アメリカ南部の旅

猿谷 要『アメリカ南部の旅』
(岩波新書)1979年3月20日 第1刷発行


★猿谷 要著 アメリカ南部の旅

1979年3月20日 第1刷発行 岩波新書 19879年4月3日 購入 

  プロローグ P.1

 私たち夫婦を乗せたデルタ航空の旅客機は、アメリカ西部の町デンヴァ-を離陸してから二時間あまり東南東の方向にとび続けて、ようやく高度を下げはじめた。

 その日の朝まで、私たちはワイルド・ウエストがまだ周辺にいくらでも残っているようなユタの州都ソルトレーク・シティに滞在していたのだが、そこから友人たちに見送られ、ウェスタン航空に一時間乗って、何度も自動車で越えたことのあるロッキーの大山脈を真下に見ながら、コロラドの州都デンヴァーに降りた。このさわやかな高原の町やその周辺にもかなり多くの友人がいるけれども、今回は南部の中心的な存在となったアトランタで一夏を過すすために、すぐデルタ航空に乗り換えて飛び立ったのである。

 雨のあまり降らない西部の町デンヴァーでは、その時ほとんど雲らしい雲は湧いていなかった。しかしそれから時差の境界を二度も越えてジョージア州の上空にさしかかると、眼下は一面灰色の雲で蔽われ、飛行機はたちまちそのなかに突入して、まるでミルクのなかを泳いでいるような感じになってしまった。ちょうどその時、機内放送が耳に入ってくる。「アトランタの上空は曇り、気温は八三度(摂氏約二八度)。つい一時間ばかり前に、激しいサンダー・シャワーがありました」

 今朝まで一週間ばかり滞在していたソルトレーク・シティのすぐ西側には、イスラエルの死海についで世界二番目に塩分が濃いという文字通りのソルトレークが横たわっていて、さらにそれから西の方は、私が一日中車で走り続けても横断できないほどの、ネヴァダの大砂漠地帯が広がっている。原爆の実験ができるほど、今でも荒涼とした人の気配のない死の世界である。ソルトレーク・シティの南にもまた、砂漠または半砂漠といってもいいような荒野が無限に連なっていた。それと比べると、私たちはいま雨と緑に恵まれた豊饒な別世界へ降り立とうとしているのだ。

 飛行機が雲の底をつき抜けると、眼の前に迫った下界は一面の深い森だった。アマゾン川の流域を飛んでいるのだといわれてもそれほど不自然に思われないほど、それは太古のままのような(あかぐろ)い森の色で、しかもそれが見渡す限り続いている。

 私はこの時になって、ポケットに入れておいた二通の手紙を取り出し、大急ぎでもう一度眼を通した。一通は「アトランタ・ジャーナル」紙に長年勤め、ある論説委員の秘書をしているミス・グレイス・ランディ。彼女とはもう十二年ごしのつきあいになる。年齢は聞いたことがないが、もう八十歳くらいになる母親との二人暮らしである。「あなたたちが着く日、仕事の方が忙しくて、去年のように空港まで迎えに行けないわ。その代り、家具付きのアパートメントはいくつか候補を探しておいたし、あなたが合いたい人、調べたい資料などはおよそ見当がついていますから、そちらの準備もしてあります」

 もう一人は、ミセス・オリヴィア・ハリス。長い間ニモリ―大学の史学科で秘書をしていたが、今同大学で編集している『中部ヨーロッパ史』という学術雑誌のビジネス・マネージャーだった。一九六九年いらいのつきあいで、孫が一人いる年なのに、何をするのを見ても、女性らしさが溢れているような人である。そのオリヴィアの手紙にはこうあった。「アトランタに着いたら、アパートメントがきまるまで、私の家に泊まって下さいね。翌日は休みをとってあるから、一日中アパートメント探しに連れて廻るわ。私うれしくて、子供みたいにはしゃいでいるの」

 私も妻の志満も、このグレイスとオリヴィアという二人の女性を通じて、アメリカの有能な秘書とは一体どんなものであるか、今まで十分に教えられてきた。一九七二年に私たちがオリヴィアの家に着いたとき、彼女は私たちが滞在する予定の約一週間のスケジュール一覧表を、すっかり作って待っていた。毎日昼食と夕食はすべて約束ができていて、その表には私が会いたいと思っていた人たちの名がすべて揃っていた。また去年の夏に滞在した一週間は、代ってグレイスがオリヴィアと電話で打ち合わせながら、さらにその他、アトランタ市長、黒人大学の学長、新聞社の論説委員などと会う予定まで、実にみごとに作ってくれたのである。おかげで私は毎回、短い滞在中には信じられないくらい、たくさんの仕事をこのアトランタですることができた。

 この二人には、今度もまたずいぶん厄介になることだろう。こういう友人を何人も持っていることは、私たちにとってかけがいのない幸福といわなけばならないが、ふと気がつくと、私たちはもうこれで八回、このアトランタという町を訪ねたことになる。そのうち二回は長距離バスに乗って、二回は私自身が運転して、あとはこうして飛行機でこの町にやってきた。短い時は数日間、長い時は半年あまり、私たちはこの町に住んだことになる。

 アトランタの町の中央に林立する巨大なビルのスカイラインが、窓の向う遠く見えてきた。窓ぎわに座っていた志満が、この時突然大きな声をあげた。「あっ、大変、これはきっとニアミスよ。大丈夫かしら」

 なるほど、すぐ右側に同じデルタ航空の旅客機が、同じ方向に向って飛んでいる。着陸姿勢に入っていることも同じだし、高度もスピードもまったく同じなのだ。私も少しばかり心配になってきた。まさか両方とも気がつかずに飛んでいるわけではないのだろうが、万一そうだとすれば、一本の滑走路をめざしてやがて両機は接触し、お互いに空中分解をしてしまうだろう。もし最後まで並行して飛び続け、そのまま同時に別々の滑走路に着陸するとすれば、いつのまにかこのアトランタ空港はよほど巨大な規模に発展してしまったに違いない。市の中心部から車でニ、三十分の距離にあるアトランタ・ハーツフィールド国際空港は、私たちが一冬を過した一九六九年頃すでに、シカゴのオヘヤ空港、ニューヨークのケネディ空港、ロスアンゼルスの国際空港に次いで、飛行機の離着陸数が全米四位にのし上っていたのである。

 そんな心配をしていたのは私たちだけで、デルタ航空の二機はかなり離れた滑走路にほとんど同時に着陸した。窓から外を見ると、あちらにもこちらにも滑走路が縦横に伸びていて、巨大なジャンボ旅客機が次から次へ休むことなく舞い上り、舞い降りて、しかも何台かのブルドーザが、たえまなく新しい滑走路の建設に動きまわっている。一歩空港の外に出て、また驚いた。去年もたしかにそうだったが、次ぎつぎに吐き出されてくる乗客を空港の前でピックアップしようとする車の数が、二車線の道路二つ、計四車線に並んでも動きがとれないほどの混雑ぶりである。かつてののんびりした南部のムードが、ここではまったく見当らなかった。荷物を持って忙しく往来するひとたちの群れは、明らかに雑踏や喧噪が生みだす一種の興奮状態をつくりだしていた。

 後になって人から聞いたところによると、この空港の離着陸数はシカゴに次いでいまや全米第二位となり、しかもなお規模を拡張中で、今後数年間のうちに全米最大になるのを目指しているのだという。今ではロンドンやベルギーの首都ブリュッセルへ直行便が飛んで、国際空港としての性格を強めている。しかしその後八月二日付と六日付の「アトランタ・ジャーナル」紙には、白い囚人の服を着て騒音反対のプラカードを持った人たちが、大勢シティ・ホールの周囲をとり巻いている写真が載った。空港のすぐ西側のカレッジ・パーク地域に住む市民たちで、ちょうど離着陸のコースの真下にあたるため、騒音はもう耐えられる限度を越えているとして、自分たちを「アトランタ空港の囚人」にみたてているのだった。この人たちは家を売って立ち退こうとしても、足許をみられて安く値切られてしまうので、市当局にこの周辺の家を買い上げてもらいたいのだという。空港のすぐ東側にあるマウンテン・ヴュー地域では、以前に一部の家を市が買い上げたという前例があるためである。しかしアトランタ最初の黒人市長として評判の高いメイナード・ジャクソンも、住民代表と面会はしたものの、まだ解決策は見出していない。

 空港から周囲を眺めると、ダウンタウンに向かう北側を除いては、これが南部を代表する大都市かと思うほど、建物がまばらに見えるだけで、一面に緑が濃い。そのアトランタでさえこういう騒ぎが起こるのだから、これと比べると、家並みのなかへ着陸し、家並みのなかから離陸しているような日本の空港、たとえば大阪空港などで、騒音反対の運動が起こらない方が不思議である。日本では住民運動が一般にアメリカほど強くないが、そういう理由だけでではなく、満員電車そのもののような日本列島のなかに住んでいると、公害のひどさにもいつのまにか、ある程度慣らされてしまうのではないか。

 その夜はオリヴィアの家に泊めてもらうことになっていたが、あいにく彼女の家は空港の反対側、ダウンタウンから見ると東北の方向の、市の出外れのところにある。そこで私たちはダウンタウンに向かうリムジンに一人三ドルずつ払って乗りこみ、それからあとはタクシーを拾った。見慣れた道路や建物を懐かしく思い出しながら眺めているうちに、無造作にジーンズを着ていた私も志満も、べっとり汗をかいているのに気がついた。私たちは今まで何回も、西部の各地をそのつど何週間もかけてドライヴして廻ったことがあるが、全米的な暑さで知られているアリゾナの砂漠の町トゥーサンでも、カルフォルニアの炎熱の町フレズノでも、およそ汗をかくようなことは一度もなかった。それどころか、翌朝早く出発しようとして前の晩におにぎりなど作っておいたりすると、翌日の昼にはもう歯が立たないほど乾いて、ぼろぼろになっていた。ところがこの南部では、ちょうど日本と同じように、むっとするほどの湿度の高さをまず感じさせてしまうのである。

 私がアメリカの南部に対してある親近感を抱くのは、この気候の類似性を心のどこかで感じているせいかもしれない。少し極端にいえば、日本ともっとも気候の似ている外国は、おそらくこのアメリカ南部ではないだろうか。日本人なら誰でもすぐ慣れるような、適当な暑さと寒さ、高い湿度、なだらかなアパラチアの山容、変化に富んだ海岸線、背の高い松の林――かってこのアトランタ郊外で一冬を過したとき、私たちの住んでいたアパートメントの裏に広がっている松林がうっすらと淡い白雪に蔽われたことがあって、そのまま水墨画になるのではないかと思ったほどである。

 実際このジョージアには、赤い土の上にするすると垂直に伸びた松の林が多く、オリヴィアの家もそういう環境のなかに建っている。私たちがその家の前で車から降りると、なかから小柄な彼女が転がるように走り出してきて、ものもいわず、いきなり志満をしっかり抱きしめた。それがオリヴィアの、一年ぶりの挨拶であった。家の中のことは、何回か泊めてもらったこともあるので、手にとるように分かっている。典型的な中産階級の中くらいの家で、ニ、三年前まで同居していた彼女の母親が亡くなってからは、テキサスに住んでいる一人娘の家族を時おり訪ねるだけで、あとは保険会社に勤める夫のビルと二人暮らしである。

 翌日、彼女の活躍はめざましかった。まず初めに、私たちが一夏車を借りることになっているチャンプリー・トヨタの店まで車を走らせた。ビル・オットーという初老のずんぐりしたボスが、私から受けとった手紙を持って出てきた。「待っていましたよ。さあ、あれをお使い下さい」彼の指す方を見ると、真白なコロナの新車が一台、事務所のわきに置いてある。私たちがアトランタで暮らしていた一昔前、ヴァリアントという車に乗っていた頃は、太平洋岸はともかく、この南部で日本車を見かけることは少なかったが、いまではもうオリヴィア自身がカローラに乗っているのだ。「何年か前、あなたたちが中古のコロナでアメリカを一周したでしょ。あれを見てから、日本車を買うつもりになったのよ」

 私がドル安になってから日本車が売りにくいのではないかとそのボスに聞いてみると、彼は少し真剣な顔つきになって答えた。「実は昨日もあるテレビ局が同じ質問をしに来ましてね。ところが奇妙なことに、今年の上半期は今までにないほどよく売れたんですよ。故障が少ないのと、アフターサービスがいいこと、これが決め手ですな。しかしこう値段が上がったんでは、これからが大問題です」

 借りたコロナは一旦オリヴィアの家に置き、私たちは彼女の車に乗せてもらって、エモリ―大学近くのアパートメントを見にいった。松林に囲まれた静かな環境だが、これは志満が気にいらなかった。キチンが共通で、食べものも大きな冷蔵庫にみな一緒につめこんで使っているからだった。それから三人は、「アトランタ・ジャーナル」紙のオフィスから抜け出してきたグレイスとダウンタウンで落ちあい、南部最高のの建物、ホテルとしては世界で最高といわれる円筒形七十階建てのピーチトリ―・ブラザ・ホテルに入り、地下のしゃれたレストランで昼食をとった。去年も会ったというのに、グレイスはずっと長いこと会わなかった人でもみるようなキラキラした目付きで、私たちを交互にしっかり抱きしめた。

 オリヴィアは私たちと話しているとき、つとめて南部なまりを出さないように注意しているようだが、彼女の夫のビルや、それにグレイスとくると、その独特の強い南部なまりに、毎度のことながら私たちはたじろいでしまうのである。とくに中年女性の南部弁は、ときにニャーとかニョ―とか、まるで猫がふざけ合っているのではないかと思うほどの発音がしきりに入ってくる。かつてグレイスと電話で話をしていて、「あなたの探している人は、いまアトランタにはいないわ。引退してマイアマに住んでいるはずよ」といわれたことがある。私はやっと彼女のいうマイアマがフロリダ州のマイアミのことだと気がついて、その時から南部なまりが分かりかけたように思ったものだが、一年ぶりにいまグレイスの油の上を滑るような話し方を聞いていると、また深南部(Deep South)に来たのだという思いが急に高まって、かすかに血の騒ぐのを感じた。

 午後はまたオリヴィアがグレイスの推薦するアパートメントへ連れていってくれたが、今度は志満がたちまち気にいってしまった。ダウンタウンの北の一角に二十数階建ての巨体を誇っているピーチトリ―・タワーズというアパートメントで、斜め向き合いのブロックにはハイアット・リジェンシーという豪華なホテルが建っている。ダウンタウンのどこへでも歩いていける便利な場所で、設備や保安も申し分なかった。ロビーの一角には電話ボックスのようなコーナーがあって、別の入り口までテレビの画面を通して監視できるようになっており、でっぷりした黒人がいつもその画面をみつめ、顔見知りの住人には片手をあげ、にっこり笑って挨拶を送っていた。

 最初に案内された二十一階の部屋では、高所恐怖症の志満が動けなくなってしまい、北向きの三階の部屋に入ることにした。日本式にいうと、十五畳くらいの居間、十畳くらいの寝室、それにかなり広いキチンとバスルーム、さらに押入れにあたるクローゼットが三ヵ所もついていた。テレビ(月二〇ドル)と電話は別の計算になるが、なかなか立派な家具が揃っていて、これで一ヵ月三〇〇ドルだという。サンフランシスコのホリデイ・インで一泊六二ドルも払わせられた後なので、これだけの広さ、便利さで一泊一〇ドルという計算は、ほとんど信じられない安さである。もっともここはホテルでないから、滞在期間一ヵ月とう規則あるそうだが、室内の清掃やシーツの交換など、メイドがごく安い金額でしてくれることになっているから、実質的にはホテルよりも便利といえるだろう。

 堂々たる体格のジェシーという女性のマネジャーとすべての契約をすませて、オリヴィアの家に戻った。部屋のキイも渡されていたのでアパートメントへ移りたいという志満の言葉を聞いて、オリヴィアは休む間もなく、台所用品を数えきれないほどいくつもの袋につめてくれた。「欲しいものがあったら、なんでも取りに来てね。大学の図書館も、すぐ使えるように手続きはすんでいるの。毎日でもあなたたちの顔を見ていたいくらいだわ」そういって彼女は、つかの間の別れを惜しんだ。

 さてそれから三十分ばかりドライヴして町の中心に戻り、荷物を下してこれから一夏を過すことになった建物のロビーに入ると、ちょっとばかり私たちを驚かせることがそこに待っていた。志満は両手に一杯の荷物を抱えて私より先にエレべーターの前へ歩いていったが、いきなり「あっ」と叫んだまま、棒をのんだように立ち止まってしまったのである。見ると彼女の前にも、ロビーの一角を占めているマーケットから食料品の袋を抱えて出てきた女性が、両眼を大きく開いたまま、これもまたあっけにとられて立っているのだ。その一瞬間が過ぎ去ると、二人とも袋を床に置くなり、なにか奇妙な声をあげあいながらしっかり抱き合った。

 彼女の名は、ミセス・ルイーズ・サックス。一九六六年にジョージア州知事選挙のときに知り合って以来の仲で、今ではアトランタに各種団体の全米大会を招致する重要な仕事をしていた。自称、コンベンション・ガールズである。もちろんアトランタンへ来るたびに私たちはこのルイーズと会っているし、昨年は彼女がシンガポールへ出張した帰り道、初めて日本にも立ち寄ったので、一緒に銀座で天ぷらを食べたりした。ルイーズの言葉も、彼女がフランス生まれなので、フランスなまりがとれず分かりにくい。彼女の家がカーター大統領の生れ故郷プレインズからそう遠くない小さな町にあり、週末には必ずここに戻ることを知ってはいたが、普段はこのアパートメントで暮らしていることを、私たちはまったくその時まで知らないでいた。しかしこれも後になって分ったのだが、私たちとルイーズと仲がいいことを知っているグレイスが、そのこともあってこのアパートメントを選んでおいてくれたらしいのである。

 こうして私たちは、このニ、三年来急に全米の注目を浴びるようになってきた南部という存在について、自分の眼でしっかり確かめてみようという今度の旅を、幸先のよいスタートで飾ることができたのである。

※余談:2025.05.05:MLB「アトランタ・ブレーブス」を知った。

2025.05.08 記す

  アトランタの変貌 P.15

 グレイスがこのアパートメントを私たちにすすめたとき、彼女の心のなかには多少の躊躇があったようだ。というのは、ちょうどこの建物の前まで地下鉄の工事が進んできていて、日中はさぞ騒音に悩まされるのではないかと心配したからである。

 アトランタを南北に貫くもっとも有名な街路が、ピーチトリ―・ストリートだった。ダウンタウンの主なオフィスやデパート、ホテルなどは、たいていこの道路の両側を華やかに飾って建っている。この道が北へ向ってウェスト・ピーチトリ―・ストリートと二つに分かれる場所にわがピーチトリ―・タワズが聳えている。地下鉄工事はこのウェスト・ピーチトリ―に沿って、ちょうど眼の前まで南下してきている。夏時間の七時というと、太陽がちょうど昇りはじめる頃だが、その時間から毎朝正確に巨大な機械がうなりをあげて動き始めた。幸い建物全体が完全に冷房されていたので、どの窓も開けずにすみ、騒音がそれほど部屋のなかに入ってくることはなかったし、それに日中私たちはエモリ―大学の美しい森に囲まれた白亜の図書館に閉じこもるか、人に会ったり史跡を訪ねたりしてとび廻っていたので、地下鉄工事をグレイスが心配するほどうるさいと思ったことは一度もなかった。これもまた、東京の都心に近い喧噪のなかに住んでいる私たちの神経のせいであろうか。

 それより私は、ねぼけ眼でベッドから起きてみると、毎朝七時にはきちんと仕事を始めている正確さに驚いた。そして何よりも私は、この田園的なイメージの強い南部の都市に、いま地下鉄が建設されているという事実を、初めはほとんど信じることができないほどであった。私は南部から帰ったあと、一九七〇年の秋に、「東部や五大湖地方にあるたくさんの都市とは違って、アトランタでさえダウンタウンから十分も車を走らせば、美しいマグノリアやダッグウッドの森が両側にひろがるのを見ることができるし、濡れた草の匂いをかぐことができる」と書いたほどである。その町に、いま地下鉄工事が始まっていようとは! 週末を除いて、毎日朝になるとすぐ眼の前でトラクターのような車が赤い土をどんどん運び出したり、白人や黒人の工夫たちがヘルメットを頭にかぶって動き廻っている光景を、私はいやでも眺めなければならない。過去の幻影にしがみつきがちな歴史家としての私に、神は変貌する現状を知らせようとしてこの部屋を選ばせたのではないか――ふとそんな気持ちを起こさせるほどの場所に、私は住みつくことになってしまったのである。

 ともかくこれは、南部最初の地下鉄として長く歴史に記録されることだろう。ピーチトリ―・ストリートに沿って何枚かの写真が並んでいるが、それはこのアトランタで輸送機関がどのように変化してきたかを示していた。まず馬車、ついで鉄道、それからバス。それがいまや、地下鉄にとって代わられようとしているのである。しかしそれは、アメリカ南部の地下鉄という輝かしい栄誉を担うのだ。

 しかし、ある人はいうかもしれない。ワシントン・D・Cに一足早く地下鉄ができたではないかと。たしかに、その通りかもしれない。もしワシントンを南部のなかに入れるならば――。そのワシントンを北と東から包むような形になっているのがメリーランド州であるが、奴隷制度を実施していながら南北戦争の時には最後まで中立を守ったこの州がどちらになるのか、私は長い間疑問に思っていた。数年前メリーランド州の大学教授夫妻に東京で会ったとき、私はその疑問をぶつけてみた。すると奥さんの方はひときわ胸を張るようにして、「私たちメリーランドに住んでいる者は、今でも誇り高き南部人よ」と答えたものである。そうだとすると、メリーランドの一部よりも南にあたるワシントンも、当然南部ということになるのだろう。しかし、いうまでもなく南北戦争当時、北部の連邦軍を指揮したリンカーン大統領は、そのワシントンのなかにいたのである。

 ということになると、一体南部とはどの部分をいうのか、一応考えておかなければならないが、実はこれがなかなか厄介なのである。普通アメリカでで南部というのは、国土の南半分にあたる地域をいうのではない。この南半分という概念については、後に触れることにして、いわゆる南部の地域については、南北戦争の時の南部、という規定が一つの基準になるだろう。つまり合衆国から脱退し、USAに対してCSA(南部連合国)を形成した一一州である。その州名をあげると、まずワシントンからポトマック川を距てただけのヴァジニアからはじまり、ノースカロライナ、サウスカロライナ、テネシー、アーカソン、ジョージア、フロリダ、アラバマ、ミシシッピ、ルイジアナ、テキサスということになる。ちなみに、南北戦争が始まった当時、南部連合国の首都はアラバマ州モントゴメリーだったが、やがてヴァジニア州リッチモンドに移った。現在、車でワシントンから二時間も走れば到着してしまうほど、南部全体からみれば北に偏した場所である。

 さてこの南部連合国の一一州に対して、さらにケンタッキーとオクラホマを加えた一三州が、ギャラップの世論調査で使っている南部の範囲である。これは全米を僅か四つの地域に分けてあるだけであるから、次にあげておこう。東部(East)、中西部(Midwest)、南部(South)、西部(West)。私の実感からいえば、広大な西部のうち、太平洋岸のワシントン、オレゴン、カルフォルニアの三州を切り離して別の区域とした方が、現実の姿に近いのではないかと思われる。

 南部連合国として合衆国と戦った一一州の他にも、奴隷制度を実施していた州が多少あった。デラウェア、メリーランド、ケンタッキー、ミズーリ、それに南北戦争中のヴァジニアから独立して新しい州となったウェストヴァジニア。南部の特性として黒人の奴隷を認めていたという点に重きをおけば、これらの州を加えた地域全体を南部とよぶべきであろう。「メリーランド人は南部人よ」といった女性の言葉は、この分類に従ったときよく理解できおるものである。

 しかし、この分類でもワシントン・D・Cは入っていない。それではこの首都ワシントンを南部に入れるような分類があるのかというと、実は一つだけそういう考え方の基準があるのである。それは奴隷制度の場合と同じように、解放されたあとの黒人たちをどのように取り扱ってきたかという基準である。一九五四年に合衆国最高裁判所は公立学校における白人と黒人の分離教育を憲法違反とする判決を下したが、その時まで現実にそのような人種別の分離教育を実施していた州は、単に教育という分野だけでなく、選挙権、交通機関、その他の日常生活すべての点でも、多かれ少なかれ黒人を分離する制度を維持してきた。従って、その象徴としての分離教育を強制的に行なっていた州を南部として限定する考えも十分に成立することになる。この分類に従えば、かつて奴隷制度を実施していた前記一六州の他に、オクラホマとワシントン・D・Cをさらにつけ加えなければならない。こうしてワシントンが加わることになると、アトランタの地下鉄は南部最初のものと自慢することができなくなる。

 これは南部をもっとも広く考えたときの分類であるが、これからミズーリだけを除いた地域が、国勢調査のときに南部として取り扱われる地域である。

 いずれにしても、これらの地域は深南部(Deep South)とよばれ、サウスカロライナ、それにこのアトランタがあるジョージア、さらにアラバマ、ミシシッピ、ルイジアナの五州がこれに当たっている。この五州の中央部になるアラバマがみずから Heart of Dixie と名乗って、自動車のナンバー・プレート(タッグ)にその文字を刻んでいるのは、地理的にも十分な妥当性があることになる。

 この深南部に隣接している州を「周辺南部」(Peripheral South)といったり、この範囲をさらに北へ拡大して「高南部」(Upper South)とよんだり、さらに北部諸州と隣接している地域を「境界南部」(Border South)または「境界諸州」(Border States)といったりしている。これらの表現にはかなりあいまいな点があり、お互いに重複していたり、時には主観的な要素が入ってきたりする。とくにこの主観的な要素という問題はかなり微妙なニュアンスをもっていて、場合によってはそれが決定的な役割をはたすことになるのだ。

 たとえば、メリーランドに住んでいる人について考えてみると、もしその人が父の代に南のヴァジニアから移ってきたのであれば南部人という意識を強く持っているろおうし、逆に北のニューヨークから引越してきた場合には、自分をヤンキーだと考えているだろう。さらにまた、祖先の系譜によって決めるのではなく、本人の意識だけで決定される場合も少なくない。とくに境界諸州のような場所では、自分が南部的信条を正しいと思っていれば南部人であり、それに反対しているようなときは北部人といえるだろう。南部戦争の時でさえ、アパラチア山脈寄りのケンタッキーやテネシーなどには、北軍びいきの住民たちが少なからずいたのである。逆にまたオハイオ川だけを距てて奴隷州ケンタッキーと向かいあっている北部のイリノイ州では、リンカーンが上院議員の椅子をスティーヴン・ダグラスと争ったとき、州内各地の討論会で彼は微妙な使い分けをしている。同じイリノイ州の中でも南寄りの土地で演説する場合は、奴隷制度に反対の感情をあまり露骨に表わさないように。

 こう考えてくると、州によって境界線をつくることにかなりの無理があることが分るのである。これはフロリダとテキサスの場合、とくに顕著である。フロリダの北半分、ジョージアとアラバマに面した部分は純粋に南部といえるけれども、全米的な娯楽施設ができたり、避寒地として旅行客を集めたり、引退した老人だけの町ができたり、土地投機の対象になったり、宇宙開発産業が発展したりしている南半分は、おそらく南部のなかに入れることができないだろう。テキサスの場合も、南部といえるのは全体の四分の一くらいの、ルイジアナとメキシコ湾に面した地域だけで、残りの四分の三はその自然も人情も、むしろ西部といった方がふさわしい。だから私は、テキサス出身とはいっても、アラモの砦の北の方の土地で生まれて育ったリンドン・ジョンソン大統領は、かなり南部的心情を持ってはいたが、むしろ西部出身の大統領というべきだと思っているし、アイゼンハワ―大統領にいたっては、同じようにテキサスで生まれていても、早くから故郷を離れているので、一層南部人というイメージから遠い存在だと考えている。

 私はこんなことをあれこれと思いめぐらせながら、毎朝早くから始まる窓の下の地下鉄工事を眺めていたが、この地下鉄が完成したら、結局これは南部最初の地下鉄として記録に残されるべきであろうという結論に到達した。たしかに、南北戦争が始まったときワシントンにはまだ奴隷制度があったし、奴隷解放後も黒人に対して各種の生活上の差別を行ってもきた。また一九七〇年の国勢調査では七一パーセントにも達した黒人人口は、おそらくその大部分が南部各州からの移住者であろう。こういう多くの事実があるにもかかわらず、ワシントンはなんといってもアメリカの首都であり、諸外国に対するアメリカの顔である。自然発生的ではなくて、純粋に人工の町である。もしここが首都でなかったならば、この程度の人口のサイズで地下鉄を作ろうとはしなかったに違いない。

 私たちはそのアパートメントに住むようになった翌日から、地下鉄工事現場の前を通って、中心街のピーチトリ―・ストリートをくりかえし歩きまわった。斜め向き合いにあるハイアット・リジェンシー・ホテルは、一歩そのなかに入ると、巨大なロビーの空間が二十三階の天井まで広がっていて、美しい層をつくっている各階の客室のテラスが、ロビーに点在する豪華なソフンァーや、その傍に並んだ花壇、一部に張り出したレストランなどを見下ろしていた。その空間の中央に渋い茶褐色の塔が立っていて、周囲には明るい灯で縁どられたロケット形のエレベーターが、乗客たちの興奮した表情をはっきり見せながら、せわしげに何台も上下している。このホテルのロビーを包むキラキラとしたムードには、アトランタ市民が絵葉書にして自慢しているほど、今までの南部とは違った華やかさがあった。

 グレイスやオリヴィアと一緒に昼食をとったピーチトリ―・ブラザ・ホテルは、さらにその斜め向き合いに、円筒形七十階の壮大な巨体を天空に輝かせている。その大きさの割にスマートが感じがするのは、外観がすべてガラス張りのせいだろうか。近寄って振り仰ぐと、そのガラスは周囲の同じように高いビルの翳が色濃く写しだされ、西に傾いた真夏の陽光がまぶしく反射しているような時には、まるで黄金の塔が中天に向かって無限に伸びているように見えた。当分の間この塔より高い建物は南部にできないだろうから、ダウンタウンの中央に他のビルを見下ろして聳えたつこのホテルこそ、いま話題になっているニューサウスのシンボルといってもいいだろう。

 かつて「アトランタ・コンスティテューション」紙が、一九六〇年と七〇年のこの町のスカイラインを示す二つの写真を並べて載せたことがある。一九六〇年というのはケネディ大統領が当選した年のことだから、まだそれほど昔のことだと思えないのに、その当時のスカイラインはまだまだ貧弱なもので、この町が誇れる近代的ビルなど、本当に指を折って数えることができるほど僅かなものであった。ところが七〇年のスカイラインは、まったく別の都市ではないかと思うほどみごとに変貌して、近代的高層ビルがいくつも深南部ジョージアの大空に向かって聳えるようになっていた。

 それからさらに四年たった一九七四年にアトランタを訪ねたとき、ルイーズは私たちを待ち構えていたように、こういった。「あなたはヒストリアンだから、アトランタの昨日だけを勉強してるのね。私はこれから、アトランタの明日の姿を見せてあげようと思っているのよ」

 彼女はアトランタを全米有数のコンベンション・シティに育てあげようと奔走していたので、私たちのためにヘリコプターまで用意するという張り切りようだった。実際に彼女は先頭に立って、私たちを建設中の強大なホテルや会議場に案内してくれた。私たち三人はヘルメットをかぶり、時にはまだ十分に乾いていないコンクリートの上に渡した細長い板の上を歩いたり、時には身体をかがめて小さな穴のような場所を通り抜けたりしなければならなかった。ある場所では、大きな建物の内側がすっぽりと空間になっていて、――というよりも、ゆったりとしたスケートリンクが完成まぎわの姿を横たえていた。私はそのスケートリンクを包むようにして並んでいる十数階の周囲のビルという窓という窓に、やがてあたたかい灯がいっせいにともって、ゆったりとした氷上を何人もの男女がゆるやかに舞っている姿を思い浮かべた。

 七七年に来てみると、もう頭のなかでわざわざ思い浮かべる必要はなくなっていたのだ。私たちが三年前ルイーズに案内してもらった建設中のすべての建物はみなとっくに完成して、アトランタン市民の生活のなかに融けこんでいたからである。オリンピック・サイズのそのスケートリンクの上でのびのびと滑る姿を、人びとはまわりの店でショッピングを楽しむ合い間に眺めることができるのだった。私たちは二階の店からホットドッグを買ってきて、氷上の一角にかぶさるように突き出ているテラスの先端に腰を下ろした。見下ろすと、もう手が届きそうなところを、均整ののとれた黒人の少年が、まるで飛燕のような鮮やかさで、氷上の人びとの間を巧みに縫いながら滑っている。このリンクを取り巻くビル群は「オムニ」とよばれ、さらにその隣にはジョージア・ワールド・コングレス・センターや、オムニ・インターナショナル・コンプレックスなどという大きなビルの複合体が、遠くから眺めるとまるで洋上に浮かぶ連合艦隊のような偉容を見せて並んでいる。

  南北戦争の傷跡 P.57

 このアパートメントへ入ったのは七八年七月下旬のことだったが、それから半月近く、アトランタにはよく雨が降った。それも日本の梅雨のようにしとしとと続く長雨ではなくて、いったん雨が落ちはじめると、道路に当った水滴がニ、三十センチははね返ってしまいそうな降り方をする。窓ごしに眺めるジョージア北部の森の上空が黒ずんできたかと思うと、森の色がしだいにかすんで灰色となり、その灰色の部分がだんだん広がってこちらに近づいて来るなと思うまに、この窓にも一粒、二粒、大きな水滴が現われ、やがてそれが叩きつけるような水勢に変わっていく。アトランタはゆるやかな山の裾野のひろがりのなかに作られた町だから、どこを走ってみても坂が多く、それだけに水はけがいいはずなのに、それでもこれほど凄まじい雨に見舞われると、たちまちあちらこちらの道路が、時ならぬ奔流と化してしまうのである。

 このまるでスコールのような雨が上がった後は、むしむしとした空気ながら、すぐに碧空がのぞいてきて、つい先程までの雨が信じられないほどになるのだった。そんな時、西北の方向の森の向うに、二つの小さなコブのような山が並んでいるのが見えた。それが、南北戦争のときアトランタを目指してこの方面から殺到したシャーマン将軍の率いる北軍を、ここで食い止めようとした南軍が閉じ籠ったケネソー・マウテンである。

 すでにその時までに、私たちは南北戦争の古戦場をかなり数多く訪ねていた。ワシントンから西へ三、四十分も車を走らせた所にある最初の激戦地ブルラン(またはマナサス)。いまはゆるやかな美しい丘陵地帯で、一八六一年七月と六二年八月の二回にわたって南北両軍が衝突した。それから六二年四月、西部戦線ともいうべきテネシー川のほとりで始まったシャイローの戦い、これは今でもなかなか訪ねて行けないほど不便な場所である。さらに戦争全体の天王山となった六三年七月のゲティスバーグの戦い。これはもっとも北寄りの場所で行なわれた有名な戦いで、ここだけはニューヨークに暮していた時に日帰りの強行軍で訪ねたのである。これとほとんど同じ頃に行われたミシシッピ河畔のヴィックスバーグの戦い。糧道を絶たれた南軍が、凄惨な飢餓との戦いに陥った場所――。

 六三年一一月、テネシー東端の山に囲まれた町チャタヌーガ周辺の三つの古戦場――チカモーガ、ルックアウト・マウンテン、それにミッショナリー・リッジ。その次がここから見えるケネソー・マウンテン。あとはアトランタ市内外の攻防戦。最後にこのアトランタを焼いたシャーマン将軍が、その占領をリンカーン大統領へのクリスマス・プレゼントにしたという大西洋岸の静かな町サヴァンナ。

 南北戦争は正味四年間にわたり、大規模な戦闘だけ数えて五十数回になるのだから、私が訊ねた古戦場はそのうちの一部に過ぎない。しかしいつのまにかこれだけの史跡を廻っているのは、おそらく私がエモリ―大学に滞在していた時にもっと仲のよくなったぺル・I・ワイリー教授の影響であろう。彼はその後短期間だが二度も日本を訪ねているし、もちろん私たちもアトランタへ行くたびに必ずワイリーさん夫妻に会っている。豪快な典型的南部人で、南北戦争について二十数冊ほどの本を出版しており、アメリカの歴史学会では南北戦争の権威として知られている学者である。南北戦争の百年祭が行われた年は、各地の講演会に飛行機でとび廻ったという。こういう古戦場の案内所でワイリーさんの名をあげると、眼に見えて私に対する態度が変るようなことがニ、三度あったほどである。

 ところで、そのような古戦場を訪ねるたびに、いつも胸のふさがるような思いをしたのは、両軍の損害のおびただしい数を知ったときであった。現在のように医療設備が整っていなかった時代のことだから、みすみす戦病死したような将兵も多かっただろうが、同時にまた大量殺傷の兵器が少なかったはずである。それなのに、上にあげたような戦闘では、たいてい両軍それぞれ万を越える死傷者が出ているのだ。たとえばシャイローの戦いでは、丸太小屋のような質素な教会とテネシー川にはさまれたごく狭い林のなかで、北軍の将兵六五、〇八五のうち、死傷者や行方不明者はなんと一三、〇四七人、南軍もまた四四、六九九人に対して一〇、六九九人、これが僅か二日間の戦闘である。ゲティスバーグにいたっては三日間にわたる激戦の結果、北軍八七千人のうち約二万、南軍は七万五千人のうち約二万五千人が失われたという。それまで決定的な敗北を喫したことがなかった南軍の名将といわれるロバート・E・リー将軍は、このとき自分の率いる大軍の実に三分の一を喪失したことになるのである。 

 それまで同じ国の一員として、建国以来一世紀近くの間をともに歩んできた者同士としては、あまりにもひどい争い方ではないか。事実アメリカはこの南北戦争を通じて、北軍約三六万、南軍二六万、合計六二万の死者を出している。この戦争が始まる一年前の一八六〇年アメリカの総人口が僅か三、一四四万人であることを思えば、この死者の数の異常な高さに気がつくことであろう。その後の戦争について調べてみても、第一次大戦の約一二万人、第二次大戦の約三二万、ともに南北戦争の被害に及ばない。南北戦争の場合は敵味方双方の被害が合計されて、アメリカ史上最大の数の人命が失われているのだが、それほど人びとは激しく憎しみ会ったのであろうか。

 私がその憎悪を眼のあたりに見る思いがしたのは、七七年八月の終りに、アンダーソンヴィルという場所を訪ねた時のことであった。アトランタから真南に二時間半ばかりドライヴした所にある人口二七四人の小さな村で、カーター大統領の出身地ブレインズから僅か三十分ほどの距離である。グレイスに教えられて、私はその村にある南北戦争最大の捕虜収容所があった場所を訪ねてみようと思い立ったのだ。

 よほど注意をしていないと、そのまま通りすぎてしまいそうな淋しい場所だったが、意外にもかなりの数の見学者が居合わせていて、これはインディアン関係の遺跡を訪ねる時とは違っている。案内所のなかにある映写室がほとんど一杯になるほど、夫婦や親子連れの見学者が集まっていた。私たちは二十分ほどのフィルムを見せて貰って、当時の収容所についての概要を頭にいれたのち、ぎらぎたと輝く夏雲のもとを、車でゆっくり廻って見ることにした。

 森閑とした松林に包まれて、無数の小さな墓標がまず見えてくる。近よってみると、驚くほど大変な数である。南部全体にようやく敗色が漂うようになった一八六四年の初めから、ここに北軍の捕虜が次つぎ送りこまれ、一万人しか収容できない施設に対して、一時は実に三万二千人もの北軍将兵を収容した。ここで悲惨な捕虜生活を送った者の総計は、戦争終結まで一年あまりの間に五万二千人に及び、その約四分の一にあたる一万三千人が、病気や栄養失調などで死亡したという、

 簡単に文字で表現すればそれまでのことであるが、現実にどんな生活がそこで一年あまり続いたのか、人びとはどの程度想像することができるだろう。私はその時の一人の捕虜の写真を見て、ぞっと総毛立つような思いがした。これで生きているといえるのだろうか。ほとんど骨と皮だけになった北軍の一人の捕虜が、裸になって腰かけている写真である。これほど衝撃的な写真を、わたしはかつて見たことがない。戦後陸軍省が発表した数字によると、北部側に捕らえられていた南軍の捕虜二二万人のうち、死者は二六、四三六人。これに対して南部にいた北部側の捕虜は一二六、九五〇人のうち、二二、五七六人が死亡していて、南部側の方が、敗戦に追いこまれていたせいであろうが、捕虜の取り扱いがひどかったことが分る。

 私たちはゆっくりと、ここで捕虜として死んだ北軍将兵の霊の眠る墓地を見て廻った。その一人一人が、あるいは私が見た写真そっくりに、まるで針金のように痩せ衰えて死んでいったのかもしれない。そうだとすればこの捕虜収容所は、さながらこの世の地獄絵図を現出していたのではないだろうか。今はただ一二、九一五もの数の荒けずりな小さな石の墓標が、ものもいわず肩を並べて整然と立ちつくしている傍らに、父や夫や兄弟の死を聞いて泣き崩れる女性たちのブロンズ像が、ものうい真夏の光を浴びて立ちつくしているばかりであった。

 墓地から少し離れて、松林がそこだけ切り開かれている場所がある。そこが三万二千人もの捕虜を押しこんだ収容所な跡だという。ごく僅か残された当時の写真を見ると、テントや丸太小屋がびっしりと並び、まるで立錐の余地もないほどの人波である。南軍は北軍から申し込まれた捕虜の交換に応ぜず、松の木で作った地上一五フィート(約五メートル)もの木の柵を周囲にめぐらせて、捕虜たちの逃亡を防いだ。この捕虜収容所が継続していた一年あまりの間に、毎月九百人以上の北軍将兵がこのなかで死んでいったが、その主な原因は下痢、赤痢、壊疽、壊血病などによる病死だったといわれている。死者の数がもっとも多かったのは六四年八月二三日で、その日はたった一日で九七人の捕虜が死んでいる。

 一体この頃、両軍の憎悪をとくにかき立てるようなことが起きていたのであろうか。実は――まさしくそうだったのだ。その年の六月二二日から六日間、南軍はケネソー・マウテンに陣を張ってシャーマン将軍の率いる十万の北軍をささえたが、結局は敗れて、アトランタ市の防衛線にまで後退した。こうしてアトランタの周辺では、七月二〇日から四回にわたる攻防戦がくりひろげられる。八月二三日というのは、アトランタが陥落する最後の戦いが、いよいよ始まろうとする一週間ほど前に当たっているのである。

 この時の戦いについては、アトランタのダウンタウンから少し南に寄った場所に、北軍の司令官の名に因んだグラント公園があって、そのなかのサイクロラマで当時の模様を再現して見せている。私たちが初めてこのサイクロラマを訪ねたのは一九六六年九月のことで、円形の建物の中に入ると、見学者は中央の部分に立って周囲を見渡すようになっている。壁面いっぱいに戦闘の様子が描かれ、足もとは兵士たちや鉄道線路、森、建物などのミニチュアで埋まり、それが壁面の絵とみごとに一致して、一つの世界を作り上げていた。やがて多いな室内は暗黒となり、中年の女性が懐中電灯を使い、戦闘の経過を示す順序で説明をはじめると、遠くから北軍の新軍歌やラッパの響きが聞え、やがてはじけるような小銃の音、馬のいなき、兵士のかけ声などが、全館をゆるがすほど鳴りわたるのだった。女性のゆるやかな南部なまりの強い話しぶりは、アトランタ陥落の悲劇を見学者の胸に焼きつけるのにふさわしかったようだ。

 今度十二年ぶりにサイクロラマを再訪してみると、説明はすべて南部なまりのない男性の声のテープですまされ、案内の女性はただ懐中電灯を説明につれて照らして廻るだけになってしまった。十二年前の印象が強かっただけに、私たちは気の抜けたビールを飲まされたような気持になったが、それでもかなり大勢の見学者が次つぎにこのサイクロラマを訪れ、アトランタ陥落の当時を偲んでいる。映画『風と共に去りぬ』のなかのあの負傷者の大群が広場に集まっている有名な光景は、ちょうどその頃の情景を再現しようとしたものである。

 こうしてアトランタは、一八六四年九月二日、北軍の手に落ちる。シャーマン将軍はこの町を占領しても戦争を終わらせることはできないのを知って、南部人の士気を挫き、アトランタンを二度と軍事や工業の中心地とさせないために、一一月一四日夜、火を放ってアトランタの中心部を破壊する。その時の様子を、シャーマン自身が次のように書き残している。

「私の配下の工兵隊長ポ~大佐は、街の中心部を破壊するという特殊任務についたの

で、ひどく忙しかった。大佐は大勢の部下を与えられ、ジョージア鉄道の大きな駅や円形

の車庫、機械工場などに照準を定めて、次つぎに破壊していった。そのうちある機械工場

などは南軍の兵器庫として使われていたものもあり、そのなかには小銃の弾丸や大砲の砲

弾、その他の兵器が山のように積まれていた。その夜は砲弾の炸裂で阿鼻叫喚の有様とな

ったが、砲弾の破片は私が指揮している家のすぐ近くまで飛んできて、あまり気持のいい

ものではなかった。町の中心部は一晩中猛火に包まれていたし、焔はここから数ブロック

の店の並んでいる所にまで迫ったが、コートハウスのある場所や大多数の市民の住宅街に

まではいかなかった」

 こうしてシャーマン軍は翌一五日、廃墟となったアトランタを発ち、右翼軍と左翼軍に分かれて、広大な陣形をひろげ、折から収穫を終わったばかりのジョージアの沃野を、略奪の限りをつくしながら、大西洋岸の町サヴァンナへ向って行進をはじめたのである。この部分は、私の友人ハロルド・H・マーチンの『ジョージアの歴史』(一九七七年)からその一部を引用しよう。彼はジョ―ジア生れ、ジョージア大学を卒業して、長年「アトランタ・コンスティテューション」紙に勤めた生粋の南部人で、多くの雑誌にも数え切れないほどの論文を載せている。この本は彼がジョージア史を担当することになって書き上げたものである。

 「あの海への行進は、その全行程がジョージア人にとって忘れることのできない恐ろしい災害であったけれども、ヤンキー兵にとってはのんびりした散歩のようなものだった」と彼はのべ、ほとんど南軍の抵抗もなく北軍が一二月下旬にはサヴァンナに到達した経過を説明して、ある北軍兵士の言葉を次のように引用している。

「ジヨージアの中心部を縦断して勝利の行進を続けている間じゅ、われわれはこの土地

のものを掠奪して夜毎に祝宴を張ったり、鉄道施設を破壊したりした。牛、豚、羊、鶏、

それに小麦、ポテト、シロップなどで満ち溢れた土地を襲い、道路のどちら側かは何マイ

ルもの間一物も残らないようにしてやった。何百万ドルもの財産を焼き払い、持っていけ

ない食糧は、およそあらゆる種類のものを、われわれが食いつぶしたり、焼いたりしてや

ったのだ。思う存分どのジョージア人にも戦争のことを思い知らせてやったので、奴らは

いつまでもわれわれヤンキーのことを忘れないでいるだろう」

 一方、シャーマン軍が去った後のアトランタへ戻ってきた市民たちは、ついニ、三ヵ月前まではあれほど人びとの雑踏で栄えていた中心部が、まったく廃墟となっているのを見なけらばならなかった。主な建物は崩れ落ちて、いたずらに煉瓦の壁が残っているばかりだった。あれほど住み心地がよかった家は焼かれて、ただ煙突が空しく焼けあとに立っていた。道路という道路は崩れた建物の破片で埋まり、馬車を走らせることなど、とてもできるものではなかった。

 この間、多くの北軍将兵が捕えられていたアンダーソンヴィルの収容所は、シャーマンがアトランタを占領したとき、健康な状態の捕虜だけ他の収容所に転送してしまった。これは北軍がそういう捕虜の釈放を求めてくることを恐れたもので、この収容所はその後規模を縮小しながらも、戦争が終結する六五年四月まで継続していたのである。このため南部が敗北したあと、北部の間ではとくにアンダーソンヴィル捕虜収容所の残虐ぶりが問題となり、南部人がリンカーン大統領を暗殺したこともあって、収容所の責任者ヘンリー・ワーズ大尉を北部の新聞は凶暴なサディストだときめつけ、「極悪人(モンスター)」とか、「野獣(ビースト)」とかいう言葉を使って攻撃した。

 ワーズ大尉は一八四九年にスイスから到着した移民で、はじめの五年間は北部の工場で働いていたが、その後南部に移ってから七年目に戦争の勃発を見ることになった人である。彼の上官だったウィンダー将軍がすでに死亡していたので、実際にはモンスターでもビーストでもなかった彼が、六五年一一月にワシントンで絞首刑に処せられている。彼自身もまた、戦争が生んだ憎悪の犠牲者だったのであろう。彼の処刑は日本でいうと大政奉還のわずか二年前のことで、今から百年あまり昔に行われた南部人と北部人の激突はは、想像もできないほど深い憎悪に貫かれていたのだといわなければならない。

 日本の場合も、明治維新の勝者となった薩長の派閥に対して、その後憎悪や嫉妬や反感が敗者の間にある程度流れていたことは事実である。しかし日本の国民の間の均一性は、はるかに早いスピードでこういう対立の感情を水に流していった。アメリカでは――それほど簡単ではなかったのだ。

 戦後、北部軍が軍政を実施するための南部占領、利権を漁る北部人(カーペットバガー)やこれと結託して甘い汁を吸おうとする南部人(スキャラワッグ)などの跳梁、解放された黒人たちの取り扱いをめぐる混乱、北部資本の南部経済掌握、その象徴的な現れとしての鉄道運賃の南部差別――など、敗者としての運命を、南部は十分に味わなければならないことになる。たとえば、初代大統領ワシントンからリンカーンが就任する以前の七二年間のうち、三分のニ以上の四九年間が南部出身の大統領によって占められていたのに、それから一世紀もの間、南部人らしい南部人がホワイト・ハウスに入ることはなくなってしまった。

 その後の経過はどうだったのか。『タイム』誌の南部特集号(一九七六年九月二七日号)に載った南部史研究の権威、C・ヴァン・ウッドワード教授の言葉をあげよう。

「南北戦争から三世以上もの間、文化的な影響力の相互作用は、決定的に南部を風下に

おくようになった。北部は文化を輸出する側であり、南部は北部の考え方、生活様式、文

学、ファッションなどを輸入して、そのまねをする側となった。南部人は盲目的にヤンキ

ーの価値観を受け入れ、ヤンキーをモデルに見たてて、進歩がそこにあると信じこもうと

した。南部の人民党運動(ポピュリズム)は当時アメリカに広がっていた資本主義中心の経済体制や強力な

北部の価値観を鋭く批判した唯一の運動であったが、南部人はそれさえも無慈悲に抑圧し

た。ところが、それでいながら南部人は、正真正銘のヤンキーに変質してしまったわけで

は決してなかった。南部人はせっせと北部文化をとり入れはしたが、それを見倣おうとは

ほとんどしなかったのである」

 もし南部人が敗戦の結果として勝者である北部の価値観を真に吸収したのであれば、「南部のアメリカ化」は一八七〇年代にかなり進んでいたことであろう。しかし実際には、むしろその反対の方向に進んだ点も少なくない。KKK(クー・クラックス・クラン)の北部人や黒人に対する暴力、工業化をはかろうとすると、どうしても北部の資本に頼らなければならないという冷厳な現実、黒人や貧困な白人を小作人(シエアクロッパー)として成立した綿花の単一栽培、低い教育水準の上に出現した多くのデマゴーグ政治家、そして黒人から選挙権や一般の市民権を剥奪する分離的な生活様式……。

 その上、厄介なことには、南部人が敗戦いらい北部に対して抱いた屈辱感や劣等感は、プリズムにあてられた光のように、幾重にも屈折したものになっていくのである。それはおそらく、戦争以前に南部をめぐる対立の最大の論争点となっていた奴隷制にまで遡らなければならないだろう。私たちは南部人のすべてが奴隷制を是認していたのだと思いがちだが、実際は必ずしもそうではなかったのだ。十九世紀の初めの四分の一が経過する頃までは、自分の所有している奴隷を解放するような南部人が少なくなかったし、その結果自由な身分の黒人がかなり南部にも住んでいたのである。第一その頃までは、南部のなかにさえ奴隷解放をめざす団体があったほどである。

 その南部がしだいに奴隷制是認へ大勢が移っていくのは、北部の奴隷解放運動が高まる一八三〇年代以降のことで、三一年にはヴァジニアのウィリアム・アンド・メアリ大学で経済学を担当していたトーマス・デュ―教授が、奴隷制を神の認める必要悪であるとした論文を発表して、多くの南部政治家たちの拍手を浴びている。それが四〇年代後半から五〇年代になると、南部の政治家や神学者たちは、一層論理を飛躍させて、奴隷制は積極的に善であるとのべ立てるようになる。こういう推移をみてくると、私には外部から激しさを加える非難や攻撃に対抗するためばかりでなく、南部人自身が自分の動揺する心を鎮め、現状を納得するために、このような奴隷制擁護の理論の発展を必要としたのではないかと思われるのである。南部はバイブル・ベルトとよばれるほど宗教的なムードが日常生活のなかに浸透していることを考えると、奴隷制は神の認め給わぬ悪であるという考えや、あるいはそうかもしれないという疑いが、かなり多くの南部人の心のなかに、たとえ潜在意識としてでもひそんでいたと考える方が自然ではないだろうか。そうすれば、その不安や疑いを打ち消そうとして、ますます激しく奴隷制を善だとする理論を作りあげ、それをまた必要以上にわめき立てねばならなくなるだろう。

 もちろん戦争が近づく頃になると、南部で公然と奴隷制を攻撃することはできなくなっていた。しかし戦争が始まってからさえも、心ひそかに奴隷制を憎んでいた人もかなりいたようで、両軍の名将軍として北軍からも尊敬されていたロバート・E・リーもその一人だといえば、多くの人はこれを知って驚くだろうか。これらの当然の結果として、戦争が後半に入り、南部の不利がしだいに明らかになってくると、これは奴隷制を積極的に支持している南部人に対して、神が下されようとしている懲罰ではないだろうかという虞れを、少なくとも一部の南部人には抱かせることになったのである。そのために南部人の劣等感は、単に武力の衝突で北部に敗れたというだけではなく、自分たちの信じていた「南部の大義」のなかには、何かしら邪悪な要素が含まれていたことを認めざるをえなかったという点にも、その原因があったのである。

 しかもその上、十九世紀前半において南部はチェロキーをはじめとするインディアン諸国家に対して勝者であったし、合衆国政府のなかにおいてさえ、ホワイトハウスにその代表者を送りこむ点において、最初の四八年間のうち四〇年を独占していたように、南部は完全な勝者であったのだ。その勝者が一転して敗者となったという点に、ン暗部人のもう一つ屈折した心の底をみるような気がするのである。こうして南北戦争はその後の南部人の心の奥深くまで、なかなか消えそうもないほどの傷跡を残すことになったといわなければならない。

 全世界からこのアトランタに人びとを招くことに熱中しているルイーズは、ある日私に向かってこういった。

 「カナーメ、あなたは知らなかったの、日本の姉妹都市を。それはね、ここと同じように、日本の南部のカゴシマなのよ」

 そういわれて、私はびっくりした。「日本の南部」というような表現を私たちは使わないが、ある意味で鹿児島がこのアトランタに類似していることに気がついたからである。薩摩もまた明治維新においては勝者の側にあり、西南戦争では逆転して敗者の立場に立たされ、その後、近代日本の発展の主流から見放された。これまで全国平均に及ばない貧困地帯にとどまったことも似ているし、敗軍の将のなかから全国的な英雄が出たことも同じである。アトランタの東方約三十分の場所に巨大な石の山があって、文字通りそれはストーン・マウンテンとよばれているが、その壁面にはリー将軍の像が刻まれているし、西郷隆盛の銅像は上野の山に今もなお立ち続けている。

 北軍を勝利に導いた司令官ユリシーズ・グラントは、戦争が終わったときたしかに北部人のあこがれる英雄となり、そのためにこそ後に大統領にまで選ばれたのであるが、残念ながら大統領としては最低の評価を下されるような結果となった。いまこの二人に対する尊敬の気持をアメリカ人に尋ねるとすれば、おそらくロバート・リーの名をあげる人の方が多いのではないだろうか。

2025.05.15 記す

  カーター・カントリー P.128

 八月中旬になるとアトランタの空はすっきり落ち着いて、そのたびに私たちを驚かせていたスコールのような雨が、いつのまにかぱったりと来なくなった。窓から見えるデルタ航空の広告板には、時刻と温度を示す数字が交互にあらわれていたが、その頃は日中になるとたいてい九〇度(摂氏三二度)を越えていた。暑い日ざかりの街のなかでは、さすがに多くの人びとの顔に、うんざりしたような表情が浮かんでいる。ジョ―ジアの夏は、今がまさにたけなわだった。

 カーター大統領が休暇をとって故郷のプレインズに戻り、短いズボン姿でソフトボールを楽しんでいるのを知ったのは、八月一九日、土曜の夜のテレビを見ていた時である。日本流にいえば、まるで野良着のような恰好で、腰がすわらず、球をヨタヨタと追っているような光景は、彗星のように登場してきた二年前と比べると、さすがに疲れた感じを隠しきれなかった。けれどもそれは、ひどく微笑ましく、まるで仲のいい友達が眼の前でゲームをしているのを見る時のような、くつろぎを感じさせる光景でもあった。

 今もプレインズでガソリン・スタンドを経営している弟のビリーは、兄のジミーと別々のチームの分かれて戦ったが、その日はジミー・チームが六対五で勝ち、翌日曜日の午後はビリー・チームが一二対八で勝った。二日間のゲームを通じて大統領がヒットをうったのはただの一回だけで、彼はだいぶプライドを傷つけられたということだから、ふき出したいほど人間くさい話である。

 テレビや新聞でこういうことを知るたびに、私は人種も違い、文化も違うこのアメリカのなかに、奇妙な親しさを感じてしまうのだ。これが日本の場合はどうだろう。始球式だけならばともかく、首相がソフトボールに加わって、九回の終わりまで戦ってみせるというような光景を期待できるだろうか。転んだり、滑ったり、空振りしたりする首相をテレビで見ることができたら、なんと楽しく、なんと政治を身近に感じることができるだろうか。

 第一このジミー・カーターという政治家は、大統領選挙の一年前には全米的にはほとんど無名といってもいいほどだったし、半年前になってもまだ、どんな人間であるか十分に知られていなかったのである。選挙の年七六にあわただしく出版された本のタイトルが、『ジミーって誰?』とか『ジミー・カーターの奇跡』などであったことを考えれば、アメリカ人自身にとっても、彼の出現がいかに唐突に思えたか分かるだろう。ところが日本の首相の座につく人は、何十年も前から順番を待って行列のなかに並んでいたような人ばかりである。次の次の次くらいまで何とはなしに分かるようなこともあって、これでは新鮮な驚きなど望むべくもない。その上、誰が首相になっても同じようなもの、というのであれば、日本の国民の間に政治離れがおきるのはむしろ当然のこといっていいだろう。

 カーター大統領は、土曜、日曜の週末をこうして故郷プレインズで過ごしたのち、月曜には一家連れだってアイダホの州都ポインジーに飛んだ。大西部のあらあらしい自然にかこまれた世界である。その後「アトランタ・ジャーナル」に載った記事によると、火曜から三日間、"帰らざる川"サーモン・リヴァーの筏乗りに挑戦したという。

 「皆がうんといってくれれば、本当はカヌーをやりたいんだ。これで昔はなかなかうまいカヌー乗りだからね」

 運悪く小雨にけむっていた川面を眺めながら、彼はこんな事をいって周囲の人たちを笑わせている。アメリカ全体が休暇に入っているようなこのシーズンに、大統領一家も一週間だけホワイト・ハウスを離れるスケジュール立てていたのである。

 大統領の休暇を報道する記事のなかに、もう一つ私の注意を惹いたことがあった。信仰心篤い彼は、帰省しても当然教会の行事に参加しているが、以前からメンバーになっているプレインズ・パプティスト教会には行かず、母のリリアンと一緒に隣り町アメリカスの近くにあるフェローシップ・パプチスト教会の日曜礼拝に出席した。というのは、プレイン・パプティスト教会が黒人をメンバーに加えるかどうかの問題をめぐって分裂し、投票によって黒人を拒否することに決まった後、リリアンはこの決定に抗議して、教会の籍をフェローシップ・パプリスト教会に出席しているが、この教会もその投票結果に反対した人びとが、急に組織した新しい教会である。

 私は、かつて読んだことのあるジョン万次郎の伝記を思い出した。彼は十四歳のときに漂流し、無人島にたどりついたところを、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に助けられる。一年あまりその船で働いた後、マサチェーセッツ州フェアへヴンへ連れて行かれる。船長ホイットフィールドは非常に親切な人で、自分たち夫婦が所属しているオーソドックス教会へ万次郎を連れていくが、黒人のような少年をメンバーにするわけにはいかないと断わられ、憤然としてその教会の籍を抜き、他にもいくつかの教会で断られた後、万次郎の加入を歓迎してくれたユニテリアン教会へ、自分たちも一緒に籍を移したのだ。

 これは一八四三年のことで、南北戦争が始まる十八年も前にあたる。アメリカの歴史のなかではずいぶん古い話になるが、それでもマサチューセッツといえば奴隷解放論者が多かった場所とだけ思いこんでいた私は、その州でしかも教会のなかにこれほどはっきりした差別意識があったのかと、この伝記を読みながら慄然としたのを覚えている。

 カーター大統領自身は所属している教会の分裂についてほとんど何も語っていないが、彼についての伝記の多くは、過去にも似たような事実があったことを簡単にのべている。まず五〇年代の後半に、人種差別を継続しようと活動を継続しようと活動を続けていた白人市民会議への入会をすすめられ、はっきり拒否したという話である。入会を求めて訪ねてきたのがプレインズの警察署長とパプティスと教会の牧師であった点は、この町ばかりでなく、当時の南部全体を蔽っていたムードをよく物語っている。再度の入会要求を拒否したときは、脅迫めいた態度を何回もとられたという。

 次は黒人革命が高まった六〇年代前半に、同じプレインズ・パプティスト教会に初めて黒人の加入申し込みがあり、この時黒人の受け入れに賛成したのは、カーター一家の他、もう一家あっただけで、結局黒人の入荷は拒否され、その時は教会の分裂さえおこっていない。それではカーターをラルフ・マッギルと同じレベルでホワイト・リベラルとよべるかというと、決してそうではなかった。彼はその地方の教育委員および委員長を計六年間つとめていながら、最高裁の判決に従った共学の実施を少しも進めていないからである。いまカーターが黒人の入会を多数決で拒否した教会へ出席することを避け、母の移った教会へ一緒に出たり、分裂して新しく作られた教会の礼拝に参加しながら、もとの教会への批判的な発言をしていないのは、その当時からの彼の姿勢をそっくり延長したものといえるのではないだろうか。

 私は白い尖塔が緑の間にちらちら見えているプレインズ・パプティスト教会の建物を思い浮かべた。ちょうど一年前の七七年八月末、私たちはやはりこのアトランタへ来ていて、グレイスが用意してくれた地図や資料をもとに、一躍全米にその名をしられるようになった小さなプレインズという町を訪ねたからである。七六年一一月の大統領当選、七七年一月の大統領就任――この当時まきおこった凄まじいカーター・ブームの話を聞いていた私たちは、アトランタから片道三時間の田舎道を、レンタカーまで使って自分でドライヴしなければならないとはまったく考えていなかった。バス会社に電話してみると、最低二五人の人が集まらない限り、プレインズ行きのバスは出ないということだった。つまり定期の観光バスは運転されていなかったのだ。

 しかしこの大都市アトランタと田舎町プレインズを結ぶいくつかの田舎道のうち、少しばかり脇道にそれるとすれば、ちょうどなかほどにフランクリン・D・ローズヴェルト大統領(第32代大統領)が脳溢血で急死したウォーム・スプリングがある。彼がかつて小児麻痺を治すために滞在していた温泉村で、初めて大統領に当選した一九三二年に、彼は小さな執務のための建物をたてた。今はリトル・ホワイト・ハウスとよばれ、温泉は静かな療養所になっている。十年前にその村を訪ねた私たちは、古道具屋の店先に座っていた黒人の老婆から、大統領滞在中によくメイドとして食事を作ったという面白い話を聞いているうちに、かゆくなり始めたのに気がついた。志満の脚にも、ストッキングの上から何匹かのノミが、まるでお尻を振り立てるようにして、垂直につき刺さっていた。その老婆は、私たちの眼の前で何事もなく話を続けているというのに――。もちろん二人はあわてて外に飛び出したが、大統領がいたという村でも、実はそんな田舎なのである。

 しかしこのひどい田舎で、ローズヴェルトは肉体の回復をはかったばかりでなく、精神の糧も得ることができたのだった。彼の伝記を書いたR・G・タッグウェルはこうのべている。

「ここで彼はほとんど毎日時間を割いて、時には朝から晩まで、裏道を探りに出たり、農

夫たちを訪ねたり、農家の庭にはいりこんだり、立ちふさがるチャイナベリーの木の枝を

引っぱったり、会う人ごとに声をかけ合ったりしてすごした。こういう気さくな話しあい

のなかから、彼は農夫の苦しみや悲しみについて、今までとは比較にならないほどたくさ

んのことを学ぶようになった。それまでのようにニューヨークにいたら、専門家の口を通

して農業を知るだけだったし、生まれ故郷のハイドパークは農場ではなくて高級住宅地で

あったから、学ぶ内容にも限界があったことだろう。……ここでは、何の障碍もなかった

。他の場所ならば、必ず彼が直接に接触することを妨げるものがあるはずなのに。彼は埃

っぽい田舎道を歩いたり、農家の裏庭に佇んだりして、人生の真実について何かを悟った

のである」

 これは、なんとすばらしいことだろう。ローズヴェルトはアメリカの歴史のなかで、建国期のワシントン、南北分裂のときのリンカーンと並んで、多くの歴史家が三指のなかに数えるほどの傑出した大統領である。そのニューヨークの政治家が、たまたま身体の障害から南部の片田舎で療養生活を送らなければならなくなり、その経験が彼の大成に役立ったのだとすれば、ジョージアの貧しいけれども美しい自然が、歴史の上になんと貴重な役割を果たしたことになるだろう。

 私はそんなことを考えているうちに、同じ民主党という政党の二人の大統領の、一方は生まれた故郷、一方は没した土地ではあるけれども、ゆかりの場所がこんなに近くにあることに興味をもった。この二つの場所を訪ねると、アトランタからちょうど一日の行程である。「プレジデント号」とでも名づけて、そのうち定期の観光バスができるのではないだろうか。

 私たちがそのプレインズを訪ねようとして、高層ビルの立ち並ぶアトランタのダウンタウンを離れたのは、小雨が煙るような視界を遮っている日曜日の朝のことだった。方角はほぼ真南で、町並みを出はずれると、道路の両側はたちまち松林だけになってしまう。こんなところが日本の都市と違う点だろうか。周辺部分を含めると人口一四〇万にもふくれ上がった南部有数の大都市が、一歩出ればもう周囲は緑の世界なのである。増加したといっても四五〇万のジョージア州民は、日本の面積の半分に近いほどの土地に、ゆったりと広がって住んでいるのだった。

 幸い雨はいつのまにか上がって、雲も明るくなってきた。道は片側一車線の田舎道で、ゆるやかな丘や静かな林をいくつも越えながら、日本の道と同じように右に左にうねっていた。途中で思い出したように、小さな町をいくつか通りすぎる。そのなかにはルイーズの家があるはずのパトラーという町もあったし、日曜には必ずいるから寄ってみないかといわれてもいたが、なにしろ人をもてなすことの上手な彼女のことだ。うっかりするとここで一日が終わってしまうかもしれないし、どうせアトランタではいつでも会えるので、そのまま休まずに南へ向って走り続ける。

 ちょうど日曜の午前中、教会へ出かける時間なので貧弱な町のなかを盛装して歩いている人たちの姿が眼についた。ジョージア中央の農村地帯は、かつて綿花ばかりが栽培されていた頃はコトン・ベルトとよばれたり、黒人たちが集中的に住んでいたためブラック・ベルトとよばれたりしたことがあるが、同時にこのあたりはバイブル・ベルトとしても有名な場所である。概して南部はアメリカの他のどの地域よりも宗教的なムードが強く、私のいたエモリ―大学でもパプチスト教会がキャンパスの静かな森に包まれて立っていて、入学式も卒業式もみなこの教会で行なわれていた。一九七五年のギャラップ世論調査の結果によれば、過去一年間にバイブルを家庭で読んだことがある人の比率は、東部四五パーセント、中西部六四パーセント、西部六一パーセントに対して、南部は七九パーセントとはるかに大きい数字を示している。また、宗教が現在の問題のすべてか大部分を解決しうると考えている人が、東部五一パーセント、中西部六六パーセント、西部五七パーセントに対して、南部は七三パーセントという高率なのである。

 そういえば、ジミー・カーターが生れた翌年の一九二五年、隣のテネシー州では大変な事件が起こっている。学校で進化論を教えたジョン・T・スコープスという教師が、バイブルに書かれている内容に反したことを教えたという理由で訴えられた裁判事件である。この教師の側には全米にその名を知られた弁護士クラレンス・グローが立ち、検察側にはウィルソン大統領の時に国務長官を勤めたことのあるウィリアム・プライアンが加わって、全米の耳目を集める大事件に発展した。いま私の手許にはアーウイン・グラスカーという人が編集した『サザン・アルバム』(一九七五年)という本があって、そのなかに、多くの傍聴者にかこまれたグローが、じっと前方に眼を注いでいる息づまるような法廷の写真が載っている。結果はグローの敗北で、当時一〇〇ドルという大金が、この教師の罰金として決定されたのである。

 ついでながらこのアルバムのなかには、ヴァジニアのある川のなかで、岸辺に集まった大勢の人びとを前に、下半身を水に沈めた牧師が、一人の少女に洗礼を授けている写真や、ウィりアム・フォークナーが膝に大きな穴のあいたよれよれののズボンをはいて、左手にパイプを持ち、右手でスタイルのいい黒毛の馬の鼻のあたりを撫でている写真があって、どれもみな、一昔前の南部の姿を生き生きと甦らせている。

 八時半にアトランタを出た私たちは、途中で一度小憩をしたが、めざすプレインズに着いた時はもう十一時半、時おりかっと顔を出す真夏の太陽が、プレインズ・ぺプチスト教会の白い尖塔を、くっきりと碧空に向かって浮き上らせている。ジミー・カーターがホワイトハウスへ入るためここを離れるときまで、日曜日には必ず来て神への祈りを捧げてていた教会である。なにしろ彼は多忙を極めた選挙戦の最中でも、よく週末にはこのプレインズに帰ってきて、礼拝に参加したばかりでなく、日曜学校の成人クラスでも教え続けていたほどであるという。

 もう少し早く着いていれば私たちもこの礼拝に参加したのだが、と思いながら、私はゆっくりとプレインズの町のなかを走ってみた。といっても、メイン・ストリートらしいものが一本あるだけで、町の中央を東西に走っている鉄道線路のわきに、今はもう誰も使っていない木造の駅の粗末な建物があって、それが選挙のときの彼の本部なのだった。そのまわりに並んでいる数軒の家が、みな観光客めあての土産物屋になっていて、町らしい場所はそれだけなのである。どの店も同じように人影は少なく、ライター、灰皿、キイホルダー、鉛筆などにいたるまで、みなジミー・カーターの名を刻んだ土産物になっていた。蠅がうるさいほど、店のなかを飛んでいる。それでも、「ピーナッ・ミュージアム」などと書いた店があったが、なんのことはない、ピーナツ畑で昔使った古い農機具がさびついたまま、いくつか並べて置いてあるだけなのである。

 土産物屋を出ると、駅前のちょっとした広場に子供連れの観光客がそれでも数十人、機関車の形をした簡単な観光バスをうろうろと待っていた。「ピーナツ・スペシャル後」と銘うったそのバスは、なるべくゆっくりこのブレインズのあらゆる道という道を案内し、ジミーの卒業した高校から、弟ビリーの経営しているガソリン・スタンド、カーター農場の小さな事務所から叔母さんの家などまで、二十分ばかりかけてゆっくりと見せてくれる。二ドル五〇セントというのがひどく高いと思われるほど、その観光バスの内容はお粗末であった。肝心の大統領の家は深い樹木に蔽われている上、道路わきにガードが出ていて近よることができない。しかし木々の間にちらりと見えたその建物は、どこにもある平凡な平屋の煉瓦造りで、まあせいぜい中流の上といった程度のものである。現職の大統領の家がここになかったら、今でも人口僅か七百人たらずのごくありふれたこの町に、一体誰が足をとめてくれるだろうか。

 その日昼食をとった場所が、また凄まじかった。ある青年にすすめられ、そこまで車をとばして行ってみると、「ブレインズ・カントリークラブ」と名前だけは立派だが、田舎道に一軒だけぽっんと建っている小屋のような建物だった。しかもその青年がこの店の経営者で先廻りをしてここに到着し、日本ではおそらくどんな田舎へ行ってもお目にかかれそうもないほど粗末なカウンターの向う側に、神妙な顔をして立っていたのである。「すばらしいレストランがありますよ」と教えてくれた時の彼の顔を思い出して、私たちは思わずふき出した。彼もつられて笑いながら、一九一〇年に綿花やタバコの倉庫として建てられたものだと説明してくれた。壁にかかったメニューを見ると、どれもみな一ドルくらいの値段である。私たちは呆れながら、一ドルのポーク・バーベキューを注文した。青年は奥の方でニ、三分、コトコト音を立てていたが、やがて丸いパンの間にカンヅメから出したらしいポークの細かな肉をはさんで持ってきた。テーブルは全部で三つだけ、他に客は一人もない。

 おそらく私たち夫婦は、顔でもしかめながら、食事をしていたのだろう。気のよさそうなその青年が近よってきて、

 「先日ここで、カーターさんがディナーをとったんですよ」

と、さも嬉しそうにいうのだ。私はあっけにとられて、彼を見上げた。こんなに小さくて汚ない所で、アメリカの現職大統領が――そんなバカなことがあるだろうか。すると彼は、奥に入って「プレインズ・ステイッマン」という週刊の新聞をもってきた。日本の週刊誌と同じサイズの、それも僅か八ページという新聞だが、間違いなく八月一三日の土曜日に大統領が帰省したことを報じていた。しかも大統領は、狭くてうす汚れたこの小屋のような建物に十数人の新聞記者を招き、夕食をともにしたというのである。

 信じがたいことだが――それは事実であった。その青年は、大統領が食事をしたというもう一つの部屋を見せてくれた。それはキチンを通り抜けた裏側にあり、なるほどテーブルを入れれば十数人は食事できそうな広さだが、何やら屋根裏めいたうす汚なさは変わりがない。

 僕はその部屋にしばらく立っていて、はっと思いあたった。つまりここはジミー・カーターのまさしくホームグランドであり、この周辺の畑のなかで、彼は幼い時代を過ごしたのである。おそらくこの小屋も、少年時代の遊び場として、彼には忘れられない場所なのかもしれない。この地方に初めて電気がひけたのは、なんと彼が十六歳になった時だというから、少年時代の生活ぶりもおよそ想像がつくのではないか。

 私はそろそろ引き上げようと思ってもう一度ブレインズに戻っが、ふと気がついて、中心のチャーチ・ストリートを南におれてみた。反対に北に曲がると、五、六軒目がもう大統領の家なのだが、南側には私の想像した通り、貧弱な黒人たちの家が並んでいた。道路一本を距てるだけだから、北側の白人と南側の黒人は、お互いに相手を無視して生活することはできない。北部の都市では黒人街がはっきり分かれていて、たとえ日中はオフィスで机を並べて仕事していても、家庭での生活となると黒人と白人の間でお互いの交流はほとんどなくなってしまうのに、こういう小さな南部の町では、どうしてお互いに交わらないで生活することができるだろうか。

 ジミーが少年時代を過ごしたアーチュリ―の村には、白人がたった二家族で、あとの二十数家族は黒人ばかりだったという。私は車をとめて、チャーチ・ストリートに立ってみた。道路の幅は狭く、どちらの側にも樹木が多い。南に向かって伸びている道に沿って、黒人の小さな家が何軒か並び、家の前では数人の子供たちが元気に遊んでいる。私は埃っぽい道路に立ったまま、黒人の子供たちが飛んだり跳ねたりする姿を、じっと眼で追っているうちに、ふと半世紀前の映像が甦って、私の前で再現されているかのような錯覚をおぼえた。取っ組みあいをしたり、走り廻ったりしている大勢の黒人の子供たちに交って、ニ、三人の子供たちがいる。その一人は、たしかにジミーである。シャツもズボンも、汚れるだけ汚れている。誰の顔もみな無邪気に輝いていて、南部の社会がもつ重い翳が、この子供たちの世界には及んでいない。――おそらくジミー少年は、黒人の子供たちと一緒に馬に乗ったり、釣りに行ったり、川で泳いだりしたことだろう。教会や学校でこそ、黒人の子供たちとは別々ではあったが。

 それから何十年間かが過ぎて、ジミーの父が癌で死んだとき、それまで十年間を海軍で過し、着実に高級将校への道を進んでいたいた彼は、妻ロザリンの反対を押し切って、ピ―ナツ農場を経営するためにこの田舎町へ帰る決心をする。それが一九五三年であったことは、その後の彼の人間形成に決定的な影響を与えたといわなければならない。というのは、翌五四年になるとラルフ・マッギルがアーカンソー大学で新しい人間関係の時代が目前に迫ったことを予言し、最高裁はその予言通り共学の判決を下し、キングが北部を代表する都市ボストンから"ディクシーのハート"といわれるアラバマ州モントゴメリーの教会に着任しているからである。

 ジャーナリストと牧師と政治家、この三人を私はそれほど無理に結びつけようとは思わない。しかしキング・ジュニアがメンフィスで凶弾に倒れてから五ヵ月たったとき、傷心に沈む父のキング・シニアのもとに私たちを連れていってくれたのは、他ならぬラルフ・マッギルであった。アトランタのエベニーザ・バプチスト教会の奥まった一室で、小さな窓から流れてくる淡い光に包まれ、キング・シニアはうなだれて座っていた。ラルフが死んでから私たちはその教会へ通うようになり、何回もキング・シニアの説教を聞いた。彼はそれからしだいに生気をとり戻した。そしていま私は、ジミー・カーターについて書かれた何冊かの伝記のなかに、大統領選挙戦の最中、ジミーとキング・シニアが大勢の人びとの拍手に包まれて抱き合ったり、固く握手をし合ったりしている写真を見ることができるのだ。私の心のなかでは、どうしても自然の形でこの三人が結びつき、しかもその三人はそれぞれ違った分野で、ニューサウスを形成するための重要な役割を果たしてきたように思えるのである。

 ラルフ・マッギルは一生南部と南部人を愛し続けた。そして深く愛しているからこそ、そのなかにひそむ人間の尊厳や平等についての不公正をを激しく憎んだ。キング・ジュニアが暗殺されたとき、彼は「非暴力を唱える指導者が、暴力で倒された。獣が人間を殺したのだ」と書いている。そのキングは圧倒的多数から信頼を集めていたばかりでなく、進歩的な白人層からも支持されていたので、人種間融和の象徴として、もしそれほど遠くない将来に黒人が副大統領に選ばれるようなチャンスがあったら、それは彼をおいて他にはいない、というのが多くの人びとの一致した意見であった。

 ついでにいうと、「もしあなたの支持する政党が大統領候補に黒人を選んだ場合、あなたはその黒人に投票しますか」というギャラップ世論調査の結果をみると、「投票する」と答えた者の比率は、一九五八年(三八パーセント)、六三年(四七)、六五年(五九)、六七年(五四)、六九年(六七)、七一年(六九)と着実に伸びている。このうち一九六九年(六七)の地域別内訳をみると、東部(七四)、中西部(七一)、西部(七四)に対して、南部はまだ五二パーセントで、一番大きな抵抗を示している。

 とにかくラルフ・マッギルとキング・ジュニアは、ニューサウスが十分に花開く前の胎動期にこの世を去った。キングの暗殺は六八年四月、ラルフの病没は六九年二月。これに対してジミー・カーターのジョージア州知事当選は、僅かに遅れて七〇年一一月である――。

 ジョージアをおおう盛夏の空に、朝降っていた雨の名残のような白い雲が、いくつかぽっかりと浮かんでいた。アトランタへ戻る車のなかから、私たちは松の林がとぎれて畑がのびのびと広がっているのをあちらこちらで見た。その多くはピーナツ畑だったが、なかには綿花や大豆の畑も少なくなかった。そういう深南部の風景がくり返し私の頭のなかに刻みこまれるにつれて、ジミー・カーターが黒人差別の団体へ加わるのを断ったり、教会へ黒人が加入することに賛成したり、知事になってから副知事の反対をおしきって、キング・ジュニアの写真を州庁舎に掲げさせたりしたのは、みな彼の少年時代からの素朴な生活感覚によるものであろうと思われてきた。

 考えてみれば、これはすべて人権の問題である。黒人があらゆる点で白人と平等なアメリカ市民であることを認めるかどうか、という問題である。もともと彼は、その問題がもっとも社会を騒がせていた時代の南部でその人生の大半を過してきた以上、これは彼にとって避けて通ることのできないものであった。おそらく彼の人権外交という発想のなかにも、戦略的な必要性の他に、少年時代から自然に養われた生活感覚が、なおまぎれなくもなく生き続けているのではないだろうか。

※参考:猿谷 要『アメリカ歴史の旅』 P.153 「ニューサウスはアメリカを救えるか」

※参考:松尾弌之『大統領の英語』 P.163 「カーター 率直さと細かさ」

2025.05.10 記す

  アメリカ南部・日本・世界 P.189

  強い日射しを浴びて、若い女性が二人パプコーンを売っている。それがちょうどアパートメントの角なので、外へ出るたびにその前を通らなければならない。あるとき足をとめて一袋買おうと吸うと、お金を受け取らなかった。実はある金融機関のコマーシャルに雇われて、通行人にパプコーンの袋を渡すというnアルバイトの仕事をしていたのである。二人とも高校二年生だった。私たちが簡単な自己紹介をして、「帰りに部屋へよって、話でもしていきませんか」というと、二人はたちまち好奇心に駆られた顔つきになりながらも、

 「そうね、今日家に帰ってから両親によく相談して、明日ご返事するようにします」

という。そして両親のOKをとり、翌日の午後、約束の時間ぴったりに私たちの部屋のドアをノックした。こちらの質問に応じて、

 「今までは十四歳から十八歳くらいまでの間に初体験をする女子生徒がおおかったけれど、最近では少し遅くなってきたいみたい」とか、

 「白人と黒人が結婚するのは、それほど変だと思いません。理屈ではよく分りますから。だけど自分のことになると、そう簡単には踏み切れません。だって、子供が幸福になれるかしらって、心配ですもの」

などと、どきりとするような話をしながらも、態度はいたってつつしまやかった。生れてはじめておせんべいを齧りながら眼を丸くして驚き、おそるおそる日本茶を飲んで帰っていつた。

 私はウイリーさんが、「南部人は男も女も、一般に内気で、恥ずかしがり屋なんですよ」といったのを思い出した。六九年から七〇にかけてエモリ―大学に滞在していたとき、一番仲よくなったのがこの南北戦争の権威で、明るく闊達なこの教授はたびたび私たちを呼んでくれたり、授業のあと私のアパートメントに寄ったりして、会えば必ずバーボンかスコッチになった。そんなとき、ウイリーさんはよく南部気質について話をしてくれた。すると私はそれが日本人と似ていることに気がつき、話はやがてアメリカの南部と日本の意外な類似点の発見というふうに広がっていくのだった。

 そのころウイリーさんもまだ日本を訪ねたことはなかったし、私もエモリ―大学の歴史学部で受けいれられた最初の日本人であった。日本のジャーナリストはほとんどワシントンやニューヨークに住んでいた。日本の教授や学生も、たいてい北東部の名門校に籍をおいていた。そういう私自身も、アトランタのエモリ―大学へくるまでは、ニューヨークのコロンビア大学にいたのだ。日本の商社マンたちも、その大部分がニューヨークかカルフォルニアに住んでいた。南部と日本の距離はあまりにも遠く、私はアメリカのなかのまた別の国に住んでいるのではないかと思ったほどである。

 それだけに、その南部と日本がかなり似ている点があることに気がついたときは、私も新しい発見をしたように驚いた。しかしワイリーさんとたびたび話しあったり、南部での生活をくり返したりしているうちに、しだいにはっきりとした形が私の頭のなかで出来上がるようになってきた。

 第一、気候がよく似ている。すでに何度か触れたように、温度や湿度は北部や西部に比べて、比較にならないくらい日本に似ていた。夏から秋にかけてメキシコ湾から上陸してくるハリケーンは、日本が避けることのできない台風とまったく同じもので、おそらくその猛威にさらされる住民の心理状態は、日本と南部の間に差があるはずがないであろう。

 気候が似ていれば当然風土も似ているはずで、これが北部や中西部だと高層建築の連続か、広々とした小麦畑、トウモロコシ畑、大豆畑の連続となる。西部はいくら走っても抜け出られないほどの砂漠か、荒野か、高原か、荒々しい岩山の連続である。しかしここ南部では、雨に恵まれてよく伸びた林の間に、比較的狭い空間だけが切り開かれていて、小ぢんまりとした畑になっていたりする。山はたいていなだらかで、頂上まで深い樹木に包まれ、西部の山やまのような荒々しさはない。海岸線も変化に富んで美しい。テレビ映画『ルーツ』のなかで、クンタ・キンテがアフリカのガンビアで捕えられるシーンは、ジョージア州サヴァンナ郊外の海岸でロケーションを行ったそうだが、ここから北にひろがる両カロライナの海岸や、南に伸びるフロリダの海岸は、ふと日本を思い出させてしまうほどである。

 農業国から急速に工業国に変わりはじめ、その結果人口の都市化が進んでいることも共通点ではあるが、これだけは日本の方が遥かにテンポが早い。南部はこれから工業化という問題で日本の後を追うことになるだろうが、公害に気がついてその対策にとり組んだ点になると、先輩後輩の地位は逆転するのではないだろうか。レイチェル・カーソンという一人の女性が公害を指摘した名著『沈黙の春』を出版したのは、一九六二年のことである。このなかで彼女は南部各地にも多様な形で公害が広がっていることを具体的な形で明らかにし、今すぐにも対策に着手するように警告を発している。

※参考:『沈黙の春』(ちんもくのはる、Silent Spring, ISBN 978-4102074015)は、1962年に出版されたレイチェル・カーソンの著書。DDTを始めとする殺虫剤や農薬などの化学物質の危険性を訴えた作品。タイトルの沈黙の春とは、鳥達が鳴かなくなって生き物の出す音の無い春という冒頭の状況を表している。(黒崎写)

 南部と日本の共通点のなかに、遠来の客を丁寧にもてなす習慣をあげてもいいだろう。サザン・ホスタビリティという言葉は全米的に有名で、私はアトランタへ来たびに、オリヴィアやグレイス、それにルイーズなどにその典型を見る思いがする。オリヴィアは私たちの食べたいものをあらかじめ手紙に書かせて、それをふんだんに用意して待っているし、グレイスは顔が広いので、会えば私が喜びそうなジャーナリストや学者と会う約束をとりつけてくれたり、パーティに一緒に呼んでくれたりする。政治家や経済人に顔のきくルイーズも、何か手伝うことはないだろうか、といつも電話をかけてくる。これに比べると、北部の生活はもっとビジネスライクに割り切っている。西部には西部特有のホスピタリティがあるけれども、南部のそれには、まつわりつくような濃厚さがあって、もし大雑把な表現を許してもらえるなら、北部生活が知、西部の生活が意であるのに対して、南部の生活は情であるといえるのではないだろうか。日本の演歌をよく理解できるアメリカ人がいるとすれば、おそらくそれは南部人であるにちがいない。

 思えば南部のホスタビリティは、長い間南部人が他の地域、とくに北部に対して被害者意識をもち続けていたことと無関係ではないであろう。奴隷制度の時代には北部の奴隷解放論者たちが、南北戦争の最中には北部の軍隊が、再建の時代には北部から流れこんできた利権漁り屋が、金融資本の時代にはウォール・ストリートの手先が、その他時代を問わずダーウインの進化論や、無神論論者、共産主義者などが南部人を脅かしてきた。いや、脅かされてきたという意識を南部人はずっと抱いてきたのである。このことが、自分を脅かさない者に対する手厚いホスピタリティとなったのではないだろうか。

 黒人革命が深南部の一角から始まったとき、黒人ばかりか北部や西部から応援にかけつけた白人の公民権運動家に対して多くの南部白人が激しい憎悪と敵意をむきだしにしたのも、この長い歳月にわたる被害者延長上にあったものと考えられる。私たちがグレイスやオリヴィアから受けるのは、それとは違ったグループ内部のホスタビリティなのであろう。

 日本の場合のホスビタリティは、多分周囲を海に囲まれているという特殊な環境によるものである。海の外から來るものは、外敵でさえなければ、必ず珍客である。珍しい客が珍しい文化を持ってくれば、それを精一杯吸収しようとする。そのときホスピたちティが厚くなるのは当然のことである。

 また、ヨコ社会のアメリカ、タテ社会の日本ということが今では常識になっているが、もしアメリカのなかで少しでもタテ社会の要素がある地域を探すとすれば、おそらくそれは南部であろう。大体南部には植民地時代から social ladder という言葉があって、上はイギリス本国から派遣されてくる総督、下は黒人奴隷、その間に高級官吏、大プランテイションの所有者、土地投機業者、牧師、医者、教師、自営開拓農民、中小の商人、年期契約の労務者などの階層が、梯子のように並んでタテ社会を形成していたのである。奴隷以外は、これらの階層の間の流動性がきわめて高かったことは事実であるが。

 詳しくのべる余裕はないけれども、この事実と、一九六四年の公民権法が成立するまでは、白人と黒人の生活が別であったという事実、それに白人同士、黒人同士のなかでも貧富の差が非常に大きいという事実などを合わせて考えれば、タテ社会的思考の名残が南部で他の地域よりも強いということは、ある程度理解できるのではないだろうか。

 家族の結びつきが強いという点も、類似点のなかに加えることができそうに思う。私が訳したシャーリー・アン・グロウの小説には古い家族の連帯感がよく表現されていた。なにしろ原著のタイトルは"The Keepers of the House" なのである。グレイスはいま身動きが不自由になりはじめた母親と一緒に生活しているし、オリヴィアも自分が働きながら、八十何歳かで母親が亡くなるまで、あまり大きくはない自分の家でその面倒をみていた。私は両親との同居率を地域別に調査したわけではないし、日本でも周知のように核家族化が進んではいる。しかし相対的にいうと、やはり家族中心の考え方、家族同士の結びつきの強さは、南部と日本の思いがけない類似点としてあげることができるようだ。

 最後に、そしてこれがもっとも大切な点だと思われるが、南部も日本もともに戦争に敗れた経験をもっている。戦場で負けて、自分の土地を占領されたということだけではなく、それまで自分が信じていた大義がそのとき滅んだのである。この打撃から抜け出るまでに、南部は日本より遥かに長い歳月を要した。敗北感は劣等感を生み、劣等感は罪悪感さえ生みだした。控え目で、内気で、恥ずかしがり屋という性格は、この点と決して無関係ではないだろう。

 私たち日本人が今まで見ていたアメリカは、負けたことを知らない北部であった。北部の価値観がアメリカを代表していた。北部を表とすれば、支部はワキであり、南部は裏であった。北部が正であれば、南部は負であり、北部が陽であれば、南部は陰であった。この点をさらにおしすすめれば、南部文学と日本文学の間にも、なんらかの類似点を見出すことができるに違いない。

 ワイリーさんがエモリ―大学を退職したあと、ダン・カーターという新進の歴史学者がその後を継ぎ、同じ研究室に入っている。一九六九年に『スコッチボロー事件』という分厚な著書を発表し、たちまち世評を集めた人である。そのカーター夫妻が、アトランタを離れる三日前、私たちを夕食に招いてくれた。キャンパスの近くの、鬱蒼とした樹木の立ち並ぶすばらしい住宅街である。彼は建築業者の息子なので、この古い邸を三年前に五万ドルで買い、自分で一部屋増築したのだという。

 「五万ドル?」

と私たちは眼をむいて驚いた。南部の物価は平均して他よりも安いけれども、アトランタの郊外でこの邸が五万ドルとは、やはり信じられない気持だった。やがて顔見知りの教授夫妻が何組かやってきて、初秋の気配が漂いはじめたテラスに出て、片手でグラスを傾けながら、やはり南部と日本の話に花が咲いた。一通り話が終りかけた頃、志満が突然大きな声でいった。

 「皆さん、南部と日本の間には、いろいろと似ていることがありますけれど、大切なことを一つ忘れているようですね。それは、南部にも日本にも、美人が多いといことです。それを、女である私にいわせるようでは駄目ですね」

 どっと笑いが起って、なかにはわざわざ志満の前まできて、脱帽の仕草までする教授もあった。たしかに南部でとくに美しいものは。春のさかりのダッグウッドと、四季を問わない女性であるとされている。だからこのことは、私がいうべきだったのかもしれないが――。

 さて私はカーターさんと話しながら、ときどき同じ名前の大統領のことを考えていた。そのうち、もう一つの考えが頭のなかに生れてきた。そのとき口に出して話しあうまでには至らず、今もそのままこころのなかにくすぶり続けている。それは、この南部人こそ、北部人や西部人よりも、世界に有効な形で貢献できるのではなかろうか、という思いである。

 敗戦という経験のなかった北部人や西部人は、南部人ほど自己を反省するということを知らない。自分は絶対に正しいのだと信じこんでいるし、自分にとってよいものは、他人にとってもよいはずだと考え、相手の実情を無視して押し売りをする。アメリカが多くの国に経済援助や軍事援助を行いながらも、それを素直に感謝されず、時には反米感情さえ育てる結果になっているのは、北部式、西部式の善意の押し売りをしているからではないだろうか。ちょうどエリートコースだけを順調に歩いた人が、往々にして思いやりのない傲慢で自尊心の高い人間となり、表向きには頭を下げられても、内心では嫌われているという存在になりやすいのと同じではないか。

 私はラルフ・マッギルと会っているとき、いつも相手へのいたわりの心の深さに驚嘆した。相手が困らないように、相手が喜ぶように、先へ先へと気を配っているのである。おそらく、みずから挫折感を味わったことのある人間こそ、相手の心の痛みを理解するこができるのであろう。カーター大統領が人権外交をその政策の主な柱としたり、議会の猛烈な反対を覚悟しながら、あえてパナマ運河の返還を約束する新しい条約の合意に踏み切ったりしたのも、すべて相手の立場にも十分な苦慮は払う何部人の発想ではないだろうか。実は中南米諸国の反米感情はかなり強いものがあり、もとはといえばアメリカ自身がその種子を播いたのである。中南米すべての願望でもあるから、対米感情を好転させるためにも絶体必要な政策であるという考え方は、いかにも新しい南部人の発想にふさわしい。

 その上、アメリカの北部や西部も、初めてベトナムで敗戦という大きな傷を負ったわけである。つまり初めて傷を負った人たちが、昔受けた傷をやっと治した人を指導者に選んだのだ。もしそうならば、北部人も西部人も、今は南部人の考え方のほうにこそ、学ぶべき要素を見出しうるのではないか。それこそ、アメリカの南部化とよぶべきではないか。私の考えている通りならば、南部が脚光を浴びたこと、他の地域が南部に学ぼうとすることは、世界の国ぐにとって大きなプラスとなって作用する二違いない。もちろん政治は大統領一人だけによって動かされているのではないし、大きなプレッシャーやブレーキが、動にたいする反動としてたえず働きつづけるであろうが――。

2025.05.12 記す

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