★随 想(1)★随 想(2)

目 次

1根上りの根を切つて 2〈あ・す・こ・そ・は〉の教え 3待つ楽しみ―ふるさとへの回帰 4今週のことば 5抜き書き
6なぜ歳を経ると見えて来るか? 7年末のイベント
―賀状の筆書き―
8味覚の不思議 9竹細工―小学校入学前― 10私の節目を作ってくださった方々
11少年の希望の話から 12庭掃除に思う 13親切は人を温める 14書体の変化と体調 15似た者夫婦
16広島県出身の総理


1

☆根上りの松の根を切って


 静岡県浜松市の中区にある根上がり松(ねあがりまつ)は、根の部分が2メートル以上も地表から浮き上がっている非常に珍しい松です。根上がり松は「鴨江の根上がり松」と呼ばれる2本のクロマツで、昭和34年に浜松市の指定天然記念物の登録を受けました。(インターネットによる)

▼我が家には門冠り(もんかんぶり)の松を?えている。家屋に近い所にあり、地表から高さ7~8センチの根上になっていた。

 庭の樹木も成長して来たので剪定してもらった。それぞれ80センチほどに揃えて低くした。次の年から、私でもすこしずつえも枝を切ったりすることがしたかったから。

 その時、剪定に来てくれた人が、この根上りに気づき、もしもこれにつまずいて倒れたりすると、骨折して、さらにドミノ骨折する心配があるからきりとった方がよいだろうとのはなし。

 賛成した。丁寧に切り取られて障害物が取り除かれ、この通路を安心して通れるようになった。

▼翌日、切り取った部分を見ると、始めは透明であったヤニが翌日はあめ色に変色していた。さらに3~4日して、触ってみると少し硬くなっていた。しかも切り取った部分に白い塊があった。生命活動をしているのは確かである。

 松には命の源でもある根の一部であったとしても、大けがをしたことになるのだろうから、生き延びるためのヤニであると思うと、樹木の生命力を思わざるをえなかった。

▼農作業の仕事の一つに「土寄せ」があることを聞いたことがある。お寺の掃除を手伝ったとき総門の前の左右に松がうえられていた。そこでそうじしていると、土寄せをしてくださいといいながら松の根元に周りの砂を箒でかき揚げたことがあります。これも根上がりを少なくする方法だろうかと素人判断……。

平成二十四年十月二十二日


2

〈あ・す・こ・そ・は〉の教え


 〈あ・す・こ・そ・は〉の教え

 親しくしていただいているかたから、〈あ・す・こ・そ・は〉の教えをお送りします。と、下記の文章を書き込んだメールをいただきました。

 あいさつ…人より先に自分から。

 すまいる…笑顔に開く天の花。

 こしぼね…立志と立腰。性根を養う極秘伝。 

 そうじ…(場)を清め(心)を清める。

 はがき…こころの交流、ご縁の持続。

 この教えを私なりに少し説明させて頂きます。

▼あいさつについては、おはようと言った挨拶でも、お互いの心に見えない絆が出来るものだとおもいます。人より先に自分から行うと相手の気持ちを和ませる力与えているとおもいます。 

▼すまいるについては、人と人との関係を円満にします。さらに、それに愛語が付け加えるとこの人はなんとマナーが良い人だと思い、いつまでも心のひだにきざまれることでしょう。

▼こしぼねについては、椅子(座席が少し堅いほうがよい)に坐り、背もたれから少し離れた位置に坐り、腰骨をピンと立てますと、背骨もまっすぐになります。顔は正面に向けアゴは首のほうにひきつけるとよいようです。こしぼねを立てることを「立腰(りつよう)」といわれています。出来れば、誰かにこしぼねに触っていただき、よく立つているか調べていただくとよいようです。

 坐禅の姿に似ています。毎日少しでも試みてはいかがでしょうか。

▼そうじについての説明はこの通りです。ご家庭で奥様がされているのが普通だと思います。ご自身で奥様のお手伝いをされては。お手伝いする場所は便所が良いと思います。便所の掃除がきれいに行き届いているかどうかで、その家庭の品位(こんな言葉があるかどうかは疑問)がうかがわれると、言われています。

 さらに付け加えますと、禅寺では便所は「東司(とうす)」と言われていて、最も先輩の修行者がされるそうです。

▼はがきは説明の通りだとおもいます。ただ、メールが発達しているので、時の風潮である程度、はがきの代わりにメールを使うのはやむを得ないかと、私は妥協しています。

▼黒崎の補足:月に一度くらいですが、メールで挨拶しています外科の医師として地域の医療に貢献されたS.M.先生は必ず万年筆で書かれ、ご自身の絵を刷り込んだハガキを頂戴しています。大事に保管しています。

 ご参考にお読みください。 

平成二十四年十月二十四日


3

待つ楽しみ―ふるさとへの回帰


 現役時代には感じなかった待つ楽しみをおぼえるようになっている。

▼勤務していた時、わたしども男4人の兄弟は夫婦連れで年に一回は日本の各地を旅行していた。

 東北に旅行した時、我々は青森まで飛行機を利用したが、その中の一人が飛行機に乗りたくないと、その夫婦は前日から国鉄を利用して途中で一泊して、合流したことがある。その時、新田次郎作『八甲田山死の』を読み、私は一度は登ってみたかった山をバスで登ったが、秋であったので、冬の遭難事件を想像してのたびでした。

▼お互いが定年退職して、今年四月には、宮島への日帰り旅行をしたばかりであったが、十一月故郷(ふるさと)に集合して、近くのホテルで会おうと長兄が言い出して、郷里の家を守っている弟が皆さんに電話連絡して決定した。年輩ともなれば、”ふるさとは遠きにありて思うものなり”とはいえ、反面、おもいでの玉手箱を開きたいおもいがたかまる。

 予定日まであと何日だと指折り数えている。その期間の待つ楽しみは長ければ長い程、生活に張りがでてくる。

 待つ楽しみに次のようなことを思う

▼故郷へは集合時間より早く、余裕をもつて、JRの鈍行で沿線の風景を堪能し、到着したら、あそこに寄り、貴重品ともいえる小学校・中学校時代の友人を訪ねようと計画をたてる。たとえ会えなくても町のあちこちを散策して子供時代の原型を思いながらの変化を楽しもう。

 予定の前日等には会ったときの楽しみなどを想像して、当日の準備をあれこれと自分でしよう。

 楽しみが終わると、また逢う日までお互いに元気で!とあいさつして別れよう。

 その日の歓楽を心の中で楽しみながら家路へと足を運ぶだろう。

 ああ、当日は皆さんとのふれ合いが出来たが、「会者定離(えしゃじょうり)」の原則のとりこになり、寂寞が胸に迫ってくるだろう、必ずそうなる。

 今日、皆と会えたのも「一期一会」だとの覚悟のほどを固めて、「いま・ここ・われ」の気持ちを奮い立たせて生きよう…。

 次の待つ楽しみをきたいして…。

平成二十四年十月二十六日


4

今週のことば


 会社を定年退社してのち、7年と1学期間、高校に勤めたことがあります。

 振り返りますと、なにぶんの新米(しんまい)の先生としての1学期は学校と企業の違いに戸惑い、先輩の先生たちの教えかたを見よう見まねての教科(理科)の指導で精一杯でした。生活指導などにはとても手が回りませんでした。

▼1学期が終わり夏休み、自宅研修で、反省しながら2学期の教科指導教案作りにはげみました。

 2学期に入ると、少し教えかたにゆとりを感じるようになり、担当クラスの生徒の学力(数学・国語を含めて)も知ることができ、できるだけ理解できるようにこころがけました。

 このようにして、かけ出し先生の私の1年間はすぎた。

▼その後、生活の指導に役立つ方法を考えていました。

 私が小学校4年生の時の担任:亀田先生が黒板の上に色紙に「いま、いまを本気に」と書か、掲示されて、熱心に指導されて、勉強することを教えられました。今にして思えば、先生が生徒を教える信念を言葉に表されたのだったと思います。このことは忘れられない言葉です。

▼教室には授業のための黒板の横に1メートル四角の連絡用掲示板がありまして、これを利用して、毎週土曜日の放課後、来週の生活の指導に少しでも参考になる言葉をチョークでかきました。

 たとえば、

 ほんものは続く。つづけばほんものになる」「根を養えば 根はおのずから育つ」「いま、いまを本気に」などの言葉を書きました。

 そして、翌月曜日の朝のホームクラスの時間に、生徒の一人を指さして朗読させて、その後、沈黙の時間をとりました。

 生徒への効果ははっきりしませんでしたが、この言葉どうり、毎週、上述のような言葉を探し求めて続けることが私には勉強になりました。

▼あるとき、職員室で英語の難波先生が私に「立派な言葉を毎週読ませてもらっています」と、話して下さったことがありました

 「ああこんなことがあるのか。担当している生徒たちにと思ってしかいなかったが、先生まで読んでくださっていたのだ」と、励まされました。

 池の水面に小石を投げ込むとその波紋がひろがるように「なにか行動すれば、はかることの出来ない影響を与えるものだ」と、「今週のことば」を書くことを続けました。

平成二十四年十月三十一日


5

抜き書き


 この言葉を知ったのは、新聞記事だったと思う。

 ある大学の先生が学生の読書指導に当たっての方法である。

 学生に自分の好きな本を読ませて、学生自身がこれぞと思った文章をそのまま抜き書き取り、感想を書かせる方法についてであった。

 私の場合、普通は、本を読んで参考になる文章に出会えば、線を引くか、その頭に印をつけるか、簡単な感想めいたメモを書いている。かって、私のホームページ「抜き書きした言葉集」は、当初は読んだ本からの言葉をあつめたものであった。全部削除した。

▼私が抜き書きについておもうことについて少しのべてみます。

 先ず、たとえば抜き書きしたものが少なくても、そのものへの感想が深い考察であれば学生は考える力を養うのに役立つだろう。

 次に、その本を通読して多くの感動する言葉に出合い、「抜き書き」すれば通読の喜びがあり、またその抜き書き文章に共通するものを見出して、自分の関心あることを知ることが出来るだろう。

 いずれにしても、読みながしと比べれば手数を掛けただけ、自分のものになる事は明確である。

▼この方法を実行された親しくしていただいている先生が大学で教育された体験談についてのお話をしますと

 その方は自費出版された新書版の本を生徒に無償提供されまして、抜き書き・感想を実行されました。

★山本正夫著『答案とその後』ー共育抄録ー・『こ﹅ろ豊かに美しく』

 ほとんどの学生は通読して抜き書き・感想を書いて提出してくれたそうで、さまざまな視点での感想を記述していて、先生もその内容について感動されてはなしてくださいました。

▼私はこの方法は読書指導に役立っ具体的な方法だと思います。

 読書が本人の第二の天性になるまで身につけることが大事だと思っている私は具体的方法として、「読書週間には、名のみ聞いて、実は知らない書物、すなわち、論語、孟子、万葉、源氏、ホーマー、ダンテ、シェスクスピア、ゲーテなどを、はじめの十行でもよろしい、とにかく読んでみる、ということをしたら、どんなものであろう」(読書週間に寄せて)*小島直記『回り道を選んだ男たち』(新潮社)に、福原麟太郎随想全集からの引用されたものを取上げましたが、出来るだけ努力したいものです。

平成二十四年十一月六日

 


6

なぜ歳を経ると見えて来るか?


 表題の課題は親しくしている人から与えられたものです。

 私どもは、「50歳代に自己・人生・自然など、おおくのことについて考え、思っていたことが、60代になると深く見えてくるようになる」と口にする。

 もう少し身近なことになりますと「昔、読んだ本を歳とってから読むと違った読み方をしていることにきずく」ことがしばしばある。

 私の場合、同じ本を毎年1回は読み通す本があり、その都度、以前には、これはと感じていなかった文章に意味をくみとり、新しく線を引いたりしている。

 本題についてかんがえてみよう。

 私たちの身は生れ落ちた瞬間から光陰に移されて、しばしも、とどまることはありません。こころは絶えず環境の影響を受け、いわゆる無常の世界に生きています。このこと自体が自然の法則だと思っています。

 その中に私どもはいるわけですから、歳を経ると当然外部からの影響を受けながら成長しつずけていると思います(環境・自分の選択・心がけにより善(よ)くもなりなり悪くもなることは注意しなけれなならない)。

 このようにして、歳を経ると、自分が無心であれば、すべての真実の様子が自分のこころに近ずいてきてくれるのではないかとおもっています。このことから「なぜ歳を経ると見えてくる」真実の様子(少し堅苦しい言葉でいえば実相)が分かってくるものだと思う。

 自分が無心であればと上述しましたが、それが出来るのかという点に突き当たります。

 日頃、無心の境地にはなりたいとおもいながらも、なかなか得られません。過ぎ去ったことを気にしたり、これからのことをあれこれと取りこし苦労しています。こんなことをしても過去のことがやり直せない、またこれから何がおこるかわかりません。

 荘子は「不将不迎、応而不藏」:「将(送…おく)らず迎えず、応じて蔵せず」といっています。私どもの心構えとして端的に説明しています。

 私たちは「いま・ここ」にしか生きていないことを否定することはできません。そこで「いま・ここ」で出来る限り自分に与えられていることにはげんでいれば、知らず知らずに無心に入っていくことが出来るでしょう。
 「いま・ここ」にしか生きるしか出来ないものだと分かるには、わたしはある程度の歳月がかかるのではないかと思ってます。

 与えられた課題に対する考えは私見に過ぎませんので、ご批判教示ください。

2012.12.24


 遠藤周作『生き上手 死に上手』(文春文庫)をめっくっていると、「年をとるほど見えてくるも」を見つけた。「なぜ歳を経ると見えて来るか?」に似た言葉であるので読み、うつすことにした。P.32~34

 カミの世界へと近づいていくこと

 「われわれのライフサイクルのうちでもっともカミに近い段階にあたるものが老人のそれであるということになるであろう。年をとるということはたんに老いて死を迎えるということを意味するのではない。それは生命の暗い谷間を降りていくことなのではなく、むしろカミの世界へとしだいに近づいていくこと、すなわち至福の山頂へとのぼっていく、ゆるやかな道ゆきを意味していたのである」(山折哲雄)

 夏の一日、山折哲雄の『日本人の顔』という本を読んでいたら、出合った文章である。

 山折氏のこの本は日本における翁(おきな)やカミのイメージを仏教と比較されながら傾聴すべき説を提出されているのだが、氏の考えによると日本人の翁の表情には優しい翁と怖(こわ)い翁の二つがあり、怖い翁のイメージはカミに近いものと見なされているのだそうだ。

 そして氏は柳田国男の『先祖の話』を引用しながら、我々日本人は死後、家や村の周りにある山や森や丘にのぼって祖霊となり、更に供養を受けて一定期間をへるとカミになることを信じてきたと書いておられる。このカミは正月や盆がくると里におりて村人を祝福するのである。

 親類に病人が出たために夏を東京で過した私は盆のあいだ、多くの人々が先祖の墓参りのために故郷に引きあげたあと静かさを満喫した。

 そして宗教がないといわれている現代日本人の心の奥にはやっぱり盆をまもる何かが残っていることをしみじみ考えざるをえなかった。

 意識の表面では否定するかもしれぬが、その奥底にある死んだ父や母や兄姉と、盆のあいだは交流したいという願望は日本人に特有のものである。それはやっぱり死んだ肉親が自分からそう遠くない世界に存在していて、こちらのことをあれこれ心配しているいてほしいという気持が我々の心のどこかにあるからにちがいない。

 そういう気持ちはいわゆる科学や理屈が否定しても消し去ることのできぬもので、私も年齢(とし)を重ねるにつれ、むしろ、そういう本来の気持のほうを大事にしたいと思うようになった。

 死んだ父や母が死後も自分を見まもってくれているように、自分も死後は残った家族や子供を見まもりたいという願望は多くの日本人にある。

 そうでなければあれほど多くの人が盆のあいだ東京から去っていく筈はない。あの季節はたんなる休暇や家族旅行だけではなく、当人たちの気づかぬ、もっと深いものがあるように思えてくる。

▼書き写していると、子供のころ、母とお墓に参り、帰る時には両手を後ろに組みあわせて父親を抱いてかえるようにさせられていた。母は誰に教わったのか知れないが私にはおしえていたことを思うと、母の両親に教わったにちがいない。

平成二十八年七月二十四日


7

年末のイベント――賀状の筆書き――


 今までは宛先・本文ともに印刷して、本文は一様であるから消息を知らせるために一言の添え書きをしていた。

 24年の年末にはじめて本文全部を筆ペンで書いてみることにした。

 思いがけなく、気分が落ち着く…書いている時に一人だけの静かな時間をもてるからか?印刷では得られないものであった。字が上手だとか下手だとかの気分は少しもおこらない。これが私の字だと……。

 相手の消息をあれこれ思いやる気持ちも深いようだ。元気で、病気などしていないだろうか? ご家族はどうだろうか? 趣味を楽しんでいるだろうか、などなど。

 村山正則先生は

 文字を書くにはやはり万年筆に限る。考えたことを外に出すにはこの方がいかにもしゃべっているような文章になる。原稿、日記、手紙――は万年筆。メモ、手帳はボールペン。――
 「日記は過去の記録、手帳は将来の記述――」と言われるが、じっくりと物を書くには万年筆にかぎるのである。
 長年の付き合いでそれぞれの癖を知りつくしてペン先は、しなやかに反応して滑るように軌跡を残してくれる。やさしい書き味――万年筆の書き味は使い込むほどに書き易く、成長してくれる。
               『俗 ドクトル三人衆』P.138 に書かれている。

 「先生は文字を書くには万年筆に限る」と言われているが、筆ペンでもじっくり書けるようである。

 少し写経に近いものを感じたのは収穫であった。時間に余裕があるからで、多忙な方々には無理かもしれない。  

 書道を習ったことはありませんが、本気でやれば無心になれるかも知れないと感じた。書道家の人たちの心を思う。

平成二十四年十二月

 


8

味覚の不思議


 2月はじめ、スーパーに行くと、「酒かす」の袋に目がとまった。

 子供のころ、さむい時分たびたび食べさせてくれていたのを思い出して、早速買って、なかに入れれるものを思い出して、鮭を買って帰る。

▼その日の夕方、ヘルパーさんに作って下さいと頼んだ。そのかたはしらかったらしくて、パソコンを操作している私の部屋に来られて、「酒かす汁の造り方」を検索してくださいと。グーグルで調べるとあった。少し読んで分かりましたと言って、つくってくれた。

 夕食にその汁を見ると具は鮭だけであった。どうも、ヘルパーさんは作ったくれたものだが、あんのじょう経験がないのだろうと想像した。

▼その2日後、他のヘルパーさんん(前のヘルパーさんより年輩)がこられたので、また、同じように汁を作ってもらった。このときは私は子供の頃、母が作ってくれていたのを思い出して、食材に小芋を買ってきていた。鮭は残っていたので使って下さり大根・人参など野菜を使って美味しい汁を期待していた。

 だけど、小芋・野菜は使っていたが、鮭は入っていなかった。その上、酒かすの量が薄かった。

▼二人のヘルパーさんの酒かすの造り方は個人の経験によるものであり、私の酒かすの味覚は母からうえつけられていたもので、高齢になってもその記憶が残っているのは不思議なものだと思った。

 酒かすに限らず、果物・お菓子などのもろもろの何十年の昔の味覚が残っています。私だけではないでしょう。

▼現在の子供達も大人になりさらに高齢になると、今食べている食べ物の味覚の記憶を体で感じることだろう。スーパーでの加工食品の記憶が多いのではなかろうか?

 味覚の記憶に限らず科学の分野でも「免疫力の記憶の不思議」を研究しているものがいる。

▼人間は不思議なものを沢山持っているものだと思うと同時に、その理由が解明されてもさらに「不思議の解明」をしようと次々にとどまることなく追求する、不思議な動物だなあ!と、酒かす汁をいただきながら思いが発展した……。

平成二十五年二月二十日

 


9

竹細工―小学校入学前―


 今、わたしは小刀(切り出し・折りたたみ型)を持つていない。子供の時はあたえられていた。現在はどうだろうか? 想像すると、子供にもたせると「あぶない」と多くの方々が思われているのではかろうか。

 鉛筆削りなどが準備されている。

▼小学校に入る前ころから、私たち子供は小刀を使って、少し年のおおきい近所の子供に教えられて、「竹とんぼ」をつくっていた。竹をけずつているとき、小刀を滑らして、指先を切ったりして痛い目をして、少しずつ上達してなんどもするうちに使い方をおぼえてけがをしなくなった。

 仲間でそれぞれのトンボが、滞空時間が長いかなど競争して楽しく遊んでいた。

▼また竹馬なども教えられて作っていた。身長の約1.5倍くらいの枯れた竹(物干し竿の太さ)の節に自分を載せる20センチくらいの板(蒲鉾板の幅より少し狭い)を2枚はさんで紐でしばりつけてつくった。二本同じものを作り完成。

 それに乗るには、始めは友達に二本の竹馬の前で支えて貰い片足を一本の竹馬にのり、次にもう一本の竹馬に片方の足をかけて体全体を載せる遊びである。そして片足を一歩前に出し、次に片足を前に出すのである。普通な徒歩での足の運びと同じ要領で竹馬に乗って行うのである。

 懐かしい言葉を思い出した。竹馬(ちくば)の友である。そして受け継がれていく……。

 子供達だけで作り、道路(自動車はほとんど通らない。馬車が荷物をうんぱんしていた)で遊んでいた。時代は流れ流れ、広い道路は自動車であふれ、信号で整理されている。

参考:グーグルで検索すると竹馬

平成二十五年六月十五日


10

私の節目を作ってくださった方々


 私の節目をつくってくださったものに絞って時系列的に整理します。

小学生時代

▼小学校4年生の亀田担任先生。私には現在でも不思議にかんじているのですが、3年生までは算数と国語が甲、そのたはすべて乙であった(成績評価:甲・乙・丙の三段階)。そんな子供であったのが4年生で全甲の優等生になりました。この先生の指導理念は「いまいまを本気に」でした。先生は色紙に直筆で書かれ、教壇の上にかかげられていました。この言葉の本当の意味はわかりませんでした。しかし私の座右の銘となっています。先生は一年間で転勤されました。

▼蛭子道子さんは忘れられない人です。小学校5年生の頃、勉強を教えてくれました。

 六年生の担任は林忠彦先生(男)であった。学科の勉強の競争を非常にさせられた。毎月、国語・算術のテストがあった。成績順に教室での机の配置変えをされ、後ろから成績の順番に並べていた。たいがい一番になり最後部の席を占めていた。優等生で卒業。

▼母親。言葉で尽くせるものではありません。中学校に進学させてくれたことは、その後の私が歩ゆんだ道の基礎になりました。

中学生時代

 昭和15年(1940)当時は子供を中等学校に進学せる雰囲気はありませんでした。尋常高等小学校で、小学校6年生で卒業した子供は家業・農業・漁業などをしていた。高等科に行くのは幸せなことであった。そしてそれを卒業すると企業の養成工になるのは、出来の良いものたちであった。

 私は当然、家庭の状況から中学に進むことはできないほどであることは子供ながらに思っていた。

 父は司法書士であった。昭和10年に逝去、母は父の仕事を引き継ぎ、父親の親戚の旅館でも働いていました。

 母の思いを知るすべはありませが多分、経済的に苦しい体験から心に秘めた決意によるものでしたのでしょう。兄弟姉妹6人をすべて中学校、高等女学校に進学させてくれました。

 母親の言葉です。小学校生の頃でした「あの子は母親一人の子供だからといって、後ろ指をさされることは決してしないように」とのしつけでした。

▼広島県立忠海中学に進む。当時は全県から入学できるものでしたから、近隣の町村のできる子供があつまり、中学校には寄宿舎もあり、また町の民家に下宿しているものがいました。

 授業も小学校と違い、多くの教科の先生が教えられる方式で教えられ、その授業の進み方の速さも違い、同級生の勉強のしかたをみながら自分の方法を模索して、中学3年生からはトップテンに這入るまでになりました。担任の先生は同じ中学校出身で京大を卒業された国語の飛騨先生で3年・4年・5年と受け持たれてくださいました。

 成績順にクラス編成されれていた。成績は200中8番だったからか。成績1・2・3・4番の順番にそれぞれ1・2・3・4組、5・6・7・8番が4・3・2・1組 といつた配分であった。級長は1番から4番、副級長は5番から8番が指名されていた。従って私は1組の副級長であった。

 中学は五年間の教育だったから親友もできました。児玉昭人君と生涯の友になりました。

海軍兵学校時代

▼昭和19年、5年生の2学期(現在では高校2年生)に海軍兵学校第76期生として入校しました。

 この学校ではわずか10カ月でしたが、教育・規律など、私の大きな節目になりました。終生のクラスメートができました。

 海軍兵学校の生徒として受けた教育。例をあげれ「言い訳はするな」は現在でも私の実行項目の一つです。海軍の軍人を養成する学校であるから、卒業して艦船勤務・航空勤務について一度失敗すれば生死にかかわることは当然です。その時、「実はかくかくの事情がありました」と言っても後の祭りです。取り返しはできないのです。

 また、海軍士官になり、部下を持つようになり、何か変わったことが起これば「部下は士官の顔を見る」といわれていました。その時は毅然として。対策を考えるべきである。

 海軍兵学校については、ホームページに沢山書きましたので割愛します。

▼終戦後、旧国鉄に短期間就職していますと、飛騨先生が旧制高校あるいは工専へ進めてはと母に話しかけてくれました。その結果、広島工専の化学工業科にはいりました。

クラレ勤務時代

 昭和24年3年生の2学期10月、現在の「クラレ」から募集が学校にあり、推薦されて入社試験をうけました。採用されましてその後の道がきまりました。旧制大学への進学を勧められていましたが。

 卒業の時に就職が決まっていたのは、同級生40人のうち8人(20%)で、現在、想像もできない時代であったのです。首席で卒業。

 クラレは昭和25年に日本で初めて国産合成繊維:「ビニロン」の工業生産に踏み切ったときでした。

 ここまで筆をすすめますと私は多くの節目がありました。節目(小・中学校)での良い先生、友に出会い、海軍兵学校・工専での先生の指導に感謝します。

▼会社に入って、上司の部長から、ある実験を指示されました。「それはすでに実験済みです」と答えました。そうすると「君は以前と変わりないのか」といわれました。これには、一言の反論できませんでした。そこで、「やります。部長も立ち会ってください」と言いまして、繰り返しその実験を見て頂き、納得していただきました。その後、部長は、目をかけてくださるようになり、工場から研究所に転勤になるとき、「見る人は見ているのだよ、しっかり励めよ」と餞別のお言葉をいただきました。

 昭和25年入社以来、多くの人から学びました。クラレ岡山工場、研究所、研修所で、生産現場、研究開発、社内教育の体験を通して。

2014(平成26)年01月16日記。


11

少年の希望の話から


 昭和15年前後に小学校6年生から中学へ進学を希望していた少年が第一希望校に進めず、やむなく他の中学にすすまなければならなくなった。

 この思い出は少年の胸に刻印されていたようで、80歳になっても、その残念・無念さが口から出てくる。

 この残念さはその後の本人に与えた影響は二つ考えられる。

 その一は、そこで落ち込んで、その後、伸びない。

 その二は、残念な思いがバネになってその後、飛躍してゆく。

 本人は「その二」だった。

 本根で話していると、冒頭の思いが聞かれされた。

▼歳月は行く水のごとく流れて、多くのものは忘却されてしまう。

 しかし自分にとつて深く心に刻まれていたことは流れ去ることなく思い出される。

▼以上のことから、連想の環が広がり、少年の希望の挫折は少年に限ららず社会人でも同じである。

 私は、非常に狭い会社員生活(入社した会社で定年まで終身雇用時代)しか知りませんが

 決して一筋縄では行きません。学歴横行時代でした。現在でも残っていると思われる。

 そこで大切なことは、「与えられた仕事に打ち込むことである」と。

 自分を取り巻く人はたくさんいます。その人たちの中に「見る人は見ている」ことは間違いありません。というのは「見られている」のです。

 挫折をバネにする人になってほしいと、私はつぶやいている「声援を送っているよ!」と。

平成二十五年七月二日


12

庭掃除に思う


 今年もお盆近くなり、庭の草も跳梁跋扈してあまりにも見苦しいので、平素は朝早く散歩していますが、これを中止して草抜きを行っています。

 草抜きをしていても「あれこれ」と思いが頭の中を駆け巡ります。これも一人で草抜きをやっているからのお返しだと思いながら少しずつスコップをうごかしていました。

 ふと、周利槃特(しゅりはんどく)のことを思い出しましたので、ご紹介します。

 「一日示して云く、人の利鈍と云ふは志しの到らざる時のことなり。(中略)中々世智弁聡なるよりも鈍近なるやうにて切なる志しを発する人、速に悟りを得るなり。如来在世の周梨槃特のごときは、一偈を読誦すること難かりしかど根性切なるによりて一夏に証を取りき」               

『正法眼蔵随聞記』P.64より

▼物覚えの悪い彼は、時々、自分の姓吊さえ忘れることがあったので、ついには名札を背中に貼っておいた。「三業に悪を造らず、諸々の有情を傷めず、正念に空を観ずれば、無益の苦しみは免るべし」という簡単な偈が暗誦できない。

 ある日のこと、祇園精舎の門前に立っていた。釈迦は、静かに足を運ばれ 「おまえはそこで何をしているのか」と訊ねられました。彼は答えまして、「私はどうしてこんなに愚かな人間でございましょうか。私はもうとても仏弟子たることはできません」

 釈尊はいわれた。「愚者でありながら、自分の愚者たることを知らぬのが、ほんとうの愚者である。お前はチャンとおのれの愚者であることを知っている。だからおまえは真の愚者ではない」。

▼一本の箒を与えられ、「塵を払い垢を除かん」の一句を改めて教えられた。ついに煩悩の塵埃を掃除することができた

参考:鴨 長明もその著作に周利槃特に触れています。

 抑、一期(いちご)の月影かたぶきて、余算の山のはに近し。たちまちに、三途の闇に向はんとす。何のわざをかかこたむとする。仏の教へ給ふおもむきは、事にふれて執心なかれとなり。今、草菴を愛するも、閑寂に著(ぢやく)するも、さはりなるべし。いかゞ、要なき楽しみを述べて、あたら、時を過ぐさむ 。

 しづかなる暁、このことわりを思ひつゞけて、みづから心に問ひていはく。世を遁れて、山林にまじはるは、心を修めて道を行はむとなり。しかるを、汝、すがたは聖人にて、心は濁りに染(し)めり。栖(すみか)はすなはち、浄名居士の跡をけがせりといへども、保つところは、わづかに周利槃特が行にだに及ばず。若、これ、貧賎の報のみづからなやますか、はたまた、妄心のいたりて狂せるか。そのとき、心、更に答ふる事なし。只、かたはらに舌根(ぜつこん)をやとひて、不請阿(の)弥陀仏両三遍申(し)てやみぬ。

 于時(ときに)、建暦のふたとせ、やよひのつごもりごろ、桑門の蓮胤、外山(とやま)の菴にして、これをしるす。

 方丈記

日本古典文學大系 方丈記 徒然草(岩波書店)『方丈記 五』 P.44より 

平成二十五年八月八日


13
親切は人を温める


 「人の親切」をいただきました。

7月の土曜日、買い物に出かけました。途中で雨にふられ、カッタシャツはかなりぬれたまま○○整形外科にたちよりました。

リハビリをいつもしてくださる看護婦さんが、シャッがぬれていたので、シャツの下に乾いたタオルを入れてくれました。しばらくして、レントゲンを撮るときに着る上着に着かえさせてくれました。

そのまま、手順通りの処置をしていただいていました。彼女はリハビリをしている間にドライヤーで乾かしてくれていました。帰るときは雨も上がり青空がのぞき、私は乾いたシャッを身に着けて明るい気持ちで家にかえりました。

 本当にありがたいことでした。こんなのを「本当の親切というものだ」と思いました。

 これがきっかけになりまして私は気づいたことがありました。

▼親切をたびたび受けながらそれが忘れられているものがないかと。たとえば、日ごろ親しくしている方からの無心の親切を忘れてはいないかと……。

 このような具体的な目に見える親切にたいして、いろいろなものがある、その中の一つに言葉の親切がある。

 最近は小学生の通学の登校・下校にあたり「こんにちは!」という子供が少しずつ増えている。「今日は」と返すと、微笑みが見られる。子供と大人に伝わるものがあるのだろう。

 さらに多くの方々から、また感受性の鋭い人は、環境から、自然から気づかない大きなな親切を受けているのではないか。それに対してお返しができているのかと反省させられました。

▼何年来、院長先生は整形に限りませんで、内科・皮膚の症状でも相談させていただいている医師です。地域のかたで「地域の医療に貢献したい」という先生です。

 今年の二月に感染症にかかりそのとき、検査をしていただき、大学病に入院して治療をうけて治癒したのも、先生の処置が効果を発揮したものでした。

 現在の医学はあまりにも専門・分化しています。その反省からか、「総合内科」が大学病院にあります。二月の治療はこの「総合内科」の先生方の治療でした。入院中「総合内科」の先生方の勤務を初めて知ることができました。

平成二十五年八月十八日

14

書体の変化と体調


 体調の変化を頂いた書簡の書体から知ることができるように思います。

 パソコンが発達して、メールで便りをすることが多くなり書簡(手紙・ハガキ)を書くことが非常に少なくなっている。

 友人の一人に「手紙またはハガキを書くことがありますか」と尋ねたところ、「そうですね、年賀状に添え書きをするくらいですかね」との回答。

 私も、この友人に近く、メールを愛用している。

 だが、時折、手紙・ハガキを頂くことがあります。

 注意して読み・書体を見ていると、上手・下手は別にして、几帳面な書体が変化しており、内容も何かを訴えるものを感じ取ります。

 今年、いただいた方からの年賀状の書体が変化して、乱れていました。その上、昨年は、「○○の病気で入退院を繰り返していました……」との内容でした。

 また、親戚の一人からのハガキは字も上手でしたが、晩年、ケアー・ハウスに入ってから、しばらくしてのものは書体が乱れてきました。

 そこで、私は提案します。時折、自分でも手紙・ハガキを書いて、「これはおかしいな!いままでの自分の字ではないぞ」と感じられるかどうかを確かめると、医師に相談する前に自分の体調の変化の判断の手掛かりになるだろうと思います。

平成二十六年一月二十六日

15

似た者夫婦


1995年(平成7年)10月7日(土曜日)

兄弟旅行1日目

★岡山~新大阪、伊丹空港~青森空港、弟夫妻・我々夫婦。青森空港で広島・忠海の夫婦、折田氏(旅行世話人)と合流。総計9人。タクシー3台に分乗して出発。ねぶたの里で昼食、八幡平(はちまんだい)を通って南側のわんこそばの店にたちよる。奥入瀬、十和田湖遊覧、十和田湖のホテルに宿泊。

関連:十和田湖・奥入瀬

10月8日(日曜日)

兄弟旅行2日目

 朝、十和田湖の乙女の像(高村光太郎作)見物。ホテル出発。ジャンボタクシーで動く。八幡平の紅葉を観賞。昼食:わんこそば。中尊寺見物、厳美渓見物、鳴子温泉宿泊。

「似た者夫婦」とはよく耳にする言葉である。

▼私ども兄弟4人は夫婦(総勢8人)で年に一度、旅行をしていた。平成7年10月、東北地方の観光に出かけて、鳴子温泉(宮城県:人形:こけしの町)の旅館に泊まつた。

 夕食は宴会であった。男たちと女たちと向かい合わせて坐った。

▼食事の世話をしてくれていた女中さんに、「この中の男と女は誰と誰が夫婦であるか」と、問いかけた。

 四組の我々は顔・形・所作が違い、見も知らなかったその人は全体を見比べて、この人とこの人だと完全に夫婦の組み合わせを当てられた。

 男たちはいくぶんか酔いが回っている。そんな者たちを見ての遊びに近い問題の回答が正解であることに、私は不思議さを感じた。

▼長年、連れ添った男女(夫婦)は口のきき方、食事の動作、ちょっとしたしぐさがいつの間にかお互いに影響し合って似てくるものだろうか。

 年齢的には私ども兄弟は12歳の開きがあった。それぞれ女たちも年齢の違いがあった。この年齢を計算しての回答であったのだろうか?

▼話しが変わりますが、私は知人の奥様から「貴方は私の知人のご主人に感じが似ています」と言われたことがあります。私はそのご主人と言われたかたとは同じ会社に勤務していた。会社の気風が社員に刷り込まれて、他の人にはそれが強くかんじられるのだろうか。

▼社会人を見ると、この人は銀行に勤めている方ではないか、この人は学校の先生ではないかと想像することがある。

 私はここで提案したいことがある。夫唱婦随の年の多くの夫婦でそのカップルを当てる実験を試みて立証するテストを行ってほしいものだと。既に行われているであろうとさえおもうのだが……。

 私たちは風景や生物を見るときには、今日は富士山が見えるな、あれは桜の花だな、という程度のおおまかな認識しかしない。

「ところが人間を見るときには、無意識のうちに非常に慎重に見るものです。それは、相手がだれなのか、識別する必要があるからです。

 それどころか、顔を見ただけで、眠そうだな、とか、怒っているな、と相手の心の動きまでわかる。

 そのくらい私たちは、人間の顔に対して神経が細かくなるし、かつ高度の識別能力を持っている。

参考:上前淳一郎著『文春文庫』「お札は百面相」P.192


(天声人語)きょう、いい夫婦の日2017年11月22日05時00分

 長く連れ添った夫婦は顔が似てくると言われる。俗説だと思っていたら、どうやら科学的な根拠があるらしい。かぎは、無意識のうちに相手の表情をまねる「ミラーリング」という行為である。鏡のように映すことを意味する

▼笑顔やしかめっ面など相手の表情にあわせ、人は顔の筋肉をわずかに動かすらしい。そうやって脳の回路が、相手の感情を常に解読している。夫婦が長年お互いをミラーリングすれば、しわの形などが似てくるという。イーグルマン著『あなたの脳のはなし』で学んだ

▼知らず知らずにまねをしあうことが、お互いの顔立ちを形作る。何だか愉快な話にも思える。あるいは、ぞっとする方もおられるか

▼夫婦の根幹にあるのは、情と習慣と持続。絵本作家の佐野洋子さんがエッセーで書いている。「夫婦とは多分愛が情に変質した時から始まるのである。情とは多分習慣から(うま)れるもので、生活は習慣である」「50過ぎて仲良くなった夫婦は、けろうがたたこうが、びくともしなくなる」

▼2度の結婚と離婚を経験したがゆえの冷静な見方だろう。続かなそうで続き、続きそうで続かない。そんな不思議な関係である。11月22日は「いい夫婦の日」。パートナーのあり方も、これから多様化していくだろう。「いい夫夫」「いい婦婦」であっても、ことの本質は変わらないか

▼二人でたくさん苦しみ、たくさんなじり、たくさん慰め、たくさん笑う。みけんのしわも目尻のしわも、いずれ二人の履歴書になる

2020.01.10

16

広島県出身の総理


 宏池会長の岸田文雄さんが2021年自民党総裁に選出され、総理になられた。

 岸田総理誕生。広島選出の総理大臣は4人。戦前戦後通じて岸田氏が30年ぶり4人目。年号的には、くしくも大正、昭和、平成、令和と分かれました。

初の広島選出総理は、大正11年に就任した加藤友三郎氏。軍縮やシベリアからの撤兵を成し遂げたが、在任中に大腸がんのため亡くなりました。

時代は激動の昭和へ……昭和35年から4年あまり総理を務めた池田勇人氏は広島県豊田郡吉名村(現在の竹原市)出身。

吉田茂総理に多くを学びのち「宏池会」を創設。「所得倍増計画」を打ち出し、日本の高度経済成長に大きな役割を果たした。

 第78代総理・宮澤喜一氏は党内では「宏池会」に所属。池田勇人のブレーンとしても頭角をあらわし、55年体制最後の総理となった。

 「宏池会」の流れを受け継ぎ、第100代総理に選ばれた岸田文雄氏。日本の歴史にどう刻むのか……その第一歩を踏み出した。

 その池田勇人とは

 人生とはわからないものだ――。池田勇人(1899~1965年)の歩んだ道を振り返るとき、そんな風にしみじみ感じてしまう。

 池田は広島県立忠海中学一年生の時、陸軍幼年学校受験、不合格。次に、旧制高校の入試である。当時、ナンバースクールは共通試験。池田は一高を目指して受験する。受験地の名古屋で、同じ宿に泊まったのが佐藤栄作だった。

 ともに第二志望の熊本の五高に回され、池田は一学期で退学、再受験する。ところが、翌年も結果は同じ。一年遅れで五高生活を始めた。佐藤は二年に進級していた。

 大学も東大受験に失敗、京大法学部に進む。そこで高文(高等文官試験)を目指して勉強に励み、大蔵省に入った。一高―東大が多い中で五高―京大は傍流。池田は決して先頭集団ではなかった。

 しばしば「おれは赤切符だから、がんばらないとだめだ 」と。

▼しかも、池田は入省五年目、からだ中に水泡ができる落葉性天疱瘡(てんほうそう)という珍しい病気にとりつかれる。生死の境をさまよい、退職を余儀なくされる。

*広島県豊田郡忠海町(現在竹原市忠海町)で治療していたと耳にしたことがある。

 役人生活に見切りをつけた。日立製作所への就職も決まり、病気全快のあいさつで東京に出てた際、三越に立ち寄る。これが運命のときだった。池田は公衆電話をみかけ、ふと大蔵省にかけた。

 「生きていたのか。復職はなんとかするから、戻ってこい」

 「税務署の用務員もいといません。よろしくお願いします」

▼遅れること五年。しかし、決して絶望せず、生き抜く――。ここからが池田の真骨頂である。税金一本ではい上がっていった。終戦の年には主税局長になり、同期にほぼ並んだ。池田が出世街道から外れていたから、終戦時に追放されることもなく、局長、次官に上りつめたというのは、必ずしも正確ではない。

▼石橋湛山蔵相のもとで大蔵次官になる。政界に転身すると、当選一回で日清紡積会長、宮島清次郎の推薦で吉田内閣の蔵相に就任。その後は一気呵成(かせい)だった。

 努力七分にツキ三分。池田の生きざまには、どこか人に希望を与えるところがある。

※日本経済新聞 1999年(平成11年)2月8日(月曜日)病で挫折、はい上がる より。

 私(黒﨑)は池田さんが選挙基盤である忠海を含む瀬戸内海沿岸を船で選挙運動しているのを見た記憶がある。

※参考池田勇人

 次に池田が総理になられて、政治討論会で司会を勤められた唐島基智三がいる。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 唐島 基智三(からしま きちぞう)  広島県竹原市出身。旧制広島県立忠海中学(現広島県立忠海高等学校)、第六高等学校、東京帝国大学法学部政治学科卒業(1928年)。参考:唐島 基智三

東京帝國大学卒業後、国民新聞社入社。編集局長などを経て1940年退社。1943年東京新聞社(現中日新聞東京本社)に移り理事、論説委員長。

 一時占領軍の公職追放令で一線を退いたが1950年解除後、同社復帰。復社後は東京新聞の一面コラムに筆名・武原敏として「筆洗」を長きにわたり書き続けた。

 1950年代テレビによる国会中継が始まると、1957年放送開始のNHK『国会討論会』の司会を務め、自らの政治的立場は表に出さず、ソツなく巧みまた適当に鋭く、適当に砕けた司会ぶりは素人にも分かり易いと高い評価と人気を得た。お茶の間に政治の話題を持ち込んだ功労者である。『国会討論会』は、『日曜討論』となを変え現在も続く長寿番組となっている。

 東京新聞を退社した1960年からはNHK解説委員となり、1960年代の安保闘争時にはさらにテレビ出演が増え、党首会談などの司会も多く務めた。1961年第12回NHK放送文化賞受賞。

 「宏池会」の流れをくむ岸田文雄さんは

 2021年9月29日、自民新総裁に岸田氏、決選投票で257票 河野氏は170票。自民党は29日投開票の総裁選で岸田文雄氏を第27代総裁に選出した。

 2012.10月4日 

 第100代首相に岸田氏、4日午後、衆参両院で第100代首相に指名された。その後、総理になられ、10月31日電撃衆議院総選挙に打って出た。

2012.10月14日(木)衆議院解散

衆院が14日に解散される。衆院選の選挙運動期間が始まる公示が19日、投開票日は31日となる。解散から投開票までわずか17日だ。中曽根康弘首相が解散日程を定めた1983年の20日間を抜いて、解散に伴う衆院選で最も短くなる。

 2012.10月31日 衆議院総選挙 

 自民単独で絶対安定多数 立民は議席減、共闘不発
第49回衆院選は1日、全議席が確定した。自民党は追加公認を含め261議席を獲得し、国会の安定運営に必要な絶対安定多数を単独で確保した。岸田文雄首相(自民党総裁)は続投する。立憲民主党は共産党との共闘が不発で議席を減らした。日本維新の会が41議席で第3党になった。公明党は公示前から上積みし32だった。
衆院選は小選挙区289、比例代表176の465議席を争った。首相が就任後、初の大型国政選挙となった。

 この総選挙前に内閣の大臣を選挙が終ってもそのまま変えるつもりはないと明言された。

 このことに私はさすがだと思った。

 岸田さんは本籍地は広島市。東京生まれ、東京で育ち、アメリカで育ち、東京の開成高校、早稲田大学出身。広島出身であるのはなぜいわれるのかといわれている。
 宮沢喜一も本籍地は広島県福山市、東京生まれ、東京で育ちである。