1984年(昭和59年)7月7日(土) 第一期研修生(スクーリング:7月2日~24日)。 13時過ぎ、倉敷工場正門の前で第一期研修生・講師バスに乗り込む。総社市にある臨済宗宝福寺にむかう。 高梁川に沿って総社市へ。梅雨空のした、鮎釣りをしている。 バスガイド嬢の説明に研修生とのやりとりがはいり楽しい空気がどよめく。 三十分くらいで、全山緑に囲まれた井山の宝福寺につく。 方丈の入口二つの柱に臨済宗東福寺派と宝福寺専門道場の看板が目に入る。通用口の柱には「倉敷レイヨン研修会」の文字がわれわれを迎えてくれる。 脚下照顧の立札がおかれている下駄箱に靴を並べて方丈に入室。早速、全員、二列に正座、番茶の茶礼を受ける。 玄関の間で八十四代の老師(東福寺の管長)に挨拶に行く。 ようこそお出で下さいましたと、暖かい歓迎の挨拶をされました。 老師は故大原總一郎社長に会ったことがある。社員を養成して欲しいと言われた。バーナード・リーチさん・大原さんと三人で写真を撮ったことがある。 ※大原總一郎とバーナード・リーチさん:『大原總一郎随想集1』(福武書店)P.155。 専門道場での指導にあたる玄渓さんに案内されて方丈へ。研修生が縦、横まっすぐに、黒板に向って正座していた。 玄渓さんが入山の諸注意 1、「持」という字は「手篇」に「寺」で、手にものを持って参るのが「持」の意味で、それが布施に相当する。寺からは法施をお返しする。何か一つもって帰って下さい。 2、百丈懐海禅師「一日作さざれば、一日食らわず」の話しあり。 3、作務についての説明 4、坐禅の説明:結跏趺坐、半跏趺坐の練習。調身・調息・調心の説明。 5、警策二種類:罰棒と所望棒がある。 坐 禅 早速、禅堂に入り、坐布団の敷かれている単(禅堂内で修行者の坐る座席。地面から一米くらい高い)の上に55人が順序よく坐る。 直日が木析(拍子木)を一つ打つ、つづいて引磬(小鐘に柄をつけたもの)を間隔をおいて四回鳴らす。この合図があったら止静といって坐禅三昧にはいる。寂静の境に止まる時間だから、ゴソゴソ動く、厳密にいえば咳払いさえ許されない。 坐禅開始。半眼にして一米位前の一点をみつめる。焦点がぼけてハットすることがあった。この瞬間に何か出てくる(無意識層から意識層)のではないかと思った。調心のための数息観で息を吐き、吸うことに集中するも10を数えて11、12、13と進み、1,2に戻っていないことがたびたびあり、心を集中する難しものだと……。 30分終ると、直日がチンと引磬を一つ鳴らし、ついで木析を二つ打つ。それから抽解といって休憩時間となる。足のしびれをほぐす。そして再びカチッと木析がなって、直ちに坐禅。 練習のために前列に坐っている二列と真中の単に坐っている人が順番に警策を受ける。警策のパシッパシッの音を聞くと調息が乱れる。私が受ける番になる。直日が警策を合掌して持つ。私も合掌して拝礼、指導された体型をとる。右背中、左背中、夫々2回受ける。合掌して坐禅。背中の暖かみが5分位残る。30分後、終わって合掌。方丈に帰る。 *曹洞宗では「きょうさく」、臨済宗では「けいさく」と読む。 作 務 作務衣に着かえた指導僧玄渓さんが全員にてきぱきと作業を割り当てる。草刈り、屋外掃除、植木の剪定を。小野君、渡辺君(玉島工場)が上手にやっている。私は墓所の掃除にゆく。代々の禅師の墓 が並んでいる。終って、番茶、まんじゅう。方丈に二列に並んで。研修生がてきぱきとくばる。 夕 食 食事マナーを教えられる。御飯が多い人はボールが廻されて食べる前に余分のものをうつす、足らない者はボールから必要量をとる。食器は必ず持ち上げてたべる。食台の上におろすときは大きな音をたてない。無言で食事。食べることも修行である。食前の言葉を唱和してのち、始める。食べ終わった頃、番茶が廻される。お湯を食器にいれて洗って、飲みこむ。食後の言葉を唱和して終る。食事に使った割り箸を「点心 井山典座寮」と書かれた袋に入れる。翌日の朝食にも使うよう指示された。 老師の法話 法話の前、55人、正座。静寂。時計のチクタクの音が高い。法話が始まる。 ●脚下照顧 外のことは見えても足元は見えない。履物はきちっとそろえて脱ぐ。足が地についていればよい仕事ができる。 ●坐禅は調身・調息・調心が大事。絵描きの友人に宮本武蔵の絵の依頼を受けた。武蔵をしらべて絵を描いた。絵の足なら人を切れると褒められた。こころ、あしが大事である。茶碗も糸じりがしっかりしないと安定しない。 ●向う三軒両隣がある。そこに住む人は十人十色。気の合う人五人、そうでない人五人。夏目漱石『草枕』冒頭の「 山路 を登りながら、こう考えた。 智 に働けば 角が立つ。情 に 棹させば流される。意地を 通せば 窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。 住みにくさが 高じると、安い所へ引き越したく」の説明。 世の中は善いことと悪いことで一つなのです。昼と夜で一つ、吸うと吐くとで一つ、暑い寒いで一つ、生まれることと死ぬことでひとつ、食うことと出すことで健康。相反するもの二つを一つと考えなさい。 *維摩経第九章入不二訪問品をわかりやすく説明して下さった。*参考:渡辺照宏『お経の話』(岩波新書)P.169 ●川上哲治氏は岐阜県美濃加茂市伊深町の正眼寺(梶浦逸外師家)で坐禅を組んだ話し。バッターに立つと球が止まって見える。そこを打つ感じになる。彼は、修行は想像以上にきびしかった。書物からの知識は受け入れられなかった。体験のみが本物であると言っている。 夜の座禅 何か一つでも身につけたいとさかんに考える。禅堂は外からの明かりはなくなり暗い。まもなく全くの闇みになる。水滴の音がポテポテと間隔をおいて。食用蛙の大きな鳴き声がする。調息に気を使う。一から十が三回くらいうまくゆく。汗をかく。蚊が耳たぶに止まる。調息が乱れる。10秒か20秒でにげてくれる。30分坐禅、抽解3分、坐禅30分で終る。素足で合掌して方丈に返る。 就 寝 蚊帳をつる。本当に久しぶり。秋山講師と二人。 昭和59年7月8日(日) 4:45 太鼓の音で起される。ふとん、蚊帳を所定の位置におさめて、洗面。 あいにくの天気で太陽をおがむ行事は中止。坐禅約30分。作務をする。夫々分担を決められる。便所掃除にゆくものもいた。私は本堂の掃除にゆく。雑巾で拭くもの、雑巾を洗うものと分担が決められてきぱきと掃除。 朝 食 御飯、汁、漬物。つけものに梅があった。種抜きされた梅一個の半分である。道元が出合った典座を思い出す。食事の担当の典座が梅のタネ抜きをしている姿を想像。 ※今枝愛真『道元』(NHKブックス)P.37~42 阿育王山広利禅寺の典座及び天童山での用典座との出合い 老師の法話 今日はあいにくのお天気で日の出をおがむことができなかった。それは荘厳ですよ。 ※河合隼雄『ユング心理学入門』(培風館)P.98 ユングは東アフリカのエルゴン山脈の住民のところに滞在していたときの体験を述べている。この住民たちが、日の出の際に太陽を崇拝することを知ったユングは、「太陽は神様なのか」と尋ねてみる。住民たちは、まったく馬鹿げたことを聞くという顔つきで、それを打ち消した。 そこで、ユングは、そのとき空高く昇っていた太陽を指して、「太陽がここにいるときは神様じゃないというが、東にいるときは、君らは神様であるという」と、さらに追求すると、皆はまったく困ってしまう。やがて、老酋長が、「あの上にいる太陽が神様でないことは本当だ。しかし、太陽が昇るとき、それが神様だ」と説明する。 つまり、彼らに とっては、朝になって太陽が昇る現象と、それによって彼らの心の内部にひき起される感動とはふ可分のものであり、彼らには、その感動と昇る太陽と区別されることなく、神として体験される。実際このような体験を把握することは、合理的な思考法のみで固められたひとにとっては、なかなか困難である。太陽は神であるか、神でないか、どちらかであるとか、太陽を崇拝するならば、太陽はつねに神であらねばならぬとか、はっきりと割り切って物事を考える態度をときは、このような、元型的な体験を把握することはできなくなる。つまり、われわれの合理的知性にみられるような絶対的区別がなく、主体と客体との不可思議な一体化が生じるのであり、これをユングは、ㇾヴィ・ブリュ―ルの言葉を用いて、神秘的関与(participation mystique)とよんでいる。以下略 今朝、皆さんに掃除をしてもらった。禅寺では掃除を大事にしている。掃除は心の掃除であるのです。お釈迦さんの弟子に周梨槃特という人がいた。記憶力のない人で、お釈迦さんにな前をもらったが覚えられない。そこで、前と後ろにゼッケンのようにな前を書いた布をぶらさげる。お釈迦さんは彼に箒と雑巾をあたえて天気の時は外を掃除して「ちりをはらへ」と唱えさせた。雨の日には雑巾で拭き掃除を掃除しながら「ちりをはらへ」と唱えさせた。そして一生を終え大往生をとげて裏山に埋葬された。彼の墓の傍に草が生えてきた。新種で学者も名前を知らなかった。弟子たちが集まって「茗荷」という名前をつけた。これを食べると馬鹿になるといわれているが実はなを荷物の札のようにゼッケンをつけていた状態を思ってつけられたな前であるとのこと。 ※参考:茗 荷 2020.04.03貼り付ける。 ある村に学者と老人がいた。 老人が「自分は短気でどうしようもない。これをなおしたい、どうしたらよいでしょうか」 学者は"かんにん"の二字を教えた。 老人は四字ではないかという。学者は漢字で二字と思っていた。「かんにん」は「たえしのぶ」ということであると教えると、老人は五字になりましたという。 学者は怒って老人を追いかえした。 「実行ということは難しいもので、言うことと実行することは難しい」 名門のクラレのみなさん。やることはたくさんあります。頑張って下さいと締め括られた。 研修生を代表してお礼のあいさつ わずかの時間でした。調息一つ充分でありませんでした。しかし、研修生はなにかつかんだと思います。 老師様お体を大事にしてください。 身支度を整えて8時過ぎに下山。両備バスで研修所に帰る。研修所から帰宅のみちで、けばけばしさを感じ、なんとなく不潔感が……。 2020.04.09記す。
研修生の坐禅:第二期生
1985年(昭和60年)3月25日~26日。第二期生宝福寺坐禅。
*日記に詳細を記録していない。
研修生の坐禅:第三期生
1987年(昭和62年)2月21日。第三期研修生一同、倉敷市酒津の研修所から岡山県総社市井山宝福寺へバスで行く。
一泊二日の泊まり込みでの坐禅・住職法話・作務を行う。 初日の夜、禅堂で坐禅。厳寒の夜だった。 研修生の一人が、準備がよくて、使い捨ての懐炉を持参していた。その研修生からもらって、背中の下部腰の上あたりに張り付けて寒さをしのいだ。 お寺の大広間で住職さんの法話をお聞きした。 その部屋で全員就寝。 翌日は早朝からの坐禅。食事をいただいて、境内のあちこちに分散して、掃除。修行僧の玄渓さんが指導。 午後、私は、住職さんの居室に参り、挨拶。お話を伺う。 退室の前に、何か書いていただきたいとおねがいしたところ、10cm*30cmの板に「看脚下」と書いて頂いた。 これは持ち帰って、研修所の玄関の上り口に置いて、研修生の参考にした。 後年の話ですが、玄渓さんからお便りがあった。 その内容は、クラレから坐禅に参ったが、私がいないので、「なぜか」と聞いたところ、退職されているとのことでしたとの記事であった。 参考:1984年(昭和59年)7月7日、第一期研修生、初めて宝福寺に参っている。 私には体験坐禅は二回目だった。
参考1:岡山市曹源寺の茶礼の席で原田老師が 「看脚下・彩鳳舞円霄・鐡蛇横古路」の話をされている。 その主な内容は 臨済宗のお坊さんになるためには必ず僧堂で修行をします。その修行道場のいいところの一つに自分の至らないところを反省させられるという点があります。自分の悪い所、欠点をどんどん削り取られて行くのです。そして、実際に世の中に出て役に立つ人間にしてくれるのです。 禅に「看脚下」という言葉があります。 昔、中国に法演という禅僧がいました。その坊さんが、ある晩、3人の弟子を連れて寺に帰る時のことです。暗い夜道ですから明かりを灯さねば帰れません。 その時、一陣の風が吹いてきて、その灯が吹き消され真っ暗になってしまったのです。一行はそこで立ちすくみます。その時、法演が三人の弟子達に向かって質問をしました。「暗い夜に道を歩く時は明かりが必要だ。その明かりが今消えてしまった。さあお前達、この暗闇の中をどうするか言え」と。 ここで暗闇とは、自分の行く先が真っ暗になったということです。例えば、思いも寄らない災難に遭って、前途暗たんたるところをどう切り抜けていくかという問いです。 そこで弟子たちが、それぞれ自分の気持ちを言葉に出して述べた。 まず、仏鑑という人が「すべてが黒一色のこの暗闇は、逆にいえば、美しい赤い鳥が夕焼けの真っ赤な大空に舞っているようなものだ」と答えました。しかし師匠はうなずきません。 次に仏眼という人が答えた。「真っ暗の中で、この曲がりくねった道は、まるで真っ黒な大蛇が横たわっているようである」と答えた。またも師匠は許しません。 そして最後に、圜悟克勤が「看脚下」と答えました。つまり「真っ暗で危ないから、つまずかないように足元をよく見て歩きましょう」と答えたのです。この言葉が師匠の心にかない「そこだ、その通り」と絶賛したというこです。 暗い夜道で突然明かりが消えたならば、まず今ここでなすべきことは何か。それは他の余計なことは考えずに、つまずかないように足元をよく気を付けて行くということなのです。もう一歩進めて解釈をすると、自分自身をよく見なさいと。つまり、自分の足元を直しながら、我が生き方を深く反省しなさいということなのです。足元を見ると同時に、我が人生の至らなさを見て欲しいのです。未熟である自分に気づく、発見する・・・。足元を見ると言う事の中には、そういう大事な意味があるのです。ここに、もうちょっと違った人生の見方ができるのではないでしょうか。
参考2:禅寺の玄関に入ると、よく「照顧脚下」または「看脚下」と書いた木札が掲げてある。 「脚下を照顧せよ」「脚下を看よ」と読むのだが、これは本来的には自己を究明せよ、自己を見失ってはならぬという警告だが、玄関の場合は端的にいって履物をキチンとそろえて脱げ、ということである。 どんなに忙しいときでも、履物をそろえて脱ぐぐらいの心のゆとりがほしいものだ。心にゆとりができると自分の姿が見えてくる。 「灯台もと暗し」で、人はとかく自分のことは見えないが、他人のことはよく見える。だから、他人の批判はできても自分の批判はできない。 理想を高く掲げるのもいいが、まず足もとをおろそかにしてはならない。他を論ずるよりさきに、自己を見つめなくてはならない。そのことを教えるのが「照顧脚下」であり、「看脚下」である。 いまから九百年も前の人、中国は宋の時代、臨済宗中興の祖、五祖法演禅師がある晩、三人の高弟とともに寺に帰る途中、どうしたことか提灯の火が突然消えてしまった。 すると法演禅師、即座に三人の弟子の対し、「この場に臨んで各自一句を述べてみよ」と命じた。つまり、暗闇をゆくには灯火が何よりの頼り。その頼りの灯火が消えた。さあ、「どうするか?」というのである。師匠の命に応じ、三人三様の答を出したが、なかで克勤(こくごん)は、「看脚下」と答え、師匠を感服させた。 暗闇に灯火を失ったような人生の悲劇に遭遇したとき、人は多く右往左往してこれを見失い、占いや苦しいときの神頼みに走り、あるいは悲劇のドン底に沈淪しがちなものだが、道は近きにあり、汝自身に向かって求めよと教えるのが、「看脚下!」の一語である。 ある人が事業に失敗して自殺しようと思い、死場所を求めてさまよい、「宿賃も今夜限り、明日はどうしても死ななくては」と、せっぱ詰まって泊まった木賃宿の、襖の破れたところを隠すために貼られた紙切れに、「裸にて 生れてきたに 何不足」と、書かれた小林一茶の句を見て、ハッとわれに返った。 「そうだ、裸一貫でやり直せばいいんだ」と、急にファイトが湧いて、発奮して事業を再興して成功を収めた。この人こそ名薬“宝丹”本舗の初代守田治兵衛その人だった。 「看脚下」の一語を吐いた克勤は、やがて禅門の名著『碧巌録』の作者となるのだが、『碧巌録』第一則(章)に 「知らず、脚跟下(きゃっこんか)に大光明を放つことを」と述べており、また、道元禅師は「仏道は人々の脚跟下にあり」と説いている。 道は、遠い彼方の深遠な哲理ではなく、生活するわれわれの脚跟下にあるのであり、まず脚下を見つめなくてはならない。 「看脚下!」 看脚下:「道は邇きに在り、而るに諸を遠きに求む」(孟子)の愚を犯してはならぬ。道は足もとに在り。 参考2:仏通寺の思い出 二〇一八年(平成二十九年)二月二日 |