海軍軍人の坐禅
★豊田 穣『戦争と虜囚の わが半世紀』(講談社)一九九三年五月二十五日 第一刷発行 P.16~19
猪口力兵(いのくち りきへい)教官(元大佐)はいろいろな意味で、話題を呼んだ教官であった。
海兵五十二期生は高松宮宣仁(のぶひと)親王が在籍されたほか、源田実(南雲中将の真珠湾機動部隊の航空参謀)、淵田美津夫(同上、攻撃隊長)、入佐俊家(いりさとしいえ)(中攻隊の指導者)ら多くのめい士を生んでおり、猪口教官もその一人でであった。この教官は鳥取一中出身で、兄の猪口敏平(としひら:海兵46期)氏は海軍砲術学校教頭を務め、戦艦の大口径砲射撃の権威者であり、レイテ沖海戦のとき、戦艦・武蔵の艦長(少将)として、艦と運命をともにした武人であった。その弟の猪口教官は、生徒の頃から剣道と禅に親しみ、帝国海軍士官として、“人間的完成”を念頭とした、当時よくあった思想的将校である。といって右翼にはならず、兄の志を継いで砲術科将校の道を歩んだが、海軍兵学校でも品覚寺で参禅し、生徒と一緒に剣道や相撲をやり、これが強かった。
私たちは、三、四学年のとき、この教官から<統率>という学科の講義を聞き、これも面白かった。教官の講義で興味を引いたのは、戦史、戦術、戦務等の講義であったが、その講義ぶりも一風変わっていた。
まず講義の初めに、
<眼をつむって……>
という教官の声がかかる。一同、瞑目する。教官の<明治天皇、御製>という声につづいて、
?浅緑 澄み渡りたる 大空の 広きをおのが 心ともがな という朗詠があり、これが終わると、ただちに
東郷平八郎元帥が少年の頃、英国の艦隊が鹿児島湾に侵入してきた。これはお前たちも知っている生麦事件の報復と賠償請求のためであった。幸いにも薩摩軍の焼き玉という、砲弾を真っ赤に加熱した弾(たま)が、英国艦隊の旗艦に命中、艦長を大火傷で戦死せしめたので、英国艦隊は恐れをなして湾外に退却した。これで薩摩軍は喝采をしたが、後に幕府は十万ポンドの償金を払った。――このとき、英国艦隊は撤収の前に港に近い市街を焼き払った。平八郎少年が焼け跡を見にいくと、英国艦隊の不発弾が落ちている。薩摩の焼き玉とは違って、先が尖っている。玉の中には爆発する火薬が装填してある。友人の大山巌の話では、英国の大砲は元込めで、薬莢という金属の筒に火薬が詰めてあり、この火薬が爆発して、前半分の砲弾が飛んでゆくというのである。
<なるほど、エゲレスの海軍は進んだものを考えとる。わが軍ももっと兵器の研究をばせんといかんな>
平八郎少年はそう考え、英国留学を志願した。英国留学を志願した。明治四年、平八郎少年は英国海軍兵学校に留学、七年間かかって英国式の海軍訓練を受け、兵器、兵術の研究をすませて帰国、日本海軍の海軍中尉となった。
そこで一息つくと教官はいった。
<東郷さんが偉かったのは、日本海海戦に勝ったからだけではなかった。焼け跡に残った一個の砲弾、ここから八郎少年は、戦闘というものはただ勇敢に戦うだけでは駄目だ。一歩先をゆく戦争のための準備……すなわち『戦務』という基礎準備が大事なのだ>
こういう具合であるから、猪口教官の授業は人気があつた。講義のとき、教官はいつも、“鍛錬棒”と呼ぶ古びた棒(警策:きょうさく)を持参した。これは坐禅のとき、居眠りをする若い僧侶の肩を叩いて警告する棒で、長さ三尺(約九十センチ)くらいで平たく黒光りがしている。先端に近いところに<莫(まく) 妄想>と書いてある。<元寇>の前に、北条時宗が参禅したとき、導師がその国防の決意を促すために吐いた言葉だという。
夏の午後、講義が長びくと、睡魔に襲われる生徒も出てくる。すると教官はその棒を握って背後に回り、
<莫 妄想!>
と一喝しながら、その肩を一撃する。生徒はびっくりして眼を覚ます……というわけである。しかし、この棒の御利益が利かないときもあった。A・Cという六十八期随一の”居眠り屋”がいた。彼は猪口教官の講義のときでも悠々と無我の境に遊んでいた。後ろに回った教官が例によって一撃したが、A・Cは起きない。
<えいっ!>という気合とともに、教官はその棒で相手の肩を強撃した。棒は<莫 妄想>の手前で折れてしまった。
<いやぁ、この男は大した奴じゃ。本当に熟睡して、無念無想の境地に入っとたんじゃ
教官は床に落ちた<莫 妄想>の断片拾いながら、そういって笑った。
しかし、太平洋戦争末期に近づくと、この型破りの教官にも、泣きどころが襲ってきた。
昭和十九年十月中旬(私:黒崎が入校したとき)、マッカーサーの率いる連合国の軍隊は、レイテ島に上陸、最終的な総攻撃が開始された。このとき、マニラ北方のクラーク飛行場マバラカット基地では、第一航空艦隊司令長官・大西瀧治郎中将が、重大な決意を固めた。すなわち特攻作戦の発動である。攻撃精神旺盛な中将は、中央の許可をとると、十月二十五日から“体当たり”による特攻作戦を開始した。このとき第一航空艦隊参謀であったのが猪口力兵大佐で、彼は毎日、涙とともに特攻隊を送り出した。
隊員の中には海軍兵学校時代の教え子もいた。
<特攻第一号>といわれる関行男大尉(中佐に特進)は、海兵七十期生で、猪口教官らの教え子にあたる。熱血の猪口教官がどのような心境で関大尉らを送り出したかは、想像に難くない。
やがてそのかいもなく祖国は敗戦、猪口教官は生き残った。大西中将は玉音放送の翌日、自決して特攻隊員の後を追った。猪口参謀が大西中将の後を追う……という話があったかどうかは、捕虜収容所にいた私にはわからない。
戦後、復員した私は、ときどきこの教官のことを思い出した。高松宮家の執事(秘書?)をしているというような噂もあったが、詳しいことは岐阜県に住む私には全然わからなかった。
豪傑肌の猪口教官がひっそりと世を去った。五十八年七月十三日であったが、これもわれわれ同期生にはほとんど知らされなかった、死因は癌であったという。
教官の死の三ヵ月ほど前、私は教官と電話で話した。私はこの頃『戦艦武蔵の最後』という作品を書いていた。すでに武蔵が撃沈された、フィリピンのルソン島南方のマリンドゥーケという島の沖合に見える海岸に、取材に訪れていた。私は武蔵艦長として、艦と運命をともにした猪口敏平少将の話を、弟の猪口教官から聞こうと試みたのである。
<うむ、兄貴のことを書こうというのかね?>
電話の向うで姿勢を正す教官の様子がうかがえた。
<兄貴ははね、若いとき……中学生のころから坐禅をやったり、瞑想に耽ったり、老成した感じじゃといわれていたらしい。わしとは六歳違ううえに、大人びていたので、わしはあまり一緒に遊んだ記憶はないな……海軍兵学校に入っても、日曜には坐禅に行ったり、早くも脱俗の風があったらしい>
教官はそこで息を継いだ。
<海軍では砲術学校の教頭を二回やっており、大口径砲射撃の研究に力を入れ、中佐のとき、戦艦・扶桑の砲術長を務め、戦技(実戦に近い実弾射撃)で連合艦隊一となり、砲術科のトップといわれ、フィリッピンで武蔵が沈むときも、悠々として艦長休憩室に入ったきりじゃったという。兄貴らしい死に方じゃったと思う>
そこで教官は苦しそうに早い呼吸をし、それが受話器に伝わってきた。
それから三ヵ月ほどして、猪口教官は世を去った。<葬儀、告別式は無用>というのが遺言であったそうで、私の同期生でも出席した者はいなかった。
受話器をおくと、私は窓の外を見た。近くの公園の桜が七分咲きで、わが家の豊後梅はもう散っていた。
臨終の床で猪口教官の胸の中にあったものは、なにか?……満開の桜ではなかったのか?……フィリッピンで散っていった特攻隊員の最後を弔う、満開の桜の中で教官は坐禅を組んでいたのではないか?……。P.29~30
★海軍軍人として坐禅により、軍務の傍ら心に何をおもっておられたのでしょうか。日ごろの鍛錬を思わざるをえません。
▼前回は陸軍の杉本中佐の仏通寺での参禅に引き続いて、海軍の猪口兄弟の坐禅について記録にとどめることにいたしました。
戦艦武蔵最後の艦長 猪口敏平
―生粋の砲術家―
日本海軍には砲術の専門家と呼ばれる大砲畑の将校が何人かいた。中でも有めいなのが、日本軍の砲撃三ばい説(日本海軍の砲撃はアメリカの三ばいの命中率を誇るという説)を唱えた黛治夫大佐だろう。しかし日本軍には、彼に勝るとも劣らないとされる優秀な砲術家がいた。そのなは猪口敏平。世界最強と呼ばれた大和型戦艦の2番艦<武蔵>の最後の艦長である。
猪口は、1918年の海軍兵学校進学以降、水上艦艇を乗り継いできた生粋の砲術家であった。猪口が乗船した艦艇は、軽巡洋艦<龍田>から始まり、駆逐艦<羽風>や走行巡洋艦<八雲>など。その途中で進学した学校も、もちろん砲術学校であった。1924年の大尉昇進時には、戦艦<日向>での分隊長を経験している。
そうした海軍生活の中で猪口は砲術への知識を深めていき、太平洋戦争を目前に控えた30年代後半には砲術学校の教官職を3度も経験し、一時は連合艦隊の参謀にも選ばれるほどの海軍士官に成長していた。ここで海外からつけられた異めいが<キャノン・イノクチ>。まさに戦前の猪口は、国内外に広くなを知られた砲術の権威であったのだ。
―活かされない砲術―
1941年12月8日、日本の運命を掛けた太平戦争が始まったこの日、猪口は横須賀砲術学校で教頭職を務めていた。当時の猪口は、休日であっても怠けることなく座禅や勉学に励み、部下や学生達に対しても決して鉄拳制裁をしない穏和な人間として有めいであった。その性格からか猪口は多くの将兵に慕われ、<ちょこぴん>というあだなで親しまれていたという。ちなみに、このあだなは同じく海軍軍人であった弟の猪口力平と区別するためでもあり、弟の力平は<ちょこりき>とも呼ばれていた。
だがそんな猪口も前線に戻る日がやってくる。1942年7月1日、ミッドウェー海戦の敗戦からおよそ1ヶ月が経ったこの日に、猪口は軽巡洋艦<な取>の艦長に就任したのだ。
<な取>艦長としての猪口について特筆すべきことはない。ここでの活動は、占領地域周辺の警戒任務しかなかったからだ。1943年2月に重巡洋艦<高雄>の艦長となった後にも活躍の場は回ってこず、卓越した砲術技術を活かせる機会は回ってこなかった。
そもそも、猪口が艦長となった時期といえば、<な取>時代は戦場が南方からガダルカナルへと移り変わり、<高雄>の艦長就任時にはガダルカナルからの撤退により水上戦闘そのものが起こりにくくなっていた。つまり、砲術を披露しようにも戦闘そのものが満足に出来ない状態にあったのだ。
<高雄>で数ヶ月間の艦長職を務めた後、猪口は再び横須賀砲術学校の教頭となった。このまま内地での教員生活が続くと思われた中、猪口に転属命令が下される。海軍から与えられた最後の役職、それは戦艦<武蔵>の艦長だった。
―悲運の巨大戦艦―
戦艦<大和>の就役から遅れること約8ヶ月後の1942年8月5日、<武蔵>は大和型戦艦の2番艦として配備された。世界最強戦艦の片割れとして活躍を期待されてはいたのだが、戦争の主役が航空機と空母に移ったこと、そして撃沈を恐れた海軍上層部が出し惜しみをしたことによって戦う機会を奪われていた。
猪口が<武蔵>に着任した1944年8月、日本軍はマリアナ沖海戦の敗北で空母の大半を失い、航空戦での勝利は絶望的となっていた。同年10月、フィリピン攻略を目指してレイテ島へ上陸したアメリカ軍に対し、日本軍は<捷一号作戦>を発動。残存するほとんどを用い、レイテ湾に駐留するアメリカ艦隊に向けての攻撃を開始した。
<武蔵>は戦艦<大和>と<長門>が属する第二艦隊に配備された。このとき猪口は大佐から少将へと昇進していた。従来であれば将官は最低でも戦隊の司令官となるのが習わしであるが、猪口の昇進は出撃直前の10月15日であった。そのため日本軍では極めて珍しい、将軍艦長として決戦に赴くことになったのである。
しかし、日米の戦力差は圧倒的なものがあり、空母は日本軍が4隻であったのに対し、アメリカ軍は17隻。航空機の数と練度も日本を大きく上回っていた。もはやアメリカ軍の撃退は絶望的と言ってもよく、<武蔵>の乗員の中にも、艦体の塗装の塗り替えを<武蔵が囮艦にされたのでは<死化粧を施された>と邪推する者が出るほど危機感が蔓延していた。
そうした悲壮な空気の中、猪口と武蔵はレイテへ向けて10月22日に停泊地のブルネイから出撃したのである。
―戦艦武蔵の最後―
10月24日、敵潜水艦の攻撃で重巡洋艦<愛宕>と<摩耶>を失いつつも進軍していた第二艦隊であったが、同日午前10時25分、アメリカ機動部隊から発進した艦載機部隊の攻撃を受けた。
ここで集中攻撃に晒されたのが、やはり船体が大きく陣形の外周に位置していた<武蔵>であった。持ち前の装甲で爆撃を耐え抜きはしたものの、攻撃のショックで主砲の射撃用方位盤が故障。続く第2波、第3波の攻撃で主砲の機能は完全にマヒし、旗艦の<大和>から撤退指示が下される。
だが、<武蔵>の戦闘力が失われたわけではなかった。右舷に大きく傾斜した船体も一時的には回復しており、途中の防空戦闘の中でも対空砲火で敵機を5機撃墜したと申告していた。それでも物量の差を覆すことはできず、最終的には最大規模で行われた第6波の攻撃の中で、10発以上の爆撃と同じく10発近い雷撃を受けて、ついに<武蔵>の戦闘力は完全に喪失した。重傷を負いつつも指揮を継続していた猪口も、ここに来て戦闘続行を断念。2時間以上の復旧作業も空しく総員退艦を命じざるを得なくなった。
猪口はひとりで艦に残り、一通の遺書を残した。それに書かれていたのは、
<機銃はもう少し威力を大にせねばと思う。命中したものがあったにもかかわらず、なかなか落ちざりき。申し訳なきは対空射撃の威力をじゅうぶん発揮し得ざりし>
という、一連の戦闘経過から感じた大和型の対空能力の不備に対する批判と自身の反省だった。この遺書を副長に手渡し乗員の脱出を見届けた後、猪口は武蔵と共にシブヤン海に没した。猪口敏平、優れた砲術の知識を持ちながらも、ついに活かせる機会を与えられなかった将軍艦長の、無念の最期であった
参考:インターネットによる
★戦艦大和と運命を共にした有賀幸作艦長は海兵45期、猪口艦長の一期上であった。
戦艦武蔵の最後は、私が兵学校に入校した昭和十九年十月十日の十四日後であった。
★関連:戦艦武蔵
*参考1:品覚寺は最上部の写真の位置を見てください。
*参考2:莫妄想(まくもうそう)
*参考3:インターネットで<第一航空隊参謀猪口>で検索すると多くの海軍特攻隊の記事があります。
*参考4:
戦艦大和 | 戦艦武蔵 |
起工 昭和12年11月14日 | 起工 昭和13年03月29日 |
竣工 昭和16年12月16日 | 竣工 昭和17年08月05日 |
沈没 昭和20年04月07日 | 沈没 昭和19年10月24日 |
平成十九年五月十三日
追加1:平成十九年五月二十日
?どん亀艦長青春記?(光文社)を読んで、たまたま、猪口力兵大尉と板倉 光馬(海兵61期)の関係と兵学校学生の悩みを知ることができた。
▼板倉さんが一号生(最上級生)になり、下級生の指導に当たるようになってから、心境に微妙な変化をきたしはじめた。はじめのころは、漠然とした不安のようなものであったが、そのうちに深刻な懊悩に転じ、はては、悶々として眠れない日がつづくようになった。
ときあたかも、満州事変を契機として風雲は急を告げていた。その場合、弾丸雨發の間にあって、泰然自若として任務が遂行できるであろうか? 時と場合によっては、部下を死地に投ずることもあり得る。はたして、自分にそれができるであろうか……。
あれを思い、これを考えると、私は海軍士官として使命を遂行する自信がなくなった。とりわけ、日夜、軍人勅諭を奉読しながら、いまだに死生観すら確立していなかったのである。軍人としてこれほど恥ずべきことはない。いや軍人たるの資格すらないように思えた。
さらに、分隊監事である猪口力兵大尉(上述の記事参照)が、あまりにも完璧であった。非の打ちところのない理想像として映ったことが、自信喪失に拍車をかけた。(中略)。
▼人間の心情は、いかに深層に秘めようと、おのずから表にあらわれるものである。そして教育に真摯な猪口分隊監事の目に止まらぬはずはなかった。ある夜、温習中に校庭に連れ出された。
<ちかごろ、伍長の挙動は、ただごとではないように見うけるが、なにか悩むことがあるのではないか?>
<……>
虚をつかれた私は、とっさのことで返す言葉に窮した。いや、不甲斐ないというか、あまりの恥ずかしさに、心境など口にだせるものではなかった。その反面、だれかに打ちあけたい衝動にかられていたことも事実である。分隊監事は、私の胸中を見透したかのように、おだやかな口調で、
<どんなことでもよい。腹蔵なく話してくれないか……>
そういわれて、やむなく、私は最近の心境を洗いざらい打ち明けた。
▼<そうだったか……。それでわかった。伍長が悩むのは無理もない。いや、当然だ。むしろ悩まないのが不思議なくらいだ>
はじめは私の気持をほぐすように、それから諄々と、軍人のありかたについて諭してくれた。さらに死生観については、
<わしも正直なところ自信はない……。しかし、軍人の本分は使命を果たすことにある。ガタガタふるえていても、任務を遂行できたら、それでよいのではないか>
分隊監事はさらに語をついで、この歌を味わってみるがよい、といって、口ずさんだ。
?ふりかざす 白刃の下こそ地獄
一歩ふみこめあとは極楽
▼その夜の薫陶で、私は目から鱗が落ちたような気がした。元来が短純な人間だったからであろう。そして、私なりに、自分をとりもどすことができた。猪口力兵大尉は、私にとって終生忘れることのできない人である。
僅かな期間の海軍兵学校の生徒であった当時からのぎもんてんであり、宿題であったものである。当時、死生観などの話を聞く機会もなくて、不思議な感じさえ抱いていた。しかし先輩はこのように悩み、指導に当たっていた分隊監事がいたことでを読むことができたのは幸運であった。
★関連:第8回岡山海軍連合クラス会:61.04.20 講師 68期 松永市郎氏
出席者:48期~78期総計55人。その中に61期:板倉光馬、75期:小坂二度見(こさか・ふたみ=前岡山大学長、麻酔・蘇生=そせい=学)、76期:広木重喜(ひろき・しげき=元大阪高裁部総括判事:奥村長生君と裁判官知り合い)、堀田昭(クラレ)、76期:15人出席、77期:薦田永(クラレ)、78期:頼本節雄(クラレ)たちがいた。
著者の略歴
板倉 光馬
1912(大正元)年11月生1912年11月18日 - 2005年(平成17年)10月24日)
福岡県小倉市(現、北九州市)出身
日本海軍軍人
1933(昭和8)年11月 海軍兵学校(61期)卒
1935(昭和10)年4月 少尉任官
戦艦<扶桑>乗組
重巡<最上><青葉>乗組 1936(昭和11)年12月 中尉に昇進
潜水艦<伊68>乗組
空母<加賀>乗組
駆逐艦<如月>乗組
<八雲>乗組
1938(昭和13)年11月 大尉に昇進 1939(昭和14)年2月 第8潜水隊付
10月 潜水艦<伊54>航海長
11月 水雷学校高等科学生
1940(昭和15)年5月 潜水艦<呂34>航海長
9月 潜水学校乙種学生
12月 <伊69>潜水艦長
1942(昭和17)年11月 潜水学校甲種学生
1943(昭和18)年3月 <伊176>潜水艦長
4月 <伊2>潜水艦長
6月 少佐に昇進
12月 <伊41>潜水艦長
1944(昭和19)年1月15日 襲撃してきた米B-24爆撃機に帽子を振り、投弾を回避
第2特攻戦隊参謀
終戦時、海軍中佐
戦後、海幕技術部勤務
三菱重工業神戸造船所勤務
1963(昭和38)年4月11日 潜水艦<はやしお>深深度公試で操艦を指揮
著作<どん亀艦長青春記><不滅のネイビーブルー>、他。
追加2:平成二十年十月十六日
豊田 穣『江田島教育』(新人物往来者)を読んで
兵学校でよく歌われた歌に<公父子><元寇>などがあるが、歴史的資料は、よく江田島教育の材料となった。
当時の精神教育には、多くの愛国者の事績が資料とされた。
また戦史という時間があり、猪口力平教官(当時少佐=現在:海軍三佐)から、日清、日露の戦いはもちろん、関ヶ原、三方ヶ原、大阪夏の陣、川中島などの講義を聞いたが、これは非常に興味深かった。
猪口教官は、禅宗の素養があり、鎌倉武士を礼讃していた。
北条時宗が、元の大軍と戦うときの決意を固めるために、禅僧を訪ねたときの話などよく聞いた。
禅僧は、迷っている時宗に対し、
<莫妄想!>
と喝を入れた。
これで、時宗は迷いが晴れ、断乎、元軍を撃退する決意が固まったといわれる。
猪口教官は長い棒に<莫妄想>と書いた棒を携えて、講義にのぞんだ。訓練で疲れた生徒の中には居眠りをする者が多い。私のクラスに近森という男がいた。居眠りのめい人で、きちんと前を向いたまま眠ることが出来た。
ある日、猪口教官は、つかつかと近森の前に来て、
<莫妄想!>
と、例の棒で肩を叩いた。近森はまだ起きない。第二撃目で、棒の方が折れた。ひろい上げてみると、<莫>という字の下から折れて<妄想>という字が残っていた。
<どうも、近森の妄想には、棒のほうが参ってしもうたわい>
猪口教官はそう言うと、嘆息した。
江田島の歴史教育には、懐かしい想い出が、数々ある。
浴槽での丹田呼吸
Tanden Breathing in Bath
浴槽に半分~三分の二程度にお湯を入れて入浴、丹田呼吸をする。私の場合は、吐く息の音がはじめは大きく聞こえるが、吐きつくすころは音が聞こえなくなる。大きな風が押し寄せるようなおとだけの雰囲気になる。静かに繰り返すと一定のリズムでの音響のなかに引きこまれる。
坐禅では調息はゆっくりと長くするように教えられている。そのためにははじめから少しずつ生きを吐き出すようにしなければならない。それには、丹田あたりに手のひらをあてて、軽くゆっくりと抑えるのも一つの方法でしょう。浴槽での呼吸では、その呼気の大小がそのまま共鳴として聞こえてくるから、調息の程度をしることが出来る。
また、数息観を<ひとつ………>と息を吐き出すと、喉の声帯の振動が大きな反響と成るようです。この共鳴音は聞く人により様々に受取られるでしょう。
▼なぜだろうか? 高校物理の教科書によると<共鳴>の説明がされている。ある教科書では、
<水を入れたガラス管の上端におんさを(音叉)たたいて近づけてみます。そこで水面を上下させて空気柱の長さを変えると、気柱がある長さになったとき、急に大きな音が聞こえることがわかります。
おんさををたたくと振動がおこり、まわりの空気を圧縮したり、膨張させたりして音波を発生します。この音波はたて波(疎密波)となっておんさのまわりの空間を伝わっていきます。その一部がガラス管の上端から中に入り、水面で反射されます。そこで入射する音波と反射される音波がガラス管内で重ねあわされて、音の定常波ができます。もし、この定常波の腹のちょうどガラス管の上端のところにできるようになると気柱は大きな音を発するようになります。このような現象を気柱の共鳴といいます。>と。
▼浴槽の湯の量と、その空間がガラス管の気柱のようになり、丹田呼吸での静かに吐き出す息が自分ではわからなくても、おんさの作用をして、上に述べた説明のような共鳴現象が起こっているのでしょう。
これを続けてある一つのことに気づいた。お湯の温度を下げることが出来るようです。私の想像では、体の内側の運動による発熱により体温が温まりお湯の温度を下げても十分にからだの保温に効果があるのではないかと。
皆さんも試してみてはいかがでしょうか……。
平成十九年五月十五日
補足:貝原益軒著『養生訓・和俗童子訓』(岩波文庫)
<浴槽での丹田呼吸>で注意しなくてはならないことがある。
益軒の本に<洗 湯>の中の最初の項目に<湯浴は十日一度、行水は、しばしばせよ>とある。
『湯浴は、しばしばすべからず。温気過ぎて肌開け、汗出て気へる。古人、<十日に一たび浴す>(と)。むべなるかな。ふかき盥に温湯少し入れ、しばしば浴すべし。湯あさければ、温め過ぎずして、気をへらさず。盥ふかければ、風寒にあたらず。深き温湯に久しく浴して、身をあたため過ごすべからず。身熱し、気上(のぼ)り、汗出て、気へる。甚(だ)害あり。又、甚(だ)温なる湯を、肩背に多くそそぐべからず。』
<熱湯に浴するな><沐浴の回数><温湯に、短時間、入浴せよ><食前の入浴は不可>など、そのほかに十二項目あげられている。
益軒の時代と違うのは当然ですが、自分自身の体調に配慮されて、<浴槽での丹田呼吸>を行ってください。念のため。
平成十九年五月二十五日
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☆26庭掃除落想
Sweep My House’s Yard.
日曜坐禅会に参ると、いつも寺院内の道ははじめすべての敷地が熊手の掃除跡が残っていて本当に美しい。足跡を残すのは気がひけるほどである。できるだけ軽くあるいて跡がつかないようにと。朝、8時前に老師も作務衣に地下足袋で、修行者と掃除をされているのをしばしばみかける。
もう、何年? 日曜日に坐禅させていただいているだろうか。
坐禅のほかにこんな環境にひたりながら、我が家でそれをいまでしていなかった。ともかくも我が家の庭の草を抜くことをはじめる。他の人にとっては、なんでもないことであるが、私にとっては画期的なことである。
『正法眼蔵随問記』で周梨槃特についての故事も知っている。曹源寺の環境の静寂に包まれた美しい状態も、禅宗にとっては大事な修行であるなど漠然とうけとっている。以上のようなことは知識に過ぎなかった。
自分で、曹源寺の掃除をまねてみようと思うようになった。
草を抜いて、その片付けだけで終わるのと、さらに熊手の掃除をするのとでは格段の気持ちのよさが違う。部屋から眺めると、ああ! きれいになったなあ……。
雨が降った翌日は草抜き、熊手の掃除が楽で、きれいにできる。雨の功徳のようだ。掃除の間、いろいろな自然現象に触れる。例えば、地にはいつくばっているような草が想像以上に横に根を張っていることに気づいた。<大樹深根>といわれているが<無めい草広根>と言葉を作るまでにいたる。
また、多年草が庭から消えてゆくのを観察していると<輪廻>を思う。
また、常緑樹も機縁により、譲り葉のように新しい葉の生えそだっているのを待ち望んでいたかのように散ってゆく。
掃除の作業でも自分で実行するとこんなことまでわかってくる。
無心で作業をしているとき、不思議に思いもつかなかったことに気づくことがある。無心で草抜きをしていないで、無心と妄想の交錯である。人である限り仕方ないのだろうか?
私のこれからの課題は毎日つづけられるかである……。
▼余談であるが、上に述べたことに関連して、ヒルティ『幸福論』第一部のなかの一部を紹介します
さてここに、われわれが習慣的な勤勉を身につけるのを容易にする二三の、ちょっとしたこつがある。それは次のようなものである。
まず何よりも肝心なのは、思い切ってやり始めることである。仕事の机にすわって、心を仕事に向けるという決心が、結局一番むずかしいことなのだ。一度ペンをとって最初の一線を引くか、あるいは鍬を握って一打ちするかすれば、それでもう事柄はずっと容易になっているのである。
ところが、ある人たちは、始めるのにいつも何かが足りなくて、ただ準備ばかりして(そのうしろには彼等の怠惰が隠れているのだが)、なかなか仕事にかからない。そしていよいよ必要に迫られると、今度は時間の不足から焦燥感におちいり、精神的だけでなく、ときには肉体的にさえ発熱して、それがまた仕事の妨げになるのである。
また他の人たちは、特別な感興のわくのを待つが、しかし感興は、仕事に伴って、またその最中に、最もわきやすいものだ。仕事は、それをやっているうちに、まえもって考えたのとは違ったものになってくるのが普通であり、また休息している時には、働いている最中のように充実した、ときにはまったく種類の違った着想を得ることはない。これは(少なくとも著者にとっては)一つの経験的事実である。だから、大切なのは、事をのばさないこと、また、からだの調子や、気の向かないことをすぐに口実にしたりせずに、毎日一定の適当な時間を仕事にささげることである。
追加1:4月13日から始めたが、少しのときもあるが、なんとか続けている。
はじめてから感じたこと。
① 毎日、掃除していると、少しでもしようとする。
② 毎日、全部を掃除せずに3箇所に分けてやってきたが、日によってどこを行うか見当がつく。
③ 箒でのめを立てるのに、その形を丸くするか、横にするか、縦にするかの遊び心と言ったものを感じる。
④ 中止する言い訳はいくらでもある。雨が降っている。体の調子が悪い。
対策:庭にでる。まず箒を手にする。1平方メートルでも掃く。
平成十九年六月十二日
追加2; 私のこれからの課題は毎日つづけられるかである……。であった。
2カ月半ばつづけた感想を整理する
ともかくも続いた。普通は朝である。時には夕方のこともあった。
掃除の要領を少し詳しく述べますと
掃除は金属製の熊手を使い、両端を使って雑草を掘り起こして抜く。自分の足跡をせめて掃除したときだけでも残さないために奥のほうから手前に掃いていく。
かき集めた落葉・落花・草の処分にはごみ袋にいれて集積場に持っていっていた。ふと、堆肥にできないかと思った。
庭の空き地に適当な穴を掘りこれらを埋めて土をかぶせた。農業の方々は土質を作物に適したように改質工夫をしている。しかし、私は経験も知識もないから自然の作用に任せる意外に現在のところ方法がない。ただ<落花帰根>ではないがこれらを土に戻す手伝いをしているとの重いです。
▼続けた感想 庭の樹・花の変化は<万物流転ず知止>をはじめ、雑草の繁殖力(これでもこれでもかと湧き出る)の強さ。また土面の苔・カビと思われるものが変化している。作業していなければ気づかなかっただろう。
掃除作業は短時間でも毎日しなければ、繁殖力に負けて、その次に作業する時間も長くなる。<積小積大>の言葉とニュアンスと小さな仕事を積み上げておけばその効果は大きくなる。
掃除した後、庭を見ると気分がすがすがしい。
人様に役立つことではないが、掃除だけでもできる体力があるのはありがたい。
今後一年続けば何が感得されるのだろうか。
平成十九年八月一日
その後、毎日の作業にならなかったことは自分ながら恥ずかしい。
平成二十年二月十日、坐禅会に参加。午前7時半ころ曹源寺にまいる。本堂の前で、原田老師が地下足袋をはいて修行者と、熊手を手にして大きく前後に動かして掃き清めておられた。
翌日寒くて仕方ない。何か良い方法はと思う。そうだ、先日、お寺で見たまねをしてみたらどうだろうかと思い、我が家の庭を金属製の熊手を使い、その先端で草を抜き、自分なりに前後に大きく動かして掃除する。約30分だが、体は暖まり、庭は櫛目が立ち美しくなる。まさに一挙両得となる。
その作業中に見た落ち葉が土で汚されていた。つい心の問題として連想する。
野球の長島氏が脳梗塞の後、現在、リハビリをしている経験談をTVで話していた。一日休むと三日分後退するそうだ。
ある水泳選手が一日休むと、元の状態にかえるに二~三日かかるから、よいコンディションを維持するには毎日練習しなければならないと教えてくれた。
これは運動に限らないのではないか。特にある程度の年配で英語だとかその他もろもろの勉強にも同じ事が言えると思う。
<継続は力なり>というのは至言である。どれだけ継続できるかかどうかがその後の成長にかかっている。
庭の掃除について、経過的に乱脈に書き並べた感が致しますが。一つのことをするにもさまざまな変化があったと……。
平成二十年二月十二日
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☆27遺影―我が家の仏壇―
My Family Altar
日曜日には、曹源寺で坐禅をさせていただいている。普通は本堂で、時に小方丈でのこともある。
本堂は仏間が仕切られていて十一面観音像が最上段にまつられている。前住職さんの横山一保禅師のご位牌も祀られている。<日曜日は坐禅>のページに写真を掲載しています。
▼現在の我が家には仏壇がない 私が育った瀬戸内海沿岸の故郷の家には仏壇が座敷の床の間の右側にあった。両親の位牌も祀られていた。(下記参考を参照:知人の調査によるもの)
子供のときの記憶では、毎朝、竈でご飯が炊き上がると、まず仏壇にお佛飯をお供えしてから、家族一同で食事をいただいていた。
次男の私は、学校を卒業すると同時に、就職、故郷を離れて、独身寮、社宅に住み、ある時期に岡山市に家を建てた。子供二人たちは社宅、家で育ち、現在はそれぞれ結婚独立している。こんな経緯で、我が家には仏壇がいまだにない。
親戚の中の一人は長男一人子であり、最近お母さんがなくなられた。早速、仏壇を新しく祀られた。
<仏壇のある家の子供は、そうでないものに比較して犯罪者が少ない>と、述べている記事を読んだことがある。当時、そうかもしれないと思いました。
▼皆さんご承知のとおり、現状はすさまじいばかりで、子供が親を、親が子供を、友人仲間が殺人を犯す。新聞などは警察日誌かと思ったりするご時勢。
社会情勢も変わり、家庭は核家族化しています。仏壇のある家が昔に比べて少なくなっているのではなかろうか?
▼仏壇がない私は、自分の居間の鴨居の上に両親の遺影を掲げることにしました。仏壇の代替といえば少し疑問です。
あるとき、これでは亡き両親に申し訳ないようにおもうようになり、客間の床の間に両親の遺影を移しました。その遺影の前に、松島の瑞願寺で求めた小さい達磨さんの木彫りを置き、ささやかな、仏様と両親への供養? 時々、お花を供えて四季を楽しんでもらっている(一人合点かもしれない?)
これだけのことで、仏や祖先たちが住む家の中心ができたように思えた。心の安らぎがうまれました。
二人の子供が今は結婚してそれぞれ家庭を作っているが、子供のときからこうしておけばよかったのではと反省している。
参考:1、床の間と仏壇
床の間
日本人の生み出した静寂な空間、本来はここに仏像をお祀りして、香花を供え礼拝したところ、後になると、仏語なかでも禅語の字句がかかげられるようになった。桃山時代になって、定着した。
仏 壇
仏像や位牌を安置する壇や厨子。仏壇床:一尺ほどにした床の間
江戸幕府が、僧に宗門改めの実行を委託して、仏壇のない家を邪宗門として告発させた。
参考:2、仏壇の歴史
日本でお仏壇が祀られるようになったのは、1300年ほど昔の天武天皇の命がきっかけだと言われています。法隆寺にある<玉虫厨子>は日本の仏壇のルーツ的存在です。ですが、その頃、お仏壇を祀ったのは貴族や役人などごく一部の人だけでした。
鎌倉時代には禅僧達によって、中国の儒教の祭具だったお位牌が日本に持ち込まれまれました。
室町時代には、浄土真宗の蓮如上人が、多くの人にお仏壇を持つことを勧めたため、お仏壇が一般信者の間にも広がりました。
また、室町時代には<書院造り>という住宅形式ができて、<床の間>が作られるようになりました。そして、ここに仏画を掛けたり、仏具を置いて礼拝するようになりました。
全国的に庶民がお仏壇をお祀りするようになったのは江戸時代です。庶民がお位牌を祀るようになったのも江戸時代です。こうして、現在につながるお仏壇の伝統ができあがりました。
このように、仏教と先祖信仰や葬式が強く結びつくようになったのは、江戸幕府の宗教政策である檀家制の影響が強いと言われています。(インストールより)
平成十九年八月お盆近く、平成二十三年九月彼岸花が咲くころ再読。
▼追加:平成二十三年十月十四日、家内:美彌子が雲の上の人となり、我が家にも仏壇が座敷に安置されることになった
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☆28来者如帰
NHK-朝のテレビ小説<どんどん晴れ>の舞台の旅館の玄関に掲げられている額のことばが表題の言葉でした。
はじめのころは見ていませんでしたが、途中から熱心に視聴するようになりました。
テレビの演出の進歩。たとえば、出演者の心の変化なども幻の幸せそうな着物を着た子供(作者のことばにある『座敷童』)の映像が現れて消えてゆく技法を使っての気持ちの変化を表すなど。ぜひ再度視聴したい。
このテレビ小説の作者のことば引用させていただきます
作者のことば
脚本家 小松江理子
日本の古き良きものの一つに、相手を敬い、思いやりを持ち、笑顔で迎え入れる、そんな『もてなしの心』があります。この物語りは、そのおもてなしの心を代々受け継いだ、伝統と格式をもつ、盛岡の老舗旅館、加賀美屋を舞台に、横浜育ちの主人公の夏美が、いかに若女将として成長していくのかを描いています。
どんな困難な時でも、明るい笑顔で前向きに立ち向かう夏美。その笑顔は、岩手の遠野に古くから伝わる、幸せを呼ぶ『座敷童(ざしきわらし)』を、夏美の回りにいる人たちに、思い起こさせもします。
そして、世代も価値観も違う、大女将、女将、若女将という、三代の女たちが、それぞれの立場から、時には牽制しあい、時には相手に辛い決断を下しながらも、いつしか女将として、女として分かり合っていく。その筋を通した、潔い、凜とした生き方もまた、楽しんで観ていただければ嬉しい限りです。
小説の内容に惹かれたのは作者のことばのとおりですが、玄関の<来者如帰>の額の言葉にひきつけら、関連することば、事柄にふれてみたい
その一
<無財七施>教えでした。
1.身施、肉体による奉仕。
2.心施、他人や他の存在に対する思いやりの心。
3.眼施、やさしきまなざしであり、そこに居るすべての人の心が なごやかになる。
4.和顔施(わげんせ)、柔和な笑顔を絶やさないことである。
5.言施、思いやりのこもったあたたかい言葉をかけることである。
6.牀座施(しょうざせ)、自分の席をゆずることである。
7.房舎施、わが家を一夜の宿に貸すことである。
まさに、この教えを実践していると感じました。
その二
オーストリアからの女性がいます。彼女は岡山市のノートルダム清心女子大学で英語を教えられている時、日曜日坐禅会に参加されていましたので顔なじみになりました。
ある時期から、曹源寺での修行に入られました。数年の修行の後、自国に帰られて先生をされています。19年10月の初めの接心にお寺にこられていました。(帰国されてから毎年1度はこられているように思ひます)。
彼女に挨拶をして聞きました
<貴方は休暇を利用して来日されていていますが、日本のどこかに観光に行きますか?>
<いいえ、ここだけで修行して、そのまま帰国します>と。
修行、お仕事、修行と繰り返されている。多分、今後も続くだろうと思います。
たまたま、曹源寺の日曜日坐禅会にこられて、曹源寺での老師との<一期一会>が続いているのは不可思議としかいいようがありません。
私には<来者如帰>と結びつきます。
彼女に限らず、世界の国々からから多くの曹源寺での修行者たちは同じ行動をされています。
テレビ小説で考えさせられて、NHK・作者・出演者もこれからも視聴者に考えさせるものを作成されるようお願いします。
平成十九年十月十四日
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☆29無風流の漢(板橋老師)
海軍兵学校同期の板橋興宗師の提言を読み、私の励ましの文章としてそのまま書写させてもらいました。題めいも私どもの生き方を示唆するものです。
無風流の漢――わがクラスメートよ! 老いることをなげくな!!
<夏炉冬扇(かろとうせん)<ということがある。夏の火鉢、冬の扇、これはどちらもきせつはずれの間のぬけたものである。このような役たたずを象徴するものに坐禅がある。
▼坐禅とは足を無理に組みあわせ、ジーッと精神統一する瞑想法と理解されがちである。たるんでいる精神にカツをいれる精神修養と思われている。たしかにそのように誤解される要素をふくんでいるが、本質的にちがう。
坐禅は”自然”をまなぶことである。ごくあたりまえに息づいている自分の確かさを、おどろき知ることにある。しあわせのありかたさをヨソに求めて、うろたえていた自分の愚かさに気づくことである。
▼水のはいっているコップを机の上にチョンと置けば、水の性にしたがって沈殿するものは沈むし、澄むものはすむ。手ごころを加えて水を静める必要はない。坐禅も同じようなもので、腰すわりをキチンと安定させ、背すじをピンとのばし、からだごと投げだしてドッカリ坐っている。身も心も開け放して悠然と坐ることが肝心である。もともと人間のからだは、微妙なセルフコントロール(自己制御)つきのすぐれた機能体である。私たちはふだん、この精巧な機能体を自分勝手にムチャな運転をし、酷使している。その危険信号が、からだの痛みや心の苦しみとなって、赤ランプが点滅する。
▼坐禅はこの機能体のセルフコントロールのままに、スムーズに自活動させておくことである。なんのヘンテツもない夏炉冬扇の無風流を味わうごとく、自分の自然な息づかいに新鮮な悦びを感じている様子である。これを禅門では<自受用三昧>とか<全機現>と言っている。
▼私は昭和二十年八月、海軍兵学校生活の最後のころ、朝ベッドから飛び起きるとシーツがしっとりぬれていた。それが毎晩のようにつづく。てっきり寝小便したものと、恥ずかしく困惑していた。それが寝汗だったのだ。あの炎天下、みんなと駆け足したり訓練するのがつらく胸がヒィヒィ痛んだ。ひそかに便所に入って休んだことも何度かある。そして敗残兵のように復員列車にゆられて郷里仙台の田舎に帰った。翌日から肋膜炎と診断されて動けなくなる。生来の愚どんに加えて病気こともあり、中学の同級生より三年か四年おくれて大学に入った。あれやこれやで劣等感はますますひどくなる。
▼兵学校当時のプライドも気魄も完全に地におちた。自分の一生でゆきつく地位やめい誉も、どのていどか見当がつくようになった。嫁にもらう女性のレベルは二段も三段も格おちするだろうと悲観した。今から思えば、たわいないことだが、当時はうちひしがれてもんもんしていた。
▼<人生とは何ぞや?>
私にとっては哲学上の観念的な問題ではない。魂をえぐるいのちの疑問である。人生とは不可解なものなら、その不可解なものという結論だけは永遠の真理である保証がほしかった。
そんなある日、ふとしたことで坐禅会にゆくことになる。それが縁で学校を卒(お)えると、すぐ正式に禅門の人となった。雲水修行中、休暇を利用して数年ぶりに郷里に帰ったことがある。敗戦から復興に立ち上がった日本の發展は、東北の田舎でもめざましいものがあり、自動車が猛スピードで走り廻り、人々は忙しそうであった。その光景をみて、<はは!! これからの日本は精神科の病院と禅寺がはやるな>と、直感したことをおぼえてている。
その直感がどれほど的中したかは、街かどで目につく精神科の看板をみてもわかるし、大きな禅寺は会社や学校などの参禅研修のスケジュールで一ぱいにつまっていることでも、大体のことは見当がつくであろう。この傾向はますます顕著になることを予言しておきたい。
▼むかし人間の知識や技術が発達しない時代は、農耕狩猟するにも、人力の及ばないことは、すべて宗教儀式を通じて超自然の力に助けを求めた。ところが現代は科学や技術が爆発的に進歩し、今や地球上のことは知らざることなく、月世界はもちろん火星や木星まで探索する時代になった。
神や仏の力を借りなくともと生活にことかかない。人力以上の力を祈願しなくとも、人間の力でほとんどのことが解決がつくように思われる時代になった。その意味では<宗教は阿片なり>と、一笑できる世の中になりつつある。
ころが、腹一ぱい食べ享楽生活も自由にたのしめる豊かなご時世になったのに、ノイローゼや自殺者がふえる一方であり、新興の宗教はまことにさかんである。毎日報道される人殺しや犯罪も、大げさでハデになった。目標にむかって歯をくいしばり努力しているときは情熱がもえてはり合いがある。それが達成されてしまうと、うつろを感じ希望も消え失せてくる。このシラケムードは青少年にも及び、小中学生の自殺や人ごろしなど衝動的な犯罪が年々多くなっている。
この現象をみてもわかるように、人間には金や物の充足だけではどうにも解決のつかぬ、より大切な問題がある。どれほど物質的文明が進歩しても、人間の力で自由に出来る領域はいかにも微弱なものである。ここに思いを致してこそ真の知識人といえよう。
この人間だけが他の動物とちがって、自分のやっていることの<意味>を考えることが出来る。食って寝て肉体の欲望をみたすことだけくり返していると、生きていることに倦怠をおぼえて無気力になり、やがて自殺するもののもでてくる。自分のやっている生活の意義を感じることによって、生きる張り合いを見出す。これが人間である。
▼私たちクラスメートは、すでに五十年以上この世に生きてきた。少なからず悔恨はのこるもの、全力投球して今日までのびてきた。その甲斐あって、この年代になってやっと最高に調子も出てきた。
しかし秋の日の落ちるのは、はやい。それをからだで実感しつつある。近い将来、全力投球すべき球をとりあげられ、支えてくれたキャッチャーもいなくなる。そればかりか、もっと確実に、このわが身が灰になる日が必ずやってくる。
私たちはガムシャラに生きることだけを考えてきた。ホンの目さきのことだけに東奔西走してきた。この自分が必ず死ぬ、ということは、観念として知っているが、陰気なこととして遠ざけて考えまいとしていた。職場を去った老後を、何に生き甲斐を見出して暮して行くか。明日を待たず冷たくなるかも知をどう覚悟していくか。死について目をふさいで生きるものは、現在を生きることについても盲目である。死の意味を問うのは人間だけである。自分の死を見つめている者だけが、生きていることの尊さを知り得る。
この自分たちが歩んできた人生は一体なんだったのか。四苦八苦して働いてきたが、これが大宇宙の運行とどれだけのかかわりがあったのか。大自然に息づく今の自分とは何であるのか。
いつの日か、必ずひとにぎりの骨灰となって大地に還る、このからだ、この自分。この確実な結論を視点にすえて、現在の生活を見なおしてみたい。そこから自然に解答は見出せるのでなかろうか。
▼わがクラスメートよ! 気をおとすことはない。秋には秋のけだかさがあるではないか。一刻千金は春宵にかぎったことでない。わびた秋のしずけさこそ一期一会のしみじみした法悦を知る。人生のはかなさを肌で感じ、世の無常を魂でふれたものでなければ、人生のふかさを味わい得ない。この年齢になったら酒や女やマージャンなどで、さびしさをまぎらわしては、もったいない。そんなうさばらしを繰り返すのは、生きるはりあいを見失っているからではないか。わびしさをわびしままに生きる。さびしさをさびしままに、そこに親しんでいる。そのやるせないまでの<わび><さび>の悦びを知らずして、何の人生がある。墓の下にはいってからではおそい。
▼むかし禅の大徳は言った。<十(と)たび言わんとして九(ここの)たび休し去り、口辺(こうへん)カビ生じ臘月(ろうげつ)の扇(せん)の如く、風鈴の虚空にかかって四方(よも)の風を問わざるが如くなるは、これ道人の風標(ふひょう)なり>
▼私たちは、あまり多くしゃべり過ぎてきた。底の浅い小川は音をたてて流れるように、内容が貧しいばかりに多く語り、ムダばなしをしてきたのではないか。底の深い大河の水は音をたてないで流れる。自分自身に満ち足りているものは、自分を語る必要がない。口を真一文字に結んで、そこにカビさえ生えるほど寡黙の人、臘月(十二月)の扇のごとく無風流の漢。それでいて風鈴が東西南北の風を問わず軽やかに反応しているように、いつもこころさわやかな人。このような人こそ、自分の人生を自分の足どりで歩いている人と言えよう。
▼夏炉冬扇の役立たずの坐禅が、実はこのような格外の力量ある人物を育てているのである。私たちも、こんな生きかたにあこがれてもよい年代になったのではないか。
いかに 強風吹きまくも
いかに 怒涛は逆まくも
.. ........ と高歌し、いのちをお国のために捧げんと、紅顔を輝かした昔のエリートたちよ!! 人生のほんとのエリートとは一体どう生きることなのか。このへんで、しんみり考えてみようではないか。
―和尚 合掌―
(海軍兵学校クラス会誌『生徒館』・昭和54年8月号掲載)
光雲社『良寛さんと道元禅師生きる極意』に掲載されています。
平成二十年一月十四日(成人の日の翌日)
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☆30白隠禅師
白隠禅師の坐禅和讃を調べるために、インターネットを利用しました。多くの項目が羅列されていました。
たまたま、聖福寺をみますと、和讃が唱えられるように構成されていました。しかも聖福寺の住職の関守研悟さんは、山田無文老師の弟子の河野大通老師のお弟子さんで、曹源寺の原田老師は大先輩と書かれていました。私はご縁を感じました。
参考のために使用させていただくためにメールで許可をお願いいたしますと、早速、メールでの返信を頂ました。
そのホームページにはご自由にリンクしてくださいと書かれていました。<日曜日坐禅会>に参加の方々にご参考になればと掲載しました。
白隠禅師坐禅和讃
衆生本来仏なり 水と氷のごとくにて
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
譬(たとへ)ば水の中に居て 渇を叫ぶがごとくなり
長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり
闇路にやみぢを踏そへて いつか生死をはなるべき
夫れ摩訶衍の禅定は 称歎するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等
其品多き諸善行 皆この中に帰するなり
一座の功をなす人も 積し無量の罪ほろぶ
悪趣いづくにありぬべき 浄土即ち遠からず
辱(かたじけな)くも此の法(のり)を 一たび耳にふるゝ時
讃嘆随喜する人は 福を得る事限りなし
況や自ら回向して 直に自性を証すれば
自性即ち無性にて すでに戯論(げろん)を離れたり
因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し
無相の相を相として 行くも帰るも余所ならず
無念の念を念として 謡うも舞ふも法の声
三昧無碍の空ひろく 四智円明の月さえん
此時何をか求むべき 寂滅現前するゆゑに
当所(とうじょ)即ち蓮華国 此身即ち仏なり
平成二十年一月三十一日
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☆31曹源寺―石畳道一部改修―
曹源寺石畳道 |
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写真の提供 成田 勝彦様
日曜日坐禅会の方からのお話(21年3月29日)-メールによりますと
花冷えで、曹源寺の枝垂れ桜も、まだ持ちそうです。早朝から、多くのカメラマンがシャッターを切っていました。茶室の投老軒の中を見学させて頂きました。藪内流の渡辺先生社中の方々が、<閑栖様を偲ぶお茶会を命日の4月15日に行いたいとのことで、大掃除されていました。
▼茶礼の席は、老師がお話下さいました。そのことを中心に、お知らせ致します。
今、石畳の改修工事をしています。
▼京都の庭司、<音植>さんが、若いお弟子さんと共に泊まり込みで、作業されています。<音植>の屋号(商標)は、無文老師が先代の社長<音吉>さんに、授けられたそうです。
▼総門、山門、本堂を、一直線に貫く石畳道は、池田の殿様しか通れない大みょう道であり、当時は、石は敷かれておらず、伴池には伴橋も架けられていなかったそうです。したがって、殿様をお迎えする時のみ、急遽総門が開かれ、本堂までの道に砂を敷き、伴池には木の板が渡されたそうです。殿様の乗った籠は、その砂道、木の橋を通られ、日曜坐禅会の通用門まで、来られたそうです。
▼ その石畳の道や伴橋は、大正時代の終わり頃、伝衣老師(曹源寺18世)が創られたそうです。今から約百年前になります。
改修工事の現場を見ましたが、現在の石道を全てうがして、50~60㎝掘り下げ、その基礎部分を固め、その上に、小さめの山砕石を敷き、その上にセメントを流し、うがした石を元に戻す作業をされていました。縁から敷いていました。敷石は、思っていたより薄く、厚さは20㎝弱ぐらいで、いろいろな形がありました。おそらく、まにあわせ的に周辺の石を集めたのではないかと思われます。
法被を纏った<音植>の若いお弟子さんたちは、若社長の厳しい指揮にも、目を輝かせて、きびきびと作業されていました。ご近所の方々も、“良い職人が育つでしょう”と言っておられました。
▼ 年配の方に、<音植>の意味をお尋ねしました。その方は、先代の社長のな前(奥田音吉)、植木職人であったこと、会社は400年ぐらい続いていることなど、簡潔に話して下さり、<音植>に余りこだわらないで、“その通り読んで下されば良いのです”と言われました。その瞬間、なぜ400年もの長きにわたって、会社が続いているのか直感できました。
曹源寺は、時に新しい刺激があります。今は、ちょうど枝垂れ桜も見頃ですし、敷石の改修工事の現場は、知的好奇心をかき立てると思います。
以下は編者が見学・質問して教えていただいた事柄です参考までに付記しました。
改修しているのは山門から手前の池の間の石畳までです。
■1、21年3月30日午前中、見学しました。3月23日より始めて約2週間の予定だが、それよりも時間がかかりそうだと監督(総人員7人)さんのお話。
■2、<伴池>は漢和辞典・広辞苑その他でも掲載されていません。<音植>の方々に尋ねても、こんな言葉は知りませんですと。
▼友松圓諦『法句経』(講談社学術文庫)のP.89に
<生命尊重の気持ちから仏教では不殺生、放生、ということをやります。不殺生とは用もなきに生物を殺さず、放生はとは生物を開放してやることです。釈尊の教えをきいて犠牲用の馬羊の多くを放生したインドの婆羅門がいましたことは経典に出ています。よくお寺で放生会といって鰻などを池に放つことがあります。不自由な、もしくは近く夕餉にされてしまう運命にあるこうした生物のもっている生命を生かして、よろこんで池を走りまわるよろこびを楽しんだのです。仏教が生命を尊重してゆくという気持ちはこういうところから来ておるのです。>
池を放生池とおもうとよいのではないかと
■3、掘り返した土を見ると、そんなに昔のものでないといわれていました。土壌を見ただけで、石畳が敷かれたか時代が分かるのは本者の職人さんだと感心しました。
■4、使われていた石は大体厚さをそろえるようにして石畳を作れば、そんなにガタガタの石畳にならないものですとも云われていました。
メールでしらせてくださった方、成田勝彦様ありがとうございました。
21.04.03
▼追記:散歩を石畳の改修工事の状況を見みゆきました。終了していました。
<放生池>より本堂への石畳を修理していたのだが、池から約九歩くらい小石が敷き詰められて、そのさきは普通の石畳であった。何故だろうか?理由が必ずあるはずだが。
そして今回気づいたのは石畳の両側に30㎝くらいの側溝があるが、これが黄土色で材質は私には分からないが、多分<たたき>の土と同じだろうかと想像しました。側溝の両側は4分に1の球状に丁寧に形が整えられいました。さすが職人芸であり先々のことを考えられて工事を終えたのであろう。
こんなことに目を向けるのも散歩の楽しみであると感じて帰途につきました。
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☆32鐘の音
曹源寺の梵鐘の音が私の家まで聞こえることがある。静かに心にしみわたる。外気が冷えると冴えてくる。夕方は日の入りの空に音がわたる。修行者が<延命十句観音経>を唱えながら撞いているのだそうだ。
昨夏、スイスで数日過ごした。首都ベルンには市内の中心部に時計台があり、鐘が時を告げていた。アルプスのめい峰マッターホルンの麓の村・ツェルマットでは教会のの鐘が朝の冷気を振わせていた。これらの都市や村にはなんともいえない雰囲気があり、人々の様子にも親しみを覚えた。長い歳月の鐘の音に育まれてきたのだろう。
お寺の晨鐘は目覚めになり、昏鐘の響きにはだれもなにかを思い、心の安らぎとなって内観させられる。朝夕のいんいんと響く鐘の音は、はかり知れない平安を人に与えている。
毎日、梵鐘の音を聞いているところでは、そうでないところと比べると悪事の発生件数が少ないのではなかろうか。そこに住む人たちは心豊かなゆとりのある日々を送っているいるだろう。こんな町や村にしてほしいものだとと願う。
<山寺の 鐘つく僧の 起き臥しは 知らでしりなむ 四方の里人>
参考:『花園』平成5年2月号の<ひろば>に投稿採用されたものです。
22.02.14
★延岡市の鐘がNHKテレビ<小さな旅>で放映されていた。延岡市に記載されていた。延岡市市民に時を定時に届けている。鐘撞さんが紹介されていた。
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☆33Hokuozan Sogenzi
Sho E さんが<北欧山曹源寺>のホームページで曹源寺原田老師のもとでの北欧での状況を説明されています。日曜日坐禅会の方々のご参考になればとリンク紹介させていただきました。
■北欧山曹源寺晋山:ドイツでーお茶ですi
*Sho E さんから、リンクのお許しを受けています。
2010.03.23
追加:201.04.04 Sho Eさんが曹源寺にドイツからこられていましたので、挨拶に参りました。禅堂に3~4人の方と居られましたので、メールをいただいていましたのでお礼を述べまして、<次から日本語でのメールを漢字(片かな)交じりの文章のものを送ります>といいますと、さすがに日本語の上手な彼女は<勉強になりますから>と、にこやかに返事の声が返されました。
北ドイツで<北欧山曹源寺>で活躍されているSho Eさんが若いときに曹源寺で活躍されておられたころの様子を思い出しながらお別れました。ますます、禅に励まれますように願いつつ……。
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☆34禅寺の便所(東司)掃除
禅寺の便所は東司(とうす)と呼ばれています。
岡山でも妙心寺派系の曹源寺があります。日曜坐禅会などで東司を使用させていただくことがしばしばあります。非常にきれいで汚れが少しもありません。
東司の掃除は修行者の一番先輩がするそうです。いわゆる首座がされるとのことです。
▼松野宗純『人生は雨の日の托鉢』(PHP)を読むと、
<東司掃除から学ぶ>章があります。(P.84~86)
十月一日から始まる冬期の安居(あんご)に首座(しゅそ)に命じられました。安居というのは、修行僧が僧堂に定住し、一切の外出もせずに修行に専心することで、夏期と冬期のそれぞれ百日間が当てられる厳しい修行期間です。首座は修行僧の第一座として修行の先頭にたつ役割を与えられています。修行僧にとってこの任にめいぜられることは光栄ではありますが、反面責任も大きくなります。
安居の期間、首座は振鈴(しんれい)、東司当番(便所掃除)、粥座(しゅくざ)(朝食)および斉座(さいざ)維那(いな、いのう)の役(食事の儀式の進行役)、作務(さむ)太鼓係、法戦(ほつせん)式などなどの役目を果たさなければなりません。早朝四時二十分から暁天坐禅が開始され、続いて朝の読経が始まります。これが終わると直ちに作務衣(作業衣)に着替え、寺内外の清掃を開始する合図の太鼓を打ち、それから東司にかけつけます。
東司の掃除はブラシに洗剤をつけて便器をゴシゴシ洗い、さらに一つ一つ丁寧に雑巾で拭きます。それから祭られている東司の烏芻沙摩明王(うすさまみようおう)に線香を立て、一日の無事を祈ります。東司当番は重要な仕事ですが、正直言ってあまり愉しいものではありません。これが十五週間毎日毎日つづきます。
汚れていない東司掃除の方が抵抗が少ないのはいうまでもありませんが、一週間、二週間と掃除を続けていくと、段々と心境に変化が起きてきます。そのうち、汚れていない東司を清掃しても、どこか心が満たされないのに気づきます。むしろ汚れた便所を清掃する方が、後で爽快感を覚えるのです。
そしてさらに三、四週間が過ぎると、今度は東司が汚れていようといまいとどちらでもよくなり、清掃そのものに意義を感じるようになります。掃除した後の真っ白に光った磁器製の便器に、何とも言いようののない愛着湧いてくるのです。
自分がした仕事の成果で、同僚の修行僧や参禅する人々が気持ち良く便所を使えるのだと思うと、やりがいでいっぱいになります。<家では少しも手伝わないのに>と苦笑する妻の顔が浮かんできます。(後略)
▼この記事でも、禅寺の特有の言葉が使われています。丁寧に説明されていますので理解できます。また、この本ではいろいろな禅の修行について日常の話題を分かり易く書かれた記事がたくさんあります。その中の一つで、松野さんの東司掃除を行われて本人の気持ちの変化が率直に書かれていて、禅そのものに通ずるものを私自身は感じます。
▼この本のブックカバーの裏面に下記の紹介記事があります。異色な経歴の方です。
松野宗純……まつの・そうじゅん ◇……昭和3年生まれ。陸軍予科士官学校61期。慶應義塾大学工学部卒。米国レンセラー工科大学に留学、工学博士。マサチューセッツ工科大学(MIT)経営学部に学ぶ。エッソ石油株式会社副社長。藍綬褒章受章。昭和61年4月、得度、仏門に入る。現在、大乗寺で修行中。
森信三先生主宰の<実践人夏期研修会>で2、3度お話をしたことがあります。
2011.09.02
私の便所掃除体験:海軍兵学校で初めて体験した。生徒館の水洗便所はタイル張りで大便用を掃除した。3号生徒の役割であり、順番で担当した。手に雑巾を持ち、大便器をごしごしと洗ったものである。松野さんと同じような気持ちであった。しかし、なれるとその気持ちはふっとんでしまった。この体験は現在でも刻み込まれていて、家での掃除は抵抗なくスートしている。
2016.10.22
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☆35ShoEさんこと正恵さんのプラン
正恵さんについては◆◆日 曜 日 は 坐 禅◆◆ ZAZEN on EVERY SUNDAYに述べていますのでこのページを開き検索してください。
2012/02/25 (土) 3:43に下記のメールがおくられてきました。
How are you doing? We have not been writing for a long time, and I hope you are doing well.
Today I talked to Harada Roshi in Tahoma USA and he talked about Baba-san`s webpage. Do you have the address for it?
And also I remember, you have a webpage, can you please send me the address of your page?
We are working on an international page, and would like to include links for that.
黒崎訳:私たちはインタナショナルページを作っています、それにできれば(関連あるホームページ)をリンクしたい。括弧の部分は黒崎の推察。
Thank you so much for helping us in our work to share the Roshi`s teaching. Best wishes to you.
ShoE
早速、返信いたしました。2012/02/25 (土) 7:54
Dear ShoE How have you doing?
Thank you for your letter. We have not been writing for a long time.
Sometimes I remember, you practice Zazen in worldwide.
Now I do not practice because I have a backache.
My webpage is URL:習えば遠し◆◆日 曜 日 は 坐 禅◆◆ ZAZEN on EVERY SUNDAY
I think you can read Japanese. Best wishes to you,
S.Kurosaki
当日2012/02/25 (土) 23:16、正恵さんからの下記の返信をいただきました。
Dear Kurosaki Sama,
Thank you so much for your quick response.
It is a beautiful webpage and I plan to look at it regularily.
So sorry to hear about the pain in your back.
I send you best wishes that it may get better.
Today Roshi sama is arriving in Merida in Mexico and we will have sesshin for three days.
Sending you best wishes,
Gassho
ShoE
正恵さんが曹源寺で修行中に私が感心したこと、また教えていただいたことがあります。
▼其の一:毎年年末の日曜坐禅会は、坐禅が終わりますと、原田老師・修行者と日曜日坐禅会参加者の有志がお寺全体を手分けして大掃除します。約2~3時間で終わります。それが終わると、ねぎらいの善哉・蜜柑・漬物を和気藹々と頂くのが恒例になっています。
ある年、客殿で善哉を頂きおわったとき、目に入ったのは正恵さんが食べ終わって椀を漬物で拭うようにして綺麗にしていたのでした。現状では、私どもは平素の食事で食べ残さないのは程度がよいほうで、食べ残したりしているのをなんとも思わない、<もったいない>の気持ちは欠けて来ています。こんなことに麻痺している状態から日常の修行者たちの食事マナーにゴツンと一撃を与えられた気持ちにさせられました。
▼其の二:ある日、お寺の近所のお宅に正恵さんがビニール袋に魚を入れたものを届けていたのを目撃しました。<お寺では魚は食べないので、どうぞ!>といって手渡していました。つい日本のお寺の様々へと思いの翼が飛びました。
▼其の三:最後は私個人のことですが、英文の原稿を書いたとき、正恵さんにみていただきました。ドイツ出身の方ですが、サット読まれて、<いいですよ>といって下さったことがあります。
2012.03.04
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☆38坐――土の上にすわるふたりとは
朝日新聞の天声人語を執筆されていた辰濃和男さんの記事です。
辰濃和男著『漢字の楽しみ方』(岩波書店)の中に<坐――土の上にすわるふたりとは> の文章を引用しました。
辰濃さんが曹源寺で坐禅をされたとき、小方丈での茶礼の席で日曜坐禅会参加者(私も含めて)と話し合いをいたしましたご縁によりまして掲載することにしました。
▼字にも<刷り込み>といものがあるようです。新聞記者になって、最初の赴任地が浦和支局でした。そこで、当時の内閣官房長官の選挙違反事件にぶっかりました。
留置場で市会議員の自殺者が出るほどの事件で、かけだし記者としては、やや興奮ぎみで連日<連座制>という言葉を書きなぐった記憶があります。以後<座>あるいは<坐>にであうと、途端にいまわしい事態を思い出す、という一種の条件反射がうまれました。坐という文字に罪はないけれど、連座制がさまざまな記憶をよみがえらせるのです。
ですから、今回の<坐>は、ここに登場する他の字に比べると、悪役性がそれほど強くないということを最初にいっておきます。
坐という文字が好きになったのは、松原泰道老師の講話を聞いたときからです。あれはもう十五年以上も前のことでしょうか。
<坐という字は土の上にふたりの人がすわっている状態です。このふたりは、自分と、その自分を見つめるもう一人の自分というようにもかんがえられます>
そうか、そいう解釈もあったのかと思い、以後、私の脳裏には、連座の坐よりも坐禅の坐のほうが、大きな顔をして居座ることになりました。
春灯にひとりの奈落ありて坐す
野澤節子の句です。奈落というのは、この場合、地獄でしょうか。ひとりの地獄とは、いかなる地獄であるかのか。春灯のもとに静かに坐しながら、心のなかに修羅場をかかえたひとりの女人像が浮かび上がります。坐することではたして、地獄は遠のくのかどうかはわからない。が、とにかく坐っているうちにこころが少しはやわらいでくるかもしれない。そんなとりすがりたい思いがこの句から伝わってきます。
ざぜんでは、山田無文師の次の言葉が私は好きです。
<(坐禅とは)どっかり大地に坐りこんで、天地と我と一枚になる修行である>
天地と一枚になる、というところがいい。坐って静かに考える。こころを澄ます。いつか、何も考えない赤子ような無心の境地に入る。土と共にあって土に化す。宇宙と一体になる。私にはまだまだ実感がありませんが、この言葉は刺激的です。
▼坐禅の現場を見学させていただきたい、と岡山市・曹源寺の原田正道老師にお願いしました。訪ねたのは一九九五年の夏の盛りでした。
昼飯どきでした。曹源寺には外国から来た雲水が多い、と聞いていたのですが、まずはその数に圧倒されました。飯台を囲むのは、大半が頭を丸めた作務衣姿の外国人です。女性も、頭を青々と剃っています。 メキシコ人の青年がいる。アメリカから来た若い女性もいる。フランス人、イギリス人、デンマーク人、インド人、オーストラリア人、と多彩です。外国人の数は二十五人でした。昼食の献立てがトマトソースのスパゲッティというのがおもしろい。ほかに焼きなすと漬物がついて和洋折衷の精進料理でした。原田老師がいいました。
<生きるか死ぬか、ぎりぎりのところでここに来ているいる人が多いのです。みんな何かを発見したくて来ています。真剣です>
▼坐ることについて老師に尋ねました。
<まず体を坐らせる。次に呼吸を坐らせる、そしてこころを坐らせる。はじめから心を調えようと思っても難しい。調えるというのは調和です。体がよき調和をもち、呼吸がよき調和をもち、呼吸がよき調和をもち、こころがよき調和をもつ。そして、体、呼吸、こころの調和は本来はひとつなのです>
そうか、坐るとは調和なのか。上半身の力を抜いて、むりのない姿勢になると呼吸がのびのびしてくる。硬さがなくなる。下腹部に気持がおさまって来る。すると、こころの硬さもなくなる。老師の話を聞きながら、そういうものかと合点はしますが、坐禅は聞くことではない。することです。外国の人たちにまじって何日か坐りました。
昼と夜の二回です。蚊の襲来と猛暑のなかで坐り続けました。顔から汗がしたたり落ち、借りた作務衣が汗にぬれて肌にへばりつきます。
蚊と猛暑に悩みながら原田老師の言葉をかみしめます。<苦しみが深い場合や執着がある場合は、それを切り離す。要点は切ることです。切る勇気をもつことです>
切る勇気を持ちたいと思っても、蚊は次々にあちこちに襲いかかり、猛暑は断ち切れそうもなく、雑念の海に溺れそうになる。
それでもなんとか深い呼吸を繰り返しているうちにイラツキの波がおさまってくる。目の前に静かな湖面が現れる。水は澄んでいて、湖底の砂が見える。虫の声が遠くなり、顔や背を伝う汗がそれほど苦ではなくなります。外国人の雲水たちは黙々と坐り、さらに坐り、時どきは眠っていると見受けられる人もいましたが、とにかく、若い人たちの厳しい修行を続けている姿を見て、たくさんの気をもらった気がしました。
▼禅堂の先導者は、三十三歳のアメリカ人マーク・アルビンさんです。
修行歴は七年半、四年前に出家し道祐になりました。通称は<ユウさん>です。私は、はるかに年上だけども、そんなことをいってはいられない。修行歴七年半に敬意を表して、ユウさんに教えを乞いました。
夜遅く、ユウさんは<何千時間もやっていますが、まだへたくそです>といいながら、日本語で懇切に教えてくれました。
<大切なことは、やっぱり、力抜くことですね。ゆったりと肩の力を抜く。呼吸は少しずつ長く吐くことが大切になります。目は閉じない。見るのではなくて、目をおく。墨絵見るみたいに、軽く、やさしく……
<大切なのは、自分がいい、自分が悪い、あれをあんまり考えないでください。みんなに荷物があります。心に肩に胸に腹に荷物がある。ああ、きょうは呼吸ができない、食べ過ぎだ、自分が悪い、と思ってばかりいると、坐禅にネガティブ・エモーションは入ってきます。逆に自分のこといつも正しいと思ってる人は荷物なくて楽だけど、意味のない坐禅をやってますから眠ってしまいます>
<大切なのは深い願いがないといけないということです。坐禅するのは自分のためではない。<衆生無辺誓願度(しゆじょうむへんせいがんど)といいますね。衆生を救う、人々の悩みを救うという気持が大切です。人のためという深い願いがないと、我見が強くなります。自我が邪魔すると苦しいですね>
ユウさんの口からでる<衆生無辺誓願度>という言葉がひどく新鮮に響きました。
▼翌日、もう二十四も日本で修行しているアメリカ人女性のチーさんと話をしました。
<私は若いころ、自分の人生のあれこれを自我のせいにしていることに気づいて、苦しみました。禅の本に答えを見つけ、日本で修行を始めました。坐っていると、自分が執着しているもの、とらわれているものに出会い、自分が裸になってゆくのを感じました。禅のおかげで、人生が百八十度変わりました>
▼山頭火と親交のあった大山澄太の句です。曹源寺の坐禅では、衆生無辺誓願度の心境とはほど遠かったのですが、つまらないことにいつも心を波立てている己の後ろ姿がちょっぴり見えてきたのは収穫でした。
もし、人間が生きるうえで大切な動詞を十あげよといわれれば、私は<歩く><驚く>と共に<坐る>をあげます。
とりわけ、山道を歩いていて、ふと腰を下ろし、土の上に坐るのが好きです。自分のからだが大地にじかにつながっているのだという感じがしてくる。
坐ることで大地と己とのつながりをからだで確認する時間をしばしばもちたい。私たちの暮らしが土から離れてゆけばゆくほど、坐ることで、本来、大地の恵みによって生かされている小さな己の姿が見えてくる。この大地にゆったりと腰をおろした生き方をしてゆきたいと思う。
<坐>はそんな思いを深めてくれる字です。
※参考:辰濃和男
2012.03.16。
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☆37風に抱かれて
I'm in Wind.
小林 司『出会いについて 精神科医のノート1から』P.149~150 より
臨済宗妙心寺派の管長を勤めた山田無文さん(岡山市:曹源寺の原田老師の師)は、東京の川口慧海の雪山精舎で禅の修行をしていたときに、厳しい修行のために一年ほど結核に倒れ、医者からも見放されてしまった。
そこで故郷の山奥に帰って寝ていたときに、もう死ぬのではないかと悲観していた。
▼そんな夏のある日に、縁側に這い出して座って涼んでいたら、ひじょうに気持ちのいい風が吹いてきた。ああ、いい風だなァと思いながら、ふと考えた。風は空気が動いて起きるのだ、そういえば空気がというものがあったんだなァ、と気がつくと、この空気が自分を守っていてくれたんじゃないか、自分は孤独じゃないんだ、この大自然の大きな力に抱かれて生きていたのだ、と思い、急に泣けてきて涙が止まらなくなった。そして、自分は生きて生きていたのではなくて、生かされていたのだ、ということに気がついたら、気分がすぐれて少しずつ元気が出てきて、やがて病気が治ったのである。
▼世界のなかに存在する人間は、言葉だとか、目に見える文字だとか、具体的に信号を伝える記号だけに反応するのではない。山をあるいているときに落ち葉を踏むカサカサという音とか、あるいは、田んぼを歩いているときのカエルの声、または、海の波の音、そういった思いもよらぬ宇宙の声に感動することがある。
▼出会いというのは、人間を超えて世界自身のあるがままのあざやかさに人が触れ合い見せられる<悟り>の瞬間であり、場所との一体感である、と李禹喚(リウファン)さんは述べている。
▼曹源寺の日曜坐禅会では、坐禅が終わり、茶礼が小方丈で行われます、そして老師のお話をうかがいます。床の間の右側に、山田無文老師の肖像画がありまして、暖かい目でじっと見守られています。
▼この話を読みまして、無文老師も結核に倒れ、医師から見放され、もう死ぬのではないかと悲観されていたお気持ちは、禅宗の老師にしても人間としての感情は避けることが難しことを示唆されていると私は感じました。しかし、療養中にふと感じられたお話は、学ぶべきことであると思います。
2012.04.15
肺結核に罹られた二人
その一:芹沢 光治良(せりざわ こうじろう)、1896年(明治29年)5月4日 - 1993年(平成5年)3月23日)は日本の小説家。
静岡県沼津市めい誉市民。
晩年には、<文学はもの言わぬ神の意思に言葉を与えることだ>との信念に拠り、"神シリーズ"と呼ばれる、神を題材にした一連の作品で独特な神秘的世界を描いた。
『こころの旅』(新潮社)P.116によると
幼くて親にすてられことは、私の一生の不幸であったが、しかし幸いなことに、天を仰いで求めたとおりの父にめぐりあって、生まれ変わったように幸福と健康とを自分のものにできた。そして、役人生活を三年で辞して、フランスへ行き、ソルボンヌ大学の大学院へ入学し、三年間研究して、その成果の論文をタイプにに打っている間に、肺炎で倒れた。肺炎はおさまったが、つぎに、肺結核だと診断されて、スイスの高原療養所へ送られた。
▼当時の結核は今日の癌のように不治の病気だとされていた。私の肺結核は、中学生の時の肋膜炎を根治しなかったことに、原因があると、フランスの医者もスイスの医者も言ったが、取りかえしのつくことではなかった。結核には薬のない時代で、自然療法といっても、病人は大気のなかにただ仰臥して、闘病するよりほかになかった。闘病というのは、死の応接間にいれられて、死の神と自分の生命を奪いあう戦いを、常時するような苦しい生活であった。私はスイスの高原で、雪にうもれながら、一年半闘病した。
▼その間、私はじっくり自己を反省した。幼い時から、中学校に入学したいと切ないほどの希望をもったために、境遇上不可能であったのに、希望をもって努力したおかげで可能になったことを思った。親にめぐりあうなど、全く空想のようなことだったが、希望をもって辛抱して待ったところ、ちゃんと実現したことを思った。
▼それ故、肺結核が死病であっても、絶望しないで、よくなるという希望をすててはならないと、自らに誓った、希望をいだいて闘病すれば、自分の過去がそうであったように、必ず不可能も可能になって、病気を克服できるだろうと、信じた。(中略)
▼私も死病を克服するには、めい誉だとか、地位だとか、富田とか、さまざまの欲望をすてて、人間にはどのような生き方ができるか、人生の根本問題にとりくんで生きなければならないと、気がついた。ミケランジェロが奴隷像を創って、自己解放をはからったように、私も闘病のベッドで小説を書くことをはじめた。三十三歳のことであった。(中略)
▼五十歳になった時、人生は五十年というのだから、これからの人生はひろいものだと、私は何かに感謝したい気持であった。実際、死病だった肺結核はいつの間にか、なおっていた。しかし五十三歳の秋、突如として喘息の発作におそわれて、それから再び、気管支喘息が持病になって七十歳になっても根治させることができない。(後略)。
その二:私の先輩が肺結核に罹る。
会社の先輩に、生活態度が淡々とされて、包容力があり、しかも音楽好きで一人で蓄音機で古典音楽を楽しまれていた。
▼昭和三十二~三十三年ころ、肺結核と診断された。当時は治療法として肺の切除が一般的であった。素人はんだんではあるが、医師は積極的に切除手術をされる空気が感じられた時期であった。
国立病院で肺葉を一つ切除された。其の後、順調に回復されて定年を迎えられた。
肺結核は現在では薬の服用で治療されるまでに至っている。
▼ご三人の肺結核に対処された考え方は私たちの病気に対する気持ちの整理の仕方を示唆してくださっていると思うと同時に、今日までの医学の進歩の恩恵に感謝せざるをえません。
2014.08.11
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☆38曹源の一滴水
禅の修行者は<脚下照顧>毎日の生活の中で、道理を見抜く眼を養うことが修行です。
風呂を沸かす事も、師匠の背中を流す事も、無駄のない鋭い働きのチャンスです。
▼ある日、儀山和尚さんが風呂に入れられますと風呂が沸きすぎていました。風呂当番に<水を汲んで来い>と、命じられました。
修行者は急いで、裏の井戸から釣瓶でくみ上げた水を手桶で汲み上げた水を手桶で何度も運びました。良い湯加減になりましたので、儀山さん<もう宜しい>と言われました。
▼<ハイ>と、余分な水を空けて、桶を伏せた途端に<ばかやろう、何をする>と叱り付けられました。親切が足らんゾ、僅かな残り水だからと思って棄てたのであろう。もう一歩努力して、なぜ植木に掛けてやらん。花に掛けてやれば、花の命になるじゃないか、大体、水は天からの頂ものだ。空から落ちてくる、一滴一滴の雨水のお陰で全ての命が活かされているのが解らないのか。
▼小の水には小の用機があり、大の水には大の用機がある。用に応じて使うを智慧と言うと、懇切に諭されました。
この修行者はこの教えに感動いたしました。二度とこの過ちを繰り返すまいと、自らのな前を<一滴>と改め儀山和尚さんの下で修行を仕上げるや、京都天龍寺に出世されました。
▼当時、明治維新政府は、神仏分離を発令して更に仏教廃止を決定いたしました。日本仏教史上最悪の苦境に追い込まれた中を奔走して、明治五年、再び存続が認められに至るまで、仏教復活に命を懸けて働かれました。
▼儀山禅師は水の乏しい丹後半島の僻地に生まれ、貧しさに堪えて育てられましたが、その生活の必要から生まれた<一滴の水の教え>は、十九歳の無めいの青年を、大きな愛に目覚めさせました。それを古来、仏教では仏心、親心と言います。仏の教えとは実生活の中で正しい人生観、世界観の眼を開くことです。全てのものの、生命の尊さが、しみじみと分からせて頂くとともに、物の豊かさでは無く、既に充分あたわれている事を改めて感謝せずにはおられなくなります。
引用:岡山市にある<護国山 曹源寺 案内記>より。
▼私はこの文章をよみまして、禅宗の教えを学ぶと同時に、最近禅寺での坐禅が盛んになっています。多くの人が何かを感じ絶対的なものを求めているのでしょう。また、宗教も時の支配者の影響を受けている事を改めて感じます。
2012.05.10
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☆39トニーのおりん
トニーはエイズにより死にいたろうとしていた。30歳であった。彼は仏教を勉強をしていた。僧侶と話したがっていた。
▼ホスピスから導顕さんに彼とはなしてくれないかと言われた。導顕さんは僧侶ではなくて修行者であった。トニーと話しをすることに同意した。しかし神経質になっていた。何を話したらよいかと?
作務着を着て白足袋をはいての服そうで、トニーの家の玄関でお母さんに逢いました。大変よろこばれまして、トニーの部屋に案内されました。私はドアの前に立ち<何をしたら>と考えました。
▼トニーの寝室の壁際に仏壇がありました。私は仏壇を見ると数か月前に他の仏壇を見ていました。シアトルで老師とご一緒に尼さんの家を訪問しました。その人の家に入るとすぐに老師は仏壇に参りお経を唱えました。私はその動作に感銘を受けました。私はトニーの仏壇を見たとき、何をしたらよいかが分かり、寝室に入ると仏壇の前に坐って、線香を立て小さなおりんを三度ならして、<般若心経>を唱えました。
お経を唱え終わって、ふりかえってトニーをみますと、その顔は輝き、微笑んでいました。トニーは数週間後に亡くなりました。
▼ある日、トニーのお母さんから、家に来ていただけませんかとの電話がありました。私が訪問すると、お母さんはテーブルの上にありましたおりんを持ち、これをあなたに差し上げますと言われました。
私はお手伝いした家族からの贈り物は頂かないこにしていますとはなしました。しかしこの度はいただきます。毎日、お経を唱えるとき、このおりんを使います。その響きはトニーの声ですとはなしました。トニーの声が聴かれます。
この話は、二年前のことです。 トニーの声は毎朝聞こえています。
注1:導顕さん(岡山曹源寺で修行された米国の人:シカゴのホスピスで奉仕)
注2:老師は岡山曹源寺の住職である原田正道老師。
注3:このお話を導顕さんから聴きまして英文にして頂きました。残念なことに日時は記録していませんでした。
Tony’s Bell
Tony was dying from AIDS. He was 30 year olds. Tony was a student of Buddhism. He wanted to talk to a Buddhist Priest.
The hospice asked if I would talk with him. I was trained not as a Buddhist Priest but as a Shugyosha. I agreed to talk to Tony. But I was nervous. What would I say?
I dressed in my best samugi and white tabi. Tony’s mother met at the door of the house. She was very happy to see me. She showed me the way to Tony’s room. I stood at the door way and wondered“ what should I do?”
Against the wall of Tony’s bedroom was a Buddhist Butsudan. As soon as I saw Butsudan, I remember another Butsudan I saw several months earlier. I was travelling with the Roshi in Seattle. We visited a Buddhist Nun’s home. Immediately upon entering the home, the Roshi walked straight to Butsudan and begun to chant a Sutra. I was very impressed by the Roshi’s action. When I saw Tony’s Butsudan I knew what to do.
I stepped into the room and sat in front of the Butsudan. I lit a stick of incense and rang a small bell 3 times. Then I began to chant the Sutra (Hannya Shingyo).
After I finish the Sutra I turned to look at Tony. His face was bright and smiling. We had a good visit together. Tony died several weeks later.
Tony’s mother called me and asked if I could visit with her. I arrived at home she had the bell sitting on a table. She said the bell was a gift for me.
I explained that usually I never accept gift from families I help but this time I made an expectation. I explained to Tony’s mother that the bell should be used to chant Sutras. I said I would use it every day. I told Tony’s mother that the bell was the sound of Tony’s voice. Tony’s voice would be heard every day through the sound of the bell.
This story happened 2 years ago. Tony’s voice is still heard every morning.
By 導顕 さん
2012.05.22
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☆40心頭を滅却すれば火も自ら涼し
織田信長の甲州征伐により武田氏が滅亡して領内が混乱すると、中世において寺院は聖域であるとする社会的観念があったため信長に敵対した六角義弼らを恵林寺にかくまい、織田信忠の引渡し要求を拒否したことから焼討ちにあい、一山の僧とともに焼死を遂げた。このとき残した<安禅必ずしも山水を用いず、心頭滅却すれば火も亦た涼し>の辞世で知られる。
▼<皆の者よ、われわれを焼き亡ぼすこの火焔に向かって、いかに対処するか、平生体得したさとりの力量の程をいえ、それを最後の言葉としよう>と。快川禅師の命にしたがい、それぞれ思い思いに自分のさとりの境界を短い言葉で述べる。最後に快川禅師は心境を次のように示します。
安禅は必ずしも山水を須いず (安禅ず必須山水)
心頭を滅却すれは火も自ら涼し (滅却心頭火自涼)
▼そして、一同とともに粛然(しゅくぜん)として生きながら、猛火に焼かれて亡くなります。天正10年(1582年)4月3日の凄惨な事件であります。禅の話をする時によく引き合いに出される話ですからご存じの方も多いでしょう。ところで、涼しい火などあるわけがない。火は熱い、熱いものは熱い。それでは滅却心頭火自涼はどのような据わりどころなのでしょうか--
▼快川和尚が最後に唱えたこの詩は、禅書として『無門関』とともに有めいな『碧巌録』第四十三則の<洞山無寒暑>の評唱にも見る杜荀鶴(中国六世紀の詩人)の詩の結尾の二句であります。
夏日悟空上人の院に題す
杜 荀鶴
三伏門を閉ざして一衲を披る
兼ねて松竹の房廊を陰らす無し
安禅必ずしも山水を須いず
心頭を滅却すれば火も亦涼し
この詩は杜荀鶴が夏の暑い盛り、悟空上人の院を訪ねて真剣に禅の修業をしている姿に打たれて詠んだものだが、それからおよそ300年後の宋の時代に編集された臨済宗の『碧巌録』という禅問答集に、この結句が次のような形で収められ、禅の世界に広まった。
▼碧巌録第43則 <洞山寒暑回避>
僧、洞山に問う<寒暑到来せば如何に回避せん>
山云く<何ぞ寒暑無き処に去かざる>
山云く<寒き時は汝を寒殺し、熱き時は汝を熱殺す>
日本でこの句が広く知られるようになったのは、天正10年織田信長によって、寺もろとも焼き殺された臨済宗恵林寺の快川和尚の劇的な一喝だった。
その燃え盛る焔の中で快川和尚が端然として言い放った言葉が、まさに <心頭滅却すれば火も自ら涼し>だったという。
<火自涼>は杜荀鶴の<亦涼>を更に一歩進めたもので、快川和尚の偉大さを示すものといわれていることかということだ。
参考:後世に道を託すお読みください。快川和尚といい、戦艦大和の艦長有馬大佐の心が遠い将来に眼を向けていることに感服するものです。
2012.08.07
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☆41<ために>から<ともに>
二十四年十月の末に、<宗門教学会議>が京都で行われた。そこに、有識者の方をお招きして、浄土真宗の本願寺派に向けて、ご提言をいただきました。
そのうちのひとりが金 泰 昌(キム テチァン)氏でした。金氏の提言の中に出てきた言葉がタイトルの<ために>から<ともに>という言葉です。
▼金氏は、主に西洋哲学を研究されてきました。一九九〇年に来日し、東京大学で勉強をされました。当時は日本の官僚組織の腐敗が問題となったときでした。外国では今も、謙虚で清廉潔白な官僚によって、日本が明治以降に立派な国家に素早くなれたと評価されているそうです。しかしながら、なぜ、もともと志が高く、有能であったはずの官僚が腐敗してまうのか?金氏は、多くの官僚との対話を継続し、その結果、<民のために>という発想そのものが、腐敗に繋がっていると結論づけました。わたしたちは、ついつい、<○○のために、やっている>と考えがちです。しかし、そうした考え方は、おごりや腐敗、相手への抑圧に、すぐさま変化してしまいます。そこで<ために>ではなく、<ともに>を、行動する時の姿勢にすべきと提言されたのです。
▼十二月には東北へ行ってきました。そのときに、被災者でありながら、ボランティアをされている方々のお話を聞きました。
<家は壊れなかったけど、電気が使えなくなりました。六歳の子どもが、エアコンが使えないので、寒さで風邪をひき、とつても困りました。自分の無力さを痛感しました。そんなときに、隣の方が薬を近所から集めてくれました。石油ストーブがあるお宅が、小どもたちを泊めてくれました。そのとき、本当に嬉しかったんです。だから、他の被災者の方と一緒に、嬉しい気持ちになっていきたい。それが、ボランティアをしている理由です。>
このボランティアさんのお話からも、<ともに>という気持ちが、活動の泉になっているように感じました。
▼<ともに>は、神や仏ではない、無力な私たち人間だからこそ出来る、互いに支え合う姿なのかも知れません。<ともに>が、被災地を支えている力であると実感して帰ってきました。
実は、金氏は、親鸞聖人の<悪人正機>という言葉から、<ために>から<ともに>へという考え方に至られたのだそうです。この言葉は、親鸞聖人の思想を象徴する大切な言葉で、<愚かで無力なものこそが、阿弥陀如来という仏さまの救いの目当てである>という意味です。そして、阿弥陀如来の救いによって、わたしたち自身の愚かさや無力さが、知らされ、気づかされていく。そんな無力な私たちだからこそ、<ともに>歩んで行く必要があるのです。
▼源照寺寺報「うどんげӎ 平成25年1月発行 に寄稿されている藤丸智雄さんの文章から「ためӎから「ともにӎを写しました。平成25年1月19日
▼読んでの感想:私どもは本当に無力な人間であることを自覚しなければならない。そして、文章に書かれているように<ともに>助け合ってゆかなければならないし、また助けられていることを知ると、平素の言行に<一緒に行きましょう>と思わざるを得なくなると思います。
*参考:金 泰 昌氏、藤丸智雄さんについてはGoogleで検索できます。
2013.01.21
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☆42世界中にZENが広まっ... | Facebook
Googleで私のホームページの で検索しましたところ
岡山の曹源寺から、世界中にZENが広まっ... | Facebookがありました。
ひらいて読んでみますと67人が<ていねい>と言っている。また最下段には、小林玄徳さんが<いいね!>と言っています。
私は、Facebook は使ったことがありません。
ホームページは誰によって読まれているか分からないことが目の前に突き付けられました。初めての経験です。
これは日曜日は坐禅を読まれたのでしょう。
小林玄徳師はGogleで検索するといくらでも出てきます。京都:相国寺で禅を指導されている方です。京都付近にお住まいQPONのかたがたはよく知られていることでしょう
相国寺で禅をされている方が、わたしのホームページを読まれて皆様にしらされたのでしょう。
2013.02.09
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☆43 女の目、外国からの目
禅の老師といえば誰しも男性をイメージすることだろう。どうして女がなってはいけないのかという人もあるし、禅の<十牛図>にしても、どうして男性の老人と子どもなのか、女性ではいけないのか、と言った人もある。
▼ところが、女性の老師は立派に存在してい。それも鎌倉時代のめい僧無学祖元(仏光国師:南宋から渡来した臨済宗の僧:1226~1286)の高弟として師のなから一字を与えられた、無外如大がその人である。
彼女は七十歳をこえる長寿を保ち、文字どうりの老師として臨済宗の発展に寄与したのである。
▼私がこんなことを知ったのは、アメリカ人の女性の日本研究学者、バーバラ・ルーシュさんの『もう一つの中世像』(思文閣出版)によってである。
ルーシュさんは、女性であること、外国人であることのの特性をうまく生かして、日本の学者がこれまでの伝統に縛られて見落としがちなところに目を向け、素晴らし本を書かれたが、無外如大にたいする注目も、そのひとつである。
これほどの人物であるにもかかわらず、これまで研究されることが少なかったのは、女性であるが故に無視されてきたのではないかとルーシュさんは慨嘆しておられるが、<老い>の問題を考えるうえにおいても、<女の目><外国からの目>で見ることによって、また新しい展望がひらけるのではないかと思われる。
▼鎌倉時代はともかくとしても、現在の日本ではどうだろうか。私の知って入る限りでは、一人の外人が日本で修行されて、母国で<老師>の勤めを果たされることが、二十五年六月から行われます。世界の人達のために貢献されることを切に願っています。
2013.03.06
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☆44 山田無文老師に教えらた人のお話し
山田無文大師(1900~1988)にはお弟子さんが5人おれます。河野大通老師あり、岡山市中区にある曹源寺の原田正道老師は5人目の弟子になります。
▼岡山市北区にある東福寺派系真福寺というお寺があります。
私が尊敬している方が参考1に記述している日に坐禅されていて、河野大通老師がこのお寺にときおり来られて法話をされています。その内容をメールで教えて下さっている。こんなつながりで真福寺とその他のことを記憶していました。
▼ある無料新聞に<学びのきおく>の題めいで○○さんが真福寺の住職さんの助言と現在までの経緯を書かれていましたので紹介します。
○○さんは、小学生のころは家業の葬儀屋の手伝いをするまじめな少年だった。高校生になると<成績よりケンカで一番になる方が楽だ>と1年生の夏には無期停学になるなど、やんちゃを繰り返し除籍寸前に。その時、かばってくださったのが坐禅を経験した備中高松の真福寺住職でもあった岸定樹先生(現住職のご尊父)。<無文老大師のところへ行け>。岸先生の助言で進学した臨済宗の花園大学。ここで人生を変える二人の出会いが生まれた。
お一人は、学長だった山田無文老大師(後の妙心寺管長)。<全学生を応援する>という今思えば無茶な理屈を認めてくださり、私が初代団長を務めた応援団の創設のご尽力いただいた。もう一人は、応援団顧問の河野大通老大師(現妙心寺管長)。
▼3年生になると就職先を探さなければならない。私は家業を継ぐことが嫌だった。その意志を両親に話すと、意外にも父は<自分で決めればいい>と言う。この父の言葉と何も言わない母の背中が私の気持ちに少し変化をもたらした。
無文老師に相談すると<家業を恥じることはない。むしろ立派な仕事だから、君が継ぐのが一番いいことだ>と諭していただいた。これで吹っ切れた私は社会に出るうえで自分自身にけじめをつけるために剃髪をし、無文老大師のおられた妙心寺で1年3カ月の修行、そして大学を卒業して□□葬儀社(現(株))に入社した。
▼この妙心寺での修行でえたこと、<大死一番 大活現前>、私欲をすべて捨て去って社会のために今を大きく生きていくこと、これが今の会社経営そして生きていく上での大きな理念の土台となっている。
この仕事を通じてのさまざまな方々との出会いが私を成長させてくれる。人間はなぜ生かされているのか、それは<円満なる人格者>になるためだと師の大通老大師に教えていただいた。これから先も一つ一つの機縁に感謝し、儀礼文化企業として地域に貢献していきたい。
参考1:真福寺では毎月第3土曜日の午前8時から坐禅会が行われています。
参考2:花園大学歴代学長:奥大節 (1949年)、山田無文 (1949年-1977年)、大森曹玄 (1978年-1981年)、立花大亀 (1982年-1986年)、盛永宗興 (1986年-1994年)、河野太通 (1994年-2000年)、西村恵信 (2001年-2004年)、阿部浩三 (2005年-2010年)細川景一 (2011年-)。
2013.05.14
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☆45 ShoE(正恵)さんの晋山式
One Drop Newsletter をアメリカの一滴禅堂から毎月1回メールで送ってくださっている。世界10カ国に一滴禅堂があります。
岡山の曹源寺の原田老師のもとに世界から修行にきた人たちが長い期間、鉄鎚を受けて、自国に一滴禅堂を開き禅宗(臨済宗)が広まっているのです。
昨年から、ShoE(正恵)さんの晋山式が今年の6月に行われていることは知らされていた。
今年6月の記事に下記のものが記載されていた。
Hokuozan Sogenji, Germany(北欧山 曹源寺 ドイツ)
Just a few days ago, we finished the Osesshin with 73 participants followed by the Shinzanshiki Abbot Installation and Daihannya Monastery opening ceremony. During the Shinzanshiki, Shodo Harada Roshi was installed as "Representative Abbot" and ShoE Zenshi as Abbess. Many guests came from far away,thank you all for joining in this special ceremony. After three years of hard work and building, I am grateful now to place more emphasis on a monastic schedule. Please find the schedule of Hokuozan here. (ShoE)
Shinzanshiki - Abbot Installation June 29, 2013, 8:07 pm ~ by ShoE in news
*晋山式その他のものが多くみられます:晋山式
▼丁度数日前、私ども晋山式と住職の就任と大般若禅堂(Daihannya Monastery)の開山式に続いて73人と大接心を終えました。原田正道老師が代表住職で正恵禅師が住職になりました。
この式に遠方より参加していただきお礼申し上げます。3年間のハードな作業と建物作りの後、修行のスケジュールにさらに精進することに感謝します。
晋山式ー住職就任 2013年6月29日 8:07 pm 正恵
*黒崎翻訳:誤訳があると思います。訂正お願いいたします。
▼正恵禅師についてはShoEさんこと正恵さんのプランに記載しています。
今後のドイツの方々を善導されますようにと陰ながら念願しています。
注:インターネットによる:晋山式(しんざんしき)とは新任の和尚様がお寺に住職するための儀式です。
晋山式の<晋>は、進むという意味です。お釈迦様、お祖師様が示された教えの道を進んでいくのです。<山>とは寺のことです。寺は、教えを学び仏心を受け嗣ぐ人間形成の道場であり、ご先祖の霊場です。ですから、新住職はもちろん、檀信徒の皆様と共に仏祖の御恩に報い仏法を弘めていく誓いをする大切な式が晋山式です。
参考:北欧山曹源寺(北ドイツのアセンドルフにある) 晋山式
2013.07.04
ShoE(正恵)さんは、<禅師>の称号が与えられており、弟子を指導出来る資格がある。
臨済禅は、祖師禅と言われますように、法系が非常に厳格で曹洞宗の禅とはかなり違っているようです。例えば、曹洞宗の老師の資格は、ある程度の修行を終えると自動的に与えられるようですが、臨済宗は、師匠を初めとして老師の資格を持つ師が認めて、初めて資格が与えらるようです。釈迦からの法系に記載される(正式な認可証になる)そうです。
2016.10.18
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☆46 ?人生の節目を生かして?
平成十年(1998)四月九日、曹洞宗(そうとうしゅう)新管長・板橋興宗禅師の晋山式(しんざんしき)が大本山・鶴見総持寺において厳かに執り行われました。
全国から駆け付けた数千人を超える人々がこの板橋新管長の就任を祝いました。式は粛々と進み、板橋禅師の存在がひときわ大きく感じられました。私にとってはまさに感動の二時間でした。
思い起こせば私の今の人生は、板橋禅師なくしては、あり得ませんでした。定年後に生きがいある人生を模索していた私は、まさに“人生節目の時”に、当時、金沢・大乗寺の住職をなされていた板橋禅師に出会ったのでした。
その一つの出会いが、今日の松野宗純を決定づけました。私にとっては何ものにも換えがたい尊い出会いであったと思っています。
私にとって、それはただの出会いではありませんでした。当時の私は、「人生とは……ӎ「いのちとは……ӎ「自己とは……ӎといった人間の根源的な悩みに直面していました。
それであればこそ、禅師の親切な一言一言が身に染み、自己を見つめ解決をはかりたいという誓願に生きる決意、すなわち出家し、仏道修行に専心する決意ができたのだと思っています。
▼板橋新管長は、今また新しい人生の節目の時を迎えられたように感じられますが、管長就任のご挨拶の中にこんな一節がありました。
今から四十余年前、郷里の宮城を離れて僧の身となってから良寛さんに憧れて参りました。しかし、歩んで道は良寛さんと似ても似つかぬ道を辿ってまいりました。
何故(なにゆえ)に家を出でしと折ふしは
心に愧(は)じよ墨染め袖
この良寛さんの歌を居室に貼り、日ごとに三省したいと思っております。
まことに飾らぬ優しいお人柄がよく出ております。板橋禅師は昭和二年(1927)生まれ、海軍兵学校七十六期を経て、東北帝国大学に進まれます。何故に禅僧を目指して出家されたかについては、こんな感慨を述べておられます。
▼<私は宮城県農家の長男に生まれ、旧制中学校の頃より、『何が本当の生き方か、間違いない生き方とはどういうことか』というようなことが漠然とながらも気にかかっておりました>
しかし、時代は終戦末期、海軍兵学校に入りますが敗戦。心は虚しくなるばかりで、もう一度学生生活に戻ります。
<ある日、学校へ法衣(ほうえ)を着てきた学生がおりました。その学生に声をかける気になったのは、やはり何かを求めていたからでしょうね。『お寺に泊まって坐禅をして居るんだ』と彼は言いました。『坐禅をしたらどうなるのか』と聞いたら、『足下がふらつかぬようになるよ』と答えたのです。その一言にひどく惹かれたことが現在の自分にまでつながっているのでしょうか>
そしてその友達の居る寺で一緒に坐禅をしながら学校に通うようになり、卒業と同時に僧の道に入ります。迷いはなかったのでしょうか?
<坊さんとして最後までやり抜けるだろうかという不安はありました。特に女性に迷うことなく一生を送れるだろうかということが一番問題でした。正直言って、一生女性に触れられないのかなと思うと、一層未練がつのりまして……ふん切りがつきかねた記憶がございます>
と、まことに正直な告白をしておられます。しかし、禅師はこうも言っています。
<そういう大きな岐路に立った時、じっくり坐禅して内からの叫びを聞いてみると良いのです。坐禅していると頭の中で考えるものでなくして、腹の底から正当な道に自然と決心がつくもので、後から後悔の念がおこりません>
禅師もやはり若き日の苦悩の道程を経て、今日の大成があったということですが、節目の生き方としては“さすが”という言葉しかありません。
▼人にはそれぞれに人生の節目があります。それは竹の節のようなものといえるかもしれません。竹は節目があるから風雪にも折れぬ強さと柔軟性があります。
節目は自らもとめるわけでありませんが、縁により来たり縁により去ります。そこには縁を生かす誓願が必要条件です。そして、人は多くの節目の中で成長していくのです。まさに、厳しい世相の中でこの節目をいかしてほしいものです。そのためには先人の教えを素直に学ぶ姿勢が必要です。
松野宗純『人生、節目の生き方2』(発行 青森銀行)P.41~45より。
参考1:松野宗純『人生、節目の生き方』(発行 青森銀行)
参考2:人生、苦だからこそ感動があるー節目のときをどう生きるか
2013.07.16
青森銀行について:明治に入って、武士が給与として米や金銭をもらう仕組みは廃止された。代わりに士族が受け取ったのが今でいう国債だ。旧津軽藩士たちはその運用をしようと、銀行の設立を考えた。元家老の大道寺繁禎(しげよし)らが相談したのが、すでに銀行を開業していた渋沢栄一だった。
▼渋沢は手厳しかった。士族の救済だけの銀行ではダメだ、と説いた。銀行とは民衆からお金を集めて必要とする人に融通し、国を富ませるところと考える渋沢には、旧藩士たちが思い違いをしていると映ったのだろう。若手を何人か上京させ、こちらで銀行の仕事の修業をさせてはどうかと提案。大道寺らは助言に従った。
▼地域で銀行を営むことの意義を考えさせる逸話だ。地元の発展を手助けするという役割を、旧津軽藩士たちは教えられた。ところが今、地銀の多くは国債や外債の運用に依存する。マイナス金利政策のもと、貸し出しで稼ぐのが簡単ではない事情はあるが、銀行本来の役割を十分に果たしているようにみえないのは残念だ。
▼明治12年(1879年)、大道寺らは現在の青森銀行の母体となる銀行を創業した。初代頭取に就いた彼は、有志と農機具製造の<弘前農具会社>も設立する。銀行業だけに飽きたらずものづくりにも進出した。自分の地域ではどんな産業が必要とされ、どんな事業を伸ばせばいいか。地銀の経営者は描けているだろうか。春秋 2017/7/9付
*写真説明:青森銀行記念館(旧第五十九銀行本館・国指定重要文化財。弘前市)
参考:
大道寺 繁禎
2017.08.17
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☆47松野宗純『人生、節目の生き方』
48悩みの極まったときp.1~4
人生は悩みの多いものですが、その悩みが極まるときがあります。そのときにはどんな些細な望みも見出せなくなり、絶望。
そして、その苦悩を逃れるため、しばしば人は死を思います。
後出の手紙は、辻光文先生が<いのちの不思議>と題して、二年前の<実践人の会・信濃大会>の折りにご披露なさった手紙です。現在、悩める人々の相談に応じている先生ですが、二十五歳のときに秋田の寺から東京に家出、生きる意味を失いかけていたとき、柴山全慶老師からいただいたものです。
私はお話にたいへん感動するとともに、老師の手紙には、悩みが極まったときの人間に対する一つの指針があるように思いました。
*
拝復 お手紙を拝見いたしました。何かあまり悲痛に感じられる手紙で、なんと返事を書いて好いか分からぬ気持でした。
<苦悩はどの様に対処すれば好いのか>という問いは、実は答えられるものではありません。むろん苦悩にもいろいろあり、答もいろいろあるものではありません。むろん苦痛にもいろいろあり、答もいろいろあるにきまっています。然し本当につきつめた、生命(いのち)をかけてもという苦痛は、他(ほか)の如何なる人も答えられるものではありません。それはその人のものであっても他の人のものでないからです。
無慈悲な様だけど、自分で苦しんで苦しんで絶望のどん底に逆落しになる迄苦闘し尽くすことより外に道はありますまい。苦痛のために、身も心も絶望の深淵に突っ込み尽くす、それより外になんの道がありませふぞ。
親鸞聖人の悲痛の叫びを、臨済禅師の悲痛な叫びを知っているでせう。それから先に、暗があるか光があるか、そんなことかれこれ分別したとて何になりませう。来るものには来るにまかせ、開けるものは開けるにまかせ、そんなことに何をとらはれることがありませう。また、とらはれて何になりませう。
只身も心も投げ出して苦しむより外ありません。それから先は、貴兄の問題で私の関することではありますまい。<究極>が二つある筈はないではありませんか。真宗と禅宗とどこが違うのですか。そんなこと皆、空ごと、たわごとではないですか。そんなこと皆、空ごと、たわごとではないですか。そんなこといってみたって、何一つ勝手になるものですか。それほどどうにもならぬ浅ましい人間なのです。我々お互いは……。あゝ、でも私は今日もさんさんたる太陽の光に包まれました……。苦しんで生きませうよ。
兎に角御無沙汰ばかりしていますが、いつも何しているかと心配しています。乱筆御判読ください。 敬具
二月十五日涅槃忌の夜
柴山全慶
*
老師は<無慈悲のようだけれど……。絶望のどん底に逆落としになる迄苦闘し尽すことより外に道はありますまい>と、突き放しています。無論、若い身の上を案じておられるのですが、辻先生がこの厳しい指針に耐えられると信じてもおられます。
しかし、誰もが辻先生のように耐えられるわけではないでしょう。いろいろな人がいます。中には、母親が赤子をあやすように扱わなければならない弱い人もいます。
ただ、人生の悩みが極まったとき、悩みを打ち明ける人がいるのといないのとでは大違いです。
どんなに厳しいことを言われようと、悩みを聞いてくれる人を持つということは、心に宝を持っているようなものです。
また、悩みのときには、お寺でもどこでもいいですから、自らの心を静めることも大事です。
心を静めて祈る。
大乗寺でも本堂の観音さまの前で、一時間でも二時間でも手を合わせて祈っているいる人をよく見かけます。きっと大きな悩みがあるのでしょう。真の祈りは理屈ではありません。止むに止まれぬ自然の行動です。
その人が心の中で、<救けて……>と祈っているかどうか知る由もありません。しかし、祈りはそのこと自体がすでに救いなのです。全てを観音さまにお任せする……という気持になればいいのです。
<観音妙智力、能救世間苦(のうぐせけんく)>
祈りは生きる支えです。後は、”仏さまからいただいた自分の力”を信じることです。
松野宗純『人生、節目の生き方』青森銀行
2018.11.18
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☆48 三重の塔の建つ丘に登る
護国山曹源寺では、曹源寺日曜坐禅会が毎週、行われている。その裏山は山嶺の東の端に近くにある。
禅寺の裏山に三重の塔が建っていて、その周りは柵でかこって、保護のためにカギがかけられている。
周囲は樹木が生い茂り大樹に囲まれている状態になっていた。
私も長い期間、日曜坐禅会に参加させていただいていましたが、最近は体調を考え休んでいた。
▼坐禅会で知り合いになりました方が、三重の塔の周りの樹木が整理されて遠方からも見えやすくなっているから、丘に登ってみませんかと誘われました。
登るためにお寺に参ると、偶然にも、樹木を整理された方(同じ坐禅会の仲間の一人)がいまして、三人で登る。
登り道は、ある程度整備されてはいたがまだ完全ではなく、脚力が弱っている私は、一人の方が棒きれを持ち私はその端をつかみ、誘ってくださった方が後ろから押してくださりやっとの思いで丘にのぼりつくことができた。
丘から南の方を俯瞰してみると、岡山市内の南端、児島半島の山並みもぼんやりと眺めることができました。
▼整理された方のお話では、有志の方々が約30日で作業を完了されたとのことでした。ご苦労様でした。
下りが大変でした。坂道をカニ歩きの横向きにくだり、時に脇の下を抱えられながら、無事に降り切りました。ありがとうございました。
▼三人で話していると、塔から一人の修行者が出てこられた。そして、カギを開けたので<塔内を見せてください>と頼むと、見せてくれました。
塔内はうす暗くて、木組みががっちりとしていた。彼はそこで独座していたとのことであった。
曹源寺は国連のように多国籍の人々が入れ替わり立ち代わり修行に来られているので、<あなたはどこの国から来られたのですか>と聞きますと、<イスラエル>との返事でした。
イスラエルといえばみなさんご存じだと思います。この国からの人に出会ったのは初めてでした.
▼日本の風景から<お宮><お寺><お城><五重の塔をはじめとする塔>がなくなれば、殺風景なものになるのではないでしょうか。
▼昔、長男夫婦と私ども夫婦がスイスのチュ―リヒの小高いホテルに宿泊したことがありました。湖岸の周囲の市内が俯瞰できました。
夕刻になると、市内の教会の鐘が一斉になりひびきました。心に響くものを私は感じました。<こんな環境の中に住みたいものだと>……。
整理されるまえの三重の塔周辺
三方向から撮影(1) |
整理されるまえの三重の塔周辺
三方向から撮影(2) |
整理されるまえの三重の塔周辺
三方向から撮影(3) |
散歩道から見える三重の塔
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整理された三重の塔周辺 |
整理された三重の塔周辺 |
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☆49 交流坐禅研修会
見性寺交流坐禅研修会が平成二十六年四月五日から一泊二日で行われた。
参加者は、曹源寺住職原田正道老師をはじめとする修行者七人、日曜日坐禅会十二人の方々が同行された。
修行者は、日本人、アメリカ人、ドイツ人(男女)、フランス人、スペイン人、台湾人(女)でした。
▼日曜坐禅会の一人で、かつて一緒に曹源寺で坐禅していましたMさんから、メールを戴きました。
▼見性寺交流坐禅研修会では素晴らしい成果がありました。仏道が、師である曹源寺(岡山市)原田正道老師から弟子の中野道隆見性寺住職(熊本市)へ伝わる事実を、新築成る本堂で実感致しました。参加しました曹源寺の修行者、坐禅会の皆さんも、「法が引き継がれている」事実を前に、深い感動を持たれたと思いました」とありました。
▼Mさんは、毎週の日曜日坐禅会にほとんど参加しておられます。今年で、三十数年になられるそうです。大変熱心な方で、私は曹源寺の行事や勉強のお話をメールや、お会いした時に教えていただいています。
▼Mさんのお話の一つに、坐禅会のメンバーの一人で見性寺交流坐禅研修会に参加されたNさんは、公務員を定年退職され、ご両親が亡くなられて、実家で畑仕事もされており、曹源寺用の畑も作り、季節に出来た作物を曹源寺に持ち込まれているとのことでした。また、今回の研修会の写真も、すべて無料で配布されているとのことでした。
▼曹源寺と日曜坐禅会の方々の結びつきは、Nさんに限らず、Tさんは、曹源寺の参道の松並木・蓮池の手入れ・曹源寺の裏の丘の三重の塔の周辺の手入れなどされています。
このような結びつきは、ほんの一例でしょう。人知れぬ行いがされていると思います。
▼お寺に参る人は少ないのが日本人の現状だろうと感じていますが、曹源寺には、老師の徳を慕って、地域の老若男女をはじめ世界各地の若い方が参ります。
こんな禅宗のお寺もありますのを紹介します。(文責:黒崎)
熊 本 城 へ
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熊本城前庭(1)
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熊本城前庭(2)
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熊 本 城
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☆50 <坐禅は国境を越えて>
<こころの時代~宗教・人生~> NHK教育テレビ(大阪)
はなして 岡山市にある曹源寺住職 原田正道老師 ききて 住田功一アナ
平成26年5月11日(日)午前5時~6時
住田アナが、外国の修行者に、<何を求めて曹源寺に来られましたか>、と尋ねると
・生きることの本質を求めて
・心の拠り所を求めて
・自分の命の一番良い生き方を求めて
・母国で禅を教えるために
など、と述べられました。
[内 容]
広い世界
外国の人は、自分(自我)が邪魔して自然界の広い世界が見えにくくなっています。
自分のあることの大切さは、認めますが自分が一杯(自分が開かれていない)では、当人が壁にぶち当たります。しかし、自己主張の習慣を直すための生活態度を改めることは大変です。
外国の修行者
曹源寺に来ている外国の人は、20年、25年、30年と修行しています。20年はあたりまえです。
外国の人でも20年も経れば、次第にものの考え方・とらえ方に寛容性が生まれ、自我の主張が少なくなり、日本人のような姿勢(広い)が備わってきます。国民・民族・歴史の違いなどは、なくなってきます。時間さえ経てば、外の知識や心の有り様は、生きているので(曹源寺で修行していると)、同じようなものの見方になってきます。
知識が少なくなると、ゆとりが現れ、あたりさわりが柔らかくなってきます。自分を見つめ続けておれば、自ずと心が広くなり、人間が見えてきます。相手との交流、人間性が生まれてきます。海外の指導者となって育ってきます。
曹源寺での修行
坐禅です。坐が基本です。正しく坐ることが最も大切です。
<ざ>の文字に座と坐があります。座は座席とか座布団などを現すめい詞です。坐は動詞で自分の心の内容を意味します。また、幸せが天に向かって伸びている様子を現しています。
坐の意味
東洋の文化であります<命は母なる大地で生まれ、育てられます。>人生が終わると、と再び大地に看取られます。農耕民族です。
坐にある土の上の二人は、見る人・主観と見られる人・客観とを現し、我と社会のように、お互いに相対し、一体化して常に生きています。これを分離すると、正しく見ることが出来なくなります。迷って世界がいがみます。しかし、例えば、鏡のように自分を空っぽにすると、この世界が受け入れられる偉大さを発見するでしょう。
幼少の頃から青春時代
羅子(らこ) (お寺の子ども)でしたので、お父さんの為ていることに、一時は抵抗していました。そういう時期が、子どもの頃にはあります。
自分は、友達と一緒でないと納得しないと我慢出来ない時がありました。
お布施を頂いて、生活が成り立つことに抵抗があり、自分の人生は自分で開いていかないとの思いがあり、葛藤していました。これからの人生は、自分の力で生きていきたいと思っていました。
当時、自分の進むべき道は、パイロットにでもなれたらと、科学機械の勉強をしようと思っていました。
山田無文老師との出会い
あるきっかけで、偶然の出会いが訪れました。人生の転換がありました。人生で<人に出会えることの大切さ>を感じます。
十七歳の時、父のみょう代で本山の妙心寺を訪ねる途中のこと、満員バスの中で、静かに本を読んでいる老僧が目に留まりました。衣を着て何となく、明朗さ堂々とした風格があり、朗々とした存在感があり、明るく大きく見えました。この人は、どういう人なのだろうかと思いました。
自分の降りるバスの停留所でその老僧も降りましたので、後をついて行きますと、老僧は、妙心寺の塔頭(たつちゆう)の霊雲院に入られました。
この時、自分の道は、一発(ここ)で決まった。私にとっては、何よりない、これだと決まった。(*この出会いで決まった)と。
花園大学に進学し、無文老師の授業を受け、禅学を四年間聴かせて頂きました。卒業と同時に無文老師が師家をされておられる神戸の祥福寺僧堂に入門しました。
祥福寺僧堂での修行
一筋の道、自己に目覚める修行に徹しました。特に、臘八接心(成土会)の時は、真実の目が開けることが当たり前だと信じきって、坐禅に徹しました。しかし、自分の思いが大きく、挫折するまでもいかないが、徹しきれなかった悲しさ、空しさ、悔しさ、至らなさなどで悩みました。このことを今でも思い出します。
住田アナから、“<道が開ける>とは、どのようなことですか”の質問あり。
老師、“閉じ込められていた自分の心境が、カッーと開く”と思っていました。
無文老師の所に行って、私は“一人で坐ります”と言うと、
無文老師は、“一人で坐って徹しなかったらどうする”と問われる。
私は、“それはやってみないと分からない” と、若気の至りで言いました。
ある青年念仏行者との出会い
故郷の奈良の大峰山で独坐する。しかし、悟りに至らなかった。
山口県と広島県の境にある羅漢山に隠り、明けても暮れても、坐禅に徹しました。それでも悟りに至りませんでした。
何週間か経った頃のある日、ある青年(念仏行者)が“あなたは、ご修行者の方ですね”、と声をかけて下さった。
“いいですねあなたは。修行だけに打ち込めて”と、
私は、仕事を持っていますので、月から金まで、ここにこれません。土、日にやっとここにこれますと、
この時、鉄棒で殴られたような心境になりました。迷いが吹き飛びました。言葉は不思議ですね。<自分が無く、そう言えばそうだなあ>と思えました。
自分が思い上がっていました。
自分に智慧があるわけではありません。それなのに、大いなる智慧ある人に、なぜ智慧を頂かないのかと、
お寺に帰り、無文老師に、“帰りました”とご挨拶をすると、“わかったのか”と言われました。それからは、すべて任されていた気持ちになっていましたので、二度と迷うことはありませんでした。
無文老師とアメリカへ
1976年米国建国200年記念に、無文老師と60人の方と一緒にニューヨークに行きました。多くの報道陣やカメラマン(20人~30人)の放列に囲まれ、インタビューを受けました。
“禅は、米国に根付いたものとなるでしょうね”と尋ねられると、老師は、“いや、後200年かなあー”と。やはり、生活に根付かないと伝わったことにはなりません(社会に根付いたことにはなりません)。繰り返し、繰り返して、根付いて行きます。平和な社会が自然に出来てきて、坐禅が根付いてきたことになるでしょうね。
昭和57年(曹源寺へは、昭和57年に入山式を行い、横井一保住職の後を継ぐ。)
外国の人が、日本人社会に入るのは難しい。垣根を越えて中に入ることは、ちょっと難しい。
漢字文化とアルファベット文化の違いがあります。その交流をどうするか。翻訳してもだめで、相手に分かるように訳さないといけません。それと修行も同じで、坐ることから禅の文化、祖師方の体験をして頂く。心境(日本人のよう)になってもらうために、時間(年月)をかける。そうしていく間に、通じないものが通じ、届かないことが届くようになります。
自国での修行が、大きな意味を持つことが分かります。文化が違っていても時間をかけて、お互いに学び合うことが必要です。
外からの力が外されると、人々は<自我の思い>で混乱します。道徳的混乱、家族や地域社会の混乱が出てきます。自分をどうすることも出来なくなった時、自己の目覚め、人間の信頼を目指して、熱烈な坐禅をします。このことは、そういう経験を持っている人に出会って解ります。
人間の有り様を、もう一度見直し、どうあればよいのか、自分の拠り所をしかり掴もうとします。
海外での禅の普及
自己を見つめるまわりの環境を整えることが大切です。
海外に渡って、25年立ちます。海外の中に、禅の拠点を持っています。
禅の基本は、坐ることです。坐ってみると、こう言う視点、位置(自分が物を見る)があったのかと、気づかなかったことに気づきます。
こういうことが大切ですね。これを解れと言うのでなく、自分の中に落ち着いた心境があったのだなあーと気づきます。
文化の壁は、どこに行ってもあります。その中で、お互いに少しでも近づけるように、学び合えるように努力することが大切です。
外国の修行者
今は、情報の飛び交う世界ですので、思い決意さえすれば、すぐ行動が出来ます。求めようとすれば、海を越えることはすぐ出来ます。
人生の最も重要なことを為すには、何らかの決意があったと思います。
修行に飛び込む決意があったでしょう。
修行では、肉体的忍耐は仕方がありませんが、自他に対する思いやりや自分を表現することが、生活の場で出来るまで徹します。そのためには、まず<自分を捨てよ>と。外国の人には、この自分を捨てることに、まったく戸惑い、難しいことです。日本人は、たいした問題ではありません。共同社会の基本ですから。
米女医師ペチー氏との出会い
生きることの本質は、死を見つめることによって、解ってきます。
乳がんに罹り、一応抑えられており治ることもなく、再発の心配があるニューヨークの大病院の内科女医師ペチー氏は、ある禅の和尚の最期を看取られました。その時、“人間の死が、こんなに美しいものか”、と感じられました。人は、死を覚悟した時、死に向かっていく時、隠すことなく、生きてきたとらわれからすべて解放されます。このことに接した人は、美しさを感じます。
私(老師)は、悩みから解放された時、このことを実感しました。実のところ、とらわれていることから解放された時と同じことを言っています。
一緒にやりましょう。弟子たちに見させたい(死に行く人を看護させたい)。と、ホスピス(ターミナルケア・ホスピタル)を禅修行道場の隣に設ける。
死を見つめる
ドクター、ナース、ボランティア、ホスピスネットワークに囲まれていて、修行者がそばに24時間付き添っています。修行者は、患者さんが手を上げるだけで何を為て欲しいかが解ります。例えば、ティシュが欲しい、と。
人間が生きているのは、肉体だけでないことが解る。死に行く人を看取った修行者は、空間が生きていると言う。家族、医師、看護士、ボランティアの方、回りの人たちが一つになると言う。空間が、生きている。息を引き取っても周りの人たちが一つになって
、空間が生きていると実感する。空間がその人(患者)を現している。釈迦ほど空間が生きていた人はいない。空間が坐るとき、地域・社会・世界中が坐る。
坐禅は祈り
人生の最大のことは、祈りである。自分の生命の真実に目覚める、気づかせて頂く、人生の価値に気づく、その背景をなすものに気づく、坐禅は祈りである。
坐禅は、何かを求めるものでなく、宇宙と一体になっている私たちの命との信頼を深めていく。失われるものでない。
己事究明の場作り
現代は、人間の横の繋がりは持てるが、そこに根が無い。たえず、皆が不安となっている。
一人一人が目覚めるために時間はかかるが、繰り返し繰り返し根を下ろすチャンスを開く(提供する)。
後10年は、現役で根を下ろすサポートしたいと思っています。終わりは無いと思っています。
一人でも多くの人に、自らを深める体験をする場所(チャンス)作りを為ないといけないと思います。
坐禅は、背景を成している宇宙と一体である大きな生命への信頼を深めます。
*内容のタイトルは、Ⅿ先生の判断で付けました。
<完>
M先生の記述をつかわせていただきました。多くの人が視聴されましたが、その一人Kさんから録音のビデオを頂きました。お二人に厚くお礼申し上げます。
平成二十四六月二日
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☆51 <坐禅を続けて>
━<門>とは一体何か━
宮本 進
(岡山市)
毎日曜日、坐禅をするため曹源寺(岡山市中区円山)の総門、山門をくぐり、<日常の世界>から<非日常の世界>に入る。
本堂で坐禅を組み、ご住職の原田正道老師にお茶を点てて頂きながら、お話をお聞きして、この門を出て行く。
このことを三十数年も繰り返して、はじめて山門(三門)の存在に目覚めました。
例えば<生死(しょうじ)>は、絶対的に矛盾しながら共存しているように思っていましたが、よくよく考えてみますと、“生と死は、前後が際断してあり、生はどこまでも生であり、死はどこまでも死である”ことに気づきました。
坐禅のはじまる前には、必ず板木(はんぎ)が打ち鳴らされます。その板木には、
生死事大(しょうじ-じだい)
無常迅速(むじょう-じんそく)
光陰可惜(こういん-おしむべし)
謹勿放逸(つつしんで-ほういつするなかれ)
と墨書(ぼくしょ)されています。
▼生死の究明・解脱(げだつ)こそが、人生の一大事であると言っています。
私たちは、絶対絶命の窮地に立たされてとき、<生かされている>事実に触れ、<自我への執着>から解放されることがあります。
私には、未だこの<門>が、巨大な壁となっています。
▼ご老師は常々<無作門(むさくもん)>であれと言われます。“すべての行為に跡形を残さない。あれをしてあげた、これを為したなど心に留めてはいけません。”と話されます。
<きび野(公財)岡山県文化財団 214.夏 第134号 会員だより>
註:2014.07.06 宮本進先生よりいただき、翌日写す。
<坐禅から>
坐禅中の意識状態
坐禅中は、感覚がずっと鋭敏に<とぎすまされたように>なっています。見えたり聞こえたり香ったりが、はっきりとしてきます。
これは、精神的緊張が開放され、外界の刺激に対して、“とぎすまされた心”で反応しているからでしょう。
坐禅中は、このような意識状態にありますが、それをそのまま受け流し、ひたすら呼吸に集中します。
坐禅の効能
・ 静かに坐って、身体を整え、呼吸を整えると、心が整います
・ 自分を見つめ直すゆとりの時間が持てます
・ 意識が純粋になります
・ 無注意の注意が蘇ります
記憶の呼び戻しができるやすくなります(思い出しやすくなります)
多面的視野が開けてきます(創造性が増します)
・ 肚がすわります
・ 身心内側からきれいになります
一陣の清風が吹く
求めて求めても得られない、捨てても捨てても捨てきれない、悩み苦しみ死のうと思っても死にきれず、それでも生きる意味を求め続けている時、一体何が起こるのでしょうか。そこには、依然として、<生きている事実>があります。この生きているという事実こそ、どのようにも意味づけることが出来ません。このことに目覚めた時、一陣の清風が吹いて参ります(迷いや苦しみからの解脱が起こることがあります)。
人生で大切なこと
・ どれほど真実と向き合うことができるか
・ どれほど魂を揺さぶる人生を送れるか
どれほど本当の自分(真実)を知り得るか
・ 志を失わず、途中であまり道を変えず、最後までやり遂げれるか
・ 今置かれている環境で、どれほど頑張れるか
真の覚者
日々の生活が感情や利害損得に左右されることなく、堅実な見通しをもって歩む工夫をされておられると思います。その工夫精進により、無意識的に禅的精神を身につけておられます。
黒崎の感謝の言葉:<坐禅から>の以下は、宮本先生が三十数年も繰り返して来られて、自得されたお言葉をいただき、ここに感謝と敬意をもって記載いたしました。
平成二十六年七月十一日
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☆52<津高坐禅クラブ>の回顧と現在
<津高坐禅クラブ>は、皆さんの支えで、細々と続いていますが、17年目の12月に3人の老人(60~70歳代の男性)が入部して下さり、9人になりました。
一めいは、津高の方、もう一めいの方は、岡山市南古都から車で一時間かけて来られます。
更にもう一めいの方は、岡山市国体町から車で30分かけて来られます。
また、先日の坐禅クラブ(2015.12.12)には、30歳代の男性とその母親の二りが、四国の高松から車で瀬戸大橋を渡って来られました。
クラブ開始から、このように多くの方が、一時にお見えになられるのは、初めてです。
なぜなのか、不思議な気が致します。
私たちのクラブは、過去の学歴、職業、地位、めい誉、趣味など、一切問いません。誰もが平等です。<不将不迎応而不蔵>をモットーにしています。<来る方は拒まず、去る方は追わず>ですが、一期一会の精神で坐禅をしながら、人生を真摯に模索しています。
現在の<津高坐禅クラブ>の内容は、前後半20分間ずつ坐り、途中体操を10分間挟みます。坐禅後は、抹茶とお菓子を戴き、事前に用意された資料を下に、人間としてのより良い生き方、真の自己、良心などについて話し合います。すべて結論を求めない自由でオープンエンドです。
クラブの準備・運営など、すべてボランティアで、座布団を並べて下さる方、お床にお花を活けて下さる方、お菓子を準備して下さる方、お茶を点てて下さる方、体操をして下さる方、茶礼の司会をして下さる方、公民館と交渉をして下さる方など、全員で役割を担っています。したがって、誰が欠けてもベストの状況でなくなります。
津高坐禅クラブは、毎月第二・第四の土曜日、9:30~11:30津高公民館で行っています。尚、茶菓子代として一回につき100円戴いています。見学・体験は自由です。
参考:宮本先生の坐禅については<坐禅を続けて>をお読みください。
津高坐禅クラブの始まり
平成十年十月一日 二五三号(黒崎のホームページ<習えば遠し>の<ハガキ通信>より)
▼中学校の先生と奥さんが協力して公民館クラブ活動としてやさしい坐禅を始められた。その方は現職の教職三十四年の宮本先生。今年四月十一日(土曜日)スタート。
現在の勤務地に何かをお還ししたい。それでは一体、自分で何ができるかとおもったところ、かって、岡山市内の中学校でクラブ活動として坐禅の会を指導したこともありこれだと思われた。
カオスの時代、静かに坐ることの必要性を平素から感じていました。なんとなく機が熟したのではないかと感じ、数人集まって坐ることを味わい、その人たちがそれぞれ自分で坐るようになって欲しいと思うようになったからです。
▼参加者は六人と先生と奥さんの坐禅会。公民館の十二畳の間で行う。
十五分坐禅、五分休憩を三回繰り返す。休憩に立って室内を歩く。坐禅が終わると、奥さんのたてられたお抹茶とお菓子をいただきながらお話をする。
参加者が会費のことを心配して口にされた。今どき、“ただ”ということを想像するのは難しい世相。こんな心配をするのも無理はない。
<もしお金を払いたいと思われるならどこかでお布施に使ってください>と。
曹源寺で無料の接待をうけていることから、ミニ曹源寺日曜坐禅をしていますと先生は謙虚につけ加えられました。
※宮本先生に招かれて参加させていただいた時の記事です。
文責は黒崎にあります。
参考:岡山市津高公民館
平成二十七年十二月二十二日:冬至の日
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☆53 <吹毛剣>
人間の煩悩を断ち切るのが般若の智慧=吹毛剣だからだ――松原泰道禅師
<吹毛剣>――碧眼録
その剣の近くで、毛髪をふっと吹きかけるだけで、刃に触れなくてもその髪毛がぷつっと切れる、といわれる鋭い剣を<吹毛剣>という。杜甫(770年没)の詩に<鋒先は衣を血に染め、騎突(さ)す剣は毛を吹く>とある。この吹毛剣を、禅者は<人間が本来、心に具えているほとけのいのち(般若の智慧)>にたとえる。人間の煩悩(心身を悩ます精神現象の総称)を断ち切るのが般若の智慧――吹毛剣だからだ。
しかし、どんなめい剣でもつねにとぎ磨(みが)かないと、ついには切れなくなるから、臨済禅師(867年没)は<吹毛用了急須磨(吹毛用いて了(おわ)って急に須(すべか)らく磨(ま)す可(べ)し)>、大燈国師(1337年没)は<吹毛常磨(吹毛常に磨く)>と、いずれも修行を怠らぬように研磨せよと注意される。禅の雲水は定日に頭髪を剃(そ)るが、そのあと直ちに剃刀(かみそり)をとぐのを決まりとする。
刃物は、うっかりすると自分を傷つける危険を伴(ともな)う。古い諺(ことわざ)に<灯火に爪を截(き)らず>という。暗い照明の下で爪を切ると、自分の持つハサミでわが指を傷つける愚かさを教えている。
白隠禅師(1768年没)は、この俗諺(ぞくげん)をふまえて<自分の才能で自分を傷つける知性の暗さ>を戒める。<吹毛剣>には、こうした意味も含まれている。現代なら、人間のつくる機会文明も吹毛剣だが、人間を滅亡させるのもまた<吹毛剣>といえよう。
『太平記』巻十<塩飽(シアク)入道自害ノ事>の節に、戦い敗れた塩飽入道聖遠(しょうえん)が辞世の偈(げ)を書き残す記述がある。
<提持吹毛 截断虚空 大火聚裡 一道清風(吹毛を提持して、虚空を截断す、大火聚裡(たいかじゅり)に、一道(いちどう)の清風」吹毛の剣ともいうべき鋭い刀で、本来空であるわが腹を切る。炎え盛る大火の中にも、一すじの清涼たる風が吹き通る――と。聖遠の悟境の心情をうたいあげている。同意語に<吹毛斬不入 風吹不動(吹毛斬れども入らず、風吹けども動ぜず)>(槐安国語(かいあんこくご))がある。吹毛のめい剣も切れない、風にも揺るがないさとりの境地の円熟さをいう。
平成二十八年五月二十四日
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☆54 護国山 曹源寺の涅槃図
曹源寺では、涅槃会に写真に示す<狩野守則筆と書かれた涅槃図>が掲げられます。
ある年から、図の全体の重みにたえられなくなり、下部に支えの棒がおかれるよになった。更に痛みがひどくなるのを心配されて、格納保管されました。
涅槃図とは、お釈迦さまが入滅(お亡くなりになる事)した時の様子を描いたものです。お釈迦さまが入滅されたことを<涅槃に入る>ということから、この絵を涅槃図といいます。多くの寺院では、お釈迦さまが入滅したとされる2月15日に合わせて涅槃図を飾り、お釈迦さまを偲ぶ法要、涅槃会を執り行います。
涅槃会の法要は、少なくとも奈良時代には営まれていたとされています。日本最古の涅槃図は高野山金剛峯寺が所蔵しており、時代背景や人々の願いを反映させ、さまぎまな構図を表しながら全国へと広まっていきました。
涅槃図はお釈迦さまの入滅という悲しみの中にも、仏教画としての荘厳さを保たなければなりません。さらには、命の終焉を描くと共に、教えの永劫性を表現することが求められます。このような、一見すると矛盾する課題を仏教の教えに沿って一枚の絵の中に凝縮させていったものが涅槃図です。
お釈迦さまのお姿は、仏教徒の理想の姿として描かれてきました。涅槃図もまた、理想の死の在り方が示されています。涅槃図を読み解くことは自分自身の死の在り方を考えることであり、死を見つめることは今を生きることを見つめ直すことでもあるのです。
参考:涅槃図の読み方について多くの方が研究されていますからイン
ターネットをご覧ください。
平成二十八年六月二十六日
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☆55 ONE DROP Zen Buddihst Community
☆56曹源寺の開山諱・閑栖様13回忌
平成28年11月6日(日曜日)が行われた。
原田老師のお弟子の道一和尚、道隆和尚(熊本・見性寺住職)さん達もお見えでした。
老師のお話は、閑栖様のことでした。
五人兄弟の末っ子の閑栖様は、7歳の時、華道教師の父の下にお華を習いに来られていた大嶺和尚(臨済宗・妙心寺派)のところへ小僧として行きます。大嶺和尚は器の大きな傑僧でしたので、日本では治まりきれず、韓国のお寺住まいを移されました。ある時、児玉源太郎陸軍大将の<大連にある一万坪の高台の土地を提供するので、そこにお寺を建てて欲しい>との申し出を受け、大連に行きます。そこでお寺造りを一から始めます。眼下には、満鉄の宿舎が広がり、多くのエリート達が居住していました。閑栖様も大連の中学校に通いましたが、昼間は学校で、下校後はお寺の仕事のため、勉学も十分に出来ず、友達にいじめられたり、先生にも注意を受けたとのことですが、大嶺和尚は頑として受け入れず、先生が間違っていると閑栖様に話された、と。
日本(奈良のお寺)に引き上げて、まもなく大嶺和尚は病気になり、亡くなるまで閑栖様がお一人で、10年間お世話をされました。その後、谷口古杏(谷口久吉)さんの招きで、荒れはてた曹源寺に来られます。以来半世紀以上も、お一人でこの曹源寺を守って、曹源寺の礎を築かれました。
老師は、何度も何度も、現在の曹源寺が在るのも、老僧閑栖様のおかげですと話されました。
老師から、参加者全員に色紙(墨跡)<寿山万丈高>を頂きました。この色紙の解説ですが、老師の閑栖様に対する想いや、私たちに対する思いやりで溢れています。
壽 <いのちながし><色紙の解説>
<壽>とは長生きをすることです。せっかく縁を頂いた人生ですから、天寿を全うすることです。そのためには毎日全ての物を粗末にしてはいけません。物を生かす工夫を智慧と申します。過剰な無理をせず、常に摂生を保てば、操行も調えられ人から信頼され、自ずと人格が完成されます。そして<仁者は壽>といわれますように知らずしらず、長命することになります。禅の道は天地と壽をともにする悟りが開けることに有りますが、よし、悟りが開けなくても、人間としての人格が成熟できれば、無駄ではありません。
※生きることは微笑むことです。苦しみも悲しみも微笑みにつつまれたとき初めていのちの輝きが顕れてきます。生きることは微笑みに生かされることです。日々の暮らしのなかに微笑みの種や芽や花を捜しながら徒然に綴っていきます。
<称めい忌>を迎えられる曹源寺先住職 横井一保和尚は曹源寺に入寺以来四十五年の間、修行によって培われた禅僧としての厳しい姿勢を貫き、孤貧に甘んじ、財政の厳しい曹源寺を良く守り続けて来られました。常々厳格に、人として茶をたしなむ者のあり方を教えられ、容赦なく叱責されるかと思えば、丁寧に相手の未熟なところを道理を以って諭されました。
※十三回忌 称めい忌・遠方忌・永空忌・真光忌・寂語忌 大日如来
花の師匠であった父親譲りの智慧を以て花の性状を熟知し、茶の湯を十分堪能され、客あれば何方にでも分け隔てなく<喫茶去>と接待されるため、海外から尋ねてくる修行者に有めいになり、<閑栖さん>の呼びなで誰でも知るところです。曹源寺の修行者のほとんどが海外の人たちであるため、身の回りのお世話に言葉の話せる修行者を選んでお願いしていましたが、ご自分の方から片言の英語を話され、日常の礼儀作法からお茶の点て方、いただき方に至るまで、修行者に教えておられました。
海外に坐禅指導の為に出かける時には<大事な仕事です、帰って来るまで元気にしているから安心して行ってきなさい>と、玄関まで見送っていただくのが常でした。留守中、禅堂まで出てこられて修行者と一緒に坐禅をされたと申します。留守を守る責任を実践しておられたのです。
七十代、今日明日も知れない<危険な峠>を越されて以来、時折、入院されたことは有りましたが、芯はとてもお元気で、百歳も可能かなと期待する程でした。七歳にして親の元から自立して、厳しい師匠の下で育てられたため自立精神が旺盛で、常に自らの人生に積極的に取り組んでこられたと思われます。
その片鱗を上げますと、呆けないために古歌を記憶に呼び起こし、忘れた漢字や言葉を字引を使わないで、思い出すまで何度も紙に書いて練習をされるのが日常でした。
夜寝られない時には縫い物を探し出しては時間つぶしをされました。部屋も時々模様替えをして気分一掃して独り楽しみ、<貧乏は発明の母なり>と言って、とてもアイデアマンでした。判断力を衰えさせない為、お仕着せのテレビは観ず、常に読書を楽しまれ、入院すると自分の病気の実状をお医者さんに問い詰め、納得するまで説明を求められました。
<生きるということは忍耐だな><人生はプラス、マイナス、ゼロじゃ。一生良いことばかりの人は居ないぞ、また悪いことばかりの人もいないぞ>。
九十七歳の春、天寿全うして大往生されました。この壽は九十七歳の長寿にあやかって頂きたいと願い、お手元にお届けいたします。
平成二十八年十一月六日
曹源寺住職 原田正道 合掌
*児玉源太郎(こだま げんたろう、嘉永5年閏2月25日(1852年4月14日) - 明治39年(1906年)7月23日)は、日本の陸軍軍人、政治家。階級位階勲等功級爵位は陸軍大将正二位勲一等功一級子爵。日露戦争において満州軍総参謀長を勤め、勝利に貢献した。
前住当山禅保和尚十三年忌香語
刻苦光明遺徳圓
家風綿密転新鮮
山門忽遇称めい忌
献備心茶謝法縁
右 正道 九拝
定中昭鑑
※ご自身で謳いあげられた後で開山への感謝の文章が読み上げられ開山のお像を境内に案内します。
※尊敬している方が参加されてメールで知らせていただいたものです。文責は黒崎です。
平成二十八年十一月十二日
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☆57 はすまつりー像鼻酒ー
7月9日(日)曹源寺の境内で “はすまつり”a.m.6:00~8:00迄 が行われました。
お茶は三門で、総門に向かって蓮を眺めながら戴きました。また、象鼻杯と称する飲み方で、葉柄の付いた蓮葉の上に、
お酒やジュースを注ぎそれを飲みました。
茶の遠山先生や蓮の武野さんが、それぞれにご工夫され、皆さんを楽しませて下さいました。訪れた方は、さんさんですが、約100人は居られたと思われます。
象鼻杯 (インターネット・ウィキペディアより)
象鼻杯(象鼻盃、ぞうびはい)とは、ハスを茎の途中で切り落とし、そのハスを用いて葉に酒などの飲み物を注ぎ反対側の茎の切り口の部分から葉に注いだ酒などを飲むものである。<象鼻杯席>(象鼻盃席、ぞうびはいせき)あるいは<碧筒杯>(へきとうはい)ともいう。また、ハスを用いて飲む酒は<蓮酒>とも呼ばれる。ハスのある庭園などでは季節行事として象鼻杯を催しているところもある。
大阪の万博記念公園のなかに、わたしの職場であった国立民族学博物館に隣接して、広大な日本庭園がある。そこの蓮池の花が咲く7月上、中旬の期間に、毎年<早朝観蓮会>が開催される。今日は朝起きをして、観蓮会に出かけたのだ。というと、風流の士であると感心されそうだが、お目当てはべつにある。象鼻杯で朝酒を飲むために出かけたのである。日本庭園の蓮池のそばに、象鼻杯のコーナーが設置され、長い茎のついた蓮の葉が置かれている。注文すると、茎の末端を口にくわえさせ、蓮の葉を漏斗状にしてたかく掲げ、そこに酒を注いでくれる。蓮の葉に、酒が露のような玉になり、きらきらと光る。葉と茎がつながる部分に孔をあけてあるので、吸うと、茎を通じて酒が口にはいる。蓮の葉を酒杯にしたてたのが、象鼻杯である。おなじ蓮の葉を何度も使用するが、飲み手がかわるごとに、口をつけた部分を切りとるので清潔である。
中国の観蓮節と象鼻杯:投稿日: 2014年7月25日 作成者: 塩澤 珠江
梅雨が明け、各地の蓮池や蓮田では<観蓮会>や<蓮まつり>が盛んに開かれています。なかでも<象鼻杯>は人気行事ですが、その歴史をご存じでしょうか?
蓮文化研究家の三浦功大(1942―2013)が著した『蓮への招待―文献に見る蓮の文化史』(2004年 西田書店)には<象鼻杯>の歴史に関する文献がいくつも載っています。
中国の文人が始めた象鼻杯。その歴史に思いを馳せながら<象鼻杯>を優雅にたのしみましょう。
以下は『蓮への招待』の<中国の観蓮節>からの一部引用です。
中国では盛夏の一時を親しい友人を招いて、蓮を鑑賞しながら宴をする観蓮節が生まれている。観蓮節の様子を伝える初出の記録は、北魏・正始(504- 508 )の鄭公愨(ていこうかく―生没不詳)の『?跖集』に見える。
夏月三伏の際に、賓僚を率いて使君林(山東省)において暑を避るに、大いなる蓮葉を取て酒を盛り、簪を以蓮を刺て柄と通はしめて、茎を屈輸困て象の鼻の如くして是を伝へて各其酒を吸はしむ是を碧?杯となつく。とあり、夏月の酷暑の時、避暑地で友人たちと蓮の花を見ながら碧?杯をして涼んでいる様子が出ている。碧?杯は今日の象鼻杯である。また唐代・九世紀中期の文人・段成式の『酉陽雑俎』巻七<酒食>の<暦城の北に使君林がある>は『?跖集』からの引用と思われる。(以下略)
9世紀頃、観蓮節は夏の風物詩になっていたようだ。このような、観蓮会で行われていた象鼻杯(碧?杯)の始まりは、東晋の書家・王逸少―義之(321―379)が41人の文人と会稽山の蘭亭で催した<曲水の宴>ではないかとされている。王其超氏(註・現代中国の花蓮研究家の第一人者)は王義之の『蘭亭の記』の<曲水の宴>を、『蓮之韵』の<荷花親和、故事十則>で、次のように記している。(註・中国語文は省略)
東晋の大書家・王義之は蘭亭で<曲水の宴>を催した。文人たちが渓席に座し、上流から蓮の葉に乗せられた盃がが流れてきたら、酒を飲み干し詩を一首詠む。このような<曲水の宴>で使用された蓮の葉がやがて、直接蓮の葉に酒を注ぎ茎から吸うようになったのではないだろうかと記している。
この<曲水の宴>の故事を江戸時代の画家・狩野山雪
(1590―1651)が描いている。
<蘭亭曲水図屏風>(八曲二双 17世紀 京都・随心院蔵)は三二扇の長大な画面全面に渓流が流れ、所々に文人が座し、流れてきた蓮の葉に乗る盃を飲み干し、思案げに詩を吟じている様子や、かいがいしく手伝っている子供たちの姿や、残った酒を飲み干している子供などが生き生きと描かれている。(以下略)
暑い夏を<象鼻杯>で吹き飛ばそう!
今日は京都の夏を飾る花<蓮>にちなんだ行事のお話です。
京都嵯峨野にある大覚寺大沢池では、蘇った赤い蓮3,000本が咲き乱れ、皆さんのお越しをお待ちしています。
この蓮は、花びらの先端がほのかに赤く染まった感じの蓮で<爪紅色>(つばめにいろ)と言われる古典的な蓮の一種です。
大覚寺では<な古根(なこそ)>の蓮と命めいして楽しんでいます。
楽しみと言えば、この蓮の花が一番数多く美しく咲く時期に、特別な行事が今年も行われます。そのなを<観蓮節(かんれんせつ)>と呼んでいます。
蓮は、古来より葉の形が胎児と胎盤、葉脈は血管に似ているとされ、長寿や誕生、生命の象徴とされてきました。
後に平安時代の後期からは仏教の浄化思想と合わさって、蓮の葉の上でクルッと丸まり水滴が汚されない。
水にも泥にも汚されない。欲望にも世界にも汚されない。汚れのない美の象徴とされ、その姿は釈尊の姿に似ていると例えられるようになったのだそうです。
平安時代、日本固有の文化を開花させたとされる嵯峨天皇が、空海の進言により中国の<洞庭湖(どうていこ)>を模して作庭したとされる大覚寺大沢池では、2007年から毎年7月下旬に、この蓮を讃える<観蓮節>の行事を復活させています。そしてその行事の目玉が、<蓮の香り観賞>と蓮の葉を用いた<象鼻杯(ぞうびはい)>の体験なのです。
この<観蓮節>についてちょっと説明します。
中国の唐の時代には盛夏の6月24日(旧暦ですので、今で言えば7月中下旬頃でしょうか)を蓮の日として、親しい友人を招いて蓮を観賞し、小川の淵に座って歌を詠む<曲水(きょくすい)の宴>や、夏の暑さを吹き飛ばそう!と蓮の葉の上にお酒をついで、そのお酒を象の鼻に見立てた茎から吸い取って飲み干す<碧?杯(へきとうはい)の宴>(象鼻杯)をする<観蓮節>の行事が行われていたそうです。
縄文時代の蓮を発見して発芽させた大賀博士によれば、大沢池のモデルになった琵琶湖の7ばいの大きさがある中国の洞庭湖附近でも当然、この行事が貴族の遊びとして行われていたようだと語っています。
時は移って、唐の都を模す事を文化の象徴とする奈良時代末期には、<観蓮節>は宮中の行事として定着し、日本では7月24日を<観蓮節>の日として定めて盛んに行っていたようです。
奈良時代後期の書物である『類聚国史(るいじゅうこくし)』に、延暦12年(793年)<蓮葉(れんよう)の宴>を行い蓮の葉をもてあそび楽しんだと記録されていますから、宮中の暑い夏を楽しむ大切な行事だったのですね。
★私も当日朝、曹源寺にお参りして、象鼻酒をいただきました。
平成二十九年七月十六日(日)
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☆58 耶馬渓青の洞門
河野太通老師法話(<心の三本柱>)より
菊池寛の『恩讐の彼方に』から、語りかけられた。
あらすじを話される。
ある僧が、交通の難所の耶馬溪の岩壁にトンネルを掘ろうと、願を懸け、槌ひとつで穴を開ける。何年か経った時、仇討ちの青年が現れる。このトンネルが出来るまで待って欲しいと言う。しばらくすると、一緒にノミを持って掘るようになる。若者の方は、仇討ちを早くしたく思い、僧の方は隧道の完成で、過去の罪滅ぼしをしたく、心を一つにして、村人と共に作業をする中で、討つ討たれるを忘れ、諦めるようになり、完成した感動にひたる。
恩讐の彼方に
『恩讐の彼方に(おんしゆうの かなたに)』は、大正8年(1919年)1月に発表された菊池寛の短編小説。
本作を三幕の戯曲に書き直したのが『敵討以上(かたきうち いじよう)』
江戸時代後期に、豊前国(大分県)の山国川沿いの耶馬溪にあった交通の難所に、青の洞門を開削した実在の僧・禅海の史実に取材した作品である。しかし禅海は、小説の主人公である市九郎(了海)のようにこれを独力で掘り続けたわけではなく、托鉢勧進によって掘削の資金を集め、石工たちを雇って掘った。また敵討ちの話も菊池による創作である。
★プロフィル:河野 太通は、大分県出身の日本の臨済宗の僧侶、師家、臨済宗妙心寺派の管長、全日本仏教会前会長。室号は又玄窟。生年月日: 1930
また、岡山曹源寺原田正道老師は日曜座禅解参加者に法話の中で、禅海和尚について語られる。
青の洞門 (インターネット)
古刹・羅漢寺 を後にして、山国川の流れに沿い、中津方向を目指したですが、あたりは耶馬溪と言われる岩峰に挟まれたところを通るのですな。もっとも通りぬけたところはさほどに両岸が迫っておらず、むしろ河原がひろびろしておりました。そんな崖と川とのへりを進んでいきますと、やがて知めい度は全国区であろうかと思われるめい所(実は難所)にたどりつくのですな。そのなを<青の洞門>という。
ああ<青の洞門>などと聞きますと、カプリ島の<青の洞窟>のように真っ青な世界が現出するのでもあらんかと思ってしまったり。ですが、<青の洞門>の<あお>はあたりの<青地区>という地めい由来のようですな。単純に<洞門内が青いのでは…>てなふうに思ってはいけないようで。
それも車道用でして、明治になって拡張されたもののようです。それでも道路は一車線で、南北それぞれの入口にある信号機でもって交互に通行しているというのが現状なのですなあ。洞門の通行は一車線、洞門南側の車道出口付近を見る限り、本当は二車線を掘り抜こうをして早々にあきらめた…てな印象があるのですな。そんなところをよくまあ、手掘りで掘り抜いたものだとつくづく思うわけです。
南側に抜けた先には、その手掘り作業に挑戦した人物の像が建てられておりますよ。
先に訪ねた羅漢寺に詣でる際に通りかかったこの切り立った崖が交通の難所であることから、歴史上の実在の人物である禅海というお坊さん岩を穿って道を通すことを思いついたとか。ですが、実際の禅海和尚は自ら岩を穿つ姿とされているのですけれど、基本的にご本人は費用集めの寄進に邁進し、石工を雇って掘り抜いたとも言われます。
限りなくストイックに岩と向き合ったというのは、そもそも<青の洞門>を全国区のめい所にするのに大きく貢献した菊池寛の小説<恩讐の彼方に>によるようでありますね。ですから、この像は禅海和尚の像という以上に小説の主人公・了海和尚の像であろうと。
ということで、このほど<恩讐の彼方に>を改めて読んでみたですが、主殺しで追われる身となった主人公がすっかり悪の世界に染まるも一念発起の得度をえて自らの忌むべき過去をぬぐうにはこれしかないと大岩に向き合うあたりや、かつてのあるじの忘れ形見がはるばる仇討ちに現われたものの、了海の姿に崇高なものを感じて…といったところなどは話をうまく作ったものだと思ったものでありますよ。
禅海和尚手掘り洞門、この下と、先には車の通る洞門ばかりをご覧いただきましたけれど、禅海和尚自らかどうかはともなく手掘りで掘り抜いた洞門のな残はいちだんと川に近いところにあったのですね。
このくらいの規模であれば先程の車窓よりも手掘りのリアリティーが増すとはいえ、前に高崎で見た洞窟観音 の大正から昭和にかけて作られたものだということを思い出すにつけ
江戸の中期(完成は宝暦十三年=1763年)だそうですから、大変な難工事であったでしょう。と、ここだけ見ますと洞門というより隧道ではないかと、白馬に行く時に通過した白沢洞門 での<?>に立ち戻ってしまいそうになりますが、こちらはちゃあんと川岸に向いて光の入る窓が穿たれておりますですよ。これならまさしく洞門であるかと。
洞門にはやはり光さす窓が開けられているこの開口部あたりにはもともとの手掘りの跡が見られるということですが、掘り抜くのに30年余りも要したことを彷彿させる部分でもあろうかと。
しかしまあ、かような岩壁の下を掘って道を通そうとはよく思い付いたものですなあ。
その点で禅海和尚は偉いお坊さんだったのでしょうけれど、菊池寛の小説のような背景があると、さして取り柄のない一般人にはより理解しやすくなるかもしれません。
だからこそ小説の中の了海が禅海とごっちゃになって伝えられてしまうのでありましょうなあ。 <以上>
青の洞門/禅海和尚の像 (大分県広報誌1994年11月 NEO OITA 14号)
山国川本流に絶壁をなしてそそり立つ競秀峰の岩々。その裾の部分に川の流れに沿うように掘られた一本の隧道。旧本旧耶馬渓町大字曽木字青にあるので、一般に<青の洞門>と呼ばれている。天下のめい勝・耶馬溪にあって羅漢寺とともに四季を通じて訪れる人の絶えないところであるが、ここには時の流れを超えて後世に語り継がれる物語がある。<江戸で人をあやめた禅海が、諸国巡礼の途中、この地で鎖渡しの難所に苦しむ人々を見て隧路開さくを決意。風雪にも、嘲笑にも屈することなく、大岩盤に挑むこと30年、ついに洞門を完成させる>。大正8年、菊池寛が小説<恩讐の彼方に>のモチーフにも使った禅僧海の物語である。
禅 海 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
禅海(ぜんかい、元禄4年(1691年)~安永3年(1774年))は、江戸時代中期の曹洞宗の僧。越後国高田藩士の子。本めいは福原市九郎。生年については貞享4年(1687年)説もある。
詳しくは真如庵禅海といい、江戸浅草の住人、祖先は越後高田の福原氏であるといい、もと籍を曹洞宗に置く六十六部であった。
両親が亡くなった事から世の無常を感じて出家し、諸国を行脚、正徳5年(1715年)に得度して禅海と称した。豊前国(今の大分県)耶馬渓の青の洞門を開削したものとして知られる。
回国の途中、豊後国羅漢寺を参詣した時、川沿いの断崖にかけられた桟橋、青野渡が危険で、人馬のしばしば覆没することを知り、これを哀れみ、鑿道の誓願を発し、陸道の掘削を思いついた。1730年(享保15年)頃、豊前国中津藩主の許可を得て掘削を始めたが、その後周辺の村民や九州諸藩の領主の援助を得て30年余りの歳月をかけて、1763年(宝暦13年)に完成させた。高さ2丈、径3丈、長さ308歩。
開通後、通行人から通行料を徴収したという話が伝わっており、この洞門は日本最古の有料道路とも言われている。
菊池寛の小説『恩讐の彼方に』の主人公<了海>(俗めい・市九郎)のモデルとなった。作中では主である旗本中川三郎兵衛を殺害してその妾と出奔、木曽鳥居峠で茶屋経営の裏で強盗を働いていたが、己の罪業を感じて出家、主殺しの罪滅ぼしのために青の洞門の開削を始め、後に仇とつけ狙った三郎兵衛の息子と共に鑿ったものとされるが、主殺しなどのエピソードは菊池の創作である。
青の洞門の掘り出した始めた年齢は、 (インターネット)
禅海和尚が約30年かけて、ほぼ一人で掘り抜いたと言われるトンネルですが、さるサイトの年号で計算すると39才、さる冊子で見ると、49才から掘りはじめたと書いてあります。正確には、何才から掘り始めたのでしょうか?
伊能忠敬は50才から日本地図の計測を始めたとの事ですが、49才からなら、これも凄いと思います。
49才でしょう。
(あまりあてにはなりませんが)ウィキペディアでは、83才で陸道の掘削が完了した11年後に没したそうなので、工事期間の約30年を引くと、掘り始めは42才となりますが、
工事期間は28年とか16年という<30年もかかっていない>説もありますので、39才の可能性は低くなります。
ちなみに、真偽はわかりませんが
・禅海和尚が一人で掘っていたのは最初の1~2年ぐらいで、あとは近隣の村民が掘った。禅海和尚はほとんど托鉢などの資金集めをしていた。
・禅海和尚が過去の罪滅ぼしで掘り始めたというのは菊池寛の創作で実際は両親の死後、諸国を流浪して耶馬溪にたどり着いた。
・青の洞門の完成後、通行料を徴収して生活費にしていた。(かなり裕福な生活だった。)
・現在の青の洞門は、明治~昭和にかけて陸軍が爆破等により一直線に掘り抜いたもので、禅海和尚時代のトンネルはほんの一部。だそうです。
耶馬溪にある羅漢寺には、禅海和尚の使った道具の他、禅海和尚を伝える書簡等があるそうなので、直接行かれて見た方が正確だと思います。
恩讐の彼方に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『恩(おん)讐(しゆう)の彼(かな)方(た)に』は、大正8年(1919年)1月に発表された菊池寛の短編小説。
本作を三幕の戯曲に書き直したのが『敵討以上』(かたきうち いじょう)である。
江戸時代後期に、豊前国(大分県)の山国川沿いの耶馬溪にあった交通の難所に、青の洞門を開削した実在の僧・禅海の史実に取材した作品である。しかし禅海は、小説の主人公である市九郎(了海)のようにこれを独力で掘り続けたわけではなく、托鉢勧進によって掘削の資金を集め、石工たちを雇って掘った。また敵討ちの話も菊池による創作である。
あらすじ
越後国柏崎生まれの主人公、市九郎は、主人である浅草田原町の旗本、中川三郎兵衛の愛妾であるお弓と密通し、それが三郎兵衛の知るところとなり、手討ちされそうになる。とっさに反撃に出た市九郎は、逆に三郎兵衛を斬ってしまう。市九郎は、茶屋の女中上がりのお弓にそそのかされて出奔、中川家は家事不取締に付き、お家断絶と沙汰される。
東山道の鳥居峠で茶屋を開いた市九郎とお弓は、表の顔は茶屋の夫婦であるが、その裏で人斬り強盗を生業として暮らしていた。
江戸出奔から3年目の春、自らの罪業に恐れをなした市九郎は、お弓の許を離れ、美濃国大垣在の真言宗美濃僧録の寺である浄願寺で、明遍大徳の慈悲によって出家を果たし、法めいを了海とな乗り、滅罪のために全国行脚の旅に出た。
享保9年(1724年)秋8月、赤間ヶ関、小倉を経て、豊前国に入った市九郎は、宇佐八幡宮に参拝し、山国川沿いにある耆闍崛山羅漢寺を目指した。樋田郷に入った市九郎は、難所である鎖渡しで事故によって亡くなった馬子に遭遇した。そこで、その難所の岩場を掘削して、事故で命を落とす者を救おうという誓願を立てる。
近在の人々は、そんな市九郎を狂癡の僧として扱い、見向きもしなかった。しかし、それが多年に渡ると、何度か石工を雇って力を合わせようとするが、難工事のゆえに、長続きすることはなく、また、市九郎一人に戻る始末であった。
月日が経って、18年目の終りになり、中津藩の郡奉行に計らいにより、ようやく石工を雇って、掘削作業を進めることができるようになった。
三郎兵衛の子、中川実之助は、父の死んだ時は3歳であった。親類の許で養育され、13歳で父の非業の死の顛末を知る。実之助は、柳生道場に入門し、19歳で免許皆伝、仇討ちのため、27歳まで諸国を遍歴し、九州に入って福岡城下から中津城下へ来た。そこで、市九郎と素性が一致する了海という僧が、山国川の難所で艱難辛苦の最中であることを知り、現場に急行する。
市九郎は、親の仇をな乗る実之助の前で、素直に斬られることを望むが、石工たちが必死に止めに入ったため、石工の統領の計らいで、洞門の開通まで仇討ちは日延べすることとなる。
市九郎が掘り始めてから21年目、実之助が来て1年6ヵ月、延享3年(1746年)9月10日の夜九つ近く、ようやく洞門は開通する。
約束通り市九郎は実之助に自分を討たせようとするが、市九郎の大慈大悲に心打たれた実之助は仇討ちの心を捨て、市九郎に縋り付いて号泣するのだった。
2107.11.27
関連:NEW 深耶馬渓の紅葉 /大分県中津市耶馬渓町
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☆59 看 却 下
岡山市曹源寺の茶礼の席で原田老師が
<看脚下(かん きゃっか)・彩鳳舞円霄(さいほう たんしょう に まう)・鐡蛇横古路(てつじゃ ころう に よこたう)>の話をされている。
その主な内容は
臨済宗のお坊さんになるためには必ず僧堂で修行をします。その修行道場のいいところの一つに自分の至らないところを反省させられるという点があります。自分の悪い所、欠点をどんどん削り取られて行くのです。そして、実際に世の中に出て役に立つ人間にしてくれるのです。
禅に<看脚下>という言葉があります。
昔、中国に法演(ほうえん)という禅僧がいました。その坊さんが、ある晩、3人の弟子を連れて寺に帰る時のことです。暗い夜道ですから明かりを灯さねば帰れません。
その時、一陣の風が吹いてきて、その灯が吹き消され真っ暗になってしまったのです。一行はそこで立ちすくみます。その時、法演が三人の弟子達に向かって質問をしました。<暗い夜に道を歩く時は明かりが必要だ。その明かりが今消えてしまった。さあお前達、この暗闇の中をどうするか言え>と。
ここで暗闇とは、自分の行く先が真っ暗になったということです。例えば、思いも寄らない災難に遭って、前途暗たんたるところをどう切り抜けていくかという問いです。
そこで弟子たちが、それぞれ自分の気持ちを言葉に出して述べた。
まず、仏鑑(ぶっかん)という人が<すべてが黒一色のこの暗闇は、逆にいえば、美しい赤い鳥が夕焼けの真っ赤な大空に舞っているようなものだ>と答えました。しかし師匠はうなずきません。
次に仏眼(ぶつがん)という人が答えた。<真っ暗の中で、この曲がりくねった道は、まるで真っ黒な大蛇が横たわっているようである>と答えた。またも師匠は許しません。
そして最後に、圜悟克勤(えんごこくごん)が<看脚下>(かんきゃっか)と答えました。つまり<真っ暗で危ないから、つまずかないように足元をよく見て歩きましょう>と答えたのです。この言葉が師匠の心にかない<そこだ、その通り>と絶賛したというこです。
暗い夜道で突然明かりが消えたならば、まず今ここでなすべきことは何か。それは他の余計なことは考えずに、つまずかないように足元をよく気を付けて行くということなのです。もう一歩進めて解釈をすると、自分自身をよく見なさいと。つまり、自分の足元を直しながら、我が生き方を深く反省しなさいということなのです。足元を見ると同時に、我が人生の至らなさを見て欲しいのです。未熟である自分に気づく、発見する・・・。足元を見ると言う事の中には、そういう大事な意味があるのです。ここに、もうちょっと違った人生の見方ができるのではないでしょうか。
参考1:禅寺の玄関に入ると、よく<照顧脚下>または<看脚下>と書いた木札が掲げてある。
<脚下を照顧せよ><脚下を看よ>と読むのだが、これは本来的には自己を究明せ
自己を見失ってはならぬという警告だが、玄関の場合は端的にいって履物をキチンとそろえて脱げ、ということである。
どんなに忙しいときでも、履物をそろえて脱ぐぐらいの心のゆとりがほしいものだ。心にゆとりができると自分の姿が見えてくる。
<灯台もと暗し>で、人はとかく自分のことは見えないが、他人のことはよく見える。だから、他人の批判はできても自分の批判はできない。
理想を高く掲げるのもいいが、まず足もとをおろそかにしてはならない。他を論ずるよりさきに、自己を見つめなくてはならない。そのことを教えるのが<照顧脚下>であり、<看脚下>である。
いまから九百年も前の人、中国は宋の時代、臨済宗中興の祖、五祖法演禅師(ごそほうえんぜんじ)がある晩、三人の高弟とともに寺に帰る途中、どうしたことか提灯の火が突然消えてしまった。
すると法演禅師、即座に三人の弟子の対し、<この場に臨んで各自一句を述べてみよ>と命じた。つまり、暗闇をゆくには灯火が何よりの頼り。その頼りの灯火が消えた。さあ、どうするか?>というのである。師匠の命に応じ、三人三様の答を出したが、なかで克勤(こくごん)は、<看脚下>と答え、師匠を感服させた。
暗闇に灯火を失ったような人生の悲劇に遭遇したとき、人は多く右往左往してこれを見失い、占いや苦しいときの神頼みに走り、あるいは悲劇のドン底に沈淪しがちなものだが、道は近きにあり、汝自身に向かって求めよと教えるのが、<看脚下!>の一語である。
ある人が事業に失敗して自殺しようと思い、死場所を求めてさまよい、<宿賃も今夜限り、明日はどうしても死ななくては>と、せっぱ詰まって泊まった木賃宿の、襖の破れたところを隠すために貼られた紙切れに、裸にて 生れてきたに 何不足と、書かれた小林一茶の句を見て、ハッとわれに返った。
<そうだ、裸一貫でやり直せばいいんだ>と、急にファイトが湧いて、発奮して事業を再興して成功を収めた。この人こそめい薬“宝丹”本舗の初代守田宇治兵ヱその人だった。
<看脚下>の一語を吐いた克勤は、やがて禅門のめい著『碧巌録』の作者となるのだが、『碧巌録』第一則(章)に<知らず、脚跟下に大光明を放つことを>と述べており、また、道元禅師は<仏道は人々の脚跟下にあり>と説いている。
道は、遠い彼方の深遠な哲理ではなく、生活するわれわれの脚跟下にあるのであり、まず脚下を見つめなくてはならない。
<看脚下!>
看脚下:<道は邇(ちか)きに在り、而(しか)るに諸(これ)を遠きに求む>(孟子)の愚を犯してはならぬ。道は足もとに在り。
平成30年2月8日(木)記す。
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☆60 イタダキマス
曹源寺には多くの外国人が修行している。アメリカ、ドイツ、フランス、インドなどからの人たち。
住職原田老師は、たえず外国に指導に出掛けられる。平成八年は五月初め約十日、デンマークへ。曹源寺で修業してそれぞれの国に帰ったひとたちを中心とする接心と坐禅会を指導されるためである。
曹源寺で彼等と一緒に修行している日本の修行者のお話。多様な言語の中にいると日本語の有難さに気付く。
その一つに食事の時に使う<イタダキマス>などは外国語にはない。彼等は食前に祈りの言葉をとなえるがイタダキマスの感覚ではない。その人のおもいは<食べ物をイタダクとは食べ物のいのちを含めてそっくりイタダいている>。そのためにはゆっくりとかみしめて味わいながらいただくようにしなければならないと。
イタダクは<食う><飲む>の謙譲語といった説明しか辞書にみあたらない。
柳田國男『毎日の言葉』(創元社)昭和二十一年六月二十日初版発行に<いただきます>の章があるP.19~21。それを紹介します。
イタダクは、しゃれて<頂戴する>と言った人が多いのを見てもわかるように、元来は物を頭に載せることでありました。木でも山でも頂上がイタダキで、それ等もこのイタダクという動詞に基づき、人の頭をそう呼んだのが始めかと思います。又頭に魚の桶を載せて売りにあるく女たちを、北陸や四国の海近くで、イタダキと呼んで居るのもその証拠であります。
参考:私が子供の頃、広島県の瀬戸内海沿岸の小さな小売業・漁業の町で、女の人がそうしていた。
漁師の部落のおばさんが家まで魚を売りにきていた。いつも午前中であった。直径一メートルくらいの盥に生きのよい魚を入れて頭に載せて上手に運んでいた。一度もひっくりかえしたりするのを見たことがなかった。季節の魚を運び、世間話をしながら刺身にしたり、シーズンには河豚なども井戸端に俎板を持ち出して庖丁で捌いていた。終わると、次のお得意さんを回っていた。
以前は目上の人から衣服などを賜った場合にも、纏頭と言って頭の上にかつぎました。それを後々は少しづつ省略して、ただ両手に持って目よりも高く、ちょうど額のあたりまでさし上げて直ぐにおろすのを、イタダク又は頂戴するということにしたのであります。食べ物などをイタダクというようになったのは、恐らくこの略式が普通になつてからの後のことかと思いますが、或は是さえも曾ては頭のてつぺんに、のつける形をした時代があったかも知れません。
小さな児が咽に魚の骨を立てた場合に、同じ骨の一部を頭の上にちょいと置くというまじないが、今でも残って居りまして中々よくきゝます。食べ物をイタダク場合というのは、元は神様の前か貴人の前で、改まった式の日の食事として、同時に物を御一しょに食べる時で、昔はその共食を相饗(あいあえ)とも、直会(なおらい)ともいっておりました。事実この時だけはその食べ物を、頭へまた額まで戴いていたものと思われます。中世に主従の階段が細かく行き渡り、人が二人出逢えば必ず一方は目上であり、そうでなくとも互いに目上と同じように尊ぶのを、礼儀とするようになってからは、当然にこのイタダク場合が激増しました。そうでなくても、一種の哲理から、ふだん三度の食事でも、すべて君と神とのお賜だという心持で、食事に箸を立て又は両手で膳を少し高く挙げて、目をつぶって黙念するという人が沢山に有りました。イタダキマスという言葉の近頃の普及も、大半はこの考え方に伴うもののようですが、同時に他の一方には是をたゞ女の言葉、又は上品な言葉とばかり考えて、やたらに使う人の多くなったことも認めなければなりません。昔の通りに頭の上にイタダク人はもう無くなったということ、ひどいのはごろりと寝ころんで、イタダイて居る人もあるという事実を、心づいて見なければなりません。イタダクという語の濫用に元祖は、料理法の放送者であったように私などは思っ居ります。
以上です。人によっては、今でも食事のとき、掌を合わせて<イタダキマス>と言っています。そんな人と一緒に食事される人もそうされています。子供のころからの家庭でのしつけがそうさせているのでしょう。その意味などはあれこれと言葉にしなくてもよいのだとおもいまう。形に表す実行がうちなるものにひびいていてやすらかな気持ちになりいただけるのでしょ。その上、廻りの人達に何かを感ずさせることは素晴らしいことだと私は思っています。
さらに、岡山の曹源寺での食事についてのべます。食事の席について食事を始める前に、「五観の偈」が唱えられています。
禅門での食事での「禅門食事訓 五観の偈」を紹介します。(記事はインターネットによる)
食事は生命の始まりと言ってもよい。食の乱れは健康を損ねるばかりではなく、家庭に於いては生活信条やその家の家風伝達の大切な場なのです。今日家庭が崩壊し青少年が乱れていく原因の一つは、健全な家族を象徴する健全な食事が為されていないことも否めない。信頼と温かい心を感じ合う食卓であって、初めて健全な家族と言えるのではないだろうか。
多様化した今、全員揃っての食事は殆ど不可能となっている。けれども完全に不一致ではないはずだ。團欒と同事に、大切な心の糧となる人生訓話などは決して外すべきではない。迷う心を支える者は、人としての道義に裏打ちされた、その人固有の健全な信念に拠るのだ。これが無いので道が分からず、途方に暮れて彷徨い続けて鬱病にもなる。まさに魂の世界である。これを育てるに両親祖父母に勝る適任者は居ないし、食卓に勝る場は決して無い。社会も学校も今や精神に関しては全くの不毛地帯である。
ここに掲げる「五観の偈」、禅門で毎日敬虔に実践している食事訓である。不足気味な心の栄養素として、恐れることなく、躊躇することなく、一度静かに取り入れて頂きたい。
嘗ての日本家庭では、このような精神要素は自然の形で吸収し得る全体の様子があった。つまり餌ではなく、人としての品性と信義に満ちた食事観が有ったのである。それは伝統的に家族としての威厳と尊厳を態度と行為で示し、且つその家固有の人間観として両親が語っていたからである。
こうした栄養素の充分効いた精神の持ち主は、絶対に親に恥を掻かせてはならないと言う信念が育まれているのだ。信ずるに値する生き方をする。
誰しも我が子を立派な人に育てたいはずである。この五観の偈は、少なくとも食事に命を感じられるようになるだろう。そこを糸口にして日々の生活を見直し、少しでも向上を試みては如何かと思う。施行不備による子供の心には結して明るい将来はなく、時として家族供に地獄を経験する事になるだろうから。
● 五観(ごかん)の偈(げ) (食事訓)
1(ひと)つには功(こう)の多少(たしょう)を計(はか)り彼(か)の来処(らいしょ)を量(はか)る。
第一に、頂こうとしているこの食は、一体どれ程の人の手と時間と自然の恵みに拠って出来た尊い物かを理解し感謝して頂く。
2(ふた)つには己(おのれ)が徳行(とくぎょう)の全欠(ぜんけつ)と忖(はか)って供(く)に応(おう)ず。
第二には、自分は果たして是れを頂くだけの徳行善行をしたか否かを反省してから頂くこと。
3(み)つには心(しん)を防(ふせ)ぎ過(とが)を離(はな)るることは貪等(とんとう)を宗(しゅう)とす。
第3には、囚われの心を解決し美しい真実の人に成るには、貪瞋痴の心を陶冶すること。
4(よ)つには正(まさ)に良薬(りょうやく)を事(こと)とするは形枯(ぎょうこ)を療(りょう)ぜんが為(ため)なり。
第4には、食事は最善の薬である。修行するこの身体を枯れさせないための良薬にほかならない。
5(いつ)つには成道(じょうどう)の為(ため)の故(ゆえ)に今此(いまこ)の食(じき)を受(う)く。
5つには、真実に修行し、真実の道を悟る為に今この食事を頂く。
曹源寺でのある日曜座禅会で
平成十年二月二十二日 日曜坐禅参加。坐禅が終わると、直日が<ご苦労さま、小方丈でお茶をどうぞ>と挨拶される。雑布でふき清められた渡り廊下をとおり、ストーブで暖められ、座布団も敷かれている小方丈に入る。お茶碗などの道具とお湯も準備されている。修行者たちの心づかいがあたたかい。
老師が入室されると、<おはようございます>と全員で挨拶。いつもの和顔であいさつが返される。みなさんお茶をいただくひと時につつまれる。
原田老師もお茶を飲まれる。当日のお茶請けは煎餅だった。
老師は食べられるとき茶碗の上で煎餅を小さく手で割られて口に運ばれていた。割ったときこぼれる粉をお茶碗のなかに落ちるようにされていた。
また机の上にこぼれたものは指先でつまみあげてお茶碗の中に入れられていた。食べ物を少しも粗末にされないのだと見させていただいた。お茶の作法にあうのかどうか私にはわからないが食べ物にたいする気持ちを大事にしたいものだと教えられた。
私は思った。こんな老師のもとでの修行者は薫習される、と。
ドイツからの女性修行者(ShoEさん)の汁粉をいただいている様子をみたときのことが思い出させられた。彼女は汁粉を食べ終わると、お碗のうちがわを沢庵できれいに拭きとって、食べていた。 ShoEさんの食事。
★食事について関連: 著作『かもめのジョナサン』の食事を批判して。
平成三十年(2018)七月十一日記す。
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☆61 座布団にもタテとヨコがある
曹源寺の座布団は正方形でない。長方形(矩形)。坐禅が終わると、参加者は使った座布団を一定の場所に運び、縦横をきっちりと積み重ねる。
ある日曜日、大勢の子供が数人の保護者に連れられて坐禅参加。坐禅中は、お寺の修行者の指導もあり、静かだった。ところが座布団の片付けは乱雑。整理が悪いのをみかねた参加者の一人が、座布団はタテとヨコがあるのだよ、きちんと置きなさいと注意。母親の一人は座布団を折り曲げてタテヨコの長さの違いを確かめていた。
考えたこともなかった。なぜ、長方形なのだろうかと話題にした。ある人は、正座したときの座った縦横の長さに合わせたのであろうと。確かに座った状態をみるとほとんど過不足がない。ある人は、長方形のほうが正方形より美しく見えるからでしょうと。そう言われば、絵画もたいてい長方形である。比較的美観を与えるといわれている黄金分割は縦と横の比がやや大ききすぎる(一・六一八対一)にしても長方形である。
民芸の用語に[用美]があると教えられた。座布団は民芸品といえないかもしれない。<用いて美しい形>として長方形に落ち着いてきたのだろうか。
★柳宗理の父親である柳宗悦が提唱した民藝運動では<用の美>という言葉があります。 無めいの工人の手による日用雑器や、これまで正当に評価されてこなかった美術品にこそ民衆的美術工芸の美しさがあるのではないか。 そして、それを使用している人の精神的に充実した姿が美しいのではないかという考えです。
08.06.23.
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☆62 ハスの布
Lotus cloth
バナナばかりかハスまでが衣料品に化けようとは。ミャンマーのハス糸で織ったジャケットを、日本のアパレル輸入商社が売り始めた。本来は仏教関係に用いられた稀少な布で、ひと月に一、二点しか作れないという。すぐに連想したのは、奈良・当麻寺ゆかりの中将姫伝説だ。
▼不幸な境遇を逃れて大和の当麻寺に身を置く中将姫は、西方浄土への思慕やみがたく読経に明け暮れていた。そこへ尼が現れ、ハスの茎を集めよ、と。言われるままに茎から糸を引き出し、井戸ですすぐと糸は五色に変化。これで織り上げたとされるのがいわゆる当麻曼荼羅で、尼は阿弥陀如来だったという。能や説教でもおなじみの物語だ。
▼国宝となった現存の曼荼羅は残念ながらハス博士の大賀一郎から絹製とされたが、ハスの布はミャンマーで今も細々と織られている。その工程をビデォで見たが、茎の端を軽く折って引き抜くと白い糸がスルスル伸びる様子に驚いた。葉の茎にもレンコン同様の穴があり、内側のらせん状の繊維は茎の四、五ばいの長さに達するという。
▼香り高い伝統技術で装えるとは、<極楽>と言うべきなのだろう。ただでさえアジアの工芸品は今、注目の的だ。もっとも発展途上国からの輸入は一歩誤ると資源の乱獲などの思わぬ落とし穴も潜む。性格は全く異なるが、特恵関税制度を悪用したタコの脱税事件も起きたばかりだ。双方の国が極楽になれるフェアな商いは、なかなか難しい。<春秋 H13.05.11>
参考
1:ビルマのハス糸織物
2:中将姫の伝説|當麻寺奥院
3:曼荼羅
4:マルハの罰金1億円/特恵関税制度を悪用
関連
1、ハス―其の一―ハスのめい称
2、ハス―その二―ハスの葉が水を弾く理由
2018.12.05
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☆63 不昧因果の教え
現代に生きる[野狐禅]――不昧因果の教え
因果の法則を昧(くら)ますな
この頃の思想家・評論家には、解放とか自由とかを、さももったいぶって説きたてて、そして祖国日本に毒づく変な流行があります。私はそういう人々の言論に接すると、よく[野狐禅]というものを思い出すのであります。これは禅のな高い公案の一つでして、それの出ている本の中で一番よく知られておるものは、な高い『無門関』という禅書であります。公案というのは、つまり禅に参ずる者が、それを解決して自分の悟道の修行にする問題であります。
禅は達磨(だるま)以来、始めのうちは特に一宗一派を立てたものではなく、たいていどかのお寺であるとか、気に入った山中の洞窟などに自由に生活して、気の向いたままに俗を離れて思索修行したものであります。その禅風が広まるにんつれて、どうしてもそれでは不便で、やはり定住の形体を求めるようになりまして、自然と禅寺というものができ、禅宗と言われる教団が発達したのであります。
禅にそういう組織形態を作り出した最初の功労者に百丈(ひゃくじょう)和尚という人があります。この人は唐の時代、今から千二百年ほど前のめい僧ですが、この百丈和尚中心の集まり、これを会(え)と申しますが、この百丈和尚の会に参じておりました一老人がありました。これは、その寺の後ろの山に住んでおった野狐の精であって、それが人間の形を借りて百丈和尚の説教を聞き、ついに解脱したという話であります。その話はこうです。
百丈和尚凡参(ぼんさん)の次(ついで)、一老人有り。常に衆に随って法を聴く。衆人退けば老人亦退く。忽(たちま)ち一日退かず。師遂に問う。面前立つ者は復(ま)た是れ何人ぞ。老人云く諾(はい)。某甲(それがし)は非人なり。過古迦葉(かしょう)仏の時に於て曾(かつ)て此山に住す。因(ちな)みに学人問う。大修行底の人還(ま)因果(いんが)に落つるや無(いな)や。某甲対(こた)えて云う、不落因果。五百生(せい)、野狐身に堕(だ)す。今請う、和尚代って一転語し、貴(ねが)わくば野狐を脱せしめよ。遂に問う、大修行底の人還(また)因果に落つるや無(いな)や。師云う、不昧因果。老人言下(ごんか)に大悟す。(無門関第二本則)岩波文庫P.28
いつも百丈和尚の講席に皆と一緒に聴聞する一老人がおった。<衆人退老人亦退>皆が退席すれば、その老人も退席する。何も変わったことはなかったのでですが、ある時、皆が退席しても老人だけが退席しない。かねて普通でないと看破しておった百丈が、<お前は普通人(ただもの)ではあるまい>と問いますと、彼は、
私は非人なり、即ち人間ではありません。私はかつて此の山に住んでおったのですが、ある時、<大修行底人還因果落也無>大修行底の人もなお因果に落つるや否や――非常に修行した人間でも因果の法則というものにやっぱり支配されるか、どうか。俗人は皆、因果の法則に支配される。しかしながら、非常な修行をすれば、俗人が支配されるような、そんな因果の法則に支配されないものではあるまいか。火に入って焼けず、水に入って溺れずというふうになれまいかと問われて、私は不落因果――即ちそんな俗人の支配されるような因果の法則に支配されるものではない、と答えました。そのために<五百生堕野狐身>。永遠に野狐の身になり下がってしまいまして、どうにもなりません。今どうか和尚さまより何か本当のお言葉、答えを教えて下さい。それによってこの野狐の苦痛を脱したいのです、と打ち明けました。
すると和尚は、<師言。不昧因果>即ち<不落因果ではない>、<不昧因果>である、と教えました。
<老人於言下大悟>老人言下に大悟す。<これで自分は悟りました。野狐身を脱しました。自分の亡骸は、この山の後ろにありますから、どうか和尚さんに申し上げますが、死んだ者のしきたりに従って葬ってください>――と言って消え去りました。
これは実に面白い。面白いといっては相済まない、適切である。これに感動して、これに覚るところがあって、あの松江の殿様、お茶で有めいな松平侯の<不昧(ふまい)>の号もついたわけであります。
公案では、このあと二、三問題がありますが、それはここに必要ありません。
これについて無門和尚は<不落因果、なんのために野狐身に堕す。不昧因果、何のために野狐を脱す>――不落因果で、どうして野狐になったのか。不昧因果で、どうして野狐を脱れたのか。この話の中に心眼を開かねばならぬ――と申しております。
修行するということは、これは今に至るまで一般に誤解することなのですが、なにも我々一般の生活、日常の生活、現実の生活、そういったものを離れて、山の中か何かで特別の生活をすることのように考えたり、さらにまた、何か一般人が支配されるような、そういう因果の法則から解脱してしまう――火に入って焼けず、水に入って溺れぬようになる、奇蹟を演ずる――そこに偉い修行というものがあるのだ。こういう考えが、やはりその当時にも、こびりついていたものとえまして、このことを問うたのに対して、<不落因果>は、それを肯定したわけです。それは偽(いつわ)りである。人を騙(だま)したことである。人を騙す代表は狐狸でらるから野狐になってしまった。これは非常に面白い。
そこで何と答えることが真実であるか。
百丈和尚は<不昧因果>と答えた。
大修行するということは、因果の法則を無視するとか、因果の法則を超越するというような、そんな意味ではなくて、この複雑極まりないところの因果の法則というものは、実は普通の人にはわからない。その因果の法則をハッキリさせること、ごまかさないだけのことである。
何も大修行といったとて、奇蹟を演ずることではない。平たく言うならば、不養生をすれば病気をするものだ、悪いことをすれば心が悩むものだ。これは一つの因果である。普通の人は、病気をすれば医者もある、薬もある、俺は大丈夫だというふうに考えて、漫然と不養生を続けておる。そうして病気になると大騒ぎをする。こういうものは一つの<昧因果>である。因果に暗く、また、くらますものです。そうして、そのために、いつでもばかばかしい因果の法則の手に落ちてしまう。そうではなくて、不養生をすれば病気をするという因果、それをハッキリさせる、いい加減にしておかない、これが一つの<不昧因果>です。そうして、ハッキリその因果の法則に従って実践する――これが修行です。
つまり、科学をはじめ、すべての学問は<不昧因果>であるわけです。
だから、我々の平凡な日常の生活からでも大修行はあります。
我々は、なかなか衛生という因果一つ明白に行(や)れないではありませんか。大にしては戦争というものが、どういうものであるか。どういう戦争の仕方をしたら、どういう結果になるのか、またどいう敗戦をすれば、どいう困窮に国民が落ちるものであるか。そのためには政治家は、どうしなければならないか。事業家は、どうしなければならないかというようなことも、即ち因果であります。この因果の法則に暗かったために、今度の戦争が滅茶苦茶な敗戦になって混乱を来したわけです。
かつての日本人は、<戦には負けない。外国と戦って負けたりなんかはしない。危ない時は神風が吹くんだ>と考えた。これが<不落因果>であります。かつて日本人は不落因果の思想を持っておったわけです。これについて<不昧因果>が出来れば、決してこんなことにはならなかったのでしょう。
しかし、それは簡単なようなことであって実際には非常に難しいことで、それをよくやってゆくのが大修行底です。ですから禅というものは奇蹟を演ずることではなく、まことに、この我々の、日々の生活の理法というものを曖昧にしないで明確にして、そうして真実にやってゆくことにほかならない。
今は世界の危局も、日本の行き詰まりも、皆このごまかしから来ているのです。ソ連や中国などは、そのごまかしの徹底した行者で、解放のなにおいて民衆を奴隷化し、平和を宣伝して相手方を安心させ、その虚に乗じようというふうに、すべて恐るべき詐術です。それを知ってか知らずか、中ソを謳歌して、彼らに従えば奇蹟のような理想世界ができるように主張する。実に、とんだ"野狐"であります。
山田方谷の理財論
現在、皆が悩んでいる経済の行き詰まりも因果を無視した"野狐"の苦悩です。
幕末、備中松山(現・岡山県高梁市)に山田方谷(ほうこく)という哲人がありました。この人は"貧乏板倉"と言われたほどのこの藩(板倉藩)を徹底的に刷新して、経済的にも精神的にも大事業をやりとげ、何も知らない旅人でも、足を板倉領に踏み入れたならば直ちに、これは音に聞く板倉領だなと気がつくと言われるほどの実績をあげた人であります。
藩主の板倉勝静(かつきよ)が後日、幕政に与ったことがあります。ある時、板倉公に従って登城した山田方谷を顧みて、公が江戸城の規模の大を自慢されて、<どうだ、田舎から出てきてこのお城に来ると、お前も感心するだろう>と言われた。ところが方谷は静かに、<貴方はそうお考えになるかもしれませんが、この江戸城は大海に浮かぶ船の如きもので、底は恐ろしい荒波ですよ>と答えて、公は愕然として色を失ったといわれております。
また、ある日は、藩邸で一同雑談の際、方谷は、<幕府も、もうどにもならない。家康公が仕立てられた着物みたいなもので、代々着古したものを、吉宗公(八代将軍)が仕立て直し、また、それを着古して、もはや生地(きじ)が傷んで仕立て直しもきかん>と言われたので、満座、色を失った。そういう慧眼・達識の人であります。
この人に卓抜な<理財論>があります。<理財の密なる、今日より密なるはなし>世の中は挙げて経済の話である。<而して今日より窮せるはなし>で、そこで、およそ取れるものは何でも税をかけて取る。減らせる費用は何でも減らす。それでいて政府の倉は空で、<積債山の如し>である。
そもそも、天下のことを処理する者は、問題の外に立つて、問題の中に属すべきものではない。理財もまた然り。理財の中に屈してしまってはいけない。しかるに今の財を理(おさ)める者は、即ち財の中に屈して、万事只々経済経済で、そてより外に出られない。人心の頽廃も政治の堕落も何も考えないで、ただもう経済の心配ばかりして、ますます窮しておる。その心の持ち方を一変して、どうすることが正しいかという道義に目覚めなければ、経済は救われるものではない。<利は義の和>である。道義を実践してゆくことが、結局、その利になるのだ、ということを論じております。
我々がいかに不昧であるか、それとも、いかに不明であるかということを考えますと、これは慄然たるものが多い。やはり人間は学ばなければいかん。どんなに偉い人でも学ばなければ気がつかんのであります。学問することによって初めて気がつくのです。つまり不明が不昧になるのです。むしろ、出来れば出来るほど、経験を積めば積むほど、やはり学ばなければならない。ところが人間は少し成長し、少し仕事をするようになると、学ばなくなる。学ばなくなるから不明になる。だから<不落因果>とたかを括ってしまって皆、野狐身になる。あげくのはてには、政治的に言うと、敗戦降伏のような大悲劇を演ずることになる。爾来、日本人は十数年にわたって野狐身に堕して来たといってよろしい。今国民の目覚めた人は真剣に<和尚代って一転語し、貴(ねが)わくば野狐を脱せしめよ>ということを皆迫っておると申してよろしい。
我々は、これから本当に自分に対して、家に対し、国家に対し、民族に対し、みずからの不明を恥じて<不昧因果>――松平侯ではないが、皆<不昧人>にならなければならない。これが学問教育の本筋であります。
安岡正篤著『運命を開く』人間学講話(プレジデン?社)1986年12月2日 第1刷発行 P.9~17
2019.07.14
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☆64 正念さん 目の不自由な修行者
正念さん 目の不自由な修行者
失 明
<いら立つな腹を立てるな目の見えぬお前に何ができるというのだ>。
<風花雪月を詠じて楽しむ風雅な心は今の私には無い。また、いわゆる写生の歌にも興味はない。
私はただ、このどうにもやり場のない切ない気持ちを、何等かの形で吐き出したいのである>。目加田誠さんは十数年来、入退院を繰り返した末、いよいよ人の顔も見えなくなった。今年八十九歳。
★目加田誠について。
▼八月、曹源寺での日曜坐禅の直日が交替した。その一人はアメリカ女性正念さん、目が不自由。渡り廊下を歩いて、三段の階段をのぼり、本堂に入る。左手に曲がり三間ほど歩く。柱に触り、右に向きを変えて同じ距離だけ歩いたところで、もう一度柱を手にして仏壇の方に向き、一歩踏み出したところが彼女の座る場所だった。若くして苛酷にも光を失い、米国で禅宗を知り、わざわざ単身来日、臨済宗のお寺で坐禅・作務・雑巾掛けなど修行に励んでいる。
▼悩み→諦め→受容を通って修行している様子を見せていただくだけで、ただただ頭が下がる。同時に、この人がここにとどまり、仏道に精進している状況のなかに、老師をはじめ多くの同行(外国の人が沢山いる)の慈愛を想う。
平成五年十月一日
追加:2006年3月26日、正念さんが突然、曹源寺に帰ってこられた。上の記事を書いてから13年。どこで修行されたいたのだろうか。全く外見はお変わりなく、笑顔を絶やさず<拈華微笑>の様子でした。
二足・三足・四足(正念さん)
二月の日曜日、曹源寺の小方丈の床の間に儀山禅師の墨蹟[両足]が掲げられていた。判読できない書体である。教えていただいても釈然としない。雨乞のようにしか読めない。
▼広辞苑で、[りょうそく]を調べると[両足尊]〈二足を具えている人類の中で最も尊い者の意。また福と知とを円満具足する意〉の説明があった。
▼ギリシャ神話<スフィンクスの謎>の足を思い出した。スフィンクスは上半身は女子の姿で下半身は翼を生じた獅子の形をしている。テーベ市付近の岩にうずくまって、行く人たちに<朝は四足、昼は二足、夕は三足のものは何か>という謎をかけ、とけないものを殺していた。英雄オイディポスに<それは人間である。子供のときは四つの手足で這い、壮年は立つて歩き、老年には杖の助けをかりて歩く>と答えられて海に投じて死んだ。
▼正念さん(得度めい)は、アメリカからの女性。曹源寺で十年も修行を続け、日曜坐禅会でも直日をされている。本めいを聞くと、笑いながら<忘れました>という。眼が不自由で白い杖をたよりにされている。<私は三足です>と。
▼二足で歩いていると思っている。実は三足、四足で歩かされていることに気付かないでいるのでは私なのでないだろうか。
参考:<スフィンクスの謎>はインタネットで検索すれば多くの記事があります。
平成八年三月一日
正念さんの作務
五月初め、曹源寺文化財の公開展示を曹源寺表書院で拝観。庭園、仏殿裏の小高い場所にある墓所を巡って石段を下っていると、目の不自由な修行中のアメリカ女性、正念さんが草を抜いてるのを目撃した。
▼仏殿前の石畳に座り込んで、石と石の間をてのひらでさわりながら草を探して、竹へらで抜いては籠に入れていた。掌にふれる草がなくなると、座ったまま両手肢を使って二、三十センチ移動、手探り作業を続けていた。しばらくも手を休めない。指先に顔を向けて作業している様子は、地面にお経をかいているようにも思えた。作業に集中していた。いや、こんな言い方ではもの足りない。草取りになり切っているという表現がぴったりだった。無心に草抜きをしている彼女は五月の清風、浄光のなかに溶け込んでいた。三十分ほど、じっと見ていると良寛さのイメージと累なってきた
▼<私は目が不自由で杖にたすけられている三足です><本めいは忘れました>という正念さん。作務とはこういうものです、行ですと語りかけてくれているようだった。作業の邪魔にならないように声もかけずそっと横を通り抜けた。籠には、手探りで一本、一本と抜いた草が湿りけを帯びた土をつけたまま積まれていた。
平成八年六月十二日
★読んで頂いた皆さんから
◇(豊中市) 中野 忠様 六月三日
正念さんの作務、襟を正して拝読合掌
◇(宗像市) 中村和美様 六月四日
“邪心なく事に仕える姿には 言葉はなくとも気づきあふれて”
養護学校でお世話になっていた頃、同じような気持ちを味わったことがあります。正念さんの作務から口ばかりの自分を反省します。言葉よりも行動ですね。
◇(神戸市) 矢部和子様 六月四日
欲しい、読みたいと思っていた真川精太氏の『大聞記』。先日、本の方から私の懐に飛び込んでまいりまして丁度読了し、感動未だ覚めやらぬところへ“正念さんの作務”でした。一心に草を抜くその作業に、地面に写経してるようだと感じ入り三十分もじっとご覧になっていられた。そして邪魔にならぬようそっと通り抜けられた黒崎様のそのおこころこそが良寛さんのように思えてなりませんでした。状況が浮かんでまいりました。“気に入りの皿に並べる草の餅”
◇(高槻市) 辻 光文様 六月五日
正念さんのお話、本当にいいお話ですネ。正にこれこそ全一的いのちの世界です。
◇(貝塚市) 田端 繁様 六月十日
<正念さんの作務>有難うございました。石と石の間をてのひらでさわりながら草を探して、地面にお経を写しているように思えたに感動いたしました。
◇(西宮市) 濱田美治様 六月十日
ハガキ通信 169号受け取りました。<正念さんの作務>には感動いたしました。貴重な通信有難うございました。
◇(な古屋市) 飯尾剛士様 六月十一日
拝読し正念さんの無心の境地による清風浄光のシーンを想像いたしております。作務の大切さは以前読んだことがございますが体と心の統一がむずかしくやはり正念さんの如く修行というプロセスを必要といたすものでございますね。ありがとうございました
◇(福岡県鞍手町) 梶原はつよ様 六月十七日
正念さんの作務。すてきなお話ですね。お会いしたくなりました。そして黒崎さんの文章が梅雨のあじさいのようにしっかりと胸にしみてきました。先日、ひょうなご縁でお抹茶を点てさせて頂いて「おいしい」と言われたことがとても嬉しい一日でした。
◇(東京) 黒崎昭二様 六月十九日
<正念さん>その行の立派なこと。立派な女性ですね。感銘しました。
6月10日午後、曹源寺へ散歩。<雨が降っているのに散歩ですの>女房の言葉をあとにして。総門を入り、山門の前の放生池にかかる石の橋に立ち、境内の静寂につつまれて傘に降る雨の音を聴いていた。山門の横の道を総門に向かって歩いている人が目に入った。正念さんだ。傘を左手に、右手の白い杖で足下を探りながら総門に辿り着く。総門の間にわたされている横木を跨いで石橋を渡る。総門を出ると2車線の松並木の参道。始めは左側をあるいていたが暫くして右側に移動、そのまま、ほぼ真っ直ぐに進む。両側に溝が掘られている。落ちたりしないかと心配したがまったく無用。南北約 200メートルの道は、自動車が頻繁に走る東西の県道と交差。交差点で彼女は立ち止まった。百メートルほど離れて見守っていた私はそこから彼女を見失った。見ただけでは、杖を便りに歩いているが、どうして上手に歩けるのだろうか
一生懸命という言葉を私も使ってきた。しかし彼女の歩行を見て、これらの言葉を安易に使えない。
平成八年六月十日
※削除されていた記事が復元できた。2019.12.21
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☆65 曹源の一滴水 原田 正道 曹源寺住職
想えば昭和三十九年頃、神戸祥福僧堂に掛塔(定めた老師の下で修行に入る事)してまだ一年、修行の意味さえ解らぬ新到僧が旧参に叱られ叱られ迎えた春、引手に連れられて遠鉢と称する三人一組の行脚に初めて訪れた寺が曹源寺であった。
長い松並木、大門、三門、本堂と一直線に伸びる参道を歩きながら<此処が、太元孜元禅師、儀山善来禅師の塔所であり滴水禅師の修業された古道場だ。我々においては、法源の寺になるわけだ。>という引手さんのご説教で初めて、このお寺を尋ねる意味がわかった次第である。
専門道場に掛塔(草鞋を脱ぐ事)した新到諸禅士がまず驚くのは、不衛生窮まりない朝の洗面である。東司(便所)の側に備え付けられた水鉢、並べられた小さな柄杓で顔を洗い口を漱ぐ。一杓汲んで顔を洗い三杓までは汲んでも良いが、半杓は返せと、結局は二杓半で用を足せという。無駄に流そうものなら、<陰徳を知らんのか。心ない水の使い方をするな。>高単の罵声を浴びる。こうして新到の修行僧は陰徳という行を、身をもって教えられるのであるが、このときに決まって高単が引合いに出す話が、この曹源の一滴水の教えなのである。
※参考:禅堂では掛搭した順に単(坐る場所)が与えられるので、すなわち古参の修行者の意となる。
ある日、儀山和尚が開浴されようとした時、浴頭当番が風呂を沸かし過ぎたか、浴頭に<水を汲んで来い。>といいつけられた。その当番は、即座に桶を持って井戸から水を何度も運びお湯をうめた。良い湯加減になり、儀山禅師に<もう、よろしい。>といわれたので、浴頭は、桶の中に残っていた水をぱっと捨て、桶を伏せたところ、儀山禅師は、<ばかやろう。お前は陰徳を知らんのか。その僅かの水であろうと、生かす工夫をせんかい。一滴の水にも命がある。小の水には小の働き、大の水には大の働きがある。その働き見て活用するのが禅僧じゃないか。>と叱りつけた。その浴頭は、以後決して物の命を疎かにしないと反省し、自らのな前を滴水と号した。そして、立派に修業を仕上げて天龍寺管長になられ、多くの弟子を育てて行かれた。
※参考:浴頭(風呂焚き当番)は新旧二人の僧が一組になってこれに当たる。新到の憎は浴頭さんの指揮にしたがって風呂焚きや開浴に必要な準備をする。<薪はどこにあるか>と聞く新到憎に向かって、<薪なしで沸かせ>などと、引き手さんの厳しい答えがはね返る。
恐らく人は、物を大切に使えという教えも結構だが、この物余りの現在、時代錯誤も甚だしいと思われるであろう。しかしそれは、物はあってもその使い方を知らない方のいうことであって、儀山禅師の叱られたのは、そこをいうのである。我々が持っておる物をどう生かすか、物を無駄に腐らせてしまうのではなく、それを生かして使えといわれるのだ。要は、一滴の水も生命を頂いている事に気がつくならば、自らの労を惜しまず社会に働き出す工夫をして行けと説かれるのである。滴水禅師は、七十七年の生涯を終えるに当って『曹源の一滴七十余年、受用不尽、蓋地蓋天』と、このように遺偈を残して行かれたと伝えられる。
曹源寺で儀山禅師より一滴の水の使い方を教えて頂き、七十七年の生涯を生き抜いたが、その教えは、使えども使えども混混と溢れ尽きる事なく、この教えをもって生き抜いた生涯、誠に蓋地蓋天、天に一杯地に一杯余すところがございませんでした。こう、自らの生涯を歌われたわけであろう。
今日、曹源寺の看護として祖師塔の掃除をさせて頂く生活であるが、儀山禅師より<ボヤボヤするな。社会にしっかり目を据えて行け。>と尚叱られておる思いがする。
2020.01.26記す。
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☆66 一滴の水 水上 勉 月刊PHP 昭和59年12月号
寛政の頃に、私の故郷若狭大飯町の半島の孤村から、岡山曹源寺へ旅立った少年が、修行をつんで儀山善来という大和尚になり、廃仏思想の吹き荒れた幕末に、臨済禅の道を実践しつづけ、数多くのめい僧を育て、年老いても故郷へ帰らず、岡山で眠ったのは明治十年のことだった。世に<曹源一滴水>という語が残っているが、じつは,これも儀山和尚の有めいな逸話から出ている。晩年、和尚は、大ぜいの雲水と道場でくらしていたが、ある夕、風呂に入ろうとしたら、湯が熱すぎた。ひとりの雲水が水桶をかついできて、すぐさま和尚の前で湯に水をうめたが、そののこりの水を庭へ捨てた。見ていた和尚が、大声でどなった。
参考:1802~1878 江戸後期-明治時代の僧。享和2年生まれ。備前(岡山県)の臨済宗曹源寺の太元孜元に師事し,その法をつぐ。京都妙心寺,和泉(大阪府)南宗寺の住持をへて曹源寺にかえった。明治11年3月28日死去。77歳。若狭(福井県)出身。著作に<儀山和尚語録>。俗姓は後。諡号は仏国興盛禅師。
【格言など】生死を去来するに 千村万界なり 端的を見んと要すれば 水月空華なり(遺偈)
<もったないことをするでない。一滴の水にも命がある。草や木が日照りで泣いているのがわからぬか。根へかけてやればよろこぶものを>
と。雲水は、この大喝に己をふりかえり、人生の一大事を悟った。この日からなを滴水とあらため、修行につとめ、和尚の法を継ぐ一の弟子になった。のちの天竜寺管長由利滴水がこの人だ。
由利滴水が、幕末動乱の際、天竜寺を攻めてきた暴徒とわたりあう話も有めいであるが、明治に入って、大教院に出仕し、臨済宗の管長となったことも、この派の小僧なら、誰でも師匠から習うことで、私も滴水和尚がそのようなえらい人となられた心根には、修業時代の師匠の<一滴の水>があったればこそだと説かれた。
最近、私は、故郷大飯町の、大島という孤村を訪れ、儀山和尚の生誕地を探ってみた。
その家は残っていて、後家といい、後裔の方がおられたが、和尚の幼めいもわかっていないことがわかった。村は、まったくの孤島といえて、昔は井戸を掘っても、おいしい水の出ない貧寒な地だったそうだ。耕地も少なく、人々は舟をこいで魚をとり、山畑に水をためて稲をつくり、自然の脅威と闘って生きたが、日照りつづきの夏は夕立雨を溜めて呑み水とした。古い話を古老からきいた時、<曹源一滴水>の語の奥の方に、寛政の頃の貧しい家出少年の、原光景がかさなって、心を打たれたのである。何のことははない、一滴の水の思想は、干ばつの不作に泣いた父母の嘆きがこもっていたのだ。人はひもじかったり、貧しかったり、苦しかったりして、心に一大事を養うものらしい。そうでなければ、大学も出ているはずもない、文盲少年が、百年経ってもゆるぎない、こんなすばらしい言葉がのこせるはずがない。ハングリーであったということが、少年に故郷を捨てさせ、岡山へ歩ませ、そこに師匠を見つけさせ、修行の道にいそしませたのである。昔は、漁師や農民の子は、かんたんに村を出ることは出来ず、出家することも、村ばなれの罪になる時代であった。そういう時代に文盲の子が、世の中に雄飛しようと考えれば、方法は家出しかないわけだが、さて、その家出してからの放浪生活に、人生の大事を培う気力はなみたいていの努力ではなかったろう。
そんなことを考えながら、海岸を歩いていたら、和尚の誕生の村が、原子力発電所のドームを抱いていることがわかった。儀山和尚が亡くなってから百年をこえたが、一滴の水を惜しんでくらさねば生きられなかった辺境は、人類の火とよばれるエネルギーの火壺の在所に変わっている。あらたな感慨を抱かざるを得なかったのである。
私たちはいま、都会で、ボタンを押して風呂に入り、蛇口をひねって、水道の水をふんだんに使い、足さえつかわずに高層マンションの居室へ帰る日常を、当然のことのように思っているが、じつは、このぜいたな生活」がつづけられるのも、ゲンパツと人のよぶ原子力発電所から、一日の約三分の一の電力をおくってもらっているからで、そんなことを、じっくり考え込みもしないで、めまぐるしい競争社会を、とにかく今日よりよくなろうと、明日にむかって、必死に喘ぎ生きている。
その日常には、寛政の頃に、孤村を出た貧しい少年の心に掘りこまれていた、一滴の湧水願望とは程遠い、何もかも便利主義の、使い捨ての発想がありはしないか。こんなことをいえば、若い読者は、つまらぬことをいうヤツだと笑うだろうか。
世はあげてこころの時代だといわれる。こころとは何か。己が心田にひそむ真実をボーリングする営為であろう。まがいのないところを打ちだして、誰はばかることのない生命の謳歌だ。和尚の生涯がそれを物語る。
※参考:水上 勉『風の来る道』(実業日本社)P.62、『若狭日記』(主婦之友社)昭和62年12月16日
※写真説明:上は曹源寺浴室。下は、曹源寺境内にある太元孜元大和尚の墓。2020.01.25撮影。
2020.02.25記す。
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☆67 曹源一滴水 曹源の一滴水 松原 泰道 『禅語百撰』(祥伝社)P.96~97
達磨から禅法(禅の神髄)を伝承した六代目の祖師を慧能といいます。慧能は曹渓(中国・広東省)に住んでいたので、ときに<曹渓>とも呼ばれました。<曹源>は、字表では曹渓の谷川の水源地ですが、慧能によって禅法が栄えたから、曹源とは禅法の源泉――慧能をさします。
この慧能で大成された禅は、中国では五家(雲門・?仰・臨済・曹洞・法眼の五宗)と、臨済から分れた楊岐と黄竜の二派を加えて七宗といいます。このように分化発展して、さらに日本へは二十四流の禅法が伝わりました。
これらは、すべて<曹渓>の慧能を一滴の源泉として展開したから<曹源の一滴水>と申します。転じて、慧能の根本禅心・禅の神髄・正伝の禅法を一滴水といいます。『碧巌録』第七則に、法眼(法眼宗の祖・一〇五八年没)に、一人の修行僧が<曹源の一滴水とは、どのようなものであるか……如何なるか是れ<曹源の一滴水>とたずねます。
※参考:『碧巌録』第七則(岩波文庫)(上)P.125 僧有り問う、<如何なるか是れ曹源の一滴水>。法眼云く、<是れ曹源の一滴水>。其の僧惘然として退く。韶、衆に在って之を聞き、忽然と大悟す。後に出世して法眼を承嗣ぐ。
法眼は、間に髪をいれず、問いそのままに<曹源の一滴水>と答えています。問いが答えとなって伝わるところに人生の真実があるのです。この禅の深い趣は別として、現代人として考えなければならぬ<一滴水>があります。
それは、物資が豊富になったため、かえって物をそまつにする悪習を覚えたことです。福田恒存氏は、まだ使える物を棄てるのは<残虐行為だ>と言い切ります。
中島光蔵は、仏像彫刻師になりたいと思い、高村東雲を訪ねます。東雲は、何も言わずに彼に井戸の水汲みを命じました。
光蔵の動作を見ていた東雲は、やにはに彼をはげしくののしって、退去を命じるのです。弟子たちは、彼をあわれんで、その夜は泊めてくれました。
夜半、彼は起されて東雲の前に通されます。今度は東雲はことば静かに、
<昼間、わしが叱った理由がわからぬようだから話そう。仏像は人から拝まれるものである。拝まれるものを作る人に、拝むこころがなくてはだめだ。一杯の水といえども天地のたまものである。しかるに、お前の水汲みを見ていると、こぼれても平気だ。捨てて省みぬ人間に、仏像が彫れると思うか>
と諭しました。
光蔵はこの一言が胸にこたえました。深く反省して入門を許され、ついに大成します。この中島光蔵こそ、後の高村光雲です。
※参考:高村東雲(1826~1879)幕末から明治初期に活躍した仏師。本名は奥村藤次郎。江戸の仏師高橋鳳雲の弟子となり,のち独立して高村東雲と改名。鳳雲の建長寺山門の『五百羅漢』の造像を助けた。東雲は当時まったく精彩を失っていた仏像彫刻界にあって,わずかに伝統を守り一家をなした。門下に高村光雲がいる。
※参考:高村 光雲(1852~1934年)は、日本の仏師、彫刻家。幼めいは光蔵。高村光太郎は長男、高村豊周は三男。写真家の高村規は孫(豊周の息子)。
※余話:『拝まない者も おがまれている』
2020.01.28記す。
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☆68 老人と馬
一人の老人が,ある村に住んでいた。彼は非常に貧しかったが,しかし,王たちですら彼をねたんでいた。というのは,彼はすばらしく美しい白馬を持っていたからである……。王たちは,その馬のために,驚異的な金額を提供すると申し出たが,老人はその時,次のように言った。<この馬は,私にとっては馬ではなく,一人の人間なのです。そして,人間を,友を売ることなど,どうしてできましょうか。>老人は貧しかったが,しかし彼は,決して彼の馬を売らなかった。ある朝,彼は馬を家畜小屋に見出さなかった。村のみんなが集まり,そして次のように言った。
<ばかな老人よ! 我々は,あの馬がいつか盗まれるであろうことを,常に知っていた。売っていればよかったのに。なんと不幸なことか!
老人は言った。<それを言うところまで,行き過ぎるな。ただ,馬が家畜小屋にいない,と言いなさい。ここまでが事実であり,ほかのすべては判断なのだ。それが不幸であるか,あるいは祝福であるかを,私は知らない。なぜなら,これはただ事の断片でしかないからだ。何がそれに続くかを,誰が知っていようか。>
人々は,老人を笑い者にした。彼らは,老人が少し頭がおかしいことを,今までずっと知っていたのだった。しかし15 日後,晩に突然馬は帰ってきた。馬は,盗まれたのではなくて,荒野に逃げ出したのだった。そして,この馬だけではなく,それはまた12 頭の野生の馬を連れて来た。再び人々は集まり,そして言った。<老人よ,おまえは正しかった。それは不幸ではなく,実際は祝福だと分かった。>
老人は答えた。<おまえたちは,また行き過ぎている。ただ,『馬が戻って来た……』と言いなさい。それが祝福であるかないか,誰が知っていようか。それはただ,事の断片でしかない。おまえたちは,一つの文から,ただ一つの言葉しか読み取らない― どうやっておまえたちは,本全体を判断できるのか。」
禅的観点から見た幸福とは
今回は,人々は,それほど異議を唱えないことを心得ていたが,しかし心の中では,老人が間違っているということを知っていた。12頭のすばらしい馬が来たのだから……。老人には一人息子がいたが,彼は,野生の馬をトレーニングし始めた。1週間後にはもう,彼は馬から落ちて,脚を折った。
再び人々は集まり,そして再び判断をした。彼らは言った。<おまえは,また正しかった!あれは不幸だった。おまえの一人息子は,今はもう脚を使うことができないが,彼は,おまえのような年寄りの唯一の支えだったのだ。今ではおまえは,以前よりも貧しい。>
老人は答えた。<おまえたちは,判断に占有されている。行き過ぎるな。ただ,私の息子が脚を折った,と言いなさい。これが不幸であるか,あるいは祝福であるかを,誰も知らない。生は断片として現われるのであり,おまえたちは,決してそれ以上のものを見ることはできないのだ。>
彼らの国が2,3週間後に戦争を始めるということが,明らかになった。その地域のすべての若い男は,強制的に軍隊に入れられた。ただ老人の息子だけが,肢体が不自由になったので,後に残った。地域中が,嘆きと悲しみの叫び声で満たされたが,それは,この戦争が勝つことができないものであったからであり,そして,若者たちの大部分は家に帰って来ないであろうことを,人々は知っていたからである。
彼らは老人のところへ来て,言った。<おまえは正しかった,老人よ。――あれは祝福であることが明らかになった。おまえの息子は,確かに肢体が不自由になったが,何と言っても彼は,まだおまえのそばにいる。我々の息子たちは,永久にいなくなってしまった。>老人は,再び答えた。<おまえたちは,判断するのをやめない。誰も知らないのだ! ただ,このように言いなさい。おまえたちの息子は軍隊に入れられてしまったが,私の息子は入れられなかった,と。だが,神のみが,全体のみが,これが祝福であるか,あるいは不幸であるかを,知っているのだ。>――そしてこのように,この物語は同じ編物図案に従って,ずっと続きうるであろ
う。
<禅的観点から見た幸福とは、フリードリッヒ・キュンメル著 中野優子 訳『人間と自然と言葉』
2021.10.07 記す。
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