小島直記著作

改 訂 版 2022.11.11. 改訂
 

小島 直記著『伝記にみる 風貌姿勢』
01〔兆民先生(P.49)〕 02〔竜の星座(P.55)〕 03〔余技の世界(P.91)〕 04〔うそ(P.145)〕
05〔小野梓(P.163)〕 06〔益田孝(P.182)〕 07〔戦時宰相論(P.277)〕


01兆民先生


 小島直記著『伝記にみる 風貌姿勢』(竹井出版)、「ちの章 兆民先生」 P.49~54

 中江篤介は、青陵、秋水、南海仙漁、木強生、火の番翁などをへて、もっぱら「兆民」という号を使った。詩経呂刑編「一人慶事有りて兆民これに頼る」が出典で、「億兆の民」すなわち「大衆」という意味である。そして、「秋水」という号は、中江家の玄関番として住みこんだ幸徳伝次郎が主人からうけついだ。明治二十六年四月のことで、兆民四十七歳、秋水二十三歳の出来事である。

 その秋水は、「先生幼にして頴悟(えいご)、つとに経史に通じ、詩文を善くせる者のごとし。しかして其性きわめて温順謹厚の人なりしは、すこぶる奇なるに似たり」(『兆民先生』)と書いている。身辺にいると、権威や常識に真向からたてついた奇行ぶりばかりが眼について、温順謹厚とは正反対だった、というわけであろう。世間でも、そういう見方が一般的であった。岩崎徂堂は、醍醐忠順、中井弘田中正造中江兆民を「明治の四奇人」とよび、とくに『中江兆民奇行談』という本さえあらわしたほどである。

 東京を放逐されて、大阪で『東雲(しののめ)新聞』を創刊し、主筆となった兆民は、社名入りの印ばんをきて出社した。自由民権大会の席上、印ばんてん、腹がけ、紺ももひきという大工・左官スタイルで演説し、聴衆のドギモをうばった。

 役人時代、絶世の美女である華族令嬢と華燭の典をあげることになった。ところが花嫁の到着前に酔ってしまい、花嫁を千鳥足で迎えると、その真正面でふんどしをはずし、きんたまを両手でもって引きのばし、「今は冬であるのに、オレは一文なしで何も花嫁にやるものがない。ただここに一つのきんたま火鉢があるから、これをやろう」とさしだした。友人の一人が、「火の気のない火鉢ではしかたがない。これをおいて、大いに花嫁に馳走しろ」といって、真赤におきた炭火をその袋の上にのせたからたまらない。アッチ、ととびあがった兆民は、そのまま雲をかすみと逃げだして、縁談はこわれてしまった。

 死んだ友人の弔問にいったことがある。未亡人におくやみをのべたあと、「ちょっと」と別室につれだして、「金二両、かしてください」と申し入れた。未亡人は、なんというひとかと心中大いに腹をたてたが、変わり者だということは亡き夫にきいていたので、怒りをおさえて貸してやった。すると兆民は、ふところから黒水引と白紙をだし、借りた二両をその中につつこんで、「香奠です。仏前にそなえてください」といって引きあげた。

 第一回総選挙で当選。彼は緋ラシャの洋服で、胸にはかんぜよりで金時計をつるし、人力車であいさつまわりをした。ところが議会の低劣さに三日間であいそがつき、「アルコール中毒のため評決の数に加わりかね候につき辞職仕候」とう届をだして、代議士をやめてしまった。

 夏の炎天下で四谷を散歩した。あまり暑いので、知らない家のそばにある天水桶に浴衣のままとびこんで首までつかった。巡査がこれをとがめ、「裸にて公然かかることをなすにおいては、だんぜん違警罪をもって処分するぞ」とどなりつける。兆民は天水桶から出ると、「わがはいは決して裸ではない。このとおりゆたかを着ておるではないか。しかるに違警罪をもって処分するとは、どこにそんな規則があるか!」と大喝。巡査はスゴスゴと引きさがった。

 こういう逸話は無数にあり、なるほど奇人だ、とおもわぬわけにゆかないが、しかし「夫子自身にとって、立派に平仄(ひょうそく)が合っていた」(嘉治隆一)し、「言行をして奇矯の観を呈せしめている原因に、彼の民主主義」(小島裕馬)があった。

 明治四年、政府が海外留学生を送ることをきき、大久保利通に自己推薦をしようとおもった。しかし、一介の貧乏書生が権威赫々の大蔵卿に近づく方法はない。そこで大久保の馬丁と仲よしになり、退庁のときうしろからとびのって、馬車とともに大久保邸にもぐりこむと、いきなり主人の前にあらわれて直談判をはじめた。まず、政府の海外留学生を官学だけに限っているのはよくない、と批判。ついで、自分は学術優秀で、もはや国内においてつくべき師はなく、読むべき書もなくなった。この上はぜひ海外にやってもらいたい、といった。土佐人ならば、どうして政府部内の先輩に相談せぬか、と大久保にいわれると、彼は答えた。

 「同郷の因縁情実を利用したくはありません。そこで閣下にお願する次第です」

 冷徹無比の大久保がにっこり笑い、やがてその希望をかなえてやったのは、兆民のやり方が無邪気で、そのいうことばにスジが通っていたからであろう。

 こうしてフランスで学んでいるうち、明治七年、政府は、財政引きしめのため、自費で継続できるもの以外は帰国せよ、と命じた。このとき兆民には、フランス人が学資を出してやるからぜひ残れ、という申し入れがあったのに、あえて帰国したのは、郷里にある老母のことをおもったからである。単なる立身出世主義者でなかったことはこれでわかる。

 外国語学校長になってすぐやめたのも、常識的にはわからない。しかし彼は官学がハダに合わなかったのである。私塾をひらき、学ぶもの前後二千余人。ところが彼は決して「先生」という高処から、彼らを門弟あつかいしなかった。つねにただ一介の「書生」であり、対等のつきあいしかしなかった。

 北海道山林事業、京都パノラマ、中央清潔会社、実業畑で何一つ成功しなかったのは、無能というよりも無欲清潔だったためだ。川越鉄道の創立につくしたので「だいぶ功労株をもらわれたそうで……」ときかれたことがある。そのときの「オレはそんなものをとるのはもっとも下手であるし、またもらおうなどとはおもわない。結局だまされつつやってゆくのさ」という答えは、実業界不成功の原因をついているようである。

 第一回総選挙では、一銭もつかわず、運動もしないで当選してしまった。それというのも、当時一般人が嫌悪していた部落に出入りし、その生活に同情して改善につくしたからだ。その無私の義侠心に感じた部落民が身ゼニを切って代議士にかつぎだしたのである。

 彼は、日本の民主主義における大恩人である。それというのも、ルッソーの『民約論』を訳した功労以上に、まずもってその身を平民の地位におき、その権利をのばすために戦ったからである。嘉治隆一は、「昭和の陸軍において、ファッショ運動の元凶と見られた将軍どもが、部下の青年将校を見殺しにしながら、自分らだけ爵位をねらい、位、人臣を極めようとした非倫理性と著しき対照をなすもの」と書き、小島祐馬は「その衣食住は特権階級のなすところを学びながら、口に平民主義をとなえ、弱者の味方であると自称するがごときは、偽善にあらざれば政治商売である。これ今日の社会運動家の平然としてなすところであって、兆民のなすに忍びざるところ」と書いている。つまり、羽仁五郎などとは、本質的に人間がちがう、ということである。


02竜の星座


 小島直記著『伝記にみる 風貌姿勢』(竹井出版)(昭和五十七年九月二六日第一刷発行)(表紙を開くと、児島直紀と直筆でペン書きされている)を読んでいると、「竜の星座」の章で、次の文章に出会った。P.56~60

 内藤湖南といえば、わが國のシナ学の創始者であること、そして何よりもその蔵書のことが念頭にうかぶ。その数五万部、しかも書庫において「暗がりでも目的の書物が探り出せる」(森鹿三『内藤湖南』第九巻付録月報)というのであるからまったく頭が下がる。

 昭和四十一年にその伝記が出た。著者は青江舜二郎、タイトルは『竜の星座』。この名著によりながら、とくに蔵書五万部の由来を探ってみたい。

 本名虎次郎。慶応二年七月(1866年)秋田県鹿野郡毛馬内(かづのぐんけまない)に生まれ、昭和九年(1934年)京都府村相楽郡瓶原(そうらくぐんみかのはら)現在加茂町)で永眠した。六十九年におよぶ生涯で、本との関係は三歳に始まる。

 十三歳上の兄が、炉ばたでおもしろ半分に漢詩を教えると、すぐおぼえて、もっともっととせがむ。本箱から本をもちだして、読んで、読んでという。『二十四孝』を読んでやると間もなく暗記した。友だちとかくれん坊をしても、大声で『唐詩選』の暗誦をしていたからすぐ見つかった。おそるべき神童ぶりである。

 小学生時代、自分のもっている本を全部ふろしきにつつんで、背おって出かける。じつは継母に原因があった。生母は四歳のとき死別し、つぎつぎと継母がきては去り、小学生のときは四番目の継母であつたが、虎次郎はこの酒飲みの女をきらった。授業がおわり、家にもどって顔を合わせるのが苦痛なので、放課後ひとり教室にのこって読むために、すべての本を持参したのだ。すでに幼少の身でおぼえた”悲しき逃避”である。

 十七歳、県立師範学校中等科師範科に九十五点、首席で入学。まわりのものはほめそやしたが、彼は継母とはなれて自由になれるほうがずっとうれしかった。そして、普通なら七年かかるところを三年半で卒業、北秋田郡綴子小学校の首席訓導となる。月給十円、下宿代三円、実家送金四円、のこり三円で本を買いはじめた。蔵書五万部の出發点はこのあたりらしい。

 翌年(二十一歳)無断上京、『明教新誌』の編集者に採用された。月給八円で生活はくるしく、いろいろな懸賞に応募した。このころは炳卿というペンネーム。このほか、不擬不慧主人、冷眼子、落人後子炳卿、潜夫、黒頭尊者などを用い、二十五年(二十六歳)はじめて湖南鷗侶というのが活字になった。

 郷里の十和田湖にちなむものであろうが、青江舜二郎は、父の号が「十湾」であり、その親近感から「十湾」と同義の「湖南」を号にしたのではないか、という。

 大同新報をへて三河新聞にはいった。最大の魅力は月給三十円で、すでにこのころ「いい本を手に入れるということはほとんどマニアに近く、しかも一方、親身になって他人のめんどうを見ることもやめない」。三河新聞は三月でやめ、三宅雪嶺主宰の『日本人』にはいり高橋健三に認められてその秘書となった。高橋は官報局長をやめて大阪にうつり、大阪朝日新聞の客員となった。湖南も同行して大阪朝日記者となり、翌年高橋が松隈内閣の書記官長に就任したので朝日をやめて上京、この引きあげのとき、すでに蔵書は一千部に達していた。このあと、台湾日報主事、万朝報論説記者となる。ひるごろ人力車で出社し、二時間ばかりで帰宅すると、二階にこもる。夕食に下りてきてもほとんどモノをいわず、すむとすぐ二階にもどって夜明けまで読書。起きるのは十時ごろ、という生活で、蔵書は三千部に達していた。

 三十四歳のとき万朝報をやめ、大阪朝日新聞社に再入社。四十歳までつとめ、翌年京都帝国大学文学部講師、「東洋史講座」を担当、四十三歳で教授。この京都時代に蔵書は五万部にふくれた。家中いたるところに本、本。庭に大きな穴がいくつも掘られが、これは火事のとき本を助けるためである。渉猟範囲もひろく、木村泰治は犬に関するあらゆるシナの文献を読み「犬の文献では朝野群戴にまさるものはないと思います。この本は上野図書館にありませんといったところ「いやもっといいのがある。それは『国語(書名)だ』と即座にいわれて、とてもかなわないとおもった。あれだけの蔵書をはたしてみんな読んだろうかと多くの人が疑問にした。あるひとにたづねられた湖南氏は「序結はていねい、目次はななめ、本文指でなでるだけ」と、笑いながらドドイツ調で答えた。

 徳富蘇峰が訪ねてくるというので、なるべく彼がよろこびそうな本を一室にあつめておいた。ところが、さすがに蘇峰はシナの典籍にくわしく、宋版『史記』十四冊、『宋本毛詩正義』十七冊、唐の写本『説文』一巻の三つを見ただけで大満悦、他の本は見ないで帰った。

 湖南は三十歳のとき、十七歳の田口郁子と結婚した。小柄で、色白で、まる顔の肉感的な美人で、初対面で参ったらしい。郁子を女手ひとつで育てた女丈夫の未亡人は、湖南の家によく泊まりに来たが、彼はこの義母もニガ手であった。ムッツリとして終日書斎にこもっていたのは、小学生時代と同様、"悲しき逃避"の一面もあったのである。

 近くに同県人の松田家があり、未亡人はそこでよばれては酔いつぶれた。そのつど、松田家に下宿している京大工学部学生石田熊吉は、彼女をおぶって湖南宅へ運んだ。そのせいか、石田青年はつくづく酒はこんなふうにのむべきでないと身にしみて感じ、のちせがれの博英(現代議士)には、十七、八歳ごろから、どんなにのんでもみだれないように実地鍛錬を行ったという。湖南は生涯酒をたしまなかったが、それは多分に心理的なもので、継母と義母の酔態に嫌悪感をもったためらしい。

 大正十五年、定年で京都大学をやめ、翌年瓶原村の恭仁(くに)山荘にうつる。このころは学者としてよりも、蔵書家、書家、書画鑑定家として有名で、加茂駅の三人の人力車夫は、湖南まいりの客のおかげで生活できた。

 ところで、ここで師事した門弟たちは、一つの珍風景を目撃している。

 彼はいつも夫人といっしょに風呂に入った。それほど熱くない湯で、出たりはいったり、ちゃぶちゃぶの音の合間には笑い声を立てたりして、二時間ぐらいかかる。入浴の途中、何かで夫人が出てきて書斎を横切ったりするようなときでも、腰をかがめたり、タオルでかくしたりせず、まことに無邪気なありのままの姿。白くふっくりとつややかで、五十の女性とはおもわれない。そこであわてて目を伏せる弟子たちの、よこしまな心がしきりに恥じられるような天真爛漫さであった。「湖南は恐らく、解放された青春を、そしてセックスのうつくしさを、瓶原ではじめて体験したのではなかったか」。(青江、前掲書)

 「本ばかり読んでいて、いつこどもをつくるのだろう?」とカゲ口をたたかれていた。

 ところがどうして、長男乾吉、次男耕次郎、長女百合子、次女ヒナ子、三男戊申、四男茂彦、五男夏五、三女早苗(早世)四女祥子と、常人以上の子宝にめぐまれていたのであるから、まことにおめでたい。

※黒崎記:よく万巻の書を読むなどというが、そんなことが人間にできるはずははない。人は一年に一万ページの本を読めば、それでひとかどの人物になれるはずだ。一万ページと言えばびっくりするかもしれないが、一日わずか二十八ページずつ読んでいけばいいのだ。と、草柳大蔵氏は書いている。

 毎日読むには相当の覚悟しなければならない。

 森 信三先生は〈一日読まざれば一日くらわず〉と書かれている。

平成二十年四月一日

追加:貝原益軒『養生訓』(岩波文庫)をよまくてはならくなり、その本を探すこと2日。2日目にフト2階の本棚にあるのではと思い、そこに見つけることが出来た。

平成二十一年十月二十一日


03余技の世界


 余技の世界小島直記『伝記にみる 風貌姿勢』(竹井出版) P.91~96 より

 柳田柳叟、小倉簡齊、江口香邨(こうそん)というなじみがうすいとおもわれるならば、それは雅号のせいだろう。柳叟柳田 国男は農商務省にはいり、貴族院書記官長をやめたあと、朝日新聞客員などをしながら「日本民俗学」を創建した。柳叟は俳号である。

 簡齊小倉正恒は、山口県参事官をやめて住友にはいり、総理事をへて第二次近衛内閣国務大臣、第三次近衛内閣大蔵大臣、南京国民政府経済最高顧問をした。漢学にかけては財界最高、川田順は「若きらよ聞きておどろけ先生は郭沫若を友としたまふ」とよみ、貝塚茂樹は「中国をはじめアジア諸国と文化的な親縁関係を維持し、理解を深めねばならないといい、慨然として、郭沫若旧蔵書をもとに『アジア文庫』を創設された簡齊先生の信念ははるかに時流を抜いていた。われわれは実業界における最後の漢詩人にして最上の漢学の理解者を失って愛惜にたえない」(『日本と日本人』)と書いた。『小倉正恒談叢』一巻が残っている。

 香邨江口定條は、東京高商で教鞭をとったあと第百十九国立銀行にはいり、三菱に転じ、総理事をへて満鉄副総裁。満州事変、そしてその直後に上海事件がおこると「これはナポレオンのモスコーだ。とてもものにならん」といって辞職した。このあと沼津の香貴山下の別荘で、とくに「万巻の書を蒐めて好書に目をさらし」「≪平生愛する所青山故人名草奇書≫という好語が剣掃にあるが、翁の共鳴禁ぜぬもの」(安岡正篤『東洋的志学』)で、悠々自適の晩年を送った。

 すなわち、三人とも読書を余技としたひと、わが敬愛の理由は第一にここにある。ところが、柳田国男の場合だけ「余技」は変じて「本技」となった。その「民族学者に転進した」(長谷川如是閑)いきさつ、事実の奥にあるものを諸家のことばによって探ってみたい。「先生のような頭のもち主と先生ような境遇がなければ、こういう学問と趣味が完成されなかったであろう」(西脇順三郎)。その〔頭〕の内容に絶倫の記憶力がある。「たった一度しか訪れない土地の事情を、手にとるように話される」(村治夫)。「何百というそうした人がいたろうものを、名刺を一見したばかりで、ずばりその人を名ざされた」。(奈良環之助)

 加えて抜群の努力家であった。「先生の読書は、どんな本でも一頁から全部読むという方法だった」(宮良当壮)。「何十巻もある大日本資料などみておられたが二日に三、四冊読んで抄出されるすばらしさ、その本を拝見するとその本はすでに読破されていて、どの頁にも記号や紙が貼られているではないか。それをまた読まれ、抄出される」(大月松二)。 

 「私がなにより驚いたのは、その本のはしがきから索引まで、二二三頁のその一頁残さず、赤インキで、――とか、?とか△とかVのしるしがついていたことだった」(富本一枝)。「一番敬服したのは、その一刻もおろそかにしない研究態度だった。成城の家が新築されたのは昭和二年の夏の終わりだった。国男氏が夫人に向って、≪ぐずぐずしていては勉強ができない。ぼくだけ独り先へ引越すよ≫といわれているのを傍できいて私は一寸びっくりした。その言葉通り、氏は家族達より五、六ケ月早く引越された」(飯島小平)。「日本中で足跡を印しない"村"は五つくらいだという"神話"を先輩から聞かされた〕」(荒垣秀雄)。 

 これらに、空想力と情感が働いた。「餠が丸いのは、心臓の形に似せてつくったのではないか、という如き大胆な仮説をたてられる、奔放な想像力の躍動が、その文章に華やかさを添えているのだと思う」(白井浩司)。「≪雪国の春≫のなかに、どこか東北地方の浜で、旅人が、村の女たちに話しかけてからかわれる情景の出てくる話がある。≪清光館哀史≫というので、月かげも、女たちのふくんだような笑い声も、津波なぞの自然の荒さも、貧しいハタゴヤの没落も、よその部屋でやっている蓄音機をきくようなやさしさでひびいていた」(中野重治)。「氏が民俗学の形で大成した仕事の背後には、天地の広大と、人間の生命の脆さを対比した詩人の憂鬱が横たわっているのではないか」(中村光夫)。この稟質の上に、確固とした問題意識が生れた。田山花袋、国木田独歩等、新進作家とグループをつくり「青年時代文学者となる状態から発足させられた。しかし先生が文壇的文学者になられなかったのは、当然だったと思う」(保田与重郎)。エリート官僚の出世コースを自ら外れ、余技を本技としたのもおなじ理由である。明治三十三年二十六歳のとき、東大法学部を出て農商務省にはいった。「官僚の道を農商務省にえらんだというのも当時としては変わり種であって、学究的な関心があったことを示している。役人といえば内務官僚というのが常道であった時代である」(中村哲)。ご本人は「飢饉といえば、私自身もその惨事にあった経験がある。その経験が、私を民俗学の研究に導いた一つの理由ともいえるのであって、飢饉を絶滅しなければならないという気持が、私をこの学問にかり立て、かつ農商務省にはいる動機にもなったのである」(『故郷七十年』)と書いている。

 「貴族院書記官長を徳川さんと喧嘩をしてやめたりした挿話を、故伊沢多喜男さんからうかがったこともあった」(飯島衛)。「上役というのは徳川第十六代将軍(徳川家達)といわれた人で貴族院議長であった。その上役が大まかに鞄持ちを命じたので≪自分は柳田国男である≫という誇りをもって鞄を持つことを断って辞職した」(井伏鱒二)。わが国には「民俗学」ということばすらないという状況の下で孤軍奮闘がはじまる。「学問は誰のため何のためにするのか……日本の同胞、一般常民のためにするのだという心に徹していられた」(和歌森太郎)。その精進は、すぐれた若者たちの心に灯をともした。「当時私は落語にとりつかれていて、よく四谷のきよし亭に小勝をききに出かけたが、その帰り途に、道路から一つ空地を隔てた向うに先生の書斎の電灯がついていて、その電灯の下に御勉強中の先生の頭が浮かぶように、窓越しに見えているのを、何か気がとがめる思いをして眺めながら通り過ぎた〕(池上隆祐)。「先生の書斎はまだ明りがついていて……いつものように、窓ごしに先生の横向きの姿が見えていたので、言葉は悪いが≪いるな≫と思った。この≪いるな≫というのは自分も勉強をしなければならないという意味と結びついていた」(中村哲)。 

 「大正十年一月は此為にも永く記念せられる」(『妹の力』の「此為」は、位階勲等でも別荘新築でもなく、沖縄にわたって「オナリ」ということばが「姉妹」を意味することを知ったからであった。ここにこの人の真骨頂、そして「余技」が「本技」にならざるを得なかった理由があるようだ。

 昭和三十七年八月八日、壮大な生涯に幕がおりた。米寿祝いの三月後のことであった。 

2022.02.22記す。


04 うそ


 小島直記著『伝記にみる 風貌姿勢』(竹井出版)、「うの章 うそ」 P.145~150

 自伝の傑作に川田順の『住友回想記』をあげると、異論が出るかもしれない。「毎回おもしろく読んだ。大財閥の気風とか品格とかいったものが朧げながら拙者達にもわかった心持がする。ただ一つ物足らぬのは、筆者自身の影が薄い。ひどく遠慮しているように思われる。世間普通の回想録の類は、回想者自身の手柄話やしくじり話で埋まっているが、貴君の文章にはしくじりも出なければ、手柄も出て来ない。偽らざる記には遠い哉(かな」という批評が筆者にとどいたそうだ。『住友回想記』である以上、明治四十年に入社し、昭和四十一年に退社するまでの三十年間が中心になって、そのほかのことがなくても文句はいえない。そこでたとえば、巻末「著者略歴」の中の「二十四年三月、鈴鹿俊子と結婚して東海道国府津(こうづ)に仮寓す」のこともわからないことになる。

  樫(かし)の実のひとり者にて終らむと思ヘるときに君現われぬ

  吾が髪の白きに恥じるいとまなし溺るるばかり愛(かな)しきものを

  橋の上に夜深き月に照らされて二人居りしかば事あらはれき

  押し黙りてわれは坐りぬこの恋を遂ぐるつもりかと友のおどろく

  相触れて帰りきたりし日のまひる天の怒りの春雷ふるふ

  しらたまの君が肌はも月光(つきかげ)のしみとほりて今宵冷たき

  わが夢は現(うつつ)となりてさびしかり田居のすみかに枕を並ぶ

  わが恋を映画にするといふうわさ耳に痛けどせむすべなくも

  吾ことを書きし直哉の小説を読みけむ友のわれには言はぬ

 川田順の生涯でこの恋のことを抜けば、自伝としては不完全ということを否定はできない。しかし、、重要部分の欠如の例には『高橋是清自伝』がある。七九三ぺージにおよぶこの本の末尾は「明治三十九年一月二十三日サンフランシスコ出帆のサイベリア丸にて帰朝することに決定した」であるが、彼にはなお三十年余の後半生があり、政治家としての歩みはこれからである。そういう重要部分の欠如があってなお、『是清伝』が傑作であることを、読まれた人ならば否定はできないであろう。川田順の場合も、ほぼ同様のことがいえるとおもう。この本の特徴、美点、魅力の第一は「人物万華鏡」の面にある。それも、登場人物の豊富多彩というだけでなく、肉眼、詩情、士魂、ヒューマニティによってあざやかにとらえられたイキのよさにある。

 順序不同にこれをあげれば、たとえば大正十年、個人経営の住友総本店が住友合資会社となったとき、職制人事の異動で「一ケタも二ケタも地位をおとされた」川田は、総理事鈴木馬左也に談判しようとおもった。ところがクビを覚悟せねばならず、住友をやめても百日ばかり食う用意をするため、大阪毎日新聞学芸部長薄田泣菫を訪ねた。

 「急に住友をやめることになったので、さしあたり生活にこまるんだが、大毎の夕刊に小説を書かせてくれないか?」

 「歌人をやめて、小説家かね。何を書くつもりだ?」

 「サラリーマンの劫運、という題で、自分の体験を洗いざらい書く」

 「何回ぐらいつづく?」

 「いくらでもつづくが、ご迷惑だろうから、五十回ばかり書かせてもらいたい」

 泣菫はしばらく黙っていたが、やがて涼しい眼を異様に光らせて、

 「よろしい。引き受けた。住友なんかやめて小説家になりたまえ」

 対話まじりに加えて、この「涼しい眼を異様に光らせて」が泣菫を活写している。

 鈴木馬左也は「わしには詩がわからない」といっていたが、あるとき「柿本人麻呂の名歌というものを少々いってくらたまえ」ということだったので、暗記していた五、六首を川田がいうと「人麻呂はヘルシーだなァ」と感嘆した。「人麻呂を《健康的》と感じた鈴木は、なかなかもって隅におけない」という一行は、凡百の鈴木論が及ばない点をついている。

 小汀利得も出てくる。昭和七年春、満鉄の招宴で小汀、川田は隣り合った。川田はビールばかりのんで料理に手をつけぬ。

 「君は一向食べないですな」

 「ビールは空腹に限ります。ものを食べると美酒お味が下がりますよ」

 「じゃ君のお膳のものも僕が頂戴してよろしいですか?」

 「さあ、どうぞ、失礼ですが……」

 小汀は、焼魚も吸物もさっさと自分の膳にうつして二人分を平らげた。「それがきわめて素直なので、いささかも卑しさをあたえなかった。うれしい人もあるものだ。私は愉快になった」。戦時中、大政翼賛会の席で、現役軍人が、しきりに「防空服を着用して」としゃべった。つぎに起ちあがった小汀は、「防空服などというものはあり得ない。雨を防ぐ防水服ならわかるが、天から降ってくる爆弾を着物でよけられるものか。私は防空服など断じて着用しない」かんかんがくがく。議長が「失言取消」の要求をしても、応じなかった。

 「小汀が当今流行のオポチュニストでないことを、私は珍として敬愛する」。

 引用していけば、こういう例は沢山あって紙数がつきる。ただ一ヵ所、トゲのようにつきささって、違和感をさそうところがある。シーメンス事件の主役海軍中将松本和(やわら)について「法律上の罪人となり、失脚した。けれども、彼は立派な紳士で、¥賄賂をとるような人間ではないことを、世間の一部では確信していた。……不幸にも下獄し、以来世間から忘れられて寂しく他界した」という箇所だ。「世間の一部」という表現は明確さを欠くが、文章全体の同情調から推断すれば川田自身もその一部の人であったといえるだろう。だが、もしこの通りだと擦れbあ、シーメンス事件もフレーム・アップ(事件を 捏造 ねつぞう したり、人に無実の罪を着せたりすること。政治的反対者を孤立させ、弾圧・攻撃する口実とするために用いられる。黒崎記)だったことになる。松本に懲役三年をいいわたした軍法会議の判決文は、「東京府豊多摩郡和田堀の内村の地所家屋を購買したとして罰金方を依頼」「同所にある地所を買増したとして罰金方を依頼」「大久保町ににおける某家屋敷を買求めたとして調金方を依頼」「(松尾は松本を訪ねて、自分名義で自分名義で銀行預金をしたことをつげ)計算はこれにて結末をつげたるを以て該全員は相当処分ありたりしと陳述したるに被告(松本)は……全員預入行為を追認してこれを収受」等々の犯罪事実を列挙するが、こrせは全部ウソであった、ということになる。

 これがウソでなかった以上、川田のこの文章がウソになるわけだが、問題はそういう形式的結論でなく、これを書いた川田の心理のヒダである。川田にどのような反証があって「立派な紳士」「賄賂をとるような人間ではない」「不幸にも下獄」と書いたのか。松本に味方する事情を、独特の肉眼、詩情、士魂、ヒューマニティでくわしく書いてもらいたかった。

20203.06.25 記す。


05 小野梓


 小島直記著『伝記にみる 風貌姿勢』(竹井出版)、「おの章 小野梓」 P.163~168

 改進党創立、東京専門学校(今日の早大)創立が大隈重信の生涯における一代業績であることはいうまでもないことだが、それがすべて小野(あずさ)という稀有の才能によっていたことも周知のことである。その小野については西村真次が伝記を書き、昭和十年富山房から出版された。西村は、富山房社長坂本嘉治馬から、「血を吐きながら学校で講義したことや、(うめ)きながら病床で筆をとったことや、知己、友人、故旧に情の厚かったことや、学問のためには一命も惜しまぬということやを物語られたときには、私は感動して双頬の紅くなるのを覚えた」(序文)という。

 こういう人間的敬愛棺、憧憬のおもいを強くした上で、十分な資料蒐集、調査、研究をして書いたおいうから、出来ばえがよかったのは当然であろう。

 いろいろと面白い話がある。「七、八歳になっても学業が進まず、『唐詩選』の五言古詩の首章『中原還逐鹿』とう一篇をおぼえるのに三ヵ月を要し、『大学』一巻の素読にニヵ年を要した」ことは、三歳にしてギリシャ語をおぼえたJ・S・ミルの神童ぶりを逆連想させる。この凡才が『国憲汎論』のような独創的な本をかいたのであるから、世のオヤジたるもの、セガレの凡才を早々となげく必要はないのかもしれぬ。

 明治二年(十七歳)「自ら士挌を脱して平人の籍につく」もおもしろい。「今どき平人でさえ士挌になりたがるのに、お前はわざわざ帯刀をぬきすてて平人になる。まったく心得ちがいだ」とその短気をいましめられたが「そのときもはや小野の心の中には、士挌などに恋々たる伝統的社会観が消え失せて、自由闊達なな実力的社会観が醗酵しつつあったものである。彼の頭脳にはもはや世界的な思想が芽生えつつあった」。

 西村の小野伝には書かれていないが、高野善一によれば、小野はこの翌年(十八歳)上海で『救民論』を書いた。その中に「宇内(うだい)合衆政府の創設ということをいっているそうだ(高野『小野梓と現代』)。士挌を脱したというのはここにつながる思想的事件で、小野が時流をぬく独創的思想家であったことがよくわかる。その思想家が、東京専門学校に「いつも人力車の中でパンをかじりながら書見して登校した」とうのは好ましい。講義が佳境に入ると、思わず学生が「ヒヤヒヤ」と絶叫して叱られ、勤王と立憲政治を結びつけて論断したとき「学生も泣き、先生も泣く」話は、今日の師弟関係と対比して余韻が深い。

 ただ、西村の記述、考え方に、どうしても承服できないところがある。数え年三十五歳で死んだ小野の生涯を「準備」と「活動」の二時代にわけ、相互比較してのアンバランスに特別の意味をつけていることだ。

「準備時代」は「少年期」と「遊学期」にわけている。嘉永五年二月、土佐宿毛に生まれ、慶応四年七月東北征討に従軍するまでの十七年が「少年期」。「遊学期」は、明治二年昌平校に入り、三年清国に、四年米国に、五年英国に留学し、七年帰国、九年八月任官するまでの足かけ七年間である。「活動時代」は「在官」「在野」の二期にわける。九年司法少丞に任ぜられ、十四年会計検査院一等検査官を辞任するまでの足かけ六年間が「在官期」。「在野期」は、十五年改進党と東京専門学校の創立に参画、十六年東洋館開設、十九年一月死亡するまでの五年間で「在官期」「在野期」を会わせた「活動時代」は十一年となる。

「すなわち短い三十五年の生涯の中、二十四年を準備に費しわずか十一年間働いて此世を去ったので、活動は準備の二分の一弱である」。このことを強調するため、西村は各期のパーセ゚ンティジを出している。少年期49,遊学期20,合せて準備期69,在官期17,在野期14,合せて活動時代31。

 また西村は、小野に類似する例として、馬場辰猪、尾崎紅葉、高山樗牛など早死した人をあげる。つまり、準備時代と活動時代のアンバランスの意味=前者が長く、後者が短い人ほど、その仕事の質量は強くかつ深いことを例証しようとしているのである。

 だが筆者は、この発想法に疑問をもつ。たとえば、西村式比率法を高橋是清に適用すればどうなるか。高橋には八十三年(数え)の生涯があった。

 安政元年に生まれ、横浜へ洋学修業に行く前の年(文久三年)までを「少年期」とすれば、これが十年。元治元年横浜行。慶應三年渡米、オークランドで奴隷労働をしながら勉強。明治元年帰国。二年一月大学南校に入り、三月同校教官三等手伝に任命されるまでを「遊学期」とすれば、これがあしかけ六年。すなわち「準備時代」は、合計十六年となる。一方「在官」「在野」の時代は、出入り複雑でめんどうであるから「活動時代」ということで一括すると、昭和十一年二・二六事件の凶弾でたおれるまでの六十七年ということになる。

 西村式に百分比になおせば「準備19対活動81」――小野の場合とまったく逆であるが、それでは高橋の仕事は質量的でなかったというわけであろうか。

 人の生涯を、準備と活動の二時代にわけてみることは、必ずしもナンセンスとはおもわない。しかしその年数の単純比率を出し「準備時代が活動時代よりも大であれば、この数字がその人間の思想及び事業の質量的強さ(ゝゝ)及び深さ(ゝゝ)を象徴」し、反対の場合には、当然の帰結として「その人間の思想及び事業の弱さ(ゝゝ)及び浅さ(ゝゝ)を象徴」しているとすることに、どのような根拠も意味もない。西村が学問的仮装のもとにもったいぶっていえばいうほど、それは滑稽さをますだけだ。

 もしも「長短」にこだわるとすれば、小野の便所がながかった、という逸話はどうか。小野は毎朝、一時間あまりも便所に入っていた。このことについて西村は「一時間ぐらい入っていて、そうしてその日のすべてのことについて研究して順序を立てる。便所の中でその日の仕事が出来上がってしまう。それによって活動されるという。じつに物が几帳面で、勉強家で、働く精力の強いということについて我々どもは始終おどろいておった」と、通り一編のことしかいっていない。伝記的事実に便所の長さがいわれているのは、山路愛山と小野梓だけである。いわばそこに人間らしさにせまる手がかりがある。そのフィーリングのもとに「糸竹の声なきや人これを弾ずればすなわちその音を放ち、金石の音なき、人これを撃てばすなわちその声を発す」の名文句も、便所における長考の所産だったという推量はできなかったものか。比率法では「クソにもならない」。

2323.06.22 記す。


06益田孝


 小島直記著『伝記にみる 風貌姿勢』(竹井出版)、「まの章 益田孝」 P.182~186

 三井物産の創始者益田孝は、嘉永元年(一八四八)十月佐渡に生まれた。昭和十三年(一九三八)十二月に死んだ。満九十年二月におよぶその生涯は、大きくわけて慶應末年での幕臣時代、大正二年までの三井時代、それ以後の隠居時代の三つとなるだろうが、それぞれに日本史の重要局面と接触があり、その伝記は実に貴重な内容をもっている。益田自身そのことについてどの程度まで自意識をもっていたかは明確でないが、自らの手で書き残そうという意欲は見せたようである。

 長井実の記述によれば、明治八年、九年と日付をいれた「備忘録」があったそうだ。また大正十二年関東大震災のあと『乏敷(とぼしき)記憶』という手帳を書きかけたらしい。このほうは、「大震災の衝撃、すなわち人間というものはいつどこで死ねかも知れないという人生観に促され」で発意しものだったという。しかし、未完におわった。かりに、完成したとしても、内容的には疑問だっただろう。というのは、益田の文章にクセがあったからだ。長井実は、「翁は何事にも急所を見、結論を考える人であった。実務家にはこれがよいのであろう。ところがこの流儀が文章にも現れた。私はよく翁にいうたのだが、たとえば、江戸の日本橋を立ったかと思うとすぐ京の三条大橋についてしまっている。その間に箱根もなければ大井川もない」と書いている。益田自身の筆になる自伝が完成していたとすれば、まことに性急な、ディテールにとぼしいものだったかもわからない。

 ところが、文章にくらべると、「話はじつに上手であった」。長井はそこに注目した。

 大正十一年――といえば、益田は七十四歳であったが、その年の十二月下旬、どんよりしたある日の午前、小田原の益田別荘(掃雲台)をいっしょに車で出て、電車の箱根口停留所へさしかかろうとするとき、長井は、「あなたのお話を私の雑誌(月刊『衛生』)にかきたいとおもいますが、どうですか?」とたずね、益田の同意を得た。

 こうして大正十二年一月から昭和二年十二月にかけて『衛生』に「掃雲台より」と題する益田の談話筆記が連載された。この連載記事の大部分と、別の活字化されなかった談話とをあつめて昭和十四年六月に刊行されたのが『自序益田孝翁伝』である。

 題名が少々自家撞着するようだが、長井によればこうだ――この話は、益田が自叙伝をつくる意思をもって語ったものではない。その意思をもって語った談話の筆記であれば「益田孝自伝」とすればよいが、そうではない。また、長井が益田の談話を資料に使って書いたものであれば「益田孝翁伝」でよいが、すべてが益田の談話そのものだから、それではいけない。長い間ずいぶん苦心した末、ある日ふと、その上へ「自叙」と説明を加えたらよいと気づいて、こういうタイトルにした、というものである。

 そういういきさつでできた本であるため、不十分なところがある。長井も「翁の伝記としてはいわゆる素描である。記すべき事蹟にして語られていないことが少なくないし、また語られてはいるが、すこぶる物足りなく感ぜられることも少なくない」と認めている。

 ところが、むしろそういうことのために、おのずと流露するものがある。たとえば武藤山路が「自伝」を書くと構えてむしろとり逃がしたもの、語ろうとして語り得なかった奥深いものが、この自伝では、構えなかったため、じつにさりげなく、淡々と語りつくされるという皮肉なことになった。益田自伝の特徴、おもしろさは第一にここにあるようだ。

 たとえば、人間はその「出処進退」が大切だといわれる。ことに「退」こそは公人としてのポイントで、人間評価のわかれ道もここにあるという。益田自伝には「三井を退く」という一章があって、その事実が語られる。

 「私は團(琢磨)を後任に推薦して、大正二年(十二月三十一日、六十五歳)に三井を辞したが、辞意は明治四十年(五十九歳)に表した。だんだん世の中が変わって来ました、吾々のような力の者ではいけませんというた」。

 「私が團を後任者として推薦しようという考えはよほど前からのことで、三池はもう誰がやってもやれると見たから、明治二十七年に自分が鉱山会社の専務理事を辞して、團をその後へすえ、三池から東京へ引張ってきた。團はこの時まで、ずっと三池におったから、東京の人達は團という人材のあることを知らなかった。私は團を自分の後任者として推薦する考えだということを團に話さなかったが、高保その他一二の同族には話がしてあった。」「明治四十三年に今の社長(三井八郎右衛門髙棟(たかみね)が洋行するとき、旅行というものが一番親しみを深くするものであるから、私は團を随行させた。すると社長は帰ってきて、あれなら誰よりも一番よいといわれた。これで私も安心した」。

 「私は学閥というものを打壊さなくてはいけないという意見であった。朝吹(英二)には慶應義塾という関係があるが、團はアメリカ育ちで、学閥ということは少しもない。また三井の事業がだんだん技術上の知識を必要とするようになっている。それからまた、時勢も変って、今後は欧米の事情をよく知っている者でなくてはいけない。こういう考えであったが、朝吹はよく私の腹を知っておった」。

 以上は、この一章からの断片的抜き書きであるが、「退」の実情を語るには「簡にして要」を得ている。明治二十七年といえば益田がまだ四十六歳。もっとも油がのっていたそのときに、すでに後継者のことを考え、「退」にそなえていたのである。團はこのとき三十六歳、しかも三池炭礦払い下げのときスカウトされてから六年しかたっていなかった。その若い「新参者」を後継者に選び、それを三井同族に承知させたということは、私情や年功序列によらぬ実力主義を、三井という大組織体の人事方針の中核にしたということである、しかもそのリアルな信念を貫徹するための前提として、三井の現状と将来に対するくもりのない判断があった。そこからおのずと後継者のあるべき姿も浮び上ってくる。團を見出したことは益田に「人を見る明」があった証拠だが、それを正しとするのは独断やうぬぼれでなく、現状および未来への客観的分析に対する確信であった。外遊に同行させて、相互の人間的親愛感がおきるのを期待したのも、人情の機微を知る苦労人ならではの配慮であり、かつ組織の中心には人間の信頼が必要であるという経営理念のせいであった。伊庭貞剛は、「人の仕事のうちで一番大切なことは、後継者を得ることと、そうして仕事を引きつぐ時期を選ぶことである。これがあらゆる仕事中の大仕事であるとおもう」といった。そういう大事業をいかにしてやったか、並々ならぬ深謀遠慮を、手柄話ではなく、淡々と語りつくすところに滋味がある。

 昭和七年、血盟団のテロに倒れた團の後任に、池田成彬を推したのは益田である。それは決して年寄りの冷や水ではなかった。益田は引退後二十年かかって「退」の終章を書き終えたのであった。ただ、遺憾ながら、このへんの記述は自伝には見出せない。

※参考:小島直記著『三井物産初代社長』(中公文庫)あり。(黒崎記)

2019.08.14


07戦時宰相論


 小島直記著『伝記にみる 風貌姿勢』(竹井出版)、「せの章 戦時宰相論」 P.277~282

 「文章」はおそろしい。それは、いわゆる「内幕もの」「バクロ記事」「すっぱぬき」というものがプライバシーをおかすから、というだけではないだろう。

 第一に、「文は人なり」といわれるように、どうごまかしても筆者の人間をかくしきれないからだである。それは、書かれた内容とともに、その文章がたどった運動を通じて、後世のものにいつわらぬ真実をつたえてくれる。たとえば、中野正剛の『戦時宰相論』がその生きた例である。この文章が『朝日新聞』にのっていたときの印象は、二十七年たった今でものこっている。中野の写真がはいって「かこみ」になっていた。『戦時宰相論――誠忠・絶対に強かれ』というタイトルであった。

 緒方竹虎によれば、「中野君は当時のことを語って、君の新聞に頼まれたので考えて見たが、引き受けて三日間はどうしても構想が立たない。四日目の朝、四時頃目が覚めたので、今日もし構想が立たなければ、不面目ではあるが新聞の締切もあるので断る外ないと思っていると、フト諸葛孔明の前出師表を思い浮べ、誦(そら)んじて『先帝臣が謹慎を知る、故に崩ずるに臨んで臣に託するに大事を以てす』に至り、この『謹慎』だとばかり直に床を蹴って、筆を執ったところ実にすらすらと四十分にして書くことができた。一文の趣旨は『東条に謹慎を求むるものにあるのだ』と語っていた」(『人間中野正剛』)とある。

 そういういきさつで一気に書き上げられたこの文の中で、「戦時宰相たる第一の資格は、絶対に強きことである」と中野は強調している。

 「されど個人の強さは限りがある。宰相として真に強からんがためには、国民の愛国的情熱と同化し、時にこれを鼓舞し、時にこれに激励さるることが必要である」。

 当時の情況、あるいはわれわれ庶民の正直な感じとしては、宰相のみならず、下っぱの役人にいたるまで、国民を鼓舞することはあっても、同化し、激励をうけようとする心情も姿勢もなかった。そこにこの文章の何よりも強力なプロテストが感じられて、われわれの眼は新聞活字に引きつけられたのである。

 指導者のわるい例として、中野は第一次大戦におけるドイツの指導者、カイゼル、ヒンデンブルグ、ルーデンドルフをあげる。「カイゼルは個人として俊敏であった。されど各方面の戦況少しく悪化すると忽ち顔色憔悴し、何時もの颯爽たる英姿は急に消え失せた」。

 陣中の指導者としては能力のあったヒンデンブルグ、ルーデンドルフが、為政者として失敗した原因は、「国民を信頼せずして、之を拘束せんとした」からである。

 「彼等は黔首(けんしゅ)(じんみん)を愚劣にし、卑怯にし、遂に敗戦主義を醸成して、自らその犠牲となったのである」。

 日本の「非常時宰相」は、「英雄の本質を有するも、英雄の盛名を、(ほしいまま)にしてはならない。

 浅見絅斎は、その著『靖献遺言』において「非常時宰相」の典型は、「諸葛孔明」だといった。彼は虚名を求めず、英雄を気取らず、専ら君主の為に人材を推輓し、むしろ己の盛名を(いと)うて、本質的に国家の全責任をになつてゐる」。宮中向きは誰々、政治向きは誰々、前線将軍は誰々と、言を極めてその誠忠と智能とを称揚し、唯自己に就いては『先帝臣が謹慎なるを知る』と奏し、真に臣たる者の心だてを語つている」。

 彼は謹慎であるから、「私生活も清楚、廉潔である」。彼は「臣は成都に桑八百株、薄田十五頃がある。これで子孫の衣食は余饒があり、臣は在外勤務に就いていて私の調度はいりませぬ。身に必要な衣食はみな官費で頂き、別に生活の為に一尺一寸を増す必要はない。臣が死するの日、決して余財ありて陛下に背くようなことはありませぬ」といった。

 彼は英邁の資であるが、「本質に於いて何処までも正直者である」「彼の智謀は正直なる動機より発する」。

 日露戦争において、桂太郎首相は「貫禄なき首相であった」。「山縣公に頭が上がらず、井上侯に叱られ、伊藤公を憚り、そこで外交には天下の賢才小村を用ひ、出征軍に大山を頂き、連合艦隊の東郷を擁し、鬼才児玉源太郎をして文武の連絡たらしめ、傲岸なる山本権兵衛をも懼ずして閣内の重鎮とした」。「民衆の敵愾心勃発して、日比谷の焼打ちとなった時、窃かに国民に感謝して会心の笑みを漏らした」。「桂公は横着なるかに見えて、心の奥底に誠忠と謹慎とを蔵し、それがあの大幅にして剰(あま)す所なき人材動員となって現はれたのではないか」。「難局日本の名宰相は絶対に強くければならぬ。強からんがためには、誠忠に謹慎に廉潔に、而して気宇広大でなければならぬ」。

 『戦時宰相論』のポイントは上につきる。内容的にはむしろ、非常に単純であり、穏健であるとしかいいようがない。当時の悪習で、この文章は活字化される前に、事前検閲をうけた。「執筆者といい、テーマといい、検閲当局をして極度に神経を使わせたが、一字一句の削除もなしにパスした」(猪俣敬太郎『中野正剛の生涯』)。当然であった、とおもわれる。ところが、トソ機嫌で新聞の初刷りに眼を通していた東条英機は、これを読みおわると、ただちにかたわらの卓上電話をとり上げて情報局を呼びだし、『朝日』の発売禁止を命じたという(猪俣、前掲書)。

 「行文はむしろ淡々としてあるのだが、謹慎において病み、廉潔において病むところの者には、匕首(ひしゅ)(あいくち)ただちに胸に(せま)るの思いがあったのであろうと緒方が書いたとおりであろう。まさに「語るに落ちる」東条の「傲慢」「非謹慎」ぶりだった、というほかない。ところで、せっかくの発禁処分も、新聞はとうに配達ずみだったため、効果はほとんどなかった「そして発禁の報が朝日新聞に達したとき、居合わせた社員はいっせいに『万歳』を叫んで歓呼したという」。(猪俣、前掲書)。

 中野はこの年十月二十七日午前零時代々木の自宅で自刃した。葬儀委員長となった緒方は、その葬儀がさかんであれば、「中野君が東条政府に勝ったことになるのだと考えた。政府も無論それを知るが故に、あらゆる方法で会葬者を少からしめようとした」。ところが、青山斎場には、「乗物の不自由な時であったに拘らず、大臣、重臣、議会人、官吏、新聞社関係、労働者、浪人、学生等々、無慮二万人。カーキ色だけは一人もいなかった。/中野が東条に勝ったのだ」。

 中野は、そのときだけ勝ったのではない。『戦時宰相論』を書き、それが発禁処分をうけたという事実によって、二十七年後の今日、なお東条に勝ち、さらに日本の歴史がつづき、この文章が保存されるかぎり、勝ちつづけるであろう。「文章」は権力よりも強いのである。

2023.06.23 記す。