![]() ★猿谷 要著 アメリカ南部の旅 1979年3月20日 第1刷発行 岩波新書 19879年4月3日 購入 プロローグ P.1 私たち夫婦を乗せたデルタ航空の旅客機は、アメリカ西部の町デンヴァ-を離陸してから二時間あまり東南東の方向にとび続けて、ようやく高度を下げはじめた。 その日の朝まで、私たちはワイルド・ウエストがまだ周辺にいくらでも残っているようなユタの州都ソルトレーク・シティに滞在していたのだが、そこから友人たちに見送られ、ウェスタン航空に一時間乗って、何度も自動車で越えたことのあるロッキーの大山脈を真下に見ながら、コロラドの州都デンヴァーに降りた。このさわやかな高原の町やその周辺にもかなり多くの友人がいるけれども、今回は南部の中心的な存在となったアトランタで一夏を過すすために、すぐデルタ航空に乗り換えて飛び立ったのである。 雨のあまり降らない西部の町デンヴァーでは、その時ほとんど雲らしい雲は湧いていなかった。しかしそれから時差の境界を二度も越えてジョージア州の上空にさしかかると、眼下は一面灰色の雲で蔽われ、飛行機はたちまちそのなかに突入して、まるでミルクのなかを泳いでいるような感じになってしまった。ちょうどその時、機内放送が耳に入ってくる。「アトランタの上空は曇り、気温は八三度(摂氏約二八度)。つい一時間ばかり前に、激しいサンダー・シャワーがありました」 今朝まで一週間ばかり滞在していたソルトレーク・シティのすぐ西側には、イスラエルの死海についで世界二番目に塩分が濃いという文字通りのソルトレークが横たわっていて、さらにそれから西の方は、私が一日中車で走り続けても横断できないほどの、ネヴァダの大砂漠地帯が広がっている。原爆の実験ができるほど、今でも荒涼とした人の気配のない死の世界である。ソルトレーク・シティの南にもまた、砂漠または半砂漠といってもいいような荒野が無限に連なっていた。それと比べると、私たちはいま雨と緑に恵まれた豊饒な別世界へ降り立とうとしているのだ。 飛行機が雲の底をつき抜けると、眼の前に迫った下界は一面の深い森だった。アマゾン川の流域を飛んでいるのだといわれてもそれほど不自然に思われないほど、それは太古のままのような黝い森の色で、しかもそれが見渡す限り続いている。 私はこの時になって、ポケットに入れておいた二通の手紙を取り出し、大急ぎでもう一度眼を通した。一通は「アトランタ・ジャーナル」紙に長年勤め、ある論説委員の秘書をしているミス・グレイス・ランディ。彼女とはもう十二年ごしのつきあいになる。年齢は聞いたことがないが、もう八十歳くらいになる母親との二人暮らしである。「あなたたちが着く日、仕事の方が忙しくて、去年のように空港まで迎えに行けないわ。その代り、家具付きのアパートメントはいくつか候補を探しておいたし、あなたが合いたい人、調べたい資料などはおよそ見当がついていますから、そちらの準備もしてあります」 もう一人は、ミセス・オリヴィア・ハリス。長い間ニモリ―大学の史学科で秘書をしていたが、今同大学で編集している『中部ヨーロッパ史』という学術雑誌のビジネス・マネージャーだった。一九六九年いらいのつきあいで、孫が一人いる年なのに、何をするのを見ても、女性らしさが溢れているような人である。そのオリヴィアの手紙にはこうあった。「アトランタに着いたら、アパートメントがきまるまで、私の家に泊まって下さいね。翌日は休みをとってあるから、一日中アパートメント探しに連れて廻るわ。私うれしくて、子供みたいにはしゃいでいるの」 私も妻の志満も、このグレイスとオリヴィアという二人の女性を通じて、アメリカの有能な秘書とは一体どんなものであるか、今まで十分に教えられてきた。一九七二年に私たちがオリヴィアの家に着いたとき、彼女は私たちが滞在する予定の約一週間のスケジュール一覧表を、すっかり作って待っていた。毎日昼食と夕食はすべて約束ができていて、その表には私が会いたいと思っていた人たちの名がすべて揃っていた。また去年の夏に滞在した一週間は、代ってグレイスがオリヴィアと電話で打ち合わせながら、さらにその他、アトランタ市長、黒人大学の学長、新聞社の論説委員などと会う予定まで、実にみごとに作ってくれたのである。おかげで私は毎回、短い滞在中には信じられないくらい、たくさんの仕事をこのアトランタですることができた。 この二人には、今度もまたずいぶん厄介になることだろう。こういう友人を何人も持っていることは、私たちにとってかけがいのない幸福といわなけばならないが、ふと気がつくと、私たちはもうこれで八回、このアトランタという町を訪ねたことになる。そのうち二回は長距離バスに乗って、二回は私自身が運転して、あとはこうして飛行機でこの町にやってきた。短い時は数日間、長い時は半年あまり、私たちはこの町に住んだことになる。 アトランタの町の中央に林立する巨大なビルのスカイラインが、窓の向う遠く見えてきた。窓ぎわに座っていた志満が、この時突然大きな声をあげた。「あっ、大変、これはきっとニアミスよ。大丈夫かしら」 なるほど、すぐ右側に同じデルタ航空の旅客機が、同じ方向に向って飛んでいる。着陸姿勢に入っていることも同じだし、高度もスピードもまったく同じなのだ。私も少しばかり心配になってきた。まさか両方とも気がつかずに飛んでいるわけではないのだろうが、万一そうだとすれば、一本の滑走路をめざしてやがて両機は接触し、お互いに空中分解をしてしまうだろう。もし最後まで並行して飛び続け、そのまま同時に別々の滑走路に着陸するとすれば、いつのまにかこのアトランタ空港はよほど巨大な規模に発展してしまったに違いない。市の中心部から車でニ、三十分の距離にあるアトランタ・ハーツフィールド国際空港は、私たちが一冬を過した一九六九年頃すでに、シカゴのオヘヤ空港、ニューヨークのケネディ空港、ロスアンゼルスの国際空港に次いで、飛行機の離着陸数が全米四位にのし上っていたのである。 そんな心配をしていたのは私たちだけで、デルタ航空の二機はかなり離れた滑走路にほとんど同時に着陸した。窓から外を見ると、あちらにもこちらにも滑走路が縦横に伸びていて、巨大なジャンボ旅客機が次から次へ休むことなく舞い上り、舞い降りて、しかも何台かのブルドーザが、たえまなく新しい滑走路の建設に動きまわっている。一歩空港の外に出て、また驚いた。去年もたしかにそうだったが、次ぎつぎに吐き出されてくる乗客を空港の前でピックアップしようとする車の数が、二車線の道路二つ、計四車線に並んでも動きがとれないほどの混雑ぶりである。かつてののんびりした南部のムードが、ここではまったく見当らなかった。荷物を持って忙しく往来するひとたちの群れは、明らかに雑踏や喧噪が生みだす一種の興奮状態をつくりだしていた。 後になって人から聞いたところによると、この空港の離着陸数はシカゴに次いでいまや全米第二位となり、しかもなお規模を拡張中で、今後数年間のうちに全米最大になるのを目指しているのだという。今ではロンドンやベルギーの首都ブリュッセルへ直行便が飛んで、国際空港としての性格を強めている。しかしその後八月二日付と六日付の「アトランタ・ジャーナル」紙には、白い囚人の服を着て騒音反対のプラカードを持った人たちが、大勢シティ・ホールの周囲をとり巻いている写真が載った。空港のすぐ西側のカレッジ・パーク地域に住む市民たちで、ちょうど離着陸のコースの真下にあたるため、騒音はもう耐えられる限度を越えているとして、自分たちを「アトランタ空港の囚人」にみたてているのだった。この人たちは家を売って立ち退こうとしても、足許をみられて安く値切られてしまうので、市当局にこの周辺の家を買い上げてもらいたいのだという。空港のすぐ東側にあるマウンテン・ヴュー地域では、以前に一部の家を市が買い上げたという前例があるためである。しかしアトランタ最初の黒人市長として評判の高いメイナード・ジャクソンも、住民代表と面会はしたものの、まだ解決策は見出していない。 空港から周囲を眺めると、ダウンタウンに向かう北側を除いては、これが南部を代表する大都市かと思うほど、建物がまばらに見えるだけで、一面に緑が濃い。そのアトランタでさえこういう騒ぎが起こるのだから、これと比べると、家並みのなかへ着陸し、家並みのなかから離陸しているような日本の空港、たとえば大阪空港などで、騒音反対の運動が起こらない方が不思議である。日本では住民運動が一般にアメリカほど強くないが、そういう理由だけでではなく、満員電車そのもののような日本列島のなかに住んでいると、公害のひどさにもいつのまにか、ある程度慣らされてしまうのではないか。 その夜はオリヴィアの家に泊めてもらうことになっていたが、あいにく彼女の家は空港の反対側、ダウンタウンから見ると東北の方向の、市の出外れのところにある。そこで私たちはダウンタウンに向かうリムジンに一人三ドルずつ払って乗りこみ、それからあとはタクシーを拾った。見慣れた道路や建物を懐かしく思い出しながら眺めているうちに、無造作にジーンズを着ていた私も志満も、べっとり汗をかいているのに気がついた。私たちは今まで何回も、西部の各地をそのつど何週間もかけてドライヴして廻ったことがあるが、全米的な暑さで知られているアリゾナの砂漠の町トゥーサンでも、カルフォルニアの炎熱の町フレズノでも、およそ汗をかくようなことは一度もなかった。それどころか、翌朝早く出発しようとして前の晩におにぎりなど作っておいたりすると、翌日の昼にはもう歯が立たないほど乾いて、ぼろぼろになっていた。ところがこの南部では、ちょうど日本と同じように、むっとするほどの湿度の高さをまず感じさせてしまうのである。 私がアメリカの南部に対してある親近感を抱くのは、この気候の類似性を心のどこかで感じているせいかもしれない。少し極端にいえば、日本ともっとも気候の似ている外国は、おそらくこのアメリカ南部ではないだろうか。日本人なら誰でもすぐ慣れるような、適当な暑さと寒さ、高い湿度、なだらかなアパラチアの山容、変化に富んだ海岸線、背の高い松の林――かってこのアトランタ郊外で一冬を過したとき、私たちの住んでいたアパートメントの裏に広がっている松林がうっすらと淡い白雪に蔽われたことがあって、そのまま水墨画になるのではないかと思ったほどである。 実際このジョージアには、赤い土の上にするすると垂直に伸びた松の林が多く、オリヴィアの家もそういう環境のなかに建っている。私たちがその家の前で車から降りると、なかから小柄な彼女が転がるように走り出してきて、ものもいわず、いきなり志満をしっかり抱きしめた。それがオリヴィアの、一年ぶりの挨拶であった。家の中のことは、何回か泊めてもらったこともあるので、手にとるように分かっている。典型的な中産階級の中くらいの家で、ニ、三年前まで同居していた彼女の母親が亡くなってからは、テキサスに住んでいる一人娘の家族を時おり訪ねるだけで、あとは保険会社に勤める夫のビルと二人暮らしである。 翌日、彼女の活躍はめざましかった。まず初めに、私たちが一夏車を借りることになっているチャンプリー・トヨタの店まで車を走らせた。ビル・オットーという初老のずんぐりしたボスが、私から受けとった手紙を持って出てきた。「待っていましたよ。さあ、あれをお使い下さい」彼の指す方を見ると、真白なコロナの新車が一台、事務所のわきに置いてある。私たちがアトランタで暮らしていた一昔前、ヴァリアントという車に乗っていた頃は、太平洋岸はともかく、この南部で日本車を見かけることは少なかったが、いまではもうオリヴィア自身がカローラに乗っているのだ。「何年か前、あなたたちが中古のコロナでアメリカを一周したでしょ。あれを見てから、日本車を買うつもりになったのよ」 私がドル安になってから日本車が売りにくいのではないかとそのボスに聞いてみると、彼は少し真剣な顔つきになって答えた。「実は昨日もあるテレビ局が同じ質問をしに来ましてね。ところが奇妙なことに、今年の上半期は今までにないほどよく売れたんですよ。故障が少ないのと、アフターサービスがいいこと、これが決め手ですな。しかしこう値段が上がったんでは、これからが大問題です」 借りたコロナは一旦オリヴィアの家に置き、私たちは彼女の車に乗せてもらって、エモリ―大学近くのアパートメントを見にいった。松林に囲まれた静かな環境だが、これは志満が気にいらなかった。キチンが共通で、食べものも大きな冷蔵庫にみな一緒につめこんで使っているからだった。それから三人は、「アトランタ・ジャーナル」紙のオフィスから抜け出してきたグレイスとダウンタウンで落ちあい、南部最高のの建物、ホテルとしては世界で最高といわれる円筒形七十階建てのピーチトリ―・ブラザ・ホテルに入り、地下のしゃれたレストランで昼食をとった。去年も会ったというのに、グレイスはずっと長いこと会わなかった人でもみるようなキラキラした目付きで、私たちを交互にしっかり抱きしめた。 オリヴィアは私たちと話しているとき、つとめて南部なまりを出さないように注意しているようだが、彼女の夫のビルや、それにグレイスとくると、その独特の強い南部なまりに、毎度のことながら私たちはたじろいでしまうのである。とくに中年女性の南部弁は、ときにニャーとかニョ―とか、まるで猫がふざけ合っているのではないかと思うほどの発音がしきりに入ってくる。かつてグレイスと電話で話をしていて、「あなたの探している人は、いまアトランタにはいないわ。引退してマイアマに住んでいるはずよ」といわれたことがある。私はやっと彼女のいうマイアマがフロリダ州のマイアミのことだと気がついて、その時から南部なまりが分かりかけたように思ったものだが、一年ぶりにいまグレイスの油の上を滑るような話し方を聞いていると、また深南部(Deep South)に来たのだという思いが急に高まって、かすかに血の騒ぐのを感じた。 午後はまたオリヴィアがグレイスの推薦するアパートメントへ連れていってくれたが、今度は志満がたちまち気にいってしまった。ダウンタウンの北の一角に二十数階建ての巨体を誇っているピーチトリ―・タワーズというアパートメントで、斜め向き合いのブロックにはハイアット・リジェンシーという豪華なホテルが建っている。ダウンタウンのどこへでも歩いていける便利な場所で、設備や保安も申し分なかった。ロビーの一角には電話ボックスのようなコーナーがあって、別の入り口までテレビの画面を通して監視できるようになっており、でっぷりした黒人がいつもその画面をみつめ、顔見知りの住人には片手をあげ、にっこり笑って挨拶を送っていた。 最初に案内された二十一階の部屋では、高所恐怖症の志満が動けなくなってしまい、北向きの三階の部屋に入ることにした。日本式にいうと、十五畳くらいの居間、十畳くらいの寝室、それにかなり広いキチンとバスルーム、さらに押入れにあたるクローゼットが三ヵ所もついていた。テレビ(月二〇ドル)と電話は別の計算になるが、なかなか立派な家具が揃っていて、これで一ヵ月三〇〇ドルだという。サンフランシスコのホリデイ・インで一泊六二ドルも払わせられた後なので、これだけの広さ、便利さで一泊一〇ドルという計算は、ほとんど信じられない安さである。もっともここはホテルでないから、滞在期間一ヵ月とう規則あるそうだが、室内の清掃やシーツの交換など、メイドがごく安い金額でしてくれることになっているから、実質的にはホテルよりも便利といえるだろう。 堂々たる体格のジェシーという女性のマネジャーとすべての契約をすませて、オリヴィアの家に戻った。部屋のキイも渡されていたのでアパートメントへ移りたいという志満の言葉を聞いて、オリヴィアは休む間もなく、台所用品を数えきれないほどいくつもの袋につめてくれた。「欲しいものがあったら、なんでも取りに来てね。大学の図書館も、すぐ使えるように手続きはすんでいるの。毎日でもあなたたちの顔を見ていたいくらいだわ」そういって彼女は、つかの間の別れを惜しんだ。 さてそれから三十分ばかりドライヴして町の中心に戻り、荷物を下してこれから一夏を過すことになった建物のロビーに入ると、ちょっとばかり私たちを驚かせることがそこに待っていた。志満は両手に一杯の荷物を抱えて私より先にエレべーターの前へ歩いていったが、いきなり「あっ」と叫んだまま、棒をのんだように立ち止まってしまったのである。見ると彼女の前にも、ロビーの一角を占めているマーケットから食料品の袋を抱えて出てきた女性が、両眼を大きく開いたまま、これもまたあっけにとられて立っているのだ。その一瞬間が過ぎ去ると、二人とも袋を床に置くなり、なにか奇妙な声をあげあいながらしっかり抱き合った。 彼女の名は、ミセス・ルイーズ・サックス。一九六六年にジョージア州知事選挙のときに知り合って以来の仲で、今ではアトランタに各種団体の全米大会を招致する重要な仕事をしていた。自称、コンベンション・ガールズである。もちろんアトランタンへ来るたびに私たちはこのルイーズと会っているし、昨年は彼女がシンガポールへ出張した帰り道、初めて日本にも立ち寄ったので、一緒に銀座で天ぷらを食べたりした。ルイーズの言葉も、彼女がフランス生まれなので、フランスなまりがとれず分かりにくい。彼女の家がカーター大統領の生れ故郷プレインズからそう遠くない小さな町にあり、週末には必ずここに戻ることを知ってはいたが、普段はこのアパートメントで暮らしていることを、私たちはまったくその時まで知らないでいた。しかしこれも後になって分ったのだが、私たちとルイーズと仲がいいことを知っているグレイスが、そのこともあってこのアパートメントを選んでおいてくれたらしいのである。 こうして私たちは、このニ、三年来急に全米の注目を浴びるようになってきた南部という存在について、自分の眼でしっかり確かめてみようという今度の旅を、幸先のよいスタートで飾ることができたのである。 ※余談:2025.05.05:MLB「アトランタ・ブレーブス」を知った。 2025.05.08 記す
アトランタの変貌 P.15 グレイスがこのアパートメントを私たちにすすめたとき、彼女の心のなかには多少の躊躇があったようだ。というのは、ちょうどこの建物の前まで地下鉄の工事が進んできていて、日中はさぞ騒音に悩まされるのではないかと心配したからである。 アトランタを南北に貫くもっとも有名な街路が、ピーチトリ―・ストリートだった。ダウンタウンの主なオフィスやデパート、ホテルなどは、たいていこの道路の両側を華やかに飾って建っている。この道が北へ向ってウェスト・ピーチトリ―・ストリートと二つに分かれる場所にわがピーチトリ―・タワズが聳えている。地下鉄工事はこのウェスト・ピーチトリ―に沿って、ちょうど眼の前まで南下してきている。夏時間の七時というと、太陽がちょうど昇りはじめる頃だが、その時間から毎朝正確に巨大な機械がうなりをあげて動き始めた。幸い建物全体が完全に冷房されていたので、どの窓も開けずにすみ、騒音がそれほど部屋のなかに入ってくることはなかったし、それに日中私たちはエモリ―大学の美しい森に囲まれた白亜の図書館に閉じこもるか、人に会ったり史跡を訪ねたりしてとび廻っていたので、地下鉄工事をグレイスが心配するほどうるさいと思ったことは一度もなかった。これもまた、東京の都心に近い喧噪のなかに住んでいる私たちの神経のせいであろうか。 それより私は、ねぼけ眼でベッドから起きてみると、毎朝七時にはきちんと仕事を始めている正確さに驚いた。そして何よりも私は、この田園的なイメージの強い南部の都市に、いま地下鉄が建設されているという事実を、初めはほとんど信じることができないほどであった。私は南部から帰ったあと、一九七〇年の秋に、「東部や五大湖地方にあるたくさんの都市とは違って、アトランタでさえダウンタウンから十分も車を走らせば、美しいマグノリアやダッグウッドの森が両側にひろがるのを見ることができるし、濡れた草の匂いをかぐことができる」と書いたほどである。その町に、いま地下鉄工事が始まっていようとは! 週末を除いて、毎日朝になるとすぐ眼の前でトラクターのような車が赤い土をどんどん運び出したり、白人や黒人の工夫たちがヘルメットを頭にかぶって動き廻っている光景を、私はいやでも眺めなければならない。過去の幻影にしがみつきがちな歴史家としての私に、神は変貌する現状を知らせようとしてこの部屋を選ばせたのではないか――ふとそんな気持ちを起こさせるほどの場所に、私は住みつくことになってしまったのである。 ともかくこれは、南部最初の地下鉄として長く歴史に記録されることだろう。ピーチトリ―・ストリートに沿って何枚かの写真が並んでいるが、それはこのアトランタで輸送機関がどのように変化してきたかを示していた。まず馬車、ついで鉄道、それからバス。それがいまや、地下鉄にとって代わられようとしているのである。しかしそれは、アメリカ南部の地下鉄という輝かしい栄誉を担うのだ。 しかし、ある人はいうかもしれない。ワシントン・D・Cに一足早く地下鉄ができたではないかと。たしかに、その通りかもしれない。もしワシントンを南部のなかに入れるならば――。そのワシントンを北と東から包むような形になっているのがメリーランド州であるが、奴隷制度を実施していながら南北戦争の時には最後まで中立を守ったこの州がどちらになるのか、私は長い間疑問に思っていた。数年前メリーランド州の大学教授夫妻に東京で会ったとき、私はその疑問をぶつけてみた。すると奥さんの方はひときわ胸を張るようにして、「私たちメリーランドに住んでいる者は、今でも誇り高き南部人よ」と答えたものである。そうだとすると、メリーランドの一部よりも南にあたるワシントンも、当然南部ということになるのだろう。しかし、いうまでもなく南北戦争当時、北部の連邦軍を指揮したリンカーン大統領は、そのワシントンのなかにいたのである。 ということになると、一体南部とはどの部分をいうのか、一応考えておかなければならないが、実はこれがなかなか厄介なのである。普通アメリカでで南部というのは、国土の南半分にあたる地域をいうのではない。この南半分という概念については、後に触れることにして、いわゆる南部の地域については、南北戦争の時の南部、という規定が一つの基準になるだろう。つまり合衆国から脱退し、USAに対してCSA(南部連合国)を形成した一一州である。その州名をあげると、まずワシントンからポトマック川を距てただけのヴァジニアからはじまり、ノースカロライナ、サウスカロライナ、テネシー、アーカソン、ジョージア、フロリダ、アラバマ、ミシシッピ、ルイジアナ、テキサスということになる。ちなみに、南北戦争が始まった当時、南部連合国の首都はアラバマ州モントゴメリーだったが、やがてヴァジニア州リッチモンドに移った。現在、車でワシントンから二時間も走れば到着してしまうほど、南部全体からみれば北に偏した場所である。 さてこの南部連合国の一一州に対して、さらにケンタッキーとオクラホマを加えた一三州が、ギャラップの世論調査で使っている南部の範囲である。これは全米を僅か四つの地域に分けてあるだけであるから、次にあげておこう。東部(East)、中西部(Midwest)、南部(South)、西部(West)。私の実感からいえば、広大な西部のうち、太平洋岸のワシントン、オレゴン、カルフォルニアの三州を切り離して別の区域とした方が、現実の姿に近いのではないかと思われる。 南部連合国として合衆国と戦った一一州の他にも、奴隷制度を実施していた州が多少あった。デラウェア、メリーランド、ケンタッキー、ミズーリ、それに南北戦争中のヴァジニアから独立して新しい州となったウェストヴァジニア。南部の特性として黒人の奴隷を認めていたという点に重きをおけば、これらの州を加えた地域全体を南部とよぶべきであろう。「メリーランド人は南部人よ」といった女性の言葉は、この分類に従ったときよく理解できおるものである。 しかし、この分類でもワシントン・D・Cは入っていない。それではこの首都ワシントンを南部に入れるような分類があるのかというと、実は一つだけそういう考え方の基準があるのである。それは奴隷制度の場合と同じように、解放されたあとの黒人たちをどのように取り扱ってきたかという基準である。一九五四年に合衆国最高裁判所は公立学校における白人と黒人の分離教育を憲法違反とする判決を下したが、その時まで現実にそのような人種別の分離教育を実施していた州は、単に教育という分野だけでなく、選挙権、交通機関、その他の日常生活すべての点でも、多かれ少なかれ黒人を分離する制度を維持してきた。従って、その象徴としての分離教育を強制的に行なっていた州を南部として限定する考えも十分に成立することになる。この分類に従えば、かつて奴隷制度を実施していた前記一六州の他に、オクラホマとワシントン・D・Cをさらにつけ加えなければならない。こうしてワシントンが加わることになると、アトランタの地下鉄は南部最初のものと自慢することができなくなる。 これは南部をもっとも広く考えたときの分類であるが、これからミズーリだけを除いた地域が、国勢調査のときに南部として取り扱われる地域である。 いずれにしても、これらの地域は深南部(Deep South)とよばれ、サウスカロライナ、それにこのアトランタがあるジョージア、さらにアラバマ、ミシシッピ、ルイジアナの五州がこれに当たっている。この五州の中央部になるアラバマがみずから Heart of Dixie と名乗って、自動車のナンバー・プレート(タッグ)にその文字を刻んでいるのは、地理的にも十分な妥当性があることになる。 この深南部に隣接している州を「周辺南部」(Peripheral South)といったり、この範囲をさらに北へ拡大して「高南部」(Upper South)とよんだり、さらに北部諸州と隣接している地域を「境界南部」(Border South)または「境界諸州」(Border States)といったりしている。これらの表現にはかなりあいまいな点があり、お互いに重複していたり、時には主観的な要素が入ってきたりする。とくにこの主観的な要素という問題はかなり微妙なニュアンスをもっていて、場合によってはそれが決定的な役割をはたすことになるのだ。 たとえば、メリーランドに住んでいる人について考えてみると、もしその人が父の代に南のヴァジニアから移ってきたのであれば南部人という意識を強く持っているろおうし、逆に北のニューヨークから引越してきた場合には、自分をヤンキーだと考えているだろう。さらにまた、祖先の系譜によって決めるのではなく、本人の意識だけで決定される場合も少なくない。とくに境界諸州のような場所では、自分が南部的信条を正しいと思っていれば南部人であり、それに反対しているようなときは北部人といえるだろう。南部戦争の時でさえ、アパラチア山脈寄りのケンタッキーやテネシーなどには、北軍びいきの住民たちが少なからずいたのである。逆にまたオハイオ川だけを距てて奴隷州ケンタッキーと向かいあっている北部のイリノイ州では、リンカーンが上院議員の椅子をスティーヴン・ダグラスと争ったとき、州内各地の討論会で彼は微妙な使い分けをしている。同じイリノイ州の中でも南寄りの土地で演説する場合は、奴隷制度に反対の感情をあまり露骨に表わさないように。 こう考えてくると、州によって境界線をつくることにかなりの無理があることが分るのである。これはフロリダとテキサスの場合、とくに顕著である。フロリダの北半分、ジョージアとアラバマに面した部分は純粋に南部といえるけれども、全米的な娯楽施設ができたり、避寒地として旅行客を集めたり、引退した老人だけの町ができたり、土地投機の対象になったり、宇宙開発産業が発展したりしている南半分は、おそらく南部のなかに入れることができないだろう。テキサスの場合も、南部といえるのは全体の四分の一くらいの、ルイジアナとメキシコ湾に面した地域だけで、残りの四分の三はその自然も人情も、むしろ西部といった方がふさわしい。だから私は、テキサス出身とはいっても、アラモの砦の北の方の土地で生まれて育ったリンドン・ジョンソン大統領は、かなり南部的心情を持ってはいたが、むしろ西部出身の大統領というべきだと思っているし、アイゼンハワ―大統領にいたっては、同じようにテキサスで生まれていても、早くから故郷を離れているので、一層南部人というイメージから遠い存在だと考えている。 私はこんなことをあれこれと思いめぐらせながら、毎朝早くから始まる窓の下の地下鉄工事を眺めていたが、この地下鉄が完成したら、結局これは南部最初の地下鉄として記録に残されるべきであろうという結論に到達した。たしかに、南北戦争が始まったときワシントンにはまだ奴隷制度があったし、奴隷解放後も黒人に対して各種の生活上の差別を行ってもきた。また一九七〇年の国勢調査では七一パーセントにも達した黒人人口は、おそらくその大部分が南部各州からの移住者であろう。こういう多くの事実があるにもかかわらず、ワシントンはなんといってもアメリカの首都であり、諸外国に対するアメリカの顔である。自然発生的ではなくて、純粋に人工の町である。もしここが首都でなかったならば、この程度の人口のサイズで地下鉄を作ろうとはしなかったに違いない。 私たちはそのアパートメントに住むようになった翌日から、地下鉄工事現場の前を通って、中心街のピーチトリ―・ストリートをくりかえし歩きまわった。斜め向き合いにあるハイアット・リジェンシー・ホテルは、一歩そのなかに入ると、巨大なロビーの空間が二十三階の天井まで広がっていて、美しい層をつくっている各階の客室のテラスが、ロビーに点在する豪華なソフンァーや、その傍に並んだ花壇、一部に張り出したレストランなどを見下ろしていた。その空間の中央に渋い茶褐色の塔が立っていて、周囲には明るい灯で縁どられたロケット形のエレベーターが、乗客たちの興奮した表情をはっきり見せながら、せわしげに何台も上下している。このホテルのロビーを包むキラキラとしたムードには、アトランタ市民が絵葉書にして自慢しているほど、今までの南部とは違った華やかさがあった。 グレイスやオリヴィアと一緒に昼食をとったピーチトリ―・ブラザ・ホテルは、さらにその斜め向き合いに、円筒形七十階の壮大な巨体を天空に輝かせている。その大きさの割にスマートが感じがするのは、外観がすべてガラス張りのせいだろうか。近寄って振り仰ぐと、そのガラスは周囲の同じように高いビルの翳が色濃く写しだされ、西に傾いた真夏の陽光がまぶしく反射しているような時には、まるで黄金の塔が中天に向かって無限に伸びているように見えた。当分の間この塔より高い建物は南部にできないだろうから、ダウンタウンの中央に他のビルを見下ろして聳えたつこのホテルこそ、いま話題になっているニューサウスのシンボルといってもいいだろう。 かつて「アトランタ・コンスティテューション」紙が、一九六〇年と七〇年のこの町のスカイラインを示す二つの写真を並べて載せたことがある。一九六〇年というのはケネディ大統領が当選した年のことだから、まだそれほど昔のことだと思えないのに、その当時のスカイラインはまだまだ貧弱なもので、この町が誇れる近代的ビルなど、本当に指を折って数えることができるほど僅かなものであった。ところが七〇年のスカイラインは、まったく別の都市ではないかと思うほどみごとに変貌して、近代的高層ビルがいくつも深南部ジョージアの大空に向かって聳えるようになっていた。 それからさらに四年たった一九七四年にアトランタを訪ねたとき、ルイーズは私たちを待ち構えていたように、こういった。「あなたはヒストリアンだから、アトランタの昨日だけを勉強してるのね。私はこれから、アトランタの明日の姿を見せてあげようと思っているのよ」 彼女はアトランタを全米有数のコンベンション・シティに育てあげようと奔走していたので、私たちのためにヘリコプターまで用意するという張り切りようだった。実際に彼女は先頭に立って、私たちを建設中の強大なホテルや会議場に案内してくれた。私たち三人はヘルメットをかぶり、時にはまだ十分に乾いていないコンクリートの上に渡した細長い板の上を歩いたり、時には身体をかがめて小さな穴のような場所を通り抜けたりしなければならなかった。ある場所では、大きな建物の内側がすっぽりと空間になっていて、――というよりも、ゆったりとしたスケートリンクが完成まぎわの姿を横たえていた。私はそのスケートリンクを包むようにして並んでいる十数階の周囲のビルという窓という窓に、やがてあたたかい灯がいっせいにともって、ゆったりとした氷上を何人もの男女がゆるやかに舞っている姿を思い浮かべた。 七七年に来てみると、もう頭のなかでわざわざ思い浮かべる必要はなくなっていたのだ。私たちが三年前ルイーズに案内してもらった建設中のすべての建物はみなとっくに完成して、アトランタン市民の生活のなかに融けこんでいたからである。オリンピック・サイズのそのスケートリンクの上でのびのびと滑る姿を、人びとはまわりの店でショッピングを楽しむ合い間に眺めることができるのだった。私たちは二階の店からホットドッグを買ってきて、氷上の一角にかぶさるように突き出ているテラスの先端に腰を下ろした。見下ろすと、もう手が届きそうなところを、均整ののとれた黒人の少年が、まるで飛燕のような鮮やかさで、氷上の人びとの間を巧みに縫いながら滑っている。このリンクを取り巻くビル群は「オムニ」とよばれ、さらにその隣にはジョージア・ワールド・コングレス・センターや、オムニ・インターナショナル・コンプレックスなどという大きなビルの複合体が、遠くから眺めるとまるで洋上に浮かぶ連合艦隊のような偉容を見せて並んでいる。
南北戦争の傷跡 P.57 このアパートメントへ入ったのは七八年七月下旬のことだったが、それから半月近く、アトランタにはよく雨が降った。それも日本の梅雨のようにしとしとと続く長雨ではなくて、いったん雨が落ちはじめると、道路に当った水滴がニ、三十センチははね返ってしまいそうな降り方をする。窓ごしに眺めるジョージア北部の森の上空が黒ずんできたかと思うと、森の色がしだいにかすんで灰色となり、その灰色の部分がだんだん広がってこちらに近づいて来るなと思うまに、この窓にも一粒、二粒、大きな水滴が現われ、やがてそれが叩きつけるような水勢に変わっていく。アトランタはゆるやかな山の裾野のひろがりのなかに作られた町だから、どこを走ってみても坂が多く、それだけに水はけがいいはずなのに、それでもこれほど凄まじい雨に見舞われると、たちまちあちらこちらの道路が、時ならぬ奔流と化してしまうのである。 このまるでスコールのような雨が上がった後は、むしむしとした空気ながら、すぐに碧空がのぞいてきて、つい先程までの雨が信じられないほどになるのだった。そんな時、西北の方向の森の向うに、二つの小さなコブのような山が並んでいるのが見えた。それが、南北戦争のときアトランタを目指してこの方面から殺到したシャーマン将軍の率いる北軍を、ここで食い止めようとした南軍が閉じ籠ったケネソー・マウテンである。 すでにその時までに、私たちは南北戦争の古戦場をかなり数多く訪ねていた。ワシントンから西へ三、四十分も車を走らせた所にある最初の激戦地ブルラン(またはマナサス)。いまはゆるやかな美しい丘陵地帯で、一八六一年七月と六二年八月の二回にわたって南北両軍が衝突した。それから六二年四月、西部戦線ともいうべきテネシー川のほとりで始まったシャイローの戦い、これは今でもなかなか訪ねて行けないほど不便な場所である。さらに戦争全体の天王山となった六三年七月のゲティスバーグの戦い。これはもっとも北寄りの場所で行なわれた有名な戦いで、ここだけはニューヨークに暮していた時に日帰りの強行軍で訪ねたのである。これとほとんど同じ頃に行われたミシシッピ河畔のヴィックスバーグの戦い。糧道を絶たれた南軍が、凄惨な飢餓との戦いに陥った場所――。 六三年一一月、テネシー東端の山に囲まれた町チャタヌーガ周辺の三つの古戦場――チカモーガ、ルックアウト・マウンテン、それにミッショナリー・リッジ。その次がここから見えるケネソー・マウンテン。あとはアトランタ市内外の攻防戦。最後にこのアトランタを焼いたシャーマン将軍が、その占領をリンカーン大統領へのクリスマス・プレゼントにしたという大西洋岸の静かな町サヴァンナ。 南北戦争は正味四年間にわたり、大規模な戦闘だけ数えて五十数回になるのだから、私が訊ねた古戦場はそのうちの一部に過ぎない。しかしいつのまにかこれだけの史跡を廻っているのは、おそらく私がエモリ―大学に滞在していた時にもっと仲のよくなったぺル・I・ワイリー教授の影響であろう。彼はその後短期間だが二度も日本を訪ねているし、もちろん私たちもアトランタへ行くたびに必ずワイリーさん夫妻に会っている。豪快な典型的南部人で、南北戦争について二十数冊ほどの本を出版しており、アメリカの歴史学会では南北戦争の権威として知られている学者である。南北戦争の百年祭が行われた年は、各地の講演会に飛行機でとび廻ったという。こういう古戦場の案内所でワイリーさんの名をあげると、眼に見えて私に対する態度が変るようなことがニ、三度あったほどである。 ところで、そのような古戦場を訪ねるたびに、いつも胸のふさがるような思いをしたのは、両軍の損害のおびただしい数を知ったときであった。現在のように医療設備が整っていなかった時代のことだから、みすみす戦病死したような将兵も多かっただろうが、同時にまた大量殺傷の兵器が少なかったはずである。それなのに、上にあげたような戦闘では、たいてい両軍それぞれ万を越える死傷者が出ているのだ。たとえばシャイローの戦いでは、丸太小屋のような質素な教会とテネシー川にはさまれたごく狭い林のなかで、北軍の将兵六五、〇八五のうち、死傷者や行方不明者はなんと一三、〇四七人、南軍もまた四四、六九九人に対して一〇、六九九人、これが僅か二日間の戦闘である。ゲティスバーグにいたっては三日間にわたる激戦の結果、北軍八七千人のうち約二万、南軍は七万五千人のうち約二万五千人が失われたという。それまで決定的な敗北を喫したことがなかった南軍の名将といわれるロバート・E・リー将軍は、このとき自分の率いる大軍の実に三分の一を喪失したことになるのである。 それまで同じ国の一員として、建国以来一世紀近くの間をともに歩んできた者同士としては、あまりにもひどい争い方ではないか。事実アメリカはこの南北戦争を通じて、北軍約三六万、南軍二六万、合計六二万の死者を出している。この戦争が始まる一年前の一八六〇年アメリカの総人口が僅か三、一四四万人であることを思えば、この死者の数の異常な高さに気がつくことであろう。その後の戦争について調べてみても、第一次大戦の約一二万人、第二次大戦の約三二万、ともに南北戦争の被害に及ばない。南北戦争の場合は敵味方双方の被害が合計されて、アメリカ史上最大の数の人命が失われているのだが、それほど人びとは激しく憎しみ会ったのであろうか。 私がその憎悪を眼のあたりに見る思いがしたのは、七七年八月の終りに、アンダーソンヴィルという場所を訪ねた時のことであった。アトランタから真南に二時間半ばかりドライヴした所にある人口二七四人の小さな村で、カーター大統領の出身地ブレインズから僅か三十分ほどの距離である。グレイスに教えられて、私はその村にある南北戦争最大の捕虜収容所があった場所を訪ねてみようと思い立ったのだ。 よほど注意をしていないと、そのまま通りすぎてしまいそうな淋しい場所だったが、意外にもかなりの数の見学者が居合わせていて、これはインディアン関係の遺跡を訪ねる時とは違っている。案内所のなかにある映写室がほとんど一杯になるほど、夫婦や親子連れの見学者が集まっていた。私たちは二十分ほどのフィルムを見せて貰って、当時の収容所についての概要を頭にいれたのち、ぎらぎたと輝く夏雲のもとを、車でゆっくり廻って見ることにした。 森閑とした松林に包まれて、無数の小さな墓標がまず見えてくる。近よってみると、驚くほど大変な数である。南部全体にようやく敗色が漂うようになった一八六四年の初めから、ここに北軍の捕虜が次つぎ送りこまれ、一万人しか収容できない施設に対して、一時は実に三万二千人もの北軍将兵を収容した。ここで悲惨な捕虜生活を送った者の総計は、戦争終結まで一年あまりの間に五万二千人に及び、その約四分の一にあたる一万三千人が、病気や栄養失調などで死亡したという、 簡単に文字で表現すればそれまでのことであるが、現実にどんな生活がそこで一年あまり続いたのか、人びとはどの程度想像することができるだろう。私はその時の一人の捕虜の写真を見て、ぞっと総毛立つような思いがした。これで生きているといえるのだろうか。ほとんど骨と皮だけになった北軍の一人の捕虜が、裸になって腰かけている写真である。これほど衝撃的な写真を、わたしはかつて見たことがない。戦後陸軍省が発表した数字によると、北部側に捕らえられていた南軍の捕虜二二万人のうち、死者は二六、四三六人。これに対して南部にいた北部側の捕虜は一二六、九五〇人のうち、二二、五七六人が死亡していて、南部側の方が、敗戦に追いこまれていたせいであろうが、捕虜の取り扱いがひどかったことが分る。 私たちはゆっくりと、ここで捕虜として死んだ北軍将兵の霊の眠る墓地を見て廻った。その一人一人が、あるいは私が見た写真そっくりに、まるで針金のように痩せ衰えて死んでいったのかもしれない。そうだとすればこの捕虜収容所は、さながらこの世の地獄絵図を現出していたのではないだろうか。今はただ一二、九一五もの数の荒けずりな小さな石の墓標が、ものもいわず肩を並べて整然と立ちつくしている傍らに、父や夫や兄弟の死を聞いて泣き崩れる女性たちのブロンズ像が、ものうい真夏の光を浴びて立ちつくしているばかりであった。 墓地から少し離れて、松林がそこだけ切り開かれている場所がある。そこが三万二千人もの捕虜を押しこんだ収容所な跡だという。ごく僅か残された当時の写真を見ると、テントや丸太小屋がびっしりと並び、まるで立錐の余地もないほどの人波である。南軍は北軍から申し込まれた捕虜の交換に応ぜず、松の木で作った地上一五フィート(約五メートル)もの木の柵を周囲にめぐらせて、捕虜たちの逃亡を防いだ。この捕虜収容所が継続していた一年あまりの間に、毎月九百人以上の北軍将兵がこのなかで死んでいったが、その主な原因は下痢、赤痢、壊疽、壊血病などによる病死だったといわれている。死者の数がもっとも多かったのは六四年八月二三日で、その日はたった一日で九七人の捕虜が死んでいる。 一体この頃、両軍の憎悪をとくにかき立てるようなことが起きていたのであろうか。実は――まさしくそうだったのだ。その年の六月二二日から六日間、南軍はケネソー・マウテンに陣を張ってシャーマン将軍の率いる十万の北軍をささえたが、結局は敗れて、アトランタ市の防衛線にまで後退した。こうしてアトランタの周辺では、七月二〇日から四回にわたる攻防戦がくりひろげられる。八月二三日というのは、アトランタが陥落する最後の戦いが、いよいよ始まろうとする一週間ほど前に当たっているのである。 この時の戦いについては、アトランタのダウンタウンから少し南に寄った場所に、北軍の司令官の名に因んだグラント公園があって、そのなかのサイクロラマで当時の模様を再現して見せている。私たちが初めてこのサイクロラマを訪ねたのは一九六六年九月のことで、円形の建物の中に入ると、見学者は中央の部分に立って周囲を見渡すようになっている。壁面いっぱいに戦闘の様子が描かれ、足もとは兵士たちや鉄道線路、森、建物などのミニチュアで埋まり、それが壁面の絵とみごとに一致して、一つの世界を作り上げていた。やがて多いな室内は暗黒となり、中年の女性が懐中電灯を使い、戦闘の経過を示す順序で説明をはじめると、遠くから北軍の新軍歌やラッパの響きが聞え、やがてはじけるような小銃の音、馬のいなき、兵士のかけ声などが、全館をゆるがすほど鳴りわたるのだった。女性のゆるやかな南部なまりの強い話しぶりは、アトランタ陥落の悲劇を見学者の胸に焼きつけるのにふさわしかったようだ。 今度十二年ぶりにサイクロラマを再訪してみると、説明はすべて南部なまりのない男性の声のテープですまされ、案内の女性はただ懐中電灯を説明につれて照らして廻るだけになってしまった。十二年前の印象が強かっただけに、私たちは気の抜けたビールを飲まされたような気持になったが、それでもかなり大勢の見学者が次つぎにこのサイクロラマを訪れ、アトランタ陥落の当時を偲んでいる。映画『風と共に去りぬ』のなかのあの負傷者の大群が広場に集まっている有名な光景は、ちょうどその頃の情景を再現しようとしたものである。 こうしてアトランタは、一八六四年九月二日、北軍の手に落ちる。シャーマン将軍はこの町を占領しても戦争を終わらせることはできないのを知って、南部人の士気を挫き、アトランタンを二度と軍事や工業の中心地とさせないために、一一月一四日夜、火を放ってアトランタの中心部を破壊する。その時の様子を、シャーマン自身が次のように書き残している。
「私の配下の工兵隊長ポ~大佐は、街の中心部を破壊するという特殊任務についたの こうしてシャーマン軍は翌一五日、廃墟となったアトランタを発ち、右翼軍と左翼軍に分かれて、広大な陣形をひろげ、折から収穫を終わったばかりのジョージアの沃野を、略奪の限りをつくしながら、大西洋岸の町サヴァンナへ向って行進をはじめたのである。この部分は、私の友人ハロルド・H・マーチンの『ジョージアの歴史』(一九七七年)からその一部を引用しよう。彼はジョ―ジア生れ、ジョージア大学を卒業して、長年「アトランタ・コンスティテューション」紙に勤めた生粋の南部人で、多くの雑誌にも数え切れないほどの論文を載せている。この本は彼がジョージア史を担当することになって書き上げたものである。 「あの海への行進は、その全行程がジョージア人にとって忘れることのできない恐ろしい災害であったけれども、ヤンキー兵にとってはのんびりした散歩のようなものだった」と彼はのべ、ほとんど南軍の抵抗もなく北軍が一二月下旬にはサヴァンナに到達した経過を説明して、ある北軍兵士の言葉を次のように引用している。
一方、シャーマン軍が去った後のアトランタへ戻ってきた市民たちは、ついニ、三ヵ月前まではあれほど人びとの雑踏で栄えていた中心部が、まったく廃墟となっているのを見なけらばならなかった。主な建物は崩れ落ちて、いたずらに煉瓦の壁が残っているばかりだった。あれほど住み心地がよかった家は焼かれて、ただ煙突が空しく焼けあとに立っていた。道路という道路は崩れた建物の破片で埋まり、馬車を走らせることなど、とてもできるものではなかった。 この間、多くの北軍将兵が捕えられていたアンダーソンヴィルの収容所は、シャーマンがアトランタを占領したとき、健康な状態の捕虜だけ他の収容所に転送してしまった。これは北軍がそういう捕虜の釈放を求めてくることを恐れたもので、この収容所はその後規模を縮小しながらも、戦争が終結する六五年四月まで継続していたのである。このため南部が敗北したあと、北部の間ではとくにアンダーソンヴィル捕虜収容所の残虐ぶりが問題となり、南部人がリンカーン大統領を暗殺したこともあって、収容所の責任者ヘンリー・ワーズ大尉を北部の新聞は凶暴なサディストだときめつけ、「極悪人」とか、「野獣」とかいう言葉を使って攻撃した。 ワーズ大尉は一八四九年にスイスから到着した移民で、はじめの五年間は北部の工場で働いていたが、その後南部に移ってから七年目に戦争の勃発を見ることになった人である。彼の上官だったウィンダー将軍がすでに死亡していたので、実際にはモンスターでもビーストでもなかった彼が、六五年一一月にワシントンで絞首刑に処せられている。彼自身もまた、戦争が生んだ憎悪の犠牲者だったのであろう。彼の処刑は日本でいうと大政奉還のわずか二年前のことで、今から百年あまり昔に行われた南部人と北部人の激突はは、想像もできないほど深い憎悪に貫かれていたのだといわなければならない。 日本の場合も、明治維新の勝者となった薩長の派閥に対して、その後憎悪や嫉妬や反感が敗者の間にある程度流れていたことは事実である。しかし日本の国民の間の均一性は、はるかに早いスピードでこういう対立の感情を水に流していった。アメリカでは――それほど簡単ではなかったのだ。 戦後、北部軍が軍政を実施するための南部占領、利権を漁る北部人(カーペットバガー)やこれと結託して甘い汁を吸おうとする南部人(スキャラワッグ)などの跳梁、解放された黒人たちの取り扱いをめぐる混乱、北部資本の南部経済掌握、その象徴的な現れとしての鉄道運賃の南部差別――など、敗者としての運命を、南部は十分に味わなければならないことになる。たとえば、初代大統領ワシントンからリンカーンが就任する以前の七二年間のうち、三分のニ以上の四九年間が南部出身の大統領によって占められていたのに、それから一世紀もの間、南部人らしい南部人がホワイト・ハウスに入ることはなくなってしまった。 その後の経過はどうだったのか。『タイム』誌の南部特集号(一九七六年九月二七日号)に載った南部史研究の権威、C・ヴァン・ウッドワード教授の言葉をあげよう。
「南北戦争から三世以上もの間、文化的な影響力の相互作用は、決定的に南部を風下に |