★習えば遠し 第1章 生活の中で学ぶ 第2章 生きる 第3章 養生ー心身 第4章 読 書 第5章 書 物
第6章 ことば 言葉 その意味は 第7章 家族・親のこころ 第8章 IT技術 第9章 第2次世界戦争 第10章 もろもろ

第5章 書 物

SOME BOOKS

目 次

01宮本 進/裕 子
『ランチレター』
02日記の効用 03祭 書 04福永 光司
『荘子』
05アミエル
『人生について―・日記・―』あとがき
06『慈雲尊者 十善法語抄』
人々光々(にんにんこうこう)
07禅修行者と人倫
―明全和尚と道元禅師―
08河合 隼雄「老いる」とは
どういうことかほか数編
09松原 泰道
『禅語百選』
10亡国の笑い 11「管鮑の交わり」と「刎頸の交わり」 12一冊の本を焼却する
13渡辺 淳一
『死化粧』無料全文公開
14大野 晋
『日本語の年輪』
15貝塚茂樹
『中国の歴史 上』三顧の礼
16紀田順一郎『知の職人たち』
―辞書の編集関連―広辞苑について
17『本のおくづけ』【奥付】 18ロメオとジュリュリエット 19ヘミングウエイ
『老人と海』
20白 鯨・白鯨の元ネタは小説より
21夏目 漱石
『門』
22小林 虎三郎
『米百俵』
23南條 範夫
『古城物語』
24遠藤 周作
『生き上手 死に上手』『沈 黙』『踏 絵』
25武藤 洋二
『紅葉する老年』
26ミッチ・アルボム
『モリー先生との火曜日』
27半藤 一利
『ノモハンの夏』
28直木 公彦
『白隠禅師健康法と逸話』
29渡辺 一夫
『うらなり先生ホーム話し』
30Kクラレ広報部
『サラリーマンの処世訓』
31長部 日出雄
『鬼が来た 棟方志功』
32水上 勉
『櫻守』
33『ルーヴルの戦い』(徳間書店) 34『アンネの日記』(文藝春秋) 35辰濃 和男
『漢字の楽しみ方』
36高田 宏
『言葉の海へ』
37早乙女 貢
『おけい』
38江國 滋
『にっちもさっちも』
39吉村 正一郎
『待秋日記』
40Who are you? あなたは だれ?
41山崎 豊子
『白い巨塔』
42椎名 麟三
『私の聖書物語』
43比佐 友香
『チャーチル物語』
44司馬遼太郎・ドナルド・キーン
『日本人と日本文化』
45『明治天皇と元勲』
概説:強国を目ざした集団指導
46コンラ―ㇳ・ローレンツ/日高敏隆訳
『動物行動学入門 ソロモンの指環』
47上前淳一郎著
『読むクスリ』
48司馬遼太郎著
『覇王の家』
49樋口清之著
『梅干と日本刀』
50駒田信二著
『中国書人伝』顔真卿
51木村治美著『黄昏のロンドンから』
「海賊」という授業
52有吉佐和子著『複合汚染』
「リンゴの紅玉」
53加藤秀俊著『車窓からみた日本』
「中学生の肩掛けカバン」
54松尾弌之『大統領の英語』
ケネディ~ロナルド=レーガン
55渡部昇一『日本不倒翁の発想』
―松下幸之助全研究―
56アンドレ・モロア著大塚幸男訳
『初めに行動があった』
57『不思議の国ニッポンVol.9』
最近ニッポン事情
58『刑法エッセイ』
赤穂浪士と喧嘩両成敗
59森 恭三著
『記者遍路』
60竹山道雄著
『ビルマの竪琴』
61天声人語 62Japan as Number One


1

『ランチレター』


 宮本 進/裕子著作『ランチレター』を紹介します。

 この本のはじめに宮本進先生が出版された動機を書かれています。

 お弁当を作るのは、土曜日と試験中や給食のない日くらいです。いつもきれいに食べてくださり、お弁当箱を洗ってあるのには感心していました。ある時から牛乳と果物を添えることにしましたが、それを職員室の冷蔵庫へ入れて、食べるのを忘れることもあるようでした。そこで紙片をしのばせることにしました。

 初めの頃の紙片は捨てていましたが、ある時から、手元にのこしておりました。私は日付も記入してないのですが、進さんがサインをして日付・時刻を記入しておられた。

 六十二年三月頃、大体の日付順に並べてみました。時候がほとんどですが、何だか宝物のように思えました。しかし、ノートに残すようになると、少々作意が感じられるのは否めません。

 メモ紙は進さんが「社(やしろ)」で勉強していた頃のもので、数式等が透けて見える紙片の裏側を使っています。進さんの身支度中に書いたものです。
 このような形になると、少し気恥ずかしく思います。    

                              裕子
▼いつの頃か、弁当の中に紙片が添えてあり、牛乳と果物を食べること、弁当箱を忘れずに持ち帰ることや、自然の移り変わりなどが簡潔に書かれていた。返事は不要のことであったが、つれづれなるままに書いたものが、残されていた。

 『続こころの軌跡』を出版しようとしていたとき、加計学園相談役・岡山理科大学講師山本正夫先生が、弁当の中に添えられていたこの紙片に目を留めてくださり、「是非、一冊のご本にしなさい」と、お勧めくださった。そこで、とりあえず『続こころの軌跡』の中に数編を載せることにしました。

 ところが、この本を読んでくださった方々から、ランチレターを「もう少し読みたい」との有り難いお言葉をいただき、妻と相談し、出版することにした。

    平成十六年三月

               進


★先生から巻頭の文章を依頼されて、次のような文章を書かせていただきました。

 この本の原稿を読ませていただき、「心の深い所で一致する」ご夫妻の結びつきの深さがすべてこの言葉に述べられているとかんじました。

 思いだしたのはギリシャ哲人の言葉でした。そして読み終わるまで頭から去ることができない内容でした。

 “Love is the re‐union of the two fragments of one soul.”(ギリシャ哲人の言葉)

 「愛は一つの魂の二つに分かれたものを再び一体化する」(黒崎訳)  

 「お互い心の深い所で一致するものが見いだせるからだろ思います。」(ページ一三八)と、書かれている文章に出合った時、この言葉に通ずるものを感じ、かねてご夫妻の言動に接している私の心は共鳴いたしました。

 奥さんの短い文章に、先生の考えを述べる、といった形式で構成されていますが、日常のお二人の生活での対話が拝察されます。

 ご夫妻がそれぞれ短い文に自分の考えを凝縮させて、奥さんが「ご主人の弁当をつくらせてもらう」(随所に述べられている)感謝の念、そして四季折々の思い、考えを書かれた先生へのレターは、先生に心静かな時間を与えられ、先生も弁当の味と同時に人生の味の意義を考えて誠実に対応しておられる。

 ご夫妻の文章の裏付けになるのは「見る、聞く、読む、そして考える」といった真摯な学習態度であり、日常の人間形成の究極への向上心である。その表出そのものであるとおもいます。

 円運動は出発点から一周すると元の点に帰る。しかし、ご夫妻の知恵を求めて精進の姿勢、哲学する心が、歳をかさねるごとに円熟度を増し、求める真理を目指して螺旋階段を上っておられる様子が、よみとられます。 読まれる方々は自分の生き方の示唆を受け取られると確信しています。

▼私は以前、高校に勤めていた時、次のようなことを文章にしたことがあります。

 お弁当三話

 その一

 十人の中学生のお母さんが材料はまったく同じもので弁当を作り、中学生に自分のお母さんが作ったものをあてさせるテストをした。十人中九人あたった。ご飯の上にかける海苔の様子、ウインナソーセージを切った形・焼き方、おかずとご飯の間仕切り方、塩鮭の使い方などで判断していた。

 その二

 高校生の昼食は大別して、学校食堂を利用するものと、家から弁当を持参するものとの二種類である。昼食時、家庭弁当の生徒は落ち着いてそれを開き、和やかな顔でいただいている。授業中の態度・行動も物静かで、情緒が安定して、交友関係も良い。

 その三 TさんKさんの会話

 Tさん「奥さんに一度もお会いしていませんが感心しています」

 Kさん「なぜですか?」

 Tさん「お弁当がすばらしい・・・。よろしくお伝え下さい」

 子供たちも大人に負けないくらい観察していると感心させられる。お母さんの手間をかけた弁当は感情を反映して、子供の行動・性格・交友にまで良い影響を与えている。

 家庭弁当でさえも以上のような影響があると感じていましたが、奥さんのようなランチレターまではいかないとまでも、お母さんが一言でも何か書き添えてたものがあると、どれだけ生涯にわたって良い種が生徒の心に蒔かれるだろうか、と。

▼この巻頭の言葉の結びとしてかきそえます。

 もう一度結婚するとしても、やはり君を選ぶ、と思います。お互いに元気で長生きしたいと思います。 (ページ九九)

 ご夫妻の精神的なつながりを如実にご想像いただけるのではないでしょうか。
 「ごゆっくり」と、奥様はたいていのレターのむすびにしておられます。みなさんも 「ごゆっくり」と味読されんことを願ってやみません。

平成十六年四月                        黒崎 昭二    


 ヒルティ『眠られぬ夜のために 第一部』(岩波文庫) 「ヒルティの生涯と著作」について草間平作氏(訳者)が書いている。P.378

 ヒルティは一八五七年に、ヨㇵナ・ゲルトナーと結婚した。彼女はドイツの名門の出で、その父は早死をしたボン大学の国法学者グスタフ・ゲルトナーであり、その祖父には有名なプロシャの法律家、枢密顧問官ジーモンがあり、また彼女のな付け親は、愛国者、政治家、詩人としてひろく知られたエルンスト・モーリッツ・アルトンであった。彼女はきわめて幸福な四十年の結婚生活ののちに、夫に先立つこと十二年、一八九七年に死去した。夫人がどんなに才徳兼ねそなえた立派な女性であったかは、またヒルティがどんなにこの夫人を愛しかつ尊敬したかは、彼の言葉からハッキリ知ることができる。

 「もし来世というものがあるならば、私は私のものであった一人の女性のほかには、かって地上で相識ったどんな人とも、無条件に、そして切実に再合したいとは思わない。これは彼女が私の最善の本体の一部を形づくっていたことの証拠であって、彼女の死後、この本体はもはや完全でない」。

 また夫人解放の可能性を信ずる勇気を得、婦人参政権運動に同情し、そのために尽力するようになったのも、主としてこのすぐれた夫人の生活を知ったからだと、彼自身告白している。

 宮本 進先生の奥様にたいする言葉を思い、追加しました。


 私もひとこと

 まずもって、

 宮本先生と同様、私も、ご尊敬申しあげている黒崎昭二先生が、巻頭に、すばらしいお言葉をお贈り下さっている上に、私ごときが、あえて駄文をもって、紙面を穢すの愚を、お許しいただきたいと思います。

 宮本先生と私が、曹源寺での「日曜坐禅」をご縁に、黒崎先生から、ご指導ご交誼をいただくようになって、早くも十余年になるでしょうか。

 海軍兵学校在籍中に敗戦を迎え、戦後は、高名な某大企業の研修所長等をご歴任。その後も乞われるままに、教壇に立って、直接生徒やその父母をご指導なさっただけに、そのご体験とお話から、多くの教訓をいただいています。

 その黒崎先生は、この本の原稿を目になさって直ぐさま、

 「愛は、一つの魂の二つに分れたものを再び一体化する」

 という、ギリシャの哲人の言葉を、思い出されたとのこと。

 私は、宮本先生が第二作『続こころの軌跡』を草稿されていた頃、先生のお宅で、ふとしたことで、ノートに貼り付けられていた小紙片に目がとまり、「これこそは、まさしく散文による相聞歌だ」と、呟くと同時に、「これは、この本とは別に、第三作として、是非ともお纏めください」と懇願しました。

 ことさら申し上げる必要もございませんでしょうが、相聞歌とは、万葉集などにありますように、親しい人が、心情を通じ合うために詠んだ短歌や長詩です。親子や兄弟の間などの場合もありますが、多くは、男女間の愛情に関するものが中心となった贈答歌です。

 今世紀初年の半ばだったと記憶していますが、我が国の年間の結婚と離婚の数字が、新聞紙上に報じられました。まさか?といぶかりながら、それでもと思い、電卓で比率を出して驚きました。丁度「三対一」、年間の結婚を一〇〇として離婚が三三で、いまだもって、信じ難いだけに、この本を待望していました。

 ご夫妻のお出会いについていは、『続こころの軌跡』(ページ五)に、高梁市立巨勢中学時代、(昭和四十三年四月~昭和四十五年・二十六歳~二十八歳)の記録として、次のように記されています。

ここで家庭・美術を教えに来ていた産休代員と知り合うことになり、当時の福本菊男校長、若林正憲教頭、吉岡 章前校長先生方の仲人で、結婚することができた。私は二十八歳、家内は二十三歳であった。

 その後十六年を経た昭和六十一年から、平成十年までの十三年間に亘る、この相聞歌にご興味を覚えられますならば、『こころの軌跡』ならびに『続こころの軌跡』を、直接、ご本人に要望くださるよう、お勧めします。無論、無償のはずで、手もとにあるだけは、喜んで進呈してくださるでしょう。その二冊の中に、ランチレターの源泉を発見なるものと、確信してやみません。

 平成十六年四月

               山本 正夫


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日記の効用


 私は日記を書き続けている。気力が充実しているときは日記も気持ちよくかけて、内容も明るい。反対に気分が滅入っているときとか健康に不安があるときには精神状態がそのまま反映されて暗いものになっている。ひどいときは書くのを忘れることさえある。

▼ノイローゼに罹った人たちの療法のひとつに「日記指導」が取り上げられている。「生活の発見会」が森田精神療法を理論的な基礎として採用している。内容は不安・悩みに取り付かれてこの会に入った人が先輩の会員に自分の書いた日記を提出すると早速、赤ペンで書かれたコメントが戻る仕組みになっている。この会に入って不安を解消できた人がたくさんいるようである。(日本経済新聞)

▼書くことは勿論のこと何もすることもできなくなるまでに心が弱まることさえある。自分では仕方のない不安材料だけを繰り返し思って沈んでいる。こんなときこそ自分の精神状況とか毎日の生活での出来事を書き始めれば心は徐々に安定回復に向かう。自分を奮い立たせるために日記を書いている人もたくさんいると思う。ハガキ通信、一年続きました。

昭和六十三年十月一日


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祭 書


 年の瀬に関係した祭書の話しを紹介します。毎年の年末、一年中に得た書物を祭壇にそなえ、友人と詩をつくりあって祝福した人がいます。

▼中国の清時代の黄丕烈(こうひれつ)(一七六三~一八二五)がその人です。彼は科挙試験合格者(現在の日本では国家公務員試験一種の行政職合格者に相当)であったが役人にならず書物きちがいとして一生を送りました。彼は中国の書物の古版をあつめるばかりでなく、そのあるものをもとの版式どおり復刻した人であり清朝の蔵書家として第一人者でありました。蔵書家である友人たちが集まり、書を祭り、詩作をし、古版をひもときながら年末のひとときを過ごした様子をおもうと最高の贅沢を楽しんでいたようににおもえてきます。できればこんな余裕を持ちたいものです。

▼私も十二月には一年間の日記を調べながらその年に買った本の書名、購入月日だけをリストアップしています。本との出会い、その本とのつき合いなど人間関係に似ているように感じられます。積極的に本に打ち込めば打ち込んだだけ応えてくれるようです。

※関連:黄丕烈

昭和六十三年十月一日


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福永光司『荘子』 あとがき


 〚荘子〛 福永光司著(朝日新聞社)昭和31年2月10日 第一刷 昭和39年第3刷が私の手元にある。ちょうど約半世紀の昔に買ったものであろう。わずかな書き込みと傍線が引かれているところから、一度は目を通したと思える。
▼今回、2度目、この本を読むことになった。前書きから少しずつ読み始める。私が先生の本をどれほど読めるかわかりませんが、自分なりに読みいと思っています。
 この戦争の終盤に海軍の生徒であった私には、多くの先輩が学業を放棄し戦地に赴き、死と対面されたかたがたの心情に量り知れない共感を覚えるものです。
 「私は戦場の暗い石油ランプの下で、時おり、ただ『荘子』をひもときながら、私の心の弱さを、その逞しい悟達の中で励ました。明日知れぬ戦場の生活で、『荘子』は私の慰めの書であったのである。」とかかれている。私は先生にとっての『荘子』の研究が、いわゆる学窮的知識が生きる智慧まで高められたられたのでないかと感じます。 

▼『修証義』に述べられています「無常たのみ難し、知らず露命いかなる道の草にか落ちん、身已に私に非ず、命は光陰に移されて暫くも停(とど)め難し。」と述べられています。現在、難病に苦悩されている人、また家族の方々も、またこの著作で少しでも何かを見つけられるのではないでしょうか。

 このあとがきで私が特に共鳴したところは太字の赤色にしました。


 福永光司『荘子』 あとがき

 私がシナ哲学に興味をもち、この学問を専攻しようと決心したのは、『荘子』という書物のあることを識ってからであった。だから私は、この書物がなかったならば或はシナ哲学など専攻しなかったも知れない。

 然し私にとって『荘子』は私の学問研究の対象であると共に、それ以上のものでもあった。

 私は昭和十七年の九月に大学を卒業したが、卒業と同時に兵隊に徴集され、約五ヶ年間の軍隊生活を私の青春を過ごした。そして太平洋戦争も末期の玄界灘を渡り、東シナ海を越え、大陸の戦場で絶望的な戦いを彷徨したが、生来強健な私の肉体は、“臂(うで)をその間に攘(ふ)った支離疏(しりそ)の幸運にも恵まれず、生来怯懦な私の精神は、“妻の死を前にして盆を叩いて歌った荘子”の諦観にも程遠かった。

 私は今思い出しても恥ずかしいほどの蒼ざめた恐怖を輸送船に載せて内地を離れたが、その時、私が嚢底(のうてい)に携(たずさ)えて海を渡った書物は、『万葉集』と、ケルケゴールの『死に至る病』と、プラトンの『バイドン』と、この『荘子』であった。
私は『バイドン』に霊魂の救いと慰めを、『死に至る病』に不安と絶望の癒(い)やしを、『万葉集』に生の歓喜と安らぎを期待したのであったが、戦場の炸裂(さくれつ)する砲弾のうなりと戦慄する精神の狂躁とは、私の底浅い理解と共に、これらの叡知と叙情とを空しい活字の羅列に引き戻してしまった。

 私は戦場の暗い石油ランプの下で、時おり、ただ『荘子』をひもときながら、私の心の弱さを、その逞しい悟達の中で励ました。明日知れぬ戦場の生活で、『荘子』は私の慰めの書であったのである。

 終戦に一年おくれて再び内地の土を踏んだ私の生活は、荒れ果てた祖国の山河よりも、なお荒涼としていた。然し私は、もう一度学究としての道を歩こうと決意した。再び郷里を離れるという私を見送って、年老いた父が田舎の小さな駅の冬空のもとに淋しく佇(たたず)んでいた。私はその淋しい姿を去り行く汽車の窓に眺めながら、

 学問とは悲しいものだと思った
その父の悼ましい急死が、五年間の空白を旅先の学問の中で戸まどっている私の無気力と怠惰を嘲笑したのは、昭和二十六年五月のことであった。変わり果てた父の屍の手をとりながら、私は溢れ落ちる涙をぬぐった。私の半生で一番みじめな日であった。黄色く熟(う)れた麦の穂波の中を火葬場の骨(こつ)拾いから帰りながら、私は荘子の「笑い」の中に彼の悲しみを考えてみた。打ち挫(ひし)がれた私は南国の五月(さつき)空を仰いで微笑みを取り戻した。
私にとって、『荘子』はみじめさの中で笑うことを教えてくれる書物であった。

 父の死と共に始まった京都から大阪への高校勤めは、健康に恵まれた私にとっても楽(らく)なものでなかった。然し沿線に立ち並ぶ家々や打ち続く森や林を尻目にかけながら、ごうごうとひた走る急行電車の四十分は、私の心に何か爽(さわ)やかなものを感じさせた。それに若い世代の溌剌とした夢と希望が、私の喪われた青春を蘇(よみが)えらしてくれた。私は与えられた境遇の中で、自己の道を最も逞(たくま)しく進んでゆくことを考えた。荘子の高き肯定には遠く及ばぬながらも、私の心には何か勇気に似たものが感じられるようになった。

 私にとって『荘子』は、精神の不屈さを教えてくれる書物でもあったのである。

 私のこのような『荘子』の理解が、十分に正しいという自信は、もとよよりない。然し私の理解した『荘子』を説明する以外に、如何なる方法があり得るというものであろうか。字句の解釈や論理の把握で、誤りを犯した部分は人々の教えによって、謙虚に改めてゆきたいと思っている。ただ然し私としては、私のような『荘子』の理解の仕方もあるということを、この書を読まれる方々に理解して頂ければ、それで本望なのである。そしてもし、死者というものに、生者の気持ちが通じるものならば、私は没(な)くなった父にこの拙い著作を、せめてものお詫びとして、ささげたいと思う。

 昭和三十年十月一日

洛東北白川の寓居にて、
福 永 光 司


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土井寛之 訳 アミエル 『人生についてー・日記・―』あとがき


 この本の復刻版(白水社)から

   訳者あとがきの終わりの部分に私は引かれる。

▼私にとって、アミエルの『日記』は、そして岩波文庫の、あの河野与一訳の八冊本は生涯忘れることのできない本である。昭和十五年のはじめから昭和十八年の八月まで、私は中国の山西省の奥深い山地を一兵卒とし、下士官として転戦したが、その間私が肌身離さず持って歩いたのが、この八冊の岩波版のアミエルであったからだ。

たぶん私は、慰問袋に入れて一冊一冊と送ってもらったものと思う。しかし最後には八冊になってかなりやっかいな荷物になったが、この本だけは捨て去るにしのびなかった。日々死の危険にさらされている、というほどに緊迫した生活の連続だったわけではないが、希望のない生活の連続だったという点では、あの三年半の私の心を慰めてくれたものが、この苦渋にみちたアミエルの本であったということは、いま考えてみるとおかしな気がするが、おそらく私は毒をもって毒を制したのであろう。

▼いま私の机上には、二十数年前に、私といっしょに中国の山地を走り回ってくれた、ぼろぼろになった岩波アミエルの八冊本が載っている。隊長の携帯許可印も薄れてしまった。私は青く澄みきった中国の空の下でおこなわれた戦闘の日々を思い出しながら、感慨にふけっている。
         一九六四年十一月
                     土 井 寛 之

▼福永光司『荘子』 あとがき と同じく、先の戦争で戦った学究の人たちが戦闘にあり、なんどきでも生死にさらされながら自分の学問に打ち込んでいた諸先輩の生き様には、平和な時代に生きている私に表現のできない畏敬の念にとらわれる。

 私は本を読むときには、「まえがき」とか「あとがき」また、解説などほとんど読まずに本文だけを読んでいた。著者の意図、内容を知るためにもできるだけこれらを読んで参考にするのがよいと、現在は感じている。

参考:アミエル


★土居 寛之(どい ひろゆき、1913年12月17日 - 1990年8月6日)は、フランス文学者。

大分県杵築出身、東京生まれ、1939年東京帝国大学仏文科卒、1944年外務省嘱託、1950年埼玉大学助教授、1963年東京大学教養学部教授、1967年東洋大学教授、1970年福岡大学教授、1985年退任。 父は杵築町長を務めた土居寛申(ひろみ、1882-1965)。 サント=ブーヴ、アミエルなどを研究し、東大仏文科で立花隆にアミエルを教え、立花が「四十近くまで童貞なんてことがあるもんでしょうか」と問うと、「そりゃ、ありますよ」と答えたという。

平成十九三月二十一日 春の彼岸の日


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『慈雲尊者 十善法語抄』・人々光々(にんにんこうこう)


編 者 寺田精一 『慈雲尊者 十善法語抄』

   序     森 信三

 日本仏教の素地は、一応、奈良・平安の二期に為されたとはいえ、やがて天台・真言の二教に開花したともいえようが、しかしそれが真に「日本仏教」として結実するに至ったのは、鎌倉期に入り道元・親鸞・日蓮等という巨匠の輩出によって、真にその結実を見たと云うべきであろう。同時にこのような見方は、多少とも日本仏教に関心をもつほどの人なら、ほとんど何人も異論なき処といえるであろう。

 だが、如上の一般的見解に対して、多少とも異論とも云うべき見解があるとすれば、それは梅原猛氏などが、弘法の偉大さとその独創性を力説するのと、今一つ柳宗悦氏が、一遍の信仰が親鸞から更に一歩を進めたたと云える点を力説されるが如き、いずれもそれゞ独自の創見として傾聴に値いすると云えるであろう、しかし日本仏教を真に大観する時、如上鎌倉仏教を以って、日本仏教の一応の結実と見る見解は、大観的には何人もほゞ異論なきものと言ってよく、それに対しては私自身といえども根本的には何ら異論を唱えようとするわけではない。

 だがそれにも拘らず、私としては如上の見を以って、日本仏教に対する真に十全な考えとして、何らの異論も無きかというに、必ずしも如上を以って、間然する処なきものとはし難いのである。ではその外に一たい何を言おうとするかと自らに問うことにより、私としてはその真価の未だ一般的には認識せられるに至っていない今一人の巨人を、日本仏教史上最後の巨人として提起せざるを得ないのであり、これぞ他ならぬ葛城の慈雲尊者その人に他ならない。

 では、何ゆえ如是の言を為すのであろうか、それは一言にして尊者こそは、日本仏教最後の集大成者と云うべき人だからである。なるほど、道元にしても親鸞にしても、はた又日蓮にしても、日本仏教の最盛期たる鎌倉仏教の巨匠として、そこにはそれゞ空前の絢爛たる宣教の開花が見られ、随ってこれらの人々は、それゞの宗派の開祖として立宗開教が為され、今に到るもそれゞ宗派の団結力によって、それが維持せられてある現状であろう。

 然もそれらの宗派は徳川時代に入るや、徳川期は周知のように儒教時代であって、民族の英俊は挙げて儒教に没頭し、為にあれほど盛んだった鎌倉仏教も、今や一部少数の英俊を除いては――例えば白隠ないし蓮如の如き――寥々として見るべきものなく、いたずらに各宗派の残骸の中に、同党異伐に明け暮れていたのである。然るにこのような仏教の極度の衰退期に起って、日本仏教の最後の集大成をを試みたというよりも、むしろ真の眼睛を点じたものこそ、実に慈雲尊者その人に他ならぬのである。しかも尊者がこのような歴史的偉業を果遂せられたのは、尊者が享保の生まれであって、徳川の中期に出現せられたという因縁も、その一因と云えるであろう。

 以上極めて粗略な概観によって、一応尊者のわが国仏教史上に占めるべき位相を大観したのであるが、では一歩を進めて、尊者の仏者としての特色は一たい何れにあるというべきであろうか。この点に関して私はかって言うたことがある。それは今道元、親鸞、慈雲の三大巨匠が、現代という時代にもし生きていられたとしたら、私は一たいどの人に弟子入りするであろうか――との問いである。それに対して私は、色いろと思案し尽くたあげくのはて、遂に慈雲尊者の膝下に参ずるであろうと。

 ではその故如何というに、道元の道は周知のように「只管打坐、以って仏になるべし」とせられ、また親鸞は「わが身を地獄一定の身と観ずることによって仏に救わるべし」というのである。然るに私自身は凡愚の一人として、道元の高きに従いえず、さりとて、又親鸞の深さにも到り得ずして結局、「人と生まれた以上はせめて人間らしい人になれよ>と教えられた慈雲尊者の大慈悲の前に首を垂れるのである云々と。

 同時に今一つわたくしは、道元の「正法眼蔵」を以って一箇絶大な水晶球――「一顆の名珠」が天高く浮んで白雲の悠々たる去来を映すものとすれば、慈雲の主著「十善法語」はかかる絶大なる水晶球が、地上三尺の高さまで下降して、人畜草木等はいうに及ばず、地上に匊匐しているみみずや蟻の姿なども映じているにも比せられようか。しかもわたくしが如是の大胆極まる比喩をあえて為し得るのは、ひとえに両書の表現に宿るいのちの格調の高さによるものである。

 慈雲尊者について言うべき事はこの他にも多々あるが、今はそれらについて言うべき場処ではあるまい。よってここには、端的にこの書について一言するに止どめたい。それというのも尊者には全十九巻に上る「全集」があるが、しかし「梵学津梁」一千巻を除き邦文の著述としては、「十善法語」が主著たることは何人も異論なきところである。では、ここに公にせられた「十善法語」抄と主著「十善法語」とは、いかんの関係にあるかというに、主著「十善法語」は実に見事な仮な交り文であって、当時はもとより尊者の没後も永く心ある人々に読まれたばかりか、明治期に入ってからも数種の活字本が出て広く行われているのである。然るにここで問題なのは、この書は上記のように実に見事な流麗な和文ではあるが、一つ困る事は、その中に、おびただしい中国の歴史的な事例や逸話等の挙げられている点であって、この点は儒教文化の全盛期たる徳川期には何らの支障でなかったばかりか、大いなる強みであったであろう。然るに明治以後、西欧文化の浸透している現代の日本人とっては、可成りな勤学篤信の士すら、それには親しみにくい憾みがあるわけである。

 然るに篤学寺田精一氏は深くこの点を憾みとし、遂に「十善法語」の原文中より、如上中国の歴史的事例の引用の箇所をことごとく削除し、純粋に尊者の教説のみに改編せられたのである。かくして寺田氏のこの努力により、慈雲尊者の精神は見事に現代への「再生」を遂げたというべく、私としては近来これほど大いなる欣快事はないといってよい。それというのも、これまで仏教書中に、所依の唯一経典としていうべきもの々無かった私であるが、今やこの一書の出現により、文字通り日夜繙きうる経典が恵まれたわけで、これをしも欣びとせずして何を以ってか真の欣びと云うべきであろう。

 そのかみ私は、慈雲尊者が道元親鸞等の祖師に比しても、その真価の毫も遜色なきことを証するものとして、「十善法語」を「正法眼蔵」及び「教行信証」と比較しても、その格調においてその間寸毫の差等の見られないことを身証すべきだといったことがある。するとそれを聞かれた山県三千雄教授は、「それどころか、慈雲は道元親鸞に比して、日本仏教を近代化した点では、一歩を進めたとともいえましょう」といわれて、私も思わず眼の鱗のとれた思いがし、流石に現代おける隠れた真の碩学の言と痛感したしだいである。教授が慈雲を以って日本仏教の近代化とせられるのは、道元・親鸞では仏が主たる関心事ったのに対して、慈雲にあっては、仏知に照らされた「人間」こそが、その中心首座におかれているが故であって、この点は「十善法語」の全巻に漲り溢れているといえよう。そしてそれは最端的には、私が秘かに「日本人の心経」と称している、「人となる道略語」によっても証せられるであろう。


編者の(後記)

▼わが国の生んだ偉大な高僧として、道元・親鸞・日蓮のなは、世間周知の処でしょうが、徳川中期において、その隠れた光芒を放つ慈雲尊者のおんなさえご存知ない方は、多分に多いのではないかと思われます。巷間かねてより尊者揮毫のご書籍の高雅凛然たる風格について、その尊めをご存じのお方以外、ほとんど所知無きに等しいというのが、いつわざる所と存ぜられます。不肖わたしもその一人で、今より十数年前、師森信三先生に処遇を得、そのご講筵の末席に侍りまして始めて慈雲尊者のご高名に接しましたわけで、詳しくは尊者ご陰棲の高貴寺に、同士と共にご案内たまわりました時にその端を発するわけであります。爾来今日まで慈雲尊者のご高徳について、森先生の明晰な認識とご敬仰の只ならぬものを屡々拝聴し今日に至りました次第であります。それ故、学徳兼備いたらざる隈なき尊者についてその眼を開かしめられたのは、ひとえに森信三先生の五体にひびくご高説の賜以外の何ものでもございません。よって仍っていま茲に慈雲尊者に関する森先生のご口述の一部を列記するのが、何より至便と存ずるわけであります。

○ わが国の全仏教史上、わたしの一番好きなお方は、葛城の慈雲尊者です。その理由の一つは、尊者の人間的資質が、道元、親鸞とくらべても、毫も遜色がないと思うからです。そしてその尊者の「十善法語」のもつあの高朗なリズムは、道元の「正法眼蔵」に比べても毫も遜色が感ぜられない一事によって明らかです。

〇 道元の高さにも到り得ず、親鸞の深さににも到り得ぬ身には、道元のように「仏になれ」とも言われず、また親鸞のように「地獄一定の身」ともいわれず、ただ「人間に生まれた以上は人らしき人になれと」と教えられ葛城の慈雲尊者の、まどかな大慈悲心の前に、心から頭が下がるのです。

〇 道元の「正法眼蔵」の世界を、かりに絶大なる水晶球が天空高く懸かるものとすれば、慈雲尊者の「十善法語」の世界は、そのような絶大なる水晶球が、地上二、三尺の処まで下降して、地上の万象を、ことごとく映現して止まぬ趣があるとも言えましょう。

〇 「十善法語」こそ、道徳と宗教が渾然として融和一体なるを感じます。かねてより学問本来のあり方としてわたくしが提唱する「全一学」の偉いなる一円相が、ものの見事に結晶せしめられているわけで、中江藤樹・石田梅岩・二宮尊徳と共に、全一学に生きられた偉大なる高僧なのです。それにつけても「慈雲尊者こそ日本仏教近代化の祖である」とは山県三代雄先生のお言葉ですが、さすがにと頷かざるを得ません。

▼以上、慈雲尊者について師説の一部をご披露したわけですが、このご明言によって、慈雲尊者その人についてこれ以上何を付言する必要がございましょう。今わたしは師説のすべてを領解納得するより他ございません。処がまことにお恥ずかしい事ながら、かかる明徹なご所見に接しつつ、何らの疑義をさしはさむわけでなくとも、また心の底から諒得するに至らなかった事を告白せざるを得ません。

 それがはからずも、此のたび「十善法語」抄を編纂するに至りましたのも「十善法語」のもつ澄明凛乎にして清趣尽きないリズムの格調に触れ得た感を抱きました事と、そのすべてが一顆の名珠名句として、天空におのが心地を照らし、戒慎清浄たらしむる唯一聖典たることを信解するにいたりました。そこで森信三先生のご推輓を得まして、まことに愚昧劣器のわたくしが、不徳低下をかえりみず、その掌に当たらせて頂いたわけであります。

 例によって語録風のまとめのため、折角のご法語を切り取って前後裁断のきらい無きにしもあらずと思われますが、出来る限りの留意と配慮をはかりました事を、ご諒察の上ご寛恕頂けましたら幸せです。(以下略)

平成二十年一月十七日

追加:「天地をもって、わが心とせば、いたるところ安楽なり」

磯田道史 のこの人、その言葉 慈雲(1718~1804)

 追加の言葉は「慈雲尊者短編法語集」にある言葉。日やは下を照らすが自分の恩恵としない。山や川は生きとしていけるものを育むが自分のものにはしない。そういう天地のようなひろい気持ちになれば、案外、人間は楽に暮せる。そう説いている。

朝日新聞2009.7.11より。


人々光々(にんにんこうこう)


 寺田一清氏(1927~)が主宰の読書会(岸城読書会)が森信三先生の名著『修身教授禄』を会のテキストとして回を重ねて平成十五年七月、二〇〇回を迎えた。そのとき会員だけに限らず、全国各地の道縁につながる方々に呼びかけ記念の「文集」を思いたち計画をすすめ完結発行されたものです。

文集の正式な書名は「『修身教授禄』に学ぶもの・人々光々(にんにんこうこう)・岸城読書会 二〇〇回記念文集」。
巻頭にはご高名の小島直記先生の序が述べられています。

             

‫小 島 直 記             

 かねて敬愛する寺田一清氏主宰の読書会が本年七月、二〇〇回を迎えると承りました。

 実は私も『輪読会』と称する読書会を始めてから、ちょうど十二年目を迎えております。

 これは毎月一回ですから、今のところ一四四回で、岸城読書会にはまず回数に於て及びませんし、内容的にも浅学菲才、とても及びがつかぬことをよく承知致しておりますが、似たような体験から、そのことを心からご同慶に存ずるものです。

 岸城読書会は、森信三先生の不朽の名著『修身教授録』をテキストにされ、何べんも繰り返し読みつづけてこられたそうで、そのお方たちのみならず、全国に及ぶ二〇〇〇名から感想文を募られ、その文集は、

「『修身教授録』に学ぶもの」・『人々光々』

というタイトルのもとに公刊されるとのことで、私はそのなかの七十七篇を読ませて頂く光栄に浴しました

 すべての文章が実に真摯で、感動的で、全体を通じて森先生の珠玉のような箴言をそれぞれに選ばれ、「出会いのありがたさ」を伝えたいという悲願に貫かれていることに打たれ、感動致しました。それが日常生活の慌ただしさのうちに、いつの間にか忘れた形になっていることも発見しました。

 森先生の、厳しくも温かい言葉は、今日の現代人が忘れている心のふるさとということを思い出させ、そこに導いてくれ、その無限の霊水を心ゆくまで堪能させて下さるように思われます。ありがたいことです。

 しかも承れば、この岸城読書会は多年、寺田さんを支える人として金谷卓治氏の存在も大いに見逃せないお方のようで、全て物事はお二人をはじめ所縁の恩恵により成り立っていることを思ってひとしお感慨にふけるものです。

黒崎寄稿文

 二三六名の多くの寄稿された方々のなかの一人として黒崎もくわえさせて頂きましたのでその内容を披瀝いたします。P.70

 何としても教育とは、結局人間をうえることであり、この現実の大野に、一人びとりの人間をうえ込んでいく大行なのである。(『修身教授録』第18講 P.126)

 『修身教授録』の昭和十二年の講義の中で「人を植える道」を読んだとき、これこそ教育の真髄だと思った。
 森信三先生は、学校教育後の方法について、真の人間をうえるには、有為の少年を選んで、これに正しい読書の道を教え、それによって各々の職分において、一道を開くだけの信念を与えなければならぬ。さらに有志の青年たちの読書会を設けることでしょうと提唱されています。

 学校に限らず、企業いや国においても人をうえることは最大の課題である。教育を受ける者はもちろん勉学しなければならないが、同時に教える側にはさらなる修業が求められるものだと思います。

ふりかえりますと、私が勤めていた会社で昭和五十八年末、社員教育を目的とした研修所が再開され、中堅社員約五十名が選抜され、その担当に任命されました。第一期生の入所式にあたり、彼等の生涯の指針となることを念願して「自学自得無息」を基本理念として選びました。森先生の教えを少しでも実行しようと、月に一度の「自学自得ハガキ通信」で研修生、実践人、知人たちと交流を重ねております。

平成十七年一月十日:成人の日

お悔やみ:寺田清一氏は2021年3月、永眠されています。


★講述〈あ・す・こ・そ・は〉の教え

 あいさつ…人より先に自分から。

 すまいる…笑顔に開く天の花。

 こしぼね…立志と立腰。性根を養う極秘伝。 

 そうじ…「場」を清め(心)を清める。

 はがき…こころの交流、ご縁の持続。


★『ミニ・読書会のありかた』

 私どもの志向する読書会は、単に読書によって、新たな知識や情報を獲得するのが目的でなく、あくまでも「人間の生き方の探究と実践の学びにあるからです。」           


7

禅修行者と人倫―明全和尚と道元禅師―


 私は『正法眼蔵随聞記』を読むのが好きで、繰り返し読んでいる

 明全和尚と道元禅師中国留学の記事(岩波文庫)を述べる。P.115~117

 「示して云わく、先師全和尚(せんじぜんをしやう)先師全和尚、入宋(につそ)せんとせし時、本師叡山(ほんじ えいざん)明融阿闍梨(みやうゆうあじゃり)重病おこり、病床にしづみ既に死せんとす。其の時かの師云く、我既に老病起こり死去せんこと近きにあり、今度(こんど)暫く入宗(につそ)をとゞまりたまひて、我が老病を扶けて、冥路を弔ひて、然して死去の後其の本意をとげらるべしと。時に先師弟子法類等を集めて議評して云く、我れ幼少の時双親の家を出て後より、此の師の養育を蒙ていま成長せり。其の養育の恩最も重し。亦出世の法門大小権実(ごんじつ)の教文、因果をわきまへ是非をしりて、同輩にもこえ名誉を得たること、亦仏法の道理を知りて今入宗求法の志を起こすまでも、偏に此の師の恩に非ずと云うことなし。然るに今年すでに老極(ろうごく)して、重病の床に臥(ふし)たまへり。余命存じがたし。再会期(さいえご)すべきにあらず。故にあながちに是を留(とど)めたまふ。師の命(めい)もそむき難し。今(い)ま身命(しんみやう)を顧みず入宗求法(につそぐほう)するも、菩薩(ぼさつ)の大悲利生(だいひりしやう)の為なり。師の命(めい)を背(そむい)て宋土に行(ゆか)ん道理有りや否や。各(おのお)の思はるゝ処をのべらるべしと。時に諸弟人人(にんにん)皆云く、今年の入宋(につそ)は留まらるべし。師の老病死已に極れり。死去決定(しきょけつじやう)せり。今年ばかり留まりて明年入宋(みやうねんにつそ)あらば、師の命(めい)を背かず重恩をもわすれず。今ま一年半年入宋(につそ)遅きとても何の妨げかあらん。師弟の本意相違せず。入宋(につそ)の本意も如意なるべしと。時に我れ末臘(まつらふ)にて云く、仏法(ぶつぽふ)の悟り今はさてかふこそありなんと思召(おぼしめ)さるゝ儀ならば、御留り然(しか)あるべしと。先師(せんじ)の云く、然(しか)あるなり、佛法修行(ぶつぽしゆぎやう)これほどにてありなん。始終かくのごとくならば、即ち出離(しゆつり)得度たらんかと存ずと。我が云く、其の儀ならば御留りたまひてしかあるべしと。時にかくのごとく各(おのお)の総評して了(をはり)て、先師(せんじ)の云く、おのおのゝ評議、いづれもみな道理ばかりなり。我が所存(しよぞん)は然(しか)あらず。今度(このたび)留りたりとも、決定(けつぢやう)死ぬべき人ならば其(それ)に依(よつ)て命を保つべきにあらず。亦われ留りて看病外護(げご)せしによりたりとて苦痛もやむべからず。亦最後に我あつかひすゝめしによりて、生死(しやうじ)を離れらるべき道理にあらず。只一旦命(めい)に随(したがひ)て師の心を慰むるばかりなり。是れ即ち出離得度(しゆつりとくど)の為には一切無用(むよう)なり。錯(あやまつ)て我が求法(ぐほう)の志(こころざ)しをさえしめられば、罪業(ざいごふ)の因縁(いんねん)とも成(なり)ぬべし。然(しか)あるに入宋求法(につそぐほう)の志(こころざ)しをとげて、一分(いちぶん)の悟りを開きたらば、一人有漏(うろ)の迷情に背くとも、多人(たにん)得度の因縁(いんねん)と成りぬべし。この功徳(くどく)もしすぐれば、すなはちこれ師の恩をも報じつべし。設(たと)ひ亦渡海の間(あいだ)に死して本意をとげずとも、求法(ぐほう)の志(こころざ)しを以て死せば、生生(しゃうしやう)の願(ぐわん)つきるべからず。玄奘三蔵(げんじやうさんざう)のあとを思ふべし。一人(にん)の為にうしなひやすき時を空(むなし)く過ごさんこと、仏意(ぶつち)に合(か)なふべからず。故に今度(このたび)の入宋一向(につそいつかう)に思切り畢(をは)りぬと云(いひ)て、終(つひ)に入宋(につそ)せられき。先師(せんじ)にとりて真実の道心(だうしん)と存ぜしこと、是らの道理なり。然(しか)あれば今の学人(がくじん)も、父母(ぶも)の為、或は師匠の為とて、無益の事を行(ぎやう)じて徒(いたづ)らに時を失ひて、諸道にすぐれたる仏道をさしをきて、空(むなし)く光陰(くわいん)を過ごすことなかれ。(以下略)


 (板橋興宗著『良寛さんと道元禅師』生きる極意)の本 P.212より。

 ・・・明全和尚は堂々と心情を披瀝し、道元禅師と手に手を取り合って、波濤万里の旅に出かけることになったのである。

 その後、明融阿闍梨は淋しく息をひきとったことは言うまでもあるまい。だが運命とは不思議である。両人が宋の国に渡り、高名な寺々をまわり、やっと希代の宗匠、天童如浄禅師にめぐり合い、道元禅師が全身全霊を傾けて修行にはいるころ、一方の明全和尚は同じ天童山の一室で病気のため淋しく息をひきとってしまう。時に四十二歳であった。雄図むなしく修行なかばで異郷の空に斃(たお)れた明全和尚の痛恨さを思うとき、一掬の涙を禁じ得ない。

▼さらに不思議なことに、道元禅師が如浄禅師のもとで心身脱落し、積年の大疑を解消し、日本に帰って一年もたたぬうちに、恩師如浄禅師は亡くなってしまう。

 もしあの時、明融阿闍梨の看病のために、旅立ちが遅れたとしたら、両人は如浄禅師に会うことが出来なかったかも知れない。如浄禅師にめぐり会えない道元禅師に、心身脱落の時節はあり得なかったにちがいない。道元禅師に心身脱落の転機がなければ、現在の永平寺も総持寺もない。仏教界はもちろん、日本の精神文化も今とはちがったものになっていることは確かである。

 してみれば、あの時、恩愛の情を断ち切って旅に出るか、出ないかは、日本の歴史に重大な影響を及ぼすきわどい選択であったと言える。と板橋興宗禅師は深い思いを述べられている。


参考1:里見 惇著『道元禅師の話』によると、明全和尚は道元、ほか随伴者二人と宋の国に向かっている。作家は(1,888*1,983)。
参考2:永平道元年賦によると
1217年(17歳)8月25日、建仁寺に入り、明全に参ずる。
1223年(23歳)2月22日、明全とともに京都を発ち、入宋の途につく。 

平成二十年一月二十一日


8

河合隼雄:「老いる」とは どういうことかの数編
『日本人とアイデンティティ』


 題名 はこの本に載っていた二人の対談である。

 「老い」をめぐって――多田富雄さんと この本の最後に取り上げられていた項目です。

▼勉強になった記述を対談方式で記述します。

 1、老いにコースはない P.252

   河合:普通の医学的な本を読みますと、なんとなくどんどん悪くなって死ぬということがあまりにもパター化されていまして、救いがない感じがするんです。

 多田:免疫は伝染病に対する抵抗力のような形でみとめられますが、ほんとうは自分以外のものが体にはいってきたときにそれを排除するという反応です。ちょど脳と同じように、自分と他人を区別するシステムということになります。それが老化に従って低下するので、老人の死因の大半は最終的に感染症になるわけです。

 そういうことで免疫系の老化について調べたんですが、それまでは、老化に伴ってだんだん免疫機能がおしなべて下がっていくと言われていたんです。
 ところが実際に調べてみると、ある機能は早くから下がるし、ある機能はかえって突出して高くなるというように、アンバランスに起ってくることがわかりました。だから、老いというのは全体として決められたコースをたどるんじゃなくて、ある人ではある機能がまず低くなるが、ある人ではかえってその機能が高くなるなってしまうような多様性が出てくるんです。

 したがって、生物学的に見て、老いというのは単一な現象ではなくて、老いの多様性というものがあるんじゃないかと思います。それを考慮に入れないと、老化についてまちがった結論に陥るんじゃないかという気がしていたんです。

 河合:発達の過程だったら、だいたいはきれいにいきますよね。

 多田:そうですね。発生とか発達とかはおおよそプログラムされていると考えられてす。しかし、たとえば幼児から子どもになるところで、いろいろなタイプの子どもが出てきますね。老人のほうもいろいろなタイプの老人が現れるところがおもしろいし、意味のあることだと思います。

 2、その人の個性が左右する P.256

 河合:老いが多様的というのは、もちろん個人差といってしまえばそれまでですが、その人のそれまでの生き方、その時の考え方ということが影響するんですか。

 多田:その辺はわかりませんが、多様的というのは、単に一人一人の速度のちがいがあるということではなくて、それぞれの人によって、あるいはそれぞれの個体によってちがった老いの現れ方があることだと思うんです。

 免疫学からみますと、それぞれの人がどんな病気を経過してきたかということによって免疫の反応性はだいぶちがいます。老化によって免疫系がどう変るかというのは、きわめて偶然性高いものだと思います。

 河合:このごろ、人間だけじゃなくいろいろものがプログラムされて動いているということがわかってきたわけです。
 しかし、プログラムされているというのが一般化されて、極端に言えば生まれたときからプログラムされているという感じで受け止められるわけですが、免疫のほうで言うとその感じがすごく薄れてきますね。

 多田:まさにそのとおりです。脳神経系とか心理学の面では、いろいろな事件によって個性とか自己というものが作られていくんだと思いますが、体のほうででも免疫系というのは決められたとおりではなくて、条件次第でいろいろな事件を経験することで変ってゆくのです。

 たとえば一卵性双生児は生物学的に同じだと言いますが、性格だけでなく免疫の反応性などもかなりちがっている。そういう点で体にも個性というものがあるわけです。

 3、老人医療、老人ケアについてP.261

 多田:医学的に老いとは何かというと、一般には加齢に伴う生理機能の低下と書いてあります。そいうと年をとればみんな、グラフに描けるるような変化が起こるように見えてしまうんです。医者のほうもそう思っていますし、一般にもそいう考え方をうえつけていますから、六十歳はこのくらい、七十歳はこのくらいというような決められたプロセスをたどっていくように考えられているんじゃないかと思います。だけど現実にはそうじゃない。

 河合:グラフに描けるようなものじゃなくて、ものすごく人によって多様性がある。

 多田:そういうなかで偶発的な老人の病気が出てくるから、ますます複雑になるわけでですね。

 老化の理論はちゃんとしたしたものがあるわけでありませんし、今のところ老化のとらえ方というのは非常に部分的なんです。

 多田:老人の個別性を除外してマニュアルなどにやれば、当然ぼけ老人や寝たきり老人を作りだしてしまうことになってしまいますね。

 多田:マニュアルどうりにしますと、快適な老人ホームを作ってそこで完璧な老人ケアをするということになってしまいます。アメリカでも老人天国だけの都市を作った例がありますね。

 しかし、それは天国ではなくて地獄になってしまうということがわかって、老人だけのホームではなくて若者と老人とが共同生活できるような条件をつくる。そちらのほうが、たとえ問題をかかえているにしても老人にとってベターだということに気づきはじめたとおもいますね。

感 想

 1、大学生が「はしか」に罹ったりしている。この病気に対する免疫力がないか少ないのであろう。

 2、免疫は老化に従って低下するので、老人の死因の大半は最終的に感染症になるわけです。風邪などから肺炎になるとかが多いように感じます。私が診ていただいている先生の一人は、診察が終わり、部屋を出ようとすると、「風邪を引かないようにしなさい」と声をかけられる。この対談でなるほどと感じさせられました。

 3、生物学的に見て、老いというのは単一な現象ではなくて、老いの多様性というものが説明されている。

 4、老化現象は個性的であるから、一人一人が自分の体調にあわせて生活習慣、食生活など調節することだと思います。

 5、私どもは医師から検査していただいて、いろいろな身体の状態の指標の数値と年齢と或いは、年齢とのカーブを示されて、良かったと、悪いなどと思ったりしている。参考数値としては利用すべきであるが、その対策などをよく教えていただくか自分でも勉強しなければならない。

 6、私は最近、ある大学の先生のことをインターネットで知ることができたのですが、腹から笑えるような生活は免疫力を高めるようになるとうけとりました。しかし、大多数の人はどうすれば免疫力を高めることが(原状保持、低下防止)することが出来るかわからないでいるようです。


▼多田 富雄(ただ とみお、1934年3月31日 - )は日本の茨城県結城市出身の免疫学者。

 千葉大学医学部卒業後、千葉大学、東京大学教授、東京理科大学生命科学研究所所長を歴任。
 2001年に滞在先の金沢にて脳梗塞となり声を失う。右半身不随となる。
 2006年にはリハビリ制度打ち切り反対運動の先駆者としても話題となった。
*地方大学から東大医学部教授に就任された第一号の教授であると聞いている。


▼河合隼雄氏死去 

   臨床心理学の第一人者で京都大名誉教授、元文化庁長官の河合隼雄(かわい・はやお)氏が2007年7月19日午後2時27分、脳梗塞(こうそく)のため奈良県天理市の天理よろづ相談所病院で死去した。(79歳)
 兄は元日本モンキーセンター所長を務めたニホンザル研究で知られる霊長類学者の河合雅雄京都大名誉教授。

平成二十年二月二十五日


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1――話がちがう P.22~23

 現代における「老い」の問題は実に深刻である。それがどんなに大変なことか、ひとつのたとえ話をしてみよう。

 町内の運動会に参加。五百メートル競走に出て、必死になって走り抜き、やっとゴールインというところで、役員が走れ出てきて、「すみません八百メートルのまちがいでした。もう三百メートル走ってください」などと言うとどうなるだろう。

 最初から八百メートルと言われておれば、もちろんそのペースで走っている。五百のつもりで走ってきたのに、それじゃ話がちがうじゃないか、誰があと三百メートルも走れるものか、ということになるだろう。

 現代の老人問題にはこのようなところがある。人生五十年と教えられ、そろそろお迎えでも来るかと思っていたのに、あと三十年あるというのだ。そんなことは考えてもみなかったことだ。

 昔も長寿の人がいたが、それは特別で、それなりの生き方もあった。ところが今は全体的に一挙に人生競争のゴールが、ぐっ遠のいてしまった。

 こう考えると、現代の「老い」の道は、人類が今まで経験していなかったことであることがわかる。みちは未知に通じる。老いの道は老いの未知でもある。

 このような未知の問題について考えてみようと思う。大上段にふりかぶっての論議ではなく、思いつくままに気楽に書かしていただくので、読者の方々はそれをヒントにして、自分なりの考えを発展させていただきた。


2――逆転思考 P.24~25

「老い」かなかなかむずかしい問題で、一筋縄のことで解答が出てくるものではない。思い切った発想の転換という点で、次に示す昔話は示唆するところが大きい。

 昔々、ある殿様が老人は働かず、無駄だから山に捨てるように、というお触れを出した。ある男が自分の父親の老人を捨てるにしのびず、そっとかくまっておいた。殿様はあるとき、灰で作った縄が欲しいと言いだした。皆がわれもわれもと灰で縄をなおうとするが、どうしても作れない。

 例の男が父親に相談すると、わらで固く固く縄をない、それを燃やすといいと教えてくれた。なるほど、やってみると灰の縄ができたので殿様に献上した。

 殿様は喜んで誰の考案かと言う。実はかくまっていた老人の知恵で、と白状すると、殿様は、老人は知恵があるので、以後捨てずに大切にするようにとお触れを出した。

 この話でおもしろいところは、縄を作ってから灰にするという逆転思考である。そこで、われわれもこの逆転思考を老人に当てはめてみよう。「老人は何もしないから駄目」と言うが、「老人」は何もしないから素晴らしいと言えないだろうか。

 青年や中年があれもするこれもすると走りまわっているのは、それによって、生きることに内在する不安をごまかすためではなかろうか。 何もせずに「そこにいる」という老人の姿が、働きまわる人々の姿を照射して、不思議な影を見せてくれるのである。                  


3――「うち」に帰る P.26~27

 老人ホームで仕事をしておられる方に話をうかがうと、いろいろ考えさせられることが多いが、そのなかで印象的なことをひとつ。

 いわゆる老人ボケのために、施設を出て急に「家に帰る」という人がある。知らぬ間に出て行ってしまう人もある。

 そのなかで、とくに女性は、「うちに帰る」という「うち」は自分の実家をさしていることが多いという。結婚歴五十年の人でも、その前の二十年間住んでいんた家が「うち」として浮かんでくるのである。

 老人の記憶は近くに起こったことより昔に起こったことのほうがよく覚えている、という一般論だけでこれを説明するのは、少し単純のようである。いうのは、壮年期の人でも夢のなかで「自分のうち」という感じで出てくるのは、自分の生まれ育った家であり、そのときに結婚して住んでいる家でないことが多いのである。

 「うち」は「家」とちがって、なんとも言えぬなつかしい響きがある。

 こんなところから少し飛躍して考えると、心のなかにしっかりとした「うち」を持っているいる人は、一人でどこに住んでいても、「うちへ帰る」などと言ってうろうろしなくてもいいのかな、などと思えてくる。

 「うちへ帰る」をもうひとひねりして「土へかえる」などとすると、「土へかえる」覚悟のできている人は強いだろうな、とも思う。

 若い間は覚悟ができていると言いながら、年をとるとうろむろする方もおられるが。


4――「創造(はじ)」めること P.28~29

 NHKの新春対談とやらで、日野原重明、中村 元(はじめ)両先生とお話しあいをさせていただいた。学ぶところが多かったが、日野原先生の言葉で心に残ったことを紹介させていただく。

 日野原先生は聖路加看護大学学長で、死の臨床ということに早くから注目し、老いやしについて豊富な臨床体験から、意味深い発言を多くしておられる方です。

 日野原先生の強調されことに、「老いてはじめる」というのがあった。年おいても、何かはじめることが、老いを意義深く生きるうえで、非常に効果的である、tこのことである。趣味でも、ちょっとした仕事でも何でも。                          

 先生の書かれたものを拝見すると、「創める」と、創造の創の字を用いておられるので、その意味の深さがわかる。

 私のスイス留学中の師だったマイヤー先生が、七十歳過ぎてファゴットの練習をしておられるのを見て感心すると、「この年になっても何か進歩するということがあるのは、ありがたいことだ」と言われた。  

 年老いて何か進歩する、というのは味わい深いことばだと思った。「もうこの年になって……」など言わず、勇気をもつてはじめることだ。

 考えてみると、「死」も新しい次の世界のはじまりなのかも知れないのだから、老いたからといって「終わり」のことばり考えず、「はじめ」の練習もある程度しておいたほうが「死」も迎えやすい気もするのだが。


5――脳の体操 P.30~31

 NHKの新春対談でお聞きした中村元先生のお言葉からひとつ引用させていただくことにした。

 中村元先生は周知のようにインド哲学、仏教学の大家で、文字どおり古今東西の万巻の書を読んでこられた方である。ブッダについても、原典をたずねて研究を重ね、できるかぎりその言葉を忠実に伝えらようとされる。その学究的態度には、いつも感心していた。

 ところで対談中、「日本の学者は文献研究だけ丶丶やっているから駄目なんです」とサラリと言われたので驚いてしまった。私はなんとなく、中村先生が「文献研究は大切です」と強調されると思っていたのである。

 中村先生は文献ばかり読んで、あちこち比較していると一見「学問的」な研究ができるが、それだけでは駄目で「自分で考えないと駄目」と言われる。生きてゆくために自分で考えることが哲学することで、人のことを紹介ばかりしていても哲学にならない。

 中村先生の思考の柔軟さ、元気さは、このような態度から来ているのであろう。老いても「自分で考える」ことが大切である。身体だけではなく脳も「体操」が必要なのである。

 実をいうと私は本を読まない人間なので、中村先生の言葉でうれしくなっていたが、「文献研究rb>だけ丶丶」では駄目と言われたので、別に「本を読まないほうがいい」とは言われなかったことに気がついた。せいぜい少数の本を「自分で読む」くらいで満足しておこう。河合隼雄『「老いる」とはどういうことか』(講談社α文庫)より。

▼私は、大学病院に入院したしたとき、「考える医師」と出会いました。先生はできるかぎりの診断のための検査をしてもその原因が判明されませんでした。その時、この考える医師は考えて、あのてこのての検査をはじめられて、その結果を丁寧に分かり易く説明して下さいました。「この先生は立派な先生になられると」感じました。

平成二十五年三月十五日


22――死なないと P.64~65

 京都のタクシーの運転手さんは何かとはなしかけてくる人が多い。 

 私は京都でのタクシーをよくりようするので、運転手さんのおしゃべりの相手しながら「社会勉強」をさせていただいている。やはり、年配の運転集手さんのほうがよく話されるようである。

 最近、六十歳くらいの運転手さんだろうか、宗教談義をするかたに出会った。運転をしながら、親鸞さんとか道元さんが、などと話される。

 京都の山並みを眺めながら、こんなお話を聞いていると、親鸞さんも道元さんも、今なお生きて、そこらのお寺におられるのじゃないか、という錯覚さえ生じてくる。

 それにしても、運転手さんの仏教についての知識がなかなかなもので、私も感心してしまった。

 降りるときは車賃にお布施でも上乗せして払おうかと思うくらいの内容だったので、私は「運転手さん、あなたの仏教についての知識も相当ですね。誰かお坊さんに習われたのですか」と言ううと、運転手さんは平然として、「お客さん。お坊さんはこんなこと教えてくれはりません。お坊さんは死なないと来てくれはらしません」と言われた。

 私は知人のお坊さんで社会活動などに精出してている人のことを思い浮かべて、すぐ反論しようと思ったが、「お坊さんは死なないと来てくれはらしません」というのも、なかなかうがった言葉と思い、だまっていた。

*参考:河合隼雄『「老いる」とはどういうことか』(講談社α文庫)P.64~65より。

 私はかってインドより岡山の曹源寺で修行中のかたから「日本は葬式仏教だ」と明言されたことをおもいだしていました。

2013.03.02


48――雑巾がけで目覚める P.120~121

 最近、近くの禅寺での日曜日坐禅会に参加する人が増えているとのことです。

 その理由が何かは、長い期間、参加者している人たちによっても、色々とあるようです。

▼最近、河合隼雄『「老いる」とはどういうことか』(講談社α文庫)P.120をよんでいるとそのヒントになるのではないかとかんじました。

 高齢の女性で、だんだんと宗教に関心をもつようになられた方があった。それまでは宗教のことなど考えず、経済的に恵まれた人だったので、家事などあまりする必要がなく、社会的にいろいろと活躍してこられた人であった。

 他人から見ればうらやましいということになろうが、年をとってくると、自分の今までしてきたこともあまり意味がないようにも思われてくる。そこで、宗教的な集まりなどに参加されるようになった。

 偉い宗教家の講演会があると、聴きに行くのだが、もう一つピンとこない。確かにありがたい話だし、その宗教家が立派な人であることもわかるのだが、もうひとつ自分のものとして感じられてこないのである。

 そんなとき、次のような夢を見られた。

「高名なお坊さんの話があるというので出かけてゆくと、もう説教は終わっていてがっかりする。ところが、その坊さんが『あなたには特別大切なことを教えましょう』と言われ、大喜びすると、一枚の雑巾を渡され、アレッと思って目が覚めた」

 この方はこの夢について考えられ、自分にとっては「ありがたい話」を聴きに行くよりも、家で雑巾がけをしていることのほうが「宗教的」であると判断された。

 以後、雑巾をもっての一ふき一ふきに心をこめていると言われた。

▼私は夢というものの素晴らしさ、それを読み取って行動に移されたこの人の素晴らしさに、ひたすら感心したのである。

 これを読んで戴いた方々、ご自分の問題としてお考えしていただければよいのではないかでしょうか。

平成二十三年九月二十五日。


72――『論語』の読み方 P.170~171

 「七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えず」という孔子の言葉は、老いをひとつの完成とみるものとして素晴らしい。

 ところで、桑原武夫著『論語』(ちくま文庫)は、論語に関する多くの新解釈を提示しておもしろい本であるが前記の言葉に対しては次のような感想が述べられている。

 「人間の成長には学問修養が大いに作用するが、同時に人間が生物であることもまたむしできないであろう」というわけで「天命を知る」というのも、五十歳の衰えから、どうもこうしかならないだろうという面もあるだろうし、七十歳の境地も「節度を失うような思想ないし行動が生理的にもうできなくなったということにもなろう」と考えられるというのである。

 もちろん、これは孔子の言葉の価値を認めたうえで、あえて言えばこんなことも考えられると述べられている。

 私はこれを読んで、孔子の素晴らしいところは、むしろそのような生理的条件にのっかってものを言っているところではないかとおもったのである。

 「学問修養」がたいせつだから、年老いてもやたらに頑張るというのではなく、修養の大事、体も大事という態度だからこそ、すでに紹介したような言葉が出てきたのだと思う。また、単に生理的に衰弱しただけだったら、こんな言葉はのこせないだろう。

 孔子の言葉を、精神も身体も含めた全体的存在からの発言としてみると納得できるのである。専門家からは勝手なことを言うと叱られるかも知れないが。

参考:桑原武夫『論語を読んで』

 二人の先生がわかりやすく書かれています。

2013.02.26  です。


82――辞世の句 P.190~191


 木枯や跡で芽をふけ川柳(かわやなぎ)

 これは川柳の始祖ともいうべき、柄井(からい)川柳の辞世の句として伝えられているものである。川の柳と川柳とをかけ、死んでもまた後で芽ぶくようにと、再生の願いをこめたとも言えるし、自分で死んだ後も「川柳」は再生しつづけることを願ったとも言える辞世である。

 実際、柄井川柳の死後も、「川柳」は生き続け、現在も多くの川柳愛好者がいるのは周知のとおりである。

 柄井川柳の亡くなったのは、数え年の七十三歳。当時としては、かなりの年寄りだが、再生をこめての辞世は、みずみずしい感じさえある。

 中西進『辞世のことば』(中公新書)は、多くの辞世と、その解説を載せ、味わい深い書物である。実は冒頭の辞世もそこから引用させていただいたものである。

 私は俳句にも短歌にも、あまり関心のないぶ粋(ぶすい)な人間だが、辞世ともなると、死について、老いについても考えさせられ、関心を呼び起こされる。それで柄(がら)にもなく、川柳などをここに引用してみたくなった次第である。

 前掲書に示されている多くの辞世のなかで、すきなものをもう一首あげる。

 わが家の犬はいずこにゆきぬらん 今宵も思いいでて眠れる  島木赤彦

 死はきわめて非日常のことであり、きわめて日常のことであり、犬のイメージが素晴らしい。

参考1:柄井川柳:1718年~1790年10月30日。日本の江戸時代中期の前句付の点者。初代川柳。本名は正道。幼名は勇之助。通称は八右衛門。前句付け点者として人気を得て、川柳のなが前句付けの名称となった。
参考2:まえくづけ【前句付】:雑俳の中心的な様式。出題された前句に付句(つけく)をするもの。連歌時代から付合(つけあい)練習として行われてきた,5・7・5の17音に7・7の14音の短句を付けたり,14音に17音の長句を付けたりする二句一章の付合単位が,元禄(1688‐1704)ごろから,俳諧から離れて,機智的な人事人情を求める民衆文芸として独立。さらに笠付や川柳風狂句を生み出した。〈あつい事也あつい事也/たまらずにそなたも蚊やを出た衆か〉〈世の中は大方うそとおもはるゝ/節季の貧は見えぬ元日〉(《すがたなそ》)。

  2013.01.16


86――「十牛図」が示す悟り P.198~199

 禅に「十牛図」(牧牛図とも言われる)というものがあるのをご存じだろうか。禅の悟りに達する課程が、十枚の図(時に四枚、六枚のものもある)で表現されている。

 中国の廓庵禅師によって描かれた「十牛図」が有名であるので、それをごく簡単に紹介しよう。

 第一図は「尋牛」と題され、一人の童が失われた牛を探している図である。

 それに「見跡」、「見牛」、「得牛」、「牧牛」と続くが題を見られてわかるとおり、童が牛を見いだして捕えて牧する課程である。

 第六図は「騎牛帰家」と牛に乗って家に帰るところである。

 第七図で話は急転し、「亡牛存人」となり、牛が消えうせ、人が残る。

 第八図は「人牛俱忘」とさらに徹底し、人も牛も消えうせ、ひとつの円が描かれる。

 第九図は「返本還源」で、川の流れと対岸に咲く花が描かれている。

 そして、最後の第十図は「入テン垂手(にってんすいしゅ)」と題され、これは街にはいって手をさしのべるという意味らしいが、ここで忽然と老人が現れ、老人と童が対しているところが描かれている。

 いったいそれがなぜ「悟り」なのかと言われそうだし、私も実はむずかしにことはわからないのだが、最後のところで、老人と童子が共存しているところに関心がわくのである。

 いったい二人は何を話しているのか。誰の心のなかにも住んでいる老人と童子の対話が、何かを生み出してくれると感じられるのである。


104――「自伝」を作るP.236

 年老いた親とつきあってゆかねばならならない人に、次のようなことをよくおすすめしている。

 それは一週間に一度とか、親に合う日を決め、そのときに思い出話しを聞かせてもらって、それを素材としながら、親が「自伝」を作られるのを手伝うのである。

▼はじめから堅苦しく「自伝」などと言わず、ともかく記憶に残っていることで、印象的なことを聞かせてもらうのである。

▼文章にしてみると、記憶ちがいが明らかになったり、もっと詳しいことが思い出されたり。その都度、修正を加えてゆく。こんなときに、ワープロを使用できる人は、ほんとうに便利だが、それほどワープロにこだわる必用もない。

▼そのうちに全体の構成を考えてみたり、すこしぜいたくにするなら写真を入れることを考えたり。完成したら何部かコピーを作って「おじいちゃんの米寿のときに、皆に配りましょう」などということにする。

▼このようにすると、酒好きの人がその日だけは酒をやめて張りきっていたり、「ぼけ」ているのではなどと周囲の人が思いかけていたのに、記憶がしっかりしていることがわかったり、といろいろなよい副作用がでてくるものである。

 これはなかなかおもしろいので、読者の方々のぜひにとおすすめしたいことである。
河合隼雄「老いる」とはどういうことか(講談社α文庫)より。

 私はこの方法は、親子の会話がすすみ、河合先生の言われる効果も素晴らしものだと想う。「自伝」を作るにも様々な方法があるものですネ。

参考1:『生きる―前田達治自伝―』が本棚にある。亡くなった母の兄である。岡山県御津郡横井村(現在:岡山市北区津高)の生まれでありながら、父の住んでいた広島県忠海町(現在:広島県竹原市忠海町)に結婚してきたいきさつを知ることができました私にとっては貴重な本

参考2: 自分史の指導を行いました。お読みいただければその趣旨をご理解いただけるものだと思います。

平成二十五年三月四日


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河合隼雄 (1928~2007)『日本人とアイデンティティ』(創元社)(昭和59年8月10日第1刷発行)59年8月購入

 自分が欲しているものを知っており、信念、性格、目的をもっている、非常にはっきりした、きりっとした人間は成功し、生み出し、創造する。

*参考:〈好きなこと〉は人間を生き生きとさせる力をもっている。(好きなこと)の無い人にはどうするのか。そのときは、それが出てくるまで待つのである。一年、時には二年待つ、何であれ(好きなこと)が出てくると、私は冬の後で草花の芽を見つけたような気持ちになるのである。

夕食のあとで散歩。星が輝いている空。雄大な銀河。ああ! それなのに私の心は重い。終わりの近づくにつれて、その日その日にかじりついている老人たちのあわただしい生き方というものが、私にはよくわかる。

   白隠とノイローゼP.304

 先日、天竜寺の平田老師と対談したときに、白隠禅師について興味深い話をお聞きした。白隠禅師と言えば五百年に一人の名僧として、名高いお方であるが、若い時にひどいノイローゼになって苦しんだというのである。私は浅学にして、そのような事実を知らなかったが、白隠禅師が後年になって、その当時のことを記述しているのを読むと、なるほど、れっきとしたノイローゼである。

 白隠禅師はこのノイローゼお自力によって克服し、その間に禅師の禅的体験も深まってゆくのだが、ここで取り上げたいのは、白隠禅師ほどの偉い方がどうして、ノイローゼになったのか、ということである。「ノイローゼ患者」などというと、どこか精神に弱いところがあるとか、何か悩みごとに負けてしまった人とか、ともかく、「普通以下」の人というように考える人が多いのではなかろうか。

 しかし、「悩みごとに負ける」などといっても、それがどのような悩みなのかが問題なのではなかろうか。白隠禅師は十一歳のときにふろにはいっていて、ふろを炊く火の音に地獄の責めのすさまじさを感じ、おそれおののいたことだから、よほど感受性が鋭かったのであろう。感受性が鋭いと、人一ばい悩みも深いはずである。それは単なる地獄のおそれだけではなく、地獄におちねばならぬ人間存在一般のことにまで拡大され、自分の悩みというよりは、人間の悩みを悩むという方が適切とさえ思われてくる。深く悩む人は、浅さく悩む人に比して、それとの戦いも激しく、従って、そこにノイローゼの症状も生じやすいであろう。このように考えると、ノイローゼの症状があるとからすぐに、その人を弱いとか普通以下とか判断することが、まちがいであることがわかるであろう。

 このような目で偉大な人の伝記などをみると、その人の人生における重大な転機において、精神的な障害に悩み、それを克服している事実が多いことに気づくのである。このために、このような状態を「創造の病」などと表現する人もあるくらいで、それが偉大な創造へのステップになっているとさえ考えられるのである。

 もっとも、ここに述べたことから、すべてノイローゼになる人は偉大であると速断されては困るのである。問題はそれをいかに克服するかにあるかことは、いうまでもない。

関連:『白隠禅師健康法と逸話』直木公彦


▼『働きざかりの心理学』(新潮文庫)(平成七年五月一日発行)1995年5月購入 文車

 いかに老いるか

 日本人の平均寿命も随分と長くなった。われわれが子どもだった頃は、六十歳などというとまったくの「おじいさん」と思ったものだ。七十歳は現在では、「古来稀なり」とは言えなくなってしまった。七十歳を超えて生きる人の方が多くなったのである。余程のことでもないかぎり、人間は誰しも長寿を願うのだから、このことは大変喜ばしいことだが、喜んでばかりもいられないというのが、実状ではないだろうか。というのは、寿命の延びた老人たちがいかにいきるか、とう問題が生じてきたからである。

 私は、二十年ほど以前に、はじめてアメリカに行ったとき、非常に印象に残ったことのひとつに、公園にたむろしている老人たちの姿があった。昼の公園には、多くの老人たちが坐りこんでいて、何もせずにじっとしているのである。つまり、彼らは社会からも家族からも「無用の人」とされ、ただ時間をつぶすために公園にいるのである。その当時、日本はまだ物資の不足に悩んでいた。しかし、日本の老人たちの方がアメリカの老人たちより幸福なのではないかと感じたことを、今でもよく覚えている。

 ところで、日本もその後急激な発展を遂げ、「先進国」の仲間入りをしたわけだが、それに伴って老人の生き方の問題も大きくなってきたわけである。文明が進むと、どうして老人が不幸になるのか。それは、文明の「進歩」という考えが、老人を嫌うからである。文化にあめり変化がないとき、老人は知者として尊敬される。しかし、そこに急激な「進歩」が生じるとき、むしろ進歩から取り残されたものとして、見捨てられてしまうのである。

 近代科学は、その急激な進歩によって人間の寿命を延ばすことに貢献しつつ、一方では、それを支える進歩の思想によって、老人たちを見捨てようとしている。この両刃の剣によって、多くの老人が悲劇の中に追いやられているのである。

 老人が、ただ年老いているというだけで尊敬される時代は過ぎてしまった。そこで、老人たちも「進歩」遅れてはならないと思う。老人たちは、そこで「いつまでも若く」ありたいと思いはじめた。若者に負けない力をもっていてこそ老人は尊敬を受けるのだから、老人も若さを保つ努力をしなければならない、というわけである。しかし、そんなことは可能であろうか。

 最近、私はスイスの精神療法家ユングについて『ユングの生涯』という伝記を書いた、そのとき非常に心を打たれたのは、彼の主著と呼ぶべき多くの著作が、七十歳以後に書かれていることを知ったことである。彼は八十六歳で死亡するが、死の一週間前も、なお机に向かって書きものをしたという。彼がこのような力を年老いても保つことのできた秘密はどこにあるのだろうか。

 ユングは「人生の後半」の意味の重要性をよく強調する。人生を太陽の運行の軌跡にたとえるなら、人間は中年においてその頂点に達し、以後は「下ることによって人生を全うする」ことを考えねばならない。人生の前半においては、上昇が中心の主題であり、社会的地位や家庭などを築くことが大切であるが、人生の後半においては、「いかにして死を迎えるか」に思いを致すことが重要である、というのである。生きることは、もちろん大切であるが、中年以降において、人間はいかに死への準備を完成してゆくかが大きな主題となるのである。

 これを聞く人によっては、奇異な感じを受けるかもしれない。七十歳を超えてから、壮者も顔負けの多くの仕事をなしとげた人が、いかに死ぬかということを強調するのはなんだか矛盾するように感じられないだろうか。しかし、実のところ、この点に老いることの逆説が存在しているように思えるのである。

 われわれは「老い」を避けることができたとしても、「死」を避けることはできない。従って、いかに死を受け入れるかは、いかに老いるかの中心問題であり、ここに不思議な逆説が存在していると思われる。

 癌の宣告を受け、手術不能といわれててから、医者の予期に反して長く生き続ける人があることは、最近よく知られるようになった。このような点を研究したあるアメリカの心理学者は、興味深い結果を見出した。つまり、癌の宣告を受けて、まったく気落ちした人は早死にする。それと同時に、何とかこれに負けずに頑張り抜こうと努力する人も早死にすることがわかったのである。

 それでは、長命するひとはどんな人であろうか。このような人は、癌に勝とうともせず、負けることもなく、それはそれで受け入れて、ともかくも残された人生を、あるがままに生きようとした人たちであった。これはもちろん、言うは易く、行なうは難いことである。しかし、勝負を超えた生き方が存在し、そこに建設的な意味があることを見出したことは素晴らしいことだ。

 人間は必ず死ぬのであってみれば、人間はすべて遅い癌になっているようなものなのである。若者の戦う姿勢を老いてそのまま持ち続けることも、弱気になってしまうのもよくない。しかし、そのいずれでもない「死の受け入れ」こそが、われわれの老年をより生き生きとしたものとするのではないだろうか。ここに老いの逆説が存在しているように思う。

 このように考えると、中年のときから死に思いを致すべきだと主張したユングが、死の直前まで、仕事をやり抜いた秘密もわかる気がするのである。いかにして若さを保つかに努力するのではなく、いかにして死を受け入れいれるかに力をそそぐことが、老いてゆくためにはたいせつである、その仕事は個人個人が中年から始めていくべきでことある。これにつては近代科学は答えを与えてくれない。P.205~208

2010.06.08


9

松原泰道『禅語百選』
曹源一滴水 泰道


 岡山には曹源寺がありますからねと、気持ちよく、この本の表の表紙のうらに書いて下さった記念すべき本です。

▼この本は1985年に買った文庫本です。著者が岡山県倉敷市に講演にこられたましたとき、署名していただきました。

 「禅書や禅語がむずかしくて、またわかりにくいのは、実は当時の民衆にわかるように、日常語や俗語で話されたり書かれたりしたからです。しかも俗語などは辞典に載っていないし、死語となったものが多いので、現代人の手に負えなくなったのです。このことは、英語などについても同じことが言えると思います。」と記述されています。

▼岡山市の曹源寺での日曜日坐禅会で原田老師に「禅語の生まれ」について伺いましたところ、同じ趣旨のことを言われました。
 私たちの使っている日本語についても、時代が少し古くなりますとその意味を知ることができません。「古語辞典」をめくらなくてはならないのと同じだと思えます。
参考:禅語の生まれ

▼「無事是貴」慈雲尊者の墨蹟が曹源寺の小方丈に掲げられていました。

  無事については、事故に巻き込まれたとき、無事でした、或いは「無事救出されました」。また「お元気ですか?」と挨拶されますと「おかげさまで家族一同無事にくらしていま、ご安心ください」などと、私どもは普段使っています。

▼『禅語百選』P.154開きますと、取り上げられていました。禅語としての「無事」は、ほとけや、道や、救いを、外や他に求めない心の状態です。臨済の言をかりるなら、「求心(ぐしん)歇(や)む処、即ち無事」です。

 私たちは、たしかにどろどろの真っ黒な煩悩(身心を悩ませる無数の精神作用)を持っていますが、人間を人間たらしめる純粋な人間性が埋みこめられているのです。だから、外部に求める必要がない、と理屈でなく実感できた状態が「無事」であり、その人が「無事の人」です。外に求めず、自分の中にわけ入って、もう一人の自分に出会う努力をせよと、禅は教えるのです。 

 禅では、この「もう一人の自分」・「宗教的無意識」を、自性(じしょう)とも、本来の人とも申します。この本来の人にめぐりあえてこそ貴人です。貴人とは「貴(とうと)ぶべき人」で、「貴族」ではありません。貴ぶべき人とは「ほとけ」です。

 臨済はほとけ(仏)という既成概念にとらわれるのを嫌い、多くの場合「人」と言っています。本来、仏は人を離れては存在しないの衆生を貴ぶのが禅のこころです。このように見てくると、「無事是貴人」は「無位真人」に通ずるものがあります。

 臨済は、また言います「無事これ貴人なり。但だ造作すること莫れ」と。
 つまり、いろいろと手を加えるな、そのままの本来のすがたであれ、ということです。 

▼以上の説明を読んでいますと白隠禅師「坐禅和讃」にものべられていると感じました。

 衆生本来仏なり     水と氷のごとくにて 

 水を離れて氷なく    衆生の外に仏なし

 衆生近きを知らずして  遠く求むるはかなさよ 
 (以下略)

 曹源寺での日曜日坐禅会の坐禅をはじめる前にに参加者一同が唱和しています。臨済禅師の「無事でありたいものです。

平成二十年二月二十七日

参考:禅語「無事貴人」


*追加:本文を掲載した日のある新聞の「ひと」欄に紹介されていた。

 65歳からの著書が130冊、なお書き続ける禅僧

松原 泰道 さん(100)

 モットーは「生涯現役、臨終定年」。(中略)一世紀見てきた日本。今、必要なのは? 
 「謙虚さでしょうね。現代人はおそれを知らない。最近は、おてんとうさまより内部告発がこわいからのですから」と結ばれていた。

平成二十年二月二十八日  


10

亡国の笑い


 西周の(せん)王をついだのが幽(ゆ)王である。幽王は申(しん)侯(白夷の後裔)の女(むすめ)を正妃にしていた。これが申后である。申后は宜臼(ぎきゅう)を生んだ。宜臼は太子にたてられていた。

 即位して三年、幽王はあるとき、後宮で見られない少女を発見した。もの悲しげなその顔には、はっとするような妖(あや)しい美しさがたたえられていた。聞けば褒(ほう)ー陝西省ーの領主がある罪をおかし、そのつぐないとして、最近、王の後宮にたてまつった女奴隷で褒の出身にちなんで褒娰(ほうじ)とよばれているという。幽王は、ひと目でこの少女に魅せられた。それからというもの、幽王の寵愛はただ褒娰のみにあつまった。そして、やがて褒娰が伯(はくふく)という子を生むと、正妃の申后とその子の太子宜臼を廃して、褒娰を正妃に、伯ふくを太子にたててしまった。(中略)

 幽王は、褒娰への愛にうつつをねかしてくらしたが、ただ一つ、満ち足りないものがあった。それは、褒娰が決して笑わないことだった。金銀・宝石をふんだんにあたえても、いかに美々しく装わせても、音曲の粋をこらして機嫌をとりむすんでも、褒娰は依然としてにこりともしない。。なんとかして褒娰の笑顔がみたいものだ―。 

 その日も、幽王は思いあぐねていた。そして無意識のうちに熢燧(のろし)をあげた。それは、都へ敵が来襲したことを遠方の諸侯に知らせるためのものだった。諸侯は、それぞれ軍隊をひきいて、すわとばかりに都にあつまってきた。しかし敵影はまったくない。楼台の上から幽王と褒娰が見おろしているだけだった。諸侯はぽかんとしてあいた口がふさがらなかった。と、そのさまがおかしいといって、褒娰がけれけらと笑い出した。その笑顔は、また一段と美しかった。幽王はすっかり有頂天になった。それから幽王は、褒娰を笑わせるためにしばしば熢燧をあげた。だが諸侯はこれを信じなくなり、兵の急行するものが減った。

 そのころ、前の妃の父である申侯は、娘や孫が不当に冷遇されたことから、幽王に対して怨みをいだき、犬戎(けんじゅう)や西戎(せいじゅう)とともに、突如として都を襲った。幽王は懸命に熢燧をあげさせたが、諸侯は動かず、一兵もかけつけるものはなかった。幽王は驪山(り ざんー陝西省のふもとで捕らえられ殺された。褒娰は西方の蛮地につれさられ、周室の財宝はことごとくうばわれた。申侯はは諸侯をまとめて、廃太子の宜臼をを即位させた。これが平王である。こうして平王が即位はしたものの、もはや周室の権威は地におちて、西方の蛮地の侵略をささえることができなかった。そのため平王は、都を東方の洛邑(らくゆう)にうつさざるをえなかったのである。東遷は西紀前七七〇年におこなわれた。

 以上は『新十八史略:天の巻』(河出書房新社)P.70~による。

 私は「狼小年」のイソップ物語を思い出していました。『イソップ寓話集』がどのようにして作成されたかは知りませんが、以上のような歴史的事実などを参考にしてできあがっているのではないかと想像しました。

平成二十年八月十六日


11

「管鮑の交わり」「刎頸の交わり」


管鮑の交わり

 題目は有名な話である。史記 列伝編の「管晏列伝第二」の記述から引いた。(筑摩書房)

 中国春秋時代

管仲夷吾(かんちゅういご)は潁水(えいすい)のほとりの人。若いころ、鮑叔牙(ほうしゅくが)と交友し、鮑叔は彼の賢いことを知っていた。管仲は貧困のあまり、よく鮑叔を欺いたが、鮑叔はいつまでも見棄てず、彼のすることに、とやかく言わなかった。やがて鮑叔は斉(せい)公子小白に仕え、管仲は公子糾(きゅう)に仕えたが小白が父の後を嗣いで桓(かん)公となるや、競争者の公子糾は敗死し、管仲ははとらわれた。しかし鮑叔は、あくまで管仲を推挙したので、管仲は登用され、斉の国政を担任した。このため斉の桓公は覇者となることができたのである。諸侯を九合し、天下を一匡(いつきょう)したのは、実に管仲のはかりごとによったのである。

 管仲は言った、「かつて私が困窮していたところ、鮑叔とともに商売をしたが、利益を分けるとき、私は分け前を多く取ったのに、鮑叔は私を貪欲とは思わなかった。私の貧乏を知っていたからである。かつて私は鮑叔のために事業を企てたが、失敗していよいよ困窮したのに、鮑叔は私を愚か者とは思わなかった。時に利・不利のあることを知っていたからである。かつて私は三たびとも君から逐(お)われたが、鮑叔は私を無能とは思わなかった。私が時の利にあわなかったのをしっていたからである。かつて私は三たび戦い、三たびとも敗れて逃げ出したのに、鮑叔は私を卑怯とは思わなかった。私に老母のあるのをしっていたからである。公子糾の敗れたとき、同僚の召忽(しょうこつ)は戦死し、私は幽閉されて辱しめを受けたが、鮑叔は私を恥知らずとは思わなかった。私が小節を恥じず、功名を天下に顕わせないのを恥としたのを知っていたからである。私を生んでくれたのは父母だが、私を知ってくれるのは鮑叔である」と。

▼管仲を推挙したのち、鮑叔は、みずから管仲の下風に立つて敬意をはらった。鮑叔の子孫は代々斉の俸禄を愛け、封邑を領有すること十余代、常に名大夫(めいたいふ)として世に聞こえた。されば天下の人は、管仲の賢をほめるより、むしろ鮑叔の人を知る明をほめたたえた。(略)『史記Ⅱ』P.7

『新十八史略 天の巻』(河出書房新社)P.92には

 斉の宰相となった管仲は、鮑叔牙(ほうしゅくが)の眼に狂いはなく、大手腕を発揮した。なんらの門閥の背景を持たず、実力によってのし上がったかれは、古いものにとらわれる必要がなかった。

▼――倉稟(そうりん)(米倉)満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱(名誉と恥辱)を知る。『管子』

 この言葉こそ、管仲が現実主義の政治家であることを如実に物語っている。経済がすべての根本だと考えていたかれは、斉の地理的条件から、製塩業と農具製造業とを国家の統制のもとにおいた。こうしてかれは着々と、裏づけのある富国強兵策をとったのである。その政策はは『管子』七十六篇に伝えられている。

 (七言古詩 杜甫「貧交行」)の詩がある。 

 手を翻せば雲と作り(てをひるがえせばくもとなり) 手を覆せば雨(てをくつがえせばあめ)

 紛紛たる輕薄(ふんぷんたるけいはく) 何ぞ數うるを須いん (なんぞかぞうるをもちいん)

 君見ずや管鮑 貧時の交わり きみみずやかんぽう ひんじのまじわり

 此の道今人棄てて 土の如し 此の道今人(こんじん)棄てて土の如し

参考:伊藤 肇『人間的魅力の研究』(日本経済新聞社)P.215~216にも引用説明されています。

平成二十二年十月二十五日


刎頸の交わり

 筑摩書房『史記Ⅱ』列伝篇  廉頗藺相如列伝第二十一P.118~ に詳しく述べられている。

 『正法眼蔵随聞記』(岩波文庫)P.96~P.99にも取り上げられている。
 まずそれについて述べる。

▼むかし、趙(ちょう)の藺相如(りんそうじょ)と云ひし者は、下賎(げせん)の人なりしかども、賢なるによりて趙王にめしつかはれて天下の事をおこなひき。趙王の使ひとして、趙璧(ちょうへき)と云(いふ)玉を秦の国へつかはせしめたまふ。かの璧を十五城にかへんと秦王の云し故に、相如に持たせてつかはすこと、国に人なきに似たり。余臣(よしん)のはじなり。後代のそしりなるべし。みちにて此の相如を殺して璧を奪ひ取らんと議しけるを、ときの人ひそかに相如にかたりて、此のたびの使を辞して命を保つべしと云ひければ、相如云く、某(それ)がし敢えて辞すべからず。相如王の使として璧を持て秦にむかふに、佞臣の為に殺されたると後代に聞こへんは、我ためによろこびなり。我が身は死すとも賢のなは残るべしと云て、終(つひ)にむかひぬ。余臣も此の言(こと)ばを聴て、我れら此の人をうちうることあることあるべからずとて、とゞまりぬ。

▼相如ついに秦王に見(まみ)へて璧を秦王にあたふるに、秦王十五城をあたふまじき気色(けしき)見へたり。時に相如、はかりごとを以て秦王にかたりて云く、その璧にきずあり、我是れを示さんと云ひて、璧をこひ取りて後に相如が云く、王の気色を見るに十五城を惜める気色あり、然あらば我が頭(こう)べを銅柱にあてゝうちわりてんと云て、瞋(いか)れる眼を以て王をみて銅柱のもとによる気色、まことに王をも犯しつべかりし。時に秦王の云く、汝ぢ璧をわることなかれ、十五城を与ふべし、あひはからんほど汝ぢ璧を持べしと云しかば、相如ひそかに人をして璧を本国にかへしぬ。

▼後に亦潬池(めんち)と云ふ処にて趙王と秦王とあそびしに、趙王は琴琶の上手なり。秦王命じて弾ぜしむ。趙王相如にも云ひ合せずして即ち琴琶を弾じき。時に相如、趙王の秦王の命に随へることを瞋て、我行て秦王に簫(せう)を吹かしめんと云て、秦王につげて云く、王は簫の上手なり、趙王聞んことをねがふ、王吹たまふべしと云しかば、秦王是を辞す。相如が云く、王若し辞せば王をうつべしと云ふ。時に秦の将軍、剣を以て近づきよる。相如これをにらむに両目ほころびさけてげり。将軍恐て剣をぬかずして帰りしかば、秦王ついに簫を吹くと云へり。

亦後に相如大臣となりて天下の事を行ひし時に、かたはらの大臣、我にまかさぬ事をそねみて相如をうたんと擬する時に、相如は処々ににげかくれ、わざと参内の時も参会せず、おぢおそれたる気色なり。時に相如が家人いはく、かの大臣をうたんこと易きことなり、なんが故にかおぢかくれさせたまふと云ふ。相如が云く、我れ彼をおそるゝにあらず、我が眼を以て秦の将軍をも退け、秦の璧をも奪ひき。彼の大臣うつべきこと云ふににも足らず。然あれどもいくさ起しつはものを集むることは敵国を防ぐためなり。今ま左右の大臣として国を守るもの、若し二人なかをたがひていくさを起して一人死せば一方欠くべし。然あらば隣国喜びていくさを起すべし。かるがゆへに二人ともに全ふして国を守らんと思ふ故に、彼といくさを起さず云ふ。かの大臣、此のことばを聞てはぢて還(かへり)て来り拝して、二人共に和して国をおさめしなり。相如身をわすれて道(だう)を存ずることかくの如し。今ま仏道を存ずることも彼の相如が心の如くなるべし。寧(む)しろ道ありて死すとも道無ふしていくることなかれと云云。

私見1:「徳は弧ならず、必ず隣あり」の言葉どうりである。

  2:道元の時代(1200年ころ)、中国の歴史が読まれていることがよくわかる。

『新十八史略 天の巻』(河出書房新社)P.241によると

▼廉頗はさきに趙が秦とともに斉に侵攻したさい、昔陽を落とす大功を立てて上卿に任じられていたが、左右の大臣の時の話はやがて廉頗の耳にも届いた。はじめて相如の心を知った廉頗は、藺相如がめきめき出世し上卿に昇り、しかも自分の上席に着くことになったのである。かれは、

 「わしは軍勢をひきいて戦場を駆逐し、大功を立てて上卿となった。しかるに藺相如は口先ひとつでわしのうえにすわる身分にのしあがった。しかもあいつは素性も知れぬいやしい男。あんな男の下風に立つことなど、このわしにはとてもできん」と不満を洩らし、人前もはばからずに、

 「相如に会ったら、かならず恥をかかせてやる」

といいはなった。これを耳にした相如は、以来、ひたすら廉頗と顔を合わせることを避け、病と称して朝廷にもでなくなった。また出先で廉頗と行きあったりしようものなら、はるかにその影を望んだだけで倉皇として脇道に逃げ込むという始末。あまりの腑甲斐なさに、部下から愛想づかしをされたこともあった。すると相如はその部下にたずねた。

 「おまえは廉頗将軍と秦王と、いずれをより怖れるか」

 「もちろん秦王でございます」

 その秦王をすら宮中で叱咤し、あの秦の臣下たちを辱しめたわたしだ。いかに鈊才とはいえ、廉将軍を怖れるようなわたしではない。ただ、あの強国秦がわが国に手をだしかねているのは、ひとえにわれわれふたりがいるからこそである。しかるに、そのわれわれが争えば、いずれか一方の死は免れがたい。廉将軍を避けるのは、国の危急を思えばこそだ。

 此の話は、やがて廉頗の耳にも届いた。はじ、めて相如の心を知った廉頗は、当時の作法にのっとって裸の茨の笞を背負い、相如の邸を訪ねた。そして、相如のまえに平伏した。

 「わたしはまことにくだらぬ男である。あなたの心かほどまでに寛大であることを知らなかった」

 以来、ふたりは”刎頸の交わり”(友のためにおのれの頸を刎ねられるとも悔いのないほどの仲)を結んだのである。

▼この話のような「刎頚の交わり」のできる人が一人でもある人は心強い人でしょう。歴史で人物について教えられて、少しでも人間的向上したいものだと思います。

平成二十年八月二十四日、平成二十三年二月五日再読・追加。平成二十三年六月二十八に再々読。


12

一冊の本を焼却する


 私の一冊の本のカバーにつぎの歌をペン書きした本。ページをめくると書き込みもしている茶色に日焼けしている三木 清・著『人生論ノート』(創元社) 昭和廿一年十月一日 十九版発行の本があります。

 Home, Sweet Home

 'Mid pleasures and palaces though we may roam,
 Be it ever so humble, There's no place like home.
 A charm from the skies seems to hallow us there,
 Which seek thro' the world, is ne'er met with elsewhere.
 Home! home! sweet sweet home;
 There's no place like home,
 There's no place like home!

  By J.H.Payne

▼J.H.Payneをインターネットで検索すると、イギリスの歌ですが、H.R.Bishop (1786-1855)作曲の「Home, Sweet Home」という歌があります。(映画「火垂るの墓」のラストに流れていました。) 原詞は、アメリカ人、J.H.Payne (1791-1852) によるものとありました。

 この記事には第二節も記載されていました。

 An exile from home splendor, dazzles in vain;
 Oh! give me my lowly thatched cottage again;
 The birds singing gaily, that came at my call:
 Give me them with the Peace of mind, dearer than all.
 Home, home. sweet, sweet, home!
 There's no place like home,
 There's no place like home.

 日本語に翻訳されていましたので参考までに。

楽しみながら、素晴らしい家々を訪れ、旅して歩くこともあろう。しかし、たとえ粗末な家でも、我が家ほどの場所は他にない。空の美しさが我が家では心を清めてくれる。世界中で捜し求めたもの、それはけっしてどこか他の場所で出会えるものではないのだ。我が家、我が家よ、温かい我が家よ、我が家ほどの場所はない。我が家ほどの場所はない!

我が家から離れ、華やかなものに目が眩んでしまった。虚しいだけだった。ああ、もう一度みすぼらしいわらぶきの田舎家を私にお与えください。鳥は楽しげに歌い、私が呼べば来てくれた。それらを私にお与えください。何物にもまさる貴い心の安らぎと共に! 我が家、我が家よ、温かい我が家よ! 我が家ほどの場所はない。ああ、我が家ほどの場所はない。

▼本棚にある読みたい本を探していますと、昭和四十九年十二月の新潮文庫の同じ本がありました。

 私は二冊の本もあり、古い本を処分すべきか、保存すべきか考えましたが古いもの(愛着を断つのは難しいものです)を処分しようときめました。

 読書家の先輩が古本屋に本を売ったとき、リヤカーで運ばれているのをみていると一抹の淋しさを話してくださったことをおもいだしました。

 ただの一冊の本を処分するにも愛着未練をもつようではどうしようもないな……。

▼本を沢山持たれている方は、本の処置をどうされているのだろうか?などおもっていますと、ふとおもいだしたのが「針供養」「筆供養」の行事でした。長い間、使ってきた愛用の品物に感謝の気持をこめて行われている伝統ある風習でしょう。私はこの行事にあやかり「本供養」しようと。

 我が家の庭に穴を掘り、その中でこの本を焼却することにしました。燃え上がる焔、煙をあげて灰となりました……。これでよかった、空を見上げました。

平成二十二年三月二十九日


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渡辺淳一「死化粧」 無料全文公開


22.05.05 朝日新聞の広告欄に表題の説明があり、外科医の私は、瀕死の母親の肉体にメスを入れる―。

 その日一日、私は休みなく働いた。夕方一休みした時に昨日の午後に買った煙草がまだ残っているのを知って今更のようにそう思ったのだ。(中略)

 二頁も読まないうちに電話のベルが鳴った。「もしもし」という語尾の重い訛りで、それが兄の声だと直ぐ分かった。「今夜弘子姉さんの処で皆が集まるのを知っているだろう」私は勿論忘れていない。「七時からと言ったけれどもう皆集まっているから少し早めに来ないか」というので、私は「直ぐ行く」と答えた。
 母が私の勤めている大学病院の脳外科に入院してから既に一か月になっていた。

―続きはWEBで

私見:本は紙で書かれていたのは昔のことであるのか。電子技術の進歩で私たちはWeb検索で多くの事をしることが出来ます。小説がWebで無料全文公開され、それを読むことができることを知ることができました。今後、こんなことが何かの意図(書店の宣伝など)で行われることがふえるのではないかと

 以前、ある会社から「貴方のホームページを電子本にしませんか?」のメールが飛び込んだことありましたのを思い出しました。

平成二十二年五月五日


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『日本語の年輪』


『日本語の年輪』

 紀田 順一郎『知の知識人たち』(新潮社)の「辞書の年輪」 新村出と『広辞苑』P.173 を読んでいると広辞苑の編集が再開されたとき、当時新進の大野 晋が中心となって再検討を行い、記述の見直しを行ったとの記述に出会った。

▼大野 晋著『日本語の年輪』(新潮文庫)が手元にあり、子供の頃、教えられた言葉、そして大人になりつくる言葉などさまざま日本語の年輪を丁寧に説明されている、とても私達には参考になる。

 P.20 例えば、今日は「うつくしい花」「美しい着物」のように「うつくしい」は、広く美を表わす言葉として使われている。 しかし、奈良時代の人たちは、完成したばかりの寺々の赤、緑のいろあざやかに塗られたお堂や塔を見て、「うつくしい」と言っただろうか。また、秋の紅葉、初夏の新緑を見て「うつくしい」と言ったろうか。それらを「うつくしい」と言うことはなかったろう。何故なら、「うつくしい」は当時次のように使われていたからである。

 遠い九州の防備のために筑紫へ遣わされる関東の人たち、防人(さきもり)の歌が万葉集>の中にある。

  〽あめつちのいづれの神に祈らばかうつくし母にまた言問はむ

「天地のどの神様に祈ったならばうつくしい(ヽヽヽヽヽ)母に再び言葉をかわすことができるだろうか」

 また、有名な山上憶良は、

  妻子(めこ)見ればめぐしうつくし

と歌っている。「妻子(めこ)」とは、「め」は女または妻、「こ」は子供である。妻や子供を見ると「めぐしうつくし」と感じたのである。「めぐし」とは、今日「めんこい仔馬」という童謡のあるあの「めんこい」の古形で、今日の方言では、「めごい」「めんごい」などという地方もあり、可愛いという意味である。ここにあげた二つの場合の「うつくしい」は、親に対する愛情、妻子に対する愛情を表している。

「うつくしい」は、「万葉集」では、このように夫婦の間や、父母、妻子、また恋人に対する非常に親密な、肉親的な感情の表現である。

 平安時代の女流文学では、「うつくしい」は小さい者への愛情の表現に変ってくる。「枕草子」では、人がねずみ鳴きをして、ちゅうちゅうと呼ぶと、雀の子が飛んでくるのを「うつくしい」と言っている。また二つ三つばかりの赤子が、急いで這ってくる途中にこまかい塵があったのを目ざとく見つけ、小さい指に取って大人などに見せたのは、たいへん「うつくしい」と書いてある。そして「なにもなにも小さき者はみなうつくし」と言っている。つまり、「うつくしい」は小さい者への愛情、あるいは可憐の感情を表したもの、と言っていいであろう。 」

 このようにして、「うつくしい」は、肉親の愛から小さい者への愛に、そして小さいものの美への愛に、さらに室町時代になってから、ようやく美そのものを表すようにと、移り変って来たのである。

 私達が今日使っている言葉の表わす意味の移り変わりが多く記載されている。

 P.114 「くやしい」とは現在、「口惜しい」と書いたりする。あたかも、残念さのために口をきくのも惜しいという気持を表現しているかのようである。しかし、「くやしい」と「くちおし」とは、平安・鎌倉時代には、何百年もの間はっきり使い分けられていた。

 恋しい男が訪ねて来てくれたかと馬の足音に聞き耳を立てていると、その足音は通り過ぎてしまう。これは「くちおしい」ことである。昨日まで積もっていた雪が、一晩のうちに思いもかけず消え去って、いまいましく、「くちおしい」。また、並びない琵琶の名器を盗人が台なしにしてしまって「くちおしい」、つまり、「源氏物語」「古今著聞集(ここんちょもんじゅう)」などでは、期待に反し、予想にはずれ、心に描いていた大切なものが駄目になったとき、「くちおし」という。「くちおし」とは、口が惜しいのではなく、ものが朽ちるのが惜しい「朽ち惜し」が、その語源と思われる。

「平家物語」に、平 重衡(たいら の しげひら)捕えられ、奈良に連れて行かれて斬られる話がある。その前に、一度いとしい妻に逢いたいという。日野という所で対面する機会を作ってもらう。そのときの言葉に「こんな風に生きたまま捕えられて、大路をを引いてあるかされ、京都、鎌倉に恥をさらすだけでもくちおしい」と言っている。自分の意図に反してしまって残念だという意味である。

※参考:『平家物語』(角川文庫)下巻 P.229 「中将、涙にくれて行先(ゆくさき)も見えねば、(こま)をもさらに早め給はず。なかなかなりける見参かな、と今はくやしうぞと思はれける。」

 「くやしい」とは、しなければよかったと後悔されることである。「くちおし」は予期した像のこわれるのをなげき、「くやし」は過去のの自分の行動をなげく。そこに大きな差がある。

 室町時代の狂言になると、ゆえもない成敗をしたとあっては後難があろう。それでは「口惜しい(ヽヽヽヽ)」といっている。これも、予想外ことが起るといけないということだが、これを残念だと置いても理解できる。こうしたところから、「くやしい」と「くち惜しい」とが次第に混同し始めるようになって来た。それで、今では、言葉は「くやしい」が残り、文字の上では「口惜しい」という字が残って、それを「くやしい」とよませるようになった。

▼私はこの本をよみ大野 晋さんが、「なぜ、こんなに日本語について万葉の時代から今日にいたるまでの年輪に詳しいのだろうか?」と思っていた。

▼たまたま、『私の文章修業』(週刊朝日編ー朝日選書)に大野 晋さんは「私は古典語の辞書を作る仕事を引き受け、奈良・平安時代の文学語、約二万語に付き合ったことがある。(中略)万葉集の全部の注釈、日本書紀の全部の訓読をなし終えて、源氏物語、枕草子などを中心とする平安時代の文学語に向い合い、一語一語扱う作業に、合計約二十年をついやした」の記述を読み、長年の国語学者でなければ著されない本であると納得できました。

※プロフィール:大野 晋(おおの すすむ)(1919年~2008)は、国語学者。文学博士。学習院大学名誉教授。

平成二十三年一月十六日


15

三顧の礼


 民主党の第二次組閣にあたり、「たちあがれ日本 共同代表」の与謝野氏を 内閣府特命担当大臣経済財政政策少子化対策男女共同参画)社会保障・税一体改革担当閣僚に「三顧の礼」をもって迎えたとのことである。

 少し中国の歴史を貝塚茂樹著『中国の歴史 上』(岩波新書)で調べることにしました。「三国の分立」の項目の中に「三顧の礼」が述べられていました。引用します。P.207

▼一九〇年後漢の献帝が董卓に強制されて西の長安にうつされてからのち、漢帝国の威権はおとろえ、ほとんど無政府の状態におちいった。関東つまり河南省以東野の中原では軍閥が地方に割拠して、十九年の長期にわたって、はげしい戦争が交えられた。もっとも有力なのは士族のなかの名家袁紹で、ほぼ河北、山西両省を領した。これに次ぐのが曹操で、山東省から河南省に進出し、献帝が長安から脱出して帰ると、いち早く本拠の許(河南省許昌県)に迎え、漢の帝室をもりたて、漢朝につくすという勤王の美名のもとに、天子を人形のようにあやつって、急に威権は強大となった。袁紹を官渡の一戦に破って河北を手中にいれた勢いに乗じて中原に侵入し、河北の北辺によっていた烏桓(うがん)(また烏丸ともいう)を服属させ、東北に独立していた公孫度(こうそんど)もその部下になった。

▼華北の大部分を制圧した曹操は南下して揚子江中流の武漢の要衝をふくむ荊州に向かった。この地方の政権をにぎっていた湖北の襄陽(じょうよう)の劉表が病死してあとをついだ子の劉琮(そう)は曹丕は曹操に降伏してしまった。劉表のもとには漢の王室の遠い分家である劉備が身を寄せていた。かれは黄巾の賊を討つためたちあがった士族の一人であったが、四方に流浪して志をえず、一時は曹操にぞくしていた。曹操が勤王を叫びながら、漢王朝にとってかわる野心をいだいているのを見破って、これを除こうとはかって失敗し、劉表のもとに亡命していたのである。劉備はかくれた学者の諸葛亮(しょかつりょう)の計をいれて、揚子江下流の南京に割拠していた孫権(そんけん)と同盟して曹操にあたった。

 いじょの歴史的経過をへて、劉備が諸葛孔明を迎えたときのはなしである。

三顧の礼

 劉備は後漢の名儒盧しょく(ろしょく)について経学(けいがく)を修め、曹操にくらべると正統の学門の素養を受けている。しかし、ひと筋に学門を勉強するには社会的関心が強すぎた。豪侠と交を結んで青年時代をおくったが、おのずから人徳があって衆の信望をえた。曹操も「天下の英雄は君と僕だけだ」というほど彼を認めていた。三十六歳の劉備は七歳年少の諸葛亮の隠れ家を三度訪問し、かれに参謀として出馬することを承諾させた。三顧の礼によって諸葛亮を招いた美談はたいへん有名となった。このとき諸葛亮が献じた天下三分の計が余りにも、その後の三国分立の情勢と一致しているので、後世でつけ加えた談義ではないかと疑う学者もある。天下三分の計なるものは当時他の政客も思いついているから、文辞のすえにはある程度後世の修飾がまじっていても、大体は、諸葛亮(字(あざな)は孔明の原案と見てよい。

 曹操は劉表の水軍をあわせて十六、七万、八十万の大軍と号して、江陵(こうりょう)から江にそって東下し赤壁(せきへき)にいたった。孫権のつかわした名将周瑜(しゆうゆ)はわずか三万の水軍をもってこれに対した。周は風向きをはかって、火舟を放ち、曹の軍船を焼いたので、曹操は大敗北をきっして命からがら北に軍をかえした(二〇八年)。赤壁の戦いは中国の歴史の運命をかえる大決戦の一つであった。もし曹操がこの戦闘に勝利をおさめていたならば、魏の統一帝国がその後誕生し、曹操の優れた政治的手腕によって、かなり強固な安定した国家をつくりあげえたにちがいない。幸か不4幸かみじめな敗戦をくらったため、孔明が予言したように、曹操、劉備、孫権の三国が分立する形成が確定した。

▼『三国志事典』(岩波ジュニア新書)によると、諸葛亮は、奇謀の軍師とか軍略の天才というイメージをもたれているが、じつさいのかれの軍事的才能はどうであったか。正史の著者陳寿は、その政治的才能は管仲・粛何に匹敵すると最大限の賛辞をおくりながら、連年、軍を動員しながら目的を達成することができなかったのは、臨機応変の戦略戦術に長じていなかったからではないか>との疑問を呈している。P.94 

平成二十三年二月六日


16
知の職人たちー辞書の編集関連ー

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 紀田順一郎『知の職人たち』(新潮社)には、吉田東ご(人偏に漢数字五)と『大日本地名辞書』、石井研堂と『明治事物起原』、斎藤秀三郎と『斎藤和英大辞典』、日置昌一と『話の大事典』、巌谷小波・栄治と『大語園』、新村出と『広辞苑』について述べられている。

 一般的に一番多くの人に用いられて辞書は広辞苑ではないでしょか。私は『大日本地名辞書』で故郷の記事を図書館で調べたことがあり、『斎藤和英大辞典』が手許にあります、他の四つはまだ見たことがありません。
 私の手持ちの新村出『広辞苑』の奥付は次のものでした。
 昭和三十年五月二十五日 第一版第一刷発行 広辞苑
 昭和三十九年八月一日  第一版第十三刷発行 定価二三〇〇円のものしか買っていなくて表紙はテープで補修理して未だに愛用しています。最新版は第六版 2009年1月20日 定価15,450円(税込み)である。

 新村出は明治九年(一八七六)山口市に生まれた。幕臣であった関口家の二男であるが、父が山形県知事から山口県知事に転任した後に生まれたというので、「山」を二つ重ねて「出」と命名された。同じ幕臣新村家の養子となり、高校時代には電気工学を志望していたが、数学や理科より国文や漢文の成績がよかった。明治二十九年(一八九六)東京帝大文科大学博言学科に入学、金田一京介らとともに上田万年(かずとし)の教えを受け、三年後に首席で卒業した。この年からはじまった銀時計を、明治天皇から授与され、感激したという。大学院では国語科を専攻した。

 東大助教授を経て京大助教授に転じ、ドイツ、イギリス、フランスに留学して言語学を研究、明治四十二年(一九〇九)帰朝して教授に進み、学位を得た。ぞの功績は、実証的方法を通じてわが国の国語学の基礎を築いたこと、キリシタン文献に関する書誌的研究を行ったこと、語源・語誌の研究を行ったことなどである。

 このような経歴を持ち、東西にわたる博識を有する学者として、夙に高度の学問的辞書の必要性を感じていたことは当然だった。彼の国語辞書に関する理想は、「日本辞書の現実と理想」(一九三四)という、講演をもとにした文章に述べられている。それは要約すれば次のようになるだろう。※要約部分は略。

 ――新村出は現実と理想について具体的に述べたあと。「辞書は一部の人の役に立つ丈(だけ)のものではなく、最多数の色々の目的を持つ人に役立つものであって、痒(かゆ)い所に手が届く様にありたいのである。非常に深い専門家は別として、他の専門家のものも一通り調べようとする時、大辞書から一通りは分らないことのない様にしたいのである」と結んでいる。

 懇意の岡書院の社長、岡茂雄から辞書の編纂を依頼された。しかしにベもなく断ったのである。

 ほとんどの辞書は編者自ら執筆するものではないから、版元としては要するに適当な実務担当者を推薦してもらえばよいということになる。溝江八男太(やおた)は新村出の教え子で、『大日本国語辞典』の編集者松井簡治の門下生であったが、国語教育者としてはともかく、辞書編纂の最適任者というほどでなかったろう。もしかしたら溝江が断ることをアテにしていたのかも知れない。しかし溝江は現場の教育者として、よい国語辞書の必要を痛感していたところだったので、「私の意見を容れてくださるなら、及ばずながらお手伝いしましよう」と返事をしてきた。岡茂雄の喜びが眼に浮かぶが、一方の新村出は複雑な思いだったかも知れない。ともかく、辞典はこのような経緯でスタートした。

 溝江は言語学者ではなかったから、その辞書の理想というのは現実的なもので、国語辞典と百科事典とを兼ねたような中型辞書というにあった。新村が講演で触れたウェブスター方式である。このため編纂が開始されると、当初の予定枚数を遥かに越えることが明らかになってきた。岡としてはいまさらやめるとも言い出しかねて、企画じたいを博文館に譲ってしまったのである。

 博文館は新村出という名前すら知らない出版社だったから、両者の間に意志の疎通を欠く面もあったと言われている。新村としても、自ら全力投球という仕事ではなかった。かなりの部分を縁故のある学者、研究者に任せる形で編集が進行し、前後四年あまりで完成ということになったのである。昭和十年(一九三五)二月のことであった。なお、書名は晋の葛洪(かつこう)の『字苑』からヒントを得て『辭苑』とした。 

 博文館は新村出という名前すら知らないほどだから、ひそかに売れ行きを案じ、ていたが、蓋を開けてみると大好評で、増刷も間に合わないほどであった。刊行一年目に八十版、五年間には二百六十版を重ねるという盛況に、版元は大いに喜んだ。

  無限に続く修正

 岡茂雄の回想によれば『辭苑』改訂のプランは初版発行後一カ月もたたないうちに開始されようとしている。これは一般向けの辞書としては異例であるが、察するに予想外の多数の読者を獲得したため、誤りの指摘なども多かったのであろう。辞書とはそういうものだが、岡としては、ただ新村のなに傷をつけたくない一心だったと思われる。
 ところが新村は書肆の処遇に何かと癪にさわるものがあったらしく、手を引きたいという意向を示した。温厚な彼としては珍しいことであったが、岡は「これまでは博文館相手の仕事と、とれもしましたけれど、辞書が出来上がってたくさんの読者の手に渡った今では、読者と編著者という関係になります>と説得、新村も考えを改めて、改訂作業にはいることにした。岡としては自然に口をついて出た言葉だったろうが、これは『広辞苑』という辞書の性格を決定づけた重要な出来事だった。つまり編者の意志を離れたところで、辞書そのものが独立しはじめたのである。つまり、これからむしろ『広辞苑』の本当のドラマが始まるのだ。

『広辞苑』誕生の第一幕の主役は岡茂雄であったが、第二幕のそれは新村出の二男の猛(フランス文学者、一九〇五~一九九二)である。彼自身が著した『「広辞苑」物語 権威の背景』(一九六九)に詳しい。それによると、増補改訂版の刊行目標は昭和十五という慌しさで、すでに作業は開始されていた。やがて戦局の進行が予断を許さないものとなり、協力者たちが続々招集されて行くような事態となってきた。そのうちに用紙統制がはじまり、あまっさえ印刷所が空襲に遭って組版が焼失してしまうという不運に陥った。不幸中の幸いと言わんか、校正の清刷(きよずり)は残ったので、それをもとに作業を続けたが、疎開のために止めて行く人も出るようになり、ついに編集は中絶の憂き目を見ることになってしまったのである。編者のもとには二万円の借金だけが残った。『大日本地名辞書』における吉田東ごの場合によく似ている。

 現在の金額にして数千万円という大金を返済するためにも、辞書は完成されねばならなかった。困ったことに博文館は戦後の混乱によって経営が不安定になってきたので、やむなく、かねて新村出の著作を出版した縁故のある岩波書店に継承してもらうことにしたのであった。もともと岩波茂雄は、かって岡から『辭苑』の継承を求められたことがあって、その時はたぶん別の辞典企画に全力を傾注したいがために、体よく断ったという経緯がある。

 岩波茂雄としては、ほとんど原稿も出来上っているのだから、あとは容易に刊行し得るという、いわば高をくくった考えがなかったとは言えないだろう。しかし、事業はそこから十年という長い編集期間を要してしまったのである。

 『広辞苑』第一版は昭和三十年(一九九五)五月に刊行された。ちなみに岩波書店は版次の表現を「第一版」「第二版」というように統一している。第一版のマイナー・チェンジは「第一版第二刷」である。改版するなど、大きな変化があると、その時点で「第二版」ということになる。

 『辭苑』から数えれば、戦争をはさんで二十年ぶりの改訂版である。

「一冊の辞書」を問う

 書物というものは、ひとたび著者の手を離れてしまうと、一人歩きをしてしまう。『広辞苑』第一版は、編集者サイドから見れば検討を要する部分が多いものだったにせよ、一般には最も頼りがいのある辞書の一つと受けとめられ、愛用者が増加していった。その例証の、ほとんど最初のものと思われるのは、刊行後数年を出ずして現われた戸塚文子の賛辞であった。彼女はそのころ朝日新聞に連載されていた「一冊の本」という、各界名士が愛読書を語る連載コラム(のち雪華社刊)に本書をとりあげたのである。他の人々が文学・思想書ばかりを取りあげている中で、これはかなり異色の選択だった。
 その少し後、宮尾登美子は「事情あって」家財道具をすべて売り払い、土佐から上京してきたが、蔵書のいっさいを手離しても、『広辞苑』だけは手離さなかったという。
 「上京後のどん底生活のなかで、本を買う金さえなかった私が、どれだけこの『広辞苑』によって助けられ、慰められたことだろうか。読みはじめるとおもしろくなってやめられず、そのうち、この本から得た知識が自分の頭のなかで散逸してしまう惜しさに気がついてノートをとりはじめたが、これがこんにちの私の小説ことばの原型となってしまったのである」(朝日新聞「私の一冊」一九八三年一月七日)
参考:宮尾登美子『蔵』

 尚この本には色々書かれていますが、省略します。
 多くの先人の辞書の辞書作りの情熱とその編集の継続を思い、その受けている恩恵に感謝を込め、この本の紹介を終わります。


▼三国一郎『鋏と糊』(自由出版社)に「辞典編集者たち」の章に「広辞苑」の記載があるのをみつけた。その要点をのべます。

 新村博士の「広辞苑」の前身にあたる「辞苑」の版元は博文館で、私の持っているいる二十五版の奥付けを見ると、初版が出たのは昭和十年二月五日になっています。この古い「辞苑」は、終戦の年に中尉で戦病死した弟のものであった。

 戦後新装の「広辞苑」初版が出たときはいち早く購入して、座右の本当に「字引く書なり」として愛用しましたし、初版から十四年に第二版が出たときも、発売日の五月十六に、てにいれてました。

 それだけに「朝日ジャーナル」の十月十九(昭和四十三年)号の誌上で、広辞苑第二版に「誤りが数百カ所あること、書店が著者の意向を無視して出版を強行したこと」を著者側の代表者新村猛が新聞に語っている、と知った時はかなりショックをうけました。

 「広辞苑」第二版のミスについて最初に岩波書店に訂正が申し入れられたのは、発売直後の六月のことで、香川県小豆郡土庄町の教育委員会が、「オリーブの葉は対生なのにさし絵が互生になっている。開花の時期や名称などの記述にも問題点がある」と申し入れたとのとのこと。

 つづいて大阪大学微生物研究所の藤野恒三郎教授が「腸炎ビブリオ」の項の最後にある「アジア・コレラの代表的なもの」との一文につき「この説明ではアジア・コレラの病原体(コレラ菌)はビブリオ属には違いないが、あくまで異種だ。つまりアジア・コレラの病原体と腸炎ビブリオは兄弟だ」と指摘した、とあります。

 新村猛、「岩波書店広辞苑編集」はこたえている。(内容省略)以上P.191~

※余談:黒崎も一度「ひつじ」の開花時刻と未(ひつじ)の時刻との関連について岩波書店に約一カ月にわたる観測結果を添えて手紙を書いたことがあり、返信をいただいた経験がある。

 「広辞苑」は国語辞典であるととともに二十万項目を網羅した”ミニ百科事典”でもあり、とても一人や二人の編者でつくれないところに、このような素因があるのではないでしょうか。ミスを完全になくすことは海水の中の大腸菌を絶滅するのと同じように至難なこと、といったら編集スタッフや版元に大変失礼にあたるでしょうが、恩恵に浴することの余りにも多い私たちとしては、いたずらに目くじらを立てすぎるのもどうかと思われます。しかし、版元としてはもまさか「当辞典のミスは許容量の基準をはるかに下まわっていますから、安心して御使用になれます」と広告するわけにはいきますまい。むずかしい問題ではありませんか。

平成二十三年三月十一日


17

本のおくづけ【奥付】


 書物の終わりにある。著者名・発行者(所名)・発行年月日・定価などを印刷した箇所。(岩波 国語辞典 第三版による)。

 『広辞苑』第一版には掲載されていない。不思議に思う。

 最近、初めて、私に関係した本を自費出版することにした。

 その時、大変お世話して下さった方が(何度も自費出版されている)、私の原稿に奥付がないことを指摘されまして「うつかり」にきづかされました。

 私は、十年も以前に、自分が読んで参考になったある本を友人に紹介した。

 いま、その本を思い出して、奥付を見ると、「一九七〇年二月一六日第一刷発行 一九九〇年四月一三日第三〇刷発行」とある。

 以上の経験がありましたが、その後、本を購入する場合は、ただ好みの著者・書名のみであった。 二〇年間も発行されていることは、多くの人が読まれたものであることになり、この本を友達に推薦すると、読まれて、礼状を頂いた記憶がよみがえりました。

 今回、早速に、【奥付】として、「書名・発行年月日・編集者(自分の姓名・住所・電話番号)・印刷書・製本 ○○印刷株式会社」を追加した。

 以上のいきさつから、本を買う目安の一つとして、第一刷発行から第○刷発行の多いものを必ず参考に見ることを購入の基準の一つにしたい。

 さらに今回の体験で、製本会社で様々な本を見せてもらって、本の紙の色は白色と思い込んでいましたが、淡いベージュ色のものがあることに気づかさせられた。会社の人のお話で、白色は反射光線のためによくない場合があるとのことでした。

 思い込みが意外な効果を及ぼしていることを思い知らされた。

 読書家は、たとえば翻訳書であれば、その翻訳者名により判断されるのではないかと推察します。翻訳本より原書の方が読みやすく理解しやすいものさえあります。

 ささやかな、体験を述べましたが、読書の秋のご参考までに。

平成二十四年十月五日


18

ロメオとジュリュリエット


 平成24年5月28日、NHKニュースによると

 スウェーデン王立バレエ団で活躍する木田真理子さん(大阪府出身:30歳)が1年間で最も活躍したダンサーに贈られる世界的に権威ある賞、「ブノワ賞」を日本人で初めて受賞しました。

 日本のバレエダンサーは国際的なコンクールなどで相次いで高い評価を受けていて、日本バレエ協会は「日本のバレエの成長を示すものだ」としています。

 「ロメオとジュリュリエッ」の演技が紹介されていましたので要約されたものを讀みました。


 イギリスのシェクスピアの作の戯曲(1595)

 ヴュロナの町の二名家、モンタギュー家とカブレット家とは代々敵同士の間であったが、モンタギュー家の子ロメオはカブレット家の仮面舞踏会へまぎれこみ、それとは知らずにカブレット家の世継ぎ娘ジュリュリエットと恋に陥る。のちになって、互いの立場を知るが、ロメオはもう激しい愛情のとりこになっていた。その夜立ち去りかねて邸内に忍びこんだロメオは、はからずもちょうど露台に現れたジュリュリエットが、「おおロメオ、あなたはどうしてロメオなのです。私のために父上もんなまえもお捨て下さい」と、ひとり言を言うのを聞き、改めて愛の誓いを立て、あくる日結婚の時日を知らせる約束をして別れるのだった。ロメオはかねてから信頼している修道僧ローレンスを訪ねて結婚の相談を打ち明けた。かねてから両家の争いを心配していたローレンスは、これによって両家の和解の道が開けるかもしれないと考え、自分の手で、二人の結婚式をひそかにあげてやった。その夜ふたたびジュリュリエットの露台の下に忍びこむことを約束したロメオは、町で思わぬ事件に出会ってしまった。ジュリュリエットの従兄で血気盛んなアイボルトが、かっての舞踏会にロメオが忍びこんで来たことを根にもって、争いをいどんできたのである。ロメオは冷静にそれを制止したが、見かねたマーキューシオは、飛び出してティボルトと争い、倒された、ついにロメオもがまんできず、その場でティボルトを殺してしまった。さわぎは大きくなり、ロメオは、ヴェロナを追放されることになった。

▼ローレンスのもとに逃げ込んでいたロメオは、追放されるなら死んだほうがましだと嘆くが、ローレンスの、近いうちに取りなしてやるということばに励まされて、最後の日をジュリュリエットのもとですごし、夜明けに旅立つことをきめる。その夜は恋のかなった喜びと別れの悲しみのために時はあまりにも早くすぎ、夜明けのひばりの歌を、ジュリュリエットは、夜鳴くウグイスだと信じたいほどだった。ようやく東の空が白むころ、二人は人目をさけて別れを告げるが、窓の下に降りた夫ロメオの姿がジュリュリエットにはまるで墓の中にいる人のように見え、思はず不吉な予感に胸を騒がせるのであった。ロメオと別れて幾日もしないうちに、ジュリュリエットは父から若くて裕福なパリス伯爵との結婚を迫られた。いろいろないいのがれをしようとしたが役に立たず、ジュリュリエットはローレンスに助けを求めた。

▼ローレンスはジュリュリエットに薬を与え、式の前夜にこれを飲めば仮死の状態になり、墓場に運ばれるであろうから、その間にロメオに使いを出して眠りのさめるまえに迎えに来させようと約束した。ジュリュリエットは勇気を出して薬を飲みほした。あくる日の結婚式は葬式となった。

▼しかし、この計略を知らせに出かけたローレンスの使いが着く前に、ロメオはジュリュリエットが死んだことを知ってしまった。ロメオは、いまはこれまでと意を決し、毒薬を持って駆けつけ、事情を知らないパリスを殺し墓場へ死んだように葬むられているジュリュリエットに口づけして、自分もその場で毒を飲んでしまった。

▼そのあとでジュリュリエットは眠りからさめ、倒れているロメオを見た。そして短剣でみずからののどを刺して、ロメオの上に倒れていくのだった。いっさいの出来事をローレンスから明かされたモンタギュー家とカブレット家の人びとは、はじめていままでのおろかな争いを悟り、和解の手を握り合うのでした。

▼五幕二四場よりなるシェクスピア初期の恋愛劇で、彼の悲劇としては最初のものである。イタリアの伝奇小説から取材したともいわれるが、みずみずしい抒情にあふれたこの作品は、シェクスピア独自の浪漫悲劇であり、恋愛至上の純粋な情熱は、古くから多くの青年男女の心に訴えてきた。

 「ロメオとジュリュリエット」の実演技を見たいものです。 

平成二十六年六月七日


19

老人と海


 The Old Man and the Sea (一九五二年)アメリカのヘミングウェイ作の小説

 サンティアゴはメキシコ湾流でひとり小舟に乗って漁をする老人だった。顔のしわも手の傷あとも、すべてが長い年月を経ていたが、彼の目の色は海と同じで生き生きとしている。漁師たちは彼をからかうか、あるいは無関心を装った。しかし老人は、自分は漁師であると思っていた。

▼彼は貧しい。もう八四日のあいだ何も獲物がない。以前にはいっしょに舟に乗ってくれる少年がいたが、いまでは他の舟に乗っている。
 しかし老人と少年は相変わらずいちばんの友だちである。きょうはもう八五日め。

▼九月には漁はむずかしいが、しかし大ものの季節だ。朝日の上らぬうちに老人は沖へ漕ぎ出した。海は恩恵を与えてくれると彼はいつも考えていた。きょうこそは、と思って糸をたらす。毎日が新しい日なのだ。老人はいつのまにかひとりごとをいっていた。わしの大きな魚がどこかにいるにちがいない。

▼昼ごろ糸を静かに引く手ごたえを感じた。信じられぬほどの重さだ。しかし、巨大な魚は姿を見せぬまま深くもぐり小舟は魚にひかれて沖へ沖へと出ていく。あいつをどうすることもできないが、あいつもわしをどうしようもない。だれもいないところであいつを見たいものだ。と老人は考えた。やがて彼はその魚に話しかける。わしはほんとうにお前が好きだ。尊敬しているのだ。だが日暮れまでにわしはお前を殺してしまうぞ。しかし魚は弱らなかった。夜となる。

▼二日め。糸をもつ手がしびれて血がにじむ。

 少年がいてくれればなあと思う。老人はなまの鮪(まぐろ)やトビウオを食べて元気をつけた。舟の前方に魚が背を出した。濃い紫色で、脇腹(わきばら)にはしまがあった。長いとがったくちばしの大カジキだった。こんなでかいとは思わなかった。堂々とりっぱなやつだがわしは殺さねばならない。この魚はわしの友だちだ。しかし殺さねばならない。こいつは何人分あるだろう。しかし、やつの恐れなき態度と偉大な威厳からすれば、だれひとりやつを食う資格はないのだ。こんなことはわしにはわからない。ともかく海の上で真の兄弟である魚を殺すことは幸福なのだ。夜は夢を見た。少年のころアフリカの海岸で見たライオン。いつもの夢だった。

▼三度めの日が上る。

 老人は目まいのするほど疲れていた。しかし魚も弱って輪を描き出した。ついに老人の力で魚を引き寄せ、力をふりしぼってモリをつき刺した。魚は銀色の腹を出して敗れた。やつが見たい、触る(さわ)りたいと老人は思った。丸のままで、一、五〇〇ポンド以上ありそうだ。彼は魚を舟のわきにつないで帰路についた。こうして魚とならんでいるとどちらが勝ったのかわからないような気もする。魚の肉をねらってサメがおいかけて来た。老人はモリを使いナイフを使ってサメと戦った。オールでサメの頭をなぐりつけた。しかし魚は食い荒らされた。魚がやられるのは自分がやれているみたいだった。いためつけられた魚を見る気はしなかった。わしはうちで寝ているのだったらよいのに。いや、人間は破滅することはあっても敗北することはないのだ。だが、やはり魚はかわいそうだと思った。お前は名誉のためにやつを殺したのだ。それにお前は漁師なんだからと彼は自分にいった。お前がやつを愛しているのならやつを殺すことは罪じゃないんだ。だいぶ食われたにちがいない。わしを赦(ゆる)してくれないか。あんな遠出をしなければよかったんだ。お前のためにもわしのためにもと老人は魚にいった。マストをはずして帆をまいて小屋にもどった。

▼翌日、波にゆれている魚の骨としっぽを見た旅行者は、説明もきかずに早合点してあれはサメだと思った。老人はなつかしいライオンの夢をみながら眠り続けていた。

 単純で詩のように美しいこの小説が何を暗示し、象徴しているか一言では尽くせない。人生を生き抜いた老人が素朴(そぼく)な運命に従わねばならないという現実、永遠の戦いのなかに真理を追い求めねばならない人間の宿命、これらをヘミングウエイは淡々と描いているのだろう。


参考:この本の原書の冒頭文

 He was an old man who fished alone in a skiff in the Gulf Stream and he had gone eighty-four days now without taking a fish. In the first forty days a boy had been with him. But after forty days without a fish the boy’s parents had told him that the old man was now definitely and finally salao, which is the worst form of unlucky, and the boy had gone at their orders in another boat which caught three good fish the first week. It made the boy sad to see the old man come in each day with his skiff empty and he always went down to help him carry either the coiled lines or the gaff and harpoon and the sail that was furled around the mast. The sail was patched with flour sacks and, furled, it looked like the flag of permanent defeat.

 The old man was thin and gaunt with deep wrinkles in the back of his neck. The brown blotches of the benevolent skin cancer the sun brings from its reflection on the tropic sea were on his cheeks. The blotches ran well down the sides of his face and his hands had the deep-creased scars from handling heavy fish on the cords. But none of these were fresh. They were as old as erosions in a fish desert.

 Everything about him was old except his eyes and they were the same color as the sea and were cheerful and undefeated.

補足:ヘミングウェイ著作:『誰がために鐘が鳴る』『武器よさらば』があります。後日、紹介します。

平成二十六年七月二十九日


ヘミングウェイの孫、「老人と海」の漁村を訪問

 米国の文豪ヘミングウェイの代表作「老人と海」の舞台となったキューバの漁村コヒマルを8日、ヘミングウェイの孫2人が訪れた。

ヘミングウェイがノーベル文学賞を受賞して60周年になるのを記念した行事で、地元の漁師らの歓迎を受けた。

 コヒマルは首都ハバナから東に7キロ。ハバナに住んだヘミングウェイが釣りに訪れた場所で、「老人と海」の主人公のモデルになった漁師も住んだ。カナダ在住の孫たちは、祖父と同じように米フロリダ州から白いヨットでコヒマルに到着。祖父が1961年に米国で自殺した後で漁師たちが船のスクリューなどを持ち寄って作った胸像に花束を捧げた。

 孫の一人でキューバ訪問5回目のパトリックさんは「こんな歓迎をされ、祖父も喜ぶと思う。僕もキューバに移り住みたい」と話した。今回は米国の海洋学者たちを帯同し、祖父がキューバに残した海の日誌などを読むことも目的という。

 元漁師ベニグノ・エルナンデスさん(86)は「彼は漁師たちにとても優しい人だった」とヘミングウェイとの思い出を語った。(コヒマル=平山亜理)

 2014.11.18追加。


春秋 2018/4/5付

 今から30年ほど前。沖縄の与那国島でサバニと呼ばれる小舟を操り、巨大なカジキを一本釣りする82歳の漁師がいた。1年に及ぶ不漁に苦しみ、ついに大物を仕留める。その一部始終を記録したのが、ジャン・ユンカーマン監督の映画「老人と海」だ。名作の誉れ高い。                         

▼伝説の漁師のなは糸数繁さん。寡黙な人だ。が、待望の釣果があった晩。仲間の爪弾く三線(さんしん)にあわせ照れくさそうに踊った。カメラは至福の表情を捉える。映画の完成は1990年春。その夏、糸数さんはカジキと格闘の末、帰らぬ人になった。どれほど巨大だったのか。精根尽きて、台湾を望む黒潮の海に引き込まれた。

▼先週、天皇、皇后両陛下は与那国を訪問し糸数さんが所属した漁協の施設を視察。クレーンにつるされた170キロのカジキを見上げ、陛下は「ヘミングウェイが(小説『老人と海』で)書いています」と話された。両陛下は、メキシコ湾から遠く離れた、もう一つの老人とカジキの死闘の物語をお聞きになっただろうか。

▼終戦後、本土から切断された沖縄は、深刻なモノ不足に。与那国は台湾との密貿易拠点として栄えた。闇屋が集結し、ピーク時の人口は1万数千人に達した。同県の説明によると両陛下は、島の裏面史にも関心を示されたという。来年、平成最後の「歌会始」などで、心を寄せる離島の思い出をお詠みになるかもしれない。

補足:老人と海 アーネスト・ヘミングウェイの不朽の名作「老人と海」をヒントに、沖縄の与那国島で撮影された1990年製作のドキュメンタリー映画『老人と海』。サバニ(小舟)に乗ってカジキ漁をする老漁師の姿を追い、与那国島の独特な文化や、ゆったりと流れる時間をカメラに収めた本作が、ディレクターズ・カット版として再公開される。アメリカ人にとって特別な作家であるヘミングウェイの「老人と海」の世界観を、映像として映し出すべくメガホンを託されたのは、米国生まれのドキュメンタリー監督、ジャン・ユンカーマン氏。7月31日の公開を前にジャン・ユンカーマン監督にお話を伺いました。


20

白 鯨
白鯨の元ネタは小説より壮絶だった

白 鯨
 私のなはイシュメル。何年か前、金はないし、陸の生活もいやになって、船に乗って海に出ようと思った。私は前から鯨の巨大な姿に魅せられていたので、ぜひとも捕鯨船に乗り組んでたろうと思った。商船の水夫として幾度も海の匂いをかいできた私が、どうして今度は捕鯨船に乗り込もうと思いついたのか。そのわけは運命の神が答えてくれることだろう。あおの恐ろしい、いまわしい出来事に私を会わせたのも、みな運命の神の仕業なのだか。

▼私は、古ぼけた旅行のカバンに入用品をつめこむと、なじみ深いニューヨークの町をあとにニュー・ベッドフォードへ着いた。ナンダケット通いの小舟が出帆してしまったあとで、二日あとでないとそこへ行けないと知って私はがっかりした。宿屋を捜に町へ出た私は鯨屋という宿を見っけた。だがそこの亭主は部屋がいっぱいなので相部屋にしてくれと私にいった。私と相部屋になった男というのが人食人種の王子クィークェグという男で、最初おっかなびっくりでこの男といっしょにいた私は、次の日には、いっしょに捕鯨船に乗って生死をともにしようという仲になってしまった。乗りこむ船を見つけに行ってくれと彼に頼まれ、私は港へ出かけていった。港には三年の航海に出る予定の船が三隻とまっていた。私はその三隻をよく調べたのも、ピークォド号に乗り組むことにした。契約書に署名して、ピークォド号からおりて来たとき、みすぼらしい男によびとめられた。その男は「ピークォド号に乗ると不幸なことになる」と予言した。そのうえその男は出帆の日にも現れて、「行くな」と私たちにいった。しかし、鯨に会えるという喜びで胸がいっぱいの私たちには、そんなものがなにになろう。私たちは彼が気違いだと思っただけだ。

▼クリスマスの晩、船は出航した。私とクィークェグの姿も、もちろん船上にあった。それにしてもこの船は奇妙な船だ。私たちは出帆以来、一度も船長エイバブの姿を見たことがなかった。船の者の話によると、彼は体が悪くて船長室にこもっているとのことだ。私は一度姿を見たいものだとおもっていた。エイバブは熱帯に近づくとはじめて甲板その姿を現わした。老人で片足がなく、鯨の骨を義足にしていた。いつでも陰気な顔をして、何かを追い求める目をしており、狂気じみたところがあった。一等運転手のスターバックは沈着な人間で、船長の狂気一生懸命静めているようであった。なぜエイバブがこんな狂気じみた風なのか私達には不思議であった。ある日、船長は乗組員全員を甲板に集めて、白鯨のことを話したときにその疑問がとけた。彼が片足を失ったのは巨大な白鯨のためで、その鯨は、額にしわがあって、あごが曲り、頭が白く、背中には幾本となくもりが打ちこまれており、そのうえ悪知恵にたけていて、いっまでに何回もボートをひっくり返し、幾多の人命を奪ってきたのだ。エイバブもこの白鯨にもりを打ち込みに行ったとき、ボートをひっくり返され、片足をかみとられたのだ。それ以来エイバブは白鯨を生涯の敵としてねらってきた。彼には鯨の油をとるという捕鯨船の目的などどうでもよくて、白鯨を殺すことこそがたいせつなのであった。エイバブからこの話をきかされた乗組員たちは、彼の気違いじみた情熱に酔わされて、白鯨と戦うことを誓ってしまった。ただスターバックだけがいんうつな顔をしていた。白鯨を追って、船は進んでいく。途中で何隻かの船にあって、白鯨のことをきくが、どの船もその行方を知らない。船が赤道漁場のはずれに来たとき、ピークォド号はレイチェル号に出会った。エイバブは「白鯨を見たか」とまたもや聞いた。レイチェル号の船長は、自らピークォド号に乗り移ってきた。彼は船のボートのうちの一隻が白鯨を追っているうちに行方不明になってしまった。ピークォド号が白鯨を追うのを少しの間止めて、レイチェル号と平行して進んで、ボートを見つける手伝いをしてくれ。お礼はするからぜひ頼むといった。普通の捕鯨船では、一隻の行方不明のボートを捜すために鯨取り作業を中止するなんてことは考えられないことなのでピークォド号の乗組員たちは驚いてしまう。しかし、そのボートには船長の一二歳になる息子が乗っていたということがわかって、乗組員たちは、エイバブがきっと協力するに違いないと思って彼のほうを見つめていた。だが、白鯨がすぐそこにいるという事実に夢中になったエイバブには一瞬の時間も惜しかった。彼は追いすがるレイチェル号の船長から顔をそむけると船室へおりてしまった。

▼一等運転手スターバックは、白鯨を追うことがどんなに危険なことであり、それによって自分たちの命が失われることを知っていた。彼はエイバブに「なんのために白鯨を追うのです。私といっしょに行きましょう。この死の海からのがれてあのなつかしい故郷へかえりましょう」といって船を帰すことをすすめる。エイバブはその言葉に耳をかしつつも、「自分でもわからない何者かが、わしを白鯨のほうに向かせるのだ。わしの本来の自然の心では、やろうとも思いもかけぬ行為へ、がむしゃらに立ち向かはせていくのだ」とスターバックにいう。スターバックはエイバブの言葉に何もいうこともできず、だまって彼の所から去るより仕方がなかった。

▼やがて彼らは白鯨を見つけだし、白鯨対ピークォド号の戦いがはじまった。最初の日、エイバブの乗ったボートは白鯨にひっくりかえされ、エイバブは海に投げ出され危く死にそうになったが、すぐそばにいた船に救助される。第二日めには三隻のボートに囲まれ、もりを打ちこまれた白鯨はびくともせず、かえって彼らに逆襲してきてボートをひっくりかえし、エイバブの脚を粉々にし、一人の死者まで出させた。スターバックはエイバブに今度こそ思いとどまってくれるように嘆願する。「あの無残な白鯨にみんなが海の底へ投げこまなければならないのですか。おお、これ以上彼を追うのは神をないがしろにするわざです」。しかしエイバブはスターバックのこの言葉にも動かれはしなかった。しかしこの言葉はたしかに真実であったのだ。次の日、白鯨はボートをたたきつぶしただけでなく、本船めがけて殺到し、体を船にぶっつけて船を粉々にした。一隻残ったボート上のエイバブは、もりを白鯨にうちこんだが、もり綱が自分の首に巻きついて鯨もろとも海中深く沈んでしまい、生きのこったのはこの私ただ一人であった。

著者:メルヴィル(アメリカ)一八一九年~一八九一 ニューヨークで生まれた。青年時代は海にあこがれ、捕鯨船に乗り組んだりしている。 

 2014.12.02


「白鯨」の元ネタは小説より壮絶だった

 ありえない生還劇

 「事実は小説よりも奇なり>といいますが、絶体絶命の危機から生還した実話も、すぐには信じられないようなエピソードばかりです。ナショナル ジオグラフィックが集めたそんな実話の中から、特に「ありえない生還劇」を紹介します。

 南太平洋で捕鯨船が巨大クジラに激突された。乗組員たちは手こぎボートに分乗し、3カ月近く漂流する。食糧が底をつき、空腹と狂気に苦しめられた彼らが生き延びるためにとった行動は…。小説『白鯨』の元になった実話は、さらに壮絶だった。

外洋でのつらい仕事

 19世紀、捕鯨は生活に不可欠だった。鯨油はランプの燃料やろうそくの原料になり、鯨蝋(げいろう)はさまざまな薬に使われた。捕鯨は手堅く報酬を得られると同時に、きわめて過酷な仕事だった。

 米国の捕鯨産業の拠点は東海岸のナンタケット島にあったが、最も豊かな漁場は南太平洋。男たちは大西洋を南下し、南米最南端のホーン岬を回る1万2000キロの困難な旅を経て、やっと仕事に取りかかるわけである。捕鯨船エセックス号がナンタケット島を出発したとき、これから2年半は家族に会えないことを男たちは承知していた。

クジラの逆襲

 運命の日は、出航から1年3カ月後、1820年11月20日に訪れた。

 エセックス号がマッコウクジラの群れを発見し、1頭ずつ狙い撃ちしていたとき、考えられないことが起こった。巨大な1頭が、群れを離れて船に突進してきたのである。

 クジラは船に激突し、乗組員たちは甲板に投げ出された。船長は乗組員に指示を出そうとしたが、船は制御不能に陥っていた。クジラは向きを変え、再びこちらに突進してきた。巨大な背中がまたしても船体に激突し、船は大きく揺れた。20人の乗組員はわずかな食糧をできるだけかき集めて、3艘(そう)の手こぎ舟に次々に乗り込んだ。10分もしないうちにエセックス号は転覆した。

 28歳のジョージ・ポラード・ジュニア船長は現在位置を南米大陸の西、3700キロと推定し、64日間の旅を乗り切れるだろうと考えた。逆算して食糧を配給すると、1人1日当たりパン数十グラム、小さな固いビスケット1つ、水およそ0.3リットルになった。健康な大人に最低限必要な食物摂取量のおよそ3分の1、最低限必要な水分量の半分だ。

 11月30日までの10日間で770キロ進み、食糧はまだあった。男たちは空腹で疲れていたが、意気は高く、ポラードは、みんなこの旅を乗り切れそうだと楽観的に考えた。

食料は仲間の…死の漂流

 しかし、クリスマスを過ぎると、食糧配給が半分に減り、船に乗った男たちは極度の飢えと脱水に見舞われた。体内のナトリウム過剰によって恐ろしい症状が出た。下痢を起こし、皮膚にはじくじくした腫れもの、手足にはむくみが生じた。失神する者、奇行に走る者もいた。気力のある者は暴れた。そして互いに食糧を盗み合った。

 1821年1月10日、乗組員のマシュー・ジョイが最初の死者となった。間を置かずに数人が後に続いた。最初の6人の死者は、衣服に包まれて船縁から海に葬られた。

 1月28日の夜、3艘の舟はばらばらに別れた。うち1艘のその後はわかっていない。

 陸地にたどりつくまで、まだ相当な日数がかかるとわかっていた。残り少ない食糧は、まもなく底をつくはずだった。次の死者が出たとき、ポラード船長は遺体を舟に置いておくよう命じた。その仲間の遺体は、男たちの次の食事になるのだ。

生死をかけた、恐ろしいくじ引き

 さらに3人が死に、食べられた。そして2月1日、再び食糧が底をついた。今や想像を絶する危機に直面していた。

 ポラードの舟では全部で4人が生存していた。ポラードのほかに、ブラジレイ・レイ、チャールズ・ラムズデル、そして船長のいとこ、オーウェン・コフィンである。深い絶望の中で、男たちは結論を下した。誰か一人が犠牲にならなければ、全員が長く苦しい死を余儀なくされる。

 生きるチャンスはくじ引きに託された。

 4分の1の確率で、黒い印のあるくじを引く可能性は全員にあった。そしてそれを袋から引っ張り出したのは、オーウェン・コフィンだった。

 だがこれで終わりではなかった。他の3人がまたくじ引きを始めた。誰がコフィンを殺すかを決めるためだ。この恐ろしい仕事に当たったのはコフィンの友人、チャールズ・ラムズデルだった。

 ラムズデルはコフィンを撃った。少年の遺体はポラード、レイ、ラムズデルに食べられた。それからまもなくレイも死んだ。舟の上での残りの苦しみの日々を、ポラードとラムズデルは骨をかじって生き延びた。

発見、人骨の山にうずくまる生存者

 1821年2月23日、ナンタケットの捕鯨船ドーフィン号の乗組員が獲物を探して水平線を眺め渡しているときに、その小さな舟を発見した。船長は船を横づけにするよう命じた。乗組員が見おろすと、舟には骨と皮だけになった2人の生存者がいた。

 エセックス号が沈没してから95日が過ぎていた。2人はかじられた人骨の山の中にうずくまり、ドーフィン号の船体が横づけになっていることにも気づかないほどもうろうとしていた。

 もう1艘の舟は英国の商業帆船インディアン号に救助された。生存者は3人で、こちらも生き延びるために食人という手段をとっていた。

 オーウェン・チェイス1等航海士はこの悲劇を、『捕鯨船エセックス号の驚くべき悲惨な難破の物語』という文章にまとめている。

 チェイスの息子も捕鯨船の乗組員で、父親の本を海で出会った若者に貸した。この若い船乗りがハーマン・メルビルだった。彼がエセックス号の実話に触発されて書いた小説が、名作『白鯨』である。

引用:(日経ナショナル ジオグラフィック社)『本当にあった 奇跡のサバイバル60』を基に再構成]2014/9/21 6:30

 2014.12.06


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夏目漱石『門』


 文豪が投げかけた 世紀の「公案」小説

 一生かかっても解けないような「公案」(禅の設問)を夏目漱石は『門』の中で、私たちに投げかけている。

 誰にも言えない不安に苛(さいな)まされる主人公野中宗助は、救いを鎌倉の禅寺に求めた。そこで与えられた「公案」は「父母未生(みしょう)以前本来の面目は何か」というもんだった。

 宗助は、自分とは畢竟(ひつきょう)何者かを問われていると受けとめ、いささかの答案を口にするが、老師からもっとギロリとしたものを持ってこいと一蹴され、すごすごと禅寺を去る。

▲漱石は書く。「門を開けて貰(もら)いに来た。けれども門番は……敲(たた)いても遂に顔さえ出してくれなかった。……要するに、彼は門の下に立ち竦(すく)んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった」

▲漱石はロンドンに留学してイギリスの文化、文明に圧倒された。それ以来、日本人とは何か、誇るべきものがあるとすればそれは何か、そればかり考えつめていたのだ。

▲推測するに、「武士道」ではないのか。『門』は明治43年に朝日新聞上に連載されたものだが、その10年前に新渡戸稲造が国内外で大評判となる『Bushido:The Soul of Japan』を英文で発表して、日本精神のよって立つところを武士道としたのだ。ギロリとは武士道だ。死ぬことを見つけたりという武士道である。鎌倉武士に密着した禅宗の老師らしい禅問答ではないか。

▲漱石は、日清と日露戦争で勝利した急速に夜郎自大となっていく日本人が大嫌いで、『門』の中の満州帰りの友人、安井こそ坂の上の凶雲(きょううん)だった。

 それにしても漱石は、あの公案の答えを残していない。

 答えは次なる世代に託されたのだ。よって『門』は「百年の公案」となった。

 さあ私たちは何と答えるのか。答えねばなるまい。

引用:2009年3月29日 日曜日朝日新聞ー読書ー 大切な本 早 坂 暁(作家):昨年末、部屋を掃除していて新聞の切り抜きを見つけましたので紹介します。


参考1:やろう-じだい【夜郎自大】夜郎自大 意味

 自分の力量を知らずに、いばっている者のたとえ。▽「夜郎」は中国漢の時代の西南の地にあった未開部族の国のな。「自大」は自らいばり、尊大な態度をとること。

 夜郎自大 出典:『史記』西南夷伝(せいなんいでん)

 夜郎自大 句例:◎夜郎自大になる

 夜郎自大 用例:自ら足れりとし、自らよしとするのは、夜郎自大というて、最も固陋ころう、最も鄙吝ひりんな態度なのじゃ。「海音寺潮五郎・南国回天記」

参考2:

 「父母未生以前の面目」「インターネット」

 禅には「父母未生以前の本来の面目とは何か?」と言う有名な公案がある。「父母未生以前(両親が生まれる以前)の本来の面目」とは不思議な表現である。

 この公案はもともと六祖慧能が明上坐に「不思善不思悪のとき、那箇か是明上坐本来の面目」と言ったことに由来する。これは六祖慧能の語録「六祖檀経」に出ている。後世、「本来の面目」という言葉に父母未生以前という言葉を加え、本来の面目の永遠性を強調したものと思われる。

 「六祖檀経」では六祖慧能が明上坐に「不思善不思悪のとき、那箇か是明上坐本来の面目」と言っただけで「本来の面目」という言葉が見えるだけである。「本来の面目」という言葉に父母未生以前という言葉が付け加えられたのはいつ頃からだろうか?

 黄檗希運の語録「伝心法要」では六祖慧能が明上坐に「不思善不思悪のとき、正に与麼の時に当たって我に明上坐が父母未生時の本来の面目を還し来たれ」と言ったことになっている。このように黄檗希運の「伝心法要」では本来「6祖檀経」では無かった父母未生時という言葉が付いている。

 父母未生以前という言葉を加え、本来の面目の永遠性を強調したのは黄檗希運の時代から始まった可能性がある。黄檗希運(?~860)は唐代中期から後期の人である。本来の面目の永遠性を強調したのは唐代後期くらいから始まったと考えてよいだろう。

平成二十七年一月五日


小林虎三郎『米百俵』
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 よく招かれて旅に出る。たいていは講演で、それもトンボ帰りか、せいぜい一泊である。二年ほど前の八月二十四日には長岡市に出かけたが、いろいろ考えさせられることが多かった。

 長岡行きは「小林虎三郎没後百年記念講演」というのであった。小林虎三郎といっても、新潟県以外の人には、あまりなじみがないかも知れない。しかし、戦時中の山本有三氏の作品『米百俵』といえば、なん人かの人は、ハハァと思いあたることがあるかも知れない。この戯曲は、井上正夫の好演と相まって、名作といわれたが、作品のテーマが「航空機もさることながら人」という風に解釈され、それが反戦的とされて、出版社の新潮社は絶版を命ぜられた。小林虎三郎は、この作品のモデルである。

 昭和十四年の晩春、現長岡市長の小林孝平氏と、長岡中学の同級生であったドイツ文学者の星野慎一郎氏は、ヘルター・ヤーン夫人とともに山本氏の『真実一路』の独訳の許可を得るため山本邸を訪れた。いくたびか訪れているうち、話題は北越戊辰戦争、薩長諸藩の新政府軍と激闘した軍事総督河合継之助のことや、長岡藩の落城そして敗戦などに移って行った。そのうち、星野氏が、ふと明治政府の夜明けを予見し、参戦に反対して恭順を説き、領内の平和を主張した小林虎三郎のことにふれると、山本氏は驚くばかりの関心を示した。

 当時、日中戦争は泥沼の様相を呈していた。それが拡大して太平洋戦争になるのだが、山本氏はその間にあって虎三郎に関する資料を集め、『米百俵』が出来上がったのは昭和十八年六月のことだった。初版、実に五万部という」数字であった。

 長岡へやってきて驚いたことは、この名作が、長岡市役所の手によって、昭和五十年八月再刊され、しかもそれが三万部も出ている事実である。自治体が、このような作品を出版をするということも珍しいが、それが市民の間に売れているということが、私には驚異であった。

 講演は平日(火)の午前十時からだったが、会場の長岡市立劇場(公民館でこういう名称も珍しい)には千二百人位もつめかけていたのは、第二の驚きであった。

 長岡市は戊辰戦争(一八六八年)で三度戦火にあい、それから七十余年後の昭和二十年八月一日には、今度は米機によって再び全市が焦土と化した。それから三十年、いまや光と水と緑をめざすニュータウン建設にいそしんでいる。それらの中に一貫して、流れているのは"米百俵"の伝統である。小林虎三郎の精神は、今も長岡市民の心の中に脈々と息づいているかのように私には思われた。

▼小林虎三郎は文政十一年(一八二八年)に生まれた。父は小林又兵衛といい、新潟の町奉行をつとめた。佐久間象山が新潟に来た折り、二人は意気投合したらしく「自分の息子が大きくなったら、ぜひあなたのところに入門させます。面倒をみていただきたい」「よろしい。おひきうけしましょう」という話し合いが出来ていたものと思われる。

 虎三郎はその三男である。小さいとき、ホウソウを患い、左の目はつぶれた。あばたにめっかちという、かなりものすごい容貌だったが、学問はよく出来た。十七、八歳のころには藩の助教にあげられた。かぞえ二十三歳のとき、殿様のお声がかりで江戸に遊学、かねての約束通り、佐久間象山の門に入った。そこで漢籍のほかにオランダ語、物理、経世の学を学んだ。

 象山の門下には、全国の俊才が集まっていたが、虎三郎はズバぬけていたらしい。長州の吉田松陰と並んで象山門下の"二虎"といわれた。松陰は通称寅次郎といい、寅と虎で字はちがうが、両方ともトラとよむところから、そういわれていた。しかし象山は、」「虎三郎の学識、寅次郎の胆略というものは、当今得がたい材である。ただし、事を天下になすは吉田子なるべく、わが子の教育を頼むべきは小林である」といっていた。

 松陰の方はどちらかといえば、虎三郎に兄事していた気味があった。象山に送った手紙の中に「虎三郎は顔にアバタがあって、私とよく似ている。年も同じ、名前もまた偶然同じである。ふたりは実に似ているが、ちがっている点もないではない。それは虎三郎の才学はすぐれているが、自分の才能は粗雑である」といっている。松陰の謙遜の辞と取れない事もないではないが、ある程度は真実であったろう。

 安政元年、アメリカが幕府に開港を迫る。象山は横浜開港説をとなえ、虎三郎を使って、その藩主でありかつ老中でもある牧野侯にも説かせた。虎三郎、大いに説得にかけまわる。これが逆に家老阿部伊勢守の怒りにふれ、「学生の分際で天下の大事を論ずるとは何事か」ということになり、国許へかえされる。やがて虎二郎は病気になり、家にとじこもる。晩年は自ら病翁(ヘイオウ)と号し、読書のかたわら、蘭学の翻訳をしたり、「興学私義(こうがくしぎ)」を書いたりして暮す。

 長岡藩はそのころ河合継之助がいた。司馬遼太郎の『峠』の主人公である。彼は『志、経済ニ鋭二シテ、口、事項ヲ絶タズ、スコブル事ヲ喜ビ、区画ヲナス者ニ類ス』といわれていた。つまり切れすぎる男であった。陽明学派で、何より実行を大切にする。やがて、長岡藩をひきずり戊辰戦争の主導的役割をはたすのだが、この二人は親戚でもある。しかし、意見は主戦対和平とまっ正面から対立している。

 文久三年の十一月、虎三郎の家から火が出て、丸やけになった。河合継之助が火事見舞いに行く。小林も大いに喜び、二人は久しぶりに歓談するのだが、やがて虎三郎は改まって「貴公の友情はかたじけない。何かお返ししたいがごらんの通り何もない。ただ一つ出来ることは、日ごろのオレの意見だ>と熱烈に河合のやり口を非難した。さすがの河合も閉口したが、あとで「さすが小林だ」とほめていたところを見ると、立場はちがってもお互いに相許していたのかも知れない。

 やがて戊辰戦争となる。長岡市は焼野ケ原になった。その間、虎三郎は和平派といっても反論が決定すれば、それにしたがって藩主の側をはなれず、落城後は母をともなって会津から仙台へとおちのび、藩主は悔悟謝罪の文を総督府にたてまつて帰順を願い出るのだが、この謝罪文は、小林が書いたといわれている。

 明治元年十二月、長岡藩の牧野家は、おとりつぶしのところ厄をまぬがれたが、藩主は退き、七万四千石は約三分の一の二万四千石に減らされた。虎三郎は、事変処理の役をおおせつかり文武総督となった。『米百俵』はこのときの話である。

 長岡藩の表(おもて)高は七万四千石だが、実収十万石といわれた。それが二万四千石というのだから、実収の四分の一に切りさげられたことになる。そのため藩士の窮乏は、はなはだしいものがあった。親戚の三根藩から、そこへお見舞いとして米百俵が届けられた。これを聞いた藩士たちは蘇生のの面持ちである。大勢おしかけてくる。そこで小林が藩士たちを説得する。

「みんな百俵百俵といっているが、百俵ばかりの米になんだってそんなにガツガツするのだ。考えて見るがいい。当藩のものは、軒別にすると千百軒あまりもある。あたま数にすると八千五百人にのぼる。一軒のもらい分はわずか二升そこそこ、ひとりあたりにしたら四合か五合だ。そればっかりの米では一日か二日で食いつぶしてしまう、それより、これをもとにして、学校を建てることだ。そして人物を養成するのだ。まどろっこしいようであるが、これが一番たしかな道だ。いや戦後の長岡をたて直す唯一の道だ、みんな辛いだろうが、こうせねば新しい日本は生まれてこない。あすの長岡を考えろ。あすの日本をかんがえろ」

 こうして虎三郎が、あらゆる反対を押し切って明治三年、建てられたのが国漢学校である。やがてこれが長岡中学、長岡病院の母体となって行く。

 このあたり、どうやら、昨今の円高による電力会社の円高差益還元問題に似ていないだろうか。電力会社にきくと、一世帯あたり小口で二百五十円の還元にしかならない。しかもその手数料が同じ位かかる。それよりはこのまとまった金で電線を地中にうめるなどということができなかったものか━━現代における政治の貧困というべきであろう。

▼虎三郎の蒔いた種は次第に見事な実を結んで行く。小藩のしかも三度も兵火にかかった長岡から続々と英才が育って、輩出した人材はケンランたるものである。

 解剖学の祖小金井良精(作家星新一氏の祖父)、東大総長小野塚喜平次、山本五十六元帥、博文館を起こした大橋新太郎、詩人堀口大学、駐米大使として戦前もっともアメリカからの人気のあった斎藤博、司法・内務・厚生各大臣をつとめた小原直、明治洋画壇の雄小山正太郎、日石社長橋本圭三郎という具合である。

 しかし、それは何も戦前だけにとどまらない。虎三郎の『米百俵』の精神は今日においてもひきつがれ、今や、小林(孝平)市長を中心にニュータウンづくりが進められている。

 長岡市の人口は十七万人。昭和四十八年五月にニュータウンの構想を発表し、五十一年十一月には地域振興整備公団(総裁吉国一郎氏)が公団事業のニュータウン第一号として長岡市の構想を採用した。

 いまマスター・プランも大体できあがっているが、それによると、長岡市の西部の丘陵地帯にとりあえず人口四━五万の都市をつくる。それは住宅と住宅と商業業務センターの三つを組み合わせた新しい性格の都市である。やがて上越新幹線が通れば、東京━長岡間は一時間の距離となる。とすれば、日本海方面に人口三十万の中核都市が生まれることも遠い将来ではあるまい。しかも、それが近代的な構想の下にである。まことに

   一年の計は麦をううるにあり
   十年の計は樹を植うるにあり
   百年の計は人を植ううるにあり

 ということが、しみじみと思いかえされる。

※扇谷正造『現代ビジネス金言集』(PHP研究所)P.14~20 1979年1月31日 第一刷発行 より

※写真は昭和58年8月31年:「米百俵小林虎三郎頒布会」 会長 小林 孝平 より購入したもの。

※「管子」に下記の言葉がある。ご参考まで。

 一年の計は穀を樹うるに如くは莫く、十年の計は木を樹うるに如くは莫く、終身の計は人を樹うるに如くは莫し。

 一樹一穫なる者は穀なり、一樹十穫なる者は木なり、一樹百穫なる者は人なり。

平成二十七年十一月三十日


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『古城物語』


 南條範夫『古城物語』(集英社文庫)

 南條範夫氏と私は、長年、同じ大学に勤務し、教員室で時たま軽口をたたき合うような間柄なので、かれが昭和三十一年に短編「灯台鬼」で直木賞を受賞する前後から、しばしば、著書の贈呈を受けていた。南條氏は、現在なお、残酷物語の代表作家としてレッテルを貼られている。そういえば、私がとくに関心した「命を売る武士}・「武将衰残」にせよ、「復讐鬼」・「抛銀商人」・「暁の群像」(長編)にせよ、みな、残酷歴史小説の部類に属すると、いえなくもない。しかし、「僕のことを、みんなが残酷物語の本家のようにいうが、僕ぐらい優しい人間はないと思うんだが」と、南條氏は慨嘆する。まさに、その通りだが、そのやさしかれが、残酷物を書く意図は、戦時中の大陸での体験を動機として、平和時にはその片鱗さえ見せない日本人が、駐屯地にいるだけでも、なぜ平気で驚くほど残忍な行為をするのか、その根源を歴史的に探索してみようとするにあったらしい。そして、かれは、日本人の残酷さを人間疎外的な社会制度から来るもと指摘し、武家封建時代と物質万能の現代と共通点があることを暗示する。というと、欧米人には残忍性がないようにも聞こえるが、そうではない。何千人の一向一揆を焼き殺すような織田信長の大量殺戮の残虐性は、むしろ異教徒や東洋人種を大規模に殺害した西欧人の影響ではなかったかと、私は考えた。それに比べれば、日本人の残酷さなど、戦国時代の()りにしても、牛裂(うしぎ)きにしても、個人的な極めて小規模なものにすぎない。そのためか、南条氏の一連の残酷物語に、案外ユーモラスな明るさと、残酷行為を恣にした人物も、いつかは復讐される、といった救いがあって、娯しまれる。この「古城物語」(昭和三十六年)に収められた九つの短編小説にも、そうした南条文学の特徴が遺憾なく発揮されているのである。

 この本は九つの城についてかかれている。

 最初にとりあげられているものが「土城の鬼門櫓」である。

「安土城の鬼門櫓(こもんやぐら)」、築城のための普請と作事が完了すれば、その機能がもつ秘密が外敵に洩れることを嫌った城主によって、その姓名といのちを断たれた多数の工匠のなかで、あらゆる術策をめぐらせて生き残った中村大隅掾(おおすみのじょう)正清の生涯を叙述したもの。正清は、初め、松永久秀に仕えて、大和の多聞・信貴両城の構築に従うが、完成すると同時に、巧みに場外に脱出し、多門(おかど)平太郎と改名して信長に仕え、安土築城に参加する。しかし、この大城郭が完成する暁に殺害されることを予測し、つぎつぎと新たな建物の増築を信長に進言し、安土城の東北端、湖に臨む笛吹(ふえふき)ケ鼻(はな)に、多聞城に造った多聞櫓に似せて、鬼門櫓(きもん)を立てる。しかし、兵太郎は、信長に謀られて、その櫓にこもる祟(たた)りを一身に受ける鬼門男にされてしまう。窮地に陥った兵太郎は、明智光秀をそそのかし、信長を本能寺で殺させ、炎上する安土城を脱出し、旧姓中村正清に戻り、秀吉の大坂城や淀城改築に従うが、必ず鬼門櫓を設ける。が、徳川氏によって天下が統一され、大みょうの居城にも秘密の設備を必要としなくなると、七十余歳の老体で大坂城の再建に参加した正清は、鬼門男となることを希望し、人々を驚かせる。

「大坂城の天守閣」、「春日城の多聞堂」、「名古屋城のお土居下(どいした)」については割愛。

「熊本城の空井戸(からいど)」は、加藤清正の築いた肥後の熊本城の抜け穴用の空井戸と横手五郎の大力石(だいりきせき)に関する伝説を調べた結果、作者が作り上げた歴史的推理小説だが、「武藤氏雑記」、「吉祥寺旧記」などの古記録によって、横手五郎の実在性を明かにし、それが、肥後国上益郡木山(かみましき きやま)城主木山弾正惟久(だんじょうこれひさ)の遺孤であったとする。まず、三十人力といわれる木山弾正と加藤清正が、天草の戦いで一騎討ちした結果、清正は、謀略をもって、弾正を討ち果たす。そのことを聞き伝えた横手五郎は、親の仇を討つため、熊本城に潜入する。清正は、横手吾郎の仇討の意図を知ったが、かえって五郎を優遇し、鬼姫と綽な(あなだ)された第三女阿藤(あふじ)の婿と定める。鬼姫を妻とし、清正の二子を次々と暗殺すれば、清正に代わって熊本城主となれると考えた五郎は、不覚にも、この陰謀を清正にさとられ、抜け穴用の空井戸に入っているところを、頭上から大石を落とされる。二十人力といわれた横手五郎は、次々と落下するする大石を頭上に持ち支えるが、ついに砂責めにあって、落命する。清正は、空井戸いっぱいの砂中から掘り出された五郎の遺体をさらす。事情を知った鬼姫は狂死する。

「姫路城の腹切丸(はらきりまる)」、「彦根城の廊下橋」、「鹿児島城の蘇鉄(そてつ)」について割愛する。

参考:桑田忠親氏の本書の解説による。
南條範夫氏は1908年~2004年
平成二十八年一月十二日


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『生き上手 死に上手』文春文庫(1994年4月10日 第1刷)

自分の救いは自分のなかにある

年をとるほど見えてくるもの

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 カミの世界へと近づいていくこと P.32~34

 「われわれのライフサイクルのうちでもっともカミに近い段階にあたるものが老人のそれであるということになるであろう。年をとるということはたんに老いて死を迎えるということを意味するのではない。それは生命の暗い谷間を降りていくことなのではなく、むしろカミの世界へとしだいに近づいていくこと、すなわち至福の山頂へとのぼっていく、ゆるやかな道ゆきを意味していたのである」(山折哲雄)

 夏の一日、山折哲雄の『日本人の顔』という本を読んでいて、出合った文章である。

 山折氏のこの本は日本における翁(おきな)やカミのイメージを仏教と比較されながら傾聴すべき説を提出されているのだが、氏の考えによると日本人の翁の表情には優しい翁と怖(こわ)い翁の二つがあり、怖い翁のイメージはカミに近いものと見なされているのだそうだ。

 そして氏は柳田国男の『先祖の話』を引用しながら、我々日本人は死後、家や村の周りにある山や森や丘にのぼって祖霊となり、更に供養を受けて一定期間をへるとカミになることを信じてきたと書いておられる。このカミは正月や盆がくると里におりて村人を祝福するのである。

 親類に病人が出たために夏を東京で過した私は盆のあいだ、多くの人々が先祖の墓参りのために故郷に引きあげたあと静かさを満喫した。

 そして宗教がないといわれている現代日本人の心の奥にはやっぱり盆をまもる何かが残っていることをしみじみ考えざるをえなかった。

 意識の表面では否定するかもしれぬが、その奥底にある死んだ父や母や兄姉と、盆のあいだは交流したいという願望は日本人に特有のものである。それはやっぱり死んだ肉親が自分からそう遠くない世界に存在していて、こちらのことをあれこれ心配しているいてほしいという気持が我々の心のどこかにあるからにちがいない。

 そういう気持ちはいわゆる科学や理屈が否定しても消し去ることのできぬもので、私も年齢(とし)を重ねるにつれ、むしろ、そういう本来の気持のほうを大事にしたいと思うようになった。

 死んだ父や母が死後も自分を見まもってくれているように、自分も死後は残った家族や子供を見まもりたいという願望は多くの日本人にある。

 そうでなければあれほど多くの人が盆のあいだ東京から去っていく筈はない。あの季節はたんなる休暇や家族旅行だけではなく、当人たちの気づかぬ、もっと深いものがあるように思えてくる。

▼書き写していると、子供のころ、母とお墓に参り、帰る時には両手を後ろに組みあわせて父親を抱いてかえるようにさせられていた。母は誰に教わったのか知れないが母の両親に教わったにちがいない。

 私の家内が雲の上に去って、近所のかたから「奥様がまもってくれていますよ」といわれたりしている。


 「年をとるほど見えてくるもの」の課題は親しくしている人から与えられたものでもあった。

 私どもは、「50歳代に自己・人生・自然など、おおくのことについて考え、思っていたことが、60代になると深く見えてくるようになる」と口にする。

 もう少し身近なことになりますと「昔、読んだ本を歳とってから読むと違った読み方をしていることにきづく」ことがしばしばある。

 私の場合、同じ本を毎年1回は読み通す本があり、その都度、以前には、これはと感じていなかった文章に意味をくみとり、新しく線を引いたりしている。

 本題についてかんがえてみよう。

 私たちの身は生れ落ちた瞬間から光陰に移されて、しばしも、とどまることはありません。こころは絶えず環境の影響を受け、いわゆる無常の世界に生きています。このこと自体が自然の法則だと思っています。

 その中に私どもはいるわけですから、歳を経ると当然外部からの影響を受けながら成長しつずけていると思います(環境・自分の選択・心がけにより善(よ)くもなりなり悪くもなることは注意しなけれなならない)。

 このようにして、歳を経ると、自分が無心であれば、すべての真実の様子が自分のこころに近ずいてきてくれるのではないかとおもっています。このことから「なぜ歳を経ると見えてくる」真実の様子(少し堅苦しい言葉でいえば実相)が分かってくるものだと思う。

 自分が無心であればと上述しましたが、それが出来るのかという点に突き当たります。

 日頃、無心の境地にはなりたいとおもいながらも、なかなか得られません。過ぎ去ったことを気にしたり、これからのことをあれこれと取りこし苦労しています。こんなことをしても過去のことがやり直せない、またこれから何がおこるかわかりません。

 荘子は「不将不迎、応而不藏」:「将(送…おく)らず迎えず、応じて蔵せず」といっています。私どもの心構えとして端的に説明しています。

 私たちは「いま・ここ」にしか生きていないことを否定することはできません。そこで「いま・ここ」で出来る限り自分に与えられていることにはげんでいれば、知らず知らずに無心に入っていくことが出来るでしょう。
 「いま・ここ」にしか生きるしか出来ないものだと分かるには、わたしはある程度の歳月がかかるのではないかと思ってます。

 与えられた課題に対する考えは私見に過ぎませんので、ご批判教示ください。

平成二十八年七月二十四日


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死ぬ時は死ぬがよし P.36~38

 ボケ対策になにをやっておられますか、と紙面を借りておたずねしたところ、読者のかたたちからたくさんのお手紙を頂いた。ありがとうございました。

 お手紙を拝見していると、それぞれの方が運動や習い事など頭脳、体力が老化しないように御苦心されているのが手にとるようにわかる。

 その方法が種々なのは、これぞという決め手がないせいだろう。知り合いの医者にきくと、

「ボケられる方は頭を使う大学の先生でもボケられます。なぜか我々にも本当の原因がわからないのです」

 とつめたい返事であった。

 いかに努力してもボケる時は人間、ボケるというならば、これをどう受けとめるかを考える方が賢い。

 私の好きな良寛の言葉がある。

「死ぬ時は死ぬがよし」

 そのような大きなものにすべてを委せる気持になりたいと思って三十年――正直いうとこのようなゆったりとした心にはなかなかなれない。

 しかしそれは私にとって目標である。何故目標かというと、そこには天の理、自然の動きに無意味に逆らわず、まるで年おいた樹木が寿命を受け入れるように受け入れる姿勢があるからだ。

 おそらく、私もいつか、最後の最後までジタバタして、最後の一日ぐらいで「死ぬ時は死ぬがよし」とう気持ちなるだろう。

 ボケだって同じかもしれない。

ボケる時はボケるがよし

 できればその境地になりたい。

 ただひとつ、ボケたために家族や友人に迷惑をかけたくない。だから、家族、友人に迷惑をかけない準備をしておくほうがいい、それが今の私の考えだ。

 私は大説家ではない小説家だから立派な社会批判はできる身ではい。自分の歯で噛みくだいた考えをボソボソと告白したり呟いたりしてきた。

 にもかかわらず、色々な方から「読みましたよ」とパーティなどで声をかけていただいたり、感想のお手紙もかなり頂戴した。ボケについて一寸ふれると、すぐ御返事を送ってくださる。

 いつか、筆硯(ひっけん)をあらたにしてまた書きます。

▼私も以前、人は必ず死ぬ、そのときボケていれば死を考えないから、それに対する感覚(?)は少ないだろと単純に考えたことがある。

 しかし、遠藤さんの言うように「家族、友人に迷惑をかけない準備をしておくほうがいい」ことは、どんなことであろうか、また果たして可能でしょうか。

 ボケ(認知症といわれている)ている人の家族への迷惑の程度はさまざまで、大変であることだけは多くの家族の方々から聞いたりみせられている。

平成二十三年五月十三日  


追加:越後の良寛さんは与板の山田杜皐(やまだとこう)という俳人と親友でありました。良寛さんの住む五合庵から与板まで行くには時間がかかりましたが、与板へ行けば杜皐さんの家に泊まり、話に花を咲かせるのが常でした。杜皐さんは造り酒屋でもあったので、良寛さんは大好きな酒を心ゆくまで飲ませてもらいました。

 良寛さんが71才の時、三条市を中心に大地震が起こりました。良寛さんの住んでいる地域は被害が少なく、与板の方は被害が甚大であったそうで、良寛さんは杜皐さんへ見舞の手紙を送っています。

 "災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 死ぬる時節には死ぬがよく候 是はこれ災難をのがるゝ妙法にて候 " かしこ

と、見舞の一文の中に書かれていました。

 その意味は、「災難にあったら慌てず騒がず災難を受け入れなさい。死ぬ時が来たら静かに死を受け入れなさい、これが災難にあわない秘訣です」ということです。聞きようによっては随分と冷たい言葉です。しかし、これほど相手のことを思っての見舞いの言葉があるでしょうか。「大変でしょうが、頑張ってください」とは誰でも言えます。「頑張って」の一言も書いていないのに、受けとった杜皐さんはきっと、「この災難の中で生き抜いていこう」と思われたに違いありません。

平成二十八年四月十九日


 死に稽古 死に上手

 死に上手になるために P.52~53

   〽美しや障子の穴の天の川

 一茶の句である。しかも臨終の句である。私は一茶の研究家でないから、彼について専門的な知識はないが、彼が死ぬ前から死に支度にふれた句をいくつか詠んでいたことは知っていた。

   〽死にべたと山や思わん夕時雨

   〽いざさらば死にげいこせん花の雨

   〽死に支度いたせいたせと桜かな

   〽またことし死搊じけり秋の暮

 これらの句はかならずしも名句とは言いがたい。しかし「死にべた」とか「死に支度」とか死にげいこ」という特別の言葉が私の好奇心と興味をひく。

 「死にべたと」という言葉がある以上一茶の心には「死に上手」という言葉も当然、存在していたのであろう。

 そして「死に上手」とはどいう死にかたなのか。それが臨終の、

   〽美しや障子の穴の天の川

 という一句に結集しているにちがいない。息を引きとる寸前、この地上から永遠に別れる瞬間、彼は病室の破れ障子から星々のきらめく空をみる。そして、

   〽美しや障子の穴の天の川

 とつぶやく。この心境になれること、なれたことが「死に上手」というと言うのであろう。もちろん、この「死に上手」になるためには死に支度があり、死に稽古がなくてはならない。だから「いざさらば死にげいこせん花の雨」という自分を励ます句も書きつけたにちがいないのだ。

 上智大学にデーケン先生という神父さまがおられてこの三年ほど前から「死の教育(デス・エデュケーション)」という講座を開いておられる。先生のお話によると米国やドイツでは一般人にこういう教育をする場所や講座ができ、そこではたとえば自分が癌にかかっても、できるだけ平静に死を迎えるために前もって準備するのだそうだ。また「悲しみの教育(グリーフ・エデュケ―ション)」という講座もあり、これは夫や妻や肉親を失った人々が悲しみに身心を徒ににこわさぬよう、そこから立ちあがれる教育をすうのだそうだ。そして先生は日本にもその必要性を感じ、上智大学で一般人のために同じ口座を開いておられる。

 しかし、一茶の句をみると、日本にも昔から「死に支度」とか「死に稽古」という言葉があったのだから、先生のおっしゃるデス・エデュケーションを一茶のように実行していた人もいたのだろう。

 私は、この講座のひとつに出席し、癌にかかった青年と女性が淡々と自分の死についてユーモアさえまじえて語っているのに感動した。たとえそれが聴衆の前の無意識の芝居としても、そういう芝居を生き残る人のために行ってくれた二人の努力は立派なものであった。

   〽美しや障子の穴の天の川

 の心境になりたい。そのためには死に稽古がもうそろそろ必要である。


 愛した者と再会できる世界 P.55~57

   みゃゆ蝶々を解き放つの(キュープラー・ロス)

 キュープラー・ロス博士:Dr. Elisabeth Kubler-Rossは世界的ベストセラーになった『死ぬ瞬間』や『続・死ぬ瞬間』の邦訳で日本にもよく知られている精神科の女医である。

 彼女は末期癌の患者が逃れることのできぬ死をどう受容するかの心の格闘を精密に分析した上記の本を書いた。感動的な本である。

 その彼女が今年の四月に日本に来て、京都のトランスパーソナル国際会議で講演したが、その折、彼女は「われわれが死んだら、どうなるか」についてきわめて大胆な話をしたのである。

 彼女はあまたの蘇生患者から実際的に話をきいた。蘇生者とは一度、死の状態になって息をふきかえした人たちのことだ。ところが彼等の話にはふしぎなことに共通したものがあった。

 それは息がたえた者はまず、自分の肉体が見えたということである。眼の見えぬ患者が息を引き取った時になんと、そこに立ちあがっていたキュープラー・ロス博士のセーターの色やアクセサリーまで蘇生したあと教えたという。

 二番目に彼等は先に死んだ愛する者たちが傍らにいるのを感じたということである。

 三番目に彼等は何ともいえぬ慈愛にみちた愛の光に包まれた体験をしているのである。

 こうした死後の体験をした後に彼等は息を吹きかえした。ロス博士はそれを京都で報告し、確信をもって「死後の世界はある」と言っている。

 このような報告はロス博士だけではない。邦訳されもした『かいま見た死後の世界』(講談社)はやはりアメリカの医師:レイモンド・A.ムーディ・Jrが蘇生者の体験報告を整理して書いたものだがそれは僅かの違いはあっても光の体験など同じものがある。

 だからロス博士は死にのぞんだ子供たちには「あなたたちはこの世にまゆい(肉体)を残して蝶々になるのよ」と教えてやるそうである。

 私はこれを読んで大変に心をうたれた。なぜなら博士はいわゆる既成宗教の来世説や天国説などを前提としてこれを言っているのでは、蘇生体験者の談話をもとにして自信をもって語っているからだ。

 末期癌の患者さんたちにロス博士のこの話を教えてやれば、どんなに慰めをうけるだろう。

「あなたは死んだお母さんにまた会えるのです。蘇生した人たちがそれを証明しているのです」と私は息を引きとる人にそう言ってあげたい。

 愛した者に再会できる。そいう世界が死のあとにある。母や友人や兄弟に再会できるための死。そういう死なら我々はもうこわくはない。

 どうかこのつたない短文が多くの病院の看護婦さんや死が迫っている病人を持った家族の眼にとまりますように……。


 礼儀を知って損はない

人間を守る自由に生きる P.79~91

   看脚下(出所不明)

 禅寺に行くと、「看脚下」という文字をよく見る。これは足もとの履き物をちゃんとそろえたか、という意味だそうだ。さらに、まずおのれの姿勢を正しゅうしてから事を始めよ、ということでもあろう。

 この看脚下の言葉をこの頃ほど痛切に思い出す時はない。

 というのは最近はあまりに安直に正義や自由を売りものにする批判、批評がマスコミの一部や大衆にあるからだ。

 周知のように某テレビ局が女子中学生のリンチ事件をわざと演出して、これをあたかも事実の場面のように放送して問題になっている。いわゆる「やらせ」である。

 しかし、この「やらせ」はその局のその番組だけではなく、多かれ少なかれ、他のテレビ局でもやっていることである。そしてそういう体質をふしぎと思わないテレビ局が他方では報道の自由を旗じるしにして、他人のプライバシーを平気であばくことを毎日のように行っている。

 更にそれを観る視聴者も自分の覗き趣味の満足のためにこうしたありかたを別にふしぎに思わない。

 その上、最近は人のプライバシーを盗みどりした写真を売りものにする雑誌まで出るようになった。これもおそらく報道の自由のなのもとに行われているのであろう。

 私はどんな人にも守るべきプライバシーの権利があると思っている。その権利はいかに報道の自由がゆるされている国でも厳守されるべきなのだ。

 このプライバシーを守る権利が、今の日本ではかなり崩れかかっている。たとえば日航の飛行機が落ちた時、むざんな死体をそのまま写した写真を掲載した雑誌があった。そこには死者にたいする悼みもまた遺族への思いやりもなかった。

 死者にだって自分のむごい死体を勝手にうつし、他人の眼にさらしたくないプライバシーがある筈である。それはたとえ法律に書かれていなくても、個人の尊厳のために、また人間性尊重のために我々の心にはっき明記されていることなのだ。

 私はそういう写真が眼にふれると、すぐに「看脚下」という三文字を連想してしまう。

 もしそのカメラマンが、もしそのテレビマンが、もしその編集者が自分の恋人や自分の妻のむごい遺体を写真にとられ、雑誌に掲載されたら、果たして平気でいられるだろうか。ああ、これは報道の自由だから納得していられるであろうか。そんなことは決して、できない筈だ。人は報道の自由のために生きているのではない。人は人間を守る自由のために生きているのだ。

 もちろん、私はマスコミの現実が他人のプライバシーをも侵さざるを得ないスクープ合戦にあることを知っているが、もう一度、この問題は考えなおしていいのではないだろうか。2019.01.03写す。

参考:看脚下


若者のマナー P.81~83

 読者に実業家の方がおられたら、ひとつお願いしたいことがある。それは新入社員の研修のなかに礼儀作法と食事の仕方の教育を入れていただきたいのだ。

 小説家の私がそのような事を言うのも変な話だが、私は若い世代の大きな欠陥のひとつは社会で常識と知っておくべき作法や礼儀に意外と無知なことだと思っている。

 外国にいくと向うの人は路で一寸、肩がぶつかっても「ソーリイ」とか「パルドン」と反射的に言う。ウエートレスが注文をうけた時、客に笑顔で、「サンキュー」という。それは虚礼にちがいないが、見ていて気持ちのいいものである。しかし日本人の多くはぶつかっても「失礼」とすぐに口に出す者はいない。

 日本人の娘は随分おシャレになったが、一緒に食事をするとたちまち幻滅する時がある。ナプキンを使わないので、葡萄酒のコップに唇の跡をつけるし、食べ方が実に優雅でない。男は男で食事中に煙草をすう人もいる。

 私はなにもキザにオツにすまして、礼儀作法をふりまわせと言っているのではない。しかしこれらの日本人は外国にもたびたび行くだろうし、外国人と食事をすることも多いいだろう。それだけにおいしく、きれいに食事をする作法ぐらい日本人の娘は常識として持っておくべきだ。

 若い人に次のような質問をしてみた。

 (一)関係会社を訪問して応接間で待たされた。その時、君はソファに腰をかけて相手がくるのを待つか、それとも立つてまつか。

 (二)エレベーターに上司と乗る時、君は上司のあとから入るか、それとも先に入るか。そのちがいはどういう場合か。

 (三)会社に電話がかかってきて「木村課長はおられますか」ときかれた時、君は何と答えるか。もちろん木村課長は眼の前にいる。

 (四)女性とレストランに行った。君は彼女より先にテーブルに行くか、それともあとに従うか、そのちがいはどいう場合か。

 以上の質問を私がして完全に答えられた青年は十人中、たった二人だった。

 つまり、社会常識として知っておかねばならぬ作法の原則を意外に若い人たちは御存知ないのである。

 だから私など友人の会社をたずねて、爽やかな礼儀正しい青年に出会うと実に気持ちがよくなる。

 くりかえすが、我々とちがってこれからの日本青年たちは国際社会人である。国際社会人ならばやはり国際社会人が承知しているマナーは知っておいたほうがいい。新入社員教育には是非、作法と食事の仕方を教えてやってほしい。

 皆さまのお考えをうかがいたい。2019.01.04写す。


遠藤周作『生き上手 死に上手』(文春文庫)P.96~98

肉体は心と一体である  

 自然治癒力を引き出す P.96~98

  痛みは消え去る。痛みは消え去る(ク―エ)

 フランス北東部のナンシー市ジャンヌ・ダルク街をはずれた閑静なところにエミ―ル・クーエ(一八五七~一九二六.クエイムズともよばれる自己暗示療法の創始者)の邸宅があり、その快適な庭園の中に、誘導自己暗示を応用しているという彼の診療所があった。

 毎日彼のところにさまざまな痛みを伴った患者たちが押しかけた。

 とうのはこのクーエ先生は彼独特の方法でこれら痛みに悩む病人たちを癒(いや)したからである。

 彼の独特の方法とは自己暗示療法ともいうべきもので、患者の心を「この痛みは消え去る」という考えに仕向けるだけのことだった。つまり患者が今、感じている痛みはすぐ消えると本心で思うと、その痛みはなくなるのだとというのが彼の理論であり、治療法だった。そのために彼は色々な自己暗示の方法を教えたが、それは一言でいうと自分に暗示をかけようと努力することを避け、おのずと、そういう気持ちなるように心を仕向けることなのだ。

 彼の理論や方法を書いた本『自己暗示』C.H.ブルックス/E.クーエ 河 野 徹訳(法政大学出版局)が出版されているから興味ある方は御一読されたい。

 しかしこういう本を読んでも自己暗示だけで痛みが消え去るものかと馬鹿にされる読者も多いだろう。

 だが十人のうち十人がみなこの方法で痛みを除去できなかったとしても、医師クーエの診察室に行く患者のなかには本当に治癒した者があまたいたのである。

 それはやはり肉体と心が別々のものでないことをはっきり示している。

 我々は長い間、肉体と心とは別々のもののように考えこまされてきた。たしかに一面ではそれは言えるだろう。しかしもう一面では心と切り離せぬものであることは今の医学のなかでも心療科を中心とした医師の主張するところである。心の状態がまるで物の影のように体にあらわれ、それが色々な痛みや疾患となってあらわれるからだ。

 最近、私はある内科医と対談をした。その内科医は長年、彼の患者のなかで検査では何も異常はないのに各種の痛み、不眠、げ痢、息切れなどの症状を訴える人がかなりいるのをフシギに思い、これはひょっとして肉体のうつ病ではないかとかんがえたのである。肉体のうつ病とは心のうつ病ほど深刻ではないから暗い顔をしていないかわりに、痛みやげ痢という体の症状になってあらわれる。

 そこでこの内科医は試みにこうした患者にあるうつ病の薬を与えてみた。するとふしぎに前に書いたような不定愁訴は消えたというのだ。ある意味でこれはクーエ医師と同じ療法なのだ。私は非常な興味をもってこの内科医の話を聞いたのである。

※私は体調ふ良の時折、「Day by day, in every way, I am getting better and better」声を出して唱えている。

 病気に気が向いているのを方向転換できるのではかと。少なくとも唱えているときは病気からこころが離れているのは間違いない。これを繰り返していれば、忘れるちからが援助してくれるのではと。

2011.10.28、2019.05.15。あらためた。


ikemi.jpg  天地一切のものと和解せよ P.98~100

 心療科という科はむかし大学病院などにはなかった。これを日本に最初に作られたのは言うまでもなく九州大学の池見酉次郎先生である。

 先生は従来の医学が心と体とを別々なものとして、いわゆる生理的な肉体的疾患治療だけを重視していたのにたいして、我々の肉体と心とは一体をなしていること、ストレスや心の苦しみが時として肉体的な疾病としてあらわれることを研究され、戦後九州大学医学部にはじめて今日の心療科の前身を設立されたのである。

 別に医学者でもない、一介の作家である私が知ったかぶりにこんなことを書くのは、先生の御著作がいつも心をひくからである。

 もちろん、読むのは先生の学術的な論文ではなく、我々素人にもよくわかるような心の話の本なのだが、昨日たまた書棚から『心身セルフ・コントロール法』(主婦の友社)という本をだして再読し、はじめて読んだ時と同じような深い感銘を受けた。

 この本の中には実に率直に、実に赤裸々に、御自分の育った境遇や御母堂との間の心理関係、御自身の御家庭の内側まで語っておられる。こんなことまで読者に発表されていいのかねと思うほど御家庭や御夫婦間の出来事を告白されている。

 それは━━先生がどんな人間にも欠点や醜いマイナスの面があることを人間の心を研究する医者として御存じだからにちがいない。そして先生はそうしたマイナスの面は御自分にもあることを自覚され「それを語ることは決して恥ずかしいことではない」と悟られたからにちがいない。

 この本のなかには私に考えさせた言葉や話が幾つも出てきたが、そのひとつに先生が友人で自律訓練法の第一人者ウルフガング・ルーテ教授からさまざまなものを学びながら、更にそれをこえた考えを持たれた挿話があった。

 ルーテ教授は色々な方法をつかって、患者個人の体の奥にある自然治癒力を引き出した人である。しかし先生はこの個人だけの自然治癒力を引き出すだけでは心と体の問題のすべては解決するものではないと考えるようになる。

 天理教の信者だった母堂を持たれた先生はこの時、この宗教の「天地一切のものと和解せよ」という言葉を憶えておられた。この言葉の通り、人間は自分をとりまき、自分を生かしてくれる大きな生命(いのち)、つまり御母堂のいう天地一切のもの━━と調和することが最終の治療法だという結論にたっした。そして母と妻を失って苦しんでいたルーテ教授にこう言われたのである。

 「あなたが、かねがね唱えている自己正常化の治療は、実母を失い、奥さんを失った今、傷心の状態にあるあなたの心を癒すことができますか」

 そしてルーテ教授はこの時、黙っていたという。

 こうしたさまざまな挿話や人間の心の底を語ったこの本は先生の人生体験に裏づけられているだけに、なまじかの思想書などより、はるかに読むものに迫ってくる。読み終わり、ああいい本だと思った次第である。

▼参考:池見酉次郎


面従腹背の生き方

組織のなかの二つの生き方 P.101~103

 友人の阿川弘之の小説『井上成美』がよく読まれている。お読みになった方はもうご存知だろうが、戦争中の海軍の組織にあって、ともすれば目先の情勢に眼がくらみ、大局の見通しをあやまった軍人が多かった時、良識と信念を失わなかった一軍人の生涯を書いた作品である。

 友人の気やすさで、私などはこういう海軍の小説は限られた人にしか読まれまい、とても若い連中の心をひきつけないぜ、と作者に言っていたのだが、その予想を裏切るめでたい結果になり、このところ阿川弘之氏は嬉しそうである。

 私はこの作品を読んで、こういう自説をまげぬ男がよく当時の海軍でその地位を保てたものだとふしぎに思い、作者にたずねると、海軍には井上成美(海軍兵学校第37期)をひそかに支持する立派な上司(たとえば米内光政大将)がいたからだということだった。

 おそらく、この作品が多くの読者をえたのは組織のなかで信念を守りつづけた強い男のイメージが現代のサラリーマンたちの切実な願望になっているからだろう。

 しかし、実際、我々が大きな組織に属していて自分の信念を守るということは大変にむつかしいことだろう。

 私がむかしから小西行長という太閤秀吉の家臣の生き方に非常に興味を持ったのは、彼が井上成美とちがった形で自分の信念を守ったからである。

 堺生まれの小西行長は幼児洗礼を受けた基督教信者(切支丹)だったが、秀吉は九州を征服した後に突如として切支丹弾圧にのりだし、家臣の信者たちに棄教を強いるのである。

 高山右近のような信念の強い男はこの命令に従わず、領土も領民も秀吉に返して逃亡するが、弱い小西行長にはそのような勇気がない。しかし一度は棄教したものの彼は自分の弱さに苦しみ、そこから彼の「生き方」を発見したのである。

endou.syukuteki.jpg  その生き方とは秀吉や秀吉を支える組織に服従しているとみせかけながら、陰では自分の信念をひそかに実現しつつづけるという巧妙な方法である。

 いわば面従腹背のこの生き方は秀吉が朝鮮を侵略した時に最も発揮される。この戦いを愚かな浪費と思った行長は、秀吉の命に従うふりをして戦いながら、陰で朝鮮王や中国との和平工作を行うという大勝負をやってのけるのだ。

 この生き方に興味をもった私は小説『宿敵』や彼の伝記『鉄の首枷』という本でその詳細を語った。

 井上成美の強い生き方は立派である。しかし私のように強くなれない者にとって小西行長の面従腹背の生き方は複雑な妙な魅力がある。

▼参考:井上成美


 見るべきものはすべて見つ P.103~105

 「現世にあって、すべて変転きわまりなく、恒常なるものは何一つ見当たらぬ」(小西行長、家入敏光訳)

 これは慶長五年(一六〇〇年)の十月に京都の六条河原で関ケ原の戦いに敗れた小西行長が処刑された時に、子供に残した遺書の一節である。

 周知のように行長は堺の貿易商人の小西家に生まれたが、羽柴秀吉に仕えて武門の世界に入った武将である。しかし彼はおそらく幼年の頃からうけた基督教徒――当時の言葉をかりるならば切支丹門徒だった。

 彼の人生を知る資料は江戸幕府の手によって消滅されているため、その全貌を知ることは至難だが、私は数年前、集められるだけの資料を元として彼の人生を構成し『鉄の枷』という伝記にしたことがある。

 彼は弱い人間だった。弱い人間だったから主人の秀吉が九州占領後、切支丹家臣に棄教を迫った時にいち早く、自分の信仰を棄てている。それは信念の人、高山右近がこの折に領地を返上して信仰を守ったのと違っている。

 しかしその自分の行為を後に恥じた彼はひとつの生き方をえらんだ。それは面従腹背という生き方である。

 彼は主人の秀吉には棄教したとみせかけ、裏では右近をはじめ、多くの切支丹や宣教師をかくまい、物質的援助を与えていた。表向きは主人に従うとみせ、心では自分の気持を守ったのである。

 この面従腹背のこの生き方は、後に太閤秀吉が朝鮮に侵略した時にもはっきりあらわれている。堺の貿易に通じている彼はこの戦争の無意味さを誰よりも熟知していた。皮肉にも秀吉から第一軍団長に任命された彼は一度は朝鮮に上陸して戦う姿勢をみせたが、裏ではひそかに和平工作をつづけ、むなしい努力を行った。その努力は調べれば調べるほど泪ぐましいものがある。加藤清正との確執もそこに原因の一つがる。

 その時、陰になり彼を助けた石田三成と共に彼は秀吉の死後、あの関ケ原で家康と戦い敗れるが、この敗戦を彼は前から覚悟していた気配もある。

 いずれにせよ、責を負って京の六条川原で処刑になった時、残したのがこの遺書だが、一読、切支丹の彼の心情が仏教徒のそれに近いことが感じられる。しかし権力者の移り変り、滅びる者と栄える者、栄えた者の死とそれに続く者とを生涯、見つづけたこの男は文字通り「見るべきものは、すべて見つ」という人生の結論を持ったろう。その人生の結論が「現世にあって、すべて変転きわまりなく、恒常なるものは何一つ見当たらぬ」という言葉ににじみ出ているのだ。

 それは彼の切支丹信仰とは矛盾する考えではなかった。日本人には当然、この感情から宗教に入る者は多いのだから。


 夫婦の味 P.112~114

袖ふれあうも他生の縁

 言うまでもなく、仏教では輪廻転生を考えるから現世には前世の業の影響が強く残っているという。だから袖ふれあうような一寸した関係も前世からの縁だというのであろう。

 もっとも縁というのは本来、こういう意味だけではなく、すべてのものがそれ自体では独立して存在せず、それぞれ関係しあっているということを言うらしい。

 私はむかし、こういう前世の縁などという言葉を馬鹿にしていた。

 しかし、この年齢になると、この人生でめぐりあった友人たちやわが家族を「縁だったなあ」とつくづく思うようになった。

 この間も食事をしながら古女房の顔をなにげなく見ていて、そのことを感じた。

 世界に何億の女性がいるかは知らない。私はその何億の女性をすべて知っている筈はなく、結婚した頃でもせいぜい五、六人ぐらいの娘としか交際していなかったろう。しかしまったく偶然でこの古女房と知りあい、そして結婚したわけだ。

 二十何年、おたがい、それまでは別の環境に育ち、別の世界に住み、相手のことなど知りもしなかったのに、それが実に形而下的な理由でーーたとえばバス停留所で一緒にバスを待っていた時、相手がハンドバッグを落したのを拾ってやった程度の理由で、生涯を共に暮らすようになった。これは偶然というべきか神の摂理というべきか。

 というのはこの世には何十回あっても、相手の存在が自らの人生に何の痕跡も与えぬ人がいる。その一方、たった一回の邂逅が決定的な運命をもたらす相手もいる。

 私はこれを「縁」ある人と「縁」なき人にわけて考えるようになった。古女房は私にとって、やはり他生からの縁があったにちがいない。でなければ今日まで苦楽を共にする筈はなかったのだから。

「あんたも婆さんになったな」

 と私は箸を動かすのをやめて、彼女にそう言った。

「御自分のことは、どうなんですか」

 と私の感慨を知らぬ彼女は怒ったように返事した。しかし私はこの「縁」のなかに合理主義などでは割りきれぬ深い意味があるような気がしてならない。そんなことは照れくさくて女房には言わなかったが……。


講演の要領 P.198~201

 私は小説をかくことが仕事だが、夏が終わると各地で文化祭等があるせいか、講演をいくつも頼まれる。しかし小説家は大説家ではない。大説家とは、弁舌爽やかに社会のこと、世のなかのことを、いかにも洞察して、話せる人たちのことである。

 しかし小説家のほうは文字通り、小さな説、ツマらぬ説しか持たない手合いであり、世のこと人のことが一向にわからぬから、わかるために小説を書いているのだ。だから壇上にたって、爽やかに弁舌をふるえる筈はない。また、そういう自信のある者は、小説家として風上におけぬと言われるだろう。

 だから私は、講演がからきし下手である。もっとも小説仲間には、私よりもっと下手糞がいて、吉行淳之介という作家は無理矢理、壇上に引きだされて、たった二分で話がつきてしまったという伝説さえある。やむをえず引受けた講演の会場に行くと、行った時にニコニコと愛想よく出迎えてくれた主催者側も、私が話を終わって戻る時になると、きわめて「浮かぬ」顔になることが多い。

 それから地方で講演をすると、ふしぎというか、奇怪というか、その地における私の本の売れ行きがハタと悪くなるという。

 それは、おそらく聴衆が、本で想像していた遠藤と実物の遠藤とが、あまりに違うのに幻滅(特に女性読者にこの傾向多し)し、もう二度と私の本を買う気持を失うらしいのである。

 だから生活権保持のためにも、講演はできるだけしないに越したことはないのだが、義理人情の柵(しがらみ)に縛られ、やはり秋になると三つ四つはしゃべらねばならなくなる。

 そこで講演の上手な二人の人にたずねてみると、要領があるのだそうだ。

 ひとつは壇上にたってすぐはじめてはいけない。しばらく、黙っている。黙って、うつむき、ポケットから万年筆を出し、じっとそれを見ている。すると観客はその万年筆に何かがあるのかと思い、全員、咳(しわぶき)ひとつしないで、壇上を注目するようになる。その瞬間、

「みなさん」

 ひくい声でしゃべりはじめる。これが第一の要領である。森繁久弥氏に習った方法である。

 もうひとつは、聴衆のすべてを見てはいけないのだそうだ。前列から五、六列目のご婦人だけに注目して、その人に語りかけるように話す。

 そしてその人の表情の変化が、聴衆全体の反応だと思うのである。

 その人が笑ったら聴衆のすべてが笑ったと思え、その人が泪(なみだ)ぐんだら聴衆のすべてが泪ぐんでいると思えーーそう、講演のめし人佐古純一郎氏は私に教えてくれたのである。なるほど、とは思ったが、その後、壇上に立ったら、もう二つのことを忘れてしまい、結局、実行できなかった。

 昔、B社が毎年主催している地方講演会で、できるだけ小さな町を選んで廻ったことがある。今とちがって町民会館や公会堂がある筈もなく、小学校の講堂が会場なのだが、娯楽が少ない時代なので、講演会と演芸会をまちがえて、爺さま、婆さまがずらりと並び、赤ん坊の泣き声がきこえ、「日本文学の運命」などという話をせねばならなかった。それでも、みんな辛抱づよく聴いてくれた。このように老若男女が入りまじっている講演会は、やはり話すのがムツかしい。老人を悦ばす話は若い連中にはツマらないだろうし、男に興味あるテーマは女性には関心のない場合が多々ある。孝ならんと欲すれば忠ならず、なのである。

 私の場合はもっと事情が複雑で、狐狸庵的な話を期待して来られる人たちと、純文学の遠藤の話をききにきてくださる人々と二つが混じりあうと、そのどちらも満足させるのは至難なので苦労する。片一方を立てれば、もう一方は立たずだからだ。

 実はこの原稿を書き終わると、私は講演に出かけねばならぬ。聴衆はすべて大学生でーーこれならばまだ話しやすい。しかし、その大学生も、文科系と理科系の混合よりも文科系だけのほうが、私も楽に、そして熱をこめて、しゃべれるのである。

 講演を頼まれる人たちにも上手に聴衆に話す工夫があるものだと……。

▼参考:佐古純一郎氏(1919~2014):二松学舎大学名誉教授) 

 おすすめ:扇谷正造「聞き上手・話し上手」、遠藤周作「生き上手 死に上手」は、共に参考になると思います。

2017.10.17:「聞き上手の人ーI.Yabukiさんー」と「聴衆に話す上手な方法」をまとめた。 


     すべてのものには時季がる

言葉の力

  「病は気から」のほんとうの意味 P.260~261

 「病は気から」という言葉を長い間、漠然とこれは「心の持ちようで人間は病気にもなる」という意味ぐらいに考えていた。

 ところが最近、気功術をやっている中国人に出会った。この人は気功術によって宿痾(しゅくあ)から快復したことを語り、人間の体に気が流れていることをしきりに強調した。それが切っ掛けで私も気に関する三、四冊の本を読んでいるうち、どうも「病は気から」という言葉は今まで考えていたように「心の持ちよう」と病気との関係ではなく、人間の体内の気が円滑に流れない時に病気になることを指しているのだとわかってきた。

 漢方医の診察を私も何度か乞うたことがあるが西洋医学の医師と同じように脈をとってくれる。しかしこの脈は西洋医の脈とちがって、経路を伝わる気の流れを診ているのだそうである。

 呼吸法についても同じことがいえる。東洋医学では呼吸法を重要視していて、この頃は中国の影響で太極拳をやったり印度のヨガをやったりする人が多くなったが、これらの肉体訓練の要点のひとつは呼吸法である。

 その呼吸法は西洋医学のいう深呼吸ではない。一言でいうとこれは体内に宇宙の生命を吸いこんで、体内の邪気をすべて吐き尽すやり方だ。いろいろな方法があるが、一挙に吸って、ゆっくり、すべての息を吐きだすのがその要領である。

 この時、吸いこむのはたんに新鮮な空気ではない。宇宙の生命であるとまず考えねばならない。そして宇宙の生命が人間の肉体のなかにも流れる時それが「気」であると言ってもいいらしい。

 一昨年、仏蘭西(ふらんす)国営放送が主催した筑波大学で日仏の学者たちが東西文化の交流のシンポジュムをひらいた。その討議が最近、何冊かの本になり私も熟読したが、そこでも「気」はそれを主張する日本学者とそれを信じない仏蘭西学者との間で大いに問題にされていた。

yuasa.kisyugyousintai.jpg  このシンポジュウムに参加した湯浅泰雄教授は最近『気・修行・身体』という好著を出された。私はユング心理学の研究者としても知られている方だがその身体論は非常に面白かった。

 ユング的な視点で氏はベルグソンやメルロ・ボンティの説を更に発展させ、身体を三重構造として捉えた。ひとつはいわゆる西洋医学の考える生理的な肉体、第二が心と裏腹になっている肉体(たとえば心療科が考える肉体)、そして第三が東洋医学の考える気の流れる肉体である。そしてこの三つが重なりあって我々の肉体となっていることをこの本で説明している。

 いずれにせよ、こうした本を読んでみると「病は気から」を私など非常に通俗的な解釈で考えていたことがわかった。それと共に新鮮な視点が与えられたことを嬉しく思った。近ごろは知人の医者たちにこの本を奨めている次第だ。


  言葉が届かぬ世界 P.264~266

 言語道断という言葉ある。昔、これを「もってのほか」「とんでもない」という意味だと思っていた。だから、後に禅の本を読んで本来は「言語にたよって思考しては悟りをえられぬ」という意味だと知った。

 言語道断はまず分別智を捨てよということにもつながる。仏教の禅は言語や分別(理性や思考)では決して究極のものはつかめぬと言いつづけている。

 年齢(とし)をとるにしたがって、言語道断というこの考えかたに次第に心ひかれるようになった。言語ではとても表現できぬもの、というより言語ではとてつもつかめぬ領域や世界がやはりあるのだとすこしずつ気づいたからである。

 私は三田の大学時代、愚かにも井筒俊彦先生の講義には出なかった。先生の思想のふかさを知ったのはずっとあとになって、その御著書を拝読してからである。特に言葉と存在とについて書かれた御著書は非常に感銘をうけた。そこには言語では表現できぬものと存在との関係をこまかく論じられていた。

 私自身もむかし『沈黙』という題の小説を書いたことがあった。

 しかし、沈黙とは普通、解釈されているようにナッシングの世界とは限らないのだ。私は最近茶の稽古に通っているが茶室の静寂はもうひとつの世界からの語りかけが聞こえるということが前提になっている。日本画の空白は奥深いものの表現にほかならない。同じように「沈黙」の背後にはそれを聞く耳を持った人間ならば、きっと聞くことのできるX(エックス)がひそかに息づいている筈だ。

 我々は言語にならぬものは空虚であり、何もないと錯覚している。しかし言語のもつ本質的な部分は枯山水の庭石のように地中ふかく埋められているのであり、井筒先生はこれを言語的アラヤ識と表現された。そのアラヤ識の部分が存在と本質的に関わっているのであろう。

 話は変わるが「老い」とは、こうした眼にはすぐには見えぬもの、耳にはすぐに聞こえぬもの、言語では表現できぬものに心かたむいていく年齢だという気がする。

 この頃は日本人も長寿になったから、とても還暦をすぎたぐらいでは「老年」とはいえぬだろうが、私も「沈黙」の裏側にあるもの「静寂」と背中あわせになっているものに心が向いていく。言葉が届かぬがしかし存在していないとは決して言えぬ世界に関心がますます注がれていくようだ。そういう関心がなまぐさい言語の世界から離れてはならぬ小説家にとって決してよいことではないと重々承知はしているのだが……。

 それと共に言葉を使って何かを表現する「小説家」がこの言葉の力の届かぬものをどう言いあらわせるのかが気になって仕方がない。詩人ならばとも角、散文家にとってはこれが大事な問題だから。


縁の神秘

私の個性を作る縁 P.267~269

 縁などという言葉を口にすると、おそらく若い人たちに笑われるだろう。

 だが人間の縁がしみじみ納得がいき、なるほどと思えるのは人生のさまざまな経験を経たり、人間を多少は見ることができる年齢になってからである。

 かく言う私だって二十代、三十代のある時期は縁など一笑にふしていた。それは仏教でいう三法眼のひとつ、因縁についての知識がなかったせいでもある。おそらく、その頃、この原稿をたのまれれば、言下に辞退したであろう。

 それが「縁について」を書く気になったのは、わが身の人生を展望できる年齢になって、そこに働いていたものが私自身の個性などではなく、多くの縁の助けや支援によるものだとわかってきたからなのである。

 仏教には時節到来という言葉がある。人間に働いている仏の心を知るには時節を待たねばならぬ意味である。おなじように縁についても、それが理解できるのは人生の時節を待たねばならない。

 基督教のほうでは縁という言葉はない。おそらく縁という言葉は基督教用語にはないであろう。しかしこの言葉がないからと言って一人の人間が多くの眼にみえぬ存在に助けられて生きることを否定するのではないだろう。いや、むしろ一人の人間が人生の本当のありかたを知るためには有形無形の生命の助けが必要なことは基督教も肯定しているのである。しかし仏教の素晴らしさはこの縁の意味を積極的にうち出すことで、人間の本来もっている存在の様式を明らかにしたことにある。

 戦後の傾向のひとつとして個性重視ということが言われてきた。今日でも一寸した人生雑誌をひろげると然るべき文化人らしい人が「個性を大事にせよ」とか「個性を生かそう」ということお強調している。

 しかし私はこうした猫も杓子も口にする個性というものを人間のなかであまり尊敬しなくなってきた。

 なぜか。

 簡単なひとつの例をあげよう。私は小説家だが、今ふりかえってみると、むずしいながら私だけの作風をやっとつかむことができたのは五十歳になってからである。

 しかし、その私だけの作風をふりかえってみると自分一人の個性でできたのではない。最初は先人の文章の模倣からはじまった。文学観についてももモ-リヤックやグリーン、ベルナノスだの愛読した仏蘭西基督教作家たちの消しがたい影響の下に少しずつ出来あがってきている。

 ひとつの果物が熟するためには大地の養分や太陽の光、農夫の助力など色々な力がそこに作用しているのだが、それとおなじように私の曲がりなりにも文学とよべるものは多くの芸術作品のお陰を受けてやっと成立したものだ。

 それを私は恥ずかしいとは思わない。まして私の作風が無個性だとは思わない。いや、逆に私の個性が本ものになるためには多くの影響が必要だったのだと思っている。言いかえると、私の個性を作る縁がより集まっていたと考えている。


「時節」がいる P.269~271

 だが、私は正直いって、個性、個性と叫ぶ戦後の傾向に必ずしも賛成ではない。はっきり言うと個性よりももっと大切なものがある。

 一人の人間の個性を創りだすためにはそこに働いたあまたの縁がある。

 もしくはそのような縁を無視して、自分の独力で今日までこられたかどうか、自分の個性は自分自身で創りだしたかどうか、もう一度、考えてみると、そうでないことにすべての人が気づくだろう。

 仏教はこの世にあるものは悉く絶対的でないと教えている。絶対的でないとは、それ自体で独立して存在しいているものは何もないということである。すべてのものはたがいに支えあって、もたれあって存在している(その関係を仏教は縁とよぶ)から、何ごとにも絶対的な価値をおいてはならぬと説いている。

 支えあい、もたれあって存在している関係、それが縁の一つの相である。

 しかし、もう一つの縁の相があると私は思っている。それは縁のもつ神秘、ふしぎさである。

 それをどう説明したらいいだろう。

 そう、たとえばあなたが結婚しているとする。見合いでも恋愛でもいい、どのような形で自分の配偶者をあなたは選んだのだろうか。

 「彼(彼女)をみつけ、選んだのはこの私だ」

 とあなたが錯覚するならば、もう一度、考えてみよう。かりにあなたが配偶者を選んだとしても全世界すべての男(女)のなかから選んだのではあるまい。せいぜいあなたの周辺や周辺に偶々(たまたま)、来た異性から選んだにすぎぬ。だからあなたの選択は結局、たいしたことではないのだ。

 むしろ大事なのはその人があなたの配偶者になったふしぎさのほうでである。なぜ、その人がこの世に生れて、あなたの周辺にいたのか、あなたに選ばれる場所にいたのか。そのほうが神秘的である。そこにはあなたの見通しや智慧の及ばぬ何かが働いていると思わないだろうか。

 これが縁のもつふしぎさ、神秘である。そのふしぎさに思いあたる時、この縁を大事にしたいという気持がおのずと湧いてくる。その気持ちには眼に見えぬものに対する畏敬 いけいの感情もまじっているのだ。

 このようなことを若い人たちに語ったところで、耳傾けてくれないかもしれない。このことがしみじみと実感をもってわかるには、「時節」がいるのだ。仏教でいうあの時節が……。


『沈 黙』

 ローマ教会に一つの報告がもたらされた。ポルトガルのイエズス会が日本に派遣していたクリストヴァン・フェレイラ教父が長崎で「穴吊(あなつ)り」の拷問をうけ、棄教を誓ったというものである。その教父は日本にいること二十数年、地区長という最高の住職にあり、司祭と信徒を統率してきた長老である。

 稀にみる神学的才能に恵まれ、迫害下にも上方(かみがた)地方に潜伏しながら宣教を続けてきた教父の手紙には、いつも不屈の信念が溢れていた。その人がいかなる事情にせよ教会を裏切るなどとは信じられないことである。教会やイエズス会の中でも、この報告は異教徒のオランダ人や日本人の作ったものか、誤報であろうと考える者が多かった。

日本における布教が困難な状態にあることは宣教師たちの書簡でローマ教会にももちろんわかっていた。一五八七年以来、日本の太守、秀吉が従来の政策を変えて基督(キリスト)教を迫害しはじめると、まず長崎の西坂で二十六人の司祭と信徒たちが焚刑(ふんけい)に処せられ、各地であまたの切支丹が家を追われ、拷問を受け、虐殺されはじめた。徳川将軍もまたこの政策を踏襲して一六一四年、すべての基督教聖職者を海外に追放することにした。

 宣教師たちの報告によると、この年の十月六日と七日の両日、日本人をふくむ七十数人の司祭たちは九州、木鉢(きばち)に集められ、澳門(まかお)とマニラにむかう五隻のジャンクに押しこめられて追放の途につくことになった。それは雨の日で、海は灰色に荒れ、入江から岬のむこうをぬれながら船は水平線に消えていったが、この厳重な追放令にかかわらず実は三十七名の司祭が、信徒を捨て去るに忍びずひそかに日本にかくれ残っていた。そしてフェレイラもこれら潜伏司祭の一人だったのである。彼は、次々と逮捕され処刑されていく司祭や信徒の模様を上司に書き送りつづけた。今日、一六三二年の三月二十二日に彼が巡察師アンドレ・バルメイロ神父にあてて長崎から発送した手紙が残っているが、それは当時の模様をあますことなく伝えている。

 「前の手紙で私は貴師に当時の基督教会の状態をお知らせした。引きつづき、その後に起ったことをお伝えする。すべては新しい迫害、圧迫、辛苦に尽きるのである。一六二九年以来信仰のために捕えられている五人の修道者、すなわち、バルトロメ・グチエレス、フランシスコ・デ・へスス、ビセンテ・デ・サン・アントニヨの三人のアウグスチノ会士、われらの会の石田アントニヨ修道士、フランシスコ会のガブリエル・デ・サンタ・マグレナ神父の話から始めよう。長崎奉行の竹中采女(うねめ)は彼らを棄教させ、もってわれらの聖なる教えとそのしもべを嘲笑し、信徒の勇気を挫こうとした。だが采女は、やがて言葉では神父たちの決心を変えさせることができないことを知った。そこで別の手段を用いる決心をしたのである。それは他でもなく、雲仙地獄の熱湯で彼等を拷問にかけることであった。

 彼は、五人の司祭たちを雲仙に連れて行き、彼らが信仰を否定するまで熱湯で拷問すること、ただし決して殺さぬように命じた。この五人のほかに、アントニヨ・ダ・シルヴァの妻ベアトリチェ・ダ・コスタとその娘マリアも拷問にかけられることになったが、それはこの女たちが長い間棄教を迫れたにもかかわらずそれに応じなかったためである。

 十二月三日、全員は長崎をたち、一レグワしか離れていない日見(ひみ)の港につくと、腕と手を縛られ、足枷(あしかせ)をはめられ、それから船に乗せられた。一人一人、船の舷側に固く縛りつりつけられたのである。

 夕方、彼らは小浜(おばま)の港に着いたが、そこは雲仙の麓になる。翌日、山に登った。山では七人がそれぞれ一つの小屋に入れられた、昼も夜も彼らは足枷と手錠をかけられ、護衛に取りかこまれていた。采女の配下の数は多かったが、代官も警吏を送って警戒は厳重である。山に通じる道は、すべて監視人が配置され、役人の許可証なしに人々の通行を許さなかった。

 翌日、拷問は以下のようにして始まった。七人は一人ずつ、その場にいるすべての人から離れて、煮えかえる池の岸に連れていかれ、沸き立つ湯の高い飛沫(ひまつ)を見せられ、怖ろしい苦痛を自分の体で味わう前にキリストの教えを棄てるように説き勧められた。寒さのため、池は怖ろしい勢いで沸き立ち、神の御助けがなけば、見ただけで気を失うほどのものであった。しかし全員、神の恵みに強められたため、大きな勇気を得て、自分たちを拷問にかけよ、自分たちは信奉する教えを絶対に捨てぬと答えた。役人たちはこの毅然たる答えを聞くと、囚人に服を脱がせ、両手と両足を縄でくくりつけ、半カナーラくらい入る柄杓(ひしゃく)で熱湯をすくい、各人の上にふりかけた。それも一気にするのでなく、柄杓の底にいくつか穴を開け、苦痛が長がびくようにしておいたのである。

 キリストの英雄たちは、身動き一つせずこの怖ろしい苦痛に耐えた。まだ年の若いマリアだけは、あまりの苦痛のため大地に仆れた。役人は、それを見て"転んだ、転んだ"と叫んだ。そして少女を小屋に運び、翌日長崎に帰した。マリアはそれを拒絶し、自分は転んだのではない、母やその他の人々と共に拷問してほしいと言い張ったが、聞きいれられなかった。

 残りの六人は山に留まり、三十三日間過ごした。その間にアントニヨ神父、フランシスコの両神父とベアトリチェは、各々六回熱湯で拷問をうけた。ビセンテ神父は四回、パルトロメ神父、ガブリエル神父は二度であったが、その際、誰ひとり呻き聲もたてなかった。

 他の人より長時間拷問にかけられたのは、アントニヨ神父とフランシスコとベアトリチェである。特にベアトリチェ・ダ・コスタの場合は、彼女は女性の身ながらあらゆる拷問においても、いろいろ勧告されても、男にもまさる勇気を示したため、熱湯の苦しみの他に別の拷問も行われたし、長時間小さな石の上に立たされ、罵りと辱めのことばを浴びせかけられもした。しかし役人が凶暴になればなるほど、彼女はひるまなかった。

 他の人々は体が弱く、病気であったために、余りひどく苦しめられなかった。奉行はもともと殺すのではなく、棄教させることを望んでいたからである。またこの理由から、彼らの傷の手当てをするためにわざわざ一人の医師が山に来ていたのである。

 遂に采女はいかにしても自分が勝てないことを悟った。かえって部下から、神父たちの勇気と力を見れば、これを改心させるよりも雲仙のあらゆる泉と池はつきてしまうだろうという報告を受けとったので、神父たちを長崎に連れもどすことに決心した。一月五日、采女はべアリチェ・ダ・コスタを或るいかがわしい家に収容し、五人の司祭を町の牢屋に入れた。彼らは今もその牢にいる。これが、われわれの聖なる教えが大衆に鑽仰(さんぎょう)されるようになり、信徒が勇気づけられ、暴君がさきに計画し期待したことと反対に打ち負かされるに至った戦いの赫赫(かくかく)たる結末である>

 このような手紙を書いたフェレイラ教父が、たとえ、いかなる拷問をうけたにせよ神とその教会とを棄てて異教徒に屈服したとはローマ教会では思えなかったのである。

▼一六三五年に、ローマでルビノ神父を中心として四人の司祭たちが集まった。この人たちはフェレイラの棄教という教会の不名名誉ほまれを雪辱するために、どんなことがあっても迫害下の日本にたどりつき、潜伏布教を行う計画をたてた司祭たちであった。

 この一見、無謀な企ては最初は教会当局の賛意を得なかった。彼等のの熱意や布教精神はわかっても、これ以上、危険きわまる異教徒の国に司祭たちを送りこむことは上司としてただちに許すべきことではない。しかし聖フランシスコ・ザビエル以来、東洋でもっとも良き種のまかれた日本で、統率者を失い、次第に挫けだしている信徒たちを見棄てることも一方ではできない。のみならず当時ヨーロッパ人の眼から見れば世界の果てともいうべき一小国でフェレイラが転宗させられたという事実は、たんなる一個人の挫折ではなく、ヨーロッパ全体の信仰と思想の屈辱的な敗北のように彼等に思われた。こうした意見が勝ちをしめて、幾多の曲折を経たのちルビノ神父と四人の司祭の渡航は許可された。

▼このほかポルトガルでも、この一団とは別の理由から三人の若い司祭が同じような日本潜伏を企てていた。彼等はカムポリードの古い修道院で、かつて神学生の教育にあたったフェレイラ師の学生だった人たちである。フランシス・ガルぺとホアンテ・サンタ・マルタそしてセバスチァン・ロドリゴの三人には、自分たちの恩師だったフェレイラが華々しい殉教をとげたのならば兎も角、異教徒の前に犬のように屈従したとはどうしても信じられなかった。そしてこの若い彼等の気持ちはとりもなおさずポルトガル聖職者の共通した感情でもあった。三人は日本に渡り、事の真相をこの眼でつきとめようと考えたのである。ここでも上司は伊太利(いたりあ)におけると同様、最初は首を縦にふらなかったがやがてその情熱にまけ、遂に日本への危険な布教を認めることにした。これは一六三六年のことである。

 さて、三人の若い司祭たちはただちに長途の旅行の準備にとりかかった。当時ポルトガル宣教師が東洋に行くためには、まずリスボンからインドにむかうインド艦隊に同乗するのが普通である。当時インド艦隊の出発はリスボンをにぎわせる最大の行事の一つだった。今までは文字通り地の果てと思われた東洋の、しかも最端にある日本(ヤポン)が、今、三人にはあざやかな形をおびて浮かびあがった。地図をひもとく時、アフリカのむこうにポルトガル領の本インドがあり、その先々に数々の島とアジアの国々が散らばっている。そして日本はまるで幼虫のような形をして、その東端に小さく描かれている。そこまでたどりつくには、まずインドのゴアにたどりつき、その後更に長期の歳月をわたり多くの海をわたっていかねばならぬのである。なぜなら聖フランシスコ・ザ・ザビエル以来、ゴアは、東洋布教の足がかりとも言うべき町だったからである。二つの聖ポウロ神学院は東洋の各地から留学してきた神学生と共に、布教を志すヨーロッパ司祭が各国の事情を知り、それぞれの国に向う便船を半年も一年も待つ場所でもあった。

 三人はまた手をつくして彼等が知りえる限りの日本の状況について調べた。幸いこの点についてはルイス・フロイス以来、数多くのポルトガル宣教師たちが日本から情報を送ってきていた。それによると新しい将軍イエミツは、彼の祖父や父以上に苛酷な弾圧政策を布(し)いているということだった。特に長崎では一六二九年以来、タケナカ・ウネメとよぶ奉行が暴虐非道、人間にあるまじき拷問を信徒たちに加え、熱湯のたぎる温泉に囚人たちを漬けて、棄教と転宗を迫り、その犠牲者の数は日に六、七十人をくだらぬ時もあるという話だった。この報告はフェレイラ師自身も本国にもたらしているから確実に違いない。いずれにしろ、自分たちが長い辛苦の旅をつづけた後にたどりつく運命は旅以上に苛酷なものであることを彼等は始めから覚悟しなければならなかった。

 セバスチァン・ロドリゴは鉱山で有名なタスコ町で生まれ、十七歳で修道院に入った。ホアンテ・サンタ・マルタとフランシス・ガルペとはリスボン生まれで、ロドリゴとカムポリードの修道院で教育を受けた仲間である。小神学校から日常生活はもちろん毎日机をならべた彼等は、自分たちに神学を教えていたフェレイラ教父のことをありありと憶(おぼ)えている。

 日本のどこかに今、あのフェレイラ師が生きている。碧(あお)い澄んだ眼とやわらかな光をたたえたフェレイラ師の顔が日本人たちの拷問でどう変わったかとロドリゴたちは考えた。しかし屈辱に歪(ゆが)んだ表情をその顔の上に重ねることは、彼にはどうしてもできない。フェレイラ師が神を棄て、あの優しさを棄てたとは信じられない。ロドリゴとその仲間とは、日本にどうしてもたどりつきその存在と運命とを確かめたかった。

 一六三八年三月二十五日、三人を乗せたインド艦隊は、べレム要塞の祝砲をうけながらタヨ河口から出発した。彼等はジョアン・ダセコ司教のの祝福を受けた後、司令官の乗る「サンタ・イサベル号」に乗船した。黄色い河口がおわり艦船(ナホ)が青い真昼の海に出た時、彼等は甲板に凭(もた)れて金色に光る岬や山をいつまでも眺めた。農家の赤い壁や教会。その教会の塔からは艦船を送る鐘が風に送られてこの甲板まで聞こえてくるのである。

 当時、東インドにむかうためにはアフリカの南を大きく迂回せねばならない。だが、この艦船は出発三日目にしてアフリカ西岸で大きな嵐にぶっかった。

 四月二日、ポルト・サン島に、それから間もなくマディラに、六日にはカナリヤ諸島に到着した後は、たえ間ない雨と無風状態に襲われた。それから潮流のため、北緯三度の線から五度まで押しもどされてギネア海岸に突きあたった。

 無風の時、暑さは耐えられるものではなかった。その上、各船には多くの病気が生じ、「サンタ・イサベル号」の乗組員までも、甲板や床で呻く病人が百人をこえはじめた。ロドリゴたちは、船員と共に病人の看護に走りまわり、彼等の瀉血(しゃけつ)を手伝った。

 七月二十五日、聖ヤコブの祝いにやっと喜望峰(きぼうほう)を廻った。喜望峰をまわった日に、再度の烈しい風が襲ってきた。船の主帆がくだかれて烈しい音をたてて甲板にぶつかった。同じ危険にさらされた前部の帆を、病人たちもロドリゴたちもかりだされて、漸くにして救った時、船は暗礁に乗りあげたのである。もし、他の艦がただちに救いにこなければ、「サンタ・イサベル号」はそのまま沈んだかもしれない。

 風のあとはふたたび風が凪(な)いだ。マストの帆は力なく垂れ、ただ真黒な影だけが甲板に死んだように倒れている病人たちの顔や体の上に落ちている。海面は暑くるしく光るだけで波のうねりさえない毎日である。航海が長びくにつれて食糧と水もふ足になってきた。こうしてようやく目的のゴアに着いたのは十月九日のことだった。

 このゴアで彼等は本国にいるよりもっと詳しく日本の情勢を聞くことができた。それによると、三人の出発した前の年の十月から、日本では三万五千人の切支丹たちが一揆(いつき)を起こし、島原を中心にして幕府軍と悪戦苦闘した結果、老若男女、一人残らず虐殺されたとのことである。そしてこの戦争の結果、この地方はほとんど人影をみぬほど荒廃した上、残存の基督教徒が虱つぶしに追及されているそうである。のみならずロドリゴ神父たちに最も与えたニュースは、この戦争の結果、日本は彼等の国であるポルトガルと全く通商、交易を断絶し、すべてのポルトガル船の渡航を禁止したとのことであった。

 日本にむかう母国の便船が全くないことを知った三人の司祭は、絶望的な気持で澳門までたどりついた。この町は、極東におけるポルトガルの突端の根拠地であると同時に、支那と日本との貿易基地であった。万一の僥倖をまちのぞみながら、ここまで来た彼等は、到着早々、ここでも巡察師ヴァリニャーノ神父からきびしい注意をうけねばならなかった。日本における布教はもはや絶望的であり、これ以上、危険な方法で宣教師を送ることを澳門の布教会では考えていないと神父は言うのである。

 この神父は、もう十年前から日本及び支那に向う宣教師を養成するために布教学院を澳門に建設していた。のみならず日本における基督教迫害以来、日本イエズス会管区の管理はすべて彼によってなされていた。

 ヴァリニャーノ師は三人が日本上陸後探そうとしているフェイラについても次のように説明した。一六三三年来、潜伏宣教師たちからの通信も全く途絶えてしまった。フェイラが捕えられたということ、長崎で穴吊りの拷問を受けたことは長崎から澳門に戻ったオランダ船員から聞いてはいるが、その後の消息ふふ明であり、それを調査することもできぬ、なぜなら問題のオランダ船はフェイラが穴吊りに会ったその日に出帆したからである。当地でわかっているのは新しい宗門奉行に任命された井上筑後守がフェイラを訊問したということだけである。いずれにしろ、こうした状況にある日本に渡ることは澳門の布教会としては、とても賛成できぬ。これがヴァリニャーノ師の卒直な意見であった。

 今日、我々はポルトガルの「海外領土史研究所」に所蔵された文書の中にこのセバスチァン・ロドリゴの書簡が幾つか、読むことができるが、その最初のものは以上書いたように、彼と二人の同僚がヴァリニャーノ師から日本の情勢を聞いた所から始まっている。

遠藤周作『沈黙』(新潮文庫)「まえがき>」より。 
平成二十八年一月二十四日


河合隼雄さんは、『沈黙』を読まれて下記の記述をのこしている。

 『沈黙』は昭和四十一年に発表され、すぐに読んだ。私はその当時、深い感銘を味わったことを覚えている。私は何よりも、私自身が異国の心理学をどう受けとめるかに苦しんでいるときに、異国の神をどう受けとめようかと苦悩している遠藤氏の姿を感じとって、深い共感を覚えたのであった。『沈黙』のなかでは、この問題は、西洋のキリスト教司祭ロドリゴが、日本という土を踏むことによって、日本の土――それは神とも言えるものだろうーーをどのように心のなかに受けとめるかという問題として提出されている。しかし、その根本には、もちろん、日本人が異国の神キリストを信じるということに伴う問題が存在している。そこで、私は他国の文化をそのまま移入することは不可能に近いと述べ、「一つの文化がいかに強力なものであれ、他国の踏むや否や、もう変容をとげ始めるのである。」(『ユング心理学入門』二九五頁)と書いた後に、次のような『沈黙』に関するコメントをいれた。ここが削除した部分なのであるが、それを当時書いた原稿のままで示すことにしよう。                   

 この小説は、幕府の迫害によって絶えかかっているキリスト教を何とか守りぬき、「信徒達を勇気づけ、その信仰の火種をたやさぬためにも、日本に敢然と渡ってきたセバスチャン・ロドリゴという司祭について語っている。ロドリゴは予想される多くの困難や危難にもかかわらず、フランシスコ・ザビエルが言っ「東洋のうちで最も基督教に適した国」である日本へ渡ってくる。そして、其の後、日本の役人に捕えられた後は、最後にとうとう踏絵を踏むことになる。しかし、これは迫害に耐えかねて転向したのではない。彼は「踏むがいい」というキリストの声にしたがって銅板を踏んだのである。この信仰厚い司祭が踏み絵を踏むに到るまでの課程を、この小説家は生き生きと的確に表現しているので、興味ある方は小説を読んで頂くとして、筆者がここに問題にしたいのは、ここに司祭に対して「踏むがいい」と語りかけてきたのは誰であったということである。私はここでやはり、土のおそろしさということを感じずに居れない。司祭が本国にとどまるかぎり彼の信仰はそのままであったことろう。しかし、彼が日本の?モギ村の土を踏み、日本の塩魚を食べる過程で、それらは抗しがたい力をロドリゴ司祭の心の奥にまで及ぼしていったのである。日本の土はキリストまで変えてしまつたのか、それは解らない。しかし、ロドリゴ司祭の耳に聞こえて来るキリストの声は変わったのである。この際、「踏むがいい」と言ったのは仏様である人はあるまいし、またサタンの声であるとも言い難い。それはしかし、天井から彼に語りかけるキリストではなく、彼の足下から語る、日本の土の中から掘り出された銅にきざみこまれたキリストなのである。「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。」と、銅版のあの人は司祭にむかって言ったと作者は述べている。     

 今までは私の原稿をほめてくれていた牧さんは、この部分をカットするように主張した。それは内容的にどうこう言うのでなく、「遠藤周作さんという人はウルサイ人だから、文句つけられたら、ひとたまりもないぜ」と言うのである。これを聞いて私も一ぺんにおそろしきなってしまった。あんな偉い人に文句言ってこられたらたまらないでしょうし、本の売れゆきにも影響するだろうからと早々に削除することにしてしまった。

河合隼雄『日本人とアイデンティティ』P.245~より


 彼等(フランシス・ガルぺとホアンテ・サンタ・マルタそしてセバスチァン・ロドリゴ)が日本に到着した場所は長崎から十六レグワの郷里にトモギという漁村なのです。戸数は二百戸にも足りぬ村ですが、かつては全村民のほとんどが洗礼を受けたこともあるのでした。到着の翌日、暗いうちに、野良着に着かえさせられ部落の背後にある山に登りました。信徒たちは我々をより安全な場所である炭小屋にかくそうというのです。

「長崎 トモギ」をインターネットで検索すると遠藤周作の「沈黙」について述べられています。

 島原の乱(寛永14年10月25日(1637年12月11日)勃発、寛永15年2月28日(1638年4月12日)終結とされている。)は、松倉勝家が領する島原藩のある肥前島原半島と、寺沢堅高が領する唐津藩の飛地・肥後天草諸島の領民が、百姓の酷使や過重な年貢負担に窮し、これに藩によるキリシタン(カトリック信徒)の迫害、更に飢饉の被害まで加わり、両藩に対して起こした反乱である。なお、ここでの「百姓」とは百姓身分のことであり、貧窮零細農民だけではなく隷属民を擁した農業、漁業、手工業、商業など諸産業の大規模経営者をも包括して指している。

 島原はキリシタン大みょうである有馬晴信の所領で領民のキリスト教信仰も盛んであったが、慶長19年(1614年)に有馬氏が転封となり、代わって大和五条から松倉重政が入封した。重政は江戸城改築の公儀普請役を受けたり、独自にルソン島遠征を計画し先遣隊を派遣したり、島原城を新築したりしたが、そのために領民から年貢を過重に取り立てた。また厳しいキリシタン弾圧も開始、年貢をおさめられない農民や改宗を拒んだキリシタンに対し拷問・処刑を行ったことがオランダ商館長ニコラス・クーケバッケルやポルトガル船長の記録に残っている[5]。次代の松倉勝家も重政の政治姿勢を継承し過酷な取り立てを行った。

 天草は元はキリシタン大みょう・小西行長の領地で、関ヶ原の戦いの後に寺沢広高が入部、次代の堅高の時代まで島原同様の圧政とキリシタン弾圧が行われた。

『細川家記』『天草島鏡』など同時代の記録は、反乱の原因を年貢の取りすぎにあるとしているが、島原藩主であった松倉勝家は自らの失政を認めず、反乱勢がキリスト教を結束の核としていたことをもって、この反乱をキリシタンの暴動と主張した。そして江戸幕府も島原の乱をキリシタン弾圧の口実に利用したため「¥島原の乱=キリシタンの反乱(宗教戦争)」という見方が定着した。しかし実際には、この反乱には有馬・小西両家に仕えた浪人や、元来の土着領主である天草氏・志岐氏の与党なども加わっており、一般的に語られる「キリシタンの宗教戦争と殉教物語」というイメージが反乱の一面に過ぎぬどころか、百姓一揆のイメージとして語られる「鍬と竹槍、筵旗」でさえ正確ではないことが分かる。

 ちなみに、上述のように宗教弾圧以外の側面が存在することから、反乱軍に参戦したキリシタンは現在に至るまで殉教者としては認められていない。
平成二十八年二月三日追加。


ふめ。ふめ、ふみなさい。それでいいのだ

踏 絵

 ただ時に不意に旅心にさそわれて庵の戸をしめ、飄然と旅に出て、今日、庵に戻ったばかりである。昨日まで歩いてきたのは遠く肥前の国々であった。

 大村城をふりだしに、西彼杵(にしそのぎ)を横断して三重、黒崎の海村をまわり、長崎に出て、千々石湾の茂木を訪れ、更に足をのばして島原城より西有馬の原城に出、野母崎の岬より天草の島々を眺め、小浜に至ったのである。

 肥後の国々は今ちょうど新緑。人影なく木の芽のもえる山道をただ、一人とぼとぼ歩いて漸く峠をのぼると、眼下に青い海原の哀しく拡がるを見る。

 私がこの国に興味をもったのは言うまでもなく、日本の各地で奈良大和と京都を除いて興味ある場所はここよりないからである。すなわち、ここはキリシタンの血が流され、信徒を処刑する火刑台の遺跡と刑場の廃墟が至る所にころがっているのに、それを囲む自然の風景はあまりに美しく陽光が明るい場所である。狐狸庵の書架に多少のきりしたんに関する文献をそろえている。そこに書かれたこの地の信仰の歴史も頭に一応はたたきこんでいる筈である。しかしそれを読み、私の念頭からいつも払うことのできない疑問は、新緑もえる肥後の国を歩きながら、ますます強くなっていく。

 たとえば、現在、長崎西坂処刑場に記念碑の立っている、二十六人の殉教者は二十六聖人のなのもとに広くヨーロッパにまで知られ海外にもさまざまに記述され絵画にさえなっている。しかしこの二十六人聖人の殉教した西坂公園からその付近天理教会に至る地域だけでも六百六十人のキリシタン信徒がハリツケ、斬首、穴づり、水責め、火刑、寸断その他の刑で殉教している。日本で殉教した者の総数は詳しくないが、現在判明しているだけでも三千七百九十二人の多きにのぼっている。少なくともその大部分は私が歩いたこの風光明媚な大村から長崎を経て島原に向かう小さな半島の一角で行われたのである。だから、静まりかえった山道をただ一人、杖をひきながら汗をぬぐうたびに、ふと、この道をその昔ロバの背にゆられながら海べりの村から村へ布教に歩いたイスパニアの神父たちの姿を思いうかべた。また、きりしたん弾圧以後、警吏役人の巡視をみるや、村から村へその連絡がとび、あわてて、聖物やおらしょの書きものをかくした農民や漁村の人々の姿を心に甦らしたものである。

▼私がこの旅でとくに感動した時は四個所あった。一つは浦上四番崩れでな高い浦上町に雨ふる日に一本木山の上にたって見おろした時である。片岡弥吉氏や浦川神父の労作で我々は今日、浦上における明治初年の殉教史を知ることができる。実はこれを小説にしたいと思い、ここを訪れただけに一木一草にいたるまで、眼に焼きつけようと雨の中を傘をさして直立していた。

 K村の古きりしたんをたずねた時も感動した。言うまでもなく古きりしたんは鎖国時代に司祭や伝道師のいないために変型した日本的キリスト教で別名、クロ教ともよばれているが、私はここの残った黒崎村を訪れ、魚くさい農家の片隅で老爺の口から親しく昔の話をきいた、

 「おらしょ」とか「こんちるさん」とか「天地はじまりのこと」などという言葉を今、耳にしえた私はきりしたん時代の信徒にそのまま会ったような気がした。

 また島原の町はずれで今井刑場の跡も見た。今はただ草生い茂る畠の中に刑場跡という小さな立札があるきり。しかし野苺の這う叢(くさむら)をよく観察すると、その昔、外人司祭や日本人信徒を火刑にした火刑台の敷石がころがっているのを発見した。

 原城跡は、今はただキャべツと麦畠に変わり、城跡の片側は絶壁となって天草の海に面している。しかし城跡の石垣はところどころに残っている。林銑吉氏の「島原半嶋史」三巻中、第二巻を愛読し、また島原藩の儒者、川北重熹の「原城紀事」松平輝綱の「嶋原天草日記」山田右衛門の「天草土賊城中話」立花飛騨「嶋原戦之覚書」を狐狸庵の書架よりたずさえし私は、本丸、二の丸をうろつきまわり、ひょっとすると何やらその頃の遺物でも埋もれてはおらぬか落ちてはおらぬかと眼をキョロキョロさせて調べておったところ、土中に壺のかけらあり。また銃の一片とおぼしき錆びた鉄片あり。石垣の石と共に大事に布に包み、キャべツをつむ農婦にそれとなくたずぬれば、今でも時々、人骨が出ますという話である。さもありなん。十二万四千の大軍に殺戮された百姓浪人の数はその数一万八千人の屍体がこの田畠を埋め、その屍体は城をとりこわすとき、ことごとくまとめて火を放ったが、屍臭に集まった蠅は連日、数知れず、そのため付近は土の色も見えなかったと古書に書いてあるほどである。

▼さて、さきほども書いたようにこうした殉教の跡を歩いて、平生から私の念願を払うことのできない疑問はますます深くなっていく、その疑問は色々あるが私がもしも、当時のキリシタンの一人でこういう迫害に出あったら、どういう態度をとっただろうかという疑問である。

 私はぐうたろうで、甚だ弱虫であるから役人たちが拷問の用意をしただけで、おそらくチヂみあがったであろう。踏絵を踏めと言えばどういう表情をしたであろうか。

 井上筑後守が寛永十七年に口述筆録し、北条安房守が編した「契利斯督記」は今日、比屋根博士の切支丹文庫第二輯に収められているため、狐狸庵主人も一読したことがあるが、その中で未だに忘れざる言葉がある。それは踏絵を踏ませた時の信徒の表情についての描写である。曰く。

「うば、並に女などは、デウスの踏絵をふませ候へば、上気さし、かぶり物を取捨て、息合あらく、汗をかき、又は女により人の見ざるよう踏絵をいだき候事も有之由」

 私などおそらく第一番目に息合あらく、汗をかき、人の見ざるよう踏絵をいだく信徒の一人であったにちがいない。

 殉教した人々は私の眼からみると意志も強く信念ある強者である。雲仙の地獄谷で松倉重正の奨めで、長崎奉行、竹中重次が行った拷問は白煙たなびく温泉の熱湯中に彼等をひたしたり、背中をたちわって柄杓で湯を注いだという。杖を引いてその地獄谷を訪れた時、カルヴァリヨという神父がこの拷問の後、踏絵を強いられても「それを踏むよりは、この足を切った方がましである」

 と焼けただれた足を指さしたというイェズス会年報記録の一部を思い出し、これはとても出来ぬ。この農民や女をかかる強者にさせた信仰とは何かと考えこまざるをえなかった。

 彼等の中には私と同じようなぐうたらにして弱虫がもちろいただろう。そして彼等はそのぐうたらというより、肉体の弱さのために自分の思想を裏切らざるをえなかったにちがいない。その時、彼はやはり、神を棄てたことになるでしょうか.

 大村から長崎、長崎から島原と歩きまわりつつ、私は強者、殉教者の血のあとに接するたびに益々、憂欝になり、肉体よわき者はかかる脅迫、迫害にいかに生きうるかと考えこまざるをえなかった。ぐうたら男はいかにしてその思想に殉じるか。私は峠をこえ、海にそうた村を通りすぎるたびにこの問題がますます胸にふかくのしかかり、重い気持のまま、足を引きずって旅を続けたのである。

 この問題をとり扱った小説は狐狸庵書架にただ二冊しかない。一冊はル・フオール(独逸閨秀作家)「断頭下、最後の女」であり、今一つはそれを劇化したべルナノスの「カルメル会修道女との対話」(スイス版)である。主人公は肉体の弱者、ぐうたら臆病者であり、暴力にはまことに弱い修道女であるが、この修道女が仏蘭西革命の殺戮に会っていかに生きたかという主題を取りあげている。しかし、それらの作品、必ずしも、心にわだかまる私の問題を解決してくれたわけではない。私はただ、ぐうたらに旅を続け、ぐうたらに問題を未解決にしたまま、ふたたび狐狸庵に戻ってきたわけである。

 久しぶりに庵に戻れば、旅だつ前、まだ花のひらいていた桃は既に散り、桜もそのほとんどが葉桜と変わっている。

 私は長崎の古本屋で求めた幾冊かの書物を陽にほし、膝をかかえたまま草慮の林を眺めた。また島原の城跡より掘り出した石垣の石や壺のかけらに日付と採取地とをしるした紙をはりつけた。島原より掘り出した石は赤く、銃の一片とおぼしき鉄片は赤く錆び、焼けこげた痕が歴然とある。それらの石や鉄片は、私のようなぐうたらでない人間が信仰のために殉じんた遺品である。

 だが、私はまた、今一つの遺品を長崎でみることができた。それは有名な大浦天主堂の真向かいにある十六番館である。ここにはグラバー邸の遺品やオランダ皿など、面白くないものばかり陳列しているのだが、ただ一つ私をして長い長い間、凝視せしめたものが一つだけあった。それは銅板を木の枠にはめこんだ踏絵である。踏絵には基督の摩滅した顔がある。木にはあきらかに人間の足指らしい痕も残っている。

 これを踏まされた無数の信徒の中には殉教必ずしも心強き者ばかりではなく、ぐうたらにして弱虫もまた存在したにちがいない。役人たちに拷問をかけられるや、たちまちにしてガタガタ震え怯え「息合あらく、汗をかき」踏絵をふんだ信徒たちもいたにちがいない。その信徒だって踏絵をふむ時は心苦しく、心痛く、足苦しく、足痛く、おずおずとその絵に足をかけたにちがいないのです。彼等の足指の痕が十六番館に保存されてある踏絵の上に残っている。私はその足指をまるで自分のそれの如く思って長い長い間、見つめてきた。しかし踏絵の摩滅した基督の表情はいかに貧しかったか。天草、島原の風景と同じようにそれはまた哀しい。かれは

 「ふめ。ふめ、ふみなさい。それでいいのだ」と。

▼遠藤周作『現代の快人物』(角川文庫:昭和四十七年十月三十日 初版発行)P.147~153より。

参考:久留米の川島 勇様が下記のものをUpされています。
1、「田中天主堂/長崎県平戸市田平町」:2015.12.24
2、「津崎天主堂/熊本県天草市」:2015.12.25
3、「大浦天主堂/長崎市南山手町」:2015.12.27
4、「浦上天主堂/長崎市本尾町」:2015.12.30
5、「平戸ザビエル記念教会聖堂/長崎県平戸市」:2016.01.05

総括:☆☆=風にさそわれ西東=☆☆

平成二十八年二月七日

(下記の写真は川島 勇様よりいただいたものです)写真をクリックしますと少し大きい画面になります。Please click on each photo, so you can look at a little wider photo.


遠藤周作の書斎

沈黙の碑

踏絵を踏んだ人の痛み


25

『紅葉する老年』


 旅人木喰から家出人トルストイまで

 「最近の長寿研究が証明する長生きの条件は、勤勉さ、真面目さ、努力しつづけること、目標をもっていることである。目的、目標を達成するために絶えず勤勉に働きつづけることであり、自分を縛る目標を設定せず、楽天的でのんびり、ゆったり時をすごす者は、長生きしそうだが、勤勉な努力家よりも短命である。」(本文より)

 帝政ロシア時代の日々、遊んで暮らす貴族や地主たちは、ストレスがないのに長生きしなかったという。命を萎縮させたまま、時だけが過ぎていったのだ。

 「貧弱な精神生活を送っている者は早死する」と、82歳で家出して旅先で死んだレフ・トルストイは言った。

 トルストイは教会から破門され、政府からも教会からも異端者・逮捕できないテロリストとして、死ぬまで監視されていた。「いつ死んでもいい」と言いながら、最後まで「自分の仕事」から引退しなかった。

 今ではあまり読まれないトルストイだが、死刑廃止、反戦、テロリズム、貧富の格差、医療と介護など、没後105年の今の日本で考えるべき多くのことを語っているのに驚く。

 「政治への関心は他者の命への関心である」(トルストイ)

 宮沢賢治も田中正造も有島武郎も、それこそ必死にトルストイを読んだのだ。

 武力否定の立場を貫いた

 ロシアの大平原を異民族が来襲したらどうするのか、武器なしで待ち受けていて命は守れるのか。この問いにたいしては、無抵抗と危険な現実とのあいだで、トルストイは心の中で「判断停止」を保ったようだ。理想と現実にすさまじい乖離があることはわかっている。それでも、妥協をせず理想を掲げることにどれだけ人生を傾けるか。

 暴力の絶対否定は、目標の提示として意味があった。そこに一点の妥協を混ぜたら、その点が細菌になって、原則を虫喰いだらけにしてしまうだろう。

 トルストイの「力に対する力による抵抗の否定」は、後世に残した原石である。原石だから、それを大事にして、時代ごとに磨き続けること。

 日帰りの山歩き。下山を急ぐ午後3時半過ぎ、山道が異様な美しさに包まれる時間帯がある。入り日直前の陽光が黄金色に輝き、一帯を包む。これが紅葉の時期なら、奇跡のようなトワイライト・タイムだ。

 人生にも紅葉期がある。死が近づいて生がせっぱつまった老年に、若い頃には思いもよらない境地が花ひらく。醜・弱・衰は自然だろう。ただ、陽気さが必要だ。

 だれもが紅葉期に恵まれるわけではない。命の得体の知れない力、個性の強さ、命と命の想像を絶するちがいこそは、万人の人生への宇宙からの贈物であると著者はいう。

「紅葉する老年」:本書には、そのためのヒントと励ましがつまっている。

文献:みすず書房 武藤洋二著


ミニ解説

 本文約250ページの6割に当たる150ページ余りを充てて克明に記述される「トルストイ82歳」は本書の圧巻だ。トルストイの紅葉期のいささかの譲歩も見せない激しい燃え方に圧倒された直後に、「あとがき」で「生死の運命に心をわずらわせ、命をすり減らすのは愚かであり、この一番卑俗な変種が、死を恐れて単なる長寿を人生の最高目的にする生き方である」と著者に駄目押しされてしまうと、もうこれはおとなしく頷くしかない。ではどのようすれば一般人は「紅葉人」を目指すことができるのか。著者が 与えてくれた手がかりを次のように汲み取ったがどうだろうか。

①万事自分でやり、自分で考えるという命と脳のトルストイ的使い方で人生の後半を進んで行くと、命も脳も干からびることはないので、老年が砂漠にならない。

②老いたゴヤやレンブラントやファーブルのようにいつまでも陽気さを失わない。

 苦悩するがゆえに我あり 「インターネット」

トルストイは、二歳のときに母親を、九歳のときに父親をなくしているが、貴族の父親から、生涯の生活に困らないほどの財産を相続していた。

 ドストエフスキーは「熱い心」の持ち主、トルストイは「冷たい心」の持ち主と分類し、その「冷たい心」ゆえに生み出される苦悩と戦い抜いたのがトルストイの生涯であった。「人間は、何のために生きているのか」生涯にわたって問い続け、悩み抜いた。

 彼は、『懺悔』(五十歳の時に書かれた、衝撃的な自己告白の書)の中で、「恐怖と嫌悪と心痛をおぼえずには、この時代を回想することができない。私は戦争で多くの人を殺した。殺さんがために人に決闘をも挑んだ。賭博で大負けに負けたこともある。百姓たちの労苦の結晶を空しく食い、彼らを罰した。姦淫した、人を欺いた。詐欺、窃盗、あらゆる種類の姦淫、泥酔。暴行、殺人……ほとんど私の行わない罪悪はなかったようである」と述べています。

彼の生涯に何か教訓があるとしたら、それは、「人間は生き続けるかぎり苦悩から逃れることはできない」こと、そして、「より深く苦悩することによってしか苦悩には対抗することができない」ということを教えているように思われる。

彼は「私は理性にもとづく知識の道に、生の否定以外の何物をも見出し得ず、また信仰の中からは、理性の否定以外の何物をも見出し得ないことを知った」と、言っています。

 深刻な矛盾に苦しむトルストイは、82歳で世俗を一切断ち切って家出。4日目、いなかの駅で肺炎で死亡しました。

 理性を超えた真の宗教を知り得なかったことが、真摯な魂を悲劇に追いやったのでしょうか。


「トルストイ-名言-抜粋」 「インターネット」

◆誰もが世界を変えたいと思うが、誰も自分自身を変えようとは思わない。

◆もし苦しみがなかったら、人間は自分の限界を知らなかったろうし、自分というものを知らなかったろう。

◆あらゆる戦士の中で最も強いのがこれらの2つである ? 時間と忍耐力。

◆逆境が人格を作る。

◆急いで結婚する必要はない。結婚は果物と違って、いくら遅くても季節はずれになることはない。

◆この世における使命をまっとうせんがために、我々の仕事を明日に繰り延べることなく、あらゆる瞬間において、自己の全力を傾注して生きなければならない。

◆学問のある人とは、本を読んで多くのことを知っている人である。教養のある人とは、その時代に最も広がっている知識やマナーをすっかり心得ている人である。そして有徳の人とは、自分の人生の意義を理解している人である。

◆幸福は、己れ自ら作るものであって、それ以外の幸福はない。

◆自分をその人より優れているとも、偉大であるとも思わないこと。また、その人を自分より優れているとも、偉大であるとも思わないこと。そうした時、人と生きるのがたやすくなる。

◆愛には三種類ある。美しい愛、献身的な愛、活動的な愛。

◆きわめてつまらない小さなことが性格の形成を助ける。

◆一番難しく、しかも最も大切なことは、人生を愛することです。苦しい時でさえも愛することです。人生はすべてだからです。

◆一旦やろうと思い立ったことは気乗りがしないとか気晴らしがしたいなどという口実で延期するな。直ちに、たとい見せかけなりとも、とりかかるべし。いい知恵は浮かぶものなり。

◆死への準備をするということは、良い人生を送るということである。良い人生ほど、死への恐怖は少なく、安らかな死を迎える。崇高なる行いをやり抜いた人には、もはや死は無いのである。

◆思いやりはあらゆる矛盾を解決して、人生を美しくし、ややこしいものを明瞭に、困難なことを容易にする。

◆謙虚な人は誰からも好かれる。それなのにどうして謙虚な人になろうとしないのだろうか。

◆自ら精神的に成長し、人々の成長にも協力せよ。それが人生を生きることである。

◆わたしたちは踏みなれた生活の軌道から放りだされると、もうだめだ、と思います。が、実際はそこに、ようやく新しいものが始まるのです。生命のある間は幸福があります。

◆強い人々は、いつも気取らない。

◆人間の真価は分数のようなものだ。分母は自己の評価、分子は他人による評価である。分母が大きくなるほど、結局、真価は小さくなる。

◆人生の意義を探し求めようとしない者がいるならば、その人間は生きながら死んでいるのだ。

◆過去も未来も存在せず、あるのは現在と言う瞬間だけだ。

◆人間を自由にできるのは、人間の理性だけである。人間の生活は、理性を失えば失うほどますます不自由になる。

◆自分の信念に忠実に生きる少数の人々の生涯は、あらゆる書物よりもはるかに役に立つ。

◆信仰は人生の力である。
平成二十八年二月二十二日


26

モリー先生との火曜日

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 生と死の架け橋を渡るその道すがらの話をしようと考えた。

 死を人生最後のプロジェクト、生活の中心に据えよう。誰だっていずれ死ぬんだから、自分はかなりお役に立てるんじゃないか?研究対象になれる。人間教科書にゆっくり辛抱強く死んでいく私を研究してほしい。私にどんなことが起こるかよく見てくれ。私に学べ。

 モリー先生はALS(筋萎縮側索硬化症)にかかった。有名人では、たとえば宇宙物理学の逸材スティヴン・ホーキングがそうだ。
 毎週火曜日に先生を見舞ったかっての教え子で当時スポーツのジャナーリストである作者ミッチ。題名は、アルボム(Mitch Albom)との対話集である。1998年9月25日 発行


自学自得 225号拝受 有難うございます

 はや師走を迎えました。一年間の自学自得のご教授本当に有難うございました。私も酸素とのつき合いも大分馴れ、この分では無事平成十年をのり切れそうで嬉しく思っています。

 曹源寺の菩提樹、大山澄太先生に連れられ参拝した時、拝見したことを思い出しました。

 去る十一月二十九日ラジオで午前四時~五時「こころの時代」で「モリー先生との火曜日」のお話しには感動いたしました。NHKに電話をしたらNHK出版ということで早速本屋に出むき「モリー先生の最終講義」(飛鳥新社)と共に求めてきました。

 死の床でたんたんと語る先生の教科書なき生命の講義には全くど肝を抜かれる思いであります。座右の書として、みっちり勉強しようと考えております。どうも年末ご多忙ご自愛の程を   

 1998年12月3日

合掌

※このお便りで私はこの本を買って読みました。本当に良い本を紹介されたものです。

 十八年経過して、いただいていたハガキを書き写しました。 

2016.09.20追加


追加:折々のことば:1048 鷲田清一2018年3月13日05時00分

 Giving is living (モリー・シュワルツ)

       ◇

 致死の難病を患う老教授を見舞った人がみな、慰めるつもりがつい自分の悩み事を相談し「こっちが慰められた」と涙ぐむ。病床で教えを受けたかつての学生が、なぜ彼らの気持ちを受け取るだけにしないのかと訊(き)くと教授はこう答えた。「取る(テイク)」のは自分が死にかけている感じ、逆に「与える(ギブ)」のは生きている感じがする、と。M・アルボムの『愛蔵版 モリー先生との火曜日』(別宮貞徳訳)から。

*私はこの記事を読み、探してみたが見当たらなかった。下記の文書に出会った。

P.129 「この国では、ほしいものと必要なものがまるっきりごっちゃになっている。食料品は必要なもの、チョコレートサンデーはほしいもの。自分を欺いてはいけない。最新型のスポツカーは必要ではない。

 はっき言って、そういうものから満足は得られない。ほんとうに満足を与えてくれるものは何だと思う?」

   何ですか?

 「自分が人にあげられるものを提供すること」

 ボ―イスカウトみたいですね。

 別にかねのことを言っているわけじゃない。時間だよ。あるいは心づかい。話をすること。そんなにむずかしいことじゃないだろう。この近所に老人センターがあってね。毎日お年寄りがたくさん来ている。男でも女でも若い人で何か技術を持っていれば、そこへ行って教えればいい。たとえばコンピュターのことを知っていれば、それをお年寄りに教える。大歓迎されるよ。みなさんとても感謝するだろうし。こんなふうに、持っているものを提供することで、まずは尊敬も得られるというわけだ。


27
ノモハンの夏 半藤一利

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  あとがき

 横光利一の遺作に『微笑』という短編がある。なかに、不利な戦況を逆転するために、殺人光線を完成させようとしている二十一歳の天才的な数学者がでてくる。「ぱっと音立てて朝開く花の割れ咲くような」笑顔をみせるこの青年は、殺人兵器が完成に近づいたとき戦争が終わり、発狂死していまう。戦争という狂気の時代を積極的に生きた横光の、戦後のつらくはかない想いが、この幼児のような「微笑」をただよわせてながら殺人兵器をつくろうとしている青年を造型させたのであろう。

 戦後少したって元陸軍大佐の辻政信氏とはじめて面談したとき、この『微笑』の青年が二重写しとなって頭に浮かんだ。眼光炯々、荒法師をおもわせる相貌と本文中に書いたが、笑うとその笑顔は驚くほど無邪気な、なんの疑いをも抱きたくなくなるようなそれとなった。

 横光の小説のけがれのない微笑をもつ青年は発狂死した。まともな日常のおのれに帰れば、殺人兵器を完成させようとしていたことは神経的に耐えられない。精神を平衡に保とうにも保たれない。ふつうの人間とは、おそらくそういうものであろう。戦後の辻参謀は狂いもしなければ死にもしなかった。いや、戦犯からのがれるための逃亡生活が終わると、『潜行三千里』ほかのベストセラーをつぎつぎとものし、立候補して国家の選良となっていた。議員会館の一室ではじめて対面したとき、およそ現実の人の世には存在することはないとずっと考えていた「絶対悪」が、背広姿でふわふわとしたソファに坐っているのを眼前に見る想いを抱いたものであった。

 大袈裟なことをいうと「ノモハン事件」をいつの日にかまとめてみようと思ったのは、その日のことである。この凄惨な戦闘をとおして、日本人離れした「悪」が思うように支配した事実をきちんと書き残しておかねばならないと。

 それからもう何十年もたった。この間、多くの書を読みつぎながらぼつぼつ調べてきた。そうしているうちに、いまさらの如くに、もっと底が深く幅のある、ケタはずれに大きい「絶対悪」が二十世紀前半を動かしていることに、いやでも気づかせられた。かれらにあっては、正義はおのれだけにあり、自分たちと同じ精神をもっているものが人間であり、他を犠牲にする資格があり、この精神をもっていないものは獣にひとしく、他の犠牲にならねばならないのである。

 それほど見事な「悪」をかれらは歴史に刻印している。おぞけをふるほかのないような日本陸軍の作戦参謀たちも、かれらからみると赤子のように可愛い連中ということになろうか。およそ何のために戦ったのかわからないノモハン事件は、これら非人間的な悪の巨人たちの政治的な都合によって拡大し、敵味方にわかれ多くの人びとが死に、あっさりと収束した。そのことを書かなければ、いまさら筆をとることの意味はない。ただしそれがうまくいくいったかどうか。

 それにしても、日本陸軍の事件への対応は愚劣かつ無責任というほかはない。手前本位でいい調子になっている組織がいかに壊滅していくかの、よき教本がる。とはいえ、歴史を記述するものの心得として、原稿用紙を一字一字埋めながら、東京と新京の秀才作戦参謀を罵倒し嘲笑し、そこに生まれる隔離感でおのれをよしとすることのないように気をつけたつもりである。しかしときに怒りが鉛筆のさきにこもるのを如何ともしがたかった。それほどにこの戦闘が作戦指導上で無謀、独善そして泥縄的でありすぎたからである。勇戦力闘した死んだ人びとが浮かばれないと思えてならなかった。

 原稿執筆中には花田朋子さん、本にするにさいしては松下理香さんに大そうな世話になった。また参考にした文献の著者と出版社にも。彼女たちともども、お礼を申しあげる。勝手ながら、小松原日記をのぞき、大陸令をはじめ、引用の日記、手記など漢字は常用漢字、新カナ遣いとし、読みやすいように句読点をほどこしたものもある。

   一九九八年三月

                          半藤一利

 ノモハンの夏*目次

第一章 参謀本部作戦課
 ”戦略戦術の総本山”参謀本部はすでに対ソ作戦方針を示達していた。
 侵されても侵さない。不拡大を堅守せよ

第二章 関東軍作戦課
 関東軍の作戦参謀たちは反撥した。
 侵さず侵されざるを基調として、強い決意を固めて万事に対処する

第三章 五月
 モロトフ外相はスターリンに指示された抗議文書を東郷大使に手渡した。
 これ以上の侵略行為は許さない

第四章 六月
 関東軍の作戦参謀辻政信少佐はいった。
 傍若無人なソ蒙軍の行動に痛撃を与えるべし。不言実行は伝統である。

第五章 七月
 参謀本部は、関東軍の国境侵犯の爆撃計画を採用しないと厳命した。
 隠忍すべく且隠忍し得るものと考える。

第六章 八月
 歩兵連隊長須見新一郎大佐はいった。
 「部隊は現在の陣地で最後を遂げる考えで、軍旗の処置も決めています」


 この章P.300~301に

 1939年(昭和14年)8月23日、クレムリン周辺はお祭り騒ぎとなった。広場にはナチスの鉤十字旗がいっぱい、槌と鎌をあしらったソ連国旗とならんでひるがえった。鉤十字旗は反ナチ映画を製作していた映画撮影所から、急ぎあわてて調達されたものである。軍楽隊がくり返しナチス党歌と「インタ―ナショナル」を演奏した。

 その夜、独ソ不可侵条約が正式に調印された。その要点は、(一)たがいに武力行為にはでない、(二)第三国と戦争となった場合にはその第三国を支持しない、(三)共同の利益について常に通告協議する、(四)直接でも間接でも敵と第三国には加担しない、ということである。同時に、重大な秘密協定が結ばれている。バルト諸国の領土にかんする独ソ勢力圏の境界線と、ポーランド分割の独ソの境界線とをきめたものである。

mori-1.JPG  スターリンは坐したまま大きな獲物を掌中にすることができた。

 夜も遅く、クレムリンの一室で小さなパーティがひらかれた。いま新たに成立した”友人”同士はなんども握手しつつ、惜しげもなく注がれるシャンパンをのみ、「間抜けな」英国を愚弄しながら祝杯をあげた。スターリンはなんどかの乾杯の音頭をとったときに、最大の陽気をふりまいていった。「私はドイツ国民がいかに深く総統閣下の恩恵に浴しているか、よく知っている。総統を愛しているか、よく知っている。卓越せる総統閣下のご健康を祝して、乾杯!」

 モロトフは、リッペントロップとシューレンブルグの健康のために乾杯し、さらにスターリンのために杯をあげた。 

「独ソ両国関係の転換をもたらした偉大なる首相に、乾杯!」

 こうして、重なる乾杯の音頭をふれ合うグラスの響きのなかに、長年の敵対関係のどす黒い霧は消えて、いつの間にかうまれた親近感が、かがやかしい光をともなってあらわれてきたようである。スターリンのヒトラーにたいする祝福の乾杯は、言葉だけのものではなかった。ヒトラーのなかに、同時代に生きる自分と同質同等の人間を見出し、それに敬意をはらったものであった。

 スターリンは、葡萄酒をちびりちびりとのみながら、夜がふうけるまでリッペントロップと語り合った。そして、真顔で、しっかりとした言葉でこの夜の宴をしめくくった。

 「ソビエト政府は、この条約をきわめて真剣に考えている。私はソビエト連邦が、この条約の同盟国を決して裏切らないということを、名誉にかけて保証する」

 同じ日、英仏の軍事使節団は下級のソ連の将官に見送られてモスクワを発った。ソ連全権のヴォロシーロフは鴨猟にいっていて、残念ながら見送れなかったと釈明している。


参考1:ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・モロトフ(ロシア語: Вячеслав Михайлович Молотов、ラテン文字表記の例:Vyacheslav Mikhailovich Molotov、ヴィチスラーフ・ミハーイラヴィチュ・モーラタフ、1890年3月9日(ユリウス暦2月25日) - 1986年11月8日)は、ソビエト連邦の政治家、革命家。同国首相、外務人民委員、外相(1946年以後)(英語版)を歴任し、第二次世界大戦前後の時代を通じてヨシフ・スターリンの片腕としてソ連外交を主導した。

参考2:ウルリヒ・フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヨアヒム・フォン・リッベントロップ(ドイツ語: Ulrich Friedrich Wilhelm Joachim von Ribbentrop、1893年4月30日 - 1946年10月16日)は、ドイツの実業家、政治家。コンスタンティン・フォン・ノイラートの後任として、ヒトラー内閣の外務大臣を1938年から1945年にかけて務めた。最終階級は親衛隊名誉大将。ニュルンベルク裁判により絞首刑に処せられた。武装親衛隊に志願、大戦を生き延びた親衛隊大尉ルドルフ・フォン・リッベントロップは長男。

参考3:アドルフ・フリードリヒ・フォン・デア・シューレンブルク=ベーツェンドルフ(Adolph Friedrich von der Schulenburg-Beetzendorf, 1685年12月8日 - 1741年4月10日)は、プロイセン王国の貴族、軍人。爵位は帝国伯。最終階級は中将。

参考4:クリメント・エフレモヴィチ・ヴォロシーロフ(ロシア語: Климент Ефремович Ворошилов、ラテン文字転写の例:Kliment Yefremovich Voroshilov、クリミェーント・イフリェーマヴィチュ・ヴァラシーラフ、1881年1月23日(グレゴリオ暦2月4日) - 1969年12月2日)は、ソビエト連邦の軍人、政治家、ソ連邦元帥、ソ連国防大臣、国家元首に当たる最高会議幹部会議長を歴任した。ソ連邦英雄(2度)。

参考5:昭和14(1939)年の夏、ソ連が関東軍の実力を試そうとして挑発的越境行為を張鼓峰事件に続いて繰り返した。張鼓峰事件が日本の朝鮮軍に対する威力偵察だったように、ノモンハン事件は関東軍に対する威力偵察だった。その後に満州へ侵略するための試行でもあった。

ソ連にそそのかされ、ソ連軍の援護を受けた外蒙(外モンゴル)軍が、5月11日満蒙国境ホロンバイル草原を流れるハルハ河を渡って満州国領土に侵入した。この地も満州東部と同じく国境線の不明確な地域だった。日本はソ連に何度も国境の画定を提案していたが、ソ連は応じなかった。国境線がふ明確なのを紛争の口実にする、ソ連のお得意の手口である。

張鼓峰事件の専守防衛が結局悲惨な結果を招いたという反省から日本は国境外への一時的行動を是認して戦われた。

ここで日本は一個師団を失ったが、ソ連が世界に誇る機械化部隊に壊滅的被害を与えた。当時、日本軍は一方的に惨敗したといわれたが、実際には被害数は圧倒的にソ連のほうが多かった。最近のソ連側を含めた研究によれば、ノモンハン事件での日本側搊害が死傷者に行方不明者を合わせて1万7000余名であるのに対し、ソ連側は死傷のみで約2万だった。日本軍の火力・機械力の不足を考えれば戦闘自体は必ずしも日本軍の敗北だったとはいえないわけだ。

ところが、日本にとって一個師団を失ったショックは大きく、戦況を見極める目を曇らせ、日本はソ連に大敗したと思い込んでしまった。これにより対ソ開戦論は後退した。

一方、ソ連軍もそれ以上の搊害を受け、停戦を望んだ。

9月15日にノモンハン事件の停戦協定が成立。そのたった2日後、ソ連はポーランドへの侵攻を開始した(第二次世界大戦)。

参考:春秋 2018/3/10付

 1939年8月21日夜、ドイツ国営放送は通常の音楽番組を中断し、ソ連との不可侵条約成立という驚愕(きょうがく)のニュースを流し始めた。ポーランドを挟んでにらみ合っていたヒトラーとスターリンが、誰も予想しなかった融和に転じたのだ。動揺したのは欧州だけではない。

▼当時の中外商業新報(小紙の前身)は「ベルリン発至急報」とともに、この出来事への反響で紙面を埋め尽くしている。急転の重大情勢に閣僚悉(ことごと)「発言」「火花散る外交戦」……。そのころ日本はノモンハンでソ連と戦っている最中だった。仲間と頼んでいたドイツが、敵のソ連と握手した衝撃はいかばかりだったろう。

▼トランプ米大統領と北朝鮮の金正恩氏が会談へ――。79年前と世界は大きく変わったが、この展開は近現代史のそんな激動を思い起こさせてあまりある。対話は大いに結構だ。戦争の危機が遠のき、拉致問題解決にも弾みがつけばいい。しかし異形の2人の接近が日本に、東アジアに何をもたらすのか凝視せねばなるまい。

▼独ソ不可侵条約を目の当たりにして、ときの平沼騏一郎首相は「欧州の天地は複雑怪奇」なる言葉を残して退陣した。こんどの米朝の複雑怪奇も相当なものだろうから、日本外交のまさしく正念場である。かのふ可侵条約には、じつはポーランド分割を決めた秘密議定書が付属していた。歴史は多くのことを教えてくれる。


第七章 万骨枯る
 死屍累々の旧戦場をまわりながら、生き残った兵たちはだれもが思った。
 「ああ、みんな死んでしまったなあ」

参考:自らに勝つものは強い

2019.01.08 


28
『白隠禅師健康法と逸話』直木公彦著 日本教文社

白隠
「内観の四句(内観法)」 p.74~p.78

 人間がひとたびこの世に生をうけてから、各自の経歴にしたがって十年、ないし数十年も現実社会に生活をつづけてきておりますあいだには、かならず愛情のもつれ、誤解、意見や立場の相異による争い、人間や社会に対する矛盾、怒り、恨み、悩みが、多かれ少なかれ知ると知らずにかかわらず内在するものであります。また、職業や友人、知人、父母、妻子に対する不平や不満もあり、野心、功名心、恋愛、結婚、親子、夫婦などにまつわる問題や、病気についてのさまざまの心配、煩悶、焦り等々、その他多くの思想がいっぱい胸の奥深くつめられているのであります。またこれらの精神的乱れと悩みのエネルギーが肉体へも大なり小なり病的変化を与えているものなのです。

 一般に病人とは身体とともに心のなかでも暗闇で病んでいるものです。

 各人が心しずかにおのれをはなれて、おのれの胸のなかの思想と感情の姿とを冷静にながめますときは、はたして、うつくしい明るい姿であり、自由自在のとらわれない心の姿でありましょうか。暗く病める心の姿ではなく、光り輝く健康な身心の状態にありましょうか。それは各自が一番おわかりのことと存じます。

 一切の過去にとらわれず、それを捨てきって、未来にも思いわずらわされず、なおりたいともおもわず、なおしたいともおもわず、現在の心を無にし空にし、うまれたての心、赤子の心、そのままの心、自然の心にせよというのが、『夜船閑話』のなかの「一切の小智才覚をすてなければならない」というのであろうと存じます。

 一切の思いを捨てきってしまい、心中をからっぽにして、無のなかのよき一念の姿になるのが最高の目的でありましょう。たえず発生し、生長しつづける心の働きをまったく中止させようとするのはむつかしいことであり、一般の人にはできるものでもありますまい。

 そして、白隠禅師の心をととのえて統一する第一次の思想である「内観の四句」を深く観じかんがえてゆきますときに、各人各様になにものかにふれ、なにものかを把握するものであり、その境地をあじわうために一種の導句であり、導き手であり、目的地はほかにあるのです。この四句は月をさす指先であるようにもおもえます。この内観の四句の意味の感じたところをのべてみましょう。

 これは雑念を払いきった身心の沃土にうえる観念の種子としては、天下一品のものでありましょう。

 一、我とは何ぞ、真の自己とはこれ何ものぞ、わが本来の面目(自分の本当の相(すがた))とは何ぞ、いかなる鼻や顔形(かおかたち)、姿なのか。我此の気海丹田腰脚足心まさにこれわが本来の面目。面目なんの、鼻孔かある。

 二、わが真の棲家はいずこぞ、わがほんとうの棲むべき故郷の消息やいかん、我此の気海丹田腰脚足心まさにこれわが本分の家郷。家郷何の消息かある。

 三、唯心の浄土とは何ぞ、目に見える荘厳なるものであろうか。浄土なんの荘厳かある。我此の気 海丹田腰脚足心まさにこれわが唯心の浄土。浄土何の荘厳かある。

 四、己身の弥陀とは何ぞ、なんの法を説くのか。我此の気海丹田腰脚足心まさにこれわが己身の弥陀。弥陀何の法をか説く。

 この四句をくりかえしていると何とも言えぬ気持のよい世界へつれられてゆき、その無の世界、純粋精神の世界、生命の根源の世界で各人がなにを発見し、なににふれるか、をまかしてあるものでありましょう。

 すなわち、内観の四句は、自己にもとからそなわっている生命の偉大な本性の尊さを自覚する境地へ導きつれてゆくための言葉であり、まさに、気海丹田こそ、人間の本当の印である(顔形)心の棲むべき場所であり、生気(いき)のしどころである。丹田こそ、肉体の主たる目に見えぬ永遠の生命の棲むべき、ふる里である。人間のほんとうの家郷こそ、唯心の浄土であり、人間のほんとうの相こそ、己身の弥陀である。それを知り自覚するには、まず心を落ちつかすべき所へ落ちつかせなければならぬ。心を丹田におさめて落ちつけよ、肚に心を落ちつかせ。心をば肚におさめて、落ちつけば、この身はこのまま浄土にして、この身そのまま仏なるを悟るであろう。浄土といい、仏というも、おのれのそとにあるものではなく、「心の落ちつき」と「魂の平安」のなかから発見され現成されるものであり、なにものにもうごかされぬ心にあり、無碍自在のなにものにも、とらわれぬ心にあり、永遠の命にあるのである。それには心を気海丹田にやしなうのがいちばん近道である。心をやしなえ、肉体をうごかす心をやしなえ、肚をやしなえ、肚を錬りつくれ、肚を錬り、気海丹田に心気を落ちつかせて、自己本分の家郷こそ唯心の浄土であり、己身の弥陀こそ、自分のほんとうのすがたであるのを体感せよという意味でありましょうか。とにかく、実習してごらんなさい。実行すれば必ず効果があります。「実行無くして実効なし。実行のみよく実効を産む」です。

 床の上にゆったりと身体をよこたえて、心しずかに内観の四句を感じ味ってこれに精神を集中してゆきますと、雑念がしだいにきえてゆきます。きえたかとおもうとまた別の考えが湧きだしてまいりますが。湧きおこる雑念をもむりに押えつけようとはせず、雑念は雑念で、そのままにしておいてもっぱら内観の四句を観じておりますと、いつしか雑念は消えて、内観の句を観ずる自分だけになり、無我にして、この一念に自分が統一されてまいります。そして、この一念の境地とでも申しますか、四句を観ずる自分さえもわすれ、ただ、あるのは、一念に念ずる心、天地に溶けこんでひろがってゆく自分、天地も自分も区別のなくなって、ともにとけて澄みきって、拡がりみちわたっている神秘的な境地に没入するのであります。その境地は「聖」とでもいいましょうか。明るい世界とでも申しましょうか。宗教的または精神的肉体的体験の世界であり、理論的説明の領域には存在しない別性質の境地ではないかと存じます。

 このような境地をあじわいつつ精神統一を繰りかえしてゆきますと、しだいに心が落ちついて、なにごとにも自信が湧きだし、強い信念が湧き、他物に左右されなくなり、心に平和がよみがえってまいります。「自信、安心、落ちつき」が生理的によい影響をあたえるのは、万人がみとめるところであります。かかる境地に没入します方法は、ただ真剣に、かつ、誠をもって一心になりさえすればよいのです。なん時間も一心につづけることは困難でありますが。わずかに三十分間ぐらいは、だれもができることであろうと存じます。

 もし、内観の四句がむずかしくて心でとなえづらかったならば、「本来の面目、本分の家郷、唯心の浄土、己身の弥陀」の句だけを「唯心の浄土、己身の弥陀、……」と心で繰りかえしつづけてゆきますと、たいへん効果があるものです。

 「己身の浄土、唯心の弥陀」と繰りかえしてもよいのであります。とにかく、弥陀と浄土という言葉を繰りかえして、心にとなえて精神を集中し統一してゆきますと、そのひとにより、またとなえる回数により、大なり小なりある種の力と落ちつきと悦びとをあたえてくれることは間違いありません。また唱えるよりは、それを体感し、その宇宙感、永遠感とに自己の身心を一致させ、永遠の生命と自己との一体の生命感を味いつつ行ずるのもよいでしょう。そしてもう一歩ここをとび越したならば永遠の生命と、それとともに生き、明るくともに生かされている自己を発見し、この自覚にもとづいて力強く生きて自由自在に活動できるようになるでしょう。

「軟酥鴨卵(なんそおうらん)の法」p.108~p.112

 むかしから名徳達人の修行には、一人として勤行をおろそかにしたものはいないけれども、そのなかでも玄紗や慈明(夜ねむ気をさますために錐を手ににぎり膝にたてておいて、ねむ気におそわれ手がゆるむと膝につき刺さる錐の痛みで目をさましてまた勉学にはげみ、後日偉人となる)などの幾多の艱難辛苦を経たあとに名人達士の境地に至りついたということは、とりわけ、とうといことであります。

 油断したり、なまけていては、はては見事なる似せものの修行者になってしまいますぞ。いかなる人も不足ない身にわざわざ似せものとなろうとおもう人はないとおもいますけれども、よき法友の手引きを受けたまわず、道心深からずすこしばかり会得したところなどを、頼みにして口をきき、人にもとうとばれるようでは、見事なる似せものでありますぞ。行いをつつしみ、正念をまもり、内心の静謐をえて、安心立命すれば、どうして山野のはてに、うえ死にするなどというような不幸などがありましょうか。

 黄金は莚(むしろ)につつんでも黄金でありますから、まことの仏祖の子孫に対しては、神仏は合掌して尊びあおぎ、竜天も頭をふせて、うやうやしくつかえ、お守りするものでありますぞ。人みなこの宝物をもち、黄金をもっているのですぞ……等々と、夕方より真夜中までながながと話されたのを。そばに聞いておりました人々はあまりのとうとい話に感涙にむせび、心魂に徹して、おのれが身をふり返り、恥しさに冷汗がながれてまいりました。その後、病などにくるしめられる折に、この物語を思いだしますと、たちまち慚愧の思いがおこり、病苦も軽くなってゆくようなので、その物語の大体のあら筋を書きつけてお送りいたします。病棟の人々の病中の一助にもなれば幸いであります。

 以上は愚僧の師匠の信州飯山の正受老人が平生もちいている精神的療法で、はなはだ味ぶかい病身攻撃の良薬であり、信仰の世界の如何なるものかを体得する入門話であります。

 しかし、またここに、別の妙法がございます。これは、もっとも虚弱な人に効き目があります。精神的過労をすくい、心気をふるい起こすことに絶大な妙力をもっております。心気の昇せあがるのをひき下げて心を落ちつかせ、腰や足を温め、胃腸の作用をととのえて、調和をえさせ、眼をあきらかにして、真の智慧をふやし、一切の邪知煩悩をのぞくのに、たいへん効果の多いものであります。これをなづけて「軟酥鴨卵(なんそおうらん)の法」といいます。

 軟酥の丸薬の専門的作り方はつぎのようであります。

 「天地万物すべての姿を正念をとおして、ありのままに見て、現象すなわち実体なりとの悟りいも一両分。われとか、かれとかに執着するわれもなく、因縁によって目に見えるこの世界は、かりの姿であってほんとうの姿ではないという『無門関』に生えている梨の実を一両分。この身このまま仏なりという、本来相国の木の実を三両分。無欲の粉を二両分。動静一致して、みだれぬ心身調和郷に咲くサフランの花の種子を三両分。あらゆる妄念を吐きすてる妄念取屋の店に売っている塵取りの木を一斤分。これに風流の味の素であるヘチマの皮を一分五厘ほどちょっとつけ加えます。右の七種類の精神的材料を忍辱の水に一夜漬けびたし、人に見せずに陰乾しにして、粉にすりつぶし、いつものように大智大慧通りの無上の悟店で売りだした般若波羅蜜の蜜を混ぜて煉りあわせ、まるめてあたらしく生まれたての鴨の卵ぐらいの大いさのまるいやおらかい丸薬として頭上にのせるのであります」

 しかし、素人や初心のものは、軟酥の丸薬の材料とか目方とかを計りかんがえてはいけません。ただ色も香もうつくしい軟かい鴨の卵ぐらいの大いさの秘効ある丸薬が頭上にのせられてあるとおもえばよろしいのであります。病人がこの薬をもちいようとするときは、厚い座ぶとんをしき、背骨をまっすぐにたてて、目を軽くとじ、正しく坐り、身心を左右前後にゆっくりゆすって身の安定をたもち、すべからく、つぎのようにいうのであります。

 「おおよそ生をたもつの要は、気をやしなうにしかず、気尽くるときは身死す。民おとろうときは、国ほろぶがごとし」と。この言葉を三回繰りかえしおわってからしずかにつぎの観法をおこない、心の思いをととのえながら、一心にゆったりとして修するのであります。

 さきの「軟酥」の鴨の卵ぐらいのまるいありがたい丸薬が、自然に空中にあらわれて、頭の上にのせられます。その香味は妙々にして、しだいに体温でとけて、ながれはじめ、頭の骨やこめかみの隅隅までうるおし、ひたし、浸々としてくだり、両肩、両肘、両乳、胸、肢の下、肺、心臓、肝臓、胃、腸、背骨をうるおし、タラリタラリとながれ、腰骨をひたして、ゆっくりと下へ流れ去るのであります。このとき、胸のなかのつもれる思いや苦痛は心にしたがって降下するのは、水の下へ流れくだるようで、チョロチョロと音をたてて、ながれるようにおもわれます。このようにして、全身をひたし、うるおして流れくだり、両脚をあたため、足の裏まできてとまり、そこに、たまるのであります。おこなうものはふたたびこの観想をおこない、繰りかえすのであります。

 この「軟酥鴨卵の丸薬」が溶けて浸々として、身体をうるおし、流れくだる余流が積りたたえて、下半身を温め蒸すのは、ちょうど世の中の良医がいろいろの妙薬をあつめて、これをせんじ温かい湯をつくり、タライに満たしたたえて、わが身の臍から下を漬けひたし温められるようであります。この観法をおこなうときは、「唯心所現の原理」にもとづき、鼻口は稀有の妙香をかぎ、身体は妙なる、やおらかい手でなでさすられ、身心ともにととのい、たちまち、いままでつもっていた苦しみや煩悶を消しとかし、胃腸を調和させ、皮膚は光沢をおび、気力は大いに増加してまいります。

 もし、つねにこの観法をおこなって工夫し、熟達し成功すれば、いかなる病でもなおり、どのような事業や学問にも、かならず成功するものであります。これはまことに養生の秘訣にして、長寿をたもち、前途を達見できる妙術であります。これは、はじめ金仙氏におこり、なかごろ天台宗の智者大師にいたって、疲労はなはだしい重病をなおし、かつ、その兄の陳奏のまさに死なんとした重病をもすくっている霊的療法であります。この方法はいまの世人はほとんど知りませんが、私は人生のなかばにして、重病にたおれ、医薬鍼灸より見はなされた折に、「内観の秘法」といっしょに白幽仙人からおしえられたものであります。その効果のはやいおそいは、おこなう人の真剣味によるものであります。おこたらず、おこなえば、長命をうることができます。

 白隠が老いさらばえて、大いにくだらぬことを説くということなかれ。諸君は今後、おそらく、この「軟酥の法」の真なるを悟り、手をうって悦び、大笑することがかならずあるでありましょう。

 「なにがゆえぞ、乱にのぞまざれば貞臣の操を見ず、敗にのぞまざれば義士の志を知らず」

「悟りと療病法」 p.138~P.146

 もういちど、簡単ながら白隠禅師の療病法をさぐってみましょう。禅師のしめした療病法は「内観の秘法」と「軟酥の法」とを最大としますが、こればかりではありません。『夜船閑話』と『遠羅天釜』にのべてあるもののうちから。おもなるものを抜きだし、ならべて眺めてみましょう。その察によって、なにか共通な法則とでもいうべきものを発見することができるようにも思われます。

 禅師がしめした療病法は確然と分類することはむずかしいが、大体、(一)一般的なこと、(二)坐禅観法、静観法、(三)心気を下部にくだすこと(呼吸法をもふくめる)、(四)心の持ち方、の四種になるようです。

① 一般的なこと

 一、天地宇宙万物の秩序をたもつ真一の大道は、わかれて陰陽(プラスーマイナス)の両極となり、陰陽がまじわり和して、 一切の事象を生じ、始めなく、終りもなき先天の元気が陰陽の両極の中心に黙々と運行してこそ、自然の秩序がたもたれる。 すなわち、喜怒哀楽いまだ色にあらわれざる中心によって万物は秩序をたもっている。

 二、生をやしなうは一国をまもるがごとし、君臣相和し、身心相和すがごとし、身と心の調和が大切である。

 三、平常の言語を省略して精気を永くやしなうがよい。視力をやしなわんとするものはつねに瞑目して眼をやしない、耳をやしなわ とするものは耳をふさぎ、雑音をきかず、心気をやしなわんとするものは無駄口をはかず沈黙している。

 四、人間の五漏という無益な漏失をやめよ。外面的感覚の作用にとらわれるなかれ。

 五、人間の五感の工夫、小智才覚を捨てきって、深くねむり熟睡せよ。

 六、おおよそ、求道の人にとっては、病中ほどよい修行の機会はない。世事の雑用をはなれて、専心養生修行ができる。

 七、五感で感じられぬ天地陰陽の正道にしたがっているかぎり、病などにはならぬ。

 八、身体の難病が全治しても、ここで満足して修行を中止してはいけない。一生精進し、天地宇宙の真理の道を行じなければならない。

 九、蛇にせよ、水神にせよ、男子たるもの一旦、心に思いたちて、とり掛かったことを仕とげずやあるべき、仕はてずやおくべきと覚悟して、いかなる困難にうち当たろうとも、断行する意気をもて。

 十、おのれの本性たる無位の真人、仏、神、久遠実成の古仏をおがみ。とうとび、したがえ。

② 坐禅観法、静観法

 一、内観の秘法。

 二、軟酥の法。

 三、観法は無観をもって正しいものとする。多観のものは邪観である。

 四、繋縁(けえん)の観=心気を丹田に収めまもるを第一とす。

 五、諦真(たいしん)の観=あらゆる事物の実相の円観(完全性)のみを観ぜよ。

 六、すべての思慮を投げはなち、自己の心奥を静観せよ、心の発生地やいかん、生命の根元はいかんと。

 七、肉体の奥、心の奥、生命の奥に入って点検し、おのれの本性を悟れ。

 八、真言宗の修験者にて、「大日如来不二」の観によって、病苦消滅し、金剛不(ふ)壊(え)の生命を自覚したものあり。

 九、煩悩とはなんぞ、煩悩のいまだ形をあらわさぬ以前のものはなにかと、心の奥へ申しこめ、煩悩以前のものは無相無念の明るい本地本相本心なることを知れ。煩悩は妄念によって生じたその本心の変形した姿である。妄念は誰がつくったか、各自が自分でつくったものではないか。本来の本心で妄念を覚れ。

③ 心気を下部に下すこと

 一、人はつねに心気を身体の下部にみたさせるべきである。心気が下部に落ちつき、一身の元気が全身にみちるときは諸病のおきる一分の隙もない。

 二、凡庸の者はもっぱら、心気を頭にのぼらせている。

 三、名人達士の息は足の踵(かかと)でし、凡人は喉(のど)で呼吸をする。

 四、およそ、生をやしなうの道は、身体の上部を清涼にし、下部は温暖をたもつように気をつけねばならない。

 五、神気を丹田に凝らせ、生気を丹田にみたし落つけ、心を澄まし、心を静めよ。

 六、真一の気は、つねに臍(へそ)下丹田におさめていなければならない。

 七、臍の上に小豆(あずき)をのせてあると想像し、観念し、心気を丹田におさめる。

④ 心の持ち方

 一、心の煩悶疲労するときは、身体の各器官は本来の活動を制限されて、邪魔され、心火はのぼせあがり、一身の元気はおとろえる。

 二、わずか三合ばかりの病に、八石五斗の、もの思いをなすべからず。

 三、いたく、もの思えばますますのぼせあがり。内臓はいたみかじけ、はては生命の很もまた、たもちがたいようになる。

*かじけ:萎縮する

 四、病に害されるのではなく、自分のつくった妄念に食いころされる人もいる。

 五、師匠も弟子も、おのれの心をわすれて、外部的名声富貴をもとめるのは、見るのもにがにがしいかぎりである。

 六、心炎意火を去り、小智才覚、一切の理想、欲望、野心執着を放下し、無念無想無心になれ。

 七、落ちついた平安な心境は、そのままの心である。無我の心である。小我を捨てきって、神仏にまかせ、そのままの心になるがよい。

 八、坐禅するときは心を左の掌の上におけ。

 九、心を掌のなかにみたして行動せよ。

 十、心を足の裹におさめて、よく万病をなおす。

 十一、無欲恬(てん)淡(たん)にして、身心をからっぽにすれば、玄妙の気、真気、天地の生気が外部よりからっぽの身心に入りきたる。この生気をまもれば病魔の入る隙間がない。

 十二、心をやわらげ元気を全身にみたすようにみちびく方法は、離れた密室に入り、床をのべてあおむけによこたわり、しずかに目をつむり、心気を丹田におさめ、鼻孔の上にやわらかい羽の毛がついていると想像し。この羽毛がうごかぬようにしずかに息をすること三百回におよぶ。これによって人は長寿をたもつことができる。

 十三、まさに空腹をおぼえて食し、疲れるまえに休む。散歩逊遥して、腹をすかせるようにつとめ、腹のすこしすいたときにしずかな小部屋に入り、端坐して、無念無想になり、呼吸する息をかぞえる。一よりはじめて千にいたれば、この身この心は寂然として、忽然として、天地に溶けて澄みきり、みち張り、拡がりわたるのをおぼえる。

 十四、世に、正念工夫ほどたいせつな、とうとぶべきものはない。

 十五、病中に、すべてをすてて、一心に、正念工夫をつとめて、おのれの本心を悟った人もある。

 十六、気分はどのようにわるくとも、病気はいかようになろうとも。それはそらごとと自然にうち任かせ、自分は正念をつづけるよう工夫する。

 十七、病みつかれた老女、やせさらぼえた老夫でさえも、正念工夫を間断なくつづければ無病堅固の得力の人となることができるものである。

 十八、正念をまもり、内心の平和と静(せい)謐(ひつ)をえて、安心立命して、天命を覚り働け。

 十九、心こそ、地獄と、極楽の作り手である。心の奥の心宝の光をかくす心上の雲を吹きはらえ。

 二十、なにももとめなくてもよい。おのれの心さえ平和に養いたもち、正しくととのえ、そだてあげればあとは自然によくなる。その方法はいままで多く説いてきている。

 以上列記しました禅師の療病法をながめて点検しますと、主として心を対象とし、心を主にしているものであります。

 心をいかにして落ちつけ、心の波立ちをしずめて、平安なる生れつづける明るい本地本心をいかに自悟自得するかの方法をのべていることがわかります。

 心こそたいせつなものであり、正念工夫不断相続して、おのれの本性を悟れば、おのれの本心の 力により、病苦はのぞかれるものであり、心を正し、心の静謐をまもることが療病の上にたいせつなことを、心をこめて詳細に説いております。

 肉体と心と生命力との関係、心*霊*肉の関係はどのようでしょうか。禅師はわざとはっきり文字ではしめしてくれてはいないようにおもわれます。われわれは、五感の眼では肉体のカーテンのむこうにある霊の世界を、かすかにながめられるばかりであります。

 文字や言葉であらわしえない霊肉の消息は、『夜船閑話』や『遠羅天釜』の心読と実行による体読により、ひとりでにひびいてわかってくるものであります。観念と心、霊と肉との根本関係を覚ることこそ療養にとって必要なことではないでしょうか。そして、心の持ち方、気の使い方、ものの考え方、受けとり方、見方によって、生命の力を旺盛にし、肉体によい影響をおよぼす方法を体得することもできるのであります。禅師のあたえんとしたものは、この力であります。無言のうちに知らず識らずあたえられる力こそ禅師の予期したものでありましょう。

 「衆生本来仏なり」と、人間の本性を説いた禅師は、本来仏なる人間がなにゆえになやみ、わずらい、くるしみ、病むのであるかという質問に対して、かくも、心というものについて親切に説いているのをみますならば、「心」こそすべての原因者であり、多観、邪観、妄念によって病みくるしみ、正念、無念、清浄観によって、仏本来の相があらわれるものであるから、人間の芯となる心を正しくやしなうがよいということがわかります。心こそたいせつに守りそだてなければならぬものであります。

 本心をたいせつに養いまもり、そだてるまえに、各自がおのれの心の内容を点検し、調査して、いかなる心のありさまであるかをながめてみられるとよいと存じます。自分はなにをおもりているのかといちど反省してみる必要があります。

 曇りなきそのままの心で、自分の本体の本質が仏なること、神なること、永遠の生命なることを悟るがよい、その悟りと発見によって、偉大なる力が発現されるであろうと禅師は説いております。

 自分が生きているのではなくて、天地に充満している霊的生命に生かされていることを自覚することです。いやいや天地とともに生きている自己を発見することです。この大いなる力、仏の手、神の生命そのものが自己の本体なることを発見し、信心を得て安らぎと悦びとを感じ、感謝して力強く生活するようになることです。

 悟りと信仰によって病がなおった例は、むかしからたくさんあります。かような人はいずれも病がなおったばかりでなく、自分の本来のほんとうの相(すがた)、法身仏なることをも悟って、真の信仰を得て心身の自由自在性を獲得して仏と一体となり、仏の側に立って働いています。悟りの結果、悟りの副産物として、病身が全治して健全心で信仰を得て正しく働かされたと見るのが正しいでしょう。

 悟りへの第一は「自己本具の本性を徹見せよ」ともいい、「直指人心見性成仏」とも、「見性成仏」とももうします。おのれの心を直視することによって、おのれの本体が肉体ではなく、偉大なる生命力であり。天地に充満する大生命と相一致していることをはっきりと体感し悟れば、成仏して仏力を発揮することができるのであります。そのためには、身心をゆったりと落ちつけ、おのれを空しくして、心を静かに澄まし、無念無想、おのれの本体の実相が清浄なること、明るい世界に居ることを自覚すればよいのです。

 この「見性」すなわち、悟りの心境に入るための乗り物として坐禅観法はすぐれたものであります。「内観の秘法」も「軟酥の法」も一種の禅の観法です。とくに、病人または虚弱者のおこないやすくて効果の多い禅的観法です。悟りの境地に入ってからは、正念工夫をたえずつづけてゆくということが大切であります。一方にはこの正念の工夫により、他方には、褝的観法により、真の自己の本性の相に悟入することは、人間としてこの世に生をうけたもののなさねばならぬ最大の仕事であるといわれます。

 悟りへの心境へ入る乗り物はほかにもまだ種々あります。しかし、まず御自分でこれらの乗り物にのってみることです。そして実修し熟達することです。自修・自悟・自得以上にありません。

 そうなれば、心の自由自在をえて、安心と悦びと感謝と勇気と、生きる力の湧き出ずるのにびっくりすることでしょう。そして真の信仰を得られ真実の人間のほんとうの生き方を発見されてこの世を極楽浄土に化すための尊い力が湧き出すことでしょう。神仏の力と神仏の導きと救いの力をも実際に体感されて、力強く活動されることでしょう。

参考1:河合隼雄

参考2:白隠の健康法

2017.10.27、追加。 


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うらなり先生ホーム話し 宿命の糸

渡辺
 渡辺一夫著『うらなり先生ホームの話し』 (発行所:光文社)  昭和37年4月10日  より 

宿命の糸

 昔、フランスの数理哲学者のアンリ・ポワンカレ Henri Poincar? (1854~1912)の『科学の価値』という本で読んだことですが、多少理屈をこねますと、偶然と必然とは、楯の両面のようなものらしいのです。たとえば、ぼくが、ある日、学校の研究室へ行く途中、階段を三段のぼったところで、おりてくるA君に出会ったとします。A君もぼくも、」「偶然出会った」と申すでしょう。しかし、その日のA君とぼくとの行動を客観的に眺めてみますと、少しも偶然ではなくなります。ぼくは〇時〇分に家を出、〇時〇分に学校に着き、〇分後には、階段の三段目に足をかけていたのですし、A君は〇時〇分に家を出、〇時〇分には、階段の四段目(下から数えて)へ足をおろしていたのですす。A君とぼくとの行動をおのおの一つの直線とすれば、この二つの直線が、階段の三段目あたりで交差することは、この二つの直線が引かれ始めたときから(つまり、二人がおのおの家を出る時から)必然だったことになります。

戦争中友人から次のような話を聞きました。この友人は、西荻窪の「省線」の駅で降りて、自転車で家へ帰るのを常としていましたが、ある日のこと、駅を出たとたんに空襲になったのでした。友人は、同じように自転車で家路に向う顔見知りの近所の人と、どうしようかと相談しましたが、二人とも家のことが心配になり、しかも、その時は、たった一機の来襲でしたので、二人とも、自転車で全力疾走をして帰途につきました。ところが、畑道を走って、二人の家までもう一息というとこまで来た時には、敵機が後方からぐんぐんと追いついてきました。ぼくの友人は、恐怖に駆られて自転車を止めて、道ばたにうずくまりましたが、相棒は、必死の勢いで力走して行きました。しばらくたつと、どかんどかんと爆弾の炸裂する音が聞こえました。友人は、やれやれと、ふたたび自転車に乗り帰宅したのですが、まもなく、次のようなことがわかりましおた。必死の力走をした相手は、家にたどりつき、庭の退避壕へ駆け込んだ瞬間に、爆弾が壕に命中し、一家全員とともに消え失せたのでした。まさに必死の力走だったわけです。「まつたくね、あの人は爆弾の落ちるとこへ、自分で行っちまったのさ。傍で見ていたぼくとしては、爆弾投下と、あの人の全力疾走との間に、見えない糸が張られていたようだったね」と、友人は付け加えました。

 この場合も、偶然と必然とがせなかあわせになっているように思います。犠牲者が退避壕に飛込んだときに、爆弾が命中したことは偶然とも思われますが、敵機が基地を飛び立った時から引かれた一直線と、爆死した西荻窪の駅から自転車で必死の力走を始めた時から(いや、それ以前の時期、その人が、この呪われた地球上へ生まれた時から、と言ってもよいかもしれませんが)、その時から引かれたもう一つの直線とが、爆死という点でぴたりと交差したことは、その原因結果を精密に調べれば調べるほど、必然にほかならなくなりましょう。

 このような論法で申せば、この世のなかには、偶然というようなものはなに一つなく、すべてが必然だとうことにもなります。幸か不幸か、われわれ人間の認識力・判断力には限界あるために、複雑な原因結果によって成りたっている現象を、精密に分析できるはずはないのです。ぼくは、研究室の階段の三段目に足をかけるのが何時何分であるかというようなことを、平生計算してはいませんし、A君が、何時何分に家を出て、何時何分に階段をおりはじめるかということを考える能力はまったくありません。A君にしても同様でしよう。爆死した人にしても、爆弾を投下したアメリカ兵にしても、何時何分に、先に記したようなことが起こるというような測定は、できるはずがありますまい。射撃の名手にねらわれて死んだ人はは、必然的に死んだと、われわれは申しましょうが、流れ弾に当たって死んだ人は、偶然、弾に当たったということになります。しかし、流れ弾は、銃口を飛び出す時から、A地点をB時C分に通過することになっていましたし、不幸な犠牲者は、B時C分にA地点に体を位置させるような行動していたのですから、必然と申すこともできます。

 要するに、われわれが精密にあらゆる原因結果を分析識別できないからこそ、偶然だとか、幸運・不運だとか、「目に見えない糸」だとか、「宿命」だとかいう考えをいだくのかもしれません。

 必然的に生まれてきた人間は、必然的な事故に見舞われぬ限り、必然的に老衰して必然的に死にます。しかし、こうした明瞭な原因結果を、どうしてもきわめつくすことができないでいるのが、われわれ人間の救いにもなっているようです。「この自分が死ぬなんて考えられない」という感慨も生まれ、生きるための必死の営みに、われを忘れるのが、>われわれ凡俗の行為となります。「死と太陽とは直視できない」と、ラ・ローシュフゥコ― La Rochefoucauld(1613~1680)という昔の人は申しましたが、わずか六時間でも、自分の死について考え通せる人はいないらしいことは、われわれ凡俗の救いともなりましょう。ぼくなどは、三十分も、自分の死について考えられません。むしろ、途中で、ほかのことを考えたり、疲れたりするのが、生きているぼくの常態でしょう。一番確実な死という必然ですら、われわれ凡俗は、親身になって考えられないことが、われわれのはかない幸福の基盤となっているからです。

 なにも「死」だけに限りません。昔から言われているとおり、「明日のことはわからない」ものですし、「一寸先は暗闇」なはずです。「未来の世界へ後退(あとじさ)りしつつはいってゆく」と言ったポール・ヴァレリー Paul Valery(1871~1945)の言葉は、われわれにもよくわかります。もつともヴァレリーは、「だから、過去の経験を十二分に生かしてほしい」と申しているのでしょうが、健忘症なわれわれは、かならずしも、過去の経験を生かそうとはいたしませんから、あんぐりと大きな黒い口を開いた未来世界へ向かって、われわれは、過去と同じようなことを繰り返しながら、後退るしつつ没入するもののようであう。その間、必然だけであり、偶然と思う場合は、それは、われわれが、複雑な原因結果を分析識別できないからにほかならないと申せます。

 昔も今も、明日あるいは未来に対する不安は「死」に対する不安よりも先に、人間を悩ませています。松川事件の被告が全部無罪になったにもかかわらず、真犯人の追及はまったく不可能になってしまったような悪知恵の黒い霧におおわれた現代、一発で何万人もの人が消えさるような爆弾をかかえた国々が、おのおの平和・自由・正義の旗印の下で、歯をむき出し合っている現代に、少しでも物を考える若い人びtこが、たまらなくなって、無軌道な行為に出るのも、年とった人びとが、なにか超自然なものにすがりつきたくなるのも、当然かもしれません。

 昔も今も、将来に対する不安から、いろいろな占筮(うらない:せんぜい)を信ずる人びとがおりますし、われわれが、必然を分析し尽くせない悩みがありますためか、昔から多くの占筮師やさまざまな占筮が生まれました。ルネサンス時代に、ミシェル・ド・ノートルダム(ノストラダムス)Michel de nostredame (Nostradamus(1503~1566)という星占いがおり、フランス革命まで見通していたということですが、世人には分析できない必然を分析するだけの知力をそなえていたのでしょう。この人は、こうした力を身につけたために、あの酷薄な時代にも、気味の悪い人物と見なされたためか、思想的な迫害を受けずにみんなの畏敬を受け通しました。こうした生き方は、人間世界の盲点をのぞかせてくれます。同じ時代のフランソワ・ラブ?ー Fran?ois Rabelais (1494?~1553?)という人は、その「パンタグリュエル物語第三之書」Le Tiers Livere de Pantagruel(1546)第二十五章で、古代から伝わる約三十種類の奇異な占筮を解説しています(Pyromantie→Neeromantie 。ただし、ラブレーは、その戯作「パンタグリュエル占筮」の中で、本年は、盲人の目はごくわずかしか見えないし、聾者(つんぼ)の耳はよく聞こえないし、唖者(おし)はほとんど口をきくまいし、金持ちは貧乏人よりも具合がよろしかろうし、健康な人は病人とくらべれば調子がよろしかろうなどと、必然そのもののことを記しています。この程度の占筮だけでは、無事に生きとおせません。ですから、ラブレーは異端者として迫害されました。しかし、このラブレーの話は別の機会に……。

 まったく明日のことはわかりません。この世にまだ生きのびようと思ったら、わかる限りの必然を突きとめて、しかるべき手を打つ以外にしかたがないでしょうし、あるいは、信じられる占筮の指示に従って安心立命の道を開く以外に道を開く以外に手はないのかもしれません。老書生のぼくは、占筮師になる能力もなく、必然を分析もできず、さりとて占筮師の門をたたく気持ちもありません。死の床で、「やれやれ! これでおしまいだ!」とつぶやけば、大成功だと思って、残る日々を送ることにしています。

参考:占筮(うらない)―パンタグリュエル占筮(パンタグリュエルせんぜいまたは- うらない、 Pantagrueline prognostication)は、ルネサンス期フランスの文人フランソワ・ラブレーによって書かれた戯作的な(つまりはパロディとしての)占いの書である(「占筮」を「らない」と読むのは渡辺一夫訳による)。最初の刊行は1533年頃のことであり、『パンタグリュエル物語』(「第二之書」)同様、アルコフリバス・ナジエ名義であった。P.99~106

参考:終戦へのみちのり~私の体験~

平成二十九(二〇一七)年六月十二日。


水洗便所の便秘

 もう四、五年前からのことですが、暑くなりますと、わが家(東京都文京区)では、「きょうは水道がでるかしら?」ということが大問題になります。

 各地で洪水が起こるような大雨が降りますと、きまったように、水道はポトリとも出なくなります。水が多くて困る人と水がなくて困る人というふうに、苦しみを公平に分けるように、おかみがしておられるのかもしれませんが、困ることは事実なので、何度もお役所へ嘆願いたしましたが、まったくむだでした。雑誌や新聞に頼まれて雑文をつづる場合にも、東都知事閣下のお目に止まるようにと、豊水水ききんの実情を訴えましたが、オリンピック計画でおいそがしい東都知事は、「我慢しなさい!」とすらおっしゃつてくださいませんでした。やむをえませんから、朝早く、浴槽や盥や桶やばけつ……などに、大急ぎで水を組み入れます。そして、ひどい時には、朝の八時ごろから十二時ぐらいまでの間、便秘になった水洗便所に流す水、炊事をしたり、汗を流したりするための水、洗濯や、飲用に必要な水は全部、朝ためて置いた水でまかなうことにしています。そして、一日中、家で一番「海抜の低いところ」にある水道の蛇口を全開にして、ありとあらゆる容器を当てがい、思い出したように、「ぽとり、とん、ぽとり、とん……」と、したたり落ちる岩清水ならぬ水道清水のしずくをためて、補給を行うより意外にいたし方がありません。

 この東京のある地区の水道が便秘や喘息になり、水洗便所も便秘になっている原因は、はっきりしているらしいのですが、どうにもならぬのだそうですから、日本人らしく、あきらめましょう。万国オリンピックを開催する前に、なんとかしていただいたほうがよいことの一つに、この水道や下水の問題もあるのだがと、大豪雨の災害の報知に胸を痛めつつ、わが家の水道の便秘や喘息にも胸を痛めている一人として、しみじみ思うのですが、事態は、機械のようにがらがら回り出していますし、「とぼしきに耐えよ」と天皇さまもおっしゃったのですし、忍苦力行するのが、わが国の美徳なのですから、いまさら、なにも申さず我慢するのが日本人らしいのでしょう。めいめいが打つ手を考えるよりほかにしかたありません。雨が漏ったら板を乗せ、板が飛んだら石を乗せるというやり方で、雨露をしのぐのが日本精神というものであす。月賦のテレビのアンテナを高くかかげ、民のかまどはにぎわいにけりということにし、いさぎよくピカドンを待つのが日本人というものです。その日その日、なんとかやって自分の手でやってゆくのが日本人の美点で、やれ社会主義だ、やれ自由主義だ、やれ政治だ、やれ文化だと言って騒いでいる紅毛夷的(こうもういてき)などには真似のできぬことかもしれません。

 紅毛饒舌・東夷西戎南蛮北荻の真似事ばかりしているくせに、岩清水のようにしかしたたらない水道は、やれ便秘しているの、やれ喘息だのといってぼやくのは、けしからぬ非国民だと言わねばなりません。

 おかみの方針は、水洗便所を作ることだそうで、奨励しているそうですが、水道4がこの有様なら、在来の蠅や蚊の巣窟である汲み出し便所と同じことになりますから、水洗便所など作らぬほうが、とくだとほざきたくなる向きもあるかもしれませんが、そこは、何事も堪忍で、上意下達、はあ、さようで、と言って、けっして不平面などしないほうが無難です。

 不平面をするよりも、「蝉しぐれ蛇口の余喘(あえぎ)も消(け)ぬべきや」とか、「脂汗流すや蛇口の岩清水」とか「水洗便所が、がぶ飲みする盥水」とかと、風流に生きるほうが、精神衛生もよいわけですし、第一、日本人らしくていさぎよいでしょう。

 われわれの日本文化に、多くのすぐれた点があることは、事新しく、論ずる必要はありますまい。わざわざ「リバイバル・ブーム」とか、外国語で表現される風潮にも、諸外国における「日本ブーム」という表現にも、日本文化の優秀性が再認識され、再々認識されているとのことです。もっとも「リバイバル・ブーム」とやらで、「あなさやけ!」や「撃ちてしやまん!」や「神州不滅」なども、「ニュー・ルック」の衣装をつけて、よみがえってくるかもしれませんが、それはそれで、覚悟するか、あきらめるかするよりほかにいたし方ありますまい。なにしろ「ルーキー」とかいうやつには、たいへん甘くかつ弱いのが、われわれの常ですから……。

 日本文化の優秀さを、もちろん日本の識者(たとえば岡倉天心)たちは、昔からちゃんと心得ていましたが、二回にわたる黒船(一回目はペルリ提督、二回目はマッカーサー元帥の指揮による)の来訪によって開国させられたとたんに、文明開化におぼれたわれわれ日本人は、日本文化の美質を、外国人に指摘されてはじめて「なるほど」と思うようになった面が多々ありました。たとえばラフカディオ・ハーン(小泉八雲)からブルーノ―・タウトにいたるまで、日本文化の美質を、われわれに教えてくれた紅毛碧眼人たちはたくさんおりますが、最近でも、例の「日本ブーム」やらで、ますますその数を増してゆくのではないかと思います。恥ずかしいことですが、また同時に、じつにありがたいことでもあります。

 ぼくが数年前に偶然東京で知り合いになったドミニコ派の博学な?ロン神父 Pere Lelong から、その近著『日本の精神性』Spiritualite du Japon ( R.Julliaed. 1961)の寄贈を受けましたが、日本文化および日本人の生活の根本の一面をみごとにとらえている好著でした。ルロン神父は、日本人の美徳の一つとして、「清貧」ということばをあげ、この字の由来と意味とを語源的にもていねいに説明し、そのなかにひそむ人間の知恵を指摘して、危機にさらされた西洋文明・機械文明を救う道の在所(ありか)を指示していましたし、その所論は、一つ一つもっともでし

 水道があり、水洗便所もあるぼくらの生活は、およそ、「清貧」からは遠いのかもしれませんが、岩清水的な水道や水洗便所の便秘や喘息のために脂汗にまみれながら、あきらめて、一句ひねり出そうとしているぼくは、「ニュー・ルック」の「清貧」を持っていることになるのかもしれません。きょうにも、喘息にかかった蛇口の音を聞きながら、ルロン神父のご本のことを、ふと思い出したのでした。

 「清貧」などという立派な言葉は、もしかしたら、何不自由もない(したがって、衣食住はもより、水道も水洗便所も喘息知らず便秘知らず)豊かな生活をしている方がたが、不如意に苦しみながらも、気の遣りどころをたずね求めて「泰然として腰を抜かして」いる連中を慰めながら、物質的には困っていても精神的には豊かだとか、生きているうちは不幸でも死ねば極楽へ行けるとか言って、しゃぶらせてくださる飴ではないのかしらと、ひがむ不逞な人びとがいないと、かぎりません。もちろん、こんなことをいう人びとは、「アカ」にきまっていますが、「アカ」は「清貧」で解消せず、むしろ「濁富」で消滅する以上、「清貧」は自分に要求できても、他人に求めることは、できないもののようである。

 傾きかけたバラックの窓辺には、朝顔の花が清く咲き、雑誌の口絵の富士山(あるいは天皇陛下のお写真)が壁を飾り、便所とどぶとの妖気を運ぶ熱気に風鈴が涼しげに鳴っている部屋で借金の相談をする風景も、「清貧」の部類にはいるかもしれませんし、雨もりを気にしながら月賦のテレビで西部劇を見る人びとや、同じく月賦の電気冷蔵庫に冷やっこを一丁と沢庵一本とを入れて、「文化」を楽しんでいる人びとも、新しい「清貧」の例となるかもしれませんから、もう一度日本人の生活を調査ほしなどと言ったら、ルロン神父は、ぼくをメフィストフェシス(一般にMephistopheles、他にMephistophilus, Mephistophilis, Mephostopheles, Mephisto, Mephastophilis)は、16世紀ドイツのファウスト伝説やそれに材を取った文学作品に登場する悪魔)扱いするかもしれません。しんかし、「清貧」に甘んずる人びとは、物質的なものであれ、精神的なものであれ、なにかすばらしい「豊かさ」にあこがれていることは事実でしょう。第一、西洋人でありながら、西洋文明や機械文明の危機を感じられたルロン神父にしても「清貧」を通して、平和で豊かな人間生活を推賞しておられるのですから。ぼくは、水道の蛇口から、洪水になるほど豊かでは困りますが、せめて水洗便所が便秘でなくなる程度に水が出てくれればと、それのみにあこがれています。しかし、それもだめならば、例によって、あきらめという伝家の宝刀を抜いて、日本人の本然の姿に還り、「喘息の蛇口を吸うや梅雨明けて」などと、「新しい清貧」を楽しむことにいたします。

 異人さんでも、愛する日本のために日本の悪口を言ってくれた人びともおります。これもありがたいことです。だいたいわれわれは、自分の顔についている墨には気がつかぬものですから、教えてもらったほうが、教えられずにいて笑われるよりも、はるかにありがたいことです。明治九年から三十八年まで日本の医学界、教育界のために尽瘁し、われわれに冬、霜焼けやひびの治療に用いる「ベルツ水」を教えてくれたドイツ人エルヴィン・ベルツ Erwin B?lz 博士も、そのひとりでしょう。博士の遺著『ベルツ日記』から、若干の文章を引用してみましょう。

 明治九年十二月一日。不思議の国民ではあるーーこれらの日本人は!(中略。東京大火描写)これらの罹災者は、(中略)いつもの如く、喫煙に耽ってゐる。(中略)彼らの面上には悲嘆の痕跡もない。余は多くの者が、彼らには何の不運も起こらなかったかの如く冗談を言ひ哄笑するのを見聞したのである。(中略。焼跡の描写)――何もないーー何もないのだ。

 その故は、日本の家は非燃焼物より出来ている訳でもなく、又非燃焼物を所有している訳でもないからだ。かてて加へて、その簡素さは甚しいもので、人々の物慾なきことにより欧羅巴(ヨーロッパ)より文化輸入が全く不成功に終わりはしないかと危ぶまれる程である。

 この文章はとくに、われわれ日本人の悪口とは思われませんが、後のくだりは、ちょっと、気にかかります。ベルツ博士は、われわれが「物欲なきこと」を咎めておられるようです。(なお新訳では、「無欲淡泊な点」としてありますが、大差はありません。)ベルツ博士は、「清貧」でありすぎることを、どうも咎めているようです。

 明治二十二年二月九日は、十一日の前準備の為に、筆舌に尽くし難き興奮の裡になる。いたるところ、奉祝門・照明の準備・行列。しかし滑稽なるかな、誰一人として憲法の内容を知らないとは!

 同年三月十九日。出版の自由が憲法に於(お)いて可及的広汎に約束されて以来、政府は翌月直ちに首都の五指を超ゆる新聞紙に発行停止を命ずることを余儀なくさせられたのである。蓋し右五社は、森(有礼)文相の暗殺を壮なりとしたからである。事実一つの詩歌に於いて、西野(森文相暗殺犯人)が第二に覗った犠牲芳川氏が、いまだ生存しているのを遺憾とする意味が記されたからである! 上野にある西野の墓へは、夥しい参詣者が続くのである。就中、学生・俳優・芸者など多数。悪い時世だ。まだ日本の文化は議会制度の時期に達しないことを、明らかに物語ってゐる。国民は、自分で法律を制定することになったこの時、暗殺者を称賛するのである。

 これらの文章は、「清貧」とは直接関係ないかもしれませんが、現在でも通用しかねない忠言を含んでいるかもしれません。しかし、「清貧」に徹すれば、火災も憲法も高官暗殺も、あってなきに等しいことになるのかもしれません。

 明治三十四年十一月二十日。余の見る所に拠れば日本人は、屡々西欧学術の発生と本態とに関し、誤れる見解を懐き居るのである。日本人は、学問を目して一つの機械と做(みな)し、ねんがら年中、其れから其れへと夥しい仕事をさせ、また無制限に何処へでも運搬し、そこにて働かし得るものと考えて居るのである。是れは、間違いである。西欧の学界は機械に非ず、一つの有機体にして、他のすべての有機体と等しく其の繁殖には一定の気候、一定の雰囲気を要するのである。(中略)西欧の学問的雰囲気も亦、(中略)無数の傑出せる学者が幾千万努力の結果である。これは、荊棘の道にして高節の士の多量の汗、そして又地に灌がれたる血潮、燃えつつある火刑の薪の山に依り道標(みちしるべ)されて居る。(浜辺正彦訳による)

 この言葉も、まさしく忠言を含んでおり、現在の日本の学問のあり方にもふれていますが、「清貧」を覚悟すれば、こうした忠言も、馬耳東風と聞き流せるよいうものでしよう。

 西洋人は、「物欲」を持つことをすすめてくれたり、「清貧こそ尊い」と言ったりくれていまが、戦前戦中には、個人主義、自由主義を初めとして、ジャズや西洋料理にいたるまですべて、大和民族を滅ぼすための適性謀略と言われました。ベルツ博士もルロン神父も、やはりわれわれを謀略におとしいれているのかもしれません。もっとも、近ごろは、日本もアメリカ化されてしまいましたから、こんな謀略は、てんで通用しなくなっていると申せますが……。しかし、あすも暑そうです。わが家の水道は、相変わらず、喘息と便秘とにかかわっていることでしよう。あすはあすのこと。どれ、汲み置きの水でもかぶるといたしましようか! 「ぽとぽとと、この都に岩清水」

(付記) ベルツの日記の引用は、戦前、岩波版渡辺正彦氏の訳によりましたが、最近、岩波文庫版として菅沼竜太郎氏の新訳が出ています。浜辺氏の訳から、検閲によって削除された部分も、全部忠実に訳出されています。P.60~69

平成二十九(二〇一七)年六月十七日。


 佐藤一夫プロフィール:東京出身。暁星中学校でフランス語を始め、少年時代は巌谷小波や夏目漱石、芥川龍之介、十返舎一九、式亭三馬、『三国志』『西遊記』などを愛読し、詩や和歌も読む文学少年だった。第一高等学校文科丙類を経て、1925年東京帝国大学文学部仏文学科卒。辰野隆に師事し、鈴木信太郎、山田珠樹、豊島與志雄らの薫陶を受ける。

 卒業後の1925年、旧制東京高校にフランス語の語学教員として勤務、1931年から1933年、文部省研究員としてフランスへ留学。1940年東京帝国大学文学部講師、1942年助教授。戦争が激化する中、ラブレーなどの翻訳を行った。1948年東京大学教授、1956年、明治大学兼任教授。1962年東京大学を定年退官し、立教大学文学部教授に就任。教え子で同学一般教育部専任講師としての職を得ていた渡辺一民とともに、文学部フランス文学科の創設に尽力した。1966年から1971年まで明治学院大学文学部教授。この間1967年、パリ大学附属東洋語学校客員教授も務めた。1956年に「フランソワ・ラブレー研究序説」で東大文学博士。1966年日本学士院会員に選出。

 旧友で光文社社長神吉晴夫の勧めでカッパブックスシリーズの一冊として刊行された、エッセイ『うらなり抄』は1955年(昭和30年)のベストセラーとなった。

 ミクロコスモス(人間を意味する小宇宙)のアナグラムである六隅 許六(むすみ ころく)という変名で、中野重治や福永武彦、師の辰野隆らの著書装丁を行っている。また戦争中、世界情勢を分析して軍部への批判を含む日記を記していて、死後出版された。憲兵や特高警察からの摘発を恐れ、日記は全文が仏語で書かれていた。(ドナルド・キーン、角地幸男訳「作家の日記を読む」日本人の戦争・文春文庫)

2017.06.14 


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サラリーマンの処世訓 Kクラレ広報部

渡辺
サラリーマンの処世訓 上司と部下、出世から金銭まで Kクラレ広報部

   はじめに

 クラレが設立されたのは大正十五年。当時もっとも新しい化学繊維であり、いまなお健在のレーヨンの工業化からスタートしてから昭和六十一年で六十周年を迎えました。人間でいえば還暦にあたる今年、赤いチャンチャンコを着るかわりに六十周年事業の一環として、広報部では創業当時の昭和初期のサラリーマンの処世訓が、現代のサラリーマンにどの程度受け継がれているかを調査し、「サラリーマン心得今昔考」としてとりまとめ、マスコミにレポートしました。

 一方、当時のサラリーマンがどのみょうな生活をしていたのか、宮仕えの哀歓はどんなものであったのかを想い起こしてみたいと考え、国会図書館、大宅文庫、法政大学大原社研等々から文献をあさって、これをもとに毎日新聞大阪本社の住田英彬氏に「今は昔、六十年前のサラリーマン」と題する小冊子をとりまとめていただきました」

 これらの二つの資料は新聞、雑誌等のマスコミにさまざまにとり上げられた結果、各方面から資料送付の要望が相次ぎました。資料の在庫も少なくその処置にいささか困惑していました矢先、いわゆる企画本の出版でなを馳せておられる学生社から出版のお勧めをいただいたのが、本書が世に出ることになったきっかけです。

 本書の第一部は、現代サラリーマンの仕事観から趣味にいたるまでの、前記の当社が実施した調査でデータを中心にすえて、毎日新聞大阪本社の住田英彬氏に執筆いただいたものです。氏の古今東西にわたる該博な歴史知識とベテラン記者らしい練達の筆さばきによって、ともすれば無機的で面白みの欠ける調査解説がひとつの現代サラリーマン論としてよみがぇつた感があります。

 第二部は同じく前記の岩田氏にとりまとめていただいた六十年前のサラリーマン像に関する小冊子をそのまま収録したものです。価値観の多様化がひとつの特質とされる現代社会において、最大の社会集団であるサラリーマンがいかに身を処すべきかを考えるヒントになれば幸いです。

 本書のとりまとめを熱心にお勧めいただくとともに構成、内容等に関して多くのご教示をいただいた学生社の大橋取締役、そして本書のベースとなった調査の企画、実査、集計分析にご協力いただいた協和広告(株)、(株)サン・クリエイティブ・パブリシティの関係者の方々に紙面をお借りして改めて御礼を申し上げます。

 なお、本書中のイラストレーションは当社前広報部長で現管理部門担当付の大藤亨氏の労作であることを付記します。

   昭和六十二年一月

               株式会社クラレ 広報部

感想:こんな本が広報部から出版されていたのだ。私が在職していたとき、社内報について大藤亨氏とお話ししたことがありました。

★私の社内報

1:基督教独立学園を訪ねて

2:越川春樹先生を訪ねて

2017年(平成二十九年)六月十九日


31
長谷部日出雄著『鬼が来た 棟方志功』「下」(文春文庫)(1984年9月25日 第1刷)

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 鬼が来た 

 昭和十七年ころの志功が、師宗悦と保田與重郎のほかに影響を受けていたのは、大原總一郎だった。總一郎の父孫三郎は、かつて日本民芸館の設立に十万円の寄付をした民芸運動の大パトロンである。倉敷の大原家と、志功の結びつきは、四年まえの昭和十三年五月、孫三郎のコレクションによる浦上玉堂展が、大原美術館で開かれたとき、河井寛次郎に連れて行って貰ったことから始まっていた。

 わがくにで最初の西欧絵画の美術館である大原美術館にには、当時すでにエル・グレコの「受胎告」をはじめ、モネ、ゴーギャン、セガンティニ、ロートレック、マチス、マルケ……などの作品があつめられていたのだから、初めて訪れたときの志功が、昔ながらの典雅な家並みが掘割の水に影を漂わせている周囲の景観と、館内に収められている西欧絵画の銘品群に、どれほど興奮し、熱狂したかは、想像するに余りある。おそらくそれは、声も嗄(か)れんばかりの感嘆の叫び声と、手の舞と足の踏むところを知らぬ欣喜雀喜の連続であっただろうが、浦上玉堂の収集家であり、大雅や木米の文人画を好んでいた大原孫三郎が、このとき初めて会った志功の絵を、いっぺんで認めたかは、これははっきりとは記憶していない。柳宗悦が高く買っている志功を、孫三郎は無論、粗略に扱わなかっただろう。大原美術館の創立者であり、日本民芸館設立のスポンサーであった孫三郎に、志功は「画伯」と呼ばれて、たいへん感激していたそうである。

 大原總一郎はこのころ、二年まえから外遊中だった。志功が初めて總一郎と顔を合わせたのは、昭和十三年の十二月、かれの帰国を祝って、倉敷市の酒津にある大原家の別艇で開かれた園遊会の席上であった。招かれてこの園遊会に出た志功は、嘆声の連発を通りこして寡黙がちになっていた。落ち葉が散り敷き、さまざまな樹木の間から、しきりに鳥の啼き声が聞こえて、深い山中をおもわせる三千坪の屋敷に、門番小屋、和風の画室、母屋、洋風の山小屋のような建物……などが点在している広大な屋敷は、大原孫三郎が後援していた画家児島虎次郎のために建てられたものだった。屋根の煙突から冬空に薄い煙を立昇らせ、なかに薪が焚かれていた暖炉と、部厚いがっしりした木製のテーブルと椅子を備えたコテージは、画の製作中に人が訪ねて来たとき、応接に使うためだのものであったという。そのように至れり尽くせりの設備をしたほかに、孫三郎は児島を三たび欧州に送った。児島は画業に精進するかたはら、孫三郎に任されて、西欧絵画の収集も行った。大原美術館は、児島の死後、それを記念して建設されたものである。一人の資産家が一人の画家を後援するということは、これほどまでにするもんか……そうおもって志功は呆然と息をのむ心持になっていたのだった。この園遊会にも、志功は河井寛次郎と一緒に行っていた。そこへ大原孫三郎が、三十になったかならぬかの青年を連れて来て、志功にいった。「うちの總一郎が、棟方画伯の絵を、まえから大好きでね。きょうは画伯が来られるのを、楽しみにして待っていたんですよ」

 はあっ……とお辞儀をしながら、志功はすこし不審におもった。大原總一郎はこの数年間、欧州にいた筈である。一体どこで、かれのどの作品を見たのだろう、二年まえのベルリン・オリンピックビック芸術競技に出した『ラジオ体操』と『ウオーミングアップ』でも見たのだろうか。

 「あのう……」志功は、いかにも東大出の秀才らしい俊敏な表情をしている年下の青年に恐る恐る訊ねた。「わしの絵を、どちらでご覧になったのでしょう?」

 「ロンドンですよ」

 「ロンドン?……で、どの作品をご覧になったんです」

總一郎の説明によると、かれがとくに感銘を受けたというのは、『華厳譜』のなかの風神の図であった。とすれば自信のある作品の一つだが、それをどうしてロンドンで……と訝っている志功に、

 「ぼくがその版画を見たのはね。……」

 と、總一郎は微笑を浮かべて、そこに至るまでの経緯を話し始めた。かれが昭和十一年の春に、欧米各国への旅に出たのは、紡績業視察のためであったのだが、音楽と絵画が大好きであったので、視察旅行の合間に、音楽会と美術館めぐりを欠かさず、その案内役になってくれたのが、ロンドンに一人住まいをしていたヘンリー・バーゲンという老アメリカ人だった。無名ではあったけれども、彼は眼のきく美術コレクターで、日本の陶器にも愛着を持っていた。あるとき二人で、ロンドンのリトル・ギャラリーへ行くと、濱田庄司の陶器とともに棟方志功の版画が何枚か展示されていて、そのなかからヘンリー・バーゲンが手にとり、買い求めた一枚が、『華厳譜』のなかの風神の図だったのである。

 大原總一郎がバーゲンについた語った後年の感想に「今は世界の寵児になった棟方の版画を最初に買った外国人は恐らく彼だっただろう」と書いている。總一郎自身も、ロンドンで見た志功の版画に感銘を受け、日本に帰ったら、是非いちど棟方におもうぞんぶん腕を振るわせてみたい、とおもっていたので、きょうの顔合わせを楽しみにしていたのだった。まず、手始めに、うちの襖絵を描いてくれまいか……という彼の言葉に、「やります、やります!」眥を決した志功は、躍り上がるようにして叫んだ。

 志功は園遊会が行われた酒津別邸のなかに住んでいる大原美術館長武内潔真(きよみ)のもとに寝泊まりし、故児島虎次郎の画室で、大原邸の襖絵や屏風を描くことになった。

 画材の準備や、墨磨り、水の用意など制作に手伝いには、武内夫妻が当たった。最初には志功が描いたのは、六曲屏風 の山水であった。志功が描き始めたとき、その無計算、無鉄砲ともおもえる制作方法に、もともと倉敷紡績の技師で工場長を勤めたこともある武内潔真は(……ちと無茶じゃないか)と心のなかでおもった。志功は床にひろげた六曲屏風のまわりを、絶えず動き回って、こちら側から描いたかとおもうと、飛んで行ってこんどは向こう側から筆を下した。なにを描いているのか、さっぱり訳が判らない。線描のなかに墨色を塗るときは、塗るというより、片口の水に溶いた墨を、筆でかたっぱしから紙のうえに撒いているような感じで、武内は、だんだん腹が立って来たくらいであった。ところが、それに色彩が施されていくと、見る見るうちに画面は鮮やかな風景の姿を現し始めた。武内の腹立ちは感嘆に変った。筆を洗う水を替えに往復していた武内夫人も、戻って来るまでの短い間に画面が一変して行く有様に、眼を見張っていた。志功署名をして制作を終えたとき、その目ざましい速度と気魄と才能に、武内はすっかり感ぷくしていた。

 期待を上回る出来映えに喜んだ總一郎は、大原邸内の襖絵を、すべて志功に描かせることにしたので、以来、志功は毎年のように倉敷へ出かけ、酒津別邸内の画室で、逸品の聞こえ高い『五智御菩薩図』をはじめとして『群鯉図』『華厳壁図』『連山々図』『群童図』『風神雷神図』『両妃図』……と力作を描き続けた。

 これらの肉筆画について、美術評論家の矢代幸雄氏は、戦後、倉敷の大原邸を訪れて見たときの感想を、次のように書いている。

 「初め示されたのは六曲一双の屏風に、放胆な筆で、白雲の飛ぶ青空の前に連亘(れんこう)する山々と、林立する杉の木立と、その間に点々として見える村落の家並みや神社の鳥居などを画面いっぱいに描いた、旺盛な風景画であった。大きな筆を縦横に走らせ、墨をたっぷりつけた作画であるが、また緑や青の色彩を濃く使った西洋画風のしっかりした描写である。何となく、一脈、鉄斎にも通じる痛快な近代的描写であった」

 矢代はそれまで、志功を確かに異彩であると認めてはいたけれども、版画から時折うけるどぎつい感じには、いささか閉口することもあったのだが、肉筆画の奇想天外な面白さには心を奪われたので、興奮して「もっと見たい、もっと見たい」と總一郎に懇望した。なかでも奇抜とおもわれたのは、沢山の鯉を描いた襖絵だった。

 「あるいはほんとうの水に浮く鯉のごとく、あるいは大きな鯉幟が強風に吹かれるところのごとく、あるいはまた鯉の頭があまり丸くなって、大鯰に化けかけたようなのもいる。生気充満、ユーモア横溢、何とも言いようのない愉快な作であった」…「暗い廊下の突き当りに、大きな赤不動を描いたのは、殊に傑作のように思われた。いずれにしても、私としてはこの種の棟方志功の作りを初めて見たわけで、大いに認識を新たにし、また彼の不羈奔放なる想像力の奔馳や、筆の動きの自然さに、すこぶる感嘆した」

 志功が倉敷の大原家において、肉筆画の傑作を続続と量産したのは、大東亜戦争の直前から真最中にかけてのことだった。これは總一郎の知遇を得たおかげであり、そこから徐徐に経済的な余裕も齎されて来ていたものとおもわれるが、志功が總一郎から受けた精神的影響も、それに劣らず大きかったとみてよい。そのひとつは西洋のクラシック音楽、とくにベ―トーヴェンの音楽を体の芯にうえつけられたことである。

 志功が倉敷の大原家において、肉筆画の傑作を続続と量産したのは、大東亜戦争の直前から真最中にかけてのことだった。これは總一郎の知遇を得たおかげであり、そこから徐徐に経済的な余裕も齎されて来ていたものとおもわれるが、志功が總一郎から受けた精神的影響も、それに劣らず大きかったとみてよい。そのひとつは西洋のクラシック音楽、とくにベ―トーヴェンの音楽を体の芯にうえつけられたことである。

 大阪の倉敷紡績で指揮をとる總一郎の、いつもの住まいは、倉敷の本邸ではなく、神戸の住吉の反高林(たんたかばやし)にあり、音楽好きのかれは、そこに社員を招いて、自分が蒐集した名盤によるレコード・コンサートの当日には、みんな何とかして招待の指名から逃れようと、戦戦兢兢たる有様だった。そんなときに、社員ではないけれども、志功は敢然と出席して、荘重森厳に延延と続く名曲を、残らず真正面から受け止め、瞑目して棒を振る指揮者のような陶酔と興奮の表情を示し、總一郎の解説と音楽談話にも深く耳を傾けたうえで、いまの音楽と解説に対する自分の感想と意見を、縷縷切切と申し述べるのである。

 別に無理をしていた訳ではなかあったのだろう。かれにとって画家はゴッホ、音楽家ではベ―トーヴェンで、そのベ―トーヴェンに対する関心は、初めて東京に出てきて、帝展落選が続いていたころからあったものだった。後年の回想では、「特にわたしにとって、音楽はベ―トーヴェンという位、ベ―トーヴェンが好きです。まだ蓄音機を持っていない頃から、そのレコードを全部そろえて持っていた程です」と語っている。こうした志功の回想は、必ずしも言葉通りに受取ることはできないが、蓄音機を持つまえから、大原總一郎家のレコード・コンサートにおいて、ベ―トーヴェンの交響曲の殆ど全部を聴いたのは、多分まちがいあるまい。

 なかでも好きになったのは、第九交響曲のなかの「歓喜」のメロディで、以来かれはしばしばそのメロディを口ずさみながら、版画を彫るようになる。宗教と芸能、祈りと歌と踊りが不可分のものであった古代の人人とおなじように、気に入った詩歌や経文を、口と心のなかで繰返し唱えながら、祈りを彫刻刀の尖端に籠めて、踊るように板を彫り進むのが、棟方志功の制作方法の基本であったようにおもわれるから、その心中の音楽のレパートリーに、ベ―トーヴェンが加わったことは、作品の世界に、測り知れないほどの広がりを齎したのではないかと考えられるのである。

 志功が大原總一郎に与えられたもうひとつのものは、芸術家としての世界的な視野、いいかえれば、近代の芸術家としての自覚であった。父孫三郎のあとを継いで、三十二歳で倉敷紡績の社長に就任した總一郎には、なにもかも打明けて話せる相手が少なかったのだろう。その分だけ、芸術上の知己である志功には、遠慮を取払っていたのか、ときに辛辣すぎるくらい手きびしい評言を発することがあった。のちに志功がスランプ気味に陥ったときには、「こんな詰まらないものをつくるくらいなら、絵描きをやめてしま」といったこともある。それは結局、ヘンリー・バーゲンに「大美術館にある作品だけがよいものとは限らない。中小の都市の美術館を見逃してはいけない」と教えてられてから、外遊中に、有名無名を問わずヨーロッパ中のありとあらゆる美術館を見て来た總一郎が、それらのなかで最上の作品、最良の画家たちと、志功を同列において論ずるところから生まれて来た評言だった。

 志功も油絵を描き始めたころから、ゴッホを意識してはいた。ただし初めのうちは、ゴッホと油絵画家を同義語のように考え、つまり、われは「ゴッホになる」というのは「洋画家になる」というのと同程度の意味で、実際にゴッホに迫るほどの画家になろうと決心していたわけではなかった。けれども、その後ゴッホの『アルビイユの道』もコレクションに加えられた当時のわが国では唯一の西欧絵画の美術館である大原美術館から、さほど遠くない酒津の深山をおもわせる三千坪の敷地のなかの画室で制作に励み、神戸に行ってはクラシック音楽に耳を傾け、あるいはヨロッパ―の美術を目の前において論じているような總一郎の芸術論を聞く生活のなかで、ほかの恵まれた洋画家のようにパリ遊学の経験を持つことができなかった志功にも、そのころから、自分は世界の画家たちのなかの一人である、という意識の萌芽が生じはじめて来ていたようにおもわれる。ちょうど總一郎と知合ったあたりから、志功の作品に、近代的な造型的感覚が顕著になっているのが、その証拠で、このころの志功の制作は多分、大原總一郎の存在を、たえず意識の一隅に置いて行われていたはずである。

 總一郎のほうでは、志功をどのように見ていたかといえば、これは戦後のものになるけれども、谷川徹三氏によって、「棟方と棟方芸術について書かれた最高の文章である」と評された、あの有名な棟方志功論がある。――棟方の中には二人の棟方がいる。彼はその門衛と二人住いだ。……という部分は、まえに紹介したが、そのあとには、こうも書いている。

 「展覧会場に現れた棟方自身はいつも何事か大声で喚くが、作品はまたいくらか別の言葉を語っている。作品の中にいるのが主人公で、会場に現れたのはその従者であることが、われわれには直ちに知ることができる」…「棟方の中に住む棟方、それは彼の板業の歴史を通じて直接間接に窺い知るほかはないものだが、それが将来さらに生み出すであろう物は、決して今日までの作品から帰のうされるわくの中にとどまるものではなかろう。彼にとっても、われわれにとっても、また棟方芸術そのものにとっても、未知なる驚きは、また彼の奥深くに限りなく残されているに違いない。ある人は棟方はその人間の方が、その作品よりも面白いという。この批評ほど彼にとって迷惑、かつ不名誉な批評があるだろうか」……

 大原總一郎の観察によれば、棟方の中には二人の棟方がおり、一人は作品の中にいる主人公であって、もう一人はその門衛であり、従者であるという。それをいいかえると、志功のなかには、ドン・キホーテとサンチャ・バンサが同居していたのであったのかも知れなかった。つまり見果てぬ夢を追うロマンティストと、卑俗な現実に徹するリアリストが、一人の人間のなかに呉越同舟のかたちでいて、たがいに反対の方向へ楫(かじ)を引き合いながら、激しい時代の波間に、微妙な均衡を保させていたようにもおもわれるのである。

参考:概要 騎士道物語(当時のヨーロッパで流行していた)を読み過ぎて妄想に陥った郷士(下級貴族)の主人公が、自らを伝説の騎士と思い込み、「ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」(「ドン」は郷士より上位の貴族のなに付く。「デ・ラ・マンチャ」はかれの出身地のラ・マンチャ地方を指す。つまり「ラ・マンチャの騎士・キホーテ卿」と言った意味合い)とな乗り、痩せこけた馬のロシナンテにまたがり、従者サンチョ・パンサを引きつれ遍歴の旅に出かける物語である。 1605年に出版された前編と、1615年に出版された後編がある(後述するアベリャネーダによる贋作は、ここでは区別のため続編と表記する)。 旧態依然としたスペインなどへの批判精神に富んだ作品で、風車に突進する有名なシーンは、スペインを象徴する騎士姿のドン・キホーテがオランダを象徴する風車に負けるという、オランダ独立の将来を暗示するメタファーであったとする説もある。(スペインの歴史、オランダの歴史を参照)実在の騎士道小説や牧人小説などが作中に多く登場し、書物の良し悪しについて登場人物がさかんに議論する場面もあり、17世紀のヨーロッパ文学についての文学史上の資料的価値も高い。 主人公の自意識や人間的な成長などの「個」の視点を盛り込むなど、それまでの物語とは大きく異なる技法や視点が導入されていることから、最初の近代小説ともいわれる。年老いてからも夢や希望、正義を胸に遍歴の旅を続ける姿が多くの人の感動をよんでいる。 また、聖書の次に世界的に出版されており、正真正銘のベストセラー小説・ロングセラー小説でもある。2002年5月8日にノーベル研究所と愛書家団体が発表した、世界54か国の著名な文学者100人の投票による「史上最高の文学百選」で1位を獲得した。


ビニロン工業化を版画で後押しーー 棟方志功 大原父子との絆

 初の国産合成繊維ビニロンの工業化を4点の版画が後押しした。「美尼羅牟頌板画柵」(びにんろん しょうはんがさく)とな付けられたその作品は世界的な版画家・棟方志功の作品。その背景には、クラレ創業者の大原孫三郎・二代目社長總一郎親子と志功氏の、長年にわたる親交と友情があった。

大原孫三郎・總一郎と「世界のMUNAKATA」の出会い

 青森県青森市の出身で、世界的に有名な版画家である棟方志功と、大原家との本格的な交流は、1938年、大原總一郎が欧米視察から帰国した際、倉敷市で行われた園遊会から始まる。当時大原孫三郎57歳、棟方志功34歳、總一郎28歳であった。孫三郎はこの時、息子の總一郎が棟方志功作品のファンであることを伝え、紹介された總一郎は大原邸の自身の部屋の襖絵を依頼する。棟方志功はこの時のことを後に、「こちらなもない、版画の世界に入って、何年もたたない絵描きです。そんな人間にそういう大業をやってくれという魂の太さに、非常に恐縮しました」と述懐している。

 出会いをきっかけに、大原家は棟方志功に、物心両面における支援を行っていく。大原父子の知遇を得て、棟方志功は次々に自分の作品に生かしていった。6歳違うものの、互いに惹かれ合うものを感じ、「まるで兄弟のよう」と言われるほどに親しくなった。やがて「世界のMUNAKAT」と呼ばれる版画家となる棟方志功の、飛躍への源はこの時期にある。

「美尼羅牟頌板画柵」がともした導きの灯

 大原家との出会いから、棟方志功は毎年のように倉敷を訪れ、「御群鯉図」「五智菩薩図」「風神雷神図」などの作品を次々と描き、大原家におさめた。ある時、大原總一郎が改まった様子で棟方志功に言った。

 「今私は、ビニロン事業に運命をかけている。日本経済自立のためにも、ビニロン生産を軌道に乗せなければならない。その導きの灯がほしい。ビニロンにかける気持ちを、版画に表現してもらえないでしょうか」

 1950年のことである。總一郎は、43年に死去した孫三郎の跡を継ぎ、倉敷レイヨンの社長になっていた。当社が推進するビニロンの工業化は最終段階に入り、工場建設計画を進めていたものの、国内は不況の真っ只中にあり、資金調達に苦労していた。總一郎は、苦難の道を切り拓く勇気を、棟方志功の版画に求めたのである。

 棟方志功は制作に没頭した。汗のにじむ顔を、板木にくっつくほど近づけて丸刀を振るい、16枚の板木を使った1m四方の作品4枚で構成する板画を彫り上げた。大作品「美尼羅牟頌板画柵」(ベートーベン作曲「運命」をモチーフにしており、別名を「運命板画柵」とする)は、新事業へと挑む總一郎の背中を後押しした。


        御群鯉図          風神雷神図                 美尼羅牟頌板画柵

★「大原總一郎年譜」昭和55年7月27日発行 株式会社クラレ(大阪市北区梅田1-12-391)の中に挿入されていたパンフレットを書き写す。平成29年(2017)7月17日。

2017.07.10~14


32
『櫻守』(新潮社)(1969年5月05日 第1刷)

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『櫻守』水上勉(みずかみつとむ)著

 水上勉の小説『櫻守』のモデル、笹部新太郎が晩年を過ごした神戸市東灘区岡本にあった笹部邸は現在、南隣地を含めて神戸市の都市公園(・・街区公園)になっている。

 この小説は、昭和43年8月~12月、毎日新聞に代表的現代作家20人の競作の企画で「現代日本の作」の一環として発表された。

 物語は、主人公の庭師北弥吉の幼い日、山桜が満開である在所の京都府北桑田郡鶴ヶ岡村の背山を木樵の祖父と登って行くところから始まる。

 弥吉はそこで初めて山桜のなを覚えた。

 祖父は小舎の前に木端をあつめて火を焚いた。母とむきあって、話しこんでいた。話の様子は、父のことらしい。弥吉はのけものにされた思いがして雑木山へ入り、岩なしをとった。

-略- 口のはたが、実の色で染まるほどたべて、弥吉は小舎に走り戻った。すると、祖父と母は小舎のまわりにいず、火が消えていた。弥吉は急に淋しくなって、尾根づたいに桜山の方へ歩いた。と、不意に足もとから、母と祖父の笑う声がした。満開の桜の下だった。遠目だからはっきりしないが、かわいた地べたに、白い太股をみせた母が、のけぞるように寝ていて、わきに祖父がいた。家では、いつもいらいらしている母が、楽しそうにはしゃいでいる。弥吉はいかにも秘密名た感じが、そこにあるような気がした。呼ぶのに気がひけて、しばらくだまってみていてから逆もどりした。見てはならないものをみたような、一瞬、はずかしい気持ちが襲った。弥吉は眼を閉じて歩いた。と、立止った所に、一本の桜があった。小菊の花でもみるような、薄紅の花びらを何枚もかさねた大輪で、一匹の蜂が花の中へ頭をつっこんでいた。峰は蛹型の尻を小きざみに振った。蜜をすっているのだと思った。

 その日、満開の山桜の樹の下で久しぶりでついてきた母と祖父の情事の余韻を見る。この情景は弥吉の心に深く焼き付けられる。

 まもなく祖父は死に、母は宮大工の父に離縁される。その後、弥吉は新しい母になじめず、実母を思って暮らす。

 14才のとき、京都のうえ木屋「小野甚」に奉公する。そこで生涯の友であり、先輩である、石に詳しい庭師橘喜七に出会う。

 その喜七の紹介で、大阪中之島の資産家の次男で東大を出て、生涯無位無冠で桜一筋に情熱を傾ける桜研究家竹部庸太郎の雇い人となった。弥吉は竹部が持っている武田尾の桜演習林や向日町の桜苗圃などで特に接木や接穂作りなど山桜の種の保全と育成、普及の研究の下働きをすることになった。

 そんなある日、竹部と弥吉は武田尾の演習林からの帰り道、どうしても通らなければならない福知山線のトンネルの中で臨時列車に遭遇する。列車の煤を洗うため立ち寄った武田尾温泉の「まるき」で弥吉は仲居の園と出会う。その奇遇で弥吉と園は、周囲のすすめもあって結婚する。

 ふたりは桜が満開の演習林の番小屋で初夜を迎える。滝よこの里桜の楊貴妃は番小屋の屋根にとどくぐらい枝が垂れていた。

「弥吉が腕をはなして、畳へ眼をやると、乱れ髪がながれて、楊貴妃の花弁が一つ、小貝をつけたように着いていた。弥吉はうっとりとそれを眺めた。」

 そしてふたりは武田尾の番小屋で新婚生活を始める。

 時局は逼迫し、武田尾の桜山も向日町の苗圃も例外ではなかった。武田尾は松の供出を迫られ、向日町の苗圃は地目が畑地であったことや不在地主に認定されたことから食糧増産のため買い上げられる羽目に陥った。

 そんななかでも、竹部は名木ありと聞けば訪ね、その接穂をもらい受け、日本の伝統的桜を残そうと私財を投じて、何百本もの名木の接木や実生を育ている。

 「損も得もない。先生は自分の財産をつこうて日本の櫻を育ててはんのや」

 と弥吉は竹部を尊敬している。

 弥吉は菊桜など接木について竹部からかなりの手ほどきを受けた。失われたといわれる「太白」という品種をイギリスの桜研究家が日本への里帰りを支援するとの話に、竹部は密かに「太白」を接木して持っていた。

 弥吉と園は日常生活を考えて、竹部の許しを得て武田尾から向日町の苗圃にある小舎へ移り住む。「ここは数千本の山桜の苗木の園である。」造幣局、橿原神宮参道、琵琶湖近江舞子、根尾、みなこの苗圃で育て、竹部がうえたものだった。

 秋のある日、根尾の薄墨桜の桜守、宮崎由之助の甥が出征前の寸暇をやり繰りして叔父の死を竹部に伝えに来た。

 この向日町の苗圃で弥吉は竹部から桜栽培のこつを熱心に教えられた。

 竹部は桜に明け暮れていた。竹部の父親が変わっていたらしい。

 「大学にゆくのはいいが、月給取りにはなってくれるな。月給を取らずとも、一生どうにか暮らせるだけの物は残しておく。そのかわり、お前は、どんなことでも、白と信ずれば白と云い切る男になれ。お前の母親は二つの時に死んでいる。母の顔を知らないお前に、こんなことをいうのもわしの慈愛だと思え」と教え、当時としては高価なカメラも買い与えたと云う。また、大学の和田垣謙三教授は、「-略- 生涯をかけろ。日本一の桜研究家になれ」と励ました。

 竹部は学者のように机上でものを考えるのでなく、研究家であると同時に実践家でもあった。彼の持論は、古代より日本の伝統の櫻は朱のさした淡緑の葉とともに咲く山桜(里桜も含む)だ、近頃、流行っている染井吉野は違う、と主張する。また、学者は視野が狭く、造園業者は金でしか考えないし、役所、役人は長期的視野に立っていない。しょく樹はするが、日常管理など後の地道な保全育成に何の見識もない、と断じ、桜の衰退を嘆いた。

 園は、なぜ竹部は桜気ちがいのようになったのだろう、と訊く。弥吉は密かに桜の木の下の祖父と母を思いだし、早く母を亡くした竹部にも、一生忘れられない、同じ風景があるのではないかと思った。そして心の中で竹部も弥吉も桜のために生まれてきた人間だと思う。

 昭和20年3月、弥吉に徴用が来た。行き先は舞鶴軍需部だった。その少し前、園に妊娠の兆しがあった。舞鶴では本土決戦に備えたタコ穴掘りの日々だった。

 3月中頃、鶴ヶ岡から召集令状到達の知らせが電報で届いた。弥吉は伏見の輜重輓馬隊に入隊することになった。弥吉は妊娠のはっきりした園と新婚生活を送った武田尾の演習林に行く。そして園と楊貴妃の花のイメージが重なる。弥吉は園を狂おしく抱き、遅咲きの八重が散る下で、母が白い足を陽なたに投げ出してはしゃいでいた情景を思い出していた。園の顔と母の顔が重なった。

 その夜、ふたりそろって、岡本の竹部に別れを告げに行った。

 軍隊は苦しかったが、8月15日弥吉は終戦の詔勅を聞いた。

 実家に帰ると、父から実母が再婚した岐阜のつれ合いに死なれ、雲ヶ畑に戻って百姓をしていると聞く。しかし、弥吉は母に会わずに京都の喜七を訪ね、園も含めて、喜七の所に世話になる。弥吉と喜七は小野甚で培った人脈を辿って、野菜売りをして戦後を乗り切る。

 園は長男槇男を産んだ。昭和23年4月、弥吉と喜七は小野甚に復帰し、待望の庭造りを大喜びで始める。

 初仕事は料亭「八海」の新しい庭造りだった。しかし、設計家は、東京から来た大学出の若い造園家だった。彼の設計意図は花木のにぎやかさと石組みの豪華さだけを強調した外人好みの庭造りだ。特に桜のうえ方では、里桜の普賢象を築山の常緑樹のうしろに隠しうえよ、と若い設計者は言う。弥吉の思いとは違う。 「

 「桜はうしろに常盤樹をめぐらせて屏風にしなければ映えない。これは常識だった。空に向って咲くのでは空の色に吸われるのである。」竹部はいつも言っていた。

 世の中は表面的な美がもてはやされる中、桜をかわいがる人もいた。京都広沢の池の宇多野は京の桜の母親であり、と竹部は日本の桜の父親といえた。

 昭和29年38才の弥吉は京都・鷹峰に家屋敷を買った。昭和36年、弥吉45才、園42才、槇男16才になっていた。喜七は50才半ばをこえ足を痛め、息子の喜太郎が跡を継ぎ、弥吉がその親方だった。

 昭和36年4月、弥吉は新聞紙上で名神高速道路建設により、桜を守るための砦としての向日町苗圃が数百本の桜とともに消えゆくことを知った。弥吉は竹部に会いたくなった。

 「岡本の駅で阪急を降り、弥吉は、なつかしい川沿いの道を歩いた。」

 鉄扉をあけて弥吉は「京のうえ木職の北ですねや」といった。「竹部は柔和な老爺の貌をほほえまして、そこにのっそりと立っていた。」そして竹部は向日町の桜苗圃の件ではごね得と言われ、心を痛めている経緯を話し、20年以上土作りをしてきた桜苗圃のなくなることを憂えた。

 そのときすでに竹部は庄川の御母衣ダム建設に伴う樹齢400年以上のエドヒガン2本の移しょくを引き受けていた。電源開発公社芹崎哲之助の熱心な依頼に寄った。「-略-、 四百年も生きた老木、しかも桜の移しょくなど聞いたことがない。  -略-」「竹部は今日七十五歳である。桜一途に生きてきて、すべての財産を投じて、桜の品種改良と日本古来の山桜の育生に身をけずる思いできた。その今までの努力はわかるけれども、老境に入って、前代未聞の老桜の移しょくをひきうけている。 -略- もし不成功に終わったら、竹部は今日までの桜にそそいだ人生を棒に振りはしないか。-略- 弥吉はそう思った。」「松や桜は移しょくに弱い」

 しかし、竹部は辛苦の末、この老桜2本の移しょくに成功した。

 「湖水は両側の山影をうかべ、ちりめん皺をたてて鏡のように凪いでいた。二本の桜は、新しい枝を張って芽ぶいた若葉のあいまからうす桃色の美しい花をのぞかせて、春風にゆれていた。」

 弥吉の息子、槇男は高校を終え、音楽家になりたい夢を抱きながら、弥吉の後を継いだ。

 昭和38年5月、鶴ヶ岡の弥吉の父が死んだ。

 「若い頃は宮大工としてよく働いた父だが、いまの義母と一しょになってから、働かなくなり、戦後は、まったくののらくらで、義母と長男が田を作り、生活を支えてきた。弥吉の母を追いだしたあたりから、父の性格に暗い墨が入ったようである。生涯、父は弥吉に母を捨てた理由をいわず、仏頂面を押しとおして、死んだのであった。」弥吉も実母を訪ねていく勇気はなかった。

 気持ちは複雑だった。弥吉は実母を恨んでいなかった。「実母の姿は憧れの中で生々としている」「弥吉の思い出の中では、母は美しくて、それでいて、どことなく、背姿が淋しかった。」

 昭和39年10月12日、弥吉は死んだ。死ぬ前に「お前らにいうとく。わしが死んだら、海津の清水の墓に埋めてくれ。寺に頼んでくれ。あすこの桜は立派な八重やった。-略- 」と桜の木の下で眠ることを頼んで死んだ。享年48歳、膵臓癌だった。

 「-略- わたしは、まあ、好きやから、今日まで桜、桜というて生きてきましたけど、北さんが、なぜこんなに桜がすきやったか……そのわけを聞かずじまいに終わりました」と謎を投げかける竹部であった。

 そして参列者みんなで見上げる桜は?

 「墓地の大桜が、朱の山を背に黒々と浮きあがる気がした。」

 主人公について

1)主人公の共通性

 水上文学の主人公は、共通のところが多い。『雁の寺』では主人公の小僧、慈念は「頭が大きく、躯が小さく、片輪のようにいびつに見え」「ひっこんだ女、白眼をむいたあの眼つき。誰にも好かれないような風貌」「ひどい奥眼」「奥眼をきらりと光らせて」「軍艦あたま」などと表現されている。『越前竹人形』では主人公氏家喜助は「片輪のような小男だ」「ひっこんだ眼、とび出た頭、大きな耳。浅黒い肌。子供のように小さいが太い指。躯全体がかもし出す雰囲気は異様である」「ひっこんだ眼が鋭く光っているのも」と。『五番町夕霧楼』では主人公櫟田正順は、イガ栗頭でやはり後頭部が飛び出し、ひどいどもりのため、無口でつきあいにくい、とされている。

 また『櫻守』では主人公北弥吉は「背丈は五尺そこそこのチビで、顔は小造りで鼻が低く、陰気な感じだ。その顔に反比例して、生椎茸みたいな、大きな耳を持つ弥吉」「背丈が足りないというだけの理由で丙種になり、つまり国民兵役に編入された」とまた現れた。

 水上文学は主な主人公の共通する表情や姿形から何を言おうとしているのだろうか。なぜ、そうでなければならないのだろうか。それは簡単に答えが出ない。それゆえに作者は繰り返しその答えを追求した結果が、彼の作品群の中で一貫して、屈曲した反抗者、ひねくれ者を歩き続けさせ、生き続けさせている気がする。その意味で水上勉と彼が作りだした『雁の寺』の慈念を始め多くの登場人物たちがどこか私たちの様子を密かに窺っているかもしれない。故郷、若狭青葉山の樹海の暗黒や幽気と、山が美しく海に没する夕景にイメージされる、美しさと恐ろしさを兼ね備えた若狭の得体の知れない風土。その貧困の風土を生きるために、あるいは『霧と影』の主人公のようにそこから逃亡するために、殺戮や情欲や官能や厳しい自然、そしてときには主人公と同じ重みで「風景」が絡み合い、渦巻き、その正体を暴き出そうと水上文学は人間の宿命や業に迫る。風景とはランドスケープの世界では「我々を取り巻くすべてのもの」と定義している。人間、大地、宇宙、景観、自然、環境、多様な動しょく物、文化、慣習、風習、伝統、態度などすべてが含まれ、織りなされて構成されていると考えているが、水上文学は一つの風景論とも言えよう。そしてさらに風土論に近づきつつあるという気がする。

 景観は10年、風景は100年、風土は1000年を経て、そこに住む人々とその子孫の生活や宿った怨念や思いと自然が混沌として混じり合うことによって培われる。

2)薄幸の女

 水上文学の作品群には、うちに芯の強さを秘めているが、自分の運命を受け入れてしまう人間の業の深さを背負った薄幸の女が登場する。『越前竹人形』の玉枝、『雁の寺』の里子、『湖北の女』の浅子、『おしん』のおしん、『越後つついし親知 等ℤう』のおしん、『五番町夕霧楼』の夕子、『はなれ瞽女おりん』のおりん、そして、『櫻守』の弥吉の母、田所ちい等。  

 作者は実生活でも年上の女との同棲や二度の結婚など、憧れの女? を求めて遍歴する。それは作品の中で、女性というより、どちらかというと母に対するような美しい憧れに似た思いが反映されていると思う。

3)母への思慕

 母に対する美しい憧れに似た思いを裏付けるものとして、水上文学の根底に母への限りない思慕が隠されているように思う。水上勉はまだ母に甘えたい幼さが残っている10才のとき、人減らしのように京都の寺に小僧に出され、淋しい思いをした。それ故に作者の心底には、消すことのできない母への憧れと深い思慕があるように思える。『雁の寺』の慈念には作者を重ね、『越前竹人形』の氏家喜助は三歳の時、死に別れたとしてつらい母への思慕を絶っている。『櫻守』では祖父とのただならぬ関係を問われたのか、理由ははっきり語られることなく、読者へは暗示にとどめ、離縁されて在所に帰った母への限りない思慕が随所に出てくる。

4)作者の視点→北弥吉の視点 

 『櫻守』新潮文庫の解説で福田宏年氏は、「しかし、(水上勉は)『櫻守』という小説を書くに当って、桜学者(野元は竹部あるいはモデルの笹部氏が学者でないことを自ら強調し、学者を公然と非難していることから、敢えて“桜研究家”と呼びたい)の竹部庸太郎を敢えて主人公とせずに、竹部に教えられながら、竹部の感化を受けて桜の保護育成に目覚めて行った一人の庭師を主人公に選んだところに、水上勉の水上勉たる所以がある。つまり、竹部の桜に寄せる情熱には敬意を払いながらも、然るべき学識を以て、学問的、組織的に桜の育成につとめる竹部は、水上勉の感性には究極のところで馴染まないものがあったのだろう。竹部の学問的ともいうべき情熱を、一介の庭師の姿を借りて、土着的、感性的なものに移し替えたところに、水上勉の本領があると言うことである。」といっている。そういう見方も成り立つと思うが、一般的小説の書き方からいっても低い視点から書く方が視野も広がり、かつ深みが出て、読み手は受け入れやすい。

 水上勉はなぜ弥吉の視点で書いたか? 前述した1)主人公の共通性、2)薄幸の女、3)母へ思慕のうち、特に1)の理由から水上勉は決して笹部新太郎を主人公にしなかったであろうことは明白であろう。

4. 作品のテーマ

 作者の郷土に近い丹波の山奥の風土に根源を置きながら、大阪の資産家の次男、桜にすべての私財と情熱をささげ、日本古来の山桜種の保存と育成に人生をかけた実在の人物笹部新太郎をモデルに、その業績を同じく桜に情熱を注ぐ一介の庭師北弥吉の眼を通して描いた。そして究極のテーマは桜に表象される失なわれゆく日本の美に対する限りない哀惜であろうが、私にはまた失われゆく日本の風土への警鐘のように思えてならない。また水上文学が常に探求してやまない「人間の業とは何か?」がテーマではないだろうか。

5. 作品のサブモチーフ

 『櫻守』は一見、桜研究家笹部氏をモデルに彼の稀有の業績だけを書いているように見えるかもしれないが、この小文の2.『櫻守』の梗概「あらすじ」の冒頭の引用文に水上文学が求め続けるテーマがこの小説のサブテーマとして何気なく示されており、「人間の業」とは何かを問い続けている。『櫻守』では、ラストを含めて全編の7箇所でこのサブテーマを私たちに投げかける。私は弥吉と園の「初夜」及びその関連記述もサブテーマの問いかけであると思っている。

 「インタネットによる」

2017.07.20


33
『ルーヴルの戦い』(徳間書店)(昭和年四十八年二月十五日発行)

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 ルーヴルの戦い
   ――フランス美術はいかにしてナチスの手から守られたかーー

 この本の表題は、この本の内容を見事に表している。以下に訳者のあとがきを紹介する。

 昨年の四月、ニューヨークのマジソン・アベニューにある小さな画廊ラ・ボエティで「退廃美術展」が開かれた。もちろん、この「退廃」は、一九三七年ミュンヘンで開かれたナチの同名の美術展にちなんでなづけたもので、ラ・ボエティには「退廃美術展」の当時のカタログのファクシミリ版まで展示された。このナチの「退廃美術展」が、その後ヨーロッパ全土から貴重な文化財を略奪し、文化の恐るべき破壊者に変貌するナチス・ドイツの皮切りとなったことは、本書の指摘するとおりだが、「表現の自由」を尊重することがいかに大きく文化を破壊した人類を苦しめることになるか、本書からとくと読み取って頂きたい。

 ラ・ボエティで展示された作品は、もちろん一九三七年のそれではない。「退廃」美術品はその当時、ナチの手で約四〇〇〇点も焼かれ、めぼしい傑作はほとんど失われた。その中には、今世紀初頭ドイツでおこった前衛運動として知られる表現派の秀作がいちばん多く、ゴッホ、ピカソ、シャガールなどの名作も含まれていた。ナチが掲げる「退廃美術展」は、ユダヤ人の手になるものをはじめとして、反戦的なもの、社会主義的主題のもの、醜い人間像、表現主義的なもの、アフリカ芸術、抽象画など、つまり今世紀ヨーロッパでおこったあらゆる革新運動を含んでいた。にもかかわらず、ラ・ボエティには、キルヒナ―の≪ゲルダⅠ≫や、ノルデの≪アフリカ人のいる静物≫などの傑作が展示された。では、どうしてそれらが残ったかというと、ナチはリンツの総統美術館の資金として一九三七年ルッツェルンで国際オークションを開き、これらの「退廃」美術を売ったからで、第三帝国がかなりの資金稼ぎをした半面、救われた傑作もかなりあったわけである。

 ナチの「退廃美術展」は、彼らのいわゆる「宣伝工作」(プロパガンダ)には役立ったかもしれないが、それを宣伝としてではなく純粋に芸術として見る人びとっも多く、その意味では逆効果になったのではないかと考える人もいよう。とすれば、ヒトラ―はいたずらに彼らの作品を宣伝してやっただけのことで、おかしいではないかという疑問がおこるかもしれない。

 それに対しては、次のように考えられる。若い頃、美術学校の入学試験に何度も落第したヒトラ―は、自分を受け入れてくれぬ美術業界一般を「堕落」と極めつけることによって、はじめて一矢を報いると考えたのだ、と。

 それはともかく、ヒトラーの芸術観は、著者マティラ。サイモン女史が指摘するように、センチメンタルで病的なものだった。彼が規範とするものはすべてギリシャ的なものンいあったが、当時の軍需相アルベルト・シューベルの『ナチス狂気の内幕』によると、ヒトラーはある日、一枚の美しい女性水着選手の写真を見て、陶酔的な瞑想に耽ったという。「なんというすばらしい肉体が今日でもあるのだ。二〇世紀になってはじめて青年は、スポーツによってふたたびヘレニズムの理想に近づいている」

 ヒトラーはそういったそうだが、彼の肉体賛美はポルノ的と無関係ではない。本書にもあるように、彼の美術品を収蔵したアルト・アウスゼの塩坑からは、ブーシェの描いたみだらな彩画や十八世紀のポルノ本が大量に出てきたのである。

 戦時中、米政府の秘密機関OSSの依頼で、ヒトラーの精神分析にあたったW・Cランガー博士は、極秘扱いを解かれた自己の膨大な資料をもとに、最近 “Mind of Adolf Hitler” (『ヒトラーの精神状態』)を著したが、博士によるとヒトラーは、かなり重症な二重性格の持主だった。非常にソフトで感傷的、飼っていたカナリヤが死んだといっては泣き、優柔不断な面が多かったが、それが一転すると今度は親友を含めた数百人の虐殺を平然と命令する。ヒトラーの中には、つねにこの二重の性格が生きていて、強さはこの弱い性格の裏返しの表現だった。しかし特異な点は、彼の場合、普通のジキル=ハイド型と違って、この二つの性格を自分の意志で使い分けたことだ。同居人を自由に、「涙」の場合と「残酷」な場合とに使い分けることは容易ならぬことだが、ヒトラーにはそれができた。こういうところに精神的な異常さが認められる。

 しかし、私には、どうやらヒトラーの本質は女性的な性格ではなかったかと思われる。体質的にも弱々しく、若い頃に芸術家を志して失敗したことや、祖父がユダヤ人でなかったかという苦悩などでつねに悩まされていたからこそ、逆にそれが優性民族を唱える人種偏見になったり、反ユダヤ主義となって現れるたのであって、強さの誇示はやはり弱さの隠蔽でしかなかったようだ。

 博士はまた、ヒトラーがマゾヒストで、女性に不自然なポーズをとらせてスケッチしたり、エロ小説お愛読した、というが、この点は彼の美術に対する態度と符合する。女性に対しては侮蔑しか感じず、不潔で醜い存在と見た彼は、ユダヤ人もセックスの醜き、不健全さの象徴だった。そしてマゾヒストであったからこそ、逆に「化身」であるユダヤ人が、苦しみ、さいなまされることに「代償的な喜び」を見出したのだ。彼がオットー・ディスクスの「醜さを描いた」絵を「退廃美術」と極めつけのも、そこに自分自身の弱さを指摘されたからに他ならない。

 なお、ヒトラー研究家のE・ハンフレシュタンゲルによると、ヒトラーはウィーンの浮浪者時代、ポルノ絵を売って生活を立てていたそうで、売った相手は彼が大嫌いなはずのユダヤ人だった。そしてそれらの絵は、考えられないようなラーゲや、細密画みたいにリアルに描いた局部だったという。そうした絵が残っていないのでなんとも確証はないが、それもハンフレシュタンゲルによると、ヒトラーがかなり有名になった頃、莫大な資金を使ってコレクターから買い戻し、一枚残らず焼き払ったからだという。ヒトラーが表現主義を嫌い、女性を近づけず、ユダヤ人を迫害したのも、すべて彼の否定であったと考えると、彼の図式がうまく説明できるようだ。

 こうして彼は、自分をうけいれなかった美術界全体に復讐すべく、史上かつてない組織的計画的な略奪作戦を企てるわけだが、本書で生彩のある部分は、むしろ発見と返還にあたる関係者の努力ンお描写だろう。そして、確かに大量の文化財が戦火で失われたに違いないが、かなりの数の名作が依然として行方不明で、どこかの個人の屋根裏にでも隠されているかも知れぬと考えられることは、いたく興味をひくところだ。

 さて、筆者のマティラ・サイモン女史は、もと国際版画交換協会の欧州部長であり、ヨーロッパでの美術展開催にコンサルタントをつとめ、フランスに友人と共同で画廊を経営したこともある米人。著書も多く、“Shorewood Art Reference Guide” のほか、多数のフランス文献を英語に翻訳して紹介している。本書の執筆に際して、彼女は多数のアメリカ人、ドイツ人、フランス人の関係者とインタビューをし、綿密な調査を重ねた。「保護救済委員会」のなみなみならぬ熱意もさることながら、ルーヴルの館員たちや MFA&A のメンバーたちの想像を絶する労苦を再現して記録にとどめようとした彼女の楊威ならぬ努力も、大いに賞賛すべきものがあろう。

 なお本書の翻訳には、畏友梛川善一氏に負うところが大きい。心から感謝を申し上げたい。また、絶えず激励叱咤された徳間書店編集部の後押しがなかったら、はたして本書が世に出たかどうかと、今にして思うのである。慎んでお礼を申し上げたい。

  一九七三年一月

             関 口 英 男

※参考:アドルフ・ヒトラー

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★この本の表紙カバー絵。拡大した写真を見る。それは、ハーケンクロイツに取り込まれようとした、ルーヴル美術館所有の数々の美術品。例えば、「ミロのヴィーナス」であり、「モナ・リザ」などなどである。

 ハーケンクロイツ(鉤十字)といえば、アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツのシンボルマークであった。第二次大戦中におけるユダヤ人の大量虐殺で有名だ。

34
『アンネの日記』(文藝春秋)(1970年12年15日新訳・141版)

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 アンネの日記 格子なき牢獄から

 アンネフランクのこと

 アンネ・フランクとその家族は、もとドイツに住んでいたが、ナチスによる「ユダヤ人迫害」に倒れたアンネ・フランクは、1929年に、ドイツのかなり裕福なユダヤ人一家に生まれた。その後ナチスの手を逃れてオランダ移住し、そこでしばらく平和な生活を営んでいた。アンネの父親は商売を手広くやり、アンネと姉のマルゴットは学校に通っていた。

ところが、第二次大戦の勃発によりオランダはドイツに占領され、ここでもユダヤ人なるがために、ふたたび逃げ出さねばならなかった。しかし行くところもなかったので、アムステルダムに居残り、プリンセン堀という運河に面した事務所用の古い建物の一角に隠れた、その時アンネは十三だった。戦争の終結を祈りながら2年にも渡って窮屈な生活を耐え忍んだが、彼女たちが待ち望んでいた「解放の時」はやって来なかった。それよりも一歩早くナチスの秘密警察が現われ、アンネ一家はアウシュビッツ収容所に送られた最後のユダヤ人として、ポーランドへ連行されたのである。

anne10.1.JPG  ドイツの秘密警察は、アンネ一家を隠れ家から連れ去る際、一家が持っていた金目のものをすべて奪い尽くした。残ったのは、アンネの日記帳ただひとつ。そしてそれを再び目にしたのは、アンネの父オットー・フランクだけだった。

〈踊り場の右手のドアが、わたしたちの隠れ家へ通ずる入口です。この灰色の質素なドアの内側に、こんなにたくさんの部屋が隠されていようとは、だれだって想像しないでしょう。ドアの前に段がひとつあって、それを上がると、もう隠れ家のなかです。〉

anne201.JPG  アンネは13歳の誕生祝いにもらった日記帳に、「キティ」という名をつけた。日記は、このキティという架空の友達にあてた書簡形式で綴られている。ここには隠れ家での不安な毎日や共に暮らす人々のこと、将来への夢などが素直に吐露されている。

 1942年、アンネ一家はアムスデルダムの中心部にある、プリンセン運河沿いの隠れ家に移り住んだ。彼女たちの隠れ家は、運河に面したオランダ家屋の裏側にあった。ここはもともとオットーが経営していた会社の社屋の「別館」で、表と同じ四階建ての大きな建物だった。隠れ家と言っても市街地にあり、しかもこれほど大きい建物が2年間もナチスの目を逃れることができたのは、運河に面したオランダ家屋が持つ、特殊な構造のおかげだった。

 オランダが国をあげて世界規模の海外貿易を展開していた16~17世紀、アムステルダムの商人たちは、貨物の上げ下ろしを簡便化するために、運河沿いに家や倉庫を建てた。だが遠距離輸送のほとんどを海路に頼っていた当時、運河沿いの土地は価格が高騰していたため、人々は運河側に必要最小限の間口だけを設けた細長い家を作った。とは言え、細長い家々が運河沿いにひしめきあっていたのでは室内に全く日が射さなくなってしまうため、彼らは建物を半分に分け、「表の家」と「裏の家」を階段でつなぐ方式を採用したのである。

 ドイツの秘密警察は、こうしたオランダ家屋の構造について、なにも知らなかった。オットーはそこに目をつけて、三階の踊り場から「裏の家」へ通じる入口を蝶番つきの本棚で偽装し、「裏の家」の3・4階部分を一家の隠れ家としたのである。

〈ドアを入ると、すぐ向かい側に、勾配の急な階段があります。階段の左手の狭い通路を入ると、フランク家の寝室兼居間、その隣の小さな部屋がフランク家の二令嬢の寝室兼勉強部屋になります。ドアを入ってすぐ右手に、洗濯場と便所のある窓のない部屋があります。わたしたち二人の部屋には、この部屋へ通じるドアがあります。また階段をのぼってドアを開けると、運河に面したこんな古い家に、こんな大きな明るい部屋があるのかと驚くほどの部屋に出ます。この部屋は実験室に使われていたおかげで、ガス・ストーブがついており、洗濯場もあります。〉

 アンネ一家を支援したのは、オットーの会社で働くスタッフたちだった。ミープをはじめとする支援者たちは、アンネ一家のために、少ない配給券を分け合って食料を集めた。その献身的な働きにより、アンネ一家は飢えることこそなかったが、窓という窓をすべて分厚いレースのカーテンで覆い、あらゆる物音に怯えて暮らすストレスは、想像を絶するものだっただろう。「裏の家」の1・2階部分で社員が働いているため、日中はトイレにも行けず、咳ひとつにも音を殺すように気を使わなければならなかったのである。

 それでも、社員が帰宅する夜間や土曜の午後、日曜日だけは、アンネ一家は社屋のなかを自由に歩き回ることができた。本棚で偽装した秘密のドアから抜け出て、2階の事務室などでつかのまの休息を取っていたのである。だが、結局はそれが命取りになった。社員の一人が、「休日空けの会社に残っている人の気配」に気づき、ユダヤ人が社屋のどこかにひそんでいると疑いを持つようになって、ドイツの秘密警察に密告したのである。

 二年という月日は、決して短いものではない。細心の注意を払っているつもりでも、アンネ一家を含め8人もの人々が密室で始終鼻をつき合わせていては、そのあまりのストレスに、注意力が散漫になってしまうのも無理はなかった。

〈わたしの最大の希望がジャーナリストになり、それから有名な作家になることだということは、あなたもずっと前から知っていますね。この野心が実現するかどうかは、もちろんまだわかりませんが、すでに心のなかで、題材を考えています。ともかく、戦争がすんだら「隠れ家」と題する本をあらわしたいと思っています。成功するかどうかわかりませんが、日記が非常な助けとなるでしょう。〉

   アンネは唯一のストレス発散の場である日記帳に、共に暮らす人々や自分を取り巻く状況について、なんでも率直に書きつけた。恋の芽生えからその行方までも、正直に思った通りを書き、精神的な自立を果たしていく。格子なき牢獄のなか、恐怖に怯える生活をしながらも、アンネは決して未来への希望を捨てなかった。大人たちが起こす戦争と人種差別に激しい怒りを表す一方で、それでも人間の根本は「善」なのだと信じる気持ちを忘れなかった。この精神的なたくましさが、最後の最後まで、アンネを力強く支えていったのだろう。

〈ああ、キティ、今日は素晴らしいお天気です。外出できたら、どんなに嬉しいでしょう!〉

 だが、思春期らしい背伸びをした言葉をどれだけ並べてみても、アンネはふとした瞬間瞬間に、どこにでもいるただの子供の顔をのぞかせる。それがたまらなくいじらしい。

 人と話したい、自由になりたい、友達がほしい、一人になりたい――アンネは声にできない魂の叫びを、ひたすらペンに込めた。だが彼女の日記は、1944年の8月1日付けで唐突に終わってしまう。ついに、恐れていた日がやってきたのだ。アンネ一家は日記が終わった3日後の8月4日、ドイツの秘密警察の手によって強制収容所へ送られた。そしてアンネは収容所でチフスにかかり、15歳の短い生涯を閉じるのである。

 アンネが書き残した日記は、現在50を超える言語に翻訳され、全世界でのべ2000万部以上も出版されている。こうした、どの書店や図書館にも必ず置いてあるような名著は、名著であるがゆえになんとなく読んだつもりになり、実際には手に取らないまま終わってしまうことがある。私にとっては、『アンネの日記』がそうだった。だが『アンネの日記』は、テロ事件が相次ぐいまだからこそ読みたいし、読んでもらいたい1冊だと思う。

 アンネ一家の隠れ家は、現在もアンネ・フランク財団によって保存され、世界中から多くの人々が訪れている。戦争と人種差別に対する最も真摯な「起訴状」である彼女の日記と隠れ家は、私たちの魂に、平和への願いをしっかりと刻みなおしてくれることだろう。

 Web Site による。

★私は、この本を1971.03.14買っていた。アンネはほぼ同世代である。

2017.07.28


 アンネ・フランクを裏切ったのはだれ? 元FBI職員ら調査チームが真相究明へ

 最新のデータ分析を駆使し、彼女がナチスに拘束されるまでを再現します。2017年10月04日 17時21分 JST | 更新 1時間前

 濵田理央(Rio Hamada) ハフポスト日本版ニュースエディター。

「アンネの日記」を書いた少女アンネ・フランク 

ナチス・ドイツに占領されたオランダのアムステルダムで隠れ家にいたアンネ・フランクは、なぜ見つかってしまったのか--。米連邦捜査局(FBI)の元捜査員が率いるチームがこのほど、歴史の経緯について調査に乗り出した。

公式サイトによると、チームを率いるのは、FBIでコロンビアの麻薬犯罪組織を追っていたビンス・パンコーク氏。犯罪学の専門家20人が、最新のデータ分析を駆使し、真相の解明を目指す。

当時10代だったドイツ人少女のアンネは、父オットー・フランクの職場があったアムステルダム市内の建物の隠し部屋に住んでいた。他のユダヤ人家族と一緒に2年以上隠れ住み、そこでの出来事を日記に書き続けた。

1944年8月、ドイツの秘密国家警察ゲシュタポに見つかり、ナチス強制収容所に送還。そこでの生活に耐え抜くことができず、わずか15歳で命を落とした。生き残った父オットーが1947年、アンネの日記を出版した。

オランダ警察は戦後、父オットーの依頼を受けて、彼らを裏切った人物を特定する捜査をしたが、結論は出なかった。

CNNによると、アムステルダムにある博物館「アンネ・フランクの家」が2016年12月、アンネは裏切られたのではなく、偶然見つかってしまった可能性を示唆する研究結果を公表。

これに対してパンコーク氏は、第2次大戦後にアメリカに返送され、ここ最近機密解除された文書から、新たな情報を発見したと訴えている。

ガーディアンによると、調査チームはアンネ一家が拘束された日を再現。FBIの行動科学班にいたメンバーら知見を生かし、目撃者の証言やインタビュー内容を役者を使って再現する。これまで裏切りを指摘された「容疑者」30人全員について、再調査するという。

アンネの日記や、当時の記録からの情報を集め、専用ソフトウェアでデータをスキャンして容疑者を絞り込む。

この調査は、フランク一家の逮捕から75年となる2019年8月4日までに、真相を究明を目指す。

2017.10.08 追加。


ANNE FRANK.jpg Anne Frank:The Diary of a Young Girl 発行所 英宝社

  Sunday, 14 June, 1942

 On Friday, June 12th、I woke up at six o'clock and no wonder; it as birthday. But of course I had to control my curiosity until a quarter to seven. Then I could bear it no longer, and went to the dining room, where I received a warm welcome from Moortje(cat).

 Soon after seven I went to Mummy and Daddy and then to the sitting room to undo my presents. The first to greet me was you, possibly the nicest of all. Then on the table there was a bunch of roses, a plant, and some peonies, and more arrived during the day.

  I got masses of things from Mummy and Daddy, and was thoroughly spoiled by various friends. Among other things I was given Camera Obscura, a party game, lots of sweets, chocolates, a puzzle, a broch, Tales and Legends of the Netherlands by Joseph Cohen, Daisy’s Mountain Holiday (terrific book), and some money. Now I can buy The Myths of Greece and Rome*grand!

 Then Lies called for me and we went to school. During recess I treated everyone to sweet biscuits, and then we had to go back to our lessons.

 Now I must stop. Bye-bye, we’re going to great pals!

 Wednesday, 24 June, 1942

Dear Kitty,

 It is boiling hot, we are all positively melting, and in this heat. I have to walk everywhere. Now I can fully appreciate how nice a tram is ; but that is a forbidden luxury for Jews―shank’s mare is good enough for us. I had to visit the dentist in the Jan Luykenstraat in the lunch hour yesterday. It is a long way from our school in the Stadstimmertuinen ; I nearly fell asleep in school that afternoon. Luckily, the dentist’s assistant was very kind and gave me a drink*she’s a good sort.

                 Yours, Anne

 Sunday morning, 5 July, 1942

Dear Kitty,

  When we walked across our little square together a few days ago, Daddy began to talk us going to hide. I asked him why on earth he was beginning to talk of that already. “Yes, Anne,” he said, “You know that we have been taking food, clothes, furniture to other people for more than a year now. We don’t want our belongings to be seized by Germans, but we certainly don’t want to fall into their clutches ourselves. So we shall disappear of our own accord and not wait until they come and fetch us.”

 “But, Daddy, when would it be ?” He spoke so seriously that I grew very anxious.

 “Don’t you worry about it, we shall arrange everything. Make the most of your carefree young life while you can.” That was all. Oh, many the fulfillment of those somber words remain far distant yet!

Anne Frank:The Diary of a Young Girl 発行所 英宝社

  Sunday, 14 June, 1942

 On Friday, June 12th、I woke up at six o'clock and no wonder; it as birthday. But of course I had to control my curiosity until a quarter to seven. Then I could bear it no longer, and went to the dining room, where I received a warm welcome from Moortje(cat).

 Soon after seven I went to Mummy and Daddy and then to the sitting room to undo my presents. The first to greet me was you, possibly the nicest of all. Then on the table there was a bunch of roses, a plant, and some peonies, and more arrived during the day.

  I got masses of things from Mummy and Daddy, and was thoroughly spoiled by various friends. Among other things I was given Camera Obscura, a party game, lots of sweets, chocolates, a puzzle, a broch, Tales and Legends of the Netherlands by Joseph Cohen, Daisy’s Mountain Holiday (terrific book), and some money. Now I can buy The Myths of Greece and Rome*grand!

 Then Lies called for me and we went to school. During recess I treated everyone to sweet biscuits, and then we had to go back to our lessons.

 Now I must stop. Bye-bye, we’re going to great pals!

 Wednesday, 24 June, 1942

Dear Kitty,

 It is boiling hot, we are all positively melting, and in this heat. I have to walk everywhere. Now I can fully appreciate how nice a tram is ; but that is a forbidden luxury for Jews―shank’s mare is good enough for us. I had to visit the dentist in the Jan Luykenstraat in the lunch hour yesterday. It is a long way from our school in the Stadstimmertuinen ; I nearly fell asleep in school that afternoon. Luckily, the dentist’s assistant was very kind and gave me a drink*she’s a good sort.

                 Yours, Anne

 Sunday morning, 5 July, 1942

Dear Kitty,

  When we walked across our little square together a few days ago, Daddy began to talk us going to hide. I asked him why on earth he was beginning to talk of that already. “Yes, Anne,” he said, “You know that we have been taking food, clothes, furniture to other people for more than a year now. We don’t want our belongings to be seized by Germans, but we certainly don’t want to fall into their clutches ourselves. So we shall disappear of our own accord and not wait until they come and fetch us.”

 “But, Daddy, when would it be ?” He spoke so seriously that I grew very anxious.

 “Don’t you worry about it, we shall arrange everything. Make the most of your carefree young life while you can.” That was all. Oh, many the fulfillment of those somber words remain far distant yet!

                  Yours, Anne

*お父さんが隠れ家や移る話をした。その話に驚く。

Thursday, 9 July, 1942

Dear Kitty,

 So we walked in the pouring rain, Daddy, Mummy, and I, each with a school satchel and shopping bag filled to the brim with all kinds of things thrown together anyhow.

 We got sympathetic looks from people on their way to work. You could see by their faces how sorry they ware they couldn’t offer us a lift ; the gaudy yellow star spoke for itself.

 Only when we are on the road did Mummy and Daddy begin to tell me bits and pieces about the plan. For months as many of our goods and chattels and necessities of life as possible had been sent away ad they were sufficiently ready for us to have gone into hiding of our own accord on July 16. The plan had had to speeded up ten days because of the call-up, so our quarters would not be so well organized, but we had to make the best of it. The hiding place itself would be in the building where Daddy has his office. It will be hard for outsiders to understand, but I shall explain that latter on. Daddy didn’t many people working for him : Mr. Kraler, Koohuis, Miep, and Elli Vossen, a twenty-three-year-old typist who all knew of our arrival.

 Mr. Vossen, Elli’s father, and two boys worked in the warehouse ; they had not been told.

                                  Yours, Anne

2018.08.14 追加。


35 辰濃 和男著『漢字の楽しみ方』(岩波書店)1998年3月16日第1刷発行

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――その強さ、おもしろさ

 雑という字は、実のところ、あまり歓迎されません。

 特定観光地の混雑、税支払い手続きの煩雑さ、片づけても片づけてもふくらんでゆく人生の雑事、乱雑の極なるわが机の上、手紙を書くときのわが粗雑な字、加えて、机の前での果てしない雑念の数々、更に加えて、雑駁そのもののわが思考、みな、たちどころに消えてもらいたいことばかりです。

 政治家はジャーナリズムに叩かれると、よく「あれはたんなる雑音だよ。雑音、雑音」といって強がるヘキがありますし、さらに非難が続けば一転、「悪口雑言をほざくな」と声を荒げることになります。

 気の毒にも、悪役のなをかぶせられることが多いのですが、にもかかわらず、雑のつく言葉には捨てがたいものがあります。

 雑木林

 雑貨屋

 雑記帳

 みな、なつかしい味があります。

 雑木林には、橡(とち)、朴の木、小楢(こなら)、櫟(くぬぎ)、四手(しで)などの落葉樹があるし、椎や樫などの照葉樹も混じってまことに多彩です。

 山国の紅葉がはなやぐのは、色の複雑さ、多様さにあります。雑木の色の多様さは生態系の豊かさを示すもので、そのゆたかさこそが縄文文化を支えていたのでしょう。

 雑貨屋さんもいいですね。ほの暗い店に、ブリキのバケツ、鼠捕りの小さな檻、シャベル、洗濯バサミ、麻縄、竹ボウキ、蚊取り線香なんかが雑然と並んでいる小さな店が昔は必ず近所にありました。いまでも、小さな町を歩いていて、そういう雑貨屋さんが目に入ると、買うつもりもないのに店に入りこんでなかをうろつくヘキが私にはあります。雑然とした店内にいるとなぜか落ち着くのは、手ごろな値段のものばかりだからでしょう。

 雑記帳もいい。雑記帳のたのしさは、勝手さまざまなことを書き散らす気楽さにあります。こころに雑記帳があるということは、こころに「書きとめる」ゆとりがある証拠でしょう。ゆとりのない時は、雑記帳は空白になってしまう。

 ジャーナリストにとって 大切なのは、雑談と雑踏です、なんてえらそうにいいますが、私が勝手にそう信じているだけの話で、同業のみなさんに押しつけるつもりはありません。ありませんが、世間を知るのに大切なのは雑談で、時代の肌で知るのに大切なのは雑踏だというのは、いわば私の経験則なのです。

 実際、なんということのないバカバナシから記事を書くきっかけをつかめたことが何度もありました。いや、直接、記事とはかかわりなくとも、生きのいい雑談にはそれこそ、掘ったばかりのジャガイモやニンジンの新鮮さがあります。

 雑踏についていえば、自分を記者として育ててくれたのは、サツ回りの時の新宿の雑踏であり、社会部遊軍時代の有楽町界隈の雑踏であり、ニューヨーク特派員時代の五番街の雑踏だったと思っています。タイムススクェアの、地下鉄の湯気が噴き出ているあたりの深夜の雑踏もよかった。安売りの店、ハンバーガーの店、目の前でオレンジをしぼってジュースを作ってくれる店、小銭をたかる革ジャンパーの少年、といったタイムス前の猥雑極まる風景はいま思い返しても、こころがざわざわとしてきます。

 デジタルの時計がはやりだしたころから、都市は次第に猥雑さを失い、人びとは雑談の時間を失い、それぞれがそれぞれのコンピューターと向き合う時間がふえてきたように思います。パソコンによる新しい形の雑談というものもあるのでしょうが、私にはよくわからない。

 新聞社には「雑感」とか「雑報」とかいう言葉があります。

 大事件がある。事件の本筋を書く本記とは別に、雑感を書く記者が現場に行きます。たいていは遊軍記者です。遊軍というのは、まあ、社会部のなかンおなんでも屋と思ってください。その遊軍記者が事件の現場でみたことをなまなましく書く。抜いて抜かれたも大事ですが、雑感のよしあしが新聞の勝負をきめるなんていわれたものですが、今はどうでしょう。

 雑報も大事にされました。どこどこでどれだけの火事があったとか、交通事故や雪崩で死者がでたとか、そいう記事は、新聞社では雑報と呼ばれてきました。雑報こそが新聞の命だ、燃えさかる火事の現場へ飛んで行ってまあまあの記事が書ければ一人前だぞ、たどとカケダシ時代に教えられ、一応は張り切って雑報を書き続けたものです。

 新聞記者になって初めて書いた雑報のことですか。

 恥ずかしながら「空き巣でオーバー一着と冬服一着が盗まれた>という一段記事でした。その次が「パチンコ玉四百二個を盗んだ男が逮捕された」という話で、いずれも四十数年前のごく小さな埼玉版の記事です。

 チンケといえばなんともチンケな記事ですが、新米記者に向かって「それでな、パチンコ玉の数は四〇二個」なんて数えてくれた浦和警察署の刑事課長さんの顔がなつかしい。カケダシのころに書いた雑報記事の一つ一つがいまだにこころに書きとめられているのは、それだけ思い入れがあったからでしょう。

 新聞でコラムを毎日書きはじめたころ、手元に届く投書の数に驚きました。

 はじめのうち酷評に傷tういていささかくさっているとき、生態学者の宮脇昭さんに会いました。投書の話をすると宮脇さんは「それはいいことでないじゃないですか」というのです。

参考:宮脇 昭は、日本の生態学者、地球環境戦略研究機関国際生態学センター長、横浜国立大学名誉教授。 岡山県川上郡成羽町出身。広島文理科大学生物学科卒業。元国際生態学会会長。児童文学者の宮脇紀雄は兄。

 芝生には、さまざまな雑草がまじっている。まじっているのがむしろ健全な姿なのです。それをいやがって、虫眼鏡とピンセットで雑草を抜き取り、純粋な芝だけにしたらどうなるか。ひとたび虫害が発生すれば、芝はたちまちやられてしまう、と宮脇さんはいいます。

 芝生の生態系は、雑草を含んではじめて安定している。雑草を抜き去ることはむしろ生態系を壊す。それと同じで、この世の中、異なる意見があるからこそ安定しているのではないですか。そんな宮脇流の慰めにおおいに慰められたことを覚えています。

 ちなみに、雑草という言葉を嫌う人がいますが、私はどちらかというと、この言葉にこもるたくましさにひかれます。

 雑という字には「まじわる」の意味があります。

 まじりあっているものは強い。強いだけではなくて、うまい。あれこれの雑炊や沖縄のチャンプル料理は、まじりあっているもののうまさです。

 まじんりあうことのよさを知っているからでしょう。ある有名なアメリカの研究所は、食堂のテーブルにメモ用紙入りの箱を置いています。異分野の研究者が昼食を取りながら雑談をする。人の話を聞いて、ふとひらめくものがあればメモ用紙を取出して走り書きをする。そのためにメモ用紙の箱があるんだという話を聞いたことがあります。「雑」の大切さを知ったメモ用紙です。

 サッカー愛好家の中条一雄さんは「サッカーのチームは雑多な個性がまじっているほうがいい」といっています。「粒ぞろい」はだめで「粒違い」がいい、というのです。

 チームにはお国振りがあります。

 イタリアはオペラの舞台に似て、とびっきりのスターがいる。アルゼンチンのチームはタンゴです。なぜか。タンゴには女をだますなにものかがある。アルゼンチンのサッカーは相手をだます高度の技術を持っている、というのです。

 お国振りはお国振りとして、一つ一つのチームを見ると、実に雑多な個性の選手がいりまじっていて、個性、体格、得意技の違うことが強みになっている。あまりに管理が行き届くと、選手が型にはまってだめになる、というのが中条さんの持論です。

 サッカーに限らず、優等生ばかりの集団、粒ぞろいの組織というのは、どうもうすきみ悪い。昨今は雑多なものよりも、型にはまったものをそろえることがよしとされる時代ですが、雑のおもしろさを忘れた世の中はあじけないと思えませんか。

 雑という字は私たちに真剣勝負を挑んでいるようにも思えます。雑誌も雑録も雑話も雑報も、いろいろなものがまじっているからこそおもしろい。

 おもしろいけれども、一歩間違えると、乱雑、粗雑、雑駁な仕事になってしまう。

 雑の強さ、おもしろさをいかに味方につけるか、そこが勝負どころでしょうか。P.1~7

2018.01.04


――土の上にすわるふたりとは

 字にも「刷り込み」といものがあるようです。新聞記者になって、最初の赴任地が浦和支局でした。そこで、当時の内閣官房長官の選挙違反事件にぶっかりました。

 留置場で市会議員の自殺者が出るほどの事件で、かけだし記者としては、やや興奮ぎみで連日「連座制」という言葉を書きなぐった記憶があります。以後「座」あるいは「坐」にであうと、途端にいまわしい事態を思い出す、という一種の条件反射がうまれました。坐という文字に罪はないけれど、連座制がさまざまな記憶をよみがえらせるのです。

 ですから、今回の「坐」は、ここに登場する他の字に比べると、悪役性がそれほど強くないということを最初にいっておきます。

 坐という文字が好きになったのは、松原泰道老師の講話を聞いたときからです。あれはもう十五年以上も前のことでしょうか。

 「坐という字は土の上にふたりの人がすわっている状態です。このふたりは、自分と、その自分を見つめるもう一人の自分というようにもかんがえられます」

 そうか、そいう解釈もあったのかと思い、以後、私の脳裏には、連座の坐よりも坐禅の坐のほうが、大きな顔をして居座ることになりました。

   〽春灯にひとりの奈落ありて坐す

 野澤節子の句です。奈落というのは、この場合、地獄でしょうか。ひとりの地獄とは、いかなる地獄であるかのか。春灯のもとに静かに坐しながら、心のなかに修羅場をかかえたひとりの女人像が浮かび上がります。坐することではたして、地獄は遠のくのかどうかはわからない。が、とにかく坐っているうちにこころが少しはやわらいでくるかもしれない。そんなとりすがりたい思いがこの句から伝わってきます。

 ざぜんでは、山田無文師の次の言葉が私は好きです。

 「(坐禅とは)どっかり大地に坐りこんで、天地と我と一枚になる修行である」

 天地と一枚になる、というところがいい。坐って静かに考える。こころを澄ます。いつか、何も考えない赤子ような無心の境地に入る。土と共にあって土に化す。宇宙と一体になる。私にはまだまだ実感がありませんが、この言葉は刺激的です。

 坐禅の現場を見学させていただきたい、と岡山市・曹源寺の原田正道老師にお願いしました。訪ねたのは一九九五年の夏の盛りでした。

 昼飯どきでした。曹源寺には外国から来た雲水が多い、と聞いていたのですが、まずはその数に圧倒されました。飯台を囲むのは、大半が頭を丸めた作務衣姿の外国人です。女性も、頭を青々と剃っています。

 メキシコ人の青年がいる。アメリカから来た若い女性もいる。フランス人、イギリス人、デンマーク人、インド人、オーストラリア人、と多彩です。外国人の数は二十五人でした。昼食の献立てがトマトソースのスパゲッティというのがおもしろい。ほかに焼きなすと漬物がついて和洋折衷の精進料理でした。原田老師がいいました。

 「生きるか死ぬか、ぎりぎりのところでここに来ているいる人が多いのです。みんな何かを発見しなくて来ています。真剣です」

 坐ることについて老師に尋ねました。
 「まず体を坐らせる。次に呼吸を坐らせる、そしてこころを坐らせる。はじめから心を調えようと思っても難しい。調えるというのは調和です。体がよき調和をもち、呼吸がよき調和をもち、呼吸がよき調和をもち、こころがよき調和をもつ。そして、体、呼吸、こころの調和は本来はひとつなのです」

 そうか、坐るとは調和なのか。上半身の力を抜いて、むりのない姿勢になると呼吸がのびのびしてくる。硬さがなくなる。下腹部に気持がおさまって来る。すると、こころの硬さもなくなる。老師の話を聞きながら、そういうものかと合点はしますが、坐禅は聞くことではない。することです。外国の人たちにまじって何日か坐りました。

 昼と夜の二回です。蚊の襲来と猛暑のなかで坐り続けました。顔から汗がしたたり落ち、借りた作務衣が汗にぬれて肌にへばりつきます。

 蚊と猛暑に悩みながら原田老師の言葉をかみしめます「苦しみが深い場合や執着がある場合は、それを切り離す。要点は切ることです。切る勇気をもつことです」

 切る勇気を持ちたいと思っても、蚊は次々にあちこちに襲いかかり、猛暑は断ち切れそうもなく、雑念の海に溺れそうになる。

 それでもなんとか深い呼吸を繰り返しているうちにイラツキの波がおさまってくる。目の前に静かな湖面が現れる。水は澄んでいて、湖底の砂が見える。虫の声が遠くなり、顔や背を伝う汗がそれほど苦ではなくなります。外国人の雲水たちは黙々と坐り、さらに坐り、時どきは眠っていると見受けられる人もいましたが、とにかく、若い人たちの厳しい修行を続けている姿を見て、たくさんの気をもらった気がしました。

 禅堂の先導者は、三十三歳のアメリカ人マーク・アルビンさんです。

 修行歴は七年半、四年前に出家し道祐になりました。通称は「ユウさん」です。私は、はるかに年上だけども、そんなことをいってはいられない。修行歴七年半に敬意を表して、ユウさんに教えを乞いました。

 夜遅く、ユウさんは「何千時間もやっていますが、まだへたくそです」といいながら、日本語で懇切に教えてくれました。

 「大切なことは、やっぱり、力抜くことですね。ゆったりと肩の力を抜く。呼吸は少しずつ長く吐くことが大切になります。目は閉じない。見るのではなくて、目をおく。墨絵見るみたいに、軽く、やさしく……」

 「大切なのは、自分がいい、自分が悪い、あれをあんまり考えないでください。みんなに荷物があります。心に肩に胸に腹に荷物がある。ああ、きょうは呼吸ができない、食べ過ぎだ、自分が悪い、と思ってばかりいると、坐禅にネガティブ・エモーションは入ってきます。逆に自分のこといつも正しいと思ってる人は荷物なくて楽だけど、意味のない坐禅をやってますから眠ってしまいます」

 「大切なのは深い願いがないといけないということです。坐禅するのは自分のためではない。衆生無辺誓願度(しゆじょうむへんせいがんど)といいますね。衆生を救う、人々の悩みを救うという気持が大切です。人のためという深い願いがないと、我見が強くなります。自我が邪魔すると苦しいですね」

 ユウさんの口からでる「衆生無辺誓願度」という言葉がひどく新鮮に響きました。

 翌日、もう二十四年も日本で修行しているアメリカ人女性のチーさんと話をしました。

 「私は若いころ、自分の人生のあれこれを自我のせいにしていることに気づいて、苦しみました。禅の本に答えを見つけ、日本で修行を始めました。坐っていると、自分が執着しているもの、とらわれているものに出会い、自分が裸になってゆくのを感じました。禅のおかげで、人生が百八十度変わりました」

   〽光あふるるまん中に坐る

 山頭火と親交のあった大山澄太の句です。曹源寺の坐禅では、衆生無辺誓願度の心境とはほど遠かったのですが、つまらないことにいつも心を波立てている己の後ろ姿がちょっぴり見えてきたのは収穫でした。

 もし、人間が生きるうえで大切な動詞を十あげよといわれれば、私は「歩く」「驚く」と共に「坐る」をあげます。

 とりわけ、山道を歩いていて、ふと腰を下ろし、土の上に坐るのが好きです。自分のからだが大地にじかにつながっているのだという感じがしてくる。

 「坐」はそんな思いを深めてくれる字です。P.37~43

 (1)山田無文ほか『坐禅のすすめ』禅文化研究所

2010.08.07


――「人間の愛すべき本質」

 愚図愚論愚挙愚劣愚意愚者の愚痴。そうです。今回は「愚」です。

 己の愚かしさを証明する体験は、自慢じゃないが(といいながら自慢しているわけですが)少なからずあります。妻とふたりでスイスの首都ベルンのホテルに泊まったときのことです。

 「静かな部屋を」と注文したのに、案内された部屋に入ると、騒音が聞こえてくる。ブルルルというくぐもった音がひっきりなしに聞こえてきます。「うるさいなあ」と案内係の青年にいうと「すぐなんとかします」と約束して消えました。が、一向にブルルルが消えない。ホテルのどこかで室内工事でもしているのか。

 フロントに電話をしました。「騒音を早くなんとかしてください」。しばらくしてマネージャーが現れました。

 この髭のおじさんは私の不機嫌な視線をはねつけて部屋の中央に立ち、あちこちをねめまわしてから、おもむろに私のスーツケースに近づきました。

 「ここです。音の正体は」

 えっ、といってスーツケースを開けると、なんということか、髭剃り器がオンになっていて、勢いよく鳴り続けているではありませんか。スーツケースを部屋に置いたとたん、なにかのはずみで、髭剃り器のスイッチがオンになってしまったらしい。

 妻は、困惑しながらも笑いだし、私はひたすら恐縮し、犯人を当てた髭のマネジャーを手をさしのべ、握手をすると得意満面で引き上げました。以後、おっちょこちょいの東洋人にあきれながらも親しみをかんじたのか、滞在中は、私たちの顔をみれば笑いかけ、ずいぶん面倒をみてくれました。

 昔の話です。アメリカの旅で、ワシントンD・Cに寄りました。

 ホテルで寝るときに、持参の小型目覚まし時計を枕元に置きました。朝八時にブザーが鳴るようにセットしておいたのですね。

 時差の関係でしょう。こんこんと眠り続け、目覚めると朝の八時です。夢現のまま、また眠ってしまいました。次に目覚めたのは午前九時ごろです。大変だ、寝坊したと飛び起き、タクシーを頼んで朝日新聞のアメリカ総局へ行きました。

 「あ、まだこちらに?」

 総局の人たちがけげんな顔をしている。壁の時計がなぜか四時半を指している。午前四時半ということはありえない。午前四時半あのか? その途端にすべてがわかりました。寝るときに時計をさかさまに

 飛行場にかけつけました。置いて寝てしまったのだ、と。あるいは、寝ぼけまなこで時計を手にして、ブザーを止めてまた枕元に置く。そのとき逆さまに置いてしまったのかもしれない。試みに、二時半の時計をさかさまにしてみてください。八時に見えるでしょう。まだ午前八時だと思った時の時刻は、午後二時半だったのです。

 飛行場にかけつけました。

 それにしても、午後まで寝かせてくれたあのホテルはなんとおおらかなホテルなのか、などと感心しながらゲート内に入ろうとすると、「辰濃さーん」と呼ぶ声がする。総局特派員の一人が私のカメラをかかげて「忘れ物ですよっッ」と叫んでいる。総局を飛び出したとき、置き忘れてしまったのでした。感謝と別れの微笑もこわばったまま飛び立ちました(ここで説明を加えますと、私はかなり前から腕時計というものをしておりません。旅行のときだけ目覚まし時計を持参するのです)。

 わが愚行の数々を弁護し、あわせて「愚」に字を弁護するために、イギリスの随筆家チャールズ・ラムを持ち出すことにしましょう。「われ愚人を愛す」というラムの言葉を、私は福原林太郎さんの『イギリスのヒウマ―』という作品で知りました。

 ラムはせっせと愚人の例をあげます。

 たとえば、風来坊の詩人の話です。この人はラムの家を訪ねての帰りに、門の前の小川に落ちて気を失います。助け上げると、詩人は茫然としていますが、しきりに濡れた靴のことを気にしていい続けるのです。「日の当たるところに出しておくとひびが割れるから、かげへ乾かしてくれよ」

 福原さんは、書いています。「ラムは徹頭徹尾、愚かさというものにこそ人間の愛すべき本質があり、剃刀のように切れる人は、警戒すべきであるという信念に終始しています」

 剃刀のように切れる人、は私も敬遠したい。ふつうに話をしていてもピシピシ叱られているようで落ち着かないものです。お互いの愚かさを笑いあえるような人でないと、息がつまります。

 勝新太郎が元気だったころの話です。酔っぱらって家に帰って、玉緒さんとおおげんかになる。玉緒が勝新の横面を殴る。恐ろしい女房の形相を見て、勝新がいう。「オイ、いい顔だ! その顔、忘れるな」。玉緒が思わず「はい」と返事をしちゃうところがおもしろい。舞台に使える顔、だと思ったのか、それとも勝新得意の「かわし」の技なのか。愚かしく、愛すべきからみあいです。劇作家の宇野信夫さんが書いていた話です。

 先々代の菊五郎は、夫婦げんかのときにだめだしをだした。「胸ぐらはこうとって、足の形はこうで」。おかみさんが「私は芝居をしているんじゃない。真剣なんです」といっても「頼むからいう通りのしてくれ。でないとさまにならねぇ」ときかなかった。

 役者馬鹿という言葉が生きていた時代です。

 沖縄市に住む嘉手刈林昌(か で りんしょう)さんに会ったとき、こんな話を聞いたことがあります。嘉手刈さんは、島うたの名人です。

 ある日、前歯が痛いので歯医者へ行ったら、医者が間違えて痛い歯の隣の、痛くないほうの歯を抜いてしまった。

 「もう面倒くさいから全部とれといって、前歯四本かな、抜いてしまって、翌日がレコードの吹き込みでね、血だらけのまま口に脱脂綿入れておいてたらよ、制作者が『あんたそんなしてできるかあ』というから『歯が歌すんかあ。歌ちゅんのは歯で歌うんじゃない、こころで歌うんだ』いうてね。どいうわけかことのきの録音がものすごく良くてね。それからはいつも、今度は歯あとって歌うかなあと思ってよ」

 酔っては米兵米兵とけんかをして半殺しのめにあう、といった愚行の多い人と聞いていましたが、「今度は歯あとって歌うかなあ」と笑う林昌さんを見て、ああ、ここにこそ愛すべき天才がいると思いました。

 禅の世界では愚は悟りを求めるこころにつながります。松原泰道老師は、若いころ、修行に出かけるときに盤竜老師から書画をいただいた。それには「其の智や及ぶべし、愚や及ぶ可からず」とあったそうです。「利口にはなれてもバカになるのは骨が折れる。その尊いバカになってこい」という餞(はなむけ)の言葉でした。

 学校では利口になることの数々は教えてくれても、愚になることは教えてくれない。いや、愚になるための教育なんていうものはないでしょう。教育とか研究とか読書とか、そういうもので、ほんものの愚の境地にいたることはできない。

 才気煥発、目から鼻へ抜ける賢さ、世渡りの才、小利口な振る舞い、こずるさ、あざとさ、知ったかぶり、そういったものを一つ一つ見つめるこころの営みがあるかどうか。

 愚の修行とは、己のこころにこびりついた「さかしごころ」という垢を次第に洗い落としてゆく作業です。

 硬いこころでは、「さかしらごころ」の垢は洗い流せない。やわらかな、やわらかな気持になって初めて、愚へいたる門は開かれます。

 愚は愚でも、「愚直」となるとちょっと趣が異なります。比嘉春潮さんは私の尊敬する沖縄出身の歴史学者です。昔の話ですが、お会いしたとき「ひとことでいえば沖縄のこころとは何でしょう」と尋ねたことがあります。

 「愚直、ということだと思います」

 「愚直、といいますと」

 「よくいったら、思い込んだらあかなか変えない。悪くいったら変えることができない。ということでしょうか。ハハハハ」

 人の面倒を見るのは好きだが、世渡りがへたで、ずいぶん搊をしてきたと思う。「まあ、それでよかったと思います」。比嘉さんはそういっていました。

 古びた家に住み、悠々と仕事を続け、こざかしさと縁のない暮らしを続けた人です。八十七歳の『新稿・沖縄の歴史』を完成させ、九十四歳で亡くなるまで愚直な生き方を貫いた人でした。

 愚直こそ沖縄のこころだといい続けた人に豊平良顕さんがいます。沖縄タイムスの会長だった豊平さんは、戦後の琉球文化復興の立役者でした。沖縄の誇る独自の文化、独自の自然を打ち壊すものに対して、これ渾身の闘いを挑んだ人でした。最後の床で、後輩の上間正諭さん(沖縄タイムス社長)に次の言葉を手帳に書きとめてくれと頼みました。

 ジャーナリズムのの道をふみあやまるな。ジャーナリズムの道を守り続けるためには愚直であれ

 おろかしいほどまでに直であれ、という教えです。愚直であれというと、なにかコトコチの硬さを想像されるかもしれませんが、逆です。愚直であるということは、権力におもねらず、営利に流されず、己の栄達に汲々とせず、保身に溺れず、ひたすらジャーナリズムの本道を歩めという教えです。相当にやわらかなこころでないと、本道を歩むのは難しい。

 人は弱く、己の栄達、己の保身を考えがちです。これはむしろ「硬いこころ」といっていいでしょう。岐路に立ったとき、栄達とか保身とか営利とか、さまざまな誘惑があるにせよ、それをしかと受け止め、さかしらごころを捨てて深く考え、悩みながらも結局は最善の道を見いだす。それはやわらかなこころをもつことで初めてできることです。P.50~57

(1)『福原麟太郎随想全集(4)』福武書店

(2)松原泰道『禅語百選』祥伝社

  2017.12.29


――目を、口を閉じてみれば…

 新聞記者になった初めて赴任したのが浦和支局だったということは前にも書きました。当時、かけだし記者としては支局のそばがいいと殊勝にも考えて、近くに下宿していました。下宿、なつかし言葉です。

 生まれて初めて手にした写真機(これもなつかしい言葉です)が珍しくて、フラッシュの道具一式やフィルムを入れた革のバッグを肩に下げて自転車で飛び回り、ヘタクソな季節の写真を撮ってはボツにされていました。そう、当時は自転車に重い写真機のバッグ、というのが支局記者の典型的な姿でした。

 サイネリアなどという園芸品種の名前を覚え、歳時記風に記事を書いて、それが珍しく地方版に載ったのがうれしくて、切り抜き帳に貼ったりしたものでした。

 ある日、せめてこれくらいはそろえておかないと、と思って買ったのが新潮社編の『俳句歳時記』(文庫版)でした。

   目をとぢて秋の夜汽車のすれちがふ

 いきなり中村汀女の句が飛び込んできました。狭い下宿の畳に寝ころがり、繰り返し口ずさみ、「閉じる」という言葉について思いをめぐらせた記憶があります。

 まだ蒸気機関車が大いばりで走っていたころの話で、あのころは長く尾をひく汽笛の音がかすかに中山道の下宿にも聞こえてきました。目を閉じていると、夜汽車の窓のつらなりが数珠になって見えてくる。目を閉じることで、かえって鮮明に見えてくる。

 目を閉じる瞬間、私たちはこころのフィルムに風景を焼き付ける作業をしています。この場合の焼き付けには、思い入れによる取捨選択が加わります。

 再び、目を閉じて夜汽車の音を聞くとき、よけいなものは一切捨てられていて、数珠の連なりの風景だけが秋の風に乗ってやってくる。こころでみる、とはそういうことなんでしょう。目の前で見る夜汽車も好きでしたが、下宿の六畳で、音だけを聞く夜汽車のほうがもっと夜汽車らしいということの発見です。

 目を閉じることの効用でしょうか。現場で取材する。状況を目に入れる。耳で聞く。すべての状況を全部、こころに焼きつけるわけにはいきません。取捨選択をします。いかなる取捨選択をするか、それがいってみれば取捨選択の勝負どころです。

 一瞬、目を閉じる。こころに焼きつける。そいう営みを自然にするようになったのは、「秋の夜汽車」の句のお陰です。

   障子閉めて落葉しづかに終わる日ぞ

 これも汀女の句です。

 やわらかに聞こえていた落ち葉の音がはたと止む。障子を閉めて、ほの暗い部屋に坐っても、一枚の白い紙から外の気配が内へやわらかく伝わってきます。閉じられてはいるが、光はさしこんできます。閉じられているからこそ、夕日を浴びて散る落ち葉の姿がこころに残る。落ち葉の土に触れる音がまた、かすかに聞こえてくるような気がする。そんなひとときでしょうか。目を閉じることでこころが開かれるのです。

 らんだ庵の縁側に坐っていると、山はだを伝わる風の音が次第に大きくなって、やがて消えていって、また新たな風が渡ってきて、という風の息を感ずることがあります。この場合も目を閉じているほうが、より深く風の息を感じることができるようです。

   〽とぢし眼のうらにも山のねむりけり

 木下夕爾(ゆうじ)の句です。目を閉じる。枯れ葉色の風景が鮮明にこころに映る。木々はみな葉を落とし、ひなたぼっこしながら眠っています。櫟(くぬぎ)の枝にかrたまった葉がはたはたと揺れている。目を開いても、見えるものは見えます。が、目を閉じているからこそ、より深く、その風景がこころにしみてくるということがある。眠っている山に抱かれて目を閉じたままで長い時間を過ごしたい。山とともに眠っていたい。そんな思いをかきたててくれる句です。

 閉山、閉鎖、閉蟄、閉門、閉居、閉拒、閉口、閉塞感、幽閉と、閉は悪役をつとめることが多いのですが、私のいいたいのは「閉」軽んずべからず、ということです。

 「閉」があるからこそ「開」がある。天の岩戸は閉じられたからこそ、開かれたのです。この世の中、「閉塞感」があるからこそ「解放感」があるのです。

 新聞の仕事をしていて、どうもおかしいなと思っていたことのひとつは「閉」を軽んずる気風のことです。

 新聞には「前ぶれ重視」ということばがある。たとえば大きな国際会議やオリンピックや国際スポーツ大会があるとします。何日も前から記者が現地へ行って、取材をします。「この会議の意味は」「オリンピックで活躍する選手は」「日本の成績いかん?」などについて、連日、記事がでます。それはそれでいいのですが、ものごとが終わると、潮がひいたように記者が消えます。一応、「総まとめ」の記事は出ますが、始まるときのような熱気がない。終った後は始まる前ほどには紙面を割かない。

 本当は逆でしょう。新聞は「開かれる明日」の予測よりも「閉じられた昨日」の解説にもっと力を入れたほうがいいと思うのですが、なかなかそうはならない。閉会式以後のことよりも開会式以前が重んじられるのは、前ぶれ重視主義があるからですが、いつまでも前ぶれ重視によりかかっくていいのか、という疑問があります。

 予測記事も大切ですが、本当に大切なのは「どんな会議だったか」についての詳細な分析です。オリンピックでも、本当に知りたいのは舞台裏の人間ドラマです。ものごとは、閉じた後にこそ本当の姿が浮かび上がるのに、と思います。

 口を閉じることの効用、ということもあります。

 都市の騒音のなかで生きていると、沈黙の世界がなつかしくなります。元日の、あの妙にひっそりとした都市の空間になつかしさを覚える人が多いはずです。狭い道路を歩いていると、車の音が凶器に感じられることがあります。人間のやわらかな体が騒音の硬い刃で突き刺されている、といういやな気分になることがあります。テレビの冗舌がうっとしくなることもあります。とりわけスポーツ放送の絶叫がすさまじい。「今から三十秒後、静かな時間を贈ります」といったあと、せりふも音楽もない沈黙のCMがアメリカにあったそうですが、昨今はわざとうるさいのを売り物にしているCMがある。

 「沈黙の日」というものをつくり、その日だけはだれもが車やその他の人工の音をだすことをやめたらどうでしょう。騒音を閉じることによって、やわらかさのある環境を復活させるのです。

 テレビやラジオも休む。講演もシンポジュムも一切ない。劇場も休む。乗り物も自転車と救急車だけです。人びとは、この日だけは口を閉じ、ひたすら沈黙の世界に生き、木の声、鳥の声、虫の声に耳を傾ける。

 そいう日が一年に一度でもあったら、世の中、少しは変わるのではないか。人びとは思慮深い暮らしというものを少しは考えるのではないか。そ思うことがあります。 picard.jpg

 「愛のなかには言葉よりも多くの沈黙がある」といったのはマックス・ピカートです。彼はさらにこう書いています。

 「恋する男が恋人に語りかけるとき、恋人はその言葉によりも沈黙に聴き入っているのだ。『黙って!』と彼女は囁いているようだ。『黙って! あなたの言葉が聞こえるように』」

 閉じれば花、なのです。言葉が閉ざされたとき、恋人はあなたの沈黙の言葉をこころで聞くのです。P.102~107

関連:沈黙の世界

  2018.01.03


――「本当に醜いのか」

 お前さんは「老」という字にきちんと向き合っているかと問われると自信がない。静かな気持ちで老と向き合うのはなかなか難しいし、この難しさは終生変わるものではないでしょう。

 五十代のころは結構、年寄ぶるくせがありましたが、六十代に入ると、己の老いを思い知らされることがやたらにあって、コンナハズデハナカッタゾとあせる気持ちが出てきます。あせってももはやどうしようもないことなのに、おろかなことです。

 仕事部屋を出る。何かを取りに行くために居間に入る。その途端、ア、ケサハ歯ヲ磨イタダロウカと思い、その瞬間に何を取りに来たかのかを忘れてしまう。もう一度、仕事部屋に戻ってやり直す。ア、ハガキヲ取リニ行コウトシタンダと思い出す。居間に赤鉛筆を取りに行って、ハサミを持ってくる。モチを包んだ透明な袋を破ろうとして破れずに格闘する。食事のとき、ぼろぼろと汚らしくこぼす。涙目になり、電車のなかでしきりに涙を拭き、正面の席の少女にみつめられている。会合に出るために電車に乗り、乗ってから会合場所の案内書を家に忘れたことに気づく。カメラにフィルムを入れぬまま撮り続けることがある。

 もともと忘れっぽさに自信がありますが、昨今はその度合いがちょっと激しすぎる。加えて涙目や指のぶ器用化やらが出てきていささか不安になる。老いとうまくつきあってゆくのは厄介なことです。

 老いと字は、この本で取り上げてきたたくさんの字と同様、あまりいい意味で使われていません。

 老獪、老猾(ろうかつ:老獪(ろうかい)と同じ)、老朽、老醜、老廃、老衰、老弱、老残、と並べただけで、なにか一気に十歳も年を取った感じになります。

 老人という言葉が否定的に使われるのと、「老いは醜いもの」という見方とは無縁でないでしょう。

 老いは本当に醜いのか。

 中国でいう「老師」は尊敬語です。「老酒」は古いほどいいし、日本でも昔の「家老」や「老中」は重要な役でした。「古老」「長老」のいうことは重視され、水戸の「老公」は劇中で悪人をふれさす力があります。「老舗」には重みがあり、「老大家」とう言い方にも尊敬の念がこもっています。「老」の存在、「老」の発言が世の中に必要とされていたのです。

 が、昨今はそうはいかない。

 朝日新聞にコラムに出ていた話です。各地の「老人クラブ」の加入率が下がっていて、とくに六十歳代の加入率が低い。老人という呼び方への抵抗感が強いからだというので、クラブ名から老人をはずし「ゆめクラブ」「高年者クラブ」「シニアクラブ」などに変えるところがふえているそうです。

 名前を変えたって年寄りのシワが減るわけでないし、私なんかはむしろ、ゆめだ、シニアだなんて呼ばれると、イイ加減ニシテクレヨという気持になります。老人が「老」とう言葉を避けるからいっそう、「老」が軽んじられる、「老」がうといましく思われる、ということがあるはずです。老人は老人でいいじゃないか。

 先日、NHK衛星放送『週刊ブックレビュー』収録の仕事があって、北海道の旭川市へ行きました。収録の前、作家、村松友視さんが記念講演をしました。

 「これからは老人が減ってゆくと思います。高齢者はふえてゆくでしょうが」

 村松さんはそういう。村松説によれば、高齢者というのは、たとえていえばあのフルムーンの広告に出てくる俳優のようなしゃれた老紳士のことで、老人というのは笠智衆みたいな人をさす。

 「これまでこなしてきた時間がすべて姿形たたずまいに結晶しているような人」だそうです。

 高齢者はますますふえてゆくが、残念ながら老人は減ってゆくだろう。だれでも老人になれるかということはなくて、老人というのは年を取ったあげくに到達できる一つの境地なのではないか。

 私よりはるかに若い村松さんの話を聞きながら、そうだ、その通りだぞ、くやしくたってほものの老人になれない人だっているんだ、と自分に言い聞かせていました。

 藤沢周平の『三屋清左衛門残日録』がよく読まれているのは、老いた身の一つの境地を描いているからではないでしょうか。

 この小説は、武家社会の重鎮だったある男の「隠居後のいきいきした暮らし」を描くという設定です。この設定が平成の老人たちのこころをほどよくくすぐるのでしょう。

 まだ五十代で隠居した清左衛門は最初は落ち込む。「夜ふけて離れに一人でいると、清左衛門は突然に腸をつかまれるようなさびしさに襲われることが、二度、三度とあった。そういうときは自分が、暗い野中にただ一本で立っている木であるかのように思い做されたのである」

 しかし清左衛門の実力を頼って、いろいろな人がいろいろなことを頼みにきて、隠居老人の日々は結構、活気づき、充実したものになる。

 最後は、こう締めくくります。

 「衰えて死がおとずれるそのときは、おのれをそれまで生かしめたすべてのものに感謝をささげて生を終ればよい。しかしいよいよ死ぬるそのときまでは、人間はあたえられた命をいとおしみ、力を尽くして生き抜かねばならぬ(略)と清左衛門は思っていた」

 死が訪れるまでは、おのれを生かしめたすべてのものに感謝をささげる。その静かな境地こそが老いの表情にある種のかがやきを与えるのでしょう。

関連:『三屋清左衛門残日録』

  〽老いといふものの静けさ夕月夜

 随筆家渋沢秀雄さん(渋亭)の、八十過ぎの句です。ここには一つの境地があります。

 渋沢さんは、実業家、栄一の子で東京の住宅地「田園調布」を造った人です。新しい町を造る夢を追って欧米十一ヵ国を回ったあげく、駅からひるがる放射状の道を造り、住み心地のいい緑のゆたかな町をいう思想で設計した、と聞いています。

 一九八二年ごろ、さしたる用事もなくぶらりと渋沢邸を訪ねたことがあります。庭のハナズオウの花の色がいまだに目に焼きついています。

 「いつも不思議に思うんですが、考古学者が発掘したものの年代を推定しますね。あれはどうやって可能なんですか」

 そんな質問を受けました。九十歳近いお年でしたが、好奇心はまだまだ衰えていないようでした。この句をくちずさむたびに、老いと静かに向き合っていた生前の渋沢さんの姿が目に浮かびます。

   しみじみと老てふことや老の春

 富安風生の七十の句です。

 数えで八十歳のときの句が

   〽生きることやうやく楽し老の春

 幸い八十まで生きたとしてもこういう境地になれるかどうか。たぶん俗世間の哀楽の谷間をさまよっていることでしょうが、そうであっても、この句はたびたび思い出すことでしょう。

 先日、沖縄を旅してきました。沖縄に行くたびに、いい顔の年寄りにみとれることが多い。那覇の国際通りわきにある市場をのぞくと、これぞ老人、という顔が並んでいます。ひとりひとり、こころに刻みつけたくなる生気にあふれた顔です。

 沖縄の知人がいうのです。大家族のなかでは、おじいさん、おばあさんの座はきちんと守られているし、会式の宴席でも、年がはるかに上の人が肩書よりも重んじられるんだ、と。人びとの尊敬の念があって初めて、年寄りの顔が輝いてみえるということもあるでしょう。

 瀬底島で、九十歳近い、独り暮らしのおばあさんに合いました。

 あまり福々しくて、やすらかなお顔なので、写真を撮らせてもらえませんかというと、いやだとか、困るとか、そういう余計なことはいわず、自然体でふっと廊下にでてきて坐る。「ボタンはめたほうがいいよ」とヘルパーさんにいわれ、笑いながらブラウスのボタンを一つ一つゆっくりとはめる。風の流れに身をまかせて、という感じで、まさに、村松友視さんがいう「これまでこなしてきた時間が姿形たたずまいに結晶しているような人」の顔でした。

 フランスの詩人クローデルは、八十歳のときの日記にこう書いています。

 「昨日! とある者は嘆息する。明日は! と他の者は嘆息する。しかし、老境に達した者でなければ、今日は! という言葉の輝かしい、絶対的な、否定しえない、かけがえのない意味を理解することはできない」

 老境に達したものを鼓舞する言葉です。

 あのバートランド・ラッセルが核兵器反対のデモで坐りこみをし、禁固の刑を言い渡されたのは、八十九歳のときでした。アメリカが生んだ「土の画家」、グランマ・モーゼスは七十すぎて絵の勉強をはじめ、八十、九十と描き続け、百一歳で、みずみずしい最後の作品を描いたのです。

 昨日にとらわれない。

 明日にもとらわれない。

 今日、充ち足りた日を送る。

 ラッセルもモーゼスおばあさんも、そのような思いで生きてきたのでしょう。

 それはいうほどに易しいことではありません。老いはさまざまな形で生き難いことの数々を知らせてくれるでしょう。老いてくれば、昨日の過剰にしがみつき、明日の少なさを嘆く日々が多くなるかもしれません。が、それでもなお、できるだけ肩の力を抜き、背筋を伸ばし、充ち足りた瞬間瞬間を大切にして生きていきたい。それが老いてゆくものの感慨でしょう。

 石垣りんさんに「大根」という詩があります。

  山本栄作さんというお人は

  伊豆の山里に生まれ育ち

  農業をなりわいとした。

  細い端麗な面差しと

  すわっていてもあっすぐに伸ばした背筋の

  くずれることはなかった。

  よく働き

  静かに言葉少なに話した。

  健康な九人の子に恵まれた。

  年をとって恋女房に先だたれたあと

  自身病気勝ちになっても

  起きられれば

  家のまわりの仕事に気を配っていた。

  ある日

  畑の土をせっせと掘り返し

  大石をどけながら

  長男の嫁にいったそうだ。

  こうしておくと

  いまに柔らかぁい大根ができる、と。

  去年の夏

  栄作さんが八十四歳で死んだ。

  いまごろ

  土ふところの中では

  白い大根がみずみずしく育っているか。

こむいう老いの境地もあります。

参考1:フランスの劇作家・詩人ポール・クローデル(1868-1955)が駐日大使として着任したのは、大正10(1921)年11月のことであった。クローデルは、外交官試験に首席で合格し、後には駐米大使まで務めた有能な外交官であったが、彫刻家オーギュスト・ロダン(1840-1917)の弟子として有名な姉カミーユ(1864-1943)の影響で、幼い頃から日本への憧れをもっていた。外交官になることは、日本へ行くための近道と考えたという。昭和2(1927)年4月に駐米大使に転出するまで、休暇帰国を挟んで約4年半滞日し、政財界の要人や文化人らと交遊した。その間、関東大震災を経験、日仏会館の開設に尽力し、代表作となる戯曲『繻子の靴』を書き上げている。カトリック詩人として知られるクローデルであるが、日本人の感性を深く理解し、俳句や都都逸風の短詩作品や日本文化を主題とした随筆集(邦題は『朝日(=日本)の中の黒い鳥(=くろうどり=クローデル)』)を残している。 こむいう老いの境地もあります。

参考1:石垣 りん(いしがき りん、1920年(大正9年)2月21日 - 2004年(平成16年)12月26日)は、詩人。代表作に「表札」。東京都生まれ。4歳の時に生母と死別、以後18歳までに3人の義母を持つ。また3人の妹、2人の弟を持つが、死別や離別を経験する。小学校を卒業した14歳の時に日本興業銀行に事務員として就職。以来定年まで勤務し、戦前、戦中、戦後と家族の生活を支えた。そのかたわら詩を次々と発表。職場の機関誌にも作品を発表したため、銀行員詩人と呼ばれた。『断層』『歴程』同人。第19回H氏賞、第12回田村俊子賞、第4回地球賞受賞。教科書に多数の作品が収録されているほか、合唱曲の作詞でも知られる。

平成二十九年十二月二十八日


36
高田宏『言葉の海へ』

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 高田宏「言葉の海へ」は日本最初の本格的国語辞典「言海」の著者大槻文彦の評伝である。

 人の学者が日本近代化の象徴である国語辞典を単身の努力で作り上げていく過程を、明治維新と云う歴史的大変動と関連付けながら丁寧に浮かび上がらせていた。その点で、明治維新史のちょっと変わったヴァリエーションとしても楽しむことができる。

 大槻文彦は杉田玄白・前野良沢の弟子として日本の蘭学を担った大槻玄沢の孫であり、父親はやはり蘭学者としてなをはせた大槻盤渓、兄は大槻如電である。この系譜から読み取れるように、大槻家は徳川末期から幕末にかけて日本の蘭学研究の第一線にあった学者の家系である。その家系のなかから日本最初の国語辞典を完成する文彦が現れた。

 大槻文彦はこの辞典づくりを、文部省奉職時に上司の西村茂樹から命ぜられた。時に明治8年のこと。日本は明治維新を経ていよいよ近代国家として歩み始めていたが、諸外国との間では不平等条約を結ばされ、一人前の国家とは到底言えぬ状態だった。いろいろな面でまだ日本は近代国家としての体裁を整えていなかった。教育システムはようやく動き始めていたが、教育の根幹たる国語教育にいたっては、国語辞典もない有様だった。これでは西洋諸国から野蛮と思われても仕方がない。こんな問題意識から、当時日本の教育を整える立場にあった西村茂樹が大槻文彦に国語辞典の作成を命じたのであった。

 大槻文彦はほとんど一人でこの辞書の作成に従事し、17年の歳月をかけてやっと脱稿する。出版したのは明治24年のことだ。その出版を祝ってささやかな祝賀会が芝紅葉館で催された。出席した人の顔ぶれを見ると、なかなか興味深い。伊藤博文のように当時日本政治の中枢を担っていた人物が駆けつけて、条約改正に向けての日本近代化の努力の一環として国語辞典の完成を祝ったのはともかくとして、出席者の多くは、文彦の故郷である仙台藩関係者のほかは、明六社の出身者など旧幕派と云われる人々だった。

 明治維新史はとかく、薩長はじめ討幕派の西南諸藩の視点から書かれることが多く、旧幕関係者は無視されがちなのだが、実際は日本の近代化に果たした彼らの役割にもバカにならないものがある。大槻文彦はそうした旧幕派を代表する知性として、この大業に取り組んだわけである。

 そんなわけで、この本を読むと、大槻文彦を中心にした人々の交友関係が、討幕運動とはまた別の次元で、日本の歴史の水脈を形成していると感ぜられるのだ。

 大槻文彦は1847年に生まれているから、明治維新の最中には20歳前後の若者だった。だから討幕の志士といわれた人々や、勝海舟や成島柳北といった幕府側のエリートたちとは一回り世代が違う。しかし父親を通じて、そうした上の世代ともつながっているから、彼の周りには自づから、幕末維新史を彩った人間たちの集団像が漂っている。

 大槻文彦は幕府の開成所で基礎教育を受けた。この時の学校の仲間付き合いから、旧幕派と云われる人々との人脈を形成していったと思われる。また横浜の外国人に丁稚奉公して英語を学んだりした。こうした経験を通じて洋学へ目を開いていったわけだ。後に国語辞典を作るに当たり、文彦は日本語と西洋語を比較研究しながら文法学の基礎やら辞典編集の方法論を確立するのだが、そのさいに英語をはじめとした西洋語の理解があったことが、彼の研究を一段と深めることにつながった。

 大槻文彦にとって生涯で最も忘れられない経験は、討幕から維新政府の樹立に至る歴史の動きに自らも身を以て参加したことだろう。

 慶応3年10月、文彦は大童信大夫とともに京都の仙台藩邸に赴いた。その直前徳川慶喜が大政奉還し、朝廷が各藩に参集命令を出していた。だが各藩は政治情勢がどうなっているのか詳しいことがわからない、そこで徳川につくか朝廷につくかで、日和見をしている。仙台藩も同様だった。そこで藩主を上京させる代わりに代理をやり、形勢を見極めようとする。

 だが時間は誰の思惑よりも早く過ぎていく。薩摩が主導権をとって実質的なクーデターを起こし、16歳の明治天皇に「王政復古の大号令」を読み上げさせる。ここに幕府は廃絶され、薩長に刃向うものは朝敵扱いされる。鳥羽伏見の戦いは、佐幕派と薩長との間の象徴的な戦争となった。

 この鳥羽伏見の戦いを、大槻文彦は傍観者としてみている。仙台藩はこの闘いに兵を送ることはなかったからだ。しかし、その後の歴史の流れの中で、仙台藩は東北の反薩長勢力の中心となって、朝廷軍との熾烈な戦いをせざるを得なくなる。その責任を問われて、但木土佐ら、仙台藩の重臣にしてかつての開国論者たちが多数処刑された。大槻文彦の父盤渓も、徳川方の肩をもったことをとがめられて禁固刑に処せられる。

 こうした体験は、大槻文彦という人間に、権力におもねない不屈の姿勢を付与させたと思われる。維新後成島柳北ら旧幕臣たちは、反権力の立場からさまざまな運動に立ち上がったが、文彦もそう派手ではないにしても、新政府の権力主義的政治に対しては厳しく批判するようになる。

 明治9年2月、成島柳北は讒謗率違反を問われ、出来たばかりの京橋監獄にぶち込まれた。その際柳北は、文彦に自分にかわって朝野新聞の論説を書いてくれと頼んだ。文彦は言海の執筆に忙しい日々を送っていたが、ほかならぬ柳北の頼みだからと、一か月間だけ執筆を請け負った。彼の論説は、柳北のような憂国の人材でさえ迫害する薩長藩閥政府への批判となって迸った。

 「嗚呼明治九年は如何なる歳ぞや、妖気将に陰々として我全国を覆はんとするの勢有」

 彼は薩長の連中が牛耳る新政府の牙城をコテンパンに批判する。彼ら「特別の閥権を振りかざす者」らは「今の普通小学校の学科だも之を知らざる」に、かかる無能の者を閥権で抱え込んで、新政がなるものかという。

 こんな具合でこの本は、大槻文彦の生涯と抱負を描きながら、従前とは異なる視点から明治維新という時代を追いかけている。そこのところが新鮮に感ぜられる。


プロフィル:高田 宏(たかだ ひろし、1932年8月24日 - 2015年11月24日)は日本の編集者・作家、随筆家。 

 京都市出身で石川県加賀市育ち。石川県立大聖寺高等学校、京都大学文学部仏文学科卒業。光文社、アジア経済研究所で雑誌編集を経て、1964年から11年間エッソ石油(現・JXTGエネルギー)広報部でPR誌『エナジー』を編集。大学時代の友人の小松左京や、梅棹忠夫などの京大人文研のメンバーに多く執筆を依頼し、PR誌を越えた雑誌として評価された。

 1975年に退社し、文筆専業に専念となる。代表作に『島焼け』などの歴史小説をはじめ、樹木・森・島・旅・雪などの自然、猫などをテーマに随筆・評論・紀行など著書百冊ある。その他には日本ペンクラブ理事、石川県九谷焼美術館館長、深田久弥山の文化館館長をそれぞれ務め、また元将棋ペンクラブ会長である。

2017年10月31日


37
早乙女貢著『おけい』

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 1869年、アメリカに渡った日本移民団の少女の物語。

 (あらすじ)「アメリカに今も眠る、会津出身の日本初の農業移民おけいの物語」

 明治元年、雪深い会津に暮らす15歳の町娘おけいのもとに、江戸の武家に嫁いだ松乃(まつの)が、初産の後、夫の討死も禍して体調を崩し寝込んでしまったとの便りが届く。松乃を慕うおけいは、すぐに江戸へと向かう。おけいは、途中知り合ったオランダ人商人ヘンリーに、松乃と松乃の乳飲み子を馬車で会津に向かわせることを頼み、自分は歩いて会津に戻る。

 松乃たちより5日ほど遅れて会津に戻ったおけいは、ヘンリーが松乃に結婚を申し込んだことを耳にする。大好きな松乃が異人と再婚をすることを快く思わないおけいだったが、松乃の幸せを奪う権利は誰にもないと自分に言い聞かせる。それと同時に、松乃に裏切られたと感じ、その想いを初恋の人金吾(きんご)へと募らせるようになる。しかし、金吾の心が自分には向いていないことを知る。やがて、金吾や美しい武家娘たちが会津戦争の渦中に身を投じ、次々に戦火の中で命を落としていく。

 生き残ったおけいは東京へ逃げるが、薩摩長州を中心とした西軍政府に捕まる。そのとき助けてくれたのは、ヘンリーと弟のエドだった。そして、おけいはエドの屋敷で松乃と再会する。松乃は生き残った会津人達と一緒に新天地を求めてアメリカに渡る計画を話し、おけいもこの計画に加わらないかと誘う。こうして、おけいを含む会津人一行はカリフォルニア州コロマに渡る。言葉も分からぬ異国の地で農場を築き、ワカマツ・コロニーとな付け、茶や竹の栽培を試みる。しかし、乾燥の激しい土地での農場はうまくゆかず、コロニーは崩壊し、移民団は散り散りになってしまうのだった。

 明治維新の激動の中を生きたひとりの少女の運命を描く長篇歴史小説。

★プロフィル:早乙女貢(さおとめ・みつぐ)大正一五・一・一~中国ハルピン生。本名鐘ヶ江秀吉。戦後山本周五郎に師事、『僑人の檻』で直木賞。曽祖父が会津藩士で、戊辰の役で戦ったことから、歴史への思いがこもっている。

2017年11月11日



38

にっちもさっちも

朝日新聞に連載されたものを文庫本に


  二つの教え

 敗戦の年、私は小学校五年生、十一歳の子供だった。疎開先の親類の家のぼろラジオで、玉音放送というより雑音放送というほうが正確な、例の放送を耳にして、それでその場では何が何だかわからなかったのだけれども、周囲のおとなちの話を総合して、どうやら戦争に負けたらしいこと、これまでの苦労がぜんぶムダになったこと、これから敗戦国としての苦労が待ち受けていることといった程度の認識が徐々に生じてきた。

 きのうまでは、みたみわれで、銃後の少国民で、撃ちてし止まんで、鬼畜米英で、それがその日を境に、どうもそうではなかったらしいということも、だれに教わるというわけでもなく、何となくのみ込めてきた。

 妙な見方かもしれないが、敗戦の日付が八月十五日という夏休みの最中であったことは、小学校に限っていえば、生徒にとっても教師にとっても不幸中の騒いであったような気がする。新学期開始までの半月間という空白は、教室にとってまたとないクッションの役割を果たしていた。これがもし、平常授業のまっただ中であったら、相手が小学生だけに、教師たちも即座の弁に窮していたのではないかと思う。

 敗戦の効果とショックを新学期までになしくずしに受けとめる結果になって、そのために先生に嘘を教わったというような思考はほとんど働かなかった。十一歳の、それが限界であると同時に、おとなにはない順応性だった。あの時に、軍国主義教育の正体を悟り、教師不信におちいった、というようなことを口にする人もいるけれども、中学生以上ならともかく、十や十一のやわな頭脳で、ほんとにその時にそう思ったのだろうか、と私には疑わしい。

 きのうまでの「黒」を、きょうから「白」だと教えられて、その余りの転倒に不審の念を抱くことはあっても、それを教え込む教師個人に対して不信を抱くことは、この年ごろの子供にはない。猫の目のように変わる戦後の教育にあっても、そのことは立証されている。世の中がどう変ろうが、教師は常に絶対の存在なのである。”聖職”というものは、つまり、そこいらのことを指すわけで、教師はたしかに”労働者”かもしれないが、労働者であってなおかつ聖職に就く崇高な職業人というふうに考えて、どこが悪いのかと思う。

 疎開先のその小学校に、私はほんの数カ月通っただけだった。学童疎開くずれの再疎開という形で、敗戦直前にその小学校に転入、その年の初冬にまた別の土地に移り住んだのだから、記憶も印象もすこぶる希薄である。

 なじみのない教室で、言いつけに従って、せっせと教科書を墨で塗りつぶしながら、さすがに、その作業には抵抗を感じたことを覚えている。子供ごころに、ひどくばかばかしいことをさせられているというようなことを感じて、それがたぶん、みんなの態度に現れたのだろう。受け持ちのY先生という中年の男性訓導が、教室中に響き渡るような声を出していわれた。「墨で塗りつぶしても教科書は教科書である、教科書を粗末に扱ってはいけない」

 Y先生は角ばった顔に黒ぶちの眼鏡をかけ、ぎょろりとした目をむいて、生徒をびしびし叱ることでつねづねこわい先生として通っていたが、教科書は教科書であるといって大声をだされた時のY先生の顔は、声の激しさとは裏腹に、それまで見たことがないような悲しげな表情をたたえており、生徒たちはひそひそ声で、Y先生は泣いているぞ、と肘をつつき合った。

 Y先生の言葉に、その時その場で、感銘を受けたわけではない。ふだんいかめしいY先生の意外な一面に接して、おや、と思ったことはたしかだったが、教科書うんぬんの言葉も、先生の悲しげな顔も、休み時間になったらたちまち右から左に忘れて、それきっきり長いあいだ思いだしたこともない。その、忘れたはずの一情景が何かのおりにありありと甦えるというところに、教育というもののさりげない力がある。さりげない力があるからこそ、ある意味では非常におそろしくもある。

 三、四年前の話である。そのころ公立の小学校に通っていた上の娘が、きょう学校でこんなことを教わった、といって担任のP先生の言葉をそのまま口にした。P先生はすこぶる教育熱心な女性教師で、熱心すぎてしばしば強烈な脱線授業をする癖(へき)があり、そのおどろくべき語録についてはかねがね承知していたが、この日は社会科の授業中に、突然教科書をふりかざして、こう教えたという。

 「みんながいま使っている教科書は、ひどい教科書なのよ。だからもっといい教科書を先生たちが作ろうと思っても政府がつくらせないのね。どうしてかというと、もしいい教科書を作って、子どもたちがかしこいおとなになったら、悪いことばかりしている政治家たちは、自分に投票してくれなくなるから困るわけで、だから、わざとみんながバカになるようなこんな教科書ばかり作っているのよ」

 たしかに現行の検定教科書については問題点が少なくないし、ひどい内容のものが目につくことも事実だけれども、だからといって、現在ただいま子供たちが机上にひろげている教科書を教師の口から全面否定するのは、いくらなんでもあんまりだ、と思う。その一言で、子どもたちが向こう十年余りもお世話になる教科書をバカにして、ひいては本というものを軽んじるようにならないとも限らない。

 教科書は教科書だ、とおやじは教わり、教科書は最低だ、と子供は教わった。二つの教えのあいだに三十年の歳月が横たわっている。三十年がかりの、それが、戦後教育の輝かしい成果なのか? 

参考:新約聖書入門

▼江国滋『にっちもさっちも』(朝日文庫:昭和五十九年八月二十日 第一刷発行)P.50~53より。


  生きざま

 生き方といえばいいところを「生きざま」、死に方ですむところを「死にざま>」と、わざわざどぎついいい方をするのが最近の流行で、流行なら遅れつちゃならぬとばかりに、若い人たちの口からしきりにその語法がとびだす。ことばというものも一つのファッションだと思えば、べつにどういうこともないわけだが、しかし、使いたくないことばであるなあと思う。自分で使いたくないばかりではなく、江国滋氏の生きざまは、などと人に書かれるのもごめんこうむる。

 生きざま、死にざまとくれば、どうしたつて「さらす」と続けてこそ平仄が合うものであって、人さまの生き方についてかるがるしくそんな表現を用いるのは、思えば無礼な話である。もっとも、口にするほうでは、侮蔑どころか、最高の賛辞のつもりで、喋ったり書いたりする場合がほとんどのようだ。そこに悪意はない。悪意はなくても、日本語としては、お行儀の悪いことばである。お行儀の悪いことばというものは、なるべく使わないほうがいい。

 「おれなんか、ノサカ(野坂昭如)の生きざまに共感するんだょな」

 「ミシマ(三島由紀夫氏)の死にざまは、だな……」若い人たちが、いかにもきいたふうな顔で「生きざま」「死にざま」を連発するのは、耳さわりというだけでなく、傲慢でさえある。とくに「死にざ」という物言いは、老境解説の名僧が口にするのならともかく、若者がみだりに使うことばではない。ことばにも越権ということがあるのである。

*『にっちもさっちも』P.132~133


  手遅れ

 辰野隆(ゆたか)先生といっても、若い人たちにはピンとこないかもしれないが、わが国のフランス文学育ての親で、東大名誉教授で、芸術院会員で、文化功労者で、辰野山脈とかいわれるぐらいの門下から優秀な人材が輩出した。君たちもご存知の大江健三郎さんなどは、辰野先生のお弟子さんの渡辺一夫先生のそのまたお弟子さんで、つまりは孫弟子である。

 その辰野先生が、晩年、しきりにこんなことを口にしておられた。

 「わたしはね、もう一度生まれかわりたいと近ごろつくづく思うんです。それでどうするのかというと、もう一度小学校から勉強をやりなおしたい。そして今度こそ、悔いのない勉強をしたいのです」

 念のためにいえば、辰野先生は一中一校帝大という天下の秀才コースをたどり、おまけに東京帝国大学の法科と文科の両方を卒業されている。ほかの人ならともかく、その言葉を聞いて、先生もどこまで欲張りなんだろう、先生ほどの碩学がそんなことをいうんだったら、おれたち凡遇はどうしたらいいんだ、それにだいいち、勉強のやりなおしだなんてまっぴらだ、と思ったことをおぼえている。

 あれから三十年近くたって、私もいい年をしたおやじになって、それで、ほんとに勉強したいなあと思うようになった。すればよかろうといわれても、いまさらそうは問屋がおろさないのであって、やっぱり小学校から徹底的にやりなおしたいと切実に思う。

 小・中・高・大の新入生の姿がちらほらする桜の季節を迎えるたびに、辰野先生の言葉を思いだしながら、しみじみ手遅れを噛みしめるのである。

※『にっちもさっちも』P.145~146


 二・二六事件の凶弾で八十三年の生涯をとじた高橋是清(当時岡田内閣大蔵大臣)は、明治四年十八歳のとき、唐津藩英語学校の先生をしたことがある。

 このときの生徒に、辰野金吾がいた。東京大学では日本最初の西洋流の建築学講座が「造家学科」というなで開かれたが、辰野金吾は明治十八年その第一回卒業生四人の中の一人として世に出た。日本銀行(旧)本店、東京駅はその代表作で、「辰野式」といわれるように煉瓦に石を巧みに配した特色あるものが多い。

 辰野隆(ゆたか)は、金吾の長男で、明治二十一年生まれ、大正五年東京大学で仏文科卒業、同大学で大正十二年のフランス文学の講座を担当した。その門下から渡辺一夫、小林秀雄、三好達治、中島健蔵、中村光夫、森有正などが出ている。

 昭和二十三年東京大学を定年退職し、あとは中央大学教授となり、明治三十九年七十六歳で世を去った。

 いまその存在を思い出したのは、『辰野隆随想全集』(福武書店)が刊行されはじめたからである。(中略)

 辰野隆は、府立一中の四年から五年になるときに、教員会議では落第だった。そうしたら、林兼助という若い先生が、

「辰野はスポーツばかりしてできが悪いが、中学の四年くらいで落第すると、それがきっかけになって堕落するおそれの充分ある生徒だから、五年になったらスポーツをやめさせて、自分が激励して教室の仕事を熱心にやらせるようにします」 

 と弁じてくれた。そこで辰野は、仮及第ということになって一番ビリで五年生になった。

 このことは、及第の張り出しのある前に、体操の主任に呼びつけられて、

「お前は非常に成績が悪いから、五年生になったら勉強しろ」

 と訓戒をうけ、そのときに林先生のお助け演説の話もきいたのであった。

「あのとき落第すれば、ぼくは庭球、野球、体操、水泳、なんでも好きだっつたから、スポーツが優遇される学校に転校して、なんかの選手になるとか、足が早かったからランニングの選手をやるとか、していたかもしれないが、林先生のおかげで及第させてもらったので、まがりなりにも、そのまま卒業できて、高等学校から東大に行く運命になった」

 と辰野回想する。

 林兼助は、辰野が卒業した年に府立一中をやめ、どこかに行ってしまった。そして五十年以上、その消息はまったく知れなった。

 いくら探してもわからないはずである。林は、日本各地の中学を転々として数学の教師をしていた上に、養子にいったのであろうか、姓も「松原」と変っていた。その上、辰野は「兼助」というなさえ知らなかったという。

 ところが昭和三十四年、岐阜県多治見に辰野は講演に行った。するとはからずも、昔の林先生、いまの松原がたずねてきた。

 それというのも、辰野は仮及第の件をそれまでにたびたび書いたことがある。それを読んだ人が、

「昔、辰野という生徒を及第にして助けたというのは林先生というけれど林先生というのは、あなたのことではないですか?」

 とたずねたら、

「いま松原だけど、それはぼくだ。あの辰野ならば、かすかにおぼえている」

 ということになって、わざわざ講演会場にたずねてきたというわけだ。

「きみの講演をどうしてもきく」

 といって、耳が遠いので、公会堂の一番前の席で、両耳に手をあててきいている。辰野は昔話をして、

「じつは非常にぼくは今日はうれしいのです。あのとき先生が助けてくださらなかったら、どうなったかわからない。五十一年、二年ぶりで、しみじみお礼をいうことができました。その先生がじつはぼくの講演をきいてくださる。それがここにおられる松原先生です。さあ先生、壇に上って下さい」

 といって、恩師に演壇に上ってもらい、自分の脇に椅子をすえて、そこで講演をきいてもらった。聴衆からのさかんな拍手は、彼らもまた、辰野のよろこびをともによろこんでいたことを物語る。

※小島直記著『逆境を愛する男たち』第三十三話 魂のバイブレーション P.221~225


  父母在ず遠遊

 若者たちの前に『論語』を持ちだすなぞ、ナンセンスのきわみであって、もとより本気で訓辞を垂れているわけではない。九分通りはいやらがせに、ただちょっとそんなことを口走ってみるだけの話なのだけれども、残りの一分に、実をいうと愛着がある。父母在(いま)セバ遠ク遊バズという言葉には、えもいわれぬ含蓄がある。その含蓄を、あまりにも省みなすぎるところが歯がゆくてならない。

*『にっちもさっちも』P.150


  いちばん美しいことば

  言霊の幸(さちお)う国だもの、美しいことばは数かぎりなくある。いや、あった。あの美しいことばのかずかずを、現代人はいったいどこに棄ててしまったのか、と思う。たとえば、と指おり数えてみたところではじまらない。棄て去ったことばを改めて拾い集めることはできても、集めて生命をふきこむことは不可能である。血のかよわないことばは、単なるアクセサリーにすぎない。アクセサリーといえば聞こえがいいが、はっきりいうなら死骸である。

 昨今流行の「先どり」だの「権利」だのというなにやらあさましいことばの背後には、美しいことばの累々たる屍が横たわっている。それらを集めて、言霊の過去帳を作ったら、百ページや二百ページの小冊子がたちどころにできるにちがいない、それを「広辞苑」に対する「狭辞苑」ななづけて刊行したら売れないか、うれないな。

 ことばというものは生きもので、だから生きたりしんだりするのはもとより当然である。よそゆきの美辞麗句や、口先だけで心のこもらないことばなどは、むしろ葬り去るほうがよろしい。ほろぶべくしてほろぶことばはそれでいいとして、日常生活をささえるごくあたりまえのことばが急速に姿を消してゆくのが、私には身を切られるようにつらい。

 日本語のなかで、いちばん美しいことばは何か、それはもう各人の主観に属することだから、正解はありえない。ただ、私には私の答えがある。いちばん美しい日本語は、女性、とくに妻と呼ばれる人の口から発せられる「はい」という二字だ、と私はかねがね考えている。簡にして明、すがすがしくて美しいこのことばを、近ごろとんと耳にしなくなった。世の奥さまがたの語彙から「はい」ということばはなくなって、かわりに登場したのが「だって」である。美しいことばの極致を「はい」とすれば、醜いことばのどん底に「だって」がある。あれだけ美というもに執着する女性がどうして醜いことばを乱発したがるのか不思議でならない。

 お断りしておくが、これは一から十まで亭主のいいなりになれとうことではない。一から十まで「だって」というな、というだけの話である。反論は反論として、まず、なにはともあれ「はい」と答える習慣を身につけてごらんなさい、奥さまがたのお顔が五分方美しくなることはうけあい。みなさん美人になりたくないのかなあ。

*『にっちもさっちも』P.158~159


  一陽来復

 文筆という夜行性の職業習慣がすっかり身について、それで、もう長いこと元日のすがすがしい朝の空気を吸ったことがない。ましてや、初日の出を拝むなどぞという健全にして健康な行為は、発想にすら浮かんでこない。

 初日の出は知らなくても、しかし、初太陽は知っている。たとえば日は中天に高くとも、初太陽は初太陽であって、元日のうららかな陽光の味はまた格別である。いくつになっても、心に躍動するものを覚える。一陽来復、と思わずつぶやきたくなる。

 ことしこそは、という年頭の決意と希望に「一陽来復」という言葉はいかにもふさわしい。年賀状にしたためてもおかしくないし、書初めに用いるのも悪くない。だから、この言葉を、私は年頭縁起の言葉だとばかり思っていたのだが、あるとき字引を引いていて、たまたまその説明が目についた。一陽来復というのは、もともとは陰暦十一月または冬至の称であって「陰きわまって陽が来たり復する意」と辞書には出ている。陰きわまるのが十月で、十一月にはじめて一陽を生じるのだそうである。転じて「やっとよい方に向うこと」とある。この説明はうまい。「やっと」という一語に千鈞の重みがある。

 新しい年を迎えて、さあ、これからはやっとうまくいきそうだ、と自分自身にいいきかせることによって軽い興奮を覚えるのは、その予感が決して当らないことを、実は無意識のうちに承知しているためかもしれない。ことしこそは、と去年も思い、おととしも思い、さきおととしも思った。この元日にも思うだろうし、来年も、再来年も、そう思うにちがいない。

 一陽来復ーーやっとよい方に向うこと。この言葉が私は好きである。私の好きな、その同じ言葉を、田中某なる無所属代議士も目白台の高いへいの内側でこの正月にはつぶやくのかと思うといまいましい。

*『にっちもさっちも』P.182~183


  法の日

 法というものは、守るためにあるのか、破るためにあるのか、それがだんだんわからなくなってきた。いろいろ考えてみたが、つらつら世間を打ち眺むるに、どうやら人には二種類あるようである。法という言葉を聞いて、反射的に遵守を心掛けようとするタイプと、反射的に法網をくぐることを考えるタイプである。

 法治国家である以上、その前提には前者のタイプの集合体があるはずなのにもかかわらず、後者のタイプが年々ふえているようなきがしてならない。実際に法網をくぐるかどうかは別として、法に対する忠誠心が、いちじるしく希薄になっていることは否定できない事実だろう。

 どうしてそうなったのかという原因を究明してゆくと大論文になってしまうが、さまざまな原因の一つに、法律そのものが人心を堕落させていることがあって、これはユユしい問題なのである。

 俗にいう"ザル法"の存在と、その不徹底な適用が、人の心を知らず識らずのうちに荒廃させ、人びとの法に対する不感症を助長している。多くのザル法の中でも、とりわけひどいのが政治資金規正法と売春防止法と道路交通法であって、日本の三大ザル法といってよさそうである。

 いまは日本中に運転免許証を持っている人が何千万人いるか知らないが、道交法を正確に遵守している運転者はただの一人もいないはずである。そうして、その違反車に乗せてもらうわれわれ非運転者も結局は同罪であって、これを要するに、道交法に関する限り一億総違反者といっても過言ではない。こういうことは、おそろしことなのに、だれもそのおそろしさを口にしないところが、さらにおそろしい。

 十月一日は「法の日」で、あとの一週間を「法の日週間」というんだそうだ。そんなことよりさきに、ザル法群を何とかしてもらいたいと切望する。

▼『にっちもさっちも』P.194~195より。


春秋 2016/2/17付

 運転手は人工知能(AI)だ――。グーグルが開発を進めている自動運転車について、米運輸当局は先週こんな法解釈を示した。実用化までに乗り越えなくてはならないハードルはまだまだ多いらしいけれど、画期的な変化がいよいよ現実味を帯びてきたといえそうだ。

▼運転免許制度はどうなるのか。事故が起きた際の責任は誰が負うのか。そもそも、故意とか過失といった考え方が通用しなくなるのではないか。保険はどうなるのか。ヒトではなくAIを運転手とみなすなら、これまで自動車をめぐって整えられてきた様々な仕組みを抜本的に見直す必要が出てくるのは、目に見えている。

▼道路交通法の先駆けともいうべき自動車取締令が施行されたのは大正8年2月。97年前のことだ。その第1条は自動車を次のように定義した。「原動機を用い軌条によらずして運転する車両」。今となっては自動運転車こそ自動車の呼びなはふさわしい、などと思ったりする。言葉もまた見直しを迫られるのかもしれない。

▼技術革新にともなって法制度や言葉が変わるのは当たり前だ。大切なのは、不幸を減らし幸福を増やすよう、技術の活用と制御、さらなる革新を促す知恵だろう。15人の犠牲者を出した軽井沢のスキーツアーバス事故から、1カ月あまり。自動ブレーキの装着を前倒しで義務化していれば。そんな悔しい気分が、消えない。


  日記果つ

 読んで字のごとし。こと多かりし一年間のあれこれを克明にとどめた日記帳が、いままさに終わるころだという感慨を「日記果つ」の一語に封じ込めたところに、俳句の季語のおもしろさがある。この種のおもしろさは、わからない人にはわかrたないのであって、それがどうした、といわれればそれまでの話である。

   〽押し花にひそめしことや日記果つ  多恵女

   〽余白のみ多く日記の果てにけり   南山寺 

 そうか、それがどうした――。だいたい俳句などというものは、十七音で構成される繊細微妙な小世界であるだけに、どんな名句も、それがどうした、といわれたらたち、まち返答に窮してしまう。

   〽いざ行かん雪見にころぶところまで 芭蕉

 それがどうした。

   〽河豚汁の我いきて居る寝覚めかな  蕪村

 それがどうした。

 ミもフタもないとはこのことである。

「日記果つ」と並んで「日記買う」というのも、同じ歳末の季語とされている。過ぎ去りゆく一年に目を向ける前者に対して、後者は未知の一年をこれから迎え入れるという期待とよろこびが主眼となっている。

   〽攪乱の日記の一つ買ひにけり      喜舟

 それがどうした。吟味されたどんな素晴らしい俳句でも、それがどうしたといわれればそれまでである。俳句ばかりではではない。たかだが一枚半や二枚の短文――早い話がこのコラムの文章なとというものも、それがどうした、といわれtかrぁ、いや、べつにどうもしません、と答えるしかない。すなわち無用の閑文字につき合って下さる読者の忍耐をありがたい、とつくづく思う。

▼『にっちもさっちも』P.198~200より。


★プロフィル:江國 滋は、東京出身の演芸評論家、エッセイスト、俳人。俳号は滋酔郎。

平成二十八年二月十七日



39

吉村正一郎『待秋日記』(朝日新聞社)


 七月

  七月三十日(土)

 唐招提寺長老に風致審議会の委員会諸氏と共に蓮飯の昼食会に招かれ、楽しみにしていたが、からだの調子がわるいので出席を断る。

 午後内田君マッサージに来てくれる。

 四時過ぎ女子大扇田教授、唐招提寺の帰途来訪。台所、風呂場のやり替ええについて教示を受けたいので一度来てほしいと頼んでいたのだ。寺から茉莉花の枝をもらって来て二本くれる。さっそく鹿沼土に挿木する。

  七月三十一日(日)

 ガラクタ会に、岩坂君車で迎えに来てくれる。行くつもりだったが、やはりやめることにする。よく熟れた小粒のトマトを貰う。食欲はほとんでないが、こんなのなら食べられそう。夕方、五つ六つ口にしたが旨かった。

 午後、照子、ぼくの病気についてはじめて真実を打ち明ける。

 昨年八月十七日天理よろず相談所病院に入院、一週間の精密検査、点滴注入の後、二十三日、幽門狭窄の手術を受け、胃の三分の二切除したが、それは胃癌であった。幽門部のガンが出来、それも胃壁の外側にまで及んでいた。病状は初期の段階を過ぎ、末期ではないがその中間の二期敵なところまで進んでいた。肝臓に転移は見られなかったが、リンパ腺の二た筋目まで拡がっていたので、四節目で切除した(この辺りのことはぼくにはよく解らず)。

 しかし病気の進行は予想よりも早かった。腹膜に転移していると思う。このままで行くと、今度はガンは一箇所ではなく、星のようにばら撒かれているから手術は出来ない。手の施し洋はない。痛みがひどくなれば医者としては痛み止めの麻薬を注射して痛みを和らげることしか出来ない。云々。

 以上のことを照子は、七月二十五日月曜に天理病院に行った際、ぼくと岩坂君とが帰ったあとで、柏原貞夫博士(副院長、腹部外科部長)から大略を聞かされたのである(話の内容は、さらに八月一日月曜、照子、真美、天理病院に行き柏原氏から補足的に聞いた部分も入っている)。

 ぼくは照子の話を聞いて、かくべつ驚かなかった。ショックというほどのものは受けなかった。平然としていたと言うと嘘のように聞こえようが、嘘ではない。何故平気でいられるのか。どういうことなのか。ぼく自身分からない。ガンは不治の病とされている。お前は実はガンンあのだと言われて、そうか、そうだったのか、とまるで自分のことでないような気で居られるというのはどういうことなのだろう。極度に暢気なのか、鈊感なのか。無神経なのか。高僧のように生死を超えた心境にいるのだろうか。昨年手術の当時、奈良の岡谷(実)病院長のレントゲン写真を見ての説明では、幽門部に潰瘊が出来たり癒ったり、そんなことが繰り返されて、その痕がケロイドになり幽門がつまったのだということであったが、ぼくは岡谷先生はそうは言うけれど、ほんとうは癌ではないのかと疑っていた。癌であって少しもふしぎでない。大いに有り得ることだ。照子の告白を聞いてかくべつショックを感じなかったのも、そうした心の準備がなにがしかあったためかも知らなかった。

 照子は、明朝真美を連れ、大阪鶴橋の指圧療法の人の所に行き、翌二日の受診の予約をし、帰りに天理に行き、柏原先生からさらによく聞いて来るという。ばくは照子の言う通りにすると約束した。

 中略

 九月

  九月三十日(金) 曇 のち天気やや回復

 今日は朝から腹の痛み持続してやまず、不快。便通後少し楽になるが、しばらくすると痛み出す。七月二十五日に天理で柏原先生の診察を受け、家内は転移再発を知らされたが、それから二ヵ月を経た今日、当時の病状と比較してやはり悪くなっているように思う。あのころは痛みはあったが、今ほど持続的ではなく、下痢の頻度も今ほどではなかった。病気の進行は緩慢だとは思うが、進行していないのではない。


米とサケ

 一つの民族が二つの国家に分裂している状態はいかにも不自然であり、不安定に見えて仕方がない。わたくしたち日本人の多くは、このような状態を民族の大きな不幸と考えている。東西両ドイツ、朝鮮の北と南、北ベトナムと南ベトナムについて、いつもそう考えているのである。

 一つの民族が二つの国家に分裂してたがいに敵視していては平和は来ない。たしかにそうであるが、だからこそ、二つの国家に分裂しているのはよくない、何とかして分裂状態が一つにまとまらなければ本来のすがたにならないというのが、わたくしたちの大多数の意見であり気持である。

 分裂状態の「不自然」「不合理」にわたくしたちは不安を感じる。ましてやその分裂が民族本来の意志によるものでなく、外部の力によって余儀なくされたとあってはなおさらである。外部の力を排除して、民族自決の原理によって一つに統合されなければならぬと思うのである。

 NHKが最近放映した東西両ドイツのテレビ・ルポルタージュで、ドイツ人に対する鈴木アナウンサーの質問の中心はいつも「西両ドイツの分裂をドイツ人はどう思うか」であった。同じ趣旨の質問は東西両ドイツの若者たち、西独のブラント首相にもなされた。鈴木さんは「それはドイツ民族の最大の不幸だ。何とかして一日も早く一つのドイツ国家をつくりたい」という答えを期待していたようであったが、多くの答えはかならずしもこの期待に副うものではなかった。

*ウィリー ブラントWilly Brandt(1913.12.18 - 1992.10.8)ドイツの政治家。元・西ドイツ首相。リューベック生まれ。本名 Herbert Ernst Karl Frahm。売り子をしていた母親の私生児として生まれた。1930年社会民主党に参加し、’31年社会主義労働党に移る。’33年ノルウェーに亡命しオスロ大学で歴史学を学ぶ。’38年ノルウェー国籍を取得。’44年社会民主党に復党し、’45年帰国、’47年ドイツ国籍に復帰。’49年連邦議会議員となり、’57~66年まで西ベルリン市長、’64年党首、’69年首相を歴任。’74年ギョーム事件で引責辞任。’79年社会主義インターナショナル議長となる。’71年ノーベル平和賞を受賞。主著に「Der Wille zum Frieden」(’71年)等がある。

 「東西ドイツは将来一つに統合されることになるかもしれない。しかしそれはわれわれにとって当面の問題ではない」

 「二つの国家に分裂したのは、それはそうならざるを得ない理由があったからで、これはそのままでよい」

 「東ドイツは西ドイツに比べてひどく貧乏だといわれていたが、いまや、そうではなくなった。卵でも肉でも生産がうんと上がった。社会主義でなければこんなことは出来はしない」

 西ドイツの若者の一人はいった。

「ドイツ民族が二つの国家をつくっていても、一向に構わないじゃないか。国家というものはもともと人間が生活するための組織にすぎない。ドイツが一つの国家になれば大国になる。大国なぞは出来ない方がいいのじゃないか」

 要するに、この問題についてドイツ人の考えは政治家にも一般大衆にも共通したものを含んでいて、それはわたくしたち日本人とはよほど違ったものだということである。鈴木アナウンサーはやはり日本人の一人として、わたくしたちが共有している同じ固定観念と情緒の上に立って、ドイツ人たちにいかにも日本人らしい質問を繰返したのである。

「楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国となり……と」いわれた日本列島が一つの国家に統合されて千数百年を経ている。単一民族国家としての歴史過程の中で、わたくしたちは一民族即一国家という国家観念を固定させてしまったのである。アメリカのような多民族一国家の経験もなければ、中近東のような一民族多国家の経験もない。わたくしたちは一民族一国家の生活体験しかないのである。

 長い歴史の経緯の中で、日本人のものの考え方が成長し変化し定着し固定化したのは自然の成行きではあったが、それはそれとして、世界の他の民族にはおのずからまた別個の考え方や感情があることを知らねばなるまい。わたくしたちの「不自然」「不合理」は彼らの不自然、不合理でははさそうだし、わたくしたちの「不安」や「不幸」はかならずしも彼らの不安や不幸ではないはずである。国際交流も国際親善も先ず自他の相違の認識から出発しなければならぬであろう。

 白河樂翁(松平定信)の「花月草紙」に次のような話がある。

――さる人の話に、アイヌ人に米の飯を与えたところ、大そうよろこんで食ったのはよいが、そこら辺りに米粒をやたらとこぼした。「オイ、米は人間の命をつなぐものだ。なぜそんなに粗末にするのか」と小言をいうと、「わしらは米で命をつないでいるのではない。サケという米を食うて生きているのだよ」という。「それなら、サケを米として命をつないでいるのなら、それを尊ぶのが当たり前だろう。お前がいまその足に穿いているのはサケの皮じゃないか」。アイヌ人はちょっと首をかしげて答えた。「あんたが足に着けていなさるそのワラジとやらは、米の生える草じゃないのかね」

(『朝日新聞』 一九七三年三月十日)P.207


スポーツの意味

 あす八日は立秋、甲子園の高校野球がはじまる。ジリジリと煮えつまった暑さを吹き抜ける風もいくぶんさわやかで、秋の予告が感じられる。高校野球の清純な面白さはプロ野球では味わえない。やはり独特のものである。

 毎年このころになると、思い出すことが一つある。むかし新聞記者時代に短評欄に「スオーツは暇つぶし」と書いたところ、審判員たちが「このクソ暑いのに暇つぶしとは何を言うか」とカンカンになった。私はもとより審判員諸君の労を多としているので、彼らが暇つぶしをしているなどと言ったのではなかった。それを自分たちが侮辱されたと早合点したのはやはり暑さのせいであったかも知れない。

 「スポーツ」という英語の本来の意味は「パスタイム」、すなわち「暇つぶし」ということだ。余暇を楽しむ、気晴らし、娯楽、レクリエーションなのである。

 わが国にはむかしから武芸の伝統があり、これはサムライ精神の技能的表現と言ってよいが、これとまったく異質の「スポーツ」が明治になって西洋から輸入されたとき、これを日本流に武士道の延長線上で受け入れたのは自然であった。遊びや暇つぶしは日本ではよいこととは考えていなかった。

 旧制高校時代に陸上競技をやっていた私の友人は応援団に「死んでも勝て」と言われ、「だれが命がけでやるか。おれは道楽で走っているのだ」とやり返した。彼はスポーツの本当の意味を心得ていたのである。

 緊張の持続という点でスポーツは戦争に似ていても、本質は遊びだから戦争とはまるで違う、戦争なら食うか食われるか。とことんまでやらなくちゃ収まりがつかないが、スポーツにはドロンゲームもあればドクターストップもある。しかし白旗を掲げて降参なんてことはない。

 理解よりも誤解を得意とする人のために念のために書き添えると、スポーツは遊び、暇つぶしだと言っても、いい加減な気持ちでやればいいと言っているのではない。精魂を傾けて全力を投入して雑念から解放され、没我の境地に入ることが出来るなら、これこそ真の遊びでありスポーツの理想だと言いたいのである。

(『大和タイムス』一九七五年八月七日)P.214


先生とサムライの国

 肩のこらないお話を一席

 プレジダンといえばフランスでは大統領のことだが、何もエリゼ宮の住人だけとは限らない。首相(正式の名称は閣僚会議議長)もプレジダンなら、市議会議長もプレジダンである。商工会議所頭取もプレジダンであることはいうまでもない。その他まだまだいくらでもあり、およそ“長”となのつくものなら、だれでもプレジダンだと心得ていて間違いなかろう。

 「お国ではそこらじゅうにプレジダンがうようよしていますね」と日本に長く住んでいるあるフランス人を冷やかしたら、

 「魚釣り会の会長さんだってプレジダンですよ」と笑った。

 「ところで」と彼は皮肉な微笑をつづけながら、「そういえば、日本ではだれでもセンセイですね。国会議員もセンセイなら市会議員もセンセイ、あなただってセンセイの一人なんでしょう」と一矢を報いられた。

 これで勝負は引き分けになった。

 なるほど、わが国では本職の先生以外に“師”と呼ばれる先生が大勢いる。本職の中にデモ・シ先生というものもあるらしいが、それはさておき、お寺さんの何々師はよいとして、理髪師、美容師、マッサージ師、浪曲師、奇術師、勝負師、労務者を集めて仕事先に送り込むのが手配師、すべてなにがしか技能をもっていれば、だれでも“師”――先生の仲間入りが出来るわけだ。

 そこでふと思い浮かんだのは、多いのは先生ばかりでない。サムライも大勢いる。博士、学士からはじまって、弁護士、会計士、司法書士、棋氏、調理師、運転士、機関士、航空士、――知的職業人の中からサムライを数え上げれば、力士などは知的職業ともいえないが、まだまだいくらでもいるだろう。

 腰に大小をさしたサムライはいまでは時代劇映画の中にしかいないと思ったら大違いんで、刀こそささないが、背広姿のサムライがそこらあたりにうようよしているのが日本なのである。

 センセイ日本! サムライ日本! なぜこんなにセンセイとサムライが多いのか。その理由を読者が考えてごらんになるのも一興だろう。

(『大和タイムス』一九七五年九月七日)P.215


変装老人

 ある老人がこんな話をした。

――近鉄では車両の両端の座席を、年寄やからだの不自由な人のための優先席にしている。さて坐ろうとすると、座席はいつも詰まっていて坐れない。

 その特別席を独占しているのは若者たちで、両足を八の字に開き、一人で一・五人分くらいのスペースを占領している。

 ものはためしとその前に立ってみるがだれ一人席を譲ろうとする者はない。わたしは老人ながらも脚が丈夫だから、立っていても別に困らない。近ごろの若者はわたしなどよりもみな体力が衰えているのですな。

 老人は非難とも皮肉ともつかぬことを言って微笑を浮かべた。

 「しかし」と私は言った。

 「それはほんとうに若い連中だったのですか」

 「その通りです」

 「近ごろは髪を染めたりカツラを被ったりするのが流行っているようだから、老人が若者に変装しているのじゃありませんか」

 「なるほど、それは気が付かなかった。そうかも知れません」

 「みんな居眠りをしていたでしょう。昼寝をしているのが老人の証拠ですよ」

 「なるほど、なるほど、それじゃ、あの若者たちは見かけは若者でも実は老人なんですな。老人の変装ですか。そうとは気が付かなかった」

 「だって、窓ガラスに老人・身体不自由者の優先席というステッカーが貼ってあるでしょう。ほんとうの若者なら、みんな高校ぐらいは出ているはずだから、あの字が読めないはずはありません。あれを読めばあんな場所に坐るはずはありません。でも近ごろは学力がだいぶ低下したという話だけど」

 「いや、これは驚きました。先生は推理小説を研究なさっていると聞きましたが、さすがは大した推理力ですね」

 私は褒められて少し得意になり、言うつもりもなかったことに、つい口をすべらした。

 「近鉄が老人やからだの不自由な人のためにいくら気を遣ってくれても、それ以外の人々が無関心なら、せっかくの配慮も無になることです。福祉社会は社会全員の協力なしには成り立たぬということですね」

(『大和タイムス』一九七五年十二月二十二日)P.217

★プロフィル:吉村 正一郎は、日本のフランス文学者、文芸評論家、翻訳家。 滋賀県甲賀郡水口町に、のち広島市長の吉村平造の長男として生まれる。弟に映画監督の吉村公三郎がいる。1925年京都帝国大学文学部仏文科入学、1928年同卒業、朝日新聞社に入社、京都支局長、パリ特派員、論説委員を歴任し「天声人語」を書く。

平成三十年一月八日



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Who are you? あなたは だれ?


 『ソフィーの世界』(NHK出版)が話題をよんでいる。書店では非常に目につきやすいところに積まれている。

「あなたは だれ?」の問いから書き始められている。この問いに、ふと立ち止ったあなたは、もうこのファンタジーの主人公ですと説明されていた。

あらすじ

 十四歳の少女、ソフィー・アムンゼン。ノルウェーにある小さな街の、森の近くの家に住んでいる。父親はタンカーの船長でほとんど家におらず、いつもは母親とふたりきりで生活している。

参考:ソフィー・アムンゼンの住所は、張り付けている写真:ペーパーバックに下記の記述あり。カバノキ(シラカバ)の葉が緑になっている。北国で、季節は新緑であることがわかる。 

 Sophie Amundsen was on her way home from school. She had walked the first part of the way with Joanna. They had been discussing robots. Joanna thought the human brain was like an advanced computer. Sophie was not certain she agreed. Surely a person was more than a piece of hardware?

 When they got to the supermarket they went their separate ways. Sophie lived on the outskirts of a sprawling suburbs and had almost twice as far to school as Joanna. Tere was no other houses beyond her garden. This was where the woods began.

She turned the corner into Clover Close. At the end of the road there was a sharp bend, known as Captain’s Bend. People seldom went tht way except weekend.

It was early May. In some of the gardens the fruit trees were encircled with dense clusters of daffodils.The birches were already in pale green leaf.

 五月のある日、ソフィーは差出人のない封筒に入った自分宛の手紙を、郵便受けの中に見つける。切手も貼ってない。開けると、そこには、

 「きみは誰?」

と一言だけ書いてあった。翌日また同じような封筒が。

 「世界はどうして出来たの?」

 その中にはまた、そんな問いが書いてあった。

 そのまた翌日、ソフィーは郵便受けに分厚い封筒を発見する。開けてみると、それは「哲学者」からのものであった。彼女は、引き込まれるように、その哲学者からの手紙を読む。そこには「哲学とは何か」、「人間には何故哲学が必要か」が書かれていた。

 その後、ソフィーは数日に一度、郵便受けの中に分厚い封筒を見つけるようになる。その封筒の中には、西洋における文明の起源から今日までの哲学者とその主張が、その時々の背景とともに説明された手紙が入っていた。ソフィーは不思議に思いながらも、その内容に興味を持つようになる。

 見知らぬ人物から哲学の通信教育を受けていることを、ソフィーは母親にも親友のユールンにも隠していた。母親はソフィーに差出人の書かれていない手紙が頻繁に届くので、誰か男の子がラブレターをよこしているのだと思い込む。

 ソフィーは自分に手紙を送る人物が誰であるのか、知りたくて仕方がない。彼女はある日、哲学者をお茶に招待する手紙を書いて郵便受けの横に置いておく。数日後、彼女は返事を受け取る。そこには、

 「まだ我々は会う時期ではない。」

と書かれていた。差出人はアルベルト・ノックスとなっていた。奇妙な名前であるが、それがこの哲学者の名前らしい。

 ソフィーは一晩中起きていて、誰が手紙をソフィーの家の郵便受けに入れるのか突き止めようとする。そして、夜中にバスク帽をかぶった中年の男を見つける。

 哲学者からの手紙の他に、不思議な絵葉書がソフィーの家に届き始める。宛先は「ソフィー・アムンゼン方、ヒルデ・ミュラー・クナーク殿」となっている。差出人はレバノンの国連平和維持軍に働くノルウェー人の陸軍少佐アルバート・クナーク、ヒルデの父親であるという。しかし、ソフィーは、ヒルデにもその父親にも、会ったことがない。どうして、ヒルデの父が、自分宛に絵葉書を送り続けるのかを考えると、ソフィーは混乱するばかり。そのうちに、その絵葉書は、ありとあらゆるところに登場しはじめる。あるときは通学路の電柱に貼り付けられていたり、あるときはソフィーの家の台所の窓ガラスに貼り付いていたり。一体、誰がどのようにして絵葉書を届けているのであろうか。

 「哲学者」アルベルトは自分の正体をソフィーに見られたことに気付き、手紙を届ける方法を変える。自らが届けるのではなく、「メッセンジャー」に届けさせるという。果たして、そのメッセンジャーはラブラドール犬のヘルメスであった。ヘルメスはソフィーの家の庭にあるソフィーの秘密の隠れ場所、木の洞穴の中に、手紙を届けにやってくる。

 ある日ソフィーはヘルメスの後をつける。しばらく森の中を行くと、湖の畔に出た。向こう岸には小さな家が建っていて、その煙突からは煙が上がっている。

 ソフィーはつないであったボートに乗って、向こう岸に渡り、その家の中に入る。果たしてそこが、アルベルトとヘルメスの住処であった。そこには古い鏡と、二枚の絵が掛かっていた。一枚は「ビルクリュー」とな付けられたある家と庭の絵、もう一枚は「バークレー」という哲学者の肖像であった。

 ソフィーは誰かが帰ってきた気配に驚き、急いで立ち去る。そのとき、「ソフィーへ」と書いた封筒を思わず持ち帰る。乗ってきたボートは岸から離れてしまっていたので、ソフィーはずぶ濡れになりながらボートに泳ぎ着き、対岸に上がる。

 アルベルトはあるとき、ヴィデオカセットをソフィーに送りつける。ソフィーがそのヴィデオを見ると、舞台はアテネであった。アルベルトが写っており、彼はヴィデオの中からソフィーに話しかける。アルベルトはヴィデオの中から、アテネの三大哲学者、ソクラテス、プラトン、アリストテレスについての話をする。

 ソフィーが帰りの遅い母親に代わり夕食の準備をしていると、電話が鳴る。受話器を取る。アルベルトであった。彼は明朝四時に町の教会まで来るようにソフィーに告げる。ソフィーは母親に、ユールンの家に泊まりに行くと言って家を出る。そして、実際は真夜中過ぎにユールンの家を抜け出し、教会に向かう。教会には僧服を纏ったアルベルトが居た。そこで彼は、中世について、その間の哲学の不毛時代について説明する。そのようにして、アルベルトは場所と演出を色々変えつつ、ソフィーに会い、西洋哲学の歴史についての講義を進めていく。

 ヒルデ・ミュラー・クナークは目を覚ます。もうあと数日で彼女の十五歳の誕生日がやってくる。彼女のもとに小包が配達される。それはレバノンの国連平和維持軍で働く父親、アルバート・クナークからのバースデープレゼントであった。その荷物を開けると、中には分厚いファイルが入っていた。それは一冊の本と言ってもよかった。そしてそのタイトルには「ソフィーの世界」と記されていた。ヒルデはその本を読み始める・・・


小林裕子『眠りの悩みが消える本』P.187~189

北欧のバースデー

 二〇〇〇年に公開された二本の北欧の映画作品。これらには、朝目覚めるのが楽しくなるような、ある共通のシーンが存在する。

 一本は、『ソフィーの世界』というノルウェーの作品。これは原作が全世界で一五〇〇万部以上、日本でも二〇〇万部を超えるベストセラーとなったので知っている人も多いはずだ。原作者のヨ―スタイン・ゴルデルは、ノルウェーの高校元哲学教師。この『ソフィーの世界』は、とっつきにくいと思われがちな哲学について、子供向けにわかりやすく説いた、いわば哲学指南書といえる一差冊である。

 ある日、ソフィーという一四歳の少女のもとに「あなたはだれ?」とだけ書かれた謎の手紙が届く。そして、それをきっかけにソフィーは「自分とは何か」の答えを見つけるために、ソクラテスやレヲナルド・ダ・ヴィンチなどの哲学者が生きた時代、さまざまな歴史的事件が起こった場面などへ、時空を超えた旅をすることになるのだ。

 二本目は『ロッタちゃんと赤いじてんしゃ』というスウェーデン映画。この作品の原作者は、『長く下のピッピ』で有名なスウェーデンの童話作家アストリッド・リンドグレーン。彼女が一九五八年から書き始めた『ロッタちゃん』シリーズは、スウェーデンの子どもたちに読みつがれている定番の作品で、この映画のヒットにより、日本でも邦訳された絵本の人気が高まった。

 ロッタちゃんは、両親にも兄姉にも近所の人々にも、赤ちゃん扱いされるのが気に入らなくて、いつもしかっ面をしている五歳の女の子だ。その少々生意気な彼女の日常生活や、彼女が遭遇するちょっとした事件を描いた物語がこの作品である。

 これら二本の映画に共通して登場する場面とは、主人公の誕生日を祝うシーンだ。

 誕生の朝、ソフィーが、ロッタちゃんが、寝ているところに、家族が年の数だけロウソクを点したケーキとプレゼントを持って、「今日は何の日? 特別な日」という独特のバースデーソングを歌いながらやってくる。誕生日を迎えたヒロインは、朝のベッドの中で、お姫様になったような気分で、プレゼントの包みを開けたり、ケーキを食べたりできるというわけだ。

 北欧では、誕生日の朝に、寝起きをおそって祝う習慣があるという。こんな嬉しい目覚め方なら、夜型タイプの人が少々早めの時間に起こされたとしても、大歓迎のはずだ。

 日本でもこれを真似て、年に一度こんな嬉しい朝の目覚め方をするというのもいいかもしれない。興奮して、前の晩はかえって寝つかれないかもしれないが。

早石 修=監修 小林裕子『眠りの悩みが消える本』日経ビジネス文庫(日本経済新聞社)


▼九五年実践人夏季研修大会(静岡県三島:富士社会教育センター)に参加八月二〇日、藤本幸邦住職の講演「はきものをそろえる」を聴講。
 お話の中で、「自分とはなんですか」「自己とはなんですか」「日本人の自己とはなんです」と参加者に問いかけられた。読んだあれこれの本を思いうかべようとしたがまともな答はでてこない。一体、これまで何をしていたのか。

▼八月末、日曜坐禅の坐禅が終わり、原田老師にこの問題を質問した。

 「禅宗ではどんなに考えるのですか」と。

 「説明できます。しかしそれは私のものであって、貴方のものではありません。貴方が自ずから考えることです。おこたえしないほうがよいでしょう」

▼香厳が禅師に教えをお願いしたとき、大潙は答えた、「われなんじがためにいわんことを辞せず。おそらくはのちに、なんじわれをうらみん」。

 のちに香厳は悟った。

▼坐禅参加者の一人は生涯の問題ですよねと呟いていた。

補足:老師のお言葉は鉄槌でした。あらためて、心に銘ずるために、大潙禅師と香厳智閑禅師とのやりとりを岩波文庫より書き写しました。
 『正法眼蔵』の「渓声山色」に、
 香厳智閑(きやうげんしかん)禅師、かって大潙大円(だいゐだいゑん)禅師の会(え)に学道せしとき、大潙いはく、
 「なんじ聡明博解(はくげ)なり。章疏(しょうしょ)のなかより記持(きぢ)せず、父母未生以前にあたりて、わがために一句を道取(どうしゅ)しきたるべし」。
 香厳、いはんことをもとむること数番すれども不得(ふて)なり。ふかく身心をうらみ、年来たくはふるところの書籍(しょじゃく)を披尋するに、なほ茫然なり。つひに火をもちて、年来のあつむる書をやきていはく、「画にかけるもちひは、うゑをふさぐにたらず。われちかふ、此生(ししょう)に仏法を会(うい)せんことをのぞむまじ、ただ行粥飯僧(あんじゅくはんぞう)とならん」といひて、行粥飯して年月をふるなり。行粥飯僧といふは、衆僧に粥飯を行益(あんいき)するなり。このくにの焙饌役送(ばいせんやくそう)のごときなり。
 かくのごとくして大?のまうす「智閑は心神昏昧(しんしんこんまい)して道不得(どうふて)なり、和尚わがためにいふべし」。
 大潙のいは「われ、なんじがためにいはんことを辞せず。おそらくはのちになんじわれをうらみん」。
 かくて年月をふるに、大証国師蹤跡をたづねて武当山にいりて、国師の庵のあとにくさをむすびて、為庵(いあん)す。竹をうゑてともとしけり。あるとき、道路を併浄(ひんじん)するちなみに、かはらほとばしりて竹にあたりて、ひびきをなすをきくに、豁然(くわつねん)として大悟(だいご)す。沐浴し、潔斎して、大潙山にむかひて焼香礼拝して、大潙にむかひてまうす、「大潙大和尚、むかしわがためにとくことあらば、いかでかいまこの事(じ)あらん。恩のふかきこと、父母よりもすぐれたり」。つひに偈をつくりていはく、(省略)
 この偈を大潙に呈す。
 大潙いはく、此子徹也「この子、徹せり」。



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白い巨塔


解説

 山崎豊子の長編小説。1963年9月15日号から1965年6月13日号まで、『サンデー毎日』に連載された。当初、第一審までで完結の予定であったが、読者からの反響が予想外に大きかったため、1967年7月23日号から1968年6月9日号にかけて「続・白い巨塔」を『サンデー毎日』に連載した。正編は1965年7月、続編は1969年11月にそれぞれ新潮社から単行本として刊行された。

 浪速大学に勤務する財前五郎と里見脩二という対照的な人物を通し、医局制度などの医学界の腐敗を鋭く追及した社会派小説。山崎豊子作品の中でも特に傑作とな高い。

あらすじ

第1部

食道噴門癌の手術を得意とする国立浪速大学第一外科助教授・財前五郎は、次期教授を狙う野心に燃える男。一方、財前の同窓である第一内科助教授・里見脩二は患者を第一に考える研究一筋の男。

食道噴門癌の若き権威として高い知名度を誇る財前の許には、全国から患者が集まってくる。その多くは、著名な有力者やその紹介の特診患者。その卓越した技量と実績に裏打ちされた自信と、野心家であくが強い性格の持ち主である財前を快く思わない第一外科教授・東貞蔵は何かにつけて苦言を呈する。

財前は次期教授の座を得るために、表面上は上手に受け流すも馬耳東風。次第に東は他大学からの教授移入を画策し始める。後輩でもある母校の東都大学教授・船尾にしかるべき後任者の紹介を依頼、寡黙な学究肌の心臓外科医、金沢大学教授・菊川を推薦される。菊川が大人しい性格である上に独身であることに目をつけ、東は自身の引退後の第一外科における影響力の確保をもくろむ。また、普段から一匹狼の気があり、財前を嫌う整形外科教授・野坂は、皮膚科教授・乾や小児科教授・河合と共に、第三派閥の代表となるべく独自の候補者として財前の前任助教授であった徳島大学教授・葛西を擁立。それらに対し、財前は産婦人科医院を開業している義父・又一の財力と人脈をバックに、ツーカーの間柄にある医師会長・岩田重吉を通して岩田の同級生である浪速大学医学部長・鵜飼を篭絡。鵜飼派の地固めを狙う鵜飼もこれを引き受け、腹心の産婦人科教授・葉山を通して画策に入る。一方で財前は医局長の佃を抱きこみ、医局内工作に乗り出す。

教授選考委員会では書類審査の結果、候補者は財前・菊川・葛西に絞られる。その後は派閥間の駆け引きや札束が乱れ飛ぶなど、与党の総裁選のような熾烈な選挙戦が展開される。投票当日、開票の結果は財前12票と菊川11票で両者とも過半数を占めることができず、という異例の決選投票にもつれ込んだ。鵜飼は、白熱する教授戦を憂慮した大河内の「即時決選投票実施」提案を強引に退け、投票期日を1週間後に延ばす。その間、野坂の握る7票(葛西の得票数)をめぐり、実弾攻撃主体の財前派とポスト割り振り主体の東派が水面下で激しい攻防戦を繰り広げる。菊川のもとに佃を行かせ立候補を辞退せよと強要したり、大河内にまで賄賂を送ったりするなどなりふり構わぬ財前派。それらの行為への反省の色も無い財前に、東は「決選投票はまだだが、君との人間関係はどうやらこれで終わったようだ」と通告。大河内は財前派の実弾攻撃を激しく憤り、教授会の席上で暴露するが、決選投票で財前は菊川に2票差で競り勝ち、第一外科次期教授の椅子に就くこととなる。勝利に沸く鵜飼派。東は失意のまま定年退官を迎え、近畿労災病院の院長に就任した。

第2部

教授に就任した直後、財前はドイツ外科学会から特別講演に招聘され、得意の絶頂に。そんな最中、里見から相談された胃癌の患者・佐々木庸平の検査、手術を担当するが、保険扱いの患者で中小企業の社長であることから高圧的で不誠実な診療態度に終始。胸部レントゲン写真に映った陰影を癌の転移巣ではなく結核の瘢痕と判断、多忙を理由に受持医の柳原や里見の進言を無視して術前の断層撮影検査を怠り手術。術後に容態が急変しても、癌性肋膜炎を術後肺炎と誤診し、受持医の柳原弘に抗生物質「クロラムフェニコール」の投与を指示したのみで、一度も診察せぬままドイツに出発。しかし、その後佐々木は呼吸困難を起こし、手術後21日目に死亡する。里見の説得で遺族は病理解剖に同意し、大河内が行った病理解剖の結果、死因は術後肺炎ではなく癌性肋膜炎であったと判明する。遺族は診療中の財前の不誠実な態度に加え、一家の大黒柱を失ったことにより民事訴訟提訴を決意する。里見はそのことを財前に知らせるべく欧州に何度も電報を打つが、財前は無視する。

ドイツにおける外科学会での特別講演、ミュンヘン大学における供覧手術など国際的な外科医として華々しくデビューし、栄光の絶頂を味わって帰国した財前を羽田空港で待っていたのは、「財前教授訴えられる」という見出しで始まる毎朝新聞のゲラ刷りだった。失意のまま密かに帰阪した財前は鵜飼宅に直行。鵜飼は激昂。一時は見限られかけるが、巧みに説得して関係を修復し、法律面では老練な弁護士・河野に代理人を依頼。受持医・柳原や渡独中の医長代理であった助教授・金井など病院関係者への工作に加えて、医学界の権威に鑑定人を依頼する。一方の遺族側も正義感あふれる関口弁護士に依頼。里見、東の助力で鑑定人を立てる。裁判では、「外科手術に踏み切った根拠に必要の度合を超えるものがあったかどうかが問題。仮に術前検査を怠った結果患者が死に至ったのであれば臨床医として軽率だったといわざるを得ない」という大河内の厳正な病理解剖鑑定や里見の証言などにより被告側(財前)はピンチに陥るが、鵜飼医学部長の内意を受けた洛北大学名誉教授・唐木の鑑定、受持医の柳原の偽証(裁判所には全面的に採用されなかったが)もあって第一審で勝訴。判決文によれば、財前の道義的な責任を認めながらも、極めて高次元なケースで法的責任は問えないという理由であった。一方、原告側の証人として真実を証言した里見は山陰大学教授へ転任という鵜飼の報復人事を蹴り、浪速大学を去る決意を固める。

敗訴した遺族は捨て身の控訴に出る。里見は、世論を恐れた鵜飼が辞表を受理せず中途半端な立場においた為に日々悶々としていたが、半年の後、恩師大河内の計らいで近畿がんセンター第一診断部に職を得る。一方の財前は特診患者の診療に忙しい日々を送っていた。ある日、医局で抄読会を開いていた財前の元に、鵜飼から学術会議会員選挙出馬の誘いが来る。これは内科学会の新進気鋭である洛北大学教授・神のうが学術会議戦に立候補するためで、これを財前を利用して叩き、体面を失わせることで学会における自分の地位を確保しようというのが狙いであった。財前は結局それを引き受け、裁判・選挙の双方に勝利しようと野望を覗かせた。

控訴審に備え、財前は最重要証人の柳原に市内の老舗・野田薬局の令嬢との縁談(今で言う逆玉)や学位をえさに工作。しかし、柳原は一審の判決以来、良心の呵責に苦しんでいた。また、原告側弁護人や里見たちの努力により、控訴審は予断を許さない状況になりつつある。原告側は里見の助言で胸部検査の重要性や化学療法などの新たな展開が生まれたのだ。

佐々木庸平の遺族は裁判途中に大手元売による「真珠湾攻撃(強引な債権回収手段のひとつ。相手の油断している日曜の早朝などを狙って押しかけ、のう入した品物を回収すること)」もあって経営に行き詰まり、遂に倒産の憂き目に会う。一家はそれでも、「せめて裁判で勝訴するまでは商売を続けたい」という執念により船場の一角にある共同販売所に入って細々と商売を続けることになる。

選挙、裁判のためか体調の優れない財前だったが、疲労の蓄積だろうと多忙の日々に没頭するあまり、癌の早期発見の機会を逸してしまった。そんなある日、上本町駅で偶然里見は財前に出会い、「学術会議選など学者にとって何のプラスにもならない。君は疲れ過ぎている」と助言をするが、財前は一蹴。

選挙は野坂による票の横流しなどで窮地に立つが、得意の裏取引や、第三の候補者を引き下ろすなどの強引な運動もあって勝利する。しかし、裁判は大詰めの当事者尋問の時に、関口の鋭い尋問で窮地にたった財前は柳原に責任転嫁。

嘘だ!

柳原は将来のポストも縁談も捨て傍聴席に走り出て、遂に真実を証言する。さらに、舞鶴に飛ばされた抄読会元記録係・江川が、決定的な証拠となる記録を持ち出した。浪速大学に辞表を出した柳原は過去の偽証を悔い、残りの人生を何か人のために尽くしたいと、高知の無医村に去る。

結果、裁判の判決は財前側の敗訴だった。「最高裁に上告する」と息巻いた財前は、その直後に突然倒れ込む・・・

翌日、最高裁へ上告したすぐ後に、極秘で金井助教授が行った透視では胃角部に進行癌が発見され、鵜飼の指示により金井は胃潰瘊だと財前に伝えた。しかし胃潰瘊との診断に納得しない財前はひそかに里見を訪問。内視鏡検査を受ける。癌であることを隠して一刻も早い手術を勧める里見に、財前は「本当は東に執刀して欲しい」と漏らす。口添えを依頼された里見は東を説得、東も過去の因縁を忘れて財前を救おうとする。だが、東による手術が行われた際、財前の胃癌は肝実質に転移しており、もはや手遅れの状態であった事が判明した。

結末

東は体力を温存すべくそのまま縫合。何とか救いたいという里見の熱意により、5-FUによる化学療法が術後1週間目から受持医となった金井助教授により開始される。最初は奏功して食欲不振が改善されたが、術後3週間目に入って副作用である下痢が起こったため金井は投与を中止。その上、ついに黄疸が出てしまい、財前は金井を問い詰めるが納得が行く回答を得られない。疑問に思う財前は、どうしても真相を知るべく里見の来訪を請う。

里見が訪ねてきたとき、財前は「癌の専門医が自分の病状の真実を知らないでいるのはあまりにも酷」と真実を告げることを懇願、里見も財前が真実を知ったことを悟る。翌日から財前の病状は急変し、術後1ヶ月目に遂に肝性昏睡に陥る。うわ言の中で、自分の一生を振り返り、患者を死なせたことを悔いつつも、最高裁への上告理由書と大河内教授への自らの病理解剖所見書を残して財前は最期を遂げる。



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椎名麟三著『私の聖書物語』


 イエスの誕生 

   1 人間誕生 P.161

〚明日では遅すぎる〛というイタリア映画を見たことがある。それは少年少女の性のめざめをとり扱ったもので、そのめざめを悪とする老女教師による少年少女の愛の悲劇を描いたものであった。そのなかで四、五歳の幼い少女が、子供はキャベツのなかから生まれて来るのだといわれて(少なくともイタリアではそういうふうにおしえられているらしい)、ひとり台所で非常な熱心さでキャベツの葉を一枚一枚そっと用心ぶかくはがして行くという場面があった。観客たちは、その幼い少女をどっと笑っていた。いくらキャベツをむいても、そのなかに赤ん坊なんかいないことを知っているからである。

 だが、その観客たちは、ほんとうに人間誕生の秘密を知っていたかどうかになると、私はどうもあやしいと思わざるを得ないのである。彼等の大部分は、赤ん坊は男と女の性交によって生まれて来るのだという直接的な事実にとどまるだけであろう。私は、少年のころ、農村で暮らしていたが、村の大人たちが、私をからかって、

 「お前なんか、とうちゃんとかあちゃんの夜なべの仕事なんやか」

 といわれて、屈辱を感じたものである。しかもその屈辱は二度であった。一つは、その私をからかう大人たちが、あたかも彼らだけは夜なべの仕事で生まれたのではないように振舞っていたからである。一つは私の生まれた夜なべの仕事というのは、どうもうろんなあやしげな感じがするからである。

 しかし進化論によって、人間の祖先は猿だったということを教えてくれるが、人間がどうして人間であり得るのかとなると、その疑問には答えてくれない。また生化学は、生命の秘密を明らかにするかも知れない。そして恐らくは、人間は一点の秘密もあまさずに明晰に残りくまなく説明され得るものとなるだろう。それでもなお、人間は、ほんとうに人間誕生の秘密を知ったかとなると、私はそれを信じ得ないのである。それはなぜ物質は存在するのか、何故宇宙が存在するのかにさかのぼって行って、遂にアインシュタインのいうように宇宙の限界にぶっかり、そこで人間の知性は破滅せざるを得なくなるかれである。

 私は、神秘主義者でないから、人間の誕生の秘密をほんとうには知ることはできないものだということにこだわるつもりはない。ただ私は、宇宙の限界は、そっくりそのまま人間の知識の限界を示していると思われる、ということがいいたかったにすぎない。そしてその限界のなかで理解されたものであるかぎり、その理解をほんとうのものとすることはできないと思われるのである。いわば条件つきの自由が、ほんとうの自由ではなく、条件つきの愛が、本当の愛ではないように、条件つきの理解が、ほんとうの理解ではないということは理の当然である。

 イエスの誕生は、たしかに私たちの理解を越えている。聖霊によってマリヤに身ごまったというからだ。私は、この信ずることのできない事実の正当化をしばしば聞いて来た。人間の理解を越えているという点を強調して、聖霊が、または神が、イエスのほんとうの姿であるという正当化や、またマリヤはロマの兵隊かなんかに強姦されたんだという他の一方の正当化などである。

 人間の理解を越えているという点を、イエスのほんとうの姿とする人々は、彼がひとりの女の胎から生まれたという事実を捨象してしまう危険があると思われる。彼が生まれたときは、キャベツのなかからでなく、たしかにヘソの緒をつけてマリヤから生まれたのであるからだ。しかしまた一方、ロマの兵隊から強姦でもされたのだろうというのは、私たちの知性を納得させてくれるが、このはなはだ合理的な説明を、ほんとうのものとして信じることはできない。何故なら、どんな合理的な説明にとつてかわりえるからである。いいかえれば合理的な説明というものは、他の違った無限の合理的な説明を予想させるからである。しかし合理的な説明というものは、魅力があるらしい。最近の週刊雑誌で、イギリスに起った事件をとり上げているのを読んだ。処女が妊娠したという事件である。くわしいことは忘れたが、この婦人を多くの科学者が検討して、性交によって妊娠した事実はないように思われるというようなはなはだ卑怯な判定を下していたようである。そして三十億人かにひとりは、処女で妊娠する可能性があるという報道をしていた。

 私は、この記事を読みながら思わず噴き出したのだが、もちろんその婦人の妊娠についてでなく、イギリスの人々の、その報道にたいする熱狂ぶりについてであった。日本では、処女で妊娠して子供を生んだということに、これほどの熱狂は示さないだろうと思われたからである。新聞も機構をあげて、この処女妊娠の調査に援助していたようだからだ。だが、私の笑ったのは、この熱狂の底にあるものが感じられたからであった。それはどうもマリヤの妊娠を人間の理解の範囲のなかへもって来たいという。イギリス人のひどくいじらしい切望のあらわれのように感じられたからである。おそらくイエスの誕生にからまる合理的な説明は、これから先もいろんなものがでて来るだろう。そして私は、それを悲しみながらも、一方では楽しみにもしているのである。

   2 イエスの人間であることの十分さ P.165

 イエスは、聖霊によってみごもって生まれたということを信じないかぎりは、クリスチャンでないとされている。しかし聖霊によってという証言は、マリヤやヨセフの夢だからどうも始末がわるいのである。私は、さもしい性分なので、夢でしばしば金を拾う。失業して腹をへらしているときは、ことにそうであった。だが、夢で昨夜大金を拾ったからといっても、食堂でツケで飯を食わせてくれないという、はなはだ冷酷な人間の事実を知っていたので、臆面もなくその夢を適用させたことはなかった。しかも夢なんて、見ようと思えばどんな夢でも見られるものである。私は、牢獄でしばしばその実験をして見たから知っているのだ。フロイドの精神分析学の適用かも知れないが、今晩厚いビフテキを食べている夢を見ようと思えば大抵は見られたものである。しかし朝眼がさめたときの悲惨さは耐えがたいものであったのは、玉にキズであった。

 だが、イエスは、どうしてか知らないが、生まれて来たのだという事実は信じられるだろう。彼が生きていたということの多くのひとの証言があるから、生きていた以上、生まれて来たにちがいないからだ。そして私にとっては、それで十分なのだ。こう言えば、私が『婦人公論』という雑誌へ、「私の聖書物語」を連載中のときのように、忽ち世の立派すぎるクリスチャンから、非難と抗議の投書をどっと投げつけられるだろう。とにかく一般に、正義派というひとは、どうも気が早やすぎるという特性にあまりめぐまれすぎているのではなはだ困るのである。そのひとたちは、イエスの人間であることの十分さを知らないひとであると思う。

 十分というのを、ここで説明したいと思うが、紙幅がないので簡単に説明しよう。私たちは、なにか抽象的のものに対して十分さを感ずることはない。善に対して十分になったり愛に対して十分になったり、学問や勉強に対して十分になったりすることはまずないにちがいないからだ。いくら愛しても愛し足りないものであるし、いくら学んでも学び足りないものであるというのが人間の現実だからである。そしてもし十分さを感じるときは、そのひとが自分で自分の枠を設けているときだ。たとえば客に行って、飯を三杯食べたから私はそれで十分ですなどという。また、女を愛して、あの女には指環を買ってやったから、あの女にはそれで十分であるという。また自分は、まだ人に非難されるようなことをしたことがないから、十分善人であるとお感じになっている方があるかも知れない。とにかく十分さは、あるひとつの枠をみたすという意味で、その枠が十分さを保証するのである。

 だが、十分さの枠を自分で決めているときは至極やさしい。だからこの私でも、自分を十分に善人だと言える。また一億人の人を殺したことがないということについてである。だが、他からこの枠があたえられると、少しばかりこの十分さがゆらいで来る。たとえば、善について言えば、道徳も法律も、いつもその人間は善について不十分であるように振舞っており、そして私たちも、一億人の人を殺したこともないということについては十分善人であるかも知れないが、ほんとうに十分に善人であるかと、いわれれば心細くなって来るのである。このとき善の絶対的な枠をみたすものでなければならないからである。絶対的な枠とは、それを行おうするならば死ぬより仕方がないという枠であり、死が枠であるような善である。たとえば天皇のために生きるということが最高の善であったことがある。しかしそのために生きるということの枠は、天皇のために死ぬということであったということを思い出していただければいい。

 端的に言えば、あのマタイ伝の「一日の苦労はその日一日だけで十分である。」(第六章)といわれるときの十分さだ。この十分さは、キリストを知らない人には、デカダンスと感じられる十分さなのである。何故ならそのひとが感じ得る十分さとは、飯は三杯で十分であるというような十分さだからだ。

   3 クリスマス P.168

 もちろん私が、イエスが人間であることに十分さを感ずるというときには、復活のキリストが私の背後にあるということはいうまでもない。

 一日は、どんなふうに暮らしたって二十四時間であるという限界を超えることはできない。またどんなふうに暮らしたって、人間は死ぬまでしか生きられないという限界を超えることはできないのである。だから一日が一日であるように生き、一生が生まれてから死ぬまで十分であるように生きるためには、十分であるような生き方のできるようにしている保証がなければならないであろう。たとえば一リットルの瓶に水を十分みたすためには、一リットルの水がなければならないことは理の当然である。だが一リットルの水に不十分さを感ずるときは、私たちは二リットルの瓶を予想するときだ。もし百リットルの水をもっているならば、五リットルの瓶を予想しても、十リットルの瓶にみたさなければならなくなっても、五リットルの瓶に不安になることもないし、十リットルの瓶に現実にみたすことができるだろう。だが、百リットルの水をもっているということは、人間の自然として同時に不十分さをかんぜずにおられないのだ。というのは、残念なことには百リットルは、二百リットルの瓶には少なすぎるという事実を忘れることができないからでである。こうして私たちは、全世界をみたす水をもち得れば、どんな瓶にも一応安心できると思うであろう。そのとき、そんな水をもち得ないのが人間の現実だとするならば、いつも不十分さを感じていなければならないのである。でなければ、世界なんか消してしまうかである。そして世界をなくしてしまう。つまり首をくくって死ぬのである。

 砂漠で一リットルの瓶に水をみたすということは困難であるが、海のなかでは一リットルの瓶にはいつも十分に水をみたし得るという意味で、全世界の瓶に水をみたすためには、全世界を超えた水がすでになければならないということは自明なことである。それが一日を一日で十分であり、一生を一生であるように生きる保証が、どんなものでなければならないかを示していると思う。そしてさらには、そのような世界を超えた水をもつためには、その世界を超えた水を枠づけしているようなものが必要であるだろう。いいかえれば無限の水を入れる枠をつくっているもの、無限を有限化している存在が必要であることはもちろんである。そのときその水は、世界を超えているという意味で無限でありながら、ほんとうには無限ではないという意味で有限なのである。

 ややこしくなったように思われる方があるかも知れないが、このことをはっきり私たちの眼に見えるものとして下さったのが復活のキリストなのである。いいかえれば、ほんとうに救われていなければ、救われていない現実を十分に生きることはできないのだ。逆にほんとうに救われていることを知っている人間の現実から言えば、その現実は救われていることと、救われていないという二重性であるのである。

 クリスマスを語ろうとして、脇道へそれたようだが、イエスの人間として誕生したという事実で十分であるということを喜びたい。もちろん聖霊によってみごもったということは、私は信じられない。ただ私は、そのように信じられない自分に対して、あたたかいユーモアをもって承認してやることができるのである。復活のイエスにおいて、自分がほんとうに救われてあるということを知っているからである。

 クリスマス。それはキリストを信じないものにも祝いの日になっているようであるが、その信じない人々とともに十分たのしまれるように祈る次第である。

▼椎名麟三著『私の聖書物語』中公新書(昭和三十二年四月十五日四版発行)による。

2019.03.06


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『チャーチル物語』


★『チャーチル物語』 
著者 比佐 友香(ひさ ともか)角川書店(昭和35年3月5日初版発行)

 序

  ――私はチャーチルをこう見る

 サー・ウインストン・チャーチルは生きている歴史であり、生きている伝説である。    

 このくらい偉大な業績をのこした政治家は、すくなくとも二十世紀に入ってからは二人といない。おそらく何十年かに一人しかあらわれないといった類の政治家ではないかと思う。

 チャーチルは栄光のなかから生まれ、栄光のなかで育ち、栄光のために戦い、そして栄光の歴史を守った栄光の人であるといってもよいのではないだろうか。絢爛たるヴィクトㇼア朝の栄光のなかで、名門中の名門である貴族の家に生れ、帝国主義と資本主義の隆々たる発展時代の栄光にはぐくまれ、第一次、第二次の世界大戦を戦い勝って、祖国の栄光と名誉を守りぬいて、かれ自身もばら色の栄光につつまれている。アーノルド・トインビーは、チャーチルは個人的勇気によって歴史をつくりあげた、かれはまるでアレキサンダー大王の世界に生きているかのように歴史をつくった、と評しているが、これは決して誇張した言葉ではないと思う。

 イギリスの栄光は、自由という大地に根をはっていたからこそ耀耀(ようよう)と光彩を放つことができたのであって、イギリスに自由の伝統がなかったならば、チャーチルが命をかけて守らなければならないと決意した栄光も生まれていなかったのではないだろうか。だからチャーチルは自由のなかから生まれ、自由のなかで育ち、自由のために戦い、自由を守りぬき、そして自由の新たなる歴史を創造したともいえる。自由の尊厳こそ、かれの長い政治生活をつらぬく強烈な歴史の脈拍なのである。かれは自由と自由を内容とする文明と、文明の要求するすべての規範とを、ひっくるめて《世界の大義》といっているが、ヒトラー・ドイツにたいするチャーチルとイギリスの戦いは、こうした《世界の大義》の擁護にほかならなかった。そししてこれを守りぬいて、危うかった歴史の生命を救い、歴史に新たなる生命を与えたのである。

 もしかりにチャーチルがいなかったとしたならば、世界における自由は、はたしてよく今日のように歴史の太陽でありえただろうか。チャーチル以外にこの大任をはたしえたほかのたれかがあっただろう。当時の保守党を見わたしても、党首で首相のネヴィール・チェンバーレンは対独宥和外交に無残な失敗を記録して自ら退いているし、ビーヴァブルックス卿やハリファックス卿はすぐれた資質をもつ政治家ではあったが、戦争指導では力量不足であったことは否めないし、労働党首のアトリ―ではなにぶんにも器(うつわ)も小さかったし経験も不足していた。結局チャーチルがこの世界に存在していたことは世界の幸福だったと断定してもよいと思う。

 第二次大戦におけるチャーチルの戦争指導というものは、近世史上にその例をみない卓越したもので、実に彼の政治的傑作であるといっていい。ダンケルクの敗退についでフランスが降服し、イギリスが文字通り丸裸で、しかも孤立無援で、ドイツ軍の猛襲に備えなければならなかった危急存亡の直前に首相となったチャーチルが、どうしてイギリスを勝利にみちびいたのか、一応はそれをしらべたつもりでも、時々かれがなにか魔術をつかったのではないかと思うことがある。それほどかれの戦略と外交と政治における一元的指導は妙なものであった。第二戦線の早期実施をせがむスターリンと第二戦線の展開にはやるルーズベルトを説得して、まずアフリカを制圧し、ついでイタリアを降して地中海の安全を確保しながら「大君主」作戦準備のための時を稼ぐと同時に、ソ連のバルカン制圧を牽制したあたりの戦略構想は、第一次大戦で政戦両略の不一致に悩んだ切実な体験をもつチャーチルにしてはじめてもちうる統帥の卓抜さといわなければならない。一党の指導者としてはすぐれた政治家が少なくない。しかし危急存亡というときに、かれほどあざやかに戦争を指導したものはかってなかった。

 チャーチルをして魔法使いのように大事業をなさしめたものは、イギリスの栄光と《世界の大義》にたいするかれの不屈の信念であったにちがいないが、その信念が驚嘆すべき鞏固さをもっていた秘密は、かれの個性のなかにもとめなければならないだろう。その秘密はかれの個人的勇気にかくされている。信念を言葉で表現するだけでなく、あくまでも現実のものにしようとする行動的な勇気である。

 かれはどんなに非難され、罵倒され、攻撃され、無視されても、自分の信念をまげようとしない勇気をもっていた。みすみす自分の政治的立場に不利だとわかっていても、かれは自分の信念をすてない勇気をもっていた。自分の信念に反して、世論に媚びを呈したり、国民の一時的な感情に迎合したりするようなことは、かれのいさぎよしとするところではなかった。国民の要望が無知からきていると判断したときは、かれは遠慮なくこれに反抗して警告する勇気をもっていた。第二次大戦の起こる数年前から、言論機関に叩かれ、国民大衆の反感を買いながらも、政府の非現実的な単純な平和主義と宥和政策を攻撃して、けっしてその手をゆるめなかった。かれはその当時、保守党内の異端児といわれ政界の孤児といわれる逆境にあったから、自分の属する政府を攻撃することは、自分の首を自分で絞める、いわば政治的な自殺行為にひとしものといわれた。だがいったん自分の考えが祖国の栄光と《世界の大義》に一致すると結論したが最後、世論がどうであれ、一歩も退かぬ勇気をもっていた。かれの父ランドルフ・チャーチル卿も、保守党内閣の大蔵大臣でありながら、反対党の自由党もびっくりするような急進主義的な予算案を編成して、陸海両相やソールスペリー首相と正面衝突をしたとき、安易に妥協して蔵相の椅子にしがみつくことをもとめずに、厳然として辞表を叩きつけているが、この父のあくまでも自己の政治的信念に誠実であろうとした勇気が、そっくりそのままチャーチルの血脈のなかにも流れているのである。父も子も、この二人の歩まなければならなかった政界の道は荊(いばら)の生えしげる曠野であった。時として――というよりほとんど常に非難と悪評と排斥につつまれて、自分の血と汗とにまみれながら開拓しなければならない原野であったといっていい。実際それは波瀾と冒険と陥穽(かんせい)にみちたけわしくもきびしい道だったが、父と子も、この道を高い誇りをもって突き進んで行ったのである。チャーチルの八十五年の過去を一貫して彩っているものは、実にこの勇気なのである。

 チャーチルは青年時代から冒険を好んだし冒険を恐れなかった。むしろ冒険のための冒険をもとめたと自分でもいっているくらい勇気過剰だったとさえいえる。自らもとめてキューバ島におけるスペイン軍の叛乱討伐戦に観戦武官として従軍して「砲火の下をくぐる」スリルを味わったり、インドの辺境民族の叛乱討伐に従軍して、蛮刀で斬り殺されかけたり、キッチナー元帥の反対を押しきってまでスーダン遠征軍に従軍して、すんでのことに戦野に屍(しかばね)をさらすところを危くまぬがれたこともあり、ボーア戦争では捕虜となり、収容所から脱走して助かっている。

 第一次大戦が起ると、降伏寸前のベルギーを激励するためアントワープにかけつけ、海軍大臣でありながら、救援に急派されたイギリス海兵隊を指揮してドイツ軍と戦い、同市が陥落する直前に、ドイツ軍の重囲を突き破って逃げ帰っている。ダーダネルス海峡突破作戦を強行して、海軍の大長老で軍令部長であるフィッシャー元帥と意見が衝突して、喧嘩両成敗の形となって海相の地位を失うと、ただちに一陸軍少佐として西部戦線の塹壕に飛びこんで、大隊を指揮して冷雨と泥濘のなかでドイツ軍と戦っている。かれが戦場で戦わないからといってかれを卑怯とも怠慢とも非難するものはいなかっただろうが、何千、何万の夫が兄が父が戦線で戦っているのを思うと、四十一歳の若いこの元大臣は本国にじっとしてはいられなかったのである。戦闘や死を恐れる気持は露ほどもなかったが、もはやこれは単なる冒険のための冒険をもとむる心からではなくして、大義に殉じて祖国に一命を捧げようとして一片耿々(こうこう)たる正義感から出た行為というべきであろう。

 かれは飛行機の操縦もやる。一通りの宙返りならやってのける腕前をもっている。操縦をあやまって墜落して人事不省になったこともある。勇気もあったが、運の強かった人でもある。

 第二次大戦当時、ドイツとの戦いには、たがいに協力しながらも、チャーチルが《帝国を守ろう》とすれば、反対に赤い《帝国を創ろう》とし、チャーチルが自由を《擁護》しようとすれば、反対に自由を《扼殺》しようとし、ついに最後までチャーチルと心をゆるす間柄になることのできなかったスターリンですら、ヤルタ会談のときの晩餐会の席上で「歴史上、一人物の勇気が世界史にとって、これほど重要であった例を、自分はわずかしか知らない」といってチャーチルの勇気には賞讃の言葉を吝(おし)んでいない。まことにかれの勇気はイギリスの資産であり、世界の無形文化財である。

 第二次大戦終了後すぐ行われた総選挙で、イギリス国民は、祖国を敗北から救った戦勝の英雄であるチャーチルに打っちゃりをくらわせて、アトリ―の労働党に政権をゆだねた。戦争にもチャーチル、平時にもチャーチルでは、チャーチルは独裁的な権勢をもちかねないとみたからである。戦争指導には強権と統制はつきものだが、国民にはそれがチャーチルの政治の実体であるかにみえたのであろう。戦争という極度の緊張から急に解放された国民は、休息してやすらいだ気持を味いたかったにちがいない。そして権威はもうたくさんだと考えたのも無理ではないだろう。だがいったん非常の事態に直面すると、アスキスよりはロイド・ジョージを、チェンバーレンよりはチャーチルをと、非凡な強力者にその指導をゆだねる。アトリ―内閣に経済危機をのりきる能力なしとみると、国民はたちまちチャーチルの再登場を要望するのである。このあたりにイギリス人の洗練された政治感覚のよさがあり、イギリスの民主政治の根深さがあるともいえよう。

 チャーチルは独裁的な権威など夢にも考えたことがなかった あかりか、かれは徹頭徹尾議会政治家であり、典型的な議会人である。自由と文明と大義というかれの信念は、ながい歴史的伝統をもつ議会政治によって培われものであって、かれの信念そのものが、イギリスの議会政治を支配している鉄の規律なのである。チャーチルはそれをただその極限にまで発展させただけなのである。その意味で、チャーチルその人を、イギリスの議会政治が生んだひとつの政治的傑作であるといってもいいかもしれない。

 こんにちイギリスの保守党を守旧頑迷と非難するものはまずないだろう。それは進歩主義が保守党の背骨となっており、血脈となっており、伝統となっているからにほかならない。保守党に進歩主義の新風を送りこんだ功績をチャーチルのみに帰するといったら当を失うだろうが、かれが大きな推進力であったことは認められてよいと思う。かれの父ランドルフ卿が民主的保守党の進歩的思想を党に新風として送りこんだように、チャーチルもはじめは保守党から政界入りをしたが、党幹部の守旧的政策に不満を感じて、反対党である自由党に走り、ロイド=ジョージとともにもっともにもっとも尖鋭な急進派の双璧となって、党内から「社会主義的だ」と非難されたロイド=ジョージ蔵相の有名な《人民》予算案の熱烈な推進力となっている。

 チャーチルは第一次大戦前後から海相、軍需相、陸相と軍部関係の指導的地位にあったし、第二次大戦までの長いあいだボールドウィン、マクドナルド、チェンバーレン三内閣にたいして、つねに再軍備の急務を警告していたため、頑迷な保守的帝国主義者であるかのごとくみられやすいが、かれが指導者となってからの保守党およびその政府はけっして守旧的政策をとらず、進歩的な線を歩んで誤らなかったといえよう。

 かれは偉大なる政治家である前に、まず偉大なる議会人であった。銀色の甲冑をつけて豪刀を大上段にふりかぶったようなグラッドストンと、黒色の甲冑をきて鋭い槍の穂先を下段に構えたジスレリーとの火花を散らす大論争が国中をわかしている時代に少年期をすごし、ジスレリーなきあとその遺髪をついで保守党のネープとなって、グラッドストンとはげしく渡り合った父ランドルフ卿の論戦ぶりを目のあたりにみて青年期をすごして、はやくから議会における攻防の論戦に感銘をうけていたチャーチルは、議会での論戦には真底から生き甲斐を感じていた。論戦がはげしければはげしいほど、それに参加する自分が楽しくてならないという風があった。なによりもかれは議会がすきだったのである。一九〇〇年の処女演説以来、かれは歴史にのこる多くの名演説を行ったが、推敲に推敲を重ねたかれの演説は、自他ともにゆるさぬ流麗荘重な名調子で、ときに他人の追従をゆるさぬかれ一流のユーモアとウィットを混えた自信満々たるものであって、演説そのものがひとつの芸術的作品であるとさえいわれ、イギリス下院の魅力であり、国民の誇りともなっているものである。チャーチルが一九五五年四月五日、首相の椅子から引退するに当って、エリザベス女王はかれに公爵を授けられるお考えであったが、チャーチルは固辞してこの栄誉をうけなかったといわれる。心の故郷(ふるさと)ともいうべき下院をはなれることは、かれにとってはたえられない淋しさだったにちがいない。

 かれは雄弁家であると同時に名文家でもある。若い騎兵中尉時代に書いた「マラカンド野戦軍」やスーダン戦記の「河畔の戦い」で早くも文名をあらわし、父の伝記「ランドルフ・チャーチル卿伝」で名文家のほまれを高め、大著「世界の危機」――邦訳「世界大戦」――でノーベル文学賞をかちえ、「第二次大戦回顧録」は世界でのベスト・セラーとなり、最近出版した「英語国民の歴史」は、これも圧倒的な高評を博しているようである。かれの六十年にわたる波瀾万丈の政治生活を支えてきたのは、これらの著述からの印税収入であって、不浄な紐つきの政治資金などは一銭一厘も身につけたことのないことを記しておきたい。

 チャーチルは政治家としては失敗したとしても、依然偉大なる雄弁家ではあっただろうし、また一度も演説しなかったとしても、依然偉大なる文筆家でありえただろう、さらに文章になんら特殊な魅力はなかったとしても、依然偉大なる歴史家でありえただろうと、評論家ギルバート・マレーはいっているが、アーノルド・トインビーは、かれの強烈な個性をもってすれば、画家としても同様の足跡をのこしたにちがいないと評している。事実かれは絵筆をとっても出色で、パリで匿名で個展を開くと、売りきれるほどの芸術的才能をもっている。多彩な才能に恵まれた日凡人というべきであろう。

 チャーチルは首相を引退するまでの五十五年というながい政治生活中に、ほとんどあらゆる大臣職を歴任している。一九〇八年三十四歳の若さで通商相となって以来、内相、海相、ランカスター公領尚書、軍需相、陸相、空相、しょく民相、蔵相を歴任し、最後に首相兼国防相となり、第三次内閣までやっている。これだけの経歴をもった政治家はイギリス史上にもいないし、世界史のなかにも見あたらない。この経歴をみただけでも、かれが首相となり第二次大戦に戦い勝ったのは、偶然や幸運からのことではなく、かれの実力と真価からきたものであることが理解されよう。

 まさにチャーチルは二十世紀におけるもっとも偉大な個性のもち主であり、その八十五年の過去は、それ自身華麗壮大なる一大詩劇であるといっていい。

 私はサー・ウィンストンの生きてきた時代と、そのなかを歩んできたかれの姿を、乏しい力のすべてをふりしぼって、できるかぎり忠実に客観的に描写しようと努めたが、文章も思うにまかせず、語学力の不足から利用した文献もせまい範囲にとどまり、かつ調査も不十分であったから、むしろかれの偉大さを傷つける過ちを犯していはしないかとおそれている。この巨人の全貌を正確に描きつくすことなどは、浅学菲才の私などのとうてい企ておよばない難事業であると思っている。

 御叱正と御教示を賜われば幸いこれにすぎるものはない。

   尊敬する巨人の長寿をいのりつつ

                    著 者

       目 次

   序――私はチャーチルをこう見る      

第一章 ついにその日はきた

第二章 悲劇の政治家ランドルフ卿

第三章 地上の冒険を求めて

第四章 従軍記者として活躍

第五章 待望の政界入り

第六章 自由党急進派として

第七章 第一次大戦前夜

第八章 戦局・戦略の変転

第九章 チャーチルの転落

第十章 陸軍少佐として西部戦線へ

第一一章 軍需相として返り咲く

第一二 平和時の閣僚として

第一三章 再び保守党へ

第一四章 曠野に叫ぶチャーチル

第一五章 チェンバーレン外交の失敗

第一六章 首相として第二次大戦へ

第一七章 イギリスの戦い

第一八章 独ソ開戦

第一九章 チャーチルと太平洋戦争

第二〇章 チャーチルとスターリン

第二一章 イタリアの幸福

第二二章 テヘラン会議

第二三章 「大君主」作戦の展開

第二四章 ヤルタの蜜月

第二五章 ドイツの屈服 

   あとがき

   チャーチル物語

 第一章 ついにその日はきた

    ついにその日はきた

 ポーランドを侵略して、ソ連とともにこれを二分割して占領し、デンマーク、ノルウェーを制圧したドイツ軍は、その後ながい間ジークフリート線に拠って、国境をへだててフランスのマジノ線に対峙したまま動かなかった。勝つ見こみのないフランス軍はもちろんドイツに挑戦するようなことは絶対にさけていた。戦うのか、戦わないのか。世界中の新聞はこれを「奇妙な戦争」とよんでいた。

 静かに満を持していたそのドイツ軍が、一九四〇年五月十日の払暁、電撃的に雪崩をうってオランダとベルギーに侵入を開始した。本格的な第二次大戦の幕が切って落とされたのである。ついにその日はきた。

 その日の午前十一時、イギリスの海軍大臣ウィンストン・チャーチルは、首相ネウィ―ル・チェンバーㇾからの電話で、あわただしくダウニング街十番の首相官邸にかけつけた。そこはすでに外相ハリファックスが呼ばれてきていた。

 チェンバーレン首相は沈痛な面持で、二人の顔を交互にみながら、自分は戦局と政治情勢を検討した結果、とうていこれ以上責任ある地位に坐っていることができないと考えるにいたったので、この際辞職したいと思うが、後任には誰を推薦したものだろうか、といった。

 ハリファックスは、自分は上院議員で、この重大政局に下院の与党を指導する立場にないから、推薦を辞退するといった。チャーチルは眉を八の字にして、ムッと腕をくんだまま一言もしゃべらないでいたが、最後に「私は国王から組閣の大命があるまでは、野党のいずれとも連絡はとらないつもりだ」といった。言葉をかえるなら、大命が降下すれば組閣に着手するつもりだという意思表示にほかならない。チェンバーレンは黙ってうなずいた。これはイギリスにとっても、世界にとっても、「人間の自由」にとっても、記録すべき歴史的瞬間であったといっていい。歴史が「自由」を守る闘将としてウィンストン・チャーチルの登場をうながしたからである。

 チェンバーレン首相は、そのときはもう打ちひしがれた単なるお人好しの、そして失意の一老政治家に尾すぎなかった。ミュンヘン協定以来、チェンバーレン内閣の外交は失敗につぐ失敗の連続であった。炎のように燃えさかるヒットラーの外交暴力の前に、チェンバーレンの宥和外交は、譲歩に譲歩を重ねる以外に何もできなかった。イギリスの誇りは度重なる屈辱で血まみれになっていた。イギリスがその安全を保障したチェコスロヴァキアは一瞬にしてヒトラー・ドイツに制圧され、同じく安全を保障したポーランドも、ヒトラー・ドイツとスターリン・ソ連とによって征服されてしまった。イギリスはやむなくドイツに宣戦を布告したが、戦う軍備はもっていなかった。ヒトラー・ドイツはつづいてデンマークとノルウェーを侵略した。ノルウェーに形ばかりの救援軍をおくってみたものの、ドイツ軍に太刀打ちできなかった。イギリスは世界に鼎(かなえ)の軽重を問われなければならなかった。

 イギリスの世論は今さらのように狼狽(ろうばい)し、政界にも言論界にも民間にも、チェンバーレン内閣の失敗を糾弾(きゅうだん)する声が高まってきた。十月の七、八両日にわたって、下院の野党は内閣に攻撃の征矢を集中した。

 戦前の数年間、イギリスの政治と外交と国防に責任をもったのは保守党のボールドウィン内閣であり、その後継のチェンバーレン内閣であった。今日の祖国の危急をまねいたのはかれらの責任であった。首相のチェンバーレンも外相のハリファックスも、野党の攻撃から自己と内閣とを防衛する論拠もなかったし、その力もなかった。しかしチャーチルの立場はちがっていた。この数年の間、ヒトラー・ドイツの擡頭によるヨーロッパの危機を強調し、再軍備の急務であることを警告しつづけ、平和主義の政界から「戦争屋」と罵られ、自分の属する保守党からさえ異端者としてのけ者あつかいをされていたチャーチルを、チェンバーレンが海軍大臣として内閣にむかえいれたのは、ドイツ軍が電撃作戦でポーランドに侵入を開始し、イギリスがかねての約束によって、ポーランドを救援すべくドイツに宣戦を布告したその日―前年(一九三九年)の九月一日のことであった。だからチャーチルには危機の到来と国防の強化を警告した功績こそあれ、軍備の弱体化をもたらした責任を問われる何らの理由もなかった。これはこの場合、かれとかれの少数の支持者だけがもちうる有利な立場であった。

 チャーチルからすれば、政府を攻撃する労働党にも、攻撃する資格はないと見られた。過去数年の間、危険にして幼稚な感傷的平和論を唱え、軍縮一点張の政策に終始し、さらに開戦前四ゕ月という急迫した時になってすら、徴兵制度の採用に党をあげて反対投票をした労働党もまた、チェンバーレンと同様に、今日の危急にたいして責任を負うべきであると、チャーチルは考えていた。

 当然、下院における攻撃のすべてはチェンバーレン首相に集中された。攻撃に起ったのは労働、自由両党ばかりでなく、与党の有力者も少なくなかった。とくにアメリ―は痛烈に首相の無為無策を糾弾したのち、クロムウェルの言葉を引用して、こういって演説を結んだ。「去れ、神のなにおいていう、あとはわれわれにまかして去れ!」

 チェンバーレンはもう自己を弁護することすらできなかった。「私には敵もあれば味方もある。ロビーにいる私の味方をよび集めよう」と答弁にならぬ答弁をすることしかできなかった。そのチェンバーレンに、最後の一撃を下したのは、第一次大戦の老雄である自由党のロイド=ジョージであった。かれの百戦錬磨の雄弁は議場に決定的な影響をあたえた。かれはこういった。

「首相は国民に犠牲を払ってくれと訴えた。政府が最善をつくしていることを国民が信頼しているかぎり、国民はいつでもあらゆる犠牲をはらう覚悟がある。しかし首相こそ犠牲の模範をしめすべきであると、私は厳粛にいいたい。この戦争において、首相がその職を犠牲にすること以上に、勝利に貢献しうるものはないからである」(チャーチル著「第二次大戦回顧録」毎日新聞社版第四巻一一八頁)

 時が時であり、人が人である。これはイギリス議会史上、特筆に価する痛烈な首相不信任論である。投票の結果、チェンバーレン内閣は八十票の差で表面的には信任をかちえることができたが、与党である保守党議員のうち、アメリ―、ダフ・クーパー、リチャード・ロー(首相だった故ボナー・ローの息子)、ハロルド・マクミラン(現首相)など三十三名が不信任の投票をし、六十名が棄権したのであるから、実質的には内閣の完全な敗北であった。

 あくる九日にチャーチルが首相になるだろうという空気が強くなった。「私はそれが最上の策ではないかと思った」とかれ自身が書いているように、チャーチルは満々たる自信があった。閣僚のうち、第一次大戦を戦った経験のあるのはチャーチルただひとりだった。第一次大戦で海相、軍需相、陸相を歴任していたから、戦争とうものをしっていたし、かついかにして戦うかもしっていた。この意味から他のたれよりも政局を担当する自信があった。しかしチャーチルはンバーレンの伝記作者フィ―リングによれば、チェンバーレンはこのとき、後継者としてハリファックスを考えていたという。

 同じ九日の午後、チャーチルはチェンバーレンによばれて首相官邸に行った。ハリファックスがきていた。まもなく労働党の党首アトリ―とその領袖グリーンウッドもやってきた。

 チェンバーレンは、この際、挙国一致内閣が絶対に必要だと思うが、労働党は自分に協力してくれるかどうかとたずねた。

「貴下が首班である挙国一致内閣に入閣しうることは、党の同意をうることができないと思う」

 と率直に見解をのべた。チェンバーレンは重ねて「私以外のたれが首班なら協力するか」ときいた。アトリ―は「党の執行部にはかってでないと確答できない」といって辞去した。

 その翌日の払暁、ドイツ軍によるベルギー、オランダ侵入が行われたのだ。その時になっても、チェンバーレンは戦争の急変を理由に居坐るつもりだったが、親友のウッド空相が強硬に反対したので、さすがのチェンバーレンも、今はこれまでと駒を盤上になげだし、前述のようにチャーチル海相、ハリファックス外相との三者会談となったのである。

 チャーチルが長い間辛抱づよくまっていた、かれのでる幕が開かれたのである。ついにその日はきた。

    チャーチル内閣成る

 その日――一九五〇年五月十日の午後六時に、国王ジョージ六世は笑顔をしながらチャーチルに組閣を命じた。挙国一致内閣という条件はついていなかったから、保守党の単独内閣でもよかったのだが、チャーチルは挙国一致の方針をえらんだ。

 バッキンガム宮殿から自動車で海軍省に帰ったとき、護衛役のトムソン警部が祝辞をのべた。

「私は閣下が、ついに首相の地位につかれたことをうれしく思います。しかし、もっといい時代に首相になられたらもっとよかったと思います。閣下はたいへんな仕事をひきうけられたからです」

 チャーチルはトムソンの手をにぎってこういった。

「それがどんなに大きい仕事か、神様だけがしっておられる。わしは時機がおそすぎなかったかと念ずるだけだ。しかしわれわれは最善をつくすことができる――われわれになにが残っているか《しれないが、その残っているものを全部つかって努力するだけだ」

 チャーチルはしばらく身動きもしないでその場にたっていた。目からは涙があふれおちていた。やがて階段の方へ歩をはこびながら、低い声で何かつぶやいていたが、終わるとあごをぐっと引きしめ、静かに階段をのぼっていった。それはチャーチルが文明人の自由を救う大事業の任務をはたす長い歴史の階段の上り口でもあった――とトムソン警部は書いている。(トムソン「チャーチルを護衛して二十年」リーダース・ダイジェスト一九五五年五月号)

 チャーチルの組閣は快速調ですすんだ。その日(十日)の午後七時に、労働党首アトリ―がグリーウッドといっしょに組閣本部の首相官邸にやってきた。チャーチルは、労働党から閣僚の三分の一と、五人(六人になるかもしれない)の戦争内閣に二人の閣員を入れることを条件として協力をもとめた。アトリ―はすぐ承諾した。チェンバーレンは枢相として、ハリファックスは外相として留任することを受諾したので、チャーチル、チェンバーレン、ハリファックス、アトリ―(国璽尚書)グリーウッド(国務相)の五人からなる戦争内閣はその夜のうちに成立した。軍部三相としては、陸相にイーデン(保守党)海相にアレキサンダー(労働党)空相にサー・アーチボルト・シンクレーア(自由党)が就任、国務相はチャーチルが兼務した。

 アトリ―はボーンマウスに開会中の党大会にはせかぇつて党幹部の承認をもとめ、大会で「われわれは人間精神の自由のために戦わなければならない。われわれは前進してこの自由を戦いとろう」(クレメント・アトリ―著、和田・山口共訳「アトリ―自伝」上巻新潮社版一五一頁)と演説した。

 チャーチルがその夜寝についたのは午前三時だった。六十六年の間歩いてきた過去をふりかえり、これから歩かなければならない苦難の道を思うと感慨無量だった。その夜の心境をかれはこう書いている。

「ついに私は、全分野にわたって指令を発する権力をもった。私は運命とともに歩いているような気があいた。そしてすぎさった私の一生のすべては、ただこの時、この試練のための準備にすぎなかったような気もした。政界の荒野にあること十一年。この年月が私を、あり来たりの政党的敵対感情から解放してくれた。過去六か年間に私が発した警告は非常に多く、かつ綿密なものだったので、今になって驚くほどその正しさが明らかになり、私に抗弁するものは一人もいなかった。戦争を起こしたこと、戦争準備が不足だったことについて、たれも私を非難することはできなかった」「私は戦争のことなら何でも熟知しているという自信があり、失敗しないという確信があった。だから私は翌朝が待ち遠しかった。私はぐっすり眠った。自分をはげます夢の必要はなかった。事実は夢にまさるからである」(前掲「第二次大戦回顧録」第四巻一二八頁)

 だが「事実」はけっして甘い「夢」ではない。悪戦苦闘の連日連夜がこれからはじまるのだ。

 責任の重大であることは痛感しているが、同時に、首相になりえたことはやっぱり嬉しかった。

 長い政治生活中、私は国家のたいていの要職を歴任したが、このとき私に課せられたもの(筆者注――首相)が一番気にいったことを卒直に認める(前掲「第二次大戦回顧録」第五巻二四頁)

 と、その喜びをかくしていない。 

 チャーチルは長い議会生活中、《つねに反対党である労働党とはげしい論戦を交わしてきたが、おたがいに感情的なわだかまりは残さなかったばかりでなく、党内野党としてチェンバーレン内閣の無能を痛撃したのであったから、労働党とは親しい方であった。それに彼の長い「政界の孤児」的存在が、かれの感情の中から政党政治家的慣習をぬぐいさっていたことが、組閣にあってはとくに有利だった。たいていの政治家の能力と性格を知りすぎるほど知っていた。労働党首アトリ―には信頼をもって、議会における首相代理の役をまかすことができたし、かつてリーズ大学の経済学講師をしたことがあり、当時労働党の調査報道部長をしていたグリーウッドは、これまた心の許せる高度の勇気をもつ賢明な相談相手だった。

 このほか労働党からは、チャーチルのな指しでハーバート・モリソンが供給相に、ベヴィンが労働および国家奉仕相に、ドールトンが経済戦争相に就任した。空相を引きうけたサー・アーチボルト・シンクレーアは、チャーチルが第一次大戦時代、フランダースで第六ローヤル・スコットランド連隊長を短期間つとめたときの副連隊長であったから、重要閣僚はいずれも、かねてチャーチルが着目していた有能かつ信頼しうる人材ぞろいだった。新設の航空相に、新聞界の王者ビーヴァブルック郷を説き落したことも成功だった。戦争内閣の書記官長にはサー・エドワード・ブリッジスがつき、軍事部長にはイズメ―将軍が起用された。ともにチャーチルが目をつけていた軍部の逸材である。

    「血と労苦と涙と汗」

 チャーチルのやり方は能率的であり徹底的であった。彼は第一次大戦当時と同じように、なつかしい海軍省の、当時と同じ部屋にベッドをもちこんで寝泊りしながら執務した。朝八時に目をさますと、全部の報告や電報に目を通し、ベッドの中から各省や参謀首脳に流す覚書や指令を口授する。それがタイプされてそれぞれに通達される。十時半にはかならず参謀首脳会議をひらき、決定事項はただちに指令され実行された。だから前大戦当時のようなフロックコート(政治家)とヘルメット(軍人)との間に対立や分裂はなかった。チャーチルは前大戦当時のにがい体験から「戦争行政は主として最高権威から流れ出る決定が、厳重に忠実に、そして時間どおりに遵守されるかどうかにかかっている」(前掲「第二次大戦回顧録」第五巻三四頁)ことを知っていたから、各機関へ流した覚書や指令にはかならず報告をもとめたばかりでなく、欠陥を見つければ速やかにこれを是氏した。日本では終戦の日まで政治と統帥の一元化が、つねに叫ばれて、そしてつねに失敗していた。軍人には政治的感覚が不足していたし、政治家は軍事に無知だった。参謀総長は計画中の新作戦について首相に知らせなかった。首相は無理にきこうともしなかった。しかしチャーチルは体験と勉強とから、政治と統帥の双方にわたって権威ある的確な判断力と決断力とをもっていた。

 五月十三日、チャーチルは緊急会議で、戦局の推移と組閣の経過を報告したのちこういった。これが有名な「血と労苦と涙と汗」の演説である。「私の諸君に提供しうるものは、血と労苦と涙と汗以外には何もありません。われわれの政策は何かと諸君は問うでしょう。それにたいして私はこうこたえる。海と空と陸とにおいて、われわれの固有の力と、神が与えうるすべての力とを挙げて戦うことであり、暗澹たる痛嘆すべき人類の目録において、いまだかつてその比を見なかった極悪の制圧にたいして戦うことであります。それがわれわれの政策であります」

「われわれの目的は何かと諸君は問うでありましょう。私はただ一語をもって答える。すなわち勝利であります。あらゆる犠牲においての勝利、あらゆる恐怖を克服しての勝利、いかに長くけわしい道を経てもの勝利。何となれば、勝利なくして助かる道はないからであります。この一点を十分に領得していただきたい。勝利なくして英帝国は生きのこれないのです。英帝国のすべての信念は生きのこれないのです。人類をその目的地にむかって歩ませるところの万世の衝動と推進力とは生きのこれないのであります」

「しかし私は明るい精神と希望とをもって仕事に当ります。われわれの高くかざす理想が、心ある者にとって見殺しにさるべきものでないことは私の信念であります。従って私には、すべてのものの、援助をもとめる権利ありとするのが、いまの私の心境であります。そこで私はいいます。《さあ、そう決ったうえは、結合された力をもってともに進もうではありませんか》と>(前掲「第二次大戦回顧録」第五巻四一頁)

 下院は割れるような拍手をもってかれにたいする期待を表示し、満場一致でチャーチル首相を信任した。

 この時、大陸の戦況は容易ならぬ危険な様相を示していた。ドイツ軍は、フランス軍が命とたのむマジノ要塞線を強襲するかわりに、その西の端セダン付近から猛烈な突出を試み、そして成功し、最大なフランス戦線を分断したうえ、その快速戦車隊を先頭に、奔流のごとくフランス平野に進撃しつつあった。フランダースを守っていた英仏軍は、まさにその東南方から背後をつかれる重大危局に襲われている。下手をしたら全滅だ。

 チャーチルは組閣の第一日から、この絶望的な戦局に対処しなければならなかった。かれがいかにしてこの苦境を切りぬけ、いかにしてイギリスを勝利にみちびいたかを書く前に、かれの過去をふりかえって、かれが戦時の首相に就任したことは、決して不思議でも偶然でもなく、自然にして必然であったことを見たいと思う。  

第二章 悲劇の政治家ランドルフ卿

第三章 地上の冒険を求めて

  サンドハースト陸軍士官学校 P.40

 父ランドルフ卿が蔵相をやめた一八八六年の夏、十三歳のウィンストン少年はハロ―へ入学した。チャーチル一家の子どもたちの多くはイートンに入るのだが、ウィンストンが二度も肺炎をやっているので、丘の上にあるハロ―校が健康によいだろうというので入ったのだが、入学試験のときラテン語の答案は白紙だった。普通なら落第なのだが、校長がそのほかの答案を検討して、ウィンストンが多分に独創性をもっているのを見ぬいて入学を許したといわれる。

※ウィンストンは、あまり学校の成績がよくなかった。ハロ―の入学試験では、ラテン語の答案用紙をインクで汚すだけにおわった。それでも合格した理由として、彼は自伝の中で「(校長)物事の下に潜んでいるものを見抜く能力を持ち、紙の上に現れたものに頼らない人物」だったからだと書いているが、要は校長が、マールポロー公爵の孫、元大蔵大臣の長男を落第させては不利だ、と判断したためではなかったか。児島直記〚出世を急がぬ男たち〛P.293

 入学後もラテン語とギリシャ語は相変わらず苦手で、成績は最下等であった。だが国語や歴史や詩は大好きで、後年名文家の名声をほしいままにする資質はこのときにみがかれたようである。学芸会のとき、マコーレーの「古代ローマの歌」千二百行を、一字一句の間違いもなく暗誦して校長から褒賞をもらったことがある。スポーツもクリッケットやフットボールはきらい。ただ剣術だけは好きであり上手でもあって、全国パブリック・スクールの剣術大会に優勝したほどで、水泳でも賞をもらっている。

第二五章 ドイツの屈服

    ポッダム宣言 P.329~P.330

 ポッダム宮における米英ソ三国会議は昭和二十年七月十七日に開かれた。
 その日の午後スチムソン米陸軍長官がチャーチルの宿舎を訪れて、一枚の紙片を手渡した。それには「赤ん坊は満足に生まれた」と書かれてあった。スチムソンはニュー・メキシコの砂漠で原子爆弾の実験が行われたという意味だと説明した。翌日にはやや詳細に実験の報告がもたらされた。

 これは対日戦略に一大転換をもたらした。それまでの沖縄攻略戦のように、大空軍による爆撃とそれにつづく波状的敵前上陸と、寸土を争う白兵戦だ。しかし本土を死守する日本軍の死者狂いの抵抗を考えれば百万の米人と五十万の英人の生命を犠牲にしなければならないと考えられたが、原子爆弾の出現によって、チャーチルのもっていたこうした「悪夢のような情景」は消えうせた。そして一、二の原爆攻撃によって全戦争は終結すると考えた。それは「私がその勇気をつねづね感嘆している日本人が、いかにして、この超自然的ともいえる兵器の出現を機に、かれらの名誉を救う口実を見出し、最後の一人となるまで戦って死ぬ義務から免れるか」について日本に機会を与えることになると見ていた。

 さらに原子爆弾の出現によって、対日戦争にロシア軍の参加を必要としなくなった。もうアメリカは、ルーズヴェルトがヤルタでしたように、スターリンに対日参戦を懇請しなくてもいい見通しをもったのだ。しかもそればかりでなく、原子爆弾というものをもつことによって、スターリンとヨーロッパ問題を協定することも不可能ではない――とチャーチルには考えられた。スターリンにも秘密にしておくわけにいかないので、トルーマンは会談の最終日の二十四日に打ち明けたが、スターリンには原子爆弾の意義を十分的確に理解することが出来なかったらしく、格別の質問もしなかった。

 その頃、ソ連軍は極東へ向けて兵員を急送中であった。そして同時にスターリンは、日本が降伏の前夜にあることをすでに知っていた。六月に広田・マリク会談が行われ、これにたいするソ連の回答が来ないうちに、七月十二日東京からモスクワの佐藤大使にたいして、無条件降伏は受諾できないが、ソ連の調停により平和克服の方途を発見したいから近衛公をモスクワに特派するという天皇の御意向が伝えられた。佐藤大使はさっそくモロトフ外相に会見を申し入れたが、ポッダム会談へ出発するので時間がないと断られたのでロゾフスキー次官に、東京からの申し入れを伝えた。スターリンはポッダムでチャーチルにはこの事実を話したが、トルーマンには話さなかった。トルーマンにはチャーチルから話した。スターリンはソ連軍が参戦しないうちに対日戦争が終了することを欲しなかった。そうなればヤルタで取ることにきまっている千島、樺太その他の「分け前」をとることができなくなるからであった。しかしチャ*チルは、もしある程度の条件で日本を降伏せしむることが可能ならば、必ずしも「無条件」を必要としないと考えた。無条件をかたくなに固執することによって、さらに多くの命を失うことになるよりも、ある程度のところで目をつぶることも出来ないことではないかと考えた。しかしトルーマン大統領は「真珠湾後、日本軍が軍事的名誉をもっているとは全く考えられない」と素気なく答えた。(前掲「第二次大戦回顧録」第二四巻一八八頁)

 モスクワの佐藤大使には十八日夜ロゾフスキー次官から、日本の申し入れは何ら具体的内容がないから回答の限りでないと返事があった。それから数日にして二十四日に、東京から戦争を終結せしむるためソ連政府の斡旋を求めたいから近衛公を特派する重ねて訓令があったので、大使はすぐにロゾフスキー次官に伝えた。その頃ポッダムでは、日本の無条件降伏を要求するいわゆるポッダム宣言が起草されつつあり、これが二十六日に公表された。日本はこれを拒否した。

 八月五日夜スターリン一行がモスクワに帰ったというので佐藤大使は早速モロトフ外相に会見を申入れた。モロトフから八日午後八時に会見すると返事があった。定められた時刻にクレムリンのモロトフの部屋を訪ねると、モロトフは佐藤大使の発言を封じておいて、ソ連の対日宣戦を読み上げた。八月十四日、日本が降伏するわずかに数日前のことである。チャーチルは「それにもかかわらずロシアは交戦国として完全な権利を主張し」(前掲「第二次大戦回顧録」第二四巻一九二頁)て、千島、樺太、その他の権益を手に入れたといっている。

 私はこの本の中で特に興味深く読んだのは「ポッダム宣言」の項目である。現在の日露に関連する点が多いと感じたことと、当時、海軍兵学校の生徒であった。全く知ることも出来なかった日本の上層部の状況の一端、無条件降伏にいたる経緯などを知ることができたから、少し長いが原文のまま引用する。

   あとがき

 一九五一年十月、チャーチルが労働党のアトリ―内閣にかわってその第三次内閣を組織した当時、私は函館新聞を主宰していた。ある日、編集局長から、チャーチルの伝記を連載したいから書いてみないかといわれて、ついうかかうかと承知してしまった。一ゕ月ぐらい参考になりそうな本を、あれこれと読みあさって、ともかく十何回の続きものを書いてみた。それが意外に好評だったので、いつか機会があったら本格的に書いてみようと考えるようになり、年に数回の東京出張のときも、一日は神田の古本屋あさりをしては参考文献を買い集め、それを片っ端から読みはじめた。

 函館新聞を辞めて、古巣の朝日新聞に嘱託として勤務するようになってからは、新聞社の調査部の資料をみる便宜もあって、これならどうにか書けそうに思うようになった。J・A・スペンダ―の『現代英国史』を読むと、チャーチルの父のランドルフ卿という人はひどく面白そうな政治家のように思えたが、参考書はひとつもみつからなからないので、やむなく朝日新聞のヨーロッパ総局長をしておられた現論説副主幹の畏友森恭三君森恭三君にチャーチル自身の書いた「ランドルフ・チャーチル卿伝」を買ってほしいと依頼した。森君は海外特派員という激務のかたわら、ロンドンの古本屋を探しまわってくれたが、なにぶんにも五十年も昔の本なのでなかなか見つからない。辛くも見つけだして航空便で送って下さったときは本当にうれしかった。子供のように上下二冊の「ランドルフ・チャーチル卿伝」を枕元において寝たほどだった。これで書けると思った。

(以下略)

★関連:読書の夏


参考:「近代日総合年表 第二版」
1、昭和16年4月13 日:ソ中立条約、モスクワで調印。
2、昭和20年2月4日: 米英ソのヤルタ会談ひらく(ルーズヴェルト・チャーチル・スタリン、~2.)
3、昭和20年4月12日: 米ルーズヴェルト没(1882生、63歳)副大統領トルーマン昇格。
4、昭和20年7月17日: ポッダム会議ひらく(トルーマン・チャーチル・スターリン、~8月2日)7月26日対日ポッダム宣言発表。8月2日 ドイツに関するポッダム議定書発表。
5、昭和20年8月8日: ソ連、対日宣戦布告。北満・朝鮮・樺太に進攻開始

平成二十一年十一月十一日、平成二十六年十二月八日(昭和十六年十二月八日を思い出しながら)再読。

※参考:今井 宏 青山 吉信 編〚概説イギリス史〛(有斐閣選書)1994年5月20日新版第7刷発行 P.204~210 4 第二次世界大戦


余録:長時間にわたって粉骨砕身の仕事を…毎日新聞2018年8月28日 東京朝刊

 「長時間にわたって粉骨砕身(ふんこつさいしん)の仕事をしなければならぬ立場におかれた人には、これを勧める」。第二次世界大戦で英国を勝利に導いたチャーチルの言葉だが、彼が推奨する「これ」とは何だろうか

▲それは午後早くの昼寝だった。対独開戦で第一次大戦以来久々に海相に復帰した彼は、前の海相当時の昼寝の習慣も復活させた。おかげで「日々の仕事の能率を非常に高め」「1日半の仕事を1日に縮めることができた」というのだ

▲この習慣は戦争中ずっと続く。さすがに戦時下の宰(さい)相(しょう)が毎日子どものように昼寝をさせてもらうのは心苦しかったという。だが「わずか20分でも、すべての精力を一新するのに十分」なこの日課は何ものにも代えがたかったのである

▲そんなチャーチルならば仮眠を「パワーナップ」と呼ぶ今日の風潮も別に驚きはしないだろう。今や勤務時間内の昼寝はグーグルなどの米企業で推奨されている。日本でもIT業界を中心に昼寝を取り入れる企業が増えているという

▲しばしば仕事が未明に及んだチャーチルの昼寝タイムは1時間だったが、厚生労働省が以前策定した睡眠指針では作業効率改善のための昼寝は30分以内がいいとされていた。「働き方改革」も職場の昼寝推奨の追い風になったようだ

▲チャーチルに昼寝を勧められた某提督は閣議でも居眠りするようになる。だが話が海軍に及ぶと、寝ていたはずがたちまちてきぱきと応答した。昼寝ご法度(はっと)の日本の職場でもこの手の居眠りの達人ならばよく見かける。

平成三十年八月二十八日追加。


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『日本人と日本文化』

★『日本人と日本文化』 忠義と裏切り 津和野 緒方洪庵
シーボルト ボンペ先生 クラーク・ハーン(小泉八雲)
アーネスト・サトー フェノロサ、チェンバレン、サンソム


司馬遼太郎 ドナルド・キーン 著『日本人と日本文化』(中公新書)和47年5月25日初版)

 雄大な構想で歴史と人物を描き続けてきた司馬氏と、日本文学・文化の秀れた研究者として知られるキーン氏が、平城宮址、銀閣寺、洪庵塾で共に時を過し、歴史の香りを味わいつつ語りすすめられた対談。「ますらおぶり」「たおやめぶり」忠義と裏切り、上方と江戸の違い、日本に来た西洋人等々をめぐって楽しく話題が展開するなかで、日本人のモラルや美意識が、また日本人独得の大陸文化・西欧文明の受け入れ方が掘り下げられる。

 第四章 日本人の戦争観

    忠義と裏切り P.66~72

 キーン 前から司馬さんにうかがいたいと思っていたのですが、日本史を読んでおりますと、源平時代から戦国時代まで、いろいろな合戦がありましたが、だいたい何によって勝負の結果がきまったかというと、裏切りだったようです。中国の場合ならば、こちら側が孫子の兵法に従って攻撃し、巧妙な方法だったから勝った、ということになるわけですが、日本の場合は、いちばん決定的な瞬間に裏切者がいて、反対側に寝返ったために勝ったり敗けたりということになるように思われるのです。壇ノ浦(1,185年)とか関ケ原(1,600年)とか、みんなそうではありませんか。私にはその日本人の戦いの勝ち方、敗けっぷりがどうも理解できないところがある。どう納得したらよいのでしょうね。ただ、一つの歴史的な事実として認めるほかないのですが、これはなにか意味があるかもしれない。

 司馬 そのとおりで、合戦のいちばんピークの段階で必ず裏切者が出てくる。その裏切者が裏切り者として、のちのちまで非難攻撃されるかというと、されていないんですね。おっしゃった壇ノ浦の戦いでも、いまの大分県あたりの武士たち――緒方党など――が、はじめは平家についていて、次に壇ノ浦の段階では源氏に寝返っている。だから、船の数が源氏のほうが多くなったんです。関ケ原だってご存じのように裏切りでしょう。

 これはやっぱり同族社会で、たいてい親類か縁者になっている。時世時節の何等かの理由で敵味方に分かれているが、その分れ方も明快な理由じゃないのですね。日本人の場合には、たとえばそこに宗教ががんとあって、あいつはカトリックで、おれはプロテスタンㇳだというような、そういう明快な戦争というものはないのです。一向一揆があったというけれども、あれはちょっとちがうもので、これはこの話の主題のなかに入ってこれないものです。ですから、一般にこっち側の親類縁者グループと、あっち側の親類縁者グループが戦争する場合に、だんだん状況が白熱してきて、どっち側か内部的に切り崩したほうが得だというときがくるんです。すると、「それじゃおまえ裏切るか」ということで裏切っちゃう。同じ基盤でやっているんですね。ですから、ほんのすこし前の時代まで、たとえば昭和初期の左翼運動だって、検事が左翼の青年か共産党員を検挙して、いろいろしゃべっているうちに、「おれとおまえとは高等学校は同じだったな」というようなことで、だんだんうちとけて、なんでもなくなってしまうというようなことが、ままあった。妙な例ですが、そういったことがだいたい日本の戦争に多いです。

 たとえばヨーロッパで、ウォーターローで大きな戦いがある。あれは結局プロシァ軍がイギリス側についていて、プロシァ軍がどこに現れるかということで勝負がきまるわけです。結局プロシァ軍が現われて、ナポレオンは切り崩されるわけですけれども、あれも明快ですね。プロシァ軍は裏切っていないわけですから。これはウェリンㇳンの同盟軍であって、しかも隠してある軍隊だと、戦術的にじつに明快ですよ。

 ところが、関ケ原の役というのは、ウォーターローの戦いと較べてみても、世界史的に見ても相当大きな合戦です。だから、大いにやればいいのに、午前中までは西軍の勝ち、午後になったら東軍が勝つ。その間に裏切りがあるということですから、そういう意味では合戦としての面白みがない。ところが、日本人にとっておもしろいのは、つまりそれに至る舞台裏の話であって、関ケ原合戦そのものはページェント(pageant:野外劇)にすぎない。すでに小早川秀秋は、秀吉の未亡人北の政所から、東のほう、家康さんのほうへおつきなさいと耳打ちされておって、しかしながら、戦争の状態を見ていると、どうも西のほうが勝ちそうじゃないか、どうしようかと思っているうちに、家康のほうから強硬な使いが来て、おまえ、裏切るという約束をしていたけれども、いっこうに裏切らないじゃないか、とせまられて、それじゃしようがないといって裏切っるちゃう、ということであって、要するに戦争そのものはページェントなんです。話の筋は前日までにきまっている。むしろドラマは戦争そのもよりも、戦争の楽屋裏にある。

 これは私がよくしゃべっていることで、もう一度しゃべるのはテレくさいのですけれども、明治十七年だったかに、モルトケの愛弟子でメッケル少佐というプロシァ陸軍の参謀将校が、日本に招かれてやってくる。それで日本でドイツ式の参謀本部を作ったわけです。それが関ケ原の古戦場に行って参謀のための現地教育をしたときの話です。メッケルはだいたい両軍の布陣を聞いて、「石田方の勝ち」と言うんですよ(笑)。メッケㇽはもちろん日本史の知識はまったくないわけですね。そこで他の日本人が、「いや、じつは石田方は負けているんです」。「そんな馬鹿なことは考えられない。この配置からいったら、石田方は勝つ態勢をもっているから、石田方の勝ちだ」と言う。「いや、じつは負けているんです」。「それはどういうわけだ」と言っていろいろ質問するので、「舞台裏がこうだった」と説明すると「それならしようがない」とはじめて納得したそうですけれど、日本人にとってだいじなのは、いわゆる舞台裏なんですね。根まわしみたいなものです。

 私どもが逆にわからないのは、フランス革命がわかりにくい。フランス革命でロベスピエールが大演説をしますでしょう。すると、その場で攻撃された者が断頭台につれられて行くでしょう。あれはすごいなと思うんです。ロベスピエールのことばがすべてであるということでしょう。ところが、日本人の言語習慣では、ことばというのはつまりほんのお作法みたいなもので、じつは肚のなかはこうですというようなことがありますでしょう。だから、日本人はいつまでたっても演説ができないわけです。いまの自民党政府のように、前の晩に打ち合わせずみというようなことがありますですね。全部そういうことをやって、議会はページェント、関ケ原合戦みたいなもので、お膳立て段階のほうがドラマチックである。戦争はドラマチックでない。単に見せものである。万国博みたいなものであって、オリンピックでさえない。オリンピックなら勝敗がありますからね。日本社会で起こる事柄のドラマ性というものは、案外裏側のほうにあるんですね。

※参考:桑原武夫編『一日一言』(岩波新書)P.124 〔ロベスピエール〕。

 キーン もしも日本に「忠義」という考え方が全然なければ、あまり驚きませんけれど、わりに「忠義」ということがやかましくいわれた国でしょちゅう裏切りがあるのは、おかしいじゃないですか

 司馬 それがおもしろいです。忠義というものは、つまりその人がサラリーをじかにもらっている主人と従者のあいだだけに成立するものです。たとえば、徳川将軍家というものと薩摩の島津家というもののあいだには、形式的な主従関係は成立しますけれども、あの時代の一般の人は徳川家と島津家に主従関係があつとは思っていない。島津家が徳川系列に入ったと思っているだけです。ですから、子会社みたいなものです。親会社にたいする忠誠心はないのです。時世時節が来たら、徳川幕府を倒しちゃうわけですから……。ところが、薩摩の侍にとっては、島津の殿様にたいして忠義です。その忠義というものもわりあい複雑で、絵にかいたような忠義はないんですよ。

 たとえば鎌倉の侍が郎党をもっている。つまり、金子次郎なにがしというものは、作男を郎党にして三十人ばかりつれて、熊谷次郎なにがしの傘下に入っていって、熊谷次郎なにがしは源頼朝の傘下に入っていく。そのときに、金子次郎なにがしというもののじかの作男、つまり戦争のときの郎党ですね、これは金子次郎にたいして忠義ですよ。ところが、その金子次郎の作男は、頼朝にたいして忠誠心はない。さらに一段階おりた熊谷次郎にたいしても忠誠心はないでしょう。だから、肉体的な接触みたいなもののありうる近さの関係にだけ忠義というものは成立するので、要するに犬の忠義というと悪いですけれども、じかに食べるものをくれる人、もしくはその家の主人にたいして犬は忠節である。しかし、他の家の人には吠える。それがだいたい鎌倉武士の忠義の原型でしょう。江戸武士になってから、儒教的に忠義の内容がひじょうにむつかしくなりますけれども、戦国時代には忠義という思想はなかなか見つけにくいです。あってもたかだか知れたもので、たいていは手前の利を守るか、もしくは手前の男としてのみごとさを立てようとする気勢(きお)いこみだけですね。

 キーン ルネッサンス期のイタリアの傭兵は契約です。そうしてどういう人が傭兵になったかというと、典型的な例はスイス人だったでしょう。ひじょうに貧乏な国で、ほかにすることがないから、喜んで傭兵になった。しかし、スイスのために戦うということはまったくなかった。

 司馬 スイス人も、フランス革命のときには、ずいぶん宮廷側に立って戦いますな。あれ、傭兵でよくあれだけ戦うものだと感心するのですけれどね。

 キーン スイス人の美徳でしょう。(笑)

※ロシアのウクライナ侵攻にロシアに傭兵がいることが報道されていた。

※参考1:谷沢永一『五輪書の読み方』(ごま書房)P.171 関ケ原の合戦について、

 ドイツの兵法の専門家が日本にきた時、関ケ原の陣容を見て、「これは西軍の勝ちだ」と言ったという。つまり、戦略上では絶対に勝てるはずだったのである。それなのになぜ負けたかと言えば、先の理由に加えて内通者が出たからだ。三成は太閤縁故の西軍から内通者が出るとは思ってもいなかった。これは"理外の理"を知らなかったということ。人間は究極では恩義とか正義とか義理とかよりも、わが身大切で利に走るという"人間性の極意"を知らなかったのである。

 したがって、この場合には東軍の敵情判断のほうが勝っていたと言える。戦力的には西軍が勝っていながらも、東軍の"虚を衝く"作戦に、西軍は無惨に敗れ去ったのである。

※参考2:池波正太郎『男の系譜[全]』(立風書房)

 秀吉没後の清正は、もはや単なる武将ではない…… P.82

 関ケ原の役で天下が東西に別れたとき、清正は東軍についた、知っての通り。西軍の張本人の石田三成と不和の間柄だったということもあるが、それ以上に、

「西軍は、豊臣家の軍ではない。あれは治部少(三成)の私的な軍である」

 という信念を持っていたんだね、清正は。だから徳川家康の東軍に味方をして、九州一円の鎮圧に当ったわけだ。家康も、このことを大いに感謝し、

「よくぞ仕えてのけてくれた」

 と、戦後に肥後全土と豊後の一部を合わせて五十四万石を清正に与えている。

 また石田三成のことになるけれども、この関ケ原の戦い一つを見ても、その人物が大したものでないことがわかる。兵数からいえば三成方が十二万八千、家康方が七万五千。断然西軍のほうが優勢なわけだ。ところが負けちゃう。実戦の経歴が、全然ないわけではないけれども、まあ、ないに等しい。

 大軍をひきいて戦をする器じゃないんだね。根本的なことは、三成の西軍が数こそ多いけれども、まったくの烏合の衆だったということ。それだけ人望がないんですよ、石田三成に。この人のために力を尽くして戦おうという気にだれもならない。ほうびに釣られて味方しただけの軍勢だということが三成にわかっていないんだ。

 三成は秀吉の好調時代に秀吉のそばにくっついていて、つねに権力の座にいたいたけれども、順境しか経験がない。清正みたいに異国の地で生命がけで敵と戦い抜いた、壁土まで食いながら頑張ってのけた、そいう体験をしていないでしょう。こういう、逆境に沈んで苦しみ抜いたことのない人間は、だいたい駄目なんだ。人を見る目も出来ていないしね。

 関ケ原は、家康が三成を挑発して計画的に誘い込んだ戦いですよ。みすみす、それに乗っちゃう、三成は。それでも西軍が勝つチャンスがなかったかというと、決してそうじゃないんだ。あったんだよ、絶好の機会が。家康がすぐ目と鼻の先に到着した、その晩、夜襲をかけて一気に家康を討ちとる可能性ががないこともなかった。それを献策した人があったのに、三成は実戦の経験がないから、むざむざこの好機を逃してしまう。

 陰険な性格で人望がなく、実戦も知らず、人心を洞察する力も欠けていた、こいう三成が家康に勝てないのは、まあ、当然のことだった。これに比べて、加藤清正は人間の大きさが違っていたなあ。朝鮮の役から以降、清正は別人のごとく大人物に変貌している。秀吉亡きあとは、天下が家康にならなければ治まらないということを、明確に洞察していた、清正は。

 戦争というものがどんなものか、清正は身をもって味わっている。永久に戦争のない天下であらねばならないと、清正は秀吉の没後ひたすらその一事を考えているんですよ。それには、家康が天下を治めるしかない……と清正は見きわめていたんだ、ぼくはそう思う。

2022.04.08 記す。


 第六章 日本にきた外国人

 津和野 P.108

 司馬 津和野へ旅行されたそうですね。いかがでしたか。津和野と言えば、たしか森鴎外は、私の記憶では、いまの幼稚園の園児ぐらいのときに、父親からオランダ語を習っていますね。父親はおそらくオランダ医ですから、オランダ語ができたわけでしょうが、そんなに早くから横文字を教えたということは、やっぱり不思議な感じがします。そして西周(にしあまね)と森鴎外という近代日本をつくった二人の人物が、川向こうとはいえ、隣り同士の家から出た。もう一つおもしろいのは、津和野藩には、同じ時期に、福羽美静(ふくはびせい)(一八三一~一九〇七)という平田派の国学者が出て、それが明治の新政府の神祇官か何かになるんです。そして廃仏毀釈をやる。たいへんな国学的ナショナリストで、仏教までやめてしまえと言う。私はどう考えても、廃仏毀釈は明治政府の最大の失敗だと思うし、幸い途中で廃仏毀釈もだんだん完全にはやらなくなってしまうんですけれども、とにかく、いい建物とか仏像が、あのときたくさんこわされているわけです。その総大将が津和野から出て、一方に西周と森鴎外のような近代ヨーロッパを身につけた人たち、明治の近代化を推進した、とくに西周はそうですが、そういう人が出ている。津和野というのは、あんなちっぽげな藩でおもしろいですね。

 キーン ぼくも驚いたんですけれど、郷土館に行きましたら、いろんなものが陳列されていまして、常識的に考えて、オランダ語の本があっても別に驚くことはないのですが、それだけじゃなくて、英語の本とかフランス語の本、ドイツ語、ロシア語もありましたね。またドイツの大学の博士号をとった人があったらしく、ラテン語で書いた免状みたいなものがありました。もう一つ、西周の字でフランス語の部屋、シャンブル・ドゥ・シアンス(chambre de science)と書いてありました。ひじょうに国際的な味があります。

 司馬 あれは、私は江戸の中期くらいからだんだんそういう傾向になったと思うんですけれども、三百近く藩がありまして、五万石程度の小さな藩というのは、産業を興すにも興せないし、資力もないし、なんとなく疎外されているような感じだったのですが、それが江戸の中期ごろから、学問という方向を見出し、藩ぐるみで一生懸命にやりはじめた。大藩よりもむしろ五万石程度の規模の藩のほうがずいぶん熱心ですね。たとえば伊予の宇和島藩だとか、日向の飫肥(おび)というところがあるでしょう。伊東という大みょうの藩ですけれども、これも小さな藩です。そこからもずいぶん人が出ています。それから中国では岩国藩、それから津和野。幕末になりますと、宇和島はあんな小さいところだけれども、蘭学は必ず宇和島へ行けということになる。それからもう一つ蘭学がさかんなところに、いまでは地名も忘れられているようなところで、越前大野というところがありまして、そこに小さな大みようがいて……。

 キーン 福知山もそうだと思います。

 司馬 福知山もそうですね。そんなところにみんな行って勉強したようです。だから、ただ江戸へ出て蘭学を勉強するというのではなかった。とくに越前大野は、蘭学のなかでも、ちょっと滑稽な話ですけれど、いまでいえば体操を教える名人がいる。体操も医学だということがあって、体操を学ばないと十分な医学じゃないという、それは越前大野だった。いろんなぐあいで、むしろ江戸時代は地方に学問があって、もちろん中央にも文化はありますけれども、学問のほうはむしろ地方がになっていた感じがありますね。そして蘭学は江戸よりむしろ大阪のほうが盛んだったようです。

 キーン 京都には蘭学はあまりなかったようですね。

 司馬 そうです。京都はきらいますでしょう。お公家さんがおったり、お坊さんがおったり……。たしかお寺の数は小さいものを入れて三千軒ぐらいあって、三人ずつ坊さんがおったとして、坊さんだけで一万人ぐらいでしょう。どうも蘭学をやる気分の土地ではなかったように思います。

 キーン 津和野藩の学問にも驚いたですけれども、それと同時に、いま博物館のようなところに陳列されておりますが、その武道熱心にもかなり驚きました。だいたい私たちの常識では、幕末となるとだんだん武術の訓練も衰えて、武士自体が堕落した、と。しかし、ああいう展示を見ますと、小さい藩でも一生懸命武道をやりつづけていたということがわかるんです。

 司馬 むしろそれが、なにか自分たちのささえのようなつもりでおったのでしょう。ところが、津和野藩というのは、ごらんになったように、地理的な環境が窯みたいな恰好をしておるでしょう。なんだか登り窯のような……。

 キーン そう、そう。

 司馬 長い谷底にあって、南のほうは大きな台地になっていて、その南の高い台地は長州藩なのです。長州藩から見おろされている。だから、長州藩がその気になれば、一日で津和野藩を陥すことができる。いったん日本に変動があって、長州藩が立ち上がったとしたら、津和野藩は長州藩についていくよりしようがないわけです。だから、まさか長州と戦うという気持は地理的環境から起らないわけで、とてもかなわない。武道をやっているものの空しかったでしょう。どうせ勝てっこないのですから。だから、いわば精神的なささえみたいなものとして武道をやっているだけで、弓や剣術をやって、それが実用に供せられるとはこの小藩の人々は思っていなかったでしょう。申しあげたとおり、ちょうど藩境が台地になっていますから、上から長州の軍隊が転がり落ちてくると、もう津和野はだめです。ですから、津和野の侍というのは、武道は一とおりやりましょう、やるけれども、学問のほうを一生懸命にやりましょう、学問をやって大藩の連中を見返してやりましょう、という気分がやはり西周とか森鴎外を生むんじゃないかと思いますね。

 キーン 西周は、幕末の学者としては珍しくオランダに留学しましたね。ほかの人は福沢諭吉をはじめとして、オランダ語は何のためにもならないと思って、やめて英語に切り換えたようですが、西周は最後までオランダ語のほうがいいと思っていた。彼の考えでは、もしほかの国のことばで書かれたものでも、だいじなものだったら、必ずオランダ語訳があるから、オランダ語のほうがいいと思ったようですね。

 司馬 同じことを、村田蔵六――長州の百姓身分の出身で、のちに大村益次郎といわれた人物――が言っています。大村は大阪の緒方洪庵の塾で蘭学を学んで医者になるわけですけれども、最後まで蘭学に自信があった。オランダ語学にも自信があって、といっても、しゃべれないのですけれど、読み書きがよくできる。ところが、英語の時代になって、彼も一度江戸におったころに、横浜にローマ字のヘボン式で有名なヘボン博士(アメリカ長老派教会の牧師で医師。一八五九年、安政六年に来日し、草創期の我が国の医界に貢献した)が来ているというので、英語を学びに行くのです。そのころ、大村益次郎は幕府に仕えておりましたけれど、彼は経歴のひじょうに複雑な人で、長州の生れでありながら、百姓であったために長州藩士になれずに、その学問がよくできるので、むしろ幕府が召しかかえた。その彼がヘボンさんがいるというので英語を習いに行って、結局ものにならなかったのか、あるいはオランダ語を若いころに一生懸命にやりすぎて英語が頭のなかに入ってこなかったのか、とにかく絶望的になって、「オランダ語で医学のことも他のこともたいてい翻訳されているんだ、だからオランダ語さえ知っておれば、世界はわかるんだ」と開きなおっていますね。


 緒方洪庵塾 P.113

 キーン 緒方塾のオランダ語の水準というのは、ひじょうに高かったのですか。

 司馬 明治以後の語学における高低(たかひく)の基準ではちょっとはかれませんけれど。要するに漢文を習うようにして、読み書きさえできればいい、というものです。しゃべる機会なんてありうるはずがないわけです。幸いにしてオランダ語というのは、オランダ語に堪能なキーンさんを前にしてですけれど、文法がわかればだいたいわかるわけでしょう。ですから、文法をやかましく言った塾なんです。そして医学を教えているんですけれど、医学も病理学だけをやかましく言うんです。あとは自分の経験で学べ、と。その病理学というのは、オランダ語の書物で教えるわけですから、その本を読んでいくために、オランダ語もだんだんじょうずになっていくということがあるんですね。大村益次郎が緒方塾では生徒の大将、塾頭といっても塾長といってもいいのですが、マスターといっていたわけですな。あれはオランダ語ではどう発音するんですか。

 キーン メステルでしょう。

 司馬 メステルというのを彼は日本風にマスといった。だから、村田蔵六もマスであったし、あとに入ってきた福沢諭吉もマスになった。福沢諭吉は、大阪の緒方洪庵塾を出れば天下の蘭学者である。江戸なんかこわくないと言って、大いばりで江戸に乗り込んできて、はじめて横浜に行くのです。横浜の開港場というのは、当時の日本人にしたら、ちょうど万国博みたいなもので、ひじょうに珍しがってみな行くわけです。そこへ行けば世界があるわけですから……。まだ十分に各国の商館ができてなくて、道などは馬糞臭くて、雨が降ればぬかむるような土地だったのでしょうけれど、それでも外国の珍しいものがいっぱい並べてあったり、外国人が出たり入ったりしていたから、江戸からずいぶん見に行ったようですね。福沢諭吉も江戸に行って、すぐ見に行っています。

 ところが、自分はヨーロッパのことばをやったのに、ずっと各国の商館を見れば、看板が少しも読めない。これはどういうわけか。日本一の緒方塾で洋学をおさめた以上読めると思っていたわけです。オランダ語をやれば、全世界、ヨーロッパのことばもアメリカのことばも全部読めると思っていたら、ほとんどが英語だったわけです。いや、はじめはこれが英語だということはわからなかったらしいですな。たしかに日帰りで帰ってきたんだけれども、その日、だれか土地の人に聞いたのだったかしら。たしか、これはオランダ語じゃなくて英語だと聞いて、それでショックを受けて彼は江戸に帰ったのです。そして、これからは英語だ、と切り換えてしまう。この点が福沢は西周だとか、さっきの大村益次郎と違うんです。福沢はもっと年が若かったし、ひじょうにフレキシブルな頭の人ですから、これからは英語だ、英語さえやれば世界のことはわかるらしいといって、それから英語を勉強したようですね。

 キーン あのころの出島のオランダ人たちはとてもかなしかったそうです。つまり、そのときまで日本人はみなオランダ語を勉強して、オランダは西洋の中心だとばかり思っていたのですが、その次の時代になると、みんなオランダ語を捨てて英語のほうに就いたから、オランダ人たちはとても不愉快に思っていたようです。

 司馬 オランダという国を、この前にも出ましたように、ちっぽげな国なんだと日本人が知ったのは、安政仮条約で国際参加してからですね。だから、そのときの長崎にいるオランダ人の悲しみというのは、ひじょうに強かったろうと思います。

 ところで昭和四十四年の秋の十月ごろに、オランダに何人かの日本のお医者さんが行ったことがあります。そのお医者さんは、だいたいおじいさんか曾祖父がオランダ医学を学んだ人たちで、自分も医学部の先生というような人たちです。たとえば緒方洪庵の曽孫にあたれる緒方富雄博士、この人が団長なんです。それからコレラのことについて洪庵さんからいろいろ教えてもらった越前の生れの藤野という人がいて、その孫で、大阪大学の医学部の微生物のほうの名誉教授でいらっしゃる藤野恒三郎という方とか、それから大島蘭三郎という方がおりますが、慶應医学部の医史学の教授です。この人は、緒方洪庵の弟子である大島圭介の孫なんです。河上徹太郎さんの奥さんの弟ですね。オランダ医学を学んだというので、慶應の医学部を出て教授になったけれど、医史学のほうに行って、オランダ医学の歴史的な研究をはじめるようになる。私はそういう人たち何人かと、赤坂かどこかでお酒を飲んだことがあるのです。いい会でした。なんだか一世紀以上の単位でものごとが語られている座ですから、お酒がたいへんおいしかったですけれども、そのときに、これはだれが会計をするんだろうと思ったら、たまたま伊東という人がなさったんです。この伊東さんんという人だけがお医者さんじゃないんですね。ところが、この人は、伊東玄朴という蘭方医で幕府の奥医師だった人の曽孫になるのかな、四代めくらいで、いまパピリオという会社の社長なんですね。明治以降ずっと化粧品会社だったそうなんです。そしてその他にやっぱりオランダ医学をやった人がおこした大学があるでしょう。順天堂大学。それから慶應がありますでしょう。この慶應と順天堂だけは、日本の大学でたった二つの医史学という講座があるところなのです。国立にもない。そいう蘭方以来のいわば学校です。結局そういうわけでその晩はパピリオにおごられてしまった。つまり伊東玄朴におごられたわけですけれどね。日本のオランダ医学も伝統があるわいとつくづく思いました。

 その人たちが四十四年の十月に行かれた。大島蘭三郎先生も、からだが少し不自由なんですけれども、自分のなまえは和蘭の「蘭」がついているんだから、と言って、行ったわけです。そうしますと、向うのオランダの学会のほうが待ちうけていてくれて、そこでパーティがいろいろあったんですけれど、オランダが日本にそれだけの影響、恩恵を与えたということを、オランダの人たちはあまり知らなかったそうです。だから、やっぱり向うのほうが大国ですよ。恩をほどこしたことを忘れちゃっているわけです。行った医史学に関係ある先生たちは、向うでオランダと日本の関係について、オランダの学者からいろいろ教えてもらえるだろうと思って楽しみに行ったのに、こっちが教えざるをえなかった。そしてあれだけ恩になったオランダが、こっちに少しも恩着せがましいことを思わずに、ケロッと忘れていた、という聞かされました。

 キーン 日本人にとっては、長いあいだオランダはたった一つのヨーロッパの国だったかもしれませんが、しかしオランダの場合は、出島は一応大切なところだったでしょうけれど、それよりもパタヴィアとか、東インド諸島とか、西のほうの島々とか、そういうところにいろいろしょく民地があって、そこでもっとお金を儲けていました。だからよほど特別な興味がなければ、日蘭関係などをあまり研究しなかったでしょう。日本人にとっては、医学だけではなくて、油絵、銅版、あらゆることをオランダ人から覚えたはずです。しかしそれはオランダ人でなければ教えられないことではなく、たまたまオランダ人があったにすぎません。イギリス人であったら、もっとじょうずに教えたかもしれないのですが、まったくの偶然でオランダ人だけが残ったのです。ポルトガル人とかスペイン人は追いだされたし、オランダ人たちも、はたして出島に貿易のための施設をもつことが国のためになるかどうか、疑問に思ったじゃないですか。やっぱり密輸などして裏側でお金を儲けたのでしょうが……。

 司馬 あのときの制限貿易のなかで、正式なルートでお金を儲けるということは、ちょっとむつかしかったでしょうね。ただ、すこしだけ得なのは、金(きん)の値がヨーロッパほど高くないんです。日本では、金と銀とは、同格じゃないけれども、差が小さいですね。だから、銀をもってくれば、日本の金を安く買えるわけです。正規のルートでは、その程度の儲けだったかもしれませんね。

 キーン もう一つは、日本の銅にかなり金が入っていた。日本人はまだそのとき、銅から金をうまく精錬することができなかったのでしょう。オランダ人は銅を安くたくさん買って、それでお金を儲けたんですが、しかし、何よりも第一の利益は密輸だったはずです。しかし注目すべきことは『出島商館日記』を部分的に読みましたが、たとえば、お諏訪さんの祭りによばれたとしても、「あんなつまらないものは見なくてもいい。どうせいろいろ帳簿を見なければならない日なのだ」といったぐあいに、日本文化に全然興味がなくて、好奇心さえなかったようです。長崎がどういう町かも知りたくなかったでしょう。ただ、二年間そこでかなり不自由な生活をするかわりに、たくさんのお金を儲けようと――そういう考えしかなかったのです。しかし、そのなかで少数のちょっと頭のいいオランダ人たちは、日本とオランダの関係を考えていました。その一人にヅーフ(オランダ商館長。H.Doseff)という人がおりました。彼はいちばん長く日本にいたオランダ商人ですが、つくづく日本とオランダの貿易を考えて、ほんとうは日本は外国から何も買う必要はない、日本人は自分の国でつくるものだけで十分幸福な生活ができると彼は思っていました。オランダ人もべつにとくに日本のものがいらなかったのです。それでも三百年間出島での貿易がつづいていたというのは、ひじょうに珍しいことですね。

 司馬 あのヅーフという人は、いろんな事情で、出島に長くいなければならなかったからでしょうけれど、字引をつくりましたですね。あれが日本の幕末の近代化にどれだけ役立ったか。ヅーフの字引きというものは、印刷されるよりもむしろ筆写されてひろまって行くのですけれども、幕末の蘭学書生が学費かせぎにそれを筆写するとしたら、いくらくらいか、とにかく小さな家一軒買えるくらいの金がもらえた。だから蘭学書生というものは、いいアルバイトをもっていたわけです。

 ヅーフの辞書というのは、たいへんなものでして、蘭学のメッカとまでいえないとしても、当時の大きな淵叢である緒方洪庵塾でさえ、ヅーフの字引きは一冊しかない。そしていまでもその部屋は残っていますけれど、ヅーフの字引きの置いてある部屋というのが特別にありまして、書生たちはほかにいる。辞書を引くときは必ずそこへ行って、その辞書は他に移動してはいけない。そこだけで見る。徹夜で勉強するときなんか、ロウソクを持って行って引いて、また部屋に帰ってくる。だから、名前がヅーフの部屋ということになっておりまして、ヅーフの部屋は夜どうし明かりが絶えたことがないといわれたくらいで、だから、一冊こっきりしかなかった。それくらいの影響をヅーフは日本に与えたんですけれども、彼自身は商人ですね。

 キーン 商人です。辞書といえば、津和野で蘭日辞典を見たのですが、一部しか陳列されていませんけれども、例文の豊富さにびっくりしました。よくできています。いまになっても、あんなに例文の多い辞書は少ないと思うのです。しかも手でかいたものでしょう。その字のきれいさにびっくりしました。いまあんなにきれいな洋文字を書ける人はいないです。


 シーボルト P.120

 司馬 いまおっしゃったように出島に来るオランダ人というのは商人であった。ところが、シーボルト(一七九六~一八六六)が来るころに、ヨーロッパやアメリカなどでは、東洋には珍しいしょく物があったり、鉱物があったりするので、それを持って帰って、学界で早く発表したものが勝ちみたいな、そういう雰囲気が盛り上がっていますね。中国には、だいたい宣教師などで行った者が多かったのですけれど、まだ極東には日本という国があるじゃないかということで、シーボルトは、いまでいえば、本来ドイツ人になるわけですけれども、たしか親戚の人がオランダの王さまの侍医をしていたので、そのつてでオランダの海軍に籍をもって、海軍の軍医少佐か何かになって日本に来るのですね。そして彼には冒険的な目的があって、さっきおっしゃったオランダ人は長崎のお諏訪祭りにさえ興味をもたなかったのに、シーボルトによってはじめて、どういうんですか、いまでいえば文化人類学的な関心が日本にたいして向けられるわけです。

 そのころオランダ通詞というのが長崎におりましたでしょう。幕府の役人としてオランダ語の通訳を家代々やっているものですから、わりあいちゃんとしたオランダ語がしゃべれるんですね。シーボルトが来て接触するうちに、シーボルトのオランダ語はなんとなく変に思えるんですよ。そりゃあ、シーボルトはオランダ語は少しはしゃべれるかもしれないけれど、ドイツ人ですから、やっぱりうまくしゃべれませんでしょう。だけど、ドイツ人だということになると、大騒ぎになります。オランダ人以外は日本に来ることができないんだから……。それで幕府の通詞が、「シーボルトさん、あなたのオランダ語は変ですね」と言った、役人たちは、自分たちのことばが間違いだろうかということで確かめているわけです。シーボルトは命がけの答えをしなければならない。「実は山オランダ語というものがあって、それが私のことばだ」と言った。うまいこと言ったものだと思うわ。(笑い)

 キーン オランダほど山と縁のない国はない(笑い)。シーボルトが日本に来た理由はいろいろあるでしょうけれど、オランダは長いあいだスペインとの戦争で占領されているのですね。ヅーフも何十年間も長崎にいて、自分の洋服がだんだんボロになってゆくし、日本人から、もうオランダという国にはあんまり期待はできないと思われているわけです。オランダ人のほうでは、なんとかしてまだ強い国、立派な国だと日本人に納得させたかったと思いますね。そういうつもりで象を一頭おくったり、珍しいものを日本におくったりしたのでしょう。もしそういうことがなければ、シーボルトのような立派な学者を派遣することもなかったかもしれない納入

 司馬 シーボルトは、あの当時のヨーロッパでも、若い学徒として、一流ですね。学問の家というか、あそこの一族はほとんど大学の教授です。それがたいへん遠い日本に来るというのは、やはりずいぶん冒険であったでしょうな。そししてシーボルトを慕って来た日本人の書生たちとシーボルトのあいだで、ひじょうに濃密な関係ができ上がりますでしょう。あれはいいですね。

 キーン とくに珍しいことは、シーボルトが学生たちに会ったのが、出島でなくて長崎の町のなかだということです。だいたいあれは法律上禁じられていたはずですね。しかも当時の奉行は、法律を無視することは絶対にできなかったはずです。やはり人物に感心して、特別な例外として、出島よりもっと行きやすいところに学校とか商館をつくらしたのでしょうか。

 司馬 おっしゃるとおり、幕府の役人がシーボルトに長崎に出ることを容認したのは、たしかに法律じゃなくて、人物に惚れたんでしょう。ほんとうにシーボルトはわりあい自由ですね。鳴滝に建てたのは、小さい医学校のつもりですね。掘立小屋みたいなものですけれど、その鳴滝学舎に行く途中に、かわいそうな病人が、シーボルト先生に脈をとってもらえばなおると思って、みんな集まってくるのです。それをシーボルトは全部親切にみてやるものですから、そういうこともあって、ひじょうに感謝されていたようですね。

 キーン 一つだけたいへんな失敗をしました。シーボルトが間宮林蔵(一七八〇~一八四四)という人間を信用したことです。そうでなければ多くの人が助かったものを……。もともとシーボルトは林蔵の仕事を大いに賞讃して、進物といっしょに手紙をとどけたのですね。それを林蔵はそのまま奉行所にさしだしてしまったので、高橋景保のような、天文方で書物奉行をかねたまじめな学者がつかまって牢で病死したり、シーボルト自身も景保の贈った地図を全部没収され、シーボルトとその親しい人々がくり返しくり返し拷問に近い取調べを受けたりしました。 

 司馬 間宮林蔵は相当危険なスパイですからね。日本人にとっては間宮海峡を発見した偉い人物で、ぼくらの小学校の教科書に出ていたものですが、いまは出ていないのでしょうね。林蔵が幕府の隠密だというのは、いまでは常識でしょう。しかしシーボルトが二度きましたとき、自分が長崎でつくった娘(伊禰:いね)がひじょうに大きくなっていて、弟子たちがその娘をだいじに育ててくれていた。そうして弟子たちに教えたオランダ医学を弟子たちが娘に伝えていてくれた。最初に娘に会ったときに、感嘆して、医学による教養の輝きがおまえの表情にあると言って、ひじょうに感嘆するわけです。

 しかしながら一方では、シーボルトは日本に失望せざるをえなかったのですね。すでにオランダはいらんというムードがあって、イギリスやアメリカ、フランスが大きい国だということを日本人が知ってしまって来たから、しかも自分の籍をバイエルンという国でな乗りなおそうとしても、バイエルンという国はどのような国か、日本人は知らなかったのですからね。だから、あらためてドイツ人だと言って生身をさらけ出しても日本人は感心しなかったろうし、二度めはずいぶんと悲しげに去ったんじゃないでしょうか。

 キーン こういう話があります。一度めの訪問のときだったか、二度めの訪問のときだったか、はっきり覚えていないのですけれども、シーボルトは大阪で『妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)』の人形浄瑠璃を見ましてね、感激して、ヨーロッパへ帰ったときに、そのあらすじを、当時フランスでたいへん人気のあったオペラの作曲家のイヤベアという人に話したのです。彼はひじょうに感心をしまして、ぜひオペラにしようと言ったそうです。その題名は『盲目の皇帝』というのです。『妹背山婦女庭訓』を見るとき、「山の段」などがひじょうに有名ですが、めくらの皇帝というのはちょっとわからない。ところがついこのあいだ国立劇場で通して見ましたら、たしかに初めのところにめくらの天皇が出てきますね。なるほどと思いました。シーボルトはドイツ人ですが、長くフランスに住んでいまして、マイヤベアの話はとうとう実演できなかったのですが、しばらくして今度は小説家のドーデがその話を聞いて、ぜひシーボルトに会って、もう少しその話を詳しく知ろうと思いたったようです。シーボルトはそのときドイツの南部に住んでいましたが、ドーデはその家まで行って、玄関の扉をノックしたところ、中からなんの返事もないんです。いくら待っても返事がないので、部屋に入ってみると、シーボルトはそこで死んでいました。ドーデは、これを『月曜物語』(Contes du lundi)のなかで興味深く書き残しています。

 司馬 ロマンチックな話ですな。

 キーン ひじょうに不思議な話です。しかし、もしもひとつうまくいけば、いま『妹背山婦女庭訓』のオペラがあったわけですね。


 ポンペ先生 P.125

 司馬 シーボルトは、自分の国に帰ってからでもひじょうによい待遇を受けて、シーボルト先生というのは偉い人だということになっていたけれど、そのあと安政四年(一八五七年)ポンペという医師が来るのです。このポンペという人は、シーボルトと違って、幕府が最初に正式に招いた医学教授です。やっぱり長崎に来て、このときには鎖国は鎖国ですけれど、安政仮条約のあとですから、ポンペはシーボルトのような不自由な目にはあわずに、大いばりで来たわけです。このポンペがだいたい日本の医学の最初を築くわけですね。シーボルトは、教えるといっても、医学を組織的に教えるような材料は持ってきていないし、講義の書物も十分に持ってきていない。そしてあまり教えると幕府が叱るし、シーボルトにはお弟子さんはたくさんいるけれども、みんな内密ですからね。シーボルトとじかに接触することはいけないたてまえだったものですから、みんななんとなく、さっきおっしゃった黙認の形で接触していただけなんです。 

 ところが、ポンペになると事情が一変していました。彼が来たときは、公認です。公認だけれども、幕府というのはおかしいのですね、通商条約は結んでいるくせに、まだ鎖国がたてまえだから、ポンペに接触するのは松本良順だけであるということにきめた。この松本良順という人は将軍の奥医師で、のちに順というなまえにかえますが、幕府が瓦解するときには、幕府方について函館の五稜郭まで行く。明治以降は軍医総監になります。

 松本良順は、正式にポンペから教えをうけた医師ですけれど、その松本良順一人しか幕府は許さない。ところが、みんなポンペの弟子になりたいと思って殺到してくるでしょう。それで松本良順がポンペから講義を聞いて、その講義ノートを宿に持って帰って弟子に教えることにしてはどうか、ということになったのです。松本良順は当時すでに幕府の奥医師で、大旗本といったような偉い身分の人でしょう。だから、そんなばかばかしいことはできない。しようがないから語学の天才を一人秘書としてつれていく。それは司馬凌海という人で、佐渡出身の真宗の寺の子です。どういうわけか、十代くらいのときから二つ三つの語学ができる。どこでどう覚えたのか、ドイツ人は日本にいないはずだのに、ドイツ語も知っていたらしい。松本良順はこの司馬凌海という十八、九の少年を秘書につれて、ポンペ先生から講義を聞くと、司馬凌海がノートにとるわけです。司馬凌海はオランダ語をそのまま速記できるんです。そして宿に帰ると、司馬凌海がとったノートをみんなが写すわけです。それがポンペの弟子なのです。そういう変な形なんですけれども、それがいまの長崎大学医学部のもとになるわけです。

 ポンペは、オランダでは学者としてはシーボルトよりもずいぶん地位も低くて、学者といえるかどうか。話が飛びますけれども日本で戦時中に軍医を速成養成するために、臨時医学専門学校というものをつくったことがあります。中学を出て四年間そこに入れば医師になれる。いまでも臨時医専の出身の先生がその辺でたくさん開業していらっしゃるわけですけれども、同じようなものが当時のオランダにあったらしい。バタヴィアとか、そんな僻遠の地に、医者を送り出すということはむつかしかったのでしょうね。だれでもそんな野蛮な所にはやっぱり行きたくないですもの。だから、オランダにはいくつ医学部があったかしりませんが、海軍の軍医になるという約束のもとに、そういう特別のインスタントのコースがあって、ポンペはそこを卒業したのです。彼はそこの大学でとったノートをそのまま教えたんです。だから、オランダの医学のインスタント・コースを松本良順に教え、しのまま司馬凌海が速記して、それを宿屋に待っている弟子たちにそのまま写さしたわけで、これは実におもしろい伝播のしかただと思います。

 その宿屋で待っている間接的なお弟子の一人に、荒瀬という青年がいたのです。周防の三田尻の町医者の息子なのですけれど、他の青年と同じようにポンペを神のように思ったらしい。それはたいへんな尊敬のしかたで、その後お医者さんになってから、自分が今日あるのはポンペ先生のおかげであるというので、三田尻の自分のお屋敷のなかにおやしろをたてて、ポンペ神社というものをつくりました(笑)。家族のものが朝起きると、必ず拝みに行く。ポンペは何年もいなくて、すぐオランダに帰ってしまった。そしてオランダでは無名に近い状態で終るんですけれども、日本の荒瀬家では、生きているままポンペ神社になっているんです。そしてその孫にあたる人がいま善通寺の名誉国立病院長です。この人がポンペ先生の日本での印象記を翻訳していと思ったんです。荒瀬さんはオランダ語を知らなかった。けれども、善通寺に四国学院という私立の小さい短期大学があって、その図書館ににオランダ語の字引が一冊あった。そのオランダ語の字引だけで、ドイツ語の素養があるからだいたいわかるんでしょうね。その字引を引くことによって翻訳しはじめて、ようやく最近のポンペの『日本における五年』が本になって出ましたよ。

 たしかにポンペも親切だったんです。長崎なら長崎に一人だけおって、医学を教えてくれといって来る日本人に親切にしてやる以外に立つ瀬がないみたいな、地上の存在理由がないみたいな、そういう立場だったものですから、とびきり親切にした。その感動が百年たっても消えずにあって、荒瀬進さんという、その孫か曽孫にあたる人が五十年を過ぎてからオランダ語を勉強して、ついに翻訳しちゃった。すごい話だな。こんな話を聞くと日本とオランダとの関係というものは、なんとなくまだ生きているような感じがするんです。



 クラーク、ハーン(小泉八雲) P.129

 キーン 外国人が日本でやったことで有名になるかならないかは、その原因にしろ理由にしろ、じつに私たちにはわかりにくいものです。場合によっては、長く日本にいて、日本人のためにいろいろ努力しても、無名のままで消えてしまう。そのかわり、北海道で、ひじょうに有名になったクラーク(一八六二~一八八六年)のような人がいます。いまも北海道大学にクラーク館があるほどです。彼の言ったことばも日本のことわざみたいになって、「少年よ、大志を抱け」 (Boys be ambitious !)とかいって、ひじょうに有名です。彼ははたしてどのくらい日本にいたか。明治九年に北海道開拓使の招きで来てから一年間にもならなかったと思います。それほどの仕事をしたとも思いませんけれども、彼は有名になりました。

 松江へも最近行ったのですが、そこには有名なラフカディオ・ハーン(一八五〇~一九〇四年)のお墓があります。それは日本風の、まったく日本の墓場にあるようなもので、その下にだいじにハーンの遺髪がおさめられているそうです。それだけでなくて、松江の文学というパンフレットを読みますと、松江のいちばん大切な、そして有名な文学作品は、彼が書いたものです。そのなかに日本人の書いたものは見あたりません。そこで、彼がはたしてどのくらい松江にいたかと思って調べたところ一年三ヵ月でした。たったそれだけです。しかし、わずかのあいだに彼は松江でのいちばん有名な文学者になりました。これは非常に皮肉なことになります。

 ほとんど一般に知られていないんですけれど、徳島にポルトガル人のモラエス(明治三十一年来日、神戸駐剳副領事となり日本婦人と結婚昭和四年徳島で没)がいて、そしておそらく徳島文学として最高のものでしょう。

 司馬 最高のものですね。あれを凌駕するものは一つもない。

 キーン そのかわり、ポンペさんは五年ぐらい長崎にいたでしょう。日本であまり知られていないですね。

 司馬 そうです。ポンペは知られていないです。ポンペは、晩年にどうやら赤十字の仕事をしていたらしい。赤十字の国際会議か何かがヨ―ロッパであったときに、日本の代表で行ったのは、どいう事情であったのか、森鴎外が行って、ポンペ先生が来ているはずだと思って捜して、ポンペ先生に会ったのです。それで先生に、日本ではあなたのことを神さまのように思っておりますと言ったら、呆然として往年をしのぶがごとく、そういったかどうかしりませんよ、「自分が最もはなやかなときはあのころだった」というような、これは私の記憶まちがいかも知れませんけれども、そういうように言ったということが鴎外のどこかに書いてあったような記憶があります。

 キーン そういうことは十分ありうると思います。また前の帝国ホテルを建てたアメリカの建築家のライトも、日本にたいして特別の感情があったでしょう。つい最近、彼が日本で集めた浮世絵の本が出ました。ほかでは見られないというような、珍しいものは別に一つもありませんけれども、それが彼にとってどんなにだいじであったか、また日本での経験が彼の一生にとってどんなにだいじな地位をしめていたか、それを見るにつけても想像するにかたくないのです。


 アーネスト・サトー P.131~136

 司馬 これは文学的な、あるいは文化的な人物ではないのですが、政治的人物として最も評価すべきは、やはり幕末に来たアーネスト・サトー(一八四三~一九二九年)でしょうね。私もイギリスに留学するという人には、ほかに何も調べなくていいから、アーネスト・サトーをじっくり調べて論文にしないかと三人ほどに言ったのですけれど、どうも三人とも何もしなかったようです。最近評論家の萩原延壽さんが行って、根堀り葉堀り調べられたようです。とにかくアーネスト・サトーというのは、あれは偉い人物です。アーネスト・サトーが日本の幕末の状況を変えた、といってもいいくらいです。

 当時の幕府というのはフランスを立てています。フランスはずいぶん食い込んでいる。幕府がオランダから乗り換えた次の列車はフランスですからね。フランスという国は、ナポレオンという偉い人が出たそうだから、これは世界でいちばん強い国だと幕府は思った。陸軍のつくり方も、幕府はフランス式にやります。フランス公使がベルクール、ロッシュとかわっていますけれども、どちらもたいへんやり手な人だし、とくにあとの元治元年(一八六四年)に来たロッシュ(一八〇九~一九〇一)という人は、ナポレオン三世の懐ろ刀なつもりでおって、外交官としてはワザの多すぎるほうで、外交にはオーソドックスの正直こそが外交の道だというのと、そうじゃなくて、むしろケレン味のあるほうが外交だというのと、二つあるとしたら後者のほうかもしれません。それども日本に来ますと、日本はいまのままではだめだといって、日本人以上に一種の志士的気分になります。ロッシュはそうなるんですけれども、どうしても幕府中心に考える。当然幕府と密着しているわけですから……。将軍とじきじきに会っている回数は少なくないんですけれども、将軍の周辺の人々に徳川家を中心とした郡県制度をしけばいい、徳川家がいわば大統領、もしくは世襲の大統領というものがありうるかどうか知らんけれども、ナポレオン三世という例がある、ナポレオン三世という人は、ナポレオンの甥だったのに、どれだけ苦労をしたのか、とうとう変なぐあいにナポレオン三世になった、あれで行きなさい、ということを教えるんですね。そうすると、京都の精力をガッンとやることができる、そして徳川家は何代もつづくことができる、というようなことをずいぶん教えたようで、それにひじょうにかぶれたのが小栗上野介(おぐりこうずけのすけ)(一八二七~一八六八年)という人ですね。小栗上野介はフランス語を知らないですから、それにかぶれさしたのは、フランス語を知っていた栗本鋤雲(くりもとじょうん)(一八二二~一八九七年)。これが幕閣仏派の闘将というところでしょうね。ですから、フランス公使がずいぶんと幕府に国際的な政治学を教えますし、日本改造のプランまで教える。

 私は、これは誠心誠意教えたと思うのですよ。これはじつにおもしろいことですからね。何も知らない所へ行って、その側に立って一生懸命に教えてやることになると、無私の心になって、日本人よりも日本のためにつくしたいという気持になりましたでしょう。ですから、ロッシュ公使も相当本気だったと思う。

 ところが、横浜にいる二十二、三歳のアーネスト・サトーは、フランスはどうもおかしいことをやっていると思っていた。彼らは、日本が国際社会に出て行く上で、まず清算しなければならないのは幕藩体制そのものであり、それにはまず将軍家を払いのけなければいけないのだということを知らないらしい、と思った。このままの封建制度では国際社会に出て行けないのだ、中央集権制度を採らなければいけない、その中央政権は、江戸を中心にしてはしようがない、京都を中心にした制度にすると、百姓、町人までつまり天皇の家来だということで、いままでの江戸的な階級制度が一掃されるだろうと、サトーはそこまで考えたらしい。 

 つまり、はじめて将軍は皇帝でないということを考えたのはサトーで、国際法で考えてみて、それまで全部将軍を皇帝と考えていたし、正式文章でも皇帝とと出ていますが、これは皇帝でなくて大みょうの大いなるものであるということを二十二、三歳の青年が見抜いた。そのときには、日本人でも見抜いていたかどうかわからないのです。ワキから見たほうがわかりやすかった、ということがあるかもしれないし、文書が全部読めたということは大きい。たとえばほかの国の外交官が「御老中様」として文書や手紙を出している。幕府の大臣のことを、外国の使臣が来てそんな敬語をつける必要はない、「老中殿」でいいということを、見抜いたのもサトーだけです。「御」はいらないんだ、あれは日本人の階級の下のものが御老中といっているだけで、英国の公文書では「老中」でいいんだ、と。つまりことばができるためにそういうものが全部見えてきたわけです。  

 アーネスト・サトーは、当時、横浜で発行されていた週刊の『ジャパン・タイムス』に、日本の将来のヴィジョンについて文書うを書く(一八六六年慶応二年)。その文書を、そのころは日本に著作権も何もないから、だれかが日本語に訳して、何千枚か配った。それを西郷隆盛が一生懸命読んで、彼らのビジョンになった。『英国策論』といって、英国が考えている日本のビジョンとして、「『英国策論』によればこうだ」というようなことを言って、それが明治維新の原型になるようなエッセーなのです。そのときのサトーは二十五歳になっていないと思いますね。あれはお父さんかお母さんがフィンランド人ですか。サトーというのは、アングロサクソンの姓じゃありませんね。

 キーン 珍しいです。

 司馬 ロンドンで生まれたことは生まれたようですね。サトーは、明治以降になって、結局駐日公使になって(明治二十八年)から、サーの称号をもらいます。だから、極東における功績は、イギリスにおいては認められたのだが、日本人がもっと認めなければいけません。


 フェノロサ、チェンバレン、サンソム P.136~P.142

 司馬 サトーは後年イギリスに帰りますが、日本のことを全然言いたがらなかったそうですな。懐しそうにも語らないし、読む本は、ひじょうに古典的なオーソドックスなヨーロッパのものばかり読んでいたといいます。これは萩原延壽さんのイギリスで得た成果で、私が聞いた萩原さんの解釈を受け渡しするので、少しずつ間違いがあると思いますけれども……。

※萩原延壽は東京都台東区浅草出身。旧制三高(現・京都大学総合人間学部)卒業後、練馬区立開進第一中学校教員を務める。東京大学法学部政治学科へ進学。卒業後、同大学院で岡義武に師事。修了後、国立国会図書館調査立法考査局政治部外務課に勤務。米国ペンシルベニア大学・英国オックスフォード大学に留学。英国留学中、丸山眞男の知遇を得る。帰国後、著述活動に専念し、『中央公論』など論壇で活躍。各大学からの教員職を断り、在野の歴史家として生涯を通した。

 英国滞在中、英国国立公文書館に保管されていた英国外交官アーネスト・サトウの1861年から1926年までの45冊の日記帳を調べ上げ、サトウの幕末期から明治初期までの活動を描いた大作『遠い崖――アーネスト・サトウ日記抄』(全14巻)を、朝日新聞に休載をはさみつつ約14年間連載、完結刊行を見届け2001年(平成13年)10月24日逝去、享年75。なお同年には、執筆生活を支え続けた夫人に先立たれており、後を追うように生涯を終えた。

※アーネスト・サトウ著『一外交官の見た明治維新上・下』坂田精一訳(岩波文庫)昭和四七年二月二十日 第一四刷発行

 それはなぜかということなんですが、とにかくサトーは一大構想があって日本を動かしたわけでしょう。自分では、明治維新は自分の作品だと思っています。じじつ彼が西郷に匹敵するほどの志士として存在したことは確かです。けれども、明治維新政府の大官たちがもうサトーを必要としなくなっいたということですね。それに腹が立っている。これはぼくはひじょうにわかる。おれになぜいろいろありがとうございましたと言わないのか、ということですよ。それはあるでしょう。サトーのほうが日本にたいする思い入れは強いのですからね。明治維新政府の大官たちには、サトーの果たした役割をよく知らない人が多かったと思う。それがやっぱり悲しかったことと、それから中国公使になったときもう一度やってやろうと思ったのですね。日本で成功したことをもう一度義和団の乱のあとの中国でやってやろうと思ったが、向うは国が大きくて、とてもややこしく、北京公使としての仕事があまり思わしくいっていなかったというがあるようです。

 それからもう一つは、サトーには天才のもっている病理学的な性質があったでしょうね。これは私自身のかってな見方ですけれども、分裂症的な性格でもって、ひとつ熱中したら凝り性で、うんと凝って、凝ったあとはケロッと忘れているタイプの人があるでしょう。あれもあっいたかもしれない。

 キーン しかし、そういう傾向は、日本に来たあらゆる外人の場合にも認められると思います。サトーだけのことじゃなかったようです。たとえばフェノロサ(明治十一年来日)もそうだったし、チェンバレン(明治六年来日)もそうでした。そしてだいたい理由は同じじゃないかと思います。ともに日本で相当大きな仕事をやって、日本人に尊敬されました。しかし日本に弟子をつくって、弟子がだんだん自分のやったこともできるようになった。もう日本ではその人は必要でなくなるわけです。

フェノロサの場合は明らかにそうだったですね。彼がはじめて日本に来たときは、日本は国宝が売られている時代だった。いま京都に住んでいる私の親しい友人の祖父にあたる人が、明治五年に宣教師として京都に来たとき知恩院のお坊さんに、「大きな鐘があるがいりませんか。売りたい」と言われたそうです。それがあとで国宝になった有名な知恩院の鐘です。その人は「結構なものですけれども、うちとしては大きすぎます」とおことわりしたそうですが……(笑い)。あの時代は、だれも日本の古きよきもののよさを認めていなかった。なんでも新しい西洋的なものを喜んだ時代でした。フェノロサは、なるべく日本人に自分たちのだいじな過去の美術のよさを教えたかった。だから弟子もつくったのでしょう。一番の弟子はなんといっても岡倉天心です。フェノロサは何かの用事でアメリカへ帰ったのち、二度めに日本にやって来ましたが、もうだれも彼を雇わなかった。日本人で同じような仕事をする人がすでにいましたから、わざわざお雇い外人さんに高いお金を出す必要はなかったのです。

 チェンバレンの場合は、彼は東京大学最初の日本言語学の教授ですが、やがて日本人も、おなじような学問が、むしろ元外交官のチェンバレンよりもできるようになった。それで彼はなんとなく幻滅を感じて、晩年はもっぱらフランス文学を勉強し、彼の最後の作品は、フランス文学の美しい詩と、その研究とかいうようなものだったようです。ジュネーヴに住んでいましたが、もう日本のことを全然考えていなかった。ちょっと信じられないような話ですが、そういうことはあるのです。フェノロサとかチェンバレンのような特別の場合だけではなく、若くてひじょうな成績をおさめて、日本で有名になっても、日本の生活はあとは苦しいです。いくらコツコツ勉強しても、もうたいした存在にはなれないでしょう。サトーの場合もそうではなかったかと思います。もちろん外交官としての仕事はつづいたのですけれども、若いときの彗星のようなことは二度と実現できなかった。

 これも一つの謎といえば謎なのですけれども、どうして『源氏物語』の訳者として有えいなアーサー・ウェリーさんのような日本通の偉い学者が、数年前に淋しく亡くなられるまで、一生、日本に来たがらなかったということです。いろんな説がありますけれど、ウェリーさんの直接聞いた人は、こういう返事を得ました。「私は現在の日本を見るよりも、まだ日本の古い本を見たほうがいいのです」。あるいはほんとうにそう思っていたかもしれませんし、またチェンバレンとか、サトーとか、フェノロサのような幻滅を恐れていたのかもしれないのです。

 要するに、どんなに日本のために働いても、どんなに日本に弟子をつくっても、具体的に彼らは日本人になれなかったということです。その天はアメリカだったら違うのです。たとえば、イギリス人が――ドイツ人でもフランス人でもいいのですが――若いときにアメリカへ行って、アメリカのために働いて、ついにアメリカ人になってしまったという例は多いのですが、日本の場合にはそんな例はほとんどない。一番のよい例はハーンでしょう。ハーンは日本の市民になって、小泉八雲になったとたんに月給が半額になったのです。外国人として特別に優遇されなくなって、彼は驚いたでしょう。これはとくに明治時代によくあらわれた現象だと思います。この時代だと、日本人はまだ外国の政治とか外交の仕方、また外国の美術の取扱い方を知らなかったから、若い外人でもいろいろ教えられた。フェノロサといっても、別にアメリカでは哲学者として尊敬されなかったし、美術学者としてもまったく無名でした。しかし日本に来ましたら、ヘーゲルを日本人にはじめて伝えた人だったのです。しかも自分の趣味として、日本の美術のよさをいろんな人に教えた。これは偉大な業績です。しかし、いまでしたら、こういうことはちょっと考えられません。どんなに頭のいい外人が日本に来ても、日本人に根本的なことを教えることはできないでしょう。

 司馬 しかし、チェンバレン教授にしてもわれわれは政治家のほうのチェンバレンは知っていても、日本の語学をつくったチェンバレンを忘れてしまっている。にもかかわらず、東京大学の言語学の伝統、日本語の語源は北方にありという説はいまだに崩れていません。それはチェンバレンの言ったことなんです。ですから、チェンバレンの学統は崩れていないくせに、チェンバレンという人の恩というものは忘れ去られている。

 キーン 当時の英国の外交官は初代公使オールコック以来ひじょうにすぐれた人が多かったですね。着実な日本研究を多く生み出しています。同じころには、さっきおっしゃったとおりに、フランスでもロッシュというような偉い人物がいましたが、タウンゼント・ハリス以後のアメリカの大使、公使の名前は、だれも知らない。そしてアメリカの大使館付のいろんな人の名前など、全然知られていないんです。オランダもそうだし、ドイツもそうだし、わかっているのはイギリスだけでした。すぐれた人が星のごとくいたからです。

 私のコロンビア大学の恩師サムソム卿は、チェンバレンさんを尊敬しておりました。若いとき外交官として日本に来まして(明治三十九年)、チェンバレンさんとも出あっています。サムソム先生が領事館に赴任してはじめて行ったところは北海道だったようです。その北海道でまず『徒然草』の翻訳をやった。ほとんど字引らしい字引のない時代でしたから、ひじょうに苦労したと聞いています。それからしばらくして『船弁慶』などの能の本の翻訳をやったといいます。しかし、サムソム先生はもともと文学者でもなくて歴史家でした。『日本文化史』『歴史的日本文法』などいろいろすぐれた著作がありますが、私は、いつか、サムソム先生に、なぜ外交官としての生活がありながら、あのような著作が書けたか、と素直に聞きましたら、「あのころはほとんど仕事がななかったのだよ。要するに月に一回くらいイギリスから船が入港して、三日ほど忙しくて、あとはまた暇だったのさ」と古きよき時代を回想されておりました。暇の使い方はいろいろあったようですが、まずサムソム先生は歩くことが好きで、日本のほうぼうを歩きまわったといいます。いつかサムソム先生に、「日本でのすべての思い出のうちに、何がいちばん楽しかったか」と聞きましたら、どこか関西の山でしたが、歩いていたら、盗賊といっしょになった。まだそういう人がいたんですね。その盗賊ととても仲好くなって、そしてそのあと、毎年必ず年賀状をもらったとか。

 司馬 よき時代の盗賊ですな。(笑)


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『明治天皇と元勲』


『明治天皇と元勲』日本のリーダー (TBSブリタニカ)1982年10月9日 初版発行 P.13~26

 明治天皇と元勲/目次

 概説……………………鳥見 靖

 


 明治天皇………………豊田 穣

 西郷隆盛………………杉森久英

 木戸孝允………………邦光史郎

 大久保利通……………南条範夫

 岩倉具視………………江崎誠致

 伊藤博文………………佐々克明

人物小伝  江藤新平 森 有礼 三条実美 井上 毅 後藤象二郎 品川 弥二郎 大木喬任

 黒田清隆 品川弥二郎 福島種臣 榎本武揚 佐佐木高行 桂 太郎 井上 馨  西園寺公望 

概 説 強国の建設を目ざして   鳥見 靖

 明治は、日本が近代国家形成のための巨大な変革を進めた時代である。それは、欧米諸国が何百年もの歳月をかけて行った変化の過程を、わずか半世紀のうちに実現しようとした壮大な歴史の実験である。

 明治初年、駐英日本公使の寺島宗則(てらじまむねのり)は、バッキンガム宮殿の招宴における日本代表の席次が、当時イギリスと国交のあった四十八か国中の最末席であることを長嘆息したといわれるが、その半世紀後、日本が世界の五大国(ビツグフアイブ)の一つにつらなるようになろうとは、おそらく彼も想像できなかったにちがいない。

 明治前期、日本が近代国家建設を目ざし、欧米諸国から新しい知識・技術・制度などを導入して、政治・経済・軍事・文化など各方面にわたる国内改革の諸作業にかかったころ、世界はすでに帝国主義の時代にさしかかろうとしていた。

 一八七〇年代から八十年代にかけて、欧米列強間の本格的戦争こそなかったが、イギリスによるスエズ運河株買収、ヴィクトリア英女王のインド皇帝就任、露土(ろと)戦争、イギリス軍のエジプト占領、第三次ビルマ戦争、清仏(しんふつ)戦争、仏領インドシナ連邦の成立、シベリア鉄道の着工など、列強の東方への進出はいちだんと活発化し、山県有朋が指摘したように、まさしく「夫レ西欧無事ノ日ハ即チ各国ノ遠略ヲ東洋ニ進ムルノ時ニシテ、東洋ノ遺利財源ハマサニ肉ノ郡虎(ぐんこ)ノ間ニ在ルガ如シ」(「外交戦略論」)というありさまだったのである。

 日本は、国内の動乱を短期間に収拾して明治維新を達成し、開国和親の政策を進めたことによって、幕末当時のように、直接に諸列強の軍事介入を受ける危険は、ひとまず解消した。とはいえ、日本の指導者たちは、前述のように「西方東漸」のなかで、自国の国家的独立の確保について、終始、強い危機感をいだきつづけた。日本の近隣諸国が諸列強のしょく民地となったならば、日本の国家的存立そのものもあやうくなるというのである。

 日本が二百年余にわたる泰平の眠りから、「西欧の衝撃」によって強制的に目覚めさせられ、突如として国際政局の荒海に投げ込まれたという歴史的事情を考えれば、明治日本の指導者たちが、やや過剰と思われるほどの強い対外危機意識をいだきつづけたのも、きわめて当然の反応であったといえよう。

 このような国際環境のなかで、強い対外危機意識に支えられながら、近代化への歩みを進めることとなった明治の日本にとっては、まずなによりも国家的独立を維持・強化し、国際社会において欧米諸国と肩を並べる富強な国を建設することが、最大の国家目標となった。新しい国づくりのための具体的な諸政策の遂行の課程において、国内諸勢力の間にさまざまな政治的対立・衝突がみられたにもかかわらずこの基本的な国家目標は、政府側はもとより反政府派(たとえば自由民権派)にあっても、共通の課題として認識されていた。その意味でそれは、明治日本の国民的課題だったのである。

   変革の激しさと流血の少なさ

 明治維新を出発点とする近代国家の建設は、このように「西欧の衝撃」への対応として進められた。その変革はきわめて大きく、かつ急激であり、その当時在日した外国人、あるいは日本に関心をいだいた外国人の多くは、明治維新の改革があまり急激すぎるとして強い懸念を表明している。しかし、日本が収拾しがたいような大きな混乱におちることはほとんどなかった。

 明治維新とほぼ同時代に、アメリカでは死傷者約六十万人を出すという南北戦争が起こっているし、フランスではわずか十日間ほどの市街戦で三万余の死者を出したパリ・コミューンの内乱が勃発している。日本の場合、戊辰戦争や西南戦争でかなりの流血があったとはいえ、ペリー来航から西南戦争にいたる四分の一世紀に及ぶ維新動乱の全課程での死者の総数は、パリ・コミューンの最後の十日間の犠牲者数を上まわることはなかった。

 明治初年、岩倉使節団の副使伊藤博文は、サンフランシスコにおいて、日章旗のデザインを説明しつつ、積極的に西洋文明を摂取して近代化を進めようとしている日本の立場を強く訴えた。この「日の丸演説」のなかで彼が、一滴の血を流すことなしに封建制度の撤廃に成功した、と述べているのはやや誇張したきらいをまぬかれないが、変革の激しさと大きさにくらべて、流血の度合いがわりあいにすくなかったことは、たしかに日本における近代化形成についての一つの特色であるといってよいだろう。

 そうした特色を可能にしたもっとも基礎的な国内条件は、日本社会の同質性に求めることができるだろう。それは、島国という地理的条件もさることながら、江戸時代二百年余りにわたる鎖国政策と中央集権的な幕藩体制のもとで、ひときわ高度化されたもとの考えられる。

 一般に新興国家が統一と近代化を進めようとする場合、今日の第三世界の諸国でもよくみられるように、人種的(あるいは民族的)対立、言語的対立、宗教的対立などが、しばしば大きな阻害要因となる。しかし江戸時代、とくに十七世紀後半以降の日本では、こうした阻害要因はほとんど問題とならなかった。とりわけ今日でも世界各地で流血の一因となっている宗教的対立について、江戸時代に来日した何人かの西洋人が、その著書のなかで、多数の異なった宗教・宗派が、日本では平和的に共存している点を、まったく驚嘆すべきこととして記しているのは、はなはだ興味ぶかい。

 日本における近代国家の形成は、明治維新とほぼ時を同じくして統一国家を形成したドイツのそれと類似したもの、と理解されることが多い。たしかに明治政府の指導者たちは、憲法や陸軍の制度など多くのものを、このヨーロッパの新帝国から学んでいる。とはいえ、日本とドイツでは、その基礎的な国内条件にかなり大きな差異があったことを見逃すわけにはいかない。

 周知のようにドイツは、日本ほど同質的ではなかった。日本では藩籍奉還・廃藩置県により、幕府打倒の主役をつとめた薩長両藩をふくめた諸藩はほとんど抵抗することなく解体され、全国は中央政府の直接支配のもとにおかれてしまった。その後も中央政府に勢力を保つていたのは、せいぜい西南戦争までの鹿児島くらいのものである。

 これに対してドイツの場合は、ビスマルクの「鉄血政策」のもとで、プロシアを中心にドイツ統一が達成されたものの、それは二十五の邦国からなる連邦国家であり、反プロシアの地方的勢力は日本にくらべてはるかに強力であった。また当時ドイツの国内には人口の一〇パーセント近くの外国人が住んでおり、ドイツ語がはなせないものも少なくなかったという。国内に住むほとんどすべてが日本人であり、日本語を話すというのが自明のこととなっている日本とは、明らかに事情は異なっている。さらに宗教の面からみると、ドイツはプロレスタンㇳの国であったが、世俗的権力よりもローマ法王の宗教的権威を重視するカトリックの反政府的勢力も侮りがたく、ビスマルクが文化闘争によりカリック勢力を厳しく弾圧したのはよく知られている。

 ビスマルクの「鉄血政策」は、こうした異質の諸要素を力によっておさえ込むためにとられたといえるだろう。伊藤博文が「日本のビスマルク」を気どりながら、じっさいには本場の「鉄血宰相」にはほど遠い穏健な政治運営に終始したことが、ドイツ人医学者ベルツや、イギリス人新聞記者プリンㇰリーによって指摘されている。

 おそらくそれは、伊藤個人の性格に由来する問題ではあるまい。伊藤に限らず、明治政府の最高首脳たちは、予算審議をめぐって議会の反対に直面した際でも、ビスマルクのように議会の議決を無視して軍事予算を施行するといった強硬手段はとらなかったし、あるいはその政党対策一つをとっても、反対派に対してより妥協的であったといえよう。それは、社会的同質性が高く、共通の国家目標をもっていた日本の場合、政府は、国内の反対派をおさえるために、ビスマルク流の武断的手段に頼る必要がそれほどなかったのであろう。

 そうした事情が、近代日本において、日本流の「和の政治」を生む重要な条件となっているように思われるのである。

   日本流の集団指導

 明治日本は多くのすぐれた政治指導者を生み出したが、ワンマン型のリーダーというものは、ほとんど見られない。一人の傑出した指導者が、強力なリーダーシップを発揮してみずからのイニシアチブで万般の政策を決定し、諸衆を強引に引っ張ってそれを実行に移していく、というようなかたちではなく、ある程度能力のある何人かの指導者格の人々が、たがいに談合して慎重に根まわしをかさね、集団の意思統一と諸政治勢力の利害の調整をはかりながら、政治を運営していく、というかたちのいわば集団的指導体制が、近代日本における政治運営の基本型といえるだろう。

 明治維新のような動乱と変革の時期にも、日露戦争のような国運を()した戦争遂行に際しても、独裁者と呼べる人物は出現しなかった。これは革命や戦争、あるいは新しい国づくりにはかならずといってよいほど独裁的政治指導者が姿を現わす諸外国のケースとはかなり異質であり、世界史上、むしろ異例の事に属する。日本の場合は、善かれ悪しかれ集団的傾向が強く、集団から抜き出た個人の存在を好まない。それが政治的指導のあり方にも反映している。

 一般に危機的状況に対応する政治的指導のあり方を考えれば、二つのタイプを想定することができる。一つは、いわゆる一党独裁型で、反対派はもとより対立的諸勢力をことごとく一掃して一党一派で政権を独占する。他の一つは、挙国一致型で、対立的諸勢力をできるだけ広く政権のなかに取り込んで、その間の調和をはかりながら、挙国一致の連合政権をつくる、という方式である。ナチス・ドイツやソ連の一党独裁は前者の典型的事例であるが、日本では、ほとんど後者の挙国一致型がとられている。

 明治維新によって天皇のもとに成立した新政府は、当初公家(くげ)・雄藩連合政権であった。明治四年(一九七一)の廃藩置県によって、藩は解体されたが、明治政府の人的構成が討幕の原動力となった薩長土肥四藩、および公家出身者を中心としたものであることにはかわりなかった。

 その後、征韓論(明治六年)と国会開設問題(明治十四年)をめぐって再度にわたる政変があり、政府部内における薩長両派の主導権が強まった。近代内閣制度のもとでの最初の内閣である第一次伊藤内閣では閣僚十人のうち、薩摩・長州出身者が各四人を占めた。しかし、薩長藩閥色が濃厚になっているとはいえ、いずれか一派による政権の独占は行われず、両派の勢力均衡には細心の注意が払われている点は注目に値する。

 しかもその後、伊藤内閣には明治十四年の政変で政府を追われ民権派(立憲改進党)の最高指導者大隈重信が入閣し、次の黒田内閣には、かって征韓論に敗れて下野し、民権派の有力者となり、いまや大同団結運動の最高指導者として反政府側の中心人物と目された後藤象二郎が返り咲いている。これは立憲政治の開幕にそなえて、反政府系をも包摂(ほうせつ)した挙国一致の政権をつくろうとする明治政府側の構想によるものであろうが、ここには政府首脳たちの「調和」の感覚が表われていて興味ぶかい。

 こうしたやり方は、その後、君権主義を建て前とする明治憲法のもとで、その議会主義的運用によって政党内閣への道をひらくことになる。第二次伊藤内閣と衆議院の第一党である自由党との提携にはじまる藩閥・政党連合政権の時期を経て、伊藤を首班とする立憲政友会内閣(第四次伊藤内閣)が出現したのは、議会開設後わずか十年のことであった。

 近代内閣制度発足以来、明治時代には十四代の内閣が出現し、大臣の実人員は八十人に及んでいる。彼らの出身府県別内訳をみると、山口十四、鹿児島十三と薩長両藩出身者がほぼ三分の一を占めているが、同時に、かつての「逆賊」だった旧幕臣あがりの大臣も三人いる(榎本武揚・林董(ただす)外山正一(とやままさかず))。そのほか、戊辰戦争で「朝敵」となった諸藩の出身者や、自由民権運動に加わって「国事犯」となった経験のある大臣も少なくない。奏任官以下の中堅・下級の官僚は、急速な近代化の円滑な推進に大いに役立ったものと思われる。

 こうした政治指導のあり方からすれば、明治政府の首脳たちにとって強く要請されるのは、いわば「まとめ役」としての能力である。複雑に対立する利害の調整や政治諸勢力間の調和をはかり、反対派をも完全に敵にまわすことなく、全体の意見を一つにまとめあげていく、といったやり方が政治運営の要諦となるであろう。

   明治天皇と元勲たち

 本巻にとりあげた明治の元勲たちは、その活躍した時期と舞台によって差があり、また個性の違いはあるが、基本的には集団指導型政治家であるといってよいであろう。彼らのうち、西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允・岩倉具視が活躍した主たる時期は、「兵馬騒乱の創業期」であり、いまだ政治運営の安定したルールは確立されていなかった。

 とくに西郷の場合は、明治政府の政治家としてよりも、幕府打倒にいたる幕末動乱期の軍事的局面の指導者としての功績が大きかった。王政復古のクーデターから幕府側を兆発するかたちで鳥羽・伏見の戦いを起こし、新政府軍を率いて江戸に進軍し、勝海舟との交渉によって江戸城無血開城に成功するまでが、西郷のはなやかな出番である。混乱の時代に、その人間的魅力、豊かな包容力、あふれるばかりの勇気と情熱などによって、ばらばらになりかねない諸藩混成軍をよく統率し、討幕の武力として力を発揮させた点が、最大の功績といえるだろう。

 それ以後は、廃藩置県の際に一役買った程度で、明治政府の手による「建設の時代」には、彼の行動はいささか生彩を欠いたものになる。しかし、維新の大きな功労者でありながら、西南戦争で士族反乱の首領となり「逆賊」として悲劇的な死を遂げたことは、日本人の判官(ほうがん)びいきの琴線にふれ、また権力に恬淡(てんたん)とし、質素な私生活を送った点は、庶民感情に合致し、今日まで半ば伝説化された大衆的人気を保持している。

 これに対し、大久保は「徹頭徹尾政治家」であった。大政奉還から戊辰戦争にいたる時期、岩倉と組んで宮廷工作をはじめ、さまざまな政治の裏面工作を推進したといわれ、二人とも策謀家としてのイメージが強く、その分だけ素人向きの人気には乏しい。大久保の場合、その活躍の最大の舞台は明治政府であり、新政府成立以後は、死ぬまで終始一貫、政府の中枢の座にあった。彼はいわば実務のわかる現実的政治家であって、「破壊の才」では西郷に遠く及なかったが、「造作の才」にかけてはなんといっても第一人者であった。とりわけ征韓論による政府分裂後も、政府にふみとどまり、配下の実務家たちをよく使って国内の整備、建設に全力を注いだその間、佐賀の乱から西南戦争にいたる士族反乱を断固として武力鎮圧にあたったということから反対派から武断専制政治家という非難を浴び、後世の歴史家からも、しばしば「大久保独裁」なる評を受けている。

 たしかに、大久保は剛毅果断な性格で、決断力・実行力に富む政治家であったが、彼の政治運営のあり方はけっして、ワンマン的独断専行ではなく、「堅忍不抜の執着力」による非常に辛抱強い説得を身上とするものであった。その点で日本的集団指導型政治家たる資質の持ち主だったといえよう。

 ところで、明治十年代は、明治維新の第一世代から第二世代への政治指導の世代交代の時期であった。西郷・大久保・木戸のいわゆる維新の三傑が、明治十年~十一年(一八七七~七八)にかけて相ついで世を去り、ややおくれて岩倉も十六年に病没した。かくて、大久保のもとでようやく緒についた近代国家建設の本格的作業は、伊藤博文・井上馨・大隈重信・山県有朋ら第二世代の指導者に引き継がれることになった。

 当時世間では「才識余りありて重望(これ)に伴わざる」第二世代の政治家たちに不安をいだく向きも多く、明治政府の前途をあやぶむ声も少なくなかった。しかし、彼らの多くは、実務的政治家として、大久保政権時代すでに台閣(国政をとるところ)に列していたことでもあり、明治政府の改革路線は無事に継承され、世間のふ安は杞憂に終わった。

 彼らのうちで、いち早く脚光を浴びるにいたったのは伊藤である。憲法の起草をはじめとする、伊藤の多くの政治的業績については、あまりにも有名であり、本文でとりあげられるのでここではふれない。

 ただ一つ、明治天皇との関連で、明治憲法における天皇の地位について簡単に説明しておきたい。

 周知のように明治維新は、「王政復古」を旗印とし、天皇のもとに権力を集中化するかたちで幕藩割拠体制を打破することに成功した。近代立憲政治の理念はすでに幕末から日本に伝えられており、明治政府の首脳たちの多くは早くから、立憲政治・議会制度の導入が、日本をして欧米列強と国際社会において肩を並べる強国をつくるための必要条件であることを認識していた。その場合、天皇を中心とした立憲君主制を採用することについては、政府も民権派も共通の前提として理解されていたが、明治十四年の政変を契機に、政府首脳がプロシア型君権主義の立憲制の建設に着手したことは、周知のごとくである。

 明治政府による憲法制定の具体的過程で、伊藤博文ら起草者たちがもっとも苦心した点は、日本の伝統的な天皇をいかにして西洋流の近代立憲君主制のなかに位置づけるかという点であった。明治憲法では、天皇を「国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬」するものと定め(第四条)、第五~十六条には、法律の裁可、帝国議会の招集、衆議院の解散、緊急勅令の発布、文武官の任免、陸海軍の統帥、宣戦・講和・条約の締結など、広範な天皇の大権事項を列挙すると同時に、その統治権は「此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」ものと規定して(第四条)、天皇の大権が無制限ののものでないことも明らかにしている。

 伊藤は枢密院での憲法草案審議において、一方では君権主義の建て前を強調するとともに、他方では天皇の統治権の濫用を厳しく戒め、立憲主義の本質が君権の制限と民権の保護にあることをも力説している。このように、君権主義の建て前と、その立憲主義的運用の両面が重要視されたことは、明治憲法にかなり多義的な解釈と運用の余地を与えることとなった。昭和初期に軍部によって激しく非難された美濃部達吉の「天皇機関説」が、じつは、このような伊藤流の憲法理解にもとづいていることは、今日ではよく知られている。

 ヨーロッパの立憲君主制においては、君主は政治的主体であり、ドイツ帝国のヴィヘルム二世にみられるように、その個性と個人的意志が国家の政策にかなり大きな直接的影響を及ぼすことも少なくなかった。しかし、日本の場合、天皇がみずからの積極的意志によって憲法上の大権を行使することはほとんどなく、天皇はせいぜい裁可者にとどまった。「天皇親政」はドイツ皇帝の場合とは異なり、たんなる観念にすぎなかったといえよう。

 結局のところ、日本では明治時代から天皇の存在はいちじるしく象徴化され、現実の政治運用はもっぱら元老をはじめとする有力指導者たちが、天皇の憲法上の機能を集団的に代行するかたちで進めてきたのである。それはまさしく日本的集団指導体制にふさわしい政治運用であったといえる。

2019.08.31

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コンラ―ㇳ・ローレンツ/日高敏隆訳
『動物行動学入門 ソロモンの指環』

   ソロモンの指環 P.106~125 

 旧約聖書の述べるところにしたがえば、ソロモン王はけものや鳥や地を這うものどもと語ったという。そんなことは私にだってできる。ただこの古代の王様のように、ありとあらゆる動物と語るわけにはいかないだけだ。その点では私はとてもソロモンにかなわない。けれど私は、自分のよく知っている動物となら、魔法の指環などなくても話ができる。この点では、私のほうがソロモンより一枚うわてである。ソロモンは指環なしでは彼に最も親しい動物の言葉すらできなかったのだから。そして彼が指環を失ったとき、動物の世界にたいする彼の心は閉ざされてしまった。彼の九百九十九人のお妃の一人が若い男を愛していると、一羽のナイチンゲールがこっそりと彼に告げたとき、彼は怒りのあまり指環を投げすててしまったのだ。すくなくともヴィーㇳマンが『聖者とけもの』というおもしろい話の中で記しているかぎりでは、こんなことだそうだ。

 ソロモンがひじょうに賢かったか、愚かだったか、私はよく知らない。とにかく私個人としては、動物とつきあうのに魔法の指環を使うのはいさぎよしとしない。魔法なんかの助けをかりなくとも、生きている動物たちは実に美しいつまり真実の物語を語ってくれる。そして自然界においては、実在する唯一の魔法使いである詩人たちがいかに美しい物語を生みだそうとも、真実はそれらよりはるかに美しいものなのである。

 ある動物の「語彙」を理解することは、けっしてむずかしいことではない。われわれが動物たちに話しかけることもできる――すくなくともそれがわれわれの表現手段によって可能であり、かつ相手の動物がわれわれと接触する用意がある限りは。だがそのとき、私の友人のアルフレーㇳ・ザイツがやったようないいまちがいをせぬように注意することも必要だ。それはある初夏の日であった。われわれはハイイロガンの映画の撮影のため、ドナウの草地に出かけていった。われわれは水とヤナギとアシのいりまじった、汚れを知らぬ清らかな景色の中を、ゆっくりと歩いていった。ゆっくりと、じつにゆっくりと。われわれは、長い行列になってうしろからついてくる十三羽のマガモのヒナと九羽の小さなハイイロガンに、ペースをあわせていたからだ。やっとわれわれは、アルフレーㇳが撮影のためにえらんだ、絵のように美しい場所に到着した。彼は直ちに仕事にとりかかる。私もこの企画全体の科学的監督という役目についた。アルフレーㇳは腹まで水につかり、カメラと眼とそれからけもののような辛抱づよさで待機しはじめた。日が照りつけてきた。トンボが飛びかい、カエルがものうげに鳴く。私はうとうととまどろみだした。アルフレーㇳがカモたちに何か叫んでいる声が、はるかかなたからのように聞こえてくる。へんなときにカモが画面に泳ぎこんできてしまうらしい。早くおきてカモたちお追いはらってやらなくては……。だがその決心がつきかねているうちに、突然アルフレーㇳが腹立たしげにどなる声が聞こえてきた――「ランガガ、ラン、じゃない、クヴェーゲッゲッゲ、クヴェーゲッゲッゲッ……」。彼はいいまちがえたのだ。ついうっかりと、カモにむかって「ハイイロガン語」でどなってしまったのだ! わが友アルフレーㇳは完全なハイイロガン語をマガモ語のアクセントで発音してしまった。まさにそのために、途中でもらした「じゃない!」というのが、たまらないほどおかしかった。

 とはいえ、真の意味での言語というものを動物はもっていない。高等動物、とくにコクマルガラスやハイイロガンのように社会生活をするものは、なにかを表現する運動と音声との完全な信号体系を生まれながらにしてもっている。そして、この信号を発する能力も、それを正しく「理解する」すなわち種を保つように答える能力も、ともに生まれつきのものである。

 もちろん人間の行動にも、ある生理的な気分を本人の意志とは関係なく否応なしに他人に伝えてしまう物真似的(ミメテイツク)な合図がある。その一番よい例をあげれば、だれかがあくびをすると、きみもついつられてアクビをするというのがこれだ。アクビをしたいと生理的気分をあらわすミメテイツクな合図は、もちろん容易に感知できるかなり強力な刺激で、それが他人のアクビを触発する作用をもつことも、納得のゆかぬものではない。だがある生理的気分を伝えるには、一般にはけっしてこのように大げさで明白な信号が必要なわけではない。むしろこの過程の特徴は、よほど注意をこらしてみていてもしばしば気づかぬほど極端に微妙で些細な表現運動によって行われているということである。無意識的な感情と情熱を伝える神秘的な発信・受信の器官は、長い歴史の産物である。それは人類とはくらべものにならないほど古い。人間ではこれらの器官が、明らかなことばによる言語の発達にともなって退化してしまった。人間はその時々の気分を他人に伝えるのに、もはや微妙な初発運動などを必要としない。彼はそれをことばでいえばよいのだ。だからコクマルガラスやイヌは、つぎにお互いがなにをするのかを「眼でよみとる」ほかはないのである。だからこそ、社会生活をする高等な動物たちでは、生理的気分を伝達する発信器官も受信器官もまともに、人間よりはるかによく発達し、特殊化しているのである。コクマルガラスのキャアやキュウー、あるいはハイイロガンの多音節または少数音節の気分感情声など、動物の表現音声はすべて人間の言語に比較せらるべきものではない。どうみてもそれは、アクビやしかめ面やほほえみなど、無意識に、生れながらに「発せらられ」、同じぐらいに「理解される」気分表現に相当するものなのだ。いろいろな動物の「語」の「単語」は、いわば間投詞にすぎない。

 たしかに人間も、同様に無数のニュアンスをもった、無意識的な物まねをあやつることができる。しかし、いかなる名優といえども、この意味の物まねだけでは、歩いていこうというものか飛んでいこうとするのかをしめすことはできない。ところがハイイロガンにはそれができる。しかしコクマルガラスにはそんなことは朝飯前である。それほど動物の発信器官は人間のにくらべて精巧にできているのだ。そして精巧なのは発信器官だけではない。生理的気分の伝達を感受する器官もまた精巧だ。動物の感受器官は多数の信号を選択的に区別できるだけでなく、人間が用いるよりもずっとわずかのエネルギーで発せられた信号に答えることができる。動物がどれほどかすかな合図をも知覚し、正しく理解することか。それは、ほとんど信じられないほどだ。人間にはそのようなかすかな合図は、まったく感知できない。

 地上で餌をあさっているコクマルガラスの群から、一羽が飛びたつ。もしそれが、近くのリンゴの木で毛づくろいをしようとして飛びたつたのなら、群れのほかの連中は見向きもしない。しかしその一羽が少し遠征してやろうとして飛びたったのなら、群れのの中におけるこの一羽の「権威」しだいで、それの配偶者だけか、あるいはもっと多数のカラスたちがあとについて飛びたつ。しかし最初に飛びたった一羽は、一声だって「キャア」という呼びかけをしてはいない。

 このような場合、コクマルガラスをきわめてよく知っている人なら、そのごくかすかな合図をカラスなみに正しくとらえられることができるかもしれない。だがそのほかの場合となると、もうだめだ。このような能力の点で、イヌの「通(つう)人」はわれわれよりはるかにまさっている。イヌ好きの人ならば、忠実なイヌは主人がなにかイヌには興味のない用事で部屋をでてゆくのか、それともイヌが待ちこがれている散歩にいよいよでかけようとすのかを、気味のわるいほど確実に見抜くことを知っている。しかし多くのイヌは、この点ではもっとすごい。たとえばいま私の飼っているイヌの曾曾曾曾祖(ひいひいひいひいそう)母にあたるシェパードのティトーは、どんな人がいつ私をいらだたせるかを、まるで「読心術」によるようにして正確にわかってしまうのであった。ティトーははそういう人の尻に、軽く、しかし断乎として咬みつく。それはどうしても止めることができなかった。とくに危険なのは、権威ぶった年配の紳士が私と討論中に、例の「きみはまだ若い、若い」という態度をとったときである。そんなそぶりを見せたとたん、お客はびっくりして尻をおさえる。ティトーがすかさず懲罰をくわえたのだ。私にどうしてもわからないのは、ティトーが机の下にねそべっているときでも、このことがちゃんとおこなわれることだ。ティトーにはその人物の顔や態度がみえるはずがない。だれがだれとしゃべっていて、だれが私の論敵なのか、ティトーはどうしてわかったのだろうか?

 その時々の主人の気分をこまかく理解するのは、もちろん「読心術」や「テレパシー」によるものではない。多くの動物は、人間の眼にはわからない、驚くほど小さな動作をも知覚する能力をもっている。とりわけ、主人の役にたとうとして注意を集中し、たえず文字どおり主人の「唇のうごきを見守っている」イヌでは、この能力はずばぬけている。しかし、この点では、ウマもかなりのことをやってのける。ここで、いくつかの動物を有名にした曲芸のことを話すことにしよう。多くの読者は例の「賢馬ハンス」のことをおぼえているだろう。そのほかにも、平方根の計算までできた「考えるウマ」というのがいくつかあったし、女主人に聖書を読んでやったエアデルテリアの「ワンダフル・ロルフ」というものもいた。

 計算したり、読んだり、考えたりするというこれらの動物は、いずれも、モールス信号式に床をたたいたり、吠えたりして「話す」のであった。こいった曲芸を見た人は最初はすっかり度胆をぬかれてしまう。そこへ、ご自分で試してみませんか? と誘われる。そこできみはこの天才的なウマやテリアやそのほかの動物の前へでてゆくわけだ。きみは二の二倊はいくつかとたずねる。テリアはキッときみをみつめて四回ほえる。もっと驚異なのはウマだ。ウマはたずねた人を見る様子もなく、足で床を正しくたたくのである。だがそのとき、ウマはじつは見ているのだ。じっと視線を「固定」しはしないけれど、いわゆる間接視によってごく微妙な動作をじつに正確にとらえている。つまり答えを教えているのはきみ自身なのだ。きみが無意識にかすかな合図を送って、「考えている」動物に正しい答えを知らせてやっているのである。もし人間がその問題の答えを知らないと、あわれなけものは困惑して、やたらに吠えたりたたいたりしつづける。「もうよろしい」と知らせてくれる合図を、彼はひたすらに待っているのだ。この無意識的な合図を出さずにおさえることのできる人は、よほど自己観察力と自制心の強い少数の人たちだけである。

 要するにどうということはない。答えを見出すのは人間であって、見かけだけ考えている動物にその答えを伝えてやっているのだ。このことは、だいぶ前に私の研究仲間の一人がが証明した。彼はあるオールドミスが飼っていた、当時たいへん有名なオスのテリアで実験したのだ。方法はずいぶん意地の悪いものだった。透明な紙を何枚か貼りあわせてつくった小さな板の表側に、太い字で一つだけ計算の問題を書きこんである。ところがこれを裏側から透過光でみると、もう一つの問題が透けてみえるという寸法であった。さていよいよそのご婦人がこの板をイヌにしめしたところ、イヌはこのご婦人にみえる方の問題に答えて吠え、けっしてイヌ自身が読めるはずの側の問題には答えなかった。最後に私の友人は、発情期のテリアのメスのにおいをしみこませた紙をそのイヌに見せた。そのにおいがなんのにおいかだが、彼にはちゃんとわかっていた。だが、そのご婦人にはわからなかった。ご婦人がイヌに、この紙はなんのにおいがする? とたずねたとき、イヌはそくざにモールス式の吠え声で答えた――「チーズのにおいです」。

          *

 私はさきほど、主人が他人にたいして抱く親愛の情や反感を、イヌが正確に読み取る能力をもっていると書いた。たしかに特定のごくかすかな表現運動にたいして、多くの動物は度はずれた感受性をもっている。これはまったく驚くべきものといえる。そこで素朴に擬人化してものを考える人たちは、えてしてこんなふうに信じこむ――動物はそのように内に秘められて口には出されない思いさえ(●●)見抜くことができるのだから、愛する主人の語ることばならみんな正しく(●●●●●●●●)理解するにちがいないと。ががこう考える人々は、どんなわずかな表現運動でも理解できるという社会性動物の能力は、まさに彼らがことばを理解できないからこそ、話すことができない(●●)からこそ発達したのだ、ということを忘れている。

 仲間に特定の行動をさせようという意識的な目的をもって、動物がなにかを語ったというためしはない。動物の「相互理解」の手段となる表現的運動や表現音声は、すべてまったく間投詞として「発信者」から発せられたものである。

 イヌがきみに鼻をすりつけ、クンクン鳴き、ドアのところへとんでいってドアをひっかいたり、水道の蛇口へ肢をかけて、たのむようにあたりを見まわすことがある。このようなイヌは、たとえコクマルガラスやㇵイイロガンがきわめて「わかりやすく」、かつ目的に応じてこまかく分化した表現音声で「語る」ことができるにせよ、それとは比較にならぬくらい人間のことばに近いことをささやっているのだといえる。イヌはきみにドアを開けてくれとか、水道の栓をひなってくれとたのんでいる。つまりこのイヌは人間にたいして、目的をもって意識的に影響を与えようとしているのだ。ところがコクマルガラスやㇵイイロガンは、彼らの内部的な生理的気分をまったく無意識的に表現しているにすぎない。「キュウ!」も「キャア」も警戒声もすべてなんらの目的意識なしに「思わず口から洩れる」のだ。彼らはこの声に対応する生理的気分になったが最後、どうしてもそれをいわざるをえない。おさえるわけにいかないのだ。彼らは、たった一匹だけでいるときにも、まったくおなじようにそれをいう。

 イヌのすることは学習(●●)されたもので洞察(●●)をふくんでいるが、鳥がなすこと語ることは、すべて生れながらの遺伝的なものである。イヌは自分を主人に理解させるのに個体によってみなちがう方法をもっている。さらにおなじ一匹のイヌが、その時々の状況に応じて、いろいろと違う方法を使って目的を達することがある。あるとき私の飼っているメスイヌのシュタジーがなにか悪いものを食べて、そのため夜中に「外へ用足しに」ゆく必要を生じたことがあった。その日私はひどく疲れていたので、ぐっすりねむりこんでいた。シュタジーは私をおこそうとしていつもの合図をくりかえしたが、さっぱりききめはない。そのうち彼女の生理的要求はますますさしせまったものになった。彼女がいつものとおり鼻で私を打ち、クンクン鳴いても、私はますます深く毛布にもぐりこんでしまうばかり。ついに彼女は意を決して、私のベッドにとびあがり、前足で私を毛布から掘りだして、あっさりベッドからほうりだした。

 当面の目的に応じてこのように手段を変えるという柔軟性は、鳥類の表現運動や信号声にはまったくみられないものである。

          *

 周知のように、インコ類とカラス類は人間のことばを真似て「しゃべる」。しかもそのさい、音声とある特定の体験との思考的結合もときには可能である。この真似はじつは、多くの鳴鳥にみられる「鳴きまね」に他ならない。キムネ(黄胸)ムシクイ、セアカモズ、オガワコマドㇼ、ホシムクドリなどは、鳴きまねの親分だ。これらの鳥たちは、まねておぼえた(●●●●●●●)、つまり生まれつきではない声を、うたうときだけ、しかも、その鳥が本来もっている語彙とは関係なく、発するにすぎない。人間の言葉を上手にまねるホシムクドリ、カササギ、コクマルガラスにもこのことはあてはまる。

 大型のカラス類やとくに大型のインコ類の「おしゃべり」では大分ようすが変ってくる。この鳥たちが人間のことばをしゃべるのも、彼ら以外の心理的な発達程度の低い鳥のうたにみられる無目的な遊びという性格を帯びているのはたしかだ。しかし、カラスやインコはいろいろな音声をみなきちんと区別して発している。そこには明らかに一定の、ほぼ(ほぼ!)意味をなした思考の結合が存在するのである。

 ヨウムやボウシインコやボウシインコの類では、朝だけ、しかも日に一回だけ、「オハヨウ」をいう。たしかに意味どおりだ。友人のオッㇳ―・ケーラーは一羽の老いたヨウムを飼っていた。そいつは自分の羽毛をむしる悪癖があって、そのため体じゅうほとんど丸坊主だった。彼は「ガイア(ハゲワシ)」という自分のなをちゃんと知っていた。ガイアはどうみても美しくはなかった。おしゃべりの天才であるのがせめての慰めであった。彼はちゃんと意味にあわせて「おはよう」と「今晩は」をいった。そしてお客が帰ろうとして立ちあがると、人がよさそうな低いしゃがれ声で「じゃあ、またね」というのであった。ふしぎなことにこれをいうのは、客がほんとうに帰ろうとして腰をあげたときだけ(●●)なのである。例の考えるイヌと同じように、彼もまた無意識的に与えられたごくかすかな合図によって、客が「ほんとうに帰る気」になったことを見抜くのだ。それはいったいどんな合図なのだろうか? われわれにはまるきりわからない。わざと帰るふり(●●)をしてそのことばをいわせてみようとしたけれども、一度も成功したことはない。だが人が人がそしらぬ顔で出ていって、あいさつもせずこっそり帰ってしまおうとすると、とたんにあざけりに近い声でその人の耳にとびこんでくる――じゃあ、またね>

 ベルリンに住む有名な鳥学者フォン・ルカーヌス陸軍大佐も、ヨウムを一羽飼っていた。このヨウムは記憶力がよいので有名だった。ルカーヌスはこのほかにも鳥をたくさん飼っていたが、その中に鳴き声にちなんで「ヘップヒェン(ㇹップちゃん)」というなのよく馴れたヤツガシラが一羽いた。ヨウムはよくしゃべったので、まもなくこの「ヘップヒェン」ということばをおぼえこんでしまった。しかしヨウムとはちがってヤツガシラはかごの中では長く生きられなかった。ヤツガシラはまもなく死に、ヨウムはヘップヒェンというなを忘れてしまったらしい。とにかく彼はもはやそのなをけっして口にしなくなった。ところがきっかり九年後、ルカーヌス大佐はまた新しいヤツガシラを一羽手に入れた。それを一目見たとたん、ヨウムはくりかえし、くりかえし叫んだ――「ヘップヒェン……」「ヘップヒェン……!」

 こういう長命の鳥たちは、一度学習したことをこんなにもしっかり覚えている。しかし学習するにも一般にたいへん時間がかかる。ホシムクドリやヨウムに新しい単語を覚えさせようとするときは、ものすごい忍耐で武装してかからねばならぬ。うまずたゆまず、その単語をくりかえしくりかえし言ってやらなくてはならないのだ。とはいえ例外的な場合には、こういった鳥たちが、ごくたまにしか聞かないことば、ときにはおそらくたった一度しか耳にしなかったことばをさっとおぼえてしまうことがある。しかしそんなことは最高度の「例外的状態」においてのみ可能なことだ。私自身もそのたしかな観察例はたった二つしか知らない。

 私の弟は長年の間、よく馴れた愛くるしい、おそろしく話すのがうまい、すばらしいボウシインコを飼っていた。なまえはインコのイタリア語をとって、「パパガロ」といった。弟が私たちと一緒にアルテンベルㇰに住んでいたころ、パパガロはほかの鳥たちと同様に、自由に飛びまわらせてあった。木から木へ自由に飛びまわりながら人間のことばをしゃべってまわるおしゃべりインコは、かごの中で同じことをするインコなどより、はるかにこっけいなものだ。パパガロが大きな声で「先生はいったいどこにいるの」と叫びながら、ときにはほんとうに主人を探してあたりを飛びまわったりするのは、たまらないほどおかしかった。

 もっとこっけいで、まじめな意味で、注目に値したことは、この鳥のつぎのようなふるまいだった、パパガロはなにものも怖れなかったが、ただ煙突掃除人だけには弱かった。一般に鳥類は、上のほう(●●●●)にあるものをすごくこわがる。おそらくそれは、上方から急降下してくる猛禽にたいする生れつきの恐怖と関係があるのだろう。だから、空にくっきり浮立ってみえるものはすべて彼らに「猛禽」だという感じをもたせるのだ。もともとほかの人より黒い服装をしていてそれだけでも親しみのない煙突掃除屋が、煙突の上に立つて空に黒々と浮きだしている姿を見ると、パパガロは大恐慌におそわれて、大声をあげてはるかかなたへ飛び去ってしまう。うまく帰ってこられるかどうかさえ気づかわれるくらいだった。何ヵ月かのち、またその煙突掃除夫がくる日になった。その朝パパガロは屋根の上の風見の鶏(とり)にとまっていて、しつこくおなじところへとまろうとするコㇰマルガラスたちにむかって、さかんにどなっていた。ところが彼は、急におとなしくなった。こわごわ下を見下ろしながらなにか警戒のそぶりをみせていたかと思うと、いきなりさっと飛びたった。そして、甲高い声で「エンㇳツソージガキマシタヨー、エンㇳツソージガキマシタヨー!」とたてつづけにわめきながら逃げていった。一秒とたたぬうちに、中庭の門をあけて、その黒い男がはいってきた。

 パパガロがそれまで何回ぐらい煙突掃除夫を見たことがあるのか、そしてうちの料理婦が大声で「煙突掃除が来ましたよう!」と知らせる声を何度ぐらい聞いたことがあるか、残念ながらはっきりしない。彼が口にしたのは、明らかにこのおばさんの声の調子だった。しかし二回以上、多くても三回を越えぬことはたしかである。当時煙突掃除夫は、何ヵ月おきに一回しかこなかったのだから。「話す」鳥が人間のことば、それも一個の完全な文章を、一回ないし、せいぜい二、三回聞いただけでおぼえてしまった例を、私はもう一つ知っている。それは一羽のズキンガラスの場合であった。こいつのなは「ヘンゼル」といった。彼のことばの才能は、おしゃべり上手のインコにも匹敵するほどだった。ヘンゼルはセント・アンドレ・ヴェルデルン近郊に住んでいた鉄道員に育てられた。自由に放し飼いにされていた彼は心身ともに健康な鳥に成長した。これは彼の育て親が立派な育雛(すう)の腕前をもっていたことを立証するものだった。よくカラスは育てやすいといわれるが、実際はけっしてそうではない。たいていはヴィルヘルム・ブッシュが無慈悲にもいったような「不幸をせおった」かたわにしかならないからだ。ある日私のところへ、村のわんぱく小僧どもが、すっかり泥まみれになった一羽のズキンガラスをもってきた。翼も尾も羽をぬかれて木の切株みたいにされていたので、私はこれがあの美しいヘンゼルであることがわからなかった。私はそのカラスを買いとった。村のわんぱく連中がかわいそうな動物の子をもってきたら、私は原則としてかならず買いとることにしていたのだ。いくぶんはあわれみの気持からだったが、そういうふうにしてもってこられた動物の中には、ときにはほんとうに珍しいものもまざっていることがあるからでもあった。さてなにはともあれ、私はヘンゼルの飼主を呼びよせた。彼の話ではヘンゼルはこの数日まるきり姿を見せなかったという。彼は、次の羽がわりのときまでヘンゼルを預って養ってほしいといった。そこで私はこのカラスをキジのおりに入れ、まもなくおこるはずの羽がわりには立派な翼羽と尾羽が生えるよう、濃厚飼料を与えてやることにした。こうしてヘンゼルがやむなく囚人生活を送ることになったとき、私は彼がすばらしいおしゃべりの才能をもっていることを発見した。彼は私に思う存分に聞かせてくれた。まず当然のことながら、人に馴れたズキンガラスが村の通りに面した木にとまってじぶんで聞いたこと、つまり村のわんぱくどもが彼に向っていったことばである。彼はそれを生粋の低地オーストリア方言で、とうとうと弁じた。この愛すべき鳥が次の羽がわりでふたたびもとの姿をとりもどしたのを見て、私はすごく嬉しかった。彼が完全に飛べるようになると、さっそく彼を放してやった。彼はヴェルデルンのもとの主人のところへまっすぐ帰っていったが、その後も一定の間をおいてわれわれを訪れては、おおいに歓迎された。あるときヘンゼルは、何週間もの間姿をあらわさなかった。ふたたび彼が帰ってきたとき、私は彼が足の指を一本折っていて、それが曲がったまま治ってしまっているのに気がついた。この曲がった足指こそ、この人語を話すズキンガラス、ヘンゼルの物語のポイントでらる。つまりわれわれは、彼がどうしてこんなけがをしたのかを知った。だれから? ヘンゼルがしゃべってくれたのだ! まさかと思う人は思うがよい。長い間、姿を消していたヘンゼルは、ひょっこりわれわれのところへ帰ってきた。そのとき彼は新しい文章をおぼえてきた。彼はいたずら坊主のスラングで、こんなふうに口走った――「キツネわなでとったんや」

 この報告が事実であることはうたがいない。パパガロの場合と同様、ヘンゼルもまた、ほんの数回しか耳にしなかった文章を刷りこまれたにちがいない。明らかにその文章は、彼が捕えられた直後のいちじるしい興奮のさなかに聞いたものであったからだ。しかしふたたび自由になったのち、ヘンゼルは二度とこのことばを口にしなかった。

 こうした場合、なんでも擬人化して考える動物好きの人たちは、鳥が自分で話すことを理解していると主張してゆずらない。だがもちろん、この考えはまちがっている。今のべてきたようなよく「しゃべる」鳥たちは、たしかにある発声をきわめて明確な思考的結合によってある事件と結びつけることはできる。だが、その能力をなんらかの目的と結びつけることはけっして学習できないのだ。

 鳥類の科学的学習の成果をあげた私の友人オッㇳ―・ケーラーは、ハトに六までの数を教えさせることに成功したが、さらに前にのべたヨウムのガイアに、空腹になったら「エサ」、のどがかわいたら「ミズ」といわせよるように訓練してみた。これは失敗だった。それまでにも成功した人はない。このことはきわめて注目に値する。というのは、本来このヨウムという鳥は、自分のしゃべったものを「連想」でき、自分の求めている目的の達成に役立つなんらかの行動もあっさり学習し、さらに飼主の人間に特定の行動だけをとらせるような行動をもできるはずだからである。

 こうした行動のうちでも、きわめてグロテスクでおよそこっけいだったのは、有名な動物生理学者カルル・フォン・フリッシュの飼っていたよく馴れた小型のインコ――たしかオナガミドリインコだったと思う――の癖であった。フリッシュ教授は時間を切ってこのインコを部屋に放すことにしていた。つまり、インコがフンをしたのを見とどけてから十分だけ、というわけで、それなら立派な家具が汚される心配がなかったからである。このへんのものごとのつながりを、インコはたちまちにしておぼえてしまった。彼はかごから出してもらいたくてたまらない。そこでフリッシュ教授がかごに近よるたびに、ウンウンりきんで、これみよがしにチョロリとフンをするのであった。ところが当然出してもらえると思ったのに、さっぱりそうならない。彼はわけがわからなくなった。彼は今にも死にそうなほど苦しみだした。こうなったらしかたがない。そばへゆくたびに放してやるほかはなかった。

 われわれのガイアはこの小さなインコよりもはるかにかしこかった。にもかかわらず彼はこれに類したことを覚えられなかった。腹がへっても「エサ」ということをおぼえなかったのである。物真似や思考結合さえ可能にするほど完成された鳥の鳴管と脳の複雑な構造は、どうみても種の維持という機能のために発達したものではないようだ。それらが「なんのための」ものなのか、考えても無駄だろう。

 なにか欲しいときに人間のことばを使う。つまり学習した(●●●●)発声をある目的(●●)と結合させた鳥を、私はたった一羽だけ知っている。その鳥にこんなことができたのは、けっして偶然とは思えない。というのはその鳥は、鳥類中もっとも心理的発達程度の高い鳥であるワタリガラスだったからだ。

 ワタリガラスはよくひびく金属的な鋭い「ラックラック」あるいは「クラッククラック」という一定の生得的な呼び声をもっている。これはコクマルガラスの「キャア」に相当し、一緒に飛ぼうという誘いを意味する声である。地上に下りている仲のよい仲間を飛びたたせようとするとき、ワタリガラスはコクマルガラスがそのような場合にするのと似た行動をする。彼は仲間の背後からその頭上をかすめるようにして飛び、ギュッとたたんだ尾羽を振る。それと同時に、まるで小爆発の連続のようにひびくとくに甲高い声で、「クラッククラッククラック」と叫ぶのである。

 私の飼っていたワタリガラスは、ロアとなづけられていた。これはヒナのときにいつも出す気分を表現する声にちなんだものだ。ロアはのちのちまで私のじつに親しい友人だった。ロアはほかになにか用事がないと遠くまで私の散歩についてきたし、ドナウ河のモーターボートの旅やスキー旅行にさえついてきた。彼はとくに晩年になると、私以外の人間をたいへんこわがるようになった。そのうえ、以前に一度びっくりしたりいやなことを經驗したりした場所にたいしても、強い嫌悪をしめすようになった。そうした場所では、けっして空から私のところへ舞い下りてこようとしなかったばかりではない。彼からみればそのように危険な場所に私が(●●)とどまっていることすら、見ていられなかったのだ。彼はふ注意なヒナたちを飛びたたせて連れ去ろうとするコクマルガラスの親とまったく同じ行動にでた。空の高みから私めがけて急降下してきて、私の背後から頭上すれすれにかすめて飛び、尾羽を振りながらふたたび舞い上がってゆく。そのとき、肩ごしに私を振りかえって見るのであった。さらに驚くべきことに、彼はこの遺伝的な生れつきの行動をするさいに、彼の種に遺伝的に生まれつきそなわった飛びたちの呼びかけではなくて(●●●●●)人間の声で(●●●●●)「ロア、ロア、ロア」と叫んだのであった! ここで注目すべきことは、ロアが自分の種に固有なクラッククラックという飛びたちの呼びかけ()ちゃんと保持していて、ほかのカラスたちにたいしてはその呼びかけを完全にカラスなみに使用していたということである。彼の妻を飛びたたせようとするときは、彼はクラッククラッククラックと叫ぶ。だが人間の友にたいしては、人間のことばで呼んだのであった! この場合、訓練の存在を仮定することはできない。なぜなら、訓練が成立するのは、ロアがまったく偶然に「ロア」といい、それによって私がこれも偶然にロアについていく、ということがおこったときだけだからだ。だがそんなことは、それまでには一度もなかった。したがってこの老カラスは、「ロア」というのは私の(●●)よびかであるという一種の洞察をもっていたにちがいない! ソロモンは動物の話のできた唯一の人間ではなかった。だからロアはいままでのところ、たとえそれがたった一つのかんたんな呼びかけであったにせよ、意味をつかみ>洞察をもって、人間と人間のことばで語った唯一の動物である。 

2019.10.07

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★上前淳一郎著『読むクスリ』17 われは津軽箒之守 五衰ビジネス版 一メートルは一命取る
あと引き気配 貫通石縁起 お札は百面相
写真は引き算 統計のウソ Rの月 Ⅰ

上前淳一郎著『読むクスリ』17(文春文庫)1995年6月10日 第1刷

☆われは津軽箒之守☆ P.52~59

 青森・弘前の駅前から遠くない繁華街土手町。

 デパートやホテルの間に、古くからの商店街が続く賑やかな通りだ。

「私はここで三十年以上、毎朝店の前の掃除をしながら、多くのことを学んできました」

 とカルダンやサンローランが並んだ女性ファッション専門店『さんわ』社長の宮川洵さん。

      *

 高校を卒業して店に入ったのは昭和三十二年(一九五七)年。まだ商店街がアーケードになっていないころだった。

 むろんヨーロッパのブランドものなど扱えず、ありきたりの婦人朊や小物を商っていた。

 朝の開店は九時。いまより一時間半も早かったが、来てみるともう先代社長が店の前を掃除している。

「社長、掃除ぐらい私がやります」

 いってみるのだが、

「いいよ、これはワシの仕事だから」

 と箒を渡してもらえない。

 新入りとしては申し訳ないような気持ちになり、翌朝は十五分早く行ってみた。ところが、社長はもう店の前にいる。

 つぎの朝は三十分前に。それでも社長は来ているではないか。

 意地になって七時ごろ出社し、社長を真似てまず水をまき、これ見よがしに箒のあとをつけた。社長は何もいわなかった。

 何ヵ月か続けるうち、若い身空のこと、つい眠くて遅くなることがある。すると、ちゃんと社長が掃除をすなせている。

 雨の朝、今日はやらなくていいだろう、と行ってみると、社長が濡れながら掃いている。

「嫌みだなあ」

 腹の中で舌打ちしたい気持ちになりながら、始めた手前やめるわけにもいかず、毎朝やらざるをえなくなった。

      *

「あんた若いのにえらいなあ」

 ある朝、隣の漬物屋の主人から声をかけられた。

「いえ……」

「だが、まだ社長にはとてもかなわんな」

 隣の主人の目が笑っている。

 なにをいっている、

 そのうち、

「もっと丁寧にやれ、というのか、ますます嫌みだなあ」

 もうやりたくない気持ちになってきた。

 そうこうするうち入社五年目、

 後継者に、

「やっと、社長の掃除に追いついてきたな」

 漬物屋の主人にいわれたのは、そのころだった。

 そういえば、社長がやり直しをしなくなっていた。

      *

「掃除を、作業としてではなく、仕事としてとらえることが、ようやくできるようになり始めていたのだと思います>

 宮川さんは振り返る。

 水まいて、掃きゃいいんだろ、と思ってやっているうちは、掃除はただの作業でしかない。

 ところが、買物に来てくれる客に好感を持ってもらうために店の前をきれいにしておく、と考えてやるときには、それは重要な仕事の一部になり、水のまき方から変わってくる。

「水を打ちすぎますと、埃やゴミがべったり水を吸って、路面にくっついてしまいます。掃いても取れなくなり、路面が乾いてくるとかえって汚ならしく見えだすのです」

 かといって水を打たずにやると、埃が舞い上がる。適度に湿らす工夫をしなければならない。

 ブリキのジョウロでまくのだが、ちょっと傾けすぎると、どばっ、と水が出てしまう。

 小穴の目に詰ものをして水の出を悪くしたうえ、あまり傾けずに、ふわっ、とまいてやるようにした。

「ほら、板前さんが、ぱらり、ぱらり、と塩を振るでしょう。あの調子です」

 そのうえで箒を使うと、とてもゴミが取れる。ただ、湿り気が少ないから、風が強い日にはゴミが飛ぶ。

「ですから、出勤して店内からシャッターを開け、通りへ出ると、風がどちらから吹いているか、まず見るんです」

      *

 掃除をするのはちょうど出勤時間で、いろんな人が店の前を急ぎ足で通り過ぎる。

 この人たちの服や靴を汚してはいけないから、いっそう慎重にならざるをえない。

「おはようございます」

 毎朝のことなので、通る人の顔を覚え、挨拶する。

 言葉を返してくる人、知らん顔で通りすぎる人、いろいろだ。

 掃除の邪魔にならないよう、道の端のほうを回って行く人。

 かと思うと、ここは天下の公道だ、どけ、といわんばかりに身体をぶつけてくる人。

「掃除しているだけで、通る人の性格や人格が手に取るようにわかるんです」

 そのうち、あ、あの人が来たから、大きい声で挨拶をしたほうがいいな、今度はこの人が来たので、黙って道を譲りお辞儀をしよう、と接し方がわかるようになってくる。

「つまり、それが、気働き、というものだと思うんです。そのことを発見したとき初めて私は、商人としての挨拶の仕方を学んだような気がしました」

 八百屋、肉屋、電器商、薬局、文具店……商店街にはいろんな店が並んでいる。

 その主人たちの中にも、開店前に掃除をする人がいる。

「老補で、いまも繁盛している店の主人ほど、掃除に熱心なんです」

 その人たちとも、自然に朝の挨拶を交わすようになる。

 若いに似ず熱心だ、気に入られ、声をかけられては話を聞く機会が多くなる。

「さりげない茶飲み話しの中から、どのくらい商人としての心得や経営の呼吸を教えられたか、はかり知れないほどです。そして、そのたびに、掃除こそ商売の原点なのだ、ということを悟らされた気持ちがします」

      *

 やがて宮川さんは専務になり、『さんわ』は青森市にもブティックを出して大きくなっていった。

「そのころ店の女の子たちが私につけたあだなが『ゴミ専務』なんですよ。あんまり私がゴミ掃除のことをうるさくいうものですから」

 専務になっても、むろん毎朝の掃除は欠かさなかった。

 ときどき青森へ出張して夜遅く弘前の店へ帰ってくると、朝掃除して出かけたのに、店の前にゴミが散らかっていることがある。

「この散らかり方で、その日通りにどのくらい人出があったか、見当がつきます。今日は汚れがひどいなあ、と思って翌朝営業成績を見ると、はたしてその日の売り上げが非常に伸びているのです」

 ゴミは儲けのバロメーター。決して腹を立ててはならないのだ。

「それで、これはワシの仕事だ、と先代社長が箒を渡そうとしなかった理由が私にもわかりました」

 先代は毎朝掃除をしながらゴミの量をはかり、それが売り上げにどうはね返るか、見きわめようとしていたのに違いない。

 とすると掃除は、社長の絶対の権限で、めったに社員に委譲してはならないもの、ということになる。

「まったくその通りだ、といま社長の私は考えています。ですから社員も、簡単にその権限を委譲してもらえると思ってはいけません。もし権限が欲しかったら、知恵をつくして奪い取らなければならないのです」

      *

 先代社長の遺言で、宮川さんは店を継いだ。

 社長になってからも、朝の掃除を欠かしたことはない。

 その間に店舗は三つに増え、別会社もつくり、合わせて年商五億円を超えるようになった。

「ところが、つい最近、長男に私の大事な"権限"を奪い取られてしまったんです。今度は長男が、掃除の哲学を通じて商売とは何かを、身をもって覚えていく番ですね」

2019.12.30


☆五衰ビジネス版☆ P.59~64

  「きみたちね、ビジネスマンとして成長し、出世するほど、駄目になるのも早くなる。そのパターンは五つあって、これを五衰といいます。くれぐれも五衰(ごすい)に気をつけて下さいよ>

 ジャックス取締役企画部長の今修司さんは、部下との放談の集まりなどで話す。

 五衰はもともと仏教用語で、俗界の天人が命尽きるようとするときに示す五つの衰えの相をいう。

 それを踏まえて、

 「樹にも衰えの相が五つある」

 といったのは『五重塔』で知られる作家の幸田露伴(一八六七~一九四七)だった。

 大正三(一九一四)年に発表したエッセイ『樹の相』の中で、露伴は樹の衰え方を具体的に書き、それを人間の落ちぶれるのになぞらえて見せている。

「たまたま私はそれを読んで、どきり、とさせられたのです。まさに、ちょっと偉くなると思い上がりがちなビジネスマンへの、痛烈な警告ですから」

      *

 露伴が説く樹の五衰の

 第一は「(ふところ)()れ」

 樹が勢いよく成長しているときには、枝もよく繁る。

 ところが、なまじ繁りすぎたばかりに、内側の方へは日光も風も通らなくなる。

 すると内側の成育が悪くなって、その部分から枝葉が枯れてくる。これを「懐が蒸れる」という。

 「たとへば人の勢に乗じ時を得て、やうやく美酒嬌娃(きようあい)に親むがままに、胸中の光景の前には異りて荒み行くが如し」

 人間が偉くなり、酒や女にうつつを抜かすうちに、気持がすさみはじめるのと同じだ、という。 

 「いい気になって初心を忘れるな、という戒めです。樹も人間も、外からの力ではなく、自分の内側から腐敗、堕落していくのですね」

     *

 第二に「梢止(うらどまり)

 どんな樹も、梢が無限に空へ向かって伸び続けることはない。すなわち、成長には限界がある、という意味だ。

 力士、俳優、文人、画家、どれをとっても伸び盛りと、もう先がないものとの差ははっきりわかる、と露伴はいう。

 「巨木があれば背の低い潅木もあるように、人も能力に応じて成長に違いが出ます。それを見きわめよ、ということだと思います」

 もう伸びない部下に、いつまでも頼っていても仕方ない。逆に、巨木に育つ可能性を秘めた若者の芽を摘んではならない。

 部下のほうも同じで、どの上司が将来社長という巨木になるかには、少なからぬ関心があるだろう。

「もちろん、水や栄養を吸い上げる力によって樹の成長が違うように、知識や情報を吸収する努力いかんでビジネスマンににも差がつきますが……」

 しょせん人間にも「うらどまり」があるのだという。なにやら寂しく聞える表現ではある。

 第三は「裾廃(すそあがり)

 空へ向かってどんどん枝葉を繁らせていくのに反して、幹の下のほうの横枝が枯れ、見苦しくなってくることががよくある。

 知らないうちに裾がやられているわけで、上ばかり重いからやがて倒れる。

「たとえば人の漸く貴く漸く富みて、世の卑き者に遠ざかるに至るまま、何時と無く世情に疎くなれるが如し」

 軍人や官吏などに、出世するにつれて裾廃になるものが多い、と露伴は手厳しい。

「これが、いちばん耳に痛いですね。世情に疎くなる、とはつまり情報から遠ざかることで、管理職がおちいりやすい危険です」

 ヒラ社員のうちは毎日現場と接触しているから、生きた情報の中にいる。

 ところが管理職の椅子に坐ってしまうと、現場の空気がわからなくなる。

「もっと怖いのは、管理職の耳にはいい話しか入ってこない、ということです」

 部下がどんどん情報を持ってくるから、なんでもわかっているような気持になる。

 ところが、そんな情報は都合よく脚色されていて、生きたほんものではない。

「そういう除法を鵜呑みしていたら、いずれ必ず判断を誤ります。上ばかり向いている管理職ほど末端の情報がわからなくなって、つまづくのです。

       *

 第四に「梢枯(うらがれ)>」

 成長の限界である「うらどまり」に至る前に、梢が枯れてくることがある。

 根が吸い上げず、幹も水を保てなくなったからで、こうなると樹はおしまいだ。

「自ら進歩する努力を放棄するわけですね。勉強しないビジネスマン、ポストに不満でやる気をなくす人などがまさに、うらがれです」

 第五が「虫付(むしつき)

 幹や葉に虫がつくと樹はしだいにむしばまれていくが、人間につく虫としては露伴は、アルコール虫、白粉虫、丁半虫をあげる。

 酒、女、賭博が人間を駄目にする、というのだ。

「わかりきったことなのですが、男はとかくこういう虫に弱いですからね」

     *

「一衰先ず起れば二衰三衰引続きて現はれ、五衰具足して長幹地に横たはるに至る。歎く可く恨む可し」

 露伴は締めくくっている。どの衰えかが始まると、つぎつぎ波及して衰えが進み、ついに駄目になるという。

「いつもこの五衰を頭に置いていると、周囲がよく見えるようになります。成長しているつもりで逆に退歩しかかっている自分も、はっきり見えてくるものですよ」

★露伴が説く樹の五衰幸田露伴の樹相学

平成二十六年八月二十四日


☆一メートルは一命取る☆ P.64~66

「一メートルは一命取る」

  という戒めが建設業界にある。

「たかが一メートルの高さ、落ちてもたいしたことないや」

 そんな油断の気持が事故を招く、という意味だ。

 いまや建設業界では、五十メートル、百メートルの高さでの作業はざらだが、

「そいう高所では、めったに事故は起きないんです。会社のほうで万全の安全対策をとっていますし、作業員も命綱をつけ、注意深く仕事しますから」

 と労働基準調査会の開発事業部長、中村滋さん。

 ところが、飛び降りても平気、というくらいの低いところで、それも高所作業になれているはずのプロが、しばしば転落事故を起こす。

「なんでもない脚立、ハシゴから落ちるんです。高いところから落ちたときには、空中で一回転して足から落ち、かえって命が助かることがあります。しかし、低いところから仰向けに落ちると、そのまま頭を強打して死亡ということになりかねません」

 一メートル、とい表現は、そんな油断しやすい高さを象徴している。

     *

 日本では年間ざっと二千五百人が、労働災害で死亡する。

 休業四日以上の負傷となると、二千万人を越える。

 とりわけ多いのが建設業界で、死亡者の四〇パーセント、千人以上を占める。

「しかも、その千人のうち四百人は、墜落事故で亡くなっています」

 何メートルの高さから落ちたかの統計はないが、低いところからの転落事故がなくなれば、日本の労働災害は激減するに違いないという。

     *

 そういえば、七百年近い昔の鎌倉時代に、兼好法師が『徒然草』にこんな話を書いている。

 ある木登りの名人が、人を木に登らせて梢を切らせた。

 高いところで危なっかしい作業をしているうちは、名人は黙っていた。

 ところが相手が仕事を終え、軒の高さくらいまで降りてきたときになって初めて、

「落ちるなよ、用心しろ」

 と声をかけた。

「ここまで来たら、もう飛び降りても大丈夫ですよ」

 すると名人は答えた。

「それが、いかんのだ。目がくらみ、枝も折れそうな高いところでは、本人が十分用心して仕事する。だから私は何もいわなかった。もう安全、と思うところまで降りたときになって、きまって落ちるものなのだ」

 たかが、と甘く見て、取り返しのつかない失敗を招きがちな人間の心理には、昔も今も変わりがないらしい。

参考:『徒然草』上 第四九段「高名の木のぼり」


☆あと引き気配☆ P.67~68

 昭和天皇の侍従長だった入江相政さん(故人)は、地方の旅館の下見に出かけられることがよくあった。

 天皇のお泊まりは名誉なので、どこの旅館も下におかぬもてなしで、迎える。

 打ち合わせがすんで帰るときには、女将はじめ従業員が通りまで出て見送ってくれる。

 走り出した車の中から、な残を惜しんで入江さんが振り返ると、一同はまだ立ったまま見送りの姿勢を崩していなかった。

 「これを”後引気配”と入江さんはおっしゃっていました」表現された。

 と日本HR協会理事長の山田宏さん。

 客はもう帰ったのだから、さっさと玄関からなかへ戻ればよさそうなものだ。

 しかし日本の伝統的な作法では、しばらく余韻を残して立ちつくす。これが、あと引き気配だ。

 「あと引き気配のない旅館は印象に残らず、入江さんは宿のなさえすぐ忘れてしまったものだそうです」

 サービス業に限らず庶民の間でも、あと引き気配は大事にされた。

 訪ねてきた客が、夜になって帰る。

 「お客さまが通りの角を曲がってしまうところまで、玄関の明かりを消してはいけませんよ」

 子供たちは母親に教えられたものだった。

 明かりは通りの角までは届かないから、理屈からいえば客が玄関を出てすぐ消したほうが節約にもなる。

 しかし、すぐ後で、ぱちん、と消されたら、客はあまりいい気持ちはしない。歓迎されていなかったのだろうか、と思う。

 だから、しばらく

 だから、しばらくの間明かりをつけておくことが、よく来て下さいました、楽しかったですよ、とうな残の気持ちの表現になるのだ、

      *

 「アメリカ人は握手して、グッドバイ、といったら、くるっと背中を向け、もう振り返りません」

 彼らにはな残を惜しむ、という感情がないわけではないだろうが、振り向く必要はないと考えるのが彼らのマナーであり、文化でもある。

 そこへいくと、な残を形で示したい、と思うのが日本人の作法であり、文化なのです。

 どちらの文化がいい、というのではない。

 しかし、せっかくそういう文化の伝統を持っているのだから、せめて日本人どうしの間では日本流にやったほうが、人間関係がぎくしゃくせずにすむのではないだろうか。

 「昔の人がそうした作法を考えたのも、人間関係を円滑にする知恵だったのです。国際感覚を身につける一方で、伝統文化に学ぶことも大切だと思いますよ」

曹源寺日曜坐禅が終わり、小方丈での茶礼の席で抹茶を戴き、庭園を散策しながら参加者の方から聞いたお話し。

▼井伊直弼の文を思い出した。

「主客とも余情残心を催し、退出の挨拶終われば、客も露地を出るに高声に咄さず、静かにあと見かへり出で行けば、亭主は猶更のこと、客の見えざるまで見送るなり、扨、中潜り猿戸その外障子など草々しめ立などいたすは上興千万。一日饗応も無になる事なれば、決して客の帰路見えずとも、取りかた付け急ぐべからず。いかにも心静かに茶席に立戻り、此時にじり上りより這入り、炉前に独座して、今暫く御咄も有るべきに、もはや何方まで可被参哉、今日一期一会済みて、ふたたび返らざる事を観念し、或いは独ふくもいたす事、是一会極意の習なり。此時、寂寞として、打語らふものとては、釜一口のみにして、外に物なし。誠に自得せざればいたりがたがたき境界なり」

▼庭園では、ちる椿が一片一片の白い花びらを木の元へ、ねむり塚のもみじは寂光のなかにゆらいでいた。  


☆貫通石縁起☆ P.184~188

 宝石をはじめ誕生石、懐石に腎臓結石――いろんな石があるが、貫通石、と聞いてわかる人は、きっと周りにトンネル工事の関係者がいるでしょう。

 トンネルというのはたいてい、入口と出口の両端から掘り進んで行き、真ん中でぴったり一致して貫通する。

 そのとき、最後に破られた岩石の破片を貫通石と呼び、安産のお守りとして関係者に配られる。

「貫通石を安産の石として喜ぶ習慣は非常に古く、神功皇后までさかのぼるとされています。」

 と熊谷技術開発本部の副本部長、横田高良さん。

 神功皇后は伝説上の人物で、記紀伝承に登場する第十四代仲哀天皇の皇后だ。

 女性ながら武勇のほまれ高く、九州の熊襲を討ったばかりか朝鮮半島まで攻め込んだ。

 そのとき手強い敵の抵抗にあって一計を案じ、相手の背後の山にトンネルを掘ってからめ手からなだれ込み、大勝したという。

 この場合は両端ではなく、一方だけから掘ったのだが、

「皇后は貫通点の石を記念に持ち帰りました。ところが九州に着くやにわかに産気づき、その石を枕元に置いて男子を安産したといいます」

 のちの第十五代応神天皇とされる。

「安産のお守りはともかく、トンネルが貫通したときの感激というのは、とても言葉ではいい表わせないものがあります。その感激の記念として、石が持ち帰られるようになったのでしょう。いわば男のロマンンの結晶なのですよ」

      *

 落盤や出水に悩まされながら、人海戦術でトンネルを掘ったのは昔の話。

 いまやトンネル掘削技術世界第一の日本では、巨大なイモムシみたいな機械がぐんぐん穴を開けていく。この機械を操作する技術者が数人いるだけだ。

「コンピュターで制御されていますから、両端から掘り進んできて、貫通点でまったく狂いがありません」

 そんな機械掘削の時代でも、やっぱり穴が通じたときには感激する。

「その瞬間、すうっ、と風が抜けるのを感じるんです。穴に初めて生命が通ったようで、感動的ですよ」

 いまでも、最後の壁を破るときにはダイナマイトを使う。いわば貫通式の演出だ。

 両端から来た技術者たちが、初めて顔を合せて固く手を握り合い、樽酒を酌み交わす。

「杯なんかで飲むじゃありません。かぶってるヘルメットなんです。汗臭いヘルメットで飲む酒がうまいんですから、やっぱりうれしいんですねえ」

      *

 ダイナマイトで破られた岩石の中から、親指の先ほどの大きさのが拾い集められ、貫通石になる。

「昔はそれを一個ずつ封筒に入れて配ったものでした。木箱などに納めることはめったになかったですなあ」

 何ヵ月も家を離れて山の中で働いてきた工事関係者たちは、それを大事に、ポケットへ入れて家族のもとへ帰った。

 いまは、トンネル開通の年月日や建設会社名と一緒に、透明樹脂の中に封じ込め、きれいな置物になっている。

「一個三、四千円のコストがかかるようになりました。これまでにいちばんたくさん貫通石が配られたのは、やっぱり青函トンネルのときでしょうね」

 長いので間をいくつもの工区に分け、それぞれが貫通するたびに石が配られる。

 さらに本トンネルのほか、先進導抗、排水用、と何本もトンネルを掘る。それがつながるつど、はい、石。

「それでも貫通石は技術者にとって勲章のようなもの。もらえばうれしいんです。私など、ただの石ころとしてもらっていた時代のものから、何十個と自宅に飾っています」

 初めて見る人は、びっくりして目を見張るそうだ。

      *

 ところで、横田さん、ついでにおたずねしますが、なぜトンネルは両端から掘るのですか。一方からまっすぐ掘ってしまったほうが簡単だし、貫通面で食い違いが起き、工事関係者が責任をとって自殺する(かつて現実にそういう出来事が長崎県であった)ということもなくなると思うのですが。

「ああ、それは単純なことなんです。両端から同時に掘っていけば工期を半分に短縮できますから。機械化されたいまも、両端からイモムシのお化けを一台ずつ入れてやれば、やはり工期は半分ですむのです」

2020.5.5記す。


☆お札は百面相☆ P.192~196

 千円札は夏目漱石、五千円札には新渡戸稲造、そして一万円札が福沢諭吉。

 見なれてしまって、だれも怪しまないけれど、いったいなぜお札に人の顔が入っているのか、デザインが必要なら富士山でも桜の花でもいいじゃないか。と改まってたずねられたとき、返事ができますか。

「いくつかの理由がありますが、肖像を入れるのは第一に偽造を防止するためなのです」

 と大蔵省印刷局業務部長で"お札博士"の植村(たかし)さん。

 私たちは風景や生物を見るときには、今日は富士山が見えるな、あれは桜の花だな、という程度のおおまかな認識しかしない。

「ところが人間を見るときには、無意識のうちに非常に慎重に見るものです。それは、相手がだれなのか、識別する必要があるからです」

 それどころか、顔を見ただけで、眠そうだな、とか、怒っているな、と相手の心の動きまでわかる。

 そのくらい私たちは、人間の顔に対して神経が細かくなるし、かつ高度の識別能力を持っている。

「その感性ないしは能力のおかげで、偽札の顔にちょっとでもおかしいところがあると、怪しいぞ、とセンサーが働きます。ですから、外国でも日本でも、紙幣には肖像が入れられることが多くなったのです」

      *

 植村さんが一九九〇年、百六十七ヵ国のお札を調べてみたら、

「うち百三十一ヵ国が何らかの形で人物の顔を使っていました」

 しかも、世界的に顔がどんどん大きくなる傾向がある。イギリスの新券は、肖像の占める面積が札の三分の一、スペインでは半分にもなる。

 日本でも、一九八四(昭和五十九)年にいまの紙幣に切り換えられたとき、肖像の面積は従来の二倍に拡大した。

「顔が大きくなりますと、表情の細部まで微妙に表現でき、偽造防止の効果がより大きくなるからです」

 ただほとんどが男性で、女性の顔にはめったにお目にかかれない。

 これまでは、女王を描いたイギリス、絵画の中の女性が出てくるデンマークなど、数えるほどしかない。

「それはね、女性の顔を細かい線で彫り込んでいきますと、シワが寄ったようでお年を召して見えてしまうからなんです。若く見せようとすると輪郭だけで表現することになって、偽造防止には役立ちません」

※日本では、樋口一葉の五千円札がある。(1872~1896年) 僅か24歳の若さで死んでいる。

 コピー機や写真製版の技術革新に対抗して、お札の顔には一ミリの間に十本以上の細かい線を刻み込むようになってきている。

 これだと、どんなに精巧なコピー機を使っても線がにじんでしまって、たちまち偽札とばれるそうだ。

 それはいいのだが、そんなにシワがふえるのでは、登場したがる女性はいないだろう。

「しかし、最近はほかの偽札防止技術が進歩していますから、きれいな女性の顔が入ったものが出現してきました」

 東西合併後のドイツでは、十マルクから千マルクまでの札に、男女の肖像を交互に使っている。

 中国でも、国内の代表的民族を描いた新しい札に、女性が登場している。

※日本では、樋口一葉の五千円札がある。(1872~1896年) 僅か24歳の若さで死んでいる。偽札防止技術の進歩によるものであるのか。

      *

 さて、この先は『読むクスリ』子の野次馬的好奇心だけれど、ECの共通通貨にはだれの肖像が使われることになるのだろう。

 EC加盟国十二ヵ国は、ポンド(イギリス)、フラン(フランス)、マルク(ドイツ)など、それぞれ自国通貨を持っている。

 ヨーロッパ旅行の経験がある人ならおわかりだろうが、移動のたびにいちいち両替するのは面倒でかなわない。

 しかもそのたびに手数料を取られるから、所持金はどんどん目減りする。

「十二ヵ国をぐるっと回ると、両替手数料だけで持っていたお金がほぼ半減する」

 という試算もあるほどなのだ。

 ECは域内で共通して使える通貨の実現を目ざしているが、その名称さえまだ決まっていない。

 まして肖像をだれにするかとなると、各国の思惑が入り乱れて、大騒ぎになるだろう。

「十二ヵ国のうちオランダを別にして、あとの国はすべていま自国通貨に肖像を使っています」

 と植村さん。

 それは、肖像には偽造防止のほかに、自国を代表する国王や政治家、文化人を入れることで国民に一体感、親近感を持たせる、という目的もあるからだ。

 ところがECにはだれも、"自国"意識は持たないだろうから、代表する顔がない。

 かといってのっぺらぼうのお札では味も素っ気もないし、なにより偽造防止によほどの工夫が必要になる。 

 この矛盾をヨーロッパの人たちがどう解決するか。お手並みを拝見するのがいまから楽しみだ。


☆写真は引き算☆ P.196~199

「写真は引き算。これを頭に入れておいて下さい。そうすればアマチュアにも、きれいな写真が撮れます」 

 と写真家の林英比古さん。

 たとえば冬のよく晴れた日、富士山頂に雲煙が上っている。ああ、きれいだな、とカメラを向ける。

 ところが、できてきた写真は、手前に大きな広告看板や交通標識が写り、富士山には電柱と電線がかかって、ごちゃごちゃ汚いものでしかない。

「そいう余分なものを、引き算していくんです。そのテクニックは後からお話ししますが」

 記念写真まで引き算して、写っていない人がいたり、首から上がなかったりするのは困るが、恋人を撮る《ようなのきにはとりわけこの心得が大事になる。

「といいますのは、背景までぴしっと写ってしまう写真が平板になって、かんじんの恋人が引き立たないからです」

 こういう場合には、なるべく絞りを開き、その分シャッタースピードを早くするのがコツだ。

 絞りを開くと、背景まではピントが合わなくなって、ぼやけてくれる。おかげで恋人の顔が、くっきり浮かび上がる。つまり、そうやって背景を引き算するのだ。

 引き算された背景のほうも、ぼやけることでかえって味が出る。

      *

 林さんは、一九九〇年暮れに亡くなった林忠彦さんの三男。兄も弟もカメラマンだ。

「写真は引き算、というのは、じつは親父の口ぐせでした。正確には、写真は引き算、機材は足し算、というんです」

 さきの富士山頂の雲煙の例でいうと、看板や標識、電柱を消すには、望遠レンズを使えばいい。

 雲煙と山頂付近の山肌だけがクローズアップされて、ああ、きれいだな、と思ったよりもっときれいな写真になる。

 望遠レンズという機材の足し算で、写真の引き算に成功する。

「恋人の写真をとるときにも望遠レンズがあれば、背景はいっそう都合よくぼやけてくれます」

 すぐ目の前のモデルにも千ミリの望遠レンズを使うのが、美女専科といわれるプロのテクニックなのだ。

 林さんはライフワークとして全国のガス灯の撮影を続けており、写真集も出した。

「これこそ、まさに引き算の連続なんです。ただ、あまり引きすぎてアップすると、ガス灯のカタログ写真になってしまうのがむずかしいところですが」

 雪の時計台のそばに立つガス灯を浮き出させることで、札幌の夜を写真に語らせたい。

 そいうイメージで対象を切り取るために、林さんは引き算を始める。

「まず、手前に並んでいる自転車やゴミ袋は全部片づけます」

 だが、ガス灯の上に電線が何本も走っていて、どうしても視野に入ってくる。これを取り払うわけにはいかない。

「そんなときには、街の灯が一つ、二つと消えていく真夜中まで待ちます。暗くなれば電線は見えません」

 ガス灯と時計台の後ろには、ビルや看板、交通標識があって、どこから撮ってもどれかがアングルにかかる。

「吹雪の夜まで待ちます。雪が吹きつけても手前の時計台とガス灯は見えますが、背景はみんな白さに呑まれてしまう。かえっていい写真になります」

 一枚の写真に、幾晩もかかる。

      *

「もう一つつけ加えれば、写真は逆光、です」

 ふつうアマチュアは、逆光だから駄目だ、とマイナスにとらえている。

 しかし、逆光で撮った写真は、いわば光りを引き算することになって、立体感が出る。

「ただ、そのままでは顔が真黒になってしまいますから、フラッシュを足し算してやればいいのです」

2020.01.03


☆統計のウソ☆ P.200~203

 一九三六年のこと、アメリカの大統領選挙をめぐって、ダイジェストという雑誌社が世論調査した。

 二百万人の回答を集め、共和党のランドン有利、と発表したが、ものの見事に外れてしまった。

 これに対して社会心理学者のギャラップは、わずか三千人を調査しただけで、民主党のルーズベルト当選を的中させた。

 これが『ギャラップの世論調査』が絶大な信頼を獲得するきっかけになったのだが、「ダイジェストが失敗したかといいますと、電話帳と自動車所有者名簿から回答者を選んだからなのです」

※参考:吉田洋一 西平重喜著『世論調査』(岩波新書)P.25~34

 と統計数理研究所教授の鈴木義一郎さん。

 当時電話や自動車を持っているのは、上流階級に限られていおた。しかも所有者から直接回答を求めれば、高年齢の男性ばkぁりに偏ってしまう。

「電話帳や名簿だけから抽出するのは楽ですが、これではどんなにサンプル数をふやしても正確な調査になりません」

 ギャラップのサンプル抽出には、そのような極端な偏りがなかった。

 だから数が少なくても正しい結果が予測できたのだ。

「今では、そんな初歩的なミスは起きない、と思うでしょう、ところが、銀行が発表する、家計の平均金額、などという数字、同じ誤りを繰り返しています」はいくら、

 預金額だけでなく、結婚式にかける費用はいくら、といった数字も銀行が発表することがある。顧客へのアンケート調査で得たものだ。

 だからその数字は、その銀行の顧客の平均預金額であり、結婚費用であるにすぎない。

「世間の実態からすると、高いほうへ偏っているといわざるをえません。銀行を利用しない層も多いですからね」

      *

 厚生省の人口問題研究所が行う出産力調査の中に、

「おたくのご主人は初婚ですか? 奥さんのほうは?」

 という質問項目がある。

「回答は、初婚どうし、というのが九四パーセントになっています」

 ところが、同じ厚生省が毎年出す人口動態統計では、初婚どうしの組合せは八五パーセント前後で推移している。

「つまり、回答者の一〇パーセントが、嘘をついていることになります」

 一度の離婚ぐらい、バツイチ、とべつに深刻に考えない時代ではあるが、やはり表向きは初婚にしておきたいらしいのだ。

「国勢調査にも似たようなことがありまして、『夫を持つ女性』と『妻を持つ男性』は、同数になるはずなのに、五万ぐらい差が出るのです」

「夫を持つ」と答える女性のほうが多いところが面白い。

 また国勢調査では、学歴が高いほうへずれる。高校卒なのに、短大卒、大学卒、と記入しがちだ。

 「名前を記入しますし、近所の人が調査員になることが多いから、見えを張りたくなるのでしょう」

※参考:

1、令和2国勢調査が令和2年10月1日に行われる。調査票に「教育」の欄がある。小学、中学、高校・旧中、短大・高専、大学、大学院に類別されている。

2、インターネットでの回答、封書での回答書の送付があるから調査員とは関係ない。

      *

 こうした統計調査にどのくらい嘘があるか、厳密なチェックをしてみたことがある。

 一九五五(昭和三十)年の衆院選の直後、有権者に、

「投票に行きましたか」

 と質問し、回答を選挙人名簿と突き合わせて照合したのだ。

「その結果、実際は棄権しているのに、投票した、と答えた人が一〇パーセントいました」

 国民としての義務を怠った、と見られたくないので、嘘をついたのだと考えられる。

「ですから、正確な調査をしたかったら、相手の嫌がることは聞くべきではない、ということになりますね」

      *

「それども日本の統計調査は、世界的に見れば正確なほうといえます」

 たとえばインドの人口ピラミッドをみると、七十歳とか六十歳とか、キリのいいところが多くなっていることがわかる。

 自分の年齢を正確に覚えている人が少なく、おおざっぱな答えが積み重なった結果だ。

「統計を利用するときには、そのような数字のクセを早く見抜いて下さい。クセの裏側にある事情を知って使うことで、初めて数字は生きてくるのです」

2020.09.21敬老の日、記す。


☆Rの月 Ⅰ☆ P.244~247

 十二月のうち、スペルにRの入った月がカキ(牡蠣)のシーズン、と欧米ではいう。

 とろが、Rのつく月だけではなく、一年中食べられる養殖カキの研究をしておられるのが、石巻専修大学教授の菅原義雄さん。

 このおいしい話に入るには、まずカキの栄養についての講義から聴いていただかなくてはならない。

「カキには栄養がある、と昔からいわれてきました。それは、食べるとすぐエネルギーになる多糖類のグリコーゲンが豊富だからです」

 消化に手間どる蛋白質や脂肪と違って、グリコーゲンはただちにエネルギーに変わり、もりもり元気が出る。

 シーザーやナポレオンなど"色好み"の英雄たちがカキを愛したといわれるのも、そのためだ。

 日本ではさきの大戦前後の食糧難の時代に、栄養不足から肺結核になる人が多かったが、

「肺病にカキが効く、といったものです。グリコーゲンのこの特徴からすると、それは理にかなっていたといえます」

 カキの中心には黒っぽい部分があるが、これは消化器官などの内臓だ。

 その外側の白い部分、つまり私たちが舌鼓を打つ肉質全体が、豊富なグリコーゲンの貯蔵庫になっている。

      *

「ところで、この白い肉質の部分は、カキがおいしいRのつく月にはグリコーゲンの貯蔵庫ですが、Rがつかない月、すなわち春から夏にかけては(April,May,June,July,Augusut)、卵子や精子をつくる場所になるのです」

 西欧の英雄たちが好んだヨーロッパカキは雌雄同体。

 これに対して日本のマガキは雌雄異体だが、どちらにしても変ったやつで、生殖器官がはっきり存在していない。

 春先になると貯蔵庫のグリコーゲンが減りはじめ、代わってそこが卵巣、あるいは精巣になる。

「ですから、春から夏にかけてはグリコーゲンがなくて、おいしくありません。Rがつく月に食べろ、というヨーロッパの古くからの言い習わしは、ここから来ています」

 水温が上がる七、八月になると、体内でつくられた卵子と精子は水中に放出され、そこで受精する。

 子供は岩などにくっつき、植物プランクトンを食べて成長していく。

「親の体内では、秋になって水温が下がるにつれて卵巣や精巣が消滅し、再びグリコーゲンの貯蔵庫が復活してくるのです」

      *

 それなら、カキに卵巣や精巣をつくるのをやめさせれば、体内はいつもグリコーゲンの貯蔵庫になっていて、一年中食べられることになる。

 そこに着目して菅原先生が始めたのが、染色体をふやすことで受精能力をなくさせる三ばい体カキの研究だ。

「カキには染色体が二十本ありますが、これを三十本にしてやるのです。すると、遺伝子に混乱が起きて卵子や精子がつくれず、子供ができなくなってしまいます。種なしスイカのようなものです」

 この三倍体カキを、水温摂氏五~七度の冬と同じ環境で飼育する。

 生殖を忘れたカキは、せっせとグリコーゲンを貯えて白い肉質をまるまると太らせ、一年中「が(しゅん)になるというわけです。

「私は真夏に試食してみていますが、なかなかいけますよ」

 むろん菅原先生は、グルメの舌を満足させるためだけに研究していらっしゃるのではない。

 いずれ、人口爆発とともに世界的な食糧難の時代がやってくるかも知れない。

「その日に、養殖しやすく、栄養豊富で、しかもおいしい三倍体カキは、まさに理想の食べ物になると思っているのですがね」

 今でも夏に近海で獲れる天然ものがないわけではなく、高い値段で売られているけれど、話のスケールが違う。

2020.01.04

※上前淳一郎プロフィール:岐阜県生まれ。1959年、東京外国語大学英語科卒、朝日新聞社に入社。通信部、社会部記者を経て、1966年、退社、評論家となる。1977年、初の著書『太平洋の生還者』で大宅壮一ノンフィクション賞受賞。『週刊文春』に1984年から2002年まで「読むクスリ」を長期連載。

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司馬遼太郎著『覇王の家』(新調文庫文庫)昭和61年1月19日 第19刷

司馬遼太郎『覇王の家』(新調文庫)

『覇王の家』は徳川家康の生涯を追った作品。

 主題は、「徳川家康とそれを取り巻く人々の特異性」だと感じ取りました。タイトルの「家」は大きな括りでの家のようです。特に三河衆の一見奇妙とも思える性質について要所要所で触れられています。なお、信長や秀吉を生んだ隣国尾張との対比が多くなされていました。

 他県の人からしてみれば、さして広いわけでもなし、愛知県内の地域性の差異なぞ知ったこっちゃないと思うでしょうが(というかそもそも愛知=な古屋のイメージが強い)、西部の尾張国と東部の三河国の間には歴史的にも文化的にも気質的にも度し難い隔たりが存在します。人の行き来が容易になった現代でさえそうなのですから、4世紀も前の時代ならその大きさはいわんやでしょう。

 更に重要なことは、片田舎である三河の土豪であった松平家が天下を長きに渡って支配してきたことが、今日の日本人にまで大きな影響を及ぼしていると司馬遼太郎は言っています。

 この小集団の性格が、のちに徳川家の性格になり、その家が運のめぐりで天下をとり、三百年間日本国を支配したため、日本人そのものの後天的性格にさまざまな影響をのこすはめになったのは、奇妙というほかない。

と上巻の導入部分を引用しておきましょう。

 さて、主題の三河衆の特異性ですが、要約すると「極めて主君に従順で、閉鎖的な郷土意識が強い中世的な封建社会」といったところでしょうか。これには三河という地域の地理的特徴が大きく関係しています。三河は「山河多く、水の便が悪く、五穀不熟国で乏しく、下の小国」といわれ、隣国尾張と比べて山がちで水はけの悪い痩せた台地が広がっています。そのため、前時代的な中世社会の特徴が長く続いていたと思われます。

 反対に尾張は、濃尾平野という肥沃な農耕地に恵まれ、商業と交通がいち早く発達した地域であるので、先進的な功利主義社会が形成されていたと言われています。

 この特徴は江戸時代の尾張徳川家(御三家筆頭)にも見られる特徴で、江戸幕府は質素倹約を掲げ重農主義をとったのに対して、尾張藩は派手好きで重商主義を推進していました(御三家の中で唯一将軍を輩出できなかったのはこのせいかも)。

 信長と家康が清洲同盟を結んでいた時分、尾張衆は従順で無骨者が多い三河衆を「犬」と嘲笑していたそうです。ただ、戦となると「三河衆一人に尾張衆三人」と謳われたように三河衆と尾張衆の実力差は歴然だったようです。死に物狂いで忠義を果たす三河衆と、功名を第一に考える尾張衆とでは、土壇場での底力が違ったのかもしれませんね。

 全体的に司馬の書きぶりは、家康に対してはやや好意的な印象を受けますが、三河衆の気質については否定的な面が見受けられました。

 この小説のもう一人の主人公といっていい人物が石川数正です。彼についてかなりのページが割かれています。この人物は松平家普代の家老で、家康が今川家の人質に出されていた頃から仕えていました。家康が遠州浜松城に移り、嫡男信康が切腹させられると、代わりに本国岡崎城代を務めました。同じく譜代の家老である酒井忠次(吉田城代)と共に家臣団のツートップのような存在でした。

 この数正はいわゆる三河的な考え方をしない人間で(それが後になって出奔に繋がったのですが)、三河家臣団の中では珍しい人材だったのです。そのかいあってか外相的なポジションにつき、上方衆との交渉にあたることが多かったですが、世間の広さを知って三河衆の閉鎖的な考え方に疑問を抱き、今日の武士たる者は広い視野を持たねばならんと唱えるようになりました。しかし、排他的な性質が強い三河衆は先進的な考え方をする数正を煙たがり、家臣団の中で数正の評判は極めて低くなってしまいます。

 三河衆は仲間内での結束は硬いものの、外部の人間に対する猜疑心が人一倊強く、また、たとえ数正のような身内でも考え方が異なる場合はひどく嫌悪しました。逆に、小牧・長久手の戦いの戦後処理に来た滝川雄利などは、「節義」(儒教用語で志を高くして義を貫くこと)という語を用いて三河衆から人気を得たとされており、外部の人間でも「三河的な」気質を示す者は好意的に受け止められました(阪神ファンのいう"猛虎魂"に通じるものがあると思った)。

 そう考えると、幕末の動乱を見ても江戸幕府の姿勢がいかにも”三河的”なものであったのだと感じざるを得ません。また、江戸幕府成立当初、キリスト教の布教を禁止し、鎖国によって他国との交易を断ち、体制を批判する者は徹底的に弾圧したなどのことも、その性質の現れに思えます。

 小説の中に「家康には独創性が皆無だった」と何度か出てきます。家康は、新しいものを積極的に取り入れていった信長や秀吉のような柔軟なアイデアマンより、武田信玄のような古きを重じる人間の方にシンパシーを感じていたとも言われています。

 そんな男が天下を取ったのだから世の中は不思議なものですね。新しきが古きを駆逐するというのは世の常ではないようです。ただ、秀吉がいよいよ天下を統一し一世を風靡した時でさえ、豊臣政権は長くはもつまいと考えていた家康公ですから、先を見据える能力は高かったのかもしれません。覇王というと西楚覇王を称した項羽のような豪傑が思い浮かびますが、忍耐によって結果的に覇者となった家康を果たして覇王と言ってよいものか迷うところです。

 この小説の中で印象に残ったシーンは、出奔し秀吉の配下に付いた石川数正の後日談で、使者として大阪城に赴いた井伊直政に対して、秀吉の計らいで数正を同席させた場面での出来事です。秀吉からすると、かつての同胞と昔話でもさせやろうと粋な計らいをしたつもりだったのですが、直政はそっぽを向いて「ご恩のある主君(家康)に背いて殿下(秀吉)に従う臆病者とは口もききたくない!」と毒突き、宴の一行を白けさせたというのです。直政は数正より30歳近く年下で、自分よりずっと高官であった数正に対し、しかも関白秀吉の御前であるにもかかわらず、このような暴言を吐いたということは、三河衆の意固地さをよく表している事件ですね。

 厳密には直政は三河の出ではないですが、準本国ともいえる遠州の出身で、若い頃から家康に仕えていたため三河衆の色に染まりきった人物だったのです。ゆえに主君からの恩義を忘れ他の者に仕えるなど言語道断という考え方だったわけです。

 この小説は、家康の幼少時代から小牧・長久手の戦いの戦後処理までで一旦区切りとなっていて、最終章は駿河に隠居した晩年の家康の姿を描いています。一般に天ぷらにあたって死んだと言われていますが、一時は体調が持ち直していることから他に原因があったような気がします。家康はかなり健康に気を使う人間で、健康促進のために鷹狩りを晩年まで嗜んでいたと言いますから、日本初の生涯スポーツ実践者だったのかもしれません。

※インターネットによる。

2020.01.10

49

ゾウリンゲンのナイフに
応用された日本刀の技術
"日の丸弁当"は
超合理的なカロリー食品
飢饉用の食糧として
うえられた彼岸花
日本酒にかぎはって、
なぜ温めて飲むのか
なぜタクワンが
すぐれた消化促進食品なのか
結のうとは、
日本が女系社会だったなな残り
相撲は豊作祈願の
信仰から起った

52
樋口清之『梅干と日本刀』(祥伝社)1975年4月25日 65刷 1975年5月23日購入。

☆ゾウリンゲンのナイフに応用された日本刀の技術P.31~35☆

 土木工法に優るとも劣らない日本の技術に、"鉄"の技術、つまり刀の技術がある。"鉄"の技術、つまり刀の技術がある。

 鎖国を解いて、日本の文化が世界に紹介されはじめてから、西洋人が驚嘆したものに、浮世絵の技法と、この刀の技法がある。

 浮世絵が西洋の近代絵画の幕開けに大きな影響をもたらしたことは有名だが、刀のほうは、そうはいかなかった。西洋の科学は分析科学だから、当然、日本の刀を持ち帰って分析した。その結果、刀の鉄の成分などはわかったが、ついに同じものを作ることはできなかったのである。わずかに正宗の名刀にモリブデン鋼が含まれていることをドイツ人が知り、それを、日本ではゾウリンゲンとして知られる、剃刀に混入して、研いで使えるようにすることぐらいが、刃物として日本の刀にいちばん近い応用であった。


※参考:☆『ヨーロッパ見聞』第一話:ゾーリンゲンの裁ち鋏

 46年2月14日(日)

 フランクフルトに到着。栗原君が迎えに来てくれていた。初めての飛行機旅行であり、しかもルフトファンザで、私自身が緊張していたから、彼を見てホットする。

▼大阪→東京→アンカレッジ→ハンブルグ→ジュセルドルフ→フランクフルト。

 大阪→東京は夜。東京→アンカレッジで朝になる。アンカレッジ→ジュセルドルフは夜。ジュセルドルフ→フランクフルトは朝。21時間のうちに朝・夜が各々2回あり。

*現在は11時間くらいだそうです。

▼以後、目的の仕事をして、約1週間後の2月20日(土)休日。

 フランクフルトの市内見物。まず、現地の日本航空に行く。

 Machiko Joswig(ドイツ人と結婚)さんに買い物の要領をきいた。その話の中でゾーリンゲンの刃物で5%割引の紹介状をかいていただいた。日曜日のドイツの国有鉄道の切符の買い方を教えてもらう。会社からのドイツ駐在の栗原君はジュセルドルフにかぇつていたから私ども3人の行動。

▼ドイツまで出かけてのゾーリンゲンの刃物かと疑問に思われるかもしれません。その理由は、

 私の家内は裁縫が上手で、結婚当初から私の式服・季節には背広まで仕立て上げてくれていた。長男・長女の服も同じように作ってくれていたからである。

 そこで、ドイツでは裁ち鋏を買って土産にしようと思って買ったのである。全長26センチである。

 42年も経過しているので錆がきているが、今でも布などを切ると、切り口のところの刃のあたるところの諸刃(もろは)はきっちりと密着しているのには、素人の私にさえこれは立派な技術だろうと思う。切れ味は抜群である。


 日本の刀の造りは、ついに世界の人々が真似できなかったのである。

 日本の刀には、鉄をあつかうようになって以来の日本人の知恵が、西洋科学ではなし得ないほどの技術を生んで、結集しているのである。

 鉄を自由にあつかうには、高温の熱を出す燃料が必要である。西洋には早くからコークスがあって千八百度くらいの熱を出せた。日本では無煙燃料としては木炭しかない。木炭はいくら酸素を供給しても千二百度が限度である。普通、茶をわかしている木炭は約八百度である。

※参考:鉄の歴史

備長炭(びんちょうたん)」という魚を焼く木炭は、六百という低温で、いちばん長時間、同じ温度で燃える炭である。だから魚がまんべんなく焼ける。

 いうならば、魚をうまく焼くために、低温で長時間燃焼する"備長炭"を発明したのである。これはウバメカシというカㇰㇳ科の椊物からつくった炭で、叩くとカンカンと金属性の音がする硬質の炭である。この発明は、日本人が食生活で、煮物や焼物をつくるのに木炭に頼っていたということもあるけれども、料理は低温で長時間かけないと、うま味が出ない、そういう知恵からだろう。ウナギを焼くのはこの「備長炭」を使う。この備長炭は備中屋長右衛門(びつちゅうやちょうえもん)という人が、和歌山県田辺市の近くで発明したので、そのなを取ってな付けられたものだが、発明は今から約三百年前、元禄時代である。それ以前は「佐倉炭(さくら)」が多かった。もっと以前になると松炭である。

 松炭は短時間燃焼の木炭である。しかし、熱量はこの松炭がいちばん高い。松炭とは、簡単にいえば消し炭である。一般に消し炭がいちばん熱量が低いと思われているが、実は逆なのである。

 それでも、最高に得られる熱量は千二百度でしかなかった。しかも燃焼時間が短い。ところが、この低熱量しか得られない条件下で鉄を使用しなければならないことに、私たちの先祖が兆戦することで、世界一の利器、日本刀が生まれたのである。

 鉄の熔解点は千八百度である。いくら(ふいご)で風を送っても、木炭ではこの高熱を得ることができず、鉄は半熔解、つまり、アメ状の鉄が得られるだけだ。

 鋼鉄は砂鉄を原料にして精錬する。砂鉄粉と石英粉と木炭粉を交互に重ねて、踏鞴(たたら)を使う溶鉱炉(たたら)の中に入れる。溶鉱炉の下に火口があって、そこに火をつけて、三昼夜のあいだ熱すると、どろどろのアメのようなものになる。もし、千八百度の熱が出せれば、ここで純度の高い鋼鉄ができるから、あとは鋳型(いがた)に流しこめば終りだが、千二百度だから、アメ状の鉄には不純物がいっぱい入っている。

 そこでアメ状になったかたまりの上のカスを取って、あとをどっと流して固めると銑鉄が出来る。それを叩いて細かくして、もう一度、石英粉と木炭粉を重ねて踏鞴(たたら)で溶かし込むと、今度は、炭素が多く含まれた鋼鉄の元ができる。それを玉鋼(たまはがね)という。

 断っておくが、この過程のすべては、鉄を熔解する高熱が得られないという条件下で、千数百年前に私たちの先祖が考え出したものである。

 玉鋼(たまはがね)は炭素分が多いから固いけれども、もろい。これに柔軟性を与える必要があるから、もう一度、木炭の中で半熔解に熱して"鍛える"――叩くわけだ。火花という形で玉鋼の中の炭素を放出するわけである。

 村の鍛冶屋という歌にある"飛び散る火花"というのは、鉄粉も出るが、多くは中に入っている木炭の粉末が火花となって放出されることを歌ったのである。

※参考:村の鍛冶屋の歌詞:しばしも休まず つち打つひびき/飛び散る火花よ はしる湯玉/ふいごの風さえ 息をもつがず/仕事に精出す 村の鍛冶屋

 この叩くときがひじょうに大切で、叩き方が初めに打った人と、後で打った人で力が違うと、均質にならないから、いつも同じ力で叩かなければならない。熟練を要するわけだ。

 だから、師匠は弟子に叩かせて、その力のかかり方を絶えず見ながら、全体を均質になるように動かしていくわけである。これはまったく勘だけれど、計算された、科学以上のものといっていい。

2020.02.06


☆"日の丸弁当"は超合理的な食品☆ P.50~52

 米を粗末にしたり、冒瀆するとたたりがあるという戒めができる。『山城風土記』という千二百年前の本に、こんなエピソードがる。

 秦伊呂具(はたいろぐ)という大地主が、米ができすぎるので、餅にして、それを的にして矢を射ていた。すると矢が当たった餠は、白い鳥になって飛んで行ってしまった。その鳥が落ちた山が稲荷山――稲のなる山、お稲荷さんである。その事件の後、秦氏は転落して貧乏になった、という話である。餠という食品を、遊びの対象にすると罰が当たるといって、米の神聖感を教えているわけだ。したがって、昔の人は米を大事にしたし、米には悪魔を払う力があると教えて、今日でも地鎮祭のときには神主が、水と塩と米を撒く。

 人間の経験的な客観の範囲での、物の説明が科学だとすれば、日本人の場合は、これを信仰や人間の倫理観、あるいはムードといったもので感じていくのである。その信仰も、特定の宗教に規制されるのではなく、宗教の原点というのか、人間が生存していくために必要な原点に立っているから、前近代的ではあるが、日本人には説得力があったのである。

 日本では、こうして米を"主食"として、カロリーの摂取源とした。だが、米自体は酸性食品であり(米は、その澱粉質が胃の中に入ると、すぐ糖化する酸性食品である。P.48)、さまざまの欠点を持っている。そこで、この米の欠点を補うために、米とは違った性質を持つ食品を摂取する。これが副食の概念である。

 外国人は、食生活において、こうした主食と副食といった概念を持ってなくて、すべての食品から万遍なくカロリーや栄養を摂るという考え方である。したがって、「ごはんとおかず」といった関係はない。どの食品もごはんであり、おかずである。だから、西洋の栄養学ではどの食品ひとつ取り出しても、その食品自体に、カロリーと栄養がバランスよく含まれていなければならない。そういう目で日本のごはんとおかずを見ると、それぞれ欠陥であることから、日本人の食事は近代的でらない、ということになってしまった。

 だが、これは正しい見方だろうか。たとえば、日の丸弁当を考えてみよう。日の丸弁当というのは九十九パーセンㇳが米で、副食は梅干しだけでらる。栄養学的にみれば、こんな低カロリーで野蛮な弁当はないだろう。だが、これは間違いである。大量の白米とひと粒の梅干だが、これが胃の中に入ると、この梅干ひと粒が、九十九%の米の酸性を中和し、米のカロリーは食べたほとんどが吸収される役目を果たす。


※参考:梅干しがアルカリ性食品に分類される理由は?

 梅干しがアルカリ性食品に分類される理由は、酸性かアルカリ性かの測定方法にあります。梅干しそのものを測定すると、確かに酸性の反応が出ます。ですが、食品を酸性かアルカリ性か分類する場合、食品そのものを直接測るわけではありません。

食品の酸性・アルカリ性の測定方法を簡単に説明すると次のようになります。

1.まず食品を燃焼させて、灰にします。
2.その灰を水に溶かした水溶液のpH(ピーエイチ・ペーハー:酸性かアルカリ性かの度合いを表す単位)を測ります。
3.pHを見て酸性の値なら酸性食品、アルカリ性の値だったらアルカリ性食品という分類です。

 食べ物を食べると、体内で吸収してエネルギーにするために酸化反応が起こります。そして、これと同じような反応が食品を燃焼させた時にも起こります。そのため、わざわざ灰にして測定しているのです。

梅干しは、燃焼した灰のpHがアルカリ性になります。そのことから、アルカリ性食品に分類されるのです。


 すなわち、日の丸弁当は食べてすぐ、エネルギーに変る、労働のための理想食なのだ。しかし、日の丸弁当はカロリーこそ摂れるが、ビタミンの種類が足りないし、これだけを毎日食べているわけにはいかない。しかし、ビタビン類というものは毎食事、つねに一定の量を摂取しなければならないというものではない。たとえば、夕食時にそれを補えればいいのである。

 いま必要なカロリーを摂るという意味では、日の丸弁当は、近代的な進んだ智恵なのだ。

2020.02.07


※参考:興亜奉公日

 昭和一四年八月三〇日、総辞職した平沼内閣のあとをついで、阿部信行内閣が成立し、この二日後の九月一日、第二次世界大戦がはじまった。

 阿部内閣は第二次世界大戦への「不介入」と、日中戦争の「早期解決」を政策に打ち出したが、国内問題にも厄介な事情が山積して、国民は苦しい歩みを余儀なくされる。まず食糧をはじめとして、生活必需品の不足が目立ってくる。

 「興亜奉公日」は、「国民精神総動員運動」の一環として、昭和一四年九月一日から、毎月一日をそう呼ぶことに決めたものであった。「興亜」とは、アジアを興こす、いまのことばで言えばアジアを「活性化」すること、「奉公」は、いうまでもなく「戦場の労苦を偲」び私生活を二の次、三の次として「公け」」のために「奉仕」しましょう、という趣旨である。

 しかし、そのために一体なにをすればいいのか。そこで決められたのが、この日には全国民が朝早く起きて神社に参拝する、食事は一汁一菜(いちじゅいっさい)と質素に切りつめ、禁酒、子どもは梅干し一つだけの「日の丸弁当」、「勤労奉仕」にはげみ、飲酒、接客の各業種は休業。いまから考えれば、理解に苦しむほどつまらない(●●●●●)日が、この「興亜奉公日」であった。「興亜の大業を翼賛」するために、個人生活のいろいろな欲望を抑え、きりつめ、まじめに働く日、といってよかろう。

 昭和一四年というこの年は、「戦時立法」が多かった。次々に法律をつくって、統制し、制限し、なんとか国民を戦争の方向へ引っぱっていく、そのための法律づくりが頻繁におこなわれ、違反するものは「非国民」の名前で、きびしく罰する立法が進められたのである。

 中でも、「米」の統制と配給制度が実施されたのには、ほとんどの国民が驚いた。当時の日本人は、現在とは比較にならぬほど「米」に依存した食生活に親しんでいた。その米が統制され、国民の自由にはさせぬというのだから、当時の国民はひそかに重大な危機感を抱いたはずである。米の「配給」は、「興亜奉公日」が制定される前の四月から法令で公布されていたから、国民も予想はしていたが、その実施の一〇月一日を迎えると、危機感は一段と深刻化する。やがて、米の消費をおさえるため、米を精白して食べやすい白米にすることが禁止された。次の年の昭和一五年に、農家に米の強制出荷が命令され、いわゆる米の「配給制」がはじまるのだから、為政者はかなり前々から計画を練っていたことがわかる。ほかの生活物質とちがって、米はむかしから日本人とは切っても切れないもの、それを統制する法律が公布されては、国民の気持が沈んでくるのは当然である。「統制」は女性のヘアスタイルにも及び、一四年の、パーマネット・ウェーブの廃止が決まった。

 「興亜奉公日」(毎月一日)は、昭和一七年一月八日から、毎月八日の「大詔奉戴日(たいしょうほうたいび)」に切りかえられる。「太平洋戦争」完遂という目的を国民に滲透させるための制定である。 

※参考
14.06.16 ネオン全廃、中元歳暮の贈答廃止、学生の長髪禁止、パーマネット廃止など生活刷新案決定。
14.09.01 初の(興亜奉公日)(毎月1日実施)。待合・バー・料理屋など酒不買で殆ど休業。ネオン消燈。
15.01.05 広島県吉名村、米の自主的消費規制。池田勇人首相の出身地。
15.11.10 紀元2600年祝賀行事、赤飯用もち米特配。
 以上『近代日本総合年表』岩波書店による。

※私が子供のころ、家では、玄米を一升瓶に詰めて搗いていた。

2019.10.27


☆なぜ日本酒にかぎって、温めて飲むのか ☆ P.62~66

 日本人は、主食の米からさまざまな食品を作り出している。そのひとつが日本酒である。

 米を蒸して置いておくと、糀菌が入って腐りかける。すると甘くなる。糖化するわけだ。そのときイースト菌を加えると酒になる。日本酒の原理である。だが、今日でこそ、イースという言葉を使うが、昔はそんな表現はしない。

 酒屋には必ず"杜氏"という技術者がいた。杜氏の仕事は、糀の素で発酵させた米は、空中の自然イースト菌を触媒させることである。その技術を知っているのが杜氏である。いうならば、甘酒に空気を吹っかけるだけである。だが、むずかしいのは、このときの温度である。相手が熱すればイースト菌は死ぬし、寒ければ繁殖しない。この適温を知っているのが杜氏である。

 次に杜氏は、イースト菌で発酵しはじめた酒をそのまま放っておくと酢になるから、途中で"火入れ"をする。塩辛類はここで食塩を使う。日本酒は熱で菌を殺す。このタイミングがまたむずかしい。今日ではすべて化学的に処理されるが、当時は経験によるカンである。この結果、菌が死んで"どぶろく"ができる。そこに藁灰をまぜると"あく汁"によって繊維と澱粉が収縮するから、下に沈殿して、上に上ずみができる。それが今日の清酒である。今日ではあく汁の代わりに薬品を使う。

 簡単にいうと、米を蒸して糀菌で発酵させ、糖化したところに生ビールを入れると、日本酒ができる。生ビールはイースト菌が入っているからである。

 こうしてできた上澄みを杉樽に入れる。昔は壺に入れて、腐りかけると杉の新芽を漬ける。杉はフ―ゼル油という油脂を持っている。杉のヤニなのだが、このフ―ゼル油は防腐作用を持っている。だから、昔の酒屋は杉の若芽をたくさん用意してあった。

 奈良県の大神(おおみわ)神社という酒の神さまを祀る神社は、杉の新芽でつくった玉を売っている。昔、酒屋はそれを買ってきて、酒が腐りかけると漬ける。すると元にもどる。

 その杉を束ねたものを酒林(さかばやし)と呼ぶが、酒屋には昔、それを門口に吊ってあった。だから、酒林が吊ってあると"あそこは酒屋"だとわかるわけで、これが日本の看板の元祖である。

 このフ―ゼル油は、レモンの皮にも含まれているが、結局、運搬するときの樽を杉でつくればいいから、江戸時代になって酒樽は杉樽になった。日本人は杉を建材に使ったせいもあるが、杉のフ―ゼル油がしみ込んだ酒の匂いを樽酒といって喜ぶ。

 江戸まで運んでいった酒を"下り酒"、それを上方に持って帰ったのが"戻り酒"、江戸まで馬の背に積んで揺られて酵熟した酒がもう一度、東海道五十三次を戻ってくる。この戻り酒はひじょうに高い。なぜかというと、結局、杉の木のフ―ゼル油の香りが、全体にほどよく拡がって酵熟しているからだ。

 だが実をいうと、フ―ゼル油というのは揮発性の油で、これを摂取すると脳神経をおかされて頭が痛くなる。

 世界中の酒で、飲む前に温めるのは、中国の一部の酒と日本酒だけである。日本酒をお燗(かん)するのは、このフ―ゼル油を揮発させるためである。冷たいままで飲むと頭が痛くなったりする。にもかかわらず、この杉樽の香りを好んで、高いお金を出して飲むというのだから、変っているといえば変っている。

 下り酒、戻り酒の話のついでだが、江戸の酒は評判がよくなかった。酒の本場は当時でも関西だったわけである。江戸の酒は、東海道を関西から下ってきたものではない。つまり、下らない酒ということになる。現在、つまらないとか、大したことないとかのことを"くだらない"と表現するが、その語源は、この"下らない酒"からきているのである。

 酒を飲むと、気が大きくなる。なかには気が変になる人もいる。古代人は、この状態を神がかりの状態と考えた。神の霊が降りてくる。それで、お酒を神に供え、自分も飲む。このようなことから、日本酒には、宗教感や神聖感がある。それが御神酒(おみき)"の発想である。日本人にアルコール中毒症が少ないのも、原点はこの発想があるからであろう。

※参考書:坂口謹一郎著『日本の酒』(岩波新書)

2020.02.23記す。


☆なぜタクワンがすぐれた消化促進食品なのか☆ P.100~102

 私たちの祖先が、水と湿気の多い自然に適応するために、どんなに多くの知恵を生んできたかがわかるが、見方をかえると、遂に、この湿度が高いという風土を積極的に利用していることである。

 湿度が高いと物が腐りやすい。腐るということは、発酵するということである。分解、発酵して最後に酸化する。この発酵という過程を応用した食品が非常に発達するのである。

 味噌、醤油、日本酒、塩辛類と、日本は世界でもっとも発酵食品を食べる国である。

 動物蛋白を発酵させて、塩辛を作る。

 先にも述べたが、日本酒はまず米の澱粉を糀菌で糖化させておいて、次にイースト菌を加えてアルコール化するという二重行程を経て作る。

 動物蛋白を発酵させて、塩辛を作る。今日の(すし)は生のままで食べるが、元来はいわゆる熟酢(なれずし)というご飯に入れて腐らしたのが鮨だった。動物蛋白は発酵させすぎると腐ってしまうから、食塩を使って発酵を途中で止める。それが塩辛だ。今日では塩辛類は少ないが、昔は鹿の肝臓、あわびの内臓、魚類の内臓、あみ(丶丶)、いか、なんでも塩辛にして保存しながら食料にした。

 さらに"くさびしお"と、私は言っているが、野菜類、これを漬物にする。漬物も元来はすべて発酵過程を経たものであった。

 梅も、塩で漬けただけでは漬け梅である。それを一度、壺から出して天日に干す。そのときに空気中の酵母菌が入る。それをもう一度、漬けると柔らかくなって梅干になる。こうして、野菜ばかりでなく、スモモも(あんず)も漬物にした。

 奈良に奈良漬けという、瓜を漬けたものがあるが、今日でも東大寺の前で、スモモだけの漬物を売っている。

 要するに、日本人は奈良時代には、すでに酵母菌の媒体による発酵作用を知っていて、それによって澱粉系のもので味噌、酒を、野菜類からは漬物を、生の肉や内臓から塩辛を作っていたのである。

 こうした発酵食品にはどんな利点があるかというと、まず食品の保存ということがひとつ。さらに栄養の問題がある。

「タクワンは犬の臭いがする、といって外国人が嫌うから、日本人ガイドはタクワンを仕事の前や途中には食べないように」といっていた時代があった。そのときに、「外国人が食べないタクワンを、日本人がどうして食べるのか」という疑問を私は持った。

 当時は、食品にカロリーだとかビタミンだとかの近代栄養学の概念が入ってきて、従来の日本の食品、とくにタクワンなどは栄養学的には、まったく無価値で、ただ嗜好品としての意味しか持っていないようにいわれていた。これは、これから日本の歴史を学ぼうとしていた私には、いささか屈辱的に思えたことも事実である。そして一方では、この民族が千数百年の間、摂取しつづけたものが、何の価値もないということは考えられない、という確信もあった。

 今日、タクワンは、秀れた発酵食品であり、消化促進に良い科学的な食品とされている。一般に、漬物というと、どうも食品価値がないように思われがちだが、それはあやまりで、漬物にはいろいろな雑菌、とくに酵素が多量に含まれているから、胃の中で、他の食品を消化分解する作用が強いのである。

 タクワンは、古ければ古いほど質が高いとされる。古いといっても限度があって、せいぜい二、三十年をさかのばらない。私は、元禄年間のタクワン、つまり三百年も前のものといわれるタクワンを食べたことがあるが、まったく切干大根のような味で、線維ばかりのような気がした。

2020.09.20記す。


☆飢饉用の食糧としてうえられた彼岸花 ☆ P.108~112
1975年5月25日読んでいた。

 自然のもたらす災害の中で、一番恐ろしいのは、旱魃や冷害による飢饉である。人間社会の完成度というものは、こうした自然災害に対して、長期的な防備がどれだけ完成しているか、ということがひとつの尺度になるだろう。たった今、豊かな生活を営んでいるとしても、一、二年の飢饉に対する備えがないとすれば、それは"豊かな社会"とはいえない。

 飢饉といえば、まず食糧問題である。私たちの祖先は、何度かそれを經驗しているが、当然のことながら、彼らも食品保存をつねに考えていた。私たちの場合、食品保存といえば、まず罐詰や乾燥食品が頭に浮かぶ。しかし、祖先たちはまず塩蔵食品を考えた。塩は細胞の中の水分を吸収する。

 生魚に塩をかけて水分を取り、蛋白と繊維質だけを残して保存する。

 燻製という方法も知っていた今日でも残っているものに「信玄味噌」がある。これは味噌を固く作って草鞋状にし、囲炉裏やカマドのある部屋の天井に吊るしておく。すると、コールタールがつく。塩蔵されたうえにコールタールによる保存が加わるから、非常に長期の保存に耐える。武田信玄が死んで四百年だが、この信玄味噌は今日でも十分、食べられる。大豆の蛋白と食塩とを四百年もの間、保存することは罐詰でも不可能だろう。

 だが、私たちの祖先はこれだけの備えでは満足しない。用心に用心を重ねて、建築用材の中に食品を塗り込んでいる。土壁を作るときに入れる藁である。藁の根元のほうを三センチぐらいの長さに切って、泥と混ぜて壁に塗り込めておく。

 さて、飢饉になった。塩蔵食品や燻製食品や漬物も底をついてくると、壁を崩して藁を水洗いし、その藁をつぶしてもう一度、汁のように煎じて飲む。そうすると、澱粉がとれる。

 米そのものの保存では、籾の状態にしておいてもせいぜい十年、米だと三、四年で栄養価格は半減する。藁の根元近くには米の七、八パーセントぐらいの澱粉質があり、これは百年、二百年の保存に耐えるのだ。それを彼らは知っていたのだろう。

 さらに芋ガラである。里芋の茎を編んで敷物状のものをつくり、細い竹を渡して天井に張る。通気性もあるし、保温力も強い。長い間には煙も通って燻製状になる。飢饉のときには、それを味噌汁に入れて食べた。

 そのほかに、ご飯にまぜる増量材、たとえば大根葉、干し大根なども多くある。こうした増量剤の種類ばかりをあげた書物まであるほどだ。その本によると、飢饉のときには何でも食べる。食べられものはない、と言っているくらいである。

 松の木の甘皮。これには樹脂が多い。甘皮を粉にして、一度煮沸して、上に浮んだものを摂取すると、澱粉が採れる。本体の甘皮は"松皮だんご"といって、臼で搗いて、だんごにして 食べる。松の皮のだんごだ。昆虫の幼虫も、もちろん食べる。

 こうしたすべてのもの食べつくしたあと、最後に備えてあるのは"彼岸花(曼珠沙華)"である。

 墓地や田舎の川岸などに咲く彼岸花は、毒だと教えられている。だが、彼岸花は、本来は渡来しょく物で、雄株は日本の酸性土壌に適応せず、雌株だけが残った。彼岸花は球根だからタンポポのように遠方に殖(ふ)えることはない。十年間で一メートルぐらいしか自分の領分を殖やすことはできない。だから、あの彼岸花は、墓地や川の土手に勝手に生えているのではなく、遠く、祖先の誰かが飢饉のときを考えて殖えたものである。その証拠に、道路や、村落、墓地などの人間活動の周辺以外の純白自然原野には、日本ではこの椊物は見られない。そうして"毒だから触ってはいけない"と言い伝えて、不慮の災害の日まで、すくすくと自然増殖できるような配慮しておいたのである。

 食用にするのはその球根である。これには、もちろんアルカロイド毒がある。だが水に晒すと、熔解して無毒になる。そして、その球根には多量の澱粉質が含まれている。ただ、もともとが毒を含んでいる危険な食品なので、安易に食べたりはしないほうがよい。

 彼岸花を食べつくすと、次は人間の肉しかない。秋の彼岸に咲くことのほかに、最後の最後の食品という意味で"彼岸花"というのだろうか。

 私たちの祖先は、深謀遠慮だったというか、案外、今日の私たちより利口だったのではあるまいか。こうして、自然との困難な戦いに勝ち抜いて、何千年かを生きのびてきたのである。

2020.02.18記。


☆結のうとは、日本が女系社会だったな残りP.198~201☆

 こういう女性上位というか、女性尊重の思想の原点は"結"である。

 結というのは、結社という意味である。人間関係を結ぶ――その結社に入れてもらうのが結婚で、だから、男は結紊《を入れる。これは、男が女の属する結社に入れてもらう儀式なのである。縁結びに紊めるものではない。もし縁結びのためなら、女が男に結紊をいれてもいいようなものある。ところが、そうではなかった。

 日本の家は女が中心で、結いの中心だったからこそ、そこへ入れてもらうには、男が結紊を紊めなければならなかったのだ。

 その結とは、元来は紐や下帯の結び目に象徴され、そこにはその結社や家の神の魂が結びこまれていた。そのため、各結社によって、その結び目の形が違っていた。そして、その結び目の形は女から女へと伝えられたのである。

 古代には、男が旅立つときに女に下帯を結んでもらうという定(き)まりがあった。これを旅行中にほどいてはならないのだ。

 その結び目ちゃんとそのまま持って帰らないと、貞操の証(あか)しが立たない。気が変わって、途中でほどきでもしようものなら、元通りには、その"結"の女にしか結びなおせないのだから、身の証しの立てようがなくなる。

 だから『万葉集』には、その紐がほどけかかって困っている歌があるし、中には古くなって、ボロボロになって困っている歌もある。

 そんなわけで、旅行中は、湯にも入れないし、水浴もできなかったのだろう。それほど女のほうが強かった。だから、いくら江戸時代が封建社会だったとはいえ、三行半(みくだりはん)など、そう簡単には書けるはずもなかったのである。

 現代でも、女は家にいて男に仕え、男が出張に行くときには、やさしそうに身の回り品をカバンにつめてくれているが、あれを愛情からやってくれてるさけと思うと、大間違いである。

 ひょっとして、古代から続いた女の本能のなせる業(わざ)なのかもしれない。

 つまり、女は男が旅先で何をしてきたかを監視するために、ニコニコしてハンカチよか、駒gおましたものをそろえてくれているので、現代でも、女は"結"の中心にデン《と腰をすえているといっていいのかも知れんあい。

※参考:〽二人して結びし紐をひとりしてあひ見るまでは解かじとぞ思ふ 

 この歌は『万葉集』巻十二に収録されている「二人してむすびし紐を一人として我は解きみじただにあふまでは」から着想を得ているようだ。 もとの万葉集の歌は純情を誓う歌であった。伊勢物語でも意味するところはあまり変わらないが、朝顔に例えられる浮気性の女と釘を刺す男の人となりが見れる。


☆相撲は豊作祈願の信仰から起った P.215~217☆

 昔の人は、レクリエーションの一種を"野遊び"と表現した。野遊びというのは、野に行って野の精霊を体に受けてくることである。

 自然の精霊をいつも受けることで、生命の再生産をやる。具体的には野に行って新芽を摘んで食べられる野草を食べる。あるいは海辺に行って、新しい魚や貝を拾って食べる。地方によっては"浜遊び"とも言う。そういう新しい生産物を採って、新鮮なものを食べて、自然の精霊と触れ合うことがレクリエーションであった。

 今日では、働いたから休養する、それがレクリエーションであるが、古代人は、まず休養して、魂の再生産をしておいて働く。つまり休養が先であった。どちらがいいかは問題だが、私は古代人の発想のほうが健康だと思う。

 したがって、古代人のレクリエーションはすべて、信仰に通じている。

 レクリエーションのひとつであるスポーツも、占い、あるいは娯楽だと思っている。

 相撲は、しめ縄を巻いてしこを踏むというのは、地力を高める呪術である。ドンドンと土を踏むから、地面の力が振動して、よく物ができるというわけだ。だから村相撲をとって勝ったほうが豊作だ、という占いでもあった。しめ縄を巻くのは、神に仕える姿で、相撲取りは神の奉仕者である。塩を撒くのは、体を清める儀礼である。村の鎮守には力石という大きな石があって、それを何回持って歩けるかというスポーツもあった。それも、農耕社会では力技が必要だったから、長い距離を石を持って歩けることは、神の加護が強いことだと祝って、それを奨励したのである。

 長崎や熊野(和歌山県)にあるペーロンと呼ばれるボートレースも、勝った村が豊作だという信仰があった。レースに勝つだけの若者がいるということは、それだけの労働力があったということでもある。結局、力強い労働力を養うために、信仰というオブラートに包んで、スポーツをやったわけだ。

 出羽三山に登ること自体は、登山スポーツである。しかし、出羽三山に登ることは、神に近づくことでもある。神に近寄ればひじょうに幸せをもたらせるという信仰があって、この登山スポーツをはやらせ、肉体を強くしていこうという考え方である。

 これらはすべて、明日のためにいま休養したり、薬品を摂ったり、スポーツをしたりして体力をつけるというレクリエーションの思想から発想されたものである。レクリエーションは、労働後の"休養"のためではなかったのである。

参考:出羽三山とは羽黒山、月山、湯殿山の総称で明治時代までは神仏習合の権現を祀る修験道の山であった。

 明治以降神山となり、羽黒山は稲倉魂命、月山は月読命、湯殿山は大山祇命、大国主命、少彦な命の三神を祀るが、開山以来、羽黒派古修験道は継承され、出羽三山に寄せる信仰は今も変わらない。

参考:森敦著『月山』(河出書房新社)

2020.01.24記す。大相撲初場所十三日目。

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駒田信二著『中国書人伝』(芸術新聞社刊)一九八五年十二月二十五日 初版第一刷発行

顔 真卿(がんしんけい) P.97~108

 顔真卿(がんしんけい)(七〇九~七八五)、字は清臣(せいしん)、唐の瑯邪臨沂(ろうや りんぎ)の人。時代はちがうが王義子と同郷である。

 顔真卿の五代前の祖じゃ『顔氏家訓』の著者として有名な顔之推(がんしすい)(五三一~六〇〇頃)であり、三代前の祖(曾祖父)顔勤礼(きんれい)の兄の顔師古(しこ)(五八一~六四五)は『五経』の校勘者として、また『漢書』の注釈者として著名な学者である。顔真卿自らがその「顔勤礼(がんきんれい)碑」や「顔氏家廟碑」に記しているところによれば、この種の碑文の常套的修辞とはいえ、曾祖父顔勤礼、祖父顔昭甫(顕甫)、父顔惟貞、伯父顔元孫、すべて能書家だったといいう。

 顔真卿の伝記は、『旧唐書(くとうじょ)』(五代の後晋劉昫(りゅうく)らの奉勅書)の巻一二八、『新唐書』(宋の欧陽脩らの奉勅書)の巻一五三にあり、年譜には宋の留元剛の「顔魯公(がんろこう)年譜」がある。

 顔真卿が歴史に登場するのは、天宝十四年(七五五)十一月、安禄山が范陽(はんよう)に反乱の兵を挙げたときである。従兄(顔元孫の子)の顔杲卿(がんこうけい)と同時に登場する。

 安禄山の二十万の大軍がたちのうち河北の地を席巻してしまったとき、玄宗は狼狽し、「河北二十四郡に一人の義士もおらぬのか>となげいたとという。そのとき玄宗のもとに朗報がはいったのである。平原の太守顔真卿が安禄山軍を撃退したと、玄宗それを聞くと感激して「自分は顔真卿がどんな顔をした人物だったかも覚えていないほどなのに、顔真卿のほうはそんなにも自分に忠節をつくしてくれたのか」といった。

 顔杲卿の方は常山の大夫だったが、彼は安禄山の大軍を防ぐとができないと見ると、長史の袁履謙(えんりけん)と謀り、常山の城をすてて道に安禄山の軍を出迎え、降伏を請うたのである。かねてから顔杲卿の勇才をみとめていた安禄山は、よろこんで彼をゆるし、そのまま常山を守ることを命じた。そして、武将の李鈞湊(りきんそう)井脛(せいけい)にとどめてその地を守らせ、同じ高貌(こうぼう)を幽州へつかわして兵を集めさせて、自らは本軍をひきいて洛陽へむかったのである。

 常山へ戻った顔杲卿は、おもては安禄山に従っているように見せかけながら、ひそかに義兵を集めて安禄山を討つことを謀るとともに、使者を井脛へやり、李鈞湊の軍一同に対して安禄山から恩賞があったとあざむいて、彼を常山に招いた。部下をひきつれて常山に来た李鈞湊は恩賞の酒宴と信じて前後をわすれて酔いつぶれたところを、部下ともども、殺されてしまったのである。高貌も同じ計略にかかり、幽州からの道に酒宴を設けて待ちうけていた顔杲卿の部下によって、宴たけなわのとき殺されてしまった。

 顔杲卿のこの挙兵は、顔真卿の平原における挙兵と相俟って、河北二十四郡のうち十四郡を朝廷に帰服させる力になったのである。

 その翌年の正月、洛陽で大燕皇帝を僭称した安禄山は、史思明(ししめい)蔡希徳(さいきとく)を将とする数万騎をつかわして常山を攻めた。顔杲卿は死力をつくして防戦したが、兵をおこして間もなかったため兵器や糧食の備えがうすく、ついに落城して、捕えられ袁履謙とともに洛陽へ送られた。

 安禄山の前に引き出された顔杲卿と袁履謙は、安禄山を指して逆賊といい、営州の羯奴(かつど)(羊飼い)と呼び、罵倒してやまなかった。安禄山は怒って二人を咼刑(かけい)(口切の刑)に処したが、二人は死にいたるまで声にならぬ声をふりしぼって安禄山を罵ることをやめなかったという。

 顔杲卿のことを長く語ったのは、顔真卿の生涯の縮図と見ることもできると思ってである。顔真卿と同じく顔杲卿も書を好くした。その生き方の剛直さにおいても二人は同じである。その忠誠心においても同じである。一方は短く生き、一方は長く生きたちがいがあるものの、非業の死をとげた点においても二人は同じである。

 玄宗が、首都長安を捨てて楊氏一族とともに西へ逃れ、楊氏一族が馬嵬(ばかい)で殺された後、蜀にたどりついたのは、天宝十五年(七五六)六月である。当然、安禄山軍の勢いはさらに強大になり、顔真卿と顔杲卿の挙兵によって義軍をおこして安禄山に抵抗していた郭子儀(かくしぎ)李光弼(り こうひつ)らも、河北から兵を引きあげざるを得なくなっていたが、しかし、顔真卿だけはあくまでも平原を守りとおしていたのだった。

 顔真卿が平原を捨てる決心をしたのは、馬嵬で玄宗の一行と別れた太子(きよう)(粛宗)が、かつて朔方(さくほう)節度使であった縁故で霊州(今の寧夏州回族自治区霊武県)へ行き、この地で即位したことを知ったときでであった。至徳二年(七五七)四月、顔真卿は霊州へ行って粛宗に謁し、憲部尚書に任ぜられる。 

 安禄山がその子の安慶緒に殺されたのは、至徳二年一月である。その年の九月、唐軍は長安を奪回し、十月、洛陽を奪回した。

 史思明が安慶緒を殺して大燕皇帝と称したのは乾元二年(七五九)三月である。翌年四月、史思明は洛陽を占領する。

 史思明がその子の史朝義に殺されたのは、上元二年(七六一)一月である。

 その翌年の四月、玄宗と粛宗が死に代宗が即位する。代宗の宝応二年(七六三)、史朝義が殺されて、ここにようやく、いわゆる「安史の乱」が終るのである。

 この間、顔真卿は、至徳二年十月、憲部尚書として粛宗に従って長安に帰るが、二年後の乾元元年三月には左遷されて蒲州の刺史に転出するのである。以後、各地の刺史を転々とし、あるいはさらに長史に(おと)されたりした後、代宗の宝応元年年(七六二)十二月、中央に呼びもどされて戸部侍郎に任ぜられる。不遇の時代が五年間つづいたのである。

 戸部侍郎から吏部侍郎、尚書右丞、検行刑部尚書を歴任し、広徳二年(七六四)三月には魯郡開国公に封ぜられる。顔真卿のことを元魯公とよぶのはこのためである。

 だが、中央にいた時機はわずか三年間で、大暦元年(七六六)三月にはまた左遷され、峡州の別駕に流される。以来、別駕あるいは刺史として各地を転々とした末、再び中央に呼びもどされるのは大暦十二年(七七七)の三月である。まる十一年間も、いわば流されていたのである。

 この時代は権臣が私利私権を争って政治が腐敗の極に達していた。権臣はみな、奸臣(かんしん)佞臣(ねいしん)たちだった。顔真卿の剛直さが彼らとの共存をゆるさなかったのである。不正は不4正として、不義は不義として直言せずにはおれなかったのである。権臣たちにとってはそういう顔真卿の存在が邪魔でならなかったのであろう。十一年間にわたる長い流謫時代のきっかけとなったのは、宰相元載(げんさい)に憎まれたからだといわれている。元載が失脚して殺されたのが大暦十二年三月である。そのとき顔真卿は都に呼びもどされたのだった。そして刑部尚書に任ぜられ、吏部尚書に転じた。顔真卿の得た最高の官である。だが、吏部尚書になった翌年の大暦十四年(七七九)の五月、代宗が死んで徳宗が即位し、楊炎(ようえん)が宰相になると、翌建中元年、顔真卿は太子少師という役に移される。左遷こそされなかったが、政治の局面から退けられたのである。

 楊炎にとっても顔真卿の剛直さは邪魔だったのであろう。顔真卿を遠ざけておいて楊炎は権力を専らにし、翌年、権臣劉晏を追いつめて死に至らしめる。だがその翌年、楊炎は失脚し、代って宰相の地位を奪った蘆杞(ろき)によって死に追いやられるのである。顔真卿が再三流されたり退けられしたのは、あくまでも正義をつらぬこうとするその剛直な姿勢のためであった。迎えられたのもまたそのためであったが、死に追いやられることがなかったのは、権力を握ろうとするような野望とは無縁だったからである。

 建中二年(七八一)六月、将軍郭子儀が死んだ。内が乱れているとき、外を鎮めていたのは郭子儀であった。郭子儀の死とともに辺地に反乱がおこりはじめる。

 建中三年、河朔三鎮と平盧節度使とが自立してそれぞれ王と称し、つづいて淮西節度使李希烈(りきれつ)が叛旗をひるがえすに至る。李希烈も自ら王と称し、建中四年正月、その根拠地蔡州から軍をおこして北上し、先ず汝州を陥れた。唐朝は、権臣たちが政争にあけくれているうちに、安禄山の乱以来の難局を迎えることになったのである。

 このとき顔真卿がまた歴史の表面に姿をあらわすのである。

 宰相蘆杞が、そのとき太子太師だった顔真卿を淮寧宣慰使に推したのである。李希烈を説伏して帰順させるための使節である。顔真卿は忠誠剛直、必ずや李希烈に順逆の理を説いて屈朊させることができるでしょう。――蘆杞は徳宗にそう進言したのである。蘆杞が、顔真卿ならその任を全うすると信じていたとは考えらない。もしそうならば、宰相になったとき用いたはずである。蘆杞はあるいは顔真卿を、李希烈を説伏に行かせることによって葬り去ろうとしたのかもしれない。

 動機が何であれ、顔真卿にとっては勅命がくだったのである。淮寧宣慰使という任を遂行するために最善の努力をすることよりほかに道はない。

 顔真卿は長安を出発して汝州へ向かった。汝州城内で抜刀した叛乱軍の兵士のとりかこむ中で李希烈に会い、勅使として、帰順すべきことを説いた。李希烈はそれを聞いて冷笑した。

「あなたは、あなたの説く順逆の理によって、わたしが帰順するとでも想おもっているのか」

と彼はいった。

「思わない」

と顔真卿は答えた。

「だがわたしはあくまでも説かなければならかないのだ」

「あなたは、徳宗や宰相蘆杞が、あなたがわたしを説伏することを信じていると思うのか」

「思わない。だが、わたしはあなたを説伏することを命ぜられたのだ。わたしはあくまでも説かねばならないのだ」

「そうか。つまりあなたはここへ死にに来たのだ。死ねば無である。それよりも宰相としてわたしに仕える気はないか」

「あるはずがない。順逆の理を説いて死ぬことがどうして無であろうか」

「まあよい。しばらくここにとどまって頭を冷やすがよかろう」

 李希烈は顔真卿を軟禁し、その後もしばしば会って自分に仕えるようにすすめたが、顔真卿はきかなかった。死を覚悟している顔真卿にはまた、どんな嚇しも通じないのだった。

 顔真卿が汝州に捕えられているあいだに、李希烈は一時汝州から退いて蔡州へ戻った。顔真卿はそのとき蔡州へつれて行かれ、龍興寺の一室に幽閉された。

 貞元元年(七八五)八月、李希烈は戦線から龍興寺へ使者を送った。使者は顔真卿に会って、

「勅命です」

といった。すると顔真卿は恭しく頭を垂れた。使者はつづけて、

「卿に死を賜う」

といった、すると顔真卿は、

「わたしは何もすることができませんでした。その罪は死にあたります」

と答えた。そのとき、顔真卿は首都長安のことを思った。かつて長安を追われて地方を転々としていたときにも、いつも長安を思っていたが、そのときとはちがって、今後はもう絶対に長安の土を踏むことができなくなったのだな。と思ったのである。そして使者に対してたずねた。

「いつ長安をお立 になったのですか」

すると使者はいった。

「何を血迷っておられる。大梁から来たのです。長安から来たのではない」

「おお、そうだったのか。逆賊の使いか」

と顔真卿ははじめて声をはげましていった。

「逆賊のくせに勅命とは何ごとか!」

 それから間もなく顔真卿は殺された。行年七十七歳であった。汝州に来てから殺されるまでの顔真卿の心中は苦しかったにちがいない。早く死んだ従兄の顔杲卿の方が、むしろ胸を張って死ぬことができたのではなかろうか。だが、彼は顔杲卿よりも従容として死についたともいえよう。胸を張ることの空しさを顔真卿は再三の地方生活での道士や僧侶たちとの交わりの中で知ったはずである。それは老荘思想への親近である。彼は儒家的な姿勢で生涯をつらぬきとおしたが、同時に道家的思想も身につけていたのである。書人としての顔真卿が多くのすぐれた書を残したそのこととは無縁でははない。

 顔真卿が殺された翌年の貞元二年四月、李希烈もその部下の将に殺される。そして乱が鎮まったあと、顔真卿の遺骨は長安へ送られ、万年県鳳棲原(ほうせいげん)の祖先の墓に合葬されたのである。

 顔真卿の祖先は、顔之推以来北朝に仕えた。当然、彼には北方の血がまじっていると見てよかろう。その剛直な性格から、色濃く北方の血がまじっているとみなしてもよいかもしれない。

 唐の太宗は自らの北方的な荒々しさを、南方の文化を吸収することによって和らげることに努めた人であった。王羲之の書に対する太宗の熱烈な心酔には、南方的な優美へのあこがれが多分に作用していたといってよかろう。

 太宗とはちがって、北方的な剛直を以て南方的な典雅に反発したのが顔真卿である。あるいは顔真卿は、王羲之の書法の優美典雅なところに、自分の周辺の権臣たちが身につけている便寧の部分を見て反撥を覚えたかもしれない。そして自らは、『論語』の言葉を借りていえば、「剛毅朴訥」な書法をつくり出したのである。

 千福寺多宝塔感応碑(天宝十一年・七五二)

 東方朔画賛碑(天宝十三年・七五四)

 謁金天王神祠題記(乾元元年・七五八)

 麻姑仙壇記(大暦六年・七七一)

 大唐中興憲頌(大暦六年・七七一)

 八関斎会報徳記(大暦七年・七七二)

 顔勤礼碑(大暦十四年・七七九)

 顔氏家廟碑(建中元年・七八〇)

 以上の諸碑の拓本を私はこの数日間眺めつづけてきたが、見れば見るほど心を惹かれていったことは確かである。結局、最も心を惹き込まれたのは、「顔氏家廟碑」に見える朴訥といえるかもしれないほどの力強さであった。年代の早いものには、なお優美典雅といえる部分がないとはいえないような気もする。概していえば、後になるに従ってそれが薄れて、厳しさが内にこもってくるように思われてならなかった。

 だが、どこに魅力があるのかと問われても答えることができないのである。あるいは王羲之の書よりも眺めていても倦きないといえるかもしれぬ、とも思った。風景にたとえるなら王羲之の書は美しいといえよう。だが顔真卿の書は風景として特に美しいとはいえない。しかしそこにほんとうの美しさが、庭園的な美しさではない自然な美しさがあって、そのために倦きないといえるのかもしれない、とも思った。

 また、顔真卿の書に接するときには、顔真卿の歩んだ道がその書と重なって思いうかんでくることで、その一つ一つの文字に生命を与えているような気もしないではなかった。

 そういうとき、外山軍治氏の『解説』を読んだ。そして、ああそうなのかと思った。

 顔真卿の楷書の形態上の特色は、どの文字も方形にまとめられていることである。とくに碑に刻せられた文字は、画数の多いものも少ないものも、どれもみな同じように方形の中に書かれているのである。これは王羲之など晋人の書が、一字一字を、長短、大小、斜正、祖蜜など、変化をもたせて書き、その中に美的調和をもとめているのと大いに趣を異にしている。欧陽侚、虞世南、褚遂良など唐人の書は、これに比べるとよほど変化が乏しくなっているが、顔真卿はとくに極端である。

 そしてまた、顔真卿の楷書には、同じ筆法の反覆がみられる。「点は墜石(ついせき)のごとく、(かく)夏雲(かうん)のごとく、(こう)屈金(くつきん)のごとく、()発弩(はつど)のごとく、縦横、(かたち)あり、低昻(ていごう)(かたち)あり」という古人の評があるが、その点も、画も、鉤も、戈も、同じ筆法がくりかえされている。これは筆法の定型化といってよかろう。このことが文字の方形と相まって、現代の活版印刷における活字の羅列を思わせるものがある。これは、比較的早く書かれた「千福寺多宝塔感応碑」からはじまり、「顔氏家廟碑」にいたるまで一貫して変わらない。方形であることも、もちろん正鋒(直筆)の採用も、これほど徹底的にやってのけた書人は他に例がない>(『書道藝術』第四巻、中央公論社)

 これは意図的なものであったのであろうか。それとも、顔真卿の性格が自然にそのような筆法を生んでいったのだろうか。私は後者であればよいと思う。庭園的な美しさではない自然な美しさ、という私の受けとり方は、後者であれば納得されるような気がするのである。

 顔真卿の楷書の書法は北宋時代、大いに流行した。特に賞讃したのは蘇軾(そしょく)(号は東坡。一〇三六―一一〇一)である。蘇軾は唐宋八大家の一人に数えられる古文派の名手である。六朝時代の形式的な美文から、内容を重んじる散文への改革を志した一人である。その点、顔真卿の、王羲之の典雅から、修飾を排して主体性を重んじようとする改革に通じるところがなくはない。蘇軾はまた、司馬光を領袖とする旧法党に属していたため、王安石を領袖とする新法党のために二度流罪になり、その流罪の期間は前後あわせて十四年におよぶ。という点でも顔真卿に似ていなくはない。さらにまた、流罪の間に仏教思想(特に禅の思想)と老荘思想に親しみ、それによって儒家的な思想を突き破っていったことによって、その文章や詩に人間的な深みが加わっていったのであるが、顔真卿の場合も、いくらかは禅や老荘の思想を地方での長い不遇の期間に身につけ、それによってその書が深められていったということもいえなくはないようである。

 蘇軾が顔真卿の書に共感を覚えたことは納得できるのである。彼は王羲之の書を「俗書」といい、その理由を「姿媚を()」っているからだとした。姿媚を趁うとは、容姿をかざるということである。顔真卿が王羲之の書に反撥したのも、同じくその点においてであった。蘇軾が六朝の美文を排して北朝の淳朴な書に、もどそうとしたのであろう。そう思いながら顔真卿の楷書を見なおすと、その書の向うに浮んで来るようにも思えるのである。

※著者「あとがき」に『中国書人伝』で私が志したことは、二十三人の書人それぞれの書についての論評ではなく、書人それぞれの生き方をその書を通してさぐってみるということであった。「書は人なり」といわれるその「人」に、その書を通して出来るだけ近寄っ上で、その「伝」を書きたかったのである、と記載している。

2020.02.29記す。


51

木村治美『黄昏のロンドンから』PHP研究所 1977年4月20日 第7刷発行


 「海賊」という授業 P.122

 大英博物館には、いったい何度足を運んだことでしょう。それでもまだ充分に見尽くしたような気がいたしません。 

 日本に来る外人観光客で、特別な興味のある人をのぞいて、上野の博物館を見る人がいるでしょうか。日本人だってめったに行きません。でも大英博物館は、旅行案内書のロンドン名所ベスト51の中に入っています。バッキンガム宮殿、国会議事堂、ロンドン塔、ウエストミンスター寺院、そして大英博物館です。

 一七五三年に創立されてから、大英帝国の全盛期に、世界各国から集められた陳列品の豊かさ、幅の広さ、見事さ。エジプト室、アッシリア・パビロニア室、パルテノン室からはじまって、「あ、北斎の赤富士だ!」などと息子が美術全集の知識をひけらかすところまでくるのです。それらのことを、ここでくどくどお話しするにはおよびませすまい。とにかく世界最大の博物館なのです。

 イギリスに来てから知りあった日本人の奥さんは、大学で英国史を専攻されたかたでした。わたしが大英博物館の豪華さに驚き、素晴らしさを讃えると、この奥さんは、いささキッとしておっしゃいました。

「それはそうですよ、イギリスは椊民地やなにかで、ずいぶんひどいことをやったんですもの。わたしは初めて行ったとき、吐き気がしたわ」2

 なるほど、なるほど。

 すこし前のことですが、知り合いの教育学の先生が、イギリスの小学校を視察したときに、「海賊」という科目があることを知って、びっくりしました。時間割の中に、「海賊」が国語、算数、歴史、音楽などの教科と同列に並んでいることがこの先生にはどうしても納得がいかず、そこの校長先生に質問したのだけれど、あちらは何の疑問も感じていないようでますますわからなくなったというのです。

「海賊」授業の中味は、海賊の絵をかいたり、海賊船を組み立てたり、歌をうったり、あるいは海賊の物語を読んだり、要するに、海賊に関係づけて、なにをやってもよいようでした。

 わたしは、「イギリス人のある奥さんに、『海賊』という教科があるのだそうですね」

 すると、大学教授の奥さんであるこのB夫人が、思いなしか気色ばんでおっしゃるには、

「海賊? そんな教科があるわけは絶対にありません。海賊といえば、あなた、海の上で船を襲って、ひとのものをとったり、殺したりする泥棒のことじゃありませんか。それを小学校で教えるなんて、あなた、そんな……」

 それか何日かたって、ふたたびB夫人にお会いしたとき、彼女は前言を訂正しておっしゃいました。知り合いの小学生にきいてみたらやっぱり「海賊」という授業はあるそうです。そのお子さんも「海賊」の本を持っているそうです。ただしB夫人が念を押されるには、それはサブジェクトではなく、プロジェㇰㇳ――教科ではなく課題です。生徒に、興味をもって物事に取組ませるための手段です、ということでした。

 レディパード・ブックという子供向けの

 それでわたしも、

 海賊というイメージには、

「海賊」がいつ頃から小学校に侵入してきたのか、

 うちの子供たちは、「海賊」とはつきあっていないようです。

※昭和52年(1977年)日記:7月3日、この本を購入したと書いていた。内容の記憶は残っていない。ぱらぱらと捲ると、上の記事がある。私は、昭和46年3月4日(木)に大英博物館に行っている。そこで、感じたのは頭注2に近いものではあったが吐き気がするほほどではなかつたことを思い出した。参考:☆英国への旅とパリ見物

頭注1に加えて、昭和46年3月4日(木)ハイドパーク、トラファルガル広場のネルソン提督の像を見物。

2020.03.05記す。


52

有吉佐和子著『複合汚染』(上)(新潮社)昭和五十年四月二十日 発行

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   リンゴの紅玉 P.195

 山形県高畠町で、リンゴ園の持主が紅玉という種類を次々と伐り倒しているという話を聞いた。

「どうしてですか。紅玉って、一番おいしいリンゴなのに」

「やっぱりそうおもわれますか。僕らも紅玉が本当のリンゴだと思っているのですが、業者に滅茶苦茶に買い叩かれるもんですから」

「どうしてですか」

「酸っぱいのがいけないって言うんですね」

「まあ、酸っぱいから紅玉は本当のリンゴじゃないんですか。紅玉以外のリンゴではカレーに煮こんでもおいしくないし。第一、他のリンゴは味がないでしょ、ボサボサして。大きいばかりで何がデリシャスだと思うわ」

「はあ、ジャムやジュースにできるのは紅玉だけなんですが、業者は古いって言うんですよね。だから僕らは自家用には紅玉を残してあります。虫のつきにくい品種ですし、袋をかける必要もありませんし」

「それじゃ一番栽培しやすい品種じゃりませんか」

「そうなんですが、ムツとか世界一という品種が今はスター級なんです」

 私はベルナール・フランク夫人の受け売りをして、パリの人たちは虫喰いを喜んで買うのだと言うと、

「羨ましいですね、それが本当なら」

 と、高畠町の有機農業研究会の面々が顔を見合わせていた。

 リンゴの実に一々袋をかぶせるのは、虫よけかけかと思っていたら、太陽光線を遮る目的もあるのだと知った。色が美しく仕上がるのだそうである。しかし太陽を浴びないで赤く色づいても、それは健康とは程遠い果実だろう。ところが、その方が業者は高く買うのだ。

 一方では、輸送の途中で腐るのを防ぐために、青いうちに樹からもぎ、庭に並べて水をかけて濡らし、太陽に当てると早く赤くなる、地元の人たちは、これを着色と呼んでいる。日もちがいいのと、色が美しいので、業者には評判がいい。

 そんなもんが、都会の果物屋で、ピカピカに磨きたてられて並んでいるのだ。

 化学肥料を使ったリンゴと、堆肥で育てたリンゴを食べ較べてみると、同じスターキングでも、まるで味が違う。堆肥の方が甘く、コクがある。匂いもいい。化学肥料のリンゴは、およそ味がなくて、舌ざわりがバサバサで、ボリュームをかんじさせない。

「僕たちも地域の消費者運動をしている人たちと話しあうんですが、形がよくて、色がよくて、大きくて安いリンゴがほしいと言われるんですよ。どうして味がよくて、栄養があって、安全なリンゴがほしいと言ってくれないんでしょうねえ」

 無農薬のリンゴは皮から食べることができる。私は、高畠町のおいしいリンゴを丸かじりしながら、リンゴでも野菜でも買う側の人たちが知識を持つ必要があると痛感していた。

※肥料について、樋口清之著『梅干と日本刀』P.74「あらゆるものを肥料にした稲作の技術」、P.77「収穫を飛躍的に高めた人糞肥料」を参考。

2020.03.08記。

※昭和50年7月20日、この本を購入していた。


キュウリの規格 P.218


53

加藤秀俊『車窓からみた日本』(日本交通公社)昭和42年7月15日発行 第7刷発行


 中学生の肩掛けカバン P.189~192

 山のなかの村のくらしを車窓からみていると、とりたてたてて「古い」という感じはしない。

 だが、ふと眼にする風物のなかで、あ、これはもう都市にはなくなった、という新鮮な感動をあたえてくれるものがいくつかある。中学生の肩掛けカバンなどもそのひとつである。

 わたしは「だいせん」の通過する線路の踏切で、肩掛けカバンをかけた中学生のグループをみかけた。服は上下まっ黒な木綿の制服。帽子は白の野球帽。クツはズックの運動靴。それに肩掛けカバンといういでたちなのである。

 かつて中学生にとって、肩掛けカバンはそのシンボルであった。厚いテント地みたいな布でつくられたあのカバンは、中学生を小学生から>区別する誇り高きものだったのである。わたしなどの体験でも、小学校の五、六年生になると、はやく中学生になりたくて、そのためにはランドセルがなんとなくうらめしかったおぼえがある。中学生になって肩掛けカバンを掛けたい――わたしにとって、それはひんとつの願望だった。

 もっとも、わたしが中学に入学したのは太平洋戦争がはじまってからであったから、ほんものの木綿のカバンなどはなくなっていた。代用品のガサガサのカバンだった。しかしそれでもわたしは肩掛けカバンによって中学生になった。

 ところが、この肩掛けカバンが戦後の中学生風俗からいつのまにか消滅してしまった。当節の中学生は、肩掛けカバンのかわりに手さげカバンをぶらさげている。いや小学生だって高学年になれば手さげカバンをもって歩いている。服装だってすっかりかわった。金ボタンの詰めエリなんて、このごろの中学生はあんまり着ていない。都会になればなるほど服装は自由で、セーターなんか着ている。「

 なぜ肩掛けカバンがなくなったか。それはたぶん、新学制のおかげで、中学というものが完全にその威光をうしなったからだろう。むかしの中学生はエリートであった。たいていの人は小学校だけでおわった。だから中学生は金ボタンや肩掛けカバンによって身分を示そうとこころみた。そうこころみることには意味があった。

 これに反して、戦後の日本では、中学は義務教育になった。しかも三年間になった。中学生であることはごくあたりまえのことなので、べつにみせびらすにもおよばない。いうなれば中学は小学校の延長のごときもものなのである。中学生は、かならずしもみずからを小学生から区別しようとは思わないのでらる。だから金ボタンも肩掛けカバンのなくなった。

 学生文化のシンボルといえば、旧制高校生における白線帽やマント、大学生における角帽のごときものも、ことごとく消滅したか、あるいは衰退の一途をたどりつつある。もはや、どのような教育をうけているかは、なんらの威光にもならないのである。肩掛けカバンの消滅なども、たぶん、教育大衆化のひとつのあらわれなのであろう。

 だが、それはそれとして、中学生から手さげカバンというものも、考えようによってはいささか淋しいことのようにもみえる。というのは、手さげカバンというやつは、中学にはじまって、停年までつづく持ちものだからである。いまのこどもは、中学にはいった瞬間からサラリーマンになるための準備運動をしているのかもしれぬ。

 そんなふうに考えながら、踏切に立っている山の村の>中学生のすがたを思いうかべるると、よしあしは抜きにして、この二十年間のあいだに起きた日本の教育制度の変化をしみじみと感じないわけにはゆかない。あの村の少年たちもやがては手さげカバンをもつようになるのだろうか。

 わたしは、米子で途中下車して境港までゆき、そこからフェリーボートで三保ヶ関に足をのばした。美保神社に行って、関の五本松をみて、ン中海の北側から松江をまわり、出雲にはいった。

 出雲というところは、「風土記」でよんでも「古事記」でよんでも、好奇心のぞそられる土地がらで、わたしとしては、ずいぶんいろいろな勉強をさせてもらったが、それをここに書くだけのゆとりもないし、また、それは車窓エッセイという、このシリーズの枠をこえることにもなる。だから、それらの問題には、ここでふれない。

 しかし、十月初旬に出雲に行くことができたのは、わたしにとって大きな幸運であった。というのは十月神無月、つまり日本各地の神さまが出雲にあつまって大会議をおひらきになる月である。わたしの出雲到着と同日であったのだ。わたしは到着の翌日、大社に詣でて、おみくじをひいた。失物、出ず、とあつたのは《いささかショックだが、旅行、よろし、方位、南吉、とある。

 せいぜい、一年間旅行をしてみよう。来月はさしあたり、おみくじにしたがって、南のほうに足をはこんでみることにしようか。

※参考:中学生時代

2020.03.19記す。


54

松尾弌之(かずゆき)『大統領の英語』(講談社現代新書)S62.9.20第一刷 62.12.3購入


プロローグP.3

 私たちが英語に関心を持ち、多少ともアメリカのことを知ろうとする時、何に注目したらよいであろうか。もちろん広いアメリカのことである、見るべきものは数多くある。しかし、アメリカ的なものが最も集約され、端的にアメリカの魂にふれることができるのは、国民統合のシンボルである大統領であり、大統領の用いる言葉ではなかろうか。

 「アメリカは、その時代に最もふさわしい大統領を選ぶ」という言い伝えがある。国民の投票によって選ばれる大統領は、たしかにその時代の思潮を体現している。大統領の思想も政策も行動も、そして言葉も、時代の気分そのものだといえる。このことを、ノースカロナイナ大学で歴史を教えるウィリアム・ルㇰテンバーグ教授は次のように言う。

 We cannot expect our President to rise very far above the level of thought in the political culture.

(大統領が私たちの政治・文化思想のレベルをはるかにこえたところにあるなどということは期待できない)

 皇帝や国王は、国民の意識をはるかにこえた次元でものごとを考え、政策を遂行することができる。しかしアメリカの大統領は、4年に1回選出される大衆の代表にすぎない。選挙民の思想のㇾベルをはるかにこえては仕事がなりたたない。また、はるかにこえた人物は、大衆から選出され得ない。

 初代大統領ジョージ・ワシントンに対して何と呼びかけたらよいか、人々が論議していた時のことである。国の首長なのであるから、 You Highness はどうかとか、Your Excellency でよいのではないかとか、あるいは選出された首長なのだから、 Your Elected Excelency はどうかなどという珍案が出されていた。ワシントンがニューヨーク入りする前に使いの者が出て、直接本人に聞きだすことになった。するとワシントンは、大仰な呼びかけをすべて排除して、「ミスターでよいではないですか」と言ったという。以来大統領に対しては、 Mr.Presiden と呼びかけるならわしとなった。

 ミスターとは、ごく普通の人間に対する呼びかけである。Doctor(Dr.)とか Reverend(Rev.)とか Proffesor(Prof.)などという呼称のほうが偉そうに聞こえる。要するに大統領は普通の人なのであり、国民大衆の仲間なのである。少なくともその精神においては。

 したがって、大統領について知ることは、大統領を選んだ普通の国民について知ることである。それは、その時代のアメリカの気持について知ることでもある。各大統領の個性を通して、その背後に私たちが見ることのできるのは、大統領の生きた時代の時代精神である。そして大統領の言葉はその時代精神を表わしたものにほかならない。

 本書を通してふれていくのは、ケネディ以降の現代アメリカの心と言葉である。それは直接、間接にアメリカとつながりのある日本の私たちに関係のあることがらでもあるし、何よりも現代世界で英語をあやつる私たちが、好き嫌いとは関係なく一度はふれてみなければならないものでもある。

※参考;アメリカ大統領

 35代 ジョン=F=ケネディ (1961年1月20日~1963年11月22日) (ニューフロンティア政策、1962年キューバ危機)
 36代 リンドン=ジョンソン (1963年11月22日~1965年1月20日)(1964年公民権法、1965年北爆・ローリングサンダー作戦)
 37代 リチャード=ニクソン (1969年1月20日~1973年1月20日) (1971年ニクソン=ショック:ドルショック)、1972年訪中、1974年ウォーターゲート事件で辞任(盗聴事件)
 38代 ジェラルド・R・フォード (1974年8月9日~1977年1月20日)
 39代 ジミー=カーター (1977年1月20~1981年1月20日) (人権外交、ノーベル平和賞)
 40代 ロナルド=レーガン (1981年1月20日~1985年1月20日、1985年1月20日~1989年1月20日) (強いアメリカ、1987年INF全廃条約調印(対ソ)、レーガノミクス、双子の赤字)
 41代 ジョージ=ブッシュ(父)(1989年1月20日~1993年1月20日)(1988年ゴルバチョフとマルタ会談、冷戦終結、1991年湾岸戦争:対イラク)
 42代 ビル=クリントン (1993年1月20日~1997年1月20日、1997年1月20日~2001年1月20日) (1993年パレスチナ暫定自治協定仲介)
 43代 ジョージ=ブッシュ(息子)(2001年1月20日~2005年1月20日)(2001年9月11日同時多発テロ⇒アフガニスタン攻撃、2003年イラク戦争)
 44代 バラク=オバマ (2005年1月20日~2009年1月20日、2009年1月20日~2013年1月20日) (黒人初のアメリカ大統領、2009年ノーベル平和賞)
 45代 ドナルド・トランプ (2017年1月20日~現職) (2017年1月20日就任)


目次

プロローグ

1――大統領の英語への招待

大統領の言葉の輝き P.10

 アメリカの大統領が口にする言葉。そこには見のがすことのできないある種の輝きがあり、言葉をする側にもそれを聞く側にも一種の精神の高揚がかもし出される。

 ジョン・ケネディの就任演説は、さっそうと現われた若々しい大統領にふさわしいスタイルを持ち、国民をいやがうえにも鼓舞するものであった。リチャード・ニクソンのスピーチは、多極化する世界情勢をふまえて苦悩するアメリカの言葉であったが、それでも大国の気概とでもいったものにいどろられていた。ジミ―・カーターの人道主義の色濃い外交演説は、結果はともかくとしても純粋な精神性とでもいったものがうかがい知れ、それなりに格調の高いものであった。

 このような大統領の言葉の持つ輝かしい側面というものは一体いかなる理由で生まれてくるのだろうか。アメリカは世界の大国であるがゆえに、それだけの意気ごみと責任を感じ、大統領としては大上段にかまえて言わざるを得ないというのだろうか。しかし、それはあまりにも表面的で一方的な説明であろう。大統領の英語の晴れがましい性質は、むしろ国内的な理由があると考えるほうが自然である。むしろ大統領の言葉の輝きは、アメリカの政治権力の構造上の特質と、アメリカの文化がかもし出すある期待感ゆえ生れる。

 たとえば、独立直後のアメリカのことを考えていただきたい。わずか13州からなる小国で、人口はせいぜい300万人にすぎなかった。世界における影響力を云々するにはほど遠く、ひょっとするとつぶれてしまうかも知れないといった程度の国にすぎなかった。独立をもぎ取った相手国のイギリスは、何だかんだと理由をつけて新大陸の各地にイギリス兵を駐屯させたまま、アメリカの再支配をねらってさえいたのである。

 それでもその新興の弱小国の大統領たちは次から次へと名言をはいたのであった。Among the vicissitudess incident to life no event could have filled me.....で始まる初代大統領ジョージ・ワシントンの就任演説は歴史に残る名演説とされ、アメリカの小学生なら一度は読まされているはずである。ワシントンは戦略家としてはすぐれていたが、特に深い知性を持ち合わせていたわけではなかったし、機知に豊んだ文章をつくることで有名だったわけでもない。それでもスーピチをものにした。

 2代目のジョンソン・アダムス、3代目のトマス・ジェファソン大統領にいたると、もともと達意の文章家として知られていた人物であったから、彼らの演説や公の席でのステーㇳメンㇳが多大の感動をもってむかえられたのは当然であった。ジェファソンは、Let us, then, fellow-citizens, unite with one heart and one mind. として、全国民一丸となって国づくりにあたろうと呼びかけて、当時の人々を発奮させた。そして、この傾向は独立間もない頃の大統領の言葉だけに見られるのではなく、200年におよぶこの国の歴史のなかに一貫して見られることなのである。どんなに無能呼ばわりされた大統領(ハーディング大統領:29代:は何もしないで昼寝ばかりしたと言われているし、クーリッジ大統領:30代:は Business of this country is business=この国のやることは経済界にまかせる、と言って政府としては何もしなかった)といえども、発言する時にはいかにもまぶしい威光のようなものを背負っている。

国民が選んだスター P.12

 その晴れがましさは、一つには国民の声の集合体として大統領の声があるという政治のしくみに理由がある。「民の声は天の声」なのであるが、天まで昇りつめた民の声には一種の輝きがあって然るべきということなのであろう。

※参考:ウォクス・ポプリー・ウォクス・デイー(ラテン語: Vox Populi, Vox Dei、[ˌvɒks ˈpɒpjuːli ˌvɒks ˈdeɪ.i])は、ラテン語の成句であり、日本語では「民の声は神の声」などと訳される。

 大統領が国民の総意の頂点に立つとされる理由は、人人によって直接選出されるゆえんである。詳しく言えば、これは正確ではなく、本当は州ごとに大統領選出人を選び、その頭数の多いほうの政党からの立候補者が当選するというしくみになっている。しかし実際に投票所におもむいて一票を投じる者としては、選挙人のことなどは念頭になく、政党の支持する大統領候補のことだけ考えることになる。州によって選挙人の名前を出すとややこしくなるということで、単に大統領候補の名前にマルをつけさせて処理するなどという所もあるくらいだ。

 つまり、ほぼ直接的に大統領は国民の手で選ばれる。国民にとっては、いわば手塩にかけた大統領である。親近感が生まれ、自分たちの代弁者と考えがちというのも当然のことであろう。よしんば自分の選んだ者とは反対の人物がホワイトハウス入りしたとしても、ある意味ではその人物と深くかかわり合ったことはまちがいない。これからの4年間の自分たちの指導者を誰にするかと考えた時には、少なくとも一応は考慮し、詮索をした人物にはちがいないからである。

 こうした国民と大統領の直接的かかり合いのようなものは日本には見られない。日本の場合は議院内閣制であるから、行政府の長は議員同士の互選で決められる。当然議員同士の話し合いや妥協、協力関係が成りたって首相が生まれるのだが、そのような現場の状況にうとい大部分の国民の目からすれば、ふ透明な部分が多くなりがちだし、何よりも自分たちの手の届かない所で首相が決まるという印象を持ちがちである。

 その点アメリカの大統領は文字通り「我らが大統領」である。しかも合衆国議会とは完全に別の政治的生き物である。

 議会も国民の手で選ばれた組織ではあるが、これは人間が多い。上院は100名、下院は450名をこえるから、国民としては自分を投影してしまいがちなのは、どうしても個人の顔を持った大統領ということになる。

必要とされるスピーチ能力 P.14

 議会とは別経路で生まれた政治的生命体であるがゆえに、大統領は議会に対して大変に気を使うことになる。国民の声の代表である大統領は、国民のもう一つの声の代表集団に対してもたえず気くばりをする、というわけだ。たとえば国家的な重要事項について発表する時には、上院と下院を合わせた合同会議の席上でおこなったりする。これまた自ら議会に出向いていってアッピールする。普通はテレビカメラが入っていて、アッピールは同時に国民にも流される。重大事件のおりには、議会の指導的人物をホワイトハウスに招いて相談する。ニクソン辞任を決議する前には、さかんに共和党や民主党の中心的議員と会談を重ねたものである。

 2つの生命体は仲よくしたほうが生産性が高い。議会とおり合いのよい大統領は、提出する法案を通してもらえる可能性が高いので行政府としての仕事がはかどる。反対に議会と反目しあう大統領は、ほとんど仕事ができないといっても過言ではない。だからこそ歴代の大統領は、議会との協力的な関係をつくることに労をおしまなかった。ケネディがジョンソンを副大統領に選んだのは、一つにはジョンソンが議員生活30年以上の大ベテランで、議会の大ボス的存在だったからである。ジョンソンを取りこんでおけば議会操作もやりやすいと考えた。

 議会と大統領のあいだには「ハネムーン期間」というものがある。新しい大統領が出現したての頃は、議会としても大統領の人柄や政策が明に近いし、何よりも「良好な関係を保つべきだだ」という気持があるから、たいていの言い分を聞いてしまう。あれが欲しいと新婚ホヤホヤの嫁さんがねだる時には、ついつい買い与えてしまう夫みたいなもである(予算決定権は議会にある)。そこで、このハネムーン期間にたくさんのおねだりをした大統領はたくさんの業績を残し、あまり提案をしなかった大統領は結局はさほどの業績を残さずに任期を終えるという傾向がある。ハネムーンというのは3ヵ月から6ヵ月くらい続くことになっており、その期間がすぎると議会と大統領の関係は急速に悪化するのが常である。1930年代のニューディル―の時も「最初の100日間」でほぼ全政策が出そろったし、ケネディも the first 100 days に提案すべきことはすべて出しつくそうとした。

 大統領が議会に対して語りかける時には、もちろん議会の向う側にいる国民を意識しなくてはならないが、当面の相手としては口うるさい議員たちである。8割以上が弁護士であるといわれる議員集団を説得し、場合によっては感動の一つもさせないことには法案が通過しない。そこでㇾㇳリックにも力が入るわけである。単に事実を並べたり、つまらなそうに熱意のない話をするわけにはいかない。大統領は能力の限りをつくして、言葉のうえでも内容的にもすぐれたスピーチを展開してみせねばならない。

 しかも、合衆国議会には「雄弁は金」とする西欧社会の伝統が色こく残っている。というよりも、ギリシア以来の修辞学を最も意識している政治家集団は、アメリカの議会ではなかろうか。ギリシア的修辞の方法は大学でも教えている。というよりも社会の指導的立場に立とうとする若者ならば必ずマスターする科目が修辞学である。当然議員たちの大部分はその訓練を経た者たちであるし、もともと論議のプロである。したがって、独立革命の火付け役の一人、パㇳリック・ヘンリーの"Give me liberty or give me death"的な言辞は合衆国議会の伝統となっている。

雄弁への期待 P.16

 ついでにのべておくと、ホワイトハウスの建築様式も合衆国議事堂も、建物の基本はギリシア建築である。他の政府の建物も、古いものは同様で、入口には必ずエンタシス、つまりギリシア風円柱が何本もそびえている。南部諸州の金持ちの家にも、同じくギリシア風円柱が必ずといってよいほど見られるのは、お気づきになった方も多いことだろう。

※エンタシス:entasis:上の方で細くなっている円柱や塔の全表面に、細まり方を目だたさせないために、軽くつけたふくらみ。

 これは風土的理由からギリシャ建築が模倣されたのではなく、哲学的理由による。新しく国家が生まれる時、アメリカの始祖にあたる人々は、政府の建物のデザインを考えねばならなかった。大部分の者はイギリスの血を引く者であったが、まさか敵国イギリスの建築様式をまねて議事堂などをつくるわけにはいかない。議論のすえたどりついたのが、何千年も時代をさかのぼったギリシア様式だったのだが、それは明るくすみきって明快なギリシア的精神こそがアメリカの模範とすべき考えだされていたからである。

 そういう精神風土のなかでは、練られたスタイルをもつ雄弁は、政治にとっては欠くことのできない要素である。ことに大統領の発する言葉には事態をわかりやすく、しかも格調たかく解説したり、必要なことは堂々と上手に説明してほしいとする雄弁への期待がかけられている。

 しかし、期待は政治的なものだけではない。アメリカのなかには文化上の一つの約束ごとがあるように思われる。それは、全力投球している話し手と共に、聞き手は泣いたり笑ったりしながら共感を楽しむといった考えである。したがって話しで楽しませることだけが目的の話術、講談といった語りの文化には根強いものがあり、マーク・ㇳウェインを始め19世紀の文化は筆では食べられず、講演者として生活を成り立たせていたくらいだ。つまり、語り文化 oral entertainment の伝統がある。しかし、ここで問題にしたいのは、政治とか宗教といったどちらかといえば堅いたぐいの話もまた、アメリカでは一種の娯楽たり得るという事実である。

 かつてアメリカがイギリスのしょく民地であった頃のことである。ピューリタンが住んでいたボストンを中心とするニューイングランド地方では、あまり娯楽と呼ぶべきものがなかった。日常生活で食べものを作ることに追われ(土地がやせていて必死の農作業で自給自足できた)娯楽どころではなかった。それに厳格なピューリタニズムは肉体のよろこびを全面的に禁止した。ボーリングをしたりトランプをすることを悪魔のしわざとされたり、ダンスを踊ることなどは死刑にも相当することであった。そこで人々は気晴らしに罪人の死刑を見に行ったり葬式を見物したりした。なかでも日曜に教会に出かけて熱のこもった説教を聞くことは無上の楽しみであった。

娯楽としての説教 P.18

 教会で厳しい神の裁きを語る牧師の話は会衆をふるえ上らせたが、何もない開拓地のことゆえ、けっこう娯楽ととらえられていた。

 しかも、独立革命の機運がもりあがるにつれ、教会の牧師たちの多くは説教台からイギリスしょく民地主義政策を攻撃しだした。集ってきた会衆はこの政治がかった説教をよろこんで聞いた。話は「娯楽」であったから、現実世界のことにふれたほうが面白かったのである。こうして日曜ごとの礼拝は、一種のアジ演説の集会と化していったのである。

 後には説教台から堂々と選挙運動がされるようになる。牧師や有志が台にのぼって政治のあり様について語り、従ってだれそれを支持しようなどということをのべた。今日でもこの伝統は残っており、アメリカの教会で牧師の口から人種問題や環境破壊問題についての話を聞かされて、異様に感じる日本人もいるはずである。

Great Awaking(大覚醒)という社会現象もある。多少は有名な説教師が、開拓地に出かけていって野外で説教を始める。大体はhell fire speech といって地獄の火の話が中心になる。「お前たち悔い改めなければ地獄の火にやかれるぞ!」ということで、こと細かにおそろしげな地獄の話が展開される。人々はおののき泣きわめきながら今までの不信心をなげく……というのだが、これは相当な人気があった。著名な説教者が話を始めると、数日のうちに噂が伝わり、山の中や遠くの農村から時には2000人以上の人々がはせ参じたという。

 テント生活をしていた人々のあいだにはけんかがたえなかったが、人々は群れつどって共に泣き、悔い改めるという行為をよしとしたのである。人々は説教師と共に泣き笑いを共にしながら精神的に一つとなるという共感を求めて集まってきた。こういう、言葉がかもしだす感動の渦の中に人が流されていくという伝統は今日のアメリカに生き続けている。

 何年か前に似たようなことをジョージア州アトランタの黒人教会で経験したことがある。日曜日に教会に集った人々は牧師の声に体をふるわせ、心のリズムのおもむくままに歌い踊るのである。教会のなかには全員がひたり切っている感情のうねりが生まれ、人々は陶酔状態に入る。

 教会で精神を思い切り高揚させた人々は、月曜日になればまた平静な顔をして仕事の世界にもどる。教会での祝祭的な騒々しさや、興奮のうねりの中で感じられた人間同士の連帯感は、まったく存在しなかったかのようである。

戦争中もおこなわれる遊説 P.20

 祭りが済んでまた日常が始まる。ところが、こうした祝祭と日常くり返しというパターンは、大統領選挙にもあてはまる。大統領選挙はたしかに政争ではあるが、それをこえて、もっと大きな国民的祝祭、全国的高揚の時期なのである。しかも、教会と同じく大統領選挙も「言葉」が中心になる。選挙は4年に1度めぐってくるから、これは4年ごとの祝祭だと言える。

 大統領選挙の年(近年では1984、88、92年)ともなると、お祭の準備で大変である。政党本部はキャンペーンの準備におわれることになるが、なかでも最も重要視されるのが orator 選挙演説を担当する者の選択である。普通は、地元の spellbinders (人を魅了するような雄弁家)のリストが各選挙事務所で作成される。リストにのる人物はさまざまで、街角で演説のできるような大声の持ち主から、名前だけで何百名も人間が集まるという有名人までいる。こういう「話し手」の演説スケジュールがピッシリと組みあげられることになるが、話がおこなわれる場所の雰囲気にも注意が払われる。音楽隊が予約され、パレードの計画が組まれ、雄弁をいやが上にももりたてようとする工夫がこらされる。

 大統領候補はそうした言葉の祝祭の長であるから spellbinder の先頭に立つことが要求される。出演の回数も一番多いし、内容も際だったものがなければならない。昔の話になるが、1896年の選挙では民主党のブライアン候補は全国を回り、少なくとも400回の演説をしたと言い伝えられいる。1940年にはルーズベルト大統領は身体の不具合にかかわらず1万8000マイル(2万8800キロ)以上旅行したというし、1944年には、第二次世界大戦の最中であったにもかかわらず全国行脚にでかけている。国難の時期だからといっても、ホワイトハウスに居すわることができない国民的雰囲気がある。

 テレビが国民生活のなかに定着するようになると、大統領候補者は、テレビに登場することが期待されるようになった。1984年の大統領選ではㇾ―ガンとモンデ―ルの論争が3回にわたって放映された。おまけに、副大統領候補同士も何回かテレビで角をつき合わさなくてはならない。国民は言葉で争っている二人を見て、あれやこれやと評価するのを楽しみにする。

 1960年のケネディとニクソンのテレビ討論は有名である。ニクソンのほうがもと副大統領ということで知名度が高く、結果はニクソンに有利になるだろうと言われていた。ところが、フタを開けると無名のケネディのほうが威勢がよく見えた。司会者の質問に答えて各自3分以内で話をまとめなければならなかったが、ケネディのほが手際よく、元気に見えたのである。ケネディは言葉で戦いをいどむことができ、ニクソンは言葉のうえで劣勢に見えた。

 ニクソン陣営は第1回めの結果に驚き、さまざまな作戦を練って2回めの討論にのぞんだ。たとえば、より元気に見せるため(テレビでは頬がこけて貧相に見えた)、毎日玉子入りのミルクセーキを3杯ずつ飲ませる、などということをしたが、第1回めの討論の印象が大きすぎた。イメージの逆転はその後もついにできず、結果としてケネディ大統領の誕生となる。

言葉が主役の大統領選挙 P.22

 1972年に、テネシー州のノックスピㇽというさびれかけた田舎町で、再選をめざして立候補していたニクソン大統領を見かけたことがあった。この町のどこにこれだけの人間がいるのだろうかと思われるほど多くの人々が集まり、限りない喧噪のなかでニクソンが熱弁をふるっていた。小さな町のことである。おそらくは民主党支持者も共和党支持者もごったまぜになってそこにいたのであろう。しかしそういう事はあまり関係なく、むしろ普通のアメリカ人とその代表者候補というムードのなかで、ざわめきがおこり対話がありヤジが飛びジョークが披露されていたのである。

 その様子は、まさにお祭り気分で、途中でカンカン帽子の踊り子たちが出場したり、色とりどりの風船が放たれたりしたものである。

 1984年に見た共和党大会にも似たようなものであった。テキサス州の大都市ダラスの町で開催されたものだが、再選をめざすㇾ―ガン大統領の登場する日が近づくにつれ、会場はいや町全体が興奮のうずのなかに包まれていったのである。町にはこれまたカンカン帽子をチョコンと頭にのせたふざけたかっこうの共和党員の男女があふれ、バーやレストランはいつでも満員。デパートは記念大セールをもよしていた。おそらく町のどこかで、共和党の幹部が戦略を練るなどということもおこなわれてはいたのだろうが、それは祭りのムードのなかで見えなくなっていた。

 ㇾ―ガン大統領の到着をもって町の興奮は最高潮に達し、5万人近くを収容する大会場では歌や踊りがくり広げられていた。会場の中央には巨大なスクリーンがつるされ、ㇾ―ガンの一挙一動が同時中継される。大統領特別機がダラス・フォーワース空港に着くところ、ハイウェーを走るリムジンの列、地元のホテル入口で「やあ」という大統領……スクリーンに写しだされた巨大な大統領は、こうして一歩ずつ大会場に近づいてくる。そしてついにはイメージではな「本物」が会場にたつ。

 その時爆発的な歓声がわきおこる。ドラムが鳴り、大統領をむかえる時の曲「Hail to the Chief」が演奏されているのがまったく聞えない、そして人々は、「Four more years, four more years(あと4年続けて)」の大シュプレヒコ゚ールをいつまでも続けている。程度の差こそあれ、このような大統領選挙をめぐる大騒ぎは全国各地で展開される。しかもそれは4年に1回ずつおこなわれる。これを堅苦しく言えば、主権在民の事実が4年毎に確認される民主主義の祭典ということになろう。そしてごく普通のアメリカ人は、一生のうちに17回から18回ぐらいの、言葉が主役をしめる祭典を經驗するという計算が人口統計的に成り立つ。

※参考:Hail to the Chief 大統領万歳(ヘイル・トゥ・ザ・チーフ)

アメリカ大統領が出席する公式行事で演奏される公式アンセム

『Hail to the Chief』(ヘイル・トゥ・ザ・チーフ/大統領万歳)は、アメリカ合衆国大統領のための公式アンセム。大統領が出席する公式行事で頻繁に演奏される。

 アメリカ国防総省によって1954年に公式曲として採用された。演奏前に必ず4回のファンファーレを伴う

平明、明快こそ真の言葉 P.24

 アメリカの政治と文化の象徴としての大統領の発する言葉には、したがって自ずから特色がでてくる。

 まず第一にあげるべき特色は、明快でわかりやすいということであろう。それは庶民的であるということでもある。何せ、祝祭気分のなかで国民の票が得られなければ、役職につけないのである。しかも、一部の専門家や特殊な社会階級、政治家仲間だけにわかってもらっても意味がない。大衆の賛同が得られなければならない。そこで、ややこしい表現やふ明確な発想はできるだけ避けて、平易で親しみのある口調で話が展開することになる。人々の代表であり、親近感を持たれている大統領は、庶民の言葉を用いなくてはならないのである。

 たとえば、二重否定double negative などは極力さけられる。高等な表現にちがいないが、耳で聞いてすぐ確実にわかるとは限らないからだ。……not that I do not accept the invitation と言えば一瞬招待を受けるのか受けないのかとまどうが、I will accept the invitation と言えば明快である。

 ところで、明快でわかりやすい言葉だけが真の言葉なのであり、理解に苦しむような表現はふ𠮷なものであるとするのは、根強いアメリカ的発想でもある。それはアメリカ英語の平明性、庶民性にも連なるものであるが、このような傾向は文化のなかの反権威主義やポピュリズム的な人道主義にもとづくものと思われる。

 建設当時の著名人にベンジャミン・フランクリンがいるが、フランクリンはまさにアメリカ的人物であった。不可思議なことや形而上的なことを毛嫌いして、現実的でわかりやすい?ことのみを語った。科学的な論文でさえも、かみくだいて明快なものとしたのである。そのおかげで、イギリスの科学者からも次のようなおほめの言葉をいただいている。

 The style and manner of his publications on electricity are almost as worthy of adomiration as the doctrin it contains,,,He has written equally for the uninticated and for the philosopher...He has in no instance exhibited that false dignity, by which philosophy is kept aloof frm common applications...

(フランクリンの電気に関する論文の文章は、論文の内容と同じぐらい賞讃すべきものだ。学者も読めが何も知らない人間も読めるという文章だ。科学が普通の人間にとって近よりがたいのは、表面づらで権威をとりつくろっているからだが、彼の文章にはそれが一かけらもない)

文語を口語に合せる P.26 

 表面づらで威厳を

 進化とは:an intergration of matter and conmitant disipation of motion; during which matter passese from an indefinite, incoherent homegenety;and during which the retained motion undergoes a parallel transformation into a change from a no-howish and in general all-alikeness to a some-howish and in general talkaboutable not-all-alikeness by continuous sticktogetherness and somethingelsinfication,

スペンサーといえば、社会進化論をとなえた当時のヨーロッパの代表的知性とみなされていたのだが、アメリカのジュ―ムズ(当時ㇵ―バード大学教授)はその知性さえこのように茶化してあざ笑うことができたのである。そのエネルギーと自信は、common sense と common man(常識と常民)にあった。

 こうした例はあげだせばきりがないが、独立革命後のノア・ウェブスターの活動も注目に値する。ウェブスターは、言葉の発音とスペルが異なっているから文盲が生じやすいと考えた。話すのは誰にでもできるのに、読み書きができないのはややこしいスペルを覚えなくてはならないからである、そこでスペルはすべて話すとおりに直してしまってはどうか――と提案した。

 たとえば次のようなアメリカ式スペリングが提案された。

  our を or に tre を ter

  colour→color  centre→center

  humour→humor  theatre→theater

 この提案はすぐ受け入れられ、ウェブスターの Spelling Book はベストセラーになったし、後にはその主張をもりこんだウェブスターの辞書が刊行された。今日見られる何種類かの『ウェブスター英語辞書』は、この子孫である。

 おかげで、英国の言葉とアメリカの言葉のスペリングは多少食いちがうことになった。しかし、ウェブスターの提案に見られるのは、日本の言文一致運動や中国の白話運動に近い思想である。つまり、会話体を用いている庶民の言葉のほうが正統なのであり、文字という特殊技術を扱う者は、正統な会話体のほうにあわせなければならないとするのは民主的発想である。

※参考:手持ちの COLLEGE EDITION WEBSTER'S NEW WORLD DICTIONARY OF THE AMERICAN LANGUAGE に、Webster's New World Dictionary derives from the best traditions in British and Amercan lexicography that is based especially on the broad foundatios laid down for American dictionaries by Noah Webster.と記載されている。

嫌われるbig word P.28

 語り言葉は文章の言葉とくらべると一段と低い地位にあって、日常の生活や女性や子供が用いたりするぶんには差しつかえないが、高等なことは文章の言葉で綴らねばならいとする思想は、ここにはない。事態はむしろ逆なのである。その意味でアメリカの文化は口語体の文化だと言えるだろう。

 今日のアメリカの大学でも、難解な講義をする教授は He does not know what he is saying.(自分の言っていることを心得ていない)として敬遠される。本当に内容を知りつくしているのなら、他人にわかるようにしゃべれるはずだというのである。そもそもそういう難解な人物は、一流の大学では数年でクビびなる。tenure(定年までの任命)がつかないという。数年して忽然としていなくなった先生のことを噂して、学生たちは「やっぱり tenure がつかなかった」などという。

 アメリカ大統領の英語は、当然のことながらこうした考えかたの延長線上にある。偉そうな言葉や難解な表現は極力さけて、 common man を念頭においた言葉が展開されるのである。

 それゆえ big word と言われる、ラテン語にルーツを持つ難解な言葉は、よほどのことがない限り用いられることがない。abdomen よりは bellyが、elongation よりは stretch が好まれる。

  I offer the following idear.

でよいのであって、

  I propose the subsequent notion.

ではかえってバカにされる。

強烈な歴史意識 P.29

 しかし、大統領の英語の第2の特色は、多少様子がちがう。国民はわかりやすさを求める一方、大統領に対しては一段と高度な視点からものを見て、人々を勇気づけたり導いていくことを期待する。そこで、大統領の英語には、ちょっと日本的状況では信じられないほどのビジョンと歴史意識が入りこむことになる。

 リンドン・ジョンソンは、とりわけアメリカと自分の歴史上の意味合いについて注意を払った大統領であるが、壮麗なレトリックに満ちた大統領就任演説のなかで、次のようなビジョンをのべた:

 For we are a nation of believers. Underneath the clamor of building and the rush of our day's pursuits, we are believers in justice and liverty and union,and in our own Union. We believe that every man must someday be free. And we belive in ourselves.

(私たちの国は信じる者の国です。建設のつち音や日常の仕事のいそがしさを一皮むけば、正義と自由と統合と、そしてこの国を信じる私たちがいます。私たちはあらゆる人間がいつの日にか自由になることを信じます。なかんずく自らを信じるものでもあります)

 ここに使われている believe とか justice, liberty, free, believe in ourselves などは buzz words と言われて、それを聞いたとたんに反射的に思いだすことのある言葉である。この場合には、国のよってたつ高い理念が想起させられる。人生や世界の未来に対して信頼感を持ちながら、正義とか自由といった気高い理想を追求してきたのが、アメリカの本来の姿なのだということなのであろう。

 ウォ―タゲート事件で失脚したがゆえ暗いイメージのつきまとうリチャード・ニクソンも、強烈な歴史意識を持っていた。1969年の就任演説では、次のような高揚した精神状態が披露される;

 Each moment in history is a fleeting time, precious and unique. But some stand out as moments of beginning, in which courses are set that shape decades or centuries.

This can be such a moment.

(歴史のなかのすべての時間は流れ去るものであり、それぞれに貴重でユニークなものです。しかし、来るべき何十年間、あるいは何百年間の歩むべき道が始まる特別な時間というものがあります。

 今がその時であり得ます)

名言を生むレトリック P.31

 回帰しない時間の流れのなかで、今現在を特殊な時としてとらえていこうというのであるから、ここには指導者としての強い意志と、運命観のようなものがにじみ出ている。こういう状態はニクソンに特有のものではなく、歴代の大統領に共通してみられる。たとえば1933年に就任したフランクリン・ルーズベルトはこうのべている:

 This is preeminently the time to speak the truth,the whole truth,frankly and boldly.Nor need we shrink from honestly facing conditions in our to-day.

(いまこそ真実を語る時、あらゆることを卒直に勇気をもって語る時です。また今日の我が国の状況を正直にみつめる時です)

 そしてこの言葉は次の有名な部分につながっている。

 This great Nation will endure as it has endured, will receive and will prosper. So, firstof all,let me my firm belief that the only thing we have to fear is fear itself-nameless, unresoning, unjustified terror which paralyes needed efforts to convert retreat into advance.t>

(この偉大な国は今までと同じく困難に耐え、息をふき返して繁栄することでありましょう。そこで私の固い深遠をまず申し上げます。私たちが恐れなければならないのは、恐れの気持だけなのである、と。なもなく、理性もなく、理由もない恐怖心は、一歩の後退を前進に変える力をうばい、私たちを釘づけにしてしまいます)

 ルーズベルトはこうして国民を勇気づけておいて、ニューディーㇽ政策を実施し、破壊された経済の立て直しをはかったのであった。恐れなければならないのは、大恐慌のなかの失業や企業の倒産ということではなく、実は我々の心のなかに巣食っている絶望の気持なのだとした the only thing we have to fear is fear itself という言葉は、当時の多くのアメリカ人をふるい立たせて歴史に残る名言となった。

 fear と fear を並べて人々の耳目を引きつけておきながら、ハッとするような真実をつく、というレトリックの手法は、本紙に登場するケネディとジョンソンの手法でもある。そしてケネディもジョンソンも、ルーズベルトのニューディーㇽ政策を信奉していた民主党の大統領であった。ここには、民主党の大統領に共通の言葉の用い方があるようである。さらに言えば、ケネディ・ジョンソン政権の最有力ブレーンの一人に、アーサー・シュレンジャー・ジュニア教授がある。シュレンジャーはアメリカ現代史のの先生で、特にニューディーㇽに関する決定版といわれる著作を3冊もあらわしている。

 大統領の英語の舞台裏は後の述べるにしても、ここで強調しておきたいのは、大統領の英語には極めて高い理想や人間の勇気をふるいたたせるような精神がこめられているということである。しかも、ギリシア時代以来の修辞学の伝統を受けついでいるため、聞いている者をして、退屈させないだけの工夫がこらされている。

 そして、理想や修辞はすべて平明なわかりやすい英語に包み込まれいるのである。ヨーロッパや日本には、あまりにもわかりやすいことがらにはありがたみがなく、お経や高度な学問のように精神的により一段上とみられている世界に属するものは、多少は難解なほうが立派に見えるとする伝統がある。

 昔、西ドイツのコ゚ンラッド・アデナウアー首相はケネディ大統領の英語を聞いて「何て軽薄な若造だろう」と言ったという。それほど大統領の英語はスタイルと平明さを重んじた。したがって、アメリカの文化はヨーロッパ的高踏趣味の反対をいくものであり、大統領の英語はアメリカ文化を体現した最良のサンプルとなっている。

大統領の英語が話される時 P.34

 大統領の発する言葉は、いくつかに分けることができる。全国注視ののなかで朗々とのべるという official adoress 公式スピーチはもkちろん職業がら数が多いが、これなどよく見ればいくつかの種類がある。慣習的に定まっていて、すべての大統領が必ずおこなうという演説は:

  inaugural sddress 就任演説

  state of the union message 年頭教書(1年に1回1月におこなう。1年間の行政府の業績を合衆国議会に対して砲口するというもの)

  farewell address 離任演説(就任演説は再選されれば2回おこなうが、これは1回のみ)

 ところがこれだけ演説をすれば大統領がつとまるわけではない。緊急の事態が発生したりした時には、議会に対して呼びかけたり、国民に対してアッピールしなくてはならない。特に最近では問題が山積するため、大統領のスピーチの回数が多くなる。こういうスピーチの例としては、古くはエイブラハム・リンカンの Gettysbury Address などというのがある。南北戦争中ペンシルバニア州のゲッティスバーグで3日間にわたる戦闘のあと、南軍を破って決定的に北軍に有利な状況が生まれることになったが、その時になされた感動的な演説である。

 1919年にはウッドロー。ウイルソンが全国を回って国民に直接語りかけたが、それは合衆国議会が国際連盟への加入を認めようとしなかったので、国民にじか談判しようとしたのであった。フランクリン・ルーズベルトは1941年パールハーバーの翌日、上院と下院の議員を集めた合同会議で戦争開始を訴えた。憲法の規定により、アメリカでは議会のみが戦争を宣言する力を持つからである。大統領は行政府の長として、戦争開始をお願いするという立場にある。

 近年ではエネルギー危機、新たな福祉政策の実行等々、極めて多くの課題がホワイトハウスにおしよせるため、大統領は頻繁に議会に出向いてスピーチで直接国民に語りかけたりする。特にジョンソン政権時代の1960年代からテレビを利用することが多い。

 このような presidental address のほかにも、ちょっとした記者会見での発表とか、退役軍人の集会であいさつをしたり大学の卒業式に出てスピーチをしたりするが、数えあげればきりがない。また、大統領がホワイトハウスの中で、回りの者たちと話すプライベートな言葉というものももちろんある。普通はこれは絶対に外部に聞こえないものなのだが、ニクソンのウォ―タゲート事件で、ホワイトハウス内の会話が明るみに出てしまうという「事件」がおきた。

 次章からは、こうしたさまざまな大統領の言葉を、個別の大統領ごとにあたっていくことになる。その際引用した英文は、必ずしも同じ条件下のものではない。すべての大統領に共通の、たとえば離任演説ばかりを並べたほうがより公平であるように見えるが、それでは個々の大統領の個性がうすれてしまうおそれがある。ケネディからㇾ―ガンまでのホワイトハウスの住人は、むしろ極めて豊かな個性と独自の言葉を持った人物たちなのである。そこで、思い切っていかにもその大統領らしい言葉を、時代背景を考えながら選んでみた。

2―ケネディ――リズム感に富む名文 P.37~39

とびきりの名文

 ワシンㇳンD.C. を出て、メモリアル橋を渡るとすぐにアーリンㇳンの国立墓地になるが、そこの小高い丘の上にジョン・F・ケネディ(John F. Kennedy,在職1961~63年)のがある。

 墓といっても大理石でできた大きく平らなモニュメントで、明るい雰囲気である。永遠の火というものがともっており、週末や休日ともなると多くの参拝者でごった返す。

 モニュメントの大理石には、生前のケネディの吐いた名言がたくさん刻みこまれているのだが、ちょうど永遠の火を後ろにしてワシントンの市街を見渡すことのできる中心の部分に、次の文句がある:

 And so, my fellow Americans: ask not what your country can do for you――ask what you can do for your country.>

(そこでアメリカの皆さん:国が何をしてくれるのだろうかと問うことはやめていただきたい――反対に自分が国のために何をなすことができるかを問うていただきたい))

 これは名文家で知られるケネディの文章のなかでも、とびきりの名文とされているのだが、大統領就任演説 inaugural adress のなかにでてくる一節である。

 ask not what は直ちに ask what とくり返され、can do for you を追って can do for your country と同じような表現が出て、リズム感や、オヤと耳目をすばだたせるような興味を引きおこさせている。そしてダッシュでつながれた2つの文章は、ほぼ同じ単語を用いながら単語の位置がちがうために、およそ正反対のことを言っている。それゆえおもしろさと意外感をもって聞く者の耳にせまってくる。

 しかし、このくだりが有名になったのはそうしたㇾㇳㇼックの技術がすぐれていたからではない。ㇾㇳㇼックのはなばなしさに負けないだけの内包された意味があったからだということは、忘れてはならないことだ。普通、英語を使いこなすという場合にも同じことが言えるはずで、使いこなすための技術もたしかに大事ではあるが、それ以上に大事なのはその技術を用いて何を言ううかということではなかろうか。反対から言えば、言うべき内容がとぼしいのに、いくら技術ばかり学んでも結局は「英語」をあやつることはできない。言葉を使うということは、 how よりも what のほうが大事だということがこの例からもわかる。

 さてここでは、国民がブツブツと文句を言って「国が何もしてくれない」とか、「国がああだから自分たちがこうなる」といった他力本願的な態度をいましめ、むしろ自分たちがイニシアチブを取り主体的に動いて、運命を切り開いていってほしいといった気持ちがこめられている。アメリカ人の心の中の依頼心をいましめた言葉であり、まさに若さと活力にあふれた発想が展開された一節となっている。

新鮮な言葉を待つ国民

 ケネディの言葉は国民を鼓舞したと言われるのだが、鼓舞と言えば、「ニュー・フロンティア」という発想もそうであろう。1960年の民主党大会で、ジョン・F・ケネディが大統領候補に指名された時に受けてたっておこなった演説のなかに、We stand at the threshold of a new frontier……今我々は新しいフロンティアの入り口にあり……)という表現があった。さっそくマスメディアがこの言葉をとらえて「ケネディの言葉」として喧伝したものだから、すっかり雨名になり定着してしまった。選挙運動中のケネディの陣営は、これをのがす手はないとばかりに「ニュー・フロンティア」を取り込み、キャッチフレーズとして活用することになった。

 このように選挙運動中に大統領が何げなく(か意図的に)のべた言葉が、たまたまマスコミの目にとまって大きく取りあげられ、結局はその候補者のイメージなり政策を大きく色づけしていくという例は数多くある。例えばニュー・ディールという言葉。ニュー・ディール政策とかニュー・ディール連合は終わったとか、この言葉はいかにも当初から確立している不変不動の表現のように思えるが、1932年フランクリン・D・ルーズベルトが、やはり民主党大会でひょいと口にした言葉であった。「新しくやり直そうではないか」といったほどの意味で new deal(deal:協約、取引き交渉ごと、仕事量)という言葉を用いたのだが、その特定の表現にマスコミがソレッととびついて有名になった。1920年代のハーディング大統領の Back to Normalcy も同様の例だが、ある意味ではマスコミ(国民世論)はあたかも救世主を待ち望むかのように「新鮮な言葉を待ち望んでいた」のかも知れない。特に国が困難な状況におかれた時代に、新たに登場する新人候補者の言葉には熱いまなざしがそそがれるのがふつうである。

 「フロンティア」というのは、たしかに1960年代という時代の一つのキーワードたり得た。過去100年間にわたってアメリカ人は反ヨーロッパ、反旧世界としてのフロンティアの存在を夢見てきたのだったし、フロンティアこそはアメリカの世界におけるレーゾンデート(フランス raison d'être)だったと言ってもよい。事業に失敗しても、人間関係に行きづまっても、はたまた人殺しをしても、西部=フロンティアに行けば人は自分の過去を語らなくてもよい。そして人生のやり直しがきいた。フロンティアこそは万人にとっての救いの空間だったのである。

 もちろんケネディの時代にはフロンティアはなくなっていたが、閉塞的な時代状況は新しい突破口を必要としていた。前任のアイゼンハワー時代にスプ―ㇳニック・ショックというものがあり、今や宇宙開発競争ではソビエトに先を越されたという認識が広がっていたし、それに関連して、すぐれた科学者などの生み出せないアメリカの教育システムは失敗だった、特に理科教育がおくれていると言われていた。国際面ではソビエトの和平が進展するどころか、猜疑心ゆえの対立と膠着状態が続いていた。冷戦のなかで、アメリカはたちおくれたという意識があったのである。そこで、未だにアメリカにフロンティアがあるという気持は、41歳という若々しいケネディのイメージと重なって、いやが上にも新鮮で決断力を持ち、高い理想主義にうらづけられたケネディ像をつくりあげていった。

※関連:志賀 博:駆逐艦「天霧」水雷長ケネディ中尉の座乗するPT一〇九を切断を目撃

2020.04.24記す。

3―ジョンソン――壮大なレトリック P.67~

大ぶろしき、ジョンソン

 1963年の暮れに凶弾にたおれたケネディのあとをついだのは、副大統領のリンドン・B・ジョンソン(Lyndon B.Johnson,在職1963~69)であったが、ジョンソンはもともと、大統領の副官として形式的な役目をはたすだけで満足するような人物ではなかった。

 むしろアメリカの現代史のなかでもまれに見るほどの野心家だったのである。権力への意欲も大きゕったし、発想のスケールの雄大さは群をぬいていた。ジョンソンの在任中にワシントンでは次のような噂がまことしやかに流れていた。

どこかに出掛けるために、大統領専用機「エアー・フォース・ワン」が用意してあるアンドリュース空軍基地へおもむいた時のことである。空軍基地だからいたるところに飛行機がとめてある。そのうちの1機を指してお付きの武官が "Sir, that is your airplane"(あれが大統領の飛行機です)と言ったら、すかさずジョンソンが"no, all of those planes are mine"(いや、ここにある飛行機全部がオレのものだ)。

 どうもこれはよくできすぎた話ではあるが、いかにもジョンソンらしいところがでている。大統領としての自意識は1機の専用機に限られることなく、空軍の飛行機全部に及んでいた、というわけである。

 ジョンソンはメガㇿマニアであるというイメージは、その出身地テキサス州と関係がないわけではない。

 テキサスは合衆国で最大の面積を持つ州だが大きいものはまだある。テキサス出身の男女は大体において背が高く体格がよい。その大男や大女たちは食べるものも大きい。山のようなサラダとジャガイモと牛肉を食べることになっているのだが、今日でも Texas-sized steak テキサスサイズのステーキと言えば巨大なステーキである。テキサスサイズといえばよろず大きいものを指す。さらにテキサス人は言うこともすることもデカいという定評がある。

 あまり大きすぎてまやかし臭くさえなる。いわゆる「テキサスの大ぶろしき」というイメージがあるのである。

ある時アメリカ最大の滝ナイアガラを訪れたテキサスの人物がくやしまぎれに曰く。「なーに、テキサスにはこれくらいの水道管の破裂したところなんざいくらでもあるさ」

 このようなテキサスイメージとジョンソンのイメージが重ねられて、「ジョンソンの巨大癖」とういうことになったと思われるが、それはあながちあたっていなかったわけではない。ジョンソンの打ちだした政策は、目をみはるほど大胆なものが多かった。なかでも最も代表的なものが「The Great Sosiety構想」である。

4―ニクソン――言い訳がましい文体 P.97~

1文節にIが4回

 大統領選挙で、全投票数の半分以下の得票しかなかったのに大統領になった者というのは、アメリカの歴史のなかにいくつかの例があるが、1988年の選挙で民主党の対立候補を破って当選したリチャード・M・ニクソン(Richard M. Nixon,在職1969~74)はわずか50万票の差で大統領になった。

 このようなことが可能なのは、州ごとに一般投票がおこなわれ、一票でも多い方の政党がその州に割り当てられた大統領選出権を全部取ってしまうという、いささか複雑な選挙制度のおかげである。

 そのニクソンの英語は、前任者のジョンソンやケネディとはまた異質なものであった。ケネディの言葉は明快で歯切れのよいものだったし、ジョンソンの言葉は荘重なひびきを持っていた。しかしニクソンの英語はどこか言い訳がましいところがある。

 For more tha a quater of a century in public life, I have shared in the turbulent history of this era.I have fought for what I believed in. I have tried, to the best of my ability, todischarge those duties and meet those responsibilities thatwere entrusted to me.

(公職について25年以上になりますが、激動の時代でした。私は信念をつらぬきました。私は能力の限りをつくして私に与えられた任務と責任をまっとうしました。)

 これはニクソン最後の演説となった1974年の離任の言葉であるが、I have shared とか I believed in,I have fought, I have tried などと1文節のなかにIが4回もでてくる。離任という特殊な状況にあったにしても、大統領がこれだけ「私」にこだわるのはいささか異常な自己執着であり、言い訳がましい。

 これはウォーターゲーㇳ事件で大統領の座を去らなければならなかった時の言葉であったが、ほかにも人生が思うような方向に向かわなかった時には、ニクソンは数々の「名言」を残している。アイゼンハワー政権下で副大統領をつとめたあと、1962年にカリフォルニア州の知事に立候補した。カリフォルニアという大きな州の知事になれば、ホワイトハウスも射程内に入るという政治上の計算のうえであった。ところが見事に落選してしまう。

 その時、ニクソンは、

 You won't have Richard Nixon to kick around any more.

(これでいじめることにできるリチャード・ニクソンはいなくなるさ)

 とのべたのである。落選した人物の捨てゼリフというよりも、いかにもニクソンらしい自己憐憫の言葉である。

ウォ―タゲート・テープ P.106

 小心さと大胆さのゆれ具合を、もう一度英語の実例をもとにして考えてみよう。いよいよウォ―タゲート事件が大づめをむかえて、ニクソンが辞任をしてホワイトハウスを去る1974年8月9日のことである。すっかり弱気になってしまった大統領は、その日の朝集まって来たホワイトハウスのスタッフを前にしてお別れの言葉をのべるのであるが、それはスタッフの心のあたたかさや子供たちのことに関する涙ながらの話となった。そこでは天下国家や共産主義の脅威云々という発想はみられず、もっぱらこまごまとした日常生活の思い出話が中心となった。そして自分の父親のことを思い出すのである:

 I remember my old man. I think that they woud have called him sort of a little man, common man. He didn't consider himself that way. You know what he was? He was a streetcar motorman first, and then he was a farmer, and then he had a lemon ranch. It was the poorest lemon ranch in California, I can assure you. He sold it before they found oil on it.[Laughter] And then he was grocer. But he was a great man, because he did his job, and every job counts up to the hilt, regardless of what happens.

(私は親父のことを思い出します。おそらく父はとるに足らない人物、つまり普通の人間だとおもわれていたと思います。でも父は自分ではそうは考えていませんでした。父は何をやっていたとおもいますか。最初は路面電車の運転士でした。その次に農夫になり、次にはレモン農場の所有者になりました。それはカリフォㇽニアで一番貧弱な農場だったことは確かです。で、そこは石油が発見される前に売り払ってしまいました。[笑い]そのあと八百屋になりました。それでも父は偉大な人間だったのです。なぜなら結末がどうであろうと、自分の仕事は徹底的にやったからです)

 このような貧しい家庭環境で育ったのなら、謙虚さとでもいったものを身につけていてもよさそうなものだが、権力の座についていた時のニクソンは傲慢そのもので、自分に敵対するものは(国家権力をふりまわしてでも)つぶしてしまえという気持をいだいていた。例の皇帝の衛兵のような制服もその一例だが、ここに引用するのはウォ―タゲート事件が大問題となっていた1972年の6月に、ホワイトハウス内で交わされた会話である。裁判所の命令によってニクソン側がしぶしぶ提出したテープにもとづくもので、当時のホワイトハウス内での会話の様子がよくわかるという珍しいものだが、最高権力の座にある者の思いあがりを、行間に読みとっていただきたい。

 相手は腹心のㇹㇽデマンで、2人はFBI(連邦捜査局)がしっこく事件の核心にせまってくるのなら、CIA(中央情報局)がからんでいるということをにおわせて、捜査を中止させようと相談している場面である。

PRESIDENT. Of course. this is a, this is a Hunt, you will――that will uncover a lot of things. You open that scab there's a hell of a lot of things and that we just feel that it would be very detrimental to have this thing go any further. This involves these Cubans, Hunt, and a lot of banky-panky that we have nothing to do with ourselves. Well what the hell, did Mitchell know abot this thing to any much of a degree?

HALDEMAN. I think so. I don't think he knew the details, but I think he knew.

PRESIDENT. He didn't know how it was going to be handled though, with Dahlberg and the Texans and so forth ? Well who was the asshole that did ? [(i)Unintelligible]Is it Liddy? Is that th fellow ? He must be a little nuts.

HALDEMAN. He is.

PRESIDENT. I mean he just isn't well screwed on is he ? Isn't that the problem ?

HALDEMAN. No, but he was under pressure, aparently, to get more information, and as he got more pressure, he pushed the people harder to move harder on...

[…………]

HALDEMAN. The FBI interviewed Colson yesterday. They determined that would a good thing to do.

PRESIDENT. Um hum.

HALDEMAN. Ah, to have him take a...

PRESIDENT. Uh hum.

HALDEMAN. An interrrogation, which he did, and that, the FBI guys working the case had concluded that there were one or two possibilities, one, that this was a White House, they don't think that there is anything at the Election Committee, they think it was either a White House operation and they had some obscure reasons for it, nonpolitical...

PRESIDENT. Uh hum.

HALDEMAN. ...or it was a...

PRESIDENT. Cuban thingー

HALDEMAN. Cubans and the CIA. And after their interrogation of, of...

PRESIDENT. ...Colson.

HALDEMAN. Colson, yesterday, they concluded it was not the White House, but are now convinced it is a CIA thing, so the CIA turn off would...

PRESIDENT. Well, not sure of their analysis, I'm not going to get involved. I'm[(i)Unintelligible.

HALDEMAN. No, sir. We don't want you to.

PRESIDENT. You call them in.

[…………]

PRESIDENT. Good. Good deal. Play it tough. That's the way they play it and that's the way we are going to play it.

HALDEMAN. O.K. We'll do it.

PRESIDENT. Yeah, when I saw that news summary item, I of course knew it was a bunch of crap, but I thought, ah, well it's good to have them off on this wild hair thing because when they start bugging us, which they have, we'll know our little boys will not know how to handle it. I hope they will though. You never know. Maybe,you think about it. Good!

[…………]

PRESIDENT. When you get in these people...when you get these people in, say:"Look, the problem is that this will open the whole, the whole Bay of Pigs thing, and the President just feels that" ah, without going into the details...don't, don't lie to them to the extent to say there is no involvement, but just say this is sort of a comedy of errors, bizarre, without getting into it. "the President believes that it is going to open the whole Bay of Pigs thing up again. And, ah because these people are plugging for, for keeps and that they should call the FBI in and say that we wish for the country, don't go any further into this case," period!

HALDEMAN. O.K.

PRESIDENT. That's the way to put it, do it straight.[(i)Unintelligible

HALDEMAN. Get more done for our cause by the opposition than by at this point.

PRESIDENT. You think so ?

HALDEMAN. I think so, yeah.

(大統領:もちろんこれはハンㇳがらみさ。で、ゾロゾロたくさんのことが出てくるぞ。かさぶたをとったが最後、バカみたいにいろなことが表に出る。だからこれ以上つっこまれたくないというのがこっちの気持ょ。キューバ人、ハンㇳその他のクソミソといった、こっちのあずかり知らんことが出てくる。で、どうなんかね。[検事総長の]ミッチェルは多少はこのことを知っとるのかね。

ㇹㇽデマン:だと思いますね。細かいことは知らないと思いますが、知っていたことは知っていたんです。

大統領:だけど、グーバーグやテキサス人物なんかがお出ましになるとは思わなかった、という訳だな。で、それをやったクソ野郎はだれなんだ?[意味不明]リディなのか。そいつかね。アㇹじゃないのか、そいつは。

ㇹㇽデマン:やつです。

大統領:そいつはおつむのネジがゆるいんじゃないの。そうなんだろう。

ㇹㇽデマン:そうでもないんですが、圧力がかかっていたのは事実です。情報を手に入れよという圧力が強まって、それでますます手下にハッパをかけて――

[中略]

ㇹㇽデマン:FBIはコールソンと昨日会っています。その方がよいという判断をしたらしい。

大統領:ウン、ウン。

ㇹㇽデマン:で、やっこさんに……

大統領:ウン、ウン。

ㇹㇽデマン:査問をしようと。査問したあげくFBIの連中は2つの方向をにらんでいるわけです。1つはこれはホワイトハウスがしたことだと。選挙委員会ではないと。FBIはホワイトハウスがやった可能性があるんじゃないかと理屈をつけているんですが、政治がらみじゃない……

大統領:ウン、ウン。

ㇹㇽデマン:あるいは――

大統領:キューバだと。

ㇹㇽデマン:キューバとCIAだと。で査問したあと……

大統領:コ゚―ルソンの。

ㇹㇽデマン:昨日コールソンの話を聞いてこれはホワイトハウスではないと。で今はCIAのやったことにちがいないと。コトが CIAに向うとなると――

大統領:でも連中がどう考えるかは分からんよ。私はあんまり首をつっこみたくない。私は[意味不明]。

ㇹㇽデマン:おっしゃる通りです。首をつっこまないでください。

大統領:だからお前から連中に言ったら。

[中略]

大統領:なかなかよろしい。つっぱってやれ。それが連中のやり方なんだからこっちもつっぱるわけよ。

ㇹㇽデマン:そういうことです。

大統領:そういうこと。例の記事の要約を見たんだが、どうしようもないガセネタだということは当然としても、私が考えたのは連中がこの国際陰謀物語にとらわれているのは悪いこっちゃないと。前のようにこっちにㇹコ先が向かったんじゃ、ウチの小僧共の手におえなくなるもんなあ。CIAがつっぱってくれればいいけれどどうなるものかね。まあ悪くはないんじゃないの。

[中略]

大統領:連中が来たらな、連中が来たら言ってやれ、「お前さんがあばきたてると、キューバのピグ湾事件が全部明るみに出るんだぞ。大統領はそれを考えておる>ということだ。細かいことは言うことはないが……。でウソは、こっちが全然加担していなかったというウソは言わんほうがいいが、そこまで言わないで、「これはふしぎな手ちがいの喜劇であった」と。この問題をむし返したら[キューバの]ピグ湾の一件がむし返されると大統領は考えていると。でこの連中は国のためを思っているんだと。これ以上この件に深入りせん方がいい。わかったな。

ㇹㇽデマン:はい。

大統領:という線でいこう。うまくやれ[意味不明]。

ㇹㇽデマン:これで敵さんは私たち自身がやりたくてもできなかったようなことを私たちにしてくれたわけです。

大統領:そう思うか。

ㇹㇽデマン:ええ。私は、だと思いますね)

クソンのパラドックス

 ところが、こうしたホワイトハウスの思惑に反して、ウォ―タゲート事件をめぐる世論はますますきびしくなっていった。合衆国下院は聴聞を開始し、1974年7月には調査委員会が「正義遂行のじゃまを大統領はした」かどで、大統領を被告として議会に召喚する決議をおこなった。8月に入ると最高裁の命令で、ここにあげたホワイトハウスでの会話のテープが公にされることになった。

 そこで明らかになったのは前にも述べたとおり、大統領が部下に指示してFBIの捜査を中止させようとしていたということであった。それも、CIAがらみの問題をもちだして、捜査の方向をかわそうとする卑怯な手段を用いようとしていた。

 これは明らかに犯罪行為であるとみなされ、それまで議会の中に残っていたニクソン支持の声は完全につぶれてしまうことになった。その結果インピーチメンㇳ(議会が裁判所となって被告の大統領をさばくという憲法上の制度)成立が確実となった。ニクソンはジㇾンマの中にたたされることになった。裁判の被告となって大統領職を屈辱のなかにさらすという前代未聞のできごとを経験するか、それとも辞任して「大統領職」の権威を守りつつ、個人としてはこれまたアメリカの歴史に例のない屈辱的できごとを甘受するか。

 議会の決議で大統領が辞任させられた場合には罪人であるから、ホワイトハウスを去っても何の恩典もない。ただの人である。自分でやめた場合にはもと大統領としての数々の恩典のうえに、年に15万ドルの恩給も支給される。ニクソンは賢明にもこの時点で自ら辞任することを決意した。1974年8月8日のことである。

 こうしてパラドックスの大統領は、最後に最大のパラドックスを演じて見せたのである。赤狩りという政治操作をおこなって政治の世界の頂点におどり出た男は、ふたたび政治の力によって屈辱の世界に引きずりおろされた。

 そこで、最もニクソンらしい演説として辞任発表の声明を詳しく見ることにする。これは1974年8月8日の午後9時01分、ホワイトハウスの執務室からテレビを通じて全国民に語りかけたものである。


※2020.11.08(日):「アメリカ内外の政治家がバイデン氏に祝福メッセージ」などと報道されている。

 私は、ウォ―タゲート事件について、宇佐美滋『アメリカ大統領―最高権力をつかんだ男たち』(講談社)P.136を読む。

 さらにこの本には第三部 「ホワイトハウスへの長い道」

 第二章:大統領選挙の日程/党全国大会への代議員の選抜方法/ウィンナー・テイク・オール方式/予備選挙の立候補のルール/予備選挙出馬、不出馬の決断/予備選挙の投票資格/予備選挙のハイライト。

 第六章:運命の日――投票、当選、就任まで、など記載されている。


―フォード――実直、素朴な言葉 P.133~

異例の大統領就任

 1974年8月9日。辞任したニクソンのあとをついで副大統領のジェラルド・フォード(Gerald R. Ford, 在職1974~77)がホワイトハウスの主人となるが、フォード大統領は国民の投票とは一切関係のないところで大統領となったアメリカ史上唯一の人物である。少なくとも今までは副大統領は大統領とといっしょに選挙で選出されてきた。その意味で国民とは多少のつながりはあったのだが、フォードは異なっていた。

 もともとニクソンの副大統領はスピㇿ・アグニューといい、メリーランド州出身の政治家だったのだが、ウォーターゲーㇳ事件が大ごとになる前に、それとは別の金銭上のスキャンダルにまき込まれて辞任していた。任期のなかばで副大統領が辞任した場合に、選挙をやり直すわけにはいかない。そこで憲法の規定によって、合衆国議会が副大統領を議員のなかから選んで送り込むということになっている。

 ニクソンは共和党出身者であったから、議会の共和党議員のリーダー格のフォードが指名されたのである。ところが、ニクソンもまた辞任するという事態となり、ふたたび憲法の規定により副大統領が大統領となったという次第である。

 大統領の辞任といい、国民の手の届かないところで大統領が決められたといい、1974年のアメリカは極めて異常な政治情勢のなかにあったといえる。このあたりをふまえて、フォード新大統領は8月9日の大統領就任の宣誓式のあいさつで次のように述べることになった:

 Mr.Chief Justice, my dear driends, my fellow Americans:

 The oath that I have taken is the same oath that was taken by Geoge Washington and by every President under the Constitution. But I assume the Presidency under extraordinary circumstances never before experienced by Americans. This is an hourof history that troubles our minds and our hearts.

Therefore,I feel it is my first duty to make an unprocedent compact with my coutrymen. Not an inaugural adress, not a fireside chat,not a campaign speech――just a little straight talk among friends. And I intend it to be the first of many.

I am acutely aware that you have not elected me as your President by your ballots,and so I ask ypou to confirm me as your President with your prayers.And I hope that such prayers will also be the first of many.

If you have not choosen me by secret ballot,neither have I gained office by any secret promises. I have not campaigned either for the Presidency or the Vice-Presidency.I have not subscribed to any parisan platform. I am indebted to no man,and only to one woman――my dear wife――as begin this very difficult job.

I have not sought this enormous responsiblity,but I will not shirk it.Those who nominated and confirmed me as Vice-President were my friends and are my friends. They were of both parties under the Constitution in theirname. It is only fitting then that I should plege to them and to you that I will be the President of all the people.

((最高裁長官、友人の皆さん、アメリカ国民の皆さん:

 今私がのべた誓いの言葉は、ジョージ・ワシントン以来すべての憲法にのっとって選ばれた大統領が誓ってきた言葉です。しかし私は、アメリカがかつて経験したことのない異常な状況のもとで大統領職につきました。私たちは悩み、心を痛ませながら、この歴史の曲がり角をむかえています。

 そこで、私がまず最初にしなくてならないのは、国民の皆さんと今までに例のないようなやり方でおつき合いをするということです。今日は就任演説やホワイトハウスの炉ばたからのラジオ放送や選挙用のスピーチといったものではなく、仲間同士として卒直に語り合いたいと思います。しかも卒直な語らいは、これからも続けていけるよう希望します。

 皆さんの投票によって私が大統領に選ばれたのではないということを、私はよくよく承知しています。ですから皆さんの祈りによって、私を大統領として認めてくださるよう希望します。

 皆さんは私を秘密投票で選んだのではないのですが、私もまた秘密の約束をおこなって役職についたのではありません、私は大統領候補になったこともなければ副大統領候補になったこともありません。私はどんな人間に対しても義理を負う者でありませんが、たった一人、私の妻にだけは、この困難な仕事を始めるにあたって負うところが大きいのです。

 私は大統領職という巨大な責任を自ら望んだわけでありませんが、それをさけるつもりはありません。私を副大統領に任命し議決してくれたのは、議会の私の友人たちであり、今もそれは変りありません。彼らは共和、民主の政党にまたがり、国民から選出され憲法にのっとって行動した人々です。それゆえその友人の皆さんと国民の皆さんを前にして、私はここですべての国民のための大統領になるという誓いをたてますが、それはまことに当を得たことです)

6 ―カーター――卒直さと細かさ

ピーナッツ・ファーマーの英語 P.163~178

 1976年の大統領選挙で共和党のフォードを破ってホワイトハウス入りしたのは、民主党のジミー・カーター(Jimmy Carter,在職1977-81)であった。カーターは選挙運動中から「Jimmy Who? ジミーってだれだ」などと言われたとおり無名の人物であった。

 カーターの特色を一言で言えば、「善人ではあったが細かいことにこだわりすぎて大局が見えなかった」ということであろう。後に例文として出てくるが、カーター自身も認めているように、gradually you've heard more and more what the goverment thinks...and less and less about our Nations hopes (ますます政府の考えることばかり聞かされるようになり、国家の望みについては聞えなくなってきた)という傾向のなかにうずもれていった。

 当時の西ドイツの首相ヘルムート・シュミットは親しい友人を前にして、涙ながら次のように言ったという。「カーターはアメリカの指導者としての責任を自覚していない。カーターが理解できないでいるうちに世界は戦争に近づきつつある」

 たしかに風貌から4いってもボサボサの髪を風になぶらせながら、南部なまりのキンキン声をはりあげてすあべるジミー・カーターはどう考えてみてもアメリアという巨大な国の指導者のイメージとは合わない。むしろジョ―ジアという南部の途上州の片田舎で、コツコツ生きている小さな市民という臭いがつきまとっている。その点で流布した「ピーナッツ・ファーマー」といあだなはカーターという人物をよく表現している。

 片田舎の農家というカーター像は、もちろんその生いたちと関係がある。一生の大部分をジョージアの農場ですごし、州内の知事にまで成りあがったいわばローカルな人物なのである。そしてこういう人物にありがちな、古き良き小さな時代の価値観をたっぷり身につけていた。

 たとえば決してぜいたくせずに質素に生きることをよしとし、額に汗して一生懸命働くことを最大の美徳とする。個々の人間の苦しみには深い同情心を持ち、母親から教えられた神様の教えは、未だにキチンと守っている。大統領就任演説というはれがましいところでも、 my mother 母親がくれた聖書の話が出てきて人々を驚かせたものである。

I have just taken the oath of office on Bible my mothe gave me just a few years ago, opened to a timeless adomonition from the ancient prophet Michah: "He hath showed the thee. O man,what is good: and what doth the Lord require of thee, but to do justly,and to love mercy, and to walk humbly with thy God."

 ((私は私の母が数年前にくれた聖書に手をあてて只今就任の宣誓をしました。開かれたページには古の預言者ミカの次のような永遠の警句がのっています。「人間よ、神は何が善であるかを示したまいき。神は汝ら正義をおこない、あわれみの心を持ち、神と共にへりくだって歩むことを希みたまいき」)

飾り気のない表現

 またこうした人物にありがちなように、カーターの英語は飾り気がなく率直である。言いにくいことも包かくさずにズバリと言ってしまう、 plain talk というあの平和的アメリカ人の持つアメリカ的勇気があふれたもにになっている。その点で前任のフォードに似たとこっろがある。たとえば1977年4月、エネルギー危機を前にしてなされたスピーチは次のように始まる。

Good evening

Tonight I want to have an unpleasant talk with you about a problem that is unprecedented in our history.With the exception of preventing war, this is the greastest challenge that our country will face during our lifetime.The energy crisis has not yet overwhelmed us, but it will if we do not act quickly. It's a problem that we will not able to solve in the next few years, and it's likely to get progressively worse through the rest of this century.

(皆さん。

 今晩は上愉快なことについてお話しをいたしますが、それはアメリカの歴史上例がないような問題についてです。これは私たちの一生のうちでも、戦争の防止に大きな国の問題です。

 エネルギー危機は私たちを飲み込んでしまったわけではありませんが、直ちに行動をおこさねばそうなります。これはここ数年で解決のつくような問題ではありません。しかも今世紀いっぱい段々悪化するのがエネルギー問題です)

 ここで Tonight I want to have an unpleasant talk with you として話を始めるのは、日本的な間接的表現の正反対をいく。「不愉快なことを語ります」というのであるから、これ以上率直な表現があるだろうか。同じように飾り気のなさは、 It's a problem that we will not be able to solve 云々の文章にもでている。これは解決のできない問題なのだが、などと初めから敗北を認めて政治的に不利と思われるのに、ズバリと言ってしまう。

 これはカーターが大統領をやめてからの発言であるが、ワシントンのウッドロー・ウイルソン研究所でも次のような発言をしている。

I enjoed being President. Even when I had most disappointing days...I don't remember a single morning when I don't kook forward to getting to the Oval Office. I enjoyed the challenge to it...

 (私は大統領であることを楽しんでいた。大変につらいことがあっても……大統領執務室に行くのがつらい朝などというのは一つなかった。私はそこでやらなければならないことにとびつきたい気持ちをもっていた

 カーターは、大統領という与えられた地位を十分に enjoy したと告白している。大統領のよろこびみたなものを、これだけ卒直に認めて表現した大統領というのは現代史のなかではほかに見当たらない。

高校の先生の教え

 ところで、カーターのふるさとジョージアの小さな町では、卒直な語り口だけがあるのではない。温かい人間関係が人々の記憶のなかに生き続ける。大統領にまでなっても、なつかしい高等学校の先生の名前は忘れないのである。全世界が聞いた就任演説の初めの部分には次のようなくだりがある。

In this outward and physical ceremony, we attest once again to the inner and spiritual strength of our Nation. As my high school teacher, Miss Julia Coleman, used to say, "We must adjust to changeing times and still hold to unchanging princilles."

 (就任の儀式は目に見える形がありますが、この国の力は内面の精神的なものです。私の高等学校の先生のジュリア・コールマンさんはいつも次のように言っていました。「変化する世の中に合わせていかねばならないが、不変の道義もまもらねばならない

 いかにもジョージアの高校の先生が言いそうな言葉であるが、それを覚えていて出世をしても何のてらいもなくスラリと引用されるところが、きまじめなカーターらしいところである。

 またこの就任演説には、ケネディやジョンソンのㇾㇳリックのはなばなしさはない。たとえばこの例文でもジョンソンだったら、

This is a physical ceremony. Yet we think of metaphysics. The inner and spiritual strenngth of this Nation is sound...

 などと大きく「形而上学」などという表現を入れて見ばえを考えたかも知れない。しかし、ここには、そのような体裁ぶったところが見られないのである。

 またいずこの農家も同様であろうが、カーターは無駄を大変にきらったことでも有名である。自身はホワイトハウスに入ってからも節約につぐ節約の生活を続け、ぜいたくを敵とみなしていた。そして回りの者にも同様のスタイルを要求した。というかそうすることがあたりまえと考えたらしい。

 毎週1回ずつ朝食時に会って、外交問題を検討するという会合があった(Foreign Policy Breakfast)。大統領のほかに副大統領と国政長官と特別補佐官のプレジンスキーのあと2名というごく限られた高官のみが出席して、天下の情勢を論じる朝食会であったが、出席者には必ずあとで$2.55の請求書(朝食代)が回ってきたという。

 このような人物像を、ホワイトハウスづめの『Time』誌の記者とビュー・シドニーは次のように表現している。この文章は1980年、つまりカーター政権最後の年に書かれたものである。

In a peculiar way Jimmy Carter is consumed by himself. His world still resemles the small stretch of Plains, Ga. His goodness becomes an end in itself, defined in the Main Street encounters where the audiences are people with names and problems that are manegeable. This does little, however, to define the tastes of presidency, where decisions must have heroic dimensions, wehere leaders must balance their immence egoes against a deeper understanding that they are but specks of dust in the ultimate sweep of history, where the future must be just as real as the present.

 (ジミー・カーターは奇妙な形で自分とのおっかけっこをしている。彼の世界はいまだにジョージア州プレインズの集落のおもかげを残しているのだ。カーターは善人なのだが、善人たらんとして善人なのであり、しかもそれは田舎町の大通りでつくられた。そこで出会う人間はそれぞれの名前を持っており、問題は処理可能なたぐいの問題しかおこらない。しかしこれは大統領にはあまり役に立たない背景である。大統領として下す決断は英雄的なものであるし、歴史のうねりのなかでは自分もまたチリのようなものあるという深い認識をもって自我とのバランスを保とうとするのが巨大な自我をもった国の指導者ともいうものであり、指導者にとっては未来と現在は同じように真にせまったことがらであるはずだからである

安心できる「ふつうのアメリカ人」

 このように非英雄的なカーターは、ジヨンソンやケネディのようなそそりたつ巨人ではもとよりなかった。前任者のフォードよりはよほど知性的だと言われたが、性格的にはフォ―ドと同じように安心できるごくありふれた「ふつうのアメリカ人」の様相をしていた。またカーターは自らを「うそをつかない大統領 would ever lie」と称していた。

 こうした人物がこの時点でアメリカの指導者に選ばれたというのは、それこそ歴史のうねりのなかで見ればやはりウォーターゲー事件とベトナム戦争のおかげと言うことができよう。アメリカはジヨンソンのように強い大統領が、一定の信念を持って国をある方向に引っぱっていくことに疑いをもつようになっていたし、ニクソンのようにやり手の指導者が裏工作であらゆる手をつくして国をひっかき回すということにも嫌気がさしていた。そして信心深い無難な人物をホワイトハウスに送り込んだのである。

 しかし、だからといってカーター政権は無能で何もしなかったわけではない。行政改革の部分的実施、航空、運送、金融業界に対する規制緩和、パナマ運河条約の仲だち、エネルギー自給計画などはカーター政府がなしとげた業績である。

 ところが、こうした仕事にもかかわらず、ホワイトハウスの力の及ばない出来事も多発した。国内経済では13パーセントをこえるインフレがおさまらず経済の混乱がおきていたし、1979年には石油価格がばいになるというオイル・ショックにみまわれ、国外ではソ連軍がアフガニスタンに侵入した。

 しかし最大の問題となったのは、イラン革命騒ぎのなかで五十余名のアメリカ人が人質となってしまうという事件であった。1979年11月におこったこの事件は、もともとなかったカーター大統領の指導力がさらに大きな疑問符をつける結果となってしまった。何名ものアメリカ人が「敵」の手に捕えられているのにアメリカは何もできないでいるという事態は、決定的に大統領の指導力にマイナスのイメージを与えたのである。

 イラン人質事件は結局はカーターの命取りとなってしまった。翌1980年11月には大統領選挙がひかえており、カーターは当然のことながら再選をめざすことになるのだが、人質事件のダメージは大きすぎた。大統領としてのさまざまな業績もすっかり忘れ去られたかのように、問題点ばかりが指摘された。そして対立候補のレーガンに破れてしまうのだが、それはケネディから始まった近年のジンクスを受けついだものであった。つまりどの大統領も2期目は務められないという――。

細部にこだわる

 カーターは細部のことにこだわりすぎて大統領としての大局的見解がなかったとよく言われる。国の歩むべき方向や大きな政策について頭をわずらわせるよりも、目前のこまごましたことにこだわり続けたのである。国賓を招いてのホワイトハウスでの晩餐会 stete dinner のおわりにも、出席者の座る場所をいちいち自分でたしかめなければ気が済まなかったという。こうした精神状態のため、大きな問題が発生した時には往々にしてオロオロしてしまうことになる。

 たとえば人質事件という大問題。何十名ものアメリカ人の命があぶないという人道問題があったが、ほかにもアメリカの大国としての威信問題もからんでいたし、すでにのべたとおり大統領の再選の可能性がつぶれるかも知れないという事件でもあった。その突発大事件を前にしてカーターはどいう反応を示したのであろうか。『カーター自伝』からカーター自身の言葉でその時の様子を語ってもらうことにしよう。『自伝』は事件当時の大統領の日記をもとにしているが、そこに見られるカーター像は、異常事態のなかで深く心配を続ける善良な小市民である。国の威信や自分の再選といったことよりも、「どうしよう」というとまどいの気持のみである。

 イラン事件のニュースは、1979年11月4日、日曜日の朝にとびこんできた。

Sunday, November 4, 1979, is a date I will never forget. Early in the morning I recieved a call from Brezinski, who reported that our embassy in Teeran had been overrun by about 3,000 militants, and that 50 or 60 of our American staff had been captured.

(1979年11月4日日曜日という日は決して忘れないだろう。早朝にブレジンスキーから電話があり、テヘランのアメリカ大使館が3000人の強硬派によっておさえられ、50から60名のアメリカ人スタッフが捕えられと伝えられた)

I spent most of the day, every spare moment, trying to decide what to do...We began to assess punitive action that might be taken against Iran. We still have 570 Americans there. I directed that the companies who employ these people be informed to get them out of the coutry. We also asked the Algerians,Syrians,Turks,Pakistanis,Libyyans,PLO, and others to intercede on behaf of the release of our hostages. It's almost impossible to deal with a crazy man...

(どうすべきかということが片時も頭をはなれなかった。イランに対する報復措置を検討し始めた。また570名のアメリカ人がそこにはいる。これらの人間をやとっている会社は人員を引きあげるよう指示を出した。またアルジェリア、シリア、トルコ、パキスタン、リビア、PLOなどに人質解放の仲介となるよう要請した。キチガイ男を相手にするのでやり切れない)

 Our agents, who moved freely in and out of Tehran under guise of business or media missioms, had studied cloely the degree of vigilance of the captors. They had grown lax, and security around the compound was no longer a serious obstacle to a surprise entry by force.

 (アメリカのスパイは、ビジネスマンや記者などをよそおってテヘランから自由に出入りしていたが、捕虜の監視の様子を詳しく観察した。監視はゆるやかになり、大使館回りの見張りの具合からいって奇襲も問題がないようだった

The helicopters were scheduled to take off on Thursday, April 24 at dusk and arrive abot six hour later, at approximately 11:00 P.M. Iran Time. This six-hundred-mile flight from the Gulf of Oman would push to the limit the capabilities of these aitcraft.

 (ヘリコプターは4月24日木曜の夕ぐれに出発し、6時間後イラン時間の午後11時に到着する予定だった。オマンに及ぶ飛行はヘリコプターの能力の限界である

I am still haunted by memories of that day-our high hopes for success, the incredible series of mishaps, the brevery of our resucue team, the embarassment of failyre, and above all, the tragic deaths in the lonley desert. I actually slept a couple of hours, and then got up to prepare my telivision broadcast, which would explain to the American people what had occurred.

 (まだあの日の思い出は悪夢のなかにある。成功に対する期待感、次々とおこった信じられないような事故、救助隊の勇気、失敗のぶざまな様子、そして砂漠の中でのきびしい死。私は数時間もねむってから早々に起きてテレ放送の準備をした。国民に事態を説明するためである

格調高いスピーチも

 カーターの悪夢はこのまま続き、最終的に人質がイランから釈放されたのはロナルド・レーガンの大統領就任式の当日だった。

 カーターはもと大統領としてこの日に釈放された捕虜たちを出むかえに行きたいとレーガンに申し出たが、ことわられている。自らの命取りとなった大事件の結末を見ることさえ許されなかったカーターだが、結局は次々とホワイトハウスのおし寄せる問題の波にほんろうされ続けたというのがカーター大統領の4年間の特色だったといえよう。

 しかし、ほんろうされるだけが大統領ではないと心得ていたふしもある。1979年7月のことであるが、全国テレビ放送でエネルギー問題について5回目のスピーチをおこなうことになってうた。ところが突然この放送を中止してしまった。そしてメリーランドの山中にある大統領の別荘キャンプ・デービッドにこもってしまった。そこに10日間滞在して考えることがあったらしい。その間にはさまざまなアメリカ人とも会っている。

 別荘から出てきたカーター大統領はまるで別人のように「国民の自信の喪失に関する演説」をおこなった。それはインフレやエネルギー問題といったいじましい現実問題とは一線を画した、カーターにはめずらしい格調の高いスピーチであった。アメリカ国民の精神状態について憂慮するという伝統的大統領のスピーチにのっとったテーマであった。しかしながら個々の人間のエピソードを入れたりして細部にわたって目くばりが利いている点では、やはりカーターらしさのしみついているスピーチでもある。大国アメリカの指導者としての気概と、地方の田舎町のあたたかい人間関係を引きずる小人物がないまぜになっているところが、このスピーチの興味あるところであろう。

 またぞろエネルギーの話かと思ってテレビをつけたアメリカ4の国民は、演説の内容が哲学的、理念的傾向をもっていたので驚いたものだが、いかにも思い直したカーターらしいスピーチと思われるのでここに検討していくことにする。高い理念と、こまごましたこだわりの間のゆれ具合に注目していただきたい。(以下略)

※関連:1924年10月1日に食料品店主兼農家のジェームズ・アール・カーター・シニアと看護婦のリリアン・ゴーディ・カーターの長男(第1子)として、ジョージア州プレーンズの町で誕生した(初の病院生まれの大統領である)。アーチェリーの近くで成長した。ジョージア工科大学で理学士の学士号を取得。
第二次世界大戦終結後の1946年に海軍兵学校に入校。同年ロザリン・スミスと結婚。カーターは大西洋及び太平洋の艦隊で潜水艦に勤務し、その後ハイマン・G・リッコーヴァー提督によってアメリカ海軍の原子力潜水艦の開発推進プログラムの担当者に選ばれた。1952年12月12日にカナダのチョーク・リバー研究所の試験原子炉NRXで原子炉が暴走し、燃料棒が溶融する原子力事故が発生した際には、カーターはアメリカ海軍の技術者として事故処理にあたり、被曝もしている。1953年にジョージア州下院議員になったばかりの父親の死に伴い海軍を大尉で退役。当初は低所得者向け公営住宅に暮らすが、妻と共に公共図書館で自学してピーナッツ栽培に取り組み、成功を収める。
ワシントン見物とアナポリス兵学校へ

7 ―レーガン――巧みな物語の語り手 P.199~

※写真は、REAGAN THE MAN, THE PRESIDENT by HEDRICK SMITH ADAM CLYMER LEONARD SILK ROBERT LIND SEY RICHRD BURT Correspondents The new York Times Macmillan

尊大さはかけらもない P.200

 アメリカの著名なコラムニスト故ウォルター・リップマンは、ドゴールのことを指して「ドゴールはフランスの指導者ではなく、フランスそのものがドゴールの中にある」とのべた。

 実は同様のことがアメリカの第40代目の大統領ロナルド・レーガン(Ronald Reagan,在職1981~88)についてもいえそうなもである。「ㇾ―ガンは単にアメリカの指導者というよりも、アメリカそんものがㇾ―ガンなのだ」と。

 もちろんアメリカ的人物であるから、ㇾ―ガンはドゴールと異なって、壮大な愛国心のしかけとでもいったものを持っているわけではない。尊大な態度は最もいみきらわれる行動であるから、尊大さのかけら持ち合わせていない(ニクソンは偉ぶったところがあったので、imperial President=帝王ぶった大統領、などとあだなされることになった)。

 ㇾ―ガンの人柄そのものは卒直で平明で活気があり、朗らかで人好きのするタイプである。いわば極めて平均的なよきアメリカ人 good fellow なのである。ㇾ―ガンの伝記を書いたワシントンポスト紙のルー・キャノン記者は、ㇾ―ガンにはアメリカ人が最も好ましいと考える二人のアメリカ人像が宿っているという。

 一人はとなりの家の好青年である。となりの家であるから特にとりたてて異なった暮らしや思想を持っているわけではない。ひょうっとしたら今朝食べた朝食も似かよったかも知れない。いわばわかりやすく近づきやすいのである。道で会えばあいさつの一つぐらいはするし、ちょっとした仕事なら助けてくれてたのもしく、いつ見ても元気はつらつとしている。

 もう一人は一家言を持っているが、愛すべき親戚のおじさんである。ちょっと口うるさくていつもの話はまたかと思わせるが、それでも愛情をもって語っていることはよくわかる。何よりも性格がよく、親しみがもてるのがよい。身内の人物であるからお互いの生活の状況もわかり合っており、これまた安心感がある。

 こういう人物であるから、ㇾ―ガンの語る言葉も極めて平明でわかりやすい。むずかしげな外交や経済の話をしていても、親しみを持てるのである。大統領になる直前の発言であるが、いくつかの例をあげてみよう。

  「保険は民営のほうがよい」

Right now more than half the people paying into Socoal Security will get less than they pay inーpossible as little as half...

Truth is if we could invest your and your employer's share of the Social Security tax in saving or insurance we could make a much better return than that promised by Social Security

 (今国家の社会保険制度にお金を払い込んでいる人の半分以上は、自分が支払った額よりも少ない額――おそらくは半分以下――を受け取ることになる。

 本当はあなたの支払い分雇用者国家への支払い分を民間の貯金や保険に回せば、社会保障よりもよっぽど多くの見返りがあることになる)

語りの英語としてのㇾ―ガンの英語 P.202

 お得意の小さな政府と民間活力利用の考えかたが披露されているわけだが、注目していただきたいのはその語りくちである。実に自然な口語体で、耳で聞いてわかる英語となっている。 right now で今現在の話、 more than half the people で人口の半分、paying into Social Security で人口の半分と社会保障制度に払い込んでいる人々、 will get less than they pay in で払う額より受け取る額が少ない! という真実が判明する。ついで possibly as little as half で判明した事実の実態が明らかになる。

 わかりやすい平明な英語とは、この例文のように始めから追いかけていってもわかるという要素を含んでいなくてはならない。つまり、いちいち文章をひっくり返したり、もとにもどって主語や動詞を確かめなくてもわかるということである。そのためには、意味のまとまりがコマ切れになっていなくてはならない。この文では、「ㇵハア。今の話だな」「人口の半分だな」「それは社会保障に払い込んでいる人なんだな」などといった具合に、意味のまとまりがつらなっている。聞くほうは、そうした意味のまとまりを一つずつ意識の中にたたみながら、次の意味単位に耳をかたむけて、結果として理解が成りたつ。

 ところが、この文章が次のような構成になっていたらどうであろうか。まったく同じことを言っているのだが。

Probably more than half of the people who are paying into Social Security right now will get as liitle as half of what they pay, that means they receive less than they paid in.

 これではそもそも文章そのものが長くなってしまうし、 probably と言われても何が「多分」なのかとりつくしまがなくて、意味は宙ぶらりんのままである。その答は will get as little as まで待たなくてはならない。事実この構文では will get まで、すべての意味が止めおかれている。

 次から次へと意味をなす句が重なり合っていくという平明な文の場合、耳で聞いてもわかりやすいことになる。耳は目とちがって主語をあとで確かめるなどといういうことができにくく、時間とともに消え去る「意味」を順に追わざるを得ない。したがって、なおさら「始めから追いかけていってもわかる」ということが大事である。そして耳にとってわかりやすいことは、目にとってもわかりやすいのは当然である。

 つまりㇾ―ガンの英語に見られる平明さとは、目と耳を差別しない点に特長がある。ㇾ―ガンの英語は書き手の英語ではなくて、話し手の英語である。文章の英語 written English ではなく、語りの英語 oral English なのだ。

 さらに例をいくつか見ていくが、ㇾ―ガン哲学と共に、ㇾ―ガン英語のもつ oral な側面に注目していただきた。

   「環境保護は行きすぎ」

Back in the Depression years the factory smokestack belching black clouds of coal smoke skyward was a symbol of reassurance that the good life was still possible. Today it is an evil thing to be deplored and eliminated symbole of everything that is wrong.

Now I'm not lobbying for air pollution,water pollution,or destruction of the environment in the name of progress... Yes, I'm aware of the pollution acompanying the benefits, but do we throw away the benefits to get rid of the problems or do we have faith that the technology that gave us the benefits might first possibly rid us of the problems ?

 (経済大恐慌時代には、空に向けて黒々とした石炭の煙をだしていた工場の煙突は、せいかつは今よりも楽になるという保障みたいなものだった。ところが今日ではいやがられ除去されるべきものになり、ものごとがうまくいかないことのシンボルになってしまった。

 ここで私は空気汚染や水質汚染、進歩のなのもとの環境破壊などを支持しようというものではない。たしかに産業の拡大にともなう問題はあり、それを知らないわけではないが、産業がもたらした問題を除去するために産業のもたらした恩典をすて去っていいものだろうか。産業を発展させたテクノロジーが問題解決にも役立つのだとなぜ考えらないのだろう

   「共産主義には抵抗しなくてはならない」

An executive with what musu be the world's biggest news agency recentry made a trip to Asia...

He told me that he found an almost universal anxiety over our foreign plicy. Everyone in South Korea was convinced that North Korea would attack if the United States presence was reduced...

In all of this contacts in Korea he found no hostility toward th United States. He also found a resolve on the part of the people to counter communism at any cost.

 (世界最大と思われる通信社の重役が最近アジアを旅行しました。そして各地でアメリカの外交政策に対する懸念の声を聞きました。韓国の人たちは、もし合衆国の軍隊がいなかったら北朝鮮は攻撃してくるにちがいないと全員考えていました。

 この人は韓国でいろんな人に会いましたが、アメリカに敵意を持つ者は一人もい、ませんでした。また人々は共産主義者に対抗するためにはあらゆる努力をおしまない、という気持をもっていることもわかりました

偉大な話し手 P.206

 反共主義といい、民間活力のほうが政府より信じるところといい、ここには最近になって発言力を強めてきた素朴なアメリカ人の考えることがよく出ている。東部エスタブリッシュメントのエリート(ケネディ)のように、進歩的なポーズをとるわけでもなければ、労働者や貧しい人々の声を代表する民主党政治家(ジョンソン)のように、ビッグな国内問題をビッグ・ガバメントで解決していこうというわけでもない。

 しかも、ㇾ―ガンの英語はレトリックという技巧をつくして人々の耳目を引きつけているわけではないし、壮大な表現で人々を感ぷくさせようとしているわけでもない。その点ではケネディやジョンソンとは一線を画している。ところが、平易で気どらない英語をあやつりながら、フォードやカーターの言葉とも異なるのである。

 フォードは思いつくままを生の形で出してくるというところがあった。そのため余りにも唐突であったり、こっけいなところさえあった。カーターの英語は素直であったが、一応は計算されたところがあった。脈絡を気にせずに語るのではなく、順序をたてて語るなかに正直な人柄がでてくる、といったたぐいのものであった。

 ㇾ―ガンの言葉は、むしろ「たくみな物語の語り手」の言葉である。単に平明でわかりやすいというのではない。ちゃんと「お話」になっているのである。たとえばここにあげた構文だが、共産主義の問題について語っている。ところが大上段に「韓国における共産主義の脅威は……」などと言うのではなく、知り合いのビジネスマンのみやげ話から始まっている。肩をいからせて語るのではなく、いわばなで肩の語りを展開している。

 しかもㇾ―ガンの「お話」は、すでにのべたようにすぐれて oral である。文章ではなくて音声によって伝えられる口承分化のおもむきが色濃い。後にあげる例文も、まさに一片の「お話」になっているのだが、たとえば、Now,let me explain what the situetion is and what's at issue. というところがある。これを形式ばって言い直せば、My fellow citizens. What is the situetion? Let me try to answer. などとなるであろう。

 口語体の肩肘はらない話であるから、人々はついついㇾ―ガンの言うことに耳を傾けてしまうという傾向がある。ㇾ―ガンのあだなが the great communicator=偉大な話し手とされるゆえんである。

エピローグ

あとがき

 最初に本書の企画がもち出された時、私は安易に考えていた。ケネディからㇾ―ガンまでの英語(おそらくは就任演説)を並べておいて、アメリカ現代史にもとづいた解説を加えればよいと思ったのである。

 しかし、そうはいかなかった。6人の大統領の個性を考えれば考えるほど、それぞれ特筆すべき特徴があり、いちがいに一定の英文例だけで論じ切ってしまうには無理があると判明したのである。

 そこで本書に収録されているように、さまざまな種類の英語をとりまぜて使うことにした。もとより英文の選択は恣意的なものであり、著者の独断にもとづいたものである。その点では厳密な比較・対照とは言えないであろう。ここは、ワシントンの大学でアメリカ現代史を7年かけて勉強し、結局はアメリカに足かけ14年くらしていた人間の判断力を信用していただくほかはない。

 それにしても、本書執筆中にたえず頭のなかに浮んでくる言葉があった。psycho-history である。歴史上の人物や時代精神を明らかにしようという歴史学の一方法である。歴史学があまりにも表面的事実にこだわり、定量的なもののみが真実であるかのように取りあつかわれるようになった反省から生まれた、心理学や精神分析学を応用した「内面の」歴史である。

 本書でメガロマニアのジョンソンを語り、小さな町の出身者カーターについてのべ、中西部とカリフォニアで出来あがったミスター・アメリカのㇾ―ガンについて言及する時、私たちは思わずこの psycho-history の世界に入っていたのではなかったろうか。

 もとより著者の力量不足もあって、十二分に psycho-history の世界をつくすことはできなかったが、それでも本書では一歩つっこんで現代アメリカについて語ることができたのではないかと考えている。もしそうだとしたら、著者の独断という危険と引きかえに、深みのある理解が入手されたことになる。

 本書で用いた英文は、主として合衆国政府発行の Public Papers of the Presidents of the United Statesから引用した。その他のところからの引用は本文中に明記した。英文の翻訳にあたっては、相当自由に訳させていただいた。厳密な対訳というよりも、原文を尊重しながらもこの大統領だったらこういう語り口だろうと大統領の顔を思いうかべながら訳出したのである。

 あれやこれやと言いのがれをしてなかなか執筆のエンジンがかからなかった著者をここまで引っぱって来てくれた講談社の渡部佳延氏に深く感謝したい。

  1987年 初夏

              松尾弌之

                     あとがき

*この本はロナルド=レーガン時代の著作である。

※2020年の大統領はドナルド・トランプである。ツイッターにより「ツイート」している。

2020.04.25記す。

55

渡部昇一著『日本不倒翁の発想』―松下幸之助全研究―昭和58年4月1日初版発行(学研)


 ◆松下さんの深慮遠謀 P.230~231

 見方によれば、松下さんは体面を気にしすぎたようでもあるが、私はむしろこのエピソードに、深慮遠謀ぶりを感じている。金融恐慌以来、ふ況が続いて、社会的な空気は険悪になっていた。昭和七年には、五・一五事件が起こり、その前に井上準之助、団琢磨などの財政家がテロの犠牲となった。だが、松下電器はそういう時代にも隆々と発展して、本店並びに本店工場の大建設にかかっていたから、ねたみを買う危険があるのも当然である。少しでもキズを発見されたら、たちまち悪評が飛ぶところである。

 やはり借金をしていないように世間に見せることで、底力を認めさせ、信用を高める道だと考えていたのであろう。信用があるということ自体、実業界においては何よりも力である、と、松下さんは知り抜いていたといえよう。

 これまで松下電器はおおむね順調であったけれども、やはり不況の影響は受けていた。企業全体が不景気ということは、やはり個人需要も冷えることになる。ちょうど昨今世界中の不景気の波が、日本にもじわじわと押し寄せているのに近い状況だといえよう。当時従業員の待遇がとくによかった鐘紡ですら労働争議が起こり、産業界は沈滞しきっていた。松下電器も世間同様売れ行きが急に低下し、昭和四年の年末には、倉庫からあふれるほどの在庫をかかえる羽目になった。しかも、新工場建築後間もないから資金も枯渇している。この辛い時期に、松下さんは病床にあった。さぞや焦りがあったことだろう。

 主治医のアドバイスによって、十二月二十日から西宮で出養生することになった。出かける前に、松下さんに代ってきりもりしていた井うえ(木篇+直)、武久の両責任者が、危機打開善後策案を持ってきた。その骨子はひとまず従業員を半分にして、苦境を切り抜けることであった。

 戦前の日本は終身雇用制をとっておらず、いまのアメリカのようなレイオフ(不景気による一時解雇、または臨時休職)に止まらず、簡単に解雇できた時代であった。ほかの会社もやっているから、松下もやったらどうかという提案であった。病床にあった松下さんは、この案を聞いたとたんにきらりとひらめいたものがあった。それが当時の発想としては、常識に反した飛躍であった。

 ◆生産は半減しても従業員は解雇しない P.232~233

 品物が余って困るのだから、生産は即日半減しよう。しかし従業員は一人も解雇してはならない。したがって、工場は半日勤務として生産は半減する。日給は全額を支給する。その代わり、店員のほうは休日を廃してストック品の販売に全力をあげてもらいたい。とにかくつくるものは少なくして、みんな販売員になれ、という命令を出した。そして、しばらく景気の成り行きを見てみよう。とにかく売れてさえおれば、資金の行き詰りもなく工場を維持できるだろう。半日仕事させるのに一日分の工賃を払っているのは搊みたいだけれども、その間販売をやってもらえばいい。松下電器を将来ますます拡張しようと考えているときに、一時とはいえ、せっかく採用した従業員を解雇することは、経営の信念を動揺させることになる、と考えたからだと言う。

 松下さんがこの方針を示したら、井うえ、武久の両名も感激し、「社長がその覚悟ならやりましょう、ゆっくり養生しておってください」と力強く誓った。全社員を集めてこの方針を伝えたら、みな感激して喜んだ。そして、全員の努力が見事功を奏して十二月には山のようにあったストックが、翌年の二月にはほとんど全部売り切れた。そこで半日作業を廃し、またフルタイムで生産しなくてはならないほど繁盛してきたという。

 クビ切りということが稀になった現在では、このときの社員の感激ぶりは実感することが難しくなってしまった。

 ◆松下電器は人をつくっている会社です P.251~253

 松下電器は、昭和四年の空前の不況期を馘首なしで乗り越えて、その後も着実に発展してきた。意識するとしないとにかかわらず、松下電器は終身雇用的になりつつあった。馘首あるいはレイオフが自由に行えるということが、資本主義の側面にはある。また、資本主義の背景には個人主義があり、会社は必要に応じて労働者から労働を買い、労働に見合う対価を払う。だから、欧米の経済学においては、資本を提供できるのが資本家であり、労働しか提供できない者は労働者という、実に明快な定義が成り立つのである。

   だが、松下流のように、労働が必要ない時点でも馘首しないという方針は、いわば会社が一つの"コミュニティ"(村=共同体)になり、不作でも村民を村から追い払うことができないのと、同じ理屈になった。飢饉にでもなれば村を出ざるを得ないだろうが、普通の不作ぐらいでは何とか凌ぎ合うという感じになったわけである。しか店員を教育するという機関にもなる。

 日本は幕末の開国以来、西洋式の工場とか実業の方針を入れてきたが、昭和初期の松下電器はいつの間にか"コミュニティ"に変質していたのである。

 そこでは馘首もなければ、労働を売った、その代償に給料を貰った、といった単純な意識は成立し得ないことになる。したがって、松下はいつしか店員を教育するという機関にもなる。すなわち、昭和九年から店員養成所を発足させ、小学校卒業者を対象に、三年間で旧制中学校五年間の商業と工業の両過程程度の学力をつけさせるとともに、人間的な修練をもさせた。これは封建時代のお店(たな)では、小僧から雇った人間を訓練するという慣習があった。これは日本に限らない。西欧でもギルドの親方は、徒弟としてはいった人物を訓練して鍛えるという意味で、教育的機能が職場にあった。近代になると一変して、工場は労働を売買するところと割り切っている。ところが、松下ではむかしの伝統に戻るというか、"近代的な徒弟制度"みたいな感じになった。それは店に住み込ませながら学校に行かせたという時代がしばらくあったということにも現われている。

 近代的な工場に向かいつつも、教育機関であるという伝統性を備えてきた。このことには松下さんも自信を持っている。だから、松下さんの場合、会社を大きくするのは、かつて小僧を育てたようにやるべきであるという観念に立った。このことは、つぎのエピソードからも推して知るべしである。

 松下電器は何をつくっている会社ですか、ときかれたら、「松下電器は人をつくっている会社です。あわせて電器製品をつくっています」と答えるべきであると、人事関係者を前に松下さんが、訓示を垂れたことがある。これはまったく近代の経営理念とはちがった風土であり、これこそ日本土着の経営術というか、伝統を発展的に継承したものと言えよう。

 ◆事業は"水道の水"のごとくあるべきだ P.261~262

 松下さんのエピソードの中でもとくに有名なものである。本当の事業は水道の水のごとくあるべきだ。加工された水道の水に価値がある。今日、価値のあるものはこれを盗めば咎められる。しかし、水道の水はたとえ通行人が栓をひなつて盗み飲んでもだれも咎めない。これはなぜか。価値があるにもかかわらず、その量が余りにも豊富であるからだ。したがって、豊富でさえあれば、どんな価値の高いものでもかくのごとくなるであろう。生産者の使命は、貴重なる生活物質を水道の水のごとく無尽蔵たらしめることにある。どんな貴重なものでも量を多くして、ただに等しい価値をもって提供することにある。かくして貧乏は除かれ、貧乏から生ずるあらゆる悩みは除かれていくのである。物資を中心とした楽園に、宗教の力などによる精神的安心が加わって人生は完成する。

 こういう悟りである。松下電器もいままで一所懸命にやってきた。しかし、それは商習慣による経営にすぎなかったのではないか。それだけではいけないのだ。松下電器は使命による経営にはいらねばならないのだ、と目ざめたのである。

 ◆松下電器ほど日本的経営はない P.266~267

 仕事の形態ということを考えてみると、マックス・ウェーバーではないけれども、どこの国でも仕事の背景にはそれぞれの哲学、あるいは神学があるはずである。ウェーバーはよく知られるように、その著書『プロテスタンチズムの倫理と資本主義の精神』の中で、ピューリタニズムと資本主義の勃興時の精神と関連性を指摘した。

 これは近代に現れる資本主義は、ピューリタンが個人の倫理的な生活を説き、イギリスやアメリカの民主主義や人権の形成に貢献したことを俟たなければ起き得なかったことを指摘したものだ。仮に保守的なカトリックだったら、近代資本主義がああいう個人的な形には進み得なかったと思う。だから、資本主義のチャンピオンとしてのスコットランド人が――あのような小さい国で、人口も東京の半分ぐらいしかないのに――移住したアメリカの地で、カーネギーをはじめとする成功者を輩出させたのであろう。また、イギリスでも蒸気機関車の発明で知られるスチーブンソンや、『自助論』を書いたサミュエル・スマイルズはピューリタン系の思想支持を持っているので、ウェーバーの主張は当然であると思う。そのようにして、ピューリタニズムを背景に置く近代ヨーロッパの経済組織というものができたわけである。

 他にもまた、共産主義というものになると、共産主義的な経営形態がある。インドでは、あるいはヒンズー的な思想に基づいて、また、イスラム圏社会はイスラム的な発想で商売をやっていると思う。

 だから、日本的経営という場合も、通常われわれは、"近代"を西洋から輸入したと考えているけれども、松下さん以後の実業界は確実に日本の土着の宗教にインスピレーションを受けている。戦後、外国人がなぜ松下電器に興味を持ったかと考えるとき、外国人から見ると、松下電器ほど日本的経営はないからだ、と思う。他の日本の会社も多かれ少なかれそうなっているのであるが、松下さんは最初に自覚した人だけあって、そのユニークさが外国人にとくに目立つのだ。

 ◆松下流の発想はアメリカの事業部制に近い P.282~284

 昭和八年五月、松下さんは事業を製品分野別の責任経営にすることを決定、まず工場群を三の事業部に分け、ラジオ部門を第一事業部、ランプ・乾電池部門は第二事業部、配線器具・合成樹脂・電熱器部門は第三事業部とした。翌九年二月いは、第三事業部から電熱器部門を分離させ第四事業部とした。この機構改革によって、各事業部門は工場と出張所を持ち、研究開発から生産販売、収支に至るまで一貫して担当する独立採算の事業体になった。これはほかにない制度であって、戦後事業部制がアメリカからはいってきたが、松下さんはそれを戦前にすでに実現したのでである。

 松下電器の事業部制は、昭和二年に電熱部をつくったときに始まるが、その結果はなかなかよかった。各部門が独立した会社のようであるため経営社の育成を容易に成し得たからである。松下さんのこれは要するにどんぶり勘定にならないための工夫だと思う。とかく組織が大きくなると、どこで儲けていてどこでマイナスになっているかの把握が甘くなりがちだ。ところが、各事業部ごとに独立採算制を採用すると搊益がひと目でわかるため、どの部門、どのプロセスにネックがあるか判然とする。

 松下さんの話の中に何度も出てくることだが、自分は体が弱いから横になっている時間が多い。したがって、自分はアイデアを凝らし部下を通じて事業を実現するんだという基本認識がある。たとえば陣頭指揮ができて、毎日いくつかの工場を馬車馬のように駈けめぐるほど体力に自信がある人でも一つの工場を長時間視察するわけにはいかないのだから、実質上はざっと見るだけに終わろうが、自分がまわっているということでごまかされるところがある。松下さんは、初めから自分は寝ている、そんなに動きまわれないということであるから、人に任せざるを得ない。任せざるを得ないであるなら、搊益や問題点がはっきり現われるシステムが欲しいというわけだ。

 この松下流の発想がアメリカ式の事業部制に近かったということである。いわばこれは「恐竜が巨大化したあまり滅びてしまう」という事態がくる前に、弊害を未然に取り除こうとする努力の跡だと思われる。

 ◆労働組合結成式に社長が出席 P.291~292

 GHQ(連合国軍総司令部)は、経済民主化政策の一環として、労働組合の結成を奨励した。松下電器でも昭和二十一年一月に、一万五〇〇〇人、四十二支部の松下労働組合が結成された。大阪の中之島中央公会堂で結成大会が開かれたおりに、松下さんは自分の社員が組合をつくるのなら祝辞を述べようと出席を求めた。

 組合の結成を指導していた社会党の加藤勘十氏(のち代議士、労相)はびっくりした。労働組合の結成の場所に社長(当時は社主)が出席したのは見たことがない。社長に挨拶させるかどうかを社員に聞いた。これは松下さんにはショックだったらしい。これまで行く先々で敬礼されていたのだから、世の中は変わったとつくづく思ったことであろう。しかし、挨拶させるかどうかを問うたら、みな賛成したので、登壇して祝辞を贈ったところ、その立派な挨拶に接した組合員一同から万雷の拍手を受けた。加藤氏もいたく感心したという。これは松下さんが資本主義の弊害を戦前において克服しつつあったことの一つの実証である。

 ◆国際競争に勝つためには週休二日制が必要 P.315~319

 昭和三十五年度年頭の経営方針発表会で、まず松下さんは、これからの松下電器は国際競争にうち勝たなければならないと前置きして、つぎのように訴えた。

 そういうふうになりますと、私はどうしても週二日の休みが必要になってくると思うのです。それはどういうわけかと申しますと、毎日が非常に忙しくなって、今までゆっくり電話をかけておったというようなことでも、ゆっくりかけていられない。三分間かけておったものが、一分くらいですますように、しかもそれで用件がチャンと果たせるように訓練されなければならない。工場の生産もまたそのとおりであります。

 そうなってまいりますと、八時間の労働では相当疲れるということになります。ですから、五日間働いて一日は余分に休まなければ体はもとに返らない。ということになろうと思います。そこまでの競争になります。アメリカがすでにそうなっているのであります。そのかわり、アメリカは、日本の何ばいかの一人当たり生産をあげております。そういうことで、アメリカでは経済活動がどんどん向上発展して行きますが、それとともに、やはり人生を楽しむという時間をふやさなければならない。そういうために二日の休日のうちの一日をあてるのであります。

 現在では主流になった発想だが、昭和三十五年に、よくここまで言い切ったと感心する。日本の多くは、休むことに対して、悪いことをしているのではないかという後ろめたさを感じがちの時代であった。いわんや松下さんのような勤勉で、仕事こそ本当の人生であるというようなことを言っている人は、むしろ休暇を敵視する側に回るものだ。だが、私はこうした先取り的な発想の裏には、松下さん自身が体が弱く、休む機会が多くそういうときにいろいろと考えたという経験が大きくものを言っているような気がする。休むことの大切さを肌で感じていたのである。

 まだ週五日制などほとんど言われないころであるから、これは世論に引きずられてやったのではない。松下電器は、戦前、ほかの会社が電休日を休日に振り当てていたころから、学校と官公庁だけしか実施していない日曜を休むという制度をとった最初の企業の一つだった。週休二日制もその考えの延長だと思う。余暇時代とか言われるようになったのはそれから数十年後であるから、その洞察力は感嘆すべきものである。松下さんは、後年しきりに人間論を唱えるが、私はこの点だけをとってもそれを言う資格があると思う。

 しかも、構想を立てただけではなくて、会社を一日休ませるという大犠牲において実施したのでるから、まさに立派な発言の資格である。松下さんがいろいろな角度から人間論にふれることに対して、専門家の諸氏が反感を示すのをときどき見ることがあるが、やはり松下さんは人間を論じる資格のある人と言うべきである。何も文学部を出た人間とか、宗教家とか文筆家以外の人間は、人間を論じてはいけないということはない。しかも、松下さん以上にその資格がある人は数少ないと思う。

 ウェイン・W・ダイアー(Wayne Walter Dyer、1940~2015年は、アメリカ合衆国の著作家)は、勇気とは批判のまっただ中に飛び込むこと、自分を信頼することであると言っている。松下さんが、かつてナショナル・ランプを売るとき一万個を無料でバラまいたこと、アイロン発売に際して国内で毎月販売されている総台数より多い台数を一機種で生産するというような大胆なことを行なっている。新しくは五ヵ年計画といい、週休二日制といい、いずれも自分を信じているから、周囲の批判を気にせず、勇気を持って断言、実行できたのである。

※参考;クラレ(株)は昭和五十年週休二日制になる。

 ◆マルクスを読まなければ共産主義がわかる P.323~324

「資本家というよりも、富める労働者です」という答え方も、やはり考えてみると、単なる会話以上である。というのは、松下さんの場合は資本家、労働者階級を二分して見ると、やはり富める労働者に近い。戦前のように資本家と労働者の差が大きいときも、松下さんの暮らしが、同じ工場で働いている職工さんと何百ばいのちがいがあったとは言えない。戦後の財閥解体の際は、財閥扱いされたが、調べてみたら資産の中に別荘がなかったと言われている。

 ところがみんなが平等になっているはずの革命を起こした国にあっては、現在一握りのノーメンクラツーラ(特権幹部)とその他の者との差は、資本主義が一番悪い時代の、資本家対労働者以上とも言われている。資本家と労働者の差ならば、その差は富だけだが、ミコヤン第一副首相の国では権力の差という決定的な要素が加わる。こう考えてみると、松下さんはわずかの応対の中において、本当は相手にとって一番痛い体制批判をやっているとも見られる。だが、それがとげとげしい体制批判ではなくて、やんわりとした、飄逸でユーモラスな言い方で応答したというところに感ぷくするのである。「このようなことができるスケールの日本人が各国の大使として勤務していたら」などと考えたくなる一コマではないか。

 それにしても、なぜ松下さんが共産国の問題個所をズバリと指摘することができたのだろうか。松下さんは「若いころ自分はマルクスもレーニンも勉強しなかったので、そいう考えにとらわれずに済んだ」と言っている。

 若いころ一所懸命左翼イデオロギーを勉強した者は、とかくすると最後までそのイデオロギーや固定観念に取りつかれてしまい、それを捨て難くなる。必ずしもけちな考えだけからではないにせよ、若いころ苦労して学んだものは捨て難くなる。ところが松下さんにはそうした先入観がなく、仕事を通じて社会や政治を自分の頭で考えてきているし、失業を救い職を与え、給料を与え、できる限りの生活水準の向上を図って具体的な福祉をやっている。いわんや自由の抑圧などは絶対にやっていないので、心の底にやはり自信というものがあったのだろう。ミコヤンに会って洒落が出るほど心に余裕があったと解釈すべきだと思う。重ねて言うが当時まだソ連というと、とくにインテリなどでは、一目も二目も置くような雰囲気の中にあって、このような応対をした日本人がいたことを私は嬉しく思う。

 ノーメンクラツーラ」については、Nomenklatura『ノーメンクラツーラ』ーソヴィエㇳの赤い貴族ーミハイル・S・ヴォスレンスキー 佐久間穆・船戸満之訳(中央公論社)

 ◆これからも"不倒翁"である P.348~349

 これまで私は、松下幸之助という日本を代表する最高の国際人であり、また国民的ヒーローである人について半生を見て勝手な考えを述べてきたが、やはり底を貫いて最後に浮ぶ一つの印象を一言で言えば、"不倒翁"ということである。この人は倒れない人である。また倒れたかに見えても何度でも立ち上がる人である。

 戦前の危機のときも、つねにつまずきそうでありながら決して倒れず、よろめいた感じのときも足を踏み直すと、さらによくなっていた。日本のだれもが避けることができなかった敗戦のときも、公職追放という憂き目を見ながらもみごとに立ち上がった。戦後の不況の何度目かの波にも、倒れずにみごとに立ち踏んばり続け、発展し続けた。もしこれから未曾有の不況があって、すべての産業が大打撃をこうむるようなことがあっても、松下さんや松下精神の継承者が健在である限り、松下電器は、倒れずして踏んばり、たちまち立ち直るであろうと思うのである。

 最近も篠田雄次郎氏(社会経済研究所所長)が世界日報(昭和五十七年十一月十八日)紙上で伝えるところによれば「松下幸之助氏はヨーロッパのスターになっている」という。それは不況と経済の弱体化に悩むヨーロッパが、日本に注目するようになったとき、具体的には松下さんをイメージするのである。

 日本経済も松下さんのごとく不倒でらることを祈って筆を擱くことにしよう。

※私(黒崎)はこの本を読み、写しているとき、次はどんな松下電気にはどんな事実があったのだろうか、松下さんの考えのずば抜けたものはとと、読み急ぐことがしばしばであった。

※参考:倉敷レイヨンのTSQC の記事の中に、クラレ(株)大原社長は昭和38年1月――「松下模倣」を指示している。

※関連:松下幸之助

2020.05.10記す。2021.05.12変更、追加。

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アンドレ・モロア著 大塚幸男訳『初めに行動があった』1967年4月20 第1刷 一五〇円・岩波新書版


 "格言"と面白い実例に富む

「行動することは、身ぶりや言葉によって、外部世界を、自発的に変えることである」。こういう定義にはじまるモロワの行動論は、実生活のなかでも知性のはたらきにとらわれやすいひとびとを相手にしているようにみえる。だが、他方では、知性を無視して暴走する行動主義者をいましめるために書かれているようにもみえる。前者は既成の文化や秩序によりかかる人びと、後者はそういうものを破壊してしまう人びとであって、どちらも現代人のタイプである。

 行動の一般的考察のあとにつづく「行動の諸形態」では、行動の特質や行動的人間にふさわしい徳が、軍事。政治・経済・科学の諸領域で具体的に論じられている。その中で、いちばん行動のイメージがはっきりするのは、皮肉なことに軍事行動である。しかし、核戦争の危機をはらむ現代では、「軍事行動は戦争に先行し、戦争を考えられないものにし、あるいは戦争を在来の通常兵力戦に限定する」ような抑止行動になる。それは単なる軍事行動ではなく、人間を主体とする、あくまでも人間的な行動であって、モロワはそういう行動の形を現在の他の文化行動のうちにたしかめようとするわけである。

 外部世界をかえるとは、人間が自分にとって危険な未来を、それとは違った未来に変えることでもある。このような見地から書かれた「行動の未来」で、モロワが念頭においているのは、ヨーロッパの未来である。そこでは、「到るところで過去の重みが指導者たちを圧倒し硬化させている」。ヨーロッパは転落の危機にあるが、見方を変えれば、それはヨーロッパ人が深刻な変革の時代に生きているということである。彼らにはなお、その時代を乗りこえる知的労働力という切札がのこされている。だから、自発的に外部世界を変えるという行動の定義は単なる定義でなくなるのである。「もし自分の意見を聞いてもらう合法的手段が拒絶されたときには、国民は暴力に訴える権利がある」。こういう格言ふうの文章はいたるところに見いだされるし、面白い実例がゆたかなので、私たちは、ほとんど違和感を感じることなしに、この本を読み終わることができる。フランス人の考えかた、とくに、モロワもそのうちにあるモラリストの考え方には、たしかに私たち日本人の考えかたにつながるものがある。

 だが、今日の行動の大部分が集団的なものとして理解しているモロワが、この行動について述べているところで、集団の「長」たるものについてしか論じていないのは、いささか物足りない感じがする。なぜなら、このような行動では、実は、集団に属するひとりひとりの行動も、指導者のそれにおとらず重要だからである。このような物足りなさは、「行動の諸形態」のところどころに感じられるが、それは、モロワがヨーロッパ人であり私たちがそうでない、というちがいにもとづいているようにおもわれる。

 だから、私たちはこの本を私たちの立場に立って読みわけねばならぬ。もしかすると、私たちはさしたる考えもなしに行動ばかりしているのかもしれないのだが、そうだとしたら、私たちの行動論の題名は「初めに知性があった」とした方がいいくらいなのである。

※『週刊朝日』昭和42年。の記事。

※私の本箱にあるモロワの著作
1、新庄喜章・平岡篤頼訳『フレミングの生涯』(新潮社)¥420 昭和39年10月30日 五刷
2、水野成夫・小林正約『英国史』(上巻)(下巻)(新潮文庫)¥120、¥120 昭和35年6月14日 岡山市吉田書店
3、河盛好蔵訳『結婚・友情・幸福』(新潮文庫)¥70 昭和27年3月21日購入

2020.05.14

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ポール・ボネ『不思議の国ニッポンVol.9』最近ニッポン事情昭和五十九年十月二十五日初版 300円・角川文庫


 お茶はなぜタダか

 ある日の昼食時、東京都心のビルの地下にある関西系のウドン屋さんに入った。友人と私が注文したのは"天ぷらウドン"である。

 若くてあまり愛想のよくないウェートレスが注文を聞きに来たときに、アイスウォーターの入ったコップを置いて行った。

 私たちは、ウドンを食べ終わり、お茶を飲みたいと感じたので、ウエートレスを呼んだ。

 すみませんが、お茶をください

 「お茶は"ウドンすき"の方だけです」

 と、彼女は極めて事務的な口調でいった。私は内心大層おどろきあきれたが、それでもなおお茶を飲みたかったので「それでは、お金を払いますから、お茶を持ってきてください《と頼んだ。

 すると彼女は変な客だという顔で私をながめ、」「当店ではお茶は販売しておりません」といった。

 話はこれで終りである。

 日本では、コーヒーを飲んでも、紅茶を飲んでも必ず料金をとられるが、日本茶はタダである。したがって料金の安い料理に高価なお茶をつければ店が搊をするから、せいぜい"ウドンすき"を注文した客に出す程度だと、その店が規定したとしても客は文句がいえない。

 ウドンを食べた後は日本茶が合う。コーヒーとも、紅茶とも合わない。といって、店を出ても、日本茶だけ有料で飲ませる店はないから、とうとう私たちはオフィスまでがまんして、そこでようやくお茶にありついた。茶を喫する習慣は、中国からヨーロッパへ伝わったもので、当然、日本でも古くから茶を喫する習慣がある。

 この国で企業を訪問して応接室に通されると、まず制服を着た女性がうやうやしくお茶をささげ持って現われ、伏し目がちに客の前にお茶を置き、丁寧に一礼して去る。私はこのお茶を遠慮なくすすってみる。そのお茶の味でその企業の体質というか、姿勢というか、格というか、そういうものがわかる。

 もちろん、私がそこまでお茶の味を理解するには一〇年余りの歳月を要したことはいうまでもない。

 応接室の話が長引くと、やがて紅茶が運ばれて来たり、コーヒーが運ばれて来たりする。しかし、今度は往々にして、ビル内の喫茶店から運ばれて来たものであることが多い。

 つまり、日本茶だけは企業の秘書室だかどこかでいれるのである。そして、日本茶だけは客の選択をきかずに(たとえば「コーヒーですか,紅茶ですか」という風に)儀礼として客の前に置く。

 日本の料亭に招かれて、主人側よりも先に到着してしまったときなど出されるお茶の美味なことは、言葉では書きあらわせないほどであるが、一方、列車の食堂などで出て来る色がついているかいないか紙一重といった感じのお茶などは、お湯との区別がすこぶるつけにくい。

 すなわち、料亭などの高価な料金を考えれば、たとえ最上級のお茶を使っても十分にペイするのだろうし、逆に列車食堂《のウナ重などに高価なお茶を用いたら、とても引き合わないということなのであろう。

 そういえば、列車の中と、国鉄の駅だけは、日本茶をプラスチクスの容器に入れて売っているが、これがまた世にもおそろしい日本茶で、私は一度試してそれきりになっえしまった。

 私には、中国の故事に詳しい中国人の友人がいるが、かつて清朝時代の中国では、お茶に狂って破産した資産家が何人もいたそうである。しかし、そういう人々は本当の粋人として評価され、酒色に狂ったり、バクチに狂って財産を減らした人々よりも、ずっと尊重されたそうである。

 なにしろ、そのころには、茶一グラムが銀一グラムに匹敵するといわれた逸品まで存在したそうで、いかにも舌を大切にする中国人らしい話である。

 その話を聞いた後に、台北や香港うぃ訪れると、なるほど、中国茶を喫して料金を支払う専門店が何軒もあることを発見した。そして、それらの店では何種類の茶が、かなり高価な料金で売られていた。

 日本の方々は、なぜ日本茶を飲料として販売することがないことに、疑問を持たないのであろうか(もちろん、そういった店が皆無だと断定するほどの知識を私は持っていないが)。

 あるいは、通常の喫茶店のメニューに、コーヒー四〇〇円、紅茶四〇〇円、日本茶四〇〇円という風に並んでいる店がないのは、どいうわけであろうか。

 よく、日本の人は、ヨーロッパでは水まで有料だという。たしかにそのとおりである。sじかし、水にも味があって、有料のエビアン水はたしかにうまいのである。

 フランス人はコーヒーこそ飲むけれどもいわゆる tea はあまり飲まない。tea を飲むのはイギリス人で、あのまずい食事に耐えているイギリス人が、どうしてそこまで凝るのかと思うほど tea のいれ方に凝る。

 ただし、イギリスおよびその殖民地などで登場する tea は日本の紅茶とは似ても似つかぬもので、それは black tea なのである。紅いのではなく、黒く、そして濃いのである。香港に行く機会のある人は、ペニンシュラ・ホテルかリパルスペイ・ホテルで tea を注文してみるとよい。まさに黒ずんだお茶が銀のポットに入って静々と運ばれて来る。それに、熱湯のポットとミルクのポットがついているのは、薄めるためのものである。

 私が提案したいのは、このイギリス式のお茶のサービスを、日本でも有料で実行したら《どうかということである。ミルクは不要だとしても、茶葉の入ったきゅうすと、お茶をサービスして、濃淡は客に任せる。

 日本茶は英国茶以上に種類が多い。かといって一般家庭では一斤何万円もするお茶はおいそれと買えない。きゅうす一杯分なら注文して飲んでみようという気になる。

 「お茶は文化です」

 と、わが中国の友人はいった。彼の父親は蘇州の人で、晩年は運河に面した料亭に上がり込んでお茶ばかり飲んでいたそうである。

 日本の茶も、茶の湯という特別な世界まで踏み込まなくとも、一般的なお茶がすでに日本文化である。英国茶がダージリンとかセイロンとか産地を特定するのに対して、静岡とか宇治とか狭山とかいう、それぞれに産地を特定して愛好する人も多いだろうに、外食時にお湯にわずかな色のついたお茶しか飲めない。これは大きな矛盾ではあるまいか。日本の国内線の旅客機も、どうしてああオレンジ・ジュースばかりサービスするのだろうか。あれも日米貿易戦争の余波なのだろうか。しかし、多分,オレンジジュースのほうがサービスしていると思わせるのに役立つのであろう。

※ポール・ボネ(Paul Bonet) は、在日フランス人で、日本で長期の経験を積んだビジネスマンと自称した作家。代表作は『上思議の国ニッポン』など。

 経歴未詳。実際は作家・評論家でメリー喜多川の夫で藤島ジュリー景子の父親の藤島泰輔のペンネーム。

 『週刊ダイヤモンド』誌上で、「在日フランス人の眼」と題したエッセイを週に一度のペースで連載。1970年代半ばから1980年代を経て、1990年代半ばまでの日本の内外の政治・外交・事件や諸々の風潮について、時折り休載を挿みつつ歯に衣着せぬ筆致で論じた。シリーズ『上思議の国ニッポン』として出された(ダイヤモンド社で22冊、内21冊が角川文庫で再刊)。

2020.07.04記す。



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植松 正著『刑法エッセイ』(勁草書房)1965年7月25日 第1刷発行


 赤穂浪士と喧嘩両成敗 P.353~P.371

   一 片手落論

 昭和三九年の十二月でブームの山を越したようだが、今年もまた暮になれば、「忠臣蔵」関係の演劇類が相当数上演されることは必定である。昭和三九年は、NHKが特別に力を入れた長篇テレビ番組大佛次郎原作「赤穂浪士」が約一年間も続けられた関係で、特別に世間の関心を呼んだようだ。私も時々は受像機の前に坐ったことだった。ことに松の廊下の刃傷の場と吉良邸討入の場は、やっぱり面白がって見た。筋もよく知っていることをこう何べんも見たがるところが、われながら妙である。しかし、今の頭で見れば、前に見たときとは違うことを感ずるものである。

あのテレビでは、本懐を達してから後の浪士の処分に関する幕府の評定について、新井白石の意見具申というのが出て来るのに出会って、私はいささか面くらった。私はあれを荻生徂徠のはずだと覚えていたので、それが新井白石になっているのを見て、自分の記憶ちがいでもあろうかと思い、さっそく手もとの史書を開いてみたところ、浪士処分の行なわれた元禄一六年(一七〇三年)には、白石は幕府に登用されていないのだった。彼の幕吏登用は、それより六年後の宝永六年(一七〇九年)である。だから、これは私の記憶ちがいではなくて、作者の虚構であることになるが、それにしても、なんのために徂徠を白石に替えたのだろうか。白石の方が通俗的によく知られているからかと思うが、徂徠だって有名なんだから、史実どおりでいいではないか、などと考えてみたりした。いくらかその思想傾向を知る者にとっては、やはりあれは徂徠であるがふさわしい気がするのである。

 そこで、全体として、史実とどう違うのかという興味もわいてきたとこへ、東大史料編纂所の所員松島栄一氏の著書『忠臣蔵』が出版されて、ベスト・セラーズにはいった。私はいわゆるベスト・セラーなるものを読みたがらない方なのだが、この時は、さっそく一本を購って読んでみた。そうして、いろいろ興味のあることも知ることができた。あの劇では、重要な役をしているのが上杉家の江戸家老千坂兵部などという知恵者も刃傷事件よりも前にこの世の人ではなくなっているのが史実だということも教えられた。その他、およそ赤穂浪士関係の史実についての私の現に有する知識は、松島さんのこの著書の範囲をあまり出ていない。だが、私はこうして少しばかり史実に興味を持って本を読んでいるうちに、浪士討入の原因にきわめて密接な関係のある「喧嘩両成敗」という法理のことに関心を呼びさまされた。

※私も1965年1月に購入ていた。

 浅野長矩は日ごろの遺恨から吉良義央(きら よしなか)に殿中で斬りつけた。そのため浅野は即日切腹仰せ付けられたが、吉良には何のおとがめもなく、かえってお褒めの言葉さえ賜った。史料によると、老中は将軍の命をふくんで高家詰所に臨み、「上野介儀公儀を重んじ、急難に臨みながら、時節を弁へ、場所を慎みたる段、神妙に思召さる。是に由て、何の御構もなし、手疵療養致す可き上意なり」と伝達したということである。その後の経過も、まさにこの線に沿ったもので、結局、浅野家は断絶、家来は浪人しなければならないとことに対し、吉良にはもと通りの出仕を許したのである。

 この処置はいわゆる喧嘩両成敗の原則に反し、きわめて片手落ちであることの不満が浅野家の側に生じたいうことである。現代のいろいろな著述には、そのような記述が見られる。松島さんの本にも、「鎌倉幕府の御成敗式目以来の武家法制を一貫していた喧嘩両成敗の原則が、この場合、大きくはずされてしまったことは、注目すべきことである。吉良に比べて、浅野に対して片手落ちの採決であった、という批判が生まれるのは、このためであるし、また事件が、さらにつぎの事件に発展する一つ原因もまたここにあったといえる」(一八ページ)と記されている。要約すると、吉良には何のおとがめもなく、浅野だけが厳しい処分になったのは、喧嘩両成敗の法理に反するから、その片手落ちの政道つまり偏頗な裁判に対して抗議する気持が、徒党を組んで国禁を犯してまで仇討ちをするという事件を生む大きな要因になったという風に見られているのである。

   一 抗議か復讐か

 もちろん、これが仇討の唯一の動機だというのではないが、これが主要な原因であるという見かたもあるようだ。討入の時に吉良家玄関前に立てておいた同志連署の「浅野内匠頭(たくみのかみ)家来口上書」によると「高家御歴々に対し、家来共鬱憤を挟み候段、憚りに存じ奉り候えども、君主の讐、共に天を戴くべからざるの儀、黙止し難く、今日上野介(こうずけのすけ)殿御宅へ推参仕り候。ひとえに亡主の意趣を継ぐの志までに御座候。」(原文は漢文)*黒崎記:(松島さんの本一一五ページ)云々とあるだけであるから、表面には偏頗な裁判に対して抗議するということは明言されていない。たとえ内心そうであっても、当時の一般事情からいって、そのような大それたことを表明するわけにはいかなかったのかもしれないと考える余地は十分あるけれども、表むきには、あくまでただ主君が吉良を討ち損じた遺恨を家来として晴らしてやろうと思って、この挙に出たということが言明されているだけである。世間普通の解釈では、その言葉どおり、主君の遺恨を晴らすための仇討ということになっていて、それが演劇その他の作品にもそのまま受け入れられているのである。

 こういうわけだから、裁判に対する抗議というのは、思想的な深みを付けた一種の解釈なのである。しかし、後世の者がそんな深みを付けたりするまでもなく、その趣旨を浪士みずから明らかにしていてくれたとしたら、これはすばらしいものだったはずだ。表面どおり受け取っても、武士道地に落ちた当時の風潮のなかで、あれだけの壮挙をやったということは、やっぱり讃えられてよいことだったろうし、忠義という道徳がこの上なく高く評価されていた当時の倫理観を背景にするかぎり、浪士たちの純粋な高揚された心情は、それなりに賞讃に値する面を持っているとは思うが、しかし、表面どおりとすれば、結局は、私怨を晴らしたにすぎない。ことに、浅野が吉良を斬るに至ったいきさつ(ゝゝゝゝ)が、芝居や講談の脚色しているように、はなはだしい意地わるな吉良の挑発に原因するものとすれば、もとより浅野側したがって赤穂の浪士に同情を持つのが人情だけれども、そこのところに、残念ながら、史実が明確でないらしい。

 前にも言ったように、私はあまり史料に当ったわけではないので、史実については、おおかた松島さんの著書の御厄介になっているのだが、それによると、「浅野がなぜ殿中では御法度になっている刀を抜き、切りつけなければならなかったという理由は、どうもよくわからない」(一〇ページ)という結論になっている。しかし、松の廊下の刃傷の時に、浅野は「この間の遺恨、覚えたか」と声をかけて斬りつけたという事実があったというのだから(黒崎記:一三ページ)、あの事件の前に浅野が吉良に対し遺恨に思うような事情のあったことは察せられる。だが、遺恨に思うのが当然なほど吉良が悪いのか、それとも浅野が思いすごしをしているのかは、判明しない。吉良という人物については、驕慢だとの評(室鳩巣『赤穂義人録』)でもあるが、知行地では名君だとの評(尾崎士郎述)がもっぱらなくらいだから、頭から吉良が悪い奴ときめてしまうわけにもいかない。逆に、浅野の短慮も定評のあるところのようだから、この刃傷事件の原因自体、もう少し確実な史実があらわれないかぎり、浅野側に分があると決めてしまうわけにもいかない。そこで、この点をふ明のままにしておいたのでは、浪士の討入はただの復讐であって、あまり深味がないことになる。

 もっとも、単純な復讐であっても、復讐それ自体が一種の美徳であった時代の感覚では、浪士の行動は賞讃に値するものだったに相違ないものだから、今日からそれを見ても、浪士の心境は買ってやらなければないと思う。けれど、これが単に亡君の意趣を遂げさせたというだけの私怨事件ではなくて、亡君に対する裁判の不公正に対して抗議するという大義名分がハッキリしていたとすれば、その思想に対しては、特別に敬意を表さなければならないものを覚えるのである。その点はどうであったのだろうか。抗議だという解釈のあることは前に述べたが、それが勝手な解釈を附会したのではなく、史実という証拠にもとづく解釈であるならば、裁判思想史上の出来事としても、まことにすばらしいものである。しかし、その証拠を私はまだ示されていない。浅野の家臣たちが吉良に対して個別的な暗殺という手段によらず、大挙結党して討ち入るという手段を選んだところに、なにかその解釈によるようなものが或るいは存在するのではないかと思うのであるが、そのへんは歴史家の教えを待つよりほかはない。

 それはそれとして、かりに、彼等が吉良の首級を挙げることには、単に亡君の意趣を継ぐだけの目的しかなかったとしても、刃傷事件についての幕府の裁判に対する不満を間接に表明することにはなるかもしれない。吉良に対するおとがめが全くなくて、浅野側だけが厳重な処罰を受けたのであるから、その裁判のふ正を不満として討入事件を引き起こしたのだとすれば、その不満の当否は別として、裁判に対する抗議であることは明らかである。ところが、ここにも、一応の疑問がある。裁判に不満だから事件を起こす気になったのか、それとも、この裁判に対する気持とは関係なく、主君が吉良を討とうとして果たさなかったこと、つまり、法律的にいえば殺人の意図が未遂のままに終ってしまったことについて、亡君の意志の実現を図るために、吉良を殺す気になったのか、そこに疑問がないわけではない。史料を知悉している歴史家の眼から見ると、そこはどちらかに割り切れるものなのかもしれないが、私はそこまで見尾抜けない。

 討入の時の口上書の文句を文字どおりに受け取れば、浪士たちはとにもかくにも、「ひとえに亡主の意趣を継ぐの志までに御座候」ということになり、亡君の討ち搊じた相手を生かしておいては、亡君の意趣が通らないから、家来が代って討つという趣旨になる。もっとも、浅野は切腹やむをえずとしても、吉良にも相当きびしいおとがめがあれば、しいて吉良の首を取らなくとも、亡君の意趣が通らないとまでは思わなかったのかもしれない。主人が討ちもらして、さぞ残念だろうから、代って討ってやろうという気持が起ったのは、吉良が全く処罰を受けなかったことに原因があるのであって、なんらか相当の処罰が吉良に対しても行われていたならば、その裁判に満足して、亡君の遺恨を晴らす気にならずにすんだろう、と推量することも無理ではない。そのところは、なにぶん後人の推測にすぎないが、もしそうならば、妥当を欠く裁判だとの印象を与えたことが、討入の第二の事件を招来したと言えるわけである。その意味では、この事件が裁判の公正妥当ということに無関係なわけではない。

 では、浅野刃傷事件に関する裁判はふ当なものであったのだろうか。

   一 刃傷事件の裁判

 浅野長矩は切腹させられたが、吉良義央は褒められ、ねぎらわれた。あれはふ当なのだろうか。ことに、いわゆる喧嘩両成敗の法理に背くものなのだろうか。そういうことを少しばかり考えてみた。日本法制史に弱い私のことだから、当時の裁判としての当ふ当を正確に論定する自信などはないが、今の刑法思想をもとにして考えてみることなら、「わからない」と言えない立場にある。私が何の準備もなく、忠臣蔵ブームの波に乗ってみたとき、自然にこのことに考えが行ってしまった。今の刑法思想で考えたら、どういうことになるかというのは、お座興にすぎないけれども、当時の考え方との距りを思ってみると、意味のないことではない。

 はじめに、ただ端的に、現代の日本の刑法にこの事件を当てはめてみよう。松の廊下の出会に先立って、吉良がどんなに意地わるをしたかは知らないが、たとえどんなことがあったにしても、あの場では吉良は手向いをしていない。抜くべからざる帯刀には、手を掛けた様子もない。とすれば、刑事事件としては、まったく一方的に、浅野が犯人であって吉良は被害者にすぎない。あの場所は刀を抜くことの許された場所であったならなおさらだが、吉良が刀を抜いて浅野を斬っても、正当防衛ということになるような事態であった。それなのに、彼は全然刀を抜かなかったのだから、芝居で見れば、前には人一ばい意地わるな憎々しさを見せたに引きかえ、この場ではいかにも卑怯未練の意気地なしだったように見せるし、後に討入の時には炭小屋にかくれた上、見苦しくも、みずからの手で命を断つことさえしなかったのだから、どうにも人気の涌きようはない。事実、そんな意気地なしだったのかもしれないけれども、そういう人物評価とこの事件における法の適用とは別問題である。抜くべからざる刀を抜かなかったのは、よく我慢したと賞してもよいし、なによりも、ただの被害者なのだから、罰せられるべきいわれは全く存しない。刃傷の直後、将軍が大目付仙石伯耆守久尚(ほおきのかみひさやす)を使者としてつかわし、吉良に対し、「時節をわきまえ、場所を慎みたる段、神妙に思召さる」と伝達させたのは至極あたりまえの裁断である。

 他方、浅野にたいして将軍が激怒したというのも。当然のことである。原因は吉良がつくったのかもしれないが、それは外にあらわれていたことではないし、そんな内々のことがどうであれ、将軍は大事な勅使を迎えるため沐浴して身を清めるというほどの念の入れようであるとき、その接待の主任者たる浅野がこんな事件を起こしてしまったのである。将軍綱吉が勅使を迎えるために入浴している最中に刃傷は起こったのでらり、勅使お迎えはすでに目前に迫ったのである。とすれば、おこるのがあたりまえである。将軍は、犬公方などと呼ばれるほどの失政もあって、評判がわるいものだから、浅野の処刑についてまでも、とかくたいへん気まぐれなように言われてしまうのかもしれないが、今日の目から、何のこだわりもなく、この裁決自体を見れば、浅野だけを厳罰にするという処分は当然すぎるほど当然のことであった。吉良にはたとえほかにどんな悪いことがあろうと、刃傷事件に関するかぎり、吉良を処罰したくとも、処罰のしようがないのである。

 だが、それは今の刑法思想から見ての話である。喧嘩両成敗の法理に威力のあった当時なら、吉良にもおとがめのあるのが当然なのかもしれない。その点はどうなのだろうか。こは法制史的な知識を必要とするので、そちらの専門学者の教えを乞いたいところだが、私なりに少々漁ってみたところでは、そうハッキリとも割り切れない。自信のない私としては、疑問を述べるにとどめるよりほかないが、どうも、喧嘩両成敗という法理は、こんな場合に、吉良も浅野も罰するということになるなるものかどうかには、大いに疑いがある。むしろ吉良を処罰しなくても、この法理に反するということにならないのであるまいか、と思われるのである。むろん、それは吉良がこの刃傷の原因になるような種をまいたことが明白であったと仮定してみての上での話であるから、吉良が浅野に対しはなはだしい意地悪をしたという事実がなかったとすれば、なおさら、吉良ふ処罰は当然すぎるほど当然のこととなる。

   一 喧嘩両成敗の意味

 喧嘩両成敗というのが法として明白な姿を採ったのは、室町時代(足利尊氏)の貞和二年(一三四六年)だといわれているが、法制史家の記述によると、「故戦防戦の咎につき、故戦者は理非に関係なく常に罰し、防戦者は道理あるときは無罪、無理のときは故戦と同罪に処せらるべき旨を定めている」(石井良助『日本法制史概説』昭和三五年改訂版二九七ページ。)というのであるから、決して無差別の両成敗というわけではないようだ。そうして、このように両方罰するとしても、刑はしかた方に重く、しかけられて応じた方に軽いことを原理とすることは、室町幕府の最後まで堅持されたばかりでなく(同上)、近世時代に至っても、そうであったらしじく、「仕掛けた方が判明すれば、手負死人の数に拘はらず、その方を越度として居る」(同書四八三ページ)という。いつまでそういう原理が維持されていたものか、その詳細は私にはわからないが、どうやら喧嘩両成敗といっても無差別に双方罰するということを決められていたのでもなさそうである。両方わるいと認め、双方とも処罰するとしても、そこに差を設けてはいけないというのでもないらしい。最後に引用した記述にも「仕掛けた方が判明すれば」という一句のあるところかみても、喧嘩闘争は双方いずれかが理とも非とも決しがたいときに、両者平等処罰ということだったのではないか。

 しかし、二、三の文献をのぞいていたら、これと反対に平等処罰を意味するように読めるものにも出会った。『豊臣秀吉譜』(広文庫第七冊五四五ページ)に「秀吉定法曰、凡喧嘩口論、不決理非、甲乙共当罪、是故停喧嘩也」とある、これを読み下すと、「秀吉法を定めて曰く、凡そ喧嘩口論は理非を決せず(ゝゝゝゝゝゝ)、甲乙共に罪に当たる。是、喧嘩を停めんと欲する也」となるものと思う。そう読むべきものならば、理非を問題にしない趣旨とあるのだから、ここには、前記法制史家の一般的記述とは違う意味が出ていることになる(もし、この傍点の部分がこれを異なる読みかたをすべきものとすれば、おのずから意味も違ってくる。)長曾我部元親百箇条にも「互いに勝負に及ぶ者は理非に寄らず、隻方成敗す可し。若し手出し仕るに於ては、如何様之理為りと雖も、其者罪科に行わる可き事」(原文は漢文)(広文庫、同上)とあるから、この前段の文言を見れば、理非を論じない平等に処罰する趣旨と受け取れる。こういう次第で、いったい喧嘩両成敗とは、理非を論ぜずに平等処罰することなのか、それとも、罪科ふ明の場合に平等に処罰しておく趣旨なのか、今のところ、私にはよくわからない。当初は理非を分かったが、後世は無差別に変わったのであろうか。どうも、無差別平等に処分した例もあり、理非を見きわめてふ平等に扱った例もあって、そこのところは一貫したものではなかったのかもしれない。したがって、結局、理非きわめて分明な場合には、無差別平等の処罰は、かえって正義の感覚に合わないから、適当にその理非を酌んだが、いずれが理とも非とも、そう瞭然としていない場合には、平等処罰というのがいわゆる両成敗の原理となったのではなかろうか、そんな憶測もしてみるのである。

 その疑問はそれとして、もっと大きな疑問を持つのは、あの刃傷事件が喧嘩両成敗の適用を受けるべき「喧嘩」の一種なのだろうかということである。双方のつかみあいをしたとか、二人とも刀を抜いたとかいうなら、喧嘩と考えられもしようが、刃傷事件は全く一方的に浅野が斬りつけたのであって、吉良は抜いていない。あの場面だけを見るかぎり、浅野は殺人未遂罪を犯しているが吉良はただの被害者にすぎないということは、前に指摘したとおりである。吉良の方に浅野の遺恨を買うだけの原因があったとしても、それは動機。縁由に属することである。かりに吉良がいくら意地のわるいことをやったにしても、ただ言葉の上のことであり、しかも、それは刃傷の時の浅野の言葉自体により明らかなように、「このあいだ」の出来事なのであって、現場における誘発行為ではないということになれば、なおさら、喧嘩というには、ふさわしくないことになってしまう。

 さきの長曾我部元親百箇条の引用文によっても、「互に勝負に及ぶ者」に対して両成敗法の適用があるだけで、「若し一方手出し仕るに於ては、……其の者罪科に行われる可き事」となっているから、浅野だけが一方的に手出しをした刃傷事件では、浅野だけが罰せられることになるのが、この場合の定法ともいうべき思想であるだろう。豊臣秀吉譜に引かれた具体的適用の実例も、双方抜刀して渡り合った場合のことである。それより近く、松島氏の挙げた江戸城内四大刃傷事件のうち、浅野の事件以外の三件ともみな殺人者は切腹・お家断絶の処分を受けているが、被害者側が刀を抜いたのかどうか、そちらにも処罰があったのかどうかの記述がない(一八八ページ以下)。私はこれを調べるのをぶ精しているから、いまここに記す術もないが、平等処罰なんかではなかったらしい。とすれば、浅野長矩に対して一方的に処罰が行われことは、異とするに足りないことのようである。

   一 討入事件の裁判

 赤穂浪士の討入事件の当否については、当時すでに賛否両論が対立していた。学者の意見としては、佐藤直方、荻生徂徠太宰春台等は浪士を犯罪人として処分すべしとしたのに対し、浅見絅齋室鳩巣、三宅観瀾は浪士をもって忠臣義士と称し、その行動をもって風教を正すものであるとした。それぞれ言分がはあるが、法を犯したという事実は否定すべくもない。赤穂浪士に対して世間の同情の厚かったことは、きわめて明瞭であり、それが浪士処刑後においても演劇や講談の脚色を促した原動力であり、それによってますます美化され、それが、ひいては二〇世紀後半期に至っても、なお私たちの心中に支配的な影響を及ぼしているわけなのである。

 刃傷以後浪士切腹に至るまでの種々の史実を知ると、各種の脚色を除去しても、浪士たちにはなかなかもって範とすべき行動が多かったようであるから、私などが幼少のころから好意をもって見て来た気持を変える必要は感じないけれども、法律論から見れば、有罪は有罪なのだから、たとえこれを義挙だと感心しても、その感懐にまかせた無罪放免論に荷担する気にはならない。吉良が芝居で見せられるような意地のわるいいやな奴だとしても、浅野が場所がらをわきまえずに刃傷に及んだことは、重罰に値いすることである。それによって処罰されたことが両成敗の原理に反する片手落ちの処置といってよいかどうかには、多分に疑問がある。少なくとも、今日の刑法思想から見れば、たとえ直前に吉良が浅野の刃傷を挑発したとしても、その事情は、浅野の罪責を論ずる上には情状として考慮されることではあっても、吉良処罰の理由にはならない。がんらい浅野に落度がなくて、ああなったのだとして、浅野の立場に最大限の同情を寄せるとすれば、今日なら、まさに刑の執行猶予というところである。しかし、当時とすれば、そんな制度はなかったばかりか、あの事件は、単に浅野が吉良を斬るのがもっともだというだけの同情ではすまされないものを持っていた。私怨による殺傷ということのほかに、場所が殿中、時期が勅使をお迎えの直前、しかも浅野の役目がその接待の主任者という事情もあったのだから、他の類例に基礎を置く当時の法感覚から見ても、浅野の処刑が過酷というほどのものではなかったであろう。

 浪士の討入に対する同情は、遺恨を果しえなかった主君の魂魄をなぐさめるため、その思いを代って遂げたという忠誠心に中心を置いているのである。とすれば、それも同情としては十分考慮に値することではあるが、だからといって、無罪放免にせよなどという庶民の感情論に従うわけにはいかない。これに対し、佐藤直方は激越な調子で討入の挙を非難し、最後に泉岳寺で切腹せずに上命を待つの態度を採ったことに対しては「是、人の恋賞を待て、死を遁れ、禄を得るの謀にあらずや」(徳富猪一郎『近世日本国民史』大正一四年初版三九二ページ)と言っている。諸般の史実から見て、これは酷評に過ぎるであろうが、こういう議論は近ごろにもある。浪士の討入はそれによって世評を得、就職口のかかってくるのを期待した一種の就職運動だとの見かたである。だが、就職運動にしては、あまりに苦難と危険とをともなう計画である。そのためにはもっと楽な道があったらしいことも史実の教えるところである。だから、そいう見かたも一種の感情論だと思う。

 当時、浪士の処分については三つの案があったという。放免、遠島、切腹である。その三者のうちでもっとも厳しい切腹が選ばれた。判決はつぎのようになっている。

「浅野内匠頭儀勅使御馳走の御用仰せ付けられ、其の時分柄殿中を憚らざる仕形に付き、御仕置きに仰せ付けられ、吉良上野介儀御構なく差し置かれ候処、主人の讎を報い候と申し立て、内匠頭家来四十六人徒党いたし、上野介宅へ押し込み、飛道具など持参、上野介を打ち取り候始末、公儀を恐れざるの段、重々ふ屈に候。依って切腹申し付くる者也」(原文はかな交り漢文。徳富・前掲三二八ページ以下)。

 これら三案のうちでは、切腹がもっとも重い。同情が厚かっただけに、これは世間を驚かせもしたらしいが、打首などでないのだから、それ相応に名誉を重んじた処刑であることは言うまでもない。当時としても、全員切腹でなく、切腹は首謀者一名または幹部数名だけにとどめ、他の者は遠島その他の寛刑に処するという道もあったわけだが、全員に賜死という方針が決まったのについては、人も知るように、荻生徂徠の意見が採択されたと言われている。もっとも、日光門主公弁法親王の意見との説もある(新訂増補国史大系四巻三号四九九ページ以下。)。これは、徂徠と法親王とが結論において同旨の意見であったことを示すものかと思われる。「夫れ長矩、義央を殺さんと欲して、義央の長矩を殺さんとするに非ず。君の仇と謂うべからざる也。赤穂候義央を殺さんと欲して、而して国亡ぶ、義央の赤穂を滅ぼすにあらず。君の仇と謂うべけんや。長矩一朝の怒り、其の祖先を忘れて匹夫の勇に従事し、義央を殺さんとして能わず。ふ義と謂うべき也。四十有七人の者は、能く其の君の邪志を継ぐと謂うべき也。義と謂うべけんや」(原文は漢文。国書刊行会『赤穂義人纂書』明治四三年版四三ページから現代文に直して引用。)というのが吉良邸討入という行為に対する徂徠の評価であり、これが理論の出発点となっていんる。刃傷の前に浅野が吉良に故なく侮辱されたという事実があったとすればその事情を少しも酌んでいない点が浪士賛美派からは最大の不満とされる点であろうけれども、その原因事実はかならずしも明白でないのだそうだから、今日、彼がそれを酌まなかったことうを非難するわけにもいかない。もし、この原因事実が明らかならば、それは刃傷の動機として浅野にとって当然有利に考慮されなければならないことであり、ひいては、その亡君の意趣を遂げさせた浪士の行動もまた同情をもって見られなければならない。同情論・賛美論もそういう面からななれているならば、たいへんいいのだ(演劇化されたものにおいては、そういう意味での共感を呼ぶようになっている。)が、そうではなく、ただ、主君の思いを遂げさせたとか、亡君の仇を討つたとか、そういう面からばかり議論されているのでは、単純な復讐賛美論にすぎない。したがって、それは、当時としては世間に受け入れられたかもしれないが、もちろん現代の感覚からは全く受容できないし、当時にあっても、徂徠のいわゆる「匹夫の勇」を助長しただけの行動であり、直方をもって言わしめれば、まさに」妬婦の情」に類すると評せられる理由となるのである。

 荻生徂徠の処刑上の意見は「徂徠擬律書」といわれるものに要約されている。それは徳川幕府の下問に答えたものとして熊本藩細川家に伝わったものだということである。この擬律書(鍋田晶山編『赤穂義人纂書』補遺、明治四四年国書刊行会版、一五〇ページ。)には、つぎのような意見が述べられているのである。

「義は己を潔くするの道にして、法は天下の規矩なり、礼を以て心を制し義を以て事を制す、今四十六士主其主の為に讎を報ずるは、是侍たる者の恥を知るなり、己を潔くするの道にして、其事は義なりと雖も、其党に限る事なれば、畢竟は私の論なり、其ゆへんのものは、元是長矩殿中をふ憚其罪に処せられしを、また候吉良氏を以て仇と為、公儀の免許もなきに騒動を企る事、法に於て評さざる所也、今四十六士の罪を決せしめ、侍の礼を以て切腹に処せられるものならば、上杉家の願いも空しからずして、彼等が忠義を軽せざるの道理、尤公論と云へべし、若私論を以て公論を害せば、此以後天下の法は立つべからず」

 これはたいへん理論的だと思う。林大学頭信篤はじめ儒者たちが復讐賛美の思想に基づく感激を露呈するにとどまっているのに対し、これは理論整然としている。もちろん、これは当時としては少数説である。少数説を主張すること自体つねに勇気を要することであるが、多数説が感情的な俗論であるときにおいて一層そうである。私はこも機会に荻生徂徠という学者をこの角度から高く評価する気持になった。(昭和四〇年二月二〇日)

2020.07.30記。

 


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森 恭三著『記者遍路』(朝日選書)1974.05.20 1刷 1976.02.12(木)購入

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 同行二人

 前夜、兵庫(神戸市)から乗った船が撫養(むや)(徳島県鳴門市)に着きました。午前三時半。下船した人びとは、遍路姿の人をふくめて、すぐ闇の中へ消えて行きましたが、私は待合室で夜明けを待つことにしました。前に一度きたことがあるので、土地勘はあったのですが、このたびは遍路というはじめての経験なので、ゆっくり行こうと思ったからです。

 歩きはじめたのは午前五時ごろ。一九二八年(昭和三)四月のことで、大学に入った二年目です。遍路といっても、自分でそう思っているだけ。外見は、学生朊に靴をはき、リュックを背負っていましたから、遍路には見えないはずです。ところが、一筋の街道の両側に家がならんでいるだけの淋しい撫養の町がもうそろそろ終わりになるのでは思われるころ、

「お接待しましよう」

 という声が聞こえてきたのです。私は自分のことではないと思いました。しかし、やっぱり私なのです。一人の婦人が私におむすびをくれました。まだ表戸をひらいている店が少ない時間でしたが、気がついてみると、それは遍路が身につける品物を売る店でした。

 遍路については何の知識もなかった私です。いろいろ質問し、教えてもらいました。まず金剛杖、これはお大師さまの化身です。この杖をついて歩けば、一人で歩いてもお大師さまと二人づれと考えられ、同行二人というのです。次に首からかけるズダ袋。お接待には米をもらうことが多いので、宿でその米を炊いてもらう。そのための燃料費を払うという意味で、木賃宿の木賃という言葉ができたのです。もう一つ、首からかける細長くて浅い箱。中に自分のな札をいれておき、お寺や、お世話になった方に差し上げるのです。そのほか菅笠から白い着物に、手甲(てつこう)、脚絆と一式そろえると、当時のお金でもそう安価ではありません。ことに鈴は相当な値段でした。

 私は金剛杖のほかにはズダ袋と紊札箱だけを買いました。それから菅笠と、わらじで、身固めしました。わらじをはいたのは、これが生まれてはじめてです。わらじの緒を絶対に強くしめないこと、最初のうちから遠道を歩かないことを、やかましく注意されました。

 八十八ヵ所詣では、子どものころから耳慣れた言葉です。私たちが住んでいた西宮(兵庫県)の北に甲山神呪寺(かぶとやましんじゅじ)というのがあり、そこに四国八十八ヵ所をかたどった石仏が八十八体、およそ二キロの尾根道づたいにならんでいました。毎月二十一日のお大師さまの日にはほとんど欠かさず、母につれられてお参りしたものです。西宮から甲山へは片道四キロ、そして八十八ヵ所をまわって帰ると、少なくとも十キロ以上あったと思います。いまの言葉でいうと、レジャー、体育、地方開発を信仰と結びつけたものです。弘法大師は貯水池をつくったり、近代的な感覚をもって土木工事をおこした人で、四国八十八ヵ所をひらいたのは、とくに地方開発という意義が大きかったと私は思うのです。

 私が遍路に出ようと思いついたのは、自分が神経衰弱であることを意識したからです。人間が自殺するとすれば、まさにこんな状況においてであろう、と想像したものです。その程度には、自分というものを客観的にみる余裕はあったのですが……。

 かつて読んだクルブスカヤ(レーニンの妻)の『レーニンの思い出』のなかに、スイスに亡命中、彼が強度の神経衰弱におちいり――英文翻訳ではナーバス・ブレークダウンと書いてあったと思います――彼女とともに山歩きに出かける一節があります。スターリンとちがい、レーニンに人間的親しみを感じさせる一節です。またゲーテの、たしか『若きウェルテルの悩み』のなかに、「そうだ、ぼくは一個の遍歴者だ。だが君たちは、それ以上の何者かね」という言葉がありました。このような記憶が私に、四国八十八ヵ所の遍路を思いたたせたのです。

しかし私の場合、レーニンのようなりっぱな仕事のために神経をすりへらしたのではありません。自信を失い、自分の生存に意義がみとめられなくなったからです。その後も幾度かおちいったのですが、このときには、思想的な苦悩のほか、貧乏も大きな原因だったのです。

 高等学校の入学試験の直前、父が死にました。父の母校だった第一志望の一高は遠いから、近い第二志望の大阪高等学校を受けました。だめと思っていたのが受かったので、欲がでてきたのです。それにしても、遺産も何もないのに、それから六年間も高校・大学へと進学するのが無理だったのです。大阪高校といえば大阪では名門校でしたから、たまには家庭教師の口もありました。しかし上京してからは、田舎の高校の出身者に家庭教師の口はありませんでした。いま考えてみますと、私が大学に入った一九二七年は、三月に金融恐慌が起こり、四月には若槻内閣が倒れ、つづく田中内閣によってモラトリアムが施行されるなど、たいへんな経済動揺期で、だれにとっても非常に生活の苦しい――そしてますます苦しくなってゆく――時代だったのです。

 私も、もしできるなら小学校の代用教員になって、田舎で暮らしたいと考えるようになりました。いかに世間知らずといいながら、教育の仕事をそれほど安易に考えていたのです。そのことを相談した小学校時代の恩師から、いまは教員首切りの時代で、正規の資格をもっているものでも仕事をみつけることは容易でないと、とさとされました。その手紙を受け取ったとき、なかば絶望的な気持ちで四国行きを決心したのです。

 八十八ヵ所の第一札所、竺和山霊山寺(じくわさんりょうざんじ)は撫養にあります。最初にお参りしたのは、道の都合上その奥の院で、朝早かったせいもあって、心静かに合掌することができました。お坊さんとも挨拶しました。それから札所のある本堂へまわったのですが、ここでは印帖を出すと頭から、

「五銭いただきます」

 と、ひどく事務的なのです。私は神社仏閣の印を押してもらって集めるのが趣味でしたから、よく知っていたつもりですが、印を押してもらったお礼は、こちらから聞いても「お心持ち」ということで、先方から幾らと切り出すことはなかった。そこで、まあ五銭ぐらい、それ以上でもよかったのです。ここのように事務的なのはあまり例がなく、ひどく感じを悪くしました。

 もう一つ、おもしろくなかったのは、子どもを使っての乞食です。山門を出るところで子どもたちに包囲されます。もちろん、彼らに与えるような銅貨をたくさん用意してきたわけでありません。ところが、お金をせがんで、通してくれないのです。その後、おとなの乞食が手を出す。病気のためにくずれ変形したと思われる身体の人が多いのです。私はゾッとしました。抱きついてくるのもある。私は逃げました。

 第二の札所でも、第三の札所でも、同じような目にあいました。私は、これじゃ、とてもたまらぬ、と思い、遍路の道を遠く離れ、吉野川の堤防に寝て、はじめて解放感を味わいました。私の八十八ヵ所の決意は、最初の日に早くも挫折したのです。

 私は自分の行動を正当化しようと試みました。第一の理由づけは、いまの言葉でいえば、寺院商業主義にたいする反発です。遍路から、何とか彼とか理屈をつけて、お金を吸いあげるような仕組みになっている。私は、神さまでも仏さまでもよい、合掌して神仏と向かいあい、心のなかで直接に対談したかったのです。そのためには、何も八十八ヵ所にかぎらない。その他の有名でない、人があまりお参りしない神社仏閣でもいいではないか、と思ったのです。第二の理由づけは、病気への恐怖でした。いま考えると、遍路の制服ともいうべき白装束を買うお金を節約し、高校時代の制朊の着古したものを着用して、菅笠をかぶり、金剛杖をつき、前にはズダ袋と紊札箱を垂らし、背にリュックサックを負うという、奇妙な、そして新米であること一目瞭然の恰好だったから、乞食の好目標となったのでしょう。その後、金剛杖にすがって一歩一歩やっと歩き、人相も変ってくると、乞食もよりつかなくなるのですが、吉野川堤防の段階では、そこまで思いいたりませんでした。

 もう四番、五番と札所を順番にまわる気はなくなりました。遍路の道は吉野川北岸を東から西へ阿波池田の方に行き、こんどは南岸を西から東へ出て、それから海岸づたいに南下、室戸岬をまわり、高知へとつづています。私はそのかわりに、阿波池田からさらに吉野川をさかのぼり、小歩危(こぼとけ)、大歩危を経て土佐へ抜けようと考えたのです。そこで札所を敬遠し、真っ直ぐ阿波池田に向って歩きつづけました。

 阿波池田から高知へは三日の行程でした。分水嶺の根曳峠(ねびき)をこえると下りの道が急になり、やがて土佐平野になると、様相が一変します。目の前があかるく、ひらけたような感なのです。一面にレンゲ草が咲いていました。

 高知市の東、平野の真中にそそりたつような感じの小山に第三十一の札所、五台山竹林寺があります。話は後先になりますが数年前、高知に行ったついでに、約四十年ぶりにこのお寺にお参りしました。自動車で行ったのですが、おどろいたことに、本堂の真ん前まで車が行くのです。四十年前にお参りしたときには、身体も疲れ、足を痛めていたせいもあって、一歩一歩あえぎ登った道。特に山門からの石段の辛かったこと。それがいまでは、八十八ヵ所ドライブ詣での大型バスが本堂の前に横づけになる、と聞かされました。

※五台山には牧野椊物園がる。俵浩三(たわら ひろみ)著『牧野椊物図鑑の謎』(平凡社新書)1999.09.21初版第1刷 1999.10.14購入。P.69 参考。

 この寺は、例の「播磨屋橋で、坊さんカンザシ買うを見た」と歌にある若い僧侶が修行していたとろで、ふもとの村の娘との恋仲を割かれたという物語が残っています。このような名所であるばかりでなく、山全体が公園のように開発されていますので、とくに昔と変わったという印象をうけたのかもしれません。それにしても当世、遍路はバスでまわるもので、歩く遍路がいなくなったとすれば、結局、都市周辺の札所ばかりでなく、どの札所でも大同小異と見ねばなりますまい。

 私は、バスで八十八ヵ所をまわるのには感心できません。それは私が四十年前に感じた寺院商業主義の悪い発展ではありませんか。寺院の立場からいえば弘法大師のご利益(りやく)はあらたかですが、遍路の立場からいえば、お参りして、お賽銭をあげて、それでご利益があるとは思いません。歩くこと、苦労すること、感謝することを知ること、それらが信仰といっしょになって、遍路者自身が肉体的・精神的に変わってゆく。それがご利益であって、つまりご利益は与えられるものでなく、主体的につくりだすものだと思うのです。

 四十年前、高知にたどりついてころの私には、まだそこまでの自覚はありませんでした。もう二つの難所の経験が必要だったのです。その第一は室戸岬、第二は星越峠でした。

 浦戸から津呂まで汽船に乗りました。津呂は室戸岬の手前の漁港です。歩かなかったのは、足の裏が一面に水ぶくれして、辛くてたまらなかったからです。途中から船がひどく揺れはじめ、津呂に着いたときには、低気圧の襲来を予報する強い風が吹いていました。

 室戸岬は弘法大師が荒行されたところです。岬の背後の山に第二十四番の札所、東寺があるのですが、すでに夕刻であるうえに、雨が襲来しそうなので、寺へのお参りは割愛しました。そして岬の突端に立ったのですが、低く垂れこめた雲、あわだつ海、岩をかむ怒涛、烈風とともにたたきつけてくるしぶき……。私は恐怖にとらえられました。私は水泳が得意で、小学校六年生のとき三里半(十四キロ)の遠泳をしたことがあります。水を知っているだけに、それだけ具体的に、もし怒涛にとらえられた場合、自分の身体が岩に引き裂かれる状況を、想像することができたのです。

 本能的な恐怖でしょう。人ひとりいない、暗くなりかけた岬の上です。私は長くとどまっていることができませんでした。雨が来ぬうちに、と自分自身に言い聞かせながら逃げだしました。逃げながら私は、そういう状況のなかで坐禅を組んでいる弘法大師の姿を想像しました。お大師さまも若いときには苦悩された、だからあの岩の上で修行されたのだろう、と思いました。その瞬間、自分の矛盾に気がついたのです。安易に自殺を考えていた自分が恥ずかしくなりました。私が遍路にでたこと自体、絶望的な、しかし安易な、生からの逃避という気持が、心の奥底にあったからではなかったか。死の危険からの本能的な退却の中に、私の矛盾がはっきり暴露したのでした。

 雨が降ってきました。雨具はもっていましたが、この暴風雨では、腿から下がたちまちびしょぬれになりました。ある遍路宿で断られました。遍路は朝早く出立し、陽の高いうちに宿をとるもので、私は怪しまれたのかしれません。また、本当に満員だったのかもしれません。宿を断られて私は、次の港町である左喜浜まで歩き通す決心をしました。そう腹をきめると、ふしぎに気持ちが落ち着きました。右手は太平洋の怒涛、左手は山、その間を真っ暗な街道がつづいている。わらじだがら、どんなぬかるみでも平気です。ひたすら歩きました。もう死なない、という決心でもあり自信でもあるような力が、わいてくるように思いました。

 遍路は宿に着くと、まず金剛杖をきれいに洗って床の間に安置します。食事がでると、柳行李に明日の弁当をつめます。それから食事の半分を食べ、残りを翌日の朝食にとっておくのです。つまり三食、同じものを食うことになります。四国はこの季節、サヤエンドウの最盛期で、来る日も来る日も、それを薄い醤油で煮たものだけが副椊物で、これでは身体がたまりません。それに、私の場合、最初から慣れた靴で通したほうがよかったのでしょうが、遍路に殺生は禁物と考えて靴を遠慮し、わらじにしたところ、数日目には、前に述べたように足の裏が一面に水ぶくれとなりました。夜、針を刺して水を抜くのですが、翌朝にはまた水ぶくれになっています。

 星越峠は、日和佐から徳島へ向かう七里(二十八キロ)の峠です。当時すでに、本数は少ないけれどバスが通っていて、決してけわしい山道ではありません。しかし私は疲れはてていたのです。

 もうそれまでに、金剛杖がお大師さまの化身であることは、よくわかっていました。杖にすがって一歩一歩、身体をひきずるようにしなければ歩けないのです。ひたすら仏にすがって人生行路をたどる姿に似ているではありませんか。ただし、仏にすがるといっても、自分は何もしないで救いをもとめるのではありません。もちろん、生きることをあきらめたのでもない、必死の努力をつづけているのです。だから、すがるとは、我執を捨てることだと覚りました。私は仏教について無知ですし、弘法大師と親鸞聖人とは宗派がちがうわけですが、親鸞聖人の説かれた他力本願も要するにそういうことだろう、と私は考えたことでした。

 人間は死ぬとき絶対一人のはずです。しかし心のもちよう、生き方しだいで、二人たりうる。その道理を覚らせるため、遍路は一人でも同行二人といったのではないでしょうか。数学的にいえば、一プラス一ではなく、一ぷらす零なのですが、イコール一ではなく、プラスアルファになるのです。

 このようなへんぴな山道では、春とはいえ遍路の姿は少ない。その行きあった遍路がみな、私より年上なのです。体力も私のほうがあるはずです。ところが、一見いかにも弱々しい老人なのに、その努力の強さは、どういうわけでしょう。働かなくても食える人はまれで、彼らの多くは生活苦を背負っているに相違ありません。しかし何か願いごとがあって、遍路しているのでしょう。彼らを支えているのは信仰の力です。生きてゆく気さえあれば、何としても生きてゆけるのです。

 その信仰が私にはない。遍路たちは普通の人間ですが、その心には仏が宿っている。そう覚ると、遍路たちをおがむ気持ちになりました。遍路たちは行きあったとき、右手は金剛杖にすがっているのですから、左手で片手の合掌をします。それが単なる挨拶ではなく、おがむ心になってゆくのです。

 しかし私に遍路なみの信心をもてといわれてもこまります。前に述べたように、私は寺院に反発して好き勝手に歩いているのです。私は、僧侶や聖職者が大きらいであった父を思い出しました。母は真宗の信者でしたが、父はよく母に、わしが死んでも坊主は呼ぶな、お前のお経だけで十分だ、といっていたものです。無教会主義・無寺院主義ともいえるでしょうが、実際に父を支えていたのは儒教的なものだったと思います。儒教は哲学ないしは道徳の教えであって、それを生活の規範とする人は少なくないはずですが、東京の湯島聖堂を別にすれば、儒教の堂塔伽藍が全国各地にあるわけではありません。とすれば、仏像や建物は宗教に絶対不可欠なものではないわけです。それに、物の本で、回教には偶像も聖職者いない、と読んだことがあります。それでも宗教なのです。では宗教とは、結局のところ何なのでしょうか。

 高等学校の哲学概論で、カントの「物それ自体」(Ding an sich) の概念について学んだことを思い出しました。では「宗教それ自体」という概念を立てても、おかしくないでしょう。そこで私の考えは「同行二人」にもどり、心のもち方と生活態度が「宗教それ自体」の問題であって、偶像や建物や教義などは正しい生き方を覚らせるための手段でないのではないか、と考えたのです。

 では、儒教というイデオロギーが広義での宗教たりうるとすれば、マルクス主義もまた広義の宗教たりうるのではないか? この疑問に私自身びっくりしました。宗教をアヘンと断じたレーニンの正しさを信じていたからです。しかし反面、この疑問は当然でした。なぜなら、私たち学生のマルクス主義勉強会で一番問題となっていたは、生活態度の問題だったのですから。

 ある条件のもとで、ああすれば、こうなる、という、あるがままの関係をあきらかにするのが科学です。資本主義はその内包する矛盾のため崩壊し社会主義に移行する、といっても、放置したままで自然に移行するわけではありません。人間の行動が必要なのです。「なぜ……ねばならないか」を教えてくれるのは、いわゆる科学ではありません。人道主義、倫理、宗教、いろいろあるでしょうが、私はマルクス主義のなかに、科学性と並行して、宗教性を感じたのです。私に必要なのは、個の存在意義を紊得させてくれるものでした。私は思いました……信心によって、弱い人間が生きる気力と能力得るように、私もマルクス主義を勉強することによって、強く生きることができるようになるに相違ない、と。この希望が私に勇気を与えました。

 どうやら神経衰弱は克朊できたようです。私は峠の頂上で、長い間、あおむけに寝ていました。東京に帰ろう、そして苦しんでいる人たちにまじって苦しんで生きよう――そういう思いが去来しました。もう陽はだいぶかたむいています。また夜道になるかもしれない、と思いながら立ち上がりました。足は重いけれど、心は軽いのです。峠を半分下がったあたりで、後ろからきた乗り合いバスが私の前でとまりました。乗れというのです。停留所でもなければ、私が合図したわけでもありません。以前の私なら、遍路としての罪の意識から、乗車を辞退したでしょう。しかしいまは、なんのためらいもなく乗りました。バスの乗務員は、私に料金を請求しませんでした。彼は往路に私を見、復路にまた私を見、歩みののろさに心配したらしいのです。それほど私の姿は、夕闇せまる山中で、みじめにみえたのでしょうか。 

 バスの終点は古庄で、そこから徳島へ阿南鉄道が走っていました。

2021.04.17記


 開戦前夜のアメリカ P.43~71

 一九三七年の春、私はニューヨーク支局員としてアメリカに渡りました。支局長は伊藤七司さんで、この方は若いときからアメリカで苦学力行した方です。かつて在米日系人は、排日移民法などによっていじめられた、その被害者の立場にあった伊藤さんのアメリ観には、教えられる点が少なくありませんでした。

 アメリカに着いて早速はじめたのは、自動車の運転をけいこすることでした。レジャーを楽しもうといった、のんきな気持ちからではありません。運転免許証を手に入れたとき、私は、これでいざという場合、タクシーかㇳラックの運転手になって妻子を養うことができる、これでいつ首になっても大丈夫だ、と考えたことでした。

 試験のとき、自動車教習所の先生の忠告に従って、助手席の前の物を入れるところに、封筒に五ドル札を入れ、見やすいようにしておきました。試験官が乗りこんできて、すぐそれを発見し、だまってポケットに入れました。これで私は試験にパスしたわけです。アメリカでこのような賄賂が公然と取られることを、はじめて知りました。

 当時はいわゆるㇼセッション、すなわちアメリカ景気の後退期でした。その八年前の一九二九年、ウォール街の株式が大暴落をした。その後も景気は悪化するばかりで、三三年にはアメリカ全国にわたっての金融恐慌になりました。その金融恐慌は、ルーズベルト大統領のニューディール(新政策)によって一応切り抜けることができたのですが、その上昇カーブが頭を打って、私が行った三七年ごろには再び下降傾向に変っていた。それがつまり、ㇼセションの時代です。そこでニュ―ディールが、やがて軍備拡張という方向へと移ってゆくのではないだろうかということが、私にとっての大きな疑問でした。

 私は、前にもちょっと触れたように、マルクス主義をかじっていた。そしてマルクス主義によって日本の国内情勢、とくに経済情勢を割り切って、何らの矛盾をも感じなかったのでした。アメリカに来てからも、相当長い間、そうでした。

 ところが、やがて、二つの疑問をもつようになりました。その第一は黒人の問題です。私はニューヨークの街角で、よく靴をみがいてもらいました。靴みがきはたいてい、黒人少年です。彼らはよく、私に向って、「アメリカっていい国でしょう?」と同意を求めるのです。最初のうちは気にもとめなかったのだが、やがて気になってきました。黒人はアメリカにおける最も低い階層、被搾取階級である。したがって彼らは、アメリカ社会にたいして非常な批判をもっているにちがいない、と私は考えたのです。ところが、アメリカの靴みがきの黒人少年たちは、アメリカはいい国であるということを前提にして、私に同意を求めているではありませんか。

 この疑問を、私は親しいアメリカ人の友人にぶつけました。その友人は私に英語を教えてくれていました。彼はスウェーデン系のアメリカ人で、エール大学を卒業し、本来の仕事は美術批評で、『ネ―ション』や『ニューリパブリック』といった高級週刊誌にときどき寄稿していました。しかし非常に貧乏で、その貧乏をちっとも気にしない男でした。彼は私の疑問を聞くと、ある日、ニューヨークの黒人街であるハーレムと呼ばれる地域のレストランに、私を案内しました。黒人ばかりが集まるレストランです。そのレストランの主人が私たちを歓迎してくれました。彼は私がどういう疑問をもっているかということを、すでに知らされていたようです。彼は自分の太い、真っ黒い腕をまくって、その黒い膚を指しながらいいました。

「この黒いもの、これが非常に悪いものなんだ」

 黒いもの、"バッド・シング"という言葉が、私には印象的でした。彼は私にアメリカにおける人種差別の問題をいろいろと話してくれました。そこで私は、黒人の中にも意識の進んだ人と意識のそれほど進んでいない人たちがあるということがわかったわけです。その黒人問題がその後、第二次大戦後にいたって、はじめて火を吹きだしたのです。

 もう一つの問題は、アメリカの金持ちが社会事業、慈善事業に惜しみなく私財を投ずるということです。これはどういうことなのか、と私は考えました。これにたいし、マルクス主義にはレディーメードの答えがあります。それは労働者の階級意識をマヒさせるためだ、資本主義の延命をはかるためだ、という説明です。しかし私はこの答えには不満でした。というのは……たしかに金持ちが寄付する結果として、労働者の階級意識がマヒするとか、あるいは資本主義の延命ということが、起こりうるかもしれない。しかしそれは結果であって、意図的・謀略的行為であると考えるのは、考え過ぎではないか。そこに人間の善意、ないしは善行をしようとする意思がある。とすれば、その善意はあくまで善意として受け止めるのが、物事を具体的に見るという、科学的方法ではないのか――と私は考えたからです。では、この善意は一体どこからくるのか。日本の金持ちには、そのような善意というものがほとんどない。アメリカの金持ちと日本の金持ちとの相違は、何に由来するのか。そのように考えると、それまでマルクス主義の公式によって世の中のことを割り切っていたことは、非常なまちがいではなかったか、ということに気がついたのです。

 それから私にとっての懐疑の時代、自信喪失の時代がはじまります。私の周囲にはそのような問題について私に示唆を与えてくれる人はいませんでした。

 そういう自信喪失の時代に、私は一冊の本を読みました。それは私が日本を発つとき、私の尊敬する一人の銀行家が餞別としてくださった、手あかのついた書物です。著者はアンドレ・シグフリード Andre Siegfried というフランスの社会学者、本の名前は «America Comes of Age»(アメリカ成年期に達す)というのです。その本の最初の方の一行が私にインスピレ―ションを与えてくれました。そこには、アメリカはピューリタンのつくった国である、と書かれていました。ここに問題を解決する糸口がある、と私は直感しました。アメリカはピューリタンがつくった国であることは、歴史の知識としては中学でも高等学校でも学んで知っていました。しかし知識として知っているいるということと、それが有用だということとは、別問題です。私が思い悩んでいるときに読んだこの一節は、私にとって新しい考え方への道を開いてくれた一筋の光となったわけです。

 私は一体に、一冊の本を全部通読して、著者が何を言おうとしているかを考える、そいうような著者に忠実な読み方をしないのです。私は自分の問題意識をもって本を読みます。そして一節でも自分の問題意識に触れるものがあった場合には、それをきっかけとして自分の思考を発展させる。そういう読み方をします。そこで、次の問題は、ピュリータンとは何か、ということで、宗教改革の歴史までさかのぼってゆきました。この問題については、マックス・ウェバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という有名な書物を書いておりますし、トーニーR.H.Tawney の著作もあります。しかし、私がこれらの本の名前を知ったのはずっと後のことで、最初のうちは手探りの勉強でした。

 ピューリタンは額に汗して働くことを人間最高の美徳と考える。そして勤労の結果得られる富を神からの贈り物であると考える。この富についての考え方が、経済行為を宗教的に善として認めることになり、この考え方が資本主義の推進力になったわけです。またピュリータンは、死んでから天国に行くのではなく、現生において天国をつくろうとした。その意味において現世的な物の考え方です。

 要するに、ピューリタンのメリットとして私が考えるのは第一に勤労の尊重、第二に現実主義であること、第三には正義感が強く順法精神が強いことです。この正義感が強いという点は、たとえばアメリカ資本主義の中から独占禁止という考え方や、利益の社会還元という思想が生まれてきた、ということによってもよくわかります。その反面、ピュリータン主義のデメリットもあります。それは第一には、肉体労働を尊重する裏返しとして、知性を軽蔑する傾向があること、第二には富にたいする尊敬の裏返しとして拝金主義、あるいは富を得るためには何をしてもいいという考え方になりかねないということです。第三には、正義感の裏返しとして、自分たちのやっていることが絶対的に正しいという信念、すなわち自己正義感が強いということ、これが場合によっては独善主義ということになるし、また人に説教したがるということにもなります。

 以上のようなピューリタン主義の特徴が、アメリカ外交の特徴ともなっています。たとえば条約第一主義、自己正義感、説教外交、正義を実現する手段としての力への信奉、などです。

 ほかにもう一冊、私にとって非常に勉強になった本があります。それは、スコッㇳ・ニアㇼング Scott Nearing という人の書いた «Dollar Diplomacy» (ドル外交)という本です。ただし、これは私の考え方を変えさせた本ではなく、むしろ、私がそれまで考えていたことを事実をもって裏付けてくれた、という意味で有用だった本です。

 アメリカ建国の理想は「われわれに自由を与えよ、しからずんば死を与えよ」ということです。ところが、この建国の理想と矛盾する外交が、実際には行われてきた。それを実例をあげて示したのがこの本です。

 その第一は、一八九八年、スペインとの戦争以来、アメリカがフィリピンをしょく民地として領有・支配したことです。第二はパナマの独立です。パナマは元来コロンビアの領土であったのですが、このコロンビアの中に一九一一年、アメリカがそそのかして独立運動を起こさせ、その独立宣言と同時にアメリカはこの新しいパナマ国と条約を結んで、運河をつくる権利を得た。そしてパナマ運河は一九一四年に開通しました。ですから、パナマ独立は、日本が満州国をつくったのと似たやりくちであったといえるのではないでしょうか。しかし満州国の建国にたいしてアメリカ政府が強硬に反対したことは隠れもない事実であって、満州国不承認だけをきりはなして考えると、もっともですが、歴史の文脈でとらえると、前後矛盾した理論です。

 私がアメリカに行った一九三七年の七月には、日中戦争が始まりました。日中事変と満州事変とでは、たいへんな相違です。満州事変当時、アメリカ政府は別として、民間には日本にたいする同情論が決して少なくはなかった。それは日本と満州との特殊関係を認識しての議論でありました。また当時満州が中国大陸における唯一の、治安が保たれ安定した地域であることを高く評価する意見もありました。しかし日中事変にたいしては、そのような同情的な意見はなく、日本は国際的に完全な孤立に陥ったのです。

 そういう時期に日本の新聞記者としてアメリカで働くことは、非常につらいことでした。私個人としても、日本の大陸政策には反対でした。というのは一九三五年に日本がソ連から北満州鉄道の譲渡を受けた後、私は満州国を取材旅行し、いわゆる「王道楽土」を満州につくろうという看板がウソであって、日本帝国主義のカイライ国家にすぎないことを知っていたからです。しかし私は、アメリカ外交政策にたいしても同調できませんでした。というのもスコッㇳ・ニアㇼングの本の影響もありますが、アメリカの外交もまた帝国主義的である、という認識が私に強かったからです。しかし、ニューディルを中心とするアメリカの国内政策にたいしては、私は非常な好感をもちました。それにしても、内政と外交は、そうはっきり分けられるものではない。したがって私は、一種のジレンマに陥ったわけです。

「南京虐殺」が起こったのは、一九三七年十二月のことです。これはニューヨーク・タイムスの特ダネだったと記憶するのですが、全段抜きの見出しのダーディン記者の署名記事で、二日も三日もつづけて載せました。これを本社に転電しましたが、当時の事情としては、日本の新聞に出るはずがありません。その後、火野葦平の『麦と兵隊』が英訳され、アメリカで出版されました。それを『大地』の著者パール・バックがたしか『ニューリパブリック』誌上で書評したのです。その前半で、火野葦平の神経の細かな、ゆきとどいた戦争の描写などを激賞した後、後半で、このような繊細な神経をもっている日本の兵隊たちが、どうしてあのような、南京その他における虐殺などをやることができるのか、という疑問を提出しておりました。これを記事として送りましたところ、後半をけずり、前半だけを載せたのです。日本人記者として、これほど恥ずかしい思いをしたことはありません。新聞としては「南京虐殺」を報じなかったことよりも、はるかに悪性で、読者をミスリードする紙面づくりでした。私はその後ついに、彼女にインタビューする勇気をもちませんでした。自分の祖国にたいして誇りをもつことができないということは、まことにつらいことです。

 当時の国際情勢を簡単に振り返ってみますと、一九三三年一月、ドイツでナチスが政権を獲得しました。それというのも、ドイツにおける二つのマルクス主義政党である社会民主党と共産党とが、近親憎悪といいますか、猛烈に抗争し、いたずらにナチスを利する結果となったからです。第一次大戦後、世界で最も民主的といわれたワイマール憲法をもつドイツの議会民主主義がくずれたことの影響は深刻でした。コミンテルは危機感におちいり、反省し、三五年の第七回大会において、いわゆる「人民戦線のテーゼ」がつくられたのです。その結果、フランスでは三五年、共産党や社会党を中心に人民戦線が結成され、翌三六年六月にはブルムを首相とする人民戦線内閣ができました。スペイでも三六年一月、人民戦線が結成されています。

 しかし一般的には、共産党にたいする、他の社会主義政党の不信は、そう急に解消するものでもありません。コミンテルの方向転換は、時すでに遅過ぎたといえます。三六年七月から三九年の三月までスペインの内乱。これは人民戦線とファシズムとの戦いでした。この人民戦線にたいするふ安のためでしょうか、イギリス、アメリカの政府は、スペインの共和政府、すなわち人民戦線政府にたいしてきわめて冷淡な政策をとり、フランスの人民戦線内閣も、これにひきづられることになりました。こうして、スペインの共和政府は見殺しにされたわけで、それがその後におけるヨーロッパの大勢を動かすことになります。つまり、三八年三月にはドイツのオーストリア合併。三九年三月にはドイツのチェコ合併というわけで、ナチ・ドイツは着々と領土を拡張していったのです。チェコ合併は、その前年、三八年九月のミュンヘン会議において、チェンバレン、?グラディエ英仏首相が、ヒトラー・ドイツに「東への政策」をそそのかしたからです。そこで、ソ連としては、自衛手段のために、その最も危険な敵であるドイツと不可侵条約を結んだ。三九年八月二十三日のことです。それまで、資本主義にとってのナチズムの存在意義は、ナチズムが共産主義たいする防塞という点にあった。ところが、独ソ不可侵条約が第二次ヨーロッパ大戦を勃発させる動機となった理由です。

 九月一日、ドイツはポーランド侵入。ポーランドと同盟を結んでいたイギリス・フランスは、対独宣戦布告。同時にソ連は、東からポーランドに侵入したのです。

 考えてみますと、第一次大戦後、イギリスとフランスは、ドイツから賠償金を、しぼれるだけしぼった。限度以上にしぼったのでした。彼らとしては、アメリカにたいする戦債を支払わねばならず、そのためドイツからきびしく取り立てたのです。しかしドイツとしては、賠償金の支払いは、結局、ドイツ商品の輸出によってまかなうほかありません。ドイツ商品の輸出ドライブは、他国の競争商品にとっては、すごい競争相手となります。それをドイツの内側からみると、せっかく造った商品が国内に出まわらず、それに相当するマルク紙幣が出まわるわけですから、インフレになります。つまりドイツが賠償金の支払いに一生けんめいになればなるほど、国外では他国の商品を圧迫し、他国に不景気をもたらす反面、ドイツ国内にインフレ、したがって社会不安をもたらしたのです。だからイギリス、フランスとしては、法外な賠償金を取り立てようとした。あまりにも視野のせまい利己主義のため、国際経済の動揺を通じて、結局、ふ利益をこうむったのでした。

 そればかりではありません。限度以上にしぼった結果、ドイツが反発するようになった。つまりドイツが国家としての、また民族としての、生存権を主張するようになったわけです。それがナチス政権を生んだ、もう一つの大きな原因で、ある程度当然のことではなかったかと思います。

 しかしドイツのヒトラーがとった人種政策――ユダヤ人にたする迫害、アリアン人種の優越の主張――にたいして、私は強い反感をもたざる得ませんでした。そこには劣等人種にたいする軽蔑と憎悪があるだけで、そこからは、人類の未来にたいする何らの救いというものがないのです。とくに私がにがにがしく思ったのは、ヒトラーの『わが闘争』の日本語版からは日本人にたいする軽蔑の言葉が削除されたが、原書からは削除されなかったことです。

 ちょうどそのころ、ドイツの作家、トーマス・マンがアメリカに亡命して来て、ニューヨークで講演会を開いたのですが、その講演会で彼が人間の権利、人間の尊重ということを主張しました。それを聞いた私は、非常に強い感銘を受けました。国家の主権にたいする人間の良心や権利というものの主張、そういうことを、それ以前には私が考えてみたこともなかったのです。国家とは何かということを考えるようになったのはまったくそれ以後のことです。

 その間、アメリカは一九三五年から三七年にかけて、いわゆる中立法を制定しました。この法律の目的は、ひとくちにいうと、戦争にまきこまれたくないということです。すなわち、交戦国にたいして信用を供与することは、第一次大戦中、アメリカがイギリスの味方として参戦へとひきずられていった歴史をくりかえす恐れがあるから、これを禁止する、ということが第一点。しかし第二点として、交戦国にたいしては商品を売りつけ、金はもうけたい。だから、現金で支払い、自国船で運んでゆくなら、さしつかえない、ということです。第一次大戦中、ウォール街の金融業者、モルガン商会がイギリスのエージェンㇳとして活躍したことにたいする国民的批判、反省という点では、りっぱなのですが、中立法全体としては、まことに虫のいい政策、どっちつかずともいえます。

 この法律が、できあがってゆく途中、スペイン内乱が起こり、激化していった。この法律によると、人民戦線政府を援助するわけにはいきません。しかしアメリカ民衆の気持ちは、あきらかに人民戦線の側にありました。また、ナチスやファシストに追われてヨーロッパから逃げて来た避難民にたいして非常に同情的でした。ヘミングウェーの『誰がために鐘は鳴る』が、あれほど読まれたところにも、民衆の気持ちがあらわれています。アメリカ国民の気持ちは、この時期において、歴史上最もリベラルであったといえるのではないかと思います。

 この間、理解に苦しんだのは、独ソふ可侵条約を結んだソ連の政策です。前述したように、自衛のためというのが、一応の説明ですが、一九三五の人民戦線テーゼから考えますと、まったく矛盾する政策でした。人民戦線は、ナチズム、ファシズムに対抗するために、広範な共同戦線を結成する、という理論であったはずです。そのナチズムと手を結んだことは、権力外交という観点からは理解できても、ソ連の標榜してきたプロレタリア国際主義という観点からみて、矛盾するものでした。

 おかしいといえば、ソ連がドイツといっしょになって、ポーランドを東西に分割したことも、バルト三国の独立をうばったことも、おかしい。しいて理屈をつければ、その後におけるドイツの対ソ攻撃を予想し、それに備えたということです。それにしても、どうしても説明がつかないのは、ソ連がフィンランドに軍事基地を要求し、拒絶されると、国内に侵入したことです。フィンランドは三九年十一月から四〇年三月まで、よくがんばりましたが、孤立無援、ついに和を乞い、領土をソ連に割譲しました。レーニン以来のソ連外交に、理想主義的なものを期待していた向きは、独ソ不可侵条約からフィンランド戦争にいたる過程で、完全に幻滅を感じさせられたわけです。

 話をもとにもどしますと、独ソふ可侵条約を締結した以上、ソ連としては第二次大戦を帝国主義相互間の戦争というふうに規定せざるを得ませんでした。そのことは、重大な意義をもってきます。イギリス、フランスでは、戦争反対、戦争はいやだ、という気持がが、前から強かったのですが、ソ連のこういう規定によって、イギリス、フランスにおける、反戦・厭戦の気持ちが、理論的に裏打ちされることになったからです。とても戦争できる状況ではなかった、と私はおもいます。

 ヨーロッパ戦争がはじまった直後、私はニューヨークからロンドンへ行くことを命ぜられました。ロンドン支局応援のためです。ロンドン支局の仕事の分量がふえたうえ、検閲制度の開始で、英文で送稿するか、もし日本語送稿の場合には英文の全訳を添付せねばならなくなったのです。

 この命令を受けたとき、まことにお恥ずかしい次第ですけれども、私は非常に動揺しました。妻と二人の子どもとともにニューヨークに住んでいたのですが、私が心配したのは、ヨーロッパ戦争がやがてアジアにおける戦争と結びつき、日米戦争が起こるのではないか。もしそのような事態になったならば、家族はニューヨークに取り残されて途方に暮れる、と考えたからです。私は家族を日本へ帰そうかとも思いましたが、時間的にその余裕もありません。私のアメリカの友人たちは、万一そのような事態が起こった場合には、全力つくして私の家族を守ってあげよう、といってくれました。うれしいことでした。私はこの友人たちに一切をお願いして、ヨーロッパへ出発したのです。

 アメリカン・クㇼッパーという飛行機に乗って、ニューヨークからニューファンドランド経由、アイルランドへ飛び、それから汽車でイギリスに入る、というコースです。開戦と同時に、アメリカの飛行機はニューヨークからイギリスへは直接飛ぶことができなくなったからです。それにしても、大西洋を航空機で飛んだのは、日本人では私が最初  途中ダブㇼンから東京へ、大西洋横断の印象を記事にして送りました。ここでも検閲があります。だから英文で送稿するわけですが、現金で支払わねばならないので、できるだけ電報料金を節約するため、いわゆるケーブル・イングリシュで書きました。たとえば from New Yorku to London という場合には exnewyok londonward と書くわけです。ところがダブリン郵便局の検閲官は「キングス・イングリシュ(王様の英語)で書いてください」といって、つきかえすのでした。ダブリンは、アイルランド独立戦争のとき、民衆が官庁の建物を襲って焼いた町です。その裁判所の石造の建物は、真っ黒にこげたまま残っていました。アイルランド人にとっては、イギリスの王朝は敵であったはずです。だからキングス・イングリッシュという言葉が、私にはおかしく聞こえました。

 それから真っ黒な灯火管制のアイㇼッシュ・チャンネルを渡ってㇼバプールに着き、ここからロンドンへ汽車で行きました。ロンドンに到着した朝、まったくきれいに、真っ青にすみきった九月の空であったことを、いまだにはっきり覚えています。

 ロンドンでは、戦争気分というものは、ほとんどないといってもいい状態でした。もちろん、防空壕が掘られ、土袋が積み重ねられ、空にはドイツの飛行機がロンドンの空に侵入して来るのを防ぐための気球が、たくさん上っている。外観的にはそのように戦争の準備は着々と進んでいましたが、人びとの心構えとしては、戦争にたいする準備は何もできていない。ヨーロッパの戦争は帝国主義国間の戦争だ、という考え方が、イギリス庶民の心の中に忍び込んでいる。というふうに私には思われました。「私は戦争利得者である」(I am a war profiteer) というミュージカルが堂々と公演されているのを見たことがあります。「ジークフㇼーㇳ・ラインで洗濯(Washing on the Siegfried Line)という歌がはやっておりました。ジークフㇼーㇳ線というのは、フランスがつくったマジノ線に対抗してドイツが国境線につくった防衛線です。そういう歌がはやっていましたが、第一次大戦当時につくられた"Over there" に匹敵するような行進曲が、ついにあらわれなかったことも、第二次大戦のいちじるし特徴です。

 三九年九月に宣戦布告があってから、翌年四月まで、空中でも地上でも海上でも、何らの軍事的動きがなく、新聞にも "Phoney war"(まやかしの戦争)という字が出てくるような状態でした。そういう時期、一九四〇年はじめに、私はイギリス空軍について大陸の最前線へ行きました。独仏国境のアルゴンヌの森を見ました。第一次大戦の有名な激戦地です。その森に近い一軒の農家を訪ねたとき、その家のお婆さんが私に「日本人を見るのははじめてだ」といって、ぶどう酒をごちそうしてくれました。彼女は「これで私にとって三度目の戦争だ」といって嘆くのです。最初の戦争はフランス・プロシャ戦争で、彼女は若い娘でした。二回目は第一次大戦、三回目はこのたびの第二次大戦です。アルゴンヌの森という名前は有名ですので、私はうっそうと繁った森を想像していました。ところが実際に行ってみると、その森はスケスケなのです。ちっとも繁っていない。考えてみると当然のことで、森の木が少し大きく育ったかと思うと、戦争で焼かれてしまう。生長する暇がないわけです。このお婆さんの嘆きは、もっともです。

 フランス軍の兵士たちを乗せたトラックが、長蛇の列をつくって前線の方へと走って行きます。フランス軍の兵士たちの顔はイギリス軍の兵士たちとちがい、真っ黒に日焼けして、実に強そうにみえましたけれども、彼らの顔には笑いというものが全然みられませんでした。実にゆうつな顔つきなのです。そこにもまた、フランス庶民の間における戦争にたいする気持ちが、はっきり現われているように私は思いました。

 そういう状況を私は記事にして東京へ送りましたが、もちろん、一行も出ませんでした。当時の日本の新聞は中国大陸における日本軍の勝利、大勝利、ということばかり報道していて、戦意をいかにして高揚するかということに専心していたからです。

 このようなヨーロッパの情勢が変ったのは、一九四〇年四月ドイツ軍がデンマーク、ノルウェーに侵入してからです。五月にはドイツ軍はオランダ、ベルギー、ルクセンブルクに侵入しました。これがいわゆる電撃戦の最初でした。そして五月十七日から二十一日にかけてフランスに侵入、そして、パリ陥落ということになります。情勢は急激に大変化をとげたわけです。

 この間、私は一九四〇年三月の終わりにロンドンを発ってアメリカに帰りました。イタリアのジェノバから、ニューヨーク行きの船に乗ったわけですが、ジェノバへの途中、ベネチアに寄ったのです。何かお祭りの日で、町全体が陽気に浮かれていました。そのときラジオが、ヒトラー・ムッソリーニ両巨頭の、ブレネル峠における会談を報じたのです。ちょうど私は酒場でぶどう酒を飲んでいたのですが、たちまち氷のような沈黙が支配し、静けさが長くつづきました。人びとは、ふ𠮷な何物かを直観したに間違いありません。印象的な光景でした。

 ドイツ軍のデンマーク、ノルウェー作戦がはじまったのは、私がアメリカに帰任した直後のことです。この急激な情勢の発展によって、ヨーロッパ戦争がアジア戦争と合体して日米戦争になるのではないか、という私が抱いていた心配が、きわめて現実味をもってくるように私には思えました。私が考えたことは、アメリカはイギリスの味方をして戦争に参加するにちがいない。米独戦争となれば、それが日米戦争に発展する危険性はきわめて大きい、ということです。ただ、この論理が完結するには、まだ二つの条件が未成熟である。第一の条件はアメリカ中立法の改正であって、中立法が厳存するかぎり、アメリカ政府は参戦したくても参戦できない。第二の条件は日独関係のより緊密化ということであって、日独間には一九三六年十一月に締結された防共協定があるけれども、まだこの程度では米独戦争がただちに日米戦争となることはあるまい、と私は考えたのです。ですから、私の分析では、アメリカが中立法の改正に乗り出し、あるいは、日本がドイツとの関係緊密化に乗り出せば、非常に危険であり、もし双方が起れば決定的に危険だ、ということになります。

 ところが、ドイツの電撃戦の成功に目を奪われた日本の軍部、ならびに強硬派の人たちは、一九四〇年九月二十七日に日独伊三国同盟を締結したのです。日本では、三国同盟によってアメリカに圧力を加えることができる、したがって日米戦争を回避することができる、とう奇妙な、逆立ちした理屈が唱えられました。いまでもはっきり覚えていますが、私はこの三国同盟が締結されたとき送った記事の終わりを、このような言葉で結びました――「これによって日米関係は救いがたいものとなった」。主観的な断定ですが、それが良心的に最も正確な表現だと思ったのです。

 次の問題は、アメリカがいかにしてイギリスおよびフランスの味方をしてヨーロッパの戦争に参加するか、ということです。一九四〇年の選挙において、ルーズベルト大統領は再選されましたが、その直後に、「今後アメリカで生産される軍需品の半分はイギリスとフランスに提供されるであろう」といい、さらに十二月二十七日の新聞記者会見において、イギリスとフランスにアメリカの軍需品を貸与するという構想を発表した。軍需品の貸与の構想は重要な言明です。なぜかというと、交戦国にたいして信用を供与することと、物を貸与することとは、経済的にはまったく同じ効果もつものであって、軍需品貸与法の制定は、中立法改正をバイパスする意義をもつからです。第一次大戦時、モルガンがイギリスのエージェンㇳであったことは、前にもちょっと触れましたが、そのことの意義は、もしイギリスがが敗れたら、貸し金は元も子もなくなるわけですから、イギリスが負けそうになればなるほど、より多くの金をイギリスに貸し、より多くの軍需品を調達して送らざるを得ない、という点にあります。そして、イギリスの危機が絶頂に達したとき、モルガン商会は、アメリカ政府や言論機関を動かして、参戦へと踏みきらせたのでした。公海の自由という大義名分の底に、このような実利の問題があったわけですが、この中立法の制定の精神からいえば、軍需品貸与法の構想は、矛盾といわねばなりません。この矛盾をあえておこなうところに、アメリカ参戦の意思をはっきり見ることができる、と私は考えたのです。さらにルーズベルト大統領は一九四〇年十二月二十九日の「炉辺閑談」において、「アメリカは民主主義のための兵器敞となる」と宣言したのです。情勢のおもむくところは、すでにきわめて明らかでありました。

 軍需品貸与法が議会を通過したのは、一九四一年三月十一日のことです。この日私は日米戦争ふ可避という結論を下しました。その直後、ニューヨークのアパートをたたんで、二週間の休暇をもらいました。家族を日本へ送り返そうと考えたからです。しかもこれは、夫婦、親子、最後の別れとなるかもしれません。別れを惜しむため、ニューヨークからニューオリンズ、ロスアンゼルス経由、サンフランシスコまで三千六百マイルを家族とともに自動車で旅行しました。いっしょに行くけれど、いっしょに帰らない、西への旅は、楽しいけれども、悲しい二週間でありました。サンフランシスコで家族を竜田丸へ乗って日本へ出発するのを見送った後、乗っていた自動車を売り払い、その金でニューヨークへの飛行機料金を払いました。愛していたもの、大切にしていたものを、一挙に失ったような空虚さでした。

 それから私の戦争準備がはじまります。貧民街のようなところに移り住みました。支局員および助手である三名の二世の月給をいずれも一律に百ドルに切り下げました。支局長は細川隆元さんでしたが、お嬢さん連れでしたし、細川さんはそのような耐乏生活のできる人ではありませんので、これは例外としてそれまで通りの給料を支払いました。ニューヨーク支局の会計は私にまかされていたのです。私は東京本社に日米戦争への見通しを述べ、……次に来るのはアメリカにある日本資産の凍結だ。東京からの送金も受け取れなくなる。その場合ニューク支局の現金がなくては困るから、できるだけ多くの現金を準備しておきたい――と上申しました。それにたいして東京本社からは、莫大な金額を月々送ってくれました。したがって七月二十五日、日本資産が凍結となったとき、ニューヨーク支局は、その後一年ぐらいはがんばれるだけの現金をもっておりました。

 その間、情勢は大きく変わりました。一九四一年六月二十二日には独ソ開戦となり、それを境目として、それまでは帝国主義国間の戦争であったものが、「ファシズムから民主主義をまもる戦争」へと、性格を変えたからです。

 独ソ開戦については、私は失敗しました。何だか様子がおかしい、ドイツは東方に向けて兵員や資材の輸送を盛んにおこなっているようだ、というニュースがアメリカの新聞に出たのに、それを見逃してしまったからです。それを報じた通信社がふだんあまり信頼度が高くないとされていたこともありますけれど、理屈から考えて、二正面作戦をはじめることはドイツにとってふ利であり、ヒトラー自身が『わが闘争』の中で固く戒めている。その論理にひっぱられたことが、私がこのニュースへの判断をあやまった原因でした。固定観念でニュースを見てはならぬことを、あらためて痛感させられた次第でした。

 では、私は何をしていたか。独ソ開戦のニュースが入ってきたとき、私は山の中で寝ていたのです。

 独身生活にかえってからの私の生活は、ひと月に百ドルでは、三度の食事が二度しか食べられませんでした。そのころ唯一の楽しみは、週末、山に行き、野営することだったのです。類は類を呼んで、一つのグループができていました。アメリカ人もいましたが、外国人のほうが多いのです。その外国人は、私をふくめて、いうなれば猛烈に祖国を愛しながら、祖国を愛することのできぬ人びとでした。オーストリアの社会民主党員、チェコからの亡命女性、アルゼンチン人と称しているが実はスペイン人民戦線派、イギリス人でスペイン人民戦線軍に参加した看護婦、日本を追われた画家夫婦、等々である。私たちは好んで「インタナショナル」を歌いました。各国それぞれの歌詞で歌うのですが、インタナショナルというところでは同じ言葉になるのがうれしかったのです。

「インタナショナル」を歌いはしたけれど、現実の世界は、暗澹たる世界でした。資本主義国とちっとも相違がないようにみえたソ連の外交政策が、人びとから希望を奪い去っていたからです。三〇年代における、ブハーリンなどの暗黒裁判も、幻滅でした。 黒崎調べ:(ニコライ・イヴァノヴィチ・ブハーリン(ロシア語: Николай Иванович Бухарин, ラテン文字転写: Nikolai Ivanovich Bukharin、1888年9月27日(グレゴリオ暦10月9日) - 1938年3月15日)は、ロシアの革命家、ソビエト連邦の政治家。ソビエト連邦共産党有数の理論家としてウラジーミル・レーニンに評価され、レーニンの死後、ヨシフ・スターリンと協力するが、右派として批判されて失脚、粛清・銃殺された。死後、ミハイル・ゴルバチョフ政権でペレストロイカが開始されると、吊誉回復を受けた。)しかし私たちは、ナションナㇼスㇳであるがゆえに、インタナショナルの夢を捨て切ることができませんでした。他の国のナショナリストの苦悩や希望を、自分自身の問題であるかのように理解することができたのです。私は現在でも、ナショナリストでないインタナショナリストを信用しませんし、インタナショナリストでないナショナリストを危険な存在と考えていますが、そういう感覚は、この野営の焚き火から生まれたものです。

 こうして、ある週末、山で過ごし、しゃばに出てみると、独ソ開戦となっていたのでした。

 そのころ、カルフォルニアの飛行機工場で、多分に政治的性格をもつストライキがおこなわれていました。ところが独ソ開戦と同時に、このストライキがぴたりと収まってしまったのです。私は情勢がまったく変ってしまったことを認識せざるを得ませんでした。さらに七月二十八日には日本軍は南仏領インドシナに進駐し、それにたいする報復として八月一日、アメリカは対日石油の輸出を禁止したのです。これをたとえてみますと、大きな川が滝となってくずれ落ちる、その激流に流されている日本、という感じをうけました。滝が目の前にみえている。刻々と滝に向って速度を増していく、しかもそれにたいして私はどうすることもできない。けんめいに叫んでいるのだが、声は水しぶきの中に消されてしまう。そいう無力感にとらわれるのでした。

 われわれにできることは、情報基地を中南米につくり、特派員を分散、配置するぐらいです。私がそれを立案し、八月、細川隆元さんはブエノスアイレスへ発って行きました。

 いよいよ日米戦争だ、という最後の断定を下したのは一九四一年十二月六日の夜です。ルーズベルト大統領が天皇に親電を送りました。その内容は、日本艦隊が南シナ海を南下しつつある、天皇の力によってこれを止めてほしい、という意味の電報です。私は "Roosevelt sent direct and final appeal to Emperor" という至急報を打ちました。この電文中 and final の二語は、タイムス・ビル六階の支局から三階の電信局へ走る途中、エレベーターの中で書き込んだもので、いよいよ最後という意味をふくめたつもりでした。日本からイエスという回答が来る可能性はない、答えは必ずノーであろう、ノーという返答は戦争を意味する、と私は思いました。

 至急報を打った直後ワシントン支局に電話しました。中村正吾特派員の話では、東京からの訓令が到着しつつある、その内容は重大なものらしい、とのことでした。あとでわかったことですが、これが日米国交断絶を通告する――そして真珠湾攻撃の前にアメリカ側に手交されるはずであった――文書だったのです。このほうからも危機は迫りつつあったのです。中村君と私は、情勢はあぶない、ということで意見一致しました。

 私は、国交断絶の危機迫る、という趣旨のコメントを送稿しました。この原稿は東京で押えられ、本社にはとどかなかったようです。それから妻にあて、別れの電報をおくりました――「情勢があやしくなった。いかなる事態が起ころうとも、希望をもって、再会の日を待て。子どもたちに神の恵みあれ」

 当時の日本にふさわしい、かっこいいことは、いいたくなかったのです。もっとも、現世で再会する確信があったのではありません。ただ、希望をもって生きよとということを、いいたかったのです。

 それから、支局財産の整理をしました。長い間、切り下げられた月給でよく働いてくれた二世の助手たちには、プラス・アルファのほかに、私の車を譲渡する手続きまで済ませました。これらの事務整理が終わったころ、妻からの返電が入ってきました。そんなに早く返電がくるとはもちろん、返電がくることさえ、予期していなかったのです。「急報」でした。一刻を争って電報局に駆けつけ、打電したことがわかります――「私たちは大丈夫。がんばってね。Darling」

 ふだん妻は私を Darling と呼んだことはありません。一語でも、ずいぶん高い料金をとられる「急報」に、あえてこの一語を加え、万感を書き込んだのでしょう。

 私は、開戦前になすべき一切のことを、なし終えたのです。あとは開戦を待つ、そして捕えられるのを待つ、天命を待つ――それだけでした。

 真珠湾攻撃は翌日の日曜の昼、現地時間十二月七日、日本時間では八日です。最後の仕事を終えたあと、支局の部屋に料理をとり、支局員一同、最後の夕食をともにしました。ラジオ放送で、日本人はそれぞれ自宅で待機しておれ、ということをいいました。ひきあげるにあたって、ニューヨーク・タイムス社のジュ―ムス編集局長に、あいさつの手紙を書き、とどけましたところ、おりかえし、返事がきました。それは、このような状況で別れるのは残念である。「朝日」が再び支局を開設する日のために、いつも部屋をとっておく、という趣旨の手紙で、まことにあたたかいものでした。あとの話になりますが、タイムス社はこの約束を、ちゃんと守ってくれていたのです。

 いよいよ最後の帰宅の時がきました。タイムスの記者や従業員の人たちが、玄関のホールいっぱいに集まって、私たちを見送ってくれました。そこには緊張感はあったけれども、何らの敵意もありませんでした。一人の黒人の従業員――エレベター操作の長で、ホールの責任者でもあり、私たちと最も親しくしてくれていました――が、皆を代表して、あいさつし、 "We wish you the best luck." (われわれはあなたがたに最善の幸運を祈る)という言葉で結んで握手を求めたことを、いまもはっきり覚えています。最もきびしい状況のもとで、タイムスの人びとの示してくれた友情を、私は忘れることができません。

 帰宅してシャワーをあびていますと、ノックして、三名のFBIが入ってきました。素っ裸の私をみて驚いたのは彼らのほうで、ていねいな言葉で私に、荷物をまとめていっしょにきてくれ、というのです。私が身のまわりの物だけ荷造りしておりますと、彼らは私の妻の肖像画を見、「これはあなたにとって非常に大切なものでしょう。ぜひもっていらっしゃい」とすすめるのでした。そのうちの一人は「私の姉がマニラに住んでいる。心配で仕方がない」と涙ぐんだ声でいいました。私が「戦争で困るのは庶民だ。いつも庶民が一番つらい目にあわされる」と申しますと、彼らは異口同音に「そうだ」と答えました。そこには人間的な感情の交流があったと思います。

 私が連れて行かれたのは、エㇼス・アイランドという、ニューヨーク港内にある小さな島。そこは移民収容者で、外国から来た移民で疑わしい者はそこに抑留されることになっている。そこに連れて行かれたのです。簡単な取り調べがあって、すぐに私は、大きな薄暗い部屋に案内されました。そこには二段ベッドが二百ぐらいあったでしょうか、その一つに横たえたとき、イギリスのネルソン提督ではありませんが、私は "I have done my duty."(私は義務をはたした)と思いました。あとはただ運命の流れに自分の身をまかせてゆくだけです。私はぐっすり眠りました。

 日本人は組織づくりには、すぐれた才能をもっています。翌朝、自分たちのおかれている状況がわかってくると、さっそく、渉外部や広報部など、必要に応じて組織がつくられました。私たちが閉じこめられていたのは、学校の大講堂に二段ベッドをぎっしりつめたところを想像していただければいいのですが、都市計画の専門家がいて、部屋の中央に広場をつくりました。そこが集会の場であり、喫煙の場でもあったわけです。

 収容された三百数十名の日本人の中には、私たちのように日本からやって来て、日本からの月給で食べているものと、アメリカの土地に定着して、自分の仕事をもって食べてきたものとがありました。その後者は、レストランㇳの経営者から軽業師にいたるまで、いろいろな人がいます。その人たちと会って話をすることは、私にとって大きな喜びであり、勉強にもなります。私は毎日その中の一人を選んでインタビューすることにしました。戦争、抑留といったことは、人生における一つの危機にまちがいありません。しかし、土着の人たちは、このような危機には、すでに何回もあっているのです、だから、いっこうに平気です。これに反し、日本からの月給で食っている人間は、肩書はりっぱでも、裸一貫の危機の経験があるとはかぎりません。それだけに、非常に動揺していた人も少なくないのです。そこで私は、あらためて痛感したのですが、危機に直面したとき、一番強いのは、信仰をもっている人たち、その次に強いのは、何らかの趣味をもっているいる人たちだということです。信仰をもつ人が強い理由は、説明するまでもありません。趣味をもっている人は、極限の状況においても、自分のもっている趣味の中に没入することが可能ですし、あるいは自分というものを客観的にみつめることも可能です。そのような信仰もなく、趣味をもたない人は、極限の状況において、まことに弱いものです。

 私には、インタビューすることのほかに、もう一つ大きな喜びがありました。それは洗濯をすることです。洗濯すると、物がきれいになる。やった行為の結果が目にみえて現われてくる。そういう意味で楽しいのでした。

 私たち新聞記者はその後、相互主義によって、外交官の取り扱いを受けることになり、外交官の皆さんといっしょに、保養地のホテルで数ヵ月、豪奢な生活をしました。これはたいへんな優遇であったわけですが、こういっては悪いけれども、私には最も収穫の少ない時期でありました。新聞記者の本領は、やはり、庶民とともにあることです。

 一九四二年六月、スウェーデン船「グリプスㇹルム号」が交換船として、故国に帰る日本人数百名を乗せてニューヨークを出港しました。見送り人があったのは私一人だけです。警戒が非常に厳重で、ふつうの見送り人全部、警官が埠頭への立ち入りを禁止したからでしょう。ところが私にだけ、なぜ見送り人が許されたのか、その事情はよくわかりません。それはP夫人でした。P夫人は私がニューヨークに来た最初の一年間、そのお宅に寄寓したことがあります。当時アメリカでは、景気後退対策・就業増加政策として、多くの企業が週休四日制をとり、中流以上の家庭でも部屋を貸してくれたものです。それが私にとっては非常に幸運でした。

 夫人は DAR(Daughters of American Revolution の略で、独立戦争当時アメリカに在住していた家柄の婦人のみをもって構成する団体)の会員ですから、非常な名門の出であるわけです。ご主人はアルメニアからの亡命エンジニアで、哲学博士であります。商業美術家である美しいお嬢さんが一人あって、彼女は、同い年である私の妻が二人の子どもを連れてニューヨークに来たとき以来、無二の親友となりました。収容所に入ってからの私のことを、P博士一家がたいへん心配してくれたこと、クリスマスに私を例年のように自宅へ招待する許可を求めて来たが許可できなかったことなど、そのつど収容所当局から報告を受けていました。日米開戦といった状況で、日本人とかかりあいのあることを知られることは、ふつうのアメリカ人にとっては好ましくない、あるいは危険なことであったかもしれません。それをあえてP夫人は私を見送りに来てくれたのでした。

 積もる話の途中、気がつくと、私の周囲にはアメリカ警官の姿は一人もみえません。彼らは気をきかせてくれたのです。そのかわり船の舷側は、私がスパイ容疑か何かで、留置されるのではないかと心配する顔、顔、顔で、いっぱいでした。

 こうして私のアメリカ生活は、心あたたまる思い出が多く、いやな思い出は、たとえあっても、きわめて少なかったのです。なかんずくP博士一家を通じて、よきアメリカの自由主義の伝統を学ぶことができたのは、ほんとうにしあわせでした。

 交換船がブラジルのリオジャネイロに寄港したとき、東京朝日新聞政経部長の田中愼次郎さんが社をやめたというニュースを受け取りました。その前年の一九四一年十月、尾崎秀美さんがソ連のスパイ容疑で逮捕されたというニュースを聞いておりました。尾崎さんと田中さんとは親友で、田中さんの退社は私に暗いものを暗示するのでした。故国へ帰ることはほんとうにうれしけれど、私としては手放しに喜ぶ気持ちにはなりませんでした。ポルトガル領東アフリカのローレンソマルケスで交換船を浅間丸に乗りかえ、昭南(シンガポール)に寄港したとき、昭南支局の友人から日本のことや、華僑虐殺のことなど、いろいろ話を聞きました。ミッドウェー海戦があったのはその年の六月で、大本営は勝った、勝ったといっていましたが、かならずしもそうではないらしいことを、私たちはアメリカの新聞を通じて知っていました。

 交換船が日本の海域に入ったある夜、私は人目を忍んでたくさんの書物を海中に捨てました。たとえばエドガ―・スノーの『中国の赤い星』、そういう種類の本です。戦時下の日本に、私自身を適応させねばならなかったからです。

2012.04.23記


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ビルマの竪琴


1945年7月、ビルマ(現在のミャンマー)における日本軍の戦況は悪化の一途をたどっていた。物資や弾薬、食料は上足し、連合軍の猛攻になす術が無かった。

そんな折、日本軍のある小隊では、音楽学校出身の隊長が隊員に合唱を教え込んでいた。隊員達は歌うことによって隊の規律を維持し、辛い行軍の中も慰労し合い、さらなる団結力を高めていた。彼ら隊員の中でも水島上等兵は特に楽才に優れ、ビルマ伝統の竪琴「サウン・ガウ《の演奏はお手の物。部隊内でたびたび演奏を行い、隊員の人気の的だった。さらに水島はビルマ人の扮装もうまく、その姿で斥候に出ては、状況を竪琴による音楽暗号で小隊に知らせていた。

ある夜、小隊は宿営した村落で印英軍に包囲され、敵を油断させるために『埴生の宿』を合唱しながら戦闘準備を整える。小隊が突撃しようとした刹那、敵が英語で『埴生の宿』を歌い始めた。両軍は戦わないまま相まみえ、小隊は敗戦の事実を知らされる。降伏した小隊はムドンの捕虜収容所に送られ、労働の日々を送る。しかし、山奥の「三角山《と呼ばれる地方では降伏を潔しとしない日本軍がいまだに戦闘を続けており、彼らの全滅は時間の問題だった。彼らを助けたい隊長はイギリス軍と交渉し、降伏説得の使者として、竪琴を携えた水島が赴くことになる。しかし、彼はそのまま消息を絶ってしまった。

収容所の鉄条網の中、隊員たちは水島の安否を気遣っていた。そんな彼らの前に、水島によく似た上座仏教の僧が現れる。彼は、肩に青いインコを留らせていた。隊員は思わずその僧を呼び止めたが、僧は一言も返さず、逃げるように歩み去る。

大体の事情を推察した隊長は、親しくしている物売りの老婆から、一羽のインコを譲り受ける。そのインコは、例の僧が肩に乗せていたインコの弟に当たる鳥だった。隊員たちはインコに「オーイ、ミズシマ、イッショニ、ニッポンヘカエロウ《と日本語を覚えこませる。数日後、隊が森の中で合唱していると、涅槃仏の胎内から竪琴の音が聞こえてきた。それは、まぎれもなく水島が奏でる旋律だった。隊員達は我を忘れ、大仏の体内につながる鉄扉を開けようとするが、固く閉ざされた扉はついに開かない。

やがて小隊は3日後に日本へ復員することが決まった。隊員達は、例の青年僧が水島ではないかという思いを捨てきれず、彼を引き連れて帰ろうと毎日合唱した。歌う小隊は収容所の吊物となり、柵の外から合唱に聞き惚れる現地人も増えたが、青年僧は現れない。隊長は、日本語を覚えこませたインコを青年僧に渡してくれるように物売りの老婆に頼む。

出発前日、青年僧が皆の前に姿を現した。収容所の柵ごしに隊員達は『埴生の宿』を合唱する。ついに青年僧はこらえ切れなくなったように竪琴を合唱に合わせてかき鳴らす。彼はやはり水島上等兵だったのだ。隊員達は一緒に日本へ帰ろうと必死に呼びかけた。しかし彼は黙ってうなだれ、『仰げば尊し』を弾く。日本人の多くが慣れ親しんだその歌詞に「今こそ別れめ!(=今こそ(ここで)別れよう!)いざ、さらば。《と詠う別れのセレモニーのメロディーに心打たれる隊員達を後に、水島は森の中へ去って行った。

翌日、帰国の途につく小隊のもとに、水島から1羽のインコと封書が届く。そこには、彼が降伏への説得に向かってからの出来事が、克明に書き綴られていた。

水島は三角山に分け入り、立てこもる友軍を説得するも、結局その部隊は玉砕の道を選ぶ。戦闘に巻き込まれて傷ついた水島は崖から転げ落ち、通りかかった原住民に助けられる。ところが、実は彼らは人食い人種だった。彼らは水島を村に連れ帰り、太らせてから儀式の人身御供として捧げるべく、毎日ご馳走を食べさせる。

最初は村人の親切さに喜んでいた水島だったが、事情を悟って愕然とする。

やがて祭りの日がやってきた。盛大な焚火が熾され、縛られた水島は火炙りにされる。ところが、上意に強い風が起こり、村人が崇拝する精霊・ナッの祀られた木が激しくざわめきだす。「ナッ《のたたりを恐れ、慄く村人達。水島上等兵はとっさに竪琴を手に取り、精霊を鎮めるような曲を弾き始めた。やがて風も自然と収まり、村人は「精霊の怒りを鎮める水島の神通力《に感心する。そして生贄の儀式を中断し、水島に僧衣と、位の高い僧しか持つことができない腕輪を贈り、盛大に送り出してくれた。

ビルマ僧の姿でムドンを目指す水島が道々で目にするのは、無数の日本兵の死体だった。葬るものとておらず、無残に朽ち果て、蟻がたかり、蛆が涌く遺体の山。衝撃を受けた水島は、英霊を葬らずに自分だけ帰国することが申し訳なく、この地に留まろうと決心する。そして、水島は出家し、本物の僧侶となったのだった。

水島からの手紙は、祖国や懐かしい隊員たちへの惜別の想いと共に、強く静かな決意で結ばれていた。

手紙に感涙を注ぐ隊員たちの上で、インコは「アア、ヤッパリジブンハ、カエルワケニハイカナイ《と叫ぶのだった。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

※竹山道雄著『ビルマの竪琴』(新潮文庫)中村光夫解説

 この童話を書いた動機について、氏は「あとがき」のなかで、「私の知っている若い人で、屍を異国にさらし、絶海に沈めた人たち」のために書いた、というより、これらの人々の思い出を氏を駆ってこの物語の筆をとらした、といっています。

 氏がこれを書いた昭和二十一年は、「みな疲れて、やせて、元気もなく、いかにも気の毒な様子で……兵隊さんたちが大陸や南方から復員してかえって」きた時代です。大都市はほとんど焼野原になって、米軍の占領下で、日本がこれからどうなるかという見通しもよく立たなかった時代です。食糧は欠乏し、街では闇市と、娼婦と、復員朊の青年たちの氾濫が、希望のない時代相を象徴した時代です。

 竹山氏の心底には、この世相にたいする憂慮と、虚脱し荒廃した人々の心に、なんとか生きる道を見出させ、希望と信頼を復活させたいという意思がみなぎっていたので、この大胆なフィクションはその所産です。

 音楽の人にたいする効用(あるいは功徳)をテーマにした物語は、オルフォイスの伝統をはじめとして世界中にひろがり、我国にも平安朝以来のながい伝統があります。

「歌のおかげで苦しいときにも元気がでるし、退屈なときにはまぎれるし、いつも友達同士の仲もよく、隊としての規律もたって」いた部隊と、そこから生まれた竪琴の名人である若い兵士の発心(ほつしん)というテーマも、戦争の現実と、当時の時代の姿を背景にしながら、内面においては、この古い説話につながっているのかも知れません。

 この小説がたんなる戦場物語でないのは、そこに人間の生活と芸術との関係が、極度に単純化された形で、本質的に捕えられているからです。(以下略)

2021.05.09記


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天声人語

兵 学 家 深代惇郎の天声人語(朝日新聞社)昭和五十一年十一月十日第六刷 P.348 (49.4.17)

 二千二百年前の古墳からの出土品で、有名な兵法家、あの「孫子」が実は二人だったらしいとわかった。「知り難きこと陰のごとく」という極意を人に説いただけあって、一人説、二人説、偽作説と二千年余り後世をまどわせつづけた兵法はさすがだった。

  「孫子」の書については、呉の孫武とその子孫の斉の孫臏の合作だという説があった。こんどの発掘で「孫子の兵法」と「孫臏の兵法」の二種の竹簡が出てきたので、その説が裏づけられることになったという。

 日本では一時、経営社のお手本として「孫子ブーム」が起ったことがあるが、このすぐれた古典が金もうけの戦術になり、やや安手に利用されたキライはあった。本来の「孫子」は、単に兵法だけを論じたものではない。もっと深くて、幅広い思想が、そこに盛られている。 

「彼を知り己を知れば、百戦あやうからず」の有名な言葉も、この本から出ている。「百戦百勝は善の善なる者にあらず」ともいう。戦うごとに勝とというのが最上ではない。戦わずして敵を屈服させるのが最善だというのである。

「利に合えばすなわち動き、利に合わざればすなわち止まる」という現実主義も、この兵学家が到達した結論なのだろう。「孫子たち」が生きたのは、二千四、五百年前の世界である。日本は縄文から弥生時代に移るころ、西洋ではギリシャ時代の末期だと考えると、古典の命は長い。(49.4.11)

2021.09.27記す。


サイコロの目 深代惇郎の天声人語(朝日新聞社)昭和五十一年十一月十日第六刷 P.268 (49.7.29)

確率:気象庁予報・サイコロの目

 原勝さんという見知らぬ方から『葵の日記と書簡集』という豪華な本の贈呈にあずかった。ページをめくると、一昨年のモスクワの日航機事故で、葵さんという娘を失った父親が丹精こめて作った本だった。

 日本の大学、アメリカ留学と、恵まれた環境で成長してゆく娘の遺稿を紹介する紙背に、父親の悔恨が痛々しいばかりだ。その悲しみには、娘が事故で死んだということ以上の何かがあった。その事情を、父親の一文を読んで察することができたと思った。

 この娘さんはアメリカの大学を卒業し、ヨーロッパ回りで帰国することになり、外国の飛行機を選んでいた。それを父親が日航機に変えるよう手紙を出し、娘さんは素直に従った。ところが日航機に変えるよう手紙を出した直後、ニューデリーで日航の墜落事故があった。これを気にした母親は、他に変えるよう意見を述べたが、父親はゆずらなかった。父の言葉通りにした娘さんは、そのために遭難するのである。娘に対し、妻に対し、父親の申し訳なさはいかばかりであったろうか。その思いが、娘の本を作らせずにおかなかったのだろう。

 父親は「事故を起こしたばかりだから、立て続けには起こるまい」と考えた。母親は「事故が起ったから不安がある」と思った。サイコロを振って、偶数が三度続いたとき、四回目は「三度も続いたのだからまた偶数だ」と考える人と、「三度も続いたからこんどは奇数だろう」と考える人がいる。

 数学の確率でいえば、四度目のサイコロの偶数、奇数の出る確率はそれぞれ二分一だ。三回分の結果が、四回目の確率に影響を与えることはない。こうした抽象的な確率論を離れても、事故は偶然ではなく、本質的な原因があるはずだからその会社は見合わせようという人もいる。逆に、事故直後は点検や操縦にひときわ慎重だからかえって安全だ、と考える人もいる。

 推理はいつも二つに分れ、答えはない。やはり運命だったと思うほかはないのではあるまいか。(49.7.29)

参考:1972年11月28日、日本航空のコペンハーゲン発モスクワ経由羽田行きのDC8型機がモスクワのシェレメチェボ空港を離陸直後に失速して墜落・炎上、日本人53人を含む、62人が死亡した。人為的な操縦ミスによるものとみられている。

2021.09.20記す。


 長期予報の的中率は五割未満。気象庁も三カ月以上は統計的確立予報で発表しているわけだが、この場合の予報の実態は、とても科学的とは呼べないものだ。長期予報の成績は六十%ぐらとされているが、純粋に当たるか当たらないかで見れば的中率は五割に満たない。つまり半分以上ははずれである。      『選択 九年十二月号』

▼確率五十パーセントは二分の一である。何度もコインを投げるのを繰り返して、コインの裏か表が出る確率である。コインを投げるたびごとに「おもて、おもて…」といっても当たるのは半分である。また反対に「うら、うら…」でも当たるのも半分である。そうすると「おもて、うら、おもて、うら…」と、でたらめにいってもあたるのは半分になる。

▼自分の行動を決めるとき色々な道があるものである。ある者は悩み、あるものはエイと決断する人もいる。自分の進路を決めるのに最終的にかりに二つにしぼつて、右か左かになったとすると。

 われわれはいくつかの転機を経験してきた。そのたびごとに方向を選択してきた。例えば旧制高校へ進学するかどうか、大学に進むか就職するか、就職するときA社にするかB社にするかなど。そうすると自分の進路は二の転機の回数の階乗になる。たとえば、三回であれば二の三乗すなわち二×二×二=八ということになる。現在の状態は八つの選択肢のうちの一つである。現在の状態に満足している人はともかくも、すこし不満におもっているひとは、今より変わったよい道があったのではないかとおもったりする。実際はこれ以上に複雑な多数な道があったはずである。人の経歴は様々であることが容易にそうぞうできる。なにか必然であるような気もする。

感想1:雑誌『選択』(選択出版株式会社)設立 1974年4月:『選択』(せんたく)は、選択出版株式会社の発行する月刊の雑誌(総合雑誌)。毎月1日発行。完全宅配制度を採り、書店での販売は行っていない。発行部数は6万部。2008年6月号で400号を迎えた。

 July 2018号は、「外交の安倍」という虚名の記事がある。

感想2:「確率五十パーセントは二分の一である」記事に関連して、「クジを先にひても後に引いても同じであることを証明しなさい」

 私が受験した学校の数学入試問題のひとつだった。

感想3:たしかにそうだ。ある時、「ああすればよかった」また、ある時は「こうすればよかった」と思うのは常人の私にもあった。だが、私は転機の節目には、「私が決めたのだ」と思っている。

平成30年7月16日:猛暑日:90歳

2021.09.25


女性党首 深代惇郎の天声人語(朝日新聞社)昭和五十一年十一月十日第六刷 P.201 (50.2.13)

 サッチャ―夫人が英国の保守党党首になったというニュースの報じ方について「女性への偏見に満ちている」と、抗議した女性がいた。サッチャ―登場の政治的分析はほんのつけ足しにして、ブロンド美人が党首になったという取り上げようがよろしくない、という言い分である。

   ジャーナリズムの報道がすべてそうだとは言えないだろうし、それに昔の大英帝国時代とちがって、現在の英国に対する日本人の興味はその程度などだと反論してみても、言い訳がましい感じがする。抗議する女性に道理がある、と考える方がやはり素直であろう。

 四人の男性候補を破って彼女が選ばれたこと、その政治的立場が党内右派であること、若手議員や党下部組織に支持者が多かったことなどは、現在の英国の様子を知るための手掛かりにもなる。「美人党首の誕生は英国のユーモアだ」という声があるが、これも「男のユーモア」にしかなるまい。 

 サッチャ―夫人は「影の内閣」の首相になったわけだが、「女性党首」といわれるのに抵抗を感じるらしい。「"男の首相”とはいわないのに、なぜ"女の首相"というのですか」やんわり反撃している。評論家寿岳章子さんが、同じような話を朝日新聞「論壇」に書いている。

 ある府議会議員が「女課長」という言い方を連発するので、やめてほしいといったら、相手は「女やから女うて何がわるい」と憤然とした。大人げないが、ではあなたはオトコ議員ですね、と言い返したそうである。英国の大学者ジョンソン博士が、あるとき友人に「さっき街頭で女説教師をみかけたよ」といった。

 友人が「へえ、それで説教は上手でしたか」。博士は愚門だといわんばかりの表情で答えた。「後脚だけで歩く犬だといわれ、歩き方が上手かどうかを聞くべきかね。歩いたことにまず驚くべきだよ」。どんな党首であるかよりも、女性が党首になったことに驚くべきだというのは、二百年前のジョンソンに似ている。(50.2.13)

参考:ジョンソン(Samuel Johnson)(1709―1784)

2021.09.25記す。


(1925~2013年)

子 守 唄 深代惇郎の天声人語(朝日新聞社)昭和五十一年十一月十日第六刷 P.161 (50.7.17)

 三十年前のきょう、ベルリン郊外のポッダムで米ソ英の首脳会談が開かれた。すでにドイツは降伏し、連合国と戦っているのは世界で日本だけだった。ルーズベルトの死で、三ヵ月前に大統領になったばかりのトルーマンは、巡洋艦で来た。このミズーリの地方政治家にとって、スターリンとチャーチルを相手にする晴れの舞台だ。彼のもつカードはアメリカの実力であり、切り札は、数日後にひかえた原爆実験の結果だった。

   スターリンは、十一両編成の帝政時代のお召し列車でやって来た。ドイツからできるだけ多くの賠償を取ること。東欧におけるソ連の勢力圏を認めさせること。また、八月上旬までに対日参戦をするというヤルタ密約を実行して、日本占領に加わることも目的にあった。

 チャーチルは疲れていた。それは、この戦争で力を使い果たした大英帝国を象徴しているかのようだった。米国だけが頼りで、そのために米ソ対立をあおることに全力をあげたが、トルーマンにもスターリンにも見抜かれていた。会談の途中で総選挙の結果が分かり、アトリ―労働党首と交代して退場する。 

 このとき日本政府は、ソ連の仲介による終戦が頼みの綱だった。駐ソ大使に対し「近衛特使の派遣」の打診で、悲痛な訓令をくり返していたが、その暗号電報はすべて米国側で解読されていた。ポッダムでスターリンが天皇のメッセジ(戦争終結に関する内意を伝えた佐藤大使の書簡)を披露すると、先刻承知のトルーマンはそれを見せられて読むふりをした。「返事をする価値がありますか。子守唄で日本を寝かせつけときますか」とスターリンはいい、取りとめのない回答を出すことに決める。チャールズ・ミー『ポッダム会談』(徳間書店)は、議事録など解禁された資料をもとに、国際政治のドライな実態を描いている。

 そこに現れた日本外交の哀れな姿に、やり切れないという感じもする。(50.7.17)


「本日正午」 深代惇郎の天声人語(朝日新聞社)昭和五十一年十一月十日第六刷 P.160 (50.8.14)

「回想の八月」もあすがクライマックスとなる。昭和二十年八月十五日。烈日の一日だった。「なぜ戦争に反対しなかったのか」と素直に問う世代に、三十年前のこの日を伝えることはむずかしい。過去は過ぎに過ぎる。「現在」は絶えず「過去」を再構築する。  

   この日の日記を見てみよう。歌人齊藤茂吉の日記によると、朝、シラミを二つつかまえた。正午に天皇の御放送があることを知り、一億玉砕の決心をして羽織を着た。戦争終結のラジオだった。「噫、シカレドモ我等臣民ハ七生奉公ㇳシテコ゚ノ怨ミ、コノ辱シメヲ挽回センコトヲ誓ヒテマツツタノデアツタ」。

 作家高見順も、ラジオに向った。「ここで天皇陛下が、涙とともに死んでくれとおっしゃたら、みんな死ぬわね」という妻の言葉に「私もその気持ちだった」。ラジオを聞いたあと、セミがしきりに鳴く。「音はそれだけだ。静かだ」と書いている。外に出て、新聞売り場で黙々と並ぶ行列を見る。「気のせいか、軍人は悄気て見え、やはり気の毒だった」とある。「

 永井荷風日記は、谷崎潤一郎夫人に贈られた弁当が白米のにぎり飯、コンブつくだ煮と牛肉なので「欣喜みょう状すべからず」とあり、正午のラジオは知らなかった。午後に人から聞かされて「あたかも好し」と、もらい物のニワトリとブドウ酒で祝宴を張る。翌日は「厄介にならむ下心」で、中央公論社長に便りを出す。朝昼晩とカユをすすって飢えをしのぎながら「空襲警報をきかざることを以て無上の至福となすのみ」。食べる話に、たいへん筆まめである。(50.8.14)

2021.09.28記す。


(1925~2013年)

激 論 深代惇郎の天声人語(朝日新聞社)昭和五十一年十一月十日第六刷 P.161 (50.8.15)

 昨日につづけて「昭和二十年八月十五」を書く。昭和二十年八月十五日午前四時ごろ藤田侍従長は天皇の書見室にはいった。天皇の無精ヒゲが目立った。飾りだなには、リンカーン大統領と科学者ダ―ウインの胸像が置かれてあった。

   その四時間前に、天皇は放送録音を終えていた。第一回録音は「少し声が高かったようだ」といって、やり直した。第二回は接続詞が一つ抜けてしまった。だが疲れ切っておられ、三回目の録音は行われなかった。この録音奪取をめぐって、前夜から宮中クーデターが起っていた。天皇は一睡もせずに、敗戦の朝を迎えられた。

 日本帝国の最高指導者たちは、ポッダム宣言を受諾すべきか否かで、連日激論を闘わしていた。連合国の回答文の「最終の政治形態は、日本国民の自由に表明する意思による」という部分が、天皇制護持を認めるものであるかどうかが争点になった。 

 今では想像のつきにくい狂信の時代だった。どたん場になっても、陸軍大臣は「戦局は五分五分、互角である」と強弁した。支那派遣軍司令官からは「尊厳なる国体護持は最後の一人に至るまで戦い抜きてこそ可能」と打電してきた。日本の教育は、「精神」に泥酔し、「言葉」に踊り狂う人間たちを作った。

 その中で天皇は、立憲君主にふさわしい消極的な人間として育てられたが、合理的な思考は失われなかった。戦争の最中、敵国である米国大統領と英国の博物学者の胸像を自室に飾っていた。そこに天皇の合理主義と政治理念をうかがうことができるかも知れない。

 茫々三十年の後、来月三十日には、リンカーンの国を訪れる史上はじめての天皇となる。(50.8.15)

2021.09.26記す。


今日的情念 深代惇郎の天声人語(朝日新聞社)昭和五十一年十一月十日第六刷 P.256 (50.10.24)

 トインビー博士ほど読まれもせず、引用された歴史家はあるまい、と朝日新聞夕刊『素粒子』が悼辞をささげている。「孔子のたわく」の時代は長かったが、つづいて「マルクスいわく」が盛んになり、「かのトインビー博士によれば」もずいぶん使われた。 

 三年前、ロンドンの博士の自宅でお話を伺ったことがある。八十三歳の年齢を感じさせない明晰な内容と話しぶりだった。博士の話し言葉はそのまま活字にして、間然するところのない立派な文章になるというのが定評だったが、あとでテープをタイプしてもらい、うわさに違わぬものだと一驚した。 

 彼は、中国の未来について情熱をこめて語ってくれた。ビリでトラックを走っていた者が、いつの間にか先頭走者になっていく。それが中国だ、という論旨だった。そこには欧米は先頭を切った産業化、機械化についての彼の深い疑いがあった。この前車のワダチに踏みにじられ、それを百年耐えてきた中国には、その方向を自制する節制があるはずだと説きつづけた。こういうときの博士は、科学者であるというより、情熱的な予言者であり、説教者であるという印象が深かった。博士を評して「ジャーナリストだ」という言い方をする人が多い。その構想や理論の独創性に感心する人は多いが、その史観を承認する歴史学者は少ない。 

 その博識は明治維新をペートル大帝のロシア統一に比較し、米ソ対立をローマとカルタゴの死闘で類推し、日本の学生運動を叡山の荒法師になぞらえたりして、うむことを知らない。こうして時代を超えた「状況の共通性」で説き、壮大な予言をするやり方がジャーナルスティックにもみえた。

 ヨーロッパ世界の中で『進歩史観』を信じにくくなり、新しい世界の出現に希望を託すというヨーロッパ知識人の一人だった。学問を象牙の塔にしまっておくのは今日的な情念が許さないという意味では、ジャーナリスティックな人だった。(50.10.24)

2021.09.25記す。


壮大な予言 深代惇郎の天声人語(朝日新聞社)昭和五十一年十一月十日第六刷 P.349

 朝日新聞のインタビューで、英国の文明批評家トインビー博士は「現代は世界の戦国時代だ」と考えている。この大家の持論である。そうかなあ、と思いながら、だが英雄豪傑の影のうすい戦国だなと思ったりする。

 たしかに、現代のように、共通の目的と価値を失った社会とは、ある時代から次の時代に移る谷間なのかも知れぬ。トインビー博士は、過去の例をあげて説明する。中国では秦の始皇帝が統一するまで春秋、戦国の世が五百年つづいた。日本では豊臣秀吉が出るまで、戦国時代だったし、西洋でも、シーザーが現われてギリシャ―、ローマの戦国期を締めくくった。

 戦国時代がクライマックスに達したあと、安定期がくる。シーザーも、始皇帝も、秀吉も戦国を統一し、永続的な平和をもたらすことを自分の使命だと考えた。しかしこの三人は、前の時代を壊すことには成功したが、その過激なやり方のため反動が起こり、自分の体制を長つづきさせることは失敗した。

 シーザーは貴族を抑えて独裁者になったが、暗殺される。始皇帝も秀吉も中央集権をスタートさせたが、どちらも死後は長続きしなかった。博士によると、前代を破壊する者と、後代を固める者とはおのずから別の人物でないかという。

 シーザーの甥、アウグスク皇帝はその後二百六十六年間のローマ帝国を築いたし、始皇帝のあとの漢の高祖は二百年の漢帝国の始祖となった。秀吉のあと、徳川家康も二百六十五年間の幕府を創始した。つまり一番手の英雄は変革者になるが、平和を永続させることはできない。二番手の英雄は、前者の果実をつなぎながら次の時代を固める。

 この歴史の教訓によれば、硬直した超大国米ソに、現代の戦国時代を収拾することは望めない。それは東アジア、おそらく中国だろうというのが、この碩学の壮大な予言のようだ。(49.5.12)

2021.09.26記す。


(1925~2013年)

41 説得の手法 天声人語 '92春の号(第88集)(朝日新論説委員室)+株式会社英文朝日[訳]1992年7月9日 第1刷 P.106 (1992.2.22)

 表現の仕方には、いろいろな工夫がある。例えば物事を誇張して語る方法がある。『ガリバー旅行記』には巨人国や小人国が出てくる。普通の人の身長を極大にしたり極小にしたりする。面白い発見が生れる。 

   物事を逆さまにしてみる工夫もある。同じガリバーの物語には、馬が人間のように暮らし、人間が馬のように使われている国が登場する。これも、ふだんは当たり前のこととして見過ごすような事柄を細かに観察することができて面白い。

 逆にして事態を考えようという工夫は、子供や、ひとに、何かを説得する場合にも利用できる。説得の表現の工夫としては、三つの選択肢を提示する手法もある。第一案と第三案に極端な考え方を置く。受け入れてもらうつもりの考えは第二案だ。  

 自民党の調査会が出した答申案を読むうちに、上のようなことを思い出した。「国際社会における日本の役割に関する特別調査会」の答申だ。「いわゆる国連軍に対して積極的な協力さらには参加する必要がある」と論じている。

「いわゆる国連軍」は今までに実現したことがないものだし、これまでの憲法解釈では無理な話。聞く人は驚く。だが、現段階では「第一案」のように見える。答申の後段に「国連平和維持活動や緊急援助活動への参加などの新たな任務」が出てくる。これが「第二案」か。

 日本は何もしない、という「第三案」ではいけない、とだれしも考えている。新世界秩序、外交、安全保障、援助や環境など広い分野を視野に入れた、冷静な「役割」論議が欠かせまい。

2021.09.27記す。


 41 PICKING ONE OUT OF THERE

There are various ways to express oneself. For instance, there is the method of talking about something in an exaggerated fashion. In "Gulliver's Travels" are found of Lilliput, whose inhabitants are only 6 inches tall, and the land of Brobdingnag with human beings 60 feet tall. The height of the ordinary person is drastically expanded or excessively shortened. Interesting discoveries are made.

There is the method of looking at things upside-down. In "Gulliver's Travels," there is also a country in which horses live like human beings and human beings are used like horses. This is interesting because we can observe and recognize in detail things that we ordinary overlook as natural things.

This method of turning a situation upside-down and thinking about it can be used when trying to persuade children and people about something. As a method of persuasive expression, there is the method of offering three choices. The first and third proposals are extreme arguments. The one that you want accepted is the second one.

And you submit the three proposals, saying, "What do you think?" One who was very adept at using this method in his speeches was former U.S. President Richard Nixon.

Presented with three thought-over policies, people asked themselves: The first and third ones are both extreme. Under the present circumstances, isn't the second one proper and appropriate as the president says?

I recalled the above while I was reading the report drafted by the special committee of the ruling Liberal Democratic Party. It is the report of "special committee on Japan's role in international society." It says there is need to study constructive cooperation with and even participation in the so-called United Nations forces.

The "so-called U.N. forces" have never existed, and cooperation and participation are impossible under past interpretation of the Constitution. People who hear this proposal are surprised. At the present stage, it appears to be the "first proposal." In the latter half of the report, "new duties such as participation in the U.N. peacekeeping and emergency aid activities" appears. Is this the "second proposal"?

Everyone is thinking that the "third proposal" that Japan does nothing is not good. A dispassionate debate on Japan's "role," taking into consideration wide fields including the new world order, foreign policy, security, and environment, is indispensable.

2021.09.27記す。


(1925~2013年)

41 「ルーツ」の著者 アレックス・ヘイリー 天声人語 '92春の号(第88集)(朝日新論説委員室)+株式会社英文朝日[訳]1992年7月9日 第1刷 P.90 (1992.2.14)

 米国の作家、アレックス・ヘイリー氏が亡くなった。十五年あまり前にベストセラー『ルーツ』を著した人だ。この本はテレビの大河ドラマにもなり、米国社会を大いに興奮させた。各国でも翻訳された。  

   母方の祖先を七代さかのぼり、アフリカはガンビア、ジュフㇾ村の少年クンク・キンチに自分の根源を発見する。少年が奴隷商人に連れ去られいぇから何代もの物語を、詳細につづったものだ。調査には長い年月を費やした。 

、ファクト」(事実)だけではないが、さりとてフィクション(作り話)ではなく、事実に基づく。いわば「ファクション」だと言っていた。奴隷売買、苦役、迫害など、黒人たちの体験の描写がなまなましい。建国二百年、米国人にとって一種の歴史教育ともいえた。   

「黒、白、黄色といった皮膚の色の違いよりも、その能力で人間を見たい」。差別に存在に、静かだが激しい怒りを抱いていた。近年、日系、中国系、あるいはイタリア系の米国人と言うのと同様、黒人をアフリカ系米国人と呼ぶ。『ルーツ』以後の表現だろう。 

 ヘイリー氏から聞いた忘れられない話がある。ジュフㇾでは、子供が生まれると父親が七日間、姿を消す。懸命に名前を考えるためだ。八日目に村中の人が集まる。太鼓の響き。父親が赤ん坊の耳に口を寄せ、吹きこむように名前をささやく。

 聞いた人々が口々になを呼ぶ。父親は、夜、子供を抱き、月と星を見せて宣言する。「見よ、汝自身より偉大なるもの、これのみ」と。 

 個人は一人ひとりなの違う存在だ。その尊厳を考えさせる話である。

2021.09.28記す。


 34 NOT FICTION BUT FACTION

Alex Haley, the author of "Roots," a best-selling book about 15 years ago, has died. Adapted as a multi-episode television series, the saga greatly excited America. The book was translated into many languages.

Going back seven generations on the distaff side, Haley traced his lineage to a boy named Kunta Kinte, a villager in Gambia. "Roots" is a detailed account of what happened to the boy and generations of his family after he was kidnapped by a slave trader and shipped to America in the 18th century. The author spent a long time researching the book.

Haley called the book a "faction, a story based on fact, explaining that although it was not entirely based on fact, it was not a piece of fiction, either. The book struck readers with a vivid portrayal of the experiences blacks in America went through: slave trade hard labor and persecution. It provided a kind of historical education for Americans as they observed the 200th anniversary of their country.

The author said he believed that by writing the history of the "sufferings blacks were forced to go through," he had "phenomenally enhanced the self-respect for being black and their pride in their history and ancestors." He also said he had received most pronounced response from second- and third-generation Japanese-Americans after blacks.

"I would like to look at people in terms of their ability, not in terms of whether have a black, white or yellow skin color," Haley said. He harbored a quiet but strong indignation against discrimination based on skin color. It is probably since "Roots" was published that blacks came to be called African-Americans, just like there are such expressions as Japanese-Americans, Chinese-Americans and Italian-Americans.

One thing I heard from Hayley is unforgettable. In the Gambian village where Kunta Kinte grew up, when a baby is born the father drops out of sight for seven days to rack his brain for a good name for the child. On the eighth day the whole village assembles. As drums are beaten, the father, with his mouth close to the ear of the baby, whispers the name he has chosen, as if breathing into the child. Villagers, listening in, shout the name when they make out the whisper.

At night the father, making the baby look at the moon and stars in his arms, declares: "Look at them. They are the only things greater than you."

This custom reminds one of the dignity of all human beings who are distinguished from one another by different names.

Copy on 2021.09.28


13 銭 湯 '92 夏の号(朝日新論説委員室)+株式会社英文朝日 1992年10月12日 第1刷 P.12 (1992.4.6)

 温泉へ行きたしと思えども温泉はあまりに遠し。第一、費用もかなりかかるから、そうたびたびとはゆかぬ。

 だが、手軽に温泉気分に浸れる手がある。銭湯だ。家の中の狭い風呂とは違い、思い切り手足を伸ばせる。近所の人たちとの世間話も楽しい。これからの季節なら、帰りに寄り道をして、ビールに枝豆でもつまめば、ちょっとした極楽である。

 入浴料金も、いちばん高い東京、千葉、神奈川で大人が二百二十円、最低の沖縄が二百円。他の物価に比べれば格段に安い。髪を洗う女性なら、さらに数十円の追加料金がつく所もある。湯の使用量が多い、という理由だが、男性は長髪でも追加料金はとらぬというのがふしぎといえばふしぎだ。

 その銭湯が年々、消えてゆく。一九六四年の二万二千軒を最高に、九〇には一万二千軒を割ってしまった。風呂を備える家やアパートが増えたことも大きいが、何せ朝から夜中までという今どき少ない長時間労働の職場だ。後継ぎの確保が難しい。低料金で、売り上げが少ないという事情も響く。この数年のバブル経済の進行で、地上げ攻勢にさらされたり、確実な収入が見込める貸しビル、賃貸住宅へと転業した例も多い。

 料金を上げたくとも、一日に百人から二百人という客ではたかがしれている。上げれば客は減るだろう。改築しようにも、一軒当たり一億五千万から二億円もかかる費用の手当では、容易ではない。

 銭湯の廃業が増えるのは、地域の人にとっては、かなり切実な問題だ。風呂のないアパートに住む人たちは大都市に集中している。銭湯も休業日が重ならないように、隣接の銭湯と相談して日を決めている。休業日がぶっかると、一日の仕事の汗が流せない人が出てくるからだ。「もう限界だが、これから先は意地ずく」と銭湯の経営社が言う。その意地を、何とか支援する道はないものか。

2021.10.07


 5 HELP PUBLIC BATHS STAY IN PUBLIC

I would fain go to a hot spring, but even the nearest lies many leagues away. Since the journey costs me dearly, to begin with, I seldom go there.

However, there is an inexpensive way to steep in the same mood as in a hot spring: to visit a "sento" (Japanese public bath). Unlike in your cramped bathtub at home, you stretch your arms and legs out to the fullest. You can also enjoy conversation with people from neighborhood. In the upcoming season, making a small detour on the way home from the bath for a bottle of beer and some boiled green soybeans, we could put ourselves in a state of nirvana.

Bathing fees for adults range from ¥320 in the highest areas, Tokyo, Chiba and Kanagawa, to ¥200 in the cheapest area, Okinawa. They are by far the lowest compared to other commodity prices. Some public baths charge an additional ¥20 or ¥30 or so for women who wash their hair. This is claimed to be the extra hot water they use, but somewhat strange is that a man with long hair is not charged extra.

Public baths are disappearing one after another, The year of 1964 saw the greatest number, with 23,000 across the nation; this was halved to under 12,000 by 1990. Part of the reason must be the increasing number of houses and apartments with their own baths, but what makes it difficult to secure prospective successor is anachronistical nature of the job which requires long working hours from morning until late at night. Another factor contributing to the decrease in the number of public baths is the small turnover that comes out of the low fees. Several exposed public baths to the effects of land speculation, and many of them have been replaced with rental buildings and apartments which promise are more dependable income.

It is tempting to rate fees, but at 100 or 200 customers per day, not much can be expected. And a fee raise would probably alienate customers. Remodeling is no easy task considering what would be needed to cover such an expense, which would cost from ¥150 million to ¥200 million a building.

The increasing number of public baths going out of business is a serious blow to people in many neighborhoods. The big cities have concentrations of apartments which are not equipped with baths. The owners of public baths that are located in the same neighborhood try not to have their regular days off coincide with each other so that any worker may have access to a bath to wash off of a day’s labor on any day. "We're stretched to the limit as it is, but we're going to stic to our obstinacy in the future, "one owner says. Surely there must be some way to support such obstinacy.

Copy on 2012.10.07


13 季 語 '92 夏の号(朝日新論説委員室)+株式会社英文朝日 1992年10月12日 第1刷 P.30 (1992.4.15)

 「野に出れば人みなやさし桃の花」高野素十。

 そぞろ歩きの楽しい季節である。百花繚乱。あでやかな花。大きい花に小さな花。堂々たる「君子蘭」の赤。雪か米粒かと見まごう「雪柳」の白。見渡す限り黄一色の「菜の花」。そして路傍を薄紫色に彩る「大根の花」。

 「桃の花」も「梨の花」も、また上に挙げた花のなも、かつこの中はすべて春の季語である。咲きこぼれる花もよいが、咲こうとしている花にもまた趣がある。葉に先がけて、ひらく直前の「花水木」。白く堅い花びらの清潔感。

 「さりげなくリラの花とり髪に挿し」星野立子。北海道の「ライラック」は、まだそこまで咲いてはいまい。花とともに「木(こ)の芽」の美しい時期でもある。柿の新芽の緑は目にしみるようなかがやきだ。「柿若葉」「新緑」というと、しかし、これらは夏の季語だ。

 数多くの季語を集めた事典、歳時記を評して「日本人の感覚のインデックス(索引)」だといった人がいる。うまい表現だ。この国の自然や生活の中で、長い年月の間に定着した、人々の季節感や美意識を盛った言葉を取り上げて並べてある。

 黒田杏子(ももこ)著『今日からはじめる俳句』の中に、なるほどと思わされる提案が書いてあった。季語を一つ一つ書き取って覚える。次に、毎日出合った季語を片端から帳面に書きつける。なづけて季語日記。

 さしずめ、近ごろなら「花冷え」「麗か」「長閑(のどか)」「風光る」「都忘れ」「小粉団(こでまり)の花」「忘れ霜」などが並ぶかも知れない。地域によっては「茶摘み」もあろう。「草餅」も忘れるわけにはゆくまい。「草餅の濃きも淡きも母つくる」山口青邨。

 植物や動物のほか、時候、天文、地理、生活、行事と季語は広い範囲に及ぶ。私たちが自然界や人間の営みを的確に認識し、感じとるには、季語を正確に知り、それらを窓口にするのがいい。

2021.09.28記す。


 31 'KIGO' CAPTURES JAANESE SENSIBILITIES

When you go around in the field/Everyone you meet seems kindly/Now is the time of peach flowers.(Suju Takano)

You find your strolls to be the most enjoyable at this time of the year. All kinds of flowers are in bloom. Some flowers are glorious, while some others are pretty. The red flowers of "kunshiran" (Kaffirlily) are magnificent. The white flowers of "yukiyanagi" (spirea, Spiraea thunbergii) make you wonder if they are snow or rice grains. Rape blossoms stretch away in yellow belts. Pale purple radish flowers grace the roadside.

Peach flowers, pear flowers, and all the flowers mentioned above make up "kigo"(season words)for spring.(Haiku rules for the use of at least one "kigo" in each poem.)

Blooming flowers are nice to look at, but flowers about to bloom are also nice, as exemplified by dog-wood-flowers striking cleanliness.

Casually, hiding my intention/I plucked a lilac flower/And put it in my hair.(Tatsuko Hoshino)

Lilacs in Hokkaido probably have to reach the point where you can pick them.

The sight of budding tree leaves is also glorious now. The verdure of buds on persimmon trees is so radiant that your eyes smart. But "kaki wakaba"(budding persimmon leaves)and "shinryoku"(fresh verdure)are "kigo" for summer.

A large number of season words are collected in the haiku lexicon(saijiki) together with examples of how they are used. Someone has aptly described the lexicon as "an index of the sensibilities of the Japanese." The listed words and phrases convey the senses of the seasons and of beauty about nature and life that the Japanese have come to share over the years.

Momoko Kuroda gives sensible advice for haiku beginners in her book "Haiku Composition From Today." One of her suggestions is for the beginners to write a "kigo" diary. They first are to write down season words one by one from the haiku lexicon, committing them to memory. They then are to do the same with the season words and phrases they come across every day.

Appropriate entries in such a diary now may include "hanabie" (cold weather at the time of blooming flowers), "uraraka"(glorious), "nodoka"(peaceful),"kaze hikaru"("wind with a glow"), "miyako wasure"(a grass whose little flowers supposedly make on forget the capital),"kodemari no hana"(flowers of Spiraera cantoniensis), and "wasure jimo"(unseasonally late frost). The beginner in some areas may add "chatumi"(tea picking). Not to be forgotten is “kusamochi”(rice-flour dumpling mixed with mugwort).

Some "kusamochi" pieces in the dish/Are greener than others/But my mother made all of them.(Seison Yamaguchi)

In addition to plants and animals, the "kigo" words and phrases cover extensive fields, including weather, astronomy, geography, life and events. To understand the precise meanings of these words and phrases and to use them as the guide is the best way for us to have a correct perception and recognition of the activities of nature and man.

Copy on 2012.10.6


23 お か ゆ '92 夏の号(朝日新論説委員室)+株式会社英文朝日 1992年10月12日 第1刷 P.54 (1992.4.26)

 おかゆ、と聞くと何を連想するだろう。病気で寝込んだ時のことだろうか。初めはおもゆ、次に三分がゆ、それが何日か続くと五分がゆ、そしてやがて固かゆが許される。回復に向かううれしさを思い出す人もいる。

 といっても、連想は地域によって違うはずだ。例えば関西の人にとっては、おかゆは関東でよりも日常的な食べ物だろう。食習慣が違うからだが、これを、ご飯をいつ炊くかの違いで説明することがある。いわく、関東では朝、炊く。そして朝と昼はそのまま食べ、夜もそのまま茶漬けで食べた。

 関西では昼に炊く。昼と夜はそのまま食べ、翌朝、残ったものをおかゆにする……。こいう風習が長い間続いたというのである。かつてはそうだったかも知れぬが、いま、例えば関東でご飯を朝炊く家庭はどのくらいあるのだろう。関西で、朝がゆの習慣はどれほど守られているのだろう。 

 おかゆにしても、いもがゆ、茶がゆと各地にいろいろな味がある。日本を離れ、広州、北京、台北などで肉や魚など様々な具を入れて食べる朝がゆも、なかなかうまい。韓国では酒をのむ前に進められて少量のおかゆを食べたことがある。日本では、しかし、おかゆは本来、日常食というよより特別の日のためのものだったらしい。 

 年中行事、人生儀礼の折りの食べ物だ。七草がゆ、小正月のあずきがゆ……。いまだに残っている。新潟県には、新築の祝いの時に振る舞う家移(やうつ)りがゆの習俗もあるそうだ。最近、どうしたことか、おかゆの売れ行きが極めてよいのだそうだ。話題になっている。 

 缶詰など即席食品としてのおかゆの生産量は、この五年間で十ばい以上。東京の街では、昼飯時に、おかゆの移動販売車に人々が群がっている。この現象、健康志向なのか。毎日を特別の感慨で迎えようとの、日常からの脱出願望か。病気や疲れなどの表われでなければよいが。

2021.10.04記す。


 23. GIVING 'KAYU' MORE CREDIT ?

What do most people associate with the word "o-kayu" (rice gruel)? The word may bring back memories of times when you were sick in bed. At first, kayu is served very runny, then the portion of rice is gradually increased. Finally, a sick person is allowed to eat solid rice, porridge. The taste of kayu reminds some people of the joy of recovering from an illness.

But kayu is associate with different things of Japan in different regions of Japan. For example, they say kayu is more commonly eaten in the Kansai area in western Japan, than it is in the Kanto area in eastern Japan. This is a matter of dietary customs, but some explain that the reason is the result of a difference in when rice is cooked. In the Kanto area, people generally cook rice in the morning. They eat the rice for breakfast and lunch; in the evening, the rice is eaten in the same fasion or served with hot water or green tea poured over it.

In the Kansai area, rice is usually cooked at lunch. A portion is eaten then and at dinner; the next morning, hot water is stirred into the leftover rice for kayu. Both customs are said to have been practised. That used to be the case, but now many households in the Kanto area cook rice in the morning? I wonder to watch extream in the Kansai area the custom of eating kayu in the morning has been presaerved.

The type of kayu differs from one place to another as can be seen in "imo(sweet potato)-gayu" and "cha(tea)-gayu." Outside Japan, it is appealing to our tongues to have some breakfast kayu mixed with various ingredients such as meat and fish in such places as Beijing and Guangzhou in China and in Taipei in Taiwan. In Korea I was once offered a small portion of kayu before drinking. In Japan, it is said that kayu has been more of a food for particular days than for eating every day.

It has been a food for annual festivals and ceremonial occasions marking turning points in life. Nanakusa-gayu is rice gruel containing the seven spring herbs. Azuki-gayu made of sweet beans is eaten around mid-January to celebrate the new year. These traditious are still alive. In Niigata Prefecture, they eat a special kayu when they celebrate moving into newly-built houses. For some reason, kayu has reportedly been selling very well recently. The popurality of kayu is the talk of the town.

Production of canned and other forms of instant kayu has gone up more than tenfold in the last five years. Customers crowd around as vans sell kayu in the streets of Tokyo at lunch. Is this a result of the health-conscious boom, or an attempt to get out of the daily routine by injecting a deep emotion into everyday life? I hope the trend is not a symptom of malaise and fatigue.

Copy on 2012.10.4


46 西 瓜 '92 夏の号(朝日新論説委員室)+株式会社英文朝日 1992年10月12日 第1刷 P.114 (1992.5.25)

 西瓜を、今年初めて食べた。ひと汗流した後すすめられた。ひと切れの西瓜で汗がひく。夏が来る、というという気分。上品ぶってはいられず、車座でかぶりつくところがいい。「西瓜赤いき三角童女の胸隠る」野澤節子。

 夏の味の代表格である。果実が大きいせいか、いつも、何人かの人々と一緒に食べた。という記憶が伴う食べ物だ。食べ物が乏しかった時代、重い、立派な西瓜を真中に置く。包丁を入れる前から期待で歓声がわいた。「両断の西瓜たふるゝ東西に」日野草城。

 ずいぶん昔からある作物らしいが、日本での歴史はそう古くない。アフリカ南部のカラハリ砂漠に生まれ、エジプトでは四千年も前に栽培していたことが絵に残されているという。ギリシャに三千年前、ローマには紀元初期にはいる。

 中国には、中東からシルクロードを経て十二世紀に西域に達した。西瓜と呼ばれるゆえんだろう。遅れて日本にも来たが、あまり普及しなかった。明治初期になり、米国経由で優良品種がはいり、栽培されるようになる。

 日本では、富山県の黒部西瓜などを除けば球形がほとんどだが、米国には長円形の西瓜が多い。半分に切り、中をくりぬいて鉢の形にし、細かく切った実をほかの果物とまぜ、フル―ツカクテルにして食べることがある。

 「水中に水より冷えし瓜つかむ」(上田五千石)。甘さと歯触りが身上だが、冷たさも大切な要素だ。深い井戸や清流に入れて冷やしておくなど、最近ではかなわぬぜいたくだろう。栄養の面でもなかなかの食品だそうだ。

 これからの季節、盛夏炎天のもとで汗をとめ、のどの渇きをいやすには西瓜が一番。家族の人数が少なくなったためか、近頃「小玉」と称する小さな西瓜が目につく。だが、西瓜は、大きいのを、やや騒々しく食べる時が最も楽しい気がする・「西瓜切る→家に水気と色あふれる」西東三鬼。

2021.10.04記す。


 46. WATERMELON SEASON

I have just eaten my first watermelon of this year. It was offered to me after I had worked up a good sweat. That slice of watermelon brought my sweat to a quick halt. Watermelon puts me in the mood that summer is coming. I don't like to waste time acting in an elegant manner while eating watermelon. What I like is biting into a slice on the spot. "The young girl's breath is hidden/ behind the red triangular pyramid of the watermelon"(Setsuko Nozawa).

Watermelon has a typical summer flavor. Perhaps because it is big, in my memory, I associated it with being eaten together with several other people.

When food was in short supply, We would place in the center of the circle. Our voices became louder in anticipation of the feast long before the first cut was made. "As the watermelons is cut/the two halves collapse/ eaten to west"(Sojo Hino).

It is said that watermelon is one of the crops of the ancients, but its history in Japan is rather short. According to a pictorial record, the watermelon originated in the Kalahari Desert in the southern part of Africa and was already being cultivated in Egypt as long as 4.,000 years ago. It had spread to Greece by 3,000 years ago, and to Rome at the beginning of the Christian era.

It traveled the Silk Road from the Middle East and reached Hsiyu in the 12th century. This is probably the reason a combination of two Chinese characters meaning "western arc" is attached to the name of the fruit. Watermelon was introduced into Japan late, but it did not spread widely. It was not until a watermelon of superior quality came to Japan from the United States that the fruit began to be cultivated.

Nearly all the varieties of watermelon in Japan are spherical in shape, except for the Kurobe watermelon and a few others of Toyama Prefecture, but most American watermelon are elongated in shape. Americans often cut their watermelons in half, scope out the center to create a bowl out of the rind and mix the diced center with slices of other fruit to make fruit cocktail.

"Under the water/ I hold a melon/ cooler than the water"(Gosengoku Ueda). The quality of a watermelon is revealed by its sweetness and feel in the mouth, but coolness is no less a sine qua non. The old ways of cooling the melon in the water of seep well or in a stream probably sound like untold luxuries to the people of this generation. Watermelons are also said to be quite nutritious.

The watermelon is unmatched for stopping for the sweat of the coming hot season and soothing the dryness of the throat. A small species called "Kodama" (small ball) hss caught our eyes in recent years, perhaps because of the shrinking size of the family. Still, I feel the watermelon is best enjoyed in large, noisy slice. "When the watermelon is cut/the house fills/with its scent and color"(Sanki Saito).

Copy on 2012.10.5


63 ひめゆりたちの祈り '92 夏の号(朝日新論説委員室)+株式会社英文朝日 1992年10月12日 第1刷 P.14 (1992.5.25)

 女優の香川京子さんが本を書いた。初めての経験だそうだ。『ひめゆりたちの祈り――沖縄のメッセ―ジ』という。

 だれにも、その後の人生に大きな意味を持つことになる大切な体験というものがある。香川さんは四十年ほど前に映画「ひめゆりの塔」に出演した。女学生の役だった。映画の舞台は、戦争末期に近い沖縄だ。

 米軍による艦砲射撃。空襲。陸軍病院の看護活動に、女学生が動員される。沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高女の生徒たちで「ひめゆり学徒隊」と呼ばれた。

 血、うみ、汚物にまみれた病院壕の中での看護作業、死体処理……。米軍が上陸し、日本軍と学生隊は命からがら移動する。さまよいながらの負傷兵の手当て、実際の出来事の大筋を映画化したものだ。

 この国内唯一の地上戦で、沖縄の人々は米軍の攻撃に苦しんだだけでなく日本軍にもひどい目に遭わされる。むろん、中には立派な人もいた。香川さんは生き残った女学生たちと「同窓生」的なつき合いを始め、様々な沖縄戦の実相を聞くことになる。

 いま「証言委員」に二十七人が、ひめゆりの平和記念資料館で人々に当時の様子を説明している。戦争の恐ろしさ、愚かさを、戦争を知らぬ世代に伝える語り部だ。

 生き残った人が、死んだ仲間に「申し訳ない」と感じている。生きたかった仲間の無念さを伝える義務を感じている。それに香川さんは打たれる。

 「人間が人間でなくなる」戦争のこわさ。香川さんは話を聞き、さらに細かく調べてゆく。人々に尊敬されていた上原貴美子さんという婦長の最後の様子について、アルゼンチンに戦後移住した人をついに尋ねあて、聞き出した経過も記されている。

 現代史について、知識もなく、実感もない、という人が増えつつある。戦争のむごさ、平和の貴さを語りつがずにはいられぬ、と思い定めた気迫が感じられる本だ。

2021.10.08記す。


 63 THE MESSAGE OF OKINAWA

Actress Kyoko Kagawa has written her first book. The book is titled "The Prayers of Himeyuri Girls――The Message of Okinawa."

Everyone goes through an experience that takes on a crucial meaning later in life. In Kagawa's case, it was her appearance in the movie "Himeyuri no To"(The Star Lily Monument) about 40 years ago. The movie was set in Okinawa in the last days of World War Ⅱ. She played the role of a female student.

As American naval guns and air raids were pounding Okinawa, female students were mobilized for nursing activities at a Japanese army hospital. Drawn from the Women's Department of Okinawa Normal School and No.1 Okinawa Prefectural Girls' High School, they were called "Himeyuri Student Corps."

What awaited them was terrible. They attended on wounded soldiers in trenches smeared all over with blood, pus and filth. Additionally, the task of disposing of corpses fell on them.

The landing of U.S. forces sent Japanese defenders and the "himyuri nurses" fleeing, abandoning their trenches. The girls tended the wounded as the troops, taking them along, moved here and there aimlessly in search of shelter

The movie represented what actually occurred.

Okinawa was the only theater of ground war in Japan during World War Ⅱ. Local people not only suffered from American attacks but were also mistreated by the Japanese forces. There were, of course, good soldiers. Through her movie appearance, Kagawa formed "alumnalike" ties with survivors of the student corps and heard their accounts of the realities of war.

Twenty-seven survivors are giving testimony on the battle of Okinawa to visitors to the Himeyuri Peace Memorial Archives. They are playing the role to convey the horrors and follies of war to the generations that have not experienced war.

The actress was impressed with a sense of guilt felt by the survivors toward the deceased colleagues of the corps, leading them to think they have the obligation to let the later generations know how much they wanted to live.

Kagawa says in her book that what is horrible about war is that it dehumanizes people. Proceeding from accounts given by survivors, she checked into further details. She searched out a survivors who emigrated to Argentina after World War Ⅱ to get an account of how Kimiko Uehara, a respected chief nurse, had died. The book explains how she got to the emigrant.

The kind of people who know nothing about the contemporary history of Japan and have no real sense of what took place in those years is increasing, Kagawa's book imparts a resolve to let such people know of the cruelties of war and realize the preciousness of peace.

Copy on 2021 10.8


23 空海とうどん伝説 '92 冬の号(朝日新論説委員室)+株式会社英文朝日 1993年3月25日 第1刷 P.54 (1992.10.26)

 香川県善通寺市に、空海の愛犬を葬ったと伝えられる塚がある。九世紀の初頭、唐の長安に留学した空海がはるばる天竺(インド)から連れ帰った犬の墓だという。空海の郷里、香川県の郷土歴史研究家、杉峰俊男氏が『讃岐うどん』十四号で紹介していた。

 それによると、空海は名薬を求めて天竺へ行ったが、警戒が厳しい。入手した薬草の種三粒を自分の足の肉を割いて隠した。関所の番犬がほえ立てたが何も見つからず、番人は犬を倒す。空海があわれんで、それを蘇生させた。

 薬草は実は小麦。日本に持ち帰って広め、うどんの普及のもとにもなった、というのが伝説の骨子だ。当時の長安は、中央アジアやインドとも往来の盛んな東西文化交流の中心地だった。うどんは別としても、多くの技術や新知識が、使節や留学生を通じて日本に続々と流れ込んできた。

 その長安で、空海はサンクリットやインドから伝わった密教を学び、帰国後に真言宗の開祖となった。そのかたわら学校や水利施設を作り、筆の製法まで伝授した。

 二年ほどの留学で、これほどの成果を収めたのだ。後世に弘法大師とたたえられる空海の多才はもちろんのことだが、長安が発していた文化の光りの強烈さを想起させる。

 考古学調査によると小麦の日本伝来は弥生初期以前らしい。うどん発祥の地も中国だが、この方も空海より早く原形が伝わったようだ。犬塚について書いた杉峰さんもそれらを承知の上で「千年以上も信じ、伝えてきた人々のロマンを大切にしたい」という。

 人々の知恵と熱情こそが文化をはぐくみ、伝える。長安という地名は、そんな文化交流の大切さを改めて感じさせる。長安、今の西安の名物料理は形や具もさまざまなギョーザだ。同じ材料をめぐる先人の努力を土台に、日本のうどんともつながってぃる。

2021.10.09記す。


23. PRESERVATION OF MYTHOLOGY

In Zentsuji City, Kagawa Prefecture, there is a grave that is said to have been made by Buddhist master Kukai for his dog. master Kukai for his dog. Kukai was sent to the Chinese city of Chang-An at the beginning of the 9th century during the great series of scholarly, religious and cultural exchanges for which the T'ang Dynasty is remembered in Japan. Kukai found the dog on a journey to India, and eventually brought it all the way back to Japan, where it is buried in Zentsuji. The story is told in the 14th issue of "Sanuki Udon" by Toshio Sugimine, a local historian of Kagawa, the birthplace of Kukai.

According to Sugimine's article, Kukai went to India in search of legendary medicines, but was received with little more than suspicion in that country. Finally given three grains of a medicinal herb, he cut open his leg and concealed them beneath the skin. As he was passing through a border-post on his way back to China, a dog scented the contraband and barked, but was unable to find the herb. The disgusted border guard beat the dog and let him for dead but Kukai took pity on the dog and nursed him back to life.

The "herbs" turned out to be wheat. Kukai brought the seeds back to Japan, where he proclaimed the virtues of the plant far and wide, eventually leading to the popularity of udon noodles.

Those are the "bare bones" of the legend of the origin of udon in Japan.

At the time, the city of Chang-An, at the crossroads of India and Central Asia, was a busting center for exchange of culture between East and West. Besides the food udon, much technology and knowledge came to Japan through the multitude of diplomatic envoys, students and priest scholars.

In that city, kukai studied Sanskrit and secret teachings that had been transmitted from India. Kukai founded the Shington sect of Buddhism upon his return to Japan. Besides that achievement, he built schools and irrigation networks, and taught how to make the brush used for Japanese calligraphy.

All these arts and crafts he learned in a period of two years. Of course, Kukai was the genius who achieved eternal fame with his posthumous name Kobo Daishi, but this still attests to the brilliance of the cultural richness of the city of Chang-An.

Archeologists tell us now that wheat was first brought to Japan sometime prior to the early Yayoi Period. Udon noodles were also born in China; the basic recipe for these appears to have come to Japan considerably before the journey of Kukai. Scholars have never proved that Kukai actually went to India. In his article about the grave of the dog, Sugimine is well aware of the facts, but cautions that we must respect the myth believed and handed down by the generations over the millennium gone by.

People's wisdom and passion are themselves what spawn culture and keep it alive. The name Chang-An stirs and renews our respect for the importance of cultural exchange. Chang-An, or as it is presently called, Xian is now known for its fried dumplings("gyoza" in Japanese) of many shapes and contents. Thanks to the efforts of our forebears with exactly the same ingredients, gyoza are related to udon noodles.

Copy 2012.10.10


33 幻 の 声 '92 秋の号(朝日新論説委員室)+株式会社英文朝日 1992年12月25日 第1刷 84 (1992.8.7)

 「こちらは広島中央放送局でございます。広島は空襲のため放送不能となりました。どうぞ大阪中央放送局、お願い致します……」。

 原爆が落とされた直後、広島県北の山あいに住んでいた女学生は、ラジオで悲痛な女性の声を聞いたという。やがて途切れた美しい声の安否が気になり続け、彼女は三十年後に東京のNHKに手紙を書いた。

 瞬時に崩壊した放送局から、本当に放送は続いたのか。番組制作担当だった白井久夫さんは、手紙を手に真相を追い始めた。声を聞いたという人はほかにもいたが、生き残った局員のだれもそんな放送をした記憶はない。

 ではその時、犠牲者三十六人を含め、局員はどこで何をしていたのか。「運命の朝」を再現する試みが、原爆に病み、「失われた一日」の記憶にさいなまされる放送人の重い口に迫る。

 新事実にもぶっかる。間断ない空襲にさらされる国民には、ラジオを通じての警報は命綱だった。だが、原爆を搭載したエノラ・ゲイの飛来の際の警報発令は送れた。軍管区司令部から放送局へ警報が伝達される直前に閃光が襲った、と白井さんは言う。

 原爆投下より一分でも出も早く警報が出ていれば、数万人は助かったはずだ。東京大空襲での警報の扱い同様に、人命を軽んずる旧軍の体質と責任者による判断ミスがあった、とも。

 十七年間に及ぶ取材経過を、白井さんはNHK退職後のこの夏、『幻の声』と題して本にまとめた。冒頭の「女性の声」が何だったか、ここでは明かせない。が、四十七年の歳月を経てなお書かれざる核の悲惨がだれにもあると知らされる。

 米国とロシアは六月、二〇〇三年をめどに核弾頭を約三分の一に減らすことで合意した。それでもなお広島原爆の十数万ばいの破壊力が残る。人類は、頭上に自らがつるした「ダモクレスの剣」におびえ続ける。

参考:余禄「ダモクレスの剣」とは。毎日新聞 2018/9/25 東京朝刊

「ダモクレスの」とは王位をうらやむ廷臣が王座に座らされ、頭上に毛一本でつるされた剣に気づく故事をいう。栄華の中にも危険が迫っているとの意味だ。これを国連総会の一般討論演説で引用したのはケネディ米大統領だった▲1961年9月25日。「人類は核というダモクレスの剣の下で暮らしている。それは細い糸でつるされ、いつ何時にも事故か誤算か狂気により切れる可能性がある」。米ソの冷戦で核の恐怖が現実味を帯びた時期に軍縮と核実験禁止を唱えた▲この演説を意識したのかどうか、トランプ米大統領も昨年9月の国連演説で核の脅威に言及した。核兵器と弾道ミサイルの開発に躍起となる北朝鮮を、場合によっては「完全に破壊す」と警告し、金正恩(キムジョンウン)委員長を「ロケットマンは自殺行為に走っている」と非難した。荒っぽい言葉だった▲それから1年、米朝首脳会談を経てトランプ氏の金氏に対する態度は変わった。「私は彼を尊敬している」と褒め上げ、北朝鮮が軍事パレードで核ミサイルを誇示しなかったことには「ありがとう>と感謝した。国際情勢の変容ぶりは急で目まぐるしい▲きょうから今年の国連総会一般討論演説が始まる。加盟193カ国の首脳らが登壇し15分間、自由に発言する。米中や米露の対立、シリア情勢混迷の折、世界全体を見渡す機会となろう▲ケネディ氏は57年前の演説で、平和を維持し戦争を止めるため国連の新たな影響力と役割を求めた。これも現在に通じる言葉かもしれない。

2021.10.22記す。


33. A GHOSTLY VOICE

 "This is Hiroshima Central Broadcasting Station: Because of the air raid on Hiroshima we are unable to continue broadcasting. Osaka Central Broadcasting Station, please take over! Osaka, take over!"

A female high school student, then living in the folds of mountains to the north of Hiroshima Prefecture, apparently heard this anguished woman's voice on the radio immediately after the atomic bomb was dropped. After it was finally cut off, the girl continued to wonder about the fate of the owner of that beautiful voice. Thirty years later she wrote a letter of enquiry to Japan Broadcasting Corp. (NHK) in Tokyo. Since the radio station was instantaneously destroyed, was there really any such broadcast? With the letter in hand, former program planner Hisao Shirai began to seek out the truth.

There were other people who said they had heard the voice, but none of the station staff who were still alive could remember making such a broadcast. So where were the 36 staff members, including those who died, that day and what were they doing?Shirai tried to reconstruct the events of that fateful morning and pressed the broadcasting staff――whose memories still torment them――for their reluctant testimony on the painful "lost day" of the atomic explosion.

He came across some new facts as well. For the citizens subject to incessant aerial bombardments, warning on the radio provided a vital lifeline. However, warning of the approach of the Enola Gay carrying the atomic bomb was late. Shirai says that notice of the U.S. plane's approach was delivered to the radio station from the regional military headquarters just after the flash of the explosion. If the warning had been given even a minute earlier, tens of thousands of lives could have been saved.

The same casual attitude to human life inherent in the structure of the army of the time, and errors of judgement by those responsible are evident in the way warnings before the intensive Tokyo air-raids were handled.

Shirai has retired NHK. This summer, after 17 years of collecting material on the topic, he has put together a book called Maboroshi no Koe (The Ghostly Voice). As for the explanation of the woman's voice described at the beginning of this article, I will not reveal it here; but all this does show us that there still remain untold tragic tales of the atomic bomb even after a laps of 47 years.

Russia and the United States agreed in June to reduce the number of their nuclear warheads by roughly two-thirds before 2003. Nonetheless, we are still left with weapons which have over a hundred thousand times more destructive power than the one dropped on Hiroshima. This sword of Damocles continues to hang over the collective head of humanity.

Copy on 2021.10.23


  勲 章 辞 退 '92 冬の号(朝日新論説委員室)+株式会社英文朝日 1993年3月25日 第1刷 P.70 (1992.11.1)

   

 作家の城山三郎さんが四十年にわたって書きためたという詩の本『支店長の曲がり角』を読んだ。「勲章について」という一編に、勲章をめぐる詩人と妻とのやりとりが巧みに描かれている 

▼勲章を授けたい、と役所が言ってくる。受けたくない。断るつもりだ。妻に理由を説明する。その有り様が活写される。「あなたの言い分を聞いていると、もらった方に失礼じゃないかしら」などと妻が言い、詩人はあわてる。結局「読者とおまえと子供たち、それこそおれの勲章だ。それ以上のもの、おれには要らんのだ」 

▼「われながらのせりふ、本音でもある」と……続く。読みながら、いろいろな人の顔やせりふを思い出した。「人間に等級をつける勲章は好まない」と受勲を固辞し、死後の叙位叙勲も「辞退」と遺書に書き残したという前川春雄・元日銀総裁。同様に叙勲を受けない主義を貫いた桜田武・元日経連会長 

▼桜田さんが師と仰いだ日清紡の元社長、宮島清次郎さんも、「在野のものが一生をかけてやった仕事に役所が一等だ二等だと格づけするのはおかしい」と叙勲の話を断った。清廉を通した宮島さんは「おれたちの先祖はみな、百姓か漁夫だった。たまたま運がよくて資本家になったにすぎない」と言っていた 

▼「わたしゃ百姓の娘でしてね。勲章をつける人なんか嫌いだな」と言って叙勲を断ったのは元参院議員の市川房江さんだ。小学校の校長をつとめ、のちに子供たちの詩や作文の選者をしていた久米井束さんは「日本国憲法の精神に照らして、勲章制度は弊害と危険性を含んでいます」という辞退願を区役所に出して高齢者叙勲を断った

▼様々な勲章のはやる世の中だ。政府自らの人気とりのような授賞もある。相対的な価値判断による授受。それらをわらうかのように戦後のやみ市で勲章が売られていた情景をも、城山さんは描いている。

2021.10.23記す。


42 男 子 の 本 懐 '92 冬の号(朝日新論説委員室)+株式会社英文朝日 1993年3月25日 第1刷 P.100 (1992.11.17)

 浜口雄幸首相が東京駅で狙撃されたのは、一九三〇年(昭和五年)十一月十四日だった。当時六十歳。重厚、誠実な人柄で人々の信望を集め、顔立ちからライオン首相とあだななされていた民政党の政治家である。

 襲ったのは愛国社員、佐郷屋留雄とな乗る右翼青年だ。乗車の直前をねらって、すぐ近くから短銃で撃った。弾丸は腹部に入って止まった。回復手術で一命をりとめる。「男子の本懐だ」と言ったといわれるのは、狙撃の直後に、駅で手当てを受けた時のことだ。

 腹膜炎を起こすことが懸念された。ガスが出ればその心配は消えるというので、国中が気をもむ一幕があった。十七日午前一時十五分、期待されたしろものの第一発。「ガスが出た」という連絡がとびかった。「秋の夜や天下に轟く屁一つ」は、主治医の喜びの句だ。

 浜口内閣は海軍軍縮条約を結んだ。野党の政友会は、これを、統帥権をおかすものだと攻撃していた。軍部や右翼にも同様の議論があり、狙撃犯人も「統帥権干犯」を襲撃の理由の人一つにあげていた。首相に登院を求める声が強まる。翌年二月、病を押して登院した。

 無理な議会出席がたたり、病状は悪化した。四月に首相を辞任、八月に死ぬ。無念だっただろう。狙撃の後、官邸で歩行訓練などをして議会に出る練習をしていた。三月十日の登院の前に家族や近親者が思いとどまるように頼むが、その時の首相の言葉が残っている。

 「大丈夫だ、政治家は、うそを言ったり言い抜けをしたりするものではない。いったん三月上旬に登院すると言明した以上、生命を賭しても、十には登院せねばならぬ。世人が政治家の言を疑うようになっては政治は行われない。浜口は東京駅で死んだと思えば何の未練もないではないか」。

 こういう政治家の言葉を、近ごろ、聞いたことがない。本懐も覚悟も責任感もなし、だ。

2021.10.11記す。岸田文雄首相の所信表明に対する10月11日の衆院本会議での代表質問が行われた日。


42. A SPIRIT LACKING IN TODAY'S POLITICKS

It was on Nov. 14, 1930, that Prime Minister Osachi Hamaguchi was shot at Tokyo Station. At that time he was 60 years old. He was popular because of his serious and sincere character. A politician of the Minseito(Democratic Party), he was given the nickname "Lion Premier" because of his features.

His attacker was a young rightist, who identified as Tomeo Sagoya, a member of the Aikokusya. He fired a pistol at close range just when Hamaguchi was getting on the train. The bullet lodged in Hamaguchi's abdomen. His life was saved by an abdominal operation. He reportedly said, "This is a man's deepest satisfaction," when he received first-aid treatment at the station immediately after being shot.

There were worries that he would develop peritonitis. Since it was said such worries would disappear if he could release the gas in his intestines, the whole nation worried. "The first hoped for release occurred at 1:15 a.m. on Nov. 17. The report, "Gas was released," was relayed everywhere. The following happy was penned by the physician in charge: "In the autumn night/One fart resounds/Across the whole country."

The Hamaguchi Cabinet signed the London naval disarmament treaty. The opposition party, Seiyukai, attacked this as among rightist, and the man who shot Hamaguchi listed "infringement of the supreme command as one of the reason for his attack. Voices demanding that Hamaguchi appear in the Diet grew stronger. In March the following year, he went to the Diet despite his illness.

His forced appearance in the Diet resulted in his condition worsening. He resigned as prime minister in April and died in August. He must have been extremely vexed. After being shot, he underwent rehabilitation, such as walking practice, in his official residence so that he could go to the Diet. Prior to his appearance in the Diet on March 10, family members asked him to desist from going. At that time he uttered the following words.

"I'm all right. A politician must not lie or make excuses. As long as I have stated that I would appear in the Diet in the first 10 days of March, I must appear on March 10 even at the risk of my life. If the public comes doubt the statements of politicians, government cannot be carried out. If you think that Hamaguchi died at Tokyo Station, there is no regret whatsoever."

We have not heard such words by a politician recently. Today's politicians have neither satisfaction nor resolution nor sense of responsibility.

Copy on 2012.10.12

参考図書:城山三郎著『男子の本懐』(新潮文庫)昭和五十八年十二月二十五日 二刷

 緊縮財政と行政整理による「金解禁」。これは近代日本の歴史のなかでもっとも鮮明な経済政策と言われている。第一次世界大戦後の慢性的不況を脱するために、多くの困難を克服して昭和五年一月に断行された金解禁を遂行した浜口雄幸と井上準之助。性格も境遇も正反対の二人の男が、いかにして一つの政策に生命を賭けたか、人間の生きがいとは何かを静かに問いかけた長編小説。


73 一 陽 来 復 '92 冬の号(朝日新論説委員室)+株式会社英文朝日 1993年3月25日 第1刷 P.100 (1992.12.21)

 「机上なる冬至うす日に手を伸ぶる」皆吉爽雨。

 このところ日の光がめっきり弱まったような気がする。それも道理、北半球では、正午の太陽の高度が、冬至の日に最も低くなる。昼の長さが一年で最も短い日だ。

 とろによって違うだろうが、この日に特別に何かを食べる習慣がある、という人は多かろう。冬至がゆ、カボチャ、こんにゃく、もち……。忘れられないのが柚子湯だ。「白々と女沈める柚子湯かな」日野草城。

※句の説明:白々と女沈める柚湯かな:日野草城

 冬至には柚子湯を湧かす習慣である。一年の苦労の垢を洗い流して新しい年へ向かってゆく。今一人の女が身を沈めて寛いでいる。湯の中に白々とゆらめく姿は妙に艶めかしい。当人は今年の苦労一切合切をすっかり洗い流して無の状態になっている。クリスマス大晦日新年と時の流れの音が聞こえる。まずは斯く在る今年に感謝である。来年も家内安全一病息災で迎えたし。「母様の胎内記憶ありて柚子湯:やの字」:日野草城句集「花氷」所載。

 豊かな湯から、温かみのある芳香が立ちのぼり、湯殿にこもる。ゆったりと手足を伸ばし、快い放心の境にひたる。ひとりしずかに湯を使うのもいいが、家族で柚子湯に入るのも、たいせつで楽しい歳時記である。

 「子の臀を掌に受け沈む冬至の湯」田川飛旅子。おさなごの肌の弾力とつやが、生命力を感じさせる。冬至という日の独特の面白さは日の力が衰えたということから、逆転、むしろ新しい生命力を待望し、感得するというところこにある。

 何しろ、いちばん日の短い日だ。これ以上に悪くなろうはずがない。太陽が最も衰弱し、農耕の行く手が心配な時こそが、考えてみれば、すべてが上向きになる出発点なのだ。衰弱から再生へ、死から復活へ、だ。

 いろいろな民族がこの季節を再生への希望の節目と考えて祝うのも、このすばらしい逆転の思想のゆえだろう。この日を「一陽来復」と表現することがある。中国の周の時代の易によれば「陰が極まって陽が生じる」ことをさすのだという。

 冬至のころから寒さは本格的になる。年が押し詰まり、何となくせわしない、追い立てられるような気分にもなる。風邪をひかないように気をつけよう。なべを囲む機会も増える時期だ。

 上の句はどんな五文字でもよい、下に「湯気の向うの友の顔」と続ければ形になる。これは駄句の見本だそうな。

2021.10.11記す。


73. IT'S TIME FOR CITRON BATH

Holding out my palm/ The sun's pale rays at winter solstice/ Fade upon my desk.(Sou Minayoshi)

The sunlight seemed to lose most of its warmth these days. That is not too far the truth; on Dec. 21. the winter solstice, the sun reaches the lowest angle at the zenith that it reaches all year. This is the shortest day of the year.

Not at the regions are the same in this respect, but as many people would tell you, some have the custom of eating certain foods on this day. These include foods like "tojigayu"(winter solstice rice gruel), pumpkin, "konnyaku"(devil's tongue paste) and rice cakes. But the custom I enjoy the most is taking a citron bath, where citrons or Chinese lemons are set afloat in the bathtub.

White, white bodies drawn in/ Women in the steaming citron bath(Sojo Hino)

A delicious, warm aroma rises from the ample water. I take my time in the bath. I spread my arms and legs out as far as they will go in a kind of catharsis

It is all very well to enjoy the citron bath alone, but winter solstice is a special chance for the family to enjoy the bath together.

I take the baby's bottom in my hand/ And lower her in/The Winter Solstice bath.(Hiryoshi Tagawa)

The spring and smoothness of a baby's skin remind us of the energy of life. One of the interesting things about winter solstice is that, exactly because it is the time when the sun is at its weakest, we have the most expectations for and are the most sensitive to the beginnings of new life. After all, it is the shortest day of the year. Conditions can't get any more severe than this. The sun is at the most feeble, but the time when farmers are the most anxious about the success of the new season is, when you think about it, the time when things begin to get better. The world begins to return from feebleness to rejuvenation, from death to revival.

This same, wonderful concept of rejuvenation must be why many cultures share in considering this day the beginning of hope of a return to life. Some have called this day "ichiyo-raifuku" (revival of the "yang"). According to a famous prophecy of the Chou Dynasty, this is the day on which "yin" reaches its most extreme, and from which "yang" begins to reappear.

The temperature drops to its lowest mark after winter solstice. We are approaching the end of the year, and tend to feel nervous and pursued by our tasks. Let us take care not to catch cold. It is the season for groups to gather around the stew-pot.

The words "Yuge no mukou no/Tomo no kao"(On the other side of the rising steam/My friends' faces) make an ideal second and third line to a haiku. The first line is up to you. Anyone for a bit of home-made doggerel?

On 2012.10.15


73 一 「忘年」より「望年」を '92 冬の号(朝日新論説委員室)+株式会社英文朝日 1993年3月25日 第1刷 P.194 (1992.12.29)

 「思い出すとは、忘るるか 思い出さずや忘れねば」。

 室町時代の末期にできたといわれる歌謡集『閑吟集』の中の一首である。「思い出すなどと言うのは、私を忘れてのこと?」と、女が男に返した文句だろうか。

※参考図書:『閑吟集』(岩波文庫)P.16

 たしかに、忘れさえしなければ、思い出すこともない道理である。「あなたを思い出します」と男が求愛すると、すかさず言葉じりをとらえる。少しちゃめな女の才気が感じられる。

 年の暮れに向けて、あちこちで忘年会が開かれている。この年の様々な苦労を忘れようという宴会だ。あらためて考えると、わざわざ忘年の努力をせずとも、上の歌の相手ではないが、私たちは十分に忘れっぽいのではあるまいか。

 わが身の忘れっぽさにも、恥じ入るばかりだ。先日、連続上演四十年の記録を達成したロンドンの芝居のことを書いたが、二十余年前にそれを見た劇場のなを失念、いまと同じ劇場で見た、と思い込んでいた。

 いま上演している場所はセントマーチンス劇場だが、初めは隣のアンバサダー劇場で開演した。そこが途中で閉鎖され、十八年前に隣に移ったのだった。混乱した、あやふやな記憶を、ロンドンの友人にひやかされた。

 「忘却と、それに伴う過去の美化がなかったとしたら、人間はどうして生に耐えることができるであろう」と言ったのは、三島由紀夫である。人生にはそういう面がある。しかし、忘れるわけにはゆかぬぞ、と感じさせる出来事も多い年だった。

 政治家の言動がその一つだ。腐敗は以前から続いている。反復はもうたくさん、今度こそ忘れまいと有権者が記憶にとどめぬ限り、政治はよくなるまい。国際社会での日本も、また、自身の過去を忘れては適用しない。

 歴史をしっかり記憶し、後世に伝える努力をしてこそ、未来の設計も可能になる。「忘年」よりも、過去の記憶に立った「望年」を、だ。

2021.10.15記す。


79. FOGET-THE-YEAR ARTIES

"Omoidasu towa/Wasururuka/Omoidasazuya/Wasureneba" This is one entry in the collection of ballads, "Kanginshu," which is said to have been compiled at the end of the Muromachi Era(1392-1573). Is it a piece that a woman sent back to a man, saying, "Does your saying you remembered me mean that you had been forgotten me?"

It is true that if he had not forgotten her, he would not remember her. When the man courts her, saying, "I remember you," the woman immediately catches him on his own words.

As the year-end nears, "bonenkai"(forget-the year parties) are being held everywhere. They are parties to forget the trials and tribulation of the past year. When we think about it, even if we don't exert efforts to forget the past year, aren’t we fully forgetful like the man in the above- quoted ballad?

I blush in shame at my own forgetfulness. In this column I wrote about in London play, "The Mousetrap," that achieved a record of 40 years of continuous performance, but I forget the name of the theater where I saw the play over 2o years ago and believed I had seen it at the theater where it is being performed now.

It is currently being staged at the St. Martin's Theater, but in the beginning it was staged at the Ambassadors Theater next door. The Ambassadors was closed down, and play moved to the theater next door 18 years ago. A friend in London teased me about my confused, vague memory.

Yukio Mishima once said, "Human beings could not possibly endure life if there were not forgetfulness and the accompanying glorification of the past." Life is like that. But this year was a year in which there were many events that we cannot possibly forget.

One of them was the behavior of politicians. Corruption continues unchanged. Government will not become better until voters say they are sick and tired of endless scandals and firmly imprint them in their memories so as not to forget this time. Japan itself cannot get along in the international society if it forgets its past.

Drafting the future is possible only if we firmly remember history and exert efforts to transmit that history to future generations. Rather than "bonen"(forget the year), it should be "bonen"(hope year) based on past memories.

Copy on 2012.10.16


6 童謡詩人 金子みすゞの詩 '93 夏の号(朝日新論説委員室)+株式会社英文朝日 1993年8月31日 第1刷 P.14 (1993.4.7)

 作家の矢崎節夫さんは学生のころ、こういう詩に接して、激しい衝撃を受けた。「朝焼小焼だ/大漁だ/大羽鰮(おおばいわし)の/大漁だ。/浜は祭りの/やうだけど/海のなかでは/何万の/鰮のとむらひ/するだろう。」

 金子みすゞという人の「大漁」と題する詩である。「人間中心の自分の目の位置をひっくり返される、深い、優しい、鮮烈さだった」。それから矢崎さんは、この詩人について知りたいと調べ始める。何せ、他の作品がなかなか見っからなかった。

 このほど出版された『童謡詩人金子みすゞの生涯』に、調べてわかった事実が詳しく記されている。遺稿集三冊の発見のいきさつに始まり、みすゞの故郷、現在の山口県長門市仙崎での調査、親類や友人たちからの聞き取りがある。

 今から九十年前に生まれた人だ。二十歳のころ、童謡を書いて雑誌に投稿し始め、西条八十に認められた。結婚もし、子供ももうけたが、二十六歳で死ぬ。ずいぶん短い時間に心あたたまる詩をたくさん書いたものだ。

 「土」という題の詩。「こッつん こッつん/打(ぶ)たれる土は/よい畠になって/よい麦生むよ。/朝から晩まで/踏まれる土は/よい路(みち)になって/車を通すよ。/打たれぬ土は/踏まれぬ土は/要らない土か。/いえいえそれは/なのない草の/お宿をするよ。」

 無用と見られようと、無名であろうと、その存在、その生命の尊さはゆるぎもしない、という思い。やさしだけではなく、つよい詩なのだ。新学期にふさわしい「私と小鳥と鈴と」。

「私が両手をひろげても、/お空はちつとも飛べないが、/飛べる小鳥は私のやうに、/地面(じべた)を速くは走れない。/私がからだをゆすつても、/きれいな音は出ないけど、/あの鳴る鈴は私のように/たくさんな唄は知らないよ。/鈴と小鳥と、それから私、/みんなちがつて、みんないい。」

参考:金子みすゞず(本名:かねこ テル)(1903~1930年) 山口県大津郡仙崎村(現・長門市仙崎)
代表作『私と小鳥と鈴と』『大漁』
大正時代末期から昭和時代初期にかけて活躍した日本の童謡詩人。
大正末期から昭和初期にかけて、26歳で死去するまでに500余編もの詩を綴り、そのうち100あまりの詩が雑誌に掲載された。1923年(大正12年)9月に『童話』『婦人倶楽部』『婦人画報』『金の星』の4誌に一斉に詩が掲載され、西條八十からは「若き童謡詩人の中の巨星」と賞賛された。

2021.10.24記す。


6. THE SUBTLE ARTISTRY OF A LITTLE-KNOWN POET

Novelist Setsuo Yazaki was shocked to read the following poem when he was a student.

It is the morning glow/The fishermen have made a large catch/A rich harvest of oba iwashi (a kind of sardine)/The beach is abuzz like a festival/But a funeral must be on in the sea/ To mourn the scores of thousands of fish.

The poem, titled Tairyo (Large Catch), was composed by Misuzu Kaneko. "The poem struck me with its depth, tenderness and penetrating quality, turning my point of view around. Human beings had occupied the center of my way of looking at things," Yazaki says. He wanted to know more about Kaneko, but this inquiry proved difficult as her other works could not easily be found.

The findings of Yazaki's inquiry are detailed in his recently published book The Life of Misuzu Kaneko, a Poet Who Wrote for Children.

  The book has an account of how the author found three collections of Kaneko's poems that had been published posthumously.

It also contains information the novelist obtained from his inquiry at Kaneko's birthplace, Senzaki in Nagato, Yamaguchi Prefecture, and from visiting her relatives and friends.

According to the book, Kaneko was born 90 years ago and started contributing children's songs to magazines when she was about 20 years old.

Her talent was acknowledged by Yaso Saijo, a famous poet. She married and had children, but she died at the age of 26. She wrote many heartwarming poems in a short time.

An example, titled Tsuchi(Earth): The earth that is beaten/Makes good cropland and produces good barley/The earth that is trodden on from morning till night/Makes a good road for vehicles/The earth that is neither beaten nor trodden on/Is it useless earth?/No, it provides the soil for nameless grass.

The poem conveys kaneko's message: to be viewed as useless or to be nameless does not utterly affect the value of a thing.

It is not only heartwarming, but also upright.

Another example, suitable for the start of a new school year and titledWatashi to Kotori to Suzu to(I, a Little Bird, and a Bell):

Even if I flap my hands/I cannot fly at all/But a little bird that can fly/Cannot run on the ground as fast as me/Even if I shake my body/I cannot make pleasing sounds/But that ringing bell does not know many songs unlike me/The bell, the little bird, and I are all different/But make a fine trio nevertheless.

Copy on 2021.10.24


13 宮沢・クリントン会談 天声人語 '93 夏の号(朝日新論説委員室)+株式会社英文朝日 1993年8月310日 第1刷 P.30 (1993.4.15)

 宮沢首相が訪米し、クリントン大統領と会談する。ひとつの興味は両者の年齢の開きである。一方は第一次世界大戦終了の次の年に生まれている。

 大統領が一九四六年八月に生まれた時、首相はまもなく二十七歳になろうとしていた。その宮沢さんの初訪米は、戦前だ。十九歳の大学生だった。日米学生会議に出席、米国の人々が賛否こもごも自由に議論するのに衝撃を受けたという。

 日米開戦の年に大蔵省に入った宮沢さんは、四九年、池田蔵相の秘書官になる。それから数年間蔵相とともに、ダレス米国務長官やドッジ予算局長などを相手に、敗戦後の日本の財政、経済立て直しに当った。

「向うさんに日本の意見を出そうにも、当時は在外公館はなし、タイプもない。哀れな時でした。対米折衝では、敗戦から占領時代を通じ、いやな目にもずいぶん遭った」。準備役を務めた講和会議には、吉田全権の随員として出席した。

 戦前、戦中、戦後を通じて、いわば日米関係の中で生きてきたといえる。一方、クリントンさんが十九歳になるころ、日本は高度成長の最中だった。敗戦直後の日本の状況は想像もつくまい。青年期の記憶に刻まれた日米相互の像は、従って、ずいぶ違うはずだ。

 その二人が会う。相互に学べることは、多いだろう。理解し合う好機になるとよい。経済案件の実務的交渉でなく、ベトナム反戦運動のころに学生だった大統領と、世界情勢や、国際新秩序などについて腹蔵のない議論をしたらどうだろう。

 使われる言語も興味をそそる。六一年に訪米した池田首相は英語を話さなかった。それがよかったと、同行した宮沢さんは述懐した。「相手のペースに巻き込まれない」からというのだが、理解を深めることを第一に考えての談論風発なら、何語でもよいのではあるまいか。

2021.10.03記す。


 13. OLDER MIYAZAWA, YOUNGER CLINTON

Prime Minister Kiichi Miyazawa will go to the United States and have meeting with President Bill Clinton. A point of interest is the difference in age between the two. One was born the year after the end of World War Ⅰ, while the other one was born the year after the end of World War Ⅱ.

When Clinton was born in August 1946, Miyazawa was about to become 27. Miyazawa made his first visit to the United States before World War Ⅱ when he was a 19-year-old university student. He participated in a Japan-America student conference and was shocked by the free expression of pro and con opinions by the American students.

Miyazawa, who entered the employ of the Finance Ministry the year the Pacific War started, became an aid to Finance Minister Hayato Ikeda in 1949. For several years after that, together with Ikeda, he worked on the restoration of Japan's finances and economy while dealing with Secretary of State John Foster Dulles and Budget Bureau Director Joseph M. Dodge.

"Although we wanted to convey Japanese opinions to the United States, at that time we had no diplomatic office and no typewriters there. It was a pitiful time. In negotiating with the United States, I have many unpleasant experiences from the time of defeat through the occupation years," he said. He attended the peace treaty conference, for which he made preparations, as an aid to plenipotentiary Shigeru Yoshida.

It can be said that Miyazawa lived in the middle of U.S.-Japan relations through the prewar, wartime and postwar periods. On the other hand, when Clinton was 19, Japan was in the middle of its high economic growth age, He could not possibly imagine the situation in Japan immediately after the end of World War Ⅱ. Consequently, the images of Japan and the United States recorded in their memories when they were young men must be very different.

These two are meeting. There probably are many things they can learn from each other. It would be good if the meetings become good opportunities for mutual understanding. Instead of practical negotiations on economic problems, how about Miyazawa holding frank discussions on the international situation and the new world order with Clinton, who was a university student at the time of the anti-Vietnam War movement.

The language that will be used arouses interest. Prime minister Hayato Ikeda, when he visited the United States in 1961, did not speak English. Miyazawa, who accompanied Ikeda then, recollected that this was good because not speaking English prevented Ikeda from being dragged into the American pace. But if it is lively discussion with the top priority being a deepening of understanding, any language should be all right.

Copy on 2012.10.3


餠の文化 天声人語 '93 春の号(朝日新論説委員室)+株式会社英文朝日[訳]1993年6月3日 第1刷 P. (1993.1.1)

 あらたまの春である。一九九三年が明けた。「元日や鷹がつらぬく丘の空」水原秋櫻子。

 時の流れは絶え間なく、目に見える区切りがない。それでも不思議なもので、この朝、きのうまでと打って変わり、あたりに淑気がただよっている。万物、よそおいをあらため、人々の気分も一新。この雰囲気は、元旦に独特のものだ。

 各地に様々な風習があることだろう。餠を食べる習慣は全国に共通なのではなかろうか。餠の文化は東南アジアから稲作の文化とともに伝わったものだという。祝い事には欠かせない。

 四角く切るか、丸餅を食べるか。地域によって異なる。雑煮の具も家庭によって多種多様なはずだ。家ごとに独自の作法を守り続けている。何代も何十代も同じように餠を食べ継いできたかと考えると、面白い。

 祝い事でない場面にも、餠が登場することがあるそうだ。同年の人が死んだと聞くと、餠をついて、その餠で耳をふさぐ。耳ふさぎ餠と呼ばれる習慣だ。餠に霊的、神秘的な力があると考えられていたのだろう。

 昔は正月に各人が自分の霊になぞられた餠を出して並べ、霊力を新たにしようとしたと、ものの本にある。目上の者が目下の者に与える餠などを年玉といった。それが、しだいに、金銭の形に統一されたそうだ。

 峠の茶屋んどで餠を売っている。ずいぶん古くからのことらしい。力持ちという。餠を食べると力がつく、と考えるのは、餠の持っているある種の力への信仰のようなものだろう。生後一年の子どもに餠を背負わせる風習も同様の考え方か。

 餠を一つ食べても、様々なことに思いが及ぶ。先人が、正月や節句にこの食べ物を口に運びながら考えていたこと、祈っていたことは何だろうと想像してみる。現代の私たちにも、各人、年頭のねぎごとがある。

 今年も充実した一年を、「鷲下りて雪原の年あらたなり」山口草堂。

※皇太子妃決まる――初恋が実って晴れやかにご婚約――上の写真

2021.10.18記す。


 1. NEW YEARS AND RICE CAKES

It is a new year; 1993 has dawned. New Year's Day/A hawk cuts across/The sky above the hill.(Shuoushi. Mizuhara)

Time flows without interruption, and there is no visible cut-off place. Still the strange thing is that there is a tranquil feeling all around, completely different from that which prevailed until yesterday. Everything has changed in appearance, and the feeling of the people have been completely refreshed. This atmosphere is peculiar to the New Year's Day.

There must be all kinds of customs in various parts of the country. The custom of eating rice cakes must be common through-out the nation. It is said that the rice cake culture was transmitted to Japan from Southeast Asia along with the rice paddy culture. Rice cakes are indispensable on auspicious occasions.

Is it cut into squares? Or is it made round? It differs according to the district. "Zoni," a soup that contains rice cakes, varies depending on the family, with each adding different ingredients such as vegetables. Each family sticks to its customs. It is interesting when you surmise that rice cakes have been eaten in the same way for several or dozens of generations.

Rice cakes also appear on occasions which are not auspicious, When you hear that someone of the same age has died, you pound rice cakes and stop up your ears with the rice cakes. This is the custom called "mimi fusagi mochi," or rice cakes to plug the ears. People must have thought that rice cakes have spiritual, mysterious powers.

According to one book, people in ancient times lined up rice cakes made in the image of their souls and tried to refresh their spiritual power. Rice cakes given by superiors to those under them were called "toshidama", or New Year's gift. This gradually became unified into the cash form of "otoshidama" given to children at New Year's.

Tea shops on high peaks sell rice cakes. They apparently have been doing so since ancient times. The rice cakes are called "chikaramochi," or energy rice cake. The thinking that you will gain strength if you eat rice cakes is probably a sort of belief in the power that rice cakes possess. Is it the same thinking that is behind the custom of making a 1-year-old child carry rice cakes on his or her back?

If you eat rice cake, you think about various things. You wonder what your predecessors thought and what kind of prayers they offered as they ate rice cakes at New Year's and Boys' Festival. We today each have our own prayers at the beginning of the year.

Let's pray that this year will be a rich year, too. An eagle comes down/This year of snowfields/Is new.(Sodo Yamaguchi)

Copy on 2.021.10.18


14 M・L・キング牧師の夢 '93 春の号(朝日新論説委員室)+株式会社英文朝日[訳]1993年6月3日 第1刷 P.36 (1993.1.18)

 一月の第三月曜日、つまり今日は「マーチン・ルーサー・キング牧師の日」である。

 誕生日にちなんで定められた。米国では七年前から、連邦祝日になっている。彼が眠るジョージア州アトランタをはじめ、全米の各地で追悼の集会が開かれる。

 牧師の残した言葉で、今も最も多くの人の心に刻まれているのは、一九六三年八月、ワシントンでの演説だろう。「私には夢がある/いつの日かジョージアの赤い丘の上で、かつての奴隷の息子と奴隷主の息子が、同じテーブルに座れる日を/私には夢がある……」。

 いつの日にか、という願いをこめて六つの夢が力強く語られる。二十数万人の聴衆が熱狂して聞くさまが、当時の録音テープから伝わってくる。

 牧師は、アラバマ州モントゴメリーの乗り合いバスをめぐる闘いでなを知られた。「黒人は先に座っていても白人が乗ってきたら席を譲れ」という理不尽な規則に対し、五万人の黒人市民を一年にわたる乗車拒否運動でまとめ、着席の権利をかち取った。このとき二十七歳。

 ワシントンで演説したのは三十四歳。ノーベル平和賞を受賞したとき三十五歳。そして三十九歳で暗殺された。「私とて長生きをしたい。だが、もういいのです。私は約束の地を見た」。前夜、二千人にそう告げたのが最後の演説になった。

 ナイフで胸を刺され、自宅や宿泊先に爆弾を投げられ、投石され、不当に逮捕されても、ひるまず非暴力で自由を求めた生涯だった。だが牧師の夢はなお実現していない。六〇年代に盛り上がった黒人解放運動は、その後分裂し、混迷した。

 黒人の大学進学率は再び低下し、失業率は白人の二ばい以上にのぼると指摘する統計もある。背景には、年収が白人家庭の六割前後という貧困がある。十二年ぶりに復帰する民主党政権ンお大きな課題だ。

 ことしは、牧師が亡くなって二十五周年にあたる。

2021.10.25記す。

 14.DR.KING'S PROMISED LAND'STILL FAR AWAY

The third in January is Dr. Martin Luther King Jr. Day. It was chosen as his birthday falls on or near this day. The occasion has been an American national holiday for seven years and is marked by memorial services in his final resting place, Atlanta, Georgia, and at many other locations across the United States.

The words of the famous minister which probably resound in the most people's hearts are from his speech in Washington, D.C. in August 1963.

"I have a dream that one day on the red hills of Georgia, the sons of former slaves and the sons of former slave owners will be able to sit down together at the table of brotherhood. I have a dream……"

King passionately described six dreams he held in his heart for "one day." The reactions of his equally impassioned audience of over 200,000 are preserved beyond the sound of his voice on the tape of the speech.

Dr. King first rose to fame during the fight over the rights of black and white bus passengers in Montgomery, Alabama. He led a group in a strike to protest the ignominious custom which dictated that a black passenger had to give up a bus seat to a white passenger. More and more of the black population of Montgomery joined the strikers until they reached a total 50,000. The strike went on for a year, and the bus company finally capitulated and declared the equal right of black riders to bus seats. Martine Luther King was 27 years.

He was 34 at the time of his famous speech in Washington, D.C., and 35 when he was awarded the Nobel Peace Prize. Then, at the age of 39, he was assassinated.

Dr. King told an audience of 2,000 the night before he was killed that he would like to live along life, but it does not matter any longer, for he saw the Promised Land from the mountaintop he has been to. It was to be his last speech. He had been stabbed in the chest, his home and places he was scheduled o stay had been bombed, he had been stoned and arrested without cause, but through it all, he had not faltered in his nonviolent quest for liberty.

But the dream of Martin Luther King has yet to come true. The movement for the liberation of Americans of color that came of age in 1960s sputtered and fragmented. Statistics show that the number of black Americans entering universities has dropped, and black unemployment is double the rate for white Americans. A contributing factor is poverty; the average black household has only 60 percent of the income of the white household. This problem will be one of the main themes of the incoming Democratic administration, the first in 12 years.

This year is the 25th anniversary of the death of Martin Luther King.

Copy on 2021.10.26


16 大 寒 天声人語 '93 春の号(朝日新論説委員室)+株式会社英文朝日[訳]1993年月30日 第1刷 P.406 (1993.1.20)

「大寒の富士へ向って舟押し出す」西東三鬼。

 今日は大寒である。一年で最も寒い、といわれる時期だ。立春の前、三十日間を寒と呼び、その前半を小寒、後半を大寒、と分けて考える。「寒に帷子(かたびら)土用に布子」ということわざは、季節はずれの無用なもの、あるいは、あべこべなこと、のたとえだ。

 気象台の記録では、最低気温の記録の上位はやはり大寒の時期である。第一位は旭川での氷点下四一度、一九〇二年一月二十五日だった。青森歩兵連隊が八甲田山で遭難したのは、この時の寒波によるものだ。

「面とれば妙齢なりし寒稽古」永田百々枝。寒さはつらい。だからこそ、それに打ち勝つように気力をふりしぼる。寒稽古、寒念仏、寒垢里(ごり)、寒行。寒中に三味線などの芸ごとに励むのが寒弾き。寒ざらい、ともいう。

 寒苦鳥、というのは想像上の鳥である。夜の寒さに苦しむが、朝になると考えが変って巣をつくらない。無常を感じて変化するとも、日の暖かさに満足して変心するともいう。修行に努力しない。怠け心のたとえに使われる鳥だ。

 寒鰤(ぶり)や寒鮒(ぶな)は脂がのって、うまい。寒の字のつくものが、この時期に増える。寒菊、寒独活(うど)、寒鯉(ごい)、寒卵、寒鴉(からす)……。昨今の都会のカラスには寒鴉などという趣はない。飽食して丸々と肥ったものばかりだ。「寒雀顔見知るまで親しみぬ」富安風生。

 寒という漢字自体に、貧しい、という意味があるそうだ。寒村、寒山、寒林などという言葉には、寂しさが感じられる。一文なしは素寒貧。最近でこそ暖房の利いた場所が多いが、しばらく前までは、寒と貧は直結した印象だった。

 さまざまな工夫をし、人々は気力を充実させて寒の内を過ごすことだろう。だが、そうは行かぬ地域もある。旧ユーゴの人々が、飢えと寒さで一晩のうちに何十人も死んだ、などと聞く。心が寒くなるニュースである。

2021.10.26記す。


16.THE COLDEST TIME OF WINTER

With Mt. Fuji in the distance/Men push a boat to sea/ Braving the coldest day of the season.(Sanki Saito)

Today is "daikan," supposedly the coldest day of winter. The 30-day period preceding "risshun"(the first day of spring under the old calendar) on Feb. 4 is called "kan"(the coldest season). The period is divided into two, the first half considered as "shokan"(literally "little cold") and the second half as "daikan"("big cold").

The proverb "unlined hemp kimono in the 'kan' season and cotton-padded kimono on 'doyo' (the hottest day of the year)" is cited as an illustration of something that is out of season and unnecessary or doing the opposite of what should be done.

The lowest temperatures on record in Japan were registered during the "daikan" period. The record temperature of minus 41 degrees Celcius in Asahikawa City, Hokkaido, was set on Jan. 25, 1902. A cold wave at that time took a heavy death toll among members of Aomori Infantry Regiment during their training march through Mt. Hakkoda in Aomori Prefecture.

With the face guard removed/ A young lady emerges/ During the "kan" fencing drill.(Momoe Nagata)

Cold weather is a hardship. People pluck up their spirits to over-come. Among the specific forms the exercise takes are "kangeiko" (athletic drills in the "kan" season), "kan nenbutsu"(chanting Buddhist sutras),"kan gori"(pouring cold water over one's body, while praying to the gods), and "kan gyo"(extended mid-winter training for Buddhists).

There is also "kan biki"(strumming in the "kan" season) for those learning to play "shamisen," a guitar-like instruments. Another name for the mid-drills is "kan zarai"("kan" exercises).

A bird called "kankucho" is a product of imagination. Having no feathers, it suffers from the night cold. It changes its mind in the morning and decides against making a nest. It is said that the bird changes its mind from a sense of futility――a sense that nothing remains unchanged――or from satisfaction with the warmness of the day. The bird is used as an illustration of a lazy person who does not make efforts for self-improvement.

Fish caught at this time of year, such as "kan buri"(mid-winter yellowtail) and "kan buna" (crucian carp), is tasty o eat because of the increased fat. There are many other names with the prefix of "kan," such as "kan giku"(chrysanthemum), "kan udo"(Aralia cordata), "kan goi"(carp), "kan tamago"(egg), and "kan garasu"(crow).

The traditional image of "kan garasu" is a bird perched on a bare tree. The crows which live in the cities these days are so fat that the image they project is completely different.

I have spent so long a time/Watching "kan" sparrows/That I can tell some from the others.

The chinese character for "kan" is said to denote "poverty." Terms like "kanson"(poor village), "kanzan"(deserted mountain), and "kanrin"(deserted forest) reflect solitariness. Being penniless is called "sukanpin"(literally meaning "nakedly cold and poor"). Nowadays there's heating in most places we spend our time, but feeling cold was perceived to be directly related to poverty until some time ago.

Enduring the coldest season, people make various devices to fill themselves with spirits to cope with it. But there areas where such efforts do not work. Several scores of people in the former Yugoslavia have died in the single night. It is shuddering news.

Copy on 2021.10.27


20 大荒れの後継総裁選び 天声人語 '93 秋の号(朝日新論説委員室)+株式会社英文朝日[訳]1993年11月30日 第1刷 P.46 (1993.7.24)

「いやはや、ひどいですね」「自民党のことかな。まさに大荒れ。宮沢総裁退陣、後継者選び、金丸初公判などがかち合った」「中でも後継者選びをめぐる議員総会の論議は見ものでした」。

「若い議員の発言は激しかった」「執行部が派閥会長や党幹部の話し合いで後継総裁をきめようとするのを、率直明快に批判しました」「談合じゃないかと、公開討論で決めろとか」「執行部のあり方を評して、壇上にA級、B級戦犯がいる、とまでね。宮沢さんはC級戦犯だそうです」。

「古い体質の執行部。決断力と指導性に欠けた首相。不満を感じていた若手議員。役者にはこと欠かぬ印象だが、いろんな動きを通じて二つのものが闘っているように見える」。

「二つのもの、ですか」「一つは、ことばだ。理だね。筋でもいい。だれにでもわかる、公開の場で通用することば」「目にみえるところで決めよ、と若手議員が言っているのもそれですね」。

「もう一つはその反対の存在。いわば、密室の力だ。これは、ことばで説明せず、表に出さず、理に訴えるよりも人間関係によるという原理だ」「談合、派閥政治、今回の最初の執行部案……すべてそれですか」。

「その力がどこから出るかというと、結局、金ではないだろうか」「金をどこから集め、それで人を集める。その員数が力になる」「ポストを配分するのも力の源泉だ」「そういう典型が金丸被告ですね」。

「宮沢さんは、ことば派であったかも知れないが、力派に押し切られた」「政治をことばによる闘いの場にする。これが公正な社会の常識でしょう」。

「そういう常識は許せない、と時代遅れの執行部は考えるかも知れないね。『危険思想とは常識を実行に移そうとする思想である』という言葉が昔あったな」「おや、芥川龍之介ですか」「きょうが河童忌、彼の命日さ」。

2021.10.01記す。


 20. THE LDP'S THEATER OF THE ABSURD

"Boy, was it rough!"

"Oh, you're talking about the Liberal Democratic Party. It really was very stormy. The resignation of Kiichi Miyazawa as party president, selection of his successor and the first hearing in the case of former LDP kingpin Shin Kanemaru all fell on the same day.

"The debate in the meeting of LDP Diet members over selecting the next party president was really worth seeing.

"The statements by young Diet members were violent."

"They frankly and clearly criticized the attempt by the party executives to have the next president decided through discussions among the faction chairmen and party executives."

"They charged it was a closed deal. They demanded that the matter be decided through open debate."

"One member even said the party executives there were A class war criminals and that Miyazawa was only a class C war criminal."

"The party executives have outmoded characters. The prime minister lacked resolution and leadership. The young Diet members felt dissatisfied. The impression is that there were many actors, but it seems that two things are fighting through various movements."

"What two things?" "Words reason or logic. It is words that can be understood by everyone and words that muster in public."

"The young members demand that the next president be decided in a place and manner which can be seen by everyone."

"The other thing is an opposite existence, the power of the closed room, if it were. It is the principle of not explaining with words, not bringing the matter out into the open and not appealing to reason, but depending on human relationships."

"Dango, faction-controlled politics and the first proposal by the party executives――these are all what you're talking about."

"As to where that power comes from, isn't it money eventually?" "They collect money from somewhere. They use the money to gather people, and there number becomes power."

"Distribution of Cabinet and party is also the source of power."

"A model of this method is defendant Kanemaru."

"Miyazawa may have belonged to the word faction, but he was overcome by the power faction."

"Make politics a forum for fighting with words――this is the common sense of a just society."

"The old-fashioned party executives may think common sense cannot be condoned." In the old days, there were the following words, "Dangerous thinking is the thinking thattries to implement common sense."

"Oh, you're quoting the writer Ryunosuke Akutagawa."

"Today is the anniversary of his death."

Copy on 2021.10.02


4 七草粥 天声人語 '94 春[英文対照](朝日新論説委員室)朝日イブニングニュース訳 1994年5月31日 初版発行 P. (1994.1.7)

 春の七草は、何と何だったかな……。ひとによって、覚え方は様々である。小学生のころ暗記させられたままに、覚えている人がいる。スズナ、スズシロ、セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ。

 七五調で、口調がよいから覚えやすい。別の記憶法もある。これは、まるで短歌のようだ。セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロ、これぞ七草、というのである。七種を詠み込んだ、こういう歌が、昔の本にあるそうだ。

 秋の七草は見て美しい草花、春の七草は食用になる実用的なしょく物ばかりでる。これらを入れた七草粥を、一月七日に食べる。七種の菜で、羹(あつもの)、つまり吸い物を作り、邪気を払い、万病を防いだという中国の古い風習が伝わったらしい。

 寒中に緑を食べよう、という知恵がしきたりを支えてきたのに違いない。セリは水田で栽培されている。ナズナは実の形が三味線のバチに似た、いわゆるぺんぺん草である。ゴギョウはハコグサ、ハコベラはハコベで、子供の時、鶏や兎のえさに集めた人も多かろう。

 ホトケノザは、冬の田に生えるコオニタピラコだろうという。スズナはカブだというが、異説もある。スズシロはダイコンだろうと言われている。いずれも身近しょく物である。

 草を摘むと、潮干狩りと同じで、太古の食物採取を自ら追体験する思いにさせられる。ギリシャに滞在して、村の人々と一緒にタンポポの葉を摘んだことがある。サラダにして食べ、自然の恵みを味わった。食糧不足の戦争中には食べられる草を探して食べた。「ヤツデの葉だけは堅くて無理だった」などと友人と話し合った。

 地に生えたものを大昔の祖先と同じように感謝して食べる、緑を求める原始的な衝動を自分のうちに確かめる、平生の飽食ぶりを省みる……。七草粥は、さぞ、いろいろな味がすることだろう。

 2012.10.17記す。


 4. The magnificent seven herbs of spring

Now what were haru no nana-kusa(traditional seven herbs of spring)? People remember their names in different ways.

Some say them by rote, in the same order they learned them at elementary school: suzuna(turnip),suzushiro(Japanese radish), seri(Japanes parsely),nazuna(shepherd's purse), gogyo(cotton weed), hakobera(chickweed),hotokenoza(henbit>. The traditional five and seven syrable verse form gives the list a mnemonic rhythm.

There is another way of memorizing the names――by arranging them to sound like a tanka, or Japanese poem of 31 syllables: "Seri, nazuna, gogyo, hakobera, hotokenoza, suzushiro. Kore-zo nana-kusa(These are what we call the seven herbs)." It is said that these kinds of poems that list seven types of things are found in old books.

Whereas aki no nana-kusa(the seven plants of autumn) are all flowering plants that are beautiful to look at, the seven herbs of spring are all edible, practical plants.

The Japanese traditionally eat nana-kusa gayu a kind of rice porridge that includes the seven spring herbs, on Jan.7. This tradition seems to stem frm the ancient Chinese practice of protecting oneself against evil spirits and illness by eating atumono(hoto soup), made from seven kinds of vegetables. The wisdom of eating green vegetables in the middle of winter has no doubt helped maintain this tradition.

Seri is grown in water. The seeds of the nazuna are shaped like the plectrums used for playing the shamisen(a stringed instrument), and the plant is widely known as penpen-gusa because of the sound made by the instrument. Gogyo is also known as hako-gusa, and hakobera as hakobe. Many people must have childhood memories of feeding these plants to their chikens and rabbits.

Htokenozais thought to be the same as the plant called koonitabiraka, which grows in water in winter. Suzuna is generally taken to be the turnip, usually called kabu, but there are other explanations. Suzushiro is assumed to be the daikon, or Japanese radish. All of them are familiar plants in Japan.

Picking plants, like collecting shellfish at low tide, gives you the feeling that you're engaged in same kind of ancient food gathering practice. Picking dandelion leaves with the villagers during a stay in Greece was a pleasant experience. We are able to enjoy the blessings of nature by eating a salad made with leaves we had gathered.

Faced with a food shortage during the last war we ate any edible plants we could find. In a conversation we had with friends, we remembered that "only the leaves of yatsude (Fatsia japonica) were impossible to eat because they are too tough."

While eating nana-kusa gayu, we give thanks, in the same way our forebears gave thanks, for the plants of the earth. At the same time we also confirm our primordial urge to consume green plants. Or we reflect upon our lavish daily diet. Nana-kusa gayu must have a variety of different flavors.


50 ドーバー海峡トンネル 天声人語 '94 春[英文対照](朝日新論説委員室)朝日イブニングニュース訳 1994年5月31日 初版発行 P.114 (1994.3.3)

 英国とフランスを隔てるドーバー海峡が、海底トンネルで結ばれて、夏ごろにはロンドンとパリの間を一番列車が走ることになった。陸上に掘られた部分を含めるとトンネルは約四十キロで、東京―戸塚、大阪―須磨間ほどの長さである。

 この話が始まったのは、十八世紀半ばだった。フランスの地質学者が国王にこの計画を説き、その後、鉱山技師がナポレオン一世に勧めたといわれている。軍事上の利点を考えてのことだが、日の目をみなかった。

 むろん、自動車も鉄道もない時代である。技師の考案したトンネルの図が伝えられている。壁には照明用のランプが掛けられ、通るのは馬車だ。人や馬が呼吸できるように海上に頭を出した煙突や、馬の落とし物を始末する排水溝も備わっている。

 その後、現代に至るまで二十数回の構想が浮かんでは消えた。一九七〇年代の終わりになって工事が始まったが、英国側の反対にあって、いったん中止され、ようやく開通にこぎつけた。

 英国人には、欧州大陸と地続きなることに抜き難い不安感があるようだ。欧州を舞台にした過去の悲惨な戦乱を対岸からつぶさに眺めてきたせいもあるだろう。海峡のフランス側のノルマンディ―では、第二次大戦で最大の規模だった上陸作戦を振り返って、六月六日に、様々な五十周年記念行事を予定している。旧東欧になお戦火の不安は残るが、トンネルの完成には、欧州の平和が続くことへの願いが込められているようにも思われる。

 トンネルは列車専用で、自動車もこれで運ばれる。旅客列車の所要時間は、ロンドンからパリまでまでが約三時間、ブリュセルまでが三時間十五分。日本の旅行社には、一番乗りの予約問い合わせ多いそうだ。車体や走行の安全確認に念を入れるためか、料金も含めて、細部はまだ確定していない。とまれ、長年の夢の実現は好ましい。


 50. Tunnel realizes centuries-old dream

The Strait between Britain and France has been connected by a seabed tunnel, and the first train will run between London and Paris this summer. The length of the tunnel, including the part dug on land, is about 40 kilometers, equivalent to the distance between Tokyo and Totsuka or between Osaka and Suma.

The tunnel idea was broached in the middle of the 18th century. It is said that a French geologist explained the plan to the king and that later a mining technician recommended it to Napoleon Ⅰ. The proposal was conceived as a way to obtain a military advantage.

It was, of course, an age when there were no cars or trains. The tunnel blueprint that the technician designed still exists. In it, lamps are hung on walls to illuminate it, and horse-drawn carts are going through. Chimneys to enable people and horses to breathe jut above the sea, and there are drainage ditches to handle horse droppings.

From that era until modern times, over 20 plans were developed. Construction began in the late 1970s, but was suspended when many Britons objected to the cost.

The British seem to have a deep-rooted anxiety about being connected by land to the rest of Europe. This may be because they have witnessed from their nearby vantage point on the opposite shore the continent's tragic wars of the past.

In Normandy, on the French side of the Strait of Dover, various events are scheduled June 6 to commemorate the 50th anniversary of D-Day――the largest landing operation in World War Ⅱ and the one that was beginning of end for Nazi Germany. While anxiety about war still envelope the former Eastern Europe, completion of the tunnel is a concrete embodiment of the hope that peace will continue in Europe.

The tunnel will be only for trains. Automobiles will be transported on the trains. Travel time for passenger trains will be 3 hours between London and Paris and 3 hours 15 minutes between London and Brussels.

Japanese travel agents say they are receiving many inquiries from those wanting to be the first train through the tunnel. Details, including fare, have not been decided, possibly because railway officials want to confirm the safety of the cars to be used. Although some loose ends still need to be tied up, the realization of the long-standing tunnel dream is welcome.

Cope on 2012.10.2


☆62 Japan as Number One Lessons for America Ezra F. Vogel

Japan as Number One Lesson for America

Charlse E. Turtle Co.: Publishers P.125~139

Preface

IN 1958, fresh with a Ph.D. from Harvard University in Social Relations, I set out as a social scientist seeking generalizations about the family and Japan not because I was a Japan specialist, for my ignorance was vast, but because Japan of all the modern countries seemed most different and hence the critical for testing hypotheses about modern society. I was convinced that to make meaningful statements about the family and mental health in Japan I first had to become immersed in Japanese life. By the time my wife and I had been engulfed in two years of language study, research, and Japanese-style living apart from foreigners, I found myself far more interested in Japan itself than in social science generalizations. In my field work report, Japan's New Middle Class, I tried to delve into the inner life of Japanese families who were first our research subjects and later our friends, leaving generalizations to others.

For the next two decades I could not satiate my curiosity about Japanese society. I went to Japan almost every year, continued to revisit old friends, read the research reports of others, and kept reorganizing my thoughts each time I taught my course on Japanese society at Harvard. New mysteries, new subtleties, new dimensions of Japan kept appearing, and its constant change was a seemingly in inexhaustible gold mine for intellectual curiosity.

In the last several years, however, I have found myself, like other Americans, increasingly preoccupied with what is happening in America, with the decline of our confidence in government, with our difficulty in coping with problems such as crime, urban disorganization, unemployment, inflation, and government deficits. When I first returned to the United States from Japan in 1960, I had not even questioned the general superiority of American society and American institutions. In almost every field we are substantially ahead of Japan, our natural and human resources seemed more than adequate. By 1975 I found myself, like my Japanese friends, wondering what had happened to America.

In the country I originally chose to study for other reasons had become extraordinarily successful. Japan will does not have the world's largest gross national producer, nor is it the leading country in the world politically or culturally. Yet the more I observed Japan's success in a variety of fields, the more I became convinced that given its limited resources, Japan has dealt more successfully with more of the basic problems of postindustrial society than any other country. It is in this sense, I have come to believe, that the Japanese are number one.

Astounded by recent Japanese successes, I found myself wondering why Japan, without natural resources, was making substantial progress in dealing with problems which seemed so intractable in America. Convinced that Japan had lessons for other countries, I was no longer content to look at Japan only as a fascinating intellectual mystery. I wanted to understand the success of the Japanese in dealing with practical questions. My first inclination was to examine how such Japanese virtues as hard work, patience, self-disciple, and sensitivity to others contributed to their success. But the more I examined the Japanese approach to the modern organization, the business community, and the bureaucracy, the more I became convinced that Japanese success had less to do with traditional character than traits than with specific organizational structures, policy programs, and conscious planning. For several years I have been wrestling with the problem of understanding Japan's successes, and this book is the result of my intellectual labors.

I have wondered why it is that the full scope of Japanese success has not been presented more forcefully to the American people, especially since the most knowledgeable American business, government, and academic specialists on Japan are so acutely aware of them. I have concluded that the answer is deceptively simple. Most Japanese understate their successes because they are innately modest, and more purposive Japanese, wanting to rally domestic forces or to reduce foreign pressures, have chosen to dramatize Japan's potential disasters. On the American side, our confidence in the superiority of Western civilization and our desire to see ourselves as number one make it difficult to acknowledge that we have practical things to learn from Orientals. I have convinced that it is a matter of urgent national interest for Americans to confront Japanese successes more directly and consider the issues they raise.

Since my message departs from conventional wisdom about matters of great importance, it is vulnerable to criticism. Some will say I have been Japan only through rose-colored glasses, that I can see harmony but not conflict, that I think more of the privileged than the underprivileged, that I am concerned with efficiency but not democracy, that I underestimate the difficulty of borrowing from a different culture, and that my faith in America is wanting. I hope the reader will conclude that I make no effort to conceal Japan's difficulties, but the aim of this work is not present a rounded, balanced picture of how Japanese society works and how the individual is shaped. Its purpose is to describe selected aspects of the Japanese national system that are so effective that they contain lessons for America. Japan has many institutions America would not want to copy, and these will be mentioned. The successes Japan does have come at a price, and the price needs to be considered. Japan is by no means a utopia and to some extent shares the full range of problems found in every modern society. If at times my description of Japanese practices sounds like a model rather than an empirical description with all its complexities, distortions, and imperfections, it is not because I desire to idealize Japan but rather because I wish to elucidate the essential features of a model we might consider for adoption. The desirable features of the Japanese system are often based on the cultural traits different from our own which are not easily adopted, but deep structural changes are possible, as the Japanese proved in borrowing from the West. If anything, this book is written because of faith in America, a faith that we do not shirk difficult problems, that we will not be satisfied to hide behind "the America way" to preserve indefinitely undesirable remnants of the past, and that we can make necessary adaptations, even if they fly in the face of once-conventional wisdom and require learning lessons from people we had not regarded as mentors.

Copy on 2021.10.30