広島工業専門学校時代
昭和22年入学~25年卒業
    


※写真説明:左昭和22年当時の汽車客車。右D51形式機関車。
 「呉」の地を知らない人がおおいのではなかろうか。どの県にあるのだろうか? 戦争中、海軍軍人だった人には、横須賀、呉、佐世保、舞鶴の海軍四軍港と一組にした懐かしい地名だろう。

 呉線(廣島県三原市から海田市の区間)といえばなおさらのことであろう。鉄道の地図でも探し出すには時間がかかるのではないだろうか。国立公園瀬戸内海の沿岸に沿った多くのトンネルのある国鉄の地方鉄道だった。

▼その呉線の沿線にある田舎町に私は生まれ、中学を卒業するまで住んでいた。
 小学校の何年生だったか、三呉線(広島県三原市~呉市の間)が開通したので、町中あげてお祝いの旗行列に参加した。機関車(多分C59)の前に、日の丸の旗を二つ交叉させての祝賀の汽車。さぞ待望の開通だったのだろう。今から約六十五年前?のことだった。
 それまでは船だけが遠方への交通の手段だった。汽車が利用できるようになったのは飛行機がとぶようなものだったのだろう。

▼戦時、昭和十九年には、呉に近くなると同乗の車掌から(時には軍人もいたか)海岸線側の窓のシャッターはおろすように指図され、呉駅を通過して暫くして窓をあけてもよいと知らされていた。当時、呉は海軍の軍港であり、海軍工廠のドックでは戦艦大和がつくられていた。それを知らせたくない軍部の配慮であったのだろう。

 終戦後、海軍兵学校から忠海に帰った後、直ぐに旧制広島高等学校二年生編入試験を受けた。原爆被爆後の広島に初めて出掛けた。広島の駅には原爆負傷者が毛布にくるまったままでうずくまっていた。行き場所のない人たちだったのだろう。

 市電は完全にストップしたままであった。電車の架線は切れて電柱は傾き、戦争の災害は放置されたままであった。駅から皆実町(高等学校所在地)まで比治山通りを歩いて行った。高等学校の建物は無傷で残っていた。

 試験は面接だけであった。「ドイツ語を勉強していないが出来ますか」と言われただけであった。受験にあたって、中学校の内申書が提出されていた。私の中学時代の成績は3年生からずっと8番であったが、提出の成績は40番程度にされていた。編入者数に制限があり結局許可されなかった。

 昭和二十二年四月に広島工専化学工業科に入学した。

▼廣島の学校へ入学してから卒業まで通学していた。朝、忠海発5時過ぎの一番汽車に乗り、広島駅には8時少し過ぎに着き、廣島電鉄に乗って千田町にある学校にいつも20~30分遅刻して登校していた。毎日のことだから、遅刻にはやかましい村田教授も黙認。醸造科に入った向井和夫さんと通学。

▼片道約三時間であった、広島市から呉市までは約1時間で当時は通勤範囲であった。呉から私の町までは乗客はガラガラ、そのときが私の汽車での移動自習時間になっていた。往復で約4時間になる。当時、学友はマジャンをしたり部活をしたりしているだろうと少し愚痴もあった。これが今になって思えば本当に勉強になったと思う。当日の授業の復習は家に帰るまでにはほとんどおわっていた。

★当時の学校での教育で残念だったのは合成化学の座学・実習がなかった。これは、戦後の教育資材が極めてすくなかったので止むをえなかったと思うが。就職しても残念な思いは続いていた。

 クラスのメンバーとの放課後の交流を振り返るために当時の古い写真を見ると、運動会?で同級生が仮装して楽しんでいたり、近郊での会合などには参加していなかった。ただ、宮島往復駅伝クラス対抗戦は選手として参加していた。また、広島市についてほとんど知らない。広島駅から宇品への電鉄での沿線風景だけだといえるものだった。

★夏休みには労働:呉線大乗保線分区の線路の草ぬきなどをした。また、帝人三原工場で忠海中学の先輩で京都大学在学中の天倉源造さんたちと働いて学資のたしにしていた。当時はアルバイトという言葉はつかわれていなかった。 

★奨学金受給:三年生になって受給。卒業して、数年して完済した。

★中学校同級生と交流:旧制広島高校在学中の児玉君たちと下宿での交流。当時、酒は手にいれることはむつかしく、竹原の薬屋の息子、堂面君(中学校同級生)からエチルアルコールを入手して水割りを呑みながらわいわいと……。

★成 績

 私の成績は三年間を通して好成績だった。そのわけは、

 その1:往復約六時間の汽車通学では好成績であることは考えられないものだ。ただ、忠海~広島では呉~広島は通勤範囲内だったので大変混雑して座席に坐れないひともいたほどであった。だが、忠海~呉、返りは呉~忠海はガラガラであった。その時間を有効に活用しての約5時間の勉強によるものだった。1年生の時は海軍兵学校での基礎学力(英語・数学・物理)が役立った。専門教科はそれなりに勉強しなければならなかった。

 その2:当時は就職難であった。最終学校での成績がある程度よくなければ就職できないだろうと思っていた。こんな思いが強くて、好成績の原動力となったと思う。

 卒業時、写真の表彰を受けた。そして、クラスで一番早く倉敷レイヨンに就職が決まった。余談だが、会社に就職して、同時に入社した人が「広島工専で一番だった」と言っていた。何故か皆さんにしれわたっていたようだ。

※参考:表彰状に「廣島大学廣島工業専門学校長中江大部」と記載されている。1948年、広島文理科大学を中心に「広島総合大学」を設立する運動が本格化すると、工専内部にもこれに呼応して「広島総合大学工学部設立委員会」が発足した。そして翌1949年5月、国立学校設置法の公布によって広島大学が発足すると広島工専は包括され、広島大学広島工業専門学校と改称、広島市立工業専門学校とともに同大学工学部の構成母体をなした。1951年3月には工専および附設工業教員養成所の最後の卒業式が挙行され、同月末日附設工業教員養成所とともに廃止された(なお、附設工業教員養成所は新制広島大学工学部で工業教員養成課程として復活した)。

▼学校を卒業して会社につとめてからも、お盆・正月には帰省していた。沿線の風景、瀬戸内海の白砂青松、海の色の鮮やかさ、島々が迎えてくれていた。家に帰る楽しさも忘れるほどであった。

▼最近は電化されていて、無人が多くなっているが私の故郷の駅はJRの委託管理人が一人になっている。地元の人でなくて、町のことを聞いても何も知らない。外国の旅での駅とはいわないとしても、ああ、故郷に帰ってきたなとの思いはどこかへ。駅前には客待ちのタクシーもほとんど見られなくなり、駅前で飲食店をしている友人も「どうもさびれてしょうがない! 自動車のせいかもしれんな!」と、なかばあきらめ声。中学の校歌にも取り上げられていた「黒滝山」は町の背後に今もそびえている。

*写真はC59型蒸気機関車です。
平成十七年四月十六日


写真説明:卒業試験終って。

▼戦時中、陸海軍諸学校出身者・在学者は、工業専門学校では定員の1割しか入学を認められなかった。終戦後、広島高等学校の2年生編入試験を受けたが入れてくれなかった。戦後2年目に工業専門学校に入学した。定員40人中に5人しかいなかった。陸軍大尉の方と海軍兵学校に在学していた私を含めて4人の計5人であった。戦後の学校は、学校により、さまざまな扱いをしていた。乱れていたとしか言えないようであった。現在では想像もできないでしょう。

 陸軍の大尉の方は「学校にいるのはばからしいのでやめる」と言われて、一学期で退学されて、大阪帝国大学に転学された。

 こんな状態に私たちは扱われていたのだ。

 中学の同級生は、すでに3年生になっていて、何かと便宜をはからってくれて助かったものでした。

※写真説明:竹内助教授(左より三人目)、小生(一番右)。
 小生の上着は海軍兵学校在校中(昭和19年~20年終戦)に着用していた第二種軍装。授業で教室に向かう時、左の脇にしっかり抱えていた手提げカンバス製バッグ。教科書や筆記具を入れていた。

参考:柴田 二郎の記事の中に

 昭和20年4月 陸軍士官学校に入学(第61期生。最後の陸軍士官学校の生徒であった)。

 昭和20年8月 敗戦により、脱走同然の姿で父母の疎開していた山口県に帰る。

 昭和21年6月 軍学徒制限などという奇妙な制度のため、高等学校(旧制)には入れてもらえず、しぶしぶ山口医学専門学校に入学。

 昭和26年3月 同卒業。ちっとも嬉しくなかった。と記載している。

鈴木金一先生の卒業試験

 3年生の最終試験  記憶に残っているのは、化学工業科長の鈴木先生の試験問題は「金について」の一問だけであった。試験監督の先生からA4一枚の用紙が配られた。

 3年間、学んだ無機化学の問題としては、あまりも簡単な問題なので、何を書けばよいのか考え込まされた。

 先生の意図に、なにかユーモアを感じました。というのは、先生の名前が「鈴木金一」先生でしたから「金について」であろうかと……。

 そこで、私は先生についてのお礼を込めて授業に関連したものを書けばよいのと考えました。しかし失礼なことを書き上げることになるかもしれないとおもいなおしました。

 最終的に「これでゆこう」と決めたのは、英語で書くこと。内容はもちろん化学工業科であるから専門的に得られた知識についてであった。

 たとえば「Gold is a precious metal.……」といった英語で、ともかくも、用紙いっぱいにかきあげました。

 試験が終わり採点されたが、結構、良い成績に評価されていた。

 何か子供ポイ思いつきであったと、今にして、思うのは、こんなことが通用するユトリのある学生生活であつた。当時、背広を着用されていた先生のお姿をのせました(写真参考)。

企業見学:工場見学

 広島県福山市:日本火薬(株)福山工場。広島県三原市:帝国人造絹糸(現・帝人)(株)三原工場。広島県大竹市:三菱レイヨン(株)を見学した。 

 帝国人造絹糸、三原工場を見学した時、糸を紡ぐ工程(紡糸)で、ビスコースがフィラメントになる科学的変化を見て化学の面白さを実感させられた。倉敷レイヨン入社試験を受ける動機になったのかも知れない……。

▼広島市の街の人たちの学生に対する雰囲気は見守っているよといったものがあった。繁華街八丁堀で、学園祭で練り歩いて電車を止めるなどしていても笑いながらみているような光景であった。また、学校があった広島電停から宮島口往復駅伝競走なども声援を送ってくれていた。

 学生には、心地よいまちであった。 思い出は尽きない……。


 竹内先生(広島工業専門学校恩師)退官記念パーティ参加

 昭和61年3月8日(月)

 江田島小用~宇品~広島本町~広島グランドホテル

 大変よろこばれた。奥様にも挨拶。

 木原義明、黒崎昭二、古久保恭一、佐伯利彦、中西巌、成生雄、福本正明、宇野本、水戸英夫たちに会う。在広の連中のみであった。

 先生から「電気化学」を教えていただいた。広島県仁方(呉線)に住まれていた。そこから広島市千田町広電前の学校に通勤されていた。

 夏の大掃除では、お手伝いにいったことがある。

 私が3年生の時、大学への進学を勧められた。しかし、家庭の事情で断念させられた。


※向井和夫氏:平成二十七年十一月。訃報を知らされた。ご冥福を捧げます。

写真説明:京都円山公園。谷・向井・黒崎。

 向井さんと私は工専に一緒に通学した。彼は醸造科、電気・公民の授業は共同受講した。

 卒業旅行として二人で同級生島根県境港市面谷家の面谷祐二君のお宅に宿泊させていただいた。大へん歓待された。醸造所のお酒は美酒だった。

 つぎに、京都伏見出身 谷 嘉雄君のお宅を訪問、これまた歓待された。醸造所の前にあった小学校と同じ長さであった。

 いよいよ、社会人に旅立つまえの一コマでした。

 卒業すると彼は広島県廿日市市にある中国醸造(株)に就職した。私は倉敷レイヨン入社。以来、年賀状のやり取りはしていた。


2010年10月16日

1、広島工専同期会に参加

卒業後、同期会は何度か行われていたが、一度も参加していなかった。

黒崎を引っぱり出せとの声があり、当日の会への案内があった。

2、広島へ出かけた。中西巌君に連絡していたので、駅に迎えに来てくれていた。駅の食堂で昼食。中西君と比治山の丘にのぼり、宇品方面の旧陸軍被服敞の建物を遠望。中西君、広島高等師学校範附属中学校の生徒時代、ここで勤労奉仕をしていた。たまたま建物の中にいたから、被爆の後遺症はすくなかったとのことであった。

3、千田町の工専の建物はなくなり、工専跡の記念碑がたてられていた。

4、夕方からの懇親会に参加。広島工専桜花会、於広島市文化会館。16人参加。藤野、柳川、木原、久保、中西君たちの名前と顔写真が一致。その他ははっきりしなかった。

5、終って、帰岡。


 広島市南区の被爆建物、旧陸軍被服支廠(ししょう)の保存運動に力を尽くした被爆者の中西巌さんをしのぶ会が2023年12月3日、中区の原爆資料館であった。8月に93歳で亡くなった中西さんと親交のあった約70人が参列し、被爆の記憶を今に伝える建物の活用を誓った。

 参列者は祭壇に花を手向けた後、中西さんの歩みを映像で振り返った。市民団体「旧被服支廠の保全を願う懇談会」の共同代表を中西さんとともに務めてきた被爆者の切明千枝子さん(94)=安佐南区=たちが、思い出を語った。切明さんは「被服支廠は『戦争と平和の大きな大きな証人』と言っていたのが耳に残る」と述べ、思いを継いでほしいと呼びかけた。

 中西さんは15歳の時、被服支廠で被爆。2014年に同会を結成し、署名活動などに取り組んだ。国の文化審議会は先月、全4棟を国の重要文化財に指定するよう答申し、来年1~2月に指定される見通しになった。(下高充生)

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中国新聞                


※広島工業専門学校恩師

鈴木金一教授:工業化学科長。無機化学。
上田 一教授:珪酸塩工業。
村田  教授:染料工業、油脂工業等。
柴 晴夫教授:有機化学。物理化学の授業ではドイツ語の専門用語が盛んに使われた。
竹内信彦助教授:電気化学。
大野敏男助教授;分析化学。

平成二十七年十一月二十一日記す。

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