兼田麗子著『大原孫三郎』――はじめに

改 訂 版 2023.02.26 改訂

善意と戦略の経営者


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 私はクラレの社員であった。昭和二十五年入社以来の社長は大原總一郎氏であり、そのご尊父が大原孫三郎氏であった。

 『大原孫三郎伝』(大原孫三郎伝刊行会)昭和五十八年十二月十日発行(非売品)は通読していた。

 ところが、平成二十五年(2013年)二月十五日(金)急性感染症で、岡山大学病院泌尿科・歯学部受診。総合内科受診。即入院となりました。

 入院中、医師の一人に倉敷からの方が居られて、雑談していますと兼田麗子著『大原孫三郎――善意と戦略の経営者』(中公新書)2012年12月20日発行が最近出版されている。大変、感激されて読み通した、と話された。

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 私は退院後、この本をを購入して読みました。

 このたび、読み返しましたので、冒頭の言葉を紹介します。

 はじめに

 大原孫三郎とは(1,880~1,943年)

 大原孫三郎とはどのような人物か、と尋ねてみたら、どんな回答があるだろうか。孫三郎について聞いたことのある人は、金持ちの道楽息子で社会事業にもお金を使った人と答えるかもしれない。また、ある人は大原美術館をつくった人物と言うかもしれない。

 このように、大原孫三郎は様々な視点から語られるが、岡山県倉敷の大地主と倉敷紡績の経営者の地位を父親から継承し、美術館や科学研究所、病院の創設など、社会や教育などのためにも尽力した実業家である。

 小作人に臨時の利益還元

 一九一九年(大正八年)三月、孫三郎は、小作人の一年限りの利益分配を行った。その理由は、「昨年は風水害のため凶作に近い年柄(としがら)であったが、地主側としては米価が非常に高値を示せるためにその懐具合は決して悪い年柄ではなく、寧ろよい年柄であったというのが実情」だったからであった。

 地主であるだけではなく、産業資本家でもあったことが有利に働いたことは確かであるが、小作争議が起こっていた時期に、孫三郎は地主として、一種のボーナスのようなものを小作人に提供していたのであった。

 経済社会的格差の拡大によって労働運動や社会運動が頻発するようになった時代、孫三郎は、地主と小作人、労働者と資本家の利害は一致する、随って共存共栄を目指さなくてはならないと考えた。そして、社会をよくするための対策を孫三郎は考え、積極的に講じていった。

 孫三郎は青年期に使命感に目覚め、「余がこの資産を与えられたのは、余の為にあらず、世界の為である。余に与えられしにはあらず、世界に与えらたのである。余は其の世界に与えられた金を以て、神の御心に依り働くものである。金は余のものにあらず、余は神の為、世界の為に生まれ、この財産も神の為、世界の為に作られて居るのである」と考えるようになった。そして、このような理想や使命感を孫三郎は生涯持ちつづけたのである。

 「片足に下駄、もう片方に靴を履いて」

 しかし、孫三郎は「自分の一生は失敗の歴史であった」とよく語っていた。「片足に下駄、もう片方に靴を履いて」と自ら表現したような、本業の経営活動(経済性、理)と社会的事業活動(倫理性、情)の両立は、不況による経済事情の側面からも相当難しかった。このあたりのことを息子の總一郎(一九〇九-六八)は次のように振り返っていた。「もう投げだそうと思ったことも再三あった、と後で父の関係の人達から聞かされたが、それでも私に対して弱音を吐いたり、困惑したという表情をみせたことは殆んどなかった」。

 反抗の精神

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※写真説明:1917年、岡山の天瀬別邸にて(左より夫人寿恵子、母恵以、長男總一郎)

 それでも、孫三郎が「下駄と靴」の両立を放棄しなかった理由は、単に理想主義者的な側面だけでは説明できない。反抗の精神が大きな力となっていた。幼少期から金持ちの息子だということだけで色眼鏡で見られてきたため、強い人間でなければならないと悟ったことによって、孫三郎は、負けることが嫌いな、反抗の精神が強い人物となっていった。

 そのような孫三郎は、設立した施設の運営を放棄するのではなく、本来は会社から出してもよさそうな経費までも自分の財布から出して維持を図ったりした。

 また、自らの過ちを反省し、生涯それを背負いつづけたことも「下駄と靴」の両方を放棄しなかった理由であろう。孫三郎は、東京に出て、東京専門学校(現早稲田大学)に籍を置いたが、もっぱら実社会での勉強に終始して、大借金をつくるなど大きな失敗を犯してしまった。孫三郎と親しかった倉敷協会の牧師、田崎健作(一八八五*一九七五)曰く、生涯の呵責に孫三郎はさいなまされつづけたのであった。

 一九〇二年(明治三十五年)四月十一日の孫三郎の日記には、「旧約を読了。さらに旧約を再読するか、新約聖書の三読にかかるか(中略)聖書の研究はまだまだ、これから益々勉強しようとの決心。聖書を反復熟読するようになって、反省、天職を見つけた」と書かれている。

 また五月十四には、「昨夜聖書研究にて馬太(マタイ)伝四章を読んだ。余は丁度この悪魔の試みにあったのである。この悪魔の為全く失敗したのであった。併しその悪魔の手から救い出され、救い出されて初めて全く失敗であり罪である事を、やっと知ったのであった。罪であることを知る事が出来たから、悪魔から離れることも出来たのである。これは全く御心に反して居ったのだが、その救われたることによりて、余の盡すべき天職、神の命じ賜う天職を教え賜うたのである。キリストは悪魔の大誘惑に打勝ち賜うた。余は悪魔に誘惑されて其手に陥ったが、幸にその悪魔たる事を教え賜い、而して余の天職を教え賜うたのである。嗚呼神は余を全く救い賜うたのである」と綴っていた。

 「正しく理解されなかった人

 このような孫三郎について總一郎は、次のように回顧していた。「父の残した事業は今では形態上変貌したが、内容的には存続しているものもかなり多いので、それらの業績から父に対する現在の評価はむしろ恵まれていると思う。しかし、生前は必ずしも今のようには評価されていなかった。それは非常に分かりにくい性格の持ち主だったからであろう。その分かりにくさは茫洋として捕え難いという類のものではなかった。尖鋭な矛盾を蔵しながら、その葛藤が外部に向かってはいろいろな組み合わせや強さで発散したから、人によって評価はまちまちだった。むずかし人だったという人もあれば、親しみ易い人だったという人もあり、冷たい人だったという人もあれば、温かい人だったという人もある。要は正しく理解されなかった人であったと思う」。

 大原美術館が創設され、正面玄関の両脇にはロダンの洗礼者ヨハネの像とカレーの市民の像が置かれた。このとき、このヨハネの像を見た倉敷の人のなかには、孫三郎が父親の裸体像をつくらせた、なにも裸にしなくてもよいだろうと陰口をたたいた人もいたという。また、左翼の運動家が演説で、資本家の搾取の見本だと槍玉に挙げたこともあったと伝えられている。

 孫三郎は、「仕事を始めるときには、十人のうち三人が賛成するときに始めなければいけない。一人も賛成がないというのは早すぎるが、十人のうち五人も賛成するようなときには、着手してもすでに手遅れだ、七人も八人も賛成するようならば、もうやらない方が良い」と言っていた。

 また、「わしの目は十年先が見える。十年たったら世人にわしがやったことがわかる」と孫三郎は冗談めかしてよく言ったいたという。この孫三郎の言葉から十年をはるかに超えた今、「下駄をはいてあるこうとした」孫三郎を正しく評価する機は熟しているだろう。

 以上で「はじめに」の文章は終わっている。しかし、本書には、本業の経営活動(経済性、理):倉敷紡績と倉敷絹織そして社会的事業活動(倫理性、情):地域の企業経営ー中国銀行・中国電力・『山陽新聞』:地域社会の改良整備ー倉敷中央病院の設立:三の科学研究所:芸術支援などなど活躍されている記事が網羅されている。 

 著者の参考文献の多いのにおどろかされた。よく研究されている。

参考1:『渋沢栄一』

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