★会田雄次『決断の条件』(新潮選書)昭和50年7月20日 ニ刷 序 論 ――意思決定と日本人―― 私たちは、殆んど決断や選択という能力を持たないのではないかと思うほど「優柔不断」な国民である。実業界や政治界でのトップたちのいわゆる一世一代の決断といわれる話を調べてみても、そこに真の決断は殆んど見られない。ほとんど各種各様の自然的、社会的、政治的、経済的、社内的、党派的状況に押され、それに順応しただけに過ぎぬ場合が殆んどである。ときに決断らしい意思決定があっても、それは思いつきや便乗に近いものである。あるいは決断をなさしめた原動力が、真の決断の条件となる責任を伴う意志ではなく、苦しまぎれの自棄的な反撥とか、親や妻の愛情に励まされてとかいう情緒や感情にすぎないときが圧倒的に多い。真継伸彦氏はリンチを受けたあるセクトの青年が怨念に燃え、一人で自分にリンチを加えたセクトの集会に出かけて行き、そこでまた暴行を受けるのを見て、そこに「不退転の鉄の意志の権化」とやらを認めている(中央公論、七三年六月号「青年に与う」)。だが、こうなるとお岩の幽霊は不退転の鉄の意志行為のシンボルになろう。「鉄」も「不退転」もよいとして真継氏にして、この青年の何とも女性的な怨念による情緒行為を意志とその意志による決断行為と見るということは、日本人には決断が欠けるのみならず決断による行為というものの理解さえも存在しないということを証明する一事例であろう。 このように意志というものも判らず、本能も怨念も未練も執着も意志も区分できず、意志決定つまり決断できないというのが日本人である。私たちが個人として独立性を持たず、孤独を極端におそれる反面、管理組織であれ同志的結合であれ、いかなる組織も集団徒党と化し、厚顔無恥、残虐の性格を露呈するのもこの基本性格の現われだといわなくてはならぬ。 こういう基本性格から、常に仲間を求め、一人のときは極度にシャイであり、流行に弱く、絶えず身体を動かしていないと不安という日本人特有の「症状」も説明されよう。 人間の集団性はその集団原理によって二つの種類にわけられる。一つは威厳に満ちたヨコにつながる集団性であり、例えば古代ギリシャや共和制ローマの一種の貴族制がその例だ。一方は卑屈なタテ型、権威を持つリーダーを持つときは秩序と効率を誇るが、それを欠くときはモップ化する集団性である。 日本人の国民性には明らかに、後者の方の特性が強い。つまり背後に権威なり権力なりを感じるときは極度に傲慢でありながら、一たびその権威を失うととたんに群雀のごとく貧弱、卑屈になる、一匹狼たちの争闘の時代とされる戦国時代でさえ、権威が消失するとその部下どもは「前々は雀の上の鷹の如く、今はただ猫の下の鼠の如し」(『朝倉始末記』)となり、「土百姓」たちに苦もなくやられてしまう。つまり強きに弱く、弱きに強いのだ。 反面からいえば日本には真の貴族も貴族性も存在しない、あるのは奴隷と奴隷制であり、日本人の権力は奴隷頭のものにすぎぬ。奴隷頭は本当の主体性も自己の意志を持てないのだから決断ができないのは当然ということにもなる。 そういう特性は要するに私たち日本人は島国根性の民族だということに尽きるのではないか。そのような指摘はすでに内外から数多くなされてきた。確かにその通りであろう。しかし、島国といってもいろいろある。日本人の特性というものをすべて島国性だけで一挙に説明することは到底無理だろう。例えば、同じ温帯の島国人といっても日本人とイギリス人とは極端なまでに異なった性格を持っているのである。ただ、この場合、この島国に、辺境性、隔絶性、完結性というそれぞれ地理的、風土的、歴史的な条件を加味して考察する場合、日本人の民族的特質というものが、かなりはっきりした輪郭を持って浮び上って来ることは事実である。 まず地理的な位置条件でいえば、日本の地が辺境にあって中心性を持ちにくいという条件が挙げられねばならぬ。辺境といっても、ある文化圏の辺境であってマダガスカル島のような絶海の孤島ではない。そしてこの点ジャヴァのような南洋諸島の中心的存在と異なり、旧大陸では西の端にあるイギリスと似ているのだが、歴史的条件がちがう。ギリシャ、ローマの古典時代から中世末の十六世紀のころまでは、たしかにイギリスはヨーロッパの辺境であった。しかし、そのヨーロッパ文化の中心が地中海からアルプス以北のヨーロッパへ移ったころからイギリスはその中心の中心をしめるに至っている。しかもその経緯は、ヨーロッパが世界の繁栄の中心地になって行く過程でもある。辺境の住民は中央文化に接するとそれから刺激を受けて自己の辺境性を克服する努力をするものだが、この場合イギリス人の努力は海洋支配による世界帝国の成立となって現われた。そしてそのことでイギリス人の劣等意識は完全に消滅してしまった。生活の仕方や文化にはまだ田舎者的固陋さをかなり残しているにしてもである。 それに対し、日本人は近代までは中国の辺境、近代からはヨーロッパの辺境として、辺境のまま、数千年を送らなければならなくなった。辺境が繫栄すると世界の中心はそちらへ移動するものだ。古代ギリシャはペルシアの辺境だったが、それが富み栄えると結局アレキサンダー帝が出現し、ヘレニズム世界を構成したように、日本も明治末から第二次大戦にかけてはその道を歩んだ。微視的な立場から見れば日本の大東亜戦争は狂信軍人の無謀な野心によっておこされたものだけれど、世界史概観ということになればギリシャやイギリスの膨張のような当たり前の過程である。ただ軍部の過信による無知傲慢さと欧米列強の世界支配のもとでという条件が重なって、覇権がこれまた世界史上短命の典型であるアレキサンダーの大帝国に較べてさえはるかに短かったということにすぎない。ここで一つの予言をしておけば帝国分裂のあとも、ギリシャのアテネは経済と文化の中心としてその一時的な繁栄を数十年は持続させた。しかし、虚無的な思想以外何一つ文化らしいものを生まずそのまま衰亡して行った。このままでは日本も多分それと同じ運命を辿るだろうということである。 日本は、軍事大国になっても、経済的繁栄を誇っても、結局アジアの中心にもなれず、世界史上に興亡したかずかずの帝国の矮小畸型な模倣世界を一瞬間作るだけに終わった。そのことから、とくにインテリの間に一種の無力感とも挫折観とも自虐性ともつかぬ感覚が生まれ、昔ながらの劣等感とからまって、自国や自国の政府をことさら悪しざまにいい、自分の存在理由をを主張する傾向も生まれた。基本的には、日本人の劣等意識を抜きがたいものにした。このような日本人はいまだに指導者、支配者民族としての素質を全く持つことが出来ない。その点、同じ優秀民族でありながらまるで世界の支配者たるべき使命を持って生まれたとされるローマ人とは対極点に立つ。イギリス人とも対蹠的である。どうも私たちは、被支配民的性格を持ちつづけねばならぬ宿命を持つ民族、人から支配されるプツプツいっていることに快感を感じる奴隷根性の国民、何をやっても責任を感ぜず、というより感じることができず相手が悪いとしか思えぬ民族かも知れない。怨念などを持ち得る資格のない「卑しい成金のドラ息子」というのが、現在の若者たちの置かれた客観的状態である。その現代の若者たちが、怨念の塊のようなアラブ人と簡単に同調できると思いこめるのも劣等意識民族であり続ける一つの証左であろう。 このような劣等意識をもたらす閉鎖性隔絶性は日本本土の地理的位置だけでなく、海洋の性格による航行の困難さにもあるといえよう。私たちは日本人を海洋民族だと信じているが、それは海洋民族というものを知らないゆえの錯覚だ。日本周辺の海は豊沃ではあるが、荒波と激しい潮流によって外洋へ乗り出すことも、海外から乗り入れることも拒絶する水の壁である。漁撈民といっても沿岸の浅瀬や岩礁にへばりついて、その魚貝を拾集しているだけのようなものだ。外来民が日本に着くのも出るのも殆んど漂流のの末漂着したものである。遣唐使なども航海というより決死の難破行に近い。中国のどこかへ打ち上げられて行くのである。唐に対する狂気に近い憧憬がないかぎり実行できるものではなかった。それほど危険をともなう渡洋ということは、単なる冒険心や好奇心や富への欲望などからできようはずがない。決死の航行ということは死を賭してもそれへ狩りたてる特殊例外的な条件があったときに限られる。日本への渡航もそうだ。日本人の往来、外国人の渡米ということは古くは民族大移動といった生物的衝動とか新しくは一つの王朝の滅亡というような事態のときだけ集団的移動があったという推測がなされる所以である。身のおき所に窮した戦国時代の八幡船がそうだった。戦国末期の一瞬間を除き、義経だろうが何だろうが日本のドロップアウトの殆どは海洋脱出を試みることなく無為に処分されている。そのような現象はイギリスから見れば理解し難い心情であろう。平家は西海へのがれて勢力を回復したが、イギリスではそれが国外であるのが普通の現象でもある。こうして日本は外国人や外国文化が地の果ての日本へ漂着してくるだけの辺境の閉鎖孤絶した島国だったと定義できよう。自己を中心世界化する試みはいつも無残に、そして簡単に失敗した。日本人が巨大な中央世界へ自分を開こうとせず、ただそれへの憧憬と畏怖ともいえる劣等意識を持ち続けて来たのは当然といわなければならない。 このような海の彼方の高度な文化と富を憧憬しつつ、海の壁によって守られると共に、閉鎖された孤島の中で何をして生きてきたのか。私たちの日常生活を内部から規定していた条件は何なのかという問題である。次にそれを考えなければならない。北海道や東北の北部が日本の歴史の中に影響力を持って参加してきたのはごく最近である。したがって、日本人の民族性形成に関しては受身だけと考えられる。一応考察外に置こう。その意味で日本の核心は瀬戸内海である。この海を中心にこの三つの島は扁舟でも容易に往復、結合できる世界を作っていた。しかも日本の平野部はせまく奥行きは浅い。つまり散在する平野地帯はその独立性を許さぬほどの開放性を持つということである。このような世界ではいかに多様な人種が住みついても、ある期間後には混淆して一つの民族になってしまうだろう。ある集団が孤立し風習が固定化するのはしたがって山奥の地に限られる。近代以前の段階でも統一政権を将来してしまうような条件下にあったといえよう。 北陸、東海をふくむ西日本圏では余程特殊な事情が続かぬかぎり諸地域の分裂、対立、抗争という状態は続かない。スコットランドとアイルランドとイングランドに分れざるを得ないようなイギリスとは対蹠的である。半島国だが、イタリアの東を向いた北部、西をむいた中部、南を向いた南部という状況ともちがう。僅かに土佐と薩摩が本土とは異質な独立性を持ちそうだが、その力は秀吉や家康程度の統一政権の圧迫にも耐えられるものではなかった。日本は政治的にも一体とならざるを得ない国である。よく外人が日本人は「どんな人間でも愛国者だ」と判定する理由はそこにある。郷土意識はあっても俺は東北人で日本人ではないという感覚など持ちようがない。私たちの間での各種の思想、政見、階級の対立はあるが、それはアイルランド人とイングランド人のような文化の差によるコミュニケーションの断絶を意味しない。せいぜいのところ個人的生活環境や体質や、性格の差による情緒的は反撥か、利害の不一致程度のものにすぎぬ。外国人から見れば同一の前提から正反対の結論を出しているだけのことだろう。その同一点を見ての、そしてそれを愛国と錯覚しての判定だと思われる。 この日本人の同一性の基礎を構成するものが稲作でなければならぬ。日本文化史の研究者は京都の文化が全国に伝播した戦国期にこのような日本人の一体化が成立したことを指摘する(古くは原勝郎『日本中世史研究』昭和四年)。 たしかにそれはその通りであり、地方の憧憬もあってかなり無理な統一化にもなっている。例えば現在でも茶の湯で、沖縄で冬釜の作法が、年末年始にそのまま用いられ参会者は汗だくという喜劇が実行されている。微妙な上方の四季を反映する俳句の季の読みこみが、そのまま機械的に東北に適用されているといった風に、梅雨は東北の北半分では顕著でなく北海道には殆んど存在しないのだが、最上川は五月雨を集めてこそはじめて早く流れることになっているようである。 しかし、このような生活様式と、生活を表現する意識の一体化はその反面当然の物的理由を持っている。米作の普及がそれだ。日本は、この米作りと米食だけに全力を投入して来た国だといえる。もちろん米が食べられない地域や階層が近ごろまで残っていたことは事実だけれど、それがかえって米作と米食への異常なまでの執念になって徳川初期には東北で米作が可能となり遂に明治には亜寒帯ともいうべき北海道にまで熱帯植物である米を稔らせるのに成功したのだ。宮崎市定教授は中国史を「唯塩史」で説いたが、その伝で行けば、日本はこれより遥かに強く、「唯米史」で説明できる特殊な世界なのだ。したがって日本の歴史家は米の収入、支出、運搬、販売しか考えない。そういう観点で世界史を考える。そんな日本史学者というものも、世界の中ではかなり変わった存在である。 稲は麦とちがい、水平の田を作り、畦によって水をたたえ、一本一本植え、除草、駆虫を行ない、肥料も乏しく駆虫剤もなかった昔は、空穂を作らぬためにも、除虫のためにも、摘芽摘芯さえおこなわねばならないといった細心な作業を要する極度に労働集約的な作物である。すくなくとも戦前まではそうだった。それに対しヨーロッパの麦作は中耕――収穫と播種の間に土がかたまるのを防ぐため一度鋤を入れること――と播種前にも一度耕し、播種後はその上にうすく土を被らせるだけの農業だ。配水、手で草を抜く作業や、駆虫などの作業を要さぬというほどの、根本的に日本の米作とは異質な農業である。徒長のおそれのないヨーロッパでは麦ふみさえ必要としないのである。 しかも日本の稲作が南方の米作ともずい分ちがった人間性を生み出すのは北限稲作ということと、極度の多収穫品種というニ条件にある。この第一の条件は、八月の高温に賭けるということだ。日本の米作りは、したがって季節の変化に追われつづけ、すこしの遅滞も怠慢も許さぬ忙しい農作だということになる。しかも、その忙しさというものも筋肉力を集中使用する重労働ではなくて「猫の手を借りたい」ほどのきぜわしさをともない細かく面倒な作業の連続である。手際のよさと小まめさが最大の条件となる。雨を案じ、霜に追われつつ、植えつけも刈り入れも数日のうちに行なってしまわねばならぬ。湿度が高いから鍬や鋤など仕事を終えるごとに洗わないとさびついてしまう。そんな必要もなく現場に放置したまま帰宅でき、ゆったりと時間がかけられ、したがって定時間労働を合理的に配分できるヨーロッパの麦作とは全く異質だし南方の稲作とも労働という心構えがちがって来る。農繁期は誰もがヒステリックになるほどのいそがしさ、それゆえ近隣との親身をこめた相互援助がどうしても必要となる。同じ共同体といっても、そのつき合いの切実さがちがう。「遠い親戚より近くの他人」といった心の籠った人間関係が結ばれていないかぎり日本の稲作は崩壊してしまうのである。 かつて、L・ベネヂィクトなどの指摘に便乗して、日本人は世間体だけを重んじ、普遍的な社会意識を持たないなどと、近代主義的評論家などが黄色い口ばしを揃えた。それはこの農作業など実労働の経験はもちろん、考えたこともないペダンティックな思想遊びをやっている人人の意見だろう。そこから、たえず気ぜわしく落ちつかぬ日本人の国民性も、隣近所にいいつも気を使っていなければならない社会環境も生まれて来る。ここでは抜目なさ、抜け駆けの精神は生まれるけれど、熟慮し、選択し、断行するという意志決定の空間的余地も時間的余裕も生まれようがないのだ。世間様の物笑いにならぬようという心得が最高の道徳となる理由もそこにあろう。世間に背くことは死活の問題だったのである。それを封建的抑圧にのみ求める見解こそ、まさに特殊日本的な偏った解釈である。いそがしさの中に仮住居することで安堵感を持ち、閑だととりのこされた不安を覚え、「閑居」すれば「不善をなす」。決断を要求されると目まいがして訳が判らなくなり盲目的に突進する。それが日本人というものでなければならない。「実るほど頭のたれる稲穂かな」は、よくいえば日本人の自己抑制の訓戒とも、悪くいえば韜晦の術策ともとれる言葉だが、このような稲穂は南方には見受けられない。もちろん麦とはちがうけれどむしろ直立型が自然の姿なのである。多産性畸型を理想の姿と見るのが日本農業の性格だとすれば、それをうながしたものこそ私たちの極端な勤勉さだといってよい。ヨーロッパの麦作で多収穫を目指すときは一応品種改良も心がけはするけれども、重点はより多くの土地を耕すということに向けられた。倍の土地を耕せば倍の収入になるという簡単な論理からである。日照は乏しく、土地はやせているけれども未開墾の可耕地には余裕のあるヨーロッパでは合理的で実現可能な目的だといってよい。倍の土地を耕すには省力化つまり労働の合理化が目指される。畜力の利用と農繁期のピークをできるだけすくなくし、労働を平均化させる工夫がそこから生まれた。しかし極度の集約化によって増産を計ろうとする日本の稲作は畜力の利用には強い制約がある。そこでただひたすらに品種改良と、無限の、しかも最高に良質な労働を投入する外に方法がない。このことから日本人の特性の多くが生まれてくるのである。 第一は季節の変化に追われ、ほっとする間もない仕事を、さらに進め季節に追いかけるまでに進めたことだ。現在の温床苗床や早稲米などそいの結果である。こうなれば収穫祭でさえ、数日の爆発的な歓喜のあと、すぐ麦などの次の作物の準備にとりかからねばばならない。私たちの日常性を規定している何ものにか追われるような忙しさという感覚の根源はこのような北限稲作の展開法にあると考えられる。 第二には無限な労働の投入だから、他事を省みる余裕がないということである。一切は米に集中される。それも一家総出、さらには親しい親戚、近隣が共同してだ。ここから水入らずという仲間意識も、精神的閉鎖性つまり広い世界に対する開かれた心の欠如も、稲作を害する一切のbものへの拒絶の姿勢即ち偏狭なエゴイズムも生まれて来る。 第三には、このような労働からは、小さな技術の改良や、隣百姓主義という抜けがけ、模倣の精神も培われてくる。しかし、その勤勉性は革命的精神や決断とは対極点にある。大衆が窮迫に追いつめられたときには情緒的な反抗、窮鼠猫を噛むという反抗となって爆発せざるを得ない理由である。 第四はここから商業行為、つまり流通過程から利潤を抽出する行為者が異常なまでの有利さと特権性を持つことになってくる。生産労働への極端な没入は流通関係に対し、どうしても無知無関心となってしまうからである。そのことは同時に商人や商業に対する一般生産者の根強い反感と嫉妬が生まれるという事態をひきおこす。この種の農民や手工業者の意識はヨーロッパの中世でも、例えばジョン・ガウアーの商人罵倒のように、自給自足的な時代ではどこでも見られる一般現象である。しかし、日本ほど近代に至るまでこの反感が濃厚に残存、持続した例は珍しいであろう。かなり開かれた現在の世界でも、日本では大衆的世論というのはいつもこのような生産者的、農民的意識である。極端な労働集約化によって自給率を高めようとして来た日本では、商品生産者という意識にまでは遂に到達しなかったのだといえよう。 第五は夏期の日照と高湿多雨にかけ、多収穫に依存するという、合理性に欠けた偶然性に頼る農業ということから生まれる心情である。そこには自信に乏しく神に頼むより仕方がないという諦観とともに、賭博心情も生まれる。もっともこの賭けは勇ましくもなければ果断なものでもない。みみっちい賭けである。ヨーロッパでは賭けは、戦争と狩りとともに貴族にのみ許された特権だった。その点日本は正反対になる。日本の賭けに何かうすよごれた悲しさがつきまとう所以であろう。 このような北限稲作という条件から成立した日本人の国民性は、高度工業社会においても、同じように再生産されている。私たちはいつも忙しげに働き、ゆっくり休養をとる気持ちになれない。合理化は労働強化と思いこみ、それに不安と反感を持つ。そのくせ余った時間を損しないようにとけちな賭博に費す。マージャン、パチンコ、ゴルフ、みないじましい利益と結びつく。もっとも多収穫性を持つこのような農業世界では、ほんの少しでも労働に参加すれば、飢死はしない。日本の農村はだから無限に近いほど半失業者を吸いこむことができた。こういう世界では「首切り」が極端におそれられる。いや、おそれられるというより反道徳的、反人倫として排撃される。一方徒食は極度に卑められる。工業経営者もただ無暗に働き生産性を高めることに夢中で、他の社会に目を向けない。政治に関心を持たず、持つときは保護だけを求める。 日本人は多量生産による剰余は、水が自然にあふれるように交換がよびおこされるのだと考える。したがって商人も又、新市場の創設には関心を持たず、市場がせばまってくるとあり余る商品をなりふり構わずやたらに売りこむことに専心する。決断による行動法の転換や市場開拓や創設など冒険行為などは到底求められない。隣百姓主義で外国か他人の成功を懸命に真似るだけだ。同質社会の生き方には決断は必要でなく、ただひたすら同化が求められる至上道徳とされるのである。 しかしながら、このような状況を顧慮せず、ただ盲目的に、ひたむきの生産とひたむきの販路拡張を続けて行く態度には限界がある。つまり高度工業社会ともなればそのままではこれまでのような飛躍発展が見られないということと、世界を相手にするところまで拡大した売込み市場では相手側からの嫌悪と拒否が生まれるからである。現在も日本は正にその壁につき当っているが、このゆき詰りと拒絶は今後絶対のものとなろう。エコノミック・アニマルとか働きすぎなどがいわれているが、私たちはその国民性としての「せわしなさ」から脱却して、落ちついて生活する態度を得るよりはるか以前にこの危機に遭遇する運命にある。そのときこそ日本人に一番欠けた冷静な現実把握と決断がどうしても要求されるはずである。つまり、選別、切捨て、転換といった、日本人のもっともなし難い決断によって苦境を開いて行かねばならぬときが来るということだ。ここに、私があえて”決断の条件”をものした理由があるのである。 私たちのような国民には、この意志決定の世界が到底耐えられぬほど厳しく、えげつなく、したがって何か現実性を以て感じられないのではないかと思う。しかしながらこのような条件は日本人以外ではむしろ当り前の教訓であり、私たちはそのような世界に直面しているのだということを心得として知っていただきたい。それが私の希望である。 「チャンスの表の顔には危機と書いてあり、裏側にのみチャンスと記されている」という格言を持つ世界と、「鳴かずんば鳴くまで待とうほととぎす」という坐して熟柿の落ちるのを待つ態度が常に終局的勝利をもたらした日本とのちがいがそこにある。私たちの忙しさはこの待つ態度と矛盾するものではなく、危機をチャンスに変化させ、それを把握する決断が欠如していることを示すに過ぎない。そして今私たちはこの決断の世界へ突入して行く運命にあるのである。 2023.12.04 記す。
1 民衆を真に味方にできるのは君主(権力者)だけで、一介の市民が民衆を頼ろうとするのは、ぬかるみの上に土台を築こうとするものだ。 マキャヴェリ P.26~30 天満の与力大塩平八郎は心から民衆の身を思う男だった。天保は天保銭という悪貨の鋳造で知られるように元年から飢饉が相ついだ。四年と七年の飢饉はとくに激しく日本全土は目もあてられぬ惨状を呈した。大塩は見るに見かね、非力な与力でありながらすぐれた学者としての人間関係を利用して寄附を求めるなど大阪の窮民のためにできるだけのことをした。しかし、そんなことでは到底やけ石に水である。意を決して三井、鴻池らの豪商に六万両の大金の借金を申し入れたが、これは無理、やっぱりことわれた。そこで愛書家としては余程の決心がいるだろうが、自分の蔵書五万冊を売り、貧民一万戸に一朱ずつ配分した。これで民衆はまるで神のように大塩様と崇拝するようになった。 これは大塩平八郎が、世直しの蹶起を決断し、いざというとき民衆が追随して起つことを期待しての布石だったろう。 平八郎はそれと併行して大砲鉄砲の製造をしたり集めたり努力を重ね、市中の極貧者と近郊の被差別部落民などを集めて三百人の部隊を作り、天保七年(1836)二月十九日、暴動に立ち上がった。 ことはうまく運ぶかに見えた。大砲を乱射し、船場の中心街をはじめ、またたく間に大阪市の五分の一を焼き払うことができたし、太平になれた大阪城代の警備の武士たちは驚き、おそれ、狼狽するだけ。鎮圧しようとした東町と西町の両奉行は両方とも馬からころげおちるという始末だったからだ。 にもかかわらず、この一揆はたった八時間で弾圧されてしまう。平八郎は逃げおおせて四十日間大阪に潜伏していたが遂に発見され自殺した。 なぜ、こんな、あっけない失敗に終わったのか。大阪の民衆が立ち上がらなかったからである。かれらは両奉行が馬から落ちたのを見て、「大阪天満の真中で、馬からさかさに落ちたとき、こんな弱い武士をみたこたない」とい唄を流行させたけれど、決して平八郎に続こうとはしなかった。平八郎だってもちろん、自分の行動が成功するとは期待していなかったであろう。ただ、もうすこし何とかなると信じていたことはたしかである。窮民一万戸への一朱の施与もその証明になろうし、行動に移る際自分の思想をうたった檄文を数多くまいている。一緒に起て、起ってくれという願いが痛ましまでに表現されたビラだ。だが民衆は起とうとはしなかった。なぜか。一揆軍が軍事的訓練も統一意思も欠如した単なる烏合の衆にすぎぬことを見てとったからだ。大塩は君主ではない。権力者ではない。その部下に物の役に立ちそうな人間はニ、三人を数えるにすぎなかった。これでは何もできないということをかれらは瞬間的に見ぬいたのだ。権力を持たぬ一介の市民がその最終段階において自分を支持して来てくれた民衆に頼ろうとしても、それはこういうぬかるみにすぎないものとなる。大塩平八郎はこの冷酷な現実を見ぬけなかった。小人数で行なう革命、クーデタが三日天下でもよい、ある程度成功するにも、一瞬の間に支配者を倒し、束の間でもよいから自ら権力者の地位を得るということが絶対不可欠の前提である。そういう権力者になったときはじめて民衆は協力し、その権力が確立されるというのが歴史の教えるところである。この点平八郎は到底政治家でもなければ実務者でもなかった。結局は夢を追う観念主義思想人にすぎなかったと断定しなければならない。 同じ例を古代ローマ共和制末期のティべリウス・グラックス、ガイウス・グラックス兄弟の悲惨な最後にも見ることができる。表題の言葉はマキャヴェリがこの兄弟のことを論じたものである。 ローマは、はじめは平等な市民で構成された都市国家だったが、だんだん大きくなるにつれ、貴族と新興金持層と窮迫した平民との三階層に分れることになった。兄のティベリウスはこの平民のために身を挺して活動したが失敗して貴族に殺された。弟ガイウスは兄の志をついで活動し、民衆の支持を得て護民官という重大な官職に選出された。ガイウスは、そこで、さらに全ローマの民衆に平等な権利を与えようという決断をした。それがいけなかったのだ。 ローマ市の平民たちは貧乏であったが、それでも、新しくローマに加入して来たローマの同盟都市の平民よりも一段と上だという偏見とけちな特権だけにすがりついていた。ガイウスは自分たちの地位をあげ、土地を再分配して貴族との差をすくなくしてくれようとする。それは結構。しかし、新米の同盟都市の平民にも自分たちと同等の権利を与えようとする。それは許せないという嫌らしい、しかし誰でもが持つエゴイズムと、ガイウスが実務的でなく、理想家にすぎぬことがwざかって来たことで大衆は一斉にかれにそむいたのである。 ガイウスは貴族たちが武装して自分を殺しに来るという報せを聞いても、武装しようとも、部下に命じて自分の家を防備しようともしなかった。誰がそれをすすめても聞かなかった。ガイウスは自分が信頼していた平民大衆が守りにかけつけてくれるだろうと信じ、それに賭けたらしい、だが誰もやって来なかった。かれはたった一人の奴隷を伴にして逃げ、追いつめられて自殺した。 もうけたのはその首をとった男だけだった。首にはその重さと同じ金という懸賞がかけられていたが、その男はガイウスの脳みそを抜き取りそれに鉛をつめたからである。 そしてそのあと民衆のやったことは大塩平八郎の場合と似ている。グラックス兄弟とその母の像をたてて、かつての功績をほめたたえた。 決断をするとき大衆の支持をあてにしてはならない。会社でも一般社員が支持するだろうということをあてにして反抗反乱することはもちろん、新しい計画立案をやっては、まあ大抵の場合失敗である。そのやり方が理にかなうか否かとか、会社に有益だとかは問題ではない。民衆が最後まで支持するかどうかは、その人が支持するに値する権力者であるかどうかである。もちろん、このときの権力とは体制の中での権力というだけの権力というだけのことでなくてもよい。本当に信頼できる真の部下を何人持っているとか、計画を実行して行く知的能力があるとか、いわば実力者であればよいわけだ。 決断する。大衆、平社員、若者たちが支持しない。それで敗北する、失敗するということがあったら、それは自分が権力者でも、実力者でもない「一介の市民」でしかなかったせいだと反省すべきである。その逆からいえば自分にその能力がないのに、正義漢ぶったり、智者ぶって大きな決断はしないことである。いや、せめては敗れたとき、自分は正しかったの、誰もが味方しなかったからだ、という理由はつけないでいただきたい。能力がないから誰も味方しなかったので、味方しなかったから負けたというのは原因結果をとりちがえているにすぎないのだから。 2023.11.25 記す。
2 反抗者は常に仲間に猜疑心を持っている。分裂させるにしくはない。 マキャヴェリ P.31~36 マキャヴェリはフィンンツェ市、つまりトスカナ共和国の外交官であった。この政府は中流の金持連による民主政府である。民主政府というのは必然的に衆愚政治への傾向を持つ。その会議は小田原評定になる。マキャヴェリは政治の内部から、そういう組織の弱点をつぶさに見た。優柔不断とはてしない足のひっぱり合いと、そして、その根本にある仲間に対する猜疑心と嫉妬心を。 そのためにかれは、能力と自信に満ち満ちた君主とその君主に対する絶対の信頼によって貫かれた政治組織という理想型を考えたのだ。人間は本来猜疑心のかたまりのようなものだが、その心をさせないようにするところに君主の役割があるというわけである。 ところで君主にそれが可能なのは、君主が才能や徳を持っているからではない。もちろん君主がそういうものを欠いていたのでは話にならないが、君主が能力によって人を心腹させるのは、かれが権力を持っているからだ。つまり、個々人に対する生殺与奪の権はもちろん、国民全体を幸福にするかしないかということまでの全権力を一身に集中しているからである。君主、すなわち権力そのものが、完全に合理的で狂いがないということになれば、人々はお互いをうたがい合う必要がなくなるわけだ。 しかし、権力がこまかく分有されている民主政治では、そううまくはいかない。すぐれた才能というものはそうあるものではない。何万人に一人の君主なら、そんな人材が期待できるが、十人に一人といった程度の人が権力を持ち、それらが対立抗争する。すくなくとも競合するという民主政治では、一体誰が信頼できるというのか、かりに信頼できる人材があっても、その能力が制限されているので、結局信頼できないことになる。民主政治というのは相互不信の上に立った政治である――だから駄目というのではない――。 いわんや、その中での体制反対派内部は大変だ。かれらの精神状態はいわば檻の中に入れられた猛獣の群のようなもので、相互不信というより、お互いが敵だという側面が強い。現実権力を全く持たぬ権力意欲の強い人の集りだから、みんな権力を全く持たぬ権力者みたいなもので、自分が何かの力を行使しようとすれば仲間を傷つけないではできないからである。相互の猜疑心こうして絶頂に達する。 自分は会社でも官庁でも、みんなある程度は出世しなければならない組織になっている。一生平社員ということは、まああり得ない。しかし何かの長にはなる、ということは、自分が欲すると否とにかかわらず、一種の体制反対派にならざるを得ないということだ。つまり、会社をつぶそうとか、今の管理職を全部やめさせようと思わないにしても、誰もが、上役の死ぬこととか、失敗を望んでいることである。会社がどんどん大きくなっていかないかぎり、誰かが退いてくれないと昇進できないからだ。これまでの高度成長時代は組織の膨張が救いだったが、これからはそうはいかない。こういう「反体制」気分は急速に強くなっていくだろう。 つまりは、日本は相互不信社会なのである。ところで謀反をおこそうとする人間は、自分で自分の人物眼を曇らせるものだ。信長の武将、荒木村重が叛いたときのことである。秀吉はそれを思いとどまらせようとして自分の腹心であり、村重の親友でもあった黒田官兵衛孝高(くろだかんべえ/くろだよしたか)を村重の居城伊丹城までさしむけた。官兵衛は懸命に説いたのだが、村重は謀略だと思いこみ、孝高を捕え土牢に入れてしまった。孝高は落城まで一年余もこの土牢で耐え、救出されたときは、背がまがり、片足はなえてしまって立ち上がれず板にのせてかつぎ出さねばならなかった。ほとんど対立関係のない親友でさえ、敵のまわしものとしか思えないのが反乱者の心情というものである。私たち日本人は、みんな心の中に一種の謀反人意識を持っている。仲間に対する心の底からの信頼というものが容易に生れにくい世界なのだ。その代りその信頼が生まれたときは本当の親友になる。よき部下になり、よき長になるのだけれど。 こういう社会で何かをなそうとすることは、一種の謀反をおこすことである。会社のために、会社の基本方針にそってやることでも、それが創意や新工夫のものであるかぎりはそうなる。ではどうしてそれを成功させるか。 自分のやろうとすることに反対するものがあるだろう。競争会社など根本的対立者もあるだろう。それをやっつけるためには、この日本人の猜疑心を利用するのである。自分と対立する相手のグループに相互不信をおこさせるのだ。これは戦国時代の武将がやった極めて一般的なやり方である。アメリカの企業もそうだ。イギリスの植民地統治もこの基本路線にそうものであったことはすでに周知の事実である。 ただ日本人は自分の領域内部の「反乱者」の鎮圧の仕方が極めて下手である。そのことは大学の学生の騒ぎを見てもよく判る。下手なのは猜疑心の強いせいだ。例えばすぐに道徳を持ち出す。警官導入はよろしくない、話し合おうなどと。というと不審に思われるかも知れぬ。それは猜疑心とはさかさまの心情から生まれた意見ではないかと。だがちがう。同僚への猜疑心が生んだものだ。同僚の群から離れ自分「だけ」が一番早く「よい子」になりたいからである。このよい子になりたがる競争が事を紛糾させる。一方いったん反乱者への憎しみが一致すると今度は極端に走る。誰もかれもが反乱者に見えて一種のヒステリー状況をおこしてしまう。信長の村重に対する態度もそれで、はじめは村重の謀反など信ぜずやたらに寛大だったのが、急におこり出し、官兵衛がとじこめられているのでさえ村重に味方したと信じこみ、自分のところへ人質として出している官兵衛の子供を殺せと命じるほどうろたえ激昂し――命を受けた秀吉が実行しなかったので信長は救われたのだが――伊丹城を落としたときには、村重の家来はもちろん百二十二人の女房どもを磔にし、女房どもの召使、男百二十四人、女三百八十八人を四軒の家におしこみ柴をつんで、それに火をつけ全部やき殺した。 変な道徳論をふりまわしていると、結果としてこんなことになる。それより自分の阻害者たちの組織を、その相互猜疑心を利用して分裂させ、阻害機能を奪ってしまう方が合理的であり、むしろ本当の人間的というもの、マキャヴェリの主張の真意はそこにあるのではなかろうか。 ※足を引っ張られる体験をした。 2023.12.20 記す。
3 相手に対し、何か考慮を払わないですむような完璧な勝利はありえない。 マキャヴェリ P.37~42 上杉謙信も戦国時代の武将の常として四面を全部敵として戦ってきた。しかし、その生涯を通じての宿敵というのは、やはり講談や小説が面白がってとりあげている武田信玄であったことは否定できない。 この武田信玄が、末期の永禄十年、北条や今川と対立し、いわゆる塩留作戦、つまり塩を絶たれて、武田の将士も、甲斐の民衆もひどく苦しんだ。それを聞いた謙信はそのようなやり方で戦うのは武将の本意ではない、民衆が可哀そうというので、あえてこの宿敵に塩を送った。そういう有名な伝説がある。 戦国時代の伝説は、まことに真偽定かならぬものが多いのだが、この話も歴史研究者の間ではうそだときめつけられている。出所の信頼性がないということもある。そういう意見の論理的な根拠はこうだ。北条氏と今川氏と上杉氏の三者が結合しないと塩ぜめということはできない。しかし謙信と信玄は歴史が戦うために作り出したような宿敵である。それに対し武田氏は今川氏とは大体友好関係にあった。北条とも同じこと。そんな状況下で反武田連合体が成立する可能性は極めて乏しい。もし、それが成立したとしたら上杉謙信の強いリーダーシップのもとであったに相違ない。そのような役割を演じた謙信がどうしてその同盟を自分の手で破壊するようなことを率先してやるのか。あり得ないという想定からである。 たしかにそういう意見も成立つ。しかし、もうすこし考えてみよう。第一には謙信が神仏に尊崇あつい潔癖な男だったということである。そのことは残された数少ない資料の中でも重要な弘治三年信濃更級郡の八幡社、永禄七年弥彦神社に捧げた、信玄を「親を追って家をのっとるなど手段を選ばぬ男と」非難し、「これを私に討たせ給え」と祈った願文などからもわかる。いかにも塩を送りそうな男だし、逆にいうと、こういう文書などから塩おくりの話が生まれたのかも知れない。 第二には謙信は潔癖な男であるには相違ないが、戦国時代は潔癖な勇将というだけで、あれほどのし上れる甘い時代ではない。謙信は充分な政治的才幹を持っているし、今日の言葉でいえば権謀術策も相当にやっている。第一、兄の晴景を責め、これを隠居させ自分が党首になるということをやっているではないか。戦国時代の武将は大抵まず父や兄や伯父や、いわゆる尊属の支配者たちを打倒することによって頭をもたげている。謙信だけのことではない。人間は我が子の中でもおとなしくて行儀よくいうことをよく聞くものを可愛がる。先生が弟子を、社長が後継者をえらぶ場合でも同じこと、そしてそういう人間を「あとつぎ」と指名する。自性を持つ真の実力者は不従順として嫌われ遠ざけられる。実力者が頭をもたげようとするとき、当然そんな父や後継者を排除しなければならないではないか。それにおとなしい子では乱世に家を維持して行けない。家を維持するという大義名分もつく。部下も実力者を押し上げる。頼りないのについていては出世どころか命もあぶない。「親殺し」「兄弟殺し」が戦国大名の世界では当り前のこととなった理由である。 こういうと、読者は、それがなぜ塩をおくるということの証明になるのか、むしろ逆ではないのかと考えられるだろう。そうではないのである。 どんなときにも完璧な勝利はあり得ない。途方もない大国が、小国を撃破し去って、煮て食おうが、自由というときでさえそうである。相手国の人間を一人残らず殺してしまうというようなことは絶対できない。すると残されたものは少数にしろすさまじい恨みを永久に燃やしつづけることになる。どんな強い政権でも反対者を国の内外に必ず持っている。少数者の恨みは、この内外の敵と結合し、現在以上の自分の政権の大きなひびわれを内在させる原動力になるはずである。 マキャヴェリはこの言葉につけ足して、「だから勝者はどうしても正義についての配慮を払わざるを得ない」といっている。それは正義が倫理だから守るべきだというのではなく、勝利を勝利たらしめるために必要な捕足手段だということである。 謙信も、この理を知っていたのだ。すべての臣下は、宿敵を倒す絶好の、あるいは唯一無二の手段かも知れぬこの手段をみずから潰すことに反対した。かれだけがあえて塩をおくることを命じ強行したのだ。しかも私は謙信が塩攻めの首謀者だったと思っている。なぜ自らの策を破ることをしたのか。この断行はマキャヴェリの洞察と見事に一致する。もし相手をこういう手段で倒したら、一般民衆は自分を苦しめるだけの戦略をとった新しい支配者に心から信頼をよせることはないであろうことを知っていた。自分たちの同盟が一時的なものですぐひびが入り、塩断ちが永続しないであろう公算が極めて大きいこともわかっていた。苦痛が大きくなれば信玄は宿敵である自分に降伏するより、大きい犠牲を払っても、何度か結んだであろう北条氏か今川氏と和睦するだろう。それより前に敵に恩を売っておけば敵地の民衆の自分に対する信望は大きくなる。将来の策の種になる。世間の評判もよくなる。敵領民の分断策にもなる。そういう判断を下したものと私は推定したいのである。 ふつうの人間は、自分のやり方が成功しているとき、それを変える気には決してならないものである。凡人は、それが唯一の手段のように思う。永久にそのやり方はよいと思いこむ。もうすこし器量のある者は、そういう手段が限界に達したり、変更を必要とするようになる可能性があることは判っている。しかし、そうなったきに、事情に応じ、方法を変えればよいと思うだけである。それを固執という、状況以前に手を打たねば、手おくれになるものだということが容易に理解できないのだ。日本の石油対策は凡人指導者のこういう失敗、というより衆愚政治の典型のようなものだった。本当の能力者とは、それを知り、万人が反対するにもかかわらず、先手をうって、成功しつつある方法を変える決断ができる人間である。 それは時期の判断が大切なこともある。ただ謙信のこの場合はすこしちがう。完全な勝利というものはあり得ない、勝利のときでも「正義」は必ず行わねばならぬ認識をかれ一人が持っていたからである。 このような洞察はどこから来るのであろうか。あらゆる修養と経験からであろう。私はこのときただ、最高の決断者としての一つの資格は、自己のなしつつあること、人間が人間を制するには、限界があることを痛切に認識することだと思う。完全な管理といい、競争相手の覆滅といい、今日の日本の経営者、管理者はすべて完璧を求めすぎる。こういう完璧の求め方からは、真に正しい決断は生まれないのである。 2023.12.22 冬至 記す。
4 人は、父親を殺されたうらみはすぐ忘れるものだが、財産をとられたうらみは生涯忘れない。 マキャヴェリ P.43~48 韓非も、こんな例を挙げている。「宋の宗門の巷人、喪に服して毀し、甚だ痩せたり。上おもえらく親に慈愛ありと。挙げてもって官師となす。昨年、人のもって毀死するところの者、歳十余人あり」(内儲説)。親の喪に服して身体を悪くした人間を孝行者だというのでお上が官吏にとりたてた。とたんにその年、喪に服しすぎて死んだ奴が十何人も出たという話である。韓非は、人間として親を敬愛するのは自然の情だが、それでも利益がともなうとこの騒ぎだ、支配者たるもの、これを利用しないでは支配ができないと説くのだが、マキャヴェリの方はもっとえげつない。親を殺されてもすぐ忘れるというのだから。 人間は欲望の動物である。事を決するときは、自分の行動の結果、誰々に利益がどのように行きわたるか、誰がどのような損害を受けるか、を充分考えぬいて行わなければならない。欲望の性格を分類し、誰にとっては、どの欲望充足が一番満足を与えるかということも、しっかりと考慮の中に入れねばならない。貧乏人にとっては一万円は何物に代えても手にいれたい金額だが、金持ちにとっては殆んど欲望の対象にはならない。「人間は金ができると、同じ光るものでも、造幣局発行のものより、賞勲局発行のものが欲しくなるものだ」という皮肉は欲望の対象と充足法が場合によって変化して行くことを巧みに二極分解して見せた言葉だといえよう。このような人間心理を考慮しない行動をとったら、人がついて来ない。このごろの若者は立身出世を求めない、無欲で立派だ、などとかつての自分の尺度だけで物を考え、したり顔で論じていると自分は時代におくれ孤立して結局失敗に帰してしまう。 「そんなこと当り前じゃないか。ちっとも行動決断のための、新しい指針にはならない」。そういう意見を持たれる方もあるだろう。「いや、人はパンのみで生くるものにはあらずだ。利益だけで動かそうというのは間違い。もっと複雑な考え方をしなくては」という反論も出るだろう。それはそうだが、すこしちがう。 はじめの方から考えて見よう。例を『韓非子』から取ったので、今度も彼の言葉を借りる。君臣の利害は相反すると韓非はいっている。階級闘争ということではない。同じ支配層に属していても、君主とその部下は必ず利害相反するという宿命を背負うものだという喝破である。だから臣下はかならず敵と通じ、君主を裏切ろうという傾向を内在させている。それをどう統御するかということが君主に与えられた深刻極まる課題だというのである。人が利益を求めることなどわかり切っていると簡単にいう人にかぎり、この点至って楽観的に考えている人である。悪くいえばそんなことをたてまえとして論じているならともかく、本気で思っているとしたらそもそも考えるということができない人間だと断定してよい。いつも利益を与えているから、あいつは俺に心腹しているはずだとか、利益をいくぶんか分ければよいだろうとか、逆に上役は俺を絶対信頼しているはずだとか、単純極まるきめつけ方をする人は、きまって他人が自分の予定表とちがった行動をとるとあわてふためき、度を忘れてしまうのだ。 もう一つ。人は利益により動かないという意見である。こういう意見は戦後とりわけ強調されて来たのだが、その主張者は女性だとか、学者だとか、現実社会と直接結合していない人々を殆んどとするということに注意されたい。こういう世迷言が支配的となったのは、いろいろ理由がある。第一はアメリカの占領下に流行させられた考え方ということである。アメリカは日本を生存ぎりぎりの三流国状況下にとどめておこうという政策をとった。そうなれば清貧主義を鼓吹しなければならぬ。その意図のもとに、そういう情報を流す先生たちをマスコミに、教育界に総動員したのである。 第二には、社会の保育箱内の人間は、他人のお情で自分に供給されている酸素を、自然なものと考え、自分が自分自身の能力で生きているかのような錯覚を持つ。数年来の大学騒動で、その騒ぎの尖端に立った共闘学生など、その典型だ。社会は豊かになればなるほど、このような人々を数多く「扶養」する能力を持つようになる。こういう人々は時には文化に貢献するし、決して無用の人物ではないのだが、自分だけは余分な酸素の配給を求めない人間だと思いこんでいるだけに始末におえぬ人間でもある。そういう人々の甘い意見に、実社会の第一線の人々が動かされるとは、まことに奇妙な話である。 なるほど、生命もいらぬ、地位も名誉もいらぬという人間は居ないわけではない。だが、そんな人は極めて稀、まあ自分の周辺には居らないものと考える方が、はるかにまっとうである。第二には、そういう人はいないでもないが、しかし、その上に能力があるということが大切なのではないか、西郷隆盛はそういう人物だった。かれは自分の能力を認め、教育し、自分だけに何もかも打ちあけ枢機に参画させてくれた島津斉彬の姿を最後まで追求敬慕した。特別待遇に特別敬服を以て報いている。その西郷は、この能力を認めた斉彬によって藩内に発言権を得、その後無私情により人を集めたのであって、無私情が突破口になったのでは決してない。しかも、最後にかれのもとに残ったのは中村半次郎をはじめ人物としては傑出するが、近代国家の官僚としての能力を持たぬ人々だったといって過言ではないのである。無私だけの人間では何にもならぬのだ。 第三に、無私な人間は動乱や戦争になって出現する。それもある期間の社会的訓練ののち生まれるもので、戦後から今日までの金儲け絶対主義という状況は全くそんな人間を生む可能性のない社会だったといえる。今日、無私、純粋主義、純朴、朴訥などを売り物にする人間はひどい偽物と考えて、まあ間違いない。 ただ注意すべきは、現代社会のような複雑な世界では欲望は必ずしも直接態的、つまり生(なま)な形をとって出現するものでないということである。それに現在の性格学の発達は、性格の欲望発現の形がちがうということを教えた。カッコがいい、感じがいいということも劣等意識の屈曲した一つの欲望表現だといって差支えない。また、「自分は出世をを望まない。立身主義は不可、みんな揃って幸福に」と主張するのは、他人が不幸になるとか、自分よりぬきんでようとする他人の足をひっぱることにまず頭が行く、反権力を誇示、ないしはそれに自己陶酔しつつ権力をたのしみたいという陰性欲望充足型である。その裏には必ずといってよいほど、自分がその「みんな揃った」中の指導者、そして生活その他はちょっぴり上という「欲望」があると見てよい。こういう人には「社会主義」という飾りをつけてやると自由に欲望を発散できるようになってよろこぶ。牢名主的、奴隷的な権力を求めている。それを考えるという風な配慮を要する。ただそういう欲望充足が支配するようになった組織や団体は、無残な内部崩壊を喫することも旧日本陸軍などの例が示している。適当なうさばらし程度の権力にとどめておくような細かい工夫をこらしておかねばならない。 要は決断し、人をうごかそうとするときは、人々の欲求充足への配慮が必要だということだ。この単純な原理を、一見複雑に見える数式列挙とか水平思考とかいった思いつき「無原則」で無視するのが今日の流行らしい。自分の決断に関係してくる人々の気持になり、関係者への配慮なしに、一人合点を決断力と勘ちがいし、みじめな失敗に終る人が何と多いことであろう。 ※参考:マキャヴェリの語句は『君主論』(岩波文庫)P.108に記載されている。 2023.12.17 記す。
5 運命の神は女神である。だから、これを組みしくためには、ときどき、なぐったり、蹴ったりしなければならない。 マキャヴェリ P.48~54 女性だから蹴とばさないと駄目だというのは、ずい分無茶な意見のようだが、これにはすこし説明を要する。ルネサンスは、世界最初の女性上位時代だ、その点現在と同じことだともいわれている。事実そうであったかどうかは、ずい分怪しいのだけれど、まあ、当時の文学や資料には女性の横暴――怠けぐせ、虚栄心、性的無軌道、凶暴性などを一所懸命に主張しているものが多い。現在の日本とちがうのは、女性の方が智慧があって容易なことでは勝てない。だから、えい、なぐってしまえということになるわけだ。しかも、注意すべきは、このマキャヴェリの教えは女性は力あるものを尊敬し、そういう人間には至って柔順服従する性格を持っている、下手から出ればつけ上るだけだという前提としての発言だという点でもある。 私もそう思う。運命の神は気まぐれである。予想を許さない。コンピューターもこれにかかるといかんなく白痴性を発揮する。万博入場者数予想を野村総研は「コンピューターを駆使して」実際の数分の一と計算した。運命の神はつまらぬことにこだわる。本質的原因によって動かず、全くどうでもよいような副次的な原因で雪崩現象をおこしたりする。良識的見方からは、会期末の一ヵ月の狂乱した入場ぶりは全く予想できなかったのだ。たしかに女性そのものだ。 とはいうものの、運命の神は、いつも気まぐれや、末梢理由からのみ動くものではない。マキャヴェリは、「ときどき」なぐらなくてはといったが、実はそのときどきという言葉の内容が大変なのである。なぐってうまく行く運命と、そんなことをしたら、こちらが完全にやられてしまう運命とがある。後者に出会ったときは、諦めて甘受するか、ひたすら耐え、幸い生きのびられたら、反撃を狙うというやり方以外にはない。そのおそろしさをマキャヴェリは個人の能力(ヴィルトゥー:virtù)と運命(フォルトゥーナ:Fortuna)とのデッドクロスとしてえがいている。 だが、マキャヴェリは到来する運命をノックアウトできる女神か、どうにもならないものかを見わける方法は示していない。それは求める方が無理かも知れぬ。人生の叡智も、経験も合理的推意も何の役にも立たないからこそ、運命なのだから。あきらめずときどきなぐって見るしかないということになるわけである。 しかし、それだけでは意志決定のための助言にはならないだろう。ここで私はあえてひとつの見わけ方を提示して見たいと思う。 信長は、今川義元が四万五千と称する大軍をひきい、上洛を期し殺到して来たとき、完全に敗死を覚悟した。実数は二万四、五千と判定されているが、何しろこちらの動員数はせいぜい三、四千である。義元の方も、もちろん問題にしていなかった。 とはいえ降伏はできない。反抗をつづけて来た自分の父以来のいきさつから、そんなことをしたって殺されるだけということは判っている。玉砕しかない。籠城を主張する老臣たちを押えてかれは奇襲、しかも正面攻撃に出た。籠城は万に一つの勝目もない。攻撃は万一ということがある。この判断は正しい。出撃してから、今川義元は信長の出城、丸根・鷲津の砦を落した祝宴をやっているとの報知がとどいた。近在の百姓たちが御機嫌とりに献上した料理を義元が賞味する気になったのである。敵主力を倒さないうち祝宴を張るとは何事か。今度の大戦で日本はシンガポールをおとしたとき第一次祝勝会を開いた。これが日本軍はもちろん日本国民全体をおごらせ、ミッドウェーの大敗北へ直結する。それと同じことだ。このことを諜報で知った。しかも、その知らせを聞いてすぐその場へ殺到できるところまですでに信長は到着していた。運命と信長の果断との相乗効果だ。その上運命の神は女神であることを証明した。信長にすさまじい大雷雨をこの瞬間に与えたのである。奇襲は完璧に成功し、義元は田楽狭間で戦死した。 ところでこの信長である。かれの真に偉大なところは、かれはその後二度と田楽狭間のような運命をなぐろうとはしなかったことだ。その後は、少数兵力による奇襲は一切行なわず、圧倒兵力で敵を正面攻撃、すりつぶすという戦だけをやった。敵の兵力を削ぐため謀略を用い、相手を内応や分裂させることに全力を挙げた。浅井、朝倉、比叡山の僧兵群に包囲されたときはただひたすら待ち、屈辱的な和議さえ講じている。 しかも、この田楽狭間の奇蹟の勝利に関してかれが一番厚くむくいたのは、義元を殺した服部小平太などではない。昼飯をのんびり食べているという報告をもたらした梁田政綱に対してである。信長には何もかも判っていたのだ。 祝宴中を襲ったにせよ大雷雨がその直前にやって来なければ、信長軍はいち早く発見され、かりにその戦に勝ったところで義元は倒し得なかったという公算は大である。今川軍と信長軍が持久戦になれば、国力の相違で信長は圧倒されたかも知れない。雷雨こそ正に運命であった。二、三時間、それが早ければの信長は戦死していたろう。無理して奇襲しておればである。 ここでいいたいことはこうだ。運命は政治的運命、経済的運命、自然・物質的運命という三つにわけられよう。冷夏でクーラーが売れない(自然)、アメリカの不況(経済)、ケネディの死、ニクソン・ショック、石油戦争(政治)、という風に、実際に自分を襲って来る運命は、もっと身近で、いりくんでいようが、ともかくこの区分はできるはずである。このときの運命の性の区分法だ。 政治的運命というのは完全に女神である。なぐったら効果が出る可能性は多い。信長はそれに賭けた。経済的運命は男性に近い。なぐっても成功する率は乏しい。敵軍の人数とは経済的運命である。信長は、この後は、相手を減らし、こちらをふやすことに心がけた。謀略とは経済的運命を政治的運命に変える手段である。自然の運は完全な男性だ。どうすることもできない。技術で経済的運命に変えられるものもあるが、それは長い年月を要する。ちなみにいえば七三年の石油危機は国際政治や経済問題でもあるが、より深く資源という自然問題に根差している。大英断を以て石油依存を断ち切るべく根本的方針変換を試みる以外に日本の未来はないはずである。 決断の指針とは、圧倒的な不運が襲いかかり、甘受すれば死というとき、それが政治的運命ならば全力を挙げて反撃せよ。死中に活を得る可能性があるということである。 2023.12.30 記す。
6 指導者を欠く大衆は烏合の衆である。 マキャヴェリ P.55~60 日本海海戦といっても若い人は何の感銘もおこさないかも知れない。明治三十八年五月二十七日、ロシアのバルチック艦隊を東郷大将のひきいる日本の連合艦隊が対馬沖に迎え撃ち完勝した戦闘である。 今度の大戦とちがい、日本にとって、あの日露戦争は悲痛極まる戦いだった。公文書にまで日本人を猿と呼んだロシア皇帝ニコライ二世のもとに、その大帝国が全国力を挙げてゴリ押しの極東侵略に乗り出して来た。負けたなら、日本国民全部が本当の奴隷猿にされてしまう。そんな戦争だったのである。その戦いの中でもっとも重要なのがこの海戦だ。バルチック艦隊との戦闘に負けたら満州でせっかく勝っている日本軍は補給路を断たれて孤立してしまい、日本は降伏せざるを得なくなる。いや、単に勝つだけではいけない。敵の一艦でもウラジオストックへ入れてはならないのだ。敵を全滅させねば、勝っても負けたことになる。そういう全く無理な要求が東郷大将には課せられていたのである。 結果は完勝だった。世界の海戦史の中でもこんな見事な勝利は例がない。古代ギリシアのサラミスの海戦、中世のレバント沖海戦、近代のトラファルガーの海戦とともに、この日本海海戦は世界史上の四大海戦とされるが、この四海戦でも群を抜いた勝ち方だ。戦力はほぼ互角。だがロシア軍は主力の戦艦八隻のうち六隻撃沈、二隻降伏。巡洋艦九隻中四隻撃沈。海防艦三隻は一隻撃沈、二隻降伏した。日本軍は水雷艇三隻を失ったにすぎぬ。人員の戦死はロシア側五千、日本側百十余名。敵艦で残ったのも、中立国へ逃げて武装解除、人員は抑留されていたものが大部分で、目的のウラジオ入港を果したのは軽巡洋艦一隻と駆逐艦二隻、病院船など特務艦二隻にすぎぬ。軽巡の名はアルマーズ、三千七百トンあるが、もともとはアレキセーフ公爵のヨットを改造したもので戦闘力は心細い。日本海を荒しまわるなど到底できる存在ではない。 このような奇蹟としかいえぬ大勝を得たのには、もちろん数多くの理由があげられる。現象としては、ロシア側の旗艦がまずやられ、司令官ロジェストウェスキー将軍も重傷を負って人事不省に陥ったことであろう。ために艦隊行動が混乱し切ってしまい、日本艦隊に袋叩きされることになったからである。 もちろん、軍隊のことだ、戦争のことだ。司令官がやらてしまう可能性は大きい。とくに陸戦とちがい、司令官が一番あぶない所にいる海戦ではそうである。だから、司令官がやられた場合どうするか。その準備は充分にしてあるはず。ロシア側も指揮は誰がとるか、更にその人間がやられたらどうするかもきめていた。ロジェストウェンスキー司令官が負傷し、指揮がとれなくなったときも、そのことはすぐに全艦に伝えられたはずだ。だがそれには多少時間もかかる。心理的動揺の影響もある。そこを見事に日本軍につかれたわけである。逆にいえば、東郷大将は立直るすきを与えなかった。そこが名将の名将たる所以であろう。 その前の黄海開戦のときもそうだ。日本艦隊はむしろ苦戦だった。それが勝利にかわったのは、あの名高い「運命の一弾」が旗艦の司令塔に命中、司令長官ウィットゲフト以下幕僚全滅させ、瞬時に敵を大混乱におとしいれた、そのことによってである。 ※参考:ある二発の砲弾 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.114~115 日露戦争における日本海軍の基本戦法の一つは、敵旗艦に全力を集中し、指揮官を倒して敵陣を混乱させるというのがある。それこそ日本古来の海賊戦法だったのだ。それを鬼才秋山真之参謀が近代戦に合致するように工夫し、完成したのである。 これは、逆にいえば、こちら側も大将を殺さぬように工夫することが大切ということにもなる。晩年の秀吉が、家康や浮田秀家、前田利家などと雑談していて、一つの質問を出した。「もし信長公に兵五千、蒲生氏郷に一万をつけて合戦させたとする。どちらが勝つか」。氏郷は豪勇無双、戦略家としても有名な男だ。信長は機智縦横の天才である。みんな容易に答えられない。秀吉は、そこで、こういう結論を下した。「信長公の方が勝つだろう。両者は死闘になる。ところで蒲生方の冑付(かぶとつき)の首五つもとることができたら、その中には氏郷の首がきっとあるだろう。だが信長方を四千九百人殺しても信長公は戦死なさるまい。逃げてしまう。大将が残って居れば何とか再建可能だが、大将をうちとられた方が大きくみて負けるにきまっている。たとえ一時の戦いには負けてもだ」(松浦鎮信(しげのぶ)『武功雑記』)と。氏郷は勇猛にすぎ誠実に過ぎるから駄目というわけである。日露戦争のように官僚組織が完備した軍隊ではないから多少ニュアンスの意味がちがい、長の個人的能力が重大であることはいうまでもないが、それでも長の持つ特性の基本的部分は同じである。 今日は大衆の時代だ。昔とちがうとか、戦争とは極限状況でのこと、経営や政治の世界とはちがうなどという反論が出るかも知れない。だがマキャヴェリが、ここで挙げている例は、ローマ時代、平民側が自分の要求貫徹をめざし、山にこもっているときのもので、まあ戦争とはいえない状況である。平民側は指導者を失ったので議論がわかれ、強がって見たものの元老院にあやつられ、散々になってしまう。それを指摘しているのだ。 変った例を挙げよう。私の体験である。一九六九年の大学紛争で京大へ機動隊が入り、時計台の籠城組を排除したときのことだ。数十人の「勇ましい」共闘派の学生がジュラルミンの盾に向ってデモをかけた。だがたちまち包囲され、大学の外にある私たちの研究所の庭先へと逃げこんだ。学生たちは警官に悪罵をあびせている。機動隊は列を作ってにらんでいるが、研究所まではまだ入って来ない。かねて「顔見知り」の指揮者の学生一人が、とまりこんでいた私たちのところへやってきて、「先生、このままでは全員パクられてしまう。かくまってくれませんか」と頼んだ。私はかれらの意見や行動には絶対反対だけれども仕方がない。だが、その必要はなかった。この指導者の学生と、ほんのちょっと話をしている間に、デモの平隊員たちは、みんなどこかへ蒸発してしまっていた。指揮者が見えなくなったので烏合の衆たちはwざれがちに逃げ出したのである。かれもがっくりして消えてしまった。 平和時代といえ、経営戦略も、政治世界の競争も、それはやはり一つの戦争である。籠城のような長期戦か、遭遇戦のような一時戦か、奇襲戦か、大会戦か、いろいろあるにしてもだ。大衆時代だとか、近代だとかいう名に幻惑され、指揮者をたたくが勝ちときう根本原則を忘れているようでは、それこそこそ指揮者たる資格はない。かれの場合、私たちの所へは使いをよこし、自分は「全軍」をひきしめていなければならなかったのである。 研究や発明、創意工夫にしても同じことだろう。主要要因、つまり、いつ指導者を発見し、いつそれを、どのようにして処理するかによって成否が決定されるのである。 だから、こういうことがいえる。今日指揮者が存在しないように見えるのは、実はかくれているから見えないのにすぎぬ。だから、現在指揮者をさがすことに全力を挙げるべきである。そして、それがわかった瞬間こそ決断を下すべきときなのだ。現在の経営や政治の失敗は、みな、指揮者を間違え、幻や影武者や作られた指揮者を持ち上げたり、逆にたたいたり、判っているのに抜擢をためらったり、たたくことをためらった場合に限られているのである。 2023.11.26 記す。
7 大衆の憎まれ役は他人に請け負わせよ。 マキャヴェリ P.61~66 これは、もっとも醜い、ずるいすすめのように思える。マキャヴェリの名を悪人、人非人と印象づけ、かれの本を君主を単なる権力欲だけの動物にするための著作だと思わせたのは、このような言葉のせいである。 事実これまで私が挙げて来たマキャヴェリの言葉は人間性についての、まことに手きびしい判断を示すものだったが、ここにかかげたような醜悪な指示ではなかった。しかし、私が意志決定の条件として、このように醜悪なかれの言葉をとりあげたのには多少の理由がある。 ※参考:岩波文庫『君主論』P.121に「君主に非難を招くような事柄は他人にまかせ、感謝されるようなことは自分の手で行わなくてはならぬ。」とある。 マキャヴェリは、人が誤解しているように、君主や政治家にただやたらに没義道で好悪な権力者になれとだけ奨励しているのではない。かれは、イタリアが小国に分立して内乱紛争を繰りかえしいると、アルプス以北にいち早く成立したイギリス、フランスや、スペインなど中央集権統一国家の好餌となることを見ぬき、何が何でも祖国を統一することが唯一絶対の緊急事であること、そのためには、地方的、個人的利益を優先させていては駄目なこと、個人主義、自由主義、人間主義といったルネサンスの目標は、それ自体は結構だが、今や祖国を滅亡へかり立てるだけのものだということをいいたかったのである。事実マキャヴェリの警告を無視したイタリアは、かれの晩年からフランス、ドイツ、スペインなどの闘争の場となり、見るかげもなく荒廃してしまう。現在のイタリアだってその傷あとは大きく残っているのである。 それは、まあ、イタリアの特殊な歴史的、政治的条件である。今日の日本にも、同じような傾向が現われ、その未来はまことに不安なのだが、この問題はこの文章の目的である経営を主体とした意志決定とは直接関係しおない、この点は深入りしないでおこう。 マキャヴェリの第二点は、人間を性悪と見る意見が多いことである。道徳主義をかかげる人はこれに反感を持つ。マキャヴェリは正にそういう人々を偽善者と見、偽善こそがこの社会を腐敗させる最大の要因であるとする。実は、それがルネサンスの正統思想なのだ。 もっとも、マキャヴェリは、人間を性悪説からのみ理解するものではない。その点が韓非などとは異なる所以であろう。ただ、人間の持つどうにもならない否定的側面をはっきり認め、その上で行動しないと事のすべてが失敗するということを主張するのである。事の成否はどうでもよいという人には、マキャヴェリは不必要である。赤ん坊や小児は泣きたいからなくだけ、赤ん坊に、「泣くだけでは判らない、目的達成はできないよ」といっても仕方がないだろう。人は理性を持っていても理性で動くものではない。大衆行動は幼児的情緒、つまり動物的本能に基いている。問題はそれとつきあわねばならぬ人々の心構えである。 したがってマキャヴェリは、大人を相手に立論しているのである。つまり自分の行動に社会的責任がとれる資格と能力を持つ人々に対してだ。 マキャヴェリ( 1469~1527年)が『君主論』を書くときのモデルにしたチェーザレ・ボルジア( 1475~ 1507年)は一代の梟雄(きょうゆう)だった。活躍僅か四年で毒をのまされ駄目になってしまうが、そのときはまだ二十八歳。法皇の子だし、信長そっくりの才能の持主で、もう二十年、せめて十年生きていたら、イタリアの統一が完成していたかも知れない。そうなっていたら近代三百年のイタリアの不幸な歴史はすっかり変っていたろうと思われる。 マキャヴェリはフィレンツェ市政府の使節としてローマのチェーザレのところに会いに行き、そこでうんと歳下のチェーザレにほれこんでしまった。その理由はこうだ。 チェーザレの部下の将軍たちが、謀反の企てをすすめていた。チェーザレはそれを知って首謀者三人に出頭を命じたのである。出頭したら殺されることは判っている。誰もが、三人は逃げるか、一致して起つだろうと思った。だが三人とも、のこのこやって来たのである。死を予期し、顔色を変えて、三人は自分の軍隊を持ち、遠く離れて陣していた。何でも出来たろうに、部下もつれずに殺されるためにやって来た。正に蛇に見こまれた蛙である。三人の大将はいずれも音に聞こえた悪漢ぞろい、その中の一人、オリヴェロットなどこの地上に人間が出現して以来の悪人だといっても差支えない。かれは、可愛がって育ててくれた叔父をその席で夫婦もろともだまし討ちに殺し、その城をのっとって城主となって残忍極まる男として有名だった。それが蛇に見こまれた蛙のようにひきよせられて死にやって来る。マキャヴェリは、目のあたり、それを見て、そこにすさまじいまでに神秘的なチェーザレのヴィルトゥー(能力)を感じとったのだ。 このチェーザレがロマーニアを征服したときのことである。マキャヴェリは君主に愛されるより怖れらよといった。その通りにチェーザレは実行している。凶暴で剛直なレミルロ・デ・オルコを司政官に任じ徹底的弾圧をやらした。有力な反抗指導者がみんな殺され、恐怖が全土に行きわたったのを見抜き、人民の恐怖が狂瀾による暴動に至らぬまえ、チェーザレは自らローマに乗りこんでレミルロを圧政の罪に問い、その惨殺死体を市民の前にさらした。新領主は正義の人だというよろこびと賞賛の声と、あれほどのすさまじい悪人をも平気で処分できるチェーザレに新しい畏怖が生まれたことはいうまでもない。 ※参考:レミルロ・デ・オルコについての記事は、『君主論』P.47に記載されている。 ことをなすに当っては、説得を聞かぬ反対者を断乎として抑えねばならぬ。すこしでも反対者と妥協したら、事の成功は極めて不充分なものになる。だが処分されたものが、反感を持ち続けると事はうまく行かなくなる。自分の将来にも害がある。やはり憎まれ役を他に作ることだ。 昔から美女は城を傾けるとか、犯罪のかげに女ありなどといわれる。一面の事実だが、「偉い人」の場合、女に罪をかぶせるという手段がとられたであろうことは充分察知できる。その演出者が誰かわからないほど、事は巧妙にはこばれたと見るべきだろう。美人というのには頭が良いのはすくないので、丁度よい餌食だったことと思われる。 もっとも憎まれ役を買って出る人に対しては用心が肝要である。そういう人には立派な人もいるが、レミルロのように抜擢を感謝していると、あにはからんや自分の方が真の憎まれ役に擬せられていることが多い。事を決するに味方を糾合することのむつかしい一因でもある。もっともこの憎まれ役買いという芸当は奸智を極めた難しい行動のように見えて、私たちには案外の得意芸である。流行の勝海舟をはじめ、日本の歴史は大小はあれこういう人物で埋っているといってよい。やはりむつかしいのは平凡に見え、途方もない冷い心情に徹せねばならぬ憎まれ役作り方であろう。私としてはその見事な遂行者は後白河法皇以外に見出すことはできないのである。 ※マキャヴェリ著黒田正利訳『君主論』(岩波文庫)には、チェーザレ・ボルジアについて、P.26、44、60、91、106、176 に記述されている。 2023.12.14 記す。
8 人間いかに生きるべきかということのために、現に人の生きている実態を見落してしまうようなものは、自分を保持するどころか、あっという間に破滅を思い知らされるのがおちである。 マキャヴェリ P.67~72 かつての中国のいわゆる大躍進の時期だった。日本のある大新聞の著名な外国通信員が北京から南へ下る列車の窓から、露天に山のようにつまれた部品が続くのを見た。かれは涙を流して感激し、中国生産力の飛躍的発展つまり大躍進の成功を報じたのである。ところが、全く同じものを見た――おそらく同行したのだと思うが――フランスのベテラン記者は、それが長く野積みにされすぎているということを荷造り部分の汚損などから洞察した。それで生産がちぐはぐになっているのを見てとり、大躍進の前途多難なることを予見する記事を送った。結果ははっきりしている。大躍進はみじめなばかりの失敗だった。 日本のある有名な外交評論家は、日本の極東外交論を書きなぐって、中国外交の伸長と自由陣営の不利と没落を予言している。たしかに日本の外交はお世辞にも成功といえる部分はなく、みじめな失敗を重ねているけれど、実をいうと、その予言は今までのところ全部はずれているのである。 この二人は他国のことを判断しているのだから、その判断がはずれてもまだその被害は間接的である。それに二人とも日本の外交の責任者ではないし、幸いにして日本の外交はその意見に従わなかったためにその点では損害はなかった。日本は言論には、はなはだ寛容な国民である。無茶をいっても、矛盾した意見を連発しても、予言が外れても、変節しても、世間は一向それを咎めない。現にこの二人は相変わらずこのように心細いその評論を売りつづけているのだ。評論家の天国だといってもよい。あまりそんな意見が読まれないせいだという反論は当らない。大新聞のように何百万とよく読まれ、日本の世論をリードしているものが、ころころとその立場を変えても、何ともいわれないのだから不思議である。 だが、こと言論を離れ、個人、とりわけ実業界で、そんな見込みちがいをやったらえらいことになる。自分のまいた種は自分で刈らねばならぬ世界だからだ。破産会社と提携したり、製造能力も販売能力もない会社と共同生産したりしたらお仕舞である。詐欺男の連帯保証をひきうけたらどうなる。無能重役に粉骨して社内革新を志しては破滅するだけである。無力な組合を信頼して無茶なストをうって成功したためしはない。 新聞記者や評論家が見込みちがいをやるのは、現実を直視せず、対象に自分の理想像を投影したからだ。小説ではあるまいし、世間は夢を見る世界ではない。報道や評論も同じはずだ。女子供なら人間や社会をバラ色で眺めたり、灰色のガラスを通して見て大人の世界は汚れているなど黄色い声をあげるのは御自由だが、その自由は自分が社会に責任を持たぬことによって与えられたものにすぎぬ。「お月様をとってくれろと泣く子かな」である。よい大人がそんなことをいったら気狂いとして隔離しなければ、人間社会を大阪方言でいう、わやにしてしまう。大人の資格は。現実をはっきり認識し、それを冷静に分析し、その上に論理を構築し、その論理に基づいて行動する勇気と能力を持つことによってはじめて獲得できるもののはずだ。 超美人で、文句のつけようがないグラマーで、献身的な愛情にあふれ、すばらしく頭がよく、教養豊かで、運動神経も発達、料理上手で整理整頓がうまく、芸術才能に秀でた、おとなしく従順な良家の女性で、いつまでも若々しく、たえず進歩する、そんな女性としか結婚しないと思いこんでいる男がいたら馬鹿に相違ない。誰かを、そんな女性と思いこんだとしたら、壮烈なる悲劇的喜劇を演じているすこし頭のおかしい男であろう。こんなことは誰でも判っていることだ。 ところが、こと社会や会社などの組織に対する観方となると、この日本では、すっかり様相が変わって何か色眼鏡で見ることがきびしい立場であり、正義であり、清潔で偏りのない態度で、知的な人間のすることのように思われている。 人間の歴史百万年――今日では三百年と見られている――ホモ・サピエンス(現生人)になってからも数万年の経験がある。すくなくとも歴史時代以来知識の量はふえたけれど、人間の脳は変っていない。その人間があらゆる努力を払って立派な個人となり欠陥のない社会を作ろうと工夫して来た。そしてことごとくが失敗に終っているのである。長所を伸ばせば短所も大きくなる。短所を矯めば長所が減る。篤農型人間は生産それ自体に対してはまじめだが、わがままで社会人としては落第人である。隠遁人間は清らかに見えるがエゴイストで怠けものだ。政治人は権力者であれ、反体制とか呼号して一見いかにも正義人のように見える人でも、要するに権力指向型で生ぐさい。学者は女性的で、評論家は口舌の徒で、ともに一人では何もできぬ臆病者である。経済人は利益第一主義者である。多少の出来、不出来はあるがおよそ人間というものの基本ラインはそういうものだ。理想的な完全具足人などいるはずがない。 社会でも同じでこと。一糸乱れぬ秩序のある社会にはその裏に当然すさまじい弾圧がある。富める社会には腐敗の要素を必ず内在させる。貧乏社会にはひがみが支配する。 それが今日、急に理想社会が出現したり、完全な支配者や経営者が生まれるはずがないではないか。 理想に向って努力するのはよいことだし、しなければならないことだが、それが実現するはずだと思いこんだり、完全社会がこの地上のどこかにあると信じたり、完全具足の人を現存人に求めたりすることは、当人にとっても、社会にとっても百害あって一利なしだ。 革命など、そういう男たちによって第一足を踏み出すことがあるかも知れないが、その功績を私たちは過大も過大、途方もなく立派に考えすぎる。さすがに現実の社会は見事なもので、そういうのは何かの形ですぐ否定してしまう。だからこそ人間社会は、ここまで存続し、繁栄して来たのであるy。 幕末の攘夷思想がその例だ。『夜明け前』の平田神学の盲信者である主人公の本陣の主の辿った運命は悲劇的かも知れないが当然の運命である。大西郷でさえもそうだ。かれが政権をとっていたら日本はとっくの昔にこの地上から姿を消していたろう。高杉は上海を一見するだけで攘夷思想を捨てている。明治は、伊藤博文や山県のようなニ、三流の志士たちによって建設され、たしかに矮小化した。一流の真の人士は同様の狂信者とさしちがえて非命に倒れてしまっていた。しかし一流の志士は、実はそうすることで明治日本を気狂いの手にわたし崩壊さすことを阻んでくれたのである。大きな犠牲だったが日本が近代国家という現実路線に乗るためには欠くことのできぬ条件でもあった。 現実の重要性から目をそらし、理想という美しいが無責任世界へにげこむ人間は、そんな人間をいだく組織もろともに社会から否定される。それを承知ならよろしい。決断は、この事実を肝に銘じた上でなされねばならない。 2023.12.27 記す。
9 人はその出生によって差別を加えるべきではないが、それ以上に年齢によって制限を加えてはならない。 マキャヴェリ P.73~78 これはまた極めて当り前の教訓だが、マキャヴェリの生きたルネサンス末期は、中世封健社会の根強い老人支配と家柄の世界をやっと、ほんのすこし打破したと思ったら、百年ぐらいで、またもとにもどってしまった時である。現在の日本でも老害の時代だ。なぜ、こうなるのか、その理由と対処法を充分に考えないで、老人を罵るだけで終ったり、あるいは逆に、やたらに青年重役を作ったりするだけでは、失敗するか、何もできないのにきまっている。 戦争直後の日本は明るかった。今度の戦いで日本は人間の歴史の中でも、これ以上の完敗はないと思われるほどのみじめな敗け方をした。国中が焦土と化した。物資、とりわけ食糧は極度に欠乏し、国民全体は飢餓状態にあった。治安状況も悪かった。にも拘わらず、なぜ、あれほど明るかったのか。軍部の圧政が消滅したからか。いや、それだけだったら第一次、第二次大戦後のドイツと同じことだろう。しかし、ドイツでは途方もなく暗かったのである。 占領軍がやった善政のせいだともいえない。善政だろうが、民主制の進展だろうが、異国人、それも軍人の支配というものは、たまったものではないことは。すぐ国民も気がついた。にも拘わらずである。 その原因の大きな一つとして、占領行政の一つだけれど、追放がある。戦争を指導したと見られる人は、ことごとくその地位を追われた。 この善悪は今は問わない。結果としていえば、残った人は、ごくごく一部の反戦的指導者以外、指導的能力のない人か、戦争当時ははまだ若くて、指導的地位につけなかった人々であった。若い人の時代が来たのである。考えて見られたい。今、会社で自分より上役になる人の半分が、それも能力のある人が、急にいなくなった。仲間でも体力あり有能な競争相手が、消滅したとする。しかも、その消滅に関し、自分は全く責任がなく、その消滅が会社の運営の過ちでなく、全然別次元の世界で不正として認定されたもので、日本の恩人だろうが、何だろうが、こちらが一切気にかける必要がないとしたら、人はどういう気分になるものか。壁がとれたという明るい気がしてくるのは当然であろう。 明治維新がそうだった。国の最高指導者たちは公卿出身者など例外をのぞき三十歳台の人間が大部分だった。より下の各部分の要職者たちは勿論である。技術者でさえもそうだ。京都の疎水運河は京都にとってのみではなく日本全体から見ても新奇な大土木事業だったが、インクライン、水の発電など日本には全然未経験な技術をふくむその工事のすべては東大工学部を卒業したばかりの二十歳を僅かに越える青年田辺朔朗の手にゆだてられたのである。計画はかれの卒業論文による。老人にとっては無謀としかみえなかったであろう。こういう新しい企画は、若者によってのみ可能であり成功したものなのである。 もちろん若者にまかせたらすべてがうまくいくとはかぎらない。大失敗をやることもある。例えば日本を今度の大戦へ駆りたてたのは、これまた二十歳三十歳台の「少壮軍人」の圧力であった。だから、この教訓はすべて若者がよい、いや、すべて老人がよいということではなく、若者を必ず登庸せよということでもない。年齢によって差別するなというだけのことである。 そんなことは、当り前だともいえる。そんな簡単な指令だけでなく、急速な展開や革新を必要とする仕事は若い人、慎重を要する仕事は壮年者とか、老人は責任だけをとり、若い人を思う存分やらせるといったこまかい指示なら必要だが、と思われかも知れぬ。実は私がこの項で指摘したかったことはこうだ。若い人を登庸するときには、そういう一般条件の外に、現在の日本の社会の持っている歴史的な特殊条件を充分考えることが不可欠だということである。この条件を正しく把握しないかぎり、どんなにうまく配置したつもりでも若者登庸はうまくいかないのである。 日本人は古来ずっと子供や若者を信頼しない国である。若者も図に乗る度合いが欧米人より激しい。一方権威を大切にする国民でもある。したがって若い人を重用するには、その組織以外のところで権威づけを受けた人か、新しく権威づけを受けさせる必要がある。かつての東大出身、高等文官試験というのがそうだった。留学もそう。社長の二世がうまくいくのもそうだ。現在は政府の保証とか大臣賞といったものの権威は著しく低くなっているので、こんなのはあまり役に立たぬ。最高の権威はマスコミだろう。そこで傑出した能力者だということを証明させるのである。 日本人は雲の上とか九重の奥とか、目に見えぬ壁にへだてられた人間に弱い。登庸する若い人には、そのような権威をバックにさせる。いささか詐欺漢めくが、えらい人のおとしだねとか、途方もない有力者をバックに持っているというような噂があるひとだと年齢的に「異常な」地位についても、むやみにさげすまれたり、変な反感をよびおこすことがなくなってしまう。もっと実質的な権威づけとしては、ちがう職場で神秘的にさえ見える能力を発揮し、その職場の苦境を救ったというような実績があれば申し分がない。 日本人は人の足をひっぱることには天才的な能力を持つ民族である。誰だって、どんな民族だって、自分を抜いてどんどん偉くなっていく奴に心からの好感を持つ人間はいない。だが邪魔だてのうまさというものにかけては日本人ほどの能力者は珍しいだろう。面従腹背、噂のまきちらし、一方、立身主義は悪で、手をつなぎあってともに戦うなどと、実は足のひっぱり合いを美化し正義化する思考を普及化するなど。出る杭はうたれるとの言葉がこれほど実感される国はまあ世界でも他にあるまい。 年齢による差別はしない。これは何かを目指し、組織を作り、組織を動かしていくときの基本条件である。意志決定には、その点すこしのためらいもあってはならない。だが、それをうまく運営するには至難の社会というのが日本なのである。それが一般化するのは明治維新のような稀な条件にめぐまれた時期だけに限られる。だが、これから先の日本は、その条件がないにも拘わらず、個人企業であれ、大きな組織であれ、若さを生かしていかねば崩壊の危機に直面することだろう。経験が殆んど物をいわず、独創性だけが効果を挙げる世界だからだ。この悪平等、一切の選別反対という全社会的な狂気の足のひっぱり合いの難関を突破し、若い能力を糾合していくには、マキャヴェリのいう「奸計」「計略」が不可欠なのである。 2023.12.24 記す。
10 加害行為は一気にやってしまわなくてはならない。しかし恩賞は小出しにやらなくてはならない。それを人によりよく味わってもらうために。 マキャヴェリ P.79~84 ふつうの人はこの逆をやるものである。すこしでも反省心のある人は、自分の怒りや懲罰行為をいつもできるだけすくなく発現するように努力するものだ。だがそのような抑制は多くの場合かえって逆効果を生む。なぜなら人間というものは、感情を自由に統御できるほど生物として進化した存在ではない。だからそんなことをして見ても結局残された怒りを何度か爆発させることになる。そして、相手に、かえって大きな損害を与え、反抗心を植えつけてしまうのである。 一方恩賞を与えるときには、この自制心が働かない。働くのはケチ精神だけである。だから戦争でも何でも敵に勝ったり、困難を突破して歓喜した瞬間など、昂奮して惜しげもなく賞を与えてしまう。けれどもそのとき与えないとその後は惜しくなって与えなくなる。あるいは、与えた金銭や土地や女などが本来的には自分に帰属するものだったなどと気がつき、とり返そうと試みる場合すら出て来る。征服地の住民の歓心を買おうとして減税など恩恵処置を試みたりするのもその例だ。あとでしまったと思い増税する。そんなことで、人々から恩恵を与えて憤懣と反抗を得るという結果になってしまうのである。 この馬鹿げたやり方で失敗をつづけたのは、戦国時代では佐々成政が典型だと思われる。かれは織田信長の武将で、柴田勝家と並んで豪勇を以て聞こえていた。秀吉に反抗をつづけたが、その雄と才智を愛した秀吉によって許された。越中・越後、のちに熊本を中心とする肥後一帯の大領地を与えられた。だが、かれは国を治めると必ず失敗した。剛腹にまかせ、やたらに人材を登庸し、住民を甘やかし、思う通りにいかないと腹を立て弾圧に向ったからだ。そしてとうとう秀吉に亡ぼされてしまった。新征服地で、敵地住民の民心を獲得するのが一番うまかったのは明智光秀だろう。丹波・丹後の切り取りを命じられたときも、このうまさに疑い深いことで知られたこの地方の土豪たちも争って帰順してくるし、その後も反抗することはなかった。謀反人光秀という印象からは、ちょっと想像しにくい事実である。秀吉の人心収攬のうまさは有名だけれど、あの物惜しみせぬ太っ腹は競馬であてて人に奢るようなもの、悪くいえばはじめ領民からうんと召し上げたもので、到底永続できる条件は存在しなかった。ただかれは幸運にも領地・占領地を代ることができた。あとで来たものが貧乏くじをひいたということであろう。 光秀のうまさは、かれの怜悧さということもあるが、性格が幸いしたものだともいえる。若いころ逆境に立ち、ひどい貧乏ぐらしをしたせいもあるだろう。かれは人の温情に感激深くなるとともに、ケチになっていたのである。だから恩賞を出さないではいないが、出し惜しみ、自分で思い切ったつもりでも過小にすぎた。反省癖があるのでそれに気がつく。そして、結局はちびりちびりと追加して行くことになった。そのことがかえって人心収攬にプラスするという幸運を招いたのである。 その逆が主人の信長で、光秀に大領地をやりすぎ、あとでケチになって丹波・近江を没収し、光秀の謀反を招いてしまった。 これは私の戦場での経験である。何度も招集を受けた古強者だが、一種のやくざでどうにもならぬ怠け者がいた。かれは一種の職人気質を持ち、日本陸軍とは全く相容れなかったということもあったろう。それを知った大隊付の軍医さんが同情し、いろいろ面倒を見てやった。何しろ激戦につぐ激戦である。食糧弾薬も極度に乏しい。だからかれは二度も三度もこの軍医さんに命を救ってもらうといういう結果になった。十人中九人まで死んでしまうという世界だったからである。 ところで、軍医さんは一つの判定ミスをやっていたようである。職人気質というのは篤農家の精神と同じだ。欠点をいえば自閉的で、我儘で、一面利己的である。軍隊では一兵卒に軍医の恩を返す能力を持てる余地はない。しかし恩は感じざるを得ぬ。そのとき、どういう変化がかれに生じたか。一生軍医の方に足を向けて寝ないという気持ちになったとか、もし将来軍医の身に危難がふりかかったら、自分がその身代りになるという決心をしたとかいうのだったら、それは絵空事の世界である。かれは、軍医の側に自分に対し親切にしなければならなかった必然性がある、と信じこもうとしたのだ。というより、そういいふらすことで、自分の心の負担を軽減しようとしたのである。しゃばで自分は軍医の生命を何度も救ってやったのだから、この戦地で自分に多少目をかけるぐらいは当然のことだというわけだ。なるほど、そう戦友たちに釈明することで、自分が蒙る周辺の嫉妬の冷い目を多少はやわらげることもできよう。そういう副産物もある。そして、こういう二人の間の感じ方は、二人が奇跡的にも無事揃って復員して帰って来てからも今日まで続いている。周辺もそういう目で見ている。つまらない目にあったのは、純粋な同情の気持からこの男を庇護した軍医さんである。周辺からやくざと因縁のある公務員の医師という、何とも変な目で見られる結果になったのである。 私たち日本人は、好意を持たれようとしてか、あるいはまともな気持ちからか、 ともかく相手に「恩恵」を与えすぎるようだ。物質的にも、「労働」の上でも、気持ちの上でも。しかも困ったことには生活に余裕がないから、それが続かない。あとで妙なことになってしまう。 意志決定のとき、その難関の一つに、それが自分及び周辺に一時的にもせよ各種の損害をもたらしはしないか、というおそれの感情がある。失敗したときどうするか、という心配がある。そのことからも、できるだけ恩恵を早く多量に皆に分与したいとか、最初から「土産つき」でその仕事をはじめたいなどと考える。――結婚当初妻が働き尽しすぎ、夫がサーヴィスしすぎて続かないというのもその一変種だ。 だが、うまく行きすぎるという懸念を最初から持つという人は、まあいい。うまく行きすぎるのは実は最大の難関なのだ。それが判ることが、意志決定の重要な条件になるのである。 人間は本来、ケチなものである。同時にそれを見せまいとすることも人間の本性なのだ。後者は第二次本性である。逆境に陥ったり、老人になったりしたときはもちろん、太っ腹さを持続することはむつかしい。ある病人が難病を直してくれた医者に千万円をお礼しようと思った。一日ほどたつと二百万円でよいと思い、ニヵ月ほどたつと十万円でよかろうと思いだした。これではもう半年ももすれば、お礼する気にならなくなるだろうと思って、十万円を差し出したという話がある。人は自分でどんな剛腹なつもりでいても、本性はおそろしくケチなものだ。そのことを充分反省して道を進まないかぎり、万事はすべてうまく結末しないであろう。 ※参考:マキャヴェリ著『君主論』(岩波文庫)P.第八 非道によって主権を獲得した者について(黒崎記) 2023.12.28 記す。 |