生 き る━前田達治自伝━


  は じ め に

 この世には他人に伝記をまとめてもらっている成功者も数えられないほどに多い。

▼図書館の伝記がおさめられている棚は、そうした人々の伝記がぎっしりと詰まって、読者がそれを取り上げるのを待っている。それは勿論、世のため人のために尽くして功成りなを遂げた人々の伝記である。大発見、大発明をした人、極貧の家に生まれながら努力の結果大変な財産家になったという人、なもなき庶民の家に生まれながら勤勉と才能から人に知られるなった人――それぞれに数奇な運命であったり、特異な事柄の経験者であったりして、それはそれなりに有意義な書物であることに間違いはない。短時間の読書で人生の勝者の生きざまが読み取れるのだから、これから生きていかねばならない若者たちには、その人生の指標とするためにも、誰のでもよいから伝記を読むことを奨めたいと常々考えてきたものである。

▼しかし、八十有余の齢を重ねたいまの私は、功成り名を遂げるだけが立派な人生であろかといった疑問に取り付かれて考え込んでいるのである。確かに他人に伝記を書いてもらえるほどの人物は、それぞれに立派な業績を残した人ではあるが、世の若者たちのすべてがそうした人々を目指したのでは、日々の米も食膳にのぼらないでしょうし、電車もバスも動かない。成程立派な成功者たちにはちがいないが、それは一握りの人たちなのである。大部分の人間は、いやほどすべての人が、いうなればなもなき衆生なのである。大成功者に劣らぬ能力を持ち、それ以上の努力や苦労をした人でもなもなく財を積むこともなく、平々凡々のうちに老いて死んでいくのである。

▼大成功者と、平々凡々に生を過ごした人との間に、私は価値の相違をまったく感じられない。年寄りの無常観からおもうのではなくて、齢を重ねると生命というものがますます光を帯びて美しいものに思えるからである。人間の生命は己が知らぬままに与えられる不思議な尊いものである。汗して生き通そうとするから、人の行動は尊く立派なのである。結果としてなを得ても得られなくても、財を築けようと築けまいと、人の生命が生き通したという見事さのまえには、いささかの開きも違いもあるものではない。

▼そうしていうならば、私こそがそのなもなき衆生の典型なのである。しかし、私は自分の人生を私なりに誇りをもって振り返るのである。確かに生き通したぞ、正直に生きたぞ、勤勉に暮らして曲がったことをしなかったぞ、と。私は、私のこの誇りを、私に生命を与えてくれた母に感謝をもって伝えたい。そしてまた、ともに生きてくれた老妻にも心より感謝したいのである。

▼成功者のなかに、俺は腕一本でこれまでになったのだ、誰の世話にもなっていないと広言してはばからぬ人がいるが、私はどうしてもそんな気持ちになれない。私がこの世に生を受けたのも親のおかげ、見事に生き通せたのも肉親の暖かい目を身体いっぱいに感じていたから。そしてまた、どんな小さな事であっても他人が暖かい心を開いてくれなくてはできるものでなかったと、私は肝に銘じて有り難く感謝している。

▼たいして能力もなく平々凡々と市井の片隅で暮らした私の一生を振り返って見ることに意義があるのかどうかはともかく、私自身が私の一生をたどりなおしてみて、私の人生の処々方々でかかわりあった人々を思い出し、心よりのお礼を述べておきたいというのが、私が筆を執った動機である。物笑いの種になるかもしれないとは心配しないことにした。私は本当だけを書こうと決めている。これもひとつの人生だと、ぜひ終わりまで読んで欲しいと思っている。


★前田達治は前田家の長男で7人兄弟姉妹であった。私の母は三女で、岡山市弘西小学校を卒業している。

 旧御津郡横井小幸田の前田の家は関東大震災の年:大正十二年九月:その年に家を建てた。104年経過している。

 本家は四十七坪の二階建て、他に十六坪の二階建てに物置き等々、合計一万一千五百円の建築である。私が家を建てたことに他意はない。ただただ母へのせめての孝養の印というわかなのである。永い貧乏暮らしで苦労した母への御恩報じだったのである。母も心から喜んでくれた。良い家が出来て、これではじめて分限者の仲間入りが出来たと、手放しで喜んでくれたものである。母の喜ぶ顔を見て、私も心から満足することが出来たのである。

 二十年後私は北支から引き揚げて来たのであるが、始終不在がちの私が留守の間、代わって母に孝養を尽してくれた弟の金夫に、私はこの家を譲ったのである。田、畑、籔一反、屋敷三十坪、これは我々が先祖代々受け継いできたすべてであるが、私は弟の金夫にすべてを無償で譲った。私は別に東山に家を求めた。「生きるー前田達治自伝ー」P.85


 昭和五十一年十一月一日発行(非売品)

 著 者 前 田 達 治

 製 作 株式会社 斎 光 社


*註1:序文には「逢沢 寛」(逢沢一郎氏の祖父)が書いてくださっている。そのまっびを紹介します

 「……思い起こすと随分長い間柄であるが、氏は常に前途に大きな目標を掲げてこれに向かって精一杯に身心を打ち込むが、同時に筋道を立て、譲らぬ理論の人である。主張すべき理論は断固として主張するが、同時に云う丈けのことは断じて自らもこれを行うという秋霜爽快な人柄である。この精神は大陸において氏の薫陶を受けて現在の協立土建の幹部の方々の中にも生き続けて、それが同社繁栄の支柱となっていると私はひそかに信じている。業界を去って後は、能楽幽玄の芸に打ち込まれ、円満玲瓏の老爺となって居られるが、この精神にほのかにその余燼を止めていることと思っている。」

註2:前田達治は私の母の兄です。甥である私は、この自伝を書き残してくれていたことに感謝します。文中には、早く死に別れた父とのかかわりも知ることができました。伯父が妹である母の子育てに言い尽くせない援助してくれましたことに感謝します。

 小学校4年生のときだったか、お婆さんの住んでいた、当時、御津郡横井村(現在:岡山市北区津高)に母は私を呉線・山陽本線を乗り継いでの一人旅をさせました。たどりつくかどうか、冒険旅行でした。岡山駅では従弟が迎えにきてくれていました。お婆さんは高齢で布団に横たわっていたことが記憶に残っています。

註3:血のつながっている人が自伝を残してくれていたのは、自分のルーツを知るに役立ちました。

※私の父・母と達治:P.53に、広島県忠海町の妹婿黒崎市次郎から「仕事がある。すぐ来い」の電報が来た。たった一日のコンクリート練りでうんざりしていたところでもあり、先きゆきの生活を考えて暗澹たる思いにとらわれていた私だったから、この電報には文字通り飛び上がって喜んだ。現金なもので足腰の痛みを忘れて馬場の姉のところに駆けつけ、旅費として百円借りて忠海に向った。



前田達治自伝

著者の母
私のお婆さん

能楽の正装

能楽を舞う伯父
 

平成二十六年三月二十五日

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