越川春樹先生を訪ねて
著作『人間学言志録』


 VISITED TEACHER KOSIKAWA and ONE OF HIS WORKS

 三学の師・越川春樹先生

 「少にして学べば、則ち壮にして為すこと有り。壮にして学べば、則ち老いて衰えず。老いて学べば、則ち死して朽ちず。

 いつ読んでも、励まされる言葉である。幕末の大儒、佐藤一斎の『言志四録』の中の一章である。

▼西郷南洲翁は、この言志四録をことのほか愛読し、この中より百有一則を筆録し、これを彼の私学校の青年たちに講説したという。 井上哲次博士は「一斎先生の言志四録は、わが邦人の語録において白眉と称すべきものなり」と激賞している。伝記作家小島直記は「生涯の本と考えている。年をとり、噛めば噛むほど味が出る」という。

▼この書を四十数年、愛読、自ら活学につとめられた越川春樹先生が『人間学言志四録』を出版された。先生は安岡正篤先生の高弟・教育功労により文部大臣章を受ける。千葉県香取郡長部村(現在の干潟町)で農村指導に当たった大原幽学の研究者で有名。現在郷里の同県光町に懐徳書院を開き、古典による教学振興につとめて、実行力のある人格をつくることを目指しておられる。私はこの本を読み、先生のご見識、該博な古典の造詣、体験にもとづく説明に深い感動を受けました。少にして学び、壮にして学び、老いて学ぶ三学の人にしてはじめて講釈できるものと思う。

    訪 問

 先生は言志四録」これこそ、日本人の書いた論語ともいうべきもので、人間学、処世哲学、経世の書として絶好のものであると思う。」と述べられている。

 「この書を論語とともに四十数年、くり返し愛読してきが、文字通り韋編三絶の書となった。実に、この書は私の永い人生に尽きぬ光と力を与えてくれたのである。」そして、「この書を自ら愛読するばかりでなく、私の主宰する懐徳塾の塾生たち、学校の先生方、PTA、市民大学その他いろいろの研修会や講座などで講じながら自ら活学につとめて来た。」と述べられている。

 私は先生に接し、話をうかがえば日ごろ持ちつづけいる問題について示唆がえられると直感した。その問題は、昨今、人格形成のための基礎・基本がおろそかになっていて、「私自身はそのために読む本は何か、自信をもって人にすすめられるものは」というものである。

 不躾をかえりみないで面会をお願いしましたところ、ご多忙にもかかわらずご快諾いただきました。ご住所の光町はKI社鹿島工場に近い。七月九日、城東まわり銚子行き総武本線に乗る。錦糸町、船橋を通過、先生が勤務されていた市である。沿線のアパート、民家のベランダーには洗濯物、ふとんがほされている。千葉から佐倉、八街を「やちまた」と読み、「なるとう」の湯桶よみを楽しむ。千葉をはずれると、田園と小丘陵、丘に耕されている畑には煙草、さつまいも、ごぼう。八日市場につく。駅からお宅までタクシー。山はまったく見られない田園地帯である。たんぼの中の農道を走る。目印がないので、土地の人でないと一度で目的地には行けないと運転手に話しかける。先生が生まれ、生活され、活躍された地方を少しでもよく見ておきたいと目をこらす。お宅でもある懐徳書院に到着。先生のお父さんが大事に手入れをされていた見事な槙の大木が玄関の前に移植されていた。

    一隅を照らす

 先生の著作『一隅を照らす』:自叙伝―絶版。

 若き教師時代「白浜のペスタロッチ」と呼ばれた。(ペスタロッチ—スイスの教育家。彼の教育思想の特質は、体験を基とし体系を組織し、人間性の陶冶を目ざす人間学校の基礎を家庭および小学校における基礎陶冶に求め、更に社会改革の根本機能を教育に求めた。)

 「現場の子をあずかる教師は、孟子のいうように、自ら『猶興の士』となり、その学校・学級、そして一人一人の子供に一燈を点じ、一隅を照らす努力をする他にやはり道はないとと思う。私はそう信じて実践に努めてきた。」先生の教育信念をうかがうことができる。実践と業績は詳しくのべられているので、その偉大さを味読されることをすすめます。

    活 眼 活 学

 先生の実践力の根源については、『大原幽学と農村指導』に講述されている。

 「私は安岡先生、菅原先生(農士学校長)の御人格とこの学校の建学の精神に心から共鳴しました。今から四十五年前、昭和十一ここに入学させていただいたものであります」。

(中略)

 創立趣旨にも述べられている通り、『国家の明日、人間の永福を考える人々は、是非とも活眼を地方農村に放つて、ここに信仰あり、哲学あり、詩情あって、而して鍬を手にしつつ毅然として中央を睥睨(へいげい)し、周章(あわて)ず、騒がず、身を修め、家を(ととのえ)え、余力あらば先ずその町村からして、小独立国家にしたてあげてゆこうという土豪や郷先生、農先生、農士になるべく私共はここで修行したのであります。

(中略)

 私は多感な青年時代、近世日本の教育に誇るべき、日本農士学校において、明師、安岡正篤先生、菅原兵治先生に学んだことと、そのご縁によって農士・郷先生・教育者の典型的人物というべき、大原幽学先生を知り且つこれに学ぶことが出来たことは私の生涯における勝縁であったと思っております。

 私は四十一年の教育生活をいたしました。その間、六学級農村中学と三十六学級の都市の中学校をそれぞれ十年位ずつ経営いたしましたが、いずれの学校も県下中学校教育の典型であると、県下及び全国から多くの参観者が押しかけて激賞して下さいました。そうして多くの参観者から学校経営の秘奥を問われることがありました。その時、私は日本農士学校の安岡先生、菅原先生の精神と、古人では大原先生の精神を体し、その九牛の一毛を実践したに過ぎないと答えたのであります。

    古典による人格教育

 小見出の実践を自叙伝からまとめてみる。

 昭和十二年 香取郡中和小学校訓導となり翌年中和懐徳塾を開設。国民学校高等科の生徒、中等学校生徒、青年団等の中堅分子が集まり、大原幽学研精神の参究、大学、中庸、孝経の素読・講義とその実践化に邁進した。

 昭和二十六年 南条中学校長時代、進学組でない中学生に『人間学』の講話からはじめた。講義書物は、大学、論語、孝経、伝習録、孔子家語、二宮尊徳夜話、大原幽学研究などがその主なものである。

 昭和三十九年 二宮中学校長時代、PTA教養学校開設。教養学級が始まってから十余年間、主として講義したのは言志録と論語等であった。これらを中核として、教育は勿論、人生、生活、あらゆる面の話をしてきた。昭和四十八年、退職後も成人教養講座として論語を続講。

 昭和四十五年 二宮中学校長時代、「朝の論語会」を開く。人間教育の一環として中学生ころの多感な時代に、精神的滋養物として論語のようなすぐれた古典を教えることが大事であると思ったからである。古典クラブの指導。放課後の校長としての多忙な時間をさけ、始業前一時間早く学校に集まって勉強した。

 昭和五十一年 中学校長退職後、「懐徳書院」を開塾。郷党の老若男女を対象に、「洗心講座」を設け、論語と言志四録を講じ、現在続講。

    お話の中から

 「指導者はメンバーを発憤させることが大事であり、化教が基本である。」「教えて之れを化するは、化及び難きなり。化して之れを教うるは、教え入り易きなり。」(言志耋録 二二七)

 「人間学の宝庫は中国古典であると、安岡先生は言われている」

 「古典の勉強には、何か一つに絞ってやりなさい。目標がはっきりして熱意がでてくる。」

 「湯川秀樹氏は子供のころ、父から中国古典を教えられ、文字の抵抗がなく、どれほど勉強に役立つたかわからないと言われていた。」

 「私は七十二歳の現在も多忙である。実践を通して学問したからである。」

 「メリヤス会社の社員を指導している。文字をおぼえ、知識をふやすのではない。いままでよりよくなった『われづくり』をするのだ。」

    お わ り

 中国の人が来客と主人とを詳細に観察して賢王であることの十二項目の一つに「異書を出して質問す」をあげている。めずらしい本をいろいろ取り出して後進者に理解をたしかめ、さとすように熱意をこめて話していただいた清話で心が洗われ、時間を忘れさせられていた。帰りの電車を一本、二本と変更する。持参した先生の著作にお言葉を書いていただく。「厳而慈」の三字。写真を見てください。

 先生についての記述は筆力の及ばざるはいかんともしがたく、参考文献を読まれることを切望して筆をおきます。

☆1985年7月に訪問したときの記事をクラレタイムス(社内報)同年の8月号に寄稿したものです。

 先生はすでにご逝去されています。蛇足ですが、先生がご健在のころ、この文章全文を懐徳書院で紹介してくださいました。


昭和61年07月02日(水)4:25 起床

1、クラレ油化東京事務所をのぞく。

2、潮来から東京に出る。

3、東京事務所総務部長有沢氏、畠中、武永、広報部和久井氏(クラレタイムスの小生の投稿をよく記憶していて、越川先生の本と、「言志四録」を買って読んだとのこと。後、クラレ社長:1985年7月に訪問した記事)。2023.05.13記。

 約20年経過しました2006年5月3日にホームページに掲載しました。その後、削除していました。2012年9月15日再度掲載することにしました。


 越川春樹先生 略歴(『一隅を照らす』より)

昭和七年三月:千葉県師範学校卒業
昭和七年四月:匝瑳郡白浜小学校訓導
昭和十一年四月:金鶏学院日本農士学校に入学(一年)
昭和十三年四月:中和懐徳村塾を開設
昭和四十一年十月:船橋市立二宮中学校職員三十四人全員日教組を脱退し、教育正常化の烽火をあぐ
昭和四十五年十二月:葉県教職員連盟を結成、初代会長となる
昭和四十八年三月:船橋市立二宮中学校長を退職す
昭和五十一年九月:千葉県匝瑳郡光町(千葉県山武群横芝光町に変更)に「懐徳書院」を開塾
昭和五十二年:千葉県師友協会理事長、懐徳書院塾主

「参考文献」

越川春樹『人間学言志録』 [付]西郷何洲手抄言志録』(以文社)
越川春樹『一隅を照らす』絶版
越川春樹『大原幽学と農村指導』(非売品)
日経ビジネス(昭和60年4月29日号)
日経ビジネス(昭和60年5月13日号)

2012年9月15日、2014年10月3日:読み返し、地図を追加しました。



 この『人間学言志録』は幕末の大儒、佐藤一斎先生の語録「言志四録」を抄訳したものである。

▼佐藤一斎という人は、幕府官学の大本山、昌平(こう)を主宰した儒管で、いわば今日の大学総長ともいうべき地位にあったひとである。

 この人は学者として卓越していたばかりでなく、人間としてスケールの大きな練達の士で、国師として、哲人として、教育者として一世に傑出した人物であった。

 先生は高邁な学識と人格をもって、人間の大道を世に闡明することを一生の任務とせられ、孔子の「学びて厭わず、人を教えて倦ま」「老いの将に至らんとするを知らず」(論語)というように、生涯、学問、求道、教育に精進された人である。それは八十歳の高齢になっても、なお、この語録を書き、講学を続けられのを見ても、その一斑をうかがいしることができると思う。

 湯島の聖堂・昌平黌の教学は徳川三百年のうち、一斎先生の時代が最も隆盛を極めた。当時諸大みょうで先生を招聘して教えを請うもの数十家、その門に学ぶもの三千人の多きに達し、その門下から佐久間象山、山田方谷、河井継之助、東沢潟、池田草庵、吉村秋陽、安積艮斎、大橋訥庵、河田迪斎、横井小楠、元田東野等、幕末から明治にかけて日本を動かした多くの人材を輩出している。また、その門流を汲む人々の教化活動は、日本全国通々津々に及んでいる。

▼この「言志四録」は一斎先生四十二歳から八十歳の間に書かれた随想録で、言志録二四六章、言志後録二五五章、言志晩録二九二章、言志耋録三四〇章から成っている。これらは元来単行本として刊行されていたのであるが、完成後、これを合称して「言志四録」と言ったのである。

 これは日本人の書いた語録としては随一に位するもので、かって井上哲次朗博士は「一斎先生の言志四録は、わが邦人の語録において白眉と称すべきものなり」と激賞している。幕末から今日に至るまで、多くの日本人に読まれ、量り知れない影響を与えためい著である。四録ははもとより随筆であるので、先生の思想・学問・教学の一枝、一滴ではあるが、先生八十余年の学道生活の経験と万巻の書を活学された根拠がある。その上、先生の文章は当時、頼山陽とともに本邦の第一流と評されるほどで、その辞句はよく洗練されて、意味は深く、まことに寸言人を活かすめい文である。

 これこそ、日本人の書いた論語ともいうべきもので、人間学、処世哲学、経世の書として絶好のものであると思う。

▼維新の元勲、西郷南洲翁は、この言志四録をことのほか愛読し、この中より百一則を筆録し、その序文に「天下は人心益々軽佻に走り、道念の光明漸く微薄となり、人心の闇(やみ)は益々暗黒にならむ。この暗黒の中を行く一張の提灯(ちょうちん)を授く」と書き、これを彼の私学校の青年たちに講説したという。旧日向国、高鍋藩主、秋月種樹侯(後に明治天皇侍読、貴族院勅撰議員)は、この四録の南洲抄録に評を加えて明治二十一年に「南洲手抄言志録」一巻を出版した。

 私はこの書を論語とともに四十数年、くり返し、くり返し愛読してきたが、文字通り、韋編三絶の書となった。実に、この書は私の永い人生に尽きぬ光を与えてくれたのである。(以下略)

 昭和五十一年甲子十一月一日

越 川 春 樹

平成二十年九月二十九日

クリックすれば、この章のTopへ返ります

クリック、ホームページへ