萩市・下関市ー歴史の旅ー
改 訂 版 令和5年6月6日改訂


 萩市・下関市ー歴史の旅ー

 中国地方工業高校教育研究会出張時、歴史の旅をした。

 平成六年七月二十六日火曜日 

 中工研(中国地方工業高校教育研究会)出張

 下関マリンホテル宿泊:堀井、赤塚、浜田先生と相部屋

★萩見物 赤塚先生と旅行 小生企画提案、彼がスケジュール立案。徳富蘇峰『吉田松陰』(岩波文庫)、奈良本辰也『吉田松陰』(岩波新書)をそれぞれ1回通読予習して旅行した。

 小郡から山口経由JRバスで所要時間約1時間30分。標高約 500メートルの山越え。日本海に臨んだ市(幕末ではは小さいまちだったと想像できる)。人口5万。タクシーは約 150台。流しはない。産業はない。見物には、観光バス、タクシー、自転車、徒歩がある。観光対象により方法は選ばなければならない。タクシーでの観光者と貸自転車での見物者に行く先々で出会う。萩の歴史散策は徒歩か自転車での見物が適当な街並。冬は日本海の寒風が聞こえるようだ。明倫館の松の巨木が風の向きに曲がっていた。幕末には毛利藩城下町は山口から萩に移った。

 僅か2時間48分の駆け足見物だったが幕末、明治の初めにタイムスリップさせられた。 現在の建物を取り除いて街を再現すると藩士、志士たちの往還、親交の様子が偲ばれる。なぜこんなに多くの人が輩出したのだろうか?

☆明倫館(白壁の塀に取り囲まれていた。上士の子弟が学んだ)

 円政寺 伊藤博文が預けられ、高杉晋作が少年時代遊んだ寺。

 菊屋家旧宅(商人の住宅)

 田中義一銅像

 高杉晋作旧宅(農民・町人をも加えた奇兵隊)

 山県有朋騎馬像

☆タクシーで移動

 黄檗宗東光寺…山号を護国山といい元祿四年(一六九一年)萩藩三代藩主吉就が建立した。総門・三門が紹介されていた。三門と書かれていた。山門と思い込んでいたのだが、不思議に感じた。

 七月二十八日、長府の功山寺を見物したとき「三門」の説明があった。山門(三門)とは本堂に入るのに通らなければならない門、三解脱門(空・無相・無作)にたとえ、この略からとられたといわれる。見物中、水上勉が「岡山の曹源寺は臨済宗が生きている」との言葉を思い出した。

参考1:約十年前、なんとなく読みすごしていた三門であったが、岡山の曹源寺日曜坐禅会参加して茶礼の席で三門の「無作門」について老師に教えを請う。

 『無作門(むさもん)は、世間ではさまざまなことがある。そんなことをすべて乗り越えて、今のことに全力をつくしていきることである。「色は匂へど散りぬるを、我が世誰ぞ常ならむ、有為の奥山今日越えて、浅き夢見じ酔ひもせず」の言葉のように生きることです』との趣旨のお話しをしてくださいました。平成十七年二月十三日(日)

▼有為の奥山今日越えることに修行の根源があると感じました。「いろはにほへと・・・・」と習ってきたこの言葉を繰り返し、声を出して読むと心にしみこむものを感じます。

 毛利氏廟所石灯籠 五百基を見物

 伊藤博文旧宅

 東萩の駅の近くに野山獄、岩倉獄があるが時間がなくて見物出来なかった。

 松陰神社・松下村塾

 東萩の駅の近くに野山獄、岩倉獄があるが時間がなくて見物出来なかった。

▼旅行が終わり、萩の旧所の地図を見ると興味ある発見をした。城下町に住む重臣ほど城に近く、城は堀で二重に守られている。俗論派、正義派の人々の名前を思い出す。秋の終わりから初冬にかけて、二~三日ゆっくりと訪問したいものだ。

参考2:山門(さんもん)仏教寺院の正門である三門の異称。寺院は本来山に建てられ山号を付けて呼んだ名残りで平地にあっても山門という

参考3:三門は空門・無相門・無願門の三境地を経て仏国土に至る門、三解脱門(さんげだつもん)を表すとされる。

 明治維新前の歴史の街は何度でも訪問したい思いを胸にしまって……。  

 NHK大河ドラマ「花燃ゆ」(1月4日から、日曜後8・00)の放送開始がはじました。

 吉田松陰の妹という歴史上あまり知られない人物が主人公だけに、今ひとつピンとこない人もいるのでは? 乏しい史実を起伏に富んだ脚本で補い、現代劇風の装いも施した「意欲作」の見どころを紹介する。

 主人公・文ふみ(井上真央)は、長州藩出身の幕末の思想家・吉田松陰(伊勢谷友介)の妹。松陰が主宰した松下村塾からは、高杉晋作(高良健吾)、入江九一(要潤)らが巣立っていった。文は、既存の常識にとらわれない兄を誇らしく思うが、安政の大獄で兄は刑死してしまう。

 文は、塾生の久坂玄瑞(東出昌大)と結婚するが、長州藩が薩摩・会津連合軍との戦いに敗れて久坂は自刃。

 文は毛利家に仕えることになり、明治維新を迎えた後、亡き姉(優香)の夫だった群馬県令・楫取素彦(かとりもとひこ)(大沢たかお)と再婚する――。

 ざっとこんな物語だが、さらに久坂には愛人と隠し子までおり、最終的に文は子どもを引き取るという波乱万丈の物語。脚本の大島里美と宮村優子が史実に照らし合わせながら“女の一生”を創作していった。

 しかし、今なぜ吉田松陰の妹なのか?

 この点を制作統括の土屋勝裕チーフ・プロデューサー(CP)が解説する。

 「元々、長州藩を舞台に吉田松陰を取り上げたかったが、早くに亡くなっているのでどうしようかと思っていたところ、陰の人物でもある楫取素彦を知り、興味を持った」

 しかし、男性目線の物語だと日曜夜に楽しく見られないとの不安も。長州の女性たちが、海岸の砲台作りを手伝うなどして活躍したことを知り、女性を主人公にしようと文が浮上した。

 塾生たちを見守り、2人の夫を支えた文の生き方には、現代に通じるものがあるという。

 「東日本大震災後、自らがヒーローになるよりも『今ここにある幸せを守りたい』との気持ちになる人が増えている」と土屋CPは指摘。文の人生に仮託してそれを描くことで、ホームドラマ的な味わいを醸し出そうと試みる。

 また、松下村塾での若者たちのやり取りは学園ドラマ的で、文が毛利家に入ってからは女同士の戦いのドラマ。もちろん幕末から維新を駆け抜けた男たちの命懸けのドラマという要素もあり、現代劇としても十分に楽しめる展開を盛り込む。

 土屋CPは「至誠の人たちの生きざまを描く」と強調するが、いつもながらの「大河」同様、人気俳優がこれでもかと登場。歴史時代劇と思わずに見た方が意外と楽しめるかもしれない。 (パソコンより引用)

 山陰線で下関に向かった。

☆下関マリンホテルの屋上から海を見ていると潜水艦が艦橋だけを現して関門橋の下を周防灘に東向、さらに豊後水道へと南に向かった。

 平成六年七月二十七日水曜日

★中工研 理科部会 感想

1.島根県の先生 気球の実験 生徒の理科離れの対策として自然科学に興味を持たせるに対策に努力が払われている。研究したことがないので自信はないが、小学校中学校の理科のような事項で生徒を引き付けようとしている。基本的には工業高校の生徒の能力の問題とも関係する。

2.山口県の先生 長い休みに課題として新聞から科学関連を切り抜き感想をかかせる指導をしていた。

3.広島県の先生 クラブ活動で[蛙のふか]の観察実験を指導。これは努力がいる。

4.全般的に工業の先生の力が落ちている。研究発表も広島県の先生のものを除いては程度が低い。

5.新指導法では、単位数とも関連するが、物理2単位であれば物理Ⅰが適当、Ⅱは少し無理だ。化学は工業ではⅠがほとんど、工業化学科以外Ⅱは少ない。化学Ⅰは先生が教えにくい。理大附属高校では今年度は物理Ⅱ、化学Ⅱで少し無理、来年度は物理Ⅰ、化学Ⅱの予定。

★赤間神宮 安徳天皇 関の先帝祭 七盛塚 耳なし芳一の像

 春帆楼 日清講和記念館 伊藤博文弁理大臣、陸奥宗光弁理大臣の胸像 伊東巳代治の春帆楼のいわれの碑がある。

 旧英国領事館 British Consultate 1906年建つ。バロック調。海軍兵学校東生徒館に似ていた。説明文が日本語、中国語、英語、ハングルの四カ国語。

 亀山八幡宮久坂 玄瑞が指揮した砲台の記録あり。

 壇之浦古戦場は、現在の関門橋の真下 満珠・干珠の二島

 平家物語を読まなければと思う(七月二十九日読む)

 唐戸、平戸などの地名に共通点がある。

平成六年七月二十八日木曜日

★功山寺仏殿 山門(三門) 高杉晋作回天義挙の地として有名、馬上姿の銅像がある。乃木神社、乃木旧邸

 忌宮神社(いみのみや)(二の宮と呼称されていた)14代仲哀天皇、15代応神天皇、神功皇后を祭る。忌(いみ)は斎(いみ)に通る。

 下関市長府には練塀、長屋門が保存されていた。

 海岸には神戸製鋼所の工場群がある。

平成六年七月二十九日金曜日 

★Essay 06.07.29. 禅寺のさまざま…(萩旅行の感想の一つ)

1、黄檗宗東光寺…山号を護国山といい元祿4年(1691)萩藩三代藩主吉就が建立した。総門・三門・鐘楼・大雄宝殿・大方丈書院など紹介されていた。

 三門と書かれていた。山門と思い込んでいたので不思議に感じた。

 毛利氏廟所石灯籠 500基を見物。境内に土産物店が2つあった。

2、功山寺 創建は鎌倉末期といわれる仏殿は、鎌倉の円覚寺舎利殿とともにわが国に残る純唐様式の建築として国宝に指定されています。江戸時代に立てられた山門も重厚。境内には高杉晋作が出陣するさっそうたる馬上姿の銅像があり、「高杉晋作回天義挙の所」と記した石碑が建っている。

 [三門]の説明があった。山門(三門)とは本堂に入るのに通らなければならない門、三解脱門(空・無相・無作)にたとえ、この略からとられたといわれる。

 境内に土産物店があった。第一・三日曜坐禅の掲示があった。境内ではシルバーの人が掃除をしていた。時間給のよだ。お寺からではない。忌宮神社でもシルバーの人を見掛けた。

3、曹源寺の由来文

 国指定史跡

 池田家墓所(曹源寺・天台寺・大光寺)

 曹源寺は十一面観音を本尊とし、臨済宗妙心寺派に属している備前国第一の禅寺である。岡山藩主池田綱政が、元祿十一年(1698年)に、高祖父信輝と父光政の菩提を弔い自らの冥福を祈るため建立した。山号を護国山といい、絶外和尚を開山に迎え、家臣上坂外記に命じて造営された。山を背にし、南面平地に、広い寺地を設けて経営された近世平地伽藍は、禅宗建築の代表的なものである。伽藍の両脇には真言宗・天台宗・日蓮宗・浄土宗の塔頭を末寺として配置してあり、このうち現存する天台寺(天台宗)と大光寺(日蓮宗)も指定域に含まれる。

 堂舎の東に広がる池泉回遊式の庭園は絶外和尚と津田永忠との合作になる築造で江戸中期のすぐれた禅庭である。また、本堂の背後の山腹には、池田家の墓所が構築されており、歴代藩主や近親者の墓が営まれている。(平成6年8月7日写す)

 私は曹源寺の木の札に書かれた由来文を読むと以下のようなことが知りたくなった。

1、高祖父は?…(祖父母の祖父)

2、山号は? 何時ごろから、宗教の宗派に関係ないのだろうか。護国山の名前を2つ知った。…(寺院の名称に冠する称号。比叡山延暦寺・高野山金剛峰寺の類)

3、がらん[伽藍]…(僧侶が住んで仏道を修行する所。寺。寺院。)

4、たっちゅう[塔頭]…(①禅宗で祖師または大寺の高僧が死んだ後、その弟子が師徳を慕って塔の頭(ほとり)に構えた房舎。②一山内の寺院、即ち子院の内の大きなもの。わきでら。)

5、「禅寺に真言宗・天台宗・日蓮宗・真宗の塔頭を配置したのだろうか?」…藩主は禅宗に帰依しているが家臣の宗教を考慮した藩主の度量の大きさによるものだと説明されている。

 その他

 新に得られた知識、「平地伽藍は、禅宗建築の代表的なものである。」「池泉回遊式の庭園。」

*()内は『広辞苑』による。

 疑問が起これば、私は『国語辞典』『広辞苑』『国民百科事典』を参考にしている。 

 感 想

(1)以上の三カ全寺に共通している点は何か。

 菩提寺であるからには子孫が建てる。後代の人が建ている。山号が護国山。藩主によるお寺であることを表しているのか。

(2)由来の文章を読むだけでも当時の事情が想像される。

(3)東光寺、功山寺の見物中、水上勉が「曹源寺は臨済宗が生きている」と言った言葉を思い出した。何故か? 私なりに纏めると

 禅堂場であることがまず言える。修行と作務がある。雲水、修行者がたくさんいる。作務が行われていて境内がいきづいている。松葉が落ちていてもいつまでも放置されているものでないからその松葉さえ生きている。

 鐘楼からは晨鐘昏鐘が打たれている。

 布教が行われている。誰でも受け入れている。

 (坐禅が行われているかどうか?)

 土産物店の有無は宗教的雰囲気に影響を与えている。

*参考:「衆の少きを憂ふること莫れ。身の初心なるを顧みることなかれ。汾陽は僅か」に六七人、薬山は十衆に満たざるなり。然あれども皆仏祖の道を行じき。是を叢林のさかんなると云き。」『正法眼蔵随聞記 P89』より。

 中国地方工業高校教育研究会出張、萩市・下関市歴史の旅は収穫多い旅でした。

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