日本の本より
(享保17年~安政3年)
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(明治時代:1)
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外国の人々(1868年以前) 外国の人々(1868年以後) ★★★★★★ ★★★★★★

日本の本より
(享保17年~安政3年)

目 次

   
01本間 四郎三郎
江戸時代の豪商、豪農で、大地主(1,732~1,801年)
02片山 蟠桃
『夢ノ代(しろ)』 (1,748~1,821年)
03滝沢 馬琴
『南総里見八犬伝』著者(1,767~1,848年)
04鈴木 牧之
『北越雪譜』(1,770~1,842年)
05渡辺 崋山
高野長英らと蘭学の研究、普及につとめた。自殺(1,793~1,841年)
06高野 長英
シーボルトに医学を学ぶ。蛮社の獄、自殺。(1,804~1,850年)
07横井 小楠
凶刃に斃れた幕末の思想家(1,809~1,869年)
08緒方 洪庵
緒方洪庵適塾(1,810~1,863年)
09佐久間 象山
幕末の洋学、兵学の第一人者。暗殺された(1,811~1,864年)
10元田 永孚
明治天皇に論語を講ずる(1,818~1,891年)
11浜口梧陵
(1,820~1,885年)
12勝海舟1
(1,823~1,899年)
13勝海舟2
(1,823~1,899年)
14郷 純造
"幕末太閤記"コツコツと財築く(1,825~1,910年)
15小栗 忠順(ただまさ)
政治の暴力性に泣く(1,827~1,868年)
16西郷 隆盛
明治維新の最高指導者の一人。鹿児島で敗死(1,828~1,877年)
17狩野芳崖
悲母観音像(1,828~1,888年)
18副島 種臣
毛並みのよい明治の政治家(1,828~1,905年)
19由利 公正
「五箇条御誓文」起草(1,829~1,909年)
20吉田 松陰
松下村塾(1,830~,1859年)
21大久保 利通
明治維新の推進者の一人。暗殺された(1,830~1,878年)
22佐佐木 高行
土佐藩出身の保守的政治家(1,830~1,910年)
23大木 喬任
佐賀藩士。文部・司法に活躍した政治家(1,832~1,899)
24金原 明善
実業家(1,832~1,922年)
25橋本 左内
自分の学問の目標に殉じた志士(1,834~1, 859年)
26江藤 新平
はじめて司法権を独立させた官僚政治家 (1,834~1,874年)
27本庄 正則
伊藤園創業者(1,834~1,989年)
28坂本 龍馬
明治維新の準備者(1,835~1,867年)
29岩崎弥太郎
(1,835~1,885年)
30五代 友厚
グラバーが決定したその運命(1,835~ 1,885年)
31安場 保和
横井小楠塾の知と言われる(1,835~1,899年)
32福沢 諭吉
『学問のすゝめ』(1,835~1,901年)
33前島 密
郵便制度の創始者(1,835~1,919年)
34大橋 佐平
「博文館」創始者(1,836~1,901年)
35榎本 武揚
賊軍の汚名幕臣、新政府の高官にのぼった異色の政治家(1,836~1,908年)
36井上 馨
長崎で新式銃を購入(1,836~ 1,915年)
37成島 柳北
柳橋新誌で藩閥政府を批判(1,837~ 1,884年)
38三条 実美
尊攘派の公卿、政府の最高位にのぼった(1,837~1,891)
39土居 通夫
鴻池の家政改革を実現(1,837~ 1,917年)
40板垣退助
明治維新の功労者(1,837~1,919年)
41大倉 喜八郎
功成り、風流の日送る(1,837~1,928年)
42後藤象二郎
土佐藩出身の政治家(1,838~1,897年)
43安田 善次郎
趣味に生きた実業家
(1,838~1,921年)
44大隈 重信
東京専門学校(現早大)創立者(1,838~1,922年)
45中井 弘
別れた妻は井上馨と……(1,839~ 1,894年)
46黒田 清隆
薩摩藩出身の討幕運動家、新政府で活躍(1,840~1,900年)
47伊藤 博文
初代内閣総理大臣(1,841~1,909年)
48田中 正造
足尾鉱毒と田中正造(1,841~1,913年)
49渋沢 栄一
東の渋沢栄一、西の大原孫三郎(1,841~1,931年)
50新島 襄
同志社創立者(1,843~1,890年)
51井上 毅
熊本出身。文部・司法に通じた官僚。政治家(1,843~1,895年)
52品川 弥二郎
明治の初期において産業団体や信用組合の先駆的な政治家(1.843~1,900年)
53馬越 恭平
石光真澄を登用(1,844~1,933)
54新島 八重
同志社創立者の新島襄の妻(1,845~1,932年)
55石川 理紀之助
秋田県の農村指導者(1,845~1,932年)
56森 有礼
明治初年の教育家。外交官(1,847~1,889年)
57中江 兆民
自由民権思想家(1,847~1,901年)
58伊庭 貞剛
栄達より心の平静(1,847~1,926年)
59桂 太郎
陸軍の建設に尽くした軍人。政治家(1,848~1,913年)
60益田 孝
三井物産初代社長(1,848~1,938年)
61浜尾 新
謹直で人格第一主義(1,849~1,925年)
62西園寺 公望
明治・大正・昭和の三代にわたる政治家。公卿(1,849~1,940年)
63左近充 隼太
西郷軍に加わり散る(1,852~ 1,877年)
64児玉源太郎
将に将たる器(1,852~1,906年)
65山本権兵衛と斉藤実
悲運の総理大臣 (山本権兵衛:1,852~1,933)
66野田 卯太郎
益田孝にほれこまれた大食漢(1,853~1,927年)
67北里 柴三郎
医学の育成者(1,853~1,931年)
68高橋 是清
二・二六事件で凶弾に倒れた(1,854~1,936年)
69上田 安三郎
三炭販売に奔走(1,855~1,901年)
70犬養 毅(号:木堂)
五・一五事件で凶弾に倒れた(1,855~1,934年)
71頭山 満
気骨の知事安場と意気投合(1,855~1,944年)
72陸 羯南
青年の血わかす(1,855~1,944年)
73原 敬
"ひとやま" あてて宰相となる(1,856~1,921年)
74後藤 新平
日本の医師・官僚・政治家(1,856~1,921年)
75牧野 伸顕
大久保利通の二男(1,861~1,949年)


☆01本間 四郎三郎(1,732~1,801年)

公益のために財を吝む勿れ 十成を忌む


   江戸時代の豪商、豪農で、かって日本一の大地主と()われた羽後酒田(山県県酒田市)の本間家は、

   本間さまには およびもないが

   せめてなりたや 殿様に

《金銀財宝は積んで山の如く、伊呂波(いろは)四十八蔵の倉庫には、累々たる米俵、金銀、銅貨、紙幣、古銭等々の数算(かずさん)する(あた)わず》

 と、巨大な経済力で山形地方に君臨していた。その本間家が筆頭株主の商事会社、本間物産が倒産したと新聞で報じられたのは一九九〇年十月で、まだ記憶に新しい。

 本間家は代々、その家憲とするところの、

十成(じゅじょう)()む》

 を守り、財を成しながら利益の大半を地域の人びとのために還元してきた。

 日本海を吹き荒れる強風は、酒田の町に一冬に一メートルもの砂を積もらせる。その砂嵐(すなあらし)を防ぐため、三百三十年前、本間家三代目、四郎三郎が苦難の末に延々三十キロに及ぶ椊林をなしとげ、人びとの生活(くらし)を守ったのもその一つである。

 時の流れといってしまえばそれまでだが、本間家のこの表舞台からの退場は惜しまれてならない。

 本間 四郎三郎(一七三二~一八〇一)――。

 本間家中興の祖といわれる四郎三郎は、はじめ久四郎、なを光丘。天下第一の豪農として庄内藩十四万石の領内において、藩主をはるかにしのぐ二十四万石の大地主である。 

 本間家の祖は、寛永年間(一六二四~四四)すでに商業を営み、酒田三十六人衆の一人として町政に参与し、元禄年間、海の商人として庄内地方や最上平野に産する米、藍、漆、晒蝋(さらしろう)、紅花などを買占め大坂に回漕し、帰り船に上方の精製品や古着などを積み込み、これを庄内地方で売りさばいたのが当って巨利を博した。そしてその利益をもって酒田周辺の土地を買い上げ千町歩地主と呼ばれる大地主にのしあがっている。

 四郎三郎が、父、庄五郎光寿のあと本間家を嗣いだのは宝暦四年(一七五四)。

 以来、四郎三郎は、

«父祖の志を体し倹素にして経済の利に通じ神社仏閣を修築し最上川の水利を治し天明の凶歉(きょうけん)(飢饉)に金穀(きんこく)(金と米)を施す»(『本間四郎三郎光丘翁事歴』)

 という。

 宝暦四年、四郎三郎は父の遺志を継いで前述の、酒田、西浜の防砂林の植林に取り組んだ。が、これは尋常の事業ではなかった。黒松の苗木はうえてもうえても、烈しい風害をうけ飛来する砂に埋没し、苗木を保護するための竹矢来を組むなど、吹きつける砂あらしと格闘すること十二年、ようやく砂防林の完成にこぎつけている。

 かくして藩主、四郎三郎の功を賞し町年寄を命じ、のち士分に取りたて小姓格となる。

 明和五年(一七六八)、鶴岡、酒田両城の普請を成し遂げ、備荒備蓄米として藩庁に二万四千俵を献上、この米が、天明三~八年(一七八三~八八)の大飢饉から藩士や領民を救うことになる。

«両者(二件)の功を以て併せて(四郎三郎に)禄五百石俸三十口、物頭格に班す»

 庄内藩のパトロンとしての四郎三郎の奔走はなおもつづく。焼失した江戸藩邸の再建をはじめ庄内藩の窮乏を救うため財政すべてをゆだねられ、その上、幕府から安べ川、富士川、大井川の改修工事を命ぜられ、その資金借入れに大坂、兵庫の豪商たちを訪ねて成功――と八面六臂の活躍ぶりを四郎三郎はみせている。

 こうして四郎三郎の経済手腕のあざやかさをみて、藩主を通じて財政整理の救援を委嘱する諸藩あとを絶たず、なかでも窮迫貧困ぶりを天下に知られた米沢藩、上杉治憲(はるのり)(鷹山公)の請いをいれて、米沢藩のため金穀を献貸すること数度、世の人、これによって、

«治憲の徳、天下に鳴る、(その背後に)四郎三郎の献貸(あずか)って力あり»

 という。この他にも四郎三郎は、酒田港口に私費をもって灯台を建て、氷結する最上川の氷上に板を敷き

«旅人の陥没を防ぐ»

 など、公共のため激務に従事すること三十六年、寛政九年病を以て辞するも、

《(藩主)これを慰諭して聴せず》

 享和元年、没す。七十歳。

«一、公共事業に全力を竭し、公益の為に財を吝む勿れ。

一、神を敬い、仏を崇ぶは誠心誠意を喚起する所以なり。一日も信仰の念を忽せにすべからず。

一、貧を憐み弱を扶け盛んに陰徳を施すべし。

一、勤倹の二字は祖先以来の厳訓たり、宜しく朊膺してその功徳を発揮せよ。

一、深く子弟の教育に注意し、忠孝の心を涵養すべし。

一、富豪の者と縁組すべからず。須らく清素なる家庭の子女と婚を結ぶべし。

一、勧懲の制を設け、農事を奨励し、小作人を優遇すべし。

一、家庭の静粛は長幼の序を厳にするにあり、決して紊ることある可らず。

一、世態(世間の有様)人情を究め、心身を修養するは、一家を治むるに於て必要なることに属す。宗家の嗣子たる者は必ず全国を漫遊すべし。》

 ――この《宗家の嗣子たる者は必ず全国を漫遊すべし》という(くだり)はおもしろい。旅をして世間の風にあたり、見聞をひろめよというのであろう。これを読んでいて、広瀬旭荘の『九桂草堂随筆』のなかにも、そのような見聞記があったのを、ふと思いだした。

※:広瀬旭荘(ひろせ ぎょくそう)、(1807~1863年)は江戸時代後期の儒学者・漢詩人。

«田舎人、一たびは三都を観ざるべからず(略)京の人は細なり、大坂の人は貪なり、江戸の人は夸(尊大)なり、江戸の人は客気(かつき)(血の気)多し、京の人は土地を尊ぶ、其意に曰く、江戸大坂といえども皆田舎なり、住むは都に()くはなしと。大坂の人は富を尊ぶ。其意に曰く、公卿官禄高しと雖も貧しきが故に我輩の商賈(しようこ)に手を下ぐるなり。世の中に富ほど尊き物はなし。江戸の人は官爵を尊ぶ、其意に曰く、諸侯さえも貧しき時節なり、貧は愧ずるに足らず、質を置いても立身するがよしと、是三都人気の異る所以なり»

 という。

《一、額に汗して得たるものに(あら)ざれば真の財産ならず、須らく投機事業を排斥せよ》

 こうした本間家家訓の中で、特異なのは、

 「収入の分配法」

 を記した項であろう。

《一、(かみ)の保護なくんば家栄ゆる事なし、財産の四分の一を献紊の資となすべし。

二、神仏の加護、祖先の偉効に依りて家(さか)んなり、財産の四分の一を寄附及び祭祀(さいし)の料とすべし。

三、各戸あって地主(にぎ)わい、各戸豊かにして自他安寧なり、財産の四分の一をその救助に()つべし。

四、残余の四分の一を以って其家計に充て、勤倹自ら奉じ、勤めて剰余を生ぜしめ、之を蓄積すべし。》

 つまりこれは、本間家の当主たちが代々守りつづけてきた《十成を忌む》冨の充溢(じゅういつ)、充満を避けるための(おしえ)なのであろう。

神坂次郎著『男このことば』(新潮文庫)P.266~272  

参考1:日本一の地主・酒田本間家

参考2:社是・家訓


 幕末最強「庄内藩」無敗伝説を知っていますか 薩長も恐れた東北の「領民パワー」

 東洋経済オンライン

 庄内藩の最強伝説を支えた酒田の豪商、本間家の門構え

 戊辰戦争といえば、薩摩・長州(薩長)など「官軍」の一方的な勝利というイメージを持たれる方が多いことだろう。会津藩(福島県)以外の奥羽越列藩同盟軍は大した抵抗を見せることなく降伏した……と。

 だが実際は、同盟軍は一方的に負けていたわけではない。前回(反薩長の英雄「河井継之助」を知っていますか)紹介した長岡藩(新潟県)のほかにも、庄内藩(山形県)は「官軍」を寄せつけず、薩摩兵と互角に戦って勇猛さを見せた。にもかかわらず、「薩長史観」(なぜいま、反「薩長史観」本がブームなのか)では、故意に無視されてきたと歴史家の武田鏡村氏は語る。

 『薩長史観の正体』を上梓した武田氏に、知られざる「庄内藩」の強さについて解説していただいた。

 惨憺(さんたん)たる会津戦争の実態は多くの史書に残されているが、「薩長史観」では語られることが少なかった庄内藩の奮戦をご紹介したい。

 酒井忠篤(ただすみ)を藩主に仰ぐ庄内藩(鶴岡藩ともいう)は14万石(戊辰戦争時は17万石)の譜代大みょうで、外様大みょうが多い奥羽地方にあって会津藩とともに徳川家に忠誠を尽くす藩とされていた。

 庄内藩は、江戸市中取締役となったときから、薩摩と反目する関係にあった。

 薩摩は西郷隆盛の指令で江戸市中を騒擾(そうじょう)化して「薩摩御用盗(ごようとう)」といわれる略奪と放火を繰り返した。それを取り締まり、薩摩藩邸を焼き討ちにしたのが庄内藩である。

 薩摩は庄内藩を逆恨みして、奥羽鎮撫軍(新政府軍)を差し向けた。薩摩藩士の下参謀大山格之助が副総督の沢為量(ためかず)を伴って、いち早く新庄に進んだのは庄内を討伐するためであった。

 奥羽(東北)の戊辰戦争で初めて戦火が交わされたのが、庄内兵と薩摩兵・新庄兵が対戦した清川の戦いである。初めは薩摩兵が優勢であったが、支藩の松山藩や鶴岡城から出兵して来た援軍で薩摩兵を撃退した。

 庄内兵は天童を襲って新政府軍を追い払い、副総督の沢為量は新庄を脱出して秋田に向かった。さらに庄内兵は、新庄、本荘、亀田を攻めて無敵を誇った。

 庄内兵の奮戦を支えたのが、酒田の豪商本間家である。本間家は北前船(きたまえぶね)を使った廻船で莫大な富を築き、酒田周辺の大地主になっていた。開戦当時の6代光美(こうび)は、庄内藩に5万両の武器弾薬を提供している。一説では総額十数万両を藩に献紊したという。

 庄内兵は、7連発のスペンサー銃などの最新式の銃砲や大量の弾薬を手にした。近代兵備を装備し訓練された強力な軍隊だったのだ。

 また、新政府軍との戦いで庄内藩は最終的に4,500人の兵を動員しているが、そのうち2,200人が、領内の農民や町民によって組織された民兵だったという。このような高い比率は他藩では見られないもので、領民と藩との結び付きが強かったことがうかがわれる。国際法を知らなかった新政府軍

 新庄藩を攻め落とした庄内兵は、やはり新政府軍に(くみ)した秋田藩にまで攻め込んでいる。

 内陸と沿岸の両方面から秋田に攻め入り、「鬼玄蕃」と恐れられた中老酒井玄蕃が率いる二番隊を中心に連戦連勝で、新政府軍を圧倒した。

 秋田藩は古風な出陣ぶりで、従者に槍や寝具などを持参させていた。このため新政府軍の総督府から、無益の従卒を召し連れて出軍して機動力を欠いていると叱責されている。

 また、秋田藩はアメリカ軍船を購入したが、これにロシア国旗を掲げて庄内の鼠ヶ関(ねずがせき)に接近して砲撃を加えた。庄内藩が直ちに箱館(函館)にいるロシア領事に抗議するという事態になった。秋田藩の国旗偽装は国辱的な行為で、これを見逃していた新政府軍の国際感覚が疑われても仕方のないものである。

 新政府軍は外国軍に協力こそ求めなかったが、坂本龍馬が熟読し、幕府の海軍が遵守した国際法「万国公法」に通じていなかったのである。

 庄内藩は、しだいに同盟諸藩が新政府軍に恭順・降伏していくと、孤立を恐れて秋田戦線から退却する。庄内藩が降伏したのは会津降伏の4日後、明治元(1868)年9月26日のことで、奥羽では最後に新政府軍に屈している。勝ち戦続きで、領内への侵攻を許さなかった末の恭順である。

 庄内藩は果敢に新政府軍に挑み続け、ついには降伏したわけだが、新政府軍の報復に(おのの)いた。ところが、思いがけず西郷隆盛(南洲)の寛大な処置を受ける。これに感謝して、後に庄内に南洲神社まで造られている。

 だが西郷は、東北方面の戊辰戦争ではほとんど出番がなく、ようやく庄内に着いたときには戦いが終わっていたというのが実情であった。しかも多額の戦後賠償金をせしめることができたのであるから、寛大に振る舞ったのではないだろうか。

 なお、この戦後賠償金は、本間家を中心に藩上士、商人、地主などが明治新政府に30万両を献金したものである。

 ちなみに、会津藩は23万石から3万石と大幅に減封された。そして、不毛の地・斗南(となみ)に追いやられ、藩士やその家族は地を這う生活を強いられた。実質的に会津藩は解体されたといってもいいだろう。

 だが、庄内藩は17万石から12万石に減じられただけであった。一時は会津、平と転封を繰り返したが、先述の戦後賠償金や領民の嘆願により明治3年(1870年)に酒井氏は庄内に復帰した。

 ここでも庄内藩は、領民たちの尽力により救われたわけである。ちなみに天保11年(1840年)にも、幕府による領地替えの計画が持ち上がったが、領民の嘆願により取りやめになった経緯がある。

 こうした領民との結び付きといったソフトパワーの面からも、庄内藩は「最強」だったといえるのではないだろうか。

平成29年10月28日、2012.05.17追加。


☆02片山 蟠桃(ばんとう)(1,748~1,821年)


谷沢永一著 『百言百話』明日への知恵 (中公新書)P.168~169

 経済ハ民ヲシテ信ゼシムルニアリ。民信ゼズシテ何ヲカナサン。民ヲ信ゼシムルコトハ(ただ)ソノ身ノ行イニアルノミ。(中略)文王(ぶんのう)民ヲ見ルコト(いた)ムガゴトシ。コノ心ヲ以テ民ニ臨ム、アニフクセザルヲ得ンヤ。其上ノ機ニノゾミ変ニ応ズルノ権智(けんち)(臨機応変の知恵ー有坂隆道注)ハ、ミナコノ仁心ヨリ()キ出ルコトニシテ、ソレヲ以テ行ウコトナリ

          片山蟠桃(やまがたばんとう) 『夢ノ(しろ)』          

 『論語』第三十八章、「子曰く、人間がもし信用をなくせば、どこにも使いみちがなくなる。馬車に(ながえ)がなく、大八車に梶棒(かじぼう)がないようなものでひっぱって行きようがない」(宮崎市定訳文)。個人と個人との関係という次元においてさえ然り、(いわん)や為政者と民との隔てある相互に、信用の(きずな)がなくして経済行為は成り立たぬ。

 同じ問題でも蟠桃とははなはだしく違って、専ら口舌に頼った海保青陵(かいほ せいりょう)は、『稽古談』に次の如く言う。

 ――「民ヲクルシメマイトスルコト、アシキコト也。民少シククルシメテモ、始終ノ処ガ民ガ安楽ナルガヨキ也。唯少(ただすこ)シノ間、民(らく)ヲシテモ、イク(ひさ)ククルシミテハ、民ヲ安ンズルㇳ云モノニテハナキ也。少シノアイダクルシメテモ、イク久ク民ヲ楽ニスレバ、民ヲ(ぎゃく)スルㇳ(いう)モノニテハナキ也。」

 蟠桃は「民ヲシテ信ゼシムル」事を決して難しいとは考えない。問題は、「唯ソノ身ノ行イニアルノミ」なのだが、「(その)任久シケレバ(その)行イモ通ルベキニ、新タニ任ゼラレテハコレモ(また)イカンヲシラズ」。長らく経済官僚の地位にあれば、当人の人柄も出所進退もよく知られていて、信用されるべき人なら信用を確立しているはずである。しかし人事移動の更迭によって、新しく任ぜられた未知の者には、当然のこと猜疑の眼も向けられよう。しかしもともと「スデニ信義ノ人ニシテ、又加ウルニ聡明ナレバ、ナンゾ一月ヲ(また)ン。民ヲオサムルコト、コレヲ掌上(しょうじょう)ニメグラスガゴトクナルベシ」である。

 以上は決して机上の空論ではなく、奥州伊達藩六十二万石の経済立て直しを、完全な成功裏に進めた時の経験が、立言の趣旨を立派に保証しているのである。

参考:子曰く、人にして信なくんば、其の可なるを知らざるなり。大車に()なく、小車に(げつ)なくんば、それ何を以て之を()らんや。宮崎 市定『論語の新研究』P.181 

参考2:庶民にも儒学は広まった。石田 梅岩は儒教を基本としながらも、神道や仏教も重んじる「石門心学」を唱え、商人の倫理を説いた。大阪商人が生み出した学問所である「懐徳堂」の中井竹山、中井履軒も活躍した。

 その二人に儒学を学んだ山片 蟠桃は、主著『夢ノ(しろ)』を二〇年かけて書き上げた。そこには、地動説や、神代史や霊魂の存在の否定など、きわめて合理主義的な思考が見られる。

※註:宮崎市定『論語の新研究』

2010.01.30


☆03滝沢 馬琴(1,767~1,848年)


 いにしえの人いわずや、禍福はあざなう縄のごとし。人間万事往くとして、塞翁(さいおう)が馬ならぬはなし。そは(さいわい)()る所、はた(わざわい)の伏する所、彼にあれば(これ)にあり、とは思えどもかねてより、誰かよくその(きわみ)を知らん。憐れむべし犬塚信乃は、親の遺言、(かたみ)の名刀、心に(しめ)つ、身に(つけ)つ、艱苦の中に年をへて、得がたき時を得てしかば、はるばる滸我(こが)へもたらして、なをあげ、家を興すべかりし、その福は禍と、ふりかわりたる村雨の、(やいば)(もと)の物ならで、わが身をつんざく(あだ)とぞなりし、(うらみ)をここに()くよしもなく……そこに必死をきわめたる、心の中はいかなりけん。(南総里見八犬伝)

この日(10月27日)生まれた江戸の小説家。山東京伝(さんとう きょうでん)に師事、勧善懲悪主義により雅俗折衷の文で読本を作る。『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』『南総里見八犬伝』

*桑原武夫編『一 日 一 言』―人類の知恵―(岩波新書)P.96


04鈴木 牧之(ぼくし)(1,770~1,842年)


 「戸障子閉メルニ一寸残シ草履木履ヲ踏ミ散ラシテ脱ギ置ク人、皆敗家ノ人ナリ」

 塩沢の商家に生まれ、勤勉に家業を励む商売人でした。父親の影響で、俳諧、書画、文筆も行い、世に出る名著『北越雪譜』をのこしました。 『北越雪譜』は、40年という歳月をかけ雪国の暮らしを伝えるために、越後の雪や風俗を ...


05 渡辺崋山 眼前の繰廻しに百年の計を忘る勿れ (1,793~1,841年)

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 幕末憂国の受難者であり、画家として高名で、国宝『鷹見泉石(たかみせんせき)』像や数多くの重要文化財に属す傑作を遺した渡辺崋山(通称を登)は、三河国田原藩の藩主、三宅家一万二千石の定府(江戸勤務)仮取次役十五人扶持(ぶち)、渡辺市郎兵衛の嫡男として寛政五年(一七九三)麹町の田原藩邸で生まれた。  

 幼少から貧困に苦しみ、八歳で若君の伽役(とぎやく)として初出仕した崋山は、十二歳のとき日本橋であやまって備前侯世子(せいし)(若君)の行列と接し、供侍から打擲(だちゃく)された。この屈辱に、    

「おのれ、いまに見ておれ」 

 と発憤した崋山は、大学者への道を志し、家老で儒者の鷹見星皐(せいこう)にまなぶ。が、家計貧困。その貧しさを助けるためには、  

「画家たるに如かず」    

 と転向、平山文鏡、白川芝山(しざん)について画法をまなび、のち金子金陵(きんりょう)、谷文晁(ぶんちょう)に師事して南画の構図や画技をまなぶとともに、内職のために灯籠絵(とうろうえ)などを描いた。 

 こうして近習役から紊戸役、使い番と累進した崋山は、晩年、家来末席に出世していた父の跡目をついだ。遺禄八十石。 

 二十六歳のとき正確な写実と独自の風格をもつスケッチ『一掃百態』を描き、二十歳で結婚。このころから崋山は蘭学や西洋画に傾倒し、『四州真景図』、学門の師である『佐藤一斎像』など西洋画特有の遠近法や陰影を駆使した作品を仕上げ、三十四歳の春、江戸にきたオランダ国の使節ビュルゲルを訪ねたりして西洋の文物への関心を深めている。  

慊堂(こうどう)に師事して"経世流民"の学をまなんだ。

 天保三年(一八三二)四十歳で江戸家老に栄進し禄百二十石。崋山は農民救済をはかるため、悪徳商人と結託した幕吏が計画した公儀新田の干拓や、農民の生活をおびやかす領内二十一ヵ村への助郷(すけごう)割当の制度を、幕府に陳情、嘆願して廃止、免除させた。

 また、飢饉に備えての養倉「報民倉《を建築。農学者、大倉永常を登用して甘藷を栽培させて製糖事業を興すなど、藩政への貢献は大きい。

   当時、崋山は海外の新知識を得るため、田原藩主の異母弟で若くして隠居していた三宅友信に蘭学を勧め、大量の蘭書を購入。シーボルト門下の俊才で町医者の高野長英や岸和田藩医、小関三英、田原藩医の鈴木春山らに蘭書の翻訳をさせた。 

 この蘭学研究グループを集めた三宅友信の巣鴨邸は、やがて江戸蘭学者の集会所の観を呈し、崋山はいつかその代表としての立場に押しあげられていった。   

 当初、崋山や長英、三英の交友からスタートした蘭学研究は、海外事業に強い関心をもつ幕臣、川路聖謨(としあきら)や代官、江川英龍(ひでたつ)、羽倉外記(げき)、水戸藩士、立原杏所(きようしよ)、紀州藩の儒者、遠藤勝助、二本松藩の儒者、安積艮斎(あさかこんさい)などを加えて「尚歯(しようし)会《となり、やがて鎖国攘夷の幕政に激しい批判を浴びせかける。

 崋山自身も例外ではなかった。時事を討議し幕臣の腐敗無能ぶりを詰問した。『慎重論』を草して、憂国の情を披歴している。また、伊豆の代官で西洋砲術家、海防策に心をくだいていた幕府きっての開明派である江川英龍のために崋山は、海の彼方から迫ってくるヨーロッパ勢力による危機や、江戸湾周辺の防備計画について述べた『西洋事情御答書』を書き送っている。  

 これらのことが幕府の目付、幕府の目付、鳥居甲斐守輝蔵(かいのかみようぞう)の憎しみをかい、天保十年(一八三九)、蘭学者弾圧の"蛮社の獄"に、崋山もまた「幕府批判」の罪によって捕えられ、投獄七ヵ月。

 のち崋山、藩地田原へ蟄居。幽閉所での崋山の暮しぶりは窮乏をきわめている。 

《かようなお預け人(崋山)は、一日も早く死ぬるを役人は喜ぶことで、その手当は甚だおろそかで(食にも事を欠くような)まことに貧家の様であった。画弟子何がしの女は、家が富んでいたので、これが主となり、古い弟子どもが申しあわせて、月に二分(一両の半分)ずつを送った。崋山はその謝礼として、屏風一双ぶりの絵を作って江戸(の弟子)に送った。これで少しは飢寒を免れた》(『反古(ほご)のうらがき』巻四・鈴木桃野)     

 また、門弟の福田半香は、崋山の貧を救うために江戸で書画会(即売会)をひらいた。 

 ところが、かねてから開明派の崋山の活躍ぶりを苦々しく思っていた守旧派の藩老や藩士たちは、この書画会をみて、 

「蟄居中にあるまじき、不謹慎なる振舞《と騒ぎたて、いまに、「近く藩公(第十一代・康直)は、公儀からのお咎めをこうむる」 

 という噂を撒き散らした。     

 こうした風説(うわさ)を耳にした崋山は、藩主や師、友人に累がおよぶのを案じて、みずからの墓碑銘を、

《不忠不孝渡辺登》

 と大書し、納屋のなかで切腹自殺した。

 田原藩家老としての崋山が《富めるものはますます富み、貧しきものはいよいよ貧しく、窮民所々に騒擾(そうじよう)という天保飢饉のなかで、つねに考えつづけていたのは、領民たちの平穏な暮しであった。

 その彼が、ある商人から頼まれて書いたという商人訓がある。

《一、まず召使いより早く起きよ

《一、十両の客より百文の客が大事》

 一、客人(商品を)気に入らず、返しにきたらば売る時より丁寧にせよ 

一、繁盛するに従い、益々倹約せよ 

一、小遣いは一文よりしるせ

 一、開店の時(初心)を忘れるな

 一、奉公人が出店を開いたら、三ヵ年は食扶持を送ってやれ》 

    藩老であり、すぐれた知識人であり見事な画人であった崋山の、こうした商人訓はめずらしい。

 この他、崋山は藩の御用金調達のため大坂に出向いていた真木重郎兵衛のために《八勿(はちぶつ)つまり、八つの(なか)れという、訓戒の書を与えている。》

《一、面唔(めんご)(初対面)の情を常に忘る勿れ

一、眼前の繰廻し(やりくり)に百年の計を忘る勿れ

一、眼前の功を期して後面の(ついえ)を忘る勿れ

一、大功は緩にあり、機会は急にあり、ということを忘る勿れ

一、(おもて)(表面)は冷(令静)なるを欲し、背(本心)は暖(暖かさ)を欲するということを忘る勿れ

一、挙動を慎み、其恒(そのこう)(普段の姿)を見らるる勿れ

一、人を欺かんとする者は事に欺かる。不欺(あざむかぬ)は即ちふ欺己(おのれをあざむかず)ということを忘る勿れ

一、基立って物従う(基本ができてこそはじめて物事は進む。基礎こそ大事)、基は心の実というを忘る勿れ》

 崋山の訓戒はいまなお新鮮である。眼前の遣繰(やりく)り、小さな工面に追われて、百年の大計を見失うな。大仕事はゆっくり、焦らずに取組め。とはいえ、チャンスは一瞬の気だ。その瞬間を逃すな……などはめぃ言である。

 神坂次郎著『男この言葉』(新潮文庫)P.223~227

2021.06.19記



 御領中にまかりあり候数万人の内、たとえいかに賤しき小民たりとも、一人にても餓死流亡に及び候わば、人君の大罪にて候。さりとて人君自ら御手を下し候事は成されがたく、すべて役人に御任せなされ候事ゆえ、万一行届かざることありとも、しいて人君の罪とは思召されず。下よりもまた左は存じ奉らざるより、家老は奉行の過ちとし、奉行は下役人の過ちとし、誰が罪とも定かならず。表面ばかりの取計らいにて事をすまし候。……家老、年寄のふ行届きとは申すものの、実は人君の治政に御心これなきよりかく相成り候。(恐慌心得書)

 この日(10月11日)この日自殺。田原藩家老として治績をあげ、画家としても一流。高野長英らと蘭学の研究、普及につとめ、幕府ににらまれた。

*桑原 武夫編『一 日 一 言』―人類の知恵―(岩波新書)P.168

平成二十六年四月六日


☆06高野長英(1,804~1,950年)

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 蘭学が行われてより未だ二百年に至らず、その学をなす者はわずかに千万人中の中の一、二人に過ぎず。これを卑蔑するものは多くして、これを尊信するものは少し。我党のしいてこの学をなすは、その言うところ実理ありて業とするところに利あればなり。何ぞかかる目出度き神国をすて沍寒ふ毛の西洋をしたい、西夷に従わんや。しかれども蘭学をにくむの輩、往々そしるにこれをもってなとす。……天の蘭学に災する一に何ぞここに至るや。哀しい哉。けだし蘭学を業とし蘭学に死し、忠義の事を致し、忠義の事に死せば、理において恨むるところなく、義において恥ずるところなし。 (鳥の鳴音)

この日(10月31日)自殺す。シーボルトに医学を学び、蘭学の研究普及に努め、幕府に追究され、地下にもぐること五年余であった。

桑原武夫編『一 日 一 言』ー人類の知恵ー(岩波新書)P.180

2020.05.20


※図書:佐藤昌介著『高野 長英』(岩波新書)1997年6月20日 第1刷発行

 幕末の蘭学者、高野長英は、「蛮社の獄」で渡辺崋山とともに罪に問われ、脱獄そして自刃という数奇な運命をたどった先覚者として知られる。しかし、長英は何より学問の人であった。著者は、長英の軌跡をたんねんに検証し、強烈な自我を貫きつつ、新たな学問を切り開いた長英の人間像をみごとに浮かび上らせる。最新最良の評伝。


 苦辛世界秋風急苦辛なる世界、秋風急なり。(高野長英)嘉永二年(一八四九年)の六月二十六日に、蛮社の獄で入獄し、その後江戸の大火の際に脱走した高野長英(四十五歳)は、宇和島、鹿児島、伊豫を経て大阪に向う。先の言葉は、長英が獄中から郷里へ送った爪書の一節。青木雨彦監修『中年 博物館』(大正海上火災保険株式会社)P.94


☆07横井 小楠(よこいしょうなん) (1,809~1,869年)


小島直記『人材水脈』日本近代化の主役と裏方(中公文庫)昭和五十八年八月十日発行 P.9~13

   横井小楠 実学説き弾圧受ける

 曲者とは、ひとくせあるもの、悪党、あやしいもの、盗賊という意味だそうだが、すばらしい条件でスカウトされようとしたとき、あいつは曲者だから中止されるように、と妨害をうけた人物がいる。肥後の学者横井小楠(しょうなん)(一八〇九-一八六九)がその被害者であった。

 小楠は、百五十石どりの肥後藩士の二男坊である。なは時存(ときより)、通称を平四郎といった。畏斎(いさい)、小楠、沼山(しようざん)という三つの号があるが、小楠がもっとも有名。これは楠木正行(まさつら)(父正成を大楠公、正行を小楠公と称す)の人物を慕ってつけたものといわれる(他に、家塾が横丁に面していたので小楠塾となづけ、それを号にしたという異説あり)。

 十歳のころ藩学時習館に入学し、十五歳のとき成績優秀でほうびをもらい、二十五歳で居寮生にばってきされた。これは名家の子弟と秀才を二十五人前後選び、藩費で寮生活させながら勉学させる制度で、その将来を約束されたことになる。二十八歳で講堂世話役、二十九歳で居寮長(塾長)、その三年後に江戸留学を命ぜられた。エリートコースの仕上げである。

 しかるに、小楠は藩当局の期待するような型にはまった優等生ではなかったのである。当時の肥後藩では、学者(儒者)を幇間(ほうかん)(たいこもち、おとこげいしゃ、ごきげんとり)ないし逃避者として飼育し、酷政批判の矛先(ほこさき)をくだき、すすんでその協力者に仕立て上げようとしていた。そこで、大半は生活のために御用学者となり、良心的なものは詩文の世界に逃避した。御用学者は字句の解釈だけを重んずる。「けしつぶの中くりほぎて(やかた)たて、ひと間ひと間に細注を読む」という狂歌がよまれたほどである。秀才の平四郎青年は、現実の政治と無関係な官学にあきたらず、当然、知行合一をとく陽明学を独習した。したがってその学問的なながれからいえば、中江 藤樹熊沢 蕃山佐藤 一斎大塩 平八郎(中斎)佐久間 象山、高井鴻山(こうざん)などの人脈につながる。江戸に出ても、官学派の本山昌平黌(しようへいこう)(東大の前身)でおとなしく講義をきくというよりは、さかんに一流人士と往来した。

 そのとき彼がもっとも評価したのは、水戸藩の藤田 東湖、幕臣では川路聖謨(としあきら)の二人である。その東湖が忘年会を催して同志を招待したとき、平四郎も迎えられた。彼は漢詩一編をつくり、一座の人びとに訴えた。「わが輩従来文士にあらず……治乱にただこれわが心をつくし、群小と黒白をあらそわず……なんぞ風月をといて文墨を(ろう)せん、諸君まさにおのおの思うところあるべし、こころみに肝隔(かんかく)をひらきて、座に向って投げうて」という激烈なもので、夜を徹して痛飲し、胸襟(きょうきん)を開いて天下の政治を論じようではないか、というのである。

 これが肥後藩邸留守居役の耳にはいった。こいう手合いは俗吏にきまっており、事なかれ主義を最上の実践倫理とする。平四郎の言動によって災いがおきることをおそれ、酒失(酒の上の失態)があったとして熊本帰還を命じてしまった。

 平四郎青年はそのときエリートコースからはずれてしまったのである。いや、ただ出世しなくなったというだけでなく、いみきらわれ、憎まれ、弾圧されたのである。まず逼塞(ひつそく)(門をとざして白昼の出入りを許されない)七十日の処分をうけ、これまでの給与をとり上げられた。三十二歳にして長兄の居候となるほかはなかったのである。兄は知行百五十石で手取りは米五十石の貧乏ぐらし、平四郎が食客となっていよいよ窮迫した。

 しかし、彼は節をまげず、その「実学」に打ちこんだ。そこから「治国安民の道、利用厚生の本をあつくして決して知術功みょうの外に馳せず、眼を第一等につけ、聖人以下には一歩もくだらず、日用常行孝弟忠信より力行して、ただちに知道をおこなうべし」という政治理念を確立した。彼を中心に、長岡監物(けんもつ)(のち家老、当時二十四歳)、元田 永孚(もとだ ながざね)(のち明治天皇侍講、二十四歳)、荻昌国、下津休也(しもつ きゅうや)などの青年読書グループができ、実学党とよばれ、藩庁、保守派から敵視された。

 はじめて私塾を開いたのが三十五歳のときで、これからが「小楠」時代となる。入門第一号は惣庄屋のせがれ徳富一敬(とくとみ かずたか)(このとき二十一歳)、第二号は矢島 源助。徳富は矢島の妹久子を妻にむかえ、猪一郎(蘇峰)健次郎(蘆花)の文人兄弟を生んだ。また久子の妹せつは、小楠四十八歳のときに後妻にむかえられたので、小楠と蘇峰、蘆花兄弟は叔父(おじ)(おい)の関係に結ばれる。

 さて小楠は、四十三歳のとき諸国遊歴の旅にのぼり、越前の福井を通った。このとき藩首脳を心腹させたことがのちの結びつきの端緒となる。翌年、越前藩では学校創設にあたって小楠の意見をもとめ、その人材教育に関する卓見に藩主松平慶永(よしなが)(春嶽、このとき二十五歳)は魅了されてしまった。春嶽はその後、黒船渡来後の人心動揺を心配して幕府に数回建言する一方、領内の海防兵備に心をくだき、適当なアドバイザーを求めていたが、たまたま安政三年、家臣村田 氏寿(むらた うじひさ)にきた小楠の手紙を見るにおよんで、彼こそ自分の求めていた人だと確信し、その招聘(しょうへい)を決意したのである。

 順序として、熊本にいる藩主細川斉護(なりもり)にその希望を手紙で申し入れ、自らは江戸の肥後藩邸に家老をたずね、家老ふ在のため藩主夫人(春嶽夫人の母)に会ってそのことをたのみ、さらに翌日は側近に書面をもたせて家老に申しこませた。ところが家老は(しり)の穴が小さい。家中の人物が他藩に評価され、いいチャンスにめぐまれたことをよろこばず、「とにかく曲者ゆえしきりに他人と取りあい絶交などつかまつり、はなはだもって困り入り申し候……右ようの者ご承知なく御請待に相なり、後日ふ都合のことなど出来候ては、御大切の御先がらさまゆえ、はなはだもって当惑」と打ちこわしにかかった。手紙だけでなく、越前藩邸をたずね、ボロクソにこきおろした。

 ところが、このときの春嶽が見事である。もともと小楠は肥後藩の日かげ者、肩書き、知名度など外的権威などゼロに近い田舎塾のあるじであった。それを自分の肉眼で見ぬいた上での招聘だ。ふ都合があってもそれは当方のこと、そちらの知ったことではあるまい、と押しきり、ついに賓師(ひんし)(客人あつかいの先生)としてまねいた。小楠もまた知遇に感じ、動乱期の名指導役をつとめるとともに、多くの人材を育成した。今日の熊本大学教授を福井大学学長にむかえることとは本質的にちがう人間血盟、心と心の結びつきが、このスカウト人事を成功させたようである。

※小島直記『人材水脈』日本近代化の主役と裏方(中公文庫)の表紙に「業半ばにして凶刃に斃れた幕末の思想家横井 小楠の開明的な精神を受け継ぎ、世界的視野を以て維新から現代まで日本の近代化に努めてきた四十七人の男たちの人生に、人間の生き方の根源をさぐる」と書かれている。

2010.03.15、2019.05.02追加。


☆08緒方 洪庵(1,810~1,863年)


 岡山県:足守藩士、医師、蘭学者である。大坂に適塾を開き、人材を育てた。

 日本一の蘭学塾だった緒方洪庵の適塾P.60

 緒方洪庵が大阪の瓦町に、はじめて医療を開業、同時に蘭学教授をはじめたのは、天保九年(一八三八)、二十九歳のとき。

 洪庵は備中足守藩(岡山県)木下氏の家来、佐伯 惟因(これもと)の三男である。藩邸詰めの父に従って大阪へ出てから医師になる志を立て、中天遊(なかてんゆう)の門をたたいた。

父は医師になるのに反対したが、いちど立てた志はゆるがず、あくまで貫いた。

彼も当然、長崎に遊学したいと思ったのだが、シーボルト事件の余燼がくすぶっていて危険である、という師の天遊のすすめに従って江戸に出、坪井信道に学んだ。

 もし長崎に行っていれば、蘭学者洪庵よりも、臨床医師の面の強い洪庵が出来上がっていたと思われる。学校制度のないところでは、どういう師に出会うかで、一生が大きく左右されるものだ。


 門人がどんどんふえ、天保十四年(一八四三)には過書町(かいしょまち)に移った。それより少し前の大阪の医者人気番付では、前頭四枚目に挙げられている。三十そこそこで前頭四枚目である。順調なスタートをきった。

 しかし、洪庵が大阪を開業の地としたのはなぜであったろうか。前年(天保八年)二月には、大塩平八郎の武装反乱があって、市中は半焼けの状態、けっして開業にふさわしい土地とは思えない。いや、かえってそれなればこそ、であったのだろうか。

 彼がはじめて蘭学を学んだのは大阪で、師は中天遊であった。思い出の地ということでもないではなかったろうが、何といっても”大阪の坪井塾”をめざしたのであったと思う。彼が学んだ坪井信道の塾は、医学専門に偏ることを避け、広く蘭学全般に目を向けることを教えていた。

 大阪にも、もちろん蘭医は活躍しているが、蘭学教授にそれほど熱を入れているとはいえない状態だった。診療もやる、医学講義もやる、しかし蘭学教授に熱を入れる――それが洪庵の目ざしたものにちがいなかった。

 徹底したオランダ語教育

 それにまた、洪庵自身も、この方向をもっと進めるべきだと考えていた。安政のはじめの手紙〈このごろは、病気治療のことは、なるべく手を省き、書生教育に専念、現在に必要な西洋学者を育成する覚悟にしています〉と決意をあきらかにしているのだ。 (中略)

大阪大学医学部の母体となった適塾P.78

医師としての緒方洪庵は、すばらしい業績を挙げた。『病学通論』『扶氏(ふし)経験遺訓』『虎狼痢(ころり)治準』の三主著を、回診と塾生指導の多忙のなかで書きあげた。

『扶氏(ふし)経験遺訓』のはじめにには〈扶氏医戒之略〉を掲げ、〈医の世に生活するは、人のためのみ、おのがためにあらずということをその業の本旨とす〉〈病者に対してはただ病を視るべし、貴賎富貴を顧ることなかれ〉と訳出している。

 医学の社会的責任をはっきり主張しているところ、洪庵が本当の名医であったのをよく示していると思う。

 古手(ふるて)町に除痘館(じょとうかん)を建て、漢方医の妨害宣伝のなかで、種痘事業をすすめたのも洪庵だし。安政五年に大流行したコレラ対策には、先頭を切って奔走した。

文久二年(一八六二)、幕府の命で江戸に下り、西洋医学所の第二頭取を命じられた(初代は大槻 俊斎)。この任命を本心でどう受け取っていたかは知れないが、蘭学医学教育の第一人者として、公に認められたのだ。

 しかし、洪庵の肉体と適塾の教育には、限界が同時にやって来ていた。

 オランダ語だけでは、西洋文明を把握しきれないということがわかりだしたのである。洪庵自身、すでにこのころ、〈これからは英学の時代だ〉と断言している。

 オランダ語から英語への転換にとどまるものではない。アジアに関心を寄せるヨーロッパ世界の内部では、それまでオランダ語の占めていた位置が英語に変りつつあった。

 洪庵にもそれはわかっているが彼自身はもう進めない。役割は終わったのだ。オランダ語だけでは、西洋文明を把握しきれないことを知ったのである。

 自分が進めなければ、次代の者をして新しい方向に進ませる。地味なことだが、教育者の責任として忘れられない大事なものである。

 適塾は洪庵の死後、養子に引きつがれ、やがて大阪大学医学部の母体になっていくのだが、それはもう私塾ではない。私塾とは、主宰者あってのもの。何代にもわたって引きつがれる教育組織ではないのである。

 適塾の生んだ三人の英傑は大村 益次郎、橋本 佐内、福沢 諭吉がいる。福沢諭吉は後に慶応義塾創立している。P81

 以上は奈良本 辰也 高野 澄『適塾と松下村塾』(祥伝社)昭和52年7月15日初版発行 より引用。


参考:緒方 洪庵誕生地 足守(あしもり:岡山市内)藩士を父としてこの地に生まれた。緒方洪庵は病弱な体のため医学を志し、医書の翻訳、種痘の普及、コレラの研究などに多くの業績を残しました。また大阪で開業していた約二〇年間の間、診療のかたわら蘭学の指導にあたり、全国から集まった六百人を越す門弟を育てています。福沢 諭吉、橋本 佐内、大村 益次郎などもその中にいました。幕府は洪庵を将軍家奥医師として迎えましたが、しごとについた翌年の文久三年(1963年)54歳でこの世を去りました。現在では宅地と古井戸を残しているだけです。(市民のひろば 岡山 1984.6.1号)


 現在の大阪大学については:1931(昭和6)年、医学部と理学部の2学部で、わが国6番目の帝国大学として創設されました。しかし、阪大の学問的系譜は江戸時代までさかのぼります。1724(享保9)年に設立された懐徳堂は、特定の学派・学説にとらわれない自由な学風を誇りとする町人の教育機関で、独創的な学問と思想を展開しました。また、1838(天保9)年に緒方洪庵が開いた適塾は大村益次郎、福沢 諭吉、橋本 左内など近代日本を切り開いた人物を輩出しました。阪大はこうした自由な学問的気風や先見性を精神的な柱として受け継いでいます。

参考:■適塾と懐徳堂

*私見1:昔は「医は仁術、今は算術」の言葉を思い出させらた。

*私見2:大学病院に入院した昭和30年ころは、医者はドイツ語を使っていた。西欧の医学の日本への取り入れについて、オランダ、英国、ドイツ更には米国への変遷について、門外漢の私にはその時期・理由などを知りません。想像では医学が一番進歩している国のものを逐次とりいれ日本の医学の向上の貢献を進めたのではないだろうか。

2009.10.12


適塾と懐徳堂について

 江戸幕府の学校――昌平黌はもちろん、諸藩の藩校でも幕末ぎりぎりになるまで蘭学は採用しなかった。そればかりか、水野 忠邦が老中をしていた天保時代には、代表的蘭学者がきびしい弾圧を受けることさえあった (蛮社の獄)。蛮社の獄(ばんしゃのごく)は、一八三九年(天保10年)5月に起きた言論弾圧事件。

 新しい学問――蘭学をするには、在野の蘭学者について勉強するしかなかったのだ。

 蘭学が危険視されたといっても、それがオランダ医学にとどまっているかぎりは安全であった。外科の分野では、漢方医学がオランダ医学に対抗できないことは誰しも認めるところだったのである。

▼適塾は江戸末期一八三八年(天保九年)から一八六二年(文久二年)まで、緒方洪庵が開いた蘭学塾。近代日本の洋学の礎となった。門下に大村 益次郎、橋本 左内、福沢 諭吉、大鳥圭介らを輩出した。

 緒方洪庵が大阪の瓦町に、はじめて医療を開業、同時に蘭学教授を始めたのは上述の一八三八年、二十九歳のとき。

▼洪庵は備中足守藩(岡山県)木下氏の家来、佐伯 惟因(これもと)の三男である。藩邸詰めの父に従って大阪へ出てから病弱なため医師になる志を立て、中天遊(なかてんゆう)の門を叩いた。

 父は医師になるのを反対したが、いちど立てた志はゆるがず、あくまで貫いた。

 彼も当然、長崎に遊学したいと思ったのだが、シーボルト事件の余燼がくすぶっていて危険である、という師の天遊のすすめに従って江戸に出、坪井信道に学んだ。

 もし長崎に行っていれば、蘭学者洪庵よりも、臨床医師の面の強い洪庵ができあがっていたと思われる。

▼洪庵が大阪を開業の地としたのはなぜであったろうか。前年(天保八年)二月には、大塩平八郎の武装反乱があって、けっして開業にふさわしい土地とはおもえない。

 いや、かえってそれならばこそ、であったのだろうか。

 彼がはじめて蘭学を学んだのは大阪で、師は中天遊であった。思い出の地ということもないではなかったろうが、何といっても”大阪の坪井塾”をめざしたのであったと思う。彼が学んだ坪井信道の塾は、医業専門に偏ることを避け、広く蘭学全般に目を向けることを教えていた。

▼適塾の主宰者緒方洪庵は医者である。だから、適塾にやってくる者の多くは医者か、医者の息子であった。

 しかし、適塾で教えたのは医学よりむしろ、オランダ語そのものであった。

 大きな矛盾のように思えるだろうが、実はこれが最も肝心なところである。

 オランダ医学を専攻してみると、その背景になっているヨーロッパ文明の要素、たとえばルネッサンス産業革命といったものにまで手を伸ばさねばだめだ、満足できない、というのがよくわかってくる。

 そのためには、医学書だけではなく、どんな種類の本でも、オランダ語で自由自在に讀み書きできないわけだが、その期待に充分に応じられるだけのものが適塾にあったということなのだ。実は、これこそ私塾というものの原型であり、真の価値だ。

 大阪にも、もちろん蘭医は活躍しているが、蘭学教授にそれほど熱を入れているとはいえない状態であった。

 診療もやる、医学講義もやる、しかし蘭学教授に最も熱を入れる――それが洪庵の目ざしたものにちがいなかった。

▼適塾は洪庵の死後、養子に引きつがれやがて大阪大学医学部の母体となっていく。

 大阪には適塾の外に「懐徳堂」建てられた。一七二四年(享保九年)、大阪の町人五人の出資により創立された学校。経書、漢籍を講じ、特に中井 竹山、履軒兄弟のころは黄金時代で、全国から学生が集まり、昌平黌と並んだ。富永 仲基、山片 蟠桃など多くの学者が育った。

参考文献:奈良本 辰也 高野 澄『適塾と松下村熟』(祥伝社)

 朝日新聞(1984年8月22日)文化欄「大阪商人の源流に文化」(加地 伸行)
 朝日新聞(1984年10月3日)「大阪の学問的土壌を見直す」「懐徳堂考」復刻で動き
 朝日新聞(1985年1月16日)文化欄「懐徳堂と明治の波」
 市民の広場(1984年6月1日号)「ふるさと散歩」

平成二十四年八月二日


「緒方 洪庵の十二条訓」


1.人のために生活して、自分のために生活しないことが医業の本当の姿である。安楽に生活することを思わず、また名声や利益を顧みることなく、ただ自分を捨てて人を救うことのみを願うべきであろう。人の生命を保ち、疾病を回復させ、苦痛を和らげる以外の何ものでもない。

2.患者を診るときはただ患者を診るのであって、決して身分や金持、貧乏を診るのであってはならない。貧しい患者の感涙と高価な金品とは比較できないだろう。医師として深くこのことを考えるべきである。

3.治療を行うにあたっては、患者が対象であり、決して道具であってはならないし、自己流にこだわることなく、また、患者を実験台にすることなく、常に謙虚に観察し、かつ細心の注意をもって治療をおこなわねばならない。

4.医学を勉強することは当然であるが、自分の言行にも注意して、患者に信頼されるようでなければならない。時流におもね、詭弁や珍奇な説を唱えて、世間になを売るような行いは、医師として最も恥ずかしいことである。

5.毎日、夜は昼間に診た病態について考察し、詳細に記録することを日課とすべきである。これらをまとめて一つの本を作れば、自分のみならず、病人にとっても大変有益となろう。

6.患者を大ざっぱな診察で数多く診るよりも、心をこめて、細密に診ることの方が大事である。しかし、自尊心が強く、しばしば診察することを拒むようでは最悪な医者と言わざるをえない。

7.上治の病気であっても、その病苦を和らげ、その生命を保つようにすることは医師の務めである。それを放置して、顧みないことは人道に反する。たとえ救うことができなくても、患者を慰めることを仁術という。片時たりともその生命を延ばすことに務め、決して死を言ってはならないし、言葉遣い、行動によって悟らせないように気をつかうべきである。

8.医療費はできるだけ少なくすることに注意するべきである。たとえ命を救いえても生活費に困るようでは、患者のためにならない。特に貧しい人のためには、とくにこのことを考慮しなければならない。

9.世間のすべての人から好意をもってみられるよう心がける必要がある。たとえ学術が優れ、言行も厳格であっても、衆人の信用を得なければ何にもならない。ことに医者は、人の全生命をあずかり、個人の秘密さえも聞き、また最も恥ずかしいことなどを聞かねばならないことがある。したがって、医師たるものは篤実温厚を旨として多言せず、むしろ沈黙を守るようにしなければならない。賭けごと、大酒、好色、利益に欲深いというようなことは言語道断である。

10.同業のものに対しては常に誉めるべきであり、たとえ、それができないようなときでも、外交辞令に努めるべきである。決して他の医師を批判してはならない。人の短所を言うのは聖人君子のすべきことではない。他人の過ちをあげることは小人のすることであり、一つの過ちをあげて批判することは自分自身の人格を搊なうことになろう。医術にはそれぞれの医師のやり方や、自分で得られた独特の方法もあろう。みだりにこれらを批判することはよくない。とくに経験の多い医師からは教示を受けるべきである。前にかかった医師の医療について尋ねられたときは、努めてその医療の良かったところを取り上げるべきである。その治療法を続けるかどうかについては、現在症状がないときは辞退した方がよい。

11.治療について相談するときは、あまり多くの人としてはいけない。多くても三人以内の方が良い。とくにその人選が重要である。ひたすら患者の安全を第一として患者を無視して言い争うことはよくない。

12.患者が先の主治医をすてて受診を求めてきたときは、先の医師に話し、了解を受けなければ診察してはいけない。しかし、その患者の治療が誤っていることがわかれば、それを放置することも、また医道に反することである。とくに、危険な病状であれば迷ってはいけない。

               ※インタネットによる 

2015.04.08


☆09佐久間 象山(さくま ぞうざん)(1,811~1,864年)


 昨年末ふたたび童子輩にまかりなり洋学に取掛り、……折々深川までも、麹町辺までも風塵暑雨を避けず通い候て、ふ明の所をさぐり申し候ように仕り、夜分も九ッ[十二時]を聞かずに臥せり候と申す事はこれなく候。かくのごとく余計の苦労も仕り候事、逸楽を願い候は人の常情に候えば、小生とてもその苦労を喜び候事にはこれなく候えども、この時に当り、これにてすまぬ事と心付き候事も天の霊寵によるに候えば、これを小にしては御国の干城にも相成り候ために、かく仕り候て天の霊寵に答え候よう仕り候……あえて私の物好きにて致し候事にてはこれなく候(竹村七左衛門への手紙)

 この日(7月11日)この日攘夷論者に暗殺された。松代藩士。幕末の洋学、兵学の第一人者。公武合体と開国をとなえ、貿易による富国強兵をはかった。

*桑原武夫編『一 日 一 言』―人類の知恵―(岩波新書)P.115

平成二十九年六月十八日


☆10元田 永孚(もとだ ながざね)(1,818~1,891年)


小島直記『人材水脈』日本近代化の主役と裏方 (中央文庫)昭和五十八年八月十日 P.34~38

   元田 永孚 明治天皇に論語を講ずる

 大久保利通安場保和をよんで、「天子さまの侍講には、いったいだれがよかろうか?」と相談したことがある。

 明治四年の四月から五月のはじめのことというから、このとき大久保は四十二歳で大蔵卿、安場は三十七歳で大蔵大丞であった。

 明治天皇が慶應四年七月に即位されたとき、十七歳の若さであり、三条、岩倉、西郷、木戸、大久保たちが、いわゆる「聖徳玉成」に心を砕いた。

 彼らの念じたことは、その環境を「清浄、剛健、質直」にすることで、聡明にしてかつ骨の太い一個の快男児をつくり上げようとしたようである。そのため、吉井友実、島義勇、高島鞆之助、米田虎雄、村田新八、山岡鉄舟など、およそ「口舌の徒」とは正反対の剛直の士宮内省に入れた。また、その年八月には、女官ことごとくを免職にし、その中より適宜ピックアップするという荒療治を行い、吉井のごときは「これまで女官の奉書など諸大みょうへ出せし数百年来の女権、唯一日に打消し、愉快限りなし」と日記に書きつけている。けれども、もっとも重要視されたのは、君側にあって書を講じ、原理原則を説く侍講の選定に他ならなかった。

 安場は、「熊本の学者元田永孚がよろしいと思います」と答えた。

 元田は、横井 小楠のつくった青年読書グループのひとりである。このとき二十代の若者だった彼は、かって小楠がそうであったように、世間的にはいっこう有名でなく、ステイタス、肩書もないまま、すでに五十四歳になっていた。 

 大久保は、安場の進言をとり入れ、三条実美につたえて元田起用にふみきったのであるが、冷徹無比の大久保のことだ。ことは簡単に運ばれたかに見えて、じつはベストがつくされていたはずである。単に役所の上司が部下の意見を採用したという簡便安易な処置ではなく、まず意見をきく相手の選択に周到な熟慮がなされたであろうし、それを採択するところに安場への評価、信任があったと思われる。言い方をかえれば、ここに安場の人となりがあらわれている。

 六月四日、元田永孚ははじめて進講した。テキストは、前任者のあとをうけて、「論語」の公冶長(こうやちょう)篇参考からである。

 本篇は、孔子による人物評価論といってもよい。はじめに出てくる公冶長という弟子は、かつて罪人として獄につながれていた。しかるに孔子は、

「公冶長は、娘を嫁にやってもよい人間だ。罪人として入獄したことがあったが、無実の罪であったのだ」

といって、自分の娘をとつがせたのである。

 つぎに登場する南容(なんよう)という弟子については、

「国家が正しい政治を行っているときは放っておかれることなく、国家が正しい政治を行っていないときも刑罰にかかることはないだろう」

といって、自分の兄の娘をとつがせたのである。

  元田は、以上の文章の字句を解説したあと、自分の意見をつけ加えた。

「聖人(孔子)が人物を判断し、才を選ぶやり方は、公平正大、世間の評判などにこだわらず、かならずその中核を見ぬいております。まことに人物を判断し、才を選ぶやり方の模範とすべきであります。およそ人君の道は、任用賢を得るより大なるはありません。またその徳は、聡明人を知ることを第一とすべきであります。今日、天下の人物を判断されます場合、孔子が公冶長や南容にしたようにされますならば、官に棄才(きさい)なく、野に遺賢なく、天下の民は心からよろこんで従うことでありましょう。そもそも人君の聡明さというものは生得のもので、学んでどうなるものでもないようでありますが、いやしくも智をたのんで自己流に用いるときは、その知るところは狭小で、かならず過ぶ足のあやまりをさけることはできません。このゆえに昔の聖帝明王はかならず自ら進んで聖人を師とし、その原理原則によって動かれたものであります。上代、応神天皇が王仁(わに)を師とせられ、論語を学ばれたように、日本でもシナでもその実例は少なくありません。今日の盛代にあってまたこの論語を学ばれ、聖人の模範をとらせたまうことは、真に祖宗の遺訓を御継述されるの美挙で、臣は心からよろこびにたえません……」

 帰宅した元田は、つぎのように日記にしるした。「嗚呼(ああ)この日何の日ぞや。明治辛未(かのとひつじ)六月四日なり。余二十二歳にして、長岡温良、横井先生、下津大人、荻子とともに程朱の学を講じて、聖人の道を信じ、道徳経世この実学にありと自ら任じて疑わざりしも、藩俗の忌嫉(きしつ)するところとなり、世に否塞(ひそく)することほとんど三十年。ここに至りてはじめて天廷に坐し、天顔に咫尺(しせき)してこの学を講じ、親しく天聴に達することを得たり。何の慶幸かこれに過ぎんや……」

 これについて徳富蘇峰は、「五十四歳にしてはじめてその処を得た。元田の運命もまたふ思議であるが、彼が感激禁ずる能はなかったのも、決して偶然ではない」(『近世日本国民史』第八十三巻)と書いているが、筆者はとくに、「人物の判断>をテーマとする「公冶長篇」がその第一講の内容となっためぐりあわせにに、運命の不思議さを思わずにはいられません。

 元田自身、世俗的地位、肩書、評判などとは関係ない「原理原則」=肉眼・心眼の世界で選ばれた人間であり、そのことを深く肝に銘じていたがゆえに、この進講のことばには全人生をかけた必死の気持がこもっていたであろう。それは学識や頭のよさから生まれる単なる弁舌とは別ものの、人間の魂の叫びともいうべきものにちがいなかった。

 そして、このような良師を得て、魂のバイブレーションという貴重な人間的体験を積み重ねれたらこそ、明治天王先天の稟質(ひんしつ)はいよいよみがかれ、ふ世出の大統治者たるべき原型が鋳られていったのであろうと思う。

 さて、以上の物語で「帝国日本」の亡霊を思い出されることは筆者の真意ではない。このときから今日まで、約百年の歳月をかけて、われわれ日本人はいったいどれほど「人を見る明」を加えたか、世評にたよらぬ原理原則の世界を築きあげたか、ということである。もっと卑近な例えをいえば、はたして今日、要職に「棄才」なく、日の当らぬ場所に「遺賢」なき人事が、役所や会社で実行されているだろうか、ということである。

※参考:宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)一九八四年八月三十二日 第一一刷発行 P.204

93 訓:子、公冶長を謂う。妻(め)あわすべきなり。縲絏(るいせつ)の中に在りと雖も其の罪に非ざるなり、と。その子を以て之に妻あわす。子、南容を謂う。邦に道あれば廃せられず、邦に道なきも、刑戮より免れる、と。其の兄の子を以て之に妻あわせたり。

93 新:孔子が公冶長について言った。彼は婿にしていい青年だ。いま未決監に収容されているが、無実の罪で嫌疑を受けただけだ、と。自分の娘と結婚させた。孔子が南容について言った。世の中が治まっている時には重く用いられれ、世の中が亂れた時でも、刑罰にひっかからない人物だ、と。自分の兄の娘と結婚させた。

 「平成」の時代が「令和」の時代へと改元された。憲法発布記念日2019年5月3日、写した。


11 浜口梧陵 財は末なり、信は本なり、本末を明らかにすべし(1,820~1,885年)

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 安政元年(一八五四)十一月五日七ツ刻(とき)(午後四時ごろ)はげしい地震があった。海上で大音響がしたと思うと地面が波だつように揺れ、瓦が吹っ飛び家屋が倒壊し土塀が崩れ、天に舞いあがる土けむりのなかで地獄絵図が展開いた。 

 世にいう安政の大地震である。

 南海道沖を震源地とするこの地震は、      

 その激しい揺り返しに、悲鳴をあげて逃げまどう広村(和歌山県有田郡広川町)の人びとの混乱の中で浜口儀兵衛(七代目)は、海をみた。       

 と、その眼のなかに、くろぐろと  

「津波だ……津波がくるぞ」    

 儀兵衛は叫んだ。 

 が、その声も、ごごぼう色の夕闇の中に散乱する瓦礫に気をとられ、 

 しかし、猶予はならない。  

 そこには、もう獲りいれられるばかりになった、    

「大旦那の稲塚が燃えちょる!」

 消火に駆けつけた村じゅうの若者や老人や、

 稲束を焼いて村びとを大つなみから救った儀兵衛の行為は、

 ㇵ―ンの書いたこの『生ける神』について、エピソードがある。

 そのあと、

 浜口儀兵衛。文政(一八二〇)、紀伊半島の中央部にあたる有田郡広村に生れる。

 醤油といえば七百四十年前の

 その醤油を天文四年(一五三五)大坂に輸送販売sたのを皮切りに、

 こうして紀州藩御用船同様の特権を与えられ、

 が、山に高低があり海に干満があるように、

《祖先の勤労を常に心に銘ぜよ》

《財は末なり、信は本なり、本末を明らかにすべし》

《綿服咬菜(こうさい)。家富むと雖も綿服粗食、質素を旨とし、主人均食、共労。家族、雇人に至るまで同様の食事を為し、共に働くべし》

《雇人を持つ(扱う)に家族(同様)を以ってし、主人と雖も奉公人同様に心掛くべし》

《奉公人にも商売上の利潤を分ち、その労に酬ゆべし》

《春帰秋行。毎年、春を待って帰り、秋に至り江戸に赴くべし》

 当主は、仕事の暇な春を待って帰郷し祖先を祀り、寒仕込みの準備のため忙しくなって秋から江戸に引きあげてくること。

《国許に帰りちゃる時は》

《妻を娶(めと)るには》

妻の実家は浜口家より

《(当主たる者)》

《自ら忍びて時の至を待ち、》

 他と紛争が

《進んで田畑》

《同族間の》

《同族相救うに》

 同族血縁の情に

《家督相続》

 余程の理由のない限り、

 ともあれ、七代目儀兵衛、江戸では勤王の志を抱いて洋学者、佐久間象山に師事し、勝海舟、福沢諭吉と親交をかさぬ開国論を主張。明治元年、和歌山藩勘定奉行、学習館知事、明治政府の駅逓頭(えきていのかみ)(通信大臣)となる。

 明治十七年(一八八四)、海外巡礼の途中、ニューヨークにて客死。六十七. 

神坂次郎『男この言葉』(新潮文庫)平成七年五月一日発行 P.60~64

2021.06.05記


12 勝海舟 なんでも人間は子分のない方がいい (1,823~1,899年)

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《上った相場もいつか下る時があるし、下った相場もいつかは上がる時があるものさ。その上り下りの時間も、長くて十年はかからないよ。それだから、自分の相場が下落したと見たら、じっとがまんしておれば、しばらくするとまた上がってくるものだ。大奸物、大逆人の勝麟太郎も、いまは伯爵、勝安房様だからのう》

※参考:勝海舟 勝部真長編『氷川清話』(角川文庫)P.47「人間の相場の上がり下り《

"大奸物""大逆人"というのは徳川家を薩・長に売り渡したと旧幕臣たちが、勝を非難した言葉である。    

「なにを()かしゃがる、蓮根(はす)まなこめ」

hikawaseiwa.jpg氷川清話(ひかわせいわ)』のなかにのこしている。   

 勝海舟、幕府小普請組の勝左衛門太郎(小吉)の嫡男に生まれ、初めのなを義邦、通称を麟太郎。その風貌は、   

《短小赭面(シヤメン)、身長僅ニ五尺余、眼光炯々射ルガ如ク》    

 赤ら顔の小男であったが、眼光は鋭く、一種おかすべからざる異彩を放っていたという。    

 貧困のうちに育った海舟は、七歳のとき、江戸城大奥につとめる親戚の阿茶局(あちゃのつぼね)伝手(つて)で十二代将軍家慶(いえよし)の世子、初之丞慶昌の御付となり、大奥へ出仕することになった。    

 だが、その喜びも束の間であった。一橋家を継いだ慶昌はほどなく死去。幼なくして失脚の苦汁を味わった海舟は、父、小吉のもとに帰っていく。   

 この海舟の悲運を誰よりも嘆いたのは小吉である。が、ふ運は重なる。九歳の時海舟は、野犬に金玉を噛み裂かれ生死の間をさまよう。傷口を見てふるえている外科医を(はり)倒した小吉は、針をとつて金玉の袋を縫い合わせ、重態におちいっていた海舟を救い、毎日毎晩近所の金毘羅宮へ裸まいりをし、海舟を誰にもまかさず、抱き寝をして七十日間、介抱しつづけた。そして野犬への怒りがこみあげてくると、木剣をつかんで往来に飛びだし、犬という犬を叩き伏せて暴れまわったので、近所の人びとは、    

「子供が狂犬に食われたので、親父が気がちがった」    

 と噂をした。 

 海舟は、こうした無頼だが子煩悩な父の愛情を独り占めにして育った。十九歳で蘭学をまなんだ海舟は、刻苦勉励、安政二年(一八五五)蕃書(オランダの書物)翻訳係を仰せつけられ、以来、たちまち頭角をあらわし、幕府の海軍創設の第一歩という長崎海軍伝習生、講武遺所砲術師範、海軍操練所頭取となり、やがて万延元年(一八六〇)正月、軍艦咸臨丸の艦長として太平洋を横断、アメリカにむかう。    

《(二月十一日)日本軍艦咸臨丸(サフランシスコ)港内へ進み来る。大檣(マスㇳ)の上に飄する旗は総白の真中に朱の丸なり(略)軍艦奉行木村摂津守(せつのかみ)、船將は勝麟太郎以下下士官水夫合計八十七人》(『桑港(サフランシスコ)新聞』) 

 帰国後海舟は、将軍家茂の信任を得て軍艦奉行並従五位下(じゅごいげ)安房守となり、神戸海軍操練所を建設。    

 こうした幕府海軍きっての高官であり、当代随一の海外新知識の持ち主である海舟のもとに、勤皇・佐幕をとわず有為な人材が群がりあつまってきた。  

 論争を吹っかけにやってきて逆に心服して弟子になってしまった坂本竜馬や、吉村寅太郎(のち天誅組)、桂小五郎(木戸孝允(たかよし))、なかには"人斬り"と恐れられた土佐の岡田以蔵までやってきて、海舟の身辺護衛をつとめるという有様であった。    

 幕府の軍艦奉行、陸軍総裁、そしてやがては幕府軍すべての実権を掴んだ軍事取扱いに昇進した海舟は、慶應四年(明治元年、一八六八)鳥羽伏見の戦いに幕軍を撃破して攻めのぼってきた西郷隆盛と会見し、江戸総攻撃を未然に防ぎ、無血開城したことは史上有名である。     

 この会談が、海舟と隆盛の"腹芸"によって成就したという話が伝えられている。が、政治というバケモノが、そんな腹芸だけで動く筈はない。   

 政治は、力である。海舟は、隆盛の背後に、薩・長に大きな影響力をもつイギリス公使バークスの存在があるのを察知している。   

「江戸が戦火に包まれて焦土と化せば、バークスが期待する横浜貿易への夢が瓦解してしまう」   

 それを承知で、薩・長が戦さなどは仕掛けてくるものか、と海舟は隆盛の胸のなかを読んでいる。  

「が、万一……」    

 薩・長が血迷って総攻撃の挙に出たとすれば、海舟は即座に幕府海軍の総力をあげて、「薩・長軍を背後から攻撃する《という計画を、隆盛との会談で端ばしにちらつかせている。   

 海舟は周到であった。  

 総攻撃にそなえ、四つ手駕籠に乗ってなだたる侠客の親分衆を訪ねまわり、 

「貴様らは、金の力やお上の威光で動く者ではないから、この勝が自分でわざわざやってきたのだ」  

 と言い、いざという時には江戸に進撃した薩・長の前後左右、四方八方から火をかけ、江戸八百八町を焼き払うための協力を求めて、親分衆から、 

「この顔が御入用なら、いつでも御用に立てましょう」     

 と快諾を得ている。

 そんな海舟の魂胆を、明敏な隆盛が読みとれぬ筈はない。

 こうして海舟は、内戦を抑え、虎視眈々(こしたんたん)、植民地政策をかかげて日本を窺っていた諸外国の侵略を防ぎ平和裡に江戸開城に成功するのだが、そんな海舟の行動を評して坂口安吾は、その著『安吾史譚』のなかで、 

《明治維新に勝った方の官軍というのは(略)薩長という各自の殻も背負っているし、とにかく幕府を倒すために歩調を合わせることに政治力の限界があった。ところが負けた方の総大将の勝海舟は、幕府のなくなる方が日本全体の改良に役立つことに成算あって確信をもって負けた。(いな)、戦争せずに負けることに努力した。幕府制度の欠点を知悉し、それに代るに良き策に理論的にも実際的にも成算があって事をなした人は、勝った官軍の人々ではなくて、敗けた海舟ただ一人である。理を究めた確実さは彼だけにしかなかった。(略)負けた大将だから維新後の政府に登用されなかっが、明治新政府は活気はあったが、確実さというものがない。それは海舟という理を究めた確実な識見を()れる能力ない新政府だから、当然な結果ではあった》     

 と()う。 

 ()にくだった後の海舟の見事さは、すり寄ってくる旧幕臣たちの浅薄な論に巻き込まれたり、担ぎあげたりしなかったことだ。 

《なんでも人間は子分のない方がいいのだ。西郷も子分のために骨を秋風にさらしたではないか。おれの目でみると、大隈(重信)板垣(退助)も始終自分の意見をやり通すことができないで、子分にかつぎ上げられて、ほとんど身動きできないではないか。およそ天下に子分のないにのは、おそらくこの勝安房一人だろうよ。それだからおれは、起きようが寝ようが、しゃべろうが、自由自在、気随気ままだよ》(『氷川清話』)

※参考:勝海舟 勝部真長編『氷川清話』(角川文庫)P.235

 と皮肉な口ぶりで、そう嘯いている。 

 明治三十二年一月二十日、海舟歿す。     

「どうやら死ぬ時がきたようぜ」 

 と言って床につき、眠るように逝った。家人がブランデーで死水をとった。

 神坂次郎著『男この言葉』(新潮文庫)P.239~244

2021.07.01記


☆13勝 海舟2(1,823~1,899年)


『氷川清話』 付勝海舟 勝海舟 勝部 真長編 (角川文庫)昭和四十七年四月三十日 初版発行 P.50~51

 古今の人物について 横井 小楠と西郷 南洲

 おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは横井小楠と西郷南洲(隆盛)だ。横井は、西洋のことも別にたくさんは知らず、おれが教えてやったくらいだが、その思想の高調子なことは、おれなどは、とてもはしごを掛けても、およばぬと思ったことがしばしばあったよ。おれはひそかにおもったのさ。横井は仕事をする人ではないけれどと、もし横井の言を用いる人が世の中にあったら、それこそ由々しい大事だとおもったのさ。

 その後、西郷と面会したら、その意見や議論は、むしろおれの方がまさるほどだったけれども、いわゆる天下の大事を負担するには、はたして西郷ではあるまいかと、またひそかに恐れたよ。

 そこでおれは幕府の閣老に向って、「天下はこの二人があるから、その行く末に注意なされ」と進言しておいたところが、その後閣老はおれに、「その方の眼鏡(めがね)もだいぶ間違った。横井はなにかの申し分で蟄居(ちつきょ)を申し付けられ、また西郷は、ようやく用人の職であった。家老などという重い身分でないから、とても何事もできまい」といった。けれどもおれはなお、横井の思想を西郷の手で行われたら、もはやそれまでだと心配していたのに、はたして西郷は出て来たわい。


☆14郷 純造 (1,825~1,910年)


小島直記『人材水脈』日本近代化の主役と裏方(中公新書)昭和五十八年八月十日発行 P.99~103

   郷 純造 "幕末太閤記" コツコツと財築く

 明治四年の廃藩置県のあと、政府がもっとも手を焼いたのは諸藩の旧債処理で、このため五年二月、大蔵省内に負債取調掛をおくこととなった。そのとき主任としてこの問題に専念したのが大蔵省丞(しょうじょう)郷 純造である。

 郷は四十八歳になっていた。大隈井上など、三十歳そこそこで大蔵省の首脳になっていたにくらべればいかにも出世がおそい感があるが、二十歳のと給金三両の草履とりをふりだしに、藩閥の背景もなくこの地位まではい上り、さらには大蔵次官、男爵となるその生涯は、「幕末太閤記」ともいうべき苦闘によって築かれたものであった。 

 渋沢栄一が代官に侮辱され、武士になって見返してやると発奮したのは十七歳だが、美濃国(岐阜)の豪農のせがれであった純造が同様の決意で江戸出奔を企てたのも十七である。このときは追っ手のために引きもどされ、家の許しを得て江戸に出たのが二十歳である。はじめ大垣城主戸田采女正の用人正木某の若党(草履とり)となり、二十一歳のとき旗本松平某の中小姓(給金年四両、月白米一斗五升、銭五百匁)、二十六歳のとき芝増上寺の寺侍(給金年四両、他に余得年六両)、二十三、四歳のとき町奉行加役牧志守の中小姓(給金年四両、他に余禄あり)と転々としたが、なかなかウダツが上らない。念願は「笠松の郡代」だが、そのためには幕府の直臣となる必要があり、その直臣となるには与力か同心の株を買うのが早道。

 しかるに与力株は千両、同心株が三、四百両でとても手が出ないから、養子になればその十分の一ぐらいで買えるだろうと考え、実家から終身の分け前として二十両、これに自分のヘソクリ五両を加え、二十五両の持参金で「家の良否を問ふに暇あらず」(『郷純造履歴日記』)、駒込の同心今村某の養女へ婿養子に行き、その女にふ都合があったので離縁してあらためて火事場見廻り寄合席蒔田某の家老内田角右衛門の娘を妻にした。これが正妻「ゐ祢」であるが、このひとに子供がなく、数人の女性に八男二女が生まれた。  

 純造はこのあとも芽が出ないで、二十八歳のとき小紊戸役神田某の用人、三十一歳のとき日付役堀織部正の給人、三十六歳のとき堀伊豆守(堀織部正の父)の用人、三十七歳のとき大阪奉行鳥居越前守家老、三十九歳のとき大阪奉行松平勘太郎家老というふうに陪臣(またげらい)という日の当らぬ仕事を転々としたのである。ただこの間に、必死になって金を蓄(た)めていた。給料は大したことはなかったから、そこに別途の工夫があったであろう。その息子誠之助の語るところによれば明治維新の直前、知りあいの検校(けんぎょう:盲人の最上級の官名)に利殖法を相談した。盲人は幕府の保護政策で高利貸を許されている。その検校も、

「私におまかせなさい。利殖してあげましょう」

といった。そこで純造は、千両ほどのあり金をあずけたというのである。

 ところが間もなく、明治維新のドサクサで検校の居所がわからなくなった。粒粒辛苦の虎の子をあずけた純造としては、あきらめにもあきらめきれない気持ちであったろう。

 だが、人生四十の坂を越してから、このひとはツイてきたようであった。維新のドサクサも、このひとにとっては運命好転の契機となったのである。

 慶應三年、四十三歳になってもまだ幕臣の株の売り物がなく、千葉の成田山に参詣して三七二十一日の断食を行ったほどであったが、翌四年(明治元年)正月、ようやく「撤兵」にとり立てられた。これは一日おきに鉄砲をもって江戸城の門衛をつとめる役目である。そして二月に御作事方勘定役、三月に小十人格工兵左図役並勤方、「裏金の陣笠」をかぶって練兵のさし図をする身となった。六月には工兵左図役頭取(四百俵)、「幕府中比類なき立身」をした。その幕府は瓦解したが、新政府から「会計局組頭」の辞令が出たのが同年八月である。会計局は会計事務局、会計官となり、二年七月に大蔵省と変わって、純造も大蔵少丞となり、やがて大蔵卿大久保利通のもとで藩債担当の主任となったわけである。

 そしてちょうどうこのころ路上でバッタリーと検校にめぐり会った。検校は目が見えないので、純造の方から声をかけると、

「郷さん、よいところでお目にかかりました。おあずかりした金が大分ふえましてね」

といって、検校は一万円近い金を返したのである。

 このころ三井の番頭三野村左衛門(三井財閥の中興の祖)が純造の家に出入りしていた。二人の間に一万円の話が出て、床下にかくしておくこともできずこまっていると純造がいうと、三野村がその保管を引き受け、相当な利まわりでふやしてくれた。このあと、純造はさかんに土地に投資した。二番町九百坪の土地は坪六銭二厘、計五十六円であった。純造が官を辞したのは明治二十一年、このとき財産は十六万円になっていたが、そのほとんどが土地の値上がりによるものだったという。

 せがれの誠之助がその財産の一部をわけてもらったのは二十五年、二十八歳のときである。住居ににする家のほか、地所、株券、五、六軒の貸家など総計二万六千円、月に三百円ぐらいの収入になるもので「当時としては小さい生活をたててゆくには差支えなかったのであるが、我輩とすれば、貰ったものを身につける考えがなかった」(『男爵郷誠之助自伝』)。誠之助は、

「これを勝手にに使うがよろしいですか」

と父にたずねた。

「よろしい」

と純造は答えた。そこで「この財産を滅茶苦茶にする本当の道楽がこれから始まった」。その道楽には一つの方針があった。吉原をふりだしに、その土地でもっともアバズレの芸者をよび、遊びというものを徹底的に鍛えてもらった。それから、柳橋、新橋、日本橋、赤坂と順番に遊んでまわる。遊びの金は掛にはしないで、赤い皮の財布に現ナマを入れておいて、その場ではらった。当時は、お茶屋も一流、芸者も一流どころを五、六人よんで遊んでも十五、六円という時代である。

 誠之助の家には、女中二人、書生一人、車夫一人がいたが、家があるというのはなばかりであった。

「先月は幾日家に寝たか?」

と女中にきくと、

「ずいぶんよく帰られまして、三晩でございました」

と答える始末。しかも家に帰って寝た日にしても、芸者を同伴していた。

 そういうわけで、コースを順々にまわって、二年目ぐらいに赤坂までたどりついたとき、おやじの金はなくなっていた。

※:郷 純造:美濃国黒野(現在の岐阜市黒野)の豪農の三男として生まれる。弘化元年(1845年)江戸に出て大垣藩用人に武家奉公した後に旗本など奉公先を転々とするが、長崎奉行牧義制の紊戸役として嘉永5年(1853年)のオランダ使節来訪問題に対応し、続いて箱館奉行堀利煕の用人としてその樺太・蝦夷地巡回に随行するなど対外問題に遭遇、更にその経験を大坂町奉行鳥居忠善に買われて貿易問題を担当して同家の家老として抜擢された。鳥羽・伏見の戦い直前に撒兵隊に属する御家人の株を買って幕臣となり、程なく差図役(士官)に登用され、最終的には撒兵隊差図役頭取、旗本となる。江戸開城前後、同隊の新政府に対する徹底抗戦路線には従わずに江戸開城後は新政府軍に従った。明治維新後は新政府に入り大蔵官僚として活躍する。特に渋沢栄一や前島密、杉浦愛蔵ら旧幕臣の登用を大隈重信伊藤博文らに薦めた功績は特筆すべきである。だが、それが原因で幕臣嫌いの大久保利通から憎まれていた(明治3年10月25日の大久保から岩倉具視あての書簡には郷を「断然免職か転勤ニならす」となざ指しで明記されているほどである)。そのため、大久保が大蔵卿に就任して政権の中枢を担った時代には重要ポストから外されて干されることになった。大久保の没後、大隈や伊藤が政権の中枢に立つようになると漸く再評価されて大蔵大輔(後に初代大蔵次官と改称)を務めたが、実務官僚の地位に留まった背景には大久保政権下の上遇時代が尾を引いたからと言われている。退官後は貴族院議員となった。

2019.07.26


☆15小栗忠順(おぐり ただまさ) (1,827~1,868年)


小島直記『人材水脈』日本近代化の主役と裏方(中公新書)(昭和五十八年八月十日発行) P.109~113

   小栗 忠順 政治の暴力性に泣く

 幕府崩壊前後のドサクサに、ツイていたのが郷純造とすれば、ツイていなかった筆頭は小栗 忠順(ただまさ)ではなかったか。

 郷は草履とりからスタートしたが、小栗は二千五百石取りの旗本の家に生まれ、その妻は播州林田藩主建部内匠頭の次女路子であった。徳川幕府体制の崩壊が、それまで日のあたらなかった下っ端に成り上がるチャンスとなり、わが世の春を謳歌していたパワーエリートをその座からけおとしてしまった、といえばそれまでのことのようであるが、小栗の運命には、こういう図式だけでは盛ることのできない人間の悲劇、政治の暴力性が刻まれている。  

 小栗が、この妻の里となる建部家にはじめて客となったのは十四、五歳のときというが、すでにその挙動は人びとの感嘆するところであった。なだ少年ではあるがすでにたばこをくゆらし、たばこぼんをはげしくたたきながら「なるほど」「なるほど」と藩主と応答した。人びとはその高慢におどろきながらも、言語明晰、音吐朗々、堂々たる対応ぶりに感心して、将来はどいう人物になられるであろうか、とうわさした。  

 正しいと信ずることを直言し、上正を容赦しない剛直の性格は、多くの敵をつくり多くの味方をつくった。彼の識見と能力を評価したのは大老井伊直弼で、万延元年、安政条約批准書交換のため使節を派遣したとき、目付として使節三人の中に加えたのである。このとき小栗は三十四歳で、これから幕府崩壊までの八年間、外国奉行、勘定奉行、歩兵奉行、江戸町奉行、軍艦奉行などの要職にあった。   

 こういう要職を歴任した人びとは他にもいる。小栗がこの中において一異彩といえたのは、第一に風流を好まず酒と女に縁がなかったこと、第二に歌舞音曲を好まず、第三に詩文の閑文字を好まなかったことである。勝海舟は明治になってから「(小栗は)眼識局小にして、あまり学問のなかった人」と評したが、これには疑問がある。米国では多くの書物を買いもとめ、帰国後その研究に打ちこんでいた。ふ換紙幣の使用に対する反対意見をのべた「上書」の原文を例示して、小栗のおい蜷川新は「何人といえども、公正の念をもってこれを読むならば、野蛮な攘夷論者の横行していた時代に、すでに欧米の経済および財政の学に通じ、これを十分に消化し、何ら直訳的の跡もなく、事理明白に論述しうる政治家のあったことに、驚異の念を禁じえぬであろう」(『維新正観』)といっているが、なるほど「上書」を読めば、これは決して身びきのドグマではなく、勝海舟の方言的批評よりははるかに客観性があると思われるのである。

 しかし、彼の悲劇は、剛直真摯(しんし)の性格、幕府体制への忠誠心、時勢に先行する識見の三つがないまぜになり「旗幟鮮明」を態度に打ち出したときに胚胎(はいたい)した。彼は、長州征伐のオピニオン・リーダーであった。さらに慶應四年正月、江戸城最後の評定においては主戦論をとり、朝令暮改、迷いに迷う将軍慶喜の袖をとらえて、

「われに反逆のなを付せられる理由はありません。非はすべて彼らにあります。何故にすみやかに、正義の一戦を決定いたされませんか」

とせまった。慶喜は顔面蒼白、その袖をふりきって奥に逃げ去った。

 こうして、最後の会議は和戦ふ決定のまま終了。小栗は、もはやこれまでと思い、江戸を引きはらう決心をしたのである。このとき、小栗の引き立てによって三井組の番頭となっていた三野村利左衛門は、千両箱をもってきて渡米をすすめたが、彼はこれをことわった。そして、長持八棹に洋書や外国の機械などをつめ、装飾用として玄関に備えつけていた青銅砲一門を引いて、その知行所である上州権田村(群馬県倉淵村)に引き揚げていった。このとき、その荷物を見て、数十万両の幕府の官金をおさめたものであろう、とうわさしたものがある。

 三月四日、一団の無頼漢が権田村を襲った。小栗は少人数の家来を指揮してこれを撃退したが、折から近くにきていた官軍――東山道総督岩倉具定(いわくら ともさだ)、参謀板倉退助、同伊地正治らは、暴徒を煽動して、

小栗には、暴徒七千余人を撃退できるほどの兵備がある。大砲もと吹聴させ、「朝廷反逆の企図あり」と断定する口実とし、「小栗追捕令」を発したのであった。

 これを知らない小栗は、新しい住宅を建てようと思い、毎日馬にのって工事を監督し、また五段歩の畑を開墾させたが、官軍の色めがねでこれを見ると「陣屋等厳重に相構え、これに加うるに砲台を築き……」ということになる。

 官軍の命令で、高崎、安中、小幡三藩の兵八百が小栗の宿した東善寺を囲んだ。小栗は反逆の意思がないことを弁じ、青銅砲一門、小銃二十一丁を引きわたし、さらに翌日、二十一歳の養嗣子忠道に家来三名をつけて官軍出張所に出頭させ、自分は東善寺を出て農家にうっつたが、な主は官軍の命令だとして、村を立ちのかぬ場合は村民一同に難儀がかかると、といった。小栗は官軍の意図を見ぬき、母堂および妊娠中の妻道子を越後に落ちのびさせた。

 四月五日、小栗捕縛。

 六日早朝、烏川河原で斬首。その首は青竹につきさされ、路傍にさらされた。小栗の享年四十二歳。嗣子忠道も斬殺。

 母堂と夫人は、野に伏し、山にかくれるという辛苦をなめて新潟にたどりつき、さらに会津まで逃げて、夫人は六月十四日に女子国子を産んだ。しかし会津も安住の地とはならず、落城ののち、母子は東京に送られ、深川の三野村利左衛門の邸に引きとられた。

 三野村は旧主の恩義にこたえ、よく母子の面倒を見たようである。やがて未亡人道子が病死すると、遺児国子大隈重信邸に引きとられた。大隈夫人は旧旗本三枝氏の出で、小栗家とは親戚だった縁による。大隈夫妻は国子のために、矢野文雄の弟貞夫を夫に選び、小栗のみょう跡をつがせた。

 小栗を斬ったのは丹波篠山の剣客原保太郎(当時二十二歳)で、その後岩倉に従って外遊、滋賀県知事時代に大津事件に遭遇し、その後貴族議員、赤十字社常議院となって八十九年の生涯を日の当る場所で過ごした。小栗のおい蜷川新が、その真相を知ったのは大正八年、斬首の五十一年後である。蜷川は原に会って、そのときの状況をはじめて知ることができた。

「何故に小栗を斬殺したのですか?」

という問いに原は答えた。

「板垣参謀から、厳重に処分せよと命ぜられ、その命令に従って斬ったのです。……長州征伐の張本人であり、またフランスから軍艦と資金を得て、長州藩を討滅しようと企てたことが、斬殺の理由でありました」

2019.07.28


☆16 西郷 隆盛(1,828~1,877年)


 『西郷南洲遺訓』 附 手抄言志録及び遺文 山田済齊編(岩波文庫)

一、 遺訓 P.3~

 一九 古より君臣共に己を足れりとする世に、治功の上りたるはあらず。自分を足れりとせざるより、下々の言を聴き入るゝもの也。己を足れりとすれば、人己の非を言へば忽ち怒るゆえ、賢人君子は之を助けぬなり。

 二一 総じて人は己に克つを以て成り、自ら愛するを以て敗るゝぞ。

 二五 人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を盡て人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし。

※上の言葉は(『言志録三』)〔凡そ事を作すは、須らく天に事ふるの心有るを要すべし。人に示すの念有るを要せず〕を熟考し、実践することによって得た悟りであろう。南洲翁の大きさ、おのれの小ささを知るのに、これほど明確な証拠はないのである。小島直記『老いに挫けぬ男たち』P.336 に書いている。

 三〇 命もいらず、なもいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るもの也。此の始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。

二、 南洲手抄言志録 

一、遊惰を認めて以て寛裕と為す勿れ。厳刻を認めて直諒と為す勿れ。私欲を認めて以て志願とする勿れ。(〔耋六二一〇〕引用)

 遊びなまけているのを見て、心が広くこせつかない人間だと思うな。厳しく容赦しないのを見て、素直でいつわりがない人間だと思うな。利己的欲望を見て、志を立ててその実現を望み計る人間だと思うな。

二、毀誉得喪は、真に人生の雲霧、人をして昏迷せしむ。此の雲霧を一掃せば、則ち天青く日白し。(〔耋六二一六〕引用)

 悪口、名誉、成功、失敗は本当に人生の雲や霧のようなものだ。これが人生の心を暗くし、あるいは迷わしめる。この心の雲や霧である毀誉得喪にこだわる気持ちをさらりと一掃すれば、天が青く日が白く輝くように人生は実に明るいものだ。

三、唐虞の治は只是れ情の一字なり。極めて之を言へば、万物一体も情の推に外ならず。(〔耋六二五一〕引用)

 堯帝、舜帝の理想的政治の要諦は『情』の一字だ、ということである。

 南洲手抄言志録冒頭三条には、今日のトップ・リーダーにこそ、もっとも必要な教訓があると思われるが、役人が序列を決める勲章に随喜の涙を流す人々に、はたして謙虚に耳を傾ける心があるかどうか。

 南洲が冒頭にもってきた意味もここにあろうか。小島直記『老いに挫けぬ男たち』P.341より。口語説明は児島さんの記述である。

※南洲手抄言志録は 2022.02.19 追加。

参考:上野の西郷隆盛像の除幕式。作者は高村 光太郎の父高村 光雲(1898):111年以前のことである。


 幕末、イギリスは倒幕派に援助を申し出たが、西郷は次のように拒絶して、日本の独立を保持した。

「これは大幸の訳、その時機に至りては御相談申すべし>と相答え候ては、また英国に使役せらるる訳に相成候のみならず、全く受太刀に落来り、議論もにぶり、この末のところ下鳥〔落ちめ〕に相成候儀、自然の勢に御座候故、うんと返答いたし置く処と相考え申し候につき、「日本の国体を立て貫きてまいる上に外国の人に相談いたし候つらの皮はこれなく、ここの処は十分相尽すつもりに候間よろしく汲取りくれ候よう」相答え置き申し候(桂右衛門への手紙)

この日(9月24日)鹿児島で敗死。明治維新の最高指導者の一人。のち征韓論を唱えて下野。反政府の保守派の頭目として西南戦争をおこした。

平成二十二年五月二十七日

*桑原武夫編『一 日 一 言』―人類の知恵―(岩波新書)P.159


※参考:明治維新は若さの非常識がもたらした勝利

 明治維新を遂行した中心人物たちは、驚くほど若かった。かれらの維新時の年齢を列記してみても、

 西郷隆盛=四一歳、大久保利通=三八歳、高杉しん作=二九歳、作久坂玄瑞=二八歳、伊藤博文=二八歳、木戸孝允=三五歳、後藤象二郎=三〇歳、板垣退助=三一歳、大隈重信=三〇歳、徳川慶喜=三一歳、岩倉具視=四三歳、勝海舟=四五歳……

 と、勝の四五歳が最高だが、今なら、四五歳はまだ若僧とも言うべき年齢である。また、明治維新直前に斃れた坂本竜馬や吉田松陰にしても、もし永がられていれば、明治元年にはそれぞれ三三歳と三八歳だった。

 幕末動乱期を駈け抜けたこれらの英傑が、二六〇年間に及ぶ徳川幕藩体制にピリオドを打ったという"日本史における一大トピック"を遂行できたのも、その最大の要因は、彼らが若かったためである。それも、若くてエネルギーがあり余っていたということではなく、彼らが若いがゆえに、それらの伝統にとらわれず、過去の"常識"や"権威"によけいな気をつかわず、ひたすら社会正義の念にかられ、現実の矛盾を正視できたという意味合いである。

 人間は、年齢を重ねれば重ねるほど事大的になり、世の中のしがらみを是認しやすい。だから、旧体制にどっぷり浸かった常識人には、世の中を引っくり返すようなことは、なかなかできなるものではない。非常識だからこそ、大胆に非日常的なことができるものである。明治維新は、若さの持つ"非常識なパワー"と正義感が原動力となって起こった大事件だと言ってよい。樋口清之著『逆・日本史2』(祥伝社)(昭和62年3月15日 第6刷発行)P.18

令和四年二月二日記す。


☆17 狩野芳崖(1,828~1,888年)


★悲母観音図 狩野芳崖★

 金色のやわらかな光が赤子を包む。慈愛に満ちた観音が、誕生する生命に功徳の水を垂らす。緻密な描写、線描が美しい。「観音は理想の母なり」。芳崖の言葉である。1887年の作品「不動明王図」と、この「悲母観音図」は、のちに近代絵画最初の重要文化財に指定された。

 彼は幕末に長府藩(ちょうふはん)(山口県下関市)の御用絵師の子として生まれ、長じて同藩の絵師となり、医師の娘よしと結婚した。廃藩から維新へ、その動乱の中で御用絵師の生活は立ち行かなくなり、妻と共に上京する。50歳になっていた。「あなたの絵は、今にきっと売れるようになりますかれあ」と妻が励ます。

 西洋画の技術を吸収しながら、新しい日本画の表現を志向し、「鑑画会」第2回展(1886)に出品した「仁王捉鬼図(におうそつきず)」が一等賞を受賞。その熟達の幽技は大いに評価されたのである。

 翌年、糟糠の妻よしが逝去。一周忌を迎えるころ、芳崖は渾身の力を込めて「悲母観音図」を描き上げ、その4日後に逝去。東京美術学校(現東京芸藝術大学)の教員に迎えられながら、開校直前のことであった。

 絵は芳崖とよし、2人が苦難を乗り越え生きた(あかし)といえよう。近代日本画の不滅の金字塔として存在する名画である。実に神々しい。

※一八八八(明治21)年 絹本着色、額装 重要文化財 東京芸藝術大学蔵 

※狩野芳崖プロフィール:一八二八~一八八八年。初め父に画技を学び、覚苑寺の霖竜(りんりょう)和尚に参禅。大きな精神的感化を受ける。一八四六年江戸に出て、狩野養信(おさのぶ)に入門。養信がすぐに没したため、狩野雅信(まさのぶ)に学ぶ。一八八二にはアメリカ人教師、アーネスト・フェノロサの知遇を得、フェノロサが組織した鑑画会に参加。西洋絵画の空間表現や色彩等を摂取し日本画の革新に努めた。

2019.12.17


☆18副島 種臣(そえじまたねおみ)(1,828~1,905年)


『明治天皇と元勲』日本のリーダー (TBSブリタニカ)1982年10月9日 初版発行 P.302

  きわめて毛並みのよい明治の政治家。  

 佐賀藩の国学者枝吉忠左衛門(号、南濠)の次男に生れ、副島家を継いだ。実兄の枝吉神陽(しんよう)は藩校弘道館の教授だった。種臣はこの兄から教えを受けたが、神陽の門下には、のちに知名になった大隈重信大木喬任江藤新平島義勇(しまよしたけ)らがいた。

 兄の感化を受けて種臣は尊王攘夷の思想に傾き、兄弟が中心となって「楠公義祭同盟」を組織し、佐賀藩のこの運動のさきがけとなった。 

 嘉永五年(一八五二)、二十四歳のとき京都へ出て攘夷の志士矢野玄道(国学者・大洲藩士)・田中河内之介らと交わった。 

 このとき、青蓮院宮(しょうれんいんのみや)から佐賀藩の京都出兵を求める密書を託されて帰国したが、藩主鍋島閑叟(なべしまかんそう)は出兵を承知しなかった。このため、かえって他出を禁じられた。

 文久三年(一八六三)、兄の神陽が死んだので、そのあとを襲って藩校の教授として藩学の指導的位置についた。 

 翌年の元治元年(一八六四)、藩は長崎に英学研究のため致遠館を設けた。もう蘭学は下火になっていて、英語が必要になってきていたからだった。

 種臣は学監(がつかん)に起用され、大隈重信とともに長崎におもむいた。そして、宣教師フルベッキについて、ヨーロッパ・アメリカの制度や法律・経済などを研究した。これがのちの彼の仕事に役立った。

 明治元年(一八六八三月、明治政府の参与となり、「政体書」を起草した。二年七月参議、四年十一月外務卿となった。

 外務卿の在職期間はわずか二年ほどであったが、この期間が彼にとってはもっともはなばなしく、台湾事件、マリア・ルイズ号事件をはじめ、懸案の千島・樺太(現在のサハリン)交換問題などを果敢に処理した。また、この時期に一時、沖縄を琉球藩として設置したこともあげられる。

 征韓論につらなって下野してからはアウトサイダーとして閑職にあった。のち明治二十五年に第一次松方内閣の内相をつとめたこともあったが、積極的に政治に挺身しなかった。

 人物にもユニークな風格があり、その書も好事家(こうずか)の間で珍重された。

2019.09.05


☆19由利 公正(ゆり きみまさ) (1,829~1,909年)


小島直記著『人材水脈』日本近代化の主役と裏方 (中公文庫)P.14~18

   由利公正 (御誓文起草に小楠の影響

 横井 小楠の薫陶をうけたものは、熊本、柳川、福井にいた。このうち福井の門弟では三岡八郎(のち由利公正)が光っている。小楠自身は、「君子と俗流を区別せず、おのおのその情をつくさせ、公平無私・一視同仁の態度で接した」(『北越土産』)と書いているが、やはりできる人物をかわいがったようだ。弟の死亡通知で安政五年十二月、熊本に帰省したとき、小楠の従者二人のほか、二人の越前藩士がおともをした。

 その一人が三十歳の三岡八郎で、後年この旅について、「さて道中で、先生のわれにことさらに注意された忘れられぬことがある。宿へつくと一統を呼ばれて言はるるには、いづれも雪中でつかれたろう、早く食事を仕舞うてぢきに寝るから手配りせよ。おのれは酒を呑まぬと言ひつけられたゆゑ、みなみな早々風呂に入り、食事をしたが、早く寝るべしと言ふことで床に入ると、しばらくして三岡と呼ばれる。われ前にでれば、いはく、酒を温むべし手配せよと言はれて、それから講習せられて夜半をこえた。大坂にいたるまで毎夜同様のことでずい分疲れもしたが、その親切はじつに厚いことであった」(『由利公正伝』)と回想している。

「公平無私・一視同仁」どころか、極端な差別待遇だ。しかしこれはとがめるべきでなく、こいうエコヒイキの姿にこそ、材を愛し、期待した小楠の心情、体温が感じられてほほえましいと筆者は感じる。

 はたして三岡は恩師の期待にこたえた。それまで越前藩は、節倹だけを唯一の富国策としてきたが、三岡はそのケチケチ根性を打ちこわし、積極的な殖産、貿易策に切りかえたのである。それは小楠の教のままであった。

 三岡は、恩師を熊本におくりとどけ、二月ほど講義をきいたあと、長崎に向った。そこで外国貿易、物資の集散状況、その運輸方法などを調査研究し、土地一町歩を買って越前藩蔵屋敷を建て、オランダ商館との間に貿易契約をむすんで帰国した。

 出発前、勘定奉行長谷部甚平に、殖産資金五万両の調達をたのんでいた。長谷部も小楠門下生で「越前藩第一の人材、才力敏鋭、談論人を圧し、なかなかむつかしき男」という小楠の評もあるほどで、ただのネズミではない。しかし、節倹第一の藩方針をくつがえす決断はなかったと見え、五万両をい準備していなかった。

 三岡は大憤慨でくってかかり、結局小楠の仲裁で、切手(ふ換紙幣)五万両を増発してこれにあてることとした。三岡は有力者をあつめて新計画を説いたが、彼らもまた藩当局とおなじ消極主義で、ついてこない。三岡は村々をまわり、庄屋、年寄、老農などを説得し、ようやく物産総会所を設置するところまでこぎつけた。。

 物産総会所は、会計監督に藩士一人をつけただけで、すべて商人の自治にまかせた。土地の産物である糸、布、木綿、蚊帳地(かやじ)、生糸、しょう油、茶などをオランダ商館に売りこみ、初年度百万両、次年度二百四十万両、四年目の文久元年には三百九十九万両に達した。こうして殖産、貿易策は成功し、藩札は正貨に切りかえられ、藩の倉庫にはつねに五十万両もの小判がたくわれるに至ったのである。

 やがて三岡は明治新政府に登用されて参与となり、由利公正と改名してからの最初の仕事は、新政府の基本方針を示す「五箇条の御誓文」の起草であった。彼の試案では、その第五条に「万機公論に決して、私に論ずるなかれ」というのがある。これ坂本 竜馬が、山内容堂に大政奉還のことを具申するため長崎から海路上京したとき起草した「船中八策」の中の、「万機公儀によって決定すべきこと」と酷似している。

 坂本は、文久二年七月、幕府の政事総裁となっていた越前藩主松平 春嶽に面会をもとめ、勝安房(海舟)と横井小楠への紹介状を乞うた。このとき坂本は二十七歳、コチコチの攘夷論者であり、開国論をとなえる勝と小楠を説得し、きかない場合はこれを刺殺する覚悟であった。

 春嶽は、その気配をさとりながら、あえて紹介状を書いてやった。というのも「人を見る目」に卓越する彼は、、横井の力量を信ずるとともに、この若者の明敏な判断力を見ぬき、共鳴必至と判断したのである。はたして竜馬は開眼翻意し、勝について海軍のことを教わるとともに、小楠にも深く傾倒して死ぬまで指導をうけたのである。すなわち両人とともに、その抱懐する「万機公論」の思想は横井小楠に発するのである。

 さて由利の試案に福岡 孝悌(ふくおか たかちか)が加筆訂正をし、くだんの箇条は「列侯会議を興し、万機公論に決すべし」となって冒頭におかれた。これにはさらに木戸孝允が手を加えて「広く会議を興し、万機公論に決すべし」ときまり、明治元年(一八六八)四月六日、文武百官をしたがえた明治天皇は、神前において誓約されたのである。

 そのころ小楠は熊本の自宅で貧窮に苦しめられていた。文久二年十二月、肥後藩江戸留守居役の別邸をたずねたとき刺客におそわれ、そのとき小楠ははしご段の近くにすわっていたため、床の間においた大小をとりに行く余裕がなく、そのまま逃げたのである。するとかねがね彼を憎む藩当局は、「士道忘却」としてこれをとがめ、知行召し上げ、士籍剥奪(はくだつ)の罪を科したのである。

 しかし、人材を求める新政府からは、小楠召命の達しがきた。首脳部は、病気だといつわってこれをことわったが、岩倉 具視の一喝でようやく新政府出仕を認める始末。小楠は制度局判事をへて参与となった。おなじ参与には、小松 帯刀、大久保 利通、木戸 孝允、後藤 象二郎、広沢 正臣、福島 種臣、由利 公正、福岡 孝悌とえりぬきの人材がそろっていたが、この中で新日本建設のビジョンをもつのは小楠一人だったといわれている。しかし、その大経綸を行う日は来なかった。明治二年一月五日、太政官から帰る途中を待ちぶせされて刺殺されたからである。

 凶徒たちは、世界の大勢を知らず、公論の場で事を進めてゆくことを好まず、「問答無用」の直接行動しかとり得ないコチコチの反動的石頭であったが、政府内部には進歩的な小楠を憎み、その凶徒の無罪を主張するものもいたのである。「五箇条の御誓文」の「公論」が「列侯会議」を意味し、近代的立憲主義でなかったという説もあるが、ともかく「問答無用」の暴力的直接行動よりも「公論」による政治的運営を基軸においたところに、明治百年の基本的パターンがあった。

 そのほかならぬ設計者がテロに倒れたところに運命の皮肉――というよりも日本の悲劇があったといわねばなるまい。明治百年の歴史は、「問答無用」と「公論」の両輪をめぐってゆれ動いたともいえようが、その意味において、明治二年正月の小楠の死は、まことに象徴的な事件であった。

※参考:五箇条御誓文

2019.05.29


☆20吉田 松陰(1,830~1,859年)


徳富蘇峰著『吉田松陰』(岩波文庫) 

新島先生の記念として この冊子を献ぐ 著者

Trust thyself : every heart vibrates to that iron string.――Emerson.

   緒言

 題して『吉田松陰』というも、その実は、松陰を中心として、その前後の大勢、暗潜黙移の現象を観察したるに過ぎず。もし名実相()わずとせば、あるいは改めて『維新革命前史論』とするもふ可(ふか)なからん。

 昨年の春初本郷会堂において、「吉田松陰」を講談す。のち敷衍(ふえん)して『国民之友』に掲出する十回。さらに集めて一冊となさんと欲す、遷延(せんえん)果さず。このごろ江湖の督責(とくせき)急なるを以て、咄嗟(とっさ)の間、遂にこれを()す。原文に比すれば、その加えたるもの十の六、七、その(けず)りたるもの、十の一、二。

 事実の骨子はおおむね『幽室文稿』『吉田松陰伝』より得(きた)る。その他参照に()したるもの枚挙(まいきょ)(いとま)あらず。

 松陰の妹婿(まいせい)にして、その同年の友たる楫取(かとり)男爵、その親友高原淳次郎、松陰の後嗣(こうし)吉田庫三(くらぞう)の諸君は、本書を()すにおいて、あるいは助言を与えられ、あるいは材料を与えられたり。特に(しる)して謝意を表す。

 松陰肖像は、門人浦無窮(うらむきゅう)が、松陰東都檻送(かんそう)せらるるに際して描きたるものを、さらに謄写したり。松陰神社、及び墳墓は、久保田米僊(べいせん)(みず)からその境に(のぞ)んで実写したるもの。

 平象山(へいしょうざん)の詩は、勝(はく)の所蔵に拠り、東遊稿は、高原淳次郎君の所蔵に拠る。稿中吉田大次郎とあるは、松陰初めのななり。後寅次郎と改む。この稿は彼が米艦に(とう)じて去らんとするに際し、これを高原君に(おく)りて紀念となしたるものなりという。松陰が小楠(しょうなん)翁に送りたるは、横井時雄氏の所蔵に拠る。この書簡は彼が露艦を()うて長崎に(きた)り、遠遊の(こころざし)を果さんと欲して得ず、その帰途周防(すおう)より横井翁に寄せたるもの。村田清風の詩は、嘉永(かえい)四年()が叔父徳富一義(かずよし)、小楠翁に(ばい)して天下を周遊するに際し、親しく村田翁に授りたるもの、今や蔵して余の家に()在り。

 以上みなその真蹟(しんせき)を石印に写したるもの、(ねがわ)くは髣髴(ほうふつ)として、その真を失わざらん。

 勝海舟翁、佐久間象山と旧交あり、象山は松陰の師、(しこう)して余また海舟翁の門下に教を受く、故に翁の題言を請うて、これを篇首に掲ぐ、また因縁なくんばあらず。

  明治二十六

     第五帝国議会開会の日

                               東京民友社楼上(ろじょう)において

                                               著者

  吉田松陰年譜

一八三〇 天保元年庚寅(こういん)  八月四日、(はぎ)城下松下村に生る。マヂニー隠謀のために捕えられ、追放せらる。

一八三七 天保八年丁酉(ていゆう)  米穀騰貴。二月、大塩平八郎乱を大坂に起す。四月、家慶(いえよし)征夷大将軍に拝す〔慎徳公〕。

一八四〇 天保十一年庚子(こうし)  君侯毛利慶親(よしちか)の前において、兵書を進講す。

一八四一 天保十二年辛丑(しんちゅう)前将軍家斉(こう)ず〔文恭公〕。水野越前守幕政の改革に着手す。

一八四二 天保十三年壬寅(じんいん) 佐久間象山海防八策を(たてまつ)る。清国(しんこく)道光(どうこう)二十二年、英兵上海を取り、南京に入る。南京条約()成る。七月、文政打払令(うちはらいれい)を修正して、寛政の旧に復す。

一八四三 天保十四年癸卯(きぼう)  夏、村田清風毛利侯を(たす)けて、羽賀台の大調練を(もよお)す。水戸烈公驕慢に(つの)れりとの(とが)(こうむ)り、幽蟄(ゆうちつ)せしめらる。

一八四四 弘化元年甲辰(こうしん)   和蘭(オランダ)使節和蘭王の忠告書を(もた)らし(きた)る。

一八四五 弘化二年乙巳(いっし)   松陰兵を山田亦介(またすけ)に学ぶ。

一八四七 弘化四年丁未(ていび)   孝明天皇即位。

一八五〇 嘉永三年庚戌(こうじゅつ) 八月、九州に遊ぶ。

一八五一 嘉永四年辛亥(しんがい)  始めて江戸に遊ぶ。相房(そうぼう)を巡遊す。横井小楠天下を歴遊す。十二月、亡邸東北行をなす。

一八五二 嘉永五年壬子(じんし)    籍を削り、禄を(うば)わる。

一八五三 嘉永六年癸丑(きちゅう)   十年四方に遊学の公許を受く。六月朔日(さくじつ)、江戸に着す。六月三日、米国水師提督彼理(ペリー)浦賀に来る。七月、家定将軍となる〔温恭公〕。七月、露艦長崎に来る。九月、江戸を発し長崎に(おもむ)き、十二月、江戸に還る。

一八五四 安政元年甲寅(こういん)  三月二十七日、下田において米艦に搭ぜんと欲して果さず。三月、神奈川条約成る。四月十五日、檻輿(かんよ)江戸に達す。九月十八日、罪案定りて藩に囚わる。十月二十四日、長門野山(のやま)の獄に下る。

一八五五 安政二年乙卯(いつぼう)   五月、村田清風死す。十月二日、江戸大地震。藤田東湖死す。十二月十五日、獄を出て家に()せらる。

一八五六 安政三年丙辰(へいしん)   七月、家学(かがく)を教授す〔松下村塾(しょうかそんじゅく)成る〕。七月、米国総領事ハリス来る。

一八五七 安政四年丁巳(ていし)   五月、条約規定書調印。六月、閣老阿部正弘死す。十月、ハリス江戸に入る。

一八五八 安政五年戊午(ぼご)    正月、大いに攘夷(じょうい)論を唱う。閣老掘田正篤(まさひろ)京都に遊説(ゆうぜい)す。三月、大詔(たいしょう)煥発(かんぱ)。四月、井伊大老(たいろ)となる。六月、勅許(ちょっきょ)()たずして、米国条約の調印をなす。八月、家茂(いえもち)将軍となる〔昭徳公〕。一橋党(ことごと)く罪せらる。八月、密勅(みっちょく)水戸に下る。九月、間部詮勝(まなべあきかつ)京都に入る。梁川星巌(やながわせいがん)死す。梅田、頼その他の志士(ばく)()くもの前後相接す。十一月、松下義塾血盟。十一月二十九日、家に厳囚せらる。十二月五日、投獄の命あり。

一八五九 安政六年己未(きび)    五月、江戸に檻送(かんそう)せらる。七月、江戸伝馬(てんま)町の獄に下る。十月二十日、永訣(えいけつ)書を作る。二十六日、『留魂録』成る。二十七日、刑に()く。

     第一 誰ぞ 吉田松陰とは

 玉川に遊ぶ者は、(みち)世田が谷村を()ん。東京城の西、青山街道を行く里余(りよ)、平岡逶迤(いい)として起伏し、碧蕪(へきぶ)疎林(そりん)その間を点綴(てんてい)し、鶏犬の声相聞う。街道より迂折(うせつ)する数百歩、(たちま)茅葺(かやぶき)の小祠堂あり、ああこれ吉田松陰の幽魂を祭る処。

 祠後の小杉(しょうさん)槍尖(そうせん)槍尖の如く、森然(しんぜん)として天を刺す。これを(けい)径すれば、幾多の小碑、行儀(ぎょうぎ)()屏列(へいれつ)するを見る。その左右に()るは、同志、同難諸人の墳墓にして、彼はあたかも幽界の大統領たるかの如く、その中央に安眠す。数株の蒼松(そうしょう)は、桜樹に接して、その墓門を護し、一個の花崗石(かこうせき)の鳥居は、「王政一新之歳、大江孝允(おおえたかよし)」の字を刻して、(とこし)えに無韻(むいん)悼歌(とうか)を伝う。

 三十五年前、日本国を荒れに()らしたる電火的革命家も、今はここに鎮坐(ちんざ)して、静かなる神となり。春雨秋風人の()訪うなく、謖々(しょくしょく)たる松声は、日本男児の記念たる桜花の雪に和して吟じ、喞々(しょくしょく)たる虫語は武蔵野の原より出でて原に入る明月の清光を帯んで(むせ)ぶ。

 未死の幽魂、尋ねんと欲するも、今(いずれ)の処にかある。請う、吾人(ごじん)をして彼を九原(きゅうげん)の下より起し、少しく彼に()いて語らしめよ。

       *   *   *   *   *

 吉田松陰は、関原(せきがはら)関原の役において、西軍の殿将として、大坂を守り、徳川氏に向って弓を()ける、毛利家の世臣(せいしん)なり。彼は杉氏の子、出でて叔父吉田氏を()、禄五十七石を()む。彼は(もと)より微禄の士。天保元年八月長門(ながと)(はぎ)城の東郊に生れ、安政六年十月国事犯罪人として、江戸において首を斬らる。その間(わず)かに三十年、(しこう)して彼が社会に馳駆(ちく)したるは嘉永四年侯駕(こうが)()して江戸に(おもむ)きたるより以来、最後の七、八年に過ぎず。彼の社会的生涯かくの如く短命なり。彼果して伝うべきものあるか。

 曰く、(しか)り。

 彼は多くの企謀を有し、一の成功あらざりき。彼の歴史は蹉跌(さてつ)の歴史なり。彼の一代は失敗の一代なり。(しか)りといえども彼は維新革命における、一箇の革命的急先鋒なり。もし維新革命にして伝うべくんば、彼もまた伝えざるべからず。彼はあたかも難産したる母の如し。(みず)から死せりといえども、その赤児は成育せり、長大となれり。彼れ()に伝うべからざらんや。

※参考:奈良本辰也は、『吉田松陰』(岩波新書)P.165に「わたくしは、松陰に関する著書の中で、最もよく彼を傳ているものを挙げよといわれるならば、ためらうことなく徳富蘇峰の旧版本をお推すであろう」といっている。



 われ行年三十、一事成ることなくして死して、禾稼(かか)[いね]の未だ秀でず実らざるに似たれば、惜しむべきに似たり。しかれども義卿[松陰]の身をもって言えば是また秀実の時なり。何ぞ必ずしも哀まん。何となれば人寿は定りなし。禾稼の必らず四時を経る如きにあらず。十歳にして死するものは十歳中自ら四時あり。二十は自ら二十の四時あり。……五十百は自ら五十百の四時あり。十歳をもって短とするは蟪蛄(けいこ)[短命のセミ]をして霊椿[長生の木]たらしめんと欲するなり。百歳をもって長しとするは霊椿をして蟪蛄たらしめんと欲するなり。ひとしく命に達せずとす。(留 魂 録)

この日(10月27日)この日江戸で刑死す。長州藩士。とくに兵学に通じた。佐久間 象山に学び、海外渡航を企て失敗。幽閉中、松下村塾を開き、多くの維新の志士を教育した。

*桑原武夫編『一 日 一 言』―人類の知恵―(岩波新書)P.178


 士規七則の前文

 「冊子を披繙(ひはん)すれば嘉言林の如く、躍々として人に迫る。顧(おも)ふに人読まざるのみ。即(も)し読むとも、行わざるのみ、荀(まこと)に読んで之を行わば千万世と雖も、得て尽すべからず。噫(ああ)、復(また)何をか言わん」

※渡辺五郎三郎著『トップと補佐役の人間学』(日新報道)P.28に引用されている。


 一 かくすればかくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂

 二 帰らじと思ひさだめし旅なれば ひとしほぬるる涙松かな

 三 親おもふ心にまさる親心 けふの音づれ何ときくらむ

 四 身はたとい武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置まし大和魂

*四は吉田松陰 辞世の句です。


☆21大久保 利通 (1,830~1,878年)


 小島直記著『人材水脈』日本近代化の主役と裏方 (中公文庫)P.94~98

   大久保 利通 渋沢栄一と犬猿の仲

 明治政府が渋沢栄一というタレントに目をつけたのは明治二年のことであった。このとき渋沢は三十歳で、前年にパリからもどり、二年一月に日本最初の株式会社「商法会所」を静岡の紺屋町に創立し、めざましい業績をあげていたのである。「殖産興業・富国強兵」をスローガンとする政府にとっては、よだれの出るような才能にちがいなかった。

 出京を命じたのが二年十月、「租税正」に任じたのが十一月。彼を説得した大蔵大輔(次官)大隈重信は、「商法会所」の業績を評価して上でスカウト―したはずであるが、「後に知られたが、当時渋沢を推挙した人は、大蔵卿伊達 宗城と郷 純造であったという」(土屋高雄『渋沢栄一伝』)。

 ところで筆者は、このほかにも渋沢を推挙した人物があったように思う。「築地梁山泊」の仲間の一人、中井弘がそれであったろうと、証拠もなしに考えている。

 すでにのべたように、中井は薩摩藩を脱藩し、江戸で安藤対馬守襲撃計画などに加わったりして大いに志士活動をしていたが、そのころ、武藏国(埼玉)榛沢郡血洗島、すなわち渋沢の故郷の隣村手許(てばか)をたずねたことがある。そこには儒学者尾高惇忠(藍香と号す)がいた。栄一の従兄であり、かつ学問の師匠である。この惇忠の弟に長七郎という剣道の達人がおり、早くから江戸に出ていて、ときおり友人をつれて帰省し、時勢を談じた。その友人の一人として、中井弘がいたのである。当時、栄一は十七、八歳。十四歳のころには藍商売で一人前になっていたほど俊才で、ことに十七歳のとき代官の侮辱をうけて発奮し、封建制度の政治社会組織にたいするふ満と懐疑を中心に真剣に思索しはじめていたから、これら志士たちの議論に加わり、おのずと中井ともことばをかわすことがあり、中井も、若僧ながらできるやつだ、と感じたことであろう。

 中井は、女性を多く愛したが、同時に後輩も多く庇護(ひご)した人物だ。司法省法学校を放校された原敬を拾って報知新聞に入れたのも中井である。しかも就職の世話をしてやっただけでなく「中井は原敬の学問の師」「原敬が報知新聞紙上に載せた論文は、中井の感化によるところが多いように察せられる」と前田 蓮山も書いている。原の家は南部藩の家老で、戊辰の役で官軍にひどい目にあい、薩長にたいする反感は根強いものがあったのに、薩長出身の中井には、そういう旧怨を捨て、そこまで傾倒させる人間的魅力があったのである。そういう「体温」の持ち主が、かって遊学したことのある土地の俊秀栄一のことを忘れさり、あるいは冷淡であったはずはなく、維新後その動静のことを聞きだして、築地梁山泊をたずねたとき、盟友大隈に推挙したこともあったのではないか――以上は単なる推測にとどまるが、あってしかるべき光景であり、それを実証する文献を筆者はさがし求めているのである。

 それはそれとして、政府の役人となった渋沢は、大隈、大久保、井上などの数人とも知りあうこととなった。そして、大久保とはけんかし、大隈とはしたしくなることはなく、井上とはもっとも親密となる。その成り行きには理屈をこえたところがあり、つまりは人生のふ思議さを思わせるのである。

 渋沢は、政治家としての大久保を高く評価している。『論語』に「君子は器ならず」(為政28)とある。「立派な人間は、決して単なる専門家ではいけないものだ」ということらしい。渋沢は「いやしくも人間である以上は、これをその技能に従って用いさえすれば、必ずその用をなすものであるが、(はし)には箸、筆には筆と、それぞれの器に従って用があるのと同じように、凡人にはただそれぞれ得意の一技、一能があるのみで、万般に行きわたった所のないものである。しかし非凡な達識の人となると一技一能に秀れた器らしい所がなくなってしまい、将に将たる奥底の知れぬ大きな所のあるものである」「私は(大久保)の日常を見る毎に、器ならずとは必ずや公の如き人をいうものであろうと、感激の情を禁じ得なかった」(『実験論語』)とのべている。最大級の賛辞ともいえるであろう。しかるに、「大久保公は、私を嫌いで、私はひどく公に嫌われたものであるが、私もまた大久保公をいつでもイヤな人だと思っておった」。「好ききらい」が原因で反発したようである。

参考:デジタル版「実験論語処世談」(黒崎)

 そういう気持が低迷しているところに四年八月、予算問題で正面衝突することになった。陸海軍の歳費を一千五十万円と定め、大久保が意見を求めたとき同席していた谷鉄臣(たに てつおみ)安場保和(やすば やすかず)は何もいわず、渋沢ひとりが反対したのである。

「総じて財政は《入るをはかって出を為す》を原則となすべきです。まだ歳入も精確にわかっていないときに、兵事はいかに国家の大事だといっても、これがため一千五十万円の支出を怱卒の間に決するのはもっての外、本末転倒の甚しきものではありませんか」

 すると大久保は「怫然と色を帯びた」。冷徹をもって聞えたこのひとが顔を赤くした、というから、その立腹のほども察しられる。

「それなら渋沢は陸海軍の方はどうでもかまわぬという意見か?」

「ちがいます。いかに私が軍事に通ぜぬとは申しながら、兵備の国家に必要であるぐらいのことは心得ております。しかしながら大蔵省で歳入の統計ができあがらぬ前に、巨額な支出の方ばかりを決定されるのは、危険この上もなきご処置であります」

 そういう議論がつづいたが、渋沢のいうには、「総じて薩州人には一種妙なクセがあって、何か相談でもせられたときに、すぐそれに可否の意見をのべるとこれを悦ばず、熟考した上にお答えするとでも申していったん引きさがり、翌日にでもなってから意見をのべると、これを容れるというような傾きがある。薩州人であったから、さすがの大久保公にもやはりこの癖があった」、要するに、意見表明のテクニックのまずさ、大久保の癖のために正面衝突したのだということらしい。

 しかし大久保にしてみれば、不平不満の士族軍と農民一揆が焦眉(しょうび)の急、第一義の問題だという判断に立ち、陸海軍歳費額を決めたのに、そういう危機意識をもたぬ若僧が、いかにも小りこうそうに、ソロバンの帳じりだけの理屈をこねまわして反対したため、色をなして怒ったのかもしれない。すなわち、そのノンキさ、危機意識の欠如許せぬと思ったためで、渋沢のいう薩州人一般の癖から「小癪(こしゃく)なやつ」と思ったのではなかったかもしれない。

 そのへんのニュアンスが大切なところであろうが、ともかく渋沢は、こんなわけのわからぬ長官の下では仕事をしてもはじまらぬ、やめよう、と考え、井上に慰留せられてとどまった。その後、大久保・渋沢の相互理解、握手の機会はついに訪れなかった。十一年五月、現ホテルニューオータニの側の紀尾井坂(清水谷)で、大久保がテロにやらたからであった。

2019.05.21写す。小島直記著『人材水脈』近代化の主役と裏方は「維新から現代まで日本の近代化に努めてきた四十七人の男たちの人生に、人間の生き方の根源をさぐる」と著者は書いている。


 我が国、欧米各国とすでに結びたる条約は、もとより平均を得ざる者にして、その条中はほとんど独立国の体裁を失する者少からず。……英仏のごときに至っては我が国内政いまだ斉整を得ずして、彼が従民を保護するに足らざるをもって口実となし、現に陸上に兵営を構え、兵卒を(とん)し、ほとんど我が国を見ることおのが属地のごとし。ああこれ外は外国に対し、内は邦家に対し恥ずべきの甚しきにあらずや。かつ、それ条約改定の期すでに近きにあり。在朝の大臣よろしく焦思熟慮し、その束縛を解き独立国の体裁を全うするの方略を立てざるべけんや。
                (征韓論反対の意見書)

この日(8月10日)鹿児島藩士に生まれる。明治維新の推進者の一人。新政府の中心となり、新国家の基礎をきづいたが暗殺された。:明治11年(1878年)5月14日、馬車で皇居へ向かう途中、紀尾井坂(東京都千代田区紀尾井町)にて暗殺された(紀尾井坂の変)。享年49〈数え年〉、満47歳没。

*桑原武夫編『一日一言』―人類の知恵―(岩波新書)より

※関連:大久保利通

※図書:海音寺 潮五郎著『西郷と大久保』(新潮文庫)

2010.08.10


☆22佐佐木 高行 (1,830~1,910年)


『明治天皇と元勲』日本のリーダー (TBSブリタニカ)1982年10月9日 初版発行 P.304

 幕末から明治にかけての土佐藩出身の保守的政治家。  

 幼にして父を失い、賢母といわれた母に養育された。上士(じょうし)であったが、父の死後、禄高が減少し、貧しいなかで成長した。

 文武を好み国学を藩の鹿持雅澄(かもちまさずみ)に、剣を同藩の麻田勘七(あさだかんしち)に学んだ。二十五歳のとき江戸に出て、当時有名な大橋訥庵(おおはしとつあん)安井息軒(やすいそつけん)若山忽堂(わかやまこつどう)などについて儒学を修行した。 

 この修行が高行の人間としても、また人生の仕事のうえでも役に立った。帰国して藩の郡奉行・普請奉行・大目付などをつとめ、穏健な尊攘派として活躍した。 

 慶應二年(一八六六)、藩主山内容堂の命によって、九州の大宰府に滞在していた三条実美(さんじょうさねとみ)を訪ねて国情を聞いた。 

 帰国してから、後藤象二郎らと藩の討幕運動の中心となった。

 藩内には尊王攘夷派・開国派・大政奉還派・公武合体派などあって、大きく揺れ動いたが、その間をじょうずに調整し、しだいに討幕派の勢力を強くした。このときの高行の行動はじつにたくみだったという。

 彼は四十歳を前にした働き盛りであった。

 明治元年(一八六八)正月の鳥羽・伏見の戦いの際は長崎にいたので、海援隊士を率いて長崎奉行所を占拠した。治安の維持をはかるいっぽう、奉行所の公金を吸収した。やがてこの金は明治政府に還付したが、これも素早い行動だった。

 高行は待望の新政府に入り、とんとん拍子に昇進した。この年(明治元年)、長崎裁判所判事兼九州鎮撫使(ちんぶし)参謀・鎮撫府判事。同二年刑法官(けいほうかん)副知事・刑部太輔(ぎょうぶたゆう)。同三年には司法太輔となり、岩倉具視らに従って外遊した。

 帰国後は諸官を歴任して、十四年には工部卿になった。同十八年宮中顧問官となり、同二十一年枢密顧問官の椅子にすわった。この間、東宮明宮(とうぐうはるのみや)の教育主任。同二十二以後は皇女の教育係として奉仕し、明治天皇の信任を得た。

 高行は、板垣退助後藤象二郎をはじめ、土佐藩出身の多くが、自由民権運動を推進したが、これに(くみ)することなく、終始政府内にあって官僚・政治家としての道を進んだ。上羈奔放(ふきほんぽう)な人材を多く出した土佐藩としては、めずらしい人物だった。

2019.09.06


☆23大木喬任(たかとう)(1,832~1,899年)


『明治天皇と元勲』日本のリーダー (TBSブリタニカ)1982年10月9日 初版発行 P.299

 佐賀藩士、文部・司法に活躍した。  

 肥前佐賀の藩校弘道館に学び、尊王思想を説く教授枝吉神陽(えだよししんよう)の影響を受けた。嘉永三年(一八五〇)、神陽らが南朝の忠臣楠公父子の木像をまつって「義祭同盟」を結んだが、大木 喬任もこれに加盟し、同志の副島種臣(そえじまたねおみ)副島種臣(そえじまたねおみ)・江藤新平大隈重信らと親交を深めた。

 明治元年(一八六八)四月、明治政府の徴子(ちょうし)となり、参与・外国事務局判事をつとめた。この年大木と江藤新平は連名で、東京遷都の建白書を岩倉具視に提出した。全国経営の基礎を東京に置き、国家の東西二分することをふせぐために、東京~京都間を線路で結ぶという構想である。佐賀県出身の草莽の士であった大木も江藤も、薩長閥でかたまる政府内部でよくその主張を進め、東京への遷都を実現させた。その功労で大木は初代の東京府知事に任命されている。 

 明治三年に民部太輔、四年に文部卿を経て、六年に司法卿となった。やがて、征韓論に敗れて下野した盟友江藤新平が佐賀の乱を起こしたのをはじめとして、熊本・秋月・萩に士族の叛乱がひろがった。大木は神風連、萩の乱にのぞんで現地へ出張し、処刑の任にあたった。 

 その政治活動はけっして派手ではなく、地道に実力を示して昇進の道をのぼるという堅実型の能吏であった。また、一党一派に偏らなかった政治姿勢が、彼の出世と長命を予約することになる。

 明治十八年、元老院議長、二十一年に枢密院顧問官になり、翌年枢密院議長になった。第一次松方正義(まつかたまさよし)内閣の文相に迎えられたのは、薩長派閥に批判的な国民感情を避ける政治の人事でもあった。しかし、仕事に忠実な持ち前の地力を発揮して、すでに政界の大物の地位を占めるようになっていた。この松方内閣の内相品川弥二郎が、総選挙の際、民党弾圧の選挙干渉を強行したのは明治二十五年。品川は、建設中の赤坂離宮の建設費を運動資金に流用した。これが発覚し、大木はそのために自邸を売って責めをはたしたという。政治家にありがちなはったりや功みょう心とはおよそ無縁で誠実な人柄がしのばれる。同志の副島・江藤・大隈のようにはなやかではなかったとしても、薩長閥政府のなかで旧藩佐賀の面目を守った実力派政治家であった。

2019.09.04


☆24金原 明善(きんばらめいぜん)(1,832~1,923年)


 一 古書を古読すべからず

 一 妄書を妄読すべかたず

 一 雑書を雑読すべからず

追加:彼の読書法とは、「このときはこうすればよかったものを、何故ああしたか? おれならばこうすると、古人を相手に相撲をとる」というものであった。つまり「本を読む」ということは、ものごとを知り、おぼえるということを超えて、つねに自己実践の糧とすることであった。そういう読書体験の中から、

 「古書を古読せず、雑書を雑読せず」という味のあることばもうまれている。

 『あばれ天竜を恵みの流れに』に記述されている。

参考:金原 明善は、明治時代の実業家。遠江国長上郡安間村出身。浜な郡和田村村長。天竜川の治水事業・北海道の開拓・椊林事業など近代日本の発展に活躍した。現在の浜松市の出身

2008.3.14


☆25橋本 左内(1,834~1,859年)


 緒形 洪庵の適塾の生んだ三人の英傑――大村益次郎、橋本左内、福沢諭吉

 安政の大獄で失われた優秀な頭脳は数多いが、越前(福井県)の橋本左内は、そのなかでも郡を抜く存在であった。

 左内は十五歳の年に『啓発禄』という文章を書いた。第一説を「稚心を去る」と題し「十二、三にもなって石を投げたり小鳥を取るのに夢中になっているようではだめだ。とても天下の大豪傑にはなれない。稚心を去るのが士道に入る第一歩である」と書いた。

 橋本家は漢方医であるが、左内のの父は蘭医学に関心を寄せ、越前蘭学の草分け的存在である。だから左内の適塾入りは、父のいこうであったのだろう。

 もちろん、左内自身が蘭学を志望したのはいうまでもない。左内にとって蘭学とは、医学であって同時に医学以上のもの、つまり「刀圭の賎技」から自分を救い出してくれるかもしれぬ可能性を持っていたのだ。

 適塾のなかでも、左内の秀才ぶりは間もなくなくあらわれ、緒方洪庵が「彼は他日わが塾名を掲げん。彼は池中の蚊竜である」と激賞したという。

 のち藩校明道館学監となった。

 幕末、幕府が欧米諸国の圧力に屈して、勅許をえないまま通商条約を結んだ。それから反幕府の機運は急激に高まった。

 またのち将軍継承問題で、一橋慶喜の擁立に尽力し、安政の大獄によって斬首された。このとき、急進的な尊王攘夷論を説き、若い藩士たちに影響をあたえていた長州藩の吉田松陰や、外様大みょうや有能な藩士・浪士を集めて政治改革をおこなうことをとなえていた福井藩の橋本左内らが死刑に処せられた。年わずかに二十六。

参考:写真の本に「啓発禄」について、記載されている。

私が在校中にも、「精神教育資料」海軍兵学校が配布されていた。自習室の机に置いていた。



 志立てたるものは、あたかも江戸立ちをさだめたる人のごとし。今朝ひとたび御城下をふみだし候えば、今晩は今庄(いまじょう)、明日は()(もと)と申すように、おいおい先へ先へと進み行き申し候ものなり。たとえば聖賢豪傑の地位は江戸のごとし。今日聖賢豪傑にならんものと志し候わば、明日明後日と、だんだんにその聖賢豪傑に似あわざるところを取り去り候わば、いかほど短才劣識にても、ついには聖賢豪傑に至らぬと申す理はこれなし。ちょうど足弱(あしよわ)なものでも、一度江戸行ききめ候うえは、ついには江戸まで到達すると同じことなり。(啓 蒙 録)

この日(3月3日)この日福井藩に生まれた幕末の志士。蘭学をおさめ、藩政の改革に尽力、将軍継嗣問題にも活躍した。安政の大獄によって刑死。

*桑原武夫編『一 日 一 言』―人類の知恵―(岩波新書)P.44


☆26江藤 新平(1,834~1,874年)


『明治天皇と元勲』日本のリーダー (TBSブリタニカ)1982年10月9日 初版発行 P.294

 はじめて司法権を独立させた官僚政治家

 佐賀藩下級武士の貧しい家に生まれた。頭がよく野心の強い新平は「人知は空腹より生ず」とうそぶいたという。

 文久二年(一八六二)に脱藩しえ京都におもむき、尊攘運動に加わったことから、藩庁から永蟄居を命ぜられた。明治政府が成立すると、徴士として出仕し、監察使三条実美(さんじょうさねみ)に従って東下した。 

 たちまち頭角を現して江戸鎮台判事となり、地代・家賃の引き下げ、問屋・仲買のギルド独占の廃止などを行った。彼はこのとき、江戸を近代的大都市にしようという構想をもっていたという。 

 東京遷都の議も率先して提唱し、実現をみた。そのうち、会計官判事・東京府知事・文部太輔(たゆう)・左院議長などを歴任し、明治五年(一八五二)、司法卿に進んだ。 

 このころ、新平は立法の知識では政府の役人で並ぶものがないといわれていた。そのため岩倉具大久保利通などに重く用いられて、当時重要視された司法卿の椅子を与えられた。 

 彼はただちに、司法権を独立させて、法体系の整備、警察制度の統一、民法編集事業の推進などをつぎつぎに行った。翌年、参議に昇進した。このとき新平は、三十九歳であった。 

 しかし、このころから以前のように一般民衆の要求を考慮することがなく、官僚機構にの強化に専念しはじめていた。 

 司法卿としての新平は、長州閥の幹部、山県有朋や井上馨の汚職事件をも追究したが、これは政府内に江藤閥をつくろうとしたためともいわれている。

 征韓論がおこると、主唱者の西郷隆盛、つづく板垣退助らに同調した。しかし、欧米出張中の岩倉具視・大久保利通らが帰国すると、征韓論は敗れ、西郷らとともに()にくだった。

 郷里佐賀に帰った新平は、明治七年二月、征韓・憂国の二党に擁立されて、政府問罪の兵を挙げた(佐賀の乱)。だが、一週間で敗れ、再挙をはかるため鹿児島・高知などに潜行し、捕えられて>斬罪梟首()となった。四十一歳であった。

 自分のつくった法律で自分の首を斬られた、と世間ではうわさをしたが、一代の風雲児でもあった。

2019.08.29


☆27本庄正則(1,834~1,989年)


 人間は弱いものです。悪い情報を聞けば面白くないし、難しい判断は先延ばしにしたい。しかし、経営者が蛮勇を振って自らの弱さと戦わなければ、会社にことなかれ主義が蔓延するばかりです。

 お茶・清涼飲料水メーカー大手の伊藤園創業者。早稲田大学を卒業後、伊藤園を創業。日本初の缶入りウーロン茶、缶入り緑茶を発売。これが大ヒットとなり伊藤園を日本を代表する清涼飲料水メーカーへと飛躍させた経営者】

2010.11.15


☆28坂本龍馬(さかもと りょうま)(1,835~1,867年)


 世に活物(いきもの)たるもの皆衆生((しゅじょう))なれば、いずれを上下とも定めがたし。いま世の活物にては、ただ我をもって最上とすべし。されば天皇を志すべし。

 予が身寿命(じゅみょう)を天地とともにし、歓楽をきわめ、人の死生をほしいままにし、世を自由自在に扱うこそ、うまれ甲斐はありけれ。何ぞ人の下座におられんや。

 恥ということを内捨てて世の事は成るべし。使い所によりては却って善となる。

この日(11月15日)土佐の郷士に生まれた。明治維新の準備者。海援隊の組織、薩長連合、大政奉還の画策者として最も幕府に憎まれ、1867年(慶應3年)11月15日暗殺された。 ]

*桑原武夫編『一日一言』―人類の知恵―(岩波新書)P.189

2010.11.15


29 岩崎弥太郎 会社の利益、そん失は社長の一身に帰すべし(1,835~1,885年)

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 三井財閥の富は、江戸期を通じて二百数十年の歳月と伝統のうえに築かれたものだが、徒手空拳、一代にしてわが国二大富豪の一つにのしあがった男がいる。三菱財閥の創始者、岩崎弥太郎である。

 いま、一代にして……と書いたが、正確にいえば明治初年から彼が死を迎える明治十八年(一八八五)まで、わずか十八年間に、こういうべきであろう。

 岩崎弥太郎。

 天保五年(一八三四)土佐国安芸郡井ノ口村の地下(じげ)浪人、つまり郷士株」を売り払って半農民になった家に生まれた。幼い頃から勉学の思いは強く、頭も人いちばい切れるのだが、直情径行型で激しやすい性格が災いして、立身への足がかりは容易に掴めなかった。

 安政元年(一八五四)藩士、奥宮慥斎の従者という名目であこがれの江戸にむかい、念願の安積艮齋(あさかこんさい)の塾に入門する。しかし、この勉学生活は一年と続かなかった。父が喧嘩騒ぎを起して、重傷を負ったのである。学問を中断した弥太郎は、

「かかる偏頗(へんぱ:不公平)が許されてよいのか」

 と、この喧嘩の裁きをつけた役所の非を鳴らし罵倒し、投獄されること七ヵ月、親戚や縁者たちが八方手をつくして出牢はさせたが、(居村追放、高知城下四ヶ村禁足)の処分をうけた。

 この追放が赦(ゆる)された後、弥太郎は親戚であり友人である後藤象二郎(明治維新、大政奉還の仕掛人の一人)の紹介で、土佐藩きっての有力者、吉田東洋の門下生となり、彼の推挙によって下横目(したよこめ)(下級の目付役)となり、藩庁から長崎調査を命じられた。弥太郎の任務は、土佐藩の物産の販路開拓と海外貿易に関する市場調査である。

 ところが、長崎に着いた弥太郎は、調査などそっちのけで花街に入りびたり、連夜ドンチヤン騒ぎをくりひろげ、またたく間に公費を使い果たして無断で帰ってきた。かくして弥太郎は、役職を取りあげられ罷免。

 が、これくらいのことを気にする弥太郎ではない。また後藤象二郎に泣きつき、慶應三年(一八六七)藩営の土佐商会長崎出張所主任として再び長崎に赴任、外国商館を相手に大いに才腕をふるう。ところが、このときも亦上役と衝突し辞職届を叩きつけて帰国する。しかし、後藤象二郎に説得され、三たび長崎にむかう。

 こうした長崎での藩営の商事会社"土佐商会"時代におぼえた資金操作の妙が"商売"というものの醍醐味を弥太郎に教えた。 

《我は別段に一商会を経営し、往々(ゆくゆく)は絶大の事業を致し、天下横行の猛威を示し()く、日夜配慮致す所なり》  

 この時期、弥太郎は外国商館を相手に手当りしだい外債を借り集め、十九万両からの資金をつかんでいる。  

 弥太郎のこの資金操作の見事さを後年、政治家であり文人であり、改進党の中心人物の一人であった矢野龍渓(りゅうけい)が、

《三菱会社の社長たる者はなかなかの策士である。あの業(海運業)をはじめた時、先ず入用もないのに金を借り、期限の来る前に利息をつけてチャンと返す。しばしばこれをやって貸し方の信用を増して置いて、今度は大口の借款を諸方に申し込み、大金を掻き集めた、それが回転資金の大部分になったというのである。これは世上の噂にすぎぬが、そういう噂を産むくらい、奇抜に見られていたと見える》  

 と、『龍渓閑話』で述べている。

 ともあれ、商務官僚を志した弥太郎の前に、倒幕の嵐が吹き荒れ、明治新政府が誕生、廃藩置県が行われた。 

「時こそ来れり!」

 弥太郎は目をかがやかした。それはそうだ。土佐藩の命令をうけ"土佐善兵衛"をな乗り土佐開成社を預けられ、経営していた弥太郎の前から土佐藩が消えてしまったのである。

「いっそ、商人になって天下の金を掴んでみるか」 

 この千載一遇のチャンスに遭遇した弥太郎は、藩営の土佐開成社(資金と建物、六艘の汽船と二艘の曳舟)を「九十九(つくも)商会」と称し、次いで「三川商会」と変更し、そしてそれが「三菱商会」「三菱蒸気船会社」と社名を掲げたころには、どの部分まで払い下げをうけたものやら自己資本やら、藩営当時の面影は消え、所有権すべてが弥太郎の掌の中にころげこんでいた。 

《機会というものは、人間一生の内に一度や二度は必ず来る。けれどもそれを捉えそこねたら、その人はもうそれなりになってしまう。河や海に魚が群を成してくることがあるが、機会の来るのもそれと同じだ。それっ、魚が集まったといって網を作ろうするのでは間にあわぬ。いつ魚が来ても、すぐに捕えられるように、不断に準備していて、その場になって、まごつかぬようにしておかねばならぬ》 

 弥太郎は晩年、"機会"についてそう語っている(『随想録』高橋是清)。

 こうして三菱蒸気汽船会社をひっさげて出発した弥太郎は、明治新政府の要人となった後藤象二郎や、大隈重信大久保利通らの強力な援助のもとに"政商"として発展をつづけていく。なかでも明治十年(一八七七)の西南戦争では政府軍の兵士や軍需物資の輸送を一手にひきうけ、一年たらずのあいだに百四十万円もの大金を稼ぎ、三菱財閥の基礎を築いた。   

 海運業を独占して天下の政商にのしあがった弥太郎は、

《およそ事業をするには、まず人に与えることが必要である。それは、必ずより大きな利益をもたらすからである》   

 と言い、つねに政府高官をまねいて豪華な酒宴をひらいていたという。   

 弥太郎のワンマン体制のもとに設立されたこの大三菱の「立社大栽()」というのが、鼻っぱ柱の強い彼らしくユニークで、

《会社ノ利益ハ全ク社員ノ一身ニ帰シ》

 と強調したり、事業不振の際は 

《月給ノ幾分ヲ減少シ、且、傭ヲ止ムルコトアルベシ》

 などと減給、解雇をぬけぬけと明示しているところなど、まったく異色の「社則」で、微笑(わら)ってしまう。

 その社則三ヵ条(明治十八年改正)を列記してみると、

《第一条 当会社ハ(シバラク)会社ノなヲ命ジ、会社ノ体(テイ)ヲ成スㇳ雖モ、其ノ実マッタク家(岩崎)ノ事業ニシテ、他ノ資金ヲ募集シ結社スル者ㇳ大イニ異リ、故ニ会社ニ関スル一切ノ事及ビ褒貶、黜渉(チュツチヨク)(功労のない者は格下げ、功あるものは格上げ)等(スベ)テ社長ノ特裁ヲ仰グベシ。》

 第二条 故ニ会社ノ利益ハ社長ノ一身ニ帰シ、会社ノ搊失モ亦社長一身ニ帰スベシ。

 第三条 前条ノ如シㇳ雖モ、会社盛大ニ相成リ利益ヲ得ルコト多分ナル時ㇵ、一体ニ月給ノ幾分ヲ増加スルコトアルベシ。又会社ノ事業興ラズ多分ノそん失アルㇳキハ、一体ニ月給ノ幾分ヲ減少シ、且、傭ヲ止ムルコトアルベシ。》

 弥太郎が育てた大三菱の見事さは、錚々たるビジネス・リーダーの中から三人の日銀総裁、二人の首相を生んだことだ。

参考:第3代総裁:川田小一郎、第4代総裁:岩崎彌之助、第5代総裁:山本達雄。

参考:岩崎弥太郎の娘を妻とした第24代首相加藤孝明、第25・28代首相若槻礼次郎、岩崎家の縁戚である第44代首相幣原喜重郎と歴代首相が3人も住んでいる(以上故人)。

神坂次郎『男この言葉』(新潮文庫)平成七年五月一日発行 P.116~120

2021.05.21記


☆30五代 友厚 (1,835~ 1,885年)


小島直記『人材水脈』日本近代化の主役と裏方(中公新書)昭和五十八年八月十日発行 P.64~68

   五代 友厚 グラバーが決定したその運命

「江戸の仇を長崎で討つ」ということばがあるが、これからのべようとすることは方向も、内容も正反対である。すなわち、長崎での縁が東京において深められ、地理的・時間的移動がその人たちの人間的形成、テーマの成熟につながり、それが日本資本主義創成期の決定的要因になったという話である。その結縁の場所というのが、長崎ではトーマス・グラバー邸なのであった。

 長崎に旅されたお方は、「お蝶夫人」の旧邸と称する名所に案内され、美しい港の眺望を楽しまれたであろう。「マダム・バタフライ」はアメリカの作家ジョン・ルーサ・ロングが明治三十年に書いた小説のヒロインで、これをイタリアの音楽家プッチーニが三十七年にオペラ化したため世界的に有名となり、長崎名所の一つともなったわけであるが、もともと実在の人物ではない。ただ、ロングの姉が「ヒロインのモデルは長崎在住の実在の人物」と語ったことばから、グラバー夫人ツルであろうと、そのあたりの考証は大まかにして、グラバー旧邸イコールお蝶夫人の家ということになったようである。

※写真¥説明:冠鍋山から長崎港を見る。

 トーマス・グラバーはスコットランドのアバジーン生まれ、安政六年(1859年)秋二十一歳のとき長崎にきてグラバー商会をつくり、はじめは微々たる存在であったが、西南諸藩への武器艦船売り込みで巨富を築いた。また、これらの藩の俊秀たち――五代才助(友厚)、松方助左衛門(正義:孫春子、ライシャワー夫人)、桂小五郎(木戸孝允)、井上聞多(馨)、伊藤俊介(博文)、高杉晋作坂本竜馬などと接触をもち、その人生に大きな影響をあたえた。幕吏の監視をくぐってグラバー邸を訪問し、あるいは滞在した彼らが、お蝶夫人の酌に陶然となり、大いに談論風発する光景は想像するだにたのしいが、グラバーが遊女ツルを身うけして西小島に囲い、トムというむすこを生ませたあと、問題の邸すなわち南山手三番の高台に住まわせたのは明治十三年のことというから、これらの志士が往来した時期とは大分ズレている。

 それはそれとして、これらの人材たちに門を開いたことは、単に貿易上の取り引きがなされたというにとどまらず、日本の歴史をつくる大事件であった。

 たとえば、グラバーともっともウマが合ったといわれる五代 友厚の場合を見てみよう。彼は薩摩の町奉行のせがれで、十四歳のとき藩主に命じられた世界地図の模写を父に代わってやり上げ、一枚を藩主に献上し、一枚を書斎の壁にかけて朝夕ながめ、さらに直径三尺の地球儀までつくったというのであるから、その国際感覚、問題意識は抜群であったといえる。

 十六歳のとき、薩摩が世界の大勢におくれをとらぬための方策として、

 一、汽船をもつこと

 二、紡績業をおこすこと

 三、海外留学生を派遣すること

の「三策」を進言した。これら三策の実現に決定的役割をはたすのがグラバーである。

 文久三年(一八六三年)、イギリス艦隊が鹿児島を砲撃したとき、五代は松本弘安(寺島宗則)とともに天祐丸にのっていて捕虜となり、横浜で釈放されたあとは刺客の追及をのがれるため、変名して各地を転々とした。このときグラバーと知りあったというから、このときグラバーは二十五歳、五代は二十七さいだったことになる。

 グラバー低にかくまれた五代は、日々もたらされる国際情報で知見を広め、深めるとともに、藩主に対する建言書の執筆に熱中した。その内容は割愛するが、「いま見ても、驚くべき内外知識であり、詳細な数字の裏づけがあった。薩摩藩の富国強兵策を、体系的に総合的に、具体的に論じた大論文であり、そして藩主や藩重役が食指をそそられそうな、"長期経済計画書"であった」(久保統一著『鹿児島百年』幕末篇)。   

 この中にはとくに海外留学生派遣のことがあり、藩当局はこれをいれて、元治元年末から準備にかかった。やがて選抜された十七名の秀才たちは慶応元年一月中旬鹿児島を出発し、三月下旬、串木野から英国船オーストラリア号にのりこんだ。この船を世話したのがグラバーであり、五月下旬ロンドン停車場に一行を出迎えたのがグラバーの兄であった。この密航船にリーダーとして五代がのりこんでいたことはいうまでもない。彼は若者たちの修学の手配などをすませたあと、マンチェスター、バーミンガムなどの工業都市をたずね、マニュファクチュアから工場制生産へと転化したイギリス資本主義の実力に目を見はった。藩のために一万ポンドの木綿紡績機械と二千八百丁の小銃を買い入れ、さらにベルギーのブリュッセルにおいて、コント・デ・モンブランという人物と会社設立の契約を結んだ

 これは薩摩・ベルギー合弁の会社で、製糖、製糸、綿糸紡績、修船、製蝋その他の機械を製作し、造船局、小銃製作局、大砲製作局、米搗機関、鋸機関、ブランデー製局、鉄製局、金山、銅山、錫山、石炭山、鉛山などを開くほか、大阪を中心に動物館、川堀機関、蒸気船、蒸気車、電信などを開設しようという雄大なプランであった。彼がのちに明治新政府の役人をやめて「大阪」の開発に打ちこみ、東の渋沢と並んでわが国財界の二大リーダーとされるライフワークの青写真はここにあるようである。

 帰国した五代は、グラバー、小松帯刀らと共同出資という形で、長崎に小菅修船場をつくった。これは四年後の明治元年に完成、二年新政府は十二万ドルで買い上げ、長崎製鉄所とともに工部省の所管とし、十七年三菱会社に貸与、二十年同社に払い下げ、その後三菱造船会社長崎造船所となるのである。 

 グラバーの世話で留学した若者の中からは、フランス公使鮫島尚信、オランダ公使中村博愛、文部大臣森有礼(初代文部大臣)、枢密顧問官吉田清成、元老院議官町田久成、海軍中将市来和彦、米国のブドウ王磯永彦助ンあどの人材が輩出した。mあたこれにつづいて慶應二年に派遣された米国留学生からは、初代日銀総裁吉原重俊、貴族議員湯地定幹(その妹静子は乃木希典夫人)、海軍大臣・枢密顧問官仁礼景範、東京馬車鉄道社長・東京株式取引所所長長谷元道之などが出た。

 この他グラバーが佐賀藩と合弁で経営した高島炭鉱につながる人間の結びつきも見のがせない。これは六年に官有、七年に後藤象二郎に払い下げ、十四年、福沢諭吉の口ぞえで岩崎弥太郎の所有となり、二十一年坑夫虐待事件で現地を調査した警保局長清浦奎吾、朝野新聞記者犬養毅の二人は、のちにそろって内閣総理大臣になったのである。グラバー自身は明治二、三大阪の生糸相場で失敗してからは落ち目となり、ツルに生ませたトムは倉場富三郎として長崎漁業会社をつくったが、終戦直後自殺した。

2019.07.19


☆31安場 保和(やすば やすかず) (1,835~1,899年)


 小島直記著『人材水脈』日本近代化の主役と裏方 (中公文庫)P.19~23

   安場 保和 小楠塾へ通わせた母

 横井小楠の熊本における門下生では「三秀才」として、徳の山田 武甫(やまだ たけとし)、学の徳富 一敬、知の嘉悦 氏房(かえつ うじふさ)が有名であった。また「四天王」として徳の山田 武甫、誠の嘉悦 氏房、知の安場 保和、勇の宮川房之の四人があげられた。最大のお気に入りは徳富で、「小楠のかたわら、一日も徳富なかるべからず」というふうであったらしい。彼は「まじめであり、正直であり重厚質実」であったが「今少し大胆者であり、横着気があったなら、必ず世間的に成功者として今少し幅をきかしただろう」(『蘇峰自伝』)とせがれが書いているように、中央で名を上げるにはいんたらなかった。そのかわりに、せがれの猪一郎(蘇峰)、健次郎(蘆花)兄弟がジャーナリズムの花形となった。

 世間に出たのは安場保和(男爵、北海道庁長官)である。その母久子が偉いひとでせがれを小楠にむすびつけたのも彼女の見識による。安場家は二百五十石取り、世俗的立身を大事とする親族たちはすべて小楠塾入門に反対したが、彼女はこれを押しきった。小楠塾への圧力が強くなると、砂で目つぶしをつくって反対派の襲撃にそなえ、むすこの通学を護衛してやった。安場は十九歳で父を失ったが、それからはどんなにおそく帰っても、母のまくらもとで酒をのみ母にも杯を献じ、そのあとやすむという独特の習慣を守った。彼の特徴は大酒と大声で、その大声になやまされた藩主細川侯は会議になると、

「おい、安場参事はなるべくスミの方に席をとってくれ、やかましいから」

と敬遠した。

 安場は恩師からとくに「人を見る目」を学んだらしい。胆沢県(いざわけん)(のち岩手県に編入)大参事時代、給仕として地もとの少年五名を採用した中で、一人がのちの総理大臣斎藤実(さいとう まこと)、もう一人が後藤新平であり、後藤とはとくに深い縁でむすばれた。後藤ははじめ安場の玄関番となり、のち阿川光裕(あがわ みつひろ)にあずけられた。そのとき安場は、

「この子は、将来参議になるだけの資格をそなえているように思われる。自分の家におくよりは君に世話をねがった方がよいように思うから、何分よろしくたのむ。ただ彼の性格を変えないで、本然(ほんねん)のまま育て上げてもらいたい」

 明治四年、安場は大蔵大丞(たいじょう)、租税権頭(ごんのかみ)となり、岩倉具視を大使とする政府使節に加わって欧米に出張することとなったが、生来語学をニガ手とする彼は、サンフランシスコに上陸し、つぎの駅についたころにはがまんできなくなって、帰国を申し出た。日本に帰って、地方官をやる気なら帰国してもよろしい、と地方官就任を条件に許されたが、その約束で福島県令となったとき、医学校生徒の後藤新平と再会したのである。

 福島県令から愛知県令に転じた。すると愛知病院の医師に採用されて後藤はな古屋にやってきた。愛知県令から元老院議官となり、な古屋の地を去ったあと、後藤との縁はさらに深まる。安場の二女和子が後藤の妻となったからである。和子には、はじめ本山彦一(のち大阪毎日、東京日日新聞社長)との縁談がもちこまれた。本山は安場とおなじ肥後藩士のむすこで、慶應義塾で福沢諭吉薫陶(くんとう)をうけ、時事新報社会計局長をへて兵庫県庁の役人になっていた。安場はのり気になったが、本山は、役人をやめて大隈重信の改進党にはいるつもりですと言う。安場は不賛成で、官にとどまることをすすめたが、本山はきかない。結局、本山の身分がきまるまで、ということで縁談は無期延期となりやがて後藤新平に白羽の矢がたったのである。

 安場と後藤との間はすこぶる円満にいった。後藤はとくに岳父の清廉潔白に敬意をいだき、ともに杯をもって快談する夜も多かった。議論が白熱すると、両方ともに人一倍の大声でどなりあい、人びとはけんかではないかと心配した。後藤は、事あるごとに安場のところにかけつけて相談した。後藤の七十三年の生涯において、「真実に心から相談するという人は、安場一人であったかも知れない」(『後藤 新平』第一巻)と鶴見佑輔は書いている。

 後藤は、陸軍の知能といわれた児玉源太郎に信任されて台湾民政長官、満鉄総裁となり、さらに逓信大臣、外務大臣、東京市長などを歴任した。和子はそういう夫の栄進のかげでつつましく家を守り、驕慢(きょうまん)な名流夫人とはならなかった。

 家族の旅行はいつも三等車で、後藤が鉄道院総裁となり、夫人の出入りにも駅長などが送迎するようになってやむなく二等車にした。民政長官時代、家族のものの東京での食膳には、魚肉はめつたにのぼらぬ倹約ぶりで、長女愛子は麻布新網町から麹町平河町の学習院女学部への一時間あまりの徒歩通学、つぎのあたった着物なので、体操の時間などに羽織をぬがされると、それがわかって閉口した。長男一蔵も、つぎのあたった制服で学習院に通学した。家庭内ではそのように倹約を守り、主人の公の生活には思いきり金をつかわせた。資産もパトロンもない後藤が、金銭に淡泊であると好評だった裏に、そういう妻の苦心がひめられていたのである。

 しかも単なるケチケチ女房族ではなく寸暇をおしんで勉強した。愛読書はアービングの『スケッチ・ブック』(黒崎調べ:1819~1820年に発表した34編の短編を含む小説集である)、ゴールドスミスの『ウエークフィルドの牧師』(黒崎調べ:オリヴァー・ゴールドスミス(Oliver Goldsmith, 1730年11月10日? - 1774年4月4日)は、英国の詩人、小説家、劇作家。アイルランド生まれ)で、むろん原書で読んだのである。後藤にスカウトされて台湾に赴任した新渡戸稲造(のち一高、東京女子大校長)は、「(熱体植物に関する)その質問が単に好奇心のみでなく、まじめにして、かつ実用の考えより出ることが明らかであって、わが輩は彼女の頭脳の細やかなることに注意をひかれた」と書いている。

 夫のために、台北停車場に黒山のような出迎え人が出てひしめく光景を車中から指さして、

「あれをご覧なさい。あの大ぜいのお出迎えの方々は、お父様をお出迎えにいらっしゃったと思ったら大まちがいですよ。あれは台湾民政長官をお出迎えにいらっしゃったのですよ」

と子供たちにさとしたというエピソードに、名流夫人の座に酔い()れることのなかった彼女の叡智(えいち)が光っている。主人が役所や会社の部長や課長になると、奥さんの方も鼻高天狗となり、まるで自分の召し使いでもあるかのように主人の部下を私用にこきつかう例は少なくないようだが、それはおのれの浅はかさを露呈すると同時に、主人の公的生活に汚点をつけ、足を引っぱることとなる。後藤新平の多彩な活躍と成功は、公私の別をわきまえた夫人和子の内助の功の賜物にほかならなかったのである。

 長女愛子は鶴見佑輔にとつぎ、鶴見夫妻には俊輔、和子が生まれた。

参考:鶴見 和子:1918*2006 昭和後期-平成時代の社会学者。鶴見 祐輔の長女。昭和21年丸山 真男,弟の鶴見 俊輔と「思想の科学」を創刊。44年上智大教授。比較常民学の研究をすすめ,柳田国男,南方熊楠(みなかた-くまぐす)らの民俗学を分析,継承。内発的発展論をとなえた。平成18年7月31日死去。88歳。東京出身。津田英学塾(現津田塾大)卒。著作に「社会変動と個人」「漂泊と定住と―柳田 国男の社会変動論」「南方 熊楠―地球志向の比較学,歌集に「回生」」。インターネットによる。

※参考図書:小島直記著『志に生きた先師たち』(新潮社)P.138~151 第二十話 スカウト名人、第二十一話 内助の功

2019.05.22 記。


☆32福沢 諭吉(1,835~1,901年)


▼『学問のすゝめ』(岩波文庫)昭和四三年五月一〇日 第二四刷発行

 「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり」有名な語句から始まる

 学問をするには分限を知る事肝要なり。人の天然生まれ附は、繋がれず縛られず、一人前の男は男、一人前の女は女にて、自由自在なるもの者なれども、唯自由自在とのみ唱へて分限を知らざれば我儘放盪に陥ること多し。即ち其分限とは、天の道理に基き人の情に従ひ、他人の妨げを為さずして我一身の自由を達することなり。自由と我儘との界は、他人の妨げを為すと為さゞるとの間にあり。譬へば自分の金銀を費して為すことなれば、仮令ひ酒色に耽り放蕩を尽くすも自由自在なるべきに似たれども、決して然らず、一人の放盪は諸人の手本となり遂に世間の風俗を乱りて人の教に妨を為すがゆゑに、其費す所の金銀は其人のものたりとも其罪許すべからず。(P.13~14)


▼『福翁自伝』(岩波文庫)P.189

 学者を誉めるなら豆腐屋も誉めろ

 政府から君が国家に盡した功労を誉めるようにしなけばならぬと云うから、私は自分の説を主張して、「誉めるの誉められぬのと全體ソリヤ何の事だ、人間が人間當然(あたりまえ)の仕事をして居るに何も不思議はない。車屋は車を挽き豆腐屋は豆腐を拵へて書生は書を読むと云ふのは人間當然の仕事をして居るのだ、其仕事をして居るのを政府が誉めると云ふなら、先ず隣の豆腐屋から誉めて貰はなければならぬ、ソンナ事は一切止しなさい」と云て断つたことがある。是れも随分暴論である。

*桑原 武夫編『一日一言』―人類の知恵―(岩波新書)の2月3日の記載は以下の通りである。
 政府から君が国家に尽した功労を誉めるようにしなけばならぬというから、私は自分の説を主張して、「ほめるのほめられぬのと全体ソリヤ何の事だ、人間が人間当り前の仕事をしているに何も不思議はない。車屋は車をひき豆腐屋は豆腐をこしらえて書生は書を読む、というのは人間当り前の仕事をして居るのだ、その仕事をしているのを政府がほめるというなら、まず隣の豆腐屋からほめてもらわなければならぬ、ソンナ事は一切止しなさい」といって断つたことがある。 (福翁自伝)
この日(2月3日)東京で死んだ教育家。明治初期の思想界にあって、実利を説き、啓蒙的な役割を果した。慶應義塾の創設者。主著『学問のすすめ』

*桑原 武夫編『一日一言』―人類の知恵―(岩波新書)P.21

2010.02.02


☆33前島 (ひそか)(1,835~1,910年)


 国家の大本は国民の教育にして、その教育は士・民を論ぜず、国民にあまねからしめ、これをあまねからしめんには、なるべく簡易なる文字、文章を用いざるべからず。その深邃(しんすい)高尚なる百科の学におけるも、文字を知りえて後にその事を知るごとき艱渋迂遠(かんじゅううえん)なる教授法を取らず、よって学とはその事理を解知するとせざるべからずと存じ奉り候。しからば御国においても、西洋諸国のごとく音符字(カナ字)を用いて教育をしかれ、漢字は用いられず、ついには日常公私の文字〔より〕漢字の御廃止相なり候ようにと存じ奉り候。
               (国字国文改良建議書)

一九四六年のこの日(11月25日)当用漢字と現代かなづかいの制定。国語改革は明治以前から追求された民族の大問題で前島 密はその先駆者。彼は郵便制度の創始者。

*桑原武夫編『一日一言』―人類の知恵―(岩波新書)P.195

2010.11.25


☆34大橋 佐平(1,836~1,901年)


 植木を移すに必ず時あり。時を失すればその木枯るることあり。これ労して益なし。

▼事業の秘訣

一 「事を起こすに順序あり。物を扱うに機会あり」

二 「もし機会を失すれば如何いかに骨折りするも無駄骨に過ぎず、世に処するもの大いにこころせよ」

三 「機会は自ら作るべし、時の来るを待つというは迂遠(うえん)なり。自ら思い立つ時が即ち機なり」

*(坪谷善四郎『大橋佐平翁伝』)

 大橋 佐平は越後長岡の出身。材木商の子で酒屋。河合継之助と同時代のひと。河合のはじめる戦争中止に奔走。しかし失敗。町は丸焼けになり、大橋は裏切り者とされ一時は命まで狙われた。

   出版社「博文館」をはじめて大成功。

*以上の記事は、朝日新聞2010年4月3日:磯田道史の この人、その言葉 から抜粋引用。

2010.04.04


☆35榎本 武揚(1,836~1,908年)


『明治天皇と元勲』日本のリーダー (TBSブリタニカ)1982年10月9日 初版発行 P.303

 賊軍の汚名を着た幕臣でありながら、明治新政府の高官にのぼった異色の政治家。

 嘉永六年(一八五三)に幕府から長崎へ派遣されて蘭学を学び、三年後に長崎の海軍伝習所に入って機関。航海術を習得した。

 安政五年(一八五八)江戸に帰ると、築地にできた海軍操練所の教授に迎えられた。幕府は、昌平黌(しょうへいこう)の俊才として(うた)われたこの年若い官僚を、さらにエリートコースにのせた。文久二年(一八六二)から五年に及ぶオランダ留学である。ロッテルダムで榎本は、幕府が注文した開陽丸の建造監督をつとめ、航海術・機械学・兵制・法律を学んでその才分に磨きをかけた。 

 慶應三年(一八六七)に開陽丸とともに帰朝、オランダ帰りの新知識は彼を軍艦乗組頭取(ぐんかんのりくみがしら)から海軍奉行へと飛躍させた。順調な出世街道であった。 

 しかし、明治維新に、新政府の軍艦引き渡し要求を拒否した旧幕府海軍副総裁の武揚は、幕府艦隊を率いて品川から脱出し、つづいて北海道に航し、函館に「蝦夷共和国」を打ち立てるべく五稜郭に立てこもった。結局は新政府に降伏して、彼の考えは(つい)え去ったが、そこからまた新しい場がひらけるとは、榎本自身、予想もしなかったにちがいない。 

 その人材を高く買って助命の運動を進めてくれたのは、薩摩(鹿児島県)の黒田清隆で、明治五年(一八七二)、北海道開拓使出仕として黒田のもとで働くことになった。これが新政府仕官の第一歩であった。 

 明治七年には海軍中将となり、駐露全権公使を命ぜられて、千島・樺太の交換条約を締結した。その外交手腕を認められて、条約改正御用掛・外務大輔(たゆ)・駐清特命公使を経て、明治十八年、新官制によって第一次伊藤内閣が誕生すると逓相に任ぜられた。旧節まげて新政府の高官となったその生き方にとかくの批判があった。 

※参考:蜷川 新の生き方と対比。

 だが、旧幕府の勝海舟同様、海事に通じたその実力とオランダ留学で得た豊かな国際感覚が、近代国家の建設を急ぐ明治政府にとって必要なのは確かだった。 

 事実、黒田内閣では文相・農商務相を兼任し、第一次松方内閣では、ロシア皇太子を襲撃した大津事件を外相としてみごとに処理した。

2019.08.28


☆36井上 馨 (1,836~ 1,915年)


小島直記『人材水脈』日本近代化の主役と裏方(中公新書)昭和五十八年八月十日発行 P.69~73

   井上 馨 長崎で新式銃を購入

 洋行体験をもつ井上馨、伊藤博文の英語力がどの程度であったかはわからないが、文久三年五月、二十九歳の井上は「ナビゲーション」という一語しかしらず、三十三歳の伊藤は一語もしらなかったことだけははっきりしている。ただ井上が、これを「航海」ではなく「海軍」とあやまっておぼえたばかりに、とんでもない災難にあうことになる。

 彼らが野村弥吉(のち子爵井上勝)、遠藤謹助、山尾庸三たちとロンドンに密航するため、英国船の石炭庫にかくれて横浜を出たのはその年五月十二日であった。途中、上海に上陸し、ジャーディン・マディソン商会支店長の世話をうけたが、支店長のしゃべることがさっぱりわからない。野村は函館で少しかじったことがあったので、

「どうやらオレたちの渡航目的をきいとるようだぞ」

と井上にいった。そこで井上が、

「ナビゲーション!」

と、とっておきの英語を発したのである。支店長はそこで当然ながら「航海術を学ぶこと」が目的だと判断し、ロンドンに帰る帆前船の船長に実地訓練をたのみ、井上、伊藤組は三〇〇トンのペガサス号に、あとのものは五〇〇トンのホワイトアッダー号にのりこむことになった。そして出航するやいなや、帆綱ひっぱり、ポンプ作業、甲板掃除と、きびしくきたえられはじめたのである。他の水夫たちも彼らをけいべつしてさかんに雑用にこきつかった。客員のつもりだった彼らはこの酷使に大憤慨したが、英語を知らぬため、抗弁の方法がない。

 ことに哀れだったのが下痢症にかかった伊藤で、船内に水夫用便所はなく、船側の横木にまたがって用をたすのであるが、インド洋をすぎ、マダガスカルから喜望峰に向ったところ大防風雨となり、三〇〇トンの小船は木の葉のようにほんろうされた。伊藤はその嵐の中でも便意をおさえることはできず、井上はやむなく伊藤をなわでしばってそのはじを柱につけ、用便の間、波にさらわれないように守ってやらねばならなかった。まさに「ナビゲーション」という英語をつかったための悲劇にちがいなかったのである。

 攘夷さわぎ、外国船砲撃のことを英国新聞で知って、井上、伊藤は半年で帰国したが、それでも英語力はかなりついていたらしい。これから一年半して、彼らはグラバー邸を訪ね、ケーベル銃購入契約を結んだのであった。この武器購入には、歴史的に二つの意義があった。第一は、購入を薩摩藩名義にしたことで、これは坂本竜馬などの奔走により、小松帯刀(こまつ-たてわき)が了承したもの。蛤御門の変(1864年:元治1)以来、犬猿の中となった西南二雄藩が歩み寄り、「雪どけ」、提携の実を示すステップとなったからである。第二に、この新式武装によって長州軍は面目一新し、征討にきた幕軍を鎧袖(がいしゅ)一触、幕府倒壊の重大なモメントとなったからである。

 井上、伊藤の名コンビが、そういう先のことまで読んでいたかどうか疑わしいけれども、ともかく当時としてはきわめて至難のワザとされていた外国人相手の契約締結に成功したのであるから、得意満面、さっそく丸山遊郭にしけこんで、

「あのときはナビゲーションしかしらないで失敗したのう」

「お主が糞(くそ)をたれるときの、あの泣き面は忘れられんぞ」 

などと往時を回想し、大いに娼妓(しょうぎ)たちを笑わせたであろう、と推測される。   

 その井上が、二度目にロンドンを訪れたのは明治九年のことであった。彼はすでに四十二歳になっていたが、変化は歳月だけではなかった。三年前に大蔵大輔をやめ、前年に元老院議官となり、政府部内における財政通として自他ともに認める存在。洋行の目的も「財政経済研究のため」となって、夫人ならびに従者の随行も許可せられるという大名旅行であった。

 第二の変化は、井上が得意になって英語をふりまわしたことで、それは旅においてばかりでなく、たとえば芳川顕正(よしかわ あきまさ)への手紙にも、

「我国もただ祈る、ポルチシアンを止め、インダスリーに心を用いざれば日々神経の高上を起すのみ。なお ヒゲおやじ沢山雇入れ、ついに給金だけの利益を生ずるやいなや、人あえて知らざるなり。我思う、金を奪われなお外に害を残す多からん。其故はカクテルの相違とコストムの遠来を思考すべし」

とあり、木戸孝允への手紙には 

「福沢書生三人まかりあり候ところ、いたって行跡等もよく勉強まかりあり候。人物もよろしくかつ従来日本の時は、フルイばかりをロジカルに唱え候ものに候ところ、近来は大いに改悟候て、いたつてコンソルペ―チープとあいなり、民選議院などもなかなか行われがたきこともあいわかり、ブラックチースにこれなくては、国の第一たるウエルスを増殖する等できずという説を起し、毎サチューデーごとに生の居処へ集合候て、ポリチカルエコノミーの書を輪講つかまつり候て、それよりその書を日本の実事いあてはめ論じ、大なる益と存じ奉候くらいに候故、真の学問を志す人、また実に憂国心ある人は、追々コンソルペ―チープに趣き、中々あい楽しみおり候。いよいよもって急進することはよろしからずよう相考え候」とある。

 わずかに「ナビゲーション」一語だけしか知らなかった井上が、手紙の行間いたるところに英単語をバラまいている状況は、壮観というよりもあまりにキザという感じがする。とりわけこのころいよいよ「コンソルペ―チープ」化しつつあった木戸孝允など、

「目ざわりだ」

と舌打ちして読んだのではなかったか。

 この「福沢書生三人」のうち、一人は中川彦次郎、もう一人は小泉信三の父小泉信吉であった。二人は七年暮れにロンドンにつき、文部省留学生菊地大麓(のち東大総長、文相、男爵)の世話する下宿におちついて、『英国商業史』の著者レオン・レビーの事務所に通い、法律、経済、財政、保険、倉庫、貿易などの個人教授をうけていたのである。

 最後の一人は、馬場辰猪(ばば たつい)ではあるまいかと萩原延寿氏にたずねてみたが、馬場の「日記」にはそのことに関する記述がないから、馬場ではあるまいということであった。十年五月には小幡篤次郎がロンドンについているので、あるいはこちらかもわからない。

 それはそれとして、四十の坂をこした井上がなお若者のような情熱をもって経済学に必死にとりくみ、ことに慶應義塾出身の三秀才と輪読、論争を試み、ついには太政官採用方を本国に稟請(りんせい)するなど、若い人材を引き立ててやろうと努めていた姿勢、心情には好感がもてる。

 今日、外国に行く政治家、高官と日本の若者との間に、これだけの接触、こころのつながりあるだろうか。

2019.07.20


井上 馨 (1,835~1,915年)
『明治天皇と元勲』日本のリーダー (TBSブリタニカ)1982年10月9日 初版発行 P.306

 長州藩出身、明治の政財界に重きをなした元老。  

 海外知識を得ようとして、伊藤俊輔(博文)ら五人で横浜から英国へ渡ったのが文久三年(一八六三)。四国聯合艦隊の下関砲撃事件を知って俊輔とともに急ぎ帰り、講和のために努力し、のち討幕運動に奔走した。

 明治十八年(一八八五)、組閣にあたって首班を決める選考会議で、血気な井上は、「これからの総理は、赤電報(外国電報)が読めるものでなくてはだめじゃ」と、きめつけた。留学の体験があって、英語にも通じている伊藤を盛り立て、一座のなりゆきを決定的にした。井上は終始、伊藤の盟友としてその政治活動を支えた存在だった。 

 明治四年、新政府の大蔵太輔をつとめて、地租改正、秩禄処分を進めた。だが予算問題で司法卿江藤新平と衝突し、三等出仕渋沢栄一を誘って辞職した。 

 明治十一年に政界にもどり、参議・工部卿を兼ね、翌年に外務卿となった。 

 外交については、かつて江華島(こうかとう)事件で黒田全権とともに朝鮮に渡り、修好条規を結んだ実績があったが、彼の政治生命を決したケースは、第一次伊藤内閣の外相時代における条約改正問題であった。

 井上は明治十九年五月から、各国公使と正式な談判をはじめた。いっぽう、徳川幕府が列強と不平等条約を結んでしまったのは、日本が世界にたちおくれたからだという見地から、伊藤とともに極端な欧化主義をとった。

 官設の鹿鳴館を建てて国際的交歓の場とし、各国外交官を招いて盛んに夜会を開催したのもそのためである。これが世間の非難を浴びたばかりか、改正原案の裁判管轄条約にある外国人裁判官の採用という項目が日本の国辱と批判され、井上は努力のかいなく辞任に追い込まれた。

 次の黒田内閣の農商務相、第二・第三次伊藤内閣ではそれぞれ内務相・大蔵相をつとめたが、もう彼の政治生命は終わっていた。後年は元老となり、後見者的役割りに本領を発揮した。覇気と情味を兼ねそなえた人物として信望が厚く、財界の発展のためにも尽力した。

 政界をしりぞいてからは三菱財閥の顧問格として、日本の実業界を指導した。

参考:元老:日本近代史上,明治中期の内閣制度創設から昭和初期まで存在した政界の超憲法的重臣。天皇の下問に答えて内閣首班の推薦を行い,国家の内外の重要政務について政府あるいは天皇に意見を述べ,その決定に参与するなどの枢機を行なった。成文法で定められた役職ではなく,慣習上の制度としてつくられ,明治憲法下における支配体制維持のための機能を果した。元老と呼ばれれたのは伊藤博文,山県有朋,井上馨,黒田清隆,西郷従道,大山巌,松方正義,桂太郎らで,1940年最後の元老であった西園寺公望の死とともに消滅した。

2019.09.07


☆37成島 柳北(1,837~ 1,884年)


小島直記『人材水脈』日本近代化の主役と裏方(中公新書)昭和五十八年八月十日発行 P.54~58

   成島 柳北 『柳橋新誌』で藩閥政府を批判

 東京の花柳界は、維新のドサクサで不況にあえいだが、明治二年二月「東京府芸者司仲間一同」の名で新政府にさしだした建白書を見ると、「昨春伏見事件以来、家業衰替、難渋ツカマッリ候処、天運循環、御政体一新ニ相成リ、ハカラズモ当春以来は積鬱モ一洗シテ大イニ繁昌……」と、

 建白書の要旨は、サービス改善の宣伝である。芸者を三等級にわけ、最上等は高貴の方の秘書的役割をはたさせ、「第二等ハ万石以上へ差シイダシ、第三等は中大夫以下諸家ノ議員、公議人、公用人等、ソノ外富豪、遊冶(ゆうや)ノ集合>にさしだしてサービスさせる。「万一私ドモ微忠ㇳ、彼女ドモノ尽力ㇳヲ御賞美ニテ、大ニ月給等仰セツケラレ候ハバ、イササカモ御辞退申シ上ゲズ候。イヨイヨモッテ冥加至極、有難キ仕合」に存じます、というのである。ついこの間まで交際場のスターは遊女が占めていたが、いまや「芸者」がその王座を奪おうとする転形期の荒さと虫のヨサも感じられる。

 こういう新興景気を横目に見て、面白くなかったのが旧幕臣である。たとえてみれば、社用で羽ぶりをきかせていた重役さんが、会社倒産で遊べなくなり、総評幹部たちの豪遊のうわさに痛憤やる方なし、というところであろう。成島 柳北の『柳橋新誌』第二編は、こういう背景のもとに明治四年刊行された。

 柳北は、「隠士生れて人に短なる所少からず。色を好むこと甚し。酒を嗜むことまた甚し。百般の遊戯好まざる所なく……」と自伝(『濹上隠士伝』)に書いているし、末広鉄腸も「柳北は元来緑酒紅灯の遊びを好み、毎夜必ず酒楼に上り、飲めば必ず妓を聘するをもって常とす……」(『新聞経歴談』)と書いている。いわゆる自他共に認めるプレーボーイで、早くも二十三歳のとき『柳橋新誌』初編を出していたのであるから、その第二編を出すのは当然の成り行きだったとしても、その間の十二年には、体制上、身分上の激動があり、花街のエピソードをつづりながらも、行間おのずと旧幕臣としての感慨、新秩序への余憤がもれている。

「柳橋往日の妓は、姿色無くんば即ち技芸あり、技芸無くんば則ち才識あり。三者一無くして、婢女と致を同じうするものの甚だ希なり。今は則ちしからず。姿なく芸なく才なし、徒らにその面を粉にしその身を錦にす」

「ああ、柳橋声妓の風一たび壊れ、その醜や言ふべからざるなり。然れば則ちその盛を往日に加ふると雖も、しかもその実、大いに衰ふる者と謂ふべけんか。柳も客もまた罪あり。遊戯その道にあるを知らず。風流の何物たるを弁ぜず、沈湎耽溺して、その妓たらざるを問う「はず、濫転を喜んでもっておのれを恋すとなす。巧衒を信じてもっておのれを愛するものとなすもの甚だ多し。たまたま淑良にして軽浮ならざるものあり。よく柳橋往時の遺風を存するものあらば、則ち皆ののしるに痴頑にして事を解せざるの老婆となす。その客にしてかくの如くんば、則ちいずくんぞよく妓輩の日に淫風に趨るをとどめ得んや」

 ……これらの文章には、「芸者も落ちたが、その元凶は藩閥政府の田舎漢ではないか」という痛烈な批判が出ている。   

 エピソードを一つ。ある日柳北が飲んでいると、隣室で客を待つ芸者二人の対話が聞えた。A子は「おごりなさいよ」といっている。そのわけは、B子のだんなが奏任官一等となり、月給も三百をこえた以上、ぜいたくは思いのままではないか、というわけだ。ところがB子は「とんでもない」という。そのわけは、男の昇進は阿諛(あゆ)お結果なのだ。大変なケチで、船頭や箱屋にチップをやったことがなく、ともすれば他人にシリをぬぐわせる。しかもいばりくさって、いつもひとを見下している。ご本人がお祝いはしても、わたしは絶対に祝わない、というわけだ。さらにそのB子は自分の人生哲学を語った。柳北の表現によると、「真の情は情を要す、仮の情は利を要す。もし利を要すれば則ちよろしく勅任以上を選ぶべし。しからざれば知事か華族か。かの奏任官は、貴と雖もいまだもって吾曹の腹を飽かすに足らずと」というリアリズムである。

 それから約百年、いまや墨水は汚濁し、役人の王座は経営者にとって代わられたともいわれるが、「濫転を喜んでもっておのれを恋すとなし巧衒を信じてもっておのれを愛するものとなす」蛮風が浄化せられたかどうか――。

 ところで柳北という人物は、二十歳で奥儒者となり、将軍家定に講義をしたというのであるから、単なるプレーボーイではない。二十九歳のとき、千石取りの騎兵頭並、三十一歳のとき、二千石取りの騎兵奉行にばってきされた。このころ、のちに三井物産初代社長となる?益田孝と交渉をもつ。柳北よりも十一歳年下の益田は、英語を学ぶため、横浜の横浜駐留軍、通称「赤隊」に加わって訓練をうけ、幕府がフランスの士官を招いて歩、騎、砲三兵の訓練をはじめたとき、騎兵を志願して尉官待遇の差図役になっていた。 

 益田たちは、柳北に反感をもったらしい。柳北は顔の細長いひとで、馬に乗ると「馬は丸顔」と内田百閒が喜びそうな恰好であった。それでいたずら心をかき立てられたのかどうか「よく馬から落としてやった」(『自叙伝益田孝翁伝』)と彼は語っている。

 柳北はさらに会計副総裁に栄進したが、鳥羽伏見の戦いのあと、職禄を返上し、隅田川のほとりに隠棲した。ときに三十二歳。「濹上隠士」の自称はここにはじまる。その「松菊荘」(別名「海裳園」)という別荘はなかなか完成しなかったが、大工左官がなまけたわけでなく、柳北の資金ぐりが渋滞したためである。

「二、三月遊ぶのをやめたらすぐ建築費はできるでしょう」

と来客がいうと、柳北は答えた。

「遊ばないで部屋をつくるより、むしろ部屋を売って遊ぶ方がいいね」

 プレーボーイもここまで徹してこそ『柳橋新誌』を書くにふさわしい資格をもてたのだというべきであろう。

 維新後、柳北はジャーナリズムに身を投じた。幕臣としては、柳河春三、栗本鋤雲についで第三番目の新聞記者である。第四番目が福地桜痴であった。柳北、桜痴、ともに雅号に植物をとり放蕩児であった点は共通しているが、言論人の立場は正反対であった。体制べったりの桜痴に反し、反政府的であった柳北鍛治屋橋監獄で四ヵ月の刑をくらっちる。

 松菊荘は借金の抵当となり、抵当流れで三井銀行のものとなっていたが、鐘紡支配人となった三十三歳の和田豊治が六千五百円で手にいれた。明治二十六年のことで、すでに柳北はその九年前、四十八歳で長逝していたのでる。

2019.07.17


☆37三条 実美(さねとみ) (1,837~1,891年)


『明治天皇と元勲』日本のリーダー (TBSブリタニカ)1982年10月9日 初版発行 P.296

 幕末の動乱に活躍した尊攘派の公卿で、政府の最高位にのぼった明治の政治家。

 文久二年(一八六二)江戸へくだり、十四代将軍徳川家茂(いえもち)に攘夷を督促、親兵設置の朝命を伝えた。帰京して国事御用掛、翌年四月には、京都御守衛掛を拝命して親兵を統率することになり、長州藩を中心とする尊攘急進派の頭目と仰がれた。

 しかし、翌年、八月十八日の政変が起こると、長州藩の勢力をおさえようとした会津・薩摩藩の公武合体派のクーデターによって、三条 実美ら七人の公卿は長州(山口県)へ逃れ、長州藩は御所警衛の任を解かれた。

 時勢はさらに激化する。筑前(福岡県)大宰府に移された三条ら尊攘派公卿は、土佐(高知県)の中岡慎太郎らの斡旋で岩倉具視と手を結び、王政復古の大号令とともに許されて帰洛した。三条は晴れて新政府の議定(ぎじょう)になった。さらに岩倉とともに副総裁にのぼった三条は、関東監察使を兼ねて、江戸開城後の経営にあたり、徳川氏家名存続の勅旨を伝えた。

 都落ちの悲運をなげいた三条もいまは輔相(ほしょう)の要職をも兼ね、岩倉とともに明治新政の議事を決定する最高責任者となった。 

 明治二年(一八六九)七月、官制が改まり、三条は左大将から右大将へと進んだ。三条は公卿でもとくに高い門地の出だが、人間も凡庸ではなく、すぐれた政治手腕もあった。 

 早くから尊王攘夷運動に挺身したことで明治天皇の信任を深め、勤王諸藩の原動力となったその存在価値は大きかった。  

 明治政府の成立後は、むしろ朝廷と政府を結ぶくさび役にはかけがえのない適任者であった。  

 三条を最高権威とする明治政府は、その後、廃藩置県・征韓論に揺れる政情危機を切り抜けた。

 明治十八年、太政大臣三条は、伊藤博文から、千年余にわたる太政官制の廃止を提案され、天皇の意見をもとに調停をはかろうとしたが、結局は新官制が可決されて伊藤を初代総理とする内閣ができあがった。 

 三条は内大臣に転じ、次の黒田内閣の崩壊に際して総理を兼ねたが、立憲政治に向かう新しい時勢から身を引き、維新の元勲、公爵として五十五の生涯をとじた。

2019.09.04


☆39土居 通夫 (1,837~ 1,917年)


小島直記『人材水脈』日本近代化の主役と裏方(中公新書)昭和五十八年八月十日発行 P.79~83

   土居 通夫 鴻池の家政改革を実現

 築地梁山泊のメンバー中、上思議な縁で結ばれたのが中井弘(のち京都府知事)と土居 通夫(のち大阪商工会議所会頭)である。二人は大隈邸訪問の八年前中井二十六歳、土居二十七歳のとき宇和島ではじめて会った。

 中井は本名横井休之進、薩摩藩士で、脱藩して田中幸助となのり、閣老安藤対馬守暗殺計画に加わり、幕吏の追及を避けて長崎滞在中の五代友厚に庇護(ひご)を求めた。ちょうどこのとき宇和島藩家老がきてミュニエル銃購入のことを五代にたのみ、五代は中井の保護を求めたので、宇和島でその家老邸にかくまわれた。

 この邸で退屈をもてあました中井は、ある日商人に変装して藩御用達の紀伊国屋に立ちより、砂糖の取り引きを申し込んだがすぐに主人に化けの皮をはがれ、頭をかかえて退散した。その翌日、家老のむすこと馬で紀伊国屋の前を通ったとき主人が気づき、前日の無礼をわびて、自宅に招待したのである。

 そのとき、主人にたのまれて相伴役をつとめたのが土居 通夫であった。彼は足軽の子であったが、十二歳からはじめた剣道で頭角をあらわし、二十二歳で田宮流剣法の免許皆伝となっていた剣士である。前年、武者修行と称して宇和島を訪れた土佐の剣客才谷梅太郎なる男と試合した。これがじつは坂本竜馬で、このときの勝敗は明らかでないが、坂本の熱弁に感奮して、土居の心に勤王討幕の志が生まれた。そして今、紀伊国屋の座敷で薩南の行動派と杯くみ交わし、初対面でありながら意気投合、さながら竹馬の友と再会したかのようであった。

 慶應元年、二十九歳の土居は脱藩して大坂に行った。志は勤王討幕にあるが、生活の方便で高利貸の手代となった。この手代時代、十三歳の少年を基盤の上に立たせたままぐいともち上げてみせたり、強盗を追っぱらったりして腕っ節が評判になったのはいいが、新選組から加盟を求められ、これはことわった。なお俳諧をはじめ、これは生涯を通じての趣味となる。

 この間、中井は宇和島の政情視察係となって大阪にきたが、花柳界で湯水のように金を使ったため、藩留守居役がキモをつぶし、藩当局にご注進に及んで解職された。このあと後藤象二郎が土佐藩の金でロンドンにやってやり、しばらく滞在して、また大阪にもどってきた。

 そのことを聞いて土居は中井をたずね、二人は打ちつれて坂本をたずね、大いに歓談した。やがて坂本は新選組にきられ、二人もまたその追及をのがれて潜伏した。

 この年の暮れ、後藤にたのまれて神戸に行ったことがある。それは英商ウオールドが、後藤と約束した土佐の樟脳(しょうのう)の受け渡しがおくれているため、長崎から英国汽船がやってきたので、その話をつけるためであった。早駕籠(かご)で行ったが、途中尼崎に番所がある。中井は無事に通りぬけたが、土居の駕籠は番士にとめられ、尋問を受けた。

「いずれの藩士か?」

「土佐藩士」

「しからば、姓名を書かれたい」 

 帳面をつきつけられた土居は、とっさに偽名を考え、中井については「中井功蔵」自分は「石井新一郎」だと記入した。

 横井休之進は、脱藩して田中幸助、京都では後藤久次郎と名のっていたが、ここに土居の思いつきで中井功蔵となった。このあと、中井は「中井功蔵」として明治政府につかえ、のち「蔵」を削って「中井弘」ということになったから、土居 通夫は名づけ親だということになる。

 名前は、土居もいくつか変わっている。幼名は大塚万之助、五歳で養子に行って杉村保太郎、十七歳で元服して杉村彦六、二十四歳で実家にもどり、間もなくよそに婿養子となって中村彦六、脱藩して大阪で手代となったときは真一、やがて土居真一郎と改名し、尼崎番所では石井新一郎、明治五年三十六歳のとき「土居 通夫」と称することとしたのである。

 名前だけでなく、職業も転々とした。維新後、五代友厚の下で大阪運上所(月給五両)でつとめ、外国事務局御用掛助勤(七十五両)をへて大阪府権少参事(百両)となったのが明治三年のことで、東京出張中に築地梁山泊をたずねたのである。このときはまだチョンまげを結っていて、断髪するのは二年あとであった。

 その「日誌」には、九月二十八日の項に「伊藤(博文)へ行き大阪神戸間の事情相談致し、伊藤同伴にて大隈へ行く……」の記述がある。このとき大隈と伊藤は、鉄道掛土居のために、大阪、神戸両駅の敷地買い上げ問題を大いにしゃべったようで、「両先生の論にては一豪(いちごう)も(たゆ)まず潔よき見こみに候事」というのが土居の印象であった。

 官制改革で大阪府をやめた土居は、五年五月から半年ほど、大隈邸内の長屋で浪人生活をおくったが、これは築地ではなく、日比谷の新邸の方である。

 やがて司法省七等出仕、十年四十一歳で大阪上等裁判所の判事をしているとき、三十一歳の伊庭貞剛(いば ていごう)伊庭貞剛がおなじく判事となってきた。伊庭はその翌年辞表を出し、叔父広瀬宰平(ひろせ さいへい)のすすめで住友家にはいり、本店支配人となったあと、別子銅山の争議を収拾したいきさつは『日本さらりーまん外史』で書いたことがあるが、土居も十七年四十八歳のとき、鴻池家の家政改革をたのまれ、官を辞して顧問に就任した。このとき、

 「土居は司直の府にあった者だ。必ずや鴻池のため法律をつくり、一々成文によって取りさばこうとするだろう」

 いやいや、彼は剣客だったし、今もその気質はぬけない。そこで快刀をふるって乱麻を断ち、鴻池のため、目ざましい大改革を決行するだろう。しかし、断っても断っても乱麻は断ちきれず、結局力つきてとびだすのがオチだろう>

などとうわさされたといわれる。

 ところが土居は、法律ずくめにもしなかったし、快刀の(さや)をはらうこともなかった。ただ鴻池の人びとと俳諧をたのしみ、悠々自適するうちに、しらずしらずのうちに人間的感化をあたえ、やがて方針を明示すると、改革は徐々に実現していったのである。

 住友、鴻池という大阪の二名家がともに司法官出身を改革者としてスカウトしたというのも奇縁であろうが、そのことよりも、ともに法律の専門家である伊庭、土居の両人が、「規則」にたよるよりは、裸になって人の「こころ」によびかけ、それによって難事をなしとげたという発想法は、今日においても再検討されてしかるべき問題ではあるまいか。

2019.07.21


☆40板垣 退助(1,837~1,919年)


 わが国は徒らに坐して自由と憲法の与えらるるを待つがごとき、卑屈、無気力なる国民にあらず。実に自ら起ってこれをかち得たる、質実剛健なる国民なりき。思うに、もしわが国民にして、自ら起って憲政の樹立を要請するなく、徒らに成を藩閥(はんばつ)の有司に仰ぐがごとき、卑屈、無気力の国民たらしめば、立憲政体は決してこれを望み得べきにあらず。憲政樹立の誠意なき保守、恋旧の政府を衝動して、国会の開設を公約するの余儀なきに至らしめ……たるものは、実に輿論の効力と、志士が身命財産をなげうって国事に尽瘁(じんすい)したるのたまものなり。 (『自由党史』)

この日(4月17日)この日土佐藩士の家に生まれた。明治維新の功労者。のち自由党の頭領として、自由民権運動を指導し、政治の民主化に貢献した。

*桑原武夫編『一 日 一 言』―人類の知恵―(岩波新書)P.64


☆41大倉 喜八郎 (1,837~1,928年)


小島直記『人材水脈』日本近代化の主役と裏方(中公新書)昭和五十八年八月十日発行 P.189~193

   大倉 喜八郎 功成り、風流の日送る

 「鶴彦」という名前は、スマートな優男を連想させる。大倉 喜八郎晩年の雅号がその鶴彦で、写真を見ただけの印象では、ご本人よりもむしろ伜の喜七郎の方こそふさわしかったようにも思えるのだが、ともかくも喜八郎は鶴彦をなのり、喜寿記念として出した『喜寿狂歌集』は大倉鶴彦選となっている。功成り、なとげて、向島の別荘で悠々と過ごす風流三昧の日常は、実業家喜八郎でなく、風雅人鶴彦のものだったようである。その向かい側の家に幸田露伴が越してきたとき、おなじ向島の住人であった画家中村提雨、彫刻家木内半古(きうち‐はんこ)などから露伴のことをきいた鶴彦は、

「お会いしたいのでいつでも……」 

とことづけをたのんだ。しかし露伴はすでにのべた理由で、名公富豪と会うよりは魚を釣る方を好む。いつも用にかこつけてことわっていたが、ある日、露伴ひとりを招きたいとのことで、行ってみた。明治三十八年というから、鶴彦六十九歳、露伴三十九歳のときである。

 会って第一に感じたことは、鶴彦が礼儀正しく慇懃な態度で露伴のきらう「人を圧する驕気」はまるでなかった。当時ロシアにとらわれていた郡司成忠大尉(しげただ:幸田露伴の兄)に関して弟の露伴への慰問のことばにはじまったがそれは少しもいや味にきこえなかった。それから、人間にあっての「窮通の運」ということに話しが移った。 

「私も人にはひどく言われたり、仕事はまずく手づまりになったりしたこともありますが、幸いに今日にいたり、せんだってもも店の者たちが私の像を銀で作って寿を祝ってくれましたが、なあに人はいのちさえありゃ……」と鶴彦はいう。「もし病気から発せられたのなら厭わしい気もしようが、主人はただ事実をいったにすぎないのであって、その«なあに人は»という段には、主人の手強い信条と剛邁な気象とを洩らしたのである」(塩谷 賛(しおたに さん):『幸田露伴』中)。

「それはまことにおめでたいことですが、銀のご自分の像にお向かいになったときどのようなお気持ちがなさいました?」と露伴がきくと、鶴彦は率直に「別に何の心持ちということもありはしません。銀はせんから世界にあったので、これから先も世界にあるので、ただかりにちょっと姿を結んで私になっているのだ、私だといえば私だが、私はかりそめの主人なのです。だから末末は私の知ったことではない。だがみんなの心持がこの像をこしらえてくれていると思うと……」とそこまでいってあとはなかったが、満足そうにのびやかなふうであった。 

「さよう仰せあれば事業も財産もみんなそうでしょうが」 

「そうでござんすとも」

 間髪を入れないで主人は答えた。これはひょっとすると、華厳金獅子の話でもだれかにきいたことではないかと露伴は思って、

「まるで金獅子ですね」といってみた。鶴彦はそれを知らなかった。ということは、そういうまた聞きの話をもとに、したり顔のツケ焼き刃的悟りをいったのではなく、まったくの自家自談、体験からおのずと発したことばであるということだ。露伴はそれまでにきいていた世評の非を知った、というが、たしかに鶴彦ならぬ喜八郎にはいまわしい噂が散っていた。

 大倉 喜八郎が姉からもらった二十両をふところに、ふるさとの越後国新発田から江戸に出たのは十八歳のときである。まず麻布飯倉の鰹節店に住みこみ、二十一歳のとき下谷に間口二間のささやかな乾物店を開いたが、幕末の情勢が緊迫するにおよんで、鉄砲店「大倉屋」を神田和泉橋に開いたのが二十九歳のときである。上野も彰義隊に拉致され、官軍に武器を紊入したかどで詰問されたこともある。返答次第では一刀両断されるところであったが、商人は商売が生命、現金で品物を買ってくれるのがお客さまなのだから売るのは当然でしょう、と啖呵を切って釈放された。

 維新後は貿易業に転換したが、日清戦争のとき、缶詰に石ころをつめて紊入した、という評判が立った。また、日露戦争でも大倉の牛罐を食べた姫路師団の兵士が血を吐いたとか、軍靴が糊ではりつけたものだったため、旅順閉塞にいった兵士の靴が海水でぬれ、裏皮がはがれて甲板からすべり落ち、溺死した、といううわさが流れた。当時軍用糧食はすべて大倉組の独占するところであり、それによって莫大な利益を得たことへの反感から発したデマ宣伝だったらしく、露伴もそういううわさを鵜のみしていたのである。

 初対面の印象は双方ともによかったようで、それから交際がはじまった。鶴彦は、露伴の家の庭先へ静かによって少し話を交していくこともあった。奉書に大きな字を書き、鶴彦と署名したのをとどけてよこすこともあった。文字はうまくないが、光悦流であった。四月八日は灌仏会(かんぶつえ)、おりから向島は花のさかりで、鶴彦のところでは感涙会という催しがある。この招待文で露伴に相談することもあった。露伴は行ったことはなかったが、やがて半月形の溜塗(ためぬり)に桜の花を朱で散らした重ね重箱に幕の内をつめて届けられた。『喜寿狂歌集』ができるときは序文をたのみ、また鶴彦の一字をとってつくった鶴友会の委嘱で戯曲『な和長年』を書き、これは戦前東京で十回、戦後東京と大阪でそれぞれ二回上演されるということもあった。鶴彦が入手した虫太平記二軸を見せて、意見をきくということもあった。

 鶴彦が八十歳をすぎてから、愛妾に子供ができた。近所の百姓たちは、「いくら大倉さんでも、そいつは無理だろう。多分、小作がはいったのだろう」とうわさしていたが、生まれた赤ん坊は鶴彦そっくりの顔をしている。「やっぱり大倉さんは偉いもんだな」と彼らは感心した。

 露伴は、鶴彦のこういうエピソードをこっけいに思いながらも、何でも大掛りにやることや無邪気なところを好ましく思っていたようだ。あるとき、袁世凱から送られたとい珍しい酒をよばれ、うまいうまいといって大量にのんだ。そのあとで鶴彦が「この酒は、袁世凱が兵隊何百人をつけて雲南の奥から運ばせたものです」といったので、露伴は恐縮してしまった。

 小林勇は、露伴が鶴彦のうわさをするのを何度もきいていたようである。赤石山を丸ごと買ってしまった話、シナに野心をもってみずからのりこみ、袁世凱に会った話。維新のころ、鉄砲を売りこむときの様子を露伴が話すと、大倉は英雄のようになった。ところが、あるときを境に、露伴は鶴彦を離れた。「自分の伝記を書いてもらいたいというようなことをちらといったのである」 (『蝸牛庵訪問記』)。

2019.07.26


☆42後藤象二郎 (1,838~1,897年)


『明治天皇と元勲』日本のリーダー (TBSブリタニカ)1982年10月9日 初版発行 P.298

 幕末から明治にかけての土佐出身の政治家。

 徳川慶喜(よしのぶ)に大政奉還を行わせたことでひろく知られている。

 藩の上士に生まれたが、幼少のときに父を失って、姉婿にあたる藩の知名な執政、吉田東洋の薫陶を受けた。

 長じて東洋の推挙によって、郡奉行(こおりぶぎょう)・普請奉行などをつとめ、東洋横死後の文久二年(一八六二)藩命で江戸に出て、幕府の開成所(かいせいじょ)で航海術・蘭学・英学を学んだ。

 その後、藩の大監察となり、藩主山内容堂(やまのうちようどう)の信任を得てさらに藩の参政となり実権を握った。慶應元年(一八六五)から藩の船舶・銃砲を購入するため、しばしば長崎におもむいた。

 このとき、象二郎は長崎で、イギリス公使館員アーネスト・サトウから、英国議会制度についての話を聞き、日本でも政治体制を変革しなければならないことを痛感した。

 翌年正月、やはり長崎で海援隊長の坂本龍馬(さかもとりょうま)と会談した。この会談で、龍馬は日本の新体制に対する意見をまとめ、いわゆる船中八策(せんちゅうはつさく)>を提唱した。

 これは、将軍徳川慶喜の大政奉還を基礎としたものだった。象二郎は深く感動し、帰国するとすぐに藩主容堂を説得した。容堂はすぐ意を決して将軍慶喜に大政奉還を建白した。

 慶喜はこれをいれて、二条城に諸大みょうを招集して大政奉還を宣明した。この年(慶應三年)十月十四日のことであった。これによって鎌倉時代以来の武家支配は終わりを告げたわけである。

 明治政府が成立すると、参与に列した。以後、外国事務局判事・大阪府知事・工部太輔(こうぶたゆ)・左院議長などになった。この間、大阪の豪商に献金を行わせるいっぽう、東京遷都を力説、これを実現させたのは彼の卓見を物語るものであった。

 明治六年(一八七三)、参議となったが征韓論に敗れて同郷の板垣退助らとともに()にくだった。そして板垣と協力して「幸福安全社」「愛国公党」などをつくり、さらに有名な「自由党」を結成した。その後実業界に入ったが、明治二十二年、政府にもどって黒田・山県・松方内閣の逓相、第伊藤内閣の農務相をつとめた。

 しかし、もう彼の時代は去っていた。晩年は病気がちで不遇であった。

2019.08.26


☆43安田 善次郎(1,838~1,921年)


小島直記著『人材水脈』日本近代化の主役と裏方 (中公文庫)P.184~188

   安田善次郎(1,838~1,921) 趣味に生きた実業家

 「文豪に似た字でおよそ関係のないものに富豪がある。露伴は自分は富豪でも何でもないがいくらかつきあった富豪はある」(『幸田露伴』下)と塩谷贊は書いている。それは、安田善次郎、大倉喜八郎、渋谷栄一の三人であったが、その「いくらかのつきあい」の跡は、各人によってちがいはあるとしても、露伴その人を語るとともに、またこれら高名な実業家たちの人と4なりや生活態度を、別の角度から語っている。

 安田善次郎については竜渓矢野文雄の伝記(大正十四年刊)があり、その趣味、余技などもくわしく書かれている。二十歳で越中富山から江戸に出て、両替屋に奉公しし、二十六歳のとき、五両の金をもとでに、日本橋小舟町の四辻に露店を出し、戸板の上にバラ銭をならべて両替店を開いたのが発端であった。幕末から明治初年の変動期をうまくのり切って、その基礎も定まった明治九年三十九歳のとき、偕楽会(かいらくかい)という富豪同好者のあつまりをつくったのを手はじめに、拙碁会、馬談会、和敬会(茶湯同好会)などをつくった。「亦此の外にも色々の会があったようであるが、上記に記する諸会の如く、永続しなかった。また常に出席もいなかった」(前掲書)と竜渓がそのなをあげなかったものに、「欣賞会」というのがある。文豪露伴と富豪安田との交友の場はここであった。われわれはその詳細を、塩谷贊の労作によってはじめて知ることができたのである。

 この会は、明治四十年十月から四十四年一月まで、すなわち安田の七十歳から七十四、露伴の四十一歳から四十五歳におよぶ出来事である。本所横網町の安田邸で開かれた愛書家のあつまりで、はじめ珍書会といわれたが、露伴がたのまれて「欣賞会」と命名した。「陶淵明の移居の詩に、≪奇文共に欣賞す≫の文字が存するのに拠ったと思われる」(塩谷本・中)。露伴は、「一体に名公富豪なるものは驕気を以て人を圧するところがあって、それにあてられるのもいやだし、大金持の前で畏っているより誰にも遠慮もない空の下で釣をして遊ぶほうが好き」な人だが書物を欣賞するこの会はよほど気に入ったようで、「欣賞会定」なるものも自ら書いた。「一、四五部づゞの書 一、都合よき夜を月に一会 一、まうけは茶まで至らず 一、みやげも花か団子ほどにて」という味のあるものである。初会は四十年十月五日夜、会する人は露伴、赤松磐田、林若樹(はやし わかき)、岡田紫男(むらお)、それに松廼舎(まつねや)すなわち安田である。「氏は晩年益々書を巧みにし画も上達し、狂歌も巧みとなり、その雅号を福々子と称し、堂号を勤倹堂とも称した。又松翁と称へた」(竜渓本)とあるが松廼舎があったわけである。

 この第一回で、露伴は「ものわりのはしこ」という木版本のことを話した。「ものわり」は化学、「はしこ」じゃ「はしご」で、化学階梯の訓読、和学者の手になったものらしい。「酸素」を「すいね」、「窒素」を「むせびね」としたあたり絶妙ではありませんか、と露伴はいった。

 第二回では、露伴は『黒韃事略(こくだつじりゃく)』『釣客伝』『何羨鏘(かせん)』などの珍書を携行して見せている。

 第三回では、表紙の莚打(むしろうち)というつくり方の話をし、安田が「芝居の評判記以外にも評判記は五十種ぐらいあるそうですね」といったことをうけて、「その中でも魚の評判記が一番しゃれておもしろくできております。つぎには虫でございましょう……」と語っている。

 第四回では、釣をはじめた動機をきかれて、「明治三十二年の春のころ、この時分好きだった鉄砲なりかけて末の弟につきあって、中川向うの奥戸で鮒つりをやった。そのときそばにいたじいさんが講釈をして釣竿を貸してくれまして、それは十二本のつぎのもので、それで釣るとぼくばりよく釣れる。どうも釣れるのは釣竿のせいだと思って、東京一といわれる釣竿製造師たちのことをきいたりした。こんなことから釣好きになりましたわけで……」と語っている。

 第五回は休み、第六回では「喜三二は朋誠堂と同じ人であります」というような話をした。第七回には内田 魯庵(うちだ ろあん)もきた。このあと、露伴は京都大学行きの話でしばらく会を休み、第十一回は露伴の送別会をかねた。露伴は四十一年八月京都に向い、四十二年夏休みに東京に帰ったきり京都へはもどらなかった。そして欣賞会に出席したのが四十三年一月で、会はすでに第二十五回となっている。このとき、安田は出席していない。三月に第二十六回が開かれたが、露伴の出欠は上明である。これから約十ヵ月休みがあって、第二十七回が開かれたのは四十四年一月二十三のことであった、この間に、露伴は「妻とともに幸福にも訣別した」。彼が二十九歳のとき迎えた二十一歳の幾美子夫人は、名妓ぽん太に似た顔でなおいっそうの美人であった。顔ばかりでなく、心も美しく、暖かく、毅然として、文字どおり最良の伴侶であったことは『日本さらりーまん』で書いたことがある。

 良妻にして賢母であったこの人が、三人の子供を残して三十七歳の若さで先立ったのである。露伴は棺前の読経の間、ほとんど泣き崩れるばかりに右手で顔を蔽っていたそうである。第二十七回はその喪中に開かれ、露伴は生花の本二冊を出品した。欣賞会がこれで終わってしまったのかどうかは不明だが露伴が出席したのはこれが最後であった。「決して長いとはいえない会との因縁だったが、この記事からいくつかの伝記資料を得ることができる」と塩谷はいう。これは露伴の伝記資料のことなのだが、安田にとっても同様のことがいえるであろう。

 安田は富豪であること以上に吝嗇家としての悪名が高かった。筆写は若いころ安田講堂における入学式と卒業式で、彼の名前を冠した講堂に一種の抵抗感、違和感を抱いたことをおぼえている。それは深くその生涯を調べもせずに、安易に一部の世評をうけ入れいたからにほかならなかった。近来財界人の伝記を探るにあたって、安田のみならず、多くの悪評につつまれた人びと、あるいは、賛辞ばかりの人びとの中に、必ずしも世評とは一致しないものがあることに気づいている。安田の場合、皮肉なことに矢野の『安田善次郎伝』では格別の感銘、新発見はなく、欣賞会の逸話と、鶴見 祐輔の『後藤新平』第四巻でそれを感じた。露伴とともに書物を語り、また東京市長となった後藤が、大風呂敷といわれる大都市計画をつくったとき、これをだれより理解し、進んで協力したのは安田であった。「果してあなたが使う人となられるならば、私は集める人となってお手伝いができると信ずる。私はそいう意義のある仕事に向って家産を傾けることは決して厭(いと)わぬ」といえる人が、どうして卑しむべき、単なる吝嗇漢であったろうか

参考1:諸橋徹次『古典の叡智』(講談社学術文庫)P.64

 八王子鉄道 

 これはいつかもお話したことがあると思いますが八王子と東京との鉄道をつくるときの話。それは後藤 新平さんの時代でありましたか。さあいよいよ鉄道をつくろうというときになると、その左右の村長町長がひっきりなしに陳情にやってくる。いずれも、私の村に停車場をつけてほしい、私の町につけて下さいというのだそうです。もしその陳情をいちいち聞いておりますと、ジグザグ鉄道ができる。そんなことをやっておったのでは、いつまでたつても、とうていできないことは明らかだ。そこでその時の鉄道の係の課長でありますか、部長でありますかその方が、たいへん頭のいい人であったと見えまして、「よろしい、あなた方、鉛筆と紙と定規を持ってきなさい」といって、地図の上の東京と八王子とに定規をあてて、まっすぐに鉛筆で線をひき、「さあ、このとおりにやるんだ」といってやったのが当時日本一真直ぐの東京恥王子線だったということです。町村長は、そのときは必ずしも満足しなかったでありましょうが、それがいちばん近い方法でありますから、その恩恵は長くその地方に及んだわけであります。

 これは自明の理であります。しかるに人間というものは、なぜか、この大道を忘れてゆく。小さな利益、小さな便利というようなことに心が奪われて、あちらこちらにさまよっていく。つまり小径にさまようて、大道を忘れるのであります。それがいけない。それではいつまでも人間の目的地には達し得ないわけです。

  参考2:鶴見 祐輔:政治家,著述家。岡山県出身。1910年東京帝大法科大学卒。初め官界に身を置いた。1928年衆議院議員となり,以後3回連続当選,1940年米内(よない) 光政内閣の内務政務次官,のち翼賛政治会顧問となる。この間,アメリカ,オーストラリアなどを歴訪し,海外の対日世論悪化防止に尽力。第2次大戦後は日本進歩党幹事長となり,公職追放後,1953年参議院議員に当選,第1次鳩山一郎内閣の厚生大臣となる。1959年政界引退。著書は《英雄待望論》など。後藤 新平の女婿。評論家鶴見 和子〔1918-2006〕・鶴見 俊輔姉弟の父。

  2019.07.02   


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 明治の金融王と()われた勤倹堂主人こと安田善次郎(初代)が越中富山から江戸に出てきたのは安政元年(一八五四)十七歳の時であった。 

 武士とはなばかりの、軽輩微禄の貧苦をきわめた家に育った善次郎は、幼い頃から商人にあこがれていた    

「この世の中で」 

 と、おさない善次郎は思う。      

「サムライより強いものは金じや」   

    こうして、商人として身を立てようと決心した善次郎は、三つのことを心に誓っている。    

 一、能力を頼まず独立で商人として身をたてること。    

 一、虚言をいわぬこと。    

 一、収入の八割をもって生活し、その他は貯蓄すること。   

 江戸での善次郎は、両替商に奉公し、銭両替に必要な知識を学んだ。こののち善次郎は、(玩具店に四年、海苔屋に三年奉公した後、日本橋の小舟町に一家を構えて、海苔と鰹節との小売を始めた。それは二十五歳のことだった)    

 と、後年、善次郎と親交のあった陸軍軍医総監、子爵の石黒忠悳(ただのり)は『吾輩の見た安田と大倉』(『実業之世界』明治四十一年)のなかで語っている。    

  《その時、安田君は考えた。商売を繁盛させるには、近所の評判からよくしてかからねばならぬ。といって贈物をするには金がかかる。それではと毎朝、五時に起きるところを四時に起きて、両隣の店先を掃除して、水を撒いて置くことを続けた。それで(両隣の店では)一体誰が掃除してくれるのか、近頃引っ越してきた海苔屋さんだ、と評判が次第に高くなった。これらの親切な遣り方が、安田式ともいうべきもので、今日までそれを貫いている。その一方では元方(帳簿)の勘定を正確にして、品物を安く仕入れて客に売る。それでお客は芝あたりからも来るようになって、店は次第に繁盛した。これが現今資産数千万円と称せられる富豪安田の初めである》 

   が、一説では、このとき善次郎は店の方は一切妻の房子にまかせ、自分は大きな袋を肩に、毎朝《風呂屋を廻って風呂屋の穴銭(小銭)を大銭に両替して》歩いていたという。    

 ともあれ、機を見るに敏な善次郎は幕末、維新の混乱に乗じ明治新政府の極秘情報を掴んで太政官札を買占め、一日で三ばいもの利益を得るという濡れ手で粟の大儲けをしている。    

 その善次郎が次に目をつけたのは、廃藩によって禄高に応じて新政府から与えられた、一種の失業手当、秩禄公債である。公債の償還期限は十五年だが、生活苦に喘ぐ士族たちはそれを安く叩き売り、換金を急いでいた。善次郎はそれを手当りしだいに買い集め、公債を担保にして、借りた金は高利で貸し、利を稼ぎに稼いだ。    

   やがて二万円という大金をつかんだ善次郎は、これをスプリング・ボードとして明治七年(一八七四)、新政府の官金御用達(ごようたし)ともいう司法省為替方にのしあがり、自己資金三万九千余円に加えて、自己の判断で無利子の官金を、三十万円の枠内で使える特権を得た。  

 余談になるが当時の四等巡査の月給六円、小学校長の古参で十五円。新政府高官のサラリーは、東京府知事が二百円、太政大臣の三条実美、右大臣の岩倉具視で八百円、内務卿の大久保利通は千円といった時代である。    

   こうして勢いに乗じた善次郎は、明治九年、第三国立銀行、十三年、安田銀行を設立。彼の勢力の下に集まったのは明治商業銀行、金城貯蓄銀行、百三十銀行、日本商業銀行、京都銀行。そのほか二十二銀行、十七銀行、肥後銀行、九十八銀行、高知銀行、根室銀行、信濃銀行、群馬銀行、山形銀行……と、続々と彼の傘下に加わり善次郎は金愉界の最高実力者として"富"への階段を駈けのぼっていく。     

    立志伝中の人となった後も善次郎は初心を忘れることなく、ある人から、「どうすれば、そんなに成功できるのでしょうか」と訊かれたとき、善次郎は、   

「儂はただ、若い時から"勤倹貯蓄"を実行しただけ」   

 と応え、勤倹貯蓄などといえば、ただ倹約して貯金するだけのように思うであろうが、そうではない。   

  《勤倹とは勤勉にして節倹を守るの意にして換言すれば「業務を勉強し、冗費を節する」の謂なり、即ち勤は積極的の語にして進取を意味し、倹は消極的にして保守を意味す。故に両者相俟って始めて其効著るし、余は諸子に教えん、勤なると共に倹なれ、倹なると共に勤なれ。  

 夫れ(やす)きを好み、難きを避くるは人の常情なり、勤倹は美徳なりと雖も、其の実行に至っては頗る至難の業に属す。茲に於てか意志の強固即ち克己心の養成を最も肝要とす。余は日常目撃する処に依り、意志薄弱の徒が常に失敗の悲況に陥るの例証を挙げ、克己心の必要する反証とせん》    

 そう言って善次郎は、『安田善次郎家訓』のなかで、彼が説く勤倹貯蓄談の実行の困難なことを語り、意志薄弱な者が失敗する例を一つひとつ()げていく。   

《第一、意志の弱き人は……》  

   なにごとにつけても気が移りやすく、衣服なども流行を追って外見ばかりを飾る。こうした表面だけの欲望にとらわれる人間は出費がかさみ、ついには先祖伝来の財産まで減らしてしまう、貯蓄などとんでもない話である。  

《第二、意志の弱き人は》 

 深い思慮もなく友人知己の保証人などになって、自分から災難を求めることがある。一時の人情にかられて自分の利害を考えない人に、なんで勤倹貯蓄ができようか。  

《第三、意志の弱き人は》  

 商売上の取引などをするにも、いつも人の後になって、いわゆるヒケをとる(負ける・おくれを取る)。こうした人は情実にこだわり、つねに搊失をまねくものだ。

  《第四、意志の弱き人は》 

 困難な事や紛糾した事件などに直面すると、たちまち弱音を吐いたり、これを避けようとして、なにごとも成し遂げることができない。こんな人物は結局、発憤して事に当ろうとする覇気がないので、向上することなど出来る筈はない。     

《第五、意志の弱き人は》 

 その行動がいつも不規律で、精神が活発でない。こんなことで勤倹貯蓄ができる筈はない。《要するに勤倹貯蓄実行の骨髄は自己の情欲を抑制し、己に克つことに在り、斯くも勤倹貯蓄を遂行するは、人生の必要事項として、又成功の一手段なり》 

 善次郎はこの自家訓を実行するだけでなく、他人にもそれを奨励した。また毎年二季、従業員たちのボーナスを渡す時に、その袋の中に貯蓄を勧める善次郎の文章が入れてあった。その字句がまた懇切で、こうしてトップから勧められると、従業員たちもついボーナスを銀行預金してしまうということになる。で、

「安田銀行は賞与金に百万円支出しても、それはみな預金として入ってくることになるし、従業員のほうも自然に金が積みたてられて、後には皆々、その社長の好意を徳とした」と、市島謙吉の『春城代酔録』にいう。 

 神坂次郎著『男この言葉』(新潮文庫)P.55~59

2021.06.16記。


☆44大隈 重信(1,838~1,922年)


小島直記著『人材水脈』日本近代化の主役と裏方 (中公文庫)P.74~78

   大隈重信 人間くささが呼ぶ魅力

 大隈 重信は、明治元年三十一歳のとき外国事務局判事から外国官副知事(外務次官)となり、翌年会計官副知事(大蔵次官)を兼任し、間もなく大蔵大輔(次官)兼民部大輔になり、三十三歳のとき参議(大臣)となった。大隈にかぎらず、明治初期の政府高官が若い連中だったことは周知のとおりだが、この中には、本人の実力というよりは藩閥のおかげでそのポストについたものもかなりいて、必ずしも実力はこれに平行しなかったようである。

 ところが大隈の場合、なるほどもとは佐賀藩士であり、佐賀藩は海軍力でニラミをきかせて薩長に次ぐ有力藩であったということはあるけれども、そういう背景とは関係なく、その実力をもってその地位をしめた、といえそうである。

 その実力をだれとり早く認めたのが井上 馨であった。彼らは維新前後、長崎府判事として親交を結び、井上は「彼(大隈)をこのまま西陲(せいすい)の地に跼蹐(きょうくせき)せしめることを公私のために惜しみ、木戸に彼を推薦」(『世外井上公』第一巻)した。けれども推薦よりモノをいったのは、キリスト教処分問題で英公使バークスと談判した大隈自身の実力にほかならない。

 バークスは四十一歳。フランス公使ロッシュは徳川方にかけ、バークスは討幕派にかけた天下のバクチで勝った上に、列国に先んじて明治政府を承認した功労者である。反面、このことを恩にきせて、ことごとに先輩面、保護者面、指導者面で横車をおそうとするところがあり、三条、岩倉、木戸などの大物たちもみんな閉口していた曲者(くせも)であった。ところが、フルベツキ宣教師についてすでにキリスト教と万国公法を学んでいた大隈はいささかもたじろがず、昼食ぬきで六時間もの大激論をやりぬいた。このとき通訳をつとめたシーボルトは、

 「バークスも、きょうの談判には驚いていました。これまで日本において、大隈のような男と談判したことはない、といって、日本の外交官について少し尊敬の気持を加えたようです」と、三条、岩倉たちに語ったのである。そこで彼の評価が高まり、いちはやく外国官副知事(外務次官)に抜擢されたのも不思議ではなかった。

 中央にでた大隈は、二年二月もと旗本三枝家の娘綾子と結婚し、四月には築地本願寺のそばに屋敷をもらって新居をかまえた。ここはもと戸田藩播磨守のもので敷地五千坪、派手好みの大隈にふさわしい豪邸で、四年に有楽町に転居するまで、約三年間を過ごすのである。

 この築地時代は、外交官としてデビューした大隈が、横井小楠の愛弟子由利 公正の財政政策の批判者となり、やがて財政家として重きをなすにいたるテーマ交代、転進のときにあたる。反面、五代 友厚、井上 馨、伊藤 博文等々、多くの人材にかこまれていた人気の時期でもあった。

 伊藤は、大隈邸の隣の小さな旗本屋敷を買い、その門内に井上が住み、何かといえば大隈のところにあつまったが、彼らばかりでなく、少なくとも三十人ぐらいの食客がいつもごろごろしていた。五代 友厚もその年譜を見れば「二年四月政府の召命により東上し、大隈 重信の邸に滞留し財政上のことを議す>とある。このほか、山縣 有朋、前田 正命、山口 尚芳、土居 通夫、古沢 滋、大江 卓、中井 弘など、ひとくせもふたくせもある豪傑たちがあつまっていた。シナの小説「水滸伝」には、悪徳官僚に反抗した豪傑たちが山東省の山塞にたてこもり、これを「梁山泊(りょうざんぱく)」と称したとあるが、中井はこれになぞらえて大隈邸を「築地梁山泊」と命名した。事実、木戸 孝允や大久保 利通などは、ここにあつまる連中の動向を大いに気に病んでいたという。

 ともかく、これほどの人物を引きよせるだけの魅力があったことは大したことである。それは第一に主人の大隈が客好きであったからであろうが、それ以上に夫人綾子の客あしらいがうまかったからであるまいか。というわけは、客の多寡は、その主人のステイタス、世俗的利害関係とは必ずしも平行しないからである。たとえば幸田露伴の場合、幾美子夫人を四十四歳のとき失い、児玉八千子を後妻に迎えると、友人たちはだれもたずねてこなくなった。その弟子で、露伴が京都の三条大橋で、

 このギボンシは、高山 彦九郎や牛丸若や弁慶の手アカがついているギボシだから、なめてみろ>といわれ、愚直にもなめてみるほど随従した漆山又四郎ですら、わずかひと月で顔を見せなくなった。それというのも、八千子が希代の悪妻だったからで、お客がきらいな人はイヤな女を女房にするにしかず、ということになろうが、築地梁山泊の場合、綾子夫人がよかったのであろう。

 そのお客のうち、五代や井上の場合は、長崎グラバー邸につながる縁といえる。すなわち「江戸の仇を長崎で討つ」を、内容的にも方向の上でも逆にしての、人間関係の発展にほかならなかった。

 大隈が渋沢栄一を起用したのもこの時代だ。渋沢は一度ことわりにいったが、大隈は、

「あんたは、八百万(やおよろず)の神たちの神議(かむはかり)にはかりたまえとという祝詞(のりと)をしっているか?」

「今日の日本は幕府を倒して王政に復したのであるが、これだけではまだまだわれわれの任務をはたしたとはいえない。さらに進んで新しい日本を建設する重大な任務がある。いま新政府に参与しているものは、すなわち八百万の神たちである。あんたもその神様のひとりになりなさい」

と説得して、大蔵省入りを承諾させて話は『さらりーまん外史』でのべたことがある。この大隈的発想によれば、築地梁山泊の客人たちも、八百万の神々にちがいなかった。

 ただ面白いのは、主人の大隈をはじめ、それぞれに多くの美点、欠点をそなえていた点で、その人間くささかたいえば、彼らはむしろギリシャの神々に近い。そしてとくに興味をそそらわれるのは、これらの神々の後年における結びつき方で、たとえば渋沢は、自分を起用した大隈とは結びつかずに井上馨を親分に選び、井上・伊藤コンビは、明治十四年の政変において、大隈とは不倶戴天(ふぐたいてん)の敵となるのである。そういう成り行きを考えると、築地梁山泊とは、呉越同舟した神々たちの、はかない蜜月時代だったといえるようだ。

※大隈 重信プロフィル:明治~大正時代の政治家。

 天保(てんぽう)9年2月16日生まれ。肥前佐賀藩士大隈 信保の長男。長崎でフルベッキに英学をまなぶ。維新後、明治政府の徴士参与職,外国官副知事,大蔵卿,参議などを歴任。秩禄処分、地租改正などを推進した。明治十四年の政変で官職を辞し、翌年立憲改進党を結成し、総裁。同年東京専門学校(現早大)を創立。21年第1次伊藤内閣、ついで黒田内閣の外相となり、条約改正にあたるが、反対派の来島恒喜(くるしま-つねき)に爆弾をなげつけられ右足をうしなう。31年板垣 退助と憲政党を結成して日本初の政党内閣(隈板(わいはん)内閣)を組織。大正3年第2次内閣を組織して第一次大戦に参戦,4年には対華二十一ヵ条要求を提出した。大正11年1月10日死去。85歳。

2019.05.28


新島先生を憶う 二十回忌に際して 大隈重信

 我輩の知れる二大教育家

 この春は京都同志社の創立者たりし故新島襄(にいじまじょう)君の二十回忌に当るのである。我輩は君と相知ること深かりしにはあらねどまた因縁浅しということを得ない。(いわ)んや我輩もこの三十年間学校教育の事では苦労をしているのであるから、君の如き立派な人格と一定の主義を有する教育家が早世した事を(おも)い出すと実に残念で(たま)らぬ。

 明治年間に功労ありし教育家は少なくない。しかし我輩の最も推服しているのは福沢先生新島先生の二人である。福沢氏は大なる常識を備えてもっぱら西洋の物質的智識の教育を施し独立自尊の倫理を説き()つ実行した人、また新島氏は基督(キリスト)教主義の精神的教育を施した人で、()り方はよほど異っていたけれども、両者共に独立上羈(どくりつふき)にして天下の徳望を博したる点に於ては他に(なら)ぶ者がない。

 我輩と新島氏との関係

 福沢氏とは昔からの知合(しりあ)いで(すこぶ)る懇意であったが、新島氏とは久しく会う機会もなく、初めて会ったのは明治十五年であった。この時は我輩も既に政府を退いて、学問の独立を図るという目的から東京専門学校(早稲田大学前身)を設立した頃で、新島君の初めて宅へ来られたのはあたかもこの建築中の頃であった。

 この時はただ普通の会談で君は同志社の事を話され、我輩は学問独立の必要を説き、共に民間教育のために尽力しようという位の話であった。

 我輩が人と交際を結ぶのは、いつも何か事ある時にその事に関係してそれから知合いになった場合が多い。新島君ともやはりそうで十五年学校建築中に初めて会い、後間もなく建築が終った頃再び訪ねて来られたのでまた会ったが、爾来(じらい)別に交際を進めるという事もなく数年を過ぎ、明治二十一年に至って初めて我輩も君の事業に対して及ばずながら一臂(いっぴ)の力を添える様な関係になった。

 我が国最初の私立大学計画者

 君が同志社を京都に創立されたのはたしか明治八年頃と聞いているが、君は非常なる苦心を以て漸次(ぜんじ)これを発展せしめ、ついにこれを基礎として私立大学を設立するの計画を立てて、明治二十年頃よりその準備運動に着手せられた様である。

 元来同志社の創立は新島君の非常なる決心とその決心に対する米国人の同情とによりて出来上がったのであるから、学校の資金も大部分は米国人の自由寄付並びに米国伝道会社の寄付に依るものであった。これは同校の主義が基督(キリスト)教の徳育を施すというのであったからである。

 かく基督(キリスト)教を以て徳育の基礎とせられたのであるが、その教育の理想とせられたところはいわゆる「人はパンのみにて()くるものにあらず」、真に生命あり、活気あり、真理を愛し、自由を愛し、徳義を重んじ、主義を重んじ、なおその上に日本国のために身命を(なげう)って働くところの真の愛国者を養成したいというのであったらしい。

 我が子はなるべく自分の乳で育てるのが至当である。いつまでも米国人の同情のみに依頼しているのは新島君の(いさぎよ)しとするところでない。日本人自ら金を出して自国に必要なる人材を作らねばならぬという考えから基金募集に着せられたらしい。

 井上侯と新島氏との関係

 明治二十年頃、今の井上〔馨〕侯が外務大臣をしていた時、侯は条約改正の必要上我が社会の各方面の改良を企て、いわゆる文明的事業に対しては極力尽力せられた。依って新島君はまず井上侯に向ってその目的と計画とを話されて尽力を請われたそうである。井上侯は君の精神に感動して大いに尽力するつもりでいたが、二十年の暮に突然内閣を退くこととなり、翌二十一年の春その代りとして我輩が外務大臣となった。

 ひとたび引受けたら中途で曖昧(あいまい)に終る事の出来ないのが井上侯の美なる性質である。その種々なる事務引続(ひきつぎ)と共に新島君の依頼された件を我輩に紹介し、君が非凡の人物なる事、教育に対して熱烈なる精神を有する事、私立大学設立の計画を立てた事などをことごとく我輩に話して、かくの如き人物によりて企てられたるかくの如き事業は是非(ぜひ)とも成功せしめたいから、共に尽力してくれという話であった。

 新島氏のために名士を官邸に集む

 我輩は既に十五年以来数度会ってその人物も知っている。ことに教育は我輩生来の嗜好でもあり、且つ我輩も当時は既に数年間東京専門学校経営の経験があったので深く新島君に同情し、()ぐにこれを承諾して大いに尽力しようという事を約した。

 依って井上侯と相談の上、我輩の官邸にともかく当時の実業界で最も有力なる人々を集める事になった。その(おも)なる面々は渋沢栄一(しぶさわえいいち)君、故岩崎弥之助(いわさきやのすけ)君、益田孝(ますだたかし)君、原六郎(はらろくろう)君その他大倉喜八郎(おおくらきはちろう)田中平八(たなかへいはち)などの諸君十数名も見えたが、井上侯も我輩と同様主人役として列席せられた。

 そこで我輩は新島君の計画を一同に紹介し、(せん)ずるところ教育は個人の事業にも非ず、政府の事業にも非ず、国民共同の事業であるから資力のある人は率先してこれを援助せられんことを望む旨を凛烈(りんれつ)()べ、次いで新島君はこの事業を企つるに至った精神を話されたが、その熱誠と凛烈(りんれつ)たる精神には一座感動せざるを得なかった。

 新島氏の熱誠一座を感動せしむ

 列席の人々はこれに動かされて直ぐに応分の寄付を約した。井上侯も我輩までも寄付する事になった。(すこぶ)る少数の人であったが、それで即座に三万円近くも集った。

 今日でこそ教育事業もよほど国民的となって国民は争って学校に寄付し、早稲田大学の如きは新設文科の資金百五十万円を全部寄付に()らんという計画で既に三分の一以上も集っておるという様な時勢になったが、新島君の奔走された二十余年前の時勢では、民間の教育事業に金でも出そうという事はほとんどなかった。当時の一千円は今日の数千円に当る価値がある。それがとにかく即座に三万円近くも集ったというのは新島君の至誠が人を動かしたというより外はない。

 当夜新島氏の容貌風神

 当夜の光景は今なお眼の前に見える様である。新島君は当時より既によほど健康を搊じておられたものと見えて、顔色蒼白(そうはく)体躯(たいく)羸痩(るいそう)という風が見えた。屡々(しばしば)(せき)をしておられたのが今なお耳に残っている。

 しかしその脆弱な病躯(びょうく)中には鉄石の如き精神が存在していた。君は終始儼然(げんぜん)として少しも姿勢を崩さず、何となく冒すべからざる風があった。主客が飲み且つ食う時に煙草(タバコ)を盛んに吹かしたので、室内は煙で漢字(かんじ)濛々《もうもう》と(かす)むくらいになっていた。新島君は無論(むろん)酒を飲まず、煙草を()まず、生理的からいってもこの煙は定めて難儀であろうと思うて、給仕に命じて窓を明けさした事を記憶している。

 病床にて君の訃を聞く

 (しか)るに二十二年の秋には我輩は爆裂弾で足を取られて動けなくなり、新島君も病を得て活動意の如くならず、ついに明治二十三年の一月二十三日、大磯で歿するという残念な事になった。

 我輩は最初大手術を行ったがそれが癒えず、(かえ)って化膿して来たので更に第二の手術を行い、なお病床に横たわっているうちに新島君の訃報に接したのである。久しく重傷に悩んだ後であるから神経は興奮している。君の死を聞いて誠に感慨に()えなかった。

 日本にまだ一の私立大学なかりし時代に於て、君が同志社を基礎として君が私立大学設立の計画を立てられたのは洵《まこと》に壮挙といわねばならぬ。我輩が応分の尽力を辞さなかったのも君の志を壮なりしとしたからである。

 君は大磯に病でほとんど半死の人となっておっても、君の精神はなかなか壮なものであったらしい。歿する二十日あまり前の明治二十三年の正月には病中ながら尚抱壮図迎此春という詩を作ってその志をのべ、盛んに理想を(えが)いて死の既に迫れるを知らなかったそうだ。

 我輩の敬服する新島氏の人格

 君は青年時代に於て完全なる武士的教育を受け、維新前国禁を犯して(ひそ)かに米国に航し、同地に於て基督(キリスト)の感化を受けたのであるから、日本武士の精神と基督(キリスト)教の信仰とを併有する一種精神上の勇者であった。

 従って炎々たる愛国の忠誠、教育に対する奪うべからざる主義と、熱心火の如き精神と、死を以て事を成さんと欲する気象とがあった。これ我輩の最も君に敬服する点である。

 君が教育上に於ける感化もこの点に在ったかと思う。即ち福沢氏の如く広くはなかったが、濃厚であった様である。我が早稲田大学教授たる浮田(うきた)〔和民〕博士、安部磯雄(あべいそお)氏なども直接新島君の感化を受けた人々であるそうだが、いずれも人格の立派な学者である。これらは二氏の天分にも()る事であろうが、新島君の感化もよほど(あずか)って力ある事と思う。

 君死するの時年(わず)かに四十八、せめて六十までも生きられたらその感化は更に偉大なものがあったであろう。

 今日まで継続する我輩と同志社との関係

 明治二十一年新島君のなお在世中我輩は関西に遊んで京都に立寄り、同志社にも案内せられて家内と共に行ってみた。なかなか立派な建築で地所も広く生徒も随分多かった。

 新島君の死後同志社も一時紛紜(ふんうん)のために(すこぶ)る悲況に陥ったが明治二十九年我輩が再び外務大臣になった時にまた偶然にもその処置調停に関係する事となり、爾来(じらい)また種々なる相談までも受け「社友」というものになって同志社女学校の世話までも頼まれるなど、関係は今に連続している。なんだか親類の様な気持がしている。二十一年以後毎度行って演説もした。京都へ行けば必ず演説をする事になっている。またしなければ同志社の方も承知しないという様子である。

 新島君逝きてよりここに二十年、一時微にして振わざりし同志社も昨今は一千余名の校友校員一致発奮の結果、普通学校、(高等)専門学校、神学校、女学校等に分れおいおい盛んになって生徒も増加し、再興の気運に向っている。果して然らば新島君の壮図の実現される日もいつかは来るであろう。我輩は国家のためことに右に述べた様な関係からかかる日の速やかに来らんことを切望する者である。

底本:「大隈重信演説談話集」岩波文庫、岩波書店 2016(平成28)年3月16日第1刷発行

青空文庫作成ファイル:このファイルは、インターネットの図書館、(青空文庫)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

2019.08.21


☆45中井 弘(1,839~ 1,894年)


小島直記『人材水脈』日本近代化の主役と裏方(中公新書)昭和五十八年八月十日発行 P.84~88

   中井 弘 別れた妻は井上馨と……

 土居 通夫の「日誌」、明治三年八月二十七日の項に「……中井 弘先頃より当地へ参り居り、今夜山口(料亭)に来る。……井上聞多(馨)、新田満二郎娘婚姻致し引きつれ帰阪の由……」という記述がある。字面だけを見れば格別のこともないけれども、「中井が上京していた」ということと、「井上が新田の娘と結婚した」ということに重大な関連があったことを語っているのが『大隈侯昔日譚』である。

 『世外井上公伝・第一巻』は、「公は明治初年に新田義貞の裔(えい:しそん)である新田俊純の女を娶った。即ち武子夫人がこれである」と書いているが、この武子はじつは中井の妻だった。中山は、もと薩摩藩士横井休之助だが、派閥に容(い)れられず、その不遇時代を大隈の築地梁山泊に寄せていた。派閥に容れられなかった理由として、「父の代から島津久光の側近だった関係」(『明治の政治家たち』下巻)とはつ部之総(はっとり しそう)はいうが、むしろ中井の政治思想が憎まれていたのではないか、というのが私見である。

 中井は後藤象二郎の後援でイギリスに行き、帰国後、土佐藩主山内容堂が徳川慶喜に政権返上をすすめる建白書にあたったが、そのポイントは「政権返上よりも政権返上後の政治体制としてイギリスの議会制度を採用する」(『原敬』)ことにあった、と前田蓮山(まえだ れんざん)はいう。保守性濃くしていた鹿児島の西郷党が、こういう急進的思想の持ち主をよろこぶはすはなかった、と思うのである。

 中井には方々に「女」がいた、といわれる。新田武子を妻としたいきさつ、年度などは知らないが、ともかく妻にして間もなく、西郷党から鹿児島にもどってこい、といってきた。

「帰ったが最後、切腹だろう」と中井は考えた。そこで武子に離縁状をわたし、大隈夫人綾子に、「どうか良いところがあったら縁づけてくだされ」

と、武子をあずけていった。

 ところが、二十歳の武子と相思相愛の仲になったのが三十五歳の井上馨である。井上は二十一歳のとき志道家の養子になり、芳子という娘も生まれたが、のち離縁して井上姓にもどっていた。年譜によれば、明治元年三十四歳の項に「九月、聞子生る」とあり、これが二番目の娘ということになるが、その生母に関する記述は見当たらない。ただ「その頃井上が何でも変な女と同棲していたが、それがドモも豪傑連中にヒドク不人望で、ㇳウㇳウ皆で追出すかドウカしてしまった」(『昔日譚』)と大隈は語っているから、あるいはこれがその女性かとも思うが確かではない。

 ともかく問題は「そのうち井上という男はなかなか素早い男で、いつの間にか、我が輩の預かり物と相思の仲という始末」(『昔日譚』)という箇所だ。その様子に気づいた大隈夫人が武子にたずねると

「井上さんは大好き……」

という返事である。

 それならというわけで伊藤博文、山縣有朋などがあつまって「マア粋な捌き」で築地梁山泊で正式見合いということになった。するとその見合いの日に、切腹したはずの中井がひょっくり顔を出したのである。「のちに聞くと何でも中井は薩摩へ帰ってから、やはり才幹な男で、何とか軍人達の心を和げて死なずにすみ、軍隊の部下となって、軍隊と一緒に上京してきた」(『昔日譚』)のであった。土居日誌の「中井弘先頃より当地へ参り居り」は、このことを指すのである。したがってこの中井上京の時期について「(軍隊と一緒に上京)とあるから、ことは明治四年二月、西郷率兵上京のせつであろう」という服部之総の推定がまちがいであることは明らかだ。

 上京した中井が、まず一番に梁山泊を訪れた心情は察しられる。離縁状こそわたしはしたものの、新婚ホヤホヤのところで泣きの涙で別れた武子のことが忘れられず、結婚生活をやり直そう、と考えたのであろう。ところが、その日が選りに選って正式見合いの日であったことは、まことに人の運命、女の心はわからない。

 玄関で中井とバッタリ会ったのが山縣有朋であった。彼は大隈と同年でこのとき三十三歳、兵部少輔(次官)であった。 

「(山県の)このときのあわて方ったらなかった。『マァ、マァ、マァ……』というわけで、中井を一室に押しこめてしまって、女を隠すやら何やらで大騒ぎ、妻なども大分色を失った。トウㇳウ伊藤が情を明かして中井を説伏しようとしたが、中井は恬淡な男で畸人(きじん)である。『マァさうか、どうかよろしく頼む』と云ふた限りであった」(『昔日譚』)。 

 こうして新田武子は、大隈綾子の妹分ということにして、井上と正式の結婚という段取りになった。土居「日誌」――「井上聞多、新田満二郎娘婚姻致し引きつれ帰阪の由……」の事実は、このあとにつづくわけである。

 このころ、井上の生活の根拠は大阪にあった。大隈が築地梁山泊に転居したのは二年四月。井上は「四月二日、長崎出張、中旬上阪、五月二十八日に木戸孝允とともに東京に入る」が「六月二十一日、会計官判事、大阪府在勤」、「三年五月四日、造幣頭兼任」、「八月二十四日、東京を発して下阪……」と、ほとんど東京にはいない。そのくせ、新田武子をモノにしたのであるから、大隈の「井上という男はなじゃなか素早い男で、いつの間にか……」ということばもまことに意味深長であることがわかるようだ。 

 ところで、中井と別れて大隈邸の世話になったころ、武子には二歳の娘貞子がおり、これが母とともに井上家にひきとられ、十六年十五歳で原敬にとつぐまで井上の娘分としてそだてらたのだから、原敬の運命は長閥の婿養子として開けたのだ、、と阿部真之介が断定しているので、服部之総はこの断定の上に立ち「中井が武子と別れたときすでに生まれていた勘定で、当座は梁山泊の大隈夫妻がが養っていたのであろう。大隈の放談は、隠すべきところはチャンと隠して、なかなか義理がたいところがある」と書いているが、これはどうか

 前田蓮山はこれを否定し、その証拠として『原敬日記』の一節――「東京なる伊集院兼常よりの報知を落手せしが、余の妻貞子の実母にて、中井家より離別後、印刷局の技師今村なる人に嫁したるが、今回病死せりとのことなりき。伊集院に依頼して、今村に香典二十五万円送ることを托せり」を掲げている。はつ部のいうように、阿部の断定が正しく、大隈がこの件で義理がたったとすれば、原敬はダマされた、ということになる。どちらが正しいだろうか?  

2019.07.22


☆46黒田 清隆(1,840~1,900年)


『明治天皇と元勲』日本のリーダー (TBSブリタニカ)1982年10月9日 初版発行 P.300

 薩摩藩出身の討幕運動家で、明治新政権の各分野に活動した実力者。 

 太政官制が廃止されて初代総理となった伊藤博文のもとで農商務相をつとめた黒田清隆は、明治二十一年(一八八八)後継首班に任ぜられた。 

 酒乱宰相の発足である。呑むと別人のように荒れ、妻を斬り殺したともいわれている。義侠心に厚く豪放な薩摩人だった。 

 西郷隆盛に従って薩長連合に尽力し、鳥羽・伏見の戦い、北越・函館の戦役で参謀として活躍、五稜郭の攻略では長州方の反対に屈せず、敵将榎本武揚の助命を果すという美談の持ち主でもあった。

 維新後、外務権大丞(がいむごんのだいじょう)兵部(ひょうぶ)大丞の要職につき、明治七年、北海道開拓使長官となり、開国を拒む朝鮮との江華島事件に全権としてのぞみ、翌年、修好条規を締結した。 

 二年後の西南戦争に征討軍をつとめた黒田は、維新の元勲で郷土の先輩である西郷の戦死、つづいて大久保利通の横死にあい、圧倒的に募る長閥勢力に対し、悶々としていた。

 薩閥の実力者黒田は、明治十四年の政変で失脚した。黒田が薩摩の後藤象二郎を逓相に迎えて、反政府勢力の分裂をはかったが、外相大隈重信の条約改正の失敗で苦境に立たされた。その大隈が、玄洋社の来島恒喜(くるしまつねき)に爆弾を投げられて重傷を負い、内閣は総辞職に追い込まれた。

 だが、時の政府は、黒田の実力を無視することができなかった。第二次伊藤内閣の逓相・総理臨時代理、第二次松方内閣の総理臨時代理にむかえられたのである。

 しかし、明治二十八年から枢密院議長としての閑散な政治生活に晩年を送った。

2019.08.29


☆47伊藤博文(1,841~1,909年)


『明治天皇と元勲』日本のリーダー (TBSブリタニカ)1982年10月9日 初版発行 P.253

伊藤博文(1841~1909年) 初代内閣総理大臣

   権力への橋頭保(きょうとうほ)

 伊藤博文は、近代日本の骨組みをつくったトップリ―ダ―である。国会・内閣制度、そして帝国憲法の三つぞろいをワンセットに仕立てた大功は、千円札紙幣の顔となる資格が十分にあるといえるだろう。だが、決して独裁者型ではなく、実務型であった。明治維新という革命を推進した志士型リーダーが、一人、また一人去ったあと、その遺産を引き継いで、破壊された旧秩序を新しい体制にきりかえた。その意味で、維新の「第二世代」のチャンピオンでもあった。

 明治十一年(一八七八)五月、暗殺された大久保利通のあとを受けて内務卿になって以来、四十二年十月二十六日、ハルピン駅頭で暗殺されるまで、三十年余りにわたって、つねに政界の主流を歩み通した。

 みずからの手で創設した内閣制度の初代内閣総理大臣になったのが、明治十八年十月。それ以来、四次まで首相の座につき、在任期間は通算七年七か月、戦前では最長記録を保っていた。ちなみに、この記録は、長州(山口県)出身の後輩佐藤栄作首相の連続七年九か月(昭和三十九年十一月~四十七年七月)によって更新された。

※安べ晋三首相の通算の在職日数が2019年6月6日に2720日となり、初代首相で明治憲法制定に中心的な役割を果たした伊藤博文氏に並び、歴代3位タイとなった。7日には単独の3位となる。

 安部氏が最初に首相に就任したのは、06年9月だったが、自身の体調の上良などで第一次安倍政権はわずか1年で終わった。その後、民主党政権下の12年9月の自民党総裁選に勝利し、同年12月の衆院選で勝利し、再び首相の座についた。第二次安倍政権発足以降の連続在職日数は6月6日時点で2354日。

 藩閥の支えがあったといえ、先見の明があり、根まわしが得意で、しかも手がたい実務能力が、第二世代では一頭抜きんでいたからこそ、権力の()だまりにいつも坐していることができたのだ。そして、政界の法王のような存在となって「院政」をとったのである。

 若き日の博文について、松下村塾の吉田松陰が知人にあてて書いた紹介状のなかで、

「この青年は、将来性がある。なかなかの周旋家(政治家)になりそうだ」

と評した。師の松陰は、博文の人物・才知をしっかり見きわめていたのだ。

 最長不倒の実権を握る第一のステップは、直属上司の大久保内務卿暗殺の後任に推されたことであった。

 明治十一年五月十四日の朝七時すぎ、麹町紀尾井坂(千代田区紀尾井町)で、旧金沢藩士島田一郎ら六人の手にかかって、大久保卿は斬殺された。

 博文は当時、参議で工部卿を兼ねており、大久保の片腕として、文明開化・殖産興業政策を急進させていた。この日も早朝、大久保から手紙が届き、かならず会議に出席するよう求められていた。

 六人の暗殺者は、その足で堂々と宮内省に自首して出た。ただちに「大久保暗殺」の報は、元老院会議の席にも届き、伊藤工部卿も悲報を知った。

 博文のなげきは、ただごとではなかった。がっくりして、赤坂霊南坂の官舎に帰り、家にこもって面会謝絶をきめ込んだ。夕方、愛知県令(知事)の安場保和が元気のいい顔をして、官舎にあがり込んで強引に博文と対面していった。

「なにをふさぎ込んでいるのだ。これからは貴公の天下じゃないか」

 博文は、自分に内務卿のポストがまわってくるとは思ってもいなかった。

「冗談をいっている場合じゃない。おれは、大久保の跡をだれにしたらいいか、考えつづけていたんだ」

「あなたのほかに、大役ををこなせる人物はいない。しっかりしなさい」

「数人の愚かものの手で、大黒柱が倒されるようでは、日本の将来が真っ暗だ。また、内乱がおこりはしないだろうか」

 安場が、さらに博文を励ました。

「徴兵制の軍隊が、士族だけの西郷軍に勝ったのだから、内乱はおこらない。もう時代は逆転することはない……」

 当時の政府は、太政官制といって、内務・外務・大蔵・陸軍・海軍・司法・文部・工務、それに宮内の各省を合わせると省が九、その上に参議、参議の上に「大臣」が三ポストという構成だった。

 トップの太政大臣が三条実美(さねみ)、左大臣は当時欠員だったが、右大臣が岩倉具視(ともみ)

 大久保は、筆頭参議であり、内務卿だったから事実上、現代の内閣総理大臣にひとしい強大な権力を掌握していたのである。

 そのとき、すでに博文と同郷の先輩、維新の三傑のひとり、木戸孝允(たかよし)は病死していたから、現職参議で長州藩要人のキャップは、伊藤参議であった。参議としての古株には、肥前(佐賀県)出身の大隈重信がいた。しかも大隈は、大蔵卿を兼ねていたから、事実上の首相である内務卿には、大隈が就任する可能性があった。伊藤が苦慮したのは、大隈が内務卿になった場合、権力構造がどうなるだろうかということについて、であった。

 大久保の死で、元勲クラスがいなくなってしまった。伊藤自身をふくめた参議たちは、維新にかかわってはいるが、むしろ「第二世代」の人たちである。

 ところで岩倉右大臣が、政府内部の権力関係を冷静に見つめていた。その岩倉が、内務卿の大臣の後任に強く伊藤参議を推したのであった。

 三大臣のうちでは、右大臣の岩倉は元勲の一人であり、発言力がもっとも強かった。その岩倉が、「大隈ではよくない」と考えたのだ。

 その理由は、次のようである。

「政府は薩長土肥の四藩が中心で、なかでも薩長が主流である。政権の中枢である内務卿はそのいずれかの出身でないと、うまくおさまらない」

 大隈重信は、肥前佐賀藩の出身だったし、また、考え方が開明的すぎる、と岩倉はみて忌避(きひ)していた。

 岩倉が明治天皇に伊藤内務卿の人事を奏上し、天皇がそれを受け入れた結果、五月十五日、博文が大久保の跡を継いだ。電光石火の早わざだった。そのとき、博文は三十八歳の若さである。かくて、博文は参議兼内務卿として、新生日本の大世帯を背負って立つ宰相となったのである。

 安場保和の予見したとおりになったのである。もともと太閤秀吉に似て陽性で楽天家である博文は、にわかに元気を回復し、専制者だった大久保のなきあとの政治的空白を埋める根まわしにとりかかった。

 そういう機敏な判断に行動がともなうところが、博文が指導者として適格であることの証明といえる。

 伊藤内務卿は、幕末から長州で苦難をともにしてきた井上馨を呼んで相談した。

「自分は大久保と違って、実力がないし、敵も多い。協力して国政を担当しよう」

 井上は、親友の博文に政治行動をともにすることを誓った。具体的には、政敵といえば筆頭参議の大隈大蔵卿をさす。しかもかつて伊藤・井上の両者は、大蔵省で大隈の部下だったから、まことに具合がわるい。

 大久保が内務卿のとき、大隈も伊藤も大久保派だったから、大隈は大蔵省から大久保のいうなりに、膨大な予算を引き出し、文明開化・殖産興業政策による公共投資を推し進めた。伊藤が内務卿になっても、大隈は大久保時代のように、無制限に予算を内務省に提供するだろうか。伊藤はまず、そういったことを懸念していたのである。

 伊藤は、工部卿に井上を推した。岩倉は、其の人事を承知し、井上を参議兼工部卿に任じた。こうして、内閣の足もとをかためることから橋頭保(きょうとうほ)を築き、「伊藤政権」は始動したのであった。

   水平思考の原体験 P.263

※デボノは従来の論理的思考や分析的思考を垂直思考(Vertical thinking)として、論理を深めるには有効である一方で、斬新な発想は生まれにくいとしている。これに対して水平思考は多様な視点から物事を見ることで直感的な発想を生み出す方法である。垂直思考を既に掘られている穴を奥へ掘り進めるのに例えるのなら、水平思考は新しく穴を掘り始めるのに相当する[1]。

 伊藤博文は、天保十二年(一八四一)九月二日、長州の熊毛(くまげ)束荷(つかり)村(大和町)で生まれた。幼名を利輔(りすけ)(利助)、一人っ子だった。

 父、林重蔵(じゅうぞう)(十蔵)は下層の農民で、庄屋(村役場の長)をつとめる本家のもとで村役人をしていた。重蔵には浪費癖があって、借金で首がまわらず、利輔が七歳のとき、毛利藩の城下町萩へ蒸発し、残された母子は妻の実家にあずけられた。

 父重蔵は日雇い労務者までやって苦しんだが、下士(かし)の伊藤武兵衛(ぶへえ)(直右衛門)という老人に目をかけられ、伊藤家の養子に迎えられた。

 やっと、浮び上がる手がかりが得られたのである。重蔵は、妻子を萩に呼び寄せた。利輔が九歳のときである。

 さて、幕末の風雲が萩にも吹いてくる。嘉永六年(一八五三)、ペリー提督の率いるアメリカの黒船が神奈川県浦賀沖に現れ、幕府に開国を迫った。 

 あわてた幕府は、安政三年(一八五六)、諸藩に警備要員の出動を求め、長州藩もこれに応じ、來原良蔵(くりはらりょうぞう)が隊長となって、相模(神奈川県)の海辺へと出立(しゅつたつ)した、十六歳の伊東利輔も隊員の一人として、生れてはじめて、長州の国境を越え、関東へおもむいたのである。

 出張先で、利輔は來原隊長の目にとまり、その才能を認められたのが、世に出る最初のきっかけとなる。このあたり、『太閤記』にある木下藤吉郎が織田信長に引き立てられたケースに似ていておもしろい。來原は、利輔を現地で個人的に教育した。

「來原さんは、冬なのに朝四時ころ、提灯を持って、私が寝ている小屋にきた。私をたたき起こし、自分の小屋に連れていった。そこで、詩経・書経を教えてくれた……」

 晩年に、博文がこのように思い出を語ったことがある。

 一年たって利輔が帰国することになると、來原は、松下村塾の塾頭吉田松陰にあてた紹介状を利輔に渡して説教した。

「学問を(おろそ)かにしてはいけない」

 利輔はいわれたとおり松陰の門をたたき、その門下生となり、寸暇を惜しんで勉学に励んだ。熟でも、利輔は師に可愛がられた。先輩に愛される幸運は、生涯ついてまわる。お世辞を使うわけでないだろうが、もって生まれた性格というべきか。

 帰国してしばらく、利輔は京都出張を命ぜられた。世は尊王攘夷、開国佐幕(さばく)で沸き返り、安政の大獄(安政5:1858) が志士たちを過激な方向に追いやっていた。京都がその中心だったから、情報集めに出されたのである。

 長州しか知らなかった利輔は、日本の大勢、世界の中での日本というグローバルな状況つかむことができた。少年の視野がぐっとワイド化された。

 安政五年、藩命によって來原良蔵が長崎に出張することとなった。幕府の「砲術伝習所」で技術を習うために派遣されたのだが、來原は随員の一人に利輔を指名した。さらに、見聞をひろめる好機が到来したのである。

 当時、すでに京都で利輔たちが接触し、意見を聞いたことのある志士梅田雲浜(うんぴん)らが、逮捕され、利輔も勤王思想に傾いていた。

 だが、長崎に一年いた間、利輔は大砲の撃ち方を習うだけでなく、海外の知識を仕入れたり、ひそかに英語を独学で覚えようとした。時間の多角的活用である。

 長崎駐在のイギリス人グラバーの(やしき)を訪問し、じかに体あたりして英会話を習った、と伝えられている。ブロークンの英語で平然と話しかけ、天下の形勢について議論をふっかけたりしたそうである。英語の上達は、おそらく早かった、といわれる。

 明治四年(一八七一)十月、岩倉を団長(正使)とする新政府の欧米視察使節団が派遣され、博文が副使として旅立ったときのことだ。

 船がサンフランシスコに着いたのは、その年(明治四年)の十二月六日だった。ちょうど、アメリカは記録的な豪雪に見舞われ、鉄道が不通だったので、一行は半月も足どめをくう始末だった。

 サンフランシスコ市長が一夜、使節団を招いて招待のパーティをひらいた。その席で、博文は日本側を代表して、テーブル・スピーチを英語で述べた。これがのちに、「日の丸演説」として知られることになる。その要旨は次のようであった。

 博文はまず、日の丸の国旗を指さしていった。「この赤い、まるいものは、手紙の封蝋(ふうろう)ではない」。封蝋というものは、鎖国する方針ではない、という意味だ。

「日本はいまや、水平線から出たばかりの太陽である。太陽は暁の雲からのぼったときは、まだ光が弱く、色も薄い。だが、やがて中天にかかったときに輝きわたるように、日本は、世界に雄飛し、日の丸の旗は尊敬の念をもたれうことになるだろう」

 このユーモアにあふれ、確信に満ちた大見栄(おおみえ)は、アメリカ人に受けて、拍手喝采かつさい)を浴びた。翌日、全国の新聞が伊藤演説を大きく報道した。日本の存在が、このように書き立てられたのは、前例がなかったので、新政府をパブリシティするのに貢献したことはいうまでもない。

 これがニューリ―ダ―として、博文の面目が存分に発揮され、実力者大久保内務卿の絶大な信頼を得るきっかけとなったのである。しかも、まもなく日本は、日の丸演説のとおり、めざましい発展を遂げたのだから、伊藤発言は日本の将来を予言したことにもなった。

 晴れの舞台で、英語のスピーチができたのは、攘夷はなやかなりしころ、進んで英人から学んだ語学力が役立ったのだ。文明開化時代にふさわしいリーダーシップは、ハイ・ティーンのころに培われたものである。

   尊攘派からの転換

 安政六年(一八五九)、長崎から長州に帰った利輔には、江戸行きのチャンスが待ちうけていた。時に十九歳。りっぱな成人した一人まえの武士になっていたわけだが、じつに運が強い。わずか数年の間に、浦賀(神奈川)→京都→長崎→江戸と当時の政治・外交・経済の中枢地域を渡り歩いた経験は貴重である。

 運が強い、というのは、來原良蔵が長州藩で尊攘運動の中心人物だった桂小五郎(のちの木戸孝允)に利輔を紹介したからである。この桂が、來原・松陰についで、第三の引き立て役となる。桂は、江戸在勤だったので、利輔はその秘書役のようなかたちで江戸へ出かけることとなったのである。俊輔と改めた。

 江戸入りして二十日ばかり、伝馬町に投獄されていた吉田松陰が獄舎で斬首された。安政六年十月二十七日のことだ。

 血気盛んな伊藤俊輔にとっては、はじめてみる都で、歴史的な大事件に遭遇したのだから、たいへんなショックだったろう。しかも、刑死したのは郷土での恩師である。桂に従って、俊輔は遺骸を葬った小塚原(荒川区)近くの回向院に出かけ、買収した獄吏から、四斗樽に入った松陰の遺体を渡された。

 このあと、俊輔は桂の指導によるとはいえ過激な破壊活動やテロに加わっている。しかし、要領がいいのか、悪運がいいのか、逮捕されたことがない。

 長州の藩論が攘夷と一決したことから、來原良蔵が突然切腹自殺を遂げた。來原は元来、開国派だったのである。俊輔は、攘夷論の桂と來原の板ばさみになって悩んでいたが、いまは桂の側近、だから桂にいくと割りきっていたが、これまた大きなショックだった。

 文久三年、伊藤俊輔が明けて二十三歳の春、萩に帰ると、驚くべき運命が俊輔をイギリスの首都ロンドンに連れていく。ついに海外を見聞する好機が与えられたのである。それも藩命で、五人の若い藩士に先進技術を学ばせようというのだ。藩は、建て前では排外運動を(あお)りながら、本音では文明を吸収しようと考えていた。志道聞多(しじもんた)といった井上馨も、その一員に選ばれた。伊藤・井上の同盟関係は、このよき以来結ばれた。

 五月十二日、幕府に知られないように苦労して、やっと五人はロンドンに向って旅立つ。途中で汽船が上海に着いたとき、伊藤らは強烈なカルチャ―ショックを受けた。東洋最大といわれる上海港に多数の外国艦船が寄港し、航行しているのを目撃したからだ。

「こんなにたくさんの船が、日本に攻めてきたら守りきれない。攘夷なんて不可能だ」

 こういう認識が、心臓をつらぬいていたのだ。

 ロンドンに着くころには、伊藤をふくめた五人がみな開国論者に生れかわっていた。

「討幕の方便として攘夷をとなえることもいかん。一刻も早く開国して、文明をとり入れないと、清国のように侵略される危険が大きい」

 ロンドンにきて半年、ある日ふと『ロンドンタイムズ』を読んでいると、とんでもないニュースが掲載されていた。

 ――長州が下関で外国船を砲撃

 ――欧米諸国の聯合艦隊が長州総攻撃へ

 五人は、真剣に協議した。国元の攘夷派が実情を知らずに、実行してしまったのだ。長州、そして日本があぶない――。

 そして、伊藤・井上が急ぎ帰国して、藩論を百八十度転換させよう、ということになった。これは、命がけの大冒険だった。頭に血がのぼっている藩士たちを説得する自信はなかったが、やってみるほかなかった。留学期間は一年余りだが、日本を見る目が完全にできあがっていた。

 ロンドンを()って、横浜港にもどったのは、元治元年(一八六四)六月中旬のこと。埠頭におり立ったとき、青年伊藤俊輔は一個の政治家に成長していたのである。

   新政府随一の海外通に P.272

 日本に帰った伊藤・井上は、浦島太郎のような心境だっただろう。たった一年の間に、めまぐるしく政局が変動し、長州は最悪の事態にはまり込んでいた。

 (一)英・米・仏・蘭(オランダ)四か国、十八隻の連合艦隊が賠償などを要求、攻撃のタイム・リミットが迫っている。

 (二)長州の尖鋭な攘夷行動に孝明天皇が、詔勅を撤回。薩摩が会津と連携して、長州勢を京都から追放(禁門の変)、長州だけが孤立する。

松平容保(かたもり)松平容保(会津藩主)が京都を守護、新選組などを使って、尊攘派を粛清する(池田屋事件)。

 (三)これに力を得て、幕府が長州征討を諸侯に命令(第一次長州征伐)。

 こういった袋小路に追いつめられ、興奮している最中に帰郷し、藩主の面前で堂々と開国をぶちまくったのだから、攘夷熱に油をそそぐ結果になった。

 六月二十五日、藩主毛利敬親(たかちか)に対して、三時間にわたってまくしたてたのだから、死を賭(と)した憂国の発露だったのである。

「攘夷など戦力的にも不可能です。進んで四か国と和平して開国すべきです」

 二人の決死的努力のかいもなく、四か国との交渉は決裂し、八月六日、連合艦隊は下関を砲撃し、長州は惨敗した。

 戦闘の防止には失敗したが、戦後、藩論は和平に傾いた。伊藤・井上コンビの出番がきたのだ。藩は、高杉晋作を正使に、英語のわかる二人が補佐役となって和平交渉にあたった。長州藩代表としてであるが、これが伊藤のはじめての本格的な外交体験となった。

 補佐役とはいえ、実質は正使とおなじである。伊藤は、先方の心証をよくしようと、みずからシチューなどの洋食をコックまでして、接待したりした。のちに、鹿鳴館(ろくめいかん)外交を展開する伊藤らしい心配(こころくば)りがうかがわれる。

 この交渉で、長州は開国し、下関に外国船が寄港することになるが、雨降って地かたまる、といわれるように、長州にプラスの効果をもたらすことになった。伊藤が下関に常駐し、外国人との折衝を担当した。長州の「外相」になったわけである。

 もう一つ、伊藤は日本の国益をぎりぎりの線で防衛した。イギリスが長州領の彦島租借(そしゃく)を講和条件の一つにとりあげたとき、徹底的に反対したので、条件から削除された一件である。もし、承諾していれば、彦島は香港(ほんこん)やマカオとおなじことになったところだ。

「なんとなく日本のためにならないと思って、反対しつづけたのがよかった」

 晩年、博文はむかしをかえりみて自慢話をしている。

 盟友の井上が尊攘派に襲われて重傷を負ったが、

 開国したことで、伊藤俊輔はいくたびもねらわれながら、じっさいに怪我をしたことがなかった。秀吉が生涯、一回も負傷したことがなかった(一回だけあったともいわれる)のと軌を一にしているようだ。

 さて、先を急ぐことにする。

 維新政府ができると、慶應四年(一八六八)の正月、伊藤俊輔は、神戸港のある兵庫県知事に任命された。二十八歳と若い。長州「外相」としての顔と実績が買われたのだ。

 鳥羽・伏見の戦いに勝った官軍が、神戸にいた英・米・仏三国の兵と衝突した跡始末に登用されたのである。伊藤知事は顔見知りのイギリス公使と交渉して解決にもち込んだ。これで外国通であることが、新政府の大幹部に知れわたり、ビューロクラーㇳ(官僚)として高く評価されたのである。

 大きな変革がはじまった。慶應四年の途中で明治と改元される。翌年二年(一八六九)七月、大蔵省が設けられると、伊藤は蔵少輔(おおくらしょうゆう)(局長級)に迎えられた。そのころ、伊藤は俊輔のなを博文(ひろふみ)と改めた。

「心境の変化があったらしい。沈着、細心に物事を考えるよう心がけている」

 明治維新の巨頭、長州代表の木戸孝允(きどたかよし)が、岩倉あての手紙に書いている。

 たしかに、伊藤は脱皮していた。そしてひそかに考えた。

「幕末に討幕をはかった人たちはおくれている。日本を文明開化させるのが、大事業だ」

 先輩であり、恩人である木戸の政治的姿勢や性格が意にそぐわなくなってきたのである。

 その点、あとで最大の政敵になる、大隈重信大蔵卿とは考え方が一致した。大隈がラジカル(急進的)な開明派だったからだ。二人は、東京~横浜間に、日本最初の鉄道を走らせる計画を立てた。明治三年四月から着手、わずか二年半で開通した。ともかく速いから、官人も民衆もぐんと洋化に傾いた。開明派が具体的な勝利を得たのである。

 だが、博文は鉄道敷設に成功したぐらいでは満足しなかった。着工を見届けると、その年の暮れ、伊藤は渡米した。貨幣制度を抜本から欧米流にチェンジするのが目的だった。この皆兵制度が決まるのは、だいぶあとだが、その方向だけは伊藤の調査で決まったのだ。

 そのときが、初のアメリカ行きだったが、洋行としては二回目であった。そして、三度目が、さきにふれた明治四年秋からの欧米視察であった。

 この外遊には、岩倉。大久保・木戸と維新の元勲で新政府の最高幹部が三人も同行した。いずれも、初の欧米訪問である。三巨頭はもちろん、外国語がわからないから、頼りは伊藤副使のみだ。伊藤がまるで「全権大使」のようだが、まめに通訳したり、向うの事物を説明したりサービスにこれつとめた。

 そうすることによって、三人に文明開化を急ぐべきことを吹き込んだ。元勲たちは、かつて伊藤や井上が受けたのと同じショックで呆然となった。

「いったい、どれをどういうふうに日本にもち込んだらいいか、見当がつかん」

 岩倉が伊藤にこぼした。

 大久保も、徹底した現実主義者だから、腹のなかでは伊藤以上に焦っていた。伊藤にいわせるまでもなく、早く日本が文明国になって追いつかないと、国土が侵略される、と直感した。使節団の一員(久米邦武)が、あまり黙りこくっているので、気分をやわらげようとして話しかけると、大久保が突然、独り言をいった。

「財務はどうする……」

 膨大な公共投資予算をどこから捻出するかを考え込んでいたのだ。

 帰国してまもなく、伊藤は工部卿に推された。大久保参議が開化策の急進論者に大転向し、伊藤を強力にバックアップしはじめたのだ。このときから、伊藤は保守派の木戸から離れ、大久保の翼下に入っていく。伊藤は、新政府のもとで、引き立て役のよき先輩をもったのである。

 それが、内務卿つまり事実上の宰相として、新生日本へのリーダーとなる最後のステップとなったわけである。

   国会開設と帝国憲法を演出

 宰相となった伊藤がぶっかった政治のテーマは、国会開設と憲法制定という国づくりの基礎工事であった。

 不平士族の大きな反乱は、もはや心配なくなったものの、新体制から落ちこぼれた士族・幕臣・地主・富商の新興勢力が、選挙による議会政治の樹立を要求し、自由民権運動となって盛り上がりつつあった。

 ことに、もと参議の板垣退助が土佐(高知県)を中心に日本最初の政党、「愛国公党」(まもなく立志社)を明治七年に結成して以来、各地で小結社が誕生し、同十一年九月には、横断結合して、「愛国社」に発展した。

 その主張は、要約すると、「国会という場で自由と権利を勝ちとり、藩閥政治を打破しよう」というもので、そのために「早期国会開設」を政府に要求しつづけていた。

 明治十三年になると、この新しい政治勢力の波は、黙殺できないほど高まりをみせた。三月十五日、大阪で開かれた第四回の「愛国社」大会には、開設請願の署名が約八万七千人も集まった。おまけに、地租改正問題がからみ、農民層まで自由民権運動に組み込まれていく気配がうかがわれた。

 伊藤は、この運動に不平士族による「脱権闘争」のにおいをかぎつけていた。そこで、明治十三年の四月、対症療法として「集会条例」をつくって、集会の規制にのり出した。とりあえず、弾圧策をとったのだ。

 だが、そこが伊藤らしい手口だが、いつまでもそういう動きをおさえ込もうとするだけではなく、欧米式の国会制度を確立しないと、先進諸国の仲間になれないことを知っていた。いわゆる「ハト派」型なのだ。

 伊藤は、政府が自由民権派の要求を先取りし、国会開設を政府のプログラムとして先取りし、有利に進めていく作戦に転じたのである。

 ところが、そのころ大隈参議の存在が、しだいにやっかいなものになってきていた。大隈は、その本心はともかくも、早期開設論をとなえ、時期尚早として反対する岩倉右大臣らと対立するにいたっていた。

 明治十四年の正月、伊藤・井上・大隈の三者が静岡県熱海で秘密会議をもって、国会開設について話し合った。そのことを新聞が「熱海会議」と書き立てたので、岩倉は伊藤・井上が早期開設論に同意したのかと疑った。

 これよりまえ、岩倉は明治天皇のなで、参議たちから意見書を出させた。

 黒田清隆(薩摩)は、まった反対、山県有朋(長州)は、官選議会論、伊藤・井上は、民選に賛成だが、時期尚早論と、考えはまちまちだった。だが、なぜか大隈は意見書に回答していなかった。

 岩倉は、熱海会議の件を聞き、大隈のことで怒りをあらわにし、大隈に意見書の提出を求めた。すると、その内容は自由民権派の主張にそっくりであった。

 ――明治十五年に憲法制定。十六年に国会開設。多数を占めた政党が内閣を組織して国政を担当する。

 現代の目からみると、過激でもなんでもないが、当時としては急進思想である。岩倉は大隈を呼びつけて、問いただした。

「伊藤・井上の意見も同じなのか」

 すると、大隈参議は断言してしまった。

「両参議とも同意見である」

 おどろいた岩倉が、伊藤を呼んで尋ねた。

「三者会談で、十六年開設の方針を決めたのか」

 これに対し、伊藤はただちに否定した。

「事実無根である。実際問題として、それをそんなに早く実現することは不可能です」

 大隈と伊藤のどちらかが、うそをついたか、勘違いしたのか、それはわからない。ともかく、これで大隈対伊藤・井上の間には決定的な溝ができた。

 伊藤らは、肥前(佐賀県)出身の大隈が、自由民権派を利用して、政府乗っ取りをたくらんでいるのではないか、と疑うにいたった。そこへ、さらにわるいことがかさなった。黒田参議北海道開拓使(北海道開発庁長官に相当)の汚職容疑が、大隈に近い『郵便報知新聞』の紙上で報道されてしまった。民権派は、「藩閥腐敗政府の打倒」を叫ぶ始末である。

 伊藤らは、大隈が閣議の内容を故意にリーク(横流し)した、とみた。そこで、関係者の間で大隈追放の根まわしがひそかに進められる。

 十月九日、岩倉邸で大隈を除く全員が出席しての閣議がひらかれた。この席で、大隈追放と国会開設の政府方針が決定された。

 そのとき大隈参議は、明治天皇に同行して東北・北海道の長期巡幸に出かけていた。その留守に「欠席裁判」にかけられた格好で、大隈は失脚したのであった。

 これを「明治十四年の政変」という。

 十月二十一日、「国会開設」の詔勅が出され、明治二十三年に総選挙、国会の開会というスケジュールが打ち出された。

 すべてが、綿密に仕組まれたプロジェクトによるものだった。同じ日に、「参事院」という機関が新設され、伊藤参議が参事院議長のポストに就任した。いわば、自作自演劇なのだ。

 参事院で、国会開設と憲法制定にかかわるすべてを扱うことになった。これは参議の上級機関といえる。ただちに内閣改造が行われた、大隈のあとの大蔵卿に松方正義(まつかたまさよし)、内務卿には山田顕義(やまだあきよし)と、要職を伊藤派でかためた。

 ついに、大久保なきあと伊藤は、名実ともに新政府のトップリーダーとして全権を握ったのである。

 政府の実務部門をかためた伊藤は、心おきなく日本の国づくりに専念することとなった。国会開設は、もちろん憲法に裏づけられなければ成り立つものではない。憲法をきちんと決めれば、おのずから国会のあり方も決まってくる。

 明治十五年三月、伊藤は勅命によって憲法調査の旅に出た。四回目の洋行であった。もう四十二歳、熟年といわれる年代に達していた。

 今回は、ドイツが目的地だった。鉄血首相ビスマルクが猛威を振るっていた。ベルリンでビスマルク首相に会って、憲法学者のグナイスㇳ博士を紹介された。このグナイスㇳとオーストリア・ハンガリー帝国のシュタイン博士が伊藤の「先生」となった。

 両者は、絶対君主制のもとでの国会でなければならない、と教えた。伊藤も、日本国憲法が天皇をいただく国情にふさわしいものでなければいけない、という信念をもつようになった。伊藤はアメリカやフランス流のデモクラシーでは、国をあやうくする、などと岩倉に手紙を出している。

 伊藤は、決して専制的なタイプではない。きわめてバランス感覚が発達しているのである。帝国憲法はドイツ流の、国会の権限を制限したものにおさえる方向で制定されることになった。

 かくて、帝国憲法はドイツ流の、国会の権限を制限したものにおさえる方向で制定されるこおになった。

 伊藤参事院議長らは、明治十六年八月に帰国した。上海で岩倉右大臣の死去を知った。伊藤自身が明治天皇と直結しなければならなくなった。リーダーとしての責任が、ますます重くなった。

   鹿鳴館と弾圧   

 さて、国会開設のスケジュールが、明治二十三年(一八九〇)と決定したので、板垣退助はそれまでの結社を「自由党」、そして、追放された大隈は、「立憲改進党」を創立し、両党が競争しながら共存するかたちとなっていた。

 伊藤・井上らは、この両党が手を握ることを恐れて、分裂工作を策した。そのいっぽうで、政府系の「立憲帝政党」をつくらせ、福地源一郎が主宰し、欽定憲法(きんていけんぽう)(天皇が制定するもの)の制定をとなえさせた。

 こうして、御用政党を結成させるととともに、板垣の抱き込みをはかった。たまたま、伊藤が憲法調査の旅に出た直後に、板垣が岐阜市で暴徒に襲われるというアクシデントが発生した。 

「板垣死すとも自由は死せず」の名台詞(せりふ)がひろまり、自由民権運動は盛り上がるのだが、肝心の板垣には裏があった。

 負傷から回復して、板垣は渡欧の旅に出かけるが、その資金後藤象二郎(土佐出身、もと参議)を通じて三井財閥から出ていたのである。

 このことが、改進党系の新聞にすっぱ抜かれたため、両党がおたがいにたたき合い、また、自由党が分裂してしまった。

 伊藤・井上の謀略が効を奏したのだ。明治二十三年までに、民間ペースの政党の勢力が強まると、藩閥主導の国会が維持できなくなる。伊藤らは、分裂工作で内ゲバを(あお)り、急進分子には官憲の手で圧力を加えることによって、憲法制定、国会開設までの時間稼ぎに成功したのであった。

 藩閥政府はもう一つ、重要な外交上の難題をかかえていた。幕府が結んだ不平等条約の改正であった。

 明治十六年に東京内幸町(うちさいわいちょう)に建てた坪一三〇〇平方メートルの、煉瓦造り、ルネッサンス風の洋館が建造された。これが「鹿鳴館」である。

 条約改正を有利に導くため、外国の国賓や外交官を招いて接待する社交場であった。伊藤参議は、もと芸者だった梅子夫人を伴って、鹿鳴館でのパーティやダンスにみずからうち興じ、醜聞をまき散らした。

 明治十八年には、太政官制(だじょうかんせい)が廃止され内閣制度にかわり、伊藤は初代の内閣総理大臣に就任した。同年十二月二十二日から、約二年四か月、初代首相の座につく。また「華族令」(明治十七年)を制定して、臆面もなく自分に伯爵を授けた。新しい組織をこしらえると、そのトップにすわる。そして、そのシステムが機能を発揮するまで、その地位にとどまる。

 それが、伊藤流の長期政権維持のコツだったようである。それだけ明治天皇に深く信頼されていた、ということだろう。

 首相になっても、伊藤の洋風趣味はエスカレートするばかりだった。葉巻のヘビースモ―カ―だったようで、ビスマルクのまねとけなされても、平気だった。女性関係についても、開放的でこそこそしたりしていない。

 ところで、この条約改正や鹿鳴館が、民権派から集中攻撃を受けることになる。井上原案が不徹底な内容だったことも手伝って、ついにいったん井上外相が辞任に追い込まれることもあった。外国人犯罪の裁判権が日本側にないような案をつくったからである。

 明治二十年の夏、伊藤首相はふたたび盛り上がった民権運動によって、ピンチに見舞われた。いったん敵対していた自由・改進両派が連合して、藩閥政府の打倒を公然ととなえるにいたった。

 ここにおいて、伊藤は同郷の山県有朋(やまがたありとも)内相とともに、強権発動へと踏み切った。十二月二十五日に「保守条例」の公布、即日施行、翌二十六日に東京で開催予定の大集会を禁圧したのである。

 若き日の革命家らしい武断が発揮されたのだ。かならずしも妥協だけの政治家ではない。ここ一番が正念場というとき、かつてロンドンから危険をおかして帰国、長州の滅亡を救ったような鉄人にもなる。

 ところがいっぽうでは、井上の辞任であいていた外相のポストに、なんと政敵ナンバーワンの大隈を据えたのである。ムチのあとにアメ、というわけだ。また、困難な条約改正の仕事をおしつけよう、ということか。成功すれば儲けもの、失敗したら大隈のせいにする……。事実、そうなってしまう。大隈がそれを承諾したのだから不可解である。これでまた、民権運動が鎮静してしまった。したたかな人事管理といえる。

 そうしておいて、伊藤は次期首相を黒田清隆(くろだきよたか)にゆずった。そして、新設したばかりの枢密院の議長にまたもやみずから就任した。目前に迫った憲法制定に全力をあげるためだった。

 さて明治二十二年二月十一日、「大日本帝国憲法」の発布は、黒田首相のとき。その年の十月、伊藤は枢密院議長の辞表を出した。

 明治天皇は、それを受けとろうとせず、伊藤に約束するように求めた。

「自分のそばにいてほしい。大問題があったときは相談にあずかる。政界復帰することもある。この三点を約束してくれれば、辞表を認める……」

 伊藤への信頼は、絶大であった。伊藤は涙を流して約束した。これより二十年、伊藤は新政府の「元勲」としての地位を不動のものとし、「院政」服をしくことができるようになったのだ。時に、四十九歳の年齢をかさねていた。

   元勲としての院政と死

 明治二十三年(一八九〇)十一月二十五日、第一回帝国議会の開催。伊藤のプロジェクトは実ったが、三百議席の過半数を民権派が占めたのは、誤算だった。三代目の山県有朋は、貴族議院議長に伊藤を引っぱり出し、巻き返しをはかった。 

 政界は、近代日本の大プロデューサーの引退をなかなか許さないのである。それどころか、朝鮮の覇権をめぐって、東アジアに緊張が高まるいっぽうで、松方正義内閣が国会解散、選挙干渉に踏み切り、軍隊を出動させるという内政の混乱にいたって、伊藤はみずから事態収拾に立ちあがった。

 明治二十五年八月、伊藤は第二次内閣を組織し、山県・井上・黒田といった大物を入閣させた。外相には、紀州藩出身の陸奥宗光(むつむねみつ)を据える。この陸奥起用が結果的には、明治二十七年からの日清戦争の開戦と勝利につながった。 

 藩閥外の人事が成功したのである。だが、伊藤自身はぎりぎりまで非戦論であり、軍部の主戦論の火消しをつとめた。このため、参謀本部の川上操六(かわかみそうろく)、陸奥外相ら作戦や交渉の実務担当者が、伊藤首相の耳に逐一情報を伝えないで、事を進めた形跡がある。

 伊藤がそれを承知のうえで、気がつかないふりをしていたように思われるが、かなり、圏外におかれていたようでもある。

 ことに、明治天皇ご自身も、開戦した場合にロシアをふくめた列強の干渉を招くことをいたく心痛され、伊藤首相にご下問になった、と伝えられる。

「大臣たちの戦争である」

 天皇ご自身が、日清戦争を評価されたように現地の当局、陸奥外相らの事務レベルが、独走したことはほんとうのようだ。さすがの伊藤もリーダーシップをうしなったのであろうか。

 それでも、開戦したのちには、的確な措置をプロの政治家としてとっているのをみると、明治天皇のご心配を知っていたので、非戦のポーズをことさらみせたのか。卓抜した演出、演技力の持ち主であるから、なんともわからない。

 ただ、幕末での長州の外国船砲撃に際して示した非戦論を思えば、無用の戦争をきらい、政治・外交交渉で有利に選ぶことが上策、という信念は終始もっていた。

 秀吉との比較になるが、天下を統一した晩年の異常な行動を棚あげすれば、織田信長に仕えていたころ、流血・虐殺に反対していたし、天下取りのプロセスでも、武力衝突をできるだけ、避け、攻略で相手をとり込んでいる。

 だからといって、秀吉が非戦論者ということにはならな。伊藤も同じで、「恐清(きょうしん)病者、恐露(きょうろ)論者」と罵られても、非戦の姿勢をみせたのは、日本の実力がそれほど強くないことを心配したからであろう。殖産興業政策が足を引っぱられて、国富がマイナスになることを恐れたこともあろう。それに、負ける戦争はやるべきでないということだ。明治政府最大のニューリーダーは、現実主義路線の信奉者だった。そうでなければ、これほど早期に文明開化することは不可能だった。

 伊藤は、自分の手でつくりあげた近代日本という楼閣が、有害な摩擦によって崩れるのがたまらなくいやだったにちがいあるまい。

 日清戦争は、戦闘では優勢だったが、ロシアなどの「三国干渉」によって、外交戦でいちじるしく戦果を後退せざるをえなくなった。伊藤首相が開戦に反対したとすれば、三国干渉のような事態を予見をしたからである。

「清国と戦えば、利害関係のある他のくにがある時期にきっと口出ししてくる。そうなってくると、日本の安全を脅かす大事になるだろう」

 伊藤首相は、開戦の直後に大本営で、以上のような演説を行っている。

 これは、特別な情報があってのスピーチではない。それこそ、四回にわたって先進国を見聞し、青春時代に長州藩の「外相」として、イギリスなどと交渉した苦しい体験からつかんだものである。

 日清戦争のあと自由民権系の政党に手を焼いた伊藤は、明治三十三年、「立憲政友会」を組織して総裁となる。得意とする先取り戦術である。元勲があえて政党内閣の首班となる道を選んだのだ。山県有朋ら政党ぎらいの長老が、猛然と反対したのはいうまでもない。

 発端は、憲政党(旧自由党系)の星亨(ほしとおる/rt>)・松田正久・末松謙澄(すえまつけんちょう)らが、伊藤を党首にかつぎ出そうとしたことであった。伊藤は代案を出し、憲政党を発展的に解消して、ひろく同志を結集し、大政党の助成をはかった。伊藤系の西園寺公望・金子堅太郎らの英才がスカウトされた。同年九月に結党。伊藤総裁が実現した。政友会は、発足当初から衆議院で絶対多数を占めていた。

 山縣有朋は、第二次内閣を投げ出し、伊藤総裁に第四次内閣の組閣を要請した。明治三十三年十月に成立した伊藤内閣は、陸海と外務のほかは、政友会の党員で閣僚のポストを占めた。

 立憲政友会は、初の政党内閣となったのである。しかも、その系統は現在の自由民主党にまでたどれるのであって、伊藤は保守安定政権のパイオニアともいえるのだ。

 はたせるかな、それから十年たって、明治三十七年に日露戦争となった。首相は、桂太郎は長州出身である。伊藤は、日露協調の外交路線を主唱していた。桂首相・井上馨らが伊藤にロシア訪問をすすめた。

 伊藤が本気になってロシアへ旅に出ると、イギリスの外交姿勢が急変した。小村寿太郎外相らは、日露開戦にそなえて、日英同盟を進めていたが、イギリスはいっこうに煮えきらなかった。

 それなのに、大御所(おおごしょ)である伊藤公がロシアに出かけたと知るや、イギリスはあわてて日英同盟を急いだ。したがって、もしも伊藤訪露がなければ、日英同盟は成立せず、日露戦争のゆくえがどうなっていたか、わからない。訪露が、日本の国益に貢献したことはまちがいないことであった。

 日露戦争のまえにも、明治天皇は桂首相その他に、「このことは、伊藤に相談したか」と尋ねられたそうである。日清戦争が事務レベルの専決でスタートしたと、思っておられたからであろう。明治天皇は、伊藤流の現実主義を国益にプラスするものと受けとめられていたのである。

 それだけに、晩年の伊藤は期待にこたるためにますます慎重にならざるをえなかったのであろう。ともかく、責任あるポストにいないときでも、伊藤は元勲として「院政」をとりつづけたのであった。

 明治三十八年十一月、日本は朝鮮を保護国とした。伊藤はみずから進んで、初代の韓国統監府総監となり、京城(けいじょう)(ソウル)におもむいた。老いて(さか)んな開拓者精神というべきか。新しいもの好きなのだろう。

 明治四十二年十月、満州(中国東北部)へ目的のない、といわれる旅に出た。二十六日朝九時過ぎ、列車がハルピン駅に着いた。駅頭に、ロシアの大蔵大臣が出迎えにきた。ロシア兵がきていて、閲兵してほしい、というのである。閲兵が終わったすぐあとで、凶弾が発射された。犯人は、朝鮮人の安重根(あんじゅうこん)だった。

 十時過ぎ、伊藤は劇的な生涯の幕を閉じた。六十九歳であった。

 十一月四日、東京日比谷公園で国葬がとり行われた。

 伊藤の死は、朝鮮併合の口実となった。その死がニューリーダーの最後の大事業となったのである。

2019.08.28


☆48田中正造(1,841~1,913年)


 油井 正臣著『田中正造』(岩波新書)1984年8月20日 第1刷発行 

     はじめに P.ⅱ~ⅳ     

 足尾鉱毒問題は、日本の資本主義化、近代化がもたらしたものであり、それは近代文明のネガの部分を構成しているのである。

 この問題を半生涯かけて追求したのが田中正造であった。正造のなは十数年まえとは比較にならぬほど国民のなかに知られるようになった。中学・高校の社会科、日本史の教科書のほとんどが、足尾鉱毒事件と田中正造をとりあげている。

 田中正造が戦後になってふたたび注目されるようになったのは、昭和四十年代(一九六〇年代後半)になってからである。それは、一つには、戦後民主主義の危機が叫ばれるなかで、草の根民主主義の原点として、土着の思想家として正造に関心がむけられたのである。もう一つは、戦後の高度経済成長の結果として公害問題の噴出するなかで、「公害の原点」として足尾鉱毒事件がみなおされ、正造の指導者としての行動と思想が検討されるようになったのである。

 そのとき以来正造は、戦前――というよりも正造がまだ生きているときから――すでにつくりあげらていた、一身を犠牲にして鉱毒被害民を救おうとしてついには天皇に直訴までした「義人」というイメージから解放されて、新しい人間として甦りつつあるといえよう。それらは、正造を明治期のすぐれた社会運動家としてでなく、また広く深い洞察力をもった思想家としてとらえようとしているのである。

 それは、足尾鉱毒問題に自己を賭けてからの正造にだけみられるものではなく、明治一〇年代の自由民権運動の潮流に身を投じてからの正造のなかで自覚的に養われてきたものであったといえよう。このときから、正造はすでに独自の政治観、政党観もった民権家であった。やがて、明治二三(一八九〇)年の国会開設にともなって代議士となった正造は民党政治家として独自の明治憲法への理解をもちながら明治政府と対立する。その過程で正造は足尾鉱毒事件に出会うのである。正造は憲法を武器として明治の国家権力にぶつかっていった。そして藩閥政府にやがては議会・政党にも絶望しながらも、この闘いをやめなかった。そして最後には、正造の言葉をかりれば、谷中村に「厠(せちん)づめ」になりながらも、残留民とともに自治村の復活のために闘うのである。

 このような生涯をつうじて、正造は実にたくさんの手稿類と日記と手紙を遺した。それらは決して体系的著作とはいえない。がしかし、そこにもりこまれた思想は、体験をより合わせるようにして紡ぎだされた思想であり、反省と省察によって深められ、新しい展開をみせていく。そこで提示された問題の核心は、人権と自治の思想であり、軍縮全廃論にみられる平和の思想であり、自然との共生をもとめる水の思想である。これらはいずれも現代における切実な問題であるといえよう。

 そして、正造は民衆の側に身を寄せ、民衆の立場からこれらの思想を発想し、深めていった。これは正造がつねにみずからを「百姓」として位置づけたことによって可能になったように思われる。

 その意味で、自叙伝冒頭の一節「予は下野(しもつけ)の百姓なり」という言葉は、正造の生涯をつらぬく通奏低音であるといえよう。

 本書は正造の生涯をたどることによって、これらのことをあきらかにしていきたい。

参考:田中正造と足尾鉱毒事件 (高校の日本歴史の本から) 

 田中正造は栃木県の豪農出身で県会議員をつとめ、1880年前後は国会開設運動に加わり、1890年年の第一回総選挙で衆議院員に当選し、立憲改進党に属した。同年の渡良瀬川の洪水で足尾銅山の鉱毒問題が表面化すると、翌年の議会で田中は政府にその対策をせまり、また地元農民らが農務商務大臣あてに鉱毒除去と銅山の操業停止などを求める請願書を提出した。その後、内村鑑三・木村尚江・島田三郎ら、知識人・言論人のあいだにも被害民を支持して鉱毒問題の解決をもとめる声がたかまり、新聞も大々的にこれをとりあげるようになった。政府もようやく鉱毒調査委員会の調査により、銅山に鉱毒排除を命令したが効果はあがらず、1900年には陳情には陳情のために上京しようとした被害民と警官隊が衝突して多数の検挙者をを出した(川俣事件)。議会での請願や質問に効果がないのをみた田中は、翌年議員を辞職し、明治天皇に直訴をくわだてたが成功しなかった。その後政府は渡良瀬川の洪水調節のため、流域の谷中村に遊水地の建設を計画し、住民をたちのかせようとしたので、田中は谷中村村民とともに反対運動をすすめた。しかし、結局、谷中村は廃村となり、遊水地がつくられた。足尾銅山が全面的に閉山したのは、1973年、田中正造の死後60年のことであった。

 『田中正造』(岩波新書)P.168 直訴 1901年12月10日、第一五議会開院式から帰る途中の天皇に正造は直訴をおこなった。厳重な警戒のなかから駈けだした正造は、直訴状を手に、「おねがいがございます」と叫びながら天皇の馬車ンいせまったが、警護の騎兵がこれをさえぎろうとして落馬し、正造もつまずいて転び、警戒中の警官におkさえられてしまった。直訴状は正造の依頼によって幸徳秋水が執筆し、その朝になって正造が文章を補訂し、検印したものであった。

 正造は麹町警察署で検事らの取調をうけ、身体検査もおこなわれ、精神に異常がないことが確かめられると、その日の夜釈放され芝口越中屋の鉱毒事務所に帰った。 

正造は今よりのちはこの世にあるわけの人にあらず。去る十日に死すべき筈のものに候。今日命あるは間違いに候。

   直訴のあと、正造は妻カツにこう書いた。


森 信三 先生『一日一語』九月四日

 今日は義人田中正造翁が、同士庭田清四郎の家で最後の呼吸を引き取った日。
 枕頭に残された遺品としては、頭陀袋一つ。中にあったのは聖書と日記帳、及びチリ紙と小石数個のみだったと。
 戦前正造に関しては五巻の「義人全集」があるのみだったので、
 翁の遺弟の黒沢酉蔵氏や雨宮義人氏等と語らい「全集」刊行の議を起して発足したが、途中岩波書店に引き継がれ、
 (その間多少遺憾な経緯はあったが)今や完璧な「全集」の刊行されつゝあることは、事に関わった私にとっては望外の欣びです。

参考:枕元に遺された信玄袋には、日記三冊と「苗代水欠乏、農民寝食せずして苦心せるの時、安蘇郡及び西方近隣の川々細流巡視の実況およびその途次に面会せし同情者の人名略記 内報その一号」と題された草稿、新約全書一冊、帝国憲法とマタイ伝を綴じあわせた小冊子、それに石ころ数個に鼻紙が少々あった。油井正臣著『田中正造』P.216


 田中正造

  今日の病気の数々

一、文章が悪いと見ない。

一、貧乏人の願出は見ない。

一、無勢力の意見はきかぬ。

一、正直な忠告は耳にせぬ。

一、主義より出る目的は嫌う。

一、国家も社会も目になくなる。

一、都合と私利と虚栄の脳充血。

一、下より申出る諂諛侫言(へつらい)は、欺かれながらも面白く、もっとも千万に聞こえる。

 其他、病者百出は今日政治上の病気なり。薬では駄目。法律では駄目。ただ一つ精神療法あるのみ。(日記)

 九月四日死す。栃木県人。自由民権運動に活動し、第一回の代議士当選後、足尾銅山の鉱毒により荒廃した渡良瀬川沿岸の救済に一生を捧げた。

*桑原武夫編『一日一言』―人類の知恵―(岩波新書)よりP.147 より

追加:2009.10.18


 大原孫三郎は足尾銅山の鉱毒問題への関心。『大原孫三郎傳』(非売品)P.25~ による

 東京遊学 明治三十年

 当時大きな社会問題として世論を騒がしていたものに足尾銅山の鉱毒問題があった。同地の有力者田中正造は、政府にその善処方を迫り、野州の佐倉宗五郎としてその義侠的活躍をうたわれていた。ついに政府も椊林と農民への免税措置をとったのであるが、孫三郎はこの問題の成行きに特別の興味を覚えていた。たまたま同宿の坂梨米吉の所へ一橋高等商業学校の友人森三郎が訪ねて来、孫三郎もその時初めて森を知った。

 その席で話が鉱毒問題に及ぶと、彼と森とは相共鳴する義憤を抱いていることが分かったので、意気投合した二人は現地を視察しようということになった。九月、二人は日光から足尾に入り、難路を踏破した後、三日後に帰京したが、その道すがら二人は鉱毒問題について盛んに論じ合い、現場を視察して問題の重大性を一層切実に感ずるとともに、二人の仲はますます親しさを増した。孫三郎は森の海外留学に対して学費を援助するよう父に求めたほど緊密な仲になったのである。

参考:森三郎からの二宮尊徳の著作 倉敷での悔恨と自責の日々の孫三郎に、東京の森三郎から書籍が送られてきた。一橋の高等商業の学生、森三郎は、孫三郎が麹町の下宿、望遠館にいたころの下宿仲間の友人で、義憤を感じた足尾鉱毒事件の実地調査へ孫三郎と2 人で出かけたことがあった。11 歳年長の森三郎は、学問を途中で止めてしまった孫三郎を憂い、「金持ちの息子にはとかく悪い友人がよってきやすいもの、この本を読んで前途を慎むように」というアドバイスと共に二宮尊徳の『報徳記』を送ってきた。『二宮翁夜話』も同封されていたという説もあるが、いずれにしても孫三郎は、夢中で読んだ二宮尊徳の報徳思想に感銘と影響を受けた。インターネットによる。

追加2;NHKのドラマ「足尾から来た女」(前篇)が2014.01.18に放映されていた。当時の社会的風潮が織り込まれていて歴史の勉強になった。

※引用書籍が何ページにかかれているかを明示した。大原孫三郎の記事を追加した。219.04.26


☆49渋沢 栄一 一物に接するにも必ず満身の精神を以てすべし(1,841~1,931年)


 生まれた時期が幕末の天保年間、在所が関東平野の中央に位置する武州、血洗島村(ちあらいじまむら)(埼玉県大里郡八基村)と聞くだけで、波乱に満ちた人生が予想されそうな渋沢栄一の誕生である。

 家は代々富農で、農耕や養蚕、藍作りのほか、藍玉(藍の葉を醗酵させて固めた染料)の製造販売や金融業も営んでいた。幼少から家業を手伝った渋沢は、十四歳のころ藍玉の販売、藍葉の大量買占めをひとりでやってのけるるという商才をみせているが、その若き日の藍への思いは、後年彼が青淵(せいえん)"といったことをみてもわかる。青淵とは、藍玉のなかの最高級品の呼称である。 kamisakaotoko2.jpg  家業に奔走すると同時に学問への情熱も燃やした渋沢は父から漢学を、隣りの手許村(てばかむら)尾高惇忠(おだかあつただ)について儒学を、渋沢新三郎に神道(しんとう)無念流の剣をまなんでいた。当時、血洗島村の領主は安倊摂津守で、その代官所は一里ほど先の岡部にあった。十七歳のとき家のみょう大で代官所に赴いた渋沢は、代官から御用金として五百両おさめよと申しつけっられた。帰って父に相談いたしますと渋沢が応えると、代官はいかにも莫迦にしたように冷笑をうかべ、

《貴様はつまらぬ男だ、いま此の場で直に承知したと挨拶しろ》

 という。

 この日の屈辱が、封建制度に対する不満と反抗となって、やがて渋沢は尊王攘夷の道を突っ走ることになる。

《(代官は)当然の(ように)年貢を取りながら返済もせぬ金員を、用金とか何とかなを付けて取り立てて、その上、人を軽蔑嘲弄して、(まるで)貸したものでも取返すように、命示するという道理は、そもそもどこから生じたものであろうか、察するに彼の代官は、言語といい動作といい、決して知識のある人とは思われぬ、かような人物が人を軽蔑するというのは(官職を世襲するという)徳川政治から左様になったので、もはや(幕府は)弊政の極度に陥ったものである(略)。自分もこのような百姓をして居ると、彼らのような、いわばまず虫けら同様の、知恵分別もない者に軽蔑せらねばならぬ、さてさて残念千万なことである。これでは何でも百姓を()めたい、余りといえば馬鹿馬鹿しい話だ。ということが心に浮かんだのは、すなわちこの代官所から帰りがけに、自問自答した話で、今でも能く覚えて居ります》(『雨夜譚』渋沢栄一述、長幸男校註)

 いらい渋沢は《慷慨憂世》の思いを抱いて、尊王攘夷派の尾高淳忠、渋沢喜作と共に六十九人の同志を集めて武装蜂起して「高崎城乗取り、横浜焼打ち」の一大攘夷計画をくわだてる。幕吏の知るところとなり、計画は頓挫。渋沢は血洗島村を出奔、江戸にむかう。二十四歳の時である。

 こののち渋沢は、人生の大転換をむかえる。一橋家の用人、平岡四朗のすすめで攘夷論を捨てた渋沢は、一橋慶喜の御用談下役として出仕するが算勘の才を認められ一橋家の財務を預る御勘定組頭となる。

 人生の運というのは、こうしたものであろう。二年後の慶應二年(一八六六)一橋慶喜は徳川家を嗣ぎ、十五代将軍に、家臣である渋沢もまた幕臣となる。翌年、慶喜の命をうけた渋沢は、パリ万国博にむかう慶喜の弟、徳川 昭武に随行してヨーロッパ各国を巡歴することになった。この西欧視察の旅で渋沢は、攘夷思想の無意味さと、ヨーロッパの工業や経済制度の重要さを、いやというほど思い知らされた。これからの日本は、

 「一に経済、二にも経済」

 だと、経済の仕組みや、金融制度、株式制度の知識の吸収に渋沢は夜も昼もなく没頭する。

 こうして、明治元年(一八八八)十一月、徳川昭武一行は帰国。が、この間、日本は大きく変わっている。徳川幕府はすでに瓦解し、将軍慶喜は静岡の地で謹慎の身であった。その静岡藩の勘定組頭として出仕した渋沢は、わが国最初の共力合本法(きょうりょくがつぽんほう)(株式会社制度)組織の商事会社、商法会所(取引所)を設立した。この成功がやがて明治新政府知るところとなり、大蔵省にまねかれた渋沢は、租税正(そぜいしよう)(局長クラス)として大蔵省の実力者、井上(かおる)の右腕となって活躍する。が、政府内部の各省と意見が合わず、井上と共に辞職し、野にくだった。

 以来、六十年、合本主義の旗手として実業界に乗り出し「経営の指導者」「会社づくりの名人」として渋沢がはたした役割は大きい。第一国立銀行を設立し頭取となり、つづいて国立銀行条例の改正、銀行集会所の設立、日本銀行の設立……王子製紙会社、日本郵船、大阪紡績、加えてわが国最初の私鉄、日本鉄道から鉄道国立化にいたるまで、彼が手掛けた鉄道は日本全国にひろがり、おびただしい数になった。この他にも「およそ彼が着手した事業で成功しなかったものはない」といわれたくらい、経営の世界における彼の洞察力と指導力は卓絶していた。渋沢がかかわった業種は、以上のほかに、

 保険、鉱山、製鋼、陶器、造船、印刷、精油、築港、開墾、機械、教育、セメント、ビール醸造、煉瓦製造、水産、製糖、人造肥料、硝子製造、ホテル経営、輸出入業、倉庫……

 など五百余、日本の産業すべてが網羅されているといっても言いすぎでではない。

 「実業家というのは(わが頭脳と腕で)金を儲けることによって国に尽くしているのだ」

 と強い信念ももつ渋沢は、政府の要人に癒着し、その特権によって暴利をむさぼっている政商たちの醜状に、日頃から苦々しいものを感じていた。

 その渋沢栄一が生涯の信条とした家憲三則がある。第一則 処世接物の綱領。第二則 修身斉家(しゅうしんせいか)の要旨。第三則 子弟教育の方法。これらの中から味わいぶかい《処世接物の綱領》の(くだり)を抜きだしてみよう。

《一 言、忠信を主とし、行、徳(篤)敬を重んじ、事に処し人に接するには必ずその意を誠にすべし。

 一 益友を近け、搊友を遠ざけ、(いやしく)もおのれに(へつら)う者を友とすべからず。

 一 人に接するには必ず敬意を主とすべし。享楽遊興の時と雖も、敬礼を失うことあるべからず。

 一 (およ)そ一事を為し、一物に接するには満身の精神を以てすべし。瑣事(さじ)たりとても之をゆるがせ(おろそか)に付すべからず。

 一 富貴に(おご)るべからず、貧賤を患うべからず。唯知識を磨き徳行を修めて、真誠(まこと)の幸福を期すべし。

 一 口舌は禍福の()つて生ずる処の門なり、故に片語隻語(せきご)と雖も、必ずこれをみだりにすべからず。》

 渋沢の口癖は

 「事業は人なり」

ということであったが、晩年その『青渕百話』のなかで、

   「事業家として最も警戒せねばならぬことは、協力者の不道徳、不信用だ。これほどおそるべきものはない」

 と語っている。

 財界の雄、渋沢財閥の大御所として活躍するかたわら彼は、後進の育成のために東京商法講習所(のち東京商科大学・現在の一橋大学)をはじめ多くの実業学校を創設し、援助をした。

 昭和六年、子爵、渋沢栄一は九十二歳の波瀾多い人生の幕をとじた。

神坂 次郎『男 この言葉』(新潮文庫)P.148~152


参考:『論語 巻第八 季氏第十六』

四 孔子の曰く、益者(えきしゃ)三友、搊者三友、直きを友とし、(まこと)を友とし、多聞を友とするは、益なり。便辟(べんぺき)を友とし、善柔を友とし便佞(べんねい)を友とするは搊なり。

2008.10.15


kanedareiko.ooharamagosaburou.png  「東の渋沢栄一、西の大原孫三郎

 公共性を重視して活動した企業家としては、様々な名前が挙げられるだろう。しかし、経済活動と社会公益活動の両分野で大きな働きをした人物として、渋沢栄一を欠かすことはできない。

 「東の渋沢栄一、西の五代友厚(ごだいともあつ)」という表現がある。これは、関東地域では渋沢が、関西地区では五代(一八三五*八十五)が、日本の資本主義、経済界の発展の礎をつくったという意味であるが、事業活動だけでなく、公益性や社会文化貢献事業にも尽力したという側面を考慮した場合、五代ではなく、「東の渋沢栄一、西の大原孫三郎」という表現も可能ではないか。それほど、渋沢と孫三郎の活動には類似点が見受けられる。実際、小学校の社会科の教科書のなかには、「近代化につくした人々」として渋沢と孫三郎に写真を並列して掲載し、両者を社会貢献を含む近代化に尽力した人物ととらえられているものもある。(『新しい社会 六 上』東京書籍、一一五頁)。

 欧州見聞とカルチャーショック

 「日本資本主義の父」、「近代化の父」と呼ばれた渋沢栄一は、江戸末期の一八四〇年(天保十一年)に現在の埼玉県深谷(ふかや)市に誕生し、攘夷の志士から転じて、一橋家に仕えることになった。そして、一八六七年(慶應三年)、徳川慶喜(よしのぶ)(一八五三*一九一〇)の弟昭武(一八五三~一九一〇)に随行して、パリでの万国博覧会、そして欧州社会を見聞する機会を得たのであった。

 この欧州滞在時に渋沢は、武士が支配する日本社会との違いに気づいた。欧州では、商人地位の高さが国富につながっていること、また、役人が自国のものを売りこむことは決して恥ではないことを知り、日本の経済や産業の近代化のためには、人々の意識を大きく変えなければならないことを痛感した。

 そして、渋沢は、江戸時代の官学であった朱子学に起因した、「商人は左の物を右へ取り渡すだけのゆがんだ利益を取る」、「義を重視する武士と異なり、商人は利益を貪る」という賤商観(せんしょうかん)を払拭し、政界、官界だけではなく、実業界にも優秀な人材が集まるようにしなくてはならないと考えた。そこで、渋沢は、自分が考えるさいや行動するさいの拠り所としていた『論語』を基に、「論語と算盤」という表現で道徳経済合一説を唱えた。渋沢は、仁義王道と貨殖富貴が両立されないなどという文言は『論語』のどこにもないことを主張して、殖利が義にそむかないことを力説したのであった。

 五百の経済事業、六百の社会公益事業に関与

 儒教的人道主義者で、国のために尽力するとう意識が強かった渋沢は、求められたさいには厭わず、様々な事業活動に尽力した。「財界の大物」といわれた渋沢が関わった経済事業の数は約五百、社会公益事業の数は約六百といわれている。事業数でいえば、社会福祉、保健・医療、労使協調、国際親善および世界平和促進、教育、災害運動などの社会・公共事業のほうが経済的な事業よりも多いのである。

 渋沢も孫三郎同様、金銭を儲けることだけに専心した企業人ではなかった。経済活動と社会公益活動の両方に積極的に関わり、経済と倫理の調和を追及した企業家の先駆者であった。(以下略)

※兼田 麗子著『大原孫三郎━━善意と戦略の経営者』(中公新書)P.193~196より

参考:大原孫三郎

2015.12.24


☆50新島 襄(1,843~1,890年)


 新島襄は、キリスト教に改宗した、最初の近代日本人の一人であった。

 友人がキリスト教の宣教師が中国語で出版した、西洋の地理や歴史に関する、いろいろな書物を貸してくれる。彼がとくに深い興味を感じたのは、上海と香港で出版されたキリスト教についての、何冊かの本であった。初め彼は本の内容にいくらか懐疑的だったが、神のことを、「天なる父」と言っているところで、深い感動を受ける。彼は「私の若き日々」の中で、つぎのように記録している。

 「神は私の天の父と認めてからは、私は、もはや両親に離れ難く結び付られているとは感じなくなった。私は初めて、親子の関係に関する孔子の教えは狭すぎ、またまちがっていると気づいた。私はいった。『私はもはや私の両親のものではなく、私は神のものだ』と。その瞬間、私を父の家に強くつなぎとめていた強じんなきずなは、ずたずたに断ち切られた。そのとき、私は私自身の道をすすまねばならない、地上の両親にたいするよりも、より以上に、天の父にたいしてつかえねばならないと感じた。この新しい考えが、私を勇気づけて、藩主を捨て、故国を一時離れる決心をさせてくれたのである」(児玉訳)

 次にとる処置は、はっきりしていた。外国へ出かけて行って、福音を説くだれか外国人の宣教師について、勉強することであった。当時、公的な使節団員でないかぎり、日本人が外国へ行くことは、かたく禁じられていた。

 新島 襄の『函館紀行』は一八六四年三月、アメリカで建造された帆船、快風丸で、江戸から函館まで帆走した時の体験を記録している。ところが一八六四年六月十四に日付のあと、突然衝撃的な記述が目に飛び込んで来る。すなわち、「富士屋宇之吉の周旋に依而、此夜九時過(ひそか)に宇之吉と共に小舟に乗し、米利堅(メリケン)商船に乗得たり」。すなわち新島は、日本国民の外国渡航禁止令に背いて、こっそり外国船に乗り込んだのである。

 彼は帰国後、同志社大学の前身となる同志社英学校の創始者となる。

*ドナルド・キーン『続 百代の過客』より

2008.11.14


★新島 襄 将来の日本 三版序

 余が友徳富 猪一郎(とくとみいいちろう)君さきに『将来の日本』と称する一冊子を編著し、これを余に贈り、あわせて余の一言を求めらる。余不文といえども君と旧交のあるあり。あにあえて君の好意を空しゅうすべけんや。余これを読み、その第一回より第十六回に至る、毎回あたかも新佳境に入るの感なきあたわず。けだしその論や卓々、その文や磊々(らいらい)、余をしてしばしば巻をおおい覚えず快哉(かいさい)と呼ばしめたりき。それ君の著書たる、広宇内(うだい)の大勢を察し、つまびらかに古今の沿革に徴し、いやしくも天意の存するところ、万生の望むところ、早晩平民主義をもって世界を一統すべくこれに抗するものは亡び、これにしたがうものは存し、一国民一個人のよくその勢いに激し、その力に敵すべからざるを説き、これを過去現今の日本に論及し、ついに将来の日本を図画し、その取らざるべからざる方針を示すに至り筆をとどむ。

 これを要するに、君の図画するところは他なし。すなわち公道正義をもって邦家の大本となし、武備の機関を一転して生産の機関となし、圧抑の境遇を一変して自治の境遇となし、貴族的社会を一掃して平民的社会となすにあり。しかして君の論旨中含蓄するところの愛国の意は全国を愛するにあり。全国を愛するは全国民をしておのおのその生を楽しみそのよろしきを得せしむるにあり。これ実に君の活眼大いにここに見るところあり。満腔(まんこう)慷慨(こうがい)黙々に付するに忍びず、ただちにその血性を()べ発して一篇の著書とはなりしなり。しかしてこの書初めて世に公布する客年十一月にあり。いまだ四ヵ月を経ざるにすでに再版に付し、またこれを三版に付せんとす。なんぞそれ世人購求の神速にして夥多(かた)なるや。けだし君が論鋒(ろんぽう)の卓々なるによるか、はたその文章の磊々なるによるか。しかりしこうして余は断じていわん。君がこの論を吐く徒論にあらず。君がこの文を作る徒文にあらず。天下の志士汲々これを読む徒読にあらず。これ天下大勢のしからしむるゆえんなり。ああこれ天下の大勢今すでにここに至れるなり。

  明治二十年二月

西京  新島襄

底本:「日本の名著 40」中央公論社 1971(昭和46)年8月10日初版発行 1982(昭和57)年2月25日3版発行

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☆51井上 (こわし)(1,843~1,895年)


『明治天皇と元勲』日本のリーダー (TBSブリタニカ)1982年10月9日 初版発行 P.297

 熊本出身。文部・司法に活躍した。  

 飯田氏から井上家の養子となった(こわし)は、文久二年(一八六二)熊本藩の時習館に入って学んだ。漢学に通じたうえでフランス語を学び、すぐれた知能を生かして文官の道へ進んだ。すなわち、明治三年(一八七〇)に上京して、大学(のちの開成学校)小舎長となり、翌年、明治政府の司法省につとめた。司法卿江藤新平に認められて仏・独に派遣され、帰国後、大久保利通に登用された。明治十四年に参事院議官、江藤・大久保の亡きあとは、次期政権の担当者伊藤博文の腹心となり、伊藤ら薩長閥政府が肥前(佐賀県)の大隈重信を追い落とした明治十四年の政変にはかげの工作についた。江藤・大久保・伊藤ら政界のリーダーたちがつぎつぎに目をかけて用いたところ、人並みはずれた切れ者の文官井上毅の才気と面目がうかがえる。

 第一次伊藤内閣で井上はこれまでの実績を買われて法制局長官に任命された。初代総理伊藤にとって、とくに重要な政治課題、憲法の起草であった。これより先、明治十六年八月に憲法調査を終えてドイツから帰国した伊藤が、憲法起草のために調査会を設けると、井上は伊藤巳代治(いとうみよじ)・金子堅太郎とともに同局御用掛となって、まず、内閣官制・華族令などを制定したのである。法制に明るい理論派で能文家である井上には打ってつけての事変であった。

 憲法草案は明治二十年末、ほぼできあがった。当時、横須賀市の小さな離れ島であった夏島で、伊藤らは極秘裏に草案を練り、翌二十一年枢密院を設けて初代議長におさまった伊藤のリードで審議可決された。いちおう、近代的な立憲制のかたちをとりながらも、政府の権限を重んじた欽定憲法である。井上はさらに「皇室典範」の起草に関与、第一次山県内閣の法制局長官として、「教育勅語」を起草して、教育についての基本方針を樹立した。 

 明治二十三年に枢密顧問官、第二次伊藤内閣では文部大臣になったが、井上の本領は、政治の表舞台よりも、政界のリーダー伊藤の懐刀(ふところがたな)としての活躍にあった。冷徹・鋭利な司法官僚として郡を抜いていたからである。その伊藤をたすけて才子井上毅は、憲法制定をはじめとして、天皇制と立憲制の融合をはかる数多くの政治的実績を残している。 

2019.09.06


☆52品川 弥二郎(1,843~1,900年)


『明治天皇と元勲』日本のリーダー (TBSブリタニカ)1982年10月9日 初版発行 P.301

 明治の初期において、わが国の農業団体や信用組合などの産業団体や信用組合などの設立を奨励した、この方面での先駆的な政治家。

 品川 弥二郎は長州藩の足軽の子に生まれた。十五歳のとき吉田松陰の松下村塾に学び、同門の先輩高杉晋作・久坂玄随の影響を受けて、尊皇攘夷の運動に加わった。  

 元治元年(一八六四)七月の禁門の変には長州藩の八幡隊長として戦ったが、敗れて帰国した。

 この年から、慶應二年(一八六六)の夏にかけての、幕府の第一次・第二次長州征伐では、弥二郎は防衛軍には加わらないで、もっぱら裏面で活躍した。 

 木戸孝允(きどたかよし)らとともに京都に在住。薩長の提携に奔走し、その同盟の成立に力を尽した。 

 明治元年(一八六八)一月、鳥羽・伏見の戦いで、事実上幕府は崩壊した。弥二郎は十月幕府側の残敵掃討のため、御楯隊(みたてたい)参謀として奥羽に出陣した。 

 明治二年、弥二郎は明治政府の弾正少忠(だんじょうしょうちゅう)になった。新しい時代の官僚として輝かしい第一歩を踏み出したわけであり、このとき二十七歳だった。  

 翌年三月、普仏戦争見学のため大山巌らとともにヨーロッパへ派遣された。この戦争はまもなく終わったが、六年までプロイセン地方に滞在し、さらに三年間、ドイツ各地やイギリスにも留学した。  

 この間、弥二郎はプロイセンの制度や農政・協同組合などの研究に打ちこんだ。そしてドイツ代理公使などをつとめたのち、帰国した。

 内務大丞(ないむだいじょう)となり、明治十四年農商務省が設立されると、初代太輔(たゆう)(大臣)になった。このとき弥二郎はきわめて特徴的な仕事をした。それは三菱に対抗する共同運輸会社の設立を奨励し、大日本水産会の幹事長、日本織物協会会頭になって産業を進め、農会・信用組合の結成を奨励したことであった。これはプロイセン地方で研究したところをわが国に実践したものであった。

 このあと、明治十七年に子爵を授けられ、宮中顧問官を経て松方内閣の内相となり、枢密顧問官を最後に京都に隠棲した。晩年は健康がすぐれないため、十分に活動できなかったが、評価されているのは、やはり産業団体などへの強力な肩入れである。

2019.09.04


☆53馬越 恭平(1,844~1,933年)


小島直記著『人材水脈』日本近代化の主役と裏方 (中公文庫)P.124~128

   馬越 恭平(まこし きょうへい) かつての部下を会社再建に登用

 三井物産横浜支店長であつた馬越恭平は、その前に大阪の宿屋の主人だったことがあり、商売にかけては社内第一という自信をもっていた。当時さかんであったドル相場にも手を出し、大いにもうけたつもりで、会社主任の石光真澄をよびだし、利益計算をたずねてみた。すると石光は、利益どころか、かなりの搊だ、という。馬越は真っ赤になって怒り、そんなバカな計算があるか、としかりつけた。

 石光は帳簿をもってきてくわしく説明したが、馬越は納得せず、そばにあった筆で黒々と帳面に線を引いた。

「こんな帳面があてになるか。おれの勘定ではたしかに利益があるはずだ」

とどなった。すると石光は姿勢を正し、

 「支店長、計算は決してまちがいのない組織になっておりますから、まちがいはあなたの胸算用でありましょう。しかもその上、あなたは帳簿面に墨を引かれたが、商店の会計帳簿なるものは神聖にして侵すべからざるもの、いかなる地位の人でも、これを毀搊(きそん)し、これを無視することはできません。あなたがしいてそのムリを押し通そうとするのなら、あたくしにも相当な覚悟があります」

と馬越にせまった。三等手代、月給八円の吹けばとぶような存在とはいえ、必殺の気はくがこもり、そのことばには一分のスキもない。さすが自信家の馬越にもこれには参って、沈黙することしばし、やがて、

「ああ、おれがわるかった。どうか勘弁してくれ」

とあやまったが、石光は承知しない。

「あたくしに対する申しわけはそれですみましょうが、この帳面を汚した以上、店に対して謝罪してもらわねばならぬ。それはどうしますか」

とつめよった。馬越は、棒をのんだように硬直し、無言のまま帳簿をもって神棚の前にいって供え、パンパンと柏手(かしわで)を打ち、頭を畳にすりつけること三回、ようやく許してもらったのである。

 傲岸(ごうがん)の支店長を理で屈服させた石光は、熊本の産、父真民は細川藩の産物頭頭取をつとめた清廉剛直の士、生家のあった本山村には横井(小楠の家)、喜悦(孝子の家)、古荘(幹郎大将の家)、金森(通倫の家)等々、多くの人材を輩出させた家がならんでいた。

 真澄はこの家の長男で、従兄の浮田和民(法博、早大教授)、下村孝太郎(工博、大阪瓦斯初代社長)などと熊本洋学校に通っていたが、明治九年廃校となったので上京し、やがて三井物産横浜支店にはいったものである。

 明治十五年、次弟真清(まきよ)が上京すると、真澄は双子木綿の着物に角帯、前だれかけというスタイルで出迎えた。弟は、その姿に軽蔑の念を感じた。

 真清は叔父野田 豁通(のだ ひろみち)(のち男爵、貴族議員)の家に身をよせたのち、柴 五郎(のち陸軍大将)のもとにあずけられた。柴は、野田が初代青森県知事時代、旧会津藩士の子弟二名を県庁の給仕に採用したときの一人で、当時近衛師団砲兵連隊付中尉であり陸軍幼年学校を志望している真清のためには都合がよかろうというわけであった。「遊びから完絶された私には、兄真澄が訪ねてくるのが唯一の楽しみだった」(『城下の人』)と真澄は回想している。

 真澄は月に一回、勘定のため高崎へ出張する。そのときは前夜に上京して、翌早朝、万世橋の馬車立場から乗合馬車で出発、二日ほど滞在して帰京するが、強行軍でへとへとに疲れていた。にもかかわらず真澄は弟をつれ出し牛肉屋などで夕食をたのしんだ。弟の小遣いは月一円で、それも真澄がやっていた。「八円の月給のうちから一円あたえることはずいぶん苦痛であったろうが、私は一向にそんなことに頓着なく、予算を超過しては臨時要求することがしばしばであっいた。兄は嫌な顔もしないで、そのつど三十銭、五十銭と追加してくれた」(前掲書)。支店長をトッちめる剛毅の反面に、このやさしさをもつのが真澄であった。というよりも、そのやさしさのゆに、自分の人生を犠牲にした面があるとさえいえる。

 父が死に、母もまた重態になったのが明治十七年、真清が幼年学校にはいったつぎの年である。母は、長男の結婚を見とどけなければ死んだ夫に顔を合わせられない、といいだし、孝心深い真澄は、恩師元田 永孚の紹介で河野某とあわただしく挙式したが、この新婚生活は一月で破れた。母は熊本に帰るといいだし、真澄は三井物産を退社して同行することとなった。熊本では、母の希望で旧藩士戸田家の娘と結婚したが、今度は十日目に花嫁が行方不明となった。約束した男があったのである。

 真澄は母の看護に全力を打ちこみ、ようやくもち直すと、当時では珍しい人力車を買って、朝夕、母をのせ、自分で引っぱって散歩した。これを毎日見ていた喜悦孝子(日本女子商業創立者)は、「ああ私は親への尽し方が足りないと深く自ら省みたのでした。それ以来村には親孝行な人が出来ました」と語っている。

 親孝行もほどほどにせい、と親戚のものはいい、母を説得した。真澄は三度目の妻をもらって上京し、三井物産横浜支店に復職したが、妻をコレラで失い、物産は益田社長と経理問題で衝突して退職した。このあと、いくつも会社をつくったが、すべて失敗した。しかし母には一切を秘密にしていて、三井時代と変わらなく生活費をわたすところに血のにじむ苦心をしたが、母はそれを知らず、一向にパッとしない不甲斐なさを責めることが多かった、「兄は私の手を握ってあるときは嘆き、あるときは自嘲し、私には耐えられないことが多くなった」(前掲書)。

 このとき、救いの手をのばしたのが馬越 恭平である。彼は明治二十四年、破産直前の日本麦酒醸造会社の再建をまかされた(物産は二十九年五十三歳で退社)。このとき、支配人に、かつての剛直の部下を起用しようと考えたのである。彼は真澄のがん固さにほれ込んでいた。これからの事業は、信用と資本と組織だが、一番大切なものは信用だと考える馬越は、真澄の正直と誠意を再建のカギとしたのである。彼は真澄の母にも会って、

「良いご子息をおもちです。人は勉強によって術を得ることはできます。生まれながらにそなわった誠意というものは、数万貫の鉱石の中から掘り当てた宝石のように貴いものです」

と賞め、よろこばせた。

 真澄は会社構内の小さな社宅に住みこみ、昼夜をおかず働いた。暇があれば構内の古釘などをあつめビール箱をつくった。業績は立ち直ったが、わずか三年目に、心身をすりへらした真澄は急逝したのである。しかし馬越は彼の功績を忘れず、その遺族に対する援助、命日の礼拝、正月の来訪を、大正、昭和と四十数年間、その死にいたるまでやめなかった。

2019.05.24


☆54新島 八重(1,845~1,932年)


 新島 八重(にいじま やえ)〈やゑ〉、弘化2年11月3日(1845年12月1日) - 昭和7年(1932年)6月14日)は、江戸時代末期(幕末)から昭和初期の日本女性。

 同志社創立者の新島 襄の妻として知られる。旧姓は山本。一部の手紙などでは「八重子」と署名してあることから、史料によっては新島八重子と書かれる場合もある。勲等は勲六等宝冠章。

 皇族以外の女性としてはじめて政府より受勲した人物。Wikipediaによる。

 NHKののドラマ番組「八重の桜」として放映。2013年。

2013.11.02


☆55石川理紀之助(1,845~1,915年)


 「寝ていて人を起こすな」

 「俺は農民だ。農民が農民を助けないで誰が助けると言うのだ」

 明治時代の秋田県の農村指導者。


☆56森 有礼(ありのり)(1,847~1,889年)


『明治天皇と元勲』日本のリーダー (TBSブリタニカ)1982年10月9日 初版発行 P.295

 明治初年の啓蒙教育家。外交官。

 薩摩藩士の子として鹿児島の城下に生まれ、藩校に学んだが、たいへんな秀才だったため、慶應元年(一八六五)、藩のイギリス留学生に選ばれ彼の地に渡った。十九歳のときだった。

 翌年、ロシアの首都ペテルブルグ(現在のレニングラード)を訪れ、そこから北アメリカをまわり、明治元年(一九六八)六月帰朝した。

 留守中に徳川幕府は倒れ、明治政府ができていた。すぐに官途について、公議所議長心得となるが、「官吏・軍人のほかは廃刀勝手なるべし」という議案を上司に提出して物議を(かも)した。ヨ―ロッパやアメリカの社会制度を参考にしたものだった。

 明治三年、弁務使(べんむし)となってアメリカに駐在。このとき『信教自由論』などを著した。同六年帰朝するまで、アメリカの教育・社会制度、自由の考え方などをよく学んだ。 

 有礼は帰国後、外務少輔・清国公使などをつとめたが、その間「明六社」をおこして、その社長となり啓蒙運動を展開した。『明六雑記』(四十三号で終刊)の発行にあたっては、みずから執筆するいっぽう、当時の論客、西村茂樹・福沢諭吉・西周(にしあまね)・加藤弘之・中村正直(なかむらまさなお)箕作秋(みつくりしゅう)・神田孝平ら多くの人々の論説を掲載した。

 また新思想を一般に普及するため、日本ではじめての公開講演を行った。 

 この明六社の啓蒙活動は、明治のリベラリズムを生み、自由民権運動の思想的母体になった。しかし、まもなく「新聞紙条例」の公布によって、同社は解散した。 

 有礼はまた日本の婚姻制度の改善を企て、男女同権の立場から、明治八年、自分も「契約結婚」をしてその範を示した。

 イギリス公使をつとめたあと、明治十八年、伊藤内閣のもとで初代文相となり、「帝国大学令」以下の学校令を公布して学校制度の改革を行い、国家主義的教育方針を打ち出した。 

 彼の考えのなかには新旧の思想が混在したともいわれ、キリスト教を国教とする風評が立ったことから、国粋主義者の壮士に暗殺された。四十三歳であった

 これは明治二十二年二月十一日のことであり、()しくもわが国がはじめてもった「明治憲法」の発布の日でもあった。

2019.09.03


☆57中江兆民(1,847~1,901年)


 中江兆民『三酔人経綸問答』

 『三酔人経綸問答』(一八八七)は七五年前に書かれた政治論だが、これを現代文に書きあらためて読んでみると、まったく新鮮なのに驚く。著者中江兆民(一八四七-一九〇一)が本書のなかの南海先生のように「目は全世界をながめわたし、一瞬間に千年前にさかのぼり、千年後に及ぶ」政治学者だったからである。兆民は自由民権運動の参謀として献身的努力をしたが、その運動はじゅぶんなる展開を示し得ず、彼はこの年、本書刊行後、保安条例によって東京から追放され、大阪に移り、『東雲(しののめ)新聞』によって筆陣をはった。そして三年後、第一回衆議院議員選挙に大阪からうって出て、当選するのである。

 本書はそうした状況において書かれているが、その時点における明確な政治目標に読者を導くうおうな政策論ではない。兆民はここで、政治の実践家というよりむしろ政治の学者としてあらわれている。当面の政敵を叩くというより、永遠に成長していくべき味方としての人民を教育するために、日本の政治の根本的理念を語っている。理念であって政治綱領ではないから、、示されるのは尖鋭な一本の路線ではなく、三本の組み合わせられた複合的なものとなっている。議論を三人の討論によって展開するという方法は、古く中国にあり、さらに弘法大師が道教、仏教、儒教の代表者をして語らしめる『三教指帰』がある。兆民は、おそらくこれらの先例に触発されて、本書の構成を着想したのであろう。討論者を「三酔人」として、飲酒という要素をからませたのは、読者の親しみを増す技巧であると同時に、議論を単なる理論的・直線的な構成とせず、ゆとりのある断続的展開たらしめようとしたのであろう。

 学は東西にわたり、奇説をもって知られる南海先生は、大の酒好き、そこへ一本の火酒をたずさえて二人の客がやってくる。一人はスマートな風采で、言語明晰な哲学者、洋学紳士とよばれる。もう一人は、かすりの和服の壮士風の論客で、豪傑君とよばれる。

 洋学紳士は、西洋近代思想を代表する。進化の理法を確信し、政治社会は、未開から君主専制、さらに立憲制をへて共和制に至らねばならぬ。自由こそ人間社会の最高の価値であって、これは民主制のもとにおいてしか発達しない。そこで日本は、まず自由・平等・博愛の三原則の確立をこころざすべきであって、軍備などは即時撤廃すべきである、と主張する。小国がわずかの軍備をもったところで、強国にたいしてなんの役にもたたない。万々一強国による侵略をうけたとしても、こちらは丸腰で、道義の立場で対すればよい。他の列強はこれを放置しないであろう。本来、人間は四海同胞たるべきもの、甲国人、乙国人などというのは生れの偶然にすぎず、人間はどこの国に住んでもよいはずのものだ、とまでいう。

 豪傑君はこれを聞いて怒りだす。それは学者の書斎の論議にすぎない。現実から出発しなければならないが、その現実はまさに弱肉強食、ヨーロッパの諸列強はアジア・アフリカを武力で侵略し、または商権によって圧迫している。人間にはもともと闘争本能があり、国家間の戦争は不可避なものである。小国であろうと、侵略を甘受するなどというは承知がならない。日本も大いに軍備をととのえて、強大国にならねばならぬが、資力が乏しくていきなりそうはいかない。どうすればよいか。アジアに一つの国がある。国土が広く、資源も豊かだが、老衰して力がない。日本はここに進出すべきだ。そして天皇を奉じて都もその地に移すがよい。狭い日本は、洋学紳士のような民主主義者におまかせすることにしよう。明治以後の日本には、「新し好きと」「昔なつかし」との二元素があって、争っているが、昔なつかしの連中を除去しなければ日本の改良はできない。だから、この昔なつかしの連中を動員して某国を侵略すればよい。万一失敗しても、反動分子が減るだけの効果はあるだろうという。

 もっぱら聞き役にまわっていた南海先生も、意見を求められていう。洋学紳士の説は、西洋の学者が頭のなかで考えだし、本に書いただけのこと。現実の世の中ではまだ支配的になっていない、楽しい雲のようなものだ。豪傑君の説は、昔の偉人が千年に一度だけ成功したやり方で、こんにちの時勢では実行できぬ過去のまぼろしだ。そう批判する南海先生は、まず洋学紳士の信奉する進化の神の進路を明らかにする。それはけっして直線的なものではなく、まがりくねり、左と思えば右へ行き、進むとみれば退き、退くとみれば進む。人間があっかましくも先にたって進化の神を導こうなどとしたら、そのわざわいははかりしれない。だから政治家は、進化の神の憎むところを知っておかねばならない。それは時と場所とをわきまえずに言論・行動することである。理想をもちながら、その実現においては時と場所の限定を自覚して慎重でなければいけない。

 いま問題になっている人民の権利にしても、これには二種類ある。英仏のように人民が自分たちの力で革命して取りもどした権利を「回復の民権」という。君主のほうから自発的に人民に与えたものを「恩賜の民権」という。回復でも恩賜でも、民権の本質にかわりはない。日本の民権が憲法によって与えられたことを恥じるにはあたらない。これを大切にまもり育てて、回復の民権と肩をならべるようにすべきである。これをこそ進化の理法というべきだ。

 豪傑君の中国侵略などとはもってのほかだ。これと提携して世界の平和をはかるべきである。世界の情勢も、弱肉強食などとあまり極端に考えてはなるまい。どこの国にも民主勢力があって、もはや権力者の独断を許さないはずだ。また大軍備が戦争勃発をかえって防止することもありうる。日本は防衛戦争のみを考えるべきで、侵略戦争を行ってはならない。

 最後に当面の政策をきかれて、「立憲の制度を設け、上は天皇の尊厳を強め、下はすべての国民の福祉を増し、上下の両議院を置く。外交については、平和友好を主として、国体を傷つけられないかぎり、けっして国威を高めたり武力をふるったりするようなことはせず、言論・出版などに関する規制は、しだいに寛大にし、教育や商工業は、しだいに盛んにする、といったことです」と答える。

 奇説を期待した二人があまりの平凡さにあきれると、南海先生がいずまいを正して、日常の雑談なら、奇抜なことで人を笑わせるのもよいが、いやしくも国家百年の大計を議論する場合に、どうして奇抜を看板にすることができようか、という。その後、二人の客は海外に去り、「南海先生は相もかわらずただ酒をのんでいる」というのが結びの言葉となっている。

「南海先生は相もかわらずただ酒をのんでいる」というのが結びの言葉となっている。

※中江兆民『三酔人経綸問答』桑原武夫・島田虔次訳・甲注 1983年5月25日 第22刷発行(岩波文庫)P.110 には、

「二人のお客は、あれっきりやって来ない。噂によると、洋学紳士は北アメリカに行き、豪傑の客は上海に行った、とも言う。そして南海先生はただ、あいも変らず、酒ばかり飲んでいる」と書かれている。この本の最後の言葉である。

 この三人のだれが兆民の思想を代表するかについては、いろいろの説がある。しかし三人がそれぞれ兆民の分身だとみるのが適当であろう。三人問答の形式をとったこと、また三人の説がそれぞれ深い共感をもって描かれていることが、それを示している。

 その後、洋学紳士の説は、幸徳秋水をはじめとして、内村鑑三や矢内原忠雄、そして河上肇以下のマルクス派に継承展開され、しだいに「美しい雲」は地上に近づき、戦後の新憲法となった。豪傑君の考え方は、志賀重昂(しが しげたか)、北一輝、宮崎滔天などにつらなり、やがてその間接性を喪失して、太平洋戦争に突入せしめる。これはしかし、こんにちもなお底流としてけっして消えてはいない。南海先生の斬進改良主義は、竹越与三郎をはじめ日本の穏健進歩派をささえ、大正デモクラシーにつらなり、洋学紳士の説と一部分重なったとみられる。ていねいに読めば、三人の思想はこんにちもなお生きているのであり、日本の現実は『三酔人経綸問答』の枠内にあることがわかる。明治における政治についての最高作品とされるゆえんである。

 付記。本書は現代語訳をそえて「岩波文庫」に入っている。


☆01中江兆民先生


 小島直記 男の魅力・勝負の仕方 47章 『伝記にみる 風貌姿勢』(竹井出版)、「ちの章 兆民先生」 P.49~54

 中江篤介は、青陵、秋水、南海仙漁、木強生、火の番翁などをへて、もっぱら「兆民」という号を使った。詩経呂刑編「一人慶事有りて兆民これに頼る」が出典で、「億兆の民」すなわち「大衆」という意味である。そして、「秋水」という号は、中江家の玄関番として住みこんだ幸徳伝次郎が主人からうけついだ。明治二十六年四月のことで、兆民四十七歳、秋水二十三歳の出来事である。

 その秋水は、「先生幼にして頴悟(えいご)、つとに経史に通じ、詩文を善くせる者のごとし。しかして其性きわめて温順謹厚の人なりしは、すこぶる奇なるに似たり」(『兆民先生』)と書いている。身辺にいると、権威や常識に真向からたてついた奇行ぶりばかりが眼について、温順謹厚とは正反対だった、というわけであろう。世間でも、そういう見方が一般的であった。岩崎徂堂は、醍醐忠順、中井弘田中正造中江兆民を「明治の四奇人」とよび、とくに『中江兆民奇行談』という本さえあらわしたほどである。

 東京を放逐されて、大阪で『東雲(しののめ)新聞』を創刊し、主筆となった兆民は、社名入りの印ばんをきて出社した。自由民権大会の席上、印ばんてん、腹がけ、紺ももひきという大工・左官スタイルで演説し、聴衆のドギモをうばった。

 役人時代、絶世の美女である華族令嬢と華燭の典をあげることになった。ところが花嫁の到着前に酔ってしまい、花嫁を千鳥足で迎えると、その真正面でふんどしをはずし、きんたまを両手でもって引きのばし、「今は冬であるのに、オレは一文なしで何も花嫁にやるものがない。ただここに一つのきんたま火鉢があるから、これをやろう」とさしだした。友人の一人が、「火の気のない火鉢ではしかたがない。これをおいて、大いに花嫁に馳走しろ」といって、真赤におきた炭火をその袋の上にのせたからたまらない。アッチ、ととびあがった兆民は、そのまま雲をかすみと逃げだして、縁談はこわれてしまった。

 死んだ友人の弔問にいったことがある。未亡人におくやみをのべたあと、「ちょっと」と別室につれだして、「金二両、かしてください」と申し入れた。未亡人は、なんというひとかと心中大いに腹をたてたが、変わり者だということは亡き夫にきいていたので、怒りをおさえて貸してやった。すると兆民は、ふところから黒水引と白紙をだし、借りた二両をその中につつこんで、「香奠です。仏前にそなえてください」といって引きあげた。

 第一回総選挙で当選。彼は緋ラシャの洋服で、胸にはかんぜよりで金時計をつるし、人力車であいさつまわりをした。ところが議会の低劣さに三日間であいそがつき、「アルコール中毒のため評決の数に加わりかね候につき辞職仕候」とう届をだして、代議士をやめてしまった。

 夏の炎天下で四谷を散歩した。あまり暑いので、知らない家のそばにある天水桶に浴衣のままとびこんで首までつかった。巡査がこれをとがめ、「裸にて公然かかることをなすにおいては、だんぜん違警罪をもって処分するぞ」とどなりつける。兆民は天水桶から出ると、「わがはいは決して裸ではない。このとおりゆたかを着ておるではないか。しかるに違警罪をもって処分するとは、どこにそんな規則があるか!」と大喝。巡査はスゴスゴと引きさがった。

 こういう逸話は無数にあり、なるほど奇人だ、とおもわぬわけにゆかないが、しかし「夫子自身にとって、立派に平仄(ひょうそく)が合っていた」(嘉治隆一)し、「言行をして奇矯の観を呈せしめている原因に、彼の民主主義」(小島裕馬)があった。

 明治四年、政府が海外留学生を送ることをきき、大久保利通に自己推薦をしようとおもった。しかし、一介の貧乏書生が権威赫々の大蔵卿に近づく方法はない。そこで大久保の馬丁と仲よしになり、退庁のときうしろからとびのって、馬車とともに大久保邸にもぐりこむと、いきなり主人の前にあらわれて直談判をはじめた。まず、政府の海外留学生を官学だけに限っているのはよくない、と批判。ついで、自分は学術優秀で、もはや国内においてつくべき師はなく、読むべき書もなくなった。この上はぜひ海外にやってもらいたい、といった。土佐人ならば、どうして政府部内の先輩に相談せぬか、と大久保にいわれると、彼は答えた。

 「同郷の因縁情実を利用したくはありません。そこで閣下にお願する次第です」

 冷徹無比の大久保がにっこり笑い、やがてその希望をかなえてやったのは、兆民のやり方が無邪気で、そのいうことばにスジが通っていたからであろう。

 こうしてフランスで学んでいるうち、明治七年、政府は、財政引きしめのため、自費で継続できるもの以外は帰国せよ、と命じた。このとき兆民には、フランス人が学資を出してやるからぜひ残れ、という申し入れがあったのに、あえて帰国したのは、郷里にある老母のことをおもったからである。単なる立身出世主義者でなかったことはこれでわかる。

 外国語学校長になってすぐやめたのも。常識的にはわからない。しかし彼は官学がハダに合わなかったのである。私塾をひらき、学ぶもの前後二千余人。ところが彼は決して「先生」という高処から、彼らを門弟あつかいしなかった。つねにただ一介の「書生」であり、対等のつきあいしかしなかった。

 北海道山林事業、京都パノラマ、中央清潔会社、実業畑で何一つ成功しなかったのは、無能というよりも無欲清潔だったためだ。川越鉄道の創立につくしたので「だいぶ功労株をもらわれたそうで……」ときかれたことがある。そのときの「オレはそんなものをとるのはもっとも下手であるし、またもらおうなどとはおもわない。結局だまされつつやってゆくのさ」という答えは、実業界不成功の原因をついているようである。

 第一回総選挙では、一銭もつかわず、運動もしないで当選してしまった。それというのも、当時一般人が嫌悪していた部落に出入りし、その生活に同情して改善につくしたからだ。その無私の義侠心に感じた部落民が身ゼニを切って代議士にかつぎだしたのである。

 彼は、日本の民主主義における大恩人である。それというのも、ルッソーの『民約論』を訳した功労以上に、まずもってその身を平民の地位におき、その権利をのばすために戦ったからである。嘉治隆一は、「昭和の陸軍において、ファッショ運動の元凶と見られた将軍どもが、部下の青年将校を見殺しにしながら、自分らだけ爵位をねらい、位、人臣を極めようとした非倫理性と著しき対照をなすもの」と書き、小島祐馬は「その衣食住は特権階級のなすところを学びながら、口に平民主義をとなえ、弱者の味方であると自称するがごときは、偽善にあらざれば政治商売である。これ今日の社会運動家の平然としてなすところであって、兆民のなすに忍びざるところ」と書いている。つまり、羽仁五郎などとは、本質的に人間がちがう、ということである。


 起てよ国民、酒屋、米屋、小作人、地主、呉服屋、大工、株屋、大中小商業家、工業家。公等は国民に非ずや。斬りすて御免の時代は遠き過去界中に消滅し去れり。公等すでに生産的動物の群を出でて政治的動物の列に入れり。時世と号する無形の汽車は公等を乗せて疾行しつつ、日々月々新たなる光景中に進入せり。悲しきかな、公等はこの汽車に後ろ向きに乗って、しかしてすましおれり。公等の身体は知らず知らず新たなる光景中に入れり。しかして公等の眼睛は常に後方に注ぎて…前方を見ることなし。汽車はいよいよ進みて、…公等の精神はいよいよ時に後れつつあり。(一年有半) 
12月15日死んだ急進的思想家。土佐に生れ、フランスに留学。西欧民主義をつかみ、自由民権の理論家であった『兆民選集』『一年有半』。

*桑原武夫編『一日一言』―人類の知恵―(岩波新書)P.207

2019.04.27


☆58伊庭 貞剛(いば ていごう)(1,847~1,926年)


小島直記『人材水脈』日本近代化の主役と裏方(中公新書)昭和五十八年八月十日発行 P.194~1983

   伊庭 貞剛 栄達よりも心の平静

 (おきな)は、(おうな)とともに、老人にたいする敬称だというが、この字をその雅号にとり入れた幽翁伊庭貞剛が八十歳、どん(金偏+屯)翁益田孝が九十二歳、松翁安田善次郎が朝日平吾の凶刃にかかったとき八十四歳というふうに、いずれも長寿であったのは不思議な符合であったというほかはない。そして三翁とも、それぞれの仕方でおのれの老年を享受し、後世の人間に無言の教訓をたれているかのとうでらる。

「年をとることは死ぬことよりもむずかしい」と書いたのはアミエルである。彼はこのとき三十九歳であったが、このことばにつづけて、「……一つの宝をひとまとめにして一度であきらめることは、その宝を毎日なしくずしに新しく犠牲にすることほどつらくはない、という理由によってである。わが身の衰えに耐え、わが身が小さく弱くなってゆくことを受け容れることは、死を物ともしないこと以上に(にが)く稀な徳である。悲劇的な夭折には栄光がある。つのりゆく衰には長い悲しみがあるばかりである。しかしもっとよく考えてみよう。すると、苦痛を耐え忍ぶ・宗教的な老年のほうが、若い時代の英雄的な激情よりも胸を打つものがあることがわかってくる。魂の成熟はいろいろな能力の輝きや力のゆたかさよりも価値がある。そしてわれわれの(うち)の永遠なるものは"時"の猛威によって加えられる搊害のかずかずを利用するにちがいない。そう考えると慰められる」。 

 アミエルはこのあと二十一年生きて六十歳で死んだが、その最後の日々をみると「恐ろしい夜。引きつづき不眠にさいなまれて第十四夜を迎える……」「意気消沈。……肉体と精神とのもおうさ。生きるというこは何と困難だろう。おお、私の疲れた心よ!」というように、その心境は必ずしも平穏でなく、東洋風の「悟り」というものとほど遠いような感じをうける。その印象自体、「年をとることは死ぬことよりもむずかしい」という彼のことばの真実性を裏書きするかのようであるが、この意味において、年のとり方、老年の迎え方に、もっとも見事な実例を残したのは幽翁伊庭貞剛だったように思われる。「出処進退」においても意識的に実行された人生の一大事であった。 

 大阪上等裁判所判事をやめて郷里に帰ろうとしたのが、明治十一年三十二歳のときである。世渡り、立身出世主義だけを考えれば、弊履のように捨て去るにはおしいステイタスであったろが、彼は暮夜ひそかに権門勢家に出入りしてその鼻息をうかがうような官界の腐敗堕落にたえられなかった。栄達よりも心の平静、満足を求めることが人生だと考えたのである。

 その彼が、叔父広瀬宰平の説得で住友入りしたいきさつは『日本サラリーまん外史』でのべた。本店支配人となり、大阪紡績、大阪商船の取締後、大阪参事会員、大阪商工会議所議員、大阪株式および米穀取引所の役員などを兼ねたが、四十一歳のとき琵琶湖畔石山に隠居の地を求めた。現世的にはもっとも欲や執着の出るその立場と年齢において、彼はすでに晩年をみつめていた。それは無常観にとらわれた敗北主義のあらわれでなくて、いつでも辞表を書いて引退できる場所を確保した上での、戦闘の構えに他ならなかった。仕事への没入と同時にみょう利からの離脱が期せられていた。

 死を決して別子銅山の争議現場にのりこんだのが四十八歳である。このときの彼のやり方を評して「不思議なる哉、氏が山を登ったり降りたりしている間に、人心はいつの間にか鎮静して、さしもの紛擾も漸次解けてしまった。こうして氏は遂に大難関を首尾よく切り抜けて、住友を泰山の安きに置いたのである。自分は伊庭氏の大処、即ちエライ処はここにあると信ずる。このような大事件に処して、目立ったことはなにもせず、ただ日々山を登ったり、謡曲をうなって日を暮しているというような飛び離れた芸当は、とても常人の考えもつかない業である。誠に今日のいわゆる敏腕家なるものをしてこれに当らしめよ。そのする事は大抵わかっている。あるいは規則を改正するとか、あるいは取締を加減するとか、とかく枝葉に走りたがるのは世間を通じて一般というても過言ではあるまい。このようなことをもって伊庭氏のやり口とくらべてみるとまるで段がちがう」と河上謹一(伊庭貞剛に破格の待遇をもって招聘された)は書いている。

 この河上というひとも、住友理事を四十九歳でやめると須磨の別荘で悠々自適の生活を送り、加藤高明内閣のとき外務大臣就任の交渉を受けたがこれを断るというふうで、八十九歳で世を去るまで族生への執着心をもたない点では段ちがいの偉材であったが、このひとが「長い間にいわゆる人格の人というのを唯一人見た。性来頑固で余り人に感心しない自分も、この人の人格には感心せざるを得ない」といった相手が幽翁であった。

 幽翁は荘重達意の文章家であったが、新聞雑誌には一度も寄稿したことはなかった。それが五十八歳のとき、はじめて『実業之日本』に「少壮と老成」という感想文を発表した。かれはこの中で、老人の経験の貴重さをいうとともに「老人はとかく経験という刃物をふりまわして、少壮者をおどしつける。なんでもかんでも經驗に盲従させようとする。そして少壮者の意見を少しも採り上げないで、少し過失があるとすぐこれを押えつけて、老人自身が舞台に出る。少壮者の敢為果鋭の気力はこれがために挫かれるし、また青年の進路はこれがために塞がってしまう。……事業の進歩発展に最も害をするものは、青年の過失ではなくて、老人の跋扈(ばつこ)である」と書いた。そして彼自身は、これから五月後に住友総理事のポストを四十四歳の鈴木馬左也(すずき まさや)(第三代住友総理事)にゆずり、十七年前から用意していた石山の別荘「活機園」に隠棲したのである。

 彼はこの山荘で静かに老いていった。はじめは、日常の動静を語るに「悠々自適」のことばを用いていたが、七十八歳のときから「曠然自適」というようになった。「悠々」にはまだどこかにアカのぬけきらないところ、自力をたのbbで得々然とした趣が残っている。「曠然」は、何ものにもとらわれぬ無礙自在の境である。大正十五年五月、八十歳のとき子女をあつめて遺言し、財産を分けてやった。そして十月「ああ、こんな悦びはない。この徹底したよろこびを皆の悦びとして笑ってお別れしたい」といい、家族順々の水をふくませてもらった。そのとき、幼い孫が二度ふくませようとすると、「お前はさっき、くれたではないか」といって微笑し、やがて大往生をとげた。筆者はこの間恩師から、「昨今は隠居入道ということがない。隠居即入墓と考えているようだ」という話をきき、伊庭貞剛のことを思いださずにいられなかった。

2019.07.24


☆59桂 太郎(1,848~1,913年)


『明治天皇と元勲』日本のリーダー (TBSブリタニカ)1982年10月9日 初版発行 P.305

 長州藩出身、陸軍の建設に尽くした軍人、政治家。

 明治三年(一八七〇)、ドイツに渡り兵学をおさめた。

 帰国後、山県有朋を助けて陸軍の建設に尽くし、その昇進出世はめざましかった。

 駐独武官・陸軍次官・台湾総督を経て明治三十一年には第三次伊藤博文内閣の陸相に任ぜられた。

 その間、日清戦争に第三師団長として出征した。

 じっさい軍人として指揮をとったのは数年間にすぎないが、長州藩のエリートコースを歩み、政治手腕を発揮して、純然たる軍政官僚にのし上がった。

 その後、大隈・山県・伊藤各内閣の陸相をつとめた。

 このころは政党勢力がが伸び、その対応が政府の重要課題となっており、これまでの超然的内閣では手に負えなくなっていた。この点、弁口・才知に()けた政党間にも受けのいい軍政官僚の桂太郎は高く買われたのである。

 明治三十四年四月、桂は組閣の大任を拝命した。元老たちはすでにその任にたえられなくなっていたが、政党に政権をわたしたくないという事情もあった。少壮官僚による桂内閣を、世人は軽んじて緞帳内閣と呼び、桂にニコポン首相というあだなをつけた。

 桂がにここにこ笑って人を説得し、ぽんと相手の肩をたたくしぐさから出たものだが、うるさい元老や政党をあしらう桂の「人ころがしの」手でもあった。

 第一次桂内閣は日英同盟を結び、ロシアとの権益問題から日露戦争を遂行した。

 西園寺内閣のあとを受けた第二次桂内閣は韓国併合を果たし、幸徳秋水らの大逆事件にのぞんで社会運動を弾圧した。

 明治天皇が崩御したのち、大正元年(一九一二)に桂は侍従長兼内大臣に推された。

 同年十二月、第三次内閣を組閣した。だが、犬養毅の立憲国民党、尾崎行雄の立憲政友会による憲政擁護運動が起こり、民衆に議会を包囲されて、一か月半の短命内閣に終わった。大正二年、桂は病没した。

 陸軍大将・元帥・大勲位・公爵と先輩をも凌ぐ栄進ぶりが批判を浴びたが、才気とねばりを合わせもつ抜群の政治官僚家だったのはいうまでもない。

2019.08.27


☆60益田 孝(1,848~1,938年)


 小島直記 男の魅力・勝負の仕方 47章 『伝記にみる 風貌姿勢』(竹井出版)、「まの章 益田孝」 P.182~186

 三井物産の創始者益田孝は、嘉永元年(一八四八)十月佐渡に生まれた。昭和十三年(一九三八)十二月に死んだ。満九十年二月におよぶその生涯は、大きくわけて慶應末年での幕臣時代、大正二年までの三井時代、それ以後の隠居時代の三つとなるだろうが、それぞれに日本史の重要局面と接触があり、その伝記は実に貴重な内容をもっている。益田自身そののことについてどの程度まで自意識をもっていたかは明確でないが、自らの手で書き残そうという意欲は見せたようである。

 長井実の記述によれば、明治八年、九年と日付をいれた「備忘録」があったそうだ。また大正十二年関東大震災のあと『乏敷(とぼしき)記憶』という手帳を書きかけたらしい。このほうは、「大震災の衝撃、すなわち人間というものはいつどこで死ねかも知れないという人生観に促され」で発意しものだったという。しかし、未完におわった。かりに、完成したとしても、内容的には疑問だっただろう。というのは、益田の文章にクセがあったからだ。長井実は、「翁は何事にも急所を見、結論を考える人であった。実務家にはこれがよいのであろう。ところがこの流儀が文章にも現れた。私はよく翁にいうたのだが、たとえば、江戸の日本橋を立ったかと思うとすぐ京の三条大橋についてしまっている。その間に箱根もなければ大井川もない」と書いている。益田自身の筆になる自伝が完成していたとすれば、まことに性急な、ディテールにとぼしいものだったかもわからない。

 ところが、文章にくらべると、「話はじつに上手であった」。長井はそこに注目した。

 大正十一年――といえば、益田は七十四歳であったが、その年の十二月下旬、どんよりしたある日の午前、小田原の益田別荘(掃雲台)をいっしょに車で出て、電車の箱根口停留所へさしかかろうとするとき、長井は、「あなたのお話を私の雑誌(月刊『衛生』)にかきたいとおもいますが、どうですか?」とたずね、益田の同意を得た。

 こうして大正十二年一月から昭和二年十二月にかけて『衛生』に「掃雲台より」と題する益田の談話筆記が連載された。この連載記事の大部分と、別の活字化されなかった談話とをあつめて昭和十四年六月に刊行されたのが『自序益田孝翁伝』である。

 題名が少々自家撞着するようだが、長井によればこうだ――この話は、益田が自叙伝をつくる意思をもって語ったものではない。その意思をもって語った談話の筆記であれば「益田孝自伝」とすればよいが、そうではない。また、長井が益田の談話を資料に使って書いたものであれば「益田孝翁伝」でよいが、すべてが益田の談話そのものだから、それではいけない。長い間ずいぶん苦心した末、ある日ふと、その上へ「自叙」と説明を加えたらよいと気づいて、こういうタイトルにした、というものである。

 そういういきさつでできた本であるため、不十分なところがある。長井も「翁の伝記としてはいわゆる素描である。記すべき事蹟にして語られていないことが少なくないし、また語られてはいるが、すこぶる物足りなく感ぜられることも少なくない」と認めている。

 ところが、むしろそういうことのために、おのずと流露するものがある。たとえば武藤山路が「自伝」を書くと構えてむしろとり逃がしたもの、語ろうとして語り得なかった奥深いものが、この自伝では、構えなかったため、じつにさりげなく、淡々と語りつくされるという皮肉なことになった。益田自伝の特徴、おもしろさは第一にここにあるようだ。

 たとえば、人間はその「出処進退」が大切だといわれる。ことに「退」こそは公人としてのポイントで、人間評価のわかれ道もここにあるという。益田自伝には「三井を退く」という一章があって、その事実が語られる。

 「私は團(琢磨)を後任に推薦して、大正二年(十二月三十一日、六十五歳)に三井を辞したが、辞意は明治四十年(五十九歳)に表した。だんだん世の中が変わって来ました、吾々のような力の者ではいけませんというた」。

 「私が團を後任者として推薦しようという考えはよほど前からのことで、三池はもう誰がやってもやれると見たから、明治二十七年に自分が鉱山会社の専務理事を辞して、團をその後へすえ、三池から東京へ引張ってきた。團はこの時まで、ずっと三池におったから、東京の人達は團という人材のあることを知らなかった。私は團を自分の後任者として推薦する考えだということを團に話さなかったが、高保その他一二の同族には話がしてあった。」「明治四十三年に今の社長(三井八郎右衛門髙棟(たかみね)が洋行するとき、旅行というものが一番親しみを深くするものであるから、私は團を随行させた。すると社長は帰ってきて、あれなら誰よりも一番よいといわれた。これで私も安心した」。

 「私は学閥というものを打壊さなくてはいけないという意見であった。朝吹(英二)には慶應義塾という関係があるが、團はアメリカ育ちで、学閥ということは少しもない。また三井の事業がだんだん技術上の知識を必要とするようになっている。それからまた、時勢も変って、今後は欧米の事情をよく知っている者でなくてはいけない。こういう考えであったが、朝吹はよく私の腹を知っておった」。

 以上は、この一章からの断片的抜き書きであるが、「退」の実情を語るには「簡にして要」を得ている。明治二十七年といえば益田がまだ四十六歳。もっとも油がのっていたそのときに、すでに後継者のことを考え、「退」にそなえていたのである。團はこのとき三十六歳、しかも三池炭礦払い下げのときスカウトされてから六年しかたっていなかった。その若い「新参者」を後継者に選び、それを三井同族に承知させたということは、私情や年功序列によらぬ実力主義を、三井という大組織体の人事方針の中核にしたということである、しかもそのリアルな信念を貫徹するための前提として、三井の現状と将来に対するくもりのない判断があった。そこからおのずと後継者のあるべき姿も浮び上ってくる。團を見出したことは益田に「人を見る明」があった証拠だが、それを正しとするのは独断やうぬぼれでなく、現状および未来への客観的分析に対する確信であった。外遊に同行させて、相互の人間的親愛感がおきるのを期待したのも、人情の機微を知る苦労人ならではの配慮であり、かつ組織の中心には人間の信頼が必要であるという経営理念のせいであった。伊庭貞剛は、「人の仕事のうちで一番大切なことは、後継者を得ることと、そうして仕事を引きつぐ時期を選ぶことである。これがあらゆる仕事中の大仕事であるとおもう」といった。そういう大事業をいかにしてやったか、並々ならぬ深謀遠慮を、手柄話ではなく、淡々と語りつくすところに滋味がある。

 昭和七年、血盟団のテロに倒れた團の後任に、池田成彬を推したのは益田である。それは決して年寄りの冷や水ではなかった。益田は引退後二十年かかって「退」の終章を書き終えたのであった。ただ、遺憾ながら、このへんの記述は自伝には見出せない。

 小島直記著『三井物産初代社長』(中公文庫)あり。

2019.08.14


☆61浜尾 新(はまお あらた) (1,849~1,925年)


小島直記『人材水脈』日本近代化の主役と裏方(中公新書)昭和五十八年八月十日発行 P.174~178

   浜尾 新 謹直で人格第一主義

 古島一雄がはじめて上京したとき、玄関番漢学僕として身をよせたのは小石川区金富町の浜尾新の家であった。明治十二年、浜尾は三十一歳で文部省権大書記官、古島は十五歳である。古島の祖父良平と浜尾とがもと但馬豊岡藩士であった縁による。古島の父玄三は備中松山藩士で竹田といったが、江戸桃井塾で武芸を学んだとき、古島良平の息子誠輔といっしょであった。そのあと武田玄三が武者修行の途中古島家を訪ねると誠輔は死んでおり、しばらく泊まっているうちに良平に懇望されて誠輔の妹八重の婿となった。 

 二人の間に生まれたのが一雄である。その父玄三はかつて浜尾と町の警護にあたったことがある。夏のことで、夜はかやをつるが、浜尾はその中にはいっても机に向って読書するばかりで、横になっているのをみたことがなかった。「警護に対する責任感からか、それとも読書趣味であったかしらぬが、何にしても感心な男だと思った」と玄三は一雄に話した。しかし古島は「子供の時分から、人を人と思わぬような性分で、教師や上級生などに対しても、特別に尊敬するような考えがありませんでした。従って浜尾先生に対しても、別段偉い人とも、恐ろしい人とも思わず、ただイイおじさんぐらいに思うておりました」(『浜尾先生を追悼する』)と語っている。     

 古島少年は、浜尾の気の長さに閉口した。手紙の使いにやられるとき、まず二階の書斎によばれる。浜尾は少年を待たせておいて、それから「藤田東湖流の文字を、螺旋(らせん)にしたような文字」で書きはじめるが、一字まちがうとすぐ引きさいて書き直す。巻き紙一間ほど書いていても一字まちがえばまた破って、最初から書き直す。そういうわけで、一本の手紙ができあがるまでに相当な時間がかかる。少年の方は神妙に待っているのがバカくさくなって、本箱から勝手に本を引きだして、読みながら待つことにした。書き搊じの反故(ほご)で紙くずかごがいっぱいになるという現象の背後に、一字一句いやしくもしない浜尾の謹直な気持ち、人柄を読みとり感銘をおぼえたのはずっと後年のことであった。

 ちょうどこのころ、杉浦重剛が英国留学から帰ってきて、小石川伝通院境内の別院、貞照庵に寓居していた。ある日、先輩の浜尾を訪ねると、浜尾は少年をよびだして、「これは古島一雄という学生で、将来有望なものだから、君の引き立をたのむ」といって引きあわせた。少年は神田の共立学校にはいったが、学友をなぐって退校を命ぜられたのを手はじめに、行くさくざきの学校で問題を起して放校されていた。浜尾はこれに手こずって杉浦に指導をたのんだのである。

 少年は毎日貞照庵を訪ねて、英語や数学を教えてもらった。杉浦は、教えを請えば何でも親切に教えてくれるが、しいて注入するような教育はいっさいやらない。そして特に歴史―古今東西の英雄豪傑の話をしてやった。天台道士は、大江広元を「偉い」といい、竹中半兵衛を「崇敬おかず」といった。ことに半兵衛を「楠公に劣らない人物」とほめ、「崇敬の対象となるのは、その寡欲である」といった。これは少年に大きな感銘をあたえ、その生涯を左右する。

 ある日、浜尾は少年にたずねた。 

「お前は、将来何になるつもりか?」

「そんなこと、考えたこともありません」 

「それはいかん、人間というものは、ある目的を定め、志を立てて、それに向って進むことが大事だ」

 それから同郷人の実例を一々あげて示し、「お前は一つ、鉄道の技師になってはどうか」といった。少年がびっくりしていると、浜尾はつづけた。「これから、日本でいちばん大事なことは鉄道だ。それには技師が必要だ。ところがその方面はまだだれもやっていないから、お前はぜひそれをやるがよい」。

 天台道士の英傑談に酔っていた少年は、鉄道技師にされてたまるかと思った。そして、無断で浜尾家をとびだし、郷里に帰ってしまった。

 豊岡の宝林塾という漢学塾にはいり、「僕の一生を通じて、このときほど真剣に勉強したことはない」というほど勉強し、一年目に塾頭の代講をやらされ、これを二年やって小学校の補助教員となり、再度の状況をねらっていると、天台道士から長文の手紙がとどき、「五月雨に しばし濁れる山の井の 底の心は 汲む人ぞ汲む」という短歌がそえられてあった。「わが輩は、ここに人生感激の第一歩を踏み出したのだ」と彼は語る。「おれをしってくれるのはこの先生だ。この先生の懐へとびこんでゆくより外はない」。上京費がないので、母親の入れ知恵で松江裁判所の下級吏員をしたあと、ようやく東京に出ることができた。このとき二十三歳である。「これから何をやるか」と天台道士はたずねた。「何をやろうという考えもありません。ただ、正式の学校をふまずにすぐ世の中に出たい」というと、「それでは新聞記者になるがいい。今、わが輩は雑誌をやっているから、しばらくその方を手伝って、それから新聞をやるんだ」といわれ雑誌『日本人』の記者に採用、さらに陸羯南の『東京電報』(まもなく『日本』と改む)に推薦された。『日本』記者として、古島は浜尾を訪ねたことがある。新聞に対する発行停止を、各社同盟して廃止しようと運動中のことで、浜尾がもっともがん固保存論者ときき、古島が自ら出かけたのである。

 ところが、いかに口をすっぱくして説いてみても、浜尾はこれをきき入れない。そこで古島は腹を立てて、「先生こそ、日本における官僚の典型型だ!」ときめつけた。

 明治四十四年、古島は四十七歳で代議士となり、浜尾のとこに挨拶にいった。浜尾は「代議士でやるならソレで突き通すがよい。人からおされたからなったというような気まぐれでもゆかぬ、どこまでもそれで押し通せ」ということを、礼の長談義で長々としゃべったあと、「何をやっても人格が第一」といった。この言葉に古島は感銘した。少年期において鉄道技師問題で反発し、青年期において政治の考え方に反発したとはいえ、浜尾はまた、古島にとってはかけがえのない貴重な恩師であった。浜尾が杉浦に紹介しなかったならば、古島のその後の人生はなかったのである。その意味において、古島という人は、学歴に縁がなく、師縁には恵まれていたというほかない。

 東大安田講堂のそばにつくられた浜尾の銅像は、新宿フーテン族にペンキを塗られ首を落とされかかった。そして今、「学歴あって師縁なき輩」の、学業を放てきしたゲバ棒訓練を黙々と見守っている。

2019.08.02


☆62西園寺 公望(1,849~1,940年)


『明治天皇と元勲』日本のリーダー (TBSブリタニカ)1982年10月9日 初版発行 P.307

 明治・大正・昭和の三代にわたる政治家。公卿。

 西園寺 公望は、慶應三年(一八六七)、王政復古に際して十九歳で参与に任ぜられた。

 鳥羽・伏見の戦いでは、朝廷方の勝利を信じられない弱気の公卿が、「幕府と薩長の私闘ということにして、朝廷は中立を宣布(世に知らせる)したほがいい」というと、西園寺参与は顔色をかえて叫んだ。 

「この戦いを私闘というなら、王政復古の大事はおしまいだ」 

「小僧よくみた」 

と、岩倉具視がこのときいって喜んだという話はよく知られている。この気鋭の青年公卿は、戊辰戦争では山陰・北陸と転戦し、のち越後府知事となった。さらに選ばれて明治三年(一八七〇)フランスへ留学、自由主義を学んだ。 

 滞仏十年、帰国して翌年の明治十四年、明治法律学校(現在の明治大学)を設立、フランスで知り合った松田正久中江兆民らと『東洋自由新聞』を創刊、新しい思想・文化の啓発につとめた。 

 明治十五年、憲法取り調べのために渡欧する参議伊藤博文の随員となり、オーストリア駐箚(駐在)の公使を振り出しに本格的な政界入りをし、第二次・第三次伊藤内閣の文相に登用された。 

 これは、西園寺がたんに門地にすぐれていたばかりでなくて、早くから英才の評判が高く、その人材を認められていたからだった。

 やがて、明治三十三年、伊藤博文が立憲制政友会を組織すると、西園寺はこれに加わり、まもなく伊藤にかわって政友会総裁になった。明治三十九年、内閣のあとを受けた西園寺第一次内閣は、日露戦争後の軍備拡張を中心に、関東軍を組織し、鉄道国有法、南満州鉄道の設立、列国の進出に対応する日仏・日露協約の締結など、内外ともに積極的な政策を進めた。第二次内閣では二個師団増設案が起り、それをおさえようとして強引な反対にあい総辞職した。

 その後、第一次大戦後のパリ講和会議の全権をつとめたほか、元老として昭和十二年の近衛内閣の成立まで後継首班推薦の重任にあたり、政界に隠然たる勢力を張った。藩閥とは無縁の開明的な立場で立憲政治の健全な発展につとめた。政党と官僚とを結ぶ調停的な役割をはたした明治最後の元老である。

2019.08.28


☆63左近充 隼太(さこんじゅう はやた)(1,852~ 1,877年)


小島直記『人材水脈』日本近代化の主役と裏方(中公新書)昭和五十八年八月十日発行 P.89~93

   左近充 隼太 西郷軍に加わり散る

 明治七年五代友厚は四十歳で、資本金五十万円で創立した鉱山会社「弘成館」の経営で多忙をきわめていた。これは大阪に本店、東京・築地に出張所をおき、社員三百人、鉱夫などの現業員二万人という当時のビッグ・ビジネスであった。

 二月半ばごろ、二人の青年が訪ねてきて、面会を求めた。五代が会ってみると、いずれも鹿児島県出身の海軍兵学寮生徒で、一人は山本権兵衛(二十三歳、のち海軍大将、首相)、もう一人は左近充 隼太(はやた)となのった。「病気看護のため」という口実で休暇をもらい、帰省中のところであるが、その口実はウソで、じつは兵学寮はそのまま退学し、鹿児島の私学校にはいるつもりであった。

 征韓論に敗れた西郷隆盛が、参議兼近衛都督を辞して郷里に向ったのは前年十月。西郷のあとを追って、板垣退助副島種臣後藤象二郎江藤新平がやめ、近衛将校百余名、下士官六百人などがこれにつづいた。この形勢を見てジッとしておれなくなった山本が、同級の左近充をさそったのである。左近充はただちに同意したが、旅費の工面をどうするか、とたずねた。

「本や衣類を売れば、大阪までの道中はなんとかなる。大坂まで行けば五代ドンがおられるから、同郷のよしみで鹿児島までの旅費を貸してもらう」

というのが山本の計画で、二人はその目的で訪ねてきて、

「三十円貸してください」

と申し入れたのある。ところが、五代の返事は「ノー」であった。

「ばかなマネをしてはいかん。各藩えりぬきの秀才を教育している立派な兵学寮から、どうして設備の不十分な私学校にはいる必要があるか。君たちの行動は、西郷に対する私情にとらわれた軽率妄動である。ただちに帰校せよ」

と五代はきびしかった。意外な成り行きで、山本たちはスゴスゴと宿屋に引き返した。ところが翌朝目をさましてみると、まくらもとに紙包みが投げこまれている。「餞別」と書いてあるだけで、名前はなかったが、一円札が五十枚もはいっており、五代の好意にちがいなかった。二人は押しいただいて、郷里に向った。

 西郷に会ってみると、彼もまたおなじことをいう。「……君等年少の頃より海軍に従事し、その業いまだ半ばにも達せず前途お遼遠なり。それ国家倊々盛大におもむけばますます多事ならん。故に従来海軍にたのむこと多大なるべきを覚ゆるのみならず、わが国はシナ及びロシア等ンい隣接して東洋に立つをもって、一朝想像しがたき困難に遭遇する場合にのぞみたは、ひとwに海軍の力によるの外なし。これらの事をよく考えて慎思熟慮し、決して目下の政治問題等に関することなく、かたき覚悟をもって、余事をなげうち、一意専心、海軍の修業にはげみ、将来国家のため努力せられんことこそ、老生の君等に切望してやまざるところなり……」(『伯爵山本権兵衛伝』上)という情理兼ねそなわる、ねんごろなことばであったという。

 山本はその真意を悟り、 

 今日から他を顧みず、「一意海軍の修業にはげみます」

と誓ったが、左近充の方は、 

「あくまでも先生と生死を共にします」 

ガンとしてきかないのだ。

「それならば、山本を京都まで送った上で、また鹿児島に帰ってきたらよかろう」 

と西郷はいった。

 京都まできて、あすは山本が東京にたつというときになって、二人の間に激論がはじまった。佐近充はカンカンに怒り、 

「いったん生死を共にすべしと誓っておきながら、たとえ西郷先生にいわれたからにもせよ、簡単に考えを変えて友を裏切るとは卑怯千万!」  

といって、信玄袋に入れていた短刀をとりだして、山本をさそうとした。ところが、その短刀がなかった。そこで左近充は気合が抜けててしまった。山本はその機を逸せず、静かに事の理非を説いてきかせ、左近充もようやく納得した。翌日、二人は打ちつれて出発し、無事に兵学寮にもどったのである。

 山本はその年十月に卒業、海軍少尉補。筑波艦乗り組みを命ぜられたが、左近充の方はその前に考えを変えて、鹿児島にもどっていた。

 明治十年二月、私学校生徒一万数千人が旧騎兵場に集められ、歩兵五個大隊、騎兵二個小隊に編成されたとき、左近充はその中にいた。このころ山本少尉補は、艦務研究のためドイツ軍艦ビネタ号にのりこみ、シンガポールにいた。彼と同行した河原要一の「日誌」によれば、左近充が隊ごに加わったその日、「晴、午後一時三十分、山本、横尾(道昱)、中山(訥)、早崎(七郎)の諸氏と共に上陸、帝王の洗水場にいた。各自身体を清む。この日は当地の正月元旦なり、市中大いに賑う」とある。

 熊本城が包囲された三月二十二日、ビネタ号はクリスマス島の付近にあり、八十歳になったドイツ皇帝ウイルヘルムの誕生祝いが艦上で行われていた。西郷軍はジリジリ後退し、わずか三百人で城山にこもったのが九月一日である。ビネタ号は南米沿岸を航行中で、山本は四日にリオジャネイロに上陸した。

 征討総督有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)有栖川宮熾仁親王、参軍山県有朋(陸軍卿)に率いられた政府軍八個旅団が、十重二十重に城山をかこみ、総攻撃の火ブタを切ったのが二十四日。二十三歳の慶應義塾生で、アルバイトで報知新聞の従軍記者となっていた犬養毅(のち首相)が、「……天既に明戦全く止む。諸軍喧呼していう、われ西郷を獲たり、われ西郷を獲たり、と。しかして西郷の首ははたして誰が手におつるを知らざるなり。午前九時、偉身便服(大きく腹の出た私服)に一屍を獲て来たり、これを検すればはたして西郷なり。ついでにその首級を獲たり。首は屍のかたわらに埋め、うすく頭髪をあらわす。よりてこれを掘り出し、ついに桐野等の屍を併せて常光明寺に集め、両参軍以下諸将これを検し、同所に埋む。実に明治十年九月二十四日午前十一時也……」と書いたこのときまでに、左近充隼太も討死していた。

 ちょうどこのころ、山本をのせたビジネタ号はサルバドル港を抜錨(ばつびょう)し、一路大西洋を北上していた。山本が祖国の戦雲を思い、旧友のことを考えていたかどうかは、記録の上では明らかでない。

※参考1:明治七年十一月一日、山本権兵衛、日高壮之丞ら十七人は、海軍兵学寮を二期生として卒業し、海軍少尉補となった。

※参考2:左近允姓:左近允尚正(Sakonju Naomasa)生誕1890年(明治23年)6月6日鹿児島県死没1948年(昭和23年)1月21日(57歳没)香港スタンレー監獄 日本の海軍軍人。海兵40期卒業。最終階級は海軍中将。鹿児島県出身。

 左近允の二人の息子も兵学校を出て太平洋戦争に従軍し、長男の正章(68期)は昭和19年10月、駆逐艦島風で戦死、次男の尚敏(72期)は生き残り、戦後は海上自衛隊に入って海将となった。

2019.07.23


☆64児玉源太郎(1,852~1,906年)


 小島直記著『志に生きた先師たち』(新潮社)昭和六十年三月二十日発行 P.131~137

 児玉源太郎は五十五歳で若死にしたけれども、明治・大正・昭和三代の陸軍軍人中、もっとも優秀な人物であったという定評は動かない。    

 鵜崎鷺城の『薩の海軍・長の陸軍』は、再三くり返すように、海軍の山本権兵衛、陸軍の山県有朋以下、ときめく将星をコテンパンにやっつけている本だが、児玉に対しては変わった形で讃辞を呈している。 

 すなわち、桂は総理大臣に三度なるなど、出世頭といえるけれども、鵜崎によれば、その原因は二つあるという。

 第一は、山県という大ボスの庇護をうけたこと。そして第二は、児玉が早死にしたことだというのだ。

 また鶴見祐輔の『後藤新平』は、後藤の生涯、業績をのべながらも、おのずと児玉の偉大さを浮び上らせている。特に児玉その人を誉めようという意図をもたないでも、軍人世界とは別個のところで生きた人物の歩みに、おのずとその人柄が光るということは、決して誰にでもあることではないのだ。

 日清戦争の結果、台湾は日本の領土となった。総督府がおかれ、初代樺山資紀、二代桂太郎、三代乃木希典と軍人総督が就任した。ところが、台湾行政の実体は土匪討伐で、拓地植民の仕事は何一つできなかった。

 そこで、台湾放棄論、あるいは一億円でフランスに売却すべし、などの論を公然ととなえるものすらあったのである。

 この難局処理の大任をおびたのが四代総督児玉源太郎であった。そして、その女房役の民政局長に選んだのが後藤新平である。

 これには世間がアッといった。後藤は医者で、内務省の衛生局長である。

「うまくいって宮崎県知事ぐらいか」

 とおもわれていた存在だ。それが、 

「台湾統治というような、政治百般にわたる広汎な行政的経営の大任に堪え得るであろうか」(鶴見、前掲書) 

「児玉以外にない」ということは「朝野の間に異論がなかった」が、後藤新平は、世間すべてからその適格性に疑問をもたれた。

 その後藤が、歴代民政局長官中のベストという存在になったのは、本人自身の能力もさることながら、彼を信任し、能力を最大限に発揮させた児玉総督のおかげである。一口にいえば「将に将たる器」、それが児玉という人であった。話は明治時代の植民地台湾のことといいながら、児玉がいかにしたかは、トップ・マネジメントの好参考といえるだろう。

 後藤新平は後年、つねに近親者に語って、 

「人間は仕事をはじめるときは、いつも最悪の場合を考えておかなくてはいけない。戦にしても、進むのはやさしい。本当にむずかしいのは引けどきだ」

 と語ったという。

 スカウトされて台湾にいったのは四十二歳だが、後藤はいつも机のひき出しに三百円入れておいた。なぜか。

「その時分は役人が免職になって帰るときには、三月たたないものには帰る旅費をくれなかったものです。それでおれも覚悟していったんだから、いつ免職になってもいいように、机の引き出しにはいつも旅費として三百円入れておいたものだ。それを妻が見てね。あの金はどうするんだというから、あれはおれが免職になったときに使う金だ、といって、それだけは使わずにおいたのであった」

 と後藤は語っている。在台十年間、彼はつねに「最悪の場合」を覚悟して仕事をした。そして、ついにその場面が生じなかったのは児玉のおかげである。

 後藤はもとより凡才ではない。しかし、頭のよさという点では、児玉の方がはるかにまさっていたらしい。

「港湾の修築のことでも、殖産のことでも、製糖のことでも、藍の栽培のことでも、そういう技術的な話をしても、児玉さんに話をすれば十分でわかることならば、後藤さんはやはり二十分ぐらいはかかった。私ならどうしても二時間ぐらいはかかるとおもう。児玉さんは、まるで電光のようにピカピカする鋭さを呈していて、身体全体が花火であるかのごとくピカピカしておって、その話の整然としておることおどろくほどであった」

 と新渡戸(にとべ)新渡戸稲造の言葉である。

 こういうカミソリのような頭脳の持ち主は、たいてい部下のやることは気にいらないだろう。「陸軍きっての干渉家だ」といううわさを後藤もきいていた。

 ところが現実はちがっていた。児玉総督は着任して間もなく、後藤民政局長に対して、施政方針演説の草稿をつくるよ命じた。後藤は、 

「そんなものは、やらん方がいいでしょう」 

 という。児玉は理由をきく。

「それは今まで樺山さんもやりました。桂さんもやりました。乃木さんもやりました。それは詩人が詩をつくるようなもの。つまらないから、やらん方がいいでしょう。施政方針の演説をなさらぬことを、不審におもってききにきたら、おれは生物学の原則にしたがってやる、とおっしゃればいい」 

「生物学というのは何じゃ?」 

「それは、慣習を重んじること。ひらめの目をにわかに鯛のようにしろといったて、できるものじゃありませ。慣習を重んじなければならんというのは、生物学の原則からきています」

「そうかそうか。そんなことか。よしよし、それじゃ止めよう」

 児玉は後藤の意見を採用した。それは、施政演説をしないということの、二つの理由をピシリとつかんだからだった。

 それは第一に、植民政策の要諦は、不言実行にあるということだ。どんなに美辞麗句をつらねても、実現されない政策に対して、原住民は馬耳東風(ばじとうふう)である。

 第二に、すべての植民政策は、その植民地の民度、風俗、習慣に従わねばならぬ。それを後藤は「生物学」と表現したのだ。

 児玉は知っていた。日本政府の根本的弊害の一つは、法律制度だけを中心とする形式的政治である。それは日本の官僚、政治家の大半が、法律科出身にしめられていることによる。台湾統治の第一着手は、法律万能主義の打破でなければならぬ。

 児玉は、後藤の真意を正しく洞察していた。

 児玉と後藤が赴任したとき、台湾領有以来二年半たっていた。しかし、統治はまだ手をつけたばかりで、総督官邸も地方の三等郵便局程度の貧弱のものだった。

 そこで後藤は、まず総督官邸の建築にとりかかった。彼はいった。

「台湾総督は我国の南方経営の王座である。その官邸は善美をつくすべきである。わが輩は直属のオペラを設けたいとおもったのであるが、それは時節柄遠慮したのだ。これくらいの官邸をかれこれいうのは、わが南方経営を解せぬものの言である」

 後藤の考え方は、統治しようとする本島人の性格をもととしていた。彼等は物質的人種で、黄金と儀礼と、社屋と宏園とが尊崇の的である。宏壮な官邸は、民の心服を買う一方便だと考えたのだ。

 児玉は、その言葉を理解して、総督官邸の建築には反対しなかった。しかし完成しても、壮麗な総督室を居室としないで、階下につくられた民政長官宿泊用の小室を使った。そのため民政長官は、さらに小さい秘書官室に泊まるほかはなかった。     

 それをみた竹越与三郎(歴史家、政治家)は、「質素なる総督は……」というふうに書いたが、児玉自身はそうはいわなかった。

「乃木のは、倹素自ら身を持しているのじゃが、わしのはちがう。あんなピカピカした部屋は、わしの趣味に合わんからじゃ」

 当時、台湾日日新報にいた尾崎秀真は、

「政治家としての児玉さんは、実に厳格そのもので、官邸にいるときはかならず勲章をさげて、厳然として本島人に接していましたが、日曜日になると、粗末な着ながしにわらぞうりをはいて、農民を相手に路傍で打ちとけた話をするというふうでした」

 と語っている。

 児玉総督にすべてをまかせられて、後藤民政局長(のち長官)は、無能怠惰な千八十人の役人をクビ切るなど、バリバリと革新政策を推し進めた。当然これは敵を多くつくった。

「台湾の統治は、今の民政長官がわるいから、あと三十日は()たない」

 と総理大臣山縣有朋に直訴したものもいる。

 ところが、かんじんの児玉が、

「後藤がわるいことはないのだ」

 といって、全然とり合わないため、後藤には何も影響はなかった。

 しかし、難問は別のところにもあった。

 台湾領有は、日清戦争の結果。そこで、

「この島はおれたちがとったんだ。またおれたちが守るんだ」

 という意識をもって、軍人たちの鼻息が荒かった。後藤は、陸軍参謀長立見少将、台北旅団長内藤少将、台中旅団長松村少将、台南旅団長高井少将などを清涼館という料亭に招待したことがある。

 そのとき、後藤は公務のため、招待した時間におくれ、七時すぎにかけつけた。すると客のなかの松村少将が、

「なぜ主人たるものがおくれてきた」

 とネチネチからみはじめたのだ。その遠因は、軍人の腹の中にあった文官政治=児玉の威を借りて大きな顔をしている民政長官への反感にある。

 あまりしっこいので後藤は腹を立て、売り言葉に買い言葉、口論どころか、少将の頭をポカポカとなぐりつけてしまった。

 その晩、辞表を書いて、翌朝、後藤が前夜のことを報告すると、

「それはよかった」

 と児玉はいって、

「国家の柱石たる軍人が、台湾の新版図において酔い倒れるとか、文官と軋轢(あつれき)するとか、格闘するとかいうような行動をとられることは、はなはだ遺憾に感ずる」

 と一本きめつけた。民生部に対する軍部の圧迫は、このとき以来なくなった。

2019.08.16


☆65悲運の総理大臣


 小島直記著『志に生きた先師たち』(新潮社)昭和六十年三月二十日発行 P.164~169

 明治十八年内閣制発足のときから、海軍大臣のポストはほとんど西郷従道が独占していた。彼以外には樺山資紀(かばやま すけのり)仁礼景範(にれかげのり)の二人がわずかの期間、その席にあったにすぎない。   

 それが明治三十一年第二次山県内閣のとき山本権兵衛にかわった。 

 山本海相は次官に齊藤実大佐をばってきした。

 これが「異例の人事」といわれたのは、第一に西郷五十六歳、前次官伊藤嶲吉(しんきち)(またはしゅんきち)五十九歳だったのに、山本が四十七歳、斎藤が四十一歳と、大幅若返りが実現したからだ。

 第二は、西郷が元帥海軍大将侯爵、伊藤が中将男爵という肩書だったのにくらべ、山本も齊藤も爵位がなかったことである。ことに斉藤は一大佐、しかも大佐になってから一年にも満たなかった。当時の海軍省では、軍務局長が少将諸岡頼之(もろおか よりゆき)、水路部長が少将肝付兼行(きもつき かねゆき)で、斎藤次官は一大佐の身で、これら先輩将官の上に出たわけである。

 二人はやがて海軍の頂点に立つ。

 海軍大将で、のちに学習院長となった山梨勝之進は、

「山本権兵衛大将の前に立つと、爛々とかがやく灼熱の太陽の前にあるおもいがする。加藤友三郎大将の前に立つと、何物をも一点の狂いなく映し出す明鏡の前に立ったおもいがする。斎藤実大将とともにあるときは、美しいサロンに坐し、香り高いウイスキーを杯に酌み、静かに語るおもいがする」

 と語ったことがある。

※関連:山梨勝之進

 それぞれの個性のちがいをとらえた見事な人物評であるが、この評言が語るように、山本と齊藤とはまったくちがっていた。 

 まず山本が南国薩摩の出身であるのに対して、斎藤は東北岩手の出身である。 

 ただ二人の人生に共通して感じられるのは、常人にくらべて運命の影がとくに色濃いということである。 

 山本権兵衛は明治七年二十三歳、海軍兵学寮在学中に、学校をやめて郷里にもどり、西郷隆盛を中心につくられた私学校に入ろうとしたことがある。同級生の左近充隼太(はやた)が行動を共にすることになった。

「母病気看護のため」という口実で休暇をもらい、本や衣類を売って大阪までの旅費にあてた。大阪には、鹿児島出身の五代友厚がいる。二人は三十円の借金を申し入れたが、 

「お前たちの行動は、西郷に対する私情にとらわれた軽挙妄動である。ただちに帰校せよ」

 と五代は説教して、金は貸さなかった。しかし二人が宿で寝ていると、まくらもとに「餞別」と書いた紙包みがあり、名前はなかったが五十円入っていた。

 鹿児島に着いて西郷隆盛に会うと、西郷もまた五代と似たことをいって、二人の行動をいましめた。山本はその真意をさとり、

「今日から他を(かえり)みず、一意海軍の修業にはげみます」

 と誓った。

 左近充は承知せず、いったん山本ともどったものの、また考えを変えて、鹿児島に帰った。

 明治十年二月、私学校生徒一万数千人は反乱、三月には熊本城を包囲した。この頃、山本は艦務研究のため、ドイツ軍艦ピネタ号にのりこんでいた。そして南米沿岸を航行中、敗退した西郷軍はわずか三百人で城山にこもった。そして九月二十三日に総攻撃をうけ、西郷は自刃、左近充もこの間に討ち死していた。

 このころ、ピネタ号はサルバルド港を抜錨し、大西洋を北上していた。その航路のはるか彼方に、帝国海軍の最高ポストが待っていたのである。

※関連:左近充隼太

 斉藤実は、幼名富五郎。(まこと)とは、明治八年十八歳、海軍兵学寮在学中に改名したものである。

 その富五郎時代、近所の後藤新平と水沢の小川でよくいっしょに泳いだ。

 新平は、自分で器用に髪を結いなおして、何くわぬ顔で帰ったが、富五郎はうまく結えないで、家に帰ると泳いだことがバレて母親から叱れた。

 二人はやがて県庁の給仕となった。新平、富五郎、山崎周作の三人は「水沢の三秀才」といわれ、やがて志を抱いて上京することとなった。 

 富五郎は明治五年十五歳、大参事悦氏房(かえつ うじふさ)一行に加わって上京し、翌年二月、陸軍幼年学校を受験し不合格となった。 

 翌年八月、海軍兵学寮受験、合格した。六期生。

 この入学試験の微妙なちがいが、のちの一生を決定したわけである。

 海軍兵学寮は、明治二年創立の海軍操練所にはじまる。三年三月海軍兵学寮と改称、さらに九年八月海軍兵学校と改称された。

 富五郎が入校したとき、イギリスから海軍少佐ダグラス(のち大将)以下三十四人の士官下士官水兵が招かれて、教授・訓練に関するいっさいの責任をおっていた。

 したがって、教科書は原書、数学・砲術の講義から艦船の操縦、航海の練習など、すべて英語で行われる。

 これは富五郎にとって大変なハンディキャップであった。入学試験は、漢文か英語か、各自の選択の自由にまかせられていた。英語を知らない富五郎は、漢文だけで入学できたのだが、ABCも知らぬ身には、イギリス人の講義、原書の教科書はチンプンカンプンである。

 クラスメートで、のちに艦隊司令長官となった中将寺垣猪三(てらがき いぞう)の回顧談はその姿をのべている。

 記憶力が最も強かったが、一番感心したことはその勉強ぶりのいかにも緻密なことであった。

 英人教師はときどき生徒をつれて実習場に出かけるのであったが、途中いろいろ説話しながら行くことが多かった。われわれ生徒の多くは教場の講義でないから気にもとめずにいたが、斎藤だけはそんなことを聞き逃さずにチャンとノートに控えておくという調子であった。あるときの試験に習ったことのない問題を出されたので、生徒一同辟易(へきえき)し、中には怪しからんなど憤慨するものもあったが、斎藤君はすまして答案を書いて出していた。あとで聞くと、そのとき出された問題は宿舎から実習場までの説話が課されたものであったから、斎藤君以外のうっかり連中は答案をかけなかったのである。

 こんな風だから斎藤君は英語教師の口授は片言隻語も聞きもらさず、しかもその日のうちに必ず筆記しておくのであったから、英語の進歩もっともいちじるしく、在学中はいつも級長であったとおもう。

 また斎藤君はすこしでも()におちないことがあると、ノートを携えて教官のところへ出かけ、ことばの足らぬところは手マネで聞いてキチンと調べあげているのだった。だからクラスの連中は何かわからないことがあると、斎藤にきけというように、斎藤君のノートはクラスで有名なもので、私たちはそのノートにかなり厄介になったものである>             

 この勉強の時代から三十数年たった明治四十三年十月から四十四年十月にかけて鵜崎鷺城(うざき ろじょう)は『薩の海軍・長の陸軍』を雑誌「日本及日本人」に連載した。ちょうど斎藤実が五十三歳から五十四歳のとき。この間彼は、四十一歳海軍次官、四十三歳少将、四十七歳中将、四十九歳海軍大臣(第一次西園寺内閣)、五十歳男爵となり、第二次桂内閣の海軍大臣をしているときだ。

 鵜崎のこの評論は、日露戦争のあと、とくにいばりはじめた陸海軍将星をコテンパンにやっつけるところに特徴をもつ。ところがその毒舌評論でありながら、斎藤については、

「語学の才に至っては今の海軍将官を通じて恐らく第一人とすべし。かつて外国艦隊の来朝するやその招待席上において試むべき英語演説の原稿をわずかに二三時間にして草し、しかも字句の妥当を得て文法に(かな)いしは専門語学者の驚嘆したる処なりき。彼の議会に臨むや一見茫洋として何等光彩を放たざるも、一たび口を開けば語簡にして要領をつくす。けだし彼は能ある鷹は爪をかくすの類か」

 と賞めているのである。

 山本権兵衛は、明治三十七年五十三歳、海軍大将となり、大正二年六十二歳、総理大臣となった。そして海軍大臣は五十六歳の斎藤実大将(前年大将となる)である。

 しかし山本内閣はシーメンス事件のために倒れる。

※参考:シーメンス事件:1914年に起こった日本海軍の収賄事件。独のジーメンス会社の元東京支店員のベルリンでの裁判中,海軍首脳の同社からの収賄が発覚,野党同志会の島田三郎らによる責任追及をはじめ世論の攻撃を受け,海軍首脳および三井物産の関係者が検挙され,第1次山本権兵衛内閣は総辞職した。

 山本がカムバックして第二次山本内閣を組織するのは大正十二年七十二歳のとき。しかし虎の門事件のため、わずか四ヵ月で退陣のやむなきにいたる。

※参考:虎ノ門事件(とらのもんじけん)は、1923年(大正12年)12月27日日本の東京市麹町区虎ノ門外において、皇太子・摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)が無政府主義者の難波大助から狙撃を受けた暗殺未遂事件である。

 一方斎藤は、シーメンス事件の年、予備役となったが、大正八年六十二歳で朝鮮総督に就任。

 着任のとき、京城駅頭で爆弾を投げられたが、無事であった。かつて中尉時代の二十七歳の時、アメリカのロチェスター付近で汽車が衝突し、山階(やましな)宮、八田、坂本、森友、大久保などが重軽傷を負ったなかで、寝台車の上段ベッドにとじこめられて、あやうく窒息しそうになりながら助け出されたことがある。ともに彼の強運を物語るかのようである。

 朝鮮総督辞任が昭和六年七十四歳。翌七年五・一五事件で倒れた犬養内閣のあとを受けて斎藤内閣を組織した。しかし、事実無根の事件といわれた帝人疑獄のため総辞職。

 その後、十年末七十八歳で内大臣に任ぜられたが、その三月後の十一年二月二十六日、「二・二六」事件の凶弾によって殺害された。

「異例の人事」で世間の注目をあつめた海軍の両チャンピオン、山本権兵衛と斎藤実はともに総理大臣になったものの、ついに悲運をまぬがれることがなかった点でも似ているのである。

2019.08.15.終戦記念日。七十四年目。


☆66野田 卯太郎(1,853~1,927年)


小島直記『人材水脈』日本近代化の主役と裏方(中公新書)昭和五十八年八月十日発行 P.199~203

   野田 卯太郎 益田孝にほれこまた大食漢

 伝記が、ある人物の生涯を物語るものである以上、業績や奮闘談ばかりでなく、たとえば大食であったとか、便所が長かったとか、日常生活のディテールも書かれておいた方が人間味が出てよろしいように思うが、そういうものは意外に少ない。それだけに、別の人物の伝記や記録などでそういう事実が語られているのを見つけると、大変にたのしい。

 益田孝はその伝記(『自叙益田孝翁伝』)の中で、二人の大食漢の話をしている。一人は松方正義、もう一人は野田卯太郎(大塊と号す。政友会副総裁、商工大臣)である。松方は、晩年でも常人の二人前は平気で食べたあと、そのあとでカルカシなどをむしゃむしゃやったし、金本位実施のときは、毎朝生タマゴを十五ずつ食って出たというのである。野田は益田に茶の接待を所望した。益田は承知して明晩五時と約束したが、その時刻になってもやってこない。五時半になってもあらわれない。約束して来ないのはけしからん、と憤慨していると一人でやってきた。どうしたのかというと、茶をご馳走になるので飯のご馳走になるのではないから、銀座で天プラを食ってきたのだという。話しているとまた一人やってきた。これは富士見軒で西洋料理を食ってきた。茶に招かれて、飯を食ってくるやつがあるものかというと、どうも知らないものだから食ってきたのだが、せっかく用意ができているのならご馳走になろう、といってむしゃむしゃと懐石料理を平らげた、というのである。天プラの方か西洋料理の方かははっきりしないが、二人のうちどちらかが野田であったことはまちがいない。

 團琢磨にも野田についての回想があって「野田君と初めて知りあったのは、たしか明治十七年か八年、私がちょうど三池へ技師となっていっていたころで、そのころ野田君は郡会議員をしておった。きたない兵児帯をしめてワラジがけで郡内をまわり歩いていたものである。当時から肥満した大男で、体重三十貫もあって、梅ヶ谷から、政治家などにならないで角力とりになんなさいとすすめられたほどであるが、私のいた工場へよくきては、赤ん坊の頭ぐらいある大きなにぎり飯を十ぐらい竹皮包から出して、むしゃむしゃ食べていたが、その姿が今でも目に浮ぶようである。そして梅干しのはいったそのにぎり飯をほおばりながら天下国家を論じていたものです」と語っている。

 このころ野田は三十二歳で、さらに四年たったとき、三池炭礦の払い下げをうけた益田に知られ、その庇護をうけて中央進出のチャンスをつかむのだが、野田を信用した原因も、食事に関係していた。炭礦の引きつぎで益田が石炭問屋に泊まっていると、そこに地元の有志家野田卯太郎、永江純一などが久留米ガスリにねずみ色になった白木綿の兵児帯でやってきて、炭礦の製作所(鉄工場)を売ってもらいたいと申し入れた。どうするのかときくと、われわれも何か仕事しなければならないから、農具でもつくろうと思う、と答える。それじゃ仕方がない、君方のために考えておることがあるから、まあ僕にまかせておきたまえ、といって帰らせた。そして益田は野田の身辺を調べさせたのである。

「野田なぞは自由党の壮士で、仲間が五、六人三池付近で家を一軒借りて同居しておったが、だんだん調べてみると、じつに感心なもので、品行方正で女気なぞはまったくない。世話をしている婆さんが、野田さん今日は何をこしらえようかなあ。ゆうべのタクアンは残っていないかい、残っているか、それならそれでええじゃないかというような調子で、じつに質素な生活をしておった。よし、この連中なら信用してよいと思って、君らのために考えておるのはじつは紡績だという話をした」と益田は語っている。

 これは野田の人柄と同時に、益田自身の人の見方をも語っている。今日流の判断の仕方――何よりも先に「学歴」を調べるやり方でなくて、単刀直入、その食生活を見て信用したというやり方は、何となく山路愛山の考え方を思わせるものがある。愛山は「……博学畢竟拝むべき者なりや否や。もしもシェクスピアを読まずんば戯曲の消息を解すべからずとせば、シェクスピアは何を読んでかシェクスピアたりしや」、「たとひ深遠なる哲理を論ずるも彼の論理に非ずして書籍上の哲理ならば、何ぞ深く敬するに足らんや。……博士、学士雲の如くにして、其言聴くに足る者少なきは何ぞや。これ其学自得する所なく、中より発せざれば也。彼等が唯物論として之を説くのみ。未だ嘗て自ら之を身に体せざる也。故に唯物論の経験すべき苦痛、寂寥、失望を味わざる也。彼等が憲法を説くや亦唯憲法として之を説くのみ。未だ嘗て憲法国の民として之を論ぜざる也。故に其言人の同感を引くに足らざる也。彼等の議論は彼等の経験より来たらざる也」(『明治文学史』)とその不信感を書いている。益田にはその種の言説はなかったようであるが、発想法、人の見方の根本に、似たものがあった。

 学歴を尊重することにいくつかの利点はあろう。しかし、それ以上の、人間的、本質的なものを見逃しはしないか、野田の場合、父は四町歩の地主の家に生まれたが、次男坊であったため、妻と三歳の卯太郎をつれて他家に養子にゆき、その翌年死亡した。未亡人は卯太郎とともに里に帰り、やがて子供を里の父にあずけ、亡父の夫の弟と再婚した。卯太郎は祖父に養われて成長し、早くも十代からは家業の豆腐屋を手伝い、天びん棒をかついで豆腐を売り歩いた。寺小屋にいっただけで学歴はなく、ただ猛烈な読書家で、暇を見ては本を読み、独学独習、ただ一人で開眼し、大志を抱いた。

 明治十一年二十六歳で三池郡小区会議員に当選し、二十八歳で自由民権運動に加わり、三十一歳で村会議員、三十四歳で福岡県会議員に当選した。團と知りあったのは村会議員になった年、益田にしられたのは県会議員になった年であるが、無論、團も益田も、その議員の肩書で彼を信用したのではなかった。團は、野田の大牟田開発のビジョンに共鳴し、益田は生活態度を信用したのであった。「肩書」や学歴にとらわれなかったことが、野田のよさを見逃さない利点に化したようである。 

 益田がこの払い下げのとき、新しい就職先のきまっていた團を強引にもらいうけた話はすでに書いたが、それは團が当時としては非常な希少価値があったマサチュ―セッツ工科大学出身のバチュラー・オブ・サイエンスの学士号をもっていたからではなくて、三池炭礦開発のために上可欠の優秀な体験と実行力をもっていることを重視したのであった。学校を出たことと実力があることとは、一つのこととみえて、じつは別々のことである。益田という人は、そのことをはっきり見ていたようである。

2019.08.09


☆67北里柴三郎(1,853~1,931年)


 ときに或は学術上において先生と意見の衝突をきたしたこともありまして、先生の尊厳をおかし奉ったこともございますが、これは学術上のことで、正々堂々いわゆる君子の争いであります。……かくのごときは学門に忠実なる真正の研究者として、はじめてこれをあえてなしうるものであります。かの学術研究の何物たるかを解せず、したがって意見なく、いたずらに他人の説に雷同附和する軽躁浮薄の輩、もしくは表面は服従をよそおいて裏面にてその事業を悪口するがごとき者、そうじて曲学阿世の徒は、決してかくのごとき趣味をうかがい知るものではございません。 
(緒方正規教授の東大在職二十五年祝賀会における門弟総代としての祝辞)

日本医学の育成者。熊本県人。コッホに学び、破傷風菌の純培養と血清療法に成功、治療医学に革命をもたらした。

*桑原武夫編『一日一言』―人類の知恵―(岩波新書)P.98


★坂口志文教授がロベルト・コッホ賞を受賞

 ドイツのロベルト・コッホ財団は、IFReCの坂口志文特任教授に2020ロベルト・コッホ賞を授与することを発表しました。

 ドイツの高吊な細菌・免疫学者の吊前を冠したこの賞は、ドイツで最も権威ある学術賞と見なされています。今回の受賞は制御性T細胞(Treg)に関する坂口教授の画期的な業績を称えるもので、賞金として12万ユーロが授与されます。

坂口教授によって発見されたTregは、体内を循環する免疫細胞が身体自身の組織を攻撃するのを防ぐため、免疫システムの「ピースメーカー《と見なされています。Tregの臨床応用研究は積極的に進められています。例えば、自己免疫疾患、アレルギー、さらには臓器移椊の際の過剰な拒絶反応を減らすためにTregを強化することが可能です。ガンの場合は腫瘊組織でTregの割合が大幅に増加しており、腫瘊細胞に対する免疫が抑制されています。したがって、免疫系が腫瘊に対してより効果的に作用するために、Tregの活性を抑制することが重要です。

授賞式は2020年11月13日にベルリンで開催される予定です。


春秋 2019/10/8付

ペスト菌を発見した北里柴三郎や黄熱病研究の野口英世も、かつては候補になを連ねたというノーベル生理学・医学賞。20世紀と始まりをともにするその長い歴史をかえりみるとき、人間の英知や情熱と、さまざまな病気との格闘のあとをたどるようで興味がつきない。

▼第1回の栄誉はジフテリアの療法で成果をあげたドイツ人。のどの粘膜をおかし、全身に重篤な症状をもたらす病だ。次いで、高熱をもたらすマラリアの原虫はカが媒介すると突き止めた英国人に。人体の機構の解明ともあいまって私たちは、かつて短命の主因だった感染症などを克福し、安心してすごせるようになった。

▼今年は、細胞中の酸素の量のセンサーに関する研究によって米英の3人に賞が贈られることとなった。がんや心臓病、貧血の治療にも資するという。「分断」とか「孤立」といった言葉がまかり通っている足元の国際社会で、この賞の発表の時だけは、人類は確かに進歩しているのだ、と未来に希望を感じることができる。

▼横たわる課題のひとつは、新たな知見の応用に社会がどう向き合うのかだろう。劇的な効能の薬は高額で、保険適用すれば財政が傷むし、メーカーに値下げを求めれば開発意欲もおちよう。研究者、製薬側、患者と各方面が「よし」とな得できる仕組みができれば、それこそノーベル賞級に違いない。道は遠いのだろうか。

※北里柴三郎(熊本県阿蘇郡小国町出身)北里柴三郎の生家は熊本県小國町で九重山登山や黒川温泉へ行く途中にある。生家は北里柴三郎記念館になっていて、柴三郎が手うえした大きな杉の木がいまもあります。(川島 勇様の話)


☆68高橋是清(1,854~1,930年)


 新鮮な高橋是清伝〚波瀾万丈〛

 昭和五十三年秋から「東京新聞」(中日・北陸中日、北海道)に長野広生氏の『波乱万丈―高橋是清 その時代』の連載がはじまり、三六〇回で完結したあと、このほど単行本として出版された。その上・下二冊本を読み返しながら、改めて高橋是清のことを考えている。

 周知のように、彼には〚高橋是清自伝〛がある。いわゆる自叙伝も数多いいが、その中からベスト・テンを選ぶとなると、福沢諭吉の『福翁自伝』や川上肇の〚自叙伝〛などとならんで、この高橋自伝が入るにちがいないと私は信じ、ひとにもそう語ってきた。ところが何分にも昭和十一年(千倉書房刊)の本なので、簡単に手に入れて読み、確認してもらうわけにゆかない。残念におもっていたところ、昭和五十一年に「中公文庫」として再刊されたので、恐らく多くの方がこの本のおもしろさを味わわれたにちがいないとおもう。

 高橋自伝はそのように、おもしろさの点では太鼓判がおせるが、ただ一つ根本的なところに問題があった。それはこれが、明治三十八年暮まででおわっていることである。このとき高橋は五十二歳。昭和十一年二・二六事件の凶弾によって八十三年の生涯をおわるまで、なお三十一年におよぶ後半生がブランクとなっているのである。

 しかもこの後半生こそ、七回におよぶ大蔵大臣就任と、第四代政友会総裁時代であって、政治家、財政家として歴史に残る仕事をした時期であった。つまり、人間の生涯をのべる自伝としては、本命といわねばならない。その本命のない伝記にすぎないともいえるのである。

 その後、全生涯をのべた伝記が出なかったわけではない。たとえば昭和三十三年には、時事通信社から『三代宰相列伝』全十五巻が出て、その一冊として今村武雄著『高橋是清』も書かれている。

 この今村本は、まことによくできた高橋伝である。ただ、このシリーズは、新書版で二四〇ページ前後という制約を課せられていた。いくつもの事業が割愛され、また記述も簡略化されざるを得ない条件下に、よくもこれまでまとめたと感嘆させられるものが今村本にはある。しかしそれだけに、紙数の制限なく、自由に書かせたらどんなに立派な高橋伝ができたであろうか、と嘆息させられるのだ。

 その意味において、長野広生著『波乱万丈』は、B6版上下六五六ページ、今村本よりも大きな本であることが、まず無条件に高橋伝としてのメリットを与えている。しかしそれも相対的なものにすぎない。長野本もまた紙数が足りないのである。

 大ざっぱにその理由をいえば、全部で六五六ページのうち、〚高橋自伝〛に相応する個所が上巻全体と、下巻二一五ページに書かれている。つまり、全体の八二・一パーセントが五十二までに費され、本命の部分が一七・五パーセントの分量しかないわけである。

 この点、今村本は全二四一ページのうち、高橋自伝の分は七二ページ、全体の二九・六パーセントを使い、本命の部分に七割をあてており、構成の面からだけいえば、この方がよいといえるだろう。

 ただ、あえて推測をのべれば、長野本は、当初から「本命の部分はわずかでよい」という考えのもとに書き進められたものではない気がする。新聞の連載であるから、大体の回数はあらかじめ決められいたであろうが、連載がはじまってしばらく読むうちに、これは相当の回数をあたえられているな、とおもわせるものがあった。叙述の仕方が丁寧で、筆者の眼がよくディテールまで行きとどいていた。したがって物語のテンポは大河の流れをおもわせるゆるやかさであり、腰の落ちついた立派な仕事ぶりだと感心させるものがあった。波瀾万丈の八十三年をこの調子でたどるには、たとえば司馬遼太郎〚胡蝶の夢〛(全五巻)の紙数であるいは不足するかもしれないのである。

 それを三六〇回でおわるのは、明らかに無理であり、惜しいことであった。一般的に「三六〇回」というのが新聞連載としては「適当な回数」ということかもしれない。しかし新聞社の幹部の中に、この連載を真剣に読み、その内容価値を理解される方がおられたならば、これはもっと多くの回数があたえられるべきであった。そうすれば、高橋是清伝の決定版ともいうべき見事な成果があげられたはずである。

 外債募集のとき、のちの日銀総裁深井英五が随行した。深井は、文章の起草、代理応接、暗号電信などから微細の事務にいたるまで手当たり次第にとりさばいた。徹夜にちかいこともしばしばで、食卓で居眠りをするほどに疲れたこともあった。懇意になった英国人たちは、深井を「過労望郷の可憐児」とよんで同情してくれた。

 深井は、ときどき自分の意見も主張した。ただ、高橋という人は反対意見を猛烈に撃退する人だから注意せよ、と出発前に注意されていたとおり、深井の異論は即座に反撃をうけたが、時をあらためて別の角度から進言すれば、前言を忘れたかのように冷静にきき、採るべきものは採った。それまで高橋は、人に紹介するのに深井をセクレタリーとよんでいたが、やがてアシスタントとよぶようになった。辞令の文言が変ったのでなく、高橋の深井評価が変ったのである。

 ところが〚波瀾万丈〛では、深井随行の事実は無論記述してあるが、上の逸話はのせられていない。

 ことわるまでもあるまいが、この逸話は、深井の手柄話ではあっても、じつは、高橋その人の、部下に対する態度を示すいい話である。〚波瀾万丈〛には、そのプロローグに、高橋が大蔵省の部下の名前を、ほとんどおぼえずに終わったのではないか、という話が出てくる。「この失念をただの性癖といっても、それだけでは片のつかない、底の深いものがあるように思える。失念の彼方(かなた)に、いったいなにがあったのだろうか」と著者は書いている。このこととも関連が深く、要するに高橋という人間をよりよく示すための大事なといころで、オミットするには惜しいのである。

 著者は無論、この逸話を熟知いたはずなのに、それを文字どおり「割愛」しなければならなかった。その理由は他でもなく、回数の制限である。指定回数の半ばをすぎてもまだ本命の部分に達しない焦慮が、そうさせたのであろう。私はそう信じ、同情にたえない。

 だが一方で著者は、高橋自筆の未公開文書を一族に見せてもらっている。この点「日記も提出するから」ということで『松永安ヱ衛門伝』を引きうけたのに、ついに見せてもらえなかった私よりは、非常にめぐまれていたというべきで、うらやましくて仕方がない。(昭和五十五年三月)

★児島直記〚出世を急がぬ男たち〛(新潮文庫)昭和五十九年四月二十五日発行 P.46~50 より


高橋是清:生年:安政1.(1854.9.9) ~没年:昭和11.2.26(1936)


☆69上田 安三郎(1,855~1,901年)


小島直記『人材水脈』日本近代化の主役と裏方(中公新書)昭和五十八年八月十日発行 P.44~48

   上田 安三郎 三池炭販売に奔走

 ボストンには、金子 堅太郎、團 琢磨などのほかにも日本の若ものたちが留学していた。この町はマサチューセッツ湾にのぞむ風光明媚な米国最古の都市で、独立運動の発祥地である。二人が住み《はじめた一八七二年(明治五年)は南北戦争がおわって七年目、新興気分がもりあがり、やがて電灯がともった。物質文明の進歩に目をまるくしながら、暇を見つけてあつまっていたそのグループは、森明善、菊地武夫、平岡熙(ひらおか ひろし)、伊沢修二、小村寿太郎、栗野慎一郎、上田安三郎、斎藤脩一郎、三岡丈夫、朝比奈一、土屋静であったことを、筆者は鎌倉の上田寿四郎氏(安三郎四男)にお借りした資料で知ることができた。

 森は鉄道技師、菊地は日本最初の法学博士で中央大学初代学長、平岡は鉄道技師――というよりも野球を輸入し、日本最初のチームをつくったスポーツ界のパイオニア、伊沢は電話発明中のグラハム・ベルの助手をして発音を学び、視話法によるドモリのきょう正、音楽体操教育、聾唖(ろうあ)教育などに貢献し小村は外相、ポーツマス条約日本全権、侯爵、栗野は駐仏大使、枢密顧問官、子爵になるなど、いずれも日本の人材であった(他の四氏は上詳)が、この中では上田と團が不思議な縁によって結ばれていた。ただボストン時代の二人はその因縁を夢にも知らない。

 上田は團よりも三歳年長、柳川藩士池田安道の三男として長崎の柳川藩邸で生まれ、三歳のとき上田家に養子にいったが、十二歳のとき養家が倒産したため、諸所を転々とし、十五歳のときロバート・アルウイン(初代ハワイ公使、のち三井物産顧問)につかわれた。

 アルウインはこの少年の英才を見ぬき、海外留学希望を実現させた。彼がボストンについたのは明治六年十月、十九歳のときである。このあとコ―マルス商業大学に学び、九年三月からヨーロッパを経由して八月に横浜についたから、團よりは一年おそく米国にいき、二年早く帰国したことになる。ともあれ上田がヨーロッパにたったとき、二人の交友はいちおう終わったかに見えた。

 上田は、旧主アルウインの紹介で、創立直後の三井物産にはいり、翌十年一月本採用、月給八円のサラリーマンとなった。七月、上海にわたり、十一月正式に上海支店詰、十三年三月二十六歳の若さで上海支店支配人に任ぜられ、二十五年四月に帰国するまで、一貫して三池炭の販路開拓をテーマとしたのである。

 政府が三池炭鉱を買収して工部省所管としたのは六年四月である。それまでは大牟田から小船で瀬戸内海の塩浜(製塩所)に売るだけで、現炭は燃えにくいというので、わざわざ砕いて粉炭にして売っていた。この石炭を輸出して国庫収入をふやそうと考えたのが工部伊藤博文である。彼は九年六月、上海総領事品川忠道に、上海市場における石炭需要量等の調査を命じ、上層塊炭、盤下塊炭、コークスをそれぞれ百斤あて現物見本として送った。これが上海送炭のはじめで、実際の輸出は、口銭(手数料)および益金半額下付金をやることとし三井物産にあたらせることにした。

 三池鉱山分局年報によると、石炭一トンの経費と代価は、八年七月から九年六月までが九十一銭三厘と一円四十銭九厘、九年七月か十年六月までが一円三十八銭八厘と一円三十銭となっている。(経費が代価をオーバーしているのはこの期だけで、おそらく西南戦争の影響であろう)。

 三池炭は、大牟田の海が浅いため、長崎県島原半島の口ノ津から貨物船につみ、上海では広東路の事務所の二階を借りている上田ら四人のものが一軒一軒売りこみをして歩いた。当時、アメリカン、アンスラサイト、ニュカスル、カーティフ、キーランなど外国炭が出回っており、その二割安にしたとはいえ、臭気と油気の多い三池炭でくいこむのは容易なことではなかった。しかし、そういう苦労はあったにせよ社員としての身分は安定し、益田孝社長の信任を得て、慰労金だけでも上海時代に計六千二百七十五円ももらっている。当時の金の値打ちからいえば、今日の数千万円にあたりはしないか。  

 これに反して團 琢磨は安定しなかった。帰国早々福岡県知事にたのまれて調査した三池鉱山を一週間で逃げだしてからは、専門で飯が食えず、大阪専門学校助教、大阪中学校訓導、東京大学助教授をへて工部省御用掛となり、三池に赴任するまで六年間も空費している。しかも三池では、高等官から判任官への降格をも忍んで鉱山開発に打ちこんでいたのに、明治二十一年欧米出張中に三井に払い下げられ、團は旅行先においてその職場を失ったのである。

 義兄金子 堅太郎はその身のふり方を安場 保和に相談した。安場は、かつてアメリカ丸で渡米したとき、租税権頭として同船した因縁があり、そして今は金子、團の故郷である福岡県の県知事であった。安場は、福岡県技師として採用することを約束した。これをきいた益田が金子の門をたたき、

「とんでもないことをしてくださった。三井組は炭鉱に四百五十万円も出しましたが、この中には團技師の値打ちもはいっています」 

と文句をつけて、強引に安場との話を打ちこわし、三井にいれた話はすでに『続日本さらりーまん外史』でのべたことがある。

 このころの益田と上田の往復書簡を見てみると、「とにかく十二年の夢もさめて一朝の煙と化し遺憾やる方なきは申すまでもこれなく候へどもいかんとも致し方なくこれなく候。而して今更どのやうな愚痴を申してもその詮なし……」(二十一年四月)とか、「さて三池を買入候ことにいたり候へば、これをすすめたる当会社はその責大に、商売の具合も明年より改革しようほど奮発をいたしたく……」(二十一年八月)とか、益田の憂慮、決意などはうかがえるけれども團の名前は出てこず、また上田がその受け入れのためどれほど益田に働きかけたかは明らかでない。だが、それぞれちがった形で「石炭」をテーマとしていたことにより、ボストン時代の旧交を暖めただけでなく、同じ釜の飯を食べる仲間となって双方ともに感慨無量ではなかったかと推測される。ただ、運命は復活したその友情の永続を許さなかった。『中外商業新聞』(『日本経済新聞』の前身)三十四年七月十三日号は、第三ページの大半をさいて貿易界のパイオニアに追悼記事をささげた。大正七年六月の新聞は、上田の第十七回追悼会があったことを報じ、上田の信任する部下だった小室三吉の追悼談をのせている。この年、團は六十一歳、三井合名会社の理事長に就任し、三井コンツェルンの統率者となっている。

2019.07.16


☆70犬養 毅(いぬかいつよし)(1,855~1,932年)


 号を木堂(ぼくどう)と称し明治から昭和にかけて、政党政治の確立などで活躍した岡山県出身の政治家。昭和6年に76歳で第29代内閣総理大臣となり、翌年昭和7年5月15日、首相官邸において海軍将校らの凶弾に倒れました。

▼また彼は、書にもすぐれ、中国の政治家などアジアの人々とも親交があり、情に厚い政治家としてもしられています。

 「話せばわかる」の彼の言葉は名言である。

 犬養道子さんは、木堂の孫になります。国際連合難民高等弁務官として活躍された緒方貞子さんは木堂の曾孫になります。

参考:犬養木堂記念館ホームページ

逸話:元総理大臣が、選挙があって地方へ遊説に行く。岩手県に行く。盛岡の駅に降り立つ。大勢の人が、出迎えにきている。ひと通りのあいさつが済んだあと、老首相は、その中の若い一人の政党支部の役員のところへ、歩みよる。

 「やあやあ、しばらく、エーと、君の名前は何といったっけな」

 「ハイ、私は田中でありますが」

 と答えたとする。すると首相は

 「ああ、田中は知っとる。田中は知っとる。その下の君の名前だよ」(笑)

 「ハイ、彦次郎であります」

 「ああ、そうそう、彦次郎君だったな。お母さんは元気かい」(笑)

 と聞く。今度は山口県へ行く。やはり同じようないきさつのあと、支部の若い党員のところへ歩みよる。

 「やあ、やあ、やあ、しばらく。え、え、と、君の名前は」

 「ハイ、三郎でありますが」

 「ウン、三郎は知ってる。三郎知ってる。ワシの聞きたいのは、その上の方のミョウジだよ」(笑)

 「ハイ、山田でありますが」

 「ああ、山田君だったな。お母さんは」(笑)

 そこで、声をかけられた若い党員は、みな、首相は、自分の名前の上半分か、下半分を覚えてくれていた、というので、大いにハリ切った、というのであります(笑)。

扇谷正造『桃太郎の教訓』(PHP)P.71「人の名前はドビンの取っ手である」より

扇谷正造『吉川英治氏におそわったこと』(六興出版)P.183



 政党には、統制拡張、政権獲得などいう一種の病気がつきまとう。そのために、あるいは種々の上正手段に出でたり、あるいは敵に向って進む勇気を失ったりすることがある。これを監視し激励するのが言論に従事する人々の責任でなければならぬ。すなわち記者諸君は公平なる地位にあって、各政党の正不正を裁く裁判官であると同時に、政党が正義に向って進むことをちゅちょする場合、これを鞭撻(べんたつ)し激励するの役目にあるものである。いかなる臆病太郎といえども「お前は強いぞ」と始終励まされると、卑怯な真似はようしないものである。(全国護憲記者大会での演説)

この日(5月15日首相官邸で青年将校に射殺される。福沢諭吉の門下。新聞記者から政界に入り、終身議席にあって藩閥打倒、憲政擁護につくした。

*桑原武夫編『一日一言』―人類の知恵―(岩波新書)P.82


☆71頭山 満(1,855~1,944年)


小島直記著『人材水脈』日本近代化の主役と裏方 (中公文庫)P.49~53

   頭山 満気骨の知事安場と意気投合

 安場保和が元老院議官から福岡県知事になったのは、内務大臣山縣有朋から、

「福岡というところは、玄洋社一派の本拠で、なかなか治めるのに骨が折れる。一つぜひ出かてもらいたい」

と懇願されたためである。

 筑前福岡の人びとは、その風土的条件もあって、古くから万里の波濤をおそれずに外国と交易し、豪邁(ごうまい)進取的でかつ権力に叩頭(こうとう)せぬ反骨・在野の精神をつちかってきた。明治十四年二月、箱田六輔、進藤喜平太、平岡浩太郎、頭山満などの士族を中心に組織された「玄洋社」も、その精神の所産といえる。彼等はくどくどと規則をつくることをせず、「憲則」としてわずかにつぎの三条のみを掲げた。

 第一条 皇室を啓載すべし

 第二条 本国を敬重すべし

 第三条 人民の権利を固守すべし

 このいわゆる「法三章」のもと、「金もいらぬ。ただ男らしい死所を得たい」と腕を()している浪人たちは、いつ反体制のテロリストに変るかもしれぬ無気味な存在で、政府としても無関心でおられなかった。ただいわゆる能力型の人間ではどうにもならぬ相手である。しかるに安場という人は、横井小楠の薫陶をうけて識見があり、とくに「清廉潔白、かつ斗酒なお辞せず」、いかにも明治維新の豪傑らしい風格をそなえている。みょう利や威圧では動かぬ浪人と対決できるのは、そういう風格しかなく、それを官界に求めるとすれば安場しかない、と山県は考えたのである。侍講の相談をした大久保利通の場合と合わせ、いかに安場の評価が高かったかを物語る例である。

 このとき安場は四十二歳。福岡に着任してじっと玄洋社の親玉たちを観察した。箱田六輔は、「剛直で正直、親切、つねに表面立って忠実、献身的に働いた」(頭山の批評)人物でことに寝酒一升の大酒家だったから、安場にとって絶好の酒友となったであろうが、すでに前年三十九歳で他界していた。進藤喜平太は三十六歳、謹厳寡黙、「九州侍所別当(さむらいところべっとう)」のアダながあり、古武士的風格で徳望をあつめている。平岡浩太郎は三十五歳、のちに代議士になり、炭鉱資本家としても羽ぶりをきかす才子で西南戦争のときは福岡で挙兵し、そのやめ懲役一年をくらったという経歴もある。頭山満は三十一歳、西南戦争の前年に「大久保暗殺、政府転覆の陰謀」を企てた疑いで一年投獄されていた。一番の年少で、昼アンドンのようでありながら、もっとも衆望がある。玄洋社外の人間も頭山をもっとも買っていて、たとえば侠客大野仁平は、「平岡が進む勢いは敵の千軍万馬をものともせず、一挙にして()散らすような武者ぶりだが、さてあとをふり返ってみると、大将ひとりいい気持になっているばかりで、あとに従うものはいくらもない。これに反し、頭山の進むのはノソリノソリとまるで牛の歩むようで、いかにも間がぬけているが、あとからあとから軍勢がつづいてゆく」と批評していた。

 安場は頭山に最大の関心をもった。さらに、酒は一滴ものまない、非常に腕力が強いのに蚊一匹殺せぬようなやさしさがある、親孝行者だ、ということがわかった。もっとも感心したのは人助けのやり方である。平岡は、人に金をやる場合、百円を二百円と輪をかけて他人に吹聴し、とくに第三者の見ているところで出した。ところが頭山は助けるにもかくれてやる。もらった本人kら聞いた第三者がそのことをたずねても、「ハアそうか」とㇳボけている。「頭山一顧すれば幾百の子弟響きのごとくに来り応じ、平岡大声呼号するも一人の身を挺して来る者なし」という批評もそこから生まれていた。安場は会う前ゕら好きになっていたが、頭山も安場と会ったあと、

「きょうは役人という者にはじめて会ってみたが、存外話せるぞ」

と語った。しかもなお、官権ぎらいの彼は、安場とつき合うことでではかなり思案をこらしたらしい。

「その位にあってその事を行わざる者は尸位素餐(しいそさん)(才徳なくして官位におり、いたずらに禄をはむ)の徒なり。その位にあらざるもその事を行い、殊に自家の米塩を憂えずして、君国の経綸に志すものは浪人なり。国士なり。すなわち浪人は政府または人民より頼まるるにあらず、また一紙半銭の報酬を得るにあらずして自ら好んで天下の事にあたる>のをその本領と考えている。県知事などと仲よくすべきでない、と考え、炎天下の道百二十キロをはだしで歩いて熊本に行き、かねて尊敬する前田案内子(まえだ かがし)父子の意見を聞いた。前田下学は、「何も官吏と有志家との別を問うことはあるまい。安場は決して俗吏でなく、国家のためにという志士はだの男だ。二人の意見さえ投合すればほかのことはどうでもよかろう」 

と言い、その父案内子も、

「その通りじゃ。安場はわしと剣術友だちでいっしょに宮本の二刀流を学んだことがある。普通の役人とちがい、気骨のある男じゃよ」

と、太鼓判を押してくれた。

 こうして二人の親交がはじまる。安場は、上京してくるとすぐ頭山に知らせ、頭山もすぐやってきて話をきく、話がおわると、

「早く日傭取り(県庁づとめをひやかしたもの)に出かけるがええ」

といって、安場が登庁したあと、座敷の寝ころんだまま、安場夫人に土産(みやげ)の菓子をもってこさせ、ムシャムシャ平らげて帰って行く。そういうつき合いとなった。

 このころ炭鉱をやれ、とすすめたのが杉山茂丸である。頭山はギロリと杉山をにらみ、

「おれに山師になれとや?」

と眉をひそめた。玄洋社の資金源として必要だといわれてようやく承知し、海軍の予備炭鉱となっていた鉱区の払い下げを願い出た。そのとき最大の便宜をはかってやったのが安場である。これからしばらく、「炭鉱所有者」という一時期が浪人頭山の生涯にあらわれる。夕張炭鉱の一鉱区を四万円で買収したこともあったが、これはのちに井上角五郎の仲介で北海道炭鉱鉄道会社に売却した。頭山が百五十万円で売ろう、といい、井上が、少しまけてほしい、とたのむと、「ケチなことをいうな。しいてまけろというなら、半分まけてやる」

と、いきなり七十五万円にしてやった。しかもその金は、井上のコミッションに十五万円、借金ばらい(すべてばい額)、同志にわけてやるなどで、わずか一月で消えてしまった。しょせん、「炭鉱資本家」になれない本質的浪人だったのである。それにしても、安場は娘婿の件では本山彦一とは縁がなく、後藤新平と縁があり、炭鉱の件では團琢磨と縁がなく、頭山満と縁があった。こういう有縁無縁にも上可思議な人生の姿がのぞいている――。

2019.05.30


☆72陸 羯南(くげかつなん)(1,855~1,944年)


小島直記著『人材水脈』日本近代化の主役と裏方 (中公文庫)P.149~153

   陸 羯南(1857∼1907) 健筆、青年の血わかす

 靺羯(まつかつ)とは、北狄(ほくてき)の別種、朝鮮咸鏡道以北より黒竜江一帯にかけて住んでいたツングース族というが、シベリアから北の広い地域をばく然とさす意味もある。原敬とともに司法省法学校をおわれた(くが)実が、十五歳のとき弘前の古川他山塾で詩をつくり、その一節に「風濤、靺羯の南より来る」と書いたときの靺羯は、あとの方の意味だったらしい。そしてこのことは、「そのころから彼がシベリア方面の外国から来るあらしを忘れないという対外経営の志をもっていたことをそれとなしに語るものであったろう」(柳田泉『陸羯南』)。この詩は古川先生に激賞されたが、陸実が羯南を生涯の号とするるにいたったのは、恩師にほめられたうれしさ以上に、国際政局における危機感、対露政策という問題意識をもちつづけたからではなかったか。 

 ところで彼は、司法省法学校の前に宮城師範学校に在学しており、その学校も中途退学している。この方は、ある事件の処置について学校のやり方に不満があり、卒業は目の前であったのに、自ら断固として学校をさったのである。師範学校は、当時(明治七年)士族子弟の生活安定策としては最善のものとされていたし、羯南自身、成績もわるくはなく、ことに詩文においては頭角をあらわし、竹内東仙という先生は師弟というよりも友人として遇したというから、居心地もわるくなかったはずだ。そこ卒業寸前で出てゆくのであるから、潔癖さ、功利的打算と縁のなかった五十一年の生涯は、すでに十八歳のその行動に象徴されていたともいえよう。

 法学校時代でも、点取り虫にはならずに自分のやり方で勉強した。学校はフランス法学中心なのでフランス語をやるとともに、「学問は西洋が精緻でよいから、それに従うが、大局的見識を養うには、東洋、漢学(歴史諸子)でなければならぬ」という考え方をし、和漢の書物を手にとったが、一字一句にこだわらず、音や調がまちがっていてもそれにはかまわずに、非常なスピードで読破していった。

 少年時代から生涯を通じて好きだったのは諸葛孔明であるが、法学校時代には王陽明の人柄が好きになり、その文章を愛読した。金があれば酒をのんだが、金のあるときは少ないので、もっぱら歩きまわることをたのしみとした。鎌倉、千葉、鴻の台、銚子などに出かけ、国分高胤(こくぶ たかたね)(青厓)といっしょに関西旅行をして神戸までいったときは、警察署から召喚された。人相風采、敝衣破帽の様子で大久保利通暗殺者の一味と疑われたのである。

 法学校の賄征伐では、原敬とともにそれに参加しておらず、その処置について校長を批判し、退学させられたのである。そのとき二十三歳で原、国分、加藤恒忠(拓川)とともに、新聞記者をへて代議士となり、一国の宰相たらんという誓いを立てたことは前回に述べた。その年帰郷して青森新聞の記者兼編集長となったのはその路線をいったものであるが、間もなくやめて北海道紋別の開拓使製糖所の事務員にやとわれたのは、志の挫折、というよりも家庭の事情であった。家庭は窮迫し父は老齢に達しているのに、青森新聞は月給が安くて面倒を見てやることができない。父母の難渋を放っておいて、経国済民を説くのはまちがっているという考え方だったらしい。

 しかし、その北海道生活は九ヵ月にすぎなかった。官有物払い下げの問題にイヤ気がさしたのであろう。上京して、フランス文の翻訳で生活を立てはじめ、その訳文が認められて太政官文書局の御用掛になったのが二十五歳の暮である。

 彼はここに足かけ五年つとめ、官制改革で内閣官報局となってからも足かけ四年つとめた。それだけつとめても高等官にはなれなかった下っぱの地位であったが、この下積みの期間が彼の人生に決定的な役割をはたした。立身出世を望むだけの男にとってはまことに味気ない数年間であったろうが、羯南の目的、努力の仕事は別のところにあった。彼はこの期間、組織的に本を読む、という一事に打ちこんだのである。ド・メートルの『主権言論』を訳出したのも、その組織的な勉強の一環をなすものであった。二十五から三十二歳までの、その地味な努力が、彼をして「日本の羯南」とよぶにふさわしい地位を約束したのである。単なる出世亡者が位階勲等の階段を上っていっても、本人が死ねば一切はゼロとなるが、羯南はその空虚なもののかわりに不朽の名声を獲得した。その原因がこの忍従の基礎工事なのである。

 ところで今「日本の羯南」ということばを用いたが、これには二つの意味がある。一つは、日本的に有名となった言論人という意味であり、もう一つは『日本』社主兼主筆として日本的存在になった、という意味である。

 官報局時代、羯南は次長高橋健三と親交を結んでいた。局長青木貞三がやめて東京米穀取引所頭取となったあと、次長の高橋の昇格を期待していたのに、曾禰荒助が局長になったので、羯南は浪人になり、筆で立つことをきめ、兜町で出ていた『東京商業電報』を高橋や谷干城の世話でまかされたので、これを『東京電報』と改め、社長兼記者としてスタートした。三十二歳の春のことである。

『東京電報』は刊行数ヵ月でゆきづまったが、谷干城(たに たてき)三浦梧楼(みうら ごろう)浅野長勲(あさの ながこと)福富孝季(ふくとみ たかすえ)千頭清臣(ちかみ きよおみ)、高橋健三の応援で、翌二十二年二月十一日に刊行したのが『日本』である。羯南は社主兼主筆、法学校の退校仲間福本日南、国分青厓がはいり、つづいて古島一雄がはいって編集長の役をはたし、三宅雪嶺が関係し、おくれて正岡子規中村不折(なかむら ふせつ)、長谷川如是閑なども入社する。

 羯南は、「真弓(まゆみ)にも征矢(そや)にもかへてとる筆のあとにや我は引返すべき」という歌をつくったことがある。原稿を書くのはシナ輸入の毛筆で、急ぐときは、できるはしから一枚ずつ植字場へわたした。「それで印刷になってみると、堂々たる達意の文章で、笏を把って上に立つの概があった」と古島一雄は語っている。「新聞は政権を争ふ機関にあらず、私利を得る商品にもあらず、博愛の下に国民精神の回復を発揚する……」という彼の刊行の辞のとおり、『日本』は議論一点ばり、ニュースも政治教育方面のものを主とし、三面記事はこれをしりぞけた。 

 印刷用にはフランスからマリノニ式輪転機を入れ、写真をはじめてとり入れても部数五千部(最大二万部)、また黒田内閣に三回三十一日間、山県内閣に二回三十二日間、松方内閣(第一次)に二回九日間、伊藤内閣(第二次)に二十二回百三十一日間、松方内閣(第二次)の一回七回間の発行停止をくらうというふうで、経営は困難をきわめたが、雄健な文章、あふれる情熱は青年の血をわかし、神田の下宿屋では、この新聞をとるのを誇りとした。五十一歳の死は早すぎたとしても、しとげたことは「男子一生の仕事」とよぶにふさわしい。 

2019.06.07記す。


☆73原 敬(1,856~1,921年)



小島直記『人材水脈』日本近代化の主役と裏方 (中公新書)昭和五十八年八月十日発行 P.144~148

   原 敬 "ひとやま"あてて宰相となる 

 雅号というものがある。もともと文人、学者、画家などが、実名のほかになのるものらしいが、そういう実質をはなれて、一般の人間もさかんにつけたものらしい。ひところ日本人には鼻ヒゲが流行した。人間の実質いかんよりもまず外形を整えて、そこに一種の意味をもたせようとするポーズともいえるようで、よくいえば東洋的ダンディズム、率直にいえばスタイリストのアクセサリーということになろう。その人物を判断する一つの手がかりがある。

 原敬、犬養毅尾崎行雄とならべて書けば、日本憲政史上の花形スターを選んだということになるが、これらの人物がすべて雅号にからむ逸話を残しているのは興味がある。

 犬養と尾崎が雅号をつけたのは、慶應義塾在学中のことらしい。犬養は「木堂」、尾崎は「琴泉」であった。二人は別々のグループに属していて、まず尾崎が、波多野承五郎、加藤敬之助、桐原捨三などと協議社というグループをつくり、これを横目ににらんだ犬養は猶興(ゆうこう)社というものをつくった。そのライバル意識が相手方にたいする悪口となり、犬養はとくに尾崎の雅号にケチをつけ、女の画家かアンマみたいだ、と毒舌をたたいた。それは尾崎の耳にとどき、それを気にして尾崎は「学堂」という雅号に変えた。

 両雄の間をとりもとうとしたのが波多野承五郎で、その仲介で二人が会ったとき、犬養が、今度は何という雅号だ、と尾崎にたずね、「学堂」だときくと吹きだしたのである。

「学堂とは君、シナではスクール、学校のことだぞ。また妙なものにしたもんだな」 

「そういう君はどうなんだ?」と尾崎は反問した。

「おれは、木堂じゃ>。すると尾崎はせせら笑った。「木堂? それは材木小屋じゃないか」  

 犬養はムクれて、そのまま帰ってしまった。しかし、尾崎も犬養の毒舌が気になったのか「咢堂」と改めている。

 のちに「憲政の神様」といわれた両人の初対面は、こうして「雅号」のくさし合いということで、けんかわかれとなってしまった。

「平民宰相」といわれた原敬の雅号は「一山」、これは俳句をつくりはじめてつけたものというが、その発想法は、犬養や尾崎とまるきりちがっている。「山」という字があるのでなんとなくものものしいけれども、要するにその語源は「一山百文」の「ひとやま」であり、安く買える見切り品、非高級品の意味がある。ただ、それは原敬自身の単なる自己卑下の気持でつけられたものでなかったところに、人生的、人物論的意味があった。 

 原敬は、明治維新における戊辰の役で、賊軍側とされた南部藩の出身である。このとき官軍側に立った薩・長・土・肥のいわゆる「薩閥人」には、自分たちに反抗した奧羽諸藩にたいする敵愾心があり、それはやがて侮蔑心とも変わった。そこで彼らは東北人を「一山百文」と呼んで、侮辱したのである。

 原の「一山」は、その歴史的呼称の一山をとったのである。したがってそれは尾崎行雄が、琴をならっていて、その琴の音と泉の流れとを組みあわせて、いわば上品にあるいはキザに「琴泉」という雅語をつくった遊びの心とは別のものであった。おれは藩閥人に侮蔑されている東北人の一人だ、という自己意識が根本にあった。ウラを返せば、いつまでも下風には立たぬ、いずれお前たちを見返してやるぞ、という闘志の表明であり、卑下ではなくて自負のしるし、ともいえたのである。 

 だが、藩閥政府の秩序の下で、道は嶮しく、遠かった。まず生活の窮迫がある。家老であった彼の家も例外ではなく、十六歳で東京遊学するときは、二十余室あった屋敷のうち、母屋だけを残して売り払った金が学資にあてられた。しかしその金も半年でなくなった。そのとき、財産家に嫁いでいた義母から学資援助が申しこまれたが、彼は断った。伯母の金であるから、もらっても恥にはならぬと思うけれども、同年配の叔母の子に一生頭があがらなくのがイヤだっからで、「一山」らしい気骨と自尊心はこのとき示された。

 このあと、麹町にあったカトリック神学校にはいったが、経典を静かに学ぶどころか、第二維新をおこなう方法などを議論して夜ふかしをしたというから、伝道師になる希望で、ダビデという洗礼名をうけていたとしても、ダビデよりも「一山」が勝ったわけである。ここに一年半いて、新潟天主教会のフランス人宣教師ェプラルの学僕となった。これまた宣教師になるためではなく、フランス語を学ぶためであった。二年後、司法省法学校にはいり、予科三年生のとき賄征伐事件がおきて、秋月左都夫(のち大使)、福本誠(日南、大新聞記者)、加藤恒忠(のち公使)等が夜中に寄宿舎を追いだされた。

 原は事件に関係なかったが、学友が夜中に寄宿舎を追いだされたことには義憤を感じ、学校当局にたいする争議の先頭に立って、

「われわれ生徒は学校の規律に服従すべき義務をもつけれども、いかなる人によっても、良心の自由を束縛される理由はない。校長に心腹するかどうかは、われわれの自由であらねばならぬ」と痛論した。ただちに立って、これに賛成したのが国分高胤(青厓、漢詩人)である。彼は仙台藩であった。つづいて賛成の声を上げたのが陸実(羯南、政治評論家)である。彼は津軽藩出身であった。

 ところが校長は薩摩藩出身であった。ここに期せずして、校長に対する生徒の「東北同盟」ができ上がったわけである。「東北同盟」は司法卿直訴を考え、何度か門前払いをくらわせながらもこれに屈せず、ついに面会をもとめて陳情書を手渡し、実情を説明した。司法卿大木喬任は佐賀藩の出身だが、寛厚の君子人で、穏便に処置せよと校長に訓示し、「処罰取り消し」となった。東北同盟は勝ったわけである。  

 ところが、校長はひそかに報復をねらっていた。事件のほとぼりも冷めかかったころ、春季大試験があり、そのあと、原、陸、国分、加藤、福本など、事件関係者十六人は、理由不明のまま、退学を命ぜられたのである。

 原は、陸、国分、加藤らと京橋の安下宿にはいった。このとき原は二十四歳、陸、国分は二十三歳、加藤は二十一歳である。

 彼らは将来の方針を相談し、官吏など、たのまれてもなってやらない、まず新聞記者、それから国会議員となり、それから天下をとるのだ、と誓い合った。「まず新聞記者」の口にあたって、月給八円の朝野新聞記者となったのは国分である。そして、理想達成を「一山あてる」といういいかたで形容すれば、一山あてて宰相となったのは「一山」の雅号の持ち主だけであった。

※明治・大正の政治家。陸奥(むつ)盛岡藩家老の子。司法省法学校中退。改進党系の《郵便報知新聞》記者を経て官僚派の《大東日報》主筆となる。井上馨,陸奥宗光の知遇を得て外務省の次官まで進んだ。退官後,大阪毎日新聞社社長。1900年立憲政友会創立に参画。1902年以降代議士。1906年西園寺内閣の内務大臣,1914年政友会総裁。藩閥勢力を切りくずし,1918年米騒動で倒れた寺内内閣のあとを受けて最初の政党内閣を組閣。〈平民宰相〉といわれたが,政友会の絶対多数を背景に強硬施策を行い世論の非難をあびた。1921年東京駅頭で大塚駅員中岡艮一(こんいち)により暗殺。

2019.07.10


☆74後藤新平(1,856~1,921年)



 復旧でなく復興を   後藤新平と秀吉

 大正十二(一九二三)年九月一日の関東大震災以後の東京再生の指揮をとったのは、当時の内務大臣・後藤新平だ。後藤は東京市長の経験があった。市長当時助役だった永田秀次郎が震災時の市長を務めていた。呼吸がピッタリ合う。"あ・うん(あは吐く息、うんは吸う息)の呼吸"だ。

※プロフィール:後藤 新平(ごとう しんぺい)(安政4年6月4日(1857年7月24日)~昭和4年(1929年)4月13日)は、日本の医師・官僚・政治家。位階勲等爵位は正二位勲一等伯爵。 台湾総督府民政長官。満鉄初代総裁。逓信大臣、内務大臣、外務大臣。東京市第7代市長。

 後藤は永田に告げた。

「永田君、東京は復旧ではないぞ、復興だ」

 どう違うのですか? などとヤボな質問はしない。ツーカーの仲で永田も後藤の性格をよく知っているからだ。しかしどう違うのか?

 後藤にいわせればつぎのようになる。

 復旧……災害にあう前の姿通りに戻す

 復興……原型に修正を加え、新しく創造的部分を加える

 つまり復旧は

 日本の首都は長い間関西国にあった。

 しかし市長時代に経験したところでは、東京はまだまだ江戸時代の因習を引きずる"大きな田舎"だった。特に土地問題が思うようにいかなかった。後藤は内務大臣として、「東京の復興は一自治体である東京市だけの課題ではない。日本の国家的課題である」と告げて、三十億円をこえる"復興予算"を要求した。国会も政府も「後藤の大風呂敷だ」といって、十分の一近くに縮小してしまった。

 しかし実現された夢もある。たとえば隅田川に架けられた数本の橋。後藤は、

「橋は渡るだけではない、都心の風景として、人々の鑑賞の対象にならなければ」

 といった。そのために橋梁技術者が設計する前に、画家に思い思いの橋の絵を描かせ、これを設計の参考にさせた。現在隅田川の橋のほとんどがその発想の結実で、同じ型の物は一本もない。

 災害後の復興策がそのままその地域の特性になることもある。特性というのは地域の目玉であり売り物のことだ。

 戦国末期、羽柴秀吉は織田信長の命令で中国地方を制圧させた。まず手こずったのが播磨三木城(兵庫県三木市)の別所氏攻略だった。城兵の戦意が高く、攻めあぐんだ。包囲して兵糧攻めにし、ようやく落城させた。秀吉は、

「責任者である城主とその補佐は切腹、以外はすべて赦免」と触れた。ゾロゾロ城から出てくる人々の群をみていると、兵士の中に沢山の一般人(町民)がいた。秀吉は、

「別所氏の善政の表れだ。城主として民に慕われていたのだ」と感じた。そこで秀吉は町民が他国へ行かずに、この地に留まって戦場と化した地域の復興を命じた。資金として、

「一切の負担金を免ずる」

 と命令した。町民はよろこんでこの地に踏みとどまった。伝えによれば秀吉の「負担免除令」は、徳川時代に入っても代々の領主がこれに従ったという。秀吉は復興の恩人として讃えられた。自分たちの憎い敵を恩人とした珍しい例だ。

 三木地域の復興策の目玉になったのは金物だ。特に大工金物に力を入れた。三木といえば金物と多くの人が知っている。金物は三木のCIの略(コーポレート・アイデンティティの略。企業などの理念や取り組みをわかりやすく示すこと)。

2019.11.21


☆75牧野 伸顕(まきの のぶあき)(1861~1949年)

小島直記『回り道を選んだ男たち』(新潮社)
   牧野 伸顕 P.34~38

 牧野伸顕の名前を初めて知ったのは「二・二六事件」のときだった。叛乱軍の一隊が湯河原の滞在先をおそい、護衛巡査を殺し、看護婦にキズをおわせたが、ご本人は逃げ出したというニュース。 

 しかし、その人がどういう経歴かについては何も知らなかった。

 昭和二十三年から二十四年かけて、この人の『回顧録』(文藝春秋刊、全三巻)が出た。 

 明治の功臣大久保利通の二男で、アメリカ留学(二十一歳)のあと、福井県知事(三十一歳)、茨城県知事(三十二歳)、文部次官(三十三歳)、イタリア公使(三十六歳)、文部大臣(四十六歳)、枢密顧問官(四十九歳)、農商務大臣(五十一歳)、外務大臣(五十三歳)、パリ講和会議日本全権(五十八歳)、宮内大臣(六十一歳)、内大臣(六十五歳)などの経歴――いわゆる「重臣」となり、革新派の目の敵にされるいきさつはこの本で知ることができた。 

 また別のルートで、その娘がのちの首相吉田茂夫人となり、長男が文学者吉田健一であることなどを知った。 

 ご本人は、この本の第三巻が出た昭和二十四年、千葉県東葛飾郡田中村の自邸において八十九年の生涯を閉じている。 

makino.kaikoroku.jpg  それから二十四年して、中央公論社からの文庫本として『回顧録』上巻(五十二年十二月)が、つづけて五十三年一月に下巻が出版された。

     * 

 文春本と中央文庫本とを読む間に、筆者自身にもいろいろ変化がおきている。その一つは、碁をおぼえて、熱中するようになったということである。したがって、この回顧録も、碁の視点から読み直してみる、という事態がおきたのである。 

 何故に「牧野伸顕と碁」なのか。そういう視点に何の意味があるのだろうか。

 第一は、父大久保利通との関係である。大久保が碁を愛し、本因坊秀栄が出入りして大久保に敬意を抱いていた話は、すでに書いている。

 一方、牧野も碁の愛好者、アマの強豪であったことは、たとえば古島一雄が、

「松田正久、碁を好む。品位未だ高からずと雖も、其沈思熟慮一手を下す、時に半晌(はんしよう)(半時間)を費すことあり。牧野伸顕も亦同癖あり。其棋品之れを正久に比すれば高きこと二三級なるも、其静坐黙想の長き又正久にばいす。近者二人者共に新内閣に列するや、或人戯れて曰く、謹んで二人者をして対局せしむる勿れ。一局未だ((おわ))らざるに、内閣先ず倒れんと。二人相顧みて苦笑す」(『雲間寸観』) 

 と書いていることでも明らかである。碁は父子共通の趣味であったわけだが、それでは息子伸顕は、いつ、どういう形で父から教わり、父の碁をどう見ているかということは、興味深いことではあるまいか。あるいは、息子に碁を教える父としての姿に、世間像とはちがう大久保の人間味が浮彫りされてくるのではあるまいか。 

 ところが、『回顧録』には、父子のスキンシップといえるそういう思い出は語られていない。ただ、熱海にいる間、大久保は碁を打っていたこと(五一頁)、プロ初段ぐらいで、身の丈四尺五、六寸のたかという女性がおともしていたこと(五二頁)、碁があまり好きなので、体に障りはしないかと周囲が心配し、松方正義が一同を代表して忠告すると、 

「私に碁を止めろと言うのですか。私は碁が出来なければ死んでしまいます」 

 と大久保は答え、少しでも暇があると碁を打っていたこと(五三頁)が語られているだけである。

 自分が碁をいつおぼえたというようないきさつはぬきにして、とつぜん犬養毅と碁を打つ話が出てくる(二六二頁)。それはオーストリア兼スイス公使時代、明治四十二年賜暇帰朝し、四十三年秋中国を視察したときのことである。 

 芝罘(チーフ)の領事館に一泊したとき、犬養毅と大石正巳も来合わせていた。 

 いろいろと話もあったが、それはそれとして犬養は碁の好敵手だったのでその晩は深更まで碁で過ごした。 

 犬養も碁の愛好者で、本因坊秀栄と仲がよかった話は以前に書いたことがある。 

inugaimokudouden.jpg  プロの岩佐銈六段(当時)に四子で中押勝ちした対局譜(大正十三年)は、『犬養木堂伝』下巻(昭和十四年刊)にのっているが、つい最近小林光一九段は、その著『小林流必勝置碁(四子局)』の中で解説(一四九頁以下)し、「風格、技倆ともすぐれている」、「現代なら名誉九段をさしあげるくらいの力」と賞めている。

 それでは、このチーフでの対局はどうだったか。牧野『回顧録』は勝負を語っていない。一体二人はどちらが強かったのか。 

     * 

 このことについて、我々に教えてくれるのが古島一雄である。 

「犬養木堂の棋品は、牧野より下ると称せらる。然るに連載二日、牧野遂に木堂の厚みに制せられる。或人碁客に質(ただ)すに、其優劣を以てす。答へて曰く、牧野氏は予に三子を()き、犬養氏は予に五子を布く。牧野男は三子を以て栄とせざるも、犬養氏は五子を以て()ほ辱となさず、自ら知るものと自ら知らざるものと、其勝敗論ずるに足らざるなり、と」 

 これも『雲間寸観』の一節で、明治四十四年九月十五日に書いたもの。つまりチーフでの勝敗のことではないが、二人の碁力、碁品をくらべる場合の活きた証言といえよう。 

 プロ高段者に三子といえば、アマとしては非常に高く評価されていることになる。しかしご本人はそれを格別名誉であるとはおもっていない。ところが犬養の方は、五子をおいてもそれを不名誉とはおもっていない。何子おかされてもよい、ともかくいい碁を、楽しく打ちたい、という心境であるようにおもえる。

「自ら知るものと自ら知らざるもの」

 とのちがいに他ならず、自らを知り、五子おかされてもそれを不名誉と思わぬ犬養が強いのは当然であって、勝敗は論ずるまでもない、ということになるのである。 

 この話は、まことに含蓄が深い気がする。つまり、単なる囲碁の話ではなくて、人生論、人物論の中核といってもよいような気がする。 

 牧野をダメだというわけではないが、やはりその人生は、明治の功臣の息子であり、藩閥政府下のとび切りエリート・コースだったことは、前述の経歴からもうかがえる。父をテロで失うとはふ幸なことにちがいないが、そのこともまた親の七光りにプラスするアルファともなったであろう。相当な苦労人であったとしても、根本のところは「お坊ちゃん」であったような気がする。 

 取締役にしてやっても、格別よろこばない人がいる。その心境はいろいろあろうが、お坊ちゃん気質の自己過信も原因ではないか。 

2022.04.03記す。