★習えば遠し 第1章 生活の中で学ぶ 第2章 生きる 第3章 養生ー心身 第4章 読 書 第5章 書 物
第6章 ことば 言葉 その意味は 第7章 家族・親のこころ 第8章 IT技術 第9章 第2次世界戦争 第10章 もろもろ

第2章 生きる

A Life in the Day

Day by Day in EVERY WAY, I'M GETTING BETTER AND BETTER ! by C.H.ブルックス・E.クーエ


目 次

01今日を生きる 02紙の表を下さい 03落ち葉は根に帰る 04たんき―癇癪― 05とらわれない
06「人と過去は変わらない 自分と未来は変えられる」 07自給自足の人 08人生の新参者 09さすがは校長先生:海軍中将新見政一 10二度とない人生だから
11雑草という草はない 12周梨槃特 13戯曲「青い鳥」の生き方 14トラスト・ミー 15追悼 平山郁夫さんと忠海高校
16ヒラメの二つの目は上を向いている 17人生の線 18ミレーの晩鐘 19桐の字はキリノキと呼ばれる 20澄みきって静かな心
21老いて虚しく生きない 22他はこれ吾にあらず 23永遠に生きる三つの教訓 24らしさ 25四十過ぎての人相
26禅学修業・忘れること
坐忘の必要、無我の境
27煙突を立てよう! 28良寛ー山中の沈黙行ー 291世帯数の平均人数1.98人 30雨モヨシ 晴レルモ マタヨシ
31「汝 いずこより来たりいずこへと旅せんとするか」
沢庵和尚『ふ動智』
32『一隅を照らす』 神渡良平 33「郷愁の地蔵菩薩」 34老いは病でない 35高校生の不登校
36前向き人間に共通する強力な12の原則 37噂話はしないーマイナスのみー 38生活のマナーは如何にして作られたか 39ライフライン 40安楽死提言の橋田壽賀子その胸中と覚悟を明かす
41確率五十パーセントー思うことー 42四十歳以上の人間は自分の顔に責任がある 43つり銭はとるな!


今日を生きる


▼将(おく(送る)らず迎えず、応じて蔵せず。故に能く物に勝(た)えて傷(そこな)わず。 『荘子』

▼人の事を做すは、目前に粗脱多く、徒らに来日の事を思量す。 『言志四録 107』

▼心は現在なるを要す。事未だ来らざるに邀(むか)ふ可からず。事已に往けるに、追ふ可からず。わずかに追ひわずかに邀むかふとも、便ち是放心なり。 『言志晩録 175』  
*脚注:「学問の道は他無し。其の放心を求むるのみ」とあり。 『孟子』

*放22527.21-154.2111:35心 人がその本心を放失してしまうこと。       

▼あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あすの自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その一日だけで十分である。 「山上の垂訓」

▼明日は明日の風が吹く。 朗読しているだけで胸の内に響くものがあります。

平成十六年二月八日


紙の表を下さい


 NHKラジオの深夜番組で「心の時代」で聴いた人から、「紙には裏表が必ずあるものだ。そのように多くのものは同じようなもので、表と裏があるものだ」といった、よいお話だったとのことであった。詳しい内容は聞かなかった。そこで自己流に思いました。

▼「紙の表を下さい」と言っても、この人は「どこかおかしいのでは?」と思われるに違いない。しかし私はこの話から考えて、私自身はどうも表に現れている事柄だけ見ているようだ。これはおかしいぞ、何か隠されたものがあるのではと思うことはほとんどない。正直といえば真正直、考えが浅いといわれればそのとうり、世間知らずだと笑われても仕方ないくらいである。

▼表面に現れたものだけをみるだけでなくて、その由ってきた理由を考え、思うのは、行き着くところまで考え切れないとしても価値があるのではないだろうか。泥水、その中に清浄に咲く蓮の花、これらの全体について考えてみると、花に目を奪われてそれを育てている水面を見ることはない、さらにその下に泥沼があることなど思いもよらない。さらに一つ加えれば花を育てる見えない栄養分、自然の力の凡てが調和してこそあのように美しい花が咲いている。花だけみて美しいと感じているのは「紙の表を下さい」と買い物をしているのと同じことのように思える。

▼表に見える部分と裏に隠されている何かを一体にわきまえた上で正しい判断ができるようになりたいものだ。

平成十六年四月五日、平成二十四年二月十七日:再読


落ち葉は根に帰る


   平成18年1月23日、岡山シルバー人材センター(剪定班)の方に庭木の剪定をしていただき、翌日は山茶花と椿が弱っているのは肥やしが少ないからと施肥、さらにバベ樫は虫くいされているので消毒と。作業は非常にてきぱきとしていて、家内と私は切られた葉っぱや枝木を袋詰めの手伝いをした。

 茂った樹木が選定されると庭の空間が広くなった感じでまったく庭がよみがえったようである。寒の最中、まもなく立春を迎えやがて木々も深い眠りから覚めてくる。すると、きれいに掃除したくなる。

▼毎週日曜日に坐禅会で参るお寺の庭や道が熊手や箒で掃除されていて、その櫛目が描かれている。その上を歩くと足跡が残るので、出来るだけ踏み石を歩くように心がけている。我が家の庭はせまいが同じように掃除をしてみる。櫛目の上に落ちている葉っぱもなんとなく新鮮で気持ちよさそうに感じる。役目をはたし、満足して後世のために根にかえっているのだろう。             

▼たかが庭の掃除くらいでと、思っていたが、そこに何かがあると感じる。無心に掃除していると禅寺での作務、周梨槃特の古事をおもう。

 禅寺での便所(東司)の掃除は実行されたかたがたのみの心の栄養になっているのだろう。

 昭和19年、17歳のとき入学した学校では、毎週土曜日の午後の校内の大掃除が行われていた。

 便所掃除の当番にあたることがあった。当時は普通の家庭では珍しい水洗便所であった。その大便器を雑巾で掃除させられたことを思い出す。集団生活での衛生面を配慮したものだったのだろう。今にして思うのですが、精神的な効用までには知恵が回らなかった。

余 談

▼其の一

 掃除についての若い人たちのやりかたについて私の経験を紹介します。

 会社に勤めていたとき、有名大学を卒業して入社教育期間中、所長室の掃除に来ました。彼は部屋の何もないところだけを箒で掃いて「はい!おわりました」と言う。

 見ていると四角な部屋を丸く掃いただけで、机の下などは掃除していない。

 「今まで、家で掃除をしたことがありますか?」

 「ありません、掃除をする時間があるなら、あなたは勉強しなさい!>

 家庭の躾はどうなっているのだろう。自分の勉強している部屋くらいは掃除をさせてはと感じた。

▼其の二

 会社にテニスの同好会がありました。昼休みに皆さん楽しんでいました。ところが半年たって、コートの周りに草が生えても一向に取り除こうとしませんでした。自分たちが使っているコートやその周りの掃除や整備は当然使っている人たちがやらなければと思い、「今日の昼休みにはコートの草抜きをしますと」と、会員に連絡しました。仕事の都合もあることだからメンバー全部がでてくるのは無理でしょう。はじめは少なかったが回を重ねると多くの人が参加するようになりました。会員の一人でも声を出すのを期待したものでした。

平成十八年二月二十五日


たんき―癇癪―


   私は子どものころ、短気で親や兄弟その他の人にご迷惑をかけたものである。今でも変わりないことが何度かある。

 何か矯正の方法はないものかと心がけてもいまだに、ときに持ち上がる。短気が起こると言葉遣いも荒くなるようである。したがって「口を開くときには一、二、三と数えてから」などと努めているが、それさえも忘れてしまうことがある。そこがまさに短気の特徴かもしれない。すこし長いが鈴木大拙編校『盤珪禅師語録』(岩波文庫)の冒頭の文章を引用します。

 僧問て曰、それがしは生れ附て、平生短気にござりまして、師匠もひたものいけんを致されますれども、なをりませず。私も是はあしき事じゃと存まして、なをさふといたしますれど、これが生れ附きでござりまして、直りませぬが。是は何と致しましたらば、なをりませうぞ。禪師のお示しを受けまして、このたびなをしたふ存じまする。若なをりて國本に帰りましたらば、師匠の前と申、又私一生の面目とぞんじません程に、お示しにあづかりたふ存まするといふ。

   禪師曰、そなたはおもしろいものを生まれ附(い)れたの。今も爰にたん気がござるか。あらば只今爰へおだしやれ。なをしてしんじやぅわひの。

   僧の曰、ただ今はござりませぬ。何とぞした時には、ひょとたん気が出まする。

   禪師いはく、然らばたん気は生れ附ではござらぬ。何とぞしたときの縁に依て、ひょつとそなたが出かすわひの。何とぞした時も、我でかさぬに、どこにたん気が有ものぞ。そなたが身の贔負故に、むかふのものにとりあふて、我がおもわくを立たがつて、そなたが出かして置いて、それを生まれつきといふは、なんだいを親にいひかくる大ふ孝の人といふもので御座るわひの。人々皆親のうみ附てたもつたは、佛心ひとつで、よのものはひとつもうみ附はしませぬわひの。しかるに一切迷ひは我身のひいきゆへに、我出かしてそれを生まれつきと思ふは、おろかな事で御座るわひの。我でかさぬに短気がどこにあらふぞいの。(以下略)

▼「そなたが身の贔負故に、むかふのものにとりあふて、我がおもわくを立たがつて、そなたが出かして置いて」の言葉にすべてがあらわされていると私には思えます。相手の都合などを思ひもせずに何事でも自分の思うとおりにすぐにしてくれないのが待ちきれないで自分で腹を立てて、あげくの果てには自分のまわりにあたつている。

▼短気をなおすには、自分で出来る限りのことは人に頼らぬこともその一つにならないだろうか。これが「何とぞしたときの縁に依て」を取り除く方策になるのではと。しかし自分で出来ることは非常に少ない。やはり人のお世話になることが多いのが事実である。

 ではどうすればよいか。当たり前の事であるが感謝のことば、ありがとう!!?を実行することだろう。そのこころのそこに「私は人よりも、もっと迷惑をおかけしているにもかかわらず生かされている」と自覚することであろう。

平成十九年一月二十九日、平成二十三十月十一日再読


とらわれない


 ものすごい心配ごとがあったとする。夜も眠れぬほどの......。しかし、どんな大きな心配ごとだって、われわれはいつの間にか忘れてしまうものである。時間というものは、偉大なる解決者だ。時間がたてば、たいていのことは知らぬうちにおさまっている。

 けれども、それは、心配ごとがなくなったわけではない。ただ忘れることができただけでだ。あるいは時間の遠近術で、いつのまにか意識の表面で縮小されてしまっただけである。

 それが「空」なのだ!

 いま心配ごとの最中さなかにあって、心を十年後の状態に置くことができたら・・・・・。つまり、いま、その心配ごとにとらわれてしまっている心を、うまく解放してやるのだ!十年後の立場に心を置くことができれば、心にこだわりがなくなる。心が自由になる。それが「空」なのだ! それはつまりは、心配を心配ごとのままに解決していることなんだ。ありのまま一一ということなんだ。ひろさちや『般若心経の読み方』P.207より

▼「空」についての概念は「物事にとらわれない」ことだと。私どもは人の言動により、病気にかかり、或いはさまざま事態とふれると自分でいろいろ思い、とらわれて、その思いを継続しこだわりをはなれなくなる。楽しいものであればより続くことを、苦しいことであれば速く消え去ればと思う。いづれも、とらわれているからである。無常迅速なれば十年といわず五年いや一年、さらに、極限の瞬間もとらわれないようになればそのまますべての事柄は自分のなかにたまっているだろうが、そのこだわりにとらわれていないのだから、ないのと同じことになる。有って無いことになる。私自身、煩悩無尽の者であるから、なかなか筋書きとしては理解できたとしても、そうありたいと願う日々の繰り返し・・・・・。

▼我が家の寒水仙は今年はなぜか数輪咲いていたが、梅は寒い日がつづくからか蕾みはかたく丸まっている。

平成十九年二月四日、平成二十四年二月十九日再読。


「人と過去は変えられない 自分と未来は変えられる」


 NHKTV、午後3時特集「心に響け いのちの授業」2007/08/04(土)

 たまたTVを視ていました。あらましを述べます(あくまで私の受け取りかたです)。

▼中学校保健のベテラン先生。乳がんを患っている先生の授業の取り組みでした。2回の治療後、再出勤された。(詳しくは補足を読んでください)

「人と過去は変えられない 自分と未来は変えられる」言葉に励まされての闘病生活を続けられている。

▼山田先生を支えた言葉、「人と過去は変えられない 自分と未来は変えられる」は、「他人と過去を変えようとするよりは、自分と未来を変えようとする方が易い」と自覚されたのではないでしょうか。

学校にかえられてからは、副担任として3年生のクラスを指導しながら保健の授業担当。

 その授業に「いのちの授業」を一年間取り上げられた。

▼クラスに一人の女生徒がいた。授業に出ない、同級生とも話すことはない。毎日、保健室への登校。先生が預かり世話をする。先生とその生徒の間には私共の想像できない関係が想像される。そして1年後に卒業式を迎える。その生徒は式でピアノを引きたいと申し出るまでになり、練習に励む。卒業式は無事に終わる。何が生徒をそこまで変えることができたのでしょうか。

▼先生は自分の体調を考え抜かれる。結論は再起1年にして退職して学校を去られる。山田先生は、生徒の保健指導や授業や保健室登校生を通して、学校組織や生徒、自分自身を見続けられ、先生なりの「教育の最終目的」を、得られたのではないでしょうか。

▼先生の熱意が視ていた私はテレビにくぎづけされました。
この程度の私の文章では視聴したときの感動は伝わらない。再放送をしてほしいのが実感です。

▼佐藤一斉『言志四録』の一つ「言志耋録」に

 「教えて之れを化するは、化及び難きなり。化して之れを教ふるは、教え入り易きなり」

  ▼書物を教えるだけでは、人を感化することはむずかしい。人間的な結びつきに立つ感化というもがあって上で物を教えると、教えが入りやすい。越川春樹先生の『人間学言志禄』での解釈。

 この先生にまさにこの言葉にふさわしい方だと思います。

▼小学校4年生の時の担任の先生に「化して教えられた」思い出が私にもあります。いまだに、当時の先生の熱意、教室の様子―黒板の上に「いまいまを本気」と書かれた額、友人の様子がまざまざと浮かぶ、私の転換機ともいえる恵まれたことがありました。

▼十九年八月十二日のことです。

 尊敬している先生と話しているとき

 「今まで、人生にとって絶対真理は、必ず死すことであると思っていた。しかし、そうではなく、過去も現在も未来も、今この瞬間に在り、今を如何に生ききるかの中に在る」は、人生の絶対真理を否定的な側面「死」で捉えるのでなく、肯定的に「生」で捉える方が、建設的で「自分と未来を変える力」が生まれて来るように思えるのですが・・・と。

 山田先生の病気が一日も早く全快されますように祈念いたします。



*補足1:記憶があいまいなので確認のため、インターネットでNHKを検索、「いのちの授業」を検索しましたところ、特集「心に響け いのちの授業」がありました。

 詳細の記録に記述されていましたものを採録させていただきます。

 大分県の中学校の養護教諭、山田泉さん。7年前、乳がんを患ったのを機に「いのちの授業」を行ってきた。その後、がんが再発して闘病生活を送っていたが、2006年10月、1年半ぶりに復職。山田さんを待ち構えていたのは、クラスから孤立しがちな1人の女子生徒だった。がん再発の不安を抱えながら精力的に「いのちの授業」を行い、今をどう生きるのか問いかける山田さん。多感な思春期の生徒に正面から向き合う姿を見つめる。

平成十九年八月十五日、平成二十二年十一月二十六日再読。


自給自足の人


   自給自足は〈自らの需要を自らの生産で満たすこと。〉と説明されている。4字を2分割すると

 《自給》に関連して、自給率などの言葉がある。例えば、日本の食物の自給率は○○%であるとか。

 《自足》は〈みずから足れりとすること。他に求めることなく、みずから満足していること〉

▼2008年3月20日のNHKテレビは北海道で緬羊を飼育している家族5人の生活が報道されていた。夫婦二人と男の子供三人の家族である。

 夫婦で飼育をはじめ、食物も野菜・じゃがいもなどをつくり、子供は両親のすべての仕事を手伝い、のびのびと大地に足のついた生活をしている様子が映し出されていた。

 家も手狭になり、廃材をもらって新しく大きな家を少しずつ自力で建て、仕事の合間に屋根のペンキ塗りをしていた。

 生活態度に惹かれるもがありましたが、さらに、ご主人の〈自給自足〉のことばの考えが立派だと思った。

 上述の言葉とうりの生活を実行されながら、本人は考えの基本に《自足》を重点にされているようなことを言われていた。

▼私は、このテレビを視聴しながら《自知足》(みずから足るを知る)の言葉を造っていました。

▼参考までに中野孝次『清貧の思想』から、さらに引用すれば、
 十世紀に源信という僧が著した『往生要集』に

 〈足(た)ることを知らば貧といえども富(ふ)となづくべし、財ありても欲多ければこれを貧となづく。〉とある。

 このご主人は精神的な富者といえるのではと感じさせられました。

 万事がお金の世相になっている。

 中野孝次さんは、外国の人が、日本人はビジネスマンも旅行者も会って話をすると金の話しかしない。一体かれらは金儲け以外に関心がないのか。政治、音楽、国際関係、哲学、民族問題、歴史などについてはかれらは話すことができないかのようだ。まるで金のあるなしだけが人間の価値をきめると信じているかのようだ、と書かれている。

 社会的地位だとか公務の方々がその地位を利用してお金に関連した話にことかかないにまでいたっている。こんな世相にあるからこそ、この家族の生き方に心のなかで拍手していました。

平成二十年三月二十二日、平成二十三年一月九日再読。


人生の新参者


 『ラ・ロシュフコー箴言集』 (岩波文庫) に下記の言葉がある。P.117 405
 われわれは生涯のさまざまな年齢にまったくの新参者としてたどり着く。だから、多くの場合、いくら年をとっていても、その年齢においては経験不足なのである

▼最近(私も医療保険では、後期高齢者と言われている。非常に無機的な言葉だと思っている。たとえば「高齢者Ⅰ」とか「高齢者Ⅱ」とかの方がよほど人間的な言葉だと)、しかし、ラ・ロシュフコー箴言集のこの言葉は現在の私の気持ちをズバリと代弁していると思う。いつも、この趣旨の言葉を知人に体調について使っています。

 生理学的に高齢になれば健康・保健について考えざるを得なくなるようだ。個人の差があり、一口にはいえません。

 私は子供の頃、父親が49歳(昭和10年)で旅立ったことから、父親の時代は「人生50年」と言われていたから、およそ平均年令であったと思う。その時代といまの高齢では全く違いがあるとおもうから余り参考にならないであろう。

 若し、仮に長生きをして、日常生活の中で、肩を揉んでくれないか、どこそこが調子わるいから、こうしてくれないかなどをみていれば非常に参考になるが、それもかなわぬ今は、「私の年齢においては経験不足である」を実感している。

▼そこで知人・友人と話したりするが、それぞれの悩みを話し合い慰めているのが現実である。

 最終的には医師に診察を受けることになるが、日本にとっては未曾有の高齢化社会になり、老人医学も私見ではいまひとつだ(誤解であることを願っている)と感じていますが、助言をたよりに経験をつんでいるといったところである。

 最近は日本でも高齢化が急速に進み、日本財政の重荷になり、色々な政策が検討されている。22.11.13 追加

 知人が療養病院に入院されて治療を受けているのをお見舞いすると、多くの方々が悩まされているのを見ると無常迅速を感じさせられる。

 健康関係以外についても交友関係・読書についても経験不足な場面に遭遇します。「その年齢においては経験不足」は人を謙虚にして生涯学習にみちびくものではないかとおもう。

参考1:『ラ・ロシュフコー箴言集』

参考2:世阿弥

平成二十年七月二十七日、平成二十二十二月二十三日読み直す。


さすがは校長先生

海軍中将新見政一小伝

歴史を深く研究した者は洞察を得る事ができる
H7.11.26 竹内芳夫(東京高師附属中学 海兵六十九期)

 
 東京大学名誉教授・木村尚三郎氏は、かって「平家・海軍・国際派」よいうコトバを引いて、「その共通するところは、いずれもスマートだが、力が弱く、結束力とか粘り強さがなく、つねに小数派で人々から冷たい眼で見られ、いくら頑張って見ても結局は、泥臭く・野蛮で・しかし力のある『源氏・陸軍・国内派』にやられてしまう、ということであろう」と註しておられたが、当らずといえども遠からざるものがある。

 もう五十五年もまえの話になるが、私が江田島の海軍兵学校に学んだときの校長先生・新見政一中将もまたこのタイプの「英国型学将」であった。

1 海軍士官への道を歩む

 新見政一は明治20年に広島県安佐郡に徳川時代初期から続いた庄屋の家に生まれた。小学校を卒業してから廣島に出て県立中学を受験したら、アッケなく落第したが、それは彼が田舎育ちのために「競争試験」というものを全然知らなかったからで、これに発奮した新見は猛勉強をつづけて明治38年12月に忠海(ただのうみ)中学から優秀な成績で海軍兵学校(海軍兵学校第36期)に入校した。忠海中学というのは当時セーラー服を制服にしていた異色の中学である、女学校のセーラー服はまだ日本に定着していなかった。

 時代は日本海海戦大勝利の直後であるから、この年の海兵の競争率は三十五人に一人ほどのきびしいなかで、新見の入校後の成績は200人ちゅう第二位だった。第一位は佐藤市郎、この人は佐藤栄作・岸伸信介の長兄でズバ抜けた俊才であったという。

 新見は在学中に学業に励んだが、しばらくして右足に湿疹ができ、軍医の治療ではなかなかよくならずにだんだん悪化して、ついには屋外の訓練に参加できなくなり、これがハンモック・ナンバー(卒業席次・遠洋航海の時に与えられるハンモックの番号)の足を引っぱって、結局192人ちゅう14番で明治41年に海兵を卒業、明治43年に海軍少尉に任官した。

2 砲術士官となる

 海軍における初級士官の根幹は、人事配置・学校教育と密接にリンクされたOJT(実務訓練)で、半年おきくらいの頻繁な転勤(配置換え)を行って各種の実務をひろく習得さえながら本人の視野を広げて行き、これと平行して砲術・水雷・航海・通信などの「術科学校」へ派遣して専門的な理論的な技術をマスターさせる……という方式となる。

 新見はこのようなコースのなかで数年をへながら、砲術学校(高等科)を卒業して「砲術士官」としての道をたどり、最後に大正8年に海軍大学校を卒業して同年戦艦「伊勢」の副砲長となった。彼はこのときの心境を「僕としては大尉(32歳)で15サンチ砲20門の指揮をとることに非常な誇りを感じたものである」と述懐している。

3 軍令部参謀となり、わが国海軍組織の大欠陥を指摘

 しかし海軍はそのご彼に別の才能のあることを見抜き、歴史研究の道を歩ませた。大正11年に軍令部参謀となり、「海軍作戦機関の研究」という課題を与えられて約半年研究した結果、新見は日本海軍の組織のなかに既存する次のような二つの大欠陥を発見・指摘したのである。

① 最高統帥組織について

 国の防衛は軍隊だけで行えるものでなく、近代戦は国家総力戦になることが明らかなのに、日本の最高統帥機関は文民優位になっていない。

 (これは第一次大戦の顕著な教訓であったが、日本は結局日清・日露戦役と同様の旧式な「大本営組織」をもって大東亜戦争に突入してあの惨害を招いた)

② 海上交通線の防御組織について

 第一次大戦では英・独両国がたがいに相手の交通線を遮断し、必死の経済線をやって勝負をつけた。そのために、たとえば英国の軍令部は「商船行動・通商・対潜・掃海」など本来の海戦以外の通商保護の領域になんと百人以上の海軍将校を配員して、大がかりな研究・準備を進めているのに、日本では対米洋上決戦の準備にかまけてここがガラあきとなっている。

 50年たった現在の目で、75年前に提示されたこの指摘を見れば、それがきわめて鋭利にわが国の弱点をついたことは、誰の目にも明らかなことだ。

4 英国に駐在、つぶさに第一次大戦を研究  このレポートはおおいに当時の軍令部長・山下源太郎大将の注意を引いた。そこで新見は軍令部参謀の身分のまま英国に駐在を命ぜられ、第一次大戦の詳細な研究に従事することとなる。

 渡英した新見はしばらくオクスフォードに居住して国際法の講義を聴き、その後ロンドンに移って首相官邸のまんまえにある「大英帝国国防会議・戦史部」のなかに大きな机をもらって、そこへ通勤しながら理想的な環境のもとで戦史を研究した。これは英国海軍当局の特別の好意によるもので、彼はおおくの軍事機密書類を含むナマナマしい資料を自由に閲覧することを認められていた。新見の研究は海軍固有の戦略・戦術にかかわるもので、専門的かつ多岐にわたるが、マクロの国家戦略の視角から見れば特に注目すべき点が二つある。

③ 将来米国を敵にまわしてはならないこと

 第一次大戦は有史いらい最大の戦争であったが、「連合国は豊富な国内資源と大規模な工業力を持つアメリカの参戦によってかろうじて勝利をおさめることができた」のである。アメリカが、その国民性である「パイオニァ精神」や「アメリカ第一主義」を発揮してさらに強大な国家に成長することは疑いない。今後の日本の国策はこの現実を念頭に置きアメリカを敵とするような行動を慎重に避けねばならぬ。

④ ドイツはトップの意思統一ができない国であること

 第一次大戦におけるドイツ軍は最後の段階に至るまで本土に敵一兵も入れないほど善戦したが、統帥部は支離滅裂で、政治家は世論の指導もせず、政略と戦略はチグハグで、陸海軍は別の方針によって行動し、結局あの敗戦をまねいた。将来注意を要する点である。

 新見は大正15年初頭に帰国し、2年間の研究成果を取りまとめた膨大な報告書を提出したが、彼を英国に派遣した軍令部長・山下大将はすでにその職を去り、献策はそのごの海軍によってほとんど利用されるところがなかった。しかしこの研究業績をつうじて新見の研究者ならびに教育者としてのてきせい適性は正等に評価されたといえる。

5 第二次大戦の発生と帰趨を的確に予言

 帰国後の彼は艦長・艦隊参謀長などのほか長期にわたって海軍大学校の戦史教官をつとめたのち、海軍省教育局長・海軍兵学校長(1939年)として部内教育の本道をあゆむこととなる。

 最も劇的であったのは昭和12年秩父宮殿下の渡英に随行ののち、ドイツ・アメリカを視察して帰ったときの報告で、彼は国際情勢に関する深い知識と公正な史観にもとづき、第二次大戦の勃発とその帰趨、わが国のとるべき道を次のように的確に予言した(要旨)。

⑤ ヨーロッパでは遅かれ早かれ(ドイツがフランスを攻撃して)戦争が起こる

⑥ 独伊との関係にこれ以上深入りしてヨーロッパ政局にの渦中にまきこまれてはなならない、フリーハンドを保つのが有利だ。

⑦もし日本が独伊に見方すれば、英・仏・米を敵とする結果となる

⑧ 第一次大戦の教訓からすれば、日本がどちらの道をとるべきかは明らかなことだ

 以上の①~⑧の指摘は、これを別の側面から要約すれば「歴史を深刻に研究したものは洞察を得ることができる」と言う事である。

 そのご彼は多数の後輩を教育し、機会あるごとに以上の論点を強調したが、けっきょく「親独・反英米・大陸進出・陸軍主導」の世の潮流を食い止める事はできなかった。つまりは「平家・海軍・国際派」の道を歩んだわけだ。

 開戦時は第二遣支艦隊司令長官として皮肉にもホンコン占領作戦の指揮をとる運命を担ったが、先行きの読めていた新見の心中はムジュンにみちたものであっただろう。昭和十七年舞鶴鎮守府司令長官を最後に現役を去った。

6 戦後一〇六歳まで生き抜き大著を遺す

 そのご半世紀をへてわれら往事の悪童共もすでに老境に入り、同期の生存者もだんだん少なくなってきた。ここまで辿りついて思い当たるのは、人間の一生は「社会とどんな関係を結び、どのように受け入れられてきたか(客観・他者評価)」ということのほかにもう一つ、「自分の信念をどのように貫き、自分らしい人生をいかに生きてきたか(主観・自己評価)」という観点がきわ立って重要であることを知る。

 新見は戦後の混乱期を生き抜いて強靭な生命力を示し、106歳というまったく例外的な高齢に達して平成5年4月に世を去った。その長寿の精神的な原動力となったものは、海軍時代から引き続いた「戦史研究」と、それを支える旺盛な知識欲・達成意欲である。

 彼は終戦後「第二次世界大戦の研究」に着手し、昭和37年(75歳)から始めて55年(93歳)に至るまで、実に19年間にわたり、海上自衛隊幹部学校において連続的に戦史を講じ、その成果をまとめて昭和59年(97歳)のとき『第二次世界大戦戦争指導史』(原書房)を出版した。680ページにわたる大冊、超老年期に収穫された終生研鑽の結実で、この時に至るまで彼の頭脳がまったく衰えを見せなかったのは多くの人々の証言するところである。

 「平家・海軍・国際派」などというのはしょせん評論家・傍観者のセリフであって、人間はギリギリのところ「自己評価(主観)」に頼らなければ生き抜けず、成仏できない。この意味で新見中将の戦後の足跡は健全で、みょう利にかかわらず、首尾一貫してわが道を歩み、幼児から百年間積み上げた素養を余すところ無く活用して、三角形の最終頂点を完成したという点で教え子たちの模範となるものが多い。今は亡きわれらの校長先生に心からなる感謝と敬意を表して本稿の結びとします。

  (引用書 『日本海軍の良識・提督・新見政一』原書房)

*補足:平成16年11月25日、海兵75期 広島県立忠海中学 山本道廣君から送ってくださったものを4年と少しの本日写しました。

参考:海軍兵学校歴代海軍兵学校長をご覧ください。

平成21年1月6日

 


10

二度とない人生だから

 
 仏教詩人・坂村新民氏と詩の一部について書きます。昨年末、知りました。朝日新聞、こころのページに月一度、詩がのっています。

▼明治四十二年、熊本県に生まれ、昭和二十二年から四国に住まれています。現在は松山市の近くの砥部(とべ)町で生活されています。重信(しげのぶ)川(一級河川)をこよなく愛されています。

▼坂村さんは今、毎月、四ページの詩誌『詩国』を発行され、無料で全国の読者に送っています。今日まで二十四年間、一度も欠かしたことはありません。現在千二百部(多い時は千八百部)、北海道から沖縄まで送っており、坂村さんの念願の根幹であり、眼目だそうです。昭和五十五年には、正力松太郎賞を受賞あれています。

▼『詩国』賦算(ふさん)、詩集流布が坂村さんの大願であり、生ある限り続けていきたい。一遍上人(鎌倉中期の僧。時宗の開祖。伊予の人。法然の門弟証空の弟子聖達を師とし、後、念仏弘通の大願を発し、念仏踊を民衆に勧めた。世に遊行上人と称した。)は河野水軍の棟梁となるはずの家に生まれながら、すべてを捨てて出家し「南無阿弥陀仏決定往生(なむあみだぶつけっじょう)六十万人」の願を立てて日本全国を遍歴放浪された方です。賦算といって、お念仏を書いた小さな札を会う人ごとに配って歩いた。一遍上人の賦算は二十五万余人で、六十人に三十四万人が残っていることになる。それで、この数を少しでも減らすことができれば、と發願して『詩国』を発行してきた、とのことです。

▼ 毎日欠かさず、真夜中の二時に起き、坐禅し、読経し、詩作し、三時三十六分になれば天の大地に立って、赤ん坊が乳を吸うように、月の光を、星々の光を吸飲し祈願しています。

▼長年、詩を作り、いくらかの感動を与える作品があるとすれば、それは夜明けの霊気に触れ霊気を吸飲して作っているいるからだと思う。詩才なくして詩に執することの無謀さをよく知っている。この早起きの日課は、天が私に与えてくれた最大の恩寵(おんちょう)だと思う。だから生あるうちは、この大恩に応えるために、未明混沌(こんとん)に起きて詩精進(しょうじん)し、眠るのはあの世にいってからにしようと思う、とかたられています。

▼ 坂村真民全集全五巻(大東出版社)が発行されています。全部で二千九百四十四篇あります。千人以上の方々が二十四年間、一篇いっぺん読み続けてこられたものです。

 これらの詩のなかから「二度とない人生だから」を紹介します。

ゆっくりと。二度三度、声を出して読んでみよう。そうすると……。


 二度とない人生だから

 まず身近な者たちに

 できるだけのことをしよう

 貧しいけれど

 こころ豊に接してゆこう

 二度とない人生だから

 つゆくさのつゆにも

 めぐりあいのふしぎを思い

 足をとどめてみつめてゆこう

 二度とない人生だから

 一ぺんでも多く

 便りをしよう

 返事はかならず

 書くことにしよう


  念ずれば花ひらく

 念ずれば

 花ひらく

 苦しいとき

 母がいつも口にしていた

 このことば

 わたしもいつのころからか

 となえるようになった

 そうして

 そのたび

 わたしの花が

 ふしぎと

 ひとつ

 ひとつ

 ひらいていった


 つみかさね

 一球一球のつみかさね

 一打一打のつみかさね

 一歩一歩のつみかさね

 一坐一坐のつみかさね

 一作一作のつみかさね

 一念一念のつみかさね

 つみかさねの上に

 咲く花

 つみかさねの果てに

 熟する実

 それは美しく尊く

 真の光を放つ


※昭和六十一年十二月に書いた文章です。平成二十六年末にも、あらためて詩をよんでみました、心にひびくものがあります、また反省もさせられています。

平成二十一年三月十日、平成二十二十一月三十日再読、平成二十六年十二月二十九日。


11

雑草という草はない

 
 庭には樹木が植えられていいます。季節ごとに剪定し、また美しいと思う花の類も植えて楽しんでいます。

▼しかしその庭にも思わぬ草が生えているので、その草抜きをしているときに、思うのはたくさんの形状の草があります。地面に広く這いつくばっているもの、地面よりわずか高く伸びているもの、更に高く伸びているものなど様々であります。しかし、わたしはその草の名前を知らないので、一括して「雑草」と呼んで、わたしにはそれらの役目があるのどではないかと疑問をもちながら、私の都合で夏場にせっせと抜いています。

 雑草の名前を知らないだけの草であるが、そんなことに拘らず季節の変化とともに輪廻しています。

▼すべての物には、はじめ名前はなかったと私は思います。

 植物・動物(人も含む鳥類・魚類など)など生物に限らず山・天体の星なども一つ一つ名前をつけ、その道の専門家は細かく分類してきたのであろう。

▼人様には名前のついていないな無しの者はいない。知人・友人・兄弟姉妹の名前は知っているがその数は人様の数の中でわずかである。名前を知らない人を雑人(雑草と対応したわたしの造語)とは呼んではいません。

「おい、お前さん」と呼ばれ、話しかけられては余り気分の良いものではありません。

「●●君、すまないが頼まれてくれないか」といわれば、受け容れて頼まれたことを気持ちよくするといった、私達人間には、名前を呼ばれると不思議な力もあります。

▼これらの草をあるがままに観察していますと、

「私たち草に雑草という名前はありません。あなたち人間とどこが違いますか>とつぶやくのがかすかに聞こえてきます。

▼樹木の枝には蝉の抜け殻が6本の足でしがみついていました。また、短い寿命(人間がそう思う)が尽きて横たわっていた蝉を蟻にたかられてしまわわれる前に地上に生まれ来た穴を少し広げて埋めてやりました。今年は気象に恵まれなくてあまり楽しくなかったのではと思いながらの作業でした。

平成二十一年八月十六日


追加:草抜きををしていると意外な発見がありました。

 同じ草でも乾いたところに生えているものは根に細根が張っていて中々抜きにくい。コケの中のものは、スート縦に伸びていて簡単に抜ける。生き方に教えられるものがあった。

 「大樹深根」といわれています。樹木も大きくなればそれを支える地下に見えない根が深く張りめぐらせていなければ、生命の維持さらに風に耐えることが出来ないだろう。

平成二十一年九月二十一日


12

周梨槃特

 
 釈迦の弟子でした。

 かねてから、この人に関心をもつていました。今まで読んだ本での彼の記録をまとめました。

▼釈迦という人は、大勢いた弟子の、一人一人の特性をしっかり見極め、性格に応じた効率のよい修行方法を指導していた。たとえばチュ―ラパンタカというお弟子さん。記憶力は悪くて何も覚えられない。修行しても全然だめ。本人もがっくり気落ちしている時、釈迦は「チュ―ラパンタカよ。無理して覚えなくてもいい。お前には別の道がある」といって、日々の掃除を勧める。言われたとおり、毎日毎日掃除ををしているうち、次第に心が澄んできて、とうとう悟りを開いてしまった。融通のきかない、言われたことしかできないチューラパンタカだからこそ、せっせっと掃除に励むことで悟ることができる。釈迦の慈愛の目がそれを見抜いたのである。

 いくら文明が進んでも、人を育て、生きる後押しをするのは、豊かな経験を積んだ先人の、温かく深みのあるまなざしだ。「自分を見ていてくれる人がいる」という思いは、心の成長にとっての、何よりの栄養となる。

文献:『日々是修行』(ちくま新書)P.184

▼如来在世の周梨槃特のごときは、一偈を読誦すること難かりしかども根性切なるによりて一夏に証を取りき。只今ばかり我が命は存ずるなり。死ならざる先に悟りを得んと切に思ふて仏法を学せんに、一人も得ざるはあるべからざるなり。

参考:1 二祖懐 奘(一一九八~一二八〇年)が記録しておいたものである。

参考:2 偈は「仏の徳をほめたたえた韻文。五字または七字を一句とし、多くは四句を一偈とする。偈頌」

文献:『正法眼蔵随聞記』(岩波文庫)P.64

▼抑(そもそも)、一期の月影(かげ)かたぶきて、余算、山の端(は)に近し。たちまち三途の闇に向かはんとす。何(な)にのわざをかかこたむとする。仏の教え給うふおもむきは、事にふれて執心なかれとなり。今、草菴を愛するもとがとす。閑寂(かんせき)に著(ぢやく)するもさはりなるべし。いかゞ要なき楽しみを述べて、あたら時を過ぐさむ。

 しづかなる暁(あかつき)、このことわりを思ひつゞけて、みづから心に問ひていはく、世を遁(のが)れて、山林にまじまるは、心を修(をさ)めて道を行はむとなり。しかるを、汝、すがたは聖人(ひじり)にして、心を濁りに染(し)めり。栖(すみか)はすなはち、浄居士(じやうみやうこじ)の跡をけがせりといえども、保つところは、わずかに周梨槃特(しゆりはんどく)が行にだに及ばず。若(もし)これ、貧賎の報(むくい)のみづからなやますか、はたまた、妄心(もうしん)のいたりて狂せるか。そのとき、心更に答ふる事なし。只、かたはらに舌根をやとひて、ぶ請(の)阿弥陀仏、両三遍申(し)てやみぬ。

 于時(ときに)、建暦(けんりやく)のふたとせ、やよひのつもごりごろ、桑門(さうもん)の蓮胤(れんいん)、外山(とやま)の菴(いお)にして、これをしるす。

語句注:浄みょう居士(じやうみやうこじ):梵名ユィマ(維摩)。「浄名」はその漢訳。維摩経(ゆいまぎよう)によれば、釈迦在世当時のインドの居士(在家の仏弟子)で、深い悟りを開いたいたことと、方丈の小室に住んでいたことでな高い。

参考:この章は一二一二年に書かれたといわれている。

文献:『方丈記』(岩波書店)日本古典文学体系 五章(最終の章)P.44~45


 文字のない釈迦の時代、いいつたえ語られてきました。

 ここにあげた三人でさえ、一人の人物の行動にかように受け取られている。私ども参考にしていきていきたいものです。

佐々木閑 

平成二十一年九月二十九日、平成二十二年十二月十三日再読、平成二十三年五月六日再々読。


13

戯曲「青い鳥」の生き方

 
 「青い鳥」はベルギーのメーテルリンク(1862~1949年)作の戯曲である。

 貧しいきこりの子チルチルとミチルの兄妹が、クリスマス前夜、妖婆のいいつけで幸福の青い鳥をさがしにでかけ、思い出の国、夜の世界、未来の王国、死の国などを巡礼するが、どこの国にも青い鳥はいそうでいない。ついにむなしく自分の家にもどってくる。だが、すべては夢であり、目が覚めて、自分たちのの求めていた青い鳥は家に飼っていた一羽の鳩であるあることを知る。ところがその鳥はにげ出してしまう。「みんさんの中であの鳥をお見つけになった方があったら、わたしたちに返してくださいね。あれはやがてわたしたちの幸福のためにいるんですから・・・・」というチルチルのことばで幕が下りる。

『世界名作事典』(平凡社)より引用。

▼私はこの話から中国の宋時代の宋 戴益探 春の詩を思い出しました。

 終日尋春不見春

 杖藜(あかざ))踏破幾重雲

 帰来試把梅梢看

 春在枝頭已十分

 尽日春を尋ねて春を得ず

 芒鞋(ぼうあい)踏み遍し隴頭の雲

 還り来って却って梅花の下を過ぐれば

 春は枝頭に在って既に十分。

▼「青い鳥」を読まれた人は多いでしょう、また感じ方もさまざまでしょう。幸福を求めて追い続けるかたもいるでしょう。追い続けるだけで求められるものだろうか? 私にはそうとは思えません。宋 戴益の詩のように春(メーテルリンクの青い鳥に相当する)は我が家に十分あるのではないでしょうか。他の人からあたえられるものではないようにおもえてなりません。

 何が幸福であるのかは様々。ある人は家族が健康で無事である、自分の願望が達せられたとき、社会的地位が高くなったとき、よい職業にいるとか十人十色ではないでしょうか。

   東西古今のひとが幸福とはなんぞやと説かれています。ここにすでに問題点があると思います。思索で求められるものでしょうか、自分が行動して得られるのではないかと思います。反論される方もいるでしょう。

 真の幸福とは何であるかを自分なりに確固たるものを自覚していなくては、いつまでも自分を忘れておいつづけなければならないでしょう。時はどんどんと飛び去って待ってくれません。自分のもてる全力で行動することができれば幸福ではないかと現在の私には思えます。


 宋 戴益の「探 春」の詩をインターネットで検索すると、以下の様々のものがあった。

(一)

 終 日 尋 春 上 見 春  

 終日春を尋ねて春を見ず もう、どこぞに春が来てるんやないかと、一日中探し歩いたけど見つからんかった。

 杖 藜 踏 破 幾 重 雲   藜(ジョウレイ)踏破す 幾重(イクチョウ)の雲

 アカザの杖ついて、山越え谷越え雲まで越えて歩き廻ったぞよ。

※杖藜:アカザの杖。アカザはアカザ科の一年草であるが、茎は丈夫なので乾かして杖にする。

 帰 来 試 把 梅 梢 看   帰来(キライ)試みに梅梢(バイショウ)を把(ト)って看れば

 家に帰って来て、「んっ?此処にはどうじゃ?」と梅の枝を手にとって見たら、

 春 在 枝 頭 已 十 分  

 春は枝頭に在りて已に十分なんと、枝先の蕾がふっくらしとって、春はここまで来とるやないか。

(二)

 尽日尋春不見春

 杖黎踏破幾重雲

 帰来試把梅梢看

 春在枝頭已十分

(三)

 尽日(じんじつ)春を尋ねて春を見ず

 芒鞋(ぼうあい)踏みあまねし隴頭(ろうとう)の雲

 帰り来って却って梅花の下を過ぐれば

 春は枝頭に在りてすでに充分

 宋 戴益は宋の時代の生存期間など不明な人です。そこで、上述の詩も違いが少しずつ見られます。ご参考までに。

平成二十一年十二月二十五日


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トラスト・ミー

 
 22年1月7日付:朝日新聞 記者の視点

 トラスト・ミー 重い語感「守らないと破局」 山中 季広(やまなか としひろ)ニューヨーク支局長によると、

 鳩山由紀夫首相の発した「トラスト・ミー」(Trust me)という言葉がいまだに気になって仕方ない。

 「私を信頼してほし」。首相はオバマ米大統領に去年、2回も訴えた。最初は11月の会談で面と向かって、米紙よると2度目はその後に送った書簡で。きっと、首相の「決め」のひと言なのだろう。

 では、言われる側の米市民の語感ではどれくらい重い言葉なのか。

 「トラスト・ミーは相当重い。ビリーブ・ミー(Believe me)と同じ重さ。約束を必ず果たしますと誓う場面でしか使えない」というのは、兵庫県内で3年間、英語を教えたことのある米保険会社員ミーガン・ミラー・ユーさん。「もし夫が『トラスト・ミー』といっておきながらやはり浮気していたら、もうそれだけで破局です」

  首相の発言としては不適切だったのだろうか。日米外交史に詳しいトマス・バーガー・ボストン大教授は「佐藤栄作首相のアイ・ウィル・ドゥ・マイ・ベスト(I will do my best!)を思い出させる発言ですね」と話す。

 繊維摩擦で日米がもめていた1969年、佐藤首相がニクソン大統領に「前向きに善処する」と言った。当時の日本の政界では「何もしません」と同義語だったが、通訳はドゥ・マイ・ベストと訳し、大統領は「これで日本は繊維輸出を減らす」と喜んでしまった。だがその後、佐藤首相は動かず、この一言が摩擦を決定的にこじれさせたそうだ。

 「今回のトラスト・ミーとその後のもたもたは、オバマ政権を失望させた。佐藤発言以来ひさびさの言葉による誤解の代表例になるかもしれない」とバーガー教授は言う。

 ノースウエスト大学のケビン・クーニー教授(政治学)も「トラスト・ミーはかなりまずかった」と辛口の評。「ドゥ・マイ・ベストなら、最善を盡すけれど効果は保証しないという合意がある。トラスト・ミーは確約度が一段高い。外交交渉にたけた政治家ならまず使わない言葉でしょう」

 「ブッシュ・小泉両氏のウマが合ったのは、互いに言葉のミスが多く許し合えたから。私の見るところ、オバマ氏は恨みを長く引きずるタイプ。信頼回復は容易でない」

 では一体どう言えば、信頼を損ねずにすんだのか。愛知県内で英語をおしえたことのある弁護士スティーブン・ホロウィッツさんのおすすめは、「ユー・キャン・カウント・オン・ミー」(You can count on me.)または「リーブ・イット・トゥ・ミー」(Leave it to me)。どれも「お任せを」といった響きで、トラスト・ミーよりは確約度がちょっと低くなるそうだ。

 米スタフォド大学で生きた英語を身につけ、9月の国連演説では滑らかな英語で各国首脳をうならせた鳩山首相をもってしても、この結果である。英語はつくづく難しい。うそは言わない、トラスト・ミー!

▼この文章を読み、『論語』の言葉「信なければ立たず」を思い出させられた。「人民は信がなければ安定しない」と解説されている。

 同時に英語の語感は当然、英語国民でない者とそうでない人とでは違うのは容易に推察できる。

 試みにコウビルド英々辞典で[trusut]の最初の説明には、

 trust 1 If you trust someone, you believe that they are honest and sincere and will not do deliberately do anything to harm you. との記述。トラスト・ミーと関連して、英文そのものを味わってください。

 私も同感である。

平成二十二一月十一日、平成二十六年十一月二十二日補正。 

 


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tadanoumi.JPG
忠海高校体育館の緞帳
平山郁夫さんの絵をもとに

追悼 平山郁夫さんと忠海高校

 
 2009年12月2日忠海高校(旧制忠海中学)の先輩である平山郁夫さんがご逝去されました。心から哀悼の意を表します。

▼平山郁夫さんは忠海高校同窓会の活動に大きく貢献されました。忠海高校創立100周年を記念した平成9年に、霊峰黒滝山の山腹から夕日に輝く瀬戸内海を眺望する名画「燦・瀬戸内」を描かれました。その原画をもとにした美しい緞帳を現在忠海高校講堂で見ることができます。忠海同窓会は創立110周年の記念品として、此の原画をもとに大塚オーミ陶業が作成した陶板画を頒布しております。この頒布による余剰金は母校の教育支援に活用することとしておます。平山画伯からは、母校のさらなる発展のためならとご快諾を頂きました。陶板画「燦・瀬戸内(輝く瀬戸内海)」をぜひご鑑賞ください。平山郁夫さんの画業を偲ぶ一助となればと思います。

▼平山郁夫さんは廣島の修道中学校の三年生のとき、勤労動員先の廣島陸軍補給廠で作業中、原子爆弾に被爆、その後忠海中学に転校し、勝運寺に下宿していました。それが平山さんの画業にどのような影響を与えたかについて、『群青の海わが青春譜』という著書の中で次ぎのように書いています。

 私自身、お寺に思い出があります。中学のころのことですが、終戦後、広島から竹原市の忠海中学校に転校した私は、そこの禅寺に下宿したことがありました。

 そのお寺には余分の部屋がなかったので、私は本堂の片隅を襖で囲ってもらって起居していました。そのころはまだ、東京の美術学校に行こうとは思っていませんでしたが、この本堂で絵を書いたり、勉強していたのです。本堂では、方丈さんたちが座禅を組むのが日課になっていましたから、私もお線香を一本いただいて、見よう見まねで座禅を組みました。ただの、まねごとですから、なぜ座禅を組むのか、なぜお線香をともすのか、さっぱりわかりませんでしたが、じーとすわっているとふ思議な静けさが訪れ、仏の世界に包み込まれるような気がして、一時期ずいぶん一生懸命座禅をしたものです。

 東京へ出て、美術学校の学生時代のこと、夏休みに帰省すると、中学生の時下宿した禅寺で『接心会』とぴう集まりがありました。大学の先生やお医者さんたちの会だったのですが、この会に若い私も入れてもらい、難しい話を聴いたり、一週間ほど頑張って座禅を組んだりしたことをおもいだします。

 こうした経験の中から、いつしか、私の心の隅に人知を超えた『永遠なるもの』への憧れが、漠然とではありますが、宿り始めたように思います。

▼原爆のまがまがしい惨状を目のあたりに見、私自身も後遺症によって生死の境をさまよった経験があるために、私の心は自然に何か永遠なるものを求めて求めていたように思います。『永遠なるもの』というのが、適切な表現かどうか分かりません。その事を具体的に説明しろといわれてもできないのですが、ただ、人間の一生に思いを馳せて、その一瞬の瞬きにも似た短い人生の中で、一人一人の人間が営々と積み重ねていくもの、それがいつしか分明とか文化とか、つまり時間や空間を超えた大きな流れを形づくっていくのだろうと思います。(平山郁夫『群青の海 わが青春譜』中央公論社刊)

▼『忠海高校八十周年記念誌』に高橋玄洋さんや平山郁夫さんと同級だった大多和章六さんの学生時代の思い出が掲載されています。

▼「八十年の歴史のの中でも、文芸部の誕生はユニークまものの一であろう。脚本家として活躍中の高橋玄洋さんは既に小説の習作に、演劇に才器を発揮していた。西陽をうけた南館二階の教室で『エデンの海』の作者、若杉慧先生のお話を聞いたことを懐かしく思いおこされる。東京芸術大教授・日本画家も平山郁夫さんが、得意の素描力で、黒板に先生の似顔絵を描いて、茶目っ気たっぷりの生徒であつたのもこの頃である。」(大多和章六「懐かしかった私の青春前記」『忠海高校創立八十周年記念誌』P.224~225)

▼高橋玄洋さんは、『興味津々』という著書の中で、平山郁夫さんの思い出を次のように語っています。

▼「中学の頃の同期の院展の平山郁夫がいる。広島県の忠海中学という白砂青松の浜に面した学校で、校門を出て田圃の道を抜けていくと勝運寺という禅寺がり、島出身の彼はこの寺に寄宿して小坊主(井山龍山さん)の家庭教師のようなことをやっていた。彼が上野の美校にすすみ、教師の推薦で彼の後釜の家庭教師役に下宿したのが私であった。この勝運寺では、ことごとに前任者の平山さんと比較対照されて、その点では随分ワリを食ったが、その年の夏休み、彼が帰省の途中、寺に寄り、二人して夜を徹して語り合ったときのことは今も忘れられることが出来ない。彼もこのことを忘れられないらしく、先年、『文藝春秋』の同級生交歓でそのことを書いていたが、私にも青春の一ページとして生涯忘れられない一夜であった。彼は炎の中に立つふ動明王に絵と、彼の故郷の島の蜜柑山を描いた絵を持って帰っていた。そのふたつを壁に並べて、熱っぽく絵の道について喋ってくれた。私も当時は太宰治にあこがれる文学青年であり、芸術、文学、人生などに青くさい議論を並べて飽くことを知らなかった。彼も被爆者であり、私も二次感染で悩んでいたので人生観についておのずと通じ合うものがあったのかも知れない。彼はたくさんの人間の無惨な最後を目撃していたし、私は多くの屍を焼く仕事をしたのだが、それ以上に、そんな運命がいつ自分の身の上にやってくるか分からない恐怖におののいていた。炎の中に立つふ度明王は、彼の怒りの鏡であったし、静かな瀬戸内の風景には彼の平和への祈りが、ふ可能となった至福への愛惜となって現われていたように思えてならない。後年の彼の法隆寺からシルクロードへと遡る活躍をみるとき、私にはいつもあの日のことが思い出される。終戦時の経験とその後遺症の苦悩は彼を語るとき欠かすことの出来ないものだと思う。>(高橋玄洋『興味津々』P.63~64「わが良き友よ」)

▼平山郁夫さんは、最後の著作に『ぶれない』という表題をつけ、その信条を次のように語っています。わたしたち後輩への遺訓として噛みしめたい言葉です。

▼「小さいときから絵が好きで、絵を描く道に行きたい、と考えていた二十代の私は、描けども描けども自分が何を描けばいいのか見えなかった。不安と焦燥の生き地獄の中にいたのです。将来の展望も夢もない―そんな絶望の淵から私を救ってくれたのは、皮肉にも『死』を覚悟しなければならない発病でした。『自分が生きた証を残したい』。この思いが、私の最大の夢になり、目標になった。描くときの迷いは、この時消えてなくなり、私の絵の人生が始まったのです。迷いなく『これを一生狙っていく』というターゲットを定め、それに向かって自分のすべてのエネルギーを一点集中させる。それによって、『ぶれない』ものができ上がっていく。私の場合の夢は、ちょっと極端な形から生まれたものかもしれません。ただ一つ言えるのは、将来こんなことをやりたい、もしできたらこんなことをしたい……そんな夢や目標があれば、人生にハリが出、それがその人を大きくするということです。その目標が、『人間として何かの役に立ちたい』というならば、どんな時代や環境が変わっても揺るがない一番強いものになるでしょう。夢はどんどん変わっていい。『手の届きそうな夢』でもいいし、『もう一度生まれ変わらないと現実ふ可能な夢』でもいい。私にももう一回生まれないと描ききれないほど、描きたいことがたくさんあります。そして、今の私の夢は、『自分を含め、誰が見ても《見事》だという人生を終えたい』と言うこと。そのためにに、一切の責任を持って今日一日を生きていくのです。」(平山郁夫『ぶれない』P204~206)

資料:忠海高校(忠海中・忠海高女・忠海高)同窓会報 味潟海 37号(平成22年3月1日)より 

平成二十二年三月九日  

 


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ヒラメの二つの目は上を向いている

 
 この言葉は尊敬している方から教えられた言葉です。 

ヒラメの上向き目は、捕食するのに好都合のように進化したと思われます。

 人の場合は、「仕事で成功しよう、人より立派な地位を得よう、豊かな生活をしょう、社会的な貢献をしょう」など、本人の考えとは別の次元で、成長と共にすり込まれてくるのではないでしょうか。また、このことは、社会の維持発展向上や人々の幸せなどに貢献していると思われます。

 外に向けてのヒラメ的言動は、自分を見失わない限り、社会的要求の世渡り処世術でしょう。

 ヒラメ的人間になると、すべての関心事が外に向き、外側に振り回されがちになります。

 七つの穴が開いた“混沌王”は、忽ち亡くなりました。

 外だけの世界、内だけの世界では、もはや存在することができず、そのバランスが問題でしょう。

 ヒラメの目は、単に生物的構造上の問題で済みますが、人の場合は肉体的精神を宿しています。

 その肉体や精神には、さらに自我が宿されています。それだけに、厄介な問題となります。

 “心を清くして、愛の人であれ”「平常心是道」でしょうか。

 結局は、心の持ち方なのでしょうか、人それぞれですね。と、の教えでした。

 反省点:教えられたときにこの言葉の意義を対話の中でお聞きしないないでいたことは恥ずかしい次第でした。


 私は組織の中で働いている人(特に中間層にある人)についてあてはめて考えてみました。

 ヒラメのように上の方に目が向き、部下にはほとんど目を向けようとしない人がいます。

 ひどい人は部下を足台にしていわゆる出世しようとさえするひとがいる。こんな人の上司が眼識のあるひとであれば、直ぐに「この人は」と気づくはずであるが。

 上の方を向いている人の言葉は巧みであり口達者、上司の中にはそうかと思い、その人をとり上げるようになる。俗に取巻きとも言えるのではないかと思う。

   こんなヒラメのような人は上司が代わると手のひらを返したように、新しくつかえる人のご機嫌をうかがい、前の上司には、極端には振り向きさえもしなくなる。こんな人を古典に照らせば、「侫人」として取上げられている。

 『論語』先進第十一 「子曰く、これだからこそ、口達者な人間は大嫌いだというのだ。」と。

 ほとんどの中間層の人は、仕事上での問題があれば、上司に相談し、部下と話し合いその解決策を一体になって努力するものである。

▼人は顔の真ん中に鼻の横に二つの眼があります。そして首を動かせば上下左右にかなりの視野があります、自分の足元も見ることもできます。しっかり足もとを見つめて生きたいものです。

参考:インターネットによる

1、高級魚として知られているヒラメ。大衆魚として知られているカレイ。どちらも普通の魚と違い横向きに泳ぎ、目もヘンテコな位置についています。とてもよく似た2匹の魚ですが、まずはカレイとの違いからご紹介。

 ヒラメとカレイを判別する方法に「左ヒラメの右カレイ」という言葉があります。目を上に向けた状態で魚を置き、顔が左にきたら「ヒラメ」。顔が右にきたらカレイとなります。ヒラメとカレイはこのように判別できるんです。また、「ヒラメ」という魚は[カレイ目][カレイ亜目][ヒラメ科]に属しています。元々カレイの仲間なので似ているのは仕方がないですね。

2、馬の視野は350度あり盲点は鼻先と真後ろにあるそうである。北海道旅行したときに牧場の人に教えられた。

平成二十二年五月二十一日  


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人生の線

 
 不慮の事故を除いては、われわれは生の延長上に死があると思っている。年をとるまで生き続け、「生」という線を引き、その線がおわる時が死であると考えている。しかし、実際には、死は瞬間的に起こることもある。生の延長上に死があるのではなく、われわれは死を背負って生きているのである。死を背負った点がつらなって人生という線が引かれているのである。「生き残る私の幸せを許して下さい」と言った人が言われた人よりも先に死ぬかもしれない。なぜなら、死を背負った生という点は、瞬間にして死という点に変わることがあるからである。

▼看取る者も死を背負った、限界を持つ存在であることを認識し、それでも生かされていることを感謝しつつケアにあたる時、お互いに死すべき存在であることを伝えあうことができ、お互いの生を支えあうことができるのだと思う。柏木哲夫『生と死を支える』(朝日新聞社)

 たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪が薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありとといえども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきり。かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしるるのち、さらに生とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは、仏法のさだまれる仏転なり。このゆゑにふ滅といふ。生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば、冬と春とのごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。『正法眼蔵』現成公案より。

▼「いま」は空間軸と時間軸の交点であり「時空一体」であるといわれている。「いま」を数珠に譬えれば一個の珠が「いま」であり、次々と個々の珠は断絶してあたかも連なっているように見えるが新たな珠へと展開をしている。この状態が私達の状態であることを自覚して、いつなんどきに予想さえしなかった事態になっても、うろたえないで平素からその状態をそのまま受け入れる覚悟していなければならない。「日常心是れ道場」といわれる所以である。

参考:正岡子規『病牀六尺』(岩波文庫)

▼余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合でも平気で生きて居る事であった。(P.21)

平成二十二年六月三日、平成二十五年六月十六にち、再読・追加 


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ミレーの晩鐘

ミレーの晩鐘

 
 夕暮れ迫り、はるかかなたには教会の尖頭らしきものが見える。その鐘(アンジェラス)の音が聞こえてくる夕暮れのひととき、馬鈴薯畑での農作業を終えて農夫婦の夫は帽子を脱ぎ、おなかの上に両手で持つている。その横には鍬を畑に立てている。画面の右には妻が両手の掌を胸の辺りで合わせて、その右にある農作物の運搬車にはその日の収穫物が袋つめしたものが載せられている。二人は頭を下げて敬虔な祈りを捧げている。「本日も健康に仕事をさせていただき、無事終わりました」と天の恩寵に感謝している。その姿に心の豊かさを深く刻んでくれました。

▼19世紀フランスのの画家ミレーによる1855~1857頃の作品。
 インターネットより、

 1865年のミレー自身の述懐によると『晩鐘』は、子供のころ畑で農作業をしていた時、いつも夕方の鐘が鳴ると祖母のジュムランが仕事を中止させ、帽子を脱いで「あわれな死者のために」アンジェルスの祈りをするように言われたことを思い出して描いたもの、という。そのアンジェルスの祈りとはラテン語のAngelus Domini nuntiavit Mariae(天使マリアに来たり言いけるは、慶ばし恵まるる者よ)。

平成二十二年六月十三日  


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桐の字はキリノキと呼ばれる

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 桐は、切ったほうがよく育つ。P.210

 幹が柔らかくて軽いこの木は、中心部に空洞ができやすく、せつかくの大木も使いものにならなおことがしばしばある。

 ところが、ある程度大きくなったところで根本からばっさり切り倒すと、そのあとに出る新芽は中までよく締まって、親木より大きく育つ。栽培家はこれを、台切り、という。

 そこから、桐はキリノキと呼ばれるようになった、と大槻文彦は『大言海』でいっている。

参考:上前淳一郎『読むクスリ 17』(文春文庫)

 樹木の栽培家はこのほかにも多くの樹の育て方を知り育成されていること。私達についても参考になるのではなかろうか。

 桐の台切りと同じようにある年齢になったところで、生活態度をばっさりと改めることによりなかみのある人になっていくのではないでしょうか。

 木は「実生(みしょう)」―草木が種子から萌出て成長すること―の樹木は、根切りして移植したものより、根が深くなり成長するそうです。根を養わなければ樹は育たぬと聞いています。大樹でも台風などで倒れているのを見ますと根が地面に近い深さのところに横にはっています。これでは大樹をささえきれません。大樹深根でなければと……。

 一度だけ私も狭い庭に臘梅(あまり大きくならない)を実生させたことがあります。この木は花が咲くまで7年?かかると聞いていました。見事に黄色い臘のつやのある花を咲かせることが出来ました。ただ、庭の他の木の都合で、上に書かれているように根本から切ってしまいました。いまでもその切り株は残っています。 

 檜などの間材の話もよく聞きます。材木を育てている目ききの人たちが大きく育てたい樹を残して選別して計算して切り倒しています。一本の樹にも五衰があるように、林全体についてもそうなのだろうと素人の私には思えます。

参考:幸田露伴の樹相學

平成二十二年7七月七日  


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澄みきって静かな心

 
先輩の宇野哲人先生が遺著「一筋の道百年」の中で、自分の処世の 信条として後輩にも推奨されている「不将 不迎 応而 不蔵>(荘子)を拝見して、早速「座右の銘」として頂戴する事にした。

 白寿(九十九歳)を迎えた先師が、五十=天命を知る、六十=耳順、七十=心の欲する所に従い矩(のり)を踰(こ)えず、の域を経て、最後に到達されたのがこの心境ということになる。 某日、三菱商事の諸橋晋六社長から、厳父諸橋轍次先生(大漢和辞典の編纂者)から教訓として授かったことを伺った。

 中国哲学の泰斗で、それぞれ長寿を全うされた両先生が、この荘子の言葉を重用されたことは、誠に示唆に富む話である。

 宇野哲人先生が会の席上「私の長生きした原因は、つまりいろんなことにクヨクヨいつまでもしない、取り越し苦労をしない、そして、事が済んだらさっと忘れちまう」とさとされている。まさに人生の達人の心境であろう。

『荘子』内篇の応帝王篇に絶対者の理想的な生き方が記録されています

 その中に上述の言葉がみられます。

▼「至人之用心若鏡、不将不迎、応而、不蔵、故能勝物而ず傷」(荘子) 岩波文庫『荘子』第一冊 「応帝王篇 第七」P.233

  至人の心を用うることは鏡の若し。将(おく)らず、迎(むか)えず、応じて蔵せず。故に能く物に勝(たえ)えて傷(そこな)わず。

 その意味は、

 不将=おくらず=過ぎ去った事を悔やまない

 不迎=むかえず=先の事をあれこれ取り越し苦労をしない

 応而=おうじて=事態の変化に対応して

 ふ蔵=ぞうせず=心に何もとどめない

 「至人の心を用うるは鏡のごとし、将らず迎えず(去るまま、来るままに任せる)、応じて、蔵せず(姿を映すが、引き留めない)」 ゆえによく物にたえて傷つかず、邪念や煩悩、迷いを排していった修行の果てに達する涅槃の境地である。

 どちらもやや消極的な感触を与えるが、 応而(おうじて)、不蔵(ぞうせず)、眼前の歴史的現実に全力を挙げて正しく対 応して事あれば心に残すところ無しというのは実に積極的な力強い生き方を示唆している。

 思い煩うことの多い時、この言葉をくちずさむと、清涼の風が一瞬、胸中に吹き渡る心地がする。

*「明鏡止水の心境」は《「荘子」徳充符から》曇りのない鏡と静かな水。なんのわだかまりもなく、澄みきって静かな心の状態をいう。

 悟りたる者の心は、止まりたる水の如く静かで、来るものは、そのまま映し出すが、去ってしまえば、何の痕跡も残さない、どのような事象をも映し出しつつ、いかなるものにも、傷つくことがない。

 充実した日々をおくりたいものだと、中国の古典を参考にしました。ご参考になればと願います。

平成二十三年八月二日


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老いて虚しく生きない

 
「老いて虚しく8生きない」は中国の民末、りよ新吾『呻吟語』に「老ゆるは嘆くに足らず。嘆く可きは是れ老いて而も虚しく生くるなり。・・・・」

 の言葉の中の一部のものである。

 小島直記『逆境をP.愛する男たち』(新潮社)に次のような記述が見られる。P.8

「老いて虚しく生きない」という問題を考えるたびに、よく思い出すのは、山形の守谷伝右衛門というひとである。歌人斉藤茂吉の父親。本名は、熊次郎といった。

 二十三歳のとき守谷伝右衛門の娘、十九歳のいくの婿として入籍し、明治二十七年四十四歳で家督をつぐと同時に「伝右衛門」を襲名した。

 三十二歳のとき、三男坊として生まれたのが茂吉。茂吉は二十四歳のとき、同郷人で、「青山脳病院」を創立した斎藤紀一の養子となる。これは明治三十八年第一高等学校を六月に卒業し、九月に東京帝国大学医科大学に入る間の七月のことであった。

「茂吉の父」の晩年の逸話がすばらしい。結城哀草果は、『茂吉とその秀歌』(中央企画社)という本で、次のように書いている。

お父さんは牡丹園をつくろうと思い立たれて、山形市外の元木(もとぎ)というところの、有名な牡丹園に牡丹の種子を求めにゆかれた。芽を接ぐことによって育てる方法は、簡便で早く花が咲くけれども、それでは真の愛着が起こらないばかりでではなく、それ以上の珍花を求めることができないというところに、不満を感じられて種子で蒔いて育てることを思いたたれたのである。

 牡丹園の主人は顎に白髭ののびた老人の姿を目のあたりに見て、

『牡丹は種子で蒔いては少なくとも五、六年を経てようやく花をもつものである。あなたの年頃ではとても骨折損になるだろう』

 と真面目に忠告されたのであるが、

『その事なら承知の上だ。十年でも十五年でもかまわない、自分の死後に立派な花が咲いたらそれで本望である。自分は生涯牡丹に丹精をこめて見たいのだ』

 と申されて、種子をもとめられた。牡丹はもう生前に立派な花を咲かせていた。肥料から栽培法までしっかり研究しておられたのには、全く驚くの他ないのである。(中略)

 ともあれ、老年において牡丹を愛した茂吉の父は、期せずして「老いて虚しく生きない」人生をつらぬいたのであるまいか。

▼この記事を読み、私が知っている方で「老いて虚しく生きなかった」人はどなただろうかと思える人は、

「少にして学べば、則ち壮にして為すこと有り。壮にして学べば則ち老いて衰へず。老いて学べば則ち死して朽ちず」の教えを残されている佐藤一斎先生などは『言志四録』を四十二歳から八十歳までに著作されています。さらに思いをいたせば即座に多くの方々が脳裏に浮かんできます。現代人ではと、あの人・この人と思いが広がってきます。

 もっと身近にはと、日ごろはその人から教えられ影響を受けていながらあまりにも身近で「灯台もと暗し」ではありませんが、この機会に暗い部分に目を凝らしてみますと、「ああこの人がいた」という人が私にもいます。

 老いを何歳からだと考えるのも人によって、この歳からだと決められないと思います。社会的通念として定年退職して数年たち、現役時代の肩書が通用しなくなった頃としますと、その歳以後も「虚しく生きない」で精進されているかただと思います。

そこで見落としてはならないものはその年までひたすら修行されていることです。一朝にしてそのような生き方ができるようになったのではないことを忘れてはならないと……。

平成二十三年八月十四日


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他はこれ吾にあらず

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 道元が天童山で修行いた夏のある日のことである。ちょうど昼食が終わって廊下を歩いていく途中、仏殿の前で用(ゆう)という典座(てんぞ)が、これまた椎茸の話であるが、それを乾かしていた。手には竹の杖をもっているが、頭には笠もかぶっていない。太陽はさんさんと照りつけ、敷瓦は焼けつくように暑い。典座は、したたる汗もかまわず、精を出して椎茸を乾かしている。いかにも苦しそうである。その背骨は弓のように曲がり、長い眉毛は鶴のように真白い。聞けば、すでに六十八歳にもなるという。道元は、「そんな仕事は若い修行者にやらせばよいのに、どうしてそれをなさらないのですか」と尋ねた。すると典座は、「他はこれ吾にあらず」――他人にやってもらったのでは、自分がしたことにはならないからですと答えた。そこで、道元はさらに、「あなたのやっている作業は、確かに法にかなっていて、実に見上げたものだと思います。けれども、こんな炎天下で、どうしてそんなに苦しんでやる必要があるのですか」と尋ねた。すると典座は、即座に、

 「さらにいずれの時を待たん」

と答えた。いまやらねば結局やらないことになってしまう、いまやらねば一体何時やるときがあるというのかという。この用典座の修行の厳しい態度を知って、道元は深く頭が下がる思いがし、ただもう沈黙のほかはなかった。道元は廊下を歩きながら、典座という役目も禅修業の大切なかなめであることを、しみじみと、ここで又々悟るのである。

 さきに出会った阿育王山の典座といい、いままた天童山の用典座といい、禅寺では比較的地位が低いと思われる典座までが、このように禅修業の真の精神を把握していたということは、道元にとって大きな脅威であったにちがいない。こうして、禅修業とは何であるのか、本来それはどうあるべきかということを、道元は次第に学んでいったのである。          今枝愛真『道元 坐禅ひとすじに沙門』(NHKブックス)P.44~

 「他はこれ吾にあらず」をスポーツのスキルアップにたとえて見ましょう。他人が猛烈に練習して居るのを傍観していては、自分の運動能力の向上は決して望みえない。

 「さらにいずれの時を待たん」について、私たちはともすれば、怠けこころにまけて、今日は天気も悪いからとか、体調が思わしくないとか理由はいくらでもつけられます。しかし私どもは「いま」を大事にしなければならないと思うのです。人間は生身ですからいまから先の事は考えられないことは論議の余地がないことは明白です。

 「いま・自分に与えられている」ことを無心にできるよな自分になりたいものです。

平成二十三年十二月十二日


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永遠に生きる三つの教訓

 
 芹沢先生の残された言葉…永遠に生きる三つの教訓…彼岸過ぎの春の日差しの中に、芹沢光治良先生の棺が蓋われた。96 歳だった。その日、東京・東中野の芹沢家の庭は、暖かい光が溢れ、木蓮の白い花は天に訴え、咲き乱れる菜の花は地に嘆くかのようだった。家の中は白い花が満ちて、むせかえるような香の中に、見馴れた白髪があった。穏やかなお顔からは、光が射し出るような気がした。辺りの空気が、悲しみに結晶してきらめくようだった。4 月、桜が満開の青山で「芹沢光治良お別れの会」が行われた。私は会社の新研究所竣工式があって、参加がかなわなかったが、中村真一郎、大江健三郎、大岡信らが別れの言葉を述べ、皇室からも弔問があり、人々の献花は引きも切らなかったようだ。宗教を超えた荘厳なセレモニーであり、先生にふさわしい、さわやかな、美しい、暖かな春の日だったという。先生は、東大経済学部、農商務省等におられたから、部分的な私の先輩に当たる。初めて先生の作品に接して約 50 年、芹沢文学愛好会のご縁でその馨咳に接して約 15 年、先生の真摯な生き様から私が受けた感銘は計り知れない。今は遺された数々の言葉に面影をしのぶばかりである。いずれも、私の人生を支えてくれている言葉である。

▼「よく耐えて,時の力を恃むべし」この原義は、ポール・ヴァレリーが、先生の文学への志を聞いて諭されたもので、意味は深い。この言葉は、私の中で発酵し、私なりの我慢の哲学と化している。会社の仕事では、時に修羅場に遭遇する。十余年前の旭電化尾久工場移転のときなど、よく緊急事態に追い込まれた。その際、この言葉を胸に浮かべると、ふ思議に向こう側から扉が開くようにして、問題が片づいたものである。時がたつほど、身についてくる言葉である。

▼「吾れ、ことに於て弁解せず」この原義は、弁解はだれかを傷つけるという、先生独自の高次元のヒューマニズムから発している。私はその次元を少し低くして捉え、私なりの日常の行動の規範の1つとして座右においている。アメリカでこの話をした折、彼らの好きなトルーマンの、゛The buck stops here.゛(人に責任を転嫁しない)と同義語だという展開になったこともある。人の信頼を得る原点にある言葉だと思う。

▼「生きることは書くこと」この原義は、先生が留学、病臥、失意の時、アルプスの夜空から光の鎖が下りるようにして、書くことが使命だと悟られたというものである。この言葉は私の中で、「生きることは何か」という問いかけにシフトされている。いつも利益社会にあって経済原則と競争原理に追われる私は、その問いへの答えが課題になっている。「生きることは何か」というテーゼそのものが私の人生の指標である。こうして先生の言葉を振り返ってみると、今さらのように、先生が人生の師であり、心の羅針盤であったと思う。私同様に先生の言葉に心を洗われ、救われた人は数多いことだろう。もう、先生の声を聞くことはできなくなったが、きらめく光の束のようなすばらしい言葉の数々は残っている。

▼ 「よく耐えて時の力を恃むべし」、「吾れ、ことにおいて弁解せず」、「生きることは書くこと」これら、芹沢先生の三つの教訓は永遠に行き続けよう。何時までも香る美しい花束のようだ。これからも、私の人生を支えてくださるに違いない。そして日本の新しい道を照らしてくれることと思う。心よりご冥福を祈ってやまない。(「財界」 平成5年5月より引用)

▼私 見

「よく耐えて,時の力を恃むべし」:「難に遭遇したとき、耐えがたいほどの不幸を受けた時、その事実はそのまま受取(中々できないことである)り、この言葉を信じて耐えて耐えてまた耐えて力を与えられば時が解決してくれるのではなかろうか。

「吾れ、ことに於て弁解せず」:何か失敗した時は、その理由はいくらでも探せます。しかし失敗した事実は取り戻せません。弁解しないで、その失敗を生かすのが本物のひとではないでしょうか。

「生きることは書くこと」:本文の作者のように「自分が生きることは何か」を課題にしてゆきたい。


参考1:芹沢 光治良(せりざわ こうじろう):(1896年(明治29年)5月4日 - 1993年(平成5年)3月23日)は日本の小説家。静岡県沼津市名誉市民。現在日本ではあまり知られていない作家であるが、海外ではフランスを中心として、ヨーロッパで評価が高い。 晩年には神シリーズと呼ばれる、神を題材にした一連の作品で独特な神秘的世界を描いた。

参考2:先生はフランスに留学しているとき、肺炎で倒れた。肺炎はおさまったが、次は、肺結核だと診断されて、スイスの高原療養所へ送られた。当時の結核は今日の癌のようにふ治の病気だとされていた。私の肺結核は、中学生の時の肋膜炎を根治しなかったことに、原因があると、フランスの医者もスイスの医者も言ったが、取りかえしのつくことではなかった。結核には薬のない時代で、自然療法といって、病人は大気のなかに仰臥して、闘病するよりほかになかった。闘病というのは、死の応接間にいれられて、死の神と自分の生命を奪い合う戦いを、常時するような苦しい生活であった。私はスイスの高原で、雪にうもれながら、一年半闘病した。

参考3:芹沢先生の『人間の運命』の長編小説がある。この小説はかきはじめられてから足かけ八年かかった。この八年間は、この長編だけにこころをそそいでいたから、私の精神には変化のない時間の持続で、実に早く過ぎてしまったように思われる。書きはじめる三年ばかり前に、準備にかかったが、その方が八年間よりも苦しくて、長く感じられた。(参考は先生の『こころの旅』に書かれている)

平成二十三年十二月十七日


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らしさ

 
 会社に通勤していた時の話。

 同じ時間帯のバスに乗っているとき「貴方は学校の先生ですか?」と言われたことがあり、「いえ、会社勤めです」と答えたことがある。どうやら先生らしい印象を与えていたらしい。

 また、ある病院に通院していたとき、受付の女性からも「あなたは先生ですか?」と言われた。なぜ、そう思われましたのですかと聞き返した。

 「貴方は私たちに今日はとあいさつをいつをされますから」との返事でした。先生は「今日は」と挨拶するようである。学区の先生が校門に立って登校してきた生徒にお早う○○君!と言っているのを見かける。又、校外の川べりの防護柵に「お互いに挨拶しましょう」との標語が取り付けられている。

 思えば私たちは、「先生らしさ」「銀行員らしさ」などといったものを感じています。勤めている職業にふさわしい服装・態度が身についておのずとボディランゲジで人々に語りかけているのではないでしょうか。

 「らしさ」に「男らしさ」「女らしさ」のことばもありますが、何となくボーダーレスが進んでいる傾向にあるものを感じています。いいかえれば「らしさ」があいまいにになってきている兆候だと感じる。

▼「らしさ」が崩れた報道をしばしば耳にする。たとえばその職務にふさわしくない「盗撮」「万引き」などをして世間の人の顰蹙をかうようなことがあります。そして他人や店員に見つかったりして警察から取調べされたりする。

 そうすると、たいていの人は「まがさした」と言い訳をしている。それで済むことでしょうか。「まがさす」とは言い訳でしょうが、その「魔」を払い去る工夫はないものでしょうか。

 私が提言したいことは、そんな行為をする前に「瞬間的に少し考えたらどうで」か。たとえば、家庭人であれば「じぶんがこんなことをしたことを妻・子が耳にしたらどんな思いをするだろうか」。また「こんなことをすれば自分の仕事場は失われはしないかと」。そうすれば冷静に戻り「らしさ」にふさわし人にかえるのではないだろうか。

 次には尊敬するひとを持つことだと思います。そのひとが自分のしていることをどんな風に思われるだろうかとおもうことです。そうすれば、ひらめきが頭によぎるでしょう。

▼しかし、上にのべたことは、他人から見られる「らしさ」についての事についてふれましたが、自分が自分をしることは難しいと、よく耳にします。しかし自分の行動についは自分が一番よく知っていることですから、誰に聞かれてもはずかしくないことはできますよネ。

 最終的には「自分らしさ」は何か、これは意外とむつかっしいとおもいます。よほど平素からこころしておかねば自分でつかまえることは相当な努力がいるのではないかとおもいます。またそれをどのように生かすかを絶えず心がけることが大事な課題であると思います。お互いに考えましょう。

平成二十三年十二月二十七日


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四十過ぎての人相

 
 「あの人は人相がよいとか、人相が気に食わない」との話を聞くことがある。少なくとも私は自分の顔を見るのは「ひげ」を剃るときくらいである。ましてや自分の人相などをかんがえたこともない。しかし、人様には色々と言われていることでしょう。時に立派な人にあったりすると「ああ、この人は人相がよいな!」とかんじ、こんなになるまでにくろされてこられたのだろうと思ったりすることからして。

▼山田無文『坐禅和讃講話』(春秋社)P.213 にこんな記述がる

顔のことをいえば、ある人が、大統領リンカーンにその友人を紹介したそうです。なんでもできる、長官にでもなれる男だから、つかってほしいと。ところが、リンカーンが、あつさりことわってきたので、その人が、「あなたは、なぜあの男をことわられたか」とたづねたら、リンカーンが、「人相が気にいらん」と答えたそうです。そこで、「人相は親が生みつけてくれたんで、彼の責任ではありますまい」というと、「イヤ、人間も四十をすぎたら、自分の人相に、責任を持たねばいかん」といったそうですが、おもしろい話だと思います。人間の目的は、人格を完成することであり、人生とはりっぱな人相をつくる工場だと考えます。その意味において、坐禅は人格を完成し、人相をつくる、もっとも良い方法だといえます。それは人間の本質にたちかえり、本来の姿を、すなおに発揮する道だからであります。山田無文『坐禅和讃講話』P.213

▼また安岡正篤『照心語録』P.88~P.90 にリンカンの話が記載されていました。重複しますが全体の文章の流れをつかむために重複記載します。この話がいかに広く伝わっているかということでしょうか。

    桃栗三年柿八年

 "桃栗三年柿八年"というが、人間もふ惑の四十に達すれば、その人なりに一通りものにならなければならぬ。若い時には色々失敗があっても、四十になって人に見切りをつけられるようではだめだ。

 リンカンが大統領の時に、一人の人物を推薦されたが、人相が気に入らぬといって採用しなかった。「人間は四十にもなれば、己の顔に責任がある」とは、その時の彼の名言だが、これは重大なことだ。四十歳にもなれば、その人はその人なりの人相が出来ていなければならぬからだ。

 人間の顔面・皮膚は雨風にさらされてどん感なものと思いがちだが、実は体内のあらゆる機能の抹梢部・過敏点が集まっている。だから非常に敏感で、同時に体内の機能は善悪全てこの顔面に表れる。況や四十歳くらいになれば、それは決定的なものとなる。人相特に面相にその人が現れるというのは真実だ。

 成功や名声を求めないというのは貴い心境であるが、しかし四十、五十にもなれば、少なくとも知己を持つというぐらいにならねばならぬ。誰にも己を知ってくれる者がないというのは本人のふ徳である。我々は名声は求めずとも、それぐらいの反省は持たねばならない。

 人間はとかく人に知られず、世に容れられぬと、すねる。自負心のある者ほどすねて自ら高しとし、逆に己を知らざるを咎め、世にそむいてゆく。しかしこれは大道ではない。人間の反省すべき大事な問題である。

▼禅宗の山田無文老師は、「坐禅を人相をつくる、もっとも良い方法だといえます」と言明されています。東洋哲学者である安岡正篤は「四十、五十にもなれば、少なくとも知己を持つというぐらいにならねばならぬ。」と言われています。ご参考にしてください。

平成二十四年二月十三日


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禅学修業・忘れること坐忘の必要、無我の境

 
 勝海舟(1823~1899)について勝部真長編『氷川清話』(角川文庫)を読んでいると次の文章に出会った。 

  禅学修業 P.197~198

〇 かの島田という先生が、剣術の奥意を極めるには、まず禅学を始めよとすすめた。それで、たしか十九か二十のときであった。牛島の弘福寺という寺にいって禅学を始めた。

 大勢の坊主と禅堂に坐禅を組んでいると、和尚が棒をもってきて、ふ意に禅坐しているものの肩をたたく。すると片端からあおむけに倒れる。なに、皆が坐しても、銭のことやら、女のことやら、うまい物のことやら、いろいろのことを考えて、心がどかにか飛んでしまっている。そこをたたかれるから、びっくりしてころげるのだ。

 おれなんかも、始めはこのひっくり返る連中のひとりであった。だんだん修業が積むと、少しも驚かなくなって、例のごとく肩をたたかれても、ただわずか目を開いて見るぐらいのところに達した。

 こうしてほとんど四か年間、真面目に修業した。この坐禅と剣術とがおれの土台となって後年大そうためになった。瓦解の時分、万死の境に出入りして、ついに一生を全うしたのは、全くこの二つの功であった。

 ある時分、たくさん刺客やなんかにひやかされたが、いつも手取りにした。この勇気と胆力とは、ひっきょう、この二つに養われたのだ。


  忘れること・坐忘の必要 P.220~222

〇 人は何事によらず、胸の中から忘れ切るということができないで、始終それが気にかかるというようでは、そうそうたまったものではない。

〇 いわゆる坐忘といって、何事もすべて忘れてしまって、胸中豁然として一物をとどめざる境界に至って、始めて万事万境に応じて縦横自在の判断が出るのだ。

〇 しかるに胸に始終気がかりになるものがあって、あれの、これのと、心配ばかりしていては、自然と気がうえ、神(しん)が疲れて、とても電光石火に起こりきたる事物の応接はできない。

 全体、事の起こらない前から、ああしようの、こうしようのと心配するほどばかげた話はない。時と場合に応じてそれぞれの思慮分別はできるものだ。

〇 第一、自分の身の上について考えてみるがよい。たれでも始め立てた方針どおりに、きちんとゆくことができるか。とてもできはしまい。元来人間は、明日のことさえわからないというではないか。

 それに十年も五十年もさきのことを、画一の方針でやってやろうというのは、そもそもまちがいの骨頂だ。それであるから、人間に必要なのは平生の工夫で、精神の修養ということが何より大切だ。

〇 いわゆる明鏡止水のごとく磨き澄ましておきさえすれば、いついかなる事変が襲うてきても、それに処する方法は、自然と胸に浮かんでくる。いわゆる物来たりて順応するのだ。おれは昔からこの流儀でもって、種々の難局を切り抜けてきたのだ。

〇 それゆえに人は、平生の修行さえ積んでおけば、事に臨んでけっしてふ覚をとるものではない。剣術の奥義に達した人は、けっして人に切られることがないということは、さきにもいった宮本武蔵の話にてがてんであろうが、実にそのとおりだ。

〇 おれも昔、親父からこのことを聞いて、ひそかに疑っていたが、戊辰戦争の前後、しばしば万死の境に出入して、始めてこの呼吸がわかった。かの廣島や品川の談判も、ひっきょうこのふ用意の用意でやり通したのさ。

▼ふとおもいだしたのは、以前、萩市と会津若山の和解が報道されていたのを。約140年にわたる恩讐とでもいうのでしょうか。 

関連:会津藩と萩

その原因は「戊辰戦争」によるものでしょう。

「戊辰戦争」は1868年1月、薩摩・長州両藩兵を中心とする新政府軍と、旧幕臣や会津兵を中心とする旧幕府軍とのあいだに、京都の近くで武力衝突がおこった(鳥羽・伏見の戦い)。これに勝利をおさめた新政府軍は、徳川慶喜を朝敵として追討し、江戸へ軍をすすめた。新政府軍を代表する西郷隆盛と旧幕府側を代表する勝海舟との交渉により、同年4月、江戸は戦火をまじえることなく新政府軍により占領された。一部の旧幕臣はなおも抗戦し、会津藩をはじめとする東北諸藩も奥羽越列藩同盟を結成したが、つぎつぎに新政府軍に敗れ、同年9月、はげしい戦闘のすえ、会津藩も降伏した。

 翌年5月には旧幕府の海軍をひきいて函館を占領していた榎本武揚らが、五稜郭の戦いに降伏し、ここに戊辰戦争と呼ばれる一連の戦いはおわり、国内は新政府のもとに一統一された。 

 新政府軍を代表する西郷隆盛と旧幕府側を代表する勝海舟との交渉により、同年4月、江戸は戦火をまじえることなく新政府軍により占領された。この時の事前の西郷隆盛と海舟との会談によるものである。

 『氷川清話』には海舟と西郷隆盛との関連について多くの事が述べられています。 

▼私見:海舟のお話を読んでいるいると、禅僧の法話の席に坐っている想いがする。海舟のいう心境は私には遠いかなたにある。

参考:ざぼう【坐忘】(仏)静坐して雑念去り絶対無差別の境に入ること。(広辞苑)


  無我の境 P.225~226

〇 何事をするにも、無我の境に入らなければいけないよ。悟道徹底の極は、ただ無我の二字にほかならずさ。いくら禅で練り上げても、なかなかそうはいかないよ。いざというと、たいていのものがみだれてしまうものだよ。

 切りむすぶ太刀の下こそ地獄なれ踏みこみゆけば後は極楽

 とは昔、剣客のいったことだ。歌の文句は、まずいけれども、無我の妙諦は、つまり、このうちに潜んでいるのだ。

 余裕、思慮、胆力などといっても、しかしこれはその人の天分だよ。天分というものは争われないものだ。十七、十八、十九、血気盛りのこの三年の間、撃剣の修業をしたときに、いろいろ禅で練ってみたがの、おれの修業は、たいそう役にたったよ。


27

煙突を立てよう!

 
 ある病院の緩和ケア病棟の皆様が企画立案された「虹の会」のスタッフの臨床心理士の方からうかがった言葉です。

▼いまどき煙突を見ることは少なく、火力発電所の高い煙突くらいでしょうか。銭湯もほとんど消え去っているからみる人も少ないでしょう。豊かになった現在では電気・ガスによる風呂をどの家庭でもすえつけられている。

 わたしが子供のころは少し裕福な家庭では自宅に風呂があり、たいていは薪を燃やすものであったから煙突を立てていた。これがないと薪がよく燃えないからです。銭湯も私の故郷では2軒ありました。自宅に風呂がある家は少なく、湯浴には銭湯を利用するか、隣近所の家の風呂にいれていただいていました。

▼煙突がないと燃えないでくすぶり、風呂全体が煙りに包まれてしまう現象を心理学的な見地から「私どもは同じく愛する家族の誰かを亡くされた者同士が心のなかに持っている様々な悩みを話し合うことにより精神的に癒され、供養でき、生きる力が得られる」ということからの発想で、「煙突を立てよう!」の名言を臨床心理士の方が物静かにはなされました。

 家族をなくされた遺族のケアまでしていただくありがたい会であり、私もその一人として感謝を心から申し上げます。

▼現在は「人間関係希薄時代」と言われています。家族が餓死するとか・孤独死などもその極限の状態かもしれません。その対策としても、私はこの発想を応用して人に知られたくない悩みごとがあれば、心を許せる人と話合うことが出来る関係を作り上げてはと思いました。

 最後に、もう一度有り難うございました。

平成二十四年二月二十三日、平成二十六年一月三十一日再読補足。


28

良寛ー山中の沈黙行ー

 
 中野幸孝次『清貧の思想』(草思社)を読んでいますと「良寛、山中の沈黙行 独り奏す没絃琴」がありました。P.54~57

 たまたま中野さんの本から「良寛、山中の沈黙行」を読みまして、良寛さんの涙の思いが良寛さんの「行」からのものだと推測いたしましたので、紹介します。

▼大忍国仙の死後、寺を出て玉島を去ったあとの良寛の足跡はよくわからない。九州や四国にも渡ったとことがあるというが、ともかく諸国の名僧知識を訪ね、自己の心境を深めるため、永い諸国行脚あんぎゃの道についたものらしい。そのころの良寛についての信頼しうる報告が、たまたま江戸の近藤万丈という国学者の手記にある。これは良寛の修行ぶりを知る上にいろいろと示唆を与えてくれる貴重な証言だから、吉野秀雄が現代語の訳したものを以下に掲げる。(中の解説も吉野秀雄、ただ仮な遣いは改めた。)

 自分の若い頃(近藤万丈の若い時分)、土佐の国へいった時、城下から三里ばかりこっちで(これは高知の東三里のことであろう)、雨もひどく降り、日も暮れた。道から二丁ほど右手の山の麓に、にすぼらしい庵が見えたので、そこへいゅいぇ宿を乞うと、色青く顔の痩せた坊さんが(これぞ良寛である)、ひとり炉を囲んでいたが、食いものも風をふせぐ夜着も何にもないという。この坊さん、はじめに口をきいただけで、あとは一言も物をいわず、坐禅するでなもく、眠るでもなく、口に念仏唱えるでもなく、こっちから話しかけてもただ微笑するばかりなので、自分はこいつぁてっきり気狂いだと思って、その夜は炉端ろばたにごろ寝をしたが、明け方目ざめてみると、坊さんもやはり炉端に手枕をしてぐっすり寝込んでいた。あくる朝も雨がひどくてでかけられないので、今しばらく宿を貸して下さらぬかといえば、いつまでなりとも答えてくれたのは、きのうにまさってうれしかった。巳ノ刻過ぎ(正午近い頃)、麦の粉を湯がいて食わせてくれた。さてその庵の中を見廻すと、ただ木仏が一躯立っているのと、窓の下に小机を据えて本を二冊おいてある外は、何一つ貯えを持っている様子もない。机の上の本は何であろうかと開いてみれば、唐本の『荘子』である。その中にこの坊さんの作と思われる詩を草書で書いたのが挟んであった。自分は漢詩は習わぬので上手下手は分からぬが、その草書は目を驚かすばかり見事なものであった。そこでおい(背中に負う脚のついた箱)の中から扇子を二本取り出して、梅に鶯の絵と富士山の絵とにさんをもとめたところが、たちどころに筆を染めてくれた。その賛は忘れたが、富士の絵の賛のしまいに、「かくいう者はぞ。越州(越後)の産了寛(良寛の書き損じか、記憶違い)書す」とあったのを覚えている。

▼これは近藤万丈が相手を何者とも知らずに体験だけを書いているので、貴重な証言でもあり、また凄みがある。良寛はそのときみずからに沈黙の行を課していたのであろうが、それにしてもその暮しぶりの徹底した無一物ぶり、沈黙ぶりは凄じい。吉野秀雄はそれについてこう言っている。

▼「良寛は、今や肉げ、肩ゆがみ、顔面蒼白の壮年乞食僧と化したが、しかもあくまで沈黙を守り抜こうととしている。この沈黙は無気味だ。じいんと静まり返ったこの沈黙は恐ろしい。なぜなら、彼の沈黙はおのずから彼の真理追及の難行苦行がいかに充実し、透徹していたかを現示する以外のなにものでもないからだ。」

 実際そうであろうと思う。旅人の目によってちらりと垣間見られた良寛の姿は、その小さな映像を通じてその向うに当時の良寛の課した修行のきびしさと、内的生活の充実を感じさせるに充分である。良寛といえども一日にして成ったのではなかった。大忍国師に印可を授けられたあとも、ひたすらこういう己が心をのみ凝視する修行をつづけて、ようやくわれわれが見る良寛を作りあげていたのだ。外から見ればただの乞食坊主にすぎないが、内にはゆったりと清らかな水が流れ、没絃琴ぼつげんきんの調べに聴き入っている透徹の人に。

 静夜 草庵の裏(うち)

 独り奏す 没絃琴

 調べは風雲に入りて絶え

 声は流れに和して深し

 洋々 渓谷けいこく

 颯々(さつさつ) 山林を度る

 耳聾漢(じ ろうかん)に非ざるよりは

 誰か聞かん 希声(き せい)の音

 何もない貧しい草庵にあって、良寛の心の中にはそいう音のない琴の音がひびき、風に飛んで消え、流れと和して妙なる諧調をなしていたのである。解良栄重にいう「神気内ニ充テ秀発ス」とは、そういう内的充実のことを言うのであろう。この没絃琴の調べは山中孤独の草庵だからひびいたのであって大伽藍に住む金襴の僧には決して聞こえない性質の音であった。

平成二十四年二月二十七日


29

1世帯数の平均人数1.98人

 
 東京の1世帯当たり人数、初めて2人割る

 東京都の1世帯当たりの平均人数が初めて2人を割り、1・99人(1月1日現在)になったことが平成24年3月15日、都の調査でわかった。

 高齢者の一人暮らしが増えているためで、都は「減少傾向は続く」と予測している。

 都が調査を始めた1957年は1世帯当たり4・09人だったが、核家族や単身世帯が増え、66年には2・97人と3人を切った。一人暮らしの高齢者は1980年の約10万人から、2010年には62万人に。都は、20年には80万人を超えると推測している。

 総務省の調査では、昨年の全国平均は2・36人。最低は都の2人で、2番目に低いのは北海道の2・06人だった。

▼以上のニュースで自問自答を試みた。

――日本の都市の人口はいくらだろうか?

「それはインターネットで調べたらどうですか」

――調べましょう

日本の人口上位100都市2005年を知らべました」

――お前の住んでいる人口はいくらだった。

「私の住んでいる岡山市の人口は全国で20位(政令指定都市)で、696,172人であるあることが分かりました」

――そうすると、何が分かりましたか?

「東京都の2010年には一人暮らしの高齢者は、ほぼ岡山市全員の人が一人暮らしの計算になります」

――どんな感じがしますか

「本当に多くのひとが一人暮らしをしていることがよくわかります。近所にも一人暮らしの人がいらっしゃる。どんな思いで暮らされているのだろうか、話相手もいないで、特に夕時の淋しさはいかばかりかと。このように数字で表されてみても救いにはならないのしょう。感情を抜きにして、日本の将来の政治を初めとして、将来の日本経済に計り知れない影響を及ぼすことでしょう。個人的にはすでに始まっている、孤独死の痛ましい死がある。また、対策としては相続対策、財産の整理、死に支度などが論議されているようですね。何となくさびしいですね。

――そうですね私も同じおもいがいします。

平成二十四年三月十八日


30

雨モヨシ 晴レルモ マタヨシ

 

 平成24年6月8日、中国地方は梅雨入りしたと宣言された。一日中雨であった。翌日は晴れ間のある曇り空であった。午前中、買い物にでかけた。

 その時、「雨モヨシ 晴レルモ マタヨシ」と思う。何か禅語を思わせる佳い言葉のような趣がある。「あるがままに受取ろう」という言葉が脳裏に浮かぶ。さらに、二 宮 尊 徳 翁 の 歌の「声もなく香もなく天地は書かざる経をくりかへしつゝ」がと……。

▼東井義雄『根を養えば樹は自から育つ』(柏樹社)に表題の言葉に近い言葉が書かれていたことを思い出した。ページをめくってみると、P.186 に

 米田啓祐という先生がありました。遠足だとか、運動会だとか、私が行事を計画してもらうと、不思議に雨が降り、「雨降り校長」といわれる私でしたが、退職する年の春の体育会を計画してもらった前日、測候所が風雨注意報を出しました。その日、放課後、郵便物の投函に出かけて学校に帰りかけていると、米田先生が、受け持ちの六年生の子どもたちに、マイクで話している声がひびいてきました。

 「もしも、明日、雨が降っても、

 天に向かってブツブツ言うな。

 雨の日には、雨の日の生き方がある」

という声がガンガン響いてくるのです。私は思わず立ちどまってそのことばを聞いたことでした。町の人たちの中にも、立ちどまって耳を傾けている人がいました。

 「雨の日には、雨の日の生き方がある」

 ほんとうにそうだと思いました。もしも、雨が降ったら「雨のおかげで、こんないい一日にしていただきました」と言えるような生き方をするばかりだと気がついたら、降りたければ降ってください、何事も、両手で受けて立つ覚悟が湧いてきて、急に心が軽くなってきました。次の日は、ふ思議にいいお天気にしてもらいましたが、事にあたって、ブツブツ言わないで「両手で受けて立つ」というものも「男の生き方」でしょう。

 今年の梅雨も元気に過ごしましょう。

平成二十四年六月九日

 


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雨にぬれる曹源寺の心字池

「汝 いずこより来たり いずこへと旅せんとするか」


東井戸義雄『根を養えば樹は自ら育つ』を開くと

 表題の文章と出会う。その記事の冒頭を写します。P.14

 私の家の玄関に、今、農民詩人村上志染(しせん)氏の色紙を掲げています。涼しそうなくわいの葉っぱが三葉描かれており、それに、毛筆で志染氏の詩が書いてあります。

 方一尺の天地

 水馬(みずすまし)しきりに 

 円を描ける

 汝 いずこより来たり いずこへ旅せんとするか

 ヘイ

 忙しおましてナ

とあります。志染氏がみずすましに「おまえはどこからやってきて、どこへ旅しようとしてそんなに忙しそうにしているのか?」と尋ねられたのでしょう。すると、みずすまし「そんな問答なんかしている間はありません。今、わたしは忙しいんですよ」と答えたというのでしょう。

▼「方一尺の天地」とは「せまい日本」ということでしょう。「みずすまし」とは「わたくしたち」のことでしょう。「しあわせ」欲しさに、考えることも忘れて「ヘイ、忙しおましてナ」と、ぐるぐるまわりをやっている私たちのことを、志染氏は、「これでいいのかな?」と尋ねて下さっているのではないでしょうか。

▼お釈迦さまは、この「ぐるぐるまわりのことを」輪廻(りんね)とおっしゃっているのでしょう。まっすぐに、ただひたすら、幸せを求めて努力しているつもりで、生まれかわり、死にかわり、性こりもなく、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上という六つの世界(六道)をぐるぐるまわりをしているにすぎないではないか、早く、このぐるぐるまわりの世界から解放(解脱)してくれよとおっしゃって、解放の方途をを教えてくださったのが「仏教」だと、私は考えています。そして、私たちが、この六道輪廻からぬけだすことができないのは、貪りと瞋りと愚かさ、思いあがり(慢)と疑い、邪見・辺見・身見(イデオロギーの狂い)に、ひきまわされいるからだよ、と教えてくださっているように思われます。

▼池の水面をスイスイとすべるように泳ぐさまをこのように表現した志染氏の詩の心は東井義雄さんに強く訴える物があったと拝察いたします。

 子供のころ写真のようなものを「みずすまし」とよんでいた。あまり気を付けて見ていなかった。見たいものだとおもい、さてどこに居るだろうかと考えますと、岡山市曹源寺の心字池はどうだろうかと思いつき、小雨の中を傘をさして出かけました。

▼確かにいました。その池にも雨が降り、水面浅く悠々と泳ぐ鯉、対象的にせわしなく動くみずすましを見ながら、東井戸義雄先生の教えを思い、しばらく池のほとりで静かな静かな雰囲気のなかに時のながれに我が身を任せていました……。

▼東井戸義雄先生は明治45年 兵庫県但東町佐々木の浄土真宗の寺に生まれる。平成3年4月 逝去される。

平成二十四年六月十二日


32

『一隅を照らす』 神渡良平

 
 神渡良平(かみわたり りょうへい)著『安岡正篤人間学』(処女作)を読まれた読者からの読後感想を神渡氏に送られた文章に「自分と同じ時代に、人間としてこれほど深みのある、いぶし銀のような魅力の人がいたかと思うと、自分は人生を空費してしまったと後悔する。このことに気付いたからには、これからの人生はもう空費したくない。がんばりたい」

 そういうお手紙の一つに、大阪府堺市にある安心堂というお豆腐屋さんの橋本太七さんというご主人からのもありました。

▼私は『安岡正篤の世界』に、住友本社の常務理事をされており、住友の中興の祖とも言われていた田中良雄さんの、(東大在学中、人を救うべく線路に飛び込んで、片足首を失いました。身体障害者なんですが)詩を紹介していました。どういう姿勢で仕事に取り組むべきか、自戒のために書きとめられた「私の願い」という詩です。ちょっと朗読してみます。

 「私の願い」

 一隅を照らすもので

 私はありたい

 私の受け持つ一隅が

 どんなに小さい

 みじめなはかないものであっても

 悪びれず

 ひるまず

 いつもほのかに照らしていきたい

▼「一隅を照らす」 橋本さんはこの詩に心打たれ、それ以来その詩を書き出して、ご自分が毎朝四時起きして豆腐作りに入る時、朗読して心神を清めておられると言うのです。

「人様の体に入り、その人の命となるような食物を作らせて頂くからには、私は、心身ともに清めて、この大豆と天然にがりで、いいお豆腐を作らせて頂けるように、拝んでスタートしたい。それでこの詩を始業前に朗読して、自分の心を清めています」

▼そういう感じのお手紙を読んで感じるところがあり、どうしても橋本さんに会ってみたいと思い、堺まで行きました。訪ねてみると、堺市新金岡のショッピングセンターの中にある、一軒だけの小さなお豆腐屋さんでした。ショウケースを一個、あとは人一人通れるくらいのスペースしかありません。バックヤードも三坪ぐらいしかないような小さなお店です。場所がありませんから、工場から帰ってきたばかりの長靴姿のご主人とエプロン姿の奥様と、そのバックヤードで話をしました。

▼橋本さんはこういうことをおっしゃいました。

 「私は以前ある会社の工場長をやっていました。その頃はうちの高校生の息子も、うちの親父は何々会社の工場長だ、てな感じで、ある意味で誇りを持っていてくれました。ところがあることがあってその会社を辞め、私は伯母がやっていた堺の豆腐屋を引き継ぎました。あえて一介の町の豆腐屋になったのです。息子にはそれが理解できなかったようです。息子の口から親父のことを語ることがなくなっていきました。学校に行っても、友達にオレの親父は豆腐屋だよと言えなかったのです。そのことが私はずっと気にかかっていました。

▼ところがある朝、私が仕事に入る前に、

 『一隅を照らすもので私はありたい』と、この詩を朗読して自分の心を清めていると、その姿を起き出してきた息子が垣間見たのです。ショックだったようです。

 『あー、オレの親父は、こんな姿勢で豆腐を作っていたのか‥…』

 そう思ったとき、親父に対する尊敬の念が再び蘇ってきたのです。学校に行っも、オレの親父なあ‥‥てなことを言い始めたんですよ

▼私はそんな話を聞きながら、ぽろぽろぽろぽろ泣けてなりませんでした。お豆腐一個百円か二百円、あさの味噌汁に入れたら無くなってしまうようなお豆腐。わずか半日の生命の商品です。そのお豆腐に自分の真心のすべて傾けて作る。世の中は挙げて、やれ前年度に比べて売り上げがどうなったとか、チェーン店が何店になったとか、「量」の拡大ばかりを求めがちな世の中にあって、自分が作る商品にどれだけ心がこもっているか、まずサービスの質を問題にする、そんなお姿に接したときに、人間の生き方の原点を教えられた気がして、私はおいおい泣きました。

▼この前、橋本さんから電話がかかってきました。

 「神渡さん、松下電器のクーラーを作っている部門の本部長さんから電話がかかってきて、お豆腐を百丁も注文があったんですよ。それでこっちがびっくりして、一体何事ですかと聞きましたら、お宅のお豆腐を食べながら、われわれの商売の原点を話し合ってみようと思って……とおっしゃるんです」

 橋本さんは、私はただもう真心を込めてお豆腐を作っているだけなんですけどとおっしゃいました。

▼先程話しました山下相談役にもクール宅急便でこの安心堂のお豆腐をお送りしたんです。そうしたら、この豆腐を気に入っていただいたようで、大阪の北の方の千里に住んでいらっしゃるんですけれども、奥様は千里からわざわざ堺までお豆腐を買いに来られるそうです。私は却って悪いことしたなあと思っているんですけれども、それぐらいに橋本さんご夫妻の届けられる真心が人々の心に共感を呼んで、あの豆腐を食べたい、という感じになっていくのでしょう。私はその話を聞いて、よかったですねと心から喜んだような次第でした。

▼「一隅を照らす者、これ国の宝なり」

 橋本さんも自分の信条とされた「一隅を照らす」には私たちの生き方の原点があるような感じがいたします。一隅を照らす、一つの隅を照らす。先程お話ししました安岡先生も、ご自分の人生訓として、一隅を照らす「一燈照隅、万燈照国」を座右の銘としていらっしゃいました。

▼人間の常として、大言壮語しがちです。自分の足許も見ずに、天下国家はどうだこうだ、世界情勢はどうだこうだ、会社の方針はどうだこうだというふうに言いがちです。けれども、人間の出発は自分の足許を見、一歩を踏み出すことからしかありえない。天下国家のことを論じたとしても、まだそれには責任を持たされていない。だからまず自分が責任を持たされている範囲の中で、自分の真心をすべて尽くして生きることが肝要です。

▼一隅を照らす、一つの隅を照らすような歩みをまず自分がコツコツ続けたときに、その生き方に共鳴される方があって、私もがんばりたい、私も真心を傾けて歩みたいと言い出される。こうして共鳴される方が次第次第に増えていき、二人になり、三人になり、五人になりして、一つともしびの灯火が、万の灯火、万灯になる。

 安岡先生はそういう意味のことをおっしゃっています。

▼「だから、大言壮語することを止めよう。まず自分の持ち場において、がんばっていこう。見る人は見ている。そういう人は必ずより大きい範囲、より大きな責任分担を与えられて、より多くの人たちの上で仕事をしていくようになっていく。そして、いずれは国の運命を託されるような人間になっていく。でも最初は自分の足許を忘れてはならない」と、載っていました。

橋本さんのお店:安心堂があります。


 「一隅を照らす」は伝教大師の言葉

比叡山延暦寺を開いた伝教大師、日本の精神文化の源流を形成した最澄(伝教大師)の言葉です。

「一隅」とは、自分の居るその場所のことです。

お金や財宝は国の宝ではなく、家庭や職場など、自分自身が置かれたその場所で、精一杯努力し、明るく光り輝くことのできる人こそ、何物にも代えがたい貴い国の宝だと思われます。

平成二十四年六月十七日


33

「郷愁の地蔵菩薩」

 
 西村惠信述、抜粋を、親しくしている方からメールで送られましたので、お読みください。

 地蔵菩薩は「お地蔵さん」と、わたしどもに身近な菩薩で、路傍にあちこち祀られています。

▼西村惠信さんが、大学を出て南禅寺の僧堂でお世話になっているとき、柴山全慶老師が面白いことを言われた。お前さんらなあ。地蔵さんというのはなかなかご苦労さんなことじゃ。夕方になると、野辺に立っている地蔵さんのところへ金持ちの旦那がやってきよる。「お地蔵さん、どうか今夜も泥棒が私の家の蔵を狙って、忍び込んでくるようなことがございませんようにお守りを願います」と、懇ろにお参りをする。だが地蔵さんは、よし引き受けたとも何ともおっしゃらない。ただじっと黙って立ってござるだけじゃが、それでも旦那の方はそれで満足して帰っていくじゃろう。

▼しばらくして辺りが薄暗くなってくると、今度は頬かむりをした泥棒がやってきて、「今夜はあの金持ちの蔵へ入りたいので、万事よろしく頼みます」とお願いする。地蔵さんはやっぱり沈黙。人様のものに手を出してはいかんとか、見つからぬように応援してやろうとかは言わんわけだ。だけど泥棒は地蔵さんが願いを聞き届けてくれたという気持ちになって帰っていく。

 お地蔵さんのように、両方の勝手な願いを聞いてやるのはなかなか大変なことじゃないか。じゃから黙って聴いているより仕様がなかろう。それでいて旦那の方も泥棒の方も救われるというのじゃから、これは大したハタラキとせねばなるまいねえ、とまあそういう話であったように思う。

 まだ私は入門早々で頭の剃りたての新到。坐禅にも馴染めない頃の話で、ただなんとなく面白く聞いていただけであったが、この頃になって思い返してみると、これはなかなかに味のある話であったことになる。

▼たとえば『維摩経』というお経は、大乗仏教の中道思想を実にドラマチックに説いたものであるが、特に「入ふ二法門品」という章では、仏弟子たちが維摩居士に向かって「不ふ二の法門」、つまりいずれにも偏らない中道ということについて自分の考えを述べる。そして最後に文殊菩薩が、「みんなそれぞれが説いた説明はそれでよいが、みんなが説いたものはやっぱり二つになってしまっていると言わなければならない。なんにも説かず、無語、無言、無説、無表示、しかも説かないということも言わない、これがふ二に入るということではないか」と言うのである。そう言っておいて文殊は維摩居士に、「わたしたちがそれぞれ申し上げたのですから、貴方もふ二の法門について何か説いていただきたいものですが」と言うと、維摩居士は口をつぐんで一言も言わなかったと説かれている。

 これが有名な「維摩の一默、雷に似たり」と言われるもので、維摩居士はただ黙って居られたというが、その含む意味の恐ろしさは百雷が同時に鳴り響くほどであったというのである。そう言えば仏陀も、外道たちの出した十四の形而上学的質問に対して、ただ沈黙するだけで、答えを与えなかったと伝えられ、これを仏陀の「無記」とか「無記答」というわけであるが、いずれにせよ沈黙というものも、人によっては大変に恐ろしいものになるらしい。

 黙っているということは判断中止ということでもあり、それが自分の答えを出せないからということにもなれば、無責任として批判を受けるほかはないのだが、それが雷のように相手を恐れさせるようなハタラキを持つためには、よほど内容のある「一黙」でなければなるまい。果たしてお地蔵さんの沈黙がこれと同質であるかどうかは別として。

参考:私は良寛―山中の沈黙行―を取上げています。お読みください。メールありがとうございました。

平成二十四年十月二日


34

老いは病ではない

 
 「新時代の医療文化をどのように構築していくか」というシンポジュウムに参加した。そのときに、免疫学者の多田富雄先生が言われたことが強く印象に残った。

 それを端的に言うと「老いは病ではない」ということである。

 多田先生は「老いの様式」(誠信書房)という書物も編集されておられ、それには興味深い論議が展開されていて、一度お考えを聴きたいと思っていた方である。

 というのは、本欄の連載のため、老いに関する書物を読み、そのなかには生物学的な本を読んだのだが、なかなか理解しがたいので、直接にお話をうかがいたいと思っていたのである。

 先生のお考えでは、「老い」というものは生物学的に研究するとき、生物の発生や分化などの場合のようにすっきりいかないらしい。端的に言えば、現代の科学をもってしてもわからないことが多いらしい。

   それにもかかわらず、われわれは「老い」を一種の決まりきった「病」のように考えて、年をとれば「ぼけて死ぬ」と非常に単純な図式で考えすぎていないだろうか。

 多田先生の言葉をお聴きしていると、「よし、それほどわからないものなら、自分の生き方で老いに挑戦してみよう」よいう気持ちさえわいてくるのである。

 おいを死に至る「病」としてエスカレーターのように考えずに、死にいたるまでの未知の道を探索してやろう、と考えを多田先生に与えられたように感じた。

私見:私はホームページに「老い」てからは、「未知の道」あるいは「未見の道」だと考えてきている。毎日が新しい体の変化に気づかされている。

平成二十五年三月十日


35

高校生の不登校

 
 高校に勤めていた時、「大阪から電話です」と知らせがあった。

 「私は、お世話になつている○○の父で、突然の電話で失礼します。大阪の大学に勤めている医師です。子供の学校への登校状況はどうでしょうか?」とのおはなしでした。

 「お母さんと子供さんと何度かお話をしました。話をしたときは2~3日は学校に来ますが、それからは出てこない状況のくりかえしです」と実情をおはなししました。

 電話を切る前に「今日、お電話したことは家のものには知らせないでください」といわれました。

 その後は登校日数不足のために留任となりました。私は「こんな生徒もよい方向にむけることが出来ないこと」に力不足を感じました。

 もし、再度、同じ場面にどうすればよいか自信がありません。私も小学校1年生のときに不登校になっていたそうです。その理由は単純であったそうです。したがってすぐにかいけつしました。

 しかし、高校生くらいになつてでは、その原因をたやすく見つけ出し、解決できるものでしょうか。

▼河合隼雄『「老いる」とはどういうことか』に「心配事の処方箋」の項目をよみましたので、紹介しますと同時に疑問におもいました。

 「この孫のことだけが心配で、夜も眠れないのです」と、年配のある男性が、私を真剣にみつめながら話される。

 それも当然で、孫の高校生は、学校に行かないで家にこもったきりでである。夜と昼が逆転してしまって、昼は眠り、夜になると起き出して冷蔵庫をあけて好きなものを食べ、深夜放送を聴いたり、何か本を読んだり、紙切れに何か書きつけたりしている。

 たつた一人の孫のことを祖父が心配するのも当然のことである。一人娘に養子をもらったが、孫ができてすぐにふ都合なことがあつて離縁した。その後、祖父・母・息子という三人家族で、祖父はひたすら孫の成長を楽しみに生きてきた。

 幸か不幸か財産がだいぶあったので、祖父はそれほど仕事をする必要もなかった。そこで、祖父のすべてのエネルギーは孫の養育にそそがれたと言ってよかった。

 孫もそれにこたえて、高校入学まではほんとうにいい子もだった。勉強もよくできた。それが、今はこのありさまなのである。

 「お孫さんのことはご心配でしょう。お察します。しかし、それだけが心配というよりも、もう少し他にも心配することを見つけられてはいかがですか」と私は申しあげた。

 人間、少し視野を広げると心配事はいっぱいにあるはずだ。それなのに、「孫だけ」に集中されるとたまったものではない。孫はその重荷に耐えかねて、歩けなくなくなっているのである。

▼祖父には心配ごとが対策になったかもしれませんがこの記事には孫のその後の「家にこもつたきり」の状態は記録されていない。

▼「家にこまもつたきり」の子供さんの報道記事はは沢山ありますが、解決策は一人一人によって違いがあるとおもいます。なにか子供が立ち直る機会をそれとなく注意深く、じっと見まもっていくより方が対策になる思われる。これを実行されている家族もあることを付け足しておきます。

平成二十五年四月二日


36

前向き人間に共通する強力な12の原則


今できることから始めよ!』アラン・L・マクギニス著 稲森和夫監訳 三笠書房

 どうすれば、簡単にくじけたり失望したりせずにいられるのだろうか。また、どうすれば、自分の夢をあきらめずに、成功をこの手に勝ち得ることが、できるのだろうか。

 そこで、私は前向きな姿勢を身につけ、しかも、それを保ち続けるための方法を見つけたいと、あらゆる心理学の本に目を通した。しかし、私にわかったのは、机上の分析からは何ら具体的な実行法を得ることが、できないということであった。そこで今度は、成功を遂げた人物の人生を分析してみることにした。

▼こうした研究を続けた結果、私は前向き人生を送る人に共通する「非常に強力な原則」を発見した。

 それが次に挙げる12の特徴である。  

「前向き人間に共通する強力な12の原則」(P.24)

1  どんなトラブルや逆境に出会っても決して動揺しない

2  難題には粘り強く対処し、その部分的解決から始める

3  自分の将来を決めるのは自分自身だ

4  常に心身ともに自分をリフレッシュさせている

5  悲観的で否定的な思考の悪循環をきっぱりと断ち切る

6  どんな小さな事柄にも大きな喜びを見出す

7  頭の中で強く成功のイメージをし、それを現実化させていく

8  明らかに不幸と思われるときでさえ、生き生きと活力に満ち溢れている

9  自分は無限の可能性を発揮できる。という強い信念を持っている

10 自分の周囲を多くの愛で満たす

11 会話において明るい話題の選択を好む

12 どうしても変革不可能なことは無理せずそれを受け入れる

▼こんな素晴らしい資質を備えた彼らは、特別な人間なのであろうか。否、これら前向き人間たちは生まれつき陽気な性格というわけではないし、ずっと順風満帆な人生を過ごしてきたわけでもない。むしろその正反対と言っていいだろう。大抵は大変悲惨な環境の中で成長し、一度や二度は、立ち上がれないほどの敗北を味わっている。しかしそうした人生を歩みながらも彼らは挫折感に打ち勝ち、活力あふれる毎日を送っているのである。人によっては、こうした積極的で前向きな生き方こそ大変自然なことで、特別な努力は必要ないという場合もある。だが多くは考え抜いたあげくに立てた計画に沿って、悲観的人間から前向き人間へと見事に変身を遂げていくのである。

▼アラン・L・マクギニス(1933年生)

 アメリカを代表する精神科医 人生論のベストセラー作家として著名。 

 行動の仕方にプラス思考を加えることで、人生の可能性がどのようにもふえ広がることを説き続けている。

著書に『自信こそは』『ベストを引き出す』『フレンドシップ』(以上は日本実業出版社)など多数。

感想1:以上の記事は尊敬する方から、メールで教えたいただいたものです。日本の精神科の先生を多くは知りません。漱石文学における『甘えの研究』と土井 健さん、『「生きがい」とはなにか』そのた著作されている小林 司さんなど、非常にたくさんの本を読み、人物の研究をされているのは、精神科医師の研究手法のように思います。「文は人なり」といわれています。著作を読めば、その人の人物像が読み取れるからでしょうか。アラン・L・マクギニスさんもその手法で研究されて以上の成果をえられたものではないかと。

▼彼は精神科の医師であるから、当然のこと憂鬱症の治療にもあたっている。

 例えば、「憂鬱症の治療に一つの効果的な方法がある。それは毎日20分から30分間定期的に患者を観察し、通常の精神セラピーでなく患者の気分のよし悪しに関心を示し、思いやりのある好奇心で対応し、十分気をつけながら様子を見るのである。明らかに、失意の人々に対しては、一貫した関心と思いやりを見せることほど大切な方法はないのだ」

 「治すことはできなくとも助けることや慰めることは出来るという幅のある生き方が必要である。」

 「活発に身体を動かすこと、行動は感情に従っているように見えるが。が、本当のところ行動と感情は同時に進行しているのである」

 人生に「絶望的情況」は絶対にあり得ない。情況に絶望する人間が存在するだけだ。  具体的な一例として、

 「目標に向かって情熱を燃やしている人の齢は不問だ!」

 人間の心と体の成長能力についてのこうしたデータは、年配の人々の憂うつ症の治療に大いに関連してくる。老人の十五パーセントは憂うつ症にかかっているといわれるが、これは全人口の疾患率の二倍にのぼる。(現在の日本では、はるかにこの数値より大きい。)

 われわれは年をとるにつれ、もう自分には何もできないのではないかという恐れをもつようになりやすい。それを考えれば、この結果は驚くにあたらない。実際、誰でも年をとれば力の衰えはでてくる。たとえば敏捷性一つとっても、若いころよりは失われてくるものだ。

 しかしこうした蓑えを嘆くのであれば、もっと前から嘆かなければならないのだ。目は十歳で機能の成長が止まる。耳は二十歳前後である。三十歳までに筋力、反射神経、細胞の再生力など、すべてピークをすぎてしまう。

 しかし、その一方でわれわれの脳は五十代になってもまだ若いのである。そして八十を迎えるころには経験という財産を積んだ分だけ、三十代よりも生産的な精神力をもつる。・・・・・・

 八十八歳になるハリー・リプシング弁護士は、六十年近くかかって築き上げた名声を捨て、新しい事務所をオープンした。家族やまわりの者は、こぞって反対した。その時の話である。「ウオールストリート・ジャーナル」誌による。

 原告の女性は、警官が飲酒運転の未にパトロールカーで七十歳の夫をひき殺した罪でニューヨーク市を訴えていた。

彼女の主張は、市が夫の将来にわたる所得の可能性を奪いとっというものである。市側は七十歳という年齢からして収入を獲得できた可能性はほとんどなかったという主張を展開した。

 ところで、この原告にとって精力的な八十八歳の弁護士が法廷に姿を現わしたことほど強力な証拠は望めなかったのではあるまいか。結局市側はこの事件で、一二五万ドル支払ったのである。とありました。

感想2:私は身近な憂鬱症にかかられた方を知っています。非常に周りの方々も暗い雰囲気になつていました。今は回復されています。そのかたに「回復されたのは何ですか?」とお聞きいますと、「仕事に打ち込まざるをえなくなった環境に忙しく立ち回り自分の気分に向き合うことがほとんどできなくなったからだ」と、こたえられました。じっとしていることは、 ある意味では、私たちの行く手(未来の希望)を遮っているのは、私たちの想像力(想念)ではないでしょうか。いかに「現実」を受け入れ、自分に生かしていくかが、「憂鬱症」対処への手がかりにもなるようにも思われます・・・・。

平成二十五年六月十一日


37

噂話はしない―マイナスのみ―


 みなさんは「噂話を信じますか」それとも「ほんうかな、間違いではないか」「噂だから本当のことがわかるまでは口にしない」のどれにあてはまりますか。

▼ここで、10人程度の人がいるとします。その中の一人が用紙に書き込んだ簡単な話、たとえば「何月何日、ジョンソンさんの家族が、メキシコに旅行することになりました。長男が自動車を運転して、二男が道路案内します。長女のアンナは前日に弁当の準備をします。次女のケイはお姉さんの手伝いします。出発は当日の朝7時45分ですからそれまでに忘れないで準備してください」

 この話を隣の人の耳もとでほかの人には聞こえないように伝えます。これを次々に伝えます。そして一番おしまいの人が聞いた話をみなさんに話します。

 これを「話を伝えるゲーム」(以下ゲームとします)と仮になづけます。

 用紙に書き込んだものと内容を比較すると、どれかが違っていて、正しく伝わっていないことがわかります。

 このゲームを「噂話」に当てはめてみましょう。

▼ある人が、ある人について耳にした話を知人に話します、その知人がまた自分の知人に伝えます、このようにどんどんと伝わった噂話はもう明らかでしょう。噂話がとんでもなく変化してしまうのではないでしょうか。

▼ゲームでは正確に伝わるようにするために、話を聞く準備として、「メモ」に話のポイントを書き、それを見ながら次の人に伝えることにより、著しく正しく伝わるようになります。

 噂話はそうはなりません。

▼「そういえば、私もこんな話をききました。その人の名前はおしえられませんが」「貴方は知らなかったのですか、周りのひとは、みなさん、とっくにしっていますよ」とか。

▼噂話がされている場面にいた場合、「そっとその場面から立ち去る」のが賢明だそうです。少なくとも、噂話を聞かない、また伝達者にならないことが大事です。

 くりかえしますが、噂話を聞かない、話すのはマイナスしか残らない。

平成二十五年八月二十六日


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生活のマナーは如何にして作られたか


 私は現役時代に通勤しているとき、バス停で顔見知りの人から「貴方は学校の先生ですか」またある人は「銀行にお勤めですか」、また「軍人でしたか」などと問いかけれたことがあります。

 どうやら、真面目な印象を持たれていました。

 なぜだろうかと、考えました。

 母の教えで「後ろ指をさされるようなことはしないように」としつけられました。

 小学校の恩師の教育、旧制中学では、弟たちは同じ中学で「君の兄さんは……だった」と引き合いに出されたそうでした。

 このようにして、中学5年生(現在の高校2年生に相当)の2学期に海軍兵学校76期生として入校しました。この時に指導されたことも含めて、私の生活マナーはつくっられてきたのだろう。

 海軍兵学校の生活をホームページに折々書き込みました。

 今回、それを整理しましたので、どんなしつけをされたかを深読みいただければ幸いです。

温習と五省

海軍兵学校での規律

姿見の鏡

二度と言わんぞ

貴様(きさま)と俺(おれ)

芝生の縁(ふち)を踏むな

明日は明日の風が吹く

 いじょうのようなことをある時は厳しく、ある時は優しく教えられた。

 17~18歳といえば、教育の大事な時期ではないかとおもいます。

 私どもはその時期に教育されたことは、生涯の生活マナーが出来上がり、習慣となり「第二の天性」となるのではないかとおもっています。

平成二十五年九月七日

 


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ライフライン


 報道で「孤独死」が伝えられている。痛まし思いに駆られます。

 孤独死された方々の家庭・家族・縁者の関係を知ることが出来ません。

 たとえば、まったく上述の関係が絶えている方もいることでしょう。そのうえ隣近所との付き合いが疎遠になっている状態が続いている地区も多くあることでしょう。しかしこれを少なくしようと立ち上がっている人々もいます。

 しかし、これらの関係があっても、家族の者がそれぞれ遠隔の地に住んでいて、ただ一人暮らしをしている高齢の方々は不安な生活をされている人も多いと思います。


 インタネットによると、

 孤独死(こどくし)とは主に一人暮らしの人が誰にも看取られる事無く、当人の住居内等で生活中の突発的な疾病等によって死亡する事を指す。特に重篤化しても助けを呼べずに亡くなっている状況を表す。

 なお関係する語としては「孤立死(こりつし)」が公的にも使われるが、ほかにも単に独居者が住居内で亡くなっている状況を指す「独居死(どっきょし)のような語も見いだせる。

 特に隣家との接触のない都市部などにおいて高齢者が死後数日から数ヶ月(長いケースでは1年以上という事例もある)経って発見されるケースが過去に相次いで報告される一方、都市部に限定されず過疎地域での発生も懸念される。

 当初、都会には人がたくさんいるにもかかわらずその誰にも気付かれず死んでいるという状況を指して「都会の中の孤独」という逆説的な死様として取り上げられていたが次第に「病気で周囲に助けも呼べずに死んでいった」ことがわかるにつれ、このような事態の発生防止が求められるようになったという経緯を持つ。

 なおこの当時は一般的に都市部では人口が集中しているため、孤独を感じる人は存在しないと考えられていた。現在では都市部で人的交流が疎遠になりがちであることが広く理解され、孤独死が身近にも発生しうることが理解されるようになってきている。

 独居者の死因を調査した際に倒れてから数時間以上(長いケースでは数日)にわたって生きていたと考えられる事例も少なからず見出され、福祉や災害援助の上では同種の死亡事件の予防が重要視されるようになった。このため1990年代より各所で様々な予防策が検討・施行または提供され、2005年現在では一定の効果を上げ始めている。

 ちなみに日本国政府はこれらの社会問題において「孤立死」という表現をしばしば使っており、例えば内閣府の高齢社会白書の平成22年度版では「誰にも看取られることなく息を引き取り、その後、相当期間放置されるような悲惨な孤立死(孤独死)」と表現している。これは社会的に孤立してしまった結果、住居内で死亡して死後しばらく周囲の社会に気付かれず放置されていた状況を指してのものである。

 これらの問題に絡んで近年増加中の老老介護(高齢者がその親を介護している事例)等でも介護していた側が急病などで突然死し副次的に動けない要介護者側が餓死するケースも多く確認されており、これも別の形の孤独死として問題視されている。

 発生要因的には孤独死となんら変るところがなく特に要介護者側が三日~一週間程度は存命している場合も多く、これの予防は他の孤独死よりも防止しやすいはずではあるのだがたびたび発生してはその都度、関係者の対応を含めて問題視される事態を招いている。

 起きやすいとされる環境

 このような亡くなり方は特に都市部などの地域コミュニティが希薄な地域が多いとされ、また震災などによって地域コミュニティが分断されている場合にも発生しやすい。当然、過疎地域等では民家が疎らであるため隣家が気付きにくい部分もある。なお生活様式では、以下のような特徴が挙げられる。

1.高齢者
2.独身者(配偶者との死別を含む)
3.親族が近くに住んでいない
4.定年退職または失業により職業を持たない
5.慢性疾患を持つ
6.アパートなどの賃貸住宅(隣家に無関心)

 これらでは子供夫婦の家庭も核家族向けの賃貸住宅で身を寄せると子供や孫の生活に迷惑が掛かるとして遠慮して独居を選ぶ人も増えており、上に挙げたような状況に陥る人も少なくないことから潜在的な孤独死予備群は年々増加の一途をたどっていると考えられている。

 私の知っている方は配偶者と死別され高齢者の方で、長男は職業柄、遠くに住み、長女も結婚して少し離れた家に住まれている。

 そこで、娘さんから毎朝電話させるようにされている。そうすればお互いに一健康であるかどうかを知ることができて安心できるそうです。その人は「ライフライン」となずけられています。


 ある日、居宅介護センターの方が私の家に訪問されて、孤独死が話題になりました。そのとき、湯沸しポットで家族に知らせるものがあると教えられた。

 早速、インタネットでしらべた。

 たとえば、京都のおばあちゃんの毎日を、東京に住むご家族がそっと見守れます。

 一人暮らしのお年寄り。「もし、何かあったら…」それが、ご家族の心配です。

 といっても、毎日の訪問は、どちらにとっても大きな負担。もっと気軽に、毎日の元気を見守ることはできないでしょうか。

「みまもりほっとライン」がそんなニーズに応えました。

1. iポットを使う 2. 使用状況(電源オン、給湯、保温中)を送信。システムセンタへ 3. 最新の情報を1日2回、Eメールで受信。 無線通信機を内蔵した「 ポット」をお年寄りが使うと、その情報がインターネットを通じて、離れて暮らすご家族に。ご家族はその様子を携帯電話やパソコンでいつでもどこでもさりげなく見守ることができます。

 IT技術を活用したものです。ほかにも方法があるのではないかと思います。

平成二十六年五月二十五日

 


40

安楽死提言の橋田壽賀子、その胸中と覚悟を明かす

      

「誰にも迷惑をかけないで安らかに逝きたい」と語る橋田壽賀子

 年齢、性別、恰好を伝えた時点で、地域住民は次の言葉に予想がつく。《行方が、分からなく、なっております》──全国各地の防災無線から、徘徊老人の捜索願いが流れない日はない。

「あぁ、またか」。他人事のように思いながら、ふとわれに返り足がすくむ。脚本家の橋田壽賀子(91才)もその一人だった。

「何才で背格好はこのくらいで、と。まぁよく流れてくる。私が住んでいるのは都会ではなく山の中。大勢で山狩りをしても見つからない、なんてことがままあります。この年になると、明日はわが身です。認知症が発症しない保証はどこにもない。自分がもし何の自覚もないまま多くの人に迷惑をかけてしまったら…。こんな恐ろしいことがありますか。親しい人の顔もわからず、生きがいもない状態で生きていたくはない。だからこそ、あえて提言したのです。“私がそうなったら、安らかに殺してください”と」

 そう語る橋田は、現在、静岡県熱海市にひとりで暮らしている。夫を27年前に亡くし、子供はいない。親戚づきあいも皆無。

 今夏、1年半ぶりに自身の代表作『渡る世間』シリーズの最新話を書き終えた橋田は、筆を休める間もなく、一つの提言をして耳目を集めている。

 月刊誌『文藝春秋』(2016年12月号)で、橋田は『私は安楽死で逝きたい』というエッセイを寄稿した。安楽死への憧憬を語り、スイスの安楽死団体を自ら調べ、日本の法整備の必要性を説く彼女の言葉は、覚悟を伴って重い。

《スイスならいつでも行けます。いつ行くかというタイミングが難しい》

《ベッドで寝ているだけで、生きる希望を失った人は大勢います。(中略)そういう人が希望するならば、本人の意志をきちんと確かめた上で、さらに親類縁者がいるならば判をもらうことを条件に安楽死を認めてあげるべきです》

 橋田の真意を聞くために、改めて取材を申し込むと、快諾。なぜ今「安楽死」を提言したのか。胸中を明かした。

「きっかけは2年前。いつお迎えがきてもいいように“終活”を始めたんです。ずっと頭にはありつつも先延ばしにしていたら、あるとき泉ピン子(69才)から、“ママ、もうすぐ90才だよ”って言われて、ハッとなって。洋服やバッグを全部処分して、捨てきれない宝石や絵画、時計は死んでから処分してもらうことにしました。どうしても手放せなかったのは、これまで書いた脚本の生原稿とビデオテープくらい。2年がかりの大整理でした」(橋田)

 断捨離を終えた彼女の元には、愛犬の柴犬、さくらだけが寄り添っていた。だが、16年連れ添ったさくらも6月に死んだ。晩年は認知症が進行し、グルグルと右回りだけで回り続けていた。

「かわいそうで見ていられなかった。亡骸は自宅のいちばんお気に入りだった庭先に埋めてあげました。私がいなくなっても寂しくないようにと、お地蔵さんを立ててね。思い残すことは何もなくなりました。身寄りもないので気兼ねなくいつでも旅立てます。その時にふと思ったのです。あとは“死に方”だけだと。

 お話しした通り、私は認知症になった場合を考えると、恐ろしくてたまらないのです。何もわからず、ベッドに縛りつけられて生きるなんて考えたくもない。誰にも迷惑をかけないで安らかに逝きたい。そう思ってパソコンで調べてみたら、スイスに安楽死させてくれる団体があった。費用は70万円。これだ、と思いました>(橋田)

 橋田が見つけたのは、スイスの医療団体『ディグニタス』。オランダ、ベルギー、ルクセンブルクでも安楽死は認められているが、「外国人の受け入れ」を許可しているのは同団体だけだった。

 厳密にいえば、スイスで認められているのは医師による「自殺ほう助」であり、『ディグニタス』では、希望者が提出した医療記録を審査し、治癒の見込みがないと裁判所が認めた場合に限り、致死量の麻酔薬が処方される。医師が見守る中、患者が自らの意志で点滴パックの栓を開く。20秒後、眠るように死ぬという。

 これを目的にスイスに渡航する外国人は後を絶たず、チューリヒ大学によれば2008年から2012年までの5年間で、31か国611人の“自死旅行”が確認されている。年々増加傾向で、今では申込みから実行日まで、3か月待ちだという。

「最後まで自分の意志があることが条件なので、認知症が発症してからでは遅い。今のうちに周囲には伝えているのです。“ボケ始めたと思ったらすぐに言ってね”って。もしそう言われる日が来たら、私はすぐにでもスイスに行きます」(橋田)

※NEWS ポストセブン 11/18(金) 7:00配信 女性セブン2016年12月1日号

平成28年11月26日:89歳


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確率五十パーセントー思うことー

      

 長期予報の的中率は五割未満。気象庁も三カ月以上は統計的確立予報で発表しているわけだが、この場合の予報の実態は、とても科学的とは呼べないものだ。長期予報の成績は六十%ぐらとされているが、純粋に当たるか当たらないかで見れば的中率は五割に満たない。つまり半分以上ははずれである。      『選択 九年十二月号』

▼確率五十パーセントは二分の一である。何度もコインを投げるのを繰り返して、コインの裏か表が出る確率である。コインを投げるたびごとに「おもて、おもて…」といっても当たるのは半分である。また反対に「うら、うら…」でも当たるのも半分である。そうすると「おもて、うら、おもて、うら…」と、でたらめにいってもあたるのは半分になる。

▼自分の行動を決めるとき色々な道があるものである。ある者は悩み、あるものはエイと決断する人もいる。自分の進路を決めるのに最終的にかりに二つにしぼつて、右か左かになったとすると。

 われわれはいくつかの転機を経験してきた。そのたびごとに方向を選択してきた。例えば旧制高校へ進学するかどうか、大学に進むか就職するか、就職するときA社にするかB社にするかなど。そうすると自分の進路は二の転機の回数の階乗になる。たとえば、三回であれば二の三乗すなわち二×二×二=八ということになる。現在の状態は八つの選択肢のうちの一つである。現在の状態に満足している人はともかくも、すこしふ満におもっているひとは、今より変わったよい道があったのではないかとおもったりする。実際はこれ以上に複雑な多数な道があったはずである。人の経歴は様々であることが容易にそうぞうできる。なにか必然であるような気もする。

感想1:雑誌『選択』(選択出版株式会社)設立 1974年4月:『選択』(せんたく)は、選択出版株式会社の発行する月刊の雑誌(総合雑誌)。毎月1日発行。完全宅配制度を採り、書店での販売は行っていない。発行部数は6万部[1]。2008年6月号で400号を迎えた。

 July 2018号は、「外交の安倍>という虚名の記事がある。

感想2:「確率五十パーセントは二分の一である」記事に関連して、「クジを先にひても後に引いても同じであることを証明しなさい」

 私が受験した学校の数学入試問題のひとつだった。

感想3:たしかにそうだ。ある時、「ああすればよかった」また、ある時は「こうすればよかった」と思うのは常人の私にもあった。だが、私は転機の節目には、「私が決めたのだ」と思っている。

平成30年7月16日:猛暑日:90歳


サイコロの目 深代惇郎の天声人語(朝日新聞社)昭和五十一年十一月十日第六刷 P.268

 原勝さんという見知らぬ方から『葵の日記と書簡集』という豪華な本の贈呈にあずかった。ページをめくると、一昨年のモスクワの日航機事故で、葵さんという娘を失った父親が丹精こめて作った本だった。

 日本の大学、アメリカ留学と、恵まれた環境で成長してゆく娘の遺稿を紹介する紙背に、父親の悔恨が痛々しいばかりだ。その悲しみには、娘が事故で死んだということ以上の何かがあった。その事情を、父親の一文を読んで察することができたと思った。

 この娘さんはアメリカの大学を卒業し、ヨーロッパ回りで帰国することになり、外国の飛行機を選んでいた。それを父親が日航機に変えるよう手紙を出し、娘さんは素直に従った。ところが日航機に変えるよう手紙を出した直後、ニューデリーで日航の墜落事故があった。これを気にした母親は、他に変えるよう意見を述べたが、父親はゆずらなかった。父の言葉通りにした娘さんは、そのために遭難するのである。娘に対し、妻に対し、父親の申し訳なさはいかばかりであったろうか。その思いが、娘の本を作らせずにおかなかったのだろう。

 父親は「事故を起こしたばかりだから、立て続けには起こるまい」と考えた。母親は「事故が起ったから不安がある」と思った。サイコロを振って、偶数が三度続いたとき、四回目は「三度も続いたのだからまた偶数だ」と考える人と、「三度も続いたからこんどは奇数だろう」と考える人がいる。

 数学の確率でいえば、四度目のサイコロの偶数、奇数の出る確率はそれぞれ二分一だ。三回分の結果が、四回目の確率に影響を与えることはない。こうした抽象的な確率論を離れても、事故は偶然ではなく、本質的な原因があるはずだからその会社は見合わせようという人もいる。逆に、事故直後は点検や操縦にひときわ慎重だからかえって安全だ、と考える人もいる。

 推理はいつも二つに分れ、答えはない。やはり運命だったと思うほかはないのではあるまいか。(49.7.29)

参考:1972年11月28日、日本航空のコペンハーゲン発モスクワ経由羽田行きのDC8型機がモスクワのシェレメチェボ空港を離陸直後に失速して墜落・炎上、日本人53人を含む、62人が死亡した。人為的な操縦ミスによるものとみられている。

2021.09.20記す。


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四十歳以上の人間は自分の顔に責任がある

      

小泉信三『読書論』(岩波新書) P.18

 エブラハム・リンカンは四十歳以上の人間は自分の顔に責任がある、といったということである。この言葉は面白い。一芸一能の士、或いは何かの事業を成し遂げた人の容貌には、何か凡庸でない気品と風格がおのずからにして備わるものであることは、多数の例証の吾々に示すところである。読書家もまた然り。本を読んで物を考える人と、全く読書しないものものとは、明らかに顔がちがう。或る人は、読書家が精神を集注して細字を視ることが、その目に特殊の光りを生ぜしめ、それが読書家の顔を造ると言ったが、或いはそうかも知れない。しかしひとり眼光には限らない。偉大なる作家思想家の大著を潜心熟読することは、人を別人たらしめる。それが人の顔に現れることは当然である。

※関連:四十過ぎての人相

★四十歳以上の人間について

1、『論語』227 宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.255

 子曰く、後生畏るべし。焉んぞ来者の今に如かざるを知らんや。四十五十にして聞こゆるなきは、斯れ亦た畏るるに足らざるなり。

 子曰く、若い学徒に大きな期待をもつべきだ。どうして後輩がいつまでも先輩に及ばないでいるものか。併し四十歳、五十歳になって芽のふかぬ者には、もう期待するのは無理だろう。

2、青木雨彦監修『中年 博物館』(大正海上火災保険株式会社)

 はじめに 中年……  岩波国語辞典には、 「青年と老人の中間。四十歳前後」 と出ている。働き盛りである。壮年でもある。

 古今東西の偉人・傑人の金言と、その人間が中年時代のその日に何をしたか――といった事蹟を記している。

 この本に記載されている人たちの中の下記の人をとりあげると

2-1、大原孫三郎:二月九日 金は義の敵である。金のある者は正に対しては普通の人よりばいの決心を持たざるべからず。(大原孫三郎) 大正八年(一九一九年)のこの日、倉敷紡績を発展・大成させた大原(三十九歳)は、大原社会問題研究所を設立した。P.29

2-2、パスツール:二月十五日 偶然は準備のないひとを助けない。一八七八年のこの日に、近代微生物学祖パスツールは衛生会議に参加した。三十五歳の時。P.32

2-3、北里柴三郎:七月三十日 ときには、或は学術上(注・恩師緒方正規のこと)と意見の衝突をきたしたこともありまして、先生の尊厳をおかし奉つたこともございますが、これは学術上のことで、正々堂々のいわゆる君子の争いであります。明治二十七年(一八九四年)のこの日、四十二歳の北里柴三郎が、ペスト菌を発見した。P.112

2-4、津田梅子:九月十四日 ふしぎな運命でわたしは幼いころ米国に参りました。米国の教育を受けました。帰朝したならば――これという才能もありませんが――日本の女子教育に尽くしたい、自分の学んだものを日本の婦人にもわかちあいたいという考えで帰りました。明治三十三年(一九〇〇年)のこの日、津田梅子(三十九歳)は女子英語塾(後の津田塾)を開く。P.132

 上に上げた人たちは三十五歳~四十二歳でことを成し遂げている。

★読書家の眼光と関連:骨相学

 大西瀧治郎(1891~1945年:昭和20年8月16日割腹自殺):児島 襄『指揮官(上)』(文春文庫)P.169~181より 

 大佐はパイロット要員の査定に骨相学を採用した。

 当時、まだ海軍航空技術は未熟で、飛行機事故が多かった。当然、飛行機そのものの改良にも努力ははらわれたが、パイロットの適ふ適も事故原因のひとつであるだけに、その選定法が問題となった。

 心理学テストなども採用されたが、大西大佐は骨相学の名人水野義人のなを聞くと、さっそく霞ヶ浦航空隊でテストを依頼した。あらかじめ航空隊で認定した飛行適正と水野氏の骨相判断とを比較するわけである。水野判断は符合率八十七パーセントを示した。さらに調査を重ねたが、つねに高率の成果をおさめるので、大西大佐は水野氏を嘱託に採用することを上申した。

 むろん、「科学の粋を集める航空界に骨相判断とはなにごとだ」という反論が激しかったが、本部長山本五十六中将の採決で、水野氏は航空本部嘱託となった。いらい終戦まで、水野嘱託は約二十万人の海軍パイロットの採用検査を行った。いかえれば、日本海軍のパイロットは骨相で採用されていたわけだ。

※参考:私が「骨相」の言葉を知ったのは、昭和58年10月29日(土) クラレ岡山工場で海軍兵学校(第七十六期)同期生のテニスに参加していた、杉本氏(宝塚市在住:医師)、初対面ではじめて話したが私にたいして、「眼がすばらしい」。骨相を研究してるが骨相がいいとのこと(自分ではわからない)。

 読書家と思われる人と話をすれば自ずから言葉のはしばしにこの人はと思われるものを感じ取られるように私は思っている。また目が生きていると感じさせられる。

2020.12.05記す。


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つり銭はとるな!

      

 「つり銭はとるな!」は海軍兵学校江田島の生徒館内の散髪屋での支払いのマナーであった。

 床屋:ある日の訓練終了後、床屋(正式には理髪所)にいった。床屋は西生徒館(第一生徒館)の一階東北端にあり、私がいた五〇七分隊自習室から東に出て北に向かった近いところにあった。理髪は課業時間以外はいついってもいいことになっていた。

「はい、おつぎ」

 おじさん(海軍では理髪師を剃夫と称していた)の声で理髪台に坐ると、とたんにバリカンが後頭部から額につっぱしり、六、七回くり返されると、もう終わりだった。

 つぎに、たっぷり石鹸水をふくんだ刷毛が、顔中をぐるぐる撫でたかと思うと、剃刀が鼻の下を二回、顎のまわりを四回,両頬を一回ずつさっとかすり、「はい、終り」となった。

 その間二分三十秒。兵学校での毎朝の起床動作とおなじ所用時間だった。目の前に洗髪台があり、自分で石鹸を頭につけて洗い、持ってきた自前のタオルで顔と頭を拭いた。

 所謂"トラ刈"ではなく、平均したイガ栗頭になっていた。

 料金は十銭、入口脇の料金箱に十銭玉を入れればよかった。丁度の金を持っておればそれを支払い、大きいお金しか持っていない場合はそのお金を入れて、おつりはとってはいけないことが躾であった。(つり銭はとるな! 散髪屋での支払いのマナーである)。

 すべて文句のつけようはなかったが、ただ一つ、短い毛が襟首や背中に入りこんで、ちくちくするのが欠点だと思った。

参考: 海軍兵学校はイギリスを見本にしているといわれている。そのイギリスに留学していた池田潔はその著『自由と規律』ーギリスの学校生活ー(岩波新書)P.59~に理髪店での体験を記載している。

 学校の特約理髪店は小さな質素な店でよく満員だった。町には学校の特約でないが、もつと静かで設備のよい店があった。リースパブリックスクールに入学して間もなく、急いでいたのでつい悪いと知りつつ、校帽を懐にいれてその店に入ったことがある。いい心持で半分刈上げさせて、ふと鏡に写った隣の客の顔を見た。校長の顔である。途端にそれに並んだ黄黒い方の顔が土管色に変った。胸算用で、やがて申し渡されることを覚悟した罰の量を当たってみる。

 まだ貴方には紹介されたことがないのに、突然、話しかけて失礼だが……。私が校長を勤めている学校に、やはり貴方と同じ日本人の学生がいてね。もし逢うような序でがあったら言伝(ことづ)てしてくれ給え。この店にはリースの学生は来ないことになっている、と。

 この店で髪を刈ることが悪いことなのではない。ただリースの学生のゆく床屋は別に決まっていて、リースの学生は皆そこに行くことになっている。あの日本人の学生は入学したてで、まだそれを知らないらしい。何? 知っていた? 君は知っていたかも知れないが、あの学生は知らなかったに決まっている。知っていたら規則を破るようなことはしないだろうから。

 悄然として立ち去ろうとする後ろから、小声で、ここは大人の来る店だから心附けが要(い)る。これをわたしておき給え。何? 自分で払う? 一週間分のお小遣いではないか。そして突然大きな声で、子供はそんな無駄費いをするものじゃない。

 その後、大学生になっても大学を卒業してからも、その店だけには行けなかった。大人になれば心附けは他の店だって払うのである。ただ、何となくその店にゆくことがリースの校長先生に相済まない気がしたからなのである。

 その行為自体の善悪が問題なのではない。ある特定の条件にある特定の人間が、ある行為をして善いか悪いかはすでに決まっていて、好む好まないを問わずその人間をしてこの決定にふくせしめる力が規律である。そしてすべての規律には、それを作る人間と守る人間があり、規律を守るべき人間がその是非を論ずることは許されないのである。

 イギリスの青少年は、学校で、また家庭で、あらゆる機会に骨の髄に滲み込むまでこの朊従の精神を叩き込まれる。今日の我が国ではこれを封建思想と呼ぶ人が少なくない。もし然りとすれば、万が一これがそのようなものであったとしたら、イギリス人とは、チョン髷を頭に載せ両刀をたばさんだ封建思想の化物以外の何ものでもない筈である。

 私は、ゼンセン中央教育センター友愛の丘(岡山県福渡)での研修会に参加した。

 その時、建物に入ったところに図書が置かれていて、その書棚に小さな銭入れが置かれていた。お金を入れて下さいとかかれていた。受取人もいない。図書を持ち帰る人が定価をみてお金をその小箱に入れるのであった。お金を払わずに本を自分のものとしても咎める人もいない。だが、教育センターは無言の教育をしているのだ。

 次に落とし物についての躾

 兵学校内の何処に物を落としても、その日の夕方には手もとに返ってきた。どんな持ち物にも吊前を書いていたのはいうまでもないが、落としたものが必ず返ってくるのは信じられないくらいであった。

 ついうっかりと財布を落しても、まず、返ってこないのが普通である。そして落した財布の中にあったお金だけ抜き取って、財布は捨てられてしまうケースが多い。落せば諦めなければならない。少し多めのお金は持ち歩かないことだ。

 平成元年七月、アメリカに旅行した。その時のある日、国連本部の地階の土産物店で手帳を落した。思いがけなく、日本に帰国していたある日、送り返されたきたのである。国連本部というところはそいうところであったのか……。

2021.07.19記す。