★猿谷 要著 『西部開拓史』(岩波新書) 1982年7月10日 第2刷発行 1982年8月10日 購入 プロローグ P.1 一九八一年十一月下旬、私はアメリカのほぼ中央にある町セントルイスで、世界有数の長流ミシシッピ川のほとりに立っていた。この辺では川幅がかなり狭くなっていて、
と通りかかった町の医者が話してくれた。つまり、せいぜい四〇〇メートルくらいなのである。私が立っているのはミズーリ州だが、川幅が狭いせいだろうか、対岸のイリノイ州イースト・セントルイスとの間には四本もにの橋が架っていて、どの橋にも自動車がはげしい勢いで往き来している。なにしろセントルイスは、その周辺に住む人口まで含めると合計二三五万、今では全米十二位の人口密集地帯なのだ。 川べりには十九世紀に全盛を誇った蒸気船が、何隻か淋しそうに繋留されている。船尾に水車がついていて、白い船体が幾重にも赤い線で縁どられ、マーク・トウェインの小説にちなんで、「ハック・ウィン号」とか、「トム・ソーヤ―号」などという名が書かれている。ある船は岸につながれたままレストランとして使われ、ある船は実際に観光客を乗せて今もミシシッピを上下している。 その川面を、昼間は長い長い平底の貨物船が行く。長さ三〇メートルから四〇メートル、幅一〇メートルくらいの矩形の貨物船が、ヨコに五列、タテに六、七列並んで、その上に数面のテニスコートができそうなほど平たい姿になり、それを、これも平たい強力な船が牽いていくのだ。このあたりは世界最大の穀倉地帯なので、小麦やトウモロコシ、大豆などがこうして川を下ってニューオリンズに運ばれ、そこで大きな船に積みかえられて外国の市場へ向うのである。八一年にアメリカが輸出した農作物の一五パーセントが日本向けで、国別では日本がトップだというから、私がセントルイスの川へりで眺めた貨物船のなかには、日本に向かう農産物を積んでいたものがあったかもしれない。 実際このミズーリにしても、対岸のイリノイにしても、さらにこの両州の北や西に広がる中西部諸州のどこに行っても、町を一歩離れると、もう果てしない畑なのだ。カンザスやミズーリやアイオアなどで、一日中車で走り続けてもなお小麦畑やトウモロコシ畑から抜けられないのを見て、私は呆れ返って物をいうのもいやになってしまったことがある。その上、景色はこの上なく単調なのだ。眼に入るものは、上の半分が空、下の半分が畑というだけで、これではカメラを向ける気にもなれない。住んでいる人たちの最大の関心事は、国際問題や、選挙や、犯罪や、教育などではない。明日の天気予報と、シカゴの穀物相場だけなのである。だからソ連のアフガニスタン侵入をもちろん「けしからん」と人びとはいうが、カーター前大統領の実施した対ソ制裁としての穀物禁輸は、「もっとけしからん」ということになるのだ。 それはともかく、世界最大の穀倉地帯がここにあるということは、アメリカのもつ底力の大きさを十分に物語っている。一朝有事のときも、アメリカだけは飢えることがない。その上、余った農産物は、戦略物資として国際関係のなかで無限の可能性をもっている。しかも西部は、今なおその潜在的な力を十分に出し切ってはいない。私は何度かドライヴしたワイオミング、ユタ、ネヴァダなどは、どの州も日本の半分くらいの面積をもっているのに、一九八〇年の国勢調査では、人口がそれぞれ四八万、一四六万、八〇万にすぎないのである。ビーフジャーキーをかじりながら終日こういう地方を車で走り続け、前方はるかに地平線を望むような景色と出会うたびに、十九世紀末になくなったはずのフロンティアが、また昔のままの姿で眼の前に現れたような気がした。 さて私が佇んでいたミシシッピ川のほとりには、痛くなるほど首を曲げなければ先端をふり仰げない巨大なアーチが立っている。外側を銀色に輝くステンレスで仕上げたこのアーチこそ、一九六〇年代初めに着工して今はセントルイスのシンボルになっている"ゲイトウェイ・アーチ"である。"ゲイトウェイ"――これはセントルイスがかつて西方にひらけた無限の土地へ人びとが進んでいくときの、物資や情報を集めて準備をする最大の根拠地であったことを示す言葉なのだ。"ゲイトウェイ・アーチ"、つまり「大西部への門」なのである。 人びとはこのアーチのなかを、エレベーターで登りつめることができる。地上一九二メートルの高さから脚下に横たわるミシシッピ川を後ろにして西方を眺めると、無数に並ぶダウンタウンのビル、その後方のアパートメント群、さらにその背後に横たわる樹木の間の住宅街――そしてこういう大都市を中心にしたメトロポリス全体を包んで、緑の一線で画された文字通りの地平線が、ワイドスクリーンよりもなお幅広く、ミシシッピ川以西の一八〇度いっぱいに広がっているのである。 この壮大な展望に心を打たれない人はいないだろうが、そのときに、この大西部がもしも外国であって、ミシシッピ川がその国境になっていたらどうか、などという危惧を抱く人は多分いないことだろう。人びとは歴史を振り返るとき、すでに決まってしまった事実を安心して読む。事実がそう決まるまでにどんな瀬戸際を通ったのか、その経緯に人びとはどんなに一喜一憂したのか、そういうことにまで思いを馳せる人はあまりいない。 ところが現実に、今のアメリカが二つか三つの国に分裂してしまうような可能性があったのだ。少なくとも一八六一年に始まった南北戦争では、とても一国の内戦とは思えないほどの、六〇万という人命の犠牲を出している点を考えれば、アメリカという国が南北二つの国に分裂する寸前までいっていたといわなければならない。十六世紀にスペインから独立しようとして立ち上がったネーデルランドは、途中で妥協した南部数州が後にベルギーとなり、妥協せずに戦い続けた北部数州はオランダとして独立した。このように狭い地域でも、一つにまとまったり、二つに分裂したりしている。生活様式の違うアメリカ北部と南部は、オランダやベルギーと違ってそれぞれ別個に強大な国家となれるほどの広さをもっている。アメリカが現実に南北二国に分れる可能性は、その時かなり高かったのである。 その南北戦争から六十年ばかり遡ると、アメリカが東西二つの国に分かれるかもしれない際どい事態が起っていた。奇妙に思うかもしれないが、それはセントルイスに到着するまで私たち夫婦が滞在していたドミニカ共和国と、微妙な関係のある事件だった。ドミニカというのは、キューバの東に浮かぶイスパニョラ島の東部三分のニほど占める国で、西の三分の一はハイチである。今まで欧米諸国の征服や干渉を受けて、両国とも気の毒なほど貧しいけれども、このイスパニョラ島こそ、コロンブスが長年探し求めていたジパングの国だと考えた島だったという。島の中央部には三千メートル級の山脈があって、現に一四九九年には金鉱が発見され、スペイン人が西半球につくった最初の町サント・ドミンゴには、その十年後に一万人以上のスペイン人たちが殺到してきていた。 私がセントルイスでミシシッピの川面を渡る風を冷たく感じ、何度もコートの襟をかき立てたのは、直前までいたサント・ドミンゴが十一月下旬だというのに真夏のような日射しだったからだろう。一四九八年にスぺイン人たちが建設したというこのサント・ドミンゴは、イスパニョラ島の東南部、カリブ海に面した港で、ドミニカの首都として長い歴史の爪跡を残していた。西半球最初のカテドラル、サンタ・マリア・ラ・メノールはかなりよく復旧されていて、その内部には他ならぬコロンブスの柩が収められていたし、彼の子のディエゴが住んでいた城というか館というか、赤茶色に錆びたようなレンガの建物が、旧市街を流れるリオ・オサマのほとりに復元されている。 これほど一時は栄えたはずの町も、十六世紀へ入ってまもなく金が掘り尽くされてしまうと、スペイン人をはじめヨーロッパ人たちは、みなアメリカ大陸各地の探検や征服に向けられれて、それ以後は奴隷船や貿易船の寄港地として使われただけで、多くのヨーロッパ人に見捨てられてしまったのである。 私たちはこのサント・ドミンゴからドミニカ航空機でマイアミまで三時間あまり、マイアミから他の飛行機に乗りかえてさらに二時間近く、合計五時間ばかりを飛んでやっとセントルイスに着いたのだが、ジェット機で五時間という距離は、飛行機のない時代に生きた人間にとって、おそらく気の遠くなるほどの長さであったろう。そんなに離れていた二つの土地に、一体どんな関係があったのだろうか。 さて、南北戦争から六十年ばかり遡った時代というのは、日本では徳川第十一代将軍家斉の時で、近海にロシア船やイギリス船が出没しはじめていた頃のことである。アメリカはまだ独立してまもなく、ジェファソンが三代目大統領に就任した一八〇一年には、独立当時の大西洋岸十三州の他に、アパラチア山脈を越えた西側にテネシーとケンタッキーという二つの州ができただけで、アメリカの領土はミシシッピ川までということになっていた。この川の西方に横たわる広大な土地は、初めフランス領、ついで一七六二年からはフランスと仲のよかったスペインの領土となったが、一八〇〇年にはひそかにまたフランスに返還され、ナポレオンはここに軍隊を送って、アメリカ大陸にも強大な勢力を築こうと計画していた。もともとフランスびいきだったジェファソンも、アメリカの発展を制約することになるこの計画に警戒の眼を光らせ、ジェームズ・モンローを特命全権大使としてパリに派遣して、ミシシッピの河口に近い町ヌーヴェル・オルレアンや、この大河の航行権などを購入させようとした。 ところが、事態はまったく思いがけない方向に進んでしまった。ナポレオンはタレーラン外相を通じて、もっと大きな買い物を提案した。つまりフランスがスペインから返還してもらったばかりの、フランス人がルイジアナとよんでいたミシシッピ川以西の広大な土地を、アメリカ人に買う意志がないかといってきたのである。これはモンローがパリに着く直前のことで、駐仏大使ロバート・リヴィグストンはこの申し出を聞いて仰天した。そしてナポレオンの気が変らないうちにこの驚くべき提案を受け入れるようにジェファソン大統領に手紙を書いた。 こうして一八〇三年四月、どこまで広がっているのか分からないほどの土地ルイジアナを、一五〇〇万ドルという金額、後年計算した結果では一エーカ(約四千平方メートル)あたりわずか三セントという値段で、買いとることになったのである。ヨーロッパ人が北米に植民を開始してからまもない一六二六年には、オランダ人が今のニューヨークのマンハッタン島を、せいぜい四〇ドル程度の品物で原住インディアンたちと物々交換し、後に「史上最大のバーゲン」とよばれたが、このルイジアナもまた、これに劣らない大バーゲンだったといえるのではないだろうか。というのは、このためアメリカの領土は一挙に二倍にまで拡大されることになったからである(一二四ページの図参照)。 しかしまた、ナポレオンはどうしてこの土地をアメリカに売ってしまう気になったのだろうか。彼はルイジアナに軍隊を派遣するとき、途中でフランス領植民地に起っている奴隷たちの反乱を鎮圧するように命じた。それがイスパニョラ島の西部に当たるハイチだったのである。ここではわずかのフランス人がアフリカから連れてきた大勢の黒人奴隷を使って、砂糖のプランデイションを経営していた。ところが本国フランスに革命が始まると、翌一七九〇年にその影響を受けてハイチでも自由と平等を念願とした奴隷たちが反乱を起し、一八〇一年までには島の東部のドミニカをも支配下においてしまったのである。 黒人たちを指揮したトッサン・ルーべルチュールは、フランス軍から「ブラック・ナポレオン」と恐れられるほどの才能をもち、ナポレオンの義弟リクレルク将軍さえも手を焼くほどの戦いぶりだった。トゥサンは捕えられて獄死するが、やがてこの島はラテン・アメリカ最初の独立国となり、イスパニョラ島に送りこまれた約三万ものフランス軍は、反乱軍のゲリラ戦で殺されるが、土地の黄熱病に襲われるかして潰滅し、ナポレオンの雄大な計画も、また目的のルイジアナに到着しないうちに挫折してしまったのだ。彼はこのためルイジアナの計画を放棄し、むしろそれを売ってしまって、ヨーロッパ制覇の資金とする方が得策だと考えた。つまりイスパニョラ島の黒人奴隷たちは、アメリカの領土拡大に思いがけない貢献をする結果になったのである。 こんなわけで、"ゲイトウェイ・アーチ"のあるセントルイスの川沿いの広場は、いま西部への拡大をたたえてジェファソン国立記念広場とよばれているのだ。しかもこのアーチの脚下、広場の地下には西部開拓ミュージアムが作られていて、これは珍しく連邦政府直轄になっている。アーチの二本の脚が立っているそれぞれの根もとに、ゆるやかに下がっていく入口があって、この広場を訪れる人びとはひとまず首を曲げてアーチの巨大さに驚き、川べに立ってゆったり流れる"オールマン・リヴァー"の昔に思いを馳せ、そして最後には吸いこまれるようにこのミュージアムに下りていく。 内部の規模は大きくないけれども、年代や地域や項目を巧みに組み合わせた配列は、ひと目で全体の流れを把握できるように工夫されている。私はまず時代に従って歩を進め、次に地域ごとにまとめて眺め、時には床に腰を下ろして考えこみ、また立ち上がってのぞきこんだりしているうちに、いつのまにか境も定かでない時間のカーテンの向う側に入りこみ、歴史の壮大なパノラマのなかに融けこんでいった。 2025.05.28 記す
未知の天地へ P.11 一七九三 マッケンジー、カナダ太平洋岸に到着 一八〇三 ルイジアナの購入 一八〇四 ルイス=クラーク探検隊出発 ” パイクのミシシッピ水源探検 一八〇六 ルイス=クラーク探検隊帰着 ” パイクの西南部探検 一八二二 ロシア人、砦(フォート・ロス)を建設
一八〇四年の三月上旬、セントルイスで風変りな儀式が行われた。 十九世紀を迎えた最初の年、この町の人口はまだ千名に満たず、しかもそのうち二百数十名は奴隷だったから、この時の人口もそれよりひとまわり多かった程度であろう。しかし、それにしてはかなりの人数が、この儀式を見るために集まってきたようだ。儀式というのは、この土地がアメリカ領になったことを示す国旗の掲揚である。 ルイジアナとよんでいたミシシッピ川以西の土地が、フランスからアメリカへ譲渡された正式儀式は、前の年の十二月二十日、すでにヌーヴェル・オルレアンで行なわれていた。広場のポールにそれまで掲げられていたフランスの国旗が降ろされ、代ってアメリカの国旗が昇っていった。整列していたアメリカ兵たちが、空へ向けていっせいに銃を撃ち、この儀式を祝った。その時から、町の名前もニューオーリンズとよぶようになっていたのだ。 それから三カ月近くたって、セントルイスでも同じ儀式を行うというのだが、風変わりな形になったのは、肝心のフランス代表がいなかったからである。その代り、カルロス・デラサスというスペインの副総督がいて、この儀式に立ち会った。だいたい一八〇〇年の暮れナポレオンがスペインに返還を認めさせた条約は、できる限り秘密裡に結ばれたので、本国をはるかに離れたこんな不便な場所に、なかなかその知らせが届かなかったのである。しかもフランス領に戻されてから二年あまり後、今度はまたアメリカ領になってしまったのだから、辺境の出先機関が混乱するのもやむをえないことだったろう。 北部ルイジアナの司令官代理としてセントルイスに到着したアメリカ軍のアルモストダート大尉は、いささか当惑しながら、一人二役を演じなければならなかった。彼はまずフランス政府の代理としてスペイン副総督からルイジアナを譲り受け、その後すぐにアメリカ軍の帽子に代えて、今度はアメリカ合州国の名のもとに、改めてルイジアナを受領したのである。最後にアメリカの国旗がするするとポールに昇り、この儀式を祝って銃がいっせいに撃ち上げられると、集まっていた大勢の人びとは、その奇妙な方法にみな手を叩きながら笑いころげた。 町のなかにはまだフランス系の住民が多かったけれども、周辺にはアメリカ人がどんどん入りこんでいて、農場の経営をはじめていた。パイオニアたちのリーダーとしてすべてのアメリカ人にその名を知られているダニエル・プーンもまた、そのときセントルイスの近くに農地をもって住んでいた。その付近の村には今でもダニエル・ブーンという名がついているし、セントルイスの市内を走る高速道路の名前にもなっている。町の真中にある大きな公園には、彼の銅像が空をにらんで今も立っているのだ。そういう町の周辺から集ってこの儀式を眺めていた人たちの間に、ひときわ目に立つ二人の男が混じっていた。一人がメリウェザー・ルイス大尉、もう一人がその相棒のウィリアム・クラークである。
クラークはこの時三十四歳、勇敢で誠実、軍人としても優れていたが、医療にも長じ、観察力も細やかで、何よりもルイスとは相互に信じあうことにできる友人だった。ルイスからの手紙をもらい、彼は勇躍してオハイオ川を下る途中、ルイヴィルでルイスと落ち合った。同じ軍隊にいて別れてから、七年ぶりの再会である。 それから二人は部下を連れてセントルイスに到着したが、この町はその頃未知の西方へ探検に出かける人たちにとって、申し分のない根拠地になっていた。町はまだ小さいけれども、レンガ造り三階建ての家が中心部には並び、川に沿った三本と、それと直角に交わる十数本の道路ができ、川を上り下りする舟で川沿いの道はなかなか賑やかだった。二五〇キロ下流では、ケンタッキーとイリノイの間を流れるオハイオ川がミシシッピに合流している。逆にわずか二五キロ遡ると、西からの大河ミズーリがミシシッピに流れこんでいる。あちらこちらかの物資が、このセントルイスには自然に集まってくるのだった。二人はここに腰をすえて、探検隊の準備にとりかかっていたのである。 実は二人とも、なるべく早く出発したいと考えていた。ところがセントルイスに駐在しているスペインの副総督は、アメリカがルイジアナを買い取ったことをまだ知らされておらず、探検隊の出発に許可を与えようとしなかった。二人は出かける前からこうしてつまずいてしまったので、この日セントルイスにアメリカの国旗がひらめくのを見て、他の誰よりも、一番胸をときめかして喜んだのである。 当時二人は、ミシシッピとミズーリの合流点からさらにミシシッピを五キロ遡った対岸に、激務に耐えられるよう隊員を訓練するキャンプをつくり、日夜そこで生活をともにしてたので、セントルイスに出て大勢の人たちと会ったのを機会に、西部に詳しそうな男たちをつかまえては質問して廻った。インディアンとの間に毛皮取引をしている商人や、わなを仕掛けてピーヴァーなど毛皮になる動物をとっている猟師、それにいつも川を上下している船頭などは、二人の知らないたくさんを見聞しているからである。事実マウンテン・マンと総称されるこういう人たちのなかには、ミズーリ川を何百キロも遡って奥地へ入ったことのある人が何人もいたのだった。 もっとも、ルイスとクラークが西部について何も知らなかったわけではない。それどころかジェファソンは、ただ太平洋岸への道を探るばかりでなく、途中で出会うインディアンたちの生活ぶりや、各地の天候、それに動植物の実態まで調査するようにルイスに命じ、そのためルイスはフィラデルフィアの大学でこれらについての勉強をしていた。クラークもフロンティアの生活に慣れ親しんでいて、奥地の情報にはいつも注意を払っていたので、二人とも西部の事情には詳しくなっていたのである。第一、ジェファソンという人自身が、一七八四年には当時最良の博物誌ともいうべき大著『ヴァジニア覚え書』を出版しているほど知的関心が高かったし、学問的な成果が当時は政治的な必要とも密接につながっているのだった。だからルイスとクラークのこれからの旅は、未知の土地を探る探検であるであると同時に、学術調査の性格を非常に強くもったものであり、大統領はその目的のために議会から予算を承認されたのである。 一八〇三年から翌年へかけての冬、二人はひどく忙しかった。まず何よりも、探検隊の人選がもっとも重要な仕事で、これにはクラークが積極的に取り組んだ。ルイスの言葉によると、 「何人かのいい猟師が必要だったが、頑丈で、健康体で、独身の若者たち、それも森の生 という基準で人を選んだが、他にも生活のあらゆる部門を代表するような、大工とか鍛冶屋なども欠かせなかったし、もちろん通訳も必要だった。この壮大な計画を伝え聞いて応募者は一〇〇名を越えたけれども、見た瞬間に不適格であることが分る者もいたし、訓練中のキャンプ生活で脱落する者もいた。 一方ルイスはもっぱら渉外や必要物資の収集に当たった。薬品、各種の道具、折畳み式ボート、各種の食糧、とくに塩は七樽、それに二千ドル相当のインディアンへの贈り物など、実に多彩な買い物をしなければならなかったし、銃器は買ったり新しく作らせたりした。ルイスとクラークのこういう連係プレーは実に鮮やかで、二人がどれほど息のぴったり合ったパートナーであったかが、出発する前からもう証明されていたといってもいいだろう。 準備を終えたルイス=クラーク探検隊は、セントルイスンにアメリカの国旗が上ってから約二カ月後の五月十四日、一冬を過したキャンプを出発して、未知の天地に挑む壮大な旅の第一歩を踏み出した。この日はゆったりと流れるミシシッピの川面に、弱い雨脚が吸いこまれるように降り注ぎ、両岸を埋め尽くす草木の勢いは、もう夏の訪れの近いことを語りかけていた。 セントルイスで建造した船は三隻である。中心の船は長さ約一七メートルのキール船で、マストに帆を張り、二四本ものオールをもち、かなりの量の荷物を載せることができた。一八一七年に蒸気船の定期便がこのミシシッピに初めて就航するようになってからも、キール船はこの川の人気者だった。あとの二隻は小さな平底船で、それでも一〇名近くの人を乗せることができた。三隻に分乗した探検隊の一行は、総勢四五人、まずミシシッピを少し下り、そこから右折してミズーリ川を遡る。まもなく右岸にセント・チャールズという小さな村があり、そこには三十年も前からフランス系の住民が入りこんでいた。一八二一年にミズーリ州として連邦に加入するようになるとき、ここが最初の州都となったのだ。もう少し進むとラ・シャレットという村があって、それから先は、もう両岸にヨーロッパ人の姿をほとんど見かけない世界が待ちうけているのである。 思うにこの時ルイスとクラークは、いやそれ以上にジェファソン大統領は、ひそかな焦りを心の底に抱いていたに違いない。というのは、この未知の土地への探検が、他の国でかなり急速に進んでいることを知っていたからである。イギリスのジェムズ・クックやジョージ・ヴァンクーヴァーは北西部海岸に沿って航海しているし、カナダではアレクサンダー・マッケンジーが、くり返し危険な目に遭いながらも、とうとう一七九三年には今のブリティッシュ・コロンビアのほぼ中央部にあたる海岸まで、大陸を越えて到達していた。ロシアもまた、北のアラスカから南を狙っている。事実この年からわずか八年後の一八一二年には、カルフォルニアの海岸まで船で南下した九五人のロシア人と四〇人のアラスカ人が、一辺一〇〇メートル余りの正方形に近い砦を作って生活しはじめるのである。 しかしどんなに焦っても、そう簡単に船が進むわけではなかった。順調なときには一日三〇キロ以上遡ることができたけれど、ミズーリ川はなかなかの暴れ川で、泥を十分に含んだ勢いのいい流れが、両岸の樹木を脅かしながら押し寄せ、岩場あり、淵あり、急流もあって、とうとうキール船は破損し、一同はその修理に全力をあげなければならないようなこともあった。急流にさしかかるとどの船も進まなくなり、そういう時は岸に上がって綱で船を曳くのだが、岸辺では無数の蚊が襲いかかってくる。もっと恐ろしいのは毒蛇で、隊員の一人が脚を咬まれ、クラークの持っていた薬品で治療を受けて危うく助けられている。雷雨に叩かれて船が水浸しになり、岩に衝突しそうな危ない場面も何回かくり返した。 七月に入って、遠くロッキー山脈から流れているプラット川との合流地点に到着した。本格的にインディアンと接触が始まったのは、その直後のことである。現在オマハの対岸にカウンシル・プラス(話し合いの丘)という町があるが、それよりさらに遡った同名の丘の下に野営し、そこでインディアンのオットー国とミズーリ国の代表六名を迎えた。ルイスとクラークは実に細心の注意を払って彼らと会見する。というのは、事前にジェファソンが直接ルイスに与えた指示のなかには、インディアンに関する部分が非常に多く、 「原住民と接するときはいつも、できるだけ友好的で、相手に受けいれられるようなマナーをもって話し合いをすること。」と書かれていたからである。 このときの会談は成功だった。でも、相互に相手のいい分を十分に理解し合ったとはとてもいえないだろう。ルイスの方は、この土地がフランス領からアメリカ領となり、今後は大統領という白人の父が保護者になることを話し、インディアンの方は周辺に住む敵のインディアンを倒すために銃を手に入れたい、という話をしたのだから、まあ敵対行為をとらないですんだ、という程度が実情であろう。インディアンたちはウィスキーや装身具などを贈られ、その限りでは喜んで引き上げていった。 その後一行はさらに船でミズーリ川を遡り、十一月に越冬のキャンプをつくるまで、実にさまざまな事件に遭遇する。フロイド曹長が盲腸炎で死に、川沿いの崖の下に葬られた。ルイスは誤って砒素ガスを吸い、危うい目に遭った。バッファローやオオカミをたくさん射止めて、食べきれものはジャーキーとよばれる干し肉にして保存した。もちろん魚はたくさん釣って、一日に八〇〇尾近い成果をあげたこともある。沿岸地帯の自然を観察して、詳しいデータを記録した。しかし何といっても最大の体験は、あちらこちらのインディアンとの接触、とくにスー国と一触即発の危機をくり返したことだろう。 スーというのは七つの部族を含めた総称で、ルイスはとくにジェファソンから彼らと十分に話し合うように命じられていた。平和のパイプを喫い合って話し合いに応じ、贈り物を手にして引き上げた部族もあったが、初めから敵意をむき出しにした部族もあり、隙があれば攻撃しようとする気配の部族もあって、ルイスとクラークは何度か危機に陥った。探検隊が銃を、インディアンたちが弓をそれぞれ構えて対立するような場面も展開した。両方の立場があまりにも違っていたし、言葉も十分に通じ合わなかったので、それぞれが警戒心をもち、それが相互に疑心暗鬼を生む結果になったのであろう。ともかくこの時期に、大きな衝突をどうやら免れて前進することができただけでも、幸運だったと言えるのではないだろうか。 もっとも、いつもそう危険な目にばかり遭っていたわけではない。スー国の脅威にさらされていたアリカラ国では、たいへんな歓迎を受けている。二日間の会議は平和的であったばかりでなく、アリカラの人の態度は非常に礼儀正しく、出されたウィスキーにも手を出さないほどだったという。その上ここでは、隊員たちが簡単に夜の相手を探すことができた。というのは、客をもてなすために夫や妻やその姉妹を提供するという習慣が、アリカラの人の間にあったからである。 十月下旬、もう周囲はすっかり冬のたたずまいになり始めたとき、友好的なマンダン国の圏内に入った。ビッグ・ホワイトという首長との会談でここを越冬の基地にすることにしたルイスとクラークは、十一月に入るとすぐ砦の建設にとりかかった。そこは現在のノースダコタの州都ビスマルクの近くで、今でもミズーリに注ぐ支流ハート川のほとりには、マンダンという名の町がある。ここまで五カ月あまりの間に、探検隊は約二、五〇〇キロの旅を続けたことになる。 木造ながらも砦を築いたのは、マンダン人を警戒するためではなく、彼ら自身が怖れているスー族の襲撃に備えたもので、クリスマスになってやっと完成した。このなかで一行は食糧や情報を集めるために努力したが、こちらが外へ出向かなくても、インディアンたちや時には土地の事情に詳しい毛皮商人などが訪ねてきて、砦はかなり賑やかだったらしい。そして砦がまだ完成しない十一月十一日には、この探検隊にとってその後欠くことのできなくなる人物が訪れる。それがインディアン女性サカガウィーアである。 そのとき八歳か九歳だったインディアンの少年がのちに首長プア・ウルフとなり、その時の模様を娘に語り伝えた。後年その娘は、父が語った話を次のように述べている。 「白人たちがその冬私たちと一緒に過ごしている間に、シャルボノーというフランス人がシ 若い方の妻が、その後長く伝説的な存在になるサカガウィーアだった。彼女はお腹が大きくて、もし探検隊の出発と出産が重なれば、そこに置いていかれることになっただろう。彼女は二月十一日、砦のなかで初産の苦しみに直面する。ルイスの日記によれば、たまたま傍に自分の子供の出産に立ち会ったジェソムというフランス人がいて、ガラガラ蛇の尾の一部を飲ませれば子供はすぐに生まれるといい、ルイスが持っていた尾の輪を二つに引き裂いて飲ませたところ、十分後に勢いよく子供が生まれてきたという。ガラガラ蛇はインディアンに恐れられている毒蛇で、尾の先端に輪のようなものが並んでいる。身体をくねらせて尾を振るとガラガラと音を立てるので、人びとは一層この蛇をこわがるのだが、それがまた魔除けにもなるといって、人びとは撃ち殺した後、音の出る尾の部分だけを持っていたのである。 生れたのは男の子、ジーン・パプティストと名づけられ、喜んだルイスは早速ポンプというニックネームをつけた。この子は生まれてまだ二カ月もたたないうちに、母の背に負われ、記録に残る歴史的な壮挙に加わることになるのだ。首長プア・ウルフの記録によれば、 「春が来てルイスとクラークが船に乗り、北に向かって出発した時、彼らはサカガウィーアとその夫のフランス人を連れ、もう一人の妻オター・ウーマンは私たちの許に残していきました。」
※写真説明:ノースダコタビスマルクに立つインディアン女子サカガウィーアの像 サカガウィーアの記憶によると、彼女はロッキー山脈の分水嶺のすぐ西側の山地で生まれ、ショショーニの風習に従い、十三歳か十四歳になったら、すでに父がきめていた男と結婚するはずだったという。そのとき男は何頭かのラバや馬を連れて、交換に妻をもらい受けるのである。ところが十歳か十一歳になった頃、家族や一族の人たちとロッキーを越えて東へ旅をし、スリー・フォークスとよばれている地方にまで出かけていった。そこで三つの流れが合流し、ミズーリ川の源流になっているのだった。スリー・フォークスで彼女たちがキャンプをしているところを、突然ミネタリーの戦士たちが襲いかかった。その時の様子を彼女はルイスに詳しく語っているが、ショショーニの戦士たちは数こそおおかったものの銃をもっていなかったので、攻撃を受けるとすぐ馬にとび乗って逃げてしまったという。女や子供たちはそれまで野イチゴを摘んでいたが、どさくさにまぎれてどこかへ逃げてしまい、サカガウィーアは川の浅瀬を走って逃げようとするところを、追いつかれて捕えられた。 彼女がどのくらいの間ミネタリー国で捕われの身になっていたか分からないが、通訳もできるフランス系カナダ人のトゥサン・シャルボノーが買いとって妻にしたのである。シャルボノーはこの先どんな運命が待ち受けているか分からないこの探検行にあまり気乗りがしなかった。隊長の命令に従う義務はなく、帰りたい時に引き返せるという条件を申し出てルイスに断わられ、やむを得ず同行することになったところをみると、ルイスとシャルボノーとの間には初めから強い信頼関係はなかったといえよう。 これで一行のなかにはサカガウィーアという異色の顔が加わることになったが、この他にも最初からの隊員のなかに思いがけない効果を発揮する人たちがいて、たとえばクルーザットという男は驚くほど上手にバイオリンを弾いたので、隊員ばかりではなくインディアンまでも、会談が終った後は一緒に聞きほれて、踊りだす者さえあったといわれる。なにしろ、インディアンたちにとって、生れて初めてみるバイオリンだったのである。 クラークの従者として雇われたヨークは黒人で、彼もまたインディアンたちを十分に驚かせた。髪の毛がちぢれ、皮膚の色の黒い人間を彼らは見たことがなかったので、近寄って頭から足まで触りながら、何が塗られているのか調べたという。インディアンの女たちから、彼はとくべつに歓迎されたようだ。 一八〇五年四月七日、探検隊は川上と川下のニ隊に分かれて出発をした。川下に向かったのは、それまで調査した資料をワシントンまで戻って報告するための十三人で、川上に向かっては、いよいよ前人未踏の探検が始まるのだ。獲物は豊富で、バッファローやピーヴァーを大量に仕止めて食糧にしたのはよかったが、狼やグリズリーという熊にはたびたび手を焼かされたし、通路のミズーリ川はしだいに狭まって激しい流れが多くなった。 ある日、夕方近くになってルイスとクラークは部下と一緒に岸へ上り、周辺の様子を調査しようとした。季節の変わり目には時どきあることだったが、その時いきなり突風が吹き荒れはじめて、ボートはほとんど転覆しそうな揺れかたになった。舵をとっていたのはシャルボノーで、彼はすっかり周章狼狽してしまい、岸でルイスとクラークが叫ぶ声も耳に入らず、薬品、本、ルイスとクラークの日記、その他の道具類を入れた荷物がいくつも川面に浮かび始めた。この大混乱の最中にボートの船尾にいたサカガウィーアは、ひとり沈着にもボートから身をのり出し、川面に漂ってびしょ濡れになっている荷物をほとんど全部救い上げたのだった。ルイスは報告書のなかで、誇らし気にこう書いている。 「そのとき船の上にいたどの人にも負けない強固な意志と決断力を備えたこのインディア 隊員にそれほど感謝されたサカガウィーアは、その後一ヶ月近くたった六月十日、突然病に倒れて重態に陥る。ルイスは翌日から計画通り四人の部下を連れてミズーリ川にかかる大瀑布周辺の土地を調査に出かけたので、クラークが彼女の看病をした。当時はどんな病気にも血を取ることが治療法とされていたので、クラークは毎日二回の採血をして、日記に病状を書きこんだ。数日の間、「非常に重い」とか、「どうやら危険な状態」という表現を使っているし、「もし彼女が死ぬようなことがあったら、それは間違いなく夫の責任であると私は思う」とまで書いている。 クラークは彼女を船のなかの一番涼しい場所に移したり、多分キニーネが含まれていると思われるタンニン樹皮を飲ませたりしたが、一向に回復の気配は見えなかった。十六日に船に戻ったルイスは、彼女の脈がすでに乱れていることを知り、最後の手段を思いついた。付近を調査中に、ヴァジニアにいた時に知った泉と同じような水を飲んだのだ。強い硫黄と、多分それに鉄分も含まれていたのだろう。ルイスはその水を、彼女に飲ませてみた。するとその翌日から、彼女ははっきりと回復に向かい出した。ルイスはそれから彼女がすっかり回復するまで、毎日タンニン樹皮とこの水をサカガウィーアに与えた。六月二十四日、とうとうルイスは次のように書いている。 「このインディアン女性は、今や完全に回復した。」 発病いらい、実に二週間も彼女は全隊員の注目を集めたのだ。他の隊員も何人か重労働のために倒れ、交替で休息をしているので、生れて間もない赤子を抱えた彼女の過労は想像に難くない。 その後、奥行きの深いロッキーの分水嶺をめざした一行の苦闘は、長く国民的な記録として残された。いまここでは、サカガウィーアの演じた役割についてだけ触れておきたい。 ルイスはショショーニ国の人びとに会って太平洋沿岸に出るための馬を譲り受けたいと思い、三人の部下を連れて本隊を離れた。そしてまぎれもなくショショーニの国に入りこんだのだが、大勢の戦士たちに取り囲まれ、言葉は通じず、もし相手に疑われれば、いつ全員が殺されてもやむを得ない危地に追いこまれた。ショショーニの女性が一行の本隊のなかにいるのだということは、いくら口で語りかけても、サカガウィーアの姿が現れるまで誰からも信用してもらえなかったからである。 二日間をショショーニで過したルイスたちは、本隊が遡ってくる地点へ行くことを提案し、インディアンたちは四人を取り囲んでそこへ出かけた。ところが、予想された場所に、クラークの率いる本隊の姿は見えなかったのだ。窮地に立ったルイスは、自分がクラーク宛てに書いて杭にしばりつけておいた手紙を部下に取りにやらせ、それをショショーの前で読んで、これはもう間もなく本隊がここに来る知らせだ、と話した。インディアンたちは辛うじて納得したが、ルイスはどんな思いでその夜を明かしたことだろうか。 翌朝、とうとう本隊が遡ってやってきた。戦士たちに囲まれた一行がショショーニの住む場所に入ると、一人の女が走り寄って、いきなりサカガウィーアに抱きついた。二人はそれからしばらくの間、互いに涙を流しながら抱きあっていた。それは彼女と一緒にミネタリーの戦士に捕えられ、後に脱走した女だったのだ。 それからサカガウィーアは、一層人びとを驚かせた。いよいよ正式の会談が始まることになり、彼女は通訳として車座のなかに加わっていたが、入ってきた首長カメアウェイトの顔を見るなり、大声をあげて跳び上がった。彼女は輪のなかに走り出て、肩のブランケットも投げ捨て、そのまましっかり彼に抱きついた。カメアウェイトは、何ということだろう、サカガウィーアの兄だったのである。 その後の会談は、通訳の彼女がとめどもなく流す涙のため、何度も途中で遮られたという。しかし彼女のおかげで、太平洋岸へ出るのに必要な馬や案内人などを手に入れることができたのはいうまでもない。 こうしてルイスとクラークの探検隊は、それからさらに四カ月の苦しい旅を続けて、コロンビア川を河口まで下り、茫漠として広がる太平洋の波を眼の前にした。セントルイスを出発してから、約一年半かかっている。 雨の多い季節に入っていた。クラークは付近の松の木を削り、こう書いたという。 「一八〇五年十二月三日、アメリカ合衆国のウィリアム・クラーク、陸路よりここにいた 2025.06.01 記す
そのとき原住アメリカ人は P.33
※写真説明:高原のインディアンは、移動可能な円錐形のテント"ティーピー"を動物の皮や樹皮でつくり、そこに住んだ 一七九〇 インディアン代表、ワシントン大統領に訴える 一八〇六 インディアンの代表、ジェファソン大統領と会談 一八一三 クリーク戦争 一八一六 第一次セミノール戦争(ー一八) 一八〇六 ルイス=クラーク探検隊帰着 一八二四 陸軍省内にインディアン局設置 一八二八 チェロキー国に金鉱発見 一八三〇 インディアン強制移住法 一八三二 ブラック・ホークセンソウ 一八三五 第二次セミノール戦争(ー四一) 一八三七 大規模な経済恐慌 一八三八 チxロキー"涙の道"を行く
ルイスとクラークの探検隊は憂うつな天候のもとで一冬を越し、翌一八〇六年三月二十二日、コロンビア川を遡って帰途につく。途中でニ隊に分れ、ルイスとクラークはそれぞれの隊を率いて調査を行ない、幾多の波瀾を経ながら、八月十四日、合流した彼らは一年四カ月ぶりにマンダンに帰着する。友好的なマンダンの人たちは、大勢集まってきて一行の無事を喜んだという。 あとはセントルイスに戻るばかりなのだが、ルイスには大切な仕事が残っていた。セントルイスから太平洋岸まで、安全な水路で結ばれていなかったことが分ったし、ロッキー山脈は予想よりはるかに幅が広かったので、太平洋岸までの道が容易なものではないことがこれで証明され、それだけで十分な成果をあげたのだが、最後に残ったのはインディアンとの関係だった。彼は一人でも多くの首長を説いてワシントンまで案内し、大統領の前で友好的に恭順の約束をさせたかったのである。 マンダンの首長ビッグ・ホワイトは賛成した。サカガウィーアの出産に立ち会ったフランス人ジュソムが通訳として同行することになった。ビッグ・ホワイトは妻や子供を連れて行きたいといい、ルイスはそれを認めることにした。さてミネタリーだが、もしその首長も参加すれば、その時までずっと探検の旅を一緒に続けていたシャルボノーも、通訳としてセントルイスに行くことになっていた。そうすれば、当然サカガウィーアも子供と一緒に初めてセントルイスを訪ねることになっただろう。 一口にインディアンといっても、ヨーロッパ人が初めて大陸に到着した頃、今のアメリカ合衆国にあたる面積の土地には一〇〇万人前後の人口があったという。ところが北米には、中米メキシコのアステカ帝国や南米ペルーのインカ帝国のように強大な権力は存在していなかった。数百の主権をもつ集団に分れ、言葉の系統さえ数十のグループがあったので、インディアン同士も話が通じるのは比較的狭い範囲に限られていた。ミネタリー国の首長がワシントンまで行くことになれば、その言葉に通じているシャルボノーはそこでまた通訳としての役割を果たすことになるだろう。 ところがルイスの申し出を、ミネタリーは冷淡に拒絶した。そのためシャルボノーはセントルイスまで戻る必要がなくなってしまった。それでもなおクラークは彼に向って同行をすすめたが、それまでインディアンの土地を廻って毛皮の取引をしていたシャルボノーは、そのまま残ってインディアンと暮す方を選んだ。クラークはあきらめきれず、 「ポンプを私の手許において教育したい。一緒にセントルイスへ連れて行きたいのだが といったが、今度はサカガウィーアが承知をしなかった。ポンプはそのとき一年七カ月、おそらく可愛い盛りであったろう。苦しい探検行をここまで共にして、隊員たちのマスコットだったに違いない。 ルイスとクラークは心残りながら、シャルボノーとの契約をここで解かなければならなかった。シャルポノーの賃金と、彼が提供した馬一頭、テント一張りの代金を含めて、このとき支払われた金額は、合計五〇〇ドルと三三セント。ひどく細かな計算だが、シャルボノー以上の貢献を果たしたサカガウィーアに対してはただの一セントも払われていない。 一八〇七年一月にワシントンで提出したルイスの報告書には、シャルボノーについてこう書かれている。 「特別のメリットを持った男ではない。通訳としてだけ有効で、能力に応じた義務は果してくれた。」 しかしクラークは一八〇六年八月十七日の日記でサカガウィーアを絶讃した。この探検隊が通ってきた土地は、現在ミズーリ、カンサス、ネブラスカ、アイオワ、サウスダコタ、ノースダコタ、モンタナ、アイダホ、ワシントン、オレゴンの実に十州にも及ぶ広大な面積にわたっている。探検隊の成功がいかに大きな意味をもっていたかを疑う者はいないが、そのなかでサカガウィーアが重要な役割を果したとすれば彼女の存在はいくら高く評価してもいいのではないか。サカガウィーアについての研究家エラ・E・クラークとマーゴット・エドモンズは、最近の共著のなかで次のように書いている。 「探検隊に対するサカガウィーアの主な貢献、通訳としての能力を別にしても、子供を 探検隊の一行は、岸に立って見送っているシャルボノーとその妻サカガウィーア、それにまだ小さいジー・パプティストに別れを告げた。船がセントルイスへ帰るために岸壁を離れると、マンダンの人びとは集まってきて手を振り、なかには声をあげて泣く者もあったという。 サカガウィーアは、その後、歴史の上に姿を現さない。しかしマンダン国のなかで、シャルボノーのおとなしい妻として生活し、夫の死後はコマンチ国の男と再婚して、長寿を全うしている。研究家の調査によれば、一八八四年四月九日、リザヴェイション(インディアン居留地)のなかで息を引きとった。とすれば、九十五歳にもなっていたはずである。一八八〇年の国勢調査によると、全インディアンの人口はわずか六万四〇七人に過ぎない。彼女は白人からしだいに追いつめられたインディアンが、くり返し戦闘でどんどん殺されて、かつてこの大陸の主人公だった立場から、絶滅寸前の状態にまで追いこまれていく姿を見なければならなかったのだ。 原住アメリカ人であるインディアンたちは、ちょうどこのサカガウィーアが行動で示したように、白人と闘うのではなくて、自分たちの土地で平和に暮しさえするならば、むしろ仲良く共存していきたい、という考えが大勢を占めていたといっていい。だからこそ、ヨーロッパ人がこの北米に植民を始めた頃、概して彼らは新来者に対して親切だった。飢えていればトウモロコシなどの食糧を与え、暮しに困っていればこの土地での生活方法を教えたりもした。現在アメリカは世界最大の農産物輸出国になっているが、その農産物の半数以上はインディアンから教えられたものであるという事実は、この間の事情を十分に物語っているだろう。 それに対して、新来者の方はどうだっただろうか。後からこの大陸に渡って住みついて以来、原住アメリカ人のインディアンに対してどんな態度で応じたのだろうか。もちろん各種の例外はあるだろうが、ワシントンが初代大統領に就任して新しい共和国がスタートする三年前の一七八六年に、ベンジャミン・フランクリンがフランスの友人に宛てた手紙のなかに、本質を見抜いた次のような表現がある。 「インディアンと白人との間で戦われた戦争のほとんど全部は、後者が前者に対して何ら たいていの紛争は、土地の所有をめぐるものだった。インディアンが金や贈物で土地を譲らされる交渉は条約を結ぶ形とっている。インディアンが代替えの土地を約束されて西方へ移転する場合も条約を結んだが、インディアンは自分たちの集団を一つの国とよび、白人とまったく対等の立場で条約を結んだのである。国土があり、住民もあって、そこに一つの主権があれば、小さいながら一つの国とよぶべきであろう。独立したばかりの国アメリカも、やむを得ずそれぞれのインディアンを国とよんだが、こうして結ばれた条約はアメリカの歴史を通じて、実に二七三にのぼっている。 ところでその条約は、どれほど忠実に守られただろうか。現在のニューヨーク州北部にはインディアンのセネカ国があったが、アメリカ側のスタウィックス砦で、一七八四年、一七八九年、一七九七年、一八〇二年と四回にわたって条約を結んだ。そのうち二回目の条約が結ばれた翌年の一七九〇年、雄弁家で知られた首長コーンブランターがワシントン大統領を訪問し、土地を奪われるかもしれないという心配について力説し、次のよにのべている。何度条約を結んでも、徐々に土地を侵食されていく国の首長の、怒りを抑えた説得力をそのなかに読みとることができる。 「あなた方の軍隊が私たちの六つの国に入ってきた時、私たちはあなたたちをカウノタウカリウスとよびました。"町の破壊者"という意味です。今日まで、この名前が聞かれると、私たちの女は身をひそめて蒼ざめ、私たちの子供はみな母の膝にすがりついてしまうのです。私たちの代議員や戦士はみな男で、恐れたりすることはありませんが、女子供の恐怖を見て心を痛めています。そしてそんな言葉はもう聞かなくてもすむように、深く土のなかに埋めてしまいたいと望んでいるのです。あなたが私たちに平和を与えてくれたとき、私たちはあなたを父とよびました。というのは、私たちの土地の保有を保障すると約束してくれたからです。この約束を守って下さい。そうすれば、その土地が残る限り、すべてのセネカの人の心のなかに、父という愛する名が残ることでしょう。」 このコーンブラターはアイルランド移民の父と、セネカの母をもつ混血で、インディアンの指導者のなかには、このような例が非常に多い。統計には表れていないが、白人女性の数が相対的に少なかった古い時代ほど、あるいはまた同じ時代でも西部の辺境に近いほど、数多くの混血がいたはずである。そしてそのような混血は、すべてインディアンとして取り扱われた。 アメリカが新しい国家として誕生すると、インディアン各国の不満や不安はどっと堰を切って溢れだし、それがワシントン大統領のもとに集中する。一七九三年二月一日、アパラチア山脈以西に住むインディアンの代表たちがワシントン大統領を訪ねた。国務長官としてジェファソンも同席し、会談の記録をとっている。これはまったく対等の国同士としての会談の形式である。この席上でカスカスキア国の首長ジョン・バプチスト・デ・コーワーニュは、真先に立ち上がって次のように述べている。
この言葉を聞いて、ワシントンとジェファソンはどんな返事をしたのだろうか。ジェファソンはその時から十七年前に、あの有名な独立宣言書のなかで、「われわれは自明の真理として、すべての人は平等に創られ、創造主から一定の奪うことの出来ない権利を与えられ、そのなかには生命、自由、および幸福の追求が含まれることを信じる」と書いている。独立宣言書のなかでもっとも有名な、いわばアメリカ精神の根幹をなす部分である。インディアンの首長の叫びと、その独立宣言書の表現には、何となく共通したものがあるのではないだろうか。インディアンの首長もまた、私たちも平等の人間です。創造主から一定の奪うことのできない権利を与えられているのです、と訴えているのではないだろうか。 しかし白人のアメリカ人にとって、この土地はすでに一七六三年のパリ平和条約でイギリスがフランスから割譲されたものであり、その後独立したアメリカが、イギリスに代ってミシシッピ川までの土地を領有することになったはずなのである。アパラチア山脈以西の土地へアメリカ人が入って開拓に従事することは、これもまた"自明の真理"なのだった。現にこの会談の一年前にケンタッキーは州になっているし、それよりさらに二年前の一七九〇年には、その南のテネシーも州になっていたのである。 つまり北米の土地を、そこに住む約一〇〇万人もの原住アメリカ人インディアンの存在を無視して、ヨーロッパ人同士が勝手に争奪をくり返していたことになる。ルイジアナもその点は同じことで、それまで所有したことになっているフランス人も、ごく限られた部分に住んでいただけで、広大な面積に住むインディアンたちにとっては、自分たちの知らないところでフランス領からアメリカ領になったといわれても、迷惑この上もないことだったに違いない。 この会談のわずか三日後には、ポタワトミ国の首長コモがやはりワシントン大統領を訪ねて会談し、次のようにのべている。 「私はいま心を開いてあなたに話しかけようとしています。だからあなたも心を開いて私 ポタワトミは後に追われてミシシッピ川の西、今のカンザス地方に移住することになるのだが、この言葉のなかには、誇り高く、しかも平和を愛する気持ちが溢れている。彼のように直接大統領に訴えないまでも、アメリカ人の砦などを通じて政府の代表者に同じような訴えがどれほどたくさんくり返されたか分からないほどである。 ケンタッキーの不安定な状態について大統領に直接インディアンンの首長が訴えた翌年の一七九四年に、同地方でエブラハム・リンカーンという開拓農民がインディアンに襲われて殺された。同姓同名の孫がやがてホワイトハウスの主人公になるこの農民は、東隣のヴァジニアからアパラチア山脈を越えてこのケンタッキーに移住してきたところだった。その翌年には同じくヴァジニアから、ウィリアム・クラークが除隊してこのケンタッキーに移住している。メリヴェザー・ルイスからルイジアナ探検の誘いを受ける八年前のことである。 こうしてみると、インディアンたちからみれば当然と思われる要請や訴えも、大西洋を渡ってくる移民の波でますます人口のふくれ上がる新しい共和国の活力の前には、ちょうど嵐の大海原に向かって叫ぶ声のように、しょせんはかき消され、無視される運命にあったのだろう。 ルイスとクラークの探検隊が太平洋岸に辿りついて越冬している最中の一八〇六年一月四日、ジェファソン大統領は自分に会見を求めてきたオセージ、カンザス、オットー、パニ、アヨワ、スー諸国の首長たちに向かい、次のようにアメリカ政府の意向をのべている。 「フランス人、イギリス人、スペイン人は今やカナダとメキシコの間にある、あなた方と 当時インディアンとの問題はすべて陸軍省の管轄のなかにあった。インディアンたちはジェファソン大統領ならびに同席していたヘンリー・ディアポーン・陸軍長官に向かい、次ぎのような返事をした。 「私たちは心を開いて、あなたの手をとります。友情が私たちの心からあなたの心に広が インディアンたちはそれまで、イギリス、フランス、スペインなどの植民地獲得競争に巻きこまれることもあり、時には対立する両方の国の間に立たされて平和を乱されるようなこともあったから、このように一つの国にきまったことを歓迎する気持もあったことだろう。しかしインディアンたちは、なおも続けてこういっている。 「父よ、私たちの心は善良です。私たちは強く、そして勢力もあり、戦いの方法も知って このように率直で誠実なインディアン指導者たちの声を聞いていると、その後現実に起った歴史の経過をのべるだけでも、心の痛みを禁じることができない。 アメリカの"父"は、四年か八年で交替する。いつもインディアンに理解を示す"父"ばかりとは限らないし、実際に"父"の意志のいかんにかかわらず、日常生活ではインディアンにとって悪い鳥ばかりが羽ばたき出していたのである。 それにしても初代ワシントンと三代目ジェファソンは、おそらくそれぞれの個性による点も多かったろうが、なによりも白人とインディアンとの力関係から、インディアンに対してかなりの理解と配慮をもっていた。ところが少し時代が降って七代目のジャクソン大統領になると、"父"自体がインディアンにとってもっとも悪い鳥に変化してしまうのである。それまでにも東南部に住むクリーク国やロミノール国と戦ってさんざん手を焼いたことのあるジャクソンは、一八三〇年にインディアンにとって決定的な強制移住法を制定した。すべてのインディアン国に対して、ミシシッピ川以西の土地に移住することを強制した法律である。 そのころ東南部にはチカソ―、チョタトー、チェロキー、クリーク、セミノールというかなり強大な五つのインディアン国があって、それぞれ定着して農業を営み、チェロキーにいたっては二八年に白人との混血の指導者セコイアが、チェロキー語と英語を並べた週刊新聞『チェロキー・フェニックス』を創刊し、アメリカ政府にならってチェロキー憲法を定め、白人との混血ジョン・ロスが初代大統領に選ばれて、ひたすら白人との共存を願っていた。他のどのインディアン国とくらべても、この五つのインディアン国はそれぞれに安定していたし、白人の標準でみても、もっともよく文明化されていたのである。 しかし、白人の人口はヨーロッパからの移民も加えて急速に増加していた。そのうえ二八年には、森に囲まれたチェロキー国のなかのクロガネで金鉱が発見される。ジャクソンはチェロキー国よりももっと西のテネシー州ナッシュヴィルで弁護士となり、そこを自分の政治活動の拠点としていたので、チェロキーの豊かさは、もう十分に承知していた。そこへ、金鉱が発見されたのだ。二九年に就任したジャクソンはすぐこの問題に取り組み、三〇年には強制移住を法制化する。三三年には議会での演説のなかで、インディアンは劣等な種族だから、やがて消滅するのもやむを得ないとのべ、最高裁長官の反対をも押し切って実施した強制移住を合理化しようとしている。 結局これら五つのインディアン国家は、一八三〇年代にそれぞれ慣れ親しんできた土地を追われ、荒涼としたオクラホマの原野に移住させられる。とくにチェロキーの場合は、三八年十月から三九年三月にかけ、全行程約一、三〇〇キロ、一万数千人のうち四分の一が病気のために死亡するという、まさしく"涙の道"を歩いたのである。 同じ時代の北部では、もう少し早くインディアンが西に追われていた。一八三〇年までには五大湖地方に住んでいたインディアンもあらかたミシシッピ以西に移住を余儀なくされ、そのことに不満をもったブラック・ホークの一部が三二年にイリノイへ戻って抵抗する。この時の戦争にはイリノイに住んでいた二十三歳の青年エブラハム・リンカーンも、同じ村から集まった若者たちの隊長となって参加するが、すでに戦争は終っていて彼は実戦に加わらずにすんだ。 それにしても、一八三〇年代までミシシッピ川以東の地にまだ有力なインディアンの国がいくつも存在していたことは、かなり重要な事実であろう。その頃すでに東北部では、資本主義社会がどんどん発展していた。一八二五年にはエリー運河が開通し、三〇年にはもう最初の鉄道が走っている。チェロキーが"涙の道"を歩いた三八年には、ヨーロッパとの間に蒸気船による最初の定期便運航が決り、またすべての鉄道を郵便が利用するよう議会が承認を与えている。資本主義社会に伴う定期的な不況も一九年、三七年とすでに三回訪れていたのである。 西部に向かう開拓線が北から南へかけて長く引かれ、その東側はすべて白人の世界となり、インディアンはみなその西側に追いやられたように思いこみやすいが、事実はそれほど単純ではなかった。広漠とした北米大陸には、時代と場所によっていろいろな集団が錯綜して存在した。木綿工場を経営して豪華な邸宅に住む産業資本家の生活や、その工場で働いて貧しい家に住む女工たちの生活、ヨーロッパから着いたばかりで英語も分らず、都市のスラム街に落ち着く移民たちの生活、そうかと思うと鞭で追われて綿花畑で汗を流す黒人奴隷の生活、その奴隷を大勢使って農園を経営する人たちの貴族的な生活、さらにたった一間しかない丸太小屋での開拓者の生活、ティーピーとよばれるテントを移動させながらバッファローを資源にした高原インディアンの生活――これらがみな、同じ時間に進行しているのだった。その想像を越えるほどの多様さが、のちのちまでアメリカ社会の特色の一つとなるのである。 2025.06.03 記す
オレゴンとサンタフェへの道 P.54
一八〇〇 この頃までにスペイン人西南部制圧 一八〇六 パイクの探検(ー〇七) 一八〇七 フルトンの蒸気船発明、マヌエル砦建設 一八一一 ハント隊出発、アストリア砦県背Þヴ 一八一二 ミズーリ、州に昇格、メキシコの独立 ” ベックネル、サンタフェへ 一八二二 アシュレイ隊出発 一八二三 モンロー宣言 一八二五 高原の大交易会 一八三五 第二次セミノール戦争(ー四一) 一八二九 軍隊が幌馬車隊を警備 一八三二 ペント砦建設 一八三四 ララミー砦建設 一八四三 ブリッジャー砦建設
ルイスとクラークの探検隊が戻ってきてその成果が報告され、波瀾に満ちた体験や勇気溢れる行為が人びとの口から口へ語り伝えられて、二人がたちまち国民的英雄に祭り上げられた一八〇六年に、ニューヨークの事務所のなかで、その成果をもとにした経済的な可能性を、いち早く追及しはじめた男がいた。ジョン・アスター、すでに名の知られた毛皮貿易の商人である。 ヨーロッパからアメリカへ、彼は二段跳びで移民してきた。ドイツに生まれ、十六歳のときイギリスに渡った。ロンドンの叔父の経営するピアノ製造所で働いていたが、やがて兄が先に移民して働いているニューヨークへ旅立つ。独立戦争が終ってまだ三年目のアメリカは混沌とした国造りの最中で、大西洋岸にできたばかりの新生共和国には、人びとの熱気や野望がみなぎっていた。アスターもこのとき二十一歳。遮るものもない覇気を抱いて、ニューヨークに上陸する。それまでの知識を生かして楽器店を開いてみたが、彼の眼はたちまち儲けの多い他の商売に向けられた。それが毛皮の取引である。 何度も彼はニューヨークから北へ旅をし、インディアンから直接に皮を買うことを覚えたが、その後カナダのモントオールに集まる毛皮を買い、それをロンドンに送り、やがてはニューヨークにも送るようになって、毛皮商人としてその名を知られる存在になった。そこへ、ルイスとクラーク探検隊の成功の知らせが入ったのだ。さらにその翌年には、ロバート・フルトンが作った一六〇トンの蒸気船クラ―モント号が、彼の住むニューヨークからオルバニーまで、黒煙と火花を噴き上げながらハドソン川を約二四〇キロも遡った。オルバニーから彼が仕事のため毎年出かけるモントリオールまで、約三六〇キロである。彼の野心は、むらむらっと湧き上った。 それまで毛皮の宝庫は、五大湖地方からカナダの西部に横たわる寒冷で広大な地方だった。とくにビーヴァーの毛皮はヨーロッパやアメリカのファション界では大歓迎される高級品で、なかでも帽子の素材としては男女ともに争って手に入れたがったものである。成育したビーヴァーは尾まで入れると体長一メートル、体重は二十数キロを越え、水中にもぐり陸上を走って、猟師を悩ませた。ビーヴァー・ダムという言葉があるほど、小川をせきとめて巣を作る習性があり、私もロッキー山脈のなかで一度だけ、小さな枝をいっぱいに集めて水を少しばかり淀ませた彼らの可愛らしいダムを見たことがある。 ところでアスターは、蒸気船が初めて成功した翌年の一八〇八年、まずアメリカ毛皮会社を創立した。それまで毛皮貿易を独占していたのは、フランス領時代の一六七〇年にできたハドソン湾会社だったが、イギリス領になってからの一七八三年、アスターがアメリカへ渡る前の年にノースウェスト会社が創立され、カナダの北西部のビーヴァー・カントリーをめぐって、両者の間に激しい主導権争いがくり返されていた。そこへ今度は、アメリカ人アスターが新たな挑戦者として登場しようというのである。 彼の夢は壮大なものだった。ルイスとクラークの成功を生かして、いきなり太平洋岸のコロンビア川河口に、毛皮の交易所を建設しようというのだ。そこで彼は一八一〇年に太平洋毛皮会社を創立し、トンキン号という船を手に入れて、ニューイングランドのジョナサン・ソーンという船長にすべてを一任した。ニューヨークから南米の南端に近いホーン岬を廻って、海路コロンビア川に到着しようというのである。船長の他三三人の人を雇って、トンキン号は一八一〇年九月に出航した。 すべては順調に進みそうに見えた。しかし破綻は、まったく予想しないところからやってきた。原因はどうやら、ソーン船長の性格にあったようだ。彼は厳格そのもので、駆り集めた船員たちに容赦なく当たり散らした。航海の間、船員たちとのトラブルが絶えず、船長を生かしておけないと公言する者も出てくるほどになった。船長はますます船員との対立を深めて、一八一一年三月にやっとコロンビア川に到着したが、自分に反対する船員たちを小舟に乗せて荒海に追放した。その小舟は見る間に激浪に吞み込まれ、一人残らず溺れ死んでしまったという。 トンキン号に残った一行は、コロンビア川を河口から約一五キロ遡った南岸の地点に砦を建造し、アスターに因んでアストリア砦と名づけた。砦といっても川沿いに林を伐り開いて建てた木造の小さなもので、それでもしばらくは付近のインディアンとの間の交易もうまくいっていたが、ある日ソーン船長が些細なことからインディアンの代表の顔を殴り、決定的な事態に直面してしまった。怒ったインディアンたちは大挙して襲いかかり、生き残った船員もトンキン号の火薬室に火を放って爆沈させたので、せっかくの砦もほとんど壊滅的な打撃を受けることになったのだ。 そうとは知らないアスターは、海路進んだトンキン号の一行に合流させるため、ウイルソン・プライス・ハントという男を雇い、セントルイスで約六十人の隊員を集め、一八一一年の初め、ルイスとクラークの足跡を辿って、陸路太平洋岸めざして出発させた。ハントは荒野の生活に不慣れだったため、一行は途中道に迷い、天候に悩まされ、インディアンに脅え、ついには食糧にも窮して、次つぎに脱落者が出た。マゼランが太平洋を越えるときには船内のネズミも獲り尽し、船の板の二カワまで剥いでスープにしたというが、このときのハントたちは、インディアンに習って鹿の皮で作ったモカシンという履きものさえ食糧にしてやっと生きのびたという。 それでも彼らは約一年たった一八一二年初めにアストリア砦に着いた。一行は気を取り直して砦の再建につとめたが、今度はその年アメリカとイギリスの間に戦争が始まるという思いがけない事態が発生した。この貧弱な砦はいつイギリス海軍の攻撃を受けるか分からないことになり、せっかく建てた砦を一八一三年にとうとう、イギリス領カナダのノースウェスト会社に接収されてしまった。すでにのべたように、一八一二年にはロシアの船がアラスカから南下し、サンフランシスコ湾からわずか一三〇キロ北の海岸にかなり強力なロス砦を築いたので、このままではアメリカが太平洋岸一帯をイギリスとロシアに封鎖されるような形になってしまったのだ。内陸の部分はまだほとんどインディアンの天地だったこの時代に、海路これらのヨーロッパ列強は、早くも太平洋岸の争奪をめざして火花を散らし始めていたのである。 しかしアメリカ人たちのこういう努力が、決して無駄になったわけではない。アストリア砦のロバート・スチュアートは、実状をアスターに知らせるため陸路また東へ戻る途中で、偶然にもロッキー山脈のなかに比較的平坦で越えやすい峠があるのを発見した。ここは東西に分かれる分水嶺の近くなのに、広々とした大高原の趣がある。この峠こそサウス・パスと人びとによばれて、その後オレゴンへ向う幌馬車隊のもっとも安全な通路となったのである。ただし今のワイオミング西南部に当るこのサウス・パスの存在を本当に多くの人びとに知られるのは、それから約十年後の一八二四年、フィツパトリックとプロヴォという二人のマウンテン・マンに再発見されてからのことだった。 一八一〇年代から二〇年代にかけて、ミズーリ川上流地帯やロッキー山脈分水嶺の東西にわたって、かなりこういうマウテン・マンたちが歩き廻っていた。ワナを仕掛けてビーヴァーなどを獲ったり、あるいはインディアンとの交易で毛皮を仕入れたりして生活をした。冒険心に溢れ、山を愛し、そして何よりも彼らは自由を愛した。彼らにとってはセントルイスだえ、もう大都会に見えたのだ。果てしなく広がるロッキーンお山並みのなかに身をおくことが、自分にとってもっともふさわしいと思っていたマンテン・マンは、厳しい天候を物ともしなかった。 しかし、自分一人だけでは生活が不自由である。そこで彼らの多くは、インディアンの女性を妻にした。シャルボノーがサカガウィーアの他にもう一人、インディアンの妻を持っていたように。ふつうインディアンの娘を妻にするためには、馬ならば二頭、ネックレスなどの装身具に使うビーズならば二キロ半くらい、もし相手が首長の娘であったりすれば、二千ドル相当の毛皮を父親に贈らなければならない。さらに花嫁にはトルコ石などを使った装身具や衣服、金属製の料理用具などを贈るのだが、彼女たちは概して夫に従順で、料理の他に夫の衣服を作ったり、移動可能な円錐形のティーピーという住いを、動物の皮や樹皮を蔽って作ったりした。 こういうマウンテン・マンを巧みに使ったのはマヌエル・リサというセントルイスの毛皮交易商で、彼はルイスとクラークが帰還した翌年の一八〇七年にはルートを辿ってミズーリを遡り、ずっと上流にあるビグホーン川の合流点にマヌエル砦を築き、ここを交易の拠点として成功した。彼に雇われたジョン・コルターはルイスとクラーク探検隊に参加した体験を生かしてリサの探検隊を案内している。彼は単独でワイオミングの奥地に入り、臭いの強い硫黄泉を発見した。そのとき彼は、現在のイェロストン国立公園に当たる地域へ入っていたのである。 少し時代が下って一八二二年には、ウイリアム・アシュレイという毛皮交易商が、やはりミズーリ川を遡る探検隊を募集した。この一行のなかには、マウンテン・マンとしてすでに有名な、あるいは後に有名になるような人たちが何人も参加していた。アシュレイに次いで指揮をとったジュデディア・スミスの他に、トマス・フィツパトリック、ジム・ブリッジャー、ウィりアム・サブレット、ジェームズ・クライマンなどがそうである。一行のうちスミスが率いる一隊はワイオミング大高原一帯を厳しい天候のなかで探検し、のちにオレゴンへの道を開くのに重要な情報を提供することになった。 このうち、ジム・ブリッジャーはとくに典型的なマウンテン・マンといわれている。長身で、眼が鋭く、インディアンの生活に慣れて、荒野での生活を身につけていた。一八二四年に、ロッキーの分水嶺を越えた西側の川でビーヴァーを獲るワナを仕掛けたとき、その川の流れつく先を調べて、大きく広がる水面に辿りついた。その水がひどく塩辛いことに気がついた彼は大声をあげ、太平洋へ通じる入江を発見したのだと思った。それがソルトレークだったのである。 ジム・ブリッジャーはインディアンの妻を三人持っていたが、みな若いうちに死に別れた。そのため彼には孤独な翳がとくに色濃くつきまとっている。やがて西へ向かう人たちの数が増えるようになると、ガイドの役目を果たして喜ばれたが、一八四三年にはブリッジャー砦をつくり、移住者たちに物資を商ったり、道を教えたりするようになった。この砦の跡は現在ワイオミングの西南端にあり、私は車でその近くを走っただけであるが、いかにもロッキーを通り抜けるのに好都合の、視野のひらけた要点である。 こういうマウンテン・マンたちが集って、毛皮や日用品を交易する会合が、ワイミング大高原のグリーン川で、一八二五年に初めて開かれた。先にのべたアシュレイの一隊が初めから計画していたもので、彼らはマウンテン・マンから毛皮を買い、交換に日用品を与えれば、双方にとって好都合と考えたのだ。そのため砂糖、タバコ、コーヒー、弾薬、ナイフ、鉄棒など、マウンテン・マンの必要としそうな物資をたくさん馬に載せていったのだが、彼らの要求を聞いて、二回目からはこれにラム酒を加えるようになった。 とにかく、この交易会は大成功だった。一八二五年十月付の『ミズーリ・アドヴォケイト』紙は次のように書いている。 「市民の皆さん、アシュレイ氏一行はロッキー山脈への冒険に満ちた計画を終え、い こういう場合、とくに西部では話が大きくなりがちである。実際にはこの時の旅も非常に苦しいもので、同行したベックワースという男は、こう書き残しているほどである。 「一行はよく家や友達の話をして、もうこれで会えないのかもしれない、などといい合い それから十五年間、この交易会は毎年行われた。あまりにも儲けが多かったからである。セントルイスで買い入れた値段の、約二十倍で売れたという。次にあげるのは、二つの場所の値段の差である。 セントルイスの値段 マウンテン値段 アルコール 一ガロン 一五セント 一パインと 五ドル(八分の一ガロン) コーヒー 一ポンド 一五セント 一ポンド 二ドル 砂 糖 一ポンド 九ー一三セント 一ポンド 二ドル 衣服生地 一ヤード 一四セント 一ヤード 一〇ドル 小麦粉 一ポンド 二ー三セント 一ポンド 二ドル 鉛の弾丸 一ポンド 六セント 一ポンド 二ドル 火薬 一ポンド 七セント 一ポンド 二ドル この交易会にあつまってくるマウンテン・マンの数には限度があり、実際にはかなり遠方から多くのインディアンたちが毛皮を持ってこの会合に参加した。彼らが毛皮の代りに欲しがったのは、ビーズ、手斧、釜や湯沸かしの類、それにアルコールなどだったという。 回を重ねるにつれてこの会合はしだいに周辺に噂が広まった。ただ品物を交換するだけではなく、娯楽の少ないマウンテン・マンにとって、首を長くして待つような機会になってくる。陽気に飲んで騒いだり取っ組みあいをしたり、ダンスをしたり、競馬に打ち興じたり、ギャンブルに夢中になったり……。 盛んにこの交易会が行われていた頃の一八三四年、ワイオミング大高原にさしかかる少し手前のノースプラッド川のほとりに、アシュレイの隊員の一員だったウィリアム・サブレットが、交易や宿場を兼ねた砦をつくり上げた。これが後のちまで西部へ向かう人びとにその名を知られたララミー砦である。 こうして一八三〇年代の終りまでに、セントルイスからオレゴンへ向かう道はほぼ定まったといっていい。セントルイスからミズーリ川を遡り、このあたりはまだ草木豊かな草原地帯である。やがて西から流れてくるプラッド川に出合うので、この川に沿って上流に進んでゆく。幅は広いが浅くて渡りやすい川である。次第に草木が少なくなり、せいぜい灌木が茂るくらいの高原地帯に入り、川はノースとサウスの二つの流れに分かれる。サウスを辿れば現在のデンヴァー周辺でロッキー山脈にぶつかるが、ジェームズ・ミッチェナーの小説『センテニアル』は、このサウスプタット川のほとりの架空の町を舞台にした物語である。 一方ノースプラット川を遡ると、文字通り煙突が荒野に一本天を衝くように立つチムニー・ロックが見えてくる。さらに進んだ所にララミー砦があり、ここはもう標高およそ一、四〇〇メートル低い山は見えるが、デンヴァー西方に並んでいるようないかめしい岩山は見当たらない。さらに川に沿って西進し、ワイオミング大高原を横切った所に、サウス・パス標高二、四七五メートルの地点がある。馬車で越えられるロッキー山脈中の一番楽な峠であろう。私はロッキー山中のもっとも険しい部分を何回かにわたって車で越えてみたけれども、峠自体の高さが三、六〇〇メートルを越えるような場所がいくつもあって、こういう峠を十九世紀に馬車で越えるのはとうてい不可能と思った。 サウス・パスからブリジャー砦へ南下し、ここでさらに山並みを越えると、あとはスネーク川の上流に出る。ここから西北に川に沿って進めば望むコロンビア川に出られるのだが、スネーク川は深くてしかも曲りくねって走っていて、文字通り気持のいい川ではない。私はこの川に沿って車を走らせたとき、周囲の景色も荒涼としていて、何度となく薄気味の悪い思いがした。しかしコロンビア川に出てしまえば、あとはもう一息、この川がオレゴンまで運んでくれるのである。 こうして西北の方向にオレゴン・トレイルが人びとに知られるようになった頃、西南の方向にもまた人びとを惹きつける道が開けはじめていた。それがサンタフェ・トレイルである。 今まで東から西へ進む人の流れを描いてきたけれども、実はそれよりずっと早い時期に、南から北へ進む流れがあったことをまず書いておかなければならない。同じヨーロッパ人でも、それはスペイン人だった。コルテスのメキシコ征服が始まったのは一五一九年だから、他のヨーロッパ諸国に対して比較にならないほど早い。イスパニョラ島がかなり早くスぺイン人の注目を惹かなくなったのは、彼らが大陸の方に全力をあげ始めたからである。中米から南米へかけての太平洋岸を征服したスペインは、北米の方向に眼を向けるようになり、十六世紀には何組かの探検隊が派遣された。そして一五六五年にはフロリダの東海岸にセントオーガスティンという町をつくり、一六一〇年にはロッキー山脈の南端、標高二、二八〇メートルの荒野にサンタフェという町を建設する。 周囲の景色こそあらあらしいが、「一六一〇年建設」と刻んだ小さな礎石のあるプラザの周囲を、アドべという日焼きレンガで作った建物がとり囲んでいる風景は、ひとつの文化を代表するだけの魅力をもっている。ちょうど日本の雪国の歩道の上に雪を防ぐための庇が出ているように、ここでは強烈な日射しをよけるための屋根が歩道の上を蔽っていて、その下で人びとは持ってきた品物を並べて売るのである。スペイン人とインディアンは、こうして共存の生活を楽しんでいた。よそから見ればこのサンタフェの町は、早くからできた砂漠のなかの宝石のような存在だったのである。 ※参考:サンタフェとは、アメリカ合衆国ニューメキシコ州の州都で、歴史と文化、自然が融合した魅力的な都市です。スペイン語で「聖なる信仰」を意味し、アメリカ最古の都市の一つであり、標高も高い州都としても知られています。 その上この地方に住んでいたインディアンたちは、古くからかなり高い文化を持っていた。十三世紀後半にこの西北に当る地方が異常乾燥に襲われるまで、インディアンたちが台地の断崖をくり抜いて作った集合住宅は、現在残っているものだけを見ても、まったく見事という他はない。たとえばコロラドの西南端にあるメサ・ヴェルデには、荒野のなかに七〇〇メートルもの高さで表面の平らな台地が広い範囲に立っていて、その絶壁を利用してテラスや通路や物見の塔まで配した立体的な構成の集合住宅、あるいは城塞といってもいいかもしれないものが、あちらこちらに残っているのだ。クリフ・パレス(断崖宮殿)という名に恥じない魅力的な遺跡で、原住アメリカ人の文化の高さを遺憾なく物語っているといえるだろう。 しかしこの地方にスパインの勢力がそれ以上に広まらなかったのは、なんといっても本国がそれほど大きくはないし、それにしてはすでに中南米やカリブ海に広すぎるほどの植民地を抱えこんでいたからである。その上、北米の方へ伸びていこうとしても、その土地の大半は砂漠と荒野の果てしない連なりであり、何度か黄金郷を求めて出発した探検隊も、飢えと戦いながらセイジブラシュという灌木とサボテンだけの荒野をさまよって帰るだけだった。 しかしながらスペイン人たちが、はるか遠くの大西洋岸で独立戦争が行われる前後の時代に、太平洋岸を支配しようとしてみせた執念は大変なものである。一七六九年にまずサンディエゴの崖の上にミッションを建てた。ミッションというのは伝道、交易、砦など多様な目的のために作られた建物で、それか十八世紀末までの約三十年間の間に、サンフランシスコを最北端ににして、カルフォルニアの南半分にわたる海岸に十九カ所ものミッションを建ててしまうのである。強烈な陽光を浴びて聳えるこれらの壮麗なミッションは、スペインの威光を示すのに十分な力をもっていた。 それだけではない。一七七五年にファン・パウティスタ・アンサを隊長とする二四〇人もの探検隊が、一千頭もの家畜を従え、陸路北上してサンフランシスコ湾をめざした。目的地に到着したのは、アメリカ独立宣言が行われる少し前の一七七六年三月のことである。こうして十九世紀を迎えた時は、現在のテキサス、ニューメキシコ、アリゾナの全部、さらにコロラド、ユタ、ネヴァダ、カルフォルニアの南半分か三分の一くらいにわたる広大な土地が、すでにスペインの勢力下に入っていた。地名がはっきりと今でもそのことを物語っている。サンフランシスコとロスアンゼルスはいうまでもないが、ネヴァダのラスヴェガス、コロラドのトリニダッド、みなスペイン語の地名である。 それにしても、アメリカがフランスから購入したルイジアナと、スペインの勢力圏の境界線はあまりにも漠然としていた。そこで、ルイスとクラークを西北に派遣したジェファソン大統領が、同じ未知の土地西南の方向に手を拱いているはずがなかった。ルイスとクラークが出発したのと同じ一八〇四年に、ジェファソンはジョージ・ハンターとウィリアム・ダンバーという二人の科学者を、一八〇六年には測量技師として豊かな才能をもっていたトマス・フリーマンを派遣したが、インディアンやスペインの軍隊に追い返されて、ほとんど成果をあげることができなかった。 一八〇六年にはミシシッピ本流の水源を探検してきたばかりのゼビュロン・パイク中尉が、二二人の部下を連れて出発する。西南部にはロッキー山脈から流れ出して東南に向かうアーカンザス川とレッド川が、やがてはともにミシシッピ下流に注いでいる。それよりさらに南を流れる川は、すべて直接メキシコ湾に入っている。この探検の目的は、このうちレッド川の上流地方を調査することにあった。 一行は途中でポーニー国を通り、この地方の所有がアメリカに移ったことを告げ、さらに西に進んでロッキー山脈が屏風のように立ちはだかるのを見たとき、ひときわ巨大な山塊が前方に横たわっているのを知った。堂々とした山容だった。中尉は心を打たれて登りはじめ、この山に自分の名前をつけた。パイクス・ピーク、四、六二九メートルである。ロッキー山脈にはこれより少し高い山が他にもいくつもあるが、高原からいきなり見上げるような位置にあるので、近寄る人びとに一種の感銘を与えるのであろう。 ※参考:パイクス・ピーク(Pikes Peak)とは、北アメリカ大陸はロッキー山脈内にある山の一つ。もっとも有名なアメリカの山頂の1つであり、コロラド州東部の主要都市であるコロラド・スプリングスが山麓に位置する。1806年に探検家のゼブロン・パイク(Zebulon Pike)によって紹介された為にPike’s Peak (パイクの頂)と名づけられた。山麓には炭酸泉が多数あり、飲泉が結核に効くとされたことから、19世紀にはマニトウ・スプリングスなどの保養地ができ始めた。 この地でモータースポーツの著名なレースの一つである「パイクス・ピーク・インターナショナル・ヒルクライム」が行われることで知られる。 マニトウ・スプリングスから頂上までは、1890年に開業したパイクス・ピーク・コグ鉄道(英語版)というディーゼルカーの鉄道が通っている。コグ(Cog)とは歯車の意味で、2本のレールの間に設置されたラックレールに車両側の歯車を噛み合わせて勾配を上る、ラック式鉄道という種類の山岳鉄道である。「世界一高い登山鉄道」と言われ、頂上までの道のり約14キロメートルを1時間15分ほどかけて登って行く。 パイクはその後厳しい真冬の天候に耐えて苦しい旅を続けている最中、スペインの軍隊に捕らえられてサンタフェへ連行された。さらにスペイン領深く送られ、一八〇七年夏にやっと帰還することができたが、この時の見聞で西南部地方を"大アメリカ砂漠地帯"と表現したので、一時人びとの関心がもっと北のオレゴン地方に余計向けられることになったのは事実である。 もちろんその後も個人的に西南部のインディアンとの交易をしていた者もいたが、かなり大規模な探検隊は一八二〇年になってスティーヴン・ロング大佐によって行われた。彼は調査のために学者を何人も同行して成功を期したが、アーカンザス川上流のロイヤル・ゴージにさしかかって、大自然の恐ろしさに直面した。底が覗けないほどの渓谷が刻まれ、それが延々と連なっているのだ。私もこの地点に立ってみたことがある。今は吊り橋がかかっていて、その高さは世界最高の三四五メートル、東京タワーがすっぽりとその底に沈んでしまう。私は思わずぞっとして、これこそ大地に印された悪魔の爪跡ではないかと思ったほどである。 ※参考:ロイヤルゴージ(Royal Gorge)は、アメリカ合衆国コロラド州キャニオンシティの西に位置するアーカンソー川の峡谷である。 この峡谷はキャニオンシティ中心部から西に約2マイル (3.2 km) のグレープクリークの河口から始まり、西北西方向に約6マイル (9.7 km) 続き、アメリカ国道50号線付近で終わる。コロラド州で最も深い峡谷の一つであり、アーカンソー(川)のグランドキャニオンとも呼ばれ、最大深度は1,250フィート(380 m)である。峡谷の幅も非常に狭く、麓の幅50フィート (15 m) から頂上の幅300フィート (91 m) まで、北と南の縁にそびえるフリーモントピークとYMCAマウンテンの下部の花崗岩層を通るルートが削られている。 ロング大佐の一行はそれからもインディアンに脅かされたり、食糧が欠乏したりして、ほとんど成果をあげられなかったが、わずか一年違いで、一八二一年に出発したウィリアム・ペクネルは大成功をおさめている。この年はミズーリがミシシッピ川以西の最初の州として連邦に加入し、セントルイスはもう大きな建物の並ぶ都会になり始めた。西部への出発点も少し西へ移動して、ペックネルはミズーリを少し遡ったフランクリンという小さな村から、何頭もの馬に荷物を積んで西南の方向に向った。アーカンザス川をはるかに越え、その支流カナディアン川にさしかかって、ぱったり騎兵隊と遭遇する。いつのまにかスペイン領に入っていたのだ。彼は逮捕されるものと観念した。 ところが兵士たちは、思いがけないことをベックネルに告げたのである。スペインから独立してメキシコになったんだ、もう心配はいらないぞ――と。はたしてサンタフェへ着いてみると、町の人たちは声をあげてベックネル一行を歓迎した。おかげで彼はこのとき千ドルで仕入れてきた商品を売って一万五千ドルを手に入れた。十五倍の利益である。 ベックネルは翌二二年もまた、サンタフェへやってきた。今度は馬の背に荷物を積んだりせず、幌馬車三台に荷物を満載し、途中で今までよりずっと南寄りのコースをとった。今まではミズーリ川沿いの町インディペンデンスから西南西の方向に進み、アーカンザス川に出会うと後はしばらく川沿いに西進し、現在コロラドの東南部にあるラフンタに着く。そこから西南に方向を変えてトリニダッドに行き、あとはロッキー山脈の東麓に沿って南下するのだが、標高二、五七〇メートルのラトン・パスを通らなければならない。私は坦々としたハイウェイをのぼりつめて難なくこの峠を越えるこたができたけれども、当時は岩山の切り立った崖に馬車を通す道を探さなければならず、この峠を越えるだけで何台もの馬車が壊れてしまったという。 この峠を越えればあとはロッキー山脈の麓を南下してサンタフェに着けるのだが、ベックネルはアーガンザス川に沿って進まず、そのまま西南の方向に進んで、サンタフェの少し手前でロッキー山脈にぶっかるコースをとった。実は十日間も早く目的地に着いてので、他の人びとはこのコースを"シマロンの近道"とよび、ベックネルは"サンタフェ・トレイルの父"という敬称を捧げられることになる。しかしこれは決して安全な近道ではなかった。水のない半砂漠の荒野を辿らなければならないし、インディアンのいくつかの国土を通り抜けるとき、トラブルもたくさん起り、かなり多くの犠牲者も出すことになったからである。 それにしても北寄りのサンタフェ・トレイルは、インディペンデンスからサンタフェまで一、三五〇キロ、これを幌馬車で平均七十二日かけて旅をした。シマロンの近道を通ると約一、二五〇キロ、平均六十二日である。北寄りを通れば水の心配やインディアンとのトラブルは少ないが、険しい峠があって十日間余計にかかる。南寄りの近道を通れば十日も早く着くのだが、途中には厳しい荒野とインディアンが待っている。この二つのサンタフェへの道を、時には神に祈るような気持で、時にはギャンブルに運命を賭けるような気持で、人びとは選ばなければならないのだった。 一八二三年にモンロー宣言が出された頃から、それまでヨーロッパへ向いていた関心が、今までより一層西の方へ集中するようになった。ミズーリ選出のトマス・ハート・ペントン上院議員は、一八二五年にサンタフェ・トレイル調査のための法案を提出する。議会は調査費一万ドル、インディアンおの交渉費二万ドルを承認、オセージ国とカンザス国のインディアンはそれぞれ現金八〇〇ドルと引きかえに幌馬車隊の安全を保障し、よくその条約を守った。しかし西南部には他にカイオワ、ポーニー4,ジャイアン、コマンチなどの国の勢力圏があり、これらのインディアンとは条約がむすばれていない。そのため一八三一年には、西部一帯に名を馳せたジュデディア・スミスが、シマロン川のほとりでコマンチの戦士に襲われ、三十二歳の若さで殺されている。、 ※参考:モンロー宣言(モンロー教書、モンロー主義)とは、1823年にアメリカ合衆国大統領ジェイムズ・モンローが、ヨーロッパ諸国に対して、アメリカ大陸への干渉を許さないとの外交政策を宣言したものです。アメリカが西半球における優位性を確立し、ヨーロッパ諸国によるアメリカ大陸への干渉を拒否することを目的としました。 正式の軍隊に幌馬車の警護を命じたのは、一八二九年に就任したばかりのジャクソン大統領で、このためベネット・ライリー少佐の率いる歩兵隊は武器を載せた馬車を牛に牽かせて、サンタフェ・トレイルの警備についた。さらに一八三三年には、ウイリアム・ウィックリフ大尉の第六歩兵隊と、マシュー・ダンカ大尉の騎馬レインジャー部隊が、サンタフェへ向かう幌馬車隊の護衛にあたった。その前年チャールズ・ベントの兄弟は、北寄りのコース、アーカザンス川のほとりに砦をつくって交易所とした。弟のウイリアムはシャイアンの首長サンダー・クラウドの娘を妻としていたので、インディアンの間からも信用されていたのである。この砦は初めウイリアム砦とよばれ、後にペント砦と改名された。 この砦は日焼きレンガで外を囲い、内には売店や部屋が二十五もあって、アメリカの旗が掲げられていた。おそらくサンタフェ・トレイルを最初に通ったアメリカ女性と思われる当時十八歳のスーザン・マゴフィンは、できたばかりのこの砦を、「メキシコ・スタイルの古代の城塞」のようだといい、広間の様子を次のように書いている。 「椅子はひとつもなく、両側の壁に近く座ぶとんがあるだけでした。だから集りは、車座になって行われました。テーブルひとつの他に家具らしいものは何もなく、そのテーブルの上に誰でも自由に飲めるように、バケツに水が入っていました。飲み残したコップの水は、無雑作に床へ捨ててしまうのでした。」 長い冬の間は、猟師たちがこの広間に集まって、歌や踊りやギャンブルに打ち興じた。彼らは自分の名前さえ書けなかったのに、シェクスピアだけは断片的に暗誦できる者がいて、人びとの人気者になったという。使い古したバイオリンを持っている者がいれば、皆そのまわりに集まって一緒に歌った。
オレは牛牽き 故郷は遠い オレが嫌なら 放ってくれ ハラが空いてりゃ オレのを食べな ノドが乾きゃ オレのを飲めよ 牛を追い 罵りつづけ そのうち倒れて くたばるまでさ
交易のための荷物を馬車に積んで、牛に牽かせる男たちの歌だが、カウボーイという別のスタイルの牛追いが登場するのは、それから約三十年も後のことであった。 2025.06.07 記す
"さあ行こう、大西部へ" P.77
一八三〇 モルモン教会設立 一八三六 アラモの戦い、メキシコ共和国独立 一八三七 経済恐慌、西部移住熱高まる ” メキシコ共和国を承認 一八四二 オレゴン移住熱高まる 一八四四 ポーク大統領当選 一八四五 「明白な天命」説、テキサス共和国合併 一八四六 メキシコ戦争(ー四八)、米英間にオレゴン協定 ” ドナー隊の遭難(ー四七) 一八四七 モルモン教徒ソルトレーク・シティをつくる
「大統領閣下、私はテキサス各地を八〇〇キロ近くも歩き廻ってまいりましたが、今はっ これは一八三三年二月十三日付で、ジャクソン大統領に宛てて書いたサム・ヒューストンの手紙である。 サム・ヒューストン、現在もテキサス最大の都市に名を残しているこの男は、四十歳になるその年まで、すでに数奇な運命を生きてきていた。父は独立戦争に従軍した陸軍の将校で、彼が十三歳のとき九人の子供を残して死んでいる。一家はテネシーに移り、イギリス軍やクリーク国インディアンと戦って負傷し、それから一七年まで軍隊に留まって、チェロキー国との交渉に当たった。その後退役してナッシュヴィルに住み、法律を学んで頭角を現わした。 それまで学校には一年余りしか行かなかったのに、早口で熱っぽい話し方をするヒューストンは、一八二三年テネシー選出民主党の下院議員となり、二期四年を務めた後、二七年にはテネシー州知事に選ばれる。彼はかつてチェロキーの女性と一緒に住んでいたことがあり、二九年にはエライザ・アレンという女性と結婚するが、わずか三カ月たらずで別れている。このことについて彼はほとんど何も語らず、まもなく知事を辞任する。テネシー中が彼の噂でもちきりになるなかを、インディアンが住むアーカンソー准州に移住した。現在はオクラホマになっているギブソン砦の近くで、すばらしいインディアン女性と結婚する。式はすべてチェロキーの習慣に従って行われた。後に"涙の道"を歩いた人々よりも、早くこの地に移住していたインディアンたちがかなりいたのである。この女性はティアナ・ロジャーズといい、二十世紀の喜劇スター、ウィル・ロジャーズの傍系の祖先に当たっている。 インディアンの生活にそれほど融けこんでいたヒューストンは、彼らが土地を徐々に奪われていくことを深く心配していた。そういうこともあって、彼は三二年にワシントンを訪ねたとき、オハイオ選出のウィアム・スタンぺり下院議員を殴打しし、侮辱罪に問われるような事件を起している。テキサス各地を廻ってジャクソン大統領に手紙を出したのはその翌年のことで、彼は旧知のジャクソンから依頼を受け、インディアンと条約を結ぶために派遣されたのだった。 当時テキサスの広大な土地は独立してから十年余りしかたっていないメキシコのもので、メキシコにとっても中心からあまりに遠い辺境の地である。ヒューストンがこのような手紙を書いたのは、アメリカの開拓者がどんどんこのテキサスにいりこんでいたからで、場所によってはメキシコ人よりも多いほどになっていたのだ。その代表的な人物を一人あげれば、これもテキサスの都市にその名を残すスティーヴン・オースティンであろう。彼は父がメキシコ政府から承認された権利を受け継いで、一八二三年に三〇〇世帯ものアメリカ人家族を連れて移住したのである。アメリカ人はその後十年ばかりのうちに二万人前後にまで膨張していた。 ヒューストンがジャクソンに手紙を書いた翌年、メキシコに政変が起って、サンタ・アナの独裁政権が誕生した。テキサスに入りこんで生活しているアメリカ人で、ヒューストンのように野心に燃えた者にとっては、この政変が天来の好機だと思われた。彼らは結束して自治権を求め、メキシコ守備隊を追放して立ち上がった。メキシコ政府からみれば、入植を認めてやった隣国のアメリカ人が反乱を起したことになる。 この反乱に際してヒューストンは、ひそかにアメリカ政府の内諾を得ていた。彼は独立軍の司令官となり、一八六三年の秋から独立運動をおしすすめた。激怒したサンタ・アナは、約四千人のメキシコ兵を率いて北上し、リオ・グランデを渡ってサンアントニオに殺到する。ヒューストンはサンアントニオを守備していたトラヴィス大佐に撤退するよに命じたが、大佐は応援に来ていたデイヴィ・クロケットなどと一緒に、くすんだ色の古いスペイン時代のミッションを砦に立てこもった。これがアラモのミッションである。サンアントニオの
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