美彌子のかけがえのない書である(写真)。 彼女が生前に書き物を遺しているとは、全く予想もできなかった。 ところが、私の部屋の棚の上に、右のような直筆の額縁入り書が偶然見つかった。 想像では子育てが終わり、余裕が持てるようになったとき、習ったのであろう。 彼女は手作業が好きであったから、多分同じ時期に機織の習い事も始めたと思う。習い事を始めると、自分でなつ得するまで続けるので、その結果として毛筆で書き上げたもののようである。 「素朴な琴」は、詩人八木重吉の詩作である。山本健吉『こころのうた』、吉野秀雄『やわらかな心』、遠藤周作『生き上手死に上手』にも取り上げられている。琴といえば、私は故姉(千鶴子)を懐かしく思い出す。姉は高等女学校生の時に師匠に習い、結婚後は近所の娘さんたちに教えていた。〝美彌子よ!姉に会ってお琴の稽古をはじめると、お琴をひく腕前は上達しますよ"。 生前好きだった歌(作詞者:永六輔、作曲者:中村八大)に送られながら、雲の上にまいりました。
「黒崎さんの思い出」 小林 成一 真樹子 黒崎さんは教育熱心でありました。 老後の楽しみに織機を購入されました。 しかしその後、腕が痛くなり、倉敷の歯科医師のお嬢さんにお譲りすることになり、〔無料で持ち帰っていただければよいと申し上げました所、十万円を置いて帰られて半分お返しした〕とのことでした。 お孫さんの教育にも熱心でした。 ばら寿司を作るのが上手で、おいしくいただきました。 参考:Kさんの弁当 ★魚の生もの(刺身)は食べることをしなかった。会食などではそっと取り下げていた。こうしたことを知っている人は、あらかじめ代わりのものを準備して下さっていた。 黒崎さんは、アメリカ旅行(1989年7月24日~8月27日)・東京タワー・宮城・浅草寺などの見物を喜んでいました。 ※織物はクラレ倉敷工場北社宅の中にあった又新寮におられた妹尾さんに教えて頂いていた。
「優しかった美彌子さん」 黒崎 萬亀夫 美佐保 美彌子さんが亡くなられて、早二十日もすぎ、淋しくなられた事と存じます。 生前は、広島と岡山とで余りお会いすることもありませんでしたが、とてもおとなしくやさしい、芯は中々しっかりした方でした。 黒崎の姑さんが病気の時は、二人でお見舞いに行った事が二、三度ありました。 その時は色々とお話をしながら行きました。 また一番よく覚えているのは、勉さんの二男、哲ちゃんの結婚式の仲人をしたときのことです。わざわざ電話を下さり、その日に来るのは大変だから一日前に家に来てお泊りなさいと云って下さり、その様にさせて頂きました。 その時は本当にお優しい方だとつくづく思いました。 「お料理名人、何よりも大切にされた家族の健康」 黒崎 達雄 清香 紅葉の季節に倉敷市の鷲羽山にて、大浴場の中より瀬戸の夜景を眺めてほっとしていたとき、お姉様がおっしゃった。 〔久し振りに思い切り湯を浴び広い温泉はこんなにいい気分になれるんですね―〕 女性群一同の笑い…… 〔私は今、家の風呂には、困らされているんですよ。浴槽がこわれ、水道も思わしくなく、水を一滴ずつ一日かけて浴槽一杯にはるのだから、これにはとまどっています。〕 話を聞きながら、なかなか誰にもまねの出来ない意志の強さ、根性と実行力の持ち主と尊敬しました。 料理では誰もが認める満点だったと思います。 テレビの健康番組で、便秘には大豆を酢につけ一日何粒を毎日食べる、人参は千切りしてタッパーに保存し毎日食べるなど、色々実行しているからと教えて下さいました。ご家族皆様の健康を毎日祈り、食生活を大切にされていたお姉様のご様子が思い出されます。ひたすら誠実に、家族は勿論、周囲の為に頑張っておられた美彌子姉さんの姿が眼前に浮かびます。 兄貴の心境を一句 〽かわらざる二つの椅子が秋の日の窓辺にありて妻は還らず どうか、お元気で頑張って長生きして下さい。祈念しています。 「お義姉さんの思い出」 黒崎 勉 一江 独身時代、私(勉)は兄が勤めていた会社、クラレの社宅に沢山の洗濯物を持って行っていたが、頼むとこころよくしてくれた。 料理が大変上手で、特に〔お節料理〕の見事さには驚かされた。 私(一江)は、洋裁も細かく指導していただきました。 決して顔には出さない義姉でしたが、ある病院から退院の日に少し遅れて行ったところ大変ご機嫌が悪く、びっくりいたしました。 病院に見舞いに行っても、いつも凛としてベッドで寝ていたのが印象深いものでした。 闘病生活が長かったので、ごゆっくりお休みください。 「黒崎 美彌子さんの思い出」 井上 京子 みやこ姉さんが、亡くなられてから、はや一か月近くになります。四十九日の法要によせて、思い出をつづらせてもらおうと思います。 記憶をさかのぼって、お二人の出会いの場は、柳津でしたね。 母屋の二階で、私はみやこ姉さんの着物の着付けを従妹と見ながら、少し窓を開けて外の様子を見ていました。〔来られたようよ〕〔どんな感じの 人?〕〔さっそうとされて良い感じの人よ〕というような会話をしたと思います。 みやこ姉さんはいそいそと降りて行かれました。そしてその時一緒に来られていた愛子ちゃんと遊んだ記憶があります。1954年3月14日。 私の記憶の中では、みやこ姉さんは、いつもにこやかにほほえんで下さっています。 小さい時から、洋服は仕立ててもらっていました。その中で、水玉もようのワンピースを着て、みやこ姉さんと写った写真があります。私は小学校五年生位だったでしょうか。伯母の一声で、デートの用心棒として鞆の海水浴について行ったのです。おじゃまむしとも知らずにうれしくっいて行って、黒崎さんにおいしい食事をいただいたりしていました。1,954年7月25日。 ある時は岡山のデパートで、その頃めずらしかったソフトクリームをいただいたのも忘れられない思い出です。 結婚されて、遊びに行ったある日、〔パーマをかけに行くけどついて来る?〕と言われ〔うん〕と言ってついて行きました。おかっぱ頭の私は、散髪屋さんしか知りませんでしたから、少し大人の世界を覗くようで、浮き浮きしていたように思います。 〔ここは池田厚子さんも来られたお店なのよ〕と話して下さいました。 社宅からは少し遠かったように思いましたが、身だしなみもいつも整っていたみやこ姉さんのこと、なるほどと思いました。 お料理もセンスが良くて、私がクラレ(1963年クラレ入社)にお世話になるようになってからは、何度夕食を戴きに通ったことか。いつも家族のように接して下さいました。 御主人に対しても子供さんに対しても、手抜きのない方でした。私にはとうてい真似ができませんが、感謝と共に、亡き美彌子姉様のご冥福を祈りつつ、ご家族様の心が、時と共に癒されますようお祈り申し上げます。 「美彌子姉ちゃんの想い出」 心石文男 〽ひく波の跡美しや桜貝 (松本たかし) 説明:波が渚に遺していったものは、ひとひらの桜貝でした。波が去ってから次の新しい波が訪(おとな)うまでのほんの束の間、洗いあげられた砂浜に、桜貝は淡い紅を灯したことでしょう。そして一片の桜貝から一瞬の静けさと清らかさが広がっている。 私は、何を遺していけるでしょうか・・。 お世話になった美彌子姉ちゃんが、数年間の闘病の末に亡くなった。 本当に美しいひとでした。私たちは従姉弟同士だが、私が生まれたとき同じ敷地内で暮らし、私にとってはお姉さん同様であった。 小学生のころ、私が学校から帰ると美彌子姉ちゃんは、洋裁をしていて〔文ちゃんお帰り〕といつも笑顔で迎えてくれました。 食事も私の祖母や母の田舎料理とは違って、当時の新しい献立で美味しい食事をいただいたのを、今でも懐かしく思いだします。 四十数年前、私が岡山に赴任してきて一番うれしかったのは、誰も知らない岡山で遠慮なく寄れる場所があったこと。 〔美彌子姉ちゃん来たよ〕と呼び鈴を鳴らすと〔文ちゃんあがって〕と言われ〔みんな元気、お母さんは、芳子(妻)さんは、文絵ちゃん(長女)は〕と家族のことを気遣ってくれ、心が和みました。 今は、天国でミツエおばさん、喜久ちゃんと再会して又、楽しく過ごされておられることと思います。 〽散る桜残る桜も散る桜(良寛) いずれ私も天国へ行きます。その時は、小学生のときのように〔文ちゃんお帰り〕と言って、迎えてください。 「奥様と昭二先生」 宮本 進 先生とは、二十数年前に曹源寺坐禅会で知り合いました。以来、毎日曜日にお会いしていました。しばらく経って、先生のお家にお伺いするようになりました。その動機は定かではありません。奥様は、先生とのお話が一段落した頃、いつもお茶菓子を出してくださいました。 奥様との数少ない思い出に、私の定年退職を祝して、ご夫妻が、私たちの慰労会を天神町の懐石料理店〔はむら〕で催してくださった時のことがあります。奥様はご自分の生ものをそっとお引きになられました。 また、桃の花が満開の頃、津高の里にご夫妻をお招きし、我が家で昼食をご一緒しました時には〔長閑な田園風景や桃畑一面が淡紅色に彩られた美しさ〕など、感銘を受けられたご様子をお話してくださいました。 病に罹られ、立ち歩きがごふ自由になられた頃、玄関の戸口にもたれかかられるようにして、外出される先生を見送られ、私にもこころからの会釈をなさってくださいました。それが、最後のお別れのご挨拶になりました。 先生から、奥様のことをお聞きしたことはほとんどありませんが、病が重くなってメールで、〔家内は、書き物をほとんど残していません。ひたすら家庭の中心として私・子ども・孫の世話に献身してくれていました。余暇ができるようになり、機織り・習字の習い事をしていました。それが、私の寝室に家内が書道を習っていた時の筆書きのものが額に入れて残っていました。八木重吉の詩『素朴な琴』です。〕 お亡くなりになられてから、先生がありし日のご様子をお話し下さいました。 〔いまご着用されておられる礼ふくや季節に合ったスーツ等、何着かお仕立てなさったこと〕〔お家の建築設計を先生の弟さんと相談しながら一人でなさったこと〕〔坂本九氏の『上を向いて歩こう』の歌がお好きであったこと〕などです。 奥様は大変謙虚で辛抱強い方で、いつも人前に出られることを避けておられたようでした。写真撮影など、やむを得ない時は人の後にまわっておられたとのことでした。 ご葬儀の面影写真にも困られたとお聞きしました。 会者定離が人生の定めであるとはいえ、悲しいことは悲しいです。
ご夫婦の関係は〔 先生は、生まれ変わっても、再び奥様を選ばれると思われます。 〔花語らず〕(柴山全慶老師の詩) 花は黙って咲き黙って散って行く そして再び枝に帰らない けれどもその一時一処に この世のすべてを託している 一輪の花の声であり 一枝の花の真である 永遠にほろびぬ生命のよろこびが 悔なくそこに輝いている ご冥福をお祈り申し上げます。 合掌 「母親黒崎美彌子と共に」 黒崎 知博 野口英世はアメリカニューヨークロックフェラー大学で大活躍した細菌学者である。その彼がアメリカで仕事をしているとき、母親は日本で亡くなるのだが、その時、野口英世は〔母親の死は決して悲しくはない。 なぜなら母親は私のなかで生きているから〕ということを言ったというのを、なにかの本で読んだことがある。まあ、なんと自己中心的な人間だろうという見方もあるが、母親が亡くなった時の自分自身の率直な感慨は、この感じに一番近いものがある。 生物は遺伝子が設計図となり、作られるわけであるが、父親からの遺伝子半分、母親からの遺伝子半分、この大原則から、私たちは逃れようにも逃れないのである。その意味で〔母親、美彌子の遺伝子は私、知博の中で脈脈といきており、それに私自身の情熱・努力という息を吹きかけるだけである〕と、野口英世の言葉に近い感慨をもつのである。 とはいうものの、人間、思い出のなかで生きていく生物である。 私は母親の優しさと愛情を一杯うけて育ったが、その中でも一番の思い出は、小学五年生の時、心石京子さん文男さんと、京都のツタンカーメン展を見にいったときのことである(京子さん文男さんには、常に私の姉・兄のように接してもらい、このとき、二人につれられて、岡山から京都にまで行った)。実は思い出とは、岡山を発つ直前まで、母が得意の裁縫で、小学五年生のスーツを作ってくれていた姿である。京都で、そのスーツを着て京子さん文男さんの隣にぴょこんと立っている自分の写真をみると、なぜか、母親が必死に裁縫をしてくれている姿が浮かび上がってくる。 私の中で、〔古き良き日本の母〕の原型がそこにあるのである。 「義母の思い出」 黒崎 まり 義母は料理がとても上手でした。結婚後しばらく同居していた時、私は夕食の献立を家計簿の余白に書き記したものでした。手間をかけることをいとわずに、面倒な下ごしらえもきちんとやられる方でした。食事の時は他人に給仕することを優先して、自分はいつも後回し。三度の食事以外にも〔お茶をいれましょうか〕などと、いつも他人のことを気遣っているような人でした。食事の準備と片づけ、お茶の時間と片づけを合わせるとかなりの時間を台所に立っておられたように記憶しています。 また、食事に限らず、家族のために何かをすることに喜びを感じる方のように見受けられました。 そんな義母への思いを書いた歌があります。冒頭部、未完成のまま記録に残します。 ※○○○○○○○○○ ○○○○○○○○○○ 治療は少しだけ辛くなるかもしれない だけど愛(いと)しい人を一人にはできないと 強く願うのならば少し頑張ってみて 温かい手料理が家族を守る命のもと 支え続けることの意味教えてくれたあなた 告げられたカレンダー変えてゆくのはあなた 奇跡を起こしてみませんか 長い入院生活を通して、義父や知博さんがいかに義母を愛しているかということを実感いたしました。私は、愛する人を支え続けることの大切さを義母から学んだように思います。 ※に例えば、〔みんなで決めたこと受け入れてくれますか〕と入れてみると、膀胱摘出の説得をする家族と、それを静かに聞き入れるお義母さんの様子が目に浮かぶようです。でも、もっとしっくりくる言葉がないものかと、模索中のまま今日に至っています。 「お母さんの思い出」 川上 卓志 菜穂子 幼い頃、私はいろいろな病気をしていたので、お母さんは、病院通いで大変でしたでしょう。 中学高校の時には、毎日おいしい弁当を作ってくれました。 またお母さんは洋裁が上手で、私の体に合わせてふくも沢山作ってくれました。 それに料理が上手で、お正月料理も手作りで、とてもおいしかったことが思い出されます。 結婚して双子(智佳恵・奈々恵)ができ、赤ん坊の頃から、よく面倒をみて可愛がってくれ、ふくも作ってくれました。 智佳恵と奈々恵が幼稚園に入る前、一緒に旅行にも連れて行ってくれました。また本を沢山読ませてくれましたので、早くから字を覚える子どもになりました。 幼稚園・小学校・中学校へ入学するたびにお祝いも頂きました。 晩年、入院している時、見舞いに行くたびに〔暗くなるから早く帰りなさい〕と、口癖のように言っていました。 家族一同、お母さんのご冥福を祈っています。さようなら。 *生前、家内は菜穂子と電話で話すのが楽しみであったようでした。 「おばあちゃんとの思い出」 川上 智佳恵 川上 奈々恵 おばあちゃんはいつも明るく朗らかで、会うとほっとさせてくれる存在でした。〔いらっしゃい、よく来たね〕といつも笑顔で迎えてくれました。 おばあちゃんのことを思い浮かべるとき、真っ先におばあちゃんの笑顔が浮かびます。 おばあちゃんは、料理上手で裁縫上手。そして気配り上手な女性でした。 自分のことより人のことを考え、細やかな心遣いを欠かすことはありませんでした。私たちのために忙しい合間を縫ってたくさん洋ふくを作ってくれました。そのふくを人から褒められたときには、自分のことのように誇らしい気持ちになったことを覚えています。そして、いつかおばあちゃんのような愛情のこもったおいしい手料理が作れるように、料理を習いたいとずっと思っていました。しかし、それはもう叶いません。どうしてもっとこれまでの時間を大切にしなかったのかと悔やむ気持ちがありますが、おばあちゃんとの思い出を胸に、おばあちゃんのような女性に少しでも近づけるようになりたいと思います。 夕食にエビフライを山盛り作ってくれたこと、コーヒーの淹れ方を教えてもらったこと、夏休みの宿題を見てもらったこと、そのどれもが大切な思い出です。おばあちゃん、ありがとう。 平成二十三年十一月十二日
美彌子 略 歴 昭和四年十月十日広島県沼隈郡田尻村にて 藤井勝・ミツエ夫妻の長女として生まれる 昭和二十九年 十 月十一日(月) 結 婚 昭和三 十 年 十一月長男知博誕生 昭和三十四年 五 月 長女菜穂子誕生 平成二十三年 十 月 十四日没 (法めい釋慈光) 感謝を込めて 美彌子の一周忌に、このような冊子ができましたのは、家内が皆様に親しくしていただき、ありし日の思い出を書いてくださったおかげです。 改めて、厚くお礼申し上げます。 ある時、知人から〔私は一度も子供を叱ったことがないのですよ!〕ときかされ、家内の子育てにかける思いが伝わってきました。 家内は、子育て、家事一切を取り仕切り、よく尽くしてくれました。 これも、立派な方々とお付き合いさせていただきましたことによるものだと、厚く感謝しています。 昭二 平成二十四年十月十四日 美彌子の霊前に捧げます。 素朴な琴 (黒崎美彌子偲びの記) 平成二十四年十月十五日 発行編集者 黒崎 昭二 表紙生地 黒崎 美彌子手織 印刷・製本 友野印刷株式会社
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平成二十八年十月二十一日:掲載 |
山本健吉が紹介していた八木重吉の表題の詩が好きな人に出会いました。 それは遠藤周作であった。 ▼彼の『生き上手 死に上手』(文春文庫)P.86~88 を読んでいると、〔人生の意味〕の項目のなかに〔妄想にみち、辛く、悲しいものだから……〕に 秋の美しさに耐へかねて(八木重吉) 最近、私の友人である井上神父が『人はなぜいきるのか』という本を出しました。そのなかで神父は彼の大好きな八木重吉の次のような詩を引用しています。
このあかるさのなかへ
ひとつの素朴な琴をおけば
秋の美しさに耐へかねて
琴はしづかに鳴りだすだろう ▼私自身も八木重吉の詩は好きです。この有めいな詩も大好きです。〔秋の美しさに耐えかねて/琴はしづかになりだすだろう〕そのような天地一体となった静かな境地にあこがれをもちます。 しかし、その境地にはなかなかなれないので私は小説を書いています。書かざるをえないからです。 若い頃、自分が年をとったらばこの八木重吉の詩のような心になれるだろうと思いました。たとえば秋の午後、丘の上に腰をおろし、やわらかな陽(ひ)のさす果樹園をみおろす人生のあの静かさ――そういう心になれるだろうと考えました。 現実に年をとってみると、上に書いたような心境は私にはなかなか手の届かぬことがわかりました。 年をとるというのは澄んだ、迷いのない世界ではなかったのです。逆に妄想や不安にみちたものものでした。(中略) ▼〔このあかるさのなかへ/ひとつの素朴な琴をおけば/秋の美しさに耐へかねて/琴はしづかに鳴りだすだろう〕 ▼詩人はそう歌えます。しかし現実を書く小説家はそうはいきません。しかし、この詩を口にすると、心がじんときます。生きることは意味がある、と心から思います。 私見:私は詩も小説も書けません。ただただ馬齢を重ね、遠藤さん、いやそれ以上に妄想や不安にみちみちたもであると痛感しています。 遅暮の嘆しきりの日々……。 平成二十四年七月七日 |
私は琴が弾かれているとひきつけられる。 子供のころ、姉が高等女学校の生徒の頃、私を連れてお師匠さんにお琴を習っていた。稽古の間、その音を聞きながら眠っていた記憶が鮮明にきざまれている。 〔筝曲 春の海〕〔筝曲 千鳥の曲〕(You Tubeで検索すると、聴くことができます)などは思い出の曲といえます。筝曲が演奏されているときは本当に心の安らぎを感じる。またありし日の姉を懐っている。 ▼家内が書道を習っていた時の筆書きのものが額に入れて残っている。 素朴な琴 この明るさのなかへ ひとつの素朴な琴をおけば 秋の美しさに耐えかね 琴はしずかに鳴りいだすだろう 八木重吉詩 ▼初めてこの詩を知りましたので、本棚を探しますと、山本健吉『こころのうた』(文春文庫)P.295~296に取り上げられていた。 この詩のほかに こども 丘があって はたけが あって ほそい木が ひょろひょろっと まばらにはえてる まるいような 春の ひるすぎ きたないこどもが くりくりと めだまをむいて こっちをむいて こっちをみてる 故 郷 こころのくらい日に ふるさとは祭りのようにあかるんでおもわれる の三つの詩が取り上げらられていた。 ▼昭和二年に二十九歳で、熱烈なキリスト教徒として死んだ八木重吉の短唱を、少し挙げてみた。東京府南多摩郡堺村相原大戸(いま町田市)の生家に、〔素朴な琴〕を刻んだ詩碑が建っている。 この詩は秋の明るさ、美しさに感応して、自然に鳴りだす素朴な琴に、詩人の心をたとえているとも見られる。重吉の素朴だがかぎりなく自然で美しい詩そのものを思わせる。 彼は多摩丘陵に囲まれた美しい故郷の田園を、いつも美しく、素朴に思い出していた。啄木や犀星の詩歌に見えるような、故郷と一点和しがたい感情は、彼には微塵もみられない。〔心のくらい日〕にも、故郷は〔祭りのやうにあかるんで〕いるのである。 ▼声を出して読む、一回、二回、三回とだんだんと詩の深みに捉えられる。黙読では味わえない。
▼山本健吉『こころのうた』(文春文庫)P.295~296に取り上げられている。
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