森 信三先生
森信三先生との出会


 自学自得ハガキ通信 第一部のまえがきの一部を引用します

 森信三先生との出会いは雑誌の記事でした。「九十九才の哲人、森信三氏に聞く」(『致知』60年11月号)のインタビューです。立腰、ハガキ道などに魅了されました。先生についてさらに知りたいとの思いにかられ図書館をめぐり、倉敷市立図書館で『森信三全集』(続編第一巻~第八巻)、『不尽叢書』をさがしあて誌上再会しました。

当時、私は株式会社クラレの研修所で第一線リーダーの育成を目的とした研修を担当、主体性を高める具体策を模索し教育していました。早速、『不尽叢書』を注文したところ、同年十二月、倉敷で、寺田清一様が講演の機会に私の勤務先にお立寄り下さいました。森先生をはじめご道縁の方々のお話をうかがい、先生に傾倒する端緒となりました。

 昭和六十一年二月四日 寺田様のご案内で、立花の実践人の家を訪問後、辻光文様(初対面)と同道して神戸市灘区の自宅を訪ねました。はじめてお目にかかり、心底を見透されるするどい厳しさと慈愛のこもる清話に心の共鳴するのをおぼえました。立志の日にふさわしく、ご著書を心読して、ご提唱の立腰、小自伝の作成、ハガキ道の実践を念じました。八月には、兵庫県三田市での実践人夏季研修会に初参加しました。先生は車椅子でした。終世の師とされている皆様の敬慕の情、会場にみなぎる参加者の情熱と静謐な充実感に身も心もつつまれ、先生のご講演、参加者の実践報告を拝聴しまし。

 私の実践項目
(一)「立腰教育」の実践として企業内社員研修において立腰の紹介、実践、さらに静座による筆写などをしました。状況は『実践人三五七号』に寄稿しました。私は禅寺の日曜坐禅会に参加して、坐禅・静座の工夫をしています。

参考:森信三の世界

(二)報恩録としての「自 伝」作成については、研修生の課題の一つに「自分史」を作成させました。同時に私も始めましたが、在職中は仕上げることが出来ず、約四年後、書き上げました。

(三)昭和六十二年十二月より「ハガキ通信」を始め、指導した研修生を対象に始め、その後、先輩・知人・実践人の一部の方に差し上げています。通信文が『実践人』に紹介され実践人会員の方々との交流を深めています。

                       平成八年 月

                              黒崎 昭二


森信三先生の謦咳に接す

 森信三先生との出会いは雑誌の記事でした。「九十才の哲人、森信三氏に聞く」(『致知』60年11月号)のインタビューです。立腰、ハガキ道などに魅了されました。先生についてさらに知りたいとの思いにかられ図書館をめぐり、倉敷市立図書館で『森信三全集』(続編第一巻~第八巻)、『不尽叢書』をさがしあて誌上再会しました。当時、私は株式会社クラレの研修所で第一線リーダーの育成を目的とした研修を担当、主体性を高める具体策を模索し教育していました。早速、「不尽叢書」を注文しましたところ、同年十二月、倉敷で、寺田清一様が講演の機会に私の勤務先のお立寄り下さいました。森先生をはじめご道縁の方々のお話をうかがい、先生に傾倒する端緒となりました。

 六十一年二月四に日 寺田様のご案内で、立花の実践人の家を訪問後、辻光文様と同道して神戸市灘区の自宅を訪ねました。はじめてお目にかかり、心底を見通されるするどい厳しさと慈愛のこもる清話に心の共鳴するのをおぼえました。立志の日にふさわしく、ご著書を心読して、ご提唱の立腰、小自伝の作成、ハガキ道の実践を念じました。八月には、兵庫県三田市での実践人夏季研修会に初参加しました。先生は車椅子でした。終生の師とされている皆様の敬慕の情、会場にみなぎる参加者の情熱と静謐な充実感に身も心もつつまれ、先生のご講演、参加者の実践報告を拝聴しました。

 私の実践項目

(一)「立腰教育」の実践として企業内社員研修において立腰の紹介、実施、さらに静坐にによる筆写などをしました。状況は『実践人三五七号』に寄稿しました。現在、私は禅寺の日曜坐禅会に参加して、坐禅・静坐の工夫をしています。

(二)報恩録としての「自伝」作成については、研修生の課題の一つに「自分史」を作成させました。同時に私も始めましたが、在職中は仕上げることが出来ず、約四年半後、書きあげました。

(三)「ハガキ通信」として、指導した研修生を対象に始め、その後、先輩・知人・実践人の一部の方に差し上げています。通信文が『実践人』に紹介され実践人会員の方々との交流を深めています。

 いま、三冊の本しか読むことが許されないとしたら何をえらぶかと自問しますと、一冊は先生の『一日一語』にします。次に愛読している古典から迷いに迷って二つを選択します。

*契 縁 録(第三集) 平成四年五月十日発行 発行 「契 縁 録」刊行会 発行所 〒660 尼崎市西立花町二丁目十九*八 社団法人「実践人の家」内による。
*辻光文さん、村川美鈴さんたちの文章も見られる。
*岡山理大付属高校に勤務していたとき。

2016.10.31


 辻 光文 『いのちのかけら』――生きているだけではいけませんか――

 森信三先生との邂逅

 私は
 今日という日を
 やはり生涯に
 忘れ得ぬひとして
 覚えているだろう

 一九八六年二月四日
 丁途、立春の日であった
 尼崎、立花町の
 「実践人の家」で
 寺田清一氏をはじめて訪ね
 すでに、十年の知己のように
 教わり、語りて話尽きぬものあり、

 岡山のクラレ研修所々長の
 黒崎昭二も
 偶々同日、同伴

 午後三時、神戸、灘に
 ご静養中である
 森信三先生宅へ
 ご案内頂く

 森先生 九一歳という
 正に 好々爺の風貌
 今日の日を待って下さっていた由

 開口 一番 先生は、確か
 「これは神天の時というのだネ」
 と仰言ったと記憶している
 正に、すべてがこれ
 宇宙続きの真言

 時に 先客あり
 阪大公衆衛生学の講師という
 丸山照雄先生の
 「公衆衛生と森鴎外」なる
 森先生へ御持参の御著書に少しふれると
 「じゃ、自己紹介をしよう」と
 自らまず
 「エー、わたしは森といいます」
 「愛知県知多半島の近く――に生まれ」
 云々と概略を端的に語られる

 なんたること 存知尽くしてお訪ねしている
 非才らの為に
 加えて水の流るる如くにも
 謙虚に淡々とまず語らるる、とは
 幾時を過ごしたのであろうか、
 一時間半程も経過していたかもしれぬ
 「少し、休憩を入れましょう」と

 今度は、お手元の
 チベットの奥地に
 今も 残るという鈴の音を
 リンリン とふる
 その清澄さヨ

 まさにユーモア溢れるばかり
 それでいて吐かれるもの
 すべて肺腑をえぐる
 真実ならざるはなし
 お疲れを気づかって

 間もなく辞することとするも
 いつまでも何かさわやかさが残る
 帰途駅近く
 一杯飲み屋ののれんをくぐり
 黒崎氏と共に
 寺田清一氏のおごりで
 湯豆腐の馳走になる

 寺田清一氏も亦
 何者なるや

 ああ灰頭土面
 入纏垂手(にゅうてんすいしゅ)の人物か
 灘の駅頭にて
 握手して別れぬ

一九九〇年二月

参考:「入纏垂手」は『十牛図』の十番目のものである。「灰頭土面」はその中にある語句である。

 知り合ってから、辻さんのお話によれば、秋田県のお寺の生まれで、わたしに「寺から出家したんですよ!」また「生前戒名」をつけてあげましょうかとも言われていました。花園大学の講師もされ、高槻市の家は自分がいなくなったら大学に寄贈するようにされていました。現在は病に冒されて通信できなくなっています。多くのことを教えてくださった辻さん

参考:辻 光文 『いのちのかけら』
――生きているだけではいけませんか――

参考:立腰教育一年を顧みて 西本岩夫
参考:私の「立腰教育入門」━西山 啓子━


  森 信 三 先 生 略 歴
明治二十九年九月二十三日  愛知県 知多半島に生まれる
大正十五年(三十一才)   京都大学哲学科卒業
              大学院に籍をおきつつ
              大阪府天王寺師範の講師
昭和十三年(四十三才)   建国大学教授
昭和二十八年(五十八才)  神戸大学教授
昭和四十年(七十才)    「森信三全集」(全二十五巻)
昭和四十二年(七十二才)  「森信三選集」(全八巻)
昭和四十六年(七十六才)  「森信三著作集」(全十巻)
昭和五十九年(八十九才)  「続森信三全集」(全八巻)
平成四年(九十六才)     ご逝去
2008.5.12,2011.3.8再読追加,2016.03.26追加。 

クリックすればTopへ返ります

クリック、ホームページへ