☆アメリカ・ヨーロッパ旅行への記
平成4年07月26日日曜日(1992)
アメリカへ出発 当日は大阪空港前の“クレベホテル”に宿泊 ツインで14,300円 家内と二人でのアメリカへは二度目、ヨーロッパは初めて。私は二度目であるが、スイスは初めてであった。 平成4年07月27日月曜日 ▼今回の旅行は往復とも全日空の飛行機。 大阪~N.Y. 大阪~成田所要時間57分33秒、成田~N.Y.国際線空間距離(11,169㎞)予定時間12時間05分(実測12時間15分)、時速930 ㎞/h N.Y.JFK Air Port~Fort Lee(長男夫婦が住んでいるアパートのあるところ)自動車で41分。 税関での申告で Nothing. と言うと通じなかった。No things. で通じた。発音の問題かもしれない。 長男夫婦で迎えに来てくれていた。アメリカ時間7月27日昼過ぎ、アパートに到着 参考:Fort Leeはニューヨーク州マンハッタン島の北端であるワシントンハイツ地区の対岸、ジョージ・ワシントン・ブリッジのニュージャージー側の入口付近にある。2005年の国勢調査によると人口は37,175人、面積は7.5 km2である(そのうち0.9 km2が河川等の水地である)。ニュージャージー州北部に日本企業のオフィスが多数あること、マンハッタンにも程近く通勤可能であり、交通至便であること、治安が比較的良好で緑が多く住環境にも優れていること、手ごろな家族向け賃貸物件も豊富にあることから、ニューヨーク州ウエストチェスター郡と並び、ニューヨーク市マンハッタン近郊で多くの日本人駐在員の家族が居住する代表的な街として知られている。またマンハッタン内にあるコロンビア大学や、ニューアーク市にあるラトガース大学等へのアクセスも可能であることから、これらの大学等に通学する学生や客員教授、研究員などの日本人家族も多い。 フォート・リーと、その南側に所在するエッジウォーター、クリフサイド・パークなどのバーゲン郡北部の街に日本人駐在員の家族が数多く住むようになったのは、1980年代以降のことであり、そのころ以降、同地域にはミツワマーケットプレイス(旧ヤオハン)をはじめ、あらゆるジャンルの日本食レストラン、日系スーパー、書店等の日本人向け店舗・施設や日本人学校が充実するようになり、「ミニ日本人街」と呼べるようなエリアが形成されるに至った。もっとも、近時は、韓国系住人が多く住むようになり、韓国系の店舗・施設が優勢となっている。フォート・リー以北の街は富裕層が数多く住む地域となっている。 ハドソン川沿岸部には、マンハッタンの景色を望む近代的な高層アパートメントが立ち並んでいるが、街の大部分は低層の住宅街が広がっており、大きな公園や豊かな緑が存する。周囲に大型ショッピングモールが多数あり、街内に24時間営業の大型スーパー等もあるため、買い物にも便利である。ただし、公共交通機関はバスのみであり、車での生活が中心である。(ウィキペディアによる) 平成4年07月28日火曜日(2日目) 新聞はアメリカ式に定期購入していない。朝起きて新聞がないのは何となく手持ち無沙汰である。慣れの問題か。必要なニュースはTVか、交際範囲から入手しているのか。 ▼散歩に出かける
1.Hudson River の対岸に Manhattan Empire State Building が見えた。
平成4年07月29日水曜日(3日目) スーパーへ買い物に行く。タクシーの呼び方を長男の嫁に教えてもらった。
"Will you send a car to Buckingham, apartment 206?”
帰りにアパートの直ぐ前の Burger King で、ハンバガーを食べた。
WHOPPER $2.39
▼自動販売機 Fort Lee では見当たらなかった(後日ガソリンスタンドに1コだけ見付けた)。アパートの周辺は住宅街のようだ。商店、スーパーでも見られなかった。空き罐、空きコップなどの放置も見られなかった。自動車などからのポイ投げなどないようだ。 アメリカでは、Manhattan(N.Y.City), Dayton(Ohio), Fort Lee(N.J.) の生活を体験したが、雰囲気が違うと感じた。 平成4年07月30日木曜日(4日目) マンハッタンへ出掛ける。住居からバスで往復できる。 ▼Washington Square を見物、朝9:50。Manhattan のバスの乗り方を勉強して出掛けた。日本で耳にしていたので一度は見たいと思っていたから。
1.黒人が多く住んでいるいる様子だった。
▼バス内の掲示物 Please Eating
No Littering
▼The New York Public Library(5th Ave 42th street)の階段に座って People Watching 浮いた空気は感じられなかった。景気が悪いのか? ▼本屋(5th Ave )Brentanoで FREDERICK FORSYTH “The Deceiver”の本1冊購入。15%off 、New York Tax 8.25%(本の販売システムが日本と違う) *本を探す…Trevelyan G.M. Shortened History of England Penguin Bellで聞くと Brentano で探してみろと言う。Brentano では New York University の近くの本屋が歴史書は豊富だと教えてくれた。 本屋の information Counterで“Can I get this book?”と尋ねるとすぐ調べてくれる。 日本と違って本屋の従業員が他の本屋を照会するなど、想像できなかった。 平成4年07月31日金曜日(5日目) 雨 NJ南部,Tornado 発生。 平成4年08月1日土曜日(6日目)
メトロポリタン美術館見物、家内と二人。入場代、6$/人。2時間42分間、見学。腰が痛くなる。今回で2回目。前回(2年前)は英数学館中学校の生徒と一緒に入りどこがどこだか分からなかったが、今回は概略分かった。展示物に圧倒された。照明、温度など環境を配慮されている。ある部屋では薄暗く、ある部屋では明るい。ヨーロッパー絵画に見物客が最も多かった。展示物の種類によって人の関心が違う。
平成4年08月02日日曜日(7日目) ニューヨークの百貨店:Macysへ行く。34St 8番街から7番街にわたるデパート。 ▼Macys(写真参考)での感想 1.日曜日のためか売り子が少ない。これが普通なのか? 店員に相手にされることもない。 2.靴売り場 ソフアが沢山置かれていて、買い物客はこれに座って足に靴を合わている。商品の陳列は片足しか置かれていない(盗難対策か?)。客は3~4足、両足を出してもらって履き比べていた。鏡の前で足下を見なが歩いては店員と相談。店員は倉庫から靴を取り出してくる。 3.4時間くらい買い物にかけた。靴、白のシャツ、スウエター、ジャンパーを買う。女房とマリさんが探し回る。疲れたとは言わない。小生は店内の椅子に座りこんで people watching やら、商品を見ていた。 4.昼食 Marcysで。ハンバガー。アメリカに来てから2回目。もう食べたいとは思わない。量がなにしろ多いので一人前で二人分くらいある。 5.Cash Card 日本で有効かどうかを確認していなかった。期限が切れていることがこ支払いの時に分かった。カード時代の私の遅れを痛感。長男さんのカードを使う。 ▼アメリカの商品 Macysの商品
ジヤンパー Made in Malaysia
平成4年08月03日月曜日(8日目) ▼家内はアイロン掛けしたりしていた。外国で料理などすることが出来るのは、外国での生活を楽しむのに好都合である。私は散歩と地域探訪をかねてスーパーへ買い物に行く。 写真をクリックしますと少し大きい画面になります。Please click on each photo, so you can look at a little wider photo.
平成二十五年十二月二十日
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☆ニューヨークからスイスへ
平成4年08月04日火曜日(9日目) スイスへ出発 欧州旅行出発 NEW YORK~ZURICH(スイス)長男・マリ・女房と。 アパートからタクシーでJFK空港に行く。韓国籍の男性の運転手。
JFK 17:20 頃出発
平成4年08月05日水曜日(10日目) ▼スイスに到着すると直ぐにレンタカー(クーラーはない。クラー付きはレンタル料がばいになる)でハイデルベルク(ドイツ)に向かう。Zurich~ Heidelberg ~ Shaffhausenと約 700㎞走行。 アウトバ*ンの運転で長男、神経性胃炎になる。道路マップと道路標識を便りに運転。 ▼Shaffhausenに泊まる ドイツとスイスの国境の町である。DBB(Deutchland Bundes Bahn)ドイツ国鉄が入っていた。Bahn Hoff にスナックの自動販売器が1台あった。飲み物用は1台もない。 スイス・ドイツへの出国入国では declare など無かった。国際関係感覚は環境による。また言語、物流によると感じた。 参考:『スイスを愛した人びと』(岩波新書)によると、アインシュタイがこの町で学校の先生をしていた。 夜は街のレストラントで食事。食事代は Tax,service が含まれていた。日本式であった。ホテルにはクーラーがない。暖房の設備はある。どこのホテルも同じ。レストランは店先にパラソルを立てた下にテーブルを持ち出して食事している。 この街の路はは石畳である。注意して見るとチュウインガムがこばりついていた。 ▼ホテル
1.ドイツ語、イアリヤ語。英語は少数派。.ホテルは清潔 ミニバー(小さい冷蔵庫)、キッチン(道具まで備え付けていた)が付いていた。
平成4年08月06日木曜日(11日目) Shaffhausen での Hotel の食事は、コンチネンタル、Self Service。 Shaffhausen から LUZERN へ行く LUZERN の Bahn Hoffに到着 便所は有料。SOSの腕章をつけた婦人がパトロールしていた。 湖は美しく、ゴミが浮かんでいないのに感心。 Alpine horn を吹いているのが橋(カペル橋)のところで見られた。 *1993.8.18.未明炎上し、大半が焼失した。毎日新聞の記事。 ▼LUZERN から Basel に行く。所要時間1時間16分。 免疫学研究所訪問(Institution for Imunology) T先生(長男の友人)が、利根川博士(ノーベル賞受賞)が研究されていた部屋で研究されていた。卒直に思ったのはあまり大きい研究室ではなかった。研究は研究室の大小によらず、研究者の頭脳によるものだなと感じた。 ライン川のほとりのレストランで食事。川が汚れていない理由を伺ったところ、ライン川の諸国の利害がかかっているからだとのこと。 ▼Basel から Bern へ行き、宿泊。 スイス(長男の友人)から紹介されたレストラントで夕食。冷房設備・扇風機もない暑い食堂 ホテルもクーラーがなかった。ホテルの外の街路では夏の夜を遅くまで楽しんでいた。 今年は異常な暑さだそうだ。長男の知人の耳鼻科の女医さんの診療所でも今年はじめてクーラを取り付けた。日本の三菱製だった。 鐘が時報を告げていた。 写真をクリックしますと少し大きい画面になります。Please click on each photo, so you can look at a little wider photo.
平成二十五年十二月二十六日
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☆ベルンでの楽しい交流
平成4年08月07日金曜日(12日目) ★ホテルのInformation が珍しかったのでノートした。
INFO Deutsch Seite 1 ▼感 想
1.環境問題を実行している。
▼朝 駅前広場見物 相当数の自転車が並んでいる。日本に似ている。New York では見られない風景である。自転車泥棒が少ないのだろう。 孫の土産に置き時計2コ買う。1コ、SwF59(US$91)。 ★Interlaken 見物 Urs(長男の研究友達であった) 、女医さん 、女の子供(ちょうど小学校入学前)、お母(フランス人)さんの4人と我々4人。湖岸で写真撮影。湖では泳いでいる人は見られなかった。 Niederhorn(1950m) に登る。リフト2段階、所要時間18分。頂上で食事。Yougfrauとアイガを眺める。頂上散歩。冬はスキー場だろう。Niederhornからハングライダーをしている人がいた。 下山して、Interlaken Hotelで休憩 プール、ヘルス器具、テニスなどの設備完備。ヨーガなどの指導が行われていた。豪華なリゾートホテルだ。 ▼Bern⇔Interlakenでは Autobahn を走る。速度制限の標識がない。ドイツとスイスの道路は同じ程度だと感じたが、長くスイスに住んでいる人によるとスイスの方が良い。またドイツでは、速度は人間の欲望であるから制限すべきでないという。スイスでは制限があるようだという。 ★夜 会食 Urs、女医さんと。市街の案内を受けながら。Prison tower Clock Tower Einstein House を通り、Untertorbrucke を渡ってフランス料理店へ行く。途中、女医さんの medical office(皮膚科)…Einstein Houseの近く…に立ち寄る。 フランス料理20:00 ~ 22:00 女医さんは、フランス生れ、エール大学(アメリカ)でも2年勉強。「フランス語が私の母国語」だと言っていた。ドイツ語、英語が堪能。スイスでこの言葉を聞くと、母国語であるといわれた実感が沸いた。 彼女がフランス語のメニューを読みながら説明して料理を選ぶ。本当に楽しい食事だった。フランス人と本物のフランス料理を戴く組み合わせによる楽しみである。 料理:飲み物 前菜…サモンのたたき、メイン…ダック、デザート…シャベット(シャンペン) *ホンジュの話し(女医さん) 冬の食事。空腹で何でもよいから食べたいときに食べるようなものである。スティッキで胃にもたれる。チーズとブドウ酒はチーズが胃の中で固まるからよくない。 Bus の Fare:市内のトロリバスに乗ってホテルの近くまで帰る。キップを買って乗るが誰もチェックしない。バーゼルでも同じだった。後ほどの Zurich でも全く同じ。 Clock Tower 時報になっている。ベルンの旧市内は小さい街だから領域全部に聞こえるだろう。『最後の授業』の昼の鐘を思い出した。 Gas pollution 耳鼻科の女医さんの診療体験から子供のアレルギー症がスイスでも増えている。 平成4年08月08日土曜日(13日目) ★ベルンの朝市 7:00ころから始まる ホテルの前の道路、広場が全部朝市の会場 野菜、果物、花、タマゴ、チーズ、手製の編み物など。はかり売り。たんいは[kg]買う人はバスケット、ビニール袋、卵のケースなど持参している人が多かった。 売る人は、親・娘・子供の家族総出だった。 売買は静かで大きい声を出している人はいない。 家内は孫に小生は、K.S.君に絵葉書に旅行便りを発信。 ★女医さん宅訪問 11:0~ Mr.Urs が迎えにきて、アパートに同行。花束と子供への土産を持参。道路に面した扉、アパートの中に扉、エレベーターの扉すべて合い鍵。ガードマンはいない。4階建ての4階の部屋、部屋数は6室(two bedrooms)。アパートには中庭があった。落ち着いた立派な家だった。絵画も大きなものが沢山かかっていた。絵画の常識がないため話の種ががなくて困った。ピアノ(子供の練習用)もあり、調度品も立派。 昼食 我々4人と Host 側4人。Dry Beef キュウリのスープ、穀物、メロン、ビール 2~3時間の食事時間 女の子供が食卓風景を図画にかいてくれた。ピアノの演奏も子供らしくしてくれた。多国語(フランス語、英語)の中で育つのだから当然バイリンガーにならざるをえない。 Lausane の歴史 A town of courage and perseverance Lausane,the capital of the canton Waadt(Vaud),is the result of centuries of hrd work. This town is situated on the north shore of Lac Leman(Lake Geneva). and with its steep terrace,it is extreamly picturesque. It was founded by the Celts, then occupied by the Romans, and eventually destroyed by the Alemannen. This is how Lausane's history began. Later, like Geneva, Lausane belonged to Burgundy,the Franks,the Second Kingdom of Burgundy,and to the German Empire. ★Geneva に向け出発。Lausane まで約30分。進行方向の右側の斜面(南向き)はブドウ畑、果物の木も背丈より少し高いくらいである。 Genevaのホテル レマン湖の西側のホテル Ramada Renaissance Hotel に宿泊.ダブルベッドが二つあった。 Weekend Charge のため Sfr188 であった。 Sfr200 ×2 twin roomsで高価だったNoisy room で room conditioner がなくて眠れなかった。 湖岸は遊園地になっている。中東の人が多い。アフリカ人もちらほら見えた。ホテルには日本人のツアーがいた。翌日の朝食では日本人だけ見られた。 夕食は湖岸のヒルトンホテルで。アメリカ式のホテルである。 ホテルは日本人のツアーがいた。翌朝の朝食は日本人だけの時があった。 夕食はヒルトンホテルのテラスで食べた。バイキング。アメリカ式のホテルである。 ★Geneva に向け出発。Lausane まで約30分。進行方向の右側の斜面(南向き)はブドウ畑、果物の木も背丈より少し高いくらいである。 写真をクリックしますと少し大きい画面になります。Please click on each photo, so you can look at a little wider photo. |
☆スイスからパリーへ
平成4年08月09日日曜日 (15日目) ★Paris へ向かう TGV(フランス新幹線) 乗り込むときパスポート検査がある。 Geneva 10:02出発、1回目のstopまで23分、2回目のstopまで、3回目 05分(フランス:リヨン駅) Geneva~Paris 所要時間3時間28分(すれ違った列車の数は12) 飛行機での都市から都市への移動では得られないフランスの田舎を垣間見た。 沿線の状況:乗車1時間16分後、土地が開けてきた。それまであまり広くなかった。沿線にはほとんど家もなくて、パリに着く20~30分前から家が増えてきた。沿線で日本のように騒音など考える必要はないように思った。長く続く直線を走っているから速度は出し易い。沿線には牧草地帯が多くて乾草が丸められていた。冬の飼料にするのだろう。畑と森とのバランスを取っているように見受けた。初めから終わりまでこの線は畑の中だった。農業国だと感じた。 ★TGV列車 1等車に乗車(普通席には日本人もかなり乗っていた)。 39席、Baggage 置き場(車両の入り口)。ビュフェ食堂あり。車内販売は2回きた。発車時刻にも発車の音はほとんどしない。日本のように騒音がない。車掌が途中で検札にきた。乗車中、車掌の案内は3回。 ★スイス旅行中の印象を思う シャフハウゼン・ベルンでは環境に配慮、倹約意識での生活態度を感じた。 ジェネバーでは国際的観光地(国際・政府機関のあるところを見物しなかった)、中近東の人が多くてどちらかと言えばフランスに近いものを感じた。 ベルンでは Mr.Urs に会って Gemutlichkeit を感じた。出会った人によりその国の印象が変わることを痛感した。 ★パリー リヨン駅からパリーのホテル(Ambassador Concorde) までTaxi。料金約1000円。タクシーは2人しか乗せないので2台に分乗(3人までは乗れるのにと思ったが)。 ☆Hotel Ambassador Concorde Only a few feet from the Opera and the main theaters, the recently renovated Hotel Ambassador combines modern comfort and the finest traditions of hotel management.
300 air-conditioned rooms.
☆夕食 日本食の小さな食堂に行く。天丼 50F 日本人ばかり入っていた。 ☆TV Olympic のマラソ,男子:森下2位、中山4位、谷口8位。 Charnels 20もあった。その中で charnels 13 はCNN(英語放送)。フランス語の放送の中で英語の放送は親しめる。 平成4年08月10日月曜日(16日目) ★ホテルの朝食 100F(100F= 2,500円 400F=10,000 円)の定価。 ☆市内見物 バスツアー(シチラマ)4人でのる。ear-phone ではフランス語、英語、ロシア語など数カ国語で聞ける。私は、これまでの2度の訪問の記憶を辿りながら車上から見物した。 ☆午後、モンマルトの丘を見物したくて地図で見当をつけて一人で歩いて出掛けた。墓に生き当たった。散歩というのか見物というのか人がたくさん歩いていた。歴史上有名な人たちの墓があるのだろう。帰りに方向の見当が付かなくなる。途中色々な道を通ると落魄(おちぶれ)れたアパートやらストリップ関係の呼び込みなどがあった。モンマルト付近では黒人が大勢いた。BBCでアフリカ関係の放送が多いのは頷けた。路上で人の良さそうな者を見付けてホテルへの道を聞いてもさっぱり分からない。アメリカの青年に聞くと地下鉄で帰れと言う。それも勝手が分からないし、何分一人だから勇気もでない。ついにタクシーに乗った。98.5F(約2,500円) 取られた。料金のメーターも見ていなかった。リヨン駅からホテルまでが約1,000円から計算すると2ばい~3ばいにぼられたと思った。どこの国にも雲助のようなものはいるものだ。フランス人の一部にもこんな人がいるのだ。家族のものは一人で無事に帰れたのだから良かったと言う。 コンコルド広場、シャンゼリゼ通りを見物。ジャンヌダークの騎馬像を遂に見つけることができなかった。残念。歴史の勉強は現地でじっくり生活しなければ身につかない。 参考:渡部昇一『日本発見』渡部昇一 対談集 講談社 P.48 石炭で黒くなった建物 一九六〇年(昭和三十五)から建物を洗いはじめた。圧力で砂と水をかけて削れる汚れを取っていく。五十九年、建物は真っ黒で、オペラ座の正面なんか緑青がダラダラ青くたれてきたないものだった。 ☆TV CNN Sarajevo の News で Water Supply が報道されていた。フランス。スイスで mineral Water を買って飲んでいると、どれだけ水が大事なか実感できる。 写真をクリックしますと少し大きい画面になります。Please click on each photo, so you can look at a little wider photo. |
☆チェルマットとマンハッタホーン見物
平成4年08月11日火曜日 ★フランス:パリー出発 6:30ホテルからTaxiでリヨン駅へ。4人で1台(パリーに入ったときは2人しか乗せなかったのが疑問になる)。所要時間13分。リヨン駅の入り口に自動販売機3台あったが、 スナックだけ。冷却するようなものは見られなかった。 ☆TGV車内 1等車にアフリカ人が3人乗っていた。男性の髪の色が真黒であった。日本人の黒は、彼等に比べれば Brownだ。意味が分かった。 朝食(パンと飲み物程度)は予約すると運んでくれるようだ。2等車は通路の両側が2席だった。パリー~ジュネーブの所要時間3時間32分。 ★ジュネーブからチェルマットへ向かう 自動車の所要時間3時間46分26秒。 途中、レマン湖の景色の良いところで休憩昼食をとる。 Vevey(?)はチャップリンが晩年を過ごした。 ☆テッシュ(Tash)で自動車を駐車 テァッシュ~チェルマット 電車約15分 チェルマット駅からホテルまで、電気自動車が迎えにきていた。 ホテルは Hotel Monte Rosa
参考:ジュネーブ~チェルマット……………電車では232km( 3時間50分)
☆Zermatt 標高1650m 冬のジャンパーを着ても異様でない。日本人が非常に多かった。スーパーで買い物。市価である。(アメリカ、グランドキャニオンでも市価。日本では観光地では値段が高い)。町の通りは歩行者天国だった。 ☆Hotel Monte Rosa チャーチル、C.D.Cunningham(相当に有名な人のようだ) 1,July 1887 宿泊。 我々夫婦の部屋 201室からマッターホンの北面がながめられた。 翌日我々が朝食を取った7時は日本人ばかりだった。彼等は朝早く出発した。どこのホテルもミニバーがある。電子ロックされることもなく、check out 時、申告制。 平成4年08月12日水曜日(17日目) ★マッターホン(『広辞苑』)の景観
4:00 マッターホンを見た。星(明けの明星)も一つ。澄みきった空。
*Wurtzburg での日曜日の教会。Anapolis Navy Academy での Chuch を思い出した。 ★Kleine Matterhorn 3881m 登山 全行程 所要時間:8分 備考:6人乗り
01 Furgg ~ Furi 8分
☆Kleine Matterhorn からの展望 Kleine Matterhorn 3881m から、 Matterhorn 4478m, Rreithorn 4164m, Signal Kuppe 4554m, Ghhba de Rollin 3899m の峰峰。 Kleine Matterhorn で速く動くとしんどい。吐息が白くなる。ここからスキーで下る人が多くいた。氷河も見られた。黒眼鏡が欲しくなる。 Matterhorn の東面は雪がなくて北面に残っていた。Kleine Matterhorn で石を記念に拾って帰った。 ☆ Furi から徒歩下山あれこれ
1.ゴミがほとんどない。所々に“Keep your and our country clean. Thank you. ”と、英語、ドイツ語、フランス語の掲示あり。
★Shopping
マリさん:腕時計 260 Sfr(207$)
★Alpines Museum見物 16:00 ~16:30 入場料: 3 Sfr、説明書:1 Sfr
★マッターホルンを登攀した記録が槙有恒著『わたしの山旅』(岩波新書)1975年3月28日(金)購入。P.143 に記載されていたのでアップしることにした。 マッターホルン 大正十四年八月二十九日一行はグリンデルヴァルㇳを後にしてツェルマットに向かった。ツェルマットには、松方、藤木の諸君が先着していた。ホテルはモンセルヴァンを選び、この地方の登山に取り掛かる予定であるが、ブラヴァンは軍隊勤務演習のため参加できず、代って、クヌーベルとグリンデルヴァルㇳから助手としてルビーが加わった。 八月三十日午後三時、ホテルを発ちマッターホルンに向う。この日はペルペデールヒュッテ(三三〇〇メートル)まで登って泊る。 三十一日午前三時小屋を出で組を分け、直ちにマッターホルンの岩場を上り出す。残月の光を頼りに早朝の登攀は快調であって六時四十分はソルベーヒュッテに着く。この小屋は僅かな岩の棚に建つ避難用のものでベルギー人、ソルベー氏の好意によるものと聞く。この辺りで夜はすっかり明け、急峻な痩尾根も、太い縄が固定してあって登攀を助ける。八時十五分スイス側頂点に立ち雪稜を伝って最高点(四五〇五メートル)のイタリア側の頂上に立った。この日は恰も天長節に当り、互いに握手して祝い合った。風もなく静かな日和であった。頂上での喜びは羊羹であった。太い重いこの羊羹は有吉公使の献じたものであったが、準備のとき松方君は携帯品からわざと取り除かんとした。お人柄の好い秩父宮殿下はまんまんと松方君の計略にお掛りになって、私が持とうといって、頂上まで背負われたものであった。頂上で食べながら松方君の告白に殿下は初めて計られたことを知られ大笑いであった。この日頂上に立った私たちの隊は、殿下の組、松方、松本の組、渡辺の組、藤木の四組で賑やかな一行であった。 下りはイタリアの稜線をとって、コル・ド・リオンより氷河に出た。氷河上を数時間登ってプロイルヨッホ(三三五七メートル)を越えて再びスイスに入り、午後八時シュワルツゼーホテルに到着。ゆっくり夕食をとった後、夜道をツェルマットに下った。宿のホテルに着いたのは十一時であったが、この日は相当の強行であった。 九月一日、細川一行を迎えて休養をとった。 二日、チナルローㇳㇹルン(四二二三メートル)に登るべく午後ツェルマッㇳを発ち山麓のㇳリッㇳホテルに泊る。 ※2020.03.03記す。
平成4年08月13日木曜日(18日目) ★ Matterhorn 朝2:50満月に近い月が山の東側の空にあった。山は教会の尖塔のように聳えていた。6:30起床、出発準備。7:00朝食。食堂は日本人だけだった。8:00ZermattBahnhof へホテルの電気自動車で送っていただく。掃除用の車が掃除をしていた。街路は掃除夫が箒で羊のフンやゴミを掃いていた。7:45~750 教会の鐘が連打された。鐘の音に2種類あり、混声されていた。ジャンパーを着ていたが寒かった。 People Watching していると彼等は腰が曲がっていないで腰骨が立つている。体(骨格)の構造が違うからだろう。 Zermatt ~Tashe 電車に乗る。KULIWAGEN に荷物を載せて電車に乗り込む。 Tashe でParking の KASSAを払う、2日間で 9 Sfr. ★ZURICHへ向かう 1.Tashe ~VISP 30分。峡谷である。教会が集落、街に入ると必ずある。塔に2種類(尖塔とモスクタイプ)ある。 2.VISP~URICHEN 54分。Alpsの山々が眺められる。 3.URICHEN ~NUFENEN (峠)18分 Nutenenpass 。峠の海抜は2478m 。ナポレオンの アルプス越えを想像した。 4.トイレ休憩 10分 5.峠~Airolo(海抜1175m) 24分。下り道。自転車で峠越えをしているものがいた。 オートバイの者も。川は清流であった。土質が違うのだろう。軍隊の車が所々いた。イタリア語圏だそうだ。 6.Airo~トンネル入口 2分。 7.トンネル入口~出口約15Kmだそうだ。90km/h×12分34秒。トンネルの排気が不良80km/hの速度制限。 8.トンネル出口~Zurich Hotel 1時間39分 全行程4時間10分42秒 ★Zurichの HOTEL Waldhaus Room rate Sfr 360 。部屋 No.1888(8階)。ホテルは丘陵にあり、市街と湖が一望できる。市内にChurchが多い。湖にはYacht が15隻くらい浮かんでいた。部屋で日光浴すると汗が出た。ホテルには体重計があった。58Kgだった。air-conditioner は日立製。Kitchenette もある。“If you wish to use the kitchenette,the necessary tableware is in the cupboard.”の掲示あり。 ☆午後3:30ころ、家内とマリさん二人で街に出掛けた。 Mr.Urs(長男の学友)が16:30 ころ来訪。Telephone Call あり。“Tomo is in another room ”と返事すればよいのに、“Tomo is in different room.”と言った。 ☆Dolder-cog-wheel-railway The station is next to the hotel. The cog-wheel-railway runs from 6.30 a.m. every 15 minutes, from 9.00 a.m.to 6.30 p.m. every 10 minutes and again until 11.30 p.m. every 15 minutes. Guests from the Waldhause can use it free of charge with yhe Dolder-Pass. From Romerhof you reach the city by the tram(3,8,15) within 10 minutes. Please keep change(10,20 and 50 cents) ready for the ticket. ☆夕食 Mr.Ursの案内で、彼の友人(長男の下で Postdoc として研究しようとしていた。最終的にはSandozで研究することになった)と我々家族全員で街のレストラン(Zeughanskeller*大衆的チューリヒ料理の大レストラント)に行く。昔は武器の倉庫だった。改装してチューリヒ料理を食べさせている。講堂のように広くて、天井も高く、大勢の人が夕食をとっていた。大衆的値段で6人の合計がわずか 180 Sfrであった。 tramとDolder-cog-wheel-railwayでホテルに帰った。 ★感想 外国の土地に知人がいるとより楽しめる。 1.街の歴史なども教えられるから。 2.安心して余裕をもって見物できる。 3.reasonable price で買い物ができ、土地の名物を食べることができるなど。 4、長男夫婦とのお蔭で見聞できた。 写真をクリックしますと少し大きい画面になります。Please click on each photo, so you can look at a little wider photo.
平成二十六年一月九日
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☆アメリカより帰国
平成4年08月14日金曜日(19日目)孫、満6歳の誕生日 ★New Yorkへ帰る 起床6:00 市街と Lake Zurich を眺望、高いビルは数えるほどである。 朝食、昨日買ってきたパン、チーズ、ハム、アイステイで済ませる。 ▼鐘の音 教会の鐘の音をスイスベルン、チェルマット、チュリーヒで聞いた。人の心をおちつかせ、その波及効果は大きいおもう。街も綺麗だ。岡山市の曹源寺も晨鐘・昏鐘がつかれている。日本のすべての鐘がつかれるとどんな影響を与えるだろうか。 *「自学自得ハガキ通信」にも書いた。朝はやく鐘をつくと邪魔になると文句を言う人もあるそうだ。 ▼TV CNNはチュリーヒでも見ることができた。フランス・パリーでも、世界のTVだといえる。 ☆市電 Zurich、Basel 、Bern でも市電にのっても検札がない。運転手の横に切符を投入するシステになっていた。 As none of the vehicles has a conductor on board, tickets must be purchased or cancelled at the automatic ticket-vending machines or at VBZ sales kiosks before entering the vehicle. ★フライト 12:30 出発 Zurich~New York 8時間27分 飛行状況:ground speed 約800Km/h ,高度10,000m 温度*50度C。アメリカの高校生とおもわれる集団がスイスでのキャンプから帰国していた。日本の修学旅行のようだった。実際のフライトは6時間35分 ☆入国。出国
1.スイス~西独,スイス~フランスではパスポートを見せる程度。
New York Immigration counter、税関は楽だった。米国に在住中の長男らと一緒だったから? ▼JFK空港からリムジンでアパートに帰る。リムジンの大きさにたまげた。 空港でリムジンを予約するシステム。予約してから現れるまで21分。リムジンの大きさにたまげた。空港からアパートまで1時間30分。 帰ると、長男は仕事に出掛けた。アメリカへ出発する前、送った荷物がやっと届いていた。荷物を開き、夕食にはソーメを食べた。久し振りで、。美味しかった。日本では澱粉食品をたくさん取っている。ヨーロッパー旅行中ほとんど御飯はなく、パンを少しとその他のものだった。 平成4年08月15日土曜日(20日目) ★New Jerseyでの生活 時間変更3回目
日本~アメリカ東部、アメリカ東部~スイス、スイス~アメリカ東部。
☆8月15日終戦の日(47年) この日を外国で迎えるは1989年と今年の2回目。 日本時間8月15日の12時は、New Jersey は12時間の時差があるから、16日00時に相当。TV番組の終戦関連に注目。なにも見当たらなかった。 ☆時差ぼけ 朝食後寝た。昼食後も寝た。15時過ぎスーパーに買い物。長男仕事に出掛けて帰りに我々を pick up. 平成4年08月16日日曜日(21日目) ★終戦の日 昨日、日本食のマケット(大同)で朝日新聞をみると第一面トップは47回終戦記念日の記事だった。昨日・本日とTV・ラジオに注意していたが大統領の再選キャンペン全国大会がヒューストンで行われている報道が headline になっていた。 ☆日本では終戦といっているが、米国では敗戦と意識付けしていると思う。 叱られた人は叱られたことをいつまでも覚えているが叱った人は忘れてしまっていることが往往にしてある。敗れた人が臥薪嘗胆する故事もある。 『天声人語英文対照』を読む。 TVを見て英語を聞いているがほとんど分からない。ただし speaking の順序と区切り即ち group sentence は分かる。英文を話される順序で聞かなければならないヒントになる。 平成4年08月17日月曜日(22日目) ★Radio listening
1.中学の英語を日本語に翻訳しないで listening できれば十分理解できる。
★Republican Party National Convention At Astorodom Houston Texas
TV*ch36:C-SPAN LIVE(連続3日間.商品宣伝はなかった。共和党が sponsor)。
平成4年08月18日火曜日(23日目) ★Lederly Laboratory(長男が勤めている研究所)の見学。自動車で30分。広い土地だった。実験室は4人で使用していた。一人だけ外人で、あとは長男のグループ。事務室が2つあり、computer も取り付けられていた。私が勤めていた会社研究所に比べて一人当たりの広さが違いが明らかだった。研究所の雰囲気は装置・人の動きには興味を持っているものです。 読書 立花隆・利根川進『精神と物質』(文芸春秋)、高田先生の机にあったのを拾い読みしたら面白そうだ。藤沢周平『父と呼べ』、『スイスを愛した人びと』を読み始めた。 英語の hearing 1000語くらいの基礎単語で話されているはずだと思うとTVのヒアリングが少しできるようになった。 Republicn National Convention 2日目。 スーパー買い物:午後約1時間付き合った。サーディンの缶詰は Scotland,北欧からの輸入品だった。これらの国々は日本より遥かに近いのだから輸入は当然だ。 平成4年08月19日水曜日(24日目) 日記の整理。今回のアメリカでの見聞所見を発想法でまとめる作業を行った。 ▼5番街 Window Shopping *「ティファニー」Tiffany & Co. 727 5th Ave(at 57th st.) ANA'S CITY GUIDE NEW YORK(ANA)
「女の子の夢と憬れがつまつた5番街のシンボル オードリー・ヘップバーン、オープンハート、ティファニー・ブルーのパッケージ…。女性ならば誰しも一度は夢に見る高級宝飾店。ここ本店の広々した店内は3フロアに分かれ、1階はプラチナやゴールド、宝石を使った豪華なアクセサリーと時計、2階はシルバーのアクセサリー、ステーショナリー、スカーフ、そして3階は陶器やクリスタルを扱っている。パロマ・ピカソの新作ジュエリーは$1,000前後。おみやげとしては、日本で手に入らないテーショナリー・グッズやテーブルウエアなどがおすすめだ」
『150 年の歴史をもつ宝飾店。オードリー・ヘップバーン主演の映画「ティファニーで朝食を」に登場したことで有名。1階はダイヤ、カラー・ストーン、ゴールド腕時計、エステート・ジュエリーなど、幅広い品揃え。2階はシルバー・アクセサリーやシルバー・ウエア(ナイフ、フォーク、燭台など)のコーナー。この他、ティファニーオリジナルの筆記用具やレターセットなども。3階は磁器、装飾陶器、クリスタル・テブルウエアが主な商品』
▼ホテル THE PLAZA 5th Ave(59th St.) ランクL(JTB)
アメリカのホテルはL、A、B、Cの4段階。
『1907年にたてられた、ルネッサンス様式の優雅で格調高い最高級ホテル。セントラルパークを見下ろす眺めは絶景。古くから小説家・芸術家・大富豪が常宿にしたホテルで、ビートルズも有名になってからはここに住んでいた。コーヒーショップ「パーム・コート」、レストラン「エドワーディアン」などは特に有名』
▼ロシヤ料理…Manhattan 86 St.1 Ave. 長男の嫁と我々2人の3人で。
ロシヤのスープ、vealを食べた。少し味が濃くて辛い味。冬の寒さに適しているものか。3人分で約 $60。
▼アメリカの Job Hunting
1.アメリカでの Job hunting の例として立花隆・利根川進『精神と物質』を読むと参考になる。
平成4年08月20日木曜日(25日目)
読書 『天声人語英文対照』『スイスを愛した人びと』…P39 「国民は何が自分たちの幸せであるかを…。国民投票という…」。現在、このような training が彼等の社会行動に反映されているのだろうか。自主的安全管理と連想した。
▼Supermarket 買い物
行きはバスで。Fort Lee Bus No.156 。バス運賃$1。
チップが33% にもなったが、タクシーを呼び,会話をしながら帰ることができた。初体験。
平成4年08月21日金曜日(26日目)
☆アメリカのTV放送時間
5:30でも普通の時間と同じように放送していた。
標準時間が4種類ある。
ET(East Standard Time)…*14 CT(Central Standard Time) …*15
MT(Mountain Standard Time)…*16 PT(Pacific Standard Time) …*17
国内だけでも3時間の時差があるので一日中の放送になっているのだろう。時差がビデオを必要としたという理由もうなずける。また同じ内容のものを2~3日流す必要性も理解できる。TVの画面にET8:00などが表れる。
▼英語ヒアリングのアィディア
1.interval listening…30分のヒアリングで5分毎に全力、リラックスの繰り返し。
▼読書:『スイスを愛した人々』 スイス人の兵役の義務がP57 に記載。
☆Republicans Convention 大会3日目 木曜日の大統領の演説と閉会の様子を録画(previously Records)で見た。
壇上に大統領家族、副大統領家族、フォードらが立つ。こんな様子からアメリカでは、政治家は家庭での trouble が問題なると感じた。
▼散歩と英語 16:00 ~17:00 Cliff side Park へ。現地では本当に勉強になる。
1.記念碑があった。 in Perpetual Memory of
平成4年08月22日土曜日(27日目)
☆英語 President Bushのスピーチを聞く。話されている順序に聞く以外に方法がない。一語一語に注意することしかない。そうすると以下のことに気付く
1.強く発音されるものとそうでないものとがある。
▼英語のシャワー 今回シャワーを浴びた
1.シャワーの中にいると日本語に翻訳する余裕がない
▼夕食 家族全員でイタリヤ料理 アパートの近く。盛装して出掛けた。
平成4年08月23日日曜日(28日目)
☆読書 『天声人語英文対照』を読む。
☆ニューヨーク市のあれこれ
1.IBM 3 Ave,57th “Think”と書かれていた。
平成4年08月24日月曜日(29日目)帰国
★読書 『天声人語英文対照』を読む。読売新聞(衛星版)も。
☆アメリカでの研究分野で独立するには
★日本への帰国
長男の嫁とタクシーで10:00 に Condominium を出発。Air Terminalの入り口で別れた。早速 Check in. Attendant と英会話で No smoking window side にして貰った。
11:30 ころ cafeteria で昼食。U.S.News World Report August 31 September 7,1992($2.50)購入。Time, Newsweek と比べると President Election の記事が最も多かったから。この Magazine の文章は簡単だと思う。分詞構文(分詞用法、不定詞用法)をマスターすればよいと思う。
13:25 出発の予定のところ搭乗予定者の遅れと Air plane の air conditioner の不調で出発が1時間遅れて14:30 分。
☆ANA機中で
1.『スイスを愛した人びと』。飛行後3時間めに読み終わった。スイスは政治経済の巨大な常設クラブだったことがよくわかった。P154
☆New York~Narita飛行時間13時間3分。
日本では時差の関係で平成4年08月25日火曜日だった。日本時刻で16時ころ到着したのだが飛行機が遅れて出発したのでおくれた時刻に到着したので降りるのも遅れた。すべてがちぐはぐになり新幹線の岡山までの最終便に乗り遅れて特急寝台車瀬戸号に乗って帰岡した。
8月25日21時発~8月26日6時27分着…9時間27分。待ち時間を入れるとアメリカに行ける時間。(運賃乗車券9,990 +特急券3,090 +寝台券6,180 =19,260円)
長男夫婦と私どものスイス・パリ・アメリカへの旅は忘れることのできない道行でした。
※この旅行で、ベルリンによらなかったので、平成二十七年十月二十日、地図を追加した。知博がOct 30-31, 2015、黒崎教授が"The 3rd Symposium of International Immunological Memory and Vaccine Forum (IIMVF)"(Berlin, Germany)で招待講演を行います。
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