人生への「問い」をもて 学問の師は複数かも知れないが、魂の師は一人である。 原理原則を教えてもらう師は求めなければ得られぬ。しかし、求めたからといっても、必ずしも得られるとは限らない。そこには邂逅による「奇しき縁」としか説明できない何かがある。 邂逅には条件がある。必ず、人生についての「問い」をもっていることである。 この人生をいかに生くべきか、という決して簡単には解決できない「問い」を胸中深く秘めての邂逅だからこそ一筋の貫くものがあるだろうし、それが相手にひびくのである。 重ねていう。「問い」をもたぬ邂逅は単なる社交にすぎない。 親鸞(浄土真宗の開山『教行信証』の著者)は師の法然(浄土宗の開山)との出会いを「遭い難くして、今、遭うことを得たり。聞き難くして、今、聞くことを得たり」と表現したが、生涯のどの時期でもいい、自分がさまざまに思い迷っていたとき「その人に逢えてよかった」「その人に逢うことによって開眼せしめられた」という喜びを抱いている人は大勢いることだろう。 人生は所詮、邂逅と別離とに要約されるが、邂逅によって与えられた一筋の光明が人間形成に決定的な影響を与える。まして、生涯の師を得た場合においておやだ。 フランス軍のベルリン侵入という国家的危機に立ち上がり、「ドイツ国民に告ぐ」とう演説で有名な哲学者フィヒテ(1762~1814)は、若いころ、ライプチヒ大学で神学を専攻したものの、牧師にもなれず、小説を書いたがものにならず、家庭教師の口すらもないひどい状態にあった。 そんなとき、ある大学生からカント(1724~1804)の『純粋理性批判』への解説を頼まれたのがきっかけとなり、カント哲学に共鳴したフィヒテは、やがてケー二ヒスベルクにこの碩学を訪れた。 ところが、この無名の貧書生に対するカントの扱いは意外に冷たかった。 発憤したフィヒテは、四週間、不眠不休で大論文を書きあげ、それに次のような手紙を添えて送った。 「尊敬すべき哲学者をお訪ねするのに、その資格があるかどうかをも考えずに、突然うかがいましたことは、まことに失礼でございました。それで私は、自分で自分の紹介状とするために、この論文を書きました」 その論文を読んで、すっかり感銘したカントは、改めてフイヒテを招き、それがフィヒテの学者への道を開いたのであった。 老子ヲ見ルニ竜ノ若シ カントの冷たいあしらいを怒らず、自分の無資格を反省して発憤したところに、フイヒテの偉大さがあるが、『十八史略』にでてくる老子と孔子との邂逅も、それに似ている。 孔子、焉ニ問ウ。老子、之ニ告ゲテ曰ク「良買ㇵ深ク蔵メテ、虚ナルガ若ク、君子ㇵ盛徳アリテ、容貌、愚ナルガ若シ。子ノ驕気ト多欲ト態色ト淫志トヲ去ㇾ。是ㇾ皆、子ノ身ニ益ナシ」ト。 孔子去リテ弟子ニ謂イテ曰ク「鳥ハ吾、其ノ能ク飛ブヲ知ル、魚ハ吾、其ノ能ク遊グヲ知ル。獣ハ吾、其ノ能ク走ルヲ知ル。走ル者ハ以テ網ヲ為スべク、遊グ者ハ綸ヲ為スべク、飛ブ者ハ以テ矰ヲ為スべシ。竜ニ至リテハ、吾ㇵ知ルコト能ワズ、其ㇾ風雲ニ乗ジテ天ニ上ラㇺ。今、老子ヲ見ルニ、其ㇾ猶、竜ノ若キカ」ト。 孔子があるとき、老子に「礼」についてたずねると、「本当に実力のある商人というものは、いい品物ほど奥深く蔵いこんで、店先には並べたてぬものだから、ちょっと見には、いっこうに品物がないみたいに思える。同様に君子も、立派にな学徳をそなえた人物ほど、キラキラしたものを表面にあらわさないから、一見、愚そのものに見える。孔子よ、お前さんもそうならなければいけない。
まず驕気と多欲と態色と淫志の四つをとりなさい」と厳しく忠告を与えた。
いかに先輩とはいえ、これだけ頭ごなしにやっつけられたら、ㇺッときそうなものだが、孔子は直言を虚心に聞いたばかりか、老子を竜にたとえて、「端倪すべからざる人物」と心の底から舌をまいている。拒絶反応ゼロというところが孔子の偉さであろう。
このやりとりから判断すると、若き日の孔子は才気煥発で、かなり癖のあった人物と思われる。それが修養を積み重ねるにしたがって、あの『論語』にみられる人生の達人に成長していったのである。
河井継之助と山頭火
カントフイヒテ、老子と孔子とは見事に歯車が噛みあって、すばらしい師弟関係となったが、両方ともすぐれた人物でありながら、どうにも縁が結ばれぬ場合もある。
幕末という「たぎった」時代に輩出した「たぎった人物」、佐久間象山と河合継之助との邂逅がそれであっった。
佐久間象山は『言志四録』で名高い佐藤一斎から朱子学を学んだうえに洋学にも通じ、勝海舟や吉田松陰、坂本竜馬などに兵学や砲術を教えた偉材だし、河合継之助もまた、越後長岡藩のわずかな手数で、官軍五万をさんざん悩ました豪傑である。
その河合継之助が、たまたま、佐久間象山から洋式銃の操作を教えてもらうことになり、庭に出て銃をとろうとすると、佐久間が其の手を押しとどめていった。
「残念ながら、足下には、まだ資格がない。まず、蘭学を学び、ついで、機能を窮理し、しかる後に銃を撃て」
継之助は、象山が不世出の天才であり、かつ学者として、これほど巨きな存在はないと思ってはいたが、しかし、その尊大さが、どうにも鼻もちならなかった。
象山は自分を尊大に演じようとするあまり、たかが洋式鉄砲一つ撃つのに、まず、蘭語を学べ、機能を窮理しろ、それくらい学問を積まなければ、これを撃つてはなぬ、というのである。
「そういうへりくつをこねるヘソの曲りぐあいが気に入らぬ」とハラをたてた継之助は象山から離れてしまった。そして、象山と同じ佐藤一斎の門弟だった山田方谷を師と仰いだ。
もう一つ、これほど激しくはないが、縁を痛切に考えさせられたのは俳人の種田山頭火である。
山頭火が出家したのは、大正十四年三月、四十四歳だった。得度の師は熊本報恩寺の望月義庵である。
そのころ、熊本には一代の傑僧、沢木興道がおり、山頭火も訪れてはいるが、弟子にはならなかった。
沢木興道は、自分自身がどうしようもない性格や環境にありながら、すさまじい意志力で、これを克服していった禅僧である。それだけに楔型、直進型の行動人で、知識人やエリートの弟子が圧倒的に多かった。できそこないやコンマ以下の人間にはついていけなかったのであろう。もちろん、ぐうたらの山頭火など這い入る余地もない。
とうとう人生に絶望し、自分自身に愛想をつかした山頭火は、ついに泥酔し、直進してくる市電に大手をひろげて立ちはだかり、そのままとび込んだ。
市電が急停車し、将棋倒しになった乗客から袋だだきになろうとしたのを、友人が何とかとりつくろってひきずりだし、報恩寺へ連れてきてくれた。
義庵和尚は、そいう山頭火に理由を問わず、名も聞かず、咎めもせずに泊めてくれ、食を給してくれた。その絶対受動性そのものの温かさに、激しく打ちのめされた山頭火は間もなく、すべてを捨てきって報恩寺に入り掃除、坐禅、看経に明け暮れるようになった。
〽分け入っても分け入っても青い山〽
われわれが千万言ついやしても表現できない想いをさらりと十七文字の短詩型のなかに歌ってのける山頭火の句は、こういう曲析を経た心の襞から滲みでたものである。
★参考:山頭火の生涯
引用:伊藤 肇『現代の帝王学』(講談社文庫)P.70~75
平成二十九年一月十九日
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