山 本 周 五 郎 著 作 『小説 日本婦道記』 『ながい坂』 『五辨の椿 』 『青べか物語』 『菊屋敷』
『赤ひげ診療譚ー狂女の話ー 』 『赤ひげ診療譚ー駆け込み訴えー 』 『赤ひげ診療譚ーむじなー 』


山本周五郎著『小説日本婦道記』


 『小説日本婦道記』(新潮社文庫:昭和三十三年十月二十五日発行)は、

 ① 松の花 ② 箭竹 ③ 梅咲きぬ ④ 不断草 ⑤ 藪の影 ⑥ 糸車 ⑦ 風鈴 
 ⑧ 尾花川 ⑨ 桃の井戸 ⑩ 墨丸 ⑪ 二十三年 の構成である。

 「風鈴」はP.123~ 145、である。全文を写す。

  一

 妹たちが来たとき弥生(やよい)はちょうど独りだった。良人の三右衛門はまだお城から下がらないし、与一郎も稽古所から帰っていなかった。二人を自分の部屋へみちびた弥生は縫いかけていた物を片つけ、縁側に面した障子をあけた。妹たちがきっと庭を見るだろうと思ったので、けれども妹たちはなにやら浮き浮きしていて、姉のこころづかいなどまるで眼にいらぬようすだった。

「きょうはお姉さんまにご謀反(むほん)をおすすめしにまいりました 。

 そう言いながら部屋へはいって来た小松は、そのままつかつかと西側の小窓のそばへゆき、明り障子をあけて、

「そらたわたしの勝ですよ」

 とうしろから来る津留(つる)にふり返った、

「このとおり風鈴はちゃんと此処にかかってございます」

「まあほんとね、呆れたこと」

 津留は中の姉の背へかぶさるようにした。

「わたしもとうに無いものとばかり思っていました。それではなにもかも元の儘ですのね」

「なにを感心しておいでなの」

 弥生は二人の席を設けながら訊いた。

「その風鈴がどうしたんですか」

「津留さんと賭けをしたんですの、風鈴がまだ此処に吊ってあるかどうかって」

「おかげでわたし青貝の櫛を一枚そん致しました」

 くやしいことと言いながら、津留はつと手を伸ばし、廂(ひさし)に吊ってある青銅の古雅な風鈴をはずして、そのまま窓框(まどかまち)に腰をかけた。小松は妹の手からすぐにその風鈴をとりあげ、なんの積りもなく両手で弄(もて)あすびながら、ここへ来る途中からの続きらしい妹との会話をつづけた。小松は妹の手からすぐにその風鈴をとりあげ、なんの積りもなく両手で弄(もて)あそびながら、ここへ来る途中からの続きらしい妹との会話をつづけた。

「……そうなのよ、なにもかも昔どおりなの、このお部屋にある箪笥もお鏡台も、お机もお文筥(ふばこ)も火鉢も、昔のままの物が昔のまままの場所にきちんと据えられて一寸も動かされない、そいう感じなんです」

「いったいお姉さんはそういう性分なのね、それともう一つそう思うのだけれども、このお家には色彩というものが少ないのよ、武家だからという以上に、わたしたちの髪かたちにしろ衣装にしろ、お部屋の調度にしろみんなじみなものくすんだ物ばかりで、娘らしい華やかさ、眼をたのしませるような色どりはまるで無かったのですもの」

「それはつまり若さが無かったことなのよ」

 小松は風鈴をりりりりと鳴らしながらそう言った。

「わたしがそう気づいたのは百樹(ももき)へとついで、あちらの義妹たちの日常を見てからだけど、世間の娘たちがどういう暮らしぶりをしているかということを知って、おどろくことが少なくありませんでしたよ」

「それは百樹さまとこの家ではお扶持(ふち)が違いますもの、ねお姉さま」

「そうではないの」

 小松はうち消すようにさえぎった。

「わたくし贅沢や華奢(きゃしゃ)を言うのではないのよ、一生のうちのむすめ時代というもの、そのとし頃だけに許される若さをいうんです。そしてこれはなかなか大切なことなんです、なぜかというと百樹へ嫁してからの生活で、お部屋の飾り方とかお道具の調のえようとか、また義妹たちの衣装や髪飾りのせわをするのに、ずいぶん戸惑いをすることがありました、そしてこれはわたしくたちがむすめ時代の若さというものを味わずにしまったからだと思い当たることが多かったのでですから」

「ああそれであなたは今その若さをとり返していらっしゃるのね」

 津留はからかいぎみ笑いながら言った。

「お暮しぶりがたいそうお派手だとご評判でございますわ」

「そんな、ひとのことを言ってよろしいの、秋沢さまのご家族こそ派手な評判ではひけをとらない筈なのに、わたしみんな知っていてよ」

 弥生は茶のしたくをしながら妹たちの饒舌(じようぜつ)を聞いていた。はじめは微笑していたが、しだいにその微笑が硬ばり、唇の歪んでくるのが自分でもよくわかった。そしてそれ以上は黙って聞いているのに耐えられなくなり、二人の間へさりげなく言葉を挿しはさんだ、

「いったいご用というのはなに、二人とも肝心な話をさきに仰しゃいな」

「ああそのことね」

 小松は持っていた風鈴をそばにある箪笥の上に載せ、姉のそばへ来て坐りながら言った、

「それはねえお姉さま、お城ではもう五日すると重陽(ちょうよう)の御祝儀がございましょう、それが済んだらわたしたち三人で、栃尾(とちのお)の温泉(いでゆ)へ保養にゆきたいと思いますの、そのおさそいにあがったのですけど」

「栃尾へ保養に、わたしが」

「これまでのご恩がえしに、小姉(ちいねぇ)さまとわたしとでご招待よ」

 津留はずかずかと言った、

「なにもご心配なさらないで、お姉さまはおからだけいらしって下さればいいの、ねえ、たまにはご謀反もあそばせよ」

「だめですよ、なにをのんきなことを仰しゃるの、あなたたちは」

 弥生はできるだけ調子をやわらげながら答えた、

「考えてごらんなさいな、わたしが家をあけてあとをどうするの、旦那さまにお炊事をして頂けとでもいうんですか」

「それはわたしの家から下婢(はした)をお貸すししますわ、気はしりの利くよく働く下婢がいますの、それを留守のあいだこちらへよこしますから、ねえお姉さまそれならよろしいでしょう」

 津留はそう言ってあめるようにすり寄った。

    二

 弥生は妹たちに茶をすすめておいて、いちど片づけた縫物を膝の上にとりあげた。そのようすでどうしてもだめだと察しと津留は、すっかり落胆して「もう時刻だから」とそこそこに帰っていった。小松はもう少し邪魔をするといって残った、その口ぶりでまだまだなにか話そうとしているなと思い、弥生は押えられるように心が重くなった。小松は暫く姉の手もとを見まもっていたが、ふと詠嘆するような調子でこう言いだした。

「そうやってお姉さまがこれまで縫っていらしった針の跡をつないでみたら、いったいどれほどの長さになることかしら、火桶に火も絶えて木枯(こがらし)の吹き荒れる夜半や、じっとしていても汗の滲むような夏の午さがりにも、お姉さまはそうやってわたしや津留さんの物を縫って下すったのね、そして今ではお義兄(にい)さまや与一郎さんの物をそうして縫っていらっしゃる、そればかりではないわ、お洗濯やお炊事にどれだけの水をお遣いになったでしょう、釜戸や火桶で、どれだけの薪や炭ををお焚きになったかしら、そしてこれからもどれほどの水を流し、どれほどの薪や炭をお焚きになることでしょう、……そうしてお姉さまはやがて小さなおばあさまになっておしまいなさるのね」

 小松はそう言いながら非難するようにかぶりを振った。

「お姉さまこんなにして一生を終わっていいのでしょうか、いつまでもはてしのない縫い張りやお炊事や、煩(わずら)わしい家事に追われとおして、これで生甲斐があるのでしょうか」

 弥生は縫う手を休めてびっくりしたように妹の顔を見た。妹の頬には血がのぼっていた、三人のなかでいちばん縹緻(きりょう)よしといわれた少し険のある顔だちが、感情の昂ぶっているため美しく冴え、双の眼にはなにやら溢れるような光が湛えられていた、

「生活をお変えにならなければ」

 小松は湿ったような声で続けた、

「下男や下婢にできることは、下男や下婢におさせになさるがよろしいわ、そしてお姉さまご自身もっと生き甲斐のある生活をなさらなくては、もっとよろこびのある充実した生きようをなさらなくてはね、そうお思いになりませんか」

「あなたはこの加内(かない)の家で下男や下婢が使えると思いますか」

「それは義兄さまのお考え一つですわ」

 小松は遠慮をすてた口ぶりで言った、 

「まえから百樹がご推挙している奉行役所へお替りになれば、そして義兄さまほど精勤なさるなら、家士の二人や三人お置きなさるくらいのご出頭はそうむつかしいとことではないと思います、百樹もそれはまいがいないと申しておりますし、秋沢さまでもいろ楯になろうとおいですわ、お姉さま、途はすぐ前にひらけていますのよ、手を伸ばしてお捉みになればいいのですわ」

「それはそうかもしれないけれど」

 弥生はためらいぎみな、言いわけをするような調子でこう言った、

「加内はいまのお役が性(しょう)に合っているからとお断わり申したのででしょう、それにおんなの口からお役目のことなど言えはしませんからね」

「そういうお姉さまのお考えも、いまのお役が性に合っているというお義兄さまのお考えも、沈んだように動きのないこの家の生活からくるのではないでしょうか」

 小松は片手で部屋の中をぐるっと撫でるようなしぐさをした、

「こいいうお暮らしぶりからまずお変えになるのよ、お姉さま、時どきはお部屋のもようを変えてごらんなさいまし、お花を活けるとか、お道具の位置を移すとか、襖を張り替えるとか、お姉さまにはお召物を違えたりお化粧をなすったりしなければ、……そうすれば家のなかも活き活きとなるし、しぜん気持ちも動いてきますわ、お姉さまのお考えも、お義兄さまも、ええ、きっともう少しは出世のお欲が出てくると思います」

 こういう言葉を辱かしめでないと否定するためには、姉いもうとの近しさとか、親しい劬(いた)わりという感情につかまらなくてはならなかった。……小松が帰っていったあと、縫物を膝の上に置いたまま、弥生はやや久しいあいだ惘然(もうぜん)と刻をすごした。明けてある障子の向こうに狭い庭がみえる、午後のも傾きかけた日ざしのなかに芒(すすき)の帆が銀色に浮きでている、萩の撓む(たわ)やかな枝もさかりの花で、そのあたりいちめん雪を散らしたようだ。庭とは名ばかりの狭い、なんの結構もないものだが、芒が穂立ち萩の咲くこの季節だけは美しくなる。秋のふぜいがあふれるようで、いつまでも眺めても飽きることがない、妹たちもこの家にいsるじぶんは嵯峨野(さがの)うつしなどといって自慢の一つにしていた。さっき二人がはいって来たとき障子をあけたのは、彼女たちがまえのようによろこびの声をあげて呉れると思ったからだ、然し二人とも見向きもしなかった、たとえ見たにしてもあの頃のようなよろこびは感じなかったに違いない、閑(のど)かな秋の日ざしのなかの、芒や萩の伏枝をみて侘(わび)しいおもいをたのしむような気持は、もう妹たちにはなくなっているのだ。弥生はそう思いながらやるせないほど孤独な寂しさにおそわれるのだった。

「どうしたのだ」とつぜんうしろでそういうこえがした、「ぐあいでも悪いのか」ああと弥生は身ぶるいをしながらふり返った、良人の三右衛門がそこに立っていた。

「お帰りあそばせ」

 弥生はうろたえて赧(あか)くなった、

「つい考えごとをしておりまして」

 しどろもどろに言いながら、居間のほうへゆく良人のあとを追った。

    三

 明くる日、部屋の掃除をしているとき、用箪笥の上に風鈴のあるのをみつけた。妹たちが廂(ひさし)からはずしてそこへ忘れたのである。弥生は手にとって暫く見ていたが、やがてそれを箪笥の小抽出の中へしまい、気ぬけのした人のようにそこへ坐って、ひとりしんとしんと考えこんでしまった。そのときから弥生はものおもう日が多くなり、過ぎ去った二十九年ろいうとしつきを幾たびも思いかえした。 

 父が世をさったとき弥生は十五、小松は十一、津留(つる)は九歳だった。それより数年前に母もなくなっていたので、なにもかもいっぺんに弥生の肩へかかってきた。家政のことや二人の妹のせわは言うまでもない。武家のならいで跡継ぎがなければ家名が絶えるから、同じ家中で松田弥平衛という者の二男を養子にきめた。もちろん盃だけで祝言をあげたのは三年ののちのことだった、こういう身の上の変化を受け止めるには、弥生の年はまだ余りに若すぎた、母方の伯父がうしろにみになって呉れたけど、弥生はできる限りひとりでやってゆく覚悟をし「自分は今からおとなになるのだ」そう自分に誓って、とにかく加内の家を背負って立ったのだった生活はくるしかった……扶持は十石あまりだったが、まだ相続者が役に就いていないので、実際にさがるものは約その半分にすぎない、元もと切詰めた経済でようやく凌いできた状態だったから、衣類や調度はむろん日用のものもすべて不足がちだった。一片の塩魚を買うにも、いや味噌や醤油を買うにさえ、銭嚢の中をなんども数え直さなければならないような生活、それを弥生は十五歳の智恵できりまわしていったのである。……良人を迎えてからも、暮らしは依然として楽にならなかった。三右衛門はあまり口をきかない温厚な人で、加内へ婿にはいる少しまえから勘定所へ勤めていた。それで扶持も十五石余に加俸されたが、役目が上納係(じょうのう)りといって農民と直接に交渉をもつ部署であり、所管の郷村を視てまわることが多いので、しぜん細ごました出費が嵩むため家計はむしろ苦しくなったくらいである。こうした日常のなかで、なによりも心を痛めたのは妹たちのことだった。ふた親のない貧しい生活で卑屈になったり陰気な性質になったりしないようにできるだけ明るくのびのびそだてたい、若い弥生にとってはその一つ一つが困難な、どちらかというと無理なことであった、然しそれを困難だとか無理だなどと考えることはゆるされなかった、どんなに辛くともそれを克服してゆかなくてはならなかったのである。

 小松は十八歳のとき、望まれて百樹家へ嫁した、百樹は二百五十石の寄合組であるが、良人の勒負(ゆきえ)はすでに用人格で、俊才という評判の高い人物だった。縹緻(きりょう)でのぞまれたのと、身分の違うのが不安だったけれども、頭の鋭い小松はよく婚家の風に馴れ、案外なくらい良縁としておさまった。それから三年たって津留も結婚した。これは百樹の媒酌で、相手は秋沢継之助(つぐのすけ)といい、扈従組の上席で三百石のいえがらだった。……こうして二人の妹を恵まれた結婚生活に送り出したとき、弥生は自分の努力のむだでなかったことを知り、それだけでも充分に酬われたように思った。無経験な若い自分の思案と、乏しい家計で、ともかくもここまでこぎつけることができた、亡き父や母もたぶん満足して下さるだろう、そして妹たちも、いつかは姉の苦労がどのようなものだったかということを知って、感謝して呉れときがあるに違いない、そう信じてきたのであった。

 妹たちは少しずつ性質が変わっていった。環境が違ったのだからふしぎはないのだろうが、加内の家へ来るたびに、この家の貧しさを厭うようすが強くなり、ときにはこのような貧しい実家を持つことを恥じるような口ぶりさえみせるようになった。弥生はそれを怒ってはならないと思った、妹たちがなつかしがるようではそれこそ不仕幸せなのだ。そう思って聞きながしていた。けれど妹たちにはそいう姉の態度が却ってもの足りないようだった。義兄の三右衛門がいつまでも勘定所づとめをしていては、婚家」との親類づきあいに肩身がせまい、もっと覇気(はき)をすすめたらどうか、そんなことを言いだした。そしてついさきごろには、小松の良人の百樹靭負(ゆきえ)から奉行所へ推挙するから役替えをする気はないかという相談があった。つづいて津留の婚家からもおなじような話をもつて来たが、三右衛門は、

「現在のお役には馴れているし自分の性にも合うから」

といって両方とも断わってしまった。

 これらのことを思いかえすたびに、弥生は自分のこしかたが徒労であり、これからさきも徒労である気がしはじめた。津留といぅしょに来た日、小松は「自分たちには娘時代というものがなかった」という意味のことを口にした、弥生にとってこれほど痛い悲しい言葉はない、妹たちはいつかは自分の苦労を知って感謝して呉れときがあるだろう、そう信じていたのに、まったく反対な非難をあびせられたに等しい、弥生は怒りを抑えるために身がふるえた。それでは自分のしてきたことは無意味だったのか、あれだけの努力は妹たちにとってなんの価値でもなかったのか、

そしてお姉さまは年をとって、やがて小さなおばぁさまになってしまうのね
 小松はそう言った。ああ、と弥生はいま呻くように溜息をつく、こうして苦しい日を送り、苦しい日を迎えて自分の一生が達ってしまう、ほんとうにこれでいいのだろうか、これで生き甲斐があるのだろうか、そう思っては暗い絶望的な気持ちにおそわれるのだった。

    四

 芒の穂はかなしくほほけ、萩の花は散りつくした。朝な夕はひどく凍てて、水仕事をしたあと、手指の赤く腫れる季節となった。弥生はその頃から家の中の道具をあれこれと少しずつ動かしてみた、箪笥を脇のほうへ移したり、鏡台と机とを置き替えたり、常には使わない対立屏風を出してみたり、ちょっと馳走のあるときは客膳を用いたりした、そうするとたしかに家の中があたらしくみえ気持も動くように思える、「まるでよその家へいったようですね」九歳になる与一郎はそんなことを言って、珍しそうに部屋の中を見てまわったりした。それから弥生はしばしば着物や帯をとり替えて着た、ずいぶん思い切って、ごく薄く化粧もしはじめた。そういうことに遠ざかって久しかったから皮膚もなじまないし、なかなか手順がうまくいかなかった。幾たびやりなおしても気にいらず、しまいにはふき取ってしまうことも多かったが、白粉や臙脂の香油などのにおやかな香に包まれていると、なにやら若やいだ浮き浮きするような気持になり、思わず刻お立つのを忘れることもあった。

 三右衛門はかくべつになにも言わなかった。弥生がきょうは美しく化粧ができたと思ったとき、いちどだけ微笑しながらつくづくと見て呉れた、

「いいな、化粧というものは男が衣裳袴を正すのと同じで、気持ちをしゃんとさせるものだそうだ、これからもそれくらいの化粧はするほうがいいだろう」

 そのとき弥生は恥かしいほど満たされた気持ちで、良人の前を立って来ると暫く鏡を覗いていた。……然しこれらのことはながくは続かなかった、道具のありどころもたびたび変えるわけにはいかないし、変えてみてもいつもそう新しい気持ちにはなれない。つましい経済では白粉や臙脂はかなり贅沢につくし、時間の惜しいときのほうが多いのでしぜん手軽に済ませておくようになる。こうして箪笥も鏡台も机も、いつかしら元の場所におさめられるのを見て、三右衛門はなにやらほっとした口ぶりでこう言った。

「部屋のもよう替えも気分が変わっていいが、やっぱり道具にはそれぞれ据えどころがあるものだな、私にはこのほうがおちついてよい、眼さきの変わるのはその時だけのことだし、なんとなくざわざわしくていけない」

「少しは住みごこちもおよろしかろう思ったものものですから」

「家常茶飯は平凡なほどよいものだ、余りそんなことに頭を疲らせないがいい」

 試みたことは詰まるところなにものも齎しては呉れなかった。冷える朝の厨で水を使いながら、弥生は再び生き甲斐ということを思いはじめた。ーーこれが自分の生活なのだろうか、こうして自分の生涯は経っていっちぇしまうのだ、同じ着物を縫ったり解いたりしながら、ものみ遊山もせず、美味に飽くことなく、ひたすら良人に仕え子を育て、その月その年の乏しい家計をいかに繰りまわすかということで身も心も疲らせて、やがて空しく老いしぼんでしまう、「これでいいのだろうか」弥生はぞっとするような気持でそう呟く、「こういうしはてのない困難の克服になにか意味があるだろうか、もっとほんとうに生き甲斐のある生活がほかにあるのではないかしらん」そして惑わしのように、いつか小松の言った言葉があたまに浮かんでくるのだった。--これまでに縫いつくろいをして来た針の跡をつないだらどれほどの長さになるだろう、恐らくそれは想像を絶する長さに違いない。然もそこからはなにもの遺らなかった。炊事や洗濯に使い捨てた水、釜戸や火桶で焚いた薪や炭、それらの量もたぶん驚くべき嵩に違いない。そしてこれまたそこからはなに一つとして遺るものはないのだ。然もそういう苦労を凌いで育てた妹たちから非難のこえを聞くとすれば、いったいなんのための苦労かと疑いたくなるのは無理もあるまい。弥生は初めて、ほんとうにつきつめて考えぬかなければならなぬことにゆき当ったと思った、あらゆ人間がその問題について考えるとき必ずそう思うように……、

「このごろなんだか沈んでいるようではないか」

 良人が或る夜そう問いかけた、

「からだのぐあいでも悪いのではないか」

「はあ……」

 さようなことはございません、そう言おうとしたが、にわかに感情が昂ぶって口がきけず、そのまま黙って眼を伏せた、

「どこか具合がわるいのか」

 三右衛門は訝かしげにこちらを見た、

「もしそうなら無理をしてはいけない、医者にみせるとか薬をのむとかしなければ」

「べつにからだが悪いわけではございませんけれど、なんですか気分が重うございまして……」

「わけもなしに気分が重いということもなかろう、いちど医者にみて貰ったらどうだ」

「はい」

 弥生はふと顔をあげた、いっそう良人にすべてをはなしてみようか、良人には良人の意見があるだろうし、それを聞けば或いはこの悩みも解けるかもしれない、はなすならこの機会だ、そう思って口まで出かかったが、やっぱり言葉にはだせなかった、良人は男である、こういう女の苦しみは、話してもわかって呉れないであろう、かなしくそう諦めてさりげなく、その場をとりつくろって済ませてしまった。

    五

 霜月にはいると北ぐにの野山はもう雪に蔽われる、昼のうち日が照って、昨日の雪が消えたと思うと、明くる朝はまたちらちらと粉雪になり、昏れがたには五寸も積る、そういうことを繰り返すうちに、やがて三四日も降り続いて寝雪となる日が来るのだ。……その年は珍しく寝雪が遅く、月のなかばを過ぎてもまだ土の見えるところが多かった。まるで季節が返りでもしたような、或る晴れた暖かい日の午後、小松が下婢(かひ)に包みを持たせて久方ぶりに訪ねて来た。

「あのときやめた栃尾へようやくいってまいりました」

 小松は健康に満ちあふれるような顔に、いたずらめいた笑いをみせながらそう言った、

「やっぱり津留さんと誘い合わせましてね、もう雪でしたけれど、却って客が少くてようございました、山鳥を飽きるほど食べましてね」

 そしてのびのびと解放された四日間の楽しかったこと、美しい谷川に臨んだ宿の眺め、気ままに浸る温泉(いでゆ)のこころよい余温に包まれる寝ごこちなど、絵に描いてみせるように巧みに話しつづけた。

「でも津留さんにはびっくりさせられました、夕餉には四たびともお酒をあがるのですものね、いつも秋沢さまのお相手をするので癖になったのですって」

「あなたもあがったんですか」

「ほんのお相伴ぐらいでしたけれど」

 小松はもういちどいたずらめいた笑い方をした、

「でもなんだかひめごとのようで楽しいものですのね、お姉さまもこのつぎにはぜひいらっしゃらなければ」

「わるい方たちね……」

 そう言いながら、もし自分にもそんなことができたらどんなに楽しかろう、疲れた心やからだがどんなに休まるだろうと思い、それが不可能だとわかりきっているだけに、弥生の気持は耐えられぬほどの寂しさにおちこむのだった。

「きょうは時刻を限られていますから」

 小松は間もなく坐り直し、下婢に持たせて来た包みをひき寄せた、

「やまどりを持ってまいりましたの、お小遣いが少のうございましたからほんのかたちだけのお土産よ」

 そう言って包みを解きにかかった。

 そのとき門ぐちに人のおとずれる声がした。出ていってみると、勘定奉行の岡田庄兵衛という老人だっいた。

「おいでか」

 といつもの柔和の調子で訊いた。良人は非番で家にいる日だったが、昼食をするとすぐ川のほとりを歩いて来ると言って、与一郎をつれて出かけたあとだった。

「それでは間もなく帰るな」

 老人はちょっと考えるようすだったが、

「やっぱり待たせて貰おうか」

 そう言って気がるに奥へとおった。……部屋へ戻ると小松は帰りじたくをしていた、

「お客さまはどなた」

「お役所の岡田さまよ」

 そう答えながら弥生は茶の用意をした。小松は岡田と聞いてああという表情をした、

「やっぱり、いらしたわね」

「やっぱりって、あなたなにか知っておいでなの」

「あのはなしですわ、きっと」

 小松はそっと声をひそめた、

「いつかのお役替えのこと、お義兄さまはお腰が重いから、せんじおつ 百樹がじかに岡田さまに会ってご相談したのですって、きっとそれでいらしたに違いありませんわ、ねえお姉さまこんどこそお義兄さまにひとふんばつして頂くのね、そして加内(かだい)の運のひらけるようにしなければね……!」

 小松を送りだしたあと茶を運んでゆくと、岡田老人は火桶へ手をかざしながら一冊の写本をひらいて見ていた。そこの机の上から取ったのだろう「妙法寺記」という題簽(だいせん)で、半年ほどっまえに良人が御菩提寺から借りて来て筆写しているものだった。良人の写した本の題簽には「鈔」という字が附いている、たぶん原本からなにか鈔録しているのであろう、写し終えて綴じたものがもう六冊あまりある筈だ。老人はなにんか感に堪えぬようすで、しきりに頁を繰ってはぶつぶつ独り言を呟いていた。……ほどなく三右衛門が与一郎をつれて帰って来た。弥生が茶を淹れかえにゆくと、二人はその写本のことを話していた。

「さようです」良人はそこへ筆写した書冊をとりだしながら説明した。「はじめ御書庫の中で分類本朝年代記というものを拝見しまして、飢饉の条のあまり多いことから思いつき、それに類する書物をさがしまして、精しい年表を作ってみようと始めたものでございます、なにしろふと思いつきましたことで準備もなにもなし、また私ひとりのちからではそうてびろく参考書を集めることもできませんので、まず下調べ程度のものが作れたらと考えております」

「然しそこもとの多忙なからだでどうしてこんなむつかしことを始める気になったのだ」

「それはこの表に一例を書いてみましたが」

 三右衛門は

「このように年次表に書きあげますと、飢饉の来る年におよそ周期があるのです、この表はもmちろん不完全きわまるものですが、凶作があって一年めに飢饉の続くことがもっとも多く、つぎには五年ないし六年めにくる例がひじょうに多い、この年次表がもっと完成して周期の波がはっきりわかるとすれば、藩の農政のうえにかなり役だつだろうと思うのですが」

「たしかに」

 岡田庄兵衛は大きく頷いた、

「そうすれば、冷旱風水による原因もわかって耕作法のくふうもあろうし、また荒凶に対する予備もできるだろう、だがそれは独力では無理だ、ぜひ勘定奉行の仕事に¥しなければ……」

 それから老人は役所の者がみなこういう点にまで注意するようになって欲しいこと、それが政治を執る者の良心であるということなど熱心にのべるのだった。、

    六

 その話が済むと碁になった、岡田老人と三右衛門はよい碁がたきで、しばしば招かれてゆくし老人のほうからも時どき打ちに来る。かくべつ珍しいことではないのだが、その日は小松に囁かれたことがあるので、弥生はなんとなくおちつかず、ともすると二人の話ごえに耳を惹きつけられた。……碁は日昏(ひぐれ)に及んだ、夕餉には小松がみやげに持って来た山鳥を割いて出した。それからまた碁が始まり、与一郎を寝かせてから、寒さ凌ぎに葛湯を作っていったときも、二人はさも楽しそうに石の音をさせていた。--小松は思いすごしたのだ、お役替えというような話なら、こんなに長く碁など打っていらっしゃるはずはない。そう思うと弥生はなにやら裏切られたような寂しい気持ちになり、行燈をひき寄せながらひっそりと縫い物をつづけた。

 どのくらい経ってからであろう、石の音がやんでしずかな話しごえが続くのに気づき、ふとそちらへ注意すると「奉行所」という老人の言葉が聞えた。弥生は思わず針を措き、少し膝をにじらせながら耳をすました。

「たとえ百樹どの秋沢どのがうしろ盾にならずとも、奉行所でそこもとほどの才腕を活かせば、少なくと現在のような恵まれないことはない」

 老人は平らにくだけた調子でそう言った、

「自分の預かっている役所に就いてこんなことを申す法はないだろうが、勘定所づとめではさきも知れているし、殊にそこもとの仕事は気ぼねばかり折れて酬われることの少ないまったく縁の下のちからもちだ、わしも役替えをするほうがよいと思うがな」

「それも考えてみたのですが、やっぱり私には今の役目が身に合っていると思いますので……」

「だがそれでほんとうに満足していられるかな、機会はまたというわけにゆかぬものだ、あとで悔むようなことはないかな」

 そこでぷっりと話ごえがとだえた。森閑と冴えた宵のしじまを縫って、廂を打つ雨の音がひっそりtこ聞える。ああ振り出した、弥生がそう思ったとき、三右衛門はよいのしずかに口を切るのが聞えてきた。

「役所の事務というものは、どこに限らずたやすく練達できるものではございません、勘定所の、ことに御上納係りは、その年どしの年貢割りをきめる重要な役目で、常づね農民と親しく接し、その郷、その村のじっさいの事情をよく知っていなければならぬ、これには年数と経験が絶対に必要です、単に豊凶をみるだけでも私は八年かかりました、そして現在では、私を措いてほかにこの役目を任すことのできる者はおりません、……それとも誰か私に代るべき人物がございますでしょうか」

「正直に申して代わるべき者はない」

「……こんどの話がどうして始まったか、推挙して呉れる人の気持がどこにあるか、私にはよくわかっています」

 三右衛門はこう続けた、

「その人たちには私が栄えない役を務め、いつまでも貧寒でいることが気のどくにみえるのです、なるほど人間は豊かに住み、暖かく着、美味をたべて暮すほうがよい、たしかにそのほうが貧弱であるより望ましいことですが、なぜ望ましいかというと、貧しい生活をしている者は、とかく富貴でさえあれば生きる甲斐があるように思いやすい、……美味いものを喰い、物見遊山をし、身ぎれい気ままに暮らすことが、粗衣粗食で休むひまもなく働くより意義があるように考えやすい、だから貧しいよりは富んだほうが望ましいことはたしかです、然しそれでは思うように出世をし、富貴と安穏が得られたら、それでなにか意義があり満足することができるでしょうか」

 弥生は身ぶるいをした。こめかみのあたりが白くなり、緊張のあまり顔つきが硬ばった。廂を打つ雨の音はやみもせず高くもならなかっが、気温はぐんぐん冷えて、膝や手足の指は凍えるように思えた。

「……おそらくそれだけで意義や満足を感ずることはできないでしょう。人間の欲望には限度がありません、富貴と安穏が得られれば更に次のものが欲しくなるからです」

 良人のこえは低いうちにも力がこもってきた、

「たいせつなのは身分の高下や貧富の差ではない、人間として生まれてきて、生きたことが、自分にとってむだでなかった、世の中のために少しは役だち、意義があった、そう自覚して死ぬことができるかどうかが問題だと思います。人間はいつかは必ず死にます、いかなる権勢も富も、人間を死から救うことはできません、私にしても明日にも死ねかもしれないのです、そのとき奉行所へ替わったことに満足することでしょうか、百石、二百石に出世し、暖衣飽食したことに満足して死ぬるでしょうか、否、私は勘定所に留まります、そして死ぬときには、少くとも惜しまれる人間になるだけの仕事をしてゆきたいと思います」

 膝を固くして頭を垂れていた弥生は、みえるほどからだが震えるのを抑えることがでなかった。感動というよりは慙愧(ざんき)に似たするどい思考が胸につきあげ、それが彼女を二つにひき裂くかとおもえた。――生き甲斐とはなんぞや、ながいこと頭を占めていたその悩みが、いま三右衛門の言葉に依ってひとすじの光を与えられた。それはまぎれもなく暗夜の光ともたとえたいものだった。――貧しい生活をしていると富貴でさえあれば生き甲斐があると思いやすい、良人は今そう言った。自分が思惑ったのも、つきつめれば妹たちの暮らしぶりをみて、その非難を聞いて、自分の生活よりは意義があり充実しているように考えたからだ。なんとあさはかな無反省なことだったろう、縫い取りや炊事や、良人に仕え子を育てる煩瑣な家事をするかしないかが問題ではない、肝腎なのはその事の一つ一つが役にたつものであったかどかだ、女と生まれ妻となるからは、その家にとり良人や子たちにとって、かけがえの無いほど大切な者、病気をしたり死ぬことを怖れられ、このうえもなく嘆かれ悲しまれる者、それ以上の生き甲斐はないであろう、然し、それでは自分はこの家にとってはたしてかけがえのない者であるかどうか、どうしても無くてはならぬ者だろうか。……弥生には然りと思うだけの自信も勇気もなかった

「そうだ」彼女はしずかに面をあげた、「少なくとも良人や子供にとってかけがえのない者にならなくては」そう呟くと、なにかしら身内にちからが湧いて来るようだった。弥生は立ちあがり箪笥の小抽出の中から青銅の風鈴をとりだした。秋のころ妹たちが外していったのを、どうしても吊りなをす気になれなかったものである、――あのときから気持ちがゆらぎだしたのだ、そしてこの数十日ずいぶん思い惑ったことはむだでなかった、こうして今こそ生きるみちをたしかめたのだから。……そう思いながら弥生は小窓をあけた、外はいつのまにか粉雪になっていた。「まあ、とうとう」燈火(あかり)をうけて霏霏(ひひ)と舞いくるう雪の美しさに、弥生は思わず声をあげながら、手を伸ばして風鈴を吊った。あるかなきかの風に、久しく聞かなかった滴丁東(てきちょうとう)の澄んだ音がひびきだすと、その音を縫って三右衛門のこう呼ぶこえが聞えた。

「弥生お帰りだぞ」 

To the memory of my beloved wife.


日本婦道記に寄せて

 或る女性が東北へ旅行した。ひとり旅と言えばひとり旅、連れがある旅と言えば、そうも言える旅だった。といぬbわけは、彼女は一人の男性に案内されてその旅行をつづけていたのだ。その案内役の男性と、彼女はその旅行をするについて初めて紹介されたのである。

 旅は人の心を解放する。美しい中年のその女性に案内役の紳士は不思議に興味をそそられたらしい。唯ならぬ感情の動きは、そこはかとない身のこなしにも感ぜられた。

 その女性は途方に暮れた。恥をかかせたくない。然し、みずからの名誉は守らねばならない。彼の気持ちを感じているらしい様子は絶対に見せてはならない。しかも、飽くまでも用心をして、はしたない噂のたねをまいたりしてはならない。

 その時、彼女の救いは、スーツケースの中の一冊の本であった。

 山本周五郎著「日本婦道記」、それであった。おの頃、彼女はこの本を愛読していた。旅の明けくれの友としてこの一冊を選んで持って行ったのだ。

「日本婦道記」、夫人はしゃにむにこの一冊にすがった、じいっと読みふけっている姿。向い合った男性のたわむれの思いは「日本婦道記」という文字の前に、日光の前の雪の如く消え去ったらしかった。

 その夫人に「日本婦道記」を紹介したのは私であった。私自身、この書を非常に愛読した、そして新しい友であるその女性にすすめて、彼女のかばんの中へ入れたのであった。

「私はこの本で救われました」と語った友の顔を見て、私は笑えない真剣さを感じ何かほっとした安心を味わった。

「日本婦道記」が新潮文庫の一冊として再び私たちの前にあらわれた。

 旧くして新しきもの、移りゆく世代を通じて不変の民族の魂の脈打つのをここに感じる。あらゆる文化と思想を受け入れ、これを煮えたぎらせるルツボのような日本人は、あらゆるものを吸収しながらも、一つの不動なるものを失ってはならない。

 「日本婦道記」の中の女性たちは、私は新しさを感じる。旧い時代を代表するようであって、今の新しい時代にぜひとも欲しい精神をちゃんと持っているこの女性たちを私は愛する。

 過去とのつながりを一切否定し、只現在にのみ生きる人は野蛮人だと、或る賢人が言っている。私たちは時々この野蛮の境域にさまよい入るらしい。

 過去を知ることは現在に生きることでもある。「日本婦道記」は小説ではあるが、その中には日本女性の生気が鼓動している。

 私たちの祖先がどんなふうにして愛情の危機を切りぬけたか、生活の矛盾を克服したか、複雑な社会情勢の中で、あくまでも自分みずからの心の純一を保ち得たか、こうしたことがらがフィクションの形で描かれているところに「日本婦道記」のおもしろさがある。

 女性の強さはどんなふうに表現されるかというテーマを、この一冊は取扱っているところに研究の資料を発見することが出来る。

 「婦道」などという言葉は古くさくきこえるかも知れないけれども、内容は刻々に変化してしかも、変わりない一筋の線がくっきりうかびあがっているのを、「日本婦道記」はとらえている。変わらないそれをとらえることによって、私たちは変動する社会に生きる道を発見出来るのであろう。「日本婦道記」の中に描かれているさまざまな女性は限りなくなつかしい。彼等の喜びや悲しみや幸福や不幸をのぞき見ることによって、今日の私たちの問題をつかむことが出来る。

 小説と歴史の相交わる一点というような意味でも、この本は読んでおいていい。

 一度ならずいくたびか繰返し読まれることに堪え得るものである。

 私は家庭の本棚ということを提唱するのだが、家族が食事に集まる茶の間の片隅に小さな本棚を設けて、気軽にとりあげて読める種類の本を何冊かそろえておくことは、家族の教養と娯楽の面から大いに役立つと思う。そうした企ての中には、ぜひとも備えたいのは「日本婦道記」である。その意味から今回、これが文庫版の形で出版されたことを深く歓迎する。過去の日本女性と現在とのかけはしとして、良い役割を果たすものであることを信ずる。

  一九五八年   初秋

                  村 岡 花 子


 私は愚直であることを笑われるよりも実体のともわれない才能をほめられるほうを恐れる。
                  (山本周五郎)

 作家山本周五郎はペンネームで、若い日務めた質屋のおやじさんの名前のようです。この篤実にして読書好きの彼をみこみ、蔵の中の書物を日ごろ自由に読むことを許しまた彼が店を退くにあたり、困った時にはいつでもまた来なさいと。その主人の温情を忘れないために、主人の名をもってペンネームとしたと聞いています。

 山本周五郎の作品は、つねに古風ともいえる義理人情がテーマですが、名もなく、貧しくとも、人間の人間らしさ、人間同志の共感といったものを数多くとりあげています。

 しかも貧困や病苦や失意、そして絶望のなかにこそ、より温かい人間味を見出し、深いよろこびを伝えてくれるようです。

 森先生も「日本婦道記」を非常に推奨せられ、新潮文庫を一度に五十冊も購入し、その多くを施本せられたこともありまして、尋常ならぬ力の入れようでした。
                   寺田清一「一滴一粒」より

2017.09.23


 山本周五郎、1903年(明治36年)6月22日 - 1967年(昭和42年)2月14日)は、日本の小説家。本名、清水 三十六日本の小説家。本名、清水三十六(しみず さとむ)。

2012.12.03:初回は部分的抜き書きでした。その時は、日本の妻の生き甲斐の変わらない原型であると思いながら読み、抜き書きでした。
2017.01.22:今回は全文を写しながら、著者の題名「風鈴」と滴丁東(てきちょうとう)の澄んだ音の関連に山本さんの御考えをのぞかせていただいたと思いながら読み、写しました。 

2012.12.03:初回の部分的抜き書きを読んでいただいた方から下記の 参考をメールでいただきました。ありがとうござました。―冬の風鈴―

『花園』平成7年1月号(大分県 ・福正寺住職  森哲外)

 お寺ではお正月に「修正会」のおつとめをします。昔、聖武天皇のころ、諸国の国分寺で吉祥天をまつって、前年のいろんな過ちを悔いて修正する法要から始まったといわれます。

 一年間の内、知らず知らずにつくられた罪業を大晦日に、除夜の鐘を百八撞いて煩悩を打ちはらい新年を迎えます。煩悩を無くし、心を空っぽにして新しい年を迎えるのです。

 新年を迎えますと「あけましておめでとう」といいますが、旧年の煩悩が無くなっての新年ですから「明けまして」より「空けましておめでとう」の方がよいようにも思われます。心に煩悩が兎の毛の沙汰もない、これほどめでたいことはないでしょう。

 冬でも風鈴を下げているお寺があります。その風鈴は、寒い北風が吹いても「チリーン」と、鳴ります。心が空っぽだから風にさからいません。道元禅師の中国での師、天童如浄禅師に「風鈴の詩」があります。

風鈴の詩

 渾身口に似て虚空に掛かる
 問わず東西南北の風
 一等誰が為に般若を談ず
 滴丁東了滴東了        
             如浄禅師

 風鈴は全身が口ばかりで、大空のもと軒下に掛かっています。その風鈴は東西南北いずれの風をも嫌いません。等しく私達に仏の教えを説いています。どう説いているかというと「チリーンチリーン」と。順境の時も逆境の時も、一所懸命生きよと説いています。

 どうかすると私達は、我見のため選り好みをしてしまいます。健康や春秋を好み、病気や暑さ寒さを嫌ってしまいます。風鈴は心に我見がなく空っぽですから、どんな風が吹こうとも、物事にとらわれることなく無心に生きることができるのです。

 新しい年を迎えるに当って、我見を捨て心を修正し、心を空っぽにして、この一年を過したいものです。

2017.01.22

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