目 次
▼『万葉の人びと』 犬養孝(PHP)
現代に生きる万葉のこころ P.9
皆さん、これから三十七回ににわたって゛万葉の人びと゛ということでお話したいと思います。歌のよみ方の異同だとか、言葉の解釈など、細かい点まで触れることはできませんが、皆さんと共に万葉の世界を楽しく探ってみたいと思います。 皆さんは、学校で『万葉集』を習われますでしょう。何しろ『万葉集』は、およそ千三百年前の歌、一番古い歌集ですから、学校で、日本人の教養としても知っておかなければならないから習う、とお思いになるかも知れない。その通りだとだと思います。しかし『万葉集』は、ただ古いから勉強するというだけではありません。万葉の歌は今日も生きているんですよ。千三百年前の一番古い歌が一番新しく、現代人の心に生きてくるんです。 一つだけそ証拠を挙げましょう。 私が大阪大学におりましたときに、学生を連れて、『万葉集』にうたわれた故地を歩きました。その回数、百二十回。参加した学生役二万人。正確に言いますと一万八千五百十四人です。その人たちが、現地に行って、 「先生、すばらしいですねぇ。人麻呂の心ってすごいですねぇ。万葉びとって詩人ですね」 と言って感激するんです。その感激がもう、忘れられない。出席などなにも取らないのに、そんなに大勢来るんです。私はそれだけで万葉の心が今日も生きているいる一つのいい証拠になると思うんです。 では『万葉集』を生きた形で理解しようとするにはどうしたらいいでしょうか。 一つは万葉の時代は、たいへん古い時代ですね。一番新しい歌でも、天平宝宇三年、西暦七五九年に詠まれたものです。そうすると、今から千二百余年前でしょ。そうした古い時代ですから、その歴史の中に置いてみないと万葉の歌は理解できません。歌が生きてこないんです。 たとえば、『万葉集』四千五百余首の中には恋の歌がとても多いんです。どうしてそんなに多いのでしょうか。それは、今とは結婚生活が全然違うからです。今日は、たいがいつきあって、結婚式をあげて新婚旅行に行き、そしてアパートなどにいるでしょ。すると年中一緒にいるから、恋いしいのなんのって言っていられないでしょう。もう脇で赤ちゃんが泣いたりすると。ところが万葉時代は、夫婦は相当長い間別居なんです。ゆくゆく一緒になりますけれど。そういう別居だということを知れば、なるほど両方でもって恋し合うことの多いのもよくわかることでしょう。 『万葉集』にはとても恋の歌が多い。女の人の恋の歌は待つ歌がいちばん多い。夫の来るのを待つ歌、夫が帰って行ってしまったあとの気持の歌、そいう歌が非常に多い。ということは、やはり今とは違うんです。我々は、現代に生きているものですから、現代をきじゅんにして物を考えがちです。たとえば、今日、みんな新婚旅行するでしょう。だから万葉時代も新婚旅行するのかと思って、学生さんがまじめな顔で、「先生、万葉時代の貴族はどこへ新婚旅行に行ったんでしょか」なんて聞く。それからまた、人麻呂が「大君は神にしませば……」と言いますね。すると天皇は神じゃないですよ。人間宣言をなさったもの」なんて言う。とんでもないことです。古い時代の事を今の感覚で考えていては、万葉の歌はりかいできません。「大君は 神にしませば……」というのも、壬申の乱という、あの大乱後の天武天皇。持統天皇、そういう方々を考えた時に、初めてわかるので、だから歴史の中、時代の中に歌を戻さなければならないのです。 もう一つ、万葉の歌は日本全国の風土と密着しているんです。ただ『万葉集』には北海道・青森県・秋田県・山形県・岩手県・沖縄県は出てこない。その他の日本全国各県は出てくるのです。それらの土地は風土がみな違うでしょう。たとえば雪ひとつにしても札幌の人は、雪を何とも思っていないでしょう。雪が嫌だったら暮らせないし、雪なんか少しも珍しくない。だから、雪は生活の一部になっている。ところが、飛鳥あたりになりますと、雪はめったに降りません。だから古代でも雪が降ったら、もう大喜びするんです。 たとえば天武天皇は、 〽わが里に 大雪降れり 大原の 古(ふ)りにし里に 落(ふ)らまくは後(のち) (巻二ー一〇三) ゛わが里には大雪が降ったよ゛と言われてはいますが、実は大雪ではないんですね。飛鳥あたりですから、ほんのちょっぴり降ったんです。それでも嬉しいから゛わが里に 大雪降れり 大原の 古りにし里に 落らまくは後゛と、こううたっているんでしょう。すなわち、雪ひとつにしても土地が違えば感じが違うんです。だから、やはりそれぞれの風土に、たとえば、瀬戸内海で生まれた歌は、瀬戸内海の風土にかえしてみないとわかりません。これから万葉の人びとの話をはじめますが、常に歴史の中に、時代の中に置いてみようと思う、その関連でみていきたいと思います。 『万葉集』というのは、いわば歌の博物館のようなものです。作者のだれ一人として、その中に自分の歌を入れてもらおうなど思って作ったわけでありません。それぞれの歌は、それぞれの時代に、それぞれの場所で生まれたものですから、歌を本当に理解するためには、その歌の生まれた時代や生まれた風土にできる限り戻してみなければなりません。そうして、初めて博物館の標本のような歌が生き生きと躍り出して来るんです。 もう一つ、例を挙げてお話してみましょう。それは天平八年、西暦七三六年、遣新羅使人(けんしらぎしじん)といって、新羅に遣わされたお使いの人々の歌があります。その中で一つ、あとに残る奥さんの歌、 〽君が行く 海辺の宿に 霧立たば 吾(あ)が立ち歎く 息(いき)と知りませ〽 (巻十五━五八〇) 妻はこう言うんです。"新羅まで行かないで家に残っておりますから、あなたのいらっしゃる海辺の宿に霧が立つことがあったら、その霧は、私が家で歎いているため息と思ってちょうだいね"と言っているんです。すばらしい歌でしょう。『万葉集』には愛の歌が大変多いんですが、私はあなたが好きだとか、愛して愛してやまないとか、離れられないとか、そんな観念的な言葉をちっとも使わないんです。それは、この歌をみてもわかるでしょう。 "あなたのいらっしゃる海辺の宿々に、もし夕霧が立つことがあったならば、その霧は、私が家で歎いているため息と思ってちょうだい"って言うのですから。愛の心持が具体的に表現されているでしょう。形をそなえて表されているんです。そしてまた、天平八年のころの瀬戸内海というのは、今と違います。瀬戸内海というのと、今日では、風光明媚な海の景ーーを想像されるでしょう。ところが、当時は絶対に違う。『万葉集』を読んでみますと、瀬戸内海はほとんど海のこわさに尽きるんです。潮の流れ、風がある、また波もある。大変危険です。瀬戸内海を通るだけで、約ひと月近くかかるんです。そいう昔に還元してみれば、この歌の、妻君が"あなたのいらっしゃる海辺の宿、その宿々にもし夕霧が立つことがあったら、どうぞその霧は、私が家で歎いているため息と思って下さいね"と歌う気持が分かりますね。 夫は難波(なには)から瀬戸内海をだんだんとすすんでいって、今の広島県の方まで来た。広島県安芸津町風早という所があるんです。それはちょうど、糸崎、三原よりももっと西、国鉄呉線に乗って、呉の方へ向かった、景色のいい所です。その風早の浦で、おそらく妻からそういう歌をおくられた人の歌なんでしょう。こういう歌がある。 〽わがゆゑに 妹歎くらし 風早の 浦の沖辺(おきへ)に 霧たなびけり〽 (巻十五━三六一五) "私のために彼女は歎いているようだな。おお、今日は風早の浦の沖辺に霧がかかっているぞ"このように歌うんです。 風早の浦の沖辺に霧がかかっているというのは、瀬戸内海は今日でも霧日数の大変多い所なんです。だから、霧を見て、"ああ、これは彼女のため息だな"と思っているんです。 "霧は霧だよ、自然現象としての霧だよ"と思ったら、それはそうに違いないでしょう。ところがこの歌では、霧は自然現象の霧であると共に、彼女の心だというんです。霧のまわりに、いわば人間の心の厚みがかかっている。これはすばらしい。やはり千三百年前の時代に戻し、その歴史の中に置いてみ、しかもその風土の中に置いた時、歌が生き生きとしてくるんです。 私は風早の浦の所へ立って、この歌の話をしました。すると、学生諸君が「わあ先生、すばらしいですねぇ。万葉びとって詩人ですねぇ」とこう言った。その「詩人ですねぇ」というのは、いわばすばらしい人間の心を発見した喜びでしょう。それが忘れられないから、学生諸君が、「万葉の旅を続けて下さい、続けてください」と言うんですね。言うならば、忘れていた心を、学生はじかに風早の海岸で体験したんです。こういうことからも、万葉の歌が生きているということがわかるでしょう。我々の胸にじかに響いて来るんです。 では、もう一度うたってみましょう。 〽わがゆゑに 妹歎くらし 風早の 浦の沖辺(おきへ)に 霧たなびけり だから万葉の歌は、あたう限り歴史と共に、時代と共に理解していかねばならない。そうしてまた風土と共に理解していかなくてはなりません。このようにして、万葉の歌を理解し、万葉の人びとの心の世界を探ってみたいと思います。 以上を"万葉の人びと"のオリエンテーションといたします。
(巻一 一)(岩波文庫) P.43 〽籠もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち この丘に 菜摘ます児 家聞かな 告らさね そらみつ やまとの國は おしなべて 吾こそをれしきなべて 吾こそませ 我こそは 告らめ 家をもなをも *参考:「ふくし」は竹や木の先をへら状にとがらせた、土をほる道具。 2008.10.27 (巻一 二七) P.27
〽淑(よ)き人のよしとよく見てよしと言(い)し芳野よく見よよき人よく見つ
*朝日新聞2008.10.23 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より よき人の よしとよくみて よしと言ひし 吉野(よしの)よくみよ よき人よく見つ りっぱな人がいい所だとよーく見た。そして「よい」と言った吉野よ。よく見よう。りっぱな人がよく見たのだから (巻一 五一)(岩波文庫)P.56 〽采女の袖吹きかへす明日香風京を遠みいたづらに吹く 〔明日香宮より藤原宮に遷りませし後、志貴皇子の作りませる御歌〕 *朝日新聞2009.11.28 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より 采女(うねめ)の袖(そで)吹きかへす 明日香風(あすかかぜ)都を遠み 無用(いたずら)に吹く 私見:岩波文庫では「たずら」にとかかれていますが中西先生は無用(いたずら)と書かれています。 参考:うねめ【采女】:「うねべ」とも。古代、天皇のそばで日常の雑役に奉仕した後宮の女官。 (巻一 五三)(岩波文庫) P.57 〽藤原の大宮づかへあれつくや處女がともはともしろきろかも〔作者はいまだ詳かならず〕 *朝日新聞200.8.23 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より 藤原(ふじはら)の 大宮仕(つか)へ 生(あ)れつぐや 処女(おとめ)がともは 羨しきろかも 藤原の宮に奉仕するために生まれつづくのか。少女たちは。うらやましいことだ 私見:岩波文庫でよむと「あれ」の意味が分かりません。古語辞典ではあれ【生まれ】うまれ、うじ素性。ともし【羨し】うらやましい。ナカニシ先生の歌のほうが私ども古語になれないものには親切である。つぎに先生が解説されている説明は当時の歴史をしらなければ想像もつかないものだと。いのち与えるは おとめの役割で纏められている。 (巻一 五四)(岩波文庫) P.54 〽巨勢山の つらつら椿 つらつらに 見つつ 思はな 巨勢の春野を 坂門人足 *朝日新聞2010.04.18 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より 巨勢山(こせやま)の つらつら椿 つらつらに 見つつ思(しの)はな 巨勢の春野を そこで『万葉集』ではツバキがりっぱな男性の比喩に使われました。 (巻一 六四)(岩波文庫)P.59
〽葦辺行く鴨の羽交に霜降りて 寒き夕は大和し思ほゆ 〔志貴皇子の作りませる御歌 〕
*朝日新聞2009年11月6日 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より
葦辺(あしへ)行く 鴨(かも)の羽交(はがひ)に霜降りて 寒き夕(ゆうべ)は大和し思ほゆ
「ところでカモは雌雄仲のいい鳥で、『万葉集』でもかならずいっしょにいる姿が歌われています。皇子はアシ辺のカモの姿から妻を思いやったにちがいありません。」と説明されています。
私見:「ゆうべ」と「ゆうへ」のよみが異なるのはなぜでしょうか。
(巻一 八二)(岩波文庫)P.62
〽うらさぶる情さまぬしひさかたの天の時雨の流らふ見れば 〔長田王を伊勢斎宮に遣しし時、山邊の御井にして作れる歌 〕
*朝日新聞2009年11月14日 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より
うらさぶる 情(こころ)さまぬし ひさかたの 天(あめ)しぐれの 流らふ見れば
私見:「長田王」の読みが「ながたのおほきみ」と「おさだのおおきみ」と異なっているのは?
うらさびの説明に何の飾りもごまかしもない、ほんとうに心のうつろな状態が「さぶ」という状態です。わびしさで胸がいっぱいになる。無限の空をこめて、時雨(しぐれ)が降りつづくのを見ると(後略)。参考になりました。
〽ささの葉はみ山もさやに亂げども吾は妹おもふ別れ来ぬれば
*朝日新聞2010.01.23 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より
小竹(ささ)の葉は み山もさやに 乱(さや)げども われは妹(いも)思ふ 別れ来(き)ぬれば
柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の歌
たしかな愛の信念です。
◆(巻二 一五八)(岩波文庫)P.85
〽やまぶきの立ちよそひたる山清水汲みに行かめど道の知らなく
*朝日新聞2010.01.23 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より
山振(やまぶき)の 立ち儀(よそ)ひたる 山清水(やましみず)酌(く)みに行かめど 道の知らなく 高市(たけちの)皇子(みこ)の歌
当時ヤマブキは永遠を象徴する花だと考えられていました。
皇女の死は陰暦四月七日。ちょうどヤマブキがまっ盛りのころでした。作者は身のまわりに咲くヤマブキを見つめながら、生命の泉を幻に描くばかりで、絶望にうちひしがれていたことでしょう。
◆(巻三 二五〇)(岩波文庫)P.117
〽玉藻刈る敏馬を過ぎて夏草の野島が崎に船近づきぬ
*朝日新聞200.9.05 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より
珠藻(たまも)刈る 敏馬(みねめ)を過ぎて 夏草の 野島(のしま)の崎に 船近づきぬ 〔柿人麻呂の歌〕
先生の説明では現在、東京に首都圏ということばがありますね。奈良県に都があったころの首都圏は、だいたい明石海峡まででした。
都の領域を出て、いよいよ「真旅(またび)」、本格的な旅が始まったのです。(中略) 見知らぬ地へ 不安と緊張のたび
私見:万葉集を読むといつも当時の歴史・風土・人心などを知らなければ、歌の心を読み取ることが出来ないものだと。
◆(巻三 二六六)(岩波文庫)P.120
〽淡海海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ
*朝日新聞200.9.05 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より
淡海(あふみ)の海(うみ) 夕波千鳥(ゆなみちどり) 汝(な)が鳴けば 情(こころ)もしのにいに 古(いにしえ)思ほゆ 〔柿本人麻呂の歌〕
先生の説明では、むかしは、死者の魂が鳥にになると信じられていましたから、死者の魂が湖上にみちみちてきたのですね。
◆(巻三 三一八)(岩波文庫)P.127
田児の浦ゆうち出でて見れば眞白 にぞふ盡の高嶺に雪はふりける
*朝日新聞2010.01.23 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より
田児(たご)の浦ゆ うち出(い)でて見れば 真白(ましろ)にそ ふ尽(ふじ)の高嶺に 雪はふりける 〔山部赤人の歌〕
*百人一首では(『百人一首一夕話 上』P.67)
田子(たご)の浦に うち出(い)でて見れば 白妙(しろたへ)の 富士(ふじ)の高嶺(たかね)に 雪(ゆき)降(ふ)りつつ
私見:岩波文庫、ナカニシ先生、百人一首で読み方が違っています。
2010.01.24
私見:心と情が読み方が違っています。
〽君待つとわが戀ひをればわが屋戸のすだれ動かし秋の風吹く 〔額田王の歌 〕
*朝日新聞2010年9月25日 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より
君待つと わが恋(こ)ひをれば わが屋戸(やど)の すだれ動かし 秋の風吹く
◆(巻四 五九六)(岩波文庫)P.182
〽八百日行く濱の沙も吾が戀にあに 益らじか沖つ 島守〔 笠女朗の歌〕
*朝日新聞2010.04.25 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より
八百日(やほか)行く 浜の沙(まなご)も わが恋に あに益(まさ)らじか沖つ島守 |
〽瓜はめば 子ども思ほゆ 栗はめば ましてしぬばゆ いずくより 来たりしものぞ 眼(ま)なかひにもとなかかりて 安寝(やすい)しささぬ 〽しろがねも くがねも 玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも 〽秋風の 吹きにし日より いつしかと 吾が待ち恋ひし 君ぞ来ませる *『万葉集』の代表歌人。中国に二年留学。儒教の影響下に社会意識をつよめ『貧窮問答歌』などを作った。写真は彼が上の歌を作ったと伝えられる飯塚市外「鴨生」。 *桑原武夫編『一 日 一 言』ー人類の知恵ー(岩波新書)P.117 2020.08.21 |
潮騒(しおざい)に いらごの島辺 こぐ船に 妹(いも)乗るらむか 荒き島回(しまみ)を
ささの葉は み山もさやに さやげども
草枕 旅の宿に 誰(た)が夫(つま)か
鴨山の 磐根(いわね)し纏(さ)ける 吾をかも
*『万葉集』第一の作者。大和の古い豪族の出で、持統天皇につかえた文人。儀礼歌、相聞歌に古今独歩の才をしめした。4月18日、人麻忌 *桑原武夫編『一 日 一 言』ー人類の知恵ー(岩波新書)P.65 2020.08.21 |
天地の 分れし時ゆう 神さびて 高き貴き 駿河なる 富士の高嶺を 天の原 ふり放(さ)け見れば 渡る日の 影も隠ろひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行き憚(はばか)り 時じくぞ 雪は降りける 語りつぎ 言ひつぎ行かん 富士の高嶺は
田子の裏ゆ打出でて見れば白にぞ
山部赤人 図は葛飾北斎筆 *桑原武夫編『一 日 一 言』ー人類の知恵ー(岩波新書)P.2 2020.08.21 |
海ゆかば 水漬く屍 山ゆかば 草生 *作曲者:芳賀 徹(昭和十二年である。)
『万葉集』巻十八に「陸奥國より 大伴家持が天平感宝元年(七四九年)五月に作ったというこの古い長歌の一節は、信時潔による昭和の名曲となって、いまも私たちの心の底にあの人たちのための鎮魂の祈りをよびおこさずにはいない。(1部分抜き書き)(巻十八)(岩波文庫下巻)P. 243 |
雪の降りけるをよめる 紀貫之 0009 〽霞たち木のめもはるの雪ふれば花なき里も花ぞ散りける(0023) 一 〽夏と秋とゆきかふ空のかよひじは かたへ涼しき風や吹くらん (凡河内躬恒ー古今和歌集巻3)(168) *名義 はじめ続(しょく)万葉集と称し、のち改める。万葉集より後の古い歌と今の世の歌とを集める意。 334 〽わたつ海(み)の 浜の真砂(まさご) かぞへつつ 君が千歳(ちとせ)の あり数(かず)にせむ 343 〽わがきみは 千代にましませ さざれ石の 巌(いはほ)となりて 苔のむすまで 345 〽しほの山さしでの磯に すむ千鳥 君が御代(みよ)をば 八千代とぞ鳴く 346 〽わが齢(よはひ) 君が八千代に とりそへて とどめおきてば 思い出にせよ
▼古今和歌集 巻第七 賀 歌 題しらず よみ人しらず の四首です。
1、あなたは、千年も万年もおすこやかに長生をお保ち下さい。細かい石が大きな岩となって、苔が生えるさきざきまでも。一種の長寿を祈った歌。 2、わがきみは「きみ」は、当時「主君」の意に限定されず、敬愛する相手に対して用いられている。のちに『和漢朗詠集』で「君が代は」と変わり、それが流布本古今集と混合して国歌「君が代」となり、その「君が代」(あなたが生きていらっしゃる間)を「天皇の治世」ともとりなした。 千代にましましませ 底本では千代に八千代だが、これは俊成本以後の本文なので改めた。 ▼素直に詠みますと、四首とも女の人の歌でしょうか、その女の人が、さざれ石に、浜の真砂、千鳥の鳴き声に「あなた」の長寿を願っている気持ちを詠まれているものでした。私には、女に限らず夫婦ともども長寿を願う気持ちが伝わってきます。
新潮社日本古典集成(第19回)昭和五十三年七月十日 第二刷
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一 〽願はくは花のしたにて春死なんその如月の望月のころ (続古今和歌集) 一 〽月を見て心うかれしいにしへの秋にもさらにめぐり逢ひぬる 題しらず 新古今和歌集 巻第十六 1530 岩波文庫 P.248 *「月を見て気もそぞろに興じていたあの昔の秋に、また再びめぐり逢った気がするな。」『新日本古典文学大系 11』p.447 *出家後のある秋の夜の感興であろう。いつもはとかく物思いなしには見られない月。それを今日は昔の自分に帰ったようだというのである。しかし同じ「うかれ」でも今はもう純化されたそれと言っていいかもしれない。「月」に寄せる秋の雑歌。 参考:『百人一首夕話』下(岩波文庫)P.106 西行法師(さいぎょうほうし。1118~1190)俗名を佐藤義清(のりきよ)。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・僧侶・歌人。鳥羽上皇に北面の武士として仕えていましたが、23歳の時に家庭と職を捨てて出家、京都・嵯峨のあたりに庵をかまえ西行と号しました。 出家後は、陸奥(東北地方)や四国・中国などを旅して数々の歌を詠み、漂泊の歌人として知られます。詞花集初出。新古今集入集九十五首(最多歌人)。勅撰入集二百六十七首。隠岐での後鳥羽院による『時代上同歌合』では在原業平と番えられている。歌集に「山家集」があり、また彼の一生は『西行物語』に詳しく語られています。 『西行物語』桑原 博史講談社学術文庫:鎌倉時代成立の『西行物語』は、歌人西行の生涯を記した伝記物語。友人の急死に世の無常を知った藤原義清は、娘を縁から蹴落して恩愛の道を絶ち、二十五歳で出家して西行となのる。伊勢から関東へ、陸奥から四国と旅を重ねつつ、歌ごころの涌くままに詠ずる名歌は、彼のひたすらな道心をはぐくみ、ついに「願はくは花の下にて春死なむ」の願いどおり極楽往生を遂げる。数奇と道心の生涯を伝える物語のはじめての全訳である。(全一冊) 二 〽夜もすがら月こそ袖にやどりけれむかしの秋をおもひ出づれば 新古今和歌集 巻第十六 1531 岩波文庫 P.248 *一晩中、月ばかりが涙に濡れた袖に宿っていた。昔の秋を思い出していたので。これも在俗時の秋に見た月の回想であろう。 三 〽月の色に心を清くそめましや宮(みや)こを出(い)でぬわが身なりせば 新古今和歌集 巻第十六 1532 岩波文庫 P.248 「かくも月の色で心を清く染めることができたであろうか。都の内にとじ籠ったままのわが身であったならば。」『新日本古典文学大系 11』p.448 四 〽棄つとならば憂世を厭ふしるしあらん我にば曇れ秋の夜の月 新古今和歌集 巻第十六 1533 p.448 岩波文庫 P.249 *「出離するからには憂き世を厭うしるしがなくては叶うまい。どうか私が見たら曇ってくれ、秋の夜の月よ。そうすれば厭うこともできように。」『新日本古典文学大系 11』 *世外のものとさえ思われて賞でられる月である故に、自分には月がこの世の最後の執着になりそうだ。世を厭うしるしというなら月を厭う以外にはないというのである。「月」に寄せる秋の雑歌。 五 〽ふけにけるわがよのかげをおもうまにはるかに月の傾きにけり 新古今和歌集 巻第十六 1534 p.448 岩波文庫 P.249 *年老いてきた自分の人生を思っているうちに夜も更けて、西の空遥かに月が傾いてしまった。 *この歌、日本人の言葉遊び好きを象徴しているのではないでしょうか。「わがよ」に「世」と「夜」、「ふけにける」に自分が「老けた」と夜が「更けた」を掛け、「影」に自分の人生と月の光を、年老いたことを月の「傾き」になぞらえています。縁語と掛け詞の連続です。ひねりにひねったこの歌、作歌にあたっては、かなり推敲を加えたことでしょう。 |
▼梁 塵 秘 抄 佐佐木信綱校訂 (岩波文庫)1985年4月10日 第34刷発行 平安末期の歌謡集。後白河院撰。巻一残簡・巻二、および口伝集巻一・巻一〇が現存。 もとは歌詞10巻・口伝集10巻であったらしい。治承三年(1179)~文治元年(1185)ごろまでの間に成立。
平安末期に流行した今様
仏は常にいませども、現
鵜飼
遊
わが子は十餘にゆる成
わが子は二十
遊女
女の盛
舞へまへ蝸牛
頭
いざれ獨楽 200.11.071 |
二 〽ほのぼのと春こそ空に来にけらし天の香具山かすみたなびく (太上天皇) 七六 〽薄く濃き野邉のみどりの若草にあとまで見ゆる雪のむらぎえ (宮内卿) 一六九 〽暮れて行く春のみなとは知らねども霞に落つる宇治のしば舟 (寂蓮法師) 三六一 〽さびしさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮れ (寂蓮法師) 七百六 〽今日ごとに今日や限と惜しめども又も今年に逢ひにけるかな (皇太后大夫俊成) 一九三九 〽これやこのうき世の外ならむとぼそのあけぼのの空 (新古今和歌集 21939 寂蓮法師) *名義 古今集の正統を継承し、かつ和歌の新時代を創造するの意をこめたものか。 |
序 此所に一人の桑門あり。富士の遠望をたよりに庵を結びて、十餘歳の雪を窓に積む。松吹く風に軒端を並べて、何(いんずれ)の緒よりと琴の調(しらべ)を争ひ、尺八を友として春秋の調子を試むる折々に、歌の一節(ふし)を慰み草にて、隙行く駒に任する年月のさきざき、都鄙遠境の花のもと、月の前の宴席に立ち交はり、聲を諸共にせし老若、半ば古人となりぬる懐旧の催しに、柳の糸の亂れ心と打ち上ぐるより、あるは早歌、あるは僧侶佳句を吟ずる廊下の聲、田楽、近江大和節(ぶし)になり行く數々を、忘れ形身にもと思ひ出るにしたがひて、閑居の座右に記し置く、是を吟じうつり行くうち、浮世の事業(ことわざ)にふるる心の横(よこ)しまなければ、毛詩三百餘篇になずらへ、數を同じくして閑吟集と銘す。この趣(おもむき)をいさゝか雙紙の端(はし)にと云ふ。命にまかせ時しも秋の蛩に語らひて、月をしるべに記す事しかり。 閑 吟 集 一 花の錦の下紐は、解けて中々よしなや、柳の糸の亂れ心、いつ忘れうぞ、寝亂れ髪も面影。 一三 年々に人こそ古(ふ)りてなき世なれ、色も香も變らぬ宿の花盛り花盛り、誰見はやさんとばかり、又廻(めぐ)り来て小車の、我と浮世に有明の、盡きぬや怨みなるらむ、よしそれとても春の夜の、夢の中(うち)なる夢なれや夢なれや。 五五 何せうぞくすんで、一期は夢よ、ただ狂へ。 八五 思ひ出すとは忘るるか、思ひ出さずや忘れねば。 八八 思へども思はぬ振りをして、しやとしておりやるこそ底は深けれ。 九六 たゞ人は情けあれ、槿の花の上なる露の世に。 ※この歌を読んで千代尼のよく知られた 〽朝顔に 釣瓶とられて 貰ひ水 の歌を思いました。 二五二 しやつとしたこそ人よけれ。 解題:「毛詩三百余篇になぞらへ、数を同じくして」とあるによって、毛詩と同数の三百十一編なる事を説いた。 『閑吟集』藤田徳太郎校註 1984年4月5日 第6刷発行 (岩波文庫)による。 2008.03.07 |
▼おくのほそ道
冒 頭
月日
〽草の戸も住替
この道や行く人なしに秋の暮れ 芭蕉の最晩年の句 〽秋深き隣は何をする人ぞ:芭蕉絶唱の最高の秀句の一つである。 〽旅に病んで夢は枯野を駆けめぐる *最後の句
芭蕉句集 「俳句の底をぬかなくてはいけない。昨日の我に飽きる人間でなければ」 〽名月や池をめぐりて夜もすがら 参考:元禄二年の三月二十七日、奥の細道の旅へ出立した俳諧の巨匠。伊賀上野の武士の出で、一生を旅に過ごした。日本独特の美の一境地を開く。
“夏草や 兵どもが 夢の跡”。芭蕉の足跡をたずねて、新緑まぶしい世界遺産・平泉へ 「夏草や…」の句は、松尾芭蕉が平泉で5月13日(新暦6月29日)に詠んだ俳句です。江戸を出発しておよそ1ヵ月半。平泉の高館(たかだち)に立ち、夏草が生い茂る風景を目の当たりにして、奥州藤原氏の栄華の儚さを思ったのでしょうか。平泉が世界遺産に決定してから、およそ4年。芭蕉が平泉を訪れたこの時期は、若草色の春もみじがちょうど見ごろを迎えます。さらに、世界遺産に決まった6月を記念して、臨時列車が運行されます。新緑まぶしいこの時期に、芭蕉の足跡を追って、世界遺産の平泉を訪れてみてはいかがでしょうか。 旅を始めて44日目、芭蕉は平泉で2つの句を残した 1689年3月27日(新暦5月16日)、松尾芭蕉は門人の曾良をともなって、江戸から東北・北陸へ600里(約2400km)、150日間の「おくのほそ道」の旅に出ました。奥州藤原氏が平泉で滅亡してから500年後のことです。 江戸・深川を出発してから44日目、5月13日(新暦6月29日)に奥州平泉を訪れた芭蕉は、藤原三代の栄華の儚さと義経の最期を偲び、あの有名な句を詠みました。 〽夏草や 兵どもが 夢の跡(なつくさや つわものどもが ゆめのあと) 高館(たかだち)にのぼってあたりを見渡すと、藤原氏の栄華の痕跡はあとかたもなく、ただ夏草が茂る風景が広がるばかり。栄華の儚さを詠んだ句です。 続いて芭蕉は中尊寺を訪れ、美しい金色堂を参詣し、以下の句を残しました。 〽五月雨の 降り残してや 光堂 (さみだれの ふりのこしてや ひかりどう) 光堂とは金色堂のことです。あらゆるものを朽ち果てさせる五月雨も、光堂にだけは雨を降らせず残してくれたかのように、500年経っても光堂は色あせずに美しいままだ、と詠んだものです。中尊寺には、芭蕉の像とともに、この句の句碑があります。 浄土思想に基づいて造られた平泉の建造物や庭園は、日本独自の発展をとげた 平泉は岩手県南西部に位置します。11世紀末から12世紀にかけての約90年間、藤原清衡(きよひら)に始まる奥州藤原氏が、この地を拠点としました。清衡は浄土思想を唱え、この平泉に、中尊寺や毛越寺(もうつうじ)をはじめ、数多くの寺院や宝塔を建立し、これら建築物や庭園の一群が世界遺産へと登録されました。平泉には大きく5つの見どころがあります。 ・中尊寺 清衡が1105年から造立に着手し、1124年、金色に輝く金色堂が完成しました。中尊寺の境内には、全盛期には40にも及ぶお堂や塔があったとされています。 2011年6月に平泉が世界遺産に登録されてから、4年が経とうとしています。ゴールデンウィークが過ぎた5月は、暑くもなく寒くもなく、旅にはちょうどいい季節ですね。中尊寺には「五月雨」を詠んだ芭蕉の句碑があります。新緑がまぶしい初夏のこの時期、芭蕉の足跡を追って、世界遺産の平泉を訪れてみてはいかがでしょうか。
▼私たち兄弟・妹夫婦が元気であったとき、家族旅行を楽しんでいた。中尊寺へ旅行をしたことがあった。兄弟妹夫婦旅行のなかの〔1995年(平成七年) 十月七日(土曜日) 兄弟旅行1日目
十月八日(日曜日)
更に芭蕉の“〽荒海や 佐渡によこたふ 天河”の俳句の佐渡島へ、新潟港から高速艇で渡って、韓国に向った宿に宿泊した。夕陽が沈む様子は忘れられない絶景であった。そして島巡りをした。金鉱跡地・盥船など見て廻った。今では妹夫婦、私の妻がいなくなったが、生存している兄弟夫婦はいまでも年に一度は広島・岡山の近郊に出かけている。 2016.07.22:追加
〽五月雨をあつめて早し最上川 ※『おくのほそ道』(岩波文庫)P.38 〽一つ家に遊女も寝たり萩と月 ※『おくのほそ道』(岩波文庫)P.46
〽故郷 〽何でこの師走の街にゆく烏 〽旅に病んで夢は枯野をかけめぐる 元禄二年の3月27日、奥の細道の旅に出立した俳諧の巨匠。伊賀上野の武士の出で、一生を旅にすごした。日本独特の美の一境地を開く。 引用:桑原武夫編『一日一言』―人類の知恵― P.52 ※関連:田辺聖子『文車(ふぐるま)日記』野ざらしの人(松尾芭蕉) 2020.08.03
小野竹喬 奥の細道句抄絵展 アサヒグラフ 昭和五十一年六月二十五日発行より 日本の自然を、心を洗うような清らかな旋律でうたいあげる日本画家━━京都の小野竹喬さんが、日本文学の古典・芭蕉の「奥の細道」をテ―マに、新作のための取材にとりかかったのは昭和四十九年六月だった。 「月日は百代の過客にんして、行かふ年も又旅人なり。……」とはじまる「奥の細道」は、元禄二年(一六八九)三月末、門人曽良を伴って江戸をたち、白川の関から仙台、松島、石巻、平泉、奧羽山脈を越えて日本海側の酒田、象潟、新潟、直江津、高岡、金沢、大垣をたどる百五十日、行程六百里に及ぶ芭蕉最大の紀行文。単なる景観の美しさに感動するというのではなく、自然の生命の中に 踏みこんで、自分と自然との合一の境地を求め、天地自然の心を身をもって読みとろうとした作者燃焼の芸術作品といわれている。 芭蕉が能因法師や西行法師を慕い、その歌枕や旧跡をたどり歩いたのと同じように、八十歳を超えた竹喬さんが単身、芭蕉の足跡をたどられるのかとびんっくりしたのだが、そうではなかった。奥の細道の六十二句の中から、風景画家・竹喬さんが「絵になる」と選び出した十数句のよまれた現場を訪ねて、独自の現代日本画を製作しようというのだ。 有名な奥の細道をテーマにした絵は、これまでにも与謝蕪村、川端竜子、小野放菴らによって描かれている。しかし、それは奥の細道を説明する俳画的なものばかり。竹喬さんのは紙本着彩(紙に描かれた着彩画)の”本画と呼ばれる本格的な製作。三十号の大きさで約十点描き、「奥の細道句抄絵」というシリーズにする計画。この新作の発表は、点数や大きさに制限を受ける公募展をさけて個展様式で行う。絵巻ものという日本古来の絵画様式を現代的によみみがえらせる展開だ。 もちろん、それは「奥の細道」のさしえではない。風景画家・小野竹喬さんが、山や海の豊かさ、木々のさざめき、太陽の輝き、水の流れ…と目をこらし心を澄まして感じとった天地自然の不思議な魅力への感動が、芭蕉の哲学と接点を持ったのだ。俳句という文学で表現された生命の感動を竹喬さんは、絵画という造形表現で語ろうとする。 竹喬さんは、岡山の笠岡から十四歳で京都の竹内栖鳳の門にはいる。俳句はそのころから正岡子規の高弟・松籟青々二ついて学んだ。芭蕉への関心も少年時代からのもので、五十歳を越えたころから「奥の細道」を描きたいと思いはじめた。この計画はもう三十年以上もかけて練り上げられたものだ。池田 弘「奥の細道」取材同行記より。
殺生石(さつしやうせき)・遊行柳:田一枚椊えて立去る柳かな 岩波文庫P.17 笠 嶋:〽笠嶋はいづこさ月の折にふれたりと P.24 尾花澤:〽まゆはきを俤にして紅粉(べに)の花 P.36 最上川:〽五月雨をあつめて早し最上川 P.38 羽 黒:〽涼しさやほの三日月の羽黒山 P.39 酒 田:〽暑き日を海にいれたり最上川 P.41 象 潟:〽象潟や雨に西施がねぶの花 P.42 越後路:〽荒海や佐渡によこたふ天河 P.44 金 澤:〽あかあかと日は難面(つれなく)もあきの風 P.47 敦 賀:浪の間や小貝にまじる萩の塵 P.54
★プロフィル:小野 竹喬(おの ちっきょう、 1889年(明治22年)11月20日 - 1979年(昭和54年)5月10日)は、大正・昭和期の日本画家。本名は小野英吉。 1889年(明治22年) 岡山県笠岡市西本町に生まれる。1906年(明治39年)京都の日本画家・竹内栖鳳に師事。栖鳳より「竹橋」の号を授かる。1911年(明治44年)京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)別科修了。同校の同期生であった村上華岳、土田麦僊とともに1918年(大正7年)国画創作協会を結成する。1923年(大正12年)、号を「竹喬」と改める。1947年(昭和22年)には京都市美術専門学校教授に就任し、京都市立芸術大学と改組した後も教鞭を執った。同年、日本芸術院会員となる。 50歳前後で没した華岳、麦僊に対し、竹喬は戦後も日本画壇の重鎮として活躍し、1976年(昭和51年)には文化勲章を受章している。1979年(昭和54年)逝去 2020.03.17追加。 |
〽死に支度いたせいたせと桜かな 『岩波文庫』1992年11月2日発行 No.606
〽死にべたと山や思わん夕時雨
〽いざゝさらば死にゲイコせん花の陰 『岩波文庫』1992年11月2日発行 No.527
〽またことし死搊じけり秋の暮
美しさや障子の穴の天の川 『岩波文庫』1992年11月2日発行 No.968 *一茶臨終の句
〽やせがへる負けるな一茶ここにあり ※『一茶俳句集』(岩波文庫)1291 〽瘠蛙
〽めでさも中位
〽故郷は蠅まで人をさしにけり ※『一茶俳句集』(岩波文庫)1627 〽古郷 〽思ふまじ見まじとすれど我家かな ※『一茶俳句集』(岩波文庫)見あたらず。
〽秋風や磁石にあてる故郷 11月19日故郷信濃の柏原で死ね。江戸後期の俳人。俗語をたくみにつかい、農村や貧困な庶民の生活をうたった。主著『おらが春』。図は自著の扇面。 引用:桑原武夫編『一日一言』―人類の知恵― P.191 ※関連:田辺聖子『文車(ふぐるま)日記』雪ちるや(小林一茶) 2020.08.03 |
葵丑の歳 偶作 十有三春秋 (十有三の春秋 ) 逝者已如水 (逝く者は已に水の如し) 天地無始終 (天地始終無く) 人生有生死 (人生生死有り) 安得類古人 (安んぞ古人に類せんを得んや) 千載列青史 (千載青史に列せん) *読み下しは筆者 |
荒城の月
明治卅一年頃東京音楽学校の需(もとめ)に 応じて作れるもの、
春高楼の花の宴 めぐる盃影さして 千代の松が枝わけ出でし むかしの光いまいづこ。 秋陣営の霜の色 鳴き行く雁の数見せて ううるつるぎに照りそひし むかしの光今いづこ。 いま荒城のよはの月 変らぬ光たがためぞ 垣に残るはただかづら 松に歌ふはただあらし。 天上影は変らねど 栄枯は移る世の姿 写さんとてか今もなほ あゝ荒城の夜半の月。 ※プロフィール:明治4(1871).10.23. 仙台~1952.10.19. 仙台 詩人,英文学者。本みょう,林吉。 1932年頃姓の「つちい」を「どい」と改音。 1897年東京大学英文科卒業。在学中から雑誌『帝国文学』の編集に従事,同派の詩人としてなをなした。 98年東京音楽学校編『中学唱歌』のために『荒城の月』を作詞。 99年高山樗牛の協力で処女詩集『天地有情』を刊行,集中の代表作『星落秋風五丈原』 (1898) で,漢詩調による悲壮美の表現に独創性を示した。これにより男性的な調べの叙事詩人としての声価が決定的となり,対立的な詩風の島崎藤村と並んで新体詩の代表的詩人と目された。ほかに詩集『暁鐘』 (1901) ,『東海遊子吟』 (06) ,『曙光』 (19) など。ホメロスの『イーリアス』 (40) ,『オヂュッセーア』 (43) など翻訳もある。芸術院会員。 1950年文化勲章受章。 2008.5.14 |
「人を恋ふる歌」 妻をめとらば才たけて 顔(みめ)うるわしく情(なさけ)ある 友をえらばば書を読みて 六分(りくぶ)の侠気 四分(しぶ)の熱 恋の命をたずぬれば なを惜しむかな男(おのこ)ゆえ 友のなさけをたずぬれば 義のあるところ火をも踏む 2011.03.26 |
一 〽虚子一人銀河と共に西へ行く *山折哲雄『悪と往生』より 二 〽去年今年(こぞことし) 貫く棒の 如ごときもの 『六百五十句』(昭三〇)所収。昭和二十五年十二月二十日、新春放送用に作った句という。当時七十六歳。「去年今年」は、昨日が去年で今日は今年という一年の変わり目をとらえ、ぐんと大きく表現した新年の季語。虚子の句はこの季語の力を最大限に利用して、新春だけに限らず、去年をも今年をも丸抱えにして貫流する天地自然の理への思いをうた *「時空」を貫くものを感じる。「不易流行」「一以てこれを貫く」(『論語』の「巻第二 里仁第四」と「巻第八 衛霊公第十五」に使われている。)を思う。 三 一月や去年の日記なほ机邊 四 年を以て巨人としたり歩み去る 2017.01.01 89歳 |
▼赤 彦 歌 集(岩波文庫)2000年2月21日 第31刷発行 P.248 二月十三帰国昼夜痛みて呻吟す。胸瘠せに瘠せ骨たちにたつ
〽生
〽火箸もて野菜スープの火加減
〽隣室に書
〽風呂桶
〽魂 昭和十一年は故人没後十年に相当するので、岩波文庫の一本として「赤彦歌集」を発行することとなったことは誠に好い機であった。 昭和十一年秋彼岸 久保田不二子 齋藤茂吉
藤田正勝 『西田幾多郎』――生きることと哲学(岩波新書)による 島木冬彦の〈写生〉P.67~69 この生命の輝きを言いとめるという詩歌の営みを〈写生〉という言葉で表すことができるかもしれない。 西田が短歌の雑誌である『アララギ』にエッセーを寄せたのは、かってアララギ派の代表的な歌人であった島木赤彦と西田とのあいだに深い交流があったからである。一九二六に赤彦が亡くなったときに西田は「島木赤彦君」という短文を『アララギ』に寄せている。それによれば、西田が赤彦を知ったのは、岩波茂雄の紹介で赤彦が『万葉集』の古写本をみるために京都大学を訪れたときのことである。 これをきっかけに交際が始まり、赤彦が彼の歌論『歌道小見(かどうしょうけん)』を出版した際には、その批評を西田に依頼している。そのプランは実現しなかったが、しかし「私の近頃見た書物の中で最も面白く読んだものの一つであった」と西田はエッセーのなかで記している。このような関係が生まれたのは、赤彦の「写生」についての理解と西田の思想との間に、ある近さが存在することを両者が感じとっていたからではないだろうか。 赤彦の「写生」についての基本的な考えは、『歌道小見』の次の言葉から知ることができる。「私どもの心は、多く、具体的事象とその接触によって感動を起こします。感動の対象になって心に触れ来る事象は、その相触るる状態が、事象の姿であると共に、感動の姿でもあるのであります。左様な接触の状態を、そのままに歌に現すことは、同時に感動の状態をそのままに歌に現すことになるのでありまして、この表現の道を写生と呼んで居ります。」 文芸理論として最初に「写生」ということを主張したのは、言うまでもな正岡子規であった。赤彦もその影響を受けている。しかしここで言われている「写」は子規の言う「写生」と必ずしも同じではない。子規では、絵画をモデルとして「実際の有りのままを写す」ことが考えられている。赤彦の場合には、写生はある意味で「実際の有りのままを写す」ことであると言うことができる。しかしその有りのまま」は、表現者から区別されたかぎりの事象を指すのではない。赤彦が歌おうとする「有りのまま」は、事象と感動とが一つになった状態である。その状態を「直接」に言葉に写すことが赤彦の「写生」である。それは単なる対象の記述ではなく、その人の生の表現である。 この点を捉えて西田はエッセー「島木赤彦君」のなかで次のように述べている。「写生といっても単に物の表面を写すことではない、生を以て生を写すことである。写すといえば既にそこに間隙がある。真の写生は生自身の言表でなければならぬ、否生が生自身の姿を見ることでなければならぬ」。西田が赤彦の「写生」論に共感をしめしたのは、赤彦の短歌についての理解が、まさにこの、芸術は生――赤彦流に言えば事象と感動とが一つになった状態――が生自身の姿を見ることであるという西田の芸術理解に通じるものがあったからであろう。
2008.5.5,2017.07.11追加、2019.04.13追加。 |
旅順の城はほろぶとも、ほろばずとても何事ぞ 君は知らじな商人(あきびと)の 家のおきてになかりけり 君死にたまふことなかれ すめらみことは 戦ひにおほみづから出でまさぬ かたみに人の血を流し獣の道に死ねよとよは 死ぬるを人のほまれとは 大みこころの深ければ もとよりいかで思(おぼ)されむ (君死にたまふことなかれ)
少女と申す者たれも戦争ぎらいに候 (ひらきぶみ)
この日(12月7日)この日生まれた歌人。鉄幹とともに『明星』の中心となり、肉体と感情の解放をうたいあげた。代表作『みだれ髪』。また次の詩は反戦詩として有名。 *桑原武夫編『一 日 一 言』―人類の知恵―(岩波新書)P.203
小林司『出会いについて』精神科医のノートから (NHKブックス) P.145 与謝 野晶子(一八七八~一九四一)は、大阪府堺市の駿河屋という商家の娘であったが、店番をしながら読んだ島崎 藤村の新しい詩集『若菜集』にひじょうに感動した。かねてからつくっていた和歌に、それから新しい気風を盛り込み、大胆で美しい短歌をたくさんつくり、のちに『みだれ髪』(一九〇一)という歌集に実をむすんだ。「やは肌のあつき血汐(ちしお)にふれを見でさびしからずや道を説く君」などは、誰でも知っているであろう。 219.07.13 |
種田 山頭火
戦前日本の俳人。よく山頭火と呼ばれる。自由律俳句のもっとも著名な俳人の一人。1925年に熊本市の曹洞宗報恩寺で出家得度して耕畝 十一歳のときに母を失った。母の死は病気ではない。自殺である。 父は女道楽の人であった。父が妾をつくり、その妾と行楽の旅に出た留守に、母・フサは井戸にに身を投げて死んだ。 ちょうど山頭火少年は裏庭で近所の子どもたちと遊んでいた。裏井戸のあたりの騒ぎに近づくと、「あっちへ行っとりなさい」と大人たちに追い払われた。しかし山頭火少年はしっかりと、井戸から引きあげられる母親の、水びたしの姿を見たのである。
のちに僧となって行乞 そう思って、母の成仏を願って行乞の旅を続けたのである。してみると、山頭火の旅は一面では母恋いの旅であったとも思えるのだが、終焉の場所となった松山の一草庵でも、昭和十五年三月六日の日記にこう書いてある。
「けさもずゐぶん早かった。早すぎた。何もかもかたづいてもまだ夜が明けなかった。亡母第四十九回忌(略)。一洶さん立ち寄る。母へお経を読んでくれる。ありがとう。(略)道後で一浴、爪をきり顔を剃る、さっぱりした。仏前にかしこまって、焼香諷 とても母の五十回忌までは生きられまいと、山頭火は自分の命を測っている。山頭火は母の成仏を願い、母の位牌を懐に歩きつづけたのである。 「若うして死をいそぎたまへる 母上の霊前に本書を 霊前に供えへまつる 山頭火」 一代句集『一草塔』の扉に、こう書いてある。山頭火の句の底にはいつも"母恋い"の思いが流れている。
山頭火の生涯
[明治十五年~三十九年]
母の自殺からはじまる境涯
種田家は海を渡って約二百七十年前に土佐から周防
[明治四十年~大正五年]
大道 大種田の家産かたむき、再起を期して隣村大道の酒造場を買い受けて酒造りをはじめる。山頭火も結婚し家業に専念した一時期はあるが、文芸方面に熱中し無軌道に酒を飲む。山頭火のペンネームで翻訳を発表したり、自由律俳句をつくりはじめた。
[大正五年~大正十二年]
破産出郷・熊本と東京 P.174 種田家は破産して一家離散、山頭火は妻子を連れて熊本市に赴き、古書店(のちに額縁店)を開く。文学立身があきらめきれず単身上京、やがて離婚におよぶ。一時は一ツ橋図書館などに勤めるが、神経衰弱が再発して無職浪々のうちに関東大震災が起こり罹災。社会主義者と誤解されて巣鴨刑務所に留置された。
[大正十二年~大正十五年]
出家得度して観音堂守に P.176 帰着した熊本での生活は不本意なもので、あるとき泥酔して走行中の市内電車の前に立ちはだかった。そんな捨て鉢の山頭火を禅寺に連れていく人があって、これを機縁に禅門に入り出家得度(四十三歳)。まもなく山林独住の観音堂守となるが、一年余りでそこを去り一所不住の旅に出た(四十四歳)。
[大正十五年~昭和四年]
山陽・山陰・四国地方行乞 P.178 旅の一つの目的は小豆島に放哉を訪ねて会うことだったが、その死を知って予定を変更した。信頼する俳人として九州では木村緑平、山口には久保白船がおり、母の菩提を弔うため四国霊場八十八か所の巡拝をなし、小豆島に渡って放哉の墓に参った。
[昭和四年~昭和六年]
九州三十三所観音巡礼 P.180
熊本に落ち着くかにみえたが、「やっぱり時代錯誤的生活しか出来ない」とみずからすすんで旅に出た。九州における三十三所観音巡礼を思いたち、昭和四年は一番から十三番まで、翌年は七か寺巡拝して中断。熊本市内に間借りして個人雑誌「三八九
[昭和六年~昭和九年]
其中庵
暮れも押し迫って一鉢一笠、いわゆる自嘲の旅に出た。約五か月で九州観音巡礼の打ち残しの札所を巡拝。山口県の川棚温泉に足を留め、ここに庵を結ぶことを望む。けれども実現せず、やがて小郡の山麓に其中庵を営む。井泉水をはじめ層雲
[昭和九年~昭和十一年]
逆コースの「奥の細道」 P.184
信州伊那に俳人井上井月
[昭和十二年~昭和十四年]
転一歩して市井へ P.186
急転直下で下関の材木商店に就職して失敗。けれど庵住にも倦
[昭和十四年~昭和十五年]
永遠なる旅人 P.188
死ぬのは近代俳句のメッカ松山だと決めて四国に渡る。ふたたび四国遍路に旅立って、途上、小豆島では放哉墓参。松山に至って、終焉となる庵を定めて一草庵 早坂 暁『山頭火』(日本放送 出版協会)より抜粋。 一 〽ひとりで蚊にくはれてゐる 二 〽蚊帳の中まで夕焼けの一人寝てゐる 三 〽張りかへた障子のなかの一人 四 〽いつ死ぬる 木の実は播いておく 五 〽山あれば山を観る 雨の日は雨を聴く 六 〽春夏秋冬 七 〽あしたもよろし ゆふべもよろし 2015.12.03
「〽まっすぐな道でさびしい〽」 放浪遍歴の詩人種田山頭火の句である。 「〽この道や行く人もなしに秋の暮れ〽」 芭蕉の事実上の辞世の句とも見られている。山頭火の句と心の底では共通するものを感じるのは私ばかりではないでしょう。 私の好きなひとであり、『定本 山頭火全集』全七巻が本棚の隅に眠っている。 山頭火についてまとめて記録しておこう。紀野一義『禅―現代に生きるもの』(NHKブックス)より ▼明治十五年に山口県の防府で生まれた人で、種田家といえばその地方きっての名家であったという。ところが、父親の竹次郎の女道楽から、母はかれが十一歳の年に屋敷内の井戸に投身自殺して果て、父子ではじめた酒造業も、父の女道楽とかれの飲酒癖のためについに潰れ、かれは妻子とともに熊本に逃げ、やがて妻子と離別して、生涯放浪遍歴の旅をつづけることになるのであるが、この山頭火が出家したいきさつが感銘深いのである。 ▼大正十三のある日、泥酔した山頭火が熊本公会堂の前で、走って来る電車の前に仁王立ちに立ちはだかるという事件を起こした。電車は急停車して事なき得たが、乗客は将棋倒しとなり、憤った乗客と野次馬二、三百人に囲まれて山頭火は罵声を浴びた。巡査も来た。そのとき、木庭という新聞記者が巡査に交渉してかれを貰い受け、曹洞宗の禅寺報恩寺に連れて行ったのである。 ▼望月義庵師は、泥酔している山頭火を叱るでもなく、なをきくでもなく、ニコニコして三度の食事を給し、『無門関』一冊をかれに与えた。 これが山頭火にはこたえた。この報恩寺にはたしかに、入る者を拒む門はなかった。そこでは泥酔した性格破綻者さえも微笑で迎えられた。それはたしかに「無門」であった。しかし、そこには「無門」という門がちゃんとあった。その門こそ、自分がくぐらねばならぬ門であると、酔いからさめた山頭火は考えたのに相違ない。 ▼熊本には、当時、破竹の勢いで曹洞の禅風を鼓吹していられた沢木興道師がおられた。山頭火はその席に連ったこともある。しかし興道師の峻烈な禅風には悦朊しなかった山頭火が、義庵師の底抜けに温和な禅風には一ぺんに参ったのである。そこが面白い。山頭火は人が変わったようになった。早朝に起き、拭き掃除にいそしみ、坐禅もした。翌大正十四年の三月には、もう四十四歳になっていた山頭火が義庵師を師として出家得度するに至るのである。 ▼四十四歳にもなって、一所ふ住の雲水の身となるということはよくよくのことである。それをさせたのは一介の野の禅僧望月義庵師の、寛容な、静かな、大らかな人柄である。他人に対する信と愛を底抜けにやり通していた師の大らか人柄がそうさせたのである。禅僧にはそういう大らかな底抜けなところがあるのがほんとうではなかろうか。こんな世知辛い世の中である。せめて禅のお坊さんくらいは、大らかに抜けてほしい。それも、他人に対する信と愛において大らかに底抜けであってほしいのである。 ▼わたしどもも、義庵師のような気持ちをもって生きたいものである。 平成二十五年一月九日 |
一 ひとり来て蠶のへやに立ちたれば我が寂しさは極まりにけり 二 つつましく一人居れば狂信のあかき煉瓦に雨のふる見ゆ 三 はるばる山峡(やまかい)に来て白樺に触りて居たり独りなりけれ 四 夕凝(ゆうこ)りし露霜ふみて火を恋ひむ一人のゆゑにこころ安けし 五 くらがりの中におちいる罪ふかき世紀にゐたる吾もひとりぞ *山折哲雄『悪と往生』P.146 平成十五年十二月三一日 「親鸞一人」の位相 放哉・山頭火・虚子・茂吉 の章
春秋 2016/12/6付 歌人・斎藤茂吉は感情の人である。気分の波が大きい。並外れて、せっかちだった。すぐに癇癪(かんしゃく)をおこし、激怒した。人一ばい、好奇心も強かった。戦前、精神科医として欧州に留学。ドナウ川の源流を探すなど広く大陸を旅して、現地で情感あふれる歌を数多く作った。 ▼をりをりに群衆のこゑか遠ひびき戒厳令の街はくらしも。ミュンヘンではヒトラーのクーデター未遂事件に遭った。雪の街路で、行進曲を聞いた翌朝、機関銃をすえた鎮圧部隊を目にした。一揆に共感したのか。背景に興味を持ち、マルクス主義や国家社会主義の本を読む。大戦中には、戦争協力の歌を熱心に詠んだ。 ▼茂吉が学んだオーストリアで、あやうく戦後初の極右の大統領が誕生するところだった。移民の制限をめぐって国論が二分。「ナチス!」などの罵声が飛び交い、「あまりに感情的で最低の選挙」といわれた。米大統領選の中傷合戦とよく似ていた。極右候補は敗れたが、5割に近い支持があり、排外主義の火がくすぶる。 ▼感情は危なっかしい。激しい好き嫌いが分別をなくし、道を誤らせる。再起を図ったヒトラーはそこにつけ込んだ。ふ安をあおる。外に敵を作り、まんまと国民を虜(とりこ)にする。圧倒的な支持を得て、独裁者となった。昔のひとは気がつくと、「排外行進曲」に歩調を合わせていた。見くびっていると、いまの世界も轍(てつ)をふむ。 平成二十八年十二月六日 |
「道程」以後
一 〽せきをしてもひとり 二 〽こんなよい月を一人で見て寝る 三 〽たった一人になりきって夕空 四 〽淋しいぞ一人五本のゆびを開いて見る 五 〽臍に湯をかけて一人夜中の温泉である 六 〽月夜風ある一人咳して *山折哲雄『悪と往生』P.138 「親鸞一人」の位相 放哉・山頭火・虚子・茂吉 の章 |
幾山河 P.195~197 〽幾山河(いくやまかわ)越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく この、若山牧水の歌に、心をしびれさなかった昔の女子学生がいたでしょうか。この歌は、秋の匂いをさながらもたらすような歌でした。少女の私には、秋は、この歌と共に訪れました。 若者の心に、ぽとりとしずくをおとして、その水滴がやわらかい紙ににじむように、心をぬらしてゆく歌でした。 牧水は、昭和三年に亡くなった歌人ですが、もう古典の中に入れてもよいように思われます。そのしらべの美しさ、純粋さ、そのくせ、しんに強い線が男っぽく通っていて、いかにもゆったりと、おおらかな味わいのする歌です。 今よんでみても、その新鮮さはちっとも失せていません。そして、牧水の歌を一つまた一つと夢中でおぼえていたころの思い出も、もろともに、レモンのよう匂い立ちます。 〽いざ行かむ行きてまだ見ぬ山を見むこのさびしさに君は耐ふるや 少女の私には、ほんとの人生のさびしさはわかりませんでした。戦争中の日本には「旅ゆく」という、おおらかな情感は想像もできませんでした。それだけになお私は、見知らぬ国への旅、さびしさの果ての幾山河をあごがれたのです。 〽吾木香(われかう)すすきかるかや秋くさのさびしききはみ君におくらむ ▼関連:若山牧水 参考:吾木香すすきかるかや秋くさのさびしききはみ君におくらむ 『別離』(明治43年刊) きわめて個人的な出来事である恋愛の歌が普遍性をもつときの妙味というものを、牧水の歌はいつもよくおしえてくれる。 彼の場合、個人のかなしみやよろこびに普遍性を与えようと意図して歌っていたというより、彼の思いそのものが、つねに普遍的なかたちでこの世界のありようと分かち難く存在していたのだと感じられる。 ほそほそとした秋くさのあわいの空気とともに、牧水のさびしさの震える感触があって、その分かち難さの表現が、自然と抽象度を帯びた相聞歌となって流れ出ている様を、しみじみ味わってみたい。 この歌をおぼえたのは林芙美子さんの小説だった思います。軍隊へ入った夫から、女主人公の妻へあてた手紙に、この歌が書きつけてあったのです。私は、われもこうという草をみたいと思って、熱心に調べたことをおぼえています。 海の聲 〽白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ 〽けふもまたこころの鉦(かね)をうち鳴らしうち鳴らしつつあくがれて行く 〽多摩川の砂にたんぽぽ咲くころはわれにもおもふひとのあれかし こういう歌を少女時代によむと、一つの歌だけで、一時間も、ぼんやり、いろいろ考えごとができるのでした。「白鳥は」の歌など、すぐれたふかい交響楽を聞いたあとのように、いつまでも余韻がのこって、体のうちの小さな鐘はひびき交わし、鳴りどよもし、やわらかな心の中に消えることなく、この歌が彫りつけられてゆくのでした。 牧水の恋歌には、抽象された格調高さがあります。あたらしい古典美、というような。 〽山を見よ山に日は照る海を見よ海に日は照るいざ唇(くち)を君 〽ともすれば君口無しになりたまふ海な眺めそ海にとられむ 〽君かりにかのわだつみに思はれて言ひよらればいかにしたまふ これらの恋歌は、どれだけたくさんの若者の、日記や恋文の端にかきつけられてきたことでしょう。 牧水の歌は、そこに特徴がありました。若者たちは、牧水の歌を、自分の歌のように思いなして使うのでした。どんな若者の、どんな恋にも、牧水の歌はぴったり、はまってくれました。引用する、というものでなく、若者たちが自分で作るべかりし歌、そのものが、牧水の歌でした。 〽かたはらに秋ぐさの花かたるらくほろびしものはなつかしきかな 古い村、古いまちを通るとき、また、人生の中歳に達した人が来し方をふとふりかえりみるとき、私たちは自分の作りたかった歌を、牧水の歌の中からみいだします。もう牧水が歌ってくれた以上、私たちはそれを口ずさむだけでよいのです。私が彼の歌を古典という所以です。牧水は、酒を愛した人でしたから、ちゃんと、こういう歌も、作ってくれました。 路上 〽われ歌をうたひくらして死にゆかむ死にゆかむとぞ涙を流す 〽終りたる旅を見かへるさびしさにさそさわれてまた旅をしぞおもふ:(岩波文庫P.44:家内とアメリカから帰った時の新聞に書かれていた) くろ土 〽わがこころ澄みゆく時に詠む歌か詠みゆくほどに澄める心か ※田辺さんの原文に黒崎が少し挿入している。 2008.11.23 |
一 石川はえらかったな、と おちつけば、しみじみと思ふなり、今も。 *(折々のうた)朝日新聞十六年十月十七日より ▼作詞者 土岐善麿 作曲者 橋本国彦 一 さすらいの 旅(たび)に出(い)でても恋(こい)しきは ふるさとの山 思い出の 川のひびきに かんこ鳥 声はまぎれず胸(むね)くるし胸(むね)くるし 胸(むね)くるし 若き愁(うれ )いよ 二 東(ひがし)の島の浜辺(はまべ)に たわむれし かにはいずくぞ 人の世(よ)の 嘆(なげ)尽(つ)きねば あこがれの 明日(あす)を思いぬ 歌かなし 歌かなし 歌かなし永久(とわ)の命(いのち)や |
少年の目は物に感ぜしや われは波宜亭の二階によりて かなしき情歓の思ひにしづめり。 その亭の庭にも草木茂み 風ふき渡りてぼうぼうたれども かのふるき待たれびとありやなしや。 いにしえの日には鉛筆もて
欄干
波宜亭
5月11日東京で死んだ。日本近代詩壇に新風を吹き込んだ代表的詩人。前橋に生まれ、第六高等学校中退。評論にも独自の境地を示した。詩集『月に吠える』『青猫』 *桑原武夫編『一 日 一 言』ー人類の知恵ー(岩波新書)P.80 *青木雨彦監修『中年博物館』(大正海上火災保険株式会社)P.73 2020.05.12 |