アメリカ南部の旅

猿谷 要『アメリカ南部の旅』
(岩波新書)1979年3月20日 第1刷発行


★猿谷 要著 アメリカ南部の旅

1979年3月20日 第1刷発行 岩波新書 19879年4月3日 購入 

  プロローグ P.1

 私たち夫婦を乗せたデルタ航空の旅客機は、アメリカ西部の町デンヴァ-を離陸してから二時間あまり東南東の方向にとび続けて、ようやく高度を下げはじめた。

 その日の朝まで、私たちはワイルド・ウエストがまだ周辺にいくらでも残っているようなユタの州都ソルトレーク・シティに滞在していたのだが、そこから友人たちに見送られ、ウェスタン航空に一時間乗って、何度も自動車で越えたことのあるロッキーの大山脈を真下に見ながら、コロラドの州都デンヴァーに降りた。このさわやかな高原の町やその周辺にもかなり多くの友人がいるけれども、今回は南部の中心的な存在となったアトランタで一夏を過すために、すぐデルタ航空に乗り換えて飛び立ったのである。

 雨のあまり降らない西部の町デンヴァーでは、その時ほとんど雲らしい雲は湧いていなかった。しかしそれから時差の境界を二度も越えてジョージア州の上空にさしかかると、眼下は一面灰色の雲で蔽われ、飛行機はたちまちそのなかに突入して、まるでミルクのなかを泳いでいるような感じになってしまった。ちょうどその時、機内放送が耳に入ってくる。「アトランタの上空は曇り、気温は八三度(摂氏約二八度)。つい一時間ばかり前に、激しいサンダー・シャワーがありました」

 今朝まで一週間ばかり滞在していたソルトレーク・シティのすぐ西側には、イスラエルの死海についで世界二番目に塩分が濃いという文字通りのソルトレークが横たわっていて、さらにそれから西の方は、私が一日中車で走り続けても横断できないほどの、ネヴァダの大砂漠地帯が広がっている。原爆の実験ができるほど、今でも荒涼とした人の気配のない死の世界である。ソルトレーク・シティの南にもまた、砂漠または半砂漠といってもいいような荒野が無限に連なっていた。それと比べると、私たちはいま雨と緑に恵まれた豊饒な別世界へ降り立とうとしているのだ。

 飛行機が雲の底をつき抜けると、眼の前に迫った下界は一面の深い森だった。アマゾン川の流域を飛んでいるのだといわれてもそれほど不自然に思われないほど、それは太古のままのような(あかぐろ)い森の色で、しかもそれが見渡す限り続いている。

 私はこの時になって、ポケットに入れておいた二通の手紙を取り出し、大急ぎでもう一度眼を通した。一通は「アトランタ・ジャーナル」紙に長年勤め、ある論説委員の秘書をしているミス・グレイス・ランディ。彼女とはもう十二年ごしのつきあいになる。年齢は聞いたことがないが、もう八十歳くらいになる母親との二人暮らしである。「あなたたちが着く日、仕事の方が忙しくて、去年のように空港まで迎えに行けないわ。その代り、家具付きのアパートメントはいくつか候補を探しておいたし、あなたが合いたい人、調べたい資料などはおよそ見当がついていますから、そちらの準備もしてあります」

 もう一人は、ミセス・オリヴィア・ハリス。長い間ニモリ―大学の史学科で秘書をしていたが、今同大学で編集している『中部ヨーロッパ史』という学術雑誌のビジネス・マネージャーだった。一九六九年いらいのつきあいで、孫が一人いる年なのに、何をするのを見ても、女性らしさが溢れているような人である。そのオリヴィアの手紙にはこうあった。「アトランタに着いたら、アパートメントがきまるまで、私の家に泊まって下さいね。翌日は休みをとってあるから、一日中アパートメント探しに連れて廻るわ。私うれしくて、子供みたいにはしゃいでいるの」

 私も妻の志満も、このグレイスとオリヴィアという二人の女性を通じて、アメリカの有能な秘書とは一体どんなものであるか、今まで十分に教えられてきた。一九七二年に私たちがオリヴィアの家に着いたとき、彼女は私たちが滞在する予定の約一週間のスケジュール一覧表を、すっかり作って待っていた。毎日昼食と夕食はすべて約束ができていて、その表には私が会いたいと思っていた人たちの名がすべて揃っていた。また去年の夏に滞在した一週間は、代ってグレイスがオリヴィアと電話で打ち合わせながら、さらにその他、アトランタ市長、黒人大学の学長、新聞社の論説委員などと会う予定まで、実にみごとに作ってくれたのである。おかげで私は毎回、短い滞在中には信じられないくらい、たくさんの仕事をこのアトランタですることができた。

 この二人には、今度もまたずいぶん厄介になることだろう。こういう友人を何人も持っていることは、私たちにとってかけがいのない幸福といわなけばならないが、ふと気がつくと、私たちはもうこれで八回、このアトランタという町を訪ねたことになる。そのうち二回は長距離バスに乗って、二回は私自身が運転して、あとはこうして飛行機でこの町にやってきた。短い時は数日間、長い時は半年あまり、私たちはこの町に住んだことになる。

 アトランタの町の中央に林立する巨大なビルのスカイラインが、窓の向う遠く見えてきた。窓ぎわに座っていた志満が、この時突然大きな声をあげた。「あっ、大変、これはきっとニアミスよ。大丈夫かしら」

 なるほど、すぐ右側に同じデルタ航空の旅客機が、同じ方向に向って飛んでいる。着陸姿勢に入っていることも同じだし、高度もスピードもまったく同じなのだ。私も少しばかり心配になってきた。まさか両方とも気がつかずに飛んでいるわけではないのだろうが、万一そうだとすれば、一本の滑走路をめざしてやがて両機は接触し、お互いに空中分解をしてしまうだろう。もし最後まで並行して飛び続け、そのまま同時に別々の滑走路に着陸するとすれば、いつのまにかこのアトランタ空港はよほど巨大な規模に発展してしまったに違いない。市の中心部から車でニ、三十分の距離にあるアトランタ・ハーツフィールド国際空港は、私たちが一冬を過した一九六九年頃すでに、シカゴのオヘヤ空港、ニューヨークのケネディ空港、ロスアンゼルスの国際空港に次いで、飛行機の離着陸数が全米四位にのし上っていたのである。

 そんな心配をしていたのは私たちだけで、デルタ航空の二機はかなり離れた滑走路にほとんど同時に着陸した。窓から外を見ると、あちらにもこちらにも滑走路が縦横に伸びていて、巨大なジャンボ旅客機が次から次へ休むことなく舞い上り、舞い降りて、しかも何台かのブルドーザが、たえまなく新しい滑走路の建設に動きまわっている。一歩空港の外に出て、また驚いた。去年もたしかにそうだったが、次ぎつぎに吐き出されてくる乗客を空港の前でピックアップしようとする車の数が、二車線の道路二つ、計四車線に並んでも動きがとれないほどの混雑ぶりである。かつてののんびりした南部のムードが、ここではまったく見当らなかった。荷物を持って忙しく往来するひとたちの群れは、明らかに雑踏や喧噪が生みだす一種の興奮状態をつくりだしていた。

 後になって人から聞いたところによると、この空港の離着陸数はシカゴに次いでいまや全米第二位となり、しかもなお規模を拡張中で、今後数年間のうちに全米最大になるのを目指しているのだという。今ではロンドンやベルギーの首都ブリュッセルへ直行便が飛んで、国際空港としての性格を強めている。しかしその後八月二日付と六日付の「アトランタ・ジャーナル」紙には、白い囚人の服を着て騒音反対のプラカードを持った人たちが、大勢シティ・ホールの周囲をとり巻いている写真が載った。空港のすぐ西側のカレッジ・パーク地域に住む市民たちで、ちょうど離着陸のコースの真下にあたるため、騒音はもう耐えられる限度を越えているとして、自分たちを「アトランタ空港の囚人」にみたてているのだった。この人たちは家を売って立ち退こうとしても、足許をみられて安く値切られてしまうので、市当局にこの周辺の家を買い上げてもらいたいのだという。空港のすぐ東側にあるマウンテン・ヴュー地域では、以前に一部の家を市が買い上げたという前例があるためである。しかしアトランタ最初の黒人市長として評判の高いメイナード・ジャクソンも、住民代表と面会はしたものの、まだ解決策は見出していない。

 空港から周囲を眺めると、ダウンタウンに向かう北側を除いては、これが南部を代表する大都市かと思うほど、建物がまばらに見えるだけで、一面に緑が濃い。そのアトランタでさえこういう騒ぎが起こるのだから、これと比べると、家並みのなかへ着陸し、家並みのなかから離陸しているような日本の空港、たとえば大阪空港などで、騒音反対の運動が起こらない方が不思議である。日本では住民運動が一般にアメリカほど強くないが、そういう理由だけでではなく、満員電車そのもののような日本列島のなかに住んでいると、公害のひどさにもいつのまにか、ある程度慣らされてしまうのではないか。

 その夜はオリヴィアの家に泊めてもらうことになっていたが、あいにく彼女の家は空港の反対側、ダウンタウンから見ると東北の方向の、市の出外れのところにある。そこで私たちはダウンタウンに向かうリムジンに一人三ドルずつ払って乗りこみ、それからあとはタクシーを拾った。見慣れた道路や建物を懐かしく思い出しながら眺めているうちに、無造作にジーンズを着ていた私も志満も、べっとり汗をかいているのに気がついた。私たちは今まで何回も、西部の各地をそのつど何週間もかけてドライヴして廻ったことがあるが、全米的な暑さで知られているアリゾナの砂漠の町トゥーサンでも、カリフォルニアの炎熱の町フレズノでも、およそ汗をかくようなことは一度もなかった。それどころか、翌朝早く出発しようとして前の晩におにぎりなど作っておいたりすると、翌日の昼にはもう歯が立たないほど乾いて、ぼろぼろになっていた。ところがこの南部では、ちょうど日本と同じように、むっとするほどの湿度の高さをまず感じさせてしまうのである。

 私がアメリカの南部に対してある親近感を抱くのは、この気候の類似性を心のどこかで感じているせいかもしれない。少し極端にいえば、日本ともっとも気候の似ている外国は、おそらくこのアメリカ南部ではないだろうか。日本人なら誰でもすぐ慣れるような、適当な暑さと寒さ、高い湿度、なだらかなアパラチアの山容、変化に富んだ海岸線、背の高い松の林――かってこのアトランタ郊外で一冬を過したとき、私たちの住んでいたアパートメントの裏に広がっている松林がうっすらと淡い白雪に蔽われたことがあって、そのまま水墨画になるのではないかと思ったほどである。

 実際このジョージアには、赤い土の上にするすると垂直に伸びた松の林が多く、オリヴィアの家もそういう環境のなかに建っている。私たちがその家の前で車から降りると、なかから小柄な彼女が転がるように走り出してきて、ものもいわず、いきなり志満をしっかり抱きしめた。それがオリヴィアの、一年ぶりの挨拶であった。家の中のことは、何回か泊めてもらったこともあるので、手にとるように分かっている。典型的な中産階級の中くらいの家で、ニ、三年前まで同居していた彼女の母親が亡くなってからは、テキサスに住んでいる一人娘の家族を時おり訪ねるだけで、あとは保険会社に勤める夫のビルと二人暮らしである。

 翌日、彼女の活躍はめざましかった。まず初めに、私たちが一夏車を借りることになっているチャンプリー・トヨタの店まで車を走らせた。ビル・オットーという初老のずんぐりしたボスが、私から受けとった手紙を持って出てきた。「待っていましたよ。さあ、あれをお使い下さい」彼の指す方を見ると、真白なコロナの新車が一台、事務所のわきに置いてある。私たちがアトランタで暮らしていた一昔前、ヴァリアントという車に乗っていた頃は、太平洋岸はともかく、この南部で日本車を見かけることは少なかったが、いまではもうオリヴィア自身がカローラに乗っているのだ。「何年か前、あなたたちが中古のコロナでアメリカを一周したでしょ。あれを見てから、日本車を買うつもりになったのよ」

 私がドル安になってから日本車が売りにくいのではないかとそのボスに聞いてみると、彼は少し真剣な顔つきになって答えた。「実は昨日もあるテレビ局が同じ質問をしに来ましてね。ところが奇妙なことに、今年の上半期は今までにないほどよく売れたんですよ。故障が少ないのと、アフターサービスがいいこと、これが決め手ですな。しかしこう値段が上がったんでは、これからが大問題です」

 借りたコロナは一旦オリヴィアの家に置き、私たちは彼女の車に乗せてもらって、エモリ―大学近くのアパートメントを見にいった。松林に囲まれた静かな環境だが、これは志満が気にいらなかった。キチンが共通で、食べものも大きな冷蔵庫にみな一緒につめこんで使っているからだった。それから三人は、「アトランタ・ジャーナル」紙のオフィスから抜け出してきたグレイスとダウンタウンで落ちあい、南部最高の建物、ホテルとしては世界で最高といわれる円筒形七十階建てのピーチトリ―・ブラザ・ホテルに入り、地下のしゃれたレストランで昼食をとった。去年も会ったというのに、グレイスはずっと長いこと会わなかった人でもみるようなキラキラした目付きで、私たちを交互にしっかり抱きしめた。

 オリヴィアは私たちと話しているとき、つとめて南部なまりを出さないように注意しているようだが、彼女の夫のビルや、それにグレイスとくると、その独特の強い南部なまりに、毎度のことながら私たちはたじろいでしまうのである。とくに中年女性の南部弁は、ときにニャーとかニョ―とか、まるで猫がふざけ合っているのではないかと思うほどの発音がしきりに入ってくる。かつてグレイスと電話で話をしていて、「あなたの探している人は、いまアトランタにはいないわ。引退してマイアマに住んでいるはずよ」といわれたことがある。私はやっと彼女のいうマイアマがフロリダ州のマイアミのことだと気がついて、その時から南部なまりが分かりかけたように思ったものだが、一年ぶりにいまグレイスの油の上を滑るような話し方を聞いていると、また深南部(Deep South)に来たのだという思いが急に高まって、かすかに血の騒ぐのを感じた。

 午後はまたオリヴィアがグレイスの推薦するアパートメントへ連れていってくれたが、今度は志満がたちまち気にいってしまった。ダウンタウンの北の一角に二十数階建ての巨体を誇っているピーチトリ―・タワーズというアパートメントで、斜め向き合いのブロックにはハイアット・リジェンシーという豪華なホテルが建っている。ダウンタウンのどこへでも歩いていける便利な場所で、設備や保安も申し分なかった。ロビーの一角には電話ボックスのようなコーナーがあって、別の入り口までテレビの画面を通して監視できるようになっており、でっぷりした黒人がいつもその画面をみつめ、顔見知りの住人には片手をあげ、にっこり笑って挨拶を送っていた。

 最初に案内された二十一階の部屋では、高所恐怖症の志満が動けなくなってしまい、北向きの三階の部屋に入ることにした。日本式にいうと、十五畳くらいの居間、十畳くらいの寝室、それにかなり広いキチンとバスルーム、さらに押入れにあたるクローゼットが三ヵ所もついていた。テレビ(月二〇ドル)と電話は別の計算になるが、なかなか立派な家具が揃っていて、これで一ヵ月三〇〇ドルだという。サンフランシスコのホリデイ・インで一泊六二ドルも払わせられた後なので、これだけの広さ、便利さで一泊一〇ドルという計算は、ほとんど信じられない安さである。もっともここはホテルでないから、滞在期間一ヵ月とう規則あるそうだが、室内の清掃やシーツの交換など、メイドがごく安い金額でしてくれることになっているから、実質的にはホテルよりも便利といえるだろう。

 堂々たる体格のジェシーという女性のマネジャーとすべての契約をすませて、オリヴィアの家に戻った。部屋のキイも渡されていたのでアパートメントへ移りたいという志満の言葉を聞いて、オリヴィアは休む間もなく、台所用品を数えきれないほどいくつもの袋につめてくれた。「欲しいものがあったら、なんでも取りに来てね。大学の図書館も、すぐ使えるように手続きはすんでいるの。毎日でもあなたたちの顔を見ていたいくらいだわ」そういって彼女は、つかの間の別れを惜しんだ。

 さてそれから三十分ばかりドライヴして町の中心に戻り、荷物を下してこれから一夏を過すことになった建物のロビーに入ると、ちょっとばかり私たちを驚かせることがそこに待っていた。志満は両手に一杯の荷物を抱えて私より先にエレべーターの前へ歩いていったが、いきなり「あっ」と叫んだまま、棒をのんだように立ち止まってしまったのである。見ると彼女の前にも、ロビーの一角を占めているマーケットから食料品の袋を抱えて出てきた女性が、両眼を大きく開いたまま、これもまたあっけにとられて立っているのだ。その一瞬間が過ぎ去ると、二人とも袋を床に置くなり、なにか奇妙な声をあげあいながらしっかり抱き合った。

 彼女の名は、ミセス・ルイーズ・サックス。一九六六年にジョージア州知事選挙のときに知り合って以来の仲で、今ではアトランタに各種団体の全米大会を招致する重要な仕事をしていた。自称、コンベンション・ガールズである。もちろんアトランタンへ来るたびに私たちはこのルイーズと会っているし、昨年は彼女がシンガポールへ出張した帰り道、初めて日本にも立ち寄ったので、一緒に銀座で天ぷらを食べたりした。ルイーズの言葉も、彼女がフランス生まれなので、フランスなまりがとれず分かりにくい。彼女の家がカーター大統領の生れ故郷プレインズからそう遠くない小さな町にあり、週末には必ずここに戻ることを知ってはいたが、普段はこのアパートメントで暮らしていることを、私たちはまったくその時まで知らないでいた。しかしこれも後になって分ったのだが、私たちとルイーズと仲がいいことを知っているグレイスが、そのこともあってこのアパートメントを選んでおいてくれたらしいのである。

 こうして私たちは、このニ、三年来急に全米の注目を浴びるようになってきた南部という存在について、自分の眼でしっかり確かめてみようという今度の旅を、幸先のよいスタートで飾ることができたのである。

※余談:2025.05.05:MLB「アトランタ・ブレーブス」を知った。

2025.05.08 記す

  アトランタの変貌 P.15

 しかし、ある人はいうかもしれない。ワシントン・D・Cに一足早く地下鉄ができたではないかと。たしかに、その通りかもしれない。もしワシントンを南部のなかに入れるならば――。そのワシントンを北と東から包むような形になっているのがメリーランド州であるが、奴隷制度を実施していながら南北戦争の時には最後まで中立を守ったこの州がどちらになるのか、私は長い間疑問に思っていた。数年前メリーランド州の大学教授夫妻に東京で会ったとき、私はその疑問をぶつけてみた。すると奥さんの方はひときわ胸を張るようにして、「私たちメリーランドに住んでいる者は、今でも誇り高き南部人よ」と答えたものである。そうだとすると、メリーランドの一部よりも南にあたるワシントンも、当然南部ということになるのだろう。しかし、いうまでもなく南北戦争当時、北部の連邦軍を指揮したリンカーン大統領は、そのワシントンのなかにいたのである。

 ということになると、一体南部とはどの部分をいうのか、一応考えておかなければならないが、実はこれがなかなか厄介なのである。普通アメリカで南部というのは、国土の南半分にあたる地域をいうのではない。この南半分という概念については、後に触れることにして、いわゆる南部の地域については、南北戦争の時の南部、という規定が一つの基準になるだろう。つまり合衆国から脱退し、USAに対してCSA(南部連合国)を形成した一一州である。その州名をあげると、まずワシントンからポトマック川を距てただけのヴァジニアからはじまり、ノースカロライナ、サウスカロライナ、テネシー、アーカソン、ジョージア、フロリダ、アラバマ、ミシシッピ、ルイジアナ、テキサスということになる。ちなみに、南北戦争が始まった当時、南部連合国の首都はアラバマ州モントゴメリーだったが、やがてヴァジニア州リッチモンドに移った。現在、車でワシントンから二時間も走れば到着してしまうほど、南部全体からみれば北に偏した場所である。

 さてこの南部連合国の一一州に対して、さらにケンタッキーとオクラホマを加えた一三州が、ギャラップの世論調査で使っている南部の範囲である。これは全米を僅か四つの地域に分けてあるだけであるから、次にあげておこう。東部(East)、中西部(Midwest)、南部(South)、西部(West)。私の実感からいえば、広大な西部のうち、太平洋岸のワシントン、オレゴン、カリフォルニアの三州を切り離して別の区域とした方が、現実の姿に近いのではないかと思われる。

 南部連合国として合衆国と戦った一一州の他にも、奴隷制度を実施していた州が多少あった。デラウェア、メリーランド、ケンタッキー、ミズーリ、それに南北戦争中のヴァジニアから独立して新しい州となったウェストヴァジニア。南部の特性として黒人の奴隷を認めていたという点に重きをおけば、これらの州を加えた地域全体を南部とよぶべきであろう。「メリーランド人は南部人よ」といった女性の言葉は、この分類に従ったときよく理解できおるものである。

 しかし、この分類でもワシントン・D・Cは入っていない。それではこの首都ワシントンを南部に入れるような分類があるのかというと、実は一つだけそういう考え方の基準があるのである。それは奴隷制度の場合と同じように、解放されたあとの黒人たちをどのように取り扱ってきたかという基準である。一九五四年に合衆国最高裁判所は公立学校における白人と黒人の分離教育を憲法違反とする判決を下したが、その時まで現実にそのような人種別の分離教育を実施していた州は、単に教育という分野だけでなく、選挙権、交通機関、その他の日常生活すべての点でも、多かれ少なかれ黒人を分離する制度を維持してきた。従って、その象徴としての分離教育を強制的に行なっていた州を南部として限定する考えも十分に成立することになる。この分類に従えば、かつて奴隷制度を実施していた前記一六州の他に、オクラホマとワシントン・D・Cをさらにつけ加えなければならない。こうしてワシントンが加わることになると、アトランタの地下鉄は南部最初のものと自慢することができなくなる。

 これは南部をもっとも広く考えたときの分類であるが、これからミズーリだけを除いた地域が、国勢調査のときに南部として取り扱われる地域である。

 いずれにしても、これらの地域は深南部(Deep South)とよばれ、サウスカロライナ、それにこのアトランタがあるジョージア、さらにアラバマ、ミシシッピ、ルイジアナの五州がこれに当たっている。この五州の中央部になるアラバマがみずから Heart of Dixie と名乗って、自動車のナンバー・プレート(タッグ)にその文字を刻んでいるのは、地理的にも十分な妥当性があることになる。

 いずれにしても、これらの地域は深南部(Deep South)とよばれ、サウスカロライナ、それにこのアトランタがあるジョージア、さらにアラバマ、ミシシッピ、ルイジアナの五州がこれに当たっている。この五州の中央部になるアラバマがみずから Heart of Dixie と名乗って、自動車のナンバー・プレート(タッグ)にその文字を刻んでいるのは、地理的にも十分な妥当性があることになる。

 この深南部に隣接している州を「周辺南部」(Peripheral South)といったり、この範囲をさらに北へ拡大して「高南部」(Upper South)とよんだり、さらに北部諸州と隣接している地域を「境界南部」(Border South)または「境界諸州」(Border States)といったりしている。これらの表現にはかなりあいまいな点があり、お互いに重複していたり、時には主観的な要素が入ってきたりする。とくにこの主観的な要素という問題はかなり微妙なニュアンスをもっていて、場合によってはそれが決定的な役割をはたすことになるのだ。

 たとえば、メリーランドに住んでいる人について考えてみると、もしその人が父の代に南のヴァジニアから移ってきたのであれば南部人という意識を強く持っているだろうし、逆に北のニューヨークから引越してきた場合には、自分をヤンキーだと考えているだろう。さらにまた、祖先の系譜によって決めるのではなく、本人の意識だけで決定される場合も少なくない。とくに境界諸州のような場所では、自分が南部的信条を正しいと思っていれば南部人であり、それに反対しているようなときは北部人といえるだろう。南部戦争の時でさえ、アパラチア山脈寄りのケンタッキーやテネシーなどには、北軍びいきの住民たちが少なからずいたのである。逆にまたオハイオ川だけを距てて奴隷州ケンタッキーと向かいあっている北部のイリノイ州では、リンカーンが上院議員の椅子をスティーヴン・ダグラスと争ったとき、州内各地の討論会で彼は微妙な使い分けをしている。同じイリノイ州の中でも南寄りの土地で演説する場合は、奴隷制度に反対の感情をあまり露骨に表わさないように。

 こう考えてくると、州によって境界線をつくることにかなりの無理があることが分るのである。これはフロリダとテキサスの場合、とくに顕著である。フロリダの北半分、ジョージアとアラバマに面した部分は純粋に南部といえるけれども、全米的な娯楽施設ができたり、避寒地として旅行客を集めたり、引退した老人だけの町ができたり、土地投機の対象になったり、宇宙開発産業が発展したりしている南半分は、おそらく南部のなかに入れることができないだろう。テキサスの場合も、南部といえるのは全体の四分の一くらいの、ルイジアナとメキシコ湾に面した地域だけで、残りの四分の三はその自然も人情も、むしろ西部といった方がふさわしい。だから私は、テキサス出身とはいっても、アラモの砦の北の方の土地で生まれて育ったリンドン・ジョンソン大統領は、かなり南部的心情を持ってはいたが、むしろ西部出身の大統領というべきだと思っているし、アイゼンハワ―大統領にいたっては、同じようにテキサスで生まれていても、早くから故郷を離れているので、一層南部人というイメージから遠い存在だと考えている。

 私はこんなことをあれこれと思いめぐらせながら、毎朝早くから始まる窓の下の地下鉄工事を眺めていたが、この地下鉄が完成したら、結局これは南部最初の地下鉄として記録に残されるべきであろうという結論に到達した。たしかに、南北戦争が始まったときワシントンにはまだ奴隷制度があったし、奴隷解放後も黒人に対して各種の生活上の差別を行ってもきた。また一九七〇年の国勢調査では七一パーセントにも達した黒人人口は、おそらくその大部分が南部各州からの移住者であろう。こういう多くの事実があるにもかかわらず、ワシントンはなんといってもアメリカの首都であり、諸外国に対するアメリカの顔である。自然発生的ではなくて、純粋に人工の町である。もしここが首都でなかったならば、この程度の人口のサイズで地下鉄を作ろうとはしなかったに違いない。

 私たちはそのアパートメントに住むようになった翌日から、地下鉄工事現場の前を通って、中心街のピーチトリ―・ストリートをくりかえし歩きまわった。斜め向き合いにあるハイアット・リジェンシー・ホテルは、一歩そのなかに入ると、巨大なロビーの空間が二十三階の天井まで広がっていて、美しい層をつくっている各階の客室のテラスが、ロビーに点在する豪華なソフンァーや、その傍に並んだ花壇、一部に張り出したレストランなどを見下ろしていた。その空間の中央に渋い茶褐色の塔が立っていて、周囲には明るい灯で縁どられたロケット形のエレベーターが、乗客たちの興奮した表情をはっきり見せながら、せわしげに何台も上下している。このホテルのロビーを包むキラキラとしたムードには、アトランタ市民が絵葉書にして自慢しているほど、今までの南部とは違った華やかさがあった。

 グレイスやオリヴィアと一緒に昼食をとったピーチトリ―・ブラザ・ホテルは、さらにその斜め向き合いに、円筒形七十階の壮大な巨体を天空に輝かせている。その大きさの割にスマートが感じがするのは、外観がすべてガラス張りのせいだろうか。近寄って振り仰ぐと、そのガラスは周囲の同じように高いビルの翳が色濃く写しだされ、西に傾いた真夏の陽光がまぶしく反射しているような時には、まるで黄金の塔が中天に向かって無限に伸びているように見えた。当分の間この塔より高い建物は南部にできないだろうから、ダウンタウンの中央に他のビルを見下ろして聳えたつこのホテルこそ、いま話題になっているニューサウスのシンボルといってもいいだろう。

 かつて「アトランタ・コンスティテューション」紙が、一九六〇年と七〇年のこの町のスカイラインを示す二つの写真を並べて載せたことがある。一九六〇年というのはケネディ大統領が当選した年のことだから、まだそれほど昔のことだと思えないのに、その当時のスカイラインはまだまだ貧弱なもので、この町が誇れる近代的ビルなど、本当に指を折って数えることができるほど僅かなものであった。ところが七〇年のスカイラインは、まったく別の都市ではないかと思うほどみごとに変貌して、近代的高層ビルがいくつも深南部ジョージアの大空に向かって聳えるようになっていた。

 それからさらに四年たった一九七四年にアトランタを訪ねたとき、ルイーズは私たちを待ち構えていたように、こういった。「あなたはヒストリアンだから、アトランタの昨日だけを勉強してるのね。私はこれから、アトランタの明日の姿を見せてあげようと思っているのよ」

 彼女はアトランタを全米有数のコンベンション・シティに育てあげようと奔走していたので、私たちのためにヘリコプターまで用意するという張り切りようだった。実際に彼女は先頭に立って、私たちを建設中の強大なホテルや会議場に案内してくれた。私たち三人はヘルメットをかぶり、時にはまだ十分に乾いていないコンクリートの上に渡した細長い板の上を歩いたり、時には身体をかがめて小さな穴のような場所を通り抜けたりしなければならなかった。ある場所では、大きな建物の内側がすっぽりと空間になっていて、――というよりも、ゆったりとしたスケートリンクが完成まぎわの姿を横たえていた。私はそのスケートリンクを包むようにして並んでいる十数階の周囲のビルという窓という窓に、やがてあたたかい灯がいっせいにともって、ゆったりとした氷上を何人もの男女がゆるやかに舞っている姿を思い浮かべた。

 七七年に来てみると、もう頭のなかでわざわざ思い浮かべる必要はなくなっていたのだ。私たちが三年前ルイーズに案内してもらった建設中のすべての建物はみなとっくに完成して、アトランタン市民の生活のなかに融けこんでいたからである。オリンピック・サイズのそのスケートリンクの上でのびのびと滑る姿を、人びとはまわりの店でショッピングを楽しむ合い間に眺めることができるのだった。私たちは二階の店からホットドッグを買ってきて、氷上の一角にかぶさるように突き出ているテラスの先端に腰を下ろした。見下ろすと、もう手が届きそうなところを、均整のとれた黒人の少年が、まるで飛燕のような鮮やかさで、氷上の人びとの間を巧みに縫いながら滑っている。このリンクを取り巻くビル群は「オムニ」とよばれ、さらにその隣にはジョージア・ワールド・コングレス・センターや、オムニ・インターナショナル・コンプレックスなどという大きなビルの複合体が、遠くから眺めるとまるで洋上に浮かぶ連合艦隊のような偉容を見せて並んでいる。

 ルイーズは七七年にも私たちを連れてこういうビルを一つ一つ案内してくれたが、もっとも大きな展示場になっているホールに一足踏み入れると、建物のなかにこれ以上広い空間を作ることは不可能ではないかと、と思ったほどである。ホールの広さはニ万五千人のグールプを収容できる施設があって、およそあらゆる団体の全米大会はここで開催できるのだと、彼女はまるで自分一人でその準備をしているかのように、胸を張って話してくれたものである。

 ところがそれからまた一年たって、ピーチトリ―・センターのなかにある清潔な彼女のオフィスを訪ねてみると、どうやらそれが決して彼女の誇張ではなさそうなことが分ってきた。ルーズは自分が使っている何人かの若い女性たちに、「アトランタ・コンベンション・ガイド」を持ってこさせた。ホテル、会議場、レストラン、ショッピング、交通機関、観光施設などが一目で分かるような、カラーの豪華なパンフレットである。

 「もうずっと何年も先まで、大会や会議の予定がきまっているのよ」

 彼女はそういってまた別のパンフレットを渡してくれたが、それには一九七八年一月から一九八〇年十二月までの、アトランタで行われる各種大会や会談のスケジュールがぴっしりと並んでいた。たとえば一九七八年一月には八八種類、二月には七四種類。三月もまた八八種類のコンベンションが、このアトランタンで開かれたのだ。しかも一日で終わるものはほとんどなく、一週間くらいの会期を要するものが少なくないから、このアトランタという町ではいつも、同時に何種類もの団体の全国大会が並行して開かれているということになるのである。おそらくこのパンフレットは一九七七年に印刷されたものであろうが、ずっと先まで予定が決まっていて、たとえば一九八〇年一〇月にはすでに一四の大会が名を連ねている。

 ルイーズは私が驚くのを見てうれしそうに、「いま一九八三年分までの受付を始めているのよ。それが結構問い合わせや申し込みがあって忙しいの」そういって、また私をびっくりさせた。ここで大会を行う団体は、その組織の範囲がジョージア州だけのものや南部だけのものも少なくないが、全米的なものの方がむしろ多く、なかには国際病理学会議、国際太陽エネルギー協会、警察官国際協会、国際交易ショー、国際ワイン・チーズ・フェスティヴァルなど。およそありとあらゆる種類の外国人が集ってくるようなものも数多く含まれているのである。

 ルイーズと別れて、彼女のオフィースの前を南北に走っているピーチトリ―・ストリートを歩いてみると、その雰囲気はニューヨークのフィフス・アヴェニューとそれほど大きな違いはない。街を歩いている人の波は、まつたく東京と変わらないほど多かった。もちろん繁華なダウンタウンの面積は東京と比較できないほど狭いし、アトランタは人口でいうと全米第二〇番目の都市にすぎない。しかしすれ違う人びとの表情のなかには、町が上昇の勢いにあるときの、なにか得体の知れないエネルギーがひそんでいるように思われる。

 いまジョージア州全体で人口がどれだけ増えているかを一〇年単位で調べてみると、不況のなかの三〇年代には僅か二一万の増加、戦中戦後の四〇年代は三二万、それが五〇年代の四九万、六〇年代の六四万と急増している。その多くは北部などからの産業移転に伴う人口流入で、七〇年の人口は約四五〇万となり、面積の点では全米五〇州中第二一位のゾョージア州は、このとき人口で第一五位に躍進した。さらにその後の人口増は眼をみはるばかりで、五年間に四〇万あまりが増加し、七五年には第一四位になっている。七一年から四年間このジョージアの州知事だったジミー・カーターが大統領に当選したのは七六年のことだから、八〇年の国勢調査ではさらに驚くべき人口増加についての数字が出るかもしれない。

 もちろんアトランタにも、昔を懐かしむような気風はまだ強く残っている。たとえば『風と共に去りぬ』の常設映画館が七八年はじめに火事で焼失したあと、その建物の煉瓦が一個二〇ドルでホテルの土産物屋の店頭に並んでいるし、町を少しドライヴすると、マーガレット・ミッチェル・スクェアだのアシュレー・プレイスだの、メラニー・テラスだの、この小説に由来しているかどうか不明であるが、ミッチェルという名の道路が一四ヵ所もこの町にあるのだった。この小説の作者マーガレット・ミッチェルは終生アトランタに住み、いまグレイスのいる「アトランタ・ジャーナル」紙にも日曜版の記者として六年ほど勤めている。グレイスはかつて私たちを案内して新聞社を一巡したとき「ミッチェルさんは背の低い人だったので、デスクもこんなに低かったの。ちょうどあなたのサイズに合うくらいね」といって、志満をそのデスクに座らせたことがあった。市立図書館やエモリ―大学の図書館にはミッチェル関係の特別コーナーがあって、今までアトランタ市民たちが、この小説やその作者に示した愛情が並々ならぬものであったことを語っている。

 しかしまた、この小説のなかで語られた南部のイメージが、とくにこのアタランタという小説の舞台となった都市を中心に、急速に変りはじめていることも事実である。ヴァジニア生れのジャック・T・カーバイ教授は近著『メディアが作ったディクシー――アメリカ人のイメージのなかの南部』(一九七八年)のなかで、二十世紀のはじめから映画、小説、テレビなどが南部についてどのようなイメージを作り上げてきたかをのべたあとで、

「こうして{アレックス・}ヘイリーは{『ルーツ』を書くことによって}マーガレット・ミッチェルの亡霊にとどめの一撃を加えることになるわけだが、賢明な征服者がいつもそうするように、彼女の世界を愛する人々にもオリーヴの枝をさしのべるのを忘れなかった」

という結論を下している。

 これほど決定的な表現を使わないまでも、今まで置き去りにされていたような南部という地域が、ここ数年来にわかに全米の注目を浴びるようになったことは確かである。一九三五年にアトランタで生れ、今はテネシーのナッシュヴィルでフリーランスのジャーナリストとして活躍しているジョン・エガートンは、これまでにも南部についてたくさんの論文を発表しているが、一九七四年にそれらを一冊の本にまとめて出版した。『ディクシーのアメリカ化』という題名も面白いが、それにはまた「アメリカの南部化」という興味深いサブタイトルがついている。

 彼は「プロローグ」のなかで、八歳になる息子から「お父さん、ボク南部人なの?」と聞かれてその答えに窮しながら、いま政治や経済、教育や文化など広範な分野で、全米にわたる均一化が進んでいることを具体的にのべはじめる。たとえば南部から生まれたホリデイ・インや、ケンタッキー・フライド・チキン、それにレンタカーのハーツなどは全米ばかりか世界の多くの国へも進出しているし、逆にITTやIBM、それにデパートのメイシーなどは南部に進出している、とたくさんの例をあげたあとで、彼は次のように書いている。

「{フロリダの}タンパから{カナダ国境に近い}デトロイトまで、インターステイト・ハイウエイをドライヴすれば約十八時間で行くことができるし、アトランタからサンフランシスコまでジェット機ならば約四時間、さらにルイジアナのタールを塗った紙を貼りつけたような貧しい掘立小屋まで、ニューヨークでテレビをひねれば瞬時に到着できるのだ。こんなことがどんどん行われるようになった状況のもとでは、自分が南部人なのかを知ろうとする八歳の少年に、はっきりした返事をすることは難しい。南部はもはやこの国の植民地ではないし、後進地帯でもないし、まま子でもない。南部はいまや急速に連邦(ユニオン)へ戻ろうとしているのだ。そうなりながら、南部は東部、西部などと区分のつきにくい場所になりはじめている。連邦は歓迎の前奏曲をかなでながら、入口に立って南部を出迎えようとしているのである。

 アメリカ以外の国の人が読むと、これはなんと不思議な文ではないだろうか。たとえば南部のアメリカ化というが、第二次大戦後三十年あまり、私たち日本人の生活さえ、身のまわりのものをふりかえってみると、かなりアメリカ化されているといえるのではないか。日本ばかりではなく、この世界中で多かれ少なかれアメリカ化という大波の影響を受けていない国はないだろう。それなのに、アメリカ国内の南部という一つの地域について、今更アメリカ化が議論されるとは一体どういうことだろうか。それほど南部はアメリカのなかの植民地であり、後進地帯であり、まま子だったのであろうか。第一、連邦(ユニオン)という言葉は、南北戦争の時に南軍と戦った北軍、つまり南部の脱退を認めなかった北部の連邦政府、リンカーン大統領によって代表される北部全体を指す言葉ではないか。たとえそれが比喩としての表現であるとしても――。

 こういう点から出発して、実は疑問が次から次へ湧いてくる。南部はどうして後進地帯になったのだろうか。後進地帯であったとすれば、それはどんな意味をもっていたのだろうか。いま後進地帯ではなくなろうとしているというのは本当だろうか。本当だとすれば、どうしてそういう変化があらわれてきたのか。南部のアメリカ化、アメリカの南部化ということは、どの程度まで真実であろうか。またそれはどのような意味をもっているのだろうか。遠く離れた日本人にとっても、それはなんらかの意味をもつものだろうか。もう少し大袈裟にいえば、いまアメリカの南部に起っている変化は、国際関係の推移や、ひいては人類全体の文明を考える時に、何らかの意味をもっているのだろうか。

 私は今度の旅を通じて、そういう疑問のいくらかを解き明かしたいと考えたが、そのためには、一度どうしても南部の過去に戻ってみなければならなかった。しかしそう思いながら、今まで私は何度も南部の過去がもつ重さや深さや暗さにたじろいで、その入り口のところで躊躇逡巡をくり返すばかりだったのである。

2025.05.18 記す

  チェロキー国家の古都を訪ねて P.35

写真:ニューエチュタ新聞印刷所

 居間の窓は、一つを除いてみな北を向いていた。近くにはホテルや銀行がまばらに建っていて、その向うにはジョージア工科大学の建物や教会の尖塔が、かすかにその姿を木々の緑の上に浮かせている。さらにその向うは――もう一面の深い森だった。森の先端が見渡す限り広がっていて、その(あおぐら)い地平線の一部が僅かに盛り上がっているように見えた。ジョージア北部にまで伸びているアパラチア山脈の最後の緑が、時にはこの窓を通して、ちらりとその片鱗をかいま見せるのである。

 一九六九年の秋、エモリ―大学の新しい図書館のなかの私の部屋で読書にあきてくると、私はよく志満と一緒にこのジョージア北部をドライヴして廻った。時には昼食をすませてから思いたって出かけるようなこともあったし、また時には朝からおにぎりを作り、熱い日本茶を魔法瓶につめて出かけるようなこともあったが、ジョージア北部の自然はいつも美しい粧いをこらして私たちを待っていた。ゆるやかな丘陵、なだらかな山の稜線、思いがけないとき突然眼の前に現れる小さな湖、黝い松の色とみごとなコントラストを作りあげる秋のなかばの落葉樹の黄色――。

 この美しいジョージア北部の大自然のなかに、僅か一世紀半前までチェロキーというインディアンの国家があったことを身近な現実として感じるようになったのは、その頃アトランタンの新聞に出た小さな記事を見てからである。ほとんど見逃がしてしまいそうな僅か二十行ほどの記事だったが、アメリカ東南部に住む各インディアンの集団が、生活環境の改善を要求するために代表を送って、アトランタで会議を開いているという内容のもので、「レッド・パワー」運動が高まっていた当時の世情のなかでは、それほど珍しい記事ではなかったかもしれない。

 それにもかかわらず私がその記事を見てびっくりしたのは、黒人は南部、あるいは北部の大都市、インディアンは西部の各地で点在するリザべーション、という地域的なステレオタイプがいつのまにか私の頭のなかにでき上がっていて、アトランタの周辺にたとえ僅かでもインディアンたちが住んでいようとは、夢にも思わないでいたからである。フロリダの北部にそういう場所がいくつかあることに気がついたが、私はテネシーとノースカロライナの州境に連なっている国立公園グレート・スモーキー山脈の方を選んで出かけてみた。その山脈の東の麓に、チェロキーという小さな町があったからである。

 町自体はほとんど私の興味を惹かなかった。インディアンが作ったという毛皮や絨毯、それに各種の細工物を並べた売店が並んでいるだけで、それもたいてい白人が経営しているのだと聞かされては、まる一日のドライヴが無駄だったかと思ったほどである。しかしその町に一泊した翌朝、インディアン関係の問題を扱っている内務省の出張所(Cherokee Agency, Bureau of Indian Affairs)があると聞いて、そこを訪ねてみた。白人の所長に紹介されて、そこの事務員をしているインディアンの女性からしばらく話を聞き、いくつかの資料を貰ったりしたが、これはこれで政府公式の応対にすぎず、いたずらに自然の平和な美しさだけが深く心のなかに刻みこまれた。

 しかし、今度の旅では違っていた。当時のチェロキー国家の首都ニューエチョタ(New Echota)が昔通りに復元されたと聞いて、朝から汗が滴り落ちそうな八月中旬の一日、昼食を作ってアパートメントを出発した。九年前ノースカロナイナのチェロキー町へ出かけた時より、アトランタから見ると九十度くらいも西へ寄ったハイウエイ75を北上すると、町なみが終ったところでチャタフチーというインディアン名の川を渡る。両岸を深い林で蔽われて、かなりの水量がゆったりと流れている。この川が現在はアトランタンの町の西北の境界線になっているが、当時は郷土史家フランクリン・M・ギャレットが『イェスタデイズ・アトランタ』(一九七四年)のなかで書いているように、「チャタフチー川はクリークとチェロキーの古くからの境界線で、チェロキーはこの川の西北一帯の土地に住んでいた」のである。もっと時代を遡って、植民地時代に描かれた古い地図の復元図を見ると、広大なアパラチアの山地はすべてチェロキーの国となっており、その南の平地がクリークの国と記されている。

 このチェロキーたちがどのくらいの人数でどの程度の面積にひろがって住んでいたのかということは、幸いニューチョタ復元に努力したヘンリー・T・マローン教授の『オールド・サウスのチェロキーたち』(一九五六年)のなかに詳しくのべられている。これによると、十八世紀はテネシーの東半分を中心に、北はケンタッキーの東半分、南はサウスカロライナ、ジョージア、アラバマの北部をも含めた広大な地域がチェロキー・カントリーだったという。しかし十九世紀に入り、白人との接触が危機をはらんでくる一八二五年頃、その範囲は南の方にずれてきて、ジョージア北部がその中心となり、これにノースカロライナ、テネシー、アラバマの一部が加わって、いま私たちが目指しているニューエチョタがその時のチェロキー国家の中央部にあたっていた。

「十九世紀のはじめ、約二万人のチェロキーがアパラチア山脈南部の三千平方マイル

の土地に住んでた。二〇年後になると、条約を結んで調整したり西部への移住希望者を

募ったりした結果、チェロキーたちは約一万四千人が二万八千平方マイルの土地に住む

程度になっていた。一八三五年になると、これは東部におけるチェロキー共和国(リパブリツク)時代の終

りの頃だが、人口の統計については次のような公式記憶が残されている。

          インディアン   奴 隷  インディアンと
                        結婚した白人

ジョージア      八、九四六   七七六   六八

ノースカロライナア  三、六四四    三七   二二

テ ネ シ ー    二、五二八   四八〇   七九

ア ラ バ マ    一、四二四   二九九   三二

  計       一六、五四二 一、五九二  二〇一 」

とローン教授は書いているが、当時としてはかなりの人口といわなければならない。というのは、ジョージア州の発展は大西洋岸から始まったものであり、州都も初めは海岸のサヴァンナだったが、真夏の湿度を避けて一七九四年から一八〇七年の間は内陸のルイスヴィルという町に移動して、山寄りのアトランタなどは、一八一二年から始まったイギリスとの戦争のときに要塞を建てたのが、町作りの第一歩となった程度だからである。

 私はゆるやかに波打って山の間を縫いながら西北の方向に伸びているハイウエイ75を走り続けた。そして、ふとこの辺りにインディアン名の地名があまりにも多いことに気がついた。紀元前二万五千年頃の間に、インディアンの祖先である蒙古系人種がシベリア方面からベーリング海峡をこえて入ってきたとき、この大陸に人間はまったく住んでいなかったのだから、「新大陸」とか「新世界」とかいう言葉を使いたいのならば、その意味でいうことはできるであろう。ともかくインディアンは「最初のアメリカ人」あるいは「先住アメリカ人」となったわけであり、アメリカ各地にインディアン名が残っているのは当然であるが、どうもこの南部にはその傾向がとくに強いような気がする。

 たとえば、かつてアラバマ大学の経済学部長をしていた私の友人などは、その住所がアラバマ州、タスカル―サ市、インディアン・ヒル・ドライヴ、である。この州の名も、市の名もともにインディアン語であることを思えば、それで十分であろう。母音が規則正しく子音の間にちりばめられているインディアンの言葉は、それが英語のなかに入って発音されるとき、音楽のような美しい響きとなって私の耳に聞こえてくる。いま私が走っている右手の美しい丘陵地帯はチェロキー郡、もっと先へ行くと左手の国有林地帯はチャトゥーガ郡、さらに先へ進むとこれもインディアン名のテネシー州に入るが、その最初の町がチャタヌーガ、その近くにある南北戦争の古戦場の原野がチカモーガ、その近くに住む友人の住所がチェロキー・レイン。こういう例をあげていけば、おそらく際限がないであろう。なにしろチェロキー国家がアメリカ政府から西方への強制移住を迫られて、やむをえずこの平和で豊かな土地を離れるのは、一八三八年のことである。この年、ここよりずっと西にあたるイリノイ州ヴァンダリアで、リンカーンがすでに二十九歳になっていた。八月には州の下院に三選され、一二月にはホイッグ党から州議会下院議長候補に指名されている。この年ミシシッピ川以東の地でまだ正式の州になっていなかったのは、南のフロリダ、北のウィスコンシンだけであった。さらにずっと眼を西方に転じると、なんとこの年の一年前には、アメリカ船モリソン号が日本の漂流民数名を乗せて浦賀に接近し、砲撃を受けて退去した事件が起っている。大政奉還まであと三〇年だけしか残されていない年代なのである。

 そう考えてくると、一八三八年という年までここチェロキー国家があったということ自体が、一種の驚異というべきではないだろうか。その上、すでに知られているように、チェロキーたちはアメリカ政府を見倣って共和制の新しい政府を樹立し、セクォイアという混血の指導者が一八二一年二チェロキー語のアルファベットを発明し、一八二八年二月二一日にチェロキー語と英語を併用した新聞CHEROKEE PHOENIX を創刊して一八三四まで発行し続けたのである。北米の数多いインディアンのなかで、おそらくチェロキー国家はもっとも柔軟な態度で侵入者たる白人の文明をとり入れた代表的な例であろう。

 私たちは途中で一回車をとめてガソリンを補給しただけで、225というナンバーの横道に入り、その道の右側にあるニューエチョタに到着した。アトランタからちょうど一時間半の距離である。わずかなスペースの駐車場があって、その横の小さな煉瓦造りの建物が、この遺蹟の管理を兼ねたミュージアムになっている。ミュージアムとはいっても付近の出土品をほんの少しばかり展示してあるだけだ。私たちは冷たい水で十分に咽喉を潤すと、一刻も早くチェロキー国家の首都の跡を眼にしたい思いに駆られ、真夏の陽光が無遠慮に照りつけている現場に向かった。

 とくに暑い日で、周辺の景色がすべて潤んでいるように見えた。一辺三、四メートルくらいの正方形に近い面積の草原に、三軒の建物がかなり離れて建っているのが遠くから分かった。そのまわりは一面の林で、木々のとぎれた空間は、僅かばかりのトウモロコシや大豆の畑になっている。他に見学の客は見あたらず、耳に入ってくる物音は、ただ林から洩れてくる蝉の鳴声だけであった。

 「まるで日本と同じような景色なのね」

 志満にそういわれると、私はすぐにトンボを草原のなかで追いまわしていた子供の頃を思い出した。その幻影をいまこの草原の上に再現させてみても、不自然なところはまったくないほどである。違うところはただ一つ、日本の私の憶えている草原は、朝のうちだけしかに露に濡れて生き生きと輝いていたが、このように日が中天高く昇る頃になるとすっかり乾ききり、夏の陽光を十分に浴びて項垂れてしまったのに、いまこのニューチョタでは、もうほとんど正午に近い時間でありながら、まるで雨のなかを歩いてでもいるかのように、草の上を進む私たちの靴がひどく濡れてているし、両側の草の茂みは大粒の露で溢れているのだった。

 「こんなに大きな露、チェロキーたちの涙みたいね」

 実は私も、志満がそういい出す前から、異常とも思える草の濡れかたに気がついて、ある言葉を連想していた。それは「涙の道」(Trail of Tears)という言葉であった。一八三八年一〇月、スコット将軍の指揮する軍隊に追い立てられるようにして、一万数千人のチェロキーたちは、愛していた平和なこの土地を離れ、はるか西方オクラホマへ向って悲惨な旅に出発する。アメリカ政府が支給したのは僅か一枚の毛布だけである。移住を請負った白人の業者は、私腹を肥やすためにインディアンたちの食費をきりつめる。オクラㇹマまでの全行程約一千三百キロ、しかも酷寒の季節を迎え、寒さや病気のため、インディアンは次つぎ倒れたり、脱落したりした。脱走すれば、監視のアメリカ兵に射殺された。チェロキーの指導者ジョン・ロスさえ、途中で妻のクォーティーを急性肺炎で失っている。途中の死者は全員の四分の一にも上がった。これを「涙の道」とよばないで、何といえるだろう。

 こういう私の表現が主観的で、またあまりに一方的であると思う人がいるかもしれないので、私はここに、あの有名なアレクシス・ド・トックヴィルの『アメリカにおける民主主義』の一部を引用しよう。フランス人トックヴィルは、一八三一年に九カ月だけアメリカ各地を訪問し、今ではアメリカに関する代表的な古典といわれるこの本の第一部を一八三五年に、第二部を一八四〇年に出版した。「正直にいうと、私はアメリカのなかにアメリカ以上のものを見たのである」とのべている通り、外国人によって書かれたアメリカ論のうち、これほど傑出したものはその後もまだ出ていない。

 トックヴィルはかつてフランス人が建てた町ニューオーリンズを訪ねたが、その途中でミシシッピ州南部を中心に住んでいたチョクトー・インディアンが移住させられる光景を、実際に眼のあたりに眺めることになった。ジャクソン大統領がインディアン諸国家に対して強制移住法を定めたのは一八三〇年のことであるが、それ以前から中部へかけてのチカソーが一八三〇年から三二年にかけて、チョクトーが三一年に、さらにアメリカ軍との戦いに敗れたフロリダのセミノールと、アラバマ、ジョージアにかけて住んでいたクリ―クが三二年に、それぞれ西方の荒野に向かい、その後はチェロキーだけがなお平和裡に白人と共存する道を探って努力を重ねていたのである。トックヴィルは次のように書いている。

「私は一八三一年の末に、ヨーロッパ人がメンフィスとよんでいるミシシッピ川左岸の場所にいた。そこにいる間に多くのチョクトーの人びとの一団がさしかかった。この未開の人たちはそれmで住んでいた土地を離れ、アメリカ政府が約束した避難場所へたどりつくために、ミシシッピ川の対岸へ向かおうとしていた。ちょうど冬の最中で、しかもその年はかつてないほどの寒さに襲われていた。雪が降るとそれが地面で固く凍りつき、大河の表面には大きな氷お塊りがいくつも流れていた。インディアンたちはみな家族連れだったし、他に負傷者や病人、生れてまもない乳幼児や瀕死の老人などを抱えていた。テントも馬車もなく、ただ食糧と武器だけをいくらか持っているにすぎなかった。この大河を渡るために彼らが舟に乗るところを私は見たが、その時の悲惨な情景をこれからも忘れることはできないであろう。すすり泣きも聞こえなかったし、苦情を訴える者もいなかった。みな一様におし黙っていた。こういう不幸は昔からでもあったもので、とてもそれを取り除くことなどできない、と彼らは思っているのだ。インディアンたちはみな舟に乗りこんだが、彼らについてきた犬たちは、岸辺に残されたままであった。この犬たちは、もう二度と会えなくなろうとしている主人たちを眺めて、いっせいに腹の奥からしぼりだすような恐ろしいうなり声をあげた。そして氷のように冷たいミシシッピ川の水中にとびこみ、主人たちのあとを追って泳ぎはじめた」

 私と志満は大粒の涙のような草の露を踏みして、足首のあたりまでびっしょり濡らしながら、最初の建物の前に立った。復元された新聞の印刷所である。なかに入ると、ちょうど版画を作るときのように一枚一枚手を使って印刷する古い機械が一台だけあって、その横に初老の白人が退屈そうに腰を下ろしている。私たちを見てその男はうれしそうに立ち上り、説明をしながらチェロキーの新聞を一枚刷ってくれた。それが、北米のインディアンによって作られた唯一の新聞であった。チェロキー語をもちろん私は読めないが、英語が併記してあって、ここに移り住んだモラヴィア派の宣教師サミュエル・A・ウスターは、ずっとこの新聞にコラムを書き続けていたという。

 この印刷所から百メートルほど離れた場所に、チェロキー国家の最高裁判所が復元されていた。これも比較的小さな木造の建物で、なかに入ることはできなかったが、窓を通して覗いたかぎりでは、なかなか清潔感に溢れた威厳のある法廷であった。この周辺にいくつもの建物があって、チェロキー国家の首都ニューエチョタを作り上げていたのである。国土が南にずれて移動したために、それまでの中心地だったテネシー東部の町チョタ(Chota)を捨て、ここにニューエチョタが建設されたのは一八二五年のことである。チェロキー国家はこのとき八つの地区に分れ、各地区から四人の代表が選ばれて下院を作り、下院によって選ばれた十二名が上院を構成した。この上院が互選で、大統領(プリンシパル・チーフ)と副大統領、さらに会計長官の三人を選んだ。

 私たちは、もう少し敗者の立場に立って歴史を振り返る必要があるのではないだろうか。不幸にして歴史は、たいてい勝者の側だけから書かれている。たとえば小西行長の資料が多く埋没してしまっているように、この点については洋の東西を問わない。先住アメリカ人であるインディアンたちからみれば、後から入ってきたヨーロッパ人たちが勝手にジョージアやサウスカロライナに植民地を作り、それがまた勝手に独立して新しい国家となったことを宣言したにすぎないのではないか。勝者が書いた歴史の読者である私たちは、一七八九年に初代大統領ワシントンが就任したという部分をみて、この年に大西洋岸一三州の土地は、すべてこの若い共和国としてのアメリカ合衆国のものとなり、そこにアメリカ人が満ち満ちていたような誤った印象をもってしまうのである。

 ところが実際には、合衆国が新しい国家としてスタートを切ったとされるこの年、この国の国土であるとされるアパラチア山脈とミシシッピ川の間の広大な土地はいうまでもなく、大西洋岸の一三州のなかにさえもジョージア北部を占めて平穏な生活をしていたこのチェロキーのように、主権をもった先住アメリカ人の諸国家がいくつも存在していたのである。しかし歴史家の筆は、ほとんどこの点に触れていない。新しくできた合衆国政府の内部構造、歴代大統領の治績、ヨーロッパ諸国との国際関係などを説明することに歴史の記述は費されている。しかしおそらく当時のアメリカ人たちは、後世の歴史家や、その読者である私たちが考えているよりはるかに深刻に、はるかに重大に、インディアン諸国家の存在について考えていたことであろう。なぜならば、それは実際の生活上の問題であり、もしその人が西方に安い土地を求めて移住しようとすれば、あるいは自分の生死、幸不幸をわける決定的な問題となったからである。西方へ移住を希望しない人びとにとっても、連邦政府や州政府が西方に存在しているたくさんのインディアン諸国家とどんな条約をとり交わすかという問題は、やはり最大の関心事の一つであったに違いない。

 私はこれまでチェロキー国家(ネイション)という表現を使ってきたが、それはワシントン政府がインディアンに対して、一つの nation として考え、それぞれに条約を結んで土地の買収を行なうことを建て前としたからである。事実一八二三年に当時の合衆国最高裁長官ジョン・マーシャルは、インディアンたちをアメリカのなかの従属国家であるとし、その土地所有権を正当なものであると認定している。nation はそこに独立した主権をもつ集団があることを認めた表現で、国家という訳語を必ずしも適当とは思わないが、便宜上チェロキー国家という表現を用いた。これはすでにのべたように、形式上もヨーロッパ的な意味における国家の様相を急速に呈してきていたからである。

 これに対して tribe という語は普通「部族」というような表現で訳されているが、私はチェロキー族とかクリーク族というような表現することに抵抗を感じないわけにはいかない。族という言葉のなかに、私はどうしても未開人、野蛮人というニュアンスを感じるし、しかもそれはヨーロッパ的な文明の尺度だけで勝手に測っているにすぎないように思われるからである。

 勝者の歴史家はまた、仲間が犯した罪を無意識に隠そうとする。時には意識的にそうすることがあるかもしれない。たとえば西ヨーロッパのほとんどすべてのキリスト教国が、四世紀間もの長い間行ってきた大西洋上の奴隷貿易のことを考えてみると、歴史家はどれだけのスペースをこの驚くべき事実に対して費しているだろうか。アフリカから連れ出された黒人奴隷の数は何千万人に上るか見当もつかないほどであり、しかもそれは西半球のすべての国のなかで、その後の人口構成に決定的影響を与えるほどの結果となっているのである。この罪深い仕業を少しでも軽減するためには、その部分を歴史のなかから抹殺するか、あるいは黒人たちを、そうされても仕方がないほどの未開人であったと説明するより他に方法がない。こうしてアメリカは、長いヨーロッパ人から「暗黒大陸」というレッテルを貼られてしまったのである。

 同じようなことが、インディアンに対しても行なわれているのではないだろうか。彼らに対して犯した罪の深さにおののくあまり極端に野蛮な未開人としてのイメージを作りあげようとしてきたのではないか。ヨーロッパ的な文明の尺度では測れないインディアン独特の文明があったはずだし、かりにヨーロッパ的な意味でも、いま私の前に建っているチェロキー国家の最高裁判所が沈黙のうちに示しているように、インディアンたちの文明は勝者の歴史家たちが押しつけてきたイメージとはかなり違うものだったはずである。しかし歴史家の筆やハリウッド映画のステレオタイプ化によって、インディアンは野蛮人というイメージが、単にアメリカのなかではなく広く全世界に伝わってしまった。

 こういうやり切れない思いと、ますます暑さを加えた陽光とに私はぐったりとした。そしてあと二つ残った建物、初めは森に囲まれて見えなかった宣教師ウスターの家と、他の場所から持ってきてここに再建したのだという居酒屋、または寄り合い所、とでもいうべき建物を見て廻った。いまこのニューエチョタの空間に再現されているのは、この四つの建物だけである。一八三八年にチェロキーたちが涙をしぼるような思いでここを発ったあと、この首都を作りあげていた建物は、少し離れた所にあるウスターの家を除いてみな倒壊した。それから一世紀あまりの間、ここにチェロキー国家があったことは、まったく忘れ去られてしまった。ようやく第二次大戦のあとになって、この近くにあるカルフーンという町の住民たちが調査に乗りだし、正確な場所が分ってからその周辺二百エーカーの土地を購入し、ジョージア州の史蹟に加えてらって、ここまで復元してきたのだという。

 私たちはそれからさらに田舎道を北に三十分ばかり走って、ジェームズ・ヴァンという混血のチェロキー指導者が住んでいた家を訪ねた。父はスコットランドの交易者、母はチェロキーの女性だというヴァンの家は、煉瓦造りなので、そっくりそのまま小高い丘の上に立っていた。私たちは火照った首筋を流れる汗を気にしながら、当時の家具をそのまま並べてある各部屋を見て廻った。そして一九七二年に車でオクラホマにさしかかった時、そこで出会ったあるインディアンの女性のことを話しあった。彼女は自分の方から「私はチェロキーです」といって私たちに話しかけてきたのだ。「涙の旅」をした人たちの子孫だったのである。

 それからまた私たちは、別の日を選んで、もう一人のチェロキー指導者メイジャー・リッジの家を訪ねた。それはニューチョタの西南にあたるロウムの町はずれにあった。ロウムは人口三万あまり、この地方では最大の都市で、私も以前に、ニ、三度追ったことがあるが、ニューエチョタのジョン・ロス大統領に反抗して、その不在中ひそかにアメリカ政府の代表と西方移住に同意する調印をしたメイジャー・リッジとその子ジョン・リッジの家が、この町の北のはずれにあることを私は長い間知らないでいた。

 それはチーフテインズ・ミュージアムという名で保存されていたが、なんと開館は日曜の午後三時間と、あとは水曜の四時間だけで、私たちは空しくその建物のまわりを一廻りして外観だけを眺めるだけに終ったが、少なくとも外から見た限りでは、ちょうど大勢の黒人奴隷を使っているプランテイションの邸宅を思わせるほど立派なものであった。事実、調べてみるとこの一家は四人もの黒人奴隷をもち、ジョ―ジア州政府と誼を結んで、かなり貴族的な生活をしていたようである。

 インディアンの各国家群がこうしてしだいに西方に追いやられることになったのは、インディアン相互の間に共通した連帯感が皆無だったことにもよるであろう。その上、契約の概念に乏しかったので、気がつかぬまに土地を奪われる結果になったことも多かったにちがいない。チェロキーの場合は、途中から指導者たちの間で意見が対立し、最後まで土地を守って白人との共存を計ろうとしたニューエチョタのジョン・ロスと、西方移転こそ唯一の道と割り切っていたメイジャー・リッジと、この二派に分裂したことは、チェロキー全体にとってどれほど不幸なことだったか分らない。

 私たちはそれからまた、ジョージア州政府がチェロキー追い出しに異常なまでの熱意をみせた原因の一つと思われる場所、ダロネガという町を訪れた。それはロウムの反対の方角、チェロキー国家の東側の境界線上で、深い山やまに囲まれた小さな町である。一九六九年の秋、たまたまこの辺りまでドライヴに来ていた私たちは、この町の年に一度の祭りに出会い、初めて山あいのこのダロネガがかつてゴールド・ラッシュに沸いた場所であることを知らされた。しかもそれが一八四八年にカリフォルニアで金鉱が発見されるより二〇年も前であることが、一層私を驚かせた。一八二八年の金鉱発見は、二九年に入ってからゴールド・ラッシュのブームを起し、多くの人びとが美しいこのチェロキー国家の東部に侵入しはじめたのである。そして翌三〇年、インディアン強制移住法の制定――。

 九年ぶりでダロネガの町を再訪し、中心部にあるコートハウスが金鉱発見のミュージアムになっているのを見ているうちに、この付近のゴールド・ラッシュは僅か数年だけしか続かなかったことが分った。もしここが西部のような荒涼とした岩山だけの山岳地帯であったならば、おそらくここはたちまちゴーストタウン化していたであろう。私は町はずれの廃坑に立ちよって、昔から使われていたパンとよばれる鍋のような道具に金杭の土を盛りあげ、樋を伝わって流れてくる水で砂金を探す真似事をしながら、金がとれなくなった時の人びとの心理を想像した。これほど美しい自然が広がっているのを見たら、あるいはまたチェロキーたちが長年かかって作りあげた果樹園やトウモロコシ畑を見たら、そのままここに居座って、魅力的なこの土地を手にいれようと考えるのではないだろうか。

 ここでやはり考えてみたいのは、一八三〇年のジャクソン大統領による強制移住法が、表面的にはミシシッピから以東のすべてのインディアンに適用されるものだったにしても、当時白人の西進を妨げるほど大きな存在だったインディアン国家は大部分南部にあったので、実質的には南部の白人がこの法律の受益者だったという点である。南北戦争のニ、三十年前、南部はそこに住んでいたインディアン諸国家に対して、加害者であり、また勝利者であったといわなけれ

  チェロキー国家の古都を訪ねて P.35

写真:ニューエチュタ新聞印刷所

 居間の窓は、一つを除いてみな北を向いていた。近くにはホテルや銀行がまばらに建っていて、その向うにはジョージア工科大学の建物や教会の尖塔が、かすかにその姿を木々の緑の上に浮かせている。さらにその向うは――もう一面の深い森だった。森の先端が見渡す限り広がっていて、その(あおぐら)い地平線の一部が僅かに盛り上がっているように見えた。ジョージア北部にまで伸びているアパラチア山脈の最後の緑が、時にはこの窓を通して、ちらりとその片鱗をかいま見せるのである。

 一九六九年の秋、エモリ―大学の新しい図書館のなかの私の部屋で読書にあきてくると、私はよく志満と一緒にこのジョージア北部をドライヴして廻った。時には昼食をすませてから思いたって出かけるようなこともあったし、また時には朝からおにぎりを作り、熱い日本茶を魔法瓶につめて出かけるようなこともあったが、ジョージア北部の自然はいつも美しい粧いをこらして私たちを待っていた。ゆるやかな丘陵、なだらかな山の稜線、思いがけないとき突然眼の前に現れる小さな湖、黝い松の色とみごとなコントラストを作りあげる秋のなかばの落葉樹の黄色――。

 この美しいジョージア北部の大自然のなかに、僅か一世紀半前までチェロキーというインディアンの国家があったことを身近な現実として感じるようになったのは、その頃アトランタンの新聞に出た小さな記事を見てからである。ほとんど見逃がしてしまいそうな僅か二十行ほどの記事だったが、アメリカ東南部に住む各インディアンの集団が、生活環境の改善を要求するために代表を送って、アトランタで会議を開いているという内容のもので、「レッド・パワー」運動が高まっていた当時の世情のなかでは、それほど珍しい記事ではなかったかもしれない。

 それにもかかわらず私がその記事を見てびっくりしたのは、黒人は南部、あるいは北部の大都市、インディアンは西部の各地で点在するリザべーション、という地域的なステレオタイプがいつのまにか私の頭のなかにでき上がっていて、アトランタの周辺にたとえ僅かでもインディアンたちが住んでいようとは、夢にも思わないでいたからである。フロリダの北部にそういう場所がいくつかあることに気がついたが、私はテネシーとノースカロライナの州境に連なっている国立公園グレート・スモーキー山脈の方を選んで出かけてみた。その山脈の東の麓に、チェロキーという小さな町があったからである。

 町自体はほとんど私の興味を惹かなかった。インディアンが作ったという毛皮や絨毯、それに各種の細工物を並べた売店が並んでいるだけで、それもたいてい白人が経営しているのだと聞かされては、まる一日のドライヴが無駄だったかと思ったほどである。しかしその町に一泊した翌朝、インディアン関係の問題を扱っている内務省の出張所(Cherokee Agency, Bureau of Indian Affairs)があると聞いて、そこを訪ねてみた。白人の所長に紹介されて、そこの事務員をしているインディアンの女性からしばらく話を聞き、いくつかの資料を貰ったりしたが、これはこれで政府公式の応対にすぎず、いたずらに自然の平和な美しさだけが深く心のなかに刻みこまれた。

 しかし、今度の旅では違っていた。当時のチェロキー国家の首都ニューエチョタ(New Echota)が昔通りに復元されたと聞いて、朝から汗が滴り落ちそうな八月中旬の一日、昼食を作ってアパートメントを出発した。九年前ノースカロナイナのチェロキー町へ出かけた時より、アトランタから見ると九十度くらいも西へ寄ったハイウエイ75を北上すると、町なみが終ったところでチャタフチーというインディアン名の川を渡る。両岸を深い林で蔽われて、かなりの水量がゆったりと流れている。この川が現在はアトランタンの町の西北の境界線になっているが、当時は郷土史家フランクリン・M・ギャレットが『イェスタデイズ・アトランタ』(一九七四年)のなかで書いているように、「チャタフチー川はクリークとチェロキーの古くからの境界線で、チェロキーはこの川の西北一帯の土地に住んでいた」のである。もっと時代を遡って、植民地時代に描かれた古い地図の復元図を見ると、広大なアパラチアの山地はすべてチェロキーの国となっており、その南の平地がクリークの国と記されている。

 このチェロキーたちがどのくらいの人数でどの程度の面積にひろがって住んでいたのかということは、幸いニューチョタ復元に努力したヘンリー・T・マローン教授の『オールド・サウスのチェロキーたち』(一九五六年)のなかに詳しくのべられている。これによると、十八世紀はテネシーの東半分を中心に、北はケンタッキーの東半分、南はサウスカロライナ、ジョージア、アラバマの北部をも含めた広大な地域がチェロキー・カントリーだったという。しかし十九世紀に入り、白人との接触が危機をはらんでくる一八二五年頃、その範囲は南の方にずれてきて、ジョージア北部がその中心となり、これにノースカロライナ、テネシー、アラバマの一部が加わって、いま私たちが目指しているニューエチョタがその時のチェロキー国家の中央部にあたっていた。

「十九世紀のはじめ、約二万人のチェロキーがアパラチア山脈南部の三千平方マイル

の土地に住んでた。二〇年後になると、条約を結んで調整したり西部への移住希望者を

募ったりした結果、チェロキーたちは約一万四千人が二万八千平方マイルの土地に住む

程度になっていた。一八三五年になると、これは東部におけるチェロキー共和国(リパブリツク)時代の終

りの頃だが、人口の統計については次のような公式記憶が残されている。

          インディアン   奴 隷  インディアンと
                        結婚した白人

ジョージア      八、九四六   七七六   六八

ノースカロライナア  三、六四四    三七   二二

テ ネ シ ー    二、五二八   四八〇   七九

ア ラ バ マ    一、四二四   二九九   三二

  計       一六、五四二 一、五九二  二〇一 」

とローン教授は書いているが、当時としてはかなりの人口といわなければならない。というのは、ジョージア州の発展は大西洋岸から始まったものであり、州都も初めは海岸のサヴァンナだったが、真夏の湿度を避けて一七九四年から一八〇七年の間は内陸のルイスヴィルという町に移動して、山寄りのアトランタなどは、一八一二年から始まったイギリスとの戦争のときに要塞を建てたのが、町作りの第一歩となった程度だからである。

 私はゆるやかに波打って山の間を縫いながら西北の方向に伸びているハイウエイ75を走り続けた。そして、ふとこの辺りにインディアン名の地名があまりにも多いことに気がついた。紀元前二万五千年頃の間に、インディアンの祖先である蒙古系人種がシベリア方面からベーリング海峡をこえて入ってきたとき、この大陸に人間はまったく住んでいなかったのだから、「新大陸」とか「新世界」とかいう言葉を使いたいのならば、その意味でいうことはできるであろう。ともかくインディアンは「最初のアメリカ人」あるいは「先住アメリカ人」となったわけであり、アメリカ各地にインディアン名が残っているのは当然であるが、どうもこの南部にはその傾向がとくに強いような気がする。

 たとえば、かつてアラバマ大学の経済学部長をしていた私の友人などは、その住所がアラバマ州、タスカル―サ市、インディアン・ヒル・ドライヴ、である。この州の名も、市の名もともにインディアン語であることを思えば、それで十分であろう。母音が規則正しく子音の間にちりばめられているインディアンの言葉は、それが英語のなかに入って発音されるとき、音楽のような美しい響きとなって私の耳に聞こえてくる。いま私が走っている右手の美しい丘陵地帯はチェロキー郡、もっと先へ行くと左手の国有林地帯はチャトゥーガ郡、さらに先へ進むとこれもインディアン名のテネシー州に入るが、その最初の町がチャタヌーガ、その近くにある南北戦争の古戦場の原野がチカモーガ、その近くに住む友人の住所がチェロキー・レイン。こういう例をあげていけば、おそらく際限がないであろう。なにしろチェロキー国家がアメリカ政府から西方への強制移住を迫られて、やむをえずこの平和で豊かな土地を離れるのは、一八三八年のことである。この年、ここよりずっと西にあたるイリノイ州ヴァンダリアで、リンカーンがすでに二十九歳になっていた。八月には州の下院に三選され、一二月にはホイッグ党から州議会下院議長候補に指名されている。この年ミシシッピ川以東の地でまだ正式の州になっていなかったのは、南のフロリダ、北のウィスコンシンだけであった。さらにずっと眼を西方に転じると、なんとこの年の一年前には、アメリカ船モリソン号が日本の漂流民数名を乗せて浦賀に接近し、砲撃を受けて退去した事件が起っている。大政奉還まであと三〇年だけしか残されていない年代なのである。

 そう考えてくると、一八三八年という年までここチェロキー国家があったということ自体が、一種の驚異というべきではないだろうか。その上、すでに知られているように、チェロキーたちはアメリカ政府を見倣って共和制の新しい政府を樹立し、セクォイアという混血の指導者が一八二一年二チェロキー語のアルファベットを発明し、一八二八年二月二一日にチェロキー語と英語を併用した新聞CHEROKEE PHOENIX を創刊して一八三四まで発行し続けたのである。北米の数多いインディアンのなかで、おそらくチェロキー国家はもっとも柔軟な態度で侵入者たる白人の文明をとり入れた代表的な例であろう。

 私たちは途中で一回車をとめてガソリンを補給しただけで、225というナンバーの横道に入り、その道の右側にあるニューエチョタに到着した。アトランタからちょうど一時間半の距離である。わずかなスペースの駐車場があって、その横の小さな煉瓦造りの建物が、この遺蹟の管理を兼ねたミュージアムになっている。ミュージアムとはいっても付近の出土品をほんの少しばかり展示してあるだけだ。私たちは冷たい水で十分に咽喉を潤すと、一刻も早くチェロキー国家の首都の跡を眼にしたい思いに駆られ、真夏の陽光が無遠慮に照りつけている現場に向かった。

 とくに暑い日で、周辺の景色がすべて潤んでいるように見えた。一辺三、四メートルくらいの正方形に近い面積の草原に、三軒の建物がかなり離れて建っているのが遠くから分かった。そのまわりは一面の林で、木々のとぎれた空間は、僅かばかりのトウモロコシや大豆の畑になっている。他に見学の客は見あたらず、耳に入ってくる物音は、ただ林から洩れてくる蝉の鳴声だけであった。

 「まるで日本と同じような景色なのね」

 志満にそういわれると、私はすぐにトンボを草原のなかで追いまわしていた子供の頃を思い出した。その幻影をいまこの草原の上に再現させてみても、不自然なところはまったくないほどである。違うところはただ一つ、日本の私の憶えている草原は、朝のうちだけしかに露に濡れて生き生きと輝いていたが、このように日が中天高く昇る頃になるとすっかり乾ききり、夏の陽光を十分に浴びて項垂れてしまったのに、いまこのニューチョタでは、もうほとんど正午に近い時間でありながら、まるで雨のなかを歩いてでもいるかのように、草の上を進む私たちの靴がひどく濡れてているし、両側の草の茂みは大粒の露で溢れているのだった。

 「こんなに大きな露、チェロキーたちの涙みたいね」

 実は私も、志満がそういい出す前から、異常とも思える草の濡れかたに気がついて、ある言葉を連想していた。それは「涙の道」(Trail of Tears)という言葉であった。一八三八年一〇月、スコット将軍の指揮する軍隊に追い立てられるようにして、一万数千人のチェロキーたちは、愛していた平和なこの土地を離れ、はるか西方オクラホマへ向って悲惨な旅に出発する。アメリカ政府が支給したのは僅か一枚の毛布だけである。移住を請負った白人の業者は、私腹を肥やすためにインディアンたちの食費をきりつめる。オクラㇹマまでの全行程約一千三百キロ、しかも酷寒の季節を迎え、寒さや病気のため、インディアンは次つぎ倒れたり、脱落したりした。脱走すれば、監視のアメリカ兵に射殺された。チェロキーの指導者ジョン・ロスさえ、途中で妻のクォーティーを急性肺炎で失っている。途中の死者は全員の四分の一にも上がった。これを「涙の道」とよばないで、何といえるだろう。

 こういう私の表現が主観的で、またあまりに一方的であると思う人がいるかもしれないので、私はここに、あの有名なアレクシス・ド・トックヴィルの『アメリカにおける民主主義』の一部を引用しよう。フランス人トックヴィルは、一八三一年に九カ月だけアメリカ各地を訪問し、今ではアメリカに関する代表的な古典といわれるこの本の第一部を一八三五年に、第二部を一八四〇年に出版した。「正直にいうと、私はアメリカのなかにアメリカ以上のものを見たのである」とのべている通り、外国人によって書かれたアメリカ論のうち、これほど傑出したものはその後もまだ出ていない。

 トックヴィルはかつてフランス人が建てた町ニューオーリンズを訪ねたが、その途中でミシシッピ州南部を中心に住んでいたチョクトー・インディアンが移住させられる光景を、実際に眼のあたりに眺めることになった。ジャクソン大統領がインディアン諸国家に対して強制移住法を定めたのは一八三〇年のことであるが、それ以前から中部へかけてのチカソーが一八三〇年から三二年にかけて、チョクトーが三一年に、さらにアメリカ軍との戦いに敗れたフロリダのセミノールと、アラバマ、ジョージアにかけて住んでいたクリ―クが三二年に、それぞれ西方の荒野に向かい、その後はチェロキーだけがなお平和裡に白人と共存する道を探って努力を重ねていたのである。トックヴィルは次のように書いている。

「私は一八三一年の末に、ヨーロッパ人がメンフィスとよんでいるミシシッピ川左岸の場所にいた。そこにいる間に多くのチョクトーの人びとの一団がさしかかった。この未開の人たちはそれmで住んでいた土地を離れ、アメリカ政府が約束した避難場所へたどりつくために、ミシシッピ川の対岸へ向かおうとしていた。ちょうど冬の最中で、しかもその年はかつてないほどの寒さに襲われていた。雪が降るとそれが地面で固く凍りつき、大河の表面には大きな氷お塊りがいくつも流れていた。インディアンたちはみな家族連れだったし、他に負傷者や病人、生れてまもない乳幼児や瀕死の老人などを抱えていた。テントも馬車もなく、ただ食糧と武器だけをいくらか持っているにすぎなかった。この大河を渡るために彼らが舟に乗るところを私は見たが、その時の悲惨な情景をこれからも忘れることはできないであろう。すすり泣きも聞こえなかったし、苦情を訴える者もいなかった。みな一様におし黙っていた。こういう不幸は昔からでもあったもので、とてもそれを取り除くことなどできない、と彼らは思っているのだ。インディアンたちはみな舟に乗りこんだが、彼らについてきた犬たちは、岸辺に残されたままであった。この犬たちは、もう二度と会えなくなろうとしている主人たちを眺めて、いっせいに腹の奥からしぼりだすような恐ろしいうなり声をあげた。そして氷のように冷たいミシシッピ川の水中にとびこみ、主人たちのあとを追って泳ぎはじめた」

 私と志満は大粒の涙のような草の露を踏みして、足首のあたりまでびっしょり濡らしながら、最初の建物の前に立った。復元された新聞の印刷所である。なかに入ると、ちょうど版画を作るときのように一枚一枚手を使って印刷する古い機械が一台だけあって、その横に初老の白人が退屈そうに腰を下ろしている。私たちを見てその男はうれしそうに立ち上り、説明をしながらチェロキーの新聞を一枚刷ってくれた。それが、北米のインディアンによって作られた唯一の新聞であった。チェロキー語をもちろん私は読めないが、英語が併記してあって、ここに移り住んだモラヴィア派の宣教師サミュエル・A・ウスターは、ずっとこの新聞にコラムを書き続けていたという。

 この印刷所から百メートルほど離れた場所に、チェロキー国家の最高裁判所が復元されていた。これも比較的小さな木造の建物で、なかに入ることはできなかったが、窓を通して覗いたかぎりでは、なかなか清潔感に溢れた威厳のある法廷であった。この周辺にいくつもの建物があって、チェロキー国家の首都ニューエチョタを作り上げていたのである。国土が南にずれて移動したために、それまでの中心地だったテネシー東部の町チョタ(Chota)を捨て、ここにニューエチョタが建設されたのは一八二五年のことである。チェロキー国家はこのとき八つの地区に分れ、各地区から四人の代表が選ばれて下院を作り、下院によって選ばれた十二名が上院を構成した。この上院が互選で、大統領(プリンシパル・チーフ)と副大統領、さらに会計長官の三人を選んだ。

 私たちは、もう少し敗者の立場に立って歴史を振り返る必要があるのではないだろうか。不幸にして歴史は、たいてい勝者の側だけから書かれている。たとえば小西行長の資料が多く埋没してしまっているように、この点については洋の東西を問わない。先住アメリカ人であるインディアンたちからみれば、後から入ってきたヨーロッパ人たちが勝手にジョージアやサウスカロライナに植民地を作り、それがまた勝手に独立して新しい国家となったことを宣言したにすぎないのではないか。勝者が書いた歴史の読者である私たちは、一七八九年に初代大統領ワシントンが就任したという部分をみて、この年に大西洋岸一三州の土地は、すべてこの若い共和国としてのアメリカ合衆国のものとなり、そこにアメリカ人が満ち満ちていたような誤った印象をもってしまうのである。

 ところが実際には、合衆国が新しい国家としてスタートを切ったとされるこの年、この国の国土であるとされるアパラチア山脈とミシシッピ川の間の広大な土地はいうまでもなく、大西洋岸の一三州のなかにさえもジョージア北部を占めて平穏な生活をしていたこのチェロキーのように、主権をもった先住アメリカ人の諸国家がいくつも存在していたのである。しかし歴史家の筆は、ほとんどこの点に触れていない。新しくできた合衆国政府の内部構造、歴代大統領の治績、ヨーロッパ諸国との国際関係などを説明することに歴史の記述は費されている。しかしおそらく当時のアメリカ人たちは、後世の歴史家や、その読者である私たちが考えているよりはるかに深刻に、はるかに重大に、インディアン諸国家の存在について考えていたことであろう。なぜならば、それは実際の生活上の問題であり、もしその人が西方に安い土地を求めて移住しようとすれば、あるいは自分の生死、幸不幸をわける決定的な問題となったからである。西方へ移住を希望しない人びとにとっても、連邦政府や州政府が西方に存在しているたくさんのインディアン諸国家とどんな条約をとり交わすかという問題は、やはり最大の関心事の一つであったに違いない。

 私はこれまでチェロキー国家(ネイション)という表現を使ってきたが、それはワシントン政府がインディアンに対して、一つの nation として考え、それぞれに条約を結んで土地の買収を行なうことを建て前としたからである。事実一八二三年に当時の合衆国最高裁長官ジョン・マーシャルは、インディアンたちをアメリカのなかの従属国家であるとし、その土地所有権を正当なものであると認定している。nation はそこに独立した主権をもつ集団があることを認めた表現で、国家という訳語を必ずしも適当とは思わないが、便宜上チェロキー国家という表現を用いた。これはすでにのべたように、形式上もヨーロッパ的な意味における国家の様相を急速に呈してきていたからである。

 これに対して tribe という語は普通「部族」というような表現で訳されているが、私はチェロキー族とかクリーク族というような表現することに抵抗を感じないわけにはいかない。族という言葉のなかに、私はどうしても未開人、野蛮人というニュアンスを感じるし、しかもそれはヨーロッパ的な文明の尺度だけで勝手に測っているにすぎないように思われるからである。

 勝者の歴史家はまた、仲間が犯した罪を無意識に隠そうとする。時には意識的にそうすることがあるかもしれない。たとえば西ヨーロッパのほとんどすべてのキリスト教国が、四世紀間もの長い間行ってきた大西洋上の奴隷貿易のことを考えてみると、歴史家はどれだけのスペースをこの驚くべき事実に対して費しているだろうか。アフリカから連れ出された黒人奴隷の数は何千万人に上るか見当もつかないほどであり、しかもそれは西半球のすべての国のなかで、その後の人口構成に決定的影響を与えるほどの結果となっているのである。この罪深い仕業を少しでも軽減するためには、その部分を歴史のなかから抹殺するか、あるいは黒人たちを、そうされても仕方がないほどの未開人であったと説明するより他に方法がない。こうしてアメリカは、長いヨーロッパ人から「暗黒大陸」というレッテルを貼られてしまったのである。

 同じようなことが、インディアンに対しても行なわれているのではないだろうか。彼らに対して犯した罪の深さにおののくあまり極端に野蛮な未開人としてのイメージを作りあげようとしてきたのではないか。ヨーロッパ的な文明の尺度では測れないインディアン独特の文明があったはずだし、かりにヨーロッパ的な意味でも、いま私の前に建っているチェロキー国家の最高裁判所が沈黙のうちに示しているように、インディアンたちの文明は勝者の歴史家たちが押しつけてきたイメージとはかなり違うものだったはずである。しかし歴史家の筆やハリウッド映画のステレオタイプ化によって、インディアンは野蛮人というイメージが、単にアメリカのなかではなく広く全世界に伝わってしまった。

 こういうやり切れない思いと、ますます暑さを加えた陽光とに私はぐったりとした。そしてあと二つ残った建物、初めは森に囲まれて見えなかった宣教師ウスターの家と、他の場所から持ってきてここに再建したのだという居酒屋、または寄り合い所、とでもいうべき建物を見て廻った。いまこのニューエチョタの空間に再現されているのは、この四つの建物だけである。一八三八年にチェロキーたちが涙をしぼるような思いでここを発ったあと、この首都を作りあげていた建物は、少し離れた所にあるウスターの家を除いてみな倒壊した。それから一世紀あまりの間、ここにチェロキー国家があったことは、まったく忘れ去られてしまった。ようやく第二次大戦のあとになって、この近くにあるカルフーンという町の住民たちが調査に乗りだし、正確な場所が分ってからその周辺二百エーカーの土地を購入し、ジョージア州の史蹟に加えてらって、ここまで復元してきたのだという。

 私たちはそれからさらに田舎道を北に三十分ばかり走って、ジェームズ・ヴァンという混血のチェロキー指導者が住んでいた家を訪ねた。父はスコットランドの交易者、母はチェロキーの女性だというヴァンの家は、煉瓦造りなので、そっくりそのまま小高い丘の上に立っていた。私たちは火照った首筋を流れる汗を気にしながら、当時の家具をそのまま並べてある各部屋を見て廻った。そして一九七二年に車でオクラホマにさしかかった時、そこで出会ったあるインディアンの女性のことを話しあった。彼女は自分の方から「私はチェロキーです」といって私たちに話しかけてきたのだ。「涙の旅」をした人たちの子孫だったのである。

 それからまた私たちは、別の日を選んで、もう一人のチェロキー指導者メイジャー・リッジの家を訪ねた。それはニューチョタの西南にあたるロウムの町はずれにあった。ロウムは人口三万あまり、この地方では最大の都市で、私も以前に、ニ、三度追ったことがあるが、ニューエチョタのジョン・ロス大統領に反抗して、その不在中ひそかにアメリカ政府の代表と西方移住に同意する調印をしたメイジャー・リッジとその子ジョン・リッジの家が、この町の北のはずれにあることを私は長い間知らないでいた。

 それはチーフテインズ・ミュージアムという名で保存されていたが、なんと開館は日曜の午後三時間と、あとは水曜の四時間だけで、私たちは空しくその建物のまわりを一廻りして外観だけを眺めるだけに終ったが、少なくとも外から見た限りでは、ちょうど大勢の黒人奴隷を使っているプランテイションの邸宅を思わせるほど立派なものであった。事実、調べてみるとこの一家は四人もの黒人奴隷をもち、ジョ―ジア州政府と誼を結んで、かなり貴族的な生活をしていたようである。

 インディアンの各国家群がこうしてしだいに西方に追いやられることになったのは、インディアン相互の間に共通した連帯感が皆無だったことにもよるであろう。その上、契約の概念に乏しかったので、気がつかぬまに土地を奪われる結果になったことも多かったにちがいない。チェロキーの場合は、途中から指導者たちの間で意見が対立し、最後まで土地を守って白人との共存を計ろうとしたニューエチョタのジョン・ロスと、西方移転こそ唯一の道と割り切っていたメイジャー・リッジと、この二派に分裂したことは、チェロキー全体にとってどれほど不幸なことだったか分らない。

 私たちはそれからまた、ジョージア州政府がチェロキー追い出しに異常なまでの熱意をみせた原因の一つと思われる場所、ダロネガという町を訪れた。それはロウムの反対の方角、チェロキー国家の東側の境界線上で、深い山やまに囲まれた小さな町である。一九六九年の秋、たまたまこの辺りまでドライヴに来ていた私たちは、この町の年に一度の祭りに出会い、初めて山あいのこのダロネガがかつてゴールド・ラッシュに沸いた場所であることを知らされた。しかもそれが一八四八年にカリフォルニアで金鉱が発見されるより二〇年も前であることが、一層私を驚かせた。一八二八年の金鉱発見は、二九年に入ってからゴールド・ラッシュのブームを起し、多くの人びとが美しいこのチェロキー国家の東部に侵入しはじめたのである。そして翌三〇年、インディアン強制移住法の制定――。

 九年ぶりでダロネガの町を再訪し、中心部にあるコートハウスが金鉱発見のミュージアムになっているのを見ているうちに、この付近のゴールド・ラッシュは僅か数年だけしか続かなかったことが分った。もしここが西部のような荒涼とした岩山だけの山岳地帯であったならば、おそらくここはたちまちゴーストタウン化していたであろう。私は町はずれの廃坑に立ちよって、昔から使われていたパンとよばれる鍋のような道具に金杭の土を盛りあげ、樋を伝わって流れてくる水で砂金を探す真似事をしながら、金がとれなくなった時の人びとの心理を想像した。これほど美しい自然が広がっているのを見たら、あるいはまたチェロキーたちが長年かかって作りあげた果樹園やトウモロコシ畑を見たら、そのままここに居座って、魅力的なこの土地を手にいれようと考えるのではないだろうか。

 ここでやはり考えてみたいのは、一八三〇年のジャクソン大統領による強制移住法が、表面的にはミシシッピから以東のすべてのインディアンに適用されるものだったにしても、当時白人の西進を妨げるほど大きな存在だったインディアン国家は大部分南部にあったので、実質的には南部の白人がこの法律の受益者だったという点である。南北戦争のニ、三十年前、南部はそこに住んでいたインディアン諸国家に対して、加害者であり、また勝利者であったといわなければならないだろう。

 トックヴィルは前に掲げた著書のなかで、次のように自分の意見をのべている。

「南部諸州の議員たちが採用している圧政的な立法や、南部諸州の知事たちの行動や、さらに南部諸州の裁判所の記録などをよく調べてみると、結局はインディアンを完全に追い払うことが最終の目的であり、この実現のためにあらゆる努力が払われていることが分るであろう。南部に住んでいるアメリカ人たちは、インディアンが住んでいる土地に対して、嫉妬心を抱いているのである。……

 インディアンに対しては、中央の連邦政府よりも各州政府の方が、ずっと貪欲で無作法である。その上、連邦政府も各州政府も、ともにインディアンに対して誠実さを欠いている」

2025.06.13 記す

  南北戦争の傷跡 P.57

 このアパートメントへ入ったのは七八年七月下旬のことだったが、それから半月近く、アトランタにはよく雨が降った。それも日本の梅雨のようにしとしとと続く長雨ではなくて、いったん雨が落ちはじめると、道路に当った水滴がニ、三十センチははね返ってしまいそうな降り方をする。窓ごしに眺めるジョージア北部の森の上空が黒ずんできたかと思うと、森の色がしだいにかすんで灰色となり、その灰色の部分がだんだん広がってこちらに近づいて来るなと思うまに、この窓にも一粒、二粒、大きな水滴が現われ、やがてそれが叩きつけるような水勢に変わっていく。アトランタはゆるやかな山の裾野のひろがりのなかに作られた町だから、どこを走ってみても坂が多く、それだけに水はけがいいはずなのに、それでもこれほど凄まじい雨に見舞われると、たちまちあちらこちらの道路が、時ならぬ奔流と化してしまうのである。

 このまるでスコールのような雨が上がった後は、むしむしとした空気ながら、すぐに碧空がのぞいてきて、つい先程までの雨が信じられないほどになるのだった。そんな時、西北の方向の森の向うに、二つの小さなコブのような山が並んでいるのが見えた。それが、南北戦争のときアトランタを目指してこの方面から殺到したシャーマン将軍の率いる北軍を、ここで食い止めようとした南軍が閉じ籠ったケネソー・マウテンである。

 すでにその時までに、私たちは南北戦争の古戦場をかなり数多く訪ねていた。ワシントンから西へ三、四十分も車を走らせた所にある最初の激戦地ブルラン(またはマナサス)。いまはゆるやかな美しい丘陵地帯で、一八六一年七月と六二年八月の二回にわたって南北両軍が衝突した。それから六二年四月、西部戦線ともいうべきテネシー川のほとりで始まったシャイローの戦い、これは今でもなかなか訪ねて行けないほど不便な場所である。さらに戦争全体の天王山となった六三年七月のゲティスバーグの戦い。これはもっとも北寄りの場所で行なわれた有名な戦いで、ここだけはニューヨークに暮していた時に日帰りの強行軍で訪ねたのである。これとほとんど同じ頃に行われたミシシッピ河畔のヴィックスバーグの戦い。糧道を絶たれた南軍が、凄惨な飢餓との戦いに陥った場所――。

 六三年一一月、テネシー東端の山に囲まれた町チャタヌーガ周辺の三つの古戦場――チカモーガ、ルックアウト・マウンテン、それにミッショナリー・リッジ。その次がここから見えるケネソー・マウンテン。あとはアトランタ市内外の攻防戦。最後にこのアトランタを焼いたシャーマン将軍が、その占領をリンカーン大統領へのクリスマス・プレゼントにしたという大西洋岸の静かな町サヴァンナ。

 南北戦争は正味四年間にわたり、大規模な戦闘だけ数えて五十数回になるのだから、私が訊ねた古戦場はそのうちの一部に過ぎない。しかしいつのまにかこれだけの史跡を廻っているのは、おそらく私がエモリ―大学に滞在していた時にもっと仲のよくなったべル・I・ワイリー教授の影響であろう。彼はその後短期間だが二度も日本を訪ねているし、もちろん私たちもアトランタへ行くたびに必ずワイリーさん夫妻に会っている。豪快な典型的南部人で、南北戦争について二十数冊ほどの本を出版しており、アメリカの歴史学会では南北戦争の権威として知られている学者である。南北戦争の百年祭が行われた年は、各地の講演会に飛行機でとび廻ったという。こういう古戦場の案内所でワイリーさんの名をあげると、眼に見えて私に対する態度が変るようなことがニ、三度あったほどである。

 ところで、そのような古戦場を訪ねるたびに、いつも胸のふさがるような思いをしたのは、両軍の損害のおびただしい数を知ったときであった。現在のように医療設備が整っていなかった時代のことだから、みすみす戦病死したような将兵も多かっただろうが、同時にまた大量殺傷の兵器が少なかったはずである。それなのに、上にあげたような戦闘では、たいてい両軍それぞれ万を越える死傷者が出ているのだ。たとえばシャイローの戦いでは、丸太小屋のような質素な教会とテネシー川にはさまれたごく狭い林のなかで、北軍の将兵六五、〇八五のうち、死傷者や行方不明者はなんと一三、〇四七人、南軍もまた四四、六九九人に対して一〇、六九九人、これが僅か二日間の戦闘である。ゲティスバーグにいたっては三日間にわたる激戦の結果、北軍八七千人のうち約二万、南軍は七万五千人のうち約二万五千人が失われたという。それまで決定的な敗北を喫したことがなかった南軍の名将といわれるロバート・E・リー将軍は、このとき自分の率いる大軍の実に三分の一を喪失したことになるのである。 

 それまで同じ国の一員として、建国以来一世紀近くの間をともに歩んできた者同士としては、あまりにもひどい争い方ではないか。事実アメリカはこの南北戦争を通じて、北軍約三六万、南軍二六万、合計六二万の死者を出している。この戦争が始まる一年前の一八六〇年アメリカの総人口が僅か三、一四四万人であることを思えば、この死者の数の異常な高さに気がつくことであろう。その後の戦争について調べてみても、第一次大戦の約一二万人、第二次大戦の約三二万、ともに南北戦争の被害に及ばない。南北戦争の場合は敵味方双方の被害が合計されて、アメリカ史上最大の数の人命が失われているのだが、それほど人びとは激しく憎しみ会ったのであろうか。

 私がその憎悪を眼のあたりに見る思いがしたのは、七七年八月の終りに、アンダーソンヴィルという場所を訪ねた時のことであった。アトランタから真南に二時間半ばかりドライヴした所にある人口二七四人の小さな村で、カーター大統領の出身地ブレインズから僅か三十分ほどの距離である。グレイスに教えられて、私はその村にある南北戦争最大の捕虜収容所があった場所を訪ねてみようと思い立ったのだ。

 よほど注意をしていないと、そのまま通りすぎてしまいそうな淋しい場所だったが、意外にもかなりの数の見学者が居合わせていて、これはインディアン関係の遺跡を訪ねる時とは違っている。案内所のなかにある映写室がほとんど一杯になるほど、夫婦や親子連れの見学者が集まっていた。私たちは二十分ほどのフィルムを見せて貰って、当時の収容所についての概要を頭にいれたのち、ぎらぎらと輝く夏雲のもとを、車でゆっくり廻って見ることにした。

 森閑とした松林に包まれて、無数の小さな墓標がまず見えてくる。近よってみると、驚くほど大変な数である。南部全体にようやく敗色が漂うようになった一八六四年の初めから、ここに北軍の捕虜が次つぎ送りこまれ、一万人しか収容できない施設に対して、一時は実に三万二千人もの北軍将兵を収容した。ここで悲惨な捕虜生活を送った者の総計は、戦争終結まで一年あまりの間に五万二千人に及び、その約四分の一にあたる一万三千人が、病気や栄養失調などで死亡したという、

 簡単に文字で表現すればそれまでのことであるが、現実にどんな生活がそこで一年あまり続いたのか、人びとはどの程度想像することができるだろう。私はその時の一人の捕虜の写真を見て、ぞっと総毛立つような思いがした。これで生きているといえるのだろうか。ほとんど骨と皮だけになった北軍の一人の捕虜が、裸になって腰かけている写真である。これほど衝撃的な写真を、わたしはかつて見たことがない。戦後陸軍省が発表した数字によると、北部側に捕らえられていた南軍の捕虜二二万人のうち、死者は二六、四三六人。これに対して南部にいた北部側の捕虜は一二六、九五〇人のうち、二二、五七六人が死亡していて、南部側の方が、敗戦に追いこまれていたせいであろうが、捕虜の取り扱いがひどかったことが分る。

 私たちはゆっくりと、ここで捕虜として死んだ北軍将兵の霊の眠る墓地を見て廻った。その一人一人が、あるいは私が見た写真そっくりに、まるで針金のように痩せ衰えて死んでいったのかもしれない。そうだとすればこの捕虜収容所は、さながらこの世の地獄絵図を現出していたのではないだろうか。今はただ一二、九一五もの数の荒けずりな小さな石の墓標が、ものもいわず肩を並べて整然と立ちつくしている傍らに、父や夫や兄弟の死を聞いて泣き崩れる女性たちのブロンズ像が、ものうい真夏の光を浴びて立ちつくしているばかりであった。

 墓地から少し離れて、松林がそこだけ切り開かれている場所がある。そこが三万二千人もの捕虜を押しこんだ収容所な跡だという。ごく僅か残された当時の写真を見ると、テントや丸太小屋がびっしりと並び、まるで立錐の余地もないほどの人波である。南軍は北軍から申し込まれた捕虜の交換に応ぜず、松の木で作った地上一五フィート(約五メートル)もの木の柵を周囲にめぐらせて、捕虜たちの逃亡を防いだ。この捕虜収容所が継続していた一年あまりの間に、毎月九百人以上の北軍将兵がこのなかで死んでいったが、その主な原因は下痢、赤痢、壊疽、壊血病などによる病死だったといわれている。死者の数がもっとも多かったのは六四年八月二三日で、その日はたった一日で九七人の捕虜が死んでいる。

 一体この頃、両軍の憎悪をとくにかき立てるようなことが起きていたのであろうか。実は――まさしくそうだったのだ。その年の六月二二日から六日間、南軍はケネソー・マウテンに陣を張ってシャーマン将軍の率いる十万の北軍をささえたが、結局は敗れて、アトランタ市の防衛線にまで後退した。こうしてアトランタの周辺では、七月二〇日から四回にわたる攻防戦がくりひろげられる。八月二三日というのは、アトランタが陥落する最後の戦いが、いよいよ始まろうとする一週間ほど前に当たっているのである。

 この時の戦いについては、アトランタのダウンタウンから少し南に寄った場所に、北軍の司令官の名に因んだグラント公園があって、そのなかのサイクロラマで当時の模様を再現して見せている。私たちが初めてこのサイクロラマを訪ねたのは一九六六年九月のことで、円形の建物の中に入ると、見学者は中央の部分に立って周囲を見渡すようになっている。壁面いっぱいに戦闘の様子が描かれ、足もとは兵士たちや鉄道線路、森、建物などのミニチュアで埋まり、それが壁面の絵とみごとに一致して、一つの世界を作り上げていた。やがて大きな室内は暗黒となり、中年の女性が懐中電灯を使い、戦闘の経過を示す順序で説明をはじめると、遠くから北軍の新軍歌やラッパの響きが聞え、やがてはじけるような小銃の音、馬のいなき、兵士のかけ声などが、全館をゆるがすほど鳴りわたるのだった。女性のゆるやかな南部なまりの強い話しぶりは、アトランタ陥落の悲劇を見学者の胸に焼きつけるのにふさわしかったようだ。

 今度十二年ぶりにサイクロラマを再訪してみると、説明はすべて南部なまりのない男性の声のテープですまされ、案内の女性はただ懐中電灯を説明につれて照らして廻るだけになってしまった。十二年前の印象が強かっただけに、私たちは気の抜けたビールを飲まされたような気持になったが、それでもかなり大勢の見学者が次つぎにこのサイクロラマを訪れ、アトランタ陥落の当時を偲んでいる。映画『風と共に去りぬ』のなかのあの負傷者の大群が広場に集まっている有名な光景は、ちょうどその頃の情景を再現しようとしたものである。

 こうしてアトランタは、一八六四年九月二日、北軍の手に落ちる。シャーマン将軍はこの町を占領しても戦争を終わらせることはできないのを知って、南部人の士気を挫き、アトランタンを二度と軍事や工業の中心地とさせないために、一一月一四日夜、火を放ってアトランタの中心部を破壊する。その時の様子を、シャーマン自身が次のように書き残している。

「私の配下の工兵隊長ポ~大佐は、街の中心部を破壊するという特殊任務についたの

で、ひどく忙しかった。大佐は大勢の部下を与えられ、ジョージア鉄道の大きな駅や円形

の車庫、機械工場などに照準を定めて、次つぎに破壊していった。そのうちある機械工場

などは南軍の兵器庫として使われていたものもあり、そのなかには小銃の弾丸や大砲の砲

弾、その他の兵器が山のように積まれていた。その夜は砲弾の炸裂で阿鼻叫喚の有様とな

ったが、砲弾の破片は私が指揮している家のすぐ近くまで飛んできて、あまり気持のいい

ものではなかった。町の中心部は一晩中猛火に包まれていたし、焔はここから数ブロック

の店の並んでいる所にまで迫ったが、コートハウスのある場所や大多数の市民の住宅街に

まではいかなかった」

 こうしてシャーマン軍は翌一五日、廃墟となったアトランタを発ち、右翼軍と左翼軍に分かれて、広大な陣形をひろげ、折から収穫を終わったばかりのジョージアの沃野を、略奪の限りをつくしながら、大西洋岸の町サヴァンナへ向って行進をはじめたのである。この部分は、私の友人ハロルド・H・マーチンの『ジョージアの歴史』(一九七七年)からその一部を引用しよう。彼はジョ―ジア生れ、ジョージア大学を卒業して、長年「アトランタ・コンスティテューション」紙に勤めた生粋の南部人で、多くの雑誌にも数え切れないほどの論文を載せている。この本は彼がジョージア史を担当することになって書き上げたものである。

 「あの海への行進は、その全行程がジョージア人にとって忘れることのできない恐ろしい災害であったけれども、ヤンキー兵にとってはのんびりした散歩のようなものだった」と彼はのべ、ほとんど南軍の抵抗もなく北軍が一二月下旬にはサヴァンナに到達した経過を説明して、ある北軍兵士の言葉を次のように引用している。

「ジヨージアの中心部を縦断して勝利の行進を続けている間じゅう、われわれはこの土地

のものを掠奪して夜毎に祝宴を張ったり、鉄道施設を破壊したりした。牛、豚、羊、鶏、

それに小麦、ポテト、シロップなどで満ち溢れた土地を襲い、道路のどちら側かは何マイ

ルもの間一物も残らないようにしてやった。何百万ドルもの財産を焼き払い、持っていけ

ない食糧は、およそあらゆる種類のものを、われわれが食いつぶしたり、焼いたりしてや

ったのだ。思う存分どのジョージア人にも戦争のことを思い知らせてやったので、奴らは

いつまでもわれわれヤンキーのことを忘れないでいるだろう」

 一方、シャーマン軍が去った後のアトランタへ戻ってきた市民たちは、ついニ、三ヵ月前まではあれほど人びとの雑踏で栄えていた中心部が、まったく廃墟となっているのを見なければならなかった。主な建物は崩れ落ちて、いたずらに煉瓦の壁が残っているばかりだった。あれほど住み心地がよかった家は焼かれて、ただ煙突が空しく焼けあとに立っていた。道路という道路は崩れた建物の破片で埋まり、馬車を走らせることなど、とてもできるものではなかった。

 この間、多くの北軍将兵が捕えられていたアンダーソンヴィルの収容所は、シャーマンがアトランタを占領したとき、健康な状態の捕虜だけ他の収容所に転送してしまった。これは北軍がそういう捕虜の釈放を求めてくることを恐れたもので、この収容所はその後規模を縮小しながらも、戦争が終結する六五年四月まで継続していたのである。このため南部が敗北したあと、北部の間ではとくにアンダーソンヴィル捕虜収容所の残虐ぶりが問題となり、南部人がリンカーン大統領を暗殺したこともあって、収容所の責任者ヘンリー・ワーズ大尉を北部の新聞は凶暴なサディストだときめつけ、「極悪人(モンスター)」とか、「野獣(ビースト)」とかいう言葉を使って攻撃した。

 ワーズ大尉は一八四九年にスイスから到着した移民で、はじめの五年間は北部の工場で働いていたが、その後南部に移ってから七年目に戦争の勃発を見ることになった人である。彼の上官だったウィンダー将軍がすでに死亡していたので、実際にはモンスターでもビーストでもなかった彼が、六五年一一月にワシントンで絞首刑に処せられている。彼自身もまた、戦争が生んだ憎悪の犠牲者だったのであろう。彼の処刑は日本でいうと大政奉還のわずか二年前のことで、今から百年あまり昔に行われた南部人と北部人の激突はは、想像もできないほど深い憎悪に貫かれていたのだといわなければならない。

 日本の場合も、明治維新の勝者となった薩長の派閥に対して、その後憎悪や嫉妬や反感が敗者の間にある程度流れていたことは事実である。しかし日本の国民の間の均一性は、はるかに早いスピードでこういう対立の感情を水に流していった。アメリカでは――それほど簡単ではなかったのだ。

 戦後、北部軍が軍政を実施するための南部占領、利権を漁る北部人(カーペットバガー)やこれと結託して甘い汁を吸おうとする南部人(スキャラワッグ)などの跳梁、解放された黒人たちの取り扱いをめぐる混乱、北部資本の南部経済掌握、その象徴的な現れとしての鉄道運賃の南部差別――など、敗者としての運命を、南部は十分に味わなければならないことになる。たとえば、初代大統領ワシントンからリンカーンが就任する以前の七二年間のうち、三分のニ以上の四九年間が南部出身の大統領によって占められていたのに、それから一世紀もの間、南部人らしい南部人がホワイト・ハウスに入ることはなくなってしまった。

 その後の経過はどうだったのか。『タイム』誌の南部特集号(一九七六年九月二七日号)に載った南部史研究の権威、C・ヴァン・ウッドワード教授の言葉をあげよう。

「南北戦争から三世以上もの間、文化的な影響力の相互作用は、決定的に南部を風下に

おくようになった。北部は文化を輸出する側であり、南部は北部の考え方、生活様式、文

学、ファッションなどを輸入して、そのまねをする側となった。南部人は盲目的にヤンキ

ーの価値観を受け入れ、ヤンキーをモデルに見たてて、進歩がそこにあると信じこもうと

した。南部の人民党運動(ポピュリズム)は当時アメリカに広がっていた資本主義中心の経済体制や強力な

北部の価値観を鋭く批判した唯一の運動であったが、南部人はそれさえも無慈悲に抑圧し

た。ところが、それでいながら南部人は、正真正銘のヤンキーに変質してしまったわけで

は決してなかった。南部人はせっせと北部文化をとり入れはしたが、それを見倣おうとは

ほとんどしなかったのである」

 もし南部人が敗戦の結果として勝者である北部の価値観を真に吸収したのであれば、「南部のアメリカ化」は一八七〇年代にかなり進んでいたことであろう。しかし実際には、むしろその反対の方向に進んだ点も少なくない。KKK(クー・クラックス・クラン)の北部人や黒人に対する暴力、工業化をはかろうとすると、どうしても北部の資本に頼らなければならないという冷厳な現実、黒人や貧困な白人を小作人(シエアクロッパー)として成立した綿花の単一栽培、低い教育水準の上に出現した多くのデマゴーグ政治家、そして黒人から選挙権や一般の市民権を剥奪する分離的な生活様式……。

 その上、厄介なことには、南部人が敗戦いらい北部に対して抱いた屈辱感や劣等感は、プリズムにあてられた光のように、幾重にも屈折したものになっていくのである。それはおそらく、戦争以前に南部をめぐる対立の最大の論争点となっていた奴隷制にまで遡らなければならないだろう。私たちは南部人のすべてが奴隷制を是認していたのだと思いがちだが、実際は必ずしもそうではなかったのだ。十九世紀の初めの四分の一が経過する頃までは、自分の所有している奴隷を解放するような南部人が少なくなかったし、その結果自由な身分の黒人がかなり南部にも住んでいたのである。第一その頃までは、南部のなかにさえ奴隷解放をめざす団体があったほどである。

 その南部がしだいに奴隷制是認へ大勢が移っていくのは、北部の奴隷解放運動が高まる一八三〇年代以降のことで、三一年にはヴァジニアのウィリアム・アンド・メアリ大学で経済学を担当していたトーマス・デュ―教授が、奴隷制を神の認める必要悪であるとした論文を発表して、多くの南部政治家たちの拍手を浴びている。それが四〇年代後半から五〇年代になると、南部の政治家や神学者たちは、一層論理を飛躍させて、奴隷制は積極的に善であるとのべ立てるようになる。こういう推移をみてくると、私には外部から激しさを加える非難や攻撃に対抗するためばかりでなく、南部人自身が自分の動揺する心を鎮め、現状を納得するために、このような奴隷制擁護の理論の発展を必要としたのではないかと思われるのである。南部はバイブル・ベルトとよばれるほど宗教的なムードが日常生活のなかに浸透していることを考えると、奴隷制は神の認め給わぬ悪であるという考えや、あるいはそうかもしれないという疑いが、かなり多くの南部人の心のなかに、たとえ潜在意識としてでもひそんでいたと考える方が自然ではないだろうか。そうすれば、その不安や疑いを打ち消そうとして、ますます激しく奴隷制を善だとする理論を作りあげ、それをまた必要以上にわめき立てねばならなくなるだろう。

 もちろん戦争が近づく頃になると、南部で公然と奴隷制を攻撃することはできなくなっていた。しかし戦争が始まってからさえも、心ひそかに奴隷制を憎んでいた人もかなりいたようで、両軍の名将軍として北軍からも尊敬されていたロバート・E・リーもその一人だといえば、多くの人はこれを知って驚くだろうか。これらの当然の結果として、戦争が後半に入り、南部の不利がしだいに明らかになってくると、これは奴隷制を積極的に支持している南部人に対して、神が下されようとしている懲罰ではないだろうかという虞れを、少なくとも一部の南部人には抱かせることになったのである。そのために南部人の劣等感は、単に武力の衝突で北部に敗れたというだけではなく、自分たちの信じていた「南部の大義」のなかには、何かしら邪悪な要素が含まれていたことを認めざるをえなかったという点にも、その原因があったのである。

 しかもその上、十九世紀前半において南部はチェロキーをはじめとするインディアン諸国家に対して勝者であったし、合衆国政府のなかにおいてさえ、ホワイト・ハウスにその代表者を送りこむ点において、最初の四八年間のうち四〇年を独占していたように、南部は完全な勝者であったのだ。その勝者が一転して敗者となったという点に、南部人のもう一つ屈折した心の底をみるような気がするのである。こうして南北戦争はその後の南部人の心の奥深くまで、なかなか消えそうもないほどの傷跡を残すことになったといわなければならない。

 全世界からこのアトランタに人びとを招くことに熱中しているルイーズは、ある日私に向かってこういった。

 「カナーメ、あなたは知らなかったの、日本の姉妹都市を。それはね、ここと同じように、日本の南部のカゴシマなのよ」

 そういわれて、私はびっくりした。「日本の南部」というような表現を私たちは使わないが、ある意味で鹿児島がこのアトランタに類似していることに気がついたからである。薩摩もまた明治維新においては勝者の側にあり、西南戦争では逆転して敗者の立場に立たされ、その後、近代日本の発展の主流から見放された。これまで全国平均に及ばない貧困地帯にとどまったことも似ているし、敗軍の将のなかから全国的な英雄が出たことも同じである。アトランタの東方約三十分の場所に巨大な石の山があって、文字通りそれはストーン・マウンテンとよばれているが、その壁面にはリー将軍の像が刻まれているし、西郷隆盛の銅像は上野の山に今もなお立ち続けている。

 北軍を勝利に導いた司令官ユリシーズ・グラントは、戦争が終わったときたしかに北部人のあこがれる英雄となり、そのためにこそ後に大統領にまで選ばれたのであるが、残念ながら大統領としては最低の評価を下されるような結果となった。いまこの二人に対する尊敬の気持をアメリカ人に尋ねるとすれば、おそらくロバート・リーの名をあげる人の方が多いのではないだろうか。

2025.05.15 記す

  ある新聞編集長の闘い P.75

写真:仕事中のラルフ-マッギル(1966年)

 私たちのいるアパートメントはダウンタウンの北のはずれにあったが、グレイスの勤めているアトランタ・ジャーナル社は、反対に南寄りの場所にあった。繁華街の中心を歩くことになるので、私たちはよく簡単な用件をみつけ、あらかじめ電話をかけておいて、彼女の顔を見に出かけた。歩いて十五分ほどの距離である。

 朝刊の「アトランタ・コンスティテューション」紙と、夕刊の「アトランタ・ジャーナル」紙は同じ経営の姉妹紙で、三、四年前まで古いビルにいた時も一緒だったし、新しい今のビルに移ってからも、私などにはその境がまったく分からないほどである。グレイス自身もかつては「コンスティテューション」紙に所属していたのに、今は「ジャーナル」紙に移っている。夕刊といっても朝刊に劣らない分量で、しかも日曜版は同紙共通のものだから、私たちは今度の滞在中、グレイスとの誼で「ジャーナル」の方をとることにしていた。どちらにしても、南部ではもっとも代表的な新聞といっていい。

 受付にはいつも大柄な初老の男が立っていて、私たち夫婦の顔を見ると、必ずウィンクひとつでなかへ通してくれる。グレイスは七六年の春まで、私たちも顔なじみのジャック・スポルディングという論説委員の秘書だった。スポルディングが定年で退職してから、また別の論説委員が彼女のボスになったらしい。

 「新聞社としては、少し清潔すぎますね、グレイス」と私がいうと、

 「私も時どき、そう思うわ。古いビルにいた時のことが、どうも懐かしくてね」

 グレイスはそういって、少し淋しそうな顔をした。それ以上いわなくても、私たちは彼女の気持ちがよく分るような気がする。十二年前に初めてグレイスに会ったとき、彼女は「コンスティテューション」紙の編集長兼発行者ラルフ・マッギルの秘書として、新聞社を背負って立つようなポストで活躍していた。というよりも、マッギルを訪ねてアトランタへ来た私たちに、彼が自分の秘書としてグレイスを紹介してくれた、という方が正確であろう。

 なにしろマッギルといえば、黒人たちの間から公民権闘争が始まるようになるずっと以前の時代、すでにこの深南部のなかにあって黒人の人権のために闘ってきた人で、そのため一九五九年に論説部門でピューリッツア賞を受けている。毎日第一頁に顔写真入りで現れる彼のヒューマンな論説は、当時全米数多くの新聞に転載され、もっとも著名なジャーナリストとして尊敬を集めていたのである。一九六六年に私は二回だけアトランタでタクシーを拾ったが、私がマッギルの評判について尋ねると、黒人のドライヴァーは顔を輝かしてこういった。

 「あの方は素晴らしい方です。私は前から尊敬していますがね。白人がみな、あの人のようになって貰いたいものですよ」

 白人のドライヴァーは、苦々しい顔つきになった。

 「マッギルだって。あいつはとんでもない黒ん坊びいきでね。あんなのがいるから、近頃黒ん坊が威張りくさるんだ」

 その後いろいろな機会に私たち夫婦は、アトランタ近郊の深い森に囲まれたマッギル邸に泊るようになった。グレイスと私たちの間も急に親しみを増していった。彼女はこっそりと、よく面白い話をしてくれたものである。

 「新聞社の廊下に、小さな大砲がおいているのを見たでしょう。あれは南北戦争のときに、南軍が使ったミニチュアなのよ。しかも、今でも使えるるの。私のボスマッギルさんは民主党びいきだから、ケネディが大統領に当選した時は大喜びしてね、もう真夜中だったけど、その大砲を道路にもち出して、ぶっ放したの。どかんと大きな音がして、すごい煙だったわ。ところがその煙が消えたあとで、よく見たらね。私のボスの顔はススで真っ黒だったのよ」

 それがよほどおかしかったらしく、話しながら彼女は声を立てて笑った。

 そのマッギルが突然亡くなったのは、六九年二月はじめのことで、その時私たちはニューヨークに住んでいた。黒人の歴史や文化を研究するための資料を集めたションバーグ・コレクションという図書館がハーレムの中央部にあり、私が夕方そこから帰ってくると、志満が常になくおろおろとした様子で、その日の「ニューヨーク・タイムズ」を見せながら叫んだ。「早くこれを見て。大変なことになったわ」

 信じがたいことだが、私はマッギルの死を知らせる記事が彼のよく見受ける顔写真と並んで、第一面に出ているのを見なければならなかった。ちょうど五カ月前に私たちを家に泊めて、エトワ・インディアンの古い(マウンド)や、南北戦争の古戦場ケネソー・マウンテンなどを案内してくれたのに――。ニューヨークへ私たちが来てから、ホテル住いをしてアパートメントを探していた頃、アトランタからよくホテルへ電話をかけてくれた。

 「大金を持って歩かないことだね。時間がかかっても、いい所を探すんですよ。安心して住めるような場所をね。それから、何か私ができることがあったら、すぐ知らせて下さいよ」

 アトランタの空港まで見送ってくれた彼の笑顔を思い浮かべながら、私は南部なまりの強い彼のこういう言葉に耳を傾けた。それはまるで、自分の手許から離れた息子夫婦に呼びかけるような響きであった。

 この日の紙面にも「南部の良心」としての彼の死を悼む記事がたくさん載っていたが、翌二月五日には「ニューヨーク・タイムズ」が、社説のなかで再び次のように書いている。

「ラルフ・マッギルは人情の機微に通じた類い稀なひとであり、また改革者でもあった。彼は強固な信念ときびしい良心をもってはいたが、同時に人間のもつ性格や誤りをよく理解していた。コラムや社説を通じて、彼はまた「アトランタ・コンスティテューション」紙に自分自身の勇気や活力を十分に伝えた。彼は、それが黒人であろうと白人であろうと――虐げられている人びとのために、市民としての自由や、民主的な価値観について主張することを決して恐れなかった。 

 自分の生れた南部をよく知り、深く愛するようになるにつれて、彼はどんな地域に住む人びとに対しても、真実を語るということが最高の愛なのだとということを悟った。彼は熟達した職人でもあり、また熱烈な批判精神をもつ談話の師でもあった。ラルフ・マッギルを敬慕する人は全米に数多くいるが、彼によって思想や高い価値を与えられた分野の人びと、それに彼によって大きく眼を開かれた南部人などは、とくに彼の死を悼む気持がつよいであろう」

 私はこのなかに、「虐げられている人びとのために……主張することを決して恐れなかった」という言葉があるのをみて、ある事実を思い出した。初めてマッギルの家を訪ねたとき、彼の古い家のくすんだ煉瓦に、表の道路に面した窓のまわりだけ、直径十センチくらいの大きさでいくつかの窪みができているのに私は気がついたのだ。彼はさりげなく答えてくれたが、それはいささか驚くべき内容のものであった。

 「もう何年も前のことですがね、嫌がらせに発砲する連中がいるんですよ。表の道路を車で走ってきてね、窓を開け、スピードを落してライフルをかまえるのでしょう。それが窓のまわりの煉瓦に当って、こんなことになるんですよ」

 表の道はピードモント・ロードといって、かなり車のはげしく行き交う有名な道路である。幸い前庭がかなり広いので、道路からその窓まで三、四十メートルはあっただろうか。

 「多分KKKの団員でしょう。時には塵芥をいっぱい、この庭にぶちまけていくようなこともあるんです」

 彼はそういって説明してくれたが、大体南部には暴力的な傾向が強い。シェルドン・ハックエイ教授の「南部の暴力」(一九六九年)という論文によれば、南部諸州の自殺率(一九四〇年、白人のみ)は極めて低く、逆に他殺率(同右)は全米最高で、上位一六州のうち、アリゾナ、ニューメキシコ、ネヴァダという西部三州を除いては、残り一三州がすべて南部なのでさる。最近もこの傾向に大きな変りはない。また私の友人で、著名な黒人の歴史学者ジョン・ㇹ-プ・フランクリン教授は『好戦的南部(ミリタント・サウス)』(一九五六年)という著書のなかで、南部の暴力的傾向は奴隷制を維持しようとする非合理的な努力が重要な原因の一つであったと指摘している。ラルフ・マッギルに対する暴力は、奴隷制の延長としての人種差別を維持するためのものとして、彼の説にぴったりあてはまることになるだろう。

 ところで「ニューヨーク・タイムズ」はさらにその翌日も、ラウフ・マッギルの葬儀の模様を伝え、ハンフリー前副大統領や、暗殺されたキング・ジュニア牧師など、多数の参列者の前で、代表的な公民権団体NACP(全国黒人向上協会)の元アトランタ支部長、その他の人びとがたくさんの弔辞を朗読した様子を報道した。アトランタから遠く離れたこのニューヨークで、その土地の新聞が三日も続けて彼の死を報道したことに、私は今さらのように驚いた。それから半年後、私たちがニューヨークからアトランタに移転する決心をしたのは、このラルフ・マッギルについてもっと知りたいという気持を抑えることができなかったのが、その大きな理由の一つである。

 その時から今までの間に、ジャーナリズムの学部がある大学では、ラルフ・マッギル研究を卒業論文としてとりあげる学生がでてきているし、私の知っている限り、少なくとも四冊の本が彼について書かれている。そのうちの、一冊は奥さんのメアリ・リンと秘書のグレイスが一緒になって、数多いコラムのなかから選んだものである。もう一冊はラルフの友人(ロルド・H・マーチンの『ラルフ・マッギル』(一九七三年)、三五〇頁の部厚なもの。残りの二冊はジョージア大学のカルヴィン・M・ロウグ教授の『ラルフ・マッギル』全二巻(一九六九年)で、これは彼の死を予期しないで準備されたものであった。

 グレイスの手引きで私はこういう著者たちに何度か会うことができたし、ラルフの姉のベッシ―と妹のサラがテネシーのチャタヌーガに住んでいると聞いて、往復五、六時間の道のりを、私たちは数回訪ねていって、ラルフの思い出に耳を傾けた。今度の旅でもまた、私たちはこの二人と会うのが楽しみで、かつてチェロキーたちが平和な生活を送っていたジョージア北部のさわやかな景色を眺めながら、チャタヌーガへ向けて車を走らせた。私が何度もこの町を訪ねるのは、一つにはラルフが少年時代を過した町を知りたいからである。

 チャタヌーガというインディアン名のこの町は、平坦な土地に町が発展している場合の多いアメリカのなかで、極めて異例な存在といえるだろう。東にはミッショナリー・リッジという馬の背のような丘が細長く南北に走っている。西南の方向にはルックアウト・マウンテンという絶壁をもった山がすぐそばに聳えていて、この両方に陣取った南軍は、町のなかまで進んできていた北軍を、ちょうど半円形に取り囲んでいたことになる。一八六三年一一月、グラント将軍の到着をまって、北軍はこの二カ所の山肌をよじ登りながら総攻撃を開始し、ついに南軍を南方に撃退して、ここをアトランタ攻略の根拠地にしたのだ。だからチャタヌーガという町は、南北戦争の史蹟で蔽われているような所であった。

 私はアトランタにあるラルフの家に泊ったとき、小銃の弾丸を数個、彼が自分の部屋からとり出してきたことがあるのを思い出した。そのとき、彼はこういった。

 「あなたはアメリカ史の専門家だから、これはいい記念品になるでしょう。持っていって下さい。子供のころ、拾い集めたんですよ。なに、私にはまだ他にもあるから、かまいません」

 ペッシ―とサラはチャタヌーガのすぐ西にあるシグナル・マウンテンの上の方に住んでいて、昔インディアンが煙を上げて信号を送ったという絶壁へ、私たちを案内してくれた。ぺッシーはいま八十歳をこえているはずだが、まったく年齢を感じさせないほど好奇心の旺盛な女性で、私たちを見るといつも少女のようにはしゃぎ廻るのである。夫のポールは保険会社に勤めるこの地方の名士だ。妹のサラは逆におとなしく、控え目で、一昔前の日本女性を見るような思いがする。独身で、姉の家にずっと身を寄せているのだった。

 いつも二人はラルフと一緒に子供のころを過したチャタヌーガの思い出を話してくれたが、この周囲を山にかこまれた町のなかを、かなり幅の広いテネシー川が、深い水路を刻んだ山あいへ抜けて流れていた。ラルフは一八九八年二月五日、この川に沿ったチャタヌーガの町から三十キロほど遡った川上の辺鄙な農場のなかで生まれている。いま彼自身について語る前に、その頃の南部について、少し書いておかなければならないだろう。というのは、普通一八九八年といえば人びとは米西戦争を思い出すだけで、それにつれてアメリカに帝国主義的な傾向が強くなったこと、その原因として国内の各産業に独占支配が高まったこと、政治はほとんど大資本に奉仕するような形になったこと、などを連想する程度にとどまり、南部の社会がどんな状態にあったか考える手がかりがほとんどないからである。アメリカの既成書のなかから、この頃の南部についての記述を見出すことはほとんどできない。歴史家はここでも敗者の運命にほとんど興味を示していないかのようである。

 しかし私は、十九世紀末の南部社会には、歴史家が書きおとしてはいけない幾つかの特色があったように思う。たとえばその頃黒人の九〇パーセントは南部に住んでいたが、白人と黒人との間のリンチで殺される者の数が、一八九〇年代に最高を示していた。毎年百人以上、多い年には二百人以上の人びとが、皮膚の色が違うという理由だけで殺されていたのである。もしそれが世界中の他の国にはない現象だとすれば、当時のアメリカ南部がまったく異常な地域であったといわなければならないだろう。ラルフの生れた年の死者は一二七人、もし殺されないまでも負傷したという程度の犠牲者を数えるとすれば、おそらくリンチの被害者の数はさらに数十倍、あるいは数百倍にもなるに違いない。

 またラルフが生まれる二年前には、最高裁判所がその後七十年間南部の生活様式に影響を与えるような判決を下している。「分離をしても平等」というこの判決は、白人と黒人の生活のあらゆる面での分離を認めたものであり、それは当然のことながら、平等ではなくて差別に結びついた。交通機関、学校、裁判所、レストラン、ホテル、その他一切の生活で白人と黒人の分離が合法的なものとされ、選挙権もいろいろな条件をつけて、黒人からその権利を奪っていくようになる。黒人をこのような立場に追いこむことについては、南部再建を夢みた指導的な南部人も、民主党を拠りどころにして共和党に対抗しよとした南部人指導層も、あるいは小規模で貧しい農民たちも、不思議に利害が一致したのである。もっと単純に、それを人種主義(racism)とよぶべきであろう。もぅともこの人種主義は決して南部だけの特色わけではなく、一八八五年にジョサイア・ストロングは『わが祖国』という本のなかでさかんにアメリカの海外進出を論じたとき、その根拠としてアングロ・サクソン優越性を強調し、多くの読者を獲得している。だからこの人種主義はアメリカ人の白人、とくにアングロ・サクソン系の人びととの間に共通した特色といわなければならないが、海外の有色人種の国々と接触するまでもなく、身のまわりに多くの黒人が生活していたという環境のために、国内ではそれが南部に顕著な形で現れたのである。

 アングロ・サクソンといえば、普通WASP(ワ ス プ)(白人、アングロ・サクソン系、プロテスタント)といわれて、アメリカ社会の中心勢力となっている人びとは、南部にもっとも集中的な形で住んでいた。これもまた、南部の特色のなかに人種主義をあげなければならない原因のひとつであろう。こういう状態になった理由は、南北戦争以前から移民の多くが北部へ定着するか、あるいは北部を通って西部へ移動し、奴隷という安価な労働力のある南部を敬遠したからである。この傾向は奴隷が解放された後も続いた。ラルフ自身このWASPであるが、彼が生まれた頃はWASP以外の白人の移民、たとえばイタリア人、ギリシア人、ポーランド人、ロシア人などが、すさまじい勢いでアメリカへ殺到していた時代である。しかしそういう移民もまた多くが南部を避け、少しでも労働力の高い北部や西部を選んだので、南部はますますWASPの比率の圧倒的に高い地域になってしまったのである。

 もう一つ、ラルフが生まれた頃の話をすれば、トマス・N・ペイジというヴァジニア生れの作家が、一八八七年に『古きヴァジニアにて』という短編集を発表したが、これは主人公の老いた黒人が、昔奴隷としてどれほど所有者の白人に尽くしたか、どれだけ両者の間に温かい愛情が育っていたかを語り、古い時代の懐かしい思い出に耽るという物語である。ちょうどラルフが生まれた年に、この南部作家は『赤い砦』という長編小説を書きあげ、その序文でやはり古きよき時代を回想して、昼も夜も感謝の気持で満たされ、月の光さえ皎々と冴えわたって輝いていた旧南部を懐かしんでいる。この小説のなかで、彼は白人に忠実な黒人に対して讃辞を呈し、人間らしく振舞おうとしている黒人には冷たい眼を向けている。彼の描き続けた世界は、華やかな衣服、絢爛とした舞踏会、上流階級の甘美なホスピタリティ、奴隷たちに優しい女主人公、などばかりだったのである。

 トマス・ディクスンという南部作家は、もっと積極的で、奴隷所有の貴族主義を讃美するような小説を書いた。『豹の斑点』(一九〇二年)のなかで彼は、北部人の黒人に対する態度を誤った博愛心だと非難し、黒人を退化した劣等な人種として印象づけようとした。『クランの団員』(一九〇五年)になると、南部が白人と黒人の混血地帯になってしまうことを防ぐためにKKKの暴力を讃美し、白人の女性を守る必要性を力説して、黒人の男の大部分は白人の女と交わることを望んでいるのだとのべているのである。

 つまりラルフが生まれたのは、工業化や農業の多角化、あるいは南部の北部化によって新しい南部が建設できるのだと叫んだ南部の指導者たちの夢や神話が、結局は単なる幻想にすぎなかったことが否応なくはっきりしてきて、敗戦の屈辱感とこの失望感が重なりあった時代だったといえるだろうか。貧困な南部の白人は黒人を下におくことによって、心の支えを見出すことができただろう。また奴隷制度下の古い時代の南部を美化し、ロマンチックな回想に耽ることも、みじめな現実から逃避するためには、ある程度の役割を果したといえるだろうか。

 ラルフ・マッギルは、まさしくこのような、重く暗い南部の翳をひきながら生まれてきたのである。彼が幼年時代を過した農場はかなり不便な場所だったので、ワトキンス製造会社のセルールスマンが二輪馬車で日常雑貨品を売りに廻ってきて、祖母はいつもメープル・シロップを買ったそうだが、その頃の甘いものといっては、自分の農場でできる糖蜜や、砂糖きびくらいしかなかったという。彼が六歳になったとき、父は農場を売り払って、暖房と屋根葺きの小さな会社に勤めるためチャタヌーガに引越した。

 その父は早くからラルフに読書をすすめていたらしく、自分もあるとき近くに住む学校の先生から『ベンジャミン・フランクリン自伝』を借りてきて読み、たちまち感銘を受けて、ベンジャミン・ウォレス・マッギルという名前を、即座にベンジャミン・フランクリン・マッギルと変えてしまった。自分の息子にラルフ・エマースン・マッギルと名づけたのは、もちろん自分がエマースンを崇拝していたためである。

 ラルフは子供の頃から、小遣銭をかせぐために、学校が休みになると測量技師に雇われて旗振りをしたり、薬問屋の掛け金取りや、洋品屋のセールスなどをした。彼はそんな頃から、靴がすりきれてしまうほど、僅かな金額の金を集めて、みすぼらしい路地や貧民街のあたりをくまなく歩きまわったのである。

 「六歳になるまで、私は黒人を見ることがなかったし、黒人についてどのような偏見も教えられたことはなかった」

と彼は書いているが、テネシー東部の山寄りの場所は、今でも黒人が非常に少ない。南部の真只中でありながら、黒人の数が少なく、そのため問題のあまりない地域で彼が子供の頃を過ごしたのは、大きな乞幸運だったといえようか。これがアラバマやミシシッピになると、たいていの白人の子供たちは、たとえ自分の家庭ではそうでなくても、黒人に対する憎悪を周囲の環境のなかで、心の奥深く植えこまれながら育つことになるからである。

 テネシーの州都ナッシュヴィルにあるヴァンダービルト大学に入った年、彼は海兵隊の補充兵として、一九一八年夏をサウスカロライナのパリス島で、訓練を受けながら過している。第一次大戦が終わった翌年にはすぐ除隊になったが、九月の新学期まえ半年の間、何か仕事をさがさなければならない。ちょうど景気の後退期で、幾日か足を棒にして探したものの、仕事らしいものに出会わなかった。結局彼は父の会社の屋根葺きに雇われることになる。

 「チャ―リーという黒人が班長で、その下で働くことになるんだが、いいかね」

 父はそういって、何度も念をおしたそうである。チャーリーの色は真黒で、年齢は見当もつかないほどのせむし男だった。社長も何回かラルフを部屋へよんで、「チャーリーとはうまくいっているかね」と訊ねたという。

 チャーリーにはラルフの他に三人の黒人の部下がいて、みなラルフより年上だった。そこで彼は一番簡単な仕事から始めることになったが、屋根葺き作業のうち辛い仕事は黒人の担当だったので、当然黒人の班長についているラルフにもひどい仕事がまわってくる。板の束を背負って梯子を登り、平衡感覚を保ちながら屋根の上を歩くのは、大変な仕事だったらしい。暑い日射しのもとでのタールと砂利の屋根葺きもまた、ラルフの肉体を苦しめた。

 ところが、三月末から八月末までの五か月間に同じ苦労を体験し、昼の休みには一緒に腰を下ろして弁当を食べ、時には仕事の帰りが遅くなって会社が閉まったりすると、ラルフは誘われてチャーリーの家に寄り、大柄な奥さんからアイスティーとクラッカーをご馳走になって、古びたベランダに並んで腰を下し、あかあかと山あいへ沈んでいく太陽をみつめて話をしあったりしているうちに、二人の間には不思議な友情が生まれていたのである。

 九月がきて、ラルフがナッシュヴィルにあるヴァンダービルト大学に戻る日がやってくると、チャーリーは正装して古いトラックにラルフを乗せ、夜遅くチャタヌーガのユニオン・ステイションに送っていった。私は一九七〇年に一度だけこのステイションのすぐ前にあるホテルに泊まったことがあるが、その時この巨大な建物はぺんぺん草の生える廃墟となっていて、鉄道が栄えていた頃の面影はどこにも捜しようがなかった。しかし今度の旅ではその建物がそっくりクラシックなレストランとなって再生し、プラットフォームに横づけされた車両はそれぞれ二部屋ずつに区切られて、ヒルトン系のホテルに転身をとげていたのである。

 ところで、ラルフとチャーリーの間でどんなやりとりがおこなわれたのだろうか。幸いラルフ・マッギルの書いた本のうち、最も代表的な『南部と南部人』(河田君子訳)の一冊だけが日本語に翻訳されている。ラルフはこの本のなかでそれほど詳しく自分の過去を語っているわけではないが、この部分は次のように生き生きと描写さている。おそらく、それだけ強い印象を彼はこの時受けたのであろう。

「『わたしを忘れないでおくれ』と彼はいった。『チャーリー、忘れたりするもんか。あんたはとてもいい人だ』と私はいった。

 彼はちょっとあとずさりして、内ポケットに手を入れ、一枚の封筒を取り出した。

 『汽車に乗って、駅から出るまではあけないように』と彼はいった。出迎えのひとたちがもの珍しそうにみているなかで、私たちは握手を交した。それから私は、彼に私の眼をみられないようにくるりときびすを返して、列車に向かって急いで歩き出した。

 汽車が駅を離れたとき、私は封筒の封を切った。その中には折りたたんだ五ドル紙幣と走り書きの紙切れが入っていた。『私の助手が学校で使うために』

 私は涙があふれてきた」

 これは一九一九年のことであるが、実はこの当時、一八七〇年代に連邦政府の方針で一応組織としては消滅していたはずのKKKが、猛烈な勢いで再生しはじめていた。その中心人物となったウィリアム・J・シモンズはアラバマ州のほぼ中央にあるハーバーズヴィルという小さな村で生まれている。今ならばチャタヌーガから車で四時間もあれば到着できる距離である。軍人でもあり、巡回牧師でもあったシモンズは、一八七〇年代にクランの団員だった二人の老人を含む約四十人の同志を集め、一九一五年のサンクスギヴィングのイヴに、アトランタ東方のストーン・マウンテンに登り、クランク復活の儀式を挙行した。

 当時のアトランタは現在と違って平均的な深南部の町にすぎず、一九〇六年には黒人に対する大規模な人種暴動が発生し、警官さえ白人暴徒の方に応援する始末で、このとき十二人もの人びとが殺されている。こういう人種主義のムードに乗って、シモンズの一行は異様な山容のストーン・マウンテンに登り、夜になって大きな十字架に火をつけるという古いクランの伝統を復活させたのである。しかもそれから一週間後には、南北戦争直後のクランの物語を讃美した映画『ある国家の誕生』が封切られ、アトランタの新聞にはその映画の広告の横に、シモンズンの団体の広告が並んで載ったのだった。そうしてその後この第二次KKKは全米に広まり、頂点に達した一九四二年頃になると、クランの団員は五百万に近く、二〇年代を通じてこの団体の応援を受けて知事に当選した人は十一人、上院議員は十三人にも上るという有様となった。ラルフはこういうなかで、その青年時代をすごさなければならなかった。

 ところがここでもラルフは、比較的その時代の影響を受けずに過ごしている。まずヴァンダービルト大学での生活だが、彼は南部きっての名門校での春秋を、結構楽しんでいたようである。ラルフの足跡を調べるためにこの大学を訪ねた私たちは、ジョージア生まれの歴史家デューウィ・W・グランサム教授の出迎えを受けた。彼は今までの南部の政治が必ずしも停滞ばかりしていたのではないことを説いた著書『南部の民主性』(一九六三年)にサインして、ラルフが住んでいたキャンパス内のキッサムという寄宿舎に案内してくれた。

 しっとりと落ち着いたこのキャンパスのなかで、ラルフは医者になろうと考えたり、俳優になろうと夢みたりしながら、初めのうちはフットボールの選手としても活躍した。シカゴのチームと試合するため、監督に連れられて、生れて初めてこの大都市に触れている。「ほとんどの仲間がブルマン寝台車に乗ったことがなく、シカゴに行ったことがある者は一人もいなかった」と書いているから、相手からは、南部の田舎者、と思われたに違いない。試合の前夜、一行は相手チームと会食してその洗練されたマナーに驚き、試合自体も四二対〇という大差で惨敗する。血気さかんな南部の学生たちも、初めて見る大都市の雰囲気に、すっかり圧倒されてしまったのであろう。

 これとは別に、思いがけない世界が彼を待ち受けていた。当時英文学の若い教授J・C・ランサムは、すでに多くの雑誌に発表していた詩のために、キャンパスのなかで一つの中心になろうとしていたし、ラルフのクラスメートだったアレン・テイトは、いつも詩を書いているか、あるいは詩について語っていた。テイトばかりでなく、ポケットを詩の原稿で一杯にいて歩いているような学生が、ラルフのまわりにまだ何人もいたのである。ロバート・ペン・ウォーレンもその一人で、ある夏、二人は寄宿舎の隣り同士の部屋で勉強しあったことがあるという。

 ラルフの在学中、のちに「逃亡者」(The Fugitives)と名乗るようになるグループが、すでにキャンパスの話題になっていた。この「逃亡者」がまき起した文学活動の波紋は想像以上のものがあり、一九二五年に同人たちが解散して各地へ散っていってからも、とくに文芸批評の分野では「新批評」という言葉が生まれるほど、その影響は長い間残った。ずっと文化の砂漠地帯といわれてきた南部で、このキャンパスを中心に文藝復興のような熱気が高まったのである。実際『逃亡者』の創刊号がこの大学で発行されたとき、多くの青年たちから尊敬されていたヘンリー・メンケンがさっそく讃辞を送ってきて、キャンパスのなかの熱気を一層盛り上げた。同じキャンパスのなかでラルフがこのグループに近づいたのは当然で、本と僅かな衣類しかない寄宿舎の一室に集まり、夜のふけるのもかまわず、その時話題になっている詩や小説についてしゃべり合い、ときには立ち上がって自作の詩を朗読し、ニューヨークのグリニッチ・ヴィレッジにある屋根裏の生活に憧れていた若きラルフ・マッギルの姿を想像することは、それほど困難ではないだろう。

 ところがその後、彼の周辺に大きな出来事が起った。私はその事件の内容について、まだ十分に知ってはいない。彼自身もあまり語っていないし、彼の研究者もこの点については不明確のようである。それは、一九二二年の春、学内紙「ハスラー」に載せた彼のコラムが学長をひどく怒らせたこと、校友会内部の対立が表面化したこと、などから、卒業を眼の前にした彼が、他の二人の学生と一緒に停学処分にされた、という事件である。ラルフは、二度とキャンパスに戻らなかった。そして、まったく別の世界へ自分の一生を託すことになった。それが、彼の運命を最終的に決定したジャーナリズムの世界だったのである。

 ラルフは在学中たびたびこの「ハスラー」に投稿し、彼の論文が第一面を飾ることもあったようで、温厚な晩年の彼だけしか知らない私にとっては、その論文がたちまち学内の話題の中心となり、「私の論旨に反対する者とは、殴り合いまでした」と書いているのをみると、血気に溢れたその青年時代を想像できて、かえって微笑ましいような気がする。

 当時ナッシュヴィルには「ナッシュヴィル・パナー」と「テネシアン」というニ紙があって、ラルフは在学中からアルバイトをしてよく知っている「パナー」社に入り、すぐに発行者スタールマン少佐付きを命じられている。気の強いテネシーのことなので、両紙の対立は凄まじく、相手の「テネシアン」紙はもとの賭博場を買い取り、新聞社として使っていた。ラルフが新入社員になったとき、記者たちは古い机のなかにバーボン・ウィスキーのビンと一緒に、弾丸をこめたピストルをひそませていたという。すぐ北隣りのケンタッキーから、禁酒法が実施されている時代だったのに密造のバーボンはいくらでも入ってくるし、ピストルの方は「テエシアン」の連中がいつ連発銃をひっさげて乗りこんでくるかも分からないからだ、とこの駆け出しの記者は宣告されて、一体どんな顔をして驚いたことだろうか。モートンという編集長からピストルを渡されたラルフは、それから当分の間スタルーマン少佐のボディーガードも兼務しなければならなかった。

 この「パナー」時代については、エピソードを一つあげておくにとどめよう。彼は取材のためにどんな場所へも出かけていったが、深夜営業のドラッグ・ストアの二階などは、密造のコーン・ウイスキーのビンに堂々と薬品のような処方箋を貼り、カウンターに並べて売っているのが分った。こんな店はまた政治にも利用されていたので、ボスたちが集まって市長と市会議員を誰にしようかと陰謀をめぐらしている部屋へ先に入りこみ、ベッドの下へもぐりこんでいて、その密談を全部盗み聞きしたというのである。ところが折角それだけの努力をしておきながら、客観的にそれを証明できるような材料が他に何もないために、まさかベッドの下でそれを盗聴したとはいえない、とラルフは考えて、とうとうスクープ記事を書くことができなかったという。もともと彼は特ダネを探すことだけを目的に駆けまわるようなタイプではなく、じっくりと腰をすえて考え、社会の不公正を抉りだして大衆に訴える、というより大きな仕事に適していたのであろう。

 七年間この新聞社で働いたあと、彼は一九二九年の大恐慌の年、「アトランタ・コンスティテューション」紙に招かれて、スポーツ記者となる。三十一歳のこの年、メアリ・エリザベス・シオナードと結婚。明るくて、華やかで、頭の回転の早い女性だったが、最初の二人の女の子は幼いうちに夭折し、一人残った男の子、ラルフ・ジュニアを溺愛するようになる。べッシーやサラは、「少し可愛がりすぎたわね」といま回想している。

 「アトランタ・コンステューション」はアンドリュ―・ジョンソン大統領からその名を貰い、民主党支持という色彩を明らかにして、南北戦争後三年目に創刊されたもので、南部きっての名門新聞といっていい。ニューサウスを標榜したヘンリー・グラディが編集に携わっていたのも、その友人ジョエル・チャンドラ―・ハリスが『アンクル・リーマス物語』を連載したのも、みなこの新聞だった。ここで八年間勤めた一九三七年、彼はローゼンワルド奨学資金を与えられ、約一年間イギリス・ドイツ・オーストリア、それからスカンナヴィア諸国に学び、三八年帰国と同時に編集次長となった。

 その仕事の最初の日に、早くも彼は自分の信念通りの行動を開始する。それまで黒人については negro という表現を用いていたが、彼は大文字のNを使うように命じたのである。これは南部の新聞としては前例のないことで、社会に対する警鐘とも挑戦ともとれる行動であった。その時から十八年も前の一九二〇年八月に、ニューヨークの黒人指導者マーカス・ガーヴエイが、自分の創設した国際黒人地位改善協会(UNIA)の年次大会の席上で、五四ヵ条にのぼる要求を提案したとき、そのなかの一ヵ条が negro の文字にNを使うことであったのをみれば、一般的には小文字が使われていたのであろう。他の人種または民族についてすべて大文字を使っているなかで、黒人だけそうでなかったことは、明らかに同列の市民として考えてなかったためである。

 ガーヴエイの要求から九年たった一九二九年に、ようやくニューヨークの州教育局は大文字のNを使うことを命じ、翌三〇年、「ニューヨークタイムズ」がこれを実施した。こんな調子だったから、もちろん南部ではその後も引続き小文字で書かれていたのである。当然のことながら、ラルフの新しい方針は、社の内外に大きな反響を巻き起した。まず社の地下室で働いている植字工が二人、大文字のNをセットしないで反抗した。もちろん二人とも白人である。さらに定期購読者が何人もやめてしまい、新聞社には反抗の手紙が殺到した。ラルフはこの時のことを、次のように書いている。

「私を歓迎したのはおよそ七十五人の、仮面をかぶり、ガウンをまとったKKK団員のパレードで、土曜の夜に新聞社をとりまいて、私と新聞とを非難するプラカードを掲げながら行進した」
 幸い私はいま、その時のクラン団員のパーレードの写真と、プラカードを持った白人の写真を見ることができる。『サタデイ・レヴーュ』誌の一九六八年八月号にそれが掲載されているからである。「赤いラルフ、モスコーの味方、白いアメリカの敵」と書いたプラカードを持って、一人の男が新聞社の前に立っている。

 普通私たちは、黒人のための公民権活動が一九五〇年代のなかばか、あるいは六〇年代に入ってから始まったように考えがちだが、第二次大戦以前のこんな早い時期に、すでにラルフはその戦端を開いていたのである。もっとも早くラルフについての本を書いたロウグ教授も、この点について次のように書いている。

「たしかにマッギルは、偉大な勇気を示した。一九六〇年代に入って人権問題についての立場を明らかにしたばかりでなく、南部でも北部でも、それについて話す者がほとんどいなかった三〇年代から、マイノリティ・グループを支持するために、彼はその仕事を勇敢におしすすめたのだ」
 もちろん彼は、黒人の公民権の問題だけに関心示したのではない。宗教、経済、軍事、政治、教育、新聞、テレビ、スポーツ、国際関係、歴史など、あらゆる問題が彼のコラムに登場する。『ニューズウィーク』誌(一九五九年四月一三日号)はこう書いた。
「コラムニストとして、マッギルは驚嘆すべきほど多方面へその関心を向けている。彼はある種のアルコール飲料の危険性や、有名な政治家の不幸や災害、インド内部の農業問題などを、まったく同じように鮮やかに論じているのである」
 ラルフは第二次大戦中の四二年、同紙の編集長となり、その年の創刊七十五周年記念号に次のような声明文をのせた。
「私は、大義のために戦った歴史をもたないような新聞のために仕事をしたいとは思わない。……この新聞こそ、戦うために創立されたものである。……今後もこの新聞は、不正や偽善に反対し、人びとの権利と利益のために戦い続けるであろう」
 一九四三年、彼は著名な南部の白人たちによびかけ、四四年に「南部地域協議会」(Southern Regional Council)を結成する。顔ぶれをみると、学者、ジャーナリスト、牧師などが多く、従来あった人種協調委員会を発展的に継承したものとして、その後南部社会についての研究、出版、その他のプロジェクトの遂行など、めざましい成果をあげるようになった。六一年一一月八日ケネディ大統領は、「われわれの国民生活のあらゆる面で、平等の機会を実現させるために、この協議会はすべてのアメリカ人の間にその運動を広げている」と賞賛したほどである。

 第二次大戦後も、かつてほどの数ではないが、リンチがそのあとを断たなかった。四七年七月三日の彼のコラム。

「リンチは単なる殺人ではなく、他の犯罪と比較することができないほどのものである。リンチは犠牲者を法律の外側につれ出して、処刑する。従ってリンチは、陪審員、判事、死刑執行者としての役割を果しているのだ。こうしてリンチは、私たちがその下で生活している法律に挑戦する。それはおののいている黒人や白人たちだけではなく、法律のすべてを餌食にしてしまおうとする獣を、進んで解き放してしまうことになるのだ」
 このようにラルフは社会の不正にたえず挑戦する姿勢をもち続けたが、ロウグ教授は南北戦争前に奴隷解放運動を積極的におしすすめた北部人のウイリアム・L・ギャリソンと比較して、マッギルをギャリソンのような社会改革運動家(クルーセイダー)ではなかったとし、ラルフ自身の次の言葉を引用している。
「私はよい改革運動家とはなれません。というのは、私は物事の両面をどうしても見てしまうので、今までこういう性格のために苦しむこともありました。これは社会改革運動家としては、致命的なことです。真の燃えるような運動家というものは、自分の側しか見ないに違いありません」
 私はこういう所に、かえってラルフの人間らしさを感じてしまうのだ。彼に会ってその人柄に魅せらてしまう人の多くは、弱者のために戦いを挑む勇ましい姿ばかりでなく、相手に対する深い思いやりやいたわりの心に感動する。そしてまた、時にはじつと耐えなければない時期が彼にもあったことを知って、かえって自分との距離の近さを感じるのである。

 一九六五年一二月、彼はロウグ教授とのインタヴューで、過去のその点を回想する。

「こういうことをいわなければならないのはとても残念ですが、この新聞社にもある時期があったことを申しあげましょう。それは経営が困難に陥った時期のことで、私は自分が書きたいと思うことを、思う存分書くことができませんでした。その時期は、約三年続きました。それは、非常に不幸な時期でした。四〇年代の終り頃から、五〇年代はじめにかけてでした」
 それがマッカーシズムの名でよばれれる反動的な時代、言論の自由さを奪われかけていた時代と重なっていることを思いだせば、彼のおかれた立場が分かるような気がする。

 しかし一九五四年に最高裁から、その時まで全南部が実施している人種別の分離教育に対して、これを憲法違反とする歴史的な判決が出される約四カ月前、ラルフはアーカンソー大学に招かれて次のような演説をしているのである。

「私たちは多分、すべてのアメリカ人をテストするようになる新しい判決を、やがて迎えることになるでしょう。……それは分離が正しいとか、間違っているとか、便利であるとかいう問題ではありません。……それは法律に基づいて皮膚の色で分離するということが今日のわれわれの考え方では、政治的にみても、キリスト教の立場からみても、まったく適当ではない、ということなのです」
 アーカンソーといえば、南部のリトルロックでその三年後に黒人の高校入学をめぐって大紛争がおこり、アイゼンハワー大統領が連邦軍を派遣する騒ぎとなったような土地柄である。それを十分に承知して、彼はあえて現地でこういう演説をおこなったのだろう。ついでにいえば、アーカンソー選出の上院議員ウィリアム・フルブライトは、日本でもベトナム戦争に反対した進歩派の政治家と思われているほどだが、ラルフは六八年にこのフルブライトに対しても、「彼は上院の送られてくるあらゆる公民権法案に反対してきた男だ」として、鋭い批判を浴びせている。

 こういうラルフが、反動的な南部の白人たちの攻撃にさらされたのは当然のことであろう。一九五五年に全南部にわたって白人市民会議が結成され、知事や議員、企業家、警察などまで含め、なかば公然とした組織に発展するが、その機関誌は次のようにマッギル攻撃を続けている。私の気がついた記事の見出しを並べただけでも次のようなものがある。

   「ラルフ・マッギル、ジョージア州を脅かす南部最悪の敵」(五七年一〇月)

   「ラルフ・マッギル、再び暴言。南部に人種統合を強要」(五七年一一月)、

   「ラルフ・マッギル、引続き民衆に人種差別の打破をそそのかす」(同上)

   「アトランタ市民、編集長マッギルには踊らされず」(五九年三月)

   「ジョージア州の政治家よ、マッギルの甘言に乗るな」(五九年四月)

   「ラルフ・マッギル、アトランタ市民を泥沼へ導く」(六〇年一月)

 もちろんこういう非難や攻撃があったことばかりを書いたのでは、片手落ちになるだろう。それにもまして、激励や感謝の反応の方が多かったからである。隣り町からわざわざアトランタに出てきて、ラルフの家の前に二百通もの感謝の手紙を置いていった女性がいたそうだし、彼がレストランへ入ったりすると、黒人のウェイターやウェイトレスは、次から次へ眼を輝かせながら彼に握手を求めてきたという。

 私はここで、彼の死を悼むもう一人のアメリカ人の言葉をあげておきたい。それは南部とは対照的な場所であるはずの、マサチューセッツ選出エドワード・ケネディ上院議員(ジョン・F・ケネディ第35代大統領の末弟)である。

「アメリカのジャーナリズムは、その伝説的な一人の人物を失った。そしてアメリカの社会は、もっとも心豊かで、疲れを知らない一人の市民を失った。彼は他の人びとがアメリカを分裂させようとしている時に、賢明さと理解力と、さらに人類全体が同胞であるという信念とで、アメリカ人を一つに結びつけようとしたのである。私はケネディ大統領がいかにラルフ・マッギルを尊敬し、賞賛したかを知っているし、またロバート・ケネディが彼の協力や忠告をいかに高く評価していたかも知っている。私もまた幸運に、彼との友情を育むことができたし、それはすばらしい事だと思っている」
 エドワード・ケネディ議員が彼との友情を誇りにしているのだったら、私たち夫婦が彼と知り合い、彼に各地を案内され、彼の家に何回も泊るようになり、今なお彼の姉妹、二度目の奥さん、それに長い間彼の片腕となっていた秘書のグレイスなどと、こうして親しいつき合いをしていることを、一体誰に向かって、何と感謝いたらいいのだろうか。

 ラルフは二度、日本に来た。一度目の六二年には、まだ少年のラルフ・ジュニアを連れて、『南部と南部人』の訳者河田君子さんと富士山頂へ登っている。二度目の六六年には、私が箱根の温泉に連れていって、一緒に共同風呂の浴槽につかった。好奇心の旺盛な彼は、他の人たちが裸で自由に出入りする日本の風習を楽しみながらも、時どき故郷の南部に思いを馳せているらしかった。湯煙のなかで、彼がふと洩らした言葉を、私は今もよく憶えている。広い浴室いっぱいに広がっている湯気のせいだろうか、私の身体のなかに滲みいるように、その声は響いた。

 「今の南部をね、私は楽観ばかりはしていない。けれど、かなりよくなった。これからも、よくなるでしょう。少しずつでも、やがて南部は、すばらしい所になりますよ。人間の良心とうのは、いつか相手に通じるんです。根っからの悪人なんて、いるもんじゃありませんよ」

2025.07.06 記す

  黒人革命の高まり P.106

 アトランタからハイウェイ85 に乗って西南の方向に走ると、相変わらず深い松の緑が両側に広がっていて、ときどきジョージアの貧しい赤土が、その緑のなかにぽっかり口をあけている。ブルドーザーが入りこんで、新しい工場か住宅を造りはじめているのだ。チャタフチ-川で州境を越え、出発してから三時間ばかりで、アラバマの州都モントゴメリーに着く。

 モントゴメリーは人口僅か十数万、その中心部を除けば、まったく田園的な町で、ハイウェイだけを走っていると、そのまま通り過ぎてしまいそうである。もっとも隣のミシシッピも、州都ジャクソンはほとんど同じくらいのサイズだから、こんな所に深南部の姿が象徴的に現れているといえるのかもしれない。

 モントゴメリーの中心部には、ちょうどホワイト・ハウスを小さくしたような州庁舎が立っている。中央のドームの部分以外は三階建てだが、階段を上りつめた所にある中央の玄関は、その三階まで全部を貫くギリシア風円柱が六本真横に並び、左右両方には大きな鳥が翼を広げたような形で建物が続いていて、表に面したどの部分にも、重々しい屋根を支える巨大な円柱が立っていた。

 あまりにもその建物が白いので、私はいくつかの言葉を思い出したほどである。たとえば白椿騎士団(Knights of White Camellia)、白バラ騎士団(Knights of the white Rose)、白人同胞団(White Brotherhood)――これらはみな、南北戦争後につくられた暴力的な秘密結社の名である。同類のKKKだけがとくに有名になったが、解放されたばかりの黒人たちや、南部支配にのりこんできた北部人たちにリンチをふるった団体は、このように白いことを強調する名をつけたものが多かった。その後白人優越思想に固まったような人びとを lily-white というようになるが、私にはこの州庁の鮮やかな白さが、長年にわたって培われた深南部の生活様式を象徴するシンボルのように見えてきた。

 もちろんそれには、なかにいる州知事ジョ―ジ・ウオレンスのイメージも重なっていた。ウオレンスといえば人種差別にこり固まった知事として全米にその名を知られた政治家であり、六四年にはラルフ・マッギルもそのコラムのなかで、「彼はアラバマ政界の善悪である」と書いている。ケネディ時代の六二年に四十三歳でアラバマ州知事に当選していらい、十数年にわたって地方政界に君臨した。州知事が引続いて再選されることを禁じた州憲法のため、妻を身代わりに当選させたり、空白期間をおいてから再選されたり、さらにこの間三回も大統領選挙に登場している。このうち六八年には、南部だけでなく全米で一三パーセントという得票を示し、ある意味で「アメリカの南部化」が進んでいることを物語った。しかし七二年の大統領選の最中に暴漢の凶弾を浴び、その後は車椅子で知事生活を送ることになり、少なくとも表面的には七九年一月で知事の座を退く。

 そのウォレンが、ここ数年は黒人に対する態度をかなり変えている、という話をよく人に聞いたり、本で読んだりするようになった。ここから西北に一時間半ばり走るとタスカル―サという町があって、この貧乏な州としてはかなり贅沢な施設のアラバマ大学がある。六〇年代の終りから何回か私はこの大学を訪れてみたが、五六年にオーザリン・ルーシーという一人の黒人女子学生の入学をめぐって大揺れに揺れたこの大学で、今では黒人女子学生がキャンパスを代表するミスに選ばれると、ウォレン知事はわざわざこの大学まで来てその女王に王冠を与える儀式を行なうようになったというのである。

 これは十年ほど前と比べてみると大変な違いかただといわなければならないが、それよりさらに一昔前、一九五八年の知事選では、人種問題をそれほど取り上げなかった彼が、ジョン・パターソンという人種主義者に敗北した経験がある。これらの事情を考え合わせると、一九六〇年代のアラバマでは、まだまだ人種主義を唱えた方がそれだけ強く州民にアピールし、それが当選につながる道であることを彼が熟知していたことになるし、同時にまた一九七〇年代になってからのアラバマでは、もう今までのような人種主義が選挙での勝利につながらないと彼が悟ったことを物語るのではないだろうか。

 ウォレンは他の点で数多くの業績を州民に残している。エモリ―大学の何人かの教授は、彼を人民主義者(ポピュリスト)だと賞賛していたほどである。つまり過大な連邦政府の介入に対して抵抗し、社会福祉を増大させ、中産階級以下の人びとが受益者となるような社会資本の蓄積に熱意を示すなど、一貫した政治姿勢を見せていたのだ。そのウォレンが黒人に対してこれほど大きな変化をみせたということは、一体何を物語っているのだろうか。

 いま碧空を背にいかめしい形で聳えている白い庁舎の前に立って、この疑問に答えるのは、それほど難しいことではない。ウォレン知事は、昔も今も、ある点において変ってはいないのだ。それは州民の世論とともにあるという点、世論の最大公約数であるという点において、現実的な政治家がいつでもそうであるように、彼もまた不変なのである。もし彼が変ったとするならば、それは彼によって象徴されるアラバマ州民の意識が変ったということに他ならない。それではアラバマ州民が、この十数年間のうちにどんな変りようをしたのだろうか。

 州庁舎の右の方、アダムズ通りに沿って、南部連合政府最初の小さなホワイト・ハウスが建っている。南部連合のジェファソン・デーヴィス大統領が住んでいた当時のまま、この州の大切な史跡として保存されているのだ。私にはこの建物が、十九世紀の南部を象徴しているように思われた。そして白い州庁舎はというと、これはごく最近までの南部の象徴なのである。さらにこの州庁舎の立派な殿堂の前、デクスター通りに沿って目立たない教会が一つ建っている。それが南北戦争最後に作られた黒人のデクスター・パプティスト教会で、実はこれこそ、現在の南部の象徴的な建物といわなければならないのである。

 黒ずんだ煉瓦の外壁でかこまれている何の変哲もないこの教会を見つめていると、私のような者さえ、敬虔な深い思いに包まれるのを禁じることができない。それは、もし神の意志というものがあって、歴史の重大な転換の時期に、なんらかの形でそれが現れるものだとすれば、どこでも見られるようなこの黒人教会のなかにこそ、神はその意志を示し給うたのだ、という不思議な感動のようなものである。

 マーチン・ルーサー・キング・ジュニアは一九二九年にアトランタで生れた。四八年にアトランタの中心部近くにある黒人大学モアハウス・カレッジを卒業したあと、三年間をフィラデルフィア郊外のクローザー神学校で勉学し、最優秀で卒業したため奨学金を与えられて、さらにボストン大学の大学院で三年間の研究生活を送っている。この間にボストンで知り合ったニューイングランド音楽学校声楽科の学生コンレッタ・スコットと結婚する。コンレッタはアラバマから音楽を勉強するためにボストンに来ていたのだが、できることなら二度と南部に戻りたくないと考えていた。北部のとくにこのボストンでは、少なくとも表面上の人種差別が、比較にならないくらい南部よりは少なかったからである。

 夫のキング・ジュニアは、大学院も優秀な成績で終了したので、大学教授への道も開けていたし、教会からの招聘も数カ所からきていた。彼の父のキング・シニアはアトランタの有名なエベニーザー・パプティスト教会の牧師で、やがては自分の息子が後を継いでくれるものと思っていたし、コレッタは北部の教会に奉職することを望んでいたのに、キング・ジュニアはなんとこのデクスター・パプティスト教会を選んだのである。彼がこの教会に決定した理由のなかに、妻コレッタの故郷のマリオンという小さな田舎町が、このモントゴメリーから僅か車で一時間たらずということがあったかもしれない。しかしその点は、肝心のコレッタが南部に戻ることを望んでいなかった以上、決定的な理由とはならなかったであろう。

 コレッタ自身、この点について、『M・L・キング・ジュニアの生活』(一九六九年)という自叙伝のなかで、次のようにのべている。

「私はモントゴメリーへ行くことに反対していましたが、今になってみると、そこへ行くことは、私たちがもっと大きな役割をになうために避けられないことだったのがよく分ります。いやその一九五四年当時でさえも、その特別な役割に向かって、夫がそして私もまた、準備させられているのだということが分りました。私たちの経験はどれもみな、次の段階への準備なのでした。モントゴメリーに住んでいる間は、まるでドラマが進行しているようなものでした。マーチンと私と、それにこの小さな南部の町の人びとは、ドラマのなかの俳優のようなものだったのです。またそのドラマ自体は完全に終っていませんけれども。ですが私たちは、ある絶対的な方向から押しすすめられている運命のようなものを感じました。神の創造主としての意志を実現する道具に、すすんでなろうとするような気持をもっていたのです」

 私は一人の歴史を学ぶ学徒として、人間の歴史の重大な一頁となる黒人革命の発端の時間と場所に、たまたまM・L・キングがいあわせたという符合を知り、なんともいえないような感動を覚えたが、それかずっと後になってコレッタ・スコット・キングの自叙伝のこの部分を読んで、彼女がキングのよき協力者として、当時すでにそのような運命を予感していたことを知り、重ねて深い感動を禁じることができなかった。ただ私として残念なことは、六八年のキングが暗殺者の凶弾に倒れたあと、アトランタのエベニーザ・パブティスと教会やディンクラー・ブラザ・ホテルなどで何回かコレッタ・スコットに会うことができたのに、いつも慌しい立ち話ばかりで、キングとのボストンでの出会いや、ボストンからモントゴメリーへの移転などについて、ゆっくり話し合うことができなかったことである。

 ともかく二人は、一九五四年五月にモントゴメリーに移住する。ところが同じこの月に、あの歴史的な最高裁の共学判決が下された。公立学校での人種分離を憲法違反としたこの判決は、一八九六年の分離を合憲とする判決に支えらえていた南部の生活様式に、最初の決定的な一撃を加えることになったのである。

 もっともそれ以前から、徐々ではあるが、時代は確実に変りはじめていた。第二次大戦に参加して、その後も広く世界各地に駐留し、自分の肌で平等の現実的な姿を学びとった黒人兵たちが、段々と南部へ戻ってきていた。四六年には最高裁が州際交通機関の人種分離を禁じ、四八年になるとトルーマン大統領が、連邦政府と軍隊について、そこで働いている人びとへの差別を禁止する行政命令を出した。そこへこの最高裁の判決である。すぐに具体的な変化があったわけではないが、南部に住むすべての人びとが、この判決への賛否はともかくとして、心のなかで騒然としたムードを感じはじめていたことは確かである。

 こうして、キング夫妻が深南部の中心地、モントゴメリーの教会に着任してから約一年半が過ぎた五五年一二月、ローザ・バークスという中年の黒人女性が、バスのなかで白人運転手から白人乗客に座席を譲ることを命じられ、それを拒否したために逮捕されるという事件が発生した。それまでは、運転手からいわれなくても黒人は白人に座席を譲るのが、長い間南部の生活様式だったのである。ところが彼女はこの時、運転手に向かって「ノー」といったのだ。キングは後に、彼女にそういわせたのは、時代精神(ツアイト・ガイスト)ともいうべきものだった、とのべている。

 このローザ・バークスの一言が、実はその後アメリカ社会を揺るがす黒人革命となったのである。たちまちモントゴメリーでは、黒人の指導者たちが集って、黒人たちにバス・ボイコットをよびかける。貧しい黒人たちにとって、バスは通勤や通学に欠かすことのできない足だったから、実際には六〇パーセントくらいの黒人がボイコットに参加すれば大成功のうちだと考えられていた。コレッタ・スコット・キングはこの時のことを、次のように期している。

「真夜中を少しすぎた頃、私たちはやっとベッドに入りましたが、翌朝の五時三〇分にはもう起きて、服を着ました。私たちの家のすぐ前のバス停には、最初のバスが六時にくることになっていたのです。私たちはキチンに入って、コーヒーを飲み、トーストを食べました。それから居間で外を眺めました。やがて六時になると、十二月の早朝の闇のなかを、ヘッドライトを光らせ、内に煌々とあかりをつけて、バスがやってきました。私は叫びました。『マーチン、マーチン、早く来て』彼は部屋にかけこみ、興奮して顔を輝かせながら、私の傍に立ちました。普段はあんなに混んでいるバスに、乗客が一人もいないではありませんか!」

 このバス・ボイコット運動のなかから成長したキングは、南部キリスト教指導者会議(SCLC)を結成して、今までになかった新しい闘争方針、非暴力大衆直接行動を創りあげる。非暴力という点についていえば、私は六五年にキングがアラバマ州セルマで行なった黒人の選挙権獲得のための行進をテレビで見たことがある。四列縦隊くらいでハイウェイを行進してくるキングたちの行列を、ウォレス知事に命じられた警官隊が、太い棍棒を真横に組んで、まるで古代マケドニアの長槍隊の進撃のように、一人一人なぎ倒しながら進むのだ。キングを先頭にした黒人や白人の公民権団体の行列は、無抵抗でただ歩いていくのである。六六年にキングはまた、中西部のシカゴに飛んで、住宅解放のための行進を行った。テレビで見ていると、行進の周囲には白人たちが大勢集まってキングたちを罵り、なかにはキングめがけて石を投げる者もいる。そのうちちょうど握り拳くらいの大きさの石が、まともにキングの身体に当たった。ドスッという鈍い音が聞えて、よろめいたキングが片膝を地面につく。一緒に歩いていた黒人たちが、両側にかけよってキングを助け起す。キングはそれでも石のなかを、なお無抵抗で歩き続けるのだ。非暴力に徹するということの、現実のなんという凄まじさ――。

 大衆直接行動という点についていえば、それまでは全国黒人向上協会(NAACP)のような伝統的公民権団体が、黒人のなかのエリートともいうべき弁護士などを中心に、主として法廷闘争を通じて黒人の権利を守ってきたのに対し、キングは黒人大衆が、それも直接街頭に立って闘うことをすすめたのである。この非暴力直接行動がみごとに完成されたものとして、六三年八月のワシントン大行進は記録されなければならないだろう。二十万人からの人びとが集まりながら、暴力的な事件が少しも起こらなかったというだけで、これはもう一つの新しい奇跡というべきではないだろう。

 しかしこの黒人革命は、決して生ま易しい形で遂行されたものではない。何人もの人がそのためリンチの犠牲になって生命を落したし、キング自身六八年に暗殺されるまで、数えきれないほど繰返し警官に逮捕されている。とくに五四年の最高裁判決に対しては、それまで長い間維持されてきた人種差別の南部生活様式を乱すものとして、五六年三月、九六名の南部出身議員が集まり、共同の声明書を発表したほどである。それは、

「われわれは、学校教育についての今回の最高裁判決を、明らかに司法権の濫用であると考える」

という文章で始まり、各州政府の自治権を主張したあとで、次のように結んでいる。

「この試行錯誤の期間に、われわれは最高裁の誤った判決を正すように努力するとともに、わが南部に侵入してくる扇動家(アジテイター)やかましい連中(トラブルメーカー)にまどわされないよう、また良心に従って混乱や不法な行為などを起こさないよう、州民各位に訴えるものである」

 最高裁判決に対して、多数の議員がこうして堂々と反対の意見をのべたということは、当時の南部に広がっていた大多数の白人層の抵抗や動揺をよく物語っていた。この声明書によれば、公民権運動家は黒人であろうと白人であろうと、すべて扇動家ということになるだろう。キングやマッギルは、ともに扇動家として、憎悪の対象になるのだ。六〇年代に入ると、北部や西部からも主として進歩的な白人が応援にかけつける。ホワイト・リベラルとよばれるこれらの人びとは、こういう南部議員からみれば明らかに典型的なトラブルメーカーなのである。議員が連名でこういう声明文を発表するくらいだから、公民権運動家たちが南部で人命の危険にされされたのは当然だった。

 六一年には交通機関での差別を撤廃しようとして、バスに同乗したフリーダム・ライダーズたちが、アラバマにさしかかって暴徒たちに襲われ、バスを焼かれたり、気絶するまで殴打されたりした。六二年にはウィリアム・フォクナーが長年創作活動を続けていたオクスフォードにあるミシシッピ大学でジェームス・メレディスという一人の黒人学生の入学をめぐり、当時の司法長官ロバート・ケネディを憂慮させるほどの大紛争が起る。この時は四人もの人びとが、この騒ぎにまきこまれて死んでいる。六三年にはアラバマ州バーミングハムで黒人教会に爆弾が投げこまれ、日曜学校に集まっていた人びとのうち、少女四人が爆死している。六四年にはミシシッピ夏期計画に参加して黒人の選挙権登録運動を推進した数百人の若者たちのうち二人の白人と一人の黒人が暗殺された。六五年には――もうこれ以上、書く必要はないだろう。ここにあげたものも抽象的な事件だけで、ごく一例にすぎないのだから。

 しかし、どうみても大勢は南部に不利であった。黒人革命の目標は、黒人が白人と平等の尊厳と権利をもつべきだという一点にあった。黒人回教団(ブラック・ムスリム)のように逆に黒人の優越を説く団体も一部にはあったが、白人と平等のアメリカ人になることが最終的な目標である以上、理論的には人種差別を続ける側に勝ち目があるはずがなかった。一九六〇年前後に続々と独立したアフリアの共和国では、ニューヨークの国連本部に多数の代表を送ってきていたし、アメリカ国内の人種差別についての報道が、共産圏諸国ばかりでなく、アメリカから軍事上や経済上の援助を受けているような国ぐにのなかでさえ、アメリカの威信を落しはじめていたのである。

 こうしてジョンソン大統領は一九六四年に、南部の生活様式をまったく一変させるほど強力な公民権法を成立させる。それまであらゆる生活の隅々まで「白人専用(ホワイト・オンり)」と「黒人専用(カラード)」に分かれていた差別が、この時から南部で姿を消したのだ。このことを日本人が実感として理解するのは難しいが、アメリカで大評判になり、日本でも放映されたテレビ映画『ジョーン・ピットマンの生涯』を見た方は、かなりよくお分かりになるだろう。原作はアーネスト・J・ゲインズという人の小説(一九七一年)で、南北戦争のときに奴隷娘だった一人の黒人女性が、その後迫害の一世紀を耐え抜いて生きた物語である。映画のラスト・シーンは、百歳をこえた主人公の老婆が、白人警官たちの見守るなかで、一歩一歩足をひきずりながら、「白人専用」の水呑場に近づき、身体を屈めて水をのんだあと、さすがに手出しをしかねている白人警察官をしり目に引き上げていく場面だった。それが映画のクライマックスになるほど、全南部にわたってこの差別は厳格に守られてきていたのである。

 六〇年代後半は「ブラック・パワー」というスローガンが叫ばれて、一部の運動は激しく急進化したが、七〇年代に入って一見この黒人革命が鎮静化したように思われたとき、実は南部においてさえ、人びとの意識はかなり急速に変りはじめていたのだ。たとえば、ここに興味深いギャラップ世論調査の数字がある。黒人と白人の共学についての、南部白人の両親の態度の変化が、手にとるように分かるのである。まず黒人の児童が少ししかいない学校へ、自分の子供を通学させることに反対の比率は、次の通りである。(カッコ内は北部)

  一九六三年  六一%(一〇%)

  一九七〇年  一六%( 六%)

 次に黒人の児童が半分の学校の場合。

  一九六三年  七八%(三三%)

  一九七〇年  四三%(二四%)

 最後に黒人の児童が半分以上の学校の場合。 

  一九六三年  八六%(五三%)

  一九七〇年  六九%(五一%)

 これらをみると、黒人の児童が少ししかいない学校の場合は、南部人の意識も急速に変って、今では北部人と大差ないまで接近している。黒人の比率が多くなるにつれて、北部の白人でさえ拒否反応が大きくなっているが、総体的に南部人の意識の変化は明瞭で、この点では南部の北部化といえるのではないか。

 一九五六年に一人の黒人女子学生の入学を妨害しようとした約一千人もの白人学生が、キャンパスのなかにある学長の家の前の広場に集まり、「黒ん坊を追い返せ」と叫んで十字架に火をつけたアラバマ大学では、私が訊ねた六九年と七〇年当時、すでに三百人近い黒人学生が何事もなかったように廊下や庭をゆききしていた。六二年のミシシッピ大学事件は、やはり一人の黒人学生の入学をめぐって、アーサー・M・シュレンジャー特別補佐官が「オクスフォードの戦い」とよんだほどの大紛争になったのに、南部白人の牙城といわれたこの大学でも、マダノリアが色鮮やかに咲きこぼれている七〇年三月、私は二百人もの黒人学生が平和な姿で学んでいるのを見た。ここがつい数年前に人種共学のための戦場だったとはとても信じられないような気がした。

 その時から一年前の六九年四月には、キングが暗殺された一周忌の日に、暗殺現場のメンフィスに私たちは行っていた。ミシシッピの大河に面したメンフィスは、昔から黒人たちの汗の産物ともいえる綿花の集散地として発展した町でもあり、またブルースの父ともいわれる黒人ウィリアム・C・ハンディが「セントルイス・ブルース」を作曲した町でもある。私たちはここで、キングの後継者となったラルフ・アパーナシーに率いられ、「ウィ・シャル・オーヴァカム」を歌って雨中を行進しながら、なかば恐怖心を抱いて警戒に当たっていた白人警官たちと行進していた黒人たちの間に、そのあと市長から夜間外出禁止令が出されるほどの衝突が展開されるのを目撃した。

 こういう事を後から振り返ってみると、やはり六九年から七〇年へかけての頃が、一つの転機になったのであろうか。その後黒人革命の波は第一段階ともいうべき焔の季節を終って、もっと静かな第二段階に入り、貴重な犠牲を支払って得られた果実を、いま着実に収穫しはじめている。「南部年鑑(ナンブアルマナツク)(一九七七年)によれば、一九六九年から一九七六年までの間に、選挙によって決定されるすべての公職者、たとえば連邦政府や州政府の議員、市や郡の議員、裁判所や教育関係者などのうち、黒人の数は全米で六九年の一、一八五人から、七六年の三、七九六人へ飛躍的に上昇している。しかも地域別でいうと南部が二、三〇〇人も占め、南部以外のすべての地域の合計一、六七九人よりもはるかに多いのである。全米の黒人のうち約半分が南部に住んでいるので、ここにあげた数字は、黒人にとって南部の方がある意味では住みよいことを示しているのではないか。

 たとえば七一年のギャラップ世論調査によれば、「日常生活という点で、南部の方が黒人にとっては住みよいと思うか」という質問に対して、実に四九パーセントの人が賛成し、反対の三〇パセントを大きく上廻った。しかも黒人と白人による意見の差はほとんどなく、地域別でいうと、南部に住んでいるいる者の六三パーセントが賛成、反対は僅か一八パーセントにすぎない。

 思えば二十世紀の初めまで、黒人の九〇パーセントは南部に住んでいたのだから、北部の白人たちはほとんど概念的に黒人を知っていただけで、隣りに黒人が引越してくるとか、子供の学校に黒人が入学してくるとかという日常生活では、黒人を知らない人が多かったのであろう。その後黒人がどんどん北部の大都会に移住してくるようになると、一緒に住むことを嫌った白人たちは、ある一定の貧民街だけに黒人が住むように仕向け、ブラック・ゲットとよばれるスラム街ができてしまった。ところが南部では、奴隷時代からずっと今まで、黒人がメイドとして白人の家に住みこんだり、庭仕事をするために通っていたりして、いわゆるスキンシップという点で、黒人と白人の間の関係は比較にならないほど密接だった。こういう大きな生活様式の差を考えると、もし南部人の意識が変りさえすれば、黒人にとって南部の方が住みよい場所になるのは当然のことであろう。

 そればかりか、ある点では白人の黒人化といってもいいような現象さえ南部で現れている。白人は普通川魚をあまり食べなかったが、それまで黒人のあいだに人気のあったキャットフィッシュという魚を結構南部の白人も食べるようになり、なかにはこの川魚をとることを企業として成功させる白人もでてきたのである。テネシー川やその支流にたくさん棲んでいるこの魚は、頭というよりその顔があまりにも猫に似ていてヒゲまで生えているところから、そのグロテスクな風体が白人に嫌われ、奴隷時代いらい黒人だけの食べものとして通用していた。いわゆる「ソウル・フッド」である。七〇年春にかつてフォークナーの住んでいた町オクスフォードを訪ねたとき、あるレストランでキャットフィッシュのフライを頼んだところ、白人ウェイトレスの軽蔑に満ちた眼射しを浴びたことを思いだす。ところが今ではもう、この白身の魚を食べる白人がどんどん増えているのである。

 私はアラバマ州モントゴメリーを訪ねて、長い感慨にふけcつていたようだ。豪華な白亜の殿堂の州庁舎と、その前の小さな黒人教会とは、初めてここを訪れたとき、それがちょうど白人と黒人の社会的地位の差を表しているように思われたが、いま両者の間にいかめしく立ちふさがっていた眼に見えない壁が、音を立てて崩れおちているのだった。トマス・R・ブルックスというジャーナリストも、一九四〇年までの公民権運動を記録した自分の著書に"Walls Come Tumbling Down"(1974)というタイトルをつけている。これは黒人がよく教会で歌う歌の一節である。

 私たちはモントゴメリーから戻ってきた数日後、アトランタのダウンタウンにほど近いキングの墓を訪れた。黒人の新聞社や会社などが並んでいるオーバーン通りに面していて、彼が父と一緒に主宰していたエベニーザー・パプティスト教会の隣りの庭である。暗殺された直後にはサウスヴュー墓地に埋葬されていて、その頃から私たちは何度キングの墓の前に立ったか分からない。

 来る旅ごとに、墓の周囲は立派になっていた。白い大理石の墓標のまわりには一面に広く水が湛えられ、墓標の前に燃え続ける永遠の焔を守っている。小さな公園といってもいいだろうか、かつてあれほど悲壮感が漂っていたこの墓の前を、いまは黒人の若い二人連れが、お互いに身体をもたせかけるようにして歩いていく。若い黒人たちがここをデイトの場所としても、それは一向に差支えないどころか、むしろ心の安らぎを覚える絶好の場所といえるのだろう。

 その二人の若い黒人の姿を眼で追っていると、私はまるで山あいを走る小川のせせらぎのように、時が音も立てず、確実に流れているのを見たように思った。

2025.05.25 記す

  カーター・カントリー P.127

 八月中旬になるとアトランタの空はすっきり落ち着いて、そのたびに私たちを驚かせていたスコールのような雨が、いつのまにかぱったりと来なくなった。窓から見えるデルタ航空の広告板には、時刻と温度を示す数字が交互にあらわれていたが、その頃は日中になるとたいてい九〇度(摂氏三二度)を越えていた。暑い日ざかりの街のなかでは、さすがに多くの人びとの顔に、うんざりしたような表情が浮かんでいる。ジョ―ジアの夏は、今がまさにたけなわだった。

 カーター大統領が休暇をとって故郷のプレインズに戻り、短いズボン姿でソフトボールを楽しんでいるのを知ったのは、八月一九日、土曜の夜のテレビを見ていた時である。日本流にいえば、まるで野良着のような恰好で、腰がすわらず、球をヨタヨタと追っているような光景は、彗星のように登場してきた二年前と比べると、さすがに疲れた感じを隠しきれなかった。けれどもそれは、ひどく微笑ましく、まるで仲のいい友達が眼の前でゲームをしているのを見る時のような、くつろぎを感じさせる光景でもあった。

 今もプレインズでガソリン・スタンドを経営している弟のビリーは、兄のジミーと別々のチームに分かれて戦ったが、その日はジミー・チームが六対五で勝ち、翌日曜日の午後はビリー・チームが一二対八で勝った。二日間のゲームを通じて大統領がヒットをうったのはただの一回だけで、彼はだいぶプライドを傷つけられたということだから、ふき出したいほど人間くさい話である。

 テレビや新聞でこういうことを知るたびに、私は人種も違い、文化も違うこのアメリカのなかに、奇妙な親しさを感じてしまうのだ。これが日本の場合はどうだろう。始球式だけならばともかく、首相がソフトボールに加わって、九回の終わりまで戦ってみせるというような光景を期待できるだろうか。転んだり、滑ったり、空振りしたりする首相をテレビで見ることができたら、なんと楽しく、なんと政治を身近に感じることができるだろうか。

 第一このジミー・カーターという政治家は、大統領選挙の一年前には全米的にはほとんど無名といってもいいほどだったし、半年前になってもまだ、どんな人間であるか十分に知られていなかったのである。選挙の年七六にあわただしく出版された本のタイトルが、『ジミーって誰?』とか『ジミー・カーターの奇跡』などであったことを考えれば、アメリカ人自身にとっても、彼の出現がいかに唐突に思えたか分かるだろう。ところが日本の首相の座につく人は、何十年も前から順番を待って行列のなかに並んでいたような人ばかりである。次の次の次くらいまで何とはなしに分かるようなこともあって、これでは新鮮な驚きなど望むべくもない。その上、誰が首相になっても同じようなもの、というのであれば、日本の国民の間に政治離れがおきるのはむしろ当然のこといっていいだろう。

 カーター大統領は、土曜、日曜の週末をこうして故郷プレインズで過ごしたのち、月曜には一家連れだってアイダホの州都ポインジーに飛んだ。大西部のあらあらしい自然にかこまれた世界である。その後「アトランタ・ジャーナル」に載った記事によると、火曜から三日間、"帰らざる川"サーモン・リヴァーの筏乗りに挑戦したという。

 「皆がうんといってくれれば、本当はカヌーをやりたいんだ。これで昔はなかなかうまいカヌー乗りだからね」

 運悪く小雨にけむっていた川面を眺めながら、彼はこんな事をいって周囲の人たちを笑わせている。アメリカ全体が休暇に入っているようなこのシーズンに、大統領一家も一週間だけホワイト・ハウスを離れるスケジュール立てていたのである。

 大統領の休暇を報道する記事のなかに、もう一つ私の注意を惹いたことがあった。信仰心篤い彼は、帰省しても当然教会の行事に参加しているが、以前からメンバーになっているプレインズ・パプティスト教会には行かず、母のリリアンと一緒に隣り町アメリカスの近くにあるフェローシップ・パプチスト教会の日曜礼拝に出席した。というのは、プレイン・パプティスト教会が黒人をメンバーに加えるかどうかの問題をめぐって分裂し、投票によって黒人を拒否することに決まった後、リリアンはこの決定に抗議して、教会の籍をフェローシップ・パプリスト教会に出席しているが、この教会もその投票結果に反対した人びとが、急に組織した新しい教会である。

 私は、かつて読んだことのあるジョン万次郎の伝記を思い出した。彼は十四歳のときに漂流し、無人島にたどりついたところを、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に助けられる。一年あまりその船で働いた後、マサチェーセッツ州フェアヘヴンへ連れて行かれる。船長ホイットフィールドは非常に親切な人で、自分たち夫婦が所属しているオーソドックス教会へ万次郎を連れていくが、黒人のような少年をメンバーにするわけにはいかないと断わられ、憤然としてその教会の籍を抜き、他にもいくつかの教会で断られた後、万次郎の加入を歓迎してくれたユニテリアン教会へ、自分たちも一緒に籍を移したのだ。

 これは一八四三年のことで、南北戦争が始まる十八年も前にあたる。アメリカの歴史のなかではずいぶん古い話になるが、それでもマサチューセッツといえば奴隷解放論者が多かった場所とだけ思いこんでいた私は、その州でしかも教会のなかにこれほどはっきりした差別意識があったのかと、この伝記を読みながら慄然としたのを覚えている。

 カーター大統領自身は所属している教会の分裂についてほとんど何も語っていないが、彼についての伝記の多くは、過去にも似たような事実があったことを簡単にのべている。まず五〇年代の後半に、人種差別を継続しようと活動を継続しようと活動を続けていた白人市民会議への入会をすすめられ、はっきり拒否したという話である。入会を求めて訪ねてきたのがプレインズの警察署長とパプティスと教会の牧師であった点は、この町ばかりでなく、当時の南部全体を蔽っていたムードをよく物語っている。再度の入会要求を拒否したときは、脅迫めいた態度を何回もとられたという。

 次は黒人革命が高まった六〇年代前半に、同じプレインズ・パプティスト教会に初めて黒人の加入申し込みがあり、この時黒人の受け入れに賛成したのは、カーター一家の他、もう一家あっただけで、結局黒人の入荷は拒否され、その時は教会の分裂さえおこっていない。それではカーターをラルフ・マッギルと同じレベルでホワイト・リベラルとよべるかというと、決してそうではなかった。彼はその地方の教育委員および委員長を計六年間つとめていながら、最高裁の判決に従った共学の実施を少しも進めていないからである。いまカーターが黒人の入会を多数決で拒否した教会へ出席することを避け、母の移った教会へ一緒に出たり、分裂して新しく作られた教会の礼拝に参加しながら、もとの教会への批判的な発言をしていないのは、その当時からの彼の姿勢をそっくり延長したものといえるのではないだろうか。

 私は白い尖塔が緑の間にちらちら見えているプレインズ・パプティスト教会の建物を思い浮かべた。ちょうど一年前の七七年八月末、私たちはやはりこのアトランタへ来ていて、グレイスが用意してくれた地図や資料をもとに、一躍全米にその名をしられるようになった小さなプレインズという町を訪ねたからである。七六年一一月の大統領当選、七七年一月の大統領就任――この当時まきおこった凄まじいカーター・ブームの話を聞いていた私たちは、アトランタから片道三時間の田舎道を、レンタカーまで使って自分でドライヴしなければならないとはまったく考えていなかった。バス会社に電話してみると、最低二五人の人が集まらない限り、プレインズ行きのバスは出ないということだった。つまり定期の観光バスは運転されていなかったのだ。

 しかしこの大都市アトランタと田舎町プレインズを結ぶいくつかの田舎道のうち、少しばかり脇道にそれるとすれば、ちょうどなかほどにフランクリン・D・ローズヴェルト大統領(第32代大統領)が脳溢血で急死したウォーム・スプリングがある。彼がかつて小児麻痺を治すために滞在していた温泉村で、初めて大統領に当選した一九三二年に、彼は小さな執務のための建物をたてた。今はリトル・ホワイト・ハウスとよばれ、温泉は静かな療養所になっている。十年前にその村を訪ねた私たちは、古道具屋の店先に座っていた黒人の老婆から、大統領滞在中によくメイドとして食事を作ったという面白い話を聞いているうちに、かゆくなり始めたのに気がついた。志満の脚にも、ストッキングの上から何匹かのノミが、まるでお尻を振り立てるようにして、垂直につき刺さっていた。その老婆は、私たちの眼の前で何事もなく話を続けているというのに――。もちろん二人はあわてて外に飛び出したが、大統領がいたという村でも、実はそんな田舎なのである。

 しかしこのひどい田舎で、ローズヴェルトは肉体の回復をはかったばかりでなく、精神の糧も得ることができたのだった。彼の伝記を書いたR・G・タッグウェルはこうのべている。

「ここで彼はほとんど毎日時間を割いて、時には朝から晩まで、裏道を探りに出たり、農夫たちを訪ねたり、農家の庭にはいりこんだり、立ちふさがるチャイナベリーの木の枝を引っぱったり、会う人ごとに声をかけ合ったりしてすごした。こういう気さくな話しあいのなかから、彼は農夫の苦しみや悲しみについて、今までとは比較にならないほどたくさんのことを学ぶようになった。それまでのようにニューヨークにいたら、専門家の口を通して農業を知るだけだったし、生まれ故郷のハイドパークは農場ではなくて高級住宅地であったから、学ぶ内容にも限界があったことだろう。……ここでは、何の障碍もなかった。他の場所ならば、必ず彼が直接に接触することを妨げるものがあるはずなのに。彼は埃っぽい田舎道を歩いたり、農家の裏庭に佇んだりして、人生の真実について何かを悟ったのである」

 これは、なんとすばらしいことだろう。ローズヴェルトはアメリカの歴史のなかで、建国期のワシントン、南北分裂のときのリンカーンと並んで、多くの歴史家が三指のなかに数えるほどの傑出した大統領である。そのニューヨークの政治家が、たまたま身体の障害から南部の片田舎で療養生活を送らなければならなくなり、その経験が彼の大成に役立ったのだとすれば、ジョージアの貧しいけれども美しい自然が、歴史の上になんと貴重な役割を果たしたことになるだろう。

 私はそんなことを考えているうちに、同じ民主党という政党の二人の大統領の、一方は生まれた故郷、一方は没した土地ではあるけれども、ゆかりの場所がこんなに近くにあることに興味をもった。この二つの場所を訪ねると、アトランタからちょうど一日の行程である。「プレジデント号」とでも名づけて、そのうち定期の観光バスができるのではないだろうか。

 私たちがそのプレインズを訪ねようとして、高層ビルの立ち並ぶアトランタのダウンタウンを離れたのは、小雨が煙るような視界を遮っている日曜日の朝のことだった。方角はほぼ真南で、町並みを出はずれると、道路の両側はたちまち松林だけになってしまう。こんなところが日本の都市と違う点だろうか。周辺部分を含めると人口一四〇万にもふくれ上がった南部有数の大都市が、一歩出ればもう周囲は緑の世界なのである。増加したといっても四五〇万のジョージア州民は、日本の面積の半分に近いほどの土地に、ゆったりと広がって住んでいるのだった。

 幸い雨はいつのまにか上がって、雲も明るくなってきた。道は片側一車線の田舎道で、ゆるやかな丘や静かな林をいくつも越えながら、日本の道と同じように右に左にうねっていた。途中で思い出したように、小さな町をいくつか通りすぎる。そのなかにはルイーズの家があるはずのパトラーという町もあったし、日曜には必ずいるから寄ってみないかといわれてもいたが、なにしろ人をもてなすことの上手な彼女のことだ。うっかりするとここで一日が終わってしまうかもしれないし、どうせアトランタではいつでも会えるので、そのまま休まずに南へ向って走り続ける。

 ちょうど日曜の午前中、教会へ出かける時間なので貧弱な町のなかを盛装して歩いている人たちの姿が眼についた。ジョージア中央の農村地帯は、かつて綿花ばかりが栽培されていた頃はコトン・ベルトとよばれたり、黒人たちが集中的に住んでいたためブラック・ベルトとよばれたりしたことがあるが、同時にこのあたりはバイブル・ベルトとしても有名な場所である。概して南部はアメリカの他のどの地域よりも宗教的なムードが強く、私のいたエモリ―大学でもパプチスト教会がキャンパスの静かな森に包まれて立っていて、入学式も卒業式もみなこの教会で行なわれていた。一九七五年のギャラップ世論調査の結果によれば、過去一年間にバイブルを家庭で読んだことがある人の比率は、東部四五パーセント、中西部六四パーセント、西部六一パーセントに対して、南部は七九パーセントとはるかに大きい数字を示している。また、宗教が現在の問題のすべてか大部分を解決しうると考えている人が、東部五一パーセント、中西部六六パーセント、西部五七パーセントに対して、南部は七三パーセントという高率なのである。

 そういえば、ジミー・カーターが生れた翌年の一九二五年、隣のテネシー州では大変な事件が起こっている。学校で進化論を教えたジョン・T・スコープスという教師が、バイブルに書かれている内容に反したことを教えたという理由で訴えられた裁判事件である。この教師の側には全米にその名を知られた弁護士クラレンス・グローが立ち、検察側にはウィルソン大統領の時に国務長官を勤めたことのあるウィリアム・プライアンが加わって、全米の耳目を集める大事件に発展した。いま私の手許にはアーウイン・グラスカーという人が編集した『サザン・アルバム』(一九七五年)という本があって、そのなかに、多くの傍聴者にかこまれたグローが、じっと前方に眼を注いでいる息づまるような法廷の写真が載っている。結果はグローの敗北で、当時一〇〇ドルという大金が、この教師の罰金として決定されたのである。

 ついでながらこのアルバムのなかには、ヴァジニアのある川のなかで、岸辺に集まった大勢の人びとを前に、下半身を水に沈めた牧師が、一人の少女に洗礼を授けている写真や、ウィリアム・フォークナーが膝に大きな穴のあいたよれよれのズボンをはいて、左手にパイプを持ち、右手でスタイルのいい黒毛の馬の鼻のあたりを撫でている写真があって、どれもみな、一昔前の南部の姿を生き生きと甦らせている。

 八時半にアトランタを出た私たちは、途中で一度小憩をしたが、めざすプレインズに着いた時はもう十一時半、時おりかっと顔を出す真夏の太陽が、プレインズ・ぺプチスト教会の白い尖塔を、くっきりと碧空に向かって浮き上らせている。ジミー・カーターがホワイトハウスへ入るためここを離れるときまで、日曜日には必ず来て神への祈りを捧げてていた教会である。なにしろ彼は多忙を極めた選挙戦の最中でも、よく週末にはこのプレインズに帰ってきて、礼拝に参加したばかりでなく、日曜学校の成人クラスでも教え続けていたほどであるという。

 もう少し早く着いていれば私たちもこの礼拝に参加したのだが、と思いながら、私はゆっくりとプレインズの町のなかを走ってみた。といっても、メイン・ストリートらしいものが一本あるだけで、町の中央を東西に走っている鉄道線路のわきに、今はもう誰も使っていない木造の駅の粗末な建物があって、それが選挙のときの彼の本部なのだった。そのまわりに並んでいる数軒の家が、みな観光客めあての土産物屋になっていて、町らしい場所はそれだけなのである。どの店も同じように人影は少なく、ライター、灰皿、キイホルダー、鉛筆などにいたるまで、みなジミー・カーターの名を刻んだ土産物になっていた。蠅がうるさいほど、店のなかを飛んでいる。それでも、「ピーナッ・ミュージアム」などと書いた店があったが、なんのことはない、ピーナツ畑で昔使った古い農機具がさびついたまま、いくつか並べて置いてあるだけなのである。

 土産物屋を出ると、駅前のちょっとした広場に子供連れの観光客がそれでも数十人、機関車の形をした簡単な観光バスをうろうろと待っていた。「ピーナツ・スペシャル後」と銘うったそのバスは、なるべくゆっくりこのブレインズのあらゆる道という道を案内し、ジミーの卒業した高校から、弟ビリーの経営しているガソリン・スタンド、カーター農場の小さな事務所から叔母さんの家などまで、二十分ばかりかけてゆっくりと見せてくれる。二ドル五〇セントというのがひどく高いと思われるほど、その観光バスの内容はお粗末であった。肝心の大統領の家は深い樹木に蔽われている上、道路わきにガードが出ていて近よることができない。しかし木々の間にちらりと見えたその建物は、どこにもある平凡な平屋の煉瓦造りで、まあせいぜい中流の上といった程度のものである。現職の大統領の家がここになかったら、今でも人口僅か七百人たらずのごくありふれたこの町に、一体誰が足をとめてくれるだろうか。

 その日昼食をとった場所が、また凄まじかった。ある青年にすすめられ、そこまで車をとばして行ってみると、「ブレインズ・カントリークラブ」と名前だけは立派だが、田舎道に一軒だけぽっんと建っている小屋のような建物だった。しかもその青年がこの店の経営者で先廻りをしてここに到着し、日本ではおそらくどんな田舎へ行ってもお目にかかれそうもないほど粗末なカウンターの向う側に、神妙な顔をして立っていたのである。「すばらしいレストランがありますよ」と教えてくれた時の彼の顔を思い出して、私たちは思わずふき出した。彼もつられて笑いながら、一九一〇年に綿花やタバコの倉庫として建てられたものだと説明してくれた。壁にかかったメニューを見ると、どれもみな一ドルくらいの値段である。私たちは呆れながら、一ドルのポーク・バーベキューを注文した。青年は奥の方でニ、三分、コトコト音を立てていたが、やがて丸いパンの間にカンヅメから出したらしいポークの細かな肉をはさんで持ってきた。テーブルは全部で三つだけ、他に客は一人もない。

 おそらく私たち夫婦は、顔でもしかめながら、食事をしていたのだろう。気のよさそうなその青年が近よってきて、

 「先日ここで、カーターさんがディナーをとったんですよ」

と、さも嬉しそうにいうのだ。私はあっけにとられて、彼を見上げた。こんなに小さくて汚ない所で、アメリカの現職大統領が――そんなバカなことがあるだろうか。すると彼は、奥に入って「プレインズ・ステイッマン」という週刊の新聞をもってきた。日本の週刊誌と同じサイズの、それも僅か八ページという新聞だが、間違いなく八月一三日の土曜日に大統領が帰省したことを報じていた。しかも大統領は、狭くてうす汚れたこの小屋のような建物に十数人の新聞記者を招き、夕食をともにしたというのである。

 信じがたいことだが――それは事実であった。その青年は、大統領が食事をしたというもう一つの部屋を見せてくれた。それはキチンを通り抜けた裏側にあり、なるほどテーブルを入れれば十数人は食事できそうな広さだが、何やら屋根裏めいたうす汚なさは変わりがない。

 僕はその部屋にしばらく立っていて、はっと思いあたった。つまりここはジミー・カーターのまさしくホームグランドであり、この周辺の畑のなかで、彼は幼い時代を過ごしたのである。おそらくこの小屋も、少年時代の遊び場として、彼には忘れられない場所なのかもしれない。この地方に初めて電気がひけたのは、なんと彼が十六歳になった時だというから、少年時代の生活ぶりもおよそ想像がつくのではないか。

 私はそろそろ引き上げようと思ってもう一度ブレインズに戻ったが、ふと気がついて、中心のチャーチ・ストリートを南におれてみた。反対に北に曲がると、五、六軒目がもう大統領の家なのだが、南側には私の想像した通り、貧弱な黒人たちの家が並んでいた。道路一本を距てるだけだから、北側の白人と南側の黒人は、お互いに相手を無視して生活することはできない。北部の都市では黒人街がはっきり分かれていて、たとえ日中はオフィスで机を並べて仕事していても、家庭での生活となると黒人と白人の間でお互いの交流はほとんどなくなってしまうのに、こういう小さな南部の町では、どうしてお互いに交わらないで生活することができるだろうか。

 ジミーが少年時代を過ごしたアーチュリ―の村には、白人がたった二家族で、あとの二十数家族は黒人ばかりだったという。私は車をとめて、チャーチ・ストリートに立ってみた。道路の幅は狭く、どちらの側にも樹木が多い。南に向かって伸びている道に沿って、黒人の小さな家が何軒か並び、家の前では数人の子供たちが元気に遊んでいる。私は埃っぽい道路に立ったまま、黒人の子供たちが飛んだり跳ねたりする姿を、じっと眼で追っているうちに、ふと半世紀前の映像が甦って、私の前で再現されているかのような錯覚をおぼえた。取っ組みあいをしたり、走り廻ったりしている大勢の黒人の子供たちに交って、ニ、三人の子供たちがいる。その一人は、たしかにジミーである。シャツもズボンも、汚れるだけ汚れている。誰の顔もみな無邪気に輝いていて、南部の社会がもつ重い翳が、この子供たちの世界には及んでいない。――おそらくジミー少年は、黒人の子供たちと一緒に馬に乗ったり、釣りに行ったり、川で泳いだりしたことだろう。教会や学校でこそ、黒人の子供たちとは別々ではあったが。

 それから何十年間かが過ぎて、ジミーの父が癌で死んだとき、それまで十年間を海軍で過し、着実に高級将校への道を進んでいたいた彼は、妻ロザリンの反対を押し切って、ピ―ナツ農場を経営するためにこの田舎町へ帰る決心をする。それが一九五三年であったことは、その後の彼の人間形成に決定的な影響を与えたといわなければならない。というのは、翌五四年になるとラルフ・マッギルがアーカンソー大学で新しい人間関係の時代が目前に迫ったことを予言し、最高裁はその予言通り共学の判決を下し、キングが北部を代表する都市ボストンから"ディクシーのハート"といわれるアラバマ州モントゴメリーの教会に着任しているからである。

 ジャーナリストと牧師と政治家、この三人を私はそれほど無理に結びつけようとは思わない。しかしキング・ジュニアがメンフィスで凶弾に倒れてから五ヵ月たったとき、傷心に沈む父のキング・シニアのもとに私たちを連れていってくれたのは、他ならぬラルフ・マッギルであった。アトランタのエベニーザ・バプチスト教会の奥まった一室で、小さな窓から流れてくる淡い光に包まれ、キング・シニアはうなだれて座っていた。ラルフが死んでから私たちはその教会へ通うようになり、何回もキング・シニアの説教を聞いた。彼はそれからしだいに生気をとり戻した。そしていま私は、ジミー・カーターについて書かれた何冊かの伝記のなかに、大統領選挙戦の最中、ジミーとキング・シニアが大勢の人びとの拍手に包まれて抱き合ったり、固く握手をし合ったりしている写真を見ることができるのだ。私の心のなかでは、どうしても自然の形でこの三人が結びつき、しかもその三人はそれぞれ違った分野で、ニューサウスを形成するための重要な役割を果たしてきたように思えるのである。

 ラルフ・マッギルは一生南部と南部人を愛し続けた。そして深く愛しているからこそ、そのなかにひそむ人間の尊厳や平等についての不公正を激しく憎んだ。キング・ジュニアが暗殺されたとき、彼は「非暴力を唱える指導者が、暴力で倒された。獣が人間を殺したのだ」と書いている。そのキングは圧倒的多数から信頼を集めていたばかりでなく、進歩的な白人層からも支持されていたので、人種間融和の象徴として、もしそれほど遠くない将来に黒人が副大統領に選ばれるようなチャンスがあったら、それは彼をおいて他にはいない、というのが多くの人びとの一致した意見であった。

 ついでにいうと、「もしあなたの支持する政党が大統領候補に黒人を選んだ場合、あなたはその黒人に投票しますか」というギャラップ世論調査の結果をみると、「投票する」と答えた者の比率は、一九五八年(三八パーセント)、六三年(四七)、六五年(五九)、六七年(五四)、六九年(六七)、七一年(六九)と着実に伸びている。このうち一九六九年(六七)の地域別内訳をみると、東部(七四)、中西部(七一)、西部(七四)に対して、南部はまだ五二パーセントで、一番大きな抵抗を示している。

 とにかくラルフ・マッギルとキング・ジュニアは、ニューサウスが十分に花開く前の胎動期にこの世を去った。キングの暗殺は六八年四月、ラルフの病没は六九年二月。これに対してジミー・カーターのジョージア州知事当選は、僅かに遅れて七〇年一一月である――。

 ジョージアをおおう盛夏の空に、朝降っていた雨の名残のような白い雲が、いくつかぽっかりと浮かんでいた。アトランタへ戻る車のなかから、私たちは松の林がとぎれて畑がのびのびと広がっているのをあちらこちらで見た。その多くはピーナツ畑だったが、なかには綿花や大豆の畑も少なくなかった。そういう深南部の風景がくり返し私の頭のなかに刻みこまれるにつれて、ジミー・カーターが黒人差別の団体へ加わるのを断ったり、教会へ黒人が加入することに賛成したり、知事になってから副知事の反対をおしきって、キング・ジュニアの写真を州庁舎に掲げさせたりしたのは、みな彼の少年時代からの素朴な生活感覚によるものであろうと思われてきた。

 考えてみれば、これはすべて人権の問題である。黒人があらゆる点で白人と平等なアメリカ市民であることを認めるかどうか、という問題である。もともと彼は、その問題がもっとも社会を騒がせていた時代の南部でその人生の大半を過してきた以上、これは彼にとって避けて通ることのできないものであった。おそらく彼の人権外交という発想のなかにも、戦略的な必要性の他に、少年時代から自然に養われた生活感覚が、なおまぎれなくもなく生き続けているのではないだろうか。

※参考:猿谷 要『アメリカ歴史の旅』 P.153 「ニューサウスはアメリカを救えるか」

※参考:松尾弌之『大統領の英語』 P.163 「カーター 率直さと細かさ」

2025.05.10 記す

  メキシコ湾文化圏 P.147

 アメリカの夏は、九月へ入って最初の月曜日にあたるレイバーデイで終りになる。土、日、月と続く三日間の休みが、六月なかばから始まった夏の季節の華やかなフィナーレである。人びとはラスト・チャンスを楽しむような気持になってどっと町を離れるから、レイバーデイあけの火曜日の朝刊には、全米で交通事故による死傷者、というような記事が必ず掲載される。

 私たちは逆に、人びとがアトランタへ戻ってこなければならない九月四日のレイバーデイに、四泊五日の予定でニューオーリンズへ向かうことにした。その方がホテルも予約しやすいし、道路の混みかたもひどくないからである。久しぶりにルイーズのオフィスを訪ねてその話をすると、彼女がすぐその場で受話器をとり、メキシコ湾に面したモービルという港町と、ニューオーリンズの郊外のホテルに予約してくれた。あいにくニューオーリンズの中心にある有名なフレンチ・クォーターは、どのホテルも満員だった。教会関係の大きなコンベンションがあるらしく、牧師さんたち何千人かが、アメリカ有数の史蹟でもあり、またストリップ小屋がずらり並んでいるこのフレンチ・クォーターに泊るのだという。

 このアトランタから大河ミシシッピの河口に近いニューオーリンズまで、八百キロあまり。とても一日で走ることはできない。その上、少しコースを横にはずせば、立ち寄ってみたいと思う場所がいくらでもあった。アラバマ最大の町バーミングハムに住む若い高校教師から手紙が来ていたし、タスカル―サにあるアラバマ大学の教授からも、ミシシッピ州ジャクソンにあるミルサップス大学の教授からも、何度か電話や手紙を貰っていた。こういう友人の家には、それまでに一度や二度は泊めてもらっていたので、私たちの間には旧交を温めたい気持が高まってはいたが、そうすると私たちの予定は何倍かに膨張しなければならない。そこで私たちは、ニューオーリンズに直行してそこにいる友人に会い、また久しぶりにディクシーランド・ジャズのあの陶酔した気分のなかに身をおいてみようと思ったのである。

 しかし私にはその他にも一つだけ、寄り道をしてみたいという誘惑を感じている場所があった。それはアラバマの州都モントゴメメリーから西へ一時間ばかり離れたセルマという町である。何の変哲もない小さな町だが、一九六五年にはキングが黒人の選挙権を保障する公民権法の成立を目標に、ジョージ・ウォレス知事と対立して悲壮な行進を行った場所でもある。その翌年私はバスでこの町を通ったが、古い小さな町でも黒人の意識が変りはじめているのが分るような思いがした。しかしいま私がこの町に行きたいのは、アトランタの街の書店で偶然手に入れた『ジェフリー南部の幽霊を語る』(一九七一年)という奇妙な本の著者、キャスリン・タッカー・ウォンダムという女性が、そのセルマという町に住んでいるからである。

 それは、見れば見るほど不思議な本だった。ケンタッキー・テネシー・ジョージア・アラバマ・ミシシッピ・ルイジアナ・フロリダという典型的な南部七州に伝えられている十三の幽霊の話を、この著者の家に住みついているジェフリーという幽霊が物語っているという形になっている。ジェフリーはそれほどひどい危害を著者に与えているわけではなく、家具をドアの前に移して開かなくさせたり、誰も人がいないと、食卓の上の大皿をあちこちへ移動させるのだという。もちろん写真に撮られるようなことはなかったが、偶然この著者と一緒にジェフリーが写し出された写真があって、それがこの本の終りの頁に載っているのである。

 その写真には左半分に著者の細長い顔がこちらを向いて大きく写っている。右半分には隣りの部屋に通じるドアが少し開いていて、そのドアの上に、はっきりと奇妙な姿が写し出されているのだった。私がそれまで幽霊として想像していたのは、いずれも人間の姿をもとにしたものなのに、ジェフリーはそうではなかった。その影のようなものは、なんとなくペンギンを連想させるような姿態をもっていて、片方の手のような部分を高くあげている。ストロード・パブリッシャーズという出版社は、この写真の真偽を明らかにするため、ニュージャージー州チェリー・ヒルのルドウィッグ・スタジオに依頼し、数ヵ月も費して詳細な科学的分析を行ったことを報告している。他の専門家にも調査してもらったが、幽霊の存在を信じなければならない結果になったという。

 この本は一九七一年が初版で、私が買ったのは七七年に出された第四版だから、ある程度は確実に売れ続けているのであろう。そこで私は、寝る前に毎晩一話ずつ読むことにした。ケンタッキーのあるホテルに現れる、ダンスをしながら死んでいった正体不明の美少女の幽霊や、ジョージアのある家に住みつき、あらゆる物を投げて家族を悩ます幽霊、テネシーの農場で家族の前から突然姿を消し、助けを求める声だけになってしまった農夫の幽霊――など。私は読んでいてそれほど恐ろしいとは思わなかったし、ましてやそのため寝つかれないということは一度もなかったが、もしそういう時には寝る前にこうしなさいと、その部分だけ大文字で「まえがき」に注意がでているのだった。

「靴をベッドの端の床に置きなさい。一方の靴の爪先はベッドの下を指すように向け、もう一方の靴の爪先は正反対の方向を指すようにして置きなさい」
こうすれば絶対に悪いことは起こらないと、幽霊のジェフリーが保障しているというのである。

 この本の著者ウィンダムという女性には、料理の本などすでに数冊の著書があり、自分がジェフリーと名づけるようになった幽霊が住みこむ前から、著作活動は始めていたらしい。私はこの本を読みだしてから、ふと南部には他の地域よりも幽霊の話が多いのではないかと思うようになった。北部のように戦争に負けた経験がなく、近代科学の最先端をいっているような社会より、戦争に負けて屈折した心理をもち、長い間貧しい農村地帯を抱えていた南部に、幽霊がたくさん現れるのは当然かもしれない。エモリ―大学のペル・ワイリー教授にその話をすると、「そう、その上、南部の教育程度はごく最近までとても低かったのでね。南部は他より幽霊の話が多いでしょう」と私の疑問に答えてくれた。

 南部と幽霊の関係について、この著者は何か書いているだろうかと思って「まえがき」をもう一度読み直すと、僅かな部分だが、次のような文章にぶつかった。

「南部にはどうやら、幽霊の存在や幽霊の行為を人びとに向かって話したくなるような、あるいは話してもらいたくなるような何かがあるようです。そしてどうもこういう幽霊の話には、この南部の過去や、ここに住んでいた何世代もの人びとなどを私たちに結びつけるようなノスタルジアさえあるのです」
 そういえば、ここに出てくる幽霊たちは、なんらかの形で今もこの世に痕跡を残している。 たとえばケンタッキーに伝わる正体不明の美少女は、ハローズバーグという町の公園の片隅に、UNKNOWN と刻まれた古い墓標となって、白い柵木にかこまれ、今もひっそりと眠り続けているのである。

 フロリダの中央部にシルヴァー・スプリングスという小さな村があって、きれいな水や川や沼沢が、先も見通せないほど繁った森のなかに横たわっている。金持ちの息子クレアは偶然知りあった貧しい少女パーニスと愛しあうようになり、二人は人目を避けてボートのなかで会い続ける。クレアの父は怒って息子をヨーロッパへ旅立たせてしまうが、少女は彼の愛を信じて、その帰国を待っている。しかしクレアの父は毎日のように届く少女に宛てた息子の手紙を焼き続け、ヨーロッパの滞在をなお一層長くひきのばしてしまう。愛を失ったと思った少女は痩せ衰え、愛しあった場所の水中深くに身を沈める。ヨーロッパから帰ったクレアは彼女の行方を探すことができず、やむなく父のすすめる娘と結婚しようとするが、その前に一度だけボートに乗って、愛を語りあった水面を訪れる。すると彼はそこで、まぎれもなく少女の顔が水面に浮かぶのを見、そして少女が笑う声を聞くのだ。そればかりか、水晶のように澄み通った水のなかをのぞくと、水底の岩の間に女の腕が伸びていて、自分が与えたプレスレットがその腕に光っていた。彼はすぐ水中にとびこみ、深く沈んで少女の死体を抱きしめながら二度と離れないように自分の身体に縛りつける。岩が静かに口をあけて二人の恋人同士を迎えいれ、それから永遠に閉じてしまうのである。人びとは今もその美しい淵を「花嫁の寝室」とよび、なかには、しっかり抱き合った二人の姿を、樹影を写してゆらめく水面の底に見た者もいるという。

 物を投げる幽霊の話などを私は日本で聞いたことがないけれども、このフロリダの「花嫁の寝室」などは、すぐに日本の古い民話を思い出させてくれた。なにかアメリカの南部と日本を結びつけるようなものが、こういう幽霊の話を通じてつかめるのだろうか。第一アメリカのなかで。幽霊の話が本当に南部だけに多いといえるのだろうか。多いとすれば、それは何を物語っているのだろうか。多くないとしても、南部の幽霊は他の地域と違って何かの特殊性をもっているのだろうか。

 私はこんな事をその著者の女性と話し合ってみたいと考えたが、日本とアメリカの幽霊についての予備知識があまりなかったしその頃になると帰国の日程も迫っていた。他にもしなければならない事をたくさん残していた私たちは、横道にそれてこの著者の住むセルマを訪ねることを断念し、レイバーデイのよく晴れ渡った空のもとを、一路西南の方向に走り続けた。

 アトランタから約三時間、アラバマの州都モントゴメリーに着く。もう何度か来たことのある町だ。ハイウェイの横のガソリン・スタンドで給油。近くの木陰に車を入れて昼食をとる。志満が作ったおにぎり、サーモンのカンズメ、ハム、レタス、それに魔法瓶に入れた熱い日本茶。注意して選べば日本とほとんど同じようなお米があるし、その上、値段は日本の半分以下である。

 アラバマもここまで南下すると、大きなカシの木にスパニシュ・モスがまつわりついているのが見えるようになる。モスというのは苔のことで、私などはすぐ湿気の多い地面に絨毯をしきつめたように広がっている光景を思い浮かべてしまうがこのスパニシュ・モスは根をもっていない。大きな木の枝などにからみついて、まるで簾を立てかけたように、繊細な糸になって垂直にたれ下り、風をうけてかすかに揺らいでいる。大西洋岸に沿って旅をしたとき、サウスカロナイナのチャールストン周辺で、どの木にもこのモスがからみついているのを見て、深南部の過去がもつ重苦しさの象徴のように感じたことがある。シャーマン将軍に占領された大西洋岸のサヴァンナへ行くと、ジョージアでもっとも古いワームスロウというプランテイションでは、いかめしいアーチ型の鉄の門から邸宅まで延々と真直ぐに道が続いていて、「マイル・ロング・ドライヴ」とよばれるこの道の両側のみごとなカシの大木の並木に、碧空をほとんどのぞかせないほどこのモスが垂れ下っていた。それどころかサヴァンナでは、一歩古い墓地に足を踏みいれると、その墓標の上にもこのモスが、すべてを蔽い隠すように垂れ下っている。少し風がある日には、その無数のモスがいっせいに同じ方向に動いて、また揺れ返し、まるで死者の霊が一度に甦って手招きをしているかのように見えるのだった。

 海岸から遠いアトランタ周辺にこのスパニシュ・モスはないけれども、よく田舎道やアパラチアの山裾などを走っていると、色濃い蔦の木々にからみついていたりする。それが木の下半身だけというのではなく、すっぽりと頭の上から全身を蔽って包みこんでいるので、枝が横に張っているようなときは、巨大な怪物が両手をひろげ、いまにも通行人に襲いかかろうとしているように見える。黄昏どき、カーブしている道の真正面に、幽霊というよりは妖怪という言葉にふさわしく、ヘッドライトの先にこの大きな翳が浮かびあがったりすると、思わずブレーキをかけるか、それとも逆にアクセルをいっぱい踏みこんで、一気にその場を走り抜けてしまいたい衝動に駆られるのである。

 それからまた三時間あまり走って、片側一車線になった田舎道を走りおりると、突然眼の前がひらけて、モービル湾が横いっぱいに広がっていた。このモービル湾の外は、もっともっと大きなメキシコ湾だ。ひさしぶりに海を見る感動は、こんなにすばらしいものだったのだろうか。広い湾を横切り、最後に川の下を通っているトンネルをくぐり抜けると、モービル湾の中心街ガヴァンメント通りへ入った。その瞬間まで、油くさい港町を頭に描いていた私は、思わず声をあげたいほど驚いた。

 両側の家並みの、なんという古めかしさ。くすんだ灰色の壁面、華やかな鉄格子をめぐらしたバルコニー、煉瓦を敷きつめたデコボコの舗道、その上、片側二車線という広い道幅をほとんど包んでしまうほどに枝を伸ばした両側のカシの並木――町全体が公園といってもいいかもしれないし、あるいは歴史博物館といった方がもっとふさわしいかもしれない。初めて訪ねた町が期待はずれでがっかりすることも多いいが、時にはその反対に思いがけない発見をして、新鮮な興奮を味わうようなこともあるのだ。朝からずいぶん走ったのに、シェラトン・インに入ったのが三時半これは途中で時間帯一つ越えたので、時計の針を一時間戻したからである。

 シャワーを浴びてから、車で町を一巡する。どう見ても南北戦争以前から建っていたに違いないような家が、深い樹木に蔽われてあちらこちらに見え隠れしている。私たちは予定を変更して、帰りにもこの町に泊ることに決め、インフォメーション・センターでたくさんの資料を貰って部屋に戻った。その時になってやっと私は、ドアの取手に下げる注意書きの文字が、三ヵ国語で書かれているのに気がついた。カナダのケベック周辺では道路標識もまずフランス語が大きく出ていて、その下に形ばかり小さな英語が並んでいるが、ここではもちろん英語が一行目に Please do not disturb. と印刷されている。ところがまったく同じ大きさで No moleste por favor.と Ne derangez pas s'il vous plait. というスペイン語とフランス語が、二行目と三行目に並んでいるのである。

 十七階の最上階にあるレストランに入って窓ぎわのテーブルに座ると、森で蔽われたような町の古い部分と、船の出入りで賑わう新しい部分がはっきり別になっていて、港の一角には第二次大戦のとき南太平洋地域で日本海軍と戦った戦艦アラバマ、全長二〇八メートルのスマートな姿が、まるで精巧なプラモデルのように浮かんでいるのが見えた。夏時間のためにその頃ようやく日が沈んで、黒ずんできたモービル湾の海面がその後ろに茫漠として広がり、湾を横切る長い橋の上を、もうライトをつけはじめた自動車の列が、はるかな対岸のあたりからずっと続いていた。スペイン語を見たせいか、その晩私たちはまずマルガリータを飲んだ。

 どうも私たちは狭い島国のなかに住んでいて、日本語だけに統一された環境に安住しているために、他の国の住民や文化も、国籍や国境だけで判断してしまいやすい。とくにヤンキー文化だけをアメリカの典型と考えてきた過去の惰性からみると、南部中の南部といわれる深南部の、それももっとも深いモービルに来て、いきなりスペイン語やフランス語にぶつかり、ある程度の当惑をどうしても感じてしまうのである。しかしこれは、、海という存在が文化の交流にもっとも決定的な役割を果してきたという過去の姿を、早くも忘れはじめているためであろうか。

 大航海時代いらい最近まで、すべてのヨーロッパ人はこの大陸へ船で渡ってきたのだから、内陸部よりも海岸地帯から接触が始まったのは当然のことで、アメリカが独立するよりも半世紀以上も前の一七〇二年に初めてフランス人がモービルへ来てから、この場所がフランス植民帝国の首都の役割を一七年間果たしたのである。つまり、今のアラバマ洲のなかでヨーロッパ人が最初に住みついたのがこのモービルなのだった。その後一七六三年にはイギリスに割譲され、一七八〇年さらにスペイン領となり、四代目マディソン大統領の時代になってやっとアメリカ軍が占領し、一八一三年には後に大統領になるアンドリュー・ジャクソン将軍がここに司令部を作りあげた。だからモービルには長いフランス領時代とスペイン領時代があったわけで、現にシェラトン・インのすぐ近くには、一七二四年から建設をはじめたというフランスのコンデ砦が、いまもみごとに復旧されて残っている。

 交通機関といえばすぐに飛行機と自動車を考えてしまう私は、このモービルに来て、海と船の果した偉大な役割を改めて知らされるような思いがした。けれどもただ過去を振り返ってそういうだけならば、それは歴史の名残として語られるにすぎない。ニューオーリンズの周辺にまだフランス語を話す村が残っている、というような形で書かれるだけであろう。しかし、事態はどうやらそうではないのである。

 つい二週間ばかり前の八月一六日付「アトランタ・コンスティテューション」に、ひときわ大きな写真が載っていた。サーフボードとよばれる三メートルくらいの波乗りの板が二つ、それぞれ男がうつ伏せに乗って泳いでいて、その二人にエスコートされた一人の女性が、真中を悠々と泳いでいる写真である。ステラ・テイラーという四十六歳になるこの女性は、イギリス領パハマ諸島からフロリダのパームビーチまで、約一六〇キロというマラソン水泳に挑戦していたのだ。ところがもう一人、ダイアナ・ニアドという二十八歳の女性も、数時間先にキューバからフロリダ南端をめざすほぼ同じ距離の遠泳を開始していた。この二人についてはその後テレビや新聞がくり返し報道したが、二人とも潮流に邪魔されたり、毒クラゲに刺されたりして、もう一息という所まできていながら断念しなければならなかった。それにしても、何ということだろう。フロリダの南端キイウェストとキューバが、一人の女性が泳ぎ切れる可能性があるほど短い距離であろうとは、これではフロリダとパハマ諸島やキューバが、一体どうして無関係に過ごすことができるだろうか。さらにまたアメリカ南部とカリブ海周辺の島々が、どうして文化の交流なしに過すことができるだろうか。

 ちょうどそれと同じ頃、私の手紙に対する懇切をきわめた返事が、マイアミ商工会議所から届いていた。それによるとマイアミ市周辺にはいま約四六万人のスペイン語を話す人びとが住んでおりそのうち約四〇万は、キューバに社会主義国家ができはじめた一九五九年以降のキューバ亡命者たちであるという。しかもその人たちの多くはマイアミ市のなかに住んでいるので、今では市の人口のなんと五二パーセントがスペイン語を話すキューバ人で占められているのである。そういえば、フロリダからずいぶん離れたアトランタでさえも、毎週日曜の朝には「ラテン・アトランタ」という三〇分のテレビ番組があって、スペイン語を教えたり、中南米の情勢をスペイン語で報道しているのだった。いうまでもなくラジオには、もっと長い時間の定期的な番組があった。ちょうどカリフォルニアに日本語のラジオやテレビ番組があるのと同じように。

 アトランタのダウンタウンから少し離れた場所に、おそらく規模の点では全米一といえる黒人大学の複合体がある。アトランタ大学、クラーク大学、モアハウス大学、モリス・ブラウン大学、スペルマン大学、各宗派神学センターがそれである。一昔前にそのキャンパスのなかで数名の学生に道を訪ねたことがある。学生たちは丁寧に教えてくれたあとで、「ところであなたはどこの国から来たのですか」と珍しそうな顔つきで、逆に私に向かって質問した。「そうですね。どこから来たのか、あてるのも面白いでしょう」と私がいうと、そのなかの一人がいかにも自信ありげにこう答えた。

 「それは、キューバですよ。もちろん」

 私は少しばかりあわてて、キューバから遠く離れた国なのだが、というと、学生たちはそれから急に真剣になって考えはじめた。そしてでていた最後の答えが、フィリピンだったのである。いま考えると、そのときの学生たちの答えには、一本はっきりとした筋が通っていた。それは、私がスペイン語を話す国の人間だと信じて疑わなかった、という点である。

 アメリカの南部とメキシコ湾やカリブ海周辺の密接な関係を探しだしていくと、おそらく無限に出てくるのではないだろうか。たとえばアメリカがヨーロッパに向かってモンロー宣言をとなえた一八二三年についてみると、北部諸州ではほとんど奴隷制を廃止していたが、南部諸州と大部分の中南米諸国では、同じように黒人を奴隷としてタバコや綿花や砂糖のプランテイション経営を続けていたし、その後南部では奴隷制を認める州を拡大するために、スペインからその植民地キューバを購入する計画を真剣に検討した時代もあったのである。

 過去にそういう国境を越えた共通点があったというだけではない。前にのべたマイアミ市商工会議所からの手紙には、次のような部分がある。

「マイアミはまぎれもなく西半球の中心で、もしよければ"アメリカ大陸そのもの"とよんでいいでしょう。地理的にいえば、厳密にセンターということはできませんが、すでにマイアミには"ニューワールド・センター"というニックネームがあるのです。その理由は、マイアミがアメリカ大陸相互の間の貿易や通商の中心の部分にあたり、空路でも海路でも、カリブ海や中米へ向って合衆国のもっとも近い港だからです。マイアミ港やマイアミ空港からは、中南米各地に向かって、合衆国のどの場所よりも数多くの積荷が送り出されています」
 フロリダの南半分、とくにマイアミ周辺は、伝統的な意味での南部ということはできないが、将来に向かってその役割を考えるとき、メキシコ湾文化圏、あるいはカリブ海文化圏というもののなかに南部を含めると、マイアミのもつ意味はおそらく飛躍的に増大するであろう。普通は西部の一部として取り扱われているワシントン、オレゴン、カリフォルニアの三州なども、思いきって内陸西部と別の分類を考え、ここでも国境などはすっかり忘れて、カナダやメキシコの太平洋岸と一緒にまとめ、環太平洋文化圏としてその性格や役割を検討した方が賢明な時代がもう来ているのではないだろうか。

 翌日の午前はコンデ砦や町のなかの古い邸宅を見て廻り、昼すぎからまた西へ向かって、メキシコ湾沿いに走り続けた。アラバマ州を抜けてミシシッピ州へ入り、貧相な町をいくつか通りすぎて、とうとうルイジアナ州に入ったとたん、原始林といってもいいような場所を切り開いて、立派なインフォメーション・センターが建っていた。主要道路の州境にはたいていこういう施設があって、州内各地のパンフレットや地図を用意し、ニ、三人の女性ガイドがツーリストの質問に答えてくれる。その時の応対は、他のどの州 のセンターよりも親切だった。私の前に立った若い小肥りの女性は、ルイジアナ州の地図、ニューオーリンズの町の地図、それにフレンチ・クォーターだけの地図と三種類も用意してくれて、私たちが泊る予定のホテルの位置と、そこからフレンチ・クォーターのなかにあるプリザヴェーション・ホールへ行く道を、私が納得するまでくり返し説明してくれた。南部なまりの濃いなめらかな彼女の言葉と、地図の上を滑るように右へ左へ走る白くて短い指が、不慣れな旅人を慰めるサザン・ホスピタリティの象徴のようにみえた。

 私たちはそれからまたかなり走って、いよいよニューオーリンズへ入る直前に、三八キロあまりという世界最長の橋にさしかかる。初めて私たちがこの橋を渡ったのは一九六六年のことで、その時はミシシッピの州都ジャクソンに泊った翌日、コンチネンタル・トレイルウェイズ・バスでここを通った。ただ一直線の橋が一本、水平線のなかに没している。私はただもうびっくりして、バスの運転手にこういった。

 「物凄いですね。これはきっと、アメリカ最長の橋でしょう」

 「ノー、世界最長ですよ」

 彼は世界最長という言葉を、そのとき三回もくりかえした。最低速度も五十キロくらいにきめられていた。私はバスが橋を渡っている間中、興奮していた。だが今度は、そうではなかった。橋が近づく前から、私はもうとっくに興奮していたのだ。なにしろそれから十二年間、いつかは自分で運転してこの橋を渡ってみようと考え続けていたのだから。

 この橋は、ポンチャートレインという湖を南北に貫いている。対岸はニューオーリンズの郊外だから人口は稠密な場所だが、北側には町らしい町もなく、ただ青々とした林が続くばかりで、どうしてここに莫大な費用を投じたのか、私は以前から疑問に思っていた。ところがどうだろう。今度いよいよ橋に近づいてみると、なんと二車線の橋がもう一本、少し離れて作られているのだ。最初の橋ができたのは一九五六年、ニ本目が完成したのは六九年のことだという。二車線の橋が二本並んだのだから、もちろんそれぞれが一方通行で車の追い越しは自由となり、それにつれて最低速度もなくなった。

 それにしても、やはり呆れるような長さである。真中あたりにさしかかると、前にも後ろにも陸影はまったく見えない。自分が走っている橋の両端が、そのまま水平線のなかに沈んでいるように見えるのは、決して気持のよいものではなかった。途中で三カ所ばかり、下を船が通れるように橋が高く盛り上がっているし、二つの橋を横につないだ休憩所のような場所も何カ所かあった。車を停めて外へ出た志満が、カメラをかまえた瞬間に、あっと叫んだ。レンズが曇り、たちまち水滴が付着してしまうというのだ。そういえば左右の水平線はすっかり霞んで、湖水の表面からは濃厚な水蒸気が立ちこめ、ようやく西に傾いた陽光もぼんやりと拡散して、どこまでが水面でどこからが空なのか、いくら眼をこらして見ても私たちには分らなかった。

 ニューオーリンズには一九六五年に三十六歳でピューリッツア賞を受けた女流作家、シャーリー・アン・グロウが住んでいる。偶然私が『ハウランド家の人びと』というタイトルで日本ご語版を出したので、一度その豪華な邸宅を訪ねたことがある。今度は二度目なので、私は約束した時間ぴったりに、白いシャトーのような彼女の家の前に車をつけた。テュレイン大学教授の夫やその同僚と一緒にカクテル・パーティを楽しみながら、私は改めて深南部の人びとが、異人種間でどれほど深い血の交わりをくり返してきたか、そしてまたその血の交わりをどれほど憎悪してきたかについて考えないわけにはいかなかった。

 私が訳した小説は、知事当選を目前にした有望な深南部の政治家が、奥さんの身内に白人とインディアン、それに黒人という三者の血をもった者がいることが分って、そのために前途をすべて失ってしまうというストーリーである。この小説をもちだすまでもなく、南部各地の本屋を歩いていると、すぐに気がつくことが一つある。それは、白人と黒人お男女が抱きあっている絵を表紙にしたペーパーバックスの小説がとても多いということである。たとえばランス・ホーナーの『ゴールデン・スタッド』(一九七五年)という小説では、全裸に近い黒人の女を、白人の男が草むらの傍で抱いている。アシュレー・カーターの『ブラックオークの秘密』(一九七八年)という小説では、逆に白人の女がソファーの上で奴隷の男と抱きあった絵が描かれている。みな四、五百頁にもなる長編小説で、値段は僅か一ドル九五セントにすぎない。

 こういう種類の小説が今なお次つぎに書かれ、それがとくに南部の本屋の店頭に数多く並んで、なかにはベストセラーになるようなものまである。いうまでもなくとくに南部では、白人と黒人との間のセックスは長い間タブーであった。と同時に、おそらくはタブーだったからこそ、そこにまた限りない秘密の深さや、神秘な魅力を感じ、タブーに挑戦しようとする意欲や誘惑を潜在的に抱き続けたのではないか。その上、南部には、白人の男が結婚という形式をとらず、こっそりと黒人の女に子供を生ませることを黙認するという傾向が強い、白人と非白人との間の結婚に賛成する者の比率は、一九六八年に行われたギャラップ世論調査の結果によると、東部二三パーセント、中西部二一パーセント、西部二五パーセントに対して、南部は僅か一三パーセントである。それにもかかわらず正式な結婚によらない血の交わりを黙認しているのは、黙認せざるをえないほど実際にはその数が多かったからに違いない。だから南部の白人男性は、自分だけに都合よいダブル・スタンダードのなかで生きてきたことになるのだ。

 半月ほど前に、私たちはアラバマ州タスキーギーにある有名な黒人大学を訪ねた。以前に三回ほどそのキャンパスのなかに泊ったこともあり、ジョーゴ・ヤマグチという日系二世の生物教授とも長年のつき合いになっている。ヤマグチ教授の奥さんは白人で、二人はカリフォルニアからここへ十二年前に移転してきたのである。今度会ってみると、夫婦は私たちに最近の家族の写真を見せてくれた。そのなかに、私の見知らぬ黒人の青年が立っている。それが長女と結婚した人で、娘夫婦はいまノースカロナナにすんでいるという。そうすると、新しく生まれてくる赤ちゃんは、白人と黒人、それに黄色人種であるアジア人という三種類の血をもっていることになるのだ。

 エモリ―大学のワイリー教授がかつて私たちに向かい、「実は私の血のなかにも、遠いところでインディアンが交っているのですよ」といったときは、ほとんど自分の耳を信じられないほど驚いた。英文学の教授で、同じことを私にいった人がいた。もちろん二人とも、混血の痕跡をその顔のなかに見出すことはできない。しかしこれは、大変なことだと思った。植民時代の昔にまで遡れば、白人の男とインディアンの女という組み合わせで、無数の混血が行なわれたと考える方がむしろ自然であろう。それほど古い時代ばかりでなく、フロンティアが西へ向かって移動し続けた十九世紀を通じて、混血は増え続けたに違いない。とくにチェロキーをはじめ、かなり多くのインディアンが遅くまで残っていた南部では――。

 やがて私の頭のなかには、その多くが推定の域を出ないけれども、一つの結論めいたものが浮かび上ってきた。ヨーロッパ各地からの民族別集団は、ゲルマン系、ラテン系、スラヴ系のいかんを問わず、主としてアメリカの北東部や中西部に入ってきて、互いに反目し合う面もありながら、結局は白人同士の混血がさかんに行なわれて、この点だけを見る限り、「人種の坩堝」という言葉が生まれてきたのも当然であろう。

 しかし南部の白人は圧倒的にアングロ・サクソン系が多かったので、北部のように白人同士の民族間の交婚ではなく、白人とインディアンと黒人という三者間の人種を越えた交婚という形をとることになった。インディアンの指導者が、実は逃亡奴隷としてインディアンの土地に入ってきた黒人の血を、二分の一、あるいは四分の一もっていたというような記録がかなりたくさん残されている。フランス系移民と黒人との間にできたクリオールなどは、今更いうでもないだろう。そうだとすると、アメリカの北部はカナダ社会に近く、アメリカ南部は中南米社会に近いといえるのではなかろうか。少なくとも、カナダを含めたアメリカの北部と、中南米との間に横たわる中間地帯が南部だといえるのではないだろうか。

 私たちは二晩とも、複雑な市内のハイウェエイを間違わずに走って、フレンチ・クォーターのなかにあるプリザヴェション・ホールへ通った。真夏の夜に漂う深南部の空気には、ラテン系の匂いが濃厚にたちこめていて、ひときわ酔客の官能をかき立てるのだろうか、相変わらずバーボン・ストリートには夜遅くまで人びとのさざめきが絶えない。十二年ぶりのプリザヴェーション・ホールは、昔のまま入場料が一ドルで私たちを驚かせた。この狭くてうす汚れた小屋がディクシーランド・ジャズの殿堂であることは、全米、というよりも全世界に知れ渡っているので、相変わらずお客が身動きできないほどにつまっている。

 志満はいつもこういうとき、軟体動物のような特性を発揮して、十分もすればたいてい最前列にもぐりこんでしまう。おかげで二晩とも私は、演奏者からニ、三メートルくらいしか離れていない場所で、ジャズの泥臭さのなかに身体を融けこませることができた。アトランタでもっとも有名な黒人教会となったエベニーザー・バプチスト教会では、物珍しさで集まってくる人びとのために、日曜礼拝さえかつての熱気が失われてしまったことに落胆していた私は、かえってこの気取らないホールのなかで、しばらく自分を忘れていられるようなくつろぎを覚えた。夜がふけるまで、私たちはなかなかこのホールを離れることができなかった。

 おそらくこのジャズという音楽も、北のアングロ・アメリカと南のラテン・アメリカとの狭間の、僅かな接点から生まれたものではないだろうか。ジャズのなかには神の影も宿っているし、同時に官能の翳も漂っている。精気溢れるエネルギーも爆発しているし、退廃的なため息がそこから聞こえてくることもある。おそらく混血のきわみにうまれでた文化であるに違いない。雑多な土、雑多な血、雑多な汗をあわせもっているからこそ、このジャズという音楽は世界中の人びとの心を動かしたのであろう。

 メキシコ湾から吹き上げてくる風が、結局深南部全体の天候を左右していることを考えながら、私たちは帰途にまた、世界最長の橋を渡った。貧しいルイジアナ州にとって、これは世界に向かって誇ることのできる橋である。おそらくは、誇ること自体が目的のために作られたのではないかと思われるほどの橋である。私たちはルイジアナ、ミシシッピ、アラバマ、フロリダの各州を抜けて、やっとまたジョージアのアトランタへ戻ってきた。アトランタのスカイラインが遠くの方に見えてきたとき、長い旅を終ってわが家にたどり着いたような安心感がどっと湧いて来た。しかしその安心感は、それほど長く続かなかった。アパートメントの部屋に一歩入ってみると、アトランタの滞在そのものが旅の一部にすぎないことをすぐに思い知らされたからである。往復一千七百キロあまりのニューオーリンズへの旅は、私たちにとって旅のなかの旅であった。後になってみれば、それはちょうど劇のなかの劇を見たようなものであり、醒めてみれば、夢のなかで夢をみたようなものだったのではないだろうか。

2025.07.09 記す

  南部は変ったのか P.171

 一月半あまりのアトランタ滞在は、たちまちのうちに過ぎ去ろうとしていた。私はこの間、ただアトランタの近代的な変貌ぶりに驚嘆ばかりしていたわけではない。むしろ眼を南部全体にひろげると、時には信じたくないような事が行われていることにも気がついたのである。

 まず八月一三日付「アトランタ・ジャーナル」には、ミシシッピ州北部の町テュペロ(人口約一万八千人)やオコロナ(約三千人)などで、頭からすっぽり頭巾をかぶった例のクー・クラックンヌ・クラン(KKK)が、黒人住民たちと衝突しているという記事が、大きな写真と一緒に掲載された。この事件についての関係記事はその後も断続して紙面に登場し、「少なくともここでは、ニューサウスどころの話ではない」という黒人指導者の言葉が私の眼に焼きついた。

 大体この団体は南北戦争直後にテネシーで発生し、解放されたばかりの黒人と南部に乗りこんできた北部人を憎悪の対象として、一時暴力の限りを尽くしたが、その後法律で取締られて衰亡した。それが第一次大戦中にアトランタ東方のストーン・マウンテンで再建され、一九二〇年代に全米の団員、数百万を越えるまでに発展する。こういう経過をみると、一九五〇年代以降に黒人革命の反動として高まったクランの動きは、第三次KKKと考えていいだろう。

 私のような旅行者はたまたま滞在中の記事を見てびっくりするのだが、こういう事件が偶然私のいる間だけに起ったのではない。少し注意してみると、八月六日付の同紙にも、ダーウッド・マッカリスターという論説委員が、「KKK団員の数をどうやって数えるか」という興味深い一文を載せている。彼によれば、ジョージアのJ・Bストーナーという政治家は典型的な人種主義者(レイシスト)なので、彼への投票数でこの州のKKKおよびこれに準ずる考えの人たちの数を推定できるだろうという。ところでそのストーナーはカーターが当選した一九七〇年の知事選挙でニ・ニパーセントだったのが、七二年の上院議員選挙では六パーセントに近づき、七四年の副知事選挙では約九パーセント、票数でいうと七万三千票を越えるまでに増加しているのだ。

 そういわれてみるとこのストーナーは、七八年も知事をめざして予備選挙で戦っており、テレビのコマーシャルで「黒ん坊(ニガー)」という言葉を使って物議をかもしている。もっとも長い歴史をもつ公民権団体である全国黒人向上協会(NAACF)のアトランタの若い黒人市長メイナード・ジャクソンと並んで「南部黒人の星」といわれる存在だが、ストーナーのこの発言を、テレビや新聞で痛烈に非難し、対決をも辞さない態度を示している。

 またフレンドリック・タルスキーというジャーナリストが季刊誌『サザン・イクスポウジャー』(一九七八年秋季号)に載せた報告「ミシシッピの恐怖に立ち向かって」によれば、ミシシッピ北東部のいくつかの町では人種間の緊張が高まり、バーに入ってビールを飲んでいた十七歳の白人の若者は、彼に向って「黒人街を車で走りまわり、できる限りの悪態をついてやった」と叫んだという。この報告のなかには三枚のなまなましい写真も載っている。一枚は「警察と裁判所からKKKを追放しろ」と書いたプラカードをもつ黒人たちのデモ隊、一枚はラマダ・インという豪華なモテルの一室で会合を開いているKKKの団員たち、最後の一枚は巨大な十字架に火をつけて儀式を行っている団員たち。説明によれば、この時の参加者は約百名だったのに、一カ月後の行事には約三百名にふくれ上がったそうである。

 こういう記事を読んでいるうち、私はふと八月中旬に訪れたオクスフォードという小さな町のことを思い出した。アトランタから東へちょうど一時間、そこにエモリ―大学分校のキャンパスがあるのだ。私はその町の外れの墓地にさしかかって、はっと胸を衝かれた。広々として、よく手いれの行き届いた墓地の横に、叢にかこまれて圧しつぶされそうな形で、貧相な空間が横たわっている。きけばそちらは、黒人だけの墓地であるという。今なお墓地は人種別にはっきり区別されていて、黒人はきれいな方の土の下に眠ることは許されていないのである。

 こういういくつかの例を見たり聞いたりしていると、南部は果して本当に変ったのだろうか、という疑問が湧いてくるのも当然であろう。この疑問はさらに、南部はアメリカ化したのだろうか。他の地域との間に際立った違いはなくなっただろうか、という疑問へひろがっていく。ジョン・スタインベックがチャーリーという犬だけを唯一の友として、トラックを運転しながら全米を走りまわり、南部へさしかかってまるで他国へ入るときのような緊張を感じた、というのが一九六〇年秋のことである。それから二十年近くが経過して、もう北部人や西部人がそのような違和感をもたずに南部を旅することができるようになったであろうか。

 実をいうと、これはそう簡単に答えられないほど厄介な問題なのである。学者、ジャーナリストその他言論界のすべてが、今まで何度この問題をとりあげて論じあったか分らない。なにしろこれは、すべてのアメリカ人にとって抽象的な問題ではなく、日常生活に深いかかわりのある具体的な問題であり、過去の問題ではなくて、現在および将来の、欠かすことができない問題なのだから。この論争に重要な一石を投じたと思われる人びとを思いつくままにあげてみると、第二次大戦中の一九六一年に名著『南部の精神』を発表したW・J・キャッシュへ遡るまでもなく、この十数年だけに限ってみても、H・アシュモア、V・O・キー、E・D・ジュノヴィーズ、F・B・シムキンズ、C・G・セラーズ・ジュニア、H・ジン、C・ウッドワード、D・M・ポッター、K・M・スタンプ、F・M・ギャストン、L・キリンズ、J・S・リード、G・モウリ―、R・コールズ、G・マッヴィニーなど、とても数えきれるものではない。

 こういう人びとの著書を読んでみると、それぞれに成程と思われる点が必ずあるので、正直のところ読めば読むほどなにやら迷路の中へ入りこんだような感じが強くなり、自分を納得させるような結論をかえって見失いがちなほどである。そこで私は、こういう人びとの意見を一応頭の中に入れておきながらも、眼につくところから整理してみることにした。

 上に示した地図は、B・L・ワインスタインとR・E・ファイアースティン共著『アメリカの地域別発展と没落――サン・ベルトの勃興と北東部の没落』(一九七八年)のなかに掲載されたものである。一九七〇年から七五年にかけての人口移動を図示したもので、矢印のなかの数字はこの期間に移住した人口(単位は千人)を、黒い点は全米の人口の中心の移動点を示している。△印は、一九八〇年に行われる国勢調査の結果を予想したもので、それまで西に、あるいは西南に移動していた人口の中心が、一九七〇年代の一〇年間は真南に移っていると推定されているわけである。これほどはっきりした人口の移動は、各種産業の移動に伴って行われると考えるべきであろうから、この点に関する限り南部を含めた太陽地帯(サン・ベルト)、つまりほぼ北緯三七度以南の地域の発展を否定することはできない。

 次に南部の特殊性のなかで、よくとりあげられるのはその貧しさである。その点を比較するには、州単位の生産高よりも、個人の平均収入を州ごとにとりあげる方がはるかに適当であろう。もっとも基本的になる数字は一〇年ごとに行われる国勢調査の結果なので、いま一九七〇年の数字を調べ、収入の多い順序に五〇州のランクをつけてみると、上位一〇位には残念ながら南部がまったく入っていない。逆に最下位一〇位のなかには南部が六州も含まれていて、とくにもっとも貧しい州は五〇位のアーカンソー、四九位のミシシッピ、四八位のルイジアナ、つまりミシシッピ川の下流に横たわる三州なのである。

 ニューサウスの中心アトランタのあるジョージア、カーター大統領の登場で全米の注目を浴びているジョージアでさえも、一九七〇年の地点では二九位にすぎない。石油産業の爆発的な発展に伴って、新しい産業活動の核になりはじめているテキサス、アメリカ全体を南北二つに分けて南半分をサン・ベルトとよぶとき、その首都となるにふさわしいとまでいわれているヒューストンのあるテキサスは、信じ難いことだが三九位なのである。ジョージアにはまだ貧しい黒人たちが、テキサスにはこれまた貧しいチカノとよばれるメキシコ系アメリカ人たちが、大勢住んでいる。個人収入の平均値を計算するとき、こういう人びとの数が分母の方に加わるから、私たちを驚かせるような結果になるのであろう。しかしこれは厳然とした客観的数字なので、驚く方にこそ何かの考え違いがあったといわなければならない。おそらくテキサスは、アメリカのなかでもっとも貧富の差のはげしい州であるといえるのではないだろうか。西の方の三分のニは、ほとんど砂漠か半砂漠といってもいいような荒野なのである。

 もっともこれは一九七〇年の数字なので、その後の変化も考えなければならない。日本にもすでに紹介されているように、k・セイルは農事産業(アグリビジネス)、軍事産業、テクノロジー産業、石油・天然ガス産業、不動産・建設業、観光・レジャー産業などが、いまやアメリカの南半分に殺到して、サン・ベルトの高度成長を支えている、と説いている。もっともな分析ではあるが、これらの諸産業はフロリダの東半分、テキサスの東三分の一、カリフォルニアンの南半分という地域に比較的集中していて、サン・ベルト全体が平均して潤っているわけではないし、とくに私が南部と考えている地域では、その思想もやや遅れがちなようだ。

 その上に富というものは、それを実感として味わうまでに、長い時間の経過が必要である。日本が自由世界でGNP第二位になってからもう何年かたつのに、社会資本の蓄積という点ではアメリカや西欧に比べてはるかに劣っているので、「生活の質」を比べるとこれらの国に追いつくまでにはかなりの歳月が必要であるのと、よく似たような状況が南部にもあるといえるだろう。南北戦争後約一世紀もの間、北部産業資本の植民地のような存在にさせられてきた南部が、十年や二十年の急成長によって今までのギャップをすべて埋めつくすことは不可能である。これは南部の田舎道をドライヴしてみると、ある程度まで実感として理解できるだろう。北部や西部ではほとんど見られないほど貧しい建物がまだいくらでも立っていて、もちろんその住人の多くは黒人だが、白人である場合も決して少なくないのである。

 ところでここに、眼で見てすぐ分かるような形で、南部人気質の一端を示した興味深い地図がある。「ニューヨーク・タイムズ」の七八年三月二六日付、日曜版の「ウィークリー・レヴュ―」に掲載されたもので、南部だけとはいえないが、南部が中心となって一つの意志をはっきり示している地図である。もし成功して発効すれば憲法修正第二七条となるはずの男女平等法案(ERA)は、一九七二年三月までに連邦議会を通過している。憲法を修正するためには七年以内に各州議会の四分の三、つまり五〇州のうち三八州の批准が必要であるが、七九年三月というタイム・リミットが目前に迫っているのに、白い部分の三二州が批准しただけで、斜線の三州は一度賛成していながら後にこれを撤回し、他の一五州のうち南部が一一州を占めていて、批准を取り消したテネシーを加えると、ほとんどが全南部がこの男女平等法案の前に立ちふさがっているといってもいい。

 この地図に載ったのは、一年後に迫ったタイム・リミットをあと三年あまり延長させようという活動を始めている最中だったので、こうして州別で賛成と反対を表現したのであろう。そしてこれほど明瞭な南部が浮き出てくるのをみると、やはりそこに特殊な性格があると考えないわけにはいかない。なぜならばこれは賛成派が女性、反対派が男性というほど単純なものではなく、むしろこの法案が実現した時に生じる多くの問題、たとえば女性の夜間勤務、離婚のとき女性から男性へ慰謝料を支払う可能性、女性の徴兵への義務などを考えて、むしろ女性の方が躊躇する傾向がみえからであり、七六年三月に発表されたギャラップ世論調査では、ERAに賛成する者が男には五九パーセント、女は五五パーセントとなっている。つまり男女の意見の差よりも、やはり地域差がこの地図に表わされているのである。、

 もっともこの地図をただ表面的に解釈して、北部は賛成、南部は反対というようにまったく対立したものとして考えると、これもまた大きな誤りになるだろう。七六年三月の調査によれば、「あなたの支持する政党が女性を知事候補に選んだとき、あなたは彼女に投票するか」という質問に対して、イエスと答えた者が東部は八三パーセント、中西部八二パーセント、西部八八パーセントに対して南部は七二パーセントという程度の差を示しているだけである。現にケンタッキーとミシシッピという南部の二州では、全米初の女性副知事がいま活躍している。因みに女性の知事は、半世紀も前に西部のワイオミングで実現している。

 ここにもう一つの地図がある。同じく「ニューヨーク・タイムズ」の七八年五月二八日の日曜版に載ったもので、組合に加入している労働者の比率を、一九六四年と七四年に分け、全米平均の比率と比べている。農業関係者は除かれいるが、私たちが想像するより遥かに低く、六四年の全米平均は二九・五パーセント、七四年ではそれよりも減少して二六・ニパーセントにすぎない。この図を見てすぐ気がつくことは、南部各州の組合加入率が全米平均よりもひどく低いこと、それからこの一〇年間で全米平均は下っているのに、僅かな例外を除いて南部ではそれほど下がらず、逆に上昇している例もあること、などである。労働者の組織力が弱く、それだけ労働賃金が安いということが、北部の諸産業を南部へ吸収する一つの条件だったことはすぐに理解できるけれども、それ以上にこの地図は、南部の現状について、ある重要な問題を暗示しているように思われる。

 それは、ここ十数年来、南部の社会変化は全米のそれよりもたしかに激しかったが、それは変化の率が他よりも高かったということであって、実態が他の地域に追いついたのを意味するものではない、ということである。たとえば南部史の権威ウットワード教授のいうブルドーザー革命は、たしかに全南部どこにも見受けられるし、人口が都市に集中する都市化傾向の比率は、南部が他の地域を追いこしているが、それでは南部の方が北部よりも都市化されているかというと、決してそうではないのである。前にあげた個人収入いついても、増加率だけをみれば南部は全米平均より高いのに、収入の数字そのものを比較するとあのような結果になってしまうのだ。逆にいえば、その社会変化が行われ始める以前は、私たちの想像を絶するほど南部と北部の格差が大きかったのだ、ということになるだろう。

 ここ数年来、あまりにも南部の急成長、南部のアメリカ化という点だけに焦点があてられすぎている傾向のあることは否定できない。大統領選挙の直前、『タイム』誌(七六年九月二七日号)が現代の南部についてみごとな特集を組んだのもその好例といえるが、こういう傾向に対する反論もまた、あちらこちらに現れている。カール・N・デグラ―教授の『場所は時間を超えて――南部特殊性の継続』(一九七七年)などは、タイトルがすでに挑戦的でさえある。しかもデグラ―は、冒頭にトックヴィルの次の言葉を掲げている。

「もし私が(南北間の)この比較をさらに続けるとすれば、南部諸州と北部諸州のアメリカ人の間に認められるほとんどすべての性格の相違は、奴隷制度にその端を発しているということを容易に証明することができるであろう」
 デグラ―教授はさらに南部白人の特性として、北部人の勤勉に対しては控え目、物質的または知性的に対しては伝統愛好的、進歩性または積極性に対しては親切さ、丁寧さ、さらに割り切った世俗性に対しては家族の結びつきへの忠実さ、などを北部人と対照しながらあげている。そしてもちろん彼は、こういう南部人の特性がそれほど簡単に失われるものではないことを説いているのである。

 私たちの短い滞在の間にも、思いあたることが幾度もあった。古い友達ばかりでなく今度知りあったばかりの新しい友達まで、実によく私たちをパーティに招いてくれる。オリヴィアの家のパーティに来ていた中年の女性ジュリアは、夫婦ともに弁護士で、郊外にすばらしい共有のオフィスを持っている。彼女とはその後呼んだり呼ばれたりする仲になったが、私たちの顔を見るたびに、「オー、シマ、カナメ」と叫んで両腕を大きく広げ、大仰に抱きしめて、キスをするのだ。それがまた不自然ではなく、古めかしいけれども、優美でさえあった。かつてラジオ番組を担当していたタレントでもあって、その話題の豊かさ、なめらかな話しぶりなど、向き合って食事をするときなど、うつかりすると食べるのを忘れてしまうほどだった。

 新しい友達が呼んでくれたパーティでまた別の友達と知りあい、果てしなく友達の輪が広がって、しかもつき合いの密度は北部や西部より遥かに濃密なのである。もちろん私たちも、たまにはお礼に呼び返さなければならない。旅先のことだから同じことはできないので、自分の部屋で簡単に飲みものとおつまみだけのカクテル・パーティをしたりすると、そういう時にはみな喜んで来てくれるけれども、どこかのレストランへ呼ぼうとすると、明らかに躊躇したり、こっそりとまたお礼にバーボンを持ってきたりする。

 アトランタを離れる日が近づいた頃、七、八人のとくに仲のいい友達を、ダウンタウンの真中にある「ミッドナイト・サン」というしゃれたレストランに招待することにした。ワイリー教授夫妻、オリヴィア、グレイスなど、みなずいぶん厄介になった人たちばかりである。夜のディナはかなり高かったので、昼の時間に集まってもらうことにした。オリヴィアに電話で都合のいい日を訪ねると、彼女が飛び上って喜ぶ様子が分かるような気がした。

 「うわう、嬉しいわ。だって私、名前を聞くだけで、まだそのレストランへ行ったことがないのよ。これからずっと、そのレストランの名前を聞くたびに、あなたたちのことを思い出すわ」

 お互いにみな顔をよく知りあっている者同士なので、なごやかに話がはずんで楽しい会になった。しかし私が初めに、「皆さんワインは」といった時だけ、皆の間にはっきりとためらいの色がみえた。

 「いや、日中だし、それに仕事があるのでね。私は水で結構です」

 ワイリーさんがそういうと、他の人たちもほっとしたような顔で、みな彼に同調した。実際には私も志満も、かつてワイリーさんと大いにバーボンを飲んで騒いだような経験が何度もあるので、彼がどれほどアルコール好きか私たちは十分に知っていたのだ。終りに私がメニューを回し、「さあ、デザートを」とすすめても、やはり皆が辞退して、ただ話に花を咲かせているのだった。私には、この人たちが心のなかでこういっているような気がした。

 「カナーメ、お金を無駄に使うもんじゃないよ。とくに旅に出ているときは、いくら余計に持っていてもいいものだ。反対に私たちが日本に行ったときは、おいしい日本料理を御馳走してもらいたいね」

 アメリカの日系人の間には、日本人の特性を示すものとして、「遠慮」という言葉がかなり滲透している。私などはよく "Don't enryo." などといわれたものだ。北部や西部ではそれほど強くは見受けられないこの「遠慮」という感情を、南部人はかなりもっているように思われてならないのである。

 たしかに、南部は変りつつある。とくに一九七〇年代に入ってからの変化は、アメリカの他のどの地域の変化よりも激しい。しかし、南部がすっかり変ってしまったのではない。

 たとえば、少なくともこのジョージアにおいては、古い時代が六〇年代に終り、七〇年代に入って新しい時代を迎えたと私は考えていた。六七年に就任したレスター・マドックスという知事は音に聞こえた人種主義者であり、公民権法が成立してそれが禁じられるようになった六四年夏まで、黒人を入れないレストラン「ピックリック」を経営していたのである。しかし七〇年に当選し、七一年に就任したジミーカーターは、「もはや人種差別の時代は終った」と演説して、新しい時代の到来を告げている。マドックスはカーター知事のもとで四年間副知事を勤め、七四年の選挙では知事に返り咲くことを狙ったが、大敗して政治生命を失い、ダウンタウンの地下に新しく作られた観光地、アンダーグラウンド・アトランタのクラブ経営者になってしまった。しかもその経営さえ不成功に終り、選挙のときの借金を返済するため、やがてそのクラブを売らなければならないという。一人はジョージア州知事から大統領にとなり、マドックスは古い時代の南部を、カーターは新しい時代の南部を、それぞれ象徴する政治家だと私は考えていた。

 しかし、その後しだいに定着しはじめているカーター大統領の評価、あるいはその出現の意味は、彼を南部の新しい時代のシンボルとするよりも、南部が変りつつあることのシンボル、つまり過渡期のシンボルという点にあるようだ。たとえば前に紹介した『メディアが作ったディクシ―』(一九七八年)の終りの部分でJ・T・カーバイ教授は次のように書いている。

「明らかにジミー・カーター自身は、どこから見てもディクシーの代表だ、といえるような人ではない。ごくありふれた意味でも、彼は南部の政治的勝利の象徴でさえないのだ。というのは、南部白人の過半数が彼の競争相手に投票したからである。……南部が一致団結しているように見えたのは、まったく黒人票のおかげであった。黒人たちの九〇パーセントはカーターに票を投じている」
 そして著者は、カーターを scalawag のような存在だ、とさえいっている。この言葉は、南北戦争後の南部に入りこんできた北部の軍隊や北部の共和党員などと手を組んだ南部人、とくに南部の民主党員などに対して使われたもので、日和見主義、変節者などという、いずれにしても軽蔑的な表現である。ウイリアム・L・ミラーの『ジョージア出身のヤンキー』(一九七八年)もまた、タイトルがそのまま示しているようにカーターを純粋の南部人とみとめてない点では共通した見解を示している。

 今から約一二〇年前に、アメリカ合衆国から脱退しようと決意した人びとに対する報復は、まことに厳しいものであった。南軍の名将軍と謳われて、今なお多くの人びとの尊敬を集めているロバート・E・リーが、敗戦と同時に剥奪されていた市民権を議会によって認められたのは、戦後一世紀以上経過した一九七六年のことであり、南部連合政府の大統領ジェファソン。・デーヴィスにいたっては、さらにそれから二年後の七八年、ようやく市民権の回復を認められたばかりである。そうだとすれば、いまカーターが scalawag だとしても、またやむをえないのではないか、やがてもっと純粋に南部的な南部人が大統領になる日がくるかもしれないし、その南部的という意味がもっと薄められてしまう日がくるかもしれないのである。

2025.07.12 記す

  アメリカ南部・日本・世界 P.189

 強い日射しを浴びて、若い女性が二人パプコーンを売っている。それがちょうどアパートメントの角なので、外へ出るたびにその前を通らなければならない。あるとき足をとめて一袋買おうと吸うと、お金を受け取らなかった。実はある金融機関のコマーシャルに雇われて、通行人にパプコーンの袋を渡すというnアルバイトの仕事をしていたのである。二人とも高校二年生だった。私たちが簡単な自己紹介をして、「帰りに部屋へよって、話でもしていきませんか」というと、二人はたちまち好奇心に駆られた顔つきになりながらも、

 「そうね、今日家に帰ってから両親によく相談して、明日ご返事するようにします」

という。そして両親のOKをとり、翌日の午後、約束の時間ぴったりに私たちの部屋のドアをノックした。こちらの質問に応じて、

 「今までは十四歳から十八歳くらいまでの間に初体験をする女子生徒がおおかったけれど、最近では少し遅くなってきたいみたい」とか、

 「白人と黒人が結婚するのは、それほど変だと思いません。理屈ではよく分りますから。だけど自分のことになると、そう簡単には踏み切れません。だって、子供が幸福になれるかしらって、心配ですもの」

などと、どきりとするような話をしながらも、態度はいたってつつましかった。生れてはじめておせんべいを齧りながら眼を丸くして驚き、おそるおそる日本茶を飲んで帰っていつた。

 私はウイリーさんが、「南部人は男も女も、一般に内気で、恥ずかしがり屋なんですよ」といったのを思い出した。六九年から七〇にかけてエモリ―大学に滞在していたとき、一番仲よくなったのがこの南北戦争の権威で、明るく闊達なこの教授はたびたび私たちを呼んでくれたり、授業のあと私のアパートメントに寄ったりして、会えば必ずバーボンかスコッチになった。そんなとき、ウイリーさんはよく南部気質について話をしてくれた。すると私はそれが日本人と似ていることに気がつき、話はやがてアメリカの南部と日本の意外な類似点の発見というふうに広がっていくのだった。

 そのころウイリーさんもまだ日本を訪ねたことはなかったし、私もエモリ―大学の歴史学部で受けいれられた最初の日本人であった。日本のジャーナリストはほとんどワシントンやニューヨークに住んでいた。日本の教授や学生も、たいてい北東部の名門校に籍をおいていた。そういう私自身も、アトランタのエモリ―大学へくるまでは、ニューヨークのコロンビア大学にいたのだ。日本の商社マンたちも、その大部分がニューヨークかカリフォルニアに住んでいた。南部と日本の距離はあまりにも遠く、私はアメリカのなかのまた別の国に住んでいるのではないかと思ったほどである。

 それだけに、その南部と日本がかなり似ている点があることに気がついたときは、私も新しい発見をしたように驚いた。しかしワイリーさんとたびたび話しあったり、南部での生活をくり返したりしているうちに、しだいにはっきりとした形が私の頭のなかで出来上がるようになってきた。

 第一、気候がよく似ている。すでに何度か触れたように、温度や湿度は北部や西部に比べて、比較にならないくらい日本に似ていた。夏から秋にかけてメキシコ湾から上陸してくるハリケーンは、日本が避けることのできない台風とまったく同じもので、おそらくその猛威にさらされる住民の心理状態は、日本と南部の間に差があるはずがないであろう。

 気候が似ていれば当然風土も似ているはずで、これが北部や中西部だと高層建築の連続か、広々とした小麦畑、トウモロコシ畑、大豆畑の連続となる。西部はいくら走っても抜け出られないほどの砂漠か、荒野か、高原か、荒々しい岩山の連続である。しかしここ南部では、雨に恵まれてよく伸びた林の間に、比較的狭い空間だけが切り開かれていて、小ぢんまりとした畑になっていたりする。山はたいていなだらかで、頂上まで深い樹木に包まれ、西部の山やまのような荒々しさはない。海岸線も変化に富んで美しい。テレビ映画『ルーツ』のなかで、クンタ・キンテがアフリカのガンビアで捕えられるシーンは、ジョージア州サヴァンナ郊外の海岸でロケーションを行ったそうだが、ここから北にひろがる両カロライナの海岸や、南に伸びるフロリダの海岸は、ふと日本を思い出させてしまうほどである。

 農業国から急速に工業国に変りはじめ、その結果人口の都市化が進んでいることも共通点ではあるが、これだけは日本の方が遥かにテンポが早い。南部はこれから工業化という問題で日本の後を追うことになるだろうが、公害に気がついてその対策にとり組んだ点になると、先輩後輩の地位は逆転するのではないだろうか。レイチェル・カーソンという一人の女性が公害を指摘した名著『沈黙の春』を出版したのは、一九六二年のことである。このなかで彼女は南部各地にも多様な形で公害が広がっていることを具体的な形で明らかにし、今すぐにも対策に着手するように警告を発している。

※参考:『沈黙の春』(ちんもくのはる、Silent Spring, ISBN 978-4102074015)は、1962年に出版されたレイチェル・カーソンの著書。DDTを始めとする殺虫剤や農薬などの化学物質の危険性を訴えた作品。タイトルの沈黙の春とは、鳥達が鳴かなくなって生き物の出す音の無い春という冒頭の状況を表している。(黒崎写)

 南部と日本の共通点のなかに、遠来の客を丁寧にもてなす習慣をあげてもいいだろう。サザン・ホスタビリティという言葉は全米的に有名で、私はアトランタへ来るびに、オリヴィアやグレイス、それにルイーズなどにその典型を見る思いがする。オリヴィアは私たちの食べたいものをあらかじめ手紙に書かせて、それをふんだんに用意して待っているし、グレイスは顔が広いので、会えば私が喜びそうなジャーナリストや学者と会う約束をとりつけてくれたり、パーティに一緒に呼んでくれたりする。政治家や経済人に顔のきくルイーズも、何か手伝うことはないだろうか、といつも電話をかけてくる。これに比べると、北部の生活はもっとビジネスライクに割り切っている。西部には西部特有のホスピタリティがあるけれども、南部のそれには、まつわりつくような濃厚さがあって、もし大雑把な表現を許してもらえるなら、北部生活が知、西部の生活が意であるのに対して、南部の生活は情であるといえるのではないだろうか。日本の演歌をよく理解できるアメリカ人がいるとすれば、おそらくそれは南部人であるにちがいない。

 思えば南部のホスタビリティは、長い間南部人が他の地域、とくに北部に対して被害者意識をもち続けていたことと無関係ではないであろう。奴隷制度の時代には北部の奴隷解放論者たちが、南北戦争の最中には北部の軍隊が、再建の時代には北部から流れこんできた利権漁り屋が、金融資本の時代にはウォール・ストリートの手先が、その他時代を問わずダーウインの進化論や、無神論論者、共産主義者などが南部人を脅かしてきた。いや、脅かされてきたという意識を南部人はずっと抱いてきたのである。このことが、自分を脅かさない者に対する手厚いホスピタリティとなったのではないだろうか。

 黒人革命が深南部の一角から始まったとき、黒人ばかりか北部や西部から応援にかけつけた白人の公民権運動家に対して多くの南部白人が激しい憎悪と敵意をむきだしにしたのも、この長い歳月にわたる被害者延長上にあったものと考えられる。私たちがグレイスやオリヴィアから受けるのは、それとは違ったグループ内部のホスタビリティなのであろう。

 日本の場合のホスビタリティは、多分周囲を海に囲まれているという特殊な環境によるものである。海の外から來るものは、外敵でさえなければ、必ず珍客である。珍しい客が珍しい文化を持ってくれば、それを精一杯吸収しようとする。そのときホスピたちティが厚くなるのは当然のことである。

 また、ヨコ社会のアメリカ、タテ社会の日本ということが今では常識になっているが、もしアメリカのなかで少しでもタテ社会の要素がある地域を探すとすれば、おそらくそれは南部であろう。大体南部には植民地時代から social ladder という言葉があって、上はイギリス本国から派遣されてくる総督、下は黒人奴隷、その間に高級官吏、大プランテイションの所有者、土地投機業者、牧師、医者、教師、自営開拓農民、中小の商人、年期契約の労務者などの階層が、梯子のように並んでタテ社会を形成していたのである。奴隷以外は、これらの階層の間の流動性がきわめて高かったことは事実であるが。

 詳しくのべる余裕はないけれども、この事実と、一九六四年の公民権法が成立するまでは、白人と黒人の生活が別であったという事実、それに白人同士、黒人同士のなかでも貧富の差が非常に大きいという事実などを合わせて考えれば、タテ社会的思考の名残が南部で他の地域よりも強いということは、ある程度理解できるのではないだろうか。

 家族の結びつきが強いという点も、類似点のなかに加えることができそうに思う。私が訳したシャーリー・アン・グロウの小説には古い家族の連帯感がよく表現されていた。なにしろ原著のタイトルは"The Keepers of the House" なのである。グレイスはいま身動きが不自由になりはじめた母親と一緒に生活しているし、オリヴィアも自分が働きながら、八十何歳かで母親が亡くなるまで、あまり大きくはない自分の家でその面倒をみていた。私は両親との同居率を地域別に調査したわけではないし、日本でも周知のように核家族化が進んではいる。しかし相対的にいうと、やはり家族中心の考え方、家族同士の結びつきの強さは、南部と日本の思いがけない類似点としてあげることができるようだ。

 最後に、そしてこれがもっとも大切な点だと思われるが、南部も日本もともに戦争に敗れた経験をもっている。戦場で負けて、自分の土地を占領されたということだけではなく、それまで自分が信じていた大義がそのとき滅んだのである。この打撃から抜け出るまでに、南部は日本より遥かに長い歳月を要した。敗北感は劣等感を生み、劣等感は罪悪感さえ生みだした。控え目で、内気で、恥ずかしがり屋という性格は、この点と決して無関係ではないだろう。

 私たち日本人が今まで見ていたアメリカは、負けたことを知らない北部であった。北部の価値観がアメリカを代表していた。北部を表とすれば、支部はワキであり、南部は裏であった。北部が正であれば、南部は負であり、北部が陽であれば、南部は陰であった。この点をさらにおしすすめれば、南部文学と日本文学の間にも、なんらかの類似点を見出すことができるに違いない。

 ワイリーさんがエモリ―大学を退職したあと、ダン・カーターという新進の歴史学者がその後を継ぎ、同じ研究室に入っている。一九六九年に『スコッチボロー事件』という分厚な著書を発表し、たちまち世評を集めた人である。そのカーター夫妻が、アトランタを離れる三日前、私たちを夕食に招いてくれた。キャンパスの近くの、鬱蒼とした樹木の立ち並ぶすばらしい住宅街である。彼は建築業者の息子なので、この古い邸を三年前に五万ドルで買い、自分で一部屋増築したのだという。

 「五万ドル?」

と私たちは眼をむいて驚いた。南部の物価は平均して他よりも安いけれども、アトランタの郊外でこの邸が五万ドルとは、やはり信じられない気持だった。やがて顔見知りの教授夫妻が何組かやってきて、初秋の気配が漂いはじめたテラスに出て、片手でグラスを傾けながら、やはり南部と日本の話に花が咲いた。一通り話が終りかけた頃、志満が突然大きな声でいった。

 「皆さん、南部と日本の間には、いろいろと似ていることがありますけれど、大切なことを一つ忘れているようですね。それは、南部にも日本にも、美人が多いといことです。それを、女である私にいわせるようでは駄目ですね」

 どっと笑いが起って、なかにはわざわざ志満の前まできて、脱帽の仕草までする教授もあった。たしかに南部でとくに美しいものは。春のさかりのダッグウッドと、四季を問わない女性であるとされている。だからこのことは、私がいうべきだったのかもしれないが――。

 さて私はカーターさんと話しながら、ときどき同じ名前の大統領のことを考えていた。そのうち、もう一つの考えが頭のなかに生れてきた。そのとき口に出して話しあうまでには至らず、今もそのままこころのなかにくすぶり続けている。それは、この南部人こそ、北部人や西部人よりも、世界に有効な形で貢献できるのではなかろうか、という思いである。

 敗戦という経験のなかった北部人や西部人は、南部人ほど自己を反省するということを知らない。自分は絶対に正しいのだと信じこんでいるし、自分にとってよいものは、他人にとってもよいはずだと考え、相手の実情を無視して押し売りをする。アメリカが多くの国に経済援助や軍事援助を行いながらも、それを素直に感謝されず、時には反米感情さえ育てる結果になっているのは、北部式、西部式の善意の押し売りをしているからではないだろうか。ちょうどエリートコースだけを順調に歩いた人が、往々にして思いやりのない傲慢で自尊心の高い人間となり、表向きには頭を下げられても、内心では嫌われているという存在になりやすいのと同じではないか。

 私はラルフ・マッギルと会っているとき、いつも相手へのいたわりの心の深さに驚嘆した。相手が困らないように、相手が喜ぶように、先へ先へと気を配っているのである。おそらく、みずから挫折感を味わったことのある人間こそ、相手の心の痛みを理解するこができるのであろう。カーター大統領が人権外交をその政策の主な柱としたり、議会の猛烈な反対を覚悟しながら、あえてパナマ運河の返還を約束する新しい条約の合意に踏み切ったりしたのも、すべて相手の立場にも十分な苦慮は払う何部人の発想ではないだろうか。実は中南米諸国の反米感情はかなり強いものがあり、もとはといえばアメリカ自身がその種子を播いたのである。中南米すべての願望でもあるから、対米感情を好転させるためにも絶対必要な政策であるという考え方は、いかにも新しい南部人の発想にふさわしい。

 その上、アメリカの北部や西部も、初めてベトナムで敗戦という大きな傷を負ったわけである。つまり初めて傷を負った人たちが、昔受けた傷をやっと治した人を指導者に選んだのだ。もしそうならば、北部人も西部人も、今は南部人の考え方のほうにこそ、学ぶべき要素を見出しうるのではないか。それこそ、アメリカの南部化とよぶべきではないか。私の考えている通りならば、南部が脚光を浴びたこと、他の地域が南部に学ぼうとすることは、世界の国ぐにとって大きなプラスとなって作用する二違いない。もちろん政治は大統領一人だけによって動かされているのではないし、大きなプレッシャーやブレーキが、動にたいする反動としてたえず働きつづけるであろうが――。

2025.05.12 記す

  エピローグ P.201

 ニューオーリンズから帰って、私たちがアトランタを発つ日が迫ってくると、身辺にわかに騒がしくなった。買い集めた本やパンフレット、それに大学の図書館でとったコピー、その他身のまわりの日用品を数十個の小包にして郵便局から送りはじめた。見残したところを走りまわって見たり、あちらこちらから呼ばれたり――そのうちの一つは女子の黒人大学スペルマンの学長ドナルド・M・ステュワート博士からの招待だった。

 一年前に私たちが泊ったシカゴ大学のジョン・ホープ・フランクリン博士から手紙が行っていたらしい。ステュワート学長自身が車で迎えにきてくれた。思わずどきりとするほど、若くてハンサムな人である。キャンパスのなかの学長邸に着いてみると、一緒に招かれていたのはリッチズという有名なデパートの社長夫妻だった。この時のステュワート学長と気さくなその奥さんの接待ぶりは、ほとんど完璧といえるほどのもので、私たちに気を使わせず、いつのまにか時間が自然に流れていった。初対面でありながら、学長夫妻と二人の腕白な子供たちの顔は、忘れることができないほど心のなかに刻みこまれた。

 十年ばかり前に、あの「ブラック・パワー」という言葉をめぐって騒いでいた重苦しい時代が、ふと夢であったのかと錯覚をもった。今はもう力んで「ブラック・パワー」を絶叫する必要がないほど、このアトランタ市民のなかにそれが拡散し、融け込んでしまったのであろう。街を歩いている黒人たちの顔からは、かつてあれほど激しかった怒りや苛立ちの表情が、ほとんどもう消えている。アトランタの西のはずれをドライヴすると、センター・ヒルとかケアリー・パークとよばれる辺りは、実に見事な黒人たちの高級住宅街が並んでいるのである。

 変化は他に、いくらでもあった。一昔前には一軒しかなかった日本料理店が、今は立派なものばかり数軒もできている。私たちはオリヴィア夫婦を「べンケイ」という店によんで、古賀メロディーを聞きながら鉄板焼きを食べたり、「ナカト」という店の盆踊り(ボン・ダンス)を見にいったりした。駐車場に櫓を組んで、テープから流れてくる炭坑節などを踊るのである。さすがに参加者の数はまだ少なかったが、この深南部の一角の夏の夜空に炭坑節が流れているのかと思うと、私はなんとなく感傷的になったり、時代の恐ろしいような移り変りを考えたりした。いまこのボン・ダンスの群れに加わって、まるで日本のなかにいるように志満が踊っている姿をもしラルフが眺めることができたら、一体彼は私に向かって何というだろうか。

 数年前にこのアトランタに新設された日本領事館の話によれば、アラバマ、フロリダ、ジョージア、ノースカロライナ、サウスカロライナ、ヴァジニアの六州に進出している日本企業の数は一〇一で、そのうち半数近くの四九がアトランタ周辺に集中しているという。ダウンタウンに開設された東京銀行のオフィスには、小川さんという私の友人が仕事をしていた。彼の話では、アトランタ周辺の日本商社マンは家族を含めて約三百人で、日本企業の誘致が南部諸州の重要な問題になっているということだった。カーター大統領も知事の時代に一度日本に来ているし、今のガスピー知事も同様である。

 アメリカに進出している企業の数は、もし支店を一つとして計算すれば、優に一千を越している。その大部分は東のニューヨークと西のカリフォルニアに集中しているのである。南部もテキサスまでを加えればもっと数が多いだろうが、それでも全体ではまだまだ南部がアンバランスなほど少ない。しかし同時に私は、つい何年か前まであれほど縁遠く感じた南部と日本が、もうこれだけ身近になったのか、という感動を禁じることができないのである。

 グレイスとは、ダウタウンでの街角で別れた。ラルフが好きだったというフランス料理の店で落ちあい、彼のことを話しあいながら、私たちはあわただしく昼食をすませた。路上でお別れのキスをかわして、人波にまぎれこむように新聞社へまた戻っていくグレイスの後姿を、私たちはしばらく立ったまま見送っていた。夏の名残りの暑い日射しが、まだ五連未練がましく照り返していた。

 ルイズと葉、彼女のオフィスで別れた。

 「またすぐ戻ってきてね。もっといろいろ、お話をしたかったわ。この次もまた、私のいるアパートメントに泊るのよ」

 私たちは必ずそうしましょう、といって彼女と抱きあった。

 オリヴィアとは、彼女の家で別れた。夕食に、ジュリア夫婦もきていて、大笑いをしながら、三時間あまりを過した。翌朝が早いので、私たちが先にお別れをいった。見ると、オリヴィアと抱きあった志満の頬が濡れている。私は思わず日本語で彼女にいった。

 「具合が悪いじゃないか。泣いたりなんかして」

 すると、すぐに志満も日本語でいい返した。

 「だって、彼女も泣いているんだもの」

 外に出てみると、オリヴィアの家のまわりの草むらに、もう秋の気配が忍びとっていた。そして彼女の家をとりかこんでいる樹々のくろぐろした梢の間に、まるでお伽噺にでも出てきそうなほど丸い月が、南部の過去の長い物語を語りかけるかのように、ぽっかり浮かんでいた。

 翌朝トヨタに車を返しにいくと、シカゴあら来たばかりだという青年が、その車で私たちを空港まで見送ってくれた。日本へ帰るまでに、私たちはまだいくつかの町を訪ねなければならない。その日の目的地は、リオ・グランデをはさんでメキシコと向き合っている国境の町エル・パソであった。

 ここへ着いた時と同じデルタ航空のジェット機へ、私たちは ATLANTA という大きな文字が描かれているコウモリを手にして乗った。大空に舞い上がったと思うまに、たちまちアトランタのスカイラインは見えなくなってしまった。このコウモリだけが数えきれないほどの思い出を運んで、ひっそりと私たちの間に横たわっていた。

2025.07.13 記す

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