国有鉄道勤務時代
国鉄糸崎機関区勤務
    


 終戦後、海軍兵学校から忠海に帰った後、直ぐに旧制広島高等学校二年生編入試験を受けた。原爆被爆後の広島に初めて出掛けた。広島の駅には原爆負傷者が毛布にくるまったままでうずくまっていた。行き場所のない人たちだったのだろう。

 市電は完全にストップしたままであった。電車の架線は切れて電柱は傾き、戦争の災害は放置されたままであった。駅から皆実町(高等学校所在地)まで比治山通りを歩いて行った。高等学校の建物は無傷で残っていた。

 試験は面接だけであった。「ドイツ語を勉強していないが出来ますか」と言われただけであった。受験にあたって、中学校の内申書が提出されていた。私の中学時代の成績は3年生からずっと8番であったが、提出の成績は40番程度にされていた。編入者数に制限があり結局許可されなかった。

▼叔父(母の弟)が国有鉄道糸崎機関区に首席助役で勤めていた。従兄弟のT.M.氏が海軍飛行予科練習生(第14期松山海軍航空隊配属)から復員していた。二人とも勤めさせてもらうことになった。蒸気機関車の気罐の釜焚き(ボイラーマン)・機関助手の見習いに採用されたのである。月給は四十五円であった。機関車の運転手即ち機関手になるには庫内手、機関助手見習、機関助手、機関手見習の順序で昇進する制度であった。

 先ず庫内手の仕事をさせられた。蒸気機関車の掃除が主な仕事である。機関車は石炭を燃料としているから煤煙・埃・油で真っ黒に汚れていた。機関手・助手が乗る運転台ばかりでなくて動輪(機関車の車輪)まで磨いた。その他には回転部の軸受けに油をさす仕事などであった。少し慣れると何時でも出発出来るように機関庫内に待機中の機関車の火種を絶やさぬ仕事を割り当てられた。こんな仕事であるから顔は勿論のこと頭の先から爪先まで真っ黒に汚れた。機関区の人たちは「黒ん坊」と呼んでいた。このような下積みの仕事を通して機関車の構造・機能を覚えた。勤めている人は小学校を卒業して直ぐに勤めていた。男ばかりの仕事場であり、古参が威張り、時には仕事上のミスを見付けては後輩を殴りつけるような荒っぽい有様であった。首席助役の甥でもあり、海軍にもいたということがあってか私に手を出すものは一人もいなかった。

 そうこうするうちに釜焚きの練習をするようになった。専門用語では投炭練習である。蒸気機関車は蒸気エネルギーを原動力にして動くのだが、必要蒸気圧力は15㎏/cm²である。この圧力に保つには火床への石炭の投げ込みかたに熟練が要求された。機関車の模型で練習して、ある基準の得点に到達するまで訓練を受けた。戦後の運転関係者の足りないときであったからか比較的早く実際に機関車に乗せられることになった。

 列車の運転区間は糸崎から岡山或いは広島への往復であった。機関手・機関手見習・機関助手見習の私の三人乗務であった。年齢は大体同じであった。

 技術に自信がないままで乗り込んだ。当時の石炭は燃焼カロリーが低く、泥炭が多かった。高度な投炭技術でカバーしなくては満足な運転は出来なかった。

 ある日の運転は散々な状態になった。糸崎駅は出発したが発車直後から圧力がどんどん下がり、運転に必要な圧力15Kg/cm²が半減するまでになってしまって次の尾道駅までに辿り着くのがやっとであった。初めは、機関助手見習の私が釜焚きをしていたが、たまりかねてベテランの機関手見習が焚き始めた。しかしどうにもならなかった。釜焚きが悪ければ釜の中のあちらこちらに石炭の塊ができる。そうなるとその塊の中に空気が通らなくなるために不完全燃焼するために益々発生カロリーが低くなってしまう。結局普通であれば二時間で岡山駅に到着のところ八時間かかって喘ぎ喘ぎ到着することができた。

▼当時の様子を思い出してみよう。岡山市の駅前の中筋は戦後ヤミ市の中心になっていた。食糧難がひどいときであったが食べるものは屋台に並べられ、活況であり非常に雑踏していた。たまたま運転手と二人で出掛けていったところ、彼は運転用の米国製ウオルサムの懐中時計をすられてしまった。私もスリの被害をうけかけた。後ろのポケットに手をいれられたところで、その手を掴んだ。スリは平気な顔をして立ち去っていった。

 食糧難に関係した話は数限りない。食糧の買い出しやら、ヤミ市に食糧を運搬しなけれならないが、当時は列車の本数も少かったこともあり大きな荷物を持つて機関車の後ろの炭水車の上にも乗り込んできていた。こんな状態であるから窓から乗り込むのは当たり前になっていた。

 私はこんな状況の中で下半身全体が疥癬に罹り、半年間悩まされた。医者にもめったにかかれず、栄養失調であったかもしれない。湯の華(主成分は硫黄)を入れた風呂が治療に効いた。

 職員から通訳が募集された。進駐軍を輸送する関係であったのであろう。私も受けた。簡単な英語の翻訳問題であった。成績はよかったが採用されなかった。中学の同級生:金子君は旧国鉄ではたらいていて、この試験を受験していた。

▼呉市に進駐した軍人たちによる様子を見ていた。当時、想像していた問題も身近にはおこらなかった。そんな中で、中学校の同級生が旧制高等学校や専門学校に進んでいるのを見ると、何となく取り残されている思いがしていた。叔父は鉄道専門学校を受験したらどうかと勧めてくれた。しかし進む気にならなかった。中学の恩師・飛騨先生も上級学校の受験を勧めてくれたと思う。そこで仕事をしながら受験勉強を始めて、昭和21年に広島工業専門学校を受けることにした。一次試験に合格したが二次で不合格。翌年には合格した。

▼我が家の国鉄との関係は深い。兄が旧制高等工業学校を卒業して広島鉄道管理局、私の次弟が高校卒業して国鉄の駅に勤めた。いずれも定年まで勤めた。

 こんな経験から、今でも蒸気機関車が運転されているのを見るのは好きなもののひとつである。

平成二十八年六月二日


★呉線を走る:C59 D51 風光明媚な瀬戸内海沿いを蒸気機関車が走る呉線

 デゴイチ思い出のせて、44年ぶり山口線に 2017年11月26日 読売新聞社

「デゴイチ」の愛称で親しまれた蒸気機関車(SL)「D51」が25日、JR山口線で44年ぶりに復活し、黒煙を上げて疾走する姿を多くの鉄道ファンらが見守った。

 D51は山口線では1973年まで走っており、今回は、山口県で展開中の観光企画に合わせたイベントとして25、26両日に運行。JR西日本が、京都鉄道博物館(京都市)で乗車体験用に走らせていた38年製の車両を整備し、新山口駅(山口市)―津和野駅(島根県津和野町)を客車5両を引いて1往復した。

 先の戦争での終戦後、国有鉄道糸崎機関区に勤めて、実際に機関車に乗り込んでいたものとして、戦後72年経過して、報道だけでも当時の様子がまざまざ思い出される。

参考:NEW 晩秋を走るSLやまぐち号 / 新山口駅から津和野駅まで

2017.11.27

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