日本の本より
(享保17年~安政3年)
日本の本より
(明治時代:1)
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(明治時代:2)
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(明治時代:3)
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(明治時代:4)
★★★★★★ ★★★★★★ ★★★★★★
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(大正時代)
日本の本より
(昭和時代)
★★★★★★ ★★★★★★
外国の人々(1868年以前) 外国の人々(1868年以後) ★★★★★★ ★★★★★★

日本の本より
(昭和時代)

目 次

01伊藤 肇
『伊藤肇諸著書』(1,926~1,980年)
02渡辺 和子
ノートルダム清心女子大学学長 (1,927~2,016年)
03尾山 令二
『死への備え』(1,927~2023年>
04土屋 雅春
『医者のみた福澤諭吉』(1,928~2,001年)
05柴田 二郎
『患者に言えないホントの話』(1,928~)
06渡辺 文雄
『旅でもらった その一言』(1,929~2,004年)
07小林 司
出会いについて(1,929~2,010年)
08谷沢 永一
『百言百話』(1,929~2,011年)
09栗田 勇
『謎の禅師 白隠の読み方』(1,929~2023年)
10開高 健
小説家 (1,930~1,989年)
11大原 健四郎
『生と死の心の模様』(1,930~2,010年)
12石川 洋
一燈園法話『人生逃げ場なし』(1,930~2,013年)
13日下 公人
『逆 読書法』(1,930~)
14辰濃 和男
『文章の書き方』(1,930~2,017年)
15半藤 一利
『ノモハンの夏』(1,930~2,021年)
16有吉 佐和子
『恍惚の人』(1,931~1,984年)
17三浦 哲郎
小説家・日本芸術院会員(1,931~2,010年)
18曽野 綾子
『戒老録』(1,931~)
19山折 哲夫
カミの世界へと近づいていくこと(1,931~)
20谷川 俊太郎
「成人の日」(1,931~)
21五木 寛之
『大河の一滴』その他(1,932~)
22高 史明
『生きることの意味』(1,932~2023年)
23永 六輔
『職 人』(1,933~2,016年)
24鍵山 秀三郎
凡事徹底(1,933~)
25本庄 正則
伊藤園の創業者(1,934~2,002年)
26灰谷 健次郎
あなたの知らないところに(1,934~2,006年)
27丸元 淑生
(1,934~2,008年)
28伊藤 隆二
『カント 哲学を志す』(1,934~)
29井上 ひさし
『私家版 日本語文法』(1,937~2,010年)
30佐々木 将人
日本の合気道家、神道家。(1,937~2,013年)
31柏木 哲夫
日本の医学者、内科医、精神科医。(1,939~)
32金光 章
『民藝を楽しむ』(1,940~)
33石橋 富知子
仁愛保育園園長(1,940~)
34米長 邦夫
「八分ほめて 二分けなす」(1,943~2,012年)
35藤原 正彦
『父の威厳 数学者の意地』(1,943~)
36星野 富弘
日本の詩人・画家(1,946~)
37今枝 由郎
「仏性」と「成仏」(1,947~)
38杉本 秀太郎
『平家物語』(1,959~2015年)
39木村 耕一
『親の心』(1,959~)
40俵 万智
(作家)(1,962~)
41山田 実
徳永興起先生の教え
42坂田 成美
ハガキ道に生きる
43西本 岩夫
立腰教育一年を顧みて
44西山 啓子
立腰教育
45中村 和子
人生を楽しく送るコツは


01 伊藤 肇 (1926~1980)

『伊藤 肇の著書から学ぶ』

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▼『現代の帝王学』(講談社文庫)P.135

 もともと、生きた悟りや心に閃く真実の智慧、あるいは力強い行動力は、けっしてダラダラした長ったらしい概念や論理から得られるものではない。

 それは体験と精神とが凝結している片言隻句によって悟るのであり、また、その原理原則を把握することによって実践するのである

 したがって、語録とか、箴言とかいうものは、経験を積めば積むほど、教養が深くなればなるほど、身につまされてわかってくる「おとなの学問」なのである。

心のこもった手紙 『現代の帝王学』P.230~232

 筆者は皇帝でも社長でもない。しかし、「直言」に関して鮮烈なる思い出をもっている。

 それは出光興産の出光佐助が敗戦直後、渡米し、むこうの財界人を前にして「民主主義というのは、自分のことは自分でやらねばならぬことだろう。にもかかわらず、いちいち、タイムレコーオーダーをとって、一時間も眼が離せぬ、信頼できぬという人間が民主主義を唱える資格があるか。それから、机の配置も、後ろから課長が監督するようになっている。そのように後ろから監督しなければ何をするかわからない、という人間が民主主義を説くなど、おかしな話ではないか」と一本、お面をとった話をある雑誌に紹介した時のことである。

 伝記作家の児島直記から電話があって、「あの話は何からとったのか」ときかれたので、「出光の著書『人間尊重五十年』」からと答えた。

 ところが、十日ばかりたって、そんなヤリトリなど、すっかり忘れてしまったころ、小島直記から次のような長文の手紙が舞い込んだ。

 この前の民主主義の話、『人間尊重五十年』の三〇六頁、『わが四十五年』の八六三頁にのってはいましたが、あなたの文章とは違っています。あなたが雑誌に引用されたものと原文を比較しますと、あなたの引用のものが断然すぐれていると思います。くだけています。しかし、それはそれとして、それが『人間尊重五十年』所載の文章でない以上、その出典を『人間尊重五十年』と明記してのせることはウソとなります。

 何故、一見、些事と思えることに私が拘泥するかといえば、二つのポイントがあります。

 第一は、あなたの書いているその連載は、後世に残る文献となると評価するからです。すなわち、後世に残る以上、ウソを書いてはいけません。あのように出典が明記してあると、私のような伝記作家は「俺のみているこの本はニセモノなのか」と迷うことになります。この意味でも正しい出典を心がけるべきだと考えます。

 第二は、あなた自身の仕事の質をさらに高めて頂きたい。という日ごろの念願にもとづきます。そして、その一つ途口は「原典に当らないで急いで 書いてはならぬ」ということでしょう。安岡正篤先生のお話をきく度に感嘆するのは、お話になることすべてが原典の渉猟から発していることです。われわれが先生から学ぶべき第一義はそこにあろうと思います。第一級のライターたるもの、あやふやなことを書かぬがいいことです。書くならば、調べて書くべきです。

 こんなことはよほどの愛情をもっていないといえるものではない。骨を噛むような反省とともに児島直記のような先輩をもったことの倖せに胸が熱くなる。

平成三十年八月二十九日記す。


itou.teiougakunote.jpg ▼『帝王学ノート』 (PHP文庫)

☆「歴史はくり帰す」の中の一部 P.22 

 安岡先生から『十八史略』の手ほどきを受けたが、その冒頭で、先生はこういわれた。

 「たいていのことは古典のなかにある。何千年経っているのに、人間そのものの根本はたいして変っていないということです。時に自分が創意工夫して、偉大な人生の真理を発見したと思う。しかし、それは大変な錯覚で、自分が無学なために、既に古典にのっていることをしらなかっただけのことです」

参考:土居 有挌

 また、『世説新語』の講義では、乏しい自分の学問的経験からいっても、いわゆる指導理念とか、精神科学とかの講義は殆ど身にならなかった。それよりも、ひそかに熱する思いに駆られて、人物の研究に耽ったことが、一番、わが身を修め、知見を養い、交友の世界をつくってゆく上に役だっと述懐された。古典と歴史の勉強。これなくして、知見は生まれてこないが、現代人は、この最も大事な根幹を忘れて、あまりにもつまらぬ本を読み漁りすぎているのではないか。良からぬ習慣に狎るべからず、人生は習慣の織物と心得べし。

*スイスの『アミエルの日記』から、安岡先生が特に抜かれたものである。

 心が変われば、態度がかわる。

 態度が変われば、習慣がかわる。

 習慣が変われば、人格が変わる。

 人格が変われば、人生が変わる。

☆「音読の効用」 P.122 

参考:音読の効用

2008.7.9


itou.zyuhatisiryaku.jpg ▼『十八史略の人物学』(プレジデント社)

  怪物・鮎川 義介の座右の書 P.11

 戦争中、三井財閥につぐ日産コンツェルンを独力でつくりあげ、しかも、それを満州重工業へ移駐する離れ業をやって戦犯となり、戦後、再び返り咲いて中小企業政治聯盟を組織、みずから参議院議員になるなど、政財界の両棲動物として怪物視された鮎川義介に人間的興味をもつたので、生前よく遊びに行った。

 八十を過ぎても全然呆けた風情はなかった。

 あるとき、「君は人間学だの人物論だのやかましいことを言うとるが、どんな本を参考文献として読んでいるのかね」と聞かれた。「トインビーとドラッカーが面白いですネ」と言ったら、「そんなものよりも『十八史略』でも読み始めたらどうじゃ」と、ピシャリとやられた。

 『十八史略』など、旧制中学に断片をかじったくらいで、どんなものが載っていたかもおぼえていない。

 眼をパチクリさせていると、

 「古い暦でもくるように読んだんじゃ、何のことかサッパリだろうて。ああいう本は、読書百遍、意おのずから通ずで、くり返し、くり返し読むことがたいせつなんだ。言うなれば、読めば読むほど味わいが深くなる。しかし、それは当たり前のことなんじゃ。何しろ、無数の人間が、気の遠くなるような長い時間をかけて織りなした。壮大な社会劇が『十八史略』なんじゃからな」 

 とやられた。

 これは、中国の正史といわれる『史記』『漢書』『三国史』など、十八のあらましを書きとめた中国史の入門史で元の曽先之が編纂したものである。
 「なるほど」と心の中でうなずいていたら、「ところで、『十八史略』には何人の人物がでてくるか知っちょるか」追うちをかけられた。
 そんなことがわかるわけがない。黙って鮎川の顔をながめていたら、「四千五百十七人じゃ。しかも、その四千五百十七人の性格が全部違う。だから、これを克明に読めば、おのずから人間学が会得できるというものじゃ」と、とどめをさされた。

 さっそく本屋をあさって、『十八史略』を手に入れて読んでみたが、全く歯がたたない。独学ではとてもムリだと思ったので、師をさがした。さいわい、日本一の陽明学者安岡正篤先生がおられた。

参考:伊藤肇『人間的魅力の研究』P.219 「複雑にして怪奇」鮎川義介の深さ「十八史略」を座右に、人物鑑定力をつける。

2008.8.11

 秋山好古のすがすがし一生 P.42

 三菱重工相談役の河野 文彦はよく言う。
 「隠居入道してからの最高の楽しみは、人を育てることだ。近ごろになって『世の中に 人を育つる 心こそ 我が育つる 心なりけれ』という荒木田宗武の歌の味が、しみじみわかるようになったよ。僕の本心はなあ、本当は、こんな相談役なんかさっさっとやめて、故郷の栃木へ帰って、教鞭をとりたい。英語と数学なら、現役の先生にだってひけはとらんよ」
 河野がこんなふうに言うのは、前例があるからだ。
 かつて、日露戦争で、貧弱な日本の騎兵隊を率いて、世界に鳴るロシアのコサック軍団をさんざんに翻弄した秋山好古は、他の軍人とは違って爵位ももらわず、地位も求めず、退役後はさっさっと故郷、松山へ帰り、私立北予中学の校長におさまった。
 とにかく、今の官位とはくらべものにならなぬくらい迫力があった従二位勲一等二級陸軍大将という極官にのぼった人物が、片田舎のなもなき、しかも私立中学の校長をつとめるなど、当時としては、とても考えられることではなかった。  そして、黙々として校長を六年つとめ、満七十一で辞任したが、それは死の四か月前だった。
 たぶん、本人は老耄を自覚したのだろう。晩年を養うつもりで東京へ帰ったが、間もなく息をひきとった。
 「もう、あし(ヽヽ)はすることはした。逝ってもええのじゃ」というのが遺言となったが、何ともすがすがしい、見事な一生だった。


▼世尊を表現した言葉

 「君看ズヤ 双眼ノ色 語ラザルハ憂無キガ如シ」                  

 人類救済の悲願に燃えて、偉大な哲理を発見しようと世尊は日夜、心をくだいておられる、しかし、その心の悩みを口に出してはいわれないから、その静かで温和な双眸の色を眺めていると、一見、何の屈託もないように思われる、という意味で、いわば、「深沈厚重」に属する魅力であろう。

参考:伊藤 肇『人間的魅力の研究』

2008.7.10


02 渡辺 和子(ノートルダム清心女子大学学長 )(1927~2016)

今日も一番若い日:渡辺和子さんが教育基金設立へ 父の名前冠し高校生に奨学金

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 「心に愛するものを持っていると、若く生きられるんです。私、今日という日は私の一生で、自分が一番若い日だと思って生きています。
 今日は自分が一番年とった日でもあるんですけれど、同時に今日よりも若い日はないのです。だから、今日も一番若い日だと思って皆様や学生に接しているんです。」

▼渡辺和子先生のお話

より良く生きるための3つの心」について、話されました。 

 一つは、待つことが出来る心

  間を取り、切れないこころを育てる。

 二つは、思いやりを持つことが出来る心

  相手のことをお思いやれるこころを育てる。

 三つは、自分を大切に出来る心

  丁寧に生きるこころを育てる。

 人間には、理性と自由意志が与えられています。聖書の言葉に「真理は、あなた方を自由にする」があります。

人間の尊厳さを日々反省し、三つのこころを向上すべく、意志の力を強める努力をしましょう。と話されました。

日時:2008.7.6
場所:岡山市足守中学校 
聴講された親しくしていただいている友人から教えられましたものです。

渡辺和子先生の略職歴:
 1963~1990年 ノートルダム清心大学学長
 1990 同大学名誉教授、及びノートルダム学園理事長
 1992 日本カトリック教会連合会理事長


▼渡辺和子著『美しい人に』

「微笑み」

ほほえみは お金を払う必要のない安いものだが
相手にとって非常な価値を持つものだ

ほほえまれたものを豊かにしながら
ほほえんだ人は何も失わない

フラッシュのように瞬間的に消えるが
記憶には永久にとどまる

どんなにお金があっても ほほえみなしには貧しく
いかに貧しくても ほほえみの功徳によって富んでいる

家庭には平安を生み出し 社会では善意を増し
二人の友の間では友情の合言葉となる

疲れたものには休息に 失望するものには光となり
悲しむ者には太陽 いろいろな心配に対しては

自然の解毒剤の役割を果たす
しかも買うことのできないもの
頼んでも得られないもの
借りられもしない代わりに盗まれないもの
なぜなら自然に現れ 与えられるまでは存在せず
値打ちもないからだ

もし あなたが誰かに期待したほほえみが得られなかったら
不愉快になる代わりに
あなたの方からほほえみかけてごらんなさい
実際 ほほえみを忘れた人ほど
それを必要としている人はいないのだから

* 親しくしていただいている方からの23.01.15メールによる。

参考:渡辺錠太郎
参考2:最近、著作『置かれた場所で咲きなさい』を出版されています。


 渡辺和子さんが教育基金設立へ 父の名前冠し高校生に奨学金

 ノートルダム清心学園(岡山市)理事長の渡辺和子さん(89)が父親の名前を冠した「渡辺 錠太郎記念教育基金」を今月中にも設立する。岡山県内の高校生を対象にした奨学金給付と高校図書館への書籍寄贈が目的で、ベストセラーとなった「置かれた場所で咲きなさい」など著書の収益1億円を充てる。

 奨学金は毎年10人程度に対して月2万円の支給を想定しており、学校推薦を基に成績や家計などを審査する。書籍は年間10校程度にそれぞれ10万円分を寄贈する見込み。運用は信託銀行に委託し、本年度中に奨学生らの選考を始める予定という。

 基金の名前となった錠太郎氏は、家が貧しかったため小学校時代に満足に学べず、好きな本を買うこともできなかったが、独学で知識を身に付け、陸軍大学校を首席で卒業した。軍隊教育機関の最高責任者である教育総監を務めていたが、1936年の二・二六事件で凶弾に倒れた。

 事件から今年で80年の節目で、渡辺さんは「苦しい経済環境の中で勉学に励んだ父の思いを基金に託し、私を育ててくれた岡山へ恩返ししたい。子どもたちが頑張って学び、有為な人材が育つ一助になれば」と話している。

 渡辺さんは、カトリックの洗礼を受けて修道院に入り、米国留学を経て、63年に36歳の若さで岡山市のノートルダム清心女子大学長に就任した。90年から現職。

(2016年09月06日 08時05分 更新)


 「置かれた場所で咲きなさい」 渡辺 和子/著(株式会社 幻冬舎)

 時間の使い方は、そのままいのちの使い方。置かれたところこそが、今のあなたの居場所なのです。「こんなはずじゃなかった」と思う時にも、その状況の中で「咲く」努力をしてほしいのです。出典置かれた場所で咲きなさい |

出典:「置かれた場所で咲く」シスターという生き方 渡辺 和子

 ノートルダム清心学園で理事長を務める渡辺和子さんが、ここまでの人生のなかで綴られた言葉は、多くの人びとの “心の支え”となってきました。85歳の今も女子学生たちと親しく会話し、慕われている渡辺さん。出典渡辺和子・心をこめて生きる | PHPオンライン 衆知|PHP研究所

 ノートルダムの教育はどのような環境にあっても、そこで諦めることなく、世界に一つだけの花として、自分しか咲かせられない花を咲かせる女性の育成をめざしています。

 創立者の精神を建学の精神として、幸せを自分で創り出し、置かれたところで咲く人たちを育ててゆきたいと思っています。

出典理事長あいさつ

出典:■二・二六事件で父を殺された歴史の生き証人

 渡辺さんは九歳の時に、二・二六事件(昭和十一年二月二十六日、陸軍の一部青年将校らが急激な国粋的変革を目ざし、部隊を率いて首相官邸などを襲い、叛乱を起した事件)のテロで陸軍教育総監だった父親を目の前で殺されたという体験をしています。

出典刻々を生きる自分を生きる

 「私も、目の前1メートルの所で43発の弾を撃たれた父が死んでゆく姿を見て、今日まで生きておりますと。そして自分なりの花を咲かせる努力をして参りましたと」―お父様は2・26事件(1936年)で亡くなった渡辺錠太郎・陸軍教育総監。その時、シスターは9歳でした。

出典:ノートルダム清心学園理事長・渡辺 和子さん:目の前で父が銃殺

出典:■29歳で修道女(シスター)になる

   18 歳でキリスト教の洗礼を受け、聖心女子大から上智 大学大学院修了。 29 歳でナミュール・ノートルダム修道女会に入会。 ボストン大学院で博士号修得。

出典:ボストン大学院で博士号修得

 私の心はいつも女学校時代を過ごした雙葉にあって、修道会に入るならサンモール会(雙葉を経営する修道会、現・幼きイエス会)と決めていたのでした。私は見事に入会を断られてしまったのです。かくて、洗礼を雙葉のチャペルで受けてから11年間、想いに想っていた「恋人」から捨てられたのでした。

 お断りになる側にはそれなりの理由があって、その当時、29歳といえば、入会のギリギリの年齢であり、それも、慎ましやかな生活を送っていた者ならともかく、修道生活を希望する真意を疑われても仕方がないような派手な生活をしていたこともありました。

 初対面で「年を取りすぎています」と言われ、難色を示された時はショックでした。「ああ、結構です。それならそれで、別のところを探します」。生来勝気な私は、頭を下げてまで入れてもらおうと思わず、11年にわたる「恋」に潔く終止符を打って、ある人のすすめで、まったく見も知らないノートルダム修道女会の門を叩いたのです。

出典渡辺和子・挫折したからこそ出会えるものがある | PHPオンライン 衆知|PHP研究所

 渡辺さんは29歳の時に家族と離れ修道院に入り、生涯独身を誓うシスターになる決意をした。スタジオでは渡辺さんへの視聴者からの「結婚したいと思う事はなかったのですか?」という質問が紹介。

 渡辺さんは「お父様のような人と結婚したいと口癖にしてたんだそうです。色々な話もございましたけど、シスターたちの姿を見まして広い世界で働きたいと思うようになりました」などと語った。

出典:[あさイチ 【プレミアムトーク 渡辺 和子】 ]の番組概要ページ - gooテレビ番組(関東版)

出典:■36歳でノートルダム清心女子大学学長に抜擢

 56年ノートルダム修道女会入会後、アメリカへ派遣されボストン・カレッジ大学院で博士号取得。63年に36歳という異例の若さでノートルダム清心女子大学学長に就任し、90年まで務める。

出典:渡辺和子さん : 教育を語る : 子ども応援便り

 「東京育ちの私は、岡山に来て36歳で3代目の学長となり、苦労しました。シスターの中で一番若く、その大学の卒業生でもないし、岡山という土地にも初めて来た人間でした」

 「学長は初代も2代目も70代のアメリカ人。それに、当時すでに、ここの大学には、それまでの学長を補佐してきた50代のアメリカ人シスターがいらしたんですね。その方が3代目におなりになると思っていたのに、私がよそから来て横取りしたようにお感じになった人もいたかもしれません。そのようなこともあって、風当たりはございました」

 「大学ではトップで、修道院に帰れば一番のボトムだった私には、役割葛藤(注・複数の役割の中でどの役割に対する期待に応えるべきかジレンマに陥ること)がありました」

出典:ノートルダム清心学園理事長・渡辺和子さん:「置かれた場所で咲きなさい」

出典:■うつ病、膠原病なども経験

 「50歳でうつ病、60代半ばで膠原病になり、ステロイドで治しましたけれど、副作用で骨粗しょう症になって圧迫骨折をご丁寧に3回しています。」

出典:ノートルダム清心学園理事長・渡辺和子さん:人に憂いで「優しい」

 50歳のときにはうつ病になり、68歳で膠原病を患う。その治療薬の副作用で背中の骨が搊傷し、身長は14センチも縮んでしまった。

出典こころの時代 ~宗教・人生~ “ふがいない自分”と生きる 渡辺和子

出典:■心を打つ言葉

 不平不満を口にする私にある神父様が一つの詩をくださったのです。「神様がお植えになったところで咲きなさい。咲くということは仕方がないとあきらめるのではなく、笑顔で生き、周囲の人々も幸せにすることなのです」

出典:渡辺和子さん : 教育を語る : 子ども応援便り

 毎年4月に入学してくる学生たちの中には、この大学を第一志望としていなかった人も何人か必ずいて、私は「仕方なく入って来た」とわかる学生たちの顔を見ながら考えます。

 人生は、いつもいつも第一志望ばかり叶えられるものではありません。そして必ずしも、第一志望の道を歩むことだけが、自分にとって最良と言えないことだってあるのです。

出典:渡辺和子・挫折したからこそ出会えるものがある | PHPオンライン 衆知|PHP研究所

2016年(平成二十八年)09.29 追加。


 「置かれた場所で咲きなさい」渡辺 和子さん死去 12月31日 4時52分

 200万部を超えるベストセラーになった「置かれた場所で咲きなさい」の著者として知られる、岡山市の学校法人の理事長、渡辺 和子さんが30日、亡くなりました。89歳でした。

 渡辺さんは北海道の出身で、岡山市のノートルダム清心女子大学の学長やノートルダム清心学園の理事長として、人間の尊さや他人を理解することの大切さを教えながら、50年以上にわたって教育の振興に力を尽くしました。

 さらに、女性の大学進学率の向上や、経済的に恵まれない高校生の支援にも取り組みました。

 4年前に出版された渡辺さんの著書「置かれた場所で咲きなさい」は、生きていくうえで指針となるわかりやすい言葉の数々が多くの人の共感を呼び、200万部を超えるベストセラーとなりました。ことしの5月には教育の分野で顕著な功績を挙げたとして、旭日中綬章を受章しています。

 渡辺さんは、昭和11年に起きた二・ニ六事件で、陸軍の教育総監だった父親の錠太郎氏を目の前で殺害される経験をしたことでも知られています。

 慎みて哀悼の辞を捧げます

2016.12.31


(天声人語)置かれた場所で咲いた花

2017年1月4日05時00分

 雪の朝、愛する父親が自分の目の前で凶弾に倒れる――。壮絶な体験は9歳の少女の胸にかくも深い傷を与えるものか。昨年暮れに89歳で亡くなったノートルダム清心学園理事長、渡辺和子さんの生涯を著書や記事でたどってしばし考え込んだ

▼陸軍教育総監だった父渡辺 錠太郎氏は昭和11(1936)年2月26日、自宅で青ログイン前の続き年将校らの銃弾を浴びた。和子さんは座卓のかげで難を逃れた。怒声、銃声、血の跡が恨みとともに胸の底に刻まれた。長じてカトリックの道に進むが、いくら修養を積んでも恨みは消えない

▼意を決して、父をあやめた将校らの法要に参列したのは2・26事件の50年後。「私たちが先にお父上の墓参をすべきでした。あなたが先に参って下さるとは」。将校の弟が涙を流した。彼らも厳しい半世紀を送ったことを初めて知り、心の中で何かが溶けたという

▼晩年まで過ごしたのは、岡山市にある学内の修道院。静穏な日々ばかりではなかった。30代で学長という大役を任され、管理職のストレスに悩んだ。50代で過労からうつ症状に陥り、60代では膠原病(こうげんびょう)に苦しんだ

▼80代で刊行した随筆『置かれた場所で咲きなさい』が共感を得たのは、父の悲劇を含め自らのたどった暗い谷を率直につづったからだろう

▼「つらかったことを肥やしにして花を咲かせます」「でも咲けない日はあります。そんな日は静かに根を下へ下へおろします」。いくつもの輝く言葉を残し、80年前の雪の朝に別れた父のもとへ旅立った。

2017.01.04 追加


03 尾山令仁(1927~)


 尾山 令仁牧師は、その著『死への備え』(いのちのことば社)で次のように述べている。

 「わたしたちはだれひとりとして、自分の意志でこの世に存在をはじめた者はおりません。わたしたちは存在させられている者たちなのです。わたしたちがこの世に存在をはじめたことを”生まれる“と申します。自分で存在をはじめたのではない証拠に、そのことばは受身の形で表現されています。わたしたちはうまれたのであって、わたしたちをこの世にに生まれさせてくださったお方があるのです。それが神なのです」

 さらに尾山牧師は、「すべての人間の寿命は、神によって決められている。神がその人の使命を果たすまで、神はその人を決して取り去ることはないのだ。そして神が定めておられる時に死ぬことこそ、最もさいわいなことなのである」と述べている。私は良き死を死するためには、「生かされている」ということを知る必要があると思っている。私たちは一人ひとり、神にって、「生かされている」のであって、それぞれ果たすべき使命をあたえられているのである。その使命を発見し、その使命に忠実に生きていくことが良き生を生きることなのだと思う。それゆえに、良き死を死するためには、良き生を生きる必要がある。

*引用:柏木哲夫『生と死を支える』(朝日新聞社)

補足:日本語では「うまれた」と自動態で使用されています。英語では「He was born.」と受動態の表現になっている事に気づき、尾山牧師のお話との結びつきをあらためて感じました。

参考:尾山令仁

2010.05.20


04 土屋 雅春(1928~2001)

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▼『医者のみた福澤 諭吉』 先生、ミイラとなって昭和に出現(中公新書)

   序

   天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずといえり。

   血に交わりて赤くならず。

   門閥制度は親のかたきでござる。

   ペンは剣より強し。   

   獣身人心(先ず獣身を成して後に人心を涵養す、ということ)。   

   米は搊(しゆう)なり。   

   一杯、人、酒を呑み、三杯、酒、人を呑むという諺あり。

   独立自尊。

など数々の名文句で知られる福澤 諭吉は、現代では一万円札の肖像になっているが、その偉大なる功績は忘れ去られているところががある。とくに諭吉が今や官学のメッカとなっている日本学士院の初代院長だったことなど、まったく無視されている。そして学士院では会員すべてが平等だということで、創立以来、互いを君づけで呼ぶという福沢以来の伝統が最近ではくずれてきた。慶応義塾の創設者と断片的に知っている人が多いが、幕末から明治時代にかけて、日本は決して椊民地になってはならぬという気概で西洋文化の吸収を指導し、日本の近代化、教育制度を確立した最大の功労者である。また、医学、衛生、福祉にも多くの業績を残している。
 諭吉についての研究は「福澤学」ともいうべき一つの學問のジャンルとして確立しているといっても過言でではなく、現在も多くの研究者がさまざまな角度から研究を続けている。

 著者も諭吉の精神が流れる慶応義塾で医学を学んだ一人として、諭吉には一方ならぬ尊敬の念を抱き、諭吉の著作をはじめ、さまざまな諸先輩や研究者の方々の論文を読んできた。そんな著者に今から一九年ほど前のある日、思いもかけないビッグニュースが飛びこんできた。諭吉が埋葬されているお墓を掘り起こしてみたところ、でんとお棺の中に寝ているミイラ化した諭吉が現われたとというのである。このことは当時のマスコミにも報道されたが、諭吉がミイラで現われたことを知っている人は、現在それでも少ないと思われる。

 そこで著者はミイラになった福澤 諭吉をはじめとして、今まであまり知られていない諭吉の側面――医学や福祉にどのように関わり、日本の衛生環境、健康などについてどのように考えていたのか――を著者なりの観点から少しまとめてみようと思う。

著者:新潟県佐渡に生まれる。1953年、慶應義塾大学医学部卒業。94年4月より同名誉教授。福沢諭吉と医学の関わりを中心にした日本医学史の本である。北里 柴三郎や慶応医学部の創設についても論じられている。

2010.06.16


05 柴田 二郎(1928~)

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 八の下旬、猛暑続きの早朝(5時30分ころ)、散歩する。

 年配の知人が公園のブランコにぶら下がり、背筋を伸ばしている。

 「おはよう御座います」、「眠れなくてて困っている」、「私は睡眠薬を服用しています」などの話をして、一人で散歩道に向かう。

 知人の一人は、酒を毎日飲み、睡眠薬も噛みくだいて服用されてお元気なことから「睡眠薬」について、柴田先生が書かれていた著作を思い出してしらべることにした。

★柴田二郎著『患者に言えないホントの話』(新潮文庫)よりP.103

 眠られぬ夜のためには酒か睡眠薬か(上記の本の中の一章)

■そもそも睡眠には定義がない

■酒が眠りを助けることはない

■耐えて耐えて耐えしのべ:くどいようだが、「眠るためには、酒がよいか、睡眠薬がよいか」という命題は、始めから議論にならぬ命題である。

■「不眠で死んだという人はいない」

 (前略)筆者のクリニックのことを宣伝する気は毛頭ないことを始めにお断りしておくが、筆者は不眠症なども治る人は治るし、治らない人は治らないと思っているから、不眠症に対する対応も人によって(患者さんによって)変わってくる。放置しておいて直る人と、一生、睡眠薬を止めたり、続けたりしながら不眠をごまかしていかねばならない人を区別するというのは、可也の経験が必要だが、今のところまあまあ成功している積もりである(こちらがそう思っているだけだと言われれば、それまでであるが)。

▼殆ど一生、睡眠薬の御厄介になる人達から受ける質問というのは決まっている。「副作用はありませんか」というあれである。筆者の答えも決まっている。「副作用というものは、服用して直ちに出てくるものと、長期に連用していると出てくるものがあります。私の知っている限り、私のところで処方するものの中で服用直後直ちにどうこうという副作用を訴えてきたひとはありませんし、あるとすれば、ちゃんと説明します。長期の服用で何かが起こるかということになれば、何とも言えません。起るかも知れないし、起こらないかもしれません。例えば十年後にこの薬のための副作用が出てきても、或は私はもう死んでいて責任のとりようがないかも知れません。質問の答えになっていないかも知れませんが、そうとしか答えようがないのです>。

▼もう一つは習慣性にならないかという質問である。筆者の答えは常に次のようなものである。「人体が免疫力を持って生きているのですから、薬物という異物に対してだんだん抵抗力がついてくるはずですから、当然習慣性は出来るでしょう。そうなれば、違った種類の薬物で似たような効果を出すものに変えるしかないでしょう。それも時期を見はからってやりましょう。それでも、今、服用している薬でも、時には半分で眠られる夜もあるかも知れませんから、時々試したりしながら、加減していけるはずです。一番大切なのは、私の知る限り、この手の薬によって頭がおかしくなったとか、狂暴になったとか、寝たきりになったとかいう話は、私自身だけでなく、私の周囲の医師からも一度も聞いたことはありません。極端なことを言えば二十年後に、何等かの副作用が起こったとしても、服用しなくても不眠に耐えながらの二十年か、不眠をあまり苦にしなくて過ごせる二十年かを選ぶのはあなた自身です。私は今は不眠でありませんが、わたしが不眠になったら迷わず睡眠薬を使います。もっとも私があと二十年生きている保証はどこにもあちませんが」。

■要するに老化現象の一つである

*この言葉は私もその通りだと感じている。同年輩の友人に「私は睡眠薬を服用している」と話すと、「それはやめとけ」というのが主流であることを付け加えておきます。

(以下略)
   以上でこの章はおわっています。

参考:柴田二郎のホームページご覧ください。

 一番大切なのは、私の知る限り、この手の薬によって頭がおかしくなったとか、狂暴になったとか、寝たきりなったとかいう話は、私自身だけでなく、私の周囲の医者からも一度も聞いたことはありません。極端なことを言えば二十年後に、何等かの副作用が起こったとしても、服用しなくて不眠に耐えながらの二十年か、不眠をあまり苦にしなくて、過ごせる二十年かを選ぶのはあなた自身です。私は今は不眠でありませんが、私が不眠になったら迷わず睡眠薬を使います。もっとも私があと二十年生きている保証はどこにもありませんが。


柴田 二郎プロフィール

昭和3年10月5日 広島市呉市に生まれる。父母とも山口県士族で、そのことをやかましく言われて育つ。今でもその意味は分からないが。

昭和17年4月 広島陸軍幼年学校に入校(第46期生)

昭和20年3月 同卒業

昭和20年4月 陸軍士官学校に入学(第61期生。最後の陸軍士官学校の生徒であった)。

昭和20年8月 敗戦により、脱走同然の姿で父母の疎開していた山口県に帰る。

昭和21年6月 軍学徒制限などという奇妙な制度のため、高等学校(旧制)には入れてもらえず、しぶしぶ山口医学専門学校に入学。

昭和26年3月 同卒業。ちっとも嬉しくなかった。

昭和27年9月 インターンを終え、国家試験に合格。医籍に登録される。145583号。山口医科大学の助手となる。

昭和35年4月 いつまでたっても、助手に留めおかれたので、馬鹿馬鹿しくなり、自衛隊の航空医学実験隊に行く。

昭和37年7月 自衛隊を退職して(三佐になっていた)、アメリカのユタ大学に行く。アメリカはおもしろかった。

昭和38年12月 いったん帰国。山口大学助教授となる。

昭和41年4月 再びアメリカへ。今度はシカゴ大学の研究員(講師待遇)として。シカゴ暴動に遭遇。いい経験をした。

昭和43年8月 帰国してまた山口大学助教授。大学紛争に嫌気がさして、それまでやっていた生理学をやめようと決心する。

昭和50年4月 山口大学教授、保健管理センター所長となる。

昭和57年3月 辞めようと思いながら7年間つとめた教授を辞める。定年まで10年を残していた。

昭和57年7月 現在地で中央クリニック柴田医院(精神科)を開業する。

昭和59年 何を今さら (私家版)

昭和61年 無為の効用 (私家版)

昭和64年 今病んでいる (私家版)

平成4年 医者のホンネ (新潮社)

平成4年 精神科クリニック物語 (中央公論)

平成5年 患者にいえないホントの話 (新潮社)

2008.10.12


06 渡辺 文雄(1929~2004年)

『旅でもらった その一言』

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▼『旅でもらった その一言』(岩波書店)

 不定根は、血脈の志

 「ですから不定根は、桜という種族の命に対する執念というか情念が形になったもの、もっと奇麗な言葉で言えば志、その桜というものの血脈の志、果てしなく続く志のようなものを感じます」

  東北一の桜の名所、弘前公園の見事な満開の桜の下で、このずっしりと重味のある一言を教えてくれたのは、この公園の桜の面倒を見ている一人の樹木医、小林範士(のりお)さんである。

 「じつは、桜という樹には寿命というものはありません。確かに親木の幹は年々老齢化し、中が空洞化して洞(ほら)になりますが、すると若枝の元のところから上定根と呼ばれる、一種の気根(空気中にのびる根。熱帯?物などによく見ることができる)がのび始め、年々少しずつのび、やがてその上定根は地上に達し、そしてしっかり根づくことにになるのです。親木はその日まで頑張ります。また、私たちもその日まで親木を力を尽くして応援します。そして、その上定根がしっかり根づいて新しい幹が生まれると、親はしずかにいなくなります」

 不定根は、桜という種族の命に対する執念というか情念が形になったもの、もっと奇麗な言葉で言えば志、その桜というものの血脈の志、果てしなく続く志のようなものを感じます。そして私がもっと桜が好きなところは、しずかに消えていく親木ですが、これは間違いなく新しい世代の桜にとって最大の栄養源、肥料になるということ。

*渡辺文雄さんは〈その一言〉を話した人の言葉で記述している。録音を起こしているいるのだろう? ぬくもりが伝わってくる。
 彼は映画に関係していたからそれぞれの配役の台詞をそのままに書く力があるのだろう。
 私が会話をかくときは、その人のことばではなくて私のの言葉で書いている。

*渡辺文雄さんは耳を傾ける人に思える。

 「あと何年かして若い連中に仕事を渡したら篆刻でもやって余生を送ろうかと思ってます。でもこれを考えてみたら、押された印が主役で、やっぱり影の仕事ですかな」
(P.76)を読んだとき,この本を借りた小林善三郎様がこの本に篆刻の(小林蔵書)印を押された気持ちを想像した。


08小林 司(1929~2010) 精神科医師 

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★出会いについて(NHKブックス)
 精神科医のノートから

 この本は、序に述べているが「出会い」は鉄道のポイントのようなもので、出会いによって、人生の進行方向がすっかり変わってしまうことが少なくない。こんな不思議な力を秘めている「出会い」とは、いったい何であろうか。

Ⅰ 人間を変えた「出会い」 

Ⅱ 「出会い」の意味を考える  kobayasi.jpg

Ⅲ 友人に出会えない悩み 

Ⅳ 親と子との出会い

Ⅴ 会うは別れのはじめ 

Ⅵ 「出会い」の衝撃 

Ⅶ つくられた出会い 

Ⅷ「わたし」と「あなた」との出会い 

Ⅸ 「出会い」による癒し 

Ⅹ 自分との出会いの10部からなっています。それぞれの章に細かくわかれています。

 有名な本居宣長と加茂真淵先生との松阪の一夜の出会いがⅠ部の1章に記載されています。


 第一回は Ⅵ 「出会いの衝撃」の中の6章 「本との出会い」 からを抜粋します。

 楽しい学校 言語学と哲学を学んでいたスイスのペスタロッチは若いときにルソーの『エミール』を読んで感動し、貧しい子供たちのための楽しい学校を作ろうと決心し、二十八歳のときに新方式の学校を開いて世界的な教育家になった。

 北極の探検 ノルウェーの探検家ロアルド・アムンゼン(一八七二~一九二八)は少年時代に『ジョン・フランクリン伝』を読んですっかり感動してしまった。一二九人の隊員を率い、二そうの船に分乗して北極海を探検した物語である。そして自分で何回も南極や北極へ出かけ、ついに三十九歳の時に世界で初めて南極の極地に立つことができた。

 アフリカの医療

 アルベルト・シュヴァイツアー(一八七五~一九六五)は哲学者・神学者・牧師・オルガン奏者としてすでに有名になっていた。二十九歳のある日、パリ伝道教会の事業報告書を見ているとアフリカのガボン地方で医師がいないために困っているという記事があった。これこそ自分の仕事だと思ったシュヴァイツアーは、すぐに医学部に入学し直して六年後に医師となり、三十八歳の時に赤道にあるランバレネに行って診療所を開いたのである。

 大工の発明家

 豊田織機を発明した豊田佐吉(一八六七~一九三〇)は、浜な湖のほとりで貧しい大工の子として生まれた。

 父の手助けをするために、ある日、隣り村の小学校の工事場へ大工仕事に出かけたところが、教室から、先生が本を読んでいる声が聞こえてきた。それは、イギリスのハーグリーブスという大工が紡績機械を発明した、という話であった。大工でも発明家になれるのを聞いて、佐吉はびっくりしてしまった。

 そして、先生に頼み込んでその本を貸してもらい、むさぼるように読んだ。英国でベストセラーになったスマイルズの『西国立志編』という伝記物語の邦訳だった。

 その後、佐吉は、織機を発明しようとして一心不乱に努力を重ねて、十年ののちにとうとう、自動はた織り機を発明したのである。彼の作った会社の一部はその後トヨタ自動車へと発展した。

 おとぎばなし

 『日本お伽噺(おとぎばなし)』を書いた厳谷小波(いわや さざなみ)(一八七〇~一九三三)は、十代のときに、ドイツへ留学していた兄から、オットーの童話集をプレゼントされた。この一冊のおとぎ話の本は、小波の心を動かして、児童文学を一生の仕事に選ばせたのである。

 もともとは医学を習うことになっていたのだが、十七歳の頃から文学に方向を換えて、日本で初めて、子どものためのおとぎ話を作る作家になった。

 アルプスの魅力

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 評論家の浦松左美太郎は、大学に進むことになったとき、英語の文庫本でウィンパーの『アルプス登攀記』を読んだ。

 原著者である英国のエドワード・ウィンパーは木版のさし絵画家だった。英国山岳会に頼まれて登山紀行集のさし絵を描くために一八六〇夏スイスのアルプスを訪ねたが、絵を描くことよりも登山そのもにすっかり魅せられてしまい、彼は翌年からマッターホーン征服を試み、一八六五年、八回目にとうとう成功したひとである。

 彼はこの本にすっかり魅了されてしまい、精神的にも大きな影響を受けた。一つのことを徹底的にやり抜くという不屈の精神に打たれたのである。ひじょうに困難な登山を、こまかく周到に用意して、不撓の精神でやり遂げたウィンパーの業績に彼は憧れ、大学を出てから、スイスへ行ってウィンパーのの本に書かれた内容を思い出しながらアルプスの山々を実際に登ってみた。まだ、登山が珍しい頃の話である。

 そして、二・二六事件が起きた頃から、浦松さんは、筆をとって思うままにモノを許されなくなったということもあって、この本を翻訳しはじめたのだった。

 人と物の変貌

 作家の開高 健(かいこうたけし)さんは、戦後の大学生のときにサルトルの『嘔吐(おうと)』を読んで異様な一撃を感じた。

 「人が崩れるとともに物もまたなだれを起こして変貌するものであるという感覚と視点をこの作品は精緻で明晰で徹底的な肉感をもって示してくれた。古めかしい手法で書かれたその感情は、鮮烈な衝撃を浴びせてきて避けようがなかった」と、開高さんは記している。

22.10.05


 第二回はⅥ 「出会いの衝撃」の13章 「病気との出会い」からを抜粋します。

 限られた時間 東京大学法学部の教授で政治史を教えている篠原一(1925~)さんは、年をとってからガンだと診断された。それから考えがぐっと変わって、健康と時間には限りがあるものだということをひしひしと実感し、考えが大きく変わったのである。

 政治史の学門に急に活気をおぼえ、講義の内容がガラットと変わって、片隅に置かれていたものの意味を問い直す興味をもつようになった。そして、自分の学問が新しい恋人のような気がしてくるとともに、学門は自分一人でできるものと考えていたのを改めて、学門の継承を大事だと思うようになり、若い研究者の養成に力を入れるようになったのである。

 喀血と鎖

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 フランスにも病気との出会いのエピソードがある

 アンドレ・ジード(1869~1951)はいくつかの小説を発表したが無視されたので、悲観して二十四歳の時にアルジェリアへ傷心の旅に出た。旅先で喀血したジードは一年あまり病床に伏すことになり、その期間にこれまでの自分が古い道徳にしばられていたために自由にほんとうのことを書けていなかったことに気付いて、新しい作品を書き始めたのであった。

 ひまつぶしの才能
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 アンリ・マチィス(1869~1954)は、法律を学んで法律事務所に勤めていた二十一歳の春、虫垂炎にかかった。手術後に家で静養していたときに、絵が好きだった母親に「ひまつぶしに絵でも描いてみなさい」とすすめられて初めてマチスは自分の才能に気づいたのである。翌年には画家になる決心を固めてパリに出た。


▼242頁にわたる本の一部を抜き書きしていているとき、小林先生の述べているように人間との出会いによって変えられてきたと思うことが私にもたくさんあります。出会いしたその時には影響をかんじなかったが、後年その影響が大きく自分を変えていたのだと気付くものがある。

 また、「病気との出会い」により、考え方が変わり、限られた時間をこころゆくまで生きていらっしゃるひとがたくさんいます。

 X「自分との出会い」についても、私自身、整理して考えたい項目です。

 精神科医は私どもの精神に歪ができた時、診断治療する医師であるからか、人の精神の状態を書物からも読み取り、内容を咀嚼して自分の医師としての職務を充実するために非常にたくさんの本を読んでいる方が多いようにように私は思います。

 精神科医師土居健郎(どい たけお)は至文堂から出版された「漱石の心的世界」と同じものである『漱石文学における「甘えの研究」』(角川文庫)をかかれている。

 彼は「漱石の心的世界」と題して漱石の作品の一つ一つに精神的解釈の光を当てて見たいと思う。精神医学には病跡学と称される一分野があって、著名な人物で生前何らかの精神的異常の疑われたものについてその事実と彼の創作活動との関連を探る研究を行っている。漱石もその範疇に属する人物なので、著作を精神科の医師としての読み込み分析されている。

 何度かこの本を読みかけては放り出していたのですが、改めて読み始めると、とりこにされている。「読むべき本はその時期が来ると読む」ものだと、また本が私を呼んでくれたとの感じがしていることを申し添えておきます。

22.10.06、23.01.28修正追加。


★生きがいとは何か 自己実現へのみち (NHKブックス)平成元年10月10日 第2刷発行

 自分の道を選ぶ 『生きがいについて』を書いた神谷 美恵子の一生も自己実現の好例である。彼女は、津田塾の学生だった時に多摩全生園でハンセン氏病患者をみてから、医師になってこうした人の支えになりたいと思っていたが、両親がそれに反対した。しかし、彼女はプラトンの『国家論』を読んで啓示を受け、あらゆる障害を越えて、自分の道をえらぼう>と決心した。コロンビア大学の大学院で学部長の説得にもかかわらず、ギリシャ文学から医学コースへ移ったのは二〇代後半である。帰国してから東京女子医学専門学校(現在の東京女子医大)で勉強して医師となる。結婚、育児のほかに、フランス語を教えて家計を支えつつ医学研究を続け、四六歳で医学博士となった。六五歳で亡くなるまでハンセン氏病専門の療養所である愛生園で精神科医として働き、G・ジルボーグの『医学的心理学史』(みすず書房)という膨大な本を訳したり、ヴァージニア・ウルフを日本に紹介した他に、多くの著作を残した。

参考:小林 司「生きがい」とは何か (NHKブックス)P.128 より。

2009.11.01、2010.10.08:写真を挿入


 あるいは痴呆に陥った老人でも、そのような姿で存在させられているそのことの中に、私たちにはよくわからない存在の意義を発揮してるのであろう。私たちは人間の小さなあたまで、ただ有用性の観点からのみ人間の存在意義を測ってはならないと思う。何が有用であるか、ということさえ、ほんとうには人間にはわからないのでなかろうか。たとえば学問でも、「人の役に立つ」とみえるもののみが価値ある、と私は決して思っていない。

 生命への畏敬ということをシュバイツァーは言ったが、私は、宇宙への畏敬の念に、このごろ、ひとしお満たされている。

2012.02.16:追加。 


09谷沢永一(1929~2011)

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▼『百言百話』(中公新書)

 記録のない古代を詮索するのは、実証性というレフェリーやリングをもたないボクシングのようなもので、殴り得(どく)、書き得という灰神楽の立つような華やかさが、あるもののの、見物席にはなんのことやらわかりにくい
               司馬遼太郎『街道をゆく』

 學問の中には素人の方が伝統にとらわれず、秀れた着眼と博捜の綿密により、納得のゆく着実な成果を挙げ得る領域も少なからずあろう。しかし文献の基礎的な読み方も弁えぬ独り合点は困りものだし、況や系統的な記録を欠く古代を格好の材料として、奇怪な空想を逞しゅうする素人の古代詮索に至っては、熱狂的で奇特なお道楽と苦笑を誘うのみの場合も多い。
 しかしまた一方頑迷な文献固執派が、記録されていない事象を絶対に認めないのも、断片しか残されていない古代資料の、正当な扱い方とは受け取り難い。理に叶った想像力の慎重な発揮なくしては、迷惑なほど資料の多い現代史といえども、真相に近づく方途が遮られてしまうであろう。P.110

参考:此の本から多くの他の人の名前の中に引用されていることをおことわりします。

2010.04.17


10栗田 勇 (1929~)

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▼『謎の禅師 白隠の読み方』(祥伝社)平成7年10月発行

 は じ め に

 白隠さん、白隠禅師といわれても、ほとんどの人にとって、名前だけは耳にしたことがあるが、はっきりしない、だが、なんとなく暖かく懐かしい想いがする、というのが実情でしょう。私も、いつも気になりながら、そうでした。

 ところが否応なしに、白隠さんと向かいあい、救いを求める破目になりました。

 というのが、10年がかりで還暦を目標に進めてきた、伝教大師・最澄の伝記がやっと一段落したとたん、疲労困憊して倒れてしまったからです。寝ても覚めても、資料の中に埋もれて数年をすごしたつけがまわったのか、原因不明の高熱の後、足腰が立たなくなりました。そのとき友人の金子恵一君がくれた『調和道を歩むーーいき・からだ・こころ』という小冊子に、明治時代に呼吸法を説いた藤田霊斉師の言葉が引かれていたのです。「心は心をもって制せられず、心は息をもって制すべし」と。

 夜毎、眠れぬ夜に悶々と妄想にさいなまされていた私は、あらためて目から鱗が落ちる想いでした。私は、一応、東西の思想・文芸の道をたどってきましたが、すべては「智」と「心」を説いています。それが、晩年にいたって、病と死をまえにするときに、何の役にも立たないとしたら、今までの人生は何だったのだろう、と私は考えました。

 いつまでも長生きしようとは思わない。しかし、せめて大往生とはいわぬまでも、それなりに紊得のゆく死に方をしたい。そのためには、よりよく生きていなければならない。その心を制するには、頭だけの理屈では無力だ、「息」をもって対せよという。それを説いたのが、じつは、あの白隠禅師だったのです。

 そういえば若い頃、白隠さんの『夜船閑話(やせん かんな)』を読んだことがありましたが、老人くさい養生法かと軽く見過ごしていました。この一言で私はあらためて、白隠さんに惹きこまれていったのです。白隠さんが説いた文章には、やしいものもありますが、とはいっても、やはり結構むつかしい。私は専門家ではありませんが、それでも必死の必要性に迫られて、白隠さんの教えにのめりこんでいきました。 

 近づくほど白隠さんの姿は巨(おお)くなり、謎が深まる。その全貌が見えなくなります。

 しかし、はっきりわかったことがあります。白隠さんは私たちの幸せを願って生涯を賭けた。その極意は、心身の一致、丹田呼吸法をまず始めよということだった。こういうと簡単に聞こえますが、背景には東洋五〇〇〇〇年の歴史があり、釈尊の教えへの道があったのです。私のたどったその道のすべてを、率直にしめしたのが本書なのです。

               栗田 勇
  平成七年初秋

参考:☆『白隠禅師健康法と逸話』直木公彦著 日本教文社


11 開高 健(小説家) (1930~1989)

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 上を見て生きる、下を見て暮らすんや。ほとんどはその逆なんや、要するに志ということ、生活とはそういうこと。


 人生が嫉妬深いことをわきまえること。

 過去と未来を分けてはいけない。現在はつねに、一瞬ごとに過去になりつつあると考えなさい。
               (開高 健)

★「足もとの靴の下から砂はどんどん流れ、一瞬ごとに過去になっていくではないか。」「人生というのは、嫉妬深いんだ。嫉妬深い女に似ているのさ。つねに正面を向いてまめにつきあってやらないと、ちょっと横見をしたはずみにしっぺい返しが飛んでくる。」━━やはり作家とうのは人生の達人たる一面をもってぃて、うまく表現するものだと感心もし得心もします。

 もう一つ、開高 建の『風に訊け』から引用させてもらいましょう。

★「哲学は、理性で書かれた詩である。あれは詩なんだ。論理と思ってはいけない。詩なんだよ。もう一歩つっこんでいうと、詩の文体で書かれた心の数学である。もちろん、その理性の詩は感性で裏付けられている。」

━━思わず快哉を叫びたい衝動をおぼえる名言です。哲学者の定義これに尽きます。
               寺田 清一「一粒一滴」より。


12大原 健四郎 (1930~2010)

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『生と死の心の模様』

 「健康らしくすれば、健康になれる」 森田療法のモットー

   はしがき

 「生と死」の問題は、古くて新しい課題である。私たちは、いずれ近い将来、死ななければならないし、また、それまでの間、生きねばならない。問題になるのは、どのようにして生き、どのように死んでいくかである。

 喫茶店の窓際にひとり坐って、行き交う人の流れをぼんやり眺めていると、『方丈記』の冒頭の一節が思い出される。

 「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」。

 いま、こんなにたくさんの人びとが自分の周囲にひしめいているのに、わずか一〇〇年の後には、ほとんどすべての人びとがこの世から消え去っていまう。しかも、人びとはそれに気づいていない。いや気づこうとしない。それで良いのか。いったい、われわれは何のためにこうあくせくと動き回っているのか。われわれの「一生」に、どれだけの意味があるのか。いったい、われわれの「死」はどのような意味を持つのか。もともと、われわれは求めて生まれてきたのではない。しかし生まれてきた以上、自分の「生きざま」「死にざ」には責任を持つべきである。そして欲を言えば、自分の「生」と「死」が、他の人たちと比較して、よりすぐれた、より美しいものであることに越したことはない。

 われわれ人間は、好むと好まざるにかかわらず、それぞれの時代を背負って生きている。この『生と死の心の模様』も、私の生きてきた昭和ひとけたの希望・激動・歓喜・絶望・悲嘆・翳り……に色どられているだろう。そしてまた、精神科医という、ちょっとひねた色眼鏡を通してみた心模様になっているのかもしれない。しかし、あえて発言を許してもらえるとすれば、現代の若者たちは、人間としての根本命題である「生と」の問題をあまりにもないがしろにして、安閑と毎日を送っていはしまいかということである。

 私は三十数年間、精神科医として患者に接してきた。彼らは押しなべてまじめで、要領が悪い。一生懸命に人生を生きようとするが、いつの間にか、社会の片隅に押しやられてしまう。彼らの中には、苦しみに耐えかねて、世間に背を向ける人もいるし、この世に愛想をつかして自らの生命を絶つ人もいる。しかし、彼らの心根はもともととても優しく、純情である。私は彼らにあざむかれたことは一度もない。

 この本の主役は、様態はさまざまだが、すべて心を病む人びとである。彼らの「生きざま」「死にざま」が主題になっている。

 人間は健康な人も、病む人も、みな個としてみる限り、はかない生物にすぎない。しかし生きとし生けるもの、すべての人びとは、歴史的な存在である。姿形が次の世代に受け継がれると同様に、学問・芸術・科学・文化、そして「心」も次の世代に伝承される。いや伝承されねばならないのである。堀口大学も次のように詩っている。

 「心こそ、心こそ 死ぬことのない命なの」

 私のこのささやかな本が、現代の若者たちの歩みをちょっとだけ立どまらせ、自分自身を見つめ直す導火線になってくれるとすれば、私の喜びはこれに勝るものはない。

一九九一年一月一五日

                          大原 健四郎


   おわりに

 私は旅行が好きである。そして旅行中に写真をとりまくる癖がある。外国旅行ではとくにこの傾向が強いが、それは思い出のためというよりも、多少大げさに言うと、その瞬間を記録にとどめておくべきだという使命感から出ているような気がする。ゲーテの『ファウスト』に、「この瞬間よ、止まれ!」というくだりがあるが、あれに似た感情である。

*参考:すなわち、ファウストが「瞬間」に 向かって「止まれ、おまえは美しい!」と言ったら、その時ファウストは死に、メフィストフェレスに魂をやる という契約である。

 私の写真集の中には、必ず草花が登場する。メキシコのピラミッドに登った時には、岩の割れ目に一輪の黄色い可憐な草花が咲いていた。アメリカの「死の谷」では、焼けつくような太陽の下で、サボテンの真紅の花が鮮やかだった。私はこれらの花々に焦点をあてる。「こんなに素晴らしい生き方をしている花々に、注目しているのは私だけだ」と考えると、思わず戦慄を覚える。私は、これらの花の「死にざま」を見ることはできない。しかし、これほどまでに素晴らしい生き方をしているのだから、死に方もさぞ感動的でないかと空想したりする。

 精神科医になって、私は人の「死にざま」や苦悩する姿を見ながら、その人のこれまでの生きざま、これからの生き方を学ぶようになった。彼らが開花し、光り輝いている姿を見ることはなかなかできないが、彼らの死や苦悩を通してその栄光の歴史が分かるのである。

 本文でものべたが、私はインターン生の頃に、鎌倉の救急病院で当直医の真似ごとをした。日中は東京の医大に通い、夜は当直医の補任としてその病院に勤務していた。

 私の患者さんの中に、日本画の先生がいた。彼は心不全だったが、相当高齢なので毎晩往診し、栄養剤の注射をしてあげていた。約一か月間それを続けたろうか。ある日のこと、私がブドウ糖にビタミン剤を入れて静脈注射し終わった後に、その老人は息苦しそうにもだえ出した。そして悪寒戦慄がやってきた。家中が大騒ぎになった。奥さんはわめきながら私を罵った。

 「どうしてこんな若造に往診を頼んだのかしら」と何度も何度も繰り返して、私を睨むのである。私は、いつもの通り往診用の注射器を内科の消毒済みの器具入れから持参したのだが、どうも消毒が不十分だったようだ。私は患者の枕元に坐り小さくなって事の成行きを見守っていた。患者は身体を震わせ、息も絶え絶えになりながら、奥さんをたしなめた。

 「ばあさん、騒ぎなさんな。先生にそんな失礼なことを言っちゃいけないよ。先生はお疲れなのに、毎日往診してくれているんだよ……」

 私は感激して、声も出なかった。やがて近所の別の医師が駆けつけてきた。一応の処置が終わると、彼も聞こえよがしにこう言った。

 「こんな若い先生に診てもらっていちゃいけませんよ……」。

 幸いにして、その患者さんは私の目の前で元気になった。しかし、この事件は、現在に至るまで私の心的外傷になって残っている。私は患者さんに依頼されるまま、厚意で往診を続けていた。しかし、私は医師ではなかったし、問題が起これば当然その責めを負うべきだった。奥さんや招かれた医師の批判は十分に理解できた。私が彼らであっても、おそらく同じ態度をとったことだろう。しかしそれにしても、老画家の示した態度は、どう考えてみても、私などにはとても真似のできない、神のように気高く、崇高なものだった。この老画家か亡くなってもう二〇年ほどになるが、彼は私にとって現在でも忘れることのできない人物の一人である。

 もう一人、患者さんを紹介したい。彼女と最初に会ったのは一五年ほどの前のことである。彼女は、ご主人の勤務の関係で東南アジアに出張していた。現地で暑さや食べ物に苦労し、言葉も通じなかったことが原因で、彼女は幻覚・妄想状態に陥り、帰国した。彼女の病気は、夫が帰国した二年後まで持続した。彼女には子供がいなかったし、産婦人科ではもう産めないだろうと宣告されていた。彼女は子供を欲しがった。あまりにも懇願するので、私は止むなく知人の産婦人科医を紹介した。

 それから二年後に彼女には養子ができた。生まれたばかりの男の子をもらい受けたのである。その医師の許には、人工中絶を希望してくる女性が跡を絶たない。産婦人科医はその中の一人に、子供を産んでもらうことに成功した。費用はすべて私の患者がもつこと、生まれた子供は男児であれ、女児であれ、たとえどのような子でも養子にすること、産む方も養子にする方も、今後一切関わり合いを持たず、顔も合わせないことなどの条件が取り交わされた。

 養子をもらい受けた私の患者は、本当の母親にも負けないほどの愛情を息子に注いだ。彼女は状態が良いのに、予防の意味で私の外来によく顔を見せていた。

 子供は一家の宝であり、光だった。家族は、その子を中心にして動いた。その子が泣けば額を寄せ合って共に泣き、その子が笑えば、家族全員が手放しで笑った。そして数年が過ぎた。彼女は子供の写真を持ってきてよく見せてくれた。正月に一家揃って撮した写真、端午の節句に父親を馬にし、紙の兜を被って威張っている息子の写真、運動会の写真もあった。

 彼女は夫に抱かれた子供の写真を私に見せて、「父親似でしょ。年々よく似てくるのよ。目許はは私に似てるって言う人もいるの……」と笑った。また、「この子のお陰で私は幸せなの。幼稚園でも、小学校でも、この子のお陰で、たくさんの友人ができたのよ……」と語ったこともある。最近はよく息子を連れてきて、私に挨拶をさせたりした。人なつっこい、頭の良さそうな良い子である。小学二年生の子は、クラスでも一、二を争う成績で、運動会のかけっこも一番だったそうである。

 彼女が突然死んだ。一年ほど前のことである。脳内出血で、あっけない死亡だった。歳は四〇歳そこそこで、少し厚化粧ではあるが、つぶらな瞳で、アッケラカンとした無邪気な女性だった。彼女は平凡な人間だった。そして私の患者だった。しかし、非凡な人生を送った。まさに「現代の聖女」と呼ぶにふさわしい人物だった。彼女は生涯をかけて私に恩返しをすると言っていた。

 その言葉通り、彼女は美しい生き方、死に方を私にプレゼントしてくれた。

 若い頃、私は「人生は賭け」だと思っていた。初老を迎えた今、私は「人生は旅」と思うようになった。長い人生の宿場、宿場で、私は多くの人たちに出会い、彼らの生と死を通して、人生をいかにして送るべきかを学んできた。ここでとりあげた二人の人物は、世界を揺り動かすほどの大人物ではない。花にたとえれば、岩の割れ目に咲いていたなもない黄色の草花や、どこにでも咲いている紅いサボテンの花である。しかし、精いっぱいに生き、そして死んだ二人の姿に私は心を打たれるのである。ペンを措くにあたり、私は二人がいつまでも私の心の中で生き続け、当時よりもさらに大きく成長しているのを悟って、厳粛な気持ちである。おそらく、人間はこのような形で、永遠の生命を獲得することであろう。

2018.012.01追加。


▼『人間関係に自信がつくクスリ』

ooharakensiro.ningenkankei.jpg  森田療法は、気分(症状)はいじらず、さからわず、“あるがまま”に受け入れ、やるべきことを行動本位、目的本位にやるということである。

 森田療法の専門家で、カウンセラーでもある著者が、よりよい人間 関係のつくり方、あり方、また、よりよい生き方、行動の仕方など を教えてくれます。そのポイントは、「ほんの少しの「勇気」と「小さな気づかい」」ということです。 森田療法とは、簡単にいうと、あれこれ考えているより「行動」していこうという精神療法(特に神経質な方や、神経症の方に効果的)の1つで、この療法を元に書かれている本で。

 著者はこう言っています。                         

 人間関係に悩む人、苦手とする人は、人生をより楽しく生きたいと願っている」「生の願望」の強い人たちである。人生に希望を燃やしている人たちである。精いっぱい生きている人はみな美しいはずだ。まわりと生産的な人間関係を築きつつ、「自分は自分」と自信を持ち、自分なりの花を咲かせてみようではないか。

 例えば、こんなことが書かれています。                     

 ◎人間「7分の出来」なら上出来だ

 ◎気に病むエネルギーがあるなら、“実行”してしまいなさい

 ◎どうも始末が悪い「気の小さい見栄坊」

 ◎誰でもみんな「仮面」をつけて生きている                    

 ◎「これでいい」の油断にすべり込む“魔物” 

 ◎人間関係はいつもこの「小さなフォロー」が大事!

 ◎“賢い妥協”こそ大人の証明!

 ◎相手より自分が「大きくなって」しまえばいい                 

 ◎その“ひがみ心”が幸運の女神を見殺しにしている!

 ◎“むだ骨”を惜しむ人には大成しない著者自身も、神経質で、人づきあいが下手で苦しんできたということで、かなり現実的な話が多いです。あれこれと行動する前に、考えてしまう人、その考えに押しつぶされてなかなか行動できない人、完璧にこだわってしまう人、人の目が気になる人、などにおすすめの一冊です。 事例もわかりやすく、むずかしい本ではないので、気軽に読んでみるといいと思います。「インターネットのよる」                  

★プロフィル:高知県生まれ。東京陸軍幼年学校卒。1956年東京慈恵会医科大学卒業、61年同大学院医学研究科精神医専攻修了、66―67年南カリフォルニア大学招聘教授、ロサンゼルス自殺予防センター特別招聘研究員、76年東京慈恵会医科大学助教授、77年浜松医科大学教授、88年森田療法学会理事長、96年浜松医科大学退任、名誉教授、97年愛知淑徳大学教授、2003年日本社会精神医学会理事長退任、05年愛知淑徳大学退任。浜松市で月照庵クリニックを開業。森田療法学会、日本アルコール精神医学会、日本社会精神医学会各名誉会員。自殺研究の第一人者として知られ、森田療法の継承者であり、著書も多数にのぼる。2010年、膀胱癌のため入院していた浜松市内の病院にて多臓器不全のため死去

2017.10.26追加。


私の日記:★2003年5月4日(日)☀より

☆親父の遺言

 本日の日経、「大原 健志郎氏」の おやじの「遺言」私にも痛いほどわかる。

(前略)父親は枕元に座った私に静かに語りかけた。「お前はまだ講師かい?出世をしないね」。私は東京の母校で十年くらい講師をしていた。父親は続けていった。「お前は教授に嫌われているんじゃないのか?上司には礼を尽くしてかわいがってもらわなきゃ」

 私は不愉快になって黙っていた。父親の言っていることが当たっているので余計に腹立たしかった。父親はさらに追い打ちをかける。「近所の人たちには、お前が助教授になったとおれは言いふらしているよ」

 死に瀕している父親には反論はしなかったが、私は完全に頭に来た。講師で結構じゃないか。万年助手だって実力さえあれば文句はあるまい。しかしあれから三十年、父親の言葉は今も心的外傷として残っている。もっと従順に上司の言うことを聞いて、出世しておけば親孝行になったのかな、と反省したこともある。

 「父親は息子の出世を見ないで死んでいく」とよく言われる。母親は長生きするから、そうでもないらしい。皮肉なことに父親が亡くなって半年後に私は医大の教授になった。(後略)。

2017.12.31追加。


13 石川 洋(1930~2013)

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一  辛抱しつづけてみなければ 生きていることの意味は分からない 洋

二  底ひかる ただの人になりたい 洋

三  雨の日には 雨の坂道 雪の日には 雪の坂道 洋

四  つらいことが 多いのは 感謝をしらないからだ 洋

五  苦しいことが 多いのは 自分に甘えがあるからだ 洋

六  悲しいことが 多いのは 自分の事しか分からないからだ 洋

七  心配することが 多いのは 今をけんめいに生きていないからだ 洋

八  行きづまりが 多いのは 自分が裸になれないからだ 洋

九  りきみなくていい 微笑む人になろう 洋

十  よいことして わすれること 洋

十一 いたらない人間なのだから あなたにあっていこう 洋

十二 いまから始める ここから 洋

十三 いざという時 人に感動を与えられる 平素の生き方が大切なのだ 洋

十四 人生逃げ場なし 洋  

参考:一燈園法話「人生逃げ場なし」 石川 洋(PHP)のなかに書かれている書より

2011.3.14


14 日下 公人(くさか きみんど)(1930~)(評論家、作家)

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「逆 読書法」(ごま書房)

 役に立つ本は、すぐに役に立たなくなる。読まなくてもいい本をいかにして読まないか関心をもつ著者の逆発想読書論。名将言行録より鉄砲の歴史に出てくる秀吉のほうがおもしろい。孔子や釈迦のどこが偉いとタンカをきってみると読書がおもしろくなる。   

*中野孝次著『現代人の作法』(岩波新書)を読んでいるとき思いだした。
*参考:〈基督独立学園〉


15 辰濃 和男(1930~1990)

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 『文章の書き方』(岩波新書)1994年3月22日 第一刷発行

 広い円ーー書くための準備は

 「下塗りをおろそかにしては、あつみのある、ぼってりした色は出ません」

 谷正利はそんな表現で、下塗りの大切なことを強調していました。谷は飛騨高山に住む、春慶塗の名手です。

飛騨春慶の由来

 使えば使うほど底づゃの出てくる漆器を作るには、下塗りが大切です。まず豆汁(ご じる)を塗って下地を作る。ついで漆の下塗りをする。ニヵ月ほど寝かせてからまた下塗りをする。五度も六度も下塗りを繰り返す。そういう丁寧な仕事のあとに、上塗りをします。あのやや黄みをおびた琥珀の色つやはそうして生まれるのです。

 文章でも、同じことがいえるのではないでしょうか。

 別の言葉でいえば、こういうことです。

 土のうえに直径一メートルの円を描き、その円内で円錐状の穴を掘ります。次に直径五メトールの円を描いて穴を掘ります。どちらが深く穴を掘ることができるか。いうまでもなく、円が大きければ大きいほど、穴も深くなります。

 ものを書くときは準備が大切です。小さな円を描いたのでは、それだけのもので終わってしまいます。はじめから思い切って広い円を描いて準備をすれば、内容の深いものが生まれます。

 と、言葉でいうのは簡単ですが、土を 掘れば石ころもある。木の根っこもある。そういうものと根気よく格闘しなければならない。人はともすれば易きにつきがちです。つい小さな穴ですまそうとする。

 しかし小さな穴でごまかした文章は、結局はそれだけのものです、「一冊の本」という題で文章を書く。本屋さんで一冊買ってきてぱらぱらとめくって、それだけで書き始めても小器用な人ならある程度のことは書けるでしょう。

 別の人は、昔から大好きだった本のことを書く。五回も六回も読んだ本です。十年前に読んだときと今度あらためて読んだときの違いなんかを書く。たとえ表現がまずくても、深いものが書けるはずです。うすっぺらでも小器用にまとめられた文章がいいか。多少たどたどしくても深みのある文章がいいか。私はためらうことなく、後者を選びます。

 広い円を描くことの実際的な方法に、たとえば日記があります。

 新聞社の試験を受けたいという若い人に会うと、私はこういいます。「日記をつけなさい。踊りの修業をする人は、稽古を一日怠るだけで後戻りするといいます。書く練習も同じです。なんでもいいからその日のことを書く、という訓練を己に課しなさい。たのしんで書けるようになればしめたものです>

 作家の池波正太郎は「食べもの日記」を欠かさなかったそうです。何十年も、毎日、食べたものを書きとめておいた、というから相当なものです。

 一、トウフの味噌汁、飯、紊豆、香の物(ナス)

 二、牛肉アミ焼き、冷酒、サワラの塩焼き

 三、きつねうどん

 という具合です。一、ニ、三というのは池波流の表現で、第一食、第二食、第三食の意味です。おいしかった料理にはしるしをつけておく。レストランで食べたときは場所と同席者の名前を書いておく。

 鬼平の話にせよ、仕掛人・梅安の話にせよ、よく食べものの話がでてきます。作品に登場する食べものはみな、いかにもうまそうで、季節のこまやかな味がでています。「食べもの日記」のせいでしょう。

 こんな文章があります。

 「冬に深川の家へ遊びに行くと、三井さんは長火鉢に土鍋をかけ、大根を煮た。

 土鍋の中には昆布を敷いたのみだが、厚く輪切りにした大根は、細君の故郷からわざわざ取り寄せた尾張大根で、これを気長く煮る。

 煮えあがるまでは、これも三井さん手製のイカの塩辛で酒をのむ。柚子の香りのする、うまい塩辛だった。

 大根が煮あがる寸前に、三井老人は鍋の中へ少量の塩と酒を振り込む。

 そして、大根を皿へ移し、醤油をニ、三滴落としただけで口へ運ぶ。

 大根を噛んだ瞬間に、

 『む‥‥‥』

 いかにもうまそうに唸り声をあげたものだが、若い私たちには、まだ、大根の味がわからなかった」

 なんということはない。大根の輪切りにしたやつを煮るだけの話ですが、池波の手になると、煮あがったばかりの大根をすぐにでも食べてみたいとみう気になる。こういうさりげない食べもの描写も、日ごろから広い円を描いているからこそ自然に生まれてくるのでしょう。

 作家の宇野千代は、ある日、天狗屋久吉という阿波の人形師に会いました。八十すぎの人でした。彼は縁側に坐って、一日中、ノミを使って木を刻みます。「十六の年から、こうして毎日、木を刻んでましたのや」という人形師の言葉を聴いて、宇野は思います。そうだ、毎日書くのだ、と。

 宇野が非凡なのは、思っただけではなく、それを実行したことです。

 「書けるときに書き、書けないときには休むと言うのではない。書けない、と思うときにも、机の前に坐るのだ。すると、ついさっきまで、今日は一字も書けない、と思った筈なのに、ほんの少し、行く手が見えるようになるような気がするから不思議である」

 人形師が毎日縁側に坐るように、毎日、必ず、机の前に坐る、そうすればおのずから文章が書ける、と宇野はいっています。P.2~

 かつて『週刊朝日』が「私の文章修業」とう連載をしたことがあります。

 のちに一冊の本になりましたが、これを読むと、文学の修業のためには広い円を描くのがいい、といっている人が何人かいます。広い円という言葉は使っていませんが、そう受け取れる言いかたをしています。

 作家の吉行淳之介は、広い円のことを「地面の下の根」と表現しています。

 吉行によれば、文章というものはそれだけが宙に浮いて存在しているものではない。内容あっての文章である。地面の下に根があって、茎が出て、それから花が咲くようなもので、根と茎の問題が片づかなくては、花は存在できない。

 そこが厄介なところで「一つの作品ができ上ると、一たんすべてが取払われて、地面だけになってしまい、またゼロからはじめなくてはならない。その上、その土地の養分はすべて咲いた花が使い切ってしまっているので、まず肥料の工夫からはじまる」。いい肥料をやり、いい土地をつくれば、根が張り、茎がしっかり伸び、立派な花が咲く。立派な花を咲かせるには、いい肥料、いい土地が大切なのだと吉行がいいます。ということは、広い円が大切なのだというのと同じでしょう。

 作家の向田邦子は小学校四、五年のころ、夏目漱石の『坊ちゃん』、『三四郎』、『吾輩は猫である』を読んだそうです。後年、「漱石先生から大人の言葉で、手かげしないで、世の中のことを話してもらった」と回想しています。父の本棚の『世界文学全集』や『明治大正文学全集』をむさぼり読むことで、向田邦子は幼いころから広い円を描いていたのです。

 向田は、本によって自分の知らない世界をのぞくたのしさについて、こんなことを書いています。未知の分野とつきあうことは、自分の世界をそれだけひろげることになります。

 「私はひところ、『黄金分割』というやたらにむずかしい建築の専門書を読んでーーいや、読むというよりブラ下がるといったほうが正確かもしれません。なにしろ基礎知識ないものですから、一ページ読むのに、何時間もかかるのです。寝る前に、聖書を読むように読んで、三月(みつき)ぐらいかかりました。もちろんチンプンカンプンです。でも、全く知らなかった世界を少しのぞくことができました。建物を見る目が少し違ってきました。本屋さんへ行くと、今までいったこともない建築のコーナーへいってわかりもしない本を手にとるようになりました。この本は、友人が贈ってくれたものです。私ははじめ、なんて見当違いな本をくれたのかしら、と思いましたが、今ではその友人に感謝しています。‥‥‥私に、未知の世界への目を開かせてくれたのです」

 この経験から、向田は人びとにこう勧めます。「ベストセラーばかり追いかけず、なるべく人の読まない本、自分の世界とは無縁の本、むずかしくてサッパリわからない本を読むのも、頭脳の細胞活化のためにいいのではないかと思います」

参考:ヒルティ


 

  意 欲ーー胸からあふれるものを

 二・ニ六事件で反乱罪に問われた丹生誠忠(にう よしただ)は、死を前にして走り書きを残しました。

 「死ぬる迄女房に惚れ候」

 この文章が心に残るのは、思いを装ったところがないからです。あふれでるものを抑え、抑えてもなをあふれでょうとするものを形にすれば、こいう簡潔な 表現になるのでしょうか。

 どうしても書いておきたいという熱い思いがあるかどうか、それが問題です。

 作家の里見弴にこんな言葉があります。

 「書きたいことが、胸いっぱいにたまって来るまで、筆をとらないこと」

 「心にもないことをいわない、本当に腹から出てくる以外のことばは出さない」

 「文章には自分の魂があらわれなければならない」

 こういわれると、私などは思わず、むむと考えこんでしまいます。自分ははたして、本当に胸からあふれるものだを書いてきただろうか、と。長い記者生活のなかで、常に胸からあふれるものだけを書いてきた、などと格好のいいことはいえません。

 楽屋話になりますが、

 私の先輩で「天声人語」

 荒垣秀雄のあとをついだ入江徳朗は、筆が進まないとものすごい形相で階段の上り下りを繰返していました。そんなときは、声をかけてもろくに挨拶がかえってこなかったそうです。

 私の場合は、いろいろなことをやりましたが、いちばん効き目があったのは、社内の体調室に飛び込んでストレッチ体操をし、気功太極拳をすることでした。汗をかき、体がやわらかくなり、血のめぐりがよくなると、心もやわらかくなるのか、頭のなかが軽くなって筆が進む、ということが再三ありました。体を調えることはつまり、心を調えることだったのです。

 書きたいことを書くといっても、胸にたまっていたものをそのまま吐き出せいいんというものではありません。

2010.08.05


16 有吉 佐和子(1931~1984)


▼『恍惚の人』(1972年)  このところ、とにかく箸がころんでも「恍惚」であり、狆がクシャミしても「恍惚」である。いやはや、たいへんな流行語になったものではある。

 ところで、そのキッカケになった小説『恍惚の人』の題名だが、たしかにどこかで作品有吉佐和子女史が語っていたかと記憶する話によると、例の頼山陽の『日本外史』、その巻九の足利正記の中で、三好長慶の老耄ぶりを描いて、「長慶老病、恍惚として人を知らず」とあるのからヒントをえた、とあったように思う。おそらくそうなのであろう。が、それにしても炯眼、よくもまあうまい euphemism (婉曲表現)を掘り当てたものである。

 恍惚の原拠が、ほぼ『老子』第二十一章「孔徳之容」に出る「道之物為る、唯恍唯惚、惚兮たり、恍兮たり、其中に象有り、恍兮たり惚兮たり、其中物有り」あたりからのものであることは、いまさら改めて披露するまでもあるまい。ただこの場合の恍惚は、もちろん、ボンヤリと自失のさまなどというのでは毛頭なく、むしろ深遠微妙にして、測り知り難い道の本体を意味したものであることはいうまでもない。

 もっとも、薄ぼんやりと自失の貌を形容した恍惚という用例も、たしかにあるにはある。が、果してそうした転義が、いつごろから特に老人の耄碌ぶりを現す言葉になったものか、浅学の淮陰子はよく知らぬ。むかし東漢の董祀(とうし)なる人物の妻、蔡文姫の生涯を伝した「後漢書列女伝」を読むと、彼女の作ったという長詩の一節に「此れを見るに五内崩れ、恍惚狂痴を生ず」との一句もあるが、これはただ流離の悲しみを叙して、その取乱しざまを述べただけで、老人の自失ぶりとは遠いようである。が、ただこの有吉流の「恍惚」というのが、すでに半世紀以上も前に、しかも明治天皇の御病気と関連して用いられた前例のあることは、あまり知る人もいまいから、紹介しておくことにする。

 天皇後不例のことが、突如として宮内省から正式発表されたのは、明治四十五年七月二十日付の官報であった。以下、簡単に要点だけを引くと、まず明治三十年代末以来の御持病であった糖尿病、肝臓炎が、同月中旬以来にわかに悪化の兆候を見せはじめたことを述べたあと、つづけて、「十五日ヨリ少々御嗜眠ノ御傾向アラセラレ、一昨十八日以来御嗜眠ㇵ一層増加、御食気減少、昨十九日午後ヨリ御精神少シク恍惚ノ御状態ニテ御脳症アラセラレ」云々というのだ。こうして同月三十日には早くも崩御ということになるのだが、「御精神少シク恍惚」とは、明らかにすでに尿毒性の症状が見えはじめ、軽い意識溷濁(こんだく)の状態に陥られたものと拝察できる。ただ残念なことに?、このときは流行語にもなんにもならなかった。大師は弘法に、関白は秀吉に、そして恍惚は有吉女史にそれぞれ独占されたともいうべきか。世間とは気まぐれなものである。ふと思い出したから書き留めておく。(72.11)

*淮 陰 生著  一月一話ー読書こぼれ話ー(岩波新書)P.70 恍惚と明治天皇 による。

*有吉佐和子女史は『華岡青洲の妻』(1966年)
             『恍惚の人』(1972年)
             『複合汚染』(1974~1975年)朝日新聞に連載


私見:〈恍惚〉の人は、いまでは〈認知症〉の言葉にかわっている。『複合汚染』は時を待たない(世界のなかではまだ先のことといっている國もある)地球全体の人類の問題となっている。改めて女史の先見の明を思う……。

2008.5.11


おふくろのなみだつぼ

17 三浦 哲郎(1931~2010)小説家・日本芸術院会員

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 三浦 哲郎 心の姿そのまま優しさ満ちた文体

 郷里岩手県一戸町の家の囲炉裏端で、母が泣いているのを三浦さんはよく見た。その涙を吸った灰の塊を火ばしで掘り出しては、炉端の粗末なつぼに入れた。おふくろのなみだつぼ、と呼んで。

 母の悲しみは三浦さんの悲しみでもある。三浦さんが6歳の時、次姉が自殺し、長兄は失踪。7歳で長姉も自殺し、19歳で次兄まで失踪した。この滅びの血に悩み、文学を志す。代表作「白夜を旅する人々」は彼らへの鎮魂歌だ。

 言葉を惜しんだ。原稿は遅く、原稿用紙二十数枚の短編を10回に分けて受け取った編集者もいる。人生の諸相を十数枚で描く「短編集モザイク」に精魂を傾けた。

 脳梗塞の後遺症で最近は小説が書けなかった。6月に訪ねると、書く気が戻ってきたという。郷里で一人暮らす姉が今春逝った。翌朝の米をといだ後に。その米を見て、姉の人生を書きたいと心底思った。「絶対かける。自信があるんだ」。妻の徳子さんに語り、書斎で原稿用紙に向かった。しかし7月に肺炎で入院する。

 病室で徳子さんは「忍ぶ川」を初めて通読した。「僕の小説は絶対に読んではいけない」。三浦さんに若い頃、怖い顔で言われたのを守ってきた。夫が口に出さなかった苦しみが初めてわかった気がした。私小説とは身内のことを書き尽くす罪深い仕事でもある。

 郷里の葬儀で文芸評論家秋山駿さんの弔辞が読みあげられた。「三浦さんは一つの読点、一つの句点もおろそかにしない恐るべき努力で、文体を磨くことに生涯を費やした。文体とは文章の姿ではなく心の姿を形にしたもの。その後を追うための勇気がほしい」

 たとえ悲惨な人生を描いても、三浦さんの散文には心の姿をそのままの優しさを私も感じてきた。

 後日、生前のままの書斎を見せてもらった。敬愛した作家井伏鱒二の遺影が慈愛に満ちたまなざしで、文机(ふみづくえ)の上の白いままの原稿用紙を見守っていた。(白石明彦)

※芥川賞受賞作「忍ぶ川」のヒロイン志乃のモデルになった妻の徳子さんと一緒に=90年、白石撮影の写真が掲載されていた。

※平成22年9月26日:朝日新聞の記事。

『忍ぶ川』

2010.10.02、2015.11.25追加。

18 曽野 綾子(1931~) 聖心女子大学文学部英文科卒業。

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『戒老録』(祥伝社)

一、孤独、貧困、病苦など、自分の苦しみがこの世で一番大きいと思うのをやめること。P.28

 苦しみは誰とも、較べられない。それゆえに自分が一番不幸ということもない。誰も同じ。
 外界がきはくになった場合には、自分の置かれた境遇をも、人間の共通の運命、総括的な社会の状況の中で捉えることなど、とうていできなくなる。それでいて「自分の不幸は一番」と思いこむのである。いや、外界がみえないからこそ「自分は一番」といいきれるのである。

二、自分の生き方をもち、他人の生き方を、いいとか悪いとか決めずに認めること。P.33
 五十歳になって私が感じたことは、もうこの年になれば人はそれぞれの長い歴史を持っている、ということだった。それを改変させようとすることは思い上がりである。五十歳になれば、残りの時間は、もしかすると短いのだから、その人の生きたいように生きることを承認したい、ということだった。

三、愚痴を言って、いいことは一つもない。愚痴を言えば、それだけ、自分がみじめになる。P.34

 老人の愚痴は、他人も自分もみじめにするだけである。愚痴は土砂くずれのようなもので、言い出すととめどがなくなる。言った方が楽か、自分をきりっと保ちつづけることのほうが楽かわからない。楽な道をとればいいわけだが、この辺はよく自分に問いかけてみる必要がありそうだ。
 愚痴ばかり言う老人の傍には、人間が集まらなくなる。これは自然であろう。愚痴は、日かげの感じを与える。何にでもおもしろがって老人に陽の匂いがするのと正反対である。

四、明るくすること。心の中はそうでなくても、外見だけでもあかるくすること。P.35

 年をとると、この耐えるということに対する根本的な力がしだいに薄れてくるとみえる。

 体が悪くなり、能力がおとろえ、親友が死んだら、暗く、悲しい思いになるのは当然である。当然であるから、そのままそのような顔をしていいということは、この世にはないのである。

 明るくすること。心の中はそうでなくても、外見だけでも明るく擦ること。P.35

 外見だけでいい。心から明るくしろなどいうことはできない。人間は、そのような嘘ならおおいについていいのである。明るくふるまうことは、外界の礼儀である。表と裏の差に傷ついたり、嫌がったりするのは、センチメンタリズム以外の何ものでもない。

五、自分でできぬことは、まず諦めること。P.37

 これは壮年にとっても自明の理なのである。特別な環境にいるかぎり、私たちは原則として、自分でできぬことは諦めることを承認しているはずである。…

六、何事も自分でやろうとすること。自分を鍛えつづけること。できない、と諦めないこと。P.39

七、生活の淋しさは、誰にも教えない。自分で解決しようとする時に、手助けをしてくれる人はあるだろうが、根本は、あくまで自分で自分を救済するほかない。P.50
 どんな老人でも、目標を決めねばならない。生きる楽しみは、自分で発見するほかはない。

八、定年を一くぎりとして、その後は新たなスタートと思うこと。一年生、新人になるのだから、人からおしえられるのも当然。P.65

 定年はしだいに延長の方向に向かうであろうが、職種によっては、比較的早く仕事をやめねばならないものがある。そこで我々は再出発する。自分が二十歳近くに、初めて仕事についた時のことを思い出しながら、まったく、未知の分野に踏み込むこともある。
 自分の前歴を大したものだと思い、忘れられないから、新たな出発を、みじめだとか、落ちぶれたとか、考えるのである。
 二十代に初めて仕事につくときは夢中だった。何が何だが、あたりを見廻す余裕もなく無我夢中だった。しかし今度ばかりはもう少し冷静でである。新人とは、なるほどこういうところでアガるのだな、こういう時に、人間イバってみたいものだな、という具合に、ゆっくり観察できる。こちらは充分に大人なのだから、感情的につられることもない。二度目の勤めのおもしろさは、この冷静さになければ意味がない。二度とくり返せない人生を味わいなおせるのが、定年後の再スタートというものである。

九、自殺は、この上ない非礼である。P.168

 老人の中で死にたがっている人は実に多い。私は身近な者が、脳軟化の発作で倒れた時、その病気に関する本を読んで、動脈硬化症がしばしば鬱病的傾向をあらわすことを知った。はたから見ても、もちろん不幸がないわけではないけれど、それを耐えられないというくらいなら、他の年寄りはもっと耐えられないはずだ、というような人が死にたがっている。

 私の知っている老人の一人は、健康で、老妻と娘の夫婦と孫と暮らしていた。貧しくもなく、社会的にもちゃんとした職場で管理職的な仕事を果たして来た。彼が自殺した理由というのは、妻に先立たれるのが怖いからであった。そのような目にあうくらいなら、先に死んでおきたかったのである。彼の場合、かりに妻に先立たれたとしても、同居中の娘夫婦は「おじいちゃん」とそれまでどおり暮らすはずであった。嫁ではない。実の娘と住んでいるのだから、気楽そうなものであった。

 目的を失えば、人間は「死ぬほかはない」と思うのかもしれない。あるいは執着が大きすぎるために、それを失う恐怖も増大し、その恐怖によって死にたくなるということは、一見矛盾しているようだが、心理学的には、一つのパターンとして解明されている。

 しかし、他のことと違って、死は一つの問答無用の関係を作ることである。自己であろうと、他人であろうと、生命を断つということは、その相手と、二度と話し合いに応じないないとという意思表示をすることである。

 息子を戦争で失い、一人で暮らしていたおばあさんが自殺した、という話はあまりきかない。それは自殺しても直接に痛痒を感じる相手がいないからであろう。そのような状況に一人の人間を放置したことについて、国家は恥じなければならぬのだが、国家が恥じてくれるという表情を私たちは想起しえないから、死んでみてもつまらないのである。

 老人の自殺には面当(つらあ)て自殺的な要素を含むものが多い。その面当ての対象は、何もしてくれなかった他人へではなく、むしろ、僅かながら面倒を見てくれる身近な人間に対するものなのである。ケンカならばいくらしてもいい、それは後で話し合いがつくからだ。しかし死はすさまじい拒絶である。未来永劫、もうお前とは口をきかぬ、ということである。たとえどのようなひどい扱いを受けたとしても、死を以って報いなければならぬほどの所業はない。

 内心はそうでないにせよ――先にあげた幸福な老人の死には決して怨みの念はないだろうが――、どんな理由があろうとと、自殺は迷惑千万である。首つりをされた部屋など気味が悪くて使う気にもなれない。人のとび込んだ井戸、首をつった木など、後をどうすればいいのか。電車にとび込んでも、海へ入水しても、確実に他人と社会に迷惑をかける。

 どうしても死ぬ時に、それほどまでに迷惑をかけねばならないのだろうか。待っていれば、もうすぐ自然に死ねるのに。

十、人間的な死にざなを、自然に見せてやること。P.179

 人間的、という言葉には、あらゆる要素が含まれる。便利な言葉だと言いたいところだが、それ以上である。

 老人になって最後に子供、あるいは若い世代に見せてやるのは、人間がいかに死ぬか、というその姿である。
 立派に端然として死ぬのは最高である。それは、人間にしかやれぬ勇気のある行動だし、それは生き残って、未来に死を迎える人々に勇気を与えてくれる。それにまた、当人にとっても、立派に死のうということが、かえって恐怖や苦しみから、自らを救う力にもなっているかもしれない。

 しかし、死の恐怖をもろに受けて、死にたくない、死ぬのは怖い、と泣きわめくのも、それはそれなりにいいのである。

 人間は子供たちの世代に、絶望も教えなければならない。明るい希望ばかり伝えていこうとするのは片手落ちだからだ。

 一生、社会のため、妻子のために、立派に働いてきた人が、その報酬としてはまったく合わないような苦しい死をとげなければならなかったら、あるいは学者が、頭がおかしくなって、この人が、と思うような奇矯(ききょう)な行動をとったりしたら。惨憺たる人生の終末ではあるが、それもまた、一つの生き方には違いない。要するに、どんな死に方でもいいのだ。一生懸命に死ぬことである。それを見せてやることが、老人に残された、唯一の、そして誰にでもできる最後の仕事である。

十一、死によって得られる可能性を最大限にしあわせに思うこと。苦しみからの永遠の解放、先に死んで行った人たちと再会することなど。P.191

 無神論者はそれで一向にかまわない。死ねば無に帰するのだという考えも、一つの勇気である。

 しかし、私個人としてはもう少し積極的に死を考えたい。それは晩年のミケランジェロの言葉が最もよくあらわしてくれている。
 「生命が私たちに好ましいものであるなら、死もまた私たちにとって不快なものであるはずがないでしょう。なぜなら、死は生命を創造した巨匠の同じ手によって創(つく)られたものですから……」

 これは私の甘い夢だといえばそれまでなのだが、私はやはり死後の再会を楽しみにしたいと思う。私はあの人にもこの人にもあの世で会うつもりなのである。そしてそう思えることは、本当に楽しい期待である。ことに長生きして、配偶者や子供たちが先に死んでいるような人の場合、死はまさに再会の時であろう。何で恐怖や悲しみを感じる必要があるだろう。

*番号は私が附記したもである。

2010.04.30、2017.06.16再読・修正。


19 山折 哲雄 (1931~)


 カミの世界へと近づいていくこと

 「われわれのライフサイクルのうちでもっともカミに近い段階にあたるのが老人のそれであるということになるであろう。年をとるということはたんに老いて死を迎えるということを意味するのではない。それは生命の暗い谷間を降りていくことなのでなく、むしろカミの世界へと次第に近づいていくこと、すなわち至福の山頂へとのぼっていく、ゆるやかな道ゆきを意味していたのである。」

*遠藤周作『生き上手 死に上手』の著作に〈年をとるほど見えてくるも〉に引用しているものです。

2008.3.4 お雛さんの日 


▼『「坐」の文化論』 (佼成出版社)

坐禅の革新P.198~199

 ところで、坐禅の足組みについては『百丈清規』や『禅苑清規』の成立するはるか以前に、天台智顗(五三八~五九七)が、やはり簡潔な要綱集をつくっていた。『天台小止観』と呼ばれる書物がそれである。これはもっぱら坐禅の作法と坐禅の用心を説いた、坐禅の指南書であるが、後生の仏教の諸宗派、とりわけ禅宗にそれが与えた影響は大きかった。

 『天台小止観』の第四章は、坐禅による心身の調和を説いた章であるが、そのなかに坐禅の作用についての項目がある。内容は、さきの『禅苑清規』にくらべて呼吸法のついての工夫と作法をくわしく説いているところが異なるけれども、坐法についての記述はほぼ同じである。ただ結跏と半跏の足組みについては、『天台小止観』のそれは『禅苑清規』や『普勧坐禅儀』のそれとちょうど逆になっている。すなわち、結跏はまず左足を右のももの上におき、ついで右足を左のももの上におく、としているからである。

 のち、この『天台小止観』はわが国の天台宗によって受容され、そこに説かれている瞑想(止観)と坐禅の方法が比叡山を中心に実践されるようになった。

 その受容の過程で『止観坐禅記』なる文章がつくられたが、そこには結跏と半跏の方法が『天台小止観』の記述をそっくりそのまま記されてている。結跏と半跏の足組みについての記述もそのままであり、その点で『禅苑清規』や『普勧坐禅儀』のそれとは逆になっている。

 『止観坐禅記』は源信(九四二~一〇一七)の作とい伝えられているが、これは疑わしい。しかしすくなくとも源信によって代表されるような日本天台宗が、この記述を中国以来の伝統にもとづく権威として大事にしていただけは明らかである。

2008.8.19


20 谷川 俊太郎(1931~)


 「成人の日」

成人の日に 谷川俊太郎

人間とは常に 人間になりつつある存在だ

かつて教えられたその言葉が

しこりのように胸の奥に残っている

成人とは人に成ること もしそうなら

私たちはみな日々 成人の日を生きている

完全な人間はどこにもいない

人間とは何かを知りつくしている者もいない

だからみな問いかけるのだ

人間とはいったい何かを

そしてみな答えているのだ その問いに

毎日のささやかな行動で

人は人を傷つける 人は人を慰める

人は人を怖れ 人は人を求める

子どもとおとなの区別がどこにあるのか

子どもは生まれ出たそのときから小さなおとな

おとなは一生大きな子ども

どんな美しい記念の晴着も

どんな華やかなお祝いの花束も

それだけではきみをおとなにはしてくれない

他人のうちに自分と同じ美しさをみとめ

自分のうちに他人と同じ醜さをみとめ

でき上がったどんな権威にもしばられず

流れ動く多数の意見にまどわされず

とらわれぬ子どもの魂で

いまあるものを組み直しつくりかえる

それこそがおとなの始まり

永遠に終わらないおとなへの出発点

人間が人間になりつづけるための

苦しみと喜びの方法論だ

谷川俊太郎詩集「魂のいちばんおいしいところ」より引用


2008.1.14,2017.04.07全文にした。


「すこやかに」

 生きるのは喜び

 生きるのは愛

 憎み憎まれる

 人々のあいだに生きても

 すこやかに生きよう

 たとえ苦しみのうちにあっても

 勝者は知らずに憎しみの種をまき

 敗者を苦しませる

 勝ち負けにこだわるとき

 喜びは苦しみへと病んでいく

 すこやかに満ち足りて

 とらわれぬこころが宝

22.09.19


21 五木寛之(1932~)

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▼『大河の一滴』(株式会社幻冬舎)平成11年3月25日初版発行

 人はみな大河の一滴P.13~17

 なぜかふと心が萎(な)える日に

 私はこれまでに二度、自殺を考えたことがある。最初は中学二年生のときで、二度目は作家としてはたらきはじめたあとのことだった。

 どちらの場合も、かなり真剣に、具体的な方法まで研究した記憶がある。本人にとっては相当にせっぱつまった心境だったのだろう。

 だが、現在、私はこうして生きている。当時のことを思い返してみると、どうしてあれほどまでに自分を追いつめたのだろうと、不思議な気がしないでもない。しかし、私はその経験を決してばかげたことだなどとは考えてはいない。むしろ、自分の人生にとって、ごく自然で、ふつうのことのような気もしてくるのだ。

 いまでは、自分が一度ならず二度までもそんな経験をもったことを、とてもよかったと思うことさえある。これは作家としての職業意識などではなく、ひとりの人間としての話だ。癌細胞は放射線や抗癌剤で叩かれ、いじめられて生き残ったものほど強くなるというが、人間というやつもそういう面があるのかもしれない。

人間はだれでも本当は死と隣りあわせで生きている。自殺、などというものも、特別に異常なことではなく、手をのばせばすぐとどくところにある世界なのではあるまいか。ひょいと気軽に道路の白線をまたぐように、人は日常生活を投げだすこともありえないことではない。ああ、もう面倒くさい、と、特別な理由もなく死に向かって歩みだすこともあるだろう。私たちはいつもすれすれのところできわどく生きているのだ。

 そう考えてみると、この〈生きている〉ということもまた、なかなか大変なことなのだなあ、と感じられてくる。老いを意識する年齢になればなおさらだ。だが、それ以上に若い時期には悩むことも多い。中学生や高校生にも、いや、小学生やもっと幼い子供にさえも〈生きていく〉ことの悩みや、芳しみはある。人学を卒業して就職したあとも、また結婚して子供をもつようになってからもそうである。人はだれでも日々の暮らしのなかで、立ち往生してしまって、さて、これからどうしよう、と、ため息をつく場面にしばしば出会うものなのだ。

物事をすべてプラス思考に、さっと切り替えることのできる器用な人間ばかりならいいだろうが、実際にはなかなかうまくいかない。私たちはそんなとき、フーッと体から力が抜けていくような、なんともいえない感覚をあじわう。むかしの人たちは、そういった感じを、

 「こころ萎えたり」

 と、言った。「萎える」というのは、ぐったりと虚脱した状態のことである。衣服がくたくたになったり、花や葉がしおれている様子も、「萎える」と表現する。

  心が萎えたとき、私たちは無気力になり、なにもかも、どうでもいいような、投げやりな心境になってしまうものだ。実際に手や足もけだるく、自分のからだではないような感じさえしてくる。

 そんな厄介な心境を、ロシア語では〈トスカ〉というらしい。モスクワふうに発音すると、うしろのほうにアクセントがきて〈タスカー〉となるのだが、おもしろい言葉だ。明治の小説家で、ロシア語にも堪能だった二葉亭四迷は、ゴーリキーの中篇小説を訳して、『ふさぎの虫』といういささか下世話すぎる題名をつけた。この原作のロシア語が『トスカ』である。TOCKA(ロシア語:憂愁、哀愁、憂悶):岩波ロシヤ語辞典より:黒崎調べ)

 私はこれまで、何度となく重い〈トスカ〉にとりつかれたことがあった。少年時代にもそうだったし、物を書くようになって自立したあともかなり重症の「こころ萎え」る瞬間があった。た六十代の後半にさしかかろうとする最近でも、しばしばそれを感じるときがある。

 そんなときに私は、いろんな方法でそこから抜けだそうと試みたものだ。まあ、たいていの場合はうまくいかなかった。結局は、時間が解決してくれるのを待つしかないのだ。時の流れは、すべてを呑みこんで、けだるい日常生活のくり返しのなかへ運びさっていく。待つしかない。それが人生の知恵というものだろう。それはわかっている。わかってはいるのだが、その重苦しい時間の経過をじっと耐えて待つあいだが、なんともやりきれないのである。

 「酒はこれ忘憂のなあり」

 と、親驚は言ったという。 『口伝鈔』という書物のなかに出てくる話だ。またむかしの人は「酒は愁をはらう玉箒(たまばはき)」などとも言った。しかし、酒で憂さをはらすことのできる人は幸せだと思う。たとえそれが束の間の忘憂であったとしてもである。しかし、酒を飲めない人間はいったい、どうすればよいのか。バイクを走らせて気をまぎらわせるか。それとも競馬にでも行くか。心の憂さの捨てどころがパチンコ店通いかカラオケというのも、なんとなくさびしい気がしないでもない。


 黄金時代を遠くはなれて P.135~162

 戦争中のことを考え、そして戦後のことを考え、よくもあんなきわどいなか自分が生きながらえてきたな、あんな悲劇は二度とくり返したくないなと思いつつ、その一方では、いまふり返ってみて、悲惨の極みとしかいえないような、そういう時代に、自分の命がたしかに、あそこには燃えていた、という感覚があります。こういう感覚を無視してきたのが、戦後の民主主義の教育だったのではないか、建て前の民主主義の教育だったのではないか。そいうものは錯覚であった、それはまちがっていた、それは安っぽいナショナリズムであった、というふうに言いますけれども、いまの時代のなかで、たとえば非常に反動的な意見のようにいわれるなかに、かつて自分の命が燃えていた時代というものに対する抑えきれないノスタルジーのようなものを、ぼくはどうしても感じてしまいます。

 ぼくは敗戦後、九州の田舎に引き揚げ、そして、いわば引揚者というかたちでたいへんつらい日々をすごしました。しかし、考えてみると、そのころの日本人はみんなつらい立場にあったし、学校へ行くときに、たとえば靴をはいて通学するというような経済的な状況ではなかったので、下駄をはいて通学する。雨の日には裸足で通学する。だけど、そのことを引け目にも感じなかった。周りのみんなが同じように下駄をはき、雨の日には同じように裸足だったから、そのことはさほど苦にもならないのです。だから、貧しいしいとか、そういうことは、その人間が孤立して貧しいとか、周りから疎外されて貧しい場合には苦痛であるかもしれないけれども、みんなが食べれないときに飢えているという状態は、そんなに苦しくもないわけです。

 いま考えてみると、二度とあそこへはもどりたくないという気持が一方にはありながら、しかし、あのころの自分は生きてたな、いまの自分よりはるかに一日一日が、なにか精細を帯び、そして手ごたえがあったな、という感じをおぼえずにはいられません。

 そんなふうにして昭和二十年代の終りのほうから九州をはなれて東京で大学生活を送るようになって、それからはアルバイトの連続で、まともに学校へも行けないような、そういう大学生活だったのですが、いま考えてみると、それもとてもなつかしい、いい生活だったな、と思ったりもします。

 売血、なんていうことが、最近でもしきりに問題になったりしますが、アルバイトの仕事がないときには自分の血を売って、かろうじてその日の食事にありつくーーそういう日々もあったのです。しかし、そのころの、自分の血を売ってなんとか食いつないでいくような日々のことを思い返してみても、ぼくはただ悲惨というだけではなくて、そのなかになにかこう、ぎらぎらした、生きてた実感があったような気がしてなりません。

 ぼくは、血液を売って、かろうじて食っていく、そういう時代のことを書いた小説に『黄金時代』とうタイトルを付けたのですが、それは、暮らしは貧しかったけれども、なにかその日々は、黄金の日々のように思われたーーそういう矛盾した気持ちを、あえて『黄金時代』とうタイトルであらわしたつもりでした。

 やがてマスコミのなかではたらきはじめ、時間に追われて、あちらこちら走りまわることになります。こういう時代のことを小説に書いたときは、きっと「青銅時代」というタイトルを付けるだろうと自分で思っていました。そのあと自分が作家としてそこそこの成功をおさめて、そのなかでたくさんの作品を書きつづけて、この時代のことをもし自分で書いたならば、それには「化石時代」というタイトルを付けようか、というふうに思っていました。まあ、半分は冗談で、そういう作品はまだ書いてないんですけれども本気で考えたものです。かつてのもっともつらかった、もっとも貧しかった非人間的な生活の日々のことを小説に書いて『黄金時代』とうタイトルを付けたのは、正直、心のなかで、あのころの日々は輝いていたな、という気持があるからかもしれません。

 ぼくにとって戦中戦後、そして五十年という歳月を経ても、いつも気になる国というものがあります。それはロシアという国です。それも終戦直前に外地で難民として旧ソ連兵に出会ったという原体験があるからなのだ、と、ぼくは考えています。

 ぼくは、ロシアという国には愛憎ふた筋というか、非常につよい反感と、非常につよい愛着と、この両方がないまぜになって心のなかにあるのです。ひとつは、大学時代にロシア文学を学んだということもありますから、ロシア語とかロシアの作家たち、ドストエフスキー、トルストイ、チェホフ、ゴーゴリ、ゴールキーなどがたいへん好きなのです。そして、ロシアの文化に強いあこがれを抱いた時期がありました。

 一方、ソ連という国、その政治のやりかたやイデオロギーなどに対しては、どうしても抑えることのできない反撥がありました。

 そもそものはじまりは、ぼく自身が北朝鮮の平壌(ぴょんやん)という街で敗戦を迎え、その一ヵ月後にソ連軍が進駐してきたことにあります。

 あっという間に、ぼくら家族が住んでいた家も接収されて、着のみ着のまま放りだされ、そしてセメント倉庫のような難民キャンプに収容されてしまったのですが、ソ連軍の占領下の数カ月、そこで起こったさまざまのドラマテックな出来事は、いまだ思い返すたびに腹のなかから熱いものがこみあげてくる感じがします。

 ソ連軍の兵士というのは、なんと野蛮な、なんと無教養な、なんと残酷な連中だろう、という恐れと、そして憎しみを心の底で抱くのは当然でしょう。

ある朝、収容されている難民キャンプの門口に立つて外を眺めていると、遠くのほうから、自分たちの兵営に帰っていくソ連軍の兵士たちの合唱がきこえて来たのです。その歌がじつに見事な、三部合唱か四部合唱か忘れましたが、すばらしいコーラスになっていて、その歌をうたいながら彼らが目の前を通り過ぎ、そして夕闇のなかにずうと消えていく。

 十二、十三歳だったんでしょうか、そのときぼくの魂のなかに、その歌声が不思議な力でしみこんでくるのを感じました。

 そのころのぼくは、なんともいえない疑問を感じていました。ロシア人とはいったいなんだろう、あんなに残酷で非人間的なことを平気でやりながら、彼らがうたうあの歌はいったいなんだ、どうして彼らにあんな美しい歌がうたえるのか、音楽というものは必ずしも、美しい魂やすばらしい人間性だけに宿るものではないのだろうか、というふ思議な疑問です。

 アウシュヴィッツ(強制収用所のひとつ)の悲劇を描いた著書としては、フランクルの『夜と霧』が有名ですが、もう一冊、忘れてはならない記録に『死の国の音楽隊』という二人のユダヤ人の音楽家の手記があります。

 そのなかにこういう件(くだり)があります。昼間はアウシュヴィッツの囚人たちをかたっぱしから射殺したり、あるいはガス室で殺したり、そして物のように焼却し、埋めていく、そういう暮らしをしているナチの将校や家族たちが、週末の土曜日になると夕方からコンサートに集まってきて、そこで演奏される音楽に、どの音楽ファンも及ばないぐらい純粋に感動する、というシンです。

 これを読んだとき、ぼくが少年時代にソ連の兵士たちに感じた違和感を、まざまざと頭の思い返したことがあります。それがバネになって『海を見ていたジョニー』という小説を書きました。

 美しい人間、美しい魂からしか、美しい音楽は生まれない、と信じたいのですけれども、音楽というもの、歌というもの、そのなかにはひょっとしたら不思議な悪魔がひそんでいて、かならずしもそうでないのかもしれない。汚れた手から美しい音楽が紡ぎだされることもある。そういう残酷な真実みたいなものが歌の背後にひそんでいるのだな、と、ときどき考えることがあります。

 ですから、ぼくが歌とか音楽というものを考えるときには、なつかしいような、心がぱっとあたたまつてくるような、そういう感じと同時に、もう一方で心のなかのやわらかい部分を椊物の棘で引っかかれるな、そういう苦い感じもふっとうかびあがってくることがあります。

 音楽に関しても、そんなふうなアンビバレントな、つまり引き裂かれた相反する感情が自分の気持のなかにあるのだな、と考えたりするのです。

 戦後後十年のなかで忘れてきたもの、棄ててきたものがたくさんあり、それらをふと思い出して、深い後悔というか、やるせない思いにかられることがあります。

 戦後、ぼくたちが物を書く勉強をはじめたころに言われたスローガンのひとつに、「歌をうたうな」ということがありました。これはべつに大声でうたったうたという意味じゃないんです。文章を書く上で、そのなかにメロディックな、あるいは情緒的な、あるいはセンチメンタルな要素を入れちゃいけない、ということです。

 つまり、メロディーというのは濡れていて、湿っていて、情緒的なものである。そのメロディーに対して、リズムというのは乾いていて批評的で、しかも知的なものである。

 戦後、私たちは新しい民主的な近代社会をめざして、焼け跡・闇市から出発するわけですが、そのなかでもっとも嫌われたのは浪花節的なこと、封建的なこと、前近代的なことであり、べたべたした人間関係、濡れた抒情である。こういうことで「情」となのつく言葉などは、ほんとに目の敵のようにされてきたような気がします。「感情>」という言葉もそうです。

 しかし、ぼくは、感情というのはすごく大事なことだと思うのです。感情のない人間といったら、これはロボットですから、人間は感情が豊かなほうがいいと思う。喜び、悲しみ、怒り、さびしがり、そして笑い、そういうふうな感情ができるだけ幅ひろく、いきいきと豊かにある人のほうが人間らしい、という気持をもっています。

 情緒というと、なにか四畳半で芸者さんの三味線をききながら、お酒でも飲んでいるような、ある種、退廃的なイメージがあって、それで「情感」とか「情念」という言葉も嫌われてきました。「情感」とか情念」も、ルサンチマン(フランス ressentiment)といって、情念に動かされて歴史はつくられるのではない、と、よくそんな演説をしたものです。

 しかし、考えてみると、夏目漱石が「情に掉させば流される」という有名な言葉を『草枕』のなかで書いた明治のころから、私たちは流されてはまずいということで、情に掉さすことをやめよう、と踏み切ってきたんじゃないかと思います。

 明治維新以来、日本は一応、近代の西欧文明を手本にして合理的な、近代的な新しい社会をつくろう、と、坂の上の雲をめざして離陸した。離陸した以上、その目的とする国家を流産させては駄目だ。じゃあ、どうするか。情に掉させば流されるのだったら情を切り捨てるしかないはないではないか、こういうことだったのだろうかと思うのです。

 もちろん、夏目漱石は「涙をのんで」という言葉を忘れてはいません。われわれは西洋文明を猿真似しながら上滑りにすべっていくだけであろう、しかし、われわれが涙をのんで上滑りすべっていかなければいけない、というふうな苦い考えを漱石は述べています。それが明治の日本の知識人だったのだろうと思います。そして私たちは情に掉さして流されることを恐れ、できるだけ情を切り捨て切り捨てしながら、ずうっと生きてきた。

 栁田国男という日本の民俗学のゴッドファザーみたいな人が「涕泣史談」というおもしろい文章を書いちぇいます。涕泣はすすり泣くという意味です。たしか昭和十六年の六月ごろに発表されたその「涕泣史談」という文章のなかで栁田 国男がいっていることは、どうもちかごろ日本人は泣くということを忘れたんじゃないか、と、最近の日本人はあまり泣かなくなったように自分の目には見える、というところから「涕泣史談」という文章がはじまるわけです。

 栁田国男という人は、日本人の伝統的な生活の様式、あるいは説話、物語、こういうものにたいへん熱心な興味をしめして『遠野物語』などという傑作も書く人ですけれども、その当時の生きた世相、風俗、習慣に対しても非常に好奇心のつよい人でした。

 ですから、彼が当時の世相を見て、どうも最近の日本人は泣くことを忘れたようだ、なんで日本人はあまり泣かなくなったんだろう、というふうに感じたところが非常におもしろい。

 栁田 国男のその考察の結論と、ぼくはちょっと意見がちがいます。昭和十六年といえば、古いかたはご存じでしょうが、十六年の十二月八日は真珠湾を攻撃し、アメリカ、イギリス軍との太平洋戦争に突入していきます。「一億一心、火の玉だ」というふうなスローガンのもとに日本人がみんなまじりをけっして眉をつりあげ、戦争という、いわば軍事的な大バブルのなかに飛びこんでいこうとする時期です。

 そういう時期に、泣くということなんかやっぱり邪魔だったのだろうと思う。泣くとか、迷うとか、戸惑うとか、足もとを見つめるとか、疑うとか、こういうことはみんなよくないことで、大事なのは、がんばる、前向き、強いこと、元気なこと、たくましいこと、こういう時代がずっとつづいていたと思います。

 だからぼくは、その当時の人は本当は泣きたくても泣けなかった、泣けるような世相ではなかったのだ、と考えるのです。

 そして昭和二十年、一九四五年に軍事的大バブルの風船がぱちんとはじけて、戦後、私たちは焼け跡。闇市の中からまたも一回、経済的な大戦争へ向けてスタートするわけです。

 そのなかで、本当の意味での近代化を求めるためには、この湿潤な湿り気の多い風土のなかで濡れた人間関係を排除することである。そして、われわれの文章を書くと言う際においても、からからと乾いて音のするような散文を書くことが近代的な文章を書くことなのだ、思考は乾いていなければいけない、というふうに考えたのです。

 情とか、抒情とか、感情とか、あるいはセンチメントといったものが排除されていった課程だったのだろうと思います。これは詩人などについても同じことでした。

 そういうふうに私たちが一生懸命、乾いた社会、乾いた文章、そして乾いた人間関係を求めてきた結果、どうなったかということを五十年たって振返ってみますと、私たちはじつに見事に、めざましいものを実現したという苦い経験があります。

 私たちは人間関係においても、文章においても、そして、この社会のありかたにおいても乾ききって、ひょっとしたら、もうひび割れかかっているのではないかと思うような世の中をつくりあげてしまったにではないでしょうか。

 では、ぼくたちがこれから生きていく時代というのは、どういう時代なのでしょうか。

 千年単位の世紀末ということを前にいいましたけれども、ぼくらの前には、もう一ぺん新しい戦後の焼け跡・闇市というものが?ひろがっているのではないか。ひろがっていながら、じつは、ぼくらにはそれが見えていないだけのことなのではないか、そう思えてならないのです。

 ぼくらの目の前にあるのはじつは廃墟である。大きなビルがたくさん立ち並び、そして、はなやかな風俗が、あるいは流行がそこにくりひろげられているけれども、じつは、ここは焼け跡であり闇市であるのだ、というような認識が少しあってもいいのではないか。

 そして、ぼくらは無から出発しなければならない。いまあるものを一ぺん全部イメージのなかからかき消して、われわれはいま荒野のなかにあらためて新しい生命として誕生しなければならない。

 こんなことをいいますと、ちょっとオカルトっぽくなりますけれども、そんな気持ちさえするのです。そういう時代にわれわれはいま生きている。しかし、押しつける気持ちはありません。人間の感じかたというのは百人百様ですから。

 たとえば、ひとつの歌を考えてみても、世の中に流れている歌自体がその時代を象徴しているというような、体にしみこんでくるような、そういう歌としてきけないということはあると思います。

 そんなことはない、それは年をとって感受性が枯れてきたからだ、そう言われかもしれません。でも、ぼくはそうは思わない。いま仮にその歌をきいて心からすばらしいと思い、そして心からその歌に体がふるえるのを感じる、そういう人がいたとしても、その十ばいとか百ばいとか、もっと大きなかたちで、過去においてはひとつの歌というものがぼくの命のなかにはいりこんできた時代があったと、あえていいたいのです。

 いま歌の力も弱くなっている、なぜか。それは社会のなかのそれぞれのブロックのように固まったそのグループのなかだけで愛される歌、そういう歌だけになってしまって、気持ちが悪いという人はいるかもしれませんが、その時代を共に生きている人間全部の心にしみわたるような、そういう歌がいまはない。それはもうなくて当然だ、という気もします。

 だけど、いつか、そういう歌が生れてくることがあるもかもしれない。しかし、そういう歌が生まれてくるときは、ぼくら日本人にとって、それは不幸な時代かもしてない。でも、不幸のなかで、ひょっとしたら生きているという実感が鮮烈に感じられるような、そういうことがあるのかもしれない、などと迷いながら、いろいろいまの時代の動きを横目で眺めています。

 朝、新聞を読んで、あーあ、と、ため息をつく、もう本当にため息をつかざるをえないようなニュースばかりです。そこでは、なんという時代だろう、などと言って言葉をいろいろ並べたてるよりも、肩を落として、あーあ、やれやれ、と、胸の深いところから木枯らしのようなため息をついてしまう。

 そういう朝を迎え、そして夜また、いろんなテレビやラジオでその日のニュースをききますと、あーあ、やれやれ、と、朝にもまして、呻き声のようなため息がもれてしまうことがあります。

 言葉にならない、人間の体の奥底からもれ出てくる呻き声のようなものを、古いインドの表現では「カルナー」という言葉でいったのだそうです。中国人がこれを訳して「悲」という字をあてました。

「カルナー」は、人間がなんともいえない局面で、思わず知らず、体の奥底から発するため息のような感情である、というふうによく言われるのですが、まさにいまは「悲」の時代という気がしてなりません。 

 また先日、あるお宅へおうかがいしたときのことなのですが、床の間に掛け軸がかかっていました。中国ふうの墨絵なのですが、そこに人物の絵が描いてある。

 「これは、どういう絵柄なんでしょうか」

 おずおずと、その家のご主人にたずねました。

 「いやいや、ちかごろの作家は、これだから困る。上に書いてある字が読めるでしょう」

 たしかに漢字二文字、書いてあるのですが、あまりにも達筆で、よく読めない。

 「申し訳ありません。なんと書いてあるのでしょう」

 恥をしのんでたずねると、これは「悲」と「泣」という字を重ねて。「悲泣(ひきゅう)」という字が書いてあるのだ、と教えられました。下に描いてあるのは達磨大師といいますか、いわゆる達磨さんの絵です。そこまではわかるのです。

 達磨さんというと、どこかユーモラスな感じがあるのですが、その掛け軸の達磨さんは、顔が歪んでいる。

 「妙な表情をしていますね」

 と、言いましたら、これは「泣き達磨」といって、達磨さんが泣いている絵なのだ、と教えてくれました。つまり、この掛け軸の絵は、いまの時代をよく象徴しているような感じがする、いまの時代はまさに達磨さんも泣くような時代なんだよ、と、このご主人はおっしゃって、その「悲泣」という字が、ぼくの心のなかに、その後ずっと焼きついてはなれません。

 そうなのか。いまは悲泣の時代なのか。達磨さんも泣く時代なのか。たしかに、そうだな。どこかユーモラスな達磨さんも、思わず知らず深いカルナー、ため息を、心の底からつかなければならないような、なんともいえない事件や出来事が戦後五十年の阪神・淡路大震災のころを境に次から次へと津波のように押し寄せてくる。

 そういうなかで、どんなふうにこの時代を生きていけばいいのでしょうか。「いま」という時を自覚しなさい、とよく言われます。時代とか時の流れについて考えるとき、なぜ、いまなのか。なぜ、きのうでも、あすでもなく、いまなのか。

 じつは、仏教の世界で「後生の一大事」という言葉が使われることがあります。「後生の一大事」というのは、非常に重要なこと、という意味で、一般には、人間の命が終わったときのこと、というふうに考えられるのですが、ぼくは後生も、現生も、つまり現生というのは現在の生、未生というのは未だ生ならざる生、未来のことですが、そういう生もみんな一緒に、この「いま」という言葉のなかに集約されているのではないか、こういう気がして仕方がありません。

 きのうも、あすも、みんな「きょう」(いま)という言葉のなかにふくまれているのではないか。「後生の一大事」というのは「いまの一大事」ということであり、たとえば死後のことを考えるというのは、いま生きていることを考えるというのとおなじなのではないか。自分が生まれる前のことを考えるというのも結局は、いまのことを考える。そこへつながっていくのではないか。そんな感じがします。

 あらためて、「いま」という時代はどんな時代なのでしょうか。

 いまぼくらは学問の世界で十九世紀以来近代科学が余すところなく解明しつくしたような、そういうつもりでいるなかに、じつは、ほとんどわかっていないことが山ほどあるのだということに気づきはじめています。

 そして、たとえば抗生物質の出現と衛生学の発達とによって感染症などは完全に制圧し終えたというふうに思いますが、必ずしもそうではないのでないか。

 世界の天然痘がなくなったということを世界保健機構は宣言したわけですが、本当になくなったかわりに新種の、われわれにみえないウイルスや、あるいはこれまでになかった病原体とうのが出現したのではないでしょうか。

 目に見えるものだけを信じてきたのが、これまでの私たちの科学であり、私たちの学問であったと思います。見えないけれども、私たちがそれを認めることができないだけなのではないか、私たちの能力が限られているからではないか、と謙虚に考えたほうが自然ンあのではないか、とおもいます。

 たとえば、つい最近までは「気」といっただけで、うさんくさい目で見られましたが、そういうなにか目に見えないものがあるのではないか、と思いはじめています。

 そのような生命の大きな流れは人間の体のなかだけにあるのではなく、この地球にしても一個の生命体として考えれば、地球の上を見えない風が吹いています。ジェット機で成層圏を飛んでみるとわかるんですが、そこには、ものすごく大きな風のような気流があって、行きと帰りとでは何時間もちがったりするわけです。

 この地球の表面にもそれほど大きな自然の流れというものがぐるぐる回っているということを考えると、私たちの体も、この宇宙にあるもの、そして地球にあるもの、そういうものとどこか共通のような気がします。ちっぽけな自分ンお体のなかをゆっくりとへめぐっている見えない風のような見えない大きな流れ、そういうものが感じられるときがあります。

 目を閉じて、じっと耳をすませていると、そういう音がきこえてくるような気がしないでもありません。ただし、それは従来の科学では証明されないものです。ですからいままでは、ないとされてきた。だけど、証明されないものがないかどうかはわからないという立場で、ぼくらはこれから謙虚に物事に接していかなければならないのではないか、と思います。

 考えてみると十九世紀来、われわれはものすごく傲慢だった。その傲慢ななかで、ぼくたちは大きな過ちを犯しつづけてきたのではないでしょうか。ぼくたちは自分たちが地球上のことを全部わかるような気持ちになっていた。でも、本当にわかっていることはごくわずかである。大宇宙の秘密のほんとに一部だけをちらっとかいま見ただけかもしれない。にもかかわらず、私たちが犯した過ちは、ほとんど大部分、九十九パーセントまで見えた、と思ってしまったところにあるのではないか。

 自分の命をひっくるめて、この大きな世界のごくごく一部しか自分たちはとらえることができなかった。歴史のほんの一部しかじつは知らなかった。歴史というものさえ存在させようと思わなかった人びとがいた。こういうことに対するぼくらの無関心というものが、いま大きな反省を迫られているような気がしないではありません。

 いまはすさまじい時代です。それこそルネサンス以来の意識の大転換期にあるような気がします。医学ひとつとっても、前に話しましたけれども、心臓とか脳とかいうものの他に公衆衛生とか免疫とか、ありとあらゆるそういう世界が表面の檜舞台にあがってきた。そして、ぼくらが見る新聞のなかでも、O-157とか、これまでになかった病原菌やウイルスの問題が、大きく報道されています。こういうふうな時代、ぼくらは、これまで軽く見てきたもの、故意に黙殺してきたもの、そういうものをあらためてふり返ってみる必要がある。

 ぼくは同じことをずっと言いつづけてきたような気がしないでもありません。

 人間は喜ぶと同時に悲しむことが大事だ、というのもそのひとつ、励ましと同時に慰めるということしかできないのではないかということもそのひとつです。

 そして人間にはプラス思考というものも役に立つけれども、ひょっとしたらマイナス思考とか、ネガティブ・シンキングとか、こういうのもすごく大事なことではなかろうかと考えるようになってきました。

 ぼくらは光と影の両方に生きているのです。日と、そして夜と、その両方に生きている。寒さと暑さのなかに生きている。こういうふうに考えると、その片方だけで、ひとつの車輪だけで走っていこうとする危険さを、いまあらためて感じざるをえません。

 光があれば影があり、プラスがあればマイナスがある。生があれば必ず死がある。

 ぼくはいま、「生と死を包含しながら生きているというのが、人間という個体なのだ」と言われた免疫学者の多田富雄さんとの対話を思い出します。

 多田さんは『免疫の意味論』という本で、人間を免疫というシステムから解明し、新しい人間観と可能性を私たちにかいま見せてくれたわけですが、そのなかで、ショックを受けたのは「免疫」というシステムは、単に体のなかに侵入してくる異物を拒絶し、排除する自衛的なはたらきをしているだけではない、自己と非自己というものを非常に厳しく明確に区分けして、「自分とはなにか」というものを決定するのが免疫の大きなはたらきであるということなのです。そしてその免疫は異物を拒絶するだけではなく、その異物と共存する作用ももちあわせているということなのです。

 たとえば、母親の胎内にできた新しい子供の生命は、母親という「自己」にとっては「非自己」なのですが、それがどうして拒絶されないかといえば、免疫のなかに「トレランス」(寛容)というはたらきがあり、単になんでも排除するのではなく、自己のなかに非自己を共存させていく側面もじつはもっているというのです。

 この免疫系の「寛容」というはたらきから、世の中の問題を考えていくと、意外な光景が見えてくるような気がします。

 たとえば、冷戦構造崩壊の世界では、民族間の対立や宗教のちがいをもとにした紛争が、戦争の火種になるといわれています。

 しかし、お互いのちがいを見いだして、目くじらたてて対立するよりは、お互いの共通点を並べながら共存を模索するほうが、お互いの利益になる、と、当然ながら思うわけです。二つの異なる世界がただ対立し排除しあうのではなく、まず共通点を見いだし、いかに共生共存するかを模索するのが、免疫学にのっとった「寛容」という精神なのではないでしょうか。

 われわれの体のなかでは毎秒、何百万という細胞が死んでいく、と同時に何百万という新しい細胞も生まれているのです。人間の生命の本質は、このように生と死とをふくんだ混沌としたところにあると思われます。

 あれもこれも、生も死も、光りも影も、喜びも悲しみも、みんな抱えこんで生ずる混沌を認め、もう少しいいかげんに行儀悪くなって、たおやかな融通無碍の境地をつくることが、枯れかけた生命力をいきいき復活させ、ふ安と無気力のただよう時代の空気にエネルギーをあたえることになるのではないか。

 いろいろなものを受け入れて、たくさんのものを好きになったほうが人生、楽しいのではないか。

 善悪、苦楽、生死、さまざまな対極するものの狭間で、振り子のように揺れながら、スイングしながら、一時いっときの「命」を輝かせながら生きていきたい、と、最近はことに強く思うようになりました。

2008.5.29,018.8.25追加。


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▼『生きるヒント2』

 青い鳥を読んで、宋戴益の詩を思い出した。

 尽日春を尋ねて春を得ず。茫鞋(ぼうあい)踏み遍し隴頭の雲。還り来って却って梅花の下を過ぐれば、春は枝頭に在って既に十分。(宋戴益)

 咲いた咲いたに、ついうかされて、花を尋ねて西また東、草鞋(わらじ)切らし帰って見れば、家じゃ梅が笑っている。     

注:隴頭…隴山のうえ。またそのほとり。


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▼『生きるヒント3』 6章「食う」

 先日、作家の辺見庸さんと対談する機会がありました。『もの食う人びと』という卓抜な本を書いた若い小説家で、ジャーナリストでもあるのですが、とてもおもしろく、そしていい話ができたと思いました。 

 その時、しみじみ共感したのは、ものを食うということは、すごく大切なことだ、ということなんですね。

 ぼくらのように戦中、戦後を飢餓状態で暮らした人間にとっては、何よりも、ともかくものを食べるということが先決問題でした。生きがいとか、やれ心の支えとか、そいう問題は、すべてまず食べることができてからの話だったのです。

 かなり以前のことですが、北山修さんから、五木さんたちはうらやましい、といわれたことがありました。なにがうらやましいかというと、つまり、あなたたちの世代は一片のパンを涙を流して食べた経験を持っているから、というんですね。本当に感動しながらひと切れのサツマイモを食べたという経験、涙ぐんでパンにかじりついた体験、ほんとうに飢えたという経験を持っていることがうらやましいと。

 自分たちは戦後の小学校給食の中で、どんなふうに先生に見つからずに脱氏脂粉乳を捨てようかと思い悩んだ世代なので、ひと切れの食べものを心から感動して口にした経験を持つ世代がうらやましくさえ感じるというのです。

 北山さんは「戦争を知らない子供たち」という歌で一世を風靡したグループにいた人で、現在は精神科のお医者さんとして物を書いているのですが、この言葉は、彼らの世代の正直な感想だととい気がしました。

 今はものすごく矛盾した時代にあると思います。全世界的にみると、飢餓線上をさまよっている人たちがたくさん存在している一方、日本などは飽食の時代といわれて、食べること自体よりも、グルメとかレシピが話題になる状況です。

 そういう中で、食べるということを低く見る風潮さえ出てきたような気がするんです。

 最近、『かもめのジョナサン』について、いろいろなところからコメントを求められました。オウム真理教の科学技術部門を担当していたといわれる故・村井秀夫氏(*むらい ひでお、1958年12月5日 - 1995年4月24日)は、オウム真理教幹部。大阪府吹田市出身。ホーリーネームはマンジュシュリー・ミトラ、ステージは正大師。省庁制が採用された後は科学技術省大臣だった。教団では麻原に次ぐナンバー2、科学技術部門最高幹部と見られていた)が大阪大学大学院から一流鉄鋼メーカーの研究者というエリートコースを投げ捨てて出家する際に、これを読んでもれればぼくの今の心境はわかってもらえる、と母親に手渡したのが『かもめのジョナサン』だったそうです。

 この本は一九六〇年代の終りごろ、いわゆるヒッピー文化が注目を集めた時代に出版されました。アメリカで、人びとの手から手へ、手渡しされながら空前のベストセラーになったといわれる本です。

 著者は、リチャード・バックという飛行機乗りでした。その本がなぜかぼくのところに翻訳の話しがもちこまれたので、読んでみたのですが、どうも、いまひとつなじめないところがありました。

 すると編集者から解説の形で意見を書けばいいじゃないですか、とすすめられました。それで異例の長い解説をうしろにつけて出版されたいきさつがあります。

 この本でぼくが引っかかったのは、向上心のある勇敢な少年かもめ、ジョナサンが、食うということを非常に低く見ている点でした。

 彼のいる海では、漁船が撒き餌のカタクチイワシを毎朝ばらまきます。その餌を横取りしようとして、仲間のかもめたちは必死に海面すれすれに低く飛び回ります。それが毎日のはじまりなのです。しかし、ひとりジョナサンだけは、そんな自分の両親や他のかもめたちを蔑視して、食うためにあんなにあくせすするなんて、自分はまっぴらだ、と思う。

 かもめは食うために生きているのではない、飛ぶために生きているのだ、と彼は考えます。そして、一羽だけ群れを離れて、超高速飛行とか超低空飛行とか、あるいは急降下とか、そいう実験を必死でくりかえすのでした。

 父親かもめや母親かもめは、そんなジョナサンの姿を見て心配し、いろいろ忠告します。

 特に母親は、ジョナサン、あんたは骨と皮になって、ろくにものを食べないで夢中になって飛ぶことばかりやっているけれども、そんなことはやめて、しっかりものを食べて、元気な普通のかもめになってちょうだい、と彼をいさめるんですね。

 また、父親かもめは、そんなふうに群れから離れて自分だけの道を追求すると必ず不幸になるぞ、みんなと一緒に行動するべきんだ、世間の掟にしたがうほうがいい、と彼を諭します。しかし、ジョナサンはそれを聞かずに、お父さん、お母さん、ぼくは飛ぶために生きているのです。食べるために生きているんじゃありません、と言って、あいかわらず飛行訓練をつづけます。やがてその課程で不思議な先輩かもめたいとの出会いがあり、素晴らしい技術など教えられることになります。

 さらに彼は、チャンという、尊師といいますか、導師のような老いたかもめに出会って、瞬間移動の術というものまで教わるようになるのです。速く飛ぶとか、高く飛ぶとかは、大したことではないんだ、とチャンは言う。ほんとうに解脱したスーパーかもめになれば瞬間的に、思っただけでこの空間を自由に移動できるのだ、と。そんな不思議な術を見せられて、すっかりジョナサンはその導師に夢中になってしまいます。

 そして、修行に修行を重ね、ついには、ほかのかもめが千年かかってやることを、あっという間にマスターしてしまうのです。

 そして、ジョナサンはこの素晴らしい技を群れのみんなに披露しなければならない、と考えました。そうすれば、食うためだけにあくせくしているかもっめの生き方がいかにつまらないかということをみんなも理解して、ぼくのことをほめそやしてくれるだろう、と。

 それで群れのところへいって自分の学んだ技術を見せるのですが、案に反してジョナサンを待っていたのは、かもめの伝統を破ったかどで仲間から追放するとという処罰でした。

 絶望し群れを離れたかもめのジョナサンはまたひとり、孤独のままに、さらに訓練を重ねて、より高い境地に達するようになりんますが、なにか物足りない気持ちにかられます。かつて自分がそうだったように、食うことにあくせくするだけの毎日に疑問を持っているものがいるにちがいない。ただ食うだけでなく、飛ぶために行きたいという志の高いかもめがいるのではないだろうか、そういう後輩を指導して、高い境地に連れていくことが自分の使命かもしれない、と。

 やがてジョナサンの呼びかけに六羽の若いかもめが応じて、いわば、出家するわけですね。

 そして、ジョナサンと六羽のかもめたちは、あくせく生きる群れを離れて、より高い、より光り輝く無限の自由の境地を目指して飛び去っていくのでした。

 これが『かもめのジョナサン』の物語です。読物としてはなかなかよくできていると思いましたが、ぼくはきにかかるいくつかあって、それを率直に「あとがき」に書きました。

 食うことをばかにしている感じがするということのほかにもうひとつ、ジョナサンが大衆を蔑視して、そこから孤立して、いく道を選ぶことがほんとうの自由を求めていく道だ、と感じている点なんです

 村井氏は秀才だったから、原文を読んだにちがいないと思ったのですが、わざわざ調べに行ったジャナなリストがいて、どうやらぼくの訳した文庫を読んだらしいという。

 それだったら、どうしてあとがきのぼくのジョナサン批判もきちんと読んでくれなかったのだろうかと、ぼくとしては、非常に残念な気がしてなりませんでした。

 人間は食べることによって自分の「いのち」を支え、その「いのち」によって物を考え、そして、自己の人生を歩んでいく。ですから、食べるということを私たちは、もっと大切に考えなければいけないのではないか。

 ぼくは最近、食べる回数を減らしたりしているのですが、それは単に健康というためとかではなくて、ちょっと気障にきこえますけれどそのつど感謝しつつ食べることに心を向けようと考えているからです。

 そして、食べることによって自分たちは「業」というものを重ねているのだという気持も、どこかに持っていなければいけないんじゃないかと思うようになりました。

 われわれは、自分より弱い生命を持っているものを食べることによって自分の生命を維持しなじぇればならないという「業」を背負っています。自分より弱い「いのち」をエネルギーとして摂取することによって自分の「いのち」をささえている、これがわれわれの生きている生物界の循環であり、厳しい矛盾でもあります。

 そういうことを考えると、先日やはり私たちは食べるときにも食べられる側の「いのち」自体の重みを、頭の片隅に置いておく必要がありはしないか。

 前に、C・W・ニコルさんに熊の肉をご馳走になったことがあります。その時、ぼくはちょっと食べにくいので残したんですね。すると、ニコルさんが、それは熊に失礼だと、とえいあえず他の生命をいただく以上、その生命の骨の端っこまで全部しゃぶるように食べるほうが礼儀にかなっていると言ったんです。

 われわれは生きるために他の「いのち」を殺さなければならない。そいう矛盾した中で、「いのち」がささえられていることを考えると、食べる営みを決して軽くみてはいけないのです。

 この世を解脱して自由な境地へ行く、そのことと、ものを食べるとという地上の営みを切り離して考えてしまうような考え方には、ぼくはついていけません。それがどんなに卑俗なものであれ、「食うこと」を軽蔑するような思想は必ずどこかで過ちをおかすのではないか。最近しきりにそう思うのです。

★参考:イタダキマス

平成三十年七月十八日。


12章「幸せ(しあわせ)」P.209~P.219

 幸せな一生というのはどんなものだろう、と、ふと考えることがあります。

 自分のことについては、まだわからないとろがある。自分があと何年ぐらい生きるのか、そしてどんな晩年を送り、どういうふうに死ぬかがまだはっきりしないからです。

 ぼくにはかなり年下の弟がいました。彼は四十二歳でガンで死にました。彼の一生を考えてみて、はたして幸せだっだったのだろうか、それとも不幸だったのか、と、ときどき考えこんでしまうことがあります。

 彼は生前、とてもいい友人に恵まれていました。そのことでは幸せな男だったようにも思われます。しかし、人生の半ばにして病気で倒れたことを考えると、必ずしも幸福な一生とは言えないような気もする。

 ぼくから見ると、弟の不幸のひとつは、自分がほんとうに熱中して打ちこむことのできるような、そんな何かが見出せなかった点にあるようにも思われます。たとえばスポーツでも、音楽でも、金もうけでも、なんでもいいのですが、それさえやっていれば食事も忘れてしまう、そういった熱中の対象がはっきりしなかったように見えたのです。

 彼は一時期、競場に夢中になっていたことありました。部屋じゅうにいろんな切り抜きや資料が山積みになっていたものです。しかし、何年かたつと、競馬から次第に離れていってしまいました。

 弟は運転することも大好きでした。混んだ街なかを、気をつかいながら走るのはぼくは好きではありません。ついタクシーを利用したり、地下鉄に乗ったりします。しかし、彼はどんなときでも車のハンドルを握って、そのことを少しも苦にしないところがありました。

 ぼくの場合だとついカリカリしてしまうような渋滞のなかでも、鼻唄かなにかうたいながら、のんびり運転して、決して苛立つことがありません。遠出するときも、ついそこまで出かけるときも、こまめに車をつかったものです。

 しかし、だからといって何か車に関する職業につこうとか、車を扱う仕事をはじめようとかいった気は、ぜんぜんなかったようでした。好きなことを職業とをいっしょにしようとは考えないタイプだったのでしょう。

 弟は幼いころに母親を失い、すぐ下の妹とともに、さまざまな苦労をして育っています。多感な少年時代も、口に出せないような辛い思いを味わいながら過ごしてきたはずです。九州の高校を中退して上京したのちも、いろんな職業を転々としながら生きてきました。

 高校生のころは、相撲部の選手のように丸々とふとっていたのですが、やがて父親に似た痩せぎすの青年に変わってゆきます。ぼくが作家として働きはじめてからは、ぼくの片腕のような存在として、さまざまな公私にわたる難事を一手に引きうけてくれることななりました。

 兄弟ですから、ときには喧嘩をすることもあります。ぼくにはどこか古い長兄意識が残っているのでしょう。こちらが悪い場合でも、率直に謝ることが苦手なたちです。そんな気まずい雰囲気を、さりげなく和らげてくれるのは、いつも彼のほうでした。たぶんぼくよりも、ずっと大人だったのかもしれません。

 「まあ、いいじゃない」

 と、いうのが、彼の口ぐせでした。若いころから一種の諦念のようなクールさが身についていたようです。世の中のことなんか、そんなに思うようにいくわけがない、と、醒めた目で斜めに見ている感じもありました。

 よく思い出すのは、ぼくが金沢にいたころ、彼がしばらく居候していた日々のことです。ぼくはようやく新人として文芸ジャナーナリズムにデビューしたばかりで、金はないが時間だけはたっぷりあった幸せな時代でした。

 三十三歳のぼくと弟とは、いっしょにバッティング・センターで何時間もボールを打ったり、「亀の湯」という銭湯へ下駄をはいて出かけたり、横町の魚屋でサバを買って手料理を試みたりと、まりで学生の合宿のような日々を送ったものです。

 また、ドンというなの犬をつれて散歩をしたり、庭の花壇を荒らす野良猫の親玉を追いかけて捕らえたりと、しごくたあいのない無為の一時期でしたが、いまにして思えば、あおのころの弟はたしかに幸せそうな、のんびりした表情をしていたような気がしないでもありません。

 やがてぼくの仕事がいそがしくなり、何年かのちに上京して嵐のような文筆生活がはじまってからは、彼もぼくの仕事をたすけて、片時も神経の休まることのない日々が続きました。

 兄弟ふたりのその片方に光が集中し、常にマスコミの舞台で踊らねばならぬ立場になりますと、もう片方はおのずと影の黒子を演ずることをしいられるのも自然のなりゆきでしょう。彼がぼくといるときには、つとめて自分の存在を希薄にしようと心がけていたことを、いまさらのように思い出して胸が痛みます。

 弟がいなくなってまもなく、なにかの本のなかで、ふとこんな文句を目にしました。

 「善キ者ハ逝ク」

 長生きするのはよいエゴを持った人間だろうと思います。良くいえば、大きな生命力、と言いかえいいでしょう。そういうつよいエゴの持ち主というのは、ある意味では悪人かもしれません。もちろん、ここでいう悪人という言葉の意味は、親鸞のいう「悪人正機」の悪人のことですが。

 親鸞は九十歳、蓮如は八十五歳まで生きました。ともに偉大なエゴを持った宗教家です。エゴといってもいわゆる「エゴイスト」の意味ではありません。「生きようとするエネルギー」と考えてもいいでしょう。

 「真に偉大なスポーツマンは、必ず大きなエゴを所有しているものである」

 と、いうようなつかれかたをすることがあります。

 長く生きることも、それだけで幸せな人生というわけにはいかないでしょう。宗教的な立場から見れば、不幸な人間ほど神や仏の恩寵は深いはずですから。そうでなければ宗教なんて意味がないではありませんか。

 十代の終わりごろから二十代の前半、ぼくは、生きてゆくことはなんてひどいことなんろう、と思うことがしばしばありました

 そんなとき、心のさせになった言葉のひとつが、ロシアの作家、M・ゴーリキの文章のきれはしです。

 ゴーリキイ(1868年3月28日~1936年6月18日(68歳没)は有名な戯曲『どん底』の作者として知られていますが、ペレストロイカ以後のロシアではすこぶる評判が良くありません。彼がスターリン時代に作家同盟の書記長をつとめたことや、革命的プロパガンダ小説『母』などで有名だったことなども、その批判のもとになっているようです。

 しかし、現実のゴーリキイがどんな立場であったにせよ、若い作家として彼がのこした作品には、とてもすてきな小説がいくつもあります。『マカ―ル・チュードラ』『チュルカッシュ』などの初期の短編もとても魅力的ですし、自伝三部作のうちの『私の大学』などもいい小説だと思います。また、『初恋について』や、チェホフやトルストイなどの思い出を書いた『回想』も忘れられません。

 人の一生は曲りくねった道のようなものです。迷ったり、誤ったり、失敗したり、さまざまです。若いころ魅力的だった作家が、晩年に俗物まるだしのボスに変貌したとしても、初期の作品まで否定する必要はないでしょう。

 さて、ゴーリキイがどこかに書いた文句とは、こんなものでした。

 「人生ってのは、ほんとうにひどいもんだ。でも、だからといって自分でそれを投げすてるほどひどくはない」             

 意味だけをつかまえると、およそそんなふうな言葉です。

 彼は若いころ、人生の悲惨さをいやというほど味わった作家です。そして一度はピストル自殺をこころみて失敗したこともありました。人生を自分で投げすてる、というのは、そういう自己の体験をふまえて言っているのだと思います。

 人生は絵に画いたように美しくハッピーなものじゃない。なんとも言えず無残でひどいところもある。だがしかし、そうだからといって悪いことばかりでもないんだよ。自分で死を選んだりするほどひどいもんじゃない。まあ、捨てたものでもないさ。とりあえず生きてたほうがいいんじゃないかね。

 その感じの言葉だとぼくは受けとりました。

 この一見、消極的に見えるゴーリキイの言葉のほうが、若いぼくには「人生は素晴らしい」式の元気のいい励ましよりも、ずっと身近に感じられたのです。

 「だけど、自分で投げすてるほどひどくないさ」 

 と、つぶやいてみると、弟の口ぐせだった「まあ、いいじゃない」という言葉とも、どこかかよいあうような気がしないでもありません。弟が幸せだったか、それと不幸だったかは、ぼくの判定すべきことではないような気もしてきます。

 いま、周囲を見回してみますと、世の中はどんどん悪くなっていきつつあるような感じんがします。そして毎年、二万人以上の人びとが自殺しているのです。しかし、それでもやはり、生きているほうがいいんじゃないか。

 ともあれ、生きることって面倒くさいな、などと考えたりすることも、長い一生には何度かはあるものなのです。そんなときには、

 「だけど、自分で投げすてるぼどひどくはないさ」

 と、いうゴーリキイの苦いつぶやきを思い出してみてほしいと思うのです。


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▼『生きるヒント5』

8章「探す」P.149~159

 人間というのは元気に生きて申し分のない生活をしていても、ときどきなんともいえないブルーな気分におそわれることがあるものです。ロシア語では「トスカ」というのですけれども、人はそういう気持になることがしばしばある。そういうときに、どうそれに対処するかということは、すごく大事なことなのです。

 ぼくの場合だと、気持ちがめいってしかたがないとき、まず一つは、できるだけ楽しいこと明るいことを考えようとします。それも大したことではありません。また、立派なことでもありません。ぼくの場合に特効薬としてとても効くのは、以前に見たあるテレビの番組なのです。それは視聴者のかたが自分の家庭で子供やペットの様子をビデオカメラで映したものを局に投稿してこられて、それを編集して放送するという、じつに手間ひまをかけない予算節減番組なのですけれど、見ているとこれがすごくおもしろい。ぼくはその番組を思い出すたびに、なんとなく独りでニヤッとしたりするのです。(中略)

 それでどうにも駄目なときがあるのですね。そういうときは逆に、最も困難な状況のなかで生き抜いた人の悲惨な運命のことを考えることにしています。ぼくがそんなときに思い出すのは一冊の本です。みすず書房という出版社から『夜と霧』という邦訳名で出ている本があります。V・E・フランクルというウィーンの精神科のお医者さんが自分の体験をドキュメントとして書いたものです。

 この『夜と霧』は、フランクルという精神科のお医者さんが一九四〇年代に体験したアウシュヴィッツの自分の記録を、医師の目できちっと冷静にとらえたレポートなのです。自分の強制収容所における体験の記録が本に4なって、日本でもずっとロングセラーとして読みつづけられています。

 アウシュヴィッツというのはドイツ語だと思います。ポーランド語ではオシウェンチムといいますが:(アウシュヴィッツ ビルケナウ きょうせいしゅうようじょ、ドイツ語: DasKonzentrationslager Auschwitz-Birkenau、ポーランド語: Obóz Koncentracyjny Auschwitz-Birkenau)ポーランドのクラクフという日本の奈良に当たるような古い都からちょっと離れた場所です。その近くの湿地帯の非常に陰鬱な風景のなかに、鉄条網を張られた強制収容所ができ、ユダヤ人の死の収容所として世界的に有名になりました。

 フランクルはそこに収容され、戦後、奥さんも子供も帰ってこないなかで、彼ひとり奇跡の生還をするわけです。アウシュヴィッツから帰ってきた人というのは本当に稀なんですね。しかしフランクルは彼ってきて、収容所にいるあいだに小さなメモ帳などにぴっしりとつけて靴の底とかいろんなところに隠していた資料を整理し、一冊のレポートを書くわけですが、これは本当になんともいえない記録なのです。ただ、そのなかに、大筋とちがうところでフランクルがさりげなく書いている部分にぼくは非常に感動される部分がありました。

 どいう部分かといいますと、そういう地獄よりも凄いと思われる極限状態のなかで、自殺をしたり、あるいは反抗して射殺されたり、あるいは栄養失調で死んだりせずに生きのびたのはどういう人びとか、という考察があります。それは、彼によりますと、体が丈夫な人とか強い意志を持った人とか、そういう人とは限らなかったというのです。

 私たちは、どういう人間がそういうとき生きのびるかと考えますと、まず、強い信仰を持った人、強い意志の力を持った人、そして最後まで希望を捨てなかった人、思想的に深い信念を持った人、というふうに思いがちなのですが、それだけではない、とフランクルは言うのです。

 むしろ小さな美に感動するとか、風景にみとれるとか、ちょっとした音楽に心惹かれるとか、そういった人のほうが生きのびる可能性が高かったとう。これはフランクルだけの記録ではありませんけれども、フランクルの著書?およびその他の著書にはそういう体験談がいくつも出ています。

 そういうことを読みますと、人間に生きる力を与えてくれるものについての考えかたが、少しかわります。

 それは大きな偉大なもの、立派な輝かしいものであると同時に、私たちが日常どでもいいことのように思っている小さなこと、たとえば自然に感動するとか夕日の美しさみとれるとか、あの歌はなつかしいなといってそのメロディーを口ずさむとか、私たちが日常、趣味としてやっているようなこと、あるいは生活のアクセサリーのようなことが、じつは人間を強く支えてくれる。そういうこともあるんだな、と思わされるところがあるんです。

 たとえば、私たちの周囲には俳句を作る人がたくさんいます。俳句を作るということは、いやでも周りの自然とか風景などを見る目や感覚が鋭くなってきます。そいう収用所のなかで、もしも俳句を作るという習慣を持ちつづけている人がいたら、その人はひょっとしたら、他の人よりも生きのびる力が少しだけ強いかもしれない。あるいは音楽が好きな人のほうが、ひょっとしたら強く生きられるかもしれない。あるいは絵が好きでスケッチかなにかの日曜教室にかよっている、そういう人だったら、水たまりに映った景色をレンブラントの絵のようだと感動できる。そういう人のほうがきっとつよいのではないか。

 こういうことを、私たちはふだんはお稽古事とか趣味というふうに思っています。俳句を作る、ピアノを弾く、花をいける、趣味にもいろいろあるでしょう。ところが、アウシュヴィッツのような極限状態のなかで人間の生きていく生命力というものを支えるためには、そんな日常の小さなこともまた大きなテコとなり得たということを、ぼくはフランクルの本から学んだような気がするのです。

 人間というものはだれしも、何ものにも屈しない強い信念とか信仰といったものを持ちたいと願います。しかし、なかなかそういうふうにはいかないところがある。けれども、小さな喜びというものをたくさん持っている人は、ただ幸せというだけではなくて、ひょっとしたらそういうときに命を強く支えていく、そういう可能性を持っている人かもしれない。私たちが遊とか道楽といんっていることもまた、人間が生きていくうえでじつに大きな力を持ちあわせているかもしれない、というふうに考えたりするのです。

 先ごろからプラス思考ということがさかんに言われて、プラス思考を主張する本が記録的なベストセラーになったりもしました。ぼくもこれはおもしろいと思って、本を読んで三日間ぐらい一生懸命いいことばかり考えてみました。そうして脳内のβエンドルフィンというホルモンをたくさん出そうと努めてみたのです。けれど、やはり三日ぐらいですね、つづくのは。本当にえもいわれぬような絶望的な思いをしたときに、それをどうプラス思考に切りかえていくかというところまでは、本のなかで教えてはくれません。千何百円かそこらでそれを教えてもらおうというのは、欲が深いというべきだろうと反省したものでした。

 とりあえず、私たちはいま立ち往生している。立ち往生しているという状態のなかで、これ一つを手中にしてさえおればすべてがうまくいく、という万能薬のようなものはない。人生はそれほど簡単ではないのだということを、あらためて考えるほうがいいのかな、というふうに思ったりするのです。

関連:「夜と霧」

2018.08.21:追加


林住期 (りんじゅうき)

 五木寛之のベストセラーから生まれた流行語。もともとは古代インドで人生を4つの時期に分けて考えていたことに基づく。生まれてから25歳までが「学生(がくしょう)期」で、学習し体験を積む時期。25歳から50歳までが「家住期」で就職し結婚し、家庭を築く時期。50歳から75歳が「林住期」で人生でもっとも充実した時期で本当にしたいことをする時期なのだという。金のために何かをするのではなく、金のためにはなにもせず、旅をする。夫婦は愛情ではなく友情を育む時期である。そして最後は75歳からの「遊行期」。旅に出て自分は何者かということを見極める時期である。五木はこの「林住期」こそ人生のピークの時期であり、この時期を充実した気持ちで過ごしてほしいとしている。読者は「林住期」を迎えた50歳以降の団塊の世代の人たちだけでなく、快適に迎えるための準備として30~40代の人たちにも広がっているという。

22.07.02

「林住期」

 五木寛之 幻冬舎(2007.2.22第1刷 7.5第22刷 ituki.rinzyuki.jpg

 人生のクライマックスを考えたことはあるだろうか。

 人生も黄金期とか、収穫期というものがあるかもしれない。人生、80年。昔の人より長生きできるようになった。

 古代インドでは人生を4つの時期に区切るという。
 「学生期」(がくしょうき)
 「家住期」(かじゅうき)
 「林住期」(りんじゅうき)
 「遊行期」(ゆぎょうき)

 日本では初老とか老年と呼び、なんとなく暗い。近づいてくる死を待てというのだろうか。

 吉田兼好は次のように言った。「死は前よりもきたらず」つまり、死は、前方から徐々に近づいてくるのではなく、「かねてうしろに迫れり」 背後からぽんと肩をたたかれ、不意に訪れるものだ。

 インドでは、「学生期」で学び、「家住期」働き、家庭をつくり、子供を育てたあとに、人生のクライマックス「林住期」を迎える。

 人はみな生きるために働いている。でも、よく考えてみれば、生きることが目的で、働くことは手段であるはずだ。

 ところが、働き蜂の日本人は、働くことが目的となって、よりよく生きていない。家庭をつくり、子供を育て上げた後は、せめて好きな仕事をして生涯を終えたい。一度、リセットしてみたらどうであろうか。人生80年。もっと、長生きになるかもしれない。と、すると

 「学生期」(がくしょうき) 0~24歳
 「家住期」(かじゅうき)  25~49歳
 「林住期」(りんじゅうき) 50~74歳
 「遊行期」(ゆぎょうき)  75~90歳

 人は生きるためにもエネルギーが必要だが、死ぬときもエネルギーが必要なのかもしれない。だからといって、生涯をなすべきこともなく、雑事に追われながら死にたくはないものだ。

 自分が本当にやりたかったことは何なのか問いかける時期が、だいたいこの林住期(りんじゅうき)にさしかかる人だと言われている。それまでは、あまりの忙しさに考える余裕もなかったに違いない。林住期にさしかかった人は、生活の足しにならないようなことを真剣に考えてみるのも悪くない。

 林住期は、時間を取りもどす季節だ。林住期は、人生におけるジャンプであり、離陸の季節でもある。これまで、たくわえてきた体力、気力、経験、キャリア、能力、センスなど自分が磨いてきたものを土台にしてジャンプすることをお勧めする。

 林住期に生きる人間は、まず独りになることが必要だ。人脈、地脈を徐々に簡素化していこう。人生に必要なものは、じつは驚くほど少ない。

 1人の友と、1冊の本と、1つの思い出があれば、それでいい・・・と言った人もいる。

 自分を見つめるだけではいけない。林住期は相手をみつめ、全人間的にそれを理解し、受け入れる時期でもある。

 学生期のあいだは恋愛中心だ。家住期になれば夫婦の愛をはぐくむ。林住期は、恋人でも、夫でもない、一個の人間として相手と向き合うことも考えなければならない。ばらばらに暮らしても、二人の結びつきをさらに深めていくことも可能だ。

 五木寛之。昭和7年生まれ。今年で76歳。

 渋谷のカフェで隣の席から少女達の会話が五木の耳に入ってきた。

 「えっ!45?ジジイじゃん」

 五木は思った。

 45歳で「ジジイ」なら、76歳は「オバケ」だろうか。世間では、老いるということが、不快な現象のように語られる。それに対する切ない反抗が「アンチエイジング」などという表現だ。

 団塊の世代が、国民の最大グループとして登場しようとしている。大量の「ジジイ」や「ジッちゃん」が出てくるのだ。

 「林住期」に属する団塊の世代こそが、この国の文化と精神の成就の担い手になる。しかし・・・と、五木は続ける。

 世の中への奉仕は尊い義務ではある。「家住期」において他人のために献身する義務は十分果たしてきたはずだ。こんどはまさに自己本来の人生に向き合うべきだ。

 1人の人間としてこの世に生まれて来たこと自体、実は奇跡的なことである。それほど希有で、貴重な機会を得た私たちは、その自己に対しての義務を果たさないといけないのだ。本来の自己を生かそう。自分をみつめよう。心が求める生き方をしよう。

 世の中には、今の仕事が死ぬほど好きな人がいる。定年制なんて冗談じゃないという人もいる。一生、学問を愛して書斎で暮らす人もいる。定年でやむをえず職を離れてもできることならずっとその周辺で生きたいという専門家もいる。しかし、一方では、なにかこれまでできなかったことを、やってみようと願う人もいる。

 五木氏の知り合いで芸大ピアノ科でクラッシックの大家と呼ばれる教授がいた。その教授は定年で退職したあと、新小岩のキャバレーでピアノを弾いてたそうだ。赤いシャツを着て、ハンチングをかぶり、くわえ煙草でジャズっぽい演奏を披露していたそうだ。店が閉まった後は、ホステスとバンドの連中と徹夜麻雀という暮らしぶりだったという。

 働いている人は誰もがやがて60歳を迎える。「林住期」である。好きでやっていた仕事なら、そのまま続けるのもよい。本当は好きとはいえなかった仕事なら、リセットして少年のころの夢を追うのもいいだろう。

 「林住期」という第三の人生を心ゆくまで生きるのが人間らしい生き方なのだから。

 日本人はまじめに考えすぎる。「林住期」に何かを始めるのは「必要」だから始めるのではない。始めるきっかけは、「必要」ではなく「興味」だ。

 年金問題で明らかになったようにわが国は、定年まで働いたからと言って、退職後が安泰というわけではない。それでもまだましかもしれない。現代は一つの会社に勤め続けることさえ困難な時代だ。

 だからこそ、充実した「林住期(りんじゅうき)」を過ごすために準備を怠らないようにしたいものだ。林住期をどう過ごすかは、「家住期(かじゅうき)」のときにこそ構想すべきだ。社会人すなわち家住期において、しっかり資金を蓄えておこう。子供達は20歳で自立させよう。それが無理なら、「学生期(がくしょうき)」が終わる25歳には家を出て行くように育てよう。

 この記事を書いていて、先頃、自転車旅行中になくなられた原野亀三郎さんのことを思い出した。彼は80歳になり、奥さんを残して自転車で日本一周の旅に出た。

 原野さんは社会に貢献し、市民として義務を果たし、そして一個人としての時間を持つため家を出た。まさに「林住期」を生きた人である。
2016.02.26


22 高 史明(コ・サミョン)(1932~)

『生きることの意味』

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 『生きることの意味』

 「人ヲナグル者ハ、背中ヲチヂメテ眠ルガ、人ニナグラレタ者ハ、手足ヲノバシテ眠ルコトガデキル。」

 「わたしは、このやさしさということばが好きです。やさしさとは漢字で書きますと、人を憂えると書きます。人の世の創造的ですばらしい関係は、なによりもまず、人が人を憂えることからはじまるといえるでしょう。」 P.239


 戦時中、在日朝鮮人として日本に生まれた作者の自叙伝。

 差別と貧乏の苦しい生活の中で青春時代を過ごした作者が「生きることの意味」を模索していく話。

 この本は、大人になった作者が青春時代の辛い出来事を思い出しながら、そのときの出来事が自分に与えた影響が語られています。 その辛い出来事を思い出す度に、一貫しているのが、

 「その辛さや苦しみが、人を思いやるやさしさを教えてくれた」 という話です。

 朝鮮人として差別され虐められた出来事も、日本人との生活の違いに悩み、孤独を感じ、他人に暴力を振るうようになった日々も大人になった今考えると、そのときに暗中模索したことは全て人に対する優しさの源になってるんだといいます。

 ただし、この考えを持つようになったのは、小学校高学年に日本人の阪井先生に出会ったからみたいです。

 作者は、この先生を「本当のやさしさを教えてくれた人」だといってます。

 それは、ただ愛情を持って接してくれるやさしさではなく、これから先にある辛いことを乗り越えられる力をつけるために指導してくれるやさしさだったそうです。

 この先生は、朝鮮人の作者に対して、差別しなかったのではなく、特別扱いしなかったという風にも感じとれました。

 そう考えると、悲しさや辛い思いだけが作者に「やさしさ」を与えたのではなく、本当の人のやさしさを教えてくれる人への出会いが大事だったんだと思います。

 辛いこと悲しいことは、生きていれば多々ありますが、それを全て、「人を思いやるやさしさの源」と考えられるようになれれば幸せですね。でも、だいたいはしばらくたってから、よくよく考えると「あの出来事は意味があったんだな」って思うのがほとんどですが…

*昭和61年4月、購入したこの本を読んで、「日韓併合」P.20、「土地調査事業」P.20、「朝鮮語の使用禁止」P.24、「創氏改名」P.176、「朝鮮の儒教」P.43 に関心をしめしていた。

2017.09.06


23 永 六輔 (1933~2016)


shokumin1.JPG ▼『職 人』

 「教えるということは教わることです」

 「苦労なんて耐えるもんじゃない。苦労は楽しむものです」

 「人間、ヒマになると悪口を言うようになります。悪口を言わない程度の忙しさは大事です」

 「職業に貴賎はないと思うけど、生き方には貴賎がありますねエ」

 「子供は親の言うとおりに育つものじゃない。親のするとおりにそだつんだ」

 「躾ってものは、ガキのうちに、やっていいことと、やっちゃいけないことを、体で覚えさせることだよ」

 「和菓子の職人ですが、いつか、見惚れて喰うのを忘れるような、そんな菓子をつくってみたいですね」

 「樹齢二百年の木を使ったら、二百年は使える仕事をしなきゃ。木に失礼ですから」


 坂本九さんの「上を向いて歩こう」など数多くの名曲の作詞を手掛け、ラジオやテレビの放送作家や司会者としても活躍した作詞家でタレントの永六輔(えい・ろくすけ=本名=永孝雄=えい・たかお)氏が2016/7/7日に死去したことが11日、わかった。83歳だった。

 東京都出身。早稲田大在学中に作詞・作曲家の三木鶏郎氏の「冗談工房」に入り、放送界デビュー。NHKの人気番組「夢であいましょう」の台本を担当するなど放送作家として活躍。ラジオ番組にも自ら司会者として出演するなど視聴者らの高い支持を得た。2013年9月まで46年間続いたラジオ「永六輔の誰かとどこかで」は全国番組として最長だった。

 作詞家としても高い才能を発揮。特に作曲家の中村八大さんとのコンビは有名で、米国でも「スキヤキソング」として全米チャート1位となり大ヒットした坂本九さんの「上を向いて歩こう」や、梓みちよさんの「こんにちは赤ちゃん」、水原弘さんの「黒い花びら」など、数多くの名曲を世に送り出した。

 エッセイスト・作家としても知られ、「職人」「親と子」「芸人」などの著書がある。

 10年にパーキンソン病であると公表していた。

平成二十八年七月十一日、追加。


eirokusuke.jpg  永六輔さんの大往生 「僕の状態、そんなに悪いの?」2017年4月3日04時58分 新聞記事

 永六輔さんの長女でエッセイストの千絵(ちえ)さん(58)のもとに、父親から珍しく電話がきたのは2010年11月17日の夜だった。

 「僕、今、どこにいると思う? 実はね、救急車に乗ってるの」

 千絵さんは驚いて、「どうしたの?」と問いかけた。

 永さんは東京都内でタクシー乗車中に衝突事故に遭い、警察官に「大丈夫」と伝えたものの、救急車を呼ばれたという。弾んだ声で話す永さんは、初めて救急車に乗るのを楽しんでいるようだった。

 搬送先の病院で頭部などの検査を受けたが異常はなく、その日のうちに帰宅できた。

 当時、パーソナリティーを務めていたラジオ番組でもこの経験を話題にした。

 「事故に遭ってから、パーキンソン病の症状がよくなったって言われるんです」

 患っていた自身の病気と絡めて、笑いを誘った。

 永さんは08年ごろから、足のすくみや字の書きづらさ、箸の持ちにくさを感じるようになっていた。ろれつが回らなくなり、リスナーから「声が聴きづらい」というはがきが届いた。

 事故の1カ月ほど前、荏原病院(東京都大田区)神経内科を受診し、横地正之(よこちまさゆき)医師(75)=現在は国際医療福祉大学三田病院=にパーキンソン病と診断された。

 薬を飲み始めると、言葉がなめらかになり、字もふつうに書けるようになった。歩く時に、体が前のめりになって足が小刻みに出てしまう「突進歩行」も改善した。

 横地さんからは「歩くことはいいことです。ただ、転倒にはくれぐれも注意を」と言われていた。

      ◇

 「上を向いて歩こう」「こんにちは赤ちゃん」の作詞で知られ、1994年には自らの死生観を記した「大往生」(岩波新書)がベストセラーになるなど、多方面で活躍した永さんは83歳だった昨年7月、自宅で亡くなった。

 ラジオ番組の中で、前立腺がんでホルモン療法を受けていることや、パーキンソン病であることを公表した。

 永さんは「大往生」の中で、自身に宛てた「弔辞」として、こう記している。

 〈旅暮らしの中で、一番好きな旅はと聞かれ、「我家(わがや)への帰り道」と答えた永さんです〉

 千絵さんは、病気になっても、父はできるだけ家で過ごしたいと思うだろうと考えていた。

■妻みとった訪問看護師に連絡

 永さんが再び救急車に乗ることになったのは、事故から約1年後の11年11月。

 自宅で転び、足の付け根にある「大腿(だいたい)骨頸(けい)部」を骨折した。高齢者の骨折で最も多い場所で、寝たきりの原因にもなりやすい。運ばれた病院に入院することになった。

 入院中、「せん妄」が出た。認知機能に異常がないのに、意識がもうろうとして、意味が通らないことを口にする症状だ。高齢者が入院した時などにしばしばみられる。

 足の骨が折れているのに「はいっ、帰ります!」と突然言いだし、ベッドから立ち上がろうとした。用もないのに、ナースコールを繰り返したこともあった。

 約2カ月後に退院すると、仕事で外出する際は、車椅子を使うようになった。千絵さんは、ひとり暮らしをする永さんに朝食を食べさせるため、毎朝、実家へ通い始めた。

 食事は、妹でフリーアナウンサーの麻理さん(55)が作り置きしておいてくれた。

 午前8時すぎに千絵さんが実家に着くと、永さんはリビングでテレビを眺めていることが多かった。「おはよう」と声をかけると、永さんは「大丈夫だから、来なくてもいいよ」と娘を気遣った。

 千絵さんが食卓に朝食を並べながら「薬を飲むんだから、ちゃんと食べて」と頼むと、しぶしぶ席についた。

 14年には背骨の圧迫骨折もわかり、次第に家の中の移動にも家具につかまらないと、難しくなった。

 その年の夏、千絵さんは家族のほかに、父の面倒を見てくれる人を探そうと考えた。ただ、見ず知らずの人を家に入れるのはためらわれた。「『永六輔は、家ではこんなによぼよぼのおじいさんなのか』と驚かれるだろうな」と想像すると、踏み切れなかった。

 浮かんだのは、02年に永さんの妻の昌子(まさこ)さん(当時68)をがんでみとった際、訪問看護をしてもらった鈴木紀子(すずきのりこ)さん(65)だった。

 鈴木さんがあいさつに訪れると、永さんは不安そうにこう尋ねた。

 「僕ってもう、そんなに悪い状態なの?」

 鈴木さんの登場は、妻の時と同じように、最期が近いのかと感じたようだった。

     ◇

 〈えい・ろくすけ〉 本名・永孝雄。1933年、東京・浅草生まれ。早稲田大学中退。中学生の頃からラジオ番組に投稿を始め、大学時代から放送に携わる。「見上げてごらん夜の星を」「遠くへ行きたい」などの作詞を手がけ、著書「大往生」は発行部数が245万部に達した。2010年、パーキンソン病と診断された。ラジオ番組「永六輔の誰かとどこかで」(TBSラジオ系)は通算で49年続いた。

平成二十九(2017)年四月四日


24 鍵山 秀三郎(1933~)


 凡事徹底


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 「掃除」を雑事よ片づけてしまわないのです。

 世の中に雑事ということはありません。

 雑な心でするから、雑事なのです。
                    (鍵山 秀三郎)

 かねてから一度お出逢いしてからお教えを乞いたいと願っておりましたところ、今年(平成4年)、な古屋でお会いする機会を得まして、喜んで参上しました。

その際お尋ねしましたのですが、「うちには社訓というようなものはございません。しいて言えば凡事徹底ということで、平凡なことを非凡に努めるということでしょうか。」と、仰せでした。これには私も心から信服いたしまして、それ以来「凡事徹底」の四文字が金科玉条のコトバとなり、すこしは整理清掃に力を注ぐようになりました。三十年にわたり、駅と本社間の二・五㌖にわちゃる道路清掃の実践行あってこそ言える鍵山社長さまの金言に頭の下がる想いがいたします。

 森先生もかつてお仰せでした。「わたしの宗教は、しいて言えば、ゴミ拾い宗とでも言えましょうか」と。それだけに森先生のゴミ拾いは神技とでも言えそうでした。
                     寺田清一「一粒一滴」より

2017.09.23.追加


25本庄 正則(伊藤園会長)(1934~2002年)


 本庄正則のプロフィール・経歴・略歴

 本庄正則(、ほんじょう・まさのり)。お茶・清涼飲料水メーカー大手の伊藤園創業者。早稲田大学を卒業後、伊藤園を創業。日本初の缶入りウーロン茶、缶入り緑茶を発売。これが大ヒットとなり伊藤園を日本を代表する清涼飲料水メーカーへと飛躍させた経営者。

 人間は弱いものです。悪い情報を聞けば面白くないし、難しい判断は先延ばしにしたい。しかし、経営者が蛮勇を振って自らの弱さと戦わなければ、会社にことなかれ主義が蔓延するばかりです。

 リーダーは勇気をふるって自分の弱さと戦え

 経営者の仕事はリスクを計算して決断することです。リスクを考えるうえで、悪い情報というのは、貴重な材料です。経営者に悪い情報が上がってこなくなったら、その組織は健全に機能していない。そう考えていいのではないでしょうか。

 経営者に悪い情報が上がってこなくなったら、組織は健全に機能していない

 私はオーナー経営者ですから、悪い情報には人一ばい敏感に反応して、すぐに手を打とうとします。しかし、サラリーマンは違います。まずは、組織の中でいかに生き残るかという「保身」に走りがちなんです。これは人間の本性であり、無意識のうちにやっていることを責めても仕方がない。逆に、経営者はそのところをしっかりと見極めて、マイナスの情報を意識して収集する努力が必要なのだと思います。

 経営者は「サラリーマンは本能的に保身に走る」という前提で悪い情報を集めろ

 これまでも現場と経営との意思疎通は意識的にやってきたつもりです。加点主義をモットーに、前向きの失敗であれば一切処罰しない。降格もしない。ただし、なぜそうなったのかという分析をきちんとし、その報告だけは徹底してしてもらう方針を貫いてきました。しかし、それでもまだ、不十分だったんですね。我々が気付かなかった問題点の指摘がいろいろありました。

 社内の問題点の洗い出しは徹底の上にも徹底的に

 上がってきた問題点は、専門の委員会を作り、解決の易しい順にABCDの4種類に分けて、改善に取り組むことにしました。直せるものは、その年度にできるだけ直す。残ったら翌年の課題にして取り組む。それを3年間繰り返して、ずいぶん体質改善ができたと思います。

 問題点をあぶり出し、専門委員会を作って解決に取り組む

 一昨年、ある実験をしました。部長クラス全員に、自分の部署の問題点を書きださせたのです。問題点を多く書いてきた者ほどプラスに評価し、少ないところは減点すると付け加えました。出てきた問題点については一切叱らないと明言したところ、大から小から様々な問題が出て来る出て来る。最終的には2600件にもなりました。このプロジェクトに参加した管理職は250人くらいいましたから、一人平均10件の問題点を指摘したことになります。

 社内の問題を洗い出すプロジェクトを行う

 事業が拡大するにつれ、組織も肥大化し、風通しが悪くなるのは、企業の宿命だと思っています。企業の構成員の大半は、サラリーマンです。自分の人事考課が悪くなるような情報は上に上げたくないのが人情。その気持ちはよくわかります。しかし、本当に大事な情報がトップのところに届かなくなり、経営判断を誤ってしまうようでは困ってしまいます。

 情報の風通しが悪くなるのは企業の宿命

 13年前、実弟(本庄八郎)に社長を譲ってから、日々の経営に口を出すことは、まずありません。いまの私の立場は「君臨すれども統治せず」。いろいろな病気をして、体力も衰えました。私が伊藤園の経営に関われるのも、あとせいぜい15年というところでしょう。少しずつ、会社との距離を置くように心がけていますが、その前にぜひやっておきたいと思っているのが、風通しのいい企業風土をつくっておくことです。

 覚書き【会長時の発言】

 [会長の仕事とは]

 加点主義をモットーに、前向きの失敗であれば一切処罰しないし、降格もしない。

 減点主義より加点主義を採用する。

 最後に頼りとなるのは神の与えてくれた運と縦横の人間関係しかない。


26 灰谷 健次郎(1934~2006)


 あなたの知らないところにいろいろな人生がある

 あなたの人生がかけがえのないようにあなたの知らない人生も また かけがえがない

 人を愛するということは 知らない人生を知るということだ


27 丸元 淑生(1934~2008)

『悪い食事と よい食事』

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 最近の統計では、女性の大腸ガンが多いとのことである。その要因の一つに便秘があげられている。平素の食事を考えるうえでの参考にしてください。

▼『悪い食事と よい食事』(新潮文庫)

 食事のよし悪(あ)しきを一目で見分ける法

 ジンギス汗の軍勢の強兵の秘密の一つはヨーグルトといわれている。もっと古く、ペルシャの伝説では天使が預言者のアブラハムにヨーグルトのつくり方を教えたことになっている。それがバイブルで百七十五歳まで生きたとされるアブラハムの多産と長寿の秘密だという。

▼二十世紀初頭にはロシア生まれの生物学者、メチニコフが有名名な“ヨーグルトの健康長寿効果”を唱えた。彼はヨーグルトを食べるとその乳酸菌が腸内で繁殖して有害な腐敗菌を追い出すと考えたのだ。だが、ヨーグルトにふくまれている乳酸菌のブルガリア菌やヨーグルト菌は、腸内で繁殖できずに死滅することがわかり、メチニコフの説は葬られてしまった。

▼その後の研究で、われわれの腸内で最も重要な働きをしている乳酸菌は、ビフィズ菌のヨーグルトがつかくられて市販されるようになったのごく最近のことである。

▼ビフィズ菌の研究が遅れたのは、空気中では培養のできない嫌気性の菌だったからだ。培養するのが難しかったのだが、極めて重要な健康の因子で、健康な人の腸内にはこの菌がたくさん存在している。また、この菌がたくさん存在していると健康になるという関係にある。

▼逆に、不健康な人の腸内にはそれほど存在しておらず、有害菌が勢力を張っている。そのため一層不健康になるというふうに悪循環が生まれていく。

▼ビフィズ菌が優勢であるか否かで、健康が左右されるわけだが、それをかんたんに知る方法がある。便を見るとわかるのだ。ビフィズ菌が優勢になると腸内が酸性に傾き便が黄褐色になる。反対に有害な腐敗菌が多くなると、アルカリに傾いて便は茶褐色から黒褐色になる。黄色い便はやわらかくて量が多いけれど、黒くなるとかたくなり、量が減ってくる。そうなるとスムーズな排便が行われないので、腸を通過する時間が長くなる。そのために有害物質が多く生み出されるのだが、ひどくなるとカチカチの便になってしまうし、便秘もするようになる。

 悪い食事は便を黒くする

▼有害物質が生まれると、体はそれを吸収して、肝臓で解毒しなくてはならない。肝臓に負担がかかるだけでなく、全身の健康のレベルが低下していくことになる。

▼この違いを生み出すのは何かというと、食事である。黄色っぽい便になるのはよい食事で、黒っぽい便にするのは悪い食事ということなのだ。

▼では、どいう食事が便を黒くするかというと、肉と砂糖の比率の高い食事が最も黒くする。それを栄養素に分解すれば、“高脂肪低繊維食”ということができるだろう。

▼一方、便を黄色ぽっくするのは、精製していない穀類、豆類、野菜、果物など、自然態の植物性食品の比率の高い食事である。これは“低脂肪高繊維食”ということができる。そして、食物繊維が十分にとれている場合には(赤ワインのようなものをとると色が黒くなるけれども、そうでなければ)、便が明るい色になるだけでなく水に浮くようになる。そういう便ならば腸の状態が最高によいと思っていいわけだ。

▼肉のような高蛋白食品をとりすぎると有害菌に有害物質をつくり出させる原料を多く与えることになるのだが、植物性食品に含まれいる食物繊維はビフィズ菌を増殖させる。それに加えてヨーグルトをとると、一層ビフィズ菌は繁殖することになる。

▼メチニコフはヨーグルトに含まれるいるブルガリア菌やヨーグルト菌が腸内で繁殖するように考えた点で誤ったのだが、ヨーグルトはビフィズ菌の増殖を助けるのだ。ビフィズ菌の入っているヨーグルトならば、さらに効果がある。

2008.10.11、2014.11.07追加。


28 伊藤 隆二(1934~)


人間であるということは 

 「人生は非可逆的であり、同時に非先取的である」

*参考:不将不逆


29 井上ひさし(1939~2010)

井上ひさし『私家版 日本語文法』

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日本語文法

 中学時代、「日本語文法」を習った。退屈な時間であった記憶が今でも残っている。先生の姓が思い出されるほどである。横田先生。

 最近、井上ひさし『私家版 日本語文法』(新潮文庫)をパラパラとめくっていると、P.47~

 「受身上手はいつからなのか」の章に出合い、参考になりました。その記事を紹介しましょう。

 日本語の動詞や助動詞を教えるのに、活用をもってはじめるのが、いわゆる学校文法の常套だが、これは下々々(げげげ)の鬼太郎(きたろう)ならぬ下々々の下策(げさく)である。名詞、連体詞、副詞、接続詞、感動詞……といった順序で授業が進められ、たいていは夏休み前に動詞の活用へさしかかる。このへんまでどうやらこうやら授業についてきていた生徒もこの活用へきて完全につまずく。暑く乾いた夏に無味乾燥この上ない活用を詰め込まれて生徒はげんなりし、

 「文法をしらなくても日本語はしゃべれらい、やめた」
 と呟(つぶや)く。そして文法授業の教室は、それ以後、暗記力にしか誇るところのないひと握りの"優等生たちだけのものになるのである。では、文法を暗記力の鍛錬時間にしないためにどんな方法があるだろうか。たとえば、「日本語の動詞はつぎのふたつに分けることができる。第一のグループは「ある」で代表されるもの。原則としてこの「あるグループ」は主体が非情物のときに用いられ、受け身は作られにくい。第二のグループは「いる」で代表されるもの。この「いるグループ」は主体が有情物のときに出てくる動詞で、受け身が作られやすい」と教えてみてはどうだろう。憶えるべきことは上の百五十字で尽きている。ずいぶん楽になるはずだ。補足の説明としては、「主体となる事物が人格のあるものなら有情、人格があると認められないときは非情と思えばいいで充分である。そして実例として、

 机の上に辞書がいる

 と言えないのは、辞書が非情物であり、人格が認められないからだと説けば、生徒もすこしは興味を示すのでないか。もうひとつ実例を並べてもよい。

 教壇の上に文法の先生がある

 こう言えないのは、文法教師は人間であり、つまり有情物だからである、と。ついでに、

 机の上に辞書があらては困る。

 と言うと間違いになるのは、非情物の主体に使われる「あるグループ」動詞では受身がつくれないからであると説明し、さらに、

 先生に教壇にいられては早弁当がしづらい。

 と言う受身表現が可能なのは、「いるグループ」動詞だからである、と追加する。こういう授業だったら文法の時間が好きになれるだろうと考えるのだが、いかがなものであろうか。つまり日頃から生徒たちは、ある動詞郡では受身がつくられるのに、別の動詞郡ではそれができない、自分は無意識のうちにふたつを使い分けているようだが、しかしなぜそうなるかはっきり知りたいと思っている。少年たちは(おそらく少女たちも)、そのまかふしぎな仕掛(からくり)を知りたくてうづうづしている。だからその仕掛(からくり)を解明してやれば、よろこんでついてくるはずである。それなのに、ただ暗記せよ、暗記せよと押すだけだから逃げられてしまうのだ。

 以下は省略します。上記の文章の要点は自分の作文には少なくとも心がけて使いたい。

2012.10.05


30 佐々 木将人(まさんど)(1937~2013)

『カント 哲学を志す』

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▼『人生山河 ここにあり』(マネジメント社)

 一生を救った一言

 今なお学生にそのなをとどめるドイツの哲学者カント(1824~1804)。カントといえば、恩師天風先生より聞いた話を思い出す。彼は若き頃、巡回の町医者の一言によって救われたというのだ。

▼さて、カントの名はよく知られていても、彼が生まれながらのくる病で、その上、ひどい喘息持ちであったことは知られていない。
カントは北ドイツのケーニヒベルク(現在のカリニングラード)という当時はただの宿場町で、馬の蹄鉄屋の子として生まれた。(大百科事典には「革具匠の子」とある)
 生まれながらのくる病では、家の手伝いもロクに出来ず、しかも、ひどい喘息でゼイゼイといつも、のたうち回っていたという。

▼十七歳のときである。

 巡回の町医者がやって来た。父親はどうせ駄目だろうと思いながらも、少しでも息子の苦しさが軽くなればと診(み)てもらうことにした。

 ところが、この医者が偉かった。
 注射は腕や尻に打つだけではない。耳の中にうつ「注射」だってあることを立証してみせた。

 それは「言葉」という注射だった。カントはそれによつて「命」を与えられたのだ。 

▼「名前はイマニエルか。ひどい″体″だな。それに喘息持ちか」
 「……」

 「皆と同じ人間に生まれながら気の毒だな。

 しかし、よく考えてごらん。
 世の中には心で勝手に悩みを作って悩んでいる人が多いんだ。心には形というものがないのに、勝手に作ってしまうんだ。

 "俺はもう駄目だ、苦しい、悲しい、死にそうだ″ という。いいかい、悩んでいるのは誰だい? 足が悩んだり、お尻が悲しいというかな。悩んでいるのは心だよ。その証拠に、寝ているときは、悩みも、貧乏も、何もないじゃないか」

▼″なるほどと″とカントは心の中で思った。

 「しかしだ、心に形がないと言っても、昼間、起きている時は、何かを考えているのが人間というものだ」

 「それもそうだ」とカントは身をのり出した。

▼「いいかい、そこが大切だよ。
 どうせ考えるなら、別の考え方をした方が良い。苦しくたって悲しくたって、何事も神が与えた試練だと思い、苦しみや悲しみを喜びと感謝にかえて、心を明るく朗らかにするのだ。そうすると、自然と運が開ける。そのようにこの宇宙はできているのだよ、君には難しい言葉かもしれないが、それで自然治癒力が出るのだ」

 カントは医者の言葉をかみしめた。

「この体は神様から借りたものだ。人間は夜になるとこの体を返すわけだ。すると持ち主の神様は、夜のうちに修理をし掃除して、朝また人間に貸してくれるわけだ。わかるかい」
 カントは"ウン" とうなずいた。
 「苦しい苦しいと思っても、もともと体の悪いのは治らないよ。せいぜいお父っつぁんやおっ母つぁんの心を痛めるだけだ。

 正直言うと、君の命はこのままだと、あと二年しかもたない。せめて今まで育ててもらったお礼に、人のいる所では、嘘でもいいから笑ってみなさい。人は何かの使命をもって生まれてきたのだ。ひとつでもいいから、何か人の役に立つ人間になることだ。今君がやることは、お父っつぁんやおっ母つぁんの前では、苦しい、悲しいことは言わないようにするのが親孝行だ。わかったかい。

 あと君に効く薬はない。お帰り」

▼”栴檀(せんだん)は双葉より芳し″というように、大成する人は子供の時から並はずれてすぐれている。十七のカントは、医者の言葉を何度もかみしめた。

 "そうだ、今まで自分で自分の心を痛めつけていた。こんな体になったのは親のせいだと、責めてばかりいて感謝したことは一度もなかった。これからは感謝と喜びだ″と心に誓った。

▼そして一ヶ月、半年、一年の時間が流れた。

 その頃には、あのひどかった喘息は見事、治っていた。死ぬといわれていた十九歳になったが、体はますます丈夫になっていた。
 「人間は心だと、あのお医者さんは教えてくれた。しかし、この世にはまだまだ、不幸だ不幸だと、二度とない人生を暗くしている人がなんと多いことか。でも、僕は心を明るくしただけで元気になった。

 心とは一体、何だろう。よし、私は心の問題を研究して人の役に立とう」

 こうしてカントは、学問の道にすすみ、哲学者として不滅の名を残し、八十歳の天寿を全うした。

P.260~264

★プロフィル:佐々木 将人は、日本の合気道家、神道家。 山蔭神道上福岡斎宮宮司、合気道神明塾塾頭。 合気道八段。中央大学経済学部卒、同大学院法学部専攻科修了。雅号「乾舟」。

2008.07.09.


31 柏木 哲夫(1939~) 大阪大学名誉教授

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▼『生と死を支える』(朝日新聞社)

助死婦

 飛行機を利用する機会が最近多くなった。何度乗っても離陸と着陸の時は緊張する。無事離陸して水平飛行にはいると安心して読書ができる。飛行機が高度を下げて着陸態勢にはいると再び緊張する。無事着陸して滑走路の固さを背中に感じるとホッとする。飛行機に乗るたびに人間の一生と空の旅との類似性を思う。
 出産はまさに離陸である。さまざまな危険が伴う。慣れた医者でもやはり緊張する。ベテランのパイロットでも離陸の時には緊張するという。出産も離陸も大体うまくいく(うまくいってもらわなければこまるのだが)が、時には思わぬ障害が発生する。それだけに特別の配慮が必要である。
 出産が無事終われば、乳幼児期、学童期、思春期と、人間は比較的、健康の面では問題なく成長する。飛行機でいえば離陸後上昇を続けている間にあたる。青年期、壮年期は水平飛行の時期である。時には気流の悪い箇所を通過する際機体が揺れるように、仕事場の環境が悪かったり、無理をしすぎたりして一時的に病気をすることがあっても、全体的に安定している。
 問題は着陸にむかって高度を下げ始めたところである。中年から初老期にかけてはさまざまな成人病に悩まされる。そして人生の最後を着陸とするならば、だれでもできるだけスムーズな、ショックの少ない着陸を望むだろう。ある意味でパイロットの一番の腕の見せどころは着陸の時なのである。
 人間が誕生する時には特別の配慮が必要であり、そのために産婦人科医や助産婦などの専門家がいる。誕生の時と同じように人間が死ぬ時も特別の配慮が必要ではなかろうか。助産婦があって助死婦がないのはおかしいのではなかろうか。
 昔はほとんどの人が家で死を迎えていた。しかし最近では日本国民の約七〇%が病院で死を迎える。病院には医師や看護婦がいる。しかし彼らは死や死への課程について、また、死に至る病人の心理などについて特別の教育を受けたわけでない。できるだけ不快な症状がなく、苦痛の少ない、スムーズな死を迎えたいというのは万人共通の願いだろうし、温かい雰囲気の中で、家族や友人にかこまれて生を全うしたいとも願うであろう。だが、残念ながら現在の病院は、この点からいえば理想的な場所でなはない。病院ではしばしば患者の死は医療の失敗と考えられやすい。いくら医学が発達しても死は避けることができない。だれでもが必ず体験しなければならないことなのである。
 それなら死を避けないで、積極的にみつめ、死を迎えざるを得ない人々にもっと積極的な配慮をすることが大切なのではなかろうか。よりよい死を迎えることを援助する専門家が必要なのではないだろうか。
 欧米諸国ではここ数年ホスピスという働きを通して、人々その人らしい人生を全うする援助をしている。ホスピスで働いている看護婦はいわば助死婦なのである。
 日本でもここ数年来、この分野に対する関心が高まり、昭和五十二年に、「死の臨床研究会」という全国的な組織もできた。日本人の国民感情として死を忌み嫌い、タブー視し、できるだけ避けて通りたいといういう傾向があり、このことが日本で死の臨床、死の看護がこれまであまり顧みられなかった理由の一つととなっている。しかしますます老齢化社会への傾向を強めている日本で、死の問題、特に死にゆく人々の援助を専門にするいわば助死婦的な人が、これからますます必要になってくると思われる。

2010.05.10 


キュアとケア

 ターミナルケアという言葉が専門家の中で使われるようになってきた。末期ケアと訳されてている。キュア(cure 治癒)する可能性がない末期状態の患者さんをどのようにケア(care)するべきなのか。これは、医療や看護に携わる者にとっては重要な課題である。
 医療教育の中では、もっぱら治癒させる方法が教えられる。しかし、現実の医療の中では、治癒させることができない病気も多くある。進行したがんはその代表例だ。キュアの方法だけを教えられてきた医師はキュアできない病気を持つ患者さんに、どう対応していいか悩む。キュアできないとことがわかると、患者に関心を示さなくなる医師もある。
 cure と care はuとaの一字が違うだけだが、その概念には大きな差がある。キュアには、もとどおりにするとという意味がある。ケアには、もとどりおりにすることはできなくとも、とにかく援助するという意味がある。キュアはできなくとも、ケアはできるのである。
 ケアとはどのような概念を指すのだろうか。私は昭和五十三年に『死にゆく人々のケア』(医学書院)という本を書いた。この時に書名をどうするか、ずいぶん迷った。死にゆく人々の「看護」、「援助」、「配慮」などの言葉が浮かんだが、どれもケアという概念とぴったりしない。
 care を辞書で引いてみると、その他に介助とか介護という訳もある。それは care という概念ではなく、take care の概念になってしまう。援助にしても、介助にしても、だれかが、ある人に一方的に与えるという感じになってしまう。結局、日本語に訳さないで、ケアという言葉をそのまま使うことにした。
 衰弱がひどくて、自分の力でベッドの上に座ることができない患者さんの背中に、手をあてて起こしてあげるのは、たしかにケアである。手足がまひしている患者さんを車いすに乗せて、日光浴をさせてあげるのもケアである。しかし、ケアにはもっと深い意味がある。それは、人格的なふれあい、すなわちケアを通してお互いが人間として成長するという側面である。
 ケアは決して医療スタッフが患者に一方的に与えるものではなく、与え、かつあたえられるものである。末期の患者さんと接していると、このことを実感する。私よりもずっと人生経験の長い患者さんが、しっかりと死を見つめて生ききる姿に接していると、一人の人間が生き、そして死を迎えることの重みを教えられる。死の床にあって、ケアをする私たちにいたわりや励ましの言葉をかけてくれる患者さんがある。こんな時、私は患者さんにケアされている自分を発見する。
 さまざまな生き方をしてきた人が、さまざまな形で死を迎える。そのような人たち接していると、私がケアをしているというよりも、その人たちの人生の総決算の場に参加させてもらっている気持ちがわいてくる。そして、人は生きてきたようにしか死ねないのだなあと思う。良き生は、良き死につながることも教えられる。
 医学は日々進歩している。精密な器機を用いて診断する技術は、日本では特に発達している。新しい治療技術が次々に導入されている。このような中で私たちは、ケアの精神を次第に失いつつあるのではないだろうか。医療技術に頼りすぎて、人と人とが支えあうという人間本来の姿から遠ざかりつつあるのではなかろうか。
 ターミナルケアは、私に与えることと受けることを教えてくれる。どれほど医学が発達しても、死は確実に訪れる。医学の限界を知り、医療スタッフと患者が、その限界の上にたって生を支えあうのがターミナルケアだと私は考えている。

2010.05.11


家族の苦しみ

 末期患者の家族はどのような気持で患者を看病しているのだろうか。患者の年齢にもよるが、家族の共通の気持は、できるだけのことはしたい、なるたけ長生きしてほしい、そして、何よりも苦しみが少なくあってほしい、という三点にしぼられるようである。
 しかし、この三点がすべて矛盾なく、同時に達成されることはむずかしい。末期の苦しみは、さまざまな手段を講じても完全になくすことは困難である。
 できるだけ長生きできるように延命の手段をとると、命は長らえることができるが、それだけ苦しみも長びくことになる。ここで家族のジレンマが始まる。命は長くしてほしい、苦しみは短くしてほしいとぴうのが家族の本当の気持ちであろう。
 ある末期患者の家族は私に、「もし治る病気であれば積極的にどんどん治療していただきたいのですが、治る見込みの病気ですので、今はもう苦しまない最後を迎えさしてやりたいと思います」と言った。末期患者の家族の代表的な言葉である。
 看取る側の責任は何だろうか。それは、患者の苦しみをとる最大限の努力を積極的にするということである。ある大学病院でがんの手術を受け、再発してから同じ病院を受診した患者の家族に、病院側は、「もう手のほどこしようがありません。この病院では何もできないと思います」と言ったという。「何もできない」というのは治癒 (cure) に導く手段としては何もできないという意味であって、患者が最後まで生きることを援助 (care) することはいくらでもできるはずである。
 末期医療は積極的な医療活動である。「何も出来ない」どころか、しなければならないことは実に多くある。何に向かって積極的になるかが問題である。治癒や延命に向かって積極的になるか、患者の苦しみをコントロールすることに向かって積極的になるか、そして、それをだれが決めるかである。アメリカのホスピスでは、それを患者が決めている。そのためには患者がすべてを知っているいる必要がある。末期の状態で輸血をするかしないかまで患者が決める。
 患者に病名を知らせない習慣がある日本では、患者が決めることはむずかしい。しかし、少なくとも家族がどのようにしてほしいと望んでいるかを、医療側が尋ね、家族と共にどのようにしていくのが患者ののために最も良いのかを考えていく姿勢が、医療者には必要である。
 食堂がんの末期患者が胃腸に出血をおこして貧血状態に陥った。回復する病気の場合には、出血→貧血→輸血という一つのパターンは医学の常識である。多くの場合、この治療的医学の常識が末期医療にも適用される。出血して貧血状況になれば、どのような状態にある患者にも輸血するというパターンを作っておけば、ある意味では楽である。医療者は考え、悩む必要がない。しかし、末期医療はパターン化することがむずかしい。どのように人生を総決算したいかは個人によって違うからである。
 患者の希望を直接尋ねることができない場合でも、家族の望みは知ることができる。家族の希望通りにことを進めるという意味ではなく、家族と共にどうするのが良いのかを考え、最終的には家族の了解の下に、医療者側が判断するという姿勢が大切である。家族の判断で、ある方向をとった場合、家族の死後、家族に罪悪感が残る場合があるからである。
 末期患者の家族の心は揺れる。医療者側はその心の揺れに付き合い、共に揺れながら最善の方法を考えていく。家族が患者の死後”できることだけのことはした”という、気持になれるよう援助することがが大切である。

2010.05.12

   あとがき

 人の生と死は、その人の意志とは無関係に起こる。自分の意志でこの世に存在を始めた人が一人もいないように、自分の意志や他人の操作で生命の終わりが決まるものではない。天命という言葉が示すように、生命の終焉の時期は神の領域に属するものである。
   私は裸で母の胎から出てきた。/また、裸で私はかしこに帰ろう。
   主は与え、主は取られる。/主の御名はほむべきかな。

 これは旧約聖書のヨブ記一章第二十一節(新改訳聖書)にある聖句で、ヨブが愛する七人の息子と三人の娘をすべて失った後にもなお、神をたたえた言葉である。神によって裸で母の胎から生を受けた人間は、神が定められた時に裸で死を迎える。
 肉体の死は絶対に避けられない現実である。その現実をしっかり見つめる時に、人は良き生を生きることの大切さと、その奥にあるものを思うことができる。
 ホスピスは、人が交わりの中で支えあい、最後まで生きる場所である。イギリスでは政府の補助と一般の人々の寄付金によって、ホスピスは運営されている。アメリカにおいては、最近ホスピスののケアが健康保険の対象として認められた。公的な援助はなく、寄付金も集まりにくい日本において、ホスピスを運営していくためにはさまざまな困難が伴う。しかし、一般の人々が、ホスピス・ケアを望んでいることは確かである。それは私たちが計画しているホスピスに対する、多くの方々の協力によってもあきらかである。
 この本の内容は、すべてホスピス的な考え方に基づいているといえる。ホスピスでは、看取る者も看取られる者も、お互いに弱さと限界を持った平等な人間として支え合うのである。私はそのような場で生かされたいと願っている。
 十年間のわたり、末期患者のケアに対して、理解と協力をして下さった淀川きりすと教病院院長、白方誠彌先生をはじめ、チームメンバーの方々の助力なしには、この本は生まれなかったと思う。
一九八三年 春

2010.05.08 


緩和医療 柏木 哲夫 

1970年前後より世界に拡大したホスピス運動は日本にも移入され、06年11月現在、公的に認められているホスピスは163を数えるようになりました。77年に設立された『日本死の臨床研究会』は日本におけるホスピス運動と呼応する形で発展し、その会員も2千人を越えました。しかし、医学の進歩に対応する専門性をもった緩和医療について言及すれば十分な取り組みとはいえません。

 一方、イギリスでは87年に緩和医療が医学の専門領域と認められ、大学の医学部で正式な講座となりました。オーストラリアでも緩和医療の教授が誕生しています。日本でも、現在、大学に正式な講座が生まれつつあります。

 WHO(世界保健機構)の定義によりますと、「緩和医療とは治癒を目的にした治療に対する積極的で全人的なケアであり、痛みや他の症状のコントロール、精神的、社会的、霊的な問題のケアを優先する。緩和医療の目標は患者と家族のQOL(生活の質)を高めることである。緩和医療は初期段階において、治療の過程においても適用される」とあります。要約しますと、生命にかかわる疾患の医療のあらゆる課程で、患者と家族に対して積極的に行われる全人的なQOLを重視した医療ということです。このように積極的なケアを専門分野として目指す医学が緩和医療です。

 重要なのは、その積極性が治療・延命にではなくて、苦痛の緩和に向かうことです。これまで、治癒に導けないのなら、たとえ苦しくても、少しでも延命する考え方が中心でした。延命はもちろん大切ですが、しっかりと症状をコントロールし、精神的にも支えることが重要であるとするのが緩和医療の基本的な考え方です。
資料:消化器now(No.36 2007)

 先日、柏木 哲夫先生が島根県で病院を開き、ガンの末期患者の方を訪問ケアにあたられている様子が放映されていた。このような病院・先生が多くなることを願っている患者・家族がたくさんいるだろうとおもひました。

★プロフィル:柏木 哲夫は、日本の医学者、内科医、精神科医。博士、博士。専門はターミナルケア。クリスチャンであり、日本メノナイト・ブレザレン教団石橋キリスト教会会員。淀川キリスト教病院理事長、大阪大学名誉教授、ホスピス財団理事長


32金光 章 (かなみつ あきら)(1940~)


『民藝を楽しむ』(吉備人出版)

柳先生からのメッセージ

 改めて事挙げするまでもないことですが、民藝は柳宗悦(やなぎむねよし)という人によっておこされました。柳先生にも師や、肝胆相照らす知己・知友がいて互いに影響を及ぼし合うこともあったでしょうが、民藝はあくまで柳先生自身の思想です。ですから民藝を知るには直接先生の著作から学のが一番いいのです。私がこれから述べようとすることも、一人でも多くの人に柳先生の著作に直接親しんで欲しいという希望の表れんいすぎません。
 柳先生は優れた宗教哲学者でありなが、類い稀な美的鑑賞カ眼を備えた人でした。美的鑑賞力と哲学者としての思考力、この必ずしも両立し難い二つの才能を同時に備えた稀有な哲人が創出した独自の世界が「民藝」です。
 その民藝から自分の糧となるものを得ようとするなら、先生の持つ幅広い内容をまずはこの二つ(美的鑑賞的な面と哲学的な面)に分けて考えると入り易いかもしれません。
 まず美的鑑賞能力についてですが、柳先生はそれまで誰も評価しなかった主に江戸末期から、明治、大正頃の日本や朝鮮で使われていた食器や日用品、着物など、普通の市民が日常使う雑器類に独自の美しさを見出したのです。
 論より証拠、先生によって選ばれたその美しい工芸品はいま東京駒場の日本民藝館に展示されています。それら品々は、以前はごく普通の生活に使われていた物たちですが、今では民藝館以外では旧家に行ってさえ殆ど見かけられなくなりました。
 しかし、展示品を一つ一つゆっくり見て行きますと、どこか馴染みを感じ、誰も気持がゆったりと寛いで来るとと思います。心が閑かになり、感性が甦ってくるのを感じると思います。江戸時代や朝鮮の李朝時代などといえば封建社会であって、一般庶民は貧しく惨めな暮らしを強いられていたというイメージがありますが、どうしてどうして生活用具は実に豊かな表情を見せてくれます。
 これは「どんな時代でも、人は美しい物を作ったし、使う人はそれを選んで楽しむ能力を持っていた」という柳先生からのエールなのです。柳先生は従来からの物の見方にとらわれず視点を一転させることで「普段に使う日用品にさえ(日用品にこそ)美が潜む」という「民藝」の発見によって、私たち庶民を勇気付け、生活に希望を贈ってくれたのです。豊富な実例によって、このような物の見方を開いたのが民藝であります。
 これまで民藝に馴染みのなかった人にとっては、柳先生の物の見方はやや独特かもしれません。しかし客観的に見ても、こだわりのない誰もが納得のゆく見方です。慣れればこの見方こそ正当と思えるようになります。

 松本民藝家具の創始者である、池田三四郎氏は「柳先生の眼をわけてもらう」と表現していますが、まずはこの見方を身に付けたいものです。それには何よりも見慣れることが大切です。写真や文章表現だけでは分からない。たびたび民藝館などを訪ねて、眼を慣らすことが必要と思います。幸先生の見方を踏襲した先人たちによって倉敷、鳥取、松本、富山などに地方民藝館が作られています。
 度々訪ね、何時もその時初めて見るような新鮮な気持ちで、故事来歴など忘れ、心を平静に精神を集中してみることが肝要です。その度毎に心がリフレッシュされることと思います。
 こうして民藝品に親しむうちに自分の身辺にも古民藝品を集めたくなるものです。それは自然の成り行きかもしれませんが、実際今では古民藝品は希少で高価ですし、決して集め、飾ることだけが民藝の見方を習得し眼を慣らすことは精神面を含めた、日頃の暮らしゼンパンを美しくするためのトレーニングと心得たいものです。
 柳先生の選んだ工芸品は普通、「民藝品」とよばれますが、柳先生は民藝品を選んで公開しただけでなく、それらが作られた背景を考察して、一つの思想体系を導き出しました。今日、「民藝」といえば工芸としての民藝品のあり方だけに焦点が向かいがちに見受けられますが、「民藝」は柳先生の思想内容まで含めて語られねばなりません。
 民藝館では豊かな課程の工芸品の実例が展示されtいますが、それは展示を通じて、今の私たちの暮らしの器物が豊かであることを願うからに他ありません。暮らしの器物が立派(柳先生はこれを「健康」と表現していますが)であるためには、それを用いる毎日の暮らしが充実したものでなければなりません。この暮らし、「平常」に重きを置く考え方が民藝思想の核心です。工芸品の形を問うにしてもそれ以前の、その基をなす姿勢が求められるのです。ここに単なる骨董趣味と決定的な違いがあります。
 私は民藝品を愛好し、柳先生の思想を信じ行じる人を『民藝人』と呼ぼうとおもいます。民藝人は柳先生の思想に適った「よく生きようとする」人のことです。
 よく生きる。そのためには毎日を大切にしなければならない。日々の行い、毎日の瑣事こそ大事にされるべきなのです。それが結果として毎日使う用具に美として自然に表れてくるのです。これが柳先生からのメッセージです。
 民藝に興味を覚えて民藝を知りたいと感じたら、直接柳先生の著作を読むことを欠かせません。先生の主要な著作は今では岩波文庫、講談社学術文庫など充実していて、誰でも手軽に入手できます。時間がなければ、岩波文庫の『民藝四十年』の中の「雑器の美」「民藝の趣旨」だけでもいいでしょうが、『民藝とは何か』(講談社学術文庫)は入門書として最適です。それで柳先生の考えの基本は分かります。少し読み難いけれど『美の法門』も合わせて読むなら先生の考えがより深く理解されます。


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岡山県と民藝

 岡山県倉敷市にある(財)倉敷民藝館(右の写真)はこの秋開設六十周年、還暦を迎えます。ちなみに私の所属する岡山県民藝協会はその二年先輩、昭和二十一年の設立ですが、設立当初から既に地方民藝館の創立を目標に掲げ、民藝館が立ち上がると、直ちに会員に呼びかけて展示購入基金の募集を行うなど、民藝協会と民藝館は車の両輪の如くお互いに支えあい一体となって民藝普及活動を実践しました。お蔭様でで共々無事60年の歴史を刻んだことを誠に喜ばしく思います。
 現在、全国的に民藝活動が盛んと見られる地域はいくつか数えることが出来ましょうが、倉敷民藝館を中心とする活動も、その最右翼の一つと自負します。
 最近「地方の時代」とかで地方自治を見直そうとする機運の中で、倉敷は文化度の高い街、特色を持つ地域として注目されているようですが、そのバックボーンとなるものが何かは案外知られません。実はそれこそ民藝であると私は信じています。
 倉敷に民藝の強力なリーダーが存在して、その何人かリーダーが立場に応じてその役目を力強く支え、街の性格に大きな影響を及ぼしました。
 昭和十一年、東京駒場の日本民藝館設立には多大な貢献のあったことで知られる大原孫三郎翁は倉敷の人です。翁は経済活動で高い実績を残す片方で、終生民藝と郷土の文化に対して深い理解を示しました。そもそも大原翁と柳宗悦先生との邂逅は郷土倉敷の工芸振興への指導を通してですから、倉敷民藝館そのものの歴史こそ六〇ねんですから、その胚胎期まで含めるなら、更に二〇年以上遡ることができましょう。

 倉敷民藝館の立案から誕生までの事実上の貢献者は孫三郎翁の後継者である、大原總一郎氏です。總一郎氏が郷土で父親の残した仕事、民藝を中心とした文化運動を成就しようとけいかくしたのが倉敷民藝館の設立だと考えられます。
 いずれにせよ大原家二代によって倉敷民藝館の礎が築かれたことは記憶されるべきことです。「わしの目は十年先が見える」とは孫三郎翁の言葉だそうですが、こういう先見力のある、破格の実行力を備えた人が倉敷の街に存在したことは誠に幸運でした。 
 大原總一郎氏から直接民藝館の運営を託されたのが外村吉之介初代館長です。着任に当り館長は『民藝館の仕事』として館の目的を十二ヶ、箇条書きに整理し示し、冊子に明記して実行し外村館長没後の今なお堅守されています。
 それにはまず陳列品を「集めること」「選ぶこと」「守ること」「列べること」「みせること」あるいは「調べること」が列記されていますが、これらは博物館としてはいわば当然の仕事内容でしょう。倉敷民藝館のユニークさは、これに「学こと」「説くこと」「作ること」「使うこと」「暮らすこと」「喜ぶこと」が加わっていることです。民藝理論の普及をめざして実践を重んじ、模範を示し、場合によっては作ることまでその範疇とした、作り手の養成や指導まで含めた『民藝館の仕事』を規範として、活動をつづけました。
 以後の外村館長の活躍ぶりは全国に広く知られるとおである。その熱意溢れる姿勢は人を強く惹きつけるものがありました。けれど郷土では館長の持つカリスマ性が、それ故に一部市民の反発を、招いたことも事実で、説こうとした真意が遍く伝わらなかったことは双方にとって誠に残念なことでした。
 大原總一郎氏の民藝普及のための構想には展示を主とする民藝館の活動に止まらず、民藝品の生産と販売の強化も含まれました。民藝館設立に先だち、販売を主目的とする会社が組織され、地元の良い製品を全国に伝播すると共に、全国各地から優れた民藝品を集めてデパートに設けた売り場を通して、各家庭に届けられました。この杉岡泰(一九〇六~一九九三)社長率いる岡山県民藝振興会社が実際面での郷土の民藝文化を飛躍的に向上させたと考えられます。
 各家庭で日常用いる生活用具が真に充実した美しい物で整えられることが、単純に考えた民藝運動の目に見える形での成果とするならば、その場合、「直観で物を選ぼう」と言われてても誰でも直ちにそうした選択が出来るわけではありません。能力あるスタッフを備える、真摯な仲介業者が必要です。こういう工芸品店が身近に存在したこと。岡山県民藝振興会社、倉敷民藝館、岡山県民藝協会の三者一体、手を携えて歩んだことが、郷土の生活文化を大いに高めました。
 前述したように倉敷は特色ある街として全国から注目されています。実はこれも民藝運動の成果の一つになのですが、表通りが他に類を見ないよいうな伝統的美的統一感によって纏まっていること。加えて絵画や音楽、演劇等のための施設が整い、愛好者が多くこの地に集まること等々。表面に現れた面においても確かに文化面の成熟度の高さをしめしています。
 更にこの街に近づき家庭内を覗くなら、多くの家庭が美しく健康的な日用品で充実していること。物と心が一つになった健康的な暮らしを保ちながら、それぞれが優れた人間性を備えようと心掛け、民藝の理想とする人格を目指そうと励む人が多くいることに気付くことでしょう。一地方の限られた人数かもしれませんが、この地の民藝の先達たちが倉敷民藝館と民藝協会を拠点として、播いた生活文化の種は順調に発育しているのをかんじます。時代が移り、世代が代わっても、民藝人の数も増すこと、各地に拡がることに力を注がねばなりません。

*金光 章氏紹介:2007年より 日本民藝協会専務理事として活躍されています。
 この著作は22の部分で構成されていますが、筆者はその2つを取上げました。著者の意図に沿わない点があると思いますがご容赦下さい。
 インターネットで「金光 章」で検索しますと、この著作の入手法も分かります。

22.8.28


33石橋 富知子(1940~)

立腰との出会い    石 橋 富知子

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 昭和四十六年四月一日、「笑顔で明るい元気な子供」という目標を掲げて仁愛保育園を開始したものの、子供達の自由奔放な活発さに押し流されてしまい、すべてが中途半端な保育園に終始しているという不安感に悩まされておりました。

 これを解消できる方法を希求し模索し続けて三年目を迎えましたが、その春先に、森信三先生の「ひとつひとつの小石をつんで」の講演録小冊子に出会うことができました。この本の出会いをつくって下さり、森信三先生との直接の出会いへと導いて下さったのが、熊本の田辺聖恵先生でありました。この冊子には、人間教育のキメ手は「立腰」であり、人間形成の土台づくりは「躾の三原則」に帰結する、という森信三先生の人間学の根本である身心相即の原理に貫かれた御教示が実に分かり易すく、解きほぐされているのでした。読み始めると共に私は、全身に電流が走る様な感動を覚え、その時の歓喜と躍動を今も忘れることができません。さっそく保母職員の方たちにお願いし、躾の三原則と立腰を同時に実践開始し、特に挨拶に力を入れ、先生の方から先に子供達と目を合わせて丁寧に挨拶をし、受け入れ態勢をつくり上げていきました。登園時には門の前に毎朝園長の私自身が、明るい笑顔とあいさつで、子供達と父兄を迎え入れました。

 「ハイ」の返事は、先生達同志がお互いに「ハイ」とはっきり応答し合う様に努め、クツは園児と一緒に、前の方を先にして入れることを実行しました。決して叱らず、されど例外をつくらず、やり続ける事を実行しましたら一ケ月足らずでその効果が出始め、園生活に一定のリズムが生まれ静と動のバランスがとれてきて、保育の進行がスムーズに行き、時間のロスが失くなり、収拾に手こずることがなくなりました。

 現在立腰にとり組んで十一年目になりますが全園児二〇〇人を一斉に開放し活動している子供達を静粛にするのに一分とかかりません。

 「腰骨を立てます」という言葉がけひとつですべての活動を中止し、その場で立腰に入り私語ひとつなくなります。これが当園の日常です。自己規制と自己解放が容易にあざやかにでき、そして集団的にも一斉に調整することができ、全開放から整列へと転換できるようになりましたのは、その唯一の方法は立腰以外にありえないと思われます。また、先生と子供とのいのちの触れ合う心情の育ちもこの躾の三原則と立腰の持続実行の中に、確実に培われていくということを確信し実感しております。

  一、立腰の定着するポイント

 四月入園式当日から、例外をつくらずやり続けることで、立腰が人間として一番大切な事もそれとなく悟らせること。それには、先生自ら真剣に腰を立てること。

  二、床に坐っての立腰と、椅子に坐っての立腰

 床に坐っての立腰の時も椅子に坐っての立腰の時も、先生が無言で掌に全身の真心と愛情をこめて子供達の真後ろから、背中から腰部にかけて触れてやり、腰骨をグンと前の方に突き出してあげます。床に坐っての立腰の方が定着が早いように思います。安定感が強いからでしょうか?

 椅子に坐っての立腰は、椅子の半分に腰かけて、足元は揃えて床につけること。手は自然に股の上に置く、いずれの立腰の時も、瞑目させることと、机間巡視を終わったら、先生も坐って瞑目立腰をする。(三分以内)

 終わりの合図は「ハイ 目を開けます」と、リズミカルな明るい声で合図し、目を開けた瞬間、先生の眼に子供たち全員の眼が集中する様に指導すること。一日の中で、この様に一回はじっくり立腰の集いを持つと良いと思います。これによって、自分を育てる為に立腰が大切であることが身心を通してしだいに会得できてきます。

  三、授業に入る前に大事な事

 先生が立腰の姿勢で待ち続けることです。これが静から動への切り替えの重大さがしだいに分かり身についてくるものです。

  四、起立のときの「立腰」

 これは普通にいう「キヨツケ」の姿勢ですが、その要領は、踵をつけて、足の先を45度に開くことの徹底によって定着します。

  五、行動中の立腰

 これは行進によって会得させます。リズムに乗って、一二三四と声を出させます。眼は前方のやや上り気味に向けさせること。毎日五分間続けていくと、みるみる成果が上がって、全体行動に、けじめがついてくるようです。

  六、聞く時の立腰

 先生の話を聞く時、椅子の背にもたれないことを徹底する。椅子の半分の所に坐る習慣づけをいたします。加えて、椅子の線をクラス全員で揃えて坐る習慣をつけさせます。どこの線に揃えるか、皆と話し合い先生が確認し、ほめてあげると定着します。先生のお話しは、目をみて聞くこと。先生もまた、目をみて応えてあげることの習慣づけが大事です。先生のお話しが終わるまで次の行動に入らない。動かない。この点をしっかり押えればクラス全体に落ち着きが出てきます。

  七、先生自らの立腰と表情

 何といっても先生自身の立腰と豊かな表情でリズムと変化をつけられるようになることこれが立腰を定着させる重要なポイントとして忘れてはならないことです。一番肝要なことは、先生自らが立腰に徹する姿勢を身につけ、何時でも日常生活の中に立腰を入れ込んでいくことが更に大切なことは勿論でありますが、この立腰を通して、つねにその場その時に応じた臨機応変の姿勢ができますと共に、子供たちのひとりひとりに接する表情とことばかけの微妙な対応が何よりも大事だと思います。やはりこうしてみますと、「立腰」の定着も結局、技術以前に、保母自身、教育者自身の問題に帰着するようです。

               (福岡市西区樋井川二丁目十一*三十七)

文献:「森 信三 先生 提唱 新版 立腰教育入門」 より。

平成二十八年四月十六日


34米長 邦夫 (1943~2012)


 「僕は二割の悪口はいいような気がします。八割はほめられて二割の悪口がいいと思んです。」

 「われわれは他人の目を気にしたときには大体弱くなりますね。」

*:日経日曜版


35藤原 正彦 (1943~)

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▼『父の威厳 数学者の意地』(新潮文庫)

 この本の「ほめること>」は「ピグマリオン効果」に近い話だと思いました。

 興味ある考えさせられる文章が沢山あります。その中で関心を引かれた章の二つ引用させて戴きました。

  ほめること

 ほめることが、子供の教育上もっとも大切とはよくいわれることである。子供ばかりではなく、大学院生くらいになっても、指導教官が少しおだてただけで、みちがえるほど実力を伸ばすことがある。

 ローゼンソールという心理学者は、あるテストを小学生のクラスで行った。そして担任の先生に、

 「これは私がいま開発中のテストで、将来の学力の伸びを正確に予測するものです。先生にだけこっそり、伸びる子の名前を明かしましょう」

 と何人かの名前を教えた。担任の先生はこの生徒達に、内緒でその事実を伝えてしまった。一年ほど経つと、担任から伸びると告げられた子供たちの学力とIQは、他の子供に比べ著しい向上を示した。実はローゼンソールは、五人に一人の割合ででたらめにこれらの生徒を選び、担任に告げたのだった。

 私のようによく原稿を書く者にとっても、ほめられたりおだてられたりは重要である。ふつう原稿を仕上げた直後は、不安で一杯である。つまらぬことや、面白いが説得力に欠けることを、独りよがりに書いたり、陳腐なことをくどくど書いたりする危険は、常に存在する。しかも書き手本人は気付きにくい。

 だから書き終わるや、家族の一員に必ず読んでもらう。他人にはまだ恥ずかしくて読まれたくない。以前は父や母に依頼したものだが、いまは女房に頼むことが多い。

 女房はめったなことではほめてくれない。かなり面白いと思っても、「まあ、いいんじゃない」くらいなものである。逆にけなす時は手厳しい。こちらは不安のどん底だから、大概は批判をそのまま受け入れ、文章を改める。小さな手直しですむ時はよいが、構成上の難を指摘された時などは、締切りの過ぎた原稿を、全面的に書き直すことさえある。

 原稿書きの不安など全く理解せぬ、中学一年生を頭とする三人の息子たちは、私のこの姿を見て、女房が我が家のプレインであり私が書記、と信じ込んでいる。巨人軍原選手の、バッティング上の欠陥を指摘するだけなら私でもできる、と子供に言い聞かせるのだが、言い訳としか取らない。

 実はこの不安は、作家であった父にもあった。母をはじめ私や妹に、ほやほやの原稿を持参することがよくあった。母はたいていの場合、くそみそにけなした。そんなことが続いたので、いつの頃からか、父は母にいっさいの批評を頼まず、腹心の編集者たちに頼むようになった。父はこの人達の読み手としての能力を高くかっていて、彼らの言うことことは、ほとんど何でも聞き入れていたように思う。父にとって最高のほめ言葉は、「一気に読みました」であった。編集者からこの一報を電話で受け取った後は、それまでの不安気な表情はどこへやら、おはこの、

 「どうだ、天下の新田次郎だ参ったか」

 が威勢よく口から飛び出した。

 父は新人作家をほめることも、常に心がけていた。ほめることがこやしになるというのが口癖で、文学賞の選考委員をしながら、惜しくも賞を逸した者に、励ましのためと個人的に腕時計を贈ったこともあるらしい。

 私も、女房の「まあ、いいんじゃない」を編集者に渡すから、「面白かった」の一報はすこぶるうれしに。どんな原稿でも全力をつくして書くだけに、達成感を伴ったこのうれしさは格別で、その日一日は幸せが続く。朝に聞いても晩酌までうまい。

 編集者からコメントを貰えない場合は、無論否定的に考える。つまらなかったのだろうかと思う。多くは編集者が忙しかったり、単にそうする習慣を持っていなかっただけなのだが。

 今年の初めから、山本夏彦の発行する「室内」に連載しているが、ここの編集者は、原稿を読むと同時に、必ず感想を述べてくっる。たいていは好意的なものだから、こちらも爽快な気分になり、次も頑張ろうと思う。

 最近、山本夏彦の随筆で、原稿書きはほめ言葉で生きている、という主旨のものを読んだ。我が意を得たり、と思わず快哉を叫んだが、しばらくして、急に疲労を覚えた。

参考:「ピグマリオン効果」をインターネットに掲載されています。

  科学と金銭

 数学をするものに金銭は要らない。専門の書籍と雑誌、それに文房具があればひとまずは研究ができる。だから大学において、数学科ほど金銭に淡白な学科は、すくなくとも理系にはない。

 実験系学科の金銭への執着は、いつも数学者を驚かせる。少しでも多くの研究費を獲得せんと、学内努力ばかりか、あらゆるつてを通して学外からの寄付をあおぐ、新しい実験装置を調え、充分な試薬を購入し、最新のデータ処理装置を備えることにしのぎを削る様は、研究熱心のせいに違いないのだが、私などにはあさまいとさえ思えてしまう。

 化学系のある教授にそれほど研究費獲得に狂奔する訳を尋ねると、

 「百万円の機器を持つ秀才でも、一千万円の機器を持つ鈊才に敵(かな)わないからだ」

 と断言した。最近のテクノロジーの発達は目覚しく、一ケタ上の精度を持つ機器があれば、好論文をどしどし書けるらしい。

 この言葉にはさすがにびっくりした。研究が頭脳より設備で決まるなどということは、数学者の想像できることではないからである。念のため、物理学科と生物学科の教授にもこの言葉の真偽を尋ねてみると、「その通りとか」、「ある意味でそうだ」などと肯定的だった。

 それでは余りにも夢のない話と、同じことを、友人でサーの称号を持つ、英国の世界的物理学者に尋ねてみた。彼はそれまでの柔和な表情を一瞬引き締めこう言った。

 「そういう科学者がかなりいるが、私はその考えに与(くみ)しない。より高級な機器を追い求め、それに頼るような研究態度からは、独創的アイデアが生まれにくいからだ」

 英国の科学研究政策に係(かか)わった天才だけに、厳しい見方のようだが、何故かホッとしたものだった。

 天才と普通の科学者ということで、 一昔前の共鳴箱論議を思い起こした。一九五〇年代の半ばに、二十世紀を代表する数学者の一人であるW教授が、「数学は少数の天才により作られる。他はそれに共鳴しているに過ぎない」という趣旨の発言をし、論議を呼んだのだった。その論議がどう終結したのか知らないが、W教授の発言は、数学者によくありがちな単純な思い込みと私には見える。

 法隆寺の建立を考えてみよう。あれほど美しい建築を今日まで残すには、何よりもまず天才設計家がいたはずである。彼が建物の青写真を決定したことは慥かである。しかし、青写真は建物ではない。あれだけの建物にするには、素晴らしい腕を持った一群の宮大工がいたに違いなし、大予算を調達した敏腕政略家や、それを切り盛りした有能な経理家もいたはずである。千数百年もの星霜に耐える木材を得んと、特定の山の特定の斜面から、特定の樹木を選び出した凄い目利きもいたに違いない。これらの誰もが価値ある仕事をなしとげたのであり、誰がいなくても、あの美しい形を今日の飛鳥に残すことはできなかっただろう。W教授の言分は、法隆寺は天才設計家が作った、と言うに似ていて、穏当とは思えない。

 最近の科学の発達は、極端な細分深化をもたらし、ほとんどの科学者をますます狭隘の深みへ追い込んでいる。それは広い視野からの発想を困難にし、新鋭機器に依存する以外に進みにくい状況を作っている。

 このような研究の重要性を認めた上で、やはりいくばくかの淋しさを禁じ得ない。寺田寅彦や中谷宇吉郎が妙に懐かしく思えてしまう。あの頃は、天才だけでなく、すべての科学者にロマンが共有されていたように思えるものである。

私見:私もある科学系(実験を伴う)の分野の研究者から、研究費の必要性を痛感していることを耳にしています。科学が分化し多様化とどうじに深くなっている状態では「百万円の機器を持つ秀才でも、一千万円の機器を持つ鈊才に敵(かな)わないからだ」は容易に想像できる。

参考:1943(昭和18)年、旧満州新京に生まれ、東京大学理学部数学科大学院修士課程修了。お茶の水大学理学部教授。故・新田次郎と藤原ていの次男。著者は数学者。

2009.11.26


36星野 富弘(1946~) 


▼詩画集絵はがき 3(銀の雫)

 かるくても いいじゃないか

 新しい雪の上を

 歩くようなもの ゆっくり歩けば

 足跡が

きれいに残る

中村和美様よりの絵ハガキより

★プロフィル:星野 富弘は、日本の詩人・画家。現在も詩画や随筆の創作を続けており、また国内外で「花の詩画展」が開かれている。


37今枝 由郎(1947~) 


「仏性」と「成仏」 今 枝 由 郎

 以前わたしは、「龍という人格━━ブタン第五代国王語録」(本誌2012年4月号)で、一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつぶつしょう)すなわち、生きとして生けるものはブッダ(=仏、すなわち、「目覚めた者」)となる資質を内蔵している」という大乗仏教の教義に触れた。そして、それは初期仏教では説かれなかったが、西暦四〇〇年前後に成立した『涅槃経』に初めて明確に宣言され、以後の大乗仏教の中心的教えとなったと述べた。

 大乗仏教の流れを汲む日本仏教にも、当然のこととしてこの理念は伝えられ、受け継がれている。しかし日本では「一切衆生悉有仏性」ということばはあまり用いられず、もつぱら山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしつかいじょうぶつ)すなわち、「山も川も、草も木も、すべて成仏する」という理念が知られるようになり、ほぼ同趣旨であると理解されている。確かにその一面はあるが、両者の間には微妙ではあるが本質的な違いが二点あることにも注意しなくてはならない。

 一点は「一切衆生」が、「山川草木」あるいは「草木国土」となっていることと、もう一点は、「悉有仏性」が「悉皆成仏」となっていることである。前者に関しては、問題となるのは、「衆生」の解釈である。このことばは、そもそも中国語仏教経典の原典であるサンスクリット語の sativa を訳す時に、新たに作られた用語で、その他にも「有情」ということばで訳出されることもあり、意訳ではなく音訳される場合は薩埵(さった)という漢字が当てられた。いずれにせよ、サンスクリット言語の意味は「命あるもの」であり、仏教のコンテクストでは、輪廻を繰り返しながら、究極的にはブッダすなわち「目覚めたる者」を目指すもの、すなわち人間と、人間が輪廻の中で取りうる一形態である動物に限定されて用いられた。

 ところが、仏教がインドから中国に伝わり、様々な宗派が創設された中で、天台宗では、ブッダになる(=成仏)可能性(=仏性)を人間・動物に限らず、草木などの「非情」にも認めるようになった。これには、宇宙のすべての事物にアニマすなわち精霊を認めるアミニズム的な道教の影響があったのであろうと思われる。

 そうした流れの中で、八〇四年から八〇五年にかけて中国に留学した最澄(七六六/七六七*八二二)は、師事した天台六祖湛然(たんねん)からこの説を教わり、日本に戻って比叡山に創設した日本天台宗でもこの説を継承した。その後、彼の後継者たちはこの説を、自分たちの感性に従ってさらに拡大解釈し、衆生の範疇を、人間ばかりか、動物、椊物、さらには国土を構成する鉱物、無機物にまで広めた。これはインド仏教はもとより、中国仏教にもなかった、日本独特の独創的な思想で、比叡山「中興の祖」と称される第十八代天台座主(ざす)良源(りょうげん)(九一二*九八五)あたりからはっきり主張されるようになり、天台本覚論と呼ばれる。梅原猛氏は「この考え方は非常に日本的で、日本には縄文時代以来、自然を神と見る思想があります。それが仏教のなかに入り、日本独自の仏教をつくったのです」と述べているが、当たっているであろう。本来の仏教にはなかった日本的展開であるが、一概に誤り・逸脱であると否定されるべきものではなく、評価されるべき面もある。

 この思想は、以後日本の仏教に限らず、日本人の根底に地下水のように流れているが、ほとんど忘れ去られた存在となった。ところが、最近になって、改めて注目される存在となって、改めて注目され始めている。近代文明は、驚異的に進歩した科学技術を駆使して自然を制御・支配することにより、人間の快適さ・利便さを築き上げてきた。これは高く評価されることである。しかし、その人間中心的な文明にはマイナス面も多く、ありとあらゆる形の公害、人口爆発、地球温暖化、環境破壊、絶滅危惧種といった、数多くの深刻な問題を生み出している。

 こうした状況を前に、たとえばアメリカの物理学者フリッチョフ・カブラ(一九三五年生まれ)は、『生命の天網―生命体系の新しい科学的理解』(一九九六年、邦訳なし)の中でこう述べている。

 「私たちは、抽象思考能力により、自然環境―「生命の天網」―を、あたかも私たちの利益のために搾取できる様々な要求と見なすようになってしまった。さらには、自然をこうした要素に分解するという世界観を人間の社会にも適用し、それを国家、人種、宗教、政治集団というものに分割してしまっている。私たち自身、私たちの環境、そして私たちの社会を、こうした分解された要素であると思い込むことによって、私たちは自分自身を自然から、そして自らの同類から切り離してしまい、次元の低いものにしてしまっている」

 「基本的な原則は相互依存である。一つの生態系を構成するすべての要素は、巨大で複雑に絡み合った関係のネットワーク、すなわち「生命の天網」の中で、お互いに繋がりあっている。すべての構成員との関係から導き出されるものである。相互依存―すなわち、すべての生の営みがお互いに他者に依存しあっているということーは、すべての生態的関係の特質である。生態系のあらゆる生き物の活動は、他の多くの生き物の活動に依存している。共同体全体の成功は、個々の構成員の成功に依存し、個々の構成員の成功は、共同体全体としての成功に依存している」

 「十全な人間性を取り戻すためには、私たちは「生命の天網」との絆を結び直さねばならない。絆を結び直すことは、深い意味でのエコロジーの精神的礎の本質そのものである」

 彼の言う「相互依存」とは、まさに仏教の「縁起」に当り、「生命の天網」とは仏教的自然観に他ならない。二十世紀最大の科学者とされるアルバート・アインシュタイン(一八七九*一九五五)の「仏教は、近代科学と両立可能な唯一の宗教である」ということばに改めて紊得がいく。こうして見ると、人間も、動椊物も、さらには鉱物、無機物も、すべておなじく仏の現れであると見なす天台本覚論が、今改めて評価されてしかるべきものである。

 ところが、この天台本格論思想を実際に「活かす」となると、「活かす術(すべ)」が欠落しているということに気付かざるを得ない。これが、思想としては独創的で優れたものであるにもかかわらず、天台本覚論が日本仏教史上、具体的にさしたる結果を生まなかった所以であり、本質的な弱点であろう。

 その理由を考えてみると、最初に指摘した第二点目の相違、すなわち『涅槃経』本来の「悉有仏性」が「悉皆成仏」に変わったというところに行き着く。これは、伝統的な仏教思想からすれば、論理的な飛躍・逸脱に他ならぬからである。

 先稿で述べたことであるが、重要なので繰り返すと、『涅槃経』には「生きとし生けるものは、ブッダとなる資質を内蔵している」と説かれていても、誰もが無条件でブッダになれるとは説かれていない。逆に「ブッダとなる資質があっても、修行しなければ、ブッダとなる資質は顕在しない」、「生きとし生けるものには、ブッダとなる資質はあるが、定められた規律を守ることが必要で、さもなければ資質は顕在化しない」と記されている。このことから明らかなように、ブッダになる資質・可能性=仏性と、その開花=ブッダになるなること=成仏とは峻別されており、後者の実現には戒律、修行が必要である。『涅槃経』の意図は、あらためて資質・可能性を前面に押し出し、その自覚を促し、その顕在化・開花のために必要な持戒・修行へと誘引・奨励することであった。

 衆生、仏性、成仏は、花の生育に喩えれば鉢、種子、開花に置き換えられるであろう。すべての鉢には種子が播かれている。それ故に、その種子が順調に発芽し、生育すれば、開花する。しかし、それには土壌、肥料、水、太陽の光といった様々な要素が必要不可欠なことは言うまでもない。種子は開花の必要条件に過ぎず、種子があれば即開花するという十分条件ではない。

 ところが日本の天台本覚論では、この点に関して恣意的な歪曲でないにしても、本質的な誤認があると言わざるを得ないであろう。「本覚」とは、「本来の覚性」で、すべての衆生は、元々「目覚め」ている、という考えである。そして、衆生は誰でも本来目覚めているが、煩悩にまみれて、その自覚をなくしてしまっているだけである、と主張された。そこからさらには、人間は、誰もが元々目覚めているのだから、修行する必要もなく、戒律も守る必要がない、という急進的な解釈が生まれて、一般化した。かつて田村芳郎氏は「注意すべきことは、哲学理論としての頂上が、しばしば宗教実践としては谷底でであることである。天台本覚論思想は、まさにそのよき例となった」と述べられたが、正鵠を得た指摘であろう。

 この指摘は、浄土真宗の信仰にも当てはまる。それを理解するために、改めて仏教の教理に立ち返ってみよう。仏教の基本には、業という概念、理論がある。これは、「善因楽果悪因苦果」という因果律で、よい行い(=業)を行えば、よい結果がえられ、悪い行いを行えば、悪い結果が待ち受けているということである。この因果律は、一人一人の個人の単位で作用しており、仏教の最終目的である「目覚め」に至るまで前進すのには、各人は自ら、すなわち「自力」で、よい行いに励むしかない。各人各人に自己責任性があり、これが仏教本来の姿勢である。仏教は、その本質において、自己責任で行動する自立した個人の実践宗教であり、言ってみれば一人一人の孤独な修業を前提にしている。

 しかし、いくら自らの努力で目的達成までの道のりを歩め、と言われても、それはすべての人ができるわけでなかった。仏教徒の中には、むしろそうした修行を前提に、無力感と絶望感を抱いた人が多かったであろうことは想像に難くない。当初から、そうした修行を諦めて、偉大なる宗教家ブッダを崇めるだけで事足れり、とした信者も多かったであろう。そうした雰囲気の中で、仏教は時代と共に大きく変遷していつた。

 仏教がうまれてから数世紀経ち、いわゆるテーラヴァーダ(「小乗」とも呼ばれるが、これは大乗仏教側からの蔑称であり、ふさわしくない)から大乗になると、業の因果律に本質的な変化が生じた。それまで許されていなかった善業の結果(=功徳)の譲渡が可能になったのである。つまり、余力のある人は、自分の分だけではなく、他人の分まで善業を積んで、その功徳を他人に譲ることができるようになった。その譲渡すなわち回向(えこう)が認められた上で、新たな理想として掲げられたのが、菩薩の概念である。大乗の菩薩は、自らのために善業を積むのではなく、自分の善業の功徳を、他人のために回向する、いわゆる利他行(りたぎょう)あるいは菩薩行に励むのである。それは、自分の父母といった特定の個人あるいはグループのためではなく、生きとし生けるものすべてのためである。それ故に、一人でも「目覚め」に到達できない人がいる間は、自分も「目覚め」に達しない、という誓いであり、遠大な理想である。

 浄土真宗の根本経典の一つである『大無量寿経』に登場する法蔵菩薩は、その典型である。かつて法蔵菩薩は四十八の誓いを立てた。この四十八の願の内、もっとも注目されるのが第十八願で、それは「すべての生きとし生ける者は、わたしの名前を耳にし、わたしを念ずさえすれば、死後、わたしの国に生まれることができますように。これが成就しない限りは、わたしはブッダにはなりません」という誓いである。法蔵菩薩は善業を積み、誓いはすべて成就し、かれは菩薩から阿弥陀仏になった、というのが『大無量寿経』の大筋である。

 この経典の主題は、大乗の菩薩の善業を積もうという決意と実践である。理論的には、自分の善業の功徳を他人に回向する菩薩がいる以上、その逆に善業の功徳を譲渡され、享受する衆生も当然存在するわけであるが、その側面はいっさい問題にされていない。『大無量寿経』が強調しているのは善業を積むという積極的実践である。

 この立場は、チベット・ブータン仏経にみごとに継承されている。筆者は、チベット・ブータン仏経に接して長いが、そこに見られるのは、崇高な菩薩のレベルにはとうてい達することができない一般の信者も、その理想を目標に、自分でできる限りの善業を積み、それを他人に回向する、という姿勢である。

 ところが、浄土真宗の開祖親鸞(一一七三*一二六二)は、『大無量寿経』の法蔵菩薩の話を、まったく逆の立場から解釈したといえる。自分が行った善業の功徳を回向する菩薩の立場ではなく、菩薩から善業の功徳を回向される衆生の立場に立ったわけである。善業を積もうと思っても、悪業しか積めない悲しい存在、だから自己責任性の因果律の世界では救われようがない存在であることを認識し、それでも、さらには、それゆえに救ってくださる阿弥陀仏の慈悲に自らを任せる立場すなわち「他力本願」に徹し切ったわけである。これは、本質的な逆転であり、ここに親鸞の天才的独創性がある。仏教本来の善業を積むとという態度を「難行」と規定し、それができない衆生にも実行可能な「易行」として念仏を提唱し、自らをそして他人を「救う」という姿勢(=自力)を棄て、阿弥陀仏に「救われる」(=他力)という立場を取ったのである。この境地は画期的なものであり、親鸞は日本に限らず、仏教史上まさに天才の一人である。

 この解釈・立場から、親鸞の予期しまかった信仰形態が生まれていつたことは、直弟子唯円(一二二二*一二八九)作と伝えられる『歎異抄』などからもよく窺える。「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」といった「悪人正機」説から、悪業をいっさいはばからない「本願ぼこり」が生まれたのは、その端的なものである。マルクスは、「私はマルクス主義者ではない」と言ったと伝えらるるが、同じことが親鸞と浄土真宗にもあてはまるのではないだろうか。いずれにせよ、この浄土真宗が、日本仏教の最大宗派の一つとなり、今日に至るまで日本人の精神生活に大きな影響を及ぼしていることは周知の事実である。

 論議が長くなったが、ここで、第五代ブータン国王の話しに戻ろう。国王は、『涅槃経』の「一切衆生悉有仏性」の考えに基づいて、誰にでも龍という人格(=仏性)があるので、それを養い、育てなさい、と日本の子どもたちに諭した。メッセージは簡潔明瞭であり、自分の龍すなわち人格を、一人ひとりが自ら「養い、育てる」ことで、これは実践の宗教である仏教の教えである。

 ところが、その同じ基盤から出発した「一切衆生悉皆成仏」、あるいは「草木国土悉皆成仏」という、思想的には優れた理論である日本の天台本覚論では、「養い、育てる」という側面がすっぽりと消えてしまった。また浄土真宗においては、「善業を積み、その功徳を他人に回向する」という菩薩の実践の立場が「回向される功徳を享受する」凡夫の立場に逆転されてしまった。両者ともに、理論としてはすばらしいが、第一義的に実践の宗教である仏教にとって、致命的であると言わざるを得ない。ここに、こうした立場に立つ日本仏教が、現在人類が直面している問題克服の、生きとし生けるものの幸福実現の、本当に生きた指針として機能するために、克服しなければならない課題がある。

 (いまえだ よしろう・元ブータン国立図書館顧問)岩波書店 「図書」 2012 10

参考:今枝 由郎(1947年~)はフランス在住のチベット学者、専攻はチベット歴史文献学。フランス国立科学研究センター主任研究員。 愛知県生まれ。大谷大学文学部卒業。フランスでのチベット研究のため留学、パリ第七大学で文学博士号修得。1974年から国立科学研究センターに勤務。

平成二十八年六月二十三日


38杉本 秀太郎(国際日本文化研究センター教授) (1931~2015年)

『平家物語』

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『平家物語』(講談社)

 祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)

 『平家』を読む。それはいつでも物の気配に聴き入ることからはじまる。身じろぎして、おもむろに動き出すものがある。それにつれて耳に聞こえはじめるのは、胸の動悸と紛らわしいほどの、ひそかな音である。『平家』が語っている一切はとっくの昔、遠い世におわっているのに、何かのはじまる予感が、胸さわぎを誘うのだろうか。それとも、何かのおわる予感から、胸がざわめきはじめるのだろうか。
 あることのことのはじまりは、あることのおわりであり、逆にまた然りとするなら、私が予感とともに待ち受けているのは、まさしくこの世の無常の姿、いのちを享(う)けたものすべてがたどる一栄一落の有様以外のものではない。『平家』を読む。このとき、かすかな胸さわぎが絶えないのは物怪(もつけ)の幸である。
 『平家』冒頭の誰でも知っているくだりは、これから語り出されるものをよく聴き給えということを、ああいう喩(たとえ)で語り出したのである。天竺というおそろしく遠い國の、奥も知れない林のなかに埋もれてしまって、たしかめようもなくなった祇園精舎から、どこからともなく吹く世外の風に乗り、はるばる鳴りわたってくる鐘の声。どんなものよりも近い自分の肉体という場にたしかめることのできる胸のざわめき。相隔たること最も甚だしいこのふたつが、時として、ひとつにかさなるのは、念仏を唱える人の両のてのひらが合わされるのと同じくらいに自然なことではないだろうか。いま、耳の底にかすかに鳴っているのを「祇園精舎の声」と思うなら、たしかにそれは「諸行無常の響きあり」である。私の胸のなかにあって瞬時も鼓動しやめないものも、いずれは停止する。これほどたしかなことはない。胸の動悸が諸行無常の音となって聞こえはじめたにしても、わが耳を咎め立てるにはおよばない。いずれ、ほどなく、諸行無常の音という唱え言よりも、もっと耳をそばだてて聴かずにいられないものが、琵琶の響きとともに次から次にとあらわれてくるだろう。耳をせいぜい敏感な状態に保っておくこと。この用心を忘れぬことにしよう。
 だが聞こえてくるものに聴き入る用意をととのえていると、もう一方では、見えてくるものに目をとめよという声もまた耳に入る。動くものはいうまでもない。動不動にかかわらず、色、彩りあるものの彩りに目をとめるべし、とその声は告げている。冒頭のくだりを念のために引き写すと、

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹(しゃらそうじゅ)の花の色、盛者必衰(じょうしゃひつすい)のことわりをあらわす。おごれる人も久しからず、只春の夜(よ)の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ。偏(ひと)へに風の前の塵に同じ。

 はじめに音を言い、諸行無常を言ったあとで、色を言い、盛者必衰を言うのは、勿論、対句の形式にもとずいてのことである。仏教説話によれば、釈迦がクシナガラで二本の娑羅の木のあいだに横臥して涅槃(ねはん)に入ったとき、単黄色の娑羅の花が白変した。そこで釈迦入滅の地を白鶴に喩えて鶴林と称する。いのちの果てで白く色あせたものも、もとはそれぞれのいのちの色に燃えていたのに、と対句後半は言いたいらしい。
 白が地の色として布(し)かれたことが大事なことである。この白地は、のちの物語に、あでやかな色、きらびやかな色、猛々しい色、しっとりと落ちついた色、物さびた色、重く沈んだ闇の色が、それぞれに映え出す用意なのだと紊得される。のちの物語を絵巻物のように楽しむつもりなら、霧にとざされた冬の朝のように白いだけの世界を、つとめて思いえがくに限るだろう。しかし『平家』が昔の絵師たちを誘惑し、近代の画家たちに恰好の画題を提供し、えがかれた絵が人を魅了するのも、あるいは白変した娑羅の花の色が、われわれの眼底に染みとおっているのからなのかも知れない。自然界が人界の異変に感応した一瞬裡の白変は、いつしかわれわれのに無常を悟らせる色となり、すべて色あるものの示す色はやがて無常の白変を蒙り、ただ追懐のなかに再生する限りにおいて、もとのいのちの色を回復する。この経緯に注目すれば、『平家』が絵巻物あるいは大小の画面よりも能舞台に、もっと多くの主題を提供し、あんなに多くの主人公たちを幽明の境に出没させるにいたったことに、何ら不思議はないように思われる。
 『平家』巻頭の「祇園精舎」は、ほどなく調子をあらためて、天下の乱れを招き、「久しからずして、亡じにし」高位高官の例をまずは「遠く異朝」にたずねて中国の諸例を挙げ、次いで「近く本朝をうかがふに、承平の将門(まさかど)天慶(てんぎょう)の純友(すみとも)、康和の義親(ぎしん)、平治の信頼(しんらい)」と並べ立てたあとに、「まぢかくは、六波羅の入道前太政(さきのだいじょう)大臣朝臣(あそん)清盛公と申しし人のありさま、伝え承るこそ心も詞もおよばれね」と、話題を清盛のことに絞る。この人、桓武天皇の第五皇子を祖とし、それより九代の後胤になるという。祖父は讃岐守正守、父は刑部卿忠守。「かの親王の御子高見の王、無官無位にして失せ給ひぬ。その御子高望(たかもち)の王の時、始めて平の姓をたまはって、上総介(かずさのすけ)になり給ひしより、忽ちに王氏を出でて人臣につらなる。高望の王の子よりのち、清盛の祖父正盛にいたるまで六代は諸国の受領たりしかども、殿上の仙籍をばいまだ許されず。しかるを」と一転した物語は、これより清盛の父忠盛が昇殿を許された次第に移る。撥(ばち)の音にわかに高く、息使い切迫して、せわせわしい。(以下略)

参考:『平家物語を読む』  この記事に杉本秀太郎氏の著作を読んだいきさつを記録しています。

平成二十二年十二十九日


39木村 耕一 (1959~)

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『親の心』

 水戸 黄門 「誕生日は、最も粗末な食事でいい。この日こそ、母を最も苦しめた日だからだ>」
 西郷 隆盛 「ああ、母に心配をかけてしまった。親不孝なことをしてしまった。すまんことをしてしまった」
 野口 英世の母 「どんなことがあっても、おまえだけは一生安楽に養い通すぞ、たとえこの母が食べるものを食べずとも」


 「生涯を懸ける大事業」に巡り合えた人は、幸せである。

 現在は、過去と未来を解く鍵である。どういう志を持って、まっすぐに生きるか、それがいちばん問われている。

 経済的に厳しい時に、心まで貧しくなったのでは、やること、なすこと、暗いほうへばかり傾いてしまう。

 目的に向かって突き進んでこそ、人生は輝く。桃栗三年、柿八年といわれるように、果物でさえ、種をまいてから、樹木が育ち、おいしい実をつけるまでに何年もかかるではないか。まして、人を育てるのに一年や二年で、際立った結果が現れるはずがない。

 どんな結果にも、必ず原因がある。悪い結果が起きたならば、その時、その時、きちんと反省し、改める努力をしてこそ、未来が開けていく。

 「運が悪かった」と嘆いたら、進歩はない。善いタネをまいて、悪い結果が起きることもなければ、悪いタネをまいて、善い結果が現れることもありません。

 逆境の時こそ、落ち着いて物事を判断しなければならない。人には向き、不向きがある。同じことができないと嘆くよりも、得意な分野を伸ばすほうがいい。

 何事も簡単にあきらめてはならない。知恵を巡らせば、結果は大きく変わってくる。人は、苦難を乗り越えてこそ磨かれる。「ここ一つ、命を懸けて悔いなし」と叫べる大目的を見い出し、一心不乱に突き進む人は、最も幸せな人である。


40俵 万智(1962~)(作家)


 山々に神の眠りは刻まれて発光してゆく北のアルプス

*「毎日新聞平成六年五月一日」より

 努力できるということも実力のうち。 


41山田 実


徳永 興起先生の人と教育

  「教育を衣食住のためにする人を教員という。知識技術を授けることを任務とする人を教師という。子供のこころに火を灯す、これを教育者という。」

2008.4.16


42坂田 成美 『実践人』会員 ハガキ道に生きる

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 「種々の出合いも結局人との出合いが根本であり、最後はそこにいたりつくるものと言えるが、機縁づくりの最先兵をなすものは、一冊の小著であり、一枚の通信によるものといえよう。」

 『そこで(縁)について大事なことは「縁に随う」という受身的な考えも自然であるが、今日、やや積極的に「縁」を求め「縁」を拓くとう姿勢も大事であろう。ここにやや積極的にという「やや」というコトバに注目していただきたい。』

 「書くことは、浄化作用があるのでしょうか。不思議なことに、ハガキを書き続ける人は、いつのまにか、心がきれいになっていることに気付きます。その心の“きれいさ”がそこはかとなくにじみ出る人が、ほんとうの永遠に美しい人だと言えるのではないでしょうか。」

※坂田成美さんは「ハガキ道」実践の人。

※私も「はがき通信」をある時期続けました。


43西本 岩夫

立腰教育一年を顧みて 西本 岩夫

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 一、逢うべきときに

 私が東田布施小学校に着任したのは、昭和五十八年四月でした。早速、新校舎の建築にかかり、そして昭和六十年が開校百周年で、その準備も進めるという年でした。こうした時期に、校長を務めさせていただくのも何かの御縁、ぜひ新しい発展の節目としたいものと考えておりました。

 そうした年の暮れ、高校教師の甥が二冊の本を貸してくれました。森信三全集続編三巻と玉田泰之著「立腰教育二十年」で、私にとって、森 信三先生の御本とは二十三年ぶりの再会でした。それは「人間は一生のうちに逢うべき人には必ず逢える。しかも一瞬早過ぎず、一瞬遅すぎない時に」との森信三先生のおことばのとおりの出逢いでありました。

 この二冊の本を読んで、森 信三先生の言っておられる「場を清め、礼を正し、時を守る」を校風として、一人一人の児童に、「立腰と立志」を徹底させたいと決意したのでありました。

 それから自分でも、つとめて腰骨を立てる努力をしてみますと、読書能率が上がり、またどうしても歌えなかった校歌が、音程がきまってしっかり歌えるようになりました。

 そうしたことを教頭と生徒指導主任に話し、「立腰教育二十年」を読んでもらいましたところ、早速共鳴してくれました。

 そこで、その本を全校職員分だけ購入して配り、「五十九年度は、全校あげてこの教育に取り組みたいと思っている。充分研究して意見を聞かせてほしい」と申し渡しました。

 二、立腰教育スタート

   (一) 学級担任の取り組み

 一ヶ月以上の準備研究に、格別異論もなく迎えた五十九年度の四月五日の職員会議で、四月八日までに「立腰教育二十年」の24頁から51頁をもう一度必ず読んで、始業式、入学式後の学級指導の時間に当たり、全校あげての出発とすること。生徒指導主任の配布する「腰骨の立て方五ヵ条」を教卓などに貼っておき、常時指導に心がけることを申し合わせました。

 その後、逐次教室を回って見ますと「立腰」「こしぼねをたてる」「腰骨の立て方五ヵ条」などや、そして、また、

 下腹に力をいれて、

 腰骨をシャンと立ててごらん。

 かたや胸に力をいれないで、

 あごを引きましょう。

   すばらしい姿勢です。

   元気な体のもとです

   あたまがすんできます。

   あなたのわがままに勝てる姿勢です。

   あなた自身を見直せる姿勢です。

   きびしい世の中をのりきる姿勢です。

という、菱木秀雄先生の詩などが掲示されておりました。

 そして五月に入ると、児童の日記に腰骨を立てることについての努力、感想、親のことばなどが書かれたものを、ぼつぼつ担任が見せてくれるようになりました。

   (二) 全校指導と保護者への啓蒙

 毎週月曜の全校朝礼などでの校長の話も、まず全児童に腰骨を立てさせ、顔や目が動かなくなって、そうだ、その姿勢だ!! 目が輝いてきた!! みんな聞く気になった!! などと言ってから話し始めるようにしました。

 そして話の内容も、

①校長自身が腰骨を立て、感じた集中力や持続力

②舞力と姿勢

③姿勢と内臓の働き(障子紙と竹の骨で模型を作り、腰を曲げるとすべての内臓が圧迫され障害をきたすことの説明)

④体操選手や俳優の美しいスタイルと立腰

⑤万引などしたくなる姿勢と善悪のわかる姿勢

⑥東洋の先賢が努力した静座による精神統一法などの話をしました。

 そして一方、保護者にたいしては、PTA新聞、家庭教育学級、地区懇談会などで理解を求め、森信三講述「親子教育叢書」の紹介斡旋に力を入れました。

 三、一年間の足跡

 全校あげての立腰教育で、聞く姿勢をとらせてからの諸注意はやはりよく徹底し、校内のゴミは少なくなり、履物は揃い、集合時の無駄口はなくなり、非行や災害も少なくなって、交通事故も無事故記録を続けており、叱かる教育からほめる教育へと変わりはじめました。

 そこで六十年三月、立腰教育一年の節目と思い、全校児童に作文を書かせ、各学級二名の作文を集めて、作文集「腰骨を立てる」を発行しました。それらの作文を読んでみまして、各担任がそれぞれ工夫して指導に当たっていること、保護者の理解と協力が大きいこと、そして全児童が腰骨を立てようと努力しており、その努力に応じてそれぞれ大きな効果を認めているのに驚き、

 腰骨を立てる人、、

  それはやる気になっている人です。

  それは健康な体をつくりあげる人です。

  それは自分のスタイルを、

    最高に美しく見せる人です。

ということばが思わず口を突いて出ます。

 以上が立腰教育一年の回顧ですが、私自身森 信三先生宅にお邪魔し、直接腰骨を押し立てていただき、また先生から度々激励のお便りを賜りました。

 まだ種子を播いたと言うのもおこがましい段階ですが、必ず芽を出させ大きく育てたいと考えており、諸先輩の御指導と御鞭撻を心からお願いいたすものであります。

 (山口県熊毛郡熊毛町中清尾)

文献:森 信三先生 提唱 『新版 立腰教育入門』 より。

平成二十八年三月二十四日


44西山 啓子

私の「立腰教育」入門

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 西 山 啓 子

    (一) 出会いを喜びて

 私と「立腰」との出会いは、昭和五十二年八月、日生学園での夏季実践人研修会でした。その頃は、玉川大学通信部の卒業論文の指導を神戸の岸野 靖晴先生にお世話になっていました。岸野先生に連れられ参加した研修会二日目の夜、卒論のレポートを空き時間に見ていただきました。その時、岸野先生が、ぐ―と私の曲がっている腰骨に手を当てられられました。生まれてから二十四年半ばにして、見事に私の腰骨がぐう―と伸びたのでした。また「腰骨」の「こ」も知らなかったのでしたが、この日の「う―」は今なおつよく印象に残っています。

 仕事にも行き詰まり、どうしたらよいかと困り果てていた時期でした。私自身が自分の意志薄弱な頼りなさにイヤ気がさしていた時だけに、私のような者でも腰骨を立てると少しは変容するかもしれないとと思ったものでした。

 帰るなり、さっそくお腹に少し力を入れて坐るように心がけました。やがて、三カ月目の十一月には腰の骨が痛く、しばらくは横向きにならないと寝られない日が続いたほどですが、いかにこれまで腰骨が曲がっていたか――ということです。

 当時は、「腰骨」の意味も分からず、ただ森信三先生のシャンと立てられたお姿の感動を子供たちに伝えていたにすぎませんでした。

    (二) 低学年を担任して

 この間の四~五年は、玉川大学卒業・結婚・長男・次男出産――と私にとっては記念すべき年でしたが、その反面、時間的な面で追われていました。

 昭和五十四年、長男出産後、仕事に節目をつけるためにも、週一回、一枚の学級通信を発行できるよう心がけました。四面に分け、詩・担任ひと言・子供たちの紹介・小出哲夫先生の本の転載と決めました。現在も「こしぼね」の朱印を押して、細々ながらも続けております。

 教室では、朝、まず挨拶、歌を歌って、「目を閉じて、腰骨を立てましょう」で始まります。一人一人の腰に手を当て、大きい声で出席をとります。渡辺寿子先生著「つくし」を読みますと、「ハイ」の返事が十一月にそろったとのことですので、私のクラスも十一月で声がそろうか楽しみにで、あせらなくなりました。一時間、一時間の授業前に目を閉じさせ、授業をスタートしております。

nishiyama.rituyou1.jpg    (三) 玉田 泰之先生

 昭和五十六年の八月、「立腰教育二十年」の著者、玉田 泰之先生にお忙しいなかをお越し願いました。岸野先生の司会で、主人も妹も(当時婚約中)友人数人もいっしょに坐って玉田先生に腰を押さえていただき、一冊ずつ御本まで拝受しました。

 私の実践は、毎朝腰骨を押さえることと、学級通信「こしぼね」に朱印を押しているだけの事ですが、就職当時のあの手この手で子供たちを静かにするように話を聞かせていた悩みが嘘のようになくなりました。四月当初から落ち着きのない子供も、二学期、三学期になると腰骨が立ってきています。朝の五分間は、今では全員の腰を押さえる必要がないくらいです。

   (四) 高学年担任

 昭和五十八年、六年生を初めて担任。やはり第一日の朝から同様に進めました。しかし一年間通して最後まで立たない子供がいました。その腰骨の立たない子供がクラスの隠れたいじめっ子的存在だったのです。その上、掃除をしない子でした。このことに気づいたのは、十一月、山本紹之介先生の書かれた「よもぎみつ」の授業をし、子供たちの本音で分かったのでした。残る三月までの半年間は、未熟ながら清掃指導に全力を注ぎ卒業式を迎えました。

 今年の六年生には、どのような方法で「腰骨」の大切さを感じさせられるか――が課題です。四月当初から心して一人一人の腰を押さえました。「ハイ」の返事がそろった九月に、帰る前の三分間の「目を閉じて――」を、床の上の静坐にきりかえました。毎朝の「今日の言葉」の板書も、遠井義雄先生の詩と「『立志の日』にそなえて」にしぼり暗唱カードに「腰骨について」をつけ加えました。このように高学年担任二年目になって、やっと「立腰」こそ私の心の依り処と子供たちから教えられました。

   (五) わが子にも

 六年生の時期の子供がいかに母親の話すことに聞く耳をもたないか、また、腰骨の立たない子の原因の一つに母親も一役買っていることを昨年の一年間でいたいほど実感しました。長男五才、次男三才。わが子の成長を思う時、行き届かない母親の心からの願いである立腰を、この四月から寝る前に「目を閉じて、――」と始めました。初め一分間ももたなかった長男が、九月に入り五分間腰骨が立ってきました。「腰骨を立てて三つの実行」を唱え、主人ともども親子四人で五分間坐わっております。これもひとえに森先生はじめ諸先生のお導きによるもので厚くお礼を申しあげます。

               文献:森 信三先生 提唱 『新版 立腰教育入』 より。

平成二十五年六月二十八日


▼七変化の教式

 「よむ とく よむ かく よむ とく とく よむ」

注:西山 啓子先生の兵庫教育大学修士課程の研究テーマ:「芦田恵之助先生の国語教育方式の研究」

★西山 啓子『立腰教育に取り組んで』平成三十年九月一日 発行 (協和印刷)

平成三十一年一月四日スマートレターで頂いた。


45中村 和子


▼お便り(1)

70歳で薬草研究家の方と山あるきをしたときにおしえられました。

 人生を楽しく送るコツは

 1、恥をかく

 2、汗をかく

 3、文をかく

*中村和美様のハガキから


お便り(2)

 父へ

あなたは私にとって

誇れる娘であったのか

わからなけど

あなたの娘であることが

わたしの大きな誇りです

あなたに守られ

あなたに教えられ

あなたの掌のなかで

娘であった日々

あなたがこの世を去ってから

あなたの大きさを

知りました

まなざしを感じながら

これからも

あなたの娘でいさせてください 

※中村和子さんを知ったのは、森信三先生の「実践人の会」でした。感性の豊かな娘さんでした。

2015.08.27:追加