山 本 周 五 郎 著 作 | 『ながい坂』 | 『小説 日本婦道記』 | 『五瓣の椿』 | 『青べか物語』 | 『菊屋敷』 |
『赤ひげ診療譚 ー狂女の話ー 』 |
『赤ひげ診療譚 ー駆け込み訴えー 』 |
『赤ひげ診療譚 ーむじなー 』 |
『赤ひげ診療譚 ー三度目の正直ー 』 |
下級武士の家に生まれた小三郎は、8歳の時のある出来事がきっかけで卑屈な父に反発と屈辱を感じ、それをバネに立身出世を目指す。三浦主水正と名を改め、主君にも能力が認められた主水正だが、そこに突然のお家騒動が起こり…… 舞台は江戸時代の小藩だが、描かれているのはむしろ、現代にも通じる組織の中での人間模様であり、その中で自分の人生をいかに全うしていくか、といった普遍的な人生論と感じた。 印象的だったのは、主水正と対照的なエリートコースからの没落人生を歩む滝沢兵部。あきらかに主水正の「ネガ」として描かれたこの兵部は、最後には主水正に救われることになるのだが、どうも私には、この二人が二重写しに見えた。主水正は兵部を酒から救うのだが、それは同時に、主水正自身をも救おうとしていたのではなかったか。 主水正は生家の姓である阿部を捨て、打ち捨てられていた三浦の姓を継ぐ。もともと「両親は実の親ではないのではないか」と思うほど、親に距離を感じ、親を振り払うように自らの道を進んだ。その結果、若くしてその能力は高く評価され、望みの立身出世も叶った。 特に自らの父に卑屈を感じ、そうはなるまいと背を伸ばして進む姿は、しかし読むうちにどうしようもなく孤独で痛々しく映った。確かに身分の差を甘んじて受け入れ、分相応に生きようとする父は、主水正のような男からは情けなく見えるだろう。 だが私には、痛々しく背筋を伸ばして生きづらい道を生きるのも立派だが、曲げるべきところはこだわらずに背筋を曲げて生きていく生き方もあってよいように思うのだ。自分がそうするかどうかはその人の自由だが、父のそうした生き方を最後まで認めることができなかった主水正は、ずいぶんと悲しく、さびしい男であったのではないか。 どうも私には、主水正の生き方は、いちいち癇に障るところが多かった。特に、没落・零落した人への切り捨てるような冷たさは、どうだろう。いろいろなことを迷うシーンもあるが、その迷い方自体がどこか気取っていて、どうも鼻につく。周りの連中、市井のふつうの人々のほうが、主水正よりも人間としては一枚も二枚も上等であろう。 特に良かったのは、酒好きの森番、大造。だらしないタダの酒好きとしか見えないが、ふとした拍子に漏らす一言がスゴイ。他にも、侍に生まれたが女に惹かれて百姓として生きる大五、主水正が町人に扮してうどん屋をやった時に出会うおとしとお秋も、良かった。皆、自分の生き方を見いだし、自然とその中で生きている。 かれら庶民の生き方は、貧しくても実に自然で、力みがない。それに比べて、侍の生き方はなんだか窮屈で不自然だ。それはまた、今の世のサラリーマンにも言えることかもしれない。特にエリート街道を目指す連中の伸びた背筋は、どこか不自然で痛々しい。主水正はまさにその典型であろう。 とはいえ、読んでいると気に食わないなと思いつつ、その主水正の視点ですっかり物語に没入してしまうのだから、さすがに山本周五郎は巧い。登場人物の造形、筋書きの魅力、描写のあざやかさ、どれも見事な名人芸で、最後まで一気に読まされる。周五郎文学の中でも本書は名作のひとつと言われるが、同感だ。 参考:扇谷正造著 『経験こそわが師』(産業能率短期大学出版部)P.137:新入社員に対して「富士ゼロックスのように、山本周五郎氏の小説『ながい坂』をよんでこい」、とだけいっているのは一見識である。 平成三十年七月二十五日 |