『母と青葉木菟』


大原總一郎『母と青葉木菟』(春秋社)昭和三十八年七月七日 第一刷発行

仏通寺の一夏

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 大正十五年の夏、第六高等学校に入ったばかりの私は、解放された最初の夏休みをどこか静かな場所で過ごしたいと思っていた。
 たまたまアララギ派の歌人だった中村憲吉氏の夫人は母方の親戚だったので、憲吉氏の意見をたたいたところ、備後仏通寺がよかろうといってくれた。仏通寺は臨済宗の大本山である。
 七月初めの或る日、私は山陽線本郷駅に下車し、管長への紹介状を懐に、渓流にそった山道を登って行った。蝉時雨(せみしぐれ)の中に静まり返った仏通寺の山門に辿りつくまでには、かなりの距離があった。案内を乞う声に応じて、黒い僧衣をつけて胸をはった修行僧が大股に歩いて近づいて来た。紹介状を渡すと、取り次ぎもしないで何しに来たかという。遊びに来たというのは悪いと思って、勉強のために来たと答えると、何の勉強だとたたみかけてきた。
 ちょうど対訳本を一冊もっていたので、ドイツ語の勉強をしたいと答えると、ここはドイツ語の勉強などする所ではない、泊められぬと剣もほろほろの挨拶である。今更帰る気もないので、では何をすれば泊めてくれるかと愚問を発すると、わかりきったことだ、ここは禅の修業をする所だとの答えである。もっともなことなので、それでは禅の修業をするから泊めてほしいと申し出て、初めて管長に取り次いでくれた。私は当時、或る人の感化もあって禅に興味をもつていたので、全く思わぬ応答をしたわけでもなかった。
 渓谷にそって建てられた幾つかの宿坊には、そのときはただ一人の宿泊者もなく、私に与えられた本堂に近い一室は真夏の太陽に照りつけられていたが、人声も人影も全くなくて、あたりは不思議なほどひっそりと静まり返っていた。その夜は待ちうけてていた蚤の大軍に襲われて明け方まで防戦に苦しんだが、一夜明けると禅寺の生活が始まる。五時、木鐸(ぼくたく)の音で起床、谷川で顔を洗い、小僧たちと飯台に並んで朝食をとる。熱い藷粥(いもがゆ)に舌を焼きながらも、皆から食べ遅れるのに当惑した。昼、晩は管長に陪食の栄を得ることとなった。しかし副食は毎日毎晩裏の薮の筍ばかり。昼間は講話を聴いたり、坐禅も自由、夕食後は本堂で十人ばかり全員坐禅、生杉(なますぎ)の葉を燃やす蚊いぶしにいぶされながら目を半眼に閉じ、管長からもらった公案に取り組む。
 この山での滞在三週間のうち、最後の一週間は接心会(え)で会する人も多く、終日坐禅続きだったが、私にはそれ以前の二週間の方が静かで、はるかにありがたい時だった。そのころ広島の女学生の一団が二、三日滞在していたが、そのほかに三人の人に会った。その一人は広島の広陵中学を出た浪人で、豪傑肌の快男児だった。翌年四たび一高の試験をうけるが、もし落ちると徴兵検査があるので、それが彼の悩みの種である。その焦慮を禅で解決することと、試験勉強をすることの板ばさみになって、この青年は苦しんでいたが、ついに勉強のため坐禅の方を断念して早く山を下りて行った。
 次に会ったのは女学校の英語の教師で、英語はなかなかよくできる人だった。漱石の英訳が非常な名文だといって、幾つかをそらんじて教えてくれた。他方、人生への懐疑に深くおちこんだ神経の細かいインテリ青年で、禅の荒行にはむしろ不向きな人のようであった。
 第三の人物は、週末を夜行で欠かさず広島から坐禅を組みに来る杉本五郎という陸軍中尉だった。この人は眼光鋭く、剣道の達人で小僧たちの最も恐れるところであった。或る日、英語教師と話していた時、突然廊下に高い足音が聞こえて杉本中尉が姿を現した。そして「ここは文学の話などしにくる所でない、一体何と心得てここに来ているのか」と大喝を浴びせられた。英語の先生はそれから間もなく帰って行ったが、私はその後も暫く留まっていたので、杉本中尉とは何回か顔を合わし、言葉をかわす機会もあった。
 遠くで猿のなく仏通寺、昼間は蝉、蜥蜴(とかげ)、蛇、鵯(ひよどり)などの天下となり、夜は坐っている膝元まで鼬(いたち)のうろつく仏通寺、ここは短い期間だったが、私にとっては過去の如何なる時にもまして、自由で活々とした心境を味わい得る場所であった。温容の管長圓山雪庭禅師をはじめ、大小の雲水たちに対して心からの感謝と親愛の気持を抱きながら、私は七月の下旬、山を下りた。
 その年の暮れ、十二月の終りに私はまた仏通寺を訪ねたが、年が明けてから全く思いもかけぬ知らせを受け取った。管長が前管長の墓前で割腹自殺をして果てたという知らせである。私には生前の風貌と思い合わせて、全く理解できぬことであった。そしてそれを限りに、その後今日に至るまで仏通寺を訪ねたことはない。
 日華事変が泥沼に入ろうとしている昭和十二年、当時ロンドンにいた私は、たまたま日本から来た新聞の中に、杉本五郎中佐の戦死を報ずる記事を見出した。私の脳裏には仏通寺におけるかつての杉本中尉の武人らしい面影が浮かんできた。翌年帰朝して後、彼の遺稿として出版されていた『大義』という本があるのを見て、杉本中佐の人となりは私にとっては遅まきながら、はっきりしたものになってきた。後に『軍神杉本中佐』という大きな本も出たが、それは私は読んでいない。
『大義』の中に書かれている所によれば、彼は徹底した皇道主義者であったが、同時に軍人が政治に関与することに痛烈な非難を向け、二・二六事件(1936.02.26)の直後、渡辺大将、永田中将の追悼会に自ら主催者となって、後難を恐れる人たちを尻目に、その気骨の凡ならざることを示した。或る日仏通寺に来て「二・二六事件のようなものに我が第五師団からただ一人でも参加するような心を持った者を出したら五師団の恥だ、皇軍の恥だ」と一しきり語ったということだ。戦死当時の杉本中佐の姿は、禅者の大悟を示す「坐脱立亡」と呼ばれるにふさわしい大往生だったということも、その本で読んだ。
 その後、管長についで中村憲吉氏もなくなり、また仏通寺で会った他の二人の人たちとも再会の機会もないまま今に及んでいる。
 その後長い年月を経たが、それ以後一度としてあの一夏に感じたような無垢な心境をわが身に感じたことはない。執着や迷蒙はふえるがままであって、禅者の教えからはますます遠ざかった。しかし仏通寺での三週間の経験は、やはり心の中のどこかに、小さいながら燈の火を消し絶やさないで残っているように思われる。長らくご無沙汰している仏通寺だが、そのうち、いつか機会を得てもう一度訪ねてみたいものだと思っている。(週刊朝日・別冊 三五年九月一日号)『母と青葉木莵(あおばづく)』P.22~26 

資料:『大原總一郎随想全集1』(福武書店)P.56~60 に記述されている。

1922.09.09


☆唐招提寺を創建された鑑眞和上(688~763)☆

 唐の揚州に生まれ、14歳で出家し、洛陽・長安で修行を積み、713年に故郷の大雲寺に戻り、江南第一の大師と称されました。

 初夏の奈良唐招提寺で、六月六に日、恒例の開山忌法要が行われたが、律宗の祖、鑑真和上の渡来の物語ほど、感動を新たにさせるものは少ないであろう。

▼聖武天皇の使者僧栄叡(ようえい)、普照(ふしょう)の切なる願いに、まだ見ぬ日本の衆生済度に一身をささげようと決意した時の鑑真和上は、齢既に五十五歳であった。

 爾来、揚州を発して渡洋を企てること五回、あるいは海に難破し、あるいは官憲に捕えられ、ことに五回目の如きは暴風にあって遠く海南島の南端に漂着、それより数年を費やして再び揚州に帰り着いた時は、和上は両眼の明を失い、かつ愛弟子祥彦を失った悲嘆はその極に達した。

▼しかしなおも初志を翻さなかった和上は六回目六十六歳にしてついに薩摩の地に上陸し、未知の戒律は初めて日本に招来された。和上を迎えた朝野の歓喜はたとえるに物なく、聖武天皇、光明皇后、孝謙天皇をはじめ、菩薩戒をうくる者四百四十余人に及んだという。和上は目に見えぬこの国に法を広めること十年、唐招提寺を建立して、宝宇七年大和に没した。この報を伝え聞いた揚州の諸寺ではすべて喪服を着け東方に向かってその死を悲しんだという。

 このころになると、元旭化成会長だった故堀明近氏が、和上の事績をたたえて、日華親善を説かれた当時のことを思い起こす。他国に真理を求むることかくも謙虚に、また異国の民を済度せんがためにかくも崇高な犠牲を払って悔いられなかった時代の尊き姿に合掌する。

(三一・六・七)

出所:大原總一郎『母と青葉木莵』P.63~64より。
資料:『大原總一郎随想全集4』(福武書店)P.200~201にも記述されている。

参考:鑑眞が、日本からの留学僧栄叡・普照の要請によって、苦難のすえ来日した話は、井上靖の小説『天平の甍』などでよく知られている。

2012.11.14

★付記:『夏の最後のバラ』の中に「対中国プラント輸出について」の章がある。それに、下記の記述がある。P.278

「話は時代を遡るが、奈良唐招提寺に盲目となった鑑真和上の坐像がある。それを見る度に、和上が両眼の明を賭して六回にわたる困難な渡航の企ての末、ようやくにして仏教の戒律をわが国に伝えた物語は、鑑真和上一個人の事蹟としてでなく、大陸の民族が長い年月にわたってわが国に与えた偉大な文化的贈物のすべてに対する象徴のように思われてならない。私達が今から中国に建設しようとするポバールとビニロンのプラントは、遺憾ながら鑑真和上の如き犠牲的奉仕と並びうるような仕事ではない。ポバールとビニロンの技術は倉敷レイヨンという日本の一企業に働く一万の従業員が、戦後の困難に屈せず心血を注いで創り育てた会社の財産である。したがって、その経営者である私は、会社の利益のために有償でこれを売却する責務をもつものである。ただ私の念願することは、日産三十トンのビニロンは六億五千万の人口に対しては一年一人当たり僅か〇・〇一七キロの繊維を供給するに過ぎないものであるが、繊維に不足を告げている中国人大衆にとって、いささかでも日々の生活の糧となり、戦争によって物心両面に荒廃と悲惨をもたらした過去の日本人のために、何程かの償いにでもなればということ以外にはない。 

 それが私共が中国大陸の人達に対する同じ責任を感ずべき台湾の人達や、すべてが批判をうけずにすまされないまでも、多大の善意によって日本人の幸福を助けたアメリカ人の感情的反感を買うことは遺憾なことではあるが、私は私の義務を果たしたいと思う。


☆日本民芸館☆

 民芸という言葉が初めて称えられたのは今からおよそ三十五年前で、言うまでもなく民衆的工芸を縮めていわれたものだが、戦後は「民芸」といえば劇団の名称かと思われるようなこともあった。こんな状態だった民芸も昨今に至って再認識されて脚光をあび、その美の発見者、その領域の開拓者として柳宗悦氏は朝日賞をうけた。しかしこの賞が最近のいわゆる民芸ブームに結びつけられて理解されると、それは全く甚だしい誤解である。

 古い民芸は、エジプト模様とかマチス調とか言ったように、いわゆる「民芸調」「民芸趣味」の名の下に商業主義によって大きく利用され始めた。古い民芸品の生産そのものさえも「民芸調」の品物へと誘惑され、やがては下手物的な上手物の製造に移ってゆこうとしている。人はそれを「下手物」の「芸術化」だともいった。柳宗悦氏の朝日賞は民芸をめぐる現代の世相が、如何に柳氏の本来の主張に反するものであるかを明らかにするために、この時が選ばれたのだとすれば、それが遅きに過ぎたとしても、また特別の意義があるであろう。

 東京駒場にある日本民芸館は柳氏の著書と共に「民芸とは何か」ということを直接‎目に訴えて解き明かす美しい場所である。そこにある物が商業的に利用されることを妨げ得ない‪ものにしても、利にさとい商人に利用されて「芸術化」された「民芸調」の新製品と、その本物とが、どんくらい本質的に異なるものであるかを、そこでは誰でも正しく見別けることができる。故ラングドン・ウォーチー氏はこの民芸館を「世界で最も美しい小美術館の一つ」と呼んだ。‬

 外人の言葉であれば、すぐにでも鵜呑みにするはずの日本人であるが、ここばかりは訪れる人は少なく、仮装の「民芸品」のみが巷にあふれ、劇団「民芸」よりももっと遙かに遠い所に新しい「流行民芸」の王国を作った。日本民芸館は今年の十月、創立二十四周年を迎える。

(三五・三・二五)
参考:柳宗悦『民藝の趣旨』私家版一九八五年、三ページ:幸いにして民芸館が空襲を免れたのはアメリカ軍が柳の友人であったアメリカの美術史家のラングドン・ウォーナ氏の進言を容れたからだっただという。もっとも柳氏がこの事実を知ったのは戦後しばらく経ってからだったようだ。この他にウォーナ氏は京都や奈良市の文化遺産を守るべく戦時中に多大な貢献を果たしたことが知られている。


☆ヘルマン博士と共に☆

 今日も美しい日だ。朝ワッカー・ヘミの本社を訪ね、もう一度ベルク氏に会った。そこへ両手を広げたヘルマン博士が勢いよく入って来た。今日はヘルマン博士のために一日を捧げる日だ。ベルク氏との話を早々に切上げ、今日はヘルマン博士と共に一日を過ごす。この一日の思い出を会社の人達に次のように書き送った。

ヘルマン博士と共に

 今日も美しい日だ。朝ワッカー・ヘミの本社を訪ね、もう一度ベルク氏に会った。そこへ両手を広げたヘルマン博士が勢いよく入って来た。今日はヘルマン博士のために一日を捧げる日だ。ベルク氏との話を早々に切上げ、今日はヘルマン博士と共に一日を過ごす。この一日の思い出を会社の人達に次のように書き送った。

 八月二十八日

 私達はワッカーの本社を出て、ヘルマン博士の車に乗り、前に行った町はずれのワッカー社の研究所の近くまで来て、そこの緑の木陰のテーブルで昼食をとりました。この研究所の一隅に残る一つの古い建物の中で、ポリビニール=アルコールがヘルマン博士の手によって発見されたのです。三十四年前に誕生したこの製品は、今は工業的生産に移され、その世界最大の工場は日本の富山市にあります。これらから造られる繊維ビニロンは世界にさきがけて日本で発明され、工業化されました。今年でビニロンは発明されてから二十年、命名されてから十年になり、漸くにして苦難の第一期を終えました。

 この昼食の席上で、私は十一月に行われるビニロン・フェスティバルへの招待状をヘルマン博士に手渡しました。博士は恭しく承諾の回答を与えられました。

 六月にこの地を訪れた時、夕暮れの湖畔で私の個人的希望として博士の内意を尋ねたことがありますが、翌朝ホテルを訪れたヘルマン博士はこう答えられました。「私は昨日家に帰って妻にそのことを話して一緒に涙を流しました。この二つの目の一つから流れた涙は、この繊維がわが独逸において最初に工業化されなかったという嘆きの涙であり、もう一つの目から流れた涙は、それが日本で遂に工業化されたことに対する悦びの涙でした。」こういって強く手を握られたのですが、今博士の来日ははっきりと実現が約束されたのです。

 博士は、ブレスラウの生れで今年七十二歳、少年の時代から片側の耳と目に機能障害があって不自由な身体ですが、今も青年の意気衰えぬ老学者です。青年時代俳優を志し、ブレスラウの舞台でシルレルの劇を演じたという変わった経歴の持主ですから、短身ながら身のこなし方や台詞などには名優の趣きがあり、又、視力の殆どない一方の目を護るため、いつも離されぬ黒い帽子は、博士の風格と切り離すことのできない身体の一部となっているようです。

 昼食を終えて郊外のヘルマン博士の家へと車を走らせます。イゼル河はミュンヘンを出ても、相変わらず両岸を木立に囲まれて、あたりは美しい景色が続きます。

 暫く郊外の街道を走って、ヘルマン博士の住居のあるダイゼンホーフェンという小さな村の入り口にさしかかった時、博士は右手に帽子を高くあげて、「ダイゼンホーフェンの元老院の最年長者の資格において、日本からの客に歓迎の挨拶を贈ります」と声高く唱えられました。

 博士の家には、一男二女のうち二人の令嬢(といってももう若くはない)、そして下の令嬢の御主人と二人のお子さん(一人は赤ん坊)とが同居していられます。門前で我々の車は、地理学者の令息に威儀を正して迎えられました。全くドイツ的でした。

 室内に入る前にまず家の外を一廻りして、その背後のかなり広い庭に案内されました。そこは、枝を張った数本の菩提樹が頭上を被っているので、日は射さず吹く風は冷やかで快適でした。林の中のテーブルには茶の用意がされていました。私達はそこで夫人を始め家族の人達に紹介され、話は博士の日本行きのことでもちきりになりました。病気勝ちの夫人は同行できないので多少不安そうに見えましたが、北極廻りの飛行機の話などして心配されないよう努力しました。

 お茶が終って、私達は改めてバイエルンの湖水地帯へと出かけることにしました。今度は令息の運転で夫人も一緒です。

 この地方一帯のアルプス山麓はドイツで最も広大な樅の大森林に被われ、その間を開いて作られた牧場、バイエルン風の二階に廻廊のある木造の農家などが、明るい夏の太陽の下に美しく目を楽しませてくれます。

 目的地のテーゲルンゼ―ははアルプスの麓にある小さな湖の一つです。晴れた空の色をうつして湖の水は深い青さをたたえ、湖畔の家々には美しい草花が夏の名残をとどめて咲き乱れていました。私達はこの湖を一周し、古い僧院を訪ねた後、湖に面した小高い丘カルトブルネンのカフェに立ち寄りましたが、私をここに案内したのはヘルマン博士の特別の意図によるものでした。庭のテーブルに向って腰を下ろした博士は「かつてトモナリと一緒にここに来て、このテーブルのこの椅子に腰をかけて一緒に葡萄酒を飲んだことがあります。それで貴方をここに誘ったのです」と言われました。そしてその時と同じ葡萄酒を注文され、「故トモナリのために」と言って乾杯されました。そして博士は湖を眺め、昨年の暮にこの世を去った故友成九十九博士の思い出にふけっていられるようでした

 美しく晴れた日だったので、湖畔を散策する人も多く見られました。暫くそこで時を過ごして、私達は帰途につきました。博士は再び陽気な気分を取り戻され、突然小柄な夫人を顧みて、「おい見てごらん、どいつもこいつも若い女房を連れていない奴はいないじゃないか、若い男も年寄りの男もだよ」と昂然と言われましたが、丁度その時老人同志の夫婦にばったり出会ってみんなで大笑いしました。博士が病弱の婦人に示される心遺いは至れり尽せりで微笑ましいものでした。夫人は冗談にも親切にも殆ど表情を変えず、静かに遠くを見つめて言葉少なく答えられるだけでした。夫人はユダヤ人の故に戦時中はひどい迫害をうけ、犠牲となった多数の親戚の中で今は唯一人の生き残りとなられて今日に及んでいるのです。こうした苦しみに耐え抜いてきた夫人の中には、そうした経験を持つ人にのみ備わる不屈の意志が冷やかに冴えかえっているように見えます。ヘルマン博士はユダヤ人でありませんが、戦争中はダイゼンホーフェンの家に幽閉同様となり、辛苦を共にされたので、今病気勝ちの夫人に対しての心遣いには特別に深い理解と愛情とが感ぜられ、見る者の胸をうつものがあります。

 車が森にかこまれたある牧場にさしかかったとき、夫人は車をとめて初めて一言語られました。「ここでトモナリは車を下りて、私のために沢山花をつんで、花束を作ってくれました。あのあたりです。それはヒンメルシュルッセル(himmel shulussel:黒崎辞書で作成)という花でした。五月の花の中で一番先に咲く花です。」心なしかヒンメルシュルッセル(天国の鍵)という言葉に何か印象的な響きがこめられているようでした。

 途中で農家に立ち寄ったした後、私達は再び博士の家に帰りました。博士の家の中の模様を少し紹介しておきましょう。二階の書斎の入り口には博士が十六歳の時に画かれたという絵がかかっています。ニーチェを画いた肖像画ですが仲々よく画かれています。博士には画家を志望された一時期があり、更に哲学をも志して、これは現在にまで及んでいます。書斎の中は綺麗に整頓され、趣味のよい机と壁を被う書棚とがあり、休息のためのベッドには、友成博士から贈られた白いビニロンの毛布が二枚敷かれていました。

 午後の日が傾き始める頃、私達は夫人や家族の人達に別れを告げてミュンヘンへと向かいました。博士は態々ホテルまで送って来られ、そこで十一月の日本での再会を確く約して別れました。

 博士が今日一日心から私を迎えて下さったことに私は深く感謝しています。湖畔や車中で私は博士から色々な言葉を聞かされました。その中から二、三のものを記念のためにお伝えしてこのたよりを終わります。

 「夢を持たぬ者は科学者ではありません。現在は哲学を持たぬ科学者達の時代です。ゲーテはそうではありませんでした。詩と科学、哲学と文学とを一つの体系の中に包容しました。しかし、現代にはもうゲーテはいないのです。」これはヘルマン博士が繰返し述べられる持論でした。そして諳んじていられる幾つかのゲーテの言葉をそれにつけ加えられました。その中の一つを次に紹介します。

Die Stätte,die ein guter Mensch betrat,
Ist eigenweiht; nacht hudert Jahren klingt
Sein Wort und seine Tat dem Enkel wieder.
 心正しき人が足跡を印した場所は祓い浄められた場所である。
 百年の後までも彼の言葉と彼の行動は子々孫々に繰返し響きわたるのである。
              -ゲーテ『タッソウ』よりー

 この日八月二十八日ははからずもゲーテの誕生の日でした。
(倉敷レイヨン時報 三三年九月号)
関連:大原總一郎随想全集(福武書店)1.P.142

★ヘルマン博士の研究室に派遣されていた研究員:中保治郎さん(海軍機関学校:海軍兵学校75期相当)、戦後京都大学卒業→クラレ研究所。ヘルマン博士が来日されて、岡山工場視察に来られた時、中保さんも案内役で岡山工場へ来られた。

★ドイツ語表現が使われている。三省堂『コンサイス独和辞典』を開いて調べる。Himmel Schlusse など美しい言葉。ゲーテ『タッソウ』などは暗記しておきたいものだ。

私は、「Das Mädchen sprach von Liebe, Die Mutter gar von Eh', - Nun ist die Welt so trübe, Der Weg gehüllt in Schnee.」の詩句が口から出て来る。

★「倉敷レイヨン時報」は私がクラレに採用通知を受けた昭和24年10月以来、送付されていた時報であり、この文章は一度は読んでいたはずである。


☆騒 音☆

 四、五年前のことだが、ハイデルベルヒ(ハイデルベルグ)の、とあるレストランに入ったところ、そこに一冊のサインブックがあって、その中に笠信太郎氏の短い文章がのっていた。詳しくは記憶していないが、かつての静かなハイデルベルヒが、今ではオートバイの騒音に包まれていることを嘆いた一文であった。

 わが国でも、町や郊外はこの種の騒音に満たされている。その物音は繁栄の象徴のように受取られて、いかなる所もまかり通っている。もちろん町の騒音はオートバイだけの責任ではない。

 経営は生産者と消費者の間のよき理解と協力によって繁栄をかちとることができる、と教えられる。しかしいかに消費者に奉仕しても、そのほかに第三者があることを忘れてはいけない。消費者が王様といわれ、経営者は消費者に奉仕することを至上命令だと考えられているが、経営者の責任はそれよりもさらに広い広がりを持っている。その広がりの一つは第三者に対するものでなければならない。

 騒音は、消費者にとってはさほど苦にならないか、ある場合はそれがかえって魅力と感ぜられることさえあるが、第三者に選択や防衛の余地なく送り出される騒音は、生産、消費の当事者以外の人たちには大きな苦痛を与える場合が多い。病人、試験勉強に追われる学生、その他精神的安静を要する多くの人々にとっては、騒音は人災である。捨てられた騒音は捨てられた紙屑のように拾って屑籠に入れることはできない。

 従って騒音を生ずる生産、消費は第三者の生活内容の実質的低下という立替払いの上に成り立っているものと言われても致し方あるまい。

 私は本田宗一郎氏の経営哲学に少なからぬ敬意を払うものである。将来新しい仕事をする場合には、本田イズムを一つの手本としたいとさえ考えている。しかしオートバイの音は気になる。幸い最近のオートバイは音も低くなりつつある。競技場ではいざ知らず、少なくとも、人里を走るオートバイから騒音が消える時がきたなら、その時こそ本田氏の経営哲学は百パーセントの賛辞に値するものとなるであろう。私は切にその日の到来を祈っている。

 或はこう言う人があるかもしれない。それは生産者の責任ではなく、消費者行政の問題であると。或はそうかもしれない。消費者は王様であることもあるが、単なる暴君にすぎないこともある。国民生活そのものこそは、常に王様でなければならない。P.161~162
(三七・一〇・五)

★感想:大原元社長は「本田イズムを一つの手本としたいとさえ考えている」と書かれていた。また「模倣の精神」では「松下幸之助氏のやり方を模倣しようと思う」ともかかれていた。たえずクラレ経営の革新を意図されておられたのだと、元社員の一人として改めて敬意を表するものである。

平成30年6月22日記す。


☆模倣の精神☆

 模倣の時代は去った、創意の時代が始まらねばならない、創造的能力をもつ人間を養成しなければならない、という主張が強く唱えられている。

 私は模倣の時代は去ったとは思わない。模倣されるべきものが存在するかぎり、模倣の時代は去ったといってよいとは思わない。模倣することは手本に打ちこんで完全にそれをまねることだ。まねようと思うものは「簡単にまねのできないもの」であるに違いない。だからまねるということは決して安易なことではないはずだ。

 私は今年、松下幸之助氏のやり方を模倣しようと思う。それは独善的な計画よりも、はるかに難しい大望だと考えている。参考にするとか、学ぶとかいうようなやり方では成功はおぼつかない。

 私はこんな記憶を思い起こす。何年か前、大山名人が塚田九段と九段戦で、浮き飛車で快勝したことがある。大山名人は塚田九段の浮き飛車にはしばしば苦しめられていたが、名人も浮き飛車で対抗して功を奏したのである。その棋譜を名人から習って、まだ記憶に残っている間に梅原龍三郎画伯と対局する機会があった。梅原画伯は浮き飛車が得意だが、私は物はためしに大山名人が塚田九段に対してさした通りの手を、相手方の出方のいかんにかかわらず、そのままの形でおし進めていった。

 その結果は双方が唖然とするほど、ほとんど自動的に詰んでしまった。私は名人の足跡の偉大さを認めざるをえなかった。そして完全模倣の価値の一端をそれによって知ることができた。第二局目は同じ指し口を踏襲しながらも、梅原画伯の指し手にも対応しながら進んだ。その結果は敗北に終わった。

 応用するほどに理解しえていないものを参考に使えば、結局は自分の実力だけのものになってしまう。自分の実力以上の力を発揮しようと思えば、加工や変形をやめて、そのまま模倣するのがいちばんよい方法だ。その原型は多少の傷をうけても、その骨格に間違いのない強さが宿されているかぎり、傷を負っても必ず勝つことができる。模倣の精神はこのように献身と没我の徳を伴わずしては、効果をあげることはできない。独創などということは、浅はかな知識にすぎないことを認めることが必要だ。いわんや模倣しながら独創をよそおうのは、全く論外であって、それには失敗以外の道はなく、そのような方法で成功したというまねるべき実例はどこにもない。

 徒らに創造的人間という苦役に呻吟するより、模倣のよろこびに徹する方が、どのくらい明るく有意義な人生を送らせるかわからないと思う。P.193~194

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