☆天皇機関説問題


 大内兵衛の『法律学について』の一節がある。彼は大学の法学部出身者の見識と覚悟が低いことを罵つてから言ふ。
 私は、こういった法学部学徒の人生観・世界観なるものについて、イヤというほどその社会的意義を見せつけられたのは、昭和七、八年より一〇年前後にかけて起こった美濃部博士事件のいわゆる天皇機関説問題であると思っている。

 美濃部博士の学説といえば、大正八年より昭和一〇年までの日本における、政府公認の学説である。という意味は、この一五年間に官吏となったほどの人物は十中八九あの先生の憲法の本を読み、あの解釈にしたがって官吏となったのである。そしてまた、その上司はそれを承知して、そういう官吏を任用していたのである。これは行政官だけのことではない。司法官も弁護士も同様である。しかるに、いったん、それが貴族院の一派の人々、政治界の不良の一味、学界の暴力団によって問題とされたとき、すべての法学界、とくに直接した人々がどういう態度をとったであろう。上は貴族議員、検事、予審判事、検事長、検事総長等々より、下は警視総監、警視、巡査にいたるまで、彼らのうち一人も、みずから立って美濃部博士の学説が正当な学説であるというものがなかった。いいかえれば、自分の学説もまたそれであり、自分は自分の地位をかけても自分の学説を守るというものがなかった。もう一度いいかえれば、美濃部先生の学説はその信奉者たる議員、官吏のうちにさえ、その真実の基礎をもたぬものであった。だからこそ、彼らは、上から要求されれば自己の学説をすてて反対のことをやったのである。そしてそれについて自己の責任を感じなかったのである。何ともバカらしい道徳ではないか。何ともタワイのない学問ではないか。そんなことから、私はかたく信じている、日本の法学は人物の養成においてこの程度のことしかしえなかったのであると。同時に、そういう学問ならば、いっそないほうがよいのではないか。そのほうが害が少ない。

 ただ脱帽するしかないアジテイションの藝である。烈々火を吐くというのはまさにかういう文章のことなので、大内の言説がいちいち正しく、しかもかういう主張する資格が彼に備はってゐることは念を押すまでもない。野蛮な軍国政府に対する彼の抵抗は人のよく知るところだからである。

 と、丸谷才一著『文章読本』(中央公論社刊)P.155 に記載されている。大内兵衛『法律学について』(「大内兵衛著作集」第十二巻、岩波書店、昭和五十年)


   明治天皇と元勲たち 明治天皇と元勲 鳥海 靖 TBSブルタニカ P.22

 本巻にとりあげた明治の元勲たちは、その活躍した時期と舞台によって差があり、また個性の違いはあるが、基本的には集団指導型政治家であるといってよいであろう。彼らのうち、西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允・岩倉具視が活躍した主たる時期は、「兵馬騒乱の創業期」であり、いまだ政治運営の安定したルールは確立されていなかった。

 とくに西郷の場合は、明治政府の政治家としてよりも、幕府打倒にいたる幕末動乱期の軍事的局面の指導者としての功績が大きかった。王政復古のクーデターから幕府側を兆発するかたちで鳥羽・伏見の戦いを起こし、新政府軍を率いて江戸に進軍し、勝海舟との交渉によって江戸城無血開城に成功するまでが、西郷のはなやかな出番である。混乱の時代に、その人間的魅力、豊かな包容力、あふれるばかりの勇気と情熱などによって、ばらばらになりかねない諸藩混成軍をよく統率し、討幕の武力として力を発揮させた点が、最大の功績といえるだろう。

 それ以後は、廃藩置県の際に一役買った程度で、明治政府の手による「建設の時代」には、彼の行動はいささか生彩を欠いたものになる。しかし、維新の大きな功労者でありながら、西南戦争で士族反乱の首領となり「逆賊」として悲劇的な死を遂げたことは、日本人の判官(ほうがん)びいきの琴線にふれ、また権力に恬淡(てんたん)とし、質素な私生活を送った点は、庶民感情に合致し、今日まで半ば伝説化された大衆的人気を保持している。

 これに対し、大久保は「徹頭徹尾政治家」であった。大政奉還から戊辰戦争にいたる時期、岩倉と組んで宮廷工作をはじめ、さまざまな政治の裏面工作を推進したといわれ、二人とも策謀家としてのイメージが強く、その分だけ素人向きの人気には乏しい。大久保の場合、その活躍の最大の舞台は明治政府であり、新政府成立以後は、死ぬまで終始一貫、政府の中枢の座にあった。彼はいわば実務のわかる現実的政治家であって、「破壊の才」では西郷に遠く及なかったが、「造作の才」にかけてはなんといっても第一人者であった。とりわけ征韓論による政府分裂後も、政府にふみとどまり、配下の実務家たちをよく使って国内の整備、建設に全力を注いだその間、佐賀の乱から西南戦争にいたる士族反乱を断固として武力鎮圧にあたったということから反対派から武断専制政治家という非難を浴び、後世の歴史家からも、しばしば「大久保独裁」なる評を受けている。

 たしかに、大久保は剛毅果断な性格で、決断力・実行力に富む政治家であったが、彼の政治運営のあり方はけっして、ワンマン的独断専行ではなく、「堅忍不抜の執着力」による非常に辛抱強い説得を身上とするものであった。その点で日本的集団指導型政治家たる資質の持ち主だったといえよう。

 ところで、明治十年代は、明治維新の第一世代から第二世代への政治指導の世代交代の時期であった。西郷・大久保・木戸のいわゆる維新の三傑が、明治十年~十一年(一八七七~七八)にかけて相ついで世を去り、ややおくれて岩倉も十六年に病没した。かくて、大久保のもとでようやく緒についた近代国家建設の本格的作業は、伊藤博文・井上馨・大隈重信・山県有朋ら第二世代の指導者に引き継がれることになった。

 当時世間では「才識余りありて重望(これ)に伴わざる」第二世代の政治家たちに不安をいだく向きも多く、明治政府の前途をあやぶむ声も少なくなかった。しかし、彼らの多くは、実務的政治家として、大久保政権時代すでに台閣(国政をとるところ)に列していたことでもあり、明治政府の改革路線は無事に継承され、世間の不安は杞憂に終わった。

 彼らのうちで、いち早く脚光を浴びるにいたったのは伊藤である。憲法の起草をはじめとする、伊藤の多くの政治的業績については、あまりにも有名であり、本文でとりあげられるのでここではふれない。

 ただ一つ、明治天皇との関連で、明治憲法における天皇の地位について簡単に説明しておきたい。

 周知のように明治維新は、「王政復古」を旗印とし、天皇のもとに権力を集中化するかたちで幕藩割拠体制を打破することに成功した。近代立憲政治の理念はすでに幕末から日本に伝えられており、明治政府の首脳たちの多くは早くから、立憲政治・議会制度の導入が、日本をして欧米列強と国際社会において肩を並べる強国をつくるための必要条件であることを認識していた。その場合、天皇を中心とした立憲君主制を採用することについては、政府も民権派も共通の前提として理解されていたが、明治十四年の政変を契機に、政府首脳がプロシア型君権主義の立憲制の建設に着手したことは、周知のごとくである。

 明治政府による憲法制定の具体的過程で、伊藤博文ら起草者たちがもっとも苦心した点は、日本の伝統的な天皇をいかにして西洋流の近代立憲君主制のなかに位置づけるかという点であった。明治憲法では、天皇を「国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬」するものと定め(第四条)、第五~十六条には、法律の裁可、帝国議会の招集、衆議院の解散、緊急勅令の発布、文武官の任免、陸海軍の統帥、宣戦・講和・条約の締結など、広範な天皇の大権事項を列挙すると同時に、その統治権は「此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」ものと規定して(第四条)、天皇の大権が無制限ののものでないことも明らかにしている。

 伊藤は枢密院での憲法草案審議において、一方では君権主義の建て前を強調するとともに、他方では天皇の統治権の濫用を厳しく戒め、立憲主義の本質が君権の制限と民権の保護にあることをも力説している。このように、君権主義の建て前と、その立憲主義的運用の両面が重要視されたことは、明治憲法にかなり多義的な解釈と運用の余地を与えることとなった。昭和初期に軍部によって激しく非難された美濃部達吉の「天皇機関説」が、じつは、このような伊藤流の憲法理解にもとづいていることは、今日ではよく知られている。

 ヨーロッパの立憲君主制においては、君主は政治的主体であり、ドイツ帝国のヴィヘルム二世にみられるように、その個性と個人的意志が国家の政策にかなり大きな直接的影響を及ぼすことも少なくなかった。しかし、日本の場合、天皇がみずからの積極的意志によって憲法上の大権を行使することはほとんどなく、天皇はせいぜい裁可者にとどまった。「天皇親政」はドイツ皇帝の場合とは異なり、たんなる観念にすぎなかったといえよう。

 結局のところ、日本では明治時代から天皇の存在はいちじるしく象徴化され、現実の政治運用はもっぱら元老をはじめとする有力指導者たちが、天皇の憲法上の機能を集団的に代行するかたちで進めてきたのである。それはまさしく日本的集団指導体制にふさわしい政治運用であったといえる。

2024.01.29記す。

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