少年時代 一葉の写真 茶褐色に変色した、四隅の一角が破れ、中央部にひび割れが斜めに走っている、十一人の記念写真である。私が生まれ、学校を卒業して社会人になるまで育てられ住んでいた家の玄関前のものである。「忠海高等海員講習…」と書かれた三十センチ幅の木製看板が軒下に吊るされている。父、兄(萬亀夫)、妹(田鶴子)、私、受講生男性五人と私の家に住んでいたと思われる女性二人の写真である。父は着物で羽織を着ている。黒足袋、下駄履きである。兄は黒の小学校制帽、白っぽい上下揃った服、ふくろはぎまでの黒の靴下、革靴の姿で左手をズボンのポケットに入れている。父の膝の間に凭れかかるようにして両足をそろえてこころもち前に出して立っている。妹は幼児の美しい着物を着せられて、眼鏡をかけた丸髷の女の人の膝の上に立たされて両手を開き、可愛い丸顔でカメラに目を向けている。私はクリクリ頭である。五つボタンの黒色の上下そろいの服、短ズボン、膝までの白の靴下、革靴を履いている。腰掛けている受講生の一人の膝の間にはさまれて、その人の膝を肘掛けにして両手をかけて座っている。女性二人は日本髪・和服である。受講生五人のうち二人は和服、三人は洋服である。中折れ帽子を二人がかぶっている。 幼いころを思い出させる一枚の写真である。父が健在であるから命日の昭和十年四月以前である。三歳違いの兄は小学生。妹は二歳違い。彼女の写真の姿から二~三歳であろう。すると私は四~五歳になるか、小学校に入学するまえである。兄は七~八歳になり、小学校一年か二年。帽子、服の具合から一年生のおわりだろうか。冬用の着物、足袋、靴下の様子から冬の十一月ころから三月に近いころだろうか。写真全体から想像すると私が満五歳ころ、昭和七年の冬か昭和八年の春に近い時期のものであろう。 家族紹介と名前 黒崎市次郎の家族。
父…黒崎市次郎:明治二十年生、昭和十年死亡。
私は昭和二年九月二十三日(金曜日)生。産婆さん(砂田さん)に取り上げられた。黒い鞄を提げて出産のために出掛けていた砂田さんは、小学生の私に出会うといつもにこやかに声を掛けてくれていた。優しそうなおばさんであった。
小学生になる 登校拒否 広島県豊田郡忠海町立忠海西尋常高等小学校が私の母校である。学校生活を振り返ると。小学校は一年生の入学から六年生の卒業まで同じ学校であった。中学校は五年の二学期に海軍兵学校に入校のため途中までであった。海軍兵学校は十カ月の生徒体験で終戦により免生。広島工業専門学校は三年間、専門教育を受けたが、戦後の社会環境では勉学の雰囲気ではなかった。 昭和九年から昭和十五年の春までの小学校は私にとって一番落ち着いた期間であった。 小学校一年生のとき、私は教室の外に立たされた。L字型平屋校舎であった。運動場は南側にあり、L字の長い方は東西に配置されていた。一年生の教室の窓の近くにポプラがうえられていた。この木の根元に一人だけ立たされたのである。担任は長田先生である。しっかりされた家庭の主婦でもあった。時折、生徒をひどく叱っていた。この時は何か先生の言われたことをきかないで勝手なことをしていたのであろう。教室の外に罰で立たせられたのであるからよくよくのことであったに違いない。兄が休憩時間に来た。全校生徒に見られていたのだろう。 一年生のときは男女計約百人の新入生がそれぞれ半分ずつの二組に分かれていた。一年から三年までは男女共学であり、四年生から男子と女子が別々の組み分けになった。入学したころは女の子と手をつながせるから、学校に行くのは嫌だと言っていたそうである。ようやく学校に連れていつたと、ほっとしていると、いつの間にか二階の押し入れに隠れていた。引っ張り出されて、母に叩かれても学校に返ろうとしなかったようである。登校拒否である。学校の勉強が出来なかったわけでもない。算術の甲を除けば全科目乙であったのだから普通の成績である。この成績は四年生になるまで続いた。五歳のころの写真では服装もきっちりさせてくれているのだから幼稚園くらいにやってくれていたのかも知れない。兄は通園したがすぐに止めたと言っていたのだから。ともかくも、理由をつけては学校に行くのに抵抗していたのは事実のようである。何時まで親を困らせていたのであろうか。こんな私ではあったが四年生から変わったのである。 アラビア数字「8」
「8」がどうしても恰好よく書けなかった。名前も数字も書けないままで小学校一年生になってしまったのであろう。アイウエオカキ…、123456790は書けるようになったが「8」がどうしても一気に書きおわることができなかった。
姉は六歳年上であった。小学生のとき、母の実家(岡山県御津郡横井村)にあずけられていた。女学校に入るとき忠海に帰ってきた。 父が死亡した昭和十年以後、母ひとりの家庭の経済は生活出来ない状態であった。その時、三歳くらいの弟・達雄を父方の親戚の家に口減らしのために養子にやろうという話が持ち上がりほとんど纏まっていた。姉は大変可愛がっていた。弟をやるくらいなら自分が女学校を止めて働くからと言って猛烈に反対したのである。遂にこの話は取り止められた。幼いころ、お婆さんの家にあずけられて苦労していたのであろう、女学生の姉は弟のことをどんな風に思って反対したのであろうか………。 父の逝去 「七時の汽車に乗っていくよ…」 父の最後の言葉である。昭和十年四月二十八日。当日は万年歴によると日曜日である。その日、私は外に遊びに出ていた。朝十時ごろ、座敷に入ると親戚の人が集まっているのを見て、「お父さんは病気で寝ているのだから帰ってもらえ」と言ったそうである。「お父さんは亡くなったのだよ」と言われて、父の寝ていた布団に伏せて泣きじゃくったそうである。父の床には庭のビワの木洩れ日がさしていた。 父の思い出は少ない。満七歳であったから。そのころの母・兄弟・姉妹の思い出も微かである。 父の仕事は司法書士であった。広島法務局忠海出張所(登記所とよんでいた)の後ろに家があり、座敷を事務所にして仕事をしていた。 いまでも、自動車の排気ガスの臭いが好きである。父との思い出による。父は仕事の都合で隣の町に出向くことがあった。当時は忠海に二~三台しかなかった自動車(ハイヤーと言っていた)を利用していた。それに乗せてもらったことが何度かあった。こんなこともあって、私たちは自動車が通ると、後ろを追いかけて、あの何とも言えないガスを吸い込んでいた。 姉は女学校を卒業すると直ぐに登記所の書記官のもとへ嫁いだ。父の遺言であった。 小学校時代の兄の思い出は、三歳しかはなれていなかったが、小学校の歳ごろではこの差は大きくて一緒に遊んだ記憶はない。学校の成績は級友の一人の大本辰夫さんと一・二番を争っていた。 妹は家事を仕付けられた。父が逝去してから母は司法書士の免許(現在は大学法学部を出ている人などが取得している)を受けた。母は仕事を覚えるのにまさに必死であった。 六人の生死がかかっていたのである。登記申請書類の書き方を登記所で教えていただき提出するが、訂正の付箋を付けられて返されて再提出していた。全て複写書類であったのでカーボン紙を挾んで鉄筆で書いていた。私にあてた手紙が手もとに一通のこつているが同じ方法で書かれている。達筆とは言えないが明治三十三年時代の女性としては立派なものである。登記の仕事がなければ、親戚の旅館に手伝いに出ていた。従って家事は妹にやらせていた。小学校に入学する前から炊事・洗濯・掃除など全部である。ご飯の準備は米を洗って、おくどさん(竈)に釜をかけて炊くのであるから難しかった。火を付けるのが一苦労である。薪、松葉、古新聞を使って燃やすのである。雨が降って材料が濡れているときはどうにもしようがなかった。また釜の水加減が問題である。炊く量と火力を計算に入れなければならない。炊き上がる前に噴き出すと蓋のあけ具合、火のおとしかたにも経験がものをいう。妹は完全に覚えていた。 母は、明治時代の教育・仕付けを受けた気質の人であったと思う。男には家事を一切やらせなかった。縦のものを横にもさせないくらいであった。妹はすべてやらされていたがやりこなしていた。 ★小学校一年生~六年生:昭和九年四月入学。昭和十五年三月卒業。 忠海の町は大きく分けると三つの地区になる。中心の町と東西二つの漁師の部落である。東の部落は二窓(ふたまど)、西は長浜である。二窓には忠海東尋常小学校があり、尋常科六年までの学校があった。中心の町には、忠海西尋常高等小学校があり、高等科一年・二年が併設されていた。長浜は中心の町から一里くらい離れていたが西小学校に通っていた。高等科には全町の者が合流していた。また広島県立忠海中学校(五年制)と、広島県立忠海高等女学校(四年制)があり、県下有数の学校の町であった。新見海軍中将、竹鶴さん、池田勇人元総理大臣などは忠海中学の出身である。 一年生の担任は前述した長田先生(女)、二年生は秋山先生(女)背のすらりとしたやさしい先生であった。三年生内海先生(男)。えこひきされる先生だと、子供心に思った。 四年生から男子組と女子組に分けられた。広島県尾道市土堂から赴任された亀田先生(男)が受け持ちになられた。先生は 「いまいまを本気に」。と、いつも言われていた。この言葉を色紙に書かれて黒板の上に掲げられた。色の黒い、中肉中背、眼鏡、光に満ちた眼、笑顔で語りかけられていた。 同級生の一人に長浜の寄能愛吉君がいた。彼は正真正銘の「ぼろ服」を着ていた。服は破れたままで一カ所も繕われていなかった。洗濯は一度もされていないので黒びかりするほど汚れていた。ある日、愛吉君が新しい服を着て来たのである。先生が贈ったものであることをなぜか知っていた。先生が言われたのでもない。こんな先生であった。 私は操行善良学力優等表彰されたのである。三年生までは算術の甲をのぞいて全部乙の評価であった。操行(おこない・品行・行状。)の成績評価も勿論良いものではなかったと思うのに。家で勉強を教えてもらう環境でははかった。また勉強した記憶はない。ただ書き取りは熱心にしていたのを覚えているが、四年生であったのかその前後であったのか。しかし、教室では「いまいまを本気に」授業を受けていたのであろう。家庭事情、家庭学習に変化はなかったにもかかわらず学業は全甲、操行も善良と認められたのである。 先生は一年で去られた。 いまいまを本気に! 恩師の言葉が私の中に生きつづけている。 参考:今、教育委員をやっているHさんの農業託児所の思いでの記があるのです。農繁期の間だけの託児所ですから、ほんとうに短い期間であったわけですが、そのときめぐりあった女学校を出たての、若く美しい女の先生のおもかげは、今もなおHさんをささえている様子です。幼いとき、尊いもの・美しいものが、道を踏みあやまらせないように、もとへひき戻してくれるようです。東井義雄『根を養えば樹は自ずから育つ』による。 四年生の時の思い出で忘れられないのは、岡山県御津郡横井村小幸田のお婆さん(千代)の家に一人で旅をさせられたことです。生きるー前田達治自伝ーに記載している。岡山駅に迎えに来てくれていた従弟の前田 薫君(クラボウの取締役になった)と横井村、岡山市内の親戚の家に遊びに行ったり、岡山市内を見物したことが記憶に残っている。貴重な一人旅であった。 五年生の担任は佐藤先生(男)であった。バレーボールが上手な背が高く太った方であった。授業中、なにかにつけて兄と比較されて嫌な思いをさせられた。夏休み、初めて、長編小説である『里見八犬伝』を読んだ。五年生のときも学業優等であった。 ★雑誌『少年倶楽部』がよみたかったので買った。請求書が来てばれた。 参考:春秋 2018/12/27付 古書店で雑誌「少年倶楽部(クラブ)」の昭和8年1月号の復刻版を見つけた。前年には日銀総裁や蔵相を務めた井上準之助の暗殺事件が起き、満州国も建国されている。誌面に軍事色がちらほらするなか、広告で目立つのは「中学講義録」だ。「独学で成功を」の文字がおどる。 ▼このころ、旧制中学や高等女学校といった中等教育学校への進学率は2割前後。大半の少年少女らは若くして社会に船出して荒波にもまれた。そして、いつかはその境遇から脱し、会社員、官吏になる夢を抱いていたことがわかる。格差の大きかった社会で、なんとか「学歴」という金のはしごに手をかけようという姿か。 ▼あれから80余年。大学・短大進学率は約58%に達した。政府が学費補助も検討し、希望すればすべての若者が高等教育を受けられる世だ。一方で、学生が都市部へ偏るのを防ぐため、国は入学定員を大きく超えた私立大に助成金カットの罰則を科した。おかげで難易度が上がって競争が激化、受験生は混乱しているという。 ▼地方創生の策に若者の将来が巻き込まれた形にみえる。国も民も豊かになったはずが、変わり行く社会の枠組みのせいで、往時とタイプの違う悪天に立ち向かわねばならぬとは。従来の海図があまりあてにならない上安な旅路にちがいない。年末は本格的な冬将軍がやってくるようだ。耐えて乗り越え、春を迎えんことを。 勉強をはじめる 六年生の担任は林忠彦先生(男)であった。地元出身で宮床に住んでおられた。学科の勉強の競争を非常にさせられた。毎月、国語・算術のテストがあった。成績順に教室での机の配置変えをされ、後ろから成績の良いものを並べていた。たいがい一番になり最後部の席を占めていた。 これには理由があった。隣の家は大川さんであった。数え年一歳ちがいの同級生・治子さんがいた。この人の従姉妹に蛭子道子さんが高等科二年生の級長をしていた。小母さんが自分の娘の勉強を道子さんに頼んだとき、私も一緒に教えてもらうようにしてくれた。治子さんは従姉妹でもあり甘えていたのか勉強もそこそこにしていた。私は本気で勉強を始めるようになった。道子さんは教えこんでくれ、遅くなると一緒に泊まったりもした。勉強を教えてもらったのは姉から「8」の字以来であった。成績があがり、ますます勉強するようになり優等生で卒業出来た。 道子さんは学校を卒業して家業の髪結いさんになり故郷で店を持っている。治子さんは私の母が就職の世話をして、大蔵税務官になり定年退職した。彼女のご子息を株式会社クラレに入社させて、ご恩返しをさせていただいた。 進学問題:昭和十五年の春(日支事変は二年半も続いていた)。海軍少年航空兵か船乗りになることを憬れるような軍国時代の少年になっていた。 機帆船の船長、機関長の資格試験のための高等海員講習会のお世話を父母がしていた関係もあった。船乗りになるには尋常科を卒業して高等科二年から商船学校に行く道があった。母は林先生と相談していたようであるが、中学校に進学させてくれることになったようである。男子の同級生は六十六人、中学校に進んだのは十三人、僅か二十%にすぎなかった。学校の成績が良くても家が貧しいとか、また今ほど教育に重きを置いていなかったのが進学率の低かった理由であったと思う。母親一人でどんな判断をして進学を決心してくれたのだろうか。海軍少年航空兵、船乗りの夢は後年、海軍兵学校に入校して達成される機会をつかんだが……。 兄は小学校を卒業した年、一・二番を争う成績であった。家庭の事情で、母の実家から岡山県立岡山工業学校に行くことになり忠海を後にした。昭和十二年当時の岡工は難関であった。岡工の成績優秀な卒業生は旧制高等工業学校に無試験入学許可の特典が与えられていた。 岡工を首席で卒業して徳島高等工業学校に特典入学した。 こんなことから小学校四年の坊主が家長になったのである。姉は結婚していた。母と十歳の妹、六歳と四歳の二人の弟だけになった。母も淋しかっただろうが、私も本当にこころぼそかった。兄が夏、冬、春休みに帰るのを指折り数えて待っていたものである。 兄の学校から送られてくる成績票を見て母は喜んでいた。学期ごとに成績が良くなる兄、そして私たち子供の成長を首を長くして待っていたと思う。成績票は仏壇に必ず供えていた。私のもそうしていた。頼る人がいなかったので仏壇の父の加護を願っていたのであろう。 昭和十二年で書き落とせないのは支那事変(当時の呼称)である。 従兄弟・梨和定男が中支で戦死したのである。戦争の初期である。新聞にも奮闘の状況が報道された。戦争が身近に感じられるものになった。伯母は新聞からその記事を切り抜き、取り出しては読んでいた。戦死者の遺骨が帰還するのがふえていた。国防婦人会・愛国婦人会の襷をかけた人たち、小学生・中学生が出迎えていた。 昭和十二年四月一日 葉書二銭・封書四銭に改訂実施(三十七年ぶりで各五厘・一銭値上げ)。 昭和十二年四月六日 朝日新聞社の訪欧機神風号(飯沼・塚越搭乗)立川発、四・九ロンドン着、国際新記録に人気わく。 昭和十二年五月二十六日 双葉山定次、横綱を免許。 昭和十二年七月七日 深夜、蘆溝橋で日中両国衝突(日中戦争の発端)。 昭和十二年十一月十一日 南京陥落の祝賀行事挙行。 昭和十二年十二月十三日 日本軍、南京を占領し、大虐殺事件をおこす。 『近代日本総合年表表第二版』
★修学旅行 昭和十五年三月、伊勢神宮へ修学旅行。中学校では、三年生から四年生に進級する三月に朝鮮への修学旅行(恒例)の予定だったが文部省の通達で中止。従って、其の後、修学旅行の経験はない。 環 境 故郷と思い出 忠海町の地理 故郷忠海町は瀬戸内海に面している。南側に島々が点在している。毒ガス島として話題となった大久野島が指呼の間にある。海岸線から三、四百メートルに山が迫っている。町の中心部まで入江が入り込み貨物船や小船が出入りしていた。海と山に囲まれ、農地、田圃は少なく、山の傾斜地に蜜柑、麦、芋、桑の畑があった。海では漁が行われていた。漁船は家族二~三人が寝泊まりできるものが一番大きくて、一本釣りがほとんどであった。 日本国有鉄道呉線の三呉線(広島県三原~呉)の開通は昭和七、八年(?)であり、開通記念としての旗行列をしていたのを覚えている。陸の交通の便利が格段に好くなった。 工場と言えば蜜柑の缶詰工場(アオハタ缶詰)と大久野島の火工廠(毒ガス製造)くらいであった。 町の商店はほとんどが小売店であった。 同級生大野廉太郎君の家は下駄の販売・その修理をしていた。店の裏に養蚕場があり蚕を飼っていた。そのための桑の葉を禅宗のお寺淨居寺の前あたりの桑畑があった。桑の実が熟れるとわたしたち子供はそれをとって食べていた。美味しい実であった。 その他には、タバコが栽培されていた。その乾燥場があった。 豊田郡の行政の中心で、郡役所、地方事務所などがあった。 ※太平洋戦争後、従兄弟の恒松廣志さんが地方事務所に勤務。その後広島県庁に勤めていた。 県立の中学校、女学校があり、中学校は広島第四中学と呼ばれる伝統があった。 私たちの家は本町にあり、商店街であった。町並みを思い出しながら列挙すると 土肥瀬戸物屋、西村豆腐屋(夏はアイスキャンディーを製造していた)、玉田司法書士、花岡食堂、平田布団屋、西岡小間物屋、西原呉服屋、荒物屋、西川印刷屋、大本肥料屋、松本本屋、今市文房具屋、熊野風呂屋、農家、大野下駄屋、平田時計屋、登記所、大多和医院と並んでいた。 住んでいた家は登記所の裏にあり、東には大多和医院の菜園、西隣は大川さん、裏は小高い丘であり、黒滝さんへと続いていたた。 参考:■忠海再発見 魚売り 二窓や長浜のおばさんが家まで魚を売りにきていた。いつも午前中であった。 直径一メートルくらいの盥に生きのよい魚を入れて頭に載せて上手に運んでいた。一度もひっくりかえしたりするのを見たことがなかった。季節の魚を運び、世間話をしながら刺身にしたり、シーズンには河豚なども井戸端に俎板を持ち出して庖丁で捌いていた。終わると、次のお得意さんを廻っていた。 お祭り 四月の宮床祭り、招魂祭、七月の祇園祭り、秋の八幡神社の祭りがあった。 宮床祭りは海に近い宮床(町めい)の神社のお祭りである。海の神様を祭り、鳥居は神社の前の砂浜に建てられていた。宮島厳島神社の大鳥居のように海の中にはなかったが、大潮のときには鳥居の下は潮に洗われていた。 翌日は、小学校の前の城山に建立されていた忠魂碑での招魂祭であった。学校の運動場では相撲大会が行われた。 この両日は、うえ木市が立ち並び夜店が立った。春を迎えた陽気、裸電球、アセチレン照明とその臭いのなかに、町の人ばかりでなく近郊からの家族、友達連れで賑わっていた。 祇園祭りは七月七日の夏祭りである。梅雨が明けるか明けないころである。朝早く、お神輿を青年団の連中が氏神様の八幡神社の階段を担いで降りて町中を練り歩き、左右に激しく傾けたり、前後の向きを変えたり荒々しい動きであった。時折、大きな商店の開け放された店先にお神輿を押し込み、御主人からご祝儀を貰っていた。神主さんは装束を着用して一日中ついて歩いていた。担ぎ手の青年たちは柔道着を着て下は晒しの褌かパンツであった。上着には小さい猿の縫いぐるみを無数につけていた。どんないわれがあるのか今でも私はしらない。 青年が大人扱いされる日である。徴兵検査とお神輿担ぎが成人式に相当するものであったようだ。煙草も酒もこの日から許されたのであろう。 秋の八幡神社の祭りは収穫感謝祭であつたと思う。境内では夜店の他に神楽が行われて夜遅くまで賑やかであった。 お正月の様子について触れてみよう。元旦の朝は、分家の人が年賀の挨拶にきていた。本家・分家の仕来たりがあったようである。服装は着物が多かった。子供たちの遊びは歌留多取り、双六、たこあげ、羽根つき、独楽回し、竹馬乗りが主な遊びであった。旧正月が盛大であったがいつの間にか消滅した。 乞 食 乞食を「ほいと」と呼んでいた。 中年の女性、ボロをまとい、全体が埃と垢で黒光りしていた。黒い鍋を手に抱えて歩いていた。何か貰えればよし、貰えなくてもよい、まったく無表情であった。どこかに住んでいて、何日か経つと町中に出てきていた。食い扶持が無くなると物乞いをしていたのだろう。ごみ箱を漁っているのを見たことがなかった。 時折、家の門に立ち尺八を吹いていた虚無僧。女乞食の姿と妙に重ねあって思いだされる。当時の乞食には何となく風格のようなものを感じ、また応対する人々にも恵みの心があったように思える。昭和初期の経済の苦しさと関係していたのであろうか。 家庭のありさま 家は、二階建。一階は八畳・八畳・三畳に台所。二階は八畳・八畳。傾いた家で、建具は隙間があり、風が出入りしていた。 庭は五坪くらい、二階の屋根までの高さの枇杷の木があり、沈丁花が早春には匂っていた。 ラジオ・新聞 ラジオは終戦後買った。新聞の購読を始めたのも同じ時期である。ラジオを聞く、新聞を読むことに愛着が今でもあまりない。 少年時代、ラジオを聞いたのは親戚の家である。縦一メトール、横六十センチくらいの大型のボックスあった。父方の伯父が相撲放送と浪曲を聞いていた。相撲はともかくとしても、浪曲は長時間、よく辛抱して聞けるものだと子供心に思っていた。 新聞は、友達が、小学生新聞をとってもらっているのが少しだけ羨ましかった。 日支事変、大東亜戦争へと進展するなかで、学校などでは大きな壁地図に日本軍の進攻を示す日の丸の小旗が立てられていた。しかし、なぜか今でも、ミッドウェイ、ガダルカナルの撤退、キスカ・アツツ島の玉砕など年月日を明確に覚えていない。 風 呂 光明皇后は、仏に誓って大願を起こした。浴室を建て,千人に浴を施し、みずからそ の垢を流そうというものであった。九百九十九人がすんで、最後の一人があらわれた。全身癩病に冒され、堪えがたい臭気を放ち、黄色い膿が噴き出していた。しかし、その 膿汁を口で吸い取るよう、皇后に乞うのであった。皇后が意を決してその膿汁を吸い取 ったとき、その者は全身に光明を放ち、みずから、阿悶仏となのって、虚空に消えた。伝説である。 家には風呂があったが焚くことはなかった。隣の家にはなかった。前の家(法務局の出張所の官舎)と隣の家の前(時計屋)には風呂があった。 時折、私の家と隣は「もらい湯」をしていた。新しい湯によばれることもあった。母は湯が汚れるのに気をつかっていた。湯から上がるときお湯に浮かんでいる湯垢を洗面器で掬いとって流していた。ときおり、一寸したものを持参してお礼をしていた。 いつも使わせていただくとは限らなかった。そんなときには、百メートルくらい離れている銭湯に行った。 わが町には、銭湯が二軒あった。夕方四時ころに開き、お年寄りが待ち切れずに入っていた。みなさん顔馴染みであった。 井戸 家の外に井戸があった。 魚売りがきて魚を調理してくれていた。時にはフグなども持ってきて調理していた。夏にはスイカを編み袋に入れて冷やして、引き上げて家に運んで、庭に面した縁側でみんなほおばって、種を口から飛ばして楽しんでいた。 衛生環境 夏は藪蚊がすさまじかった。除虫菊の線香では追い払うことはできなかった。 夜は蚊帳をつって、それに入るには蚊帳を掴んでよく振ってはいていた。家族みんなが雑魚寝。藪蚊に噛まれていたから免疫ができるまでになっていた。 また、蚤が発生していた。見つけ次第叩き潰していたが、なかなか逃げ足が早くてつぶすになんぎした。 最後はシラミ。特に女児の髪に発生していた。 父が遺しているもの 目に見えるものとして遺っているものは一葉の写真、一本の紅葉、父が伯父の世話をした記録が前田達治(母の兄)『生きるー前田達治伝』のなかにある。 記念写真 家族全員(黒崎家)の写真は一枚もない。 「一葉の写真」には父、兄、妹、私が写っているが母、姉が不 この写真はただ一枚、残っている父の写真である。私の一番幼いころの写真でもある。ぼろぼろに傷みかけていたので昭和六十一年にコピーして保存することにした。 もう一枚の写真がある。私が中学四年生のときのもので、母、姉の主人、姉、姉の子供、兄、妹、弟の二人と私である。父がいないのである。写真屋さんで撮影したものである。個人がカメラを持つようなことはなかった。 母の思い出 ☆自分の子供は日本一だと、子供の前でも近所のおばさんたちにも言っていた。隣の人は、子供さんが大きくなれば黒崎さんはきっと楽になれますよと励ましてくれていた。母は自己暗示をかけて自分で生きるよりどころを求めていたのだろう。 ☆女の片親に育てられているからだと、後ろ指を差されることを非常に嫌っていた。 ☆登記の仕事での来客があると、動きが生き生きと明るくてきぱきしていた。昼食抜きで法務局への申請書を作っていた。私らには素うどんの出前を食べさせてくれた。それがご馳走であった。この仕事で、家族の生活を何日か繋げることが出来るといつた思いを子供ながら感じ取った。母は必死の思いで仕事をしていたのだろう。 ☆母は、朝早く掃除をしながら「愛染かつら」(映画)の主題歌「旅の夜風」を歌っていた。 一 〽花も嵐も踏み越えて 行くが男の生きる道 泣いてくれるなほろほろ鳥よ 月のひえいを一人行く 二 優しかの君ただ一人 立たせまつりし旅の空 可愛子供は女の命 なぜに淋しい子守唄 三 賀茂の河原に秋たけて 肌に夜風が泌みわたる 男柳はなぜ泣くものか 風にゆれるは影ばかり 女一人、大勢の子供抱えて生き抜こうとしていた母にはぴったりの歌詞であったのだろう。 映画を見るのがせめての娯楽であったようである。私もよく連れられて行ったものである。見ていると淋しくなり、おおげさに言えば無常感を感ずる少年であった。あまり好きではなかった。弁士の喋る無声映画も見たものである。 桜の季節には、黒滝山の麓での花見。ある時は尾道の百貨店に連れていってくれた。 勉強もしないで、母の言うこともきかないとき、母は私を掴まえて「お父さんの墓の前で一緒に死のう」と引き摺り回されたことがしばしばあった。 仏壇:家の中心だった。 朝ご飯を炊くとお仏飯をあげて手を合わせていた。子供にもさせていた。 「今日も、お陰様でご飯が食べられます。お父さん、先祖のお陰でございます。有難うございます。これからもお守り下さい」と願っていたのであろう。 子供の学校成績簿、伯父から送金された郵便為替は必ずまず供えていた。その後で開いていた。 妹、弟は、仏壇の前で仕付けのために「やいと」(お灸)をすえられていた。 参考:全国の非行少年・少女の家庭調査で、驚くべきことには、八割の家庭には仏壇がなかったと言う調査がある。 竹下哲氏は仏壇がないと言うことはつまり精神的な人生の方向がない、つきつめて言えば、すべてのものに合掌すると言う心の方向を見失っていると断じている。 私ども子供は仏壇に手を合わせることを教えられていたのである。 私の子供には仏壇がなかった。六十一年四月、仏壇の代わりに両親の写真を額にいれて飾った。家の中心が出来たようであり、心が安らぎになっている。 少年時代のあれこれ 稽古ごと 女学生であった姉は学校で裁縫、華道を習っていたが、お琴の習いごとに通っていた。姉は私の守りを言い付けられたうえで、習いごとをしなければならないので師匠の家に私を連れていった。稽古の間、座らされ、琴の音のリズムとテンポは子守唄になっていた。めい曲「六段」「春の海」はそのころ私の体に吹き込まれた。 習字、算盤など習っていたものがいただろうか。女の子にはいたかもしれないが男にはいなかった。習字も絵も学校の教育で十分であった。小学校四年生ごろから家事に使われて学校に出てこない人さえいた。 身体髪膚 少年時代の病気と言えば牛乳と食パンを思い出す。学校を休むような高熱か腹痛になるとお粥と梅干しが普通であった。病気をしたとき、たまに牛乳と食パンを食べさせてくれた。牛乳に砂糖を少し入れて暖めて食パンを浸してたべる。薬以上に思えた。薬は富山の置き薬、お医者さんにかかることはほとんどなかった。今のように健康保険制度はなかった。少年時代、癇症であった。夢遊病のようなことがあった。寝ていて、急に飛び起き、泣きながら家を飛び出して、うろつき回り、母に捕まって、夢から覚めたようにはっきりすることが何度かあった。小学校低学年ころにいつとなくおさまっていた。 ※参考:時実利彦著「脳のすべて」P.25 「寝ぼけた子供が夜中にむっくり起きてうろうろ、などという光景は珍しくありません。」と書かれている、 子供の遊び 竹馬(自分で作る)乗り。空き罐乗り。自転車乗り。独楽回し。ようよう。凧あげ。ぱっちん。びー玉遊び。竹とんぼ・杉鉄砲・紙鉄砲作り。紙飛行機飛ばし。七夕まつりの準備。模型飛行機作り。山遊び(タジナ・野イチゴ・イチジク・桑の実・みかんを食べる)。木登り。水泳。魚釣り。野球。おしくらまんじゅう。相撲。遊ぶのにことかかない有様であった。室内での遊びはしなかった。子供だけの遊びであった。 以上書き並べた。昭和の初めころから日支事変がはじまって3年ころまでの少年時代だった。父親は亡くなり、母親から守られていた家は灯がともっていた……。 |