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序章 メリダにて
序 章 メリダにて P.5
一九七四年八月二日、私はメキシコの首都メキシコシイティから、カリブ海に飛び出したユカタン半島の突端にある街、メリダへ向けて飛び立った。飛行機は翼に黒い鷲印のついたメキシコ航空のボーイング727である。 この航路はメキシコシティとユカタン半島を結ぶローカル線で、いつもは比較的空いているらしいが、このときは夏のバカンスのせいもあって満席であった。黒い大きな瞳、整った鼻、濃い口髭、メキシコ人特有の人懐っこい笑いと、騒々しさをのせて、飛行機は一路ユカタン半島へ向かう。 飛行場を飛び立ち、急上昇して夏の雲を抜けると、進行方向の右手に、一つだけ、雲の上に頭を出した山が見えた。標高五四五二メートル、ポポカテぺトル山だと同行の日系二世の山田氏が説明してくれる。 メキシコは全体に山地が多く、メキシコシティそのものも二二四〇メートルの高地にある。私はそれを見ながら、五四五二メートルから二二四〇を引けば、三二〇〇余になるから、丁度日本人が富士山を見上げる感じになるのかと考えた。実際、その山は富士山に似ていた。裾野のほうはともかく、雲から出た部分は、見事な二等辺三角形で、その山頂に純白の雪を戴いている。富士山を思いだしたせいか、私はこの山が、メキシコで最も高いのだと思っていたが、さらに西へすすみ、ポポカテぺトルが視界のうしろに退るころ、それと入れ替わりに同じくらいか、あるいはそれより高いと思われる山が、続々と雲の上に現れてきた。これらの山はポポカテぺトルのように整った容姿ではないが、やはり山頂は雪を戴き、そのなかで最も高いのが、標高五六七五メートルのオリサバ山である。 メリダの街に野口英世が訪れたのは、いまから五十五年前の一九一九年の暮れである。このとき、野口はニューヨーク、ロックフェラー研究所の主任研究員で、その春黄熱病原体を発見した功績により、米国医学会から銀牌を贈られたばかりであった。 この年に、野口がこの街を訪れた理由は、もとより黄熱病の研究のためであった。 当時、この白い街はまだ黄熱病の恐怖に沈んでいた。 黄熱病(イエローフィバー)といっても、いまのわれわれにはぴんとこないが、かつてペスト、天然痘、コレラなどとともに、世界を震撼させた悪性伝染病の一つである。
私はここに来る前、ニューヨークにいて、そこからイースタン航空でメキシコシティに入り、メリダに着いた。その間、実際の飛行時間は七時間余りであった。その行程を野口は五十五年前、汽車で走りづめで二週間かかってきた。
五十五年前、野口はこのホテルに着くと、その夜、町の公会堂にメリダの医師、医療関係者の全員を集めて次のような講演をした。 「私は昨年、黄熱が猛威を揮うエクアルドに出張し、調べて、その血清のなかから、黄熱の病原体であるレプトスピラ・イクテロイデスを発見しました。一九〇〇年、アメリカ医学界がこの黄熱に挑戦して以来、二十年間、多くの年月と莫大な研究費を投じて、なお不明であった病原菌を、私は幸運にも二か月の短時間で発見することができたのです。これで黄熱撲滅への第一歩は開かれ、あとはこの菌をたたく治療法を、考えればいいだけです。いままでの、やみくもの戦闘と違い、これからは目標がきまった、正攻法の攻撃がはじめられるのです。野口は演説の上手い人であった。少し甲高い年齢よりも若い声で、抑揚をつけ、壇上で卓を叩き、のってくると全身を躍動させる。小柄だがエネルギッシュで、喋りはじめるとその小柄な体がひとまわり大きく見えた。 この五十五年前の演説をきいや人が、いまなおメリダの街に住んでいる。メリダのカレー街四十五番地に住む、ドクター・オトリイオ・ヴィラヌエヴァ氏である。
ロスアンゼルスではニ泊して野口英世の研究家として有名なプレセット女史に会ってきている。彼女の父親がロックフェラ―研究所の精神科教授をしていて、野口と親交があった関係から、野口に興味をもち、研究を始めた人である。 このプレセット女史との話で、最も感心したことは、彼女はいわゆる日本の伝記作家のように、野口を一方的に偉くて立派な学者とばかり見ていないことである。野口の偉かった部分は偉いとしながらも、、しかしまずかったところはまずいと、冷静な眼で見ている。 「彼は非常に熱心な、いい学者でしたが、最後のころは、やや焦りすぎ、学者として大きなミステイクを犯してしまいました」 こういう野口観については、私も同感であった。 間違いなく、野口は偉大な学者でありながら、最後に大きな過ちを犯している。彼の学者としての業績は、かつて最高の評価を受けたにもかかわらずいまはあとかたもなく消えている。正直いって、野口の学者としての評価は、死後、急速に失われてしまった。おそらく日本の学者でこれほど毀誉褒貶の激しい人はいないだろう。これまで日本の伝記学者はそれを知りながら、あえて野口を偉大な学者として書き続けた。 伝記というのは、往々にして作中人物を過大評価し、その人物の都合のいいように書かれるものだが、野口の伝記ほど、その傾向のいちじるしいものはない。かつて日本の歴史が、歴史家によってゆがめられたように、野口の一生も、伝記作家によって大きくゆがめられ、実際の野口とはまったく別の野口がつくられたのである。
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