山 本 周 五 郎 著 作 『青べか物語』 『小説 日本婦道記』 『ながい坂』 『五瓣の椿』 『菊屋敷』
『赤ひげ診療譚ー狂女の話ー 』 『赤ひげ診療譚ー駆け込み訴えー 』 『赤ひげ診療譚ーむじなー 』 『赤ひげ診療譚ー三度目の正直ー 』


山本周五郎 『青べか物語』


 浦粕《うらかす》町は根戸川のもっとも下流にある漁師町で、貝と海苔《のり》と釣場とで知られていた。町はさして大きくはないが、貝の罐詰《かんづめ》工場と、貝殻を焼いて石灰を作る工場と、冬から春にかけて無数にできる海苔干し場と、そして、魚釣りに来る客のための釣舟屋と、ごったくやといわれる小料理屋の多いのが、他の町とは違った性格をみせていた。

 町は孤立していた。北は田畑、東は海、西は根戸川、そして南には「沖の百万坪」と呼ばれる広大な荒地がひろがり、その先もまた海になっていた。交通は乗合バスと蒸気船とあるが、多くは蒸気船を利用し、「通船」と呼ばれる二つの船会社が運航していて、片方の船は船躰《せんたい》を白く塗り、片方は青く塗ってあった。これらの発着するところを「蒸気|河岸《がし》」と呼び、隣りあっている両桟橋の前にそれぞれの切符売り場があった。

 西の根戸川と東の海を通じる掘割が、この町を貫流していた。蒸気河岸とこの堀に沿って、釣舟屋が並び、洋食屋、ごったくや、地方銀行の出張所、三等郵便局、巡査駐在所、消防署――と云っても旧式な手押しポンプのはいっている車庫だけであったが、――そして町役場などがあり、その裏には貧しい漁夫や、貝を採るための長い柄の付いた竹籠を作る者や、その日によって雇われ先の変る、つまり舟を漕《こ》ぐことも知らず、力仕事のほかには能のない人たちの長屋、土地の言葉で云うと「ぶっくれ小屋」なるものが、ごちゃごちゃと詰めあっていた。

 町の中心部は「堀南」と呼ばれ、「四丁目」といわれる洋食屋や、「浦粕亭」という寄席や、諸雑貨洋品店、理髪店、銭湯、「山口屋」という本当の意味の料理屋――これはもっぱら町の旦那方用であるが、そのほか他の田舎町によくみられる旅籠宿《はたごやど》や小商いの店などが軒を列《つら》ねていた。その南側の裏に、やはり「ごったくや」の一画があり、たった一軒の芝居小屋と、ときたま仮設劇場のかかる空地がある、というぐあいであった。

 これらのことをどんなに詳しく記したところで、浦粕町の全貌を尽すわけにはいかない。私も決してそんなつもりはないので、ただこの小さな物語の篇中に出てくる人たちや、出来事の背景になっているものだけを、いちおう予備知識として紹介したにすぎないのである。

 はじめに「沖の百万坪」と呼ばれる空地が、この町の南側にひろがっていると書いた。私は目測する能力がないので、正確にはなんともいえないが、そこは慥《たし》かにその名にふさわしい広さをもっていた。畑といくらかの田もあるが、大部分は芦《あし》や雑草の繁った荒地と、沼や池や湿地などで占められ、そのあいだを根戸川から引いた用水堀が、「一つ《いり》から「四つ」まで、荒地に縦横の水路を通じていた。――この水路や沼や池には、鮒《ふな》、鯉《こい》、鮠《はや》、鯰《なまず》などがよく繁殖するため、陸釣《おかづ》りを好む人たちの取って置きの場所のようであった。また、沼や池や芦の茂みの中には、獺《かわうそ》とか鼬《いたち》などが棲《す》んでいて、よく人をおどろかしたり、なにごとでもすぐに信ずるような、昔ふうの住民を「隙さえあれば化かそうと思っている」ということであった。

 この町ではときたま、太陽が二つ、東と西の地平線上にあらわれることがある。そういうときはすぐにそっぽを向かなければ危ない。おかしなことがあるものだ、などと云って二つの太陽を見ると「うみどんぼ野郎」になってしまう。そうしてそのときにはすぐ脇のほうで、獺か鼬の笑っている声が聞えるということである。特に鼬はたちの悪いいたずら好きで、人が道を歩いていると、ひょいと向うへとびだして来て、立ちあがって、交通整理でもするように、右手をあげて右をさし示したり、左手で左のほうをさしたりする。そうしたら必ず反対のほうにゆかなければならない。うっかりしてそちらへゆけば、きまって池か堀か、わるくすると根戸川へ落ちこんでしまう、といわれていた。

 百万坪から眺めると、浦粕町がどんなに小さく心ぼそげであるか、ということがよくわかる。それは荒れた平野の一部にひらべったく密集した、一とかたまりの、廃滅しかかっている部落といった感じで、貝の罐詰工場の煙突からたち昇る煙と、石灰工場の建物ぜんたいを包んで、絶えず舞いあがっている雪白の煙のほかには、動くものも見えず物音も聞えず、そこに人が生活しているとは信じがたいように思えるくらいであった。

 私はその町の人たちから「蒸気河岸の先生」と呼ばれ、あしかけ三年あまり独りで住んでいた。

   一 「青べか」を買った話

 芳《よし》爺さんに初めて会ったのは「東」の海水小屋であった。冬のことで、海水小屋は取り払われ、半分朽ちた葭簾《よしず》の屋根と、板を打ちつけた腰掛が一部だけ残っていた。町を西から東へ貫流する掘割が、東の海へ出る川口のところで、土地の人たちはそのあたり一帯を漠然と「東」と呼んでいた。

 私は海を眺めていた。腰掛は釘《くぎ》がゆるんでいるので、足を突っ張ってうまく支えていないと、すぐさま潰《つぶ》れてしまいそうであった。干潮で、遠浅の海は醜い底肌を曝《さら》し、堀の水は細く、土色に濁っていた。急に腰掛がぐらっと揺れたので、私は吃驚《びっくり》して、突っ張っている足に力を入れながら振り返った。すると一人の老人が、すぐうしろに腰を掛けて、私などは眼にもはいらないといったような顔つきで、古風な莨入《たばこいれ》を腰から抜くところであった。私は支える足に気をくばりながら、また海のほうへ眼を戻した。

「ずっとめえに、ここへなにかぶっ建てようと思ったっけだが」と老人が大きな声で云った、百メートルも先にいる人に話しかけるような声であった、「なんかぶっ建ってくれべえと思ったっけだがねえよ」

 私は黙っていた。私は老人しか見なかったが、それではもう一人|伴《つ》れでもいるのか、と思ったのである。しかし答える声はなく、老人はやかましい音をさせて煙管《きせる》をはたき、次のタバコを吸いつけた。煙管はつまっていて、喘息《ぜんそく》患者の喉《のど》のように、ぐずぐずとやにの鳴る音が聞えた。

「ずっとめえのこった、おつゆのおっかあがまだ綿屋へ嫁にいかねえころのこった」と老人は大きな声で云った、そしてやや暫《しばら》く黙っていてから、また煙管をはたき、三服めを吸いつけて、喚きたてた、「なんにもおっ建たなかっただよ」

 私はやはり黙っていた。

 二度めには百万坪で会った。季節は春で、強い風が吹いていた。私は「二つ」の堀に沿った道を、沖の弁天社《べんてんやしろ》のほうへ歩いていた。なんのふぜいもない、だだっ広いだけのその荒地のほぼ中ほどに、無人の、小さな、毀《こわ》れかかったような古い社が、ひねこびた六七本の松に囲まれて建っている。いつのころかたいへん流行《はや》った弁天で、特に各地の花柳界の女性たちが参詣《さんけい》に列を作ったそうである。どういう霊験があったのか土地の者は知らない、ただひところばかげて流行り、夥《おびただ》しい参詣者の絶えなかったことと、当時その境内が別世界のように賑《にぎ》わったということだけは、子供たちでさえよく知っていた。

  潮の匂いのする強い風に吹かれながら、沖の弁天のほうへ歩いていたとき、うしろからいきなり大きな声で呼びかけられ、私はとびあがりそうに驚 いて振り返った。あの老人がすぐうしろにいた。継ぎはぎだらけの、洗い晒《ざら》しためくら縞の半纏《はんてん》に、綿入の股引《ももひき》をはき、鼠色になった手拭で頬かぶりをしている。それはこの土地の漁師たちに共通の常着《つねぎ》であるが、もう綿入の股引をはく季節ではなかった。

「おめえ舟買わねえか」と老人は私と並んで歩きながら喚いた、「タバコを忘れて来ちまっただが、おめえさん持ってねえだかい」

 私はタバコを渡し、マッチを渡した。老人はタバコを一本抜いて口に咥《くわ》え、風をよけながら巧みに火をつけると、タバコとマッチの箱をふところへしまった。

「いい舟があんだが」と老人は二百メートルも向うにあるひねこびた松ノ木にでも話しかけるような、大きな声でどなりたてた、「いい舟で値段も安いもんだが、買わねえかね」

 私が答えると、老人は初めからその答えを予期していたように、なんの反応もあらわさず、吸っていたタバコを地面でもみ消し、残りを耳に挾《はさ》んでから、手洟《てばな》をかんだ。

「おめえ」暫く歩いたのち、老人がひとなみな声で云った、「この浦粕へなにょうしに来ただい」

 私は考えてから答えた。

「ふうん」と老人は首を振り、ついで例の高ごえで喚いた、「おんだらにゃあよくわかんねえだが、職はあるだかい」

 私が答えると、老人はちょっと考えた。

「つまり失業者だな」と老人は喚いた、「嫁を貰う気はねえだかい」

 私は黙っていた。別れるときマッチだけ返してもらったが、急に耳の遠くなった老人は、二度も三度も私の云うことを訊《き》き返し、そのため私は自分がひどい吝嗇漢《りんしょくかん》になったような、恥ずかしさを感じた。

 三度めは根戸川亭で会った。それは蒸気河岸にある洋食屋で、土間が食堂、奥に座敷があって、夜になると蒸気船(通船といわれていた)の船員や漁師たちが、しばしば盛大に酔って騒いだ。或る日の午《ひる》ごろ、私が食堂のがたがたする椅子に掛け、一本のビールでカツ・ライスを喰《た》べていると、老人が私の卓子《テーブル》へ来て差向いの椅子に掛けた。

 いまでもそうであるが、外で食事をするときには、私はなにか読みながらでないとおちつけない癖がある。そのときも私は青巻という本を読んでいて、老人がそこへ腰掛けたものだから、いっそう熱心に読むふりをし、そうして本から少しも眼を放さないままで、トンカツを噛《か》んだりビールを啜《すす》ったりしていた。

 女が座敷のところへ来て、「芳さんなんにするだえ」と呼びかけた。

「うう」と老人が答えた、「おっかあがいねえからめし食うべえと思って来ただが、うう、なんにすべえか考げえてるだ」

「うちじゃあ考げえるほどごたいそうなものは出来ねえよ」

 すると老人が私を見ながら、――そこへ腰掛けたときからずっと、老人が私をみつめ続けていることを私は知っていた、――で、老人は私の顔を見ながら、例のずばぬけた高ごえで喚きたてた。

「ビールをコップに一杯くんねえかね」

「ビールを一杯だって」と女が云った、「おらそんなこと聞いたこともねえ、酎《ちゅう》のまちげえじゃねえのかえ」

 東京へゆけばビールの一杯売りをやっている、と老人が云った。それはビヤホールというものだ、と女が云った。いや、トンカツやカレーライスが出来るから洋食屋と違いはない、と老人が云った。一杯売りをするのは生ビールといって、樽《たる》で来るから一杯ずつでも売れるが、壜詰《びんづめ》はあけてしまえばあとがかんのんさまだから一杯だけ売るわけにはいかないのだ、と女が云った。あとがかんのんさまになってもしょうばいは損して得取れということがある、と老人が喚きたてた。

 私は縛りあげられ、罠《わな》にはまったことを知った。まだ三分の一ほど残っているビール壜を、老人のほうへ置き直しながら、私は云わなければならないことを云った。

「そうかね」と云うより早く老人は女に向って喚きたてた、「コップ」

 それから私を見て「タバコの持合せはねえかね」

 私が答えると、老人は「なに、いま欲しかねえだよ」と云った。

 釣舟宿の「千本」の三男の長《ちょう》から、私は老人のことを聞いた。その土地の出来事について、籠屋のおたまと「千本」の長とが、つねにぬかりなく情報を呉れるのである。おたまも長も小学校の三年生であった。――老人の名は芳《よし》、夫婦っきりで、三本松の裏に住み、「大蝶」の倉庫番をしている、ということであった。「大蝶」はその町でいちばん大きく貝の罐詰工場を経営してい、漁師たちの採る貝を沖で買い取るために、大蝶丸という船を持っていた。

 私の問いに答えて、長はつよく首を振った。

「ううん、そんなこたねえだよ」と長は云った、「工場はやかましかんべ、だからみんなえっけえ声になっちまうだ」

 えっけえとはもちろん大きなという意味である。長はなお「芳爺さまはそら耳を使う」と云ったが、それはもう私の知っていることであった。

 それからのちもときどき道で会ったが、老人は挨拶もしないし、私を見ても棒杭《ぼうぐい》か石ころでも見るような眼つきしかしなかった。頬かぶりをとった老人の顔は、痩《や》せていて小さく、太陽と潮風にやけた頭は禿《は》げていて、灰色の髪の毛がほんの少し後頭部にあり、頬や顎《あご》にはまばらな無精髭《ぶしょうひげ》が、古くなったブラシのように、一本ずつ数えられるほどまばらに、きらきらと銀色に光っていた。眼には非人間的な鈍い冷たい光があり、殆んど唇が無いようにみえる薄い唇には、いつも人を小ばかにしたような、狡猾《こうかつ》な微笑が刻みつけられていた。

 尤《もっと》もこれは芳爺さんに限らず、その土地の一部の人たちに共通した顔だちであった。かれらは季節ごとに来る遊覧客、――魚釣り、汐干狩《しおひが》り、海水浴など、遊びに来る都会の客たちから「うまくせしめる」習慣がついているので、その冷たく鈍い眼や、狡猾そうな口つきの裏には、いつでも朴訥《ぼくとつ》な表情をつくり、あいそ笑いをする用意ができているのであった。――四月の末か五月のはじめころ、たぶん五月のはじめころであったろう、私は三本松のところで老人に捉《つか》まった。

 三本松といっても、樹齢の古い松ノ木が一本しかない。ずっと昔は三本あったそうであるが、私の聞いた限りでは、それを自分の眼で見たという者はなかった。――堀の岸に横這《よこば》いのかたちで枝を伸ばしている。その松ノ木の脇に、水から揚げて久しいべか舟が伏せてあった。ずいぶんまえからそこにあり、私は通りかかるたびにそれを見た。べか舟というのは一人乗りの平底舟で、多く貝や海苔採りに使われ、笹の葉のような軽快なかたちをしてい、小さいながら中央に帆桁《ほげた》もあって、小さな三角帆を張ることができた。しかし、そこに伏せてあったのは胴がふくれていてかたちが悪く、外側が青いペンキで塗ってあり、見るからに鈍重で不恰好だった。 「あのぶっくれ舟か」と長が或るとき鼻柱へ皺《しわ》をよらせ、さも軽蔑《けいべつ》に耐えないというように云った、ってえだよ」

 この誇り高い小学三年生は、見る気にもなれないという顔つきでそっぽを向いた。

 それは慥かにぶっくれ舟であった。伏せてある平底の板は乾いてはしゃぎ、一とところあいている穴から、去年の枯れ草がひょろひょろと伸びていた。水から揚げられた古い舟ほど、哀れに頼りなげなものはない。それは老衰して役に立たなくなった馬が、飼主にも忘れられ、厩《うまや》の裏でひとりしょんぼり首を垂れているような感じにみえる。――その日も私は道傍《みちばた》に佇《たたず》んで、人間も同じようなものだ、などというのは俗すぎるな、というようなことを思いながら、暫くタバコをふかしていた。

 そこへ老人が来て話しかけた。私は気づかなかったが、老人は私のようすを見ていたらしい。おそらく、私がその舟にすっかり惚《ほ》れこんだものと思ったのであろう、にこやかな、とりいるような笑顔をつくり、「この舟を買わねえかね」とあいそのいい声で喚いた。

 私は答えることができなかった。

「先生はこの土地のことを詳しく見てえって云ってたんべが」と老人が喚いた、「そんなら岡の上べえ歩きまわってもしょあんめえじゃ、根戸川のまわりだの百万坪のだの、堀もそうだし、沖へも出てみるがいいだ、それにはこの舟さえあれば用が足りるだよ」

 まあ見てくれと云って、老人は伏せてある青べかをひき起こした。それは極めてすばやく、声をかける隙もない動作だった。

「ほれ見せえま」と老人は云った、「まっさらとは云えねえが、造ってからまだ七年にしかなんねえ、大事にしろばまだ十五年や二十年はたっぷり使えるだ」

 私は自分の考えを述べようとした。

「値段もまけるだよ」と、老人は喚きたてた、「蒸気河岸の先生のこったからよ、思いきって五までまけるだ、たった五だ」

 私が答えると、老人は片手を出した。

「タバコ」と老人は云った。

 私はタバコとマッチを渡した。

「じゃあ、なんだ」と老人はタバコを一本抜いて火をつけ、タバコの箱はふところへ入れ、マッチだけを返しながら喚いた、「先生のこったから思いきって四にすべえ、四だ」

 私が答えると、老人はタバコを地面でもみ消し、残りを耳にはさみながら喚きたてた。私は長の顔や、軽蔑しきった口ぶりを思いだしたが、同時に、自分が老人に縛りあげられ、ぬけ出すことのできない罠にかかったことを悟った。「見せえま」と老人は喚き続けた、「揚げっ放しにしといたからちっとばかはしゃいでるだが、まだこんなにしっかりしてるだ」

 老人は舟べりや舳先《へさき》を、大事そうに撫《な》でたり叩いたりした。私はそれを眺めながら、老人が舟をひき起こすときのすばやい動作には二つの意図があった、ということに気づいた。一つは私を捉えること、他の一つは去年の枯れ草が覗《のぞ》いていた舟底の穴を私から隠そうとしたのだ、ということである。――もう一つ、これを書いては人が信じなくなるだろうと思って、書かないことにするつもりであるが、老人が舳先を掴《つか》んでゆすぶったとき、舳先の尖《とが》ったところが折れてしまった。すると老人は自分の手にある折れた舳先の、折れたところへ唾をつけて、元の部分と合わせ、そこを片手で押えたまま、いっそう高ごえになって喚きたてるのであった。事実はこのとおりだったのだが、これを文字にすると、おそらく人は筆者が調子づいてふざけていると思うにちがいない。「事実を書く」ということがいかに困難なしごとであるかは、こんな些細《ささい》な点でも思い知らされるのである。

「よし、そんなら三と五十にすべえ」と老人は云った、「これ以上は鐚《びた》一文負からねえだ、三と五十、これで話はきまっただ」

 私はちょっと質問した。

「そんなこたあ屁《へ》でもねえさ」と老人は云った、「いかずちの船大工に頼めばすぐ繕《つくろ》ってくれるだ、いいとも、おらが持ってって頼んでやるだよ」

「それから」と老人はいそいで付け加えた、「こういう売り買いには、買い手のほうでなにか物を付けるのがしきたりになってるだ、豚肉の百匁でもいいし、夏なら西瓜《すいか》の三つくれえかな、うう、おめえよく舶来のタバコを吸ってるようだが」

 私は豚肉を届けると答えた。

 こうして私は「青べか」の持ち主になった。どんなに小さく、そしてぶっくれ舟であるにもせよ、一ぱいの舟の所有者になったのだが、私はうれしくもなかったし、誇りがましい気持にもなれなかった。長をはじめとする少年たちの軽侮の眼や、嘲笑《ちょうしょう》の声を考えるだけで、むしろ急に肩身のせまくなったような鬱陶しい、沈んだ気分にとらわれたのであった。

「いいさ、あんな舟」と私は帰る道で自分に云った、「乗らなければいいんだ」

 私は明くる日、老人のところへ舟の代金と、豚肉を百匁だけ届け、なお青べかについて、二三のことを頼んだ。老人はこころよく受け合い、そのとおりにすると約束した。

    二 蜜柑《みかん》の木

 助なあこ(あにいというほどの意味)はお兼に恋をした。助なあこは大蝶丸の水夫であり、お兼は「大蝶」の罐詰工場へ貝を剥《む》きにかよう雇い女で、亭主があった。

 この土地で恋といえば、沖の百万坪にある海苔|漉《す》き小屋へいって寝ることであった。そんなてまをかける暇がなければ、裏の空地の枯れ芦の中でもいいし、夏なら根戸川の堤でも、妙見堂の境内でも、消防のポンプ小屋でも用は足りた。実際のところ、海苔漉き小屋まで寝にゆくのは、よほど二人がのぼせあがっているか、ゆきすぎた声を抑えることのできない女との場合、――土地の人たちのあいだで、そういう癖のある五人の女性の名が公然と話題になっていたが、――などで、かれらの意見によれば、「そんなにてま暇をかけるほど珍しいことでもあんめえじゃあ」というのが常識であった。

 助なあこはそうではなかった。彼は中学生が女学生を恋するように、純粋に、初心《しょしん》に恋していた。大蝶丸で沖へ貝を積みにいっているあいだ、彼の胸はつねにお兼を想うことで痛み、その眼にはお兼の姿、――工場の古びた建物の前で、大勢の女や老婆たちと並んで、巧みに貝を剥いている姿が、絶えずあらわれたり消えたりするのであった。

 大蝶丸の水夫は三人で、船長の荒木さんはべつに家庭を持っていたが、エンジさんの正山さんと水夫たちは、工場の中にある小屋に住んでいた。助なあこは自分の恋を秘し隠しにし、誰にも気《け》どられないように、最高の抑制を保ち続けていたが、或る夜半、ねごとにお兼の名を呼んだのを、隣りに寝ていた二人の水夫に聞かれて、せっかくの努力がむだになってしまった。

「ゆんべが初めてじゃねえぞ」と水夫の一人が云った、「おんだらあ何遍も聞いているだ、なあ」

「おうよ」と他の水夫が云った、「名めえをはっきり云ったなあ、ゆんべが初めてだっけ。ずっとめえから何遍も好きだあ好きだってねごとう云ってたっけだ」

「お、か、ね、さん」と先の水夫が両手で自分の肩を抱きしめ、身もだえしながら作り声で云った、「おら、おめえが、好きだ、死ぬほど好きだ、よう」

 助なあこは硬《こわ》ばった顔でそっぽを向き、手の甲で眼を拭いた。彼は死んでしまいたいと思った。もしできることなら、その場で二人を半殺しのめにあわせてやりたかった。しかし彼は痩《や》せているし、背丈も五尺とちょっとしかない。他の二人はどちらも彼より肉付きがよく、はるかに力も強かった。それは沖で貝を積むときや、工場へ戻って積みおろしをするときなどでよくわかっていた。

 彼は死んでしまいたいと思った。

 助なあこは固い決心をし、お兼のほうへは眼も向けず、貝を剥いている彼女の前を通るときには、まっすぐに向うを見たままいそぎ足で、殆んど走るように通りぬけた。彼はやがて機関士になるつもりで、仕事が終ったあとは、エシジンに関する本にしがみついて、熱心に独学を続けていた。それらの本の大部分は荒木船長に借りたものであるが、中の幾冊かは、――ディーゼル・エンジンに関する本は、自分で東京の神田へいって買ったものであった。

 彼は夜の十二時まえに寝たことはなかった。他の水夫やエンジさんは、毎晩のように飲みにでかけ、帰ってくると「一厘ばな」か賽《さい》ころ博奕《ばくち》で夜更《よふか》しをした。ごったくやの女たちを伴れこんで、わるふざけをしたり、博奕や女のことでとっ組みあいの喧嘩《けんか》をしたりした。そういう騒ぎの中で、助なあこは小屋の隅のほうに机を移し、両手で耳を塞《ふさ》いで本を読んだり、ノートを取ったりするのであった。その十坪ほどの、細長い、箱のような小屋には、燭光《しょっこう》の弱い裸の電球が、天床《てんじょう》から一つぶらさがっているだけである。隅のほうへ届く光は極めて微弱だったが、それでも助なあこは本にしがみつき、帳面に眼を押しつけるようにしてノートを取った。

 周囲の人たちにとって、この独学はばかげたことであった。そのくらいのエンジナーになるには、五六年も船に乗って、実地にエンジさんのすることを見ていれば、それだけで立派にエンジナーになれるし、現に二つの通船会社のエンジさんたちでさえ、多くはそのようにして機関士になったのである。

 お兼のことでからかわれてから、助なあこはすっかり人嫌いになり、ますます独学に熱中した。ねごとの話はたちまちひろまったが、そのまますぐに忘れられた。この土地では、どこのかみさんが誰と寝た、などという話は家常茶飯《かじょうさはん》のことで、たとえばおめえのおっかあが誰それと寝たぞと云われたような場合でも、その亭主はべつに驚きもしない、おっかあだってたまにゃあ味の変ったのが欲しかんべえじゃあ、とか、おらのお古でよかったら使うがいいべさ、と云うくらいのものであった。――もちろんこれら亭主たち自身も「変った味」をせしめているのであるし、また、全部の人たちがそんなに脱俗しているというのでもない。「浦粕では娘も女房も野放しだ」と、はっきり土地の人たちは云っているが、それでも嫉妬《しっと》ぶかい人間もたまにはいて、ときに凄《すご》いような騒ぎの起こることも幾たびかあった。

 助なあこの場合には、ねごとで恋の告白をしたというだけだったから、ほんのお笑いぐさとして忘れられてしまったが、傷ついた助なあことお兼とは、それぞれの立場で忘れることができなかったようだ。

 初夏の或る午後、二人は根戸川の土堤《どて》で初めて話をした。その日は工場が休みで、助なあこは午めしのあと、本を二冊持って土堤へゆき、若草の伸びた斜面に腰をおろして、本をひらいた。読んでゆき、頁を繰るが、なんにも頭にはいらない。活字の列はただ素通りするだけで、一行読むごとにきれいに消えてしまう。彼は音読もしてみた、一句ずつ指で押えながらやってみたが、やっぱり同じことで、いくら繰返し読んでみても、なに一つ頭に残らないのであった。

 そこへお兼が来た。彼女は助なあこのあとを跟《つ》けて来たのだ、まえから彼のようすを見ていて、自分のほうからきっかけをつけなければならないと悟り、その日ようやく機会をつかんだのである。

「あら、助さんじゃないの」とお兼はいかにも意外そうに呼びかけた、「こんなところでなにしてるの、あら、勉強ね」

 助なあこは本を閉じ、振り向きもせずに、じっと固くなっていた。彼は全身が火のように熱く、心臓が喉までとびだして来るように感じた。お兼は斜面へおりて来て、彼と並んで草の上に腰をおろした。すると、あま酸っぱいような女の躰臭と、白粉《おしろい》の匂いとが入り混った、なまあたたかい空気が彼を包み、彼は頭がくらくらするように思った。

「もう春もおしまいだねえ」お兼はその言葉の品のよさに自分でうっとりとなりながら云った、「水の流れと人の身はって、はかないもんだわねえ」

 陽の傾いた空にはうすい靄《もや》があって、根戸川の広い水面は波もなく、まるで眠っているように静かだった。あたためられた土の香や、若草の匂いがあたりに漂ってい、対岸の若い芦の茂みでは、ときどきけたたましく小鳥の騒ぐ声が聞えた。

「けけちかしら」とお兼が云った、「まだけけちにしては早いかしら」

 見ると助なあこはふるえていた。蒼《あお》く硬ばった顔を俯向《うつむ》け、膝《ひざ》を抱えた両手の指を揉《も》みしだき、下唇を噛みしめながら、躯《からだ》ぜんたいでふるえていた。お兼はふしぎなよろこびを感じた。これまで一度も感じたことのない、ぞっと総毛立つような、快楽の戦慄《せんりつ》が突きぬけるように思った。

「あたしあんたが好きよ」とお兼は彼の耳に囁《ささや》いた、「あんた、芳野の海苔漉き小屋、知ってるでしょ、知ってるわね」

 助なあこは黙って頷《うなず》いた。

「あたしあんたに話したいことがあるの」とお兼は続けた、「今夜ね、七時ごろあそこへ来てちょうだい、来てくれる、ねえ」

 お兼はそっと助なあこの手に触れた。彼はぴくっとなり、躯をいっそう固くし、そしてお兼の手に伝わるほど激しくふるえた。お兼はまた、あのふしぎなよろこびの感覚におそわれ、助なあこの手首をぎゅっと握ってから、それを放した。

「もうみんなが沖から帰ってくるじぶんだわ」とお兼は云って溜息《ためいき》をついた、「みつかると口がうるさいからあたし帰るわ、世の中ってままならないもんね」

 お兼はもういちど夜の約束をし、鼻唄をうたいながら去っていった。

 助なあこは時間を計っていて、やがてそっと振り向いてみた。あまり長いこと同じ姿勢でいたため、首の骨がきくんと鳴り、頸《くび》の筋がつった。お兼はもうずっと遠く、白い煙に包まれている石灰工場の近くまでいっていた。

「あんたが好きよ」助なあこは頸の筋を揉みながら、お兼の云った言葉をまねてみた、「あたしあんたが好きよ」

 彼の顔が歪《ゆが》み、眼から涙がこぼれ落ちた。

 もう春も終りだ、世の中はままならない、あたしあんたが好きよ、水の流れと人の身は、はかないもんね。それらの言葉が彼の頭の中で、一つ一つはっきりと、この世のものとは思えないほど美しく聞えた。それは殆んど純金の価値を持ち、純金の光を放つように思えた。

「おら一生、忘れねえ」助なあこはそっと呟《つぶや》いた、「どんなに年をとっても、死ぬまでも、きっと忘れねえ、きっとだ」

 美しいものは毀れやすい、毀れやすいからこそ美しい、などと云うつもりはない。ここには美しいものはないのだ、逆に、美しい感情がもてあそばれ、汚されるのであるが、助なあこの受けた感動だけは美しく、清らかに純粋であった。

 彼はその夜、約束の時間に約束の場所へいった。芳野は堀南の釣舟屋であるが、季節には海苔もやるので、弁天社のうしろに漉き小屋と干し場を持っていた。そこは沖の百万坪のとば口にあり、畑と荒地に囲まれ、隣りの漉き小屋とは二百メートルもはなれていた。――日の永くなる季節ではあったが、もうすっかり昏《く》れてしまい、あたたかい宵闇のどこかから、みみずの鳴く声が聞えて来た。お兼はもうそこにいて、暗い小屋の前から彼を呼んだ。助なあこは膝ががくがくするので、転ばないように用心しながらそっちへいった。

「待たせるのね、あんた」お兼はじれったそうに云った、「女を待たせるなんて罪よ、にくらしい」

 お兼は衝動的に助なあこの手を握った。彼は狼狽《ろうばい》して、ぶきようにしりごみをし、握られた手を放そうとしながら、云った、「なにか話すことがあるって」

 その声は喉でかすれ、言葉ははっきりしなかった。お兼は含み笑いをしながら、握った手をもっと引きよせた。土堤のときよりも強く、白粉と女の匂いが彼を包み、彼は眼がくらみそうになった。

「そうよ、大事な話があるの」とお兼は囁いた、「中でゆっくり聞いてもらうわ、ね、ここへはいりましょう」

「おら、――」と云って彼は足を踏ん張った。

「世話をやかせないで」

「それでも、おら」と彼は口ごもった。

「いいから」とお兼は荒い息をしながら、おどろくほどの力で彼を引きよせた、「なにもおっかないことするわけじゃないじゃないの、たまには男らしくするもんよ」

 助なあこの歯ががちがちと鳴った。

 お兼は彼を小屋の中へ伴れこみ、入口の戸を閉めた。この種の漉き小屋は、入口の三尺の引戸に南京錠《なんきんじょう》が掛けてある。しかしその多くはぐらぐらで、鍵《かぎ》の必要はなく、ちょっと引張れば錠前ごと抜けてしまい、出てゆくときには元のように挿《さ》し込んでおけばいいのであった。

「あんた、まだふるえているの」小屋の中からお兼の声が聞えた、「さあ、そんなにしてちゃ窮屈じゃないの、この手をこうしなってば」

 ついで彼女の含み笑いが聞えた。

「助さん」とあまえた鼻声でお兼が云った、「あんた幾つ、――そう、十九なの、若いのね、うれしい」

 お兼はそのとき三十五歳であった。亭主のしっつぁんは呑んだくれの怠け者で、ときたま思いだしたように、なにかの雇われ仕事にでかけるが、「まる一日働いたことがねえ」といわれていた。博奕を打つでもなく、女にちょっかいを出すわけでもない。ただ酒を飲んで寝ころがるか、ぶらぶら歩きまわってむだ話をするだけである。云うまでもないだろうが、家計は稼《かせ》ぎ手のお兼がにぎっていて、しっつぁんは与えられる小遣いでやっているのだが、そんなものが長くある筈はなく、彼はもっぱら奢《おご》ってくれそうな相手を求めてぶらつき、またしばしばお兼の男のところへいってねだった。

 お兼は子を産まないためか、肌の艶《つや》もよく、浮気性の女に共通の嬌《なま》めかしさ、誘惑的な声と身ぶり、言葉よりずっと明確に意志を伝える眼つき、などをもっていた。それは洗練されたものではなく、生れつき身についたものであるし、実際にはこの土地ではそんな武器を使う必要は少しもなかった。

 ――お兼あまにどれだけ男がいるか、本当に知っているのは亭主のしっつぁんだけだ。

 土地の人たちはそう云っていた。真偽のほどはわからないが、お兼と寝た男は、きまってしっつぁんの訪問を受ける。べつに文句をつけに来るのではない、相手の男を呼び出すと、ぐあい悪そうにもじもじして、「一杯飲ましてくれねえかね」と云う。相手が幾らか出せば貰うし、ないよと云えば温和《おとな》しく帰るだけであった。

 助なあこの恋は、一と月ばかり続いただけで、無慚《むざん》にうち砕かれた。或る夜、芳野の漉き小屋の中で、彼は怒りのためにふるえながらお兼をなじった。彼はお兼がほかの男たちとも寝る、ということを聞いたのである。

「そんなこといいじゃないの」と云ってお兼は助なあこを抱きよせようとした、「あたしが本当に好きなのはあんた一人だもの、浮世はままならないもんなのよ」

 助なあこはお兼の手をふり放した。

「そうじゃねえ、そうじゃねえ」彼はふるえながら云った、「男と女の仲は蜜柑の木を育てるようなもんだ、二人でいっしん同躰になって育てるから蜜柑が生《な》るんだ、お兼さんのようにあっちの男と寝たりこっちの男と寝たりすれば、せっかくの木になすびが生ったりかぼちゃが生ったり、さつまいもが生ったりするようになっちまう、おらそんなこたあいやだ」

「ばかなこと云わないで」そう云ってからお兼は急に怒りだした、「えらそうなこと云うんじゃねえよ、おめえだっておらのこと、おらの亭主から横どりしてるんじゃねえか、なにがなすびだえ、かぼちゃがどうしたってのさ、ふざけちゃいけないよ」

 そして****とひどい悪態をついた。

 美しく純粋な、黄金の光を放つものが毀れた。助なあこは自分を反省し、また独学に熱中し始めた。いちどならず「死んでしまおう」と思い、どこか遠い土地へいってしまおうと決心した。北海道かどこかの広い広い、はだら雪の人けもない曠野《こうや》を、頭を垂れ、うちひしがれた心をいだいた自分が、独りとぼとぼと歩いてゆく。こう想像するたびに、彼は一種の快感にさえ浸されるのであったが、現実にそうする勇気は起こらなかった。

「むだなことを考げえるんじゃねえ」彼は机にしがみついて頭を振る、「そんなことに気をとられると出世のさまたげだぞ」そして他の水夫やエンジさんの騒ぎから身を護るように、両手で耳を塞ぎ、口の中で低く、本を音読するのであった、「――その構造のAは、原則として、スチイタアと、ロオタアの二部分に分れ、スチイタアの主躰は汽筒であって、はママ]……」

 お兼はもう助なあこには眼もくれなかった。工場の建物の前に蓆《むしろ》を敷き、他の女房や婆さまたちと並んで貝を剥きながら、陽気な声でお饒舌《しゃべ》りをし、みんなを笑わせている。助なあこが通っても知らぬ顔だし、彼を見たにしても、その眼にはなんの表情もあらわれない、犬か猫でも見るような、まったく無縁な眼つきであった。

 しっつぁんも助なあこのところへは訪ねて来なかった。けれどもそれからのち、お兼の相手の男にねだるときは、次のようなことをぶつぶつと云った。

「夫婦てえものはおめえ、二人で蜜柑の木を育てるようなもんだ、その他人の育てた蜜柑をよ、只で取って食うって法はねえもんだ」そこでしっつぁんはぐあい悪げに眼をそらすのである、「――他人のおめえ、夫婦の育てた蜜柑の木に生った蜜柑を食ったら、その駄賃くれえ払わなきゃあしょあんめえじゃあ、蜜柑はなずびやかぼちゃたあちがうからな」

 こうして、「しっつぁんはすっかり役者(賢いというほどの意味)になった」という評《うわさ》が弘《ひろ》まった。

   三 水汲《みずく》みばか

 私は根戸川の堤で釣りをしていて、初めてその男に会った。

 その男が来るまえ、倉なあこが通りかかって、私のうしろに立停り、暫く黙ってようすを見ていた。倉なあこは船宿「千本」の若い船頭で、背丈が高く、男ぶりがよく、いつも頬っぺたが赤く、また、この土地の青年にしては珍しく無口で、理屈も云わず、そしてみんなに好かれていた。

「なにを釣ってるだ」倉なあこが訊いた。

 私は困った。なにを釣るなどという思いあがった考えは私にはない。なにかが釣れてくれればいいので、なにが釣れるかは先方しだいだからである。

「鯉かね」倉なあこがまた訊いた。

 私はタバコを出して彼にすすめた。

「いいだよ」と倉なあこは云った、「おらめしのあとで一本吸うだけだ」

 私はタバコに火をつけた。すると水面の浮子《うき》が動いて、強く水の中へ引きこまれ、私はタバコの煙にむせながら竿《さお》をあげた。釣れたのは大きな鯊《はぜ》であった。

「二歳だな」と倉なあこが云った。

 私は鯊を鉤《はり》から外してバケツに入れ、新しい餌を付けて、また糸を投げた。

「ふん」と倉なあこが云った、「二歳の鯊がこんなとこまでのぼって来るんだな」

 彼の声には皮肉やからかいの調子はなかった。むしろ控えめな親しみの情さえ感じられたが、それは却《かえ》って私を圧迫し、窮屈な気分にさせた。倉なあこは専門家である。釣りの穴場を知っている点では、浦粕じゅうでも指折りの船頭といわれ、どんな場合にも、黒鯛《くろだい》を釣りたいという客を鯊の寄り場へ案内する、などということはしなかった。そのために、吝嗇な客ほど彼をひいきにする、といわれていた。この、客と船頭との微妙な因果関係については、こういう例がある。――釣舟宿では客を送り出すとき、飯と佃煮《つくだに》と香《こう》の物を持ってゆかせる。通常の客は沖で釣った魚を料理させ、それと香の物くらいでめしを喰べるから、船頭は佃煮で自分の食事ができる。ところが吝嗇な客になると、釣った魚は持って帰り、佃煮と香の物でめしを詰め込んでしまう。しかたがない、船頭は塩のきいた海水をぶっかけて、ざくざく流し込むということになる。しかも吝嗇な客ほど釣果《ちょうか》にも執着が強いから、腕のいい船頭をもっぱら覘《ねら》う、という迷惑な関係が生れるのだそうであった。――そういう良心的な専門家の評を聞いて、圧迫を少しも感じない者があるだろうか。私は川口から約四キロも上流のそんなところで、大きな二歳の鯊を釣ったことが、なにか常識外れなあやまちを犯したように思えて、恥ずかしくなった。

「先生は青べかを買っただって」暫くして倉なあこが訊いた。

 私が答えると、倉なあこは跼《かが》んで、草の穂を《むし》り、その細い茎を噛んだ。

「まずかったな」倉なあこは云った、「あのぶっくれ舟を馴らすにゃあ肝煎《きもい》るだよ」

 私は答えなかった。

 ちょっとまえから、洗い場で一人の男が水を汲んでいた。土堤に踏段があって、根戸川から水を汲んだり、洗い物をしたりする足場が設けてある。その男はきれいな手桶《ておけ》を二つ、天秤棒《てんびんぼう》で担いでやって来た。天秤棒は細手の、飴色《あめいろ》に磨きこんだ、特別製のようであり、手桶は杉の柾目《まさめ》で、銅《あか》の箍《たが》がかかっていた。どうしてそんなこまかいことに気がついたかというと、男のみなりや動作が変っていたからである。

 その男の年は十六七ともみえ、三十過ぎともみえた。痩せて、小柄で、背丈は五尺そこそこだろうか。紬縞《つむぎじま》らしいさっぱりした着物に、角帯をしめ、秩父《ちちぶ》物の焦茶色に荒い縞のはいった、袖なしの半纏をひっかけていた。そして足袋に雪駄《せった》ばきという、およそ水汲みなどとは縁の遠い、どこかの若隠居が散歩にでも出た、といったような姿であって、そのうえ、水の汲みかたが信じがたいほど用心ぶかいのである。

 彼はじっと川の水面を睨《にら》んでいる。無関心に見ると考えごとでもしているようだが、全神経を集注して睨んでいるので、その証拠には、水面にごみがなくなったとみた刹那《せつな》、さっと手桶で水を汲むのである。――そこまでの慎重さもたぐい稀《まれ》なものだが、それで終ったわけではない。こんどは手桶の脇に跼んで、いま汲んだ水を睨む。時間などはてんで頭にないようで、ゆっくりと、おちつきはらって睨んでおり、まったくごみがなければよし、ほんの僅かなごみでもあれば、その水は惜しげもなく川へあけてしまい、また流れの面を辛抱づよく睨むのであった。

 初めて私がその男を観察したときは、そうとは知らなかったし、自分は釣りをしていたので、時間の経過には気づかなかったが、二つの手桶に汲み終るまで、二時間ちかくはかかったであろう。その男が満足して、天秤棒で二つの手桶を担ぎ、ゆうゆうと歩き去ったときには、もう倉なあこもそこにはいなかったのである。

 水を汲むのに二時間ちかくもかかったというと、たぶん信用しない人のほうが多いだろう、私も初めてのときはそれほどとは感じなかった。けれども二度めに見、三度めに見、そののちしばしば観察するに及んで、二時間くらいはざらであり、ときには半日ちかくもかかるのを実際に見た。

 或るとき私は写生帳を持って、町の中央部にある、中堀橋を渡っていた。すると、向うからその男が来るのを認めた。彼はやはり袖なしの半纏をひっかけ、雪駄ばきで、口に飴を咥《くわ》え、飴に付いている杉箸《すぎばし》のような物を、両手で挾んでくるくる廻しながら、いかにも暢気《のんき》そうな、この世に心配なことはなにもない、と云いたげな顔つきで、ふらふらと歩いて来た。そうして、私が片方へよけている狭い橋の上を通りすぎるとき、彼はなにかのオペラの中のアリアを、鼻で、かなり正確にうなっていた。

 私の問いに対して、「千本」の長は軽蔑したように、鼻柱へ皺をよらせた。

「うちは堀で魚屋をやってるだ」と長が説明した、「水汲みばかっていうだよ」

 私はまた訊いた。

「そうじゃねえ、ずっとあとだ」とこの小学三年生は云った、「蓄音器のよ、レコードを買い始めたべえ、いくらでも買うだ、二階がみしみしいうほど買って買ってよ、朝っから晩までそれを聞いてるだよ、そのうちにな、レコードの数が殖えるのといっしょに、だんだん頭がおかしくなってきたんべえ、それでよ、嫁を貰ったら治るべえかって、葛飾《かつしか》のほうから嫁を貰ったっけだ、そしたら頭あちっとも治らねえで、水汲みい始めただ」

 耳も眼も口もすばしっこく、学校の勉強のほかはなにごとによらず、なかまにひけを取ったことのない長は、唇の隅に唾を溜《た》め、さかしげな眼をくりくりさせながら語った。

 その男はなにもしない。父親が死んだあと、魚屋の店は母親と男の妻とで、三人の若者を使って立派にやっている。――男は朝起きるとすぐ、蒸気河岸まで水汲みにゆき、帰って来るとその水で洗面にかかる。第一の手桶の水で歯を磨き、第二の手桶の水で顔を洗うのだが、どちらの手桶の水もむだにせず、ゆっくりと、丁寧に、飽きることなく磨いたり洗ったりする。これだけで半日つぶれてしまい、それから朝めしを喰べるので、たいてい午後になるのが普通である。――それから二階へあがって蓄音器をかけるか、飴をしゃぶりながら町を歩く、というのが変らない日課である。

「おっかしいのよ」と長は嘲笑した、「晩になるとな、おっかあに風呂へ入れてもらって、躯あすっかり洗ってもらって、寝るときにも抱いてねかしてもらうだってよ、それでよ、おっかあに抱かれて寝てもよ、ただ眠るだけでなんにも」

 私はいそいで話題を変えた。この並みはずれてすばしこい少年は、私などのまだよく知らない、もの凄いようなことを平気で云う癖があった。尤も、これまた長だけには限らない、この土地では少年と少女の差別なしに、男女間の機微に触れた言葉をじつによく知っており、そういう表現におどろいて、私がへどもどしたりすると、「へ、へ、蒸気河岸の先生もそらっ使《つけ》えだ」くらいは云われるのであった。

 或る日、私はその堀の魚屋の前を通った。間口は三間くらい、二階造りのがっしりした建物で、広い店の奥に大きな冷蔵庫があり、看板には「仕出し料理、魚辰《うおたつ》」と書いてあった。若者が一人、せっせと魚を作ってい、店の前のほうに、若い女がいさましく盤台を洗っていた。頭はあねさまかぶり、端折《はしょ》った裾から白く逞《たくま》しい脛《すね》と、鮮やかに赤い腰巻が見え、襷《たすき》をきつく掛けているので、肉付きのいい、白く張り切った肌が二の腕まであらわになり、私が通りぬけようとしたとき、彼女は片方の手をあげて額のあたりを撫でたが、その白いゆたかな腕の付根に、ふさふさとした腋毛《わきげ》が見えたので、私は慌てて眼をそらした。

 紺絣《こんがすり》の着物、きつく絞った襷、端折った裾から覗いている赤い腰巻、逞しく肉付いた足や、まるく張り切った腕や、ふさふさとした腋毛。――そうして男よりもいさましく、すっかり馴れた手つきで、しゃっしゃっと盤台を洗っている姿。そこには「水汲みばか」などと云われる亭主を持った、不運な女のかげとか、悲しみを胸に秘めているといったふうなものは微塵《みじん》も感じられなかった。夜半《よわ》の眼ざめにどんなことを思うかは知らないが――。

   四 青べか馴らし

 いかずちの船大工から、青べかの修理が終ったという知らせが来た。そのとき修理賃を四つ取られたので、芳爺さんに払った三つ半と豚肉代を加えると、それがかなり高価な買物であったことがわかり、私はもういちど、自分がうまうまひっかかったという事実を確認して、不愉快な気分を味わった。

 修理賃は払ったが、なかなか舟を受取りにゆく気にはなれなかった。まえにも断わったように、その「青べか」は浦粕じゅうで知らない者のない、まぬけなぶっくれ舟であり、なかんずく子供たちには軽侮と嘲笑の的であった。そんなものに乗っているところを見られたら、私自身どうなるか想像がつかなかったのである。

「いいさ」と私は自分に云った、「そのうちに忘れてしまうだろう」

 誰がどう忘れるのか。船大工が私を忘れるのか、私が舟を受取ることを忘れるのか、貧窮の中でなけなしの金を九つ近くも取られた青べか そのものを忘れるというのか。いずれともはっきりした根拠があったのではない、漠然とした自己保護本能、その潜在意識のはたらき、といったような感じの呟きだと思うのであるが、――しかしすぐに、私はそれを買ったとき、芳爺さんに頼んだことがあるのを思いだした。つまり修理ができても、当分のあいだ、船大工の岸へつないでおいてもらう、ということで、それは青べかへ乗るまえに長をはじめとする少年たちと、感情の融和期間を持ちたいと考えたからであって、ああそうだったと思いだし、ほっとしたとたん、まるで私がその約束を思いだすのを待ちかねていたように、芳爺さんが青べかを届けに来た。

 私が云うと、爺さんは戸口で喚いた。

「いかずちでも邪魔っけだって云うだ」声いっぱいに喚きながら、老人は私の手を仔細《しさい》ありげに見、そしてまた喚きたてた、「預かり賃を出せばべつだってえがね、日ぎめで駄賃をやって預けておっか」

 私は答えて、爺さんといっしょに土堤へいってみた。

 青べかは洗い場の杭につながれて、ゆらゆらとねむたそうに揺れていた。私の注文にもかかわらず、剥《は》げていた青いペンキが、もっと毒どくしく、なにかをあざ笑いでもするように塗り直してあった。それを買ったとき私は爺さんに、ペンキを剥がすようにと頼んだのだ。

「おらそう云っただよ」と老人は私の手を眺めながら喚き返した、「そう云っただが塗っちまっただよ、まあしょうなかんべや、剥がしても塗っても青べかは青べかだでな」

 爺さんは私の手と袂《たもと》を、意味ありげな眼でちらちらと見た。

「棹《さお》や櫂《かい》はどうするだ」と老人は訊いた、「なんならおらが世話すべえか」

 私が答えると、爺さんは耳に挾んでいたタバコの吸いさしを取り、いまいましそうな眼つきで「マッチ」と云った。私は答えて礼を云い、振り返って家へ戻った。

 私の借りた家は、蒸気河岸から百メートルほど北にある一軒家で、東は広い田圃《たんぼ》、左右は草のまばらに生えた空地、西が根戸川の土堤になっていた。土堤の上はずっと上流の徳行《とくぎょう》町まで続く道があり、人の往来はあまりないが、話しながら通る者があると、四|帖《じょう》半で机に向っていても、その話し声はよく聞えた。――その日の午後おそく、私の予期していた騒ぎが起こった。それは避けることのできない関門なのだ。東京から大阪まで汽車でゆくのに、丹那トンネルは避けることができるが、大井川や天竜川の鉄橋を避けることはできない。トンネルと鉄橋とは対象が違うなどというような、論理にこだわる人は浦粕へゆかれるがよい。この町の住民たちは独特の論理をもってい、(それは多く権威を嘲弄《ちょうろう》するという観念が基本になっているのだが)トンネルと鉄橋どころか、小学校の或る先生の話をするのに、「二つ]《いり》」の毀れた水門を引合に出す、くらいはごくあたりまえなことであった。何十年かまえ、――この話はちょっと眉唾ものだが、おそろしく学問のある、気位の高い村長(当時は「村」だったのである)がいた。実際おそろしいほど学問があるために、村の住民たちのことなどおけらほどにも思っていなかった。すると或るとき、消防の組頭だった徳さんが、なかまの者にこう囁いた。

 ――あの村長はちんばだぞ。

 なかまは「へえ」と眼をみはった。

 ――おらにゃあそうは見えねえがね。

 すると徳さんが云った。

 ――世の中にゃ見えるちんばもあれば見えねえちんばもあるさ。

 浦粕の風習として、こういう評が弘まるのに日時はかからない。たちまちこれが全村民に伝わった結果、その気位の高い村長は、ついにちんばをひいて歩くようになった、ということであった。

 芳爺さんが青べかを届けて来た日の、午後おそく、机に向っていた私の耳に、子供たちの喚声が聞えて来た。それは根戸川堤のほうからであり、洗い場でわきあがっていることがよくわかった。かれらは罵《ののし》り叫び、笑いあい、そのあいだに石を投げつけるような音がし、囃《はや》したて、どなりあっていた。――私はペンを持ったまま、じっとそれを聞いていた。関門なのだ、と私は思った。天然痘にかからないためには種痘をしなければならない、あばた面になる代りとして、腕の一部分にメスを入れられるのだ。メスを入れられる痛さは瞬間的なものであり、瘡痕《そうこん》のかさぶたが取れるまでもさして時日はかからない。さしずめこれは種痘のようなものだ、と私は自分に云い含めた。

 そのうちに堤のほうからこっちへ走って来る者があり、窓の外へ来て「先生いっか」と長が呼びかけた。

「いってみせえま」と長が昂奮《こうふん》した声でどなった、「やつら青べかをぶっくらわしてるだ、あれが聞えねえだかい」

 私は答えた。

「そんなこと云わねえで来せえま」と長はじれた、「おんだらが止めてもやつらききゃあしねえだ、ひっくら返すって云ってるだよ」

 私はまた答えた。

「じゃあ知らねえぞ」と長は怒ってどなった、「おら知らねえから、いいか」

 私が答えると、長は走り去っていった。

 洗い場の騒ぎはなお続いてい、長の叫び声が、その騒ぎを縫うように聞えた。よせ、やめろ、と長は叫んでいた。先生が怒るぞ、――よさねえか、先生が来るぞ、――私は事の意外さにとまどった。青べかをもっとも軽侮していたのは長であった。それがまだ三本松の脇の道傍で、舟底を上に干されていたとき、長は鼻柱に皺をよらせて「あのぶっくれ舟」と云い、見るのもいやだというふうにそっぽを向いた。その日の騒ぎも、おそらく長が音頭取りだろうと思っていたのである。――しかしそうではなかった。長はかれらの暴力から青べかを護ろうとしているのだ。私はとまどい、そうして少しばかり感動した。

「まあおちつけ、用心しろ」と私は自分に云った、「そうやすやすと感傷的になるな、長はしたたか者だぞ」

 騒ぎがしずまり、悪童どもは去った。そろそろ暗くなりはじめたころ、もういいだろうと思って、私はようすを見るために土堤へ出ていった。ずいぶん石を投げつけたようだし、「ひっくら返す」と云っていたそうで、どんなことになっているか、その場へいって見るまではちょっと不安な気持だった。

 堤へ登ってみると、舟はなかった。

 洗い場の杭につないであった青べかは、もうそこには見えないのである。私は踏段をおりながら、さてはひっくら返したかと思い、洗い場に跼んで水中をすかして見た。黄昏《たそがれ》の、片明りに光る、水面の下をすかして見ると、青黒く藻草《もぐさ》がゆらめいてい、なにかの稚魚が群れをなして、さっと片方へはしり、すぐにまた片方へさっと走るのが見えた。けれども舟はみつからなかった。単にひっくり返されたのなら、杭にともづなで縛りつけられている筈だが、そのともづなまでなくなっていた。

「ふん」と私は呟いた、「やりゃあがったな」

 私はやつらが青べかを流したと思った。

 そのとき私がさばさばしたというのは嘘だ。なにしろ当時の私としてはたいまいな代価を払っている。豚肉やタバコや精神的な損失をべつにしても、それは決してさばさばするような金額ではない。ちょうどいい機会だからうちあけておくが、浦粕時代の私の収入は、中・商という商業新聞の家庭欄に、週一回ずつ載る童話をときたま書かせてもらい、また少・世という少女雑誌に、少女小説を買ってもらっていた。前者は高品さんという浦粕の名家の息子で、中・商紙に勤めていた人の世話であり、後者は少・世の編集長で、のちに高名な小説作者になった井内蝶二の好意によるものであった。稿料は前者が一回「五」であり、後者が一編「四〇」または「五〇」くらいであった。もちろんその差は原稿の枚数によるのであるが、――そして、それで足りないところは、京橋|木挽町《こびきちょう》に店を持っていた恩人、山本|洒落斎《しゃらくさい》翁のところへ借りにゆく、それも極めてしばしば借りにいったものであった。

 それなら青べかを失ったことが、非常に惜しかったかといえば、それもはっきりとは答えられない。一種の厄介ばらいをしたような、肩の荷をおろしたような気持もしたからである。とにかく、明日になったら川筋や堀を捜してみよう、そう思って私は家へ帰った。

 明くる日、朝めしのあとで私はでかけた。悪童どもは学校であるが、私は自尊心のために舟を捜すようなそぶりは示さず、眼の隅で注意しながら歩いていった。蒸気河岸では三十六号船の留さんが声をかけ、景気はどうかと訊いた。船宿「千本」の店の前では、おきぬという女が繩舟の餌付《えづ》けをしながら、たまには遊びに来い、と呼びかけた。堀へ曲ると海苔屋のおばあさまが挨拶をし、町役場の増山さんと会い、ごったく屋の「栄家」の前では、泊り客を送り出した実永(むろん仇名《あだな》で****と読むのだが、本名は知らない)が、ちょっと寄ってゆく気はないか、とさそいかけた。こうして十幾人もの人と、言葉を交わしたり、目礼したりしたが、ついに青べかを発見することはできなかった。

「まっすぐに川をくだったんだ」と私は呟いた、「海へいっちまったんだな」

 その日の昏《く》れがたに、窓の外で倉なあこ]の声がした。窓をあけてみると、倉なあこは沖着《おきぎ》のぼった点]姿で、頬っぺたの赤い、いい男ぶりの顔で笑っていた。

「青べかを曳《ひ》いて来ただよ」と倉なあこはゆっくりと云った、「沖の三番のみおでふらふらしてただ、どうしただね」

 私が答えると、倉なあこはまた笑った。

「しようがねえがきどもだ」と彼は、あんまりしようのないような口ぶりでなしに、やさしく云った、「こんど来たらどなってやるがいいだ、やつらもそれほどわる気はねえだからな、一つどなってやればいいだよ」

 私が答えると、倉なあこは頷いて、棹と櫂はすぐに持って来る、と云ってたち去った。そのあとで、私は堤へいってみた。青べかは杭につながれて、私に見られたくないとでもいうように、ひっそりと洗い場により添っていた。もう川の水面も暗いので、近よってみても細部はわからないが、青いペンキはあばたのように剥げ、ふなばたがところどころ欠けていた。

「おい」と私は彼女に云った、「ひどいめにあったな、これで終ってくれればいいがね」

 私の心にあたたかな愛情がわきあがった。そんなにもぶざまな恰好の、愚かしげなべか舟はほかにはない。そのために嘲笑され、憎まれているのだが、それはそんなふうに造った者が悪いので、彼女自身には責任のないことである。彼女はなんの罪もないのに造った者の誤り、または臍曲《へそまが》りの代償を払わされているのだ。しかも彼女はその寃《むじつ》を訴えることさえできず、黙って住民たちに嘲笑され、悪童どもの投げつける石に耐えなければならないのである。

「ひとつ考えてみよう」私は彼女の修理された舳先を撫でながら云った、「問題は(青べか)という概念だ」

 青いペンキを剥がしても、「塗っても青べかは青べかだ」と芳爺さんは云った。それは要するに、その舟に関する住民たちの認識の根底をなす普遍的概念であろう。とすれば、それを青べかでない他のもの、つまり属性の転換をすればいいのではないか、と私は思った。

「待てよ」と私は呟いた、「まあ待て、考えてみよう」

 私は夕めしを喰べに堀南の「天鉄」へゆき、そのあとちょっと買物をして帰った。

 明くる日の午後おそく、土堤のほうで子供たちの騒ぎだす声を、私は聞いた。もとより予期していたことで、私は机に向ったまま、その騒ぎを聞きながら、いまになにか反応があるだろう、誰かがやって来るだろう、とひそかにほくそ笑んでいた。子供たちの騒ぎは第一回のときよりも盛大であり、石を投げつける音も数多く、かつ活気に満ちたものであった。私は待ったが、誰もやっては来なかった。長さえも来ないまま騒ぎが続き、やがて、ずいぶんときが経ってから、子供たちは去っていった。

「おかしいな」と私は呟いた、「気がつかなかったのかな」

 もはや悪童どもがいないということを慥《たし》かめてから、私は用心ぶかく家を出ていった。

 青べかは洗い場の杭につながれていた。私は踏段をおりてゆき、跼んで、まず彼女のふなばたをしらべた。昨夜、私が書いた

「ロジナンテ」という字は、傷だらけではあるが残っていた。投石は思ったより華やかだったらしく、ペンキはさらに剥げ、ふなべりは幾カ所も欠けていた。

「この字をなんとも思わないのかな」と私は白いペンキの文字を見ながら呟いた、「かれらには好奇心も懐疑心もないんだな」

 私の期待は外れた。私は彼女を「青べかから「ロジナンテ」に変えようとしたのだ。悪童どもが好奇心をおこして訊きに来たら、私はその名の由来を語ってやるつもりだった。そうすればかれらの頭には、愚かしく愛すべき老馬の姿が印象づけられるに相違ない、――おっかしな、可哀そうな老いぼれ馬。こういう観念がかれらに起これば、もはやその「可哀そうな老いぼれ馬」を迫害するようなことはないだろう、およそ少年というものは自分を英雄化し、事をロマンティックに考えたがるものだからだ。

「まあ待ってみよう」と私は家へペンキを取りに戻りながら云った、「ものごとは辛抱がかんじんだ」

 だが私の期待は外れた。

 この土地の悪童どもは、私のいだいている「少年」という概念の外にあるらしい。青ペンキを塗ろうが塗るまいが、白いペンキで妙な名を書こうが書くまいが、かれらにとって「青べかはしょせん「青べか」にすぎないのであった。

「即物的なやつらだ」と私は云った、「好きなようにしろ」

 私はさらにこう云ったことを覚えている、「どうでもいいようにしろ、勝手にしやあがれ」

 悪童どもは飽きもせず、毎日やって来て青べかの虐待に興じた。雨の日にさえ、学校のゆき帰りに石を投げ、泥を投げ、悪罵《あくば》と嘲弄をあびせかけた。私はそのとき「画師弘高の悲劇」という、二部十幕の大作にかかってい、それはまったく金になるあてのないものだったが、その原稿に没頭することによって、青べかのことを忘れることにつとめた。

 お願いしたいのは、私がこれを人間的|葛藤《かっとう》の比喩《ひゆ》に使っていると思っていただきたくないことである。これは事実そのままを語っているのであり、現実に「あった」ことなのである。聖書によれば、人間の原罪の片棒を担いだために蛇はいまでも憎まれ、塵《ちり》の中を這《は》いまわらなければならないのだという。私は青べかのうえにも、その原罪の不当な迫害という共通点を感じて、嘆息した。

 子供たちはやがて飽きた。熱烈に恋しあったうえに結婚した男が(或いは女が)やがてその相手に飽きるようにではなく、老醜の彼、または彼女を憎みさげすむことに飽きるように、――その期間がどのくらいであったか、ということは問題ではない。とにかく子供たちは飽き、青べかには眼もくれなくなった。時がすべてを解決するという、怠けた金言も、ここではいちおう実現したわけである。

「しかしゆだんはならない」私はこう私自身を戒めた、「まだ関門が控えているぞ」

 そして私は青べかを出航させた。

 べか舟は小さい平底舟だから櫓《ろ》はかけられない、水の浅いところは棹でやり、深いところでは櫂を櫓のように使うのである。私は少年時代に、江ノ島の片瀬川で棹と櫓の使いかたを覚えた。そんなちっぽけなべか舟などは手の内のものだと思ったのであるが、――そして、多くのべか舟はそうであったろうと思うのだが、彼女は他のべか舟ではなく「青べか」であった。彼女には個性があり、強烈な自意識があった。私がならい覚えた技術をフルに動員しても、彼女は頑として服従しない。こちらへやろうとすればあちらへゆき、あちらへ向けようとするとこちらへ向いてしまう。ではあちらでもなくこちらでもなく、好きなほうへ進ませようとすると、ただぐるぐると同じ水面を廻るだけで、どっちへも進まないのであった。

「よしよし」私は櫂を置いて、片手で汗を拭き片手でふなべりを撫でながら云った、「時間はたっぷりあるさ、いそぐ旅ではないからな、まあゆっくりやろう」

 こうして私の苦闘が始まった。

 私は忍耐づよいほうでは自信があった。

 私はむやみに怒ったり、ふくれっ面をするようなことはない。仮に感情の激昂を抑えることができないような場合には、どなる代りに丁寧な言葉を使い、喚く代りにあいそ笑いをするようにつとめる。むろん青べかに対してもそういう態度でのぞんだ。私は彼女がどんなに侮蔑《ぶべつ》され迫害されたかを思い、自分だけは憐《あわ》れみと愛情とで、彼女を劬《いたわ》らなければならないと思った。

 或る日、私が根戸川の中流で、棹を振りまわし気ちがいのように櫂を使いながら、青べかの頑強な自意識とたたかっていて、ふと気がつくと、蒸気河岸に大勢の人が集まって、こっちを指さしながら、げらげら笑っているのに気づいた。学校のある時間だから、悪童どもはみえなかったが、十四五人の老若男女と、私を「蒸気河岸の先生」と知っているちびどもが、こっちを指さしたり、腹を押えたりしながら、有頂天になって笑っていた。

 或る風の強い日に、――私は根戸川の中流で苦闘していた。干潮だったと思うが、青べかは私を乗せたまま、棹や櫂にはいっこう頓着せず、強い風と流れに身を託して、ぐんぐん下流へとくだっていた。このままでは海へ持ってゆかれてしまう、私はけんめいに櫂を使い、どうかして彼女を岸のほうへ向けようと、汗だくになって奮闘していた。そのうちに、堤のほうから叫び声が聞え、見ると、「千本」の長が走りながらどなっていた。

「岸へ着けろま」と走りながら長は私に呼びかけた、「岸い着けるだよ先生、そんなことしていると海いいっちまうだぞ」

 私もそうしたいのだ。そうするために汗みずくになっているのだが、青べか]は頑としてきかないのである。

 ――この、このろくでなしの……。

 そう云いかけて私は口をつぐんだ。

 子供たちのほうが正しかったのだ、このぶっくれ舟は手ごちに負えないあばずれの、まぬけで能なしで、恥知らずな物躰だったのだ。まさに「青べかだったのだ、と私は思ったが、それでもまだ、そういう気持を彼女にぶちまけるのは控えることにした。

「はあ――流されてるだ」と堤の上を走りながら長が叫んでいた、「先生のばかやつら、いいきびだ、流されてるだ、ええばかやつら」

 私は鼻の奥が熱くなるのを感じた。

「いいきびだ、わあい」堤の上を、こちらの舟といっしょに、走りながら、泣き声で長が叫んでいた、「先生のばかやつら、ええ流されてるだ、海まで流されるだ、ばかやつら、いいきびだ、わあい」

 それは小学三年生の愛情の表現だった、などと私は云いたくはない。それは学校のある時間ではあるが、土曜日だった、などということも云う必要はないだろう。――私は海まで流されはしなかった。一つ《いり》のところで房なあこの舟に捉まり、無事に蒸気河岸まで曳き戻されたのであった。

 或る日、――いや、これ以上は退屈な繰返しになる。私が彼女に対する憐れみや、愛情や劬りをかなぐり捨て、悪童どもと同じように、それが正《まさ》しく青べかにすぎないと認めたとき、初めて彼女は私に身を任せた。つまり私の棹と櫂の命ずるままになった、ということを記しておけばいいであろう。

   五 砂と柘榴《ざくろ》

 堀の洋品雑貨店「みその」の息子が嫁を貰った。息子の名は五郎、年は二十四、町の人たちはごろさんと呼んでいた。嫁はゆい子といい、年は二十一歳。この町から四キロほど川上にある篠咲《しのざき》の者で、実家はかなりな地主だといわれていた。

 五郎さんは温和《おとな》しい性分であった。背丈は五尺一寸くらい、痩せていて顔は蒼白く、いつも手指の爪をかじる癖があった。家族は父と彼と、十二になる妹の三人で、姉が一人いたが、何年もまえによそへ嫁し、その婚家の人たちといっしょに、北海道へ移住してしまった。母親は長く腎臓《じんぞう》を病んだのち、その年の夏に亡くなり、そこで急に五郎さんの結婚が繰りあげられたのであった。

 結婚式はかなり派手におこなわれた。披露《ひろう》の宴会は「山口屋」の大広間を使い、招待された客は町長はじめ二十余人、みな旦那衆と呼ばれる人ばかりで、お引き物の折詰には眼の下尺二寸の鯛が入っていたという。招待されなかった消防組長のわに久は、はらだちまぎれに酔っぱらったあげく、火《ひ》の見《み》櫓《やぐら》へつかまって暴れた。

「あの宴会をぶちこわしてくれるだ」とわに久はどなったそうである、「これからだんだんに登っていって、てっぺんまで登っていってな、すりばんを鳴らしてくれるからな、見ていろ」

「誰も止めるな、おっぽっといてくれ」ともどなったそうである、「いまおれがすりばんを叩き鳴らして、宴会をぶっこわして、町じゅうをひっくらけえしてくれるだから」

 誰も止める者はなかった。こういう興味深いみものを途中で止めるような、お節介な人間は浦粕には絶対にいないのである。かれらはわに久を遠巻きにして、げらげら笑ったり、けしかけるようなことを云ったりした。わに久はけんめいに梯子《はしご》をよじ登ろうとするが、二三段登るとずるずる落ち、また二三段登ると落ちてしまうので、倍増しはらをたてた。

「悪いいたずらだ」と彼はどなった、「いいかげんにふざけろ」

 彼はなお飽きずに努力したが、どうしても二三段より上へは登れなかった。

「よせ」と彼は片手でなにかを払いのけるような動作をした、「よせったらな、このやろう、ばちばらすぞ」

 それから力尽きて、梯子の桁《けた》へ腕を掛け、全身で凭《もた》れかかって眠ってしまい、知らせを聞いて駆けつけた妻女によって、家へ伴《つ》れ去られたのであった。

 こうして山口屋の披露宴は事なく終り、五郎さんと花嫁とは、客たちより先に家へ帰った。――ここまでは、五郎さんの運命は頬笑んでいた。彼自身は高等小学校しか出ていないのに、花嫁は東京の女学校を卒業していた。彼が貧相でみばえのしない男ぶりなのに反して、花嫁はかなり縹緻《きりょう》よしであり、東京の女学校を卒業したという、一種の誇らしげな匂いを身につけていた。おそらく、五郎さんは自分の幸運をよろこんだであろう。揚幕で初舞台の出を待つ役者のように、よろこばしい不安のために胸をおどらせていたことだろうと思うが、――運命はそこで頬笑みを消し、まるで五郎さんに向って舌を出すようなことをやってのけた。

 新婚の寝間へはいると、花嫁は自分の夜具のまわりへ、ぐるっと砂を撒《ま》いた。砂は用意して来たものらしい、目のこまかい麻の袋にはいってい、花嫁のゆい子はその袋の口をすぼめて、枕許《まくらもと》から左廻りに、ぐるりっと、砂のバリケードを作ったのであった。五郎さんは腑《ふ》におちない顔で見ていたが、すっかり砂の線が出来あがり、その線に囲まれた夜具の中へ、わが新婚の花嫁が寝てしまってからも、やはり腑におちないことに変りはなかった。

「それはなんですか」と五郎さんは訊《き》いてみた、「なにかの呪禁《まじない》ですか」

「呪禁なんかではありません」と花嫁は答えた、「お母さまの喪があけるまでは、こうして寝るようにと云われて来たんです」

 五郎さんはちょっと考えてから、穏やかに訊いた、「いつ亡くなられたのですか」

「誰が」と花嫁のほうで訊き返した。

「お母さんですよ、あなたがいまお母さんの喪があけるまでって」

「ううん」と花嫁は東京の女学校を卒業した匂いのする発音で五郎さんの言葉を遮《さえぎ》り、きまじめに五郎さんをみつめながら云った、「あたしの母はお式にもいたし披露宴にもいたし、あたしたちといっしょにここまで来たじゃありませんか」

「ああそうか」と五郎さんは云った。

「あたしの母はあのとおり丈夫ですよ」

「失礼しました」と五郎さんは云った、「ではあなたの云うのはぼくの母のことですね」

「おやすみなさい」と花嫁が云った。

「おやすみ」と五郎さんが云った、「どうも有難う」

 自分の亡き母のことを思ってくれたので、いちおう感謝の気持をあらわしたのだが、喪に服するなどということは、昔ばなしのほかに聞いたこともないし、夜具のまわりに砂のマジノ線を作るということ自体に、一種の鬼気といったふうなものが感じられて、五郎さんとしては多少ならず興ざめであった。

 ――本当にそんなことがあるんだろうか。

 五郎さんは不審に思った。けれども男女間の機微に触れることなので、父親にはもちろん、親しい友人たちにも訊いてみるわけにはいかない。それでゆい子が里帰りをした日、彼は寺の住職のところへ訪ねていった。大松寺は浦粕町から東北東へ、三キロばかりいった田圃の中にあり、住職は某宗教大学を出た「インテリ」だといわれていた。

「そういう話は聞いたことがないな」と住職は笑いをうかべながら答えた、「ぼく寡聞《かぶん》にして知らずといったところかな、しかしまあ、いいじゃないか」

「寝床のまわりへ砂を撒くことですが、そんな習慣もあるんでしょうか」

「知らないねえ、ぞっとするねえ」と住職は答えた、「そんなふうに寝床のまわりへ、ぐるっと砂の線を引くなんていうのは、聞いただけでぞっとするねえ、しかしまあ、いいじゃないか」

 五郎さんはいくらかむっとして、なにがいいのかと反問した。すると住職は、指を折って日を数え、あと二十日ばかりできみのお母さんの喪はあける、二十日ばかり待つだけだから「まあいいじゃないか」と答えた。

「ああそうですか」五郎さんは納得した、「すると喪は七十五日なんですね」

「いろいろあるがね、亡くなった人の魂は七十五日その家の軒先をはなれない、ということがあるから、まず一般の例では七十五日だろうね」

 五郎さんは礼を云って家へ帰った。

 正確に数えてみると、喪のあけるまで十九日あった。そのくらい待てないわけではない、五郎さんは気をまぎらわせるために、精を出して働いた。ゆい子は家事に慣れないようすで、めしの炊きかたもうまくないし、拭き掃除や洗濯なども、時間ばかりかかってとんと片づかなかった。五郎さんの妹は十二歳になるので、もう男よりもそんなことに眼がつくらしく、父や兄に向って、しきりにあによめの非難をした。

「うちのことができないんならお店へ出ればいいじゃないの」と妹は云った、「どうしてお店へ出さないの、兄ちゃん」

「うるさいぞ、よけえなことを云うな」と五郎さんは叱った、「嫁に来たばかりで、すぐにそうなにもかもうまくやれっか、おまえだってよそへ嫁にゆけば当座はへまなことをするんだ、みんなそうやって慣れてゆくんだ、へっこんでろあま」

 ゆい子は毎晩、夜具のまわりに砂の垣を作った。だんだん口数が少なくなり、顔色も冴《さ》えず、いつもひどく疲れはてたように、動作がぐったりと重たげにみえ、また、夜も熟睡ができないようであった。

 ――自分でも喪が重荷になってきたんだな。

 五郎さんはそう推察し、心の中で、カレンダーがあと三枚になったことを慥かめた。そうして、その三枚めも剥がれて、つまり七十六日めの夜になったとき、ゆい子がやはり夜具のまわりに砂垣を作るのを見て、五郎さんは瞞着《まんちゃく》されたような気持におそわれた。

 ――もう昨日で喪はあけたよ。

 そう云おうと思った。口まで出かかったのであるが、五郎さんはそれをのみこんでしまった。急に「男の意地」といったような、かたくなな気分がこみあげて来、勝手にしやがれ、と肚《はら》の中でどなった。そっちがそうするならこっちもこっちだ、知るもんか、と彼は肚の中で続けてどなった。

 七十七日めの夜も同じ、次の夜も同じというぐあいで、砂垣は夜ごとに作られ、五郎さんはビールを飲み始めた。「みその」から四軒おいて「四丁目」という洋食屋がある、店先に掛ける暖簾《のれん》には、ただ御洋食としか書いてないが、土地の者は「四丁目」と呼んでい、蒸気河岸の「根戸川亭」とは格の違う、本式の洋食を食わせるといわれていた。主人はいかにもコックらしく、白い上っ張りに前掛、頭にも白い茸形《きのこがた》のコック帽をかぶっているし、二人の若い女給もきちんとエプロンをはおっているというふうで、客が酔って騒いだりすると、主人のコックが出て来てつまみだすといわれ、そのためかどうか、若い衆といわれる人たちは殆んどよりつかなかった。五郎さんはその「四丁目」へ飲みにゆき、それからは毎晩、店を閉めるとすぐ飲みにいった。

 こういう状態が長く続くものではない。喪があけてから六十幾日めかに、ゆい子は篠咲の実家へ帰った。ちょっといって来ると云ってでかけたが、そのまま戻らず、三日ほどまをおいて仲人が来た。家風に合わないから離婚したいというので、五郎さんも五郎さんの父親もあっけにとられた。誰がそう云うのかと訊いたら、嫁のゆい子がそう云ってきかないのだ、と仲人が答えた。

「そんなあべこべな話は請合えねえだな」と五郎さんの父親は云った、「家風に合わないとはこっちの云うことだべが、嫁のほうから家風に合わないなんぞと云われては筋が立たねえべ、そんな話はまっぴらごめん蒙《こうむ》るだよ」

 仲人は尤《もっと》もだと合点して帰り、それから数回、両家のあいだを往復したのち、五郎さんのほうで「家風に合わないから離縁した」という名目を立て、正式に離婚がきまると、ゆい子の荷物もきれいに篠咲へ戻された。

 町の人たち、ことに五郎さんの友人たちは、この離婚に不審を持った。友人たちはこの結婚に嫉妬《しっと》と羨望《せんぼう》を感じ、五郎さんとのつきあいも疎遠になっていた。云うまでもなく、花嫁が縹緻よしで、東京の女学校出身者であることが、かれらの庶民的な生活感情を刺戟《しげき》したのであって、それが半年と経たないうちに離婚したとなると、かつての羨望や嫉妬が、こんどは激しい疑惑と詮索欲《せんさくよく》とに変った。

「いったいどうしたっていうだ」と友人たちは五郎さんに訊いた、「女学校を出たし、あんなきれえな嫁さんだったによ、なにがあっただかい」

 五郎さんは答えに困った、「これってことはなかっただ、あの人もまたこれから嫁にゆくだろうしな、本当にこれっていうほどのことはなかっただよ」

 友人たちは代る代る訊いたし、いろいろと近所の評《うわさ》をさぐってみたが、それほど骨を折る暇もなく、第一級の情報をつかむことができた。それは、篠咲へ貝を売りにゆく女が聞いて来たもので、――ゆい子は五郎さんが男でなかったから帰った、ということであった。百幾十日もいっしょにいて、夫婦らしいことが一度もなかった。男として役に立たないから離縁して帰ったと、ゆい子自身が語ったというのである。

 この種のゴシップはどこの土地でも広まりやすいものだが、ことに浦粕ではもっとも歓迎される特報で、たちまち少年少女のあいだにまで伝わってしまった。このこまっちゃくれた少年少女たちは、五郎さんの店の前を通るとき、声をそろえて喚いた。

「みそのでは幟《のぼり》もおっ立たない」

 この町筋の商店は、店の脇にみな幟を立てているが、「みその」は店名を染めたがたん(軒へ陽除《ひよ》けのようにおろす幕で、夕方になると巻きあげ、朝になると紐《ひも》を解いておろすのだが、そのときがたんと音がするので、子供たちはそう呼んでいた)があるだけで幟は立てなかった。かれらはそれにひっかけて五郎さんをからかい、わっと囃したてるのであった。

 五郎さんはなかなか気がつかなかった。父親のほうが先にその噂《うわさ》を聞き、怒って五郎さんを問い詰めた。五郎さんはあまりのことに口がきけなかった。こんなひどいぺてんがあるだろうか、彼は怒りのために涙をこぼし、恥ずかしさのために吃《ども》りながら「砂のバリケード」のことを父に話した。

「おめえにも肝煎るだな」と温厚な父親は云った、「そんな砂ぐれえ、一丈も積んだわけじゃあるめえし、なぜ蹴《け》っぱらってへえっていかなかっただ」

「お父つぁんは見ないからわからないが」と五郎さんは答えた、「寝床のまわりへぐるっと、砂を撒くところを見てみな、呪禁でもされてるみたいでそりゃあ凄《すご》いもんだから」

 父親は想像してみたが、少しも凄いような感じはしなかった。

「砂ぐれえがなんだ、砂が恐ろしくって海へいけっか」と父親は云った、「喪があけても砂を撒いたのは、おめえが蹴っぱらってへえって来るのを待っていたということだ、そのくれえの察しはつくべえじゃねえかええ」

 五郎さんは黙った。

 事情を聞いた父親は、すぐに嫁を捜し始めた。早くあとを貰って、篠咲をみかえしてやらなければ、五郎さんばかりでなく「みその」の看板にもかかわる、と思ったからだ。

 だが特報は第一級であり、根深く、広範囲に拡まっていた。「幟もおっ立たない」ような息子に、嫁を遣《や》ろうという親はなかった。このあいだに、五郎さんは五郎さんで友人たちとやりあい、ごろさんの話が事実なら、男として役立つかどうかためしてみよう、ということになり、かれらは五郎さんを伴れだして、東京のさる華やかな一画へ押しあがった。もちろん勘定はごろさん持ちで、事の終ったあと、友人たちはその相手の華やかな女性に、首尾のいかんを問い糺《ただ》した。

 浦粕へ帰ってから、友人たちは却って否定的な気分になった。

「二時間でよ、おめえ」と一人が云った、「それも初めてだっていうだに、三度も幟がおっ立ったなんて考げえられっか」

「買収しただな」と他の一人が云った、「女に金轡《かなぐつわ》を噛ましただ」

 筆者である私が、この会話を現実に聞いたのである。場所は蒸気河岸の浦粕亭で、私は三十六号船の留さんとビールを飲んでい、その若者たち三人は隣りのテーブルで、焼酎《しょうちゅう》を啜《すす》りながら話していたのだ。

 こんどはこの噂が弘まるな。私はそう思って、五郎さんのために心が痛んだ。

 浦粕第一の旦那衆である高品さんから、私はそれまでの事情を聞いていた。というのが、ゆい子のあとを早く貰うために、五郎さんの父親が高品さんの本家を訪ねて、詳しい仔細を語ったからである。――予想どおり、「買収した」という評判はすぐさま町じゅうに伝わり、父親はますます嫁捜しに熱中した。こういう重複した誹謗《ひぼう》に取り巻かれて、五郎さんがどんな日々を送ったかということはわからない。けれどもこの世では、真偽の計量が正しく行われることもある、という稀な例をわれわれは見ることができた。

 救いの主は五郎さんの姉であった。父親から手紙を受取った姉が、一人の娘を伴れて北海道からはるばるやって来たのである。娘は小柄な躯《からだ》ではあるが、健康そうで、縹緻もゆい子より一段とたちまさっていた。実科女学校中退、年もゆい子より二つ若かった。

 五郎さんは彼女と結婚した。式も披露宴もまえに劣らず盛大にやった。こんどは消防組長のわに久も招待され、彼は酒宴なかばに酔っぱらって、先般の失態を詫《わ》びたという。五郎さんもこんどは用心ぶかく行動した。式の行われた二日後に、友人たちを自宅に招き、新妻の手料理でかれらをもてなしたが、それだけではなく、一週間ほどのちには、その中の三人を「四丁目」へさそってビールを奢《おご》り、テキとかチキン・サラダとか奢り、しきりにビールをすすめてから、声をひそめてかれらに囁《ささや》いた。

「おら初めて見ただよ」と五郎さんは意味ありげな一種の眼くばせを三人にした、「――まるでいま笑《え》んだ柘榴みてえだっただ」

 三人はちょっと考えてから、急に奇声をあげて笑いだし、安なあこという一人は、テーブルを力まかせに叩いて奇声をあげた。

 五郎さんが結婚してまもなく、篠咲でもゆい子が東京へ嫁にいった。一年経って、五郎さんの新しい妻が女の児を産んだとき、ゆい子は実家へ帰っていた。それが一時的なものか、またも離婚したのであるかは不明だったし、その後の噂も聞かなかった。

   六 人はなんによって生くるか

 私は石灰工場の川下《かわしも》で釣りをしていた。

 一つのちょっと上《かみ》で、うしろには百万坪の荒地がひろがっており、早春のやわらかな風が、その荒地をわたって吹いて来た。陽はあたたかく、根戸川の水は薄濁りがして、ときどきこまかなさざ波をたたんでいた。

 私はひね鯊《はぜ》を一尾あげた。すると一人の男が土堤《どて》の上をやって来て、私のすぐ脇で釣り始めた。私は場所を変えようと思った。私の釣りはおよそでたらめなもので、子供の使うような安い駄竿に、浮子《うき》下もよく計らず、もっぱら岸際の杭《くい》のあいだや、水草の蔭などを覘って糸をおろす。それで結構その日のおかずぐらいは釣れるのだが、脇にその道のベテランらしい人が来るとたいそう困る。というのは、そういう人は高価な継ぎ竿を幾本も持っているし、魚籠《びく》、餌箱《えばこ》、帽子から服から靴まで、すべてその道の装具をきちんと揃《そろ》えている。にもかかわらず、駄竿で浮子下も計らないような私のほうが釣れて、そのベテランふうの人にさっぱり魚がかからないとなると、その人に対してというより、自分自身で一種の良心の咎《とが》めを感じるのである。

 そういう例は稀ではなかったので、脇に人が来ると場所を変えるのが、私の習慣になっていた。ところがそのときはそうはいかなかった。私が竿をあげようとするまえに、脇で釣りだした人が私に呼びかけた。

「人はなんによって生くるか」

 私はそちらへ振り向いた。

「人は」とその男はまた云った、「なんによって生くるか」

 その男は五十年配で、綿入の布子《ぬのこ》に綿入の半纏《はんてん》を重ね、垢《あか》じみた毛糸の衿巻《えりまき》を頭から頸《くび》へぐるぐる巻きつけていた。顔はよくわからないが、固太りの頬に胡麻塩《ごましお》の髭《ひげ》が伸び、厚い大きな唇や、ぎょろっとした眼つきに、どことなく土建会社の現場監督といったような、威厳が感じられた。

「なんですか」と私は反問した。

 私はなにか釣りに関することで話しかけられたのだと思った。場合が場合だから、そんな深遠な人生問題、むしろ哲学的な命題について一拶《いっさつ》をくらおうとは、夢にも思わなかったのである。

 その男は現場監督が怠けている労働者を見るような眼で私のことを見、そうして、こんどは一と言ずつ句切って、同じことをはっきりと云った。――このあとを書くと人は信じなくなるだろうが、事実を云うと、男は右手の拳《こぶし》を私のほうへぐいと突き出したのである。私は危険を感じて身を反らし、男は突き出した拳を上下に揺すった。これを見ろ、といったような手つきなので、その拳を注意して見ると、握った中指と人さし指とのあいだから、拇指《おやゆび》の頭が覗《のぞ》いているのであった。――これが真相なのだが、よしそうでなくとも、私がどんなにへどもどし、かつぶきみに思ったかは想像がつくだろう。これは冗談なのか、それともこの男の頭がおかしいのか、私には見当もつかなかった。

 どうしようがあるか、男は拳を突き出したまま、ぎょろっとした眼だまで私を睨んでいる。ふざけているのでないことは慥からしい、どうしようがありますか。私はしごくあいまいに微笑してから「やあ」というような不得要領な声をもらし、それから大きく頷《うなず》いてみせた。

 それで納得したのか、または話にならないと思ったのか、男は無表情のまま拳をおろし、黙って自分の釣り作業に戻った。

 或る夜、私は蒸気河岸の高品さんの炉端で、その男のことを話した。高品さんの本家は十台島という小字《こあざ》にある深い樹立に囲まれた、一町四方もあるような邸宅で、なんでも先祖は浦粕町の開拓者だそうであるが、――高品家の長男であり、私の知人である柾三《まさぞう》氏は、夫人のきんさんと二人で蒸気河岸に住み、東湾汽船の発着所を経営していた。これは船躰《せんたい》を白く塗ったほうの通船で、高品家は主要な出資者であった。――柾三氏はW大学出身で、東京日本橋の中・商という商業新聞社へ通勤してい、発着所の方はきん夫人と、女中のおりきさんでやっているのだが、夜になると通船の船員や、若い漁師たちがよく集まって来た。

 その家は小さかったが、広い切炉にはいつも火があり、きん夫人は浅草生れの浅草育ちで、気性はさっぱりしているし、人に差別をつけず、世話好きで物惜しみをしない。柾三氏もおっとりとした大人《たいじん》の風格があり、子供がないためだろうか、人の集まるのをよろこび、しばしば酒を出してもてなした。私が柾三氏の好意で、中・商紙に童話を書き、稿料を貰っていたことはまえに記したとおりである。

 その夜、私の話を聞くと、炉端にいた船員たちの中で、秋屋エンジが顔をあげた。

「兵曹長だな」と秋屋エンジナーは云った、「病院からまた帰っただな」

 私が訊くと柾三氏が答えた。

「気違いではないらしいが、頭がおかしいんですよ、細君と四人の子供に死なれましてね、それから頭がおかしくなったんでしょう、町役場の兵事係へ日参して、恩給と年金をくれと云いだしたんですよ」

 私はまた質問した。

「海軍なんかいきゃあしねえだ」と大伍船長が云った、「陸軍で輸卒をしたっけだが、あとは土方をやったり罐詰《かんづめ》工場に雇われたり、海苔《のり》のひび運びをしたりしていただ、それが何年めえになるだかな」

「七年めえだ」と秋屋エンジナーが云った、「幸山船長が船を貰ってやめた年だったべえ、暴風雨で高汐《たかしお》が来て、大蝶丸が大三角へ乗りあげたあとのことさ」

 そのとき「兵曹長」は出稼《でかせ》ぎにいっていた。本当の名はささやん、左三郎とでも書くのだろうか、出稼ぎがどこへなにしにいったものか、いまではもう思いだすことができない。その留守ちゅうに、妻と四人の子が急死した。たしか赤痢だと聞いたように覚えているが、ささやんには連絡がつかず、出稼ぎから帰るのを待つよりしかたがなかった。

「彼はたいへんな子煩悩《こぼんのう》でしてね」と高品さんが云った、「帰って来てそれを聞くと、いっぺんに気がぬけたようになって、半月ばかりぼんやりしていました」

 それから町役場へでかけていって、兵事係にこう云った。

 ――自分は海軍兵曹長で、年金と恩給が来ることになっているが、まだその通達は来ておらんか。

 兵事係は冗談を云っているのだと思って、まだ来ていないと答えた。するとささやんは小首をかしげ、それではまた来よう、と云って役場を出ていった。彼には根小屋という小字に叔母がいて、彼の面倒をみてやっているのだが、毎月五日になると、年金と恩給を貰って来ると叔母に云って、町役場へでかけるのであった。叔母という人が町役場を訪ねて、こういうわけだからと話し、兵事係も心得て、ささやんがあらわれると、まだ通達は来ないと答えることにした。ささやんはそのたびに、いかにも納得しかねるという顔つきで、仔細らしく小首をかしげたりするが、べつに文句をつけるとか乱暴するようなことはなく、ではまた来よう、と云って帰るのが常であった。ただ一度だけ、彼は海軍軍部の怠慢を非難し、妻子を五人も戦死させておいて、年金や恩給の支払いをきちんとしないのは褒めたことではない、こんなありさまでは「また三・一五事件が起こるぞ」と警告したそうであった。

「人はなんによって生くるか、って云い始めたのはそれからあとのことですよ」と高品さんは云った、「ぼくもいちどやられました、道を歩いていたらいきなり立塞《たちふさ》がって、あの拳骨を突き出してみせながら云うんです、頭がおかしいとは知ってましたがね、驚きましたよ」

 私は話を聞きながらも、またそのあと、自分の家へ帰ってからも、ささやんの悲しみの深さに心が痛んだ。

「人はなんによって生くるか」

 私は呟《つぶや》いてみた。それはまなんで覚えた言葉ではない、文法もでたらめである。けれどもそれは、妻と四人の子を一度に失った男の言葉なのだ。

 ささやんは三度病院へ入れられた。昂奮して人に乱暴したためであるが、病院にいると温和しいし、常人と少しも変らないため、二三カ月いると退院させられるのだという。町にいても、からかったり悪口を云ったりしない限り、乱暴はしないということであった。

 彼がどうして急に「兵曹長だ」などと思いこんだか、誰にもわからない。ほかにもう一人、「赤馬」と呼ばれる頭のおかしい男がいて、これは本当に退役した兵曹長であるが、その男はささやんがおかしくなったあとでこの浦粕へ帰って来たのであるし、それ以前にも二人は知合いではなかった。だが、そんな因果関係の有無にかかわりなく、頭のおかしい兵曹長が二人もいるということは、町の人たちにとってひどく暗示的にみえたようだ。

 私はささやんとは一度しか会わなかった。彼の悲しみの深さを思うと、いまでも私は心に痛みを感じるが、あの妙な握りかたの拳を出してみせた意味は、どうしても理解がつかないのである。

   七 繁あね

 私は青べかを二つへ漕《こ》ぎ入れ、細い水路を二百メートルほどいった、川柳の茂みのところに繋《つな》いで、釣竿をおろした。三月はじめの曇った日で、風はなく、浅い水路の水は淀《よど》んだように澄んでおり、実際には流れているのだが、殆んど静止したままのように見えた。

 私は竿をおろしてから、青べかの中にゆっくり坐り直し、タバコを出して火をつけた。

 そこは百万坪のほぼ中央に当っていた。北のほうに遠く、町の家並みが平らに密集してい、貝の罐詰工場や石灰工場から吐き出される煙が、雲に掩《おお》われた空へと、ゆるやかに、まっすぐ立ち昇っていた、(私のノートには「煙は上へゆくほど薄くなる棒のように」というつまらない形容が使ってある)町の東北のはずれから東にかけて、荒地の中に一筋の道があり、ひねくれた枝ぶりの、小さな松並木が沖の弁天社《べんてんやしろ》まで続いている。この土地では松が育たないそうで、それは「堀の三本松が一本だけにされた報い」だともいわれているが、慥かに、芳爺さんの家に近い、堀端にある老松のほかに松らしい松は一本もみあたらなかった。――そのひねこびた松並木を挾《はさ》んで、枯れた芦《あし》の茂みがところどころに見える、それらはみな沼か湿地で、川獺《かわうそ》や鼬《いたち》が棲《す》んでいるといわれ、私も川獺は幾たびか見かけたし、それを捕獲して毛皮屋へ売って儲《もう》けようと計ったこともあるが、それはここでは省略する。――私はタバコをふかしながら、その芦の茂みから鷭《ばん》の飛び立つのを認めた。鷭という鳥は、私の家でもよく見ることができた。机に向っていると、窓のすぐ向うを飛んでゆくのである、黒地に星点のある羽根や、赤い足などですぐ、それとわかる。野鳥の中でこれほど美味な肉はない、ということを聞いていたので、川獺の場合とは別個の欲望から、その鳥もなんとか捕獲しようとこころみたが、ついに一度も成功しなかったので、一種の怨《うら》みからだろうか、かなり遠くからでも、鷭だけはみわけがつくようになった。

「蒸気|河岸《がし》の先生よ」と云う声がした、「釣れっかえ」

 私はおどろいて振り返った。見わたす限り人影もなかったのに、突然そう呼びかけられたので、振り返る拍子にタバコを落し、それがあぐらをかいている膝《ひざ》のあいだに落ちたので、取って捨てるまでに、腿《もも》と脛《すね》を慌《あわ》てて叩いたりこすったりしなければならなかった。――そこにいるのは繁あねであった。年は十二か三、たぶん十三歳だったと思うが、私が振り返ると、岸の上からにっと笑いかけて、もういちど同じ質問をした。

 私はそれには答えないで、こっちから問いかけた。

「ええびだよ」と繁あねは答えた、「ただええびに来ただよ」

 私はまた訊いた。

「おんだらいつも一人だってこと知ってんべがね」

「妹はどうしたんだ」

「あまと少女は鼻に皺《しわ》をよせた、「墓ん場に寝かしてあんよ」

「鼬にかじられるぞ」

「つまんねえ」

 お繁は肩をすくめ、それからそこへしゃがんだ。すると垢じみた継ぎだらけの裾が割れて、白い内股《うちまた》が臀《しり》のほうまであらわに見え、私はうろたえて眼をそらした。私は信じがたいほど美しいものを見たのだ。

 繁あねは町じゅうでもっとも汚ない少女だといわれていた。乞食あま。親なしで家なし。墓場に供えられる飯や団子を食う餓鬼、それがお繁であった。躯はできものだらけで、胸のところは腫物《はれもの》の膿《うみ》のため、着物がはりついて取れなくなっている。いつもどこかの海苔|漉《す》き小屋か、納屋か、ひび置き場に寝る。風呂へはいることはないし、顔も洗わない。蝨《しらみ》だらけ蚤《のみ》だらけである。もちろん親類もなく遊ぶ者もいない、というのがお繁であった。

 それは決して誇張ではなかった。私もかなりまえからお繁を知っていたし、道で会えばたいてい呼びかけたものである。彼女はいつも垢だらけで、近くへ寄るとひどく臭かった。それにもかかわらず、彼女の躯の一部は信じられないほど美しかったのだ。両の内股は少女期をぬけようとするふくらみをみせていた。両股のなめらかな肌が合って、臀部《でんぶ》へと続く小さな谷間は、極めて新鮮に色づいていたし、膝がしらから踵《くびす》へとながれる脛の内側も、すんなりと白くまるみをもっていた。それは、成長しつつあるものだけがもつ神聖な美しさ、と云うべきもので、たとえどのようにあからさまになったとしても、決してみだらな感じは与えなかったであろう。ほんの一瞬間ではあったが、私はその美しさに深く感動した。

 そのまえの年、お繁は妹と二人で両親に捨てられた。妹は生れてから百日くらいしか経っていなかった。

 お繁の父は源太といい、釣舟の船頭であった。源太は鱸《すずき》釣りの名人で、どんな漁師も鱸釣りでは彼にかなわなかった。或る年のこと某県の知事が来て、源太の舟で鱸釣りをした。知事はもと某省の大臣であり、魚釣りと俳句がうまいので知られていたが、一度で源太が好きになり、機械船――発動機を備えた釣舟――を買って与えた。源太がいかに鱸釣りの名人だったかということを、適切にあらわす言葉があった。

「さあて」と彼は釣りにでかけるときに云う、「鱸を拾いにいくべえか」

 機械船を持てば自分でしょうばいができる。それまで彼は「松島」という船宿に属していたが、初めて独立し、客もかなり付いた。裏長屋に住んでいるので、まだ船宿の経営はできなかったが、どうやら二年も経てばその望みが実現しそうに思われた。そのとき、災難が起こった。――或る朝、彼は五番の澪木《みおぎ》の沖で釣っていた。霧の深い日で、十メートル先も見えないくらいだったが、その中を一|艘《そう》の大型機械船がやって来た。それは濃い霧の中を、まっすぐにこちらへ近づいて来る、エキゾスの音が明らかにそれを示していた。

「おーい」と源太は叫んだ、「ここに舟があるぞ、たのむよう」

 エキゾスの音で大蝶丸だとわかった。大蝶丸なら安心であった。この辺が釣りの穴場で、いつも釣舟がいるということを、大蝶丸の者なら知っている筈だったから。源太はじっと船の交《か》わるのを待った。けれども先方はまっすぐに近よって来、突然、霧を押しわけるようにして、源太の眼の前にあらわれ、その大きな舳先《へさき》を源太の機械船の横腹へ突っかけた。

「おい」と源太が叫んだ、「待ってくれ」

 だが彼の機械船は二つに割れ、彼は海の上へはねとばされた。そして、源太がようやく浮きあがってみると、割れた船の舳先のほうだけ、ゆらゆらと波の上にゆれていた。発動機のある艫《とも》のほうは沈んでしまったのだろう、大蝶丸も霧の中に隠れ、エキゾスの音もはるかに遠ざかっていた。

 源太は船宿「千本」の忠なあこに発見され、その舟に助けられて帰った。

「あの穴場は深《ふけ》えからな」と忠なあこは話を聞いて云った、「とても機械を揚げるこたあ無理だな」

 そして大蝶丸のことには触れなかった。大蝶丸は町でいちばん大きな罐詰工場の持ち船であり、「大蝶」の旦那は町で指折りの顔役であった。

「よし」と源太は自分に誓った、「うんとふんだくってくれるぞ」

 彼はすぐ掛合いにいった。しかし「大蝶」では相手にしなかった。大蝶の扶原《ふはら》支配人は穏やかに首を振って、そんなことはないと云った。

「大蝶丸は罐詰を東京まで積んでいって、三時間ばかりめえ帰《けえ》って来ただ」と扶原支配人はゆっくりと云った、「あの船長は腕っこきで、そんな事故を起こしたことは一度もねえし、起こしたとすればちゃんと報告するだよ、海事裁判法(?)でそう規定されてるだからな、いしの云うようなことはありっこねえよ」

 いしとは汝《なんじ》とかおまえとかいうほどの意味であるが、源太は怒って巡査駐在所へゆき、次に市の本署から、県の警察本部まで訴えにいった。しかしどこでも彼のために動いてはくれなかった。

「証拠があるのか」とかれらは云った、「大蝶丸だというはっきりした証拠があるなら取り調べてやるが、証拠のないものはだめだ」

 源太は船を調べればわかると云った。大蝶丸の舳先には衝突したときの傷がある筈だからと彼は主張した。

「機械船の舳先なんてものは」とかれらは一様に云うのであった、「どこかへぶっつけてたいてい傷のあるものだ、それでもおまえの船へぶっつけたという証拠の傷があるなら取り調べてやろう」

 こういう経過を辿《たど》って、本署から浦粕町へ連絡があり、駐在所の巡査がいちおう大蝶丸を調べた。その船はもう古いので、舶先の水切には無数の傷があったけれども、これが源太の船と衝突した跡だ、などと立証できる箇所はなかった。船長もいちおう訊問《じんもん》されたが、あたまから否定した。

「おらあ五番の澪木なんぞに近よったこたあねえ」と船長は答えた、「あのときは東京へ罐詰を送り出した帰りで、まっすぐ根戸川の川口へはいっただ、船の者に訊けばわかるだよ」

 それからまたこうも云ったそうである、「源太が諄《くど》くそんなことを云うんなら、出るとこへ出てしろくろをつけべえ」

 源太は頭を垂れた。

 彼は出るところへ出たのだ。県の警察本部までゆき、金も地位もない者がどんな扱いを受けるかということを、自分ではっきりと経験した。そうして「大蝶」という顔役を背景にした船長が、出るところへ出るとすれば、その結果もまたわかりきったものであった。

 源太の酒浸りが始まった。彼は堀東の助二郎の漁船へ乗ることになったが、漁から戻るとその足で酒屋へはいった。堀の山城屋という店で、塩か福神漬を摘《つま》みながら濁酒《どぶろく》とか焼酎《しょうちゅう》などを飲み、ぐでぐでに酔ってから家へ帰るのであった。――裏長屋の柱も傾きかかった家には、妻と娘が二人いた。上がお繁であり、下はまだ生れたばかりであった。帰って来た源太はむやみに喚きちらし、少しでもさからうと猛《たけ》りたって、妻と娘を死ぬようなめにあわせた。

「うぬらもかたきだ」と彼はどなる、「寄ってたかっておらを踏みつけにしやあがる、さあ、くやしかったらおんだらの機械船を返してみろ」

「なんでも持ってけ」と彼はまたどなる、「こんな貧乏人の物が欲しけりゃあなんでも呉れてやる、さあ、手でも足でも頭でも持ってけつかれ、なんでも呉れてやるぞ」

 家へ帰れないときは、というのはあまり泥酔したということであるが、源太は消防ポンプ小屋へもぐり込んで寝た。一日じゅう、主人の帰りを待っていた家族は、夜が更けてからこっそり家を出てゆく、そうしてごったくやと呼ばれる小料理屋や、「四丁目」または蒸気河岸の「根戸川亭」という洋食店の裏口をまわって残り物を貰い、僅かにその日を凌《しの》いでいた。

 こうしているうちに、源太の妻が若い男と出奔した。相手は罐詰工場の若い雑役夫で、源太の妻より六つも年下だったというが、これは町の人たちのいい話題になった。源太の妻は年でいうと三十ちょっと出たくらいだから、二十五六の男とできたというだけなら、浦粕町としては決して稀有《けう》な出来事ではないが、源太の妻というのは枯木のように痩《や》せてい、女には珍しく頭が禿《は》げて、口は消防組長のわに久のように大きく、眼のふちは赤く爛《ただ》れて、歯も半分は欠けたり抜けたりしていた。

 ――あんなおっかあのどこがよかったのか。

 女にすたりはないと云うが、それにしてもよくあんな女と駆落をする気になったものだ、よっぽどの世間知らずだったんだな。こう云って、町の人たちは飽きることなく笑いあった。

 源太は気がぬけたようになった。漁にも出ず、酒を飲むでもなかった。部屋の隅にころがされて、泣き叫ぶ赤児の声も耳にはいらないのか、一日じゅう寝そべったまま、天床か壁をぼんやりと眺めていた。

 或る日、源太は山城屋へ飲みに来た。彼は助二郎の帳面のつけで焼酎を呷《あお》り、いくらでも呷った。「逃げてみろ」と酔った源太は蒼《あお》い顔で笑いながら云った、「逃げられるものなら逃げてみろ、へ、いまに二人とも捉《つか》めえて、二人とも火祭りにしてくれるぞ」

 そして、源太も出奔した。

 お繁と乳呑《ちの》み児《ご》の妹とは、こうして親たちに捨てられたのであった。

 町では姉妹を引取ろうと云う者はなかった。お繁はその生立ちのため、人に対して好戦的であり、親から受けた病気で腫物が絶えず、それが汗と垢の匂いと入り混って、側へも寄れないほど臭かった。

 町役場で二人の面倒をみることになったが、現実的にはなにもしなかった、あるいはできなかった、と云うのが正しいようである。お繁は役場へ近よらず、ごったくやとか洋食屋の裏をまわったり、墓場の供え物をあさったりして喰《た》べ、夜になると、海苔漉き小屋であれ、消防のポンプ小屋であれ、どこかの納屋であれ、好きな場所で寝た。乳呑み児の妹をどうやしなったかは誰も知らないが、赤児は丈夫そうに育っていた。――お繁はどこにいるかわからない。まだ暗いうち、ときには午前三時ころ、流れ海苔を拾いに南の浜へいそいでいる漁師が、百万坪の荒地のまん中で、妹を背負ったお繁に会う。

「ええっ」と漁師はとびあがる、「たまげたええ、繁あねじゃねえか、いまじぶんこんなところでなにしてるだ」

 漁師の持っている提灯《ちょうちん》の光の中で、お繁はじろっと白い眼を向ける。

「いけ、ま」と少女は云う、「おんだらのことより、早くいって海苔を拾うがいいだよ」

 或る日、お繁は消防のポンプ小屋の脇で、垢だらけの妹に小用をさせている。また町の家並みの裏をひっそりと歩いているし、或る夜は若い漁師が、ひび置き場の蔭でお繁を見つけ、慌てて、伴れの娘とほかの場所を捜しにゆく。繁あねはどこにもいないし、同時に、どこにでもいるのであった。

「わあい」と子供たちが囃《はや》したてる、「お繁がまた墓ん場の物を喰べてるだ、げーんが、げーんが」

 げんがとは東京付近でいうえんが、またはえんがちょ、つまりけがれたというほどの意味であるが、するとお繁は妹を墓場に置いたまま、子供たちのほうへとびだして来る。

「ぬかすな、吉」とお繁はやり返す、「墓場の物を食うぐれえがなんだ、おめえのおっかあなんかもっとげんがだぞ、中堀の巳之なあことくっついて、夜中になると海苔漉き小屋へいって寝るだ、おんだら見てちゃんと知ってるだ、嘘だと思ったら、田島の漉き小屋へ夜中にいってみろ、二人でいっしょに寝て、尻尾《しっぽ》を踏んづけられた犬みてえな声だしてるだから、げんがたおめえらのことを云うだ」

 そして、さも軽侮に耐えない、といったふうに唾を吐くのだ。もしそれ以上なにかからかえば、お繁は手と爪と歯とで向ってゆき、じつに思いきった行動で相手をやっつける。頬ぺたや腕などに、お繁の歯形や爪跡のある子供は、二人や三人ではないようであった。

 これが繁あねなのだ。しかもその躯はいま、内部から新しい彼女を創り出しつつある。私の眼に映った美しい部分には、成長するいのちというものが脈搏《みゃくう》っているように感じられた。――そうだ、まだ子供っぽい腰つきにもどこやらまるみがあらわれ、平たい胸にもいくらかふくらみがうかがわれる。野性まるだしの好戦的な眼はうるみを帯び、薄い唇は活き活きと赤く湿りをもってきた。――或るときは妹を背負っていさましく歩きまわっているが、或るときはぐったりと草地に坐り、脇で泣いている妹の声も聞えないように、手足を投げだしたままもの憂げにどこかをみつめている。いま、極めて深いところから、かすかに、いのちの囁きが彼女の眠りを呼びさまそうとしているのだ。

「ああつまんね」と繁あねが云った、「いくら見てえても釣れやしねえに、おらいくべ」

 私はまたタバコに火をつけた。

「へたくそだな、先生は」とお繁は立ちあがりながら云った、「こんなへたくそな釣り、おんだらまだ見たこともねえ」

 私は黙って沼のほうを眺めた。お繁の歩き去るのが聞え、まもなく、彼女のうたうわらべ唄が聞えてきた。

「――向う山で鳴く鳥は、ちいちい鳥かみい鳥か、源三郎のみやげ、なにょうかにょう貰って、金ざし釵《かんざし》もらって……」

   八 土堤《どて》の春

 初午《はつうま》の宵の七時ころ、「蒸気河岸の先生」は窓際の机に向って原稿を書いていた。田圃《たんぼ》を隔てた町のほうから、太鼓や笛の音が、高くなり低くなり、跡切《とぎ》れたかと思うと急に拍子を早めたりして、聞えて来た。先生はにやにやしながら独り言を呟く、書いている史劇の中のせりふが気にいったらしい。

 安倍晴明(胸を反らせて)「私は博士安倍晴明だ」

 弘高(片手をあげて)「神慮汝の上に安かれ」(大股に去る)

 声に出して読んでみてから、火鉢にかけてある鍋《なべ》のほうを見た。鍋の中では鮒《ふな》の味噌煮がことこと音を立ててい、味噌と川魚との入り混ったうまそうな匂いが、蓋の隙間から漂いながれていた。

 蒸気河岸のほうから、土堤の上をこちらへ近づいて来る、賑《にぎ》やかな人声が聞えた。先生はまたペンを取った。人声はもっと近づいて来、それが子供たちだとわかったとき、かれらはうたいだした。

「おーかんけ(大勧化)おーかんけ おいなりさんのおーかんけ」

 かれらは先生の家を見おろすところまで来て、土堤の上からうたい続ける。

「おぞーに(雑煮)とおーあげ おあげのだんからおっこって あーかい***ーすりむいた こーやくだい(膏薬代)にくれせーま くれせーま」

 先生は机の前で躯を固くしている。土堤の上では子供たちの相談する声が聞える。

「いんだよいんだよ」と云う声がする、「見せえま、電気がついてんべえがね」

 かれらはまたなにか相談をし、声をそろえて、まえよりも勇ましく誘惑的にうたいだす。もちろん文句は同じもので、先生は殆んど息をころしている。するとかれらの中から、船宿「千本」の長の呼びかける声がする。

「先生、百でも二百でもいいだよ」

 先生は可笑《おか》しくなって、というのは、そのとき先生のふところは極めてさみしく、そういう喜捨に応ずることができなかったからで、つまりそれが可笑しかったのであるが、先生は辛抱づよく沈黙を守っていた。すると「千本」の長が譲歩してどなった、「先生、銭でなくってもいいだよ、蜜柑《みかん》でも餅でもいいだよ」

 そしてしんとなった。電燈の光で明るい窓をみつめながら、じっと反応を待っている子供たちの、一人ひとりの顔が、先生には眼に見えるように思えた。

「いくべいくべ」と他の少年が云った、「先生はきっとまた根戸川亭で飲んでるだ」

「押すな」と長の声がした、「押すなってえにえーばちばらすぞ」

 かれらはがやがや騒ぎながら、蒸気河岸のほうへ戻っていった。先生は難をのがれてほっとし、机に両肱《りょうひじ》で凭《もた》れ、手で額を支えながら眼をつむった。

「おーかんけ おーかんけ」川下のほうへ遠のいていく唄声が聞えて来た、「おいなりさんのおーかんけ おぞーにとおーあげ おあげのだんからおっこって……」

   九 土堤の夏

 私は大きな写生帳と鉛筆箱を抱え、経木《きょうぎ》の海岸帽子をかぶって、土堤の上を家のほうへと歩いていた。沖の百万坪へスケッチにいった帰りで、洗い晒《ざら》しの単衣《ひとえ》は汗のため肌へねばりつき、尻端折《しりっぱしょ》りをしなければやすらかには歩けなかった。あまり優雅な譬《たと》えではないが、女性の臀部と猫の鼻も土用の三日だけはあたたかい(失礼)、という通言があるそうで、その日はおそらくその「三日」のうちの一日だったろうと思う。私はうだりきって疲れて空腹で、そうして傾いた西陽に灼《や》かれながら歩いていた。

 土堤の右側の下には、例の「ごったくや」といわれる小料理屋が並んでいて、そこを出外れると空地になり、いぶせき独立家屋であるわが家が見える。そこまで来たとき、私に呼びかける女の声が聞えた。

「蒸気河岸の先生よう」とその声は云った、「なにょうそんなにすましてるだえ」

 私は声のほうへ振り向いた。

 声は土堤の左側の下、つまり根戸川のほうから聞えて来たもので、そちらを見ると、川の中に三人の女がいて私に笑いかけた。それはごったくや[の女たちで、三人とも全然まるはだかであった。私の眼の焦点は自動的に拡大し、対象物とのあいだに一種の保護膜を張ったのであるが、それでもなお彼女たちの逞《たくま》しい肉躰、特に第二次性徴と呼ばれる部分のよく発達した、魅惑的な、というよりもむしろ涜神《とくしん》的なまるみやふくらみが、私の視覚をとらえて放さなかった。

 ――ここで眼はそらしてはいけない。

 私はそのことをよく知っていた。眼をそらすことは、みつめること以上にすけべえなのだ。かつてよそから来た客が通りかかって同じようなけしきを見、仰天して脇へ向いたとき、彼女た ちが歓声をあげて嘲弄《ちょうろう》するのを、見たことがあった。

 彼女たちは不景気が続くと、「湯銭もなくなる」そうで、厳冬でない限りは川へはいって躯を洗い、また髪までも洗う。土堤の上は人が往来し、川にも通船やべか舟がのぼり下りしている。しかし彼女たちは少しもたじろがないばかりか、逆に躯の屈伸や捻転《ねんてん》動作を誇張し、まばゆいばかりに野性の誘いを放散してみせる。人たちも土地の者である限りは、決して驚いたり顔を赤くしたりするようなことはない。若い漁師や通船の水夫たちは、ごくあたりまえに立停《たちどま》って、彼女たちと率直に会話をとり交わすのであった。

 ――おうれ、てんで縹緻《きりょう》あげたじゃねえか、お花。

 ――いいくらかげんのことを云って、むりすんなえ**なあこ。

 ――嘘じゃあねえまったくに縹緻あげただぞ。

 ――顔ばっか見るふりいして、ほんとはここが見てえだべ、ここがよ。

 そして彼女たちは、腰部前面の或る部分をひたひたと手で叩く、という場面は極めて尋常に見ることができた。これについていつか、三十六号船の船長のブルさんは、殆んど失明しかかっている眼を仔細《しさい》ありげにまたたきながら、次のように穿《うが》った注を加えたことがあった。

 ――あれは湯銭がねえだけじゃあねえ、半分は客を呼ぶためもあるだよ。

 そのときブルさんの殆んど見えない眼が、遠くにあるなにかをさぐるように細められ、肥えて肉のたるんだ皺だらけの顔に、あるいはその顔の一と皮下に、あるかなきかの微笑がゆらぐようにみえた。

 川の中から私に呼びかけたのは「若松」という小料理屋の女たちであった。いちばん若いおたつは満州帰りだといい、私が堀でスケッチをしているときに話しかけてから、顔を見れば挨拶をするようになっていた。

「また画え描きか」とおたつが云った、「そんなものどこがいいだえ、そんなことばっかししてえて頭が病めんべえがね」

「どこが痛めっかさ」と脇の女が腹部へ水を掛けながら云った、「そんなすました顔うして、ねえ、先生だってやっぱり男は男でしょ、たまには遊ばねえとからだがうんじまうだよ」

 私には意味がわからなかったが、もううんじまっていると答えた。すると三人はすさまじい嬌声《きょうせい》をあげ、おたつは側にいた女に抱きついたし、残った一人は私のほうへ水をはねとばしながら、先生の****とどなった。

「晩にいってやっからな」私が歩きだすと、うしろでおたつの叫ぶのが聞えた、「戸に鍵《かぎ》をかけねえで待ってなえ」

 もちろん誰も来はしなかったが、数日のあいだ私は、自身の躯がうんでいるように感じられて、ときどき快活な気分をさまたげられるのであった。

   十 土堤の秋

 十月下旬の昏《く》れがた。土堤の斜面の下に、一人の若者が腰をおろして、泣いていた。

 斜面は草が茂っているので、土堤の上を通る人には見えない。かなり強い西風が、その茂ったくさむらを絶えまなしにそよがせ、茶色にほおけた草の穂が、風の渡るたびに、若者の着物をせわしく撫《な》でた。空には、金色にふちどられた棚雲がひろがり、土堤の上へ片明りの強い光をなげているが、斜面のこちらはもう黄昏《たそがれ》の冷たそうな、青ずんだ灰色のなかに沈んでいた。

 若者は立てた膝の上に両手を置き、手先をだらっと垂らしたり、片手で眼をぬぐったりした。ふと大きく溜息《ためいき》をつくかと思うと、首の折れるほど頭を垂れ、その頭を左右に振り、そしてまた眼をぬぐった。

 棚雲のふちを染めていた眩《まぶ》しいほどの金色は、華やかな紅炎から牡丹色《ぼたんいろ》に変り、やがて紫色になると、中天に一つはなれた雲が、残照を一点に集めるかのように、いっとき明るい橙色《だいだいいろ》に輝いたが、それも見るまに褪《あ》せて、鼠色にかすみながらはがね色に澄みあがった空へ溶けこんでいった。土堤の上も暗くなり、ときたま往き来する人たちも、影絵のようにぼんやりと黒く、こころもとなげに見えた。

 斜面のこちらは東の空の反映で、却《かえ》って明るくなったようだ。しかし、本当はまえより暗さを増しているのだろう、風に揺れ動くくさむらも、すっかり色や陰影を失って、ただ非現実的な青銅色ひといろに塗りつぶされてしまい、そこに若者がいるということも、いまは殆んど判別がつかなくなった。

   十一 土堤の冬

 外は雨、私は机に向っていた。机の上には書きかけの原稿があり、私は小さな火鉢にかじりついたまま、不自然な姿勢で、原稿の文字をぼんやりと眺めていた。

 寒さのきびしい夜で、火鉢を抱えているのに、膝や足の指先は痛いほどこごえ、不自然な姿勢を動かすこともできず、背中は氷の板のように冷たく硬《こわ》ばっていた。――私は浦島物語のパロディをこころみていたのだ。共産主義のドグマに挑んだ主題で、最小限度にでも頭脳と胃袋と生殖器の能力が均一でなければ、公平なる分配と所得はあり得ない、ということを、五幕の喜劇に組立てたものであった。私はその主題の大きさと真理をするどく把握《はあく》していることに昂奮《こうふん》し、精神の力づよい高揚をたのしんでいた。だがその反面、ふところが極度にさみしいこと、いそいで少女小説か童話を書いて、どこかの編集所に駆け込まなければならない、というさし迫った問題で、気分は苦が苦がしくふさがれていた。――書きかけの原稿は第四幕のクライマックスで、一人の逞しい美青年が台の上に半裸で立ち、下にいる青年や乙女たちに、いさましく叫びかけているところだった。

 青年A(胸を叩き両手を高くあげて絶叫する)おれのこの肉躰を見ろ、おれはきさまたちより美しく健康だ、おれはきさまたちの三人まえ喰べ、 

 十人まえ働く、この広大な土地の整理や灌漑《かんがい》法の計画をたてたのはおれだし、収穫物の管理や貯蔵を立案したのもおれだ、いったい 

 この竜宮国を運営し、繁栄にみちびくのは誰か、AグループにいるかBグループか、(中略)おれこそはその者だ、たったいまからおれがこの国 

 の支配者だ(彼はさらに両手を高くあげて叫ぶ)、よく聞くがいい、おれはいま乙姫がおれの妻だということを宣言する、反対する者があったら 

 出て来ておれとたたかえ、乙姫はおれのものだ。

 老人(隅のほうで低く独白する)私はなにをしたのだ、あれだけの情熱と努力をそそいで築きあげたものがこれか、これが待ち望んでいたその果 

 実か(彼は泣く)。

 青年A おれはこの国の王だ。

 私は火鉢に炭を足そうか、それとも寝てしまおうかと迷う。その戯曲の中では、青年Aが「おれが王である」と叫んでいるけれども、彼を創り出したところの私自身はこごえて、空腹で、蒸気河岸まで一杯の酒を飲みにゆく金もなく、一片の炭もむだには使えないことを思って、肩をちぢめたまま、茫然と雨の音を聞いていた。

 私は時計を持っていなかったが、およそ十一時をまわったころであろう、蒸気河岸のほうからこっちへ、土堤の上を近づいて来る人ごえを聞いた。

「十台島の連中だな」と私は呟いた、「ごったくやで遊んだ帰りだろう」

 さして強い降りではなかった。庇《ひさし》と窓の雨戸をひっそりと打つくらいで、近づいて来る人の話し声はかなりよく聞え、まもなくそれが十台島の若者たちではなく、よそから来た人びとだということが、会話の調子でわかった。

「――を持って来たか」としゃがれた男の声がどなった、「源、おめえ持ってるか」

「下駄がぬげちゃった」と幼い女の子が泣き声で叫んだ、「あたい下駄がぬげちゃったよ、かあちゃん」

「おぶってやれ」とべつの男の声がした。

 はだしの者もいるらしく、ぴしゃぴしゃと雨水を踏む音がした。かれらはひどくいそいでいるようで、ふっと声が跡切れ、すぐにまた女の声が聞えた。

「どっちへゆくのよ、親方」

「黙って歩け」としゃがれ声の男が云った、「助十郎はこを濡らしちゃいねえか、はこは大丈夫か」

 問いかけられた相手がなにか答えた。

「寒いよ」と女の子が泣き声で(かれらはこのときちょうど私の家の前にさしかかっていた)云った、「かあちゃん寒いよ、耳へ雨がはいるよ」

「井前橋から新川堀へいったらどうかな」と云う声がした、「とくぎょうは危ねえと思うが」

「黙って歩けねえのか」しゃがれ声の男がどなった、「みんな持ち物を落すな、早くしねえと、……」

 そのあとは聞きとれなかった。

 庇と雨戸を打つ雨の音がはっきりし、かれらの話し声は、川上のほうへと遠ざかっていった。どういう人たちだろう、男女と子供で七八人はいたようだ。宿でもとれなかったのだろうか、私は漠然とそんなふうに思ったが、それだけのことで、考えはまた元に戻り、少女小説を書くか童話にするか、それとも東京の洒落斎《しゃらくさい》翁のとこへねだりにゆくかなどと、怠けた思案に耽《ふけ》るのであった。

 明くる日、私は午《ひる》ちかくに起き、高品さんを訪ねて童話原稿の前借をした。高品さんはもちろん新聞社へ出勤したあとで、きん夫人がそれだけのものを貸してくれた。

「ゆうべ浦粕座が焼けたのよ」ときん夫人は茶を淹《い》れながら云った、「知らないでしょ」

 浦粕座はこの町でただ一軒の芝居小屋であった。堀南の表通りからちょっとはいったところにあり、古いけれども鼠木戸などを備え、畳敷きの平土間に、片花道があって、いかにも芝居小屋という感じのする建物であった。

「柏権十郎座がかかってたでしょう、かかってたのよう」と夫人は云った、「入りがないんでみんな小屋へ泊ってたんですって、ところが楽屋が狭いから舞台へも寝たんでしょ、古い引幕かなんかにくるまって、躯を寄せあって、お互いの躯の温かみで寝るんだそうね、ちょっと乙なけしきじゃないの」

「乙なようですね」と私は答えた。

「その舞台へ寝た人たちが」と夫人は続けた、「夜なかに蝋燭《ろうそく》をつけて用を足しにいって、それを枕元に立てたまま寝ちゃったらしいの、それが引幕に移ったからたまらないわ、ぼうっといっぺんに天床へ燃えあがっちゃうでしょう、襖《ふすま》とか障子ならどうにかできたでしょうけれど、幕だからいっぺんに天床まで燃えあがっちまうわ、どうしようもないわよ」

 私が訊き返すと、夫人はかぶりを振った。

「いいえ逃げちゃったんですって」ときん夫人は云った、「もうどうしようもないし、自分たちの責任が怖くなったんでしょ、荷物を纏《まと》めて逃げちゃったそうよ」

 私は茶を啜ってから、質問した。

「そうでもないわ」ときん夫人は云った、「小屋主の森さんはいきり立ってるそうだけれど、保険もたくさんかけてあるし、本家(というのは十台島の高品さんであるが)の話によると、森さんは毀《こわ》して建て直すつもりだって云ってたそうですもの、お菓子があるけど出しましょうか」

 私は礼を云って立ちあがった。

「可哀そうなのはあの役者たちよ」ときん夫人は炉端から云った、「あの夜更けの雨の中を、どんな気持で逃げていったかしらねえ」

   十二 白い人たち

 遠くから見ると、その工場はいつも白い霧に包まれている。工場から立ちのぼる湯気のような、湯気よりも濃密な白い煙が、風の吹く日は風の吹く方向へなびき、風のない日は立ちのぼったところから下へ、ゆっくりと舞いおりて来て、工場や付属の建物や、その周囲一帯の地面やくさむらや、道を隔てた根戸川の揚げ場までを、まっ白に塗りつぶすのであった。

 そこは東に百万坪の荒地へ続く芦原、西は根戸川に接していて、工場のほかに事務所と、工員たちの小さな住宅があり、貝殻置場と薪小屋が並んでいた。事務所には工場主と、幾人かの事務員が詰めている。かれらが出勤すると、正面の扉は開かれるが、夏でも窓は閉めたままだし、かれらが帰ると扉はまたぴたりと閉められてしまう。――そうしなければ、いや、そうしていてさえも、焼かれた貝殻の微粒粉は、どこからともなく舞い込んで来て、事務所の中のあらゆる家具や備品や、床板の上にまで白く積り、拭けば拭くあとから積るのであった。――掃除をすることはばかげたことなのだ。室内に溜《た》まった石灰を掃き出そうとすれば、あけた扉や窓から新たに石灰粉が舞い込んで来る。したがって年に二度か三度、工場の釜場《かまば》の火を消すとき以外には、決して掃除などはしなかった。工場主も事務員たちも、帳簿とか机の上とか、そのとき必要な物や場所を、できるだけ静かにぬぐい、歩きまわるときはもとより、ペンを動かすにさえできるだけ注意ぶかく、静かにすることが習慣になっていたし、用事以外には話したり笑ったりすることもなかった。

 事務所はいつも静かだった。貝殻が罐詰工場から運ばれて来ると、二人の事務員があらわれる。一人はその数量を計り、一人は記帳をして、運んで来た者に伝票を渡す。貝殻を運んで来た者も、もう馴れているので、あまり口はきかないし、事務員も殆んど無言のままだ。伝票を貰った罐詰工場の雇人は箱車を曳《ひ》いて帰り、こちらの二人は事務所へはいって扉を閉める。ほかに石灰を買いつけに、月に一度ずつ仲買人が来るが、これもなが話はしていない。オート・バイがやかましい音をふり撒《ま》きながらやって来、用談を済ませるとすぐに、またオート・バイのやかましい音と、青白い排気ガスをふり撒きながら去ってゆく。こうして退社時間になると、かれらは次つぎと黙って帰り、最後に工場主が、表の扉の鍵を掛けて去るのであった。

 工場は木造のトタン屋根で、建坪は十五メートルに三十メートルくらい。高さは屋根の上の換気窓まで、約十メートルほどあった。内部は二重の板張りで、貝を焼く窯《かまど》が三基並んでい、おのおの貝殻を投げ入れる口と、焼きあげて出来た石灰を掻《か》き出す口と、それらの下に、薪を燃やす大きな焚口《たきぐち》が付いていた。

 工場の外部もそうであるが、内部はもっと粉塵《ふんじん》がひどく、柱も板壁も、踏段も床板も、まっ白に石灰がこびり着いているし、あたりには焼ける貝殻の微粒粉が、濃霧のようにたちこもっていて、二フィートはなれた人影もおぼろげにしか見えなかった。

 工員は十五人いた。男が九人、女が六人、五つ組が夫婦で、あとの男たちは独身だし、女一人は雑役の老婆だった。

 かれらの姿を初めて見た者は、おそらく一種のぶきみさにおそわれるだろう。かれらは男も女も裸で、細い下帯のほかにはなにも身につけていない。また、頭はみなまる坊主に剃《そ》り、眉毛もないし、腋《わき》やその他の躰毛もすべて剃りおとしているといわれる。それは石灰粉が毛根に付くと、毛が固まるからだそうで、胸とか腰部を見なければ、男女の差は殆んどわからなかった。

 男も女も、逞しい躯つきであった。髪の毛を剃りおとした頭部が小さくみえるためか、その裸の肉躰の逞しさは不均衡であり、眉毛のないとろっとした眼や、いつもむすんだまま動くことのない唇など、見る者に異常な、非人間的な印象を強く与えた。女のほうはその感じが特にひどい。頭蓋《ずがい》のあらわな不恰好さ、躯を動かすたびに揺れる重たげな乳房、厚く肉付いて、圧倒するような量感のある広い腰、そうして畸型《きけい》かと思われる曲った短い足。茶色にやけた肌いちめんに、石灰粉の斑《まだら》にこびりついたまま、前跼《まえかが》みの姿勢でのろのろと鈍重に歩いてゆくようすは、人間というよりも、なにかえたいの知れないけものというようにさえみえた。

 仕事は二十四時間、一年に二度か多くて三度、窯の掃除をするとき以外に、焚口の火を消すことはない。働くのは十人で、五人ずつ交代に寝たり食事をしたりするほか、月に一回、これも交代で休みがある。けれどもかれらは町へは出ないし、町の住民たちとも決してつきあおうとはしない。工場と、狭い小さな棟割り住宅だけがかれらの世界であり、そこへは誰をも寄せつけなかった。

 事務所の人たちが無口である以上に、かれらは無口であり無表情であった。動作はひどく緩慢で鈍く、いつも背中に重い荷物でも負っているように感じられた。しばしば、かれらの幾人かは工場を出て、根戸川の土堤に並んで腰をおろし、弁当を喰べたりタバコをふかしたりする。夫婦ならば夫婦で並んでいるのだろうが、どの一と組がそれであるかは見分けがつかない。みんな川波をみつめたり、濁った眼を細めて対岸のいかずちにある船大工の小屋を眺めたりしながら、黙って(私のノートには「苔《こけ》のついた日蔭の石仏たちのように」と記してあるが)弁当を喰べ、タバコをふかすのであった。お互いに顔を見ようともせず、話しあうこともない。同じ場所に躯をよせあっていながら、一人ひとりがお互いにまったく孤立しているようであった。

「あいつらはな」と町の少年たちは囁きあった、「みんな懲役人だぞ」

「人殺しもいるだってよ」

「んだ」と昂奮のあまり一人が息をはずませて囁いた、「こんどへえったあの赤痣《あかあざ》のあるやつは、二人も殺したっていうだ、ほんとだぞ」

 その男は三十五から四十五歳のあいだくらいにみえ、左のこめかみから頬にかけて、赤黒い色の大きな痣があった。

 彼はどういう径路で雇われて来たかわからない。他の十五人もたぶんそうだろうが、ここでは過去の履歴や身分関係などは問題ではなかった。頭髪も眉毛も剃り、まる裸で、石灰粉まみれになれば、それだけでもう誰彼の差別はなくなってしまう。貝殻を投げ込み、薪を焚き、石灰が出来あがると、叺《かます》に詰めて河岸へ運び出す。単純で少しの変化もない仕事。口をきけば石灰粉がはいるため、唖者《あしゃ》のように黙っているし、町の住民たちと交わることもない。――その男がどんな過去をもっているか、どこの生れで本名はなんというのか、そんなことを気にかける者は誰もなかった。一人の男がなかまに加わった、初めのうちは肌の色が違うのと、仕事に馴れないのとで、なかまの誰かがときどき彼を見た。睫毛《まつげ》に白い粉がたまり、瞼《まぶた》の赤くただれた、とろっとした眼で、訝《いぶか》しげに彼を眺め、それが新しく来た彼であることを認めると、無感動に眼をそらす、というようなことがあったが、彼がようやく仕事を覚え、肌も茶色にやけてくると、まったくなかまに溶け込んでしまい、もはや彼に注意するような者は一人もいなくなった。

 赤痣がある以外に、彼は他のなかまと特に違ったところはなかった。ものやわらかで、腰が低く、よく働いた。眼立つようにではなく、人の気づかないこと、人のいやがるような仕事をすすんでやった。初めは誰でもそんなふうにするものだ、精勤を見せかけるために、あるいは新しい仕事に対する興味に駆られて、――しかし彼はそのどちらでもなく、もっと素朴な、それが自分の仕事であるという、ごくあたりまえな態度であり、半年経ち、一年ちかく経っても、その仕事ぶりに変りはなかった。少なくとも、他の十五人のなかまと同様に、その表面だけはそうであった。

 心ない人の眼にどう見えようとも、かれらも人間であり、男であり女であった。まる坊主で、下帯だけの裸躰が石灰粉にまみれ、口もきかず、仮面のように無表情で、誰が誰ともたやすくは区別しがたいながら、その内部にはやはり怒りがありよろこびがあり、悲しみや嘆きや、いろいろな欲望があったにちがいない。むしろ、必要に強いられた沈黙と、石灰粉との殻に閉じこめられているだけ、よけいに、かれらの内部にある人間感情は激しく、あらあらしく、衝動的であったかもしれない。

 その工場に雇われてから約一年ほど経ったとき、彼のようすに変化があらわれた。なかまは誰も気がつかなかったし、彼も注意ぶかく自制していたが、その自己抑制には、しだいに強い努力を加えなければならなくなった。彼を悩ますのは女たちであった。

 勤めだしたはじめのころ、彼女たちは醜悪な軟躰動物のようで、ただ嫌悪感しか与えられなかった。けれども月日が経ち、自分がかれらのなかまに溶け込んでゆくと、彼女たちが「女」であるということを意識するようになり、それが彼の神経の中に深くくいいって来た。彼の眼や耳は、絶えず彼女たちの動静にひきつけられ、彼の嗅覚《きゅうかく》は彼女たちの躯から発散する匂いにひきつけられた。たぷたぷと揺れる乳房、男のように緊縛している下帯のために、却って際立って見える下腹や、広い腰や、肉のもりあがった豊かな臀部など。すべてが原始的にあからさまで、なんのつくろいもない強烈な刺戟《しげき》と誘惑をふり撒いていた。

 五人いる女たちの中で、彼をもっともひきつけたのは彼女であった。もちろん良人《おっと》があり、年はいちばん若かったが、肥えていて背丈が低く、躯に比べて頭や手足が不自然なほど小さかった。

 はじめのうち彼は、五人の中で彼女がいちばん醜く、畸型児のようだと思った。にもかかわらず時が経つにしたがって、その醜さと、畸型児のような躯つきが、彼の眼をひきつけ、神経をたぐりこんだ。その小さく肥えた肉躰は、乳房と腰部だけが発達し、そこだけが生きて動いているようにみえた。脂肪で襞《ひだ》のできたまるい腹。骨盤の極端なひろがり。薦椎《せんつい》の左右にはっきりと二つ窪《くぼ》みのある臀部は、柔軟で豊満に重たげで、その中に飽くことのない欲望を秘めているようにみえた。

 彼女にはかなり強い躰臭があり、ときにそれが弱まったり強く匂ったりすることに、彼は気がついた。ことに強くなったときの躰臭を嗅《か》ぐと、彼は全身が燃えるようになり、頭に血が充満して、くらくらとめまいにおそわれることもある。彼は欲求の烈しさを抑えきれないと知ると、工場の裏へとびだして、芦の茂みの中へ跼みにゆくのであった。町の悪童どもはしばしばそれを見た。芦の茂みは浅い沼に続いてい、そこでは鮒《ふな》ややなぎ鮠《ばえ》がよくとれるからだ。

「おったねえのよ、なあ」と少年たちはあとで話しあう、「おんだらが見てえても平気なのよ、な、ちえっ、おったねえの」

 晩秋のその一日は、他の一日と少しも変りがなく、静かにゆっくりと時を刻んでいった。午後になって、石灰を受取りに来た船が着き、工員たちの大部分が、叺の積込みに当った。――彼は釜の係りで残り、焚口を覗いて火を見たり、薪を投げ入れたりしていた。季節とは関係なしに工場の中は暑く、石灰粉の微粒は渦を巻いたり、条《しま》を描いたりしながら、白くて厚い幕のように漂い溢《あふ》れていた。

 片隅に積んである薪を、焚口の側へ移そうとしたとき、彼は強い女の匂いに気づいた。錆《さ》びた鉄となにかの動物の乳を混ぜ合せたような、強い刺戟性の匂い、それが彼女の躰臭だということは、その姿を慥《たし》かめるまでもなく、はっきりと彼にはわかった。

 彼は首だけでそろそろと振り返った。頸がねじれると、こびりついたまま乾いた石灰粉が、かすかな音を立てて剥《は》げ、頸の横に幾筋か、茶色の肌が条のようにあらわれた。彼女はすぐそこにいた。戸口からはいって来て立停り、ぐあいが悪そうに下帯を直し、ひどく疲れたような足どりで、薪を置いてある隅のほうへいった。そのうしろ姿を見まもっていた彼の眼が、急に細くすぼまり、下唇が垂れて歯が覗いた。彼は床板の上を凝視した。石灰粉が積って、白堊《しろつち》の板のようになったそこに、点々と赤いしみが落ちているのだ。一つだけあいたままになっている焚口の火を映して、建物の中に充満した濃霧は橙色にぼうと染まり、その幻想的な明るさの下で、床の上の染《しみ》は鮮やかに赤く、点々と彼女の足跡を追っていた。

 彼は意識が昏《くら》んだ。彼は抱えている薪の束を投げだして、大股に彼女のほうへ歩いていった。彼女は板壁に背中で凭《もた》れ、跼んでなにか布切のような物をたたんでいた。彼はまっすぐに歩み寄ると、いきなり彼女の顔を殴った。三つ、四つ、力まかせに殴り、そのたびに、彼女の頭は左へ右へとかしいだ。彼女は失神したような眼で、ぼんやりと彼を見あげた。痛みも感じず、殴られたことも感じないようだ。彼は両手で彼女を掴《つか》み、そこへ押し倒すと、片手でさぐって、彼女の下帯を引き千切った。

 そのとき、雑役の老婆の叫び声が聞え、押し伏せられた彼女が叫びだした。舞いあがる石灰粉の中で、彼は女を全身で押しつぶし、片手で口を塞いだ。彼女はその手に噛《か》みつき、小さな手と足で狂気のように抵抗した。彼は意味のないことを喚きながら、女の胸へ顔を近づけた。すると、うしろに人の足音がし、彼は背中を激しく打たれた。背中と、次に頭を。それは刃物のように感じられ、背中も頭も断ち割られたように思えた。彼が振り返ると、彼女の良人がすぐうしろで、石灰の掻き出しに使う大きなショベルを振り上げていた。

 彼の動作はおどろくほどすばやかった。打ちおろすショベルの下で、彼は敏捷《びんしょう》に女の上から転げ落ち、相手の片足を抱えて立ちあがった。相手は仰反《あおの》けに倒れ、ショベルは彼の手にあった。このときは他の工員たちもそこへ来ていた。雑役の老婆の知らせを聞き、みんな積み荷を放りだして駆けつけたのだ。しかし、かれらが止めにはいる隙もなく、彼は奪い取ったショベルで、仰反けに倒れている相手を殴りつけていた。相手の口からけもののような悲鳴があがり、顔を押えた両手が血に染まった。みんながとびかかるまえに、彼は相手を幾たびか殴り、殴られた相手の胸と腹が切れて、白い石灰粉の上に血がとび散った。彼ははげしい咳《せき》におそわれ、ショベルを持ったまま、工場の裏へ走り出ていった。工員たちは裏の戸口まで追っていったが、振り返った彼の顔と、右手に持ったショベルを見て、立停ったまま動けなくなった。

 彼は芦の茂みへ分けいり、咳きこみながら、浅い沼を渡った。石灰粉を深く吸いこんだために、咳はいつまでも止らなかった。彼は草原を横切り、湿地を駆けぬけ、芦の茂みにとびこみ、また腰までもある沼を渡って、百万坪をまっすぐに、海のほうへ走り続けた。しだいにかすれてゆく乾いた咳の声が、かなり遠くなるまで、いかにも苦しそうに聞えて来た。

 事務所から駐在所に使いがゆき、町の人たちが集まった。かれらはみんなそれぞれ得物を持っていたし、貝の罐詰工場のあるじである「大蝶」の旦那は、猟服に身を固め、猟犬を曳き、猟銃を肩に掛けていた。そして、巡査部長と二人の巡査を先頭に、このものものしい一団は、百万坪に向っていさましくでかけた。

 彼女はなにごともなかった。その良人は額と胸と腹に負傷し、腹の傷がいちばん深くて、応急の手当をしたのち、十キロほど北にある市の病院へ、入院することにきまり、その夕方おそく、彼女が付き添って、吊台《つりだい》で運ばれていった。

 彼はその翌日、百万坪の端にある篠竹《しのだけ》の茂みで捕えられた。「大蝶」の旦那の射《う》った猟銃の霰弾《さんだん》が彼のふくら脛《はぎ》に当ったのだという。旦那の射撃の腕前は高く評価された。

   十三 ごったくや

 夕方、私が散歩から帰って来ると、小料理屋「澄川」の娘のおせいちゃんが肩を振りながら小走りに来て、私を呼び止めた。おせいちゃんは二十歳くらいで、躯も痩せているし、ほそおもての、かなり縹緻《きりょう》よしであり、私たちは近所づきあいの仲であった。

「先生まだ晩ごはん喰べてないでしょ」とおせいちゃんが云った。

 私はあいまいな声をだした。

「なんにもしないでよ」とおせいちゃんが云った、「今夜うんとご馳走するからね、ごはんも炊いちゃだめよ」

 そして彼女は狡《ずる》そうに笑って、あとで面白い話をしてあげるわと云い、くるっと身をひるがえすと、小さな肩を振りながら、蒸気河岸のほうへ去った。私はそのうしろ姿を見送りながら、「かもが捉まったな」と独りごとを呟いた。

 それよりまえ、私が初めて浦粕町へスケッチにやって来たとき、――ここでちょっと断わっておきたいのだが、そのころ私は、どこかへでかけるとき、しばしば写生帳とコンテを持っていって、その土地の風景を描いたものであった。これは絵の勉強のためではなく、スケッチをすると、その土地の風景の特徴をとらえることができるからで、人物のクロッキイなどもかなり残っているが、――そういうわけで、Y新聞の演芸部の記者だった友人をさそって浦粕へやって来、沖の百万坪や町筋や、舟の並んでいる堀などをスケッチしたあと、ひるめしを喰べるために、一軒の店へはいった。

 看板には「御休息とお中食、天丼、トンカツ」などと書いてあったが、座敷へとおされてみて、こいつはいけない、と私は思った。というのが、それより二週間ばかりまえに、画家の池部鈞《いけべひとし》さんから聞いた話を思いだしたのである。池部さんがまだ美校に在学ちゅうだったころ、写生旅行かなにかの帰りに、宇都宮かどこかで、汽車を待つあいだに食事をした。見かけはありふれた田舎食堂のような店だったが、すすめられて座敷へあがると、白粉《おしろい》臭い女たちがあらわれて、なにも注文しないのに酒だのビールだのを持って来、おのおの景気よく飲んだり喰べたりした。学生である池部さんには、それらが自分と無関係なのか、それとも関係があるのか判断がつかなかった。――なにしろ美校の学生とくると、できるだけ汚ない風態をするのが自慢だったから、どう見そこなってもふところを覘《ねら》われる心配はない、と池部さんは思った。ところが勘定の段になると、白粉臭い彼女たちの飲み食いした物が、残らず池部さんのふところに噛みついたものであり、その取立てには些《いささ》かの容赦もなかった、ということであった。

 ――田舎はおっかねえからな、とそのとき池部さんは明るく面白そうに笑って、私に注意してくれた。君もよく気をつけたほうがいいぜ。

 それを思いだしたので私は、顔にも声にも屹《きっ》とした感じをあらわし、ビール一本と二人の食事を注文したうえ、「それだけである」ことを繰返した。あとで考えると、それは蒸気河岸から堀について曲った左側の「栄家」という店であり、半年ほどのち、私が町へ住みついてからは彼女たちとも親しく口をきくようになった。そうなってみると、ごったくやの女と呼ばれる彼女たちが、みな神の如く無知であり単純であり、絶えず誰かに騙《だま》されて苦労していながら、その苦労からぬけだすとすぐにまた騙されるという、朴訥《ぼくとつ》そのもののような女性たちであることがわかった。――けれども、そのときは、まだその間の事情が不明だったので、おさおさ警戒を怠らなかったのである。はたせるかな、と云ってもいいだろうが、私と友人が坐るとまもなく、潮やけのした逞しい躰躯《たいく》の女性が三人、手に手にビールを二本ずつ持ってあらわれた。

 ――ちょっと待った、と私は片手をあげて云った。そこでちょっと待ってくれ。

 彼女たちは廊下で立停った。

 ――よし、と私は云った。そこでビールを下に置いてくれ、みんなだ、いや、みんな持っているのを下に置くんだ。

 彼女たちはげらげら笑い、私がなにか珍しい芸当を演じてみせるとでも思ったらしく、左右の手に持っているビール壜《びん》を、いさみ立ったような身ぶりで下に置いた。私はむろん芸当などしてみせるつもりはない、右側にいる小柄な女中に向って、君がビールを一本だけ持ってこっちへはいって来い、「君だけ」であり、ビールは「一本だけ」であり、ほかのお嬢さんもビールも絶対に不要である、と極めて明確に宣言した。

 ――まあこの人は、と選まれた小柄な一人が云った。そんな憎ったらしいこと云って承知しねえだぞ。

 そうしてこっちへ踏み込んで来ると、私を押し倒して馬乗りになった。両手で私の手を押え、両の腿で私の胴を、そしてその腰部で私の腰部をというぐあいに、字義どおりの馬乗りであって、若い女性からそんな挑戦を受けたことのない私は、その屈辱的な姿態の恥ずかしさに狼狽《ろうばい》し、はね返そうとしてできるだけのことをやってみた。あとで聞いたところ、彼女は十六歳だそうで、しかも五尺そこそこの短躯であるのに、信じられぬほど逞しい固太りの腕や、火のように熱い太腿の力は無類なもので、私のあらゆる反抗に対してびくともしなかった。

 右のように周到な手順と力闘の労によって、私たちはようやく一本のビールと食事だけで難を遁《のが》れることができた。つまり「かも」にはならなかったのであるが、――話を元へ戻すと、「澄川」のおせいちゃんのうしろ姿を見送りながら、私はこのときのことを思いだしたのであった。

 やがて根戸川亭の出前持が、三皿の料理とホワイト・ライスを届けて来た。私は良心に咎められたろうか、どう致しまして、常にさみしいふところを抱えて飢えていた私は、ごったくや如きのかもになるような男には、拍手こそしなかったが、同情するほどの気持もなかった。――三皿の料理がなんであったか記憶はないけれども、私は籠屋のおたまにその一と皿を持っていってやり、あとはきれいに独りでたいらげて、いいこころもちで眠ったように覚えている。

 おせいちゃんは「あとで面白い話をしてやる」と云ったが、詳しいことを聞いたのは翌日の夜、十一時ころのことであった。私が原稿を書きあぐんで、机に凭れたままぼんやりと、この世の生きがたいことや、将来の不安などについて無益なものおもいに浸っていると、土堤のかなたから自動車の音や、女たちの賑やかな声がかすかに聞えて来た。べつに気にもとめなかったが、まもなく戸口でおせいちゃんの呼ぶ声がした。

 彼女はよそゆきの支度をし、白足袋をはき、赤い顔に幸福そうな笑いをうかべながら、土産物の包みを私に渡して、机の脇へ坐った。彼女の息は酒臭かったが、そんなことは、初めてであった。

「まだ勉強してるの、えらいわね」と彼女はまず子供騙しのようなことを、少しの実感もない調子で云った、「そのお土産あけなさいよ、先生は東京だから知ってるでしょ、ねえ、あけてみなさいよ」

 私は云われるとおりにした。包紙の中からは、しゃれたレッテルを貼《は》った朱色の壜があらわれた。それは五種類に加工した豆とあられの混った菓子で、レッテルには俳優の紋や、顔の隈取《くまど》りなどがちらし模様になっていた。

「品物は五色豆よ」と彼女が云った、「でもほかになんとか云う名があるでしょ」

 私が答えると、彼女はまた幸福そうに喉《のど》で笑った。

「うまいじゃないの、おのろけ豆だなんて、かっ[ゃんのお土産」と彼女は云った、「ああくたびれちゃったわ」

 こうしておせいちゃんは話し始めた。

 昨日のかもは三人伴れで来た。外交員か集金人のようにみえ、午さがりにあらわれて大いに景気をあげた。三時すぎたころ帰ることになったが、中の一人が残ると云いだした。

 その男が三人の中でもはばききらしく、おかっちゃんは初めから派手に「モーション」をかけていた。それが功を奏したのだろう、他の二人は帰ったが、そのかもは残った。

「それだけならいいんだけれど」とおせいちゃんが云った、「一人になるとすぐにさ、その男ったらがま口から百円さつを出してみせびらかすじゃないの、おかっちゃんの、気をひこうとしたんだろうけれど、ばかばかしい、まるで車曳《くるまっぴ》きがこんにゃく屋へとびこんだようなもんよ」

 べつの章でも書いたように、この土地の人たちは好んで俚諺《りげん》や譬《たと》え話を引用する。それもしばしば独り合点や、記憶ちがいや、自分勝手に作り替えられるので、よその者には理解できないことが少なくない。この場合も私にはその意味がわからなかったが、おせいちゃんの説明によると、車曳きは足が達者であって、それがこんにゃく屋へとびこめば、「すぐにその達者な足を使われる」つまりおあしを使われる、というしゃれだそうであった。

「ここんとこずっとしけてたでしょ」とおせいちゃんは続けた、「だから、さあやってやれってことになったのよ」

 私のところへ晩めしを届けるころから、そのいさましい略奪は始まった。

 現代のキャバレーとか、暴力酒場などの経験者にとっては、たぶん、まだなまぬるい話としか思われないだろうが、とにかく「澄川」からはすぐに指令がとび、他のごったくやから女たちや器物が動員された。女たちは呼ばれた芸妓《げいぎ》というかたちであり、器物とは燗徳利《かんどくり》とか盃《さかずき》とか、椀や皿小鉢の類いである。――念のために注を入れると、小料理屋となのっているにもかかわらず、これらの店ではそういう器物があまり揃《そろ》ってはいない。客の多くは酒かビールの一本くらいに、あとは丼物《どんぶりもの》でも取ればいいほうだからだ。――で、こうして召集された女たちがかもを取り巻き、夜の明けるまで盛大に騒いだ。もちろん騒いだのは女たちで、それは一年に一度あるかなしというチャンスだったからだが、夜半すぎになると客はくたびれはててしまい、坐っていることもできなくなった。

「それでもいさましいの」とおせいちゃんはまた喉で笑った、「まっすぐ坐ってもいられないのに、おかっちゃんを捉まえてあっちへゆこう、あっちへゆこうってせがむのよ」

 おかっちゃんは、ふざけちゃいけないよ、と云ったそうである。ふざけるとはなんだ、とかもが云った。しっかりしなよ、このしと、とおかっちゃんはかもの背中を殴打《おうだ》した。もう二度もあっちへいったじゃないか、忘れたのかいこのしと。二度もだって、とかもは考えこんだ。躯をぐらぐらさせながら、どうかしてその記憶をたぐりだそうとするようだったが、やがてそれにもくたびれたとみえ、唸《うな》り声をあげながらぶっ倒れてしまった。女たちは箸《はし》が倒れたほどにも思わなかった。うたう者、踊る者、悪口のやりとり、つかみあい、和解のコップ酒。そしてまた踊る者、うたう者、悪口のむし返しから髪の毛の毟」《むし》りあい、という底抜けに活溌な騒ぎが続いた。

 かもはなにも知らずに熟睡していたが、揺り起こされてみると、夜が明けてい、自分が座蒲団を枕にごろ寝をしていることに気づいた。揺り起こしたのはおかっちゃんで、その脇には女主人が、勘定書を持って坐っていた。女主人はいうまでもなくおせいちゃんの母親であるが、年はそれほどでもない筈なのに、あたまはすっかり白髪だったし、痩せていて皺《しわ》だらけで、これに総入れ歯を外して睨《にら》まれると、どんなにあらくれた蒸気乗りでもちぢみあがる、といわれていた。

 かもは勘定書を見て青くなった。それからの問答は書くまでもない、やがてかもは駐在所へいって払おう、と云いだした。女主人は総入れ歯を鳴らして笑った。

 ――それは話が早くっていい、と女主人は云った。そういうつもりなら駐在所までゆく必要はない、呼びにやればすぐに巡査が来てくれるから、あたしの方で使いをやることにしよう。だが念のために断わっておくよ、と女主人は座敷の中をぐるっと指さした。そこには燗徳利が八十幾本、ビール壜が四十幾本、焼酎《しょうちゅう》の二リットル壜が二本、丼や皿小鉢がずらっと並んでいた。

 ――勘定書と照らし合せてごらん、と女主人は云った。もうよしなさいってのに、おまえさんがむりやり注文したんだ、一本一本みてごらん、酒もビールも残っているし、それはおまえさんのもんだからおまえさん持ってっていいよ、但しお銚子《ちょうし》や壜はこっちの物だからね、持ってゆくなら中の酒やビールだけ持っといでなさい、呼んだ芸妓が六人、玉代《ぎょくだい》は時間外の分だけお負けになってるから、それをよーく調べたうえで、巡査を呼ぶなら呼びますよ、どうせ恥をかくのはそっちなんだから。

 かもがどんな顔をしたかわからない。けれどもおよその想像はつく。酒、ビール、現物はちゃんとそこにある、ゆうべあらわれたとんでもない女性たちが、芸妓衆であるかどうか非常に疑わしいが、警察署などの監督関係ではそういうことになっているのかもしれない。夥《おびただ》しい数の丼や皿小鉢にどんな料理が盛られ、誰の胃袋へおさまったか覚えはないが、勘定書の品数とそこにある器物とは数があっている、――であろう。それはいちいちあたってみるまでもなく、まるで火事にあった瀬戸物屋の店先のような、その場のありさまを眺めただけで充分だ。とすれば、なんのために巡査を呼ぶか、恥をかいたうえに勘定を払うためにか。

 かもは勘定を払った。すると、そのときを待っていたおかっちゃんが出て来て、あたしの分をくれと云った。かもはもういちど青くなった。

 ――なんて顔をするのさ、とおかっちゃんは攻撃に出た。二度も三度もしとを玩具《おもちゃ》にしといて只で済ませるつもりかい、しょってるよこのしと、ふざけるんじゃないよ。

 かもはおかっちゃんに払った。

「人をばかにして、百円札なんかみせびらかすから悪いのよ」とおせいちゃんは云った、「それでもおかっちゃんには驚いたわ、その客が靴をはいてるまに勝手へいって、お小皿へ波の花を盛って来てさ、朝っぱらからいやなことを云う縁起くその悪いしとだって、うしろから塩花を撒いたわよ」

 点睛《てんせい》も忘れなかったわけである。こうして、ゆうべの女たちに再び召集をかけ、二台のタクシーに分乗して、東京へ芝居見物にゆき、かもから搾《しぼ》りあげたものをきれいに使いはたして来た、ということであった。

「きれえさっぱり、いい気持よ」とおせいちゃんは云った、「でもこれでまた当分ぴいぴいだわ」

 私はなんと答えようもなかった。

   十四 対話(砂について)

「砂なんて、おっかしなもんだなあ」と富なあこが云った。

「うう」と倉なあこが云った。

 五月十七日の晩で、二人は沖へ魚を「踏み」に来たのであった。汐《しお》が大きく退《ひ》く満月の前後には、浦粕の海は磯から一里近い遠くまで干潟《ひがた》になる。水のあるところでも、足のくるぶしの上三寸か五寸くらいしかない。そこで、馴れた漁師や船頭たちは魚を踏みにゆくのであるが、その方法は、――月の明るい光をあびながら、水の中を歩いていて、「これは」と思うところで立停り、やおら踵《かかと》をあげて爪先立ちになる。すると足の下に影ができるので、魚がはいって来る。筆者もこころみたことがあるが、魚のはいってくることは慥かで、――はいって来たあと、呼吸を計って、それまで爪先立ちになっていた踵をおろしざまその魚を「踏み」つけ、かねて用意の女串《めぐし》で突き刺す、というぐあいにやるのであった。捕れるのは鰈《かれい》が多く、あいなめとか、夏になるとわたり蟹《がに》なども捕れるが、蟹の場合はべつに心得があった。

「この砂だよ」と、富なあこは、踏んだ魚を女串で刺し、魚といっしょに砂を掴みあげて、魚を魚網へ入れ、砂を掌でもてあそびながら云った、「――こうやってみると、なんでもねえ、ただの砂だ、ただ砂だってだけだ、ほれ、これだけのもんだ、なあ」

「うう」と云って倉なあこはあたりを眺めまわした。

 空はきれいに晴れ、十七夜の月が、殆んど頭上にあった。海面には極めて薄く靄《もや》がかかっているようで、それが月光を吸い、どちらを見ても青白い、夢幻的な光が遍満していた。こんな晩は同じように、魚を踏みに来ている者が幾組かあるのだろう。どこか遠くで、ときたまかすかに人の声がするが、姿は見えないし、どっちから聞えて来るかも、はっきりはわからなかった。

「ところがおめえ」富なあこは水の中を静かに歩きながら、まだ掌にのせている砂を見て云った、「これはこんなふうに砂っ粒だけみてえに見えるけれど、これでそうじゃあねえ、これでちゃんと生きてるんだぜ」

 倉なあこは訝《いぶか》しそうに友達の顔を見た。男ぶりがよくて、口の重い、いつも頬の赤い彼は、決して人にさからうようなことはないが、富なあこの言葉には少なからず不審をいだいたようであった。

「まさか」と倉なあこが呟いた。

「そう思うだろう、誰でもそう思うんだ」と富なあこが云って立停り、水の中で踵をあげた、「――砂はただ砂っ粒、これだけのもんだと思ってる、だがそうじゃねえ、これはこれで生きてるし、生きてる証拠にはおめえ、絶えまなしに育ってるんだぜ」

 倉なあこはなにか反問しかけたが、ちょうど魚を踏んだので、巧みに女串を刺し、六寸ばかりの鰈をあげた。

「砂が」と倉なあこは鰈を魚網へ入れながら訊《き》いた、「育つってかい」

「おうよ」と富なあこが云った、「それもただ育つだけじゃねえ、育って大きくなりながら、だんだん川をのぼるんだ、だんだんにな、おらもこれにはびっくりした」

 倉なあこは右手の中指で、頭のうしろを掻いた。

「こんな根戸川なんかじゃよくわからねえが、ほかの川へいってみればはっきりすらあ」と富なあこは続けた、「――海に近《ちけ》えところはこまっけえ砂さ、それが上へのぼるにつれて、砂利《じゃり》になり石ころになり、その石ころがもっと大きくなってるもんだ」

「うう」と倉なあこは考えこみ、やや暫《しばら》くして、呟くように云った、「その勘定だな」

「誰もそこに気がつかねえのさ」

「その勘定らしいが」と倉なあこが訊いた、「しかしまた、どうやって川をのぼるだろう」

「おら、この眼で見た、この眼でよ」と富なあこは科学者の冷静さと情熱とをこめて云った、「――川のずっと上《かみ》へゆくとな、このっくれえの岩が川の中にころがってるんだ、それがおめえ、或るときここいらへんにあるとするだろう」

「うう」と倉なあこは友達の指先を見た。

「するとあるとき、そうさな、――」富なあこは水面を指さした手を、ちょっと考えてから、向うのほうへずらした、「あのへんまでのぼっちゃってるんだ、ここんところから、あのへんまでよ、幾日もたたねえうちに、ときには三間も五間も上へいっちゃうんだ」

「どうやってだ」

「わかんめえ」富なあこはすばらしい手札を持った賭博者のようにほくそ笑んだ、「おらもわかんなかった、どうやって上へのぼるんだか、手も足もねえし、魚のように鰭《ひれ》や尾っぽがあるわけでもねえによ、――それでおら、よーくしらべてみたっけだ」

 倉なあこは踵をあげることも忘れ、期待のこもった眼で友達を見まもった。

「するとようやくわかった、こうだ」と富なあこが云った、「つまりこうだ、――ここに大きな岩があるとすべえ、いいか」

 倉なあこは黙って頷《うなず》いた。

「川だから水が流れてる、これにふしぎはねえさ、なあ」と富なあこは手まねをした、「こう、ここに岩があらあ、そこへ水が流れて来るだろう、そうするとおめえ、岩の前のところの砂や泥は、流れに洗われて低くならあ、そいつは海ん中でやっても同じこった、波の来るときに立ってると、退《ひ》くときに踵の下の砂がへずられるだろう」

「うう」と倉なあこが頷いた、「うしろにひっくりけえりそうにならあ」

「そいつがそのまんま当て嵌《は》まるわけよ、な」と富なあこが云った、「な、水がこう流れる、岩の前の砂がへずられる、へずられるのが大きくなると、その岩はごろっと転がる、上のほうへよ、――水は絶えず流れてるから、岩の下はいつも流れでへずられてら、それが順繰りにずっと繰返されるから、岩はしぜんしぜんと上のほうへ、転がり転がりのぼってくわけだ」

 倉なあこは唸《うな》った。うーんと、声に出して唸り、それから友達の顔を見て云った。

「知恵のあるもんだな」

「なみたいていじゃあねえさ」

「こんな砂がな」倉なあこは跼んで、水の中から砂を掬《すく》いあげ、掌の上へひろげてみながら云った、「おどろいたもんだな」

「だろうって」と富なあこが考えぶかそうに云った、「おらも初めはびっくりしたもんだ、こんな砂っ粒が生きているなんてよ、な」

「そうは思えねえもんな」

「知らねえ者は極楽よ」と富なあこは溜息をついた、「おらもそうとわかるまではなんとも思わなかったっけだ、けれどもわかってみると粗略にゃできねえと思った、ほんとだぜ、そんなに見えていて」と彼は倉なあこの掌上にある砂へと顎《あご》をしゃくった、「それでおめえ、ちゃんと生きてるんだからな」

「うう」と倉なあこが云った。

「生きているばかりじゃねえ」と富なあこが云った、「だんだんと大きくなりながら、川上のほうへのぼってゆくんだから、だんだんとな、どこからそんな知恵を絞り出したもんか、考げえてみるとびっくりするばかりだぜ」

「うう」と云って、倉なあこは、掌の上の砂を指で撫でた。

 さざ波もたたない静かな海面のどこかで、魚のはねる水の音がし、二人は話しながら、磯のほうへ戻っていった。

   十五 もくしょう

 元井エンジは葛西《かさい》汽船の七号船の水夫であった。十四の年から通船に乗り、二十三の年にエンジナーの免状を取って、二十八号船のエンジさんになった。兵隊の経験はない。背丈が足らなかったのだ。五尺そこそこのずんぐりした躯つきで、毛深くて、角張った、しかんだような顔をしていた。滅法しゃがれ声だから、話をするのに苦しそうだし、そのためというよりも性分だろうが、話しべたで、めったに人と話したがらなかった。仇名《あだな》は「もくしょう」という。もくしょうは冬期によく捕れる蟹で、握りめしのようなむっくりした形をしてい、茶色で、全体が毛だらけであり、毛蟹とも呼ばれていたが、それは殆んど冒涜的にまで元井エンジに似ていた。

 彼にはまだ水夫のころから好きな娘があった。新川堀の「臼田屋《うすだや》」という、雑貨と洋食屋を兼業している家の二女で、名をおさい、年は彼より二つ下だった。彼女には兄と妹があり、洋食屋のほうは兄がやっていた。必要のないことは省略しよう。おさいは昼のうち雑貨店のほうで働き、夕方からは洋食屋のほうを手伝った。色が黒く、小柄で、縹緻もかなりいいし、勝ち気ですばしこくて、手も口も達者だった。――臼田屋は通船の発着所のほぼ前にあるから、船員たちとはもとより馴染《なじみ》だったし、洋食部のほうには、土地の漁師や若者たちもよく集まるので、おさいのほかに二人の女給がいた。その二人は厚く白粉を塗り、鼻がばかになるほど安香水を匂わせ、すぐに客の膝《ひざ》へ腰掛けたり、客の吸っているタバコをひったくって吸ったりするのが、現代的サービスだと信じきっているような女性であった。

 おさいは白粉もつけず、ふだん着のままで店にあらわれ、てきぱきと料理の皿やビールや酒を、運んだりさげたりしながら、客たちがもっとメートルをあげるようにと、絶えず、巧みに女給を煽《あお》るのであった。しかし、自分は決して客の相手にならず、話しかけられても簡単に受けながすだけだし、諄《しつこ》く冗談を云われたり、躯へ触《さわ》られでもしたりすると、客のほうで消えてしまいたくなるほど辛辣《しんらつ》な言葉で、てきびしく容赦なくやりこめた。

 ――おらんとこの五号船のぶっくれエンジンみてえだ。

 東湾汽船の三十六号船に乗っている留さんがそう云った。その五号船はごく古いもので、エンジンを発動させると凄《すご》いような排気音を放ち、船ぜんたいをばらばらにするかと思うほど揺りたてる。五号船に乗っているあいだは、「うっかり口もきけない」といわれるくらいであった。

 そのおさいが元井エンジを好きになった。きっかけを作ったのは、云うまでもないがおさいのほうだ。彼は船で使う草履や、塵紙《ちりがみ》、鉛筆、雑記帳などを買うとか、また、ときたま食事をしに寄る程度だし、そんな場合にもおさいに話しかけるのはおろか、眼をあげて顔を見ることさえなかった。――どんなふうにして二人が将来の約束をするようになったか、知っている者はない。或るとき、洋食部で彼がなかまにからかわれていた。小学校も満足に出ていないもくしょうが、エンジナーになる勉強をしているというのは、禿頭《はげあたま》で髷《まげ》を結うようなものだ、などというわけである。彼は相手にならなかった。怒りと恥ずかしさのために、――というのは、そういう勉強をしていることは内緒にしていたからで。しかし彼は、赤黒く充血した顔を伏せ、黙ってライスカレーの匙《さじ》を使っていた。するとおさいが出て来て、からかっているなかまをやっつけた。五号船のエンジンどころではなかったらしい、日にやけた彼女の顔が蒼《あお》ざめて細くなり、眼から涙をこぼしていたそうであった。

 二人がいい仲になっている、という噂《うわさ》はそれから弘《ひろ》まった。いろいろな評《うわさ》が取り交わされ、いっとき「もくしょう」の存在が大きく、蒸気乗りたちを圧迫した。臼田屋のおさいをものにしたということ、しかも相手がもくしょうだとあってみれば、影響の大きさと強さは尋常ではなかったのである。彼は周囲の眼をそらし、噂に耳を塞《ふさ》ぎ、非凡な精力で勉強を続けた。そうして、どのくらいの期間が経ったかはっきりしないが、ついに機関士の免状を取った。

 ここまでの経過はこまかい部分がわかっていない。婚約期間が仮に二年だったとして、そのあいだ二人だけで逢ったことがあるのか、また、恋人同士らしい交渉があったか、ひそかに逢ったとすればどこでどんなふうだったか、愛の言葉を囁《ささや》くとか、口喧嘩《くちげんか》などが交わされたか。などという点については、なんの噂もなく、かげぐちも聞くことはできなかった。

 彼は二十八号のエンジナーになり、「元井エンジ」と、多少の皮肉をこめて呼ばれるようになった。そこで、彼は故郷へ帰省した。祖先の展墓を兼ねて、自分の出世を報告するために、――故郷は岩手県のどこかで、汽車をおりてからバスで半日ほどゆき、それから歩いて何里とかの山を越す、といったような寒村であった。もちろん結婚することも話したであろう、ほぼ半月ほど経ってから、彼は土産物を持って帰り、「臼田屋」へおさいを訪ねていった。――おさいはいたが、彼を見るととびだして来て、いきなり激しく怒りだした。怒って罵《ののし》りながら、両手の指を鉤《かぎ》のように曲げ、全身を音のするほどふるわせていた。

 ――おめえは徳行にふじという女がいる、その女はおめえの子を産んだ、とおさいは叫んだ。この恥知らず、よくもおんだらを騙《だま》したな。

 彼にはわけがわからなかった。

 ――しらばっくれるな、とおさはかなきり声をあげた。おら自分でその女に会って、その女の口からじかに聞いただ、よくもあんなすべたあまと見替えやがった、もう騙されやしねえぞ。

 彼は抗弁した。自分の並み外れたしゃがれ声と訥弁《とつべん》を呪《のろ》いながら、身に覚えのないことだと証言したが、おさいは聞こうともしなかった。

 ――聞かね聞かね聞かね、と彼女は指が鉤のように曲った手を振りあげた。おめえの嘘っぱちなんか聞くもんか、さっさと帰れ、もう二度とふたたび来るんじゃないよ。

 そしておさいは店の奥へ去った。

 これははっきりわかっていることだ。彼は暫く、気のぬけたように立っていた。それから、持って来た土産の包みを、店先へそーっと置いて、そこをたち去った。

 彼にそんな女があったかどうか、誰も知らなかった。東湾汽船も、葛西汽船も、徳行町が終点であった。どちらの通船も、浦粕泊りのときと徳行泊りのときがあり、蒸気乗りたちの多くは、遊ぶ場所の揃っている浦粕泊りを好んだが、中には徳行に馴染の女のいる者もないことはなかった。元井エンジにも徳行泊りの番はあったから、そこに馴染の女がいたということも無根拠ではない。もしも彼にそんな覚えがないとすれば、ふじという女に会って、その実か否かを慥かめることができる筈だ。――当然、彼はそうすべきであった。それは極めてたやすいことだったから、――けれども、彼はそうはしなかった。犬儒派《けんじゅは》的にいえば、彼は賢者の知恵を持っていたとも考えられる。おさいの怒りと罵倒《ばとう》を聞いて帰ると、彼は自分の中にとじこもって、ぴったりと蓋を閉めたようにみえた。彼は蒸気河岸の裏長屋の一軒を借りて住み、自炊生活を始めた。船に乗っているときも、必要なこと以外には誰とも口をきかないし、長屋へ帰っても近所づきあいはしなかった。人を訪ねることもなく、訪ねて来る者もなく、暇があると、独りで将棋を指してたのしんだ。

 彼の内部で、なにかが変りつつあった。水槽《すいそう》に小さな穴があいて、そこから水が漏るように、彼の中から、なにかが少しずつ漏れ、漏れただけべつのなにかが加わってゆく、というようなぐあいだった。他人とは口をきかないが、彼はいつかしら、絶えず自分と話をするようになった。

 仕事が終って家へ帰ると、彼は雨戸の前に立停り、ちょっと雨戸を見まもっていて、それからゆっくりという、――この戸をあけよう。そして雨戸をあけ、格子戸をあけてはいると、そこでまた、――この格子を閉めよう、と云って格子戸を閉める。上り框《がまち》の障子のあけたてから、洗面、着替え、晩めしの支度、あと片づけ、風呂のゆき帰り、寝るときも起きるときにも、すべてこの問いかけと確認を忘れることはなかった。また、独りで将棋を指すときは、盤の向うに相手がいるかのように、一手一手について感心したり、へこたれたり、大いに自慢の鼻をうごめかすかと思うと、相手の立場になって嘆いたりした。――それはちょうど、似合いの腕を持った仲の良い友人が二人きりで、邪魔をされる心配もなく、ゆっくりと将棋をたのしんでいるようにみえた。

 このあいだにおさいは嫁にいった。利根川《とねがわ》の河畔にある布佐《ふさ》という町の、かなり大きな料理屋であったが、一年ちょっとで良人に死なれ、生れてまのない女の子があるため、百日ほど辛抱したあと、姑《しゅうとめ》とうまくゆかないので、子供を引取って実家へ帰った。――気性の勝った彼女にとって、子持ちの出戻りというなりゆきは辛いことだったろう。そう考えるのが人情だと思うが、彼女は少しもそんなようすをみせなかった。嫁にゆくまえと同じように、雑貨店のほうでも洋食部のほうでも、活溌に動きまわったし、まえよりもあいそよく、客あしらいもやわらかになった。冗談を云われたり、躯に触られたりしても怒らないばかりでなく、すすめられると酒でもビールでもかなり飲み、少し酔うといい声で唄もうたった。

 或る日、葛西汽船の二十八号が発着所へ着いたとき、おさいは岸へいって機関室を覗《のぞ》きこみ、元井エンジを認めて声をかけた。

「エンジさん、暫くだね」とおさいは云った、「たまにはうちへも遊びに来せえま」

 彼は微笑し、ちょっと片手をあげてみせたが、口はきかなかった。

 次のとき、彼女は自分の子を抱いていて、洗い場の石段を二十八号船の側までおりてゆき、元井エンジを呼んで、これが布佐で生んだ子である、と揺りあげてみせた。

「名前ははるみって付けたの」と彼女は云った、「可愛いでしょ」

 彼は微笑しながら頷いた。なんの意味も含まない微笑で、やはり口はきかなかった。

 こういうことが幾たびかあった。おさいはそのたびに「遊びに来い」とさそった。彼は微笑をうかべて、頷いたり、手をあげてみせたりしたが、それは機械的で、少しも感情のこもらないものであった。そして或る夜、――元井エンジが晩めしを済ませ、燭光《しょっこう》の弱い電燈の下へ将棋盤を据えて、例のとおり自分に話しかけながら駒を並べた。盤は古道具屋から買ったものだが、ちゃんと脚がついているし、駒もいちおう黄楊材《つげざい》で、肉が薄く、盤へ置くときには冷たそうないい音がした。

「ゆんべはいしが先手だったっけ」と彼は安息のためいきをつきながら云った、「じゃあひとつ、今夜はおらが先手といくか」

 そして、二手か三手指したとき、戸口に人のおとずれる声がした。人が訪ねて来ることなどはごく稀《まれ》なので、初めは隣りの秋葉エンジの家かと思っていたが、自分の名を呼ばれたので、彼は返辞をし、いま指した七八銀の手をよく確認してから、立ちあがった。格子をあけて、狭い土間に立っていたのは、臼田屋のおさいであった。彼女はよそゆきの着物に、厚化粧をしてい、洋食部の女給たちのように、安香水を強く匂わせていた。

「あたしあやまりに来たのよ」おさいは媚《こ》びた笑いをみせながら云った、「ちょっとあがってもよくって」

 彼は微笑したまま立っていた。あがれとも云わないし、あがってもいいような顔つきではなかった。おさいは片手で髪を撫でた。

「でもあたし、いそぐから」と彼女はすぐに云い直した、「今夜はここでお詫《わ》びだけ云っとくことにするわ、いいでしょ」

 彼の表情は変らなかった。

「ごめんなさい、あたし悪かったわ」おさいは眼を伏せた、「徳行のおふじさんのこと、嘘だったのね、あたし人から聞いて、かっとのぼせちゃったの、あのときはじかに会って、当人の口から聞いたように云ったけれど、ほんとうはゆきもしないし会いもしなかったの、もしか嘘なら、あんたが嘘だっていう証拠をみせてくれると思ったのよ」

 元井エンジの眼が、ねむたそうに細められた。あのとき彼はそのことを云った、そんな覚えはない、みんな嘘だと云ったが、おさいは聞こうともしなかったのだ。そのことを思いだしたかどうか、彼は細めた眼でおさいを眺めたまま、黙って立っていた。

「あんたはなんにも云ってくれなかったわ」とおさいは続けた、「だからあたし、――あたし、どうにでもなれって思っちゃったのよ、ほんとうはあんたが悪いのよ、あんたがいけなかったのよ」とおさいは声を激しくした、「嘘なら嘘だって、はっきり云ってくれればいいじゃないの、どうして黙ってたの、どうして」

 彼はまた微笑した。

「でもいいわ、みんな過ぎちゃったことだもの、それに、――」おさいは熱っぽい眼に媚をあらわして云った、「あんたはじつをみせてくれたわ、あたしが布佐へお嫁にいっちゃってからも、ずっと独りで、ほかの人をお嫁に貰わずにいてくれたわね、うれしいわ、あたしこっちへ帰って来てからそのことを聞いて、うれしくって、泣いちゃったのよ」

 おさいはすばやく眼をぬぐった。彼はなお表情を変えなかった。彼は謙虚な自尊心をもっていた。それは決して他人に気づかれることのないところで、ひそかに、しかし誇り高く保たれて来たのだ。――おさいが彼にあいそづかしを宣告してから、周囲の者のあてつけやかげぐち、嘲笑《ちょうしょう》やおひゃらかしの集中攻撃を受けた。見たこともないおふじという女についても、あくどいほのめかしや皮肉をずいぶん云われたものである。――けれども、それらのすべてを謙虚な自尊心で受けながしたように、いまおさいの訴えに対しても、彼は漠然と微笑するだけで、おさいを責めたり、自分の立場のつらかったことを並べたりしようとはしなかった。

「あたし、いつでもいいのよ」とおさいは低い声で云った、「あとは云わなくってもわかるわね、あたしたちうまくいくと思うわ」

 彼はやはり黙っていた。

「きっとうまくいくわ」おさいの声には確信がこもっていた、「あんたの都合でいつでもいいのよ、あたしの気持、わかるでしょ、わかってくれるわね」

 彼は一割がた微笑をひろげ、片手をゆっくりとあげて、その指先をひらひらさせた。どういう意味を表明したのかわからないし、なんの意味もないようにも受取れた。

「べつにいそがなくてもいいのよ」とおさいは探りを入れるように云った、「あたしがいそいでるなんて思わないでね、あたしいそぐ気持なんかちっともないんだから、わかってるわね」

 彼はなにも云わなかった。

「うちへ来てちょうだい」と別れを告げてからおさいが云った、「あたしうまいライスが出来るのよ、玉葱《たまねぎ》とヘットだけで拵《こしら》えるんだけど、とても玉葱とヘットだけだなんて思えないほどうまいのよ、これからはちょいちょい来てよ、いいでしょ、待ってるわね」

 彼はこんどは二割がた大きく微笑したが、なんの動作もしなかった。

「へっ、うみどんぼ野郎」とおさいは外へ出てから、口の中で罵《ののし》った、「うすっ汚ねえもくしょうめ、覚えてやがれ」

 彼は将棋盤の前にあぐらをかいて坐り、深い溜息《ためいき》をついてから、頭をさげて盤面をみつめた。

「七八銀上りか」と彼は云った、「――つまり、棒銀をやらさねえってわけだな、すると、中飛《なかび》といく手か、へっへっ、おあいにくだが、その手はくわねえ、といこう」

 彼は駒を取って打った。安物の盤の上で、その駒は冷たそうな、いい音をたてた。

   十六 経済原理

 私が沖の百万坪を歩いていると、三つ「さんずい+入」《いり》の水路で少年たちが魚をしゃくっていた。近よって覗いてみたところ、バケツの中に鮒《ふな》が十二三尾もいた。ひらたという川蝦《かわえび》や、やなぎ鮠《ばえ》もいたが、鮒のほうが多く、それも三寸くらいの手ごろな、――というのは私が喰《た》べるのに、という意味であるが、――形のものであった。私はちょっとふところを考えてから、おもむろに少年の一人に話しかけた。するとかれらは号令でもかけられたように、水の中でしゃくっていた者も、バケツの番をしていた者も、魚を追い出すために杭や藻《も》の蔭を突ついていた者も、いちどきに私のほうへ振り返った。

「蒸気|河岸《がし》の先生だ」と一人が他の者に囁き、それから洟《はな》を横撫《よこな》でにして私を見あげた、「――なんてっただえ」

 その鮒を売ってもらえないか、という意味のことを私は繰返した。かれらの顔になにか共通のものがはしり、さっと緊張にとらえられるのが認められた。そのとき私は「しまった」と思った。なにがどう「しまった」のか不明のまま、ひじょうな失策をした、ということを直感したのであった。

 少年たちは顔を見交わした。

「売《う》んか」と一人が他の者に云った、「蒸気河岸の先生だぞ、な、売んか」

 少年たちは唾をのみ、水洟を啜《すす》り、バケツの側にいた一人は片足の拇指《おやゆび》で片足のふくら脛を掻いた。「いやじゃねえけどよ」と一人はバケツへ手を入れて一尾の鮒をつかみあげ、金色に鱗《うろこ》の光るその獲物をさも惜しそうに、また自慢そうに、そして私の購買欲を唆 《そそ》るように、惚《ほ》れ惚《ぼ》れと眺めながら云った、「こんなえっけえ金鮒はめったに捕れねえからな」

「ンだンだ、みせえま」次の一人も一尾つかまえ、私のほうへ差出しながら云った、「鯉っこくれえあんべえがえ」

 さらに一人、さらにまた一人と、六人いる少年たちが全部、暗黙のうちに共同戦線を張って、私を懐柔《かいじゅう》し、征服しようとした。かれらの眼は狡猾《こうかつ》な光を放ち、その表情には闘争的な貪欲《どんよく》さがあらわれた。

 私は決して誇張しているのではない、これは浦粕という土地の気風なのだ。いつだったか、――むろんそのときより以前のことであるが、私は蒸気河岸の脇のところで、これと似たような経験をした。もう夕方のことだったろう、河岸の道傍《みちばた》で漁師たちが四五人、蓆《むしろ》や桶《おけ》を並べて、鯉や雑魚《ざこ》や貝類などを売っていた。それは「日銭《ひぜに》」を稼《かせ》ぐためのものであった。規定としては、漁獲物はすべて組合へ納め、組合で一括してそれぞれの問屋へ卸す仕組になっていたが、ちょっと「日銭」が欲しいような場合には、納入する責任量を超過した分だけ、立売りすることが黙認されていた。そして、他の土地から魚釣りに来て、不漁をかこちながら帰る客や、単純な遊覧帰りの客たちがあると、それはかなりうまい儲《もう》けになるのであった。――私は通りかかって、蛤《はまぐり》を売っているのをみつけた。大きな、粒の揃ったみごとな蛤で、バターいためにしたらさぞ美味《うま》かろうと思い、近よっていって、それを〇《まる》五だけ売ってもらいたいと云った。私はもう一年ちかくも住んでおり、かれらともおよそ顔見知り程度になっていたので、心の片隅ではひとかどの土地者であるような誇りを持っていた。そのうえ私のまえに、どこかのかみさんがやはり〇五だけ買ったところ、一斗桝《いっとます》くらいの桶一杯分を渡したのを見ていたから、もし私にもそんなに呉れるようなら、三分の一程度だけ受取ることにしよう、などと、おうようなことさえ考えていたのであるが、それらの予想や期待はあっさりとくつがえされてしまった。

「蒸気河岸の先生だね」とその中年の漁師は私を見あげた眼をすぼめた、「――この蛤を欲しいだかえ」

 彼は自分の眼にあらわれる狡猾さと、顔つきが貪欲になるのをごまかすために、自分がいかにも無力な、悲しい男であるかのような表情を作った。

「そうさな」彼は蛤の一つを取って、それをじっと凝視した、「――売ってもいいだよ、売るためにこうやって並べてるだからな、売ってもいいだが」

 私は辛抱づよく待った。彼はその一つの蛤を丹念にしらべてから、やおら、すぼめた眼で私を見あげた。

「幾ら欲しいだね」と彼は云った。

 私は必要な額を答えた。

 彼は梅干を舐《な》めたような顔つきで、蛤を六個だけ選び分けた。数は正確にいって六個、しかもその一つ一つを、まるで真珠でもはいっていはしないかと疑うように、精密に、入念にしらべたうえ、選び分けたのであった。

「蒸気河岸の先生だからな」と彼は自分の情の脆《もろ》さに自分ではらを立てたように云った、「――しょあんめえ、まけとくだよ」

 私は少年たちの顔つきの変化を見て、そのときのことを思いだしたのであった。

「売んか、な」と少年の一人がなかまに云った、「売んべや、な、かんぷり」

 かんぷりと呼ばれた少年は洟を啜り、上わ眼づかいに私を見、またバケツの中の鮒たちを見た。その少年は船宿「千本」の長の同級生で、背丈が小さく、躯も痩せているが、頭だけが大きく、しかも鉢がひらいていた。かんぷりとはその木槌《さいづち》あたまに付けられた仇名で、つまり「かぶり」というのが訛《なま》ったのだと思う。これは私の想像にすぎない、本当の意味はべつにあるのかもしれないが、とにかく、かんぷりはなかまの輿望《よぼう》をになって戦線の右翼にたった、というふうにみえた。

「鮒は十五いんだ」とかんぷりは云った、「幾らで買ってくれっかえ、先生」

 私はふところを考えてから答えた。

「えっ」とかんぷりは眼をみはり、きおいこんでバケツの中から鮒をつかみあげ、――それはもっとも大きな一尾であった、――私のほうへと突き出しながら云った、「しょっからへいってみせえま、このくれえの鮒は一つで五ひゃくもすんだぞ、先生」

 このちび助のユダヤ人め、と私は心の中で罵った。「しょっから」とは堀南にある佃煮屋《つくだにや》で、彼はその店で売っている鮒の甘露煮を引合いに出したのだ。慥《たし》かに、そのくらい大きな鮒の甘露煮なら五ひゃく程度は取られるかもしれない。私は頭が熱くなるのを感じた。古笊《ふるざる》でしゃくったばかりの鮒と、いろいろ手数をかけ、調味料や燃料を使い、売り物としてきれいに注意ぶかく仕上げられた鮒とを、同一に比べるという法はないだろう。しかしまた、甘露煮にすれば一尾それだけの値になる物を、十五尾まとめて〇三十で買うという根性も、相手を子供とみくびっているようでさもしいとも云える。前者の怒りと後者の恥とで、私は頭がほてってくるのを感じ、その複合したやりきれない感じに耐えられなくなって、値段を〇五十とつりあげた。少年たちはいっぱし商売人のようにねばった。六人いるから〇五十では分配がしにくい、もう一かん出してくれ。たった一かんくれえ惜しんでも倉が建つわけではあんめえし、と云った。――それはこの土地の通言で、なにかというとよく使われた。ビールをもう一本飲もうとか、浦粕亭(寄席)へなにわぶしを聞きにゆこうとか、煎餅《せんべい》でも買わないかなどという場合、相手が渋った顔でもみせるとすぐに、その言葉を投げつけるのであった。だが私は閉口しなかった。それで不足ならやめにしよう、と云った。みずからおのれをけがすような、やりきれない自己嫌悪とたたかいながら。少年たちは相談をし、私の決心が変らないことを認めて、ようやくその取引は成立した。

 私はその鮒を味噌煮にした。骨まで柔らかにするためには、二日か三日くらい煮なければならない。もちろんガスなどはないので、火鉢に粉炭を入れ、味噌煮の鍋《なべ》を掛けたりおろしたり、また煮つまると水を加えたりしながら、煮あがるのをたのしみに待つのであった。

 中二日おいて、三日めの午ごろ、私は寝ているところを呼び起こされた。窓の雨戸を叩きながら、先生起きせえま、と少年たちが呼んでいるのである。私は起きあがって窓をあけた。外には五人の少年たちが、洗面器やバケツや空罐《あきかん》などを持って立ってい、私を見ると一列縦隊に並んだ。先頭にいるのは「千本」の長で、かんぷりの顔も見え、みんな泥まみれのはだしであった。

「鮒とってきただよ」と長が云った、「買ってくれせえな、先生」

 私はかれらの期待に満ちた注目をあびて、自分に拒絶する勇気のないことを悟り、かれらを勝手口へ廻らせた。そこでもかれらは一列に並び、ひとりひとりが私に向って自分の鮒に値を付けさせた。そのときになって初めて、寝起きのぼんやりした私の頭が、かれらの奸悪《かんあく》な計略を理解した。つまり、まとめて売れば安くなるが、一尾ずつなら安い値踏みはできない、という狙いなのだ。

「ほれ、みせえま」とかれらはそれぞれの鮒を私に誇示した、「こんなにえっけえだ、五寸くれえあるだえ、先生」

 そして「しょっから」へゆけばこれ一尾で一かんは取られる、と云って互いに頷き、肯定しあうのであった。私はそこでもまた自分が罠《わな》に落ち、縛りあげられたことを知った。私はかれらの誘導にしたがって、値段を付け、それらを買い取った。

「いいさ」と私はかれらの去ったあとで自分に云い聞かせた、「味噌煮にしておけば保《も》つからな、当分おかずに困らないで済むわけだ」

 私はまえの味噌煮を丼へ移して、それらの鮒を新しく味噌煮にしかけた。

 人は信用しないかもしれない。私自身もこれを書きながら、たぶん人は事実だとは信じないのだろうと思うのであるが、少年たちはその儲け仕事があまりにたやすく、かつ確実であることに昂奮《こうふん》と情熱を感じたらしい。二三日するとまたやって来て、さもうれしそうにはしゃぎながら、窓の戸を叩いた。

「並べってばな」と長の云うのが聞えた、「おんだらが先だぞ、押すな」

 拒絶されようなどとは寸毫《すんごう》も疑わず、確信そのもののような少年たちの顔を見て、それだけで私は自分の敗北を認めた。――ここまで読まれた方は、もはや小悪魔どもが私を放さないだろう、と想像されるにちがいない。私にしても、仮にふところがもっとあたたかであったら、容易にかれらの手から遁《のが》れがたかったろうと思う。人は黄白《こうはく》の前には、しばしば恥を忍んで屈しなければならないものだ。少年たちが四度めに襲撃をかけて来たとき、ふところの窮乏という現実に助けられて、私はきっぱりと鮒の買取りを拒絶した。するとそこに、まったく予想しない事が起こって、私をおどろかせた。

 私に拒絶されて、少年たちは明らかに失望し、途方にくれた。かれらは顔を見交わし、先生が駆引しているのではないかと疑い、そうでないことを認めるともっと失望し、どうしたものかというふうに、それぞれの手にした器物の中の鮒を見まもった。

「みんな」と長が急に云った、「それじゃあこれ先生にくんか」

 くんかとは、贈呈しようか、というほどの意味である。途方にくれ、落胆していた少年たちの顔に突然、生気がよみがえった。それは囚《とら》われの繩を解かれたような、妄執《もうしゅう》がおちたような、その他もろもろの羈絆《きはん》を脱したような、すがすがしく濁りのない顔に返った

「うん、くんべ」と少年の一人が云った、「なせ、これ先生にくんべや」

「くんべ、くんべ」

「先生、これ先生にくんよ」とかんぷりが云った、「みんな、勝手へいってあけんべや」

 私は自分の大きな過誤を恥じた。

 少年たちに狡猾と貪欲な気持を起こさせたのは私の責任である。初めに私は「その鮒をくれ」と云えばよかったのだ。売ってくれと云ったために、かれらは狡猾と貪欲にとりつかれた。私のさみしいふところを搾取しながら、かれらも幸福ではなかった。その期間、かれらは貪婪《どんらん》な漁夫でありわる賢い商人だったからだ。私は深く自分を恥じた。

「先生にくんよ、か」と私は口まねをしてみた、「これ先生にくんよ」

 そう云ったときの、すがすがしく、よみがえったような顔つきや動作を思いうかべながら、私は深く自分を恥じた。

   十七 朝日屋騒動

 朝日屋は堀一橋の近くで、河岸通りに面している。間口六尺、奥行十二尺。五色揚を揚げて売る店台《みせだい》と狭い三尺の土間、部屋は六|帖《じょう》が一と間だけしかない。もともと古材木を叩きつけて造った建物で、そのうえ年代が経っているから、「ぶっくれ小屋」とさえ云えないような、危なっかしい家であった。――但し一つ、五色揚を揚げたり売ったりする店台だけは、まだかなり新しかった。それは障子一枚くらいの大きさで、揚げ鍋や金網つきの油切りや、幾つかの壺や皿、または経木《きょうぎ》の束などを置くだけの余地しかなく、しかもその小建造物は、古い家の外部へ、ごく簡単に釘《くぎ》で打ち付けられたもののようであった。

 朝日屋の夫婦は五日に一度くらいの割合で大喧嘩をした。亭主の名は勘六、細君はあさ子、どちらも寅《とら》だか午《うま》だかの三十二歳であった。寅どしか午どしか判然としないのは、かれらが喧嘩をするときに、相手を痛めつける表現がときによって違うからであった。

「寅の八白だなんてぬかしゃあがって」と勘六が云う、「てめえなんぞ本当はひのえんまの元締じゃあねえか」

「干支《えと》しらべならてめえのを先にしろ」とあさ子はやり返す、「笑わしゃあがって、てめえなんぞ午どしなら竹んま、寅どしなら張子《はりこ》の虎がいいところだ、すっこんでやがれ」

 勘六は博奕打《ばくちうち》だといっていた。東京深川のなにがし組で、かつてはあにい分だったという。酒を飲むときまって、そのころの派手なでいり話を口演するが、それもときと場合でいろいろと趣向を変えるだけの努力を払うのだが、身をいれて聞く者は誰もなかった。それについて、若い船頭の倉なあこが、いつも赤い頬ぺたに穏やかな微笑をうかべながら、次のように語ったことがあった。

 何年かまえ、堀東の理髪店に杉さんという渡り職人がいた。五十年配の独り者で、半年ほどしかいなかったが、勘六のでいり話を幾たびか聞いたのち、そういう語り物はしょうばい人に任せとくがいい、と云った。しょうばい人たあなんのこった、と勘六はひらき直って左の腕を捲《まく》った。左の二の腕にはんにゃの面の刺青《いれずみ》があって、勘六がどすをきかせようとする場合の薬味になった。杉さんはそんなものには眼もくれずに答えた。なにやぶしさ。なにがなにやぶしだ。おめえのでいり話のことさ、あれはみんななにやぶしから取ったもんじゃねえか。それがどうした、と勘六が云い返した。なにやぶしってものは博奕打のでいりを元にして語るもんだろう、してみればおれのでいり話をなにやぶしが取ったとも云えるじゃあねえか、ええ。そして彼は自分のあたまのよさに酔い、例の浦粕的アフォリズムでしめ括《くく》りをつけた。

 ――大石ゆらの助は芝居を見てっから忠臣蔵をやらかしたんじゃねえだろう。

 杉さんはあいそ笑いをし、お見それ申しましたと云って降参したが、あとで勘六の細君をさそい出し、三日のあいだ伴《つ》れ歩いてから、船橋という町で細君を放りだしたまま、姿をくらましたということであった。

 ――勘六は口で勝って手で負けた。

 そういう評《うわさ》が立ったが、夫婦喧嘩のときにもときたまそのことが引合いに出た。

 勘六もあさ子も博奕が好きであった。浦粕は小さな漁師町だから、博奕場などという大掛りなものは立たないが、慰み半分の寄合はよくあったらしい。そういうときには朝日屋へ知らせがある。相手は夫婦をかもにするつもりだが、夫婦はいっぱししょうばい人のつもりで、――なぜなら、亭主はもとなにがし組のあにい分だったから、――義理を欠かすわけにはいかない、などと気取ってでかけてゆく。亭主が元あにい分だとすれば、伴れ添うあさ子もずぶの素人ではない。尤《もっと》も彼女はごったくやで稼いでいたのだから、ずぶの素人でないことは慥かであるが、ここではもう一つの意味。つまり博奕打の女房という鉄火《てっか》な自意識をさすのであり、そのためには、亭主の負けがこんでくると、片膝立ちになって赤いものをちらちらさせるという、特技を演ずることも辞さなかった。

 この特技は人によるそうである。若くて、小股《こまた》の切れあがった美人で、それが片膝立ちに構えると、下の肌着と肉躰の一部がちらちらし、そのため博奕を打つ手許《てもと》が狂うというのであるが、あさ子の場合は成功しなかったばかりか、「気分を害しちゃう」という非難さえ起こった。それは彼女が若くもなく、小股の切れあがった美人でもないからではなく、なすびがさがっているから、という理由であった。筆者はそれがどういう意味であるか、いまでもとんと理解できないのであるが、片膝立ちになって赤いものがちらちらするとき、同時に、さがっているなすびなすびが見え隠れしたのでは、――なすびがいかなる物であるか不明にしても、なんとなく「気分を害する」という気持がわかるように思えるではないか。

 夫婦は博奕で勝つときもあった。勝ったときは家へ帰って、二人で酔っぱらって、適当に口喧嘩をして寝てしまう。しかしたいていは負けるのがきまりで、するとあさ子がことば巧みに何人かを客として家へ伴れ帰り、しょうばい物の五色揚を肴《さかな》に酒を飲ませ、博奕場で負けた分の幾割かを取り戻す、ということになるのであった。

 或るとき、駐在の巡査が来て、これを営業法違反であると指摘した。あさ子はべらんめえ調で猛然とはむかった。問答の細部はわかっていないが、あさ子は知っている限りの毒舌をふるい、若い巡査は昂奮のあまり口がきけなくなった。

「わかりましたよ、ええ」とあさ子は云った、「そんなら五色揚を店で売ればいいんでしょ、そうでしょう」

 それから朝日屋ではそれを実行した。客を伴れて来て酒の支度をすると、勘六が外へ出て店台の前に立ち、おい、てんぷらを呉れ、とどなる。

 するとあさ子が出ていって、おやいらっしゃい、幾らあげますかと云う。幾ら幾ら呉れ。はい幾ら幾らですね。あさ子は五色揚を経木に幾つか包んで亭主に渡す、お待ち遠さま、一つお負けですよ。おいよ。亭主は銭を渡し、経木包みを持って家へはいり、公明正大なような気分で飲みだす、というぐあいであった。

 或る日また若い巡査がやって来て、あさ子と激しくやりあった。五色揚屋は五色揚を店で売ることだけ許可されている、と若い巡査は云う。おまえのところでは、客に酒食を提供して勘定を取る、それは許可された営業とはべつの営業許可を取らなければ違反行為になる。ねえ、若い旦那、とあさ子が遮《さえぎ》る。おまえさんもわけのわからない人だね、このまえおまえさんがそう云ったから、あたしはちゃんと五色揚を売ってますよ、そりゃ買うのは亭主かもしれないが、誰であろうと店台の前へ立って五色揚を呉れと云えば客だよ、亭主だから売らないなんて云えた義理じゃないし、また、そんなことをすればそれこそ営業違反でしょう。待ちなさい、まあ待ちなさい、と若い巡査が遮った。待ちなさいってなにを待つのさ、とあさ子が云った。おまえさん取調べに来たんでしょ、取調べに来たんならこっちの申立てを聞くほうが先じゃないか、喧嘩の仲裁をするんだって喧嘩になったわけを聞かなきゃ仲裁はできない道理でしょ。いやまあ、と若い巡査が云った。これは喧嘩の仲裁ではないし。喧嘩っていうのはものの譬《たと》えですよ。まあ譬えはどっちでもいい、この件は取調べと云っても事実の証拠はあがっているんだから。なにが証拠ですよ、あたしは営業だから亭主にだって五色揚を売りました、営業上売ったんだからあとのことまでは知らないよ、あたしはそこの店台で売った、あとは買った人がどこで喰べようとあたしの責任じゃないでしょ、買ったのがうちの亭主で、それだからこのうちへはいって来て喰べたにしろ、それは買ったもんの自由じゃないか。それはわかった、五色揚の営業はそれでいい、と若い巡査は云った。肝心《かんじん》なのは五色揚を誰に売るとかどこで喰べるとかいうことじゃなく、このうちで客を集めて酒食を提供し、その勘定を取るということだ、このうちで客を集めて、酒や肴を提供したことはないか。ありますよ、あたしが酒を買って来て、五色揚を肴に飲んだり食ったりしますよ。それが営業法違反になるんだ。どうしてですか。どうしてって、つまりそれは五色揚屋の営業とは営業種目が違うからだ、つまり客を集めて酒食を提供し、それによって利益を得るを目的とするのは飲食業の。ちょいとちょいと、サーベルをぶらさげてるからってえらそうな口をきくんじゃないよ、あさ子は片膝立ちになって啖呵《たんか》を切った。若い巡査は眼を剥《む》いて、それから慌ててそっぽを向き、あさ子はまくし立てた。若い旦那に訊くがね、おまえさん自分のうちで友達を集めて飲んだり食ったりするようなことはないかい、あるだろう、あるのが当りまえさ、そのときだね、失礼だけれど旦那方の給料はそんなにあるもんじゃない、番たび友達を呼んで飲み食いをして、それをいつもおまえさん一人で奢《おご》るかい。それはいつもそんなに集まって飲んだり食ったりしやしないよ。いいえさ、仮にするとすればいつも一人で奢るかっていうんだよ、おまえさんどこを見てるのさ、人を取り調べるんならちゃんとこっちを見て饒舌《しゃべ》ったらいいじゃないか、そっぽを向いたまんまでどうしようってんだい。いや、そっぽを向いてるわけじゃない、若い巡査はあさ子のほうを見たが、片膝立ちの部分が眼にはいらないように、視線を相手の胸から上へ固定させるためひきつけでも起こしたような眼つきになった。

「それは」と若い巡査は答えた、「そういうときには僕たちは会費を出しあうことにしているよ」

「それが巡査の営業違反になるかい」

「僕はなにも営業なんかしていないよ」

「うちだってそうさ」とあさ子が云った、「うちだって客と云えば云うもんの集まるのはみんなお友達だよ、朝日屋で飲むのがいちばん気がおけなくっていいって集まって来るんだ、うちだって貧乏世帯だから番たび奢ってばかりいられやしない、お友達にしたって番たびごちじゃあ気がひけらあね。それでお互いの飲み食いした分を出しあう、いいかい、つまりおまえさん方の云う会費だよ、早く云えば、そうだろう」

「そこが違うんだが」若い巡査は帽子をぬいで、ハンケチで額と帽子の中を拭いた、「会費というのは頭割りで幾ら幾らと」

「そこは違いますよ、違いますとも」あさ子は立てた片膝を左右に揺すった。若い巡査はいそいで眼をつりあげ、あさ子は云った、「おまえさん方は行儀がいいからそんなことはないだろうが、こちとらの客は幾ら幾らなんておきまりどおりで済むような手合じゃあないんだ、五色揚を四五十も喰べて一升酒くらってけろっとしているやつもあるし、二合も飲めばへどをついてぶっ倒れるようなろくでなしもいるんだ、それを頭割りで片づけるなんてあこぎなまねは、営業でもしていればべつだろうが、こっちは営業じゃあないからできやしないさ、それぞれ飲んだり食ったりした分を出しあってもらう、これが当然じゃあないか」

「僕は転勤したくなっちゃうな」若い巡査は呟いた、「僕はこの土地には性が合わないんだ」

「あたしゃあ理の当然を云ってるんだよ」とあさ子は追い打ちをかけた、「友達を集めて飲み食いをして、お互いに銭を出しあってそれで営業違反になるんなら、分署の旦那方が会費を出しあって宿直で飲み食いをするんだって営業違反って勘定だろう、うちは五色揚をしているから違反で、ほかのうちはほかの営業をしているから違反じゃないなんて、そんな理屈がとおるかい」

「おばさんの云うように云えばそうなるけどね」と若い巡査はまた帽子をぬいで汗を拭いた、「いいよ、僕にはこの浦粕って土地は向かないんだ、僕は転勤させてもらうことにするよ」

 この結末をあさ子が自慢にしたことは云うまでもない。実際にはあとから分署の部長が来て、始末書を取られたか、なにがしかの科料処分になったようだが、「大学出の若いちゃきちゃきの巡査を理詰めで降参させた」というので、あさ子はすっかり女をあげたものであった。その巡査が大学出であったかどうかも、転勤の請願がとおったかどうかも不明ではあるが、――

 夏のさかりの或る午後、朝日屋の夫婦が本式の大喧嘩をした。夫婦でひるねをしていたところ、あさ子が足で勘六の頭を蹴《け》った、というのが事の起こりであった。

「大げさなこと云うんじゃないよ」とあさ子が云った、「眼がさめたら汗ぐっしょりで喉が渇いてたから、氷でも取ろうじゃないのって、ちょっと突いてみただけじゃないか」

「ちょいと突くにしても場所があらあ」と勘六はどなった、「女のくせえして寝そべったまんま、仮にも亭主の頭を足で小突くって法があるか、仮に戸口の敷居を踏んづけたって足が曲るってえくれえのもんだぞ」

「敷居を踏んづければどうして足が曲るんだい」

「べらぼうめ、敷居は親の頭も同様だっていうんだ」

「へええ、おまえあたしの親かい」

「親なら半殺しのめにあわせるところだ、仮にも女房だからがまんしてりゃあいい気になりゃあがって、やい起きろ」と勘六は絶叫した、「亭主が起きて文句を云ってるのに、ぞべりけえったまんま聞いてるやつがあるか、こら、起きろったら起きねえか」

「うるさいね子供じゃあるまいし、起きて聞こうと寝て聞こうとあたしの勝手だよ」とあさ子は云い返した、「それとも起きて聞くほどごたいそうな文句でもあるってえのかい」

「このあま、もうがまんがならねえ」

「なにをすんだいこのもくぞう」

 平手打ちの音と共に、取っ組みあいが始まり、器物が倒れたり毀《こわ》れたりする音が、例によって賑《にぎ》やかに聞えた。

 それから「出ていけ」になるのだが、そのときそれを云いだしたのは、あさ子のほうであった。

「仮にも亭主に向って出ていけたあなんだ」と勘六は息を切らしてどなった、「おらあな、三十円という大金を出して、てめえをごったくやから身受けしてやったんだぞ」

「身受けをしたのはてめえの勝手だ、こっちで頼んだわけじゃあねえや」とあさ子は喚き返した、「三十円三十円って、てめえは三十円出しただけじゃねえか、この家はいったい誰のおかげだよ、おれが日の出屋のじいさまに頼んで金のくめんをして、家賃をかけあったり造作を入れたりして、そのおかげで寝起きができるようになったんじゃねえか、そうじゃねえのかい唐変木」

「おらあ血の涙も出ねえ」勘六は呻《うめ》いた、「てめえはな、そいつだきゃあ云っちゃあなんなかった、てめえが朝日屋って屋号にきめたときおらあ勘づいてたんだ、てめえの名と日の出屋の名をくっつけたんだなってよ、だが仮にもおらあ男だ、じっと肚《はら》あ押えてがまんして来たが、もうこうなったら男としてがまんできねえ、てめえとはたったいま縁切りだ、出てうせろ」

「縁切りだなんて恰好つけたこと云うんじゃないよ」あさ子は平然と云い返した、「別れたけりゃあ別れてやるからさっさと出ていきな、ここはあたしの家なんだから、断わっておくが出てゆくのはおまえさんのほうだよ」

「出てってやらあ、なんでえこんなぶっくれの乞食小屋あ」と勘六が云った、「その代りな、表の店台はおれの銭で拵《こしれ》えたもんだから、おれが持ってくからそう思え」

 勘六ははだしで外へとびだした。顔には幾筋もみみず腫《ば》れができていたし、髪の毛の薄い頭には瘤《こぶ》がふくれていた。彼は船宿「吉井」へいって道具を借りて来ると、店台をべりべり引き剥《は》がしにかかった。

「なにをするんだよこの山犬あ」あさ子がとび出して来て、かなきり声をあげた、「なんのまねだい、それをどうしよってんだよこのひょっとこ

「おれの物をおれが持ってくんだ」と勘六は喚いた、「ざまあみやがれ」

「誰か来て下さいよう」とあさ子は泣き声で叫びたてた、「どなたか来て下さいよう、この泥棒があたしの家を毀しますよう、どなたか駐在さんへ知らせにいって下さいよう」

 あさ子は腰巻一枚で、いかんせん往来で亭主につかみかかるわけにはいかなかった。もちろん、彼女のために、助力しようというような、お節介な人間はその近辺にはいない。勘六はたちまち店台を剥ぎ取ると、それを担いで「吉井」のほうへ走りだし、吉井のべか舟を借りてその財産を乗せると、根戸川のほうへ漕《こ》ぎ去ってしまった。

「骨っ腐り――」と根戸川べりまで追っていったあさ子は、べか舟が見えなくなるまで叫んでいた、「かってえぼうのうみどんぼ野郎、くたばっちめえ――」

   十八 貝|盗人《ぬすっと》

 私は私の青べかで海へ出た。茶の入った大きな湯沸しと、魚煎餅とあんこだまと、二三冊の本を持って。夏でなくとも、晴れて風のない日に海へ出ると、水面からの輻射熱《ふくしゃねつ》で暑い。私はパンツにポロシャツを着ただけで、大きな麦藁帽《むぎわらぼう》をかぶっていた。海へ出ると櫂《かい》をあげ、舟を流し放しにして本を読む。汐時《しおどき》さえ計っておけば、舟は殆んど同じところを動くことはない。読み飽きれば帽子を顔にかぶせ、舟底へ横になって眠ってもいい。或るとき眠り忘れて退き汐になり、そうなると櫂で漕ぎ戻るのは困難だから、少なからず狼狽《ろうばい》したけれども、沖の漁から帰って来る知りあいの機械船をみつけて、浦粕まで曳《ひ》き戻ってもらうことも覚えた。

 春から初夏にかけて、浦粕の浜では「活《い》け場」の看視人がいそがしくなる。

 大汐のときには水際から四五キロも沖まで水が退き、ところどころ汐の溜《たま》りを残すほかは、見渡す限りの干潟《ひがた》になるため、汐干狩の客の多いことは云うまでもない。これらの中には狡《ずる》い者があって、看視を怠ると貝の代金を払わずに帰ってしまう。ついうっかりして忘れる客もあるが、計画的に貝を盗みに来る者もあるので、客の混むもの日など、番に当った看視人は精根を使いはたすのが常であった。

 このほか、厳重に禁じられている「ころがし」も見張らなければならない。それは三叉《みつまた》になった棒の先に、釘を曲げたのを植えつけた輪があり、それをさりげないようすで転がして歩く。すると、水の底にいる小魚が、みんなその輪に植えた曲げ釘にひっかかって来るので、底の小魚はきれいに掠《さら》われてしまう。それでは魚が育たないので、保護するためにころがしは禁じてあるのだが、看視人の眼がゆるむと、かれらはどこからともなくあらわれて、すばやく魚を掠ってゆくのであった。

 暢気《のんき》なほうでは、月夜の「踏み」と、「鱸拾《すずきひろ》い」がある。魚を踏む話はすでに紹介したが、鱸拾いもほかでは聞いたことのないものである。これはその日の稼ぎにあぶれた人たちが、東京あたりからはるばるやって来るのだというが、――土地の漁師の説によると、鱸という魚は相当ぬけたところがあるそうで、汐の退くときに汐が退くことをど忘れして、気がついてみると干潟の中の汐溜りに残されてしまい、そこから遁《のが》れ出ようとしていたずらにあばけるのだという。それをみつけて捕るのだから、字義どおり「拾う」のであって、私もしばしば、鮭《さけ》くらいの大きさの鱸を、肩にひっかけて帰る労務者を見かけたことがあった。

 そのころでも、鮭くらい大きい鱸は、東京の料亭などへ持ってゆくと、六か七、うまいときには一〇くらいになるとのことで、いつもふところの寒い私も、そういう幸運にめぐりあいたいものと思い、何回となく干潟を歩きまわったものであるが、ついに一度もまぬけな鱸に出会うことはなかった。

 さてその日、――私は私の青べかを流し放しにして、汐の中で横になり、「青巻」という本を読んでいたが、読み飽きて、ふと気がついてみると、いつか汐が干てしまい、青べかは砂上に坐っていた。私は本を置いて起き直り、あんこだまと魚煎餅を喰べ、なまぬるくなった茶を飲み、暫くぼんやりしていてから、ひとつ貝でも採ってやろうか、と独り言を呟いた。――断わっておくが、そのとき私は浜の制度についてなにも知らなかった。その沖が貝の活け場であることも、「ころがし」のことなども知らなかった。そうして青べかからおりて、なんの目算もなく干潟の砂を掘ってみると、なんと、拳《こぶし》くらいの大きな赤貝が幾らでも出て来た。

「すげえや」私は胸をおどらせながら叫び声をあげた、「こりゃあすげえや」

 私は昂奮し、躯《からだ》じゅうに幸福感が満ち溢《あふ》れるのを感じた。赤貝はそれほど大きく、また、信じがたいほど数多く、掘れば掘るだけ出て来た。私はそれらをいちど青べかの中へ運び入れ、戻って来てまた掘った。するとこんどは蛤にぶっつかった。蛤もそれまでに見たことのないみごとなやつで、しかも粒が揃《そろ》っていたし、掘る手を待ちかねていたかのように、ぞくぞくと転げ出て来た。

 そのとき私は、満ち溢れる幸福感の中に一種の不安、不安というほどはっきりしたものではなく、人間が幸福すぎるときに感じる「これは現実のものだろうか」といったような、おちつかない気分が小指を動かすのを感じた。そうして、その気分を立証するかのように、一人の男が近よって来た。――それは逞《たくま》しい男であった。ぼったと呼ばれる腰っきりの沖着の下から、古びた下帯を覗かせ、裸の太腿《ふともも》から脛《すね》へかけてびっしょり毛が生えているうえに、筋肉がこりこりと瘤《こぶ》をなしていた。陽にやけた顔もぶしょう髭《ひげ》が伸び、濃い眉毛の下の大きな眼は、いまにも私を覘《ねら》って弾丸《たま》を発射する二つの銃口のようにみえた。

「なにをしてるだね」と男は云った。

 私は答えて、砂上に掘り出してある蛤を指さした。男は蛤を見、私の顔を吟味するように見、それから蛤を見て、また吟味するように私を見た。

「どこから来ただね」と男が云った。

 私が答えると、男は振り返って私の青べかを眺め、歯をむきだして冷笑した。

「青べかを買ったのはおめえか」と男は云った、「すると蒸気河岸の先生だね」

 私は肯定した。

「じゃあ信用すべえが」と男は権力の代行者のように云った、「ここは貝の活け場だ、こんなところで貝を採ったりするとただじゃ済まねえだよ」

 彼は私の掘った蛤を取ると、水のあるほうへばらばらと放り投げた。やっぱりそういうことか、と私は思った。こんなことがあるわけはない、こんなに大きな赤貝や蛤がぞくぞく出て来るなんて、それだけで訝《いぶか》しいと気がつくべきじゃないか。私はそう思いながら、青べかのほうへ歩いていって、さっきの赤貝どもを男のするように、取っては投げ取っては投げした。蛤の解放を終った男は、たぶん私の正直さを認め、いくらか気の毒にもなったのだろう、砂の中から大きな灰色の二枚貝を掘り出すと、それを持って私のほうへ歩みよって来た。

「こいつはおーの貝ってえだ」と男はその貝を私の手に渡して云った、「これならいくら採っても構わねえだよ 、そううめえってわけにゃあいかねえが、まずくって食えねえってこともねえだ、そうさ、するめに似てんべえかな、大味《おおあじ》だがするめっくれえには食えるだよ」

 その貝は私の拳を横に二つ合わせたほどの大きさで、べらぼうに重たかった。私は生れつきするめが嫌いであり、いまなお嫌いで、酒を飲みにいっている店でするめを焼き始めでもすれば、待ったなしに退散するくらいである。したがって、そんな味のする貝などを採る気はなかったが、ゆきがかり上そんな顔もできず、大いに乗り気になったふうをよそおって、そのいまいましい貝を五つばかり掘った。

 そのとき男は、沖のほうへ歩いてゆきながら、よく響くしおから声で「そのしとー」とどなった。

 私が見てみると、二百メートルほど沖を一人の男が西に向って歩いていた。印半纏《しるしばんてん》に足は裸で、頬かぶりをし、両手をうしろ腰に組んだまま、ひどく暢《のん》びりと歩いているのである。そこは脛の半ばぐらいまで水があり、男はその水の中で立停って振り返った。

「おめえそこでなにしてるだ」とこちらの看視人がどなった。

「なんか用かね」と男はどなり返した。

「そこでなにしてるかって訊いてるだよ」

「このとおり」男はうしろ腰で組んでいた手を解き、なにも持っていないことを証明するように振ってみせた、「――おらなんにもしてねえだよ」

「なんにもしてねえって」と看視人が云った、「そんならこんなとけへなにしに来ただ」

「ええびだよ」と男は答えた。

 ええびとは「歩み」というほどの意味で、つまりここでは散歩と解釈してもいいだろう。男はそう答えながら、ぶらぶらと、老百姓が田を見廻ってでもいるかのように、暢気そうに歩きだした。

「ええびだって」と看視人はそっちへ近よりながら問い返した、「なんのええびだね」

「なんでもねえさ、ただええびに来ただけだよ」

「こんなとけへかね」

「こんなとけへさ」

「ちょっと」看視人は足を早めた、「おめえどこのしとだえ」

「おらがどこのもんかって」と男もまた足を早めた、「どうしてだね」

 看視人はさらに足を早めた、「どうしてでもいい、どこのしとかって訊いてるだ」

「おらついそこのもんよ」

「ついそこたあどこだ」

「葛西のちっと先よ」

「ちょっと待て」看視人はもっと足を早めた、「葛西のちっと先とはどこだ」

「ちっと先とはちっと先のことよ」男も同じように足を早めた、「なんでそんなこと訊くだえ」

「訊く用があるから訊くだ、待て」と看視人は駆けだした、「待て、いしゃあどこのなんてえもんだ」

「おらか」と男が答えた、「おらなんちゅうもんでもねえだよ」

「待てこら、待てっちゅうに待たねえか」

 看視人の足が水しぶきをあげ、男はひょいと跼《かが》んで水の中へ手を伸ばした。これはたまらぬ、とでもいったような動作で、すばやくなにかを手繰ると、大きな包みを水の中から引揚げ、それを肩に担いで駆けだした。包みの中は貝であろう、包みの口をしめた紐《ひも》の先を足首に結びつけて、さりげなく水の中をひきずっていたものとみえる。看視人は喚きながら追いかけ、男は包みを担いで逃げた。看視人も早いが逃げる男も早く、二人の蹴立てる水しぶきは、しだいに遠くなり、やがて根戸川の川口のほうへと、見えなくなっていった。

 私は青べかの中へらくに坐り、あんこだまと魚煎餅を喰べ、ぬるい茶を飲んで、また「青巻」を披《ひら》いた。

「ただのええびか」私は独りで笑った、「うまく逃げてくれよ」

   十九 狐火

 梅雨のあけかかった或る夜、――高品さんの家の炉端に、常連の蒸気乗りや船頭たちが集まって、茶と菓子をつまみながら話していた。雨はあがったが気温が高く、障子をあけ放した縁側のほうから、ときどきひんやりした微風が吹きこんで来た。

 私は末吉エンジナーと五目並べをしていた。末吉エンジは四十がらみで、蒸気乗りだから色は黒いが、細おもてのなかなかな美男であり、さぞ女にももてるだろうし、道楽もするだろうと思われるが、実際には酒もタバコも口にしないし、子供のない夫婦っきりの生活は、極度に倹約だといわれていた。――一例をあげると、月給はそのまま郵便貯金にしてしまい、生活費は高品さんの奥さんから借りるのである。むろん計面性に立つ倹約生活だから、借りる金額もさして多くはないし、次の月給日にはきちんと返済する。そして残りはまたそっくり郵便局へ持ってゆき、金が必要になると高品さんの奥さんから借りるのであった。

 ――たいしたお金じゃないから貸し惜しみをするわけじゃないわよ、と高品夫人はいつか私に語った。だけれど郵便局へ預けた分には利子が付くでしょ、自分のお金には利子が付くようにしておいて、生活費のほうは人から借りるなんてこすいじゃないの。

 貧しさから生れる知恵はつつましく、そしてたいていはかなしいものだ。末吉夫妻の知恵は貧しさから生れたものではない。夫妻の生活は貧しいものだろうが、その知恵は貪欲に通じるように思える。

 ――いまに高利貸しでもやるつもりだろうさ。

 蒸気乗りたちは蔭でそう云っていた。

 私は末吉エンジと五目並べをしながら、相手の置く石の一つ一つが、みな三四、または四四になるような、極めてゆだんのならない気分を味わっていた。そのうちに高品夫人が、あら狐火だわと云い、縁側の外のほうを指さした。――十坪ばかりの庭のはずれに、垣根のようになった樹立があり、そこから先はずっと田圃《たんぼ》つづきで、あいだにバスの通る道があるほかは、殆んど家もなかった。そのときは夜であったし、梅雨空のことでまっ暗だから、田植の済んだ田の面《も》さえ弁別できなかったが、かなり遠いところに、赤い小さな火が七つか八つ、横に並んでいるのが見えた。

「どじょう捕ってるだよ」と三十六号船の留さんが云った、「田植のあとでは鉾田《ほこた》のほうでもよくやるだ、ありゃあどじょうを寄せるカンテラだよ」

 だが留さんは急に黙った。

 その赤い火の群れが、左と右へひろがり、同時に数も三倍くらいになった。少なくとも二十くらいになり、その位置も一段ほど上へあがったのである。これは人の話ではなく、私が現実に自分の眼で見たことだ。その赤い火は初め七つか八つであり、それが突然、左右へ数を増してひろがり、一段ほど高くあがったのだ。

「狐火だ」と留さんが云った、「おっかねえ」

「留さん初めてじゃないでしょ」と高品夫人が云った。

「おら見ねえことにしてるだ」と留さんは答えた、「あれを見ると化かされるっていうだからな」

「どう化かされるだ」と漁師の吉さんが訊いた、「おめえもう見ちまったじゃねえか」

「おらを見てくれ」と留さんは振り向き、自分が固く眼をつむっていることを示した、「狐火だなと思ったからおらすぐに眼をつむっただ、みんなも見ねえほうがいいだよ」

「どう化かされるだってば」

「よくは知らねえが」と留さんはあたりを憚《はばか》るように云った、「あの火はまやかしだってえだ、向うに火を見せておいて、狐はすぐ側にいるだ、そして人間が火に見とれているうちに、たましいを抜いちまうって云うだよ」

「たましいを抜いてどうするだ」

「化かすのよ」と留さんが云った、「人間にたましいがあるうちは化かせやしねえ、だからまず先にたましいを抜くだってえだ」

「へえ」と吉さんが云った、「へええ、おら初めて聞いた」

 吉さんはなお留さんに構い続けた。

 私は狐火のほうを見ていた。その火はまた変化して、元の位置にさがり、数も七つか八つになった。そうかと思うと等間隔のまま左へ大きく移動し、安ガラスをとおして見るように歪《ゆが》み、こちらの瞳孔《どうこう》が震顫《しんせん》するように、不安定に揺れながら、また左右へひろがって、二十以上にも数が殖えた。

 ――気流のいたずらだな。

 私はそう思った。密度の異なる気流の層が交わると、一種の蜃気楼《しんきろう》に似た現象を起こす、といったようなことを読んだ覚えがある。その夜は気温が高く、梅雨どきらしく蒸《む》していたが、ときどきひんやりした微風が吹いて来た。おそらくそんな気象状況がそういう現象を見せるのであろう。事実は留さんの云ったとおり、どじょうを捕るカンテラ火で、数も七つか八つにちがいない。眼に変化して見えるのは虚像なのだ、私はそう思ったが、誰にも話すつもりはなかった。

「いいかげんにしろよ、吉」と末吉エンジが云った、「留さんをからかったって一文にもなるわけじゃなかんべえに」

 彼は狐火にさえ関心がないらしい。ずっと碁盤の上をみつめていたらしい眼を、ゆっくりとあげて私に云った。

「先生の番だよ」

   二十 芦《あし》の中の一夜

 たぶん九月だったと思う、私は「青べか」を漕いで、堀を東の浜へ出た。その浜にはまえに書いた海水浴場があるし、海へ出るまでの浅い水路はごかいを捕る場所になっていた。ごかいはもちろん魚を釣るのに使う餌《え》で、浅瀬の砂の中に棲《す》んでい、月に五回、「砂を抜けて海へ出る」という。そのためごかいというそうであるが、学問的に正しいかどうかは知らない。それは夜半に始まるので、漁師や釣舟屋の船頭たちは、口のひろい長さ一メートル半くらいの木綿の袋を持っていて、穴からぬけて海へ出ようとするごかいをその中へ流れ込むように仕掛けるのであった。

 私が初めて東の浜へ出たのは、ごかい捕りとは関係がない。その浜には芦の畑があり、魚がよく釣れると聞いたからである。芦の畑などというと不審に思われるかもしれないが、実際に水際の広い地域に、幹の太さや葉の色などで個性をあらわした芦が、――たぶんそれぞれの用途によって区別されるのであろう。――稲や麦を作るように、規則正しく分類して育てられ、晩秋から冬にかけて順に刈り取られるのであった。その芦畑のあたりは、冬になると水鳥類のよい猟場になり、芦の茂っているうちは、縦横に通じている水路が魚の寄り場になる、といわれていた。

 私は「青べか」を水路の一つへ漕ぎ入れ、例のとおり漠然とした勘によって釣糸をおろした。どれだけ収獲があったか、それとも一尾も釣れなかったか、私のノートにはなにも書いてない。それよりも水路を釣り廻っているうちに、私は十七号の廃船と、幸山船長にめぐり会ったのである。いつそんなところにいったかわからないが、人の呼びかけ声に振り返って見ると、十メートルほどうしろの芦の中に、白く塗った一|艘《そう》の蒸気船がもやってあり、そのとものところに、一人の痩《や》せた老人の立っているのが見えた。

「そんなとこじゃ釣れねえだよ」と老人は特徴のあるしゃがれ声で云った、「こっちへ来せえま、この船の上から釣ればいいだ」

 私はへどもどとなにか答えながら、その老人のようすを観察した。

 そこは水路のゆき止りで、向うに松並木のある岸が見え、船はそちらを舳先《へさき》にしてもやってあり、底が浅いため、岸に繋《つな》いだほうが高く、ぜんたいが艫《とも》のほうへかしいでいた。老人の年はわからない、痩せたひょろ長い躯に、両前ボタンの古ぼけた制服を着、かぶっている帽子には錆《さ》びて黒ずんだモールと、徽章《きしょう》が付いていた。通船の船長の正装であるが、上着から下は裸で、皺《しわ》くちゃになった渋色のパンツが見えていた。顔は汐やけがして黒く、頬も眼もくぼんでいるが、顎《あご》は逞しく張っており、眩《まぶ》しそうに寄せた眉毛は灰色であった。

 老人は私と話したいようすを示したが、私はなんとなくおちつかず、――というのは、そんな芦畑の中に古い通船があることも、その船にそんな老人がいることも、少なからず非現実なような感じがしたからであるが、――またこの次に来よう、という意味の返事をして、まもなく「青べか」を漕ぎ戻した。

 それから二三日経った或る夜、高品さんの家の炉端でその老人の話をした。

「ああ幸山船長ですよ」と高品さんが穏やかに笑いながら云った、「息子もちゃんとしているし、嫁にいった娘もいるんですがね、ああやって独りぐらしをしているんです、人嫌いでね、おかしなじいさんですよ」

 幸山船長は東湾汽船に四十年の余も勤めた。十三か四で見習いになり、それから水夫、エンジナー、船長になったが、四十余年のあいだ一度も事故を起こさなかったし、その勤めぶりも模範的だったので、会社から幾たびか表彰された。停年になったが、幸山さんは船からおりることを拒絶し、そのまま五年も舵輪《だりん》を放さなかった。

 ここでちょっとブル船長のことを記しておこう。ブルさんと仇名《あだな》される波木井船長は、東湾汽船の三十六号船の船長だが、停年が過ぎたのに頑として船をおりない。彼は脂肉をぞんざいに寄せ集めたように肥えていて、歩くと躯じゅうの肉がだぶだぶ波打って揺れる。それもいちようにではなく、胸のところはこちらへ、腹や腿《もも》の肉はこちらへというぐあいで、見ているのが恥ずかしくなるほど歩きにくそうであり、また必要のない限り殆んど歩くことはなかった。顔もたっぷりと肥えてい、瞼《まぶた》が垂れさがっているため、眼は糸のように細く、視力も極度に衰えていた。顎《あご》のところには厚い肉が襞《ひだ》をなしてたたまり、首を曲げるとその肉襞がぐりぐりと動いた。――ブルさんとはその風貌ぜんたいをさした仇名であるが、あまり似すぎているため、却《かえ》って興ざめなくらいであった。そのブル船長の視力は、二十メートル先もよく見えないというくらいだから、自分の眼では舵輪を操ることができない。そこで水夫の留さんが舳先に構えていて、「おも舵《かじ》」とか「ゴーヘー」とか「とり舵」とか「ゴースタン」などと、大きく手を振りながら叫び、それによって船長は舵輪を廻し、エンジナーへの合図の鐘を鳴らすのであった。多少頭が温かいといわれている留さんには、それがなによりも誇りがましい任務だったろう、彼は酒に酔ったりすると、しばしば得意げにこう云ったものである。

 ――おらあがいねえば三十六号はやみだ。

 それでもなお船をおりないブルさんのように、幸山船長も頑強にねばった。そうして、幾たびかめの辞職勧告に、多額の退職金が示されると、幸山船長は「金は要らないが十七号を呉れるなら退職する」と答えた。

 十七号はすでに廃船となって、徳行の岸に繋がれていた。いくらで払いさげるということにさえ、関心を持つ者がなかったくらいなので、幸山船長の交換条件はこころよく受入れられたのであった。――そこで彼は、十七号を東の浜まで曳《ひ》いていってもらい、現在の位置に繋留《けいりゅう》したうえ、そこで自分ひとりの隠退生活を始めたのである。幸山船長には息子と娘があり、息子はT物産に勤めていい月給を取っているし、娘の嫁入った先もかなり裕福な商家で、どちらも父親を引取りたいと望んだ。幸山船長の妻はずっとまえに病死したから、世間に対しても、父親をそんなふうにほったらかして置くわけにはいかなかったのだろう。けれども、幸山船長は十七号船から動かなかった。浦粕の人たちに云わせると、――ふじつぼが岩にひっ付いたみてえ、だそうで、息子と娘とはやむなく、毎月の仕送りをすることで、各自の良心を慰めている、という話であった。

 船乗りの船に対する執着と愛情については、外国の小説などによく描かれているが、私はブルさんがいまなお見えない眼を剥いて舵輪を放さないことや、この幸山船長の話に深い感動をおぼえた。

「あの十七号は」と私は訊いた、「老人がずっと乗っていた船なんですね」

「いや」と高品さんは柔和に答えた、「まだ水夫だったころに四五年乗っただけでしょう、あれはもと外輪船だったのを改装したもので、廃船になるまえは荷物専門に使われていたそうですからね」

 私はちょっと失望した。高品さんの云うことが事実とすれば、その話のロマンティックな味わいはずっと減少するからである。

「それにしても」と私はまた訊いた、「どうしてあんな人けのない芦畑の中でなんぞくらしているんですかね」

「さあね」高品さんは炉べりでキセルをはたき(高品さん夫妻はどちらもキセルで刻みタバコを吸われた)新しく詰めたタバコに火をつけてから云った、「いろいろな話があるけれど、本当のところはわかりませんね、なにしろ変ってるじいさんだから」

 秋の末ごろになって、私は一夜その十七号で幸山船長と語りあかした。

 それまでは四五回ばかり、「青べか」を漕いでそこへゆき、船長と話したり、一度は船の上へあがってみたりした。幸山船長の一日の大部分は、十七号の清掃と機関を磨くことに費やされるようであった。船体の白いペンキはいつも塗ったばかりのようにみえたし、楕円形《だえんけい》の船尾板にある(東・17号)という文字は、入念に描かれた青いペンキの唐草模様で囲まれていた。――蒸気の機械もつねに磨かれ、油を塗られるため、まるで新造船の機械のように光り輝いていた。甲板にある船長の席はきれいに整頓《せいとん》され、木工部や舵輪は飴色《あめいろ》に拭きこまれており、機関部へ命令を伝える鐘や、それに付いている打金紐《うちがねひも》までが、新品同様に保持されている、というぐあいであった。――これらの事実は、高品さんの話と矛盾するように思われたので、念のため私はその点を訊いてみた。幸山船長は徽章とモールの付いた帽子を持った手でぼんのくぼを掻《か》いた。

「そうさな」と幸山船長は考えぶかそうに、特徴のあるしゃがれ声で云った、「そうさ、――おらが乗ったのは十九の年の二月で、それからまる四年くらいだっけかね、まる四年とちょっとだと思うが、詳しい月日は覚えてねえだよ」

 それでは高品さんの云うとおりなので、十七号船そのものに特別の執心があるわけではないのだな、と私は思った。

 たぶん十月の中旬だったと思う。月のいい晩で、風はないが気温は低かった。釣舟宿「千本」の倉なあこが、ごかいを捕るところを見せるというので、私は「青べか」を漕いでいっしょに東の浜へいった。――夜の十時ころだろうか、堀が海へ出るところは浅瀬で、左右の岸が、退き始めた汐の中で二条の砂嘴《さし》をなしている。いってみると、そこにはもう集まって来たべか舟の灯が十五六も見え、すでに仕掛を始めている者もあった。――私は倉なあこのするのを見たが、まえに記した袋の口の四カ所を、二本の女串《めぐし》に結び付け、その女串を水の中の砂に立てる。すると袋の口はほぼ四角形にあいて、下辺が砂地にぴったり着き、穴をぬけたごかいが流れて来れば、しぜんとその袋の中へはいる、というわけであった。――倉なあこは仕掛をしながら、例のゆっくりした訥弁《とつべん》で、以上のことを説明してくれたのだが、その説明が終るのを待っていたように、誰かが私に呼びかけた。

 振り返ってみると、反対側の砂嘴に、幸山船長がカンテラを持って立っていた。

「ごかい捕りかね」と船長が云った。

 私が答えると、船長は片手に持っている袋を、胸の高さまであげてみせた。

「今夜はぬけるのが早かっただ」と幸山船長はしゃがれ声で云った、「おらもう捕ったからけえるとこだよ」

 それから人恋しげな口ぶりで、問いかけるように云った、「いっしょに船へ来ねえかね」

 私は倉なあこを見たが、彼は黙って次の仕掛をやっていた。ちょっと迷ったが、人恋しげな船長の口ぶりは私をとらえてしまい、それを振り切ることはできなかった。私は倉なあこに声をかけておいて、船長のべか舟のあとから「青べか」を漕いでいった。伸びるだけ伸び、茂るだけ茂った芦のあいだの水路は、月の光の蔭になって昏《くら》く、どこを曲るのか順路がわからなかった。しかし幸山船長にとってはぞうさもないことだったのだろう、私のまだ知らないような、幾曲りかの細い水路をぬけて、驚くほど短時間に、十七号船へゆき着いた。

 三十分ほど経ってから、私たちは長四帖ほどの狭い船室で、窮屈に坐って茶を飲んでいた。それはどの船にもある設備で、腰掛ける客のほか、坐る客のために設けられているのだが、その十七号はもと外輪船だったからであろう、他の通船のそれより幾らか広いように感じられた。――左右は硝子《ガラス》を嵌《は》めた窓、うしろは機関部と仕切られた板壁、前方は腰掛のある広い船室であるが、そこには障子が取り付けられているし、床には畳が四帖敷いてあった。板壁には棚が作りつけられ、小さい仏壇と、六七冊の本が並んでい、本の片方を硝子張りの人形箱がブックエンドのように押えていた。――炊事は腰掛のある船室のほうでするらしいが、こちらにも小さな火鉢があり、その脇に茶箪笥《ちゃだんす》や、たたんだ卓袱台《ちゃぶだい》や、炭取、柳行李《やなぎごうり》、駒箱をのせた将棋盤、そのほかこまごました道具類が、いかにもきれい好きな老人の独りぐらしらしく、きちんと整理されてあった。

「あの人形が可笑《おか》しいかね」と船長は私の視線を追って問いかけた、「可笑しかんべえさ、こんなとしよりの持つもんじゃねえだからな、いつだかも伜《せがれ》が孫をつれて来たとき、――孫は女の子で五つだっけだが、その孫が欲しがって泣き喚いただ、伜も呉れろってせがんだだよ、だがおらあ断わっただ、なげえあいだ側に置きつけたでね、いまでも手放す気にゃあならねえだよ」

 私は船を大切にする船長の、船乗り気質《かたぎ》についてなにか云ったように覚えている。

「さっき倉なあこが先生って呼んでたっけだな」と幸山船長は笑った、「なんの先生かおら知らねえし、そう思ってくれるのは有難《ありがて》えだがね、これはそんなむずかしい理屈でやっているわけじゃねえだよ、ただ悪いがきどもが来ちゃ船をよごすだ、黒いペンキをなすくったり泥を塗りつけたりよ、ちかごろのがきどもときたら手に負えねえ、わけもなんもねえに、きれえな物さえ見るとめのかたきにして、ぶっ毀したりよごしたりしてよろこんでるだ、――しょうがねえ、叱りようもねえだからね、そのたんびにおら塗り直しているだよ、おらのほかにこいつをきれいにしといてやる者はねえだからね」

 それから暫《しばら》くのあいだ、いまは記憶していない話が続き、どんなふうにしてか、やがて幸山船長はむかしの恋物語をはじめ、私はできるだけ無関心をよそおって聞いた。――そういう話をうまく聞くには、相手によって二種類の聞きかたがあるようだ。或る者はこっちが乗り気になって、強い関心を示さなければならないし、他の者は反対に、聞くような聞かないような、平静な態度を保つほうがよい。この選択を誤ると、しばしばいい話を聞きそこなうようである。――私は幸山船長が後者に属するように感じたのだが、その直感は外れなかったとみえ、船長はなんの警戒心も起こさず、静かにゆっくりと語り続けた。

 話は単純なものであった。

 船長は十八歳のとき初恋をした。相手は新堀川の小さな雑貨屋の娘で、名はお秋、年は彼より一つ下であった。その恋はあどけないほど幼く、けれどもあたたかい、きれいなものであったが、きれいなままで、三年あまり続いて終りになった。二人の気持が変ったのではなく、娘の親がかれらの仲を裂いたのである。――その父親というのはなかなか切れる男で、芦畑を作ることを思いつき、県からその許可を取ると、根戸川の下流から浦粕の東の浜へかけて、広大な地域の権利を手に入れた。葛飾《かつしか》から浦粕一帯は海苔《のり》の産地として知られている、したがって、海苔を漉《す》くのに使う海苔|簾《すだれ》(約二十センチ四方ほどの大きさで、細い芦の軸で編んだ物)だけでも、その需要は信じがたいほど多量であり、その他の分も加えると、どんなに広大な芦畑を作っても、作り過ぎることはなかった。――こうして新堀川の小さな雑貨屋は、見ているうちに産をなした。新たに家を建てたり、刈った芦の倉や、海苔簾を編む工場を作ったりし、「大叶屋」という看板を掲げて、ひとかど旦那と呼ばれるようになった。

「大叶屋、――」と云って、幸山船長は喉《のど》で笑った、「子供たちはおっかねーや、ってはやしたてたもんだ、おっかねーや」

 娘は二十一歳で嫁にいった。

 根戸川に沿った永島というところの、かなりな資産家だったそうで、その結婚が迫った或る日、娘は幸山船長としめし合せ、東の浜の松並木でひそかに逢った。娘は持って来た人形箱を渡し、躯は嫁にゆくが自分の心はこの人形にこめてある、どうかこれを私だと思って持っていてくれ。そう云って泣いた。――こういう話は文字に書くと、あまりにありふれていておかしくもないが、幸山船長からじかに聞いていた私は、その「ありふれ」ている単純さのため、却って深く感動したことを覚えている。――娘はなお、どうせ嫁にいくのだから、このからだをあなたの好きなようにしてくれと云って、やけのような態度で幾たびも迫った。船長もいっそのことそうしようかと思ったが、まだ女に触れたことがないため、どういう手順が必要なのかはっきりわからず、娘が積極的になればなるほどおじけづいて、ついになにごともなく別れてしまった。

 娘の婚家は根戸川に近いので、幸山船長の乗った船が通ると、彼女は土堤《どて》まで出て来て姿を見せた。通船の排気音やエンジンの音は、それぞれに特徴があって、馴れた耳で聞くと何号船かということが判別できるという。娘は十七号船の音が遠くからわかるのだろう。ときにはあねさまかぶりに襷《たすき》をかけ、裾を端折《はしょ》ったままで、――たぶん洗濯かなんかしていたのだろうが、――あたふたと土堤へ駆けだして来たりする。出て来ても手を振るとか声をかけるなどということはない、船のほうを見るようすもなく、ただ船の通り過ぎるあいだ、自分がそこにいることを彼に見せ、また、さあらぬ態《てい》で彼のほうをひそかに見るのであった。船がそこを通過するのに約五百メートル、二人がお互いの姿を見ることのできる区間は約三百メートル。川を遡航《そこう》する時間は長くて五分くらいだし、くだりのときは三分たらずであるが、その水上と土堤との短くはかない、けれども誰にも気づかれることのない愛の交換は、若い彼にとってこの世のものとは思えないほどのよろこびであった。

 やがて十七号船は荷物専用になり、彼は十九号船に移った。そのあいだに一度、五十日あまり彼女が姿を見せなかったことがあった。もうこれで終りだろうか、娘の気持はさめてしまったのだろうか。彼は二人の仲を裂かれたときよりも激しい不安と、絶望感におそわれた。だがそれは思いすごしで、彼女はそのあいだ産褥《さんじょく》についていたのだ、ということがわかった。再び土堤へ姿を見せたとき、彼女はおくるみで包んだ赤子を抱いていた。

「おかしなことだが」と幸山船長は云った、「まったく根もねえ話だが、そのときおらあ、あのこが抱いているのはおらの子だっていう気がしたっけだ、あの子がおらの子を生んだ、いま抱いているのはおらたち二人の子だってよ、先生なんぞにゃあばかげて聞えるかもしれねえだがね」

 彼女の生んだのは女の子であった。

 あとでわかったのだが、彼女の産は重く、そのため躯が弱ったということで、土堤へ姿を見せないことが多くなった。しかし、こんどは彼は疑いも不安も感じなかった。相当な資産家の主婦であり、また子も生んだとなれば、ときには都合の悪いこともあろう。番たび土堤に出て来られないのは当然だ、というふうに考えるようになった。

 彼は二十七歳でエンジナーになり、結婚した。相手は郷里の水戸在に育った娘で、気が強く、言葉も動作も荒っぽく、彼は始めから好きになれなかった。妻は息子と娘を生み、三十二歳で死んだが、死なれるまで彼は愛情というものを感じたことがなかった。妻のほうも同様であったか、硝子箱の京人形を見てもべつに気にしなかったし、彼に愛情があるかないかを知ろうともしなかった。

「芦が風を呼んでるだな」幸山船長はふと頭を傾けて云った、「――ちょっと外へ出て風に吹かれようかね」

 私たちは甲板へ出た。

 火鉢のある狭い船室から出ると、晩秋の冷たい夜気がこころよく肌にしみとおった。だらけたような肌の細胞の一つ一つが、新しい酸素を吸っていきいきとよみがえるのを感じた。

「そうさ、芦は風を呼ぶだよ」私の問いに答えて船長は云った、「見せえま、東のほうで呼んでるだ、東のほうから風が吹きだすだよ」

 慥《たし》かに、船長の指さしたほうから、静かに微風が吹きわたって来るようであった。私はタバコとマッチを出して吸いつけ、船長にもすすめたが、船長は欲しくないと云って手を出さなかった。――月はかなり西に移ってい、空には雲の動きも見えた。岸の草むらでは虫の鳴く音がしきりに聞え、微風が芦をそよがせると、葉末から露がこぼれ、空気がさわやかな匂いに満たされた。雲が月のおもてにかかると、そのときだけはあたりがほの暗くなるが、雲が去ると、これらの風景ぜんたいが、明るくて青い、水底の中にあるように眺められた。

 幸山船長は船長の席にあがって腰を掛け、両手で舵輪を握って、ちょっと左右へ廻してみた。それから、すぐ右にある打金の紐を引いて、ちん、と鳴らし、ちんちん、と鳴らし、一つ鳴らして次にすぐ二つ鳴らしてみた。

「ゴースタン、これが合図だっただよ」と船長は云った、「永島へ船が近くなると、こう鳴らしてゴースタンとどなる、それからスローアヘーとどなってこう鳴らすだ、――おらが二十九号の船長になってからだがね」

 彼は三十五で船長になった。水上と土堤との三百メートルの逢曳《あいび》きは続いていたのだ。むろんずっとではない、どちらかの都合で相当な期間、お互いに姿を見ないこともあった。そのあいだに彼女は三児の母となり、彼のほうでは妻に死なれた。けれども、実生活の煩瑣《はんさ》な用事に邪魔をされながら、そうすることができる限りは姿を見せあった。――二人はそれ以上に出ようとはしなかった。彼は永島へは近よったこともない、彼女が長く姿を見せないとき、病気ではないかと心を痛める。本当に病気だったこともあり、誰からともなく噂《うわさ》が耳にはいると、ようすをみにゆきたい、という抑《おさ》えがたい衝動に駆られたものだ。しかし彼は、自分の中にある自分以上に強いなにかの力によって、そういう激しい衝動をきりぬけることができた。

「それでもたった一度だけ、側へよって口をきいたことがあるだよ」幸山船長は舵輪に凭《もた》れかかり、そっと頬笑んでいるような調子で続けた、「あれはそうさな、うちのおっかあが死ぬちょっとめえだっけかな、あのこが子供を伴《つ》れて、徳行からおらの船へ乗っただ、伴れているのは四つくれえの女の子で、おらあその子を抱いて渡り板を船まで渡してやっただ、あのこはあとから渡って、子供を抱き取りながら、すみませんねえって云った、おらも云っただ、いまでも覚えてるだが、今日はいいお日なみですねってよ」

 幸山船長は口をつぐみ、岸の松林のほうをじっと見まもっていた。

「すみませんねえ」と船長は呟《つぶや》き声で繰返した、「――今日はいいお日なみですね」

 彼が四十二の年に、彼女は死んだ。

 それを知ったのは、六十日の余もあとのことであった。そのくらい姿を見せないことは幾たびもあったので、彼はかくべつ心配もしなかった。そして、彼女が六十日以上もまえに病死したと聞いたとき、ちょっと云いようのない感動に包まれた。悲しいことは紛《まぎ》れもなく悲しかった。この世では二度と逢えないと思うと、舵輪を握る気力もなくなり、五日だか七日だか休んで家にこもっていた。けれども、悲しさや絶望感の中に、一種ほっとしたような、うれしいような気分がうまれていた。

「どう云ったらいいか」と幸山船長は凭れている舵輪を指で撫《な》で、暫く口ごもっていてから云った、「――そうさな、あのこは死んでおらのとけへ戻って来た、っていうふうな気持だな、長えこと人に貸しといたものが返って来た、そんな気持だっけだ、おらそれから、人形箱の埃《ほこり》を払っただよ」

 彼女は嫁にゆくが、心はその人形にこめてあると云った。彼はいまこそそれが現実になった、というように感じられたのだ。

 彼は妻に死なれてから、ずっと独身でとおしたが、もはや独りではなく、彼女が彼といっしょであった。子供たちの眼があるので、口や動作には決してあらわさないが、心の中ではいつも互いに話しあっていた。

 ――今日は竪川《たてかわ》で伝馬《てんま》が詰っちまってな、高橋《たかばし》まで五時間もかかっちまっただよ。

 ――そりゃあたいへんでしたね、疲れ休めに酒でもつけましょうか。

 ――いやよしにすべえ、おらあ酒を飲むと却ってあとが疲れるだから。

 ――それだけがあんたの損な性分ねえ。

 こういうふうな会話が、現実そのもののようにとり交わされるのである。自問自答とか、空想めいた感じは少しもない。彼がこんなふうに云ってもらいたい、と期待するときに、彼女はしばしば彼の意志にさからったり、子供のように拗《すね》たりすることさえあった。

「あのこはときどきうちへ帰りたがっただ」と船長は云った、「子供のようすをみて来てえだからってね、むりはねえさ、おら船が永島へはいると、ゴースタンをかけ、スローアヘーにするだ、そうするとあのこはうちへ帰るだよ」

 これは誰も知らなかったし、誰に気づかれることもなかった。ただ、永島へかかるときに限って、船を「後退」にし、「微速前進」にするのがわからず、頭がどうかしたんだろう、と云われたことがあった。

「いまでもみんなは、おらの頭がどうかしてると思ってるだよ」そう云って、船長は可笑しそうに喉で笑った、「――ぶっくれの十七号船を貰って、こんなところで独りぐらしをしているのも頭がおかしいせえだってよ」

「独りぐらしだって」と船長はまた狡そうに笑った、「みんななんにも知っちゃいねえだ、おらもこんな話は誰にもしやしねえだがねえよ」

 幸山船長は黙った。

 私は彼のうっとりとした眼が、岸の上の黒い影絵のような松並木のあたりを見まもっているのに気づいた。やがて幸山船長は欠伸《あくび》をし、まわりの芦畑を眺めまわした。

「もうじき芦刈りが始まるだ」と船長は云った、「するとやがて鉄砲撃ちがやって来るだ、あれだきゃあうるさくってかなあねえだよ」

 私は空が白みだしてから、私の「青べか」を漕いで帰った。そして、二度と幸山船長を訪ねてはゆかなかった。

   二十一 浦粕《うらかす》の宗五郎

 根戸川の下流、沖の百万坪の地はずれに、某企業家が汚物処理の大規模な工場を建てようとし、県へ許可を申請したとか、すでに許可を取ったとかいう噂が広がった。

 汚物といっても例の清掃関係のもので、その処理したあとの廃棄物は根戸川から海へ放流するといわれ、それは小魚や貝類を死滅させるから、周辺の漁民ぜんたいの死活問題であると、かなり大きな騒ぎになった。――その声はしだいに広がり、強く激しい輿論《よろん》をもりあげ、人の集まるところでは、必ずこの大問題が論じられた。釣舟宿「千本」の下座敷で、或る夜この件について、大勢の者がやりあった。船宿では釣客のために、ごろ寝の準備もあるし、簡単な飲み食いもできる。専属の船頭の中には住込みの者もいるので、二階も下も広く部屋がとってあり、下座敷では船頭や漁師や、ときには蒸気乗りなどが集まって、よく賑やかに飲んだり騒いだりした。――その夜も同じような顔ぶれだったろう、「千本」には長男の鉄なあこと、嫁にいったおかず、十七歳で美貌の二女おすみ、小学六年の二男の久、小学三年の長太郎。三女のしづ、あるじは和助といって、船宿経営の手腕は浦粕随一といわれたし、客筋のいいこと、常に繁昌していることも事実であった。

「こりゃあなんだ、その、あれだ」と漁師の一人が云った、「まるで業病かかさ持ちの女を嫁に取るみてえなもんだ、こっちはちっともいいおもいをしねえで、血の腐った子や孫ができる、そんなものはおめえまっぴらだ」

「かさ持ちってなんだ」と脇で聞いていた長《ちょう》が云った。

「寝ちまいな」と和助が投網《とあみ》を繕《つくろ》いながら云った、「鉄もおしづも寝ちまったぞ」

「とけえ(都会?)のやつらがてめえでひり出した物あてめえで始末をするがいいだ」と中年の船頭が云った、「やつらのひり出した物をおんだらが押っつけられる義理はねえ、おらたちだって自分の始末は自分でつけてるだ、なせ」

「そのけえしゃ(会社?)のやつらあせんであぎ(千代萩?)のさけえごぜんみてえなもんだ」五十年配の船頭が、「なあ」と倉なあこに云った、「県の許可あ取ったなんてえらそうな威《おど》しをかけて、おらたちに毒饅頭《どくまんじゅう》を食わせようってえだ、おんだらを千松《せんまつ》にしようとしてけつかるだよ」

「ちゃん」と長がまた訊いた、「せんまつってなんだ」

「寝ちまえってえにな」と和助が云った、「そんなこたあ子供の聞くもんじゃあねえだ」

「そりゃあげでえ(外題?)ちげえだ」とやはり五十がらみの漁師が云った、「毒饅頭をくわされたなあ加藤清正だべえ、ありゃあおめえ徳川方の計略だあ」

「じゃあ」と先の船頭が訊き返した、「せんであぎで千松のくわされたなあなんだ」

「ありゃあ執権の計略だべえ、執権ともなればなんか上等な干菓子なんかだべえさ」

 いやそうでない、このまえ歌左衛門の芝居で見たときには三方《さんぼう》の上へ饅頭が盛ってあった。そりゃあ田舎芝居だからだ。田舎芝居とはいっても市村歌左衛門は「田舎団十郎」といわれるくらいの名優だ、いつかみちとせをやったときにはちゃんと屋台で蕎麦《そば》を食ってみせたではないか、饅頭でないのに饅頭でまにあわせるような客をなめた芝居をするわけはない。そうだな、とべつの誰かが云った。このまえ国定忠治をやったときにも、――こうして、問題は「田舎団十郎」の良心的な名演技のほうへそれてゆき、みんながその話に熱中した。これは一例にすぎないが、罐詰《かんづめ》工場でも、役場の待合所でも、根戸川亭でも、堀南の洋食屋「四丁目」でも、漁師や船頭だけではなく、住民がちょっと四五人も集まれば集まったところで、すぐに浦粕の死活問題が論議された。

 こうした気運がしだいにふくれあがって、やがて、町民大会を開催せよ、という声になり、第一回が「梅の湯」でひらかれた。午後六時からというので、私は五時半ころにでかけていった。浴場の広い流し場へうすべりを敷いたのが聴衆席であり、浴槽《よくそう》に蓋をし、その上へさらに板を並べ、古テーブルを置いたのが演壇であった。下足番などはない、各自が自分の履物を持ってあがるのであり、用意のいい人は座蒲団も持って来ていた。――演壇のうしろの羽目板には、「汚物処理場設置反対大演説大会」というビラに続いて、演説者の名を書いたビラがずらっと並んでいた。その中には応援弁士として、県や市の議員の名もみえたように思うが、慥かではないし、またここではその必要もない。というのが、演説は実際には誰一人としてやれなかったからだ。

 定刻まえに、会場は殆んど満員になった。ぎっしり詰った聴衆のあいだを、いつも寄席の「浦粕亭」に出ている中売りの女が、巧みに「えーおせんにラムネ、南京豆《ナンキンまめ》にキャラメル」と売り歩き、それが大いに繁昌していた。子供たちは人の肩を踏んづけてとびまわり、殴られて泣きだし、人びとは煎餅《せんべい》を喰《た》べ、ラムネ玉の音をさせながら饒舌《しゃべ》りあい、はなれて坐った者同士が、かなきり声で呼びあったりしていた。気がついてみると、演壇の脇、つまり湯屋の番頭の出入りするところに、巡査が三人来て立っていた。三人とも帽子の顎紐をかけ、手には白い手袋をはめていた。それは東京などで政府反対の演説会があるとき、臨検の警官がみせる身拵《みごしら》えで、私はなにかあるなと直感した。けれども町の人たちはそのものものしさに気づかないようすで、ラムネ玉の音をさせ、煎餅をかじる音をさせ、高ごえで饒舌りあっていた。

 六時二十分になって、司会者が演壇へあがった。足場が不安定なので、テーブルの前まで、いかにも危なそうなさぐり足で歩いた。

「へっぴり腰だぞ……」と誰かが呼びかけた、「おっかあを……んじゃあるめえし、しっかり腰を伸ばしてええべや」

 高くて広い浴場の空間が、ばかげた哄笑《こうしょう》でわれ返るような反響を起こした。

 その司会者が誰であったか記憶がない、彼は馴《な》れない役目のためにあがってしまい、顔は蒼《あお》く、テーブルにつかまってふるえているのが、私のところからもよく認められた。それで聴衆はすっかりうれしくなり、次から次と嘲笑《ちょうしょう》やおひゃらかしの声がかかった。子供たちまでが面白がって、「……ちゃんこよ、そんなにおっかながるなえ」とか、「おっかあはいねえからしんぺえすんな」などと喚きだした。

 全聴衆がそんなふうだったわけではない。もちろんこれが町の死活問題に関する大演説大会だということを、しんけんに考えている者も少なくなかったので、制止の声や、司会者を励ます声も聞えだした。すると突然、聴衆の中から一人の若者が出て、すばやく演壇へとびあがった。年は二十六七だったろう、古びた印半纏《しるしばんてん》の下にパンツをはいているだけで、壇上へあがるなり颯《さっ》と両手を高くあげた。

 会場は静かになり、聴衆の眼はその若者に集まった。

「演説会もくそもねえ」と若者は怒った酔漢のような口ぶりで喚いた、「饒舌るだけで止められるもんじゃねえだ、会社のやつらをぶっ殺せ、おらが佐倉宗五郎になるだ」

 とたんに巡査がサーベルを鳴らした。

「弁士中止」と巡査は白い手袋をはめた片手をあげて叫んだ、「演説会は解散」

 それがどういうことであるかを、聴衆が理解するにはちょっと暇がかかった。

 私はすぐに会場を出たが、そのあと、高品さんの家を訪ねると、やがて集まって来た常連が、大演説大会の話を始め、演壇へとびあがった若者の、勇気と決意を褒めあった。

「おらが佐倉宗五郎になるだって」と秋葉エンジが感動をこめて云った、「あんな大勢のめえでなかなかああは云えねえもんだ、いってえどこのもんだ」

「知んねえな」と三十六号船の留さんが首を振った、「誰も知んねえ顔だってよ、それにしちゃあえれえもんだ」

「おらが佐倉宗五郎になるか」と漁師の源さんが云った、「命を張るってえだからな、ああいう人間がもう五六人もいれば、会社なんぞひねり潰《つぶ》しちまうだがな」

「まったくのところ」と源さんは続けて云った、「こんどの問題じゃ、あの男が頼みの綱だぞ」

 第二回は浦粕座で、もっと盛大に開催された。聴衆は第一回のときの倍ちかく集まったし、第一回のときよりまじめで、緊張していた。しかし、いよいよ開会が宣せられると、また例の若者が壇上にとびあがった。聴衆は凱旋《がいせん》した英雄を迎えるように、歓声と拍手を送り畳を叩いた。若者は第一回のときと同じく、会社の連中をぶち殺せと叫び、おらが佐倉宗五郎になると叫び、すると臨検の巡査が、――そのときは巡査部長が来ていて、――弁士の中止と、演説会の解散を命じ、若者を連行して去った。

 大演説大会は五回まで開催されたが、議題について演説した者は一人もなかった。それは番たび例の若者がとびだして来て、ぶっそうなアジテーションをとばし、そのまま解散になるからであった。私は第二回のあとは聞きにゆかなかった。というのはその台本の筋はほぼ推察できたし、何度やっても結果は同じだと思ったからである。――その若者は巡査に連れ去られるが、次の大会にはまたあらわれた。そうして、第五回の大会のあとで、主催者側は駐在所から非公式に「こういう過激な演説は時節がら好ましくない」という意味の通告を受け、それを機会にその催しをやめることになった。

 若者もそれっきり姿を見せなくなったし、どこの誰ともついに判明しなかった。「おらが佐倉宗五郎だってよ」と住民たちは思いだすたびに感嘆しあっていた、「ああいう命知らずの骨っぽい人間が、もう五六人いてくれたらなあよ、ふんとに、あんなえれえやつはそうざらにはいねえもんだぞ」

 汚物処理場がどうなったか、私は覚えていない。

   二十二 おらあ抵抗しなかった

 秋の夜の九時ころ、船宿「千本」の店先に縁台が三つ出してあり、船頭や漁師たちが、涼みながら話したり、酒を飲んだり、将棋をさしたりしていた。――月のいい晩で、空にはほんの僅かな千切れ雲しかなく、根戸川の水面も明るかったし、対岸のいかずちの家並みも、一軒ずつはっきり見わけられるほど明るかった。現に二人の若い船頭が将棋をさしているが、そこは店の外で、電燈の光などは届かないのに、駒を動かすのに少しも不自由はなかった。――三つの縁台に十二三人いたであろうか、一時間ほどまえまでは子供たちも混っていたし、人数も多かったが、しだいに人が減ってゆき、道の往来も殆んどなくなっていた。

 河岸には通船が三|艘《そう》と、釣舟やべか舟が並べてもやってあり、それらには人けがなく、月光を浴びたまま、ひっそりと身を寄せあっているようにみえた。そのうちに、葛西汽船の三十二号から、一人の少年があらわれ、渡り板を踏んで岸へあがると、そこで草履をはいて「千本」の店のほうへ来た。少年は痩せたすばしっこそうな躯つきだし、色こそ汐《しお》やけで黒いが、おもながの顔は眼鼻だちが際立っていて、美少年といってもいいだろう。ことにはっきりとした眉毛と、澄んでいるが少しばかり狡そうな眼つきが、その相貌をひきたてていた。

「酒をもう一升」と少年は「千本」の店へはいってどなった、「野口エンジに付けといてな」

 店の奥から二女のおすみが出て来た。

「あら銀ちゃん」とおすみが云った、「おめえまだ船にいたのか」

「野口エンジに一升」と少年は云った、「佃煮《つくだに》かなんかくんなってよ」

 店先の縁台から、よういろ男、と少年に呼びかける者があった。

「銀公か」と将棋を見ていた船頭の一人が云った、「三角のお吉はどうした、もうものにしちゃったか」

「昨日だっけ」と端の縁台で酒を飲んでいた中年の蒸気乗りが云った、「安田屋のおつゆがまた草履を呉れたってえじゃねえか、年もいかねえくせにてえした腕だな」

 少年は振り向きもせず、口もきかなかった。その顔には誇らしい自尊心と、おとなたちに対する軽侮と優越感とが、少年らしいなまなましさであらわれていた。――店は電燈を一つ残して、あとは消してあったから、広い鉤《かぎ》なりの土間は、月光の遍満している戸外の明るさで、実際よりもうす暗くみえた。――おすみは酒の壜《びん》と、蓋物を持って土間の奥から出て来た。草履をつっかけているので、足音は聞えなかった。彼女は手招きをし、少年が近よってゆくと、持っている酒の壜と蓋物を脇へ置き、すばやく少年を抱いて接吻をした。少年はじっとしていた。躯も頭もまっすぐにしたままで、両手は躯に添って垂れていた。おすみはものたりなげに、けれどもすぐに少年からはなれた。

「はいお酒」とおすみは云った、「この中にすずめ焼としぐれ煮がはいってるよ」

 少年はその二つを受取って店を出た。

「よういろ男」と初めに呼びかけた男が云った、「今夜は三十二号で逢曳きか」

 だが少年は黙って道を横切ってゆき、草履をぬいで小腋《こわき》にはさみ、渡り板を渡って三十二号船の中へ姿を消した。

 彼は三十二号船の見習い水夫であった。年は十七歳、みんなは彼を「銀公」と呼んでいる。銀次というのか銀太というのか、あるいは銀造とでもいうのか、苗字も正しい名もわからない。この土地では一般にそういうことに興味をもつ者はいないようだ。もちろん、所属の船会社の名簿には記載してあるだろうし、ことによれば町役場の戸籍簿にも記録されているかもしれない、だが、日常生活ではそんなことはどっちでもよかった。――三十二号船の「銀」といえば、徳行でも浦粕でも誰より娘たちにもてる若者、として知らない者はなかった。徳行や浦粕だけではない、通船の航路にあるすべての発着所と、その界隈《かいわい》にまで知られていたというべきだろう。――その発着所の多くに、三十二号船を待ちかねている娘たちがいて、それぞれなにかしら彼に贈り物をした。ここでは一例だけあげるが、水夫は甲板勤務のときに麻裏草履をはくので、贈り物ではそれがもっとも多く、彼の手許《てもと》にはいつも、新しいのが十五六足もあった。中には手作りで、ひどくしゃれたのや、凝った品があり、そうでなくとも、鼻緒の色だけは贈りぬしによって違っていた。念を押すまでもなく、それは娘たちの自己主張であり、他の娘たちへの対抗意識のあらわれであろうが、銀公はその鼻緒の色によって、贈りぬしを判然と区別することができた。

 たとえばこうだ。――三十二号船がAの発着所へ近づくとき、彼はそこに待っている娘の贈った草履をはいていて、極めてさりげなく、その草履をはいていることを相手に認めさせる。そして船がBの発着所へ着くときには、ちゃんとBで待っている娘に贈られた草履をはいて、その事実を相手の印象にしっかりと焼き付ける。これがCからD、DからE、Eから――と順を追って、正確に、決してAとCやEとFとを誤ることなしに繰返されるのであった。――これは一種の天才だと云ってもいいだろう、十五六足もある草履の、鼻緒の色によって贈りぬしを弁別するばかりでなく、いそがしい見習い水夫の甲板勤務に追われながら、間違いなく草履の「はき替え」をやってのける、などということは、天才なしにはとうていできがたいことなのだ。なぜなら、こういう類いの問題について後年、筆者みずから銀公の才能がいかに非凡であったか、ということを身にしみて感じた経験があるからである。

 浦粕でも、彼に熱をあげている女性が幾人かいた。高品さんの女中のとみちゃんもその一人であった。繰返すようだが、高品家は東湾汽船の大株主であり、高品さんの蒸気河岸の住居では、発着所を経営していた。これは夫妻のあいだに子供がなく、高品さんは東京の新聞社へ通勤しているため、きん夫人はとかく暇をもてあますので、その暇つぶしにやっていたものだと思うが、――切符売場は住居とべつで、発着所の桟橋と道を隔てたところに建ってい、ほんの二坪足らずの小屋であるが、奥に畳が二帖敷いてあった。――とみちゃんは二十二か三だったと思う、骨太で、がっちり肥えていて、温和《おとな》しいがしっかりした、よく働く娘であった。女中だから住居のほうの雑用をおもにするが、夫婦っきりの生活ではさして用も多くはない。一日の半分以上は発着所にいて、きん夫人の手伝いをするのであったが、そのうちに夫人のほうが飽きてしまい、発着所のほうはとみちゃんに任せることが多くなった。

 そのうちにとみちゃんは、住居の用事が終ってから、切符売場へ泊るようになった。朝の一番は五時に出るので、売場に泊っていれば客をのがさずに済む。一番船は葛西汽船からも出るし、切符売場が時間どおりにあかなければ、客は葛西汽船のほうへいってしまうからであった。――いいだろう、とみちゃんの主張は、彼女の主家おもいを証明するものと受取られた。彼女は小屋へ夜具を運び込み、たいてい夜の十時には、住居のほうの用を片づけて、そちらへでかけていった。こうして日が経ち、やがて、高品夫人はおどろくべき場面を目撃するはめにたち到った。というのは、或る夜半、なにかのことで、どうしてもとみちゃんに訊かなければわからないことができた。夜半といっても十二時ころで、高品さんの家はいつも夜更しをするから、さしておそすぎるとも思わず、夫人は気軽に小屋へ訪ねていった。――すると、小屋の戸口へいったとき、その中から異様な呻《うめ》き声が聞えて来るので、われ知らずぞっとして立竦《たちすく》んだ。きん夫人は浅草のすし屋の一人娘で、下町そだちらしくさっぱりとした気性であり、もう三十二三にもなるというのに、子供を生まないせいでもあるか、まだ娘っぽい、世間ずれのしていないところがあった。それで、その呻き声の異様さとぶきみさに、初めはとみちゃんが誰かに刺されでもして、死にかかっているのではないかと思い、立竦んだ足がすぐには動かなかった。――だが呻き声はますます切迫し、いまにも息が絶えるかと思うように、激しい呼吸と喘鳴《ぜんめい》をともないだした。夫人は恐怖のために戸口へ進み、半ば夢中で引戸をあけた。すると、畳の敷いてある二帖の、小さな棚に蝋燭《ろうそく》が燃えていて、その光の下で、とみちゃんが身もだえをしていた。俯向《うつむ》きに四つん這《ば》いになって、身もだえをしながら呻いているのである。とみちゃん、と夫人はふるえながら呼んだ、とみちゃんどうしたの。だがとみちゃんには聞えないらしい、夫人はそっちへあがってゆこうとした。そのとき、両手を突いているとみちゃんの肩のところに、銀公の顔が見えた。銀公は仰向きになって、しらじらとした顔で、――高品夫人の言葉によると「かみどこ屋で頭でも刈らせているような」顔だったそうであるが、そういう表情のまま、高品さんのおかみさんだぞ、ととみちゃんに呼びかけた。とみちゃんの呻き声は止ったが、律動的な身もだえは止らなかった。それはちょうど悪夢にうなされていて、これは夢だと気づきながら、なお悪夢からぬけだせないといったような、つまり神経活動の切替えがうまくいかない、というふうな状態であった。銀公はそこで、やはりしらじらと平気な顔のまま、下からとみちゃんの肩を小突き、おい、高品さんのおかみさんだってばな、と云った。  ――そうしたら、おどろくじゃないの。

 この話をしていた夫人は、しんじつ驚いたというように、眼をみはってみせたものだ。銀公に二度めに注意されると、とみちゃんの躯の律動はようやくにしてしずまった。そうして、とみちゃんはその恰好のままで、首だけ夫人のほうへゆっくりと振り向き、訝《いぶか》しげに訊いたそうである。

 ――なんですか、おかみさん。

 明くる日、高品夫人はとみちゃんを呼んで話を聞いた。とみちゃんは銀公と夫婦約束をしたと答え、だからなにをしようと誰に文句を云われる筋もない、とい直るような態度をみせた。夫人は銀公とどう約束ができたにしろ、相手が十七の少年であり、ほかにも娘たちが付けまわしていること。また、結婚するにしても、いま妊娠したりしては困るだろうことなど、いろいろと忠告したが、とみちゃんははっきり、自分のことは自分でよく考えているからと答えたそうであった。――ここで読者のために記しておくが、のちにとみちゃんはやはり妊娠してしまい、銀公もよりつかなくなったので、早いところ実家へ帰ってしまった。実家がどこであったか私のノートには書いてない、たぶん茨城県のどこかだったと思うが。帰るとすぐに、同じ土地で嫁にいった、というハガキが、高品夫人に届いた。

 ――あたしなんかがよけえなこと云う必要はなかったのね、と高品夫人はそのハガキを私に見せながら云った。あのこはちゃんと自分のことは自分で考えていたんだわ。

 さて、――船宿「千本」の店先では、三つの縁台の人たちが、飲んだり饒舌ったり、将棋をさしたりしていた。銀公が酒と佃煮を取りに来たことも、彼がそれらを持って三十二号船へ戻っていったことも、もう誰の頭にも残ってはいなかった。しかしそのとき、こちらの人たちの気づかないところで、一つの事件が進行していたのである。縁台の人たちはぜんぜんなにも気づかなかった、将棋に負けた若い船頭の一人が、駒を投げだして大きな欠伸をし、「おらも一杯やんべえかな」と云った。そのすぐあとに、つまり若い船頭が一杯やるかなと云って立ちあがったとき、突然その騒ぎが起こったのである。

「逃げるな」という叫びで、その騒ぎは始まった、「逃げてもだめだぞ、顔はわかってるぞ」

 縁台の人たちは総立ちになった。

 その叫び声は三十二号船から聞えて来た。いってみると、船の舳先《へさき》や艫《とも》や、船室の周囲のあゆみで、人が右に左に走りまわってい、船板を踏み鳴らす音に続いて、高い水音が聞えた。

「手入れだ」と漁師の一人が云った、「博奕《ばくち》を嗅《か》ぎつけられただな」

 月光の下で、黒い人影はすばやく走りまわっていた。さっきの水音は誰かが川へとびこんだのであろう、一人はもやってあるべか舟へとび移り、櫂《かい》を取って漕ぎだそうとした。両手で持った櫂に全身の力をこめて突っ張るのだが、べか舟は横揺れをするばかりであった。

「こら戻れ」と三十二号船の舳先のところで、一人の男(それは私服の警官だった)が叫んでいた、「逃げてもだめだ、戻って来い」

 べか舟の男は振り返って相手を見、べか舟が少しも動いていないこと、そして、それがまだもやったままであることに気づくと、おそまきながら、櫂を持ったまま川の中へとびこんでしまった。

 船室のまわりのあゆみでは、三四人の人影が入り乱れてい、一人が船室の屋根の上へとびあがり、そのあとから私服の一人がとびあがった。あゆみを逃げまわっていた二人の内の一人は、艫のほうから川へとびこみ、一人は並べてもやってあるべか舟へとび移り、それから次つぎと、舟から舟へとび移って、見えなくなった。これらのことは、時間にしてほぼ六七分、多くても十分はかからなかったであろう。捕えようとする者も、逃げようとする者も、極度に緊張しているため動作がぎごちなく、見ているほうで歯の根がうずくほどまがぬけて、鈍重にみえた。たとえば追っている私服が、相手のシャツの背中を掴《つか》もうとする、指先は殆んどシャツに触れていて、掴んだかなと見るとき、追われている男がひょいと背中を反らす。それでもう私服の手は届かなくなってしまう。また、船室の屋根へ逃げたのは、あとで聞くと野口エンジナーであったが、彼がとびあがったとたんに、追って来た私服が彼の片方の足首を掴んだ。しかしその私服は、相手の足首を掴まえたことに自分で吃驚《びっくり》したか、あるいは足首を掴まえたことが信じかねたように、戸惑いをし、野口エンジナーはすばやく足首を引き抜いて逃げた、といったようなありさまであった。

「しだらもねえ」と岸で見ていた人たちの中から誰かが云った、「みんな逃がしちまったじゃねえかえっ、まぬけな手入れがあったもんだ」

 そのとき船室の中で「きー」というするどい悲鳴が起こり、続いて、あらゆる物音が墜落的にしずまった。やかましく鳴っていたラジオのスイッチを急に切りでもしたように、物音や人声がぴたっと止り、船の上も岸の人たちもしんとなった。

「痛えよう」という泣き声が船室の中から聞えた、「おっかあ、痛えよう」

「銀公だ」と岸にいる人たちの中で船頭の一人が囁《ささや》いた、「いまのは銀公の声だぞ」

 みんな息をころし、期待の眼をそばめて船のほうを注視した。まもなく、三人の私服が銀公の腕を取って船室からあらわれた。

 銀公は両手で頭を押え、前後を私服に挾《はさ》まれて、渡り板を渡りながら、痛えよう、死んじまうよう、とかなきり声で叫び続けた。私服は三人いたのだ。その内の一人が先に岸へあがって、そこに集まっている人たちをどなりつけた。邪魔だ、どけどけ、見世物じゃあないぞ。そう云って、右手に持った一尺ばかりの棒のような物を、左右へ振った。

「十手だ」と誰かが囁いた、「見せえま、芝居で使う十手だぞ」

「おっかあー」と銀公は叫んでいた、「おら死んじまうよう、痛えよう」

 二人の私服に挾まれて、彼が渡り板を渡るとき、川の上へ水でもこぼすような音がぼしょぼしょと聞えた。それがなんの音だか、岸にいる者にはわからなかったが、岸へあがって来た銀公を見るなり、一人が度胆《どぎも》を抜かれたような声で「血だえっ」と叫んだ。なるほど、少年のシャツはどす黒く濡れているし、頭を押えている手の下から流れおちる血が、少年の顔半分を染めていた。

「こりゃあひでえ」と他の一人が云った、「ひでえことをするなあ、見せえま、あの血」

 集まっていた人たちのあいだに、憤激の火が燃えあがった。それはそこにいる者ぜんぶの感情を一つに固め、一団の火となって「官権」に挑《いど》みかかった。

「銀、おめえなにをしただ」と船頭の一人が呼びかけた、「いってえなにをしてこんなひでえめにあっただ、えっ」

「おらなんにもしねえ」と銀公はかなきり声で叫んだ、「おらただ番をしてただけだ、おらなんにもしねえ、おら抵抗もしなかっただ」

「そうだ」と誰かが喚いた、「おんだらもここで見ていた、銀公は抵抗しなかった、ここにいるみんなが証人だぞ」

「おら抵抗しなかっただ」と少年は自分に対する声援に力を得て、声と身ぶりにたっぷりと効果を加えながら叫んだ、「――おらなんにも抵抗しなかった、おら死んじまうよう、おっかあ、痛えよ痛えよう」

「歩け」と私服の一人が少年を小突いた、「おとなしくしろ」

「おら死んじまうよーっ」

「旦那方」と千本のあるじの和助が前へ出て来た、「おめえさん方あその子供をそのまま連行するつもりかえ」

 私服たちは振り返った。

「その血をみせえま」と和助は続けた、「そのまま連行すれば、出血多量で途中で死んじまあだぜ」

「そうだ、死んじまあだ」とみんなが口ぐちに喚いた、「一町といかねえうちにおっ死《ち》んじまうだ、銀がそれほどの罪を犯したかえ、死げえにするほど悪いことをしたかえ」

 私服たちは立停った。三人ともすっかりあがっていて、むしろ怯《おび》えていたというべきだろう、硬《こわ》ばった顔で、眼のやりばもなく、三人ともふるえていた。

「おらの店へ伴れて来せえま」と和助が云った、「ちょっと手当をして、血だけでも止めてっからいくがいいだ、さあ銀、来な」

 和助は銀公の腕を取って、店のほうへ伴れていった。そこにいる人たちもいっしょについてゆき、三人の私服はなにか囁きあっていたが、一人を残して、他の二人は誰にも気づかれないように、小さくなって、堀のほうへ去っていった。

 銀公は縁台に腰を掛け、傷の手当をしてもらいながら、なお派手な声で叫び、泣き、訴え続けていた。

「しっかりしろ銀」と若い船頭の一人が、銀公の演技に調子を合わせて云った、「しょうばいにんが賭場《とば》を開帳したわけじゃねえ、友達同士が慰みにやった一文ばなだ、本署へ持ってゆかれたって始末書を取られるか、悪くいったって罰金くれえで済むだろう」

「おら博奕なんかしやしなかった」

「そうだ、いしゃ博奕はしなかった」

「おら抵抗もしなかった」

「そうだ、みんなが証人だ」とその船頭は続けた、「いしゃ博奕もしねえし抵抗もしなかった、だからいばって出るとけへ出ろ、こんな小さな子供にこんなけがをさせて、どっちに罪があるかはっきり裁判をしてもらえ」

「みんなに逃げられたいしばらしと誰かが云った、「こんなひでえ話はおら聞いたこともねえ」

 私服は蒼《あお》くなってふるえていた。彼は法律を行使したのであるが、いまやその法律が彼を指弾し譴責《けんせき》するように思えたらしい。職権濫用とか、過剰処置とか、罷免とか、その他さまざまな法律用語が頭にうかんでくる、といったような、絶望的な顔つきになっていた。

「さあよし」と和助が云った、「あとは医者にやってもらうんだ、しっかりしろよ銀」

「おらもうだめだ」と銀公は呻き、且つ泣いた、「死ぬめえにおっかあに会いてえよう」

「よしおっかあに知らしてやるぞ」と漁師の一人が云った、「おらがすぐに突っ走ってって、おっかあを駐在所へ伴れてくからな、おっかあの顔を見るまでは死ぬんじゃねえぞ」

 そしてその漁師は「突っ走って」いった。

 銀公の演技を中心としたこの一と幕の芝居は、少なからずあくどいものであった。それは若いその私服警官にもわかったに違いない。けれども自分のゆきすぎた行動のために、芝居とわかっていながら、彼もまたそれに同調することを拒むわけにはいかないようであった。

「いいか」と私服は銀公の顔を覗《のぞ》きこんで訊いた、「歩けるか」

 眼がちらくらして立てねえ、と銀公が答え、すると若い船頭の一人が、おらがおぶってやらあ、と背中を向けて跼《かが》んだ。ふだん評判のかんばしくない銀公が、いまは英雄のように、あるいは庶民を代表する犠牲者のように、人々の愛と同情を集め、尊敬心さえもかき立てていた。若い船頭の背に負われた銀公は、私服警官に付き添われて「千本」の店先から出ていった。そのあとから十五六人の人たちが、この場面の幕がどんなふうにおろされるかという好奇心のため、多少はお祭り気分のように浮き浮きと、勝手なことを高ごえに話しあいながらついてゆき、やがて堀のほうへと曲って、見えなくなった。――蒸気河岸はまた静かになり、月の光が明るく、根戸川の水面や、対岸の家並みや、もやってある舟などの上にふりそそいでいた。

「あのおまわりは成績をあげたかっただよ」と和助が薬箱や包帯やガーゼなどを片づけながら云った、「根戸川亭(洋食屋ではなく堀東にある寄席)のおはまあねに惚《ほ》れて、うまくすれば婿におさまるつもりさね」

「その縁談はきまったんじゃねえか」と倉なあこが暢《のん》びりと云った、「おらもうきまったように聞いただがね」

「そうかもしれねえが、今夜のしくじりで危なくなっただな」と和助が云った、「――あんまり稼《かせ》ごうと思ってあせっただ、成績をあげようと思ってよ、可哀そうに、ああいうのを昔のことわざでぼうせき(望蜀?)の欲っていうだ」

「銀の野郎もまた」と云って倉なあこはくすっと笑った、「いい気になりゃがってさ」

 倉なあこは縁台から立ちあがって、大きな欠伸をし、和助といっしょに店の中へはいっていった。

   二十三 長と猛獣映画

 或る日、――私は船宿「千本」の長を伴れて、浅草へ映画を見にいった。たぶん大勝館だったろう、やっていたのは猛獣狩り映画で、たしか「ザンバ」という題だったと思う。思い違いかもしれないのではっきりは云いきれないが、アメリカだかイギリスだかの夫婦の探検家が、アフリカの奥地で猛獣狩りをする、という筋だったことは覚えている。

 この小学三年生の、こまっちゃくれの長は、映画が始まると同時に120%まで昂奮《こうふん》してしまった。彼はシートから身を乗り出し、両手を拳《こぶし》にして、頭を押え、口を押え、膝《ひざ》を叩き、また胸へぎゅっと押しつけたりした。小さな顔は赤くなって、眼は殆んど殺気を帯び、呼吸はときに深く、また喘《あえ》ぐように激しく、もっともエキサイトすると拳を口に当てて息を止めた。

 あらゆる画面で、彼は猛獣どもに呼びかけ、探検家夫妻に注意を与えた。

「ライオンだライオンだ」と長は喚く、「見せえま、先生、生きてるライオンだぞ」

 周囲の観客はびっくりして彼を見る。ライオンは仕掛けた罠檻《わなおり》のほうへ歩いてゆく。

「やい危ねえぞ」と長はライオンに呼びかける、「そっちいいくと捉《つか》まっちまうぞ、いっちゃだめだ、ええ、だめだってえにな、捉まっちまうったらな、ええライオンのばかやつら、こっちい来いってば」

 ライオンは檻の罠にはいり、仕掛けの戸がばたっと落ちる。彼は拳を口へ入れ、ふるえながら眼を裂けるほど大きくみひらく。そして拳を口から出して、「ばかやつら」と、泣きそうな声で呟く、「ライオンのばかやつら」

 画面の前景ににしき蛇が写る。ジャングルのなにかの樹に絡《から》みついていて、おとなの腕ほどもある鎌首をあげ、葉の茂み越しに、向うから近づいて来る探検家夫妻を狙っている。長は息を詰め、身を乗り出して、前のシートの背を両手でつかむ。

「こっちへ来るな、危ねえぞ」と長は探検家夫妻に向って警告の叫びをあげる、「ここにでえじゃ(大蛇)がいるぞ、あっちいいけ」

 だが探検家夫妻はおろかにも、長の警告には耳も貸さず、のそのそこっちへやって来る。

「ええばかやつら」長は両の拳で力いっぱい自分の頭を挾み、がたがたふるえながら絶叫する、「でえじゃがいるのも知らねえだ、ええばかやつら、呑まれちゃうだ、二人とも呑まれちゃうだ、ええばかやつら、いいきびだ、二人とも呑まれちゃうだ」

 にしき蛇はさっとアタックをかけ、先頭にいた探検家の良人《おっと》の腕に噛《か》みついた。長は片方の拳を口へ突込み、肺いっぱいに吸いこんだ息を止めた。私はそのとき、彼の小さな心臓がドラム罐のようにふくれあがり、大太鼓の乱打のような搏動《はくどう》をするのが感じられた。――周囲の観客はこの小さな正義の騎士にすっかり興を唆《そそ》られ、彼が画面に向ってなにか叫ぶたびに、指さしたり笑ったり、互いに小突きあったりしたが、長はぜんぜん気づかず、肉躰《にくたい》的にも精神的にも、余すところなく映画の中へ溶け込んでいた。

「みんなばかやつらだ」長は猛烈に憤慨して云った、「虎も犀《さい》もばかやつらだし、あの毛唐《けとう》もばかやつらだ、こんなに肝煎《きもい》ったこたありゃしねえ、ええつまんねえ、出べえや、なあ、出ちまうべえよ先生」

 映画館を出てから、私は彼を洋食屋へ伴れていった。彼の憤慨は少しもしずまらず、そこのトンカツにもカレーライスにもけちをつけ、「浦粕の四丁目(洋食屋)のほうがずっとうめえや」と云った。私は一本のビールを啜《すす》りながら、「ザンバ」がいかに演出されたものであるか、ということを概説した。

「あのにしき蛇のところを考えてみろよ」と私は云った、「あの蛇が樹の枝にからまっていたろう、いいか、その向うから探検家が来るだろう、このフォークが探検家とする、な、蛇がこのナイフだ、とするとカメラはこっちにあるこのマッチさ」

「カメラってなんだ」

「活動写真を撮影する機械さ、うう」と私は考えて云った、ここでムービー・カメラの説明をすると話がこんがらかるからである。「機械があって、 そのまわりには撮影技師だの助手だの、たぶん猛獣使いだのもいるんだ、あ、あ」と私は長の質問を止めた、「だから、蛇が樹にからまってるところは、こっちの連中、つまりカメラのまわりにいる連中にはちゃんとわかっているんだ」

「どうしてわかってるだ」

「だってこのフォークとナイフのこっちにマッチがあるだろ、そしてマッチのところから撮影した画面に、手前のナイフ、いや、にしき蛇とその向うのフォーク、つまり探検家が写ってた、そうだろう、とすればマッチのところから蛇は眼の前にいることになるじゃないか、つまり撮影技師や助手やたぶん猛獣使いなんかには、ちゃんとそこに蛇のいることがわかっているんだ」

「うん」長は少し考えてから訊き返した、「じゃあ、どうしてそいつらはあの毛唐に教えてやらねえんかい」

「教える必要はないさ、探検家のほうでもそこに蛇のいることは知ってるんだ」

「知っててどうして除《よ》けねえだ、毛唐はでえじゃに食いつかれちまったべがえ」

「それはだな」と私はうまく説明しようと思った、「つまり、面白く見せるために、初めからそうするようにちゃんと相談ができているんだ」

「誰が面白がるんだえ」

「見物さ」と私は云った、「長だって面白かったろう」

「誰が、おんだらがかい、ちぇっ」と長は鼻柱へ皺《しわ》をよせ、軽侮に耐えないというふうに口をへし曲げた、「おもしれえもんか、あんな肝煎ったこたありゃしねえ、それによ」と彼は唇を舐《な》めた、「あのきけえの側に誰かいて、でえじゃのこと知ってるのに知らねえふりしてるなんて気が知れねえや、ライオンも虎もばかやつらだし、毛唐もきけえの側にいたやつもみんなばかやつらだ、あんなよ、ばかやつらばかり出て来るかつどうがどこがおもしれえのかい、へっ、つまんねえ」

 私は浦粕へ帰るあいだ、なんの理由もないのだが、小説の表現技術について、あれこれと考えめぐらしたことを覚えている。――町へ帰ってから、長はみんなに「ザンバ」の話をして聞かせたが、それはその映画の製作者や提供会社の人たちが、厭世観《えんせいかん》にとらわれるだろうと思われるほど、辛辣《しんらつ》であり無遠慮なものであった。――私は二度と長を映画見物には伴れていかなかった。

   二十四 SASE BAKA

 おすずは船宿「野口」の娘で、年は十七歳だった。両親と姉が二人、弟三人の家族であるが、きょうだいがそれぞれ父か母か、または祖父か祖母に似ているのに、おすずだけは誰にも似ていなかった。ここに桃を八つ並べたとすると、その中の一つが林檎《りんご》であるように、躯つきも顔だちも、気性までがみんなと違っていた。――彼女のぜんたいから受ける印象は、清純、可憐《かれん》、初心《うぶ》、という平俗な成語に、ほのかないろけを加味した感じであった。背丈は五尺一寸くらい、痩せがたできりっとしていて、肩がいたいたしいほど小さく、手も足も小さかったが、指はすんなりと先が細くなってい、爪はいつも桃色に染まっていた。――顔はうりざねがたであった。その土地には珍しく、北国そだちのように色が白く、きめがこまかで、両の頬には活き活きとした血の色を浮かせ、冬のさなかでも、汗をかいているようにしっとりと湿りけを帯びていた。眉毛は細いけれども濃く、描き眉のようにはっきりといいかたちをしていた。少し尻さがりの眼も細かったが、絶えず羞《はにか》んでいるような潤いがあり、人に目礼をしたり話しかけたりするときには、まるで恋でも語りかけるのかと思うほど、その眼の潤いが情熱的にみえた。――私もときどき道で挨拶をされたのであるが、初めのうちは自分が恋されているのではないかと思い、われ知らず胸がときめいたものであった。唇は、――小さくて厚ぼったいだけであった。むしろそれだけ見ればみにくいと云ってもいいだろう、もっとも特徴があり忘れがたいのはその声で、ちょっと鼻にかかる、あまったれたような話しぶりとその澄んだきれいな声とは、どんなに悪意をいだいた人間の心をもとろかすだろう、というほかに云いあらわす言葉がない。――こういう娘には、よほど運がよくっても一年に一度くらいしかゆきあわないものだ。美貌というだけではなく、彼女のぜんたいから受ける清純、初心、可憐、という印象に似たものは、私自身もそれ以来まだみかけたことがないのである。

「ふん、野口のすずあまが」

 貝を掘るための竹籠を作る「籠屋」のおたまが、或るとき私に向って云った。おたまも小学三年生であり、「千本」の長とは違った立場で、私にいろいろな情報を提供してくれていた。

 ――綿屋のおつゆちゃんは十二でちょぼちょぼと生えた。

 ――仁作んとこのおっかあは二十三号船の平井エンジとできちゃって、毎晩どっかへ二人でつるみにゆくだ。

 ――だいき(人名)のじいさまは毎晩ばあさまに手を合わせてあやまるだってよ、とても続かねえからってよ、ふん。

 主としてそんな類いの情報であった。

「ふん、野口のすずあまが」とおたまは軽蔑《けいべつ》したように云った、「あんなのぺっとした顔をしてえてすけべえなことったら、夜になってな、十二時過ぎてっから裏の戸を叩くとよ、すぐに出て来て誰にだってさせるだ、誰にだってよ、相手に選《え》り好みはねえだってよ」

「嘘じゃねえってば先生」とおたまは念を押すように云った、「だからみんなはすずあまのこと****(注・小題参照)って云ってるだよ」

   二十五 家鴨(あひる)

 私が増さんと初めて会ったのは、堀南にあるてんぷら屋「天鉄」の店であった。私は僅かな稿料がはいると、よく天鉄へいってめしを喰べた。てんぷら一人前で酒を一本ゆっくりと飲み、そのあと、その日の特にいいたねを二つか三つくらい揚げてもらってめしを喰べる。そのころ私はまだ酒に弱かったので、よほどのことがなければ二合飲むようなことはなかったし、一合を飲むのにも一時間くらいかかったろう。必ず本を持っていって、冬ならば小さな瀬戸火鉢を抱え、夏なら団扇《うちわ》を使いながら、本を読み読みてんぷらを喰べ、思いだしては酒を啜る、というぐあいであった。いま考えるとずいぶんとしより臭いまねをしたものだと思うが、天鉄の人たちとはすっかり親しくなり、ときによるとお花という娘が、「今日はいいたねがはいったから」と、てんぷらを揚げて届けに来たりした。

 店は昔ふうで、土間に卓子《テーブル》が二脚ほどあり、鉤《かぎ》の手に畳を敷いた座敷があった。もちろん土間に面したほうは障子もなにもなく、客があれば薄い座蒲団を敷くだけ。膳は四角で、足のない平膳《ひらぜん》であった。

 増さんは年のころ五十くらいで、背丈が低く、ひどいがに股《また》で、頬や顎《あご》のまわりに、いつも太い銀色の無精髭《ぶしょうひげ》を、ブラッシのように伸ばしていた。てっぺんの禿《は》げた頭のまわりも、短くて太い、ブラッシのような疎毛で蔽《おお》われていて、太陽の下ではその一本ずつがきらきらと光った。――増さんは酒持参で天鉄へ来た。じつは酒ではなく焼酎《しょうちゅう》なので、一合のそれを天鉄で二合に割ったうえ燗《かん》をしてもらうのだが、誂《あつら》えるてんぷらも変っていた。くるま蝦《えび》にしてもあなごにしても、鯊《はぜ》、きす、めごちにしても、自分は頭とか中骨とか尻尾《しっぽ》などを、べつに揚げさせて、それを肴《さかな》に焼酎を啜る。身のところを揚げたのは包んでもらって、家へ持って帰る、というのがいつもの例であった。

 ここでちょっと記しておくが、数年まえ、或る出版記念会のあとで、林房雄がこの「くるま蝦の頭だけ」のてんぷらを食わせてくれたことがあった。彼が自分で思いつき、銀座裏の某てんぷら屋に命じて作らせたのだそうで、それは豊富なカルシウムを含む極めて美味な食品であると、自分の着眼の独創的な点を大いに誇っていた。

 ――これを世間では捨てているんだ、と林房雄は繰返し強調した。こういうすばらしい物をさ、と林房雄は自分では箸《はし》を出さずに云い張った。みんな捨てているんだ、世間ではみんな捨てちまうんだぞ、さあ喰べてくれ。

 私は一つだけやってみたが、どれほどそれがカルシウムに富んでいるにせよ、とうていのみこめる代物ではないと知り、すばやくナフキンに吐き出して卓子の下へ捨て、「世間の人たちがみんな捨ててしまう」のは当然の理であり、林房雄は逆説を弄《ろう》しているのに相違ないと思った。

 右のように、林房雄は自分の独創性を誇っていたが、それより二十数年以前、すでに増さんという先覚者のあったことを私は知っているのである。私は吐き出したが、増さんはうまそうに、頭だの骨だの尻尾だの、一つ一つ丹念に噛み味わいながら、私以上にゆっくりと時間をかけて、燗をした水割り焼酎を啜るのであった。

 その次には路上で会った。堀東のところで私がスケッチをしていると、一人の男が背中に初老の女をおぶって歩いて来、背中の女と、なにやらなごやかに話しながら、中堀橋を渡って去っていった。この土地でそんなところをみつけると、人は決して黙っていない。おとなはまあともかくとして、悪童どものからかいの好餌になることは疑う余地がなかった。だが、そこには往《い》き来《き》する人がいたし、悪童どもも遊んでい、かれらはみなその二人を認めたのであるが、爪の先ほどの関心を示す者もなく、むしろそのことのほうに私はおどろいた。その次に、同じような二人と路上で出会ったとき、女を背負っている彼のうしろ姿を見て、彼の足が涜神《とくしん》的にまでがに股であることと、「天鉄」で魚の頭や尻尾のてんぷらを注文する男であることに気がついた。こうして幾たびめかに、私は堀南にある「梅の湯」という銭湯をスケッチしていたとき、その女を背負った彼が、「梅の湯」の暖簾《のれん》をあげ、女湯のほうへはいってゆくのを見て、ちょっと眼をみはった。

「ああ、そりゃあ増さんてえだ」

 蒸気河岸の「根戸川亭」で、平二郎という老人の漁師が私に云った。平二郎は息子の嫁と寝るといわれ、そのはらいせに息子と平二郎の妻(後添いで息子には義母に当ると聞いた)が寝るという噂のある老人で、べらぼうに酒が強く、口もまた達者であった。

「背負ってるのはおっかあでね」と平二郎は云った、「ああやって背負っていって、着物をぬがして、躯をすっかり洗ってやって、きれいに拭いて、それから着物を着せて、うちまで背負ってけえるだよ」

 私が質問すると、平二郎は大きな眼をそろそろとすぼめ、ふしぎなことを訊く人間がいるものだ、とでも云いたげな顔つきで私を見た。

「なんでだね」と平二郎は訊き返した、「――若えもんならともかく、あんなとしよりが女湯へへえったって別条なかんべえがえ、おらだって用があればいつだってへえるだ、女どもだってそんなこと屁《へ》とも思やしねえだよ」

 そして、増さんはおっかあのことを決して他人に任せない。おっかあのどんな親しい者がいて、たまにはあたしが洗ってやろうと云っても、増さんはきっぱりと断わり、おっかあの躯の隅ずみまで入念に自分の手で洗ってやるのだ、と平二郎は云った。

 私は高品さんの炉端でも、増さんの話をもちだしてみた。高品さんのところではあまり収穫はなく、「昔は村一番の鼻つまみだった」とか、「綽名《あだな》を家鴨って云うだ」とか、いま漁業組合で働いているが、それは大蝶の旦那が口をきいたからで、その大蝶の旦那でさえ増さんの顔は「見たくもねえ」と云っている、などという程度のことしか聞くことはできなかった。綽名の「家鴨」というのは、彼がひどいがに股で、躯を左右にゆさぶりながら歩く恰好が証明していた。そういうわけで、増さんのことは平二郎の問わず語りでしか聞けなかったのであるが、それはおよそ次のようなものであった。

 増さんはごく若いときから乱暴者で、信じられないほど力が強かった。十七歳のとき米俵を左右の手に一俵ずつ持ったままで、中堀から蒸気河岸まで、息もつかずに走りとおしたそうである。性分は短気で飽きっぽく、酒を飲むと喧嘩《けんか》せずにはいられないし、喧嘩をすればきまって幾人かにけがをさせた。小学校も三年きりしかいかなかったが、それは勉強ができなかっただけではなく、先生になにか云われるとすぐ逆上したようになって、先生を殴りつけたり、教室にある物を打ち壊したりするからで、先生たちは協議を重ねた結果、葛飾のほうの小学校へ転校させた。往復の船賃は学校で負担する、という条件さえ付いたそうであるが、これは「義務教育」という国家制度の形式をととのえたまでのことで、葛飾の小学校へ責任を転嫁したわけである。増さんが葛飾まで通学する筈はないし、そのまま学校へゆかないことが視学関係に嗅ぎ出された場合でも、浦粕校の責任は問われないだろう、という深い思慮によるものであった。――増さんはそれっきり学校をやめたが、通学の船賃だけは貰った。そこの関係はよくわからないが、とにかく六年の卒業期まで、船賃だけはきちんと取り立てたものだ、と平二郎は自分のことのように証言した。

 短気で飽きっぽい彼は、次つぎと仕事を変えながら、どんな仕事も一年とは続かず、一年か二年おきくらいに、家をとびだすようになった。どこでなにをしていたのかわからないが、徴兵検査のときも所在不明で、憲兵隊とのあいだにいろいろ面倒なことがあった。一年おくれて検査を受けたとき、背丈が規定の寸法に足りないため兵役をまぬかれたが、徴兵官はくち惜しさのあまり膏汗《あぶらあせ》をながし、「こういう人間をとらないでどんな人間をとるんだ」と云ったそうである。

 増さんは二十三の年に結婚した。相手は貝の罐詰工場で働いていた娘で、名はきみの、年は十八歳であった。東北の生れであるが、両親に死なれたので、浦粕にいる遠い親類が引取ったのだという。その親類は漁師をしていて、子供が八人もいたため、きみのも十二の年から働かなければならなかったし、また家族の人たちにもあまり好遇されず、増さんとの結婚も本人は知らなかった。増さんが一円紙幣を五枚見せたら、これからすぐにでも伴れていってくれ、と云ったそうである。

「あのおっかあはそれを聞くと肝うつぶしてとびだしちまっただ」と平二郎は云った、「なにしろおめえさん、村一番の乱暴者で鼻っつまみだったからねえ、――みんなはきっと死ぬ気だべえって、えれえ騒ぎをしたもんだよ」

 きみのはどこかの警察に捉まって保護され、増さんがいって引取って来た。

 二人の結婚生活はごく平凡にすぎていった。結婚してからもきみのは大蝶の工場へかよっていたし、増さんもなんとなく大蝶へ出入りをして、雑役のようなことをしたり、旦那が猟にいくときは供もした。平凡な結婚生活は三年ほど続いた。むろんそのあいだにも、増さんの行状は変らなかった。酒を飲むと暴れるし、誰かと口論をしたり、殴りあいをしたりしない日はなかった。或るとき大蝶の工場のほうの支配人が、おまえのようなやつはもうくびだ、と怒った。増さんは鼻の先で笑った。

「冗談を云いなさんなって、増さんはえへら笑いをしたってえだ」と平二郎は云った、「おらあ好きで大蝶の仕事に来ているんで、雇われてるわけじゃあねえ、雇われてもいねえ者をくびにできるかってよ」

 そこで支配人は旦那にそのことを告げた、すると旦那は、あいつはおれの命の恩人だから好きなようにさせておけ、と云った。命の恩人とはどういうわけなのか、旦那はその理由を云わなかったが、支配人はひきさがるよりしかたがなかった。そんなことのあった前後から、増さんの女房いじめが始まった。結婚の話が出たとき、どうして逃げたのか、というのが手をあげるきっかけであった。ほかに男がいたのだろう、正直に云ってしまえ。そう喚きながら殴ったり蹴《け》ったりする。きみのはただあやまるだけであった。逃げたのはわけもなく怖かったからで、もちろん男などはいなかった。それは誰でも知っているし、おまえさんもよく承知している筈だ。逃げたのは悪かったからあやまる、「どうか勘弁しておくれ」とあやまるだけであった。どんなにひどいめにあわされても、決して大きな声をだしたり、身を護るとか、逃げるなどということはしない。両手で頭を抱え、足をちぢめて、増さんのするままになっていた。

「おら隣りにいただよ」と平二郎は云った、「いまでも隣りだが、そのじぶんも隣りにいたからよく知ってるだ、幾たびか止めにいったこともあった、なにしろ殴ったり蹴ったりする音が筒抜けに聞えるだからね」

 だが平二郎は止めにゆくことをよした。止めにゆくと却《かえ》って増さんは逆上し、おれに赤恥をかかせたと云って、もっとひどくきみのに暴力をふるうからである。――きみのは躯にいつも痣《あざ》の絶えまがないため、銭湯にゆくことができず、冬でも狭い勝手で行水を使っていた、ということであった。

 そのころからまた、増さんの出奔癖もぶり返した。なにも云わずにひょいといなくなったまま、ときには半年、ときには二年くらいも帰っても来ず、手紙もよこさないのである。帰って来るのもまったく突然であった。まるで朝でかけた者が夕方に帰って来た、といったようすで、家へはいるなり、(きみのがいれば)「めし」とか、「酒」とか云う。きみのが工場に出ているときだと、山崎屋という酒屋で立ち飲みをしていて、きみのに、「銭を持って来い」と使いを出すというぐあいであった。

 夫婦には子供がなかった。増さんが道楽のあげく悪い病気にかかって、そのため子が生れないのだといわれたが、きみの自身はそれだけがせめてもの儲《もう》けものだと、平二郎のかみさんに云っていたそうである。

 こういう生活が二十年以上も続いた。そうして増さんが四十五歳の年、――というのは平二郎と同年だからはっきり覚えているのだそうだが、――一年ばかり出奔していた増さんが、帰って来るといきなり、きみの]を殴ったり蹴ったりした。帰って来て、家へはいるといきなり始めたのであった。――留守のあいだに男を作った、ちゃんと聞いて来たと云うのが理由で、いちど途中で焼酎を買いにやり、それを飲んでからまた始めた。

「あんまりひでえんでよ、おら聞いていられなかった」と平二郎は云った、「もう夜の十時くれえだったが、おっかあやがきを伴れて外へ出ちまっただ、うちのおっかあは駐在へ届けべえって云っただよ、そんなことをしてみろ、あとが恐ろしいだぞって云って、おらたちは蒸気河岸までいって一時間くれえもぶらぶらしてえただ」

 かれらが家へ帰ってみると、隣りの騒ぎはもうしずまっていた。平二郎は、増さんがきみのを殺してしまったのかもしれない、と思ってがたがたと躯がふるえた。ところが、ふしぎなことにその夜かぎり、増さんが別人のように温和しくなった。――きみのは殺されはしなかった。明くる朝そっと、平二郎の家の勝手口へ来て、済まないがお米を少し貸してくれ、と云った。眼のまわりに青痣ができてい、顔ぜんたいが腫《は》れあがり、片方の足を痛そうにひきずっていた。あとでわかったのだが、きみのはそのとき左の足の骨を折っていたので、隣りとはいえよく歩いて来られたものだと、医者が云ったそうである。――足の骨折で、きみのは工場へ勤めにゆけなくなった。医者が呼ばれて来たときは、折れた骨のあいだに肉がくい込んでいて、手術をしてもどうにもならないと診断された。医学的にどういう症状なのか、詳しいことはわからないが、それ以来きみの]は家でやれる内職を始めた。土地が土地だから内職といってもそう多くはない、漁師の仕事着であるぼったとか、赤ん坊の着物など、簡単な縫い物を安く引受けるぐらいがせいぜいであった。ぼったとは端切を縫い合せるもので、ぼろ布と端切さえあれば誰にでも出来る物であり、しかしどこの家でも主婦はそれぞれ稼ぎ口があるので、縫い賃が安ければ他人に頼むほうが、経済的には有利だったのである。

 増さんはまた大蝶へかよい出した。もう若旦那の代になっていて、若旦那といっても年は四十がらみだったが、亡くなった大旦那から聞いていたのだろう、若旦那も鉄砲射ちが好きで、その季節になって猟にでかけるとき、増さんにお供を命じたが、増さんはそのたびに断わり、どうしてもいっしょにはゆかなかった。それについて増さんは一度だけ「大旦那のときに大きなしくじりをやらかしたから」ともらしたそうである。かつて大旦那は増さんのことを「命の恩人」と云った。増さんが「大きなしくじり」と云ったのはそのときのことをさすらしい。二つの言葉はまるで反対だし、実際になにがあったかはわからずじまいだったが、若旦那もしいて供をさせようとはしなかった。

 相変らず酒は飲むけれども、増さんは決して酒乱にはならなかったし、喧嘩などもしなかった。大蝶の工場で雑役のようなことをやっているうちに、大蝶の若旦那の口ききで、漁業組合へ勤めるようになった。――もちろん妻に乱暴するなどということはない。きみのは完全な跛《びっこ》になったため、水汲《みずく》みや薪作り、買物などは増さんが引受けた。そればかりか、まえに記したように、銭湯へ背負ってゆくようにさえなった。

「人間があんなに変れるものかどうか、おらもう自分がばかにでもなったようにたまげけえったもんだ」と平二郎は云った、「――それでな、或るときおら増さんに訊いてみただよ、おめえもずいぶん変ったもんだ、まるで増さんじゃねえみてえだぜってよ」

「すると増さんはえへら笑いをして、こう云っただよ」平二郎は続けた、「――東の養魚場の旦那んとこで鶏を五十羽も飼ったことがあった、そのとき旦那が牝鶏《めんどり》に家鴨の卵を抱かしてみた、その卵がけえって、ほかのひよこといっしょに育ったが、家鴨の子は家鴨だべえさ、ちょっと育つと養魚場の池の中へへえって泳ぎだしただ、――牝鶏だのほかのひよっこはびっくらしたんべがね、家鴨の子はいつかきっと家鴨になるだよ、いまのおらが本当のおらだようになあよ」

 平二郎老人の話は以上のようなものであった。

 私は「天鉄」で増さんを見かけるたびに、だんだんと親しい気分になり、ちょっとふところに余裕があると、ビール一本とか、酒一本ぐらいを奢《おご》ったりした。増さんはわるく遠慮をせず、すなおによろこんで受け、自分の皿にあるてんぷらを「摘《つま》んでくれ」と云ってすすめたりした。例の鯊やきすやめごちやくるま蝦などの、頭と尻尾と骨だけのてんぷらである。そのとき私が喰べていたら、林房雄の逆説などには乗らなかったろうと思うが、私はどうしても箸を出す気にはならなかった。――こういうふうにして、親しく口をきくようになってから、私は彼に向って「おかみさんを背負って銭湯へゆくのはたいへんだろうが、見ている者にとってはまことに心あたたまるものだ」というような讃辞を述べた。すると増さんはいっとき眼を伏せ、銀色の短くて太い疎毛の生えた頭を、かすかに左右へ振りながら長い太息《といき》をした。

「つまらねえ、あんなことっくれえなんでもねえだよ」と増さんは云った、「このおらがおっかあにしたことに比べれば、あんなことっくれえ蠅《はえ》の頭みてえなもんだ」

「先生は知るめえがね」と増さんは続けて云った、「おっかあを跛にしたなこのおらだ、おらがこの手でやったこった、――この手でおっかあの髪の毛をつかんで、うちの中じゅう引摺《ひきず》りまわし、殴ったり蹴ったりした、まるっきりきちげえになっていただな、足をあげて踏んづけたら、おっかあの脛《すね》の骨が折れちまっただよ」

 私は黙って聞いていながら、それはたぶん平二郎が妻子を伴れて、蒸気河岸へ逃げだしたというあの晩のことだなと思った。

「おら骨を折ったとは知らなかっただ」と増さんは続けていた、「ただ、おっかあのやつが妙な声をだしたんで、ひょいと手を引いた、するとおっかあが倒れたまま、おらのことをじっと見あげながら云っただ、――どうか殺さねえでくれ、ってよ」

 増さんは恥ずかしそうに眼をしばしばさせ、右手で、銀色の無精髭の伸びた顎を擦《さす》った。

「どうか殺さないでおくれって」と増さんは少しまをおいて云った、「おらを見た眼つきと、そう云うのを聞いたとき、おらそれまでに自分のしてきたことを、洗いざらい一遍に見せられたような気がしただ、なんもかんも一遍によ、――まさか嘘かと思うかもしれねえが、おらそんとき男泣きに泣いちまっただよ、がきみてえになあよ」

 私は嘘だなどとは思わなかった。嘘どころではない、私には増さんを見あげた妻女の眼つきや、その哀訴の声が、現実に聞えるように思えたくらいであった。私のふところにそう余裕はなかったが、増さんにもう一本酒を奢らずにはいられなかった。

   二十六 あいびき

 私は青べかを三つ「さんずい+入」《いり》へ漕《こ》ぎ入れ、川やなぎの茂っている、土堤《どて》の蔭のところで停めて、鮒《ふな》を釣りにかかった。――そこは沖の百万坪の端に近く、土堤の上を通る人も殆んどない。晩秋の午後の陽があたたかく、そよ風も吹かず、水路の水は眠ったように静かで、澄みあがった空と雲とをはっきり映していた。――例によって釣りの腕前は知れているから、小さなきんこと称する鮒を三尾に、やなぎっ鮠《ぱや》を五尾ほどあげると、それでくいが止ってしまった。場所を移して釣るほどの気持もなかったし、陽のあたたかさと、周囲の静かさが気にいったので、私は青べかの中で横になり、躯を楽にして、持って来た本を読み始めた。

 本を読み始めはしたが、いくらも読み進まないうちに眠くなり、陽の光を除けるために、ちょっと顔へ本を伏せたと思ったが、そのまま眠ってしまったらしい。どのくらい経ってからだろう、眼をさますと、すぐ近くで人の話す声が聞えた。私は起き直って本を閉じ、釣竿《つりざお》をあげて帰り支度にかかったが、ふと、その話し声にひきつけられて手を止めた。

「よう、いいじゃねえかよ、なあ」と若わかしい男の声がなにかをせがんでいた、「なあってば、なんでもありゃしねえだからよう」

「よしな、まあ」と女の拒む声がした、「おらそんなこと知らねえもの、ええ、よせってばあ、悪いことすんならおらけえるだ」

「とくあねが病気になっただって」と男の声が云った、「きんのけえって来たってほんとかよ」

「おら知んね、ああ知ってる」女の声は少しやわらいだ、「流産してっからあんべえが悪いだって、暫《しばら》く家で養生するような話だっけだ、いやんなっちゃう」

「なにがよ」

「女がよ、お産だの流産だのって、苦しいめにあうのはいつも女だ、ひん」慥《たし》かにそのとき女は「ひん」という声をだした、「あああ、いやだ」と女の声は続けた、「世の中に男ってものがいっから女が苦しむだ、男なんかみんないなくなればいいだ」

「女だって苦しむだけじゃねえだよ」と男が云った、「そうじゃねえだよ」どうやら彼には反論がみつからないとみえ、また話を変えた、「中堀のみよっこが足を挫《くじ》いたってことを知ってっか」

「知ってなくってさ、みよっこは、――よしな、まあ、いけ好かねえ」

「痛えな、そんなことしなくってもいいじゃねえか」

「よわ虫、なにさこんくれえなこと」

「痛えってば」

 そこでちょっと声がとだえ、口笛のような妙な声が聞えた。なんの音かはすぐにわかった。芒《すすき》の葉を横にして唇に当て、中ぐらいの息で吹くのである。草笛とは違うが、単純な田舎めいた顫震音《せんしんおん》が出るのだ。恋をさそいかけている若者にしては、子供っぽいことをするな、と私は思った。女がそんなことをよろこぶ筈はない、まもなく「あああ」と女が退屈の声をあげ、男は芒笛をやめた。

「おめえさっき女ばっかり苦しいめにあうって云ったっけが」と男が云った、「それがわかっていてどうして嫁にゆく女が絶えねえだえ、嫁にゆくめえにだって、男をこしらえる女は数えきれねえくれえいんじゃねえか」

「そりゃあみんな男が悪いからさ、男がうめえこと云って騙《だま》すから、つい本気んなって苦しいめにあっちまうだ、昔っからいつも男が悪いために」

「りょうは新しいべか舟を買っただな」と男が云った、「元のべか舟はじいさまの代からのもんで、浦粕一のぶっくれ舟だっけだが」

 男は次に散髪屋で湯沸し器を買ったことや、消防組の組員の変ったことや、どこそこの誰かがどこそこへいったとか、その場の空気とはまったく無縁な話を、続けさまにきりもなく並べた。そうして、女が聞きくたびれたと思われるころ、また急に恋のくどきに戻った。

「女が騙されるって云うけれど、そりゃあ男が騙すんじゃねえ、女が騙されるようにできてんからだべえ」

「女がどうできてるって」

「女の躯にゃあ男と違ったきけえ」と男が云った、「どんなきけえ]だっていつも使ってるか、油あさして掃除をしなけりゃあ錆《さ》びっちまう、女のきけえだって放っとけば錆びついて使いものにならなくなるだ、だから」

「だから錆びねえように騙されるっていうのけえ、ひん」と女が云い返した、こんども間違いなく「ひん」と聞え、女はさらに続けた、「錆びねえようにまちょうに掃除のできるきけえを持ってる男がいたらおめにかかりてえよ」

 恋の囁きにしてはあまりに率直すぎると読者の中には疑惑をいだく向きもあろうかと思うが、彼女が率直すぎることよりも、むしろ浦粕ではこんなに根気よく、恋のさそいかけをすることのほうが稀《まれ》なのである。そのとき私は、男の正攻法に対して敬意を感じた。

「ためしてみっか」と男が云った、「まちょうに掃除ができねえかできっか、ためしてみねえじゃわかりゃしねえや」

「よせってばな、まあ」

「痛え、おお痛え、ひどえことすんな、ま」

「いやなことすっからよ」

「いしゃ爪が生えてんな」と男が云った、「よしこは小指の爪をいつも伸ばしてんだな、こんなにも長くよ、どういうつもりだかさ」

 それから伝なあこが蛇を食ったとか、東の養魚場で池の上いちめんに網を掛け、それは鴉《からす》や鳶《とび》をふせぐためだが、養魚池は三千坪もあるから、網だと云っても安い金ではあるまい、などという話をした。

「ああ聞きたくもねえ」と女がやがて欠伸《あくび》をして遮《さえぎ》った、「そんな話するために、わざわざこんなとけへおらを呼んだだかい」

「そんだっていしがおらの云うこときいてくんねえじゃねえかい」

「それでそうやって饒舌《しゃべ》ってるだか」と女が云った、「そうやって饒舌るだけ饒舌ってれば、いまにおらのほうから手でも出すと思ってるだかえ、ひん、つまんねえ」

「おら、この気持を知ってもらいたかっただよ、おらの本当の気持をよ」

「散髪屋の湯沸しだの養魚池の網だのでけえ、あああ」と女が云った、「おらけえるべえ」

 男が慌てて女を呼び止めたが、女は返辞もしずに土堤へあがって来、そのままさっさと根戸川のほうへ歩み去った。――私が川やなぎの蔭から見ると、それはまだへこ帯をしめている、十五か十六くらいの少女であった。男はもそもそと、少女のあとを不決断に追っていったが、その男は二十五か六で、罐詰工場の工員のように感じられた。――彼はおそらくよその生れであって、この土地での恋のやりかたを知らなかったのであろう。それとも気が弱いだけだったのか。いずれにせよ、少女が怒って帰ったのは、男があいびきの目的に対して勇敢でなかったからに相違ない。私はそんなことを考えながら、帰り支度にかかった。

   二十七 毒をのむと苦しい

 私が晩めしのあと、独りで酒を啜っていると、窓の障子を外からあけて「喜世川」の栄子が覗いた。

「障子に先生の影が映ってたのよ」と栄子が云った、「あら景気がいいじゃない、あがらしてもらうよ」

 私は隠しそこねた一升壜に向って顔をしかめてみせた。それは高品さんから貰ったものであった。まったく酒の飲めない高品さんが、どこかからなにかの祝いで、一升壜を三本おくられ、二本は炉端の客用にしたが、一本を私に呉れたのであった。私もそのころはまだ初心級で、一度に二合とは飲めないくせに、飲みたくなったときには一合買いをする、という経済状態だったから、一升壜が手許にあるということは、その豊かさと幸福感の心理的効果だけでも計り知れないものがあった。そこへ栄子があらわれたのである。「喜世川」というのは小料理屋で、これは幾たびも記したようにごったくやと呼ばれ、料理や酒よりも、女中たちによる特殊サービスを本業としている店であり、栄子もその一人であったが、典型的な一人というほうがよりわかりやすいと思う。――彼女は表からあがって来ると、小さな安物の茶箪笥《ちゃだんす》をあけたり、そのあいだ休みなしに饒舌り続けながら、たちまちのうちに膳拵《ぜんごしら》えをしてしまった。私は机に向って、自分で釣った鯊の煮浸しの小皿を脇に、本を読みながら飲んでいたのであるが、こうなっては栄子にさからってもむだと思い、その折りたたみの古ぼけた膳の前へ坐り直した。栄子は「冷《ひや》のほうがあとまできいていい」と云い、一升壜からじかに湯呑へ酒を注いだ。私はそれを見て、自分の燗徳利だけは確保しなければならないと決意し、それを自分の前へしっかりと据えた。

 栄子は景気の悪い日が半月も続くことを嘆き、これは世間の男どもに甲斐性《かいしょう》がないためであると罵《ののし》り、こうみえてもあたしは江戸っ子であると、山形か福島あたりの訛《なま》りで云った。私がここで福島か山形あたりの訛りだというのは、「喜世川」にいる他の二人の女性から聞いたので、私自身にはどこの訛りかまったく不明であったが、栄子の云うように「東京のまん中の神田っ子」の言葉でないことだけは慥かであった。

「あたし心中したことがあるのよ、先生」と栄子は云った、「飲ましてね」

 もう何杯も飲んでいるのである。私が質問すると、栄子は湯呑のふちを舐めた。厚いうえに信じがたいほど長い舌であった。

「嘘じゃないよ、松の家のかあさんに訊《き》いてみなさい、あたしが松の家にいたときのことだからよく知ってるよ」と栄子は云った、「その話をすっからさ、根戸川亭からなにか取ろうよ、ねえ、景気つけちゃおうよ先生」

 私が答えると栄子は舌打ちをし、下唇を突き出しながら湯呑へ酒を注いだ。

「どっこも不景気なんだね、やんなっちゃう、こんなだといっそまた心中したくなっちゃうわ」と栄子は云った、「岸がんと心中したのもちょうどこんなてえな不景気の続いたときだよ、話しちゃおうか、え、先生」

 こういう場合には私は無関心をよそおうことにしている。この種の女性たちはいちように嘘言癖《きょげんへき》をもっていて、その身の上話の九分九厘までは作りごとであり、読んだ小説か母もの映画のバリエイションときまっていた。ところが、こちらで興味を示さず、聞きたくないふうをよそおっていると、約三〇パーセントぐらいの割合で、本当の身の上を語りだすことがあった。

 私は気乗りのしない口ぶりで質問し、栄子は肩をゆさぶった。

「先生もわかりきったこと訊くわね、このとおりあたいは生きてるよ」と栄子は云った、「飲ましてね」

 私は黙って自分の酒を啜った。

「あたいぱあっとしたことが好きなのよ」と栄子は云った、「めしだって鬼の牙《きば》みたいにぱりっと炊《た》いたのをさ、沢庵《たくあん》かなんかでざくざく茶漬にして掻《か》っこむのが好きさ、やわっこいめしだのおじやなんぞ大っ嫌いさ、だからぱあっと心中しちゃう気になったのよ」

 私はまた冷やかに訊いた。

「ああそのことか、ふふう」と栄子は鼻へぬける妙な笑いかたをした、「わかってるじゃないの、あたいこうしてここに生きてるんだもの、死ぬっくらい心中しちゃったら生きてられやしないでしょ、しっかりしてよ先生」

 私はしっかりして、口をつぐんだ。

 栄子は話しだした。――その出来事は五年まえの十月だったという。相手の男は岸がんと呼ばれ、華やかな病気専門の売薬で名高い「峰岸屋なにがし」という店の外交員であった。岸がんの「岸」は本舗の峰岸の一字であり、がんちゃんというのが男の名であるが、がんとはどういう字を書くのか、また「がん太郎」であるか「がん造」であるのか、栄子はまったく知らなかった。――あとで私がその点を糺《ただ》すと、栄子はうるさそうに云った。

「心中するんだからって、名前を知ってなくっちゃならないってもんじゃないでしょ、寄留届をするんじゃなしさ、つまんないとこへ水を差さないでよ」

 岸がんとは半年ほどの馴染《なじみ》だったという。年は二十八だと云っているが、栄子の見たところでは三十二歳より下ではなかった。逞《たくま》しく陽焼けのした、にがみばしったいい男であり、栄子の馴染ときまったときには、浦粕じゅうのごったくやの女たちみんなが、嫉妬《しっと》のあまりやけくそみたようになったそうである。――岸がんは赤いオートバイでやって来た。店名を派手に白抜きで書いた車で、「ガスをひるときの音がすてきだった」と栄子は云った。排気音のことをさすらしい、私はあぶなく笑いそうになり、酒にむせたようなふりをしてごまかした。

 岸がんは金使いが上手だった。来るとまずしょうばいを片づけ、堀東のおでん屋で酒を飲み、そこから栄子を呼ぶ。「松の家」は堀南だが、歩いて五分とはかからない。ごったくやの習慣として、よその店から女を呼ぶと一時間なにがしかの玉代《ぎょくだい》を取られるが、女にとっては一種の誇りになる。つまり、玉代を払っても早く逢いたいほど深い仲だ、と思われるのだそうで、岸がんはそういう女の気持をよく知っていた、ということであった。

 半年あまり経った或る夜、岸がんはじかに「松の家」へあらわれた。あのガスをひるすてきな音も聞えなかったし、着物姿で、素足に古びた雪駄《せった》をはいていた。訊いてみるとオートバイではなくバスで来たのだそうで、五日もはらくだしをしたあとのようにげっそりとしていた。そして二人っきりになり、一本の酒も飲み終らないうちに、「おれといっしょに死んでくれ」と云いだした。 「初めに岸がんの顔を見たとき、あたいははあんて思ったわ、そして死んでくれって云われてまたははあんって思ったのよ」と栄子はそろそろ酔いだした口ぶりで云った、「飲ましてね」

 岸がんは店の金を五〇〇も使い込んだのであった。彼には妻もあり子供が三人もいたが、栄子のことが頭にきて、つい知らず店の金に手をつけた。はじめは五か一〇くらいで、それは集金の操作でうまくまじくなったが、一〇が一五となり一八となるうち、ますます栄子に熱があがり、ここが男のみせどころだと、すっかり太っ腹になってしまった。――そうしてついに、その金額が五〇〇という高額に達し、支配人に発見されて返済を迫られた。

 ――金を返さなければ訴える。

 支配人は七十幾歳にもなるのに、まだ頭の毛がまっ黒で青年のようにふさふさしていたし、眉毛も黒く、幅が三ミリもあるかと思われるほど太かったが、その太くて濃い眉毛をぴくぴくさせながら、やさしい声でそう云い渡した。岸がんは駆けずり廻ったが、借りられる額はせいぜい二〇〇で、あとの三〇〇はどうにもひねり出しようがない。支配人は全額を要求するし、できなければ手がうしろへまわる。それでは妻子にも世間にも顔むけがならないうえに、かたときも栄子とはなれては生きられないから、いっそ二人で死ぬ決心をした、と云ったそうである。

「あたいははあんと思ったよ、きたなって思っちゃったよ、ははあんきたなってさ、わかるでしょ先生」と栄子が云った。

 私が答えると、栄子は鼻で笑った。

「わかんないかな、あたいの躯だよ」と栄子は動物的に張りきった胸を叩いてみせた、「そんなこと云えばあたいがくしゃっとまいってさ、くらがえしてでも三〇〇ぐらいのお金は拵《こさ》えるだろう、って見当つけて来たんさ、子供|騙《だま》しだよまったく」

 そのときは栄子自身も不景気で、にっちもさっちもいかない状態だった。雑貨屋や銭湯にまで借りが溜《た》まっていたから、そのわけを話していっしょに死にましょうと答えた。彼女たちのあいだでは「心中」という言葉は愛情の極致を示すものであり、誰でも一生にいちどはやってみたいとあこがれるものだ、と栄子は云った。――岸がんは思い詰めたような顔をしたそうで、それなら催眠薬の強いのを持って来るから、それをのんで死ぬことにしよう、あさっての晩に来るが心変りをしないように、と云った。栄子は催眠薬なら自分がドイツ製のを持っている、あんたはあんたの分だけ持ってくればいい、と答えた。そんな物をどうして持っているんだ。まえに自分の友達が自殺したとき、残りを隠して置いたのだ。ドイツ製のなんという薬だ。忘れたけれども白い粉薬で一服のむと死ねるのだ。そんな問答をして、その夜は別れた。

「たぶん来やしまいと思ったわ、でも念のためだと思って薬だけ拵えておいたのよ」と栄子は云った、「かあさんが頭痛薬のノーポンをのんでたでしょ、それを一服しっけえしちゃって、それにメリケン粉を少し混ぜたの、ノーポンて薬は白くって、ガラスを粉にしたみたいにきらきら光るのよ、それがメリケン粉と混ざったものだから、とっても強い催眠薬みたいに見えたわよ」

 私が質問すると、栄子は片方の肩をぴくんと突きあげた。

「そんなことわかりきってるじゃないの、あたいは借りがほうぼうに溜まってるでしょ、だから心中したってことになれば、みんな同情して、そんなようなわけなら貸しは待ってやろう、ってことになるわよ」と栄子は云った、「そうでしょ」

 要するに偽装心中をたくらんだのである。栄子は岸がんが来ないかもしれないと思ったが、岸がんは約束どおりやってきた。彼は晒《さら》し木綿の肌襦袢《はだじゅばん》と白いさるまたを見せ、死に装束だ、という意味のことを云ったそうである。襦袢もさるまたも既製品で、一と五〇くらい出せばどこでも売っている品物だそうであった。

「来たのは九時ごろかしら、ずっと不景気が続いたときで、うちには一合の酒もないのよ」と栄子は云った、「岸がんにそ云ったら、今夜は心中する晩だから少し都合して来たって、一円さつを三枚も出したじゃないの、あたいやっぱり大川に水絶えずだなって思っちゃったわ」

 彼女は自分が酒と肴を買いにいった。一と二〇で酒を一升買い、〇・三〇で干物とうぐいす豆と佃煮《つくだに》を買い、残りはかあさんに渡した。するとかあさんは悦《えつ》にいって、岸がんのことを福の神だねえと云ったそうである。

「それから二人で飲みだしたんだけれど、これから心中しようっていうばやいでしょ、いくら飲んだって酔やしないわ」栄子はおくびをして続けた、

「いろいろ思い出ばなしをしたり、親きょうだいのことや、お互いに運の悪い生れつきのことなんか話しあったでしょ、二人ともすっかり身につまされちゃってさ、しまいには抱きあって泣いちゃったわ」

 十一時に店を閉めた。ほかには客が一人もなく、かあさん夫婦も女たちも寝ついた。そこで岸がんが「やろう」と云いだした。十二時過ぎたころで、栄子はもう少しその気分に浸っていたかった。これで心中するのかと思うと、酒の酔いとはまったく違った、なんと云っていいかわからない酔いごこちと、止めようとしても止らない甘い涙とが、そのまま終るにはいかにも残り惜しかったのである。岸がんに傍点]はさすが男のことで、こんな話をすればするほどみれんな気持が起こる、このへんできまりをつけようと主張し、持って来た催眠薬を出した。そこで栄子も諦《あきら》め、拵えておいた薬をハンド・バッグの中から取り出した。そのときになってふと、見せろと云われはしないかと心配した。なにしろ男は薬品の外交をやっていたのだから、見られたらばれるに違いないからである。しかし岸がんはなにも云わず、湯呑に水を注いで自分から先にのんだ。栄子も「負けてはいられない」と、同じ湯呑に水を注いで薬をのんだ。

「それから寝床へ横になって抱きあって、またさんざん泣いたわ」と栄子は云った、「あとは話さなくってもわかるでしょ、心中する人間は死ぬまえに一生分もたのしむって、あれはほんとよ、あたいこむら返りを起こしちゃったわ、先生ったら、飲ましてよ」

 いつか眠ってしまったらしい、変な声で眼をさますと、岸がんが苦しんでいた。大の字なりにのびたまま、しきりにげっぷうをしていた。栄子ははっきり眼がさめ、すると恐ろしさと苦しさとではね起きた。

「あたし心中したんだと気がついたら、胸の奥のところが焼けるように苦しいの、岸がんはのびたままげっぷうをしているでしょ、大変だと思ったらあとは夢中で、はだしのまま駐在所へ駆け込んじゃったわ」

 私が問いかけると、栄子は憐《あわ》れむような眼で私を眺めた。

「毒をのめば苦しいにきまってるじゃないの、わからずやだな先生は」と栄子は云った、「それは本当はノーポンとメリケン粉を混ぜただけだけどさ、人間は気持のもんでしょ、人間ってものは気持のもんなの、わかって」

 私は自分の酒を啜った。

 若い巡査は狼狽《ろうばい》した。同僚を起こし、分署に電話をかけ、医者のところへ走った。医者が来たとき、栄子は苦しさのあまり胸を掻き「てへん+毟」、《むし》ったり、叫び声をあげながらのた打ったりしていた。すぐに白い泥水のようなものを飲まされて、むりやり口へゴム管を入れられ、ポンプみたような機械で、胃の中の物を吸い出された。それを三回ほど繰返されたが、死ぬかと思うほど苦しくって、医者の手首へ噛みついたそうである。――このあいだに巡査の一人は「松の家」へ臨検にいった。うちではなにも知らず、みんな暢気《のんき》に寝ていたが、巡査に叩き起こされ、わけを聞いて仰天し、巡査といっしょに岸がんのようすを見にいった。ところが寝床はからっぽで岸がんの姿は見えない、彼の草履もなくなっているので、苦しさのあまり外へ出ていったのだろう、ということになった。そこで消防組員が起こされ、提灯《ちょうちん》がつけられ、手分けをして捜しにかかると、蒸気河岸の桟橋の端のところに、揃《そろ》えてぬぎ捨ててある草履が発見された。――栄子は病院へ移されていて、詳しいことは知らなかったが、岸がんは身投げをしたに相違ないという結論に達し、十幾はいかのべか舟が根戸川へ漕ぎ出された。

 岸がんはみつからなかった。死躰は海へ流されたのだろう、数日にわたって海も捜索された。このあいだに、警察電話で連絡し、彼の勤めている薬品商店へ事故を知らせたが、店ではもう解雇したというし、住所をしらべると移転したあとで、移転先は不明だということであった。

 栄子は警察で訊問《じんもん》されたとき、「むり心中をされた」と答えた。そこが彼女の知恵のあるところだと自慢したが、知らずに毒をのまされたと云えば、岸がんが死んでも自分は罪にならないのだそうで、二週間ばかり留置場へ入れられただけで釈放された。田舎のことではあるし、時代も暢びりしていたので、栄子の胃から吸い出した「毒薬」はべつにしらべられもせず、岸がんの死躰は発見されないままに、「松の家の心中」という評判だけが残り、そのためひところの栄子は浦粕じゅうのにんきを一人占めにしたそうであった。――彼女は紙に岸がん様と書いて、それを位牌《いはい》とみたて、世間でにんきのわいているあいだは、欠かさず線香をあげていた。だが、にんきなどというものははかないもので、五六十日も経つともう誰もその話をしなくなり、みんな「そんなことがあったかしら」といったような顔をするようになった。

「ここまではいいんだけどさ、――聞いてるの先生」と栄子が云った。

 私は答えて、自分の酒を啜った。

「そんな気のない顔をしないでよ、これからくやしい話になるんだから」と栄子は酒を呷《あお》って咽《む》せ、咳《せ》きこみながら二つも三つもくしゃみをし、涙と水洟《みずばな》をたらし、それを浅草紙で乱暴に拭いてから、「こんちくしょう」とどなった。二つ以上くしゃみをしたときには、そう云わないと風邪をひくのだそうである。栄子はなお咳をして、喉の調子をととのえてから云った、「――くやしいじゃないの、岸がんのやつ生きてたのよ」

 話のようすで、私もそんなことではないかと想像していたが、むろん口には出さなかった。

 それからまる一年経った或る日、堀東のおでん屋へ一人の男が飲みにはいった。くたびれた背広を着、鞄《かばん》を持ち、鳥打帽をかぶっていた。夕方のことで、漁師や船頭が四五人飲んでいたけれども、誰もその男に注意する者はなかった。見慣れないよそ者が来るのは常のことだし、自分たちに利害関係のない限り、そんな者に気をとられるような習慣はなかったからだ。――男は鳥打帽の庇《ひさし》をひきさげ、顔を隠すようにして飲んでいたが、やがて隣りにいた船頭の一人に話しかけた。去年この土地で心中事件があったそうだが、と訊いたのである。訊かれた船頭は首を振った。知らないのではなく、すっかり忘れてしまったらしい。すると男は躍起になった。

「松の家の女ですよ」と男は云った、「ごったくやの松の家の女で、名前は慥かお栄とか栄子とか聞きましたがね、ええ慥か薬の外交員と心中したとかって」

 その話を漁師の一人が聞き咎《とが》めた。そしてその男の顔をひそかに覗いて見ると、びっくりして駐在所へ走っていった。去年とは巡査が変っていたけれども、心中事件は知っていたらしく、すぐにとんで来て男を捕えた。

「おまえは岸がんじゃあないか」と巡査が訊いた、「ここに証人がいる、嘘を云ってもだめだぞ、どうだ」

「へえ」と岸がんはうなだれた、「私はその岸がんでございます」

 岸がんは駐在所へ連行され、栄子も呼び出された。そのとき栄子は「喜世川」へ移っていたが、駐在所へいって、そこに岸がんのいるのを見たときは、肝がつぶれてすぐには口がきけなかった。

「あんた生きてたの」と栄子が云った。

「おまえ生きてたのか」と岸がんが云った。

 それから取調べが始まり、岸がんはすぐにかぶとをぬいだ。栄子は岸がんの告白を聞くと、かっと頭へ血がのぼって、岸がんにむしゃぶりつき、平手打ちをくれたり蹴ったり、引っ掻いたり噛みついたりした。止めにはいった巡査にも噛みついたし、駐在所の窓ガラスも一枚砕いたそうであった。

「その巡査までが同類みたいに思えたのよ」と栄子が云った、「先生の前で云っちゃあなんだけどさ、男なんてみんなけだもののろくでなしのぺてん師だよ」

 私が訊き返すと、栄子は顔をしかめながら首を振り、大きなおくびを三つもした。

「なにを怒ったかって、訊くまでもないでしょ、岸がんのやつ強い催眠薬だなんて云って、ほんとは重曹をのんだんですってよ、あんまり人をばかにしてるじゃない」栄子はそのときの怒りがまだおさまらないとでもいいたげに呼吸を荒くした、「こっちはおかげでいい笑いものにされちゃったわ、ばかばかしい、肚《はら》が立つったらありゃあしない」

 私は笑いをかみころしてまた訊いた。

「そんなこと云えるもんですかよ」と栄子はふきげんに答えた、「こっちは本当に毒をのんだことになってたし、医者の手当まで受けてるんですもの、嘘だったなんて云えば詐欺罪にされるかもしれないじゃないの、現に岸がんのやつは駐在所から分署へ、そして本署までまわされて、何十日かぶたばこへ入れられたうえ、幾らとか罰金を払わされたっていう話よ、人を騙したばちね、いいきみだわ」

 酒がすっかりなくなると、栄子はさばさばしたようすで、鼻唄をうたいながら帰っていった。

   二十八 残酷な插話《そうわ》

 堀の南の洋食屋「四丁目」で、東浦バス会社の会計主任が、三人の運転手にビールを奢りながら話していた。彼は三十二歳くらいで、名は杉田春といい、周囲の人たちに「春さん」と呼ばれ、誠実さと頭のよさとでたいそう敬愛されていた。細おもてで色が(土地の者にしては)白く、濃い眉毛にもいやみはないし、まっ白で丈夫そうな歯を見せて、笑いながら話す口ぶりは静かで考え深く、自分で納得のいかないことでもすぐには反対しない。よく検討し慥かめてみたあとで「どうも月にゃ兎は棲《す》んでねえようだな」と答えるということであった。

「おらは看護兵だっただ」と春さんはバスの運転手たちに話していた、「おんだらのめえの兵は看護卒と云ってたようだっけだが」

「やっぱりな」と運転手の一人が云った、「頭がよくなくっちゃ看護兵にゃなれねえってえだが、春さんはそのじぶんから違ってただ、なせ」

「そんなこともねえさ」他の二人が同意を表するまえに春さんが云った、「看護兵なんてのは、ふつうの兵として役に立たねえ者がなると云ってもいいくれえだ」

 運転手たちは反対した。病気の兵が多くて手のまわらないときなどには、「軍医の代診もする」と云うから、或る程度以上の切れる頭を持っていなければならない筈である、と運転手たちは云った。春さんが会社の会計主任であり、自分たちがビールを奢ってもらっているから、お世辞を云っているのだ、と疑えるような気配はどこにもなかった。かれらは心から春さんを敬愛し、春さんの頭の明敏なことを、むしろ自分たちの誇りにしているようでさえあった。

「こんなことがあったっけだ」春さんはかれらの讃辞から身を除けるように云った、「二年兵になった秋ぐち、三連隊でひどくたちの悪い風邪が流行《はや》った、なんとかインフルエンザっていったっけ、世間でもずいぶん流行ったが、肺炎を起こして死ぬ者がたくさん出た、なにしろこれが効くっていう薬がねえだから、病人の躯にもちこたえる力があるかどうかで勝負がきまる、っていうあんべえのもんだっただ」

「注射してもだめだかい」

「せえぜえ強心剤を打つくれえだっけだ」と春さんは答えた、「それはまあとにかく」と彼は話を脇へそらせまいとして続けた、「おらがいまでも覚えてることを話すべえ、まあ飲みながら聞いてくれ」

「飲むこたあ忘れねえだよ」と運転手の一人が云った、「尤《もっと》もおらあビールよりもちゅうのほうがいいけどな」

「その病気の兵隊の中に」と春さんは構わずに云った、「島田っていう初年兵がいただ、うちは慥か能登《のと》のほうだった、佐渡かもしれねえ、もう忘れちまっただが、相撲のように頑丈な躯をした男で」

「その」といちばん若い運転手が訊いた、「うちが能登か佐渡だとすると、連隊区が違やあしねえかね」

「寄留すればいいだよ、東京で寄留届けをしてあれば寄留地の連隊にへえることもできるだ」と春さんが説明した、「麻布《あざぶ》の三連隊ってえばおめえ、全国から入隊志願がわんさと集まったもんさ」

「そうだ」と他の運転手の一人が云った、「三連隊ってえば名誉連隊だからな」

「その島田ってえ初年兵は」と春さんはいそいでその話題からぬけ出した、「衛戍《えいじゅ》病院へへえるとまもなく重態になった、軍医はもうだめだからって、隊では親元へ電報を打つと、島田のおふくろと妹が駆けつけて来た」

「まにあっただかい」

「軍医はまにあうまいと云った、おらあ当番だったが、おらもこのようすじゃあまにあうめえと思っただ」と春さんが云った、「それがなんのおめえ、おふくろと妹が着くまっでちゃんと持ちこてえたし、それからも持ちこてえ続けただ」

「すると、治っただな」

「重態のまんまさ」と春さんは云った、「もうだめか、いま死ぬかっていう危篤状態でいて、それがいっかな死なねえだ」

「肝煎《きもい》っちゃうな」

「それどころの沙汰じゃねえさ、軍医は投げちまって寄りつきもしねえ、ほかにも患者は大勢あるってえのに、おらあ島田初年兵からはなれることができねえ」春さんは白い歯を見せ、肩をすくめて当惑の気持を示した、「――なぜかってえば、島田はいまにも死にそうな重態が続いているから、ときどき強心剤の注射をしなけりゃあなんねえし、息を引取るときに隊の者が付いていなかったとなれば、軍の責任問題になる勘定だべえさ、なせ」

「そうだな」三人の中では年嵩《としかさ》らしい、二十八九になる運転手が、考えこんだような口ぶりで云った、「軍縮からこっち、赤の野郎がいばりけえってのさばってるし、軍としても、国民感情にゃあ気を病まねえばなんねえだからな、おらあ軍縮にゃあてんから反対なんだ、仮にもおめえ国家てえものがあるのによ」

「それでもおらあまだいいほうだった」と春さんは話を引戻した、「おらにゃあ交代ってものがある、交代になれば休むこともできるが、気の毒なのはそのおふくろさんと妹だった、小さな痩《や》せたおふくろと、はたちくれえの、兄貴によく似た躯つきの固太りに肥えた妹とは、病人の枕許《まくらもと》に付きっきりで、弁当もそこで喰べるし、手洗いにゆくときのほかはいっときも側をはなれねえし、一睡もしなかったっけだ」

「情愛だな」

「情愛だ」と春さんが云った、「おらなんぞ軍務の看護兵だが、とてもあの二人のまねはできなかった、とにかく付きっきりで一睡もしねえし、代る代る病人に話しかけては泣いてるだ、おふくろも妹も眼をすっかり泣き腫らして、いよいよ死ぬらしいと聞くたんびに、二人で島田に抱きすがって泣きひいるだ」

「それでも死なねえか」

「それでも死なねえ」と春さんが云った、「よっぽど心臓が丈夫だったんだべえさ、軍医もこんな依怙地《えこじ》な心臓にゃあこれまでおめにかかったことがねえって、心臓がこんなに丈夫でもよし悪しだって云ってたっけだ」

「専門家にゃあ専門家の意見があるだな」

「そんな状態がまる三日続いただ」春さんはまた巧みに話題のそれるのを防いだ、「口で云うと三日だが、実際その場で当事者ともなれば、三日は五日にも十日にも半月にもつくだべさ、そのあいだちっとの隙もねえだ、ひょいとすると死にそうになる、二人が泣いて抱きすがると、いやまだだ、ほっとして助かるかもしれねえと思って、それはそれで嬉し泣きをするてえと、すぐにまたそら危ねえとなるってえあんべえさ」

 三人の運転手は黙ってビールを啜った。かれらの顔には、その「依怙地」な心臓に対する反感が、隠しようもなくあらわれていた。

「だが助からねえものは助からねえ、寿命が尽きれば天皇さまのお子さまだって死ぬだ」と春さんは三人の眼をさまさせるようなことを云った、「――まあ三日めの夜の十時ごろだっけか、ちょうどおらが交代になってまもなく、島田初年兵は死んだだ」

 三人は春さんを見た。寿命が尽きれば天皇の子さえ死ぬ、というショッキングな指摘と、さすがの心臓がついに兜《かぶと》をぬいだ、という表現とで、眠りかけていた好奇心がにわかに生気を取り戻したようであった。

「そうだかい」と運転手の一人がテーブルを撫でながら、いまにも笑いだしそうな、しかし悲しみの味をきかせた調子で、首を振りながら云った、「――やっぱりな」

「おらあ当直の軍医を呼んだだ」春さんは淡々とした口ぶりで続けた、「やって来た若い軍医は脈をみ、心臓へ聴診器を当て、瞳孔《どうこう》を見ただ、それから椅子に腰を掛けて、患者がまちげえなく死ぬのを待ってたっけだ」

「しょうべえしょうべえだな」

「これはしょうべえじゃねえだよ」春さんはちょっと気を悪くしたようであった。しかしそれを表にあらわすようなことはせず、オクターブを半音さげたくらいの声で続けた、「――そのうちに島田初年兵の心臓が止っただ、軍医は用心ぶけえ人だったからうっかり信用はしねえ、聴診器を当てたまま辛抱づよくようすをみてただよ、だが心臓の止ったにゃあ嘘も隠しもなかった、そこで若い軍医は聴診器を耳から外し、ゴム管をぐるぐる巻きながら、おふくろと妹に御臨終ですって云っただ」

「軍隊でもやっぱりそんなふうに云うだかい」

「するとな」春さんは質問を無視して続けた、「その島田初年兵のおふくろが、しょぼしょぼした眼を拭きながら、大きな欠伸《あくび》をしただよ」

「なにをしただって」

おふくろの欠伸がうつったものか、妹も同じように大欠伸をしたっけだ」春さんはそのときの情景を噛み味わうかのように、眼を伏せて十秒ばかり黙り、それからゆっくりと頭を左右に振って、云った、「――三日三晩、一睡もせずに付き添ってただし、泣くだきゃあ泣いたあとだからふしぎはねえだろうが、息を引取ったと聞いたとたんに、その母親と妹が枕許でおめえ、……」

 そこで春さんは口をつぐみ、年嵩の運転手が大きな欠伸をした。

  二十九 けけち

 私は青べかを大三角に繋《つな》いで、釣りをしていた。秋の中ごろだったと思う、――大三角とは、根戸川の下流にある三角洲《さんかくす》で、デルタというものがいかにして形成されるかということを、絵解きにして見せているような存在であった。概略だけ描いてみると、干潮時には洲そのものが三段に重なっているのが見える。一段はほぼ五十センチほどの厚さがあり、段と段のあいだは隙間になって、枯れた古い芦《あし》の幹が支柱のように竝立《へいりつ》している。――つまり、芦の茂みに砂や土が溜まり、流れて来た小枝や枯葉が溜まり、そこへまた砂塵《さじん》や土が混って、洲の一段が出来あがる。これが繰返されると、やがて芦はその段から生えるようになり、その芦の茂みを中心に、また同じことが始まるのである。どのくらいの年月かは不明であるが、上の段がそれ自身の重みで、下のそれへとさがって重なり、さらに沈下して洲の基礎となる。――私にはそういうふうに考えられたし、現にその洲の周辺が三段になっているのは、デルタ形成の途上であるのだと思えた。

 大三角は芦で蔽《おお》われてい、やかましくよしきりが鳴き騒いでいた。百舌鳥《もず》もそうぞうしくて遠慮知らずな鳥である、百舌とはよく名付けたものだと思うが、よしきりもそうぞうしい点では百舌鳥におさおさ劣らない、彼には「ぎょうぎょうし」という又の名もあり、芦の中を飛び廻っては、いきなり人を嘲弄《ちょうろう》するような鳴き声をたてる。――私が釣りのほうを忘れ、デルタ形成という、幾分か学問的な思考をたのしんでいると、すぐ近くの芦の中へ来て、いきなりよしきりが嘲弄の叫びをあげた。

 けけち けけち よしごで****突っ突いて おいてててて。

 浦粕ではよしきりを「けけち」と云う。そして、長の説明によると、右にあげたように鳴くのだそうで、おたまに云わせると****は、長が云うのとは反対に男性の部分をさすということだが、そう云われてみると、慥かにそう鳴くように聞えた。

「ふざけるな」と私はどなった、「黙れ、やかましいぞ」

 私の思考の邪魔をすることに成功したのがうれしいとでもいうように、けけちはひときわ声を張りあげて叫んだ。――けけち けけち よしごで****突っ突いて おいてててててて。

   三十 留さんと女

 三十六号船の水夫である留さんは、年が三十四歳でお人好しで、ひどく色が黒かった。「どんな闇夜でも留さんの顔だけは黒く見える」と云われ、自分でもそれを認めていた。――三十六号の船長のブルさんは、すっかり視力が衰えているため、操舵《そうだ》に当っては留さんの声援に頼らなければならず、そのため留さんは「おらがいねえば三十六号はやみだ」と誇っていることは、「芦の中の一夜」に記したとおりであるが、――自分のそういう意義深い立場を誇っている留さんとしては、色が黒いなどということくらい、てんで気にしないのであった。「おらのうちはおやじの代から船乗りだったでよ」と留さんは云っていた、「色の黒いのあ血筋の正しい証拠だべえさ」

 彼は霞《かすみ》ヶ|浦《うら》の北端にある鉾田《ほこた》町で生れ、父も霞ヶ浦の通船に乗っていたし、彼もごく小さいときから、父といっしょに通船に乗ったということだ。――或るとき私は彦山光三(現相撲評論家)の家を訪ねて、浦粕町のことをいろいろ話していると、彦山夫人が「その留さんなら知っている」と云いだされた。よく聞くと確かに同一の人物らしい、夫人も鉾田町の生れで、留さんが少し頭のあったかいことや、色の黒いのと、ばか踊りの上手なことなど、詳しく知っておられた。これには私は相当おどろいたし、夫人も「世間は狭いものねえ」とおどろいておられた。――そのあと、私は浦粕へ帰ってから、世間は狭いものだという通念について、少しばかり検討をこころみたのち、こういうめぐりあいはむしろ 「世間が広いからだ」という定義を組み立てることができた。要約すれば平行線の定理なのである。私は私の人生の座標をもち、彦山夫人には夫人の座標がある。留さんも同じことであって、おのおのはその人生の座標に即《つ》いて生きている。平行線は相交わらない、というのはユークリッドの定理だったろうか。これに対して「しかし無限大の空間においては相交わる」という非ユークリッド定理がある。つまり、世間が広大であるからこそ、それぞれの座標をもった三人がめぐりあう機会も生れる、というわけである。こんどこの話を書くに当って、平行線の定理を数社の若い記者諸君に訊いてみた。私はもともと数学には興味もなし才能もゼロなので、その定理がユークリッドのものであるかどうかさえ記憶が薄れていたからであるが、若い記者諸君の意見がみなまちまちであり、中には「ユークリッド自身が、非ユークリッド定理をきめた」と主張する新人記者もいて、やはりものは訊いてみるものだ、という感を新たにしたしだいであった。

 留さんは篠咲《しのざき》の船着き場の近くに、漁師の物置を改造したものであるが、一戸建の家を借りていた。私はその家を知らない。篠咲は浦粕の上流にあり、歩いて一時間以上はかかるらしい。根戸川堤に面した小さな部落であるが、土堤に桜並木があり、そのためかなり人に知られているということであった。――留さんの家は、何人めかの女にせがまれて借りたのだというが、私が浦粕へいったころは、殆んど高品さんの炉端にいて、頭のあったかいところを披露《ひろう》しながら、炉端に集まる人たちに愛されたり笑われたりしていた。――留さんは女に脆《もろ》かった。彼は給料を取ると高品夫人に預ける、高品夫人は必要経費を差引いて、残りを郵便貯金にし、その貯金帳を預かっている。ふだんの留さんはあまり金を使わない、酒席(というほどのものではないが)ではもっぱら人に酌をしたり、求められれば得意のばか踊りや、鉾田地方の唄をうたったりするので、飲み食いに金を出すことはなかった。

「だからお金は溜まるのよ」と高品夫人が私に云った、「お金は溜まるんだけれど、それが一〇〇くらいになると女ができて、それですっからかんになっちまうの、もうこんどこそ懲りたって云うでしょ、こんどこそ眼がさめたって、――それからタバコも人の吸いがらを拾うようにして溜めるんだけれど、ちょうど一〇〇くらいになるかなと思うとまた女にひっかかるの、留さんのほうでそうなるのか、女のほうで嗅《か》ぎつけるのかわからないわ、あたしはもちろん、貯金の帳尻のことなんか云やあしないのに、ちょうどそのくらいになるときまって女ができるんだからふしぎよ」

 女といってもみなしょうばいにんあがりであった。ごったくやから足を抜いたとか、むかし亀戸《かめいど》で売れっ子だったとか、飲み屋から追い出された、などというような経歴のもちぬしたちで、しかもおちついて世帯を持つということはなく、留さんの貯金を使いはたすと、自分からさっさと出ていってしまう、ということであった。

 幾たびそんなことがあったか私は知らない。私が浦粕へ移ったときは、しきりに貯金に精をだしている期間らしく、酒は高品さんの炉端か、なかまの奢り、タバコは人の吸いがらという、倹約なところをみせていた。それが一年ほど経ってからだと思うが、高品夫人がまたそろそろ始まるじぶんよと云い出した。

「いいえ、まだそんなようすはないのよ」と夫人は私の問いに答えた、「でも貯金が一〇〇を越したの、珍しいことに今日しらべたら一二〇近くになってたのよ、そんなに溜まったのはこれが始めてよ」

 そんな話をしてから幾十日か経って、高品夫人の予言が事実になった。或る日、高品家の炉端で、夫人がそのことを私に告げた。高品さん夫妻と私の三人だけで、芝栗を剥《む》き、茶を啜《すす》りながら話していたとき、夫人がふと思いだしたような顔つきで云った。

「とうとうできちゃったわよ、もう一と月以上にもなるんですって」夫人は、訝《いぶか》しげな眼をする私のことを打つような手まねをした、「わかるじゃないの、留さんに女ができたのよ、それがまた大変なの」

「八兵衛っていうお女郎あがりだそうですよ」と高品さんがやわらかな調子で云った、「いや、八兵衛っていうのは女の名じゃあないんです、たしか潮来《いたこ》あたりの遊廓《ゆうかく》の妓《おんな》たちの代名詞でしてね、鹿島香取《かしまかとり》なんかへ参詣《さんけい》するときに、ゆきにしべえか帰りにしべえかっていうので、合わせて八兵衛ということになったんだそうですよ」

 女は元は洲崎《すさき》かどこかに出ていて、留さんとはそこで馴染《なじ》んだ。そのあと潮来かどこかへ変ってからも、幾たびか留さんが逢いにいったらしい。今年「ねんがあけ」たので、夫婦約束をしたからと、留さんのところへ押しかけて来た。小さな風呂敷包みを一つ持っただけで、もう芝栗が出さかる季節だというのに洗い晒した浴衣一枚であらわれ、そのまま篠咲の家にいすわってしまった。年は留さんより三つも上だし、八兵衛などをして「ねんがあけた」女ではあるが、留さんはてんで恐悦してしまい、煮焚《にた》きはもちろん、女の下の物まで洗濯してやっているそうであった。

「こうなったらだめなのよ」高品夫人は私の問いに答えて云った、「夫婦約束をした女だし、こんどこそ世帯を持っておちつくんだからって云われてみれば、貯金帳を渡さないわけにはいかないじゃないの、そうでしょ」

「それに相手がそんな女だからね」と高品さんも云った、「どうせゆき場がなくって来たんだろうから、こんどは、本当におちつくかもしれませんよ」

 そして十日ほどのちに、私は浦粕亭でビールを飲みながら、留さんの女について、秋葉エンジから第一報を聞いた。

「たいへんな女だよ、先生」秋葉エンジは朴訥《ぼくとつ》な顔にうすら笑いをうかべながら云った、「なげえことしょうばいをした躯だから、留さん一人じゃあ保《も》たねえって、通船の者をだれかれなしに引張り込むだよ、代り番こだ、船が篠咲に着くたんびに、誰か一人がおりてゆく、そして船が徳行から戻って来ると、そいつが船へ乗って、代りの者がおりてゆくだ」

 私がためらいながら訊くと、秋葉エンジは素朴な、そしていくらか虚無的な笑いをうかべた。

「気づかねえだか、気づいてるだかわからねえだ、おらあ勘づいてると思うだがねえよ」と秋葉エンジは云った、「――現に三十六号船の者が代り番こにおりるだし、銀公(「おらあ抵抗しなかった」の章を参照)が聞いたところでは、それが気に障るならおめえ一人でまかなってみろ、って女がどなりけえしたっていうだよ」

 私が嘆くと秋葉エンジも嘆いた。

「悪い野郎どもだ、まったく悪い野郎どもだ」と彼はコップの中でビールの泡《あわ》の消えてゆくのを見まもりながら云った、「いくら向うでさそったからって、他人の女を只でなにして、留さんの前で笑い話にするって法はねえだ、始末におえねえ野郎どもだよ」

 その話はすぐに、高品家の炉端でも出るようになった。しかし、これまで幾たびも記したように、そのことについて非難するような声は、――秋葉エンジを除いて、――ただの一度も聞かれなかった。尋常な家庭に起こるこの種の出来事でさえ、浦粕ではさして問題にしないのが一般的風習であり、留さんの場合は特に、その女が八兵衛あがりだったから、笑い話としてもさしたる価値はないようであった。――そうしてやがて、私は第二報を聞いた。女にはほかにしんじつ夫婦約束をした男がいる、というのである。新川堀の畳屋の職人で、あと半年ほど経つと自分で店を持つことになっており、女の荷物やなにかはその男のところへ持ち込んであるが、店を持つときが来るまで、留さんのところで食いつないでいるのだ、ということであった。

 この第二報は通船の若い水夫たちがもたらしたものだ。水夫たちが彼女を訪問したのは、そう長い期間ではなかった。なぜかというと、女が不縹緻《ぶきりょう》で荒っぽいばかりでなく、まるで「吸出し膏薬《こうやく》」のようだから、というのである。

「三十二号船の仁公は十六貫もあったによ」と水夫の一人は云った、「五たびか六たびかよったらおめえ三貫目も痩せたっていうだ」

 あれではあとで滋養を摂《と》らなければならないから、却《かえ》って高いものにつくのだ、というのがかれらの説であった。こうして一人また一人と落伍してゆき、ついには誰も寄りつかなくなったのであるが、或るとき一人の若い水夫が、勤務ちゅうにとつぜん血が騒ぎだし、船が篠咲に着くなりとびおりて、抑制することのできない衝動を抱えながら留さんの家へ駆けつけた。ところがそこに先客があり、まっぴるまだというのに戸閉りをした家の中で、壮烈な太神楽《だいかぐら》を演じていた。若い水夫は怒った、――まるっきりてめえの嬶《かかあ》をぬすまれてるようなこころもち、だったそうである。彼は雨戸の隙間へ耳を当てて、太神楽のもようをつぶさに聞いた。船が徳行から戻って来るまでは一時間かかるし、それまでは時間のつぶしようもなかったからだ。

 その先客が新川堀の畳屋の職人であり、女とどんな深い関係であるか、という仔細《しさい》のことがそのとき初めてわかったのである。若い水夫の報告によって、そのことはすぐ蒸気乗りなかまにひろまり、事実であることが確認され、にわかに留さんに同情が集まった。それまで誰よりも多く篠咲で下船した二十九号の平助などは、「世の中にはふてえ野郎がいるもんだ」と憤激したそうである。――もちろん、これらの情報は留さんの耳にも伝わったであろう。伝わらないという理屈は絶対に成立しないと思うが、当人はぜんぜん知らない顔をしていた。いちど高品家の炉端で、誰かがそのことを当人に向ってあてこすった。高品夫人はその男を睨《にら》みつけ「およしなさい」ときびしくたしなめたが、留さんは少しも気にするようすはなかった。

「人は好きなこと云うだよ」留さんはまっ黒な顔をくしゃくしゃにし、てれくさそうに笑いながら、まるでお世辞でも云われたように羞《はにか》んだ、「――あいつも口の軽いのが悪い癖だから、ばかなことばかし云って人に誤解されるだ、なにしろ世間知らずだでねえよ」

 軽いのは口だけか、と誰かが云い、また高品夫人に叱られた。

 私はそのときそこにいたのだが、留さんの「世間知らずだから」という言葉に少し感動した。留さんとしては自分の女を庇《かば》ったつもりだろうが、慥かに、そういうすさんだ生活をして来た者の中には案外「世間知らず」な人間がいるものである。食う心配ばかりして育って来たのに、少しも貧乏というものを知らない人間――というのは、貧しい人たちに対して同情のない、独善家という意味である――が、かなり多いのと同じように、おそらく留さんの云うことは正しいだろう、少しあったかいといわれる留さんの勘は、なまじっかな観察眼を持った者よりしんじつを見ぬく能力があるのかもしれない、と私は思ったものだ。

 春になってから、私は根戸川亭で留さんを見かけた。私はビールを一本と、カツライスを取り、本を読みながら、それらをゆっくり片づけていた。留さんは隅のほうのテーブルで、二人の蒸気乗りなかまと、酒を飲みながら話していた。空いた燗徳利《かんどくり》が三四本、肴《さかな》の鉢や洋食の皿もかなり並んでいたし、留さんは上機嫌で、陽気に笑ったり話したりしながら、「まあ飲みなせえな」とか、「もっと食いせえ、ま」などとせっついていた。

 かなり長いあいだ、留さんのことはみんなの関心の外におかれ、私も話らしい話は聞かなかったので、その晩の陽気な姿を見ても格別なものは感じなかった。しかし、その後また根戸川亭で、やはり蒸気乗りなかまに気前よく奢っているのを見かけ、どうしたことかと訝しく思った。そのうちに高品夫人が、どんなきっかけからだったか、留さんの「例の女」が、根戸川亭の女給になっていると云って、私をおどろかせた。

「あら、知らなかったの」と高品夫人は云った、「もう一と月くらいになるかしら、遊んでいても勿体《もったい》ないからって、自分で押しかけていって住み込んだんですってよ」

 私はちょっと考えてから質問した。

「あら、それも知らないの」と夫人は眼をみはるようにして答えた、「畳屋の職人にはべつに女があったんですって、お秀さん、――留さんの女の名前よ、お秀さんと夫婦約束はしたけれど、ねんがあけたからって、押しかけて来られたときには肝を潰《つぶ》したそうよ、それでもいやだとは云えなかったので、店を出すまで待ってくれってごまかしてたんでしょう、二月だかにお秀さんの預けた荷物やなんか、みんな持ったままどこかへいっちまった、っていう話だわ」

 私は留さんのために祝意を述べた。

「さあどうかしら」と高品夫人はあいまいに微笑した、「畳屋の職人はいなくなったけれど、根戸川亭へ住み込んでからずいぶん発展するっていうし、もう留さんの貯金も無くなるじぶんなのよ」

 ほどなく私は、そのお秀という女を自分の眼で見た。

 彼女はあぶらけのない渋色の膚で、額が抜けあがり、ぐるぐる巻にしている髪の毛はごく薄かった。痩せていて躯は小さいのに、骨組はずばぬけて逞しく、そのため、うっかり見ると肥えているように感じられるが、実際には肉も脂肪もそげおちて、逞しい骨に貼り付いたような皮膚は、到るところで皺《しわ》たるみ、そしてかさかさに乾いていた。大きな眼には意地の悪そうな、棘《とげ》とげしい色があり、サンド・ペーパーでも擦《こす》るようなしゃがれ声で、なにを云うにも喧嘩腰《けんかごし》であった。――いったいこの女のどこに、若者たちを惹《ひ》きつけるものがあるのだろうか、私にはそれがまったく理解できなかった。なお彼女は四十歳より下にはみえないし、四十六七といっても決してふしぎではなく、根戸川亭の主人や、古くからいた女給――といっていいと思うが――たちからも嫌われていることがあきらかにうかがわれたが、彼女のほうはてんで気にもかけず、なにをこのぬけ作どもが、とでも云いたげに、鼻の先であしらっていた。

 幾たびか根戸川亭へゆくあいだに、私は悲しい現実を見なければならなかった。幾たびかといったが、私の経済でそうしばしばゆくことはできない。月に二度か三度くらいだったか、あるいは一度か二度くらいだったかもしれないと思うが、――留さんはもう気前よくなかまを奢るようなことはなく、お秀が客の相手をするあいだ付いていて、ビールや酒を取りにいったり、注文される肴や、洋食の皿を運んだりするのであった。

「留公、ビールだよ」とお秀はしゃがれ声でどなる、「さっさとしねえのかい、のろのろもたついてるんじゃねえよ、わかったかい」

「メンチボールつったろう、留」とお秀は眼を三角にしてねめつける、「なんだいこりゃあ、コロッケじゃねえか、まぬけだねえ取っ替えといで」

 客がそれでいいと云う。お秀は耳も貸さずにどなりつける、「コロッケはメンチボールじゃねえんだよ、いいえうっちゃっといて下さいよ、性《しょう》をつけないと懲りないんだから、早く立たねえのかい」

「そんなにがみがみ云ったって、おめえ」と留さんは中腰のまま悲しげに女を見る、「こうやって出来ちまったものを、おめえ、いまさら取っ替えられやしねえと思うがなあ」

「そんならその分はおめえが払いな」とお秀は云う、「てめえでまちげえたんだからね、早くいってメンチボールをそいって来な、お、そのコロッケは置いてっていいよ、片づけるだけはおらが片づけてやっから、払いはおめえだよ、いいかえ」

 留さんは「ああ」と云って立ってゆく。

「ほんとにまぬけでのろまで」とお秀は舌打ちをする、いかにも癇《かん》に障るといったような舌打ちである、「あれでよく通船が飼っとくもんだ、呆《あき》れ返って屁《へ》も出あしねえよ」

 私はその女を憎んだ。

 ――どういうわけだ、留さん。

 そんな女にどうしてこき使われているんだ。横っ面をはりとばすか、蹴倒してやるか、唾でも吐きかけてやればいいじゃないか、男じゃないか留さん、と私は心の中で叫んだ。そのとき私は、怒りのために躯がふるえたのをいまでも覚えている。だが、と私は自分を抑えるために反省した。

 ――あの女は世間からいためつけられて来たのだ。

 どんな事情かはわからないが、若いころから身を売り、色街を転々として、「八兵衛」にまで落ち、ねんがあけるまで身受けをする客もなかった。しかも、ねんがあけて約束した男を頼って来れば、その男にはほかに女があり、彼女の預けた荷物もろとも逃げてしまった。これだけ酷《ひど》いめにあわされれば、人は温和な気分を保つことはできないであろう。自分が払わされただけのものを人にも払わせてやろう、というような気持になるのが当然かもしれない。あの女だけを責めるのは不当だ、と私は自分をなだめた。しかしすぐに、それは論拠が誤っている、という声が私の心の中で起こった。

 ――はらいせをするなら、する相手がある筈である。

 もしも彼女が世間からいためつけられたとするなら、留さんも同様に世間からいためつけられている。いつも少年の水夫たちにさえ軽蔑《けいべつ》され、殆んど面と向って、「留さんは頭があったけえからな」などと云われるうえに、貯金が一〇〇くらいになると、女にひっかかって元も子も無くしてしまう。つまり二人は同じ戦傷者なので、お互いに劬《いたわ》りあい慰めあうのが本当ではないか。――そんなふうに私が自問自答しているあいだも、留さんはお秀の命ずるままに、ビールや酒を運んだり、どなられて頭を掻いたりしていた。

「この留公はね」とお秀が客に云った、「こんなまぬけのくせえしてばか踊りがうめえんだよ、ばか踊りとはにん相応だけどさ」

「ねえ、留公に一杯飲ましてやってごらんよ」とまたお秀が云った、「ビールなんてもってえねえ、その燗ざましでたくさんだから、いいから飲ましてごらんよ、ばか踊りをやらしてみせるからさ」

 客がなにか云った。その客が誰であったか、一人だったか伴れがいたか、私にはまったく記憶がない。私のところから見えなかったことは慥かであるが、どうも土地の者ではなく、よそから魚釣りに来た客だったように思う。

「さあ飲みな、留公」とお秀が云った、「がつがつするんじゃねえよ、みっともねえ、一杯だけだよ」

 留さんがなにか云って、盃《さかずき》の酒を大事そうに啜るのが見えた。

「さあ、ばか踊りをやんな」とお秀は留さんの手から盃をひったくって云った、「うまく踊んなよ、そしたらまた飲ましてやっから、さあ踊るんだよ」

 留さんは立ちあがり、手拭で頬かぶりをし、いかにもてれくさそうに笑いながら、やおら尻端折《しりっぱしょ》りをした。  ――なんという女だ。

 私は歯をくいしばりながらそう思った。留さんは踊りだした。てけて、どんどん、と自分で囃子《はやし》を入れながら、――彦山夫人の言葉にもかかわらず、それは決して上手なものではなかった。尤も、私は里神楽で見たのと、新橋の幇間《ほうかん》だった柳家連中の獅子舞《ししまい》で見たくらいの知識しかなかったが、――私は踊っている留さんから眼をそらし、いそいで勘定をして、逃げるように根戸川亭をとびだした。

「巡礼だ、巡礼だ」暗い土堤を家のほうへ歩きながら、私は昂奮《こうふん》をしずめるために、声にだして呟いた、「苦しみつつはたらけ」それはそのころ私の絶望や失意を救ってくれた唯一の本、ストリンドベリイの「青巻」に書かれている章句の一であった、「苦しみつつ、なおはたらけ、安住を求めるな、この世は巡礼である」

   おわりに

 私は浦粕から逃げだした。その土地の生活にも飽きたが、それ以上に、こんな田舎にいてはだめだ、ということを悟ったからであった。私は町の隅ずみを歩いた。沖の百万坪、白い煙霧に包まれている石灰工場、芳爺さんの住居に近い三本松、消防小屋、堀南から中堀橋を渡り、堀に沿った堤の左側に、養魚場の広い池を眺めながら、東の海水浴場へもいってみた。こうして、土地や風景には別れを告げたけれども、東京へ去ることは誰にも云わなかった。高品さん夫妻にさえ話さず、売り残って半ば不用の本の詰った四つの本箱や、机や、やぶれ蒲団や穴だらけの蚊屋。よごれたまま押入へ突込んである下衣《したぎ》や足袋類。その他がらくた一切をそのままにして、――というのは、物を片づけるということが私はなにより嫌いで、それも自分でやるのが嫌いなだけではなく、人が片づけ物をしているのさえ見ていられないたちだったからだが、――書きあげた幾篇かの原稿と、材料ノートと、スケッチ・ブック五冊とペンを持っただけで、蒸気にも乗らず、歩いて町から脱出した。いちどもうしろを見なかった。私にとって、浦粕町はもう過去のものであった。私の眼も心も、前方だけに向っていた。

「東京へ出たら」と私は力んだ気持で呟《つぶや》いた、「おれはやるぞ」

「東京へ出て」と私は不安を抑えきれずに呟いた、「はたしてやってゆけるだろうか、生きてゆく、ということだけでもいいのだが」

 次には「なにをくそ」と呟いていた。気負い立ったり、自分の才能のなさや、小説を書いてゆくことの困難さを思って、息苦しいような感じにおそわれたりしながら、私は埃立《ほこりだ》った陰気な道を歩き続けた。

 それから八年ほどのちに、私は浦粕町へいってみた。いま小西六にいる秋山|青磁《せいじ》と、戦後に死んだ森谷文吉《もりやぶんきち》を同伴して。だが、懐旧の情に唆《そそ》られて、などという風流な気持ではなく、秋山と森谷が写真をやっていたので、撮影案内をするのが目的であった。――私たちは高橋《たかばし》から東湾汽船に乗ったのであるが、乗ろうとしたとたんに「先生よう」と声をかけられ、見ると、そこに留さんがいるのでどきっとした。

 私はそのとき殴られるかと思った。――というのは、それより半年ほどまえに、私は「留さんとその女」という題で、二十枚ほどの短篇を発表していた。載せたのはアサヒグラフであって、そのじぶん編集を担当していた宮田新八郎の好意によるものだが、浦粕のノートから幾つか短篇小説にした中でも、留さんの話がもっとも事実に近かったからである。――私は自分をなだめた。留さんが小説などを読む可能性はない、少なくともアサヒグラフを読むような機会はないだろう、おちつけ、と自分をなだめた。にもかかわらず、留さんは「あれを読んだだ」と云った。

「おらんこと小説に書いたって」どんな闇夜でも黒く見えるという、石炭のような黒い顔に、てれくさそうな羞《はにか》み笑いをうかべながら留さんは云った、「――高品さんのおかみさんがおらに呉れたで、読んだだよ」

「あれは」と私はいそいで云った、「あれは、つまり小説なんでね」

「おら大事に取ってあんよ」と留さんは私に構わず続けた、「一生大事にしておくだ」そしてさらに云った、「おら家宝にすんだよ」

 そしてさも恥ずかしそうに、小さくなって事務所のほうへ去った。

 留さんは少しも変っていなかった。秋山と森谷にあらましの事情を語り、乗った通船が竪川《たてかわ》をはしりだしてから、私は沿岸の風景を眺めながら思った。留さんは年も取っていないようだし、人の好さもあのころのままらしい。おそらくはいまでも「頭があったけえなどと云われ、女たちのいいかもになっているのであろう。そういう人間のことを小説に書いて、生活の資にするとは恥ずべき行為だ。留さんは恥ずかしそうな顔をしたが、自分こそ恥じなければならない筈だ、などと思い、浦粕へゆくのがにわかに重荷のように感じられた。

 ――誰と出会うかわからないぞ。

 船宿「千本」の長少年、倉なあこ、芳爺さんはどうだろう。「SASE BAKA」とはっきり書いてしまったおすずは。ブルさんは。ごったくやの令嬢たち、幸山船長は。その他の多くの人たちと出会った場合、いったいどんなことになるだろうか。

 できるだけ会わないようにしよう。

 私はそう思った。これらの人たちをみんな小説に書いたわけではないが、留さんを書いたことは(留さんの口ぶりから察すると)相当ひろく伝わっていると考えなければならないし、ひがみっぽい性質の者は、どれを読んでも自分のことだと妄信《もうしん》するかもしれない。

「できるだけ人に会わないことだ」と私は船窓から外を眺めながら呟いた、「なるべく危険なところには近よらないようにしよう」

 船が浦粕へ着くと、私はいそいで蒸気河岸を通りぬけた。

 船宿「千本」の店先では、見知らぬ若者が繩船の餌付《えづ》けをしていた、長だろうか、年ごろは似ていたが、私は眼の隅で見たまま、声をかけようとはしなかった。町のようすは以前のままであった。ごったくやの「澄川」も「栄家」も同じ看板を掲げていたし、三本松も元のように枝を張っていた。しきりにカメラを捻《ひね》くっている二人をせきたてながら、私は堀の両岸を歩き、沖の百万坪をまわり、東の海水浴場へゆき、それから堀南の「天鉄」へ寄っててんぷらでめしを喰べた。このあいだに知っている者とは誰も会わなかった。いいたねがはいったからと、てんぷらを無料で届けに来てくれた娘のお花さんもいなかった。昔は平屋だったのに、そのときは二階建てになっていたし、ごったくやの女のような女中が、なにを訊いても「知んね」とか「あたし知りませんのよ」とか云うばかりで、そんな古いことより人間はいまをたのしむことが肝心《かんじん》だ、誰かお酌を呼ぼうか、それともあたしのお相手でいいか、などとひっきりなしに饒舌《しゃべ》りながら、すすめもしないビールを勝手にがぶがぶ飲んだ。

「変ったね」と秋山が云った、「まるでごったくやじゃないか」

 私が蒸気河岸にいたじぶん、秋山は二度ばかり来たことがあり、「天鉄」でめしも喰べたので、変化の差がはっきりわかったのであろう。私も興ざめた気持になり、手早くめしを片づけて外へ出た。そして蒸気河岸へ戻る途中、おたまの親たちに会ったのだ。

 道からちょっとはいった、十坪ばかりの空地で、老夫妻が籠を作っていた。それは貝を掘るためのもので、籠は約一メートル四方、一方に砂へ打ち込むための鉄の歯があり、四メートルほどの杉の若木の棹《さお》がついていた。夫妻はどちらも白髪《しらが》になっていて、着ぶくれた躯の背をまるくし、陽溜《ひだま》りでせっせと割り竹を捌《さば》いていた。

 ――おたまの母親だ。

 父親のほうははっきりした印象はないが、母親のほうはすぐにそれとわかった。その人とは親しかったし、いろいろと世話にもなった。男の独りぐらしは不衛生なことが多いと云って、三日に一度は掃除に来てくれたし、野菜を喰べなければ躯に悪いからと、漬物をかかさず届けてくれたりした。それにおたま、――船宿「千本」の長とともに、そのこまっちゃくれのおたまも、土地のニュースをいろいろと報告しに来たものである。

 ――綿屋のおつゆちゃんは十二でちょぼちょぼと生えた。

 ――どこそこのおっかあは誰それとくっついた。

 女の子だけに情緒的なことがらのほうが多かったが、私の材料ノートはそのために得るところが少なくなかったのである。私は静かに老夫妻のほうへ歩み寄り、帽子をぬいで会釈をした。

「暫くでした」と私は云った、「お達者のようでなによりです」

 二人はそろそろと顔をあげて私を見た。なんの反応もない顔つきであった。

「蒸気河岸の先生ですよ」私は笑ってみせながら云った、ちゃんはどうしていますか」

 娘の名を聞いた瞬間、二人は躯をぴくっとさせ、にわかに表情を硬《こわ》ばらせた。それは警戒のようでもあり、恐れのようでもあった。どちらにしろ、おたまに「なにかあった」ということ、それが老夫妻に強い打撃を与えた、ということは慥《たし》かであるように思えた。

「旦那は」と父親のほうが、棘《とげ》のあるかすれた声で訊き返した、「どこのどなただかい」

 私は母親を見た。

「おばさん、忘れましたか」と私は云った、「そら、蒸気河岸の先生ですよ、ぼくの家へよく掃除に来てくれたでしょう」

 蒸気河岸のこれこれと、本名まで名のったが、おたまの母親にはまったくわからなかった。彼女は私をじっと見あげ、つくづくと見てから、ゆっくりと白髪の頭を左右に振った。まえにも肥えていた躯つきに変りはないし、肉の厚いまる顔も、皺が多くなった程度で、あのころと少しも変ってはいなかった。私にはそれがはっきりしている、その人は「男の独りぐらしは」と、よく私に小言を云ったし、掃除をするからと云って、私を外へ追い出したものだ。その人がそこにい、私にはその人がわかるのに、その人には私がわからない。私を見あげた眼つき、すっかり白髪になった頭を、力なく、ゆっくりと左右に振った動作、それは紛れもなく「記憶がない」という意味を表明するものであった。

「かなしいな」私は道のほうへ歩きだしながら呟いた、

「人間なんてかなしいもんだな」

 私は自分の胸が空洞になり、そこをこがらしが吹きぬけるような、云いようのないかなしさに浸された。云いようのないかなしさ。いまでもそう云うほかに表現する言葉がみつからないのである。私は二人の同伴者と通船に乗ったとき、もう二度とこの町へ来ることはないだろう、と心の中で呟いた。

   三十年後

 十月下旬の或る日、私は二人の同伴者とともに浦粕町へいってみた。

 江東区の高橋《たかばし》から出ていた通船、葛西《かさい》、東湾の両汽船とも、ずっと以前に運行をやめ、もっぱらバスの乗り継ぎに切り替えられた、と聞いていたから、タクシーに掛け合ってみると「ゆきましょう」と云うので、安心してでかけた。同伴者の一人は私の若い友人で、某社の編集部員であり、この夏ごろ探訪記事の取材に浦粕へいったことがある。社の車でいったのだそうで、タクシーの運転手がまごついても、彼が道順は知っているだろうと安心していた。

 じつを云うと私は少なからずためらったのである。浦粕のノートを連載し始めてから一年、登場する人たちの中にはまだ健在な者も多いだろう。「おわりに」の章でも留さんと出会ってへどもどしたことを記したが、ことによると「青べか物語」を読んで、他人のことなのに自分のことを書かれたと誤解し、手ぐすね引いて待ち構えている、といったような人物もいるかもしれない。そんなごたごたはごめん蒙《こうむ》りたいし、また、浦粕という土地そのものが、私の記憶にあるなつかしいイメージをめちゃめちゃにしてしまうかもしれない、という心配もあった。しかし、ノートを纏《まと》めて発表したのを機会に、ぜひもういちど青べかの世界を見にゆきたい、という誘惑のほうが強く、ふと思い立った勢いに乗じてでかけたのであった。

 車が走っている時間を利用して、少しばかり「青べか物語」について注を加えたいと思う。第一回の末尾に記したが、この一連の物語の中には、すでに幾篇か小説化して発表したものがあるし、これから小説化する予定のものもあり、その旨を編集部、ならびに読者へ断わっておいたのであるが、――というのは、それらを除いてはこの一篇が不完全なものとなるし、小説として発表したものと、ここに集めたものとは根本的に違っているからである。もう一つ、この物語は戦前にいちど三田文学に載せる筈であった。和木清三郎氏(現「新文明」編集長)が編集していたころで、そのとき私はノートを整理し、「青べか物語」という題名をきめて連載の用意をした。結局は或る人事関係のため、私のほうから辞退したが、そういうことがなかったら、このノートはおそらく散逸してしまったであろうと思うと、おくればせながらここで和木清三郎氏に礼を申上げたいのである。

 タクシーは東京を走りぬけ、本所《ほんじょ》へはいり、錦糸町へと向っていた。こっちへ来たのは戦後はじめてのことで、荒地や沼や田ばかりだったのが、ぜんぜん工場や家でふさがっているのに驚かされた。道も舗装されたのが縦横に通じてい、運転手君とわが友人で休みなしに論争が取り交わされた。

「そっちへゆくと千葉へいっちまうよ」とわが友人が注意する、「こっちの道だよ、こっちの道だと思うな、慥かにこっちだったと思うがな」それから自信をなくしたように云う、「ちょっと訊いてみて下さい」

 わが若き友人はつねづね土地勘がいいと自任しているが、あまりに土地勘がいいためだろう、いっしょに車でどこかへゆくとき、しばしばとんでもない方向へと走らせ、間違ったことがわかっても「なに平気です、あれをぐるっと廻ればちゃんとゆけますよ」などとすましている。それはそうでしょう、道のあるところなら廻り廻ってゆけばたいてい目的地へ着くことができる。私はそんなとき心ひそかに、日本の国土の狭いことを感謝するのだが、――その日の運転手君もやがて、論争する煩《はん》に耐えないことを知り、わが友人の指導するままに左へ曲り、右に曲り、車からおりて人に訊いたうえ、あと戻りをし、というぐあいに温和《おとな》しく云うことを聞いた。

 こうして、タクシーはともかくも浦粕町に着いた。根戸川に架かった大きな鉄橋を渡るとき、私は車を停めてもらって、川の上流と下流を眺めやった。どっちを見てもすっかりようすが変っていた。川沿いにあった草原や荒地には、すっかり家が建ち並び、川の中央にある小さな妙見島にも工場の建物が犇《ひしめ》いている。――蒸気河岸にはコンクリートの高い堤防がめぐらされ、地盛りをしたために、船宿や人家は道から一メートル以上も低くなってしまった。

「ああ、千本の店がある」と私は云った、「あれが長のいた船宿の千本だよ」

 同伴した二人は「青べか物語」を読んでいたので、船宿「千本」と、こまっちゃくれた少年の長を知ってい、私の感動をすなおに受けいれてくれるようであった。まず「千本」を訪ねてみよう、私は車を蒸気河岸へ廻らせながら、どうか長がいてくれるようにと、それがそらだのみだということを覚悟しながら、心の中で熱心に祈った。

「待てよ」と私は思い直して云った、「先にぼくのいた家を見ておこう、車をそっちへやってくれないか」

 車を蒸気河岸とは反対のほうへ、ゆっくりと走らせた。ごったくやの「喜世川」、次に「澄川」などの家がみつかったが、小料理の看板は出ていなかった。貧しげな小さい家がごたごたと並び、子供たちの遊んでいる土堤《どて》にはあまり草もなかった。そして、私があしかけ三年余り住んでいた、荒地の中の一軒家がみつかった。

「これかな」と私は車を停めさせて、左右を見比べた、「いや、いやこれだな、こっちが空地で向うが田圃《たんぼ》だったが、――そうだ、この家だ」

 家はもよう変えがしてあった。西側にあった入口が南側になり、私が机を据えていた窓は塞《ふさ》がれ、ぜんたいに黒くタールが塗ってある。「土堤の秋」の章で、若者が泣いていた斜面は低くなり、生い茂っていた草もない。左右にも家がぎっしり建って、一軒家だった頃の感じはどこにも残っていなかった。

「戻ろう」と私は云った、「車を廻して下さい」

 私たちは蒸気河岸へいった。車を「千本」の前で停めると、店の前にいた船頭らしい若者たちが、ばらばら元気よくやって来て、いらっしゃい、いらっしゃいまし、と景気よく呼びかけた。いかにもしょうばい上手な「千本」の者らしいが、釣りをするためにタクシーを乗りつけるような客は「かも」であって、私は車から出るとすぐ、かれらに片手を振った。

「客じゃない」と私は云った、「客じゃないんだ、ちょっと訊きたいことがあるんだが、このうちにずっとむかし長っていう子がいたんだがね」

 いまどうしているか、と云おうとしたとき、店の中で網を片づけていた男が、ひょいと私のほうを見上げて答えた。

「長はわたしですよ」

「え、――」と私は息を吸った。

「わたしが長ですよ」とその男はいった。

 細おもてに無精髭《ぶしょうひげ》が少し伸びて、汐《しお》やけのした顔に賢そうな眼が光っていた。古タオルで鉢巻をし、仕事着に半長靴をはいていた。これが長太郎か、私は自分の印象にある少年のおもかげを、いま眼の前にいる中年の男の像に重ね合せようとしながら、「蒸気河岸の先生」だが覚えているかと訊いた。

「高品の先生かね」と長が訊き返した。

「いや、高品さんの世話で来たんだ」と私は云った、「あっちの一軒家を借りるまえには、この千本の二階に下宿していたこともあるんだ、君が小学校の二年から三年生ぐらいのときなんだがね」

「さあね」長はあいまいに笑った、「そんなに古いことだとするとな」

「倉なあこはどうしている」

「倉なあこはいるだよ、うん」と云って長は頷《うなず》いた、「まあおはいんなさい、いまおっ母を呼んでみるだから」

「へえ、まだおばさんがいるのか」

「おやじは死んだけれどおっ母はいんだよ」

 長は店の奥へいって、大声に母親を呼んだ。すると、穏やかな返辞をしながら、その人が出て来た。年はもう七十に近い筈だが、ずっと若くみえるし、柔和な顔だちには明らかに見覚えがあった。長が説明をし、私もまた話した。彼女はあいそよく挨拶はしたが、私のことを思いだしたようすはなかった。

「あがって茶でも飲んでくんなよ」と長が云った。

「いや、それよりも沖の百万坪へいってみたいんだ」と私は云った、「ずいぶん変ったようだが、まだ沼や荒地はあるだろうか」

「家がどっさり建っちゃったよ」と長が云った、「見にゆくんならおらが案内すべえか」

「しょうばいのほうはいいのかい」

「店のほうは番頭がいるからいいだよ」そして長は母親に振り向いて云った、「ちょっと百万坪までいってくんからな」

 私もまた「あとで寄ります」と断わって、千本の店を出た。

 東へ通ずる堀の、以前よりも根戸川へ寄ったところに、高い橋が架かっていた。その堀の両岸にも、やはり防波堤があり、橋は高いので両端は石段で登るようになっていた。キティ台風のときひどくやられてから、そういうふうに波除《なみよ》けを作ったのだという。――その橋を渡り、根戸川の河岸に出て、川下《かわしも》のほうへくだると、すぐ左側に石灰工場があった。「白い人たち」の章に出てくる工場で、建物は昔のままらしく、羽目板もずれてい、柱も曲り、ぜんたいがうしろへのめりそうに歪《ゆが》んで、そうしてすべてが灰白色の粉塵にまみれていた。

「工場主の代が替っただよ」私の問いに対して長が答えた、「いまじゃみんな帽子をかぶってマスクを掛けて働いてるだ、頭の毛やなんぞも生やかしたままだし、もう女で裸になる者なんぞいやしねえだよ」

「堀からこっちには」私は二人の同伴者に云った、「この工場と、事務所と、工員たちの長屋だけしかなかった、あとはずっと百万坪に続いていたんだがね」

「そうだ、あれがいかずちの船大工の工場だっただ」と長が私の問いに答えて、根戸川の対岸を指さした、「あれが工場の跡だよ、もうつぶれちまっただがねえっ」

 語尾の「ねえっ」という尻あがりのアクセントに、私の記憶が呼びさまされた。それは紛れもなく、少年「長」のアクセントであった。少ししゃがれた、まっすぐな言葉つき。すぐむきになり、むきになったことをそのままあらわす独特なアクセントであった。――私はその感動を抑えながら、いかずちの船大工の跡を眺めやった。「青べか」を修繕してくれた工場であり、修繕した青べかを早く引取ってくれと催促した工場なのだ。私はそこの人たちとは知りあう機会がなかった。職人の一人すら顔を知らずじまいだったが、青べかが浦粕における私の生活の中心であったというだけで、なにか云いあらわしがたい親近感を持っていたのである。

 ――石灰工場主の代が替り、いかずちの船大工はつぶれたか。

 私は心の中でそう呟いた。しかし、そのまえに、そうだ、私は少しいそぎすぎたようだ、「千本」の店を出るとすぐ、私は洋食屋の「根戸川亭」を見たのだ。根戸川亭もつぶれて、住む者もない建物は表を閉めたまま、泥のはねだらけになってい、看板もなにもなく、よごれた窓硝子《まどガラス》と、羽目板の色あせ剥《は》げちょろけた青ペンキだけが、僅かに昔のなごりをとどめているようであった。

 ――ああ、根戸川亭もつぶれちまっただよ。

 長はむぞうさにそう云った。そして籠屋のおたまが、「おつゆちゃんは十二で――」うんぬんと報告した娘の家の綿屋も、やはり失敗してどこかへいってしまい、その家もまた空家になっていたのだ。

「沖の弁天はまだあるか」

「あんよ、弁天へいってんべえ」

 私たちは土堤をさらに川下のほうへくだった。長は先に立って、話しながらさっさと歩いてゆく。痩せてはいるが引緊《ひきしま》った小柄な躯の、小さな尻が、歩くたびにくりっくりっと動く。その歩きぶりが驚くほどまざまざと、少年時代の長を思いださせた。あのころの彼も、そういうぐあいに、小さな尻をくりっくりっと動かしながら、いかにもすばしこそうに歩いたものだ。語尾の「ねえっ」というアクセントとともに、私の前に少しずつ、長少年がその姿をあらわしてきたのである。

「あにきの鉄ちゃんはどうした」と私が訊いた、「鉄ちゃんと倉なあこは、釣りの穴場を知っている点で浦粕一番だったじゃないか」

「うん、二人とも腕っこきだったねえっ」と長が云った、「倉なあこって船頭は三人いんだよ、ぐず]倉にがちゃ倉、それにぼぼ倉ってってねえっ」

「僕の知っているのは温和しくって、口が重くって、頬ぺたがいつもほんのり赤い倉なあこだがね」

「ぐず倉ってえだ」長はくすっと笑った、「温和しくっておっとりしてえんだろうが、することがのろくせえからぐずってえだ、がちゃ倉はいつもがちゃがちゃそうぞうしいからだし、夜になるとすぐおっかあに寝べえ寝べえって云うのが、ぼぼ倉ってえだよ」

「鉄ちゃんはうちを出ただよ」と長は私たちが笑うのに構わず続けた、「堀南でてんぷら屋をやっててねえっ、とても繁昌してえるだよ」

 やがて土堤を左へおりた。その辺もすっかり家が建ち、それも文化住宅ふうのしゃれたアパートなどさえ見えた。きたなく濁った下水に沿ってゆくと、小さな掘割があり、「これが一つ「さんずい+入」《いり》だよ」と長が云った。

「え、これが一つ「さんずい+入」だって、これが」

「こんなきたねえ堀になっちまっただ」と長が云った、「田圃ができて農薬を使うからねえっ、いまじゃ鮒《ふな》一尾いやあしねえだよ」

 これが広い荒地の中に、澄んだ水を湛《たた》えていたあの一つ「さんずい+入」だろうか。藻草《もぐさ》が静かに揺れている水の中を覗《のぞ》くと、ひらたという躯の透明な小さい川蝦《かわえび》がい、やなぎ鮠《ばえ》だの、金鮒などがついついと泳ぎまわっていた。私が青べかを繋いで鮒を釣った川やなぎの茂みはどの辺に当るだろうか、――いまでは底が浅くなり、灰色に濁って異臭を放ちそうな水が、流れるでもなくどろっと淀《よど》んでいる。日本人は自分の手で国土をぶち壊し、汚濁させ廃滅させているのだ、と私は思った。修善寺へいったら、あの清流に農薬が流れ込むため、螢《ほたる》もいなくなったし川魚も減ったという。そんなに農薬を使って米ばかり作ってどうしようというのか、史上最高の収穫と、米をたらふく食っている一方、水が汚され、自然の景物がうち毀《こわ》されていることを知らない。また、いま私の住んでいる市では、到るところで木を伐《き》り、丘を崩し、「風致地区」に指定してある海岸を、工場用地として埋め立てている。どこへいっても丘はむざんに切り崩され、皮を剥がれた人間の肌のように、赭土《あかつち》や岩が裸になっている。東京の三十|間堀《けんぼり》は私にとって第二の故郷のようなものであったが、役人諸君はなんのみれんもなく、僅かな税金を取る目的で埋めてしまった。一人の若い汚職役人が摘《つま》み食いをするだけで消えてしまうくらいの税金のために、――ろくさま下水の設備もなく、汚物の溢《あふ》れている都市。川は悪臭を放つままに任せ堀は片っ端から埋め、丘を削り、木という木は伐り倒し、狭いでこぼこ道に大型バスやトラックが暴走し犇き、空地にはむやみ無計画にアパートを建て並べ、公明選挙といわれるのに何十億とかの金が撒《ま》きちらされるという、――よそう、私は本当はそんなことに怒りは感じてはいない、日本人とは昔からこういう民族だったのだ。軍事に関してはべつだったが、その他のすべてが常に殆んど無計画であり、そのときばったりで、木を伐り、山を崩し、堀を埋め、土地を荒廃させながら今日までやって来たのである。このまえ、全学連の学生が訪ねて来て、――革命論のような話になったとき、「革命が仮に成功しても、君たちの手に渡るプロパーティはありゃしない、日本にも僅かに資本家といえる連中はいるようだが、それらの持っているのは才取り経済による紙幣や証券でしかない、君たちが現実に奪えるのは、与える職にも窮する超過剰人口、処理するのに困難な汚物の山、傷だらけになった国土。その他もろもろの重荷だけだぜ」と私は云った。よしましょう、私は本当のところそんなことを気に病んでいるのではない、ただ、――一つ「さんずい+入」のみじめなすがたを見たとき、むやみに悲しくなって、以上のようなつまらない感慨におそわれただけであり、こんなにしてしまった国土を、あとから来る若い年代の人たちに譲ることの恥ずかしさに、深く頭を垂れるおもいだったのである。

 一つ「さんずい+入」を過ぎてまもなく、沖の弁天社《べんてんやしろ》が見えた。「ひねたような松が五六本ひょろひょろと生えた」と本文には書いたが、いまでは数も多く、松そのものもすくすく伸びて、立派な林になっていた。長は近道をするために、蓮田《はすだ》の中の細い畦道《あぜみち》へはいっていった。さすがに、そのあたりからは家もなく、荒地や刈田がひろびろと展開し、あちらこちらに海苔漉《のりす》き小屋が建っているだけ、という風景になった。わが若き友人は、まさに百万坪というけしきですな、と嘆声をあげ、これは百万坪どころではない、「一千万坪よりももっとあるだろう」と目測の才のあるところを誇示した。

「あれは海苔漉き場だな」と私は笑いながら長に訊いた、「あのころはよく逢曳《あいび》きに使われたようだが、いまはそんなことはないか」

「あるだよ」と長も笑った、「いまでもやってるだ、場所がこんなところで、人に邪魔されるしんぺえがねえだからね」

 前の日にひどく雨が降ったそうで、刈田も蓮田も水がいっぱいだし、畦道は土がゆるんで、足許がひどく不安定だった。そのうちに長がずんずん先へいったと思うと、引返して来て、畦道にちょっと水をかぶったところがあるからおぶって渡ろう、と云った。そこへいってみると、なるほど二メートル五〇ほど畦道が水をかぶっていた。

「おぶうって」私はしりごみをした、「それはだめだよ、おれは重いもの、だめだよ」

 長は痩せていて十三貫ぐらいしかないようだし、私は春から少し痩せたものの、まだ十六貫くらいはあると思う。そのうえ、人に背負われるなどという経験はまったく記憶にないから、おぶさってもいいという気分はまったく起こらなかった。

「でえじょうぶだってば」と長は構わずにこっちへ背中を向けた、「こっちは馴れてるだからしんぺえはねえよ、さあ」

 私は二人の同伴者を見、来た畦道を見やった。戻るのも遠すぎるし、土のゆるんだ畦道の危なさを考えると、これまたうんざりである。長は背中を向けて跼《かが》み、「さあ、さあ、おぶさんなよ」としきりにせきたてた。

 ――そうだ、人を背負うのは馴れているんだ。

 釣客を船から陸へ背負ってあげることは、船頭には珍しくない仕事の一つである。私はそれを思いだしたので、おそるおそるではあるが長の背中へおぶさった。おぶさったとたん、長の躯の重心に加わる私自身の重量感が、極めて過重であることを私は知った。長は第一歩を踏みだし、その躯は左へ大きく傾いた。半長靴の泥に踏み込むぶきみな音が聞えた。次の一歩は右へ、大きくぐらっと傾き、私の足が水につきそうになった。

 ――だめだ、こいつは転ぶぞ。

 私は長の肩にしがみついたままそう思い、同時に、長といっしょに水の中へ転倒するならそれもまたよし、と思った。あとで聞いたところによると、うしろで見ていた二人の同伴者も、「てっきり転ぶ」と思ったそうであるが、私はそのとき、あのこまっちゃくれの長であり、浦粕における悪童のうち、唯一人だけ私の擁護者であった長に、三十年を経たいままた、こうして背負われるということのふしぎなめぐりあわせに、心の奥深くからの感動とよろこびを味わっていたのであった。

 観念していたにもかかわらず、長は無事に私を渡し、二人の同伴者をも渡した。同伴者の一人は女性で、私の原稿整理をしに来てくれる木村ふみ子君であるが、もう結婚して一年半くらいになるし、夫君のほかの男性におぶさる気持はどうであろうか、などとよけいなことが気にかかったので、私は振り向きもせずに、先へ歩いていった。――私たちは弁天社の境内へはいっていった。長は賽銭《さいせん》をあげ、鈴を鳴らして柏手《かしわで》を打った。浅草の映画館で猛獣映画に昂奮し、「ライオンも象も毛唐もみんなばかやつらだ」と憤慨し、ついで喰べたトンカツとカレー・ライスまでけなしつけた長がである。――私は彼の心情を傷つけたくないと思ったので、同じように社殿へ近よってゆき、賽銭を投じ、鈴の紐《ひも》をちょっと引くと、おがむことは省いてそこを去った。二人の同伴者がどうしたかは見なかった。

 道へ出ると、もう黄昏《たそがれ》の色が濃くなっていた。その道は「芳爺さん」と二度めに会ったところであり、初めて青べかの売込みをされた記念すべき場所であった。

「おばさんは」歩きだしながら、私は長に訊いた、「あのおふくろさんは、長とお静たちの本当のおっ母さんだったな」

 長の上に、鉄なあこ、久なあこの男二人と、姉が二人いた。長の下に一つ違いぐらいでお静という妹と、五歳ぐらいの、いつも泣いてばかりいる弟がいて、その三人がのちぞいの妻の子である、と聞いていたのである。ところが、私の問いに対して長はあっさりと首を振った。

「おっ母あはみんなの継母《ままはは》だよ」と彼は云った、「おらたちみんなが生れてっから来ただよ、そんだからうちはずっとうまくいってるだよ」

 私はそこで黙った。

 長男の鉄なあこは、専属の船頭である倉なあこ(ぐず倉)とともに、浦粕きっての腕っこきといわれた。それがどうして「千本」を出ててんぷら屋などになったのか。また次兄の久なあこは当時は小学六年生ぐらいだったが、やはり家を出て、いまでは「千本」の隣りに小さな「久千本」という釣舟宿を経営している。つづめていえば、長男も次男も家を出、本家の「千本」を長が継いでいるのであって、私の推測によれば、それこそ現在のおっ母あが長太郎とその下の二人の実母である、ということを証明していると思うのであるが、「おっ母あはみんなの継母」であり、「そのためにうちがうまくいっている」という、混りっけなしに割切った長の認識に、私はひそかに感嘆の念を禁ずることができなかった。

 それから私たちは堀南へ戻り、鉄なあこの「てんぷら屋」へいった。てんぷら屋といっても仕出し専門であり、店では客は取らないという。鉄なあこも私を覚えていないし、私にも彼は初めて会ったようにしか思えなかった。――私は長に、タクシーをこっちへ廻すように云ってくれ、と頼み、せいぜい四帖半くらいの狭い、ごたごたした部屋へ同伴者といっしょにあがった。

 私は鉄なあこにビールを頼み、てんぷらを揚げてくれと云った。そのとき仕出し専門でやっていることがわかったのだ。鉄なあこ――いや、もうそう呼んではいけないだろう、一日に六千個のてんぷらとフライを揚げて捌く、という店の主人なのだから、――一日に油を二《ふ》た罐《かん》も使ってしまう、と鉄さんは語った。むろん大口ばかりで、会社の食堂とか宴会などの注文が多く、数の少ない注文はみな断わっているそうであった。私は蒸気河岸にいた当時のことや、長をはじめ知っていた人たちの話をした。

「大蝶はつぶれただよ」と鉄さんはビールを啜りながら云った、「四丁目(洋食屋)は旅館に転業してえらく儲《もう》けただ、うん、留さんも死んじまったし秋屋船長もはママ]死んだだ」

「大蝶がねえ」私はなにかしら遠いこだまを聞くように思った、「あんなに盛大にやっていて、浦粕一の罐詰工場だったのにな」

 実際は「大蝶」などどっちでもよかった。その工場にかかわりのある幾つかの出来事や、そこで働いていた人たちのことが思いだされるくらいで、それよりも留さんの死のほうが強く私の心を打った。高品家の炉端で、みんなにからかわれながら、怒りもせずに笑っていた彼、三十六号船の舳先《へさき》に立って、「おも舵《かじ》いっぱい」とか「スロー、スロー」などと、ブル船長に叫んでいた彼、また根戸川亭で自分の女に毒づかれ、こき使われ、客たちの前でばか踊りまで踊らされた彼。――あの性質ではおそらく、幸福な生活には恵まれなかったであろう。死ぬときにも妻子がいたかどうか、仮にいたとしてもたぶん彼にとって慰めや安息とはならず、それまでの女たちがそうであったように、彼を罵《ののし》りこき使い、倒れるまでがっちりと彼を緊めあげたことだろう。むしろ、妻子などはなかったと考えるほうが、彼のためには仕合せだったと、私は心の中で呟いた。

「旦那の話を聞いていると昔を思いだすだよ」と鉄さんは云った、「いまじゃあそんな言葉は使う者もいねえし、いろんなうちがつぶれたりな、おらのちゃんも死んだし、大勢死んだ者があるしよ、浦粕もすっかり変っちまっただよ」

「長か、長は四十二になるだ」と鉄さんは私の問いに答えた、「まる年で四十一か、七年も兵隊に取られたでねえ」

 私がおおかんけ(大勧化)のことを云うと、鉄さんは思いだし笑いをした。

「そうだ」と鉄さんは云った、「おーかんけ おーかんけ おいなりさんの おーかんけ おぞーにと おあげ おあげの段からおっこって あーかい***ーすりむいた」うんぬんと云ったあと、寄進をした家には、「しょーばい はんじょ」と囃《はや》し、寄進しない家があると「くれねーと

 おいなりさんがなくよ ひっくりけっちゃめっかっこ もっくりけっちゃべっかっこ……って云っただよ」

 私は頷いたが、それは鉄なあこの時代で、長の時代には「くれねーと、――」以下の囃はしなかった、ということを思い出した。――このあいだに、店の女の子が大皿へフライを盛りあげたのを持って来た。たぶん鯵《あじ》だろうとにらんだが、鯵ならもうしゅんを過ぎているし、フライにしてからだいぶ時間も経つらしい。私が箸《はし》を取らないのを見て、二人の同伴者も箸を取らなかったし、鉄さんもとりたててすすめるようすはなかった。また、二人の同伴者は、喰べたり、飲んだりするよりも、自分たちの読んだ「青べか」の世界が、そんなになまなましく、眼の前に展開することのほうに、ずっと興味を唆られているようであった。

 やがて長が来た。鉢巻のタオルが新しいのに替り、ズボンも新しいのに替えてあった。彼は「車をそこへ来さしてあんよ」と云って坐り、私の注いだビールをぎこちない手つきで啜った。酒のほうがいいかと訊くと、ビールで結構だと答えた。自分でもちょっと納得がいかないのだが、鉄なあこ[は「鉄さん」と呼びかけられるのに、長にはどうにも敬称が付けられない、つい「長」と呼びかけてしまうし、長のほうでも極めて自然にそれを受け止めてくれる、というあんばいであった。

「かんぷりっていう子はどうしているかね」

「かんぷり」長は首を捻った。

「ほら」と私は云った、「痩せっぽちで頭の鉢がひらいていて、泣き虫の子がいたじゃないか、慥か長と同級生だったと思うがね」

「かんぷり」と長は兄のほうを見、ちょっと考えてみてから、あいまいな笑いをうかべた、「ああ、吉井エンジの子だな」

「うん、そんな子がいたっけ」と鉄さんは云った、「なにしろ綽名《あだな》を付けるのが好きな土地でね、あたまってうちとしっぽってうちと、どっこいどっこいっていう」

「あとのは損得とも云うだ」と長が口を添えた、「何年かめえに百万坪で狸《たぬき》を捕ったやつがいただよ、そいつはそれからたぬきって綽名で呼ばれてるだ」

 私たち三人は笑った。

「その、あたまとしっぽとどっこいどっこいのことだが」と鉄さんは云った、「むかしこの土地に大金持がいて、三人の伜《せがれ》に財産を分けただ、そのとき長男はあたまだからいちばん多く貰い、三男はしっぽで少なかった、二男はまん中で損得なしのどっこいどっこいどっこいどっこいだって云っただよ、それで」

「いや、それは違うね」と私がつい知らず云った、「ぼくが聞いた話によると、財産ではなく鯨だったね、いつのことかわからないがこの浜へ一頭の鯨があがった、それを三人の漁師がみつけて三等分したんだな、そのとき頭のほうを取ったのがあたま、尻尾《しっぽ》を取ったのがしっぽ、胴中を取ったのが、これはまん中で損得なし、どっこいどっこいだと云った、それが綽名になっていまでもそう呼ばれている、というふうなことだったよ」

「鯨はときどきあがったらしいよ」と鉄さんは穏やかに云った、「旦那の話のほうが本当かもしれねえ」

 これが船宿「千本」の流儀なのだ。和助の時代から、客に対してえらぶった口は決してきかない。他の船宿だと、客に対して釣りの講釈をしたり、いいの悪いのと文句を云う。「千本」では腕っこきの船頭を揃《そろ》えていながら、求められない限り、決して客に教えたり、客の意志に反対するようなことはない。――客は遊びに来るのだ、好きなように遊んでもらうことが第一だ、というのが亡くなった和助の流儀であった。あたま、しっぽの伝説は、あるいは彼のほうが真実だかもしれない。私はよそ者であるし、鉄さんはこの土地の人間なのだから。しかも彼は一言もそんなことは口にしなかったのである。

 話はあちらへとびこちらへとびした。きょうだいの死んだ父は和助といい、浦粕の船宿では誰よりもしょうばいがうまく、上客はみな「千本」に集まったし、船頭も腕のいいのが揃っていたこと、朝日紙へ週一回ずつ釣通信を書いていたこと、鯉釣りの名人で、いつも蒸気河岸の上で鯉を釣り、不漁で帰る客があると、その鯉を持たせてやったこと。長の姉の一人は浦粕小町といわれる美人だったが、若くて死んだし、長の妹も死んだこと。いつもぐずぐず泣いてばかりいた末弟は、京都大学を出て農事試験所の技官になっていること。東の養魚所ではいま専門に金魚を扱ってい、また、二つの通船に乗っていた人たちはみなよそへいってしまい、ほんの二三の人しか残っていないこと。ごったくやは売禁法でみんなつぶれ、女たちも散り散りになってしまったこと。そうして、こういうとびとびの話のあいだで、「SASE BAKA」も娘のままで死んだということを私は知った。――そしておたまのことも、――籠屋のおたまは若くて遊廓へ身を売り、その後もみもちが悪く、親類じゅうに迷惑をかけたが、いまは行方知れずだということであった。私はいつか秋山青磁たちと浦粕へ来たとき、彼女の両親がおたまのことを訊かれて、びくっとしたことを思いだし、それ ではあのときすでになにかあったのだなと、心の中でそっと嘆息した。

 鉄さんにも長にも仕事がある。そうなが話もできまいと思い、やがて私たちは立ちあがった。鉄さんに別れを告げて出ると、長が車のところまでいっしょに来た。

「こんど釣りに来てくんなよ」と長が云った、「おれもいい穴場を知ってるからねえっ」

「ああ、ぜひ近いうちに来るよ」私は長の手を握った、「――どう、まだぼくのことを思いだせないか」

「さあねえ」長はたよりなげな微笑をうかべた、「わかんねえなあ」

「釣りに来るよ」と私は云った。

 鉄さんの店の若者が二人と長とが、車の脇に立って見送っていた。私たちは車に乗り、車は走りだした。

「よかったわ、ほんとに」と木村ふみ子君が感動のこもった口ぶりで云った、「沖の百万坪も石灰工場も、――あの人たちまでみんな、いま青べか物語から出て来たっていう感じだったわ、ほんとうによかった」

 私は初めから終りまで、長の名を呼びすてにしていたし、長もしごくあたりまえのようにそれを受けいれていた。数えてみると、私が浦粕を去ってからまる三十年になる。長も四十一歳、子供も五人いるということだ。その彼を「長」と呼び、彼が「おう」と答えるとき、私の心には三十年という時間の距離はなかった。にもかかわらず、彼には私の記憶がないのだ。青べかのことを訊いてみたが、それもごくかすかに覚えている程度とみえ、「なにしろ古いことだからねえっ」と云って話をそらしてしまった。したがって、題名の青べかがどうなったかは、ついに不明のまま、この物語を終らなければならない。――私は近いうちに、もういちどぜひ浦粕へ、こんどは釣客としていってみるつもりである。

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文庫本は294ページ

平成三十年八月十六日写し

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