★習えば遠し 第1章 生活の中で学ぶ 第2章 生きる 第3章 養生ー心身 第4章 読 書 第5章 書 物
第6章 ことば 言葉 その意味は 第7章 家族・親のこころ 第8章 IT技術 第9章 第2次世界戦争 第10章 もろもろ

第9章  第2次世界戦争

WORLD WAR Ⅱ

目 次

01広田 弘毅氏 02いがぐり頭 03太平洋戦争開始の日
04温習と五省 05私も見たキノコ雲―新型爆弾が原子爆弾へ― 06終戦へのみちのり~私の体験~
07軍人らしさの印象 08知られたくない事実―戦時下― 09 原子爆弾雑話
10大久野島と毒ガス製造 11京都哲学グループと海軍側との結びつき 1271年前の12月
13一人ひとりの大久野島
――毒ガス工場からの証言
14工藤 俊作海軍中佐 15治憲王(はるのりおう)
16戦艦武蔵 17幻の軍刀 18九大生体解剖事件
19統率力で難局を乗り切れ
見事だった先任将校の早期決断
20大平洋戦争戦史 21海軍兵学校の対番制度と
クラレのアドバイザー制度
22後世への義務―池田淸著『重巡・麻耶』の記録―
海軍兵学校とパブリックスクール
23池田 清著『海軍と日本』 24山梨勝之進『歴史と名将』
歴史に見るリーダーシップの条件
25山本五十六 26新見政一 27井上成美
28小沢治三郎 29大西瀧治郎 30堀内大佐の一生
遙かなる海の果て
31志賀 博:駆逐艦「天霧」水雷長
ケネディ中尉の座乗するPT一〇九を切断を目撃
32元海軍教授の郷愁―源ない師匠講談― 33従道小学校と海軍兵学校
海軍兵学校と共に在り、共に消えた
34東条英機 35阿南惟幾 36******


1

広田 弘毅氏



城山三郎『落日燃ゆ』による。

はじめに

 昭和二十三年十二月二十四日(金)の昼下がり、横浜市西区のはずれに在る久保山火葬場では、数人の男たちが人目をはばかるようにしながら、その一隅の共同骨捨場を掘り起し、上にたまっている新しい骨灰を拾い集めていた。

 当時、占領下であり、男たちがおそれていたのは、アメリカ軍の目であったが、この日はクリスマス・イヴ。それをねらい、火葬場長と組んでの遺骨集めであった。

 やがて一升ほどの白っぽい骨灰を集めると、壺につめて、男たちは姿を消した。

 骨壺は男たちによって熱海まで運ばれ、伊豆山山腹に在る興亜観音に隠された。

 その観音は、中支派遣軍最高司令官であった松井白根大将が、帰国後、日中両国戦没将兵の霊を慰めるために建立したもので、終戦後の当時は、ほとんど訪れる人もなかった。骨壺を隠して安置しておくには、絶好の場所でもあった。

 骨壺の中には、七人の遺骨が混じっていた。

 土肥原賢二(陸軍大将、在満特務機関長、第七方面軍司令官、教育総監)
 板垣従四朗(陸軍大将、支那派遣軍総参謀長、朝鮮軍司令官)
 木村兵太郎(陸軍大将、関東軍参謀長、陸軍次官、ビルマ派遣軍司令官)
 松井石根(陸軍大将、中支派遣軍最高司令官)
 武藤章(陸軍中将、陸軍省軍務局長、比島方面軍参謀長)
 東条英機(陸軍大将、陸相、首相)
 そして、ただ一人の文官、
 広田弘毅(外相、首相)

 七つの遺骸は、その前日、十二月二十三日の午前二時五分、二台のホロつき大型軍用トラックに積まれて巣鴨を出、二台のジープに前後を護衛され、久保山火葬場へ着いたもので、二十三日朝八時から、アメリカ軍将校監視の下に、荼毘に付された。

 遺族はだれも立ち合いを許されなかった。それどころか、遺骨引き取りも許可されなかった。

 アメリカ軍渉外局は、

 「死体は荼毘に付され、灰はこれまで処刑された日本人戦犯同様に撒き散らされた」

 と発表した。アメリカ軍が持ち去った遺骨は、飛行機の上から太平洋にばらまかれたといううわさであった。狂信的な国粋主義者が遺骨を利用することのないようにとの配慮からだとされた。

 ただし、アメリカ軍は七人分の骨灰のすべてを持ち去ったわけでなく、残りは火葬場の隅の共同骨捨場へすてられた。男たちは、それをひそかに掘り返し、興亜観音へ隠したのであった。

 それから七年、昭和三十年四月になって、厚生省引揚援護局は、この骨灰を七等分し、それぞれ白木の箱に紊めて、各遺族に引き渡した。

 だが、広田の遺族だけが、「灰は要りません」と、引き取りをことわった。

 すでに遺髪や爪を墓に紊めてあり、だれの骨ともわからぬものを頂きたくないという理由からであったが、それは、表向きの理由でしかなかった。

 昭和三十四年四月、興亜観音の境内に、吉田茂の筆になる「七士の碑」が建てられ、友人代表としての吉田茂や荒木元大将はじめ遺族やゆかりの人約百人が集まり、建立式が行われた。

 だが、このときも、広田の遺族は、一人も姿を見せなかった。

 広田の遺族たちは、そうした姿勢をとることが故人の本意であると考えていた。広田には、ひっそりした、そして、ひとりだけの別の人生があるべきであった。せめて彼岸に旅立ったあとぐらい、ひとりだけの時間を過させてやりたい。

 たとえ、事を荒立てるように見えようと、心にもなく参加すべきではないと、考えていた。

 「日本は英雄を要しない。われわれは天皇の手足となってお手伝いすればよいのだ」

 と、外相時代、よく部下にいっていた広田。

 そうした広田にとって、死後まで英雄や国士の仲間入りさせられるのは、不本意なはずであった。

 広田は、背広のよく似合う男であった。

 「意外なことに、広田さんは洋服にやかましく、寸法とりや仮縫いにも、細かく注文をつけた。若いとき、ロンドンに居られたせいでもあろうが」

 と、部下の一人はいう。

 おしゃれというより、外交官としての役目上、そすべきだと、広田は考えたのであろう。

 ただ、広田をよく知る人にまで、「意外なことに」とことわらせたのは、広田がおよそ服装などに無頓着な茫洋とした人柄であり、片田舎の小学校長とでもいった朴訥な風貌の持ち主であったからである。

 広田は、平凡な背広が身についた男であった。軍ぷくも、モーニングも、大礼服も、タキシードも似合わなかった。広田もまた、着るのをきらった。

 「おれに公使など、できるかなあ。宴会などしょっ中だし、困るねえ」

 はじめて公使としとてオランダへ赴任することになったとき、広田は外交官らしくもない弱音を漏らした、昭和二年(一九二七)五月、数え五十歳のときである。

 似た者夫婦というのか、七つちがいの広田の妻静子もまた、公使夫人として表に出ることがにが手であった。広田がタキシードぎらいなら、静子はそれに輪をかけた夜会服ぎらいであった。華やかに装ってパーティの女主人になることなど、考えるだけで頭痛がした。このため、静子は子供たちとともに日本にとどまり、広田は単身で赴任することにした。

 広田は、それまでにも、北京の駐支公使館での外交官補生活をふり出しに、三等書記官としての駐英大使館勤務、一等書記官としての駐米大使缶詰など、かなり長い在外公使館生活の経験がある。

 一国を代表する公使として赴任する以上、それに伴う社交生活ははじめから予想されたことである。

 外交官を志す者、華やかさに憧れてとはいわないが、華やかな社交生活の魅力をどこかに感ぜぬはずはない。モーニングやタキシードぎらいでは、外交官がつとまらぬ。広田のような弱音を吐くのは、例外であり、論外というべきかも知れない。

 こうした男が外交官になり、しかも、吉田茂はじめ同期のだれにも先んじて外相から首相にまで階段を上りつめ、そして、最後は、軍部指導者たちといっしょに米軍捕虜ぷくを着せられ、死の十三階段の上に立たされた。

 広田の人生の軌跡は、同時代に生きた数千万の国民の運命にかかわってくる。国民は運命に巻きこまれた。

 だが、当の広田もまた、巻きこまれまいとして、不本意に巻き添えにされた背広の男の一人に他ならなかった。

 その意味で、せめて死後は、と同調を拒み通す広田の遺族の心境は、決して特異なもではなかったはずである。


 極東裁判における広田の対処 沈黙を守る

 満州事変~日中戦争の一連の事変(戦争)について法廷は共同謀議(conspiracy)の観点で判断している。七人:土肥原賢二(陸軍大将)・板垣征四郎(陸軍大将)・木村兵太郎(陸軍大将)・松井石根(陸軍大将)・武藤章(陸軍中将)・東条英機(陸軍大将、陸相、首相)・そして、ただ一人の文官広田弘毅(外相、首相)の絞首刑(十三段階を上りつめてのdeath by hanging):昭和二十三年十二月二十三日(木)午前零時二十分・・・約四十五年前。風化されている。


 福岡市の石屋の息子として生まれた。

 高等小学校から県立修猷館中学の二年に編入された広田は、三年になるときには、百九人中二位という好成績を示した。

 その後も卒業まで無欠席で、英語数学は常に九十点以上。「注意深く勉強心厚し」と通信簿に書かれる優等生生活が続いた。

 広田は、ただ勉強の虫ではなかった。禅寺へ座禅に通い、町の柔道場へも休まず出かけた。どれだけなげとばされても相手に立ち向って行くというねばり強さのおかげで、よく優勝もした。

 この柔道場が、玄洋社の経営によるものであり、広田は学友とともに玄洋社にでかけ、論語を中心とする漢学や漢詩の講義を聴いた。

 頭山満、箱田六輔らの玄洋社はもともとは自由民権運動のための政治結社で、

 「第一条、皇室を敬載すべし。第二条、本国を愛重すべし。第三条、人民の権利を固守すべし」の三ヶ条をその「憲則」としていた。

 ただ、玄洋(玄界灘)ひとつ隔てて大陸をのぞむ土地柄だけに、韓国の亡命の志士たちの世話をするなど、対外的な関心は強かった。

 たまたま明治十九年、清国の北洋艦隊が長崎へ入港したとき、その水兵たちが子女に乱暴しようとし、これをとめにかかった警官を追って、警察署へ乱入して暴行するという事件が起った。いかにも日本を軽視した事件、しかもそれがすぐ近くで起っただけに、玄洋社では、それから後、民権論よりも国権論、国権の伸長を第一に考えようという姿勢がいっそう強くなった。

 漢学や漢詩の講義は、そうした玄洋社の精神風土の中で行われていた(もっとも、広田は玄洋社の正式な社員でなく、生涯、そのメンバーにはならなかった)。 

広田が中学四年のとき、日清戦争が勃発した。

 海ひとつ向うでの大国相手の戦争に、広田は学友たちとともに若い血を燃やして、軍人に志願することを考えた。

 だが、広田にさらに大きな衝撃を与えたのは、翌年の講和条約後起った三国干渉である。

「日本の遼東半島領有は東洋平和を害する」というロシヤ、ドイツ、フランス三国の強硬な申し入れに押しきられ、日本は講和会議で獲得したばかりの遼東半島を、条約の批准直後に清国へ還付しなければならなかった。

 巨大な三国と清国との結託の前に、国力の劣る小さな日本はなすすべもなかったが、それにしても、日本には外交の力というものがなさすぎた。戦争には勝ったが、外交で負けた形であった。

 若い広田は、情けなくて仕方がなかった。まわりを見渡せば、軍人になろうとする若者はいくらでも居る。だが、軍人ばかりでは、もはや日本を守れないし、ただ空しく血を流すだけのことになる。

 必要なのは、すぐれた有為な外交官である。だれでも成れるものでなく、また軍人ほど華やかな働きのできるものでもないが、軍に劣らず、若者を必要としているのではないか。

 すでに広田は、市役所に陸軍士官学校の入学願書を出していたが、同じ志の平田という幼な馴染の親友とともに願書を取り下げに行き、外交官めざして一高へ進むことにした。

「盛徳」は次男に継がせればよいと、徳平の気持も変ってきた。息子の出世をねがうというのではない。徳平もまた、玄界灘を見て暮してきた古風な人間であった。「お国のためになるなら、外交官でも、軍人でも、何にでもなって働いてくれい」という考えであった。

 当時も一高の入学試験ははげしい競争であったが、広田と平田は、励まし合って勉強し、合格した。

 中学卒業と同時に、広田は名を「弘毅」とあらためた。好きな論語の一節、「士は弘毅ならざるべからず」からの命名であったが、それは、外交官 として生きようとする自分自身にその姿勢をいいきかせるための改みょうであった。

 親のつけてくれた丈太郎というなをすてるのは、孝行息子の広田としては辛いことであったが、それ以上に、広田は思いつめていた。

 改みょうできるのは僧籍に入る場合だけに許されたので、広田は参禅していたお寺の住職にたのみ、一時、僧籍に入ることまでした。おとなしいが、思いこんだら、そこまで徹底してやる性格であった。(獄中にあるとき、親がつけてくれたな前を変えたのを少し悪かったような心境を述べている)

 広田の特長のひとつは、早くから、先輩や仲間との交わりを深め、互いに啓発し、知恵や情報を吸収し合って生きて行こうと努めたことである。人と人との生身(なまみ)のふれ合いや耳学問を大切にし、ただの読書家に終わらなかった。

 すでに中学時代、広田は仲間たちを語らって、「致挌会」という集会を持っていた。「致知格物」からのなをとった人生勉強の会で、この会の仲間から後に何人もの実業家が出た。

 広田の一高生活の学費は、篤志家から援助を受ける約束になっていたが、親友の平田もまた学資に窮しているのを見ると、広田は平田に代って奔走して学資の援助者を見つけ出し、口説き落とした。そして、二人そろって、黄麻の羽織に小倉の袴、高下駄をはき、筍の皮で編んだ饅頭笠(まんじゅうがさ)をかぶって東京に上った。

 一高の二年になると、広田は寮を出たが、それは、ただの下宿ぐらしをするためではなかった。

 広田は、小石川に六畳四畳半二畳の三間しかない小さな家を借り、平田ら五人の仲間を誘って共同生活をすることにした。経済的な理由からだけでなく、常住坐臥を通して、若者同志鍛え合い、みがき合おうというのである。

 上京以来、広田は頭山満をはじめ同郷の先輩たちの許へよく顔出ししていたが、この共同生活をきいた頭山は、

「薪も一本では燃えぬ。同志の士が何人か集まれば、何か国家のためになることもあろう。」

 と、広田を励ました。

 広田は頭山の紹介で、外務卿だった副島種臣を訪ね、この家のために「浩浩居」という額の字を書いてもらった。

「浩浩として歌う、天地万物我を如何せん」(馬子才:ば・しさい)

 という雄大な詩句からの命名だった。

 もっとも、貧乏書生ばかりの集りなので、生活は苦しかった。ようやく馬肉を買って食えたとき、広田は、「ウマカ、ウマカ」と、よろこんだ。おとなしく重い感じに似合わず、よくシャレをいう広田であった。

 広田がこの家の寮長挌、平田が副寮長挌であった。親友でありながら、二人の性格は対照的であった。

 平田は毎朝五時に起き、掛声かけながら、素裸で鉄亜鈴(あれい)をにぎり、ついで、英字新聞を便所に持って入って読む。そのあと、井戸端に出て冷水を浴びるというのが、一年を通して変らぬにぎやかな日課のはじまりであった。この元気で血色のいい広田を、寮生たちは「赤鬼」と呼んだ。

 これに対し、広田は「青鬼」。毎朝六時起床、夜は十時就寝という日課をきちんと守り、時間さえあれば、ひっそり机に向って論語を読んでいる。日曜日も午前中は本を読むが、午後は必ず先輩の宅を訪ね歩いた。試験中でも、先輩訪問は欠かさない。主として同郷の先輩を訪ねたが、とりわけ広田にとっての収穫は。頭山満の紹介による山座円次郎との出会いであった。

 福岡県出身の山座は、当時、外務省政務局長で、小村寿太郎外相の腹心といわれた実力者であった。

 小村をかついで日英同盟を成立させるなど、積極外交を展開。孫文がシンガポールへ脱出するための資金をひそかに工面してやるなど、国士ばりのところもあった。それでいて格調の高い文章を書き、「彗星の尾を貫くやほととぎす」などというすぐれた句作もつくった。

 このため、すでにそのころから、「山座の前に山座なく、山座の後に山座なし」といわれたほどで、部外にもそのなが鳴りひびいていた。

 広田は、自分が夢見ていおた理想の外交官の姿を、目のあたりに見る気がした。ためらわず、山座の後に続こうと思った。

▼広田弘毅(外交官・外務大臣・首相・重臣)の人格、信条:「自ら計らず」「物来順応」。外交官も国士である。外交官は外交官としての役割を果たせば、それで十分。むしろ、栄誉や恩賞と無縁でありたい。そういうものがついて回れば、わずらわしくもある――。オランダ公使にでたとき、これから三年オランダに出ることは、そのまま外交官の終着駅に滑りこんで行くことになりそうであった。だが、広田の心境はさらりとしたものであった。広田は、一句詠んだ。

「風車、風の吹くまで昼寝かな」

▼この本を読み、広田の心境から次々と『論語』の文言やその他の言葉が思い出された。

 「曾子曰く、士は弘毅ならざる可からず。任重くして道遠し。仁以て己の任と為す。亦重からずや。死して後に已む。亦遠からずや。」

 「子曰く、学びて思はざれば則ち罔(くら)し。思ひて学ばざれば則ち殆(あやうし)。」

 私には「明日は明日の風が吹く」「不将不逆(ふしょうふぎゃく)」などの生き方が広田氏の心情に秘められていたと感じました。

平成十六年四月二日


★補足1:風来疎竹 風過而竹不留声 風(かぜ)疎竹(そちく)に来(きた)る 風 過ぎて竹に声(こえ)を留(とど)めず (『菜根譚』)

 この句の載っている『菜根譚』という書物は、中国の明末の儒者・洪応明(こうおうめい)の著。儒教の思想を中心に老荘・禅学を交えて人世観をうたいあげた三百五十句から成っています。

 風が疎らな竹林にあたると、竹の葉がさやさやと鳴る。しかし、風が過ぎ去ると、もう竹には音が残っていない>――と。

 つまり、徳の高い人は、何か事が起きたときに心が動くが、その事が終われば心もまたもとの空虚にもどって、いつまでも執着していない――ということを表わします。善(よ)かれ悪(あ)しかれ、その事に執着して、いつまでも精神を浪費するような愚かなことをせずに、心の空(くう)であることを学べということです。

 元駐米大使で外交評論家の加瀬俊一氏が故広田弘毅氏(戦前の駐ソ大使、外相、首相、後に戦争犯罪人に問われて刑死)のもとで、外国との会議の通訳をされたときのことです。広田氏は、相手の長口上を聞き流しておいて、

「風、疎竹に来る。風過ぎて竹に声を留めず――それだけ訳してください」と言われたので加瀬氏は驚きました。

外交交渉冒頭の発言としては、異例であったからです。

 このときも、広田氏は何かを信ずるところがあって『菜根譚』の句を引いたのでしょうが、氏の従容とした最期を思うとき、この句はとくに印象に残ります。

 さらに、

 雁度寒潭 雁去而潭不留影 故君子事来而心始現 事去而心随空(雁(かり)、寒潭(かんたん)を度(わた)る。雁(かり)去りて潭(たん)に影(かげ)を留(とど)めず。故(ゆえ)に君子(くんし)事(こと)来りて心(こころ)始(はじ)めて現(あらわ)る。事去りて心随(したが)って空(むな)し)

 とつづきます。

「雁、潭(深い淵)の上を飛ぶときは影が水に映るが、飛び去れば影は残らない」

 と受けています。

松原泰道『禅語百選』P.34~35

平成十八年四月二十九日


★補足2:A級戦犯、広田元首相の遺族 「靖国合祀合意してない」
 東京裁判でA級戦犯として起訴、処刑された広田弘毅元首相が靖国神社に合祀(ごうし)されていることについて、孫の元会社役員、弘太郎氏(67)が朝日新聞の取材に応じ、「広田家として合祀に合意した覚えはないと考えている」と、元首相の靖国合祀に反対の立場であることを明らかにした。靖国神社は、遺族の合意を得ずに合祀をしている。処刑された東条英機元首相らA級戦犯の遺族の中で、異議を唱えた遺族は極めて異例だ。と朝日新聞は報道している。

平成十八年七月二十七日


★補足3: 著者の城山三郎氏が平成十九年三月に逝去された。
 平成十九年三月二十七日付の朝日新聞に、五木寛之(作家)が「ある時代の終わり」の題目で書かれていた。
 城山さんの訃報をきいて、最初に感じたのは、一つの時代が終わったな、ということだった。
 その「時代」とはどういうものか、とたずねられても、簡単明瞭にに答えようがない。漠然とした表現をすれば、経済活動に志がともなっていた時代、とでも言えようか。
 経済だけではない、政治も、教育も、そしてジャーナリズムも、すべての分野でいま何かが失われつつあるような気配がある。城山さんの死は、まさにそのような喪失を告げる合図のように、私には感じられたのだ。(中略)
 城山さんが国からの褒章を辞退したときの話を、旅先のバスの中でしたことがあった。
 「いやあ、なんとなくね。そんな大した理由もなかったけど」
 と、そのとき城山さんがバスの窓から外の景色を眺めながらつぶやいたことを、ふと思い出す。(後略)。
 同世代の私にも、同じような気持ちが底流にあるのを感じながら、短い文章だが読むことができた。

平成十九年三月二十七日


★補足4:中山素平(なかやま そへい)の理想的人間像

 興銀相談役、中山素平は二人の理想的人間像をもっている。

 一人は、城山三郎の名作『落日燃ゆ』の主人公、広田弘毅であり、もう一人は「最後の海軍大臣」の米内光政である。

 広田の師は、東大在学中から指導を受けていた山座円次郎で、小村寿太郎をたすけて日英同盟を成立させた陰の立役者であった。

 その山座から、いろいろなことをたたき込まれた。

 いわく「外務省に入った以上は最初少なくとも十年くらいは、外交の何ものであるかということを十分に研究して、決して、いたずらな気焔など吐くようなことをしてはいけない。これが非常に大切なことだ」

 いわく「小村さん(寿太郎)は、決して日記をつけなかった。自分もそうだ。外交官は、自分の行ったことで後世の人たちに判断してもらう。それについて弁解明たことはしないものだ」

 いわく「外交官としては、表へでるような派手な仕事をして満足すべきではない。表にはあらわれぬところで仕事をするのが外交官本来の任務なんだ」

 これらの教訓は、後に鮮烈なる二つの事実となって刻印された。

 A級戦犯として裁きの庭に立たされた時、広田は心中ひそかに決意した。

「人間、喋れば、必ず、自己弁護が入る。結果として、他の誰かの非を挙げることになる。検察側が、それを待ち受けている以上、一切喋るまい」

 そして、それを実行した。

 そんな広田に検察側は、とことん手こずらされた。

 ネイサン次長の如きは「日米ギャングの知能テストでは、日本の国際的ギャングたちが二人の例外を除いて、アメリカのギャングたちに劣る。二人以外は、すべて検事の誘導訊問にひっかかった」とキーナン主席検事に報告している。  

「その手ごわい例外とは誰か」と問われたのに対して、ネイサンは次のように答えている。

「東条英機と広田弘毅です。二人とも日記をつけていません。日記は継続を以て前提とします。したがって、死を覚悟した人間は日記をつけないものです。また、二人とも質問しない限り、決して答えません。これは、こちらが彼のかくしたい事実を知っていなければ絶対にひき出せないことを意味します」

 さらに戦犯容疑者たちは、それぞれの手づるを探して弁護人の依頼にやっきとなったが、広田は「弁護士はいらない」といった。

「それでは裁判が成り立たず、他に迷惑をかけますよ」といさめられて、ようやくに承知した。

 もう一つの事実は、十三階段に登るその日のことであった。

 仏教学者の花山信勝が広田に面接して、

「歌か、あるいは詩か、感想か、何かありませんか」ときくと、「公人として仕事をして以来、自分のやったことが残っているから、いまさら、申し添えることもありません」と答えている。

 あまりのそっけなさに花山が「でも、何か、御感想がありはしませんか」と重ねてきくと、「何もありません。ただ自然に死んで……」とそこで言葉を消した。

 花山が「ここぞ!」とばかりに「かに何か……」とくいさがると、広田は独白(ひとりごと)のようにつぶやいた。

「すべて無に帰す。それでいいじゃありませんか。いうべきことは言い、やるべきことはやって、そして、つとめを果たす。そういう人生を貫いてきた自分ですから、いまさら、何もいうことはありません」

 花山は浄土真宗の僧侶だった。広田のこの境地は「禅によるものか」ときくと、広田は「禅に近い」と答えただけだった。

伊藤 肇『現代の帝王学』(講談社文庫)P.180~181 より

平成十九年四月二十六日


★補足5:靖国合祀 氏名削除認めず

 戦没者の遺族らが、親族の氏名を合祀にかかわる名簿から削ることなどを靖国神社と国に求めた訴訟で、大阪地裁は原告敗訴の判決を言い渡した。「敬愛追慕の情」に基づく人格権が侵害されたと訴えたが、認められなかった。

               朝日新聞


★補足6:

 現在、城山三郎『落日燃ゆ』を読み返しています。

 日中衝突事件が昭和12年であった。私は小学校生だった。

 この本でそれ以前の日本国内の歴史を改めて知ることができました。私ども国民はその流れの中に巻き込まれてきて、昭和二十年の終戦を迎えたのだと再確認された。ときに、こんな本を読み、自分に近い時代がどんな動きであったのかを知り、いまを考えることの大事さを自覚させられた。

平成二十六年四月十九日


★補足6:城山三郎(シロヤマ・サブロウ)

(1927-2007)な古屋生れ。海軍特別幹部練習生として終戦を迎える。一橋大学を卒業後、愛知学芸大に奉職し、景気論等を担当。1957(昭和32)年、『輸出』で文学界新人賞を、翌年『総会屋錦城』で直木賞を受賞し、経済小説の開拓者となる。吉川英治文学賞、毎日出版文化賞を受賞した『落日燃ゆ』の他、『男子の本懐』『官僚たちの夏』『秀吉と武吉』『もう、きみには頼まない』『指揮官たちの特攻』等、多彩な作品群は幅広い読者を持つ。2002(平成14)年、経済小説の分野を確立した業績で朝日賞を受賞。 

 東京裁判で絞首刑を宣告された七人のA級戦犯のうち、ただ一人の文官であった元総理、外相広田弘毅。戦争防止に努めながら、その努力に水をさし続けた軍人たちと共に処刑されるという運命に直面させられた広田。そしてそれを従容として受け入れ一切の弁解をしなかった広田の生涯を、激動の昭和史と重ねながら抑制した筆致で克明にたどる。毎日出版文化賞・吉川英治文学賞受賞

平成二十八年十一月二十日


2

いがぐり頭


 「いがぐり頭は何に?」と、返事ができないか、或はスポーツ選手の中にいるよと、こたえる子供もいるのではなかろうか。

 今は、小学生でもほとんどか非常に少ない。昭和の初めの子供はもちろん、中学生、戦時中では大人でもそうだった。私が中学時代の旧制高校生には、長髪のざんばら髪の学生も見られた。

▼小学生の頃は、陽当たりの好い昼下がり日を選んで、母が縁側でエプロンで体をつつみバリカンでいがぐり頭にしてくれた。嫌でいやでたまらなかった。そのわけは、遊びにでられないことと、虎刈りにされることが多くて、時にはバリカンに毛が挟まれて痛い目にあわされていたからだと思う。どちらかといえば遊びの時間帯の三十分位がじっとしているのがたまらなかったのかもしれない。

▼中学に入ると、校則で丸坊主。近所のきまった理髪店でお世話になった。そのおじさんは人がよく、親切だったので社会人になっても時折、顔をのぞかせていたほどである。

▼海軍の学校に入っても同じ。しかし、散髪にかかる時間は二分三十秒であった。理髪所が少し暇なときには私の頭に3人がかりのバリカンでサッと刈り上げてしまう。顔剃りはなかった。料金は五銭。料金箱は入り口に置かれていて、受け取りの人はいなくて、出て行くときに自分で支払うのである。あいにく五銭を持っていなければ、例えば一円を入れて、その差額のお釣を取ることは許されなかった。英国式の紳士(ゼントルマン)の養成の意図があったのだろう。

▼当時、この学校の教官は軍人と文官であったが、ほとんどの方は同じく坊主頭であった。しかし、今でも記憶に残っている中佐(現在の海上自衛隊の二佐にあたる)だけは長髪であった。食事は教官と生徒が同じ食堂で、教官は生徒の食卓より一段と高いところにあり生徒全員から見られた。その教官は山本中佐。お名前も記憶に残っているほど当時の私には奇異に感じるとともに、なんと、こんな戦時一色で、町の大人もカーキ色の国防服を着ている世情の中で、海軍にはまだ自由がのこっているのかと、正直なところ複雑なきもちであった。

▼終戦後は皆さん長髪へと徐々にとかわった。私も復員して学校にはいって皆さんと同じ道をたどった。
会社に勤務しても同様、今ほど長髪ではなくて整髪といえる。毎月一度くらいの割合であった。時代が移り、髪の長さも段々と長くなり、月に一回が二~三カ月に一度の者が多くなり、理髪店の財布は苦しくなっているようだ。

▼定年退職して何年かすると、若い頃のふさふさした髪の毛も少なくなり理髪店であたってもらっているとき、

 冗談に「髪もすくなくなったので手間もかからないでしょう」といったところ、
 ご主人のいわく。「少ない髪をいかにふっくらと仕上げようと、かえって難しい。」と反論された。

▼今は家内が月に一度、ジグザグ鋏(正式なな前は知らない)で、刈り取ってくれている。髪形が総体的にさまざまなのが幸いしてそれほど気になるようなこともないのが救いである。

平成十七年四月二十九日


3

太平洋戦争開始の日


 平成17年12月8日の新聞を見る。朝日新聞の社説には「真珠湾だけではない」と取り上げられ、コラム「天声人語」にも真珠湾攻撃について触れていた。

▼昭和16年(64年の昔)12月8日(月:ハワイ時間12月7日:日)、太平洋戦争が開始された日は、私は中学校2年生であった。当日は非常に寒かった、国防色(カーキ色)の制服(夏・冬同じもの)、帽子を着用して、両足には巻脚絆(ゲートルといわれていた)を巻きつけて学校へ登校していた。戦争開始の記憶は7時半ころであった。場所は、写真の左端にあった芸備銀行の前であった。町の人たちがアメリカと戦争が始まったと興奮気味に話していたので開戦を知った。

 ついに戦争になったのかと緊張が身を引き締める思いをしながら学校へと。今後どう進行するのかは知るすべもなく、真珠湾攻撃が成功したのは確かである。

▼最近、槇 幸『潜水艦気質 よもやま物語 』副題は「知られざるドン亀生活」(光人社NF文庫)を読んだ。中学から海軍兵学校に入った私は潜水艦乗りになりたい願いを持っていたことがあったので、参考になることが多い本である。
 著者は大正8年生まれで、昭和11年:日支事変(当時の呼称)の1年前、横須賀海兵団に入団、昭和16年、伊25潜に乗り組みハワイ、東南作戦、米本土砲撃作戦に参加。呉にて終戦を迎える。海軍兵曹長。

▼著者たちの潜水艦:伊25潜は、昭和16年12月4日から毎日、日の出前に潜行し、おそい船足ながらも真珠湾口の配備点に急ぐ。(中略)オアフ島の背後の海底に潜航した。12月7日のことである。役目は、明日、航空部隊の奇襲攻撃によって真珠湾から脱出する敵艦を待ち伏せて攻撃するのである。

 そのためには、あらゆる機能を完全に活用しなければならない。聴音機も探信機も、そしてもっとも重要な魚雷の攻撃を成功させなければいけない。(中略)12月8日、夜明け前に潜航して、満を持して配備点につく。なにがなんでも奇襲攻撃が成功してほしいと祈るばかりであった。

 人間の運命は紙一重、どちらに神がくみするか? あと数分後にはこの裁定が下される。艦内にまつられた神棚には、新しい榊と灯明がそなえられてローソクの灯がゆらめき、乗員は順次に祈りをささげた。

 世紀の大決戦の幕は未明に切って落とされた。艦内は総員配置につき、戦闘態勢につく。われわれ聴音科も全員が聴音機につき、レシーバーに全神経を傾注して、水中の音源はなにひとつのがすものかと気負いたつ。

 艦は無音潜航をおこなう。つまり、艦内から発する一切の音響をさけ、歩くにも忍び足、かわす話も、ひそひそと気をつかう。

 一般の乗員は配置についたまま、決行の時をいまか今かとかたずをのんで待っている。先任将校も、掌水雷長も、みんな聴音室に入ってきて、静かに、

「様子はどうか」と肩をたたく、気がもめるのだろう。

 そうするうちに、かすかに爆発音が聞こえてきた。

「司令塔、爆発音が入ります。戦闘が開始されました」

「どれどれ聞かしてくれ」

 時に午前八時十五分。やがて、聴音室以外にまで爆発音の轟きが聞こえるようになった。(後略)。

        海底の祝宴

 真珠湾に殺到する航空部隊の爆発音が聞こえてくると、

「やったぞ」

「大成功だ。敵艦全滅か?」

 万歳の声が期せずして艦内にわき起った。奇襲の時刻まで、敵に発見されなかったのだから、当然敵は不意打ちをくったことになる。まさしく成功したことである。

「さあ、いよいよわれわれの出番だ」

 騒音にもいっそう真剣味がくわわる。空襲をのがれて遁走する艦艇が出てくれば、一発必中、とどめを刺そうと、手ぐすねを引いて待ちかまえる。

 空と水中から攻撃し、追い出された獲物を出口で待ち伏せして、しとめる戦法、これは、じつに素晴らしい完璧な撃滅法であると驚いたものだ。

 それも、一部の艦隊の行動ではない。日本の主力艦隊の大作戦である。

 よくもこの計画が敵にもれずに進められたものである。まったく神の加護としか考えられなかった。

▼戦果は皆さんご承知のとおりである。

 真珠湾攻撃では航空部隊、特殊潜航艇の九軍神の報道ばかりだったが、湾口に非常に多くの潜水艦まで配備しての緻密な総合計画が練られていたかを知り乾坤一擲の海軍の作戦には率直に驚かさせられた。

 資料によると昭和16年12月8日、開戦時にはハワイ方面に第1、2、3潜水戦隊の30隻が配置されていた。

▼次にこれまで私の知らなかったことは米本土西岸のオレゴン州付近の潜水艦による森林爆撃である。潜水艦の搭載機は、偵察専門のもので、爆弾を搭載する設備はなかった。その後、爆弾搭載設備をつけることになった。そして米国本土への爆撃が成功しているのである。

一蓮托生の信条が自然と身につき、家族的な雰囲気なのが潜水艦乗りだった。つまり、撃沈されれば艦長も兵も一人残らず一緒に死んでいくのをおのずから悟っているから、乗員はじつに屈託がない、他の軍人たちから見ると、それは驚きのようだった。

 また潜水艦の行動は単独行動であり、敵中の海底だから、その最後は永遠に知られずに暗黒の奥深く埋もれてしまう定めであった。家族の者にも何という艦に乗っているのかさえ知らされなかった。(後略)。あとがきの文章から。

 私はこの文章につよく引かれるものがあります。

 大部分はこの本の記載を使わせていただいたことに対してお許しを願います。

 戦争の意義などを述べたものではありませんが、当時の記録として残したいとの思いで取り上げました。


豊田 穣著『戦争と虜囚のわが半世紀』(講談社)一九九三年五月二十五日 第一刷発行 P.6~7 

 私たち海軍兵学校の第六十八期生(山本五十六連合艦隊司令長官より三十六期後輩)は、二百八十八人卒業(昭和十五年「一九四〇」八月)、百九十二人が戦死、戦死率は六六・六パーセントであった。

 戦後、九十六人が生き残り、昭和二十六年秋の講和条約成立の頃から、各地域でクラス会を開くようになってきた。

 当時、岐阜県に住んでいた私にも、名古屋のクラス会支部からクラス会の案内がくるようになってきたが、私は出席しなかった。その理由は私が昭和十八年四月の「い号作戦」で戦闘中乗機を撃墜されて、一週間漂流した後、米軍の捕虜になったからである

 私のクラスはあの戦争中、三人の捕虜を出している。一人は開戦当初、真珠湾攻撃のときに、特殊潜航艇で真珠湾内の敵戦艦攻撃にゆき、艇が座礁して海岸に打ちあげられて、「捕虜第一号」となった酒巻和男で、一人は私、いま一人はソロモンの海戦で上巻を撃沈され、ガダルカナル島の近くを漂流中、捕虜となったSである。彼は収容所で人間性と戦争というものについて、感じたことがあったらしく、戦後、神学校に入り、今は神学校の校長をしている。

 酒巻とは戦争中、アメリカ・ウィスコンシン州のマッコイ収容所で一緒になり、敗戦後一緒に浦賀に復員したので彼が帝国軍人の捕虜体験について、どのような考えを抱いているかは大体想像がつく。(このことについては、収容所でも戦後彼と会ったときにも、深く話しあったことはないが……)

 その気持ちも大体は想像がつくが、私はあえて彼の領域に踏み込もうとは思わない。

 彼が神に救いを求めたと同様に、最近、心臓病で二回危篤(きとく)に陥った私は、改めて「己の神」というものを設定し、常にこの神を認識している。


 三好 守(みよし まもる、1923年(大正12年)5月24日 - 1945年(昭和20年)3月20日)は、日本の海軍軍人。海兵73期。太平洋戦争末期、人間魚雷[回天]の搭乗員として訓練中、事故により殉職した。殉職による一階級特進で最終階級は海軍大尉

経歴:1923年(大正12年)5月24日、東京府(現、東京都)で生まれる。1944年(昭和19年)3月22日に海軍兵学校(海兵73期)を卒業すると、同年9月6日に人間魚雷[回天]を創案した黒木博司・仁科関夫と共に第一特別基地隊光基地に着任、[回天]搭乗員として出撃までの時間を訓練にて過ごす。

 1945年(昭和20年)3月20日、小雨が降る荒天の中、[回天]特別攻撃隊多々良隊長として出撃する直前の基地発進訓練を光基地沖で行っていたところ、目標艦の艦底中央を全速30ノットで通過する際、下まで降り切っていなかった特眼鏡が艦底に激突して根元から破搊、特眼鏡を見ながら進んでいったために三好は眉間を割られて失神している際に艇は浸水し沈没、溺死・殉職した。享年21。目標艦に接近しすぎていたからか、設定した深度が浅すぎたのが原因と思われる。訓練中の殉職のため、一階級特進で海軍大尉に昇進した。

 三好の没後、柿崎実は三好の遺骨を抱いて、同年5月2日に沖縄県海域で特攻・戦死した。

関連:回天特別攻撃田/光基地柿崎実さんの記事もある。


taiheiyousensoukaisi.jpg  お父さん、三好という中尉が死にました。舟の底を、〔人間魚雷で〕もぐりそこねてぶつかったのです。上のハッチから水が入って二時間もして揚げられたときには、すっかりぐにゃんとして、顔は血だらけになって死んでいました。回天艇をひっくりかえして水を抜いたとき、ばかにさび色をした海の水だと思ったのは、その血が大分まじっていたでしょう。雨もふっていました。その夜、指揮官以下みんなが酒をのんでいました。 (東大戦没学生の手記『はるかなる山河に』)

 この日太平洋戦争開始。軍閥が無謀にはじめたこの戦争で、多くの青年の命が祖国のためと称してうばわれた。写真は本郷新作「わたつみ像」

*桑原武夫『一 日 一 言』ー人類の知恵ー(岩波新書)P.208

2010.12.08


[わだつみ]とは、[わたのかみ]と同義で[海をつかさどる神]を意味します。[わだ(わた)]は朝鮮語の[パタ(海)]に由来します。

1949年10月20日、東京大学協同組合出版部から『きけわだつみのこえ』という戦没学生の手記が刊行され、広く普及されました。[わだつみ像]はこの刊行収入をもとに戦没学生記念会(通称「わだつみ会」)が計画したもので、本郷新氏の作品です。当初、東京大学構内に設置する予定でしたが、朝鮮戦争さなかの1950年12月4日に評議員会が拒否、その背景には日本を占領していた連合軍の意向も働いたと言われています。東大では「わだつみ像設置拒否反対集会」が開かれましたが、結局、設置場所は定まらず、「わだつみ像」は本郷氏のアトリエに置かれることになりました。1951年、立命館大学の末川博総長が[わだつみ]>を引き受ける意思を表明したことをきっかけに、学内外からの強い支持も寄せられ、1953年12月8日、太平洋戦争開戦の記念日に立命館大学での建立除幕式を迎えるに至りました。翌1954年からは、12月8日前後に「わだつみ像」の前で[不戦のつどい]が開かれるようになり、立命館の伝統行事として今日まで続いています。


 安倍晋三首相が12月5日、平成28年末に米ハワイを訪れ、真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊すると表明した。
 今年5月に米大統領として初めて被爆地・広島を訪れたオバマ大統領と、最後となる首脳会談も現地で行う。トランプ次期政権への交代前に、先の大戦の和解を両首脳で訴え、日米協調を国際社会にアピールする考えだ。         

 首相、真珠湾訪問へ 26・27日、オバマ大統領と慰霊

 安倍首相 「真珠湾を訪問したい」

 オバマ大統領 「あなたにとって、強いられるものであってはならない」

 日本政府関係者によると、11月20日に両首脳は訪問先のペルー・リマで約5分間言葉を交わした際、こんなやり取りを経て真珠湾訪問で合意したという。

 首相周辺は、今回の訪問について「オバマ政権とのけじめだ」と説明する。核なき世界を訴えてきたオバマ氏とともに、日米にとって先の大戦の象徴となる地で平和を訴えることに意義があるとの指摘だ。発表は日米が同時に、真珠湾攻撃があった12月8日の直前とすることにした。

 安倍首相による真珠湾訪問は2012年末の第2次安倍政権の発足以来、何度も取りざたされてきた。

 戦後70年の節目だった昨年4月、訪米した首相はワシントンの米議会上下両院合同会議で演説し、先の大戦への「痛切な反省」に言及。日本軍の攻撃で多数の米兵が犠牲となった真珠湾などの戦場に触れ、「先の戦争に斃(たお)れた米国の人々の魂に深い一礼を捧げます」と訴えた。

 今年5月、オバマ氏が広島訪問を表明した際も、一部メディアが「首相が真珠湾訪問を検討」と報じた。ただ首相は当時、広島訪問前にオバマ氏と臨んだ共同記者会見で、日米同盟の重要性を指摘しつつ「現在、ハワイを訪問する計画はない」と否定した。一方、首相夫人の昭恵さんが8月下旬、ハワイの真珠湾攻撃の追悼施設「アリゾナ記念館」を訪れたことから、「首相も続いて訪問するのでは」との臆測を呼んだ。

 これまで真珠湾訪問が実現しなかった背景には、両首脳がともに日米戦争の象徴的な地を訪れることで、かえって両国内のナショナリズムを刺激し、日米関係にマイナスの影響を与えかねないとの判断があったとみられる。

 実際、13年末に靖国神社を参拝した安倍首相に対して、米国内では戦後の歴史を塗り替えようとする「歴史修正主義者」との批判が生じた。一方の安倍首相には「民間人もまとめて標的になった広島と、軍事施設を対象にした真珠湾は同列に扱えない」との思いもあった。

 トランプ次期米大統領の登場も、首相の真珠湾訪問を後押ししたようだ。日本政府内では「トランプ氏に平和色は薄いので、トランプ政権になれば真珠湾訪問は絶対に実現しない。駆け込みでもいま行かないと、首相が在任中に達成できない」(首相周辺)との見立てがあった。

 オバマ政権が慎重な対応を求めたにもかかわらず、首相が11月、大統領就任前のトランプ氏と異例の会談を行ったことも影響したとみられる。トランプ氏との会談後、直後に訪れたリマではオバマ氏と正式な会談が設定できなかった。日本政府としては、オバマ氏との関係を崩したまま、トランプ政権に移行するのは避けたいとの判断も働いた。

 首相は5日、真珠湾訪問を発表した後、周辺に語った。「これで『戦後』が完全に終わったと示したい。次の首相から、『真珠湾』は歴史の中の一コマにした方がいい」

     ◇

■オバマ氏、最後のレガシー

 「2人の指導者のハワイ訪問は、過去の敵国を、共通の利益と価値の共有により、最も親密な同盟関係に転換させた和解の力を示すことになる」

 ホワイトハウスは5日早朝に声明を出し、安倍首相の真珠湾訪問を歓迎した。さらに「過去4年間、日米同盟を強化してきた相互努力を再評価する機会になる」と述べた。

 ニューヨーク・タイムズ紙も「安倍首相が真珠湾を訪問。これまで攻撃された施設を訪れた日本の指導者はいない」と速報した。

 「核なき世界」を目指したオバマ大統領は5月、国内の根強い批判がある中、現職大統領として初めて広島訪問を実現させた。謝罪と見られないよう振る舞ったが、トランプ氏から当時、「オバマ大統領は、真珠湾への奇襲攻撃を議論しないのか。何千もの米国人が命を落としているんだ」などと批判を受けた。

 米国側には、直後から安倍首相の真珠湾訪問を望むべきだとの声があった。

 オバマ氏が広島を訪問する際、ホワイトハウスのローズ大統領副補佐官は、安倍首相の真珠湾訪問について「大統領の広島訪問の決定とはリンクしない」としながらも、「歴史を認識し、正面から直視し、歴史に関する対話の重要性を信じている。すべての指導者がそれをどのように行うか、自身で判断しなければならない」と強調、期待感を示していた。

 特に今年は、真珠湾攻撃から75年という節目の年にあたる。ハワイはオバマ氏の生まれ故郷でもある。

 来年1月に任期が終わるオバマ氏は自らの広島訪問で「核なき世界」と「日米和解」の一つの節目にし、アジア重視政策の集大成にしたいとの思いがある。

 トランプ氏が、オバマ政権で取り組んだイランとの核合意など「オバマ外交」を否定する発言を繰り返す中、オバマ氏としては、安倍首相の真珠湾訪問を「レガシー(遺産)」の一つに加えたい格好だ。

 オバマ氏も日米和解の環境整備を進めていた。昨年2月にはハワイのホノウリウリ日系人収容所跡地を国定史跡に指定すると発表。ここは第2次世界大戦中、4千人を超える日系アメリカ人や戦争捕虜が強制抑留された。オバマ氏は演説で「過去の失敗を繰り返さないよう、我々の歴史の苦痛を伴う部分を史跡にしたい」と訴えた。

 国務省幹部はこう語っていた。「オバマ大統領が広島訪問し、安倍首相が真珠湾を訪れる。これによって、本当の『日米和解』が実現する」

     ◇

■安倍首相の発言全文

 今月26、27日、米国ハワイを訪問し、オバマ大統領と首脳会談を行う。この4年間、大統領とはあらゆる面で日米関係を発展させ、アジア太平洋地域、世界の平和と繁栄のためにともに汗を流してきた。

 先のオバマ大統領の広島訪問に際しての、「核なき世界」に向けた大統領のメッセージは今も多くの日本人の胸に刻まれている。ハワイでの会談は、この4年間を総括し、未来に向けてさらなる同盟強化の意義を世界に発信する機会にしたい。

 これまでの集大成となる最後の首脳会談となる。そして、この際、オバマ大統領とともに真珠湾を訪問する。犠牲者の慰霊のための訪問だ。二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない、その、未来に向けた決意を示したい。同時に、日米の和解の価値を発信する機会にもしたいと考えている。

 今や、日米同盟は、世界の中の日米同盟として、日米ともに力を合わせて世界の様々な課題に取り組む希望の同盟となった。その価値、意義は、過去も現在も未来も変わらない。このことを確認する意義ある会談となると思う。

 昨年、戦後70年を迎え、米国議会で演説を行い、私の、70年を迎えての思い、考えについて発信した。その中で、真珠湾を訪問することの意義、象徴性、和解の重要性について発信したいとずっと考えてきた。同時に、オバマ大統領との4年間を振り返る首脳会談も行えればと考えてきた。11月20日のリマで会談した際、12月に会談を行おう、そしてその際に2人で真珠湾を訪問しよう、と確認し、合意した。

     ◇

■この4年間の日米関係

2012年12月 第2次安倍政権が発足
2013年01月 オバマ米大統領が2期目に就任
2013年02月 安倍晋三首相が訪米、ワシントンでオバマ大統領と初の首脳会談
2013年12月 安倍首相が靖国神社参拝。在日米国大使館が「失望している」と声明発表
2014年03月 オランダでオバマ大統領の仲介により日米韓首脳会談を開催
2014年04月 オバマ大統領が来日、安倍首相と首脳会談
2015年04月 安倍首相が訪米、ワシントンで首脳会談。首相は米議会上下両院合同会議で日本の首相として初めて演説
2015年08月 安倍内閣が戦後70年の首相談話を閣議決定。「痛切な反省」心からのおわびなどの文言盛りこむ
2016年05月 主要7カ国(G7)首脳会議(伊勢志摩サミット)。終了後、オバマ大統領が広島訪問
2016年11月 米大統領選でトランプ氏勝利
2016年11月 安倍首相が米ニューヨークを訪問し、主要国首脳として初めて勝利後のトランプ次期米大統領と会談

初書き:平成十七年十二月十三日。平成二十二年十二月七日に読み返す。六十九年前の記憶が甦る。平成二十八年十二月八日:75年前大平洋戦争開始の日を祈念して

参考1:大平洋戦争の開始は、周到な計画での真珠湾攻撃は大成功であった。この成功の裏には九軍神(海兵68期)がいるが、捕虜になった酒巻少尉がいた。この攻撃をアメリカの謀略だという説もある。また真珠湾の最高責任者は降格され、その不名誉は戦後になっても回復されていないとのことである。

 このようにして、大平洋戦争でみられる展開をして、決定的な広島・長崎への原子爆弾投下が一気に敗戦を1945年:昭和20年8月15日となた。

 時は流れ流れて、2016年12月、71年経過して、安倍首相が真珠湾を退任を翌年に控えたオバマ大統領ともども真珠湾を訪問することになった。

 【ワシントン=川合智之】オバマ米大統領は1941年12月7日(現地時間)の旧日本軍による真珠湾攻撃から75年にあたる7日、声明を出した。「最も激しい敵でさえも最も緊密な同盟国になれることの証しとして、今月下旬に安倍晋三首相とアリゾナ記念館を訪れるのを楽しみにしている」と述べ、「この歴史的な訪問は和解の力の証拠だ」と強調した。

 オバマ氏は声明で「75年前の今日、突然のいわれのない攻撃により、平穏な港は火の海になった」と指摘。「75年前からは想像できない同盟で結ばれた日米が手を取り合い、世界の平和と安全のために取り組み続けることの証明」と称賛した。

 首相は26、27日にハワイを訪問し、オバマ氏とともに真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊する。オバマ氏の5月の広島訪問と合わせ、両首脳が相互に第2次大戦の象徴的な戦地を訪問することで、両国の和解と同盟の強固さを改めて確認する。両首脳が訪れるアリゾナ記念館はオアフ島にある慰霊施設で、真珠湾攻撃で海底に沈む戦艦「アリゾナ」の上に建設された。

参考2:真珠湾攻撃


 真珠湾の和解、日米同盟深化 歴史に区切り 2016/12/29 0:53「日本経済新聞 電子版」

【ホノルル=地曳航也】安倍晋三首相は27日(日本時間28日)、オバマ米大統領とともに旧日本軍による真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊するアリゾナ記念館を訪れた。両首脳はその後にそろって演説し、日米が戦争を乗り越えて強固な同盟を築いた「和解の力」を強調。首相は不戦の誓いも新たにした。過去の歴史に区切りをつけ、トランプ次期米大統領に深化した日米同盟を引き継ぐ狙いがある。

 「ここパールハーバーでオバマ大統領とともに世界の人々に訴えたいもの。それは和解の力だ」。首相は約17分間の演説を「和解の力・The Power of Reconciliation」と銘打った。

 真珠湾で始まった太平洋戦争。激しく敵対した過去を乗り越え「歴史にまれな深く強く結ばれた同盟」になったのは「和解の力」と指摘した。演説で選んだ言葉には、中国や韓国、ロシアなど過去の問題を引きずる国々と関係を改善したいとの首相の気持ちも透けて見える。

 「戦後の総決算をしたい」。首相は5日、真珠湾訪問を表明する直前の自民党役員会で語っていた。戦争を巡る各国との歴史認識のズレはしばしば戦後の日本外交の足かせとなってきた。過去の清算に人的資源と時間を割かれ、未来志向の外交を展開できないとの思いがあったようだ。

 米国が「奇襲」とする真珠湾攻撃と、米国の広島と長崎への原爆投下は、日米にとって長くわだかまりだった。5月にオバマ氏が現職米大統領として初めて広島を訪れたことで、首相の真珠湾訪問の機が熟した。首相周辺は「開戦の地で和解の力を示した。これでthe very end(最後の最後)だ」と語った。

 広島、真珠湾を首脳がそろって訪問した日米関係。日本が同様に中韓との歴史問題に区切りをつけ、安定的な2国間関係を築けるようになれば、米国の安全保障戦略にも恩恵が出てくる。オバマ氏は演説で「この地への訪問は、日米の和解と結束の力を示す歴史的な行動」とたたえた。「和解の力」の重要性で足並みをそろえた。

 首相は「戦争の惨禍を二度と繰り返してはならない」と述べ不戦の誓いを「不動の方針」と強調した。一方、今回の演説では「謝罪」には言及せず、2015年の米上下両院合同会議演説や戦後70年談話で用いた「反省」「悔悟」などの単語も盛り込まなかった。

 昨年に示した戦後70年談話では首相は「戦争には何らかかわりのない子や孫、その先の世代の子どもたちに謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」と、過去との区切りを訴えていた。首相周辺は今回は米議会演説と70年談話とのシリーズだ。過去に国の進路を誤った反省は既に示した。未来に焦点を当てた>と語る。

 首相が演説で強調したのは米国の「寛容な心」への感謝だ。「日本が戦後再び国際社会に復帰する道を開いてくれた。米国のリーダーシップのもと、自由世界の一員として私たちは平和と繁栄を享受できた」と語った。

 演説に先立つオバマ氏との最後の首脳会談では、日米同盟をさらなる高みに引き上げると一致した。同盟国との関係見直しに言及するトランプ次期米大統領の就任は来年1月20日。未来志向で深化した日米同盟を引き継げるかが焦点だ。

2016.12.29 89歳


 内閣支持率64%に上昇 真珠湾慰霊「評価」84% 本社世論調査
2016.12/29 23:03 日本経済新聞 電子版

 日本経済新聞社とテレビ東京は28、29両日、安倍晋三首相とオバマ米大統領が米ハワイの真珠湾を訪問し慰霊したことを受け、緊急世論調査をした。安倍内閣の支持率は64%と11月下旬の前回調査から6ポイント上昇した。2013年10月以来、3年2カ月ぶりの高い水準となる。真珠湾訪問を「評価する」と答えた人は84%で、内閣支持率を押し上げる要因になった。

 内閣不支持率は26%で4ポイント低下した。年代別でみると、内閣支持率は30代で約8割、40代で約7割、60代や70歳以上は約6割だった。男女別では、内閣支持率は男性が4ポイント上昇の65%、女性が9ポイント上昇の63%。男性と比べて低かった女性の支持が伸びた。

 安倍首相の真珠湾訪問と慰霊を「評価する」は84%で「評価しない」の9%と比べて圧倒的に多かった。評価すると答えた人は、内閣支持層で92%、内閣不支持層でも69%に達した。

 政党支持率は自民党が44%で最も多く、特定の支持政党を持たない無党派層が31%で続く。いずれも前回を1ポイント下回った。民進党は2ポイント低下の7%で低迷している。

 調査は日経リサーチが28、29日に全国の18歳以上の男女を対象に、携帯電話も含めて乱数番号(RDD)方式による電話で実施。937件の回答を得た。回答率は44%。

2017.01.01


4

温習と五省


 海軍兵学校の先輩(1930年=昭和5年に入校)の書かれた本を読んでいると、生徒館(生徒が起居・自習する建物)の自習室(私は1944年入校)を「温習室」と記録されていた。

自習と温習の意味の違いはあるのだろうか。
ある漢字典で「温」の字を調べると、凡そ事の巳に過ぎて重ねて之を理するを温という。中庸、「温故而知新。」

参考:宮崎市定『論語の新研究』には論語の冒頭の章 「子曰く、学んで時に之を習う。亦た悦ばしからずや。朋あり、遠方より来る。亦楽しからずや。人知らずして(いきど)おらず。亦君子ならずや。」
 その説明:「子曰く、(禮を)學んで、時をきめて(弟子たちが集まり)温習(おさらい)会をひらくのは、こんなたのしいことはない。朋が(珍しくも)遠方からたずねて来てくれるのは、こんなうれしいことはない。人が(自分を)知らないでもうっぷんを抱かない。そういう人に私はなりたい。」と。
▼温習はすでに古語廃語になっているのかと思い調べると「温習会」という言葉は、インターネットで検索するといまだに多く使われていることをしる。

▼「五省」については、この先輩の時代は、兵学校生徒が朝夕斉唱する「五省」は猪口大尉の作であり、実践躬行の結果とみなされていた。私の時代には夜の自習時間が終わると、最上級生徒の当番が一節唱えて全員がその項目を反省して、しばらくすると次の節を唱えるのを繰り返し、全部が終わると、自習の終わりとなり寝室へと急いだものだ。時代の流れによってその要領は変化しているが「五省」そのものは現在まで連綿として引き継がれている。

参考:五省に詳しく五省について説明されています。

 ()(せい)

 一、 至誠(しせい)(もと)るなかりしか(真心に反する点は、なかったか)

 一、 言行(げんこう)()ずるなかりしか(言行不一致な点は、なかったか)

 一、 気力(きりょく)()くるなかりしか(精神力は十分であったか)

 一、 努力(どりょく)(うら)みなかりしか(十分に努力をしたか)

 一、 ぶ精(ぶしょう)(わた)るなかりしか(最後まで十分に取り組んだか)

 「これが採用されたのは昭和7年で、当時の海軍兵学校長松下元少将の発案によるものである。」と記述されているが、作者については触れていない。
 海上自衛隊幹部候補生学校でも海軍時代の伝統を受け継ぎ、学生たちは兵学校時代と変わらぬスタイルで毎晩自習終了後、五省により自分を顧みて、日々の修養に励んでいるという。

*第76期教官書である。

平成十七年十二月十六日

※五省の英語をしりました。

 INPERIAL NAVAL ACDEMY 
   FIVE REFLCTIOS

1 Hast thou not gone against sincerity?

2 Hast thou not felt ashamed of the words and deeds!

3 Hast thou not lacked vigor?

4 Hast thou not exerted all posible efforts?

5 Hast thou not become slothful?

平成二十六年七月六日


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私も見たキノコ雲―新型爆弾が原子爆弾へ―


 ピカッ、ドン、ガタガタ、振動する窓ガラス。一瞬、火薬庫の爆発だ、安全地帯に逃げなくては。海軍兵学校西生徒館の湯飲み場から、カッターをつり上げているダビットの海岸線に向って飛び出す。江田島の古鷹山の裏側にある火薬庫の大爆発か。北の空を見る、それらしい形跡はない。西の方に目を向ける、広島市の中空あたりに浮かぶキノコ状の雲が私の目に焼きついた。私のみたものは、米軍機が撮影した写真より時間が遅くれていたからこれよりかなり上部に、まったくキノコの形をしていた。

▼20年8月6日(月)。朝から好天気。平面測量実習で海岸線を実測中(写真丸印の地点で実習)。夏の日差しにあてられたので、お茶を湯飲み場で飲んでいた。まさにそのときであった。

 当日の課業が終り、夕方、指導の教官が私たち分隊全員を集め訓示があった。

▼「廣島に投下された爆弾は新型である。あの程度のものは、日本でもすでに作られている。硫黄島で実験済みである(3月17日守備隊全滅)。心配することはない、訓練にはげむこと・・・・」。

▼それからは、空襲警報が発令されると、防毒マスクのほかに風呂敷大の白布を持って防空壕に避難することになった。

 新型爆弾の当時の朝日新聞の記事を拾う。
 8月8日(水)
 大本営発表(8月7日15時30分)
 「一、昨8月6日広島市は敵B29少数機の攻撃により相当の被害を生じたり」
 「二、敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも詳細目下調査中なり」
 8月10日(金)
 「屋外防空壕に入れ」「新型爆弾に勝つ途」
 8月14日(火)
 「新型爆弾は原子爆弾と発表」(『近代総合日本総合年表』)
 8月15日(水)
 「戦争終結の大詔渙発される。」
 「科学史上未曾有の惨虐なる効力を有する原子爆弾」  
 詔書には、「敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ・・・・。」とある。

▼新型爆弾は原子爆弾といわれるようになり、8月6日を原点としてはじまる。

▼ハイテクノロジー時代に入り、機能性高分子、バイオテクノロジーなどの技術開発が進んでいる。この中でバイオテクノロジーについて考えてみたい。しょく物の品質改良、醗酵技術分野において活用されるのは人間生活を豊かにするためにも歓迎されることでしょう。医学分野で病気治療に応用されるのも意味がある。しかし遺伝子による生命操作とか、現在では測り知ることが出来ないことに利用されると、どんなことになるか。

▼新型爆弾が原子爆弾になり、使用された時には予測されなかったような悲劇を人類に与えている。バイオテクノロジーの技術の開発応用がこんな展開にならないように原子爆弾のキノコ雲の異形の思い出と結びついてくる。
*以上の文章は1984年に書いたものである。その後21年は、バイオテクノロジーにおいては臓器移しょくなどの発展、IT技術の広がりは生活を変えるまでに進歩をつづけている。社会の発展に善用して欲しいものだ。

平成十七年八月三日

追加1:

終戦後の九月に私は広島に行った時、駅での様相は忘れることができない。原爆を投下されて約一か月少々経過していました。

 原民喜詩集に述べられているのものを掲載します。

 コレガ人間ナノデス   原 民喜

 コレガ人間ナノデス

 原子爆弾ニ依ル変化ヲゴラン下サイ

 肉体ガ恐ロシク膨脹シ

 男モ女モスベテ一ツノ型ニカヘル

 オオ ソノ真黒焦ゲノ滅茶苦茶ノ

 爛レタ顔ノムクンダ唇カラ漏レテ来ル声ハ

 「助ケテ下サイ」

 ト カ細イ 静カナ言葉

 コレガ コレガ人間ナノデス

 人間ノ顔ナノデス

*写真は、私も見た広島市上空の原爆のキノコ雲。

平成二十年三月十四日

追加2:

▼車いすに座った小幡悦子さん(80)の足は「くの字」に曲がり、えぐれた太ももは引きつっている。64年前ののきょう、爆心から1キロで被爆した。辛うじて生き延びたが、原爆は容赦のない爪跡を体に残した。
 昨年、朝日新聞長崎総局の取材を受けた。ためらいながら「足の写真を撮らせてほしい」と頼む記者に、小幡さんはうなづいた。「この足が原爆だから……。私が伝えられるのは足だけだからね」。つらく重い言葉である。(以下略)2009年8月9日の「天声人語」から。

追加3:

▼広島工専の同級生の一人に中西巌君がいた。広島高等師範学校付属中学校の生徒だった。広島陸軍被服廠に動員されていた。そのとき、原爆が投下されたのである。彼と原爆について話したことはありませんでした。彼の記事をお読みください。広島市広報紙 市民と市政 8月1日号 南区

追加4:

 今年(平成26年)広島原爆式典には、米国駐日大使:ケネディ大使が参列される。
 原爆投下した飛行機:エノラ・ゲイの最後の搭乗員が死亡している。
平成二十一年八月九日、平成二十三年八月六日:原爆投下の日、再読、平成二十六年八月六日(六十九年経過)追加。

▼今年は原爆投下されて70年になる。多くの記憶がある。その一つに、昭和二十年九月中旬に広島市に所用で出かけた。広島駅に到着すると広島駅の駅舎には墨を塗ったように真黒な人々が、ある人は立ち、ある人は横たわっている惨状であった。言葉では言い尽くせないものでした。どうしようもない無力感でした。
▼私は駅から市電の比治山線に乗ろうとしましたが、電車のポールは斜めに傾いている有様で運転されていませんでした。徒歩で皆実町まで往復しました。当時は、今後70年は広島には草木も生えないといわれていた。其の後、しょく物の生命力は恐ろしく強いことが証明されました。
平成二十六年八月五日


 広島市の原爆ドームから道1本隔てた寺に「被爆地蔵尊」がひっそりたたずんでいる。真上から4000度もの熱線を浴びたため、石の台座のうち地蔵の濃い影が残る部分は滑らかなままなのだが、周囲は高温で焼けザラザラだ。核兵器の威力の一端が肌で感じ取れる。

▼米国の世論調査では「戦争終結を早めた」などの理由で、原爆投下を「正しかった」とする人がまだ過半数を占めるという。軍略の視点に重きを置けば、そんな結論にもなるのか。しかし、決して忘れてはならないことがある。あの日、熱と爆風で壊滅した朝の街では、直前まで市民がつつましやかに生を営んでいたのだ。

▼地蔵尊が鎮座する場所は、かつて細工町といい、病院、食品問屋、理髪店などがあった。平和記念公園の一帯も中島本町、材木町などと呼ばれ、映画館や銀行、民家が軒を連ねていた。それが一瞬で酸鼻のちまたと化したのである。原民喜は小説「夏の花」で、「パット剥ギトッテシマッタ アトノセカイ」と書いている。

▼あす、G7外相が平和記念公園や資料館を訪れる。核を持つ米英仏外相の公園訪問は初という。どうか、資料館では焼けた衣服などと向き合い、銀行の石段に残る影に瞳を凝らしてもらいたい。生を暗転させる無慈悲さを改めて胸に刻み、「核なき世界」へ少しでも近づいてほしい。戦後71年、歩みの遅さに気が遠くなる。

参考:春秋 2016/4/10付より。

平成二十八年四月十日



 オバマ大統領は2016年5月27日夕、現職の米大統領として初めて被爆地、広島を訪問した。平和記念資料館を訪れた後、平和記念公園にある慰霊碑に献花した。

 オバマ氏はその場で被爆者らを前に、米軍の原爆投下について「恐ろしい力がそれほど遠くない過去に解き放たれたことを考え、死者を悼むために広島に来た」などと声明を読み上げた。
 写真は安倍首相と握手するオバマ大統領

平成二十八年五月二十七日



 きのこ雲写真は火災の煙か 広島原爆、米研究所が指摘 2016/8/6 19:41

 米軍機が撮影した、広島に投下された原爆のきのこ雲とされる画像。1973年に日本に提供された「返還資料」に含まれていた 【ワシントン共同】きのこ雲写真は火災の煙か広島原爆、米研究所が指摘 2016/8/6 19:41

 広島への原爆投下時に撮影された有名な写真に写るきのこ雲が、爆発直後にできたものではなく、しばらく時間がたって地上の激しい火災によって発生した煙や雲とみられることが分かった。原爆を開発した米ロスアラモス国立研究所が、このほど明らかにした。

 ニューヨーク・タイムズ紙は、オバマ大統領の広島訪問に先立つ5月、写真について「実は“きのこ雲”でなかった」と驚きを交え報じた。

 一方で、きのこ雲という言葉に厳密な定義はない。写真を解析研究した広島市立大の馬場雅志講師は「原爆の雲であることは事実で、きのこ雲と呼んで差し支えない」と話している。

平成二十八年八月六日

 八月のカッとした暑さになると昭和二十年がよみがえる。

 八月六日。江田島は、朝から好天気。測量実習で海岸線を実測中、夏の陽射しにあてられたので、海軍兵学校西生徒館内の湯飲み場でお茶を飲んでいた。まさにそのとき。ピカッと閃光。ドーン。ガタガタと窓ガラス震動。火薬庫の爆発だ! 安全地帯に逃げなくては、海岸線に向かって飛び出した。学校の裏、古鷹山の方を見たが、それらしい形跡はなかった。北西に視線を転ずると広島市の上空あたりに、きのこ雲。私の目に焼きついた。

▼エノラ・ゲイは旋回をつづけた。原爆担当ビーゼル中尉は「眼下に見えたのは火の海と荒廃の地だけで、ヒロシマの街はほとんど見ることができなかった」。ヒロシマの人たちのことを、エノラ・ゲイのクルーは一顧だにしなかった。「主目標を目測爆撃。結果は良好。雲量十分の一。戦闘機および高射砲による攻撃なし」。つづいて大勝利を伝える報告を暗号で送った。広島中央放送局(NHK)は空襲の警戒警報発令を発信できないまでに瞬間に爆破されたのである。

               『幻の声』(岩波新書)

▼きのこ雲は黒い雨を降らせていた。井伏鱒二『黒い雨』を読むと息をのむばかり。

補足:黒い雨と同じものです。


 東京帝大助教授だった政治学者の丸山真男は1945年4月、2度目の兵役で広島の陸軍船舶司令部に配属された。31歳。国際情報の収集が仕事である。8月6日、朝礼中に突然、目もくらむ閃光(せんこう)が空を走り、きのこ雲が立ち上るのを見た。爆心地から約4キロの場所だ。

▼司令部に逃れて来た被災者の姿に肝を潰し、3日後の9日には爆心地付近を巡って被害の実態に接している。しかし「自分は傍観者」として、終生、被爆者手帳の申請はしなかった。戦後、その透徹した観察眼と分析手法で戦前の軍部による支配を「無責任の体系」と呼んだ。目の当たりにしたその末路への怒りもこもる。

▼小池百合子都知事が豊洲の盛り土問題で歴代の中央卸売市場長の仕事ぶりを「無責任体制」と断じ2週間余。依然、いつ、誰の、どんな判断で地下空間ができたのかが不明で「空気の中で進んでいった」としかわからぬ状態が続く。知事は「代の市場長は退職者も含め責任を明確にする」と、ケジメをつけるのに躍起だ。

▼丸山は東京裁判の被告らが自己の権限をわい小化し、責任をなすり合う姿に無責任の実態を見た。さて「監察の観点からヒアリングする」と息巻く小池知事による「東京裁判」はどうなるだろう。ことは6000億円近い予算を要した巨大事業だ。「築地直送!」に代わり「豊洲直送!」を消費者が受け入れる日はいつか。

春秋 2016/10/9による。


私は、72年昔の当日、江田島にいた。今でも原爆が投下されたその時から非常に近い時間のあの瞬間を明確に記憶している。しかしながら、地獄の状態は想像することは出来なかった。追悼申し上げます。

 2017年8月6日、広島に原爆が投下されてから6日で72年となります。核兵器を法的に禁止する歴史上、初の条約が国連で採択されてから初めてとなる「原爆の日」で、被爆地・広島は、犠牲者を追悼するとともに核兵器のない世界に向けた訴えを国内外に発信します。

 原爆投下から72年となる6日、広島市の平和公園には夜明け前から被爆者や原爆で亡くなった人の遺族などが訪れ、追悼の祈りをささげています。

 広島市内に住む被爆者の82歳の女性は、70代で亡くなった同じ被爆者の夫の遺影を手に娘と一緒に慰霊碑を訪れ、祈りをささげました。女性は原爆の日に慰霊碑を訪れるのは初めてだということで、「自分にとって最後になるかもしれないのでこの日にこの場所に来て『平和になるように』という思いで祈りました。核兵器禁止条約はできましたが、日本が参加していないのは理解できません。核兵器はないほうがいいです」と話していました。

 また、広島県呉市の高校で英語を教えているアメリカ人の36歳の男性は、毎年8月6日に平和公園を訪れているということです。男性は「最も悲しいことは犠牲者の中に罪のない多くの子どもたちがいたことです。アメリカ人の中にはいまだに偏った見方で当時のことをとらえている人もいます。この悲劇を繰り返さないためにもこの場所を訪れ、歴史と向き合うべきです」と話していました。

 6日の平和記念式典は安倍総理大臣や世界80か国の代表が参列し、午前8時から始まります。式典ではこの1年間に亡くなった人や新たに死亡が確認された人5530人のな前が書き加えられた、30万8725人の原爆死没者名簿が原爆慰霊碑に納められます。そして原爆が投下された午前8時15分に参列者全員で黙とうをささげます。

 世界の核軍縮をめぐっては、先月、国連で歴史上、初めて核兵器を法的に禁止する「核兵器禁止条約」が、非核保有国が中心となって採択されましたが、核保有国や核の傘のもとにある日本などは条約に反対の立場を示し、核兵器の廃絶にどうつなげていくかが課題となっています。

 広島市の松井一実市長は「平和宣言」の中で、「各国政府は、核兵器のない世界に向けた取り組みをさらに前進させなければならない」としたうえで、日本政府に対して「核保有国と非保有国の橋渡しに本気で取り組んでほしい」と求めることにしています。

 また、被爆者団体やNGOが街頭での署名活動などを行うことにしていて、原爆投下から72年となる6日、広島は、原爆の犠牲者を追悼するとともに被爆者の悲願である核兵器のない世界に向けた訴えを国内外に発信します。

*NHKの記事より。


*戦後原爆禁止運動では下記の記事のようなものが行われていた。

 頻(しきり)に無辜(ム コ)を殺傷し(「終戦ノ詔書」より)

 八月六日の原爆を、私は見た。広島で見たのではない。写真で見た。写真は当時の『科学朝日』が広島にかけつけて写したものである。

 アメリカ人は原爆の被害をかくそうと、草の根わけて写真を没収した。カメラマンは七年間ネガをかくして、没収をまぬかれた。

 ようやくわが国が独立した昭和二十七年夏、『アサヒグラフ』は全紙面をあげてその写真の特集をした。当時の編集長は飯沢匡である。

 私が見たのはその特集号である。それはまざまざと実物を写した。酸鼻をきわめるという、筆舌を絶するという。それは写真でなければ到底伝えられないものである。私は妻子に見られるのを恐れて、押入れ深くかくして、あたりをうかがった。いま三十半ばの友のひとりは小学生のとき偶然これを見て、覚えず嘔吐したという。

 原爆許すまじという。何という空虚な題目だろう。原水禁と原水協は、アメリカの原爆はいけないが中国のならいい、いやソ連のならいいと争って二十年になる。

 原爆記念日を期して私はこの写真を千万枚億万枚複写して、世界中にばらまきたい。無数の航空機に満載して、いっせいに飛びたって同日同時刻、アメリカでヨーロッパでソ連で中国で、高く低く空からばらまきたい。

 アメリカ人は争って拾うだろう、顔色をかえるだろう、子供たちは吐くだろう。ソ連と中国では 拾ったものを罰しようとするだろう。罰しきれないほど、雨あられとばらまいてやる。

 今わが国は黒字国だとアメリカ人に非難されている。これに要する 費用は黒字べらしの一部にすると言えば、アメリカ人に否やはないだろう。このことを私は書くこと三度目だが、ほんとんど反響がない。これでも彼らがなお原爆の製造競争をやめないなら、それは承知でやめないのだから、それはそれで仕方がない。

*写真は、『アサヒグラフ』昭和二十七年八月六日号より


春秋 2018/8/6付 原爆広島投下の日

 日本中の都市が次々に焼け落ちていくのに、なぜか広島には空襲がなかった。1945年夏。市民は首をひねりつつも、まずは平穏を喜んでいた。浄土真宗本願寺派の「安芸門徒」が多い土地柄だから、米軍が攻撃を手控えている……。そんな噂まで流れていたという。

▼思えば、なんと悲しい楽観だったことか。そのころ米軍は日本本土への原爆投下計画を着々と進め、目標検討委員会を設けて犠牲とする都市を絞り込んでいた。さまざまな候補地が浮かんでは消え、実際に投下されたのが広島と長崎だった。核を使うため、2つの都市は「温存」されて焼夷(しょうい)弾の猛威を免れていたのである。

▼「直径3マイル(約5キロメートル)以上の大規模市街地を有すること」「爆風によって効果的な損害を与えうること」。目標検討委の議事録に、投下都市の条件を挙げた記述が残る。広島はそれにぴったり合っていた。「隣接する丘陵地は爆風の集束効果を生じさせ、その被害を増幅させるだろう」。淡々たる、そして残酷な筆致だ。

▼計画は無慈悲に遂行され、安芸門徒の国はおびただしい数の命を失った。73年前の、きょうのその朝まで無事を保っていた都市を一瞬にして滅ぼした非道である。ひたすら原爆投下へ突き進んでいった米国。情勢を見極められず、いたずらに惨禍を拡大させた大日本帝国。歴史に学ぶべきことが、まだまだ山のようにある。


33 幻 の 声 '92 秋の号(朝日新論説委員室)+株式会社英文朝日 1992年12月25日 第1刷 84 (1992.8.7)

 「こちらは広島中央放送局でございます。広島は空襲のため放送不能となりました。どうぞ大阪中央放送局、お願い致します……」。

 原爆が落とされた直後、広島県北の山あいに住んでいた女学生は、ラジオで悲痛な女性の声を聞いたという。やがて途切れた美しい声の安否が気になり続け、彼女は三十年後に東京のNHKに手紙を書いた。

 瞬時に崩壊した放送局から、本当に放送は続いたのか。番組制作担当だった白井久夫さんは、手紙を手に真相を追い始めた。≪声を聞いたという人はほかにもいたが、生き残った局員のだれもそんな放送をした記憶はない。

 ではその時、犠牲者三十六人を含め、局員はどこで何をしていたのか。「運命の朝」を再現する試みが、原爆に病み、「失われた一日」の記憶にさいなまされる放送人の重い口に迫る。

 新事実にもぶっかる。間断ない空襲にさらされる国民には、ラジオを通じての警報は命綱だった。だが、原爆を搭載したエノラ・ゲイの飛来の際の警報発令は送れた。軍管区司令部から放送局へ警報が伝達される直前に閃光が襲った、と白井さんは言う。

 原爆投下より一分でも出も早く警報が出ていれば、数万人は助かったはずだ。東京大空襲での警報の扱い同様に、人命を軽んずる旧軍の体質と責任者による判断ミスがあった、とも。

 十七年間に及ぶ取材経過を、白井さんはNHK退職後のこの夏、『幻の声』と題して本にまとめた。冒頭の「女性の声」が何だったか、ここでは明かせない。が、四十七年の歳月を経てなお書かれざる核の悲惨がだれにもあると知らされる。

 米国とロシアは六月、二〇〇三年をめどに核弾頭を約三分の一に減らすことで合意した。それでもなお広島原爆の十数万ばいの破壊力が残る。人類は、頭上に自らがつるした「ダモクレスの剣」におびえ続ける。

参考:余禄「ダモクレスの剣」とは。毎日新聞 2018/9/25 東京朝刊

「ダモクレスの」とは王位をうらやむ廷臣が王座に座らされ、頭上に毛一本でつるされた剣に気づく故事をいう。栄華の中にも危険が迫っているとの意味だ。これを国連総会の一般討論演説で引用したのはケネディ米大統領だった▲1961年9月25日。「人類は核というダモクレスの剣の下で暮らしている。それは細い糸でつるされ、いつ何時にも事故か誤算か狂気により切れる可能性がある」。米ソの冷戦で核の恐怖が現実味を帯びた時期に軍縮と核実験禁止を唱えた▲この演説を意識したのかどうか、トランプ米大統領も昨年9月の国連演説で核の脅威に言及した。核兵器と弾道ミサイルの開発に躍起となる北朝鮮を、場合によっては「完全に破壊す」と警告し、金正恩(キムジョンウン)委員長を「ロケットマンは自殺行為に走っている」と非難した。荒っぽい言葉だった▲それから1年、米朝首脳会談を経てトランプ氏の金氏に対する態度は変わった。「私は彼を尊敬している」と褒め上げ、北朝鮮が軍事パレードで核ミサイルを誇示しなかったことには「ありがとう」と感謝した。国際情勢の変容ぶりは急で目まぐるしい▲きょうから今年の国連総会一般討論演説が始まる。加盟193カ国の首脳らが登壇し15分間、自由に発言する。米中や米露の対立、シリア情勢混迷の折、世界全体を見渡す機会となろう▲ケネディ氏は57年前の演説で、平和を維持し戦争を止めるため国連の新たな影響力と役割を求めた。これも現在に通じる言葉かもしれない。

2021.10.22記す。


33. A GHOSTLY VOICE

 "This is Hiroshima Central Broadcasting Station: Because of the air raid on Hiroshima we are unable to continue broadcasting. Osaka Central Broadcasting Station, please take over! Osaka, take over!"

A female high school student, then living in the folds of mountains to the north of Hiroshima Prefecture, apparently heard this anguished woman's voice on the radio immediately after the atomic bomb was dropped. After it was finally cut off, the girl continued to wonder about the fate of the owner of that beautiful voice. Thirty years later she wrote a letter of enquiry to Japan Broadcasting Corp. (NHK) in Tokyo. Since the radio station was instantaneously destroyed, was there really any such broadcast? With the letter in hand, former program planner Hisao Shirai began to seek out the truth.

There were other people who said they had heard the voice, but none of the station staff who were still alive could remember making such a broadcast. So where were the 36 staff members, including those who died, that day and what were they doing?Shirai tried to reconstruct the events of that fateful morning and pressed the broadcasting staff――whose memories still torment them――for their reluctant testimony on the painful "lost day" of the atomic explosion.

He came across some new facts as well. For the citizens subject to incessant aerial bombardments, warning on the radio provided a vital lifeline. However, warning of the approach of the Enola Gay carrying the atomic bomb was late. Shirai says that notice of the U.S. plane's approach was delivered to the radio station from the regional military headquarters just after the flash of the explosion. If the warning had been given even a minute earlier, tens of thousands of lives could have been saved.

The same casual attitude to human life inherent in the structure of the army of the time, and errors of judgement by those responsible are evident in the way warnings before the intensive Tokyo air-raids were handled.

Shirai has retired NHK. This summer, after 17 years of collecting material on the topic, he has put together a book called Maboroshi no Koe (The Ghostly Voice). As for the explanation of the woman's voice described at the beginning of this article, I will not reveal it here; but all this does show us that there still remain untold tragic tales of the atomic bomb even after a laps of 47 years.

Russia and the United States agreed in June to reduce the number of their nuclear warheads by roughly two-thirds before 2003. Nonetheless, we are still left with weapons which have over a hundred thousand times more destructive power than the one dropped on Hiroshima. This sword of Damocles continues to hang over the collective head of humanity.

Copy on 2021.10.23


6

終戦へのみちのり~私の体験~


 昭和20年7月28日(土)、朝から夏空の快晴。9時か10時頃、空襲警報が発令された。米軍の飛行機が江田島湾に停泊中の巡洋艦利根・大淀を来襲攻撃したのである。この軍艦は5月頃から江田島湾に回航して、甲板には松の木などで偽装されていた。私たち生徒には何故停泊したままであるのかは知らされるはずはなかった。

▼私たち分隊の指定の防空壕は西生徒館裏の御殿山に掘られた横穴であつた。当日、その時刻、西生徒館にいたのでアメリカの飛行機の攻撃がどの程度か見たいと思い、生徒館前の練兵場の南に構築されていた20人余り収容できる地下壕に向かって100メートルばかり走っていった。到着寸前に、低空飛来した攻撃機(多分、グラマン戦闘機?)から機銃掃射された。走っていた方向にそのまま顔を下にして伏せた。1.5メートル間隔に打ち込まれた機銃弾が地面で砂埃を上げた。巡洋艦に向かって飛び去ると直ぐに立ち上がり、まさに命からがら防空壕に飛び込んだ。壕内にいたのは3年生が大部分であり、その人たちは攻撃機に関心を持っていたので入り口近くに出ては観察していた。次から次へと猛攻撃。

*2017.06.14 読むと、なんと無謀なことをしたものだ。そのとき、銃弾で斃れてもおかしくなかった。宿命を感じさせられた。

参考1:昭和45年暦

参考2:死覚悟 でも「生きたい」/制御不能の潜水艦、海底に刺さる

 45年8月、九州・五島列島付近で、海面に浮上していた、長澤さんが乗る伊号第363は、米戦闘機・グラマンの攻撃を受け、艦上にいた乗組員2人が撃たれた。長澤さんと私はほぼ同じ年ごろである。私もグラマンの攻撃を受けた。青森県の出身であるので、青森県八戸中学校(旧制)出身:福田幸雄君が3号生徒のとき、507分隊で同分隊であった期友を思い出した。

参考:長澤連三郎さん写真集

▼この時の攻撃で2艦は完全に擱座(かくざ)してしまった。敵機の襲撃が終わり、午後には両艦の負傷者が兵学校に収容された。

▼戦時下、中学校では軍事教練を受け、学徒動員として勤労奉仕・海軍工敝での生産活動を通して私たちは戦争に参加していた。また、従兄弟が3人も戦死していた。

▼兵学校では将来の海軍将校の教育を受けていたので、戦争の意識はないとはいえなかったが実戦を目の前にしたのは、呉市の空襲(昭和20年5月と6月の海軍工廠への2度の空襲と引き続く7月1日~2日に呉市街地夜間無差別大空襲)とであった。八月六日広島原爆投下、八月十五日終戦へと急展開した。


終 戦

 八月十五日(水曜日)の前日か前前日だった。

 授業中の国語の教官が

 「君たちは眠っているが近いうちに大変なことになる」と、言われた。何のことか分からないままに聞いていた。

 終戦の日、午前中は通常の日課の授業を受けた。

 正午に天皇の放送があるから分隊の自習室に集合するように伝達された。自習机に座り、姿勢を正して「玉音放送」を聞いた。分隊自習室のラーウド・スピーカからの放送は雑音で聞き取りにくかったので内容は理解できなかった。全員無言で、冷静そのもであった。海軍兵学校全体も静粛であった。

 しかし目に見える変化が現れた。午後からは課業はなくなつた。一号生徒も囁きあっていた。翌日から教官の姿も目に入らなくなった。午前中は空襲に備えて解体していた木造生徒館の材木整理。夏の暑さが本当に身にしみ込むのを感じたものである。それまでは蝉の鳴き声にも勢いを感じていたが何となく寂しさを奏でているように思えた。午後は課業もなく、風呂に入ったりするようになった。一号生徒も下級生の指導は一切しなくなり、完全な虚脱状態としか言えない環境になった。

 数日経ってから岩国海軍航空隊の戦闘機?が飛来し、練兵場にビラを投下した。

 「我々は終戦を認めない、決起して闘う」といつた内容の檄文であった。そこで校長か副校長であつたか全校生徒を集めて訓示をされた。

 「天皇陛下の命令にしたがって生徒諸君はあくまで冷静に行動して軽挙妄動してはいけない」といつた内容であった。

 生徒同志、戦後処理の噂を囁きあった。私の記憶に残っている代表例は「イタリアの海軍兵学校生徒(存在していたのか現在でも知らない)は軍艦に乗せられて地中海の沖で轟沈させられた」といつたものであつた。それでは山の中に逃げて隠れよう。しかし長野(松本中学出身者がいた)の山中に隠れても見付け出されるだろうとも話し合ったものである。

 何時のころからか生徒を帰す話が出始めた。早く家に帰りたいなどは考えもしなかった。どんな編成で帰すとか、交通手段に何を使うのか、例えば汽車で帰るとすれば何処から乗るのか、四国・九州にはカッターで帆走にするとか。呉市から僅かしか離れていない江田島であるが校外の状況は全く知らされていなかった。

   海軍兵学校長訓示

 百戦効空シク四年ニ亘ル大東亜戦争茲ニ終結ヲ告ゲ停戦ノ約成リテ帝国ハ軍備ヲ全廃スルノ止ム無キニ至リ海軍兵学校亦近ク閉校サレ全校生徒ハ来ル十月一日ヲ以テ差免ノコトニ決定セラレタリ

 諸子ハ時恰大東亜戦争中志ヲ立テ身ヲ挺シテ皇国護持ノ御楯タランコトヲ期シ選バレテ本校ニ入ルヤ厳格ナル校規ノ下加フルニ日夜ヲ分タザル敵ノ空襲下ニ在リテ克ク将校生徒タルノ本分ヲ自覚シ拮据精励一日モ早ク実戦場裡ニ特攻ノ華トシテ活躍センコトヲ希ヒタリ又本年三月ヨリ防空緊急諸作業開始セラルルヤ鐵槌ヲ振ルッテ堅巌ニ挑ミ或ハ物品ノ疎開ニ建造物ノ解毀作業ニ或ハ又簡易教室ノ建造ニ自活諸作業ニ酷暑ト闘ヒ労ヲ厭ハズ尽瘁之努メタリ然ルニ天運我ニ利非ズ今ヤ諸子ハ積年ノ宿望ヲ捨テ諸子ガ揺籃ノ地タリシ海軍兵学校ト永久ニ離別セザルベカラザルニ至レリ惜別ノ情何ゾ言フニ忍ビン又諸子ガ人生ノ第一歩ニ於テ目的変更ヲ余儀ナクセラレタルコト誠ニ気ノ毒ニ堪ヘズ

 然リト雖モ諸子ハ年歯尚若ク頑健ナル身体ト優秀ナル才能トヲ兼備シ加フルニ海軍兵学校ニ於テ体得シ得タル軍人精神ヲ有スルヲ以テ必ズヤ将来帝国ノ中堅トシテ有為ノ臣民ト為リ得ルコトヲ信ジテ疑ハザルナリ生徒差免ニ際シ海軍大臣ハ特ニ諸子ノ為ニ訓示セラルル処アリ又政府ハ諸子ノ為ニ門戸ヲ開放シテ進学ノ道ヲ拓キ就職ニ関シテモ一般軍人ト同様ニ其ノ特典ヲ与ヘラル兵学校亦監事タル教官ヲ各地ニ派遣シテ漏レナク諸子ニ対シ海軍ノ好意ヲ伝達セシムル次第ナリ惟フニ諸子ノ先途ニハ幾多ノ苦難ト障碍ト充満シアルベシ諸子克ク考ヘ克ク図リ将来ノ方針ヲ誤ルコトナク一旦決心セバ目的ノ完遂ニ勇往邁進セヨ忍苦ニ堪ヘズ中道ニシテ挫折スルガ如キハ男子ノ最モ恥辱トスル処ナリ大凡モノハ成ル時ニ成ルニ非ズシテ其ノ因タルヤ遠ク且微ナリ諸子ノ苦難ニ対スル敢闘ハヤガテ帝国興隆ノ光明トナラン終戦ニ際シ下シ賜ヘル詔勅ノ御主旨ヲ体シ海軍大臣ノ訓示ヲ守リ海軍兵学校生徒タリシ誇ヲ忘レズ忠良ナル臣民トシテ有終ノ美ヲ濟サンコトヲ希望シテ止マズ

 茲ニ相別ルルニ際シ言ハント欲スルコト多キモ又言フヲ得ズ唯々諸子ノ健康ト奮闘トヲ祈ル

   昭和二十年九月二十三日

                         海軍兵学校長  栗田健男

 海軍兵学校練兵場の千代田艦橋前に生徒全体が集合しての訓示であった。

 「日本が敗れたのは科学の力の違いである」とも言われた。この一言はその後いつまでも私の心の中に残っていた。戦後、技術者の道を進む動機になった。

 九月二十三日以後、期友はそれぞれの故郷に散っていった。

 私たち一〇一分隊には賀陽宮治憲王が配属されていた。彼は少し早めに東京に帰られた。分隊監事・多久大佐(佐賀県出身)の先導で最後の挨拶に分隊自習室に来られた。軍務を離れての行事では身分が優先することを知った。彼は外交官として活躍されてた(平成二年現在)。

▼最終的には9月23日の校長訓示の後、外人部隊が進駐する前に、食糧として牛肉の缶詰少しばかりと事業服などを持って第一種軍装、短剣の正装で呉線の吉浦駅から満員列車で郷里に帰った。

参考:きのこ雲を見た原爆開発計画の指導者オッペンハイマー博士は「私は今、死になった。世界の破壊者になったのだ」とつぶやいたという。米ニューメキシコ州アラモゴード砂漠で初の原爆実験が行われたのは60年前の7月16日だった。          

▼その翌日から米英ソ三首脳のポツダム会談が始まった。会談場になったツェツィリエンホーフ宮殿を訪ねたことがある。ベルリンの都心から電車で30分ほどのポツダムは、プロイセン王家の離宮があった地。ロココ様式のサンスーシ宮殿が有名だが、そこから数キロ離れた木立の中の閑静な一角にその宮殿はあった。

▼宮殿というより田舎の別荘風で、会談場の部屋などは当時のまま保存されていたが、建物の一部がホテルとして使用されている。実験成功の報は「赤ん坊が生まれた」という暗号電報で、すぐにトルーマン米大統領に届いた。新型爆弾の存在は数日後に、大統領の口からソ連のスターリン首相にも知らされたという。

▼湖畔の緑したたるたたずまいで、そんな会話が交わされていた。日本に無条件降伏を迫るポツダム宣言が出たのは原爆実験から10日を経た7月26日。その11日後に広島に、14日後に長崎にきのこ雲があがり、20日後に「玉音放送」が流れた。原爆開発がほんの少し遅れ、終戦がほんの少し早かったなら。

2005年07月16日(土曜日)『日経新聞』春秋

*写真はグラマン戦闘機。

平成十七年八月十五日


 終戦の日の前後、陸軍・海軍の幹部の方々が、私たちの知ることのできない行動をされていることをあらためて知ることができました。

 その二つの事件を記録しまします。

 終戦の日、玉音放送を聞いたのち、宇垣中将は出撃している。

▼宇垣中将は、明治23年2月15日に現在の岡山県岡山市でご生誕されました。

 明治42年に海軍兵学校に入校し非常に成績優秀として成績優等章授与をされています。

 明治45年、海軍兵学校40期生として卒業後、太平洋戦争開戦時は連合艦隊参謀長でした、戦時中の日記『戦藻録』は今日でも太平洋戦争第一級の資料として内外からも高く評価されている。

 余談ですが、「黄金仮面」とあだなが付けられていたそうです、その由来はいつも自信家でプライドの高い人物で海軍での評判はあまり良くなかったようです。

 また、日独伊三国同盟締結問題についても一貫して反対の立場を表しましたがその後、海軍上層部の強い意思にしぶしぶ従いました。山本五十六元帥とは不仲であったと言う話があります、その理由の1つに皆さんもご存知の戦艦大和建造に関して宇垣中将は大艦主義者で大和の建造を推進したとの理由から山本元帥の主張する航空論いわいる戦艦大和一隻の資材、資金で航空機が1000機作れると、建造に強く反対していたんですね。

  山本元帥亡き後は、形見として短刀を貰っています。

 1945年の昭和20年8月15日正午にラジオ放送され昭和天皇による詔書である「終戦詔書」の音読放送を一般には指します。太平洋戦争の敗北宣言を国民に伝える放送です。

▼宇垣中将はこの玉音放送を聴いた後に特攻に出ています、終戦後、日本の陸海軍の上層部の幾人かは自害をしています。

 出撃前、大分基地にて彗星前で撮った写真に宇垣中将は笑顔で写っています。そして軍ぷくは中将の階級を示す襟章が外されていました。

 当時、高官が死地に赴くときには、階級を示すものを外す習慣があったのです。

▼なお宇垣中将は、ポツダム宣言受諾後に正式な命令もなく特攻を行ったため、戦死とは見做されず大将昇級は行われていません、現在も靖国神社には合祀されていないのです。

 岡山市護国神社へのいりぐちの丘陵地帯の一部に記念碑が建立されていて、故郷での永遠の眠りについています。

▼陸軍でも終戦の8月14日から15日にかけて下記の事件が起こっていた。

 宮城事件


玉音放送5時間後「最後の特攻」11機が飛び立った…国が認めぬ死、語り継ぐ命 大分 毎日新聞2019年8月16日 11時07分(最終更新 8月16日 12時15分)

「最後の特攻隊」の慰霊碑。大分市青葉町の大洲総合運動公園で2019年8月14日午前9時30分、尾形有菜撮影

 大分市の大洲総合運動公園にかつてあった大分海軍航空基地から74年前の8月15日夕、11機の特攻機が沖縄方面に飛び立った。第5航空艦隊司令長官の宇垣纏(まとめ)中将(当時55歳)が率いる艦上爆撃機「彗星(すいせい)」。宇垣に付き従った19~24歳の隊員17人が命を落としたが、その若い死は「特攻隊の死」とは認められなかった――。

 「地元の人でもこの『最後の特攻隊』を知らないんです。国にも特攻隊として受け入れられてないですから」…


 八月十五日、とうとう神風は起らなかった、前線の兵隊さんはどうして居ることだろう。痛歎のの余り自決! ああそんなことはない、私達を、可愛い子供を残して死ぬものか、きっと帰って来る、私もとうとう子供を守り通して、もう爆弾で殺されることはない、終戦―何と空々(そらぞら)しい静けさであろう。ただ呆然として、夫が帰って来たら…とそればかりを思う。しかし天は私達に前以上の試練を下されたのでした。

 終戦と同時に軍隊の消滅、物価の暴騰、僅かばかりの貯金の封鎖に、帰還の日の一日も早からんことを祈りつつ、夜ふけてコツコツと聞こえて来る靴の音に今度はと何度も胸をおどろかせたことでしょう。(いとし子と耐えてゆかん) 
8月15日、日本は連合軍医無条件降伏した。日中事変以来の損害、戦死約二三三万、戦災死傷約七〇万、家屋二九八万戸。次は未亡人の手記

*桑原武夫編『一日一言』―人類の知恵―(岩波新書)より

平成二十六年八月十五日


7

軍人らしさの印象


 八十歳近くなって、私が海軍兵学校に在学していたことを知っているある知人から

 「黒崎さんは軍人らしさが感じられる。何を軍人の時にえられましたか」と問われた。

 自分史に海軍兵学校時代について記録しているが、このホームページには断片的にしか書いていない。この質問を機会にまとめた。

 現在の高校2年生の年齢(17歳:当時は中学校五年生)で、76期生徒として入校した。そして10カ月程度で終戦。非常に短期間の教育で約60年後のいまだに軍人らしさの印象を人に与えるのはなぜだろうか?私にも不思議だ。

 私が会社勤めをしているとき、同じバス停での顔見知りの人から

 「貴方は学校の先生ですか?」また、ある人は「県庁に勤められているのですか?」と言われたことがあった。

 会社に勤めていたとき、工場生産現場から研究所に転勤した。その研究所で仲間に

 「私は工場生産者か、研究開発者のどちらにむいているか?」とたずねた。

 「開発研究者にむいている」との返事がかえった。

 当時の私は工場での生産が好きでしたので、当然「工場生産にむいている」と期待していた。

 これらのことから、「自分が思っている自己の姿」と違い、他の人々にはいろいろな見方をされるものだと。

 その理由は外観(姿勢をふくめて)や口のききかた、人前での行動・ふるまいが他人の判断に影響を与えているものではないかと。自分も他の人を見るとき同じことをしているだろう。

 知人が「軍人らしさが感じられる」のは、私には分からない。

 私が生徒の時に教育理念はどんなものであったかを整理すると

 1、「紳 士 教 育」:紳士は、今は廃語に近い言葉だとおもえる。「あの人は紳士だ」という言葉を聞くことはない。ジェントルマン・シップの精神についてイギリスに住んだことがないので約60年またそれ以前ならびに現在の実情とでは、比較はもちろん想像さえできない。

 海軍兵学校はイギリスの学校を模範にして多くの制度を取り入れられたといわれている。

   兵学校校長の教育の根本理念を『井上成美』(井上成美伝記刊行会)に次のようなことが述べられている。

   昭和二十七年十月、横須賀・長井に隠棲中の井上を訪ねた槙智雄防衛大学長(初代)からの質問に対し、彼は生徒教育の根本理念について次のような話をしたという。

 私は、ジェントルマンをつくるつもりで教育しました。つまり、兵隊をつくるんじゃないということです。丁稚教育じゃないということです。それではそのジェントルマン教育とは何かということになれば、いろいろ言えるでしょうが、一例を言ってみればイギリスのパブリック・スクールや、オックスフォード、ケンブリッジ大学における紳士教育のやり方ですね。

 これは、それとは別の話ですが、第一次世界大戦の折、イギリスの上流階級の人達が本当に勇敢に戦いましたね。日ごろ国から、優遇され、特権を受けているのだから、今こそ働かねばというわけで、これは軍人だけじゃないですね。エリート教育を受けた大半の人達がそうでしたね。

 私は、第一次大戦の後、欧州で数年生活してみて、そのことを実感として感じました。「ジェントルマンなら、戦場に行っても兵隊の上に立って戦える・・・・・」という事です。ジェントルマンが持っているデュティとかレスポンシィビィリィティ、つまり義務感や責任感・・・・戦いにおいて大切なのはこれですね。

 その上、仕官としてもう一つ大切なのは教養です。艦の操縦や大砲の射撃が上手だということも大切ですが、せんじつめれば、そういう仕事は下士官のする役割です。そいう下士官を指導するためには、教養が大切で、広い教養が大切で、広い教養があるかないか、それが専門的な技術を持つ下士官と違ったところだと私は思っておりました。ですから、海軍兵学校は軍人の学校でありますが、私は高等普通学を重視しました。そして文官の先生を務めて優遇し、大事にしたつもりです。

 江田島での具体的な例を挙げますと、たしかに海軍の技術教育、例えば運用術、砲術、通信技術,航海術などなどに比較して基礎学科:数学・物理・化学・国語・英語(英英辞典を使用)など。また、服装・身だしなみに非常にきびしいものがありました。

 1、マナーの例えでは、私のホームページにも書いていますが、校内の散髪店での料金は確か5銭でしたが、そのお金を持たない場合は例えば1円しか持たない場合はそれを入り口の料金に(受取人はいない)そのお金を入れておつりは取らないことになっていた。

 2、「いいわけをするな!」:軍人の学校ですから、卒業すればいつどんな戦闘に出会うか分かりません。そのとき、自分のその場その場での行動の言い訳をしても自己責任の回避に過ぎないことは明白である。結果がすべてであることは間違いないだからだったのでしょう、生徒の時に先輩から注意されたとき、なにかその理由を口に出そうとすれば、直ちに問答無用の「言い訳をするな」と厳しく叱責されたものでした。

 3、「明日は明日の風が吹く」:人間は、明日のことはわかりません、特に軍人は戦場に赴けば、軍人でないものに比べてそこには戦闘による生死しかないのは当然ですから、生徒の時によく先輩から聞かされました、歳を古るごとにその意味の理解が変わってきています。

 僅かな事実しか述べませんでしたが、私たちが入校した昭和十九年十月の僅か2カ月前に井上校長は海軍省に転出されましたが、校長の理念は私が教育を受けたときも具体的に実行されていたと今でも思っている。

 十七歳ぐらいの年齢で刻みこむまれた教育が私の精神のどこかに残っていて、それが私のかもす印象として他の人にあたえているのでしょう。

海軍兵学校

*写真は私が入校してしばらくして撮影したもの。


参考文献:岩波新書 池田 潔『自由と規律』―イギリスの学校生活―には、池田 潔さんが、イギリスのパブリック・スクールの一つリース・スクールに留学されており、詳しく述べられています。一読してください。

 最近の情報ではイギリス議会は形の上では日米と同じ二院制ですが,上院(貴族院 = House of Lords)は中世の制度を引き継ぐ世襲・任命による 議員からなり,政治上の機能はほとんどありません.上院改革はブレア首相の公約の1つで,今回下院が上院議員を選挙制とする案に賛成したのは,ブレア政権にとっても大きな前進です.ただし今回の投票結果に強制力はなく,上院に対して検討を勧告するといった意味合いです.上院にはこの全員選挙案を含む複数の案が送られます。

 このようにイギリスでも徐々に社会的制度・風土が変化していると私は思いますので、あくまで参考として読んでください。

平成十九年三月十日


 『獅子文六全集』を読んでいるとき、次のような文章にであった。

海軍の姿勢

 「いくら背広を着ていらっしても、海軍サンだけはわかりますよ」

と、老練なる女性がいっていたが、それは潮焼けのした顔色や、海の号令で鍛えた声をもってのみ、はんだんするのではないらしい。海軍軍人には独特の姿勢があって、遠く街上を歩いていても、一見それと知れるというのである。

 そういわれてみれば、市電の監督と海軍士官とは、ちょいと外見が似ているが、印象がまるでちがうことを、考えずにいられない。水兵や兵曹の姿勢にも独特なのものを感じるが、士官のそれには、格別の味わいがあるのである。

 それを一口にいえば、「威あって猛からず」という姿勢だが、猫背でもなければ、反り返りもしない姿勢である。肩も振らなければ、脚を突っ張るでもない歩き方である。端正ではあるが、窮屈ではない。粋ではないが、野暮でもない。なにか、スーッとして、キュッとしてーーとでもいう外はない姿勢なのである。

 帽子のかぶり方にしたってそうである。海軍軍人が、横にちょっと阿弥陀にかぶっているのを、見たことがない。水平線のように、真ッ直ぐにかぶっている。外国の海軍軍人は、どういうものか、決して 軍帽を正しくかぶらない。Uボートの勇将プリーン大尉の如きでさえ、マドロス風に、ちょっと横っちょにかぶつている。

 僕は、帝国海軍将校のあの正しい姿勢が、どこから生まれたのかと、疑問を持っていたが、たまたま、海軍兵学校を見学した時に、些か氷解するところがあった。廊下に、大きな鏡があった。

 意外にも、兵学校ほど態度容儀を尚ぶところはなかった。軍艦旗掲揚の下に行われる軍装点検が、いかに念入りでいかに厳格であるか、想像を絶するものがあった。微塵ほどの乱れも曲りも、許されなかった。個人的な偏した癖は、悉く撓(た)められ正された。それほど海軍は外見を尚ぶのかと、僕は驚いたくらいである。

 しかし、それが外見でも、形式でもないことは、更(あらた)めて訊く必要のないことだ。人間の姿勢というものが、どういうところで生まれ、またどういうものを養うか、いうまでもないことだ。『獅子文六全集』(朝日新聞社)P.500

参考:ギュンター・プリーン(独、1908年1月16日 ? 1941年5月7日)はドイツ海軍(Kriegsmarine)の軍人。第二次世界大戦初期における著名なUボートエースの一人で、最初に騎士鉄十字章を授与されたUボート艦長である。プリーンの指揮の下、潜水艦U-47は30隻以上の連合国艦船、合計約20万トンを撃沈した。しかし、彼の飛び抜けて、かつもっとも有名な戦績といえばイギリス海軍本国艦隊(The Home Fleet)の本拠地スカパ・フローに係留されていた戦艦ロイヤル・オークを撃沈したことである。

★思い出せば、私も、外出(校内から江田島の町にでる)前には、西生徒館の分隊自習室前の廊下にあった靴磨き台で革靴の踵まで泥を落として靴墨を塗り、ぴかぴかにした。そして東側に移り、等身大の鏡の前で姿勢を正して、第一種軍装(写真の通り)・軍帽・短剣などを自己点検して、生徒館前での服装点検を受けていたものでした。

平成29(2017)年5月23日


7

知られたくない事実―戦時下―


 『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』林 えいだい〔著〕東方出版・2940円
 朝日新聞(2007年4月29日)書評を読んだ。

   一度出撃しながら、基地に引き返した陸軍特攻隊員の秘密の収容施設が、福岡に置かれた振武寮であった。

 出撃時には「生きている神」と讃えられた特攻隊員は、帰還後はあってはならない卑怯者として隔離・虐待されることになる。負い目を感じて生き残った彼らが重たい口を開いたのは、その晩年になってからである。
 引き返した理由は、さまざまであった。搭乗する機体が古く整備不良で、目的地に着く前にトラブルを起こしたとか、中継基地が米国の空襲を受けて搭乗機が破壊されたなどの原因も多かった。戻ってきた特攻隊員の数は、沖縄戦の中でどんどん増加していく。陸軍特攻を担当した第六航空軍は、この予想もしない事態にうろたえて、それを隊員個人の責任にしたのである。

 本書からすると、第六航空軍の幹部は徳之島の前線基地まで視察に赴き、特攻機がまともに飛べず、特攻作戦が破綻している事実を知っていたと思われる。しかし今さら、特攻実施の決定を覆せないと考えていたようだ。今日にもある官僚的思考の無責任さを暴く、ドキュメンタリーともいえよう。
               赤沢 史郎(立命館大教授)

▼上の書評を読み、戦時下の当時同じような事例がないかとおもった。たまたま、吉村 昭『戦艦武蔵』(新潮社)(昭和四十一年十月十五日)をあらためて読むと、今まではよみすごしていた次のような記述に目が留まった。

 全乗組員二千三百九十九中千三百七十六の生存者は、駆逐艦清霜、浜風でマニラへ向かったが、途中で急にコレヒドールへ回航になった。かれらは大部分が、下腹部まで露出した裸身で一人残らず素足であった。かれらがマニラへ上陸することは、武蔵の沈没を知らせるようなもので、それをおそれた海軍中枢部は、かれらをコレヒドールへ向けたのである。

 かれらはコレヒドールに上陸すると、素足で石だらけの道をのぼらされ、山腹の仮兵舎に収容された。海軍にとってかれらは、すでに人の眼から隔離しておきたい存在だった。武蔵乗組員というなは、かき消したかったのだ。かれらの所属は、どこにもなかった。かれらは副長の姓をとって加藤部隊というなを与えられ、さらにいくつかの集団にわけられた。(以下略)

*戦艦武蔵の最終の状況は以下のとおりである。私が海軍兵学校に入校した約1カ月後のころの戦闘である。
 以下の記事は『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による。
 1944年 - 10月24日
 9時30分 大和の見張員がアメリカ陸軍偵察機を発見
 10時頃 能代のレーダーが100キロの彼方に敵機の大編隊を発見。
 10時25分 敵機約40機 を見張員が発見。しかし乱積雲の中に見失う。
 10時27分 第一次空襲(44機)。外周の駆逐艦、巡洋艦の砲火をくぐりぬけ武蔵に殺到。爆弾1発が命中したが、厚い装甲が跳ね返し、空中で爆発。(被害なし) 3本の魚雷が襲うが2本は船底の下を通り抜けた。しかし1本命中。この影響で主砲が発砲不可能(ただし、被弾ではなく主砲斉射の衝撃で方位盤が故障した、と証言する乗員も居る)。艦は5°傾斜したが、注水し復元。
 11時54分 レーダーが敵機の編隊を察知
 12時07分 敵機来襲。主砲は故障のために個別発射のみ。主砲三式弾9発発射。事前ブザーがなかったために多くの甲板員が爆風を受ける。魚雷3発と爆弾2発が命中。最大速力22ノット。
 13時25分 第三次空襲。集中攻撃を受け爆弾7発と魚雷5本命中。速力16ノット。輪陣隊から離脱。
 14時20分 第四次空襲。輪陣隊から離脱していたため攻撃を受けず。大和、長門に攻撃集中
 15時15分 第五次空襲。集中攻撃を受け、爆弾10発、魚雷11発、その他多数を受け大火災を起こす。
 17時30分 栗田艦隊と遭遇。摩耶の乗組員約600人が駆逐艦島風に移乗。「全力をあげ、島沿岸に座礁し陸上砲台となれ」との命令が下る。6ノットにて微速航行。左舷への傾斜が10°を超えたため、機銃の残骸や負傷者や遺体が右舷に。

▼陸海軍を問わず軍部の中枢にいたものは似た行動をとったことが知られる。
 歴史には「もしもは許されない」ことは知っていますが、「もしこんな事情が当時の私たちにしらせてくれる人が或は報道機関があったならば・・・、日本の戦後の歴史はどうなっていただろうか」と。
 さらに思う、現在でも「知られたくない事実」が明るみになり様々な社会的な反応が起こっている。

平成十九年五月九日、平成二十八年十一月二十三日


8

『井上成美』


 遠藤周作『生き上手 死に上手』(文春文庫)P.101のなかに「面従腹背の生き方」の章に「組織のなかの二つの生き方」の節がある。それには

 友人の阿川弘之の小説『井上茂美』(1986年 9月 25日 発 行)がよくよく読まれている。お読みになった方はもうご存知だろうが、戦争中の海軍という組織にあって、ともすれば目先の情勢に眼がくらみ、大局の見通しをあやまった軍人が多かった時、良識と信念とを失わなかった一軍人の生涯を書いた作品である。

 友人の気やすさで、私などはこういう海軍の小説は限られた人にしか読まれまい、とても若い連中の心をひきつけないぜ、と作者に言っていたのだが、その予想を裏切るめでたい結果になり、このところ阿川弘之氏は嬉しそうである。

 私はこの作品を読んで、こういう自説をまげぬ男がよく当時の海軍でその地位を保てたものだとふしぎに思い、作者にたずねると、海軍には井上成美(海軍兵学校第37期)をひそかに支持する立派な上司(たとえば米内光政大将)がいたからだということだった。

 おそらく、この作品が多くの読者をえたのは組織のなかで信念を守りつづけた強い男のイメージが現代のサラリーマンたちの切実な願望になっているからだろう。
 しかし、実際、我々が大きな組織に属していて自分の信念を守るということは大変にむつかしいことだろう。

 この記事が引き金になり、参考に書いているものを読み直してみました

 私は井上校長が海軍次官に転出した(昭和19年8月)のちの10月に海軍兵学校に入校したので直接謦咳に接することはなかった。

 生徒であったときのわずかな体験のなかで、自分でも知らなかった学校の方針などを取り上げてみた。

▼一 当時、生徒に対する精神教育のため、教育局から平泉澄(きよし)東大教授がたびたび派遣されていた。平泉博士の皇国史観は、国内、特に軍部を風靡していて、兵学校の歴史教官の中にもその学統の人がいた。博士は、草鹿任一校長時代までは、直接生徒に対して講和することもあった。しかし井上は生徒に対する講和を断り、専ら、教官研究会だけに講和をしてもらうことにした。井上は自らも聴講して、具合の悪い箇所に気づくと、講和が済んでから教官たちに注意するのが通例であった。例えば、昔の武士が余りにも自尊心が強すぎて、他国、他藩を理由もなく見下げるような話があったときは、「こういうのは、うっかりすると、若い士官の自惚れを助長させる危険がある」といった具合である。

参考:平泉皇国史観:扇谷正造『現代ビジネス金言集』P.125

 私は東大の三年間(昭和七年~十年)、ほとんど教室にはでたことはなかった。ある日、珍しく中世史の講義に顔を出した。終ると助教授の平泉澄博士によびとめられた。

「君はヤル気があるんですか」

「ハイ、あります」

「それなら、教室に顔を出したまえ」

 さすがに、その後二、三回は出席したが、“平泉皇国史観”にはどうにもついて行けず、結局、成績は丁(落第点)だった。卒業単位は十八課目だが、乙と丙が大部分である。

体験と感想:しかし以上の教育方針は引き継がれていた。皇国史観について講演を聴いたことはなかった。

▼二 英語教育について、満州事変以後、日本精神昂揚運動が盛んになるにつれて英米排斥の風潮が次第に強くなっていた。英語は敵性外国語として嫌われ、野球用語まで、ストライクを「よし」に、ボールを「だめ」に言い換えるような有様であった。その傾向は年を追って激しくなり、特に太平洋戦争開戦後は、中学校でも英語の授業を減らしたり、廃止するころが多くなった。

 こうした世相を反映して陸軍士官学校では、生徒の採用試験科目から英語を除くことになった。海軍省教育局も、兵学校に対し、非公式ながら学校側の意見を聞いてきた。

 井上は、明快な口調で断を下した。

 「兵学校は将校を養成する学校だ。およそ自国語しか話せない海軍士官などは、世界中どこへ行ったって通用せぬ。英語の嫌いな秀才は陸軍に行ってもかまわぬ。外国語一つもできないような者は海軍士官には要らない。陸軍士官学校が採用試験に英語を廃止したからといって、兵学校が真似することはない」

 井上の決裁によって、採用試験に英語が残されたことははむろん、入校後の生徒教育でも、英語が廃止されることはなかった。多数意見を却下された教官たちの間には「校長横暴」の声もあったが、「こいう問題は、多数決で決めることではない」とする井上の考えは不動であった。

 戦後になって、井上のこの措置は卓見であった、と一般に言われている。アメリカの海軍では、対日戦争開始と同時に日本語の講座を開設していたのである。

 英語教育について、井上は、少ない英語の授業時間の中で「センス」を養成する方策として「極メテ大胆ナル表現ナルモ」としながらも、次のような一案を英語教官たちに提案した。

 (一) 兵学校ノ英語教育ハ、文法ヲ基礎トシ根幹トスベシ
 (ニ) 英語はハ頭ヨリ読ミ意味ノ分カルコトヲ目標トスベシ。英文ヲ和訳セシムルハ英語ノ「センス」ヲ養フルニ害アリ、〔中略〕和訳ハ英語ヲ読ミ乍ラ英語ニテ考フルコトヲ妨ゲ、反対ニ英語ヲ読ミ乍ラ日本語ニテ考フルコトヲ強フルヲ以テナリ
 (三) 常用語は徹底的ニ反復活用練習セシムベシ
 (四) 常用語ニ接シテハ、ソノWord Familyヲ集メシメ、語変化ニ対スル「センス」ヲ養フベシ
 (五) 英文和訳ノ害アルガ如ク英語ノ単語ヲ無理ニ日本語ニ置キ換ヘ訳スルハ、百害アリテ一利ナシ。英語ノ「サービス」ノ如キ語ヲ日本語ニ正確ニ訳シ得ザルハ、日本ノ「わび」トカ「さび」トカ云フ幽玄ナル語ヲ英語ニ訳シ得ザルト同ジ

 生徒に、長年親しんできた英和辞典の代わりに、英英辞典を使用させるよう要望したのも、こうした井上の考えによるものであった。 

▼体験と感想:私は海軍軍人は軍人であると同時に船乗りであると思う。このことを忘れたものは兵学校で教育を受ける資格はないのではないかと。私たちも終戦になるまで英語の授業はあった。しかも上述の英英辞典を生徒一人一人に配布されていた。


東大卒業生のメリット

 私が思い出すのは、元東大総長小野塚喜平博士の、学生時代に聞いた演述である。

 小野塚博士は一年中、内外の新聞雑誌に広く目を通しているといわれていた。それは毎年の卒業式において何をしゃべるか、ということのためといわれていた。それはいわば博士の時代との対決であったろう。ある年、こういうあいさつをされた。

 「東大卒業生が、もし誇りうるものがあるとすれば、それは何か? 諸君は日本語以外にの他の外国語を一つ修得していることである」

 正直、このあいさつを聞いた時は、ガッカリした。あまりにも平凡なのである。しかし、後年になって、この意味の深さを知るようになってきた。

 時は、昭和七、八年ころである。満州事変はすでにはじまり、日本国内は急速に国家主義的色彩にぬりこめられ、偏狭な愛国主義が横行しはじめていた。博士のいう真意は、たぶん修得した外国語をもって、諸君は相手国の歴史人情を知り、そして戦うにせよ、手を結ぶにせよ、他日に備えよということでもあったろう。今にして私は博士の識見に思いをいたすのである。ここで博士のいわれたことは「彼」ということで、それは国としても個人としても同じことである。そして個人の場合、「知彼」のためには“聞き上手”が最良の武器となる。では具体的には聞き上手とはどういうことか。

扇谷正造『聞き上手・話し上手』(講談社現代新書)P.60より


 三 井上の死生観の指導について、自らの考え方を教官たちにこう語った。

 「武道や禅の修業で、生死について悟りを開くなどという人もいるが、普通の人間がそんな境地に簡単に達せられるはずがない。海軍機関学校では、『事に臨んで従容として死につく』ことを強調しているようだが、これは死を美化するようで、どうも無理がある。『葉隠』の『武士道とは死ぬことを見つけたり』では、ちょっと死というものを大騒ぎする感じだ。死にさえすれば人から賞められる、というような誤解を起こしたら、訓育上大変なことになる」

 井上は、死に方が大事だという思想は本末転倒だと考えていた。むしろ、たとえどんなに格好が悪くても生き延びて、与えられた職務を遂行することが根本である、その結果としてぶざまな死に方をすることがあっても、そんなことは問題にしない、というのが彼の信念であった。

 この「職務第一、生死超越」という考え方そのものは兵学校の伝統であった。しかし「死を美化したい」願望は当時の軍人の誰しもが持ち易いものであった。井上はそれを真正面からとりあげて批判した。

 井上が離任したあと、小松輝久校長の時代に、生死の問題に迷って自殺した生徒が出た。しかし、結局は、井上が強調していた「職務第一、生死超越」という考え方で生徒を指導することに落ち着いた。

▼体験と感想:私は直接に生死のあり方について教育された記憶がない。ただ、卒業前の上級生徒たちは真剣にお互いが話し合っていたように感じる場面はみることがあった。現在の学校制度では私は高校を卒業したばかりの年齢であった。兵学校在学中、 『戦陣訓』は読まされたことはなかった。

 海軍兵学校に短期間在籍したわたしが現在の問題と少しは関連する井上成美海軍兵学校校長の指導の一部のみを取り上げました。私自身がこの文章は不十分だとの感じています。
 冒頭に私などはこういう海軍の小説は限られた人にしか読まれまい、とても若い連中の心をひきつけないぜ、と作者に言っていたのだが、と遠藤周作氏が言っていますが、機会がありましたら、『井上成美』(井上成美伝記刊行会)、阿川弘之『井上成美』などをお読みください。

参考:海軍兵学校歴代海軍兵学校長をご覧ください。

  平成二十年三月六日、平成二十三年一月三日読み直す。


 井 上 成 美 提 督 を し の ぶ

 昭和五一年一月三一日東郷記念館での井上成美元海軍大将追悼会における阿川弘之氏の講演

 私は同じ海軍仲間と申しても、戦争末期の三年間を予備学生出身の士官として海軍に御奉公しただけのものであります。江田島において井上校長の薫陶を受けたこともありませんし、まして艦船部隊や海軍省部下として井上提督のお仕えしたこともありません。ただ、戦後横須賀市に隠せいされた井上さんを二度程この海に見える丘の上の長井のお宅に訪ねて親しく長時間にわたってお話を受けたわる機会を得ました。その意味では私は井上成美大将に接することを得た数少ない文筆家の一人であります。

 時間の範囲内で追悼のおもいをこめて私の見た井上成美大将を語りたいと存じます。

 本日多くの方々からさまざまのお話が出ましたけれども、井上さんが海軍軍人として果たされたお仕事のうち、もっともおおきかったのは、やはりひとつは米内さんのもとで海軍次官として早期終戦のイニシアチブをおとりになったこと、今ひとつは江田島の海軍兵学校において校長としてあげられたご業績であろうと私は思っています。

 戦後あるジャーナリストが井上さんのことを伝えきいて井上さんにあって、「井上提督、結局あなたは生涯をリベラリストとしてつらぬかれたということになりますか。」と質問したところ、井上さんはすまして、「いいえ、その上にラジカルという字がつきます。」と答えられたという逸話がございますが、海外駐在のご経験も長かったし、そういうふうで世界の中での日本の地位、その日本海軍の使命というものについては壮年の頃から一貫して極めて真摯に見つめとおしてこられたように承知いたしております。時の風潮に流されて、新興のドイツ、イタリーと結んでもアメリカとの戦争の危険を増すだけで、日本にとって何のいいことも考えられない。ワシントン会議、ロンドン軍縮会議以来のアメリカの怨念がつもりつもって米国とのいくさをはじめたところで、日本の国力でとうてい勝てるわけがない、との冷静な判断から軍務局長時代には米内光政海相、山本五十六次官と一致して日独伊三国軍事同盟の締結に命がけで反対され、開戦の年には航空本部長としてあの有名な「¥新軍備計画論」を骨子とする建白書を書いて日米開戦に反対して、戦争末期には本土決戦に反対して、強行に早期終戦を主張されました。その果たされた役割は、ある意味で消極的なもの、マイナス方向のもの、陛下の御努力と似ておるところでありまし、幕末維新に際して阿波守勝海舟の果たした役割とも似かようところがあるように私は存じます。

 井上さんの胸中には、敗戦と亡国とは違う、いくさにまけても国は亡びない、この無謀な戦争になんとか早くきりをつけてあとの日本を再建することを考えねばならんという強いおもいがあったと存じます。

 軍艦大和の特攻出撃に際して乗艦中の候補生退艦を命じるように手をうたれたのも井上さんであったときいていますが、「海軍の海軍」というようなおもいは、とっくに越えておられて、これもこの若者たちに生き残ってもらって国の再建をしてもらわねばならぬというお考えからであったでしょう。それは日清、日露の役で伊藤祐幸、山本権兵衛、東郷平八郎といった諸先輩の果たしたような前向き、積極的な明るい努力ではありませんでした。暗い、つらい孤独の戦いであったとおもいます。しかし井上さんは米内さんらと共にマイナス方向への努力を積みかさね、積みかさねてよくこれをプラスに転じ、今日の豊かな日本への道を開いてくださいました。これらのことはしかしよく知られている事実でもあり、すでに皆様のお話にもでましたので、私は今からちょうど満八年前の一月、長井のお宅におじゃまして、じかにうかががった井上提督の兵学校時代のおもいで話をご紹介しておきたいと存じます。

 七十何期かのご出身の方々には失礼にあたるかも知れませんけど、こういうふうに言われました。

 昭和一七年の秋、自分が江田島に着任して様子を見ていると、生徒たちの目がつり上がっている。ものすごいつらがまえをしておる。何かこわそうな、ものを警戒するような、いやな顔をしている。ここは全寮制のいわゆるレジデンシャル・カレッジで生徒たちは全員学校で生活しているんじゃないか。生活があればそこにはホームがなくてはならない。あれはホームがある人間のつらがまえではない。家畜のような、前科三犯のような実にいやな顔つきだ。さっするにあまりにも規律が多すぎる。セレモニーが多すぎる。自分で、ものを考えて処理する余地がない。いったいあんなつらがまえで兵隊の前に出られるのか。あれは士官の顔じゃない。

 士官の顔とはそれでは何かといえば、自分の意見では、部下をひきつける何らかの徳を備えた余裕のある人相でなくれはならん。生徒をもっと遊ばせろ、と私は主張しました。

 校長横暴の声が高かったようですが、これでは教わったことがこなれない。デシプリンも必要だけれども、生活にはおのずからなるリズムがなくてはならない。人間四六時中、張切りぱなしにはりきっていられるものではない。もっと自由な時間を与えて、のびのびと生徒を遊ばせてやれ。その間に習ったことが意識の深いところに降りていって本当に自分のものになるんだ。ことに船乗りや飛行機のりとしての、手足を動かす技術などというものは、よけいなことそうだ。杓子定規なやり方はやめる、と申したのです>。また武官教官ばかりがいばっているのはいかん。普通学を大切にするという意味から文官教授をもっと大事にせねばならぬと思っていた私は「教授長」という職をつくって別の部屋を与えたりもしました。一人数学の文官教官で授業中道草をくわせるのが大変上手な人があって、私は授業を参観して感心し、「あれは道草のように見えるけれど、けっして時間の浪費になっていない。道草は馬がおいしいとおもって食べる青々とした草のことで、これは大事なことなんだ。むろんそれだけではいけないけれども、馬をやしなう道草をくう馬を不真面目な馬と思って叱ってはいかん。教授長、あの数学教授を君からほめてやってくれ。」と頼んだこともある。といわれました。そのほか、母校の江田島参観に来て一言生徒に訓示をしたそうな某大将に、井上さんが絶対に訓示をさせなかった話とか、参考館にかざってあった歴代海軍大将の肖像を、「あの中に半数国賊がおる。」といって全部おろさせてしまった話とか、兵学校における英語教育の廃止をガンとして認めなかった話とか、これらはよく知られているとおりでございます。敵性語の廃止は、当時国をあげての風潮でありまして、「天の声」、「民の声」とさえいわれたものです。井上さんのこのようなやり方に対しましては、一部に、今度の校長はなんだ。まさか福沢諭吉ではあるまいし、今は一種のかたわ教育をほどこして、一刻も早く生徒を第一線に立てるべきだという声がありました。そういう声を排して、目の前のことにすぐ役立つような教育は丁稚教育であって、そういう教育を受けた者は状況に変化が生じた時には、まったく役に立たなくなる。吾人は丁稚の要請をもって本校教育の眼目とするわけにはゆかない。我々の目標は、二十年後、三十年後に、しんに、大木に成長すべきポテンシャルをもたしむるにあって、どこの国に他国語のひとつやふたつ話せない海軍兵科将校があるか。そのような者は海軍士官として広く世界に適用すべからず。といって英語の廃止を絶対に許さなかったんです。

 私はこれらのことを、その前おじゃました時にもうかがっておりましたし、書き残されたもんでも読んで承知しておりましたが、この時私は「井上さん、兵学校での一連のああいう校長としておとりになった教育措置は、日本が負けたときのことをお考えになってのものですか。」と尋ねました。「いや大戦争の最中で、私もそこまで考えていたわけではありません。」と答えられるかと思ったら、井上提督は老いの顔をひきしめ、非常にきついお顔におなりになって、「むろんそうだ。」と言われました。「軍人はたてまえとして勅命によって戦っておる。それは私共軍職にあるもののつらいところで、生徒たちに、表向き、そんなことは一言も言うわけにいかないけども、あと一年か一年半すれば、日本がこのいくさにまけるのは決まりきったことだ。その時数千人の若者たちが、海軍といううしろだてを失っても、世の荒波に耐えて生きぬいていける。日本再建の基幹になってくれる。それだけの素養を与えておいてやるのは、せめてもの我々の務めだとおもったからだ。反対も非難もおしきってあんなことをやったのです。」とおっしゃいました。

 「そらから、当時の兵学校のことをもっと知りたければ君、小田切君がよく知っているから。」と言われ、横須賀からかえってある日、私は防衛庁戦史室に、そこに座っていらっしゃる小田切正徳大佐をお訪ねしました。小田切さんは井上校長時代に海軍兵学校に企画課長として御在任になった方であります。いろいろ貴重な話を防衛庁の一室で私にきかせてくださいましたが、その中で私がもっとも感銘を受けたのは、井上さんと鈴木貫太郎大将にまつわる一つのエピソードでございました。井上校長時代の兵学校に、その頃閑職にあった鈴木さんが、平不kでブラリと訪ねてこられたことがあるそうです。校内参観が終わって貴賓室で井上校長と鈴木さんとが、さし向きに座られたそばに、いったいどんな話が出ることかと小田切さんはきき耳を立ててかしこまっていると、鈴木貫太郎大将が、「井上君、兵学校教育の本当の成果が現れるのは二十年後だぞ。いいか。二十年後だぞ。」といわれるのがきこえ、それに対し、井上中将が、我が意を得たようにうなずいておられるのがみえたと申します。鈴木さんは申すまでもなく、米内さんと並んであの戦争を終息させるにもっとも功のあった方であります。鈴木さんも米内さんも二十年後はおろか、敗戦後五年をまたずして亡くなられましたが、井上さんだけはあの時から鈴木さんの言った二十年がたち、三十年がたとうとして、教え子たちが日本の各界の中堅となって活躍する姿を見たうえで、さみしい隠棲生活ながらも天寿を全とうして亡くなられました。その意味では井上さんは幸せであったと私は思います。

 私は井上さんを深く尊敬しているものでありますが、江田島時代には今度あの校長は論理学の教科書のような男だという声がして、一部では逆に国賊とも呼ばれておりましたし、今日なお、軍制、軍略、教育の各面にあたって井上さんに対し強い批判のあることも耳にしております。井上さんはいかに偉功をたてた軍人といえども、これを神格化するなどもってのほかのこと、とのご意見で、人間を神様あつかいするのがきらいでした。今日、私などを含めて、多くの方々の声が、もしその井上さんの業績をオーバー エスティメイトし、井上さんをかりにも神格化してしまうようなことがあったら、それは井上さんのおよろこびになるところではないでしょう。

 今日の集まりでは井上批判の声は場所柄あまり聞かれませんでしたけれども、井上成美提督の編纂もおいおい進められていると承っています。その時にはどうか、堂々たる井上批判論もこれにおさめて私どもに読ませていただきたくおもいます。審判は歴史がつけます。井上さんはよろこんでその審判にふくされると私は信じます。

 ともあれ井上成美大将のような方にめぐり会えたことを私は生涯の一つの幸せであったとおもっています。

 意を尽くさぬつたない話は、以上で終わります。

    この時阿川さんは威儀を正し、祭壇正面に向きなおられ、とつとつと、以下のことばをつづけられた。

 井上さん・・・・、本職の海軍軍人でなかった、・・。大学で文学なんぞ・・・学んだ者の中にも・・・。こうして、井上提督を敬慕している者が一人いることを・・・おこころのすみにおとめいただいて、どうか・・・安らかにおねむり下さい。

    昭和五一年一月三一日

       阿 川 弘 之

           (拍手)

参考1:「軍艦大和の特攻出撃に際して乗艦中の候補生退艦を命じるように手をうたれたのも井上さんであったときいていますが」については後生に道を託すをお読みください。

参考2:鈴木貫太郎大将が、「井上君、兵学校教育の本当の成果が現れるのは二十年後だぞ。いいか。二十年後だぞ」。での鈴木貫太郎大将の終戦に動かれた記事は山本玄峰老師をお読みください。

平成二十九年二月十五日:追加



          阿川弘之著            井上成美刊行会          「歴史街道」

「歴史街道」January 2002 PHP による   

海軍大将・井上成美 信念を貫いた男の覚悟の見出しで以下の記事が掲載されていました。  

対談 今こそ求められる「先見」と「実行」の人…………阿川弘之 深田秀明

命懸けで阻止せんとした戦争へのへの傾斜……………………八尋舜右
史上初の空母決戦が残したもの……………………………………池上 司
「コペルニックス的展開」をした兵学校教育………………………生出 寿
井上・高木は、いかに終戦ををもたらしたか………………………池田 清
貧しさに屈せず、姿勢を崩さず………………………………………江坂 彰
「大将の英語塾」跡を訪ねて…………………………………
特別インタビュー
「紅葉」の部屋がご贔屓でした……………………………………元 料亭「小松」女将 山本直江
 祖父との意外な共通点………………………………………………丸田研一

以上から、対談 今こそ求められる「先見」と「実行」の人…………阿川弘之 深田秀明を紹介します。

阿川弘之 大正9年(1920)生まれ 昭和17年(1942)、東大国文科を繰り上げ卒業し、海軍予備学生として海軍に入る。昭和28年(1953)、「春の城」で読売文学賞を受賞。主著に『山本五十六』『井上成美』他がある。

深田秀明 大正14年生まれ。海軍兵学校卒業(第73期)海軍中尉。横須賀航空隊テストパイロット。昭和57年(1982)、井上成美刊行会を代表して『井上成美』を発刊。1983年度の毎日出版b文化賞を受賞した。

なぜ、混乱の中で先を見通せたのか

阿川 深田さんを中心とする井上成美伝記刊行会が『井上成美』を出版して、もうすぐ二〇年になりますね。「伝記」の最近の売れ行きはいかがですか。

深田 おかげさまで現在、一四版まで版を重ねています。幅広い層に読まれていまして、企業の経営者や公務員、近頃は学校の先生など、教育関係の方がよく読んで下さっています。

阿川 それは刊行会にとってはもちろん、日本のためにもいい現象ですね。

深田 私たちがこの「伝記」を刊行した目的は三つありました。第一は、先ず井上成美を広く世間に知ってもらうこと、第二は、井上さんを世間が高く評価するような空気になってほしいということ、第三は、井上さんのような政治家が一人でも出てくれたら……ということです。一と二はほぼ目的を達しましたが、三番目はまだ駄目ですね。しかし、井上成美を広く浸透させたのは一にかかって阿川さんの作品『井上成美』です。

阿川 いや、九九パーセントの資料の出典は「伝記」に求めてるわけで、僕はこれを、いわば文学作品として再構成したようなものです。ところで、僕は昭和三九年(一九六四)に初めて個人的に井上さんにお目にかかつたんですが、深田さんは海軍兵学校生徒の時、井上さんが校長を務めていて、その頃からご存知だったわけでしょう。

深田 生徒の頃は、「またも負けたか四艦隊」などと、井上さんが長官だった頃の第四艦隊の噂を聞いていましたから、「戦に弱い軍人など何の価値もない」と単純に思っていました。私が井上さんの功績を知って、強い関心を抱くようになったのは戦後のことです。

阿川 僕は横須賀の長井のご自宅で、初めてお会いした時のことを、今でもよく覚えています。「戦争中、兵学校の英語廃止を認めなかったそうですが、それは敗戦後の日本を考えてのことでしたか」。と尋ねましてね。「いや、当時そこまで考えていない」という答えを想像していたら、強い口調で、「もちろん、そうです」と言うのです。戦争中、口に出せることではないが、あと一年半もしたら日本は必ず敗ける。その時、海軍といううしろ楯を失って、敗戦後の世の荒波に若者たちが放りだされた時、どうやって。日本を再建する力になってくれる。それを考えたら、そうせざるを得なかった、と。井上さんの先見性と冷静な視点が、強く印象に残りました。

深田 先見性は井上さんの魅力の一つです。それが大きく発揮されたのが昭和七年(一九三二)の軍令部条例の改訂問題でした。陸軍同様、容易に戦争できる体制にしようしよとしたのに対し、海軍省軍務局第一課長だった井上さんは、頑として判を捺さなかった。軍令部長の伏見宮を通じて、大臣に呼ばれて判を捺すよう促されても、「これは海軍のためにも、お国のなりません」と、一課長の分際で突っぱね通します。結局、井上さんがポストを外されて、条例は通りました。海軍が戦争に踏み込む第一歩でした。

阿川 井上さんはその時、「自分は海軍を辞める。正しい道理の通らぬ海軍にはいたくない」と言い張ってますね。

深田 「意見を言う時には職を賭し、命を投げ出す位の気持ちで臨む」というのが、井上さんの意見具申の姿勢でした。この姿勢は、昭和十二年(一九三七)の海軍省軍務局長時代の三国同盟反対、また昭和十五年(一九四〇)の航空本部長時代の「新軍備計画論」提出の際も同じです。特に後者の場合は、軍令部が作成した安易な計画に対し「これは何だ。明治の頭で昭和の軍備を作っている」と喝破し、代案として自ら作ったのが「新軍備計画論」でした。その内容は、翌年から始まる太平洋戦争の推移を見事に予見したもので、戦後、アメリカの軍人が評価するほど先見性に富んだものです。

阿川 それから米内光政大臣の下で次官として働いていた昭和二十年(一九四五)、自らの大将進級に対し「この負け戦の最中に何のために大将を作る必要があるのか」と、昇進を三度にわたって拒否しています。しかも文書で拒否した軍人なんて、世界中探してもいないのではないですか。この辺、徹底した合理主義者とも言えるでしょうね。

深田 井上さんの先見性を裏づけたのは、合理的な判断ができる素養、教養だと思います。先見性と合理性は一体のものなのでしょう。

職も命も賭して信じることをやり抜く

阿川 あるギリシャの哲学者が、ローマに挑発されて暴発し滅んだカルタゴの例をひいて、こう言いました。「物事がどっちつかずの状態が、人間の精神を最も腐らせる。どちらかに割り切れた時、人間は非常な爽快さを感じ」。僕は大学でおよそ戦に関係のない勉強をしていましたが、真珠湾の大成果を聞いた時、涙が流れ、爽やかな気分になりました。泥沼の支那事変の憂欝からふっ切れたのです。その爽快さは実感できますが、これが為政者に伝染したら国は滅ぶ。英国では政治家も軍人もそのことをわきまえ、自戒し、「どっちつかず」に耐えようとしますが、日本にはその伝統がないと、京都大学の中西輝政さんが指摘しています。安易にすっきりする方へ割り切ることを、終始一貫「駄目です」と日本軍人で言い続けたのが井上さんでした。当時、それはまさに命がけで、控え目に言っても職を賭す行為です。

深田 ですから、私が井上さんを尊敬する点を一つ挙げろと言われたら、周囲の状況がどうあろうと「この流れは間違っている。変えなければ……」と一旦決めたら、職も命も賭してやる、その行動力です。井上さんは「沈黙の提督」ではありません。大いに喋り、書き、そして行動してます。

阿川 三国同盟に反対していた当時、井上さん以外にも冷静な目で見ていたいた人は、言論界やマスコミにもいたでしょう。しかし、下手なことを言えば命が危うい。当時は五・一五事件や血盟団事件など、テロが横行していた時代です。海軍次官だった山本五十六さんの首に、一〇万円の懸賞金がかけられていた位ですから。竹山道雄の「昭和の精神史」の言葉を引用すれば、「良心は疾しき沈黙を守っていた」。知性・良心のある人の多くは黙っていたのです。海軍軍人らも大声を上げない。彼らはいい意味でも悪い意味でも、ジェントルマンでした。ところが井上さんは、黙っていなかった。戦後、中山定義さん(元海軍中佐)が、愚かな選択をしたあの時代の日本の中で、僅かな誇りとして挙げることができるのが、井上さんなどの数人ではないかと語っています。

深田 ところで今、つくづく感じるのが、兵学校の教育こそ、戦後の私を支えてくれた大きな柱であったということです。合理的な判断をするためには、広い意味での教養が不可欠ですが、兵学校の教育がそれでした。これこそは、普通学を重視した井上校長のおかげなのです。当時、生徒の私たちは、下らん普通学などよりも、軍事学、特に航空術を早く学んだ方が、直接お国に尽くせると思っていました。親の心子知らずというところです。

阿川 井上さんは、この若者たちが敗戦後の日本を建て直すのだと思っていたわけですね。

深田 開戦後、アメリカ海軍ではすぐに日本語の特修を始めたのに、日本では敵性晤の英語教育を廃止しようという風潮になりました。兵学校でも、入学試験での英語廃止に対して大多数の教官が賛成する中で、井上さんは断固として「マザー・ランゲージ以外話せないような将校は、日本海軍には必要ない」とビシッとやった。そうして「こいうものは多数決で決めるべきではない」とも言っています。

阿川 井上さんは、海軍の良き伝統を頑固に守り抜いた一人でしょう。僕も深田さんも海軍出身だから、海軍贔屓と思われるかもしれませんが,日本全体から見て、真の知性と良識のある人が海軍上層部に多かった。鈴木貫太郎、岡田啓介、米内光政、高木惣吉といった人々です。外国なら救国の英雄として、街角に銅像が建っても不思議ではない位の人々ですが、残念なことに彼らの功績は、いかに本土決戦をせずに終戦に持ち込むかという、命がけではあっても、軍人としてマイナスの仕事でした。

戦後、ずっと感じ続けていた責任

深田 昭和十九年(一九四四)、井上さんは米内大臣の下で海軍次官に就任します。各資料にに目を通した井上さんは「現在の状況はまことにひどい。日本は負けるに決まっている。一日も早く戦をやめる工夫が必要です」と米内さんに意見具申し、承認を得ました。そして高木惣吉教育局長に、戦争終結ンお研究するよう命じます。この時のことを戦後、高木さんは「私は井上さんのお使い小僧に過ぎなかった」と言い、井上さんは「高木が電流の入ったモーターの如く自動した」と、お互いに功を譲りあっています。井上さんが次官として登場する背景には、岡田啓介さんの、米内・井上コンビでなければ、終戦までの難局を乗り切れないという判断があったといいます。

阿川 当時、一億玉砕を唱える陸軍の暴走を止められるのは、海軍しかありませんでした。しかし、国を救うためには陸軍を潰すとともに、海軍を潰す決心もしなくてはなりません。これは大企業の社長が、社員全員を放り出して会社を潰す決心をするより、遥かに大変なことです。それを彼らはやり遂げたわけです。

深田 それをやらなければ、国が滅びてしまう。本土決戦などやろうものなら、国民性からみても徹底抗戦し、和平交渉の母体そのものがなくなり、日本民族は滅亡しています。

阿川 今の若い人たちは「僕たち、関係ないもんなんて言いますが、関係は大ありです。本土決戦を」やっていたら、皆この世に生まれていない可能性の方が高いわけですから。

深田 それらを踏まえて、井上さんはとにかく一日でも一刻でも早く、戦を終わらせようとしました。ところが米内・井上コンビですが、米内さんは真っ先に十字架を背負う人。これに対して井上さんは、泥水をかぶるのを嫌う人です。「政治は妥協だ」と言いますが、井上さんはバランスをとって、陸軍や政治家の間をうまく泳ぐタイプではないのです。むしろ味もそっけもなく、本当のことをズバッと言う人です。

阿川 そういう意味で、大臣の器じゃない、海軍次官こそ適任だったと言う人もいます。米内さんに仕えて、はじめて光る人だと。だからこいって、井上さんの人材としての価値が下がるものではない。

  深田 戦後、井上さんは横須賀の長井で、まったく世に出ず、ひっそり暮らしていました。

阿川 家庭的には恵まれませんでした。井上さんが第一課長になった時に、奥様が肺病で亡くなられ、一人娘のしずこさんを再婚もせず男手一つで育てて、海軍軍医の方に嫁がせました。ところがご主人は比島沖海戦で戦死し、病身のしずこさんも戦後亡くなって、幼い孫の研一さんがのこっただけでした。

深田 生まれ故郷の仙台にも、井上さんにまつわるものは何もありません。米内さんは盛岡に「盛岡市先人記念館」、山本さんは長岡に「山本元帥景仰会」、「山本五十六記念館」がありますが、井上さんは何もありません。井上さんは郷里とのつながりが薄く、戦後暮し、生涯を終えた横須賀も同様です。土地や家族との結びつきが希薄でした。

阿川 戦後、長井のお住まいを訪ねた時、同行した新聞記者の取材の謝礼を、井上さんは固辞されました。裕福に暮らしているかといえばそうではなく、赤貧に近い生活なのにです。「どうしても頂くわけにはいかないん」と、受け取らなかった。徹底したすごい人だなと思いました。あれほど語学力があり、終戦時、五六歳という年齢であれば、多くの会社で重く用いられると思いますが、それを一切断っています。たぶん、自分が戦争を防ぐことができなかった責任を感じておられたのでしょう。

深田 それが井上さんの責任感です。海軍次官という政治の中枢で力を発揮できる立場ににいながら、戦争終結を早めることができなかった。その責任を、ずっと感じておられたのです。米内さんとの意見のくい違いもそこにありました。どこかで米軍に打撃を与え、少しでも有利な立場になってから講話に持ち込もうと考える米内さんに対して、「一刻も早く戦いをやめないと、何千何万の人命が失われる」と主張したのが井上さんでした。井上さんは終生、自分の力の足りなさを口にしていました。それと対照的なのが開戦時の海軍大臣嶋田繁太郎で、戦後、海上自衛隊の遠洋航海の歓送会で、海軍の先輩として送辞を述べたことがあります。そのことを私が申し上げると、井上さんは「恥を知れ」と激怒しました。一切表に出ず、赤貧の生活を送ることが、井上さんなりの責任の取り方だったのでしょう。

阿川 近所の子供たちに教えた英語塾も、ほとんど生活費の足しにはなっていません。むしろ最初の頃は、持ち出しの方が多かったのではないでしょうか。でも、習った当時の子供たちは、皆感謝しているようですね。そして、井上さんを無理やり説得して、金銭的に援助したのが、深田さんたちです。

深田 会社に入っていないと保険が効きませんから、医者にかかると大変な金額になります。そこで私の会社の顧問になって頂いて、健康保険証をお渡ししましたら、大変喜んでくれました。これは今でも良かったなと思っています。井上さんが会社の顧問だということは、生前はもちろん、亡くなられてからも、私たちは誰にも話しませんでした。

阿川 戦後何十年にもわたって公の場に出ず、責任を取った海軍提督は、井上さん以外にはいないでしょう。しかもそれを生涯貫き通したわけです。あまり自慢できないことの多い二〇世紀前半の日本の歴史の中で、井上さんは輝く点のような、大切な存在だと思います。現在のような、どこか戦前にも似た「どっちつかずの時代」にこそ、日本人が再認識すべき人物tこいえるのではないでしょうか。

参考1:井上成美のな前は、父親からつけられた。それは、論語からのものであります。

巻第六 顔淵第十二 十六 

子の曰く、君子は人の美を成す。人の悪を成さず。小人は是れに反す。

先生がいわれた、「君子は他人の美点を[あらわしすすめて]成しとげさせ、他人の悪い点は成り立たぬようにするが、小人はその反対だ。」(岩波文庫)P.165

参考2:歴史街道のバックナンバーをご覧ください。

平成二十九年三月五日:追加


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原子爆弾雑話

 私の見たキノコ雲―新型爆弾が原子爆弾へ―に、キノコ雲を見たひとりとしての体験、そして当日の教官の話も記載いたしました。

 戦後、中谷宇吉郎氏の下記記事を読み、日英との科学の差の大きさに驚かされたものでした。

下記の参考に書かれているように、太平洋戦争終戦後、わずか一ヵ月あまりに発行された「文藝春秋」の記事であることを念頭におかれまして、お読みください。

 寄稿者:中谷宇吉郎

 昭和十二年の七月北支の蘆溝橋に起こった事件は、その後政府の不拡大方針にもかかはらず、目に見えない大きい歴史の力にひきずられて漸次中支に波及して行った。そして十月に上海が没ち、日本軍が首都南京に迫るに到って、漸く世界動乱の萌しが見えて来た。
 丁度その頃、私は『弓と鉄砲』という短文を書いたことがある。切抜帳を開いてみると、それは十二年十一月の東京朝日にかいたものである。

 弓と鉄砲との戦争では鉄砲が勝つであろう。ところが現代の火器を丁度鉄砲に対する弓くらい価値に貶してしまふやうな次の時代の時代の兵器が想像できるであろうか。

▼火薬は化合し易い数種の薬品の混合で、その勢力(エネルギー)は分子の結合の際出て来るものである。その進歩が行き詰まって爆薬の出現となったものであるが、爆弾の方は不安定な化合物の爆発的分解によるもので、勢力の源を分子内に求めている。勿論爆薬の方が火薬よりずつと猛威を逞しうする。この順序で行けば、次に之等と比較にならぬくらゐの恐ろしい勢力の源は原子内に求めることになるであろう。

▼原子の蔵する勢力は殆ど全部原子核の中にあって、最近の物理学は原子核崩壊の研究にその主流が向いてゐる。原子核内の勢力兵器に利用される日が来ない方が人類の為に望ましいのであるが、もし或る一国でそれを実現されたら、それこそ弓と鉄砲どころの騒ぎでなくなるであろう。

 さういふ意味で、現代物理学の最尖端を行く原子論方面の研究は、国防に関聯ある研究でも一応の関心を持ってゐて良いであろう。しかし此の研究には捨て金が大分要ることは知って置く必要がある。劔橋(ケンブリジ?)キャベンディシュ研究所だけでも六十人ばかりの一流の物理学者が、過去十年間精神力と経済力とを捨石として注ぎ込んで、漸く曙光を得たのであるということくらゐは覚悟しておく必要がある。

▼この短文を書いた頃は、今回の原子爆弾の原理であるウラニュムの核分裂などは勿論知られてゐなかったし、キャベンディシュの連中を主流としした永年に亘る研究も漸く原子核のの人工破壊の可能性を実験的に確かめたといふ程度であった。しかし現代の方向に発展して来た科学の歴史をふり返つてみると、順序として次の時代の勢力の源は原始の内部、即ち原子核の中に求めることになると想像するのが一番自然な考え方のやうに私に思はれた。

 分子と分子の破壊による爆弾、分子の構成要素である原子の崩壊による「原子爆弾」とならべてみて、その順序をつけるのは勿論人間の頭の中でのことである。ところが本当にその順序の通りが実現するところに自然科学の恐ろしさあるのである。

▼この短文を書いた頃より一寸以前に、私は国防関係の要路の人に会った時に、二・三度こういふ意味のことを話したことがある。勿論我国でも此の時代に既に理研の仁科博士の下や、阪大の菊池教授の所で、原子物理学関係の実験が開始されてゐたので、さういふ方面からも箴言があったことであろう。しかし何十年か先のことで、しかも果して兵器として実用化されるかどうかまるで見当のつかない話を本気で取り上げる人は無かつた。やれば出来るに決まってゐることをやるのを研究と称することになってゐた我国の習慣では、それも致し方ないことであった。

▼ところが、当時海軍の某研究所長であった或る将官が、真面目に此の問題に興味を持たれて、一つ自分の研究所でそれに着手してみたいがとといふ相談があった。理研や阪大の方に立派なその方面の専門家が沢山居られるのに、何も私などが出る必要はないのであるが、話をした責任上とにかく相談にはあづかることになった。
 今から考へてみれば、あの時それだけの研究費を既に原子物理学方面の実験を開始してゐる専門家たちの方へ廻して貰つた方が、進歩が速かつたことであろう。しかし何萬円という研究費を毎年出すとなると、やはりその研究所の中で仕事をしなければならないとといふのが当時の事情であつた。何萬円というのはその研究所としても可成り多額とかんがへられててゐた時代のことである。

▼当時私の研究所では原子物理学の研究によく使はれる或る装置を使つて、電気火花の研究をしてゐた。それで実験技術としては満更縁の無い話でもないので、私の所の講師のT君が私の方を辞めてその研究所へはひつて、専心その方面の仕事を始めることになつた。

 もつともこれは随分無理な話で、英米の世界一流の学者が集まて、金に飽かして鎬を削つて研究してゐる方面へT君が一人ではひつて行つて、その向ふが張れる筈はない。それでかういふ条件をつけることにした。それは、もともと無理な話であるから、始めから英米の学者と太刀打をさせるつもりではなく、先方の研究の発表を待つて、その中の本筋の実験を拾って、こちらでそつくりその真似をさせて貰いたいといふのである。随分卑屈な話のやうであるが、それが巧く行って、英米の研究にいつでも一歩遅れた状態で追随して行けたら、大成功である。さうなつて居れば、先方で原子核勢力の利用が実用化した時には、こちらでも比較的楽にその実用化にとりかかれるはずである。原子兵器の出現の遭つてから、慌ててその方面に関係した器械を注文するといふのでは仕様がない。しかしそれに類した事が、実際に屡々起こっているのである。器械に馴れてゐるといふことの強味は、実際に実験をした事のある人でないと一寸分からないくらゐ有力なことである。もつとも新しい下駄でさへ履きづらいものであるから、新しい物理器機がさう簡単に働いてくれる筈はない。

▼その将官の人は大変理解のあるひとであつて、この話にすぐ賛成してくれた。そしてT君が入所したらすぐ一通りの器機の注文をすまさせて、欧米の関係研究室を見学させるといふ話になつた。とりあへず十萬円くらゐは出してもいいといふことである。今度のアメリカの原子爆弾完成に要した費用二十億弗と較べては恥ずかしい話であるが、当時の我が国としては破天荒なことであつた。

▼此処までは話は大変面白いのであるが、愈々T君ががその研究所の人となつて、一通りの器機をととのへるべくその調査にかかつたら、間もなくその所長が転出されることになつた。支那事変が漸く本格的な貌を現して来て、今更研究どころでないといふ風潮がそろそろ国内に漲り出した時機である。それで真先に取止めになつたのは、此の原子関係の研究であつた。折角勢ひ込んでゐたT君は、もう戦時体制にはひたのだから、さういふ研究は止めて、砲金の熱伝道度の測定を始めてくれといふことで、急に金属物理学の助手に早変りすることになつた。これで私の「原子爆弾」の話はおしまひである。誠に飽気ない話である。

▼ところが人類科学史上未曾有の大事件たる原子爆弾の研究に、かういふ企てを試みることすら、いささかドンキホーテ的であつたことが、今度のアメリカの発表でよく分かった。T君はいはばいい時にドンキホーテの役を免ぜられたものである。と言ふのは、もしあの時の将官がその儘続いて在任され、どんどん研究費を出し、学者の数を増やし、大いに頑張つてみても、我が国ではとても原子爆弾が出来る見込みは無かつたと私には思はれるからである。それは日本には原料たるウラニウムが無いとか、ラジユム源の貯蔵が少ないとかいふ問題ではない。それは国民一般特に要路の人たちの科学の水準の問題と、今一つは国力の問題とである。

▼私たちが「弓と鉄砲」の話をかつぎ廻つてゐた翌年の昭和十三年には独欧州墺合邦といふ爆弾宣言が欧州を一挙に驚愕の淵に陥れた。そして次の年には独ソ不可侵条約が締結され、秋にはポーランド問題をめぐつて英国が独逸に対して宣戦を布告したのである。翌十五年は欧州平野にに於ける大機動戦、巴里の開場、倫敦の大爆撃に暮れ、十六には今次の戦争は遂に独ソの開戦、米国の参戦といふクライマツクスに達している。此の間勿論我が国でも支那事変が遂に世界戦争の面貌を現して来て、「研究どころの騒ぎでは無く」なつてゐたのであるが、英米側にとつてみれば、此の四年間はそれこそ日本の立場どころでは無かつたのである。

▼その間にあつて英米両国の原子方面の科学者達は、まるで戦争など何処にも無いかのように、今迄通り宇宙線の強さを測ったり、原子の崩壊に伴ふ放射線の勢力の測定をしたりしてゐたのである。此の方面の実験には膨大な設備と莫大な費用とをようするのであるが、米国では殆ど此の方面の研究を一手に受けた形で、どんどん施設をして行つたのである。そして米国の参戦と同時に先ず行つたのが米英の科学研究の協定であつた。目星しい英国の学者たちはアメリカに渡つて、それに協力をすることになつた。独逸から追はわれたユダヤ系の科学者たち、それは独逸の科学を建設した人たちであるが、それ等の人々も殆ど全部アメリカに渡つて、甚大な貢献をしたのである。ヒツトラーは自分で自分の腕を切り落としたたやうよなものである。昭和十五年、ヒツトラーが欧州を平定して巴里に入り、ドーバー海峡越しに英本土を指呼の間に睨んでゐたあの最得意の時期に於て、既に伯林の悲運の萌しが見えてゐたのである。此の間の消息は昭和十五年の十月、東京朝日に書いた『独逸の科学誌』を転載させて頂くのが早道である。

▼同僚の物理学者で、新しい論文を読んでゐる男が、この一二年来独逸の雑誌に出る論文が著しく質が低下したやうに思ふといふ話をした。私もうすうすさういふ気がしてゐたので、直ぐ賛成して、この調子で行くと、結局米国が物理学界で覇をとなへるやうになるかもしれないなどと話合つたことがる。

 独逸科学の心酔者に言はせれば、外に発表するのはつまらぬことだけで、本当に大切な研究は隠してゐるから、一見独逸の学問の水準が下がつたやうに見えるのだといふかもしれない。しかし、それだと論文を読んで見れば何となくさういふ気配が感ぜられるはずである。

 さうすると、独逸が今度の戦争で使つてゐる科学兵器の優秀さには異論がないから、基礎科学などは、どうでもよいもののやうに見えることになる。しかし私たちは、現在の独逸は、ナチスに追放された偉い学者たちが、まだ独逸にゐた頃の学問的遺産を、いま力一杯に使ひ切つてゐるのではないかと思つてゐる。

 事実独逸が遺産を食ひ潰してゐる間に、米国ではどんどん貯蓄して行つてゐたのである。あらゆる種類の元素について、その原子を人工的に崩壊させてみて、その時に出る勢力と放射線の性質とを調べるといふ風な同じやう論文がいつまでも根気よく米国最大の科学誌『物理学評論』に毎月いくつと出てゐる。見る方で根気負けがするくらゐ沢山の論文が出ても、何時になつたらこれが次の時代の勢力源として実用化されるか、まるで見当がつかない状態で過ぎて行つた。

▼ところが昭和十六年になつて、遂にウラニウムの核分裂といふ新しい現象にぶつかつたのである。その論文が日本に届いたのは、確か大東亜戦勃発の半年くらゐ前であつた。ラサフオードがキャベンディシュ研究所の俊秀を総動員して、世界の物理学の主流を原子構造論から一歩進め原子の内部に足を踏み込ませ、原子核構造論の樹立に眼を開かせてから約十年、それを受けたアメリカが、莫大な物と金と人とを困難な実験に注ぎ続けて更に約十年、やつと此のウラニウムの核分裂の発見によつて、原子内に秘められた恐るべき力が科学者の前に初めてその姿の片鱗を現したのである。

 しかし此の現象の発見によつて原子爆弾が半ば出来たのではない。原子の性質として知られた此の核分裂現象の発見は、いはゞ富士山を作つて居る土の粒子の性質が知られたやうなものである。その土の粒子を一粒一粒集めて富士山を作る仕事が、本当に原子爆弾を作る仕事なのである。

▼ウラニウムの核分裂の発見から原子爆弾に到達するまでに、平時だつたら三十年とか五十年とかの年月を要するだろうと考えへるのが普通である。実際のところ私なども、原子爆弾が今度の戦争に間に合はうとは思つてゐなかつた。大東亜戦争勃発後ルーズベルトが此のウラニウムの核分裂の研究に着目し、これを新兵器として使ふべく、チヤーチルと協力して、両国の物理学者を総動員したといふ噂をきいても、聊か多寡をくくつてゐた。いくらアメリカが金を使ひ人を集めたところで、二年や三年で出来るべき性質の仕事ではないと考へられたからである。 

▼ところが実際にそれが使用され、やがてその全貌が明らかにされて来て、初めて今度の戦争の規模が本当によく理解されたのである。アメリカのことであるから何百人の科学者を動員し、何千萬円といふ研究費を使つてゐるのかもしれないが、それにしても今度の戦争にすぐ間に合ふといふやうな生易しい仕事ではない筈である。かういふ風に考へてゐたのは私たちばかりではないらしい。ところがそれがまるで桁ちがひの数字であつたのである。「発見までには二十億ドルを費」し、「六萬五千を超える」技術作業員を擁した大工場が、極秘裡に進められてゐようとは夢にも考へてゐなかつたのである。

 此の金額や人員の数は、航空機の生産の場合などには、我が国でも何も珍しいことではない。しかし驚異的の超速度で進められとはいふものの、此の原子爆弾の完成には四ヶ年近い年月を要してゐる。そして今年の七月十四日に全計画の成否を決定すべき一弾がニューメキシコ州僻地の荒蕪地に建てられた鉄塔の上に吊るされるまでは、それが本当に全世界を震駭させる爆弾として完成されたか否はか分ららなかつたのである。科学者たちは多分出来るであらうと言ふが、果たして必ず出来るか否かは分らない仕事に、これだけの費用と人とをかけるといふことは、われわれには夢想だに出来なつたのである。

 少し笑話になるが、我が国でも今度の大戦中、或る方面で原子核崩壊の研究委員会が出来てゐた。そこの委員である一人の優秀な物理学者が、関係官庁の要路の人の所までわざわざ出かけて来て、その研究に必要な資材の入手方の斡旋を乞はれた。その要求が真鍮棒一本であつたといふ話である。冗談と思はれる人もあるかもしれないが、私は自分の体験から考へて、多分それは本当の話であろうと思つてゐる。
 いくら日本が資材に乏しいといつても、かういふ重要な問題の研究に、真鍮棒一本渡せない筈はない。無いものは真鍮棒ではなくて、一般の科学に対する理解なのである。そしてそれほどまでに科学者以外の人々が科学に無理解であるといふことは、煎じつめたところ国力の不足に起因するであろう。

▼新しい日本の建設は、まず何よりも国力の充実に始まらなければならない。そして本当に充実した国力からのみ新しい時代の科学が産れるのである。もつともかういふ風に言ふと、そのやうにして産れた次の時代の日本の科学といふものが、今回のものよりも更に強力な新しい原子爆弾の発明を目指してゐるやうに誤解されるかもしれない。しかし私は負け惜しみでなく、原子爆弾が我が国で発明されなかつたことを、我が民族の将来の為には有難いことではなかろうかと思つてゐる。「原子核内の勢力が兵器に利用される日が来ない方が人類の為には望ましい」といふ考へは、八年前も今も変らない。今回の原子爆弾の残虐性を知つてからは、科学も到頭来るべき所まで来たといふ気持ちになつた。

 遠い宇宙の果ての新星の中では起こつてゐることかもしれないが、われわれの地球上ではその創生以来堅く物質の究極の中に秘められてゐた恐るべき力を到頭人間が解放したのである。開けてはならない函の蓋を開けてしまつたのである。これは人類滅亡の第一歩を踏み出したことになる虞れが十分ある。今回の原子爆弾は原子火薬を使ふものとしては火縄銃程度と考へるのが至当であろう。この火縄銃が大砲にまで進歩した日のことをありあり想像し得る人は少ないであろう。

▼新しい発明の困難さはそれが果たして本当に出来るか否かが分からない点にある。一度何処かでその可能性が立証されてしまへば、もう半分は出来たやうなものである。米英両国以外でも間もなく色々な型の原子爆弾が出来る日はさう遠くはあるまい。そしてそれが長距離ロケット砲と組合はされて、地球上を縦横にとび廻る日の人類最後の姿を想像することは止めよう。

▼「科学は人類に幸福をもたらすものではない」といふ西欧の哲人の言葉は益々はつきりと浮かび上がつて来さうな気配である。しかし科学といふものは本来はさういふものでない筈である。自然がその奥深く秘めた神秘への人間の憧憬の心が科学の心である。現代の科学は余りにもその最も悪い一面のみが抽出されてゐる。われわれの次の時代の科学者はもつとその本来の姿のものであつて欲しい。さういふ願ひを持つ人は、我国ばかりでなく、米国にも英国にも沢山居ることであろう。


参考:この資料は文藝春秋の戦後の創刊号である。昭和二十年九月二十日印刷 昭和二十年十月一日発行 特価:六十銭
◆愛読者諸子へ
 ○本社発行雑誌の直接販売は一切中止しましたので洵にお気の毒ながら、今後直接御注文は受けられませでぬ故、最寄書店へ予約御購読をお願ひします。
 ○昨今品不足のため、手に入らぬ方が多いと思はれますので、一冊を是非一人でも多くの方で御回覧願ひ度いものです。

平成二十年八月六日 廣島原爆投下の日、平成二十三年八月再読。平成二十四八月補正。


10
大久野島と毒ガス製造


 「NHKTV 午後8:00~8:45 ふるさと発 スペシャル カルテに刻まれた叫び大久野島毒ガス患者の記録▽生涯かけた一人の医師」が放映された。

 内容:広島県竹原市(忠海町)の沖合いの大久能島について。

 行武正力医師(2009年3月になくなられた)

 4,000人のカルテを書き続けられて残されている。呉共済病院忠海病院(現在は呉共済病院忠海分院)に勤務されていた。

 周囲4Kmの島で、「イペリットルイサイト」と「しゃみガス」(赤筒と呼ばれていたものに詰め込まれていた)

 行武正力先生は証言集を作られている。「化学兵器は核兵器と変わらぬ」といわれている。

 昭和14年、毒ガス兵器を中国で使用。また捕虜を使って赤筒の人体実験を行う。

▼戦後、連合軍が処理した。海に投下廃棄処分した。その際にも事故が起こっていた。

 行武正力のお嬢さんが証言集の完成に現在努められていることが報道されていました。

 廣島県立忠海中学の高学年の生徒たちも動員されて、空のドラム缶の運搬作業などをさせられていた。私も短期間この作業に従事したので、この番組をTVにかじりついて見させていただいた。

 今まで概略はもれ知っていましたが詳しくは知りませんでした。

 以下にインターネットで検索したものの一部を取り上げました。ご参考にしてください。


参考

1、「行武正刀」でインタネットで検索して「化学兵器の傷害作用」を読んでください。

2、「行武正刀氏死去 / 元忠海病院院長」

   高知新聞:2009年03月27日19時02分

 行武 正刀氏(ゆくたけ・まさと=元忠海病院〈現呉共済病院忠海分院〉院長)26日午後3時23分、肺がんのため広島市中区の病院で死去、74歳。広島県出身。自宅は広島県三原市円一町5の9の14。葬儀・告別式は28日正午から三原市古浜2の2の15、三原典礼会館で。喪主は長男正伸(まさのぶ)氏。

 広島県・大久野島(忠海は現在は竹原市に含まれる)で旧日本陸軍の毒ガス製造に携わり後遺症に苦しむ元工員約4、000人を40年以上診察。治療方法の研究に尽くした。

 3、『近代日本総合年表』第二版によると

 1943年(昭和18年):6.25 閣議、学徒戦時動員体制確立要綱を決定(本土防衛のため軍事訓練と勤労動員を徹底).
 1944年(昭和19年):1.18 閣議、緊急学徒動員方策を決定、学徒勤労動員は年間4ヵ月を継続して行うこととする.
               :3.07 閣議、学徒勤労動員を通年実施と決定.

参考1:毒ガス島歴史研究所の活動 2000

平成二十一年六月二十七日

▼平成二十八年二月五日、故郷に住んでいる弟からの電話では、外人客が多くて、島にある宿泊所は満員であると。何が外人を呼ぶのだろう?


「終戦記念日」ヒロシマの加害語る 学徒動員され毒ガス製造

毎日新聞 8月14日(日)22時45分配信

大久野島(写真奥)での体験を振り返り「戦争は一般市民も加害者にしてしまう」と話す岡田さん=広島県三原市で、高田房二郎撮影

 原爆被害の重い苦しみを負いながら、学徒動員で毒ガス製造に関わった体験から自らの加害責任を語り伝える女性がいる。「戦争で受けた苦しみを知るからこそ、加害者としての責任も語り継がなければならない」。8月15日は終戦記念日。【高田房二郎】

【毒ガス原材料の積出し(岡田さんの画集から)】

 広島県三原市の元美術教諭、岡田黎子(れいこ)さん(86)は、高等女学校に通っていた1944年秋、瀬戸内海の大久野島(同県竹原市)へ動員学徒として派遣された。旧陸軍は29年からこの島で、国際法で禁じられた毒ガスを極秘裏に製造。日中戦争で生産量は急増し、最盛期には5000人以上が島で働いたとされる。

 「ここで見聞きしたことは、家族にも言ってはいけない」。軍人からそう厳命され、何を作っているかは一切知らされなかった。

 ある時、空襲時に使うようにと配られたガスマスクを試着した生徒が「顔がひりひりする」と騒ぎに。周辺の松は枯れ、工場の排煙を吸うと頭痛がした。そんな話から「毒ガスを作っているらしい」とうわさになった。不安を感じつつ、薬品が入ったドラム缶運びやガスを詰める筒作りに追われた。

 45年8月15日、日本の敗戦で戦争は終わり動員は解除に。しかし数日後、原子爆弾で壊滅的被害を受けた広島へ救護に行くよう校長命令が下り、同県廿日市市の救護所で、食事作りにあたった。被爆者たちが次々に息を引き取り、配った食事が枕元に手つかずのまま残された。

 約2週間で任務を終えると、原因不明の発熱や下痢、出血が続いた。原爆症だった。体調の波は長く岡田さんを苦しめた。

 戦後、京都の大学を出て教壇に立った岡田さんは、積極的に戦争体験を語った。

 昭和が終わる頃、島での体験をまとめた画集を発行。制作の過程で、毒ガス兵器が中国で被害を与えたことを知り、中国の大学や戦争資料館などに製造に携わった者として謝罪の手紙を添えて送った。

 これまでに3冊の画集に体験をつづり、平和集会などで講演を重ねてきた。島での体験を描いた絵は島内にある毒ガス資料館で公開されている。

 「広島は原爆の被害が強調されがちだが、私たちには戦争に加担した事実もある。戦争は被害、加害の両面を一般市民にもたらすということを知ってもらい、平和が続くよう話し続けたい」

平成二十八年九月十三日


参考:有吉佐和子『複合汚染』(新潮社)は、朝日新聞の小説欄に昭和四十九年十月十四日から連載されたものです。昭和五十年四月十五日印刷 昭和五十年四月二十日 発行。

 広島県下の大久野島は、戦後三十年たつた今も草木が生えず死んだままである。戦争中に毒ガス工場で働いていた作業員の肺ガンによる死亡率は、広島県一般の四十倍という高率を示している。しかも生き残った人たちの六割が、呼吸器系疾患で現在も苦しんでいる。

私見:「戦後三十年たつた今も草木が生えず死んだままである。」との記述は、昭和五十年のどこの場所についてのものか。明示してほしかった。

 1945年、ドイツも敗けた、日本も敗けた。戦争は終わった。

 ドイツの毒ガス研究は、アメリカとソ連軍によって押収された。やがて戦後の日本には、新しい殺虫剤として、ポリドール(別名パラチオン)が導入された。

 平和を迎えた日本の農村に、第一次世界大戦後は火薬の「平和利用」と、第二次世界大戦後は毒ガスの「平和利用」が大々的に行われことになった。農林省はこれを農業の近代化と称した。P.183                                                          

 2種類以上の汚染物質が環境中や生体内で,相乗的・相互干渉的に影響し合い,被害を大きくする汚染。1974年―1975年,《朝日新聞》に連載された有吉佐和子の《複合汚染》が問題を提起。

 ここで、日本で発生した主な公害について整理しておく。

▼水俣病(みなまたびょう)は、メチル水銀化合物(有機水銀)よる中毒性中枢神経系疾患のうち、産業活動が発生源となり、同物質が環境に排出され、食物連鎖によってヒトが経口摂取して集団発生した場合に言う。

 1956年(昭和31年)5月1日に熊本県水俣市にて公式発見され、1957年(昭和32年)に発生地の名称から命名された。その後、類似の公害病にも命名されている。なお、1997年(平成9年)に水俣湾の安全宣言がなされ、漁が再開されている。                             

▼イタイイタイ病とカドミウム

 昭和30年代に、富山県神通川流域で多発性の骨折のため激痛で苦しむ高齢女性が多いことが報告されました。

 原因は三井金属鉱業神岡工業所から排出されたカドミウムで、それにより汚染された神通川水系の用水を介して、水田の土壌や井戸水が汚染されました。

 カドミウムは腎臓機能を障害するため、体内のカルシウムが尿中に排出されてしまい、特に戦前戦中の低栄養と妊娠授乳などでカルシウムが不足しがちだった女性に患者が多発したものと思われます。

▼森永乳業粉ミルク事件

 1953年(昭和28年)頃から全国の工場で酸化の進んだ乳製品の凝固を防ぎ溶解度を高めるための安定剤として、第二燐酸ソーダ Na2HPO4 を粉ミルクに添加していた。試験段階では純度の高い試薬1級のものを使用していたが、本格導入時には安価であるという理由から純度の低い工業用に切り替えられていた。

 1955年(昭和30年)に徳島工場(徳島県みょう西郡石井町:ミョウザイグンイシイチョウ)が製造した缶入り粉ミルク(代用乳)「森永ドライミルク」の製造過程で用いられた第二燐酸ソーダに、多量のヒ素が含まれていたため、これを飲んだ1万3千人もの乳児がヒ素中毒になり、130人以上の中毒による死亡者も出た

 この時使用された第二燐酸ソーダと称する物質は、元々は日本軽金属がボーキサイトからアルミナを製造する過程で輸送管に付着した産出物で、低純度の燐酸ソーダに多量のヒ素が混入していた。この産出物が複数の企業を経て松野製薬に渡り脱色精製され、第二燐酸ソーダとして販売、森永乳業へ納入された。

 事件発覚

 当初は奇病扱いされたが、岡山大学医学部第一病理学講座 妹尾佐知丸教授が森永乳業製の粉ミルクが原因であることを突き止めた。1955年(昭和30年)8月24日、岡山県を通じて当時の厚生省(現厚生労働省)に報告され、事件として発覚することとなる

▼日本での公害防止対策として、多くの形で現れた。その一つに私も受験したものを記録にとどめておく。

 公害防止主任管理者は一定規模以上の特定工場(ばい煙発生量が1時間当たり4万m3 以上で、かつ排出水量が1日当たり平均1万m3以上)に選任が義務付けられています。

 公害防止統括者を補佐し、公害防止管理者を指揮する役割を担い、部長又は課長の職責にある方が想定され、資格を必要とします。

 つまり、汚水およびばい煙の双方を大量に排出する工場には公害防止主任管理者が必要であるということです。

2017.09.01追加。 平成二十八年九月十三日


 春秋 2018/2/11付                            

 亡くなった石牟礼道子さんに最後に会ったのは、一昨年の残暑厳しい折。熊本市の高齢者用の施設を汗だくで訪ねると「雨が降っているの?」と目を丸くした。その表情が印象に残る。発売直後の「苦海浄土 全三」を指し「ここの所長さんにもあげたの」と笑った。

▼編集者として長年ともに歩んだ評論家の渡辺京二さんによると、著名な作家らも面会にきたという。玄関に入るや「石牟礼さんと一つ屋根の下にいるだけで興奮します」と話す人もいたようだ。同業からも神格化される作風だが、本人は「三部作は我が民族の受難史と受け止められるかもしれないが」とやんわり否定する。

▼自分が描きたかったのは「海浜の民の生き方の純度と馥郁(ふくいく)たる魂の香りである」。すでに水俣病の公式発見から50年近くがたっていた2004年、そう書き残している。患者らの中には「もう何もかも、チッソも、許すという気持ちになった」「チッソの人の心も救われん限り、我々も救われん」と語った人もいたという。

▼「人を憎めば我が身はさらに地獄ぞ」。石牟礼さんは患者のこんな言葉も書き留めている。近代文明の「業(ごう)」の犠牲となった漁民らは苦しみ、戦い、そして最後はゆるすまでに至った。その過程に人間の気高さがあらわれている。憎悪や分断に常にさらされる世界で「生き方の純度」や「魂の香り」の意味を問い続けたい。


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京都哲学グループと海軍側との結びつき


▼上田高昭著『西田幾太郎の姿勢 戦争と知識人』(中央大学出版部)

京都哲学グループと海軍側との結びつき

▼上田高昭著『西田幾太郎の姿勢 戦争と知識人』(中央大学出版部)

 京大哲学グループと一部海軍側との結びつき(いわゆる京大ネーヴィ・グーループ)に関する大島康正(1917~1989)の「大東亜戦争と京都学派」という一文(『中央公論』昭和四十年八月号)についてその概要に触れておきたい。

▼当時海軍の調査課長であった高木惣吉大佐と天川勇嘱託が、目立たぬように背広姿でこっそり来洛されたのは昭和十六年五月であったと記憶する。〔後に、その時期はもっと早い時期だったと思い違いを訂正している〕……高木大佐は米内光政大将や山本五十六大将と意を通ずる人であって、日米もし戦えば一年余りはどうにかもたせてみせるが、三年目には日本軍は敗れるという見識をもっていた。そのために何とか陸軍の戦争拡大勢力を抑制しようして、それへの協力を京都哲学で西田・田辺両先生の息のかかっている者たちに依頼に来られたのである。

▼その結果、田辺先生をを中心に京都に一つの秘密組織が生まれた。表面は高山岩男ひとりだけが海軍省の嘱託になることになり、文学部教授会で承認された。しかし同時、高坂正顕、西谷啓治、木村素衛、鈴木成高が内々で協力することになった。そして大学を出てまだ二年目であった私〔大島〕が加えられたのは、事務連絡のためであった。すなわち月に一、二回ひそかな会合がもたれたときの日時や場所の設営(主として夜、郊外の料亭を使った)、会議での皆の意見を整理して海軍の調査課へ発送することであった。それに対して海軍は私に月々三千円の手当を送ってくれた。

▼私の師、田辺元はその頃健康状態がよくなかったが、三回に一回ぐらいは会合に人力車でやって来られた。またときにはゲストとして、その会合にグループ以外の人を招くこともあった。湯川秀樹、柳田謙十郎などがそうであったし、谷川徹三、大熊信行などが東京からきて加わったこともあった。
 など、大島の一文には、彼ら京大ネーヴィ・グーループによってその後行われた『中央公論』に掲載するための三回の座談会はその後単行本『世界史的立場と日本』〔中央公論社、昭和十八年三月〕になったが)の間のいきさつ、および彼らの歴史哲学的理念や主張、そしてそれにもとづく(戦争がさらに大きくなりつつあった際にも)戦争の早期終結など、彼らの主張にいかに陸軍の戦争拡大勢力を誘導しようとしていたかなどに紙面の大部分を使っている。これらについては、またのちに触れることにした。

  十月十五日 原田熊雄宛

▼尊兄何処か御体によくない所があるのではないかと存じられます。何卒十分御静養をいのります。野村氏就任早々大きな嵐に逢われ誠にお気の毒に存じ深く同情いたし居ります。何とかして同氏により多少とも対米交渉など調整せられる様切望の至りに堪えませぬ。御逢いの節よろしく。先日〔七日〕久しぶりにて会合難有御座いました。(書簡一六二一)

▼原田はこの年二月、アメリカ行きを考えていた。前年十二月に長女がニューヨークで出産したので、初孫に合いがてら、ワシントンで日米交渉中の野村大使を激励しようということだったが……三月七日夜、大磯の別邸で激しい息切れ、動悸を訴え容易ならざる容態であった。な古屋から勝沼博士が来診し、「高血圧兼脂肪心にして心衰弱を起せしの」と診断……訪米計画中止、肉食喫煙も禁じられ、好物の菓子、甘いものも厳禁とされた。以後、大磯で専ら療養につとめた(勝田、下、二四八頁)という際だった。

 十月十五日 山本良吉宛

▼御手紙難有御座いました。今月はじめ頃より俄に足や手の甲むくみ種々の関節いたみ困りましたので岩波の尊敬し居る武見という医師に見てもらいました処体内に於て塩分過剰のためというのです。俗にリューマチというものではないかと思い居ります。それから糖尿の兆ありというのですが極少量の由。私等の如き年輩のものには何かあることならんと存じます。

編成されたブレーン・トラスト

 そもそも高木が本格的にブレーン・トラストの編成に取り組んだのは、「時局の容易ならぬことを直観」した昭和十五(一九四〇)十一月であった。その前年、高木が海大教官を兼ねたまま再び海軍省官房調査課長に戻ったのを機に、初めは海大研究部にごく小規模のグループで発足した(昭和十四年十一月)。一年後の昭和十五年十一月に本格的に編成したブレーン・トラストは、当時、次官になって間もない豊田貞次郎中将に提出する「上申書」(機密費承認を得るための)に掲げられたものであったが、この一文でその編成が初めて次のように明らかにされた。(後から追加、変更したものがある。)

 一、思想懇談会==安部能成(一高校長)(その他筆者により省略)
 二、外交懇談会==伊藤正徳(時事新報)(その他筆者により省略)
 三、政治懇談会==岸本政二郎 (その他筆者により省略)
 四、総合研究会==板垣与一(東京商大教授) (その他筆者により省略)
 五、直接連絡の嘱託(海大講師を含む)==天川勇 (その他筆者により省略)
 六、海軍省顧問(司政長官を含む)==井上庚二郎 (その他筆者により省略)
 そのほかに、非公式の懇談会「太平洋研究会」があった。その初回は昭和十六二月で、

▼下村『日本評論』、松下『中央公論』、大森『改造』の各総合雑誌編集長、調査課から私と扇中佐、天川嘱託、ほかに慶応の加田、永田、武村の三氏に、高岡から大熊氏、東大から大河内氏が加わり、日中、日米関係からわが政治経済の諸問題につき懇談した。この太平洋研究会は、海軍の意向を国民に紹介してもらうのが根本の趣旨……ということであった。
 ところで、上に掲げたブレーン・トラスト編成の理由について、高木はこう記している。

▼海軍として学者知識人と広い接触を持ちたいと考えた理由はいりりあったが、まず国民、とくに有識者の率直な声を聞くとともに、海軍の意志や内情を理解してもらいたいことであった。……次には、とくに京都学派などに期待したのは、アジア十五億の有色人種の先頭に立ったと自負する日本は、この複雑な各種民族に対して思想、政治の理念に何を提示し、何をかかげ得るか。八紘一宇とか、東亜共栄圏などという中身はからっぽの標語で、昔わが國に文化を提供し、宗教を伝えてくれた民族が、心から協力できると考えられようか。西欧の科学文化も、東洋の宗教哲学も抱擁できる何ものかが欲しかったのである。
 さらに欲をいえば、これらのブレーン・トラストの助太刀で、劣勢な海軍の政治的影響力を補強してもらいたい希望もあった。 
 そして上のブレーン・トラスト編成は、すべて高木の意思で決めた訳ではなかった。

▼懇談会のメンバーは幹事役のほかは全く自由の立場で、全員を嘱託に願ったのではなかった。人選は谷川、三枝、矢部の三氏〔幹事〕にそれぞれの懇談会の顔ぶれの選択を任せたが、慶応関係、総合雑誌編集長、あるいはその他の執筆者に関しては天川嘱託の示唆に負うところが多い。
 と、編成の要点を述べ、他方、非公式の懇談会である総合雑誌編集長らととの太平洋研究会の集まりについては、

▼各方面の有力な〔かなり多数の〕執筆候補者を加えての懇談会なれば、雑誌社側としても手応えが思った次第で、編集方針とか、取材についてようぼうしたことはなく、戦況の推移とか、日米関係を披露して海軍の実状を理解してもらいたかったのである。
 と、陸軍がとった雑誌関係への脅しや強圧的な態度とは全く対照的な姿勢を保っていた。

 だが、今でも遺憾にたえないのは海軍の政治力不足で、用紙の配給割当ても、出版物の検閲、動員召集などのカナメを全部陸軍と陸軍に好意をもつ官僚に握られてしまったため、すべては「賽の河原」か、「ゴマメの歯ぎしり」という結果に終わったことである。

▼高木はここまでも、慙愧に堪えない真情を率直に吐露している。

 昭和十七年六月、高木は突然舞鶴鎮守府参謀長に転任した。その背景には、豊田貞次郎次官が商工大臣に転任して「沢本次官の時代となり、調査課長の椅子はいよいよ坐り心地悪いものとなった」という。それは調査課が手を広げすぎ、機密費を濫費するという反感が海軍部内で強まったことから、首脳部との関係がまずくなったことだった。
 そこで高木は戦地勤務の転任を希望したが、「健康診断に落第して、舞鶴落ち」となったという事情が介在した。
 それから一年半後の十八年九月戦局が悪化して東京にもどるまで、折角つくったブレーン・トラストがどう運営されていったか、風の頼りに聞くほか、後任者から何も相談もなければ、通報もなかったのである。という。

▼私も海軍の生徒であったが、いかに戦争回避に努力して、政治力充足による戦争に突入したかの一つの具体例を知ることができました。

▼親しくしている方から資料を頂戴いたしましたことに厚くお礼申上げます。

平成二十二年八月二十三日


12

71年前の12月


 朝、そうだ、太平洋戦争がはじまった日だと思う。そこでパソコンで新聞社の主要記事をサット目を通す。関連記事は私の目には触れなかった。

 そこで、二つの新聞のコラムを読む

 天声人語:2012年12月8日(土)

 『思えば、標語の技には進歩がない。「新体制で国を強く明るく」。どこかで見たような幟(のぼり)が大阪に現れたのは1941(昭和16)年初めだ。夏には優秀児を選び出して遺伝調査が始まる

▼「云(い)うな不平。漏らすな秘密」。行楽先で軍港や駅をうっかり撮影し、捕まる人が続出した。「国が第一、私は第二」「聖戦へ、民(たみ)一億の体当(たいあた)り」と標語は熱くなり、71年前のきょう、日本軍は真珠湾を奇襲する。この痛恨の日を、各党のスローガンが飛び交う中で迎えたで始まり、(中略)〈この子らに戦(いくさ)はさせじ七五三〉水野李村(りそん)。国を守る決意もいいけれど、戦没者の悔しさを思い、孫子の顔を浮かべての一票も悪くない。で結ばれていた。』

 日本経済新聞:春秋 2012/12/8付 記事保存

『山岳遭難で多いのは「道迷い」だ。読んで字のごとく、行くべき道を間違える基本的なミスなのだが、警察庁のまとめでは昨年の全国の山の事故のうち4割を占める。天候は良い。リーダーも経験豊富。みんな装備もしっかりしている。それでも道迷いは起きるという。

▼おしゃべりや景色に夢中で分岐点を見逃す。迷いはじめたときに引き返さず、ついもうちょっと、と進んでしまう。おかしいな、と思ってもリーダーに任せ、かれもまたプライドがあるから弱いところは見せられない(中略)多くの登山家が指摘する道迷いの心理は組織や集団にも当てはまろう。もちろん、国家の過ちにも。

▼71年前のきょう、日本は対米開戦に踏み切った。道迷いのはじまりは米国を怒らせて石油禁輸を招いた南部仏印進駐か、前年秋の日独伊三国同盟締結か、いやいやずっと以前の満州事変のころから道を外れていったのか。見方はさまざまだが、引き返す勇気はなく、冷静な声も熱狂にかき消されていった昭和の軌跡である。(後略)』

 新聞も取り上げられていたのだ。

★当日の夜、NHKの「巨人戦艦 大和」放映あり。メモしながら食い入るように視聴。メモの要点

1、乗組員:3332人 生き残り:276人
2、第一章 死に方用意 沖縄の浅瀬に乗り上がるよう命令された 桜満開の時期に出航:昭和20年4月6日:動向はアメリカにつかまれていた。
3、第二章 国の誉 家の誉 大日本国防婦人会
4、第三章 洋上の生と死 アメリカの魚雷攻撃 大和爆発
5、第四章 失った生命
6、終章  それぞれの大和 乗組員の一人は「大和は私の青春」と言う。また他の人は「戦争は嫌だが、大和は好きだ。」といっていた。
*登場者はは84歳~90歳の乗組員であった。メモには間違いがあるかもしれませんので、おことわりしておきます。


 私の開戦当日の記録は太平洋戦争開始の日について記録しています。その後、海軍の学校で終戦を迎えましたので関心がありまして、24年12月8日私の記録としました。

★長男と同年輩の人に「2月8日といえば、何を思い出しますか?」と聞いたところ、考えこまれた。
 もし私に日清戦争のことを聞かれたとしたら、一言も返事できない。
 世は時の流れにしたがって去りゆき歴史を忘れさせるものだと、つくづく思う。

平成二十四年十二月八日


13

一人ひとりの大久野島――毒ガス工場からの証言


 この章の14号に大久野島と毒ガス製造を掲載しました。先ず、お読みになられますと、「行武正力のお嬢さんが証言集の完成に現在努められていることが報道されていました。」と記録しました。

 最近、表題の本が行武 正刀先生のお名前で(ドメス出版)から発行されています。その一部分を紹介いたします。

 はじめに

 大久野島(おおくのしま)。もしもこの島に旧日本陸軍が化学兵器の研究所を置くということがなかったら、瀬戸内海の大小数千の島々の一つとしてほとんど誰の目を引くこともなく時は流れたであろう。どのような定めからか、この島に陸軍唯一の毒ガス工場が置かれ、島の対岸の竹原市忠海(ただのうみ)町を中心とした数千人の人びとがこの島と運命を共にすることになったのだ。戦時中の苛酷な労働に加え、戦いが終わっても後遺症が次第に体を蝕んでいく。敗戦後の混乱、復興、そして繁栄とはべつのところで、島の歴史は今も続いている。日本の現代史の重い一頁がこの島にはある。

▼不思議な縁で、ここ忠海町の忠海病院(国家公務員共済組合連合会)に内科医として勤務することとなり、一九六二(昭和三七)年から四〇年近く座り続けてしまった。毎朝毎朝、潮が押し寄せるように小病院を毒ガス障碍者が受診する。猛烈な咳と共に膿性の痰をペット吐き出す慢性気管支炎、また苦しそうにヒーヒーと肩で息をし、肋骨の浮き出た胸を叩いてみると、まるで空箱を叩くような肺気腫。教科書でも読み、教室でも講義を受けて赴任してきたが、こんな重傷者が来る日も来る日もやって来るとは思ってもみなかった。机の上に積み上げられたカルテの山を横目に、兎に角診察に追われる毎日であった。ゆっくり病歴を聞く時間など全くなかったし、話を聴こうという余裕もなかったが、二〇年たったある日、毎朝泣きながら自転車を漕いで毒ガス工場に通いましたという古い工員さんの話を聞いた途端、「ああこの人が一番言いたかったのはこの言葉ではなかったか」と、胸を打たれた。もっと患者さんの話を聴かなければ、一番いいたいことを聴いてあげなければと思った。

▼病歴とは何であろうか。病人が医師を訪れたとき、医師は病人にいろいろ質問する。その病気はいつから起こったのか、どんなに悪くなったのか、その病気を理解するために必要な医療情報が病歴である。その病気に関係があると思えば、過去に遡って職歴や健康状態も尋ねるであろう。

▼毒ガス障碍者の場合、咳、痰、息切れの呼吸器症状が主なものである。これらの症状はいつから始まったというはっきりした時期はないし、極めて長時間にわたって慢性的に進行するものであったから、その病歴の期間は当然長くなる。毒ガス工場時代の勤務状況とも関係がある。場合によっては、工場勤務以前の健康状況も病歴を完成するための重要な要素となるだろう。

▼世に「三分診療」なる言葉がある。私の場合も全くその通りだった。外来診療室でのあわただしい時間の中でどれだけのことが質問できたか、はなはだ疑問だ。しかし患者さんは毎月やって来る。たとえば三分診療でも10回会えば30分、100回会えば300分の時間が用意されることになる。勿論長時間にわたる細切れの時間なのだが、病院に長く勤めれば患者さんともしたしくなる。病歴とは直接関係ない無駄話も少しは聞けるようになり、信頼関係が深まってくると、水を向ければ患者さんの方からいくらでも話してもらえるようになる。その中で病歴とは関係のない、一番話したい言葉が漏れて来る。その度にそれをカルテの片隅に書き溜めておいたが、その言葉を集めたものが、この証言集になった。

      目 次

 はじめに  行武 正刀

 序章  島のはじまり
[証言者] 新川美代子

 1章 初期の忠海製造所
[証言者] 友田竹一 二木覚一 (略)

2章 大量生産・事故・火災

   大量生産
   [証言者] 大木初三 伴谷常吉 (略)

   事故・火災
   [証言者] 福浜ハツ子 吉村正明 (略)

 (中略)

 友人の一人の文章があった。紹介します。

 西川 昭三さん(男・昭和三年三月、忠海町生まれ)註:私と小学校、中学校同級生

 忠海中学より幾度か忠海分廠に勤労奉仕作業に行き、倉庫の整理、運搬作業をおこないました。大久野島にも渡り、山の上で高射機関砲の取り付けのための基礎工事を手伝いました。
▼昭和一九年に呉市広町の海軍工廠に動員されて、昭和二〇年三月に広島工専を受験、合格しましたが海軍工廠に残されました。七月に理系の者は学校に行ってもよいことになり、広島工専に入学しました。空襲が激しくなり疎開して授業を続けることとなり、八月一日より三菱化成の大竹工場内で授業を再開しました。
註:私も同じく動員され、工廠の安永寮に入り、工廠で2交代勤務だった。記憶では広島女学院の女子生徒・久留米工専の学生も動員されていた。そこから海軍兵学校を受験して、昭和十九年十月に兵学校に入校した。
▼昭和20年八月六日、原爆が投下され、広島市内の者はその日のうちに広島市内に戻りました。私は他の学友と共に列車で己斐(こい)駅まで行き、そこから市内を歩いて工専まで行きました。ボロボロになった橋を渡りましたが、橋のたもとは救護所になっており、川のそばでは死体を積み上げて焼いていました。日赤(広島赤十字病院)の広場では被災者に並んで死体が並べてあり、顔に死んだ日を書いた紙が置いてありました。
 工専は校舎が倒壊していましたが、火災にはあっていませんでした。その日の晩、再び歩いて己斐駅まで行き、列車で大竹に帰りました。
 原爆投下直後大竹から広島市内へ戻った友人たちの中には、髪の毛が抜け、早く亡くなった人もいます。

説明:私も忠海中学の同級生として、幾度か忠海分廠に勤労奉仕作業に行き、倉庫の整理、運搬作業をおこないました。大久野島にも渡り、軽作業をしました。

 (以下略)

 おわりに 行武 則子

 二〇〇八年一一月に父・行武正刀から「病室にパソコンを持ってきてほしい」という電話がかかってきました。父はその年の春に肺がんと診断されて以来何度か入退院を繰り返しており、そのときは肺炎を併発して自宅のある広島県三原市の医師会病院に入院していました。

▼私は広島市で働いていましたが、休みの日にパソコンを持って三原に帰りました。病室に入ると、容態は安定しているようで私はひとまず安心しましたが、父は「もう自分はダ駄目かもしれない」と言い、口述で私に「無用の延命治療は避ける、病理解剖を申し出る」など、死後の細かい段取りについての遺書を打たせました。

▼「これで安心した」と一言言い、次に新しく『一人ひとりの大久野島』という題で、文章の記述を始めました。こうして私は休みごとに三原に帰り、父の話す文章をパソコンで打つことになりました。

▼このときは一応容態を持ち直して退院し、正月には外出できるほどに回復しました。しかし二月に入って再び容態が悪くなり、広島市の吉島病院に入院しました。同じ広島市だったので、私は仕事が終わるとパソコンを持って病室に顔を出し、夕食を一緒に取り、夜の一時間ほど父を手伝って、約二〇〇〇人分の証言をしました。仕事が休みの日には母に替わって病室に付き添い、父の体調を見ながら証言の整理を手伝っていました。

▼父は、この証言集について「毒ガスの治療や研究については、優秀な人材は沢山いるし、自分以外でも出来る。だが患者さんの証言を残す仕事は、自分にしか出来ない仕事だ」とはなしていました。後を託すというような話は直接しませんでしたが、自分の死後も子どもたちが受け継いで完成させてくれると、疑いもなく信じているようでした。

▼しかし私は父と一緒に仕事をしながらも、これらの証言を発表するのは難しいだろうと思っていました。父が長年にわたり忠海病院(現・呉共済病院忠海分院)で毒ガス患者の方がたの治療を続け、いつ頃より証言集の作成を思い立ったのかは分かりませんが、その頃はおそらく「個人情報」という言葉すらかっただろうと思います。

▼この問題については父も全く考えていなかった訳ではなく、すべての証言をイニシャル表記で、個人が特定できないようにする予定でした。しかし証言そのものが個人のデリケートな部分に関わるものであり、また個人情報に対する世間の考え方も年々厳しくなっていることを思うと、いくら匿名でも発表するのはためらわれました。本当はこの問題について父としっかり話し合うべきでしたが、死の床で作業を続ける父に対して、あまり現実的な問題を持ち出すと意志を挫いてしまうのではと思い、言い出せませんでした。

▼三月に海外で暮らしている妹が帰国し、証言を整理する作業に加わりました。しかしこの頃から父の容態が悪くなり、起き上がれなくなりました。そこで実際の作業は妹と二人で進めながら、必要に応じて父の助言や指示を仰ぐことのしました。この作業は父の枕元で、亡くなる二日前まで続けました。父が亡くなった後は妹も海外へ戻ってしまい、私は一人で証言の整理を続けました。

▼父が聴取した証言は、元々は治療や公的救済の書類を作成するためのもので、はじめから毒ガス障害の実相や苦しみを伝えることを目的にしたものではありませんでした。今までも大久野島で働かれた方がたによって多くの手記が発表されてきましたが、直接体験された方がたの文章からはその辛さや苦しみが滲み出ており、それに比べると私たちが整理した証言は内容が簡潔で、「こんな文章で証言者の気持ちを伝えることができるのだろうか」と①疑問に思っていました。ただ、いろいろな立場の方がたの話を繋げていくことで、全容のわからない大久野島での出来事がモザイクのように浮かび上がってくるような気がしました。それに私が諦めればこの証言は誰にも知られることなく消えてしまうのだと思うと、簡単に投げ出すことも出来ませんでした。問題は山積みでしたが、諦める前にとりあえずやれるところまでは進めよう、そう考えていました。

▼幸いにも、父のことを放送したNHK教育TVの特集番組を見たドメス出版の方よりご連絡をいただき『地図から消された島 大久野島ガス工場』(武田英子著、一九八七年刊)につづいて同社より出版の目途がつきました。しかし個人情報の件に関してはかなりの時間と労力がかかり、各方面の皆様方のご協力がなければとても解決しなかっただろうと思います。

▼この件で毒ガス患者の皆様やご家族様約五〇〇人の方がたに連絡を取らせていただきましたが、突然のお願にもかかわらず二七七人余りもの方がたより掲載のご許可をいただきました。また、幾人かの方がたからの貴重なご教示をいただきました。

▼呉共済病院忠海分院の皆様、広島県健康福祉局総務管理部被爆者対策課の皆様、竹原市および大久野島毒ガス資料館、村上初一様、岡田黎子様、毒ガス島歴史研究所山内静代様、山内正之様、広島女学院名誉教授横山昭正先生には、各方面で多大なご尽力、ご教示をいただきました。ドメス出版の編集長鹿島光代様、編集担当生方孝子様にも、お世話になりました。

 その他にも、大勢の方がたのご協力をいただきました。

 皆様方のおかげで『一人ひとりの大久野島』を世に出すととができました。深く感謝しています。本当にありがとうございました。

   二〇一二年七月

参考資料
1、戦後65周年記念事業
  大久野島毒ガス障害 その実相と継承 2011年3月31日初版 発行/広島県健康福祉課 被爆者対策課
2、インターネットで「大久野島」を検索下さい。

平成二十四年十二月二十日


14

工藤 俊作(くどう しゅんさく)海軍中佐


 1901年(明治34年)1月7日 ? 1979年(昭和54年)1月12日)は、日本の海軍軍人、最終階級は海軍中佐。

 1942年3月、駆逐艦「雷」艦長時、スラバヤ沖海戦で撃沈された英国艦船の漂流乗組員422人の救助を命じ実行させた人物として有名である。

 スラバヤ沖海戦での敵兵救助作業

 「雷」は第六駆逐隊に属し、日米開戦時には香港の海上封鎖任務に就いていた。その後、南方の諸作戦に参加した。

 1942年、スラバヤ沖海戦の掃討戦において撃沈された英海軍重巡「エクセター」の乗組員376人を3月1日に僚艦「電」が救助した。

 「雷」は翌3月2日、英駆逐艦「エンカウンター」等の乗組員422人を救助し、翌日、パンジェルマシンに停泊中のオランダ病院船「オプテンノート」に捕虜を引き渡した。

 その後、「雷」はフィリピン部隊に編入され、さらに第一艦隊に編入し内地帰還を命ぜられた。5月には第五艦隊の指揮下に入り、アッツ・キスカ攻略作戦に参加した。

 工藤は1942年8月に駆逐艦「響」艦長に就任、11月に海軍中佐に昇進した。「響」は改装空母「大鷹」を護衛し、横須賀とトラック島間を三往復し、12月に工藤は海軍施設本部部員、横須賀鎮守府総務部第一課勤務、翌年には海軍予備学生採用試験臨時委員を命じられた。1944年11月から体調を崩し、翌年3月15日に待命となった。

   戦後、工藤は故郷で過ごしていたが、妻の姪が開業した医院で事務の仕事に就くため埼玉県川口市に移った。1979年に胃癌のため死去。生前は上記の事実を家族にも話さなかった。これは「雷」が1944年に沈没して多くの乗組員が犠牲になっており、その自戒の念から軍務について家族にも黙して語らなかったものと思われる。遺族がこの話を聞いたのは助けられた元イギリス海軍士官、サム・フォール(en:Sam Falle)からである。

 臨終前にクラスの大井篤が駆けつけたが、大井に「貴様はよろしくやっているみたいだな。俺は独活の大木だったよ」と答え、その後息を引き取ったという。

人物

 身長185㎝、体重95㎏といった堂々とした体躯で柔道の有段者であったが、性格はおおらかで温和であった。そのため「工藤大仏」というあだながついたという。

 海軍兵学校時代の校長であった鈴木貫太郎の影響を受け、艦内では鉄拳制裁を厳禁し、部下には分け隔て無く接していた事から、工藤が艦長を務めていた際の艦内は、いつもアットホームな雰囲気に満ちていたという。決断力もあり、細かいことには拘泥しなかったので、部下の信頼は厚かった。戦後は海兵のクラス会には出席せず、毎朝、戦死した同期や部下達の冥福を仏前で祈ることを日課にしていたという。

エピソード

 高松宮宣仁親王が長門乗務の時、階段で転んで足に怪我を負い、艦内で草履を履くことになってしまった。

 ある時宮は大正天皇のお見舞いに行くことになったが、さすがに草履というわけにはいかない。どうしようと周囲に相談したところ、宮の心中を察した某少尉が「私のクラスに大足の大男がいます。奴の靴を借りましょう」と靴を借りてきた。それを宮が履いてみたところ包帯で巻かれていた右足はピッタシだったが左足はダブダブだった。「仕方ないので左は自分の靴を履いていくことにする」と左右全く大きさの違う靴を履いて天皇をお見舞いした。

 「上手く行った。御殿の人間にも侍従にも全くバレなかった」と宮は大喜びしたという。某少尉は「それでは奴に酒をおごらないといけませんな。奴は酒好きですから」と言ったので3人で宴会となり、後に同期全員で大宴会となった。最後は「殿下のツケでお願いします」となり、宮が酒代すべてを支払うことになったというエピソードがある。この某少尉の言う「大足の大男」で「酒好き」の「奴」こそ、少尉時代の工藤である。

 「雷」沈没当日の夜、「雷」に乗艦していた時の部下たちが「艦長」「艦長!」と駆け寄り、工藤を中心に輪を作るように集まって来て静かに消えていった、という夢を見た。工藤ははっと飛び起き、「雷」に異変が起きたことを察知したという。

   「雷」に救助された「エンカウンター」砲術士官であった元海軍中尉サム・フォール(Samuel Falle又はSam Falle)は、戦後は外交官として活躍したが、恩人の工藤の消息を探し続けていた。彼が工藤の消息を探し当てた時には既に他界していたが、せめて工藤の墓参と遺族へ感謝を伝えようと2003年に来日した。しかしそれらを実現できなかったため、惠隆之介に依頼した結果、2004年12月に墓所等の所在が判明した。そのことはフォールへ報告され、翌年1月に恵は墓参等を代理して行った。その後、2008年12月7日、フォールは66年の時間を経て、駐日イギリス大使館附海軍武官付き添いのもと、埼玉県川口市内の工藤の墓前に念願の墓参りを遂げ、感謝の思いを伝えた。このエピソードは 2007年4月19日、フジテレビの番組「奇跡体験!アンビリバボー」にて、「誰も知らない65年前の奇跡」として、再現ドラマを交えて紹介された。

英海軍将兵の浮游救助のあらまし

▼昭和十七年三月一日午後二時過ぎ、英重巡洋艦「エクゼター」(一万三〇〇〇トン)、「エンカウンター(一三五〇トン)」は、ジャワ海脱出を試みて帝国海軍艦隊と交戦し、相次いで撃沈された。その後両艦艦長を含む約四五〇人の英海軍将兵は漂流を開始した。

 翌三月二日午前十時ごろ、この一団は生存と忍耐の限界に達していた。結果一部の将兵は自決のための劇薬を服用しようとしていたのである。まさにその時「雷(いかずち)」に発見されたのだ。

 一方駆逐艦「雷」は直属の第三艦隊司令部より哨戒を命じられ単艦でこの海面を行動中であった。

 「雷」乗員は全部で二二〇人、ところが敵将兵は四五〇人以上が浮游していたのである。さらにこの海面は敵潜水艦の跳梁も甚だしく艦を停止させること自体、自殺行為に等しかった。

 救助を決断した「雷」艦長工藤俊作少佐(当時)は四十一歳、山形県出身、当初は敵将兵の蜂起に備え、軽機関銃を準備し警戒要員を艦内主要箇所に配置していた。

 ところが艦長は間もなく彼らの体力が限界に達している事に気づく。そこで警戒要員も救助活動に投入した。

 一部英海軍将兵は、艦から降ろした縄はしごを自力で登れないばかりか、竹ざおをおろして一たんこれにしがみ付かせ、艦載ボートで救助しようとしたが、力尽きて海底に次々と沈んで行ったのだ。

 ここで下士官数人が艦長の意を呈し、救助のためついに海に飛び込んだ。そしてこの気絶寸前の英海軍将兵をロープで固縛し艦上に引き上げたのである。

▼一方サー・フォールは、当時の状況をこう回顧している。

 「雷」が眼前で停止した時、「日本人は残虐」と言う潜入感があったため「機銃掃射を受けていよいよ最期を迎える」と頭上をかばうかのように両手を置いてうつむこうとした。その瞬間、「雷」メインマストに「救助活動中」の国際信号旗が掲揚されボートが下ろされたのだ。

 サー・フォールはこの瞬間から夢ではないかと思い、何度も自分の腕をつねったと言う。

 一方「雷」艦上ではサー・フォールを一層感動させる光景があった。

 日本海軍水兵達が汚物と重油にまみれた英海軍将兵を嫌悪しようともせず、服を脱がせてその身体を丁寧に洗浄し、また艦載の食料被服全てを提供し労る光景であった。

 当時「石油の一滴は血の一滴」と言われていたが、艦長は艦載のガソリンと真水をおしげもなく使用させた。

 戦闘海域における救助活動は下手をすれば敵の攻撃を受け、自艦乗員もろとも遭難するケースが多々ある。この観点から温情ある艦長でさえごく僅かの間だけ艦を停止し、自力で艦上に上がれる者だけを救助するのが戦場の常識であった。ところが工藤艦長は違った、しかも相手は敵将兵である。

 さらに工藤艦長は潮流で四散した敵兵を探し求めて終日行動し、例え一人の漂流者を発見しても必ず艦を止め救助したのである。救命活動が一段落したとき艦長は前甲板に英海軍士官全員を集め、英語でこう訓辞した。「貴官らはよく戦った。貴官は本日、日本帝国海軍のゲストである」と、そして艦載の食料の殆どを供出して歓待したのである。(藤俊作 武士道精神の人英国兵四二二人を救助した駆逐艦「雷」艦長)恵隆之介 武士道精神の人「英国兵四二二人を救助した駆逐艦「雷」艦長)恵隆之介より)

惠 隆之介は、日本の評論家、ジャーナリスト。 元海上自衛官で、現在は軍事分野の評論を中心に活動している。 ウィキペディア。生年月日: 1954年2月23日 (年齢 69歳)学歴: 防衛大学校。軍歴: 1978年(昭和53年) -; 1982年(昭和57年)

 戦艦『プリンス・オブ・ウェールズ』に乗務していたグレム・アレン元大尉が『偉大なる帝国海軍』と前置きして私にこう発言した。『旗艦および随伴戦艦レパルスが戦闘 能力を失ったと見ると、日本海軍航空隊は一斉に攻撃を止めた。そして護衛駆逐艦が両艦乗員の救助活動を開始したが一切妨害しなかった。さらに我々を救助した駆逐艦が母港のシンガポールに帰港する際も日本海軍は一切攻撃を行わなかった。我々は帝国海軍のこれらの行為に瞠目し、敬意を払うようになった』  

▼アレン大尉は、その後重巡洋艦エクゼターに転属、ジャワ沖開戦で撃沈され、帝国海軍に救助された。なおジャワ沖海戦時、沈没直後の英海軍艦艇から乗員が帝 国海軍艦艇に向かって懸命に泳ぐ姿が見られた。尋問の結果、『日頃から上官が、万一の時は日本海軍艦艇に向かって泳げ、きっと救助してくれる』と発言して いたという (恵隆之介『正論』平成20年10月号)

略歴

 工藤俊作艦長は、明治34年1月7日、山形県の生まれです。
 明治41年4月に屋代尋常小学校に入学。
 明治43年4月15日に第六潜水艇の事故があり、当時屋代尋常小学校では、校長が全校生徒に第六潜水艇佐久間艇長の話を伝えたそうです。
 校長は、責任感の重要性を話し、全校生徒は呉軍港に向かって最敬礼した。
 工藤俊作氏はこの朝礼のあと、担任の先生に聞いたそうです。
 「平民でも海軍仕官になれますか」
 担任の先生は、米沢興譲館中学(現:山形県立米沢中学校)への進学を勧めたそうです。
 そして工藤氏は5年間、現在の上新田にあった親類の家に下宿して、約3キロの道のりを毎日徒歩で通学し、念願の海軍兵学校に入学します。
 当時、一流中学校の成績抜群で体力のすぐれた者が志すのは、きまって海軍兵学校への受験だった。次が陸軍仕官学校、それから旧制高等学校、ついで大学予科、専門学校の順であった。
 この時代、欧米の兵学校は、貴族の子弟しか入校できなかった。
 ところが日本は、学力と体力さえあれば、誰でも兵学校に入校できた。
 英国のダートマス、米国のアナポリス、日本の江田島、これらは戦前世界三大海軍兵学校の代名詞とされていたといいます。

▼工藤俊作氏は、大正9年に海軍兵学校に入学します。

 その前年の大正8年、鈴木貫太郎中将(後の総理大臣)が校長として赴任していた。

 海軍兵学校校長に着任した鈴木貫太郎氏は、大正8年12月、兵学校の従来の教育方針を大改新した。

 ・鉄拳制裁の禁止 ・歴史および哲学教育強化 ・試験成績公表禁止(出世競争意識の防止)

 工藤ら51期生は、この教えを忠実に守り、鉄拳制裁を一切行わなかったばかりか、下級生を決してどなりつけず、自分の行動で無言のうちに指導する姿勢を身につけた。

 鈴木中将は 明治天皇が、水師営の会見の際「敵将ステッセルに武士の名誉を保たせよ」と御諚され、ステッセル以下列席した敵軍将校の帯剣が許されたことを生徒に語ったといいます。

 海軍兵学校を卒業した工藤俊作氏は、駆逐艦「雷」の艦長として、昭和15年11月着任します。工藤は駆逐艦艦長としてはまったくの型破りで、乗組員たちはたちまち魅了されたといいます。

▼工藤艦長の着任の訓示。

 「本日より、本官は私的制裁を禁止する。とくに鉄拳制裁は厳禁する」

 乗組員たちは、当初工藤をいわゆる「軟弱」ではないかと疑ったが、工藤は決断力があり、当時官僚化していた海軍でも上に媚びへつらうことを一切しなかった。

 また、工藤氏は酒豪で、何かにつけて宴会を催し、仕官兵の区別なく酒を酌み交わした。好物は魚の光り物(サンマ、イワシ等)で、仕官室の食堂にはめったにでないので、兵員食堂で光り物が出る時、伝令のと自分のエビや肉と交換したり、自ら兵員食堂まで仕官室の皿を持って行って「誰か交換せんか」と言ったりもした。

 工藤氏は日頃士官や先任下士官に、

 「兵の失敗はやる気があってのことであれば、決して叱るな」と口癖のように言っていたといいます。

 見張りが遠方の流木を敵潜水艦の潜望鏡と間違えて報告しても、見張りを呼んで「その注意力は立派だ」と誉めた。このため、見張りはどんな微細な異変についても先を争って艦長に報告していたといいます。

 2ヶ月もすると、「雷」の乗組員たちは、工藤を慈父のように慕い、

 「オラが艦長は」と自慢するようになり、「この艦長のためなら、いつ死んでも悔いはない」とまで公言するようになっていった。

 艦内の士気は日に日に高まり、それとともに乗組員の技量・練度も向上していった。

▼惻隠の情

 工藤氏は、海軍兵学校で校長の鈴木貫太郎中将から「惻隠の情」の話を聞いたとのことです。この言葉が、彼の人生の指針となったと思われます。

参考:「惻隠の心は仁の端なり」

 他人のことをいたましく思って同情する心は、やがては人の最高の徳である仁に通ずるものです。

 人間の心のなかには、もともと人に同情するような気持ちが自然に備わっているものですから、自然に従うことによって徳に近づくことができるのです。 の諺は、「孟子、公孫丑・上」から採ってみました。少々難解ですが、孟子の有名な「性善説」に繋がっていますので、説明してみましょう。

 彼の分析によると、心の作用には「四端」といって、4つの要因があるとしています。丁度人間には手足が合計4本備わっていると同じように、自然にだれにでも備わっている心の作用です。それを列挙してみると次のようになります。

①惻隠の心……………「仁」 「人に対する同情の心が仁につながる」
②羞悪の心……………「義」 「自分で恥ずかしいと思うことが、義につながる」
③辞譲の心……………「禮」 「遠慮する心の作用は礼につなが」
④是非の心……………「智」 「良否の判断をする作用は智につながる」
 このように自然の心の延長線上に徳のすべてがあり、決して無理に押しつけられたり、後から教育されたものではないと主張しているのです。

 さて、「惻隠の心は仁の端なり」ということを実社会の面で応用してみるとどういうことになるのでしょうか。

 「惻隠の心」とか「惻隠の情」という熟語は、難しい言葉のようですが、孟子の「性善説」とは別に「あわれみの心」という意味で広く常用されているようです。
 「惻隠の心」は、いたましく同情する心ですが、相手の立場に立って、ものごとを感じとるという感覚上の自然の性格の発露でもあります。夏目漱石の言葉ではありませんが、「可哀相とは、惚れたということよ」というように、愛という心情に結びつき「他人を愛する」という博愛の精神と同類型の心の動きと思われるからです。
社会生活を送る際にも、家庭生活を過ごすのにも、「愛の精神」が根幹にあって、大きくすべてを包んでいるようです。

平成二十六年七月八日


15

治憲王(はるのりおう)


 治憲王(はるのりおう、1926年7月3日 - 2011年6月5日)は、日本の旧皇族、外交官。賀陽宮恒憲王の第2王子。海軍兵学校75期。

▼1926年7月3日誕生。旧制学習院初等科・学習院中等科を経て、1943年12月1日、江田島海軍兵学校に入学。井上成美中将のもとで学んだ。入校式においては皇族の生徒として紹介を受け、同期生の敬礼を受けている(広島中央放送局ニュース再録に記録あり)。

▼王が入学した75期は生徒数が多かったため生徒は分校に振り分けられ、王は岩国分校で教育を受けた。分校においては柔道を選択、練成した。最高裁判所長官・三好達、高瀬国雄、海上幕僚長・吉田學らは75期の同期生である。

*黒崎註:当時の海軍兵学校は江田島本校・江田島大原分校・岩国分校に分かれていた。私は昭和19年10月に入校、20年4月に江田島本校の101分隊(分隊監事:多久丈雄大佐:佐賀県出身、殿下分隊と呼ばれていた)に配属されたとき、伍長は永田1号生徒、治憲王は伍長補であつた。

参考:101分隊編成について

 賀陽宮が入校したとき、同期の分隊員生徒たちの出身地、出身学校が全国的にバラエティがあるようにされた。つまり、台湾出身者もいれば、北海道出身者もいるというぐあいである。
生出 寿『海軍兵学校 よもやま物語』(徳間文庫)P.257 による

▼敗戦後の1945年10月1日、兵学校を卒業。このため最終階級は少尉候補生ということになる。1946年7月、貴族院皇族議員となる。

▼1947年10月14日、11宮家の皇籍離脱が行われた際、王も皇籍を離脱、賀陽 治憲(かや はるのり)となる(『官報』 第六二二六号 昭和二十二年十月十四日 告示 宮内府告示第十六号)。

▼その後1950年東京大学法学部を卒業、外務省に入省。

▼ジュネーブ国際機関日本政府代表部公使、外務省経済局次長、領事移住部長を経て、1979年から1981年まで国連局長。

▼1981年在イスラエル特命全権大使、1983年在デンマーク特命全権大使、1987年外務省研修所長、1989年ブラジル特命全権大使。財団法人交流協会顧問と要職を歴任した。

 1970年代後半の国会議事において複数回政府委員として答弁を行った記録が国会会議録に残されている。

▼昭和天皇はその存在を気にかけていたようであり、天皇が「賀陽はどうしているか」と安倍晋太郎外相に動向を尋ねたといった逸話も残っている。

▼侍従長入江相政は日記の中で「皇族、舊(旧)皇族のうちのまさにピカ一。こんな方がもう少しゐて下されば。」と書いている。

▼1996年勲二等旭日重光章。1996年からは憩の園在日協力会会長を務め、学習院の同窓会桜友会の会長(第5代)も務めた。

 2011年6月5日、老衰のため東京都稲城市の病院で死去。84歳没。叙・従三位。

*インタネットでの記事で死去されていたことを知りました。ありし日を偲びご冥福を捧げます。


入江侍従長

後引き気配

参考:入江相政日記(いりえすけまさにっき)は、昭和天皇の侍従長を務めた入江相政(1905年生まれ)が1935年から、1985年9月に死去する前日までほぼ毎日記した日記。朝日新聞社で公刊された。

 入江は1969年から1985年まで侍従長を務め、80歳を迎えたのを機に、10月1日付けで退任を公表していたが、その前々日の9月29日の日曜日に自宅で歿した。

 戦前から太平洋戦争前後の混乱、戦後の復興とそれに伴う象徴天皇制の確立・定着に至る昭和天皇、香淳皇后をはじめとする皇室・旧皇族の動静、歴代侍従長はじめ宮内庁関係者の横顔、旧堂上華族家だったが敗戦・占領改革による生活難を、皇室を題材としたエッセイの数々を執筆し文筆家となることで、克服していく入江一家の生活史などが、随筆家らしい平易な文体で綴られている。

平成二十六年七月二十六日


16

戦艦武蔵


 今月4日、米国のマイクロソフト社の共同創業者・ポール・アレン氏が公開した、旧日本海軍の戦艦武蔵とみられる沈没船の動画は、日本中に衝撃を与えた。艦首や主砲の台座などの様子から専門家の間では「武蔵に間違いない」という声があがっている。長らく正確な沈没地点も不明だった武蔵…その姿が明らかになる可能性が高まっている。

▼武蔵はどんな戦艦だったのか。おそらく日本で一番有名な戦艦大和の同型艦である。両艦が搭載していた、世界最大を誇った46センチ砲は、40キロ先の艦船を攻撃できた。完成当時、これほど遠くの敵艦を攻撃できる戦艦は大和と武蔵しかなかった。艦隊同士で海戦の勝敗を決する「大艦巨砲主義」の申し子というべき存在なのだ。

▼朝日新聞27年4月24日記事よると

 武蔵と眠る友、語り合いたい 元乗組員、26日にフィリピン沖へ

現場海域に向かうのを前に早川孝二さんは武蔵に関する資料を読み返している=千葉県南房総市、71年前のフィリピン・レイテ沖海戦で米軍機の攻撃により沈んだ戦艦武蔵。3月、シブヤン海での潜水調査で船体が発見された。元乗組員やその家族らが今月26日、慰霊のために、船で現場近くを訪れる。

 ■70年余、秘めた記憶を胸に

「すぐそばで仲間を慰められる日が来るとは」。千葉県南房総市に住む早川孝二さん(87)が話す。

 15歳で海軍に志願し、1944(昭和19)年の夏に武蔵に乗り込んだ。

 レイテ沖に向け出撃した2日目の44年10月24日早朝、「敵機来襲」のラッパが鳴り響いた。早川さんは仲間とともに気象室の内側からハッチを押さえ、身構えていた。米軍機による雷撃と爆撃が、断続的に5時間以上続いた。

 艦首側からだんだんと沈んでいく。「総員退」の命令を受け、右舷を滑るようにして海に飛び込んだ。船から20メートルほど離れたところで爆発が起きた。洋上を6時間漂い、駆逐艦に引き上げられた。

 助かった、という安堵(あんど)とともに、悔しさがこみ上げてきた。いたるところが浸水していたのに、攻撃がやんでから退避命令まで3時間はかかっていた。もっと早く避難の指示があれば、たくさんの人間が死なずに済んだのではないか。二千数百人の乗組員のうち約千人が犠牲になった。

 戦後70年経って船体が見つかったことに早川さんは不思議な思いがする。「『武蔵』とは何だったのか」と考えさせられた。

「『沈まない』という言葉を疑わず、冷静に状況をみることもできず、多くの犠牲を生んだ。戦争の象徴ではないですかね」。フィリピンの海の底で眠る仲間に花を手向けつつ、家族にも打ち明けずにきた記憶を語らいたいと思っている。

 ■高齢化進み不参加も

 今回、慰霊に行くのは、武蔵の元乗組員やその家族らでつくる「戦艦武蔵会」のメンバーら約40人。過去にも4回、沈没地点で慰霊してきたが、3月に米マイクロソフト共同創業者の調査チームが沈没した「武蔵」の船体を発見したのを受け、36年ぶりに現場に向かう。ただ、そのうち元乗組員の参加者は早川さんを含め3人のみ。「高齢化が原因」(事務局)だ。

 武蔵のスクリュー操作を担当していた杉山三次(さんじ)さん(96)は静岡県沼津市の自宅で戦友への思いをめぐらせる。一つ年が下で、自宅にも連れてくる仲だった今西広逸さん(当時25)が武蔵とともに深海に眠る。

 今回は参加できないが、船が沈んだ10月24日に欠かさず訪れる靖国神社には今年も行くつもりだ。「おい今西、またおらの家に来いよ」。そう語りかけたいと思っている。

▼私は武蔵が撃沈された丁度同じころ(武蔵は,昭和17年8月に竣工し、19年10月24日に撃沈。乗員約2,400人のうち1,000人が戦死したとされます)、海軍兵学校に入校していた。当時、情報は生徒たちにはまったく知らされていなかった。複雑な思いとしてこの記事を讀み、掲載した。

参考:戦艦:武蔵

平成二十七年四月二十四日


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幻の海軍刀


 「海軍兵学校第74期会」のホームページを見ていると、昭和20年3月第74期卒業 決戦の海へ

  淡い生活4年も過ぎて
  ロングサインで別れてみれば
  許せ殴った下級生
  さらば海軍兵学校
  俺も今日から候補生
  われら兵学校の三勇士

 上に掲げたのは兵学校で長く歌い継がれてきた戯れ歌 ”兵学校三勇士” の最終節である。兵学校の修学年限が4年であった平和の時代に作られたものである。ロングサインというのは、スコットランド民謡 「Auld Lang Syne」(楽しかった昔) のなまったものである。日本では 「蛍の光」 として明治以来、小学校の卒業式に歌われてきた。この曲は生徒が機動艇で表桟橋を出るときに、軍艦マーチに続いて演奏されることになっている。

 第74期の卒業式は昭和20年3月30日(金)、千代田艦橋前の練兵場で行われた。本来、大講堂で行うのであるが、在校生、卒業生を合わせると膨大な数にのぼる生徒を、大講堂といえども収容しきれないのであった。父兄の参列は昭和17年以来中止されていた。前年12月から霞ヶ浦航空隊に派遣されていた航空班の一部、約300人は所在の航空隊で行われた卒業式に臨んだ。

 卒業式後、食堂で最後の食事として、豪華な昼餐をご馳走になった。その後、大講堂から生徒館前に整列して見送る下級生に、挙手の会釈を返しながら、表桟橋に待つ機動艇に向かう。上の写真はその状況を示す。卒業生は左手に日本刀を持っている。すでに硫黄島は玉砕した。米軍はついに沖縄に上陸した。本土決戦も間近に迫っている。海軍といえども日本刀は必携の武器であった。機動艇上、見送りの教官、生徒に帽を振りつつ、果たして今年一杯命があるかと思ったものであった。

 第74期生が海軍少尉候補生として、江田島から配属先に出向いた、私どもは2号生徒(普通の学校では2年生)になりました。

▼当時を思い起こすと、家からの便りによれば、昭和20年、伯父さんが軍刀を購入してくださり、その刀の軍装(海軍では黒革でした?)をする業者に送っているとのことであった。

 手元に届かないうちに、8月15日を迎えて、日本は敗戦となり、混乱状態とたりました。

 平成の現在の私には軍刀の必要は感じていませんが、購入してくださった伯父も今は亡く、「幻の軍刀に」になりました。伯父のご好意に感謝をささげます。

 せめてと思いを「江田島健児の歌」に託しました。

参考1:江田島健児の歌
参考2:樋口清之『梅干と日本刀』(祥伝社)に「ゾリンゲンのナイフに応用された日本刀の技」「日本刀の切れ味は、焼き入れの水加減に秘密がある」「独・無敵タイガー戦車の鋼は日本刀を模倣」の記事があります。
平成二十八年三月七日

 


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九大生体解剖事件


 90歳医師の償い 最後の生き証人 田中久稔 

「人の命を救うべき医者が過ちを犯した。事件の総括はまだ終わっていません」と語る東野利夫さん=福岡市中央区草香江2丁目

 九州帝国大(現・九州大)で終戦間際、捕虜の米兵8人を実験手術で死亡させる「九大生体解剖事件」が起きた。事件を目の当たりにした福岡の医師は、その記憶にさいなまれながらも、向き合い、戦争と医の倫理を問い続けている。

 平成28年7月、事件を伝える展示会が福岡市中央区のイベントホールであった。企画したのは、事件のただ一人の生き証人となった産婦人科医の東野(とうの)利夫さん(90)=福岡市中央区。手記などの資料や書籍、背景や経緯を記したパネルの前で、来場者の質問に答えた。

 戦後70年を迎えた昨夏、自身の医院で初めて展示会を開いた。その後も事件について知りたいと医院を訪れる人が相次ぎ、再び展示することにした。「(事件は)決して消えないトラウマ。焼き付いています」。不安を落ち着かせる薬や睡眠薬を使うようになって半世紀近い。

 事件との関わりは偶然だった。1945年5月、当時19歳。医学生になってまだ1カ月余りで、解剖学講座の雑用係だった。校舎に横付けされたトラックから、目隠しをされた捕虜2人が降りる所に居合わせ、解剖実習室の場所を尋ねる将校を案内した。部屋には、捕虜のほか医師や軍服の将校ら十数人が入り、東野さんも続いた。

 薬で眠った捕虜の「手術」が始まった。肋骨(ろっこつ)を切除し、右肺を摘出。「人間は片肺を取っても生きられる」と執刀医が言ったと記憶している。血管から大量の血液が抜かれ、代わりに海水が輸液されたが、捕虜は二度と目を覚まさなかった。同じ日にもう1人が解剖台に寝かされ、今度は東野さんが輸液用の海水のガラス瓶を持たされた。

 絶命した捕虜の体から、標本が採取された。後片付けを命じられた東野さんは、血の広がったタイル張りの床をバケツの水で流した。「あの気持ちは何とも言いようがない。異様な空気だった」

 戦後、東野さんは連合国軍総司令部(GHQ)の厳しい尋問を受けた。訴追はされなかったが、軍事法廷で証言をさせられた。執刀した教授は判決を待たずに自殺。重労働25年の判決で9年余りを獄中で送った別の教授は60年代、臨終の床で「ビー、ニジューキュ」とうわごとを繰り返した。

 その頃、東野さんは医院を開業していた。医師としての責任を感じ、真相究明を思い立った。関係者を訪ね歩き、米国立公文書館などで資料を収集。「汚名 『九大生体解剖事件』の真相」(文芸春秋、79年)にまとめた。

 それでも「心の区切り」はつかない。昨年5月、捕虜たちの搭乗機B29の撃墜現場に近い大分県竹田市の山中で毎年営まれる慰霊祭に、約10年ぶりに参列。資料の展示も決めた。

 敵国への憎悪を募らせ、戦争の勝利を信じたあの頃。「命を救うはずの大学医学部の人間が過ちを犯した」。語っても、今の若い人は理解できないのでは、との不安が拭えない。それでも資料を残し、伝えることが「償い」と考える。訪れる人には、語ろうと。

 「大事なのは残された人間の態度。過ちをタブーにすること。それが本当の過ちです」

■九大歴史館、新入生が見学

 継承の取り組みは九大医学部でも続く。

 医学部や九大病院のある病院キャンパス(福岡市東区)の正門そばに昨年4月に建った九州大学医学歴史館。事件を伝える1枚のパネルと、「九州大学五十年史」(1967年)の関連ページが展示されている。今年4月、新入学生が見学する時間が設けられた。

 九大では、軍事法廷の判決が出た直後の48年、医学部などが「反省と決意の会」を開催。五十年史によると「たとえ国家の権力または軍部等の圧力が加わっても、絶対にこれに屈従しない」ことを決意した。

 戦後70年の昨年3月の医学部教授会では、事件で死亡した米兵への「哀悼の意」を表明。「医師としてのモラルと医学者としての研究倫理を再確認し、今後もこの(国家権力や圧力に屈従しないとする48年の)決意を引き継ぐことを固く誓う」と決議した。

 「長い歴史の中では深く反省するべき事も起こりました」。今年3月の医学部卒業式で、学部長の住本英樹教授(58)は祝辞で事件に触れ、学生たちに語りかけた。「負の部分も含めて過去を冷静に見つめ直すことが、私たちを正しい道へと導いてくれるものと信じています」(田中久稔)

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 〈九大生体解剖事件〉 1945年5月、大刀洗(たちあらい)飛行場(福岡県)を爆撃した米軍のB29が日本軍機の体当たり攻撃で撃墜された。捕らわれた米兵8人が九州帝国大に運ばれ、臓器摘出などの実験手術の末に全員死亡した。戦後、軍将校や同大教授ら30人が戦犯として起訴され、23人が有罪となった。うち5人は絞首刑を宣告され、後に減刑された。事件は遠藤周作の小説「海と毒薬」の題材になった。

平成二十八年十月十一日


19

統率力で難局を乗り切れ
見事だった先任将校の早期決断

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松永市郎氏(海軍兵学校88期)の記録

 人は、生命、財産、名誉を傷つけられそうになると、危機感を持つ。この危機感が長期にわたるときには極限状態に陷るが、これを乗り切らなければならない。難局に臨んで何が大切なのか、どんなリーダーシップが求められるのか━━以下は私の体験による教訓である。

◎速やかな決断が声明を救う

 昭和十九年八月、私が乗り組んでいた軍艦「名取」は、マニラから西太平洋パラオ諸島に向う途中、潜水艦の雷撃を受けて撃沈された。場所は、フィりピンのサマ―ル島東方六〇〇キロの洋上だった。

 洋上をカッター(大型ボート)で漂っていた私たちを、幸い味方の偵察機が発見し、「駆逐艦二隻、救助に向かいつつあり安心されたし」との通信筒を落としてくれた。誰もが、この救助艦を待つものと思っていたところ、当時二七歳の先任将校小林英一大尉の判断は違っていた。

 「当隊は、昼間の発煙筒も夜間の発光信号も持たないので、洋上で発見される確率は小さいから、フィリピンまで漕いでいく」

 しかし、磁石も時計もないので、昼間は方向がわからない。夜空の星座を頼りに毎晩一〇時間漕いで、順調に経過しても一五日間はかかる。食糧も水もないので、全員が反対したが、大尉は決心を変えなかった。そして一三日目の朝、ミンダナオ島北東の端スリガオにたどりついた。先任将校の速やかな決断があったればこそである。

 団体行動を決めるのには、決断、決裁、多数決と三つの方法がある。決断はリーダーが単独で決めることで、決裁は幕僚の複数案の中からリーダーが選び出すことである。戦略は決断によるものが望ましく、戦術は決裁でも構わない。旅行の行き先など、どちらでもよい場合なら、多数決でも差し支えない。

 戦後は民主主義のなの下に、多数決が最善の方法のようにいわれているが、そうではない。もし短艇隊が多数決を採用していたら、私たちの生命はなかった。「多数決は、ときに大局を誤ることがある」ということを、リーダーは銘記すべきである。

指揮権確立のむずかしさ

 「名取」沈没の際、艦長久保田智大佐は艦と運命を共にされた。カッターに乗り込んだ航海長小林英一大尉は、副長官宮本績少佐の在否を確かめた上で、私に手旗信号を送らせた。「航海長小林大尉、第二カッターにあり。先任将校としての指揮をとる」━━こうして新たな指揮権は確立された。

 危急に直面した際、当然の指揮権確立が行われないため、事故発生の原因となることもある。

 『八甲山死の彷徨』(新田次郎著)を読むと、遭難した青森隊は、中隊長が中隊を指揮して出発し、大隊長は大隊本部を率いて随行した。そして岩木山麓で方向を見失った。

 中隊長が、大隊長の発言を、命令と勧告いずれに受け取るか迷っている間に、指揮権の所在がはっきりしなくなった。このため、二一〇人中一九七人が死亡する、大事故をひき起こした。

 数年前、レーガン大統領が狙撃され、直ちに病院に担ぎこまれたが、生命に別状はないとわかったが、副報道官は、この際大統領代行は置かないと記者団に発俵した。このときモンデール副大統領はテキサス州を旅行中であり、急報に接して直ちにホワイトハウスに向っていた。

 一方、ヘイグ国務長官がホワイトハウスに来てみると、大統領権限を代行する者がいない状態であった。ヘイグはもともと陸軍大将で、指揮権は瞬時もおろそかにしてはならない、と訓練されている。

 副報道官の発表を知らなかったヘイグ長官は、記者団を集めて「副大統領がホワイトハウス入りするまで、ヘイグが大統領権限を代行する」と語った。この発言が、後に憲法違反に問われ、ヘイグは辞任に追い込まれた。

 しかし、レーガンが人事不省になっていた四時間半、世界最大の権限を有するアメリカ大統領権限が、宙に浮いていたのは紛れもない事実である。その間、大した事件も起こらなかったから、いいじゃないかと、簡単に見逃すことができない汚点を残してしまった。

 このように指揮権の継承、指揮権の確立という問題は、とっさの場合に急にできるものではないのだ。平生からの心構えと準備が必要である。

参加意識を呼び起こす

 先任将校が、フィリピンに向けて漕いで行くと決断したとき、全員が反対した。軍隊だから命令だと一喝することもできたが、先任将校は大声で次のように説得した。

 「名取沈没の現場に、カッター三隻と多数の生存者がいることは、味方の偵察機」が確認していった。カッターは沈まないというのは、船乗りの常識である。俺たちが陸地にたどり着かなければ、な取乗員六〇〇人は、全員戦死ということにならずに行方不明と認定される。それでは、な取と運命を共にした艦長以下四〇〇人の戦友に申し訳ない。

 また俺たちの家族は、無事な凱旋か名誉の戦死を神仏に祈っている。行方不明になっては、俺たちの家族にも申し訳ない。俺たちは、なんとしても陸地にたどり着かなければならない

 これを聞いて、反対の急先鋒だった渡辺先任下士官はいった。「行方不明では、死んでも死に切れません。漕ぎます、行先がわからないから連れて行ってください>━━カッターの全員が、一斉に「よーし、漕ぐぞ!!」と力強く叫んだ。

 風波の強い太平洋の洋上で、動転している乗員を前に、蚊の泣くような声しか出せないのでは皆を説得できな。このため兵学校では、毎晩号令演習をしていた。政治家、軍人ばかりでなく、リーダーになる人は誰でも大きな声が出るのが望ましい。

キヤツチフレーズの善し悪し

 「行方不明になるな!!」━━これが短艇隊のキヤツチフレーズだった。具体的で語呂もよく、いまでもよい表現だったと確信している。

 第二次大戦中、日本はわかりにくい「八紘一」を合言葉にしていた。アメリカの合言葉は「リメンバー・パールハーバー」(真珠湾を忘れるな)という、誰にでもよくわかるもので、これで大いに成功していた。

 人間誰でも、何か改まって仕事をしようとする場合、緊張状態になる。日本人は、「転ばぬ先の杖」「後悔先に立たず」「念には念を入れよ」などと抽象的なことばをいって、より深い緊張状態に引きずりこもうとする。これでは金縛りになって、思い切った仕事はできない。

 アメリカ映画では、敵陣に突撃する際、上官が部下に向って「帰ってきたら、ビフテキで一杯やろ」などというような場面を、よくみかける。日本人としては、大事な仕事に取りかかるときに、本能に属することを口にするのは不謹慎と思われるが、コチオコチになった部下は、気楽な呼びかけでリラックスさせることができる。

 オリンピックの本番では、日本選手がふだんの力量を十分発揮できない場合が多い。ところが、標準記録をやっと上回った欧米選手が、いきなり本番で大記録を出す場面をしばしば見受ける。その点、日本人は、キヤツチフ?ーズの使い方、コンディションのつくり方が下手なのではないかと思う。

 伝統校でも有名校でも、甲子園の高校野球で一回戦を勝ち抜くことは、なかなかむずかしい。昨年、初出場で見事に初戦を飾ったある高校の監督は、学校関係者でなく、街のスポーツ店の社長だった。第一戦を前にして、コチコチになっちぇいる選手たちに、この監督は次のようにいった。君たちが次々に勝ち進むなら、私もお付き合いでここに泊まることになる。しかし、試合には勝ったが、帰ってみたら店はつぶれていたでは困る。だから、早いこと適当に負けてくれんか

 選手にとっては思いがけない言葉だったし、突っ飛でおかしかったので、吹きだしたものもいた。監督はすかさずいった。「だけど、めったに出られない試合だから、一つぐらい勝つか」━━この監督の選手操縦法にはまなぶべき点がある。

極限状態を救うユーモア

 極限状態では、人は理屈も駄ジャレも聞かない。そんな場合でも、ちょっとしたユモーアが思わぬ効果をもやらすことがある。短艇隊の近くで雷鳴がとどろいたとき、小野という一七歳の少年兵が、恐怖のため震えていた。そこで私は、祖母から聞いた話をしてやった。

 「辰巳の雷は音ばかり、とう言葉がある。辰巳とは東南である。天気は西から東に移るから、あの雷がこっちにやってくることはない」

 これを聞いて、小野少年兵はいかにもほっとした様子だった。

 先ごろ来日された、イギリスのチャールズ皇太子は、行く先々でユモーアをふりまかれ、日本国民の大歓迎を受けられた。これからの日本人は、チャルーズ皇太子を見習って、国際的なユモーアを身につけたいものである。

 木村哲郎海将は、練習艦隊司令官の当時、各寄港地で国際的なユーモアを残しておられるので、その実例を紹介する。

 ニュージランド入港直前、アメリカが月着陸を成功させたので、木村司令官はこれが話題になると心積もりをした。案の定、ニュジーランド司令官は、しきりに月着陸を賞めたたえた。木村司令官は、月着陸は大した作業でないとの前置きで、次のように語った。

 「月は女性ですから、着陸は簡単ですよ。だけど、離陸はとてもむずかしいと思います」━━ニュージランド司令官は、木村司令官の巧みなユーモアに大変感心した。

 シドニーの歓迎セプションでは、木村司令官は、次のように挨拶した。「ここにいる若い士官たちは、一〇年二〇年先といわず、数年後には必ずこの国を訪ねるでしょう、あたかも”ブーメラン”のように」━━ブーメランは、オーストラリア原住民の狩猟道具だから、来会者たちは大喜びした。

 コロンボ(スリランカ)の記者会見では、一人の記者が質問に立った。「日本は二七年前、ここコロンボを空襲しました。その子孫に当たる貴官が、国際親善のため入港したとおっしゃるのは、非常識じゃないですか」

 司令官は答えた。「仰せのとおり、日本は確かに空襲しました。しかしう、それはコロンボでなく、ここに駐在していたイギリス海軍を空襲しました」━━この当為即妙の言葉に、周囲から惜しみない拍手が起こった。

 シンガポールでは、イギリス司令官官邸で練習艦隊首脳部一〇人ほどを迎えて、歓迎パーティが開かれた。

 ボーイがカレー液を注ぎ分けていたところ、木村司令官の肩章に容器をぶっつけ、カレー液を真っ白い制服にひっかけてしまった。主賓にそそうをしたので、主催者側は大変恐縮した。

 木村司令官が平然として、「当地はシャワ―(スコール)のひどいところと聞いたいました。ただいまは、色のついた珍しいシャワーが降ってきました」といったので、その場の雰囲気が、一気に和らいだという。

遊びとリーダーシップ

 一時も早く接岸したいというのが、先任将校の本心だっただろう。しかし、先任将校は、隊員が泳ぎたいと申し出たとき、自分んおはやる気持ちを抑えてこれを許した。

 結果は、体内にたまっていたうつ熱がなくなり、気分転換ともなり、とてもよかった。緊張の中に遊びを取り入れたリーダーの決断は、成功の一因となった。

 兵学校は、リーダーを育てるところである。まず知力、体力、人格にわたる全人教育を施した。しかし、わずか三ヵ年間の能力アップだけでは指揮官は育たない。そこで次には、指揮官としてのマイナス要素を除去することに重点が置かれた。能力アップは教官(先生)の授業で、マイナス要素の除去は、上級生の躾教育によって行われた。

 躾教育は、ちり箱のちりを捨てるとか、雑巾を乾かして取り込むとかの簡単な作業が中心で、頭を使うとか熟練を要するものではなかった。

 しかし、目まぐるしい日課・週課の中で、kのれらの作業を完遂することは、生易しことではなかった。完遂できなければなぐられ、ちょっとでも言い訳すると、さらに何ばいもなぐられた。そこで誰でも言い訳、泣き言、不平をいわない後天的性格となった。リーダーシップは、能力アップだけでは生まれないのではかと思う。

 短艇隊では、先任将校は優れたリーダーシップを持っていたし、部下は根性を持った集団だったし、先任将校と部下との間に相互信頼感が醸成されていた。この三つの条件が揃っていたからこそ、極限状態を乗り切る統率ができた。

日常の勤務こそ大切

 先任将校は、いわば教科書のような人だったが、一方では軍規違反をしていた。定員四五人のカッターに、六五人も乗せたのは明らかに軍規違反である。

 軍規違反で思い出されるは、明治四〇年、練習艦「松島」の爆沈事件である。松島が僚艦「厳島」「橋立」と共に、三隻で遠洋航海に出かけ、澎湖島の馬公に寄港した夜中に事件が起こった。

 橋立の副直将校は、松島の異変をみて、直ちにその旨を当直将校と副長に届けた。副長は、「総員起し、救助艇派遣方、総短艇用意」の号令をかけるよう指示した。橋立の短艇が現場に到着したとき、厳島の短艇は死傷者の収容を終わり本艦に引き揚げるとこころだった。

 厳島の副直将校は、松島の異変を知るや、副長のかける号令を独断で自らかけ、号令をかけた旨を当直将校ぉよび副長に届けた。

 夜中に総員を起こすのは副長の権限だから、厳島の副直将校は明らかに軍規違反である。しかし、この軍規違反があったればこそ、厳島は橋立に比べて数ばいの働きができた。平常の場合、軍規氣違反は絶対してはならない。しかし、時と場合によっては、軍規違反をしなければ、後世に残るような仕事はできないこともある。

(注)副直将校とは当番の係長、当直将校とは当番の課長、副長は専務に相当する。

 先任将校の定員オーバー問題にしても、厳島の副直将校の総員起しにしても、とっさの思いつきであるが、偶然にできたわけではない。日常の勤務を掘り下げて、研究的にやっていたからこそ、いざというときに軍規違反を恐れずに、勇敢に実行することができたのだ。

 スポーツ放送でよく聞く「練習は試合のつもりで、試合は練習のつもりで……」とう言葉も、味わってみると、哲学的な意味合いが感じられる。平生の練習で決まるものである。実業社会でも日常の勤務こそ大切である。

若い人の意見は貴重

 兵学校の期友茂木明治は、若くして海軍砲術学校教官に選ばれた。もともと優秀な彼は、対空射撃の新しい理論を開発したが、海軍はこれを全面的に採用しなかった。茂木は現在生きているから、彼には救いがある。

 悲惨だったのは、飛行機乗りである。戦闘機乗りの野口義一とは、特に仲のよい期友だった。激しい航空消耗戦に巻き込まれ、わずか数キロ離れた東と西のラボールの飛行場のいながら二人は半年間も会えなかった。二人がやりとりした手紙が、いまに残っている。彼ら若いパイロットたちは、毎日の死闘を繰り返しながら、次のことに気づいた。

 「自分たちは現在、目に見えるパイロット相手ではなく、数という目に見えない相手と戦っている」

 当時の日本の航空機生産能力は、アメリカに比べ格段に低かった。そこで若いパイロットたちは、海軍当局に次の意見を提出した。

 「飛行機は、使う場所によって、艦上機、水上機、陸上機に分かれる。それぞれが使う目的によって、さらに戦闘機、偵察機、爆撃機、攻撃機に分類される。このような多機種を、平均的につくっていては数が上がらない。艦上戦闘機だけを、集中的につくってもらいたい。戦闘機で偵察もするし、爆撃もする」

 命をかけた、この意見も採用されず。それから三年後、フィリピン戦線が危機となり、戦闘機に爆弾を抱かせて出撃させたが、すでに彼我に戦力の差が大きすぎて、特攻攻撃の成果も上がらなかった。

 あのころと現在とでは、戦時と平時との違いもあり、時代の移り変わりもある。しかし、若い人は感受性が強いし、将来を察知しやすいポジションにいることは、戦中も現在も変わりはない。若い人の意見は貴重であることを、銘記しておいていだたきた。若い時代の意見を等閑視するような会社は、早晩立ち行かなくなるのではなかろうか。

土壇場での身の処し方

 昔、街道を行く武芸者に対して、道端につながれていた荒馬が後ろ脚でけろうとした。武芸者はさっと身をかわして事なきを得たが、この場面をみていた人たちは、さすがは武芸者と感心した。

 しばらくすると、武芸者の師範が歩いてきた。弟子さえもうまくかわせたのだから、師範はどんな見事な動作をするだろうかをみていると、師範は馬の脚がとどかないあたりを通り過ぎた。この師範のように、危機とか極限状態はできれば避けたいものである。

 しかし現実には、避けよとしても避けられない場合がある。兵学校では、このような土壇場に陥ったときの対策として三つの方法を教えた。

 「第一」身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ

 「第二」皮を切らせて肉を切れ、肉を切らせて、骨を切れ

 「第一」死中に活を求めよ

 戦時中、私の乗っていた軍艦が三回も撃沈された。一回目、二回目は上級士官が大勢生き残ったので、私の出番はなかった。三回目、すなわち短艇隊では次席将校だった。今度は俺の出番だ、たるぞと心に誓った。しかしそのためには、六〇〇キロも漕がなければならなかった。私の遠距離橈漕(とうそう)の経験は、江田島から厳島までの二五キロだった。兵員は、せいぜい五キロの経験しかない。

 私はカーッとなりぃ、目はつり上がり声はうわずっていただろう。そのとき先任将校が、「通信長、慌ててもしようがないぞ。のんびり行こう」といった。先任将校は、私を叱りつけることも、堂々と注意することもできる。しかし、先任将校がそうすると、私の部下統率がしにくくなる。そこで先任将校は、私に落ち着けと、それとなく注意を与えたのだろうと思った。私は、落ち着くために、ダンチョネ節を心の中で歌った。

 そうしたら、胸のつかえがとれたというか、胸がスーッとして、その後はふだんと変わらない判断、行動ができるようになった。

       ◇  ◇

 極限状態を乗り切るための特効薬というものはない。あえていうならば、リーダーシップは知力、体力、人格を磨いて、まずリーダーシップを身につけておくことである。また部下は、根性を持った集団に育てておかなければならない。

 そして、リーダーと部下との間に相互信頼感が醸成されているときはじめて極限状態わお乗り切ることができる。そのような態勢がが整っていても、危機や極限状態hあ、できるだけ避けるのが望ましい。

 いざ危機や極限状態にぶっかったならば、私のよに、いきなり飛びつかずに、一歩下がってというか、言葉を換えると、一段高いところから危機や極限状態を見下ろすことが大切である。

※昭和61年8月5日(日)松永さんから直接いただいたプリントから。

※松永市郎(まつなが いちろう、1919年(大正8年)2月18日 - 2005年(平成17年)3月31日)は、日本の軍人。元海軍大尉。作家。父は海軍中将松永貞市、子にiモード開発者の松永真理がいる。

参考: 松永市郎

平成28年12月5日、89歳


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大平洋戦争戦史

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 大平洋戦争が始まった1941年、私は中学2年生だった。1943年4月、海軍大将山本五十六戦死。同年6月、国葬。そして、戦争末期に近い1944年10月、海軍兵学校に76期生として入校した。翌1945年、江田島で終戦を迎えた。

 以下に大平洋戦争戦史をインターネットを借りて整理した、

 大日本帝国(旧名の日本)が、大東亜戦争(太平洋戦争)に踏み切った理由は東南アジア諸国の、資源確保の為だったとされています。

 しかし、すでにその頃の欧米諸国は相当な圧力を日本にかけており

 そのまま受身に構える姿勢では、ジリジリと劣勢に追い込まれるとの見解から

 先制攻撃をしかけた、いわば正当防衛だったいう説もあります。

 戦後の教育では、日本の侵略戦争だったとされていますが真相は不明です。

 しかし、なにが理由だとしても、日本史上類をみないほどの死者を出したもっとも悲惨な戦争、- 戦争の始まり -

1941.12.08 真珠湾攻撃  

 連合艦隊司令長官 山本五十六は早期決戦なくして日本の勝利はないと奇襲作戦を提案。

 軍令部が作戦の失敗を危惧するなか強硬に遂行し、6500Kmにも及ぶ隠密航行の末、ハワイ近海への進攻を成功させた。

 この作戦の狙いは、米艦隊の太平洋進攻を封じ、南方戦線の確保を容易にする為のものであった。

 12月8日早朝、183機もの攻撃航空機を動員し、真珠湾奇襲攻撃を開始。

 綿密に準備された日本軍の攻撃の前に、混乱を極めた太平洋艦隊は組織的抵抗もできないまま壊滅した。

 作戦成功を伝えた電文、「トラトラトラ(ワレ急襲に成功セリ)」はあまりに有名である。


 太平洋戦争開戦の暗号「ニイタカヤマノボレ一二〇八」を送信した電波塔として針尾送信所が広報されることが多いが、この暗号を真珠湾攻撃部隊に向けて送信したのは千葉県船橋市の船橋送信所(艦船向けの短波と中波)と愛知県碧海郡依佐美村の依佐美送信所(潜水艦向けの超長波)である。針尾送信所は、瀬戸内海に停泊中の連合艦隊旗艦「長門」が打電し、広島県の呉通信隊が送信したものを受信し再発信したもので、中国大陸や南太平洋の部隊に伝えたものであるとされるが、その詳細は不明とされている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 針尾送信所(はりおそうしんじょ)は、長崎県佐世保市の針尾島にある海上保安庁の無線送信所である。敷地内にある巨大な3本のコンクリート製の電波塔、針尾無線塔は大正時代より建つ自立式電波塔としては高さ・古さともに日本一である。「旧佐世保無線電信所(針尾送信所)施設」の名称で国の重要文化財に指定されている。

  歴 史

 日本海軍佐世保鎮守府隷下の無線送信所として、1918年(大正7年)11月に着工、1922年(大正11年)に完成した。総工費は当時で155万円という。竣工日は1号電波塔から順に4月30日、5月30日、7月31日。

 終戦後しばらく米軍管理地となり、1948年(昭和23年)から第七管区海上保安本部佐世保海上保安部が所管し、海上自衛隊と共同で使用している。ただし、針尾送信所の象徴であった巨大電波塔は、1997年(平成9年)に後継の無線施設が完成したことにより、現在では電波塔としての役割を終えている。

 針尾島内では他に、浦頭引き揚げ記念公園や現在のハウステンボス・南風崎駅(本土)近辺の慰霊碑などに、第二次世界大戦の傷跡がのこっている。

  現 状

 周囲は、田畑、果樹園で囲まれ、現在は電波塔としては使用されておらず、地元の有志が塔を文化財として存続するため、日々活動している。最近、心ない人によってラッカースプレー等で落書きされることがたびたび起きていて問題になっている。

 築約90年経ち、あと30-40年が寿命の限界と見られていたが、現在でも十分な耐震性を持つことを、佐世保市教育委員会が確認した。そのため佐世保市は、針尾無線塔一帯を公園化を目指し、海上保安庁と協議を始めた。海上保安庁側も「国の重要文化財指定に向けた動きが出れば協力する」としていた。

 2009年には、DOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築に選定。

 2013年に、3基の無線塔のほか電信室、油庫(ゆこ)の2棟と附属の土地が国の重要文化財に指定された。将来的には一帯に見学用通路や案内施設を整え、塔内も見学できるようにする予定である。2013年3月より、ボランティアによる無線塔の見学案内が行われている。見学時間は、平日、土日ともに9時00分~16時00分。また、電信室を改装し2017年頃に資料館として公開する予定である。また、当時の写真は、佐世保市にある海上自衛隊佐世保史料館でみることができる。

最後の予科生徒78期:岡山市出身の安井昭夫さんはこのクラスだった。
平成29年8月17日追加。


 この戦闘で、米海軍は主力戦艦など8隻を失い、2000人以上の死者を出し奇襲は成功したかに思われた。

 しかし、目標であった米主力空母は港から逃れて無事であり、また艦船への攻撃を集中させた為ドッグなど施設の被害は少なく、結果、真珠湾の復旧は早く進むこととなったのである。

 この戦いは海軍の主力は、戦艦から航空機への時代に移ったことを決定づける戦いだったのだが深く受けとめたのは、勝利した側の日本海軍ではなく、大敗を喫して身をもって知った米国海軍自身だった。

*山本五十六…国際的な視野の持ち主で信念を貫く強い意思を持った連合艦隊長官。

「最初の1年は存分に暴れられるが、その後の見通しは、まったくつかない」と語るなど先見の才があった。

1941.12.10 マレー進攻作戦  

 真珠湾攻撃と時を同じくして、山下奉文中将率いる日本陸軍はマレー半島に進攻した。

 50日あまりの激しい戦闘の末、日本陸軍は英軍をシンガポールへと追いやることに成功。

 その後、シンガポールに篭る英国などの連合軍を降伏させ、マレー諸島は日本軍により制圧された。

 マレー島近海には、当時最新鋭戦艦プリンスオブウェールズを擁する英国東洋艦隊が配備されていたが海軍中将小沢治三郎の航空隊により撃沈され、これにより真珠湾と合わせ航空戦力の優位が決定された。

*山下奉文…マレー進攻成功の立役者。シンガポールでの強気な降伏交渉の話しは有名。

 戦後、フィリピンでの残虐行為等の責任を負い戦犯として処刑された。

1942.04 東京空襲  

 アメリカ大統領ルーズベルトは、真珠湾の大敗や、各戦線の敗退が相次ぎすっかり落ち込んでしまった米国側の戦意を高揚させる為に、無謀とも思える東京強襲作戦を遂行した。

 12機の米爆撃機の爆撃は奇跡的に成功し、日本側の被害は微量だったが米国の戦意は大いに上がり日本側は、突然の首都爆撃にショック受け、米海軍との早期決戦を決意させる結果となる。

*ルーズベルト…アメリカ大統領。真珠湾を忘れるなのスローガンと共に東京空襲を成功させ国民の士気を高揚させる。しかし真珠湾攻撃は自ら仕掛けた罠との説もあり。

1942.04 印度洋作戦  

 南雲忠一中将率いる日本海軍機動部隊(空母部隊)は、インド洋に展開する英東洋艦隊を撃滅するべく出撃。その強力な航空戦力で東洋艦隊を駆逐し、インド洋の制海権を完全に掌握した。

*南雲忠一…水雷戦のエキスパートで真珠湾攻撃の立役者。しかしミッドウェーでは敗戦の一因を作る。その後サイパンにて将兵40000と共に玉砕した。

1942.05 珊瑚海海戦  

 南太平洋の防備強化を目的に、高木武雄中将の機動部隊はニューギニア・ソロモン攻略に向かっていた。

 しかし、米軍はこれを事前に察知し珊瑚海へ機動部隊を派遣した。戦闘は双方1隻の空母を失う混戦となりこの戦いで正規空母 瑞鶴・翔鶴は修理、再編成の為ミッドウェー海戦に間に合うことができなかった。

1942.06 ミッドウェー海戦  

 山本五十六長官は、ハワイ攻略を早くから企図していたが軍司令部の中で賛成するものは少なかった。

 しかし、突然の東京空襲で衝撃を受けた軍司令部は、米空母の撃滅のためハワイ攻略の足がかりとしてミッドウェー攻略を容認したのであった。日本海軍の正規空母4隻を擁する南雲忠一中将の機動部隊はミッドウェー近海に達すると、ミッドウェー基地への空襲のを行うため攻撃航空部隊を出動、しかし思ったほどの効果が上がらず、また、米艦隊を索敵にて発見したことから航空隊への武装転換を繰り返しており、さらに、相次ぐ航空機の発着陸で空母艦上は騒然としていた。

 その時、突如、米航空隊が雲の切れ間より飛来し、瞬く間に正規空母 赤城、加賀、蒼龍を、爆雷撃。

 直撃弾を受け、艦上に多くの航空機とベテランパイロットを乗せたまま、3空母は爆発炎上した。

 わずかに空襲を逃れた山口多聞少将の指揮する正規空母 飛龍は、積極果敢に攻撃隊を出撃させ米空母ヨークタウンを航行不能にする反撃を行うが、やがて飛龍も激しい航空爆撃を受け、撃沈された。

 この戦いで、日本海軍は無敵を誇った機動部隊の大半を失い、優秀な人材を数多く失った。

 この最初にして最大の敗戦で、日本海軍は太平洋での勢力保持が不可能になり後退を余儀なくされた。

*山口多聞…秀才であり強靭な肉体をもった優れた海軍将校。将来の連合艦隊長官として有望視されていた。

 しかしミッドウェー海戦にて勇猛果敢に戦うが敗れ、沈みゆく艦と運命を共にした。

1942.08 ソロモン海戦  

 ミッドウェーの敗戦から、南太平洋の制空権の確保を迫られた日本軍はガダルカナル島(以後ガ島)に、飛行場を新設した。しかし出来たばかりの飛行場は 米軍に奪われることになり、これを奪回すべく三上軍一中将の艦隊を派遣した。

 この戦いは、米艦船を多数撃沈し、日本軍の大勝利に終わったのた。

 だが、作戦の目的であった米軍のガ島への揚陸を阻止できず、結果、周辺の制空権を失うこととなる。

 戦いには勝利したが、戦略的にはあまり価値のないものであった。

1943.2 ガダルカナル島撤退  

 当初、軍司令部はガ島の米軍兵力は、2000程度と過小に評価していた。

 第一攻撃部隊に、一木支隊わずか900人を派遣したが、実際は10000の海兵隊の前に全滅した。

 それに驚いた軍令部は評価を改め、次々と戦力を投入、最終的には30000人に至ったが制空権を完全に米軍に奪われていたため輸送がままならず、航空機による攻撃で日本軍の輸送船は、ことごとくガ島到着前に沈められた。補給物資の届かないガ島上陸軍は飢えに苦しみ、さらにマラリアが発生し、まともな作戦も遂行できないままに、撤退することになった。

 この作戦は悲惨さを極め、日に100人が飢えとマラリアで死亡したという。ガ島はまさに餓島と化した。

 30000人を投入したガ島奪回作戦は、その3分の2に及ぶ戦死者を出し、完全に失敗に終わったのである。

 この無謀とも言える強硬な作戦で、日本陸軍は優秀な人材や軍需物資の多くを失い、敗戦への道をさらに加速させた。

1943.04 フロリダ沖海戦  

 ガ島撤退から劣勢に立たされた日本軍であったが、山本五十六長官は同方面の敵航空戦力を壊滅することが劣勢挽回の策であるとし、自ら指揮を取り、残存航空機による大規模な空襲を繰り返した。

 しかし、この戦いはほとんど効果を上げる事ができず、事実上失敗に終わった。

 また、この戦闘で前線視察に向かう途中の、山本長官を乗せた航空機が撃墜され信念の指揮官山本五十六は戦死した。彼の死は日本にとって大きな痛手であった。

1943.05 アッツ島守備部隊玉砕  

 アッツ島は、日本の北東に位置し断崖の孤島で、戦略的価値などいくらもなかったが陸軍の面子のために、2500人の守備部隊が置かれていた。

 米軍部も当初、戦略価値なしと無視していたのだがミッドウェー海戦に勝利した米海軍は、アッツ島の制圧に乗り出した。

 それに対し日本軍令部は、制空権・制海権の損失のため撤退は不可能とし、玉砕命令を下した。

 11000の米上陸部隊と、守備部隊は激しい戦闘となり、やがて守備部隊は全滅した。

 この時、日本側で生き残ったのは、傷つき意識を失っていた、わずか29人だったと言う…

 この戦いで始めての玉砕が行われたが、日本軍令部はこれを軍人の誉れと美化しその後も無益な血を流す玉砕作戦は繰り返されるのである。

1944.03 インパール作戦  

 この作戦は、英米の中国支援の遮断と、東インドの制圧を目的に陸軍令部により押し進められた。

 しかし、この頃すでに日本軍に制空権はなく、物資の確保など容易ではない状態での強引な進軍であった。

 4ヶ月に及ぶ作戦で、日本陸軍は無理な山脈越えや食料不足のために、多くの餓死、戦病者を出した。

 この無理を重ねた作戦も中止となり、約10万の兵士達は物資もないまま、悲惨な撤退を余儀なくされた。

 撤退路には、栄養失調と疫病で死んだ日本兵が折り重なり、「白骨街道」と呼ばれるほど悲惨なものだった。

 この戦いで3万人にのぼる戦死者を出したが、そのほとんどが餓死や病死だったと言われる。

★写真は磯部卓男さんの著作。

プロフィール:
大正12年 横浜市に生まれる
昭和17年 陸軍士官学校卒業(第56期生)
昭和18年4月~昭和20年8月 この間、ビルマ派遣第33師団歩兵第215連隊将校として、インパール作戦、イラワジ会戦等に参加する
昭和21年 復員
昭和25年 東京大学経済学部卒業、(株)クラレ入社
昭和55、58、59年 慰霊のため訪緬

1944.06 マリアナ沖海戦  

 米軍部は、日本への直接空襲を可能にするため マリアナ諸島のグアム・サイパンの制圧に乗り出した。

 それを阻止すべく、日本軍令部は小沢治三郎中将率いる最大の機動部隊で、これにあたった。

 しかし、緒戦の敗退でベテランパイロットを欠いた機動部隊は、かつての戦力とは程遠いものであった。

 それに対し米海軍は艦船100隻の大部隊であった。日本攻撃機はアウトレンジ戦法でこの戦いに望んだが錬度の低いパイロットでは成果をあげることができず、また敵の新兵器により航空戦力の7割を喪失。

 空母3隻を失い、日本海軍機動部隊は壊滅的被害を受け、マリアナ諸島から撤退することとなった。

*小沢治三郎…早くから航空戦術の重要性に気付き機動部隊の構想を考案していた。レイテ海戦では囮部隊を指揮。

 その後、最後の連合艦隊長官に任命されるが、その航空戦術を振るうにはあまりに遅すぎる着任だった。

1944.07 サイパン島玉砕  

 マリアナ沖海戦で敗退した日本海軍は、マリアナ諸島の放棄を決定し撤退した。

 残されたサイパン守備隊40000人には、支援も救出の望みもなく、玉砕の道しか残されていなかった。

 爆撃・艦砲射撃の末、米海軍は上陸を開始、兵力・火力ともに3ばい以上の米海軍の前に勝敗は明らかで激しい戦闘の末、指揮官南雲忠一中将以下40000の日本陸軍は、ほぼ全滅した。

 また、現地の在留邦人も数多く巻き込まれ、8000人の犠牲者を出した。

 日本軍令部の、「降伏は恥、潔く死を選ぶべし」と教育を受けていた日本人の多くは自害を選び家族が殺し合ったり、母親が子供を抱いて崖から飛び降りるというような悲劇をうんだ。

 現在でも集団飛び降り自決のあった場所は、バンザイクリフと呼ばれる観光地になっている。

1944.10 レイテ沖海戦  

 南太平洋を手中に収めた米陸軍元帥マッカーサーは、フィリンピン島を奪回作戦を開始した。

 これに対し日本海軍は、レイテ湾に進入・上陸した米海兵部隊を栗田健男中将率いる大和・武蔵を中心とした遊撃部隊に突入させ敵戦力の撃滅を計った。

 米海軍戦力の分散のため囮作戦を実行した小沢治三郎中将の機動部隊は見事に誘い出すことに成功するが、その引き換えに瑞鶴・瑞鳳などすべての空母を失い、機動部隊は事実上壊滅した。

 小沢艦隊の陽動で、突撃を果たした栗田艦隊であったが、航空戦力の前には戦艦もまったく無力で250機もの敵航空機や、潜水艦からの集中砲火浴び、20本の魚雷を受けた超弩級戦艦武蔵は撃沈。

 その他多数の艦船も沈没、大破するという大きな被害を出し、栗田艦隊は撤退した。

 連合艦隊すべての力を使った最後の決戦も敗退に終わり、敗戦はもはや時間の問題となった。

 この戦闘で初の神風特攻が行われたと言われる。航空機による直接体当たり自殺攻撃「神風特攻」はその後も多用され、終戦までに2400機を出撃、多くの若い命を散らした。

*マッカーサー…グアム島制圧後、連合軍の日本本土への進攻作戦に猛烈に反対、フィリピン攻略に向けさせる。

 戦後、彼の指導の元、憲法を改正し、急速な日本の民主化を推し進め、今日の発展に至る。

1945.02 硫黄島玉砕  

 サイパン・グアムを陥落し日本本土にまで迫った連合軍に、日本軍は硫黄島を死守すべく陸海21000人で島を要塞化し防備を固めた。それに対し連合軍は、1700機もの航空機による爆撃及び艦砲射撃を加え、戦車177両、61000もの兵力を投入した。しかし上陸に対し周到に準備していた日本軍は水際でそれを迎い撃ち、また島を地下要塞化した神出鬼没の反撃で、連合軍は屍の山を築いていった。

 だが、連合軍の物量の前に徐々に消耗後退し、1ヶ月にも及ぶ抵抗のすえ、玉砕するに至った。

 この戦いは熾烈を極め、日本軍は20000人が戦死、連合軍も3人にひとりが戦死する大きな被害を出した。

1945.03 東京大空襲  

 マリアナ諸島を完全制圧した連合軍は、B29爆撃機300機を発進させ東京に向かわせた。

 東京上空に達したB29群は、2時間半のあまり低空からの猛烈な波状爆撃をおこなった。

 この攻撃で、地上は猛火に包まれ、阿鼻叫喚の地獄絵図さながらの光景だったという。

 死者10万人、被災者100万人以上という壊滅的被害を出し、東京は焼け野原と化した。

1945.04 菊水作戦  

 連合軍の沖縄上陸で、日本軍部はもはや本土決戦は避けられないとして「一億玉砕」を掲げ超弩級戦艦大和による特攻を決定した。この特攻艦隊は、その頃繰り返されていた空の特攻と並んで水上特攻隊と呼ばれた。行きの燃料しか積まない、まさに生きて帰ることのない決死の特攻だった。

 沖縄戦の支援に向かう大和だが、制空権も制海権も完全に掌握されていたため簡単に発見されてしまう。

 連合軍の凄まじい航空爆撃や、10本以上の魚雷を片側に集中的に受け、連合艦隊最後の戦艦大和は大爆発とともに沈没し、連合艦隊はわずかに生き残った駆逐艦だけとなり事実上、壊滅した。

1945.04 沖縄上陸戦  

 圧倒的な戦力で沖縄を包囲した連合軍は、猛烈な空爆と艦砲射撃を繰り返し18万もの軍を上陸させた。

 日本陸軍10万の守備隊のうち、3分の1は現地の防衛隊や学徒兵など、臨時での補助兵だった。

 米軍の圧倒的戦力の前に50日の戦闘の末、日本陸軍は4分の3を失い沖縄本島は南北に分断された。

 分断後の戦闘は連合軍による残兵掃討戦に過ぎず、そんな中でひめゆり部隊など悲劇が繰り返された。

 もはや日本軍に組織的抵抗は不可能であったが陸軍部は降伏を許さず無意味な犠牲を増やしていった。

 陸軍司令部の壊滅により沖縄は降伏し、太平洋戦争最初で最後の地上戦は幕を閉じたが本土決戦の時間稼ぎという非情な作戦のために沖縄住民に多大な被害を出した。

 沖縄戦の戦死者は20万人以上、そのうち民間人の死者は10万人を超える悲惨な戦いだった。

1945.8.06   広島原爆投下  

 連合軍は、日本上陸を前に降伏を拒み続ける日本政府に対し戦力差を決定づけるため新型の原子爆弾を投下することを決定した。8月6日午前8時、人類史上初の原子力爆弾は広島に落とされその一瞬の熱波とその後の放射能による被害で最終的には20万人もの死者を出した。

1945.8.09   長崎原爆投下  

 広島に原爆を落とされてもなお降伏を認めない軍部のために、さらに悲劇の地は拡大した。

 8月9日午前11時、長崎にも原爆が落とされ一瞬にして街は壊滅、結果14万人以上の被害を出した。

1945.8.15   ポツダム宣言受理 終戦  

 日本政府はポツダム宣言を受け入れ、3年半にも及ぶ悲惨な太平洋戦争は集結した。

平成28年12月10日、89歳


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海軍兵学校の対番制度とクラレのアドバイザー制度


海兵507分隊入校:1994年             海兵507合同分隊会2007年(入校以来41年後)

 海軍兵学校では、分隊組織による自治組織になっていた。私が入校した第五〇七分隊(エ)は七十四期の一号生徒(三学年)が七人、二号生徒(二学年)が十五人、われわれ三号生徒(一学年)が十五人、合計三十七人で構成されていた。

 対番は、分隊内の一号、二号、三号で学年席次が同じ者同士を対番といった。たとえば、分隊内の各号の五席は、たがいに対番だった。そして、対番の上級生は、対番の下級生をとくに面倒をみるというしきたりになっていた。「三号の心得」を書いてくれていた。その書き出しは以下のようなものであった。「俺が貴様の対番だ。対番とは貴様の世話を見る者だ。わからない事があったら、どんどん質問に来い。兄弟だと思って楽しい事、苦しい事、共に分けあって行こう。仲良く張り切ってやって行こう」というものであった。

 私が三号生徒の時の対番として二号生徒は林生徒、一号生徒は荻原生徒だった。

 マンツマン教育だった。特に二号生徒から、入校した日から食堂での食事作法、起床就寝の仕方、敬礼の仕方といった日常生活の要領から心構えにいたる徹底した指導だった。林生徒のお陰で私は生活に速くなれて挫けそうなときに励まされました。

★クラレ研修所のアドバイザー制度 海軍での対番制度を参考に導入した。

 クラレ研修所の指導方針は第一線のリーダーとしての管理技術習得でした。研修方法は通信制度、期間中はスクーリングが含まれていた。研修生はスクーリング以外は工場であるいは事務所でで仕事をしながら一日に相当な時間家庭で独りで勉強しなければならい。そこで挫折させないための工夫としてアドバイザー制度を作った。

 職場の直接の上司を一人一人会社から指名して、専門知識、品質管理から英語の勉強などに至るまで全てのことに相談させることにした。

 計画当初は研修生の励ましを狙っていたが意外な効果が出てきた。それはアドバイザーの指導力を高めることが出来た。また、会社がこの制度を認めたから、工場ではモラールが高まった。

平成28年12月15日


 このような制度がどこかで行われていないかと思っていた。インターネットで下記の記事をみて、思つていたこととかなり近いのでホームページにアップした。

 灘高、やんちゃ集団が生まれ変わる「秘密の廊下」とは? NIKKEI STYLE 12/18(日) 7:47配信

 灘中学・高校の和田孫博校長  日本最強の進学校はどこか――。「ビッグスリー」と呼ばれるのは東京大学合格者数トップの私立開成高校(東京・荒川)、筑波大学付属駒場高校(東京・世田谷)、そして私立灘高校(神戸市)。特に灘は国内最難関の東大理科三類や京都大学医学部医学科の合格者でトップを走る。灘の強さの秘密に迫るため、神戸市の同校を訪ねた。

■「灘の同級生はとにかく個性的で、バラバラなんだけどなんか仲がいい。刺激的だからじゃない。やはり関西なのか奇人変人でも、おもろいやつなら大歓迎という雰囲気がある」。同校OBの大西賢・日本航空会長はそう話す。いまも2カ月に1度は灘の仲間と食事会を開く。同級生にはフジテレビの元ニュースキャスターから神奈川県知事に転身した黒岩祐治氏や、副業を認めるなど独自の経営で知られるロート製薬会長の山田邦雄氏など個性的なリーダーが多い。

 「自由奔放な学校です。高3のころ、授業を抜け出して喫茶店でたむろしていても、そばの席にいた教師は見て見ぬふりをしてくれた」。うどんすきの有名チェーン、美々卯(大阪市)の薩摩和男社長はこう話す。同氏は灘から東大文科一類に進学、その後、修業期間を経て家業を継いだ。この10月、灘の同窓会長に就任した。

 灘のいずれのOBに話を聞いても、自由で個性的な「やんちゃな集団」という話ばかりが聞こえてくる。有名進学校のイメージとはかけ離れているが、実は彼らが猛烈な受験生に変身するある空間があるのだ。

■職員室前に異常に広い廊下

 「ほら、職員室の前の廊下が異常に広いでしょ。テーブルや椅子もたくさん置いているし、ちょっと他の高校と違うと思いませんか」。和田校長は灘の職員室の前に案内してくれたが、確かに廊下とは思えぬ広い空間がある。

 「ここが午後3時以降、ワイガヤ空間に変わります」。高2の夏以降、部活など終了し、灘高生は受験態勢に入る。すると、授業の終了後、この職員室前の広い廊下に三々五々集まり、同級生たち同士の「勉強の教え合い」が始まるのだ。自分たちで分からなければ、担当教師に聞く。「とにかくうるさい」(和田校長)。関西弁がこだまするワイガヤ状態が退校時間の午後6時まで続く。

 「彼らはある意味ライバルですが、口に出して、教えることで自身の頭も整理され、様々な難問も解けるようになる。教えることが結局、自分にも相手にもプラスになることを知っている」と和田校長は説明する。実際、「僕なんて東大は全然無理な成績でしたが、仲間に助けてもらってなんとか現役で受かった」(東大工学部3年生)と話す卒業生は確かにいる。

 灘の校是は、講道館柔道の創始者で、同校創立時の顧問、嘉納治五郎が唱えた「精力善用」「自他共栄」だ。全力を尽くし、自分だけではなく他人との共栄をはかれ、という意味だ。神童と呼ばれる灘校生は、時にはわがままで、独善的な言動をとることもあるという。自由な校風だが、和田校長はこの校是だけは口酸っぱく生徒に伝える。

■入試科目に社会科がない

 最後になったが、この灘中学・高校に入学するには独特の入試がある。中高入試ともに社会科が入試科目が課せられていないのだ。灘中の場合、国語と算数は2日間にわたって入試があり、1日目は基礎力、2日は応用力をはかる。両科目ともそれぞれ200点満点+理科があり、500点満点で合否を決める。灘高だと、そこに英語は加わるが、やはり社会科はない。灘が問うのはあくまで論理的に物事を考える力で、暗記力ではないからだ。社会科があれば、詰め込み型の受験になる可能性がある。

 和田校長は「社会軽視ではない。むしろ社会嫌いになってほしくないから」と話す。日航会長の大西氏は「社会科がなく暗記重視でなかったので、受験勉強にそんなに時間をとられなかった」と振り返る。

参考:灘中学校・高等学校 募集人員:中学校180人。高等学校40人

平成28年12月19日、89歳


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後世への義務
―池田淸著『重巡・麻耶』の記録―
兵学校とパブリックスクール


司馬遼太郎著『歴史の中の日本』(中公文庫)一九九五年八月三〇日改版再販 P.292~296

   後世への義務
    ――池田淸著『重巡・麻耶』の記録

 私はここ十年ばかり日露戦争のことを調べているのだが、当然ぶっかる課題として海軍という存在があった。しかも海軍を考える上でもっとも重要なことは、ネービィの気分というもので、こればかりはそれに半生をささげたナマのひとびとに接する以外に肌で感じることはできず、このいわば人格的な取材のために多くのすぐれたひとびとに接することができ、そのつど驚いたり感嘆したりすることが多かった。

 私が辱知を得たのは七十前後の旧海軍の大佐級のひとで、しかも父君が日露戦争に参加されたというひとなのだが、接することが重なるうちに、旧海軍というのは、その組織と言い、気分といい、あるいは技術をふくめて、明治以後の日本が生んだ唯一の文化財(妙な言葉だが、それ以上に表現の仕様がない)ではないかと思うようになった。

「法隆寺や飛鳥の風土は保存する方法と意欲さえあれば保存できますが、旧海軍というのはすでにどこにも存在しないものですからね、記録の上で後世へ残してゆく以外にありませんよ」

 と、ある日、私の友人である池田淸氏にけしかけてことがある。池田氏は東北大学の教授で、敬虔なクリスチャンだが、その前歴は海軍兵学校の出で、重巡・[麻耶]の乗組みであった。だからあなたはすでに無形になった文化財を記録の上で残しておく義務があります、という意味のことを、いつだったか、けしかけてしまったのである。篤実な人格の氏は、旧海軍の人々にとって特別な内容をもつ「義務」という言葉に驚き、「義務」ですかと私が狼狽するほどの表情でおどろかれ、学問の余暇をさいて、本当にそのことを遂行された。できあがった書物が『重巡・麻耶』である。

 この書名のサブ・タイトルに激闘という無用の形容がついているのはおそらく出版社が、戦記好きの層をねらってのおもねりであろうかと思われるが、内容はそういう軽薄なもではない。

 軍艦というものについて、かつてどこの国の国民もそのように感じたはずだが、単なる機械ではなく、一個の人格的存在として尊敬と愛情の対象だった。さらには「麻耶」なら「麻耶」というものの誕生には人間の誕生と匹敵するドラマがあり、その生涯はいかなる軍艦でもそれなりの劇的なものをもっており、その最後は機械が海底に沈むというようなものではなく、もっとも劇的な人物がそこで終わったといった巨(おおき)さがある。池田氏は「麻耶」というものの生涯をいかにもこの人らしく人文学的な態度で淡々ととらえているが、読みおわったときの気持は、すぐれた伝記を読んだときの読後感に似ていた。

 この書物と直接関係のないことだが、池田氏からおもしろい話をきいたことがある。明治初年に海軍兵学寮が東京の築地につくられ、その主任教官として英国からアーチボールド・ルシアス・ダグラス(Sir Archibald Lucius Douglas、1842年2月8日~1913年3月12日)という海軍少佐がまねかれ、彼が日本海軍の基礎をつくったことはよく知られている。

 ダグラスは築地の一角にいわば英国そのものを移しょくし、生徒の日常生活のしつけをことごとく英国流でやった。日本の国土と日本的環境から生徒たちを断絶させて、その学校の校門を入ればすでに英国であるというふうに取りしきってしまった点、文化史的にみてもじつに興味ある実験であった。ダグラスはよき海軍軍人をつくるよりも、まずよき英国流の紳士をつくろうとした。ダグラスは、ウィンチェスター・パブリックスクール(Winchester College)の出身であったが、かれはこの母校の伝統と校風をそのまま日本の築地の空間に充填しようとし、ほぼ成功したのである。

「ダグラスが兵学校(兵学寮)に移しょくしたのは、ダートマス兵学校の校風というより、かれの出たウィンチェスターのパブリックスクールの校風やしつけだったのですね」

 と池田氏が私にいったのは、彼の発見によるものであった。氏は戦後英国に留学してケンブリッジの学寮で生活したり、ウィンチェスターのパブリックスクールを見学したりしてこのことを知り、自分の兵学校での生活体験をおもいだして比較文化的な体験をしたという。そういう発見やおどろきがこの『重巡・麻耶』の文章を成立させている基調のひとつになっており、言いきることがゆるされるとすれば、氏の余暇のしごとではなく、政治学者としての著作物としての範囲に入れていい重量を十分に持っている。軍艦「麻耶」の生涯は薄命ではあったが、よき伝記作者をもったちう意味で、他の軍艦よりも幸運を得たというべきであろう。

※初出:後世への義務(『重巡・麻耶』の記録) 昭和四十六年十一月十九日『毎日新聞』

※池田 淸著『海軍と日本』(中公新書)あり。

※池田 淸プロフィル:(1925~2006年)鹿児島県出身。1944年(昭和19年)3月、海軍兵学校(73期)を卒業。重巡洋艦「摩耶」乗組みとなり、砲術士としてレイテ沖海戦に参加。摩耶が撃沈された後、戦艦「武蔵」に救助されるが、武蔵も撃沈され九死に一生を得る。その後海軍潜水学校普通科を経て「伊四七潜」砲術長兼通信長となり、回天「多聞隊」を乗せて出撃した。 戦後は公職追放を経て、歴史学を志し、1952年(昭和27年)東京大学法学部政治学科を卒業。専攻は「政治外交史」。大阪市立大学教授、東北大学法学部教授。88年定年退官、名誉教授、青山学院大学国際政治学部教授、2000年定年退職。左脚には負傷した際の小弾片が入ったままであった。

※参考:司馬遼太郎


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池田 清著『海軍と日本』


池田 清著『海軍と日本』 (中公新書) 昭和56年11月25日発行

 世界第三位の海軍国であった日本は終戦時に滅びた。海軍と太平洋戦争を分析すること。

 この本は日本海軍の入門である。

 Ⅰ 海軍と戦争 P.3~

 マレー沖海戦において日本海軍は英国戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスを沈めたがこれは飛行機か戦艦かという論争にもまた決着をつけたのだった。アメリカは大艦巨砲主義の時代がおわったと悟り空母の建設を急いだが日本海軍は学ばなかった。その三年後同じように大和が沈んだ。これは兵術思想の革命のみならず「日米英という三大海軍帝国の西太平洋地域における植民地再編成のための角逐」を象徴していた。

 日清戦争の黄海海戦、定遠、鎮遠との海戦以来、海戦戦術には「艦隊決戦主義」とよばれるものがあった。東郷平八郎司令長官率いる連合艦隊はバルチック艦隊に勝利した。艦隊司令長官ロジェストウェンスキー以下六千人は捕虜となる。これが日本の海軍政策を決定づけた。また英国も「ドレッドノート」の建造をはじめ、大艦巨砲主義の時代がはじまったのだ。

 日本海海戦での勝利は山本権兵衛海相らの事前準備、外交政策に大きく拠っている。

 ロシア艦隊が消滅し、日本の仮想敵はアメリカ海軍となった。日本海軍の戦略は邀撃作戦とよばれるもので、アメリカが日本近海にやってくるまでに南方で奇襲を繰り返し、漸減したところを決戦で叩くというものだった。

 ――日本海軍は、長期持久の消耗戦という第一次世界大戦の性格を学びそこねたまま、この短期決戦の方針で太平洋戦争に突入した。

 資源が少ないので精神主義で満たそうとしたがこれは失敗のもとになった。軍縮条約で航空兵力が増やされてからも巨砲神話は根強く残った。ナポレオン曰く「十年ごとに戦術を変えるのでなければ、その軍隊は良質とはいえない」。

 ゼロ戦は優れた性能をもっていたがやがて資源不足でつくれなくなった。

 「航空消耗戦と大量生産方式という近代戦のビジョンが欠落していたからにほかならない」。

 このゼロ戦もやがて米軍のグラマンF6F、「ヘルキャット」の登場により撃墜されていく。貴重な機体と熟練搭乗員が相次いで消滅した。

 なぜレイテ沖海戦で日本海軍は潰滅したのか。栗田第二艦隊司令長官の「なぞの反転」は多くの人の注目を集めている。彼の反転により作戦は失敗し、連合艦隊は消滅した。

 日本軍の士官は現代戦遂行に不可欠な「高度の平凡性」を欠いていた。彼らの理想像は近代西欧的な職業軍人ではなく古代の荒武者だった。

 真珠湾攻撃から海軍の攻撃は淡白で性急だったという。ハルゼー大将曰く「日本人は勝ったと思うと引き揚げていく。決して追撃して来はせんから心配するな」。日本海海戦における東郷と秋山真之中佐の執拗な追撃戦術は忘れられていた。

 戦時中は政府・陸軍・海軍がそれぞればらばらに動いていた。近衛や東條が改善につとめたがうまくいかなかった。陸海軍は戦争中ことあるごとに反目対立した。軍需省航空兵器総局長官遠藤三郎中将曰く「太平洋戦争はアメリカと戦っているのか、陸軍と海軍が戦争しているのか分からないほど」。この対立の理由は日露戦争後に陸軍がロシア、海軍がアメリカを仮想敵として軍備拡張を競い合ったことによる。明治二十六年海軍軍令部が独立してから対立はさらに激しくなった。

 陸軍が参謀本部を政府から独立させ天皇の直属においていたのにたいし、イギリスの制度にならっていた海軍は、海相が統括をおこなっていた。日露戦争時の軍事参議院はみなすぐれた政治意識をもっていた。

 末次信正少将や山本五十六は航空兵器の重要性に気づいていたという。だが彼らを含めた将官たちは総力戦の実態を理解しきれていなかった。丁度いいところで講和というものはなかった。とはいえこれは欧州の政治家も同様である。短期決戦論に基づいた真珠湾攻撃がなくとも、アメリカは参戦していただろうと著者は言う。

 Ⅱ 海軍と政治 P.65~

 ふつう太平洋戦争は陸軍の暴走として扱われるが海軍の非力にもまた原因がある。ワシントン会議で海軍は削減に不満をもった。ロンドン会議は悲劇といわれこのとき統帥干犯問題がおこったのである。財部彪海相や幣原の軍縮条約締結に不満をもっていた海軍軍令部に近づいたのが犬養毅、鳩山一郎ら政友会幹部である。彼らは民政党内閣をつぶすために海軍をあおり条約の拒否を主張した。

 ――統帥権干犯問題をめぐる騒動は、軍事を知らぬ政治家たちが、政治を知らぬ軍人たちを党略に利用し、結局は自らの墓穴を掘ることになったよい一例であろう。

 これに右翼団体も参加し、やがては橋本斤五郎陸軍中佐率いる桜会の結成につながる。昭和五年九月結成された。親英米派がつぎつぎとテロにあう。昭和一一年の二・二六事件にいたる、

 「統帥権干犯問題を利用して倒閣を策した政友会の犬養首相が、その二年後(昭和七年)に、この紛争を契機に急進化した海軍青年将校たちによって射殺され、彼が念願としてきた日本の政党政治とともに息を絶たれたのは、まことに歴史の皮肉といえよう」。

 この著者は犬養含む当時の狡猾な政治家にたいし批判的である。

 ロンドン会議以降海軍は艦隊派と条約派に分裂した。軍令部の優位が確立され海相は統制を失った。軍縮をめぐる憎悪は海軍に非合理的な思考、反英米感情、親独感情を蔓延させた。陸軍の二・ニ六にくらべ海軍将校の五・一五は未熟で幼稚なクーデターだった。

 当初満州事変に及び腰だった海軍だが、現地で将校が殺されると上海陸戦部隊を大量に派遣した。これを指揮したのが米内光政である。その後彼は蒋介石との和平交渉を拒絶し戦況を悪化させたという。著者曰く彼は無口で鈍重な東北人だった。

 ドイツの快進撃により海軍の南進論は勢いづいた。陸軍も南部仏印に進駐した。この直後の三国同盟により日本の道は決定した。

 軍のなかには英国のみを敵とし米国との戦争を避けることができるという「英米可分論」がはやっていたがこれはあまい見通しだった。

 Ⅲ 海軍の体質 P.129~

 海軍は戦時中大勢順応、及び腰になったまま衰退の道を歩んだ。

 ――農民的体質をもち、ミリタントでしかも「デモクラチック」な陸軍と対照して、「リベラル」な海軍は、ある郷愁をこめて語られることが多い。

 外交によって戦争を避けることを重視する不戦海軍論は海軍リベラリズムの象徴であった。ときに「沈黙のままの海軍」とも揶揄された。英仏独でも海軍にくらべ陸軍は政治的だった。日本海軍はまず人数も少なく農民はみな陸軍に行った。日本は四海に囲まれながら海とは縁の薄い民族である。

 政治力を養うのは日常の雑務とこせこせした人間関係だが海軍にはそれを嫌う船乗り気質のものが多い。これはどこの国でも見られる現象である。イギリスの御雇い外国人ダグラスにより身分制の海軍がつくられた。学校では士官は貴族であれと教育された。

 「肉体の面でも下士官兵を圧倒せよ」。

 一方陸軍はドイツ陸軍にならった。

 ――議会制の母国イギリスは、海軍の母国でもあった。イギリスが育てた諸国海軍のうち、最も成功したのは日本海軍である。

 はじめ海軍は薩摩閥に占領されていたがこれを改革し公平な人事をおこなったのが山本権兵衛である。しかしこの後官僚化しシーメンス事件、ヴィッカース事件で山本、斎藤実は辞職に追いやられる。

 藩閥にかわって幅を利かせたのが兵学校出身者による学閥だった。勝海舟、山本権兵衛、加藤友三郎は「日本海軍の三祖」とされる。

 海軍と陸軍では人柄にも相違がみられた。

 「すっかり好々爺の常識人となった元提督たちと比較して、戦後もなお異常なまでにエネルギッシュな雄弁家の元将軍には圧倒されたものである」。

 海軍大学出身者は総じて常識的で計算が達者だった。

 ――これは海大卒をとくに優遇しない海軍の伝統や、計算を抜きにしては立てられない海軍作戦の特異性からきたもので、数字を通して冷やかに自己を客観視するならば肩を怒らせた悲壮感は生まれないはずである。

 海軍は政治に関心をもたずひたすら技術を追求し、読書もしなかった。少数精鋭主義はその精鋭たちが死んでからは用を成さなくなった。

 「日本海軍に死に花を咲かせた特攻作戦は、もはや戦略でも戦術でもなかった」。

 日英同盟解消後の軍縮条約や対日政策により、海軍は親英から反英へと転換した。老獪なジョンブル、偽善者、英国はそのように批判された。

 太平洋戦争の主役はにほん海軍であった。開戦にいたる日本海軍の責任を究明するために、私は多くの旧海軍軍人とも面接し、事情を聴取した。嶋田繁太郎(32期、海相、軍令部総長)、野村直邦(35期、海相)、井上成美(37期、次官)、保科善四郎(41期、兵備・軍務局長)、高木惣吉(43期、教育局長)、小嶋秀雄(44期、駐独武官)、新見政一(36期、海兵校長)、富岡定俊(45期、軍令部作戦課長、同部長)、高田利種(46期、軍務局第一課長)など、当時の関係者との面談で、海軍の実状やその憤懣にも直接触れた。戦時中、海軍に在籍した一人として、私自身これらの憤懣に共感できなかったわけではない。しかしここには、これら海軍側の憤懣とか弁明をあえて出さなかった。

 亡びたとはいえ、海軍の残した大きな遺産は、今後の日本の歴史の上にも影響してゆくことであろう。海軍はもっと長い目でみて、その真価がわかるのかもしれない。いまや海軍については、戦後生まれの史家が出ており、評価は今後時をへてさだまるであろう。


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『歴史と名将』歴史に見るリーダーシップの条件


 山梨勝之進著『歴史と名将』歴史に見るリーダーシップの条件 (毎日新聞社)昭和56年10月30日第1刷

   序にかえて

 この本の序文を書く立場になろうとは……、それはわたしにとって無上の光栄であり、またよろこびである。

 山梨勝之進氏が、最晩年(八十二歳~八十九歳)の情熱をかたむけて海上自衛隊幹部学校で講義をされた講話集は、ごく一部の人びとの目にふれるかたちで伝えられてきた(『山梨大将講話集』海上自衛隊幹部学校編)。一読する機会をえたわたくしは、なんとかこれが一般の人びとに手の届くかたちで公刊されることをのぞんできたが、そのねがいがようやく達成された。そのよろこびをわかつ、いわゆる"山梨ファン"は、意外に多いのではないかと思う。

 山梨氏が、戦前の海軍の将官であり、數すくない大将であったことは、いまや知る人ぞ知るの、歴史的事実になったし、また、海軍を退官されたのち、戦前の学習院長として多くの子女の教育に尽瘁(じんすい)され、また世の中の一変した戦後においても、自衛隊の創設や発展に陰ながら力をつくされ、請われて、若き自衛隊幹部のため、このような講義をされたことも、歴史のページを飾る事実となってしまった。

 わたくしは、山梨氏の長い一生のある時期、つまり学習院長として公職にあられたときに一学生として謦咳(けいがい)に接し、その後実社会にでてからも、機会あるごとに教えをうけたものであり、通常の意味における恩師というよりは、人生における「師」として心から尊敬申しあげてきたものである。したがって、わたくしの私情においては、山梨先生であり、山梨院長と呼ぶべきであるが、すでにのべたとおり、山梨氏の一生も歴史的事実となったこんにち、あえて山梨氏と呼ぶことにしたい。

 山梨氏のどこがえらいか。ひとことでいえば、ちかごろ忘れかかっているであろう人生態度、つまり"人間一生これ研鑽"というところにあるのではないかと思う。

 海軍時代にじつによく勉強されたことは、この本のどこのページを開いてみてもすぐ理解されるところであり、また、海軍をはなれられたのち、わたしたちが直接教導をうけた学習院長時代においても、じつに幅ひろく研鑽と自己啓発につとめられたことは、(ふし)あるときの院長訓示や講話にあきらかであった。

 院長のことばのなかによく登場する人物は、夢窓国師(一二七六~一三五一)とアナトール・フランス(一八四四~一九二四)であった。なぜこのふたりの名前がよくでたかは、ついに山梨氏にうかがう機会を失したので推測の域をでないが、夢窓国師が、文字通り乱世の時代をしたたかに(丶丶丶丶丶)生きぬいて宗教人として大成した、あの人生の生きかたにご自身の姿の投影を見ておられたのではないかと思われるし、アナトール・フランスも、日本人の考えるような文士や小説家とちがって、晩年には現実世界へのアンガ―ジュマン(参加)(〈フランス〉engagement)をいとわなかった、一風変わった小説家であったところに惹かれるものを見出しておられたのではないかと思う。

 山梨氏が武人でありながら、いわゆる一介の武弁ではなく、戦史家であり、高度の教養人であり、また「戦争屋」を嫌っておられることは、この本のなかにもよくあらわれている。また、複雑な現実世界にもまれながら、なにかそれと一段とちがった高い世界や遠い未来を求めておられたらしいことも、それとなく理解される。

 昭和五年、ロンドン軍縮条約締結の当時の海軍次官として、部内とりまとめに血を吐くような苦心をされたが、その結果かえって報いられることのすくなかったことは、あまりにも有名である。当時のことは、この本の中にも控え目にふれられている。しかし、おそらくすべては語っておられられないと思う。歴史の証人としての必要以上の寡黙と(おもんばか)りにもとづく人間的節度や礼譲を、かぎりなく尊敬すべきものと思う。

 こんな文章を書いていると、生前の山梨氏の特徴ある言いまわしがきこえてくる。

「きみは、まだそんなことをやっているの」

 やわらかい親しみのあるお叱りのことばである。

 最後にひとつだけ私事をつけくわえることをゆるしていただきたい。わたしが、昭和三十二年、まだ若年の三十代のなかばに大蔵大臣秘書官に任命されたとき、ただひとこといわれたことば

「これからがむずかしいよ」

 海軍大臣秘書官など秘書官事務の表裏にもつうじておられた山梨氏の含蓄深い、このことば……。還暦をむかえたわたくしは、いまも、このことばを噛みしめている。

   昭和五十六年八月

                 橋 口  収

   まえがき

 昭和二十年五月二十五日、東京はB-29の大空襲をうけ、海軍省も焼失した。焼け跡に立って山梨大将は、当時終戦工作に奔走していた高木惣吉少将に向って「野火(やか)焼けども尽きず、春風吹きてまた生ず」(白楽天・賦得古原草送別詩)と感懐を洩らされた。

 明治・大正・昭和と三代にわたり、日本海軍の要職を歴任し、その盛衰を身をもって体験された大将には、たとえ日本は敗れ、海軍は滅びても、時到れば再び芽を吹き出し、甦ることを予測しておられたのであろう。

 戦後日本は戦禍の跡から不死鳥のごとく起ち上がり、目ざましい復興発展を遂げ、海上防衛力も再建されるに至った。その背後にあって、旧海軍の長老として大将の存在は大きかった。請われるままに大将は、毎年海上自衛隊幹部学校において、将来の海上自衛隊を背負って立つ学生に対し講話をされ、後輩の育成指導に熱誠を傾けられた。講話は古今東西の名将の統率、各国の歴史、国民性、日本海軍の事蹟等にわたり、そこには自ら大将の深い学識だけでなく、高潔な人柄、人生観がにじみ出て、聞く人の心をうち、深い感銘を与えずにはおかないものがあった。同校では大将の亡くなられたあと、毎年の講話を整理収録し、昭和四十三年十一月、『山梨大将講話集』を作成し、隊員の修養書として部内に配布した。

 本書はこの講話集を、御遺族並びに幹部学校の諒解を得て、再編集したものである。

 再編集にあたっては、毎年の講話のうち反復する話柄で重複する部分などを、なるべく原文の趣をそこなわないよう留意しつつ削除し、また話された史実について確認に努めたが、ふり返ってみると力量これに伴わず、大将の真意をそこなうことを恐れるものである。古今東西にわたる大将の講話の史実を確かめることは、困難な仕事ではあったが、一面において大将の御研究の跡をたどる思いで楽しくもあり、講話を直接拝聴したことのある者にとって、大将の声が耳に甦り、あらためて感銘を深くしたのである。

 この本が多くの人に読まれ、大将の遺徳を偲ぶよすがとなり、また修養の資となれば幸いである。 

 なお再編集にあたり、原則として、艦名は「」で明示、西暦年には元号年を付し、地名、人名など固有名詞は、その当時の呼称、用字を考慮して、なるべく原文のままとした。また欧米の主要人名などには適宜原綴りも付記した。

    昭和五十六年八月十日

                   中 山 定 義(海兵54期)

                   中 村 悌 次(海兵67期)

                   市 来 俊 男(海兵67期)

   歴史と名将 目 次

 序にかえて    橋 口 収 

 まえがき     中山定義・中村悌次・市来俊男

第一話 アメリカ海軍とファラガッㇳ提督

第二話 日清・日露戦争から第二次世界大戦までの日本の歩み

第三話 ワシントン・ロンドン海軍軍縮会議

第四話 ナポレオンの活躍とイギリス海軍

第五話 川中島合戦

第六話 第二次アメリカ・イギリス戦争

第七話 アメリカの国民性

第八話 ナポレオンとウェリントン

第九話 チャーチルとその伝統

第十話 兵術余話

第十一話 曽国藩の用兵と論語・孟子・中庸 修養の道/曽国藩の用兵/秋山真之中将のこと

山梨勝之進略年譜 索 引

2019.08.09


25
山本五十六海軍大将(1884~1943年:昭和18年4月18日)

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 一、やってみせ、言って聞かせて、させてみて、ほめてやらねば、人は動かぬ 

 一、苦しいこともあるだろう。
 二、言いたいこともあるだろう。
 三、不満なこともあるだろう。
 四、腹の立つこともあるだろう。
 五、泣きたいこともあるだろう。
 これらをじっとこらえていくのが、男の修業である。


 山本五十六

 百戦百勝も一忍にしかず

 連合艦隊司令長官、山本五十六は、男くさい魅力をもったリーダ~である。渾身、気魄に満ちた五十六は、その強烈な個性のゆえに感情の振幅も大きい。

 感情の人であり、ときには情愛の人といわれ、茶目っ気もあった。身長百六十センチメートル足らずで躯幹短小、目の玉も躰もきびきびとよく働いた。その五十六が、海軍省の正面階段を大股で、どんどん駆け上っていく姿はまるで堀部安兵衛が高田の馬場へ走りこんでいくような風情であったという。

 五十六の家系は、雪深い越後長岡藩四千石牧野家に仕える槍術指南役、儒者として百二十石を食んでいる。その長岡藩に、藩祖牧野忠成(ただなり)が家臣に示した『参州牛久保の壁書』という十七条の蕃訓がある。侍の恥辱というのは、戦場でおくれをとることでだけではなく、その他にも数々あると、忠成は説(いう)。

《第一 虚言又は人の中を悪(あ)しく言いなす事。

 第二 頭をは(殴)られても、はりても恥辱の事。

 第三 座敷にても路地にても慮外(ぶしつけな振舞)の事。

 第四 親兄弟の敵をねらわざる事。

 第五 堪忍すべき儀を堪忍せず、堪忍すまじき儀を堪忍する事。

 ……(以下、略)……》

 父祖たちの出自の地、三河国牛久保での草創の頃の苦しさを忘れるな、という藩祖の言葉を、三百年近く愚直に守りつづけてきた藩士の骨の硬さは、越後長岡の地に住みながら、遠い故郷の三河言葉を使いつづけてきたことをみてもわかる。

 幕末の風雲のなかで長岡藩は、越後長岡独立、武装中立」を叫び、黒つなみのように殺到した北陸道鎮撫軍を迎撃。長岡藩軍事総督、河合継之助の下知をうけた五十六の祖父、高野秀右衛門は火縄銃六挺を交互に使って群がり寄せる敵十数人を射殺し、弾丸がつきると敵中に斬込み闘死。父の高野貞吉も銃士隊小隊長として転戦、会津若松城で負傷している。

 が、長岡戦争は敗北し、河合継之助戦死のあとを守って長岡藩の総司令官になった二十三歳の若き家老、山本帯刀は降伏勧告を拒んで斬首、山本家は廃絶。明治新政府の「逆賊」河合、山本家への処断は苛烈である。朝敵の汚名が両家から消えるのは、五十六が生まれた明治十七年(一八八四)であった。そして、罪名消滅した山本家を、旧藩主牧野忠篤から望まれて五十六が相続するのは、そのまた遥か後年の大正五年(一九一六)、五十六が海軍少佐のころであった。

 五十六はその相続の日を五月十九日、長岡落城の痛恨の日に決めたのも、無念の思いを罩(こ)めたのであろう、この頃から五十六は、無法な官軍をを相手に六砲口に三百六十発元込め式連射機関銃ガトリングガン三門をぶつ放し、死闘を展開した河合継之助に、はげしく心を傾斜させている。継之助が、

《一忍以支百勇(一忍をもって百勇を支うべし)》

 と、よく書いたのに倣(なら)って五十六も

《百戦百勝不如一忍(百戦百勝も一忍しかず)》

 と書いたという。

 海軍兵学校に入ったとき教官から、お前の信念は、と訊かれた五十六は、

「痩我慢であります」

 と応(こた)えている。十八歳のこの五十六の横顔から、苦汁に満ちた「長岡魂」が泛(うか)びあがってくる。作家の山本周五郎が、その作品の中で「自分の傷が痛いから、おれは人の傷の痛さがわかるんだ」といっているが、五十六の身辺には、そうした心の翳(かげ)りががみえる。嬉しいにつけ悲しいにつけ、五十六はよく泣いた。にんげんとしての情が、常人よりもはるかに多量であったのであろう。

五十六が部下に接したとき、喜びをわかちあう場合よりも、悲しみを噛みしめた時のほうに彼の真面目が光を放っている。丹精し手塩にかけて育て上げた海鷲のエース、白相(しらそう)が飛行機事故のために死んだという知らせをうけたとき、五十六は海軍省詰めの記者たちと歓談していた。と、その瞬間五十六は、にわかに大粒の涙をこぼし、手放しで涙を流し、あまりの嘆きに怺(こら)えかね、部厚い唇を結んだまま、涙をしたたらせながら無言で部屋を出ていったという。

 また、白相らと三羽烏とうたわれていた南郷少佐の戦死を弔うため、南郷の父を訪ねた五十六は、悔みを述べているうちにこみあげてくる悲しみに堪えなくなり、声をあげて泣き、さらに悲しみをつのらせて号泣し、随従の者に助けられて南郷家を辞去するという有様であった。

 五十六の部下への愛情を伝えるエピソードに、こういうのがある。"赤城"の艦長時代、波荒い飛行甲板に着艦しようとした一機が、目測を誤った。このままでは海中に転落すると思った瞬間、五十六は駆け寄り、その尾翼にしがみついた。が、それくらいで止まる筈はない。「あっ、艦長が!」。叫びをあげて士官や下士官、兵たちは主翼や尾翼に縋りつき転落寸前の飛行機を引き止めた。「山本長官の部下思いは、単なる人情ではなく命がけの迫力を感じました>と、部下であった山口多聞(たもん)中将は語るが、多くの将兵が五十六を「ウチの長官」と称(よ)んで慕ったのは、こういうことからであろう。

 もちろん、連合艦隊司令長官としてのリーダーシップを構成しているのはこうした"情"ばかりではない。強烈な行動力、勝負師としての度胸と決断力。大艦主義の海軍のなかで、誰よりも早く、「航空主力、戦艦無用論」を唱え、飛行機による艦船攻撃の優位性を説いた。それも精鋭主義よりも、

 「艦船攻撃は絶対に量だね」

 と主張しつづけた五十六の先見性。鬱屈したときなど、ずしりと重い特製の竹刀を掴んで道場に出、越後人特有のせかせかした動きで全身から精気を噴射するよに飛び込み、火をふくような斬撃をくり返している五十六。そんな気魄に将兵たちは魅(ひ)かれていたのであろう。

 その五十六の趣味にギャンブルがある。無類の勝負好きの五十六は、暇さえあればルーレット、トランプ、花札、玉突き、麻雀(マージャン)と、あらゆる賭けごとに挑んでいる。これくらいギャンブル好きな男も珍しかった。かつて欧米視察の旅の途中、モナコに立寄った五十六は目の色をかえてカジノで遊び、連戦連勝、勝ちに勝ちまくり、あまりの勝負運の強さに、「カジノへの入場を拒否された"世界で二人目の男"の記録をつくった」

 という風評(うわさ)がたった。その噂が五十六の生涯の自慢であった。

「若い士官はブリッジ(トランプ)をやれ、賭けごとに打ち込むと、先が見えるようになる」

 そう言って五十六は、つねに「勝負ごとの三徳」を若い士官たちに語っている。

 一 賭けごとは勝敗の有無にかかわらず、冷静にモノを判断する修練ができる。

 一 機を狙って相手を撃破する修練ができる。

 一 大胆にして細心、その習慣を身につけることができる。

「但し、私欲をはさんではいかぬ。熱中してはいかぬ。冷静に局面を観察していれば、かならず勝つ機会がわかる。それを辛抱して待つのだ」

 疾風迅雷ともいわれる山本作戦の起爆薬になり、その行動の炸薬(さくやく)になったのは、こうした五十六独特のギャンブル哲学であったのかもしれない。

※神坂次郎『男このことば』(新潮文庫)P.71~76より。

参考1:小林虎三郎

参考2:第26、27代連合艦隊司令長官。海軍兵学校32期生。最終階級は元帥海軍大将。栄典は正三位大勲位功一級。1943年に前線視察の際、ブーゲンビル島上空で戦死。旧姓は高野。

 戦死された時、私は中学4年生であった。全国民が悲しみに包まれれていた記憶が鮮明に残っている。

2020.10.10記す。


26
さすがは校長先生

海軍中将新見政一小伝

歴史を深く研究した者は洞察を得る事ができる
H7.11.26 竹内芳夫(東京高師附属中学 海兵六十九期)

 
 東京大学名誉教授・木村尚三郎氏は、かって「平家・海軍・国際派」よいうコトバを引いて、「その共通するところは、いずれもスマートだが、力が弱く、結束力とか粘り強さがなく、つねに小数派で人々から冷たい眼で見られ、いくら頑張って見ても結局は、泥臭く・野蛮で・しかし力のある『源氏・陸軍・国内派』にやられてしまう、ということであろう」と註しておられたが、当らずといえども遠からざるものがある。

 もう五十五年もまえの話になるが、私が江田島の海軍兵学校に学んだときの校長先生・新見政一中将もまたこのタイプの「英国型学将」であった。

1 海軍士官への道を歩む

 新見政一は明治20年に広島県安佐郡に徳川時代初期から続いた庄屋の家に生まれた。小学校を卒業してから廣島に出て県立中学を受験したら、アッケなく落第したが、それは彼が田舎育ちのために「競争試験」というものを全然知らなかったからで、これに発奮した新見は猛勉強をつづけて明治38年12月に忠海(ただのうみ)中学から優秀な成績で海軍兵学校(海軍兵学校第36期)に入校した。忠海中学というのは当時セーラー服を制服にしていた異色の中学である、女学校のセーラー服はまだ日本に定着していなかった。

 時代は日本海海戦大勝利の直後であるから、この年の海兵の競争率は三十五人に一人ほどのきびしいなかで、新見の入校後の成績は200人ちゅう第二位だった。第一位は佐藤市郎、この人は佐藤栄作・岸伸信介の長兄でズバ抜けた俊才であったという。

 新見は在学中に学業に励んだが、しばらくして右足に湿疹ができ、軍医の治療ではなかなかよくならずにだんだん悪化して、ついには屋外の訓練に参加できなくなり、これがハンモック・ナンバー(卒業席次・遠洋航海の時に与えられるハンモックの番号)の足を引っぱって、結局192人ちゅう14番で明治41年に海兵を卒業、明治43年に海軍少尉に任官した。

2 砲術士官となる

 海軍における初級士官の根幹は、人事配置・学校教育と密接にリンクされたOJT(実務訓練)で、半年おきくらいの頻繁な転勤(配置換え)を行って各種の実務をひろく習得さえながら本人の視野を広げて行き、これと平行して砲術・水雷・航海・通信などの「術科学校」へ派遣して専門的な理論的な技術をマスターさせる……という方式となる。

 新見はこのようなコースのなかで数年をへながら、砲術学校(高等科)を卒業して「砲術士官」としての道をたどり、最後に大正8年に海軍大学校を卒業して同年戦艦「伊勢」の副砲長となった。彼はこのときの心境を「僕としては大尉(32歳)で15サンチ砲20門の指揮をとることに非常な誇りを感じたものである」と述懐している。

3 軍令部参謀となり、わが国海軍組織の大欠陥を指摘

 しかし海軍はそのご彼に別の才能のあることを見抜き、歴史研究の道を歩ませた。大正11年に軍令部参謀となり、「海軍作戦機関の研究」という課題を与えられて約半年研究した結果、新見は日本海軍の組織のなかに既存する次のような二つの大欠陥を発見・指摘したのである。

① 最高統帥組織について

 国の防衛は軍隊だけで行えるものでなく、近代戦は国家総力戦になることが明らかなのに、日本の最高統帥機関は文民優位になっていない。

 (これは第一次大戦の顕著な教訓であったが、日本は結局日清・日露戦役と同様の旧式な「大本営組織」をもって大東亜戦争に突入してあの惨害を招いた)

② 海上交通線の防御組織について

 第一次大戦では英・独両国がたがいに相手の交通線を遮断し、必死の経済線をやって勝負をつけた。そのために、たとえば英国の軍令部は「商船行動・通商・対潜・掃海」など本来の海戦以外の通商保護の領域になんと百人以上の海軍将校を配員して、大がかりな研究・準備を進めているのに、日本では対米洋上決戦の準備にかまけてここがガラあきとなっている。

 50年たった現在の目で、75年前に提示されたこの指摘を見れば、それがきわめて鋭利にわが国の弱点をついたことは、誰の目にも明らかなことだ。

4 英国に駐在、つぶさに第一次大戦を研究  このレポートはおおいに当時の軍令部長・山下源太郎大将の注意を引いた。そこで新見は軍令部参謀の身分のまま英国に駐在を命ぜられ、第一次大戦の詳細な研究に従事することとなる。

 渡英した新見はしばらくオクスフォードに居住して国際法の講義を聴き、その後ロンドンに移って首相官邸のまんまえにある「大英帝国国防会議・戦史部」のなかに大きな机をもらって、そこへ通勤しながら理想的な環境のもとで戦史を研究した。これは英国海軍当局の特別の好意によるもので、彼はおおくの軍事機密書類を含むナマナマしい資料を自由に閲覧することを認められていた。新見の研究は海軍固有の戦略・戦術にかかわるもので、専門的かつ多岐にわたるが、マクロの国家戦略の視角から見れば特に注目すべき点が二つある。

③ 将来米国を敵にまわしてはならないこと

 第一次大戦は有史いらい最大の戦争であったが、「連合国は豊富な国内資源と大規模な工業力を持つアメリカの参戦によってかろうじて勝利をおさめることができた」のである。アメリカが、その国民性である「パイオニァ精神」や「アメリカ第一主義」を発揮してさらに強大な国家に成長することは疑いない。今後の日本の国策はこの現実を念頭に置きアメリカを敵とするような行動を慎重に避けねばならぬ。

④ ドイツはトップの意思統一ができない国であること

 第一次大戦におけるドイツ軍は最後の段階に至るまで本土に敵一兵も入れないほど善戦したが、統帥部は支離滅裂で、政治家は世論の指導もせず、政略と戦略はチグハグで、陸海軍は別の方針によって行動し、結局あの敗戦をまねいた。将来注意を要する点である。

 新見は大正15年初頭に帰国し、2年間の研究成果を取りまとめた膨大な報告書を提出したが、彼を英国に派遣した軍令部長・山下大将はすでにその職を去り、献策はそのごの海軍によってほとんど利用されるところがなかった。しかしこの研究業績をつうじて新見の研究者ならびに教育者としてのてきせい適性は正等に評価されたといえる。

5 第二次大戦の発生と帰趨を的確に予言

 帰国後の彼は艦長・艦隊参謀長などのほか長期にわたって海軍大学校の戦史教官をつとめたのち、海軍省教育局長・海軍兵学校長(1939年)として部内教育の本道をあゆむこととなる。

 最も劇的であったのは昭和12年秩父宮殿下の渡英に随行ののち、ドイツ・アメリカを視察して帰ったときの報告で、彼は国際情勢に関する深い知識と公正な史観にもとづき、第二次大戦の勃発とその帰趨、わが国のとるべき道を次のように的確に予言した(要旨)。

⑤ ヨーロッパでは遅かれ早かれ(ドイツがフランスを攻撃して)戦争が起こる

⑥ 独伊との関係にこれ以上深入りしてヨーロッパ政局にの渦中にまきこまれてはなならない、フリーハンドを保つのが有利だ。

⑦もし日本が独伊に見方すれば、英・仏・米を敵とする結果となる

⑧ 第一次大戦の教訓からすれば、日本がどちらの道をとるべきかは明らかなことだ

 以上の①~⑧の指摘は、これを別の側面から要約すれば「歴史を深刻に研究したものは洞察を得ることができる」と言う事である。

 そのご彼は多数の後輩を教育し、機会あるごとに以上の論点を強調したが、けっきょく「親独・反英米・大陸進出・陸軍主導」の世の潮流を食い止める事はできなかった。つまりは「平家・海軍・国際派」の道を歩んだわけだ。

 開戦時は第二遣支艦隊司令長官として皮肉にもホンコン占領作戦の指揮をとる運命を担ったが、先行きの読めていた新見の心中はムジュンにみちたものであっただろう。昭和十七年舞鶴鎮守府司令長官を最後に現役を去った。

6 戦後一〇六歳まで生き抜き大著を遺す

 そのご半世紀をへてわれら往事の悪童共もすでに老境に入り、同期の生存者もだんだん少なくなってきた。ここまで辿りついて思い当たるのは、人間の一生は「社会とどんな関係を結び、どのように受け入れられてきたか(客観・他者評価)」ということのほかにもう一つ、「自分の信念をどのように貫き、自分らしい人生をいかに生きてきたか(主観・自己評価)」という観点がきわ立って重要であることを知る。

 新見は戦後の混乱期を生き抜いて強靭な生命力を示し、106歳というまったく例外的な高齢に達して平成5年4月に世を去った。その長寿の精神的な原動力となったものは、海軍時代から引き続いた「戦史研究」と、それを支える旺盛な知識欲・達成意欲である。

 彼は終戦後「第二次世界大戦の研究」に着手し、昭和37年(75歳)から始めて55年(93歳)に至るまで、実に19年間にわたり、海上自衛隊幹部学校において連続的に戦史を講じ、その成果をまとめて昭和59年(97歳)のとき『第二次世界大戦戦争指導史』(原書房)を出版した。680ページにわたる大冊、超老年期に収穫された終生研鑽の結実で、この時に至るまで彼の頭脳がまったく衰えを見せなかったのは多くの人々の証言するところである。

 「平家・海軍・国際派」などというのはしょせん評論家・傍観者のセリフであって、人間はギリギリのところ「自己評価(主観)」に頼らなければ生き抜けず、成仏できない。この意味で新見中将の戦後の足跡は健全で、みょう利にかかわらず、首尾一貫してわが道を歩み、幼児から百年間積み上げた素養を余すところ無く活用して、三角形の最終頂点を完成したという点で教え子たちの模範となるものが多い。今は亡きわれらの校長先生に心からなる感謝と敬意を表して本稿の結びとします。

  (引用書 『日本海軍の良識・提督・新見政一』原書房)

*補足:平成16年11月25日、海兵75期 広島県立忠海中学 山本道廣君から送ってくださったものを4年と少しの本日写しました。

参考:海軍兵学校歴代海軍兵学校長をご覧ください。

平成21年1月6日

 


27

『井上成美』


 遠藤周作『生き上手 死に上手』(文春文庫)P.101のなかに「面従腹背の生き方」の章に「組織のなかの二つの生き方」の節がある。それには

 友人の阿川弘之の小説『井上茂美』(1986年9月25日 発 行)がよくよく読まれている。お読みになった方はもうご存知だろうが、戦争中の海軍という組織にあって、ともすれば目先の情勢に眼がくらみ、大局の見通しをあやまった軍人が多かった時、良識と信念とを失わなかった一軍人の生涯を書いた作品である。

 友人の気やすさで、私などはこういう海軍の小説は限られた人にしか読まれまい、とても若い連中の心をひきつけないぜ、と作者に言っていたのだが、その予想を裏切るめでたい結果になり、このところ阿川弘之氏は嬉しそうである。

 私はこの作品を読んで、こういう自説をまげぬ男がよく当時の海軍でその地位を保てたものだとふしぎに思い、作者にたずねると、海軍には井上成美(海軍兵学校第37期)をひそかに支持する立派な上司(たとえば米内光政大将)がいたからだということだった。

 おそらく、この作品が多くの読者をえたのは組織のなかで信念を守りつづけた強い男のイメージが現代のサラリーマンたちの切実な願望になっているからだろう。
 しかし、実際、我々が大きな組織に属していて自分の信念を守るということは大変にむつかしいことだろう。

 この記事が引き金になり、参考に書いているものを読み直してみました

 私は井上校長が海軍次官に転出した(昭和19年8月)のちの10月に海軍兵学校に入校したので直接謦咳に接することはなかった。

 生徒であったときのわずかな体験のなかで、自分でも知らなかった学校の方針などを取り上げてみた。

▼一 当時、生徒に対する精神教育のため、教育局から平泉澄(きよし)東大教授がたびたび派遣されていた。平泉博士の皇国史観は、国内、特に軍部を風靡していて、兵学校の歴史教官の中にもその学統の人がいた。博士は、草鹿任一校長時代までは、直接生徒に対して講和することもあった。しかし井上は生徒に対する講和を断り、専ら、教官研究会だけに講和をしてもらうことにした。井上は自らも聴講して、具合の悪い箇所に気づくと、講和が済んでから教官たちに注意するのが通例であった。例えば、昔の武士が余りにも自尊心が強すぎて、他国、他藩を理由もなく見下げるような話があったときは、「こういうのは、うっかりすると、若い士官の自惚れを助長させる危険がある」といった具合である。

参考:平泉皇国史観:扇谷正造『現代ビジネス金言集』P.125

 私は東大の三年間(昭和七年~十年)、ほとんど教室にはでたことはなかった。ある日、珍しく中世史の講義に顔を出した。終ると助教授の平泉澄博士によびとめられた。

「君はヤル気があるんですか」

「ハイ、あります」

「それなら、教室に顔を出したまえ」

 さすがに、その後二、三回は出席したが、“平泉皇国史観”にはどうにもついて行けず、結局、成績は丁(落第点)だった。卒業単位は十八課目だが、乙と丙が大部分である。

体験と感想:しかし以上の教育方針は引き継がれていた。皇国史観について講演を聴いたことはなかった。

▼二 英語教育について、満州事変以後、日本精神昂揚運動が盛んになるにつれて英米排斥の風潮が次第に強くなっていた。英語は敵性外国語として嫌われ、野球用語まで、ストライクを「よし」に、ボールを「だめ」に言い換えるような有様であった。その傾向は年を追って激しくなり、特に太平洋戦争開戦後は、中学校でも英語の授業を減らしたり、廃止するころが多くなった。

 こうした世相を反映して陸軍士官学校では、生徒の採用試験科目から英語を除くことになった。海軍省教育局も、兵学校に対し、非公式ながら学校側の意見を聞いてきた。

 井上は、明快な口調で断を下した。

 「兵学校は将校を養成する学校だ。およそ自国語しか話せない海軍士官などは、世界中どこへ行ったって通用せぬ。英語の嫌いな秀才は陸軍に行ってもかまわぬ。外国語一つもできないような者は海軍士官には要らない。陸軍士官学校が採用試験に英語を廃止したからといって、兵学校が真似することはない」

 井上の決裁によって、採用試験に英語が残されたことははむろん、入校後の生徒教育でも、英語が廃止されることはなかった。多数意見を却下された教官たちの間には「校長横暴」の声もあったが、「こいう問題は、多数決で決めることではない」とする井上の考えは不動であった。

 戦後になって、井上のこの措置は卓見であった、と一般に言われている。アメリカの海軍では、対日戦争開始と同時に日本語の講座を開設していたのである。

 英語教育について、井上は、少ない英語の授業時間の中で「センス」を養成する方策として「極メテ大胆ナル表現ナルモ」としながらも、次のような一案を英語教官たちに提案した。

 (一) 兵学校ノ英語教育ハ、文法ヲ基礎トシ根幹トスベシ
 (ニ) 英語はハ頭ヨリ読ミ意味ノ分カルコトヲ目標トスベシ。英文ヲ和訳セシムルハ英語ノ「センス」ヲ養フルニ害アリ、〔中略〕和訳ハ英語ヲ読ミ乍ラ英語ニテ考フルコトヲ妨ゲ、反対ニ英語ヲ読ミ乍ラ日本語ニテ考フルコトヲ強フルヲ以テナリ
 (三) 常用語は徹底的ニ反復活用練習セシムベシ
 (四) 常用語ニ接シテハ、ソノWord Familyヲ集メシメ、語変化ニ対スル「センス」ヲ養フベシ
 (五) 英文和訳ノ害アルガ如ク英語ノ単語ヲ無理ニ日本語ニ置キ換ヘ訳スルハ、百害アリテ一利ナシ。英語ノ「サービス」ノ如キ語ヲ日本語ニ正確ニ訳シ得ザルハ、日本ノ「わび」トカ「さび」トカ云フ幽玄ナル語ヲ英語ニ訳シ得ザルト同ジ

 生徒に、長年親しんできた英和辞典の代わりに、英英辞典を使用させるよう要望したのも、こうした井上の考えによるものであった。 

▼76期の私の体験と感想:私は海軍軍人は軍人であると同時に船乗りであると思う。このことを忘れたものは兵学校で教育を受ける資格はないのではないかと。私たちも終戦になるまで英語の授業はあった。しかも上述の英英辞典を生徒一人一人に配布されていた。


東大卒業生のメリット

 私が思い出すのは、元東大総長小野塚喜平博士の、学生時代に聞いた演述である。

 小野塚博士は一年中、内外の新聞雑誌に広く目を通しているといわれていた。それは毎年の卒業式において何をしゃべるか、ということのためといわれていた。それはいわば博士の時代との対決であったろう。ある年、こういうあいさつをされた。

 「東大卒業生が、もし誇りうるものがあるとすれば、それは何か? 諸君は日本語以外にの他の外国語を一つ修得していることである」

 正直、このあいさつを聞いた時は、ガッカリした。あまりにも平凡なのである。しかし、後年になって、この意味の深さを知るようになってきた。

 時は、昭和七、八年ころである。満州事変はすでにはじまり、日本国内は急速に国家主義的色彩にぬりこめられ、偏狭な愛国主義が横行しはじめていた。博士のいう真意は、たぶん修得した外国語をもって、諸君は相手国の歴史人情を知り、そして戦うにせよ、手を結ぶにせよ、他日に備えよということでもあったろう。今にして私は博士の識見に思いをいたすのである。ここで博士のいわれたことは「彼」ということで、それは国としても個人としても同じことである。そして個人の場合、「知彼」のためには“聞き上手”が最良の武器となる。では具体的には聞き上手とはどういうことか。

扇谷正造『聞き上手・話し上手』(講談社現代新書)P.60より


 三 井上の死生観の指導について、自らの考え方を教官たちにこう語った。

 「武道や禅の修業で、生死について悟りを開くなどという人もいるが、普通の人間がそんな境地に簡単に達せられるはずがない。海軍機関学校では、『事に臨んで従容として死につく』ことを強調しているようだが、これは死を美化するようで、どうも無理がある。『葉隠』の『武士道とは死ぬことを見つけたり』では、ちょっと死というものを大騒ぎする感じだ。死にさえすれば人から賞められる、というような誤解を起こしたら、訓育上大変なことになる」

 井上は、死に方が大事だという思想は本末転倒だと考えていた。むしろ、たとえどんなに格好が悪くても生き延びて、与えられた職務を遂行することが根本である、その結果としてぶざまな死に方をすることがあっても、そんなことは問題にしない、というのが彼の信念であった。

 この「職務第一、生死超越」という考え方そのものは兵学校の伝統であった。しかし「死を美化したい」願望は当時の軍人の誰しもが持ち易いものであった。井上はそれを真正面からとりあげて批判した。

 井上が離任したあと、小松輝久校長の時代に、生死の問題に迷って自殺した生徒が出た。しかし、結局は、井上が強調していた「職務第一、生死超越」という考え方で生徒を指導することに落ち着いた。

▼体験と感想:私は直接に生死のあり方について教育された記憶がない。ただ、卒業前の上級生徒たちは真剣にお互いが話し合っていたように感じる場面はみることがあった。現在の学校制度では私は高校を卒業したばかりの年齢であった。兵学校在学中、 『戦陣訓』は読まされたことはなかった。

 海軍兵学校に短期間在籍したわたしが現在の問題と少しは関連する井上成美海軍兵学校校長の指導の一部のみを取り上げました。私自身がこの文章は不十分だとの感じています。
 冒頭に私などはこういう海軍の小説は限られた人にしか読まれまい、とても若い連中の心をひきつけないぜ、と作者に言っていたのだが、と遠藤周作氏が言っていますが、機会がありましたら、『井上成美』(井上成美伝記刊行会)、阿川弘之『井上成美』などをお読みください。

参考:海軍兵学校歴代海軍兵学校長をご覧ください。

  平成二十年三月六日、平成二十三年一月三日読み直す。


 井 上 成 美 提 督 を し の ぶ

 昭和五一年一月三一日東郷記念館での井上成美元海軍大将追悼会における阿川弘之氏の講演

 私は同じ海軍仲間と申しても、戦争末期の三年間を予備学生出身の士官として海軍に御奉公しただけのものであります。江田島において井上校長の薫陶を受けたこともありませんし、まして艦船部隊や海軍省部下として井上提督のお仕えしたこともありません。ただ、戦後横須賀市に隠せいされた井上さんを二度程この海に見える丘の上の長井のお宅に訪ねて親しく長時間にわたってお話を受けたわる機会を得ました。その意味では私は井上成美大将に接することを得た数少ない文筆家の一人であります。

 時間の範囲内で追悼のおもいをこめて私の見た井上成美大将を語りたいと存じます。

 本日多くの方々からさまざまのお話が出ましたけれども、井上さんが海軍軍人として果たされたお仕事のうち、もっともおおきかったのは、やはりひとつは米内さんのもとで海軍次官として早期終戦のイニシアチブをおとりになったこと、今ひとつは江田島の海軍兵学校において校長としてあげられたご業績であろうと私は思っています。

 戦後あるジャーナリストが井上さんのことを伝えきいて井上さんにあって、「井上提督、結局あなたは生涯をリベラリストとしてつらぬかれたということになりますか。」と質問したところ、井上さんはすまして、「いいえ、その上にラジカルという字がつきます。」と答えられたという逸話がございますが、海外駐在のご経験も長かったし、そういうふうで世界の中での日本の地位、その日本海軍の使命というものについては壮年の頃から一貫して極めて真摯に見つめとおしてこられたように承知いたしております。時の風潮に流されて、新興のドイツ、イタリーと結んでもアメリカとの戦争の危険を増すだけで、日本にとって何のいいことも考えられない。ワシントン会議、ロンドン軍縮会議以来のアメリカの怨念がつもりつもって米国とのいくさをはじめたところで、日本の国力でとうてい勝てるわけがない、との冷静な判断から軍務局長時代には米内光政海相、山本五十六次官と一致して日独伊三国軍事同盟の締結に命がけで反対され、開戦の年には航空本部長としてあの有名な「新軍備計画論」を骨子とする建白書を書いて日米開戦に反対して、戦争末期には本土決戦に反対して、強行に早期終戦を主張されました。その果たされた役割は、ある意味で消極的なもの、マイナス方向のもの、陛下の御努力と似ておるところでありまし、幕末維新に際して阿波守勝海舟の果たした役割とも似かようところがあるように私は存じます。

 井上さんの胸中には、敗戦と亡国とは違う、いくさにまけても国は亡びない、この無謀な戦争になんとか早くきりをつけてあとの日本を再建することを考えねばならんという強いおもいがあったと存じます。

 軍艦大和の特攻出撃に際して乗艦中の候補生退艦を命じるように手をうたれたのも井上さんであったときいていますが、「海軍の海軍」というようなおもいは、とっくに越えておられて、これもこの若者たちに生き残ってもらって国の再建をしてもらわねばならぬというお考えからであったでしょう。それは日清、日露の役で伊藤祐幸、山本権兵衛、東郷平八郎といった諸先輩の果たしたような前向き、積極的な明るい努力ではありませんでした。暗い、つらい孤独の戦いであったとおもいます。しかし井上さんは米内さんらと共にマイナス方向への努力を積みかさね、積みかさねてよくこれをプラスに転じ、今日の豊かな日本への道を開いてくださいました。これらのことはしかしよく知られている事実でもあり、すでに皆様のお話にもでましたので、私は今からちょうど満八年前の一月、長井のお宅におじゃまして、じかにうかががった井上提督の兵学校時代のおもいで話をご紹介しておきたいと存じます。

 七十何期かのご出身の方々には失礼にあたるかも知れませんけど、こういうふうに言われました。

 昭和一七年の秋、自分が江田島に着任して様子を見ていると、生徒たちの目がつり上がっている。ものすごいつらがまえをしておる。何かこわそうな、ものを警戒するような、いやな顔をしている。ここは全寮制のいわゆるレジデンシャル・カレッジで生徒たちは全員学校で生活しているんじゃないか。生活があればそこにはホームがなくてはならない。あれはホームがある人間のつらがまえではない。家畜のような、前科三犯のような実にいやな顔つきだ。さっするにあまりにも規律が多すぎる。セレモニーが多すぎる。自分で、ものを考えて処理する余地がない。いったいあんなつらがまえで兵隊の前に出られるのか。あれは士官の顔じゃない。

 士官の顔とはそれでは何かといえば、自分の意見では、部下をひきつける何らかの徳を備えた余裕のある人相でなくれはならん。生徒をもっと遊ばせろ、と私は主張しました。

 校長横暴の声が高かったようですが、これでは教わったことがこなれない。デシプリンも必要だけれども、生活にはおのずからなるリズムがなくてはならない。人間四六時中、張切りぱなしにはりきっていられるものではない。もっと自由な時間を与えて、のびのびと生徒を遊ばせてやれ。その間に習ったことが意識の深いところに降りていって本当に自分のものになるんだ。ことに船乗りや飛行機のりとしての、手足を動かす技術などというものは、よけいなことそうだ。杓子定規なやり方はやめる、と申したのです>。また武官教官ばかりがいばっているのはいかん。普通学を大切にするという意味から文官教授をもっと大事にせねばならぬと思っていた私は「教授長」という職をつくって別の部屋を与えたりもしました。一人数学の文官教官で授業中道草をくわせるのが大変上手な人があって、私は授業を参観して感心し、「あれは道草のように見えるけれど、けっして時間の浪費になっていない。道草は馬がおいしいとおもって食べる青々とした草のことで、これは大事なことなんだ。むろんそれだけではいけないけれども、馬をやしなう道草をくう馬を不真面目な馬と思って叱ってはいかん。教授長、あの数学教授を君からほめてやってくれ。」と頼んだこともある。といわれました。そのほか、母校の江田島参観に来て一言生徒に訓示をしたそうな某大将に、井上さんが絶対に訓示をさせなかった話とか、参考館にかざってあった歴代海軍大将の肖像を、「あの中に半数国賊がおる。」といって全部おろさせてしまった話とか、兵学校における英語教育の廃止をガンとして認めなかった話とか、これらはよく知られているとおりでございます。敵性語の廃止は、当時国をあげての風潮でありまして、「天の声」、「民の声」とさえいわれたものです。井上さんのこのようなやり方に対しましては、一部に、今度の校長はなんだ。まさか福沢諭吉ではあるまいし、今は一種のかたわ教育をほどこして、一刻も早く生徒を第一線に立てるべきだという声がありました。そういう声を排して、目の前のことにすぐ役立つような教育は丁稚教育であって、そういう教育を受けた者は状況に変化が生じた時には、まったく役に立たなくなる。吾人は丁稚の要請をもって本校教育の眼目とするわけにはゆかない。我々の目標は、二十年後、三十年後に、しんに、大木に成長すべきポテンシャルをもたしむるにあって、どこの国に他国語のひとつやふたつ話せない海軍兵科将校があるか。そのような者は海軍士官として広く世界に適用すべからず。といって英語の廃止を絶対に許さなかったんです。

 私はこれらのことを、その前おじゃました時にもうかがっておりましたし、書き残されたもんでも読んで承知しておりましたが、この時私は「井上さん、兵学校での一連のああいう校長としておとりになった教育措置は、日本が負けたときのことをお考えになってのものですか。」と尋ねました。「いや大戦争の最中で、私もそこまで考えていたわけではありません。」と答えられるかと思ったら、井上提督は老いの顔をひきしめ、非常にきついお顔におなりになって、「むろんそうだ。」と言われました。「軍人はたてまえとして勅命によって戦っておる。それは私共軍職にあるもののつらいところで、生徒たちに、表向き、そんなことは一言も言うわけにいかないけども、あと一年か一年半すれば、日本がこのいくさにまけるのは決まりきったことだ。その時数千人の若者たちが、海軍といううしろだてを失っても、世の荒波に耐えて生きぬいていける。日本再建の基幹になってくれる。それだけの素養を与えておいてやるのは、せめてもの我々の務めだとおもったからだ。反対も非難もおしきってあんなことをやったのです。」とおっしゃいました。

 「そらから、当時の兵学校のことをもっと知りたければ君、小田切君がよく知っているから。」と言われ、横須賀からかえってある日、私は防衛庁戦史室に、そこに座っていらっしゃる小田切正徳大佐をお訪ねしました。小田切さんは井上校長時代に海軍兵学校に企画課長として御在任になった方であります。いろいろ貴重な話を防衛庁の一室で私にきかせてくださいましたが、その中で私がもっとも感銘を受けたのは、井上さんと鈴木貫太郎大将にまつわる一つのエピソードでございました。井上校長時代の兵学校に、その頃閑職にあった鈴木さんが、平服でブラリと訪ねてこられたことがあるそうです。校内参観が終わって貴賓室で井上校長と鈴木さんとが、さし向きに座られたそばに、いったいどんな話が出ることかと小田切さんはきき耳を立ててかしこまっていると、鈴木貫太郎大将が、「井上君、兵学校教育の本当の成果が現れるのは二十年後だぞ。いいか。二十年後だぞ。」といわれるのがきこえ、それに対し、井上中将が、我が意を得たようにうなずいておられるのがみえたと申します。鈴木さんは申すまでもなく、米内さんと並んであの戦争を終息させるにもっとも功のあった方であります。鈴木さんも米内さんも二十年後はおろか、敗戦後五年をまたずして亡くなられましたが、井上さんだけはあの時から鈴木さんの言った二十年がたち、三十年がたとうとして、教え子たちが日本の各界の中堅となって活躍する姿を見たうえで、さみしい隠棲生活ながらも天寿を全とうして亡くなられました。その意味では井上さんは幸せであったと私は思います。

 私は井上さんを深く尊敬しているものでありますが、江田島時代には今度あの校長は論理学の教科書のような男だという声がして、一部では逆に国賊とも呼ばれておりましたし、今日なお、軍制、軍略、教育の各面にあたって井上さんに対し強い批判のあることも耳にしております。井上さんはいかに偉功をたてた軍人といえども、これを神格化するなどもってのほかのこと、とのご意見で、人間を神様あつかいするのがきらいでした。今日、私などを含めて、多くの方々の声が、もしその井上さんの業績をオーバーエスティメイトし、井上さんをかりにも神格化してしまうようなことがあったら、それは井上さんのおよろこびになるところではないでしょう。

 今日の集まりでは井上批判の声は場所柄あまり聞かれませんでしたけれども、井上成美提督の編纂もおいおい進められていると承っています。その時にはどうか、堂々たる井上批判論もこれにおさめて私どもに読ませていただきたくおもいます。審判は歴史がつけます。井上さんはよろこんでその審判にふくされると私は信じます。

 ともあれ井上成美大将のような方にめぐり会えたことを私は生涯の一つの幸せであったとおもっています。

 意を尽くさぬつたない話は、以上で終わります。

 この時阿川さんは威儀を正し、祭壇正面に向きなおられ、とつとつと、以下のことばをつづけられた。

 井上さん・・・・、本職の海軍軍人でなかった、・・。大学で文学なんぞ・・・学んだ者の中にも・・・。こうして、井上提督を敬慕している者が一人いることを・・・おこころのすみにおとめいただいて、どうか・・・安らかにおねむり下さい。

    昭和五一年一月三一日

       阿 川 弘 之

           (拍手)

参考1:「軍艦大和の特攻出撃に際して乗艦中の候補生退艦を命じるように手をうたれたのも井上さんであったときいていますが」については後生に道を託すをお読みください。

参考2:鈴木貫太郎大将が、「井上君、兵学校教育の本当の成果が現れるのは二十年後だぞ。いいか。二十年後だぞ」。での鈴木貫太郎大将の終戦に動かれた記事は山本玄峰老師をお読みください。

平成二十九年二月十五日:追加



        阿川弘之著             井上成美刊行会            「歴史街道」

「歴史街道」January 2002 PHP による   

海軍大将・井上成美 信念を貫いた男の覚悟の見出しで以下の記事が掲載されていました。  

対談 今こそ求められる「先見」と「実行」の人…………阿川弘之 深田秀明

命懸けで阻止せんとした戦争へのへの傾斜……………………八尋舜右
史上初の空母決戦が残したもの……………………………………池上 司
「コペルニックス的展開」をした兵学校教育………………………生出 寿
井上・高木は、いかに終戦ををもたらしたか………………………池田 清
貧しさに屈せず、姿勢を崩さず………………………………………江坂 彰
「大将の英語塾」跡を訪ねて…………………………………
特別インタビュー
「紅葉」の部屋がご贔屓でした……………………………………元 料亭「小松」女将 山本直江
 祖父との意外な共通点………………………………………………丸田研一

以上から、対談 今こそ求められる「先見」と「実行」の人…………阿川弘之 深田秀明を紹介します。

阿川弘之 大正9年(1920)生まれ 昭和17年(1942)、東大国文科を繰り上げ卒業し、海軍予備学生として海軍に入る。昭和28年(1953)、「春の城」で読売文学賞を受賞。主著に『山本五十六』『井上成美』他がある。

深田秀明 大正14年生まれ。海軍兵学校卒業(第73期)海軍中尉。横須賀航空隊テストパイロット。昭和57年(1982)、井上成美刊行会を代表して『井上成美』を発刊。1983年度の毎日出版、文化賞を受賞した。

なぜ、混乱の中で先を見通せたのか

阿川 深田さんを中心とする井上成美伝記刊行会が『井上成美』を出版して、もうすぐ二〇年になりますね。「伝記」の最近の売れ行きはいかがですか。

深田 おかげさまで現在、一四版まで版を重ねています。幅広い層に読まれていまして、企業の経営者や公務員、近頃は学校の先生など、教育関係の方がよく読んで下さっています。

阿川 それは刊行会にとってはもちろん、日本のためにもいい現象ですね。

深田 私たちがこの「伝記」を刊行した目的は三つありました。第一は、先ず井上成美を広く世間に知ってもらうこと、第二は、井上さんを世間が高く評価するような空気になってほしいということ、第三は、井上さんのような政治家が一人でも出てくれたら……ということです。一と二はほぼ目的を達しましたが、三番目はまだ駄目ですね。しかし、井上成美を広く浸透させたのは一にかかって阿川さんの作品『井上成美』です。

阿川 いや、九九パーセントの資料の出典は「伝記」に求めてるわけで、僕はこれを、いわば文学作品として再構成したようなものです。ところで、僕は昭和三九年(一九六四)に初めて個人的に井上さんにお目にかかつたんですが、深田さんは海軍兵学校生徒の時、井上さんが校長を務めていて、その頃からご存知だったわけでしょう。

深田 生徒の頃は、「またも負けたか四艦隊」などと、井上さんが長官だった頃の第四艦隊の噂を聞いていましたから、「戦に弱い軍人など何の価値もない」と単純に思っていました。私が井上さんの功績を知って、強い関心を抱くようになったのは戦後のことです。

阿川 僕は横須賀の長井のご自宅で、初めてお会いした時のことを、今でもよく覚えています。「戦争中、兵学校の英語廃止を認めなかったそうですが、それは敗戦後の日本を考えてのことでしたか。と尋ねましてね。「いや、当時そこまで考えていない」という答えを想像していたら、強い口調で、「もちろん、そうです」と言うのです。戦争中、口に出せることではないが、あと一年半もしたら日本は必ず敗ける。その時、海軍といううしろ楯を失って、敗戦後の世の荒波に若者たちが放りだされた時、どうやって。日本を再建する力になってくれる。それを考えたら、そうせざるを得なかった、と。井上さんの先見性と冷静な視点が、強く印象に残りました。

深田 先見性は井上さんの魅力の一つです。それが大きく発揮されたのが昭和七年(一九三二)の軍令部条例の改訂問題でした。陸軍同様、容易に戦争できる体制にしようしよとしたのに対し、海軍省軍務局第一課長だった井上さんは、頑として判を捺さなかった。軍令部長の伏見宮を通じて、大臣に呼ばれて判を捺すよう促されても、「これは海軍のためにも、お国のなりません」と、一課長の分際で突っぱね通します。結局、井上さんがポストを外されて、条例は通りました。海軍が戦争に踏み込む第一歩でした。

阿川 井上さんはその時、「自分は海軍を辞める。正しい道理の通らぬ海軍にはいたくない」と言い張ってますね。

深田 「意見を言う時には職を賭し、命を投げ出す位の気持ちで臨む」というのが、井上さんの意見具申の姿勢でした。この姿勢は、昭和十二年(一九三七)の海軍省軍務局長時代の三国同盟反対、また昭和十五年(一九四〇)の航空本部長時代の「新軍備計画論」提出の際も同じです。特に後者の場合は、軍令部が作成した安易な計画に対し「これは何だ。明治の頭で昭和の軍備を作っている」と喝破し、代案として自ら作ったのが「新軍備計画論」でした。その内容は、翌年から始まる太平洋戦争の推移を見事に予見したもので、戦後、アメリカの軍人が評価するほど先見性に富んだものです。

阿川 それから米内光政大臣の下で次官として働いていた昭和二十年(一九四五)、自らの大将進級に対し「この負け戦の最中に何のために大将を作る必要があるのか」と、昇進を三度にわたって拒否しています。しかも文書で拒否した軍人なんて、世界中探してもいないのではないですか。この辺、徹底した合理主義者とも言えるでしょうね。

深田 井上さんの先見性を裏づけたのは、合理的な判断ができる素養、教養だと思います。先見性と合理性は一体のものなのでしょう。

職も命も賭して信じることをやり抜く

阿川 あるギリシャの哲学者が、ローマに挑発されて暴発し滅んだカルタゴの例をひいて、こう言いました。「物事がどっちつかずの状態が、人間の精神を最も腐らせる。どちらかに割り切れた時、人間は非常な爽快さを感じ」。僕は大学でおよそ戦に関係のない勉強をしていましたが、真珠湾の大成果を聞いた時、涙が流れ、爽やかな気分になりました。泥沼の支那事変の憂欝からふっ切れたのです。その爽快さは実感できますが、これが為政者に伝染したら国は滅ぶ。英国では政治家も軍人もそのことをわきまえ、自戒し、「どっちつかず」に耐えようとしますが、日本にはその伝統がないと、京都大学の中西輝政さんが指摘しています。安易にすっきりする方へ割り切ることを、終始一貫「駄目です」と日本軍人で言い続けたのが井上さんでした。当時、それはまさに命がけで、控え目に言っても職を賭す行為です。

深田 ですから、私が井上さんを尊敬する点を一つ挙げろと言われたら、周囲の状況がどうあろうと「この流れは間違っている。変えなければ……」と一旦決めたら、職も命も賭してやる、その行動力です。井上さんは「沈黙の提督」ではありません。大いに喋り、書き、そして行動してます。

阿川 三国同盟に反対していた当時、井上さん以外にも冷静な目で見ていたいた人は、言論界やマスコミにもいたでしょう。しかし、下手なことを言えば命が危うい。当時は五・一五事件や血盟団事件など、テロが横行していた時代です。海軍次官だった山本五十六さんの首に、一〇万円の懸賞金がかけられていた位ですから。竹山道雄の「昭和の精神史」の言葉を引用すれば、「良心は疾しき沈黙を守っていた」。知性・良心のある人の多くは黙っていたのです。海軍軍人らも大声を上げない。彼らはいい意味でも悪い意味でも、ジェントルマンでした。ところが井上さんは、黙っていなかった。戦後、中山定義さん(元海軍中佐)が、愚かな選択をしたあの時代の日本の中で、僅かな誇りとして挙げることができるのが、井上さんなどの数人ではないかと語っています。

深田 ところで今、つくづく感じるのが、兵学校の教育こそ、戦後の私を支えてくれた大きな柱であったということです。合理的な判断をするためには、広い意味での教養が不可欠ですが、兵学校の教育がそれでした。これこそは、普通学を重視した井上校長のおかげなのです。当時、生徒の私たちは、下らん普通学などよりも、軍事学、特に航空術を早く学んだ方が、直接お国に尽くせると思っていました。親の心子知らずというところです。

阿川 井上さんは、この若者たちが敗戦後の日本を建て直すのだと思っていたわけですね。

深田 開戦後、アメリカ海軍ではすぐに日本語の特修を始めたのに、日本では敵性晤の英語教育を廃止しようという風潮になりました。兵学校でも、入学試験での英語廃止に対して大多数の教官が賛成する中で、井上さんは断固として「マザー・ランゲージ以外話せないような将校は、日本海軍には必要ない」とビシッとやった。そうして「こいうものは多数決で決めるべきではない」とも言っています。

阿川 井上さんは、海軍の良き伝統を頑固に守り抜いた一人でしょう。僕も深田さんも海軍出身だから、海軍贔屓と思われるかもしれませんが,日本全体から見て、真の知性と良識のある人が海軍上層部に多かった。鈴木貫太郎、岡田啓介、米内光政、高木惣吉といった人々です。外国なら救国の英雄として、街角に銅像が建っても不思議ではない位の人々ですが、残念なことに彼らの功績は、いかに本土決戦をせずに終戦に持ち込むかという、命がけではあっても、軍人としてマイナスの仕事でした。

戦後、ずっと感じ続けていた責任

深田 昭和十九年(一九四四)、井上さんは米内大臣の下で海軍次官に就任します。各資料にに目を通した井上さんは「現在の状況はまことにひどい。日本は負けるに決まっている。一日も早く戦をやめる工夫が必要です」と米内さんに意見具申し、承認を得ました。そして高木惣吉教育局長に、戦争終結ンお研究するよう命じます。この時のことを戦後、高木さんは「私は井上さんのお使い小僧に過ぎなかった」と言い、井上さんは「高木が電流の入ったモーターの如く自動した」と、お互いに功を譲りあっています。井上さんが次官として登場する背景には、岡田啓介さんの、米内・井上コンビでなければ、終戦までの難局を乗り切れないという判断があったといいます。

阿川 当時、一億玉砕を唱える陸軍の暴走を止められるのは、海軍しかありませんでした。しかし、国を救うためには陸軍を潰すとともに、海軍を潰す決心もしなくてはなりません。これは大企業の社長が、社員全員を放り出して会社を潰す決心をするより、遥かに大変なことです。それを彼らはやり遂げたわけです。

深田 それをやらなければ、国が滅びてしまう。本土決戦などやろうものなら、国民性からみても徹底抗戦し、和平交渉の母体そのものがなくなり、日本民族は滅亡しています。

阿川 今の若い人たちは「僕たち、関係ないもんなんて言いますが、関係は大ありです。本土決戦を」やっていたら、皆この世に生まれていない可能性の方が高いわけですから。

深田 それらを踏まえて、井上さんはとにかく一日でも一刻でも早く、戦を終わらせようとしました。ところが米内・井上コンビですが、米内さんは真っ先に十字架を背負う人。これに対して井上さんは、泥水をかぶるのを嫌う人です。「政治は妥協だ」と言いますが、井上さんはバランスをとって、陸軍や政治家の間をうまく泳ぐタイプではないのです。むしろ味もそっけもなく、本当のことをズバッと言う人です。

阿川 そういう意味で、大臣の器じゃない、海軍次官こそ適任だったと言う人もいます。米内さんに仕えて、はじめて光る人だと。だからtこいって、井上さんの人材としての価値が下がるものではない。

  深田 戦後、井上さんは横須賀の長井で、まったく世に出ず、ひっそり暮らしていました。

阿川 家庭的には恵まれませんでした。井上さんが第一課長になった時に、奥様が肺病で亡くなられ、一人娘のしずこさんを再婚もせず男手一つで育てて、海軍軍医の方に嫁がせました。ところがご主人は比島沖海戦で戦死し、病身のしずこさんも戦後亡くなって、幼い孫の研一さんがのこっただけでした。

深田 生まれ故郷の仙台にも、井上さんにまつわるものは何もありません。米内さんは盛岡に「盛岡市先人記念館」、山本さんは長岡に「山本元帥景仰会」、「山本五十六記念館」がありますが、井上さんは何もありません。井上さんは郷里とのつながりが薄く、戦後暮し、生涯を終えた横須賀も同様です。土地や家族との結びつきが希薄でした。

阿川 戦後、長井のお住まいを訪ねた時、同行した新聞記者の取材の謝礼を、井上さんは固辞されました。裕福に暮らしているかといえばそうではなく、赤貧に近い生活なのにです。「どうしても頂くわけにはいかないん」と、受け取らなかった。徹底したすごい人だなと思いました。あれほど語学力があり、終戦時、五六歳という年齢であれば、多くの会社で重く用いられると思いますが、それを一切断っています。たぶん、自分が戦争を防ぐことができなかった責任を感じておられたのでしょう。

深田 それが井上さんの責任感です。海軍次官という政治の中枢で力を発揮できる立場ににいながら、戦争終結を早めることができなかった。その責任を、ずっと感じておられたのです。米内さんとの意見のくい違いもそこにありました。どこかで米軍に打撃を与え、少しでも有利な立場になってから講話に持ち込もうと考える米内さんに対して、「一刻も早く戦いをやめないと、何千何万の人命が失われる」と主張したのが井上さんでした。井上さんは終生、自分の力の足りなさを口にしていました。それと対照的なのが開戦時の海軍大臣嶋田繁太郎で、戦後、海上自衛隊の遠洋航海の歓送会で、海軍の先輩として送辞を述べたことがあります。そのことを私が申し上げると、井上さんは「恥を知れ」と激怒しました。一切表に出ず、赤貧の生活を送ることが、井上さんなりの責任の取り方だったのでしょう。

阿川 近所の子供たちに教えた英語塾も、ほとんど生活費の足しにはなっていません。むしろ最初の頃は、持ち出しの方が多かったのではないでしょうか。でも、習った当時の子供たちは、皆感謝しているようですね。そして、井上さんを無理やり説得して、金銭的に援助したのが、深田さんたちです。

深田 会社に入っていないと保険が効きませんから、医者にかかると大変な金額になります。そこで私の会社の顧問になって頂いて、健康保険証をお渡ししましたら、大変喜んでくれました。これは今でも良かったなと思っています。井上さんが会社の顧問だということは、生前はもちろん、亡くなられてからも、私たちは誰にも話しませんでした。

阿川 戦後何十年にもわたって公の場に出ず、責任を取った海軍提督は、井上さん以外にはいないでしょう。しかもそれを生涯貫き通したわけです。あまり自慢できないことの多い二〇世紀前半の日本の歴史の中で、井上さんは輝く点のような、大切な存在だと思います。現在のような、どこか戦前にも似た「どっちつかずの時代」にこそ、日本人が再認識すべき人物tこいえるのではないでしょうか。

参考1:井上成美のな前は、父親からつけられた。それは、論語からのものであります。

巻第六 顔淵第十二 十六 

子の曰く、君子は人の美を成す。人の悪を成さず。小人は是れに反す。

先生がいわれた、「君子は他人の美点を[あらわしすすめて]成しとげさせ、他人の悪い点は成り立たぬようにするが、小人はその反対だ。」(岩波文庫)P.165

参考2:歴史街道のバックナンバーをご覧ください。

平成二十九年三月五日:追加


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小沢治三郎


小沢治三郎(1886~1966年):児島 襄『指揮官(上)』(文春文庫)P.144~155 

 古来「人はみかけによらぬ」とよくいわれるが、最後の連合艦隊司令長官・小沢治三郎中将ほど、この俗諺がぴったりする指揮官もすくなかったにちがいない。

 クラスメートがつけたアダなは「鬼瓦」、青年将校時代にかよった横須賀の料理屋の女中たちは「ダルマさん」と呼んでいた。

 小沢中将は宮崎県高鍋町の出身だが、昔風にいえば六尺豊かな大男で、県立宮崎中学時代は、柔道が強く、あるいは隣の中学校の生徒とケンカしたり、校長夫人がのっている人力車をひっくり返したり、不良青年を投げとばすなど、しきりに腕白ぶりを発揮して、ついに退学処分をうけた。

 上京して、私立成城中学へ入学したが、ある日、神楽坂を散歩していると、小柄だが目の鋭い青年にケンカをふっかけられた。態度がきわめて無礼なので、小沢生徒はこの青年を投げとばし、下駄でその背をふみにじって説諭した。青年はわび、柔道修業中であると述べて、な前をつげた。「三船久蔵」――のち日本一の柔道家といわれた三船十段である。

 この腕っぷしといい「鬼瓦」をおもわせる面構えといい、また百七十九人中四十五番という海軍兵学校(第三十七期:井上成美と同期)卒業成績といい、小沢中将の前途を光輝あるものと予見する者は、ほとんどいなかった。また、小沢中将は、いわゆる"水雷屋"と呼ばれる魚雷戦闘と艦隊勤務に関心をもち、将来を定めたので、まずは潮風に身をさらす駆逐艦長から、せいぜい戦隊司令官が出世の行きどまりとみられた。 

 大尉のとき、故郷の名家の娘・森石蕗(つわ)と結婚したが、そのさいも、ほかにも良縁があったので、テーブルの上にハシを立て、倒れた方向できめた、という(『提督小沢治三郎伝』)。

 ますます、その豪快だが大ざっぱな風格は、厳密な計画を好む知将よりも荒波にもまれて号令する、海の男にふさわしい印象を、周囲に与えた。

 ところが、小沢中将は、およそ外見とは対照的な人柄であった。

 第一に、小沢中将はその風貌、あるいは酒を好み、しばしば海軍御用の料理屋で"沈没"する、女好きなどの徴候から推察される"豪放性格"とは別に、慎重な配慮と高い教養の持ち主であった。

 小沢中将が残しているエピソードに、その歌のうまさがある。料亭で遊ぶとき、中将はいつもたくみにうたっては女中たちを喜ばせたが、太平洋戦争の開幕を前に、海南島三亜港でマレー進攻の山下奉文中将らを第二十五軍幹部と会食したときである。小沢中将は南遣艦隊司令長官として、第二十五軍の上陸援護を担当するわけだが、コタバル海岸上陸部隊司令官・佗美(たくみ)浩少将に「海のことはひきうけます」といったあと、立ちあがってうたいはじめた。

  赤いランタンほのかにゆれる 

  港(みなと)上海 花売り娘…… 

 小節もきいた美声であり、おまけに歌にあわせておどりだした。あのいかめしい顔と体のどこをどうすれば、そんな美声が出現するのか、と、山下中将以下陸軍将兵は唖然とした、と伝えられている。

   むろん、好きだからうまいわけだが、小沢中将の歌上手には裏話ある。中将は、参謀に頼んで上陸するたびに最新の流行歌レコードを買わせ、ひそかに猛練習をおこたらなかったのである。

   幅広い読書家でもあった。ロシア文学を好み、ドストエフスキーの作品は、ほとんどぜんぶ読破した。「中央公論」「改造」などの雑誌も、講読を欠かさなかった。

   小沢中将は、「戦(いくさ)は人格なり」といい、部下統率の極意は「無欲だ」と強調していた。「戦は人格なり>」とは、中将が海軍大学校時代、日本海軍が生んだ有数の戦略家。佐藤鉄太郎大佐(のちに中将:海軍兵学校第十四期)が主唱した言葉であったが、小沢中将は「ほかの話はなにひとつ覚えていないが、それだけは忘れぬ」といって、自らの信条にもしていた。

   おそらく、小沢中将がひそかに心がけた教養の積み重ねと経験によって、佐藤教官の言葉の神髄を自得してうなずいたものであろうが、小沢中将自身も、海軍では群をぬく戦術家であった。 

   小沢中将は、海軍水雷学校と海軍大学校の教官をつとめたが、そのとき中将が学生に強調したのは、戦史の研究と独創性であった。中将はとくに第一次大戦の英独艦隊が戦ったジェㇳランド沖海戦を研究して、それまで考えられなかった主力艦隊による夜戦強襲戦術を、案出した。

   また「戦法はその国民性に合致し、独創的で、敵の意表をつくものでなければならない」と指摘して、日本の古戦史の研究を学生にすすめるとともに、それまでの戦術の定説にとらわれることを厳重に戒めた。ある学生が、当時、海軍戦術の教典とみなされていた「海戦要務令」について質問すると、じろりと相手をにらんだ小沢教官は、ぶすりと答えた。 

  「こんご、本校在学中にそんなものはいっさい読むな」 

 つまりは、借り物のチエに頼るな、という戒めであるが、同時に、この叱咤は、小沢中将の合理性、具体性を尊ぶ資質に由来するものでもあった。中将は、戦いは具体的な行動である以上、戦術もまた具体的でなければならない、と信じていた。その点「海戦要務令」は、抽象性に富んでいる。 

 たとえば「戦闘の要訣は先制と集中にあり」と書いあるが、では"先制"と"集中"とはどうするのか。敵に先んじて攻撃体形をとるための展開の要領、あるいは戦力を集中して発揮するための砲戦、魚雷戦の開始の時刻、その距離、各艦艇の運動、さらに夜戦、薄暮戦のやり方など、こと実際の戦闘となれば、およそ細かい行動の内容が問題になる。ただ「先制と集中にあり」のかけ声だけでは、どうしようもない。

「しかも、戦闘はけっして先例どおりにおこなわれるものではない。千の変化と、万の応用が必要になる。そのときに、ただ語感でわかったような心境で対処するのは、むしろ、失敗を招くだけである」 

 自分の頭で考え、そして変化に対応する準備をととのえろ、という意味であるが、この小沢中将の考えはそのごも変らず、また中将の経歴はその思想の熟成を促進した、とみられる。

 小沢中将は、海軍水雷学校高等科を卒業していちおうの士官教育課程を終えると、水雷艇「鶴」、同「白鷹」艇長、駆逐艦「竹」艦長、第三号駆逐艦長を経て第一艦隊連合艦隊参謀、第一水雷戦隊参謀、海軍水雷学校教官をつとめたのち、第一駆逐隊司令、第四駆逐隊司令、第十一駆逐隊司令、戦艦「榛名」艦長、第八戦隊司令官、第一航空隊司令、第三戦隊司令官を歴任し、南遣艦隊司令官として、太平洋戦争を迎えた。 

 この間、海軍大学校教官や海軍水雷学校長もつとめた、いずれも短期間にとどまった。すなわち、小沢中将は、幕僚勤務や行政事務にたずさわるよりも指揮官としての訓練を積んでいる。 

 海軍では、海上勤務とくに艦長づとめをつづける経歴を「車引き」と称した。そして、陸軍と同様、中央勤務を出世コースとみなす場合、「車引き」はあまり歓迎されぬきらいがあったが、「無欲」を旨とし、「独創」と「現実性」を支柱にする戦術考案を心がける小沢中将にとっては、「車引き」勤務は、かえってかっこうの指揮官としての鍛錬の場でもあった。 

 経歴が語る順調な昇進も、指揮官としての小沢中将の成長をものがたっているが、中将は"水雷屋"でありながら、いち早く飛行機の価値を認め、第一航空戦隊司令官時代には、きたるべき海上決戦の主力は航空兵力となることを指摘し、連合艦隊の全航空部隊を単一指揮官の下に統括する航空艦隊編制を、海軍大臣あてに具申した。

 そのころ、航空艦隊の必要は中央でも察知していた。だから、小沢中将の意見は軍令部の見解とも合致していて、太平洋戦争前に、南雲忠一中将(海軍兵学校第三十六期)を指揮官とする第一航空艦隊が誕生した。その意味では、小沢中将の意見具申は、とくに目新しいものとの評価はうけなかったが、中将の着実な指揮官ぶりと積極的で柔軟な戦術思想は、聯合艦隊司令長官・山本五十六大将の信頼を得て、山本大将はハワイ空襲作戦の準備中、南雲中将よりもむしろ、小沢中将を第一航空艦隊司令長官にあてたい意向を、もらしていた。

 太平洋戦争における、小沢中将の活躍は、どちらかといえば、地味である。ほとんど南雲中将の後任をたどる職歴を歩んだ。

 第二十五軍のマレー進攻にさいして、海軍内部に護衛の危険性、とくにコタバル上陸援護の危険が強調されて、海軍の援護任務の範囲が論議の焦点となったさい、小沢南遣司令長官が「全滅を賭しても護衛にあたる」と断言した話は、よく知られている。

 おかげで、第二十五軍は「小沢長官は戦の神さまだ」と、感涙を流しながら、小沢中将を拝礼した。

 そのごも、ハデな登場ぶりは示さなかったが、小沢中将の声価は高まっていった。マレー沖海戦で、英極東艦隊主力の戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」、巡洋戦艦「レパルス」を撃沈したあと、中将は、敵将フィリップス提督が艦と運命を共にした報告を聞き、「おめでとうございます」と告げる軍医長に、静かに答えた。 

 「いや、俺もいつかはフィリップス長官と同じ運命をたどるだろう」

 シンガポールが陥落したあと、第二十五軍司令官・山下中将は、とくに小沢中将の上陸援護に感謝の意を表明すべく、英極東司令長官・バーシバル中将はじめ捕虜多数を整列させて、小沢中将の"閲兵式"をおこなった。小沢中将は、バーシバル中将の前に立つと、いった。 

「閣下はじゅぶんに国家にたいするい義務をはたされました。こんごはゆっくり休養されるよう望みます」 

 休養といっても、捕虜生活は一般的意味の休養とはほどとおいはずである。だが、通訳の言葉に耳を傾ける前に、バーシバル中将の目にはかすかに涙がにじんだ。小沢中将がいうのは、皮肉な挨拶ではなく、心からのいたわりであることが、その表情と声音から感得できたからである。バーシバル中将は、ふるえる小声で、小沢中将に答えた。

「サンキュー」

 小沢中将が指揮官としての本領を発揮したのは、昭和十七年十一月に第三艦隊司令長官に就任して以後に、とくに著しいといえる。第三艦隊は、それまでに撃破された空母勢力を、大型空母「瑞鶴」「翔鶴」を中心に再編した母艦部隊であるが、当時、旗艦「瑞鶴」の航海士だった野村実中尉は、小沢中将の指揮ぶりのいくつかを記録している。

 ある日、小沢中将が艦橋で野村航海士に質問した。

「航海士、ガラスはなにからできているか」

「ハイ、珪酸に石英が主成分です……すみません。もっと確かめます」 

 あわてた野村航海士は、辞書を調べて報告したが、小沢中将がうなずいてポツリともらしたのは、要するにガラスを完全な平面に作ることができない。だから見張員が艦橋のガラス越しに双眼鏡で監視するのはよくない、という指示であった。 

「この小事は、小沢さんの細心で慎重な面を示しているのではなかろうか、夜戦の権威であった小沢さんは、見張員のこのようなやり方を、許せなかった。しかし艦長や航海長に注意すると、やや面目問題と感じるかもしれない。幕僚を通じていうには、ことが小さい、航海士の教育とともに、自分の目的を達成しようとして、私にあのようなことをいったにちがいない」 

 というのが、欽慕の念をたたえた野村航海士の回想である。

   また、小沢中将は「僕は昔から……いろんな敵の出様を頭の中に想定して、之に対応する策を考えて置く癖がある」と自分でも記述しているが、第三艦隊司令長官時代、中将は、トラック諸島のひとつ、楓(かえで)島に艦隊乗組員を動員して飛行場をつくらせた。

  「やがて決戦ともなれば、基地航空兵力を有効に使用するために、必ず多くの飛行場が必要になる。一歩先のことを一歩前にやっておく。これが戦いの要諦である」 

   小沢中将は、そう指摘して、連合艦隊司令部が人手不足をとなえると、あえて指揮下の兵員の手で飛行場を用意したのである。

   その小沢中将が期待した決戦――「マリアナ沖海戦」は、しかし、惨めな結果に終わった。 

   小沢中将は、昭和十九年三月、第三艦隊と第二艦隊を合わせた第一機動艦隊司令長官となった。第一艦隊の兵力は、空母九隻、戦艦三隻、巡洋戦艦三隻、重巡十隻、駆逐艦二十九隻、計五十六隻のほかに各種補助艦船を加え、実質的には、連合艦隊、いや、当時の日本海軍そのものといえた。 

   この第一機動艦隊を率いて、小沢中将は、サイパン島上陸を支援する米第五十八機動部隊に決戦をいどんだ。戦術は、小沢中将らが考えた「アウト・レインジ戦法」であった。 

   主力艦隊の前方百マイルに、大林末雄少将の第三航空戦隊(空母「千歳」「千代田」「瑞鶴」)と、栗田健男中将の第二艦隊の大部分を配置しておく。そして、念入りな索敵で、まず米艦隊を先に発見し、次いで母艦機を発進させる。そのさい、日本機のほうが米軍機よりも航続距離が長いから、敵が攻撃してこれない遠距離から発進する。すなわち「アウト・レインジ」である。

   そして、敵空母の甲板を爆撃して発着不能にさせておいて、前衛部隊は突進し、砲弾と魚雷で敵を撃滅する――という戦法である。 

  「これは虫がよすぎると見えるかもしれないが、戦法としては可能なことであり、寧ろ喰うか食われるかの一発勝負の母艦航空戦では、これはすばらしい着想として称揚されてよい」 

 と、真珠湾空襲飛行隊指揮官・淵田美津男大佐は論評するが、小澤中将は、接敵法についても「敵のレーダーに発見されぬように、攻撃隊は敵空母群の五十マイル付近までは低空飛行をおこない、急上昇して降下せよ」と細心の指示を与え、「一部兵力にギセイを強いることも辞せず」と訓示して、ボルネオ東方のタワイタウイ基地からサイパンにむかって、出撃した。「皇国ノ興廃此ノ一戦ニアリ」――と、連合艦隊豊田副武大将は訓電したが、まさに日本海軍の総力である第一機動艦隊が敗れれば、そのごの戦局の退勢は明らかである。「此ノ一戦」の成否は、小沢中将の双肩にかかっていた、といえる。 

 六月十八日午後三時ごろ、小沢中将が実施した入念な索敵により、小沢部隊の前方向三百八十マイルに敵空母部隊三群を発見した。第三航空隊の大林少将は、「直チニ攻撃隊発進」と小沢中将に報告するとともに、全機発艦の準備を開始した。

 だが、小沢中将は「発進中止」を指令した。理由は、そのとき発艦すれば、敵の上空到着は夕刻になり、帰艦は夜となる。だが、第一機動艦隊所属のパイロットの訓練はなお不十分で、夜間着艦はおぼつかないとみこまれたからである。 

 小沢中将の部下おもいは、名高い。かつて、昭和十八年十一月、ブーゲンビル島方面の「ろ」号作戦が実施されたとき、小沢中将は作戦終了の訓示をしようとしたが、部下多数の戦死を思い、壇上で号泣するばかりであった。 

 この日も、索敵機一機が帰路を見失って夜になると、敵に発見される危険もかまわず、サーチライトの点燈をを命じて、一機の帰りをまちつづけた。 

 おそらく、この部下おもいと、練りあげた「アウト・レインジ」戦法にゆだねる戦術家としての自信が、小沢中将に発進中止を命令させたものであるが、結果からみれば、この中将の"温情"と"自負"が致命傷となった。 

 翌十九日、小沢中将は、快晴の天空に第一次、第二次攻撃隊百五十七機を相次いで発進させた。ところが、パイロットの未熟さは、敵を求めて飛ぶ洋上三百五十~四百マイルの飛行も負担であったうえに、米第五十八機動部隊は、日本側の出動艦艇五十一隻にたいして百五十八隻、空母だけで九隻対二十九隻の優勢を利用して、艦隊とサイパン島上空、さらに前方の駆逐艦群上空にも戦闘機群を配置しおて、警戒していた。

 戦いは、二十日夕刻まで続いたが、第一機動艦隊の航空機は米軍側が「マリアナの七面鳥撃ち」と呼称したごとく、文字通り一方的に撃滅され、空襲と潜水艦攻撃により空母三隻(「大鵬」「翔鶴」「飛鷹」)を失って敗退した。

 しかし、打撃をうけながらも戦いつづけた小沢中将の闘志は、米国側にも賞讃された。そのご、小沢中将は、昭和十九年十月のレイテ海戦で、残存空母部隊をひきいて囮(おとり)となり、ハルゼー機動部隊をみごとにひきつけて栗田艦隊の作戦を有利にして、さらに米国側の賛辞を高めた。 

 小沢中将は、そのご、軍令部次長を経て、昭和二十年四月、「海軍総司令官兼連合艦隊司令長官、海上護衛司令長官」に就任した。※軍令部次長の後任は大西瀧次郎中将。 

 小沢中将を連合艦隊司令長官に求めたのは、鈴木貫太郎内閣の海軍大臣になった米内光政海軍大将であった。米内大将は終戦を志し、そのさい海軍将兵を統督できる人物は"無私の提督"小沢中将以外にない、と判断したのである。米内大将は、小沢中将を大将に昇進させて連合艦隊司令長官にしようとしたが、小沢中将は固辞した。そこで、米内大将は中将の先任者を移動させ、小沢中将が中将のまま司令長官になっても最上級者であるようにして、任命した。小沢中将は終戦を迎えると、厳重に将兵の自決を禁止した。厚木航空隊が抗議を叫び、その説得にむかう寺岡謹平中将(海軍兵学校第四十期:大西瀧次郎と同期)にたいしても、中将は寺岡中将の手をにぎって、いった。 

「キミ、死んじゃいけないよ、きのうから宇垣中将は沖縄にとびこんだ。大西中将はハラをきった。みんな死んでいく。これでは誰が戦争のあと始末をするんだ。キミ、死んじゃいけないよ」 

 小沢中将は、戦後、清貧の生活を送り、 

 「勝った指揮官は名将で、負けた指揮官は愚將だというのは、ジャーナリズムの評論にすぎない。指揮官の成果は、むしろ、彼が持つ可能性にある。敗將といえども、彼に可能性が認められる限り名將である。オザワ提督の場合、その記録は敗北の連続だが、その敗北の中に恐るべき可能性をうかがわせている。おそらく部下は、彼の下で働くのを喜んでいたにちがいない」


 以下、吉田俊雄著『四人の連合艦隊司令長官』P.240~242より。

 太平洋戦争中、四代目に当る連合艦隊司令長官小沢治三郎中将は、そのとき、海軍実力部隊の編成が変っていて、海軍総司令長官という肩書であった。本土決戦に対応するためには、連合艦隊司令長官が、本土周辺の海域を防備してきた鎮守府、要港部の内戦部隊も指揮しなければなならくなったからだという。

 高木惣吉少将(海軍兵学校第四十三期)のいう「海軍の第一人者」である小沢中将は、本土決戦に追いこまれるドタン場になって、はじめて処を得た。いや、ここにいたってはじめてその人を得た。淵田美津雄大佐のいう「時代の趨勢を洞察して、その変革に即応するための達識と勇断はもとより、その着眼に柔軟性を備えた人」が、ようやく、連合艦隊司令長官のポストについたのである。

 この人事は、米内海相の抜擢であった。発令のときに、実は小沢に、

「大将になれよ」

 といっている。その二十日ばかり前、次官の井上成美をムリヤリ大将にしていたので、同じクラスの小沢を大将にしてもおかしくなかった。が、小沢は、「その資格なし」といいはって、とうとう大将にならなかった。

 これが実現していたら、先任であった南西、南東方面部隊の大川内、草鹿両中将(ともに海軍兵学校第三十七期)を指揮できることになる。適材適所のための抜擢人事が、海軍の終焉間近になって、アメリカ式合理性をもって実施されたという記録ができたはずだったが、残念ながらそれは不成功に終った。

 このごろになっても、例の軍令承行令が生きていた。そこで、小沢より先任者を指揮系統から一掃する必要が起った。支那方面艦隊長官近藤大将(海軍兵学校三十五期)を東京に移し、後任者を持っていき、またその後任に別のところから人をつれてきて穴埋めをするというふうで、司令長官三人が異動。前記の二人の方面艦隊長官は、交通が途絶しているので動かせないから、連合艦隊から外して大本営直轄部隊にした。

 こんな騒動をしなければならないから、山本連合艦隊司令長官戦死のあとは、古賀 峯一(海軍兵学校第三十四期)か豊田副武(海軍兵学校第三十三期)にする必要があり、適材適所よりも、他を異動させなくてもすむクラスの古さが優先したわけである。

 日吉の防空壕に着任した小沢は、さすがに豊田とは違っていた。

 このころになると、本土はもう、ほとんど完全に孤立していた。

 日本の気象暗号を解読することに成功し、爆撃目標上空の天候を知ることができるようになって、マリアナから来るB29は、うなぎ登りに数がふえた。七月の二回の空襲では、延べ数が三〇〇〇機にもなり、主要都市、生産施設、航空基地は、悪天候に邪魔されず、激しい攻撃にさらされていた。

 生産力が落ちるだけでなく、生産されたものが片端から破壊された。その上、B29による機雷敷設が、下関海峡から内海航路のキイポイントにまで及んだ。米潜水艦は、大挙して日本海に侵入、輸送船はもとより客船までも撃沈した。海上交通が、南方からはもちろん、大陸からのものも、内地相互間のものも杜絶した。硫黄島から来はじめたP.51戦闘機や機動部隊小型機の銃撃で、漁船も海に出られなくなった。平時にはとても想像できないような地獄図が、現実にあらわれていた。

 国力の現状は、六月八日の御前会議で秋月総合計画局長官が朗読したものから参考までにピックアップすると、こうであった。

『汽船輸送は、二十年末には使えるものがなくなる。鉄道は、十九年度の半分。一貫輸送ができなくなり、近距離だけになる。陸上小運送力と港湾荷役力は、輸送全般の重大な隘路となり、港湾の機能は、敵襲のためにとまるおそれが大きい。通信は、二十年四月以降にほとんど不能になる。

 物的国力では、鉄鋼生産は五月末現在、前年同期の四分の一に落ち、二十年中期以降は鋼船の新造不能。中枢工業地帯では、石炭の輸送杜絶で、相当部分が稼働不能。大陸の工業塩の移入ができないため、中期以降は軽金属、人造石油の生産が困難になり、火薬、爆薬も確保できなくなる。液体燃料は、南方からの輸入できず、航空燃料が逼迫して、航空機を中心とする近代兵器は、遠からず量産できなくなろう。

 国民生活のうち食糧は、ギリギリに規制された穀類と、生理的必要最小限度の塩分をようやくとることができる程度。物価騰貴が著しく、インフレ急進の結果、戦時経済の組織的運営が不可能になるおそれがある。

 民心の動向は、軍部と政府にたいする批判がしだいにさかんとなり、指導層にたいする信頼感が動揺している傾向がある。国民道義は頽廃の兆しがある……』

 それを聞いた鈴木貫太郎首相は、これ以上戦争を続けてはならないと、深く心に決したという。だが小沢には、この他にも難題があった。

 搭乗員の面から、三、五、十の三つの航空隊が戦いつづけることができるのはあと約三ヵ月、作戦回数にして約三回強。そのあとは、内戦部隊である鎮守府の部隊、海上護衛部隊の航空部隊を集めて約二ヵ月、作戦回数にして約二回。海軍航空は、あと五ヵ月で一人もいなくなってしまう計算であった。

 もっとも、このような状況におどろいて、あわてて操縦員教育を再開、特攻に出ていった残りの練習機と、わずかな燃料を使い、飛行時間二十時間から三十時間を目標に訓練していた。これが七月末と十月末に卒業するから、あと二回の作戦ができるはずだ。

 それ以後は、海軍は一機の飛行機を飛ばすことのできない、最後の関頭に立つことになる。

※海軍兵学校七十四期卒(海軍兵学校2号生徒の時の1号生徒)霞ヶ浦航空隊の飛行学生はこんな状況下にあったのだ。

 一方、艦艇は、燃料がなくて動けず、軍港内外のあちこちに繋いでいた。それが。三月十九日から七月二十八日にいたる空襲で、大被害を受け、顛覆あるいは着底した。軍艦としての機能を失ったもののうちに、戦艦長門、伊勢、日向、榛名、空母天城、重巡利根、青葉、重巡大淀、岩手があった。

※昭和二十年七月二十八日(土)、重巡洋艦利根着底・軽巡洋艦大淀横転擱座した。海軍兵学校2号生徒の時。

 乗員を半分以下に減らし、人里離れた岸辺の浅いところに艦を繋ぎとめ、陸上から電気を引き、艦にはカモフラ―ジュをするといった、戦前には想像もできなかった連合艦隊の哀れな姿をさらしていた。残った乗員たちの心のハリは、不沈防空砲台となって最後まで戦うことであった。

 真新しい軍艦旗を掲げて、たとえば呉の榛名など、主砲に三式弾を填めて敵機の大編隊を狙い、先頭の大型機を一発で撃墜、そのため、後続機があわてて爆弾を落したためか、意外に艦の被害が少なかったという。しかし、しょせんはシッティング・ダック(動かぬ鴨)。回避することができないから、下手でも当る。直撃弾一三発をうけ、浸水着底するのは、いたしかたなかった。

2020.10.13記す。

    


29
大西瀧治郎


大西瀧治郎(1891~1945年:昭和20年8月16日):児島 襄『指揮官(上)』(文春文庫)P.169~181 

「急告 本日五日、各新聞に掲載の小生の記事は……事実相違のかど多々有之、小生の一身上に何等御配慮を煩す点無之……此段御安心下され度候……

                            早々敬具

   大正十三年九月十日

                         海軍省教育局第三課   大西瀧治郎」

 こんな手紙、いやガリ版刷りの同文の回状をもらったとき、大西瀧治郎海軍大尉の友人、知人たちは、いっせいに苦笑した。

「大西のヤツ、こんどのイモ掘りは、だいぶこたえたらしいな」

「ま、いい薬だろうよ」

"イモ掘り"は海軍隠語である。俗に、タコはイモが好物で、よく海岸の畑にはいあがってイモを食い荒らすという。そこで、海軍の将兵が陸上であばれることを、"イモ掘り"と称していた。

 大西大尉の"イモ掘り"とは、回状の前日、九月四日、横須賀の料亭で一杯やったとき、呼んだ芸者のサービスが悪いというので、ポカリとなぐったことである。当時の海軍青年将校にはありがちなふるまいで、もの慣れた芸者なら笑ってすますことも多かったが、当人はたちまち憲兵隊に通報し、ついでに「旦那」なる人物が騒ぎ、さっそく五日の新聞に報道されてしまった。

 しかも、五日は、大西大尉にとって海軍大学校入試口頭試問の第二日めである。新聞を見た教官は眉をしかめ、大西大尉は受験を停止されてしまった。

 かくて、噂は飛び、友人は心配し、大西大尉の挨拶状となった次第である。大西大尉は、小肥りの身体、眼の大きな丸顔とさっぱりした気性で人気を集めていたので、論評の多くは前述のような好意に満ちたものであった。が、同時に、これで大尉はエリートコースをふみはずした、とみる者が少なくなかった。

 海軍大学を卒業しないで栄達した例は、加藤寛治、安保清種、野村吉三郎大将そのほかがある。しかし、海軍大学校卒が出世の早道であることもまちがいなく、入校を棒にふった大西大尉の不利は明白であったからである。

 だが、大西大尉は、その年の十二月に予定どおり少佐に進級したのをはじめ、その昇進によどみはなかった。

「その胆甕(かめ)のごとく、思想は周密かつ深刻であり、しかも全然無私であった。国家のために何が最善であるかということが、その判断および行動の基準をなしていたように思われる」

   とは、源田実中佐の回想であるが、この源田中佐の大西中将評は"特攻の父"として、終戦直後に大西中将が自決したあと中将に捧げられた、賛辞と墓辞のすべてに共通している。そして、源田中佐がたたえた「大胆、緻密、無私」という指揮官としてのすぐれた資質は、すでに青年将校時代の大西中将が身にそなえ、先輩、同僚、後輩の多くの注目と期待を集めていた。

   おそらく、定評ある酒好きと"イモ掘り"(注、大西中将は英仏両国に留学中も、英国人をなぐりとばす武勇伝を発揮した)にも拘わらず、大西大尉が累進をかさねたのも、この辺の消息によるものとみられる。

   大西中将には"特攻の父"のほかに、"海軍航空の親"という敬称も献呈されているが、中将自身も「航空は小生の生命に候」と唱えていたように、その経歴はまさに海軍航空隊の歩みであった。

   大正四年十二月、中尉になると同時に海軍航空技術研究委員に任命された。

   飛行機が「飛行器」と呼ばれていた時代である。ついで横須賀海軍航空隊が設置されると、その隊付として、日本海軍最初の水上機母艦「若宮」のパイロット七人の一人に選ばれた。

   三年間の英仏留学のおみやげは飛行船であり、大西大尉は、初代海軍飛行船長として大正九年秋に試験飛行を行ったが、この飛行テストに、大尉の周到ぶりが発揮されていた。

   その日は、早朝は風も弱く、結構な「飛行船日和」と思われていたが、テスト実施になると風は強まり、とくに風向きの変化が激しかった。しかし、大西飛行船長の操縦にはあぶなげがなく、飛行船はゆうゆうと飛び、また予定着陸点にピタリ着陸した。

 地上からみていると、いかにも大胆な操縦ぶりにみえ、しばしば「お、大西大尉、あぶないぞ」と呼び声があがった。だが、着陸後、大尉の説明を聞くと、参観者は別のおどろきの声をあげた。

「だいたい、地表と上空の大気状況、船体浮力、前後空気房内の空気量、つりあい、ガス量、地上作業員の能力、着陸索の長さと重量、船体の慣性、エンジン出力などから、着陸操作は三段構えの方策を考えておきました」

 なるほど、これだけの注意をしておけば、まず大丈夫というものである。一同は、一見"西郷風"の容姿と挙動から、およそ大ざっぱな性格とみていた大西大尉の細心さに、感銘をうけた。

 いらい、大西中将には「西郷隆盛を科学したような男」という評言が与えられたが、大西中将の"科学性"は独特の風格をおびていた。一方で非合理をトコトンまで排除すると同時に、他方では、理は不明でも有用であれば採用する、といった融通味も備えていたのである。

 たとえば、大西中将が霞ヶ浦航空隊教官、佐世保航空隊飛行隊長、航空本部教育部員、空母「加賀」副長、横須賀航空隊副長兼教頭を経て、大佐に昇進して、昭和十一年三月から海軍航空本部教育部長をつとめていた頃のことである。

 海水を石油に変える"発明"を売り込みにきた男がいた。実験させると、ビンにつめた海水がたしかに石油になる。石油問題が有力な太平洋戦争開戦原因のひとつになるほど、海軍は燃料不足に悩んでいる。たちまち支持者がふえた。

 大西大佐は、くさいと感じた。たぶんビンをすり替えているにちがいない、と思った。事実そのとおりだったが、手ぎわよいため、わからない。徹夜で凝視し、あるいは自宅に宿泊させて実験をやらせてみたが、シッポをつかめない。ついに、海水のつまったビンを写真にうつし、ビンのガラスの気泡と、石油に変ったときのビンの気泡をみくらべることで、すり替えを立証した。

 詐欺が発覚したとき、犯人は「あそこまでやられては……」と、大西大佐の徹底した究明ぶりを嘆いたが、そうかと思うと、大佐はパイロット要員の査定に骨相学を採用した。

 当時、まだ海軍航空技術は未熟で、飛行機事故が多かった。当然、飛行機そのものの改良にも努力ははらわれたが、パイロットの適不適も事故原因のひとつであるだけに、その選定法が問題となった。

 心理学テストなども採用されたが、大西大佐は骨相学の名人水野義人のなを聞くと、さっそく霞ヶ浦航空隊でテストを依頼した。あらかじめ航空隊で認定した飛行適正と水野氏の骨相判断とを比較するわけである。水野判断は符合率八十七パーセントを示した。さらに調査を重ねたが、つねに高率の成果をおさめるので、大西大佐は水野氏を嘱託に採用することを上申した。

 むろん、「科学の粋を集める航空界に骨相判断とはなにごとだ」という反論が激しかったが、本部長山本五十六中将の採決で、水野氏は航空本部嘱託となった。いらい終戦まで、水野嘱託は約二十万人の海軍パイロットの採用検査を行った。


参考:私が「骨相」の言葉を知ったのは、昭和58年10月29日(土)

 クラレ岡山工場で海軍兵学校(第七十六期)同期生のテニス。河内・久保・杉本・深澤・波多野・黒崎・岩見のお嬢さん。

 杉本氏、初対面ではじめて話したが私にたいして、「眼がすばらしい」。骨相を研究してるが骨相がいいとのこと。


 いかえれば、日本海軍のパイロットは骨相で採用されていたわけだが、ところで、大西中将が指揮官としての本領を示すのは、昭和十四年少将に進んで、第二連合航空司令官に就任してからである。

 支那事変が勃発すると、大西大佐は自身で九六式陸上攻撃機にのって南京爆撃を視察したりしていたが、二連空(第二連合航空隊)司令官となると、さらにその陣頭指揮ぶりは徹底した。

 二連空は、第一、三連合航空隊とともに支那方面艦隊司令長官の指揮下にあったが、三つの連合航空隊指揮官は一連空が山口多聞少将、三連空が寺岡謹平少将と、いずれも大西少将の同期生(海軍兵学校第四十期)であった。

 大西少将は、しばしば出撃に参加した。しかも、そういうときは、必ず編隊の後隅、つまり三角点に位置する飛行機にのった。

 この三角点は、一般に最下級のパイロットの位置とされ、周辺に味方機がいないだけに、先頭の指揮官機以上に危険とみなされていた。おまけに技倆が低い。

「まず(敵機)に食い下がられたら最後、防ぐ手はないだろうな。いちばんかわいそうだよ」

 と、大西少将も述懐していたが、少将はその"三角点機"にのった。「指揮官というものは、部下に号令するときは部下と共に在り、共に死地に飛び込むのが務めだ」からである。

 しかし、あまりに危険なので、成都爆撃のさいは、第十三航空隊司令官奥田喜久司大佐は「司令官が死ぬのはまだ早いです。代らせて下さい」と切願して、自分が攻撃隊指揮官となった。そうして大佐は戦死した。大西少将は、奥田大佐機の最期を聞くと、泰然として訓示した。

「出撃に臨んで、はじめて死を決するのは、すでに遅い。武人の死は平素から十分に覚悟されているはずである」

 そのとおりではある。が、部下たちは、なんとなく憮然とした表情をそろえた。情のこわい人、という印象をうけたからである。

 ところが、数日後、奥田大佐以下戦死将兵の追悼式が挙行されると、部下たちの気持は一変した。

「……卿等の勇姿眼底に彷彿たるに、卿等と其の愛機とは再び相見(あいまみゆ)るに由なし……」と、弔辞がすすむにつれて、大西少将の声は細くなり、とぎれがちになり、「……忽焉として忠勇の士を失ふ、愛惜安(いずく)んぞ堪へん……特に思を卿等の遺族に致す時……」というところまでくると、いつのまにか涙声になっていた少将の声はフツリと絶え、よろよろと上体がゆらめき、かけよった参謀が少将を支えた。少将の弔辞は中断され、少将は居室にはこばれた。亡き部下を思いつづけ、食欲不振と睡眠不足で倒れたのである。部下たちは、感激した。

 おもえば、部下の死を淡然と迎え、さらに攻撃を命ずる背景には、自ら最も危険な場所で率先指揮する責任感と、泣くときには全身で泣く愛情があったのである。

「おいも行く、わかとんばら(若殿輩)のあと追ひて」

  ――とは、そのころから大西少将が愛誦していた西郷隆盛の言葉であるが、部下たちは少将の涙の卒倒をみて、少将の心境にウソがないことを知った。

   二連空の士気は高まり、支那事変中に二連空は山口少将の一連空とともに、二回にわたって、感状をうける働きを示した。

   昭和十六年一月、大西少将は第十一航空隊参謀長に就任した。その直後、少将は聯合艦隊司令長官山本五十六大将に呼ばれ、ひそかにハワイ真珠湾空襲作戦の計画立案を命ぜられた。

   山本大将がわざわざ直接の指揮下にない大西少将に秘事をたくしたのは、真珠湾空襲計画が異例のものであり、しばらくは大将の個人的計画研究ということにしたかったためと、なによりも大西少将を信頼していたからである。

   大西少将はまた、自分が信頼をかける第一航空隊参謀源田中佐に作業をゆだねて、作戦案をつくった。しかし、作戦には、大西少将は最後まで反対しつづけた。戦意に富み、勇敢さを好む少将にとって、三千マイルの波濤をこえて敵の本拠に突入する、というハワイ作戦は、文字どおりに武者ぶるいを誘いこそすれ、ちゅちょはみじんも感じないはずである。

   だが、少将は作戦行動の秘密保持は無理であり、どうしても事前に発見または察知され、みすみす敵のワナにとびこむ形になると判断した。それでは将兵は徒死するだけではないか。

  「敵ニ大ナル打撃ヲ与エテ死ヌノハ玉砕デアルガ、事前ノ研究準備ヲ怠ㇼ、敵ノ精鋭ナル兵器ノ前ニ、単ニ華々シク殺サレルノハ瓦砕デアル」からである。

   結局は、ハワイ作戦は山本大将の決断で実施され、奇襲も成功したが、大西少将の反対には、少将らしい慎重さと部下思いが鮮明にあらわれている。

   源田中佐は、大西中将の資性のひとつに「無私」をかぞえ、少将がひたすら"奉公と戦勝"のために全力をつくした点を指摘しているが、おそらく大西少将ほど政治運動に背をむけ、「無私」に徹した存在も少なかったにちがいない。

 二・二六事件が発生したころは、陸海軍をとわず、青年将校の間にガクガクの政治論議が盛んになり、過激な行動に走ろうとする者もいたが、当時大佐の大西中将は、ときには鉄拳をふるって後輩の興奮を鎮め、軍務に専念させた。

「無私」では、とくに陸軍との協力が目立つ。航空本部総務部長時代、大西少将は海軍部内では、孤立的なほどの陸海軍航空合同論者であった。国家の大事の前には、陸軍だ、海軍だという狭量は災いになるにすぎない。一体となって総力をあげずに、どうして勝利を得られるか、という意見である。

 しかし、本部長山本五十六中将は、こと海軍の優位を崩すような措置は認めない、との態度を変えなかった。むろん尊敬する上司の意見に、大西少将はいさぎよく従ったが、昭和十八年、軍需省の新設とその中に航空兵器総局を設けることになると、進級していた大西中将は、自身で東条英機首相兼陸相を訪ね、総局長官には陸軍航空本部長遠藤三郎中将をあて、自分はその下位の総務局長に就任したい、と要請した。

 東条首相は、しぶった。なにせ、ことごとに問題化するのが、根深い陸海軍対立感情である。大西中将の提案はありがたいが、はたして海軍がなっとくするであろうか。

 遠藤中将も、固辞した。航空関係については、大西中将のほうがはるかに知識も体験も多い。陸軍部内では、大西中将があえて総務局長を望のは、長官をロボットにして、海軍が実権をにぎるハラだ、というささやきもひろまった。

 しかし、大西中将は説得をつづけ、遠藤中将の長官、大西中将の局長という人事が実現した。しかも、大西中将は風評とは別に、完全に忠実な長官の女房役をつとめた。遠藤中将は、いう。

「かくの如き事は、階級新古の観念の強い軍人社会に於ては、まことに出来難い事で、大西中将のような没我の人格者に於て、はじめてなし得る事と思います」

 遠藤中将は、「今日の社会における醜い指導権争いをみるにつけて、大西中将を思い出す」というが、では、以上のように情と理を兼備した大西中将が、なぜ"非里"の特攻の"父"となったのであろうか。

 大西中将が第一航空隊司令長官として、マニラに着任したのは、昭和十九年十月十七日であった。その二日後に米軍のレイテ島上陸が開始された。

 すでに戦勢は明らかに日本側に非であり、局面の打開はよほどの妙策があっても不可能に近いとみられていた。そして、おそらくは唯一の対策は「体当たり攻撃」だという意見が、急速に高まっていた。

 大西中将も、その一策に期待をかけるべきだ、という見解であった。

 源田中佐によれば、古来、「智仁勇信厳」を將の五徳というが、大西中将の場合、最も顕著に身につけていたのは、第四の徳「信」である。

 つまり、軍人としての信念、戦勝を求める信念、部下を信ずる信念、自らの言行にたいする信念である。その信念が、あるいは涙になり、あるいは怒りとなり、叱咤となるが、この"特攻"という異常な攻撃法についても、大西中将は責務に照らし、情と理をこえて「信」の対象になるとみた。

 マニラに赴任する前、大西中将は、軍令部を訪ね、総長・及川古志郎大将、次長・伊藤整一中将、第一部長・中沢少将と会談して、第一航空隊での"特攻"実施を協議した。及川大将は、"特攻"を承知したが、大西中将に、いった。

「大西、くれぐれもいっておくが、これはよくよくのことだ。けっして命令では実施せぬようにな」


※参考:生出 寿『海軍兵学校よもやま物語』(徳間文庫)「特攻か潜水艦か」P.318

 四〇一分隊の分隊監事は、七十四期の主任指導官で第四部部監事の武市大佐だった。武市分隊監事は、われわれ一号にたいして、うるさいことはいわなかった。

 昭和十九年十一月末、七十四期の航空班約三百人は、第四十三期飛行生徒(のちに学生)として、江田島・大原・岩国を後にして霞ヶ浦海軍航空隊に去っていった。四〇一分隊からは、伍長補の森垣(すなお)と河野俊郎がゆき、残りは五人となった。

 その前後のころであった。艦船班の五人は、分隊監事から、卒業後の配置について、希望を書いて出すようにといわれた。種類は「特攻兵器」「潜水艦」「艦船か部隊」ということであった。私は、(来たな)と思い、これが兵学校式「踏み絵」だな、と思った。

 教官たちの時代は、本人の希望は参考にするが、海軍省人事局が自らの責任で配置を決定するというものであったはずだ。ところが、「特攻兵器」となると、海軍省人事局は、当人が希望もしないのに「特攻兵器」配置を命令したといわれれば、責任を追及されるおそれがあるので、それを避けたかったようだ。


 伊藤中将と中沢少将も、こもごも見解を表明した。

「決死隊には、東郷元帥も山本元帥もご反対でした。しかし、ここに至りましては……」

「長官、"特攻"は兵術のワクを超えています。軍令部としては、これを作戦とは呼ばぬようにいたしたいと考えています」

 三人の言葉のすべてに、大西中将はうなずいて、マニラに飛んだ。

 十月二十日、大西中将はマニラ郊外のクラークフィールド飛行場に近いマバラカット町の第二〇一航空隊(戦闘機)本部に、二〇二空副長・玉井浅一中佐ら六人を集め、ゼロ戦に二百五十キロ爆弾を抱いて敵艦隊に突入する体当たり攻撃案を、披露した。

 一瞬、座は沈黙に満たされたが、ただちに感奮の賛意の声に満ち、その夜のうちに関行雄男大尉を長とする二十四人、四隊の特別攻撃隊が編制された。いずれも志願であり、大西中将は命令に「作戦」の文字を使用しなかった。

※参考:関行雄男大尉は海軍兵学校70期。最終階級は海軍中佐。レイテ沖海戦において、初の神風特別攻撃隊の一隊である「敷島隊」(爆装零戦5機)を指揮して戦死。

 関大尉たちは、レイテ湾に突入する栗田艦隊に呼応して攻撃したが、大西中将は、二十五日の関大尉らの出発を前に、二十三日も二十四日も眠らずに熟慮を重ねた。深夜に、第二航空隊司令長官・福留繁中将を起して「これはやねェ」「じつはやねェ」と、攻撃計画の細部について疑義を質しつづけた。

 その朝、大西中将は、次のように訓示して攻撃隊を見送った。

「俺がまっ先に行きたいのだが、俺は指揮官だからそれができない。必ずあとで行く」

 その後も、中将は、しだいに激化する敵機の空襲を避けながら、奥地に移動する飛行場で、つねに「あとから行く」をくり返しながら、特別攻撃隊を見送った。そして、送られる部下たちは、この中将の言葉をその場限りの激励の言葉とうけとる者は、いなかった。

「閣下、お先に……」と、快い微笑で別れを告げる兵さえも、いた。

 大西中将は、昭和二十年一月、司令部を台湾に移して"特攻"攻撃を指導したのち、五月、軍令部次長に就任した。

 専念したのは、沖縄作戦と本土決戦準備であり、中将は「必ず勝つ。たとえ勝てなくとも、必ず負けない」といって抗戦を主張しつづけた。中将とても、敗勢は自覚しているが、自ら爆弾を抱いて死んだ若い戦士たちに、「せめて勝利の中の和睦」をはなむけにしてやりたい、と願ったのである。

 だから、いよいよ終戦と政府の裁決がまとまり、米内海相に涙を流して翻意をせまり、ついに説得されると、床に身を投げて号泣しつづけた。

 大西中将は、天皇の終戦放送がおこなわれた翌日、八月十六日、軍令部次長官舎で自決した。古式にしたがい、腹部を斬り、頸動脈を刺したが、招かれた知友・児玉誉志夫は驚嘆した。

 さぞかし苦しいはずなのに、中将は、「これで部下たちとの約束をはたせる」と、ニコニコ笑いながら、流血の中に息絶えていったのでらる。辞世は、次の一句であった。

「之でよし百万年の仮寝かな」


 吉田俊雄『四人の連合艦隊司令長官』(文藝春秋)

 日本海軍は、太平洋戦争でつぎつぎ四人の連合艦隊司令長官を立て、たたかった。

  山本五十六大将
  古賀峯一大将
  豊田副武(そえむ)大将
  小沢治三郎中将

 開戦から終戦まで、三年八ヵ月と長くはあったが、それにしても海上実力部隊の最高指揮官が、そのあいだに三度も敵前交替したのは、異様であった。

 山本大将は、昭和十六年十二月八日の開戦から数え、約十七ヵ月たったとき、米軍に謀殺された。

 二代目の古賀大将は、着任約十一ヵ月後、司令部を移動する途中、洋上で行方不明になった。

 三代目の豊田大将は、ほぼ一年一ヵ月にわたってポストにいたが、終りごろになって天皇に二度もお叱りをうけ、ときの米内海相の手で軍令部総長に回され、小沢中将がその後を襲った。

 小沢の登場で、連合艦隊長官にはじめてその人を得たといわれた。

 四人の長官のうち4、三代目まではいわゆる軍政家で、海軍省、艦政本部、航空本部など、行政方面のキャリアが長い人たちだった。ほんとうに艦船勤務のなかで腕を磨いてきた人は、小沢だけだったからだ。

 しかし、小沢の出番は、あまりにも遅すぎた。終戦まで二ヵ月半しか残されていなかった。(後略)

 さて、四人の連合艦隊司令長官のほかに、将官クラスで、太平洋戦争を語るにふさわしい人をあえて挙げれば、まず大西瀧治郎中将であろうか。

 山本五十六と同じ航空主兵論者だが、

「開戦劈頭に真珠湾を空襲したい。研究してみてくれ」

 と山本長官に腹案の骨子を渡され、大西はさらに源田実中佐に研究を頼んだ。大西、源田とも、海軍航空の頭脳を代表する最右翼の二人であった。

 その成果を山本長官に渡しはしたものの、考えれば考えるほど、真珠湾攻撃してはならない、とかれは思いいたった。

「日米戦っても、武力では、とうてい日本は勝てない。早く戦争を終わらせることが、何よりもたいせつだ。それには、米本土の一部を撃つことになるハワイ空襲のような、米国民をあまり強く刺激しすぎる作戦は、とるべきでない。むしろ遠くの方で、サッと勝負を、すぐにも戦争を終わらせる工夫をすべきだ」

 と考えた。山本の戦略思考と肩を並べられるほどに見識の高い主張である。

 大西は、十六年九月末、南雲部隊(南雲長官は、あまりにも危険が多いことを理由に、真珠湾攻撃に反対していた)と打合せ、南雲部隊の草鹿参謀長と同道して。山本長官に意見具申をしにいった。

 話の途中から、大西は反対論を引っ込め、逆に草鹿を一生懸命説得したという。大西、草鹿と並べると、大西の方が思想傾向として山本に近かったのだ。

 たしかに大西は、全身全霊を傾け、まともにぶつかっていく、というまッ正直さと、決断のあざやかさをもっていた。

 かれが十九年十月、一航艦長官となってフィリツピンに着任し、着任間もなく、「組織された特攻」をスタートさせた事情は、本文(P.215~)に述べた。

「こんなこと(組織された特攻攻撃)をせねばならぬというのは、日本の作戦指導がいかにマズいか、ということを示しているんだよ」

 大西は、猪口先任参謀にもらした。

「なあ、こりゃね、統率の外道だよ」

 正直である。その正直さは、訓示になおよくあらわれていた。

「日本はまさに危機である。しかもこの危機を救い得るものは、大臣でも大将でも軍令部総長でもない。それは諸子のごとく純真にして気力に満ちた若い人々のみである……」

 長老体制の限界に、大西は気づき、真実をさらけだして若い人々の自主自立性に訴えたのだ。

 そして、終戦前、軍令部次長になるが、二十年八月十三日、豊田軍令部総長とともに米内海相に呼ばれ、かれらが終戦引き延ばし工作をしていることについて、一時間半ばかり、痛烈な口調で叱りつけられた。叱られても、大西は工作をやめなかった。高松宮をなんとか説得し、皇室への影響力を使っていただこうと努力した。

 その日の午後十一時ころ、豊田は梅津参謀総長といっしょに東郷外相に会っていた。

「連合国側が『国体』にたいしてどう考えているか、それを聞いてもらいたい」

 というのへ、東郷外相は、

「そんなことはできない」

 と拒絶、押し問答となった。

 その席に、高松宮の説得に行って失敗した大西が、目を血走らせて現われた。豊田総長に手短に経過を報告したあと、そこを動こうとせず、同席していた迫水書記官長の気を揉ませた。

 たまたま空襲警報のサイレンが鳴ったため、会議はそのまま流れた形になった。そのあと、席に残った迫水書記官長に、大西は、胸の中のものを絞り出すようにして語ったという。

「私は、今度の戦争がはじまって以来、戦争をどうすればよいか、全力をつくし、日夜考えつづけてきたつもりでした。しかし、この二、三日のことを考えてみると、これまで戦争を考えた考えかたが、ほんとうに真剣なものに、どれほど及ばなかったことがわかりました。われわれは甘かったのです……」

 そして大西は、迫水の手をとると、

「なにか、いい考えはありませんか」

 といい、しばらくして、淋しく帰っていったという。

 これが、迫水の大西を見た最後であった。

   2020.10.08記す。

    


30
堀内豊秋大佐


堀内大佐の一生 遙かなる海の果て

高橋玄洋君(海軍予科兵学校78期:109分隊)がドラマ化 テレビ朝日20周年記念特別番組

 第一部監事堀内豊秋大佐の一生が、高橋玄洋君(109)によってドラマ化され昭和54年8月18日(土)21:00から23:00、2時間、テレビ朝日開局20周年記念特別の長編ドキュメンタリ・ドラマ『遙かなる海の果てに』として全国に放映されることになった。

 このドラマは、「軍人の家庭に生れたという宿命から、軍人の道を選ばざるを得なかった主人公が、人一倍やさし心根を生かすべしとして"海軍体操"を編み出すなど教育・厚生面に力を注ぐ一方、命令により自ら落下傘部隊を率いて作戦行動の指揮をとったりしますが、最後には部下の罪を一身に背負って刑場に消えるのです。この海軍体操の創始者・堀内豊秋の生涯を追うことによって、戦争の真の残酷さと一方的戦争裁判の不当性を告発すると共に、軍人タイプとはど遠いにもかかわらず、最後にはもっとも軍人らしい道を貫いた主人公の人間的価値(矛盾とその悲劇)を描こうとするのであります」というのが企画意図。

 制作にあたっては、堀内大佐の履歴をドラマ(フィクション)として描くのと並行して"真実"を探して歩く『私』をドキュメンタリ型式で追うことにしており、国内各地に残る旧部下を尋ねるほかデンマーク、アモイ、インドネシアの海外ロケを展開、堀内大佐の遺書などは実物を登場させるという。

 高橋玄洋君は、企画書の中で、堀内大佐の人となりをくわしく述べているが、その中から一部を抜すいして紹介しよう。

 昭和二十三年九月下旬、朝日新聞の片隅に"海軍大佐堀内豊秋、B級戦犯(暴行殺人命令)で死刑執行"の記事を発見した『私』(高橋玄洋)は"あの人が……"と胸を刺される思いと共に、余りの意外さに"そんな馬鹿な……"と叫ばずにいられなかった。

 『私』は、海軍兵学校78期の第一部の生徒として堀内部監事を父親と仰いで来た数ヶ月を持っていた。

 兵学校針尾分校での堀内大佐は慈父そのものであった。上官の生徒に対する暴力(*針尾分校だからか)を否定し、敵国語であった英語教育に力を入れ、生徒たちに、よく英語で日本の童話を話して聞かせたり、基本が大事だと数学に熱心で、自分も生徒と一緒になって数学の問題にとりくむという徹底ぶりであった。

 また、体操科の主任教官であった大佐は、海軍に招集されてきた遊佐、鶴田らのオリンピック選手を、海軍生徒の体位向上を名目として自分の配下に置き保護した人でもあった。

 その堀内大佐が、こともあろうに暴行殺人行為を命令したとは『私』にはとても信じられなかったのである。  

 『私』は腑に落ちないまま、彼がどのような残虐行為を命じたのか、もし事実ならどんな二重人格の持ち主だったのか調べようと思い立つ。

     (中略)

 軍隊内で体操に活路を見出した豊秋であったが、この小猿、なかなか先見の明があった。

 昭和十八年秋、既に敗戦を見抜いていたのである。どう考えても彼我の勢力、資力、また、南方の島島に分散した我が方の兵力から言って」、守勢に回らざる得ないことは歴然としていた。

 碁の強かった彼は、その一つ一つの石が死んでいくのを、軍事情勢になぞらえて、上官に上告しているが、勿論、そんなものが取り上げられる筈はなかった。

 セレベス島から単身、内地勤務で帰って来た豊秋は、下は小学校から上は大学まで勤労動員にかり出されて、学力が著しく低下しているのを知りガクゼンとする。

 「これでは、戦争に勝っても、東西の国々を、いや世界の国を指導することは出来ない」と、同期の長尾大佐(後、参議院議員)らと計り、中学三年終了で入学させる海軍兵学校予科の新設を建白し、取り上げられた。

 これが『私』の入校した海兵第78期である。長尾が分校を委される教頭であった。

 が、この78期は、実は敗戦日本を考えた上での、青少年温存計画であったのでる。それを知っているのは長尾・堀内以下数名であった。

 『私』たちの調査によって、それらのことが、次次に判明して行く。現地の調査により、堀内豊秋が如何に、部下思いの上官であり、暴力否定論者であったかが浮彫になって来た。

 『私』は、自信をもって、セレベス島(現インドネシア)におもむく。

 ―――◇―――◇―――

 彼は、戦争裁判の参考人としての召喚にあたり、捕まっている自分の元部下の家族を訪問し、彼らへの土産とした。

 現地に着いてみると、昔のなつかしい部下たちの囚人姿がそこにあった。

 いずれも現地人の不実な証言、私恨など、中にはクジ引きで選ばれた者もいるありさまであるが、何しろ勝者が裁く一方的な裁判である。

 現地へ行って判ったことは、自分が残虐行為を命令したと証言すれば、この十数名の兵士たちの命が、自分の命一つをひきかえに救われるということであった。

 戦争はもう終わっている。

 彼も苦悩したに違いない。しかし、彼は最後に武人の道を選んだ。

 昭和二十三年一月一五日、悲痛な家族宛の遺書と辞世の句を残して、戦犯という汚名を着て銃口の前に立つたのである。

 彼に命を救われた当時の部下達は、今も秘かに集って彼の姪ℌうくを祈っているという。(後略)

 ―――◇―――◇―――

 なお、このドラマの原作は城山三郎の『落日燃ゆ』、阿川弘之の『山本五十六』と並ぶシリーズものの一つとして、十月に新潮社から出版される予定となっている。

※参考:昭和54年8月18日の日記に下上記の記事のコピーが貼り付けられていた。そして、このドラマの放映を視聴したと記録されていた。

※プロフィル:松江生まれだが先祖伝来は広島県。小学校2年のとき、父親が40歳になって大学へ入り直すため一家で広島市に移る。父親は教育者で、のち広島県尾道市助役を務めた。4年後父が大学を卒業し朝鮮へ赴任したため、平壌、釜山、新義州と少年時代を外地で過ごす。中学4年から海軍兵学校最後の78期生として入学。1945年8月6日原爆投下の日には、広島市郊外で勤労奉仕中で、当日市内に救援に入った。

終戦後は尾道市の叔母の家で育ち、広島県立忠海高等学校に在学。学制改革の関係で平山郁夫は同級生となる。

※記録:黒崎が参加しているラジオ体操同好会に一人の女性参加者がいる。その方は、江田島の海軍兵学校の敷地内にあった従道小学校の生徒であった。堀内さんのお嬢さんを知っていて、大佐の出身地が熊本県の人吉であり、刑死されたことを話された。。

2020.06.19記す。


31
志賀 博


志賀 博『海軍兵科将校』(光人社)

   第一章 世紀の激突

 海上の静止している一点に、艦をうまく持って行くだけでも、容易ではない。

 そして、動いている小さい魚雷艇に、三十ノットンのスピードで、うまくぶち当たるということは至難のわざであり、これが単なる衝突事故であっても、稀有の出来事といってよい。

 しかも、魚雷を装填したままの魚雷艇の発射管をさけ、ガソリンエンジンの機械室を回避して、そのブリッジの真うしろを、あたかもデコレーションケーキをナイフで切るように、駆逐艦の艦首で真っ二つ切断するなんて、普通ではできないことである。

 それが、太平洋戦争中、実際に起こったのだ。

 したがって、駆逐艦「天霧」とPT一〇九魚雷艇との衝突ほど、ショッキングな事件は、おそらくあるまい。

 その魚雷艇の艇長こそ、のちのケネディ米大統領その人であったから、戦後、とくに有名になったのも無理からぬことである。

 「天霧」の乗員は、戦闘をおえてラバウルに帰投し、しばらくして、その艇長がケネディ中尉であることを聞かされたが、その人がまさか、後日、米大統領になろうなどとは、夢にも想像できなかった。

 当時の新聞には、この戦闘について、つぎのような記事が載ったので、目に触れた人もあるかもしれない。

   敵魚雷艇を乗り潰(つぶ)す

    ソロモンでわが駆逐艦の殊勲

                                   [○○基地二日特電]

 去る七月七日のタラワン湾作戦、同十二日のコロバンガラ島沖夜戦に偉勲を樹てた帝国水雷戦隊所属の駆逐艦は、その後もひきつづき同方面の敵艦艇、輸送船団を攻撃、ならびにわが増援補給に昼夜を分かたず寧日なき奮戦をつづけているが、二日未明、コロバンガラ島西方海面ベラ湾付近において咫尺(しせき)を弁ぜぬ暗夜に敵魚雷艇三隻と遭遇、わが駆逐艦、その一隻を真っ向から高速をもって乗り切り、とっさのうちにこれを海底深く葬った。

 この水雷戦隊の伝統的精悍無比な活躍こそは、大東亜戦争はじまって以来、じつに最初の時筆大書すべことであり、前線將士の士気ますます軒昂(けんこう)たるものがある。

 この事件の起こったころは、日本海軍は敗色の萌しこそあったものの、まだまだ帝国海軍華やかなりしころの伝統をうけつぐ駆逐艦乗りたちが、太平洋ところ狭しと奮闘活躍していた時期である。

 若年駆逐艦乗りの一人として、私(旧姓・保坂)は、このショッキングな事件に遭遇したのである。

※駆逐艦「天霧」――花見弘平艦長のもと、乗員一丸。士気も高く、18年8月2日には、ケネディ中尉の座乗するPT一〇九を切断した。艦長交替の後、19年4月23日、触雷により沈没。


 序

著者は海軍兵学校68期生。68期生は土方クラスと呼ばれた。馬力はあるが、あまり知能的ではないという意味である。命名は私で、昭和12年4月入校早々、65期の一号にひどく殴られるので、クラス会で弱音をはく者も出てきた。そこで私が、我々はちょっとやそっとで殴られてもへこたれないような、土方のように頑丈なクラスになろう、と提言したのである。

 戦後40年もすると、この土方クラスから、ぞくぞく本を書く人物が出てきた。私のほかに、昨年『先任将校』(光人社刊)を出した松永市郎は、その前にも『思い出のネイビーブルー』を出して注目された。本田清治はブーゲンビル方面で戦った経験をいかして『ソロモンの玉砕予定部隊』を出し、飛行機乗りの玉利義男も『翔ぶ』を出している。ある先輩は、「今や68期は文化人クラスだね」と冷やかすほどである。

 本編の著者・志賀博君は、四号のとき近い分隊にいたので、私は初めからよく知っている。東京府立五中出身にしては、素朴でどこか粗削りなところがあった。しかし、真面目で粘り強い性格で、ユーモラスなところもあった。

 68期からは約百人が飛行機にいっているが、その半部に近い数が駆逐艦にいった。志賀もその一人で、つねにソロモンからフィリッピンの前線で戦って生き残った一人である。ほかには「雪風」の先任将校でレイテ沖の海戦を戦った奥野正、「風雲」でソロモンで戦った国島清矩、「狭霧」「曙」「秋月」と駆逐艦を乗り継いで、珊瑚海、アリューシャン、マリアナ沖、レイテ沖の各海戦に参加した河原崎勇などがいる。

 その中で志賀は、戦後、防衛研修所戦史室に長くいるので、資料をよく調べているので、信用ができると思う、

 この本を読んでまず感心するのは、その歴戦の経歴である。

 志賀は、少尉候補生時代は戦艦「伊勢」にいて、私と一緒で、彼は甲板士官をやっていた。少尉に任官すると、三水戦・十二駆逐隊の「叢雲」で駆逐艦乗りのスタートを切る。精悍な艦長に駆逐艦乗りの何物であるかを教育される。

「叢雲」は開戦時、マレー上陸作戦の支援に参加する。つづいてジャワ方面に転戦し、バダビア沖海戦で、敵大型駆逐艦を砲撃、擱座せしめてこれを捕獲する。このあたりの戦いぶりは、どこかユーモラスで面白い。

 その後、「夕風」水雷長をへて「天霧」の水雷長となって、戦史に残る激戦を經驗する。

「天霧」は18年8月2日未明、アメリカの魚雷艇・PT一〇九と衝突して、これの上を乗り切って艦隊を二つに切断する。このとき、この魚雷艇の艇長をしていたのが、後の米大統領ケネディである。ケネディが部下とともに近くの島に逃れ、救助される話は映画にもなった。

 この世紀の大事件を艦橋にいて目撃したのが、志賀水雷長であるが、この「天霧」には、ほかに二人のサムライがいた。

 艦長の花見弘平少佐と機関長の西之園繁大尉(志賀より一期上)である。花見艦長はいたって気の荒い人で、気にいらないと士官でもばんばん殴る。志賀も着任早々から相当やられた。

「本艦は戦闘即応でなければ、敵の飛行機にやられてしまう」というのが、艦長の口癖で、そのつぎには鉄拳が飛んできた。その艦長も一目おいているのが、機関長の西之園大尉で、これは鹿児島出身の国粋主義的な熱血漢で、艦長や水雷長の戦闘精神に遺憾な点があると、艦橋にきて怒鳴りつける。彼は19年4月23日、「天霧」がボルネオ沖で機雷に触れて沈むとき、機関長として責任を取るといって、自決するのである。

「天霧」沈没後、志賀はまた駆逐艦「竹」の水雷長となり、レイテ島方面の作戦に従事し、激戦中、敵駆逐艦を雷撃で撃沈したり、大破したりするが、やがて内地に帰って終戦を迎える。

志賀の武運も強いが、その経験は不撓不屈の海軍魂を示すものとして、特筆に値する。

この本の魅力の一つは、現場にいた者が見聞したという強味である。

 また、ここには多くの青年士官をはじめ、海のつわものたちが、登場する。無数のエピソードが出てくるが、それぞれにヒューマンな内容で、極限状況の中の人の心の動きを伝えている。

 多くの戦記と同じくこの本にも、近頃いわれている海軍式経営法というのか、統率と横の連絡、司令官と参謀の役割等について考えさせる材料が、豊富に入っている。戦記愛読者だけでなく、会社関係の人たちにも一読を薦めたい。

   昭和六十年一月二十五日

                    横浜本郷台の寓居にて  豊田 穣

※昭和六十年四月十六日購入。

※参考:海軍兵学校出身者名簿:豊田 穣『同期の桜』より
期  卒業生 戦死者 戦死の率(パーセント)
65  187   117  62.5
66  219   143  65.2
67  248   178  71.7
68 288 200 69.4
69 343 245 71.4
70 432 301 69.6
71 581 347 59.7
72 625 360 57.6

2020.08.26記


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元海軍教授の郷愁―源ない師匠講談―

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 平賀 春二著『元海軍教授の郷愁ー源ない師匠』―講談十三席― (海上自衛新聞社)昭和46年12月15日発行より

 第四席 海軍兵学校入学試験 P.61~76

 帝国海軍はは海軍兵学校・海軍機関学校及び海軍経理学校などの生徒の入学試験を、原則として毎年秋のさ中に、戦前の一道三府四十三県、それに樺太・台湾・朝鮮・満州でいっせいに行い、翌年四月に入学させておりました。私は昭和十二年十月下旬、宮城県の試験官を仰せ付けられ、江田島からはるばる仙台にまかり越しましてございます。

 試験官の一行は、兵学校から少佐一名・大尉一名・教授一名それに下士官一名、機関学校から機関大尉一名、経理学校から主計少佐一名下士官一名の計九名、各校それぞれ、試験の前日に指定の旅館に到着することになっておりました。なにしろ帝国海軍華やかなりし頃のことでございましたし、それに海軍は元来大の見え坊なので、泊まるところは出張先きの超一流旅館と決まっておりました。

源内 *機関学校から機関大尉一名、経理学校から主計少佐一名というように機関・経理と冠がついている。兵学校は階級だけであることに注目。

 私ども途中東京で一拍し、上野を午前九時すぎにたって、目指す仙台に着きましたのはその日の午後二時ごろ、陸軍第二師団司令部の副官に迎えられて旅館「針半」(現在見当たらない)の客となりました。軍隊のことでございますので、地方に出ましても一行の内の武官の最先任者が指揮し、また責任もとりまするが、文官教官は私ひとりでございましたので、希少価値がものをいったのか、それとも武官の「母校の先生」といった気持ちからか、とにかく私に一番よい部屋が割り当てられましてございます。

 案内されて部屋に入って驚きました。二間の床の間に鉄斎の大作がかかっております。美術館や展覧会場ならいざ知らず、ここで富岡鉄斎大画伯のお目にかかろうとはーー。お女中の語るところによりますると、「海軍さんがお見えになる」というので、その前日、おかみさんが蔵の中から自分で出して、自分でかけたそうにございます。それにまた、手摺りに寄って見おろす庭や池のたたずまいは、さすが伊達家六十二万石、城下町きっての旅籠(はたご)の庭園、イヤハヤたいしたものと、しばし感嘆いたしましてございます。

 私の部屋が一番広うございましたので、一行九名の初顔合わせに、翌日から始まる試験の打ち合わせを兼て、その夜は私の部屋で会食、お酒も付いていとも楽しく、しかもたちまち気持ちの通じ合う、快哉この上もない小宴でございました。

 うたげもはねて夜もふけ、ひとりぼつねんと紫檀のテーブルに寄りかかり、かれこれもの思いにふけっておりますると、お女中が抹茶を立てて運びます。茶にくつろいで、またぼんやりしておりますると、風呂の案内。この風呂番が大の海軍びいきで

 「オレは文官だ、英語の先生だ」

と言ってみても

 「でも海兵の生徒さん方をお教えなんでしょう?」

とか言うて、イヤ大変なサービスでございました。

 さて、入学試験は第一日目。午前は、数学二時間で午後は物理と化学それぞれ一時間であったでございましょう。ともあれ、答案が出そろいますると教官は手分けして、さっそく答案調べに取り組みまする。模範解答に照らしてあらかた採点し、成績がほぼ二割未満の者>を振るい落とし、掲示してある受験番号の内、該当する番号だけ消して、翌日からの受験を拒否しておいて、宿に引き揚げましたのは午後の六時すぎ、みちのくの秋は格別早う暮れまする。その上寒くて、広島の十一月は末の気候でございます。

 夕食の時、

 「お粗末さま」

これに答えて私が

 「その通り」

と言った瞬間のお女中の目、「まあ憎ったらしい!!」とか「気に入ったワ!!」とでも言いたそうなつぶらなまなこ、初めて両人の視線が合いましてございます。

 さてもこのお女中、年のころは二十三か四か、丸顔でボリュームがあって円満明朗、ややインテリ味があってしかも愛嬌満点でしながよい、黒繻子の襟のよく似合うこと。さすが堅物(かたぶつ)の源ない師匠も、心の紐をおゆるめあって

 「ここ仙台の自慢は何じゃ」

 「ハイ、青葉城と松島でございましょう」

 それがたぐりの糸口となって、話は土井晩翠先生のご健康、荒城の月、紫式部は宮城野露、仙台萩にさんさ時雨(しぐれ)と、たなばた祭り、彼女膳部を片付けるのも忘れて語り、一息入れたところでやっとさげましたが、すぐまた抹茶を立ててご持参、またひとしきり、私は生来の聞きじょうず、ポイントごとに質問を挟み、軽く合いの手を入れて話の穂をつぎまするが、折しも憎っくや風呂番が来て、私をさらって行きましてございます。

 さても試験は第二日目。午前は幾何一時間と英語二時間、午後は歴史一時間、前日同様ふるい落として、晩は五時を過ぎて帰館。夕食を済ませますると、やがて抹茶、その夜はどうしたはずみか最初から文学論議に花が咲き

 「先生は上方(かみがた)文学がお好きでしょうが、私はやはり明治の自然主義派の国木田独歩田山花袋あたりが好きでございます>

 「ホホー、それなら『牛肉と馬鈴薯』を読んだか『武蔵野』読んだか、『運命』『酒中日記』『蒲団』『田舎教師』……」

 みんなあらかた読んでおり、なかんずく「田舎教師」に一番詳しくて、主人公の末路に格別同情しておりました。

 文学談義がいつの間にやら身の上話と相なって、彼女の問わず語りによりますれば、県立千代高等女学校を卒業して、その学校に併設の女子専門学校国文科に入学し、二年目の春、中途退学。普通列車で三時間余り南方の、福島県は二本松市の、ある大きな繭問屋の長男のもとに、なかば強制的にお嫁入りさせられたそうにございます。しかし、かりそめにも専門学校に学んだ学歴と、文学好きが仇となり、新聞を見ていて不用意に口にした作家のなすら、商業学校出の主人の癇(かん)にさわという始末。それに、ものの考え方も異なれば家風にもなじみ得ず、半年足らずで逃げるように帰ってきたそうにございます。

 「そのようなことで、私は出戻りなんでございます。帳場に坐っておりますのは一番上の姉で養子取り、義兄(あに)は電鉄会社の庶務係を勤めております。二度とお嫁入りなどしようとは思いませんが、ご本との縁は深くなるばかりでございます。お店の暇な日や仕事のあい間のある時は、努めて勉強させてもらっております。このごろは国文学のいろいろな部門の註釈付きの双書ものが流行で、ひとりで勉強したい者には大だすかりでございます。

 とか話してりましたが、また風呂番にさまたげられて、その夜も無事に終わりましてございます。

 さて、その翌日は試験も三日目。この日までには受験生の大体三分の二が落ちて、八十人くらいに減っております。午前中は国語漢文。これで落ちる者はおりそうにございませんので採点省略、午後はさっそく三校別々に口頭試問にかかります。これはもっぱら武官教官の仕事で、今つらつら思いまするに、武官は例外なく熱心に諮問に取り組んでおりました。受験生が三分の一に減るまでには、己が試問すべき範囲の受験生の姓名はほとんど皆覚え、上半身裸体のキャビネ判や、出身学校からの詳しい内申書、本人提出のこれまた詳細な調査書や、学術試験場の内外で出会ったり、試験中に何度となく机の間を巡視した、その折り折りに感じたことなど、いろいろな資料に基づいて、受験生一人一人につき、試問すべき要点を箇条書きにして用意しておりましたので、試問の始めから相当に突っ込んだ質問を連発しておりました。

 こいつは学術試験の成績さえ上位ならば、是非とも採用したいと思われる受験生については、比較的短時間で片を付け、正体のつかみにくい者や家庭の事情の複雑そうな者などについては、時間をかけて試問していたようでございます。

 「平均僅か数分間の口頭試問で、人物がわかるものか」と、批判なさるお方もおられましようが、何回か試問に立ち会ったことのある私は、武官には自信があったと、お答えいたします。武官が入学試験のために遠くまで出張するのも、実はこの試問のためと言っても過言ではございますまい。それほど武官は熱心で、出張前から調査を進めておりました。それに比ぶれば、今日の文部省系の学校の面接などは全く形式的で、文字どおり「面接」にすぎないようでございます。

 ちょつと余談にわたりまするが、ある年、地方へ試験に出張するわれわれに対して兵学校長が

 ――これを要するに、一見いかにも軍人にふさわしい少年よりも、『ああよく伸びているナー、定めしむつまじい家庭の子弟であろう』というようなのを採って来いという趣旨の訓示をなされたのを、唯今はしなくも思い起こすのでございます。

 私こと、青少年の教育にたずさわりますることここに五十年あまり。今にして私はこの校長のご趣旨に全幅賛成であり、また、校長の識見に頭のさがる思いがするのでございます。――ここらあたりが、また帝国海軍一家の「家風」でございませんでしたやら――

 さて、口頭試問の済んだ者から次ぎ次ぎと、軍服の寸法や帽子や靴の寸法までも取ります。市内の専門家を呼んで、日当を払って寸法を取らせるのでございます。ここいらが、またいかにも海軍式で、翌年四月、新入生徒に着せる礼装も平素の軍服も、決してレディーメードではなかったのでございます。

 なおついでに申し添えておきまするが、地方の試験場で篩にかかって残った受験生の答案は、その日のうちに書留郵便でそれぞれの学校、即ち兵学校、機関学校または経理学校に発送せられ、各学校では、後日専門の文官教官が改めて正式に採点いたしました。それ故、地方で最後まで残ったことが、同時に学術試験にパスしたことにはならなかったのであります。なおまた、身体検査は学術試験に先立って、全国の試験場で軍医官によって厳密に行われておりました。

 このようにして、学術試験の成績と、身体検査官の「最適」「適」「やや適」「不適」の判定のその上に、憲兵隊の厳重な家庭調査――両親・兄弟・姉妹・親戚縁者友人に及ぶ調査などの資料を揃えて、慎重の上にも慎重を期して選考したのでございますから、将来生徒には屑のいなかったのも、またむべなりとご推察願いたいのでございます。(いわんやそれら生徒の先生においてをや!!)

 さて、試験第三日目の夕方には、いろいろ後始末もあって、一行九名が旅館に引き揚げましたのは午後七時をかなり回ったころでございました。さっそく夕食が運ばれまする。

※海軍兵学校入学試験を行う教官の記述である。受験した私は(76期で江田島に入校した)、学術試験の最終日、武官による口頭試問はありませんでした。

*平賀春二さんは、終戦時、大原分校での教授でした。従って、本校にいた私は、直接教えを受けませんでした。当時、井上成美校長の理念による「英英辞典」をつかつていました。そして、「ユーボート(独)」についての教科書をよまされていましたのを思い出しました。

 第十席海軍兵学校 大原分校閉校余談  P.190~

 不肖私が帝国海軍にご奉公いたしましたのは、兵学校に昭和七年四月から同二十年八月に至る十三年半と、それに呉地方復員局にほぼ一か年、合計十四年半で、私の気持では、日々これ感激、精一杯且つ存分のご奉公で、帝国海軍のおんために青春を傾け尽くしたのでございますから、私のお話がとかく「海軍もの」となるのも、またむべなりとご容赦たわりたいのでございます。もろもろの思い出のうち、最も痛ましいのは、やはり何と申しても終戦時のことでございます。終戦当時、海軍兵学校は生徒約一万四千人、職員千人の大世帯で、これを江田島本校、大原・岩国・舞鶴(機関科系)の各分校、及び佐世保市外の針尾の予科兵学校に、ほぼ等分に収容しておりました。

 海軍兵学校大原分校は、江田島本校の北方約一キロ、山を削り海を埋めて敷地とした新しい学校で、校長挌は海軍少将堀江義一郎教頭でございました。

 昭和二十五年八月十五日正午、教頭以下教官全員、教頭室の隣の部屋に整列して詔勅を拝聴いたしました。しかし録音の拙劣さと雑音のため、玉音がよく聴き取れません。全身を耳にしてあせっておりますうち、私のすぐ右隣の同僚広瀬芳一機関大尉が、直立不動の姿勢のまま大粒の涙を床にぽたぽた落としましたので、ハッと気がつき、そのつもりで拝聴いたしまするうち、ご趣旨がわかってきたような次第でございました。満堂茫然、互に瞳もかわさず、やがて涙を呑んで退室、各自教官室に戻り机に着いて血涙を絞りましてございます。

 翌十六日、日課は平常通り始まりましたが、午後再度武官のみの会議があったようでございます。

 八月十七日、昼休み時間中のこと、菊水の紋章を司令塔の側面に白く描いた小型の潜水艦が三隻、分校の沖を旋回しております。潜望鏡の先端に八幡大菩薩と大書した幟を翻し、乗員がしきりと手を振り声をかけて、兵学校の生徒を励ますが如く、別れを告げるが如く見えました。五、六十人の生徒と共に桟橋に飛んで行って、声を絞り帽子を振って出撃(?)を見送りました。その際私の隣で男泣きしながら潜水艦を見送る熱血の一青年将校がおりました。この将校がどなたでありましたやら、お名前をおぼえておらず、一目お会いしたいものと、その後十数年念じておりましたところ、たまたま東京の東急ホテルにおける防衛大学校第一期生某君の結婚式のみぎり、図らずも式場の受付でそのお方に巡り会いました。同氏もまた会いたがっておられたらしく、それこそ異口同音に「あなたでした!!」あの日の青年将校こそ、今の 上村嵐提督その人でございました。 

 さて、同日午後四時、分校総員練兵場に集合、詔勅の奉戴式が執行われました。つづいて堀江教頭の訓示、全霊を打ちこんだる切々たるご訓示でございました。教官・生徒・定員分隊員。看護婦隊あわせて四千余人、言葉はなくて、ただ低頭落涙、静寂悲壮まさに言語に絶する情景でございました。

 同午後七時、初めて武官文官全員を集めた教官会議が開かれました。いずれも沈痛憔悴の限り、目のみ不気味に光っておりました。まず教頭より教官一同に対して短いながらも悲痛なおさとしがあって議事にはいりました。議題の一つ一つは、私只今、もちろん記憶いたしておりませんが、大体二種類あったと思います。(一)は江田島本校を経て次々と来る海軍省の指令の実施に関する件、(二)は兵学校内の諸問題の処置に関する件で、(二)のうち主なものは、生徒の集団または個々の不慮の行動を、如何にして未然に防止するかという事と、今一つは四千人に近い生徒たちを如何にして一日も早く、しかも無事に親もとに帰らせるかということにあったように思います。

 後者について特に困った問題は、傷病生徒と看護婦の処置でございました。現に病室にいる患者に加えて、呉や岩国の海軍病院から原隊である大原分校へ、重症患者が次々と送還されて来ております。川嶋悌二朗軍医長の報告によれば、引き続き入院治療を要する患者は約二十人、そのうち数人は要担架患者であるとのことでございました。

 平賀教授は、広島県西条町の隣り村の傷痍軍人療養所(広島高等師範学校附属中学校同級生藤井実所長)に移送に奮闘されております。

第十二席 海軍兵学校門標放浪物語 P.238~

 今は昔の江田島の、海軍兵学校の赤黒い門柱の上部にはめ込んであった門標、草書体で

海軍兵学校
と書いた達筆の門標があった。それが多くの人にわたっていた。その所在が確かめられて、平賀さんたちが取り戻した。

 昭和三十一年二月十一日十一時半、広島大学東雲分校校長室において呉地方総監代理をお迎えして行われた。

 終って、宴会場(大学構内にある東雲会館)に移りまして、宴会のサービスには構内の官舎に居住する私の家族に当らせました。

 平賀教授の娘さんが祝賀会の御馳走に手作りの名刺大軍艦旗をたてていた。

 門標の返還及び祝宴の日から一、二か月後、鹿江氏(呉地方復員局、元海軍大佐鹿江隆)から「近日山梨海軍大将が海軍兵学校の事実上の復活を祝い旁々第一術学校をを視察されるので、その機会を利用して呉総監部に保管中の例の門標を術科学校に還納いたしたい。ついては、広島からも誰か還納に立ち会ってほしい」むね電話連絡がありましたので、相談の上岡崎教授にご足労願って、一件めでたく落着しましたので、門標のことなど忘れておりました。

 それから数年後のことです。岡崎教授からまた奇ッ怪なことを聞きました。「門標についてはまだ問題が残っている。先年第一術学校に納めたのは副製品で、本物は江田島の八幡神社に保管してもらっとる」と言うのでございます。私は自分の耳を疑うほど驚きました。門標の還納が行われました。

 第十三席 帝国海軍と私より P.249~301

 私は五十年あまりも教員をしましたが、あのころのような授業ができましたのは、後にも先にも兵学校においてだけでございました。それもそのはず、何しろ生徒はいずれも天下粒よりの俊才、人格高潔身体強健、まさに紅顔純血のサラブレット。孟子に「君子三楽有り。……天下の英才を得て之を教育するは第三のたのしみなり」というのがあるそうでございますが、私はまさに孟子のおことば通り、教育者として、当時最も恵まれた配置にあったと思うのでございます。

 さて、兵学校の教育方針でございますが、各教官及び生徒学生に貸与されておりました「海軍兵学校諸例集」や「海軍諸例集」を見れば、きっと載っておろうと思いますが、私は今そのようなおごそかなことを、ここで論ずる資格も用意もございません。しかし、今ふり返ってえ私なりにこれを要約してみますると

 「授業も訓練も作業も行事も、すべて 天皇陛下のおんため即ち国家のために、海の武人として即応できる人物を作ること」にあったようでございます。この大目標を中心として、同心円で――松の大木の年輪のように――生徒学生の徳性を、知性を、身体のたくましさを、増進するのが、兵学校教育のねらいであったと思うのでございます。この「同心円」という所に御注目願いたいのでございます。同心円、即ち「ひずみのない人物」を作るのが、兵学校教育の一つの特質であったように思うのでございます。ある高僧が「座禅を組むばかりが禅ではありません。掃除するのも食事をとるのも、入浴するのも眠るのも、また禅の修業です」といわれたのを思い出しますが、兵学校でやることは、よしそれが今日のいわゆるレクリェーション的なものでも、生徒学生の人物育成の手段と考えていたようでございます。

 海の武人を養成する学校で、普通学即ち今日の大学のいわゆる教養科目――国語・漢文・外国語・歴史・数学・物理・化学はもちろん、哲学・倫理学・心理学・教育学までも授けて、「兵学を重んじすぎると、下士官教育となる」と警戒していたのも、今さらながら敬服の外ございません。なるほど戦況熾烈を加えるに及んで、背に腹はかえられず、ある程度の改変はございましたが、それでも上の大方針は以前堅持されておりました。現に英語の如きも、終戦の日までつづきましてございます。(中略)

 私に二人の子がおります。上は娘で五十歳、下は野郎で四十一歳、娘は海軍兵学校第七十八期生徒の許に嫁いで二男児の母、二人の孫の内せめて一人は軍艦旗のもとでというのが、私のひそかなる願いでございます。野郎は潜水艦乗りで海軍中佐、諸先輩の驥尾に付してご奉公に励んでおります。この子がどうぞ真実一路、黙々として本分をつくし、出世を願わず、いつまでも縁の下の力持ちをもって自任してくれるようにとのみ念じております。

※彼女は従道小学校の卒業生。Sさんより2級上だった。海軍兵学校第七十八期生徒の許に嫁いだその人は広島県三原市にある三菱重工業につとめていた。

 たいへん長い話になりました。話し来たれば往時芒々ただ懐しく、ご迷惑をかえりみず時を忘れて語らせていただきました。ながながのお付き合いありがとうございました。ありし昔をしのびつつ、昔を今にと念じつつ、ま心こめて語り続けましたる源ない師匠郷愁の講談は、前後合わせて十三席、おな残はつきませぬが、これをもって終講といたす次第でございます。ご静聴まことにありがとうございました。

 皆さまのおん上に神のご加護のいや増さんことを祈りつつ、またのご縁を期待いたしつつ、ひと先ず、高座を降りさせて頂くこととします――。

※『せんだん ―江田島従道小学校の記録―』を読みまして、平賀春二著作を再読、記録を追加しました。

※略歴:明治37年(1904年2月29日)生れ。広島県西条町吉行。広島高等師範学校付属中学校、広島高等師範学校、京都帝国大学卒業。昭和7年4月1日 任海軍教授 補海軍兵学校教官。昭和21年4月21日 呉地方復員局総務部附 依願免本官。昭和23年2月24日 任文部教官、24年8月31日 広島大学教授。42年3月31日 依願免本官。4月1日 任比治山女子短期大学教授。12月12日 広島大学名誉教授。55年3月 比治山女子短期大学退任。

2017.06.12 

 


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従道小学校と海軍兵学校


『せんだん ―江田島従道小学校の記録―』 発行年月日 昭和六一年一〇月二六日 編集発行者 従道小学校同窓会 印刷所 株式会社 盛文社 による。同書の順序に従う。

写真集

 校名の由来・校舎のうつりかわり・江田島海軍兵学校風景・従道小学校の行事・同窓会・記念碑の建立・海上自衛隊第一術科学などの項目別に写真掲載。

従道小学校のあゆみ

  石岡春夫 はじめに 従道小学校は一八九〇年(明治二三)二月一日江田島の海軍兵学校の敷地内に開校した小学校でありまして、旧帝国海軍を養成する目的で海軍兵学校が開校(一八八八年八月)したのに伴い、同校には多くの優れた教官、教授が集められたが、その子弟を教育するために、教官らが俸給の一部を出し合い、ごく小規模な、塾形式の小学校を設置した。当時の海軍軍人・西郷従道のなをとって従道小学校と命名された。

 太平洋戦争敗戦で海軍兵学校が廃止されたのに伴い従道国民学校も一九四五年(昭和二〇)八月末で、自然廃校のたどったのであります。廃校時の職員は八人、在校生は一二〇人でありました。同校には海軍軍人の子弟が多かったために児童の転出入も激しく、開校以来五五年間の卒業生はわずかに三五九人で陸軍関係の済美(せいび)小学校(広島市)と並ぶ異色の小学校でありました。

 学校沿革史

 明治二年九月一八日 東京築地に海軍操練所創立

 明治三年一一月四日 東京築地に海軍兵学寮と改称 二期生山本権兵衛、左近充隼太。六期生斉藤実。

 明治九年九月一日  東京築地に海軍兵学校と改称

 明治一〇年 西南の役、西郷従道海軍大臣となる 

 明治二一年八月一日 海軍兵学校江田島に移転

 明治二三年 私立従道小学校開設

 昭和一八年 広島市済美校並びに広島高師附属国民学校の教育状況を全職員参観す

 昭和二〇年一〇月三一日 従道国民学校廃止となる(制度的に)

 昭和二〇年一一月三〇日 海軍兵学校令廃止

卒業児童累年比較表 P.65

  明治四十五年 三月二十一日  男四  女四  計八

  昭和三年   三月二十一日  男三  女一  計四   

  昭和四年   三月二十一日  男一  女一  計二   谷口真ら

  昭和二十年  二月二十六日  男十一 女十二 計二十三 北林勉ら

管理者、集会所長、理事、後援会長、顧問移動概要

  大正十四年九月十八日  集会所長・海軍中将 谷口尚真

  昭和十六年四月八日   集会所長・海軍中将 新見政一 

  昭和十九年十月二十三日 集会所長・海軍中将 大河内伝七

  昭和二十年一月十九日  集会所長・海軍中将 栗田健男

恩師、同窓生からの寄稿

 昭和元年年から昭和一〇年時代の同窓生

1、遠い思い出  谷口 真(昭和四年卒) P.136

 大正十二年四月、父谷口尚真は練習艦隊司令官から海軍兵学校校長となり、私共家族も父と共に江田島に移り住んだ。長男であった私は従道小学校一年生となった。慶應の幼稚舎に入る予定で制服までつくってもらっていた私は、俄かに小さな学校に入ることになったので、こんなけちな学校に入るのはいやだといって少々父母を手こづらせた。

 担任の先生は西本先生(或は西村先生だったかも知れない。間違っていたら大変失礼なこととお許し願いたい。)という女の先生で、時々お伽話を朗読してくださるのが楽しみだった。同級生は確か四人位だったと記憶する。

 当時の同級生には一級上に山本教授のご長男の太郎さん、一級下にはご次男の外史さん。同教授のお嬢さんの澄子さん、更に五年生か六年生には俵写真館の俵さんがおられたことを記憶している。

 校庭での遊びには帽子のひさしを横にしたり、後にして軍艦ごっこというのがはやっていた。放課後には海岸に近い印刷所のそとに捨てられいる古くなった活字を拾い集めたりした。校長官舎には大きな山ももの木があり、友達と木登りして赤い実をとったことも覚えている。日曜日などには、四、五人で古鷹山に登り、水晶を探すのだといって登山道をはずれたところを歩き廻ったりした。

 夏休みには生徒さん達が休暇で帰省したあとの静かな海で思う存分泳ぐことが出来た。教官方が水泳の指導をして下さった。海の中に組まれた飛び込み台から飛び込んだり、いかだの上で遊んだりしたことも思い出である。

 夏の夜、海岸に出て石段から手を伸ばして海をかき廻すと、夜光虫が綺麗に光っていたことも思い出される。又将校集会所にはテニスコートが三面程あって、教官方がやっておられない空いたコートでテニスをやり、幾分打ち合いらしいことが出来るようになった。

 大正十二年九月一日の関東大震災のニュースは今も覚えている。丁度食堂で昼食をしている時、砂堀軍医長が血相を変えて飛び込んで来られ、大震災のニュースを父に伝えた。父はその直後、学校幹部とあわただしく相談し、東京近辺出身の生徒を家族見舞いのため、一時帰省させるという処置をとった。当時のせいとは第五十二期から五十四期で、五十二期には高松宮殿下、五十三には伏見宮殿下、五十四期には山階宮殿下が在校された。

 私の二つ下の弟、淸は私が三年生になつた時、一年生に入学した。淸は後に私と同様、兵学校に入り、大東亜戦争で戦死した。(山風水雷長、戦死と同時に海軍少佐)

 私は昭和八年、第六十四期生として兵学校に入校、満四年間を江田島で過ごした。日曜日の外出時には子供の頃、お世話になった小林教授、福村教授、三島教授、岡田教授、その他の方々の官舎を訪問したものである。

 昭和十七年十二月、私は榛名分隊長から兵学校教官に変り、なつかしの江田島に赴任した。そして昭和二十年春まで勤務した。従道小学校時代を加えると、実に九年間江田島に住んだことになる。

 昭和五十八年春、兵学校入校五十周年のクラス会を江田島で行った。満開の桜の下、綺麗に整備された校庭のたたづまいを見て感無量のものがあった。 
               昭和六一年三月記

※昭和十七年十二月、江田島に赴任されて、谷口 真海軍大尉は昭和十九年十月私たち五〇七分隊監事として指導された。そして昭和二十年春、一〇五分隊監事。その時私は二号生徒として一〇一分隊に配属された。加陽宮治憲王が一号生徒でおられた。

※参考:谷口尚真

2、二・二六事件 高田正之 (昭和七年卒) P.154    

 私達の先輩に、二・二六事件に参加した、大正十年卒業生、故丹生誠中尉がおられた。

3、 従道小学校の思い出 吉岡英三(昭和十五年卒)P.182

 父親が芸備銀行江田島支店長であった。昭和七年頃、幼稚科に入り、従道小学校入学、卒業。

 昭和一六年から昭和二〇年八月までの同窓生

4、ふるさと”江田島” 北林勉 (昭和二〇年卒) P.226~

 終戦の年 ☆ある日、ひょっこり、加陽宮治憲王殿下がわが家を訪ねてくださった。”虎屋の洋かん”などをよく賜わり、と書いている。

   七月二八日、呉軍港一帯に停泊中の軍艦は、米空母から発進した艦載機の激しい攻撃を受けた。北官舎のすぐ前の海岸に沿うように繋留していた戦艦「榛名」に対しても、群がるようにして襲いかかって来た。小用の山側から海岸へ向けて次々と急降下してくる。「榛名」は、初めは主砲を海側へ向けて敵戦の後ろから追いかけるように撃っていた。れでも敵編隊の真中で炸裂すると、一度に二機ぐらいが白煙を引いて落ちてゆく。戦艦のすごい威力であった。

 しかしながら、敵機の波状攻撃はますます激しく、何回も何回も繰り返され、さすがの「榛名」も被害を受けはじめた。……と思っていたら、もはやガマンの限界に達したか、あの主砲がぐるっと回って島側の上空を狙ったとたん、「ズドンーン」と火を吹いた。爆風すさまじく、わが家は地震のごとく揺れ動き、ガラス戸は今にもとび散らんばかり。

 防空壕の入口に立つて、「榛名」の戦いぶりを覗き見していた私は、その爆風に二~三メートルも壕の奥へと押し飛ばされた。壕の外ではしばらく大きな炸裂音と振動音が交互に続いていたが、やがてその音も遠ざかる感じとなったので、再び壕から出てみると、「榛名」の艦橋の天辺でグルグル回っていたレーダーが吹っ飛んでおり、艦の先端や中央部から白煙があがっていた。

 米艦載機が飛び去って、空襲警報も解除となった後、「榛名」の弾薬庫に火が入って爆発するかも知れないから避難した方がよいとの通報があり、逃げ仕度をしかけたところ、「榛名」が沈没してしまった。といっても、海岸に繋留していたから艦底が砂浜に達して、水面がちょうど甲板の高さになっており、弾薬庫あたりは海水に漬かっていたのであろう。

 艦に乗って戦っていた人たちも次々に下船して来ており、この様子ではかなりの戦死者や怪我人が出たことだろうと、とても心配だった。 

 八月 従道小学校を卒業して呉一中に入学、呉海軍工廠勤労動員。原爆による激震体験。「広島でガスタンクが大爆発したそうだ!」との噂が流れてきた。江田島に帰宅後新型爆弾だと知る。以下略。

※昭和二十年七月二十八日 巡洋艦利根・大淀大破

従道小学校と海軍兵学校 ―海兵に進んだ人達― P.298

 従道小学校が海軍兵学校の校内にあり、然も生徒全員が海軍兵学校の教官、教授、あるいは兵学校関係者の子弟であるという事、また江田島の素晴らしい環境が与えた影響は、在学した生徒に大きなものがあったと思われます。そしてそれが、夫々各個人のその後の人生の進む方向を決めたとも考えられます。(兵学校関係者以外の方々の子供もいました。例えば芸備銀行江田島支店長の子供さん。江田島での開業医のこどもさんなど。)

 従道小学校卒業生又は在学経験者で、その後海軍兵学校に進んだ方が可成りおられるのではないか、また兵学校でなくても、海軍に関係のある道に進んだ方々は多いと思います。

 女性も海軍関係者とご縁のあった方も、多い事と思います。

 従道小学校は、海軍兵学校校内にあった事は、海軍兵学校と共に在り、共に消えた、海軍の歴史の或る一面を荷った小学校であったと、しみじみに考える次第です。

 ちなみに、海軍兵学校に入学された(明治三六年以前は不明)のお名前を記すと下記の通りです。(一部洩れた方もあるとおもいますのでご諒承下さい)

 明治年間の卒業生(在学生も含む…以下同じ) 酒巻 宗孝(海兵四十一期)、東郷 二郎(海兵四十一期)、吉見 信一(海兵四十三期)、富岡 定俊(海兵四十五期)、山岡昭一(海兵四十七期)。五人。

 大正年間の卒業生 正木 生虎(海兵五十一期)、三木 正夫(海兵五十五期)、平田春 生(海兵五十五期)。三人。

 昭和初年より昭和十一年迄の卒業生 谷口 真(海兵六十四期)、谷口 淸(海兵六十六期)。外十人。

 昭和十二年より昭和十七年卒業及び在校生生 海兵七十五期九人、海兵七十六期三人、海兵七十七期十人、海兵七十八期七人

江田島健児の歌

 大正八年兵学校五〇周年記念 第五〇期生徒 神代 盛男 作家、海軍軍楽少尉 斉藤 満吉 作曲 

[江田島健児の歌]

一、 澎湃寄(ほうはいよ)する海原(うなばら)
    大濤砕(おおなみくだ)()るところ
    常盤(ときわ)の松の翠濃(みどりこ)
    秀麗(しゅうれい)国秋津洲(くにあきつしま)
    有史悠々数千載(ゆうしゆゆすうせんざい)
    皇謀仰(こうぼあお)げば弥高(いややか)

二、 玲瓏聳(れいろうそび)ゆる東海(とうかい)
    芙蓉(ふよう)(みね)(あお)ぎては   
    神州男子(しんしゅうだんじ)熱血(ねっけつ)
    わが胸更(むねさら)(おど)るかな
    あゝ光栄(こうえい)国柱(くにばしら)
    (まも)らで()まじ身を()てゝ

三、 古鷹山下水清(ふるたかさんかみずきよ)古鷹山下水清く
    松風(まつかぜ)の音()ゆる時
    明けはなれゆく能美島(のみじま)
    (かげ)紫にかすむ時
    進取尚武(しょうぶ)の旗()げて
    送り迎へん四つの年

四、 短艇(たんてい)海に浮べては
    鉄腕櫂(てつわんかい)(たわ)むかな
    鉄剣(てつけん)とりて(おり)りたてば
    軍容粛々(しゅくしゅく)声をなし
    いざ蓋世(がいせい)の気を()いて
    不抜(ふばつ)の意気を(きた)はばや 

五、 見よ西欧(せいおう)に咲き(かほこ)
    文化の(かげ)(うれい)あり
    太平洋を(かえり)みよ
    東亜の空に雲暗し
    今にして我(つと)めずば
    護国(ごこく)(にん)(だれ)()

六、 嗚呼江田島(あ丶)健男児(けんだんじ)
    機到(ときいた)りなば雲()びて
    漢字(かんじ)天翔け行かん蛟竜(こうりゅう)
    ()(ひそ)むにも()たるかな
    (たお)れて(のち)()まんとは
    我真心(わがまごころ)(さけ)びなれ

※ラジオ体操同好会参加者の一人Sさんから話しかけられて、海軍兵学校の話になる。Sさんの祖父は江田島で開業医。父は陸軍軍医だった。昭和二十年は従道小学校の五年生だった。この本を貸してくださった。

 私たちが海軍兵学校にいた期間、従道小学校の生徒さんを見たこともなく、生徒さんたちとの交わりは一度もなかった。

 読んでいると、谷口 真分隊監事、賀陽宮治憲王の記事、「榛名」が攻撃をうけたこと、原爆などの記事があり記録に残すことにした。

※谷口 真分隊監事、賀陽宮治憲王の記事をとりあげて作成しました。

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東条英機


東条英機(1884~1948年12月23):児島 襄『指揮官』(文春文庫)P.182~194 

 太平洋戦争中、東条英機大将の名前は、日本人の代名詞であった。

 マッカーサー元帥の家庭では、フィルピン産の小さなサルを飼っていたが、そのなは「ㇳウジョウ」。米兵の多くは、戦争中の日本兵捕虜から戦後の戦犯容疑者まで、誰彼の区別なく「ヘイ、ㇳウジョウ」と呼びかけるのが、ふつうだった。

 開戦時から戦争の末期まで首相をつとめた東条大将のな前が、日本人および日本国家の象徴として知られていたからである。ちょうど、ナチス・ドイツがヒトラー総統により、イタリアがムソリーニ首相によって代表されていたようなものであり、そして、東条大将もまた、ヒトラ―、ムソリーニなみに、"独裁者"とみなされていた。

 マッカーサー元帥が日本に進駐してきたとき、まっ先に指示したのは、戦犯容疑者第一号としての東条大将逮捕であり、東条大将が自殺をはかると、検証のためにかけつけた米軍憲兵軍曹と居あわせた新聞記者との間に、次のような問答がかわされた。

「この男の名前は?……階級は?」

「ㇳウジョウ。陸軍大将だ」

「大将? ヘェ。それでいまも大将なのか。違う? それじゃ現職は?」

「面倒くさいな。元独裁者としておけ」

 むろん、日本でも東条大将は"軍国主義の権化"あるいは独裁者とみなされ、極東国際軍事裁判で大将の弁護を担当した清瀬一郎弁護士も、東条大将を「日本一評判の悪い男」と、いっていた。

 だが、東条大将の事蹟をたどるとき、およそ独裁者の名に値するような、いまわしい非情さも発見できなければ、狂信的性格も見当たらない。

 東条英教中将の息子であり、ごく自然に軍人を職業に選ぶ道を進んだ。軍人の家に生まれ、軍人になるのが当然だと、周囲からもいわれ、自分自身もそう思っていたからであるが、大将は幼年学校、陸軍士官学校を、しだいに尻上がりに好成績ですごし、陸軍大学校は首席で卒業した。

 陸大首席は、恩賜の軍刀を受領し、その軍刀は将来の栄進を特徴づけるが、東条大将の場合、その好成績は能力の特質も明示していた。

参考:大正四年(三十二歳)六月歩兵大尉、十二月陸軍大学校卒業、卒業成績は五十六名中十一番。(インターネットによると)

 「努力即権威」──が、東条大将の座右の銘であったが、この座右の銘ほど東条大将の生涯を象徴するものは、ほかにない。

 大将が陸大を首席で卒業したのも、大将に天才や独創的才能がそなわっていたからではなく、ひたすら緻密な勉強をつづけた成果である。ノートをとり、それを整理し、くり返し理解につとめる。その勉強法は、単純だが、大将はいささかの疑問を抱くことなく、一刻もサボることなく、勉学にはげんだ。

 陸大学生といえば、大尉または少佐時代である。年齢は三十歳代の前半がほとんどで、東条大将は二十九歳で入学し、三十二歳で卒業した。ちょうど、青年将校の血気が最も旺盛な時期であり、また大尉、少佐といえば、中隊長クラスとして軍務もいそがしい。

 血気と多忙で、試験勉強も不十分となる。山下奉文大将、阿南惟幾大将のように、四回、五回と受験をくり返す例も少なくない。在学中も、エリートに選ばれた自負心が、理解しはじめた酒の味に強化されて、とにかく"一夜漬け"の試験勉強でお茶をにごしがちだが、東条大将は、一晩といえども精密な予習・復習を欠かさず、ノートをとりつづけた。

 幼年学校からの士官学校出身の将校には、おおざっぱにいって二つのタイプがある。ひとつは、ひたすら勇猛果敢な"戦争屋"タイプに育つ者と、もうひとつは極度に細かい"事務官僚"タイプだ――といわれるが、東条大将がこの後者の典型であったことは、すぐうなずける。

 東条大将の有能ぶりが認められたのは、陸大卒業後、陸軍省副官になったときだが、その好評の根拠は、副官時代に大将が「成規類聚」をすべて読破し、マスタ―した点にある。

「成規類聚」は、陸軍の六法全書のようなもので、陸軍の規律はすべてこの「成規類聚」にもとづく。それだけに、複雑かつ膨大な書物で、ちょうど官庁事務の細部は下級職員の担当になっているように、「成規類聚」と対面するのはもっぱら下士官の仕事であり、エリート将校は、ときに応じて下士官に確かめさせればよい、とされていた。

 ところが、東条大将は、それでは下僚任せになり、結局は統帥の乱れにも通ずる、と判定して、あたかも「六法全書をサカナに酒を飲む」ような態度で、膨大な「成規類聚」の勉強にとり組み、ほとんど暗記するばかりに精通してしまった。

 まず下士官が「こんどの副官は途方もない趣味の持ち主だ」と仰天し、次に同僚もおどろき、上官も目をむいた。小説本や講読本、あるいは修養書とも違う。細かい法規集にそれらの書物なみの興味を注ぐことは、まことに「えがたい模範的官僚」とみなされるからである。

 おかげで、東条大将の精勤ぶりは特記され、未来の軍務局長、陸軍大臣候補と認められた、東条大将にとっては、「成規類聚」の"攻略"は、とりたてて克己の産物ではなかったといえる。

 東条大将の"くそまじめ"は、定評がある。なにかといえば、「まじめにやっとるか」というのが口癖である。そういわれるたびに、甥の山田玉哉少佐などはうんざりして答えたものである。

「閣下みたいにまじめにやれるはずがないじゃないですか」

 碁、将棋、マージャン、トランプ、花札、釣り、その他趣味というものはなにひとつ、ない。映画、演劇に興味を示すこともなく、ただただ軍務に過ちのないように気をくばるのみである。山田少佐は、いう。

「わたしの知っている長い年月のあいだで、たった一度だけ、子供づれで歌舞伎見物をしたことがありました。これは、おじの死に至るまでの人生のうちで、遊びに費やした唯一の数時間といえるものではないでしょうか。」

 女性関係についても、厳格すぎるほどけっぺきであった。大将の妹、つまり少佐のオバさん宅を訪ねたとき、不在だったが、慣れた気安さであがりこみ、女中にビールとうな丼をとらせて帰宅を待ったことがある。そのとき、少佐は退屈しのぎに女中と話しながら、ちょいと手をにぎり、「いやァ、だんだんキレイになるなァ」とお世辞をいった。

 すると、その夜、帰宅したオバさんが通報したとみえ、深夜に東条大将から呼び出しがかかり、かけつけると、いきなり、玄関で「この馬鹿ものッ」と、大将にはりとばされた。

「なにごとですかッ。いやしくも自分は日本帝国陸軍の少佐であります。いかに閣下といえども……」

「なにィ。なにが陸軍少佐だ。このアホめがッ」

 烈火の如き、という形容そのままに、東条大将は山田少佐をどやしつけた。理由は、女中の手をにぎった点にある。なにもキスしたわけじゃないし、手をにぎったくらいで……と、山田少佐は不満だったが、東条大将にしてみれば、慮外の事件である。

「およそ妻以外の女性に接したり、こと女性の手をにぎるなど、帝国軍人の風上におけぬッ」

 謹厳というか、小心翼々というか職務以外に気をそらすことを不忠、罪悪と考えるのが、東条大将の信条である。してみれば、「成規類聚」のマスターなども、それがわが務めと見定めれば、大将にとっては、むしろ、当然の努力の対象になる。

 東条大将にとっては、だから、他人の評価にとまどうおもいであったかもしれないが、いずれにせよ、大将は、卓越した事務家としての声価のなかで、着実な昇進をつづけていった。

 軍隊、とくに平時の軍隊(ピースタイム・アーミー)は、他の官庁と同じ官僚機構であり、その昇進の基準は、まったく一般の官吏と同様に、たゆみない精励と能率による事務処理にかかっているからである。

 東条大将は二年間のスイス、ドイツ駐在後、陸軍大学校教官、歩兵第一連隊長、参謀本部第一課長(編制、動員)、陸軍士官学校幹事(注・幹事は教頭にあたる)、歩兵第二十四旅団長を経て、昭和十年九月、関東軍憲兵司令官に就任した。

「カミナリ(雷)」「カミソリ」「メモ狂」――など、すでに東条大将にたいしてはその抜群の緻密さを認めるアダなが献呈されていたが、大将の「カミソリ」ぶりが一段と顕示されたのは、昭和十一年の二・二六事件にさいしてである。

 東京から事件の連絡があったとき、憲兵司令官・東条少将は満州北部のチャムスにいた。電報をうけた東条司令官は、その夜、ただちに司令部に帰ると、副官・塩沢清宣中佐にうなずくやいなや、パット机上にメモをひろげた。

 塩沢中佐によれば、そのメモには関東軍司令官・南次郎大将の辞任をはじめ、七項目の"粛軍要望事項"が書かれてあったが、東条司令官はそれら要望を関係筋に具申するとともに、とっさに関東軍全体の手紙、電報の発信を停止させ、さらに反乱軍の同情者とみられる軍人、軍属、市民をいっせいに検挙させた。

 二・二六事件の反乱首謀者は、陸軍内部の派閥である"皇道派"に属するといわれ、東条司令官はその対抗グループ"統制派"とみられている。相手方にたいする調査は入念をきわめていたとみえ検挙者は二千数百人にのぼり、新京では収容場所に困るほどであった、と伝えられる。

 が、その迅速かつ大量検挙という措置で、関東軍内部の動揺は未然に防がれ、東条司令官の辣腕にたいする評価は、にわかに高まった。

 東条少将が同年の十二月の定期進級で中将にすすんだあと、関東軍参謀長に栄進したのも、このときの手腕を買われたはずである。

 ──ところで、

 東条大将は、その能力にふさわしく、経歴のほとんどは「デスク・ワーク」の任務であったが、ただ一度、実戦部隊を指揮した。

 支那事変が起こると、関東軍はただちに北支に増援部隊を派遣したが、その部隊が東条参謀長の指揮する"チャハル兵団"四個旅団であった。

 関東軍司令官が不在のために参謀長が指揮したのだが、参謀長の部隊指揮は異例であり、「東条兵団」の呼称が生まれた。そして、「東条兵団」は、張家口から山西省一帯に転戦し、昭和十二年十月二十八日、綏遠方面に進出したところで、蒙古聯盟自治政府の成立を機会に、満州にひきあげた。「東条兵団」の進撃は、とくにその"迅速果敢"ぶりを謳われたが、そのはじめての野戦指揮官としての機会に、東条大将は及第点を獲得するとともに、いかにも東条大将らしい"指揮法"をくりひろげた。

 たとえば、「東条兵団」は北支に進入してまもなく、突然、天候が変わり、九月中旬というのに、しんしんと降雪にみまわれた。まだ残暑シーズンなので、将兵は夏服姿である。参謀が対策を思案するよりも早く、東条参謀長は「なんでもいい、冬服を調達せよ」と、周辺の部落から綿服、下着を買い集めさせた。

 また、兵の食事に気をくばり、必ず兵と同じ食事を用意させた。急進撃のために補給部隊が追いつけない、現地調達の糧食は粟がせいいっぱいである。

 幕僚、当番が努力して、なんとか参謀長には米飯を提供しようとしても、東条大将は承知しない。ちょっと変った料理でも出ようものなら、ジロリと副官をにらんで質問する。

「これは兵と同じものか」

 右手が静かに胸ポケットに近づくのは、例のメモを取りだすためであろうか。副官としては、調査ずみだと思うのでウソはつけない。「じつは……」と頭をかくと、「下げろ、兵食をもってこい」とカミナリがおちる。

 軍紀も厳正で、とくに女性問題については、容赦なく軍法会議にかけて厳罰に処した。おかげで中国市民も「東条兵団」には好意を示したが、また、東条大将は有名な大同郊外の雲崗石仏の保護に、特別の配慮を示した。

 無趣味な東条大将にとって、石仏の芸術的価値は不明だが「世界的一級品」という世評は、大将が好む権威に通ずるからである。

 しかし、幕僚たちにとって東条参謀長が野戦指揮官もつとまるとなっとくできたのは、野戦病院の視察がきっかけであった。それまで、東条大将の部下おもい、とくに涙もろさはしばしば語り草になっていた。なにしろ、負傷兵の話をすれば涙ぐみ、その家族の窮状を聞けば、即座にポケットの俸給袋をなげだすのである。

 博愛もよいが、もし戦場の傷兵を見たら、そんな細かい神経では作戦指揮もにぶるのではないか――と、幕僚たちは、「東条兵団」が進み、東条大将が病院視察を提案すると、なるべく重傷兵を目にとどめさせぬよう、病院関係者に手配した。

 しかし、重傷者を隔離するわけにもいかず、東条大将はやがて、血に染まり、うめく重傷病棟の中で立ちすくんだ。はたして顔面蒼白となっていたが、「勇を鼓した」ようすで見舞いをつづけて、幕僚たちをホッとさせた。

 東条大将は昭和十三年五月、陸軍次官、同年十二月、航空総監となり、昭和十五年七月、近衛文麿内閣の陸軍大臣となった。

 相変わらず、「まじめにやっとるか」の口癖であったが、陸相としてのモット―は「骨肉の至情」と「統制」であった。とりわけ、公人としての東条大将が重視したのは、ひたすらなる「統制」であり、その内容は指揮系統と手続きの完全な保持にあった。

 したがって、いやしくも上下の命令関係を乱すような行動にたいしては、いささかのしんしゃくもなかった。その典型例として、北部仏印(現在の北ベトナム)越境事件が指摘できる。

 重慶の中国・蒋介石軍にたいする援助ルートを遮断するため、北部仏印に兵力を進駐させる計画がたてられた。フランス植民地なので、現地機関と平和進駐の交渉がすすめられているうちに、現地にむかった南支那派遣軍参謀副長・佐藤賢了大佐と参謀本部第一部長・富永恭次少将らの独断に近い措置で、日本側の一方的武力進出という形になってしまった。中央との連絡不十分による手違いという要素もあったが、東条陸相は「統帥権越権」とみなして、南支那派遣軍・安藤利吉中将、第二十三軍司令官・久紊誠一中将、第五師団長・中村明人中将その他関係者を、ずらりと予備役に編入し、富永少将、佐藤大佐も処分した。

 もっとも、富永少将、佐藤大佐はじめ関係者の相当数は、やがて昇進と復活の機会を与えられている。東条流の「骨肉の至情」の現れともいえるのだろうが、いずれにせよ、こういった東条大将のもの堅い執務ぶりは、大言型、壮語型の多い陸軍内で傑出した存在と認められた。

 昭和十八年十月、近衛内閣が倒れたさい、東条陸相が後継首班に推薦されたが、その強力な推薦者である木戸幸一内大臣は、近衛首相について、「非常な秀才だが、なにしろボクらと違って実務の経験がなかったからね」と回想している。

 つまり、木戸内大臣は、東条大将の「綿密な実務家としての資質と、統制維持に示す勇気」とを評価して、陸軍の"暴走"を抑えうるのは、東条大将以外にないと判断して、首相に推薦したのである。

 そして、木戸内大臣の眼力は正しかったと思われる。

 東条首相が実現すると、天皇はとくに東条大将にたいして、国策の再検討を指示された。九月六日の御前会議で、対米戦決意が決定され、近衛内閣が倒れたのも、早く決意だけでなく開戦決定せよ、という陸軍、つまりは東条陸相の申し入れに困惑したためである。そこで、天皇はなお対米和解の道を探すべく、いま一度の努力を東条大将に求められた。

 東条大将は、「忠節の臣」を自任している。異議なく"聖旨"にしたがい、対米政策の再検討をはじめたが、陸軍内部にはたちまち首相批判の声がうずまいた。陸相として内閣打倒にまで開戦を主張したのに、首相になると意見をかえるとはなにごとか。「変節したのか」――と、老若をとわず将校たちは憤激した。開戦の用意もすすんでいた。

 しかし、東条首相兼陸相は、上司に反対する者は処断する。この強硬態度を示した。だが、東条大将個人では、なにがなんでも開戦を阻止することはでなかった。

 大将は立場を重視する能吏である。したがって、十分と思われる手続きを経て多数意見が一致した事項については、大将はその事項にたいする自己の権限を考え、統制を乱さない決定を下すことを心がける。そして、大将はいうまでもなく軍人である。

 その意味で、開戦時の勝利に確信があり、一方では軍部内の士気高揚を前にした当時、一戦もまじえずに仏印はおろか、支那、満州も手ばなせという米国の条件をのむことは、大将にとって苦痛、いや文官閣僚の多くも開戦やむなしという環境では、不可能と判断したのであろう。

 いいかえれば、実務に通じ、実務の規律を重んずるがゆえに、蛮勇よりはその規律に添う決定を好む──という官僚的思考が、東条大将の開戦決定の基礎を形成していた、といえる。

 だから、木戸内大臣が期待した大将の気質は、着実なるがゆえに積極論をおさえ得ない要素を含んでいたわけだが、東条大将は、結局開戦にふみきり、開戦後はますます、まじめ、かつ実直に職務にはげんだ。

 戦時中の東条大将については、あるいはゴミ箱を視察したり、憲兵を使っての思想統制など、その言動にたいする批判が多い。

 しかし、大将にとっては、ゴミ箱をのぞくのは、市民生活の内容を探りたいというまじめな希望からであり、憲兵による警戒も要するに「国家全体の統制」のためにほかならず、私欲は、ない。

 昭和十九年二月、東条大将は陸相とともに参謀総長も兼任した。陸軍内部が陸軍省と参謀本部、いいかえれば軍政(行政)と軍令(作戦)の二本立てになっている非能率さを是正しよう、という行政家らし発想であった。

 参謀総長、杉山元大将は反対した。作戦が政治にひきずられてはまずい。ドイツのヒットラー総統の場合も、作戦に口出ししすぎて、スターリングラードの悲劇を招いた、という。東条大将は憤然として答えた。

「ヒ総統は兵卒出身、自分は大将である」

 江戸時代の将軍なみの権力をにぎろうとするのか、という批判もあった。しかし、東条大将のように、ひたすら統制を考え、実務以外には趣味も思想も幅せまい場合、組織の変革はすなわち権力機構の集中化と判断するのも、自然であるかもしれない。

 その意味で、もし東条大将に批判が寄せられるとすれば、その焦点は大将が与えられた地位の不適当さにおかれるべきであろう。

 大将は、戦争犯罪人として、昭和二十三年十二月二十三日未明、巣鴨拘置所の絞首台で六十四歳の生涯を終えた。判決前、大将は夫人に、

「巣鴨で宗教を勉強できて嬉しい」

 と語ったが、あるいは大将にとっては、この非命にそなえる勉学が、生涯で唯一の趣味に似た楽しみであったかもしれない。

※児島 襄『指揮官』上(文春文庫):山本五十六~栗田健男~大西滝次郎~阿南惟幾ら十四人の列伝。
     『指揮官』下(文春文庫):ダグラス・A・マッカーサー~アドルフ・ヒトラーら十三人の列伝。

2020.09.09 記。


35
阿南惟幾


阿南惟幾(1887~1945年8月15日):児島 襄『指揮官』(文春文庫)P.195~221 

 ――昭和二十年四月七日、太平洋戦争最後の内閣、鈴木貫太郎内閣が成立した。。

 その夜、親任式を終えると、閣僚は首相官邸玄関で記念写真を行ったが、カメラを構える報道陣は、ふと首をかしげた。

 内閣の記念写真とあれば、首相を中心に主要閣僚が前列にならぶのが慣例である。そして、当時、主要閣僚といえばまず陸、海相を指す。ところが、米内光政海相は首相の横にいるのに、陸相阿南惟幾(あ なみ これちか)は向って左列最後尾に、ひっそりと姿勢を正している。

 しかし、閣僚の配置に異常を感じたのは、一瞬である。異常といえば、すでに戦局はその一週間前、四月一日、沖縄に米軍第十軍十八万人が殺到し、日本本土も連日の空襲下におかれている。非常時などという戦時用語も月並みに感じられる"異常時"に生活していたそのころである。報道陣はとっさにカメラのシャッターうを押すと、忙しげに走り去っていった。

 だが、阿南陸相の位置には、意味があった……。

 もし、閣僚内の位置を問題にするなら、ときの陸軍大臣こそ最重要位にあったといえる。当時、すでに海軍は戦力を失っていた。国民にはまだ公表されなかったが、その日、海軍最後の出撃部隊である戦艦「大和」以下は、沖縄に向かう途中、九州南端坊岬の二百九十度、九十マイル沖で米艦載機群に撃沈されていた。もはや、敵の沖縄攻略を防止する手段はなく、やがて日本本土来攻を迎えるのは、特攻機と陸上兵力以外には期待できなかった。

 してみれば、鈴木内閣において最も重視されるべきは、全陸軍の軍人、軍属を統督する陸軍大臣である。その重責と栄誉を自覚するならば、阿南陸相が鈴木首相と肩をならべて胸をはるのが、当然であったといえよう。

 それに、阿南将軍個人の立場からいっても、陸相就任はまことに祝うべき家門の誉れであった。おそらく阿南将軍が大将、大臣にまで累進すると予測した人は、陸軍部内でも少なかったに違いない。

 士官学校の成績もとくに優秀ではなく、陸大は卒業しているが、その入学試験には三回も落第している。もっとも、頭脳が劣っていたというのではない。中央幼年学校生徒監を勤めながらの試験勉強が不足がちだったためと、口試の作戦考査でつねに慎重にすぎるとみなされたのが、主因といわれる。

 それにしても、三回も落第し、なお受験をあきらめずに四回目に合格したのは陸大史にも稀有の例である。母堂の激励があったためといわれ、同時に阿南将軍の不撓の根性を物語るエピソードだが、いずれにせよ、陸大卒業後の阿南将軍の歩みは地味だった。 

 陸大卒業が大正七年、その後参謀本部員、サガㇾン派遣軍参謀、歩兵第四十五連隊留守隊長、侍従武官、近衛歩兵第二連隊長を経て、昭和九年八月、東京幼年学校長に就任した。 

 当時、幼年学校長はいわば閑職視され、陸大出身の大佐が迎えられるポストとはみなされなかった。同期の山下奉文将軍などは、すでに陸軍省軍務局軍事課長を経て、阿南将軍の校長就任と同じ八月、少将に昇進している。阿南将軍を知る友人、先輩の中には、校長就任を「陸軍最高の人事だ」と讃える向きもあったが、一般的には阿南将軍の"出世"もこれでおしまいとみられた。

 その阿南将軍が、にわかに栄達の道をたどることになったのは、二・二・六事件のおかげである。 

 事件を機会に陸軍部内の派閥解消がはかられたため、俗にいう統制派、皇道派その他いかなる派閥にも属さない阿南将軍の存在がうかび上った。二・二・六事件が発生した昭和十一年の八月、陸軍省兵務局長に登用されると、翌十二年三月人事局長、そのあと第百九師団長を経て昭和十四年十月、畑俊六陸相の下に陸軍次官、さらに第十一軍司令官、第二方面司令官を歴任して昭和十八年五月、大将に進んだ。

 そのころには、かつて一年遅れがつづいた山下将軍との差もちぢまり、山下将軍の大将進級におくれること、三ヵ月だった。その十一月、第二方面軍を率いて西ニューギニアに転進し、昭和十九年十二月、航空総監兼軍事参議官として帰京したあと、いま、陸軍大臣の座についたのである。

 もっとも、阿南将軍にたいする陸相の呼び声は、その前から高かった。陸軍次官を辞任したのが、米内内閣(1940年1月16日~940年7月22日)が倒れて第二次近衛(1940年7月22日~1941年7月18日)内閣に移るさいだが、そのとき陸軍省内ではほぼ一致して新内閣の陸相に阿南将軍を望む意向が強かった。東条内閣の末期、その人気が悪化するや、柳川平助将軍を首相、阿南将軍を陸相にとの声が起り、また東条内閣退陣のあとをうけて小磯・米内内閣が成立するときも、小磯首相は「山下または阿南」を陸相に要望している。さらに、その小磯・米内内閣の声望が低下すると、陸軍内部には"阿南首相"説さえ擡頭(たいとう)した。同内閣のあとの鈴木内閣においては、新陸相には阿南将軍以外のな前は提議されなかった。 

 全陸軍の輿望をになって――と、当時、阿南陸相の登場が形容されたゆえんであるが、それにしても、その将軍に寄せられた輿望は、かつて他の将軍に捧げられた期待の歓声とは、大いに質を異にしている。 

 昭和陸軍史は、同時に軍閥史でもあるともいわれる。そして、軍閥の中核となったのは、主として昭和四年五月に結成された、次のような「一夕会」のメンバーであった。 

 (カッコ゚数字は陸士期) 

 [14] 小川恒三郎

 [15] 河本大作、山形重厚

 [16] 永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次、小笠原數夫、磯谷廉介、板垣征四郎、土肥原賢二 

 [17] 東条英機、渡久雄、工藤義雄、飯田貞固 

 [18] 山下奉文、阿部直三郎、中野直晴

 [20] 橋本群、草場辰巳

 [21] 石原莞爾、横山勇 

 [22] 本多政材、北野憲三、村上啓作、鈴木率道、鈴木貞一

 [23] 清水規矩、岡田資、根本博 

 [24] 沼田多稼藏、土橋勇逸 

 [25] 下山琢磨、武藤章、田中新一

 いずれも俊秀をうたわれ、あるいは権謀に長じ、攻略に手腕をふるった将校たちであり、のちに首相になった東条将軍を筆頭に、中央では軍務局長、軍事課長、作戦部課長と省部(陸軍省、参謀本部)の枢要地位を占め、前線に出ては総司令官、方面軍司令官、参謀長をつとめた"要人"群である。

 そして、これらエリートは最初は同志的結合でスタートしながら、やがて分派し抗争し合い、その形づくる"人脈"が軍閥のなを得た次第であるが、阿南将軍はもともと「一夕会」にも迎えられず、つねにその圏外に位置していた。 

 およそ自己顕示欲に乏しく、軍閥人とは異質のタイプだったからである。

 おそらく、阿南将軍ほど逸話の少ない将軍も珍しいかもしれない。兵務局長、人事局長、さらに軍司令官と顕職を経ながら、そのいずれの職場でも、きわだった切れ味を示した事蹟は見当たらない。 

 ただ、太平洋戦争開幕とともに、第十一軍司令官阿南将軍が進言し実施した第二次長沙作戦は、将軍の武将としての真価を発揮したものといえる。この作戦は、味方の劣勢を承知であえて重慶軍大兵力を牽制し、南方攻略を有利にしようとするもので、将軍の慎重な中にも放胆な指導によって、重慶軍の主力十二個軍を釘づけにする成果をおさめた。 

 将軍自身も、この戦闘は自慢とみえ、その後竹下中佐ら若い将校と盃をあげるたびに話題にした。ひとくさり経過を語ると、戦闘における勇往邁進の必要を説いて、楽しげに叫んだ。「いいか。ドンドン行け、ドンドン、ドンドン行け」。 

 タバコは吸わず、酒を飲んでもこの「ドンドン」を口走るか、ときに調子はずれの軍歌を披露するだけ。しかも、昭和十八年三月、敬愛する母堂が死ぬと、それを機会にほとんど盃を手にすることもなくなった。 

 実直一途の軍人だったわけであり、将軍が重用されたのは、もっぱらその人格によったといえるが、この人格に関する限りは、阿南将軍は群を抜いていた。

 母堂にたいする孝養の心は篤く、前述のごとく、その死を悼んで禁酒を心がけたほどだが、生前も年末、年始などことあるごとに袴姿に威儀を正して母堂にあいさつを欠かさなかった。 

 夫婦仲の良いこと、家庭を愛することも定評があった。後輩の本多政材(ほんだ まさき)中将は、将軍を評して"一穴居士"と称した。

 将軍は綾子夫人との間に五男二女をもうけたが、末子惟道氏の誕生は第十一軍司令官時代、将軍五十四歳のときである。とかく"多穴"をもって武威の一部とみなしがちなのが当時の軍人社会である。その中にあって、絶えて浮きなを残さず、夫人一人を愛しつづける阿南将軍の姿に、おそらく本多中将は、多少の口惜しさと羨望の念をこめて、その称号を献上したものであろう。 

 将軍の子ぼんのうもな高い、次男惟晟少尉が昭和十八年、中支常徳作戦で戦死すると、折柄、南方転出の途中マニラでその報をうけた将軍は、ひとり愛児の写真の前に祝宴用のまんじゅうをそなえて冥福を祈った。遺品の軍刀が送られてくると、将軍はそれまでの太身の佩刀を少尉の細身の刀に代え、つねにわが子を側におく心境を維持した。

 大声をあげたことも、他人を叱ったこともほとんどない。夫人は、実家(竹下平作中将)と思いあわせ、こんなに静かな軍人もいるものかと、「ちょっと奇妙に感じることさえあったくらいで」と回想する。夫人の記憶では、運転手が夫人の母堂に非礼な言をはいたとき、「ワレガネのような声でどなった」のが、ただ一度見た将軍の怒りだった。 

「温容玉の如し」「内剛外柔」「挙措端正」「公平無私」と、将軍に寄せられる論評はつねに一致しており、将軍も求められれば「法と義>」を説き、「徳義は戦力なり」の信念をひれきして変わらなかった。 

「乃木大将に似ている感じだが、もっと柔かい。知将でも勇将でもない。強いていえば"徳将"というのが、阿南さんに一番ぴったりな気がする」 

 岩田正孝氏(元中佐、旧姓井田)の阿南評だが、阿南将軍にたいするたびたびの重用そして非勢を激化した戦争終期に陸軍がこぞって寄せた輿望の根拠も、まさしく将軍の"徳将"性にほかならなかった。 

 すなわち、それまでの歴代陸相は、あるいは先任将官のゆえに、あるいはその政治的手腕を期待され、あるいは内部実力派の意のままに操縦し易いがゆえに推戴されることが多かったが、いまや国家および軍の危急に際して陸軍が求めたのは、何人も非をうち得ぬ無比の人格以外でなくては、全軍統督の実を発揮できないと見定めたからである。 

 その意味では、いわば陸軍は軍閥政治のゆきづまりに最も反閥的、反政治的な将軍にすがった形となり、阿南将軍の陸相就任は、国難と混乱を予想される時代だけに、いっそう皮肉な登場といえるであろう。 

 だが、期待と観測と四囲の状況がどうであれ、阿南将軍は変らざる"徳義の人"であった。 

 鈴木内閣の記念撮影においても、その篤真さはにじみでた。国軍をになう陸軍の統領としての栄誉と責務は重い。その重みを感ずれば感ずるほど、将軍は「得意淡然、失意泰然」の心境を固める。そして将軍は五十八歳、鈴木首相や米内海相をはじめ閣僚の多くは、将軍よりも年長である。長上者にたいする敬意をモットーとする将軍としては、身にせまる重責感とともに、後方に占位するのはむしろ自然だったのである。 

 ところで、こうした人格を"買われて"就任した陸相ではあるが、阿南将軍自身、その椅子がたんに人徳の温かみだけではどうにもならないほど、坐り具合が堅く困難のものであることは、承知していた。

 阿南将軍の入閣にあたって、陸軍は鈴木内閣に次の三条件を提示していた。

 ①飽くまで大東亜戦争を完遂すること。 

 ②勉めて陸海軍一体化の実現を期し得る内閣を組織すること。 

 ③本土決戦必勝の為、陸軍の企図する施策を具体的に躊躇なく実行すること。 

 ずいぶんと高飛車な調子であり、ここにも当時の"実力者"陸軍の自負がうかがえる。 

 だが、阿南将軍はこれらの条件のうち、②については入閣前にさんざん論議されたあげくに結論を得なかった経緯も知っている。③についてもいわば要望的程度である旨を、入閣直後、米内海相に説明したと伝えられていた。 

 いや、阿南将軍も戦局の前途が楽観を許さず、むしろ機を見てできるだけ有利な終戦をはかるべきだと考えていた。 

 たとえば、第二方面司令官時代、南方からときの重光外相に終戦の建議を行ったこと、入閣後の五月の最高戦争指導会議構成員会議(鈴木首相、米内海相、阿南陸相、梅津参謀総長、及川軍令部総長)で、ソ連による平和仲介工作を決定したこと、そのときは、①ソ連との中立関係維持、②ソ連の好意的中立確保、③ソ連に和平斡旋依頼の三施策にわけ、第三項は留保していたが、六月二十二日、とくに陛下の終戦督促のご指示にたいしては、全員第三項発動を認め、阿南陸相も異議ない旨を奉答している。

 したがって、阿南将軍にも終戦然るべしとの情勢判断があったことは明らかだが、問題は終戦の条件である。六月二十二日の奉答にさいしても、「功を急ぎて我が方の弱みをばくろしてはなりません」とつけ加えている。

 この点は、次官若松只一中将の次のような回想でも、裏書きされる。

「また七月中旬、私が陸軍次官として着任後、大臣の本土決戦構想をたずねたところ、徹底的水際戦闘方式であり、水際で敵に殲滅的大打撃を与える。目的は有利な条件で終戦のチャンスをつかむことにあると、明快に答えられた」

 また、東郷茂徳が米英支三国がポッダム会談を開くことを知り、外交の優位を確保するため、その前に「尠(すくな)くとも敵の機動部隊を捕捉して一大打撃を与えてもらいたい」と述べたことがある。 

 このときも、阿南将軍は同感し、本来、大臣は作戦については干渉がましい態度はとらない建前にも拘わらず、とくに航空総軍作戦参謀を招き、「本土決戦を考えなくてもよい、陸軍航空の主力をもって、敵艦隊を攻撃することはできぬか」と指摘している。 

 阿南将軍は、沖縄戦のさいも全陸軍航空兵力の投入による一勝を強調しているが、それでは将軍がいう終戦の"有利な条件"とはなにか。 

 国体の護持、すなわち皇室の存続がその最大のものであることは明白だが、そのほかの点は、記録による限り不明である。将軍は、ドイツ降伏(五月)、沖縄戦終結(六月などの情勢悪化に伴う首脳会談で、しばしば見解を述べているが、いずれも「いま一度勝ちどきをあげて戦争終結をはかるべし」と主張し、「それではますます敗戦の深みにはまるばかり」という米内海相、東郷外相と対立をくり返した。 

 あるいは、その段階では、まだ阿南将軍にしても、なにを捨てなにを守るべきか、明快な判決を下していなかったと思われるが、将軍にははっきりと自己の立場を自認させたのは七月二十六日のポッダム宣言である。

 ポッダム宣言は、いわば日本の「無条件降伏についての条件」を示したもので、保障占領、領土縮小、武装解除、戦争犯罪人処罰が主項目となっていた。 

 この宣言については、大西軍令部次長ら統帥部の強硬意見におされて鈴木首相が"黙殺"声明を発し、一方、宣言にソ連のながないことを頼りに、なおソ連の斡旋を期待するうちに八月六日、八日の原爆攻撃、ソ連参戦を迎えることは、よく知られている。

 九日はまずソ連参戦のニュースが入り、最高戦争指導会議構成員会議が開かれた。議題は、むろん"ポッダム宣言"の取扱いである。会議は午前十一時近くから午後一時まで続き、その間に長崎に原爆投下の報告がもたらされたが、六人はポッダム宣言の条件つき受諾には同意した。 

 しかし、その条件で意見がわかれた。国体護持を第一保留条件とすることには、全員が一致したが、ほかにも条件をつけるかどうかで、片や東郷、米内、片や阿南、梅津、豊田(軍令部総長、五月及川総長と交代)の二つのグループが対立した。前者は、それ以上の条件はかえって交渉決裂を招くと強調し、後者は①保障占領地域の制限、②自主的武装解除、③自主的戦犯処理の条件をつけよ、と主張した。 

 東郷外相は、条件を伝えて相手に蹴られた場合はどうする、と質問し、そのときは最後の一戦をまじえるとの回答にたいして、さらに「勝つ自信があるか」と反問した。 

 そして、「うまくいけば上陸軍を撃退できる。しかし、戦争だからうまくいくとばかり考えるわけにはいかぬ」という梅津参謀総長の返事に、「では戦えばそれだけ日本は不利になる」と首をふり、さらにそのあとに開かれた閣議では、阿南陸相と米内海相が次のようにまっこうから激論をたたかわせた。 

「陸相」 戦局は五分五分である。負けとはみていない。 

「海相」 科学戦として武力戦として明らかに負けている。局所局所の武勇伝は別であるが、ブーゲンビル戦いらいサイパン、ルソン、レイテ、硫黄島(いおうしま)、沖縄島皆然り、みな負けている。 

「陸相」 海戦では負けているが戦争では負けていない。陸海軍間の感覚がちがう。 

「海相」 敗北とはいわぬが、日本は負けている。

「陸相」 負けているとは思わぬ。 

「海相」 勝つ見込みがあれば問題はない。

「陸相」 ソロバンでは判断できぬ。とにかく国体の護持が危険である。条件つきにて国体が護持できるのである。手足もがれてどうして護持できるか。

 米内海相の考え方は、はっきりしている。海相は、かつて開戦前の重臣会議のとき、「ジリ貧を恐れてドカ貧になることなかれ」と述べたが、いまやそのドカ貧を目前にしている。一日も速かれ戦争終結をはかれ、というのである。

 これにたいして、阿南将軍の見解も明快である。

 ――まず第一に、海軍はすでに出撃すべき艦艇は皆無に近く、戦うにすべもないかもしれぬが、陸軍はなお外地に二百七十万人、国内に二百二十万人の兵力を持つ。たしかに島では負け、空襲も激化している。しかし、陸軍としてはまだ本当の戦をしておらぬ。本土決戦こそ、その戦いであり、国民もそのさいは奮起するであろう。     

 ――第二に、戦争は味方が苦しいときは敵も苦しい。もはや退却というときに、突然敵が退散することは、戦場では珍しくない事例である。なによりも、戦意を失わぬことが肝要である。

 ――そして第三に、それでも終戦をしなければならぬなら、国体護持の保障だけは確認すべきである。保障占領の制限、戦犯処罰および武装解除の自主的遂行も、要するに最小限の国権を維持せんとするのである。それもなく、ひたすら無条件に頭を下げるのでは、たとえ国体護持の条件を相手がのんだとしても、その履行に信頼はおき難い……。

 すなわち、米内海相がもっぱら国政の責任を持つ天皇輔弼者(大臣)の立場を強調しているとすれば、この阿南将軍の主張は、同じ輔弼者としてのほか、全陸軍の統領として、さらに一人の武人としての三つの立場を基礎にしている。

 阿南将軍は、この三の立場を守ることこそ臣子の務めと見定め、それにかなう四条件つき受諾説をとなえたのだが、将軍の主張は九日夜から十日午前三時までつづいた御前会議において、聖断により否決された。天皇は、天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下にという条件だけをつけて受諾する外相案を採用され、外相案は直ちに連合国に通報された。

 御前会議における阿南将軍の反対意見は、気魄にみちていた。「温容玉の如し」と形容された将軍だけに、語気鋭く、あるいは怒髪天をつくといった様子はみじんもなく、むしろその声音は沈痛に低く、ふるえがちであった。

「天皇の国法上の地位確保の為には自主的保障なくしては絶対に不可であり、臣子の情として、わが皇室を敵手に渡して、而も国体を護持し得ると考えられず」

 将軍はさらに、このままの降伏ではアジア解放を叫んで開始した戦争の意義を見失う旨を指摘したあと、ひたと眼をすえて言った。

「最後に重ねて、ソ連は不信の国なり、米(国)は非人道の国なり、かかる国にたいし、保障なく皇室を敵に委することは絶対反対なり」

 天皇は、しかし、「これ以上国民を塗炭の苦しみ陥れることは忍びない」といわれて、外相案を指示されたのである。

 いわば、将軍の"臣子の情"にたいして、天皇は"君主の情"をもって答えられたわけだが、ここにおいて阿南将軍の立場は微妙にならざるを得なかった。

 当面の措置については明確に判断できる。全軍の戦意の維持である。聖断は、ポッダム宣言にたいする条件付与を定めた。したがって、相手の回答いかんによってはなお戦争継続の可能性がある。阿南将軍が十日朝、陸軍省防空壕に幹部を集めて、聖断に不服の行動をとろうと思う者は「まず阿南を斬ってからやれ」と軽挙をいましめるとともに、一致団結の下に和戦両様体制の堅持を強調したのも、さらに全軍将兵に徹底継戦の覚悟を促す大臣訓示を布告したのも、いずれも将兵の士気低下の防止のためである。

 だが、これは陸相としての行政的施策にすぎない。さらに、陸軍五百万の統督として、忠誠なる臣下として採るべき手段が問題である。

 ポッダム宣言につけた条件について、相手の回答は三様に考えられる。受諾、拒否、あるいは不十分な内容または新提案の三つである。受諾ならばよい。しかし、拒否または新提案でも、政府がそれを受け入れ、陛下もまたご承知になった場合はどうするか。

 ①承詔必謹。

 ②すでに聖断は下ったが、なお意見を具申する。

 ③いわゆる和平派を斥け、廟堂の空気を一新し、もう一度聖断を伺う。

 思い浮かぶのは、この三種類の行動である。このうち、第三の行動はクーデターの性格を持つ。阿南将軍は幼年学校長時代、二・二六事件にさいして、反乱軍の行動を統帥を乱すものと激しく批判する訓示を行っている。

 だが、阿南将軍が信奉する平泉澄博士の学説は、法と義を説き、大義は法の優位にあるとも説いている。たんなる一部の反乱ではなく、全軍一致の諫言行動であれば、それは"義挙"として聖意にもかなうものであるまいか。

 阿南将軍は、政治家ではない。胸中深く根を下ろしているのは、ただ陛下の忠良なる兵士たらんの一念である。皇室あっての国家か、それとも国家あっての皇室か、といった種類の論議が、閣議で交わされたが、阿南将軍にとっては、国家イコール天皇である。その天皇を守るのが兵士のつとめであるならば、可能な手段のすべてをつくすのが義務でもあろう。

 したがって、阿南将軍は十二日朝、義弟竹中中佐ら軍務課員を中心とする青年将校が作成した第三の行動計画に接すると、必ずしも全面的に拒否する態度は示さなかった。

 計画は、陸軍大臣の権限である警備上の応急局地出兵権を利用し、宮城、東宮御所、各官邸、総理官邸、各大臣官邸、各重臣邸、放送局、陸軍省、参謀本部その他を東部司令官、憲兵司令官に占拠させようというものである。

 阿南将軍は、この計画にも、宣言受諾を阻止できなければ、「切腹すべきである」との竹下中佐の強硬意見にも直接答えず、全軍一致を重ねて強調した。

 この日、阿南将軍は人事問題に関して上奏したが、そのさい国体護持について将軍が不安を言上すると、天皇は、かつて侍従武官時代に将軍を「アナン」と呼ばれたそのままの口調で、話された。

「阿南(あなん)、心配するな。朕には確証がある」

 将軍は、はっとしたように天皇を見上げたが、連日の苦慮にやつれながら、かすかに微笑されている天皇の視線をうけると、静かに頭をたれた。

 確証……と、天皇はいわれる。だが、連合国回答は、天皇の地位は連合国最高司令官の権限に従属する>(サブジェクト・ツー。外務省は"制限の下に置かれるものとす"と訳したが)、将来の日本国政体は「自由に表明された国民の意思による」と述べている。

 あるいは、国体はしょせんその国民がきめるもので、いかに占領軍といえどもその意思を左右しきれるものではない。そして、そうなれば、国民の皇室尊重心を信頼できるかもしれぬ、だが、いったん占領されては、占領下の国民の"自由意思"など思いのままにでっちあげられるのではないか。まして、最初から天皇の地位を占領軍司令官の下におくという……。阿南将軍には、天皇がいわれる"確証"に根拠があると思えなかった。

 その後二日間、阿南将軍は慎重な努力をつづけた。将軍がなにを考え、またその考えにどんな変化があったかを伝える記録はない。しかし、将軍はこの間、とくに松岡洋右元外相、三笠宮殿下、木戸内大臣、畑俊六元帥に会っている。

 おそらく、阿南将軍としては、なんとしても皇室の安全にたいする不安を消し難く、場合によっては非常手段をとる考えも捨てきれなかったのである。そして、そのためにも松岡洋右元外相らになお外交手段の余地なきやを問うて、残る三者に支持を求めようとしたのであろう。なぜなら、将軍としては、自分にたいする陸軍の信頼には自信がある。もし、自分が起てば全軍もけっ起するであろう。しかし、そのうえに、宮殿下、軍の長老の支持を得れば、それこそ真の"全軍"一致であり、さらに元外相の外交的見地、陛下の信任篤い内大臣の同意を加え得るならば、むしろ陛下に安心して戴けるはずだからである。

 だが、結果はすべて「ノー」であった。松岡洋右元外相は、もはや打つ手なしと答え、木戸内大臣も首をふり、三笠宮殿下は逆に阿南将軍にこれまでの陸軍の専横ぶりを難詰された。十四日午前十時、御前会議前に永野修身(おさみ:海軍兵学校第二十八期)、杉山元両元帥とともに参内した畑元帥も、天皇の固い和平意思の前に頭をたれるだけだった。陛下は「忠良なる軍隊を武装解除し、またかつての忠臣を罰するが如きは忍び難き処なるも、国を救う為には致し方なし」はっきり言われたのである。

 阿南将軍の"工作"はつきた。将軍は十三日夜、竹下中佐のクーデタ*計画(木戸、鈴木、東郷、米内ら和平派の隔離をねらう)にも承認を与えていなかったが、さらに十四日朝七時、梅津参謀総長の拒否を確認すると、厳重にけっ起を戒めて、御前会議の聖断にふくした。

 陸相官邸は空襲で焼け、高級副官用の木造平屋が官邸になっていた。阿南将軍が、御前会議につづく閣議、さらに詔書の副署を終えて、その仮住居に帰ってきたのは十四日夜十一時半をすぎていた。

 ――将軍は、自決を覚悟していた。

 その覚悟は、林三郎秘書官にもわかっていた。詔書副署のための閣議の前、将軍は秘書官に半紙二枚を用意するよう、命じていたからである。秘書官は、その半紙二枚を玄関で将軍に渡し、敬礼して自分の官舎に向った。

 十五日午前一時半ごろ、竹中中佐が将軍を訪ねた。クーデター計画は、十四日朝の梅津総長の拒否で中止になっていた。発動には大臣、総長、東部司令官、近衛師団長の四者の意見一致が条件だったが、四者とはいえ、東部司令官、近衛師団長は大臣の命令によって動かせる。実際には大臣、総長間の合意でたりるわけで、その総長が不承知ではどうにもならないからである。

 ところが、畑中少佐、椎崎中佐らはなおもあきらめず、午前二時を期して近衛師団のけっ起をはかった。場合によっては師団長を斬っても実行する、という。そこで、竹中中佐はもう一度、将軍に再考を求めるべく訪れたのである。

 だが、竹中中佐は玄関に立つと、迎えた護衛憲兵の表情で、とっさに将軍が自決準備中であることを知った。部屋の前でな乗った中佐に、将軍は「なにしに来たか」と、いったんはとがめるようにいったが、すぐ「よく来た」と迎えた。

 二間つづきの日本間に寝床が敷かれ、白いカヤがつってあった。将軍は湯上がりとみえ、上半身はだかのまま、机にむかっていた。ちょうど、なにか書き終わったところらしい。机の上には、徳利とチーズを並べた小皿が盆にのっていた。

 将軍は、にこりと笑った。十日いらい、竹中中佐はほとんど不眠不休で走り回り、その夜は疲れきって眠っていたところを、畑中中佐に起された。鏡をみるまでもなく、憔悴しきった顔をしていると自分でもわかる。たぶん、将軍もおなじ苦慮と疲労の日を重ねたに違いないが、将軍の血色は平常と変らず、温顔に疲労の影もなかった。(あにき、ちっとも変らぬ)――そう思ったとたん、竹中中佐は興奮の血が冷え、静々とした風が吹き抜ける感じがした。

「お止めしません。時期としても今夜か明晩あたりと思っておりました」と中佐が答えると、将軍は喜び、「それならいい。かえっていいところに来てくれた」と盃を中佐に差し、遺書を見せた。

   一死以て大罪を謝し奉る

     昭和二十年八月十四日夜

            陸軍大臣阿南惟幾

 そして、もう一枚は辞世――

  大君の深き恵に浴みし身は

   言ひ遺すべき片言もなし

     八月十四日夜 陸軍大臣惟幾

 この辞世の歌は、自決にさいして詠んだものではなく、昭和十三年十一月、将軍が第百九師団長に任ぜられて中国戦線に向うとき、宮中で御陪食を賜った機会に感激をつづつたものである。出征とあれば、死は覚悟の前である。将軍の詠唱は、その覚悟と皇恩にたいする感謝をうたいこんでおり、いらい、その気持ちは変らないまま、辞世の句に用いたのである。

 将軍は遺書に「神州不滅ヲ信ジツツ」と書き加えたあと、中佐と酒盛りをはじめた。最期にあたり、義弟という身内と水入らずの機会を得たことが、将軍にはとくに嬉しかったらしい。しかし、同じ陸軍の軍人である。将軍は、中佐と意外なほど、ほとんど一人で率直に話しつづけた。

「もう暦のうえでは十五日だが、自決は十四日夜のつもりだ。十四日は父の命日だから、この日にきめた。そうでなければ、惟晟の命日と思ったが、おそすぎる」

「明日は、陛下の玉音放送がある。自分は、とてもそれを拝聴するに忍びない」

 用意した短刀二ふりのうち、一ふりを形見だと、中佐に手渡した。

「梅津総長によろしくいってくれ」

 将軍は、その日午後三時すぎ、陸軍省第一会議室に課員以上を集め、最後の御前会議のもようを伝えていた。将軍はあらためて、会議の様子、さらに詔書案審議の経過などを中佐に語り、さらに先輩、知友のなをあげて別離の言葉を告げていたが、突然、ぷつりと言った。

「米内を斬れ」

この時の将軍の言葉は竹中中佐の日記に記されている。その一部は、『敗戦の記録』(原書房)に"機密終戦日誌"としてすでに公表されているが、未公開部分を仄聞するに、特に説明はなく、ただ「米内ヲ斬ㇾ」の五字のみが記されているという

 驚いて竹下中佐は顔を上げた。どういう意味か戸惑った。沈黙が二人の間に流れた。将軍はこの前後にポツリポツリと次のように語っている。

「いやあ、六十年の生涯、顧みて満足だった。ㇵハハ」

「惟道(末子)はお父さんに叱られて可哀想だが、この前帰ったとき、風呂に入れて洗ってやったので、よくわかったろう。皆と同じように可愛がっていることを伝えてくれ」

「綾子(夫人)には、お前の心境にたいして信頼し、感謝して死んでいく、といってくれ」

「荒木閣下によろしく」

 午前二時ごろ、銃声らしい音が聞えた。将軍も聞き耳をたてたので、竹中中佐は畑中少佐らのクーデター計画をうちあけた。それまで黙っていたのは、事前に将軍が知れば陸相として中止の処置をとるようになること、自決前の心境を乱したくない、また将軍の死は混乱の"鎮痛剤"になることなど考えたからだが、将軍は聞き終わると、ただ「東部軍はたたぬだろう」といっただけだった。

 そのころから、将軍自決前の静けさは乱れはじめた。畑中中佐一派から、クーデター開始と森 赳(もり たけし)近衛師団長斬殺を伝える使者がかけつけ、次いでクーデターに同行ていた井田正孝中佐が訪れ、大城戸憲兵司令官、さらに林秘書官もやってきた。

 阿南将軍は、井田中佐が帰ったあと、夜明間近と知って着替えした。竹中中佐が手伝ったが、立ち上がりシャツをとろうとするとき、思わず中佐と将軍はひしと抱きあった。

 将軍は、侍従武官時代に拝領した白シャツを身につけ、勲章を全部つけた上着を着たが、その上着は再びぬいで床の間に置いた。そのうえに次男惟晟少尉の写真をおき、写真を抱くように軍ぷくの両袖を前にそろえた。

「惟晟(これあきら)と一緒に逝(ゆ)くんだ」

 将軍は、大城戸司令官来訪を機会に竹中中佐に応接を命じ去らせ、縁側で自決した。中佐は、大城戸司令官と話すうち、直接居間に向った林秘書官に将軍自決を告げられた。

 戻ると、将軍は端座し、すでに割腹を終っていた。閉めきった雨戸のすき間から、朝の陽光が数条の斜線を描いてさしこみ、居間の灯光が左から将軍を照らしていた。将軍の周囲は血でぬれ、将軍は左手で頸動脈を探っていたが、右手の短刀をあてノドを切り裂いた。

 竹下中佐が介添えを申し出ると、将軍は「無用、あちらへ行け」という。中佐が若松次官からの電話に応対して帰ってくると、将軍は意識不明とみられたが、まだ呼吸音が聞え、手足がときどき動いた。中佐は、将軍の手から短刀をとり、右頸部の傷口に深く切りこみ、介添えした……。それから、遺書、辞世などをきちんと将軍の周囲に並べて、自決を報ずべく立ち去った。竹下中佐が去ったあと、将軍のからだからほとばしり出た血は遺書、辞世を朱(あけ)に染めた。

 阿南将軍の死は、竹下中佐が予想したとおり、陸軍の混乱に終止符をうつ役割をはたした。森師団長を斬り、ニセの師団命令まで出してクーデターをはかった畑中中佐、椎崎中佐も、阿南将軍自決を知るとすべてをあきらめ、十五日午前十一時二十分、宮城前で自決した。「起たば阿南大臣を首領として全軍一致」と誓い定めていたからである。

 だが、それにしても、阿南将軍の自決には相異なるいくつかの解釈がつきまとう。

 将軍は、竹下中佐に「かねてよりの覚悟に基き」と述べた。その覚悟とはなにか。

 将軍が深く皇室を崇敬し、強い責任感の持ち主であることは、よく知られている。陸相就任にさいしても、その職責にたいする覚悟を問われると、次のように答えている。

「将来もし予にして自らの責任において、その責を負わねばならぬが如き場合に遭遇せんか、自分は辞職だけでは絶対に相済まさぬと思う。従ってほんとうに腹を切って、お上にお詫び申上げる覚悟である」

 また、吉積軍務局長は、第一回聖断が下った八月十日朝、阿南将軍との会話を回想するが、そのとき、将軍は平素と変らず微笑をうかべながら、明言した。

「おれは今日は陛下にたいして徹底的に陛下の御意志に反するところの意見を申しあげた。これは万死に値する……ポッダム宣言を受諾するということになれば、この敗戦の責任は陸軍を代表して、おれがとるべきだ」

 これらの発言から、将軍の死、とくに書き遺された「大罪」の意味について、ひとつの解釈が成り立つ。

 阿南将軍が、最後の聖断が下ると、なにかせきたてられるように自決したのは、あくまで陸相として死にたからではないのか。

 すなわち、将軍が語る職務にたいする責任、聖旨に反する意見を述べた責任、陸軍を代表する責任は、いずれも陸相の地位にあってこそ、とれるものである。十五日の玉音放送後には内閣総辞職が予想されている。陸相の座を下りては、それらの責任をはたす資格を失う。「大罪」の中に、過去において陸軍が行った数々の過ち、とくに皇室を守り国家を守る任務をうけながら、いまそのいずれも危殆におとしこんだ責任が含まれるとするならば、それを一身にになおうとするのは、阿南将軍のすぎた自負といえるかもしれない。だが、その責任をあえて負い、それを名誉とみなすならば、陸相として腹かききる以外に道はない。その意味では、阿南将軍は名誉ある時期に求めたといえる。

 だが、それでは「米内ヲ斬ㇾ」のひとことはどのような意味をもつのだろうか。

 阿南将軍は、米内海相を立派な武人として尊敬していた。海相は、六月の臨時議会ごろ辞意をもらしたことがあるが、その翻意を願い、強く働きかけたのは、阿南将軍である。その米内海相を斬れと、将軍はいう。

 ポッダム宣言受諾をめぐり阿南将軍にたいして最も強く反対意見を述べたのは、東郷外相と米内海相であり、とくに米内海相とは最後まで対立をつづけた。陸軍部内では、海相を目して和平派の元凶とみなしていた。

 そこで、生まれる推測は、阿南将軍は結局は単純な武人であり、陸軍本位の"抗戦派"であった。クーデターにも賛成であった。自決前に反乱を知っても、あえて中止の処置はとらなかった。森師団長斬殺の報を聞いても「そうか。このお詫びも一緒にする」といっただけである。そして、将軍は、部下の軽率を戒めたとき、「この阿南を斬ってからやれ」と発言している。

 将軍は、先に指摘した三つの行動のうち、いま一たびの諫言の道を選び、梅津総長の不同意をきっかけにクーデターを拒否した。しかし、本心はあくまで陸軍の名誉挽回のための一戦の機会を望み、自らの自決で逆に将兵の士気を鼓舞し、その一環として米内海相を"血祭り"にあげよ、と示唆したのではないか。あるいは、それほどにないにしても、いざというときに一致協力すべき海軍を和平主義の米内海相が支配していては、それこそいざ一戦というときに障害になる、とにかく斬っておけ、という意味だったのか。

 だが、こういった観測は正確を欠くお竹中中佐はくびをふり、いわば興奮のあまりの"うわ言"に近い発言とみなす。

 阿南将軍は、最後まで日本軍人の栄誉のために奮闘した。終戦詔書案の審議において、原案の「戦勢日ニ非ニシテ」を「戦局必ズシモ好転セズ」と訂正を提案し、米内海相と激論を重ねた。海相は、もう敗けているんだから「日ニ非ニシテ」でよいではないかという。

 だが、阿南将軍にしてみれば、それは酷にすぎる。現に外地では、将兵は「泥を食い野に伏して」戦いつづけている。本土に二五〇万人の将兵も待機している。すべてこれ皇国のために身を捧げんと覚悟しておればこそである。それなのに、いかにも無下に敗けたときめつけるのは、あまりに武士の情けがなさすぎる……と反ぱくしつづけて、訂正におしきったのである。

「阿南の自決は、その論争後間もなくで、興奮さめやらずというといったところでしょうが、とくに深い意味がなかったのは、すぐ話題が移ったことからも、察せられます」

 米内海相は当時としては政治的見識もあり国際的視野も広い提督として定評があった。ときにその言動は武人のワクを越える冷たいスマートさに満ちていた。「米内ヲ斬ㇾ」は、その米内海相の"政将"ぶりに対する根っからの武人阿南将軍の純な反発でもあったろうか。

「私は、主人には陸軍大臣という職は荷が重すぎたと今でも思っております」と、綾子夫人はその手記に述べている。

 たしかに、阿南将軍は閣僚としての政治的手腕はなく、将軍はただひたすらに身につけたかたくなまでに純粋な君臣観を軍人の覚悟を頼りに、難事に棹(さお)さした。戦陣訓には、軍人の涵養すべき徳目として「軍紀」「必勝の信念」「敬神」「孝道」「敬礼挙措」「責任」「清廉潔白」などがあげられているが、将軍はそのすべてを体得して欠けるところがなかった。

 その意味では、阿南将軍は日本陸軍が目指した"理想像"に近い存在だった。そして、その清清たる阿南将軍が、汚濁の道を歩んだ日本陸軍の葬儀人をつとめた……意義深いことといえよう。

2020.10.24記す。