倉敷絹織の経営 P.61~66 改 訂 版 2023.02.25 改訂


 兼田麗子著『大原孫三郎』――善意と戦略の経営者 2012年12月20日発行

倉敷絹織の経営 P.61~66

 綿紡績の不振と新規参入分野の調査

 倉敷紡績を発展させた孫三郎は、経営多角化を図り、一九二六年(大正十五年)に倉敷絹織を設立した。倉敷紡績は、孫三郎が父から引き継ぎ、全身全霊を傾けた主たる経営企業であり、倉敷絹織(現在の株式会社クラレ)はそれと一体をなす意味を持った企業であった。 

 明治政府が推進してきた殖産興業の重要な役割を担ってきた紡績産業は、第一次世界大戦時に躍進したが、その後の世界凶荒による深刻な不況の影響を他の産業と同様に被った。孫三郎は、倉敷紡績がそれほど深刻な影響を受ける前に備えておくべきだと考えた。そこで、「綿業不振の局面打開策」を構想することにし、新たに参入可能な分野の調査を一九二二年に指示した。  

 主として、製糸・絹紡事業、羊毛工業、人絹工業に関する調査が行われた。前者二つに関しては、古くから発達していること。綿紡績と同様に不況に直面していること、また、その将来性と危険性という点で参入の候補からはずされた。詳細な調査対象になったのは、新興工業として世界的に勃興する気配を見せていた人絹(人造絹糸、天然の絹糸を模倣して人為的に製造した繊維。レーヨン)事業であった。

 孫三郎は人絹事業に関する調査報告に大きな関心を持ったが、倉敷紡績のほとんどの重役が難色を示した。「仕事を始めるときには、十人のうち二、三人が賛成するときに始めなければいけない。一人も賛成がないというのでは早すぎるが、十人のうち五人も賛成するようなときには、着手してもすでに手遅れだ、七人も八人も賛成するようならば、もうやらない方が良い」と息子の總一郎に語っていた孫三郎は、先見の明と勇気を持っていた。しかし、同時に、他人の意見に耳を貸す姿勢と正確な状況判断を兼ね備えていた。

 詳細な調査報告を聞き、心を動かされたが、このときは人絹事業への着手は見送られた。しかし、人絹事業はその後、海外での発展の兆しを見せるようになった。そのため、孫三郎は「今回は賛成者一人でもやる」と人絹事業への着手を主張しだした。その結果、それまでの研究調査に基づいた人絹事業着手の方針が一九二五年には固められた。

 ちなみに、この新しい分野への進出について、總一郎は、「父が人絹への進出を決意した理由は絹、毛、麻などの繊維の将来に大きな期待が持てなかったことのほかに、絹をのぞく我が国の繊維工業が原料を一〇〇%海外に依存し、僅かな工賃を稼ぐ単なる加工業者に過ぎず、そのために市況は海外の原料相場によって牛耳られ企業自体の安定は得られない欠陥を救うため、この比較的原料のウエイトが軽くて安定度の高い、しかも将来の発展性に富む人絹工業に活路を求めたことは否定できない」と分析していた。孫三郎のこの考え方は、後に總一郎が合成繊維ビニロンの開発、工業化を目指した理由とまさに重なる。

 總一郎もまた、第二次世界大戦後の廃墟のなかから日本が立ち上がり、経済的自立を果して真の独立国となるためには、日本の原料と労働力、そして技術でつくることのできる合成繊維が必須だと考えたのである。

 工場分散主義

 孫三郎の意図も強く働いて、一九二六年(大正十五年)に倉敷紡績の多角経営から誕生し、そして独立企業となった倉敷絹織(当初の本店所在地は倉敷紡績本店内、社長は孫三郎が兼務)では、徹底したコスト削減と積極的な拡張の方針が採られた。孫三郎の工場分散主義に基いて、一九三二年(昭和七年)~三七年にかけて三つの工場が新設され、基盤が築かれていった。 

 工場分散主義について孫三郎は、「一ヵ所で大きな工場を運営することは不利で、分散主義をとることにより、各工場の技術の特徴を発揮させ、そして批判してまた新工夫を出させる。積極的に技術を取扱って行こうというのが、新居浜、西条、岡山の各工場をつくらせた理由であります。感情的な無意味な競争ではなくて、技術的な競争、技術の新発見、技術的進歩という意味から分散主義をとったのであります」と説明していた。孫三郎は、大工場一ヵ所での量産とコスト削減よりも、競争に基づいたイノベーション誕生の社風づくりを重視していたといえよう。

 一九三三年は、米国でニューディール政策が開始された、不況色が濃かった時期ではあったが、孫三郎は、レーヨン工業の将来に明るい見通しを抱いていた。

 新しいことへの挑戦、自助、独創性重視という孫三郎の特徴は、倉敷絹織の創設と初期の経営方針のなかにも顕著なことがわかる。当時の人絹工場は、欧州からプランㇳを輸入し、外国人技術者を招聘して、工場設計から機械据付、操業開始にまで漕ぎつけることが一般的であった。しかし孫三郎は、そのようなルートを選択しなった。

   産学協同の先駆者

 倉敷絹織創設以前、経営の多角化を決した段階で、孫三郎は京都帝国大学工学部と連携して京化研究所を設立した(倉敷絹織創設時に研究所吸収)。

 桜田一郎(一九〇四~八六)博士率いる京都帝国大学との連携で国産初の合成繊維ビニロンの工業化を成し遂げた總一郎は、産学協同の先駆者と称されることも多いが、実は、孫三郎がその先駆者の一人だったのである。

 孫三郎は、京都帝国大学の荒木寅三郎(一八六六~一九四二)総長と福島郁三(一八八二~一九五一)教授に相談を持ちかけた。その結果、人絹研究開発のための、倉敷紡績と京都帝国大学の連携が実現した。通常は、外国からの技術導入、そして研究所設立という順序が踏まれることが多いが、倉敷紡績の場合は、まずは研究所設立、そして技術導入と技術開発が相互補完の形で追求された。

 遠回りによる優位性

 總一郎が、「同業各社より一応の立ち遅れを示したが、究極においては、之等の各社が外人技師を抱えることによって厖大な人件費を必要としたばかりでなく、自社の技術者が技術の習得ができないので、外人技師達を退陣せしめて新規撒直しのスタートを切ったため、資金的や時間的に大きな無駄をしている間に、倉絹が業界のパイオニアである帝人と覇を争う優位をかち得たことは記録されてよい」という見解を示していたように、新しいことへの兆戦、自助、独創性重視という孫三郎の特徴は、長期的、究極的にプラスを倉敷絹織にもたらした。

 倉敷絹織は、その後、姉妹会社として出発した倉敷紡績とは別資本の会社として独自の道を歩み、倉敷レイヨン、そしてクラレと改称した。クラレは、戦後には、国産初の合成繊維ビニロンの工業化を世界にさきがけて成功させた。現在、ビニロンの由品賓であるポリビニルアルコール樹脂やエバール樹脂などの用途をまったく様変わりさせて独自の製品をつくりだし、世界のトップシェアを占める化学会社となっている。

 孫三郎は、「人は事業や生活で主張を実行すべきであり、自分は主張のない仕事は一つもしないように、主張のない生活は一日も送らないように」と心がけていた。孫三郎は自分の主張と一致せずとも他に追随していくという比較的楽な道を進むのではなく、自分の主張にそった独創的な方法を用いて、社会構成メンバーの利害の一致を図ろうとした。

 自分自身の主張に正直になって具体化、実践していったものが後章でのべる科学研究所の設立・運営、地域の教育活動などの様々な事業であり、倉敷紡績を中心とする企業経営であった。

 倉敷紡績や倉敷絹織の企業経営の例からもわかるように、大原孫三郎は、情にのみ傾いていたのではなく、理と情、経済と道徳・倫理のバランスをとりながら自分の主張を貫き通したのであった。

 2021.07.15記

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