★師を求めて 基督教独立学園を訪ねて 越川春樹先生を訪ねて 森 信三先生 辻 光文さん

辻 光文さん


森信三先生との出会い 辻 公文


 この世において、人の縁ほど不思議なものはあるまい。重々無尽に祈りなして、それは唯々もう不思議としか云いようのない、ありがたいものといえる。

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 私が森先生のお名前を知ったのは、今から二十五年も前の、一九六四、五年の頃である。当時私は、大阪市が建設した山の中の、教護院で妻と共に暮らしていた。担当の子供たちは小学校、中学校の男の子供たちであった。法的にも「不良」のレッテルを貼られ、小学校で入院して来ても中学生で入ってきても、最後には義務教育を終えるまで在院、卒業と共に家庭へも帰らず(帰れず)だいたいそのまま住み込みの就労をしていくのである。まだ十五歳の子供である。それは本当に痛ましいほどであった。せめて私どもの手元に高校を卒業する頃まで、一緒に暮らすことは叶わぬものであろうか。とどんなに妻と語り合ったか知れない。けれども、当時、次々と入院を要請されてくる子供の数は、一人に付き八人、夫婦で十六人という定員をいつも超えて、十八、九名と云うのが常であり、また子供たちも早く出たい、ということもあつて思うようにならなかった。

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 人はどんなに悲しい過酷な運命であろうがそれから逃れるわけにはいかぬものがある。受けて立つしかないものがある。

 日本の高校進学率が当時で何パーセントくらいになつてていたのであろうか。まさに九十パーセントは超えていたであろうが、私どもが預かっている子供たちは高校進学などまだ縁もゆかりもない時代であつた。

 そのころである。私はある日書店で、文理書院発行の『人生二度なし』、副題として「勤労青少年のための人生論」としたためられた一冊の本を見つけたのである。一読再読、私はかつてない深い感動を覚えたのであつた。そしてこの書こそ、進学も出来ず、というより、本人自ら学校などということにすっかり魅力も興味もなし得ず、義務教育を最終学歴として就労していく、この子供たちの「人生の書」であると直感した。そして幾冊かを購入して、やがて学園を巣立つていく子供たちへの唯一のプレゼントとしたのである。

 「学校なんかいかなくてもいいから、もし暇があったら、この本を読んで欲しい」ともたしてやった。しかし、縁、熟さず、この本に感動した子供の声を耳にすることはなかった。ただ私の中には、ずっと消えることなく人にすすめる数少ない書の一つとしていた。そして、森信三、という方のお名前は忘れられない人として心に刻んだ。けれどもこの方の本は、もうほかに本屋で見いだすことはなかった。

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 それから何年してからであったろう。弟が、「この本はいいぞ」と「坂村真民自選集」(大東出版社刊)を送ってくれた。坂村真民先生の詩に感動したことはいうまでもないが、その「序文」が森信三先生だった。まさに比類のない一言一句、ゆるがせにできぬ言葉を用いてその深奥を極め、しかも極めて現実的なその紹介文は、坂村先生を一層私の脳裏へ刻みつける強烈なものであったことを今も忘れない。

 そして、そこには「千里ニュータウンの片隅にて」と記されていて、この高槻のそんなに遠くないところにお住まいなのだ、と深く記憶している。お会いしたい思いもありながら、外出のならぬ仕事上のこともあり、また欲求のまだ弱さもあったのであろう、いつかそのままに過ごしていた。

 それからまもなく大山澄太先生編集で大耕舎から発行されている、山頭火の「草木塔」を山科の一灯園で見っけて買った一九六九年に、その序文もまた森信三先生が見事な筆致で認められておられて驚くことがあった。

 そして、それから数年して(今、手元にその本がないので確かなことは分からないが)福岡正信「藁一本の革命」という本を読むことがあった。「無起耕、無肥料、無農薬で収穫日本一」という篤農家の本である。「いくらなんでもそんな馬鹿なことがあるものか。」妻の弟が和歌山県御坊の田舎で専業農家をしていることもあって、近年ことに日本の農業、特に農薬について語り、憂うことも多いのであるが、一度その現場をぜひ訪ねたい、と思うことが切であった。とはいってもそのチャンスはなかなか来なかったが、私どもの銀婚の記念にと大阪市から旅行券を貰うことがあった。妻と二人外出が叶えられぬ仕事上の都合もあり義弟を同伴して、愛媛県宇和島市の福岡正信氏を訪ねたことがあった。一九八二年(昭和五十七年)の夏である。

 宇和島では生憎、福岡氏は不在で直接お会いすることは出来なかったが、その問題の田圃に立ち、弟などは田圃の中へも入ったり近所の方々のお話もきき、更に、福岡氏を慕って横浜からやってきたという人の案内で、氏所有の山小屋で、農の実践を見聞することが出来て感動した。その時、山小屋に並べてあった福岡氏の著書『無1 神の革命』、伊予: (自費出初版)、1973年7月、『無2 緑の哲学』、伊予: (自費出初版)、1969年5月。の二冊を分けて貰った。ところがその福岡氏を紹介している序文がまた森信三先生であった。

参考:日本の哲人・福岡正信氏の自然農法 − 砂漠の緑化へ|JFS ジャパン ...

 私は正しく浅学非才で全く知らぬことであったが、元神戸大学教授、現神戸海星女子学院大学教授と末尾に記されていた。私は長い間、一灯園の「光友」ということもあって、光誌と小冊子の「光友」をことのほか愛読している者の一人である。直接的には、子供の仕事との関係もあって、「家庭教育」「学校教育」に関する特集は、その都度感動して読むことがあった。ほとんどは昭和の四十年代から五十年代にかけてのものである。

 特集の中でも、牧正人氏の「教職厳しくて」「山本紹之介、岸本辰雄氏他の「青年よ、乗り物の中で立とう」や綱沢昌永氏の「叱り方十ケ条」やもちろん「人生のタネまきーー少年少女のためにーー転換期に生きる教師ーー」と題した田中繁男氏の特集などは私の退職直前の出会いである。

 しかし縁のないということは悲しいというか不思議なことですぐ臨席しても、どうにもならぬものである。今思えば、これら一連の方々の著作、発言はすべて皆森信三先生の門下の一連の同じ畑に咲いた花なのである。まさに驚きという他はない。よくよく吟味するならば、当然その核となる森先生の壮大な霊峰を眺め得ずともその片鱗を仰ぎ得て不思議ではない。況やここ十数年来、森先生一門から発する香粉を吸って、そのどまん中にありそこに染まりつつありながらその震源地を存ぜぬままに過していたのであった。

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 もう何年前、十数年も前になろうか。「光友」の一文から、森信三先生の「無枕安眠法」などの健康法に納得し、かなり長期間を要して、その寝方を妻と共に試みて、今日まで全く習慣化しているのであるが、しかしそれはそれだけのことであった。

 やがて五十五歳(昭和六十年)退職した。あとは何をやっても、今まで生かして貰った報恩行に過ぎない。私は縁あった。重度の自立障害者である京都伏見区に住んでいる柏木正行氏の介助ボランティアや、頼まれるままの気楽な仕事を楽しんでいる日々であった。ただ私はかねて在職中にやはり感動的に読んだ九大心療内科医で心身医学の権威、池見酉次郎先生のセルフコントロールのいくつかの著書に心ひかれるものが有り、少しばかりの調べをすることがあった。

 ところが一九八四年(昭和五十九年)八月発行の「人間回復の医学ーーセルフコントロールの医学の展開ーー」と題した一項があり、そこで池見先生が森先生と対談している写真が載っておるではないか。そしてかなり詳細にセルフコントロールの具体的方法としての立腰教育について紹介されていたのである。私は。あのときの感動を今に忘れない。私は、なぜ、どういう理由によるものか森信三先生という方はこの世にもう居られない先生という風に勝手に決めていた。

 私はその本の末尾にある参考文献目録で、その中に「立腰教育入門」という本があり、寺田清一という方の編集による森信三先生の著書のあることを知ったのである。私は早速記されていた電話を通して、この本の申し込みをしたことは言うまで?もない。

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 又しても縁というものはなんとも不思議としか言いようのないものである。何故、それが、どうしてそうなのか、と問われてもどうしても応えようがあるまい。次々と因縁果の流れが果てしなく続くからである。

 私は胸の高鳴りを覚えながら「立腰教育入門」を注文した。軽やかな、さらりとした感じで電話に出られた寺田先生の声を忘れることができないが、私がそこで驚いたのは、森信三先生の御著書や又寺田先生の編集になる森先生のいくつかの叢書のあることであった。

 私はまず「不尽叢書」なるものを注文した。送って下さるスピードにも感心はしたが、「全一学」−−「哲学」などと言わず、曾て聞いたこともない言語であったが読誦するほどに全くそのままうなってしまうばかりの論述であった。

 私はその後どうしても「森信三全集二十五巻」が欲しかった、京都の古書店をまわりにまわった。暇があればまわった。しかし先生の本は皆無であった。それから何ヵ月を経た頃であったろう。大阪古書の町「梁山泊」という古書店の古書目録に「森信三選集全八巻」の一組あることをつきとめた。かなり目の飛び出す値段のがついていたが、私は意気揚々と送付を依頼して帰ったのである。

 縁が熟するにはそれなりに時間を要するものである。もう少し早く、今日のご縁に会うことができていたら、とも思うことがあるがしかし、それが縁というもので、如何なる縁もすべて早からず、遅からず、寸分違わぬ適時適所の中、というのが縁の深さである。

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 森信三先生も今も御健在である。という。そして「実践の家」というのがあって、曾て先生のお住まいを同志の出会いの拠点として、今は社団法人として運営されているという。先生は数年前脳血栓で倒れられ、今は息子さんのいられる神戸の灘でご静養中ともいう。寺田先生は毎週火曜日に先生へ一週間の報告もあり午后おいでになられるという。そして、先生はお元気とはいっても、もう九十才を超えられているという。

 無理がなければ、森信三先生に私はどうしてもお会いしたい思いであった。寺田先生にその旨を伝えお願いした。先生は、それでは火曜日の午後に一緒に参りましょう、と仰って下さった。

 寺田先生と日時を約束して、私はいよいよ森信三先生に直接お会いできることとなったのである。

 怠惰な生活をしている私は日記などというものを年間継続して記す、ということをしたことがない。年に数日しか記されていない日記が私の日記になっている。そこに次の一文がある。

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 森信三先生との邂逅

 私は

 今日という日を

 やはり生涯に

 忘れ得ぬひとして

 覚えているだろう

 一九八六年二月四日

 丁途、立春の日であった

 尼崎、立花町の

 〈実践人の家〉で

 寺田清一氏をはじめて訪ね

 すでに、十年の知己のように

 教わり、語りて話尽きぬものあり、

 岡山のクラレ研修所々長の

 黒崎昭二

 偶々同日、同伴、

 午後三時、神戸、灘に

 ご静養中である

 森信三先生宅へ

 ご案内頂く

 森先生 九一歳という

 正に 好々爺の風貌

 今日の日を待って下さっていた由

 開口 一番 先生は、確か

 「これは神天の時というのだネ」

 と仰言ったと記憶している

 正に、すべてがこれ

 宇宙続きの真言

 時に 先客あり

 阪大公衆衛生学の講師という

 丸山照雄先生の

 「公衆衛生と森鴎外」なる

 森先生へ御持参の御著書に少しふれると

 「じゃ、自己紹介をしよう」と

 自らまず

 「エー、わたしは森といいます

 「愛知県知多半島の近く――に生まれ」

 云々と概略を端的に語られる

 なんたること 存知尽くしてお訪ねしている

 非才らの為に

 加えて水の流るる如くにも

 謙虚に淡々とまず語らるる、とは

 幾時を過ごしたのであろうか、

 一時間半程も経過していたかもしれぬ

 「少し、休憩を入れましょう」と

 今度は、お手元の

 チベットの奥地に

 今も 残るという鈴の音を

 リンリン とふる

 その清澄さヨ

 まさにユーモア溢れるばかり

 それでいて吐かれるもの

 すべて肺腑をえぐる

 真実ならざるはなし

 お疲れを気づかって

 間もなく辞することとするも

 いつまでも何かさわやかさが残る

 帰途駅近く

 一杯飲み屋ののれんをくぐり

 黒崎氏と共に

 寺田清一氏のおごりで

 湯豆腐の馳走になる

 寺田清一氏も亦

 何者なるや

 ああ灰頭土面

 入纏垂手(にゅうてんすいしゅ)の人物か

 灘の駅頭にて

 握手して別れぬ

 (一九九〇年二月)


参考1:「森信三先生との邂逅」は、辻 光文著『いのちのかけら』――生きているだけではいけませんか― ― にも掲載されている。右の写真は、奥書です。ご夫婦の出生はきさいされていますが、「没 不明」の記載は、辻さんのお考えによるものでしょう。

参考2:「入纏垂手」は『十牛図』の十番目のものである。「灰頭土面」はその中にある語句である。

鈴木大拙 工藤澄子訳『禅』(ちくま文庫)一九九七年十月五日 第七刷発行 P.16 に, 「頭は灰だらけ、顔は泥まみれ」(灰頭土面)は、典型的な禅の表現である。それは禅者はその生涯を一歩一歩を、人類の幸福全般のために力をつくすという意味である。

参考3:森 信三先生と辻 光文さんと私(黒崎)の出合いは、次の経過によります。

 森信三先生との出会いは雑誌の記事でした。「九十九才の哲人、森信三氏に聞く」(『致知』60年11月号)のインタビューです。立腰、ハガキ道などに魅了されました。先生についてさらに知りたいとの思いにかられ図書館をめぐり、倉敷市立図書館で『森信三全集』(続編第一巻〜第八巻)、『不尽叢書』をさがしあて誌上再会しました。

 当時、私は株式会社クラレの研修所で第一線リーダーの育成を目的とした研修を担当、主体性を高める具体策を模索し教育していました。早速、『不尽叢書』を注文したところ、同年十二月、倉敷で、寺田清一様が講演の機会に私の勤務先にお立寄り下さいました。森先生をはじめご道縁の方々のお話をうかがい、先生に傾倒する端緒となりました。

 昭和六十一年二月四日 寺田様のご案内で、立花の実践人の家を訪問後、辻光文様(初対面)と同道して神戸市灘区の自宅を訪ねました。はじめてお目にかかり、心底を見透されるするどい厳しさと慈愛のこもる清話に心の共鳴するのをおぼえました。立志の日にふさわしく、ご著書を心読して、ご提唱の立腰、小自伝の作成、ハガキ道の実践を念じました。八月には、兵庫県三田市での実践人夏季研修会に初参加しました。先生は車椅子でした。終世の師とされている皆様の敬慕の情、会場にみなぎる参加者の情熱と静謐な充実感に身も心もつつまれ、先生のご講演、参加者の実践報告を拝聴しまし。

参考4:知り合ってから、辻さんのお話によれば、秋田県のお寺の生まれで、わたしに「寺から出家したんですよ!」また「生前戒名」をつけてあげましょうかとも言われていました。花園大学の講師もされ、高槻市のご自宅は自分がいなくなったら大学に寄贈するようにされているのですよと話されていました。

2012.12、2017.03.11改めた。


 いのちの教育者、辻光文先生 少年少女の自立支援に生きる 神渡良平(作家)による

『苦しみとの向き合い方』より一部抜粋

 重々無尽のいのちのえにし

 京都・嵯峨野の鳴滝泉殿町にある黄檗宗法蔵寺。

 鬱蒼とした緑に囲まれ、かつて二条家の山屋敷だったところが、今は法を聞く善男善女が集う寺に変わっている。そこからおだやかな雰囲気の声が聞こえている。

「これから読み上げる『花語らず』という詩は、私の臨済学院専門学校(現花園大学)時代からの恩師で、臨済宗南禅寺の管長をされていた柴山全慶老師が詠まれたものです」

 声の主は大阪市児童自立支援施設・阿武山学園の教護(児童自立支援専門委員)辻光文さんである。辻さんは僧籍を持ちながらあえて僧侶にならず、中学校や養護学校の教諭をし、その後、教護院(現児童自立支援施設)に移って、道を踏み外した十数名の子どもたちといっしょに生活しながら、彼らの更生に尽力した人だ。

 花は黙って咲き

 黙って散っていく

 そうして再び枝に帰らない

 けれども、その一時一処に

 この世のすべてを託している

 永遠にほろびぬ生命のよろこびが

 悔いなくそこに輝いている

「私たちは普段、病気は悪いことで、健康は良いことだと考えています。貧乏は悪いことで、お金に不自由しないことがいいことだと考えています。ところがお釈迦様は、『そういう物差しを外して、何でもありがたい、これは仏様から頂いた人生の課題にちがいないと受け止めなさい』とおっしゃっています。

 今読み上げた柴山老師の詩が説いているように、今、ここで、自分に与えられた人生を甘んじて受け、素直に生きれば良いのです。そこに充実した人生を送るヒントがあるような気がします。いのちは深さだと、花は無言で語ってくれているような気がします。

 私たちがいただいている“いのち”は、重々無尽の果てしないつながりであり、不思議としか言いようのない縁の中にあるように思います」

 辻さんは物心ついてから、「人間にとって生きるとは何か」「いのちとは何か」「自分とは一体何者なのか」と思い悩んでいたが、臨済学院専門学校で教鞭をとっていた柴山全慶老師と出会い、その人格を通して本物の仏教を発見した。柴山老師から南禅寺で修行するようにと見込まれたが、在家仏教徒として生きたいと願い、結局は児童自立支援施設で22年間過ごした。晩年は花園大学で非常勤講師として社会福祉学を教えながら、学生相談室でカウンセラーをし、自宅を「えにし庵」と名づけて開放し、学びと憩いの場とした。

「御仏の教えは《縁》という言葉ですべて説明できるような気がします。大和言葉では“えにし”といいますね。すべては元々つながっていて、それがある縁で表に顕れてくる。ありがたいですね。感謝の何物でもないです」

 辻さんは施設を逃げ出した子どもを一晩中探し回ったこともあった、でもその彼らが人間とは何か、いのちのつながりとは何かを教えてくれましたと言う。 「かわいがってほしい子どもほどかわいくないことをするもんです。そんな子どもは敏感だからこちらの気持ちはすぐわかります。一瞬一瞬が真剣勝負だったので、教護院は“いい加減にしろ”と怒鳴りたくなる自分との闘いで、私にとって本物の修行道場でした。ありがたい場を与えられたと感謝しています」

 辻さんは寺院で修行をするのではなく、教護院を修行の場としたのだ。

 辻光文さんは昭和5年(1930)、東京で、5人きょうだいの次弟として生まれ、秋田の山中の、水道も電気も来ていない臨済宗昌東院で育った。虚弱児だったので、昼食は小使い室の横で特別給食を食べた。名前が光文なので、みんなから「こんぶ、こんぶ、だしこんぶ」とからかわれ、いつも泣きべそをかいていた。だから「泣きべその光ちゃん」とあだ名され、学校に行きたがらなかった。しようがないので母親は手を引いて登校した。でも一人では教室に入れなかったので、母がいっしょに机を並べて過ごすというありさまだ。

 辻さんは子どもの頃から、「人と同じではない」ことをとても嫌がった。たとえば、クラスに貧しくて靴下がはけない子がいると、冬のマイナス2、3度の寒さでも自分も裸足で通した。弁当もクラスでもっとも貧しい子どもの弁当のオカズに近い物でなければ持って行かなかった。あるとき、相撲で負かした相手が「光文は卵焼きを食べているから、おれは力負けしたんだ」となじったので、それから一切卵焼きを食べなくなった。小学校六年生のとき、親友の父親が亡くなった。「今日は和ちゃんの家は葬式だから、登校しないだろうな」と悲しい思いで教室に入ると、いたずらっ子にこう言われた。

「やい、コンブ、お前のところは、今日は儲かるなあ」

 何をといきり立ったが、相手はもっとからんできた。

「そやないか。おれらの親は汗かいて働いて金を稼いでいるが、お前んとこはなんや。人が死んでお葬式があれば儲かるお寺じゃないか。葬式で飯を食っているんだろ」

 そう言われると反論できない。400軒ほどの檀家の法事をして生計を立てているのは事実だ。子ども心に「生きるって何だろう?」「職業って何だろう?」と考え、家職が葬式仏教であることを恥ずかしく思った。

 光文さんは高校を卒業すると家出をするように郷里を出て、京都にある臨済学院専門学校に進んだが、卒業しても僧侶にはならなかった。仏教は本来自己探求の道であるはずだが、実際は僧侶が生きていくための糧を得る葬式仏教になり下がっている。だから寺院に入って僧侶にならず、郷里の中学校の教師になった。しかしそれも数年で辞めて、東京に出てきて、自分の生き方を模索した。当時話題になっていた神田寺の友松円諦師にも師事したが、どうもしっくりこなかった。京都の一燈園の西田天香さんにも弟子入りしたが長続きせず、「私は半燈園でしかありませんでした」と自嘲する。

 自分が全生命をかけて関わることができる天職が本当にあるのか、それとも人生は口に糊する糧を稼ぐために、汗水流すだけのことでしかないのか苦しんだ。自分の苦しみを、学生時代から師と仰いでいた柴山老師にぶつけると、その都度丁寧な返事がきた。

「拝復 お手紙拝見しました。余りに悲痛なお手紙で、何と返事を書いていいか、わからないほどの気持ちでした。無慈悲なようだけれど、自分で苦しんで苦しんで、絶望のどん底に逆さ落としになるまで、煩悶しつくすことより、他に道はありますまい。親鸞上人の悲痛な叫びと、臨済禅師の悲痛な叫びを知っているでしょう。苦しくても、悲しくても、血の涙を流し続ける、それだけより外ありません(後略)」

 柴山老師の見守りだけが救いだった。柴山老師は自分が学費は出すから、もう一度花園大学に戻って探求しなおしたらどうかと勧めてくれた。それで学問し直したが、信念は変わらなかった。

 そんなある日、婚約している女性に連れられて、艀(はしけ)で生活している親から離れて学校に通う子どもたちの養護施設である水上学童寮を訪ねた。そこで子どもたちの世話をすることに妙にひかれ、そのまま住み込みで働くことにした。新婚生活は二畳半の狭い部屋で始まった。

 そのうち、非行少年少女を更生させるための施設として教護院があることを知った。教護院とは家庭での養育に問題があり、非行に走った子どもたちを育てる児童福祉施設である。しかも多くの教護院は、まず非行少年少女たちの情緒を育てようと、夫婦が十名前後の子どもたちといっしょに生活する小舎夫婦制を採っていた。

 辻さんは人一倍敏感な感受性を持っているので、家庭環境に恵まれず、屈折した心境を持つようになり、そのはけ口として非行に走っている子どもたちのことが痛いほどわかった。彼らといっしょに生活して、親代わりをしたかった。辻さんはこれこそが自分がいのちを賭けられる仕事ではないかと感じた。

 そこで昭和36年(1961)31歳の時、埼玉県にある国立武蔵野学院教護職員養成所の選科に入って、資格を取った。そして夫婦して大阪の北摂にある阿武山学園に移り住んだ。

 非行少年や非行少女たちに必要なものは、訓戒とか懲罰とか指導ではなく、教護や生徒という立場を超えて「いのちが一つになることだ」と感じていた辻さんは、彼らにそれを味わってもらおうと腐心した。そして子どもたちと泣き笑い、取っ組み合いをしているうちに、ようやく歯車が噛み合いはじめ、手応えを感じだした。あっという間に22年間が過ぎ、教護教育界に辻光文という人物がいると注目されるようになった。

 佐藤一斎は「晦(かい)に処る者は能く顕を見、顕に拠る者は晦を見ず」(『言志後録』六四条)と言う。暗い所にいる者は、明るい所にいる者のことをよくわかるが、明るい所にいる者は、暗い所にいる者のことがよくわからないと言うのだ。辻さんはずっと迷い続け、中途半端で、挫折することが多かった。人の悲しみを味わい尽くしていた。だからこそ、そういう境遇の者に共感でき、彼らの支えになることができたのだ

平成三十年一月二十六

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