株式会社倉敷レイヨン入社試験
昭和二十四年十月


 倉敷レイヨン(株)採用試験受験

 昭和二十四年、私は広島工業専門学校(現在:広島大学工学部)の三年生であった。

 二学期の九月、倉敷レイヨン(株)(現在:クラレ)から、学校に一名推薦するようにと案内がありました。私はこの推薦に手をあげましたところ、推薦された。

 十月に入社試験が行われた。呉線忠海駅から三原駅で山陽本線に乗り換えて大阪に向った。その日のうちに学科試験と面接があったので、車中、「物理化学」を一所懸命に復習しました。

 午後 、大阪の中之島公会堂で学科試験がありました。問題は難しくなかったので、自分ではよくできたと思った。

 午後遅くから、本社大阪市北久太郎町一丁目四十一番地で面接があった。

 面接はあまり広くない部屋で行われた。大原總一郎社長ほか重役がズラリと並んでいた。受験者は一人一人呼び込まれて面接された。

 「願書・成績表」を見ながらであった。

重役:「君は公民科の成績が丙(甲・乙・丙の評価)であるがどうしてか?」と質問された。

私 :「公民科は毎週土曜日午前中に他の一科目の2時限しかありませんでした。家から学校まで往復約6時間の汽車通学をしていましたので、土曜日は学校を休んでいましたからだと思います」と申し上げました。

重役:「君は西畑 豊さん(倉敷紡績株式会社の倉敷万寿(ます)工場長だった)とどんな関係ですか?」と聞かれた。

私 :「母方の従姉の御主人です」と答えた。

*補足:入社して我々新入社員は借り上げ倉敷市酒津にあった住宅大内寮にはいった。そのある日、西畑さんがクラレの幹部のお宅に挨拶周りに案内して頂いた。

 以上で口頭試問は終わった。すでに夜は7時ころになっていた。

 後日、幸いにも採用通知を受け取った。会社の社内報:「倉敷レイヨン連絡月報」24年10月号より送られてくるようになった。

★関連:尊敬する人物:私には「尊敬する人物」は、などという質問はなかった。

 就職試験から翌年三月に卒業するまではわずか五ケ月ばかりであった。

 この間、教授から「就職が決まったからと思って、勉強しなければ落第させるぞ! そうすれば就職できなくなる」と言われたものだった。

 卒業するまでに就職が決まったのは、40人中10人ほどであった。昭和25年当時の就職難のほどが知られるでしょう。

参考:クラレ

 春秋 2016/3/2付の下記の文章を読み、71年前の懐かしくも茫洋とした思い出がよみがえりました。


 川端康成の名作「伊豆の踊子」の主人公は20歳である。作品の冒頭に、旧制高校の制帽と紺がすりの着物で旅に出て4日目……とあって、もうこれだけで隔世の感を覚える読者が多いかもしれない。ここには戦前のエリート青年の、悠揚たるたたずまいが描かれている。

▼主人公はやがて帝国大学に進む立場だ。往時の学制は中学校5年、高校3年、大学3年。社会に出ると23歳以上になる。同世代の大半は幼くして働いていたから特別扱いだが、こういうゆとりある青春期が将来に役立つと世間も捉えていたのだろう。彼らは特権を生かして見聞を広め、さまざまな体験を持ったに違いない。

▼さて時は流れて、いまの大学生にそうした余裕はどれだけあろう。きのう、経団連加盟企業の採用説明会が解禁になり「シューカツの春」が始まった。リクルートスーツで会場につめかけた若者はまだ21歳くらいだ。大学に入って2年余で就職が気になりだすから、もはや4年制ではなく短大だという自虐をよく耳にする。

▼このままではキャンパスは衰弱するばかりではないか。大和総研の川村雄介副理事長が先日の本紙で「大学は6年制に」と唱えていた。これなら4年間は勉強に打ち込めるという。戦前の大卒年齢を考えればあながち極論ではあるまい。「踊り子」との恋を成就させるチャンスだって増えると、こちらは言い添えておこう。

平成二十八年三月五日




 菱田正則さん

 2016.05月30日(月)2016.5・6号「クラレタイムス」受領。その付属資料に、2016年4月23日、菱田正則様(90歳)の訃報が載せられていた。

 謹んで哀悼の誠をささげます。

 菱田さんとは、昭和25年同期入社であった。彼は岡山工場に配属されていた。

 入社当時4月、私は倉敷工場に配属され、8月に岡山工場に転出して、独身寮:操風寮に入った。その時、勤労課にいた菱田さんと出合いました。寮内の部屋でいろいろと語り合った。写真はそのひとこまである。

 彼は京都帝国大学法学部出身であった。知り合いになってから、気分が合い親しく話し合える関係が結ばれていった。昭和二十九年結婚された。七月二日、新家庭を角君と一緒に訪問している。私も十月に結婚。

 私は岡山工場に17年間勤めていた。その間、菱田さんは本社の人事課長に昇進されていた。その後、累進されて、取締役専務になられた。

 昭和四十二年、私が倉敷の研究所に転出するとき、菱田さんは、大変バックアップしてくださった。17年間の友情のありがたさをいまでも感謝している。

 毎年、年賀状は交換していた。それが突然の訃報である。
 青春時代の思い出が脳裏を走る。写真のように話し合い、意見を述べ合っていたものである。

 しかし、別離の時は必ず来るもので、菱田さんも90歳をむかえられていた。アディユ、菱田さん!!

▼菱田さんの訃報を機に、倉敷レイヨン入社試験で思い出したのは、天倉源三さんである。彼は広島県立忠海中学校の先輩で広島高等学校から京都帝国大学に進まれた秀才であった。忠海の東隣の幸崎町(さいざきちょう)の出身で学生時代の夏休み、広島県三原市にあった帝国人造絹絲(株)三原工場でご一緒にアルバイトをしたものである。

 学科試験が終わり、倉敷レイヨン本社での面接試験の待合で偶然に出会ったのである。菱田さんと同じ大学からの受験者であった。

 この会社には大変優秀な人たちが受験に来ているなと感じたものである。どうした、はずみか天倉さんはクラレではみかけませんでした。どこかで活躍されたことでしょう……。

平成二十八年六月一日


★倉敷絹織株式会社(現在:クラレ)入社以来、岡山工場ビニロン生産能力推移(トン/日)

 1950年(昭和25年)11月:5(トン/日)。

 1952年(昭和27年):8(トン/日)。

 1955年(昭和30年):13(トン/日)。

 1958年(昭和33年):13(トン/日)→50(トン/日)。

 1961年(昭和36年4月):73(トン/日)。

 1961年(昭和36年12月):84.5(トン/日)。

 1966年(昭和41年12月):104(トン/日)。

*私は岡山工場ビニロン製造部の一員として以上のすべてに従事した。

★社名変更:昭和24年:倉敷絹織株式会社→倉敷レイヨン株式会社。昭和45年:株式会社クラレに変更。

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