅葉のとき、大阪、神戸から遠出してくる人があるくらいのものだった。とくに宴席のもたれた「琴の家」は滝へ通じる川沿いの滝道をさかのぼった先にあり、途中からは車も通らなかった。 一行はその坂道の手前で車を降り、草履にはきかえ、谷川沿いの家へ向かった。このとき英世の一行は、別棟の茶室で茶を飲んで一服したが、シカは足が遅いし、茶の作法も知らないところから、先に「琴の家」に着いて休んでいるといって出かけていった。 「琴の家」では、間もなく英世一行が到着するというので緊張して待ちかまえていると、日焼けした小柄な老婆が先に現われた。 「ここが琴の家だべか」 「そうですが、滝はもっと先ですよ」 女中はこの田舎者らしい老婆を、滝見物か山菜採りにでもきたのだろうと勘違いした。 「おれは、佐多博士のお招きできたんだげんども」 たしかに今日の宴席はは佐多博士からの申し込みだが、それに出席するにしては、いかにもふつり合いである。女中はすぐ女将を招んだが、やhり納得がいかないので、一行がくるまで、一旦、玄関の左手の控室に休ませておいた。 その直後に、英世が到着し、二階の大広間へ行ったが、母が着いていないことを知った。 「六十すぎの老婆が先にこながったでしょうか」 それで、女将ははじめて、控室にいる老婆が英世の母親だとわかった。 「そうとは知らず、とんだ失礼なことをいたしました」 女将と女中が平謝りに誤って、シカを慌てて宴席に案内した。 このときのの出席者は、佐多博士以下、福原義梅博士に、木下東作博士、有馬頼吉博士ら、大阪高等医学校の教授達を中心に、英世母子、血脇、小林夫妻、石塚三郎ら十人ほどのごく内輪のものだった。 宴席は「琴の家」の二階の、八畳と六畳の二間を襖を外して広間にし、八畳の床の間を背に英世母子が坐り、まわりを血脇、小林夫妻らがとり囲んだ。 この八畳間の眼下には紅葉のあい間に渓流が見え、谷川のせせらぎがたえずきこえてくる。奥箕面随一の景勝の地であった。 ここで、英世は出された珍味を、一つ一つ説明をしながら、自ら箸でとって母の口へ運んでやった。 これを見た大阪「富田屋」の名妓八千代が、「あれほど偉いお方が、まわりに居並ぶ先生など眼中になく、ひたすら老いた母に孝養を尽されている。私も母一人子一人の身だが、ああまではできない」といって、途中で席をはずして、廊下の端で泣いた。 実際、女将もその場を見て感動し、改めて英世の孝行の深さを知った。 これが、いわゆる「琴の家における野口博士の孝養」として、広く伝えられることになる。 翌月の新聞には「博士の孝心に感じて八千代泣く」という題で、このときの情景がこまかく報道された。大阪毎日新聞の記事は次のようになっている。
……同家の別座敷で、すぐさま昼餐会が開かれると、膳の上の刺身をとりあげて、「おつかさん、これは鰹の刺身ですよ、美味しいですか? 小林の奥さん、あなたは焼魚がお好きでしたね……」と野口博士は隣の母堂や小林老夫人の手をとらんばかりにして機嫌をとって、自分も夢中で嬉しがる。 「山家で生れ、刺身など覚えないうちに外国へ参りましたね、やっとこの十日ばかり前から食べられるようになりましたが、母などはただ御馳走に魂消るばかりですよハ……」 お相伴の記者に母を紹介される。やがて招ぜられた土地名代の舞妓の踊りとなってからは、母堂や小林老夫人達は箸も取落しそうな顔で気抜のようになっていられる。母堂の横顔を、野口博士が覗き込んで、「どうです、面白いものでしょう、さあ召し上がれ、松茸のお汁ですよ、その蓋がお椀になるのだそうですよ」と手ずから給仕に余念がない。 このありさまを眺めながら血脇氏は涙ぐんで「諸君、この野口君のねんごろな心情の一部が、他の当世紳士にあったら、社会の風儀は淳厚になるだろうに、いまさらいうのもおかしいが、わずかばかりの世話をした自分に対して、十二年間に二百余通の長い手紙を呉れた。野口君の情誼には常に泣かされていたものですが、こんな田舎の婆さんと連れ歩いて、人前も道路も頓着なく、思いのままに孝心を発露する今回の事実には、涙がたまらなくこぼれるのです」と語り出したとき、佐多博士も眼に一ぱいの涙を浮かべた。昼餐は二時に済んで一同は箕面の滝に遊んだが、母堂と小林夫妻とは奈良見物に行った。
当時、この料亭の主人公の妹であった南川光枝さんも、英世の母への孝養の姿を目のあたりに見て感動した一人で、彼女はその感激を忘られず、これも若かりしころ英世の講演を聞いて感動した歯科医の戸祭正男氏などと話すうちに、野口英世の銅像を建立することを思い立った。 かくして資金の大半は光枝氏が負担し、さらに足りないところを、有志の浄財に求め、これに大阪府、箕面町なども協力して、昭和三十年十一月十二日に銅像が完成し、除幕式がおこなわれた。
いまこの地に立てば、緑の樹間をとおして「琴の家」の一角と、その下を流れる清流をのぞむことができ、六十余年前、英世がこの地で母のため自ら箸をとって食べさせ、それを見て涙した人々の感動が、静寂のなかに改めて思い返される。 5 帰国中の英世の記事は各紙によく出た。 横浜到着のことはもとより、会津や関西遊説の様子なども、行く先々お新聞でとりあげられた。とくに箕面の「琴の家」の場面は、貧しかった子の母への孝養という日本人好みの話題で、全国紙にも広く紹介された。 だが、これら新聞記事のなかで、英世の妻メリー・ダアジスのことについて触れたものはまったくない。英世の経歴の紹介でも、学問的な面ばかりで家族についてはなにも触れていない。 これはもちろん、英世が妻を連れず、単身で帰国したことに最大の原因がある。記者のなかには妻のことで質問する人もいたが、これに対する英世の答えはいつも素気なかった。アメリカの女性で、メリーという名であることしかいわない。それ以上尋ねようとすると、それは仕事のこととは関係ない、といってつっぱねた。
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