★和歌・俳句・うた

改 訂 版 2022.12.08 改訂

目 次

01万葉集
(759年)
02山上憶良
(660~730年)
03柿本人麻
(7~8世紀)
04山部赤人
(~736年?)
05大伴家持の歌
(718~785年)
06古今和歌集
(905年頃)
07西行法師
(1118~1190年)
08梁塵秘抄
(1719年)
09新古今和歌集
(1210年)
10閑吟集
(1518年)
11芭 蕉
(1644~1694年)
12与謝蕪村
(1715~1783年)
13一 茶
(1763~1827年)
14頼 山陽の五言
(1780~1832年)
15土井 晩翠
(1871~1952年)
16与謝野 鉄幹
(1873~1935年)
17高浜 虚子
(1874~1956年)
18島 木赤彦
(1876~1925年)
19与謝 野晶子
(1878~1942年)
20山頭火
(1882~1940年)
21斉藤茂吉
(1882~1953年)
22高村光太郎
(1883~1956年)
23石川啄木
(1885~1912年)
24尾崎放哉
(1885~1926年)
25若山牧水
(1885~1928年)
26土岐善麿
(1885~1980年)
27萩原朔太郎
(1886~1942年)
28吉井 勇
(1886~1960年)
29柳 宗悦
(1889~1961年)
30室生犀星
(1889~1962年)
31三木露風
(1889~1964年)
32大石順教
(1889~1968年)
33八木重吉
(1892~1927年)
34中川一政
(1893~1991年)
35西脇順三郎
(1894~1982年)
36宮沢賢治
(1896~1933年)
37中村久子
(1897~1968年)
38清水かつら
(1898~1951年)
39安積得也
(1900~1994年)
40金子みすゞ
(1903~1930年)
41木村無想
(1904~1984年)
42三好達治
(1906~1964年)
43坂村真民
(1909~2006年)
44柴田トヨ
(1911~2013年)
45相田みつを
(1924~1991年)
46長崎源之助
(1924~2011年)
47茨木のり子
(1926~2006年)
48新川和江
(1929~)
49谷川俊太郎
(1931~)
50大島みち子
(1942~1963年)
51星野富広
(1946~)
52『早春賦』 53****** 54******


☆01万葉集 (759)

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▼『万葉の人びと』 犬養孝(PHP)

現代に生きる万葉のこころ P.9

 皆さん、これから三十七回ににわたって゛万葉の人びと゛ということでお話したいと思います。歌のよみ方の異同だとか、言葉の解釈など、細かい点まで触れることはできませんが、皆さんと共に万葉の世界を楽しく探ってみたいと思います。

 皆さんは、学校で『万葉集』を習われますでしょう。何しろ『万葉集』は、およそ千三百年前の歌、一番古い歌集ですから、学校で、日本人の教養としても知っておかなければならないから習う、とお思いになるかも知れない。その通りだとだと思います。しかし『万葉集』は、ただ古いから勉強するというだけではありません。万葉の歌は今日も生きているんですよ。千三百年前の一番古い歌が一番新しく、現代人の心に生きてくるんです。

 一つだけそ証拠を挙げましょう。

 私が大阪大学におりましたときに、学生を連れて、『万葉集』にうたわれた故地を歩きました。その回数、百二十回。参加した学生役二万人。正確に言いますと一万八千五百十四人です。その人たちが、現地に行って、

 「先生、すばらしいですねぇ。人麻呂の心ってすごいですねぇ。万葉びとって詩人ですね」

 と言って感激するんです。その感激がもう、忘れられない。出席などなにも取らないのに、そんなに大勢来るんです。私はそれだけで万葉の心が今日も生きているいる一つのいい証拠になると思うんです。

 では『万葉集』を生きた形で理解しようとするにはどうしたらいいでしょうか。

 一つは万葉の時代は、たいへん古い時代ですね。一番新しい歌でも、天平宝宇三年、西暦七五九年に詠まれたものです。そうすると、今から千二百余年前でしょ。そうした古い時代ですから、その歴史の中に置いてみないと万葉の歌は理解できません。歌が生きてこないんです。

 たとえば、『万葉集』四千五百余首の中には恋の歌がとても多いんです。どうしてそんなに多いのでしょうか。それは、今とは結婚生活が全然違うからです。今日は、たいがいつきあって、結婚式をあげて新婚旅行に行き、そしてアパートなどにいるでしょ。すると年中一緒にいるから、恋いしいのなんのって言っていられないでしょう。もう脇で赤ちゃんが泣いたりすると。ところが万葉時代は、夫婦は相当長い間別居なんです。ゆくゆく一緒になりますけれど。そういう別居だということを知れば、なるほど両方でもって恋し合うことの多いのもよくわかることでしょう。

 『万葉集』にはとても恋の歌が多い。女の人の恋の歌は待つ歌がいちばん多い。夫の来るのを待つ歌、夫が帰って行ってしまったあとの気持の歌、そいう歌が非常に多い。ということは、やはり今とは違うんです。我々は、現代に生きているものですから、現代をきじゅんにして物を考えがちです。たとえば、今日、みんな新婚旅行するでしょう。だから万葉時代も新婚旅行するのかと思って、学生さんがまじめな顔で、「先生、万葉時代の貴族はどこへ新婚旅行に行ったんでしょか」なんて聞く。それからまた、人麻呂が「大君は神にしませば……」と言いますね。すると天皇は神じゃないですよ。人間宣言をなさったもの」なんて言う。とんでもないことです。古い時代の事を今の感覚で考えていては、万葉の歌はりかいできません。「大君は 神にしませば……」というのも、壬申の乱という、あの大乱後の天武天皇。持統天皇、そういう方々を考えた時に、初めてわかるので、だから歴史の中、時代の中に歌を戻さなければならないのです。

 もう一つ、万葉の歌は日本全国の風土と密着しているんです。ただ『万葉集』には北海道・青森県・秋田県・山形県・岩手県・沖縄県は出てこない。その他の日本全国各県は出てくるのです。それらの土地は風土がみな違うでしょう。たとえば雪ひとつにしても札幌の人は、雪を何とも思っていないでしょう。雪が嫌だったら暮らせないし、雪なんか少しも珍しくない。だから、雪は生活の一部になっている。ところが、飛鳥あたりになりますと、雪はめったに降りません。だから古代でも雪が降ったら、もう大喜びするんです。

 たとえば天武天皇は、 

 〽わが里に 大雪降れり 大原の 古(ふ)りにし里に 落(ふ)らまくは後(のち) (巻二ー一〇三)

゛わが里には大雪が降ったよ゛と言われてはいますが、実は大雪ではないんですね。飛鳥あたりですから、ほんのちょっぴり降ったんです。それでも嬉しいから゛わが里に 大雪降れり 大原の 古りにし里に 落らまくは後゛と、こううたっているんでしょう。すなわち、雪ひとつにしても土地が違えば感じが違うんです。だから、やはりそれぞれの風土に、たとえば、瀬戸内海で生まれた歌は、瀬戸内海の風土にかえしてみないとわかりません。これから万葉の人びとの話をはじめますが、常に歴史の中に、時代の中に置いてみようと思う、その関連でみていきたいと思います。

 『万葉集』というのは、いわば歌の博物館のようなものです。作者のだれ一人として、その中に自分の歌を入れてもらおうなど思って作ったわけでありません。それぞれの歌は、それぞれの時代に、それぞれの場所で生まれたものですから、歌を本当に理解するためには、その歌の生まれた時代や生まれた風土にできる限り戻してみなければなりません。そうして、初めて博物館の標本のような歌が生き生きと躍り出して来るんです。

 もう一つ、例を挙げてお話してみましょう。それは天平八年、西暦七三六年、遣新羅使人(けんしらぎしじん)といって、新羅に遣わされたお使いの人々の歌があります。その中で一つ、あとに残る奥さんの歌、

   〽君が行く 海辺の宿に 霧立たば

   吾(あ)が立ち歎く 息(いき)と知りませ〽    (巻十五━五八〇)

 妻はこう言うんです。"新羅まで行かないで家に残っておりますから、あなたのいらっしゃる海辺の宿に霧が立つことがあったら、その霧は、私が家で歎いているため息と思ってちょうだいね"と言っているんです。すばらしい歌でしょう。『万葉集』には愛の歌が大変多いんですが、私はあなたが好きだとか、愛して愛してやまないとか、離れられないとか、そんな観念的な言葉をちっとも使わないんです。それは、この歌をみてもわかるでしょう。

 "あなたのいらっしゃる海辺の宿々に、もし夕霧が立つことがあったならば、その霧は、私が家で歎いているため息と思ってちょうだい"って言うのですから。愛の心持が具体的に表現されているでしょう。形をそなえて表されているんです。そしてまた、天平八年のころの瀬戸内海というのは、今と違います。瀬戸内海というのと、今日では、風光明媚な海の景ーーを想像されるでしょう。ところが、当時は絶対に違う。『万葉集』を読んでみますと、瀬戸内海はほとんど海のこわさに尽きるんです。潮の流れ、風がある、また波もある。大変危険です。瀬戸内海を通るだけで、約ひと月近くかかるんです。そいう昔に還元してみれば、この歌の、妻君が"あなたのいらっしゃる海辺の宿、その宿々にもし夕霧が立つことがあったら、どうぞその霧は、私が家で歎いているため息と思って下さいね"と歌う気持が分かりますね。

 夫は難波(なには)から瀬戸内海をだんだんとすすんでいって、今の広島県の方まで来た。広島県安芸津町風早という所があるんです。それはちょうど、糸崎、三原よりももっと西、国鉄呉線に乗って、呉の方へ向かった、景色のいい所です。その風早の浦で、おそらく妻からそういう歌をおくられた人の歌なんでしょう。こういう歌がある。

   〽わがゆゑに 妹歎くらし 風早の

   浦の沖辺(おきへ)に 霧たなびけり〽      (巻十五━三六一五)

 "私のために彼女は歎いているようだな。おお、今日は風早の浦の沖辺に霧がかかっているぞ"このように歌うんです。

 風早の浦の沖辺に霧がかかっているというのは、瀬戸内海は今日でも霧日数の大変多い所なんです。だから、霧を見て、"ああ、これは彼女のため息だな"と思っているんです。

 "霧は霧だよ、自然現象としての霧だよ"と思ったら、それはそうに違いないでしょう。ところがこの歌では、霧は自然現象の霧であると共に、彼女の心だというんです。霧のまわりに、いわば人間の心の厚みがかかっている。これはすばらしい。やはり千三百年前の時代に戻し、その歴史の中に置いてみ、しかもその風土の中に置いた時、歌が生き生きとしてくるんです。

 私は風早の浦の所へ立って、この歌の話をしました。すると、学生諸君が「わあ先生、すばらしいですねぇ。万葉びとって詩人ですねぇ」とこう言った。その「詩人ですねぇ」というのは、いわばすばらしい人間の心を発見した喜びでしょう。それが忘れられないから、学生諸君が、「万葉の旅を続けて下さい、続けてください」と言うんですね。言うならば、忘れていた心を、学生はじかに風早の海岸で体験したんです。こういうことからも、万葉の歌が生きているということがわかるでしょう。我々の胸にじかに響いて来るんです。

 では、もう一度うたってみましょう。

 〽わがゆゑに 妹歎くらし 風早の 浦の沖辺(おきへ)に 霧たなびけり

 だから万葉の歌は、あたう限り歴史と共に、時代と共に理解していかねばならない。そうしてまた風土と共に理解していかなくてはなりません。このようにして、万葉の歌を理解し、万葉の人びとの心の世界を探ってみたいと思います。

 以上を"万葉の人びと"のオリエンテーションといたします。 


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(巻一 一)(岩波文庫) P.43

 〽()もよ み()持ち ふくしもよ みぶくし持ち この(をか)に 菜摘(なつ)ます() 家聞かな ()らさね そらみつ やまとの國は おしなべて (われ)こそをれしきなべて (われ)こそませ 我こそは ()らめ 家をもなをも  

*参考:「ふくし」は竹や木の先をへら状にとがらせた、土をほる道具。

2008.10.27

(巻一 二七) P.27

 〽淑(よ)き人のよしとよく見てよしと言(い)し芳野よく見よよき人よく見つ
*(岩波文庫) 昭和四二年六月二〇日 第四六刷発行 以下同じ。

*朝日新聞2008.10.23 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より

よき人の よしとよくみて よしと言ひし 吉野(よしの)よくみよ よき人よく見つ

 りっぱな人がいい所だとよーく見た。そして「よい」と言った吉野よ。よく見よう。りっぱな人がよく見たのだから

(巻一 五一)(岩波文庫)P.56

 〽采女(うねめ)の袖吹きかへす明日香(あすか)(みやこ)を遠みいたづらに吹く 〔明日香宮より藤原宮に(うつ)りませし後、志貴皇子(しきのみこ)の作りませる御歌〕

*朝日新聞2009.11.28 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より

采女(うねめ)の袖(そで)吹きかへす 明日香風(あすかかぜ)都を遠み 無用(いたずら)に吹く

私見:岩波文庫では「たずら」にとかかれていますが中西先生は無用(いたずら)と書かれています。

参考:うねめ【采女】:「うねべ」とも。古代、天皇のそばで日常の雑役に奉仕した後宮の女官。

(巻一 五三)(岩波文庫) P.57

〽藤原の大宮づかへあれつくや處女(をとめ)がともはともしろきろかも〔作者はいまだ詳かならず〕

*朝日新聞200.8.23 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より

藤原(ふじはら)の 大宮仕(つか)へ 生(あ)れつぐや 処女(おとめ)がともは 羨しきろかも

 藤原の宮に奉仕するために生まれつづくのか。少女たちは。うらやましいことだ

私見:岩波文庫でよむと「あれ」の意味が分かりません。古語辞典ではあれ【生まれ】うまれ、うじ素性。ともし【羨し】うらやましい。ナカニシ先生の歌のほうが私ども古語になれないものには親切である。つぎに先生が解説されている説明は当時の歴史をしらなければ想像もつかないものだと。いのち与えるは おとめの役割で纏められている。

(巻一 五四)(岩波文庫) P.54

巨勢(こせ)山の つらつら椿 つらつらに 見つつ (しの)はな 巨勢の春野を 坂門人足(さかとのひとたりかんじ)

*朝日新聞2010.04.18 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より

 巨勢山(こせやま)の つらつら椿 つらつらに 見つつ思(しの)はな 巨勢の春野を   

 そこで『万葉集』ではツバキがりっぱな男性の比喩に使われました。

(巻一 六四)(岩波文庫)P.59

 〽葦辺(あしへ)行く(かも)羽交(はがひ)に霜降りて 寒き(ゆうべ)は大和し思ほゆ 〔志貴(しき)皇子の作りませる御歌 〕

*朝日新聞2009年11月6日 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より

 葦辺(あしへ)行く 鴨(かも)の羽交(はがひ)に霜降りて 寒き夕(ゆうべ)は大和し思ほゆ

 「ところでカモは雌雄仲のいい鳥で、『万葉集』でもかならずいっしょにいる姿が歌われています。皇子はアシ辺のカモの姿から妻を思いやったにちがいありません。」と説明されています。

私見:「ゆうべ」と「ゆうへ」のよみが異なるのはなぜでしょうか。

(巻一 八二)(岩波文庫)P.62

 〽うらさぶる(こころ)さまぬしひさかたの(あめ)時雨(しぐれ)の流らふ見れば 〔長田王(ながたのおほきみ)伊勢斎宮(いせのいつきのみや)に遣しし時、山邊の御井(みゐ)にして作れる歌 〕    

*朝日新聞2009年11月14日 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より

 うらさぶる 情(こころ)さまぬし ひさかたの  天(あめ)しぐれの 流らふ見れば

私見:「長田王」の読みが「ながたのおほきみ」と「おさだのおおきみ」と異なっているのは?

 うらさびの説明に何の飾りもごまかしもない、ほんとうに心のうつろな状態が「さぶ」という状態です。わびしさで胸がいっぱいになる。無限の空をこめて、時雨(しぐれ)が降りつづくのを見ると(後略)。参考になりました。


◆(巻二 一三三)(岩波文庫)P.80

 〽ささの葉はみ山もさやに(さや)げども吾は妹おもふ別れ来ぬれば 

*朝日新聞2010.01.23 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より

 小竹(ささ)の葉は み山もさやに 乱(さや)げども われは妹(いも)思ふ 別れ来(き)ぬれば

 柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の歌

 たしかな愛の信念です。

◆(巻二 一五八)(岩波文庫)P.85

 〽やまぶきの立ちよそひたる山清水(しみず)()みに行かめど道の知らなく 

*朝日新聞2010.01.23 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より

   山振(やまぶき)の 立ち儀(よそ)ひたる 山清水(やましみず)酌(く)みに行かめど 道の知らなく 高市(たけちの)皇子(みこ)の歌

 当時ヤマブキは永遠を象徴する花だと考えられていました。

 皇女の死は陰暦四月七日。ちょうどヤマブキがまっ盛りのころでした。作者は身のまわりに咲くヤマブキを見つめながら、生命の泉を幻に描くばかりで、絶望にうちひしがれていたことでしょう。


◆(巻三 二五〇)(岩波文庫)P.117 

 〽玉藻刈る敏馬(みねめ)を過ぎて夏草の野島が崎に船近づきぬ

*朝日新聞200.9.05 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より

 珠藻(たまも)刈る 敏馬(みねめ)を過ぎて 夏草の 野島(のしま)の崎に 船近づきぬ 〔柿人麻呂の歌〕

 先生の説明では現在、東京に首都圏ということばがありますね。奈良県に都があったころの首都圏は、だいたい明石海峡まででした。

 都の領域を出て、いよいよ「真旅(またび)」、本格的な旅が始まったのです。(中略) 見知らぬ地へ 不安と緊張のたび 

私見:万葉集を読むといつも当時の歴史・風土・人心などを知らなければ、歌の心を読み取ることが出来ないものだと。

◆(巻三 二六六)(岩波文庫)P.120

 〽淡海(あふみ)()夕波千鳥()が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ

*朝日新聞200.9.05 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より

 淡海(あふみ)の海(うみ) 夕波千鳥(ゆなみちどり) 汝(な)が鳴けば 情(こころ)もしのにいに 古(いにしえ)思ほゆ 〔柿本人麻呂の歌〕

 先生の説明では、むかしは、死者の魂が鳥にになると信じられていましたから、死者の魂が湖上にみちみちてきたのですね。

◆(巻三 三一八)(岩波文庫)P.127   

   田児(たご)の浦ゆうち()でて見れば眞白(ましろ) にぞふ盡(ふじ)の高嶺に雪はふりける  

*朝日新聞2010.01.23 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より

 田児(たご)の浦ゆ うち出(い)でて見れば 真白(ましろ)にそ ふ尽(ふじ)の高嶺に 雪はふりける  〔山部赤人の歌〕

*百人一首では(『百人一首一夕話 上』P.67)

 田子(たご)の浦に うち出(い)でて見れば 白妙(しろたへ)の 富士(ふじ)の高嶺(たかね)に 雪(ゆき)降(ふ)りつつ

私見:岩波文庫、ナカニシ先生、百人一首で読み方が違っています。

2010.01.24

私見:が読み方が違っています。


◆(巻四 四八八)(岩波文庫)P.167

 〽君待つとわが戀ひをればわが屋戸(やど)のすだれ動かし秋の風吹く 〔額田王(ぬかたのおおきみ)の歌 〕 

*朝日新聞2010年9月25日 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より

 君待つと わが恋(こ)ひをれば わが屋戸(やど)の すだれ動かし 秋の風吹く

◆(巻四 五九六)(岩波文庫)P.182

 〽八百日(やほか)行く濱の(まなご)も吾が戀にあに (まさ)らじか沖つ 島守(しまもり)笠女朗(かさいらつめ)の歌〕

*朝日新聞2010.04.25 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より

 八百日(やほか)行く 浜の沙(まなご)も わが恋に あに益(まさ)らじか沖つ島守しまもり   

※何日もかかっていくほどの長い浜の砂の数でも私の恋心に勝ることはないでしょう。遠い沖から見ている番人さま。

◆(巻四 六〇八)(岩波文庫)P.183

 〽相思(あひおも)はぬ人を思ふは大寺の餓鬼(がき)の後に(ぬか)づくごとし 〔 笠女朗(かさいらつめ)の歌〕

*朝日新聞2009.07.19 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より
 相思(あいおも)うはぬ 人を思ふは 大寺(おおでら)の 餓鬼(がき)の後(しりえ)に (ぬか)づくがごと
 思ってくれないひとを思うとは、大寺の餓鬼を後ろから拝むみたいだ
 作者・笠女朗は同じく万葉歌人の大伴家持が大好きでした。そこで二十四首もの歌を家持の送りつづけます。

◆(巻四 七一〇)(岩波文庫)P.195

 〽み空行く月の光にただ一目あひ見し人の(ゆめ)にし見ゆる 〔安都扉娘子(あとのとびらのおとめ)の歌〕 

*朝日新聞2010年8月21日 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より
 み空行く 月の光に ただ一目(ひとめ)あひ見し人の 夢(ゆめ)にし見ゆる

 音楽などの芸を売って、各地をさすらった女性たちでした。夢の中でのはかなき出会い

2010.8.30


◆(巻五 七九三)(岩波文庫)P.209

 〽世の中は空(むな)しきものと知る時しいよいよますます悲しかりけり

2008.10.23

◆(巻五 七九八)(岩波文庫)P.211

 〽妹が見しあふちの花はちりぬべしわが泣く涙いまだ()なくに 〔筑前國守山上憶良上〕(岩波文庫)

*朝日新聞2010年8月21日 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より

 妹(いも)が見し 楝(おうち)の花は 散りぬべし  わが泣く涙(なみだ) いまだ干(ひ)なくに

 九州・太宰府(だざいふ)で作者は長官・大伴旅人(おおとものたび)の妻の死に遭遇(そうぐう)します。

 悲しみのあまり、口のきけない旅人に代わって、作者は「亡き妻を悼(いた)む歌」を作りました。当時、文学者の中に、妻を失った悲しみを歌う伝統があったからです。

 作者は訴えます。まだ悲しみにくれているのに、妻が愛したオウチ(センダンのこと)の花が散ってしまったら、もう妻をしのぶ手段すらなくなるではないか、と。

 「ぬべし」ということばづかいが抜群です。この表現から、花がいまにも散ってしまいそうなけはいが、ありありと見えてきます。
 突然消えた死者ばかりか、な残を惜しむ手段まで、消えてしまう――そう思うときの、凍りつくような心の冷たさ。

 何ものからも心が拒絶される孤立感は、死者の悲しい置き土産ですね。

 心が拒絶される孤立感

2010年10月23日14時44分

(巻五 八〇三)(岩波文庫上巻)P.212 

 〽(しろがね)も (くがね)も玉も 何せむに まされる寶子に()かめやも 〔山上憶良の歌〕 

 この歌も山上憶良(やまのうへのおくら)の歌で、先に紹介した巻五(八〇二)の歌の反歌。こちらも長歌のほうとともに非常に有名な歌ですので、みなさんも一度ぐらい聞いたことがあるのではないでしょうか。

 銀も金も玉も、どんな宝であっても子供には敵わないとの思いは、子供を持つ親なら誰でも共感できる素直な気持ちですよね。 


◆梅花の歌三十二首幷に序 岩波文庫 新訓 万葉集巻五 P.217

 天平二年正月十三日、(そち)(おきな)(いへ)(あつ)まるは、宴會を()ぶるなり。時に初春の()き月、氣()く風(なご)み、梅は鏡の前の粉を(ひら)き、(らに)は珮の後の香を薫らす。

■新元号「令和」と決定。2019.04.01(平成三十一年四月一日)

 「初春の()き月」の令と「氣()く風(なご)み」の和とからとられた。

補足:「令和」の引用元は、奈良時代の歌集「万葉集」巻五に収録された梅花の歌の「序」にある以下の文だ。

「初春の令月にして、気淑(よ)く風和らぎ」

 これは歌人・大伴旅人(たびと)を中心とする歌会の前置きの言葉とされ、旅人が宴を楽しむ心情を読んだものだと言われる。

 大伴旅人は、万葉集の編纂者とされている大伴家持の父。つまり「令和」は「大伴氏が詠み、大伴氏が編纂した文」から引用されているわけだ。

 角川ソフィア文庫の「新版 万葉集(現代語訳付き)」によると、原文はこうだ。

 天平二年の正月の十三日に、師老の宅に萃まりて、宴会を申ぶ。

 時に、初春の令月にして、気淑く風和ぐ。梅は鏡前の粉を披く、蘭は珮後の香を薫す。しかのみにあらず、曙の嶺に雲移り、松は羅を掛けて蓋を傾く、夕の岫に霧結び、鳥はうすものに封ぢらえて林に迷ふ。庭には舞ふ新蝶あり、空には帰る故雁あり。

 ここに、天を蓋にし地を坐にし、膝を促け觴を飛ばす。言を一室の裏に忘れ、衿を煙霞の外に開く。淡然自ら放し、快然自ら足る。もし翰苑にあらずは、何をもちてか情を述べむ。詩に落梅の篇を紀す、古今それ何ぞ異ならむ。よろしく園梅を賦して、いささかに短詠を成すべし。

 天平2年(730年)の正月の13日、歌人で武人の大伴旅人(おおとものたびと)の太宰府にある邸宅で開かれた梅花の宴の様子を綴ったものだ。

 「令」と「和」の文字が入った一文は、「初春の佳き月で、空気は清く澄みわたり、風はやわらかくそよいでいる」という意味。季節が春に向かおうとしているのどかで麗らかな様子が描かれている。

「現代語訳」

 天平2年の正月の13日、師老(大伴旅人・おおとものたびと)の邸宅(太宰府)に集まって宴会を行った。

 折しも、初春の佳き月で、空気は清く澄みわたり、風はやわらかくそよいでいる。梅は佳人の鏡前の白粉のように咲いているし、蘭は貴人の飾り袋の香にように匂っている。そればかりか、明け方の山の峰には雲が行き来して、松は雲の薄絹をまとって蓋をさしかけたようであり、夕方の山洞には霧が湧き起こり、鳥は霧の帳に閉じこめられながら林に飛び交っている。庭には春に生まれた蝶がひらひら舞い、空には秋に来た雁が帰って行く。

 そこで一同、天を屋根とし、地を座席とし、膝を近づけて盃をめぐらせる。一座の者みな恍惚として言を忘れ、雲霞の彼方に向かって、胸襟を開く。心は淡々としてただ自在、思いは快然としてただ満ち足りている。

 ああ文筆によるのでなければ、どうしてこの心を述べ尽くすことができよう。漢詩にも落梅の作がある。昔も今も何の違いがあろうぞ。さあ、この園梅を題として、しばし倭の歌を詠むがよい。

「令和」考案は中西進氏 古事記・日本書紀含め、3案が国書典拠:毎日新聞2019年4月3日 02時00分(最終更新 4月3日 04時36分)

 中西進氏:「平成」に代わる新元号「令和(れいわ)」の考案者は、万葉集研究で知られる中西進・大阪女子大名誉教授(89)だった。政府関係者が認めた。また、政府が1日に有識者や閣僚らに提示した六つの新元号案は「令和」のほか、「英弘(えいこう)」「久化(きゅうか)」「広至(こうし)」「万和(ばんな)」「万保(ばんぽう)」だった。政府筋によると、うち三つは国書が出典。「令和」で引用された万葉集のほかは、日本最古の歴史書「古事記」と、朝廷の公式な歴史書「日本書紀」という。

 中西氏は2日、京都市内の自宅前で記者団から考案者かと問われると、「お話しすることはありません」と述…

参考:犬養 孝(いぬかい たかし.1907年4月1日 - 1998年10月3日)は日本文学者(万葉学者)。大阪大学、甲南女子大学名誉教授。文学博士。文化功労者。高岡市万葉歴史館名誉館長。東京都出身。弟の犬養廉も日本文学者でお茶の水女子大学名誉教授 中古(平安時代)日本文学研究者。


◆(巻五 八九三) (岩波文庫)P.229 

 〽世間(よのなか)()しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば 〔山上憶良の歌〕 

 現代語訳:世の中をつらい、身も細くなるほど耐え難いと思うけれども、(どこかへ)飛んでいくことはできない。鳥ではないのだから。

 以下は朝日新聞2010年6月19日 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より

 作者の山上憶良には独特の人生観がありました。

 それでは人間はどうしたらよいか。憶良は苦しみの中ですばらしい物をつかむことが大切だと考えました。苦しみが大きいほど、すばらしさは大きくなります。
 (のが)れようもない人間の苦しみをまっすぐに見つめ、大切なものを求めて歌や文章を書いた憶良――。
 きわめてユニークですが、そうした作品をおさめたことで、「万葉集」はより大きな幅をもつ古典となりました。

私見:ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)の説明で、人生観に触れられているのは珍しいものでした。

2010.06.30

◆(巻五 八九四)(岩波文庫)P.229 

 〽神代より 言ひ()()らく そらみつ 倭の國は 皇神(すめがみ)の (いつくしき國 言霊(ことだま)の (さち)はふ國と 語り繼ぎ 言ひ()がひけり (以下略)〔山上憶良の歌〕 (岩波文庫)  

参考1:ことだま【言霊】:言語に宿っている不思議な霊力。
参考2:ことだまの幸はふ國 「言霊」の力で幸福がもたらせる國。


◆(巻六 九一九)(岩波文庫)P.249

 〽若の浦潮満ち来れば(かた)を無み葦邊(あしべあしべ)をさして(たづ)鳴き渡る  〔山部赤人(やまべのあかひと)の歌 (岩波文庫)

*朝日新聞2009.1.22 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より

 日本の冬は、たくさんな空の旅人でにぎわいます。海をこえてシベリアなどからやって来るとりたちです。

 とくに日本は世界でも指折りの、ナベヅルやマナヅルの飛来地です。わたしたちが、寒い寒いといっている冬も彼らにとっては、暖かい天国なのですね。
*私感:私の故郷も海辺です。たぶん同じように鶴が飛来してきていたのだろう。姉妹の名前は千鶴子・田鶴子でした。

◆(巻六 九七八)(岩波文庫)P.261

 〽(をのこ)やも(むな)しかるべき萬代に語り()ぐべきなは立てずして 〔山上憶良、疴(やまひ)に沈みし時の歌〕(岩波文庫) 

*朝日新聞2010年6月26日  ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より

激励か、生涯の悔恨か

 士(おのこ)やも 空(むな)しくあるべき 万代(よろずよ)に 語り續(つ)ぐべき なは立てずして

 男子は、むざむざと一生をすごしてはいけない後のちに語りつがれるような名声も立てずに

 家柄にも出世コースにも恵まれなかった憶良は、四十歳で命をかけた中国派遣の使節団の一員となり、やっと出世のいと口をつかみました。
 士――りっぱな男子を志した生涯をここで閉じました。数え年七十四歳でした。

参考:巻五 八九三 にも〔山上憶良の歌〕が歌われています。併せて読んでください。


◆(巻七 一〇七五)(岩波文庫)P.283

 〽海原(うなばら)の道遠みか月讀(つくよみ)(あかり)すくなき夜はくたちつつ 〔作者不明〕(岩波文庫)

*朝日新聞2010年6月26日  ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より

 月夜にやさしい出会いを2010年8月28日

 海原(うなはら)の 道遠みかも 月読(つくよみ)の 明(あかり)すくなき 夜はくたちつつ

 天が水の世界だというのは、「旧約聖書」も同じですね。
 この大きな海原を、月が舟となって渡ってくると、作者は考えます。「万葉集」には「月の舟」ということばもあります。
 月夜、友人との出会いを望んだ中国の詩人に、むかし王子猷(おうしゆう)がいました。フランス近代の詩人、フランシス・ジャムも、夜のやさしい出会いを、すぐれた詩によみました。

◆(巻七 一二〇七)(岩波文庫)P.295

 〽粟島にこぎ渡らんと思へども明石の()波いまだ(さわ)けり       

◆(巻七 一二四一)(岩波文庫)P.206

 〽ぬばたまの黒髪山を朝越えて山下露にぬれにけるかも 〔古集の歌〕

*朝日新聞2009.09.19 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より
*ぬばたまの 黒髪山を 朝越えて 山下露に ()れにけるかもける  (朝日新聞の記事から)

 朝、真っ黒な黒髪の山を越えて、山の下露にすっかり濡れたことだ、と説明されています。「恋人のぬくむくもり 後ろ髪引かれ」と一言もあります。


wakayama.isihaasiru.JPG ◆(巻八 一四一八)(岩波文庫)P.327

 〽(いは)ばしる 垂水(たるみ)の上の さ(わらび)の 萌え出づる春に なりにけるかも (岩波文庫)

*朝日新聞 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より

犬養孝『万葉の人びと』(PHP)P.17

 まず、歌は心の音楽だということをお話したいと思います。みなさんは、学校で和歌が出てくると、どういうふうに習われたでしょうか。私が学生の頃は、歌が出てくると先生は読んで訳されるだけでした。たとえばこの「石ばしる……」の歌についていえば、作者は、天智天皇の皇子の志貴皇子(しきのみこ)です。さて「石ばしる」は垂水の枕詞だ、石の上を水が走って流れる。垂水っていうのは滝だ、滝のほとりのさわらびの「さ」は接頭語。“滝のほとりのワラビが萌え出す春となったなぁ”。先生はこう訳されて、それで終わり、「では次」、そうでなければ、「いい歌ですねぇ。ではその」といった調子でした。私は学生の時少し生意気だったのでしょうね。国語の時間がつまらなかったのです。

 歌というのは、口語に訳したら本当につまらないものです。もし歌がその訳だけを生命とするならば、歌ほどくだらないものはないでしょう。だって“滝のほとりのワラビが萌え出す春となったなぁ”。これが千古の値打ちのある歌かということになるでしょう。歌というものは、何といっても人間の心の音楽です。作った人はとうの昔に死んでしまっている。万葉でいえば、千三百年前に死んでしまっている。しかし、その歌の心の音楽は今に生きているいるのです。

 石ばしる 垂水の上の さ蕨の 萌え出づる春に なりにけるかも

 こうやってうたっていくと、ほんとうに何だか春になった、今まで雪や氷に閉ざされていたところの春が来てホッとしたような、春の喜びが感じられるでしょう。それは、歌というものを普通はみんな意味で読みますね。だから意味がよくなければいけません。この歌にしても滝のほとりのワラビが萌え出す春となったというのは、本当に気持ちのいいことです。ところが意味だけではない。歌というのはやはり、五・七・五・七の型というものがあるでしょう。型というのは別の言葉で言えば、表現ですね。この歌にしても、さわらびに焦点を置いて、そのさわらびをちゃんと滝のほとりのさわらびだと限定して、そして、その滝の上には“石ばしる”という言葉があるから、イメージとして石の上を水が走って流れる感じがあるでしょう。さわらびに焦点を置いた上で、詠嘆しているのです。“萌え出づる春に なりにけるかも”と。表現が実によくできています。

 それから、この歌の大事な点は律動です。歌のリズムです。見てごらんなさい。この歌で"の"の""の"の律動はいかにも流動的に満ちているでしょう。いかにも流動的です。「石ばしる 垂水の上の さ蕨の」というのは、実に淀みなく、流動感に満ちているでしょう。いかにも、こんこんと流れてやまない感じ。その上、"萌え出づる春に なりにけるかも"と言葉を引き伸ばして言っているのも、ゆったりとして、春風駘蕩の感じがします。このように歌は、律動というものを抜きにしては考えられません。

*この歌を絵にされた若山 侑さんから贈られ、我が家の壁を飾っています。2008.6.11

*犬養先生の文章は2008.10.29 に写しました。

◆(巻八 一四三一)(岩波文庫)P.329

 〽百濟野(くだらの)の萩の古枝(ふるえ)に春待つとをりし(うぐひす)鳴きにけむかも 〔山部宿禰赤人の歌〕

*朝日新聞2010.04.11 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より
*百濟野(くだらの) 萩の古枝に 春待つと 居(お)りし鶯 鳴きにけむかも(朝日新聞の記事から)

 百濟野のハギの古枝に身をひそませて春を待っているウグイスは、もう鳴き始めたか

 このころ百濟野の地には、荒廃した離宮がありました。そこに身をひそめていたのはどの皇子だったでしょう。奈良時代は皇位継承をめぐって、皇子たちの受難がつづきました。歴史の謎を思わせる一首です。  

参考:百濟野は(奈良県北葛城郡広陵町百濟ノ野)               

◆(巻八 一四三三)(岩波文庫) P.329

 〽うち(のぼ)佐保の河原の青柳は今は春べとなりにけるかも  

*うちのぼる 佐保の川原の 青柳(あおやぎは 今は春べと なりにけるかも 〔大伴坂上郎女(いらつめ)の歌〕(朝日新聞の記事から)  

 ナカニシ先生は説明されています。さかのぼっていく佐保川の河原に、青柳は今こそ春の姿になった

 佐保川は春日山から流れ出し、奈良の都をななめに貫いて南下する川です。都人には、もっとも親しい川だったでしょう。(中略)
 そのもっとも美しい迎えの一つが春先のヤナギでした。ヤナギは春の初(うい)うしい若葉がよろこばれ、しなやかに細い葉は、美女の眉のたとえにつかわれます。反対に広がってしまったのは嫌だと、平安時代の清少な言もいい、ます。(後略)

◆(巻八 一五〇〇)(岩波文庫)P.338

 〽夏の野の繁みに咲ける姫百合(ゆり)の知らえぬ戀は苦しきものぞ 〔大伴坂上朗女(おおともさかのうえいらつめ)の歌〕  

*夏の野の繁(しげ)みに咲ける 姫百合(ひめゆり)の 知らえぬ恋は 苦しきものそ (朝日新聞の記事から)

*朝日新聞2009.08.29 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より

 「生い茂る夏草の底に咲く姫ユリ。そのように人知れず恋をすることは、つらい」 ひそやかな恋 野の花のようと説明されています。

2010.03.20

◆(巻八 一五五〇)(岩波文庫) P.345

 〽秋萩の散りの (まがひ)に呼び立てて鳴くなる鹿の聲のはるけさ 〔湯原王の鳴鹿の歌一首〕(岩波文庫)P.345  

*秋萩(あきはぎ)の 散(ち)りのまがひに 呼び立てて 鳴くなる鹿の 声の遙(はる)けさ (朝日新聞の記事から)  

 ナカニシ先生は説明されています。日本人はむかしから「飛花落葉(ひからくよう)」といって、花や葉が風に散る情景を美しいとかんがえました。……人びとは、その姿にいのちの神秘を感じたようです。


◆(巻九 一六六四)(岩波文庫) P.371

 〽夕されば小椋(をぐら)の山に()鹿の今夜(こよひ)は鳴かず()ねにけらし

*夕されば 小倉の山に 臥す鹿の 今夜(こよひ)は鳴かず寝(い)ねにけらしも 〔雄略天皇の歌〕(朝日新聞の記事から)  

 ナカニシ先生は説明されています。まずシカはなぜ鳴くのか。そう大好きなジカを求めて鳴くのですね。だから鳴かないとは、もう女ジカといっしょになって、安心して寝ていることを意味します。

 また小倉山とは、神様のいらっしゃる山のことですが、とくにおまんじゅう形の山を、したしみをこめてよぶ言い方です。

2009.10.24

◆(巻九 一六八二)(岩波文庫)P.373

〽とこしへに夏冬行けや(かはごろも)扇はなたぬ山に住む人  

*とこしへに 夏冬行けや裘(かはごろも)扇(おうぎ)はなたぬ 山に住む人 〔柿本人麻呂の歌集の歌〕(朝日新聞の記事から)

*「永久に夏と冬がつづいているのだろうか、皮の衣を着、扇をてばなさいやまの仙人よ」と、ナカニシ先生は読まれている。

 ある日の宮廷です。一枚の絵を中に、数人の人たちががやがやと騒いでいます。どうも中国の絵らしい。
 「これが仙人という者か」
 「ほう、不老不死の人間だ。扇で空も飛ぶと聞くが」
 「長年山に住んでいるから着物も動物の皮だ。丈夫だしな」

私見:中国で不老不死を求めていた話は読んだりしていましたが、万葉集に取り上げられているのも面白いものだと感じました。
参考:「始皇帝 不老不死」でインターネットで検索すると多くの記事があります。

2009.08.08

◆(巻九 一七〇〇)(岩波文庫)P.375

 〽秋風の山吹の瀬の(とよ)むなへ天雲(あまぐも)かける雁を()るかも  

*朝日新聞のインターネットの記事から

 秋風に 山吹(やまぶき)の瀬の 響(な)るなへに 天雲(あまくも)翔(か)ける 雁(かり)に逢(あ)へるかも

 柿本人麻呂の歌集の歌

 日本は四季のうつりかわりによって山も川も、空も海も、さまざまに変化してやみません。

 とくに日本人は春と秋の到着に敏感でした。それにともなって、すぐれた和歌が、たくさんよまれました。

 この歌もそのひとつ。『万葉集』の中でも指おりの秀歌です。

*私見:一字読み方が違っている。

2009.9.26

◆(巻九 一七九一)(岩波文庫)P.391 

 〽旅人の宿りせむ野に霜降らばわが子羽ぐくめ(あめ)鶴群(たずむらかんじ)) 〔作者不明〕

*天平5(733)年、日本政府が中国へ派遣した使節団に加わった一人の男性に対して、母親はこんな歌をおくりました。こどもは一人っ子だったようです。

 当時は航海や舟づくりの技術がまだまだ未熟で、全部で18回派遣(数え方は学者によって一致していません)したうち、往復とも無事が知られているのは1回きりです。(朝日新聞の記事より)

*当時の天(あめ)の鶴群(たずむら)が飛翔している様子を想像しますと、思ひをかける人たちが多くいたことでしょう。


◆(巻十 一八二一)(岩波文庫)P.403

 〽春がすみ流るるなへに青柳(あおやぎ)の枝くひ持ちて鶯鳴くも  

*春霞(かすみ) 流るるなへに 青柳(あおやなぎ)の 枝(えだ)くひ 持ちて 鶯(うぐいす)鳴くも 〔作者ふ明〕(朝日新聞22.04.04の記事から) 

 ナカニシ先生は、つぎのように説明されている。

   春になりました。春特有のの霞もぼっとまわりに立ちこめて、流れるようにただよっています。それにつられたのでしょうか、ウグイスも飛んできて鳴き声をひびかせます。ウグイスは「春告げ鳥」といわれて、春が来た証拠のようにみなされていました。

 さてそこで、ふしぎではありませんか。ウグイスは枝をくわえています。その一方で鳴くというのです。鳴けるはずがありませんね。

 じつは当時の人たちは枝や花をくわえる鳥の姿を美しい図柄として好んで画にかきました。「花食い鳥」という言葉もあります。

*「なへに」は…とともに。…につれて。(古語辞典)

◆(巻十 一八四〇)(岩波文庫)P.405

 〽梅が()に鳴きて移ろふうぐひすの(はね)しろたへに(あわ)雪ぞ降る  

*梅(うめ)が枝(え)に 鳴きて移ろふ 鶯(うぐひす)の翼(はね)白妙(しろたえ)に 沫雪(あわゆき)そ降る 〔作者ふ明〕(朝日新聞の記事から) 

*岩波文庫と朝日新聞では言葉が異なっている。

◆(巻十 二〇一三)岩波文庫)P.420

 〽天の川水陰草(かげぐさ)の秋風になびかふ見れば時は来にけり

*天(あま)の川(かわ) 水陰草(みずかげぐさ)の 秋風に なびかふ見れば 時は来(き)にけり

 ナカニシ先生は次のように説明されている。

 七月七日の夜に、彦星(ひこぼし)と織姫(おりひめ)が天の川をはさんで近づく伝説は万葉集でも、たくさん歌われています。

 七夕の夜には秋を感じて2010年7月10日

*私見:岩波文庫の歌はすべて区切りのない書き方をしていますのでなかにし先生の書き方は参考になります。

◆(巻十 二一七七)(岩波文庫)P.432

 〽春はもえ夏は緑にくれなゐの 綵色(しみいろ)に見ゆる秋も山かも   

*春は萌(も)え 夏は>緑(みどり)に 紅(くれない)の まだらに見ゆる 秋の山かも 〔作者ふ明〕(朝日新聞の記事から)

*岩波文庫と朝日新聞では言葉が異なっている。この読みの違いはどちらかが正しいのだろうか?

◆(巻十 二二七六)(岩波文庫)P.441

 〽雁がねの初聲聞きて咲き()たる屋前(には)の秋萩見に()わが背子  

*雁がねの 初声(はつこえ)聞きて 咲き出たる 屋前(やど)の秋萩(はぎ)見に来わが背子(せこ) 〔作者ふ明〕(朝日新聞の記事から)

*岩波文庫と朝日新聞では言葉の読みが異なっている。
 ナカニシ先生は「とにかく万葉人は、天上秋の鳥の声がしはじめると、地上には秋の花が咲き出すと考えました。すべての生き物は大きな全宇宙の一つながりの生命の中で、強く結ばれていると信じていたのです。わたしはこれを「宇宙生命体」とよんでいます。

生き物は みな結ばれている

◆(巻十 二三三四)(岩波文庫)P.446

 〽沫雪(あわ)は千重に降り()け恋しくの()長き我は見つつ(しの)はむ 

*沫雪(あわゆき)は 千重(ちえ)に降り敷(し)け 恋(こい)しくの 日(け)長きわれは 見つつ偲(しの)はむ  柿本人麻呂歌集の歌 (朝日新聞の記事から)

 なかにし先生は「沫雪はどんどん降れ。長い間、会えないわたしは、それを見て恋人をしのぼう」(中略)

 作者は、ひとりの女性を長く長く慕いつづけています。その恋心にも、また女性その人にも、沫雪が似通うのでしょう。清浄なイメージですね。万葉びとは激しい思慕や苦しい恋の情念も歌いますが、この歌はその反対です。もっと大人の恋。優雅に洗練された気持ちの通い合いを楽しんでいるように見えます。

 そしてある時、美しく空中にひるがえりながら降りつづける沫雪が、久しく心にやどした恋をあらためて作者に気づかせました。もっと降れ、もっと降れ――さざ波のような心のときめきが、そうささやきかけてきます。


manyousyu.iwanamibunko.sita.jpg ◆(巻十一 二三六八)(岩波文庫下巻)P.8

 〽たらちねの母が手 (はな)れかくばかり(すべ)なき事はいまだせなくに   

*たらちねの 母が手放(はな)れ かくばかり すべなき事は いまだ為(せ)なくに 〔作者ふ明〕(朝日新聞(2010.01.16)の記事から)

 愛情いっぱいのお母さんから、離れて、こんなにどうしたらいいか、わからないこと、初めてなの。大人になっても母に恋の相談

2010.01.20


◆(巻十二 二九六一)(岩波文庫下巻)P.55

 〽うつせみの常の(ことば)とおもへどもつぎて聞けば心(まど)ひぬ   

*うつせみの 常(つね)の言葉と 思へども 継(つ)ぎてし聞けば 心はまとふ 〔作者ふ明〕 朝日新聞の2010年7月17日の記事から 

 ナカニシ先生は、月並みな言葉の奥の誠実さといわれ、次のように説明されていました。

 平凡なきまり文句だとは思うのに、何度も聞かされると、つい迷ってしまう

 いま作者の女性は、男性からプロポーズされています。

 人間関係は誠実なのが、いちばん大事です。

 それを感じかけている女性は、いい選択をしようとしているともいえます。

 平凡なものを尊重しようとする態度は「万葉集」の基本の精神です。とかくわざとらしいものは、ニセ物のばあいが多いからです。

 ニセ物は、だめですね。

私見:中西先生はご専門ですが、この歌の説明はどこから来るのでしょうか?

2010.07.22


◆(巻十三 三二五四)(岩波文庫下巻)P.86

 〽しき島の日本(やまと)の国は言霊(ことだま)のさちはふ国ぞまさしくありてこそ                  

*「日本は言霊の国」だと、みなさん言われている。


◆(巻十四の三四〇三)(岩波文庫下巻)P.118

 ()が恋はまさかも悲し草まくら多胡(たこ)入野(いりの)のおくもおくもかなしも 

 上の一首は、ある本に曰く とある。

*吾(あ)が恋は まさかもかなし 草枕 多胡(たご)の入野(いりの)の 奥(おく)もかなしも

 ナカニシ先生は次のように説明されている。

 私の恋はいまもかなしい。草を枕にする多胡の、入野の奥――未来もかなしい

 「恋心ってどんな気持ち」と聞かれたら、どう答えますか。
 作者の答えは一言「かなしい」です。そればかりか「いつまでもかなしい」と明確です。ずばりとした答えから、恋を見つめる澄んだまなざしを感じます。
 作者はいま、多胡(群馬県の一部)の野原に立って、愛する人のことを思っています。野は果てしなくつづき、山裾(すそ)の間にまで入りこんでいきます。樹木におおわれた谷あいの野の先。
 それがおぼつかない恋の行く末のように思われ、切なさがつのります。

*朝日新聞2010年7月24日の記事から

私見:万葉の人びと 犬養孝の当時の時代の習慣・風土を思いながら読むことができました。

◆(巻十四の三四五九)(岩波文庫下巻)P.123

 〽(いね)つけばかかる()が手を今夜(こよひ)もか殿の若子(わくご)が取りて嘆かむ 作者ふ明  
 ナカニシ先生は次のように説明されている。

*稲(いね)舂(つ)けば 皹(かか)る吾(あ)が手を 今夜(こよい)もか 殿の若子(わくご)が 取りて嘆かむ

 夢をみるのは、人間の特権です。

 とくに若者は夢にあふれています。いえいえ、夢がなければ若者とはいえませんね

*朝日新聞2010年7月31日の記事から


◆(巻十六 三八二四)(岩波文庫下巻)P.175

 〽さしなべに湯()かせ子ども櫟津(いちひつ)檜橋(ひはし)より()(きつ)()むさん          

 上の一首は、伝え傅へ云へらく、一時(あるとき)衆集ひて宴飲(うたげ)しき。時に夜漏三更(さよなか)にして、狐の声聞えき。すなはち衆諸(もろびと)、奥麻呂(おくまろ)を誘ひて曰く、その饌具の雑器、狐の声、河、橋等の物に關(か)けて、但(ただ)、歌作れといひき。すなはち、声に應へてこの歌を作りきといへり。

*さし鍋に 湯沸(わ)かせ子ども 櫟津(いちひつ)の檜橋(ひばし)より来(こ)む狐(きつ)に浴(あ)むさん 〔長忌寸意吉麻呂(ながの いみきお き ま ろ)の歌〕(朝日新聞の記事から)

 ナカニシ先生は、酔って難題 興乗るだじゃれと書かれている。

◆(巻十六 三八三六)(岩波文庫下巻)P.177

 〽奈良山の児手柏(このてがしは)両面(ふたおも)()にも(かく)にも佞人(ねぢけびと)(とも)

 上の歌一首は、博士消奈行文大夫(せなのぎやうものまへつぎみ)作れり。

*奈良山の 児手柏(このてがしわ)の両面(ふたおも)に かにもかくにも 佞人(ねじけびと)の徒(とも) 〔消奈行文大夫(せなのぎやうちもにのまへつぎみ)作の歌〕(朝日新聞の記事から)

 ナカニシ先生は、つぎのように説明されている。

   奈良山に生えるコノテガシワは面(おもて)が二つ。

 それと同じように、両方にへつらう心まがりの奴(やつ)らよ

 右の人にも左の人にも、いいことを言う人がいますね。そんな人をコノテガシワの木にたとえたのです。この木はまるで手のひらのように葉を伸ばし、葉が両面とも表のように見えるからです。

 こんな人がいたら困りますね。


◆(巻十七 三八九六)(岩波文庫下巻)P.195

 〽家にてもゆたふ命波の上に浮きてしをれば奥處(おくか)知らずも

*家にても たゆたふ命 波の上に 思ひし居(お)れば 奥処(おくか)知らずも 〔大伴旅人(おおとものたびと)の従者の歌 〕(朝日新聞の記事から)

 ナカニシ先生は、つぎのように説明されている。

 船の動揺を命のゆらぎと感じたところに、作者の深い物思いがありますね。

 人間の生き方を、改めて考えさせられます。

 命のふ安 船揺れてさ

2010.09.12 写之

◆(巻十七 三九六三)(岩波文庫下巻)P.206

 〽世間(よのなか)は数なきものか春花の散りのまがひに死ぬべきおもへば 

*世間(よのなか)は 数(かず)なきものか 春花の 散りの乱(まが)ひに 死ぬべき思へば  〔大伴家持の歌〕(朝日新聞の記事から)

 ナカニシ先生は、つぎのように説明されている。

*この世はとるに足らないものだ。落花にまぎれて死ぬと思うと

 むかしから、すぐれた歌人たちが落花にまぎれて死んだと、言い伝えてきました。柿本人麻呂、小野小町、和泉式部らです。

 この万葉歌人は、花の死をとおして、とかくこだわりがちな俗世間への執念を、反省しています。美しい花びらの死と、みにくい俗世間での争いをくらべながら、作者はきっといつまでも落花を静かに見つめていたにちがいありません。

*乱(まが)の読み方は手持ちの辞書にはみられませんでした。

◆(巻十七 四〇二四)(岩波文庫下巻)P.224

 〽立山(たちやま)の雪し()らしも延槻(はひつき)の川の渡瀬鐙浸(わたりせ あぶみ あぶみつ)かすも 

 上の歌一首は、大伴宿禰家持作れり。

*立山(たちやま) 雪し来(く)らしも 延槻(はいつき)の 川の渡瀬(わたりぜ) 鐙浸(あぶみ)つかすも  〔大伴家持の歌〕(朝日新聞の記事から)

 ナカニシ先生は、つぎのように説明されている。

   立山(たてやま)の雪は消えているらしい。早月(はやつき)川を馬で渡ると、鐙まで水に濡(ぬ)れることだ

 富山県の立山は屏風のように高い峰を東西につらね、いくつかの川を日本海へとはしらせます。 

 春が遅い山国にも、いま春がやってきていることを、鐙までひたすようにふえた水によって作者は知りました。

私感:「雪消水」は、私には美しい言葉です。昔、三月中旬、山形県の小国町の基督独立学園訪問の途中の雪景色をみて「美しいですね」とつぶやきました。ところが新潟県出身の同乗者が雪国の冬をしらないから、そんなことが言えるのですとたしなめられた思い出があります。北国の方々が春を待つ気持が察せられます。 

◆(巻十七 四〇二九)(岩波文庫下巻)P.224

 〽珠洲(すす)の海に朝びらきしこぎ()れば長濱の(うら)に月照りにけり 

 上の歌一首は、大伴宿禰家持作れり。

*珠洲(すす)の海に 朝びらきして 漕(こ)ぎ来(く)れば長浜の湾(う)に月照りにけり

 ナカニシ先生は、つぎのように説明されている。

珠洲の港を朝漕ぎ出してくると、長浜の浦には月が照っていたことだ

珠洲(すず)(石川県)は能登半島北端の港、そこを朝早く出発した船に乗って、作者は長浜まで南下してきました。

 長浜は能登半島の東海岸でしょうが、どこかふ明です。

 いま目の前の海上に浮かんだ月が、波にゆられていた一日の船旅の、まるで結論のように見えたのでしょう。

じつは近代の詩人、萩原朔太郎に「泳ぐ人」が海上の月を見るという詩があります。いま海上の月を見つけた家持は「泳ぐ人」になっていました。一日の船旅で、心が彼を「泳ぐ人」にしたのです。

いえいえ、彼は大きく大伴家をゆさぶる時代の波にもゆられていましたし、越中へと身を運び、漂泊の旅の中にもいました。泳ぐ魂の持ち主でした。

波にゆらゆら 泳ぐ魂


◆(巻十八 四〇九四)(岩波文庫下巻)P.244

 海行かば 水漬(みづ)(かばね) 山行かば 草()す屍 大君の()にこそ死なめ 顧みはせじ


◆(巻十八 四〇九七)(岩波文庫下巻)P.244

 〽天皇(すめろぎ)の御代栄えむと (あずま)なるみちのく山に (くがね)花咲く

 上の一首は、十二月、大伴宿禰家持作れり。

 ナカニシ先生は、つぎのように説明されている。

*天皇(すめろき)の 御代栄(みよさか)えむと 東(あずま)なる 陸奥山(みちのくやま)に 黄金(くがね)花咲く (朝日新聞の5月16日の記事から)

 天皇の御代の繁栄を予言するように、東国、陸奥山から黄金が出た

 七四九年、日本は初めて金の採掘に成功しました。大地の中に、あのキラキラと輝く金が眠っていたとは。

 人びとの驚きと喜びは、大きかったでしょう。

 歌が作られたのは五月(陰暦)でした。空にもまぶしい太陽が輝いていました。

◆(巻十八 四一三四)(岩波文庫下巻)P.255

 〽雪の上に照れる月夜(つくよ)に梅の花折りて贈らん()しき児もがも

 上の一首は、十二月、大伴宿禰家持作れり。

 ナカニシ先生は、つぎのように説明されている。

  *雪の上に 照れる月夜(つくよ)に 梅の花 折りて贈(おく)らむ 愛(は)しき児(こ)もがも

 ところで、雪月花のとり合わせは、中国の詩人・白楽天(七七二~八四六)の詩が日本に入ってきてから日本で喜ばれたといわれてきました。

 ところがじつは、白楽天が生まれるよりずっと前、七四九年十二月のこの一首によって大伴家持が発見した美でした。

 美しい風景を仲良しといっしょに楽しみたいと思ったことも、すばらしいですね。自然の美しさが、愛の心を呼んだのでしょう。

◆(巻十八 四一三六)(岩波文庫下巻)P.255

 〽あしひきの山の木末(こぬれ)の 寄生(ほよ)取りて挿頭(かざ)しつらくは千年 ()くとぞ

 上の一首は、守大伴宿禰家持作れり。

 ナカニシ先生は、つぎのように説明されている。

*あしひきの 山の木末(こぬれ)の 寄生木(ほ よ)取りて 插頭(かざ)しつらくは 千年寿(ちとせほ)(ほ)くとそ

 家持はさっそく習慣をまねてヤドリギを髪にさし、新年にあたっての祝福を、部下とともに祈りました。土地の人となじんでいく、やさしい人柄がしのばれますね。

 ところでヤドリギを魔よけのおまじないにすることは、千年以上もむかしから、世界中の人たちがしてきました。いまヨーロッパではクリスマスの夜にヤドリギの下ならキスをしてもいいとか。

 『万葉集』の歌が、こんなに世界的で、しかも久しい歴史に参加しているとは、うれしいですね。(朝日新聞の記事より)


◆(巻十九 四一五三)(岩波文庫下巻)P.266

 〽漢人(からびと)(ふね)を浮かべて遊ぶとふ今日ぞ 吾背子(はな)かづらせよ

*「ふね」は木篇に伐を並べての字であり。漢和辞典で見つからなかった。

 上の一首は、守大伴宿禰家持作れり。

 ナカニシ先生は、つぎのように説明されている。

*漢人(からびと)も 筏(いかだ)浮(うか)>べて 遊ぶとふ 今日そわが背子 花蘰(はなかずら)せよ 

 モモが旺盛な生命力をもつ木で、悪い物を払う力があるとされていましたから、この日にモモの花をかざったのです。(以下略)(朝日新聞の記事より)

※花かづら:時節の花を糸で連ねて作った挿頭 (かざし) 。


◆(巻二十 四三四三)(岩波文庫下巻)P.312

 〽吾等(わろ)旅は旅と(おめ)ほと(いひ)にして 子持(こめ)()すらむわが()かなしも 
下注:いひ「已比」
 右の一首は玉作部廣目(たまつくらべひろめ)

 ナカニシ先生は、つぎのように説明されている。

*吾(わ)ろ旅は 旅と思(おめ)ほど 家(いい)にして 子持(こめ)ち痩(や)すらむ わが妻(み)かなしも

 妻が痩せる原因には、まず、帰ることのむずかしい夫との別れがあります。
 悲劇のすべての原因は、戦争が防人を必要としたことでした。
 戦への旅 残る妻を思う (朝日新聞の記事から)

2010年9月18日 ◆(巻二十 四三四六)(岩波文庫下巻)P.313

 〽父母が(かしら)かき撫で()()れていひし言葉(けとば)ぜ忘れかねつる
 右の一首は、丈部稲麿(はせつかべのいなむら)

*防人(さきもり):上代、諸国(多くは東国)から採用して筑紫・壱岐・対馬その他要路の守備に当たった兵士。三年を一期として交替させられた。大和の政府が主として関東地方から兵士を集めて九州に送り、そこの国境をまもらせました。『広辞苑』より。

 父母が頭を撫でて「無事でいなさい」といった言葉が忘れられない。当時の防人の意味をしることができました。(朝日新聞の記事より)

2008.12.11

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◆(巻二十 四三六一)(岩波文庫下巻)P.316

 〽桜花今さかりになり難波の海おし照る宮に(きこ)しめすなへ
 上は二月十三日、兵部少輔大伴宿禰家持

 ナカニシ先生は、つぎのように掲載されている。

*桜花 今盛(さかり)りなり 難波(なにわ)の>海(うみ) 押し照る宮に 聞(きこ)こしめすなへ

 サクラは満開である。難波の海がかがやく宮殿で天子が世を統治なされるにつれて(朝日新聞の記事より)

 みなさんは次のような話を聞いたことはありませんか。「日本人は奈良時代にウメを愛し、平安時代からサクラを愛した」と。

 しかしごらんなさい。奈良時代の『万葉集』でも、こんなにサクラをほめたたえています。

 とくに「なへ」という表現は、二つの物が連動することを意味します。よい政治が行われるとそれにつれて、サクラもますます美しくなる、と作者は考えるのです。(朝日新聞の記事より)

2010.03.27

◆(巻二十 四三七五)(岩波文庫下巻)P.318

 〽松の()()みたる見れば家人(いはびと)(われ)を見送ると()たりしもころ
 上の一首は、火長物部眞島(ましま)

 朝日新聞 ナカニシ先生の万葉 こども塾(2010年02月27日)によれば

 松の 木(け)の竝(な)みたる見れば家人(いはびと)の吾(れ)を見送ると立(た)たりしもころ 

 道沿いの松並木を見ると、家の人が人が見送ろうと立っていたのと同じだ

 じつはこの時代、松を人に見立てる習慣がありました。松が人間だったら太刀をあげようなどと歌うほどです。

 作者はこの時、マツが「待つ」と同じ発音だと気づいて、心の中で大声で叫びました。「帰りを待つていてくれる!」。この歌にはそんな思いもこめました。

私見:万葉の時代の防人と明治以降の兵士の気持ちの底にあるものに同じものを感じます。

◆(巻二十 四三八二)(岩波文庫下巻)P.318

 〽ふたほがみ()しけ人なりあたゆまひわがする時に防人(さきもり)にさす
 上の一首は、那須郡上丁大伴部広廣成  

 朝日新聞 ナカニシ先生の万葉 こども塾(2010年1月9日)によれば

 ふたがみ 悪(あ)しけ人なり あた病(ゆまい) わがする時に 防人(さきもりり)にさす

*「ふたほがみ」の言葉はは意味ふ明。きっと悪口の俗語だからでしょう。上にはへつらい、下にはきびしい「お上」というのでしょうか。一方自分は仮病(あだ病)をつかっていたと、ふざけてみせます。(中略)じつは彼らはいま、たいへんな悲劇の中にいます。華族とのわかれ。ほとんど生きて帰れない。難波(なには)までの旅費は自弁。働き手を失った一家は貧しくなる。

 「ふたほがみ」は悪い人だ。仮病を使っていたのに、おれを防人に指名した。

◆(巻二十 四四八四)(岩波文庫下巻)P.336

 〽さく花はうつろふ時ありあしひきの山(すが) の根し長くはありけり

 右の一首は、大伴宿禰家持、物色の變化を悲怜(かな)しみて作れり。 

 朝日新聞 ナカニシ先生の万葉 こども塾(2010年7月3日)によれば

草の根の強さに人生見る

 七五七年六月二十三日(陰暦)に作られた歌です。ところがその五日後に政府転覆の大陰謀が発覚、首謀者が次つぎと拷問(ごうもん)を受けて絶命します。

 家持は先立ってこの陰謀を知っていて、花を求める人間の姿を静かに考えていたのでしょう。陰謀への誘いを必死に拒否しつづけたこともわかります。

 結局彼は拷問死をまぬかれました。

 家持の生命を救ったものは、心に映した山菅の根の生命のあり方でした。

私見:東西古今を通して政権争いは絶えないものがわかります。

意味・・はなやかに咲く花はいつか色褪(あ)せて散ってしまう時がある。目に見えない山菅の根こそは、ずっと変らず長く長く続いているものである。花はいつか色あせて朽ちてしまう。しかしその根は土中深くしっかり生きながらえる。

 この歌は757年に詠まれており、藤原家との対立が激しくなっていた。その年は右腕の橘諸兄(もろえ)が死に、その前年に家持が頼りとする聖武天皇が亡くなっている。諸兄の子橘奈良麻呂は藤原仲麻呂に謀反を起こしたが失敗し、家持の知友の多くが捕らえられ処刑、配流される事件があった。貴族暗闘の時局を、これらの人々を心にしながら詠んだ歌です。

 栄耀栄華は一睡の夢、それに引き換えて山菅の根のような、細く長く着実に生きるあり方は目立たないが長く続くものだと詠んでいる。

注・・咲く花は=知友達の悲運の哀傷や仲麻呂の栄達の憤懣(ふんまん)の気持がこもる。

   あしひきの=「あしびきの」とも。山の枕詞。

   山菅の根し・・=細く長く着実に生きていくことへの意志がこもる。

作者・・大伴家持=おおとものやかもち。718~785。大伴旅人の長男。少紊言。万葉集の編纂をした。

◆(巻二十 四四九三)(岩波文庫下巻)P.338

 〽(はつ)春の初子(はつ ね)の今日の玉箒(たまばはき)手に(とる)るからにゆらく玉の緒

 右の一首は右中辨大伴宿禰家持作れり。

 朝日新聞 ナカニシ先生の万葉 こども塾(2010年1月9日)によれば

 初春の 初子の今日の 玉箒(たまばはき) 手に執(と)るからに ゆらく玉の緒(お)

*始春と初春の字の違いがある。箒は蚕の箱を掃く道具だそうです。初子は、その月の最初の子の日。特に、正月の最初の子の日。

 当時の様子を想像してください。

◆(巻二十 四五一六)P.342

 〽(あたら)しき年の初めの初春の今日ふる雪のいや()吉事(よごと)  

 上の一首は守大伴宿禰家持作れり。

 万葉集の最後の歌である。よごと【善事・吉事】よいこと。めでたいこと。⇔禍事(まがごと)

参考図書

1、犬養 孝『万葉の人びと』PHP研究所(昭和五十四年三月三十日 第四刷)

2、岩波文庫 『新訓 万葉集』上・下巻 佐佐木信綱編(昭和四二年四月一〇日 第四〇刷 発行)


☆02 山上憶良(660~730年)


 〽瓜はめば 子ども思ほゆ 栗はめば ましてしぬばゆ いずくより 来たりしものぞ 眼(ま)なかひにもとなかかりて 安寝(やすい)しささぬ 

 〽しろがねも くがねも 玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも

 〽秋風の 吹きにし日より いつしかと 吾が待ち恋ひし 君ぞ来ませる

*『万葉集』の代表歌人。中国に二年留学。儒教の影響下に社会意識をつよめ『貧窮問答歌』などを作った。写真は彼が上の歌を作ったと伝えられる飯塚市外「鴨生」。

*桑原武夫編『一 日 一 言』ー人類の知恵ー(岩波新書)P.117

2020.08.21


☆03 柿本人麻(7~8世紀)


 潮騒(しおざい)に いらごの島辺 こぐ船に 
 妹(いも)乗るらむか 荒き島回(しまみ)を

 ささの葉は み山もさやに さやげども
 われは妹おもふ 別れ来ぬれば

 草枕 旅の宿に 誰(た)が夫(つま)か
 国忘れたる 家待たなく

 鴨山の 磐根(いわね)し纏(さ)ける 吾をかも
 知らにと妹が 待ちつつあらむ

*『万葉集』第一の作者。大和の古い豪族の出で、持統天皇につかえた文人。儀礼歌、相聞歌に古今独歩の才をしめした。4月18日、人麻忌

*桑原武夫編『一 日 一 言』ー人類の知恵ー(岩波新書)P.65

2020.08.21


☆04 山部赤人(~736年?)生没年ふい明


 天地の 分れし時ゆう 

 神さびて 高き貴き

 駿河なる 富士の高嶺を

 天の原 ふり放(さ)け見れば

 渡る日の 影も隠ろひ

 照る月の 光も見えず

 白雲も い行き憚(はばか)り

 時じくぞ 雪は降りける

 語りつぎ 言ひつぎ行かん

 富士の高嶺は

 田子の裏ゆ打出でて見れば白にぞ
 富士の高嶺に雪は降りける

山部赤人 図は葛飾北斎筆

*桑原武夫編『一 日 一 言』ー人類の知恵ー(岩波新書)P.2

2020.08.21


☆05 大伴家持の歌の一首(718~785年)


 海ゆかば 水漬く屍 山ゆかば 草()すむす屍 大君の 邊にこそ死なめ かへりみはせじ

*作曲者:芳賀 徹(昭和十二年である。)

『万葉集』巻十八に「陸奥國よりくがねいだせ詔書をことほ歌」と題された歌一首扞に短歌 の中の長歌の中の一節。

大伴家持が天平感宝元年(七四九年)五月に作ったというこの古い長歌の一節は、信時潔による昭和の名曲となって、いまも私たちの心の底にあの人たちのための鎮魂の祈りをよびおこさずにはいない。(1部分抜き書き)(巻十八)(岩波文庫下巻)P. 243


☆06古今和歌集(905年ころ)

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 雪の降りけるをよめる              紀貫之

0009 〽霞たち木のめもはるの雪ふれば花なき里も花ぞ散りける(0023)

一 〽夏と秋とゆきかふ空のかよひじは かたへ涼しき風や吹くらん (凡河内躬恒ー古今和歌集巻3)(168)

名義 はじめ続(しょく)万葉集と称し、のち改める。万葉集より後の古い歌と今の世の歌とを集める意。

334 〽わたつ海(み)の 浜の真砂(まさご) かぞへつつ 君が千歳(ちとせ)の あり数(かず)にせむ

343 〽わがきみは 千代にましませ さざれ石の 巌(いはほ)となりて 苔のむすまで

345 〽しほの山さしでの磯に すむ千鳥 君が御代(みよ)をば 八千代とぞ鳴く

346 〽わが齢(よはひ) 君が八千代に とりそへて とどめおきてば 思い出にせよ

▼古今和歌集 巻第七 賀 歌 題しらず よみ人しらず の四首です。
334の「わがきみは 千代にましませ さざれ石の 巌(いわほ)となりて 苔(こけ)のむすまで」の頭註の一部には

1、あなたは、千年も万年もおすこやかに長生をお保ち下さい。細かい石が大きな岩となって、苔が生えるさきざきまでも。一種の長寿を祈った歌。

2、わがきみは「きみ」は、当時「主君」の意に限定されず、敬愛する相手に対して用いられている。のちに『和漢朗詠集』で「君が代は」と変わり、それが流布本古今集と混合して国歌「君が代」となり、その「君が代」(あなたが生きていらっしゃる間)を「天皇の治世」ともとりなした。

 千代にましましませ 底本では千代に八千代だが、これは俊成本以後の本文なので改めた。

▼素直に詠みますと、四首とも女の人の歌でしょうか、その女の人が、さざれ石に、浜の真砂、千鳥の鳴き声に「あなた」の長寿を願っている気持ちを詠まれているものでした。私には、女に限らず夫婦ともども長寿を願う気持ちが伝わってきます。

          新潮社日本古典集成(第19回)昭和五十三年七月十日 第二刷
参照:日の丸 日本 国歌
平成十八年十月七日


07西行法師(1118~1190年)


 一 〽願はくは花のしたにて春死なんその如月の望月のころ (続古今和歌集)

 一 〽月を見て心うかれしいにしへの秋にもさらにめぐり逢ひぬる 題しらず 新古今和歌集 巻第十六 1530 岩波文庫 P.248

*「月を見て気もそぞろに興じていたあの昔の秋に、また再びめぐり逢った気がするな。」『新日本古典文学大系 11』p.447

*出家後のある秋の夜の感興であろう。いつもはとかく物思いなしには見られない月。それを今日は昔の自分に帰ったようだというのである。しかし同じ「うかれ」でも今はもう純化されたそれと言っていいかもしれない。「月」に寄せる秋の雑歌。

参考:『百人一首夕話』下(岩波文庫)P.106

西行法師(さいぎょうほうし。1118~1190)俗名を佐藤義清(のりきよ)。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・僧侶・歌人。鳥羽上皇に北面の武士として仕えていましたが、23歳の時に家庭と職を捨てて出家、京都・嵯峨のあたりに庵をかまえ西行と号しました。 出家後は、陸奥(東北地方)や四国・中国などを旅して数々の歌を詠み、漂泊の歌人として知られます。詞花集初出。新古今集入集九十五首(最多歌人)。勅撰入集二百六十七首。隠岐での後鳥羽院による『時代上同歌合』では在原業平と番えられている。歌集に「山家集」があり、また彼の一生は『西行物語』に詳しく語られています。

『西行物語』桑原 博史講談社学術文庫:鎌倉時代成立の『西行物語』は、歌人西行の生涯を記した伝記物語。友人の急死に世の無常を知った藤原義清は、娘を縁から蹴落して恩愛の道を絶ち、二十五歳で出家して西行となのる。伊勢から関東へ、陸奥から四国と旅を重ねつつ、歌ごころの涌くままに詠ずる名歌は、彼のひたすらな道心をはぐくみ、ついに「願はくは花の下にて春死なむ」の願いどおり極楽往生を遂げる。数奇と道心の生涯を伝える物語のはじめての全訳である。(全一冊)

 二 〽夜もすがら月こそ袖にやどりけれむかしの秋をおもひ出づれば 新古今和歌集 巻第十六 1531 岩波文庫 P.248

*一晩中、月ばかりが涙に濡れた袖に宿っていた。昔の秋を思い出していたので。これも在俗時の秋に見た月の回想であろう。

 三 〽月の色に心を清くそめましや宮(みや)こを出(い)でぬわが身なりせば 新古今和歌集 巻第十六 1532 岩波文庫 P.248

「かくも月の色で心を清く染めることができたであろうか。都の内にとじ籠ったままのわが身であったならば。」『新日本古典文学大系 11』p.448

 四 〽棄つとならば憂世を厭ふしるしあらん我にば曇れ秋の夜の月 新古今和歌集 巻第十六 1533 p.448 岩波文庫 P.249

*「出離するからには憂き世を厭うしるしがなくては叶うまい。どうか私が見たら曇ってくれ、秋の夜の月よ。そうすれば厭うこともできように。」『新日本古典文学大系 11』

*世外のものとさえ思われて賞でられる月である故に、自分には月がこの世の最後の執着になりそうだ。世を厭うしるしというなら月を厭う以外にはないというのである。「月」に寄せる秋の雑歌。

 五 〽ふけにけるわがよのかげをおもうまにはるかに月の傾きにけり 新古今和歌集 巻第十六 1534 p.448 岩波文庫 P.249

*年老いてきた自分の人生を思っているうちに夜も更けて、西の空遥かに月が傾いてしまった。

*この歌、日本人の言葉遊び好きを象徴しているのではないでしょうか。「わがよ」に「世」と「夜」、「ふけにける」に自分が「老けた」と夜が「更けた」を掛け、「影」に自分の人生と月の光を、年老いたことを月の「傾き」になぞらえています。縁語と掛け詞の連続です。ひねりにひねったこの歌、作歌にあたっては、かなり推敲を加えたことでしょう。


☆08梁 塵 秘 抄(1719年)

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▼梁 塵 秘 抄 佐佐木信綱校訂 (岩波文庫)1985年4月10日 第34刷発行

 平安末期の歌謡集。後白河院撰。巻一残簡・巻二、および口伝集巻一・巻一〇が現存。

 もとは歌詞10巻・口伝集10巻であったらしい。治承三年(1179)~文治元年(1185)ごろまでの間に成立。

 平安末期に流行した今様(いまよう)催馬楽(さいばら)・神楽などの歌謡を分類集成したもの。現存本には法文歌(ほうもんか)・神楽歌などの今様五百数十編が収められている、当時の風俗・信仰などを知る貴重な資料。

 仏は常にいませども、(うつつ)ならぬぞあはれなる、人の音せぬ(あかつき)に、ほのかに夢に見え給ふ。巻第二 二六 岩波文庫 P.16

 鵜飼(うかひ)はいとをしや、萬劫年經(としふ)龜殺(かめころ)し、又()(くび)()ひ、現世はかくてもありぬべし、後生わが()如何(いか)にせん。巻第二 三五五 岩波文庫 P.65

 (あそ)びをせんとや(うま)れけむ(たはぶ)れせんとや(うま)れけん、(あそ)子供(こども)(こえ)きけば、()()さへこそ(ゆる)がるれ。第二 三五九 岩波文庫 P.66

 わが子は十餘にゆる()りぬらん、(かかうなぎ)してこそ(ある)くなれ、田子(たご)(うら)(しほ)ふむと、いかに海人(あまびと)(つど)ふらん、(まさ)しとて、()いみ()はずみ(なぶ)るらん、いとをしや。 第二 三六四 岩波文庫 P.66

 わが子は二十(はたち)()りぬらん、博打(ばくち)してこそ歩くなれ、國々の博党(ばくたう)に、さすがに子なれば(にく)かなし、(まか)いたまふな、王子(わうじ)住吉西(すみよしにし)(みや)。 第二 三六五 岩波文庫 P.67

 遊女(あそび)(この)むもの、雑藝(つゞみ)小端舟(こはしぶね)(おほがさ)(かざし)艫取女(ともとりめ)(をとこ)(あい)(いの)る百大夫。 第二 三八〇 岩波文庫 P.69

 女の(さか)りなるは、十四五六(さい)廿三四とか、三十四五にし()りぬれば、紅葉(もみじ)下葉(したば)(こと)ならず。 第二 三九四 岩波文庫 P.71

 舞へまへ蝸牛(かたつぶり)()はぬものならば、(むま)の子や(うし) の子に(くゑ)させてん、踏破(ふみわら) せてん、(まこと)(うつくし)()うたらば、(はな)(その)まで(あそ)ばせん。 第二 四〇八 岩波文庫 P.73

 (かうべ)(あそ)ぶは頭虱(かしらしらみ)(うなじ)のくぼをぞ()めて食ふ、(くし)くし()より天降(あまくだ)る、麻小笥(をごけ)(ふた)にて命終(めいをは)る。 第二 四一〇 岩波文庫 P.73

 いざれ獨楽(こまつぶり)、鳥羽の城南寺の祭見(まつりみ)に、(われ)(まか)らじ(おそ)ろしや、()()てぬ、(つく)(みち)四塚(よつゞか)に、焦心(あせ)る上馬の(おほ)かるに。 第二 四三九 岩波文庫 P.77

※関連:田辺聖子『文車日記―私の古典散歩―』あやゐがさ

200.11.071


☆09新古今和歌集(1210年定本の稿ができたらしい)

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 二 〽ほのぼのと春こそ空に来にけらし天の香具山かすみたなびく  (太上天皇)  

 七六  〽薄く濃き野邉のみどりの若草にあとまで見ゆる雪のむらぎえ  (宮内卿)

 一六九 〽暮れて行く春のみなとは知らねども霞に落つる宇治のしば舟  (寂蓮法師)

 三六一 〽さびしさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮れ  (寂蓮法師)

 七百六 〽今日ごとに今日や限と惜しめども又も今年に逢ひにけるかな   (皇太后大夫俊成)

 一九三九 〽これやこのうき世の外ならむとぼそのあけぼのの空  (新古今和歌集 21939 寂蓮法師)

名義 古今集の正統を継承し、かつ和歌の新時代を創造するの意をこめたものか。


☆10閑 吟 集(1518年)

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  序

 此所に一人の桑門あり。富士の遠望をたよりに庵を結びて、十餘歳の雪を窓に積む。松吹く風に軒端を並べて、何(いんずれ)の緒よりと琴の調(しらべ)を争ひ、尺八を友として春秋の調子を試むる折々に、歌の一節(ふし)を慰み草にて、隙行く駒に任する年月のさきざき、都鄙遠境の花のもと、月の前の宴席に立ち交はり、聲を諸共にせし老若、半ば古人となりぬる懐旧の催しに、柳の糸の亂れ心と打ち上ぐるより、あるは早歌、あるは僧侶佳句を吟ずる廊下の聲、田楽、近江大和節(ぶし)になり行く數々を、忘れ形身にもと思ひ出るにしたがひて、閑居の座右に記し置く、是を吟じうつり行くうち、浮世の事業(ことわざ)にふるる心の横(よこ)しまなければ、毛詩三百餘篇になずらへ、數を同じくして閑吟集と銘す。この趣(おもむき)をいさゝか雙紙の端(はし)にと云ふ。命にまかせ時しも秋の蛩に語らひて、月をしるべに記す事しかり。

   閑 吟 集

 一 花の錦の下紐は、解けて中々よしなや、柳の糸の亂れ心、いつ忘れうぞ、寝亂れ髪も面影。

一三 年々に人こそ古(ふ)りてなき世なれ、色も香も變らぬ宿の花盛り花盛り、誰見はやさんとばかり、又廻(めぐ)り来て小車の、我と浮世に有明の、盡きぬや怨みなるらむ、よしそれとても春の夜の、夢の中(うち)なる夢なれや夢なれや。

五五 何せうぞくすんで、一期は夢よ、ただ狂へ。

八五 思ひ出すとは忘るるか、思ひ出さずや忘れねば。 

八八 思へども思はぬ振りをして、しやとしておりやるこそ底は深けれ。

九六 たゞ人は情けあれ、槿の花の上なる露の世に。

※この歌を読んで千代尼のよく知られた 〽朝顔に 釣瓶とられて 貰ひ水 の歌を思いました。

二五二 しやつとしたこそ人よけれ。

解題:「毛詩三百余篇になぞらへ、数を同じくして」とあるによって、毛詩と同数の三百十一編なる事を説いた。

『閑吟集』藤田徳太郎校註 1984年4月5日 第6刷発行 (岩波文庫)による。

2008.03.07


☆11芭 蕉(1644~1694年)

▼おくのほそ道

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   冒 頭

 月日(つきひ)百代(はくだい)過客(くわかく)にして、(ゆき)かふ(とし)又旅人也(またたびびとなり)(ふね)(うへ)に生涯をうかべ馬の口とらえ(おい)をむかふる(もの)日ゝ旅(ひびたび)にして旅を(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲(へんうん)の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず海濱にさすらへ、去年こぞ)の秋江上(こうじやう)破屋(はをく)(くも)の古巣をはらひて、やゝ年も(くれ)(たて)る霞の空に白川の關こえんと、そゞろ(かみ)の物につきて心をくるはせ、道祖神(どうそじん)のまねきにあひて(とる)もの手につかず、もゝ(ひき)(やぶれ)をつゞり(かさ)緒付(をつけ)かえて、三里に灸すゆるより松嶋の月(まず)心にかゝりて、(すめ/rt>)(かた)は人に譲り杉風(さんぷう)別墅(べつしよ)に移るに、

 〽草の戸も住替(かは)()ぞひなの家
面八句(おもてはちく)(いほり)の柱に懸置(かけおく)。(岩波文庫)P.9


 この道や行く人なしに秋の暮れ 芭蕉の最晩年の句

 〽秋深き隣は何をする人ぞ:芭蕉絶唱の最高の秀句の一つである。

 〽旅に病んで夢は枯野を駆けめぐる

*最後の句


芭蕉句集

 「俳句の底をぬかなくてはいけない。昨日の我に飽きる人間でなければ」

 〽名月や池をめぐりて夜もすがら

参考:元禄二年の三月二十七日、奥の細道の旅へ出立した俳諧の巨匠。伊賀上野の武士の出で、一生を旅に過ごした。日本独特の美の一境地を開く。


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“夏草や 兵どもが 夢の跡”。芭蕉の足跡をたずねて、新緑まぶしい世界遺産・平泉へ

 「夏草や…」の句は、松尾芭蕉が平泉で5月13日(新暦6月29日)に詠んだ俳句です。江戸を出発しておよそ1ヵ月半。平泉の高館(たかだち)に立ち、夏草が生い茂る風景を目の当たりにして、奥州藤原氏の栄華の儚さを思ったのでしょうか。平泉が世界遺産に決定してから、およそ4年。芭蕉が平泉を訪れたこの時期は、若草色の春もみじがちょうど見ごろを迎えます。さらに、世界遺産に決まった6月を記念して、臨時列車が運行されます。新緑まぶしいこの時期に、芭蕉の足跡を追って、世界遺産の平泉を訪れてみてはいかがでしょうか。 旅を始めて44日目、芭蕉は平泉で2つの句を残した

 1689年3月27日(新暦5月16日)、松尾芭蕉は門人の曾良をともなって、江戸から東北・北陸へ600里(約2400km)、150日間の「おくのほそ道」の旅に出ました。奥州藤原氏が平泉で滅亡してから500年後のことです。

 江戸・深川を出発してから44日目、5月13日(新暦6月29日)に奥州平泉を訪れた芭蕉は、藤原三代の栄華の儚さと義経の最期を偲び、あの有名な句を詠みました。

 〽夏草や 兵どもが 夢の跡(なつくさや つわものどもが ゆめのあと)

 高館(たかだち)にのぼってあたりを見渡すと、藤原氏の栄華の痕跡はあとかたもなく、ただ夏草が茂る風景が広がるばかり。栄華の儚さを詠んだ句です。

 続いて芭蕉は中尊寺を訪れ、美しい金色堂を参詣し、以下の句を残しました。

〽五月雨の 降り残してや 光堂 (さみだれの ふりのこしてや ひかりどう)

 光堂とは金色堂のことです。あらゆるものを朽ち果てさせる五月雨も、光堂にだけは雨を降らせず残してくれたかのように、500年経っても光堂は色あせずに美しいままだ、と詠んだものです。中尊寺には、芭蕉の像とともに、この句の句碑があります。

 浄土思想に基づいて造られた平泉の建造物や庭園は、日本独自の発展をとげた

 平泉は岩手県南西部に位置します。11世紀末から12世紀にかけての約90年間、藤原清衡(きよひら)に始まる奥州藤原氏が、この地を拠点としました。清衡は浄土思想を唱え、この平泉に、中尊寺や毛越寺(もうつうじ)をはじめ、数多くの寺院や宝塔を建立し、これら建築物や庭園の一群が世界遺産へと登録されました。平泉には大きく5つの見どころがあります。

・中尊寺

 清衡が1105年から造立に着手し、1124年、金色に輝く金色堂が完成しました。中尊寺の境内には、全盛期には40にも及ぶお堂や塔があったとされています。

 2011年6月に平泉が世界遺産に登録されてから、4年が経とうとしています。ゴールデンウィークが過ぎた5月は、暑くもなく寒くもなく、旅にはちょうどいい季節ですね。中尊寺には「五月雨」を詠んだ芭蕉の句碑があります。新緑がまぶしい初夏のこの時期、芭蕉の足跡を追って、世界遺産の平泉を訪れてみてはいかがでしょうか。

▼私たち兄弟・妹夫婦が元気であったとき、家族旅行を楽しんでいた。中尊寺へ旅行をしたことがあった。兄弟妹夫婦旅行のなかの〔1995年(平成七年) 十月七日(土曜日) 兄弟旅行1日目
★岡山~新大阪、伊丹空港~青森空港、勉夫妻と我々夫婦。青森空港で広島・忠海の夫婦、折田氏と合流。総計9人。タクシー3台に分乗して出発。ねぶたの里で昼食、八幡平を通って南側のわんこそばの店にたちよる。奥入瀬、十和田湖遊覧、十和田湖のホテルに宿泊。
関連:十和田湖・奥入瀬

十月八日(日曜日)
兄弟旅行2日目
 朝、十和田湖の乙女の像(高村光太郎作)見物。ホテル出発。ジャンボタクシーで動く。八幡平(はちまんだいと呼ぶ)の紅葉を観賞。昼食:わんこそば。中尊寺見物、厳美渓見物、鳴子温泉宿泊。〕

 更に芭蕉の“〽荒海や 佐渡によこたふ 天河”の俳句の佐渡島へ、新潟港から高速艇で渡って、韓国に向った宿に宿泊した。夕陽が沈む様子は忘れられない絶景であった。そして島巡りをした。金鉱跡地・盥船など見て廻った。今では妹夫婦、私の妻がいなくなったが、生存している兄弟夫婦はいまでも年に一度は広島・岡山の近郊に出かけている。

2016.07.22:追加



 〽五月雨をあつめて早し最上川 ※『おくのほそ道』(岩波文庫)P.38 

 〽一つ家に遊女も寝たり萩と月 ※『おくのほそ道』(岩波文庫)P.46 

 〽故郷(ふるさと)は涙に炭の煮ゆる音 

 〽何でこの師走の街にゆく烏 

 〽旅に病んで夢は枯野をかけめぐる 

元禄二年の3月27日、奥の細道の旅に出立した俳諧の巨匠。伊賀上野の武士の出で、一生を旅にすごした。日本独特の美の一境地を開く。

引用:桑原武夫編『一日一言』―人類の知恵― P.52

※関連:田辺聖子『文車(ふぐるま)日記』野ざらしの人(松尾芭蕉)

2020.08.03


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 小野竹喬 奥の細道句抄絵展 アサヒグラフ 昭和五十一年六月二十五日発行より

 日本の自然を、心を洗うような清らかな旋律でうたいあげる日本画家━━京都の小野竹喬さんが、日本文学の古典・芭蕉の「奥の細道」をテ―マに、新作のための取材にとりかかったのは昭和四十九年六月だった。

 「月日は百代の過客にんして、行かふ年も又旅人なり。……」とはじまる「奥の細道」は、元禄二年(一六八九)三月末、門人曽良を伴って江戸をたち、白川の関から仙台、松島、石巻、平泉、奧羽山脈を越えて日本海側の酒田、象潟、新潟、直江津、高岡、金沢、大垣をたどる百五十日、行程六百里に及ぶ芭蕉最大の紀行文。単なる景観の美しさに感動するというのではなく、自然の生命の中に 踏みこんで、自分と自然との合一の境地を求め、天地自然の心を身をもって読みとろうとした作者燃焼の芸術作品といわれている。

 芭蕉が能因法師や西行法師を慕い、その歌枕や旧跡をたどり歩いたのと同じように、八十歳を超えた竹喬さんが単身、芭蕉の足跡をたどられるのかとびんっくりしたのだが、そうではなかった。奥の細道の六十二句の中から、風景画家・竹喬さんが「絵になる」と選び出した十数句のよまれた現場を訪ねて、独自の現代日本画を製作しようというのだ。 有名な奥の細道をテーマにした絵は、これまでにも与謝蕪村、川端竜子、小野放菴らによって描かれている。しかし、それは奥の細道を説明する俳画的なものばかり。竹喬さんのは紙本着彩(紙に描かれた着彩画)の”本画と呼ばれる本格的な製作。三十号の大きさで約十点描き、「奥の細道句抄絵」というシリーズにする計画。この新作の発表は、点数や大きさに制限を受ける公募展をさけて個展様式で行う。絵巻ものという日本古来の絵画様式を現代的によみみがえらせる展開だ。

 もちろん、それは「奥の細道」のさしえではない。風景画家・小野竹喬さんが、山や海の豊かさ、木々のさざめき、太陽の輝き、水の流れ…と目をこらし心を澄まして感じとった天地自然の不思議な魅力への感動が、芭蕉の哲学と接点を持ったのだ。俳句という文学で表現された生命の感動を竹喬さんは、絵画という造形表現で語ろうとする。

 竹喬さんは、岡山の笠岡から十四歳で京都の竹内栖鳳の門にはいる。俳句はそのころから正岡子規の高弟・松籟青々二ついて学んだ。芭蕉への関心も少年時代からのもので、五十歳を越えたころから「奥の細道」を描きたいと思いはじめた。この計画はもう三十年以上もかけて練り上げられたものだ。池田 弘「奥の細道」取材同行記より。


殺生石(さつしやうせき)・遊行柳:田一枚椊えて立去る柳かな 岩波文庫P.17

笠 嶋:〽笠嶋はいづこさ月の折にふれたりと P.24

尾花澤:〽まゆはきを俤にして紅粉(べに)の花 P.36

最上川:〽五月雨をあつめて早し最上川 P.38

羽 黒:〽涼しさやほの三日月の羽黒山 P.39

酒 田:〽暑き日を海にいれたり最上川 P.41

象 潟:〽象潟や雨に西施がねぶの花 P.42

越後路:〽荒海や佐渡によこたふ天河 P.44

金 澤:〽あかあかと日は難面(つれなく)もあきの風 P.47

敦 賀:浪の間や小貝にまじる萩の塵 P.54

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★プロフィル:小野 竹喬(おの ちっきょう、 1889年(明治22年)11月20日 - 1979年(昭和54年)5月10日)は、大正・昭和期の日本画家。本名は小野英吉。

1889年(明治22年) 岡山県笠岡市西本町に生まれる。1906年(明治39年)京都の日本画家・竹内栖鳳に師事。栖鳳より「竹橋」の号を授かる。1911年(明治44年)京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)別科修了。同校の同期生であった村上華岳、土田麦僊とともに1918年(大正7年)国画創作協会を結成する。1923年(大正12年)、号を「竹喬」と改める。1947年(昭和22年)には京都市美術専門学校教授に就任し、京都市立芸術大学と改組した後も教鞭を執った。同年、日本芸術院会員となる。 50歳前後で没した華岳、麦僊に対し、竹喬は戦後も日本画壇の重鎮として活躍し、1976年(昭和51年)には文化勲章を受章している。1979年(昭和54年)逝去

2020.03.17追加。


☆12与謝蕪村(1716~1783年)

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 〽三椀の雑煮かゆる長者ぶり 『蕪村俳句集』(岩波文庫)P.15

 〽燈(ひ)ともせと云ひつつ出るや秋の暮れ

 〽月天心貧しき町を通りけり 『蕪村俳句集』(岩波文庫)P.72

 〽去年より又さびしぞ秋の暮れ 『蕪村俳句集』(岩波文庫)P.75

 父母のことのみおもふ秋のくれ 『蕪村俳句集』(岩波文庫)P.75

 〽うづみ火や我(わが)かくれ家(が)も雪のなか 『蕪村俳句集』(岩波文庫)P.99

*正岡子規は、「此句は家の外から家を見たのでは無く、家の内に在りて我家が雪深き中に埋れて居る様を思ふたのであろう。」と言っている。

*私見:「与謝蕪村 夜色楼台雪万家の図 個人蔵」の絵を連想する。

 しら梅に明くる夜ぽかりとなりにけり

*蕪村の辞世句



 〽いかのぼり きのうの空の 有りどころ

 〽かげろうや なも知らぬ虫の 白き飛ぶ ※『蕪村俳句集』(岩波文庫)P.24

 〽(いも)が垣根 三味線(すあみせん/rt>)草の 花()きぬ ※『蕪村俳句集』(岩波文庫)P.26 〽妹が垣根 さみせん草の 花咲ぬ

 〽うれいつつ 丘に登れば 花いばら

 〽百姓の 生きて働く 暑さかな

 〽月天心 貧しき町を 通りけり ※『蕪村俳句集』(岩波文庫)P.72  

12月24日京都に死んだ天明期の俳壇の代表者。摂津毛馬村に生れ、各地を放浪した。文人画家としても有名。『蕪村七部集』がある。図は「夜色楼台図。」

引用:桑原武夫編『一日一言』―人類の知恵― P.212

※関連:田辺聖子『文車(ふぐるま)日記』ころもがへ(蕪村)

2020.08.03


☆13一 茶(1763~1827年)

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 〽死に支度いたせいたせと桜かな 『岩波文庫』1992年11月2日発行 No.606

 〽死にべたと山や思わん夕時雨
*死にべたと俳(誹)れ夕炬燵 『岩波文庫』1992年11月2日発行 No.1814

 〽いざゝさらば死にゲイコせん花の陰 『岩波文庫』1992年11月2日発行 No.527

 〽またことし死搊じけり秋の暮
*又ことし娑婆塞ぞよ艸(くさ)の家 『岩波文庫』1992年11月2日発行 No.415

 美しさや障子の穴の天の川 『岩波文庫』1992年11月2日発行 No.968

*一茶臨終の句



 〽我と来て遊べや親のない雀 ※『一茶俳句集』(岩波文庫)1082 〽我と来て遊ぶや親のない雀

 〽やせがへる負けるな一茶ここにあり ※『一茶俳句集』(岩波文庫)1291 〽瘠蛙(やせがへる)まけるな一茶(これ)(あり)

 〽めでさも中(くらい)なりおらが春 ※『一茶俳句集』(岩波文庫)1515 〽目出度(めでた)さもちゅ(くらゐ)也おらが春

 〽故郷は蠅まで人をさしにけり ※『一茶俳句集』(岩波文庫)1627 〽古郷(ふるさと)(はへ)まで人をさしにけり

 〽思ふまじ見まじとすれど我家かな ※『一茶俳句集』(岩波文庫)見あたらず。

 〽秋風や磁石にあてる故郷(ふるさと)山 ※『一茶俳句集』(岩波文庫)1619 〽秋風や磁石(じしゃく)にあてる古郷(こきやう)山  

11月19日故郷信濃の柏原で死ね。江戸後期の俳人。俗語をたくみにつかい、農村や貧困な庶民の生活をうたった。主著『おらが春』。図は自著の扇面。

引用:桑原武夫編『一日一言』―人類の知恵― P.191

※関連:田辺聖子『文車(ふぐるま)日記』雪ちるや(小林一茶)

2020.08.03


☆14頼山陽の五言古詩 (1780~1832年)


葵丑の歳 偶作

十有三春秋  (十有三の春秋 )

逝者已如水  (逝く者は已に水の如し)

天地無始終  (天地始終無く)

人生有生死  (人生生死有り)

安得類古人  (安んぞ古人に類せんを得んや)

千載列青史  (千載青史に列せん)

*読み下しは筆者


☆15土井晩翠(1871~1952年)

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荒城の月

 明治卅一年頃東京音楽学校の需(もとめ)に 応じて作れるもの、
 作曲者は今も惜しまれる秀才滝廉太郎

 春高楼の花の宴

 めぐる盃影さして

 千代の松が枝わけ出でし

 むかしの光いまいづこ。

 秋陣営の霜の色

 鳴き行く雁の数見せて

 ううるつるぎに照りそひし

 むかしの光今いづこ。

 いま荒城のよはの月

 変らぬ光たがためぞ

 垣に残るはただかづら

 松に歌ふはただあらし。

 天上影は変らねど

 栄枯は移る世の姿

 写さんとてか今もなほ

 あゝ荒城の夜半の月。

※プロフィール:明治4(1871).10.23. 仙台~1952.10.19. 仙台

詩人,英文学者。本みょう,林吉。 1932年頃姓の「つちい」を「どい」と改音。 1897年東京大学英文科卒業。在学中から雑誌『帝国文学』の編集に従事,同派の詩人としてなをなした。 98年東京音楽学校編『中学唱歌』のために『荒城の月』を作詞。 99年高山樗牛の協力で処女詩集『天地有情』を刊行,集中の代表作『星落秋風五丈原』 (1898) で,漢詩調による悲壮美の表現に独創性を示した。これにより男性的な調べの叙事詩人としての声価が決定的となり,対立的な詩風の島崎藤村と並んで新体詩の代表的詩人と目された。ほかに詩集『暁鐘』 (1901) ,『東海遊子吟』 (06) ,『曙光』 (19) など。ホメロスの『イーリアス』 (40) ,『オヂュッセーア』 (43) など翻訳もある。芸術院会員。 1950年文化勲章受章。

2008.5.14


☆16与謝野鉄幹(1873~1935年)


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人を恋ふる歌

 妻をめとらば才たけて

 顔(みめ)うるわしく情(なさけ)ある

 友をえらばば書を読みて

 六分(りくぶ)の侠気 四分(しぶ)の熱

 恋の命をたずぬれば

 なを惜しむかな男(おのこ)ゆえ

 友のなさけをたずぬれば

 義のあるところ火をも踏む

2011.03.26


☆17高浜虚子(1874~1956年)


hosino.jpg 一 〽虚子一人銀河と共に西へ行く

*山折哲雄『悪と往生』より

二 〽去年今年(こぞことし) 貫く棒の 如ごときもの

 『六百五十句』(昭三〇)所収。昭和二十五年十二月二十日、新春放送用に作った句という。当時七十六歳。「去年今年」は、昨日が去年で今日は今年という一年の変わり目をとらえ、ぐんと大きく表現した新年の季語。虚子の句はこの季語の力を最大限に利用して、新春だけに限らず、去年をも今年をも丸抱えにして貫流する天地自然の理への思いをうた

*「時空」を貫くものを感じる。「不易流行」「一以てこれを貫く」(『論語』の「巻第二 里仁第四」と「巻第八 衛霊公第十五」に使われている。)を思う。

三 一月や去年の日記なほ机邊

四 年を以て巨人としたり歩み去る

2017.01.01 89歳


☆18島木赤彦(1876~1925年)

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赤 彦 歌 集(岩波文庫)2000年2月21日 第31刷発行 P.248

二月十三帰国昼夜痛みて呻吟す。胸瘠せに瘠せ骨たちにたつ

 〽()(なが)ら瘠せはてにける佛を(おの)れみづから(おろが)みまをす

 〽火箸もて野菜スープの火加減(ひかげん)を折り折り見居り妻の心あはれ

 〽隣室に(ふみ)よむ子らの聲きけば心に沁みてふみ()きたかりけり

 〽風呂桶(ふろをけ)にさはらふ我の()の骨の()(あらは)れてありと思へや

 〽(たましひ)はいづれの空に行くならん我に用なきことを思ひ居り

昭和十一年は故人没後十年に相当するので、岩波文庫の一本として「赤彦歌集」を発行することとなったことは誠に好い機であった。 昭和十一年秋彼岸 久保田不二子 齋藤茂吉


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 藤田正勝 『西田幾多郎』――生きることと哲学(岩波新書)による

 島木冬彦の〈写生〉P.67~69

 この生命の輝きを言いとめるという詩歌の営みを〈写生〉という言葉で表すことができるかもしれない。

 西田が短歌の雑誌である『アララギ』にエッセーを寄せたのは、かってアララギ派の代表的な歌人であった島木赤彦と西田とのあいだに深い交流があったからである。一九二六に赤彦が亡くなったときに西田は「島木赤彦君」という短文を『アララギ』に寄せている。それによれば、西田が赤彦を知ったのは、岩波茂雄の紹介で赤彦が『万葉集』の古写本をみるために京都大学を訪れたときのことである。

 これをきっかけに交際が始まり、赤彦が彼の歌論『歌道小見(かどうしょうけん)』を出版した際には、その批評を西田に依頼している。そのプランは実現しなかったが、しかし「私の近頃見た書物の中で最も面白く読んだものの一つであった」と西田はエッセーのなかで記している。このような関係が生まれたのは、赤彦の「写生」についての理解と西田の思想との間に、ある近さが存在することを両者が感じとっていたからではないだろうか。

 赤彦の「写生」についての基本的な考えは、『歌道小見』の次の言葉から知ることができる。「私どもの心は、多く、具体的事象とその接触によって感動を起こします。感動の対象になって心に触れ来る事象は、その相触るる状態が、事象の姿であると共に、感動の姿でもあるのであります。左様な接触の状態を、そのままに歌に現すことは、同時に感動の状態をそのままに歌に現すことになるのでありまして、この表現の道を写生と呼んで居ります。」

 文芸理論として最初に「写生」ということを主張したのは、言うまでもな正岡子規であった。赤彦もその影響を受けている。しかしここで言われている「写」は子規の言う「写生」と必ずしも同じではない。子規では、絵画をモデルとして「実際の有りのままを写す」ことが考えられている。赤彦の場合には、写生はある意味で「実際の有りのままを写す」ことであると言うことができる。しかしその有りのまま」は、表現者から区別されたかぎりの事象を指すのではない。赤彦が歌おうとする「有りのまま」は、事象と感動とが一つになった状態である。その状態を「直接」に言葉に写すことが赤彦の「写生」である。それは単なる対象の記述ではなく、その人の生の表現である。

 この点を捉えて西田はエッセー「島木赤彦君」のなかで次のように述べている。「写生といっても単に物の表面を写すことではない、生を以て生を写すことである。写すといえば既にそこに間隙がある。真の写生は生自身の言表でなければならぬ、否生が生自身の姿を見ることでなければならぬ」。西田が赤彦の「写生」論に共感をしめしたのは、赤彦の短歌についての理解が、まさにこの、芸術は生――赤彦流に言えば事象と感動とが一つになった状態――が生自身の姿を見ることであるという西田の芸術理解に通じるものがあったからであろう。

2008.5.5,2017.07.11追加、2019.04.13追加。


☆19与謝 野晶子(1878~1942年)

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 旅順の城はほろぶとも、ほろばずとても何事ぞ 君は知らじな商人(あきびと)の 家のおきてになかりけり

君死にたまふことなかれ すめらみことは 戦ひにおほみづから出でまさぬ かたみに人の血を流し獣の道に死ねよとよは 死ぬるを人のほまれとは 大みこころの深ければ もとよりいかで思(おぼ)されむ (君死にたまふことなかれ)

少女と申す者たれも戦争ぎらいに候 (ひらきぶみ)

この日(12月7日)この日生まれた歌人。鉄幹とともに『明星』の中心となり、肉体と感情の解放をうたいあげた。代表作『みだれ髪』。また次の詩は反戦詩として有名。

*桑原武夫編『一 日 一 言』―人類の知恵―(岩波新書)P.203


小林司『出会いについて』精神科医のノートから (NHKブックス) P.145

 与謝 野晶子(一八七八~一九四一)は、大阪府堺市の駿河屋という商家の娘であったが、店番をしながら読んだ島崎 藤村の新しい詩集『若菜集』にひじょうに感動した。かねてからつくっていた和歌に、それから新しい気風を盛り込み、大胆で美しい短歌をたくさんつくり、のちに『みだれ髪』(一九〇一)という歌集に実をむすんだ。「やは肌のあつき血汐(ちしお)にふれを見でさびしからずや道を説く君」などは、誰でも知っているであろう。

219.07.13


山頭火の生涯

☆20山頭火(1882~1940年)


 種田 山頭火(たねだ さんとうか)、1882年(明治15年)12月3日 - 1940年(昭和15年)10月11日)

 戦前日本の俳人。よく山頭火と呼ばれる。自由律俳句のもっとも著名な俳人の一人。1925年に熊本市の曹洞宗報恩寺で出家得度して耕畝(こうほ)と改みょう。本みょう・種田正一。

 十一歳のときに母を失った。母の死は病気ではない。自殺である。

 父は女道楽の人であった。父が妾をつくり、その妾と行楽の旅に出た留守に、母・フサは井戸にに身を投げて死んだ。

 ちょうど山頭火少年は裏庭で近所の子どもたちと遊んでいた。裏井戸のあたりの騒ぎに近づくと、「あっちへ行っとりなさい」と大人たちに追い払われた。しかし山頭火少年はしっかりと、井戸から引きあげられる母親の、水びたしの姿を見たのである。

 のちに僧となって行乞(ぎょうこつ)の旅をつづけることになった山頭火は、白布に母の位牌を巻いて持っていた。「あんな死に方をした母は、成仏をしていない」

 そう思って、母の成仏を願って行乞の旅を続けたのである。してみると、山頭火の旅は一面では母恋いの旅であったとも思えるのだが、終焉の場所となった松山の一草庵でも、昭和十五年三月六日の日記にこう書いてある。

 「けさもずゐぶん早かった。早すぎた。何もかもかたづいてもまだ夜が明けなかった。亡母第四十九回忌(略)。一洶さん立ち寄る。母へお経を読んでくれる。ありがとう。(略)道後で一浴、爪をきり顔を剃る、さっぱりした。仏前にかしこまって、焼香諷(ママ)経、母よ、不幸者を赦して下さい。(略)のんびりと寝た、仏前からおさがりをいたヾいて」

 とても母の五十回忌までは生きられまいと、山頭火は自分の命を測っている。山頭火は母の成仏を願い、母の位牌を懐に歩きつづけたのである。

 「若うして死をいそぎたまへる 母上の霊前に本書を 霊前に供えへまつる 山頭火」

 一代句集『一草塔』の扉に、こう書いてある。山頭火の句の底にはいつも"母恋い"の思いが流れている。


山頭火の生涯

[明治十五年~三十九年]

母の自殺からはじまる境涯

種田家は海を渡って約二百七十年前に土佐から周防(すおう)に移り住んだ元郷士(ごうし)。山頭火はは「大種田」とよばれた種田家の七代目で、それにふさわしい育ち方もしたようだ。十歳のとき母が自殺、後年には自分が自叙伝を書くならば━━私一家の不幸は母の自殺から━━と書かねばならぬと記している。
参考:明治二十五年(一八八九)十歳 hayasakasantouka1.JPG
 三月六日、母・フサ自宅の井戸にに投身自殺。引きあげられた死体を見て強い衝撃を受ける。
 明治三十五年(一九〇二)二十歳
 九月、早稲田大学大学部文学科に入学。二年後、神経衰弱のため早稲田大学を退学。

[明治四十年~大正五年]

大道(だいどう)で種田酒造場を経営 P.172

 大種田の家産かたむき、再起を期して隣村大道の酒造場を買い受けて酒造りをはじめる。山頭火も結婚し家業に専念した一時期はあるが、文芸方面に熱中し無軌道に酒を飲む。山頭火のペンネームで翻訳を発表したり、自由律俳句をつくりはじめた。

[大正五年~大正十二年]

破産出郷・熊本と東京 P.174

 種田家は破産して一家離散、山頭火は妻子を連れて熊本市に赴き、古書店(のちに額縁店)を開く。文学立身があきらめきれず単身上京、やがて離婚におよぶ。一時は一ツ橋図書館などに勤めるが、神経衰弱が再発して無職浪々のうちに関東大震災が起こり罹災。社会主義者と誤解されて巣鴨刑務所に留置された。

[大正十二年~大正十五年]

出家得度して観音堂守に P.176

 帰着した熊本での生活は不本意なもので、あるとき泥酔して走行中の市内電車の前に立ちはだかった。そんな捨て鉢の山頭火を禅寺に連れていく人があって、これを機縁に禅門に入り出家得度(四十三歳)。まもなく山林独住の観音堂守となるが、一年余りでそこを去り一所不住の旅に出た(四十四歳)。

[大正十五年~昭和四年]

山陽・山陰・四国地方行乞 P.178

 旅の一つの目的は小豆島に放哉を訪ねて会うことだったが、その死を知って予定を変更した。信頼する俳人として九州では木村緑平、山口には久保白船がおり、母の菩提を弔うため四国霊場八十八か所の巡拝をなし、小豆島に渡って放哉の墓に参った。

[昭和四年~昭和六年]

九州三十三所観音巡礼 P.180

 熊本に落ち着くかにみえたが、「やっぱり時代錯誤的生活しか出来ない」とみずからすすんで旅に出た。九州における三十三所観音巡礼を思いたち、昭和四年は一番から十三番まで、翌年は七か寺巡拝して中断。熊本市内に間借りして個人雑誌「三八九(さんぱく)」を発行し自活しようとする。

[昭和六年~昭和九年]

其中庵(ご ちゅう あん)を営む P.182

 暮れも押し迫って一鉢一笠、いわゆる自嘲の旅に出た。約五か月で九州観音巡礼の打ち残しの札所を巡拝。山口県の川棚温泉に足を留め、ここに庵を結ぶことを望む。けれども実現せず、やがて小郡の山麓に其中庵を営む。井泉水をはじめ層雲(そううん)派俳人の来遊しきり。

[昭和九年~昭和十一年]

逆コースの「奥の細道」 P.184

信州伊那に俳人井上井月(せいげつ)の足跡を訪ねようとするが、峠の深雪に行きなずんで飯田で病む。帰庵してからも不調の日々が続き、一度は自殺未遂。いよいよ旅で死ぬことを考え、ふたたび東上の旅に立ち、東京からは芭蕉の『奥の細道』を意識しながら、逆コースで平泉まで至り、帰路は福井の永平寺に参籠(さんろう)

[昭和十二年~昭和十四年]

転一歩して市井へ P.186

 急転直下で下関の材木商店に就職して失敗。けれど庵住にも()んで湯田温泉の歓楽街の片隅に移り住む。周囲に文学青年たちが集まってきて安逸な日々を送る。気がかりだった俳人井月の墓参のためふたたび伊那に赴き、ついに念願を果たして帰る。

[昭和十四年~昭和十五年]

永遠なる旅人 P.188

 死ぬのは近代俳句のメッカ松山だと決めて四国に渡る。ふたたび四国遍路に旅立って、途上、小豆島では放哉墓参。松山に至って、終焉となる庵を定めて一草庵(いつそうあん)となづけた。遍路の循環道であるそのほとりに死ぬことを決め、一代句集『草木塔』を出版、母の霊前に供えた。句会が開かれている庵の片隅でコロリ往生。

早坂 暁『山頭火』(日本放送 出版協会)より抜粋。

 一 〽ひとりで蚊にくはれてゐる

 二 〽蚊帳の中まで夕焼けの一人寝てゐる

 三 〽張りかへた障子のなかの一人

 四 〽いつ死ぬる 木の実は播いておく

 五 〽山あれば山を観る 雨の日は雨を聴く

 六 〽春夏秋冬

 七 〽あしたもよろし ゆふべもよろし

2015.12.03


 「〽まっすぐな道でさびしい〽」

 放浪遍歴の詩人種田山頭火の句である。

 「〽この道や行く人もなしに秋の暮れ〽」 芭蕉の事実上の辞世の句とも見られている。山頭火の句と心の底では共通するものを感じるのは私ばかりではないでしょう。

 私の好きなひとであり、『定本 山頭火全集』全七巻が本棚の隅に眠っている。

 山頭火についてまとめて記録しておこう。紀野一義『禅―現代に生きるもの』(NHKブックス)より

▼明治十五年に山口県の防府で生まれた人で、種田家といえばその地方きっての名家であったという。ところが、父親の竹次郎の女道楽から、母はかれが十一歳の年に屋敷内の井戸に投身自殺して果て、父子ではじめた酒造業も、父の女道楽とかれの飲酒癖のためについに潰れ、かれは妻子とともに熊本に逃げ、やがて妻子と離別して、生涯放浪遍歴の旅をつづけることになるのであるが、この山頭火が出家したいきさつが感銘深いのである。

▼大正十三のある日、泥酔した山頭火が熊本公会堂の前で、走って来る電車の前に仁王立ちに立ちはだかるという事件を起こした。電車は急停車して事なき得たが、乗客は将棋倒しとなり、憤った乗客と野次馬二、三百人に囲まれて山頭火は罵声を浴びた。巡査も来た。そのとき、木庭という新聞記者が巡査に交渉してかれを貰い受け、曹洞宗の禅寺報恩寺に連れて行ったのである。

▼望月義庵師は、泥酔している山頭火を叱るでもなく、なをきくでもなく、ニコニコして三度の食事を給し、『無門関』一冊をかれに与えた。

 これが山頭火にはこたえた。この報恩寺にはたしかに、入る者を拒む門はなかった。そこでは泥酔した性格破綻者さえも微笑で迎えられた。それはたしかに「無門」であった。しかし、そこには「無門」という門がちゃんとあった。その門こそ、自分がくぐらねばならぬ門であると、酔いからさめた山頭火は考えたのに相違ない。

▼熊本には、当時、破竹の勢いで曹洞の禅風を鼓吹していられた沢木興道師がおられた。山頭火はその席に連ったこともある。しかし興道師の峻烈な禅風には悦朊しなかった山頭火が、義庵師の底抜けに温和な禅風には一ぺんに参ったのである。そこが面白い。山頭火は人が変わったようになった。早朝に起き、拭き掃除にいそしみ、坐禅もした。翌大正十四年の三月には、もう四十四歳になっていた山頭火が義庵師を師として出家得度するに至るのである。

▼四十四歳にもなって、一所ふ住の雲水の身となるということはよくよくのことである。それをさせたのは一介の野の禅僧望月義庵師の、寛容な、静かな、大らかな人柄である。他人に対する信と愛を底抜けにやり通していた師の大らか人柄がそうさせたのである。禅僧にはそういう大らかな底抜けなところがあるのがほんとうではなかろうか。こんな世知辛い世の中である。せめて禅のお坊さんくらいは、大らかに抜けてほしい。それも、他人に対する信と愛において大らかに底抜けであってほしいのである。

▼わたしどもも、義庵師のような気持ちをもって生きたいものである。

平成二十五年一月九日


☆21斉藤茂吉(1882~1953年)


一 ひとり来て蠶のへやに立ちたれば我が寂しさは極まりにけり

二 つつましく一人居れば狂信のあかき煉瓦に雨のふる見ゆ

三 はるばる山峡(やまかい)に来て白樺に触りて居たり独りなりけれ

四 夕凝(ゆうこ)りし露霜ふみて火を恋ひむ一人のゆゑにこころ安けし

五 くらがりの中におちいる罪ふかき世紀にゐたる吾もひとりぞ 

*山折哲雄『悪と往生』P.146 平成十五年十二月三一日

 「親鸞一人」の位相 放哉・山頭火・虚子・茂吉 の章


 春秋 2016/12/6付 歌人・斎藤茂吉は感情の人である。気分の波が大きい。並外れて、せっかちだった。すぐに癇癪(かんしゃく)をおこし、激怒した。人一ばい、好奇心も強かった。戦前、精神科医として欧州に留学。ドナウ川の源流を探すなど広く大陸を旅して、現地で情感あふれる歌を数多く作った。

▼をりをりに群衆のこゑか遠ひびき戒厳令の街はくらしも。ミュンヘンではヒトラーのクーデター未遂事件に遭った。雪の街路で、行進曲を聞いた翌朝、機関銃をすえた鎮圧部隊を目にした。一揆に共感したのか。背景に興味を持ち、マルクス主義や国家社会主義の本を読む。大戦中には、戦争協力の歌を熱心に詠んだ。

▼茂吉が学んだオーストリアで、あやうく戦後初の極右の大統領が誕生するところだった。移民の制限をめぐって国論が二分。「ナチス!」などの罵声が飛び交い、「あまりに感情的で最低の選挙」といわれた。米大統領選の中傷合戦とよく似ていた。極右候補は敗れたが、5割に近い支持があり、排外主義の火がくすぶる。

▼感情は危なっかしい。激しい好き嫌いが分別をなくし、道を誤らせる。再起を図ったヒトラーはそこにつけ込んだ。ふ安をあおる。外に敵を作り、まんまと国民を虜(とりこ)にする。圧倒的な支持を得て、独裁者となった。昔のひとは気がつくと、「排外行進曲」に歩調を合わせていた。見くびっていると、いまの世界も轍(てつ)をふむ。

平成二十八年十二月六日


22高村光太郎(1883~1956年)

道程」以後

takamurasisu1.JPG
   冬が来た P.64

 きつぱりと冬が来た

 八つ手の白い花も消え

 公孫樹(いてふ)の木も箒になつた

 きりきりともみ込むたうな冬が来た

 人にいやがられる冬

 草木に背(そむ)かれ、虫類に逃げられる冬が来た

 冬よ

 僕に来い、僕に来い

 僕は冬の力、冬は僕の餌食(えじき)

 しみ透れ、つきぬけ

 火事を出せ、雪で埋めろ

 刃物のやうな冬が来た

   母をおもふ P.154

 夜中に目をさましてかじりついた

 あのむつとするふところの中のお乳。

 「阿父(おとう)さんと阿母(おか)さんがどちらが好き」と

 夕暮れの背中の上でよくきかれたあの路次口。 

   鑿(のみ)で怪我をしたおれのうしろから
 切火(きりび)をうって学校へ出してくれたあの朝。

 酔ひしれて帰って来たアトリエに

 金釘流(かなくぎりう)のあの手紙が待ってゐた巴里の一夜。

 立身出世しないおれをいつまでも信じきり、

 自分の一生の望もすてたあの凹んだ眼。

 やつとおれのうちの上り段をあがり、

 おれの太い腕に抱かれたがったあの小さなからだ。

 さうして今死なうといふ時の

 あの思ひがけない権威ある変貌。

 母を思ひ出すとおれは愚にかへり、

 人生の底がぬけて
 怖いものがなくなる。

 どんな事があらうともみんな

 死んだ母が知ってるやうな気がする。

智恵子抄」より

   人 に P.191

 いやなんです

 あなたのいつてしまふのが ――

 花よりさきに実(み)のなるやうな

 種子(たね)よりさきに芽の出るやうな

 夏から春のすぐ来るやうな

 そんな理屈に合わないふ自然を

 どうかしないでゐて下さい

 あどけない話 P.214

 智恵子は東京に空が無いといふ、

 ほんとうの空が見たいといふ。

 私は驚いて空を見る。

 桜若葉の間に在るのは、

 切っても切れない

 むかしなじみのきれいな空だ。

 どんよりけむる地平のぼかしは

 うすもも色の朝のしめりだ。

 智恵子は遠くを見ながら言ふ。

 阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に

 毎日出てゐる青い空が

 智恵子のほんとうの空だといふ。

 あどけない空の話である。

   人生遠視 P.216

 足もとから鳥がたつ

 自分の妻が狂気する

 自分の着物がぼろぼろになる

 照尺距離三千メートル

 ああこの鉄砲は長すぎる

   風にのる智恵子 P.216

 狂った智恵子は口をきかない

 ただ長尾や千鳥と相図する

 防風林の丘つづき

 いちめんの松の花粉は黄いろく流れ

 五月晴(さつきばれ)れの風に九十九里の浜はけむる

 智恵子の浴衣(ゆかた)が松にかくれ又あらはれ

 白い砂には松露(しようろ)がある

 わたしは松露をひろひながら

 ゆっくり智恵子のあとをおふ

 長尾や千鳥が智恵子の友だち

 もう人間であることをやめた智恵子に

 恐ろしくきれいな朝の天空は絶好の遊歩場

 智恵子は飛ぶ

   千鳥と遊ぶ智恵子  P.217

 人つ子ひとり居ない九十九里の砂浜の

 砂にすわって智恵子は遊ぶ。

 無数の友だちが智恵子のなをよぶ。

 ちい、ちい、ちい、ちい、ちい―

 砂に小さな趾(あし)あとをつけて

 千鳥が智恵子に寄って来る。

 口の中でいつでも何か言っている智恵子が

 両手をあげてよびかへす。

 ちい、ちい、ちい―

 両手の貝を千鳥がねだる。

 智恵子はそれをぱらぱら投げる。

 群れ立つ千鳥が智恵子を呼ぶ。

 ちい、ちい、ちい、ちい、ちい― 

 人間商売さらりとやめて、

 もう天然の向うへ行ってしまった智恵子の

 うしろ姿がぽっんと見える。

 二丁も離れた防風林の夕日の中で

 松の花粉をあびながら私はいつまでも立ち尽くす。

   値(あ)ひがたき智恵子  P.219

 智恵子は見えないものを見、

 聞こえないものを聞く。

 智恵子は行けないところへ行き、

 出来ないことを為(す)る。

 智恵子は現身(うつしみ)のわたしを見ず、

 わたしのうしろのわたしに焦(こ)がれる。

 智恵子はくるしみの重さを今はすてて、

 限りない荒漠の美意識圏にさまよひ出た。

 わたしをよぶ声をしきりにきくが、

 智恵子はもう人間界の切符を持たない。

*2010.02.10に「値(あ)ひがたき智恵子」を追加した。

   山麓の二人 P.220

 二つに裂けて傾く磐梯山の裏山は

 険しく八月の頭上の空に目をみはり

 裾野とほく靡いて波うち

 芒(すすき)ぼうぼうと人をうづめる

 半ば狂へる妻は草を藉(し)いて坐し

 わたしの手に重くもたれて

 泣きやまぬ童女のように慟哭する

 ――わたしもうぢき駄目になる

 意識を襲ふ宿命の鬼にさらはれて

 のがれる途無き魂との別離

 そのふ可抗の予感

 ――わたしもうぢき駄目になる

 涙にぬれた手に山風が冷たく触れる

 わたしは黙って妻の姿に見入る

 意識の境から最後にふり返つて

 わたしに縋る

 この妻をとりもどすすべが今は世に無い

 わたしの心はこの時二つに裂けて脱落し

 闃(げき)として二人をつつむこの天地と一つになつた

*2010.02.12に「山麓の二人」を追加した。

   レモン哀歌 P.221

 そんなにもあなたはレモンを待つてゐた

 かなしく白くあかるい死の床で

 わたしの手からとつた一つのレモンを

 あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ

 トバァズ色の香気が立つ

 その数滴の天のものなるレモンの汁は

 ぱつとあなたの意識を正常にした

 あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ

 わたしの手を握るあなたの力の健康さよ

 あなたの咽喉(のど)に嵐はあるが

 かういふ命の瀬戸ぎはに

 智恵子はもとの智恵子となり

 生涯の愛を一瞬にかたむけた

 それからひと時

 昔山巓(さんてん)でしたような深呼吸を一つして

 あなたの機関はそれなり止まつた

 写真の前に挿した桜の花かげに

 すずしく光るレモンを今日も置こう

*2010.02.13に「レモン哀歌」を追加した。

   荒涼たる帰宅 P223

 あんなに帰りたがってゐた自分の内へ

 智恵子が死んでかへって来た。

 十月の深夜のがらんどうなアトリエの

 小さな隅の埃(ほこり)を払ってきれいに浄め、

 私は智恵子をそつと置く。

 この一個の動かない人体の前に

 私はいつまでも立ちつくす。

 人は屏風をさかさにする。

 人は燭をともし香をたく。

 人は智恵子に化粧する。

 さうして事がひとりでに運ぶ。

 夜が明けたり日がくれたりして

 そこら中がにぎやかになり、

 家の中は花にうづまり、

 何処かの葬式のやうになり、

 いつのまにか智恵子が居なくなる。

 私は誰も居ない暗いアトリエにただ立つてゐる。

 外は名月といふ月夜らしい。

*2010.02.15に「荒涼たる帰宅」を追加した。

   亡き人に P.224

 雀はあなたのやうに夜明けにおきて窓を叩く

 枕頭のグロキシニヤはあなたのやうに黙って咲く

 朝風は人のやうに私の五体をめざまし

 あなたの香りは午前五時の寝部屋に涼しい

 私は白いシイツをはねて腕をのばし

 夏の朝日にあなたのほほゑみを迎える

 今日が何であるかをあなたはささやく

 権威あるもののやうにあなたは立つ

 私はあなたの子供となり

 あなたは私のうら若い母となる

 あなたはまだゐる其処にゐる

 あなたは万物となって私に満ちる

 私はあなたの愛に値しないと思ふけれど

 あなたの愛は一切を無視して私をつつむ

*2010.02.16に「亡き人に」を追加した。

   梅 酒 P.226

 死んだ智恵子が造つておいた瓶の梅酒(うめしゆ)は

 十年の重みにどんより澱(よど)んで光を葆(つつ)み、

 いま琥珀(こはく)の杯に凝つて玉のやうだ。

 ひとりで早春の夜ふけの寒いとき、

 これをあがってくださいと、

 おのれの死後に遺していつた人を思ふ。

 おのれのあたまの壊れるふ安に脅かされ、

 もうぢき駄目になると思ふ悲に

 智恵子は身のまはりの始末をした。

 七年の狂気は死んで終つた。

 厨(くりや)に見つけたこの梅酒の芳(かを)りある甘さを

 わたしはしづかにしづかに味はふ。

 狂瀾怒濤の世界の叫も

 この一瞬を犯しがたい。

 あはれな一個の生命を正視する時、

 世界はただこれを遠巻きにする。

 夜風も絶えた。

*2010.02.17に「梅 酒」を追加した。

参考:智恵子は統合失調症で光太郎に先立つ。

参考:高村光太郎作『乙女の像』

感想:高村光太郎氏の智恵子を愛し、見守り、生前を回想する。孤独がひしひしと伝わって来る。詩の表現の力にひしがれている自分を感じる。

2010.01.18 朝、6:00時


23石川啄木(1885~1912年)


    歌集:『一握りの砂』

 〽東海の小島の磯の砂浜にわれ泣きぬれて 蟹とたはむる 

 〽ふるさとの山に向かひて 言うことなし ふるさとの山はありがたし

 〽頬につたふ なみだのごはず 握の砂を示しし人を忘れず 

 〽たはむれに母を背負ひて そのあまりに軽さに泣きて 三歩あゆまず

 〽新しき明日の来るを信ずといふ 自分の言葉に 嘘はなけれど

 〽人がみな 同じ方角に向いて行く それを横より見てゐる心

    歌集:『悲しき玩具』

 〽働けど働けど わが暮らし楽にならざり じっと手を見る

 〽こころよき疲れなるかな 息もつかず 仕事をしたる後のこの疲れ   

 〽新しい明日の来るを信ずといふ 自分のことばに 嘘はなけれど――

 〽百姓の多くは酒をやめしといふ もっと困らば 何をやめらむ

2008.11.25、2010.01.15 すこし改めた。



   飛行機

 見よ、今日も、かの蒼空に
 飛行機の高く飛べるを。

 給仕づとめの少年が
 たまに非番の日曜日、
 肺病やみの母親とたった二人の家にいて、
 ひとりせっせとリイタアの独学をする眼の疲れ……

 見よ、今日も、かの蒼空に
 飛行機の高く飛べるを。

4月13日二十八歳の若さで死んだ文学者。貧乏と孤独のなかで苦しみながら、新しい国民的発想の文学をtyくり、のち社会主義者と自覚した。 *桑原武夫編『一 日 一 言』―人類の知恵―(岩波新書)P.62


☆24尾崎放哉(1885~1926年)


一 〽せきをしてもひとり

二 〽こんなよい月を一人で見て寝る

三 〽たった一人になりきって夕空

四 〽淋しいぞ一人五本のゆびを開いて見る

五 〽臍に湯をかけて一人夜中の温泉である

六 〽月夜風ある一人咳して

*山折哲雄『悪と往生』P.138

 「親鸞一人」の位相 放哉・山頭火・虚子・茂吉 の章


25若山牧水(1885~1928年)

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 幾山河 P.195~197

 〽幾山河(いくやまかわ)越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく

 この、若山牧水の歌に、心をしびれさなかった昔の女子学生がいたでしょうか。この歌は、秋の匂いをさながらもたらすような歌でした。少女の私には、秋は、この歌と共に訪れました。

 若者の心に、ぽとりとしずくをおとして、その水滴がやわらかい紙ににじむように、心をぬらしてゆく歌でした。

 牧水は、昭和三年に亡くなった歌人ですが、もう古典の中に入れてもよいように思われます。そのしらべの美しさ、純粋さ、そのくせ、しんに強い線が男っぽく通っていて、いかにもゆったりと、おおらかな味わいのする歌です。

 今よんでみても、その新鮮さはちっとも失せていません。そして、牧水の歌を一つまた一つと夢中でおぼえていたころの思い出も、もろともに、レモンのよう匂い立ちます。

 〽いざ行かむ行きてまだ見ぬ山を見むこのさびしさに君は耐ふるや

 少女の私には、ほんとの人生のさびしさはわかりませんでした。戦争中の日本には「旅ゆく」という、おおらかな情感は想像もできませんでした。それだけになお私は、見知らぬ国への旅、さびしさの果ての幾山河をあごがれたのです。

 〽吾木香(われかう)すすきかるかや秋くさのさびしききはみ君におくらむ

▼関連:若山牧水

参考:吾木香すすきかるかや秋くさのさびしききはみ君におくらむ 『別離』(明治43年刊)

 きわめて個人的な出来事である恋愛の歌が普遍性をもつときの妙味というものを、牧水の歌はいつもよくおしえてくれる。

 彼の場合、個人のかなしみやよろこびに普遍性を与えようと意図して歌っていたというより、彼の思いそのものが、つねに普遍的なかたちでこの世界のありようと分かち難く存在していたのだと感じられる。

 ほそほそとした秋くさのあわいの空気とともに、牧水のさびしさの震える感触があって、その分かち難さの表現が、自然と抽象度を帯びた相聞歌となって流れ出ている様を、しみじみ味わってみたい。

 この歌をおぼえたのは林芙美子さんの小説だった思います。軍隊へ入った夫から、女主人公の妻へあてた手紙に、この歌が書きつけてあったのです。私は、われもこうという草をみたいと思って、熱心に調べたことをおぼえています。

 海の聲

 〽白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ

 〽けふもまたこころの鉦(かね)をうち鳴らしうち鳴らしつつあくがれて行く

 〽多摩川の砂にたんぽぽ咲くころはわれにもおもふひとのあれかし

 こういう歌を少女時代によむと、一つの歌だけで、一時間も、ぼんやり、いろいろ考えごとができるのでした。「白鳥は」の歌など、すぐれたふかい交響楽を聞いたあとのように、いつまでも余韻がのこって、体のうちの小さな鐘はひびき交わし、鳴りどよもし、やわらかな心の中に消えることなく、この歌が彫りつけられてゆくのでした。

 牧水の恋歌には、抽象された格調高さがあります。あたらしい古典美、というような。

 〽山を見よ山に日は照る海を見よ海に日は照るいざ唇(くち)を君

 〽ともすれば君口無しになりたまふ海な眺めそ海にとられむ

 〽君かりにかのわだつみに思はれて言ひよらればいかにしたまふ

 これらの恋歌は、どれだけたくさんの若者の、日記や恋文の端にかきつけられてきたことでしょう。

 牧水の歌は、そこに特徴がありました。若者たちは、牧水の歌を、自分の歌のように思いなして使うのでした。どんな若者の、どんな恋にも、牧水の歌はぴったり、はまってくれました。引用する、というものでなく、若者たちが自分で作るべかりし歌、そのものが、牧水の歌でした。

 〽かたはらに秋ぐさの花かたるらくほろびしものはなつかしきかな

 古い村、古いまちを通るとき、また、人生の中歳に達した人が来し方をふとふりかえりみるとき、私たちは自分の作りたかった歌を、牧水の歌の中からみいだします。もう牧水が歌ってくれた以上、私たちはそれを口ずさむだけでよいのです。私が彼の歌を古典という所以です。牧水は、酒を愛した人でしたから、ちゃんと、こういう歌も、作ってくれました。

    路上

 〽われ歌をうたひくらして死にゆかむ死にゆかむとぞ涙を流す

 〽終りたる旅を見かへるさびしさにさそさわれてまた旅をしぞおもふ:(岩波文庫P.44:家内とアメリカから帰った時の新聞に書かれていた)

    くろ土

 〽わがこころ澄みゆく時に詠む歌か詠みゆくほどに澄める心か

※田辺さんの原文に黒崎が少し挿入している。

2008.11.23


☆26土岐善麿(1885~1980年)


一 石川はえらかったな、と おちつけば、しみじみと思ふなり、今も。

*(折々のうた)朝日新聞十六年十月十七日より


作詞者 土岐善麿  作曲者 橋本国彦

一 さすらいの 旅(たび)に出(い)でても恋(こい)しきは ふるさとの山 思い出の 川のひびきに かんこ鳥 声はまぎれず胸(むね)くるし胸(むね)くるし 胸(むね)くるし 若き愁(うれ )いよ

二 東(ひがし)の島の浜辺(はまべ)に たわむれし かにはいずくぞ 人の世(よ)の 嘆(なげ)尽(つ)きねば あこがれの 明日(あす)を思いぬ 歌かなし 歌かなし 歌かなし永久(とわ)の命(いのち)や


☆27萩原朔太郎(1886~1942年)

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 少年の目は物に感ぜしや

 われは波宜亭の二階によりて

 かなしき情歓の思ひにしづめり。

 その亭の庭にも草木茂み

 風ふき渡りてぼうぼうたれども

 かのふるき待たれびとありやなしや。

 いにしえの日には鉛筆もて

 欄干(おぼしま)にさえ(しる)せしななり。(郷土望景詩)

    波宜亭(はぎてい)は、前橋公園の前にあった料亭。

5月11日東京で死んだ。日本近代詩壇に新風を吹き込んだ代表的詩人。前橋に生まれ、第六高等学校中退。評論にも独自の境地を示した。詩集『月に吠える』『青猫』

*桑原武夫編『一 日 一 言』ー人類の知恵ー(岩波新書)P.80

*青木雨彦監修『中年博物館』(大正海上火災保険株式会社)P.73

2020.05.12


☆28吉井 勇(1886~1960年)


 消息は一行にしてことたらむ思いは文字にかきがたきなり 


☆29柳 宗悦(やなぎ むねよし)(1889~1961年)


 〽見ずや 君 あすはちりなむ花だも 力の限り ひとときを咲く

 何も皆去年ちょう年に負わせやりて あらたなる日に入りなん共に

*『花園』平成八年一月号

 「雪 イトド深シ 花 イヨイヨ近シ」


30室生犀星(1889~1962年)

ふるさと

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故 郷

 ふるさとは遠きにありて思ふもの

 そして悲しくうたふもの

 よしや

 うらぶれて異土の乞食となるとても

 帰るところにあるまじや

 ひとり都のゆふぐれに

 ふるさとおもひ涙ぐむ

 そのこころもて

 遠きみやこにかへらばや

 遠きみやこにかへらばや

 [小景異情ーその二] より

*:(叙情小曲集 小景異情)(1918)にある一編

*:〈現代詩文庫 室生犀星〉(思潮社)装丁がよい。

*追加:明日のことがわからないという事は、人の生きる愉しさをつないでゆくものだ。


大岡 信氏は次のように言う。

 『抒情小曲集』(大七)巻頭の詩「小景異情」その二(全部で十行)の冒頭。有名な詩句だが、これは遠方にあって故郷を思う詩ではない。上京した犀星が、志を得ず、郷里金沢との間を往復していた苦闘時代、帰郷した折に作った詩である。故郷は孤立無援の青年には懐かしく忘れがたい。それだけに、そこが冷ややかである時は胸にこたえて悲しい。その愛憎の複雑な思いを、感傷と反抗心をこめて歌っているのである。
平成二十八年六月二十八日:追加


31三木露風 (1889~1964) 詩人・童謡作家・随筆家


  ふるさとの

 ふるさとの

 小野の木立(こだち)に
 笛の音(ね)の

 うるむ月夜や

 少女子(おとめご)は

 あつき心に

 そをば聞き

 涙ながしき(注)

十年(ととせ)経(へ)ぬ

 同じ心に

 君泣くや

 母となりても


  赤とんぼ

 夕焼け小焼けの赤とんぼ

 おわれて見たのは、いつの日か

2011/02/26


☆32大石順教(1889~1968)


 たなごごろあわすべきもなき身にはただ南無仏ととなえのみこそ

 くちに筆をとりて書けよと教えたる鳥こそわれの師にてありけれ


☆33八木重吉(1892~1927年)

素朴な琴
    素朴な琴

 この明るさのなかへ

 ひとつの素朴な琴をおけば

 秋の美しさに耐えかね

 琴はしずかに鳴りいだすだろう

平成二十三年十月四日


☆34中川一政のうた(1893~1991年)

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貧しき母

 人はなべてかなし

 さ夜ふけし夜のみち

 米何升を買ひてかへるもの

 あにわが母のみならんや

 われはけふ

 しほ鮭のひときれを

 買ひてかへるまずしき人をみたり

 顔あをざめて

 この世にいまは為すことなきが如けれど

 背には子を負へり

 何も知らざるおさな児よ

 汝が母の背はあたゝかくして

 汝が母がくるゝものはうまきかな

 ねむれ、いとし児

 みちたりて

 ねむれいとし児

 なが幼児なる日

 母は世にも貧しきくらしをなしつゝ

 なをそだてあぐるなり

 すべて人は苦労す

 すべてのものはみなかなし

 されど子をまもる母はありて

 おのれひときれの塩鮭を

 紙につゝみて買へども

 なほ世のどん底に

 死なせずしてとらふる力あり

 なほ世のためになさしむるなり

 いとほしめ汝が児を

 おのがじし

 わが児を負へる

 ちまたの母は涙ぐましきかな。(見なれざる人)

yamamotokenkiti.kokoronouta.jpg *山本健吉 『こころのうた』 P.147 より引用。

 画家中川一政は、また詩人でもある。どこか武者小路実篤流のヒューマニズムを漂わせながら、武者小路にはない生活味がある。

 米の一升買いということは、貧しい者のこととされている。塩鮭の一きれ買い――という言葉はきかないが、それこそもっとも貧しい階層に属するだろう。それはきわめて薄い一切れであろう。しかも、その母親は、自分の食べ分を節して、子に食べさせようとするらしい。

 貧しさの極致にあって、なお人の子は育て上げられる。そして「子を守る母」はあって、塩鮭を買う。どん底にあって、なお人の子を死なしめぬ力がある。そこに作者は、この世の摂理を感じる。すべての存在はかなしいが、その中でも、「わが児を負へる/ちまたの母」に、人間存在のかなしさは集約されて現されている。

私見:どん底の貧しさは、それを体験した人にしかわからないものがあると思う。「神や仏があるものか」と思うまでにいたる。人間存在のかなしさの言葉では表しきれないものではないだろうか。

Link:中川一政

2008.3.13


35西脇順三郎(1894~1982年)


   旅人かへらず

 旅人は待てよ

 このかすかな泉に

 舌を濡らす前に

 考へよ人生の旅人

 汝もまた岩間からしみ出た

 水霊にすぎない

 この考へる水も永劫には流れない 

 永劫の或時にひからびる

 ああかけすが鳴いてやかましい

 時々この水の中から

 花をかざした幻影の人が出る

 永遠の生命を求めるは夢

 流れ去る生命のせせらぎに

 思ひを捨て遂に

 永劫の断崖より落ちて

 消え失せんと望むはうつつ

 さう言ふはこの幻影の河童

 村や町へ水から出て遊びに来る

 浮雲の影に水草ののびるころ

*山本健吉 『こころのうた』より引用。 yamamotokenkiti.kokoronouta.jpg

 『旅人かへらず』の序に、作者は言っている。

 「・・・・自分の中に種々の人間がひそんでいる。まず近代人と原始人がゐる。前者は近代の科学哲学宗教文芸によって表現されてゐる。また後者は原始文化研究、原始人の心理研究、民族等に表現されゐる。」(略)

2008.03.15


36宮沢賢治 (1896~1933年)  

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 宮沢賢治詩集(岩波文庫)

不貪欲戒 P.75

 油紙を着てぬれた馬に乗り

 つめたい風景のなか 暗い森のかげや

  ゆるやかな環状削剥(くわんさくは)の丘 赤い萱の穂のあひだを    

 ゆっくりあるくといふこともいゝし

 黒い多面角の洋傘(こうもりがさ)をひろげて

 砂砂(すなさ)糖を買ひに町へ出ることも

 ごく新鮮な企畫である

    (ちらけろちらけろ 四十雀)

 稲とよばれがさっな草の群落が

 タアナアさへもほしがりさうな

 サラドの色になってることは

 慈雲尊者(じ うんそんじゃ)にしたがへば

 ふ貪欲戒(ふどんよくかい)のすがたです

   (ちらけろちらけろ 四十雀

    のときの高等遊民は

    いましっかりした執政官だ)

 ことことと寂しさを噴く暗い山に

 防火線のひらめく灰いろなども

 慈雲尊者にしたがへば

 不貪欲戒のすがたです

*掲載日ふ明


 稲作挿話 (作品一〇八二番)P.228

 (前略)

 きみのやうにさ

 吹雪やらづかの仕事のひまで

 泣きながら

 からだに刻んで行く勉強が

 まもなくぐんぐん強い芽を噴いて

 どこまでのびるかわからない

 それがこれからのあたらしい學問のはじまりなんだ

 ではさようなら

  ……雲からも風からも

    透明な力が

    そのこどもに

    うつれ……

2010.01.22


 十一月三日(雨ニモマケズ)P.325

 雨ニモマケズ

 風ニモマケズ

 雪ニモ夏ノ暑サニモマケズ

 丈夫ナカラダヲモチ

 欲ハナク

 決シテ瞋ラズ

 イツモシヅカニワラッテヰル

 味噌ト少シノ野菜ヲタベ

 アラユルコトヲ

 ジブンヲカンジョウニ入レズニ

 ヨクミキキシワカリ

 ソシテワスレズ

 野原ノ松ノ林ノ蔭ノ

 小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ

 東ニ病気ノコドモアレバ

 行ツテ看病シテヤリ

 西ニツカレタル母アレバ

 行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ

 南ニ死ニサウナ人アレバ

 行ツテコハラガラナクテテモイイトイヒ

 北ニケンクワヤソショウガアレバ

 ツマラナイカラヤメロトイヒ

 ヒデリノトキハナミダヲナガシ

 サムサノナツハオロオロアルキ

 ミンナニデクノボウトヨバレ

 ホメラレモセズ

 クニモサレズ

 サウイフモノニ

 ワタシハナリタイ

2010.01.23


37中村久子 (1897~1968年)

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一 手はなくも足はなくとも仏のそでにくるまるる身は安きかな

二 手足なき身にあれども生かさるるいまのいのちはたふとかりけり

三 〈無一物〉 久子口書

         六十九才

Link:無一物ー中村久子ー


▼『こころの手足』春秋社

一 氷と水のごとくにて氷おほきに水おほし さはりおほきに徳おほし

*親鸞聖人について

 蓮月尼 P.168

 涙の淵に沈んだ尼なればこそ後に尾崎の庵りの一人居の時に、

  宿かさぬ人のつらさをなさけにておぼろ月夜の花の下ふし

と詠んで、つらさを、なさけと受け入れられたせかいこそ法の世界であり、お念仏の世界であります。

参考:大田垣 蓮月(おおたがき れんげつ、寛政3年1月8日(1791年2月10日) - 明治8年(1875年)12月10日)は、江戸時代後期の尼僧・歌人・陶芸家。俗名は誠(のぶ)。菩薩尼、陰徳尼とも称した。


☆38清水かつら (1898~1951):作詩  弘田龍太郎

▼叱られて(1920年)

      

叱られて    叱られて
あの子は町までお使いに   
この子は坊やをねんねしな   
夕べさみしい村はずれ   
コンときつねがなきゃせぬか


叱られて    叱られて   
口には出さねど眼になみだ   
二人のお里はあの山を    
越えてあなたの花のむら    
ほんに花見はいつのこと

*子どもの頃の、あの人、この人を思い出させられる懐かしい歌です。

2008.6.12


39安積得也(1900~1994年)

     

「未 見 の 我」

「未見への出発」より抜粋 一 人間飢饉

 春が還り
 麦が伸びても
 人間は成長からおきさられた
 今日も新しい太陽が昇って来たのに
 人間の「未見の我は」
 痩せしほれて眠っている
 喪家の犬だ
 そして全世界が叫んでゐる
 人物が足りないと
 若い時代に
 人の教徒らに多くして
 人間資源の払底だ
 人間の飢饉だ
 それは当然だ
 「未見の我」の混混として居眠る限り
 「未見の我」の未見のままに死にゆく限り
 痛ましい人間飢饉が
 永久に人の世を暗くする
 見よ、見直せ
 太陽が新しく昇って来る
 万物は流転し
 古い価値は古靴と共に止揚(すて)られる
 今、今
 「未見の我」の若い主人公よ
 お前の「未見の我」を  なぜもっといたはらないのだ
 天から授かった秘蔵子を
 なぜいつまでも眠らせて置くのだ
 世界が待っている
 人間飢饉の世界中が待ち焦がれてゐるよ
 お前の「未見の」の成長を
お前の威勢のいい登場を
      ・
      ・
      ・
      ・
      ・
      ・

二 未見の我

 昼なほ暗き大森林
 何千億の樫の葉から
 一番よく似た二枚を採って較べて見る
 不思議だ
 一枚だって同じものは無いのだから
 植物学者の語る事実が
 鋭い暗示を
 人間個性の問題に投げかける
 人皆の声が違ふように
 人皆の可能性が
 おのがじしなる持ち味を蔵してゐる
 愕くべき真理だ
 お互い一人一人が
 夫々に天下一品の特質を
 おほいなるものから授かってゐるとは
 人皆英雄!
 さうだ
 内に隠れて見えないけれども
 現在(いま)こそ内に眠り底に潜んで
 自分にも他人にも発見(わか)らないけれど
 五尺の我の中にこそ
 「未見の我」の偉大なる姿が隠れてゐるのだ
 ありがたや
 自分には自分の知らない自分がある
 強くして能あり
 清くして正大なり
 現在(いま)の我とは比較にもならぬ
 未来相の我だ
 私はもう私を見くびらない
 弱小の私
 無能の私
 あやまちの多い私
 あいかし私は「未見の我」の故に
 私の全身全霊を愛惜する
 彼はつまらぬ奴だ
 馬鹿なまねをしやがった
 しかし私は彼を見棄てない
 彼の内なる(未来の彼)を
 私は限りなく尊重する

三 神秘の扉

 筏を繰りながら
 ミシシッピーを南に下がる
 年エブラハム・リンカーン
 彼さへも彼の「未見の我」に
 容易に気づかなかった
 汽車中の新聞売子
 少年トマス・エジソン
 このみすぼらしい少年の中に
 誰か(文明の恩人)を想像したろう
 一校を受けて落第した沢正(さわしょう)
 その落第の彼方に
 未見の沢正が約束された
 眼を無名の青年に転じよう
 菜種の研究に
 野村を生甲斐の天地とした村山勇
 マスカット・ハンブルグの
 露地栽培を大成した石原 泰(ゆたか)
 害虫研究の大石俊雄
 ヘッドライトのの羽田正勝
 讃えよ
 一人一研究の小英雄
 誰も誰も自分の肩に
 天与の宿題を持ってゐる
 一題解けば又一題
 一山越ゆれば更に一山
 より高い「未見の我」へと
 集中と継続の大道を
 どっしどっし登ってゆく
 私は駄目だと辮解しながら
 逃避(にげ)てばかりゐる卑怯者よ
 力量を断じ本性を透視すべく
 科学の認識は余りにも貧しく
 人間の全貌は神秘多し
 俺はこれだけの人間だと
 簡単に片づけてしまふ前に
  友よ
 未見神秘の扉を叩きに叩かうよ

四  全A 全B

 私は生物学と心理学を無視しない
 私は遺伝学と進化論をけなさない
 生まれながらの未見の我が
 萬人平等でないないことを
 私は正直に肯定する
 だから私は
 萬人が大将になることを好まない
 クラス中が一番になることをなることを祈らない
 AはAでよく
 BはBでよし
 ただ願はくは
 Aは全Aであれ全Bであれ
 悲しいかな全Aであり得たAがあるか
 みんな中途半端の分数で死んだのだ
 そして悟り顔にも
 私は之だとあきらめたのだ
 「未見の我」の安っぽい評価よ
 造花に対する冒潰でなくて何だ
 心理学よ来い
 お前の未熟なメンタルテストで
 「未見の我」の不思議が解るか
 進化論よ来い
 お前の単純な結論だけで
 未見の人生を割り切るつもりか
 きょうだいよ
 天に享くる未見の姿の前に
 みんなが更に謙遜であろうよ
      ・
      ・
      ・
      ・
      ・
      ・
      ・
    

五 可能性を惜しむ

 世界中の若々しい「未見の我」よ
 静かにお互いの天地を見廻はそうよ
 不安にをののく
 しめっぽい生活
 あるは又荒々しくざわめいて
 花の無い生活
 利己主義(エゴイズム)と利己主義とが
 血みどろにいがみ合っている諸々の光景
 さあ眼をさませ「未見の我」
 計り知れぬ成長の自由を
 汲めども尽きぬ働きの自由を
 自ら作った小さい捕縄でいはへつけてしまふのは
 罪深い自縄自縛だ
 去れよ精神的狭心症
 握りつぶせ「未見の我」の不信任案
 授かった可能性の一割も出さずに
 死んで行くのが惜しいのだ
 功名富貴惜しからず
 成敗利鈊惜しからず
 ただ私は
 私の隠れたる可能性を惜しむ
 いざや
 長き旅に上らん
 「未見の我」の姿求めて
      ・
      ・
      ・
      ・
      ・
      ・
      ・
      ・
      ・
      ・
      ・
      ・

六 戦 闘

 私の中にいやな奴が沢山いる
 豚がゐるよ
 貪婪の鼻を鳴らして
 本能のままに動いているよ
 兎がゐるよ
 すぐいい気になってしまふ兎が
 怠慢の眠りをむさぼってゐるよ
 狼がゐるよ
 エゴイズムの狼が
 臭いにほいを出してゐるよ
 羊がゐるよ
 愚かな浅はかな羊が
 ほんとうに認識ふ足だよ
 猫がゐるよ
 一匹も鼠を取らないで
 ひなたぼっこの安易道を歩いてゐるよ
 犬がゐるよ
 怒りっぽい犬が
 すぐ浅薄にかみつくよ
 孔雀がゐるよ
 虚栄の孔雀が
 なと富と位ばかりほしがってゐるよ
 虚栄の孔雀が
 鹿がゐるよ
 あっちこっちに気を配り
 逃げることばかり考へてゐるよ
 あさましい私の中の動物よ
 私はお前に機関銃を向ける
 勇気で包んだ金剛の意志が
 お前の胸板に弾丸を射ち込む
 勇気で包んだ金剛の意志が
 強いぞ、内心の要求
 意志!意志!意志!
 さあ来い
 お前の誘惑
 お前は眼前の蝋燭
 「未見の我」
 悠久の太陽
      ・

七 境遇を活かす

 俺はほやほやの人間だ
 俺は何を頼みにしてゐる
 眼も絢爛(あや)なる着物よりも
 裸で生きられる健康が頼母しいよ
 何時も手にある雨傘よりも
 降ったら駆け出せる脚が頼母しいよ
 俺は貧乏で中学にも行けない
 よし俺は
 自分で自分を教育するのだ
 学問と学校は別物だ
 学校に証書の紙だけ貰ひに行った
 高等失業者もゐれば
 工場に通ひながら
 学問をやり通したマクドーナルドもゐる
 蝶よ花よと育てられ
 いいものづくめで身を包まれて
 何一つ苦労を知らぬお坊ちやんは
 「未見の我」から見離されたふ幸者だ
 幸福は時に不幸であり
 不幸は概ね幸福の母だ
 みせかけの幸福よ、外側の不幸よ
 すべて閑人の閑葛藤にまかせて置け
 境遇よ
 お前が何であろうと
 お前は私の親友
 俺は微笑を含んでお前を受け取り
 ウムと両足を踏んばって
 境遇の心臓に活を入れる
 俺はほやほやの人間
 身に降りかかる一切の境遇を
 活かして生きた勇者たちと
 肝胆相共に照すのだ
      ・

八 仕事を楽しむ

 内に秘む貴さが
 仕事を通して現はれる
 仕事がうれしい
 私は歯を喰ひしばって努力しない
 笑って努力する
 私にも合唱させてくれ
 あしびきの山の草木を友として
 働きながら遊びけるかな
 私は喜んでどろにまみれ
 天地を友として肥たごをかつぐ
 肥たごを担ぎほれるよ
 田の草を採りほれるよ
 桑の葉を摘みほれるよ
 試験管を眺めほれるよ
 文章を書きほれるよ
 聖賢の書を読みほれるよ
 もう私は肩書きを拝まない
 紙幣束(さつたば)を拝まない
 洋服を拝まない
 価値観念の革命が来たのだ
 衣服はぼろでも
 私の心はゆたかだよ
 身も魂も打ちこんだ
 仕事を楽しむ心
 専念一慮の妙境
 これはこのままに
 天地の大みこころに通貫する
 仕事に惚れて
 「未見の我」を生み出そうよ
      ・

九 一人一特色

 「未見の我」の可能性は
 万能の代名詞ではなかった
 万能でない人間が
 万事を成就せんとすることは
 万事に失敗することだ
 「未見の我」の創造は
 焦燥を嫌ひ
 中途半端を戒しめる
 一時に六つの窓から出ようとした
 一猿六窓の愚を学ぶより
 青春の企てから一つを択びとり
 能力を一時に集中しようよ
 その択びとった道に於て
 一人一特色を発揮しようよ
 貴いかなや〈未見の我〉に輝く
 持ち味の輝き
      ・
      ・
      ・
      ・
      ・
      ・
      ・
      ・
      ・
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      ・
      ・
      ・
      ・
      ・
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      ・
      ・
      ・
      ・
      ・
      ・

十 未見巡礼  

 一切相関の人の世に  
 一切完成の彼岸を眼ざして  
 我も人も (未見の我)を礼拝する  
 私の中に  
 「未見の我」を確信する  
 あなたの奥に  
 「未見のあなた」を信頼する  
 あなたの奥に 日本の本然に  
 「未見の日本」を信仰する  
 世界の明日に  
 「未見の人類」を待望する  
 未見の姿は  
 祖先たちが部分的に持つてゐたものを  
 束として持つのみかは  
 それ以上の一切をを持つ  
 今日までの地上に現はれた  
 もろもろの聖人賢偉人達  
 今日までの地上に現はれた  
 卿(けい)等(ら)も亦  
 すべて未見なるものに帽子をとれ  
 限りなき広し未見の地  
 限りなく高し未見の天  
 新らしい太陽の下を  
 朗らかに歩む吾等はらから  
 エゴイズムの荷物だけで  
 此の肩を疲らすのは惜しい  
 どうせかつぐなら  
 どんな小さい荷物でもいいから  
 同類全体の問題を  
 心の肩にかついでゆこう  
 骨を惜しまない  
 行当りばったりの生活をすまい  
 未見なるものの創造は  
 あだおろそかな事業ではないのだから  
 さあみんな一緒だ  
 「未見の我」の開拓へ
 創造日本の建設へ  
 元気に進軍だ  
 すべての人間様と  
 汗を分ち  
 笑を分ち  
 涙を分ちながら  
 生命の水を汲みつゝ  
 前途はてしなき愉悦の旅行  
 我等は未見への開拓者だ          

― 昭和八年春― 平成十九年九月九日~十日、写す。


   詩集「一人のために」(善本社)

『明日』

 はきだめに

 えんどう豆咲き

 泥沼から

 蓮の花が育つ

 人皆に

 美しき種子あり

 明日

 何が咲くか

『花園』平成12年10月号より


☆40金子みすゞ(1903~1930年)


6 童謡詩人 金子みすゞの詩 '93 夏の号(朝日新論説委員室)+株式会社英文朝日 1993年8月31日 第1刷 P.14 (1993.4.7)

 作家の矢崎節夫さんは学生のころ、こういう詩に接して、激しい衝撃を受けた。「朝焼小焼だ/大漁だ/大羽鰮(おおばいわし)の/大漁だ。/浜は祭りの/やうだけど/海のなかでは/何万の/鰮のとむらひ/するだろう。」

 金子みすゞという人の「大漁」と題する詩である。「人間中心の自分の目の位置をひっくり返される、深い、優しい、鮮烈さだった」。それから矢崎さんは、この詩人について知りたいと調べ始める。何せ、他の作品がなかなか見っからなかった。

 このほど出版された『童謡詩人金子みすゞの生涯』に、調べてわかった事実が詳しく記されている。遺稿集三冊の発見のいきさつに始まり、みすゞの故郷、現在の山口県長門市仙崎での調査、親類や友人たちからの聞き取りがある。

 今から九十年前に生まれた人だ。二十歳のころ、童謡を書いて雑誌に投稿し始め、西条八十に認められた。結婚もし、子供ももうけたが、二十六歳で死ぬ。ずいぶん短い時間に心あたたまる詩をたくさん書いたものだ。

 「土」という題の詩。「こッつん こッつん/打(ぶ)たれる土は/よい畠になって/よい麦生むよ。/朝から晩まで/踏まれる土は/よい路(みち)になって/車を通すよ。/打たれぬ土は/踏まれぬ土は/要らない土か。/いえいえそれは/なのない草の/お宿をするよ。」

 無用と見られようと、無名であろうと、その存在、その生命の尊さはゆるぎもしない、という思い。やさしだけではなく、つよい詩なのだ。新学期にふさわしい「私と小鳥と鈴と」。

「私が両手をひろげても、/お空はちつとも飛べないが、/飛べる小鳥は私のやうに、/地面(じべた)を速くは走れない。/私がからだをゆすつても、/きれいな音は出ないけど、/あの鳴る鈴は私のように/たくさんな唄は知らないよ。/鈴と小鳥と、それから私、/みんなちがつて、みんないい。」

参考:金子みすゞず(本めい:かねこ テル)(1903~1930年) 山口県大津郡仙崎村(現・長門市仙崎)
代表作『私と小鳥と鈴と』『大漁』
大正時代末期から昭和時代初期にかけて活躍した日本の童謡詩人。
大正末期から昭和初期にかけて、26歳で死去するまでに500余編もの詩を綴り、そのうち100あまりの詩が雑誌に掲載された。1923年(大正12年)9月に『童話』『婦人倶楽部』『婦人画報』『金の星』の4誌に一斉に詩が掲載され、西條八十からは「若き童謡詩人の中の巨星」と賞賛された。

2021.10.24記す。


6. THE SUBTLE ARTISTRY OF A LITTLE-KNOWN POET

Novelist Setsuo Yazaki was shocked to read the following poem when he was a student.

It is the morning glow/The fishermen have made a large catch/A rich harvest of oba iwashi (a kind of sardine)/The beach is abuzz like a festival/But a funeral must be on in the sea/ To mourn the scores of thousands of fish.

The poem, titled Tairyo (Large Catch), was composed by Misuzu Kaneko. "The poem struck me with its depth, tenderness and penetrating quality, turning my point of view around. Human beings had occupied the center of my way of looking at things," Yazaki says. He wanted to know more about Kaneko, but this inquiry proved difficult as her other works could not easily be found.

The findings of Yazaki's inquiry are detailed in his recently published book The Life of Misuzu Kaneko, a Poet Who Wrote for Children.

  The book has an account of how the author found three collections of Kaneko's poems that had been published posthumously.

It also contains information the novelist obtained from his inquiry at Kaneko's birthplace, Senzaki in Nagato, Yamaguchi Prefecture, and from visiting her relatives and friends.

According to the book, Kaneko was born 90 years ago and started contributing children's songs to magazines when she was about 20 years old.

Her talent was acknowledged by Yaso Saijo, a famous poet. She married and had children, but she died at the age of 26. She wrote many heartwarming poems in a short time.

An example, titled Tsuchi(Earth): The earth that is beaten/Makes good cropland and produces good barley/The earth that is trodden on from morning till night/Makes a good road for vehicles/The earth that is neither beaten nor trodden on/Is it useless earth?/No, it provides the soil for nameless grass.

The poem conveys kaneko's message: to be viewed as useless or to be nameless does not utterly affect the value of a thing.

It is not only heartwarming, but also upright.

Another example, suitable for the start of a new school year and titledWatashi to Kotori to Suzu to(I, a Little Bird, and a Bell):

Even if I flap my hands/I cannot fly at all/But a little bird that can fly/Cannot run on the ground as fast as me/Even if I shake my body/I cannot make pleasing sounds/But that ringing bell does not know many songs unlike me/The bell, the little bird, and I are all different/But make a fine trio nevertheless.

Copy on 2021.10.24


☆41木村無想(1904~1984年)

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   雪がふる

 雪がふる

 雪がふる
 雪がふるふる

 煩悩無尽(むじん)

 雪がふる

 雪がふる

 雪がふるふる

 大悲無倦(むけん)

 雪がふる

   ありがたき kimuramusou.JPG

 “生は偶然

  死は必然”

  ホンによいこと

  ききました

  偶然の生

  ありがたき

  必然の死

  ありがたき

  生死を容れて

  ナムアミダブツ

  ナムアミダブツ

  ありがたき――  

   

 みんな

 死ぬから

 よいのでしょう

 諸行無常と

 いうことは

 わたしに

 生の尊さを

 しみじみしらして

 くれるのです

 死の上の生

 ああ

 今――

▼木村無想『歎異抄を味わう』(光雲社)より:木村無想氏についてプロバイダーから検索してください。

平成二十一年八月二十三日


☆42三好達治(1906~1964年)

      
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  ▼三好 達治詩集 桑原 武夫 大槻 鉄男 選(岩波文庫)1985年10月11日 第15刷発行

  (岩波文庫)P.17

 太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ 

 次郎をを眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。

説明:この歌は、山本憲吉によれば、蕪村晩年の水墨画、「夜色楼台、雪下家ニフル」から想いつかれて、換骨奪胎、このような詩が生まれたということだ。(「読書のすすめ 第3集」岩波書店)より。

2009.10.25


 故郷 (岩波文庫)P.66 

 蝶のやうな私の故郷!……。蝶はくつか籬(まがき)を越え、午後の街角(まちかど)に海を見る……。私は壁に海を聴く……。私は本を閉ぢる。私は壁に凭(もた)れる。隣りの部屋で二時が打つ。「海、遠い海よ!と私は紙にしたためる。――海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ仏蘭西人(フランス)の言葉では、あなたの中に海がある。」

私見:私の母のなは梅野。梅の中に母がいる。


 昨日はどこにもありません (岩波文庫)P.73

 昨日はどこにもありません

 あちらの箪笥(たんす)の抽出しにも

 こちらの机の抽出しにも

 昨日はどこにもありません

 それは昨日の写真でせうか

 そこにあなたの立ってゐる

 そこにあなたの笑つてゐる

 それは昨日の写真でせうか

 いいえ昨日はありません

 今日を打つのは今日の時計

 昨日の時計はありません

 今日の打つ時計は今日の時計

 昨日はどこにもありません

 昨日の部屋はありません

 それは今日の窓掛けです

 それは今日のスリッパです

 今日悲しいのは今日のこと

 昨日のことではありません

 昨日はどこにもありません

 今日悲しいのは今日のこと

 いいえ悲しくありません

 何で悲しいものでせう

 昨日はどこにもありません

 何が悲しいものですか

 昨日はどこにもありません

 そこにあなたの立つてゐた

 そこにあなたの笑ってゐた

 昨日はどこにもありません

2008.3.3 節句の日


 汝の薪をはこべ (岩波文庫)P.154

 春逝き

 夏去り

 今は秋 その秋の

 はやく半ばを過ぎたるかな

 耳かたむけよ

 近づくものの声はあり

 窓に戸幄(とばり)はとざすとも

 (おと)なふ客の声はあり

 落葉の上を歩みくる春のおと(あしおと)

 (たきぎ)をはこべ 

 ああ汝

 汝の薪をはこべ

 今は秋 その秋の

 一日(ひとひ)去りまた一日去る林にいた

 賢くも汝の薪をとりいれよ

 ああ汝 汝の薪をとりいれよ

 冬ちかし かなた

 遠き地平を見はるかせ 

 いまはや冬の日はまぢかに()れり

 やがて雪ふらむ

 汝の国に雪ふらむ

 きびしき冬の日のためには

 炉(ろ)をきれ

 (かまど)をきづけ

 孤独なる 孤独なる 汝の住居(すまい)を用意せよ

 薪をはこべ

 ああ汝

 汝の薪をはこべ

 日はなほしばし野の末に

 ものの花咲くいまは秋

 その秋にいたり

 汝の薪をとりいれよ

 ああ汝 汝の冬の用意をせよ

※明治三十三年(一九〇〇)大阪市東区南久宝寺町に父政吉・母タツの長男として生まれた。

大正三年 大阪府立市岡中学に入学した。俳句を作り始める。国木田独歩、大町桂月を愛読する。

大正四年 家計を助けるため中学二年で中退し、官費の大阪陸軍地方幼年学校に入学。

大正七年 大阪陸軍地方幼年学校を卒業し、東京陸軍中央幼年学校本科に進学。

大正八年 幼年学校本科一年半の課程を卒えて、北朝鮮會寧の工兵第十九大隊に赴任。剣道、柔剣道を特技とし、フランス語の復習に熱心であったが、また社会思想の書籍を隠れ読んだ。

大正九年 陸軍士官学校に入学。『聖書』と『資本論』を隠れ読む。句作のノートは千句を遙かに超えた。

大正十年 陸軍士官学校を中退。

大正十一年 第三高等学校文科丙類に入学。同級の丸山薫、吉村正一郎、貝塚茂樹、桑原武夫らを識る。ニーチェ、ショーペンハウエル、やツルゲーネフ等を読む。

大正十四年 第三高等学校卒業後。東京帝国大学文学部仏文科に入学。同級の小林秀雄、中島健蔵、今日出海、淀野隆三、国文科の堀辰雄らを識る。

昭和三十九年 心筋梗塞、鬱血性肺炎併発。死去。大阪府高槻市上牧のの本澄寺に埋葬。住職である三好の甥によって、境内の中に三好達治記念館が建てられている。


☆43坂村真民(1909~2006年)


1、七字のうた

 よわねを はくな
 くよくよ するな
 なきごと いうな
 いいけ  いうな
 なきごと いうな
 ふへいを いうな

2、かなしみは

 かなしみは
 わたしを強くする根
 かなしみは<
 わたしを支えている幹
 かなしみは
 わたしを美しくする花
 かなしみは
 いつも湛(たた)えていなくてはならない
 かなしみは
 いつも噛みしめていなくてはならない

3、ひとりひそかに

 深海の真珠のように
 ひとりひそかに
 じぶんをつくってゆこう
  四十年
お酒を買ってきましょうか
 いや今日は寒い
 明日は暖かくなるだろう
 きょうはどんな日か
 知っていられますか
 三月二十七日
 どんな日かな
 もう四十になります
 そう言われて
 はっと気づいた
 そうか結婚記念日か
 じゃわたしが買いにゆこう
そう言って
 川向こうの酒屋へ行った
 お互い入院するうな
 病気もせずに過ごしてきた
 四十年をふりかえり
 二人で酒をくみかわした
 遠いようでもあり
 短いようでもあり
 また二人のふりだしにもどった
 わたしたちである
 流転四十年
 貧乏四十年
 茫々四十年
 ついてきた妻に
 感謝す
 よわねをはくな
 くよくよするな
 なきごとをいうな
 うしろをふりむくな
 ひとつをねがい
 ひとつをしあげ
 はなをさかせよ
 よいみをむすべく
 すずめはすずめ
 やなぎはやなぎ
 まつにまつかぜ
 ばらにはばらのか


☆44柴田トヨ (1911~2013年)

柴田トヨさんの初詩集『くじけないで』
      
柴田トヨ
 平成25年9月14日、自分のホームページを読み返していました。柴田トヨさんについて2010.08.17に転写記事に再会しました。あらためて、高齢者の生き方として、感性豊かな人だと感動いたしました。転写前後は看病に追われ、今日にいたっていた。

 さっそく、Googleで調べると、多くの記事が掲載されており参考:1を追加しました。
 できれば彼女の詩集を丁寧に読みたいとの意欲を掻き立てられています。


 みずみずしい肌は文字通り水分量が多いらしい。弾力が失(う)せるのは水分が減るからという。専門家によれば赤ちゃんの皮膚の細胞は8割が水だが、高齢の女性だと5割ほどになるのだという。

▼齢(よわい)を重ねれば、外見の老化は仕方あるまい。しかし精神の方はどうだろう。評判になっている99歳、宇都宮市に住む柴田トヨさんの初詩集『くじけないで』(飛鳥新社)を読んでみた。柔らかい言葉から滴(したた)るみずみずしさに、心が軽くなる。

〈私ね 人から/やさしさを貰(もら)ったら/心に貯金をしておくの/さびしくなった時は/それを引き出して/元気になる/あなたも 今から/積んでおきなさい/年金より/いいわよ〉。「貯金」という詩の全文である。

▼90歳を過ぎて詩を作り出し、産経新聞などに投稿してきた。詩はおおらかでユーモアがあり泣かせもする。聞けばお独り住まいという。週末に息子さんが訪ねてくる。訪問医やヘルパーさんにも支えられて、詩心をふくらませる日々だそうだ。

▼白寿の詩人を敬いつつ、世間を見やれば、お年寄りの孤立が進む。今年の高齢社会白書によれば、独り暮らしの3割以上は会話がないのが日常的になっているという。孤独にさいなまれれば心は乾き、ひび割れてしまう。

〈私ね 死にたいって/思ったことが/何度もあったの/でも 詩を作り始めて/多くの人に励まされ/今はもう/泣きごとは言わない〉。柴田さんのみずみずしさの秘密は、たぶん「多くの人に励まされ」にある。絆(きずな)や支え合いの大切さを、それは教えてくれている。

2010年7月16日(金)付の朝日新聞:天声人語より。

柴田トヨさんの初詩集『くじけないで』(99歳)


毎日新聞 2010年7月30日

▼柴田さんは宇都宮市在住で、18年前に夫に先立たれた。近くに住む息子夫婦やヘルパーの手を借り、独り暮らしをしている。読書、映画鑑賞、日本舞踊と多彩な趣味があり、息子のすすめで90歳を過ぎてから詩作をはじめ、新聞投稿をするようになった。昨年10月に初詩集「くじけないで」を自費出版し、今年3月に再出版。「詩集は3000部売れれば上出来」といわれるなか、43万部発行のベストセラーになった。

「私をおばあちゃんと呼ばないで」「九十八歳でも恋はするのよ 夢だってみるの」「九十七の今も おつくりをしている 誰かにほめられたくて」。紡ぎ出す詩は、みずみずしさや若々しさに満ちあふれている。出版社には高齢の女性から「独居でも心豊かな生き方に勇気づけられた」などの感想が寄せられているという。いまも月に1、2作を新聞投稿し、100歳になる来年に向けて次作の出版を目指しているという。「くじけないで」は韓国での出版も検討され、99歳の詩人は世界に羽ばたこうとしている。


  産経新聞 2010.3.28

くじけないで

 眼をさました詩の天使

 すばらしい詩集です。今まで詩に興味のなかったひともこの柴田トヨさんの「くじけないで」はぜひ読んでみてください。人生いつだってこれから、何をはじめるにもおそ過ぎるということはないと元気がでてきます。

▼92歳から詩を書きはじめて、100歳近くなった現在までの詩を読んでいくと、詩の質が進歩していることにも感動します。

 生きてるということは本当にすばらしいとうれしくなる。

「私が詩を書くきっかけは倅のすすめでした。腰を痛めて趣味の日本舞踊が踊れなくなり、気落ちしていた私をなぐさめるためでした」

と、あとがきにありますが、それが天の声で、トヨさんの心の中でねむっていた詩の天使が眼をさまして、人生の晩年に歌いだしたのだと思います。少しも枯れていない少女のような愛らしい声で。

▼詩はおもいついた時にノートに鉛筆で書き朗読しながら何度も書きなおして完成するので、1作品に1週間以上の時間がかかるそうですが、これは正しい詩のつくりかただと思います。

 全部の詩がなめらかで読みやすい。耳にやさしくひびきます。

 読んでいてひとりでにメロディが生まれて思わず歌ってしまった詩もありました。

 ぼくは詩の楽しさはこういうところにもあると思っています。

▼読んでもなんのことやらよく解らず、相当な知識がないと理解できない難解な詩も、それはそれでそんな詩を愛するひとたちにはいいのだと理解していますが、誰でもがわかる詩で、イージーリスニングであるほうが、むしろぼくは好きです。

私見:「詩」には、「論理」を超えたものがありますね。大自然の摂理が花開く時なのかも知れませんね。


参考:1911年(明治44年)栃木県栃木市生まれ。一人息子の勧めで書きためた詩を2009年(平成21年)10月に自費出版した。その後飛鳥新社が魅力を感じ、内容を追加、装丁を変更し再出版。4万部を記録する。詩作は90歳代になってから始めた。

 産経新聞の投稿欄「朝の詩」の常連で、新川和江に高く評価される。シャンソン歌手の久保東亜子が詩に曲を付けたことがきっかけでNHKラジオ第1放送「ラジオ深夜便」に出演。「多くの人たちの愛情に支えられて今の自分がある」と述べている。希望を失っていた柴田が今では読者に希望を与えている。自身の作品を世界の人々にも読んでほしいとのこと。

 『別れの一本杉』で知られる船村徹(作曲家)と高野公男(作詞家)の作品に感銘を受けた。歌人の椊村恒子と交流がある。栃木市の幸来橋は思い出の場所だという。

 2010年(平成22年)12月31日(午前8:30~9:15)、ヒューマンドキュメンタリー「99歳の詩人 心を救う言葉」(NHKテレビ、ナレーション:中谷美紀)が放映され、著者とその詩が多くの人々を励ましている姿を伝えた。

 2011年(平成23年)9月、満100歳を迎えたことを記念して、第2詩集『百歳』が出版された。同年10月10日(午後6:10~45)、NHK総合で「“不幸の津波に負けないで”~100歳の詩人 柴田トヨ~」(ナレーション:若尾文子)が放映。著者の綴った詩を心の支えに、東日本大震災を乗り越え強く生きようとしている被災者たちの姿を中心に描いた。

 2012年(平成24年)8月の時点で、詩集『くじけないで』が160万部を記録。

 2013年(平成25年)1月20日午前0時50分、老衰により宇都宮市内で死去。101歳没。


☆45相田みつを(1924~1991年)詩人・書家

      

 父と母で二人 父と母の両親で四人 そのまた両親で八人

 こうしてかぞえてゆくと 

 十代前で千二十四人 二十代前ではなんと百万人を越すんです

 過去無量のいのちのバトンを受けついで

 いまここに自分の番を生きている

 それがあなたのいのちです それがわたしのいのちです

2011.02.04


☆46>長崎源之助児童文学作家(1924年2月19日~2011年4月3日)

      
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 経典の正しい読み方を、その心を学ぶ場合に、はからずもそれを適格に表現していると思われる児童文学作家長崎源之助さんの名文がありますので、簡単に紹介しておきます。

 これ

 ぼくのかいた絵だよ

 お母さんの顔だよ

 ずいぶん目が大きいなあって

 うん、この目でいつも

 ぼくのすること

 じっと見ていてくれるんだ

 耳も大きすぎるって

 そうかな

 この耳、ぼくのいうこと

 なんでも聞いてくれるんだよ

 この鼻、ぼくににてるだろう

 それから口も

 ぼく、よく人にいわれるんだよ

 あなたは、おかあさんそっくりねって

 ぼく、心もにるといいんだがなあって

 いつも思ってるだ

 ぼくは、おかあさんがいちばんすきだ

 この絵、いっしょうけんめいにかいたんだよ

(長崎源之助『おかあさんの顔』偕成者社刊)

 この長崎源之助さんの作品は、はじの雑誌『銀河』(昭和二十二)に発表、小学校の教科書にもなりました。

 『父母恩重経』を学ぶに当り、まず、皆様と共に、この詩を読んでみましょう。「ずいぶん目が大きいなあ」と、だれかが批評したのだろう。それに答えるように「ぼくのすること じっと見ていてくれるんだ」お母さんありがとうと、感謝のこころを表すには、「大きな目」を描くしかないのです。

 親鸞聖人は「すべてを照覧したまう ほとけのおん眼(まなこ)」と言われます。お仏像のおん眼は半眼に在(ま)します。半眼とは、半ばは自分の外を見、半ばは自分の内を観、自分のすべてを凝視する”大いなるほとけのおん眼”です。

 坐禅の場合、自分の視線を前方約一メートルの地点に落とします。するとしぜんに半眼になり、自分で自分をよく見つめられるようになります。

 また「耳も大きすぎるって 」との声に、「この耳、ぼくのいうこと、なんでも聞いてくれるんだよ」お母さんありがとうと、うれしさいっぱいで描いたから、ふつり合いな大きな耳になったのです。仏像や仏画に見られるほとけさまの耳も大きいではありませんか。人びとの悩みの声を残さず聞こうとの、お慈悲の願いが大きな耳に表象されているのです。

 中国の昔の高僧はお仏像を拝んで”ほとけの足はわが足に似たり、ほとけの手もわが手に似たり”と感嘆し、「願わくは、わが心もまた、 ほとけに近づかんことを!」と、さらに礼拝をつづけたと言います。この詩でも、

  あなたはお母さんそっくりねって

  ぼく、心もにるといいんだがなあって

  いつも思ってるだ

 と語っています。すると”お母さんの顔”から、ただちに”ほとけのこころ”が読みとれましょう。私が『父母恩重経』の本分に入る前に、この詩を読む理由がここにあります。

*松原泰道『父母恩重経を読む』(佼成出版社)P.28~31より。

2008.06.01


☆47茨木のり子(1926~2006年)

自分の感受性くらい 

      
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自分の感受性くらい

 ぱさぱさに乾いてゆく心を

 ひとのせにするな

 みずから水やりを怠っておいて

 気難しくなってきたのを

 友人のせいにするな

 しなやかさを失ったのはどちらなのか

 苛立つのを

 近親のせにはするな

 なにもかも下手だったのはわたくし


 初心消えかかるのを

 暮しのせいにするな

 そもそもが ひよわな志にすぎなかった

 駄目なことの一切を

 時代のせいにはするな

 わずかに光る尊厳の放棄

 自分の感受性くらい

 自分で守れ

 ばかものよ 

* 反省させられるうたです。


わたしが一番きれいだったとき

わたしが一番きれいだったとき

街々はがらがら崩れていって

とんでもないところから

青空なんかが見えたりした

わたしが一番きれいだったとき

まわりの人達は沢山死んだ

工場で 海で なもない島で

わたしはお洒落のきっかけを落としてしまった

わたしが一番きれいだったとき

だれもやさしい贈物を捧げてくれなかった

男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差しだけを残して皆發(た)って行った

わたしが一番きれいだったとき

わたしの頭はからっぽで

わたしの心はかたくなで

手足ばかりが栗色に光った

わたしが一番きれいだったとき

わたしの國は戦争で負けた

そんな馬鹿なことってあるのものか

ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

わたしが一番きれいだったとき

ラジオからはジャズが溢れた

禁煙を破ったときのようにくらくらしながら

わたしは異国の甘い音楽をむさぼった     

わたしが一番きれいだったとき

わたしはとてもふしあわせ

わたしはとてもとんちんかん

わたしはめっぽうさびしかった 

だから決めた できれば長生きすることに

年とってから凄く美しい絵を描いた

フランスのルオー爺さんのように

                 ね

*写真の本:花神社出版より。

*彼女は1926年生まれ2006年2月19日に逝去されている。戦時中の勤労動員時代をすごしている。
 私も同じ世代である、海軍工廠に動員されていたとき、広島から廣島女学院(旧制)の生徒も動員されていた。


倚(よ)りかからず ※73歳の作品

 もはや

 できあいの思想には倚りかかりたくない

 もはや

できあいの宗教には倚りかかりたくない

  もはや

 できあいの学問には倚りかかりたくない

 もはや

 いかなる権威にも倚りかかりたくはない

 ながく生きて

 心底学んだのはそれぐらい

 じぶんの耳目

 じぶんの二本足のみで立っていて

  なにふ都合のことやある

 倚りかかるとすれば

 それは

 椅子の背もたれだけ

★2006年、自宅で脳動脈瘤破裂によって急逝した彼女を、訪ねてきた親戚が発見する。きっちりと生きることを心がけた彼女らしく遺書が用意されていた。「私の意志で、葬儀・お別れ会は何もいたしません。この家も当分の間、無人となりますゆえ、弔慰の品はお花を含め、一切お送り下さいませんように。返送の無礼を重ねるだけと存じますので。“あの人も逝ったか”と一瞬、たったの一瞬思い出して下さればそれで十分でございます」。この力強さ。享年79歳。

戦争への怒りを女性としてうたい上げた「私が一番きれいだったとき」は多くの教科書に掲載され、米国では反ベトナム戦争運動の中でフォーク歌手ピート・シーガーが『When I Was Most Beautiful』として曲をつけた。彼女の心の声が国境を越えて人の心を打ったのだ。人生を明るく、そして清々しくうたう茨木の詩は、没後も多くの人を魅了し、晩年の『倚りかからず』は詩集としては異例となる15万部のベストセラーになっている。エッセイ本も多数。 韓国語を学んで出した『韓国現代詩選』(1990)では読売文学賞を受賞している。


廃屋

 人が

 棲まなくなると

 家は

 たちまち蚕食される

 何者かの手のよって

 待ってました! とばかりに

 つるばらは伸び放題

 樹々はふてくされて いやらしく繁茂

 ふしぎなことに柱さえ はや投げの表情だ

 頑丈そうにみえた木戸 ひきちぎられ

 あっというまに草ぼうぼう 温気にむれ

 魑魅魍魎をひきつれて

 何者かの手荒く占拠する気配

 戸だえなく

 吹きさらしの

囲炉裏の在りかのみ それと知られる

 山中の廃墟

 ゆくりなく ゆきあたり 寒気だつ

 波の底にかつての関所跡を見てしまったときのように

 人が

 家に

 棲む

 それは絶えず何者かと

 果敢の闘っていることかもしれぬ


☆48新川和江(1929~)

      
新川
 わたしを束ねないで

 あらせいとうの花のように

 白い葱(ねぎ)のように

 束ねないでください わたしは稲穂

 秋 大地が胸を焦がす

 見渡すかぎりの金色(こんじき)の稲穂

 わたしを止めないで

 標本箱の昆虫のように
高原からきた絵葉書のように

 止めないでください わたしは羽撃(はばた)き

 こやみなく空のひろさをかいさぐっている

 目には見えないつばさの音

 わたしを注(つ)がないで

 日常性に薄められた牛乳のように

 ぬるい酒のように

 注がないでください わたしは海

 夜 とほうもなく満ちてくる

 苦い潮(うしお) ふちのない水

 わたしをな付けないで

 娘というな 妻というな

 重々しい母というなでしつらえた座に

座りきりにさせないでください わたしは風

 りんごの木と

 泉のありかを知っている風

 わたしを区切らないで

 ,(コンマ)や.(ピリオド)いくつかの段落

 そしておしまいに「さようなら」があったりする手紙のようには

 こまめにけりをつけないでください わたしは終りのない文章

 川と同じに

 はてしなく流れていく 拡がっていく 一行の詩

 新川和江略年譜を見てみると、この詩は、1966年、昭和41年の新川さんが37歳の時に、24歳から参画していた同人誌「地球」42号で発表されたようだ。

 発表から51年。いまなお、この詩は色あせることはない。

 私がこの詩を知ったのは、折々のことば:751 鷲田清一2017年5月12日の記事であった。

平成29(2017)年5月12日


生きる
☆49谷川俊太郎(1931~)

      

生きているということ

 いま生きているということ
 それはのどがかわくということ
 木漏れ日がまぶしいということ
 ふっと或るメロディを思い出すということ
 くしゃみをすること
 あなたと手をつなぐこと

生きているということ

 いま生きているということ
 それはミニスカート
 それはプラネタリウム
 それはヨハン・シュトラウス
 それはピカソ
 それはアルプス
 すべての美しいものに出会うということ
 そして  かくされた悪を注意深くこばむこと

生きているということ

 いま生きているということ
 泣けるということ
 笑えるということ
 怒れるということ
 自由ということ

生きているということ

 いま生きているということ
 いま遠くで犬が吠えるということ
 いま地球が廻っているということ
 いまどこかで産声があがるということ
 いまどこかで兵士が傷つくということ
 いまぶらんこがゆれているということ
 いまいまがすぎてゆくこと

生きているということ

 いま生きてるということ
 鳥ははばたくということ
 海はとどろくということ
 かたつむりははうということ
 人は愛するということ
 あなたの手のぬくみ
 いのちということ

ジュニアポエム双書14「地球へのピクニック」より、企画・編集 銀の鈴社 発行 教育出版センター

平成二十五年十一月十六日。


『若きいのちの日記』

東井義雄著『拝まれない者もおがまれているを読まれてから、この詩を静かにお読みください。

☆50大島みち子(1942~1963年)

兵庫県西脇市生まれ

病院の外に健康な日を三日ください

      

一日目

 わたしはとんで故郷に帰りましょう。

そして、
おじいちゃんの肩をたたいてあげて、
母と台所に立ちましょう。
父に熱カンを一本つけて、
おいしいサラダをつくって、
妹たちとたのしい食卓を囲みましょう。


二日目

 わたしはとんであなたのところへいきたい

いっしょに遊びたいなんていいません
お部屋のお掃除してあげて、
ワイシャツにアイロンかけてあげて、
おいしいお料理をつくりあげたいの
そのかわり、
お別れのとき
やさしくキスしてね


三日目

 わたしは

ひとりぼっちで思い出と遊びましょう。
そして、
静かに一日がすんだら、
「三日間の健康ありがとう」と 
笑って、永遠の眠りにつきましょう。
      


☆51星野富弘(1946~)

      
hosino.jpg
 むらがって咲いていると
 たのしそうで
 ひとつひとつの花は
 淋しい顔をしている
 おまえも
 人間に似てるな

*中学校体育教師 頚髄損傷


☆52『早春賦(そうしゅんふ)』吉村一富作詞、中野章作曲

      

一 春はなのみ風の寒さや。

  谷の鶯 歌は思えど

  時にあたずと 声も立てず。

  時にあらずと 声も立てず。

二 氷解(と)け去り葦は角(つの)ぐむ。

  さては時ぞと 思うあやにく

  今日もきのうも 雪の空。

  今日もきのうも 雪の空。

三 春と聞かねば知らでありしを。

  聞けば急(せ)かるる 胸の思を

  いかにせよとの この頃(ごろ)か。

  いかにせよとの この頃か

        ――『新作唱歌(三)』大2.2

『日本唱歌集』(岩波文庫)より

2010.02.04