深代淳郎の天声人語


「本日正午」 P.160

深代惇郎の天声人語(朝日新聞社)昭和五十一年十一月十日第六刷

「回想の八月」もあすがクライマックスとなる。昭和二十年八月十五日。烈日の一日だった。「なぜ戦争に反対しなかったのか」と素直に問う世代に、三十年前のこの日を伝えることはむずかしい。過去は過ぎに過ぎる。「現在」は絶えず「過去」を再構築する。  

 この日の日記を見てみよう。歌人齊藤茂吉の日記によると、朝、シラミを二つつかまえた。正午に天皇の御放送があることを知り、一億玉砕の決心をして羽織を着た。戦争終結のラジオだった。「噫、シカレドモ我等臣民ハ七生奉公ㇳシテコ゚ノ怨ミ、コノ辱シメヲ挽回センコトヲ誓ヒテマツツタノデアツタ」。

 作家高見順も、ラジオに向った。「ここで天皇陛下が、涙とともに死んでくれとおっしゃたら、みんな死ぬわね」という妻の言葉に「私もその気持ちだった」。ラジオを聞いたあと、セミがしきりに鳴く。「音はそれだけだ。静かだ」と書いている。外に出て、新聞売り場で黙々と並ぶ行列を見る。「気のせいか、軍人は悄気て見え、やはり気の毒だった」とある。「

 評論家石橋湛山の日記は「本日正午 天皇の玉音に依って 停戦発表」と淡々としている。午後には予定通りに講演に出かける。三日後の日記には「予は或意味に於て(中略)米英等と共に日本内部の逆悪と戦ってゐたのであった。今回の停戦が何等予に悲みをもたらさざる所以」と、自由主義者の自負をもらしている。

 永井荷風日記は、谷崎潤一郎夫人に贈られた弁当が白米のにぎり飯、コンブつくだ煮と牛肉なので「欣喜みょう状すべからず」とあり、正午のラジオは知らなかった。午後に人から聞かされて「あたかも好し」と、もらい物のニワトリとブドウ酒で祝宴を張る。翌日は「厄介にならむ下心」で、中央公論社長に便りを出す。朝昼晩とカユをすすって飢えをしのぎながら「空襲警報をきかざることを以て無上の至福となすのみ」。食べる話に、たいへん筆まめである。(50.8.14)

2021.09.28記す。


(1925~2013年)

激 論  P.161

 昨日につづけて「昭和二十年八月十五」を書く。昭和二十年八月十五日午前四時ごろ藤田侍従長は天皇の書見室にはいった。天皇の無精ヒゲが目立った。飾りだなには、リンカーン大統領と科学者ダ―ウインの胸像が置かれてあった。

 その四時間前に、天皇は放送録音を終えていた。第一回録音は「少し声が高かったようだ」といって、やり直した。第二回は接続詞が一つ抜けてしまった。だが疲れ切っておられ、三回目の録音は行われなかった。この録音奪取をめぐって、前夜から宮中クーデターが起っていた。天皇は一睡もせずに、敗戦の朝を迎えられた。

 日本帝国の最高指導者たちは、ポッダム宣言を受諾すべきか否かで、連日激論を闘わしていた。連合国の回答文の「最終の政治形態は、日本国民の自由に表明する意思による」という部分が、天皇制護持を認めるものであるかどうかが争点になった。 

「先方の回答のままでよい」と即答したのは、天皇ご自身だった。天皇は「たとえ連合軍が天皇統治を認めても、人民が離反したのではしようがない。人民の自由意志によって決めてもらって、少しも差し支えないと思う」と、木戸内大臣にその理由を述べられたという(以上は児島襄『天皇』第五巻より)。

 今では想像のつきにくい狂信の時代だった。どたん場になっても、陸軍大臣は「戦局は五分五分、互角である」と強弁した。支那派遣軍司令官からは「尊厳なる国体護持は最後の一人に至るまで戦い抜きてこそ可能」と打電してきた。日本の教育は、「精神」に泥酔し、「言葉」に踊り狂う人間たちを作った。

 その中で天皇は、立憲君主にふさわしい消極的な人間として育てられたが、合理的な思考は失われなかった。戦争の最中、敵国である米国大統領と英国の博物学者の胸像を自室に飾っていた。そこに天皇の合理主義と政治理念をうかがうことができるかも知れない。

 茫々三十年の後、来月三十日には、リンカーンの国を訪れる史上はじめての天皇となる。(50.8.15)

2021.09.26記す。


女性党首 P.201

 サッチャ―夫人が英国の保守党党首になったというニュースの報じ方について「女性への偏見に満ちている」と、抗議した女性がいた。サッチャ―登場の政治的分析はほんのつけ足しにして、ブロンド美人が党首になったという取り上げようがよろしくない、という言い分である。

 ジャーナリズムの報道がすべてそうだとは言えないだろうし、それに昔の大英帝国時代とちがって、現在の英国に対する日本人の興味はその程度などだと反論してみても、言い訳がましい感じがする。抗議する女性に道理がある、と考える方がやはり素直であろう。

 四人の男性候補を破って彼女が選ばれたこと、その政治的立場が党内右派であること、若手議員や党下部組織に支持者が多かったことなどは、現在の英国の様子を知るための手掛かりにもなる。「美人党首の誕生は英国のユーモアだ」という声があるが、これも「男のユーモア」にしかなるまい。 

 サッチャ―夫人は「影の内閣」の首相になったわけだが、「女性党首」といわれるのに抵抗を感じるらしい。「"男の首相”とはいわないのに、なぜ"女の首相"というのですか」やんわり反撃している。評論家寿岳章子さんが、同じような話を朝日新聞「論壇」に書いている。

 ある府議会議員が「女課長」という言い方を連発するので、やめてほしいといったら、相手は「女やから女うて何がわるい」と憤然とした。大人げないが、ではあなたはオトコ議員ですね、と言い返したそうである。英国の大学者ジョンソン博士が、あるとき友人に「さっき街頭で女説教師をみかけたよ」といった。

 友人が「へえ、それで説教は上手でしたか」。博士は愚門だといわんばかりの表情で答えた。「後脚だけで歩く犬だといわれ、歩き方が上手かどうかを聞くべきかね。歩いたことにまず驚くべきだよ」。どんな党首であるかよりも、女性が党首になったことに驚くべきだというのは、二百年前のジョンソンに似ている。(50.2.13)

参考:ジョンソン(Samuel Johnson)(1709―1784)

2021.09.25記す


サイコロの目 P.268

確率:気象庁予報・サイコロの目

 原勝さんという見知らぬ方から『葵の日記と書簡集』という豪華な本の贈呈にあずかった。ページをめくると、一昨年のモスクワの日航機事故で、葵さんという娘を失った父親が丹精こめて作った本だった。

 日本の大学、アメリカ留学と、恵まれた環境で成長してゆく娘の遺稿を紹介する紙背に、父親の悔恨が痛々しいばかりだ。その悲しみには、娘が事故で死んだということ以上の何かがあった。その事情を、父親の一文を読んで察することができたと思った。

 この娘さんはアメリカの大学を卒業し、ヨーロッパ回りで帰国することになり、外国の飛行機を選んでいた。それを父親が日航機に変えるよう手紙を出し、娘さんは素直に従った。ところが日航機に変えるよう手紙を出した直後、ニューデリーで日航の墜落事故があった。これを気にした母親は、他に変えるよう意見を述べたが、父親はゆずらなかった。父の言葉通りにした娘さんは、そのために遭難するのである。娘に対し、妻に対し、父親の申し訳なさはいかばかりであったろうか。その思いが、娘の本を作らせずにおかなかったのだろう。

 父親は「事故を起こしたばかりだから、立て続けには起こるまい」と考えた。母親は「事故が起ったから不安がある」と思った。サイコロを振って、偶数が三度続いたとき、四回目は「三度も続いたのだからまた偶数だ」と考える人と、「三度も続いたからこんどは奇数だろう」と考える人がいる。

 数学の確率でいえば、四度目のサイコロの偶数、奇数の出る確率はそれぞれ二分一だ。三回分の結果が、四回目の確率に影響を与えることはない。こうした抽象的な確率論を離れても、事故は偶然ではなく、本質的な原因があるはずだからその会社は見合わせようという人もいる。逆に、事故直後は点検や操縦にひときわ慎重だからかえって安全だ、と考える人もいる。

 推理はいつも二つに分れ、答えはない。やはり運命だったと思うほかはないのではあるまいか。(49.7.29)

参考:1972年11月28日、日本航空のコペンハーゲン発モスクワ経由羽田行きのDC8型機がモスクワのシェレメチェボ空港を離陸直後に失速して墜落・炎上、日本人53人を含む、62人が死亡した。人為的な操縦ミスによるものとみられている。

2021.09.20記す。


 長期予報の的中率は五割未満。気象庁も三カ月以上は統計的確立予報で発表しているわけだが、この場合の予報の実態は、とても科学的とは呼べないものだ。長期予報の成績は六十%ぐらとされているが、純粋に当たるか当たらないかで見れば的中率は五割に満たない。つまり半分以上ははずれである。      『選択 九年十二月号』

▼確率五十パーセントは二分の一である。何度もコインを投げるのを繰り返して、コインの裏か表が出る確率である。コインを投げるたびごとに「おもて、おもて…」といっても当たるのは半分である。また反対に「うら、うら…」でも当たるのも半分である。そうすると「おもて、うら、おもて、うら…」と、でたらめにいってもあたるのは半分になる。

▼自分の行動を決めるとき色々な道があるものである。ある者は悩み、あるものはエイと決断する人もいる。自分の進路を決めるのに最終的にかりに二つにしぼつて、右か左かになったとすると。

 われわれはいくつかの転機を経験してきた。そのたびごとに方向を選択してきた。例えば旧制高校へ進学するかどうか、大学に進むか就職するか、就職するときA社にするかB社にするかなど。そうすると自分の進路は二の転機の回数の階乗になる。たとえば、三回であれば二の三乗すなわち二×二×二=八ということになる。現在の状態は八つの選択肢のうちの一つである。現在の状態に満足している人はともかくも、すこし不満におもっているひとは、今より変わったよい道があったのではないかとおもったりする。実際はこれ以上に複雑な多数な道があったはずである。人の経歴は様々であることが容易にそうぞうできる。なにか必然であるような気もする。

感想1:雑誌『選択』(選択出版株式会社)設立 1974年4月:『選択』(せんたく)は、選択出版株式会社の発行する月刊の雑誌(総合雑誌)。毎月1日発行。完全宅配制度を採り、書店での販売は行っていない。発行部数は6万部。2008年6月号で400号を迎えた。

 July 2018号は、「外交の安倍」という虚名の記事がある。

感想2:「確率五十パーセントは二分の一である」記事に関連して、「クジを先にひても後に引いても同じであることを証明しなさい」

 私が受験した学校の数学入試問題のひとつだった。

感想3:たしかにそうだ。ある時、「ああすればよかった」また、ある時は「こうすればよかった」と思うのは常人の私にもあった。だが、私は転機の節目には、「私が決めたのだ」と思っている。

平成30年7月16日:猛暑日:90歳

2021.09.25


今日的情念 P.256

 トインビー博士ほど読まれもせず、引用された歴史家はあるまい、と朝日新聞夕刊『素粒子』が悼辞をささげている。「孔子のたわく」の時代は長かったが、つづいて「マルクスいわく」が盛んになり、「かのトインビー博士によれば」もずいぶん使われた。 

 三年前、ロンドンの博士の自宅でお話を伺ったことがある。八十三歳の年齢を感じさせない明晰な内容と話しぶりだった。博士の話し言葉はそのまま活字にして、間然するところのない立派な文章になるというのが定評だったが、あとでテープをタイプしてもらい、うわさに違わぬものだと一驚した。 

 彼は、中国の未来について情熱をこめて語ってくれた。ビリでトラックを走っていた者が、いつの間にか先頭走者になっていく。それが中国だ、という論旨だった。そこには欧米は先頭を切った産業化、機械化についての彼の深い疑いがあった。この前車のワダチに踏みにじられ、それを百年耐えてきた中国には、その方向を自制する節制があるはずだと説きつづけた。こういうときの博士は、科学者であるというより、情熱的な予言者であり、説教者であるという印象が深かった。博士を評して「ジャーナリストだ」という言い方をする人が多い。その構想や理論の独創性に感心する人は多いが、その史観を承認する歴史学者は少ない。 

 その博識は明治維新をペートル大帝のロシア統一に比較し、米ソ対立をローマとカルタゴの死闘で類推し、日本の学生運動を叡山の荒法師になぞらえたりして、うむことを知らない。こうして時代を超えた「状況の共通性」で説き、壮大な予言をするやり方がジャーナルスティックにもみえた。

 ヨーロッパ世界の中で『進歩史観』を信じにくくなり、新しい世界の出現に希望を託すというヨーロッパ知識人の一人だった。学問を象牙の塔にしまっておくのは今日的な情念が許さないという意味では、ジャーナリスティックな人だった。(50.10.24)

2021.09.25記す。


(1925~2013年)

子 守 唄 P.161

 三十年前のきょう、ベルリン郊外のポッダムで米ソ英の首脳会談が開かれた。すでにドイツは降伏し、連合国と戦っているのは世界で日本だけだった。ルーズベルトの死で、三ヵ月前に大統領になったばかりのトルーマンは、巡洋艦で来た。このミズーリの地方政治家にとって、スターリンとチャーチルを相手にする晴れの舞台だ。彼のもつカードはアメリカの実力であり、切り札は、数日後にひかえた原爆実験の結果だった。

 スターリンは、十一両編成の帝政時代のお召し列車でやって来た。ドイツからできるだけ多くの賠償を取ること。東欧におけるソ連の勢力圏を認めさせること。また、八月上旬までに対日参戦をするというヤルタ密約を実行して、日本占領に加わることも目的にあった。

 チャーチルは疲れていた。それは、この戦争で力を使い果たした大英帝国を象徴しているかのようだった。米国だけが頼りで、そのために米ソ対立をあおることに全力をあげたが、トルーマンにもスターリンにも見抜かれていた。会談の途中で総選挙の結果が分かり、アトリ―労働党首と交代して退場する。 

 このとき日本政府は、ソ連の仲介による終戦が頼みの綱だった。駐ソ大使に対し「近衛特使の派遣」の打診で、悲痛な訓令をくり返していたが、その暗号電報はすべて米国側で解読されていた。ポッダムでスターリンが天皇のメッセジ(戦争終結に関する内意を伝えた佐藤大使の書簡)を披露すると、先刻承知のトルーマンはそれを見せられて読むふりをした。「返事をする価値がありますか。子守唄で日本を寝かせつけときますか」とスターリンはいい、取りとめのない回答を出すことに決める。チャールズ・ミー『ポッダム会談』(徳間書店)は、議事録など解禁された資料をもとに、国際政治のドライな実態を描いている。

 そこに現れた日本外交の哀れな姿に、やり切れないという感じもする。(50.7.17)

兵 学 家 P.348

 二千二百年前の古墳からの出土品で、有名な兵法家、あの「孫子」が実は二人だったらしいとわかった。「知り難きこと陰のごとく」という極意を人に説いただけあって、一人説、二人説、偽作説と二千年余り後世をまどわせつづけた兵法はさすがだった。

  「孫子」の書については、呉の孫武とその子孫の斉の孫臏の合作だという説があった。こんどの発掘で「孫子の兵法」と「孫臏の兵法」の二種の竹簡が出てきたので、その説が裏づけられることになったという。

 日本では一時、経営社のお手本として「孫子ブーム」が起ったことがあるが、このすぐれた古典が金もうけの戦術になり、やや安手に利用されたキライはあった。本来の「孫子」は、単に兵法だけを論じたものではない。もっと深くて、幅広い思想が、そこに盛られている。 

「彼を知り己を知れば、百戦あやうからず」の有名な言葉も、この本から出ている。「百戦百勝は善の善なる者にあらず」ともいう。戦うごとに勝とというのが最上ではない。戦わずして敵を屈服させるのが最善だというのである。

「利に合えばすなわち動き、利に合わざればすなわち止まる」という現実主義も、この兵学家が到達した結論なのだろう。「孫子たち」が生きたのは、二千四、五百年前の世界である。日本は縄文から弥生時代に移るころ、西洋ではギリシャ時代の末期だと考えると、古典の命は長い。(49.4.11)

2021.09.27記す。


壮大な予言 P.349

 朝日新聞のインタビューで、英国の文明批評家トインビー博士は「現代は世界の戦国時代だ」と考えている。この大家の持論である。そうかなあ、と思いながら、だが英雄豪傑の影のうすい戦国だなと思ったりする。

 たしかに、現代のように、共通の目的と価値を失った社会とは、ある時代から次の時代に移る谷間なのかも知れぬ。トインビー博士は、過去の例をあげて説明する。中国では秦の始皇帝が統一するまで春秋、戦国の世が五百年つづいた。日本では豊臣秀吉が出るまで、戦国時代だったし、西洋でも、シーザーが現われてギリシャ―、ローマの戦国期を締めくくった。

 戦国時代がクライマックスに達したあと、安定期がくる。シーザーも、始皇帝も、秀吉も戦国を統一し、永続的な平和をもたらすことを自分の使命だと考えた。しかしこの三人は、前の時代を壊すことには成功したが、その過激なやり方のため反動が起こり、自分の体制を長つづきさせることは失敗した。

 シーザーは貴族を抑えて独裁者になったが、暗殺される。始皇帝も秀吉も中央集権をスタートさせたが、どちらも死後は長続きしなかった。博士によると、前代を破壊する者と、後代を固める者とはおのずから別の人物でないかという。

 シーザーの甥、アウグスク皇帝はその後二百六十六年間のローマ帝国を築いたし、始皇帝のあとの漢の高祖は二百年の漢帝国の始祖となった。秀吉のあと、徳川家康も二百六十五年間の幕府を創始した。つまり一番手の英雄は変革者になるが、平和を永続させることはできない。二番手の英雄は、前者の果実をつなぎながら次の時代を固める。

 この歴史の教訓によれば、硬直した超大国米ソに、現代の戦国時代を収拾することは望めない。それは東アジア、おそらく中国だろうというのが、この碩学の壮大な予言のようだ。(49.5.12)

2021.09.26記す。

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