絹糸はどうしてできるか


『流れる個体』 中川鶴太郎 岩波科学の本 13(1975年5月26日 第一刷)より 

 -ーカイコは糸を吐くのではなくて、引き出すのだ。クモの糸も同じーー

1 生物にみられる男性と粘性の問題

 ものの弾性と粘性の問題はあらゆるばあいにでてくる。繊維にも、食品にも、土木建築材にも。

 絹糸は化学作用ではなくて機械作用によってできるということである。タンパク質が熱に作用によってかたまったり(ゆで卵)、酸やアルカリや酵素の作用でかたまる例はたくさんあるが、カイコの腹のなかのネバネバした液状絹が口から引き出されるとき、機械力によっていっきょに強い絹糸に変るという現象は非常に珍しい例である。

 液体(粘性体)である液状絹を牽引(引っぱり)という機械力によって一瞬に個体(弾性体)の絹糸に変えてしまう。カイコが演じるこのふしぎなドラマをみよう。

 念のためにいっておくが、絹の原料はもちろんカイコのからだのなかで化学反応によってつくられる。液状の絹が強い絹糸に変るところが機械作用によるのだ、といっているのである。

2 すばらしい繊維、絹

 キラキラと光る絹糸。ズッシリと重く、しっとりとした感触のあの羽二重やちりめんなどの絹織物。絹はすばしい繊維であるb。

 絹がどんなに世界の人びとを魅惑したか。まず歴史をふりかえってみよう。

 君たちのなかには「シルク・ロード」ということばを知っている人がいると思う。「絹の道」という意味だ。いまから約二〇〇〇年まえ、中国から中央アジアを通ってイラン、トルコを過ぎ、はるばるローマに至る数千キロの道があった。中国にしか産しなかった美しい絹をヨーロッパへ運ぶためである。キリストの時代のはじめころ、絹がはじめて東洋からローマへもたらされた。絹をはじめてみた人々の驚きは非常なものだった。当時ローマでは絹は同じ目方の金と交換されたという。ローマの人々は、絹を高貴な植物の綿毛だと思っていたらしい。

 シルク・ロードは世界で最も古く、最も長く、最も高いところにある(「世界の屋根」-ー高いtおころでは七〇〇〇メートルをこえる――パミール高原を通る)道である。やがて大航海時代がきて、インドをまわる海上ルートがヴァスコ・ダ・ガマによって発見されるまで、シルク・ロードはアジアとヨロッパを結びつけ、北京とローマをつなぎ、中国の文明とギリシャ・ローマの文明の橋わたしをしていたことになる。この雄大なドラマの主役が「絹」である。

 古代の中国は、このすばらしい財宝を生み出す養蚕の技術が他国へもれるのをきびしく禁じていたという。やがて、長く中国に住んだあるペルシャの坊さんがカイコの卵をこっそり竹の杖のなかへかくして国外へもちだしたのだ、という話もある。こうして中世ヨーロッパへ伝えられた養蚕の技術はイタリアや南フランスにひろまった。十五世紀イタリアの王様たちが身につけた美しいビロードや、フランス一四世のお城のなかの壁を飾ったゴブラン織などはヨーロッパで完成された最高の絹織物である。

 絹織物の技術はもちろん日本にも伝わってきた。万葉の昔、麻や木綿の布は「荒妙(あらたえ)」とよばれた。ザラザラした、肌さわりのよくない布という意味である。これにたいし、絹の布は「和妙(にぎたえ)」といわれた。やわらかで、しなやかな、肌さわりのよい布という意味である。法隆寺や正倉院の宝物になっている錦(にしき)という布は、色とりどりの絹糸で絵模様をだした絹織物である。

 現代になっても、人びとの絹にたいするあこがれは強く、一九三〇年代のナイロンの研究、開発が日本の絹との競争を頭において進められのはまぎれもない事実である。アメリカのデュポン社でナイロンの試作が成功したとき、まず靴下を作り、社内の婦人たちにはかせてテストしたという。当時日本の絹のアメリカでのおもな用途は婦人用の靴下だった。

 絹はこうして二〇〇〇年の昔からアジアとヨーロッパを通じて人類のあこがれのまととなってきた。ところが、絹の特徴はただ美しいということだけであろうか。

 美しいののにはわけがある。絹糸は羊毛や木綿と違って、なめらかな表面ををもった、ちょうど細いガラスの糸のような繊維である。そして絹は、美しく輝く光沢をもっているだけでなく、非常に丈夫である。木綿の綿は引っぱるとちぎれるが、絹の真綿はなかなかちぎれない。あのカイコという小さな虫がつくったとは思えない強い繊維である。弾性率も非常に大きい。絹の弾性率はナイロンやプラスチックや木材の二倍から三倍もある。

 カイコの腹のなかから、そして口から、どうしてこんなに強い、ガラスのような糸が出てくるのだろうか。よく「カイコが糸を吐く」という。そのとき、どこで、何が、どうなるのだろう。それを考えたい。

3 青年技師、平塚栄吉

 ヨーロッパの絹織物業の中心であるh于ランスやイタリアに絹の研究所gあつくられたのと同じころ、日本にも養蚕試験場(いまは蚕糸試験場という)が創立された。それは大正年間のはじめ、すなわち一九一〇年代のことである。

 創立されたころの蚕糸試験場で、「絹糸はどのようにしてできるか?」という問題の研究をはじめた若い技師がいた。名前を平塚英吉という。

 やがて大正五年、すなわち一九一六年の『蚕糸試験場報告』、第一巻、第三号に技師平塚英吉による『絹糸の形成について』という三〇ページほどのくわしい研究報告ができた。これはわが国の、そして世界の絹研究の歴史のなかで、絹糸はどうしてできるか、という問にはじめて正確な解答を与えた重要な論文である。この論文で青年技師平塚英吉は、「カイコは自分のおなかのなかの液状絹を吐きだして(圧(お)しだして)糸にしているのではなくて、引っぱって糸にしているのだ。酸素や乾燥や分泌物でなく、機械力が原因なのだ」ということを確信をもってのべた。

 まず、平塚技師の正しい考えがあらわれるまえにあった古い考えや説をみておこう。どれも、頭のなかの「常識」で考えたことで、正確な実験の裏付けがあるわけではない。ところがおもしろいことに、まちがった考えの方がもっともらしくて、私たちにはわかりやすいのだ!

 一つの説は、カイコが文字どおり「吐きだした」粘状液の絹が乾燥して固体状の糸になるという考え。これは常識的でとてもわかりやすい。もうひとつは、吐きだした粘液に空気中の酸素や二酸化炭素が作用して化学的に凝固するという考え。これもまことにもっともらしい。またこんな説もあった。体外にでた血液が凝固するのは酵素作用によるのだが、絹糸ができるときにもこれに似た酵素反応が起こるのではなかろうか。これはフランスのリヨンの研究所のデュボアという生物学者が一九世紀の終わりごろ、一八九〇年に言いだした説である。また同じくフランスのジルソンという学者は、そのころ、カイコが吐きだすとき口のところからちょうど唾液をだすようにある種の物質を分泌して凝固させるのだろう、と言う説をだした。デュボアの説もジルソンの説も、カイコのような生物にたいしてはまことにもっともらしい、納得しやすい考えである。

 しかしそれははたしてほんとなのだろうあ?

 やがて一九一二年に、イタリアのトリノの大学の生理学教室にいたカルロ・フォアという学者が絹糸の形成についての論文をだした。トリノの町はイタリア北西部にあり、ミラノとともにルネッサンスの時代から絹織物の中心地である。カルロ・フォアの論文は短いものだが、そのなかにはそれまでの説を打ちやぶる画期的な考えがのべられている。つまり「カイコの体内の粘液状の絹は、化学作用(乾燥、二酸化炭素、酸素の作用など)や生物化学的作用(酵素の作用など)でなく、引きずりだすという機械的作用だけによって絹糸に変るのだ」というのである。

 平塚技師はこのカルロ・フォアの考えに注目した。自分のそれまでのいろいろの観察や経験にてらしあわせて、カルロ・フォアの考えこそが真実だと感じた彼は、フォアの実験よりもずっとくわしい研究を、当時の最新式の実験装置をもちいておこなった。その結果が、さっき書いた『蚕業試験場報告』の論文である。

 平塚英吉はこの論文で、カルロ・フォアの考えをとりいれながら、古い考えをひとつひとつ打ちやぶっていく。

 まず、乾燥によるという説。糸を出しているカイコを水面下に沈める。糸の先をもって引っぱるといくらでもキラキラした絹糸が引きだされてくる。だから感想は関係ない。空気の作用、酸素の作用、二酸化炭素の作用が関係ないこともこの観察からあきらかである。

 カイコの体内の粘液状の絹は水に完全に溶ける。これを激しく振るとすぐに繊維状の白い沈殿になってしまう。つまり機械作用だけで凝固するのだ。もしも酵素などの作用でかたまるのだとすると、この酵素を熱や毒物によって破壊してしまえばかたまらないはずである。しかしこの溶液は沸騰させても平気で、透明のままである。この透明ンあ溶液を振るとすぐかたまって繊維状の沈殿になる。沸騰させたのだから酵素は破壊され、その作用はもうなくなっているはずだ。それdも降ると繊維状になる。青酸かりのような毒物を加えておいても振ればちゃんと凝固する。酵素ならば毒物のためにその作用を失ってしまうはずだ。

 したがって振るという機械的作用だけが糸を生じる原因だということになる。沸騰させても何の変化も起こらないないのに、振っただけで一瞬にかたまるなどということは、生体物質としては意外なふるまいである。

 要するに引きずったり、かきまわしたりして機械的作用を加えれば瞬時に絹糸になる。だから引きずりださなければ糸はできない。そこでカイコの動作をよく観察してみよう。カイコはほかの物体に口からだした液状絹を付着させて首を振り、液を引きずりだしている。だから、もしその付着させた物体をカイコの首の動きといっしょに動かしてやれば絹糸はカイコの口からでてこない。この観察は、カイコさえ手にはいればだれにでもやってみることができる。カイコは首を動かさないでじっとしたまま糸を「吐く」ことはできない。糸のさきをもって、たぐりよせるといくらでもでてくるが、鋏で切ってしまうと、カイコはそれ以上糸をだせなくて困ってしまい(?)、首を動かして付着させるものをさがすような動作をする。口を何かに付着させて引っぱるとまた糸がでてくる。とにかく、「引きずりだす」ときに絹の粘液は固まって絹糸になるのである。

 平塚技師はこんな観察もした。カイコの口からでてくる糸の先きをもって、カイコの首の動きよりも早く引っぱってみる。すると、カイコが自分でやるときは口のところで糸に変るのに、こんどは喉の奥二センチぐらいのところまで繊維に変ってしまう。

 平塚技師の研究の要点を紹介したが、こうして彼は手をかえ品をかえて徹底的にしらべ、カルロ・フォアによってだされた画期的なアイディア、すなわち「機械的凝固節説」のくわしい裏付けをしたのである。

 ところで、カルロ・フォアの「機械的凝固説」の発表は一九一二年で、平塚英吉の論文がでたのは一九一六年だ。だから、平塚技師の研究がいかにくわしいものであろうと、絹糸がどうしてできるかについて世界ではじめて正しい考えをだした手柄はカルロ・フォアのものだ、 絹糸がどうしてできるかについて世界ではじめて正しい考えをだした手柄はカルロ・フォアのものだ、という人があるかもしれない。

 じつはカルロ・フォアのの発表よりも三年まえ、一九〇九年にすでに平塚英吉はこの新しい考えを発表している。のちに一九三〇年代になってこの興味ある問題をあらためてとりあげ何人かの外国の学者ーー彼らの結論ももちろん同じであるーーが「一九〇九年にヒラヅカがすでにこの考えをだした……」といっており、それがのっている雑誌の名前も記している。私はこの論文をずいぶんさがしたがまだ読んでいないし、それになによりも、これを発表したはずの青年技師平塚英吉ーーいまは八〇歳をこえた老平塚先生がどうしても思いだせないし、みつからないと言われる。

 とにかく一九〇九年のことはほんとうだろうから、そうすれば絹糸の機会力形成説をほんとうに世界最初に確立したのは日本の青年技師平塚英吉だということになる。機械力説をはじめて発表した彼が、そのあとにでたカルロ・フォアの論文に勇気づけられ、自信をもって、さらにくわしい研究をおこない、その結果がさっき話した論文になった、ということであろう。いまから六〇年以上もまえのことである。

 さて話の大筋がわかったところで、機械的作用による液状絹から絹糸への変化というこのドラマチックな現象をもういちどくわしく追ってみよう。

4 カイコの解剖

 桑の葉をたくさん食べて大きくなり、いよいよあと二、三日でマユをつくりはじめるというころのカイコのおなかのなかはほとんど絹糸の原料でいっぱいになっている。解剖してみよう。

 四角い浅い解剖皿へ、適当なかたさのパラフィンをとかして流しこんでかためる。パラフィンがかたすぎると虫ピンがささりにくい。解剖皿へカイコの腹を下側にしてのせ、頭の方とお尻の方にピンをさしてとめる。

 さきのとがった解剖鋏で尻の方から頭の方へ向かって背中を切開する。内蔵を切らないよう、背中の皮だけを切り開く。すると、カイコのからだとくらべてミ分不相応(?)に大きい、細長い飴色の、半透明できれいな絹糸腺がでてくる。絹糸腺の「腺」はリンパ腺や甲状腺の腺と同じで「線」ではない。内蔵の名前である。

 図をみて説明しよう。絹糸腺ーー糸腺ともいうーーは左右一対ある。絹糸の主な成分はフィブロインというタンパクで、このタンパクは主としてグリシン、アラニン、チロシンという三つのアミノ酸からできている。このフィブロインは、細く長く屈曲した後部糸腺でつくられ、太くて三つに折れた中部糸腺のなかにたくわえられる。カイコの背中を切開してすぐ目につくのはこの中部糸腺である。カイコのからだのなかいっぱいを占領している中部糸腺のすがたは壮観である。

 この中部糸腺の壁からは、セリシンというもうひとつのタンパクが分泌され、そのゼリーが、なかの液状絹のかたまりをとりまいている。おそらくこのセリシンのゼリーは、液状絹が絹糸腺に送られていくとき、絹糸腺の壁とのあいだで潤滑油に似た役割をするのであろう。セリシンは絹糸にはならないが、あとでわかるように絹糸ができるときに大事な役をする。マユをつくる直前のカイコの中部糸腺の中身はは三〇パーセントちかいフィブロインをふくんだ濃厚なゼリー状の溶液である。

 一対の全部糸腺は口ところでいっしょになるが、そこにフィリッピ腺がある。昔は、このフィリッピ腺の分泌物で液状絹がかたまって糸になると考えられたが、それがまちがいだということはもう話した。このフィリッピ腺の役割についてはまだ研究が進んでいない。

 言い忘れたが、カイコが桑を食べる口と、糸を出す口は別である。クモの糸も絹糸と同じ成分のもので、できる仕掛けも同じだが、糸を作る口はクモではお尻についている。カイコでは頭にある。

5 絹糸はこうしてできる

 カイコの解剖を終わったところで、絹糸ができる仕組みをもういちど説明しよう。

 後部糸腺は絹の成分フィブロインを合成するところだが、中部糸腺はできあがった絹フィブロインのゼリー状溶液、すなわち絹糸の原料となる液状絹がたくわえられているところである。だから、もしもさっき話したカルロ・フォアや平塚技師の考え、つまり引っぱるという機械的作用で絹糸に変るという説が正しいならば、中部糸腺の中味を人間が横どりして、カイコのからだのそとで、カイコの力をかりないで絹糸をつくることができるはずである。

 そのとおり。中部糸腺の中味はよく水に溶ける。この溶液を激しく振ったり、かきまぜたりすると、まえに言ったように瞬時に白色繊維状の沈殿に変る。ただしこれはモタモヤした綿状のものだ。もっとほんとうの絹糸に似た一本の糸がつくれないだろう。それもできる。マユをつくる直前のカイコの中部糸腺の両端を両手の指でつまんで急にーーゆっくりではだめーー引っぱると伸びて一瞬にかたい糸に変ってしまう。それまでブヨブヨしていたゼリー状のものがいっぺんに強い糸に変ってしまい、両手で引っぱっても切れない! これは驚くべき現象である。

 魚つりのとき釣針をつなぐテグスというものは、昔はこうやってつくったのものなのだ。カイコの仲間で、もっと絹糸腺の大きいヤママユ蛾の幼虫ーー柞蚕(さくさん)というーーを使う。(ヤママユの絹糸で作った中国産の織物にケンチュウという丈夫な布がある。)この虫の中部糸腺をとりだし、キュツと引っぱる。すると瞬時に直径〇.五ミリメートルくらいの丈夫な糸に変る。

 これがテグスで、表面をよくみがくと半透明のガラス状になり、水のなかで見えにくく、そのうえとても丈夫なので魚つりに使えるのである。 リメートルくらいの丈夫な糸に変る。

 カイコを飼っている農家の子供たちがつぎのような残酷(?)な遊びをやるそうである。いよいよマユをつくろうとしている大きいカイコをもってきて、頭と尻尾をもち、一、二、三と勢いわおつけて引っぱる。頭と尻尾はもちろん別々になってしまうが、からだのなかから直径一ミリくらい、長さ三〇センチくらいの透明な、丈夫な糸がでてzくる。ゆっくり引っぱってはだめ。カイコの体がちぎれてダラダラと流れるだけで何もでてこない。魔術みたいだが、君たちにはよくわかると思う。カイコの体内の中部糸腺が急に引っぱられて固体の糸に変ったのだ。なぜ急に引っぱると糸になり、ゆっくりだとダラダラ流れるだけなのか? これについてはあとでまた説明する。

 中部糸腺を直接に手で引っぱると、テグスのような太い糸しかできないが、カイコの口をかりるとあの細い美しい絹糸ができるのである。カイコは、直径約〇・〇〇二ミリくらいの糸を、一匹で一二〇〇-一三〇〇メートルほどもつくる。中部糸腺のなかのフィブロインのゼリーはさっき言ったようにセリシンという糊状のタンパクで包まれている。このセリシンは液状絹が細い前部糸腺のなかをゆっくり送られていくときにすべりをよくする作用をするのだろう。 も切れない! これは驚くべき現象である。

 液状絹は、かたいキチン質でできた口のところのシルク・プレスという孔を通るときに適当に量が調節され、口から分泌される。 も切れない! これは驚くべき現象である。

 そこでカイコはこの液状絹の滴(しずく)を何か他の物体に付着させる。このとき糊の役目をするのがセリシンである。こうしておいてカイコは首を動かす。引っぱられた液状絹はただちに凝固して細い糸になる。表面に残ったセリシンが糊の役をするから、首を8の字形に左右に振りながらつぎつぎとマユの内面に糸をはりつけることができる。こうしてマユができていくわけである。さっきの解剖図で知ったように、絹糸腺は左右一対あり、口のところでいっしょになっている。液状絹はそれぞれセリシンの糊に包まれたまま別々に引き延ばされて糸になるので、二本がくっいたまま口からでてくる。ただしあとでお湯や石鹸水ーーセルシンを洗い流す役をするーーのなかでマユからきれいな絹糸をとりだす作業ーー精錬ーーのあいだにセリシンは溶けだしてしまうから、真綿や絹織物のなかではこの二本はバラバラになっている。

6 強く、急に引っぱると糸になるわけ

 いままでのところで、絹糸が液状絹から牽引(引っぱり)という機械力によってできることはわかった。

 ではなぜ引っぱると凝固するのか。この現象をある学者は「牽引凝固」とよんだが、液状絹の牽引凝固のときに、いったい何が、どこで、どうなっているのか? これについて現在学者はつぎのように考えている。

 まえにいったように液状絹ーーしたがって絹ーーの主成分はフィブロインというタンパクである。それは長い長い鎖状の分子ーー高分子ーーである。その点では第2章で話したゴムと同じものである。ゴムと違うところは、たくさんのフィブロインの鎖を引き伸ばしてたがいに配列させ、接近させたときに分子と分子のあいだに強い結合力が働くという点である。それは、ゴムは炭化水素であり、フィブロインはアミノ酸からできたタンパクであるという、化学構造の違いからくることである。

 液状絹のなかではフィブロインの鎖状分子は糸まり状になっているいると考えられている。乱雑に丸まったゴムの分子と似ている。いまこのゼリー状の液状絹に急に力を加えて引っぱる。ゆっくりではいけない。液状絹は粘性液体であるから、ゆっくり引っぱるとそれぞれのフィブロインの糸まり状分子は丸まったまますべって流れるだけである。したがって何の変化も起こらない。全体が液体のまま流れるだけである。

 よころが急に引っぱると、ひとつひとつの分子が流れるひまがなくて引き伸ばされる。ゴムの乱雑に丸まった鎖状分子が伸びるのと同じである。

 こうして伸びきった分子がを配列する。さてここで異変が起る。ゴムの分子のあいだには強い分子力が働かないから手をはなすともとの糸まり状にもどるといった。ところがフィブロインの分子の間には結合力が働く。この力は原子と原子を結合させる力よりは弱いが、配列した長い鎖と鎖のあいだのあちこちたくさんの場所で結合するから、全体としては非常に強い力になる。こうして液状絹のなかのフィブロインは引き伸ばされてたがいにかたく結合し、固体に変る。これが絹糸である。余分な水分は、できあがったかたい繊維の外側へしみだし、やがて乾いてしまう。

 これが牽引凝固の仕組みである。フィブロインの鎖状分子はきれいに配列し、たがいに強く結合して束になっている。絹糸が強いのはそのためである。

7 クモやミノムシも同じことをしている

 さっき言ったように、クモの糸も同じような仕掛けでお尻から引きだされる。クモのおなかのなかに糸巻きがあって糸が巻いてあるわけではない。カイコのばあいと同じように液状絹ーー液状クモの巣(?)ーーを引きだすときに糸になるのである。ただしクモの糸は絹糸のように丈夫ではない。その理由ははっきりしていないが、糸をつくるときにカイコのように強い牽引力を働かせないのかもしれない。あるいは繊維の成分がすこし違うのかもしれない。(化学者がしらべたところによると、クモの糸の成分も絹糸のフィブロインにだいたい似たものだとそうである。)

 なおクモの網の横糸には虫をひっかけるための粘液がついているが、これは糸の成分とは別のものである。(縦糸をつくるときにはこの粘液をださない。)

 クモと違ってミノムシは丈夫な糸をだす。これは絹糸とあまり違わない。ミノムシの巣の外側には木の葉や小枝がついているけれども、内側はカイコのマユと同じように丈夫で人間の指ではなかなか破れない。

8 まとめ

 カイコのおなかのなかで液状、ゼリー状をしている絹がどうして強い、かたい、輝くような絹糸になるのか。いちばん大事なきめ手はフィブロイン溶液を引きずることだ、というのがカルロ・フォアや平塚英吉技師の考えである。

 タンパクが、水に溶ける性質を失ったりすることを変性というがカルロ・フォアや平塚英は、フィブロインの凝固は熱や化学薬品による変性でℤはなく、「機械的変性」だ、というのである。

 では機械的作用を受けるとなぜフィブロインというタンパクの分子が変性するのか? カルロ・フォアも平塚もこれに答えることはできなができなかったが、これこそ今日の高分子科学の問題である。だいたいのことは終わりの方で話したが、タンパクのような複雑な高分子の性質にはまだよくわからない点が多い。

 現在の繊維工業で、人間はカイコのまねをしている。ナイロンやテトロンのような合成繊維をつくるとき私たちは「延伸(えんしん)」ということをやる。つまり引き伸ばして分子をよく配列させて強い繊維にするのである。しかしはじめに糸状にするときは、液体に大きな圧力をくわえて細い孔から押しだしている。カイコのとうに、引きずりだすだけであんな強い美しい糸をつくることはとてもできない。やはりまだカイコにはかなわない。

 研究しなければならないこと、カイコにまばねばならないことはまだいろいろある。青年技師平塚英吉は立派な研究を残したが、カイコはまだまだ多くの問題を私たちに投げかけている生物である、


参考1:沿革|信州大学 繊維学部

 中学校の先輩(忠中)の方が上田蚕糸専門学校を卒業されている。また信州大学繊維学部の先生に知人のご子息が先生をされている。

参考2:私の故郷では、小学校同級生の家では、本業は下駄屋であり、副業か?養蚕をされていた。そのため我が家の裏山を超えた畑では桑の木がうえられていた。私たち子供はその実をたべたりしていた。

参考3:平塚 英吉(ヒラツカ ヒデキチ)

大正・昭和期の農芸化学者,蚕糸学者 元・東京帝大教授;元・大日本蚕糸会蚕糸科学研究所長。

生年明治21(1888)年3月3日~没年昭和59(1984)年7月6日
出生地山形県新庄市
学歴:東京帝大農科大学農芸化学科〔明治44年〕卒
学位:農学博士
主な受賞名:勲二等旭日重光章〔昭和39年〕,文化功労者〔昭和46年〕
経歴大正15年から昭和23年まで東大教授。その間、農林省蚕糸試験場長を務めたほか、大日本蚕糸会蚕糸科学研究所長、25〜30年農林省農業技術研究所長を歴任。特に蚕の栄養に関する研究で知られ、戦前戦後を通じてわが国養蚕業の発展に尽くした。日本蚕糸学会会長、日本農芸化学会会長、日本農学会会長など歴任。26年学士院会員、46年文化功労者。著書に「日本蚕糸業史学術史」など。

参考4:カイコだけが絹を吐く

2017.03.24

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