児玉昭人君と私
広島県立忠海中学校以来の心の友


心に残る友

 昭和15年4月、広島県の東部にある広島県立忠海中学校に入学した。そのとき、忠海町から約4~5里離れた広島県豊田郡南方村から児玉昭人君も入学していた。自転車で通学していた。

 池田勇人元首相(広島県豊田郡吉名村出身)、海軍兵学校長:新見海軍中将らの諸先輩、また平山郁夫画伯(広島市の中学から忠海中学へ転校:広島県豊田郡瀬戸田町出身)も卒業生である。

 何年生だったか、多分三年生ころからだろう、親しくなり、終生の親友となった。

 中学3年生(昭和17年)の頃は、戦争に若い人が駆出されていて、農村では人手不足になり、稲刈りの時期には私どもは泊り込みでお手伝いに出されていた。私には稲借り、脱穀など初めてのことでした。そんな時は白米(当時は銀飯といっていた)をタップリいただき、夕方には農耕に使っている馬に鞍をつけて乗せてもらったりした時代であった。

▼食料事情も戦争とともに悪くなり、米やタバコも配給制度になった有り様であった。そんななかで、数度、友人3~4名と彼の家に自転車で泊りがけで行き、お父さんお母さんが歓迎してくださり、白米のご飯に鶏をさばいてすき焼きをして、歓待していただき、空腹を充たしてもらったりしていた。また、時には我が家にも泊りがけで遊びにきたりして、私の母もその友人を信頼していました。

 彼は中学4年生のとき、ハルピン(旧満州国)学院に入学、1年ほどで帰国した。20年に旧制広島高高等学校に入学した。

 中学5年生の時、軍港呉市に近い広海軍工廠への2交代勤務に動員された。久留米工専(以下すべて旧制)、広島女学院の女子生徒たちもいた。

 私は5年生の秋(昭和19年10月)、海軍兵学校に入校した。江田島へ出発する丁度その日に児玉君のお母さんが赤飯を炊いて駆けつけてくださった。小柄なお母さんでしたが友人同様に可愛がっていただいたものでした。忘れがたい思い出である。

▼戦後の昭和22年、彼(広島高校3年生)との再会は広島であつた。私は回り道をして広島工専に入学した1年生。中学時代の同級生の友人たちと下宿で、談論風発したものである。その後、彼は京都帝国大学文学部哲学科に進んだ。大学院を終了すると大学の教師になり、広島大学・北海道大学・愛媛大学を経て、岡山大学のドイツ語の教授で定年を迎えた。私は工専卒業するや、倉敷絹織株式会社(現在:クラレ)に入社した。岡山の工場、倉敷の研究所、また岡山工場と転勤していた。

▼彼は岡山大学に勤めていた関係で、私も文学部の教授室にときおりお邪魔していた。彼が当時、使われ始めたばかりのワープロを使っているのをみて便利なものがあるのをしりました。お母さんは岡山のある病院でなくなられた。友達は何も知らせてくれなかったので、お見舞いにもゆかなかったのがいまだに思い出され心残りになっている。また、ドイツ語研究室の近くに中国文学広常教授の研究室もあり、紹介していただいて、その後、岡山師友協会の会員となり、漢籍の勉強を続けた。

▼大学を定年になり故郷に帰ることになり、私の弟に(岡山市の土建会社に勤めていた)家の改築をわざわざ依頼されて、岡山から広島に出かけて、弟もよくやってくれた。

▼定年後については、帰巣本能に書いているように広島に帰ってしまった。哲学専攻の彼は作業、観察をしながら余生を養っている。電話の話では、現在は晴耕雨読。「作物の成育するのは楽しいよ!」と。また、同級生の一人が祝福の「電報」をくれたよと、電話の声はつやがあった。

▼また、広島県三原市本郷町の外国文化交流の会長として、また地区の老人会の会長をしていた。年賀状の交換くらいになっていますが、当時の仲良しグループが変わったことがあれば電話で知らせてくれている。お互いに元気で生きたいものだとねがっている。


 瑞宝中綬賞―親友の受賞― ★児玉昭人:岡大名誉教授(80)★

 平成19年11月3日(文化の日)の新聞をめくっていると「秋の叙勲」のページに、中学時代の友人の名前がひときわ浮き上がって目に飛びこんできた。

 すぐさま電話をしたところ留守電、夕方に彼から返電がかかってきた。

 「お祝い」を述べた。


☆朋あり遠方より来る

 表題から連想できるのは、論語の「朋あり遠方より来る。亦楽しからずや」でしょう。

 大学教授を退官されて、私も会社を定年となり爾来、合っていなかった旧制中学の朋が岡山に来られ、楽しい数時間を過ごして、帰られ翌日に下記メールが送られてきた。

 8月23日は会えてよかったです。元気そうな顔を見てうれしかった。思ったより若々しかった。理科系にしてはたくさんの本にかこまれているのでちょっと驚きました。久しぶりのパソコンですからなかなかはかどりません。あなたからのメールはまだ届いておりません。またあまり遠くない時に会いたいものです。中学時代の友人はほとんどいなくなりました。お互いに貴重品です。暑さはまだ続きそうです、気を付けてください。もう少しパソコンに慣れて又メールをします。郵便局に行かなくても届くだけでも助かります。目が少々くたびれているのが残念です。 ではまた 平成24年80月24日

▼中学生時代の面影は加齢しても残っているものだと思った。また彼が述べているように今日まで生かされている貴重品だとの感じは私にも同じものを思うと同時に「そうありたい、だけど廃棄物だと思われるような時代風潮が心の底に蟠っている」。

▼彼も一人で田舎暮らしをしている。彼の話の中に、まだまだ共同生活の昔の生活が残っていた。 

 たとえば、月に2~3回は、集合して道路の補修をしたりしている。また、その村の中で少し離れた家の人は彼の家の灯がついていれば「元気だな!」と、それとなく見守ってくれている。

▼現在テレビなどでは、「都会での孤独世帯の増加、ついには孤独死など」が、また「農漁村での共同生活の生き生きした老人の生活ぶり」などが報道されている。これらが混在しているのが日本社会の実態ではなかろうか。

 友人との会話でいろいろと考える問題が含まれていることを感じると同時に出来る限り「いまを生きる」ことにしたいものだと……。

平成二十四年八月二十五日


帰巣本能

 三月と四月は別れと出会いがある。学校は卒業式が終わり入学式を迎える。

 友人、岡山大学教授・児玉昭人君が定年、広島経済大学の先生で帰る。

▼サケは生まれ育った川を離れ四年にわたる長い海の旅を通じて母川のにおいを忘れず記憶にとどめて帰ってくる故郷の川の香りをかがすと、サケの脳から特別な脳波がとれるといった事実も報告されている。写真の本のP.187の記事                      

桑原萬寿太郎『帰巣本能』抄出

▼我が家の庭にもジョウビタキが訪れていた。翼に白い斑が特徴的なこの鳥は、秋から冬にかけて河原や市街地などに渡来し、主に積雪の少ない地方で越冬する。やがて春になると、繁殖地の中国などに帰り、餌がなくなる晩秋になると若鳥を伴い、再び日本各地へ渡って来る。なぜ中国に帰るのだろうか? 日本とあまり気候も違わないと思うのに。またガンの子マルティナのように鳥は生まれたときに餌づけされた鳥を親としてインプリットされる。

▼私達にはおふくろの味がサケと同じように脳髄に潜在している。三年前からずっと優勝したいと思い稽古をつづけてきた故郷の同郡の出身力士・安芸島に望郷のおもいを託して応援した春場所。

★人間には、蜂・鳩・鮭に備わっている「帰巣本能」はない、とのことである。2017.09.14追加。


 昭和29年6月05日(土)

 児玉君操風寮に来た。翌日、尾道に帰った。

 平田さん、角君、児玉君とマアジャン。

岡山市 福島 倉レ 操風寮内

黒崎昭二兄

    尾道市久保町 亀山方 昭人

 先日は御迷惑御掛け致しました

 御同宿の御方にもよろしく御伝え下さい

 雨の中を歩かせて済みませんでした

 多謝々々

 学校(尾道の高校)に帰って又生徒を相手に下らぬ事を喋る時間が続きます ウンザリします

 松永に来たついでに尾道にも足をのばして下さい だべったり遊んだりしませう

 どうも思い切りだじゃれる人は貴兄以外に余りゐないらしい お礼まで

*昭和29年6月8日のハガキ。最も古いハガキ。


黒崎昭二様

 暑いですね 元気ですか

 先日は電話ありがとう 実は途中から電話に雑音の様なものが入り込んで聞き取りにくいまま おわりました

 パソコンは その折言いましたが 開店休業です デスクトップに買い換えましたが 中々馴染めないままに放り出しております それでも時々開いて見ることもありますが 中々旨く馴染めません 少し涼しくなると再開しようかと思っております

 8月20日ころ岡山で 友人数人が集まる会合があるのですが この暑さでは出席できるか分かりません 行けたら電話します

 少し前 忠中120記念祭があったようです 案内はありましたが行きませんでした 忠海で生きているのは安岐、西川位です 広島では樽見 山本(譲)、吉岡が健在のようです 山本(道)は他界しました だんだん淋しくなります 身辺寂寥です でも折角これまで生き延びたのですから もう少し頑張りましょう

*安岐政次郎君・西川昭三君(忠海町出身:広島工専)、樽見亨二君(竹原町出身)、山本譲二(幸崎町出身:海兵75期)、吉岡典威君(豊田郡東野出身:陸軍予科士官学校→広島高校→東大)、山本道広(三原市出身:海兵75期)。

 私は今少しバラを作っております 今年は意外と良く咲きました 来年は更に立派なバラを咲かせて「90歳のバラ作り」の名を高めようと思っております 呵々

 本格的な暑さが来ます 呉々も体に気をつけて猛暑を乗り切りましょう

平成二十七年(2015年)7月30日 児玉昭人


 児玉昭人君死去

 平成二十九年十月五日 教え子を代表して 岸本雅之(〒700-0080 岡山市北区津島福居 1-8-47-6)様から「児玉昭人先生文集『私の教師遍歴』の送付について」の案内で文集が送られてきた。

 平成二十九年(2017)十月六日深夜、親戚の方々に看取られて永眠されました。

 本人とは中学以来の友人、そしてご両親にもお世話になったあの日・この日がよみがえる。お母さんは岡山市で逝去され、お見舞いにも行かなかったことが悔やまれる。

 児玉君が永眠されたことも知らなかった。岸本先生のお話では、故郷の家にはどなたもおられないで、妹さん?が、時々、風通しされていることだった。

 故郷で薔薇や菊の香りに包まれて楽しんでください。合掌。

 会者定離が人生の定めであるとはいえ、悲しいことは悲しいです。

 親友との関係は「億劫相別而須臾不離 盡日相対而刹那不対おくごうあいわかれてしゅもはなれず じんじつあいたいしてせつなもついせず(永遠といって良い程の長時間別れていながら、ほんのわずかな間も離れていない。しかも一日中向かいあつておりながら一刹那も向かいあっていない)であったように思われます。

 「花語らず」(柴山全慶老師の詩)

 花は黙って咲き黙って散って行く

 そして再び枝に帰らない

 けれどもその一時一処に

 この世のすべてを託している

 一輪の花の声であり

 一枝の花の真である

 永遠にほろびぬ生命のよろこびが

 悔なくそこに輝いている

 ご冥福をお祈り申し上げます。

                    合 掌

★思い出の写真

バラ作りを楽しむ
児玉君とバラ
新築自宅

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